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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【皇統と鵺の影人 第五巻】作者本名鈴木峰晴

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第五巻

未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
人身御供)・(陰陽占術)(維新の胎動
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)
・(皇国史観と集合的無意識)・(日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




維新の大業(陰陽呪詛転生)陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第五巻・本章の【第五話】

維新の大業(陰陽呪詛転生)

(人身御供)

◇◆◇◆(人身御供)◆◇◆◇◆

日本人の心の原点とも言うべき山岳信仰の象徴が、吉野山の修験道の総本山・金峰山寺(きんぷせんじ)、そして圧巻は吉野全山三万本の桜である。

平安期から現在に至るまで、桜は神社仏閣の神木となった。

そして日本の春は満開の桜花とともに訪れる。

吉野山と桜の結びつきは古く、その原点は六百七十年頃の天智天皇の御世、修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が大峰山で修行(千日難苦行)している時に金剛蔵王権現を感得して、桜の木に「その金剛蔵王権現のお姿を刻んだ事に始まる」と伝えられている。

これ以来、吉野山の桜の木は御神木として手厚く守られて来た。

つまり、桜の木は陰陽修験のシンボルでもあり、山岳信仰に端を発する日本の信仰の原点でもある。


桜は日本の象徴だけれども、綺麗な花の間には毛虫が沢山居る。

あの毛虫は、醜い蛾に成るのかそれとも華麗な蝶に成るのか?

調べてみると、毛虫はモンクロシャチホコと言う名の蛾の幼虫で、成虫は、別名、紋黒天社(もんぐろてんしゃ)と言う体長二センチの目立たない蛾である。

この蛾の幼虫、桜に取り付いて食害により桜の枝を枯らす。

まるで役人(官僚)みたいな害虫で、すると桜の毛虫は日本の役人の象徴であろうか?


役人の品格は何処に落として来たのだろうか?

疑わしきは戦艦大和建造に代表される「決め事」に対する「己の保身の為」の頑なさで、一旦手を着けてしまったものは「見直さない」と言う「融通の利か無さ」や「担当責任の回避」が、【戦艦大和症候群】である。

時代遅れになった無用なダム建設で予算を浪費する結果を招き、先頃の長野県知事(田中氏・前知事)と県議会議員のバトルを生んだ。

全国でこの手の、もはや時代遅れの【戦艦大和症候群的国家事業計画】が今も進んでいる。

作地を減反しているしているのに農地を増やす為の干拓工事や、「人間が利用せず、鹿や熊が利用している。」と言う豪華なスーパー林道、利用者の利便性や採算も考えず面子だけで作る地方赤字見込み空港(静岡)など、その際たる物である。

そこに有るのは、「公益法人」と言う名の官製天下り先・・「各省庁の縄張り意識」と言う、国家、国民の利害とは別の発想、「己の保身の為」があるからだ。

当然の事ながら戦艦大和の時代遅れの建造も、この類のお役所仕事感覚(海軍予算の継続的獲得)で作られ、それが「不幸な生涯を送る為だけに在った」のは歴史が証明している。

薬害エイズ、薬害C型肝炎と繰り返し発生する薬害問題も、役人の無責任な責任の回避の「放置」で被害が拡大した。

つまり、厚生労働省の薬害問題に対する姿勢には【戦艦大和症候群型】の疑いがあるのだ。


ネパールのヒマラヤ桜が、日本の桜の原点(原木)である。

アンナプルナ連峰の麓(ふもと)に在るガンドルン村はヒマラヤ桜の村である。

アンナプルナ連峰は、ヒマラヤ山脈の一郭でネパールの中央部に位置し、幅五十キロに及ぶ高さ七千五百〜八千メートル級の連峰である。

サンクリット語でアンナプルナは「豊穣の女神」の意味で、恵みの水源と成って山麓の棚田を潤す。

そして明治維新前までおおらかだった日本の性慣習も、多くはネパール人の習慣に影響されている。

つまり標高二千メートル地点に自生する「ヒマラヤ桜」も、「山麓の棚田」も、「村落の夜這い制度」も、遡って源流を辿ればネパールに在る。


インドの国名にも成って居るヒンズー教の神々の王「インドラ」を迎える祭り、「インドラジャトラ」はネパール最大の祭りである。

ネパールとインドのヒンドゥー教徒の住む地域には 刑務所は在るけど墓地は無く、火葬後に聖なるナルマダ川(インダス川上流の支流)に流す事が人々にとっては当たり前の葬儀である。

日本人は、日本に於ける中国伝来の木造仏教建築様式を「仏教建築」として解釈しているが、ネパールなどに行って観るとその考えは覆(くつがえ)される。

実は大仏殿・五重塔などの木造建築様式のルーツは、神々を擁する多神教・ヒンドゥー教が起源であり、それが中国で合習されから日本にもたらされたものである。

ヒンドゥー教は、性典・カーマスートラを生み出した信仰である。

従って日本では一般的に「仏教」として受け取っているものに、ヒンドゥー教起源のものが多く、当初はその性に対しておおらかな教義が伝わっていても不思議は無い。

シヴァ神の寺院で安置されている御神体は、リンガとヨーニの二つの部分からなり、ヨーニは女性器の象徴、リンガは男性器の象徴で、性交した状態を示している。

シヴァ神はヒンドゥー教の三最高神の一柱で、人々は性交しているシヴァ神を女性器の内側から見ている形になっている。

これは、シヴァ神が女性と性交をして現われたのがこの世界で、それが我々の住んでいる世界と言う意味である。

そのシヴァ神が宿る石、シバリンガ(クリプトクリスタリンクォーツ)は、御神体とされ崇められてきた聖なる石で、ナルマダ川で採取される天然石である。

リンガは御神体を意味し、ヒンドゥー教に於ける男性器は神が賜(たまわ)れし「リンガ」である。


ヒマラヤ桜が中国・雲南省の野生の冬桜を経由して、東の外(はず)れ日本列島まで水田稲作と伴に伝わった。

弘法大師(空海)が持ち帰った真言密教は、桜の原種・ヒマラヤ桜と同様に中華帝国を経由して日本列島に伝わったネパールやブータン発祥の性文化そのものだったのである。

だが「桜は日本を代表する花だ」と言う帰属意識的な想いから、その事を広言する歴史学者は少ない。

つまり歴史学者の多くが、定説に対する辻褄合わせの為に作為的に事実を見落とす愚を犯している。


全国で一番植樹され、現在最も多い桜の木は染井吉野である。

この染井吉野は、東京の染井村(東京都豊島区馬込)の植木屋が考案した接木による品種改良で誕生したそうであるが、残念ながら接木方式の苗の為、成木の寿命が六十年ほどしか無いそうである。

芯に成る木と接木された染井吉野の関係で、六十年ほどすると幹の内側の芯に成る木から腐る欠点があり、外見は良いのだが中はスポンジ状に空洞化して行き、やがては表皮に空洞が達して折れてしまうそうである。

平成十七年の八月で、戦後も凡そ六十年を数えるようになる。

日本の桜は戦後の昭和二十年代に植樹された染井吉野が大半で、今後十年くらいでその寿命期に到達する。

こう言う話を聞くと、染井吉野は戦後の日本と共に生きた団塊の世代とその生き様(ザマ)が重なって見える。

そして染井吉野と団塊の世代は、世の移ろいと伴に衰えの時期を迎えつつあるのだ。

明治維新以後の日本の歴史を見ても、「近代日本」の成立後、新しい制度の中で権力が育ち、「財閥と軍部の台頭」より富が一部に集中し、日本を戦争への道へ進ませて悲惨な歴史を刻み始めるのに五十年とは要さなかった。

つまり、近・現代に於ける政治・経済の構造は、「四〜五十年」で構造疲労してしまうのだ。

厄介な事に、戦後の日本も官僚と二世〜三世議員、そして財界の一部に富が集中する形で幹の中から腐り始めては居まいか?

敗戦後の日本の経済の復興は、雨後の筍(たけのこ)のように自然発生した中小企業に、集団就職と言う低賃金の若い労働力を接木した所から始まっている。

日本経済は確かに満開の花を咲かせたが、その団塊の世代が必死で枝に花を咲かせている間に、幹(政治家や官僚)の方が「中から腐って行った」と言う訳である。

公益法人も含め、旨みがあるから企業は天下りを引き受ける。

旨みが無い天下りは存在せず、使われるのは血税である。

毛虫の内に駆除しないと、天下りに羽化して益々繁殖するので在るから、日本の桜に巣食う害虫の駆除を、司法当局に熱望する。


現在指摘されている「地球温暖化」は、日本人の心の花・「桜(さくら)」を「身近から失う危惧」が指摘されている。

「地球温暖化」は、人類が欲望を最優先に科学文明を発展させて、強欲に生きて来た結果である。

「地球温暖化」が「桜(さくら)」に影響するのは、日本人の心の花である「桜(さくら)」は、開花条件として開花前に一定の寒い期間を必要としているからである。

つまり「桜(さくら)」は、「地球温暖化」で日本列島の気象条件が温帯性から亜熱帯に移行すると、高地部はともかく平野部の平坦地では「桜(さくら)」が咲かない事になるからである。



春風が吹く四月に田の土は耕され、五月になると水が引かれ、六月の初めになると「しろかき(泥コネ)」が始まる。

田植えが始まる頃には、梅雨は目の前だ。

この国の民は、もう幾千年稲作を続けてきたのだろう?

何しろ、永い事経済の基準が米作石高(土地)だった国である。

日本人の都には、「田京」の名が良く似合う。

蒼い月明かりが見渡す限り続く水田を照らし、踏み荒らした下草から青臭い匂いが漂って来た。

民人(たみびと)が営々と築いた景観である。

この二千年、国を現実に支えていたのは、土の匂い海の香りがする民人(たみびと)だった。

彼らには、氏(うじ)族達の争いなど知った事ではない。

元々争いを好まない平和で優しい蝦夷(えみし)だったからこそ、野心満々の征服部族には争いで適わなかった。

それを良い事に、善良な民人(たみびと)を置き去りに、覇権争いを繰り広げて来たのが氏(うじ)族の血で有る。

この構図、何やら現在の「政官財主導の政治の実態」に似ている様な気がする。

国民不在は今の世も何も変わってはいない様だが、ふざけた話ではある。

国を支えるのは国民なのだ。

実は我輩、この物語を記述しながら血が騒いでいた。

本当の事を言うと、我輩の苗字は勘解由小路党所縁(ゆかり)の苗字を名乗っている。

まぁ、この現代では何の価値も無いし、維新後の新戸籍取得(明治四年の戸籍法)でも名乗れた苗字ではある。

例え由緒が正しくても、さほど意味は無い。

それなのに、二世三世の議員が大手を振っているのが現代の政界事情である。

それは疑似氏(うじ)族が、またまた頭をもたげ始めている事だが、その血統ブランドに弱い国民性が悲しい。

江戸期の武士の在り方が「主君に一命を捧げる滅私奉公」に成ったのは、無秩序だった下克上時代(戦国期)の反省で、けして従来からの物ではない。

しかしそれが定着すると、それが「金科玉条のごときもの」に成り、笑える滅私奉公も出現する。

つまり武士が定義付けられ、様式化した事に成る。

実の所、こうした「すべき論ルール」は、為政者にとって真に都合の良いもので、悲しいかな武士で有りたい下級の立場の者ほど、「滅私奉公」には熱心だった。

その社会秩序は、二百六十年の永きに渡り日本の武士社会に定着した。

戦争映画の軍人にしても戦国映画の武将にしても娯楽として見るならともかく、言わば虚像の部分だけ見て本気で「格好が良い」と想うのは浅くて稚拙な現象である。

そして冷静に考えれば、そんな物を武士道と崇めて大衆受けを狙う怪しげな思想家や政治家は「最も胡散臭い人物」と言える。


氏族は常に争いの渦中にいる。

元をただせば氏族の祖先は、武器を携えて部族単位で新天地である日本列島に渡り来た「好戦的な人種」である。

或る意味、正式な影人の血統の彼らも血統に縛られた「不幸な存在」と言えなくも無い。

本当の「人間の生活」と言うのは、自然を相手にした民人(たみびと)の生き方であり、それを支配する事のみに血道を上げる氏族ではない。

悲しい事に、食べる為にあらゆる命を奪い続けなければ人間は生きては行けない。

それで人々は「仏の慈悲」を請うた。

しかし、同じ人間を殺す事で存在を維持して来た氏族が、未だにその出自を誇っている不思議な国がこの国で有る。

この矛盾は何なのか?

どう言う訳か大衆は物の本質を吟味せず、軽薄に「表面的格好良さ」だけを基準に良し悪しを決めるからではないだろうか。


百歩譲って、昔の氏族(貴族、武士、神官、僧侶)が民から尊敬された部分は、知識の豊富な事だった。

逆説的に言えば彼らが知識を独占していたからであるが、民人はその知識を素直に認めていた。

しかしこの文明の世の中では、本来「教育の機会」は平等に成った筈である。

知識に格差が無くなれば、その出自だけを理由にして敬う意味は無い。

それを聞くと、我輩は日本人として気恥ずかしい思いに駆られるのだが、世間は「武士道の精神は日本人の魂」などと大仰に言う。

しかしながら、「武士道の精神」は明治維新国家が創り出した只の幻想である。

そして英国紳士の国も武士道の国も、過去の侵略行為や植民地化を考えればそれは「多分に嘘っぽい」し、それを非難する国々も立場を変えれば実は似たような事を現在にして居る事も事実である。

我が国を「武士道の国」と言う方が居られるが、我輩に言わせれば片腹痛い。

永い歴史の中で江戸期のわずか二百六十年間、それも特権階級の武士だけの独自の精神で、町人や農民などは武士道の精神など知った事ではない。

あれは体制維持の為の認識誘導の結果で有る。

第一、その武士道が守られていたら、旧藩主(主君)を蔑(ないがし)ろにした「明治維新」はなかった。

そうした間違った認識の美意識を振り回す建前主義の政治家は、小学校の社会科からやり直すべきである。

命を賭けて歴史に足跡を残す事には確かにロマンは在るかも知れないが、「ロマンがあるから」と言って、そこを日本人の心の全てのように取り上げると方向を間違えるのだ。

現代に成って、歴史を断片で捉えては見えて来ないものもある。

先人は、「象の尻尾を捕らまえて、いかに探っても全体は見えない。」と言った。

安易な「先入観に拠る判断」をいさめたのであろう。


日本列島に於ける今に伝わる全ての歴史は、その根源を辿ると渡来部族(氏族)が先住民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)を隷属化する事に腐心した痕跡に辿り着く。

その事に言及しない日本史は、既に古事記・日本書紀の術中に嵌って「根本的に間違った出発をしている」と理解して欲しい。

それで我輩は、或るテーマの下に、強引に二千年の歴史を繋いで見た。

この物語の主役は、帝(みかど)の影人である。

同時にそれは、貴方の存在でもある事を伝えたかったからである。


もし、派手な歴史上の人物だけ登場する歴史物語なら、それは歴史の一部しか語っては居ない。

確かに庶民の物語には歴史に残る主役は居ないが、しかしそんな庶民も命を繋いだ歴史の一部で、ここから暫くはそんな名も無い庶民達の生活が物語である。


この物語を最初から読まれた方には想い出して欲しい。

物語の身分差別の章でも記述したが、米国がハリウッド映画を保護し発展させたのは、国家的な産業にして外貨を稼ぐと同時に映画を通じて米国的自由主義を広く世界に発信する国策が在ったからである。

実は、日本に於ける神楽舞いも「天孫降臨伝説をあまねく日本中の民に知らしめる国策が在った」と言って過言ではない。

つまり神楽舞いを演ずる事は、今風に言えばマスコミニケーションと称する「巧みな広報媒体」なのである。

この神楽舞いと題材の天の岩戸伝説が日本全国に散らばって伝承されていて、基は「誰かが教えた」・・・列島の隅々で共通点が多く分布しているのだから、これは物語と舞いを組織的に指導して歩いた者が居たに違いないのである。

全てに通じるが、存在を「昔から在ったから」と言って、「何故?」を忘れてただ存在のままにして置いてはならない。

真相は帝の意を汲む修験道師(修験山伏)が、記紀神話を各地に根着かせたのである。

神楽舞いから枝分かれしたのが白拍子舞い(男舞い)で、その発展形が阿国歌舞伎(ややこ舞い)や同朋衆(どうぼうしゅう)の能舞いであれば、日本の芸能のルーツは間違いなく修験道師(修験山伏)の広報活動がその基点に在ったのではないだろうか?

日本の歴史の初期、神話時代の「国作りの秘密」は誓約(うけい)にある。

この誓約(うけい)、天照大神(あまてらすおおみかみ)と弟君である素佐之男命(すさのうのみこと)の間で取り交わされた事になっている。

本来、肉親である兄弟の間でわざわざ誓約(うけい)を行う必用などない。

ここで言う誓約(うけい)の概念であるが、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素佐之男命(すさのうのみこと)は、実は誓約(うけい)に拠って「初めて兄弟に成った」と解釈すべきである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

それで最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

つまり日本民族は、日本列島に流入して来た異民族同士が現地の先住民も巻き込んで合流して国家を作った。

その基本的概念が誓約(うけい)に象徴される神話になっている。

この場合の誓約(うけい)の実質的な合意の儀式は何であろうか?

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し、定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

この環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成された。

直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事を於いて他に無い。

つまり食料確保の為に縄張り争いに拠る殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。

この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、異論は無い筈である。

現在の国家意識、民族意識、つまり所属意識の原点はこの誓約(うけい)の概念である。

この最も原始的な肉体の交合と言う儀式を通して、彼らは共通意識を醸成し、安心と信頼を構築する事で、群れ同士を「仲間」と認める事が出来るのだ。

昔ながらの村落では、男も女も集まって農作業でも何でも皆で遣る。

その群れ社会精神が寝宿の習慣に成った所で、果たして異常な事だろうか?

ものの考え方に個人的心情を持ち出すと、結果、周囲に対して虚像の演出を強制する無作為の罪を犯す事になる。

しかしながら、事実を無視してでも物事の全てを心情で解決しようとする者は後を絶たない。

所謂(いわゆる)秘匿意識が強く多くの方が正面を向いて語ろうとしないが、性交衝動は極自然な事だから、正直、生き物である人間に性交衝動が無い方が異常である。

但し群れ社会の生き物である人間には「社会性」と言う別の縛りが在るから、その縛りを無視した性交衝動は抑制されるのも当然である。

とは言え、その「社会性」と言う別の縛りは時代時代の価値観に於いて弾力的に解釈されて来たものであり、当然ながら絶対不変のものでは無かった。

つまり古代日本から明治維新まで連綿と続いていた「誓約(うけい)」の概念は、ズバリ次元が違う「社会性」なのである。


勿論、この時代から個人と社会性のせげみ合いによる葛藤は在った。

しかしながらこれは、個人と社会性の双方を持ち合わせて生きる人類の永遠のテーマである。

当時の「群れ社会の平和的合流」と言う社会性を優先する誓約(うけい)の行為は、現代の個人思想からは理解出来ない事であろうが、唯一有効な方法として所属意識(社会性)を優先して発揮したのである。

この精神的な名残が、後に「人柱や人身御供」と言う歪曲した所属意識(社会性)の犠牲的精神にまで行き過ぎてしまい、究極的には「特攻精神」にまで行ってしまった。


庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など「理解出来ないとんでもない事」である。

しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。


元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

陰陽信仰(誓約呪詛)は、神代伝承史に於ける天宇受売(アメノウズメ)と猿田毘古神(サルタヒコ)の異民族誓約伝承をその基に据えた。

平和と豊穣の呪詛(祈り)から始まって、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神・事代主(ことしろぬし)の神や一言主(ひとことぬし)の神の「御神託(助言)」を習合している。

そして天武天皇(てんむてんのう)のご意志で役小角(えんのおずぬ)が開いたこの陰陽信仰(誓約呪詛)には、後に修行から帰国した弘法大師・空海が日本に持ち帰った初期密教の影響を色濃く反映していた。

弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていて、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の命を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前だったのである。

そして誓約(うけい)の性交精神こそ民族和合と言う最大の「政(祭り)事」であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

実はこれら神楽舞いの題材と成った神話は、多くの他部族・他民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。


祭礼に付き物の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は、歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統を持った露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。

神農道の香具師(かうぐし、こうぐし)を「やし」とも呼ぶのは、当初神社の前で商っていた行商の主力商品が「薬(やく/中国語はヤオ)」で在って、つまりは神社の霊験と薬効を結び付けた陰陽術からの成立で、「薬師=やし」が呼称の元だった。

所が、香具師(やし)の商う薬で効能が現れない事もあり、段々に「まがい物を売る者を=やし」と呼ぶ誤解も生じた為、次第に薬の商いは減少して行った。

香具師の起源については古代に遡(さかのぼ)る伝承を持っているが、明確ではなく、一説には秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし・神農/しんのう)の祖」とされている。

そんな所から、「行商に身をやつして諜報活動をしていたのではないか?」と疑って考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。

その名の通り香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は、祭礼や祈りの為の神具を露店商として扱っていた。

この香具師の取り扱うものに、祭りの面(おもて)がある。

例の誓約(うけい)神話に拠る夫婦(めおと)二神、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)の面(おもて)であるが、この面(おもて)が祭りの場に商われていたとなると、その需要は「暗闇乱交祭りに供された名残」と捉える事もできるのである。


この国には永い事、祭りの晩に神から子を授かる信仰伝説が在った。

日本に於ける所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けていた。

そして陰陽修験は、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰ったインド・ヒンドゥー教のおおらかな性愛思想(カーマ)をも取り込んだ密教の経典の教義や祭祀を採用していたから、大抵その本質は「乱交祭り文化」である。

つまり、本音はただの性欲のはけ口かも知れないが(?)、建前は女神・サラスヴァティーやシヴァ神(破壊神)の五穀豊穣思想を基として子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事だったからである。


祭りを性開放の行事とした名残りは各地にあり、例えば、静岡県庵原郡興津町(現、静岡市清水区・興津)の由井神社でも、夏祭の夜は参集する全ての女性と交歓して良い風習が在った。

愛媛県上浮穴郡田渡村(現、小田町)の新田八幡宮は縁結びの神様で、毎年旧二月卯の日の祭礼の夜に、白い手拭をかぶって参詣する婦人は娘や人妻、未亡人の別なく「自由に交歓して良い」と言う事になっていた。

毎年六月五日に催され、奇祭として知られる京都・宇治の「県(あがた)祭り(暗闇祭)」は、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

県(あがた)神社は、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。

その県(あがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。

西の京都・宇治「県(あがた)祭り(暗闇祭)」に対して東の暗闇祭(くらやみまつり)で有名なのは、源頼義・義家の奥州征伐の「戦勝祈願に寄進した」とされる府中・大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の「暗闇祭(くらやみまつり)」がある。

大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の祭神は大黒天(大国主)で、この三大奇祭の一つに数えられる神社は武蔵一の宮(総社)である。

この大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の暗闇祭(くらやみまつり)は基本的に厳粛な神事として巫女舞神楽が舞われ、宮堂に選ばれた男女が御夜籠りして神を迎えようとする「祭事(さいじ)」である。

信仰を集めるには楽しみが必要で、神事の行われる真夜中の一定時刻には社地はもとより氏子の集落一帯は全部燈火を消し、雨戸を開放しておかねばならぬに約束事になっていた。

この祭りが「夜這い祭り」とも呼ばれ、昔は一般の男女参拝客はその祭りの期間だけ「暗闇の中での情交(夜這い)が許される」とされていた。

この暗闇祭りを猥褻(わいせつ)で非文化的な生々しい伝承と捉えるか、往時の庶民文化を伝えるロマンチックな伝承と捉えるかは貴方の心構え次第である。

多面的に考察すれば、元々自然な人間の生態は群れ婚の生き物で、文明の発達と伴に成立した近・現代の一夫一婦制の考え方は、あくまでも生活単位を主眼にした便宜的なもので、生物学的には本来不自然な男女関係である。


そこで、暗闇祭りで授かり子を求める嫁さんは一度に三人〜五人、おおければそれ以上にを相手にする事になる。

この女性一対男性多数の生殖行動に関しては、原生人類の本能的生殖行動と現代の倫理規範に矛盾が在り充分に説明が着く。

それは一番人間に近い類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。

その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。

これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。

当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は肉体的に連続交尾を受け入れられる構造をしている。

つまり生物としての原生人類は、「確実な種の保存の為」に 本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを知っていた事になる。

この事から、現代の倫理規範では矛盾が在っても、昔の暗闇祭りでは女性が多数の男性と一度に交尾する事に矛盾は無かったのだ。


「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

つまり現在否定的な事柄でもそれは現在の性規範に拠る精神的なもので、肉体的或いは物理的な理由からではない。

神社の祭礼での「乱交などふしだら」と言うけれど、特別な相手では無い性交は元々遊びなのだから、それこそ特定な相手との浮気よりは相手が特定出来ない乱交の方が結婚した相方は嫉妬もしないし後腐れはない。

その辺りに信仰として永く続いた庶民の娯楽、暗闇祭りの真髄が在ったのかも知れない。

こうした乱交祭りの事例は、誓約(うけい)の国・日本に古くから存在して何も特段に珍しい事ではなく、日本全国の祭礼で普通に存在する事だった。

そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


祭り事は統治の意味(政り)でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事である。

この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。

そうした性におおらかな風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

しかし、「何もわざわざそんな過去を蒸し返さなくても・・・」が本音で、こうした過去は俗説扱いに成り、やがて消えて行くものである。


都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図を持ってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、例え実在した事でも後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。


この物語の第一巻でも述べたが、総論的に解説すれば、渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成された。

その同化過程の中で、渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだが、当然ながら初期の被支配階級の縄文人(蝦夷族)には自分達の習俗を温存しようとする種族としてのプライドがある。

先進文明を携えて来た渡来氏族の文化が如何に優れていても、縄文人(蝦夷族)側にも種族としてのプライドを持って習俗を温存する意識も存在するから全てが支配階級の氏族と同じ習俗にはならない。

被支配階級の縄文人(蝦夷族)の村落として共存精神を軸に置いた独特の共生村社会が構成されて行く。

勿論、支配側の氏族の方でも同化策として山深くまで信仰を主体とした修験道師(山伏)を派遣して氏族への恭順啓蒙活動をするが、何しろ為政者側にして見れば縄文人(蝦夷族)出自の種族は非好戦的で従順な被支配階級にするのが望ましい。

この物語で度々使うフレーズだが、統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

それで修験道師(山伏)は村落部の群れ婚状態を容認し、弱肉強食の氏族とはまったく別の善良教育・共存精神を彼等に施した。

実際に搾取階層の人口に占める割合は五パーセント以内が理想的数値で、氏族社会での抑制的な性思想の推進と良民・賤民(せんみん/奴婢・ぬひ)の群れ婚状態の維持を朝廷が統治戦略としていた可能性がある。

こうした二極分化を陰陽修験道組織を創ってまで朝廷が意図したのは、搾取階層の人口抑制と被搾取階層の人口増加だったのではないだろうか?

つまりこの共生村社会のルーツは、現在でも有り勝ちな異民族同居状態に於ける弱者民族が、独自の文化社会を構成して同化に抵抗する構図である。

そしてそれは二千年に余る永い間、弱肉強食の「氏族社会」と被支配階級の縄文人(蝦夷族)の「共生村社会」と言う異文化が日本列島で共存して行く事になる。


陰陽修験が、民衆を宗教的にリードした事は間違いがない。

勿論、初期の現実的な現象として武術を修めた「影の官憲」である修験道士を、村の恭順を示す為に歓待する村も多かった。

当然の事ながら、酒食に加え村娘を差し出してお相手に宛がうのは、当時の感覚では至極当り前だった。

そこを怠ると、無秩序に村娘に手を付けられる恐れがあるから、村側に最低限の選択権を確保するには、それも止む負えない処置だった。

或いはこの大神(狼)様相手の事を、「お祭り」と呼んだのかも知れない。


この物語の最初の頃でも記述したが、中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音する女性(おんな)は、アイヌ語では「オイナ」と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

女性は新たな命を生み出す神秘の存在で、その「巫術の神」アイヌラックル (aynu rak kur)は人間・臭い・神 (つまり半神半人)と訳されるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

現代の日本では、しばしば政治に対するマスメディアの中立性が話題に成るが、過去の歴史に在っては官製メディアが統治に利用された歴史も存在する。

そうした歴史の一番初めに登場するのが、天孫・大和朝廷正統化の啓蒙を目的とした天孫光臨伝説を題材とする物語で構成された「神楽(神座/かみくら・かぐら)舞」である。

言わば周到に計算された官製メディアとして「天孫光臨伝説」を民に周知徹底させるこの物語・神楽舞を、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。


恐れを回避する為に「神とコンタクトする事」が、原始信仰である陰陽呪詛で、その為には人々を納得に導く道具立てが居る。

その形式として神楽舞、巫女舞が形成される。

「神楽人(かぐらびと)」とは、巫女舞の楽器演奏を担当する人達で、地方(ぢかた)とも言う。勿論、地方(ぢかた)は下級の神職がこれにあたっていたので、言わば陰陽修験クラスの者の仕事である。

その楽器演奏に乗って舞うのが「立方(たちかた)」で、巫女が担当する。

陰陽修験に於いて、巫女神楽の巫女の身体は本来「依(うつ)りしろ」である。

交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

巫女神楽・巫女舞は神楽の原形とも言えるもので、本来「神迎えの依(うつ)りしろ」としての巫女が、神懸かりの状態になる為に勤めるもので在った。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

そして最も手っ取り早いのが、激しい踊りの上で性交に到る事である。

その神掛かりの状態が、「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得て初めて呪詛の威力を発揮する理屈だった。

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めている。

エクスタシー状態(ハイ状態)とは、恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態である。

宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説され、その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。

その最たる伝承が、天岩戸(あまのいわと)伝説の里神楽の原型、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。

そして猿田彦と天宇受売(あめのうずめ)の誓約(うけい)の交合儀式・・・。

つまり、岩戸伝説は原始呪詛の形式を踏襲(とうしゅう)した創作だった。

舞いの所作に関しても本来の原始的なものは、神態(かみわざ)、つまり神の憑依(ひょうい・光臨)した姿そのもので在ったから相当に激しかった。

ただし、今日の舞いの形式は雅楽のように優美に成って、その意義も「神慮を慰め、神意を和める」と言う様に変化してきている。

現存する巫女舞は昇華洗練され、鈴、榊、太刀、扇子などの採り物を手に、神前で静かに舞うものである。
,br> しかし、原始的な形式では、巫女がトランス状態になる様な「激しい旋回運動が舞の所作に求められた」と考えられている。

つまり、トランス状態(ランナーズ・ハイ)に陥り易い状況を演出する事が要求されていた。

この最大限のものが、巫女舞の延長上に在った性交により快感を得て神懸かりの状態となる呪詛である。

楽器に関しては笛、太鼓、琴と言うのが主なものであるが、これも宮中の神楽として洗練されたものの影響であって、本来は、「杓拍子(杓杖を打ち鳴らして拍子を取る)程度の簡単なものであった」と考えられる。

囃子と共に歌われる歌は平安朝の宮廷の神楽では文学的で雅な、しかし舞とはまったく関係のない様なものが好まれたが、里神楽では直接神々の降臨を迎える意味を述べたものがしばしば歌われる。

つまりこちらが、帝の命で陰陽修験が真価を発揮した舞台だったのである。

今一度念を押すが、彼等渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

そしてその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。

代わりに残ったのが、天孫降臨神話と多くの脚色された諸伝説で、それは陰陽道の修験山伏達に拠って全国に広がった。

つまり蝦夷族(えみしぞく)の地・日本列島を乗っ取った事実を覆い隠す目的で、壮大な創作、古事記・日本書紀は編纂された。



ここからは、初期陰陽師が庶民とどう関わりを持ち、その影響がどう変化して行ったかを追って見たい。

人間は群れ社会の動物であるから、群れ内の合意や取り上げられる話題に弱く、それ故に何らかの伝播・伝承で繰り返し耳に入る内容や人名には弱い。

特に知っている伝説や名前には、「知っている」と言うだけで既に疑う事を放棄してしまう思考傾向を持っている。

そしてその思考傾向は、この日本列島でも神代の昔から統治に利用されて来た。

ここで、序章で取り上げたテング(天狗・てんこう)の話を、念押しでして置く。

北斗・北辰の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を修した陰陽修験導師は、信仰上が「犬神の使い」で現実は帝の命を受けた「工作機関の官憲」であるなら、後に江戸期の幕府隠密が「幕府の犬」と呼ばれる事もそれなりに由緒がある。

まぁ、官憲には権力の手先と治安維持の二面性があるから仕方が無いが、「官憲の犬」には「犬神」の畏怖尊敬の意味もあり、つまり歴史を良く知らないと警察・検察を侮蔑(ぶべつ)の意味で「犬」と呼んでしまう間違いを犯す。

日本書紀に記述が在る天狗(テング)は、「天(てん)の犬(狗・く・こう)」の意味である。

そしてこの狗(いぬ=犬)の文字は、何かを暗示させるように犬神信仰に通じ、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)・邪馬台国を平定して「神武朝・大和朝廷を起こした」とされる呉族系(ごぞく/海洋民族)・狗奴国(くなくに)の国号にも使われている。

思い浮かべて欲しい。

その描かれている天狗の衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、正しく修験山伏の衣装姿である。

言うまでも無いが、これは、修験と犬神が同一である事を物語っているもので、当時の官憲=修験=犬神=天狗である。

そして天狗は、「人身御供伝説」にも絡む「恐れの象徴」でも在った。


奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で同じ様な祭礼をしていた」と言われる。

つまり、飛鳥坐神社の天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる里神楽を仕掛けたのは、修験山伏を於いて他に無いのである。


陰陽道のスーパースター泰澄(たいちょう)は、伝説の人物で有る。

この伝説の存在が、修験陰陽の本質を現している。

謎の大物修験者、泰澄(たいちょう)大師が、奈良時代初期に現れた事になって居る。

これが白山信仰の元になったのだが、どうも後の世の修験者達の創作らしい。

伝承に拠ると、越の大徳(こしのおおどこ)と言われる泰澄(たいちょう)大師は越前の麻生津、現在の福井市三八社町、県立音楽堂の近くで生まれた。

十四歳で織田町の越知山で修行し、七百二年(大宝二年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、その後七百十七年(養老元年)、三十五歳の時、美しく尊い女性の夢を見て加賀国白山に登り妙理大菩薩を感得した。

行動要因として女性の魅力が出て来る処が修験道らしいが、これが白山信仰の始まりで、「十一面観音が白山の神様になる」と言う下りまで来ると、この頃帰朝したばかりの弘法大師(空海)の持ち帰った密教の経典に辻褄を合わせた様な話だ。

大徳(おおどこ)は冠位十二階の最高位である。

その最高位の者が、「存在を確認できない」とはどう言う事だろうか?
つまり、「越の大徳」は存在しなかったのではないのか。

泰澄(たいちょう)は有名な「役(えん)の行者(小角・おずぬ)」に続く、山でのスーパーマンの様な修験者で、修行の傍ら全国に「泰澄が開いた」と言う神社や寺は「二府十七県にもなる」と言われ、更に白山神社と名の付いた神社は北海道、宮崎、沖縄をのぞく四十四県二千七百を越える。

泰澄(たいちょう)に関わらず、高僧と言われる者に奇跡伝説は多い。

これらの高僧に拠る奇蹟は、民衆の信仰を集める為、「陰陽修験が協力した」と考えられる。

しかしながら、泰澄(たいちょう)は伝説上の人物扱いで、正式な文献(正史)には、存在を確認するに足りる何の記載も無い。

修行をしながら全国に神社を開くは、通常なら「在り得ない事」である。

何故なら代理の者、修験山伏達の仕事でなければこんなに広域に足跡など残せない。

泰澄(たいちょう)は恐ろしく呪力が強く、様々な奇蹟を起こしているのだが、その内容がとても人間業とは思えないものである。

もっとも、当時最先端の科学知識を持った者が無知な民人を驚かすくらい、「造作がない」と、覚めた目で見るとそれなりの奇蹟は在ったのだろう。

果たしてそれほどの実力者が、当時の陰陽寮に関わりも無く、存在し得ただろうか?

泰澄(たいちょう)には現在でも実存説、神話的伝承説の両説があるが、修験山伏達の、庶民信仰の喚起を狙った「ヒーロー創りの流言」だったかも知れない。

よしんばそれらしき人物が居たとしても、凡そ聖者の類は相当誇張されて後の世に伝わりそれが信仰の対象になるのが常識的である。

江戸時代には、二千年近くも前の恐怖の征服大王の意図する事が完成しつつ在った。

物語がいよいよ近代に近付いて、葛城朝が仕組んだ驚くべき一大陰謀を暴く時がきた。

修験道師達が影の諜報機関だった事が、存在を隠す要因で有ったのには間違いは無い。

その隠れた目的の一つが、国家運営の最大テーマ「大王(おおきみ・天皇)の密命」の推進だった事に、気付くべきである。

影の国家組織「陰陽師・勘解由小路党」に命じられた密命が、何だったのかを?

それこそ、万世一系を具現化する為の「至って現実的かつ単純な手法」だったのである。


関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。

狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。

そして、修験者の行く所「人身御供伝説」の事例に事欠かない。

大猿、大蛇、狼、もろもろの化身が登場して村人を苦しめ、祟りを恐れた村人が「人身御供」を捧げ、それが「人身御供伝説」と成って後世に残った。

この国の河童その他の妖怪・お化けの類は、大概の所山岳信仰を応用した修験行者や後の僧侶が信仰の布教の手段として流布したもので、ある種教育的メッセージ、または何かの目的達成の為に出現している。

人身御供に関わる地方民話の内容については、「唯の民話、御伽噺」と片付けてしまえれば簡単であるが、それは我輩には出来そうも無い。

実は、民話に隠された真実には重大な意味がある。

何かを伝えたいから、民話は存在する。

「現実離れしているから」と言って、造り話とは限らない。

神秘的な民話には、実は難解な真実が隠されている。

勿論、文字を持たない身分の低い立場の者、ものをはっきり言えない弱い立場の者は、民話に隠して後世に託すしかない。

そうした先祖の切ない意思を、読み取ってやるのが、後世に生きる「人の道」である。



この物語の冒頭でも記述したが、真実の歴史を紐解くヒントは伝説の中に隠されて居る。

伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れない。

日本列島の本来の先住民はネイティブジャパニーズ・蝦夷(えみし/縄文人)だった。

この蝦夷(えみし/縄文人)と呼ばれる先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

大和朝廷(ヤマト王権)の中央に陰陽寮なる官庁が在る以上、初期の段階に於ける地方派遣の陰陽師修験者が、情報操作及び政治工作を担った大和朝廷(ヤマト王権)の工作員である事は、順当な解釈である。

そしてその役目は、先住民である蝦夷(エミシ)の抵抗勢力を鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と称して暴力的な蛮人に仕立て上げる事である。

つまり渡来人が日本列島に居座って成立した大和朝廷(ヤマト王権)の正当性を照明する為に、先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)は殊更野蛮な部族でなければ成らなかった。

その工作員・陰陽師修験者の工作が実って、現代の日本に伝わる先住民・蝦夷(エミシ)の抵抗勢力は、見事に言われ無き悪役としてしか地方民話にも残っていない。

その代表的な伝説が、源源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の鬼(おに)退治や土蜘蛛(つちぐも)退治、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の鵺(ぬえ)退治だった。

現在でも、この鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)を悪役とし、源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の活躍伝承は、神楽舞いや田舎歌舞伎、祭りの主人公などで全国に残っている。

それにしても、多少の落人伝説(おちゆうどでんせつ)はあるものの、現実には全国に残る村落の住人の祖先は先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)系が有力である事から、陰陽師修験者の情報操作及び政治工作が相当に上手く行った事に成る。


各地に伝わる「人身御供伝説」の多くには、犬神と天狗(てんぐ)が「善い方」として登場する。

天狗(てんぐ)も「天の犬の意味」であるから、言わば天狗(てんぐ)も犬神である。

犬神は日本狼(大神)と修験道師を重ね合わせた山岳信仰である所から、「人身御供伝説」が修験道及び修験道師と深く関わっている事は容易に想像出来る。

そして共通する多くは、うら若き女性が「人身御供」でありそれを救出するのが犬神(修験道師)の役回りである。

当時文盲だった大衆を信仰に導くのは、口伝に拠る啓蒙手段である。

つまり、この「人身御供伝説」そのものが修験道に民衆の信仰を集める効果を持っていた。

唯この伝説、単に「うわさの流布」と言った域ではない具体性を帯びていたからこそ、民衆に「現実の恐れ」として信じられた疑いが強い。

大阪府大阪市西淀川野里・住吉神社は、人身御供(ひとみごくう)の作法が神事と成ったもので、生身の女性を神に供える 「一夜官女祭り」である。

美しく飾られた御供物の桶七台と七人の少女が共に神前に進み、神に献じられる。

かつて、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道師(山伏)の存在は重要だった。

昔、病や怪我は祟(たた)りと考えられ、信仰深く素朴な庶民は恐れていた。

つまり、山深い里にまで足を運ぶ修験の山伏は、庶民の頼り甲斐ある拠り所だった。

その修験道の山伏達は、渡来した様々な鉱物や植物の薬学知識、精神ケアに要する宗教知識を駆使して庶民の平穏を願い、神の使いとして信頼を勝ち得た。

また、神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。

大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地である>ヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。

当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。

そこでは、密教・修験道の「山伏」が、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬われて行った。

従って、その根底に流れている密教の北辰・北斗信仰の使いが狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。

「信頼を勝ち得る」と言う事は、裏を返せば「信じた者を操れる」と言う事である。

過去、陰陽寮を作ってまで宗教と占術を「国家がいじる」と言う歴史は、その目的があるからこそ存在した。

夢を壊して悪いが、各地の山里に語り継がれる「人身御供伝説」の仕掛け人はこの修験道の「山伏」と考えられる。


能登国(石川県)七尾の山王社(大地主神社)の猿神退治の人身御供伝説では、「しゅけん」と言う最も修験山伏(修験道師)を彷彿させる白い狼(犬神)が登場する。

昔ある村では、七尾の山王神社へ美しい娘一人を人身御供に差出すのが毎年の永く続く習わしであった。

或る年も、一本の白羽の矢が某家の屋根に立った。「娘を差出せ」とのお告げである。

白羽の矢が立った家では、七尾の山王神社へ毎年美しい娘一人を人身御供に差出ださねば、「村に災難が降り掛かる」と言うのだ

この人身御供、親子の情に於いては忍びないが、当時の社会は「村落共同体(村落共生主義)」で娘の貞操よりも地域の安全がより優先され、拒否すれば村八分物で親子共に生きては行けない。

永く続いた土地の習慣ではあり避けられない人身御供だが、とても諦めきれない。

その家の主は嘆き悲しんだが、「何とかして娘を助ける事が出来ないものか」、と思案の挙句、或る夜我身の危険も帰り見ず、山王神社の社殿に忍び入って様子を探って見た。

すると、草木も眠る丑三つ(うしみつ・深夜)の頃、社殿の奥から何やら声が聞こえる。

「あれは何じゃ?」

白羽の矢が立った家の主は気付かれない様に近付き、耳を澄ます。

すると、人身御供を要求している妖怪と思しき者がほの暗い社殿に寝転んで、「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後国(新潟県)のしゅけんは、よもやワシが能登の地に潜んでいる事は知るまい。」と呟いている。

「しめた。」と娘に矢を立てられた家の主は喜んだ。

どうやら妖怪は、「しゅけん」とやらが恐いらしい。

目に入れても痛く無いほどに可愛がり、手塩にかけて育てて来た大事な娘である。

娘を助ける為なら、どんな怪物にも縋(すが)りたい。

白羽の矢を射られた家の主は、娘を助けたい一心で、人身御供を要求している者が恐れている「しゅけん」とは、何者なのか、興味を抱いた。

妖怪と思しき者が恐れる「しゅけん」は、どうやら越後国(新潟県)に居るらしい。

娘の父は「しゅけん」を知る由もなかったが、妖怪が恐れるならば兎も角、「しゅけん」なる者の「助けを借りよう」と、藁をもすがる思いで越後へ出かけた。

「しゅけん様は何処においでかね?」

越後国(新潟県)に出かけた娘の父は、「しゅけん」の所在を八方尋(たずね)歩き、漸(ようや)く会う事ができた。

それは全身真白な毛で覆われた「狼」であったが、娘の父は怖さも忘れて必死で窮状を訴えた。

悲嘆にくれながらも遠路探しに来た父親の、娘を思う心情はしゅけんにも充分に伝わった。

娘の父が事情を話し、助けを求めるのに対し「しゅけん」は深くうなずき「ずい分以前に、他国から越後へ三匹の猿神が渡って来て人々に害を与えたので、そのうち二匹まで咬殺してやった。」と娘の父に告げた。

「しゅけん様ならその猿神を退治出来るかね?」

「あぁ、最後の一匹には逃げられてしまったが、能登の地に隠れておろうとは夢にも知らなかった。それでは、これから行って退治してやろう。」と、「しゅけん」は応えてくれた。

娘の父は「しゅけん」の言葉に安堵したが、ふと気が付くともう時間が無い。

「有難うございます。ただ、もう娘を人身御供に差出す刻限が迫っています。」

「それでは、能登国(石川県)七尾へ直ぐに出かけようぞ。」と、「しゅけん」は娘の父親に「背中に乗れ」と言った。

娘の父親が「しゅけん」の背中に乗ると、「しゅけん」は「フワリ」と浮き上がり、海に向かうと海上を恐ろしい速さで翔け始めた。

「しゅけん」は娘の父親を伴い、波の上を飛鳥のように翔けて、明くる日の夕方には七尾へ着いた。

「わしを、娘の身代わりに供えよ。」

祭りの日、「しゅけん」は娘の身代わりに唐櫃(からびつ)に潜み、夜に成ってから神前に供えられた。

その夜は暴風雨の夜であったが、妖怪としゅけんの争いは雨風の音までかき消すように音が物凄く、社殿も砕けてしまう程の激しさであった。

翌朝、町の人々は連れ立ってこわごわ社殿へ見に行くと、朱に染まって一匹の大猿が打倒れ妖怪の正体を知った。

「こりゃあたまげた。化け物は大猿じゃったか。」

「しゅけん様のおかげで、毎年の人身御供も免れる。ありがたい事じゃ。」

村人は「しゅけん」の猿神退治に喜んだ。

しかし傍(かたわ)らには、「狼=大神」の「しゅけん」もまた、力尽きて冷たい骸(むくろ)となって横たわっていた。

町の人々は、「しゅけん」を厚く葬り、後難を恐れて、人身御供の形代(かたしろ)に三匹の猿に因み、三台の山車を山王社に奉納する事になった。

この「しゅけん」の物語、実は渡来した物語を応用している疑いが強い。

中国の民話に、「カクエン」と言う「獲猿」とか「攫援」と書く猿の妖怪が居る。

それぞれ「(獲物を)獲る猿」、「援を攫(さら)う」の意味だ。

援は媛に通じ、要するに女性の事で、総合すると「女性を攫(さら)う猿の妖怪」と言った処である。

この妖怪、中国では子孫を残す為に人間の女を攫(さら)い、「自分の子供を孕ませる」と伝えられている。

一連の霊犬伝説に登場する怪猿が、人身御供に娘を要求したくだりを連想させる。

北陸三県の越中(富山県)、能登(石川県)、越前・若狭国(福井県)は、一向宗が盛んになるまでは泰澄(たいちょう)に代表される白山信仰(山岳修験道)の聖地だった。

つまり人身御供伝説の原典が中国にあり、それを学んだ修験山伏が、何らかの目的で「利用した」とするのが無理の無い解釈だろう。

それにしてもこの民話のヒーロー、白毛の狼「しゅけん」とは見え見え過ぎる。

修験(しゅげん)と「しゅけん」では濁点が足りないだけではないか?

この伝説、しゅけん(修験者)対蝦夷夜盗(鬼鵺土蜘蛛)の象徴的な、実はリアルな言い伝えなのかも知れない。


「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。」

この縛(しば)きが「しめ縄」であるなら即ち乙女は「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた事に成り、いかにも性交呪詛の実行が伺われる。

鳥居内の神域(境内/けいだい)に於いては、性交そのものが「神とのコンタクト(交信)」であり、巫女或いはその年の生け贄はその神とのコンタクトの媒体である。

祭りに拠っては、その神とのコンタクトの媒体である巫女、或いはその年の生け贄の前に、「ご利益を得よう」と神とのコンタクト(交信)の為に、縛(しば)かれて尻久米(しりくめ)縄で吊るされた乙女に、老いも若きもの男衆の行列が出来るのである。

高千穂神楽(たかちほかぐら)と所謂(いわゆる)「日本神話」との関係については、誰も異論は無いだろう。

だが、高千穂神楽を語る時、避けて通れないもう一つの「神話」がある。それが高千穂に伝わる「鬼八伝説」である。

畿内への東征(神武大王の東征?)から帰郷したミケヌ(三毛入野命)は、後に神武大君(じんむおおきみ・神武大王・初代天皇)となるカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)の兄で、高千穂神社の祭神である。

そのミケヌが、「アララギの里」に居を構えた同じ頃、二上山の洞窟に住んでいた荒ぶる神・鬼八(きはち・蝦夷族?)は山を下り、美しい姫・ウノメ(鵜目姫。祖母岳明神の孫娘)を攫(さら)ってアララギの里の洞窟に隠した。

或る時、ミケヌが水を飲もうと川岸に寄ると、川面に美しい娘が映って話し掛けた。

「ミケヌ様、鬼八に捕らえられているウノメをお助け下さい。」

水面に映し出されたウノメの姿に助けを求められたミケヌは、他にも悪行を繰り返す鬼八(蝦夷ゲリラ?)の討伐を決意する。

「心配には及ばぬ。私が必ず助け出す。」

ミケヌは、四十四人の家来を率いて鬼八を攻めた。

鬼八は各地を逃げ回った挙句、二上山に戻ろうとした処でミケヌらに追い詰められ、遂(つい)に退治された。

しかし、そこは妖怪である。

鬼八は何度も蘇生しようとした為、亡骸は三つに切り分けられ別々に埋葬された。

この鬼八伝説、単純に聞けばよく在り勝ちな「おとぎ噺」だが、一説には往古の先住民族と大陸系征服民族の抗争が描写されていて、その先住民族の末裔達がこの地方独特の「ある姓を名乗る人々ではないか?」とも言われて居る。

後日談では、救出されたウノメはミケヌの妻となり、「八人の子をもうけた」と言う。

その後末裔が「代々高千穂を治めた」とされている。

処が、ここからが問題で、死んだ鬼八の「祟り」によって早霜の被害が出る様に成った。

この為、「鬼八の祟り」を静める為に「毎年慰霊祭を行う様に成った」と言う下りである。

高千穂・猪掛け祭りは、新暦一月中旬(旧暦十二月三日)のこの日に執り行なわれる収穫祈願祭りである。

来る年の豊作を願って執り行なわれる年末の神事が、子作り神事と共通していても不思議では無い。


「乙女を縛(しば)きて吊るし、掛けに供し・・・」

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。

この慰霊祭の風習では、過って永い事生身の乙女を人身御供としていた。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭りの性交行事が認められていた。

その生贄に供えたのが慰霊祭の人身御供だった。

高千穂「人身御供伝説」として伝わる「鬼八伝説」の人身御供の様式は、もっとも基本形の一つである乙女の半吊り責めである。

素っ裸の人身御供(生贄女性)を、神社に設(しつら)えてある舞台に曳き出し、縄で手首を後ろ手に縛(しば)いてその縄を、首を一回りさせて縛(しば)いた手首を上にガッチリ絞(しぼ)る。

もう一本縄を取り出して縛(しば)いた乙女の手首に結び、絞(しぼ)りながら肉体(からだ)の乳房の周囲を二本平行に巻いて絞(しぼ)って縛(しば)き、やや脚を開かせて踏ん張らせる。

天井から垂れ下がった縄で後ろ手に縛(しば)いた乙女の腕の結び目を結(ゆ)わえる。

人身御供(生贄女性)に上半身を前に倒させて腰を後ろに突き出した前屈(まえかが)みの形にさせ、縄丈(なわたけ)を調節し脚が床に届く様に半吊りに吊る。

「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。」

これが永い事、高千穂の人身御供の風習だった。

だが、戦国時代になって、供される娘を不憫(ふびん)に思った城主・甲斐宗摂(かいそうせつ)の命により、イノシシを「乙女の代用とせよ」と、呪詛様式が改革されるように成った。

つまり実用から、形だけのものに変わって行った。


甲斐宗摂(かいそうせつ)は、阿蘇国造(あそくにのみやっこ)・阿蘇氏の家臣で日向国・高千穂鞍岡の国人領主・藤原菊池流甲斐氏末裔である。

一族の内紛から甲斐都留郡(現山梨県)に逃れて住んだ肥後国・菊池氏の支流が甲斐氏で、九州に戻って日向高千穂に土着し、阿蘇氏重臣となった一族と伝えられる。

さて問題は、高千穂神楽には陰陽師の呪詛様式が色濃く残っている点である。

この伝説自体に高千穂神楽との結び付きが出て来る訳ではないが、慰霊祭「猪掛祭(ししかけまつり)」は注目に値するのだ。

いかにも修験者の仕事らしい伝説だからである。

まずこの「人身御供」は、神代の時代からの伝承に基づき、戦国時代の甲斐宗摂(そうせつ)の命令があるまで、生身の乙女を供する事が続けられて居た。

すると、何者かが鬼八伝説を利用して、「人身御供」のシステムを作り上げ、少なくとも数百年間は、それが継続していた事になる。

「この伝説の中で始まった」とされる鬼八の慰霊祭も今日に伝わっていて、高千穂神社で執り行われる「猪掛祭(ししかけまつり)」がそれである。

猪掛(ししかけ)の「掛け」の意味は、人架け(獲物縛りに吊るされてぶら下がった状態の人身御供)を指す。

代替として「人身御供」の乙女の代わりに、社殿に猪を縄で結わえて吊り下げるからで、単純に考えれば以前は「人身御供の娘を結わえて吊るしていた」と考えられ、陰陽呪詛的な匂いを感じるのである。


ここで一言、性に関わる(色気のある)歴史文章を書くと途端に、根拠も無しに定説とか常識を振りかざして決め付け、判ったような嘘をでっち上げる勢力がある。

鬼八伝説と、甲斐宗摂(かいそうせつ)が絡む「猪掛け祭り(擬似生贄の祭り)」にしても、「甲斐宗摂の人徳を称える逸話」と史実を綺麗事に捻じ曲げて主張する。

しかしこの人身御供は、遥か昔の神武朝時代のミケヌ(三毛入野命)の伝承「鬼八伝説」から始まるその地の人身御供儀式として継続され、戦国時代の甲斐宗摂(かいそうせつ)に到っている。

これを行き成り「人身御供儀式は無かった」と現代の規範常識を振りかざして破綻した文脈を言い張り、恥ずかし気も無い決め付けの論旨を主張する。

脈略がある鬼八伝説と甲斐宗摂(かいそうせつ)伝承の前段・鬼八伝説を切り捨てて置いて、実存する「擬似生贄の祭り(猪し掛け祭り)」が宗摂(そうせつ)の人徳を称える創作逸話とは無茶なこじつけである。



次に、中部地方に伝わる犬神の伝説(霊犬の伝説)を上げる。

意図して隠されているが、語り継がれて遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい恐ろしい真実が隠されている事が多い。

この人身御供伝承に拠る生け贄は何故か村落の有力者の娘が限定で、まずこの条件に例外は無い。

ヒョットすると、これは神の使い「犬神」から新しい命を授かる為の儀式なのかも知れない。

その昔、花園天皇(第九十五代・後醍醐天皇の前の帝)の治世の話である。

信濃駒ケ岳のふもとにある光善寺で、何処からともなくやって来た一匹の「雌の山犬」が五匹の子犬を産んだ。

寺の和尚も、慈悲深い人柄で、この山犬の親子の暮らしぶりを見守っていたのだが、やがて子供達が母犬と区別出来ない程に育った頃、母親と四匹の子供は山へ忽然と帰って行った。

しかしどうした事なのか、五匹の中でもひときわたくましく利発だった子犬だけが一匹だけ寺に残っていた。

「おやおや、この子(犬)だけ置いて行かれたのか?」

何かと親子に目をかけていた和尚は、少し不思議に思ったものの、この一匹が寺に残った事をたいそう喜んで一緒に暮らす事にする。

光善寺の和尚は、その子(犬)を「しっぺい太郎(悉平太郎)」と名づけて慈しみ育てた。

一方、遠州地方(遠江国・静岡県)の見附宿辺りに、村人に娘の人身御供を要求し、これに従わなければ近隣の田畑を荒らして、凶作をもたらす恐ろしい神が居た。

秋祭りの頃に成ると、毎年の様に「娘の居る村の家」の戸口に、白羽の矢を立てるのである。

この白羽の矢の話し、同類と思えるものが結構広範囲に伝承されている所から、話の出る元は広範囲な活動をした組織の存在を窺わせる。

該当するとしたら、それはやはり陰陽寮の修験組織の「呪術目的」としか考え様がない。

矢を立てられた家は娘をこの悪神に差し出さなければならなかった。

地域の安全が個人よりも優先される当時の「村落共同体社会(村落共生主義)」では、親は泣く泣くでも人身御供を承服しなければ成らない。

村人達は、「背に腹は代えられぬ」と仕方なくこの悪神の要求に従ってはいたが、やはり娘を贄に差し出さなければならなくなった家の者の悲しみは言い様も無いほどだった。

この妖怪を相打ちで倒したのが「しっぺい太郎(悉平太郎)」と言う犬(神)だった。

たまたま遠江国・見附宿を通りかかった旅の修行僧がこの人身御供に同情し、先ずはその妖怪の正体を確かめるべく八月十日の祭りの夜に拝殿の下に忍び込み、「信濃の悉平太郎に知らせるな。」と言う妖怪の叫びを耳にする。

妖怪が「信濃の悉平太郎なる者を恐れている」と思った旅の修行僧は、この人身御供と言う哀れな慣わしに苦しんでいる見付の人々を救う為、早速、悉平太郎を捜す旅に出る。

旅の僧は信濃国中を捜し歩き、漸くある村で赤穂村(現駒ヶ根市)の「光善寺にいる犬が悉平太郎だ」と言う話を耳にした僧は、早速遠州見附の窮状を訴えて悉平太郎を借り受けるべく、意を決して光善寺を訪ねた。

光善寺を訪ねて見ると境内に立派な犬が居た。

光善寺の「しっぺい太郎(悉平太郎)」は成長し、やがてたくましい霊犬に成長していたのだ。

「なるほど、この霊犬なら妖怪が恐れるのもうなずける」と、旅の修行僧は確信した。

光善寺を訪ねた旅の修行僧は、光善寺の和尚に会って見付で見聞きした顛末を語り、悉平太郎の借り受けを懇願した。

事情を知った光善寺の和尚は、済民の為ならばと悉平太郎の遠州見付行きを快諾された。

旅の修行僧が「しっぺい太郎(悉平太郎)」を伴って遠州見付に戻ると、折りしも見附宿はその年の八月十日の祭りを迎えていた。

祭りの当日の夜、人身御供を食らおうとする妖怪に悉平太郎は猛然と怪物に襲いかかった。

この妖怪と悉平太郎との戦いは凄まじく、叫び声が「翌朝まで見付の町にまで響きわたった」と言う。

翌朝、境内には大きな年老いた狒狒(ヒヒ・猿科)の化け物が血まみれになって横たわっていた。

怪物は終(つ)いに悉平太郎により退治されたが、悉平太郎も深手を負い、境内の今の山神社の所で「息絶えた」と言う。

何やらこの話も、「能登のしゅけん伝説」と良く似た所があるが、何しろ信州は戸隠流修験道(戸隠流忍術とも呼ばれる)の本拠で、所謂(いわゆる)山伏信仰(犬神信仰)の聖地だった。

しっぺい太郎、或いは早太郎と呼ばれる霊犬の伝説は以上の様なものだが、信濃国(長野県伊那地方)から遠江国(静岡県遠州地方)にかけて、類似した多くの伝説が残されており、その一つ一つは他の類話と微妙に異なっている。



まだまだある、大神=狼=犬神信仰は、「陰陽修験の基本だ」と我輩は考えている。

まるで同一の組織が、違う土地で同じパターンを使用したように似ていて、そこに、陰陽修験の影が見え隠れしているのだ。

福知山線篠山口駅から西へ一キロメートル余り行った所に、犬飼村の大歳神社がある。

この神社にも、人身御供の伝説が残っている。

主役はこれまた「鎮平犬」と呼ばれる霊犬の話で、能登国(石川県)七尾の霊犬伝説「しゅけん」や遠江国(静岡県)見附宿の霊犬伝説「しっぺい太郎(悉平太郎)」と良く似た所がある。

こうした伝説は、笑えるほどパターンが似ている事から、この辺りの経緯(いきさつ)に修験山伏の影がチラつくのだ。

昔、或る年に、北近畿(丹波・丹後・但馬)地方の或る村で神隠し事件が起こった。

氏子の中に五人、七人と次々に行方不明者が出てきて村中総出で捜しても、行方不明者の消息は判らない。

消息の掴めない神隠しであるから、「これは神のお怒りの禍(わざわい)である」との結論になり、神の怒りを静める為に氏子の連中が相談して人身御供を供える事に決め、くじを引いて祭りの夜に供える事にした。

その村では、毎年祭りの夜に人身御供を供える神事は続いていた。

村の取り決めであるから否とは言えず、村人は例年泣く泣く人身御供を供えていた。

所が、或る年のくじを引きで犠牲者に当たった家では大変悲しみ、何とかこの災難を逃れようとただ一心に神にすがり、三七日の祈祷をした。

ここまで育てて来て、漸(ようや)く花も盛りの年頃を迎えたばかりの愛しい娘である。

娘は、親でさえ惚れ惚れするほど麗しく育っていて、とても人身御供などには出せる物ではない。

一生分を使い果たしたと思うくらい散々に泣いたが、勿論娘への思いは断ち切れない。

するとその祈祷の満願の明け方に一人の童子が現れ、「氏子の悲嘆を聞くに忍びず故、霊験を持って汝らに教えよう。」と、神の声をその村人に伝えた。

童子の話に拠ると、江州犬上郡にある江州多賀明神は伊裝冉尊を祀るが、この宮も元は人身御供の禍(わざわい)が在った。

しかし多賀明神宮の禍(わざわい)は、「鎮平犬と言う犬が化け物を退治し、この厄を逃れた。」と言い、「今もこの犬が犬上郡にいる。

借りて来て、例祭の時この犬を器に入れておけ。

神は不思議な力をこの犬に与えるであろう。」と伝えた。

これを聞いた村人は「これで村の禍(わざわい)は無く成る。」と大いに喜び、神のお告げの通り江州犬上郡から犬(鎮平犬)を借りて来た。

借りた犬をお告げ通りに箱に納めてしめ飾りを神前に供え、村人が木の陰に隠れ刀を構えて待っていた。

夜半になって、天地を揺るがす大音とともに恐ろしい怪物が現れて拝殿に躍り上がり、供え物の箱に手をかけるやいなや中に居た鎮平犬が凄い声を出しながら怪物に噛み付き、ともに縁から庭に落ちて行った。

上になり下になり、鎮平犬と激しく争う怪物を見た村人が、「これは大変」と怪物の隙を伺い、助太刀に入って怪物に数太刀切りつけて見事怪物を退治する事が出来、以来人身御供の神事は取り止めに成った。

この怪物は、「三眼の大狸だった」と言われ、丹波・丹後・但馬地方は、元々「化け狸伝説」の多い地方ではある。

その後、鎮平犬は大切に村で飼われ、村名もこの事から「犬飼村と改めえられた」と言う。



もう一つ、丹波国・篠山の池尻神社(いけじりじんじゃ)の伝承を挙げる。

それが、数ある伝承の中身を良く考えると、全てに共通する「まるでお決まりにパターン化された物」のように、これらの伝承は良く似ている。

昔、大山の或る里に年老いた両親と美しい娘が住んでいた。

その村では、秋祭りには、毎年十五歳になる前の少女を人身御供(ひとみごくう)に出さ無ければならなかった。

そのくじ引きにある美しい娘が当って、その両親はたいそう悲しみ、そろって氏神(うじがみ)様・池尻神社(いけじりじんじゃ)にお願いに行った。

娘は不幸を嘆(なげ)き、父母の気持ちを思って途方にくれ、深く神に祈りを捧げた。

或る日、池尻神社(いけじりじんじゃ)では、神主(かんぬし)が浮かぬ気持ちで秋祭りに備え、境内(けいだい)を掃き清めていた。

「今年も人身御供に娘を供する」と思うと、祭りとは言え痛ましい話で、神主の心は浮かなかった。

ちょうどそこへ、都から来た若い武士が参拝に立ち寄った。

実はこの武士、国の氏神のお告げで、西国の「桜の木の下に住む」と言う娘と、結婚する為の「相手探し旅」の途中だった。

武士は、「池尻神社の神様にも、お告げの相手を聞いてみよう」と思って、一心に神様にお祈りをした。

そのうち若い武士は、疲れてウトウトと夢を見た。夢の中では人身御供に代わって桜の木が現れ、神の声が聞こえた。

夢うつつの中で驚く若い武士に、神の声は続ける。

「邪心(じゃしん)を祓(はら)い、人身御供の娘と夫婦になり、神の恵みを伝えよ。智仁(ちじん)備えし勇者に宝剣(ほうけん)一振りを与える。」

その声とともに宝剣が桜の木の上に降りて来た。

ハッとして若い武士が目覚めると、何と夢の筈が桜の木の下には現実に宝剣が在った。

「目の前に御神刀(宝剣)がある」と言う事は、この夢が神のご託宣に違いない。都から来た若い武士は、その娘が「探していたわが嫁である」と確信した。

神が夢枕に告げるからには、嫁探しの旅の目的地はこの池尻神社(いけじりじんじゃ)だったのである。

確信をもった若い武士は、「これこそ神の恵み。」と言ってその宝剣をおし戴(いただ)いた。

若い武士は、嫁となる娘を怪しい物への人身御供から守る為に神に導かれたのである。

お祭の当日になって、若い武士は目を光らし、辺りを警戒していた。

人身御供の祭事も済んで娘を奉納し、村人も帰った後に成り不思議にも草木がザワザワと動揺し、星一つない真っ暗な夜に成ってしまった。

夜中になって雨も降り出した頃、目をギラギラさせ、炎を降らせながらこちらに近づいて来る異様なものがあった。

武士は、「池尻大明神(いけじりだいみょうじん)」と心に念じて剣を抜いて待っていた。

雨がさらに激しくなったその時、怪しい物が急に武士に襲いかかった。

武士が居る事に気付いていたのだ。

飛び違い、かいくぐって武士が斬(き)り付けると、流石に宝剣で、「ズン」と手ごたえがあり、怪しい物が「ギャー。」と悲鳴をあげた。

妖怪は傷つき、宝剣を恐れて岩に登って逃げとしたので、引き下ろし、「エィ。」と剣を刺し貫くと、怪しい物はのたうって暴れ、やがて大人しくなった。

若い武士は、その怪しい物を漸く退治した。

その瞬間、空は急に明るくなって、そこに十メートル余りの大蛇(だいじゃ)が死んでいた。

武士は、老夫婦の一人娘と結婚し、村に住みついて、「子孫が栄え、村もたいそう繁栄した」と伝えられている。

「沢田の大蛇退治 」と伝えられる、丹波国・篠山の伝承である。


これらの妖怪の人身御供話、当初の事例は蝦夷(えみし)ゲリラの犯行かも知れないが、後の仕事は修験山伏の自作自演の可能性が強い。

また、氏神は鎮守神であり、神官は氏族の支配者だったから、人身御供を要求した妖怪は、実は神官そのものだったのかも知れない。

民間の伝承には、「天狗や烏(からす)天狗」と言った妖怪も見受けられ、山伏の装束を身に纏(まと)って居る所から、或る一面民衆に恐れられる物が修験山伏に在った事も事実で有る。

反面、良く考えて見るとこの人身御供話、村人に「犠牲を伴っても平和を維持しょう」と言う村落共同体意識がないと成立しない話でもある。

後ほど明記するが、この「人身御供(ひとみごくう)」と言う現代ではまったく通用しない考え方の共生村社会に於ける自己犠牲の掟(おきて/ルール)の原点は、実に応用範囲の広い人類永遠のテーマと言うべき選択肢の問題で、囚人のジレンマと言う理論にその解説を求める事が出来る。

問題なのは、こうした伝承の影に隠れた「表沙汰に出来ない伝承意図」である。

なぜ、修験山伏が村人を騙し、素朴な村娘を「人身御供」にさせたのか、その目的は誰でも思い当たるであろう。

その目的が「密教の呪詛を為す為」なのか、個人的な欲望を癒す為なのかは、今になっては不明である。

ただし、それを解く鍵が、「修験道師の国家秘密機関」と言う特殊な成立ちにある。

統一の為の布教と、鵺(ぬえ)ゲリラ退治、鉱物探査、各種諜報活動など、その守備範囲は幅広い。

その中の一つに、何か特殊な目的が有ったのではないのだろうか?

公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「伝承神話」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

弘法大師・空海が中国修行から日本に帰還した桓武帝の御世は、まだ渡来政権である大和朝廷と原住蝦夷族との武力抗争が日本列島のそこかしこで続いていた。

この武力抗争の問題解決を、弘法大師・空海は陰陽密教呪詛に求め朝廷に進言し、朝廷はその策に乗った。

そしてその策、陰陽密教呪詛とは言いながら陰陽修験者に拠るこの真言密教の布教目的は、実は性交に拠る民族の混血和合(次代は同族)と言う実質的なものだった。

「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまえば事は簡単だが、当時の日本列島はまだ「民族間の武力抗争」と言う問題が重要課題だった。

そうした秘策を持って全国に散った陰陽修験者から、人身御供伝説が広がったのは言うまでも無い。


人間(ひと)は側坐核(そくざかく/脳部位)に影響されて、勝っ手な相手に「自らの願望を為してくれる」と言う期待を抱(いだ)く事で、「心の安定を得よう」とする心理を持っている。

それが心理学的には「英雄待望論」だったり、信仰上の「カリスマ(超人/教祖)の存在」だったりする。

信仰・占術・予言の本質は、強弱の質こそ在るものの人間が持つ「側坐核(そくざかく/脳部位)」に影響された一種の依存症である。

その延長線上に在るのが、「ジュピター・コンプレックス(被支配の願望)」である。

この信仰・占術・予言に対する依存症は、横着極まりない事に、自分で努力する事を放棄し結果的に幸福を金で買う図式が構成される。

その依存する相手の一人がシャーマン(預言者/巫女)で、過っての集団や国家はこのシャーマニズムを拠り所として成立していた。


シャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させる。

脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の異変(変異)した様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

浚(さら)って来た娘の、修験呪術に拠る呪詛巫女の仕込み方だが、これはもう方法が決まっている。

女体とは不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば、思う気持ちとは別に、身体が性交の快感を覚えて反応しまう。

そうなればしめたもので、自らから呪詛(性交)に応じる様になり、呪術性交を滞りなく行える呪詛巫女が完成する。

ここに到って確信したが、修験者はけして怪しげな術で生け贄と成った女達を操っていた訳ではない可能性もある。

修験者の施術は、彼女達の能力を引き出す「手助けをしたに過ぎない」と気が着いた。

巫女の「神懸り状態」も現代風の格好だけのものではなく、往時の陰陽修験の施術方法を正確に検証すれば、現代の人間科学的に可能性が推測出来るのである。

生き物の身体は、生きる為にあらゆる進化を遂げて、その為の備え調整装置を作り出している。

「女の感」とは良く言ったものだがそれはチョットした表面的なもので、女性(母性)にはもっと素晴らしい命を未来に繋ぐ為の潜在予知能力(危険予知)が未開発のまま存在する。

但しこの潜在予知能力(危険予知)何もせずに開発される筈がない。

古来より大和の国に伝わる呪詛巫女は、神楽巫女舞(実は輪姦巫女行)のトリップ現象に拠るドーパミンの過剰生成から発生する脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で、脳の予知能力の精度を高める事で能力を発揮し任じられた。

これは脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に陥(おちい)る現象が、「神が巫女に降臨した」と信じられたからで、原始宗教の延長上の迷信かも知れない。

呪詛巫女の「修験の行」は読んで字の如しで、修験者との輪姦行に寄り「経験を修め」脳の予知能力の精度を高める事で修験が女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛術は、それこそ多人数で強烈な輪姦(まわし)行をさせ、限界を超える過剰な性快感を持続的にもたらす為である。

つまり呪詛巫女は、「超臨界性感覚」に達すると「神懸り状態」に成り、未来予知が出来る「輪姦巫女行(修験の行)を積んで、呪詛巫女を任ずる」と言う事が、当時信じられた理屈だった。

これが単に修験者の性欲を満たす為だった可能性もあるが、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に成る現象は事実だったようである。

何しろ大人数に連続して犯されるのであるから、少なくとも「臨界点ギリギリ」だった筈(はず)で、それこそ「助けて、気持ちが良過ぎる」と思うほどの絶頂感が途切れずに連続して持続し、その連続する壮絶な絶頂の快感「超臨界性感覚」と伴に神懸り状態に陥(おちい)って「予知夢」を見る。

そこで得られる「超臨界性感覚」が、神懸かりの「憑依現象」と解され、潜在予知能力(危険予知)のオン・スイッチに成っていてその引き出された予知体験から、女達は神の御託宣を告げたのだ。

多分に非科学的な話で、現実にそんな事で御託宣が修験が得られるとは思えないが、性交が豊穣の祈りと同じ意味を持つ当時、人々には真面目に考えられて居たのかも知れない。

ただ、信じられるからには人々が納得する異変が本当に存在したのかも知れない。

女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛は、過剰な性感を女達に施(ほどこ)す事で脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの大量発生を促がすのが目的で、輪姦呪詛は潜在能力を引き出す手段でも在った可能性があるのだ。

こうした修験者の施術を、単純に「現代の常識」と言う物差しで計る事は簡単であるが、本来「命を繋ぐ」と言う「生殖行為/性交」は、信仰的に「尊いもの」と考えられていた時代が長かった事を考慮すると、神行としての巫女の輪姦呪詛術は充分考えられるのである。

また、この精神思考は鎌倉時代末期・南北朝並立期に儒教が仏教に取り入れるまでは根強く存在した為、それ以前の神行・仏行に修験の行である呪詛巫女の輪姦呪詛術(神懸り術)が形態を変えながらも残り、真言(密教)立川流に到ったとしても不思議はない。



この修験道師、実はもう一つ驚くべき重要な密命「大王(おおきみ・天皇)の密命」を帯びていた。

それは葛城氏族(賀茂氏)に拠る大胆な「民族同化政策」である。

神話にある誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、その考え方が国家政策の根底に在っても不思議は無い。

万世一系を具現化するには、「民族同化政策」が必要で有る。

答えは簡単で、国内の諸民族(諸部族)を混血化すれば良い。

それも全ての民に、皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血を注げば良い。

皇統の血を受け継ぐ賀茂一族がこの任に最も相応しいからこそ、修験者の長は「役小角(えんのおづぬ)」だったのである。

そうした修験の目的としての道具立て(環境作り)に、「妙見信仰・北辰信仰と密教の性的教えの習合がもってこい」だった。

つまり修験道師には、村々に分け入り、「村人の信仰心に乗じて」賀茂氏の子孫を村々の女性に植えつけて歩く究極の使命を負っていた。

役小角(えんのおずぬ)の呪術は、奇跡でも怪奇現象でもなく、もっと「論理的なもので在った」と考えられるのである。


勝手に日本列島にやって来て、先住民族・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の土地を武力強奪し、俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属させた渡来部族に拠る縄文人(蝦夷族/エミシ族)への迫害を古事記・日本書紀の天孫降臨伝説とそれを山深い里までめぐり歩いて喧伝した修験道師に拠って意図的に消し去った。

そしてその後起こった渡来部族・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と渡来部族・呉族(ごぞく/海洋民族)に拠る覇権争いと誓約(うけい)の痕跡も、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説と修験道師に拠って意図的に消し去って永久的な氏族(氏姓制度)支配体制の確立を策した。

伝説には、隠された未来へのメッセージがある。

その根底に在る姿勢は「古文書に記載されている」ではなく、歴史を「いつ頃何の目的が在って誰が始めたものか?」と言う視点で捉えるべきである。

つまり物事の始まりは、信仰にしても習俗にしても最初は何者かの意図が在って始められたものであり、歴史研究者が昔から存在する事を理由に無条件に疑わないのではインテリジェンスが無さ過ぎる。


修験道師の画策した人身御供伝説は、平和の民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)集落の有力者「長」の娘に渡来氏族の子を身篭らせ、次の「長」に渡来氏族の血が入る「同化過程だった」としたら、現実的である。

解き明かして見ると触れられたくない日本史の暗部が浮き上がって来た。

まぁ同様の過程を辿った米国に置いても、近頃では後ろめたいのか白人開拓団とインデアン(ネイティブアメリカン)が戦う場面の映画(西部劇)はめっきり創らなくなっている。

つまりアメリカ大陸開拓史の苦労話よりも、他人の土地を勝手に武力強奪した事実を消し去りたいからではないだろうか?


辿り着いて見ると、この壮大な計画の筋書きを書いたのは桓武天皇だった。

古事記・日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝が修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

そう、大和朝廷いまだ安定しない黎明期の飛鳥時代、役小角(えんのおずぬ)とその一党が桓武大王(おおきみ)から賜った密命が、この誓約の概念に拠るいささか強引な多民族同化策だったのである。

この「血の民族同化」と言う途方も無い目的の為に、密教の呪詛を為す為には、修験道師の相手をする「呪詛巫女」が必要だった。

村人が抵抗無く、進んで「呪詛巫女」を提供する環境を作る為に、修験道師はあらゆる「恐れの方策」を採った。

その為、村人は修験道師にお願いして、災いを回避する呪詛を行ってもらう事になる。

妖怪の怒りを静める為に少女が生贄にされる。

つまり人身御供に供された少女は、神の使い犬神様(大神/おおかみ様)に妖怪から助け出され、修験の呪術を十分施され「神の子を身ごもって戻って来る」と言う素朴な筋書きで有る。

しかしこの一連の伝説は、神の御落胤を量産して村長、庄屋、名主、村主(すぐり)を継がせる組織的陰謀だった。


地方の修験伝説を取り上げると、「その時代には庄屋は無かった」などの時代考証的な指摘が入る。

確かに修験伝説は、元々は古墳時代から平安時代の伝承として始まったものである。

その伝承が、時代の移り代わりと伴に受けつがれ、その伝承内容の一部がその時代の庶民に理解され易い様にその時代背景に適合口伝されつつ現在まで伝わって来た。

従って時代考証的には古代史に無い江戸期のものが後から伝承に混ざるなど、伝承内容に少しづつ時代的な「そご」が生じて現代に到っていても不思議は無い。

こうじた伝説伝承の変化は時代背景的な経緯として理解すべきで、解説は必要だが指摘すべき間違いでは無い。


ここで問題なのは庄屋の名称の存在であるが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)を検索すると、江戸時代の村役人である地方三役(村方三役とも言う)のひとつ、或いは町役人のひとつと解説がある。

地方三役(じかたさんやく)のひとつで、村落の代表者で、西日本では庄屋の呼称が多く、東日本では名主と呼ばれる事が多いとされ、また、東北地方・北陸地方・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ぶ。

確かに江戸期の村役人もしくは町役人の「制度としての名称」と言う点ではそれで間違いではないが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)には江戸期以前からの歴史的背景があり、「江戸期以前に名称が無かった」と言って棄てるのは、少々乱暴である。

何故なら土地範囲を示す【庄制度】は平安期から存在し、**庄は何処にでも在ったから、勿論庄屋敷がその土地の管理を請け負う支配階級が氏族で、それを語源として江戸期の庄屋の名称と役が在る。

例えば日向(ひゆうが)国【高千穂庄】には高千穂(大明神)神社が在り、神々の存在を感じる喜八伝説のアララギの里・高千穂十社の森を抜け、五箇瀬川峡谷(高千穂峡)の高千穂神社に辿り着く。

高千穂(大明神)神社の由来には、平安時代末期には【高千穂庄】十八郷八十八社の総社として、上古高千穂皇神(日向三代の神々)を祀るとある。

また、平安期から鎌倉期に移る時点の【庄】の存在であるが、源頼朝の異腹弟にして源義経の同腹の兄・阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、父・源義朝(みなもとよしとも)が「平治(へいじ)の乱」に敗れ、平清盛に助命されて僧侶に成っていた。

その阿野全成(あのぜんじょう)が僧籍のまま源頼朝の挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚、駿河(静岡県)の国・【阿野の庄(今の沼津市原・浮島)】を拝領、大泉寺を建て、阿野姓を名乗っている。

つまりこの【阿野の庄】は一例で、古文書に【庄】の存在は当たり前に記載がある。


次に江戸期の「庄屋」以前の【庄(荘園)】を説明する素材として織田信長(おだのぶなが)の織田家を使う。

織田信長の出自に関わる織田神社は、奈良期から鎮座する剣神社(越前國敦賀郡 劔神社)と言い、剣神社が鎮座する【越前・織田の庄】は千八百年の歴史を有している。

織田家は忌部(いんべ)氏を祖とする剣神社の神官であり、【織田の庄】の庄官(荘官)である。

庄官と荘官は同じ意味で、庄(荘園)で、領主の命を受けて年貢の徴収・上納、治安維持などの任務にあたった者を庄官(荘官)と呼び、荘司と言う呼称もある。

中央の領主から派遣される場合と織田氏のように地方の有力者が任命される場合とがあり、時代が下るに従って後者の形をとるようになった。

庄官(荘官)は、荘園領主から任命され、荘園内 の年貢の取り立て治安維持などを司どった職で、織田家は剣神社の神官から土地の有力庄官が、室町期に守護職・斯波(しば)氏に被官する。

実は守護職・斯波(しば)氏は室町幕府の要職に在って中央に居た為、所領の運営は守護代に任せていた。

しかし応仁の乱以後は下克上が盛んになり、織田家は斯波(しば)氏の守護代を経てその分家が尾張に渡って戦国大名に成長した。


歴史には連続性が在る。

所が、その時代を得意とする奇妙な歴史家が現れてスパッとその時代だけを切り出して、「庄屋と言う身分は江戸時代だ」と見っとも無い事を平気で言う。

これでは盲目の者が象の尻尾だけ触って「象は細長い生き物である」と言うようなもので、残念ながらそう言う方は、歴史の連続性を無視した浅い知識で物を言って大きな恥をかく。

歴史的に支配階層だった氏族の末裔が帰農して百姓に成ったのであり、そうした階層が最下級支配職である庄屋や名主、村役などを任じた。

中世荘園・名田以来の在地有力氏族の者が多く、鎌倉期〜戦国期の大名の家臣だった家が有力者として江戸初期の庄屋を務めた事例も少なくない。

庄園にしても荘園にしても行政区域だから、庄屋敷にしても荘屋敷にしても陣屋造りの執務所を併せ持つ長の住居である。

つまり江戸期に成って急に庄屋が誕生した訳ではなく、また土地の名(名田)をかざす氏族も在り、そちらを語源として名主である。

そして肝心なのは、人身御供伝説の伝承は後の時代に下がるほど理解し易いように当代の状況に合わせて少しずつ変化して居る事も考慮すべきである。

勿論昔の伝承が、時代を下がる途中でその時代の環境に合わせた物語に直される場合も多く、それが伝承故の事であるから時代考証が一致しない事は勘案留意しなければならない。


「呪詛巫女」は修験道師を通して神仏と交わり、菩薩に生まれ変わって、神からの授かり者を産む事になる。

この賀茂の血を持った「授かり者」は、村長(むらおさ)の所で大事に育てられ、次代の村のリーダーになって行くのである。

恐怖の征服大王の血は、二千年の時を隔てて、あまねく日本列島に広がり、民族の統一はなされて行ったのだ。

事の良し・悪しや賛成・不賛成を別にした事実として、「誓約(うけい)」と言う形の性交は神代から存在した。

誓約(うけい)の性交は相手に対する服従を意味し、それを具体的に証明する手段である。

神前における巫女の性交は神との「誓約(うけい)」であり、「神の御託宣」を得る為の神聖な行為である。

従って「契(ちぎり)」も性交であるが、情を絡ませた同等の愛情によ拠る「契約(けいやく)」とは少し違い、「誓約(うけい)」の性交はあくまでも「服従的な行為」と言う事に成る。


これは極自然な事で、けして異様な事ではない。

初期修験道の呪術に於いて、性交により新しい命を創造する事は、すなわち「神の領域の範疇」だったのである。

従って修験道の「存在の歴史」の中に於いて、その精神は大王(おおきみ・天皇)の密命として生きていた。

明治維新直前の江戸末期でも日本の人口は三千万人が良い処で、おおまかな人口は「現在の四分の一」と言う処だ。

従って時代が遡るほど人口は少ない。

陰陽山伏(修験者)が命じられた「血の同化」の密命は、大和の国成立初期の段階では相当に有効な手段だった。

その血が時を経、代を重ねて、もくろみ通り「単一大和民族」が形成されて行ったのである。


人間は基本的に「群れ社会の生き物」であるから、「帰属意識(群れ)」を持たねば孤独感に押し潰されて生きて行くのが辛い。

その群れ意識の帰結する所が部族だったり民族だったりするのであるから、いかなる事象でもその「帰属意識的」な立場が変われば発想が変わり、争いが起きるのである。

その争いは「帰属意識(群れ)」を融合しない限り解決はしないから、誓約(うけい)の民族的(部族的)融合が唯一の平和的手段だった。

従って誓約(うけい)の性交が「呪詛的な神事」と解釈される様に成り、渡来した妙見信仰と習合して祭祀に性的な要素を含む巫女舞神楽の様式や人身御供伝説、神に豊穣(豊作)を祈る神事「豊年踊り」の乱交「暗闇祭り」が陰陽師に拠って全国に伝播醸成され、日本人のおおらかな「性に対する規範」が成立した。

明治帝(天皇)が詠んだ「皆同胞(みなはらから)」は、正しく同じ母から生まれた「腹から」の兄弟姉妹の意味で、「この上無く同じ民族」を意味している。

この大王(おおきみ・天皇)の密命こそ、わが国最高の国家的陰陽呪詛かも知れない。

勿論、此処で言う「血統の統一」は大枠(大勢)の話で、細かい事情のイレギラーは存在する。

日本と言う国では、はみ出し者は活躍するが出世は望めない。
それが世間と言うものである。

本能なのか、「皆で渡れば恐くない」の帰属意識、「出る杭は打たれる」の横並び意識、「口に出さずとも通じる」と言う暗黙の了解意識、他国では通用しない「はい」と表現するノー、「考えてみる」と表現するノーの原点が此処にある。

つまり、「大王(おおきみ)の密命」こそ、良くも悪くも大和民族を血統的に統一させ、単一民族意識に仕立て上げたのである。

現在の常識で、「そんな陰謀はありえない」と判断するのは、止めて欲しい。

そう言う方は、時代の環境が読めていない。

何故ならわずか六十年前、「特攻隊」と言う「ありえないもの」が、現実に常識として存在した。

それ故、こうした人身御供伝説に、関わっていたのが「修験山伏であるのは間違いない」と、我輩は確信する。



もうお判りだと思うが、陰陽師に始まる武術は武士・武門、果ては芸能にまで繋がり、一方で密教、妙見信仰と繋がって命のリレーを後世に繋げて行った。

中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手といえば、西の長門の武将・大内氏と並んで東は房総の武将・千葉氏が有名で、幕末の千葉周作はその剣技の流名を北辰一刀流と称した。

千葉と言う事で、名作・里見八犬伝を紹介しよう。

読み本作者・滝沢(曲亭)馬琴の里見八犬伝は、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏と妙見北辰信仰・真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は、一部形を変えながらも日本の仏教や神仏習合の修験信仰に影響を与えている。

弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

神は恋人、神に捧げる踊りの原点は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

つまりインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国で、このヒンドゥー教の影響こそが、おおらかだった日本の性習俗の原点かも知れない。

例えばインドの土着信仰から始まったヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、中国経由で日本に渡来した弁財天の原型である。

弁財天は原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入って来てからも健在だった。

女神・サラスヴァティーはヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)であり、サンスクリット語(梵語)でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神としてインドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。

仏教に於ける婆達多品(デーヴァダッタボン、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っていて、日本の民衆の間では女性の事を指して「弁天様」或いは「観音様」と表現する所から弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされて居る。


真言宗の空海・天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。

言わば,修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?

それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。

元々インド・ヒンドゥー教の神や祭祀にはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

なかでも江の島・弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。

この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。

その根底にあったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。

インドの土着神話で、八歳の王の娘・娑竭羅龍(サラスヴァティー)が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い。

その土着神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。

獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。

となると、「陰陽修験導師が暗躍した」と思われる人身御供伝説の原点がこのインド・ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーと仏法諸天の仲間・獣(竜)の畜生道(獣姦)の物語「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」の竜を、犬や猿などに加工して応用したのではないかと推測されるのである。


ここに、象徴的な小説・「南総里見八犬伝」がある。

里見氏(さとみうじ)の本姓は清和源氏(河内源氏)・源義国(みなもとのよしくに)流の源(新田)義重の三男・義俊を祖とする後裔の氏族で、新田氏の庶宗家である。

新田義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み初めて里見氏を称したが、後に里見家基が鎌倉公方・足利持氏に仕え、持氏が「永享の乱」で敗死した後、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して幕府に敵対し「結城合戦」で家基が戦死する。

里見家基が嫡子・義実は、父を失って城を逃れて落ち延び、相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り安房の国に落ち着き房総里見氏の祖となる。

詳細は不明だが安房国に移った新田(源)家基の子息、里見義実が土地の領主・安西氏を追放し安房国(今の千葉県の一部)の領主となる。

折りしも安房国は、室町中期の惣領制の崩壊によって旧来の豪族による支配が崩れ、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が互いに隙を伺って睨み合い、戦乱がうずまいていた。

そうした戦乱の隙を突いて安房・里見氏を始め上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将が、各々他国から入って来て戦国時代に安房に勢力を築き上げるもこれに勝ち抜いた安房・里見氏が房総地方を領する戦国大名にまで成長した。

戦国末期には関東一円に勢力を拡大した後北条氏と敵対していたが、中央でほぼ天下を掌握しつつ在った羽柴秀吉(羽柴豊臣)の小田原平定戦に参軍するも、独自の動きをして秀吉の怒りを買う不祥事を引き起こす。

その場は徳川家康の取り成しで切り抜け、秀吉に所領の一部は取り上げられたが安房一ヵ国は安堵されて生き残った。

千六百九十九年(慶長五年)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は家康の継嗣・徳川秀忠の要請に応じて宇都宮方面に参陣し、戦勝後には恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。

千六百十四年(慶長十九年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして千六百二十二年(元和八年)、当主・里見忠義が病死すると、「跡継ぎが居ない」として里見氏は改易された。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。


千九百六十七年(明和四年)、滝沢(曲亭)馬琴は、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。

馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだと言う。


千七百七十五年(安永四年)馬琴九歳の時に父・滝沢運兵衛興義が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだ。

しかし、主家は俸禄を半減させた為、翌千七百七十六年(安永五年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。

この時既に、次兄の興春は他家に養子に出ていた。

母と妹も興旨とともに戸田家に移った為、松平家には馬琴一人が残る事になった。

馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、千七百八十年(安永九年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居する。

翌千七百八十一年(天明元年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。

馬琴は、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深める。

二年後の十七歳で、馬琴は吾山撰の句集・「東海藻」に三句を収録しており、この時はじめて馬琴の号を用いている。

その後の二十一歳の時には、馬琴は俳文集・「俳諧古文庫」を編集する。

また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とする。

馬琴はこの時期、放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。

千七百八十五年(天明五年)母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合う。

そして次兄が貧困の中で急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。


千七百九十六年(寛政八年)、三十歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。

この年に耕書堂から刊行された読本・「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。

また、生活の為により通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた 。

千八百四年(文化元年)に刊行された読本・「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗する事となった。

千八百十四年(文化十一年)に、大長編読本・「南総里見八犬伝」が刊行を開始された。

「南総里見八犬伝」の執筆には、千八百十四年(文化十一年)から千八百四十二年(天保十三年)までの二十八年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

その間に、一人息子で医術を修めた興継が宗伯と名乗りを許され陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となるも、千八百三十五年(天保六年)に死去する。


馬琴は、千八百三十三年(天保四年)頃から異常を覚えていた眼病が悪化し、千八百三十九年(天保十年)の時には失明する。

執筆が不可能となった為、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記をする事となった。

馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対し、妻のお百が嫉妬して家庭内の波風は絶えなかった。

そのお百も、千八百四十一年(天保十二年)に没した。

同千八百四十一年(天保十二年)八月、大長編読本・「南総里見八犬伝」の執筆が完結し、千八百四十二年(天保十三年)正月に刊行される。

馬琴は千八百四十八年(嘉永元年)、お路を代筆記者として、「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、八十二歳で死去した。


馬琴は、ほとんど原稿料のみで生計を営む事のできた日本で最初の著述家で、代表作は「椿説弓張月」と「南総里見八犬伝」である。



「南総里見八犬伝」は、滝沢(曲亭)馬琴の筆に拠って八房(犬)と里見家の伏姫を主人公とし、伏姫(里見伏)は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く物語である。

当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将・安西の首を持ち帰る。

所が、伏姫の父は「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。

伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、約束を果たして八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。

それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。

それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。

元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。

富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫は、やがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。

滝沢(曲亭)馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。

「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語において体現している。

八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。

馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。

この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は「昔話の伝承にあった」と見る。

馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。

伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。


北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。「使い」と言っても甘く見てはいけない。

妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。

その使い神だから霊力が格段に強い。

それで、「狼(オオカミ)がその使い神だ」と言われている。

明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。

つまり「種の保存本能」を祈りの基本にした信仰だ。

その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には「夜夫座神社」と言う意味深な名前が付いている。

狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」が、その名もズバリ妙見山と言う山の麓にある。

所謂、山犬(狼)神社である。

この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。

これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。

梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命を祭ったのが始まりで、関東でも屈指の古社である。

「秩父妙見宮、妙見社」などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に、名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。

秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。

フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。

関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。

狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。

つまり伏姫を抱き、孕ましたのは妙見神の使い犬神(大神=狼)なのである。


八犬伝の里見家に戻る。

千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。

天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。

つまり、里見家は真言宗との縁が強い。

妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証で、その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。

南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。

我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。

この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。

また異説では、交尾を意味する「掛ける」の語源は、神懸(かみがか)りの「懸ける」から来ていると言う説もある。

つまり陰陽呪詛の信仰に於いて交尾や性交は生命を宿る為の呪詛儀式と捉えていて、その行為は「女性を神懸(かみがか)らせる事」と言う認識である。


こちらは滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。

伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当であり、そうなると昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当なのだ。

勿論「南総里見八犬伝」は滝沢馬琴の創作小説であるが、その題材の基に成った妙見信仰の伝承が在り、その伝承の地が安房の「犬掛」だったのでは無いだろうか?

しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。

山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。

つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。

しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。

下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。

今以上に信心深い時代の事で、鬼門封じの呪詛を里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄て切れない。

或いは滝沢(曲亭)馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄て切れないのである。

つまり、滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。

里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。

この江戸時代後期の読本作者・滝沢(曲亭)馬琴のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

滝沢(曲亭)馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。

八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。


神話の伝承によると、スサノオ(須佐王)には、八人の子がいる事に成っている。

大八州(おおやしま・日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。

恐らく、「八」と「犬」に特別な意味合いが有るから「八犬伝」であり、他の数字では在り得なかったのだ。

妙見信仰は伝来当初、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったが、次第に畿内などに広まって行った。

しかしこの時朝廷は、この禁止された宗教をある遠大な計画に利用する事を考え付いていた。

民族同化を目的とした血統のコントロールである。

それには、まず無秩序な性行為は禁止しなければならない。

つまり民衆の性行為さえもコントロールする事を考えたのである。

七百九十六年(延暦十五年)に、妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を朝廷の「統制下にない信仰である」として禁止した。

表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

つまり全国にある妙見宮は、朝廷の禁止があるまで「性的なものを許容もしくは奨励する教義だった」と推測される。

処がこの建前禁止した禁止宗教の妙見信仰・密教は、矛盾を抱えながらも朝廷の秘密機関「陰陽師勘解由小路党」によって布教され、庶民の性意識として定着して行った。

この教義の元として取り上げ、利用したのが「真言密教」であり、その全国流布には修験者(山伏)があたり、辺境の漁村から山深い猟師村まで分け入って布教に努め、村人を導いていた。

表向き、中央の権力者の意向に添わない宗教は、いつの世も草深い野に身を隠す。

まったく公式の建前と違う目的、労働力(庶民)の増加を目的とした隠れ妙見信仰は、修験者(山伏)とともに村々に散っていった。

全国の神社の脇に祠(ほこら)として祭られている神様に山ノ神がある。

山の神は、猟師、木こりの神様、子授けの神様として信仰されている。

この発想は「長く命を永らえた木に神が宿る」と言う考え方で、原型は巨木の主幹に空洞を持つものが選ばれた。

その空洞が「女陰の姿」を彷彿させるからで有る。

転じて、山の神を「古女房を呼ぶ時の呼び名」と成った。

この山ノ神、祖神と言われる民間信仰から派生したが、その後修験者(山伏)の活動と結び付き、より妙見信仰との関わりを強めて、各地の「人身御供伝説に結び付いた」と思われる。

土地に拠っては、「金精様」と呼ぶ男根の神様が山ノ神と一対を成し、「五穀豊穣、子授け祈願」とする祭りもある。

また、娼婦や水商売の女性に「性病避けや良客獲得」のご利益を願う神にもなっている。


何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭りの性交行事が認められていた。

アメリカ大陸の労働力不足に対応したのは、非人道的な奴隷貿易である。

それを、日本列島の大和朝廷は、生産力向上の為に、「産よ、増やせよ」でまかなう政策を取った。

まさに、その啓蒙手段に修験密教がある。

つまり、貴族社会とは正反対の「性的に積極的な教え」を庶民に植えつける事に、「陰陽師勘解由小路党」は、非公式に奔走したので有る。



歴史的に、町場に於ける専業の商家は後発の業種なので後述するが、まずここでは最後まで習慣が残った「農漁村部の夜這い」を考察してみた。

国家が平穏で有る為には、異民族意識は大敵で有る。

そこで民族の同化は緊急の課題だった。

庶民に性をタブー視されては、陰陽師の闇の仕事に差支えが出る。

従って意識改革には呪詛信仰と、「もののけ」の祟りは切り離せない。

マニュアルでも在ったのか、各地に存在する「人身御供伝説」、結構手口が良く似ているのはご愛嬌である。

もしかすると村人達も実は「人身御供」の目的を理解していて、それでも「忌み祓い呪詛」の為には人身御供も仕方が無いと結論付けて居たのかも知れない。

定期的に「人身御供」を供給する為に、便宜上、「猛獣の生贄」とする伝説化を村ぐるみで作った可能性も有るのだ。

大王(おおきみ・天皇)の密命は、ピタリと妙見信仰に嵌まっていた。

当然の事ながら庶民の性意識には、修験道師が、妙見信仰に拠る初期の「民族同化目的」の為に布教した名残が「意識」として残って、習慣化していた。

つまり「陰陽師勘解由小路党」に拠って布教された性意識は定着し、その後の村落経営に大きな影響を残しているのだ。


今に成っての現代人には実感が湧かないと思うが、この物語の冒頭で記述した様に氏姓の支配体制は明治維新まで続いていた。

千八百六十九年(明治二年)、旧藩主が自発的に版(土地)・籍を天皇に返上した事を「版籍奉還」と言うが、この版籍奉還よく見ると「籍」つまり「人民」を「旧藩主が天皇に返した」と言う意味で、概念上、人民は「藩主の持ち物」だった。

この考え方が、とりもなおさず征服、非征服時代の考え方がそのまま存在していた事実を示した事に成る。

日本人の多くの祖先が、実は「里山文化」の継承者、つまり、名も無き村人達である。

食糧生産に直接関わらない純粋氏族(征服部族)が占める相対的な割合は、本来さほど多く無いのが自然で有る。

これは現在でも理屈は同様で、議席や官僚、地方の役人の数ばかり増えれば、それを庶民が食わせては行けない。

千八百七十一年(明治四年)戸籍法が制定され、翌年この戸籍法に基づいて、日本で初めての本格的な戸籍制度が開始された。ここでようやく、平民その他が初めて氏名(苗字)を持ったのである。

この年の干支が壬申(みずのえさる)である事から、この制度に拠ってできた戸籍を壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ぶ。

しかしこの壬申戸籍(じんしんこせき)に拠り古来より続いた身分制度が、完全に消滅したのは、昭和二十年の敗戦以後新憲法が制定されてからである。

それまでは、華族、氏族、平民などの、血の出自を表す呼称制度が残っていた。

こうした差別的身分制度が、およそ二千年間の永きに渡り存在した事を前提にすると、支配階級とはまったく違う庶民独自の生活や思想、人生が、息付いていても不思議は無い。



人類は基本的な本能として他の生物同様に「生存本能」を備えている。

この生存本能の発露が「食欲」であり「性欲(種の保存本能)」であり、二次的なものとして危険を避けたり危険に立ち向かう為の「恐怖心」や「闘争心」なども無視出来ない右脳的な生存本能である。

そうした右脳的な生存本能の一つとして、人類はその種としての生い立ちから、「恐怖心」や「闘争心」を共有する事で生存率を上げる為に「共に生きる(共生意識)」と言う強い「帰属本能(群れ意識)」を持ち合わせて生まれて来る。

つまり人類は、「帰属本能(群れ意識)」を満足させないと、精神的安定を得られない。

そしてその「帰属本能(群れ意識)」は価値判断や心(精神)の安定に影響を与え、良きに付け悪きに付け「人生」と言う固体の一生に影響する。


実は、「帰属本能(群れ意識)」を裏打ちして保障していたのが、同じく「生存本能」に関わる「性欲(種の保存本能)」の結果とも言うべき「性交」と言う行為だった。

「性交」と言う行為は、「恐怖心」や「闘争心」とは好対照に位置付けられる「癒し」や「信頼の」共有に繋がるからである。

つまり誓約神話(うけいしんわ)や人身御供伝説が語り継がれた村落共生社会では、思想環境が違うから帰属意識愛でも性交が出来た。

従って日本に於ける村社会の性規範は、「帰属本能(群れ意識)」に起因する共生主義の磨き上げられた珠玉の結晶だったのではないだろうか?


こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗して来る。

彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無い。や、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。

それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。

所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある。

はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。

つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。

そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を、鬼の首を取ったがごとく取り上げる。

こう言う輩は、自分の正義感を満足させたいだけであり、「こうあるべき」と言う「べき論」を真っ先に掲げて思考を始める綺麗事歴史論者の姿勢こそ先入観に終始した悪癖である。



そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、「歌垣(うたがき)」の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。



歌垣(うたがき)は男女が集会し相互に自作の掛合歌を読み詠う事によって求愛し、或いは恋愛遊戯をする歌掛けの習俗の事である。

中国の南東部に住む少数民族「苗(ミャオ)族」の間では、「遊方(ユゥファン)」と言われているこの歌の掛け合いの儀礼は、既婚に拘らない自由な性的交わり、「目合(まぐわ)い」の許される南方渡来の習俗の場である。

「目合(まぐわ)い」とは古事記・日本書紀にも記される言葉で、男女の性行為(せいこうい)の事であり、男女が性的欲求に従いお互いの身体、特に性器(生殖器官)や性感帯などを手・指、唇や舌先にて愛撫刺激し、男性器(陰茎)を女性器(膣)に挿入し射精するなどの行為と、それを含む多様な行為がまぐあい(性交)である。

そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、歌垣(うたがき)の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。

平安時代、万葉集(巻九)の高橋虫麻呂が詠んだ歌に「率ひておとめおのこの行きつどひかがふ嬥歌」に 「他妻に吾も交はらむ 吾が妻に他も言問へ・・」と詠まれている。

歌の解釈は、「男女を率いて集い行き、自らが人妻と交わり、わが妻も他が言い寄っている」と歌垣(うたがき)の開放感を詠んでいる。

事、同意の上の性行為に関しては、どこまでがノーマル(正常)でどこからがアブノーマル(異常)なのかの線引きなど、当時は無い。


この歌集「万葉集」は日本に現存する最古の和歌集で、大王(おおきみ/天皇)、貴族、下級官人(かきゅかんじん)、防人(さきもり)などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を四千五百首以上も集めて編まれたものである。

「万葉集」は飛鳥期から平安中期以前の作品の集大成であるにも関わらず中期より前の文献に無く、中期の頃から史料に見えるようになった。

万葉集選者とみなされている中納言・大伴家持(おおとものやかもち)は、言わずと知れた古代豪族・大伴氏出自の高級貴族である。

家持(やかもち)は、三十六歌仙の一人と並び称される奈良時代の貴族・歌人で、大納言・大伴旅人(おおとものたびと)の子であるが、万葉集作品の凡そ一割が家持(やかもち)作である事から万葉集選者とみなされている。

当初「万葉集」は公的なものではなく、家持(やかもち)が寄せ集めた私的な編集収蔵物だったものが、「没後二十年以上経って世に出た」もので平安中期より前の文献に無く、中期の頃から史料に見えるようになった経緯が在る。

編纂された歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。

歌集「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしているが歌は日本語の語順で書かれていて、編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法「万葉仮名」を用いた。

つまり「万葉仮名」は、漢字の意味とは関係なく漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたもので、その意味では漢字を用いながらも、日本人が日本人の為に使った最初の文字と言える。


現代で言えば、歌垣(うたがき)はさしずめ乱交パーティだが、参加者合意のルールであるから人目も憚(はばか)らない大胆な性交相手の獲得遊びで、決まればその場で事に及ぶオープンなものだった。

こうした歌を、半ば公の歌集で堂々と発表出来るほど、当時の貴族間の性は開放的だった。

この歌垣(うたがき)、春の予祝(実り・豊穣/生産祈願)及び、秋の実り(豊穣/生産)の感謝行事としての性格を持って始まり、春秋の特定の日時に若い男女が集まり相互に求愛の歌謡を掛け合い性愛の相手を選ぶ風習俗である。

貴族の間で流行(はや)った習風俗・松茸(まったけ)狩りの余興・「掛唄」は、歌垣(うたがき)同様に妻をスワップ(交換)する野外セックス行事だった。

つまり松茸(まったけ)の収穫・秋の実り(豊穣/生産)の感謝を祝いながら「歌」を読むのだが、これ自体が無礼講の口説(くど)き歌で、妻がその気に成ればその場で事に及ぶ事を夫が許すオープンセックスだった。

「物見遊山」と言う熟語の本来の意味は、神社・仏閣・景勝地の「物見」と歌垣(うたがき)・松茸(まったけ)狩りの「遊山」=スワップ(交換)遊びである。

歌垣(うたがき)の遊山(ゆさん)は、背徳の不貞・不倫では無く夫婦合意の乱交プレィだった。

つまりマンネリ(新鮮みを失う)防止の為に、性交相手を互いにシェア(共有)する合意が仲間内で為(な)されていた。


どうやら歌垣(うたがき)の源は南方文化らしく、同様の風習は中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる所から、所謂原ポリネシア系縄文人か海人族(呉族)系氏族(征服部族)が持ち込んだ「南方文化」と考えられるのである。

古代日本における歌垣(うたがき)は山頂、海浜、川、そして市などの境界性を帯びた地が場所に選ばれ、特定の日時と場所に老若男女が集会し共同飲食しながら歌を掛け合う行事であり「性の解放を伴っていた」とされ、歌垣(うたがき)の風習が民衆の間で広く行われていた事が歌集「万葉集」などに拠り伺う事が出来る。

つまり古代日本に於いて、万葉集の時代に歌垣(うたがき)の性風習が存在した訳であるが、この歌集・万葉集の時代とは仏教が伝来し蘇我氏と物部氏がその取り扱いを巡って争った五百二十年代から平城京遷都後十年ほど経た七百二十年の二百年間を言う。

歌垣(うたがき)は、儒教が入る前の列島の国・大和(日本)に広く永く存在した性風習で有った事は間違いない。



渡来部族が流入し続けていた黎明期の日本列島では、誓約(うけい)が群れ同士(部族同士)を平和的に合流させる手段としての性交で、それにより次世代は同一の「帰属本能(群れ意識)」を構成する事を意味していた。

だが、実はこの誓約(うけい)の概念を踏襲した古代から今に伝わる言葉に「ねんごろ/(懇ん凝ろ)」がある。

親しい事を示す懇意(こんい)の「こん」はひと文字で「懇(ねんご)ろ」と読む。

懇(ねんご)ろは元々「懇(ね)ん凝(こ)ろ」で、凝(ころ)が 心(こころ)の語源である所から懇(ねんご)ろとは心がこもっている様を意味し、「心のこもった奉仕」の意味から「懇(ねんご)ろに弔(とむら)う」などの用法もあるが、特に男女の仲が親密である様を指して言う。

簡単に言うと「懇(ねんご)ろ」は男女の間柄が「心のこもった親密な奉仕の関係」の意味で、つまり懇(ねんご)ろの仲とは勿論性交を行う仲の事を言い、古代群れ社会から今日まで「懇(ねんご)ろに成れば群れ仲間」と言う事である。

従って懇(ねんご)ろの言葉の意味を正確に言えば、心がこもっている様は即ち性交を行う間柄と言う事に成る。

懇(ねんご)ろの古形読みは「ねもころ」で「ねもごろ」とも言い、万葉集に「我妹子(わぎもこ)が里にしあれば懇(ねもこ)ろに見まく欲しけど」、「足引きの山に生ひたる菅の根の懇(ねもこ)ろ見まく欲しき君 ・・・」、「菅(すが)の根の懇(ねもこ)ろごろ我(あ)が思へる妹によりては」などの恋愛歌がある。

これらの歌の内容が、歌垣(うたがき)と言う当時の性風俗の習俗を彷彿させるもので、そうした歌は現代では考えられないほど率直に「懇(ねんご)ろに成りたい」と口説いているのではないだろうか?


万葉の時代は同父母の兄妹は流石(さすが)に性愛対象外だったが、今と違って身内も性愛対象で、父母のどちらかが違えば性愛の対象としても余り問題視されなかった。

万葉の当時は「通い婚」の時代で、当時の社会では女性が家を持ち男性が通う婚姻形態から、その男女の間で産まれた子は母親の元で育つ事に成る。

育った家が身内感の中心に成る関係から、父親が同じでも母親が違えば別の家の子であり、兄弟姉妹の感覚はなかった為に「血の繋がりが特に問題にならなかった」と言う事であろう。

そうした環境下の当時の男女の性愛の倫理観から、「万葉集」の中には現代ではタブーとされる異母兄妹の関係での夫婦や恋人、そして同時に夫婦と恋人の乱倫関係にあるなど比較的自由な性愛関係がさして秘する事でもないとされて伸び伸びと詠まれている。

今でこそ「劣勢遺伝」の問題があるので考え難いが、現代では「タブー」とされる異母の間で生まれた兄妹や三親等間の性愛が、皇室や貴族も含めて当時は珍しい事ではなかった。

三親等とは父方と母方のおじ(伯父・叔父)やおば(伯母・叔母)、甥(おい)や姪(めい)、息子の嫁の祖父や兄弟などが該当する。

だが、その三親等間の性愛や結婚、一夫多妻や所謂(いわゆる)スワッピング(夫婦交換)など、生殖行為として限定されていない自由で解放された多様で豊かな性や愛のありようを詠んだ歌が万葉集の中に多数散見されるのである。


歌垣(うたがき)の記述は、「万葉集」の他に「古事記」・「常陸国風土記」・「肥前国風土記」などにも見え、その習風俗は日本列島の広い範囲に分布していた痕跡がある。

現代でも沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣(うたがき)の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣(うたがき)の遺風が見られる。

長く続いた歌垣(うたがき)の風習俗も、次第に流入する新しい大陸文化の影響で平安時代から鎌倉時代を経て消滅の過程を辿り、近世になって、儒教道徳が氏族社会(貴族・武士)の生活意識を支配し始める事になる

室町(足利)時代に成ると南北朝並立の経緯から北朝方と足利氏が勢力を増し、仏教に儒教が習合されて「氏族(貴族・武士)社会」は禁欲的な方向に傾倒して行くが、庶民社会(民の社会)は性に対して開放的な感覚を維持し続けて明治維新を迎える。

儒教精神を基とした「固定した身分制度・封建社会」に抗していた民衆の武器が、思想や道徳に囚われない人間の恋愛感情や男女の交情であったから、民衆の風俗思想は性に対しては寛大であったのである。



調和を好む民社会の村落に於いて、稲荷(稲成り)と子宝(授かり者)は、村落経営の柱で有る事を彼らは知っていた。

村社会における神聖な性行為は、恥じる物ではけしてなかった。

つまり、農漁村(猟村を含む)に於ける村落共同体の性意識は「とても解放的」で、一夫一婦制はあくまでも「建前的なもの」にしか過ぎなかった。

歴史と言うものを突き詰めて行くと、男女の交わりに辿り着く。

結び付く条件の形態はともかく、この男女の「性行為」と言う最小単位の生き物としての時間が子を為す事で命を繋ぎ、次の時代を作り出して連綿と歴史と言うものが作られて来た。

一旦信じられ、動き出した村社会の、「素朴で善良な合意」は止らない。

それは、時を経るごとに庶民文化としての意味合いを形成して行くのである。

それ故、「夜這い」と言う風習が、容認されていた。

従って、「結婚したから」と言って、その相手を性的に独占できる訳ではなく、元々当時の農民家には大した家財道具や財産など無いから男の家に転がり込めば結婚、風呂敷包み一つ持って家を出れば離婚も済むような、簡単で「極めておおらかな事」だったのだ。

これからの物語は、そのまま現代の思想信条や社会合意では理解が難しいので、この物語の第二巻で一度取り上げたが今一度歴史を語る上で「異常(いじょう)」の定義について考えて置きたい。

この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、基準は歴史と伴に変遷するものである。

「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。

つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。

そう言う訳で、現在の個人の思想信条や社会合意を基準に過去の歴史的な事象を「信じられない」と否定して葬り去ってはならない。


贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。

そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。

つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。

そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級は「神(氏上)」と成った。

今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。

しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。

これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。


古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。

その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。

つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。



元々性交は「自然行為(繁殖行為)」であるから、ルールは後から付いて来た。

その点では他の動物と余り変わりは無い。

例として挙げ易いので「おしどり」と言う鳥を揚げてみると、「つがい」の仲が非常に良いので、仲の良い夫婦を「おしどり夫婦」と形容するが、実際は大半の「つがい」は一繁殖シーズンだけの仲で、次のシーズンは別のペア(つがい)になるそうだ。

「集団婚」と言う婚姻形態は、一言で言えば「複数の男と女がグループ」で婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取狩猟時代から歴史的に長く行われていた。

或いは、先住の日本列島の民、蝦夷族(エミシ族)に、この習慣があったのかも知れない。

「妻問婚(つまどいこん)」とは、男が女性の下へ通う婚姻形を指している。

中国・雲南省の水耕稲作発祥の地は、未だにこの「妻問婚(つまどいこん)」が行われて居る地である。

この雲南省の地が、正月の風習などわが国の習慣に共通点が多いので、昔から初期日本民族(統一大和族)に於ける「習慣の遠いルーツでは無いか」と指摘されている。

ただし、言っておくが、記録に残っているのは相応の家柄を有する征服部族の末裔だけで、底辺の庶民の記録には残らない。

この「妻問婚(つまどいこん)」の呼び名が、「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。


基本的に、女性が「性に消極的」と言うのは幻想の綺麗事である。

もし、本当に「性に消極的」だったら、古墳時代から奈良時代と平安時代中期くらいにかけての「貴族の夜這い(呼ばひ)文化」で子孫は絶えていた筈である。

「呼ばひ」は上代から見られる語で、本来、男性が女性の許に通い、求婚の呼びかけをする「妻問婚(つまどいこん)事」を意味した。

「夜這い(呼ばひ)文化」は文字の通り、当時は女性が気に入った殿方を家に招き入れて行為に及ぶもので、選択権は女性側に在った。

そして「呼ばう相手」の殿方を家に招き入れるのは女性の気分次第なので、一人に限定されたものでは無く、数人が通っていた場合も在った。

つまり霊長類の基本的な生殖行動は「群れ婚」で、女系主体の子孫継続の形態である。

これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

貴族・氏族社会では、家長が女性で「呼ばう形」で男性を寝屋に引き入れる習慣・「よばひ(夜這い)制度」は、虚弱精子劣性遺伝に苦しめられていた古墳時代から平安初期の貴族・氏族社会では、家系を後世に繋ぐ手段として有効だった。

そしてこの妻問婚(つまどいこん)の「よばう形」が無くなり、女性が家に嫁ぐ形に成った平安中期くらいから、今まで「よばひ(夜這い)制度」が塗布していた問題が噴出し、貴族・氏族社会で「養子のやり取り」が頻繁に行われる様に成ったのは皮肉である。

その後この問題の合理的な解決として考えられたのは、祭りの晩の神からの授かりもので、よそ様の種を頂いて自分の子として育てるには、性交相手は顔も判らぬ見ず知らずで性交場所は暗闇が良い。

やがて、後発で入って来た渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから昼間働き、「夜、性行為をする」イメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。

時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。


この一夜限りの求婚の呼びかけ、今ほど厳密なものでなく、「唯の口説き」と区別は付き難い。

何故ならば、当時は男性側に、「多妻・重婚」が多かった。

そしてそれがさして批難されない社会風土だったのだ。

つまり一夫一婦制は、明治維新後のキリスト教倫理が影響した結果で、それまでは結構緩(ゆる)い性規範が日本国内で通用していた。

だから当時の女性が「性に消極的」だったら、子を為(な)すなど無い話で、女性の本性が「好き者」だからこそ現在まで子孫が続いている。

これは庶民間の、特に農村部や漁村部の「夜這い文化」も同様で選択権は女性側に在り、嫌なら受け入れなければ良いのに、暗黙の合意が永々と続いたのである。

この永々と続いた現実こそ一般的な女性のまともな性本能で、そこに抵抗が生じたのは現在の社会構造が女性を消極的にしているからに過ぎない。

だから現代女性でも、安心・安全が担保されれば、「性癖を満足させてくれる冒険をしてみようか?」とフレキシブル(柔軟性・順応性)に行動しても不思議はない。


まず、農漁村部における「夜這い」の前提をはっきりさせておきたい。

元々の百姓、漁師などの身分と生活環境を考えてみよう。

百姓や漁師の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。

つまり公家や神官、武士、僧侶などの氏族階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

つまり公家や神官、武士、僧侶階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

日本の農村部の原風景は、鎮守の杜(もり)と辺り一面に広がる水田である。

正直言うと、余程酷い領主でなければ、農民にとって領主は誰がなろうとどうでも良い。

搾取する事に変わりは無いからだ。

どの領主も、後の世の者が考えるほど戦ばかりやっていたのではない。

戦をするにも財力がいるので、新田開墾を含め領地経営には熱心で働き手の農民も結構大事にした。

村人は村の所属であり、村の名が一体化した村人の苗字(みょうじ)の代わりだった。

つまり、民は領地を有した領主の所属で有り、村名は領主の名(地名)苗字(なえあざ・みょうじ)を使用した所属制度である。

従って所有する方とされる方では、明らかな利害関係が成立していた。


そこで村人は、生きる為に組織化する。

権力者の搾取、或いは隣村との土地や水利権の争いなどから彼らを守る「自治組織」としての村には、村人の団結が唯一の手段で有る。

村人は生き残る為に「村落共生社会(村社会)」を形成し、ある種の「群れ婚」状態に在った。

従って村の団結を壊すルール違反があれば「村八分」と言う形で制裁を受けた。

と成ると、「夜這い」はルール違反ではなく、帰属意識を前提とする「積極的公認の事」と解釈するべきである。

これは、「集団婚(群れ婚)、妻問婚」の名残とみる説が定説で有るが、陰陽修験の影響が根底にある事を考慮してはいない。

当然ながら、「郷に入れば郷に従え」の諺(ことわざ)の一部は、こうした地域ごとの「村社会(村落共同社会)の性風俗」にも従う事を意味している。

この夜這いの習慣が、日本の村落地区から完全に無く成ったのは、欧米化が進んだ戦後の集団就職(しゅうだんしゅうしょく)に起因する地方の若者の減少が止めを刺した事になる。

蛇足だが、村落地区から夜這い習慣が失われた事で、村落に於ける「シェア(分かち合い)の精神」で満たしていた性交相手のシェア(分配)が途絶えてしまった。

結果、村落に魅力が無く成り「限界集落に拍車をかけた」と言うのは言い過ぎだろうか?


妻問婚(つまどいこん)・妻間婚(つままこん)は古代の結婚制度で婿入婚(むこいりこん)の一種で、招婿婚(しょうせいこん)とも言う。

この婚姻形態は、数年婚姻が続き関係が安定すると新しい屋敷を作って同居する事もあが、男性が三日夜続けて女性の下へ通うと成立する簡単な結婚制度で、総じて結び付きが弱く結構簡単にくっついたり離れたりする。

夫婦は別姓で、基本的に同居はせず妻の家に夫が通い、従って男性は複数と婚姻関係を結び、妻の方も気に入った男性を家に入れる事もある。

つまり夜這い(呼ばひ)が発展した婚姻形態で、複数の妻の間を夜這い(呼ばひ)歩く者も多かったので妻間婚と書いて(つままこん)とも読む。

所謂女系家長制で、子供は特別の事情がない限り母親の家で育てられ、父親との関係は薄い。

この「妻問婚(つまどいこん)」の別の呼び名が「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。


これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

やがて、後発で入ってきた渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから「昼間働き、夜に性行為をする」と言うイメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。

時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。

その性交習慣の名残が、つい五十〜八十年前まで密かに村里に生きていた。

調和を好む民社会の村落に於いて村人の結び付きの手段で有り、団結の象徴だが、価値観の違う為政者(支配階級)は認めない。

それで、建前は「一夫一妻制」を取ったが、現実には「夜這い」は、本音の部分で村内は公認だった。

「夜這い」は男が女の家に侵入して交わって帰る事である。

現実問題として、相手にも家人にも了解がなくては成功(性交?)は難しい。

夜這いだけは、年の上も下もない。

身分、家柄もへったくれも関係ないのが村の掟である。

そして、相手は頻繁に変わっても良い。

つまり、「夜這い」を仕掛ける相手も未婚の娘とは限らない「総当り制」で、婆、後家、嬶、嫁でも夜這いが許される村も多かった。

その場合は、永きに渡り守られて来た風習であるから、夫もそれを平然と受け入れなければならなかった。

妻や妹、そして娘を「夜這い」されても、夫や親兄弟は文句を言わない。

それが、村を挙げての合意された「掟」だからで有る。

「掟」である夜這いによって妊娠し、子供が生まれる事があっても、夫はその子供を「自分の子として育てる」のが当たり前だった。

確かに村落一体と成った乱倫では父性の位置は不確実で、実の父親が誰なのかは問題にされない。

しかしこの事は、血統至上主義を「拠り所」とする氏族とは対極の身分に位置した民人(非支配者下層階級/非良民・賤民)の「血統至上主義」へ対抗心が根底に在ったのかも知れない。

この風俗習慣は、遠い昔の修験山伏・陰陽師勘解由小路党の残した性と子作りの規範が、元になったのは言うまでも無い。

彼らは永い時代を超えてその風俗習慣を守って来た。

それが、永年の村のルールだからであると同時に、自分達にもその事に参加権がある「集団婚姻的な性規範」であったからだ。

誰の子か判らない子を自分の子として育てる事を奇異に感じる者は、感性に偏りがあるから深く考える必要がある。

これは人間性の問題で、「連れ子や養子を愛せるか」と言う事に共通している。

言わば考え方の問題だが、もし、私権である独占欲や血統主義が判断基準であれば、そんな自分勝っ手な奴に連れ子や養子は愛せない。

つまり日常生活を共有する連れ子や養子を愛せるならば、妻への愛情が本物であれば誰の種であろうとも妻の産んだ子を愛する事は、養子依りは更に容易な筈である。

その意味では、夜這いは村内に在って特殊な事ではなく頻繁・日常的だった。

何故なら、子供の親が特定されるより「誰の子か判らない」方が返って村は平和で良いのだ。

いずれにしても、永く続いた村の共生意識の中での価値観は、現在の物差しでは計れないのである。

他人同士の間柄なんて、いざ蓋を開けて見ると「嘘で固めた間柄」なんて事が多い。

その間柄を担保する為に仲間内での共生の絆(きずな)造る最も具体的で有効な手段が、つまり群れ内に於ける相手不特定を容認した群れ婚状態の性交だった。

目的は村の団結(全て身内の気分)で有り、人口の維持発展、治安維持である。

本来人間は、「共に生きる事で互いを理解し合うもの」で有る。

簡単に言えば、「村民皆兄弟」であり、これほどの身内意識は、他の方法では育たない。

こうしたナチュラル(自然体)な地域社会が、 村の次代を担う若者達を育(はぐく)み育てる時代だった。

小規模(少人数)の村では、男女の比率が平均化されない事態や少子化がしばしば発生したので、この手段の「総当り制の夜這い」が問題解決の最高手段だったので有ろう。

一夫一婦制で男女の比率が違うと、当然、あぶれる(相手に恵まれない)事態が起こる。

これを、手をこまねいて居ては村落が少子化に陥るから、救済手段が必要だった。

この考え方、今の日本ではまったく支持されないだろうが、人口バランスに起因する「少子化」に悩む当時の小部落の「有効な対策」だったので有る。

しかしながら、素朴に村の宝、国の宝だった子供を、現代日本では個人の自分の子供でさえ欲しがらない人が増えて、民族絶滅の危機さえ感じる。

村の人数が相対的に多く、若者と娘の員数が均衡している所では、若者仲間にのみ「夜這い」の権限が公認され、対象は「同世代の娘や後家に限られる」と定められていた村の事例もまた多い。

いずれにしても表向きは、一夫一婦制だが、実態的には皆が性的満足を得られる「夜這いシステム」で補完されていたのだ。
つまり、おおらかに性を楽しんでいた。

こう言う村社会の「夜這い思想」を持ち出すと、直ぐに自分の尺度で「人間性を無視したありえない事」と結論を出したがる向きが多いが、チョット待って欲しい。

例えばであるが、高福祉で知られる性に比較的自由思想(フリーセックス)の国スェーデンでは、子供は国の宝で、若年出産の為に生活力の無い親の私生児など、国で引き受けて育てている。

この思想、「村の子供は村の宝」と言う過っての村社会の合意と同じである。

子供はイコール未来の国力で、現在の日本のように、「少子化問題と女性の社会進出」と言う矛盾した奇麗事を並べるより遥かに現実的である。

昔の村落共同体に於いても、連れ合いを失ったり容姿に問題が在ってもてなくて独り身の者も居た。

村落共生主義における村落へのロイヤリティ(忠誠)とも言うべき誓約(うけい)は、本来相手の「情」を求めない善意の性交である。

建前に囚われずに本質的な現実として来た村落共生主義であれば、誓約(うけい)の性交が有るのなら善意から発生する「思い遣りの性交」もあるのが「共生社会」である。

この調和を好む民社会の村落に於ける「思い遣りの性交」など、村落共生主義を棄てた現在の私権社会では、本質的問題でありながら建前で切り捨てて最初から対策思考の範疇(はんちゅう)に無い。

考えて見れば、この村社会ルールは好く出来ている。

契約書の無い世界は、「相手を許す」と言う究極の精神社会である。

つまり、許さなければ「他人同志の垣根」は越えられない。

その象徴が性交で、身内の気分に成れる唯一実体の手段である。

確かな信頼関係を互いに築くには、行動実体が伴う代償は必要で、古来から伝わる最善の手段に「誓約(うけい)」が在る。

「仲間内での性交は拒否は出来ない」と言うルールで互いが共有する秘密行為が、契約書の無い世界の合理的かつ確実な「究極の証明行為」なのである。

こう言う当時の村落共同体(村社会)に於ける性風俗事情を行き成り現代の性規範で判断すると理解し難いかも知れないが、これには群れ社会動物である人間の習性「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う行動現象がその疑問を解く鍵である。

此処で言うバイアスとは脳のメカニズムの問題だが、バイアスとは「特殊な、或いは特定の意見等で偏っている事」を意味する人間の行動学上の習性の一つで、こうした集団心理状態は宗教現場や閉鎖された村落部の掟(おきて)などに顕著に現れる。

つまり群れ社会を構成する人間に取って集団同調性(多数派同調)は、安心に生活する為の拠り所となる。

例として挙げるが、特に顕著に「集団同調性バイアス現象」が現れるのは災害時などの状況下で、周りの人々がどう対応しているかも個人の行動に影響し、つまりは本来向かうべき思考とは違う方向に偏る事である。

「集団心理」と言ってしまえばそれまでだが、一人でいる時には咄嗟に緊急事態に対応できても、集団で居ると「皆でいるから」という安心感で「緊急行動や緊急判断が遅れ勝ちになる」と言うのである。

これが「集団同調性バイアス」で、それは人数が多ければ多いほど他の人と違う行動を取り難くくなり、他の人が逃げていないのに自分一人が逃げる事は難しい心理状態になるのだ。

つまりは、その判断が正しいか正しくないかを周囲に求め、個人の判断を封じてしまうのが「集団同調性バイアス」と言う行動現象なのである。



このおおらかさを村々に植え付けたのが、修験山伏である。

「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。

人間は、性行為や食事の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。

本来、「神が存在する」と言うなら、人間を創りし天地創造の神は、「人間に性交の快感を与える事」で、種の保存を促していたはずである。

それを認めないで建前を言い始めるから、人間は全ての本質から外れたのではないだろうか?

宗教に陶酔したり音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。

それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言わば、個人の「癒しの精神状態」である。

そしてこの村落ルールは、現在の様に身体的に婚姻が不利な者や、見てくれで「もてない者」も、見捨てられる事も無く救われ、その手のトラブルを起こす事もなかった。

現代の常識に囚われず視点を変えて見ると、別の真理が見えて来るものである。

つまり現代の考え方は、徹した個人主義に基づくもので、一事が万事この価値観で終始し親子間の殺人までが日常的に成っている。


太平洋戦争(第二次大戦)の敗戦(見得で終戦と表現する事あり)後数年位まで、日本の農漁村の村落部に於いて「筆おろし(ふでおろし)と水揚げ(みずあげ)」と言う性習俗があった。

これは村の大人が、年頃に成った若者に性行為を実施で教える「性教育」で、男性の場合を「筆おろし(ふでおろし)」、女性の場合を「水揚げ(みずあげ)」と称した。

現代社会では通用しないかも知れないが、昔在った性習俗にも当時としては充分に納得できる合理的な理由が在った。

つまり世の中なんてそんなもので、当時の社会に実在した性習俗に、当時なりの理由が無い事など、まったく在り得ない。

しかしこうした村落部の共生村社会は、戦後流れ込んで来た欧米型個人主義と昭和三十年代中頃に始まった若者の大都会への集団就職(しゅうだんしゅしょく)に拠って消滅して行った。

その結果、鍵を掛ける習慣さえ無かったのどかな村落部でさえ、拝金主義の欧米型個人主義に害されて、親子でも殺し合う身勝手な欲望社会が出現した。


「夜這い」を実践していた村には、「修験者(山伏)の指導」と考えられる性に関する様式がある。

勿論、村によりかなり多様な形態があり、アバウトなので全てがこの様式ではないが、およその処を要約すると村の男は数え年の十三歳で初めてフンドシを締める「フンドシ祝い」、数え年の十五歳で「若い衆入り」と言う通過儀礼がある。

年齢が達すると成人と見做され、「若い衆」と言う成人男子の集団への参加が許される。

この若い衆入りを果たすと、「筆下し」と言って、村の女が性行為を教えてくれる。

農漁業の村落地区では遊郭の施設も無いし必要な金もないから、「筆おろし」と呼ばれる童貞若者の初体験の相手は、村の若後家さんや出戻りのお姉さんが引き受ける。

「そのかわり」と言ってしまっては乱暴だが、村は性までシェア(分け合う)する共生社会だから、若後家さんや出戻りのお姉さんが独居でも生活出来る様な支援が村の合意である。

「筆おろし」だけでなく、彼女達は村の元気を持て余している若者達のはけ口を、暗黙の了解で「夜這い」と言う形で引き受ける。

だから少し先輩の若者達数人が、若後家さんや出戻りのお姉さんのところへ童貞若者を連れて行くのだが、ちゃっかり自分達のお相手もお願いする。

そこで若後家さんや出戻りのお姉さんは一度に三人〜五人、多ければそれ以上の人数と性行為の相手にする事になる。


この女性一対男性多数の生殖行動に関しては、原生人類の本能的生殖行動と現代の倫理規範に矛盾が在り充分に説明が着く。

それは一番人間に近い類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。

その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。

これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。

当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は肉体的に連続交尾を受け入れられる構造をしている。

つまり生物としての原生人類は、「確実な種の保存の為」に 本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを知っていた事になる。

この事から、現代の倫理規範では矛盾が在っても、昔の暗闇祭りでは女性が多数の男性と一度に交尾する事に矛盾は無かったのだ。


「筆下し」の役は、若後家さんや出戻りのお姉さんに限らない村も在った。

都合良く独り身の女性が何時も居るとは限らないからで、その相手は、後家、嬶(かかあ)、娘、尼僧と様々で、くじ引きなどで決められる事が多かった為、場合によっては実の母親や肉親がその相手になる事もあった。

その場合でも、相手の変更は禁じられた。

それは、「筆下し」が情の絡まない宗教的儀礼だったからで、神社や寺院の堂がその舞台となった。

実は、神前で挙げる結婚の儀の意味合いも、その原点はこの儀礼習慣にある。

この辺りに、妙見信仰(真言密教)による「宗教的呪詛」の一端が垣間見える。

この「筆下し」が済むと、漸く公に「夜這い」をする事が許される。



女性の場合は初潮、或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、おはぐろ(お歯黒)祝い、またはコシマキ(腰巻)祝いが開かれ、暫くすると「水揚げ」となる。

この「水揚げ」、親がその相手を探し依頼する事が多かった。

「水揚げ」の相手は、村の年長者で性行為の経験が豊富な事には勿論の事、人柄が良く水揚げ後も娘の相談相手になれる後見人として、村長・村主・庄屋・名主や村役と言った資産も政治力も在る村の実力者の男性が選ばれた。

娘は、水揚げ親に性交術を実践伝授される訳で、つまり「水揚げ親制度」は、娘の将来に渡る後見人を獲得する事は勿論の事、同時に日頃のお礼の意を示す事や一家のその後をその実力者に託す為の人身御供伝説を彷彿させる「貢(みつぎ)の正当化」ではなかったのか?

その水揚げ儀式を経る事によって、その娘に対する「夜這い」が解禁となる。

これらは、信仰深い人々にとっては「神の計(はか)らい」だったので有る。

現在の社会事情を排除すると、生物学的な人間の生殖適齢期は十五歳〜二十歳が最良で、現代社会に於ける晩婚化は妊娠には不向きな大問題の側面を有している。

女性は出産の準備の為に、十歳頃から脳下垂体が子宮に指令を出して女性ホルモンを分泌し、乳房が大きくなるなど体形を女性らしくする。

女性ホルモンは寝ている時に分泌されるので、中高生の時期に睡眠を沢山採ると正に「寝る娘(こ)は育つ」で乳房の発達が良い。

つまり貧乳女性は、夜更(よふか)し遊びや勉強で発育期に睡眠時間が少なかったのが原因で、けして遺伝などでは無い。

明治期以前は、照明が発達していなかったから夜に成ると寝るしかない生活で、女性の乳房はふくよかだった。

しかし現代はこう言う時代だから、あらゆる状況で女性の発育期の睡眠時間が少なく成って居る。

そう言う事だから、俗に言う「彼氏に揉んでもらうと乳房が大きくなる」も、発育期であれば刺激に拠って脳下垂体が活性し、女性ホルモンの分泌を促す理屈かも知れない。

で、あるならば、肉体的成熟は女性ホルモンの分泌に起因し、中高生時期の発育年齢を過ぎてから幾ら刺激しても乳房は成長しない事に成る。


現代の感覚では、古(いにしえ)の水揚げ年齢が十三歳・十四歳では酷く早い様に感じるだろうが、当時の習俗的認識では普通の感覚で在った。

そしてその水揚げ年齢の感覚は、けして古いものでは無く、第二次世界大戦後の暫くまでは続いて居た。

それはその戦後の占領下に於いて、当時のGHQ司令官から公娼制度廃止の要求がされた事に伴い昭和三十三年に施行された売春防止法(法律第118号)まで続いていたのである。

事例として芸妓を例にとると、御茶屋遊びの芸妓の養成を兼ねた舞妓(年少芸妓/芸妓見習い)は現在は中学卒業後だが、戦前は九歳から十二歳の少女までだった。

京・大阪で言う舞妓は、江戸など関東地域で言う「半玉(はんぎょく)」もしくは「おしゃく」に相当する。

同様に、京・大阪での呼び方は芸妓、江戸での呼び方は芸者なので区別する必要がある。

舞妓見習いは、半年からに年ほどの「仕込み」期間を経た後、一ヵ月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。

その後に置屋の女将と茶屋組合よりの許しを得て舞妓となり、座敷や舞台に上がりながら九歳から十二歳の間は芸妓を目指して修行する。

少女である舞妓の衣装は振袖・下げ帯(だらり帯び)だが、現在では襟替(えりか)えの時期が二十歳前後の場合が多いが、第二次世界大戦直後までは十三歳から十四歳で芸妓と成った。

そして「正統派の芸妓・芸者は売春を行う事はない」と言われている。

だが、江戸時代以来、芸妓もその他の遊女と同様に前借金を抱えた年季奉公であり、第二次世界大戦終戦前の花街は人身売買や売春の温床となっていた。

芸妓の世界では、誰でも構わず身を売る事は「不見転(みずてん)」として建前戒められていた。

だが、第二次世界大戦後の売春防止法(法律第118号)まで、こうした不見転(みずてん)はほぼ何処の土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧める事が多く、俗に枕芸者と呼ばれた。

また現実には、芸妓も遊女同様に前借金を抱えた年季奉公で在った事から、自分の妻また妾にする為の旦那衆に拠る水揚げや身請け(落籍)は在った。

つまり建前とは別の本音の部分では芸妓の水揚げや身請け(落籍)は実在し、その時に旦那衆から支払われた金は、前借金を差し引いて余れば置き屋と芸妓親元の分け前になる。

現代では、戦後の児童福祉法と労働基準法の改正に伴い現在は中学卒業後でないと舞妓に成れない。

そして現代では、十九〜二十歳に成らないと芸妓には成れないが、第二次世界大戦後の昭和三十三年当時の習俗的認識では、襟替(えりか)えして芸妓と成れる十三歳から十四歳の女性は、既に性の対象だった事に成る。



誓約(うけい)の信頼の下で群れ社会に生きようとするならば、それは虚飾を剥(は)ぎ取ったものでなければならない。

虚飾に色採られた綺麗事からは村仲間の信頼は得られないからこそ、自然体(ナチュラル)に身も心も曝(さら)け出しての和合の付き合いが、純粋(ピア)に生きる村社会の掟だった。

つまり村社会は長い事「群れ婚状態」で、「水揚げ」や「筆おろし」に始まり、「夜這い」や「寝屋子宿」と言った言わば村の存続と団結維持の為のボランテイア・セックス(機会の均等)の側面も有していた。

それでも村落に於ける夫婦間の愛情は成り立っていたが、それには「大信不約(たいしんふやく/五経の一つ礼記の中の一則)」と言う考え方が在り、「大信は約せず」と読み、ひとえに夫婦間の愛情に対する信頼の重みを大事にしていたからである。

つまり大きな信用に「ルール(約)は必要が無い」と言う事で、本当の理想の人間関係には個人の独占欲などを斟酌(しんしゃく)した改めての夫婦間の約束(ルール)は不要なのである。

例えて言えば、制限時速(倫理)は守るべきものだが人生には時としてそれを無視しなければ成らない場面もある事は、リアリスト(現実主義者)なら理解できる。

この五経の一つ礼記の中の一則である「大信不約(たいしんふやく)」を村落共同体の存続の為に教えたのは、当時リアリスティック(現実的)な教義を持つていた真言密教の初期修験道兼僧侶ではないだろうか?

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。

東密と台密は、それぞれに初期修験道と習合した修験山伏兼僧侶である。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている救いの教義である。

つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。


「夜這い」とは、村落共同体を維持する為の有用な慣習だった。

従って、現在の性に対する意識をそのまま当て嵌めて、「野蛮だ」と感情的に眉をひそめるほど単純な話ではない。

最初から信用できない群れなど、群れの体を為しては居ない。

綺麗事を排して敢えて言えば、肉体(からだ)を許せる仲こそ気を許せる事の証明である。

夜這いは村にとって重要な物であるから、その規則は住民達によって細かく決められていて、その取り決めは村ごとに異なる。

その差異は、「村の規模や性格によるもの」だとされている。

夜這いが解禁される基準も、村によって異なるが、数え年の十五歳と言う年齢が一つの目安となっている。

これは、武士社会の「元服式」にも通じるから、当時の数え年十五歳の肉体(からだ)は立派に大人なのである。

冷静に考えると、自然に成熟する若い男女に、大人としての自覚(社会的責任)を肉体(からだ)の成長に合わせて周囲がきちんと教える「理に適った」習慣である。

女性の価値観の合意はその時々で違い、それがその時代の普通の性に関する考え方だった。

この「夜這いの習慣」、単純に女性が不幸とは言い切れない。

これはあくまでも価値観の問題で、公認で多くの男性と性交(まじあう)事が楽しみな女性であれば、現代より幸福かも知れない。

つまり個人差の或るもので、一概一律に判断すべきものでは無いのである。

女性の権利に於いて、SEXが嫌いな女性の言い分とSEXが好きな女性とでは同じ問題でも正反対の権利を主張する。

SEXをしない権利とする権利の相違で、個人の感性でどちらか一方を採用すべきものでもないのである。

村落共同体の民人は、学問は無かったが口先の建前よりも心服信頼の証である誓約(うけい)の性交が信用できる現実で有る事を素朴に知っていた。

つまり、ごく自然な本音で素朴に生きていた。

そして何よりも、当時の村落社会は共同生活体だったのである。



支配者の血統身分である氏族(武門)の間では、その価値観である支配権の為に親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が千五百年以上続いた。

支配権の為に、親子兄弟でも武力抗争をする氏族(武門)の精神が立派とは思えないが、それを見てくれだけの格好良さで手放しに「武士道の国」と胸を張るのはいかがなものか?

その一方で庶民(民人)は生きる為に「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまりこの国は、永い事「氏族」と「庶民(良民/常民)身分または賤民・せんみん/奴婢・ぬひ)身分」の二極文化の国で在った。

そうした現実がありながら、歴史的には「氏族文化」のみが日本の歴史がごとく伝えられている「オメデタイ国」である。

支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて両者に武道精神的な統一性など無かった。

そして武士道など知った事ではない被支配者である庶民(民人)は「村社会」を形成し、あらゆる意味で融通し合い助け合い、共同で安全を確保して生活している。

拠って日本を「武士道の国」などと一括りに言う輩は、余りにも歴史を知らないか、何かの危険な目的を持っているかのどちらかである。

つまり、「血統主義」を貫く氏族の価値観と対極に在ったのが、庶民の価値観「村落共同体主義」の「夜這い文化」なのである。

しかしこの「村落共同体主義」は、果たして自然発生的に生まれたものなのだろうか?

「村落共同体主義」が、初期修験道の影響を受けた風俗であれば、その目的は他にある。

調べて見ると、この「村落共同体主義」は、列島の隅々にまで色濃く分布している。

それで、「何者かが画策したのではないだろうか」と気が付いた。

考えて見ればこの「夜這い文化」、実は対極に在る氏族の「血統主義」を際立たせ、子々孫々に到る氏族権力の維持に効果的な役割を担う事だからである。

陰陽修験を通して、古代大和朝廷の綿密周到な陰謀が「背後に存在した」と成れば・・・


人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔村落に存在した理由は、当時の女性は村落を基本にした考え方が「正しい」と育てられていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。

村落共同体の存続を賭けた「少子化対策」のこうした様式は、広義に解釈すると国家にも通じる。

村民が減っていけば「村の力が落ちて行く」と同様、国民の居ない国家は成立たない。

従って、「夜這い」を現在の固定観念で安易に「低俗」と判断する人は「無知」な人と言わざるを得ない。

現在より余程実践的な性教育システムであり、健全な精神の若者を育てる「民の知恵だった」とも解釈できる。

「再開しろ」とは言わないが、先人の知恵に「教えられる所は多々ある」と言う事だ。

それを現在では、「十八歳までは子供」と法律で決め付けている。

この抑圧は、若者の思春期の精神生成に、害はないのだろうか?

つまり無責任な建前主義に陥って、成長期の大事な若者の精神を、無理解に捻じ曲げてはいないだろうか?

少なくとも、昭和の始め頃までは「夜這い」はほぼ全国で行われていた。

最後まで残ったのが昭和二十年の敗戦の頃までで、漁村を中心としてまだこの慣行が残されていたらしい。

しかし、高度経済成長期の集団就職、出稼ぎ、などの影響で村落共同体の崩壊と共に「夜這いは全滅した」とされている。


昭和二十年の初めまで、関東から以西の主に沿海部の漁村に分布する独特の風俗習慣に「寝宿(ねやど)」と言う制度が在った。

北日本、東日本ではその存在が希薄である「寝宿」は、地方により「泊り宿」や「遊び宿」とも言う。

若い衆には「若い衆宿」、娘衆には「娘衆宿」があるのが普通だが、男女別のものばかりではなく土地によって同宿のものもあった。

集会場や仕事場としてのみ用いられるものは「寝宿」とは呼ばない。

「寝宿」は文字通り寝泊宿で、男子の場合、若い衆へ加入と同時に「寝宿」へ参加するものと、「寝宿」へ加入する事が、逆に若い衆組への加入を意味する「形態」とがある。

娘衆の場合、集会としての娘宿は多いが、寝泊宿の例は比較的少なかった。

例え寝泊宿があったとしても、いずれにせよ一つの寝宿に兄弟姉妹が同宿する事は避けるものであった。

寝宿の機能は、「婚姻媒介目的」と「漁業目的」の二つに大別され、双方を兼ねる場合もある。

婚姻媒介目的の場合、若い衆は「寝宿」から娘衆の家・娘衆宿・娘の寝宿へ夜這い(よばい)に訪れ、おおらかに相性を確かめた上で将来の伴侶を選んだのであり、そのさい宿親と呼ばれる宿の主人夫婦や宿の若い衆仲間達が、助言や支援を行った。

つまり、明らかに村落共同体としての合意ルールによる「夜這い」であり、いずれにしても、この制度は「夜這いを容易にする手段でもあった」と言える。

従って結婚すれば寝宿から卒業する地方も在った。

一方、漁業目的の場合は、寝宿から夜間の漁に出る他、寝宿に宿泊して遭難、災害、紛争(他の村落相手)等の非常時に備える現実的な目的が在った。

「寝宿」としては、一般に新婚夫婦のいる家屋の一部屋を利用するものが多いが、漁業に関係した「寝宿」は網元の家が用いられる事も在って、また寝宿専用の家屋が常設されている地方も在った。

こうした慣習が、関東以西の広範囲に大正末期までは顕著に続けられ、その名残は、地方によっては、村の青年団や消防団などが、こうした習慣を継承して、昭和の二十年代初めまで続いていたのである。


共生村社会の村落に於ける寝宿制度や夜這い制度には、村落の人口維持や若者の性欲処理の需要があり、実は一対一の性交ばかりでは無い。

つまり「寝宿」では男女複数参加の乱交も行われたし、「夜這い」にも於いてもターゲットの女性宅に「一緒に行こう」と男共が連れ立って出かけて行く事も多かった。

その制度で為した子が村全体の子である為には、敢えて父親を特定されない為にマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などのマルチ傾向は一般的だった。

実はこの性交に関するマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などのマルチ傾向は、勿論個人差は在るが人類の生い立ち経緯そのものと関わる原始生殖習慣にその起因を見、人類学上では不思議は無い。
る。

何と成れば、今でも本能としては進化過程の名残が残っているのだが、人類の元々の自然な資質を考察すると「群れ社会性の生き物」で、当然ながら本能的には「群れ婚」が基本だった。

つまり群れ内は乱交状態が永く続いた種だから、右脳域(感性)的本性にはマルチ傾向にそう違和感がある訳ではない。

しかし人類の生活形態が、次第に「群れ」から「家族」に変化して行く過程で家族単位の維持が必要になり、左脳域(理性)的にマルチ傾向の本能を否定するように成った。

それでも平安中期頃まで「呼ばい婚(夜這い婚)」が主流で、女性の家に男性が通う形の実質女性側に選択権が在る一妻多夫状態のマルチ婚姻形態だった。

そして、「歌垣(うたがき)」と言う名の野外乱交の場に夫婦で出かけて行って歌を詠み合って刹那の相手を探し、実行する遊びをしていた。

この「歌垣(うたがき)」の性習慣は平安貴族に於ける夫婦揃っての合意の上の遊びで、原資生殖習慣であるマルチ傾向の本能に「自然に対応していた」とも採れるのである。


現代人には奇妙に思える「水揚げ」や「筆おろし」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習、「夜這い制度」や「寝宿制度」、現代では否定される性文化でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思える場合がある。

これこそ誓約(うけい)精神の原点なのだが、群れを強く意識した村落共生社会では「囚人のジレンマ」と呼ばれる個人性と社会性のせめぎ合いの中から共に生きる為に生まれた協調性が、村の掟(ルール)として採られたのではないだろうか?

囚人のジレンマとは、群れ合意(社会性)と個人の意志が必ずしも一致しない為に、個人の意志を優先すると群れとしての利益を失い、結局個人も大局的には「利」を失う事を言う。

それ自体は応用範囲の広い人類永遠のテーマであるが、二人の隔離した囚人の自白ゲームがモデルとなっている為に「囚人のジレンマ」と呼ばれている。

自らを有利にする自白は、同時に友人を陥(おとしい)れて失う事である為、合理的な各個人が自分にとって「最適な選択(裏切り)」をする事と、全体として「最適な選択」をする事が同時に達成できない事が、ジレンマ(板挟み)なのである。

つまり個々の最適な選択が全体として最適な選択とは成らない状況が存在する事を指して「囚人のジレンマ」と言う。

しかしながら人間は独りでは生きられない動物であるから、結局個人は「群れ」と言う社会性に囚われているので、個人が確実に「利を得る方法」を選ぶなら群れに対する協調性が必要に成るのである。


現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。

しかし勘違いしてはこまる。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這い」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。

明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本(大和朝廷)の宗教政策は信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指した。

一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古に拠って、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像・仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活に於いては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、過っての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは根強く残っていたのは確かである。

実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を代えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為である。

その目途から「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙、また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るものである。

この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。



昔から、「江戸っ子は女房を貸し借りする」と言う諺(ことわざ)が在る。

つまり一部のキリスト教信者以外の江戸時代当時の庶民社会では、そぅ厳格に女房の貞操観念にこだわっては居なかった。

あくまでも、維新後のキリスト教の価値観の影響が現在の貞操観念で、江戸時代以前は武家社会ででも出世の為に主君の所望に応じて妻を差し出すなど対して奇異な事ではなかった。

本来、地域社会の身内感覚(共同体意識)に依る「集団の性規範」は、民族・部族ごとに存在し、それを他者が自分達の価値観で「奇習だ」と批判するのは傲慢である。

江戸時代の商家のおかみさんは、手代や番頭の性の面倒まで見ていたし、相撲部屋のおかみさんはつい二十年位前まで「弟子の性の面倒をみている」と言ううわさが在った。

いずれも使用人や弟子が外で不祥事を起こさない為の知恵だった。

また、「江戸っ子は女房を質に入れても初カツオを食う」と言う。

庶民に貞操観念自体が薄い時代で不倫は当たり前、初カツオの代金が女房の貞操代金に化けたとは、江戸庶民の粋な話かも知れない。


農村ではお祭りの際に若い男女の乱行的な性交渉を認める地方が多くあり、結果、子供ができれば神事に授かった子供として大切に育てられた。

また、江戸時代当時の旅人(旅行者)は、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)、村長(むらおさ)と言ったその土地の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、「性的夜伽(よとぎ)歓待」の習慣のある地方では、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた性風習も在った。

これには経験学的な生殖学の経験・近親婚に拠る劣勢遺伝の現実が存在した。

当時の農村では、働き手である人口の増加や少ない娯楽として「夜這い」が認められていたが、何世代もの長期に渡ると一村全てが血液的には身内に成ってしまう。

つまり狭い範囲の村落での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスクが在り、村に訪れる旅人を「マレビト(稀人)」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

一部では、「マレビト(稀人)」を客人と書いてマレビトと読ませる。

「つまり、マレビト(稀人=客人)と言い、「外部から来訪した珍しい客人」と提起されている。

勿論、この「マレビト(稀人・客人)」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。


この習俗の日本列島への知的伝播の元は、モンゴルの遊牧人の習慣と考えられる。

それは、仏教の伝播と伴に伝来したヒンドゥー教・シヴァ神の経典などと伴に伝えられた処世術だった。

モンゴルの遊牧人の習慣として、砂漠の旅人(旅行者)は族長と言ったその部族の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、砂漠の民には「性的夜伽(よとぎ)歓待」の習慣があり、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた風習も在った。

台湾島の原住民・高砂十二民族の中にも、マレビト(客人)への夜伽歓待の習慣が在る。

日本統治時代に台湾山岳部を訪れた日本の青年が「マレビト(客人)歓待を受けた」と証言し、小説にも成っている。

アフリカ・マサイ族にも、モンゴルと同じように遠来の客に妻を差出して「夜伽(よとぎ)歓待」する習慣がある。

また、他所から見れば奇妙な習慣かも知れないが、マサイ族の新婚初夜はお祝いだから、新嫁の初夜権を友人にシェア(分配/共有)するのが当たり前である。

従ってハネムーンベィビーは、本当は誰の子か判らないのだが、できた子は新婚夫婦の子として大事に育てられる。


これには経験学的な生殖学の経験・近親婚に拠る劣勢遺伝の現実が存在し、この情報が早い時期に日本列島に伝播し、村落の習俗となった。

狭い範囲の部族での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスク経験が在り、訪れる旅人を「マレビト(稀人・客人)」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

勿論他の民族同様、マサイ族でもこの「マレビト(稀人・客人)」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「性的夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

つまり部族や村の維持の為に「性的夜伽(よとぎ)歓待」は必要だった。

まぁ部族や人種の別に限らず、平凡な日常生活を送る夫人にとって、この「マレビト習慣」は、非日常の刺激的イベント(行事)だったのかも知れない。

確かに一夫一婦制に於いては、貞操観念的に疑義がある習慣だが、一つの価値判断が、「全てに渡っては正解では無い」と言う事例の一つである。



幕末の日本を訪れた全ての外国人が日本人を見て驚いた事は、日本人がおしなべて「愉快そうに暮らして居た事だ」と言う。

づまり外国人が驚いたのは、屈託無い笑顔がこぼれる日本人の暮らし方だった。

この外国人が驚いた「愉快そうに暮らす日本人」の根底に在ったものは、町場の町役人を頂点とする運命共同体的近所付き合いの町人生活と村落部の夜這い村落共同体村人生活が、結構生活し易いものだったからに他ならない。

そして、その愉快そうに暮らしていた日本人から笑顔を取り上げ表情を暗くして行ったのが、皮肉にも西欧文化を取り入れた文明開化だったのである。

ここで、幸せの国・ブータン王国の話を取り上げる。

二千十年を過ぎた現代、ブータン王国の提唱する幸福量(こくみんそうこうふくりょう・GNH/または国民総幸福感・こくみんそうこうふくかん)が世界の関心を集めている。

ブータン王国を最新文明機器の普及率や物質的に他国と比較すれば、評価は後進国かも知れない。

そのけして豊かとは言えない素朴な農業国(国内総生産 /GDP・が日本の二十分の一)でありながら国民の九十五パーセントが「幸せ」と感じている。

つまり現代の文明社会から一歩遅れた社会に在りながら、国民の「幸福量」は先進国と言われる物質文明社会よりも高水準だと言うのである。


ブータンは一妻多夫の国で夫が何人も居るから、それぞれの夫の子が一家に居ても珍しくない。

そしてブータンでは、第二夫は第一夫の弟である事も珍しくはなく、つまり兄弟で一人の妻を共有している事に成る。

つまりブータン王国は、性に関して独自のモラルを持ち、キリスト文明の価値観とは一線を隔して人生を愉しんでいる。

量る尺度が変われば「貧しくても幸せ」と感じる。

いずれにしても、穏やかで陽気で日々をポジティブに生きているブータン国民ならではの幸せなので、資本主義の物欲文明社会のクヨクヨ場面とは無縁なのだろう。

このブータン王国々民の性に関する独自モラルが、文明開化以前の日本に溢れていた日本国民の「性に関するおおらかさ」が屈託無い笑顔がこぼれる日本人の暮らし方だった。


大きなお世話だが、ぺりー提督の黒船の後に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結させたタウンゼント・ハリスが民衆の生活を見聞し、 日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う。

これを持って明治維新政府は、「野蛮批判」を恐れて自国の性規範の欧米化に躍起になる。

「黄色い猿真似」と揶揄(やゆ)された鹿鳴館外交もそのひとつで、まずは形から入って欧米化を進めたのである。

勿論当時の世界情勢を見れば「植民地化」を恐れての事で、理解は出来るのだが・・。


タウンゼント・ハリスは初代の米国総領事として日本に来航、日米修好通商条約を結んだ人物である。

マシュー・ペリー提督の黒船来航で攘夷か開国かの窮地に立たされた江戸幕府は、とりあえず初代の米国総領事としてタウンゼント・ハリスを受け入れて伊豆国・下田(玉泉寺)に領事館を許し常駐させる。

ハリスは江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、幕府としてはこのハリスには江戸やその近くに来ては欲しくなかった為江戸出府は留保された。

結局開国派の大老・井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、幕府は条約を締結するのだが、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせる為、ハリスとヒュースケンに対して夜伽侍女の手配を行う。

斉藤きちは、十七歳の時に下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれてハリスに献上される。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前だった。

おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗で、日本側にすれば他国の高級役人に夜伽女性を献上するのは当然の行為だった。

所が、敬虔(けいけん)なクリスチャンで生涯独身で在ったハリスはその事に驚き、直ぐにお吉は解雇されている。

こんな生涯独身と言う宗教価値観の男などは、その出現を多数許しては人類が滅亡してしまうので堪ったものではない。


この時のタウンゼント・ハリスが請けたカルチャーショックの衝撃が、民衆の生活を見聞し日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う日本の性文化批判の根幹を成す出来事だった。

斉藤きち(唐人お吉)が仕えた期間はほんの僅かで、ハリスの敬虔(けいけん)な信仰から夜伽行為は実行されず、きち(唐人お吉)の身は綺麗なままだった。

だが、周囲は異人に身を汚された女性として「唐人」とののしられ、下田に居られなくなって横浜に流れ、後に戻って来て小料理屋「安直楼」を開くが、周囲の心無い仕打ちに酒に溺れて店を倒産させ、豪雨の夜に川へ身を投げて遂に自らの命を絶ってしまう。

言わせてもらえば、このハリスの日本文化批判は個人の思考に拠る極めて独善的なものである。

ヨーロッパで起こった大帝国が、様々なローマ神を奉る万神殿・パンテオンに代表される多神教のローマ帝国で、それが快楽と堕落に溺れて滅亡した反省から生み出されたのがキリスト教であるから、キリストの教義が禁欲的で在っても仕方が無い。

しかしローマ帝国が世界的な大帝国で在り得たのも、様々な人種と信仰を受け入れた多神教国家だったからであるし、後に東アジアから起こった世界的な大帝国・モンゴル帝国も、あらゆる人種を政治や軍の高官に登用し、様々な信仰を受け入れた多神教国家だった。

つまり、人種的帰属意識や単一神信仰を前面に出せば、それは「世界規模の共存」とは相反する行為であり、その事が日本の黎明期に起こった誓約神話に拠る異民族(異部族)融合に通じるものがあるのだ。


まぁ、キリスト教はローマ帝国の腐敗や堕落の反省から生まれた信仰だから禁欲的教えでも仕方が無いが、キリスト教徒の中にはフーリングが合えば「神の思(おぼ)し召し」で浮気不倫をする者も居る。

そしてそれが間違いなら、「懺悔(ざんげ)」をすれば赦される仕組みになっている。

キリスト教徒と言えども人間だから、時には悪魔に惑わされる事も有る訳である。

浮気不倫は存在し、勿論、合法非合法の別は国に拠って様々だが、現実に「売春・買春」もキリスト社会に存在する。

何だ「性に対する柔軟性は一緒じゃないか」と思うだろうが、実は大きな違いがある。

ここでキリスト教徒が日本の性規範(性意識)を批判したかった決定的な違いは、キリスト教徒の場合は「フーリングが合えば」と言う「個の感性」が基本と言う点である。

その「個の感性」を基本とする欧米個人主義に比べ、一方日本の明治維新当時のおおらかな性習俗は、「寝宿制度」、「夜這い制度」、「暗闇祭り」と、言わば群れ社会の性規範、「集団婚(群れ婚)」の名残である集団的性規範を、「民族性の違い」にも関わらず自分達の感覚と比べ「信じられない」と批判したのである。

人類は、文明の発達と共に生きる上で大事な事を忘れて来た。

忘れて来た大事な事とは、自然体(ナチュラル)の群れとして生きる近隣愛の共生であり自然種の動植物や環境との共生である。

人間には誰にでも自然体(ナチュラル)の性欲があり、性交の快感は極自然な「神の恵み」である。

国王だろうが奴隷だろうが、性行為はする。

そして最も重要な事だが、性欲を無くせば人類は滅びてしまう。

こんな簡単な事に気が付かずに「禁欲が尊い」とする歪(ゆが)んだ綺麗事だけの宗教は、それだけでもう胡散臭い。

およそ男女の間具合(まぐあい/性行為)に貴賎の別がなければ、「生命の営み」と言う重要な筈の性交を、何を持って「低俗なもの」と言わしめるのだろうか?

信じたく無いかも知れないが、皆んな総論では綺麗事を言い各論では自分だけは「コッソリ性交を犯って居る」と言うのが人間なのである。

それでも性欲を「罪だ」と言う歪(ゆが)んだ綺麗事の矛盾は、この世の中最大の理解に苦しむ謎である。


一方日本人は、全てに渡って集団共生社会(村社会)だった。

つまりこの「個」と「集団」の違いは民族性の違いで、実は基本的カップルの相手以外と性交する点では余り変わりは無い。

それを欧米諸国は、自分達の感性と違うから明治維新当時の日本は「性に乱れている」と批判し、その批判に文明開化を急いでいた明治政府がバカバカしい事に慌てて、「寝宿制度」、「夜這い制度」、「暗闇祭り」に禁令を出したのである。

しかしこの話し、ハリスばかりを責められない。

日本人が、近隣諸国の人々と考えが違う事で馬鹿にしたり、同じ理由で近隣諸国の人々が日本人を馬鹿にしたりと互いに愚かな判断をしている事実が存在しているのだ。


この政府の禁令に宗教関係者は迎合し、直ぐにその教義を禁令に合わせている。

宗教上(信仰上)の本来不変である筈の正しい教えが、権力者の都合や宗教指導者の都合、歴史の変遷の中で変化して行く所に、宗教(信仰)の妖しさを感じるのは我輩だけだろうか?

物事を単純化しようとする安易な勢力が存在するが、本来、人間には様々な引出しがある。

つまり、脳の思考回路は一筋縄では行かないのである。

にも関わらず、丁寧な検証もせずに結論を出す。

理由は「それでは政策が進まない」と言う無責任な本音である。


近頃、日本の社会の治安悪化が懸念されている。

「社会規範の乱れ」とは言うものの、その根底に在るのは家制度恥文化の崩壊である。

そもそも日本の社会では、家制度を基本とする恥文化として家単位としての「世間様に恥ずかしく無い様に」が、日本人の一つの規制的な行動制約に成っていた。

つまり親兄弟にまで恥が及ぶ家制度が、一種の犯罪抑止力と成っていた。

その家単位としての考え方が、村や地域の社会単位が希薄になった事で「隣は何をする人ぞ?」と成って人間関係を築け無く成って社会的孤立が進み、生活の基準が個人の単位に代わって家単位としての行動制約は無くなって行った。

為に家単位としての行動制約は無くなって、現代日本社会は「自分さえ良ければの価値観」の中で身勝手な行動をする日本人が増える悪い状態にある。


そこで問題なのが日本人の単純化したがる悪い癖で、こうした不都合を総体的環境とは考えようとはせず、個別の事として取り上げ考える事である。

我輩は、日本人が過って持っていた家制度恥文化の規制的な行動制約の原点を「群れ社会」と見ている。

つまり象のシッポ部分だけ取り上げて、「家制度が壊れて行動制約を失った」と言うのは良い。

だが、その家制度が村や地域の中で自然発生的に成立していたにはそれなりの魅力的な群れ社会構造である「村落社会(共生社会)」が在った事をロスト(欠落)してしまう訳である。

もし、総体的環境と捉えないで「家制度と世間と言う行動制約の崩壊」を問題視するとその解決策は綺麗事の精神論を持ち出すしか無いが、そんな具体性が無い事を社会の柱にしても現代人が傾倒するだろうか?

一応その綺麗事の精神論で建前は建てられるかも知れないがあくまでも建前で、本音が無いから誰も具体的な方向性を得られる訳では無い。

いずれにしても日本人は、「総体的環境」と言う条件の中で矛盾が生じると、不都合な具体的な事には目を瞑り解決の逃げ口に必ず「精神論」を持ち出して、結果、成果の得られない不毛な主張を延々とする人種である。

戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。

益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。

しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。


尚、性がおおらかだった時代の日本と欧米キリスト文化が流入して後からの日本では、明らかに「性の歪(ゆが)みが方」が違う。

これが時代の経過に拠る今日的なものでは無い証拠に、この現象は明らかに欧米キリスト文化では昔から存在した「性の歪(ゆが)みが方」なのである。

「姦淫は、主(しゅ)がお赦しにならない」と戒(いまし)めた所で、教会に寄付して懺悔(ざんげ)すれば赦されるシステムだからエイズなどの性病の蔓延(まんえん)は止まらない。

もっとも、主(しゅ)が罰を与えない事くらい承知しているから信者は姦淫をするし、そんな建前に頼るから闇に潜って無統制化し、信仰に実効性は無く性病の蔓延は止まらない。

そんな事より、どうせ希望者が存在する人類最古の職業が無く成らないなら売春を国家統制をして蔓延(まんえん)を制御し、売春婦と利用者の安全性を確保した方が遥かに理に適っている。

貴方には、身体障害者や身体的観掛けが不自由な為に、また経済的理由から相手に恵まれない方に「残念でした」と例外を理由に性欲を抑制させる非情さを持ち合わせているのか?

自然を礼賛しながら欲の為に自然に逆らい、もっとも不自然な結果を出そうとする際(きわ)どさが人間の悪癖で、無く成らない人類最古の職業を建前の綺麗事で潰すから世の中がドンドン狂って行く。

言って見れば、「良くも悪くも欧米化した」と言う事で、鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。


本来の日本人が誇るべき「性と信仰の好い加減」さは、江戸末期に黒船がもたらした欧米の禁欲主義思想に拠って否定させられた。

その後、維新後の日本政府が誤まって手本にした欧米式の覇権植民地化の膨張主義が、日本人が誇るべき「共生思想」を否定して帝国主義を推し進めた一時期が在ったのだ。

日本の庶民社会が「性に対しておおらか」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?

米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。

それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせた。

近頃苦悩している日本経済の再生は「過去の歴史から学ぶべきもの」で、「米国型経済化」と言う猿でもしない強引な猿真似で解決できる筈がないのである。


明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。

敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。


誓約(うけい)に拠る身内感覚の村落共同体意識が在ったからこそ「田植え」には村人総出の相互協力体制が在った。

村八分に威力が在ったのは、この相互協力体制から外されるからである。

その相互協力体制が崩壊したのは、戦後の教育方針が集団から個に重点教育が為されて誓約(うけい)に拠る身内感覚の根幹である「群れ婚状態(寝宿制度や夜這い制度)」は消滅してしまった。

「群れ婚状態(寝宿制度や夜這い制度)」の消滅に拠り、集団から個に意識が変わった事に拠るもので村落内でさえも個の主張が幅を利かせている。

戦後、村人総出の「田植え」相互協力体制は壊滅に向っている。

この事は、単に「農業が機械化された事」とするのではなく、「身内感覚の村落共同体意識の喪失」と言う精神的な共生イデオロギーの崩壊を意味し、その事が他人を思い遣る事の無い「現代」と言う名の不毛な社会を醸成し続けている。

戦前の日本社会は子沢山が一般的で、親が余り一人の子に愛情を注げなかったが、それでも子供達は「まとも」に育った。

それに引き換え、戦後の日本社会は少子化で親はタップリ愛情を注げる筈なのに、子供達が「まとも」に育たない。

我輩に言わせれば、その「まとも」に育たない原因は、戦後日本が採用した米国型自由主義化に拠って「群れ社会」から「孤独社会」に悪変してしまったからに違いないのである。

哲学とは「人間が生きる為の道しるべ」である。

そして本来、人間も自然の賜物(生物)として存在するのだから、哲学は自然と共生する事にこそ、その真髄が存在する。

企業の「利」、個人の「利」を優先する「物欲」の米国型自由主義は、哲学とは最も遠い位置にあり、自然とは共存できない。

日本人の様に多神教・自然神の存在もを採って来た人々と、擬似人格を持つ万能の一神教の人々とは、自然に対する感情が違う。

つまり単神教の人々は、「神が自然をもコントロールする」と言う絶対神の考え方があり、それに添った生き方で自然に対峙している。


勿論信仰は自由だから、中身の違いを確認しているだけで批判では無い。

つまり幸せの感じ方は人夫々(ひとそれぞれ)だから、それを他人が自分の尺度で推し量るものでは無い。

しかし「物欲」は不自然に自然のコントロールを挑み、自然と対立して破壊し、人類の住環境を奪ってしまうだろう。

この閉塞感の中、幸せの感じ方を「物欲」から意識転換をしないと、人類は生き残れ無いかも知れない。

米国型自由主義の「物欲」の為に多くのものを失って漸く望みが適(かな)う時、それでも「幸せ」と感じるなら、その方はもう人の心を失って居る事に成る。

例えば政界にしろ財界にしろ官僚や学者の世界だって、その世界のトップに立つには代わりに失うものも多い。

多くのものを失って望みが適(かな)う時、それでも「幸せ」と感じるなら、その方はもう人の心を失って居る事に成る。

一般の方なら「可哀相な方」で済むのだが、「その界」のトップに立った方は影響が大きいから、可哀相では済まされない。


共産主義は結果的に一部の権力者の為と言わざるを得ず、米国型自由主義は理論上ほんの一部の成功者を生み出すものである。

しかも米国型自由主義は、今や人間の生存に必要な自然環境(地球温暖化)まで、一部の「利」を優先して破壊している。

つまり近頃の主な「主義主張」は、現実的評価として大きく行き詰って今日を迎えている。

確かに日本は、米国型自由主義で一定の経済繁栄はして来たが、この行き詰を打破するには変化を望まない政治形態では明らかに経済構造の改革は為し得ない。



近世から近代にかけて、為政者主導の社会制度に、民が「性的なものに対する嫌悪感」を植えつけられ、次第に性に対するおおらかさを失って行く。

しかし、為政者主導の「一夫一婦制」は庶民には押し付けたが、都合の良い事に権力者達は「血脈を途絶えさせない為」と称して、自分達だけは正妻以外に「妾」を多数囲っていた。

この、性への嫌悪感の流布には、「お定め。禁令。」と言った法律の施行と伴に、中央政権に迎合した宗教の存在が、大きい力になって行く。

為政者側からすると、「そんな楽しい事にうつつを抜かさず、働いて我々に貢げ」と言う事で有る。

つまり、「民を働かせ、その成果を収奪する」為政者有利な論理に元付く「まやかしの制度」で有る。

その制度は、主として為政者の目が届き易い平野部から、序々に民衆(民人)もその制度に染められて行った。


一夫一婦制は、重大な別の効果をもたらせた。

庶民が異性に対する独占欲を、強く意識する第一歩となったのだ。

そして、民間で自然発生的に見事に成立されていた「性教育システム」を崩壊して、建前の中に蓋をしてしまった。

つまり、本来脳の別の部分で考えている「精神的愛情」と「性的衝動」を集合させ、「独占欲」と言う私権で括(くく)ってしまった。

その間(ハザマ)の中で、最近多発する「未成年にのみ性の興味が向けられる」歪んだ性を育てた可能性を否定できない。

しかしながら、未成熟な若い身体や同性に興味を抱くのは、生き物として正常ではなく病気で有る。

それらが徐々に進んで「私権(私欲的個人主義)」の意識だけが、性の意識に限らず、金品などあらゆる物に及んで行くのだ。

現実に存在する人間の性衝動を、建前主義の絵空事で覆い隠して・・・・・・現にこのギャップが、多くの事件の元に成っている。

しかし、山間部の民や漁場の民は、昔ながらの「未開」の領域を「その制度の中におおらかに残していた」と言う事だろう。

「夜這い」を持ち出したのには、我輩に「村社会と言う生活共同体があった事を伝えたい」と言う意図が在ったからで、安易に「夜這い社会に戻せ」と言うのではない。

そもそも、国際摩擦の際に都合良く顔を出す「我が国の独自文化」と言うものは、いったい如何なる物なのか?

それは、いつの時代の何を指しているのか?

一方で国民の価値観が大きく変遷して、生活に対する形態が激変しているのに、奇妙な「独自文化」を強弁に持ち出すのは、如何にも呪術的対応である。

村は、「生きる術(すべ)」の組織だった。

従って、村の宝である子供に村総掛りでルールを教え慈しんで育てた。

その精神は、先の大戦が終わる頃までは生き残っていて、村落に限らず町場の地域社会でも機能していた。

つまり長く続いた制度には、「たとえ一部でも学ぶべき所がある」と言う事を伝えたいのである。

それが近代になって学校任せになり、地域における素朴な教育は廃(すた)れ、挙句の果てに子供の為の教育から大人が安心する為の教育に歪んでしまっている。


深く考えれば、「夜這い」こそ、黒人社会のソウルミュージック的な日本の民にとって「魂を揺さぶるもの」で有ったのでないのか。

そうした魂の原典がごときものを自ら切り捨てた時に、日本人の魂は文明の中に消えた。

つまり、米、味噌、醤油を日常的に貸し借りしていた共同生活者の意識は無くなり、遂には夫婦親子に到るまで、共同生活者たり得なく成ってしまった。

良く観察して見ると、穏やかでお人好しで素朴な人柄の村人が、一皮剥けば生き残る為のしたたかな鎧を、しっかり身に着けているである。

歴史ある海や里、山の小さな村落が、お上のお仕着せの定め(一夫一婦制)に逆らい、独力でルールを決める事で今日まで生き延びて来た。

つまり企業生き残りの身勝手な論理と同じように、「夜這い」と言う村の身勝手な論理が、村を支配する光と影に積み重なって営々と築き上がっているのかも知れない。

人間を除く動物は、自然の摂理で種の保存をする。

それ故、かならずカップリングからあぶれる者がでる。

つまり優れた種を残す為に、そのカップリングに残酷な優劣の選別がなされる事になる。

人間は、往々にして理屈より感情が先に立つ、それ故基本的に利己主義である。

しかし大和の国の民人(たみびと)には、知恵と「観音の慈悲」が在った。

あぶれる者を救済する地域社会の合意を構築したのである。

果たしてこの民人(たみびと)の知恵、単純に「異常な事」と言い切れるだろうか?

我輩は思う、「夜這い」に秘められた村人の思い・・・・それは素朴で優しく、隣人愛に富み、美しい。

その心情が失われて行く事を、文明の進歩とは「けして言わない」筈だ。

勝手に他家に上がり込んで飯びつの飯を家人の断り無く喰らっても、村内の者なら咎められる事のない「過って知ったる他人の家」は、この村落共同体社会の全村身内の気分が連携抑止力を生み、鍵を掛けない平穏な村落風土を育んだ土壌である。

つまり戦後の日本社会が私権を強調し過ぎて、「隣りは何をする人ぞ」と隣人との連携は失ってしまった。

犯罪抑止力の観点からすれば、隣家・隣室で幼児虐待や家庭内暴力、殺人強盗事件が起きても「そう言えば三日ほど前に異常な物音と叫び声が有った。」と言う他人事の証言になって、児童の通学まで危険に成ってしまった。


群れ社会に於ける基本的な合意は「シェア(分かち合い)の精神」である。

村落共生社会では食べ物や労力、性欲処理まで「シェア(分かち合い)の精神」を浸透させる事でその生活の場を存続させて来た。

「村落共生社会」とは「群れの仲間」を確認する所だから、性交相手をシェア(分配)する事に拠って、群れ社会に於ける「共生の絆」が強まる。

「夜這い(よばい)」や「寝宿(ねやど)」・「若衆宿(わかしゅうやど)」・「娘衆宿(むすめしゅうやど)」などの制度は、実は村落存続の為に性交相手をシェア(分配)する為の装置だった。

この性交相手をシェア(分配)する為の装置が機能して「一村身内気分」の「共生の絆」が村落に形成され、食べ物や労力のシェア(分配)に対する根拠に成っていた。

所が、この「分かち合い」が食べ物や労力であれば意外と多く「分かち合」がなされるのに、それが現金に成ってしまうとその拠出比率が小さくなり独占意志が強く成ると言う。

どうやら現金に対する「分かち合いの精神」の人間心理は別らしく、つまり出す事は出すが現金の分かち合いはチョットだけの気分らしい。

欧米の個人主義の影響を受け、性交相手をシェア(分配)する「共生の絆」が消滅した現在、日本の「村落共生社会」は山間農村部や漁村部を残して徐々に消えつつある。


村落共生社会が崩壊した直接の原因は集団就職(しゅうだんしゅうしょく)である。

定義される集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは、未就業者(新卒者)が集団で特定の地域へ就職する事を言う。

第二次世界大戦前にも、高等小学校を卒業した人が集団就職する例も多少在ったが、昭和三十年代〜四十年代を中心とした高度経済成長期の大規模な集団就職が、特に代表的なものである。

土地(農耕地)を分け与える余裕が無い農村部の次男以降の子が、新しい生活の場を都会に求めて中学校や高校を卒業した直後に主要都市の工場や商店などに就職する為に臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。

集団就職列車は千八百五十四年(昭和二十九年)四月五日の青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始された。

つまり集団就職とは、日本の高度経済成長期に盛んに行われた農村から都市部への大規模な就職運動の事をさす場合が多い。

この集団就職列車は、千九百七十五年(昭和五十年年)に運行終了されるまでの二十一年間に渡って就職者を送り続けている。


歴史的に観れば、何かの動きは全て功罪合い半ばで、一方で良ければ一方では悪いが当たり前ではあるが、その加減こそが政治で在り、それが無ければ政治家は必要ない。

つまり当面の正解は五年後十年後の正解ではないのだから、政務を司る者はアクセルとブレーキを加減するのが政治で、自分の信念でアクセルだけ踏みっ放しは、どうしょうも無い暴走族である。

その稚拙な暴走を「格好が良い」と思うなら、有害在って一利無しの暴走族と「何処が違う」と言うのか?




集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは、未就業者(新卒者)が集団で都市部へ就職する事を指す用語で、戦前にも高等小学校を卒業した人が集団就職する例が在った。

しかし特に広く知られるのは、昭和三十年代中頃(千九百六十年代)に始まった日本の高度経済成長期に盛んに行われた農村から都市部への大規模な就職運動の事をさす場合が多い。

第二次世界大戦の戦後期に、日本では工場生産システムが大量生産の時代に入り、製造業界では単純労働力を必要としていた。

まだ戦後の経済復興期には、家族経営が多かった都会の小売業や飲食業も家族以外に補助的な労働力を求めていた。

昭和四十五年(千九百七十年)頃までの地方では、生計が苦しく高等学校などに進学させる余裕がない世帯が多かった。

集団就職で中卒者(義務教育のみしか卒業していない)を送り出す側の事情として、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した。

こうした状況の下、地方の中学校も企業の求人を積極的に生徒に斡旋して集団就職として送り出した。

賃金も農村部より都市部の方が高くて、大量の中卒者が毎年地方の農村から大都市部に移動して、関東、中部、関西の三大都市圏の転入超過人口の合計が四十万人〜六十万人であった。

こう言った若年の労働者は、「将来性が高いと言う意味や安い給料で雇える」と言う意味から金の卵と呼ばれてもてはやされた。

地方の農村から都市部に引っ越した流入若年の数は東京都が最多で、東京都の工場街・商店街のある足立区・葛飾区・大田区・墨田区・新宿区・江東区などが「金の卵たる中卒者」が多く居住した地区だった。

この安い労働力を大量に供給する集団就職によって「日本の高度経済成長が支えられた」と言える一方、地方は限界集落への第一歩を歩み始めたとも言える。

昭和四十五年(千九百七十年)以降は経済が安定し、地方の各家庭の所得も増加し高卒労働者が中卒労働者を上回った。

昭和四十九年(千九百七十四年)のオイルショックで、日本経済が低迷した事もあり、工場が操業短縮に追い込まれるなど中卒者の新卒採用を控える企業が増加した。

若年の中卒者には、労働法上の制約で深夜労働や時間外労働が出来ないなども要因となり、労働省(現・)は昭和五十二年(千九百七十七年)に集団就職を廃止した。


集団就職の影響としては、都市部の人口の増加と村落部の人口減少、それに伴って各種の影響が在った。

特に現在では、村落部に高齢者ばかりの「限界集落」が急増し、生活圏としての体(てい)を為さない地域が多数問題に成っている。

都会に大量の若年層の人口流入が見られ様になると、その若者達に依る若者文化も発生し都会の生活に影響を与えた。

また、就職者の待遇の悪さや学歴の低さから、その子弟の教育水準の低下が起き、学校関係に影響を及ぼしたと言う人もいる。

只、集団就職に依って大企業に止まらず中小零細企業に到るまで安い労働力を大量に供給し、「日本の高度経済成長が下支えられた」と言える。

また、昭和三十年代〜四十年代の集団就職で村落共生社会の若者男女が都会に取られて事で崩壊し、「夜這い制度」や「寝宿制度」などの性文化が消滅した。

この村落共生社会に於ける「シェア(分かち合い)の精神」を基にした性文化の消滅が、後の昭和六十年代から始まる「少子化の遠因の一つ」と成った。

つまり供給源としての人口維持装置だった村落共生社会の性文化の崩壊が、二世代を経て国家経済と福祉制度の根幹を揺るがす「少子化問題」を招いた。

勿論その性文化の崩壊だけでな無く、戦後の欧米化教育に依る「個人主義」で親類や親兄弟への心配りが希薄になった面で、「結婚しない自由」や「産まない自由」が公然と主張されている。

この親類や親兄弟への心配りが希薄になった事も、基を正せば集団就職に依って「居住の距離が遠く、互いに疎遠になった為」と言う考え方の変化に対する影響もある。



人は一人では生きては行けない。

しかしその現実は、隣人愛どころか家庭の崩壊さえ進んでいる。

後発で現れた商(あきない・商業)が、やがて大きく広域な経済活動になり、今では拝金主義のマネーゲームに明け暮れている。

日本の文明は、「私権的都会化物質文化」と伴に荒廃して行くのかも知れない。

間違えて貰っては困るのは、「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく共同体としての「積極的な協調精神」である。

つまり、現在の欧米文化の影響を受けた私権的価値観では理解し難いだろうが、当時の村落共同体内での「夜這いや寝宿」などの制度に拠る「良い加減な性生活観」も、誓約(うけい)と言う考え方も、「積極的な協調精神として存在した」と考えれば、解釈が違って来る。

また、その「積極的な協調精神」を踏まえて「神は唯一無比の一体」と解釈すれば、釈迦もアッラーもキリストも、呼び名は違うが「同一の最高神」と協調的に解釈出来るのである。

歴史的変遷の中で多少捻じ曲げられる時期は在ったにせよ、それらこそが、大半の日本民族をして争い拠りも「積極的な強調の手段」を採って来た「良い加減な性生活観」であり「良い加減の宗教観」である。


人の気持ちを良好にさせるには、五感に訴える感性のコントロールが最適で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激し、興奮させるには、「音楽を聞きながらの性行為」が一番で有る。

次が「音楽を聞きながら食べる事」で、その次が「音楽を含む各種芸能」と言う事になる。

従って、宗教と性行為が合体するのは最強の組み合わせだった。

初期修験道から立川流までは、そうした事が充分活用されていた。

それは誰でも認識している事ではあるが、改まって考えてみると宗教行為は正しくその要素で構成されている。

つまり、人間の自然な感性を利用しているので有る。

しかしながら、何時の頃からか、本来最高の組み合わせで有る「音楽を聞きながらの性行為」を禁じる事が、返ってその宗教的神秘性を発揮できる事に気付いて行く。

つまり、最高の本能的欲求に制約を受ける事で、より「正しい」と感じる効果を狙ったのである。


世の中には愛情と独占欲を混同する人種が多過ぎる。

愛情と独占欲には微妙な違いがある。

処が、世の中の男女の殆どが愛情と独占欲を混同して「それが正しい」と勘違いしている。

それは思考が固まり過ぎてはいないか?

愛情は「性的繋がりでは無い」と理想を言いながら、パートナーが別に性的行為をする事を極端に恐れる。

実はパートナーを取られないかと不安なのである。

嫉妬は独占欲に起因し、それに気が付かないから望まない不慮の犯罪に合って強姦された相手(妻や恋人)が赦せなくなる。

本来、そうした精神的愛情を伴わない行為はただの事故で有るから、独占欲的な嫉妬心を持つべきではない。

本来、性交相手に老若美醜(ろうにゃくびしゅう)を選ばない事が、この国の観音菩薩や弁財天の「慈悲の心」である。

群れ社会(村落社会/共生社会)に於いては、この観音菩薩や弁財天がごろごろ居た事になる。

この素晴らしき考え方を、欧米文化の「罪の意識」に変えた事が、日本と言う国の村落社会から「共生社会」を取り上げ、群れ社会を消滅させて極端な私権社会に走り、「親子兄弟でさえも殺す」と言う殺伐とした社会を創造してしまった。

現に、日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では不倫と売春の文化で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。

つまり、「現代のこの世の合意認識が、正しい生き方だ」と言う確信など無いのである。


夜這いを公認していた村落内には性的な事件は起き難かった。

元々昔の村落は娯楽に乏しい。

唯一修験が布教した神事が「楽しみなイベント」だった。

だから全国的に性交を「お祭り」と表現する表現が残った。

性交は新しい命を生み出す「神事」なのである。

神事に独占欲や嫉妬心はありえない。

つまり日頃から精神と肉体に線引きをして自由な性生活が送られていた事が、この種のトラブルの芽を摘んでいた。

突き詰めて言えば、それは人間だからである。

あくびの同調一つ採っても、その共感性は霊長類にしか存在しない。

つまり、知能が発達して初めて複雑な感性が生まれる。

そうなってしまった事を、今までは倫理観や道徳観、宗教観で蓋をしてきた。

今は抑圧し過ぎた事に拠ってコントロールの尺度を失い、若年層が犠牲になる性犯罪が多発して、その手法が問われている。

このように考え方が違うと、また違う社会環境が出現する。

愛情を伴わない性行為は、「互いに大いに楽しめば良い。」と言う理解が成立していたので有る。

日本の古来からの庶民文化(夜這い文化)に置いては、異性に対する独占欲は「恥じるべきモノ」であり、非難されて当然の社会合意と言え、それが普通の村社会だった。

愛とは求めるものとばかりは限らない。

与える愛もあれば、受け入れる愛もある。

そして、本来無条件と思える愛が、実は条件付だったりするから、愛にすれ違いや誤解が生じる。

つまり愛の形態は一つではなく、あらゆる愛の形態が存在する。

違いがあるから、それぞれの人格が成立し、それぞれの人生に成る。

その場面に拠っては、精神的な愛に於いて性交は在っても無くても良いものかも知れない。

それを、型に嵌めようとするから矛盾が生ずる。

大方の所、そう都合の良い愛は存在しない。



かって村落共同体に於ける「夜這い」や「寝宿制度」の知恵は、基本的に経験学的な合理性を持って永く存続していた。

性本能は「理性で押さえ込めば良い」と言う安易な考え方は、そもそも「偏向傾向」の【建前】に傾倒した考え方で、複雑に発達した脳を持つ人間の人間性を否定するものである。

歴史を語る上で、統治や人々の生活に深く関わるものが信仰(宗教)であり、特に古代に於いては占術も盛んで、権威の付けや異論を抑える手段として国家の運営根幹を成していた。

感じる、考える、信じるは「脳」の役目で占術や信仰(宗教)は「脳」の働きに大きく関わっている。

そこでこの物語では、占術や信仰(宗教)に脳の働きがどう関わっているかも少し解説する。

人間の脳は、大別すると左右二つに分かれていて【右脳】は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。

そうした意味で【右脳系】の職業人は、性に対しては開放的で奔放な心理の持ち主が多数であっても不思議は無いのである。

それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしているのだ。

【左脳系】はその理性的意識から絶えずストレスに晒されているにも関わらず性に対しては禁欲的で、返って暴発の危険を抱えて生きている。


ちなみに男女の一般的な【右脳域】と【左脳域】の得意不得意を調べると、男性は【右脳域>】の活用が得意で、女性が【左脳域】の活用が得意と「男女綺麗に分かれる」と言われている。

つまり【左脳域】を活用する記憶力は女性が優れているが、【右脳域】の活用を必要とする方向(方位)や地図の読み取りなどは男性の得意分野で女性はまるで駄目と言うケースが多い。

買い物一つ取っても、男性の方が直感的で即決力があり、女性の方が最後まで選択をし続ける為に中々物事を決めかねる特性を持っている。

これは男女の特性であるから、互いにその「感性の違い」を理解しないと、すれ違いの感情が起きる事に成る。

夫婦の気持ちが離れて行くのは、この感性のすれ違いが増幅して行って「こんな相手ではなかった。」と、感情が抜差し成らない所に立ち至る為である。

女性は【左脳域的】な感性の為、肉体への直接的な「接触刺激が無いと興奮し難い資質」なのだが、その女性が、物事を「理性」で考えてしまうから、性を誤解して嫌悪感を抱く。

女性がその「理性」で完ぺきに生きようとすれば、自分も周囲も行き詰まってしまう。

そんな「理性」は女性の独り善がりのプライドを満足させるだけで、ろくな結果には到れない。

男性は【右脳域的】で本能の感性が強い為、夫の前では崩れて見せる位の利巧な女の方が、妻として可愛いのである。


固体としての人間に取っては、この【左右の脳】の活動バランスが問題である。

つまり、一方に傾倒したままの人生を送る事は余り得策とは言えない。

いずれにしても、【右脳系】【左脳系】に関わらず、「俺は・私は」こちらが得意だから、或いはこちらで成功しているのだから「そっちの方は知った事ではない。」と安易に考えていると、思わぬ落とし穴に遭う。

つまりバランスが悪い「偏向傾向人間」に成ると、その本人にとってはそれが弱点になる。

例を簡単に取り上げると、【右脳派人間】である芸能関係や芸術関係に「薬物常習者」が多いのは、【左脳】の理性的意識能力を発揮すべき問題に直面した時にその能力が不足している為に、より【右脳】に逃げ込もうとする所に有る。

反対に、オーム教団事件に見られるように教団幹部に科学者や医師が幹部として多数含まれていた謎は、【左脳派人間】は理性的意識能力が得意だけに、【右脳】の本能的無意識能力系統に対して劣等感的弱点があり、「何故あれほどの知識人が?」と言う結果を招いた。

【左脳】が悲鳴をあげるほど理性的意識に抑圧されるストレス職業に役人(官僚・公務員)、教職関係者、司法関係者(警察官を含む)、宗教指導者、科学者、医学関係者などがあり、本来最も理性的であるべき立場の者が痴漢行為や淫行などの事件を起こす。

つまり職業柄【左脳域】ばかりを使っているストレス職業に携わる人間ほどバランスの癒しを求めて【右脳域】に暴走する。

これは理性だけでは人間が生きて行けない事を意味している。

所が、この【左脳域】ばかりを使うストレス職業に対する世間の理解は不足していて、彼らに衝動的に【右脳域】のケアをしようと言う物が内在する風潮は周囲はもとより本人にさえない。


【右脳域】の活性で発生するアルファ波は、人間を含む動物が「リラックス状態で脳から発する電気的振動(脳波)」と定義されている。

一般的に未睡眠閉眼時、安静、覚醒した状態などの【右脳域】の活動でより多くのアルファ波が観察され、開眼や視覚刺激時、運動時、暗算などの精神活動時、緊張時、睡眠時(就寝中)には【左脳域】が活性化してアルファ波が減少しベーター波が増加する。

運動に先だってまずベーター波が増加し、運動終了後に反動的にアルファ波が増加を示すものであるが、【左脳域】が持ち堪(こた)えられなくなると例外的に運動量が突き抜けてハイ状態(ランナーズ・ハイやクライマーズ・ハイなどの過激な運動中)に成ってもアルファ波は発生する。

芸術関係(音楽・絵画・文章・映像など)の感性の部分や信仰(宗教)への陶酔時と性交時には【右脳域】の活動が主体であるが、運動関係は【左脳域】が主体となる。

固体が運動するに先だっては【左脳域】の理性的意識能力が活発化し、まずアルファ波は減少を示し、その後運動終了時にはリラックスな心理状態時に、スイッチが【右脳域】に振れて反動性にアルファ波が増加を示すものである。

それが、運動量が突き抜けてハイ状態(ランナーズ・ハイやクライマーズ・ハイなどの過激な運動中に起こる現象)に成っても発生する。



セロトニンは、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されて送り出される伝達阻害物質である。

中枢神経系にあるセロトニンは、人間に存在する化学物質・セロトニン総量の僅(わずか)二%で、残りは血小板に八%は配されて必要に応じて血中で用いられ、また小腸の粘膜にあるクロム親和細胞内に九十%が存在して消化管の運動に深く関わっている。

中枢神経系に在るセロトニンの日常生活への影響が近年では注目され、うつ病や神経症などの精神疾患などの疾病を(再吸収を阻害法)に拠って治療、症状を改善する事が出来るように成った。

SMプレイに鞭(むち)打ちが成立するには、それ成りの根拠が存在する。

痛みは損傷部分から脳に伝達する信号で、これを抑えるには痛みを遮断する脳内物質・セロトニンを活生させブロックする事である。

脳には自然にフォローする調整機能があり、セロトニンは別の安心する刺激があれば脳内から神経遮断の為に送り出される。

つまり、「痛いの飛んで行け」と「痛みの気を紛らわせる」と言う手段は、安心に拠る脳内物質・セロトニンの活生に拠る「痛み伝達のブロック」と言う事に成る。

実は、SMプレイに於ける鞭(むち)打ちなどの痛みが大した事に感じ無い理由は、この「痛みの気を紛らわせる脳内でも使われる物質・セロトニンの活生」に拠る結果である。

つまり、M性が強い固体に於ては、被虐感自体が「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されてセロトニンを送り出す要素に成るのであるから、「痛みと快感」と言う合い矛盾した二つの感性がプレイとして成立するのである。

このM性、実はまともな女性なら誰でも持っている資質である。

女性には「出産」と言う痛みを伴う大役がある事から、基本的にはセロトニン拠る痛みの遮断機能は男性より優れていなければ成らない。

しかしながら、年齢を重ねると、誰でも身体的機能が低下し痛みを止めるセロトニンの調整機能も低下して行く。

「身体の節々が痛い」と訴える中高年女性は、恋愛感情や性的感情から縁遠く成って、脳にそう言うシグナルが行かなく成っているのと考えられる。

つまり、齢(よわい)を重ねると脳の自覚が「出産」の現実から縁遠く成ると伴にセロトニンに拠る痛みの遮断機能が衰退して行くのではないだろうか?

そう言う意味では、ヨン様ブームに代表される中高年女性の「フアン心理」と言う名の「擬似恋愛」も、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生を誘発し、若さを保つ一つの方法かも知れない。


良く、【右脳系】の性的な欲望を「スポーツをする事で静めよう」と教えるがその事自体は正しく、スポーツは【左脳系本能】であるから理性的な抑制効果は期待できる。

ただし運動時の興奮は【右脳系】の性交時のリラックス興奮とは質が違い、有名な興奮物質として【左脳系本能】のストレス興奮物質・アドレナリンがある。

アドレナリンはリラックス物質ではなく緊急時の感性に拠る興奮物質で、恐怖や身の危険を察知した時、あるいは争いを必要とする時に素早く対応する為のストレス脳神経系物質である。

このアドレナリンの放出状態から開放される表現が「安堵(あんど)する」で、一気に【左脳域】の思考から【右脳域】の本能的無意識リラックス状態に切り替わった事を意味している。

脳神経系に於ける神経伝達物質・アドレナリンはストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると一時的に心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。

「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の【左脳系】の活性ホルモンと呼ばれ、人間を含む動物が「敵から身を守る。或いは獲物を捕食する必要にせまられる。」などと言う状態に相当する。

ストレス応答を全身の器官に引き起こす交感神経が興奮した状態で血中に放出される脳神経系物質がアドレナリンである。

良いか悪いかの判断は個々の思考に任せるが、占いや信仰(宗教)などに於いては、当初【左脳域】の理性的意識の恐怖興奮物質・アドレナリンから入ってその後の演出効果から【右脳域】の本能的無意識リラックス興奮物質・ベーターエンドロフィンに入って陶酔状態に成る。

つまり陶酔状態に入るようにその儀式次第が完成されていて、【右脳域】の活動で「心の救いを感じる」仕組みに成っているのである。

一般的には【右脳派人間】も【左脳派人間】も、宗教のペテンに信者として引っ掛かってしまうと、そこから先は都合良く【右脳】ばかりを刺激・コントロールされて「盲信」に陥る事になる。

勿論、本能的無意識能力系統ばかりに傾倒した極端な【右脳派人間】も、社会性の部分では大いに問題が有るが、結論を言えば人間は適当に本能的であり適当に理性的でなければならない。

つまり【右脳】はリラックス本能的、【左脳】はストレス本能的に活動するものであるから、【左脳】のストレスと活動バランスを上手に取る為に【右脳】の信仰(宗教)や他の動物に無い「擬似生殖本能(性行為のみの欲求)」は生まれた。

人間は発達した脳の為に「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の性交を必要とする様になる。

そしてその「擬似生殖行為」の為に、人間の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。


誓約(うけい)に拠る「共生主義意識」について、「もう意識が変わってしまったのだから、今更そんな事を蒸し返しても仕方が無い」と言う意見もあるだろうが、実はこの意識変化はバランス良く変わったものではない。

矛盾する事に、日本人の意識の中に「共生主義社会時代」の思考価値が習慣的に随所に残っているからである。

例えばこれは対外国人には通用しない独自の欠点に成るのだが、よく外国人から「日本人はイエス・オァ・ノーをハッキリしない」と批判される。

その要因を考察するに、元々誓約(うけい)に拠る「共生主義」が日本民族の歴史だったから、感情摩擦を生まない為の習慣として「イエス・オァ・ノーをハッキリしない国」に成った。

これがかなり特異な例で、西欧はもとより隣国の中国や韓国にもそのイエス・オァ・ノーをハッキリしない習慣が無い。

従ってその辺りの認識の違いが付き合い辛さを感じさせ、日本人は自分の認識の方が特異な事を理解できず、相手にハッキリ言われて「カチン」と成り、見っとも無く怒って「あいつ等は変人だ」と判断する愚を犯す。

しかしながら日本民族の二千年は、誓約(うけい)に始まる「共生主義社会」の信頼関係で、村落共同体の根幹を成していた。

この「共生主義」は日本独特の文化だから、中々他国人には理解出来ない。

ハッキリしない事をズルイと指摘されればその通りだが、確かに「共生主義」を貫くのであれば、摩擦を避ける為に明確な「ノー」は面と向って言い難い。

つまり誓約(うけい)に拠る「共生主義」は日本の独自文化であるが、一方で国際化を目指すならそこに矛盾が生じるから明確な「ノー」は必要である。

ただ、「ノー」を面と向って言い難い意識を育てた要因が、当時村落全体が生きて行く為に助け合って暮らすには誓約(うけい)の「身内意識」が必要だったからである。

当時の村落同体に、誓約(うけい)の「共生主義」が成立したのには、村落内での「夜這い」や「根宿」、「暗闇祭り」と言った性行事に「ノー」は禁句のルールが在った。

これを「もう時代や価値観が変わった」と、現代の倫理観だけで単純に判断をしては成らない。

こう言う事を書くと、行き成り「時代錯誤」と反論される事も多い。

しかし古い考え方ほど自然の摂理と合わせて考えられているから、実は古い考え方ほど新しい場合もある。

何度でも言うが、歴史を見るにはオーパーツ(場違い/時代錯誤)が最大の敵である。

つまり歴史を現代の倫理感や価値観で「そんな事は在り得ない」と認識して勝手な判断をする事は、最悪のオーパーツ(場違い/時代錯誤)行為である。

個人主義に徹した私権社会のこれだけ殺伐とした現状を見るにつけ、果たしてどちらの社会が良かったのか考えさせられるものである。


この日本に於いて、平安時代から昭和初期まで農漁村の村落部に存在した「夜這い制度」のルーツは何処から来たのだろうか?

勿論「夜這い制度」は自然発生的な制度で、原始的婚姻制度としては繁殖相手を選択する極自然で素朴なものである。

そしてそれを理論的に裏付けたのが、「北斗・北辰信仰(妙見信仰/みょうけんしんこう)」であり、その後に弘法大師(こうぼうだいし/空海)が多くの経典と伴に中国から持ち込んだ密教(真言密教)だった。

チベット仏教(ラマ教)の国であるチベット、同じくブータン、そしてネパールと言う言わば中国・日本への仏教伝来ルートの国々は、現在でも一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)や一夫多妻(群れ婚)の国である。

「夜這い制度」を守る村落共同体内での「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく、共同体としての素朴な「積極的な協調精神」である。

つまり「共生主義」は、女性側に選択権がある「夜這い」と言う極自然発生的な制度や「一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)」の制度である。

また、家族単位の「群れ婚状態」も在り、その家の長男が嫁をとり財産を引き継ぐと、男兄弟が何人居ようとその家に同居し長男の嫁をセックスの対象として共有させてもらう一妻多夫婚が普通である。

逆のケースとして、娘だけ何人も居る家庭では長女にだけ婿をもらい、他の娘はその婿をセックスの対象として共有する一夫多妻も存在する。

これらの国々の婚姻制度に関しては現在進行形と言う指摘や、極近年まで存在したが文明化で「無くなりつつ在る」と言う微妙に不確かな紹介もある。



そしてここに、或る現実が存在する。

最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。

これも日本社会が欧米化されて増加した少子化の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性の精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。

つまり「群れ婚」や「真言密教立川流」を、安易に現在の性規範だけで判断する事は出来ないほろ苦い現実も存在していて、実はこの不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。

この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。

そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。

そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。

人類の男性精子と同じ霊長類のゴリラやオラウータンの雄の精子を顕微鏡に拠る目視で比較すると両者には「量も活動性も極端に違いがある」と言う研究結果が出ている。

顕微鏡目視で明らかに量が多く活発なのはゴリラやオラウータンの雄の精子で、人類の男性精子は明らかにその目的である生殖能力が劣っているのだ。

詳細を研究して得た成果に拠ると、男性精子は虚弱化してしまい女性の体内を競争して子宮に辿り着き卵子と結び付くには量も活動性も極端に見劣りしているのである。

これを比較研究して出した結論が、男性精子と同じ霊長類の子孫繁殖に関しての比較結果、人間は「一夫一婦制」が弊害となって子宮側に精子選択の機会が無い為に自然淘汰が機能しない。

それが何世代も続いて本来は自然淘汰で振るい落とされるべき虚弱精子の持ち主が子を為して子孫に受け継がれているのである。

対して、ゴリラやオラウータンなどの霊長類は「群れ婚」の為に、実際に生き残る精子は量も活動性も強い精子を持つ親の遺伝子の精子が選択されながら次代に受け継がれて行く。

この先端の研究を大胆に歴史にリンクすると判り易いのだが、例えば歴代の皇統や、江戸幕府・徳川家の場合は継嗣(世継ぎ)の男性精子に自然淘汰に拠る繁殖力を求めない独占的環境にある。

だから、代を重ねると当主の持つ精子は結果的に虚弱化してお世継ぎに困る事例は数多い。

現に現代日本の皇室ではお生まれになるのが女子ばかりで、男子の誕生が稀(まれ)なものになっている。

乱暴な意見かも知れないが、皇室典範で天皇の継承が「男系男子でなければならない」とするならば、その環境を整える意味で皇族男子に多妻を認めるのが合理的な筋論である。


血統至上主義の平安後期から江戸末期当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。

また、永く続いている殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を遣り取りするのが結果的に普通の状態にまで成っていた。

自然の掟として、遺伝子レベルの体力的弱者は篩(ふるい)い落とされ強い遺伝子を持つものだけが生き残るのが野生の世界である。

それに血統至上主義と言う価値観の感性で真っ向から逆らったのが人類ではあるが、果たしてこの価値観を頑(かたく)なに守る事が、子孫の為に最良の選択であるのだろうか?

同じ研究理由から永く続いた共生村落社会(村社会)では、永い事「夜這い制度」や「寝宿制度」、「暗闇祭り」などの「群れ婚状態」が続いて、そちらの方の男性精子は強者生き残りの競争が自然淘汰に拠る繁殖力を維持して来た。

つまり本来の自然側から言えば、一夫多妻ではなく卑弥呼のような女王蜂状態の一妻多夫が初めて強い精子の生き残り競争原理が働くのである。

だから、春日局(かすがのつぼね)の構築した大奥のシステム「多くの女性に将軍一人」と言う血統の保存継続は、あくまでも氏族の血統重視論理で在って人類の「種の保存」と言う自然の法則とは真逆であり合致しないものである。


実は、原日本人系縄文人(蝦夷族/被征服民)と比較的後期の渡来系(氏族/征服族)との同化二重構造社会が永く維持された日本の「村落社会(村社会)」では、実質的に「群れ婚状態」の習俗が続いている。

それで父親に拘らない自然淘汰に拠る子孫繁殖が公然と認められる事に拠って強い繁殖力を維持した男性精子が、保持されて来ていた。

その量も活動性も強力な村落部の男性精子の繁殖力は、終戦後の集団就職で「村落社会(村社会)」が崩壊するまで続いて、村落部では八人、十人と子沢山の家庭が普通だった。

これが、「貧乏人の子沢山」の正体だったのである。

近頃の不妊治療技術の発達で、子の為せない夫婦に医学的に子をもたらす技術が成果を挙げているが、その繁殖力の弱い男性精子が次代に引き継がれて、「虚弱精子劣性遺伝加速して行く」と言う一次凌ぎのジレンマを抱えたものなのだ。

何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律や法律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。

精子が女性の体内で過酷な生き残り競争の挙句卵子に辿り着く試練を与える自然淘汰原理は、子孫に強い精子のみの生き残りを図り、次代に優性な精子を選別して伝える為である。

現状を肯定すれば一夫一婦制の家族単位は社会生活の安定として正しいかも知れないが、角度を変えて人類の未来を見据えると、この「虚弱精子劣性遺伝」の婚姻関係を続ける事は賢明とは言えない。

この人類の危機を回避する為には自然淘汰原理からすれば、強い精子を女体が受け入れる機会は多いほど良い。

つまり、この虚弱精子劣性遺伝を回避するには「群れ婚乱交状態」が理想で、初めて種の優性遺伝が為される事になる。

自然界に於ける繁殖行為は生物としての最小限の命題だから、遡(さかのぼ)って辿って行くと色気こそが人類の文化や芸術の源である事に気が付いた。

嫌、この事は「気が付いた」と言うより軸足の問題で、多くの人間が承知の上で「色気(性欲)を否定して居たかった」のかも知れない。

もっとも左脳域の感性は五感から発する物であるから、信仰を含めその原点が色気(性欲)で在っても何の不思議も無い。

その事が、「社会制約」と言う別の次元の要件の為に、次第に抹殺されて行ったのが現代社会ではないだろうか?

誤魔化しの合意には説得力は無く、元々自然の前では人間の思惑など一溜まりもない。

そして人間は、そこからいったい何を学べば良いのだろうか?


ここに一つのヒントがある。

争いの興奮を一瞬で鎮めるのは快感である。

アフリカ・コンゴに生息するサル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿・ボノボは、個体間の争いをする雄(オス)が仲裁に入った雌(メス)との交尾(性交)でその場を解決する。

勿論、ボノボ社会が「群れ婚」だと言う事で、争い即・「手近(てじか)な雌(メス)」との交尾(性交)が成立している。

近くに雌(メス)が居ない場合は、雄(オス)同士が睾丸をぶつけ合う疑似交尾(疑似性交)で争いを解消する。

それで類人猿・ボノボの事を、「愛の類人猿」などと表現する。

この類人猿・ボノボ、遺伝子が人類に九十九%も一致するほど最も人類に近い事が判っている。

以前は「ピグミーチンパンジー」と呼ばれた類人猿・ボノボは、チンパンジーに比べて上半身が小さく、それに比例して脳容量も小さい。

類人猿・ボノボの知性はチンパンジーよりも高いと考えられるが、ただし野生での道具使用は報告されていない。

しかし脳容量が小さいにも関わらず、この類人猿・ボノボは言葉を理解し、生殖以外の目的の性行動を行うなど、チンパンジーよりもずっと人間に近いとも言われている。

類人猿・ボノボの赤ん坊はか細く、成長に時間が掛かる為に頼りない状態が長く続くなど人類に近い成長過程を要する。

また類人猿・ボノボは、成長するとチンパンジーよりよく直立二足歩行するなど人類に近い特徴を備えている。

そして類人猿・ボノボは、大人のメス同士 が頻繁に果実を分け合う行動を取るなど共生生活を送っている。

その類人猿・ボノボが、争いの解決手段に交尾(性交)や疑似交尾(疑似性交)の快感を有効活用するなど、或る意味見事に合理的な方法を採っている。



現代の不妊問題に関しては、男性の「虚弱精子劣性遺伝」の問題だけでなく、現代では晩婚女性の「卵子の老化(らんしのろうか)」も問題になっている。

これは、晩婚化した現代社会が自然の摂理に逆らって居るからに他ならない。


生き物には「種の保存」と言う最低限の使命が在り、人間の場合も母体が健康である若い内の妊娠が望まれる。

それ故に人間には、誰にでも自然体(ナチュラル)の性欲が在り、性交の快感は極自然な「神の恵み」である。

所が文明の発達と共に、人類は「生きて命を次代に命を繋げる」と言う大事な事を忘れて来た。

忘れて来た大事な事とは、自然体(ナチュラル)の群れとして生きる近隣愛の共生であり自然種の動植物や環境との共生である。

過っての日本の村落では、「夜這い制度」や「寝宿制度」、「若い衆宿」が自然体(ナチュラル)で存在し、そうした風俗習慣は明治維新まで続いた。

所が、明治新政府は、欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指す。

維新後、政府は急速な文明開化(欧米文化の導入)を図り、為に政府が「各種の禁令」を出して伝統的な性風俗習慣は終焉を迎えている。

おおらかだった性に対する概念を欧米文化の「罪の意識」に変えた事が、建前上日本と言う国の村落から「共生社会」を取り上げてしまう。

嫌、実は地方に拠って、伝統的な性風俗習慣は終戦後の集団就職の頃まで密かに続いていた。

しかし敗戦後の欧米化は、「群れ社会」を消滅させて極端な「私権社会」に走り、「親子兄弟でさえも殺す」と言う殺伐とした社会を創造してしまった。

現に、日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では「不倫と売春の文化」で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。

つまり現代の、「この世の表面上の合意認識が、正しい生き方」だと言う確信など無いのである。


女性の妊娠に於いて、人間界の環境の変化による社会性から結婚の高齢化が進み、「卵子の老化(らんしのろうか)」が問題に成って居る。

元々生物学的に言えば十五歳以上が妊娠適齢期で、十八歳から二十歳が妊娠最盛期なのだが、べつの社会事情に拠ってその妊娠最盛期は無視される現状にある。

つまり現代社会に於いては、「卵子の老化(らんしのろうか)」に拠って妊娠し難い状況を招いている。

世界的には数ヵ国に過ぎない「二十歳以下を子供」とする日本の甘やかしの法律の上に女性の独立心や権利意識の高まりが晩婚化を高め、結果「卵子の老化」と言う笑えない状況にある。

日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では不倫と売春の文化で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。

つまり、「現代のこの世の合意認識が、正しい生き方だ」と言う確信など無いのである。

女性の妊娠に於いて、人間界の環境の変化による社会性から結婚の高齢化が進み、「卵子の老化(らんしのろうか)」が問題に成って居る。

元々生物学的に言えば十五歳以上が妊娠適齢期で、十八歳から二十歳が妊娠最盛期なのだが、べつの社会事情に拠ってその妊娠最盛期は無視される現状にある。

世界的には数ヵ国に過ぎない「二十歳以下を子供」とする日本の甘やかしの法律の上に女性の独立心や権利意識の高まりが晩婚化を高め、結果「卵子の老化」と言う笑えない状況に日本はある。

つまり現代社会に於いては、「卵子の老化(らんしのろうか)」に拠って妊娠し難い状況を招いているのである。



貴族・氏族社会では、家長が女性で「よばう形」で男性を寝屋に引き入れる習慣・「よばひ(夜這い)制度」は、虚弱精子劣性遺伝に苦しめられていた古墳時代から平安初期の貴族・氏族社会では、家系を後世に繋ぐ手段として有効だった。

そしてこの妻問婚(つまどいこん)の「よばう形」が無くなり、女性が家に嫁ぐ形に成った平安中期くらいから、今まで「よばひ(夜這い)制度」が塗布していた問題が噴出し、貴族・氏族社会で「養子のやり取り」が頻繁に行われる様に成ったのは皮肉である。

その後この問題の合理的な解決として考えられたのは、祭りの晩の神からの授かりもので、よそ様の種を頂いて自分の子として育てるには、性交相手は顔も判らぬ見ず知らずで性交場所は暗闇が良い。


日本の村落に於ける共生社会(村社会)に於いては、元々「夜這い」や「寝宿制度」の群れ婚習俗であり、子供は「授(さず)かり物」だからその家の女性から生まれた子はその家の子で「誰の種(父親は誰)」などとは詮索しないで育てるルールだった。

現在の社会体制を中々変えられないのが人間だが、もう既に人類滅亡の足音がヒタヒタと聞こえて来る情況にある。

今の結婚相手の条件は感性的に「好ましい相手」などと勝手な事を言っているが、やがてこの虚弱精子劣性遺伝問題が進めば結婚相手の条件は「強い精子を持つ男性」と言う事に成るかも知れない。

つまり目的に対する価値判断だから、或いは昔の共生村社会のように好ましい相手との婚姻関係と強い精子を得る為の行動は分離して考える社会合意の時代がやって来るかも知れない。

そう言う社会体制を「異常(いじょう)」と勝手に思い込みたがるのは結構な事だが、強い子孫を残す為の実態はそんなものではない。

何度も言うが、この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、基準は歴史と伴に変遷するものである。

「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。

元々日本と言う国は、下々(しもじも)に於いては共生村社会で、実質的に群れ婚状態だったから強い精子が自然選別的に生き残ったし、血統至上主義の貴族や武家社会では、その制度の欠陥を補完する為に養子が常態化して一般的に普及している国だった。

つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。


この「虚弱精子劣性遺伝」のメカニズムを科学的に説明する。

人間の遺伝情報を伝える染色体には]とYが在る。

女性の]染色体は二本在って障害に対するスペアー機能が利き新しい卵子に拠って生まれ変われるが、Y染色体は一本限りで生殖の過程でY染色体に遺伝情報的な欠陥が生じても修復される事なく男性に限り延々と子孫に受け継がれるものである。

人間の性染色体の形式は]Y型であり、これ以外の性別決定機構もない為にY染色体の有無に拠って男女の性別が決定する。

つまり男性の場合は「]染色体とY染色体の二本」で構成され、女性は通常「]染色体のみが二本」で構成されるのだが、遺伝子異常などで一本になっても(ターナー症候群)女性として生まれる。

同様に、]染色体とY染色体を一つずつ持つ筈の男性が]染色体二本とY染色体を一本持っていても(クラインフェルター症候群)男性として生まれる事が判っている。

ここで問題なのが、男性に限り延々として子孫に受け継がれるY染色体である。

女性の場合は]染色体のみが二本受け継がれるので、染色体の内一本に損傷が出ても他の一本が正常に機能して正常な遺伝が子孫に受け継がれて行く。

所が、延々として男系子孫に受け継がれるY染色体は、何らかの欠陥が生まれても代替の染色体を持たないから欠陥を抱えたままのY染色体を持つ精子が延々と子孫に引き継がれる為、基本的にY染色体は劣化の道を歩んでいる。

Y染色体を持つ男性でなければ精子は造れない。

そこに現在の社会基盤である「一夫一婦制」に拠り、自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が出来なくなって、殊更に劣化した精子に拠るY染色体が延々と引き継がれる事になる。

こう言う事を書くと現代の貞操観念で「大勢の男を性交相手に持つなどとんでもない」と言うだろうが、卑弥呼の女王国(邪馬台国)では多くの男性が取り巻く女王蜂状態だった。

時代が下がった平安期までは「妻問婚・妻間婚(呼ばう婚)」で、性交相手の決定権は女性に在り、言わば女性がその気に成れば何人でも寝屋に引き入れた。

Y染色体が正常再生が不可能なものなら、せめて自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が可能となる群れ婚(乱交)状態が子孫の継承には理想的だが、人間は「生活基盤の安定」と言う社会性(男性のエゴかも知れない)を採って、女性にそうした機会を与えてはいない。

また近親婚に拠る劣勢遺伝も、或いは同一染色体の欠陥が増幅されて劣勢遺伝の確立が高まる事も一因かも知れない。


劣性遺伝子を取り上げた事のついでに、近親交配(きんしんこうはい)についても明記して置く。

女性の嗅覚が男性の嗅覚より大いに鋭いのは、「カップリング(交配)相手の選別の為」と言われている。

脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの、本能をくすぐる「一目惚れ効果」の前駆段階にこの女性特有の臭覚が在る。

女性は、匂い(体臭)で自分の好みの男性を選別しているのだが、此処に無意識な小脳の働きが在り、自然に「遺伝子が近い男性を避ける目的」が存在する。

つまり遺伝子が近い男性とカップリング(交配)すると、産まれて来る子供が知的劣勢や体質虚弱と言う近親交配 (きんしんこうはい)のリスクを負う事に成る。

だから遺伝子が遠い男性を、匂い(体臭)で嗅ぎ分けて自分の好みとする小脳の機能が働き、知らず知らずに「好き」と選択するからである。

ついでに言うと、この近親交配(きんしんこうはい)を避ける為の嗅覚が、娘が年頃に成ると鋭くなり、中高生くらいから父親の体臭を「臭い」と嫌う反応を示すように成る。


近親交配(きんしんこうはい)とは自然科学的な用語で、親縁係数がゼロでない個体同士の遺伝子(精子と卵子)を掛け合わせる事である。

有性生殖をする生物の多くは、例外を除き遺伝因子一つにつき一対(二つ)の遺伝子を持っていて、一方は父親から、もう一方は母親から受け継いだものである。

しかし両親が近親の為に同じ遺伝因子を持っていて、両親から同一の遺伝子をもらった場合のみにその形質が現れるのを「劣性の遺伝子」と言う。

また、どちらか片親からその遺伝子をもらっただけで形質に現れる遺伝子を「優性の遺伝子」と言う。

近親交配では、知的劣勢や体質虚弱な人物ばかりが誕生する確率が高く成る為、戦後に制定された民法により、三親等内の婚姻は民法七百三十四条で禁止されている。

近親交配上のリスクの特徴は、両親の血縁が近い場合にその両者が「共通の劣性遺伝子を持っている可能性が高くなる」と言う遺伝学上の危険である。

そのリスクを避ける為に、本能的に女性の嗅覚が男性より鋭いのである。


実は、生物は全て遺伝子を持っているが、遺伝資源(いでんしげん)は新たなる「現代の鉱脈」で、これは野生生物に限らず、農作物や家畜等の品種や系統も重要な遺伝資源である。

遺伝資源(いでんしげん)とは、現在或いは潜在的に利用価値のある遺伝素材で、ここで言う遺伝素材とは遺伝の機能的な単位を持つ生物その他に由来するものを言う。

つまり人類にとって遺伝資源(いでんしげん)は、農作物や家畜の育種、医薬品開発、バイオテクノロジーの素材や材料として考えた場合、 全ての生物は、将来役に立つ可能性がある。

また生態系の維持には様々な生物種が必要である事は明らかで、生物及び生物を生物たらしめている遺伝子は、これらの観点から重要であり一度失われると二度と完全には復元できないから保存は急務である。

遺伝資源としては生物多様性が重要で、これら資源を保全保護する為に日本ではジーンバンク等の機関があるが、 遺伝子プールの豊かさを考慮すると生息地ごとの保全が理想的である。

只、矛盾する事に現在の人類がそこまで科学を先鋭化している。

にも関わらず人類そのものの遺伝資源(いでんしげん)については、深刻な「虚弱精子劣性遺伝」の問題などに正面から向き合う事を避け、感情論や倫理観の「べき論」が優先して着実に滅びの道を辿っている。

自然界では、子孫に強い遺伝子が伝わりそうな相手を雌が選ぶ事が一般的で、地位・金・好みの風貌などの「他の条件」を優先するのは人間だけである。

これほどの難問など無いかも知れないが、良くも悪くも永い人類の歴史於ける自然淘汰との戦いは「虚弱精子劣性遺伝」の問題をより深刻なものにし続けている現実を、立ち止って考えて見る必要が在りそうだ。


子が欲しい夫婦に於いて、不妊治療に非配偶者間人工授精(AID)と言う夫以外の精液を使用して妊娠する方法がある。

不妊の原因が夫に避けなければならない遺伝子がある場合、夫が無精子症で全く精子がない時やそれに近い条件の時、血液型の不適合、手術・薬剤による射精 異常である場合などがAID不妊治療の対象になる。

現代でこそ医療技術が向上して人工授精が施術可能になったが、昔はそうした事は望むべきも無いから、「暗闇祭り」とかで相手不詳の子種を得るしか方法が無かった。

そこで頼りとしたのは、官人接待(かんじんせったい)と神前娼婦(しんぜんしょうふ)に見る神社の信仰だった。

昔の不妊に於いてはこうした方法意外に不妊対策は無く、それを現代の倫理感で推し量るものでは無かった。

性行為と人工授精施術の違いこそ在れ、「子を授かる」と言う究極の結果としてはさほど差が無いとも受け取れる。


人はその生き方に於いて幾通りの選択枝があり、そのどれが幸せな生き方かは本人がその生き方を省(かえり)見た時に初めて結果として知るものである。

その点では、相手不詳の子種を天の授かりものとして、その夫婦が我が子を得る事にギリギリの選択枝だった。

もっとも、現代に於ける女性も中々の物で、信頼出来る日本の政府機関の統計に依ると夫婦間に出来た筈の子供の二十五人に一人は「夫との子供では無い」と言うデーターがある。

勿論、建前では在っては成らない事だが、現実に数字は存在する。

こんな事を書くと大きな反発があるだろうが、それは女性側にした所で平凡な日常生活ばかりの人生は安全かも知れないが退屈で心が乾き切ってしまう。

本音では、日常の平凡な人生を長々と送ってそのまま朽ち果てるよりも、贅沢かも知れないが時々シュール(奇抜)な刺激が在る方がストレスを発散できる。

つまり女性も、本能的には絶えず優秀な「子種」を求めて機会を伺って居るのが偽らない自然な姿である。

いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。


この虚弱精子劣性遺伝、現代の「一夫一婦制」での解消は理論的に難しいが、せめて精子に活力を与える食品の可能性はある。

それは、亜鉛パワーの事である。

天然亜鉛は現代の栄養学の中で、注目されている微量健康ミネラル(必須微量元素)である。

この天然亜鉛が「現代日本人が最も不足している微量健康ミネラル」だと言われて居る。

亜鉛(ジンク)は、たんぱく質の合成や骨の発育などに欠かす事の出来ない必須ミネラルで、新陳代謝を良くし、免疫力を高め、タンパク質やDNA、RNAの合成に関係し、マグネシウムと同様に百種類近くもの酵素に関与している。

亜鉛が体内で不足すると、「味覚障害や発育不全、機能性障害などを引き起こす」と言われれ、また有害物質を捕まえて毒性を抑え、排泄させるタンパク質の誘導役でもある。

天然亜鉛の一日の必要量は十五mgで、微量健康ミネラル(必須微量元素)であるこの重要な天然亜鉛が、近年の食生活様式では不足している可能性がある。

厄介な事に、この天然亜鉛は体内で合成する事が出来ず吸収され難い微量健康ミネラル(必須微量元素)で、体内の亜鉛が不足してしまうと、細胞分裂などがスムーズに進まなくなって新陳代謝が活発な器官ほど亜鉛不足の影響を受けてしまう。

人間の身体の中では筋肉や骨、肝臓、精巣や前立腺などの性腺にもかなりの量の天然亜鉛が含まれているのだが、これが加齢と伴に減少して肉体的な衰えを見せるのである。

天然亜鉛を摂取する食事のメインとしてのお勧めは、特に鰻(うなぎ)料理と生カキやカキフライなどのカキ料理である。

他に、その他に牛肉(もも肉)、チーズ、レバー(豚・鶏)、卵黄、大豆、納豆、きな粉、豆腐、そば、ゴマ、緑茶、抹茶、カシューナッツ、アーモンドなどが限定的に出て来る。

このメニューの狙いは強壮剤(若さの維持)として亜鉛の摂取である。

天然亜鉛は「性のミネラル」とも呼ばれており、前立腺で性ホルモンの合成に関わり、精子の生産を活発にする。

前立腺で合成された性ホルモンは男性器の勃起力を高め、精子の生産は性欲を増す為、体内の亜鉛が不足して来ると生殖能力(勃起能力)が衰えて子作りが出来難くなってしまう。

そればかりでなく、「生殖能力が衰えて子作りが出来難くなる」と言う事は男性機能の衰えに止まらず、性は生に通じる為にその男性の生活意慾(活力)や精神力まで奪ってしまうのである。

その辺りが日本の男性から男らしさを奪ったり、社会問題に成っている「直ぐ切れ易い人間」を出現させて、また自殺の多発を招いている「原因の一つ」である可能性が想定される。

当然ながら、肉体的衰えは生きる気力にも反映する。

年とともに減退していく精力は男性共通する大きな悩みのひとつで、この様な年とともに衰えて行く肉体的な特徴は避けられないものであるが、様々なミネラルが関係している精力減退要因の中でも天然亜鉛は深く関与しているのである。



ここで一度考えて欲しいものがある。

それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈である。

この国の人間性を育んだ歴史的に大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。

祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。

それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰る事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。

現代に在って「限界集落」と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。

高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。

江戸期に「所払い」と言う刑が重刑として通用したのは、生活の基盤が土地・地域に有ったからである。

それが劇的に変わったのは、戦後の集団就職が切欠(きっかけ)だった。

そしてそれは、今日の「限界集落に繋がった」と言って良い。

何も農村落から若者が消えた原因が、「喰って行けないから」ばかりではない。

戦後の日本復興の為に「集団就職」で農村落から若者が消え、永く農村落の若者達を繋ぎ止めていた楽しみ「夜這い文化」のシステムを崩壊させた所に、決定的な原因がある。

つまり、鹿鳴館外交に代表される欧米化の波の中に庶民の性文化は弾圧され政治的に洗脳されて、「足らぬを補う知恵」を「建前」と言う【左脳域】思考一辺倒の「机上の論理」だけで否定した所に、「限界集落を生み出す原因が在った」と言える。

村落共生社会の群れ婚状態に比べ女郎屋と言う風俗が市中(街場)から始まった事を考えれば、商業活動が活発化した事に拠って流通経済の概念が発達した事が、日本人の意識を共生社会思想から現代の個人主義に変えた要因の大きな一つかも知れない。


人間誰しも少し不幸が重なると、「人生良い事は一つも無かった」と思い勝ちだが、誰にも楽しい時間はある筈で、庶民は自分達の生活の中で日々を楽しむ術(すべ)を編み出している。

もし人生に絶望している者が居るのなら、開き直って新しい楽しみを探せば良い。

村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき「夜這い」の習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。

自然に成立した習俗や性規範には論理ではないそれなりの重みが在り、昔の村落部に於ける共生社会には筆おろし、水揚げ、夜這い、寝宿と言った実質的な行為の裏付けが在って一村皆兄弟の縁戚気分で自然に団結していた。

それを破壊してしまった現在の日本では、「近隣愛」と言う建前の精神面だけの苦し紛れの論理でカバーしようとしているが、それは実の無い表面的な綺麗事に過ぎず、本音では私権主義社会の国である日本に於いて永久に成立はしない。

論理の「近隣愛」は絵空事に過ぎず、現に建前の「近隣愛」であればキリスト教の主な教えでもあるが、何しろ「汝の敵を愛せよ」と言いながら異宗派を含む異教徒と戦争を繰り返している信仰である。

つまり「近隣愛」はあくまでも建前の精神面だけで、個人の権利を重んずるキリスト教国の私権主義では「近隣愛」は表面的なものに過ぎないではないか。

生物が地球環境の変化から生き残るには、自らが環境変化に適応して行く事である。

そして地球環境の急激な変化に対する適応に人類の肉体的変化が望めないものなら、せめて現代の個人的欲望生活優先の環境を変えて地球環境の変化を止めるしかない。

若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。


勿論、我輩が提唱したいのは「性を無秩序にしろ」と言う事では、けしてない。

現代社会に於いては生殖科学としての「近親生殖による劣性遺伝」の解明事実も存在を承知しているから、無条件・無秩序が良い訳ではけしてない。

ただ言いたいのは、性が嫌らしく不潔で淫蕩な物ではなく、「大切で素晴らしい物である」と定義付ける必要性である。

こんな自然と矛盾した間違いを、誰が教え始めたのだろうか?

或いはこの不自然な制約を、敢えてしなければならない「矛盾に満ちた社会を作り上げた人類の罪」かも知れない。

本能は、明らかに「抑制(よくせい)する思想から制御(せいぎょ)する思想」へ、思考の方向を変えるべきである。

今までは奇麗事の建前に拘わり、この思考の転換が出来なくて、いたずらに抑制(よくせい)を強いる愚を冒して来た。

この手法では、精神と本能は乖離(かいり)し、人の心を混乱させるだけである。


日本人の精神世界が充てども無く彷徨っている原因は、ひとえに氏族の発想である処の「個人利益主義に偏重した結果」に有る。

それが極まって、現在の社会的混乱がある。

「人間」と言う動物の種は、動物学上「特別な存在」である。

しかしながらその特別な存在は「良い意味で」として特別な存在とは限らない。

なまじ理性や計算を担当する【左脳域的知能】を発達させてしまった為に、【右脳域的本能】に拠る種の保存本能(生殖本能)や同種に対する共存意識が希薄に成ってしまった。

人間と言わず生き物全てであるが、本来生きる為に状況に応じて対応を柔軟に調整する【右脳域】の本能的な能力を持っている。

厄介な事に、その対応を調整する本能的な能力を、なまじ理性や計算を担当する【左脳域的知能】を発達させてしまった為に「アンカリング効果と一貫性行動理論」で捻じ曲げてしまうのが、人間と言う動物である。

同時に、【左脳域的理由】で同種に殺意を抱き実行してしまう数少ない「愚かな種」が人類である。

こんな事は他の動物種では滅多に無い事だが、【左脳域的知能】の発達に拠って共存意識が希薄に成り、同種で殺し合う永い歴史が人間の歴史である。

近頃では、その同種で殺し合う「特別な存在」が着き詰まる所までこうじて、親兄弟子供にさえ危害を及ぼす事例が増えている。

そして理性や計算を担当する【左脳域的知能】を価値観に「産まない権利」さえも言い出す「特別な存在」の種なのである。

時を経ると伴に文明が進み、都会の夜空から星の数が減り続けて、妙見北斗信仰はその呪力を失って行った。

台頭したのは、親子や伴侶の絆をも無視する「度を越した個人主義」の意識と価値観である。

ここで問題なのは、「理想の全てを満たす事は出来ない」と言う事である。

一方を手に入れるには必ず同じ位の比重のものを失う覚悟が要る。

この事を一口で表現すると、「子供は欲しいが、子育ては嫌」と言う身勝手な矛盾で有る。


大方の所、最近の思考の原点は、政府も民間も米国の表面的模倣である。

その何処に、「日本固有の文化がある」と言うのか?

多くの必須条件を無視した単純な米国の模倣を、ありがたがる政府首脳の稚拙さが、スローガンもどきの見てくれの格好良さで隠されてきたのである。


何度も言うが、「社会的現実」と言うものは、時代と伴に変遷するものであるから、現在の「社会的現実」を持ってその時代の庶民意識や価値観を判断すべきではない。

人間の判断の物差しの欠点は、どうしても現状(社会的現実)を基準にして思考してしまう事だ。

処が、その時代背景に遡ると今では考えられない事が至って普通に容認されている事も多い。

これはあくまでも「当時の朝鮮半島の文化」であるから誤解しては困るが、価値観が違う事を前提としての事例を挙げる。

世間で何か成果があると「胸を張ってうんぬん」と言う表現がある。

それが昔の朝鮮半島の文化としてズバリ表現されていた。

信じられないだろうが、日韓併合前の大韓帝国時代末期まで朝鮮半島では女性が胸を張って両の乳房を露出して外を歩いていた。

つまり、民族衣装のチマチョゴリの上着が極端に小さく、袴(スカート)部分が胸まで届かない胸下で止める形で、乳房は完全に露出していた。

だだし、このファッション誰にでも出来る訳ではない。

それが出来る権利の女性は限定され、嫁いで「その家の跡取り男児を産んだ名誉」に対する印で在った。

だから堂々と胸を張っていた。

この独特の習慣は、当時半島を訪れた欧米人の写真家に拠る写真が多数現存している。

しかし韓国の映画やドラマの時代劇に、そうした文化習慣のフアッション描写は登場しない。

これらは独自文化だったとは言え、言わば触れられたくない過去なのだろう。


他国の独自文化事例ばかりではない。

実は、こうした時代の変化はわが国でも幾つもある。

混浴禁止令が出るまで、わが国の銭湯は男女混浴だった。

それが、風紀を乱すとして禁止される。

例えば戦後十年、昭和三十年位まで日本の母親は、バスや電車の中など人前で堂々と我が子に授乳させて居て、それが極普通の風景で周りも違和感が無かった。

それが、以後の母親は乳房を人前で晒す事が恥ずかしくなったのか、何時の間にか見かけなくなり、時代考証的には有ってしかるべきドラマからも、そうした風景はなくなった。

同じ肌を晒す事でも、目的が授乳だったり、入浴だったりと違う目的なら猥褻とは受け取らなかった文化が、何時の間にか欧米の文化の「裸すなわち猥褻(ひわい)」と言うストレートなものに代わったのである。

つまり、時代時代でどこの国にも独自文化はあるのに、無かった事かのようにそれを隠そうとする所が、何か後ろめたい不自然さを感じる。

相反する事に欧米の一部の国では、「成人」と言う年齢制限は在るものの、表現の自由とやらで成人映画(ポルノ)にはボカシや修正はない。

ズバリ性交映像が上映されているのだが、さぞかし満員かと思えばさにあらずで、客の入りはものすごく少ない。

つまり隠すからこそ、「猥褻(ひわい)」の想像力は発達するのではないだろうか?


日本の文化は、ノーパンティ文化である。

日本女性の性意識は、穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用で大きく変化した。

勿論、明治新政府成立以後の急速な欧米化路線は、おおらかだった日本人の性意識を折に触れて変革させようと多くの禁令を乱発した事も事実で、性意識におおらかだった陰陽道や、暗闇祭りの性風俗の禁止などである。

しかしそれ以上に、穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用でガードした事が、日本女性の性意識を劇的に変えたのである。

昭和の十五年頃まで、日本女性には永い事ショーツ・パンティ様式の「穿く下着」を身に着ける習慣は無かった。

下着(ショーツ・パンティ)の着用が普及した時期は、千九百三十二年(昭和七年)の白木屋の火事でである。

確かに新聞の論説では「下着未着用の恥じらいの余り多数の女性が焼死した」と評される例の事件は、話題には成ったが実際にはその事件は、日本の女性が一斉にパンツを穿く契機には成っていない。

時代的に一斉に穿く下着ショーツ・パンティ類を穿くのは先の大戦(太平洋戦争)の戦時中に、もんぺの下着として「ズロース」と呼ばれて普及した事が正解である。

劇的に変化したのは日本女性の性意識だけではない。

男性の性意識も、女性の穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用で大きく変化した。

本末転倒な事に、中には女性の穿く下着(ショーツ・パンティ)の方に性的興味や性的興奮を覚える性としては邪道の感性を持った男性まで現れたのである。

本来日本の女性は、今で言うノーパンティが普通だった。

「呉服」に「腰巻」が普通の衣装だったからで、この着物は和服またはルーツを取って「呉服」と言う。

三国史時代の中国・呉の国(蘇州・杭州)で作られた服装様式が、呉人と伴に日本列島に移り住んでその服装様式が渡って来た。現在の 江蘇省(蘇州) 昆山市は呉の中心地で「日本の着物(呉服)のルーツ」と言われている。

その「腰巻」だが、厳密に言うと安土・桃山期〜江戸時代以前の高級武家女性の夏の正装として使用が始まり、江戸期〜明治維新以後昭和初期以前には、現在の穿く下着(ショーツ・パンティ)の代わりとして広く着用されていた。

気をつけて欲しいのは、高級武家女性の間で「腰巻」が使用され始めたのが安土・桃山期であり、それまでは存在すら無かった事で、「腰巻」が一般的に使用されるようになったのは江戸期以後である。

つまり庶民は、江戸期までは「腰巻」さえ着用しなかったし、農漁村では江戸期もかなり後になってから漸く普及したのが腰巻使用の実体である。

数え年の十三歳を迎えた正月に祝った「腰巻祝い」の風習が文献に残っているが、あくまでも武家や裕福な町家、裕福な豪農の娘達の祝い事だった。

従って町場ならともかく農漁村の村娘の腰巻着用場面のある時代劇は間違いである。

何もミニ丈ファッションは洋風が元祖ではない。

農漁村の娘は、ノーパンティの上に「腰巻」さえ着用して居ず、おまけに水田に入る事から丈が短い野良着姿が通常の服装で在った。

野良着姿は木綿紬(つむぎ)の一重(ひとえ)か二重合わせの着流しで、水田作業の時は膝ぐらいまで裾をショッ端折(パショ)りして作業をする。

普段でもそんな服装だから、野良着のすそが肌けて女陰が露出するケースが日常的で余り気にしては居ず、女陰が人目に晒される事に対する羞恥心は、当時の娘には「随分と薄かった」と考えられる。

股間が自由空間である開放的な服装は風俗に影響を与え、同時に日本では「女の性欲」が否定される事がなかったから奔放に性を楽しめた。

何しろ女神様が天の岩戸の前でストリップを踊る誓約(うけい)の国である。

日本人は歴史の大半を通じて性にたいへん寛大で、日本ほど性に開放的で、肯定的に「あけっぴろげ」な国はなかった。

不義密通は氏族の文化であり、卑猥な文化が繁栄した庶民には無縁のものだったのである。

こうした話をすると直ぐに「品が無い」とか「セクハラだ」とか言うが、この変革はあくまでも明治新政府主導の啓蒙に拠る対外的な世間体(欧米の対日評価)を慮(おもんばか)っての事だった。

鹿鳴館外交に代表される欧米化の波の中に、庶民の性文化は弾圧され政治的に洗脳されて行った。

しかし嘘も度重なると本当に思えて来るがごとく日本女性の意識が次第に変遷を遂げ、欧風化して行ったのである。



明治維新前の日本が世界的に見て「性におおらかだった」と言う証拠とされるのが、日本を代表する絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)等他大勢が描いた大英博物館所蔵の男女交合の春画で、同博物館の所蔵は二百五十点を上回り、ボストン美術館秘蔵の歌麿の浮世絵は四百点に昇る。

春画とは、特に異性間・同性間の性交場面を描いた浮世絵の一種で、笑い絵や枕絵、枕草紙、秘画、ワ印とも呼ばれ江戸時代に流行した性風俗である。

喜多川歌麿、葛飾北斎、鳥居清長、鈴木春信、鳥高斎栄昌、磯田湖龍斎、勝川春潮、歌川国麻呂、歌川国虎、北尾重政、渓斎英泉などなどのそれらの春画作品は、余りに屈託なく奔放な性を享受していた性文化を表す資料としても一級品で、内容に媚薬や快楽道具、複数プレィなどの行為も自由に伸び伸びと描かれている。

野合戦(のがっせん/青姦)は、北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)や歌垣(うたがき)、暗闇祭りに代表されるように日本の性文化だった。

江戸期を代表する絵師の春画の題材にも、板塀越の男女合戦図はおろか人目も憚(はばか)らない野合戦(のがっせん/青姦)の大胆な性交図を作品としている。

日本人の奔放な性を描いた浮世絵師の、その名匠達の春画の芸術性は欧米では性の秘儀を描写したアートとして高く評価され各地で展覧会が開催されているが、肝心の日本ではそれらの春画作品は際物扱いでタブー視され、臭い物には蓋状態である。

つまり不都合な事実は「日本古来の文化とは認めたくない」のであろう。

だが、世界的に美術品としてコレクションされている現状では、本来人間は思想文化に於いて自由であり当時の日本に社会合意が在った物であれば、無理に現在の思想文化に合わせて隠す方が姑息な気がする。

不都合な現実は、伏せた方が「民族の誇りに好影響が期待できる」と言う論議があるが、果たして嘘で固めた「民族の誇り」に正統なる意味が存在するのであろうか?

我輩が遭遇したのは、まったく反証無しの「それでも私は、こう信じる」と言う矛盾に満ちた感情論だけで在った。


日本の文化は「恥を嫌うの文化」と言うが、実はこの「恥の文化」の中身が問題なのである。

本来、自分に恥じる行いをしない事が「恥の文化」の筈であるが、もう一つの「建前文化」に拠ってそれが妖しくなり、自らの心に問う拠りも外聞に拘る事に重きが行き、「恥に蓋をする文化」に成ってしまっている。

「誇りを守りたい」と言う心境が働いての事だが、矛盾する事に「誇りを守りたい」が為に「無かった事」にする愚を犯し、誇りを傷つけている。

つまり日本文化は、余りにも恥を隠す事に心血を注ぐ文化に変遷してしまい。

「隠しおおせれば良い」と言う不道徳な「恥の文化?」が蔓延して、職業や地位に関わり無く悪事を働く「本音」が社会に露出して来るのである。


日本は「儒教の影響を受けた国だ」とひと括(くく)りにして、あたかも儒教道徳が日本人全般の生活意識をリードしていたかの様に言う学者がいるが、とんでもない浅知恵である。

歴史を動かしていたのが氏族(貴族及び武士)だったので、氏族中心に考え易いが、それは歴史の派手な方の一部に過ぎない。

儒教の影響を受けたのは、氏族社会(貴族及び武士社会)で在って、文盲時代が長かった庶民階級に儒教が浸透していた訳ではない。

庶民に於ける伝統的日本社会は、「性」に対し実におおらかで開放的だったのである。

その「性」におおらかな証拠は、各地の祭礼に残っている。

夜這い制度の在った村落と違い、街場に在った庶民の娯楽が「暗闇祭り」と言う無礼講の乱交祭り行事だった。

「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

これはヨーロッパの王国同士の婚礼でも多々あった事だから、「愛情が無ければ・・・。」は、現代の御伽噺に過ぎないのかも知れない。

神社の祭礼での「乱交などふしだら」と言うけれど、特別な相手では無い性交は元々遊びなのだから、それこそ特定な相手との浮気よりは相手が特定出来ない乱交の方が結婚した相方は嫉妬もしないし後腐れはない。

その辺りに信仰として永く続いた庶民の娯楽、暗闇祭りの真髄が在ったのかも知れない。


神代伝承史の舞台とされる九州は、天宇受売(アメノウズメ)と猿田毘古神(サルタヒコ)の異民族誓約伝承を神楽にした天の岩戸伝説神楽を始め陰陽信仰(誓約呪詛)の宝庫で、小林市(宮崎県)にある陰陽石神社(中条八幡神社)は男女のシンボルの形をした自然石がご神体である。

よろず生産(豊穣)の神、また子宝の神として信仰されているこのご神体は男女一対で、世界でも珍しいものとされている。

また、日向市(宮崎県)で行われるひょっとこ夏祭りは、天宇受売(アメノウズメ)と猿田毘古神(サルタヒコ)の異民族誓約伝承神楽を踊りにしたひょっとこ面やおかめ面、狐の面をかぶって踊りに参加する。

約千人の男女が、「ひょっとこ踊り」と言う性交を思わせるクィクィと腰を突き出すゆかいな仕草で踊り歩くのだが、これに似た腰使いの踊りは「おてもやん総おどり(熊本県)」など九州各地に存在する。

静岡県の伊豆稲取・どんつく神社の奇祭「どんつく祭り」は「二千年間続いて来た」と言われ、御神体は大きさ三メートルの男根型で、その御神体を載せた神輿を女性が担ぎ、神社(女性)へ向かい、どーんと突くから「どんつく」なのだである。

夫婦和合、子孫繁栄を願うこのような祭りや御神体は全国各地にあり、愛知県は小牧、田懸(たがた)神社の豊年祭は、男達が男性器をかたどった神輿「大男茎形(おおおわせがた)」を担いで練り歩き、小ぶりな男性器をかたどったものを、巫女たちが抱えて練り歩く。

田懸(たがた)神社の創建の年代は不詳だが、延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 田縣神社」と有るからこちらもかなり古いものである。

また、大縣神社の「豊年祭(姫の宮祭り)」が対になっており、こちらは女性器を型取ったものを巫女達が抱えて練り歩く。

新潟県長岡の諏訪神社 ・奇祭「ほだれ祭」の御神体も男根型である。

「ほだれ」は「穂垂れ」と書き、五穀豊穣や子宝を授かるなどを祈願するもので、神輿に鎮座した重量六百キロもある男根御神体の上には、新婚のうら若い女性が数名、男根型御神体を跨いで乗り下来伝地区内を練り歩く。

長野県松本・美ヶ原温泉の薬師堂に男根型道祖神を祭り、祭礼には巨大な男根木像・御神体の御神輿を担いで練り歩「道祖神祭り」も有名である。

岩手県遠野の「金精様」とは豊饒と子孫繁栄のシンボルとして男性の性器をかたどった石や木を祀る民俗神で、この金勢様や金精様は全国に存在する。

神奈川県川崎市川崎区の若宮八幡宮境内に在る金山神社は鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱を祭神として祀る神社だが、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発して奇祭「かなまら祭り」が行われるように成った。

金属製の巨大なの男根(男性外性器・張形)を御神体として商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結び・夫婦和合のご利益があると言われ、近年ではエイズなどの性病除けの祭り(Iron Penis Festival)として国際的にも有名になっている。

この陽物信仰の原点はインド・ヒンドゥー教の「シヴァ神(破壊神)」と考えられる。

ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)は正直な神で、性愛の神・シヴァ神の象徴がリンガ(男根)だからである。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

そのヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性がある。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽(かぐら)・巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道と人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?

リンガ(男根)の神・シヴァ神(破壊神)に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う能力が有るのであれば、日本神道の主神でもある賀茂信仰・五穀豊穣神・事代主(ことしろぬし)の神を祀る祭祀に、子宝に恵まれる事と五穀豊穣を祈る事の共通性をもったエロチックな呪詛が存在しても不思議は無い。

日本の仏教や神仏習合の修験信仰には、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典が影響を与えて、インド・ヒンドゥー教の教義や祭祀が仏教や神仏習合の修験信仰や神社の祭祀に取り入れられているのである。



日本に西欧の文化が入る前は、張形(はりかた、はりがた)は性におおらかな日本の文化だった。

歴史的に見ると張形(はりかた)は信仰の対象とされ、日本の古代アニミズム(自然精霊信仰)にその源流を見出す事が出来、陽物崇拝で「子孫繁栄」を祈願や豊作祈願などその機能を霊的なものとしてシンボル化した。

または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われ信仰の対象と成って、現代の日本でも木製の巨大なモノが神社に祭られている神社が多数残っている。

張形(はりかた、はりがた)とは人体の男性外性器の形の性器を擬した物の事を指す。

起源が不明なほど古く、記録に残る日本最古の張形は飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が「大和朝廷への献上品に含まれていた」と云う記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している。

紀元前より張形(はりかた、はりがた)と呼ばれる男性生殖器を模した「器具が存在していた」とみられ、張形は男性が自身の衰えた性機能(勃起力)の代用や性的技巧の補完として女性に用いるなど、勃起機能は男性アイデンティティの根底にある為、類似する物品は世界各地・様々な時代に存在した。

また習俗的なものとして、性交の予備段階または性的通過儀礼の道具として性交経験が無い女性(処女)には処女膜がある。

為に、地域によっては処女が初めて性交する際に処女膜が裂けて出血する事を避ける為に、予め張形を性器に挿入し出血させ、実際の性交時には出血しないようにしていた性交の予備段階または性的通過儀礼の「道具として用いる」とされる。


江戸期に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始め、女性が性的な欲求不満を慰める道具として用いられ、江戸時代に「大奥で使われていた」とされる鼈甲製(きっこうせい/亀の甲羅)の張形がある。

湯で柔らかくして綿を詰めて性的な道具として実用に供され、性交機会を奪われた大奥では女性自身が「求めて使用していた」と言われる。

一方で江戸期には陰間もしくは衆道と言う男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかった為、張形は女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いる事もあったほど性におおらかな日本の性習俗文化に密着していた。

それほど一般的性習俗だった張り形だが、明治期に入ると国際化の為に西欧の文化に合わせる事が急務となり、近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分された。

だが、売春そのものは禁止されていなかったた為、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残って行った。

現代の性具としては、千九百四十八年(昭和ん二十三年)の薬事法改正から、正式な市販品は厚生大臣の認可が必要となった為、認可されていない性具は販売が不可能となった。

そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として薬事法を避けて販売を行なうようになった為、日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。

その為、形状の似ている「こけし」という名称が使用され、また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売された。

それらはディルドーまたはコケシと呼ばれ、勃起した陰茎と同じか少し大きめの大きさの形をしたいわゆる大人の性玩具(おもちゃ)で、電動モータを内蔵し振動するものを「バイブレーター」(略してバイブ)、または「電動こけし」と呼ぶ。



日本の性文化の原点は、「誓約(うけい)神話 」の伝承から始まる神事である。

「誓約(うけい)神話 」は、桓武天皇の御世に編纂された「古事記・日本書紀」の根幹を為すもので、つまり性交は異部族を一つの群れに和合し、新たな命を生み出す神聖な行為と捉えられていて、けして憚(はばか)り秘するものではなかった。

元を正せば、集団婚(群れ婚)だった縄文人(蝦夷/えみし)の原始信仰に、渡来して来たエロチックな教義の妙見信仰が習合した物で、それを役小角(えんのおずぬ)が統一国家・大和国の「帝の工作機関」として全国に派遣した陰陽師の修験山伏が山奥まで入り込んで布教したのである。

それが平安時代以後徐々に花開いて、都市部では「妻問婚(つまどえこん)・妻間婚(つままこん) 」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習となり、村落部では、「夜這い(よばい)」や「寝宿(ねやど)制度」の風習となって、実質として村落部での日本の性文化は「おおらかな集団婚(群れ婚)状態」が永く続いたのである。


暗闇祭り(くらやみまつり)に於ける不特定多数の性交が可能だった背景には、それなりの庶民的な性規範の存在と同時に開放的なノーパン着物文化が大きく貢献したのかも知れない。

何しろ手探りで着物を捲くりあげれば事足りるのだから、相手の顔が見えない暗闇の方が後腐れがない一時の神の恵みの歓喜なのだから。

その庶民文化が、明治維新後の新政府の欧米化政策により都合が悪くなる。

対等に付き合いたい欧米の物差しで計られて「野蛮・卑猥」と評されかねないからである。

そこで、外聞に拘る「恥に蓋をする文化」が増長され、改ざんと隠匿が恒常的に為される社会が膨らんで、本来人の範たるべき政治家や官僚、検察・警察、学者・教師、宗教家に到るまで、「恥の文化」はなく「恥に蓋をする文化」が横行し、日本中がその妖しさの中に生きている。


こうして書くと庶民だけが性に開放的だったように受け取られかねないが、勿論の事、この事ばかりは氏族も庶民もさして違いはない。

日本人は歴史の大半を通じて「性」に大変寛大で肯定的だった為に、開国当時日本に来日したキリスト教国の欧米人が仰天したほどに性に開放的で「あけっぴろげ」な国だった。

しかしそれが永い歴史の有る我が国の伝統「性」文化なのだから、キリスト教国の欧米人の指摘は本来なら余計なお世話である。

この辺りの「性」に対する認識の違いは、日本建築にも如実に現れている。

元々日本家屋は、和室の仕切りに使う建具として「襖障子(ふすましょうじ)」を使う。

襖(ふすま)の語源であるが、寝所は「衾所(ふすまどころ)」と言われ、衾(きん)は元来「ふとん、寝具」の意であるが、「臥す間(ふすま)」から「衾(ふすま)」と呼ばれるようになり、言わば寝所の仕切りが襖障子(ふすましょうじ)と成った。

日本家屋は、窓は木製の組子格子で素透視で中を覗き見れるわ、声は素通ししで聞けるわで、御所を始め御殿の類と言えども造りが開放的である。

天皇を始め皇族貴族の寝所でさえそうだから、欧米のような気密性の高い性交の場の必要性は余り感じない文化だった事は間違いない。

この国の建物の建築技術から建具の技術までその洗練された匠(たくみ)の技巧をみれば、気密性を生み出す技術が無かったのでは無く、これは「性」に対する考え方の違いで、我が国の「性」に対する認識が衣装におけるノーパンティ文化同様に、然して秘するものでは無かった事は明らかである。

襖障子(ふすましょうじ)は木製の枠組みの両面に紙または布を張ったものであるから、あまり私生活(含む性生活)を秘するに有効な設計とは思えない。

武士、商家、庶民とどの階層においても、外と部屋との仕切りも部屋と部屋の仕切りも襖障子(ふすましょうじ)と「性生活」は開け広げで、親子間のプライベートも有ったものではない。

不都合があれば板張りにするなど、改善する能力が有りながら「それをしない」と言う事は、この襖障子(ふすましょうじ)の余りのプライバシーを守れない建築を、当時の人々がさして不都合と感じなかった訳である。

戦後の復興期にアメリカ型自由主義と欧米キリスト文明の性意識が流入して全てが私権的に成り、建物も欧米キリスト文明の考え方が主流に成ってプライベート重視の壁を多用する間取りに成った。

建物の構造が変わって、日本人の意識が変わってしまった。

性行為が未来に子孫を残すおおらか神事から、「秘すべき卑猥な行為」と極端に歪曲されて扱われ、蓋をして「存在しない事」で在るがごとく放置した為に逆に性的に正しい発育を阻害され、性行為の代替に殺人を犯すような人間がたくさん育つ社会に成ってしまった。

近頃騒がれているセックスハラスメント(セクハラ)にしても、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)にしても、要は立場の弱い方が「被害意識」として感じるかどうかの問題で、この国の氏族(貴族・武士)社会の価値観では「被害意識」よりも「幸運な成功のチャンス」と捕らえた時期が永かったのである。

セクハラは「被害意識」の問題だから勿論だが、相手が好ましい相手ならセックスハラスメント(セクハラ)は成立しない。

好ましいの中身でも、「好き嫌いから贅沢をさせてくれる」まで結構判断基準の範囲は広い。

また、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)に於いても、我が国の永い歴史で言えば実は「お手つき」は力の強い者から「声を掛けて貰った(チャンスを貰った)」と喜ぶに値する事で、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)が立場の弱い方に立場を好転させるチャンスだった時の方が遥かに長い。

つまり今では考えられないが、「誘いを待ち望んでいた」或いはそう言うチャンスを得た者を羨(うらや)んだ歴史がある。

正に当時は、性交は成功に通じ「お手付き」は出世であり、領主と家臣の主従関係においては「お召し上げ(妻の)」や「お下げ渡し(妾妻の)」、「稚児小姓(男色寵愛/衆道)務め」はどちらかと言うと出世に繋がる幸運だった。

この辺りが、見事に「武士道の精神」の建前の形骸化が証明されるのだが、氏族(武士)社会にはそれなりの別のいささか残酷で都合の良い制度が確立していた。

血筋がものを言う氏族(武士)社会では、血筋を残す事が最優先の了解事項だから言い分として妾は正当な存在で、正婦人は言うに及ばず妾に到るまで勢力維持・拡大の具として「閨閥(けいばつ)」の対象に成る。

領主同士の婚姻関係は軍事同盟を意味し、出世を望む部下は我娘を領主の妾に送り込み、領主は見込みのある部下に妹や娘を下し置いて頼りとする。

氏族(武士)社会の主従関係には特殊な家臣(部下)を試す制度が存在し、家臣(部下)に娘が居るなら「召し上げ」て妾にし、忠誠心を試す。

独身男性の場合は「お下げ渡し」と称してお上(殿)の手の付いたその女性を娶る事を求められ、その家臣(部下)の忠誠心が試される。

家臣(部下)が結婚していて妻がいるなら、「お召し上げ」と称してその妻を差し出させ、暫らく寝屋を伴にしてから「宿下がり」と称して夫に返し、夫が自分のお手付き後でもその女性を大事にするかどうか試される。

敵対危惧関係や敵対関係と目される相手との場合はまた別で、「人質」と言う事になる。

これらは全て古代に在った誓約(うけい)の進化系で、 家臣(部下)の忠誠度や敵対及び危惧関係相手との信頼関係を試す手っ取り早く具体的な手段だった。

お堅い筈の「儒教」についても、実は解釈上の扱い方次第である。

例としてあげれば、李氏朝鮮王朝は仏教を廃して儒教を採り、厳しく律して生活を送る忠孝精神を採って国家の思想とした。

しかし清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高きお隣りの朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

そして李氏朝鮮王国でも、罪を犯した者の刑には身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。

処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。

貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。

都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外され、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であった。

だから医女(イニョ)も、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。


これも解釈上の問題だが、韓国には、一昔前まで新婚初夜に親戚や近所の人々が寝室の障子に穴を開けて覗き見する「新婚初夜覗き」と言う風習が在った。

韓国では新婚初夜が上手く行くか心配だから親戚から近所の人まで心配して新婚初夜を覗き見する。

韓国・新婚初夜覗き(シンバンヨッポギ)は、新婚初夜の寝室を覗き見する韓国の伝統的 な風習である。



人類は、他の動物種では類を見ない脳の発達に拠って余分な事を思い過ぎる様になり、絶えず「思い通りに行かない」ジレンマを抱える様に成った。

生き物は自然則として、生き行く必要の為に自らを変身させて行く。

実は、この発達した脳の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人間の意識の中に「必要な行為」として与えられた。

その為に、他の動物種では滅多に無い事だが、「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の「癒し目的」と言う性交を必要とする様に成なる。

自然界では例外的なものでは在るが、自然の与えた本能にはけして無駄はなくこの癒し目的の快感である「擬似生殖行為」も、生きて行く上で必要だから与えた筈で悪いものである訳がない。

そして人間は、その性交に到るまでのプロセスから技巧まで、あらゆる性文化を発展させて来た。

実の所、複雑な思考を持つまでに進化した人類が生きて行くには辛い事も多いから、神が人類の脳に与えた「擬似生殖行為」が快楽の性交ならば、社会的な慎みさえ考慮に入れればそれを素直に楽しんでも良いのかも知れない。

しかしその一方で、この「擬似生殖行為」の欲求が在るばかりに人間は、欲求を抑え切れずに運命を狂わす失敗行動に出たりするリスクも負った。

そしてその「擬似生殖行為」の為に、人類の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。

もっとも、性欲に限らず仏教用語で言う所の「煩悩」とされるあらゆる欲望も、動物種の中では類を見ないのが人類である。



都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうものである。

留意すべきは、例え実在した事でも後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。



僅(わず)か百年前の事でも、時代考証は現代の物差しに応じて調整する良い事例であるが、こうした行為は例え悪意は無くても後の人々に様々な誤解を生じるものである。

そうした積み重ねが、各々の国の歴史観として、「とんでもない物」に出来上がって居るのかも知れない。


今、日本のイデオロギーも地球上のイデオロギーも劇的な変革を必要とする時代に直面している。

千九百年代は資本自由主義と共産主義の争いの時代だった。

二千年代に入って共産主義は衰退し、資本自由主義も行く所まで行き着いて生き詰まりを見せている。

このまま資本自由主義の暴走を止めないでは、「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の中に「リアルの生産」が翻弄(ほんろう)され埋没して、人類の糧(かて)となるべきリアル生産力が劣化消耗してしまう事だろう。

また、現在の地球環境の悪化(温暖化)は正しく「利の為に何でも有り」の資本自由主義の為せるものである。

実は過去の歴史が証明しているのだが、人間の浅はかな欲望が地球上を砂漠化して来た。

エジプト文明、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス)文明、インダス文明、黄河(中華中国)文明はいずれも緑と水の豊かな大河のほとりで発生して自然を食い尽(つく)し、砂漠化と共に衰退した歴史を持っている。

近世から現代にかけては、緑豊かな熱帯林を持つインドシナ半島やインドネシア、ブラジル・アマゾン流域を焼畑や森林伐採して開墾を進め、貴重な森林の砂漠化の道を歩んでいる。

今の資本自由主義と言うイデオロギーの枠では解決しないこれらは地球規模で考えなければならない問題で、つまり「目先の個々の利、国家の利」を追えば、永いスタンスで見た地球は衰えて行く事になる。

にも関わらず、資本自由主義のイデオロギーの基本ベースを変えないまま地球環境の悪化(温暖化)対策を世界中が模索しているが、これでは各自・各国の「資本自由主義の利」が主張しあうだけで一向に埒(らち)が開かないであろう。

このまま資本自由主義の暴走が止まらなければ地球環境の悪化(温暖化)は更に進み、やがて人類の多くが住めないであろう地球に成る事は必至である。

つまり小手先の対策ではなく地球上のイデオロギーも劇的な変革を統一で行う時期に来ているのである。


それでは、その劇的な変革を可能にするイデオロギーはいったい何だろうか?

その課題は、日本の歴史が解いてくれる。

日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。

そのひとつは今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】であり今ひとつは【日本人の宗教観】である。

地球を救うイデオロギーのヒントは、この二つを基本として組み合わせた日本の特異な文化【共生社会(村社会)】のイデオロギーの中にこそ隠されているのである。



ここに、日本列島の歴史と比較するに好対照の歴史が存在するので紹介する。

三千年前まで日本列島と同じ経緯を歩みながら、列島が明治期に入る頃までおおむね中華文明から置き忘れた大きな島・台湾島の存在である。

台湾島は、十八世紀から十九世紀頃に到って漢民族が移住して来るまで日本列島と同く黒潮に乗って移り住んだ原ポリネシア系の原住民の暮らす島だった。

中華文明から置き忘れた理由は、朝鮮半島から遠く離れ倭の国々に属さなかったからで、文明的進歩は二千年以上止まったままだった。

この中華文明から忘れ去られた台湾島は、日本列島の歴史のように「誓約(うけい)の概念による混血」と言う平和的な民族合流の手段を持たなかった。

その為に、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って他を排斥して三千年間からの対立の歴史を繰り返し、統一される事無く小民族乱立の中、言語の通じない人間の首を狩る出草(しゅっそう)と言う風習が根付いていた。

つまり、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族がそれぞれ全く交流する事無く、首狩りそのものが「一人前の成人男子の通過儀礼」とされ、信仰的な意味合いも在って狩った首の数は同族社会集団内で誇示される風習が存在した為、異なる部族への警戒感が強かったのである。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に十七世紀頃に漢民族が移民して来る以前から居住していた先住民族の呼称である。

日本が植民地支配を始めた明治期の頃の台湾には、平地に住み台湾原住民族と漢民族が混血同化した平埔族(へいほぞく)と高地(山岳地帯)に住み独自の言語・文化・習俗を守って暮らしている高砂族(たかさごぞく)が存在した。

多くの民族集団に分かれて並存し、十四民族(部族)を数える台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の内二民族が平埔族(へいほぞく)、十二民族が高砂族(たかさごぞく)とされた

台湾原住民の中で一番多い人口規模(総人口の37.5%)を持つ平地民族集団・アミ族と台湾原住民のなかで唯一台湾本島の南西沖の孤島・蘭嶼に居住する民族集団・タオ族を除くと、大半が好戦的民族だった。

そんな台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の中に在って、アミ族の家長は女性で優先順位は女性側にあり、家業・財産は長女が受け継ぎまた姓も母方の姓が引き継がれる母系社会である。

母系社会のアミ族は、アミ語で「シカワサイ」と呼ばれる女シャーマンが主催する二ヶ月に及ぶ秋祭りがおこなわれ、童女が集められて盛んに踊り、激しい踊りの中でトランス状態に陥った童女が次代のシャーマンに任命される。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)十四民族(部族)に在って「強い母系社会はアミ族だけ」と言って良いアミ族は祭り好きで、豊年祭、播種祭、捕魚祭、海祭などがあり、毎年夏の七月から八月のいずれかに二週間ほど催される豊年祭は最も重要な祭祀儀式である。

歌や踊りを好み、平和で陽気な平地民族集団・アミ族が台湾原住民の中で一番多い人口規模を有し、後発で移民して来た漢民族とも平和に共存している事は偶然だろうか?

日本列島の歴史と重ね合わせる時、母系社会のアミ族は比較的「性におおらか」で、最も日本の先住民族・蝦夷族(えみしぞく)に近い平和的な村社会文化・習俗を持っていたような気がする。

つまり、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って好戦的では外部民族との交流も生まれず、人口も増えずに文明的進歩も止まってしまうのである。

ただ、台湾島に於ける最大勢力のアミ族が非好戦的な平和主義だった事と、日本列島のように中華文明の先進的な武器を携えた侵略部族(うじぞく/氏族)の襲来が無かった事が、台湾島の統一国家化が為されなかった事に繋がったのも事実である。



ここで原生人類の本能的生殖行動と現代の倫理規範の矛盾をご紹介しておく。

現代日本人の倫理感覚では、「夜這い婚」の一妻多夫形態など到底理解できないかも知れないが、実は「種の保存」を優先する自然界では人間の生殖倫理の一夫一婦制の方が異例である。

いささかタブー染みた情報であるが、一番人間に近い類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。

その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。

これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。

当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は連続交尾を受け入れられる構造をしている。

つまり生物としての原生人類は、「確実な種の保存の為」に本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを知っていた事になる。

そうした人類発達の歴史の中で培(つちか)われた原始の生殖行動の記憶としての残滓(ざんし/残りかす)が、時代と伴に変化しながら辿り着いたのが「夜這い婚」だった。

言うなれば、元々の人間の原始生殖行動は本来それに近い理由で「群れ婚」に拠る一妻多夫形態が自然な遠い記憶で、それが「夜這い婚」のルーツである。

その結果、女性が一家の家長で家の財産を引き継ぎ、男性が女性の家に通って来る「妻問い婚」が生まれ、「呼ばう」が「夜這い」となった。

つまり「夜這い婚」や「歌垣(うたがき)」、「暗闇祭り」などは、「種の保存」の為に知恵を絞った安全装置だった。

しかし現代日本人の倫理感覚は一夫一婦制で、「虚弱精子劣性遺伝」や「卵子の老化問題」は人権問題も絡む為に余り考慮しないから、子に恵まれない家庭も増えている。

そして一夫一婦制の縛りが在りながら、「愛」と言う名の「好き嫌い」や、金や地位と言う価値観、昔は結婚と出産の適齢期が十五歳〜二十歳までだったものが今は諸般の事情で晩婚化しているなど、自然で「確実な種の保存」とは程遠い現状がある。

まぁ、欲の為に自然を破壊して此処まで文明を発達させた人類だから、現在の自然に反した生き方で「種としての滅びの道」を歩む事が因果応報かも知れない。

これはあくまでも「人類も生物」としての自然の法則だけで捉えた見解であるが、如何なる社会性を鑑みても「滅亡してから気が付いた」では遅いのではないか?



日本列島で出会った多くの部族が、大和民族(ヤマト民族/日本人)として成立する過程は、命を繋ぎながら混血の道を辿った事である。

つまり多くの部族が大和合して大和国(ヤマトの国)を創るには、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(スサノウノミコト)の誓約神話に象徴される平和の為の神事(呪詛)が必要だった。

天照大神(あまてらすおおみかみ)が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力男(あめのたじからお)の命」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この「神楽(かぐら)の始まり」と聞く。

その、岩戸に隙間を開けさせる歴史的きっかけになった神楽の原型は、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(天石屋戸/あまのいわと)に籠った時に、岩戸の前で踊った女神で、「宇受(うずめ)」は「かんざし」の意で、髪飾りをして神祭り(神楽舞)をする女神、更には「神憑った(かみがかった)女性の神格化を示す」とされている。

列島の民(日本人)は、「先住民(原住縄文人蝦夷族)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルダヒコガミ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。

原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は、遥か太古からの人類繁殖の形態・群れ婚意識が残っていて、それが後世の村落共生社会の性規範として寝宿制度があり、その後中国雲南省付近から遣って来て稲作を伝えた加羅族(からぞく/農耕山岳民族)の習慣・妻問婚(つまどいこん)の夜這い(呼ばう)も定着した。

日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、原住縄文人(蝦夷/えみし)、三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)で、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。

いずれにしても、大和民族(ヤマト民族/日本人)の一部が「約二千年前に摩訶不思議に消滅したヘブライ部族の子孫である」と言う説も含めて、一大混血民族が大和民族(ヤマト民族/日本人)である。

そして三民族の一系、先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の王族が、火の王・アピエの末裔「安倍・阿倍一族である」と言う強力な説がある。

三つ巴の多民族を信仰で一つにまとめ様と考え、役小角(えんのおずぬ)を登用して修験道師を育成し陰陽修験道を全国に広げる試みをしたのが大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)である。

その陰陽修験道師を更に活用したのが桓武天皇(かんむてんのう)で、この陰陽修験道師の活動が、人身御供伝説を生んだのである。

それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。


誓約(うけい)を天照大神(あまてらすおおみかみ)とスサノウ命(須佐王)姉弟の「占い」などと綺麗な神事にまとめて解説しても、実は史実との整合性は無い。

何故ならば、大和朝廷が開かれて以来依り平安時代まで、天皇が自分の姉・妹・実娘を后妃(妻)にした事実が良く散見される。

その訳は、伝承故事に拠ると天照大神(あまてらすおおみかみ)とスサノウ命(須佐王)の姉弟の誓約(うけい)の性交がこの国の始まりとされているからである。

そしてこ誓約(うけい)の性交が、争っていた部族和合の呪詛(じゅそ)と成ったのだから朝廷の解釈上は、身内婚で在っても神々の婚姻に違和感が無いのだ。

和合の呪詛(じゅそ)とは、異部族を混血化して単一民族に仕立てる事であり、これは合理的で立派な神事だったのだが、皇統の身内婚は「神話解釈の間違い」である。

それにしても、歴史的に観ればその時代時代で変わる当時の「性の規範」を、現代の規範に無理やり合わせて作文し、「綺麗事だけを子孫に伝えよう」と言う「善意振った無理な人々」が幅を利かせている。

小生の著述する歴史内容について、「危険だ」と言う指摘がある。

理由は、現代の性規範に合わない不都合な過去の歴史を暴(あば)いては「日本人に劣等感を抱かせるからだ」と言うまったく違う認識が理由である。

こうした史実が現在の性規範に合わないから、「誓約(うけい)神話」も、村落部の「修験・人身御供」も、氏族の「稚児小姓・衆道」も、「無かった事にしょう」と言うのだ。

つまり不都合な歴史は誤解を生じて「危険」だから事実でも「伝えるのを控えた方が良い」と言いたいらしい。

この強引な指摘をする方は、アンカリングの中にドップリ浸かって「建前」しか認めない非常識な「自称常識人」である。

この良い子振った発想で、あたかも「自分が正義の行動を執っている」と言う自己満足で攻撃して来る。

それで例えば、「定説ではこう成って居る」と言う訳だが、誓約(うけい)は「天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(スサノウノミコト)姉弟の占い事」に書き換えられている。

人身御供伝説も、「教育的目的や統治者の善政業績を表現するものだ」と、差し障り無い内容に定説化されている。

もっと不都合な事は、その存在さえ消し去って後世に残さない。

しかしこの、「綺麗事だけを子孫に伝えよう」と言う無理な「自称常識人」には作為的違和感が強く、けして褒められたものではない。

つまり大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程の基本的な裏付けは、「他部族・異民族の性交に拠る混血」と言う現実的な事実である。

歴史を綺麗事でまとめて定説化し、その嘘を「常識として教え込む事こそ」が危険では無いのか?

例えば定説とやらで、安易に「倭国は日本である」と気軽に言って欲しく無い。

何故なら、もっと広域な範囲で倭の国々は存在したからである。

何と言っても歴史研究の第一歩は「大胆な発想」で、「定説」に頼っては何の進歩も無い。

例えば周辺の状況からして「こうした歴史的陰謀の可能性がある」とした場合、定説主義者は「トンデも無いデタラメを言う。証拠を見せろ」と言う。

しかし簡単に証拠を挙げられないのが秘すべき陰謀であるから、それは個人の「説」に成ってしまう。

その「説」が少しづつ定着して大勢の者が研究すると、事の真贋が明らかに成って行く物で、つまり定説や常識を肯定して掛かるのでは「必ずしも真実とは限ら無い」と言う事である。

ソモソモ無難な所で歴史をまとめ、恥ずかし気も無く「定説」と称して押し通す「自称常識人」にはウンザリする。

統治手段としての教育にしても、事実を隠して民心を掌握する為にこうした嘘っぽい事を教えるから、ついでに統治者の都合が良い物が発表される。

統治者の発表が正しく無いから生まれたのが「民主主義」で、そこを否定したら建前と本音が乖離(かいり)している事になる。

物事を解決に導くには、「問題事に蓋をする」のでは無く丁寧に詳しく説明して理解を得るべきである。



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(陰陽占術)

◇◆◇◆(陰陽占術)◆◇◆◇◆

維新の動乱はもう直ぐそこまで来ていたが、この動乱が終息した時、実は新しい国家権力が陰陽占術を否定する歴史が存在する。

つまり永く続いた決め事も、統治の都合でアッサリと禁令が出されるのが現実である。


この物語の冒頭でも記述したが、何事にも始まりはある。

だが、宗教関係者や占術師には「昔から決まっている」と非常にインテリジェンスが無い強情を張る者が多い。

しかし決まり事には必ず「何時頃から何故に」が存在し、それを突き詰めて行かないと本当の歴史は見えて来ない。

そもそも初期の統治者は、卑弥呼女王に代表される呪詛能力を背景にした統治者だった。

つまり信仰や占いは、有史以前の群れ社会発生時から政治利用されるべき存在だった。

この物語を最初からお読み頂いた方なら「既にお気付きの事」だと推察するが、天武天皇が仕掛けた陰陽修験道と言い桓武天皇が仕掛けた真言宗及び当山派(真言山伏/東密)と言い、天台宗及び本山派(天台山伏/台密)と言い、全ての信仰の布教目的は治世の都合から始まっている。

勿論、永い歳月をかけて磨き上げられた信仰の教義に異論を挟む積りは無いが、凡そ信仰の始まりなど権力者の打算と結び付いて仕掛けられたものほど力を持つのである。

元々信仰は、大いなるフィクション(奇跡)の上に成り立っている。

本来、聖書や経典の類は「如何に生きるべきか」の哲学書だった物が、それを信じさせる為にフィクション(奇跡)の味付けが為され、仕舞いには「唱えるだけでご利益がある」と成って今日に到っている。

「唱えるだけでご利益がある」は凡そ現実的ではなく、「在り得ないフィクション(奇跡)」が信仰の根幹を為すのであるから、それを信じるかどうかは個人の勝手である。

大いにフィクション(奇跡)の娯楽を愉しむも良し、その娯楽に金を注ぎ込むも良いが、妄信して他人に主張する事や押し付ける愚は止めて貰いたい。

しかしそこを突き詰められると全てが「御仕舞い」に成ってしまう決まり事も多いから、「昔から決まっている」と強情を張る以外に無いのが宗教や占術なのである。


世の中には、仕掛けられてから永く永く伝わって、もう誰が仕掛けたのかさえ忘れられた陰謀もある。

つまり信じられ積み重ねられた伝統や風習、信仰も最初は誰かが仕掛けたもので、それが永く伝わるとまるで疑いも無く信じられる「常識」に成るのが「世間」と言うものである。

実は人間社会に於いて、信仰や占術は個人の精神世界の心情が基本に成るものだけに「或る種の聖域」に成っていて、歴史の真実には絡み難いものである。

つまり余分な争いを避けるには「触れてはならないもの」として信仰や占術が聖域化され、歴史を歪めて来た部分も多い。

そこに敢えて踏み込み、日本人が心の指標として来た神仏・呪術、占術についても、検証して置きたい。


人間誰しも先の事は闇で、人生多かれ少なかれ思いも拠らぬ事その一瞬で人生は変わる。

そこに運命的なものを感じるから、人は占術に凝り神頼みになる。

本当の事を言うと、「奇跡」なんてそうめずらしいものではない。

人が産まれ、生きているだけで充分奇跡なのである。

人間は、そこに気が付かないから欲に走り、思い通りにならないと神に頼る。

欲に走れば思い遣りが無くなり、心は修羅になる。

それに、神の役目は見守るだけだから、過分な期待で頼られたら迷惑なのだ。


人間は普段、基本的に論理的な左脳と感性的な右脳を使い分けて生活している。

しかし、論理的でない偶然との出会いには感性的な解釈をし、論理的でない事象には言い知れない不安と恐怖を覚える。

その論理的でないものの解決には右脳域の感性を用いて、神仏信仰・呪術、占術を頼る事に拠って解決しようとする。

そしてそれを信じ込んだ時から、アンカリング効果と一貫性行動理論の虜になる。

人間は、ものを考える(思考する)から苦悩する。

実はこの思考を、停止させ(ゆだねる)る事で、苦悩から精神的に開放されるのが信仰に於ける救いである。

勿論、苦悩から救われる事は大事な事で、大いに結構である。

それを「無我の境地」と言うらしい。

しかし気を付けないと、思考を停止する事により邪(よこしま)な教義に操られる事例も多い。

凡(およ)そ占いや宗教はそうした心理的な物が、不安の中で生きる人間に安心感を与える形で迷信的に進入して来た。

その心理的安心感が、少しずつ支配を司る為の呪術信仰に近い物に大成して行く。

そこでまず、朝廷が推進した「陰陽寮」の賀茂忠行・賀茂保憲父子、安倍晴明が残した現代の陰陽道の吉凶占術と方位学、暦、そして呪術に対する解説を冷静に付け加えて置く。

占いフアンの「期待には添えない」と思うが、今後の参考にして欲しい。

実は、占術も剣術も忍術も各種の演芸も、そのルーツが一様に陰陽修験道に見るのは否定できない事実である。

その後の歴史の変遷の中で独自のものに変化を遂げては行くものの、当初の目的が治世の安定の為に原始信仰から渡来神道や仏教の経典まで習合させて採用された所から始まった事である。

今日の現代人が神官や僧侶に対する既成概念で間違い易いのは、主として江戸期以降の分業化した身分制度の神官や僧侶を想定する所である。

信仰や占いは、有史以前の群れ社会発生時から政治利用されるべき存在だった。

そして結論から言うと、世の中には占いや信仰を利用した者と占いや信仰に巻き込まれた者が居ただけである。


人間個々の理性は知能の発達と伴に右脳・左脳が巨大化して高度化し、比較、判断、推理、計算、発明などの能力を持って、ホモサピエンス(知性人)を名乗っている。

しかしながら、他人の心理状態を「生理的に合わない」や「考えられない」と言って、相手の感性も考慮せず、即座に否定するのは間違いである。

知恵の発達と同時に、人類は群れて生きる事で外敵を共同で防衛し獲物を協力して採取する群れ社会を形成した。


人類には、巨大地震のような人知が及ばない事象をスピリチュアル(霊的潜在意識)的に納得させる為の脳部位として「側坐核(そくざかく)」が在る。

側坐核(そくざかく/脳部位)の位置は、前頭極(ぜんとうきょく/脳部位)から後頭部へ続く途中の、外部から見ると「おでこ」と「耳」の間くらいに在る二ミリ程度の小さな部位である。

人類は群れて生きる動物で、人間が群れ社会を形成し集団で仲間として生きる為に発達した脳の部位が、脳の左右に鎮座する「側坐核(そくざかく)」である。

例えば、災害ボランティアなどの共助精神は、この「側坐核(そくざかく)」の働きに拠るものである。

その「側坐核(そくざかく)」は大脳腹側の「線条体(せんじょうたい)」とされ、感性を司どり、人間の資質に存在する報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性に重要な役割を果たす脳部位である。

人類は、小さな集団の頃からその維持の為に「側坐核(そくざかく)」の機能を発展させて、集団的なスピリチュアル(霊的潜在意識)合意を形成して行く。

この「側坐核(そくざかく)」の別名が、【線条体(せんじょうたい)】であるが、脳内麻薬分泌ホルモン・ベータ・エンドロフィンの快感から導かれる活性部位が「線条体(せんじょうたい)」である。

つまり脳の快楽的喜びを認知し記憶するのが、右脳と左脳の中心下部にある一対の大脳基底核の主要な構成要素のひとつ「側坐核(そくざかく)」=「線条体(せんじょうたい)」と言う脳の部位である。

この「線条体(せんじょうたい)」は、「習慣認知脳」とも呼ばれる無意識の意思機能、「側坐核(そくざかく)」の快感を持っている。

ギャンブルの習慣性、そして喫煙や飲酒、麻薬類の快楽感を認知・記憶して習慣性を持たせる部位で、習慣の断ち切りを阻害する「習慣認知脳」である。

その「線条体(せんじょうたい)」が、運動機能への関与や意思決定などその他の神経過程にも関わると考えられている。

簡単に言えば、性交に於いてのメカニズムも「犯って気持ち良かったからまた脳が欲しくなる」の神経過程的な働きを「線条体(せんじょうたい)」が受け持って判定しているのである。

つまり性交に於ける性癖や習慣性は、元々認知脳・線条体(せんじょうたい)に拠る無意識の意思機能が存在するからである。


逆説的に言えば、群れ社会を形成する為には「側坐核(そくざかく)」の働きに拠る報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性が、「人間の群れ社会の根底にある」と言う訳である。

この「側坐核(そくざかく)」の報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性を煽(あお)って悪用するのが、悪徳神主、悪徳坊主、占術者、霊能者などの類である。

一種の習慣性脅迫観念を醸成するのもこの側坐核(そくざかく/脳部位)で、ここに付け入られると、外から見てバカバカしい事も本人には大事な事に成ってしまう。

そしてこの側坐核(そくざかく/脳部位)の影響は、施術者に拠る洗脳効果も在り、本人が思い込んでしまうので外から何か言っても受け入れられない難しい認識になる。

「信じないと不幸になる」や「先祖の霊の為に壷を買え」は、この「側坐核(そくざかく)の恐れ(恐怖)」の弔い心理に付け入ったもので、元来はその心理事象に付いて合理的な説明が着く。

厄介な事に、その「側坐核(そくざかく)」を有する故に、恐れ(恐怖)をベースにした信仰心や、嗜癖(しへき)をベースにしたSM性癖(サド・マゾ)などの感性をも、持って生まれて内在している。

つまり「側坐核(そくざかく)」が感性を司どる脳部位であるが故に、理性では理解できないスピリチュアル(霊的潜在意識)やSM(サド・マゾ/加被虐願望)性癖なども、感性として存在する事になる。

そしてジュピターコンプレックス(被支配の願望)に影響を与える脳部位も「側坐核(そくざかく)」と言う事になる。



大体、信仰や宗教の類も元は人間が考え出した事で、何も教義が奇跡的に空から降って来る訳ではない。

だから信仰は、教祖や指導者に理性で考え出され積み重ねて構築した哲学であり、勿論発案者の教祖や指導者はその信仰を妄信などしていない。

その考え出された信仰は、信じる側からすれば精神(こころ)の救いを得る為に世俗の観念から超越し、妄信するものである。

だから根底には、妄信により世俗の観念から超越した精神(こころ)の救いが信仰の前提にある。


元々日本神道に於ける巫女の存在は「呪詛巫女」であり、稲穂の実りも子宝も同じ天からの授かり物で、それを祈願する性交は呪詛儀式だった。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

そうした信仰上の正当性が派生して「神前娼婦」と成った歴史があるのも巫女のれっきとした一側面である。

だから、教祖や指導者と女性信者が性交する事は二千年来の宗教史では当たり前で、それが出来ない信者など最初から「なまくら信者」である。

そして神仏混合が国の政策方向だから、神道も仏教も方向性は同じだった。

現実に、十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなりの側室・お美代の方/専行院)の父親、日啓(日蓮宗の住持で子沢山の生臭坊主)が引き起こした大奥女中の醜聞、智泉院事件に於いては、「お祓い・祈祷」が性交の名目だった。

そう言う部分は、現代の建前感覚より当時の現実感覚の方が、返って正直なのかも知れない。


この物語で何度も記述している通り、室町期の末期までは公家や武士は言うに及ばず神官や僧侶も氏族の特権的な身分で、公家や武士とは兼業みたいなものである。

だから修験道師、東蜜・台蜜の両修験坊も氏族の出自で、祝詞(のりと)や経(きょう)を読みながら京八流の流儀を基本として派生した剣術武術の鍛錬にも余念が無かった。

つまり神官や僧侶も利の為には殺生もするし、信仰そのものも己の「利」の目的の為に利用するものだった。

我輩があえて言うならば、占い師が言う事の意図的な大きな間違いは、占いの結果「ああしろこうしろ」と以後の対策をアドバイスする事である。

しかし運命は「小細工で変わるものではない」と言う事が現実で、「運命は不変」であり何か変えれば変わるものではない。

信じない者には「当たらない」と言う占い(占術)ほど、都合が良く出来ているものはない。

話を良く聞いていると九十%以上は常識的な事を言っていて、当たっても不思議ではない。

心理テストや調査の効く過去はトリックで依頼者にも符合(ふごう/一致)確認が出来るが、未来はその時が来るまで誰にも判らない。

従って心理トリックで過去を言い当てて依頼者の思い込みに成功すれば、占い(占術)は成功し出鱈目な未来予測も信用される。

永く人間をやって居れば、誰にだって幸せも不幸も遣って来る。

信仰をしたからと言って「幸せばかりの人生」何て事は金輪際無いのであるから、お布施や賽銭の金で幸せを買う神頼みなど最初から虫が良い話しなのだ。

つまり占いで判るのは運命予測だけで、金儲け占い師のアドバイスに従っても運命は変えられず、言わば無駄な努力である。

現に占い師の言う事を聞いても、好結果など得られない。

しかし運命が判っても、変えられないのでは相談料を払う者が居なく成るから占い師は適当なアドバイスを言うのだが、その見料は宝くじを買う程度の「夢を買う代金」くらいに思うしかないのである。


よく占術師が口にする手口で、「先祖の霊が寂しがってうんぬん」と言うのがある。

人間の心得として説くのならともかく、占術師がそれを指摘するなど、そんな馬鹿げた事は在り得ない。

通常の人間の心情を考えて欲しい。

祖先にとって、「子孫は無条件に可愛い」のが人情で有って、「蔑(ないがし)ろにしたから呪う」などと言う事はない。

そんなものは身内が言うのはともかく、占術師か宗教家が言うには飯の種にする為の脅しで、死者を含め人の心を弄(もてあそ)ぶ者こそ罰(バチ)が当たるべきである。

不思議な事に、占い師や宗教家は「地震」を予測出来ないが、起きた地震の原因が「為政者の信仰の無さだ」と言う事は、いとも簡単に判るのだ。

同様に「個人の不幸」も、占い師や宗教家は前もって予測出来ないが、起きた不幸の原因が「墓や先祖を大事にしない事だ」とは、直ぐに判るらしい。

貴方は内心、この矛盾に気が付いている筈である。

にも関わらず、騙されたがっている貴方がそこに居る。

わざわざ自分を騙す必要があるのだろうか?

およそ信仰とはそう言うもので、非論理的な精神世界のものである。

この占術を称して、良く「中国四千年の重み」などと言うが、四千年が五千年になろうと嘘は嘘である。


つまり、長い事信じられていた事が翻されるから科学や文明は発展した。

昔から「言い伝えられているから」と言って「正しい」と言う証明にはけして成らない。

それを恥ずかしげも無く主張する所に、占術の本質がある。


正直、幸運の神様として占術に使われているのが真言・吉祥天(きっしょうてん)である。

吉祥天(きっしょうてん)は、我が国では毘沙門天(びしゃもんてん/梵名・ヴァイシュラヴァナ)の妻として幸福の女神とされる女神・シュリー.ラクシュミーで、真言・吉祥天に於いては、唱える呪文は「オン・マカシリ・エイ・ソワカ」であるが、ご利益が在るかどうかは信じる者次第で保障の限りでは無い。

吉祥天(きっしょうてん)の由来であり、「乳海攪拌の際に誕生した」とされる女神・ラクシュミー神(吉祥天)はヒンドゥー教の女神の一柱で、美と豊穣と幸運を司る神である。

ラクシュミー神(吉祥天)は、ヒンドゥー教の最高神の一人で宇宙の維持を司るヴィシュヌ神(ヴァイシュラヴァナ/毘沙門天)の妻とされており、数多くあるヴィシュヌ神の化身と共にラクシュミー神も対応する姿と別名を持っている。

愛神・カーマの母とされる女神・ラクシュミー神(吉祥天)は、幸運を司る為に移り気な性格であるとも言われる。

日本に於いては仏教にも取り込まれて吉祥天と呼ばれていて、仏教では福徳安楽を恵み仏法を護持する天女とされ、毘沙門天の妃また妹ともされ、更に神社でも信仰の対象として吉祥天は神道の神でもあるが、弁財天(サラスヴァティー)と混同される場合がある。

なお、女神・ラクシュミー神(吉祥天)にはア.ラクシュミー神(不吉祥天)と言う不幸を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌ神の妻になる際に「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」とヴィシュヌ神に請願している。

ヴィシュヌ神は条件を呑み、ヨーガの修行を積んだ苦行者で聖者或いは賢者達の一人である聖仙(仙人)・リシと姉神・ア.ラクシュミー神(不吉祥天)を結婚させ、晴れてヴィシュヌ神とラ.クシュミー神は「一緒に成った」と言うう神話も残っている。


まず悪夢を見る事や、凶兆とされる出来事が起きた場合、或いは陰陽師の占いによって凶事が予知された場合に行われるのが「物忌み」である。

そこで、「物忌み祓い」が必要になる。

元々「物忌み祓い」は、神官が神々の祭祀にあたって心身の清浄を保つ為に飲食や行動の規制(斎戒)の意味だった。

具体的には一定の期間外出を控え、同時に「物忌み」と書きつけた柳の枝の小片や紙片をしのぶ草と言う植物の茎に結い着けて冠や髪、御簾などに差して凶兆を避ける呪法を意味する。

物忌みの最中はどんな事が起こっても大声で話をせず、絶対に「他所(よそ)の人に会わない」と言った事が行われていて、物忌みの日数は暦や式占によって決められる事が多かった。

その物忌みに使われる柳や「鬼門の方に植えた」とされる桃の木は陰陽道では魔除けの木として珍重された。

物忌みよりも更に積極的に、凶兆や魔を退ける為に行われたのが「祓い」の儀である。

陰陽道が盛んな頃には月のうちに日を定めて「一ノ祓」、「八ノ祓」、「望月ノ祓」、「晦(みそか)ノ祓」などが行われ、常にまがまがしいしいものを寄せつけない様にしていた。

他には「鳴弦(めいげん)」や豆撒きのルーツである「追儺(ついな)え」と言ったものがあった。

今日でも行われている「名越(夏越/なごし)の祓え」も陰陽道の代表的な祓いである。

「撫物(なでもの)」はその名の通り撫でる事に拠ってその人の穢(けが)れをすっかり移してそれを川へ流す、もしくは焼くなどの処分をして穢(けが)れを他世界へ送り出す呪物の事を意味する。

今日でも「大祓の神事」などで見受けられる紙の人形が撫物(なでもの)に相当する。

人形は人形呪術と言う視点から見ると本来の撫物(なでもの)の域を越えて呪殺で使用される様になった。

呪術的方法で怨敵の魂を人形に入れ込み、これを焼いたり切ったり釘を打ったり辻に埋めたりした様である。

また、人形も単に人の形をしたものばかりではなく、いっそう効果を高める為に呪文や九字を書いたりして工夫された。

「式神(しきがみ)」とは陰陽師が使役する鬼神を意味し、「識神」と書く場合もある。

「式」という字には「用いる」と言う意味があり、「式神」と言う神が居る訳ではない。

有名な式神としては「安倍晴明が使役した」とされる十二神将(青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空)が上げられる。

仏教にも十二神将の名が見られるが、まったく別のものである。

「符呪」とは陰陽道の呪文を書きつけた霊符呪術の事を意味する。

「お札やお守りの原形」と考える事ができる。

陰陽道で常用する呪文に「急急如律令」があり、これは物事の成就を早める符呪である。

符呪は初期には感じと組み合わせて用いる事が多かった様だが、密教や修験道と融合すると梵字を加えたものや神仏の名を記したもの、絵を加えたもの、九字や五芒星を加えたものなど沢山の符呪が編み出された。


本来、風水学は中華思想に基づいた皇帝の為の学問で有る。

形法は自然を観察し、自然を理解することを重視する。

この理論自体は、実際の調査考察の結果から生み出されたものが多く、きわめて合理的なものを含んでいる。

中華王朝の古代都市の宮殿などは、みんな「龍穴」と言うエネルギースポットに建てられていて、この場所は三方を山脈に囲まれ風を制御でき、平地には豊かな水に恵まれている。

つまり風水を当て嵌めなくても、都市を建設するには、うってつけの場所なのである。

その立地が、抽象的な「気」と自然環境における具体的な形態との関係を示している。

従って、深く真剣に自然の形態を観察しさえすれば、気の吉凶順逆を知る事ができ、それによって建築物の禍福を推測し、良地を選び出せるのである。

元を正せば、支配者の住居の選定の為の自然を考慮した環境学、健康学、と言う観点からの立地工学だった。

しかしながら、中華思想の立場を考察すると、中華王城の鬼門の方位、東北の方角(艮)は万里の長城で解る通り、外敵(異民族)の侵入ルートである。

裏鬼門、南西(坤)の方位は、台風の進入してくる方位である。

従って、本来の成立ちを勘案すると、日本の古都(王城)や江戸(東京)に中華王城の鬼門の方位が宛て嵌まる物ではない。

言わしてもらえば、当時の大和朝廷が文明の進んだ中華の文化文明を手放しで有り難がり模倣した結果である。

その、中国の皇帝の鬼門の方位が、何故に日本の家庭の鬼門に通用するのか大疑問で有る。

基本的には、生活の知恵的地理学で在った筈の風水学が、信仰や政治に利用され、その時点で「人為的な都合が混ざっている」にも関わらず、構わずにそれを金儲けに利用する輩が後を絶たない。

かれらは、何を当て嵌めて人々を迷わそうとするのか?

およそ気分的な域を脱せず、物笑いの種である。

本来、皇帝の居城位置を基本にした中国四千年の風水と、日本のそれぞれの土地や個人の家、それぞれの風水の龍穴は、それぞれに違って当たり前である。

それを一定の方位ルールに基ずいて他人にものを言い始めたら、それは暴挙だから疑って構わないだろう。



明治維新後の千八百七十二年に至り、新政府は陰陽道を「迷信」として廃止させた。

現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村に伝わるいざなぎ流を除けば、ほとんど暦などに残滓を残すのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。

この庶民に関わりが無い風水学を庶民に売り込んでいる風水師は、中華王城の鬼門の方位を庶民の住居に「どう使おう」と言うのか?


ついでだから、暦についても書こう。

ここは重要なのだが、暦は・神道のもので本来は仏教には関係なく、中国の暦には「仏滅」は無い。

つまり、日本の暦は「宗教がごっちゃ混ぜ」なのである。

従って例え隣国でも日本人以外の東洋人相手には「仏滅」は通じない。

それで、不思議に思って今の日本の暦の事を調べると、暦その物の原点は確かに中国に在った。

古来の占術暦は「太陰暦(旧暦)」から来ている。

近頃、映画「陰陽師シリーズ」や「風水ブーム」で、忘れかけた太陰暦(旧暦)も少しは復活の兆(きざ)しがある。

だが、「仏滅」や「友引」は陰陽師にも風水にも関係が無い。

それでは、「仏滅」や「友引」が日本の暦に登場したのは、何時の頃なのか・・・・・。

それは明治時代の初期の頃だった。

日本の近代化を急ぐ明治政府は、暦も欧米式の「太陽暦」に無理やり変え様とし、旧来使っていた「太陰暦(旧暦)」の使用を禁止にした。

時は、文明開化の世であり、新政府は何が何でも西洋式にする事で欧米に近付こうとした。

勿論、通商行為などの為の日付の共通性も必要であったし、国力を向上させ植民地化を避け不平等条約を改正させる為だった。

しかし、長い間「太陰暦(旧暦)」に慣れ親しんだ庶民にしてみれば、急に暦と季節感が違い、土地の氏神様の祭り事にも支障を感じる。

故にそれを受け入れる事に抵抗して、密かに密造された旧暦(太陰暦)の暦を流通させていた。

彼らにとって、当時は太陰暦(旧暦)が「普通」なのである。

明治十二〜三年頃その暦の密造ブームは頂天に達し、暦屋にとって結構な儲け商売になった。

今でも、旧暦の「何々に当たる」と言った話は時折聞く。

味を占めた儲け主義の暦屋が、政府が進める新暦(太陽暦)化に旧暦の「何々に当たる」と言った事を紛れ込ませて売れ行きを伸ばし、ついでに依り売れる様に易学とやらに「仏滅」や「友引」などを「勝手に創り出して」印刷し、いっそう暦に重みを付けたのだが、庶民はそれに見事に嵌まった。

人間は国籍を問わず、結構そうした「縁起かつぎ」みたいなものが本質的に好きだ。

それに暦屋が勝手に創っても、日本には占術的な物をすんなり受け入れられる信仰土壌が、しっかりと出来きていた。

そして急速に欧米化を強いる政府への反抗心も手伝って、返って庶民の間に暦占い人気が出てしまったのだ。

そこで、迷信じみた日本式「普通」が生まれた。

暦屋が勝手に創り出した「仏滅」でも、数十年も時を経るとそれが庶民には「普通」になる。

そして、その暦を頼りに生活のリズムを刻んで疑わない。

「それが、時として事を進める妨げになろうとも」である。

もっとも世の中には、「信じたがる人間」や「支配されたがる人間」も居るから、まんざえら信じさせる人間や支配する人間ばかりが悪いとは限らない事も事実である。

占いを前面に押し出して大量の占い本を売り上げ、テレビに出演して散々に占った有名人個人の未来予測が一つも当たらず、それが検証される頃にはテレビ出演を降板して逃げた女性占い師の事は記憶に新しい。


この物語、第一巻の第一章から読み進めた方にはもうお判りだが、そもそも信仰や占術が始まったのは群れのリーダーが「人々の脅迫観念」を自らの権威付けに利用した事から始まっている。

故に信仰には、科学的根拠は一切存在しない。

従って神仏や占術に過大な期待をするのは根本的に間違いで、つまり信仰は「心の安定を得られる為のもの」であって、欲の深い者に都合の良い幸運の奇跡など起こらないのである。

政治経済のリーダーも宗教家も本質は役者で、役者で居無ければ大衆に信用されないから力を見せつけたり信じさせる為に衣装や舞台装置(建造物)と演出、そして評判には拘(こだわ)る事になる。

まぁ、それらは全て指導者としての力を心理的に補完する為のものだから衣装を脱げば只の人で、評判を壊して支持者や信者が居なければ個人の力など知れたものである。


確かに、自分の力の及ばない物に翻弄(ほんろう)されるのが人生だから、神仏や占術に頼りたくなる心情は理解できる。

しかし残酷な事に、「信仰をしたから」と言って貴方に都合の良い奇跡など起こらないし、祈祷料や賽銭を供えた位で貴方に都合の良い奇跡など、「どんなに信仰をしようと起きない」と知るべきである。

但し、人間の生き行く在り方などの「教え」としては学ぶべきものが多いのが信仰であるから、神仏に過大な期待をするのでは無く教えを請う存在と位置付ければ良いのである。


占術や宗教の教義をもって人を脅し、「金品を巻き上げよう」と言うのは、我輩に言わせれば最も卑劣な行為である。

何故なら、その占術や宗教の教義の成立ちに遡ると、全て誰かの都合により出来上がった物である。

そう言う金目当ての輩(やから)に限って、他人を脅して自分は贅沢三昧、けして「世の範」となるような生活はしていない。

しかしながらそれに乗る人々も、もっぱら労せずに「金で幸運を呼び込もう」と言う「よこしまな心」の発露であるから、五十歩百歩なのかも知れない。

しかしその不本意も含めて、「その全てが自分の人生だ」と自覚して初めて神は自分の中に宿るもので、「賽銭をあげたから」と言って、神は安易に助けてくれるものではない。


冷静に信心の本質を考えて見れば、世の中にこれほど矛盾したものは無い。

間違えてもらっては困るが、「現世利益」にしても「来世利益」にしても、詰まる所は「自らの利」である。

ご利益にしても、心の平穏にしても、他人より多くをもたらせて欲しいから信心をする。

つまり、信心深い人間は「欲が深い」のである。

信仰にしても占いにしても、夢中になる事は最も人間らしい行為であるが、それは「煩悩(欲が深い)が深い」と言う事で、その信仰集団内部での事はともかく、実は、外部に対して自慢できた話しではないのである。

或る一人の人物が生涯不幸な生活に苦しみ、何も良い事無く人生を終えた。

生前、誰しもが認める不幸な人生だったが、死後に彼の生き方は評価され、「偉人」と称えられ歴史に残った。

不幸な人生に苦しみ抜いて死んで行った彼は、死後、遅ればせに評価される。

これは果たして幸せだったのか不幸だったのか?

死んでから評価されても、「彼自身が幸せ」とは言い切れない。

「現世利益」とはそう言うもので、「楽に幸せに暮らしたい」と言う、利己的な欲望である。

その「楽に、幸せに暮らしたい」と言う欲望は、清く真面目に生きる事とは最初から矛盾が有る。

清く真面目に生きて財を成す者など、芸術やスポーツの分野を除けば、確率からして皆無に等しい。

その芸術やスポーツの分野の者も、政治や経済に転身すると「現世利益」に塗(まみ)れるのが世の常で、欲の深い人間で無ければ、世の中は渡り辛いものである。

つまり、神仏を信じ清く真面目に生きれば、「楽に、幸せに暮らせる」と言う信仰上の教えは、成り立たないのだ。

内容に若干の違いがあったとしても、信仰の本質は欲である。

たとえ他人の幸せを願う事でも、願望を叶えるように神仏に祈る事は一種の「欲求」である。

信心深い事を誇りにして居る事自体、その者の「欲が深い」事に気が付いていないのである。

それ故物欲や色欲を封じ込めても、その先に目指すものが自らの「あの世での幸せ」だったり「来世利益」だったりであるから、質は違っても欲の一種には変わりは無い。

そう考えれば、貢がせる教祖と貢ぐ信者の間に在るのは、「現世利益や来世利益」の「欲(煩悩)の掛け合い」と言う事になり、至極判り易い話ではある。

断言するが、姓名学や印章学は人の弱みに付け込んだ言わば「脅し商法」である。

こんな漢字圏内しか通用しない姓名学や印章学の話を、飯の種にする輩こそ地獄に落ちるべきで、その他壷などの物品を売りつけるなど「何おか言わんや」である。

しかし、そう言う事がお好きな方が居られるので、どうしょうも無くなって「騙された」と言うのは虫が良すぎるのではないだろうか?

勿論、世の中の人の個性に拠っては「現実逃避の需要」があるから、占術の存在も完全に否定する気はない。他人の心に踏み込む事など、我輩には出来ないからだ。それと同様に、それを職業にする人物を、我輩は信用できない。

我輩に言わせれば、占術家も宗教家も、本物なら「地球温暖化」、「飢餓地域」と言った地球規模の問題や、「少子高齢化」などの国家的危機に立ち上がっても良さそうで有るが、そうした納得できる行動は余り見られず金儲けになる個人を心理的に脅すだけである。

それで方向に間違いは無いのであれば、彼らの存在が「眉唾」と言われても仕方が無い。

もっともこの占術、良くしたもので、当らない時の為に奥が深くなっている。

つまり、家相は良くなったが方位が悪い、方位は良くなったが先祖の霊が悲しんでいる。

次々に違う占術の分野が問題になり、それが達せられても、法律の解釈と同じで解釈上の幅があるから、今度は「まだ量や質が足りない」と、怪しい改善を求める事が出来る。

「自分で見たものしか信じない」と言う人間が居るが、堅実のようで実は一番危なっかしく騙され易い人種である。

何故なら、手品を考えて見れば判る。

視覚は、時にその人間を騙す為の有力な手段に成るからで、いかがわしい信仰にもこの手品もどきの視覚の思い込みが使われている事が多い。

不思議な事に、「自分で見たものしか信じない」のまやかしに、理数系に得ている人物が懸かり易い事から、答えがハッキリする事を扱う人種の方が、基本的に素直なのかも知れない。

洋の東西を問わず、凡(お)よそ信仰上のいかがわしい点は、「奇蹟」と称するまやかしで有る。

これは一例に挙げるもので、特定の宗教を攻撃する積りでは無いが、「法力で温泉を掘り当てる」と言う「でっち上げの奇蹟」は、一人の高僧が、寺での勤めの傍らで起こすには、とても手が廻らないくらい広範囲に多数、日本中に存在する。

それでも善男善女は、「仏の徳の体現者」と信じて信仰した。

つまり宗教の説得力には不思議な力が根本にあり、哲学は装飾に過ぎない。
しかしこの奇蹟の部分を真っ向から問い質すと、およそ論理的でない過剰防衛的な答えが返って来る。

人間は、往々にして理屈より感情が先に立つ、それ故に占術や宗教が入り込む余地が出来る。

終(つい)には、冷静に考えると在り得ない奇蹟が容認される様になる。

ここで我輩が問題にするのは、信仰や占術に頼る人達の多くが、そう多くの財には恵まれていない「比較的困窮層や平均的庶民層」と言う事である。

だからこそ、少しでも幸運を求めて奇蹟や現世利益を願う。

所が神や仏の使いは、その僅かな希望を利用して、本来の神や仏の教えではない集金活動をする。

その的(まと)になってしまうのが、矛盾する事に富裕階級ではなく、「比較的困窮層や平均的庶民層」と言う所が、何とも痛ましい。

本来、占いは「日々の良し悪しを楽しむ位」がちょうど良いものである。


神仏と呪術や占術は元々かかわりが深く、重複する場合も多々ある。

つまり「祈り」の先にある占術、呪術、信仰などは、ある種不思議な神秘性が売り物である。

不思議と言えば、元々人が命を繋ぐこと自体が、考えてみれば素直に不思議である。

「輪廻転生」と言うが、生物には遺伝子がある。

人には誰しも祖先がある事を、普段の生活に於いて忘れているから、一見脈略が無い出来事には運命的なものに感じ、「神に祈りたくなる」が、実はこうした現象には伏線があり、正体はDNA遺伝子レベルの記憶である。

如何に伝達するかのメカニズムは解明出来ていないが、かなりの情報量が潜在能力として伝達されて行く。
単純に言えば、教えなくても人間は二足歩行をする。

それ故、人間の受け継いだ個性に拠っては、前世の記憶を鮮明に再生できる人間が居ても何も不思議は無いのかも知れない。

つまり、無意識に受け継いだ先祖の遺伝情報が細胞を形作り、能力を伝えたり顔が似たり、性格や考え方が似てきても不思議は無い。

その遺伝子レベルの遠い記憶が、時を隔ててよみがえって来る。

後世に、他人の空似や、まるで生まれ変わりの様な行動をする人物が現れるのは、そう言う事かも知れない。

たとえば同じ哺乳類でも、イルカや鯨は人間とは違う伝達能力で「遠方の仲間と会話する」と言われている。

枝分かれする進化の過程で人間が失ってしまった能力が、ヒヨッコリ顔を出す超能力者が存在しても否定はしない。

それを周りが神と崇める事はまだしも、その能力を持たない並みの人間の後継者が、他の宗教を否定し、既得権益と化した「利の為」に信者の不安を煽り続けるから、「哲学とは認め難いもの」になってしまう。

欲をかく人間は心まで貧しくなり、傍目見苦しい事を恥ずかしげもなくしてしまう。

本来、「教えが立派なら、建物を立派にする必要はない」と思うが、何の能力も無い人間が教団を維持しようとするから、現代では流行らない「こけおどしの建物」を未だに建てたがる。

案外、その宗教を冒涜しているのはその教団自身かも知れない。

まぁ、急増している高齢者世帯やホームレスの支援を、「利にならないから」と見て見ぬ振りで放置している宗教団体が、見てくれだけ立派にして、どんな教えを説いても空しいだけである。

人間の心理は複雑で、自らが安心する為に信仰や常識に縛られたがる者が多い。

端的に言うと、「皆で渡れば恐くない式」の真理で、そこにさえ逃げ込めば平穏に暮らして行ける。

それが悪いとは言わないが、案外本人はそれと気が付いていない。

勘違いで立派な事をしていると思い込むから、他人にまでそれを強いる様になる。

過去、信仰に於いて、それを信じさせるには奇跡が必要だった。

民の得心の為に必要な、現世御利益の具現化である。

この奇跡には、種々の化学現象に拠るこけ脅し的パホーマンスを始め、特に、現在は周知の事実となっている東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療、などが含まれが、予備知識に乏しい当時の民としては、劇的な回復効果を「奇跡」と取る向きも多かった。

つまり修験(山伏)道師は、映画「ブッシュマン」のごとき無知の衝撃を、奇跡として信仰に結びつける誘導をした。

まぁ考えて見れば、現代でも人間の「欲」を適えているのは理科学であるから当時としても同様で、奇跡の根拠が呪術や信仰の類ではけしてない。

それをあたかも奇跡のごとく伝える事に拠って信者を勝ち取るのが布教者の技術なのではないだろうか?

当然ながら、人間は無知の現象に畏怖を感じる。

事実、こうした治療術は、大陸から密教系仏教と伴にもたらされた修験道師、修験僧(山伏)の独占する術であり、当初は、「だれだれ様は、体に触れただけで病を治した」と大げさに喧伝され、信仰の対象となった。

それが、何代かの時を経ると、民衆の心の中で一人歩きし、現在では東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療とはその存在を知りつつも、結びつける事は無い。

何と成れば、営々と築いた信仰対象を、神秘な存在で維持しなければ、心の拠り所がなくなるからである。

しかし、我輩に言わせれば、「教えそのものが良いのであれば」、無理に「眉唾の奇跡」などに固執する方が「余程嘘っぽい」し、この先の時代、若者達には矛盾と成り、折角の「良い思想的教えさえ、疑われるのではないか」と危惧している。

人間には動物としての「本能」と、脳が発達したが為の思考力の「理性」が混在していて、その双方が人間の固体の意識を構成している。

本来、「価値観」何んてものは人間の固体に拠って千差万別で、別に唯一絶対な訳ではない。

所が、一旦一つの価値観を「受け入れる」と、人間の固体はそれに執着し「頑な(かたくな/強情)」に成る。

人間の固体には「意識と行動を一致させよう」と言う潜在的要求(一貫性行動理論)が理性としてある為に、意識と行動に「整合性が取れない」と不安になるのが人間で、これが人間の固体意識を「頑な(かたくな/強情)」にする要素である。


人間は煩悩の塊(かたまり)で欲の深い生き物だから、自分の得に成らない事は、基本的に「やろう」とはしない。

信仰を大衆に広めるには、テクニック(技術)として、教えを「俗」にまで降ろして行かねば、中々理解されない。

そこで、「俗」な現世利益の「ご利益」が、大衆を引き付ける為に必要だった。

つまり、「自分だけでも良い思いをしたい」と言う人の心の「卑しさ」が、信仰の原点である。

所が、建前「俗」な現世利益の追求では外聞が悪いから、仮想現実(バーチャル・リアリティ)のオブラート(教え/教義)に包んで刺激を少なくする。

実は、「悟(さと)りを開いた」と言う事は、言い方を変えれば自分をも「騙し果(おお)せた」と言う事である。

つまり、人間の固体に存在する「意識と行動を一致させよう」と言う潜在的要求(一貫性行動理論)において、何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返して、「意識を変えてしまえば、今まで出来ない」と思っている事が、出来る様に成るのだ。

その「出来ない事」が出来る様に成ると、それが「信仰のご利益になる」と思った方が正しいのである。

一方の「本能」に於いて、人間は群れ社会の生き物である。

群れ社会にはリーダーが必要で、それ故人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が、深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である群れ社会を、「無意識に構成し様」とする本能に起因するものだ。

だが、深層心理の世界の現実として信仰が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する擬似行為として、支配欲や被支配欲を満足させる為に、仮想現実(バーチャル・リアリティ)の信仰は、教団(教祖)と信者の関係として成立している。


利巧な人間ほど好奇心が強く、何か思い付けば「試そう」と努力する。

そうした人間が進歩するのだが、そこを否定して自ら進歩の芽を摘んでしまう人間が大半である。

錨(いかり)は流されない為に降ろす物だが、反面自らの動きを封じる物である。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩が無いのである。

また、人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり、アンカリング効果(思い込み)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)と言う習性が個体の思考の発露の大半を占めているのである。

「私には出来ない」の大半は「出来ない」のではなく、思い込みで「やりたくない」と言う事に成る。

何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返して意識を変えてしまえば今まで「出来ない」と思っている事が出来る様に成る。

アンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)を別の側面で見ると、「思い込みに拠る頑固者」と言う事に成る。

時には手の着けられない困った存在ではあるが、小さな頑固者は正直でお人好しである。

つまり相手からすると一見付き合い辛そうだが、一度理解してしまえば何を考えているか直ぐに見当が付く「安全パイ」と言う訳で、実は扱い易く付き合い易いのである。
,br> それ故安心出来る愛すべき人物が小さな頑固者である。

反面、常に新しい発想をする人間は「何を思い付き、何を言い出すか判らない」ので、周囲にとっては不気味な存在である。

当然ながら、周囲は「非常識」の落印を押す。

永い事工場の外に佇(たたず)み、輸入自動織機の音だけを聞いて「国産の自動織機を音だけで作った」と言われるトヨタグループ(自動車・自動織機の創始者・豊田佐吉も、最初周囲は「あの若者、働きもせずあんな所で一日ボーッとして気味が悪い」と見ていた。

ホンダ自動車の本田総一郎は、若い時代、試作の為に昼夜を問わず働き、小さな町工場で真夜中まで構わずガンガンと音を立てる「非常識で近所迷惑な存在だった」と言われている。

まぁ、平凡に生きるか非凡に生きるかは本人の自由だが、周囲の冷たい圧力に負けない「非常識」を持たないと何か大きな事は成し遂げられないかも知れない。


信仰とは信心とも言い、何かを信じる心から始まっている。

「アンカリング効果と一貫性行動理論」の習性を最も上手く取り入れているのが実は信仰・宗教の類で、一度信じてしまった個体の思考は正しくアンカリング効果と一貫性行動理論に拠る生活から抜け出せない事になる。

「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、人間の潜在意識にまで影響を与える「思い込み」だから、実は「手品の奇跡(錯覚だが・・)」や「占術(うらない)」、夢や催眠術、宗教上の集団催眠などもアンカリング効果(行動形態学上の基点)の原理効用が基本になる。

例えば、信仰の場で信者の無意識行動が見られるが、それは奇跡ではなくアンカリング効果(行動形態学上の基点)の「思い込み」が催眠術的な効果で「神掛かり的」な無意識行動をさせるのである。

宗教や信仰、政治思想などは、永い事民衆のコントロール(制御)に利用されて来た。

その信じ込まされたアンカリング効果(思い込み)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)から、異端者は弾圧され、自爆や特攻の殉教や殉国の悲劇にまで及んでいる。

それは、どう生きようと個人の勝手で、アンカリング効果(行動形態学上の基点)や一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)の範囲で判断した価値観の幸せも、自己満足では在るが本人は充分幸せを感じるかも知れない。

信心深く、社会の既成概念に従って平凡無難な人生を送り、「一生真面目に生きた」と思うのも本人がそれで良ければ自己満足の幸せではある。

信仰・宗教の類は、固体の【右脳域】に働きかけ癒しを図るものであるから、それに救いを求める固体には必要かも知れないので、一概に批難や批判は出来ない。

しかしこの「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、安全ではあるが別の側面から見れば「平凡で詰まらない人生」と言う淋しいものに成る。

考えてみるべきは、人生の質を向上させるには「果たしてアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)は必要なのだろうか?」と言う事である。

過去の歴史を見ても、化学や物理学、生命(生体)科学などは次々と定説がひるがえされて来た。

それは、既成概念に囚われずに一貫して意識改革をし続けた研究者に拠って新たな発見や発明がもたらされたのであって、アンカリング効果と一貫性行動理論に囚われていてはこうした偉業はなされなかった筈である。

本来、価値観何てものは別に唯一絶対な訳ではない。

このアンカリング効果(行動形態学上の基点)は、錨(いかり)を上げて自由な思考にしまえば価値判断の範囲も変わるもので、全く違う発想が持てるのである。

一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)においても頑固に既存意識を守ろうとせず、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置けば良い訳だ。

こう考えると、本来は異質な発想を持つ者との交流こそが、発見や発明の貴重なヒントをもたらす相手なのだが、それを己のアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて排除してしまうのが愚かな人間の狭い考え方である。

例えばであるが、学校で教わった学問は基本の定説で、実は教わった者にとってはスタート台である。

その定説を単に知識としてひけらかすか、新たな発見や発明の土台にするかが固体の資質問題であるが、「それではあなた独自の考察は?」と問うと、他人の説を引用するだけで、何も出て来ないでは「何もやっていない」と同じ事なのである。

そしてそう言う者の特徴は、「異質な者に憎悪を抱き、その同類しか近付けない」と言うアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られた典型的特長の持ち主である。

同類だけで認め合っていては、進歩など期待出来ない。

そこで異質な者の意見を聞き、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置く事が求められるのである。

所が、何時の時代の人間も「普通はこうだ。普通はそうじゃない。」とアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて新たな発想をしようとしない。

本来新たな発想をすべき研究者の大半も、実は定説に拘ってそこから抜け出せないのが現実である。

実は「教えを守れ」と説く信仰に於いても、教主や開祖は盲信する事無く学識を積んだ上で、新しい発想を込めて新たな宗教思想を成立させ新宗派を起こしている。

確かに「有能な人物に導かれる」と言う発想も否定は出来ないが、言い方を変えると、「アンカリング効果と一貫性行動理論を実践する」と言う事は、決まりに頼り「何も考えずに済む横着な生き方を選択した」と言う事に成る。

その辺りの微妙な発想に柔軟性が欠けると、「信仰や信念」を理由に小さな自己満足に埋没する事になる。



悪意を懲らしめる「地獄」は確実に存在する。

しかし「地獄」は、精神世界に存在するものだから現実世界には存在しない。

つまり神の力が及ぼせるのは個の心の中だけであり、「地獄」はバーチャル(仮想現実)の世界の事である。

従って、神が存在するならば善意の者に利する筈の事が、残念ながら善意よりも悪意に利するのが現実社会である。

信仰の上での問題点は、歴史観に対して信仰上の理由で心を閉ざす所にある。
,br> 信仰に於いては、少なくとも「客観的視点」が重要であり、それを怠ると盲信に立ち至る事になる。

あたかも、敬虔な信者が素晴らしいかのごとき発想は厳に慎まなければならない。

何故ならば、敬虔な信者はその信仰に於いて善良かも知れないが、他の信仰に対しては善良とは言い難いからだ。

そうなると信仰の善良は只の幻想で、その信仰に於ける幸福は自分や家族だけの為のもので、他人の為のものでは無いならば、哲学などと呼べる高級なものではけして無い事に成る。

つまり敬虔な信者は、その信者の独り善がりに過ぎないのだから本人が信仰するのは構わないが、それを他人に押し売りするのは見苦しい話である。

もし反論があるのなら、僧侶でも神主でも牧師でも神父でも金集めばかりしていないで、宗旨は問わないから集まって中東紛争地域に出かけて「平和祈願」の座り込みでも行動して見ろと言いたい。



誤解されると困るので念を押して置くが、我輩は寺や神社を全て否定している訳ではない。

埋葬場所は必要であるし、祭りはイベントとして庶民のかけがえの無い娯楽の場を提供している。

特に、一部の神社を除き、歳月の経過とともに宗教色が薄れた神社の存在は、地域の交流の場として存在意義は大きい。

何故なら現代に於いて、お祭り好きが「熱心な神社の信者とは言えない程変質して、明らかに祭りのイベントを楽しんでいる」からである。

宗教(信仰)の中に哲学はあるが、哲学の中に宗教(信仰)は存在しない。

貴方にこの意味が判るか?

人間にはそれぞれに「思い」が有る。

「思い」は個人のものだから、その内容についてトヤカク言うものではない。

しかしながら人間には、「個人の思い」を、「誰でもが受け入れる」と誤解し、それが受け入れられないと、相手が間違っているがごときに考える独善的な所がある。

信仰も一種の「思い」であるから、個人が「思う」のは自由だが、相手に「思わせよう」と言う姿勢は、傲慢な事である。

本来、信仰は理屈を超越した精神世界のものである。

また、本来信仰は「如何に生きるべきか」の示針である。

しかし矛盾する事に、最も感情とは一線を画すべき信仰が原因で、信者が一番感情を露(あらわ)にする局面が多いのは何故だろうか?

これは、信仰をする者も司る者も人間だからである。

つまり信仰は、個人的な尺度に拠る「感情が支配している」からではないのだろうか。


洋の東西を問わず、神仏は本来裸形である。

これは女神も菩薩も同じ事で、精神世界に在る神に、羞恥心は存在しないからである。

古代ギリシャのオリンポス競技が、男女ともに全裸で行われたのは、神に捧げる崇高な儀式競技だったからである。

同様に、日本の神楽に於ける「巫女舞」が、裸形だったからからと言って、恥ずべき事でも否定すべき事でもない。

もっとも神に近付く為の崇高な行為であるから、本来それが正しいのである。

原点に立ち返ると、裸を「猥褻」と言い出したのは文明が進んだからで、未開の裸族は、裸を見ただけでは勿論発情しない。

言い換えれば、米国のポルノ映画産業は解禁とともに衰退した。

性行為は「好きで当たり前」なのが人間で、それが基本に無ければ子孫は未来に繋げない。

所が、性に関した事を言おうものなら「やれセクハラだ。」と、露骨に嫌な顔をする。

つまり偏見を持って、いたずらに「猥褻」を言い立てている人間こそ、現在の性的倫理感の荒廃に関しての元凶である。

それでも「私はそうは思わない。」と、理屈ではなく、誰かに植え付けられた感情でものを言う方も居られるだろうが、「貴方の思う事は全て正しい」と言う論理は、それこそ思い上がりである。

言わば「畏怖の念」や「未知への恐怖」などの【右脳域の感性】の裏返しに「占い」や「信仰(宗教)」は存在する。

占いも信仰(宗教)も性行為も【右脳域での思考】で、本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの感性が、人間としての固体に影響を与えている。

従って、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしている【左脳域での思考】とは相反する「論理的ではないもの」が、「占い」や「信仰(宗教)」そして「性行為」などの範疇である。


人間の本能行動には、実は「左脳域」だけではなく「前頭極」に拠る極限行動も存在する。

脳の「前頭極」と言う部分は、極限状態に遭遇した時には理性を瞬時に抑える働きがある。

理由は、生き物には持って生まれた情況対応本能を兼ね備えていて、考える暇(いとま)の無い瞬時の危機に遭遇した時に、理性で論理的に思考して行動を起こしては間に合わないから、身を守る為に論理的な思考回路を遮断して咄嗟に本能的判断して行動するのである。

この「前頭極」の働きは、理性拠りは本能で対応しないと間に合わない非常時の場合の緊急的な保身の脳作用であるのだが、極度の不安(恐怖)状態の場合もこの「前頭極」は作用して思考回路を咄嗟に遮断し頭の中を真っ白にする。

これが厄介な事に、本来必要としない時でも本人の思い込みで極限状態に遭遇した時、頭の中を真っ白にした人間は理性のコントロールを失っているから本能で思わぬ行動をする。

「考える前に行動しろ」と言う信号が脳から肉体(からだ)に配信される事で、所謂「火事場の馬鹿力」や「無我無中」と表現される行動で、思考回路を遮断して理性を失っての行動であるから本人に行動そのものにまったく自覚が無い場合も有る。

自分では「大丈夫」と思っていた「振り込め詐欺」に警戒しながらも引っ掛かる事なども、この身を守る為に論理的な思考回路を遮断する「前頭極」の活性状態に電話口で相手の「脅迫観念」を利用した話術で誘導されてしまうからである。

信仰上でも、極度の不安(恐怖)状態に拠る「脅迫観念」から「前頭極」の活性に至って本人にまったく自覚が無い行動現象が起こり、周囲の者からすれば憑依(ひょうい)現象に見えるなどの奇跡の正体でもある。

つまり信仰上でも「振り込め詐欺紛(まが)い」の極限状態の演出に拠り、信心深いほど本人の思い込みで「前頭極の活性現象」は起こり得るもので、それを目の当たりにした周囲の者が、いっそうその信仰を深めるのである。


人は、水が無ければ生きては行けない。

しかし、まったくのH2O(純粋な水)では、1800ccも飲めば死んでしまう。(LD50)

不純物が入っているからこそ、飲料水になる。

水だけでなく、人間が無菌室で育てば、病弱で抵抗力の無い人になる。

適度な汚染の中で、「その汚染と向き合い、どう生きて行くか」を教えるべき所、現在では親も教育機関も、「建前だけの無菌室」で育てようとする。

それでは精神的に脆い身勝手な子供が出来上がり、「その子が既に親になる」と言う悪循環のサイクルに、現在がある。

彼らは、思い通り成らない現実に直面すると、為す術を失い、暴発する。

その部分だけを取り上げるとトラウマと思われる事例でも、遡って遠因を探ると、いま少し基本的な人の「生き方・育て方」の間違いが見えてくる。


人間は、ものを考える(思考する)から苦悩する。

実はこの思考を停止させ(ゆだねる)る事で、苦悩から開放されるのが、信仰における救いである。

勿論、苦悩から救われる事は大事な事で、大いに結構である。

「無我の境地」と言うらしい。

しかし気を付けないと、思考を停止する事により、邪(よこしま)な教義に操られる事例も多い。

思想と信仰の自由はわが国の法律で保障されているが、安易な奇麗事で教えを済まそうとし、現実を隠した理想論ばかりでは現実の役には立たない。

思想も信仰も人が生きて行く為の指針であるから、全てを否定する積りは無い。

唯、思想や信仰を盲信せず、それが本当に「良質なもの」なのかを、判断する力は、個人各々に必要である。

気を付けて欲しいのは指導者の質である。

現世利益の為に信仰を生業として教えを説く自分達が、一番その教えを信じていない宗教家が実は沢山居る。

思想も信仰も、ともすれば「僅かな指導者の利の為」に悪用される事が多いのである。

不安を煽って、教義や思想を無理やり押し付けたり、強引な「入信勧誘や資金集め」をする所は、まず怪しい。

それでも信じたい方は、せめて周りに迷惑を掛けないで居て欲しい。


人間、なまじ高度な知能を持った為に、自然に逆らい勝手に生き始めた。

困った事に、発達した脳は分裂して、思考回路が幾つも出来、矛盾した種類の思考を同時に幾つも持ち合わす様になった。

一人の人間が、善意も悪意も持ち合わせ、愛情も非情も持ち合わせる。

勿論、純愛的純情も、酷く身勝手なスケベ心も、時と場合に拠って持ち合わせている。

そこに自然との違和感が発生して、原始信仰や占術が生まれた。

性善説も性悪説も安易な線引きで、実は両方持ち合わせているのが人間であり、それを「一方に収めよう」とする所に無理がある。

本来、それだけ複雑で矛盾した種類の思考がある以上、強制行為、犯罪行為を別にすれば、「誰の思考が正しい」と結論付ける方こそ、「思い上がり」と言うものである。

ましてや他人に自分の信仰を強制するのは、「強制行為」と言う犯罪であるが、盲信者の論理は「良い事を教えて何が悪い。」と、メチャメチャであり、その自覚がない。

信仰に熱心な人物は、何処か心の奥底に存在する「不安感や依頼心」が根強く、基本的に精神力が弱い人間で、それを塗布しようとする気持ちが信仰を支えている。

否定するかも知れないが、信仰の基本が、理解し難い恐怖「畏怖」である以上、それから逃れる為に「信じ仰ぐ事」が信仰である。

それは心の問題だからまったく理屈は通用しなくなり、一部の思考回路を遮断して不自然な事柄も鵜呑みに盲信し、信仰への「依頼心」が益々強くなる。

また、自分で考えるより楽だから、自分の意志を信仰に預けてしまう愚行も犯す。


ここまでこの物語を読み進めた貴方、もうお気付きだとは思うが、念押しに解説して置く。

ご覧の通り、主だった寺社(総本山、総本宮)の最高位に就くのは、無名・無血統の人間が、「長い修行と英知で上り詰めたえらい人物だから」ではけしてない。

ほとんどが、「元々血統がえらい人物」が居場所を求めて就任したに過ぎなく、またはその子孫だったりする。

それも記録を調べてみると酷いもので、中にはその位に就く為に修行したのが「代理の者」だった事例も少なくない。

つまり修行や教義ではなく血統が問題で、それが「人を教え導く」と言うのが、この国の「固有の文化」らしい。

現代の主だった寺社にも、この元々「血統がえらい人物(皇胤貴族・氏神の血統)」の要件が生きていて、独占しているからお調べあれ。

もっとも、座主や宮司が血統がえらい人物(皇胤貴族・氏神の血統)だと、彼らが教義を何年学んで居ようが関わり無く、それだけでありがたがる者も未だに多いから、信仰心に微妙な懐疑心が生じる。

血統が即ち教義であれば、「古代の氏上(神)」の発想が変わらない事になる。

新興宗教の中にはこの心理を利用して、皇胤、落胤、を名乗る教祖も存在する。


どうも人間は基本的に横着者で、人生楽に生きたいらしく、その目標には熱心である。

不思議な矛盾として、楽になる為の出世競争や発明を、苦労しながら成し遂げようとする。

言い分は「いつか楽になる為の苦労」と言うのだが、お察しの通り、本当の所は人間のあらゆる欲求が「ない交ぜ」の事に拠る行動だから、簡単な答えなど最初から無いのである。

それを否定してしまうと、全てはそこで止まってしまう。

ものの考え方も同様で、欲求が「ない交ぜ」の問題を、一言で解決しようとする所に矛盾がある。

「先祖を大切にしろ」は、教えとして悪いものではない。

だが、宗教家や占い師が金儲け目当てに操ると、それはフィクションでしかない。

現世に起こりし我が身に降りかかる悪しき事象を自らの不徳とせず、霊界に或る「親兄弟や先祖の霊の所業」と疑うはそれこそ罰当たりである。

つまり先祖は、子孫に仇もなさないし繁栄も約束などしない。

それでも宗教や占いを信じたいなら個人の勝手で、止めはしない。

本来、先祖に対する思いは個人の精神の鏡だからで、他人が「どうこう言うべきものでない」のである。

そもそも、「先祖を大切にする」と言う思いは、感謝の念から始まった氏族の思いである。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。個人の能力に関係なく、「お血筋」さえ良ければ、世間はその存在を認めた。

その延長線上に、感謝の念を持って先祖を敬い祭る氏族の風土が出来、段々に一般化して行き宗教家や占い師が便乗した。

つまり圧政の苦しみにあえぐ庶民にとって、その身分の低い血筋の生まれは先祖を敬い祭るほどの「感謝の念が有った」とは思えないのである。

元々少しくらい矛盾が在っても、自己否定に繋がるから、強情を張るのが信仰の悪い所である。

信仰に頼るのもその「簡単な答えを導き出したい」と言う欲求の発露であるが、実の所受け取り方は取り方は何通りもあり、別解釈が出来るから結構都合が良い。

元々人間の心理は、法律も戒律も「他人や多民族に厳しい」と言う結構都合が良い建前のもので、本人の中には「少しくらいは大丈夫」と言う甘えがあっても、事他人や多民族に対しては、容赦はしないのが人間である。

神仏への信仰の拠り所は、幸福への願いである。

裏返して信仰の本音を言えば、自分の不幸を「神仏への信仰心に転化する事で逃れ様」と言う都合の良い逃れの安らぎではないのか?

人生の幸不幸を信仰に逃げ込む心理は判らないでもないが、幸福に成れない事を「神仏や先祖の霊のせいにするのは卑怯」と言うもので、本来はあくまでも現世を生きる者の責任である。


ここまで来れば、もう「判ってもらえる」と思うが、神は安全・安寧を願って「ひれ伏す対象」であり、仏は「生き行く為の悟りを導くもの」であって、両者共に精神世界の存在であるから、強欲に物理的利益を求めても叶える力は最初から無い。

つまり間違っているのは人間で、神や仏ではないのである。

占術・呪術に至っては、相手が信じて初めて効果をあげる物で、信じなければ何の力も無い。


人間が支配出来るのは人間だけで、大自然など、人間が支配できる訳が無い。

それを、信仰で支配しようとする所に、「信仰のおごり」がある。

とどのつまり、信仰は無力なのに、絶対視するから厄介な事になる。

所が日本人は、一般論的に他国人と違う宗教観の側面も持ち合わせている。

一般的に日本人の宗教に対する姿勢は、良く言えば「寛容」、悪く言えば「好い加減」である。

何故なら他国から見れば信じられない事だが、日本人は異宗教の神社とお寺を同時に信仰し、キリスト教徒の祭りであるクリスマスを楽しみ、最近ではラテン・カーニバルの模倣も町単位で始めてしまった。

判り易く言えば、クリスマスを楽しみ初詣に神社に行き寺もお参りもして一人の人間が異なった宗教の祭りを同時に違和感無く楽しむ。

それ故外国人に言わせると、日本人の宗教観は「えらく好い加減な信仰だ」と言われている。


これは、古(いにしえ)より長い歴史に培われた多神教社会の民族的間性で、一神教の国々では理解し難い事である。

こんな信仰の混在生活は他国では赦されない行為で、一神教のキリスト教国、イスラム教国、ユダヤ教国のみならず、同じ多神教の隣国・中国でもそれぞれの信仰はそれを信じる人は一筋で、国や地域で混在していても一人の人間の中での混在生活は在り得ない。

つまり日本人は信仰に対する「貞操観念が希薄」と映るらしい。

しかし、この日本人的寛容の感性、悪い意味で「好い加減」とばかりは言い切れない。

長い間多神教社会であったからこその「受け入れの良さ」もある。

それが証拠に、ユダヤ教徒だろうが、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒に対峙しても、日本人は原則敵意を抱かない。

互いの宗教感を曖昧ながらも容認して一緒に楽しむ感性は、正に言葉通り「好い加減」な社会性かも知れない。

この事は「日本」と言う国家の成り立ちにその特異な宗教観の源が在る。

日本列島の歴史は、大和合(大和/やまと)の国の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。

黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服部族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがてその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させるのだが、その過程で和合の為に宗教観に拠る紛争を排除する知恵を働かせた。

元々の先住蝦夷族(せんじゅうえみしぞく/縄文人)は調和主義の自然神崇拝で、万物が神だった。

そこに宗教が異なる各渡来部族(征服部族)が各々の神を持ち込んだのだが、大和朝廷は統合当地の為にそれらを争う事無く全て容認する八百万(やおよろず)の神の国を成立させ、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)と渡来部族(征服部族)各部族が誓約(うけい)の混血を進めて弥生人を生み出したのである。

確かに一つの宗教に一筋の信心深い人にして見れば、日本人の宗教観は「貞操観念が希薄」と批判されるかも知れないが、一つの宗教に一筋の信心深い人達がその宗教観で相手を否定し紛争や戦争まで起こすと成ると、日本人の「えらく好い加減」な宗教観は、世界平和な良い物ではないだろうか?

実はこの宗教に対する日本人の「貞操観念が希薄」と同じように、今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】に於いても同様に大和合(大和/やまと)の国の成立の為に誓約(うけい)の混血を進める知恵を働かせ、性に於いても「貞操観念が希薄」な「特異な性文化」を結実させた。

その「特異な性文化」は、明治維新の文明開化まで村社会の中で「夜這い」や「寝宿」、「暗闇祭り」として生き続け、欧米の個人競争資本主義とはまったく違うイデオロギーの「共生社会」を成立させていた。

良く考えて欲しいが、「信仰の正義」と「イデオロギーの正義」は抗争・戦争に発展し易い諸刃の剣で、もしかすると「日本式好い加減」こそが人類と言う大枠の正義かも知るれない。

考えるに、或いはこの二つの「貞操観念の希薄」が世界平和と人類共生に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れないのである。


信仰が解決出来るのは、人間の弱い心の補完作用であるから、過大な期待をしてはいけない。

この心理を見失うから、多くの軋轢を信仰がもたらす。

釈迦も、キリストも、アッラーも、そんな事は純粋に望んでは居無い筈で、後世の指導者が己の利害を計算しているに過ぎない。

注意しなければいけないのは、「新しいから、或いは古いから正しい」と言う判断基準である。

ただしそんなものは、存在しない。

古いものは科学的に否定され、新しいものは立証が間に合わない。

こんな事を言うと、商売で信仰や占術をする方に非難されそうだが、つまりは、そんな状況の中で、「確定的な事を他人に言う事」事態が決定的且つ高度に怪しいのだ。

彼らの言い分の多くが、「古くから存在するから正しい。」と言うものだが、それなら、地動説(キリストは天動説)や種の起源は、世界最大の宗教であるキリストの教義に反する。

つまり、古くからの存在に魅力は感じても、「四千年も一万年も存在するから」と言って、けして正しさの判断基準には成らないのだ。


質濃いようだが信仰(宗教)は個々の精神世界のもので、憲法に保障されている信教の自由であるから他人がどうこう言うものではないし、他人に無理に押し付けるものでもない。

そもそも信仰(宗教)や占いは、「恐れ」や「現世利益への欲望」から成り立っている。

「恐れ」であるが、一例を挙げると自分に自信が無い人間ほど虐(いじ)められっ子で、虐(いじ)められても反発は出来ないし直面にする問題の解決が出来ない。

本来こうした事象は本人がアグレシブ(攻撃的)に立ち向かうべきだが、そう言う弱い人間は逃げに走り自傷行為や自殺に走ったり問題の解決を信仰(宗教)や占いに頼りたがる。

つまりあれこれ理屈を付けても答えは一つで、自分に自信があれば強く生きて行ける訳で、問題の解決を他に頼る事は深層心理において自身の能力に「自信が無い」と自覚すべきである。


信仰(宗教)や占いについては、利用する側と利用される側の二種類しかない。

自身の能力に「自信が無い」部分を信仰(宗教)や占いに頼っても奇跡は起こらないし、益してや「現世利益」を願ってその奇跡を「金で買おう」と言う邪(よこしま)な考えで、本人が努力もせずに信仰(宗教)や占いに金を積んでも「横着」と言うものである。

そう言う方は、利用する側の餌食に成るだけである。

自分に自信が有る者は信仰(宗教)や占いを信じないで利用しに掛かるが、自分に自信が無い者は信仰(宗教)に救いを求める。

そして困った事に、信仰(宗教)に救いを求める「自分に自信が無い者」こそ、「その事実を指摘される」と、「自分を否定された」と烈火のごとく怒り出す。

しかし良く考えた方が良い。

そう言う方は全てを「自分以外の他者のせい」にして逃げているのである。

訪れる不幸が「自分のせい」では無く「天からの授かり物」と考えるならば、全ての不幸が「神仏のせい、先祖のせい」にする事から始まってしまい、その信仰(宗教)や占いの矛盾に気が着くべきである。


元々の信仰の為の舞台では、「不気味さや怪しさの演出」が信仰を集める手段だった。

大概の所、人間は「恐怖心」を自分で作り出す。

それを助長するのが、宗教的演出である。

所が、人間の精神的頼りなさは、素地的にそこに共鳴してしまう。

それ故、本来なら充分な知性で乗り切るべき所を、手っ取り早く信仰に頼ってしまうのである。

人間は、常に自分だけ安全な「善意の側に居たがる卑怯者」である。

割の良い儲け話に欲を出して「騙された」と善意を振りかざすが、そんなに簡単に儲かる訳が無い。

欲を出した時点で、立派な共犯者ではないのか?

信仰も政治も似たようなもので、自分に利がないと「騙された」と善意を振りかざす。

つまり、信仰や政治に託す前に「まやかし」を見破れる知性が必要である。

本音で言えば、欲が深いのが人間の本性で、これを抑制するのもまた知性である。

つまり、重要なのは知性に基付いた理念である。

しかし多くの人々は理論や技術は学んでも知性は学ぼうとしない。

知性は金に成らないからである。

心理と言ってしまえばそれまでだが、この金に成らない知性を学ばなかったばかりに、人生を失う者が多い事に気が付くべきである。

元々人間の二面性は本性で、建前の優しさを持ち合わせながら本性では自分が一番大事である。

例え否定しょうが、自分の行動を省みれば、この点を認めざるを得ないのではないだろうか?

矛盾する事に、正直者の善人ほど結果として罪な事も在る。

つまり正直者の善人ほど占いや信仰に傾倒し易く、その反対の者ほど占いや信仰を利用しに掛かる。

しかし信仰の元となる経典を書いた目的は、思想哲学の集大成を後世に残す事である。

経典は生身の人間が悩み抜いて考えた哲学書であるから、内容の意味を読み取る事が大事で、意味も判らずただ読経を唱和したり呪文や念仏を唱えたりお布施をする事ではご利益など無い。


そう言うお人好しが、宗教家にとって「一番扱い易い相手」である事を肝に念じるべきである。


信仰や占術に於いて、その権威付けに利用されるのが未知なるものへの恐怖心理を巧みに利用し、そこから逃れる「心理的効果の演出」である。

最初から科学的だったのではなく、経験的学習の積み重ねがそれを完成させたのだが、心理的演出効果の応用で人間の感情のコントロールと上手にシンクロして居る。

その秘密の鍵が、「ベータ・エンドロフィン」と言う脳内分泌ホルモンの存在である。

ベータ・エンドロフィンは脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや、麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。

最も身体に安全なだけでなく、体調や精神を整える効果がある良質な脳内麻薬で、老化と伴に訪れる体の痛みをそれと知らずに緩和する鎮痛作用の働きや不安心理を安心に変える効果もある。

鍼灸のツボ治療も、刺激によって脳の受け持ち部分を、ピック・アップ・ワンポイントでベータ・エンドロフィンを分泌させる為の行為である。

ベータ・エンドロフィンには痛みの緩和に止まらず、細胞の活性効果による自然治癒効果や、精神を安定させる効果もある。

つまり、泣いたり笑ったりの感情の発露は、ベータ・エンドロフィンを発生させ、精神バランスを取る為の「興奮」である。


興奮(こふうん)の要因は、「喜怒哀楽(きどあいらく)」と言われる四種類の感情の高まりに拠るものである。

先に「喜と楽」を取り上げるが、「喜と楽」は五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)による刺激から起こるものである。

その五感の要因を多く含むもの、例えば、食事(食べ物には舌ざわりなど含めて視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚全ての要素がある)や性的行為(多岐に輪たる性癖も含め五感を刺激する要因がある。)その他としては芸術的・信仰的・運動的な刺激を受けて発する感情の一つが、興奮(こふうん・ハイテンション)である。

裏返すと、これらは人間の「本能的な欲求(欲望)」であり、人間は五感を満たす為に行動している事になる。

興奮した状態になると、真っ先に心臓の鼓動が早まり血液の循環が早くなり、同時に血管が膨張して体温が上昇するが、発汗する事によって一定の体温に保たれようとする。

体質にもよるが興奮すると体全体に赤みを帯びる人もいる。

興奮から冷める事で興奮の状態から開放され、通常の状態へと戻るが、開放感などの快感を伴い、精神的バランスを取る上で効果が期待できる。

興奮した状態でいる間は通常に比べ大きなエネルギーを消費する為、長時間興奮している事は体力を浪費するが、この興奮状態が、快楽系快感ホルモン物質ベータ・エンドロフィンが脳内に分泌放出される事に拠って快感を感じるのである。

マラソンなどでの極限の運動でも、「ランナーズ・ハイ(テンション)」に拠る同等の快感を得る場合がある。

人間は性行為で快感を得れば、ベータ・エンドロフィンが脳内に分泌され放出される 。

快感から導かれる分泌ホルモンの効果「脳内物質ベータ・エンドロフィン」について説明と、人間が笑ったっり、興奮して快感を感じると、脳内物質のベータエンドロフィンが分泌される。

その「ベータ・エンドロフィン」というホルモンは、笑う事や、マイナスイオンを浴びる事でも同様に分泌され、食事や性行為の際、脳内で快楽系快感ホルモン物質が分泌放出される事で快感を感じるのである。

つまりあらゆる快感で分泌されるホルモンであるが、当然快感にはその内容に拠って、及び個の個性に拠って各々に程度がある。

実はこの快感から導かれる分泌ホルモンの効果は、鍼灸に於ける痛みを和らげる効果に始まり、精神安定(脳内ベータエンドロフィンを活性化させます) 自律神経の調整作用(自律神経の機能回復)を図るなどの治療効果にも生かされている。

ベータ・エンドルフィンと言うホルモンには、痛みをやわらげる作用があり、「脳内麻薬」とも言われていて、その効果は「麻酔に使われるモルヒネの数倍だ」と言われている。

脳内モルヒネなどとも言われ、快楽系ホルモンで満足感・幸福感により脳内に分泌される脳内麻薬の事である。

食事に於ける満足感・幸福感を得るには、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)刺激する要素が多いほど良いので、高級な食事の場所では、そうした要素を特に考慮したもてなしが為される事になる。

この物質、ベータ・エンドロフィンは、ガン細胞をもやっつける良質な力を持っている。

良い音楽は、脳に優しかったり過激だったりする。

しかし、優しかろうが過激だろうが、脳に「一方は精神的安定、一方は精神的興奮」と言う、質の違う快感をもたらす。

そのいずれもが、脳内麻薬のベーターエンドロフェンを生成させ、脳から不安感や痛みなどを緩和する役割を果たしている。

これは美しい物に癒されたり、荘厳な物に圧倒されたりの、視覚によるディスプレイ効果も同じである。

近代医学で直る見込みの無い者が、宗教で一定の改善効果を得る症例は正にこの応用で、けして信仰(宗教)上の奇跡ではない立派な理由がある。

音楽や、その音楽を併用した信仰(宗教儀式)のトリップ状態やスポーツに於ける極限状態「ランナーズ・ハイ」の快感で、この作用で分泌される脳内物質ベータ・エンドロフィンが効果を上げているのであり、実は特定の信仰の教義が、そのご利益をもたらした訳ではないのである。

つまり、外傷性の疾患に対する自然治癒能力と同様に、自ら脳の負担を緩和する機能をも、人間は有しているのである。

しかしながら、こうした人間の能力を「信仰に拠って強く引き出す」と言う観点から見れば、全面的に信仰が否定されるものではない。

「信じる者が救われる」は、このメカニズムからすれば、当然で、アフリカなどに於ける原始宗教の音楽や踊りのトリップも理に適っている。

つまり、悪魔(痛みによる苦しみ)を追い払う効果が、ベータ・エンドロフィンにはある。



自信を持った人間は、本人さえ思わぬ能力を発揮する。

その自信が、信仰をもった事をきっかけに発揮したものだと、たとえ本人の能力によるものでも「信仰の効果」だと錯覚する。

確かにそれは、「信仰のご利益」と言えない事も無い。


信仰(宗教儀式)のトリップ状態に関して補足すると、例えばであるが、信仰の派に拠って行われる一見、「御香を焚く」と言う行為は「安らぎを与える」と解されるか、実は五感の内の臭覚を満足させ、「ベーターエンドルフィンを脳内に発生させる」と言う静かな興奮の快感目的を持っている。

荘厳な賛美歌も、お経の読経も、神楽音楽も、コーラン(クルアーン)の祈りも、全て聴覚を刺激する事で、静かな興奮の快感をもたらす効果がある。

つまり、信仰の上で行われる「儀式めいたもの」は、五感を複合的に利用した経験学的な快感にもと付くもので、信者の共感を呼び込む科学的トリップ効果を演出しているのである。

「けして騙されている」と言いたいのではなく、その結果として心理的に好結果をもたらすなら、信じている信仰にその個人として間違いは無い。

芸術的要素には五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)刺激するものが含まれて、成立している。

つまり芸術的人気は、人の五感を如何に刺激するかに掛って来るのである。

例えば音楽芸術に共感して、興奮するのはこの要素を満たされた場合である。

反対に五感の要因を取り入れて、興奮をコントロールする事で信者の欲求を満たし、共感を呼ぶ事で、信仰的なものは成り立っている。

運動的な刺激についても、運動する者だけでなくそれを見る立場(応援者)をも含めて、五感の要因が相互に働くから、プロ・アマを問わず存在が成り立って居るのである。

阿波踊りやよさこいソーラン、サンバなどの踊り狂う(トリップ状態)事も、実はランナーズハイに似た「心地良い疲れ」のベータ・エンドロフィン効果で、原型は信仰に結び付いた盆踊り(魂とのコンタクト)やカーニバル(お祭り)なのである。

良く考えると、それらには多くの要素が含まれて、よりトリップし易いものである事が判る。

さて、もう一方の「怒と哀」であるが、これは簡単に説明がつく。

簡単な話し、「喜と楽」を失う、または否定された時、即ち「本能的な欲求(欲望)」が満たされない時に起こる感情が「怒と哀」であるが、厄介な事にこの感情は、一時的にコントロールがむずかしい状態に陥る事である。

自身で「怒と哀」の感情を抑えるには、「喜と楽」に感情や環境を、素早く切り替える事が肝心である。

そう言う意味で、「喜と楽」には信仰や芸術など、別の興奮で心を慰める目的のものが存在する。

当然ながら、「怒と哀」を抑止する最大の効果は、性行為の「喜と楽の興奮」であるが、是非とも合法の範囲内で願いたい。


「病は気から」の例えがある通り、気の持ち様で治る病もある。

それには信仰による精神的安定は効果がある。

それが、信仰の奇跡である事は、否定しない。


昔の事だが、丸(がん)はクレオソート(つまり石炭酸)、丹(たん)は、紗砂(水銀)だった。

現在の仁丹は水銀とは関係ないが、丸(がん)と丹(たん)は、古くからの高貴薬の基本的名称だった。

勿論、丹(たん・水銀)の防腐効果を「不老不死」と誤解した事から端を発しているのだが、高貴薬として位置付けられ、当初は秘薬として一部の高位の者だけが密かに服用していた。

そして当時の丹(たん・水銀)は、服用すると「現在で言うラリル」の効果があり、そのトリップ状態が「降神(降釈迦)状態」であり、移り代(しろ)と言われるトリップ状態に成る為の、神懸り現象を生む為の「秘薬」だった。

弘法大師(空海)に拠る生き仏(即身仏)について、ミイラ化した大師のお体から丹(たん・水銀)服用が科学的に証明されつつある。

だからと言って、その時代、身を呈して真理を追究し、布教に努めた弘法大師(空海)を、現在の物差しで、水銀中毒患者と計るのは、時代考が出来ない人間の、安易な考えである事に変わりは無い。

信仰には奇跡が伴なうもので、丹(たん・水銀)の服用による大師(空海)様のトリップ状態の神懸り現象は、信者にすれば「仏が降臨するお姿」と解される説得力のある状態だった。

つまり、即身仏と成られた弘法大師(空海)のお体から大量の丹(たん・水銀)が検出された時、当初は「防腐剤を施したもの」と解釈されたが、内臓からも丹(たん・水銀)が大量に発見されるに及んで、ある疑問が浮上する。

大師(空海)様は生き仏として生きたまま即身仏に成られたのであるから、即身入場後に誰かが内臓にまで丹(たん・水銀)を施す事は理屈が合わない。生前から「ご自分でお飲みになった筈である。」と言う疑問である。



賀茂神社の大祭は、鎌倉時代の権中納言・勘解由小路(かでのこうじ)兼仲(かねなか)が書いた日記「勘仲記」によると、氏子らが木綿のたすきをかけ、色気その物の「風俗歌を唱えて歩いた」と言う。

応仁・文明の乱による京都の荒廃で、約二百年間も中断された。

一度存在意義を失い、すっかり公家の名跡化した勘解由小路(かでのこうじ)家は、江戸初期に公家の烏丸家、烏丸光広の二男勘解由小路資忠(かでのこうじすけただ・参議正三位)を祖としてよみがえったのを期に、賀茂神社の大祭は、江戸期に復興をとげて、ようやくにぎわいを取り戻した。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、江戸期を通じて家格を維持し、維新後も子爵、貴族院議員、元老院御用掛兼宮内省御用掛として終戦まで続いた。


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(維新の胎動)

◇◆◇◆(維新の胎動)◆◇◆◇◆

やれやれ、我輩の歴史の旅も、漸く近代に差し掛かって来た。


鎌倉、室町、江戸と辿って、三度目の幕末が迫っていた。

お決まりの政権末期の大乱が、ユックリとしかし確実に忍び寄って、不安感と不満感の落着かないざわめきの中に、日本列島の人心が在った。

その落ち着かない世情が、後醍醐帝の御魂を覚醒させてしまったのかも知れない。

気が付くと、帝の奇蹟は既に起こっていた。

それは大きな渦となって、この時代に生きた当事者達さえそれと知らない内に・・・・・・。


話しは少し飛ぶが、江戸末期の日本人総体のリテラシー(識字力/情報理解活用力)は、庶民の寺子屋と武士の藩校・私学校が充実して教育を行っていたからであるが、そのリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を持つ国民比率は総体の七十パーセントに昇る。

つまり江戸期当時の日本は、世界的にも最高水準のリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を国民が持つ奇跡の国だった。

その影に在った向学心は、この物語で前述のごとく神官・僧・工商人の前身は姓(かばね)を有する氏族から発生している関係で、リテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

農漁村部に於いても、縄文人(エミシ族)出自の純粋な農漁業従事民はともかく、百姓の語源でも判る通り百姓と呼ばれる農漁村部の指導階級は元は姓(かばね)を有した事からリテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

当然ながら平安期以降の日本は、縄文人(エミシ族)出自の民と有姓階層の工商人や農漁村部の指導階級・百姓との血的融合が進んで境目が壊れて行き、日本全体の向学心が向上して庶民の学び舎である寺子屋が繁盛した。

武士の藩校は藩内の家臣教育の為だが、出世に繋がる事からモチベーション(動機付け/やる気)は高く、学ぶ事で知識欲を刺激して向学心は更に燃え上がった。

このリテラシー(識字力/情報理解活用力)の高さが、黒船の到来で始まった欧米列強の圧力の中で植民地化されなかった要因でもあり、やがて起こった明治維新にも発展した。

反対に世界的傾向では、権力階層が庶民に教育の場を積極的には与えないで権力基盤を安定させる政策を採る国も多く、為に国が守れず植民地化される要因にも成った。

この辺りの経緯(いきさつ)を簡単に「日本人は優秀な人種である」として、その要因を歴史経緯と結び付けないから日本史に対する理解が広がらないのかも知れない。

いずれにしても江戸末期の日本人は、世界的にも相当学識が高かった事になる。



何か重大な事が起こる時は、それなりの背景が存在するものである。

実は明治維新にも、人為的ではない「奇跡」が歴史の変革を後押しをして居る。

例えば、観測単位が百年〜二百年間に遡ると大地震も大津波も結構頻繁に起こっていて、安易に想定外とはとても言いがたい。

現に徳川幕府二百六十年間に於いて、第五代・徳川綱吉(とくがわつなよし)の「元禄大地震と宝永大地震」と、この江戸末期の第十三代・徳川家定(とくがわいえさだ)の代の「安政大地震」の二度も起こっている。

にも関わらず、短い自分の人生経験だけを頼りに「今まで大した事無かった」と津波の規模を根拠なしに予測したり、「今まで事故が無かったから安全だ」は、まさしく間違ったアンカリング効果である。

千八百三十七年(天保八年)にはアメリカ合衆国の商船モリソン号が日本人漂流民(音吉ら七人)を保護し、送還と通商・布教のために来航して来たこれを、大砲で打ち払う事変が起きている。

幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。

千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その僅か三十二時間後には安政南海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その二日後には豊予海峡(大分と愛媛の間)地震(マグニチュード七・四の大地震)と立て続けに三連動で発生して居る。

その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした安政の関東大地震(マグニチュード六・九)が起きている。

この大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京〜南紀)、南海(南紀〜四国)と、巨大地震がしばしば連動する。

この巨大地震、「同時期または二〜三年後に発生する」と言われ、「約百年〜百五十年の周期で活動期に入る」とされている。

安政三大地震は、関東・東海・四国・九州の各地に甚大な被害をもたらせる。

まだまだ文明開化以前の事で、日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などまだ無いから、「神様がお怒りに成っている」と、民心は素朴に不吉がって、騒然としていた。

地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜に、大きな力に成って作用しても不思議ではない。

ちょうど、黒船で米国(アメリカ)のぺりー艦隊が来航した時期(千八百五十三年〜四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。

そして詳しくはこの物語で後述するが、「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。



幕末の足音が聞こえて来る時代の幕閣に在する人々の事実関係を、この著述で取り上げた。


実はマシュー・ペリーのアメリカ軍艦(黒船来航)の前に、アメリカが日本の開国には武力が必要と認識させる「モリソン号事件(商船)」が起きていた。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)とは、千八百三十七年(天保八年)、日本人漂流民(音吉ら七人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件である。

鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号(Morrison)」に対し、薩摩藩及び浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行った。

鹿児島湾の砲撃は薩摩藩、江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩だった。

このモリソン号には、マカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら七人が乗っていた。

モリソン号が、この日本人漂流民の送還と通商・布教の為に平和目的で来航していた事が事件の一年後に各方面に判かり、問答無用の異国船打払令に対する批判が強まった。

また、当時モリソン号はイギリス軍艦と勘違いされていたが、アメリカ商船モリソン号は非武装だった。

後に、「慎機論」を著した渡辺崋山(わたなべかざん)、「戊戌夢物語」を著した高野長英(たかのちょうえい)らが幕府の頑(かたく)なな対外政策を批判した為逮捕されると言う事件「蛮社の獄」が起こる。


別名・「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」は、千八百三十九年(天保十年)五月に起きた蘭学者に対する言論弾圧事件である。

高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)などが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。


「蛮社の獄」の発端の一つとなったモリソン号事件は、千八百三十七年(天保八年)に起こった。

江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人七名もそのケースであった。

彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。

この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。

千八百三十七年(天保八年)六月二日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は六月二十八日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。

モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風(しまづひさかぜ)と交渉した。

島津久風(しまづひさかぜ)は、七人の漂流民をアメリカ船モリソン号が唯一出島で国交があるオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶する。

薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃された為、モリソン号は断念してマカオに帰港した。

日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表す為に武装を撤去していた為である。

また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

翌千八百三十八年(天保九年)六月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来の経緯(いきさつ)について報告した。

モリソン号はイギリス船と誤って伝えられたが、これにより初めて幕府はモリソン号が漂流民を送り届けに来た事及び通商を求めて来た事を知った。

老中・水野忠邦(みずのただくに)は、この報告書を幕閣の諮問にかけた。


千八百三十八年(天保九年)七〜八月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

老中・水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌九月の林大学頭の答申は前回と変わらず、老中・水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。

これに対する千八百三十八年(天保九年)戌十月の評定所一座の答申は以下のとおり。

評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)の結論は「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし。」と出た。

老中・水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であった。

十二月になり老中・水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。


「蛮社の獄」に於ける近年の説では、目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)に、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)は昵懇の間柄であり、鳥居は渡辺崋山(わたなべかざん)の友人に幕府高官もいる事を利用して老中・水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたものと解されている。

また老中・水野が再調査を命じた根拠とされる「鳥居耀蔵(とりいようぞう)の上書(告発状)」以外のもう一通の上書についても、老中・水野の再調査命令による上書ではない。

上書は、吟味の過程で鳥居の告発に疑問を抱いた北町奉行所が、作成したものだろうとしている。

何故なら、もし老中・水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問い正す筈だし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。

千八百三十九年(天保十年)五月十四日に渡辺崋山(わたなべかざん)・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。

キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、五月十七日に自宅にて自殺した。

高野長英(たかのちょうえい)は一時身を隠していたが、五月十八日になり自首して出た。

これにより、逮捕者は以下の八名、

田原藩年寄・渡辺崋山(四十七歳)、町医・高野長英(三十六歳)、無量寿寺住職・順宣(五十)とその息子・順道(二十五歳)、旅籠の後見人・山口家金次郎(三十九歳)、蒔絵師・山崎秀三郎(四十歳)、御徒隠居・本岐道平(四十六歳)、元旗本家の家臣・斉藤次郎兵衛(六十六歳)

となった。



異国船打払令の発令には、モリソン号事件を遡る事約三十年前のフェートン号事件(フェートンごうじけん)の影響が挙げられる。

フェートン号事件とは、千八百八年(文化五年)八月、「イギリス」の軍艦フェートン号が、鎖国体制下の 日本の長崎港に「不法侵入」 した事件である。

千八百八年(文化五年)八月十五日、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。

これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では、慣例に従って商館員ホウゼンルマンとシキンムルの二名を小舟で派遣する。

その商館員二名が長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えの為船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって拉致され、船に連行された。

それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。

長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。


オランダ・カピタン(商館長)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、奉行・松平康英に商館員の生還を願い、さらに戦闘回避を勧めた。

長崎奉行の松平康英は、カピタン(商館長)・ズーフに商館員の生還を約束する。

一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。

ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減の為守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の十分の一ほどのわずか百名程度しか在番していない事が判明する。

長崎奉行・松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。


翌十六日、ペリュー艦長は人質の一人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。

人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、長崎奉行・松平康英はやむなく要求を受け入れる事とした。

だが長崎奉行・松平康英は、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図る事とした。


長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。

これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。

十七日未明、近隣の大村藩主・大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。

長崎奉行・松平康英は大村藩主・大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちする為の作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。


長崎港に不法侵入したフェートン号事件の背景には、欧州の政情が影響していた。

千六百四十一年以後、徳川幕府に依る鎖国政策下の日本は、長崎出島に於いてネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許されていた。

しかしそのオランダ本国が、千七百九十三年フランス革命でフランスに占領され、オランダ統領のウィレム五世はイギリスに亡命する。

その後の千八百六年、ナポレオン皇帝は弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。

世界各地にあったオランダの植民地は、すべて革命フランスの影響下に置かれる。

一方イギリスは、亡命して来たウィレム五世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていた。

だが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。

それでもアジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。


フェートン号事件は、結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。

しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行・松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹する。

また、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩の家老等数人も責任を取って切腹した。

さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、十一月には藩主・鍋島斉直に百日の閉門を命じた。

フェートン号事件の後、カピタン(商館長)・ズーフや長崎奉行・曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。

その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は千八百二十五年に異国船打払令を発令する事になる。

この屈辱を味わった鍋島藩は次代藩主・鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。



松平定信(まつだいらさだのぶ)は、千七百五十八年(宝暦八年)十二月二十七日、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武(とくがわむねたけ)の七男として生まれる。

定信(さだのぶ)の父・徳川宗武(とくがわむねたけ)は、八代将軍・徳川吉宗の次男だった。

定信(さだのぶ)の実際の生まれは十二月二十八日の亥の半刻(午後十時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では二十七日とされ、また「田藩事実」では十二月二十八日とされている。

翌千七百五十九年(宝暦九年)一月九日に、定信(さだのぶ)は幼名・賢丸(まさまる)と命名される。

御三卿は、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の子で構成されているから、その血統にある賢丸(まさまる=定信)は、将軍・吉宗の孫に当たる。

定信(さだのぶ)の生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かって来た。

母・とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、女子の山村三演は采女(うねめ=女官)と称して本家の厄介となった。

母・とやは山村三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。

父・宗武の正室が近衛家の出身である為、母・とやも田安徳川家に仕えて父・宗武の寵愛を受けた。

定信(さだのぶ)は側室の子(庶子)であったが、父・宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていた。

その為、同母兄の六男・松平定国と一歳年下の定信(さだのぶ)は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった。

千七百六十二年(宝暦十二年)二月十二日、田安屋敷が焼失した為、定信(さだのぶ)は江戸城本丸に一時居住する事を許された。

千七百六十三年(宝暦十三年)、定信(さだのぶ)六歳の時に病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。

定信(さだのぶ)の幼少期は多病だったと伝えられている。


定信(さだのぶ)は幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍・徳川家治の後継と目されていた。

しかし、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれていた。

老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済(はるさだ)によって、定信(さだのぶ)は養子に出される。

千七百七十四年(安永三年)に、定信(さだのぶ)は久松・松平家の庶流で陸奥白河藩第二代藩主・松平定邦(まつだいらさだくに)の養子とされた。

白河藩の養子になった後も、定信(さだのぶ)はしばらくは御三卿・田安徳川家の田安屋敷で居住していた。

同千七百七十四年九月八日(実際は八月二十八日)の兄・徳川治察(田安/とくがわはるさと )の死去により田安家の後継が不在となった。

定信(さだのぶ)は幕閣に養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。

一時期は将軍世子とまで言われた定信(さだのぶ)は、この事により老中・田沼意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる。

一方で、定信(さだのぶ)自らも幕閣入りを狙って、老中・田沼意次に賄賂を贈っていた事は、有名な逸話である。

ただし、定信(さだのぶ)が白河藩の養子となった当時は、将軍・家治(いえはる)の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無だった。

また、御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出される事が多かった為、定信(さだのぶ)の将軍世子候補の件は後世に付け加えの可能性さえある。

同じ久松・松平家の伊予松山藩主・松平定静(まつだいらさだきよ)が、田安家から定信(さだのぶ)の実兄・定国を養子に迎えて溜詰に昇格していた。

養父・白河藩々主・松平定邦(まつだいらさだくに)も、溜詰(たまりづめ)と言う家格の上昇を目論んで定信(さだのぶ)を養子に迎えた。

家督相続後、定信(さだのぶ)は幕閣に家格上昇を積極的に働きかけている。

ただし、それが実現したのは定信(さだのぶ)が老中を解任された後であった。


定信(さだのぶ)は、天明の大飢饉に於ける白河藩々政の建て直しの手腕を将軍・家治や幕閣に認められる。

千七百八十八年(天明六年)に将軍・家治が死去して将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の代となり、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚した。

後の千七百八十九年(天明七年)、定信(さだのぶ)は徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の下(もと)で老中首座・将軍輔佐となる。

そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の「享保の改革」を手本に「寛政の改革」を行い、幕政再建を目指した。

老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。

確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。

徳川家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。

しかし、定信(さだのぶ)は将軍・徳川吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。

定信(さだのぶ)は、前任者である田沼意次(たぬまおきつぐ)の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治を改める。

定信(さだのぶ)は、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげた。

しかし定信(さだのぶ)は、老中就任当初から、偽作者で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。

さらに「尊号一件」や「大御所事件」なども重なって次第に家斉(いえなり)と松平定信は対立するようになった。

家斉(いえなり)と松平定信の対立原因ともなった「尊号一件」とは、千七百八十九年(寛政元年)に時の光格天皇が実父・典仁親王に太上 (だいじょう) 天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際、老中・松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した一連の事件を言う。

また「大御所事件」とは、将軍・ 徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとした際、老中・松平定信が先例が無いとして否定した事件である。

千七百九十二年頃に成ると、日本沿岸に多数の外国船が出没し通商を求めて来る。

定信(さだのぶ)は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めている。

しかし幕府のみならず様々な方面から定信(さだのぶ)批判が続出し、わずか六年で老中を失脚する事となった。

同千七百九十三年七月二十三日、定信(さだのぶ)は、海防の為に出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。

定信(さだのぶ)引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだ。

彼ら留任組は寛政の遺老と呼ばれ、定信(さだのぶ)の「寛政の改革」に於ける政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持される事となった。


老中失脚後の定信(さだのぶ)は、白河藩の藩政に専念する。

白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信(さだのぶ)は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。

また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。

定信(さだのぶ)の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。

ところが、寛政の改革の折に定信(さだのぶ)が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになる。

最初の駐屯は主唱者とされた定信(さだのぶ)の白河藩に命じられる事となり、これが白河藩の財政を圧迫した。

千八百十二年(文化九年)、定信(さだのぶ)は家督を長男の定永(さだなが)に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。

定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。

桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。

ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった息子・定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図った。

その為に、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。


千八百二十九年(文政十二年)の一月下旬から定信(さだのぶ)は風邪をひき、二月三日には高熱を発した。

この風邪の療養中、江戸は大火にみまわれて、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼した。

定信(さだのぶ)は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送された。


屋敷の焼失により、定信(さだのぶ)は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため四月十八日に松山藩の三田の中屋敷に移った。

この仮屋敷の中で病床にあった定信(さだのぶ)は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永(さだなが)と藩政に関して語り合った。

定信(さだのぶ)は、一時回復の兆しも見せる。

しかし、五月十三日の八つ時(午後二時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後四時)に医師が診察する中で、急に脈拍が変わり、七十二歳で死去した。



徳川家斉(とくがわいえなり)は、江戸幕府の第十一代征夷大将軍である。

家斉(いえなり)は千七百七十三年(安永二年)十月五日、御三卿の一つ、一橋家の当主・一橋治済の長男として生まれる。

千七百七十九年(安永八年)に第十代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基が急死、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も病弱で子供がいなかった。

その事から父・一橋治済と田沼意次の後継工作により、家斉(いえなり)は千七百八十一年(天明元年閏五月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉(いえなり)と称した。

千七百八十六年(天明六年)、将軍・家治(五十歳)の急死を受け、千七百八十七年(天明七年)に家斉(いえなり)は十五歳で第十一代将軍に就任した。

家斉(いえなり)は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免する。

田沼意次に代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。

これは家斉(いえなり)が若年のため、家斉と共に第十一代将軍に目されていた松平定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとした。

千七百八十九年(寛政元年)、家斉(いえなり)は薩摩藩八代当主・島津重豪(しまづしげひで)の娘・近衛寔子(このえただこ/天璋院・篤姫)と結婚して居る。


老中首座・松平定信が主導した政策を「寛政の改革」と呼ぶ。

「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉(いえなり)や他の幕府上層部から批判が起こる。

さらに「尊号一件」や「大御所事件」なども重なって次第に家斉(いえなり)と松平定信は対立するようになった。

千七百九十三年(寛政五年)七月、家斉(いえなり)は父・一橋治済と協力して松平定信を罷免し、寛政の改革は終わった。

ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換した事を示す事ではない。

家斉(いえなり)は松平定信の元で幕政に携わってきた三河吉田藩の第四代藩主・松平信明を老中首座に任命した。

これを戸田氏教、本多忠籌ら松平定信が登用した老中達が支える形で定信の政策を継続していく事になる。

この任用の為、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。


千八百十七年(文化十四年)に松平定信から老中首座を引き継いだ松平信明が病死する。

老中首座・松平信明の病死を期に、他の寛政の遺老達も老齢等の理由で辞職を申し出る者が出て来る。

この為、千八百十八年(文政元年)から家斉(いえなり)は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老達を幕政の中枢部から遠ざけた。

老中首座・水野忠成は、松平定信や松平信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。

さらに家斉(いえなり)自身も、うるさい宿老達が居無くなったのを良い事に贅沢(ぜいたく)な生活を送るようになる。

また、異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大した為、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。

この財政再建の為に老中首座・水野忠成は、文政期から天保期にかけ八回に及ぶ貨幣改鋳・大量の悪貨を発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招く事になった。

千八百三十四年(天保五年)に老中首座・水野忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦(みずのただくに)がその後任となる。

しかし実際の幕政は家斉(いえなり)の側近である林忠英らが主導し、家斉(いえなり)による側近収賄政治はなおも続いた。

この徳川家斉(とくがわいえなり)の浪費癖と、追従した幕臣の収賄体質が江戸末期に於ける幕府の弱体化の初めの一歩だった。

この腐敗政治の為、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、千八百三十七年(天保八年)二月には大坂で大塩平八郎の乱が起こる。

さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。

また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった時期でもあった。


千八百三十七年(天保八年)四月、家斉(いえなり)は二男・家慶(いえよし)に将軍職を譲った。

しかし家斉(いえなり)は、家慶(いえよし)に将軍職を譲っても幕政の実権は大御所として握り続けた。

大御所・家斉(いえなり)の最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。

千八百四十一年(天保十二年)閏一月七日に、大御所・家斉(いえなり)は六十九歳で死去した。

家斉(いえなり)の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦(みずのただくに)に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。

そうして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。



千八百四十一年(天保十二年)に大御所・徳川家斉(第十一代将軍・家定の祖父)の死去後、家定(いえさだ)は(第十二代将軍・家慶/いえよし)の世嗣となる。

しかし家慶(いえよし)は、家定(いえさだ)の器量を心配して、一時は「一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしよう」と考えたほどだが、老中・阿部正弘らが反対した為、結局は家定を将軍継嗣とした。

徳川家定(とくがわいえさだ)は、江戸幕府の第十三代征夷大将軍で、徳川宗家出身の最後の将軍である。

千八百二十四年(文政七年)四月八日、家定(とくがわいえさだ)は第十二代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の四男として江戸城で生まれる。

家慶(いえよし)の男子は家定(いえさだ)・慶昌ら十四人の男がいたが、二十歳を超えて生きたのは家定(いえさだ)だけでほとんど早世し、生き残っていたのはこの家定(いえさだ)だけで在った。

しかしその家定(いえさだ)も幼少の頃から病弱で、「人前に出る事を極端に嫌う性格だった」と言われている。

その為に家定(いえさだ)は、乳母である歌橋(うたはし)にしか「心を開かなかった」と伝えられ、一説には「脳性麻痺で在った」とも言われる。

つまり「虚弱精子劣性遺伝」が顕著に出た形で、春日局(かすがのつぼね)の構築した「大奥のシステム」、「多くの女性に将軍一人」と言う血統の保存継続は、あくまでも氏族の血統重視論理で在る。

従って「大奥のシステム」は人類の「種の保存」と言う自然の法則とは真逆であり合致しないものである。



千八百五十三年(嘉永六年)、家慶(いえよし)が黒船来航の後に六十一歳で病死した事を受け、家定(いえさだ)は将軍を後継し第十三代将軍となった。

家定(いえさだ)は正室として公家・鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘・任子(天親院有君)や公家・一条忠良(いちじょう ただよし)の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えた。

だがいずれも早世し、島津斉彬(しまづなりあきら)が画策した近衛忠煕(このえただひろ)の養女・敬子(天璋院・篤姫)との間にも実子は生まれなかった。

家定(いえさだ)に男子が無かった為、将軍在位中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した千八百五十七年(安政四年)頃からそれが激化する。

家定(いえさだ)の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。

家定(いえさだ)は、この将軍継嗣問題でも表舞台に出る事はほとんど無かったが、千八百五十八年(安政五年)陰暦六月二十五日、諸大名を招集して「慶福(よしとみ)を将軍継嗣にする」と言う意向を伝える。

その意向伝達から二ヵ月も経たない同年(安政五年)の陰暦七月五日に「一橋派の諸大名の処分を発表する」と言う異例の行動を見せるも、家定(いえさだ)が将軍らしい行動を見せたのはこれが最初で最後である。

翌日の千八百五十八年(安政五年)陰暦七月六日、家定(いえさだ)は薨去し、後を養子となった慶福(よしとみ)改め徳川家茂が第十四代征夷大将軍を継いだ。



江戸・徳川幕府の幕藩体制は軍事政権で、国外の信仰を許容する事は国民の思想を刺激し危険と考えていた。

思想のコントロールは政権安定には必須う要点で、幕府の開祖・徳川家康の神格化(東照権現)も民衆の尊敬を集める為の古来からこの国に伝わる「統治の為」の手法である。

当然ながら幕府は鎖国政策を採り、キリスト教を禁教とし交易も禁止して儒学を奨励し国民の思想を固定化する事に腐心する。

確かに鎖国政策は功を奏し、外部からの思想流入を抑えた事で江戸幕府は二百五十年に余る安定政権と成った。

しかしながら江戸後期に成ると、幕藩体制の自治権が災いして抜け荷(密貿易)は事実上顕在化し、薩長などの諸藩は抜け荷(密貿易)で肥え太っていた。

鎖国政策故に、ご禁制の抜け荷(密貿易)品には高値が着くと言う米国・禁酒法時代のアルカポネ現象が起こった訳である。

その後、井伊直弼(いいなおすけ)の開国に伴い海援隊(かいえんたい)を組織した坂本龍馬は、薩摩藩の援助を得てグラバー商会(英国ジャーディン・マセソン商会代理人)と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸している。

倒幕の原動力と成った薩長の武器は、この開国に伴う武器輸入に拠って購(あがな)われたもので、当時の江戸・徳川幕府にはそうした諸藩の行為を取り締まる力も既に無かった事に成る。


幕末の動乱期に登場した西郷隆盛を下級武士から見出し薩摩藩の藩政に参画させる道を開いたのは第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)である。

薩摩藩の富国強兵に成功し、西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた幕末の名君・島津斉彬(しまづなりあきら)は、薩摩藩十代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の嫡男として生まれる。

本来なら順当に斉彬(なりあきら)が藩主を継ぐ筈だったが、祖父・第八代藩主・島津重豪(しげひで)の存在が斉彬(なりあきら)の家督相続を微妙にした。

それが、重豪(しげひで)の影響を受けた「斉彬(なりあきら)の学問好き」だと言うのだから評価とは判らないもので、父・斉興(なりおき)は洋学に興味を持った斉彬(なりあきら)が四十歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。

祖父・第八代藩主・島津重豪(しげひで)は学問好きで公金を湯水のごとく費やし藩財政を困窮させた経緯があり、その重豪(しげひで)の学問好きに父・斉興(なりおき)は斉彬(なりあきら)を重ね合わせ警戒していたのだ。

斉彬(なりあきら)が周囲の目に蘭癖と映った事が皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされ、そうした藩内の空気も在り、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興(なりおき)の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬(なりあきら)の異母弟に当たる島津久光の擁立を画策する。

斉彬(なりあきら)派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者十三名は切腹、また連座した約五十名が遠島・謹慎に処せられた。

斉彬派の四名が必死で脱藩し、重豪(しげひで)の十三男で筑前福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)に援助を求め、長溥の仲介で斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)らが事態収拾に努めた。

この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれ、幕府の命で斉興(なりおき)が隠居し、斉彬(なりあきら)が第十一代藩主に就任した。

藩主となった三年後、斉彬(なりあきら)に上書を認められた西郷吉之助(後の隆盛)は、斉彬の江戸参勤に際し中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられて庭方役となり、江戸に赴き当代一の開明派大名で在った斉彬(なりあきら)から直接教えを受けるようになる。

斉彬(なりあきら)は、藩主に就任するや洋学の知識を生かせて藩の富国強兵に努め、洋式造船や反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興す。

また、土佐藩の漂流民で米国(アメリカ)から帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、西洋式帆船・いろは丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。

この時斉彬(なりあきら)は帆船用帆布を自製する為に木綿紡績事業を興し、「日の丸を日本船章にすべきだ」と献策し幕府に正規に採用させ、以後日の丸は日本の国旗となって行く。

そんな斉彬(なりあきら)の元へ江戸城大奥から「薩摩藩拠り御台所(将軍家婦人)を出せないか」と打診が在った。


幕末の女性として、「華麗で哀しい運命を生きた」とされる天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)は、薩摩藩島津本家の連技(分家)・今和泉島津家の姫と生まれた。

薩摩藩島津家は七十七万石の大藩の割には支藩は佐土原藩一家のみで、小大名級の所領(一所持)に封じられた分家や庶流を多数抱えていて特に藩主直系の子孫を当主とする四家は「御一門」と呼ばれた。

一門家新設時は加治木島津家(一万七千石)と垂水島津家(一万八千石)がこの家格とされたが、同じ年に成立した重富島津家(一万四千石)も加わり、重富家の前身、越前島津家が室町幕府の直勤だった事から一門家筆頭とされた。

延享元年に今和泉島津家(一万五千石)が成立すると同家も一門家となって、一門家は通称「四家」とも言われ、この「御一門」の呼称が成立するのは正徳年間だが、家格としては元文年間に成立した。

尚、天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)について、「正室に納まる為に分家出自を  幕府に隠  していた」とする歴史学者が存在する。

だが、幕府にも御三家・御三卿が存在するのだから、島津家一門家の通称「四家」出自を幕府が認めない事は、幕府自らが御定法に反する事に成る。

大体に於いて篤姫は、江戸に向かう途中で京都の公家・近衛家の養女として近衛篤姫を名乗り徳川家に嫁いでおり、島津分家どころか島津本家以上の格式で江戸城に入ったのが事実である。


今和泉島津家は、五代薩摩藩主(二十二代当主)島津継豊が、十五世紀に絶えた「和泉家」を再興する形で創設した島津氏一門家で、天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)は今和泉島津家・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛の娘として生まれた。

天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)は、将軍・家定との縁組の為に島津本家二十八代当主で従兄・島津斉彬(薩摩藩の十一代藩主)の養女になり本姓と諱は源篤子(みなもとのあつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改め、篤の名は君号となり篤君(あつぎみ)と呼ばれた。

まず、千八百五十三年(嘉永六年)に連技(分家)・今和泉島津家から本家・斉彬の養女、三年後の千八百五十六年(安政三年)に公武合体派の右大臣・近衛忠煕(このえただひろ/藤原忠煕)の養女と成った年の晩秋十一月、近衛篤姫(このえあつひめ)は将軍家へ輿入れをする。

篤姫(あつひめ)と将軍・家定との縁組について、将軍継嗣問題で一橋派で在った斉彬(なりあきら)が天璋院を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと画策したとする見方がこれまでは一般的で在った。

しかしながら大奥より島津家に対する縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からあり、将軍継嗣問題とは前後する為に島津家からの輿入れ構想と将軍継嗣問題は「無関係である」とするのが定説となっている。

将軍・家定は虚弱で、子女は一人もいなかった上に正室が次々と早死した為大奥の主が不在で在った。

そこで島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だった事にあやかろうと、大奥が島津家に縁組みを持ちかけた。

篤姫(あつひめ)を御台所に上げる事は島津家側にも好都合で、広大院没後の家格の低下や批判されている琉球との密貿易問題などのを将軍家との姻戚関係を復活させる事で「解消しようとした」と考えられる。

この頃の西郷吉之助(後の隆盛)は、主君・島津斉彬(しまづなりあきら)の手足と成って政治活動をしており、篤姫(あつひめ)の将軍家輿入れについてもその実務役と連絡役を勤め、後に役立つ人脈と名声をここで得ている。


島津斉彬(しまづなりあきら)は、藩主就任以前から交流をもっていた福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝らと伴に幕政にも積極的に口を挟み、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。

特に斉彬はアメリカのペリー艦隊来航(黒船来航)以来の難局を打開するには「公武合体・武備開国を於いて他にない」と強く主張した。

第十三代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかった為、斉彬(なりあきら)と親しかった老中・阿部正弘の死後、大老に就いた井伊直弼と斉彬(なりあきら)他四賢侯と前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、将軍継嗣問題で真っ向から対立する。

この為薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は、福井藩主・松平慶永(よしなが)、土佐藩主・山内容堂(ようどう)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)らと並んで幕末の四賢侯と称された。

しかし松平慶永(よしなが)は、後世に於いて「島津斉彬(しまづなりあきら)候は大名第一番の御方であり、自分はもちろんの事、水戸烈侯、山内容堂侯、鍋島直正侯なども及ばない」と評したと言われる。

紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した井伊直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始し、結果徳川慶福(後の家茂)が第十四代将軍・徳川家茂となってしまう。

これに対し斉彬(なりあきら)は、藩兵五千を率いて抗議の為上洛する事を計画するも、鹿児島城下で出兵の為の練兵を観覧の最中に発病し、僅か一週間ほどで死去している。

島津斉彬(しまづなりあきら)死後の薩摩藩は、その遺言により藩主の座を争そった異腹の弟・久光の長男・島津忠義が藩主を継いだ。

斉彬(なりあきら)は死の病床で藩の行く末を案じ、忠義に斉彬の長女・澄姫を嫁がす条件で仮養子とし、自らの四男・哲丸を後継者とするように言って哲丸と忠義(茂久)との相続争いを未然に防ぐ遺言を残している。

その後の薩摩藩は、久光の長男・島津忠義(茂久)が藩主を継いだ事で久光が藩主後見人として実質最高権力者と成り、幕末の動乱期の舵取りをして行く事になる。

尚、斉彬(なりあきら)が忠義(茂久)の次に後継指名していた哲丸は、ほどなく早世している。


篤姫(あつひめ)は、千八百五十三年(嘉永六年)に薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、その年夏に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。

この頃、西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)は、主君・島津斉彬(しまづなりあきら)の手足となって、近衛篤姫(このえあつひめ・天璋院/てんしょういん)の第十三代将軍・徳川家定への輿入れ実務を担って奮闘している。

篤姫(あつひめ)は三年後に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年に第十三代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。

しかし篤姫の結婚生活は僅か一年九ヶ月の短いもので在った。

千八百五十八年八月十四日(安政五年七月六日)に十三代将軍・家定が急死し、同月には篤姫の後ろ盾とも言える薩摩藩主・島津斉彬までもが死去してしまう。

島津斉彬(しまづなりあきら)が推し篤姫が援護する図式だった一橋慶喜(後の第十五代将軍・徳川慶喜)と篤姫(あつひめ)の間は、後の勝海舟の回想から「仲が悪かった」と伝えられている。

将軍・家定の死を受け、篤姫(あつひめ)は落飾(らくしょく/仏門に入る)し天璋院と名乗る。


将軍・徳川家定の後継は、時の老中首座の阿部正弘の死後に徳川慶福(後の家茂)派と一橋慶喜派に割れるも、千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する。

江戸幕府の大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は一橋慶喜派を強権弾圧して強引に徳川慶福(後の家茂)を第十四代将軍としてしまう。

ぺりー提督率いる米国インド艦隊の来航以来外圧に苦しんでいた幕府は公武合体政策を進め、千八百六十二年(文久二年)には朝廷から家茂の正室として時の天皇・孝明天皇(こうめいてんのう)の妹、皇女・和宮が大奥へ入る事になる。


徳川家茂(とくがわいえもち)は、江戸幕府第十四代征夷大将軍である。

千八百四十六年(弘化三年)閏五月二十四日、紀州藩第十一代藩主・徳川斉順(とくがわいえなり)の次男として江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)で生まれる。

なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は千八百三十年(文政十二年)に流産で死去している為、次男ながら継嗣である。

幼名は菊千代と言い、千八百四十九年(嘉永二年)に叔父で第十二代藩主である徳川斉彊(とくがわなりかつ)が死去した為、その養子として家督を四歳で継ぎ、家茂(いえもち)は第十三代藩主となった。

祖父は十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)、祖母は妙操院(側室)で実父・徳川斉順(とくがわなりゆき)は家斉(いえなり)の三男である。

実父・徳川斉順(とくがわなりゆき/最終・紀州藩主)は第十二代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の実弟であり、第十三代代将軍・家定(いえさだ)の従兄弟にあたる。

家茂(いえもち)は徳川斉順(とくがわなりゆき/清水徳川家および紀州徳川家の当主)の次男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。

父・斉順(なりゆき)が紀州徳川家の当主だった事から、家茂(いえもち)の将軍就任の前は、徳川御三家・紀州藩第十三代藩主で、初名は慶福(よしとみ)を名乗っていた。

第十三代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、徳川氏中、「最も近い血筋の人物である」として、譜代筆頭の井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀派の支持を受ける。

千八百五十八年(安政五年)一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第十三代将軍・徳川家定も死去した為に、家茂(いえもち)は十三歳で第十四代将軍となった。

千八百六十二年(文久二年)家茂(いえもち)は、天皇家と将軍家の公武合体を目途とした婚姻で孝明天皇の妹・親子内親王(和宮/静寛院宮)を正室とする。

家茂(いえもち)と正室・和宮との仲は政略結婚ではあるが関係は良好で、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮と言われた。


千八百六十三年(文久三年)に家茂(いえもち)が将軍としては二百二十九年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。

千八百六十五年(慶応元年)兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰される。

家茂(いえもち)は、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申するが、孝明天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、「その後の幕府人事への干渉をしないと約束した」と言う。

翌千八百六十六年(慶応二年)家茂は第二次長州征伐の途上大坂城で病に倒れ、この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の二人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせる。

江戸城からは、天璋院(てんしょういん/このえあつひめ)や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。

しかしその甲斐なく、家茂(いえもち)は同年七月二十日に大坂城にて満二十歳で薨去した。

家茂は死に際し、徳川家達(とくがわいえさと/田安家の徳川亀之助)を徳川宗家の後継者・次期将軍として指名して遺言とした。

しかし千八百六十六年(慶応二年・年末)、十四代将軍・家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任したのは御三家・水戸徳川家出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だった。


幕府は尊王攘夷運動の沈静化と朝幕関係を修復を図って十四代将軍・家茂に孝明天皇の兄妹の宮を迎えて公武合体を進める。

朝廷側も、孝明天皇の攘夷論を幕府と一体化する思惑も在り、大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのを期に公武合体に応じる姿勢を見せる。

花嫁候補には孝明天皇の娘・富貴宮が検討されたが、その時点で家茂は十三歳、富貴宮は僅か生後六ヶ月と現実的では無かった。

そこで僅か半月(二週間)ほど姉さん女房になる孝明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう/仁孝天皇の第八皇女)が適当とされ、降嫁の話が進んでいる。

ただしこの和宮内親王(かずのみやないしんのう)、既に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた。

しかし候補の一人富貴宮は薨去してしまい、他に候補が居ないまま幕府は益々和宮内親王(かずのみやないしんのう)の降嫁を奏請する。

思案に窮した孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求め、岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し、納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答する。

孝明天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答した事で天皇は和宮の降嫁を決断した。

和宮はこれを拒むが、孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾している。

薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らす事を選んだ。

皇女・和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いも在ってか当初不仲だったが、後には和解したと言われ、慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後落飾して「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。

和宮降嫁に関しては「和宮替え玉説」があり、永年患っている足の関節炎に関しては増上寺の発掘調査で「両膝は健全」と合致せず、逆に茶の湯・お琴をたしなむ和宮の手は両手有る筈で、発掘した和宮に「左手首が無い」などの整合性に欠ける事実が浮上して小説に取り上げられる素材となった。

千八百六十七年(慶応三年)十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還をし、その後に起きた一連の戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされ、天璋院(てんしょういん)と静寛院宮(せいかんいんのみや)は島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力しこれを実現した。

そして天璋院/篤姫(てんしょういん/あつひめ)は、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。

晩年の天璋院(てんしょういん)は自由気ままな生活を楽しみ、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らして生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞って勝海舟や静寛院宮(和宮)とも度々会っていた。

尚、将軍・家定に嫁いで以降、天璋院/篤姫(てんしょういん/あつひめ)は生涯を通して故郷・鹿児島に戻る事は無かった。



一介の漁師でありながら、漂流者から日本の近代化に大きく貢献した人物・ジョン万次郎(まんじろう)が居る。

ジョン万次郎(まんじろう)は、千八百二十七年(文政十年)、土佐の国(高知県土佐清水市中浜)の漁師の子として産まれた。

千八百四十一年(天保十二年)、十四歳だった万次郎(まんじろう)は仲間の漁師四人と出漁中に遭難し、伊豆諸島の無人島・鳥島(とりしま)に漂着する。

万次郎(まんじろう)達四人は、無人島・鳥島(とりしま)漂着後百四十三日生き延び、通り掛かった米国捕鯨船ジョン・ハラウンド号に救出される。

当時日本は鎖国状態だった為、ジョン・ハラウンド号は日本に寄港出来無い為、年配の三人は寄港先のハワイ島に降ろされる。

ただ、年少だった万次郎(まんじろう)は、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて航海にの帯同を許される。

同千八百四十一年(天保十二年)、アメリカ本土に渡った万次郎(まんじろう)は、マサチューセッツ州の船長の自宅に連れられて行く。

万次郎(まんじろう)はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、千八百四十三年(天保十五年)にはオックスフォード学校に学ぶ。

翌千八百四十四年(弘化元年)に万次郎(まんじろう)は、バーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

万次郎(まんじろう)は、千八百四十六年(弘化三年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活する。

千八百五十年(嘉永三年)五月、万次郎(まんじろう)は日本に帰る事を決意し、帰国の資金を得る為にサンフランシスコへ渡り、金の採掘で得た六百ドルの資金を持ってハワイ島ホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。

千八百五十年十二月十七日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せてホノルルを立ち日本へ向け出航した。

千八百五十一年(年嘉永四年)二月二日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる。

海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩々主・島津斉彬(しまづなりあきら)は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問する。

藩主・斉彬(なりあきら)の命により、万次郎(まんじろう)は藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。

斉彬(なりあきら)は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

万次郎(まんじろう)ら四人は長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。

長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でない事を証明し、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。

高知城下に於いて、土佐藩執政・吉田東洋(よしだとうよう)らにより出身藩での取り調べを受けた後、漂流から十一年目にしてようやく故郷に帰る。

その取り調べの際に万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍(かわだしょうりょう)は万次郎の話を記録し、後に「漂巽紀略」を記している。

その後、河田小龍(かわだしょうりょう)が記した「漂巽紀略・五巻」は、十五代土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ/容堂)に献上される。

同書「漂巽紀略・五巻」が江戸に持ち込まれると諸大名間で評判になり、万次郎(まんじろう)の運命はまたも切り開かれる。

千八百五十三年(嘉永六年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていた事から、万次郎(まんじろう)が幕府直参として取り立てられる事となった。

万次郎(まんじろう)は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。


余談だが、土佐国帰郷後すぐに、万次郎(まんじろう)は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。

この藩校「教授館」の教授時代、万次郎(まんじろう)は後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。

また、万次郎(まんじろう)から得た河田小龍(かわだしょうりょう)の知識は、坂本龍馬に「貿易立国」を志させる切っ掛けとなった。

千八百六十年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換する為の遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。

船長の勝海舟(かつかいしゅう)が船酔いが酷くまともな指揮を執れなかった為、万次郎(まんじろう)は代わって船内の秩序保持に努めた。

サンフランシスコに到着後、万次郎(まんじろう)は使節の通訳として活躍する。

また、万次郎(まんじろう)は帰国時に同行の福澤諭吉(ふくざわゆきち)と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

万次郎(まんじろう)は、千八百六十六年(慶応二年)には土佐藩・開成館教授、千八百六十七年(慶応三年)には薩摩藩教授を務めるも武力倒幕の機運が高まり江戸に戻った。

明治維新後の千八百六十九年(明治二年)、万次郎(まんじろう)は明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。

千八百七十年(明治三年)、万次郎(まんじろう)は普仏戦争視察団として大山巌(おおやまいわお)らと共に欧州へ派遣される。

その帰国の途上、万次郎(まんじろう)は米国にて恩人のホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈った。

欧州派遣から帰国後、万次郎(まんじろう)は軽い脳溢血を起こすも、数ヵ月後には日常生活に不自由しないほどに回復する。

時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、万次郎(まんじろう)は教育者としての道を全うした。

千八百九十八年(明治三十一年)、万次郎(まんじろう)は七十二歳で死去した。

千八百九十八年(明治三十一年)は、この年一月、第三次伊藤博文内閣成立も六月には総辞職、第一次大隈重信内閣成立(隈板内閣)するも十月総辞職、第二次山縣有朋内閣が成立するなど、政情不安定な年だった。



ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。

この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。

マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。


ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。

実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。

日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。


ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。

嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘によってリードされていて、ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。



幕末期に、異国船が日本近海に相次いで出没した事に危機感を抱いた幕臣も数多く居た。

水野忠邦(みずのただくに)は、千七百九十四年(寛政六年)六月二十三日、唐津藩第三代藩主・水野忠光の次男として生まれる。

忠邦(ただくに)は長兄の芳丸が早世した為、千八百五年(文化二年)に唐津藩の世子となり、二年後の千八百七年(文化四年)に第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)と世子・家慶(いえよし)に御目見する。

忠邦(ただくに)は、千八百十二年(文化九年)に父・忠光が隠居した為、水野氏の家督を相続する。

忠邦(ただくに)は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、千八百十六年(文化十三年)に奏者番となる。

奏者番(そうじゃばん)は、大名や旗本が将軍に謁見するとき,姓名や進物を披露し,下賜物を伝達する取次ぎの役である。

忠邦(ただくに)は奏者番(そうじゃばん)以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負う事から唐津藩主では昇格に脈が無いと知る。

翌千八百十七年(文化十四年)九月、忠邦(ただくに)は家臣の諫言を押し切って、実封二十五万三千石の唐津藩から実封十五万三千石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させる。

この国替顛末に絡み、水野家々老・二本松義廉が忠邦(ただくに)に諌死をして果てている。

また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作の為の賄賂として使われたのではないかと言う疑念が生まれた。

この召し上げ天領、年貢の取立てが厳しかった事から、忠邦(ただくに)は後年までその地域の領民に恨まれている。

しかしこの国替えにより忠邦(ただくに)の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。

忠邦(ただくに)が幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。

その後、忠邦(ただくに)は将軍・家斉(いえなり)の下(もと)で頭角を現し、千八百二十五年(文政八年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。

千八百二十六年(文政九年)に、忠邦(ただくに)は京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、文政十一年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶(とくがわいえよし)の補佐役を務めた。

千八百三十四年(天保五年)に老中・水野忠成(みずのただあきら/沼津藩々主)が病没した為、忠邦(ただくに)は代わって本丸老中に任ぜられる。

忠邦(ただくに)は千八百三十七年(天保八年)に勝手御用掛を兼ね、千八百三十九年(天保十年)に老中首座となった。

忠邦(ただくに)は、異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす現状に心を痛めていた。

一方、年貢米収入が激減し、一方で大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府にも、忠邦(ただくに)は強い危機感を抱いていたとされる。

しかし将軍・家斉(いえなり)の在世中は、天保の三侫人(さんねいじん)と総称される水野忠篤、林忠英、美濃部茂育をはじめ将軍・家斉(いえなり)側近が権力を握っており、忠邦(ただくに)は改革を開始できなかった。

千八百三十七年(天保八年)四月に徳川家慶(とくがわいえよし)が第十二代将軍に就任し、ついで千八百三十一年(天保十二年)閏一月の大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免する。

忠邦(ただくに)は、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して「天保の改革」に着手した。

「天保の改革」では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。

農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じる。

また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。

その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとった為、物価引下げとは相反する結果をもたらした。

腹心の遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に「遠山の金さん」として語り継がれた。

千八百四十三年(天保十四年)九月に、上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした。

その上、腹心の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が上知令反対派の老中・土井利位(どいとしつら)に寝返って機密文書を渡すなどした為、忠邦(ただくに)は閏九月十三日に老中を罷免されて失脚した。

改革はあまりに過激で、忠邦(ただくに)は庶民の怨みを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。

千八百四十四年(弘化元年)六月、江戸城本丸が火災により焼失する。

老中首座・土井利位(どいとしつら)は、その本丸再建費用を集められなかった事から将軍・家慶(いえよし)の不興を買った。

将軍・家慶(いえよし)は、同千八百四十四年(弘化元年)六月二十一日に外国問題の紛糾などを理由に忠邦(ただくに)を老中首座に再任した。

しかし忠邦(ただくに)は、重要な任務を任されるでもなく、欠勤、長期欠勤の後、千八百四十五年(弘化二年)に老中を辞職する。

老中・阿部正弘をはじめ、土井利位(どいとしつら)らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、忠邦(ただくに)は窮地に立つ。

同千八百四十五年(弘化二年)九月、忠邦(ただくに)は加増の内一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となる。

家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられ、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。

なお、この転封に際して、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとした為に領民が怒り、大一揆を起こすも、その一揆は、新領主の井上氏が調停して鎮めている。

山形転封から六年、忠邦(ただくに)は千八百五十一年(嘉永四年)二月十日、満五十六歳で死去した。



高野長英(たかのちょうえい)は、千八百四年(文化元年)五月五日陸奥国仙台藩の一門である水沢領主・水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれる。

養父は叔父・高野玄斎で、玄斎は江戸で杉田玄白(すぎたげんぱく)に蘭法医術を学んだ事から家には蘭書が多く、長英も幼い頃から新しい学問に強い関心を持つようになった。

千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事する。

この江戸生活で長英(ちょうえい)は吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。

千八百二十八年(文政十一年)シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英(ちょうえい)はこのとき巧みに逃れている。

シーボルト事件から間もなく、異説もあるが、長英(ちょうえい)は豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという。

この間、義父・玄斎が亡くなっており、長英(ちょうえい)は故郷から盛んに帰郷を求められる。

長英(ちょうえい)は逡巡したものの終(つい)に拒絶して家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。

千八百三十年(天保元年)長英(ちょうえい)は江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。

江戸開塾間もなく、長英(ちょうえい)は三河田原藩重役・渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合う。

長英(ちょうえい)はその能力を買われ、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。

長英(ちょうえい)らは、わが国で初めてピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約する。

千八百三十二年(天保三年)長英(ちょうえい)は紀州藩儒官・遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入る。

長英(ちょうえい)は「救荒二物考」などの著作を表し渡辺崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。


千八百三十七年(天保八年)異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きる。

翌千八百三十八年(天保九年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。

同千八百三十八年(天保九年)、長英はそうした意見をまとめた「戊戌夢物語」を著し、内輪で回覧に供した。

但しこの本「戊戌夢物語」は、長英(ちょうえい)の想像を超えて多くの学者の間で出回っている。

千八百三十九年(天保十年)、南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が主導する「蛮社の獄」が勃発する。

長英(ちょうえい)も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監される。

但しこの時、長英(ちょうえい)は捕らえられたのではなく、奉行所に自ら出頭した説もある。

長英(ちょうえい)は牢内で服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。

これらの行動と親分肌の気性から、長英(ちょうえい)は牢名主として祭り上げられるようになった。 千八百四十四年(弘化元年)六月三十日、長英(ちょうえい)は牢屋敷の火災に乗じて脱獄する。

この牢屋敷火災、長英(ちょうえい)が牢で働いていた非人・栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。

脱獄の際、受牢者は三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けた。

だが、長英(ちょうえい)はこの警告を無視し、再び牢に戻って来る事はなかった。

脱獄後の詳しい経路は不明ながらも、長英(ちょうえい)は硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続ける。

長英(ちょうえい)は、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死する。

その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主・伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。

しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、長英(ちょうえい)は沢三伯の偽名を使って町医者を開業する。

医者になれば人と対面する機会が多くなる為、その中の誰かに長英(ちょうえい)と見破られる事も十分に考えられた。

千八百五十年(嘉永三年)十月三十日江戸の青山百人町(現在の南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛される。

現場にいたある捕手役人の覚書によると、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だった為、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命した。

しかし奉行所に提出された報告書によれば、長英(ちょうえい)は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。

長英(ちょうえい)は江戸に於いて勝海舟と会談、もしくは勝に匿ってもらったと言う話も、確証はないが伝えられている。

高野長英(たかのちょうえい)の最後は、四十六歳の非業の死だった。



鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江戸時代の幕臣、旗本で、耀蔵(ようぞう)は通称、諱は忠耀(ただてる)である。

耀蔵(ようぞう)の実父は、大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎(はやしじゅっさい)である。

耀蔵(ようぞう)の父方の祖父・松平乗薀(のりもり)は小さいながらも大名で、美濃岩村藩三万石の第三代藩主である。

耀蔵(ようぞう)は旗本・鳥居成純の長女・登与の婿として鳥居家の養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。

耀蔵(ようぞう)の弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。

千九百七十六年(寛政八年)十一月二十四日、耀蔵(ようぞう)は林述斎(はやしじゅっさい/林衡)の三男(四男説もある)として生まれる。

生母の前原氏は、側室であった。

千八百二十年(文政三年)、耀蔵(ようぞう)は二十五歳の時に旗本・鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、二千五百石を食む身分となる。

そして十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の側近として仕えた。

やがて家斉(いえなり)が隠居して徳川家慶(とくがわいえよし)が十二代将軍となる。

耀蔵(ようぞう)は老中である水野忠邦(みずのただくに)の「天保の改革」の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。

耀蔵(ようぞう)は、渋川敬直、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。

千八百三十八年(天保九年)、耀蔵(ようぞう)は江戸湾測量を巡って江川英龍(えがわひでたつ)と対立する。

この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになる。

耀蔵(ようぞう)は、翌年の「蛮社の獄」で渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)ら蘭学者を弾圧する遠因となる。

だが近年の研究では、耀蔵(ようぞう)は単なる蘭学嫌いでは無かった事が明らかとなっている。

千八百四十三年(天保十四年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対している。

つまり耀蔵(ようぞう)は、蘭学の実用性をある程度認めていた事が判明している。

また、江戸湾巡視の際に耀蔵(ようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かである。

だが、元々耀蔵(ようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)は以前から昵懇の間柄である。

両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていた。


権力にしがみ付きたい現体制派の人間と、もぅ時代環境が次の体制を求めている事に気がついた革新派の人間との軋轢は、どの時代にも存在する。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)が仕掛けた「蛮社の獄」は、井伊直弼(いいなおすけ)が仕掛けた「安政の大獄」の前段として起こされた弾圧事件だった。

図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。

その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、太郎左衛門(たろざえもん)の韮山反射炉である。


実は耀蔵(ようぞう)は、江戸湾巡視や「蛮社の獄」の一年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていた。

耀蔵(ようぞう)の危惧するところは、蘭学者の一部が幕政を批判する事で世論が倒幕に向かう事、或いは蘭学者の一部が外来船に内通する事を恐れたのではないか?

「蛮社の獄」は「戊戌夢物語」の著者の探索に事よせて「蘭学にて大施主」と噂されていた渡辺崋山(わたなべかざん)を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪する。

更に、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を、耀蔵(ようぞう)が企図して起こしたとしている。

千八百四十一年(天保十二年)、耀蔵(ようぞう)は南町奉行・矢部定謙を讒言(ざんげん)により失脚させ、その後任として南町奉行となる。

矢部家は改易、矢部定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。

天保の改革に於ける耀蔵(ようぞう)の市中取締りは非常に厳しかった。

おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていた為、当時の人々からは「蝮(マムシ)の耀蔵」、或いははその名をもじって「妖怪」とあだ名され、忌み嫌われた。

「妖怪」とは、耀蔵(ようぞう)の官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略して呼んだものと言う。

この時期に北町奉行だった遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図る。

すると、耀蔵(ようぞう)は水野忠邦(みずのただくに)と協力し、遠山景元(とうやまかげもと)を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させる。

但しその遠山景元(とうやまかげもと)は、耀蔵(ようぞう)の失脚後に南町奉行として復帰している。

千八百四十三年(天保十四年)に、耀蔵(ようぞう)は勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

清国で起こったアヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川英龍(えがわひでたつ)や高島秋帆(たかしましゅうはん)らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用される。

だが、終始蘭学反対の立場にあった耀蔵(ようぞう)は快く思わなかった。

耀蔵(ようぞう)は、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行・伊沢政義と協力して、高島秋帆(たかしましゅうはん)の落とし入れを図る。

耀蔵(ようぞう)は赴任前の伊沢政義と事前に相談して自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどし、高島秋帆(たかしましゅうはん)に密貿易や謀反の罪を着せた。

長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島秋帆(たかしましゅうはん)に、耀蔵(ようぞう)が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせた。

だがこれも近年の研究では、長崎会所の長年に渡る杜撰(ずさん)な運営の責任者として高島秋帆(たかしましゅうはん)は処罰されたのである。

高島秋帆(たかしましゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説がある。

改革末期に水野忠邦(みずのただくに)が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵(ようぞう)が反対派に寝返る。

耀蔵(ようぞう)は老中・土井利位(どいとしつら)に機密資料を残らず横流しした。

やがて「天保改革」は頓挫し、水野忠邦(みずのただくに)は老中辞任に追い込まれてしまうが、耀蔵(ようぞう)は従来の地位を保った。

ところが半年後の千八百四十四年(弘化元年)、外交問題の紛糾から水野忠邦(みずのただくに)が再び老中として将軍・家慶(いえよし)から幕政を委ねられると状況は一変する。

老中に再任された水野忠邦(みずのただくに)は、自分を裏切り改革を挫折させた耀蔵(ようぞう)を許さず、更に仲間の渋川、後藤の裏切りも在った。

同千八百四十四年(弘化元年)九月に耀蔵(ようぞう)は職務怠慢、不正を理由に解任される。

翌千八百四十五年(弘化二年)二月二十二日に有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩主・相良長福に預けられると決定する。

しかし同千八百四十五年(弘化二年)四月二十六日に、耀蔵(ようぞう)は出羽岩崎藩主・佐竹義純に預け替えになった。

それも変更され、結局、耀蔵(ようぞう)は十月三日に讃岐丸亀藩主・京極高朗に預けられる。

同日、渋川敬直も豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首された。

長崎奉行・伊沢政義も長崎奉行を罷免されて西丸留守居に左遷され、水野忠邦(みずのただくに)自身も再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居から隠居となる。

その後、水野家は出羽国山形藩に転封されている。

これの処断以降、耀蔵(ようぞう)は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、二十年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。

讃岐丸亀での耀蔵(ようぞう)には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。

耀蔵(ようぞう)への監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりする事も在った。

それでもお預けの身分の耀蔵(ようぞう)は自らの健康維持のみならず、領民への治療を行い慕われた。

耀蔵(ようぞう)は幕府儒者・林家の出身で在った為学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。

このように、軟禁されていた時代の耀蔵(ようぞう)は、「妖怪」と渾名され嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていた。

丸亀にいた間に、耀蔵(ようぞう)が食べたビワの種を窓から投げ捨てていたら、「彼が去る際に立派な大木に育っていた」と勝海舟(かつかいしゅう)が記している。

江戸幕府滅亡前後は、耀蔵(ようぞう)へ監視もかなり緩み、耀蔵(ようぞう)は病と戦いながら様々な変化を見聞している。

耀蔵(ようぞう)は明治政府による恩赦で、千八百六十八年(明治元年)十月に幽閉を解かれた。

しかし耀蔵(ようぞう)は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせた。

耀蔵(ようぞう)は東京と改名された江戸に戻って、しばらく居住していたが、千八百七十年(明治三年)、郷里の駿府(現在の静岡市)に移住を決意する。

この際、実家である林家を頼ったが、既に林家には彼を見知っているものが一人もいなかったと言う。

千八百七十二年(明治五年)に、耀蔵(ようぞう)は東京に戻る。

江戸時代とは様変わりした状態を耀蔵(ようぞう)は「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していた。

耀蔵(ようぞう)の晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をする様な平穏な日々を送り、千八百七十三年(明治六年)十月三日、多くの子や孫に看取られながら七十八歳で亡くなった。



洋式砲術家・高島秋帆(たかしましゅうはん)は、千七百九十八年(寛政十年)長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。

秋帆(しゅうはん)の先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔を名乗っている。

千八百十四年(文化十一年)、秋帆(しゅうはん)は父・茂起の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。

当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であった為、そこで育った秋帆(しゅうはん)は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然となる。

秋帆(しゅうはん)は出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え千八百三十四年(天保五年)に高島流砲術を完成させた。

この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌千八百三十五年(天保六年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。

その後、秋帆(しゅうはん)は清国がアヘン戦争でイギリスに敗れた事を知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える「天保上書」という意見書を提出する。

千八百四十一年(天保十二年)、秋帆(しゅうはん)は武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。

この演習の結果、秋帆(しゅうはん)は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘(あべまさひろ)からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。

秋帆(しゅうはん)は江戸末期の砲術家、高島流砲術の創始者(流祖)として「火技之中興洋兵之開祖」と号す事を認めらる。

幕命により、秋帆(しゅうはん)は江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。

しかし、翌千八百四十二年(天保十三年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に、秋帆(しゅうはん)は逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。

幕府から重用される事を妬んだ鳥居耀蔵(とりいようぞう)の「密貿易をしている」という讒訴(ざんそ)によるというのが通説である。

だが、秋帆(しゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた老中・水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説もある。

秋帆(しゅうはん)は、武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。


千八百五十三年(嘉永六年)、ペリー来航による社会情勢の変化により秋帆(しゅうはん)は赦免されて出獄する。

秋帆(しゅうはん)は、幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする「嘉永上書」を幕府に提出する。

攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。

その後秋帆(しゅうはん)は、千八百六十六年(慶応二年)まで生き六十九歳で死去した。



渡辺崋山(わたなべかざん)は、江戸時代後期の武士、画家で、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。

父・渡辺定通は江戸詰(定府)の田原藩士で、崋山(かざん)は長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区)の田原藩邸で生まれた。

渡辺家は田原藩(三宅家)で上士の家格を持ち、代々百石の禄を与えられていたが、父・定通が養子である事から十五人扶持(田原藩では二十七石)に削られていた。

藩の財政難による更なる減俸で実収入はわずか十二石足らずとなり、父・定通が病気がちで医薬費がかさみ、渡辺家は困窮していた。

崋山(かざん)には画才が在り、絵を売って生計を支えるようになる。

さらに崋山(かざん)は、画家・谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能が大きく花開き、二十代半ばには画家として著名となり、家計は安定する。


田原藩士としての崋山(かざん)は、八歳で時の藩主・三宅康友の嫡男・亀吉の伽役(とぎやく/遊び相手)を命じられるも、嫡男・亀吉は夭折(ようせつ/幼くして亡くなる)する。

嫡男・亀吉の夭折(ようせつ)後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役(とぎやく)となり、藩主・康友からも目をかけられるなど、崋山(かざん)は幼少時から藩主一家とごく近い位置に在った。

崋山(かざん)は十六歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕、そのお役は納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目だった。

千八百二十三年(文政六年)、崋山(かざん)は田原藩の和田氏の娘・たかと結婚する。

千八百二十五年(文政八年)には父・定通の病死の為、崋山(かざん)は三十二歳で家督を相続し、家禄八十石を引き継いだ。

しかし相続間もない千八百二十五年(文政十年)、伽役(とぎやく)を務めて親しかった藩主・康明が二十八歳の若さで病死してしまう。

藩首脳部は貧窮する藩財政を打開する為、当時裕福で在った姫路藩(酒井氏)から養子を持参金付きで迎えようとする。

崋山(かざん)はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。

結局藩上層部の意思が通って養子・康直が藩主となるも、崋山(かざん)らは藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とする事を承諾させている。

更に藩首脳部は、崋山(かざん)ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇する。

崋山(かざん)は友信の側用人として親しく接する事となり、後に崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出す事もあった。

絵画ですでに名を挙げていた崋山(かざん)は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわず年寄役末席(家老職)に就任する。

家老職就任は崋山(かざん)三十九歳、千八百三十二年(天保三年)の事だった。

崋山(かざん)は優秀な藩士の登用と士気向上の為、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図り、藩政改革に尽力する。

崋山(かざん)は藩の助郷免除嘆願の為に海防政策を口実として利用した。

よって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願の為の隠れ蓑で、崋山(かざん)自身は開国論を持っており、本音は鎖国・海防に反対だった。


崋山(かざん)は紀州藩儒官・遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英(たかのちょうえい)などと飢饉の対策について話し合う。

この成果として高野長英(たかのちょうえい)はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した「救荒二物考」を上梓する。

絵心のある崋山(かざん)が、その「救荒二物考」の挿絵を担当している。

その後、この学問会は千八百三十七年(天保八年)のモリソン号事件とともにさらなる広がりを見せる。

蘭学者の高野長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。

特に江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けたとされている。

しかし近年の研究では、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったとする説も在る。

崋山(かざん)や高野長英、小関三英は、内心では鎖国の撤廃を望んでいた。

つまり崋山(かざん)は、幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。

江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていた。

千八百三十八年(天保九年)にモリソン号事件を知った崋山(かざん)や高野長英(たかのちょうえい)は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する「慎機論」を書いた。

但し崋山(かざん)は、田原藩の年寄と言う立場上幕府の対外政策を批判できなかった。

崋山(かざん)は提出を取りやめ草稿のまま放置していた。

だが、この反故にしていた崋山(かざん)の原稿が約半年後の「蛮社の獄」に於ける家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされる事になる。
「蛮社の獄」は、幕府の保守派、目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の新聞記者・藤田茂吉(ふじたもきち)がこれを自由民権運動との連想で書いた為だった。

実際には、鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)との確執が「蛮社の獄」の原因である。

千八百三十九年(天保十年)五月、鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江川英龍(えがわひでたつ)とその仲間を罪に落とそうとした。

江川英龍(えがわひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)にかばわれて無事だったが、崋山(かざん)は家宅捜索の際に、崋山(かざん)が発表を控えていた「慎機論」を発見される。

崋山(かざん)は陪臣の身で国政に容喙したと言う事で、三河国田原に蟄居する事となったと言うのが通説である。

この通説が在るものの、近年の研究では、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かだが、元々、鳥居と江川は以前から昵懇の間柄だった。

その鳥居と江川の両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、鳥居が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていて、両者に確執に求めるのは誤りであるともされる。

千八百四十一年(天保十二年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人・福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てる事となった。

ところが、崋山(かざん)が生活の為に絵を売っていた事が幕府で問題視されたとの風聞が藩内に立つ。

この風聞、一説には藩内の反崋山派による策動とされているが、藩に迷惑が及ぶ事を恐れた崋山(かざん)は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて四十八歳で切腹した。



明治維新の少し前、米国使節マシュー・ペリーや、ロシア使節プチャーチン一の来航に危機感を抱いた幕臣も数多く居た。

その中でも中心的役割を果たしたのが江川太郎左衛門・英龍(えがわたろうざえもん・ひでたつ)である。

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とは伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。

江川家の始祖は、清和源氏源経基の孫・源頼親でありこの血統は大和源氏と呼ばれた。

初め宇野氏を名乗り、伊豆には九代・親信の代・平安末期に移住した中世以来の名家である。

平安末期、宇野治長(うのはるなが)が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。

その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕え本拠地・江川荘を持って宇野姓から江川姓に名乗りを変える。

二十八代・江川英長は、たびたび北条氏直の使いにて岡崎の徳川家康に目通(めどお)りしている。

徳川家康と昵懇(じっこん)になるも同僚・笠原隼人が北条氏直に讒言(ざんげん)した為、これを斬り、三河の家康の下に走る。

のち北条氏直に許され、家康の次女・督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐときに従い韮山に 帰る。

千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家二十八代・英長は北条氏を寝返って徳川家康に従い、その功により代官に任ぜられた。

以降江川家は、享保八年- 宝暦八年の三十五年間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石分(後二十六万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。


この有力代官・江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄で、太郎左衛門(たろざえもん)とは江川家の代々の当主の世襲通称である。

中でも三十六代当主・江川英龍(えがわひでたつ)が著名で、この欄の太郎左衛門は主にi英龍(ひでたつ)を指す事とする。

父・英毅(ひでたけ)が長命だった為に英龍(ひでたつ)が代官職を継いだのは、三十五歳の時とやや遅い千八百三十五年(天保六年)の事である。

元服から代官職を継ぐ間の英龍(ひでたつ)は、やや悠々自適に過ごしていた。

英龍(ひでたつ)は、時に江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている。

英龍(ひでたつ)が正体を隠していたのは、甲斐国では千八百三十六年(天保七年)八月に甲斐一国規模となった天保騒動の影響や博徒(甲州博徒)が横行していた為の「甲州微行」だった。

その後も同門の友人・斎藤弥九郎との関係は終生続いた。
父・英毅(ひでたけ)は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られる。

英龍(ひでたつ)も施政の公正に勤め、二宮尊徳(にのみやそんとく)を招聘して農地の改良などを行った。

英龍(ひでたつ)は日本で初めてパンを焼いたとされ、製パン業界では「パン祖」とされている。

また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。

こうした領民を思った英龍(ひでたつ)の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。

現在に至っても彼の地元・韮山では江川英龍(えがわひでたつ)へ強い愛着を持っている事が伺われる。


江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。

幕府は異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが千八百三十七年(天保八年)、モリソン号事件が発生。

幕府は方針に従って打ち払った。

英龍(ひでたつ)としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った。

こうした時期に川路聖謨(かわじとしあきら)・羽倉簡堂(はくらかんどう)の紹介で英龍(ひでたつ)は渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)ら尚歯会の人物を知る事になる。

渡辺崋山(わたなべかざん)らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していた。

だが、それだけに英龍(ひでたつ)の危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。

ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。

尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍(ひでたつ)は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。

そうした中で英龍(ひでたつ)と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える渡辺崋山(わたなべかざん)は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆(たかしましゅうはん)の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。

しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら保守勢力がこの動きを不服とした。

特に鳥居耀蔵(とりいようぞう)からすれば過去に英龍(ひでたつ)と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、渡辺崋山(わたなべかざん)の人脈と知識を借りた英龍(ひでたつ)に敗れ、老中・水野忠邦(みずのただくに)に叱責された事が在る。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍(ひでたつ)、そして彼のブレーンとなっていた渡辺崋山(わたなべかざん)らが気に入らなかった。

千八百三十九年(天保十年)、ついに鳥居耀蔵(とりいようぞう)は「蛮社の獄」を越して冤罪をでっち上げ、渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった。

しかし英龍(ひでたつ)は彼を高く評価する老中・水野忠邦(みずのただくに)に庇(かば)われ、罪に落とされなかったというのが通説である。

だが近年の研究では、この通説否定する説も浮上している。

否定説に依ると、英龍(ひでたつ)とは高野長英(たかのちょうえい)は面識がなく、また渡辺崋山(わたなべかざん)と簡堂の接点も不明である。

そして、崋山(かざん)と秋帆(しゅうほう)も「面識はなかった」と伝えられている。

崋山(かざん)・長英(ちょうえい)らはいずれも内心鎖国の撤廃を望んでいたが、幕府の鎖国政策を批判する危険性を考えて崋山(かざん)は海防論者を装っていた。

崋山(かざん)が所属していた田原藩の海防も、助郷返上運動のための理由づけとして利用されただけだった。

海防論者である英龍(ひでたつ)は崋山(かざん)を海防論者と思って接触し、逆に崋山(かざん)はそれを利用して英龍(ひでたつ)に海防主義の誤りを啓蒙しようとした。

やがて英龍(ひでたつ)も崋山(かざん)が期待したような海防論者ではないことを悟ったとみられる。

また、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)の間に対立があったのは確かだ。

だが、もともと鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いている。

「蛮社の獄」に際しても鳥居耀蔵(とりいようぞう)は英龍(ひでたつ)を標的とはしておらず、英龍(ひでたつ)は「蛮社の獄」とは無関係だとしている。

なお、尚歯会の会員で処罰を受けたのは渡辺崋山(わたなべかざん)と高野長英(たかのちょうえい)のみで、尚歯会自体は弾圧は受けていない。


その「蛮社の獄」の後、英龍(ひでたつ)は長崎へと赴いて高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。

これが実現し、英龍(ひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)より正式な幕命として高島秋帆(たかしましゅうはん)への弟子入りを認められる。

以後、英龍(ひでたつ)は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。

佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)など、そうそうたる人材が英龍(ひでたつ)の門下で学んでいる。

つまり英龍(ひでたつ)の弟子の一人が佐久間象山であれば、象山を師と仰いだ倒幕のリーダー・松下村塾の吉田松陰は、英龍(ひでたつ)の孫弟子にあたる。

英龍(ひでたつ)は千八百四十三年(天保十四年)に水野忠邦(みずのただくに)が失脚した後に老中となった阿部正弘(あべまさひろ)にも評価される。

千八百五十三年(嘉永六年)、英龍(ひでたつ)はペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、老中・阿部正弘(あべまさひろ)の命で台場を築造した。

同様に、英龍(ひでたつ)は反射炉も作り、銃砲製作も行った。

現在も伊豆韮山(静岡県)に、英龍(ひでたつ)が計画し、跡を継いだ息子の江川英敏(えがわひでとし)が築いた反射炉跡が残っている。

「韮山反射炉は、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)が造った」で正解なのだが、太郎左衛門は江川家代々の襲名だから、実は英龍(ひでたつ)と英敏(ひでとし)の親子二代で造った事が、一人で造ったと誤解されている。

韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡で、近代化産業遺産群の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。
日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされる。


英龍(ひでたつ)は勘定吟味役格に登用されたが、近年の説では老中・正弘正弘(あべまさひろ)は海防強化には終始消極的だったとされる。

水野忠邦(みずのただくに)が罷免され阿部正弘(あべまさひろ)が老中として実権を握ると、海防強化策は撤回され英龍(ひでたつ)も鉄砲方を解任されている。

品川沖台場の築造も翌千八百五十四年(嘉永七年)に日米和親条約が調印されると、予定十一基のうち五基が完成しただけで工事の中止が決定されている。

英龍(ひでたつ)は造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に当たる。

そうした諸般の任に加え、英龍(ひでたつ)は爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図した。

しかし、あまりの激務に体調を崩し、千八百五十五年(安政二年)一月十六日に満五十三歳で病死している。



幕末の動乱期に在って安政の改革を断行した江戸幕府老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は、阿部家宗家十一代にして江戸時代末期の備後福山藩第七代藩主である。

井伊直弼(いいなおすけ)が攘夷運動の的になって暗殺されたが、幕閣に在って最初に開国を主導したのは直弼(なおすけ)の前任・老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)だった。


大奥と僧侶が、十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)時代に乱交を極めていた事件が、家斉(いえなり)没後に寺社奉行となった正弘(まさひろ)の時代に露見する。

正弘(まさひろ)は将軍・家斉(いえなり)の非を表面化させる事を恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。

この裁断により、正弘(まさひろ)は第十二代代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)より目をかけられるようになったと言われる。

千八百四十三年(天保十四年)九月十一日、正弘(まさひろ)は二十五歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。

千八百四十四年(天保十五年)五月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦(みずのただくに)が老中首座に復帰する。

しかし正弘(まさひろ)は一度罷免された水野忠邦(みずのただくに)が復帰するのに反対し、家慶(いえよし)に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。

老中首座に水野忠邦(みずのただくに)が復帰すると、正弘(まさひろ)は天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し後任の南町奉行には元北町奉行・遠山景元を就任させる。

さらに正弘(まさひろ)は、千八百四十五年(弘化二年)九月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。


正弘(まさひろ)は江川英龍(えがわひでたつ)、勝海舟(かつかいしゅう)、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆(たかしましゅうはん)らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。

正弘(まさひろ)が創設した講武所は、後に日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。

また、正弘(まさひろ)は西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。

千八百五十七年(安政四年)六月十七日、正弘(まさひろ)は老中在任のまま三十九歳にて江戸で急死した。



備後福山藩(十一万石)藩主・阿部正弘(あべまさひろ)の先祖は徳川家康の江戸幕府成立に貢献した阿部家宗家である。

阿部正勝(あべまさかつ)が徳川家康に仕えて今川氏・武田氏らとの戦で活躍し、小田原の役後、家康の関東に入部に際して鳩ヶ谷で五千石を賜る。

後を継いだ正勝(まさかつ)継嗣・阿部正次が関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、相模国内に五千石を加増され、父の遺領と併せて鳩ヶ谷藩一万石の大名となる。

その後正次(まさつぐ)は、大番頭、伏見城番などを歴任し、大坂の役でも戦功を挙げて正次は三万石にまで加増され総国大多喜藩へ移された。

大坂の役後、正次(まさつぐ)は急速に加増を重ね、千六百二十六年(寛永三年)には八万六千石余となり、大坂城代に任じられる。

正次(まさつぐ)が大坂に転出した後、岩槻の治世は嫡男の阿部政澄が三万石で担当するも早世した為、正次の次男で三浦氏を継いでいた阿部重次が復姓し、五万九千石で岩城藩に入る。

正次(まさつぐ)が大阪城代赴任中に死去、次男・阿部家宗家二代・阿部重次(あべしげつぐ)が父・正次(まさつぐ)の後を継いで正式に家督を相続の上、一万石の加増も受けて合計九万九千石の所領を継ぐ。

その後阿部家宗家は、丹後国宮津藩九万九千石万石へ移封、下野国宇都宮藩十万万石へ移封と転じて備後国福山藩十万万石へ移封される。

備後福山藩は、阿部家宗家五代・阿部正邦(あべまさくに)が下野宇都宮藩から移封されて備後阿部家が成立した。

三河阿部氏は、江戸幕府を成立させた徳川家康を輩出した三河松平氏(徳川氏)の安祥譜代七家中の一家に挙げられるほどの古参家臣の家柄である。

この三河阿部氏、所謂安倍一族ではなく始祖は孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)第一皇子・阿部大彦命(あべおおびこのみこと)とされる。

ただしこの孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)は欠史八代の一人で、在しない天皇と捉える見方が一般的である。

しかしながら、三河阿部氏のごとく「阿部氏の系譜」の存在から近年は実在説を唱える学者も数が増えている。

徳川譜代・三河阿部氏には阿部正勝の系統は、正勝の子・正次が江戸幕府で大坂城代を務めた事をきっかけに、分家でも大名に取り立てられて広がってu行く。

正次以降でも、幕閣を担った人材を多数輩出していて、中でも三代将軍・徳川家光の頃に老中を務めた下野壬生藩・武蔵忍藩々主・阿部忠秋(あべ ただあき)が知られている。



井伊直弼(いいなおすけ)は、第十一代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれ、幼名は鉄之介と名付けられたが、子沢山の藩主の庶子で養子の口も無く元服成人後も三百俵の捨扶持の部屋住みとして三十二歳まで過ごした。

所が、第十二代藩主・直亮(なおあき/直中三男)に実子が無かった為に世継ぎと決められていた直元(直中十一男)が死去した事により藩主・直亮(なおあき)より彦根藩の後継者に指名されて運命が変わった。

井伊家は、あの徳川家康が寵愛して大名にまで取り立てられた稚児上がりの武将・井伊直政(いいなおまさ)を祖に持つ近江国・彦根藩三十五万石の大藩である。

井伊直弼(いいなおすけ)は、兄・直亮(なおあき)の養子という形で従四位下侍従兼玄蕃頭に叙位・任官し、その後左近衛権少将に遷任され玄蕃頭を兼任している。

千八百五十年(嘉永三年)、兄で養父の第十二代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の死去に伴い家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)に遷任、第十三代藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)となる。

井伊直弼(いいなおすけ)が第十三代の井伊藩主として幕府に出仕して三年、千八百五十三年(嘉永六年)に米国ペリー艦隊が来航、直弼(なおすけ)は江戸湾防備にあたった。

老中首座の阿部正弘の諮問に直弼(なおすけ)は「政治的方便で臨機応変に対応すべきで、この際開国して交易すべし」と開国論を主張したとされている。

千八百五十五年(安政二年)になると、攘夷を強く唱える徳川斉昭(とくがわなりあき)と井伊直弼(いいなおすけ)ら溜間詰(たまりのまづめ/江戸城で名門譜代大名が詰める席)諸侯の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。

同年、斉昭(なりあき)は開国・通商派の老中・松平乗全と老中・松平忠固の更迭を要求、老中首座の阿部正弘は止む無く両名を老中から退けた。

老中首座の阿部が松平乗全と松平忠固を退けたのだが、掃部頭(かもんのかみ)兼任のまま左近衛権中将に遷任して溜間筆頭(江戸城で名門譜代大名が詰める席の最上位)に居た直弼(なおすけ)はそれでも猛烈に抗議し、溜間の意向を酌(く)んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫る。

井伊直弼(いいなおすけ)と溜間詰(たまりのまづめ)諸侯の猛抗議に、阿部は止む無く溜間(たまりのま)の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立の収束を図る。

千八百五十七年(安政四年)、直弼(なおすけ)が従四位上に昇叙される頃阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間(たまりのま)の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。

所が、徳川家定(第十三代将軍)の継嗣問題が起こり、堀田・松平の連立幕閣が紀伊藩主の徳川慶福を推挙すると一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めて行く。

国論が開国派と攘夷派に、幕府が将軍継嗣問題で徳川慶福派と一橋慶喜派に割れる千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任した。

この直弼(なおすけ)の大老就任は、異常事態に人選に困った幕閣が、本来なら現在で言う派閥の領袖(りょうしゅう)クラスの老中ではなく、溜間詰(たまりのまづめ)と言う現在で言う派閥の番頭クラスからいきなり総理大臣になった様なもので、この事が既に江戸幕府の弱体を曝け出した結果である。

この大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)、権力を握ると独裁者に変身する。

就任直後に米国との日米修好通商条約を孝明天皇の勅許を受ける事無く調印し、その無断調印の責任を自派の堀田正睦、松平忠固に着せて閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようと独裁体制を築きあげる。

独裁体制を築いた井伊直弼(いいなおすけ)は将軍後継問題に着手し、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とする。

さらに一橋慶喜を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭(一橋慶喜実父)や四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四藩主・松平慶永(よしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らを蟄居させる。

また川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な幕閣吏僚らを左遷し、その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。

その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。


孝明天皇は、こうした井伊直弼(いいなおすけ)の独裁強権に憤って井伊の排斥を呼びかける「戊午の密勅」を水戸藩に発している。

武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける前代未聞の朝廷の政治関与に対して直弼(なおすけ)は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる。

一方、間部詮勝(まなべあきかつ)を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、後に「安政の大獄」と呼ばれる多数の志士(吉田松陰などの活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らの粛清が開始される。

歴史的に観ると、安政の大獄で名を馳せた井伊直弼(いいなおすけ)にした所で、一言で悪人とは言い切れない。

勝てば官軍で倒幕運動は正義の戦いに評価が変わったが、その前段階に於いての常識では政権の転覆を図るのは大罪である。

つまり直弼(なおすけ)成りに、必死で滅び行く幕府を守ろうとしたのではないだろうか?

その評価で考えれば、歴史上では人物評や行為に善悪は余り関係はなく、その時点で企てが成功したか敗れたかが問題かも知れない。



物事の大事に出会った時、それを奇跡と判断するか必然と判断するかは、その人の感性による。

信仰に厚い者は「奇跡」と判断し、論理的な者は「必然」と判断する。

その辺りが、人間の人間たる由縁(ゆえん)で、どちらも「間違い」とは安易に言い難い。

しかしながら、信仰にのめり込むばかりに理屈に合わない事ばかり言い出すと、それは無茶な事を押し付ける事になる。

この物語に於ける「明治維新」は、正に「奇跡」と「必然」の成せる業だったのである。



江戸時代末期になると、思わぬ形で陰陽師勘解由小路党の亡霊がよみがえる。

維新に於ける倒幕派の陰謀である。

その時代の常識を超越して次代を創ろうとする若者を「新人類」と表現するものなら、そこに在った物は「その時代を見詰める若い感性」なのだから、「新人類」はどの時代にも存在した。

江戸末期から維新政府の初期官僚に掛けて登場した「勤皇の志士達」は、正直武士道の根本原理である主君への滅私奉公とは違う道を選んで幕藩体制は崩壊した。

彼等倒幕派こそ、その時代の「新人類武士」ではなかったのか?


吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)、大久保利通、井上馨、伊藤博文など維新の立役者を数え上げたらきりが無い。

この維新の本拠地になったのは、薩摩、長州、土佐、肥前、の各藩である。

後の維新政府高官に、この四藩の出身者でしかも身分が低かった者が群を抜いて多く居たのは言うまでも無い。

勿論、政治体制変革の狼煙(のろし)は常に下積みから燃え上がるものだが、正直、繰り広げられた倒幕運動・明治維新の動乱は、血統至上主義社会だった維新前の氏族社会に在って「コンプレックスを抱えた男達の物語」と言って過言ではない。



千八百五十九年(安政六年)、長い鎖国が終わりを告げる。

徳川江戸幕府大老・井伊直正が長崎・横浜・箱館(函館)の三港を世界に開港、安政の開国とされた。

同時に諸外国の商人たちは、長崎・大浦居留地の周辺に住居を構え貿易を営み始める。

その中に特筆すべき人物としてトーマス・ブレーク・グラバーが居る。

安政の開国直後の千八百五十九年、英国スコットランド出身のグラバーは弱冠二十一歳で上海を経由して来日、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店・グラバー商会を設立する。

ベテランの外国人商人たちの中にあって、グラバーは茶やその他の産物、武器船舶などを取り扱う商人として仲間入りをする。

だが、グラバーは八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬の販売を開始する。

やがてグラバーは、日本の再建に外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始める。


それには日本の若い志士たちに国際的な目を開かせる事が先決だとして、グラバーは伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋している。

坂本龍馬が主宰する亀山社中とも、グラバーは取引を行った。

また、グラバーは薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、伊藤博文ら長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。

こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは、グラバーの努力に負う所が少なくない。


明治以降グラバーは純経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献する。

次にグラバーは、産業立国の大方針を以て当局に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。

グラバーは千八百六十五年(元治二年)、わが国の鉄道開通の七年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させ、千八百六十八年(明治元年)高島炭鉱を開発、また同年には小菅に近代式修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる協力をした。

グラバーはとび色の瞳と赤い顔の為、彼が経営した高島炭坑の坑夫からは「赤鬼」とあだ名された。

しかしグラバーの性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だった。


グラバーは、日本近代化に協力したとして、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。

しかしグラバー商会の親会社・ジャーディン・マセソン商会は、中国に阿片を売りまくって阿片戦争を引き起こした死の商人だった事から、「明治維新最大の黒幕」とも指摘されている。


貿易商人・トーマス・ブレーク・グラバーの住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つグラバー園・グラバー邸として知られている。

グラバー邸は、現存する日本最古の木造洋風建築で、長崎観光の目的の名所の一つと成っている。



五代友厚(ごだいともあつ)は、江戸時代末期の薩摩藩士で、明治時代中期にかけては歴史に残る実業家でもある。

友厚(ともあつ)は、「三国名勝図会」の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭(ごだいなおざえもんひでたか)の次男として千八百三十六年に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれた。

質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、八歳になると児童院の学塾に通い、十二歳で聖堂に進学して文武両道を学ぶ。

友厚(ともあつ)は十四歳の時に、琉球交易係を兼ねていた父・秀尭(ひでたか)に奇妙な地図を広げて見せられた。

父・秀尭(ひでたか)が見せたものは、藩主・島津斉興(しまずなりおき)がポルトガル人から入手した世界地図だった。

友厚(ともあつ)は、父・秀尭(ひでたか)からこの世界地図の複写を命じられる。

千八百五十四年(安政元年)、友厚(ともあつ)十八歳の時に米国人マシュー・ペリーが米国インド艦隊を率いて浦賀沖に来航し天下が騒然となる。

この時友厚(ともあつ)は、「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記録されている。

千八百五十五年(安政二年)、友厚(ともあつ)は藩の郡方書役助(農政を司る役所の書記官補)となる。

兄の徳夫が強烈な鎖国論者にも関わらず、友厚(ともあつ)は開国論者の立場に立つ。

翌千八百五十六年(安政三年)、友厚(ともあつ)は長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。

千八百六十二年(文久二年)、友厚(ともあつ)は海外渡航を企て、藩に懇願するも拒まれる。

友厚(ともあつ)は幕府艦・千歳丸に水夫として乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をする。

翌千八百六十三年(文久三年)、生麦事件によって発生した薩英戦争では、友厚(ともあつ)は三隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となる。

しかし友厚(ともあつ)は、通弁(通訳)の清水卯三郎のはからいにより、横浜に於いて小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入る。

友厚(ともあつ)は、イギリスの捕虜となった事が国元悪評となった為、薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をする。

その後友厚(ともあつ)は、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。

千八百六十五年(慶応元年)、友厚(ともあつ)は武器商人・トーマス・ブレーク・グラバーの仲介で、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発する。

一行は欧州各地を巡歴。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。

しかしこの時の経験が、後の実業家・五代友厚(ごだいともあつ)の経営手腕に大きな影響を与える事になる。

同千八百六十五年(慶応元年)、友厚(ともあつ)は御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任する。

友厚(ともあつ)は、長崎の武器商人・トーマス・ブレーク・グラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

ここで言うドックと言うのは、俗にそろばんドックと呼ばれるもので、今も現存している。

千八百六十八年(慶応四年)、戊辰戦争が勃発し友厚(ともあつ)は同じ薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。

戊辰戦争に勝利し、友厚(ともあつ)は千八百六十八年(明治元年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。

外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。

友厚(ともあつ)は大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、また初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。

千八百六十九年(明治二年)、友厚(ともあつ)は退官する。

退官の後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高める為に金銀分析所を設立する。

紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。

友厚(ともあつ)は薩長藩閥政府との結びつきが強く、千八百七十五年(明治八年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商と言われた。

友厚(ともあつ)は、大阪経済界の重鎮の一人として大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。

千八百八十五年(明治十八年)八月、友厚(ともあつ)は東京で療養生活を送り始め、そのまま同年九月末頃に四十九歳で東京於いて逝去した。



明治維新の動乱期に影響力を発揮して四賢候の一人と並び称される山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)は四国・土佐の国を領有する外様大名・土佐藩の十五代藩主で、世間に知られる容堂(ようどう)は隠居してからの号である。

四賢候の一人と並び称される山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)であるが、土佐藩々主だった山内豊信(とよしげ/容堂)は勿論現体制擁護派で、本来は公武合体論者だった。

山内豊信(とよしげ/容堂)は、土佐藩連枝(分家)の山内南家(知行千五百石)当主・山内豊著(十二代藩主・山内豊資の弟)の長男として生まれた。

山内南家は連枝五家の中での序列が一番下で、本来なら豊信(とよしげ/容堂)に藩主の座が廻って来る事は無かった。

しかし十三代藩主・山内豊熈、その弟で十四代藩主・山内豊惇が藩主在任僅か十二日と言う短さでの急死し山内家は断絶の危機に瀕してしまう。

十四代藩主・山内豊惇には実弟(後の十六代藩主・山内豊範)が居たが僅か三歳で在った為、分家で当時二十二歳の豊信(とよしげ/容堂)が候補となり、豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により根回し宜しく老中首座で在った阿部正弘に働きかけ、「十四代・豊惇は病気の為に隠居した」と言う形を採り藩主に就任した。



江戸時代末期の土佐藩に、藩執政としてその存在を名を挙げた吉田東洋(よしだとうよう)が居る。

吉田東洋(よしだとうよう)は、江戸時代末期の土佐藩士(上士)で、東洋は号、諱は正秋である。

吉田家の出自は、藤原北家秀郷流(俵藤太秀郷)の支流・香美郡夜須城主の吉田備後守重俊の孫の吉田俊政(孫助)とされる。

長宗我部元親に仕えていたが、長宗我部氏滅亡後も在郷の名家ゆえに土佐一国を拝領してやって来た山内家初代・山内一豊に上士として迎えられている。

父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。

室(妻)は藩士・後藤正澄の三女・琴で、後藤象二郎は義理の甥にあたる。

東洋(とうよう)は、千八百十六年(文化十三年)、土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・二百石)の四男として高知城下帯屋町に生まれる。

千八百二十三年(文政六年)、東洋(とうよう)は庶兄の早世によって嗣子となる。

しかし千八百三十七年(天保八年)、東洋(とうよう)は口論のすえに家僕を無礼討ちした事から蟄居する。

千八百四十一年(天保十二年)、父・正清の死去により東洋(とうよう)は吉田家の家督を相続する。

千八百四十二年(天保十三年)九月に、東洋(とうよう)は船奉行として出仕し、同年十一月には郡奉行に転じて民政に携わる。

藩主・山内豊熈(やまうちとよてる)の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。

千八百四十五年(弘化二年)、東洋(とうよう)は病により無役となったが、人事や法令改正、海防等の意見書である「時事五箇条」を提出する。

千八百四十七年(弘化四年)には、東洋(とうよう)は船奉行として再出仕する。

千八百四十八年八月二十三日(嘉永元年七月二十五日)、妻の兄弟・後藤正晴が病死すると、その遺児 後藤保弥太(のちの後藤象二郎)を父親代わりになって養育する。

同千八百四十八年(嘉永元年)十二月、藩主・豊熈(とよてる)の死去に伴って東洋(とうよう)は無役となる。

千八百五十一年(嘉永四年)、東洋(とうよう)は近畿地方(上方)を遊歴し、伊勢国の漢学者・斉藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎らに会して見聞をひろげた。 千八百五十三年(嘉永六年)七月、藩主・山内容堂(豊信)によって大目付に抜擢され、十二月には参政として強力に藩政改革を主導した。

千八百五十五年(安政三年)三月、東洋(とうよう)は参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴に於ける旗本殴打事件を引き起こして罷免される。

さらに東洋(とうよう)は、家禄を百五十石に減らされた上、帰郷して隠居する事を余儀なくされた。

帰郷後、東洋(とうよう)は高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や乾(板垣)退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士に教授する。

やがて彼らが、「新おこぜ組」と称され藩内の一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。

千八百五十七年(安政四年)十二月に赦免された東洋(とうよう)は、新知行百五十石、役高三百石を給され、翌千八百五十八年(安政五年)年一月には参政として藩政に復帰する。

藩参政・吉田東洋(よしだとうよう)は法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。

しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党・武市瑞山(たけちずいざん/半平太)との政治的対立を生じさせる結果となる。

千八百六十二年五月(文久二年四月)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に待ち伏せされ、東洋(とうよう)は四十七歳で暗殺された。

この時、東洋(とうよう)の嫡男・正春(源太郎)はわずか十一歳で、東洋(とうよう)暗殺の二年後、母・琴も病死して正春(源太郎)は孤児となったため、後藤象二郎が引き取って育てた。



千八百四十九年(嘉永二年)、後に土佐勤王党を結成する土佐藩の白札郷士・武市瑞山(たけちずいざん/半平太)が 高知城下の新町田淵で小野派一刀流の剣術道場(武市道場)を開く。

白札郷士の身分は上士に準ずる扱いで、武市家は元々土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の豪農から五代前の半右衛門が郷士に取り立てられ、凡そ九十五年間の歳月を費やして白札に昇格した家である。

武市瑞山(たけちずいざん/半平太)は、上昇志向の上に剣の腕も優れた野心家で周囲の評価も高い反面、そう言う論理的人物に在り勝ちな非情の部分も併せ持っていた。

その武市瑞山(たけちずいざん/半平太)の道場は結構に繁盛し、門人が百二十名に達する程の人気道場になる。

瑞山(半平太)は名声が認められて土佐藩庁より出張教授を命じられ、田野の安芸奉行所・田野学館や赤岡の香美郡奉行所などに出向いて田野学館で後に門下生となる中岡慎太郎と出会っている。

武市道場の門下生からは、岡田以蔵など後に名を残す者も排出する。

千八百五十六年(安政三年)、瑞山(半平太)は土佐藩庁に江戸での剣術修業を願い出て藩臨時御用の名目を得、岡田以蔵や五十嵐文吉、多田三五郎、阿部多司馬、多田哲馬の五人を同行させ江戸へ出る。

江戸に出た瑞山(半平太)は、身を寄せる先の鍛冶屋橋土佐藩邸から程近い京橋蜊河岸の鏡心明智流・桃井塾士学館に入門し藩邸から通い始めるが藩の許可を得て内弟子として桃井春蔵の下に寄宿するようになる。

桃井春蔵は瑞山(半平太)の剣技や統率力を高く評価して、伊達家や細川家などの諸藩の藩邸で試合が行われる際には同行させ士学館の塾頭に抜擢する。

この頃瑞山(半平太)は、江戸で尊皇攘夷派の長州藩士・高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し尊皇攘夷に傾倒して行く。



明治維新の立役者である勤皇の志士は、果たして英雄だったのだろうか?

織田信長と比べると、彼らは明らかに「小粒」と言わざるを得ない。

信長は皇統その物の簒奪(さんだつ)を狙ったが、勤皇の志士の考えていた事はせいぜい藩主止まりの「形を変えた下克上」の範疇だった。

彼らは永い事最下級の氏(うじ)、つまり下士だったから「そこから這い上がろう」と言う志は在った。

その固定された血の身分を呪ってはいたが、その目標は幕府止まりで根本にある皇統まで「どうにかしよう」とは思い至らない。

それでも現状打破の為に、活路を尊皇攘夷に求めた。

攘夷論の根本は外圧に対する帰属意識を基にした右脳域の感情的憤慨で確かに一般民衆の感情的理解は得易いが、余り左脳域の理性的な物とは言えない。

しかしこれは、感性(右脳域/感情)と理性(左脳域/計算)のどちらの価値観を採るのかの問題で双方言い分があり、本来いずれかを「正しい」とする事は出来ない。

まぁこの時代、勤皇派も佐幕派も動乱に乗ったのは現状では浮かび上がれない者達で、野心満々の立身出世が根底に在っての主義主張であり、要はいずれの側に付いた者も大儀は方便だった。

彼らは、外様の悲哀と下士の身分の悲哀を先祖代々受け継いで、骨身に沁み、向上心に燃えていた。

そこに黒船騒ぎで、頭角を現す為の「良いきっかけとなった。」のが偽らざる処だった。

それ故、彼らは長年の思いも、激しく倒幕の運動にぶつけた。

中核になったのは長州萩城下・松本村(現在の山口県萩市)の松下村塾である。


この尊皇攘夷運動、本音で言えば現状を変える事が彼らの最大の目標(動機付け)であるから、攘夷など途中から吹っ飛んでしまっている。

つまり尊王攘夷論も、逆説的に言えば「そこに皇統が存在した」からの方便で、その辺りの歴史の継続性を汲み取らなければ本物の歴史は語れない。

大体の所、秩序から言えば武力革命を伴う政権転覆計画など逆賊の大罪人であるが、矛盾する事にそれが成功してしまうと逆賊が英雄に化けてしまう。

確かに「外敵を排除する」と言う事は一般民衆の感情的理解は得易いし、大儀名分があれば仲間を集め易く幕政にも藩政にも不満を持つ者には「攘夷」は格好の理由だった。

攘夷論の根本は外圧に対する帰属意識を基にした右脳域の感情的憤慨で、余り左脳域の理性的な物とは言えず、左脳域の現実的対処をした幕府大老・井伊直弼の決断が一方的に非難される所以(ゆえん)は無い。



「安政の開国」は、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊・ペリーの黒船が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件やロシア使節プチャーチン一の来航の外圧に対処する形で、千八百五十九年(安政六年)に行われた。

徳川江戸幕府が永く施策していた鎖国が大老・井伊直弼(いいなおすけ)の、この「安政の開国」で終わりを告げる。

千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任する。

狂人的な開国論者・大老・井伊直弼(いいなおすけ)は独裁体制を築き将軍後継問題に着手し、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とする。

さらに一橋慶喜(後の十五代将軍)を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭(一橋慶喜実父)や四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四藩主・松平慶永(よしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らを蟄居させる。

絶大な権力を得て大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、欧米各国と次々と修好条約を結び長崎・横浜・箱館(函館)の三港を世界に開港、「安政の開国」とされた。

ただしこの開国、朝廷の了解を受けなかった「孝明天皇の勅許無し」と言う江戸幕府の独断だった事から、各地の尊王攘夷派(勤皇の志士)が台頭する。


素顔の彼ら(勤皇の志士)は、野心に満ちていた。

ただしそれは、自分の国を「理想的な近代国家に生まれ変わらせる」と言う青臭い理想に燃えていたからで、吉田松蔭の教えの存在が大きかったのである。

体制派は保身に走り、どうしても現状維持に走る。

しかしながら、日本を取り巻く環境は既にそれでは乗り越えられない国際情勢だった。

外からの情報を遮断して、国家体制の維持を図って来た藩幕鎖国体制は、外圧で行き詰まっていた。

何も変わらない改革など存在せず、変化を取り上げてこそ真の改革がある。

結論から言うと、勤皇の志士は「看板の通り」皇統を大事にする根っからの大和民族(日本人)である。

若く純真な彼らは、二千年に及ぶわが国の血のブランドを素直に信じただけで、彼らの国際感覚は、当初けして新しくは無かった。

しかし攘夷運動の中で、欧米列強との力の差を学習する。

元々攘夷は口実で有るから、攘夷に関しては簡単に看板を下している。

しかしながらこの尊王運動が、最終的に形骸化しつつあった氏姓制度に引導を渡す事になった。

その尊王運動も、本音で言うと多分にスローガン的要素が強い。

近頃のどこぞの国の「民営化一辺倒の選挙」と同じで、建前を利用して本命は他に在った。

過去の歴史を見てもそうだが、個々の帝(天皇)を必ずしも尊敬している訳では無い所が、この天皇の「制度としての存在」である。

ところが藩主諸侯も、建前で行くと天皇から官位を授けられている朝臣であるから、正論のスローガンに面と向かって異議は唱え難い。

この辺りが、日本的と言えば至極日本的である。


そもそも徳川幕府自身が、血統を拠り所にした統治体制である。

それ故制度としての天皇の存在(皇統)は否定出来ない。

つまり血統を拠り所に統治体制が維持されて来た。

従って幕藩体制が続く限り、自分達の固定化した血統の身分は変わらない。

当時先端の学問だった蘭学(西洋文明)を学ぶ聡明な下級武士が、この不条理に何も思わない訳が無い。

彼らは、先祖から永く続いていたどうにも成らない下級武士の境遇から抜け出す為に、倒幕に賭けたのである。



明治維新を迎える少し前、日本は欧米列強各国から開国を迫られ歴史的大変換期を迎えていた。

黒船騒ぎである。

これに危機感を感じた若い有志の人材が立ち上がったのは事実で、当然の事ながら、既得権益を持つ者は変化を求めないから現状維持に動く。

本来、既得権益を持たざるものでなければ、根本からの改革など問題意識も意欲もある訳が無い。

従って、「政権内部から改革が起こる」などと思うのは夢物語で、現実にある訳も無く、精々形を変えた権力闘争が関の山で、それに気が付いた頃には、「時既に遅し」が現実で、旨い事組み込まれた既得権益に「搾取され続ける」と言う事である。

名を残した多くの先人がそうで在ったように、何かに挑(いど)む事は何もしない事より遥かに価値が在る。

現状を肯定すれば楽に生きれるかも知れないが、現状を否定しなければ未来への進歩は無い。

江戸末期に生きた有意の者達は大名も下士も佐幕派も勤皇派も、夫々(それぞれ)の立場で生々しい欲望を織り交ぜながら幕末の動乱に挑(いど)んでいた。


黒船騒ぎは決定的だった。

ろくに機会も与えられないまま、身分の閉塞状態が二百五十年も続いていた。

度重なる騒然とした世相に拠る幕府の権威の失墜が、多くの下士(下級武士)に希望の火を灯させてしまったのだ。

動乱の兆しだった。

もしかしたら、この先祖代代続いた「下士(下級武士)」の身分から「脱出できるかも知れない。」

その意気込みは幕府や藩主、つまり既得権者の想像より遥かに強く、一途だった。


この混乱に拍車をかけたのが、攘夷(じょうい)の意思が強い時の天皇・孝明(こうめい)の存在だった。

人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)のどちらかが基である。

この孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷(じょうい)の意思は、人間の「左脳域と右脳域」の論理で言えば、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」であり、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」などまったく無い「感情」に拠るものだった。

簡単に言えば、尊皇攘夷論者も孝明天皇(こうめいてんのう)も、観念(異人嫌い)が優先して「左脳域の計算」の情況判断を無視した事で、薩英戦争(さつえいせんそう)、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は主として「右脳域の観念=感情」で始められる。

しかし列強と戦をしてみて初めて「攘夷など無謀な事」と言う「左脳域の計算」が働くようになり、尊皇攘夷論者から「攘夷」が消えて「倒幕」に変わる。

感性(右脳域/感情)を主体にした発想は、時として現実をも否定する厄介なもので、信条・信念と言えば格好が良く聞こえるが、右脳域的感性(感情)は「無意識脳」としての「右脳域の観念」を満足させる為の稚拙なもので、凡そ知的とは呼べないものである。

勿論、理性(左脳域/計算)ばかりの発想に拠る味気ない人間関係や政治も真っ平だが、「右脳域の観念」は「左脳と右脳の論理」で言えば「感情」だけの片側思考のバランスの悪いものであり、明治維新前の風潮は「間違いは改むるに如(し)かず」だった。

つまり「武士道の精神」と「天孫降臨伝説(皇国史観)」は、維新政府の統治の為に政治利用されたに過ぎないのに、「感情」だけの片側思考のバランスの悪い主張をする者にその自覚は無い。



仁孝天皇の第四皇子に生まれた煕宮(ひろのみや)親王は、千八百四十年(天保十一年)に立太子を為し六年後の千八百四十六年(弘化三年)に父・仁孝天皇の崩御を受け、十五歳で践祚(せんそ/位を受け継ぐ)し孝明天皇(こうめいてんのう)として即位する。

即位から七年後、千八百五十三年(嘉永六年)の孝明天皇(こうめいてんのう)二十二歳の時、ペリー来航が来航して公家の学問所である学習院を創設するなど文化的な活動をしていた孝明天皇に転機が訪れる。

孝明天皇は外圧に危機感を持ち、政治への積極的な関与を強めて永年朝政を主導して来た前関白・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾(仏門に入る)に追い込み、関白に任じた九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任)するなどして朝廷に於ける自身の主導権確保を図っている。

外圧に対する開国の問題で、幕末期に於ける天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まって行き、孝明天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。

そうした追い風を受け孝明天皇は幕政に対する発言力を強め、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下した為にこれを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

攘夷の意思が強い孝明天皇は、異母妹・和宮親子内親王を第十四代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させて公武合体を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望み、公武合体派の京都守護職・会津藩主・松平容保への信任は特に厚かった。

そうした孝明天皇の姿勢から、諸外国は攘夷運動の最大の要因が「孝明天皇の意志にある」と判断し艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求する。

言わば武力を誇示した脅しで、この事態に流石の孝明天皇も事の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にする。

そうした幕末の政治混乱の中、幕府・一橋家・会津藩・桑名藩・薩摩藩・長州藩などの諸藩や三条卿・岩倉卿などの公家そして尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に孝明帝は巻き込まれて行く。

孝明天皇個人の権威は低下して、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。


千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

この「孝明天皇の謎の死」がもし謀殺で在ったなら、お側近くに仕える公家の中にその犯人が居なければ、説明が着かない。

もしそれであれば、孝明帝暗殺の陰謀はそこで完結するのでは無く、ある目的の大陰謀の序章に過ぎない恐れがあった。

となると、そのお側近くに仕える公家には孝明帝謀殺に止まらない一連の大陰謀があり、確信犯的な目的を持って居た可能性を感じる。



落日の江戸幕府に在って徹底抗戦を主張し、必死で体制を立て直そうとした秀才・小栗忠順(おぐりただまさ)が居た。

幕末の幕臣(直参旗本)としては、小栗忠順(おぐりただまさ)は「類を見ない秀才」と評価は最上級に高い。

忠順(ただまさ)は江戸時代末期の幕府官僚で、勘定奉行兼陸軍奉行並の地位に在って、滅び行く江戸幕府を必死で支えた人物である。

忠順(ただまさ)は、三河小栗氏第十二代当主で、三河小栗氏は酒井氏と伴に徳川氏(三河松平氏)の庶家に属する氏族で、松平一族が常陸小栗氏と婚姻し家を興したとされる。

常陸小栗氏は桓武平氏・平繁盛(平国香の次男)流と伝えられ、国香は平高望(高望王)の長男である。

常陸国・小栗氏は鎌倉公方に叛して兵を挙げた「上杉禅秀の乱」に敗れ、その本貫地である小栗御厨荘を失って一族の一部が三河国に流れ着いた。

松平氏庶家・三河小栗氏が興った経緯だが、松平郷松平家の系統七代目・松平親長(まつだいらちかなが)が、常陸から三河に移り住んだ常陸小栗氏の末裔・小栗正重(おぐりまさしげ)の娘と婚姻して、生まれた男子・忠吉がその後の離婚で三河小栗氏を称した。


小栗忠順(おぐりただまさ)は、千八百二十七年(文政十年)、禄高二千五百石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれ、幼名は剛太郎を称す。

当初剛太郎(忠順)は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていた。

だが、剛太郎(忠順)は成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、十四歳の頃には自身の意志を誰に憚(はばか)る事無く主張する様になった。

この結果は、虚け者(うつけもの)・織田信長をほうふつさせ、行儀が良い子供よりも悪戯好きな悪童の方が、上手く育てば可能性を秘めているのかも知れない。


千八百四十三年(天保十四年)、忠順(ただまさ)は十七歳になり登城、幕府に出仕すると文武の才を注目され、若くして両御番(書院番と小姓組を併せて呼ぶ名称)となる。

しかし率直な物言いを疎(うと)まれて、忠順(ただまさ)は幾度か官職を変えられたが、その度(たび)に才腕を惜しまれて官職を戻されている。

千八百四十九年(嘉永二年)、忠順(ただまさ)は林田藩前藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚する。

千八百五十三年(嘉永六年)、忠順(ただまさ)は進物番出役に登用され、徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)に近侍する。

同千八百五十三年(嘉永六年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが浦賀に来航、開国を迫る。

その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。

この頃から忠順(ただまさ)は、外国との積極的通商を主張し、造船所を作ると言う発想を持ったと言われる。


千八百五十五年(安政二年)、忠順(ただまさ)二十九歳の時、父・忠高が医師の誤診により死去し、家督を相続する。

家督相続から四年、千八百五十九年(安政六年)には、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任して「安政の大獄」を始め、世の中が騒然とする。

ぞの年(安政六年)、忠順(ただまさ)は従五位下豊後守に叙任され、千八百六十三年(文久三年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任され、以後小栗上野介と称される。

千八百六十年(安政七年)、遣米使節目付(監察)として正使(代表)の外国奉行・新見正興(しんみまさおき)が乗船するポーハタン号で忠順(ただまさ)は渡米する。

二ヶ月の船旅の後、新見正興(しんみまさおき)や忠順(ただまさ)の一行はサンフランシスコに到着する。

代表(正使)は新見正興(しんみまさおき)であったが、目付の忠順(ただまさ)が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。

勘違いの理由として、正使(代表)の新見を始めとして同乗者の多くは外国人と接した事がなく困惑していた。

その中に在って、忠順(ただまさ)は詰警備役として外国人と交渉経験がある為に落ち着いており、その為代表に見えたとされる。

その後、忠順(ただまさ)はナイアガラ号(米国海軍の蒸気フリゲート艦)に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。

帰国後、忠順(ただまさ)は遣米使節の功により二百石を加増されて二千七百石となり、外国奉行に就任する。



千八百六十一年(文久元年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生、忠順(ただまさ)は事件の処理に当たるも、同時に幕府の対処に限界を感じる。

忠順(ただまさ)は江戸に戻って、老中に対馬を直轄領とする事、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行う事、国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得る事などを提言したが容(い)れられず外国奉行を辞任する。

千八百六十二年(文久二年)、忠順(ただまさ)は再び登用され、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しを指揮する。

当時、幕府は海軍力強化の為四十四隻に及ぶ艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に三百三十三万六千ドルに上った。

忠順(ただまさ)は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。
千八百六十三年(文久三年)、忠順(ただまさ)は軍事力強化の為に製鉄所建設案を幕府に提出する。

忠順(ただまさ)は幕閣などから反発を受けたが、十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)はこれを承認し、同年十一月二十六日に実地検分が始まり建設予定地は横須賀に決定された。

なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し武田斐三郎などを現地の見分に派遣する。

見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した。

但し近隣での石炭供給が不十分をであるので、暫(しばら)くの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。

また千八百六十五年(慶応元年)には高炉で使用する木炭を確保する為、忠順(ただまさ)は御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。


小栗忠順(おぐりただまさ)の幕府軍備強化の中、千八百六十七年(慶応三年)十一月九日、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に「大政を奉還」する。

大政を奉還し、政権を返上した慶喜は新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使する事を想定していた。

所が、討幕派の公家や薩摩藩が主導した十二月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって慶喜自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。

この処置に旧幕府軍は、千八百六十八年(慶応四年)正月三日、鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いと呼ぶ戦闘となった。


千八百六十八年(慶応四年)一月、忠順(ただまさ)四十二歳の時、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。

伊勢から水路逃げ帰った将軍・慶喜の江戸帰還後、一月十二日から江戸城で開かれた評定に於いて、忠順(ただまさ)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳等と徹底抗戦を主張する。

この時、忠順(ただまさ)は、見事な挟撃策を提案している。

新政府軍が箱根関内に入った所を陸軍で迎撃、同時に榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅すると言うものだった。

後にこの策を聞いた大村益次郎(おおむらますじろう)は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と懼(おそ)れたと言う。

実際、この時点に於いて旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが、十五代将軍・慶喜はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。

忠順(ただまさ)はなおも抗戦を説くが、その努力も空しく十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は抗戦を避ける選択をした。

徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)、徳川家茂(とくがわいえもち/十四代将軍)の二代の将軍に寵を得た忠順(ただまさ)も、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)には通じなかった。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は朝廷から追討令を受けて謹慎し、勝海舟(かつかいしゅう)の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだ。


千八百六十八年(慶応四年)一月十五日、抗戦派だった忠順(ただまさ)は江戸城にて老中・松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。

忠順(ただまさ)は沙汰を受けて、同月二十八日に知行地の「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。

旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたもののこれを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮する事があれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝える。

また二月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「将軍(徳川慶喜)に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した。

三月初頭、忠順(ただまさ)は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。

当時の村人の記録によると、忠順(ただまさ)は水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

千八百六十八年(慶応四年)閏四月四日、忠順(ただまさ)は東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により、東善寺にいる所を捕縛される。

閏四月六日朝四ツ半(午前十一時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、忠順(ただまさ)は斬首された。



維新の動乱の中で幕府側の主役の一人となる松平容保(まつだいらかたもり)は、二代将軍・秀忠に拠って合津松平藩の初代となった保科正之(ほしなまさゆき)を藩祖とする会津松平藩九代目の藩主である。

松平容保は、尾張藩支藩・美濃(岐阜県)高須藩主・松平義建(まつだいらよしたつ)の子で、千八百四十六年(弘化三年)陸奥(福島県)会津藩主・松平容敬(まつだいらかたたか)の養子となった。

容保が養子入りして正式に会津藩主の座についたのは千八百五十二年(嘉永五年)で、その翌年にはペリーの来航があり容保は言わば幕末の動乱に時を合わせ、最も難局な時に歴史上に登場して来た人物と言える。

幕府ではこのペリー来航以来、大老・井伊直弼(いなおすけ)を中心に開国の方針を固めていたが、国内には攘夷論を叫ぶ者も多く、千八百六十年(万延元年)大老・井伊直弼 は攘夷党の水戸浪士らに桜田門外の変で暗殺される。

この桜田門外の変をきっかけとして、国内には攘夷か開国かの論争がにわかに高まり、幕府と水戸藩との関係も険悪となったが、この対立を見事に調停したのが松平容保で、それ以来会津藩主・容保は幕閣より重きを置かれるようになった。

しかし開国の方針でいる幕府に対して攘夷派の運動は「倒幕」と言う形で発展して国内は騒然とするばかりとなり、とくに京都では、朝廷の力を利用して倒幕に進もうとする攘夷派と、また幕府を助けて開国に進もうとする佐幕派が互いに暗躍し血生臭い事件が続発した。

この血生臭い事件の続発を受け、千八百六十二年(文久二年)幕府は京都の治安を守る為に、新たに京都守護職と言う役目を設ける事に成り白羽の矢が立ったのが松平容保で、当時二十六歳だった。

しかし当時の幕府は既に昔の面影は無く幕府の力が充てに成らなくなっている時で、容保(かたもり)は役目の重大さを知って京都守護職の就任を固辞し、重臣達の中にも守護職の辞退をすすめる者も多かった。

それでも幕府総裁職・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)や、將軍後見職・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)らに、「將軍・家茂(いえもち)は弱年であり援けて欲しい」と頼まれれば、徳川幕府護持は藩祖・保科正之の家訓の手前もあり断わる事も出来なかった。


幕府の力が弱まって、下級武士どころか公家にも「好機(チャンス)」が生まれた。

当時の公家が受領していた知行は、百五十石から多くて六百石くらいが普通で、下級武士と大差が無い。

その扱いに、公家は当然ながら徳川幕府に不満を持ち、下級武士と同じ様に現状打破を画策する。

幕府転覆に活路を見い出さないと、彼らもまた、閉塞感に苛まれる現状がこの先続く事になる。

とどのつまりは、「閉塞状態に置かれた自分達の立場を脱却する」と言う共通した思いが、公家と下級武士両者に在った。

「尊皇攘夷」はスローガンに過ぎないのだ。



この、欧米列強のアジア植民地化が進む日本の存続も危ぶまれる大変な時に、朝廷と徳川政権は、「古い思想の保守的な考えを守ろう」としていた。

京都守護職を引き受けた松平容保(まつだいらかたもり)は、千八百六十二年(文久二年)の師走の二十四日、千人ほどの藩兵を率いて京都に入り、治安の任に着く事になったが、この時には既に倒幕派は朝廷の不平公喞らと結び、倒幕運動を進める手はずを整えていた。

容保自身は公武合体派で尊王倒幕派と敵対し、容保は決断を下して薩摩藩と手を結んで御所を封鎖し、この八月十八日の政変では不平公喞の三条実美ら長州派を朝廷から排除して京都から追い出した。

孝明天皇はこの処置を喜ばれて、「不正増長の徒を払いのけた忠誠のほど、深く感じいった」と言う旨の御宸翰(ごしんかん)を容保に賜った。

この八月十八日の政変をきっかけとして倒幕派は益々結束を固め、千八百六十四年(元治元年)には禁門の変が発生するも容保(かたもり)は長州藩を撃退している。

容保(かたもり)は幕末京都守護職として旗本、御家人で構成された京都見廻組約二百名と浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される会津藩預かりの非正規部隊・壬生浪士組(みぶろうしぐみ・新撰組/しんせんぐみ)約六十名を雇うなど京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇の厚い信頼を得る。

だが、禁門の変の二年後、千八百六十六年(慶応二年)には公(朝廷)武(幕府)合体のを望んでいた將軍・家茂が二十一歳、続いて孝明天皇も三十六歳と言う若さで急逝し、容保が平和の為に全てを賭けた夢は、ここに空しく潰(つい)える事となった。

京都での公武合体の推進を担ったのが、幕府総裁職・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)や京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)である。


岩倉具視(いわくらともみ)は江戸末期の倒幕派の公家(くげ)で、維新以後の新政府の要人である。

この岩倉具視(いわらともみ)、藤原朝臣(ふじわらあそん)高倉家系の公卿・堀河家・康親の次男として幕末期の京都に公卿として生まれて居る。

従って、元は堀河具視(ほりかわともみ)を名乗って居た。

朝廷では、天子(天皇家)様も公卿もこの二百五十年間、格式の高に合わない少ない俸禄を捨扶持のように宛がわれて、耐えて来た。

「貧乏公家」と武家に馬鹿にされ、専権の官位叙任の礼が「余禄の収入」と言う有様である。

千八百三十八年(天保九年)に具視(ともみ)は岩倉具康の養子となる。

公卿・岩倉家は、 源朝臣(みなもとあそん)村上源氏の家柄で、僅(わずか)百五十石の貧乏公家だった。

注目に値するのはこの岩倉家、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔、村上源氏の支流であり、武系の流れも有する公家だった事である。

孝明天皇侍従・岩倉具視(いわくらともみ)には旺盛な野心があった。

岩倉家の養子と成った事で、岩倉具視(いわくらともみ)は関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷での発言力を得て朝廷改革の意見書を提出した。

岩倉具視(いわくらともみ)は、千八百五十四年(安政元年)に孝明天皇の侍従となり、以後活発に活動を始める。

千八百五十八年(安政五年)に老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得る為に上京した時に、岩倉具視は反対派の公卿を集めて阻止行動を起こし、中心的な役割をした。


外は、春の嵐に見舞われていた。

言わばこの嵐は大気の胎動で、この嵐が通り過ぎてこそ季節は初夏を迎える。

風の音を聞きながら、岩倉卿(具視/ともみ)の心にフツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。

岩倉卿(具視/ともみ)には、公家らしからぬ時代を読む嗅覚(きゅうかく)があった。

もはや徳川幕府は、統治能力を失っていて、今こそ、またと無い倒幕の機会だった。

雷鳴激しく風強き春雷に鼓舞されて岩倉卿(具視/ともみ)は、幕藩体制を見限って自ら嵐を迎えようとしている。

「面白い。這い上がるには、超えねば成らぬ良い機会じゃ。」

この世を変えるのなら、倒幕をする事で根底から変えねば成らない。

産まれ付いての貧乏公家の手酷い憔悴感は、洋々たる希望に変わっていた。

徳川政権に全てを握られて、家格だけを頼りに二百数十年を耐えて来た貧乏公家にとって、この機会を逃す訳には行かなかったのである。


この時点で、江戸幕府守旧派と尊皇攘夷の革新派が、国家体制をめぐって大きく対立していた事に成る。

守旧派のトップは、北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍「家茂(いえもち)」で、二人の思想は、「公武合体、鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。

その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

こんな矛盾する事は無いのだが、この孝明天皇の突然死が謀殺であれば、御側(おそば)近くに仕える公家にしか為し得ない。

そして孝明天皇の腹心とも言える侍従は、後に明治維新を主導した野心の固まりの様な人物・岩倉具視(いわくらともみ)卿だった。

つまり、混迷する幕府政治の情況を打開すべく動いた尊皇攘夷派公家の仕業としたら、一連の動機は尊皇では無く野心満々の立身出世である。

確かに情況は切迫し、この時に明治維新の大業がなされなければ、日本の運命は欧米いずれかの植民地に変わっていたかも知れない。

しかし、孝明天皇は突然病死した。

その跡を継いだ睦仁親王(明治天皇)が、途中で「誰かと入れ替わった」と言う噂が存在する。

あくまでも噂であるが、その後の皇統史的扱いから疑いは濃い。



西暦千八百六十七年一月十六日、和暦慶応二年十二月十一日、風邪気味で在った孝明帝は宮中で執り行なわれた神事に医師達が止めるのを押して参加し、翌十二日に発熱する。

孝明帝の持病である痔を長年に渡って治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順(いらこみつおさ)の日記にその経緯が書かれていた。

孝明帝が発熱した十二日、執匙(しっぴ/天皇への処方・調薬を担当する主治医格)で在った高階経由(たかしなつねよし)が診察して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。

十四日以降、伊良子光順(いらこみつおさ)など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

西暦千八百六十七年一月二十一日(和暦慶応二年十二月十六日)、高階らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患(りかん)している可能性が浮上する。

執匙(しっぴ/主治医)の高階経由(たかしなつねよし)は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医二名を召集して診察に参加させた。

その結果、いよいよ痘瘡(とうそう/天然痘)の疑いは強まり、十七日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹った事を正式に発表した。

これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢十五人により、二十四時間交代制での治療が始まった。

孝明天皇の公式の伝記である「孝明天皇紀」に拠れば、医師達は天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。

この「御容態書」に於ける発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセス通りに進行している事を示す「御順症」とされていた。

しかし、典薬寮の外科医・伊良子光順の日記に於ける十二月二十五日の条には、天皇が痰が酷く、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師達も御所に昼夜詰めきりで在った。

回復に向かっていた筈の帝の予期せぬ容態の急変に、拝診資格を持つ十五名の医師団は右往左往するばかりで為す術(すべ)も無い。

その伊良子光順の日記に「十二月二十五日亥の刻(午後十一時)過ぎに崩御(ほうぎょ/亡くなる)された」と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと言う娘の慶子から報じられた壮絶な孝明天皇の病状が記されている。

しかし崩御(ほうぎょ/亡くなる)の事実は秘され、実際には命日と成った二十五日にも、「益々ご機嫌が良く成られました」と言う内容の「御容態書」が提出されている。

天皇の崩御が公にされたのは二十九日に成ってからの事だった。


孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では特段の病は無く至って壮健であらせられた。

「中山忠能(なかやまただやす)日記」にも「近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

公家の中山忠能(なかやまただやす)は、娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、次帝・睦仁親王(明治天皇)を産んだ事から忠能は明治天皇の外祖父に当たる。

しかし中山忠能(なかやまただやす)は、公武合体派の公家として尊皇攘夷派との国論の二分する対立の中に在って失脚していた。

それが突然復権し、侍従・岩倉具視卿らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。


そんな折に孝明天皇が数えで三十六歳の若さにしてあえなく崩御なされてしまった事から、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後明治維新を経て、世の中に皇国史観が醸成されて行くと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明帝の死因を論ずる事は長く封印された。

しかし千九百九年(明治四十二年)にハルビン(哈爾浜)駅で伊藤博文を暗殺した朝鮮族の安重根(あんじゅうこん)が伊藤の罪として孝明帝毒殺を挙げるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。

また、千九百四十年(昭和十五年)七月、日本医史学会関西支部大会の席上に於いて、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が論説を発表する。

佐伯理一郎は、孝明帝が痘瘡に罹患した機会を捉え、侍従・岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子(ほりかわもとこ)を操り、「天皇に毒を盛った」と言う旨の内容だった。

そして日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇を賑(にぎ)わす様になる。

まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」及び「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した禰津正志(ねずまさし)だった。

禰津(ねず)は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく「孝明帝が順調に回復の道を辿(たど)っていた」とし、「孝明帝は回復する筈だった」と指摘している。

処が、症状が一転急変して苦悶の果てに崩御された事を鑑み、禰津(ねず)は孝明帝の最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定した。

また戦前の佐伯説と同様に犯人について、岩倉卿が首謀、妹・堀河紀子の実行説を唱えているが、決定的な証拠はない。

千九百七十五年(昭和五十年)から千九百七十七年(昭和五十二年)にかけ、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝に拠って典薬寮の外科医・伊良子光順の拝診日記が「滋賀県医師会報」に連載された。

この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、孝明帝の死因を特定できるような内容が記されている訳でも無い。

また、典薬寮の外科医・伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べている様なものでも無かった。

だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、禰津(ねず)と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。

これらの他にも、学界に於いて毒殺説を唱える研究者は少なからず居り、千九百八十年代の半ばまでは孝明帝の死因について、毒殺が多数説とも言うべき勢力を保っている。

いずれにしても、もし側近に拠る孝明帝の暗殺が事実なら、次帝・睦仁親王(明治天皇)が「別人と入れ替わった」としても、「さして驚く事では無いではないか?」と思えて来るのだ。


千八百六十七年一月三十日(慶応ニ年十二月二十五日)、孝明天皇が崩御される。

孝明天皇の第二皇子・睦仁親王(明治天皇)が皇位を継承する事で周囲の話しは進んでいた。

しかし若い睦仁親王が「立腹している」と言う困った事が起きた。

父帝・孝明天皇は極端な攘夷論者で、睦仁親王もそれに習って攘夷論者だった。

所が、尊皇派の公家にしても尊皇攘夷派の志士達も、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)と薩英戦争(さつえいせんそう)で欧米列強の戦闘能力を知ってアッサリと倒幕一辺倒に切り替え攘夷の看板を下ろしていた。

孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷勅命(じょういちょくめい)を無視された事で、睦仁親王は尊皇派の公家にしても尊皇攘夷派の志士達にも不満を漏らしていた。

それがどうした事か或る日突然、誰かに説得されたのか不自然に人が変わったように「攘夷」の意向を口にしなくなる。

この突然の睦仁親王の変身に、「或る大きな陰謀が在った」と主張する噂話が囁かれ始めたのはなんと御所の周辺からだった。

確かに攘夷派の親孝行な少年天皇に愚図られては倒幕処ではなく、そして倒幕派には「攘夷」の力など在りはしない。

睦仁親王の突然の変身が、孝明天皇の謀殺と同じ公家達の陰謀であれば、それこそ一連の大陰謀の仕上げかも知れない。


千八百六十八年ニ月十三日(慶応三年一月九日)、睦仁親王は満十四歳で践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐ事)の儀を行い皇位に就く。

睦仁親王は元服前の践祚(せんそ)で在った為、立太子礼を経ずに明治天皇となっている。



話しは戻るが、外国人を極度に嫌っていた孝明天皇は攘夷論者で、朝廷の勅許を得る事なく各国と条約を結んだ幕府に対して朝廷は勅使を江戸へ遣わし攘夷の実行を迫る。

千八百六十三年(文久三年)五月尊皇攘夷を主導していた長州藩が孝明天皇の意を受けて攘夷を決行する。

長州藩が攘夷実行と言う大義の下に馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を加え。

アメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし約半月後の六月、報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は馬関海峡内に停泊中の長州軍艦に壊滅的な手痛い打撃を蒙るも、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行する。

当時イギリスに留学していた長州藩士・伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近い事を知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国して勝てない戦争の回避を進言するも強硬論が強く徒労に終わっている。

長州藩は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、千八百六十四年(元治元年)七月、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる艦船十七隻の四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。


さらに千八百六十三年(文久三年)、英国艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の千八百六十二年(文久二年)八月に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を、供回りの藩士が無礼を咎め殺傷した事件である。

薩摩藩側は人的損害は非戦闘員の死者九名、負傷者十八名と軽微であった。

だが、砲撃・ロケット弾攻撃により物的損害は鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家三百五十余戸、藩士屋敷百六十余戸、藩汽船三隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)、民間船五隻が焼失と甚大であった。

一方、薩摩藩の陸上砲台による英国艦隊の損害は、大破一隻・中破二隻の他、死傷者は六十三名(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者十三名、負傷者五十名程)に及んだ。

英国側旗艦ユーリアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなく、アームストロング砲の暴発事故によるものもあったが英国海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対して英国側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いにより英国は薩摩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能である事を理解し英国は幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。


そんな中、朝廷内で実権を握っていた攘夷派公卿らに対して薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデター(八月十八日の政変)を起こし、攘夷派公卿は失脚して都落ちとなり長州藩も朝廷から排除される。

一方の長州は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。

適わない相手に立ち向かうのは愚である。

尊皇攘夷派は、下関戦争(しものせきせんそう)に於いて圧倒的な欧米列強の「砲火力の差」と言う現実の前にことごとく「攘夷」と言う看板を降ろして居た。

そうなると、極度の攘夷論者である孝明天皇は危険な存在で、その父と攘夷の意を同じくし親王宣下を受けて立太子していた睦仁(むつひと)親王も危険な存在だった。

そして孝明天皇の妹の和宮の降嫁を受け孝明天皇と仲の良い十四代将軍・家茂も、邪魔な存在で在った事は事実である。



倒幕運動を始めた勤皇の志士の中心となったのが、長州藩士と薩摩藩士だった。

勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素では在った。

中でも長州藩には、吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。

幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。

長州・毛利藩(ちょうしゅうもうりはん)は、江戸時代に周防国と長門国の二ヵ国を領国とした有力外様大名・毛利氏を藩主とする藩で、居城を萩に構えた事から萩藩・萩侯毛利氏とも呼ばれ、幕藩体制での家格は国主・大広間詰である。

藩主・毛利氏は、鎌倉幕府の初期に源頼朝の側近実務官僚として活躍した政所初代別当(長官)・大江広元の四男・大江季光を祖とする一族である。

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけては越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)に在ったが、その後安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主として毛利氏を名乗り戦国時代を迎える。

名字の「毛利」は、大江季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)に由来し、「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。

その後、毛利元就が出て、琳聖(りんしょう)太子の末裔を名乗る大内氏の所領を下克上で横領した陶(すえ)氏を破り大内氏の所領の大部分を領して戦国大名に脱皮、尼子氏を破って尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十ヵ国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。

毛利元就の継子・毛利輝元は織田信長の標的にされて配下の豊臣秀吉に攻められ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、秀吉が光秀を破って天下を取ると、争いを避けて豊臣秀吉に臣従した。

豊臣政権下では安藝・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の百二十万石強(実高は二百万石を超える)を安堵され、秀吉の晩年には五大老に推されてこれを任じている。

豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦では西軍・豊臣方の名目上の総大将として石田三成に担ぎ出され、輝元は大坂城西の丸に入った。

だが、主家を裏切り東軍に内通していた一族の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がない事を確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。

それが、関ヶ原戦後家康は輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収した事を根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分の仕置きとして輝元は隠居となし、継子・秀就に周防・長門国の二ヵ国を与える事として江戸期の長州・毛利藩(萩藩)となった。

この時の家康の仕置きが長州・毛利藩(萩藩)の怨念となって、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導する要因とも言われている。

ただ、家康側にして見れば、天下を治めるにあたり毛利家を豊臣政権下そのままの所領安泰とするには余りにも大藩だった事は事実で、止む負えない仕儀だったのであろう。

江戸期を通じての長州・毛利藩(萩藩)の公認表高は三十七万石弱だが、関ヶ原戦直後の慶長年代でも実高は五十万石を越える検地の記録があり、幕末期にはその藩力から「実高(裏高)百万石を超えていた」と考えられている。


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子の末裔と言う事に成る。

家禄二十六石の萩藩士の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。


倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

実は、長州藩に於いて松下村塾の熟生が台頭するには周布政之助(すふまさのすけ)の存在が大きい。

周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)、通称・周布政之助(すふまさのすけ)は、長州藩に於いての松下村塾(所謂松陰派)出身者の登用に熱心な理解者だった。

長州藩士(大組二百十九石)・周布吉左衛門の五男として生まれた周布政之助(すふまさのすけ)は、僅か生後六ヶ月の時に父と長兄が相次いで歿した事に拠る末期養子として家禄を六十八石に減ぜられて家督を相続した。

周布政之助が長州藩で頭角を現したのは遅く、千八百四十七年(弘化四年)の二十四歳の時に祐筆・椋梨藤太(むくなしとうた)の添役として抜擢され藩政に参画を始めた。

藩政の実権を掌握して長州藩・天保の改革に取り組んでいた家老・村田清風の後ろ盾を得て頭角を現した周布は、村田清風の病没後に改革派の村田清風の路線を継ぎ政務役筆頭として藩財政の再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力する。

また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の教えを受けた若い人材の登用に熱心で在った。

所が周布政之助は、天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵で在った保守佐幕派(俗論派)の坪井九右衛門派の藤太椋梨らと対立する事になり、藩内の派閥争いに敗れて、周布は一時失脚した。

しかし実直な性格の周布は、多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立つ。


周布政之助は本来、攘夷の愚を知る開国論者だった。

千八百六十二年(文久二年)頃に長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一の為にあえて攘夷を唱える事で守旧派に対抗して藩政改革の起爆剤とする策に出る。

幕末期の藩主は、藩主と言えども藩論に左右される立場で絶対君主的威光は無く、正直、お飾り的に成って家臣の暴走を止める力もさして無かった。

つまり、その藩主の藩論に左右され易い立場に付け入るように尊皇攘夷思想や勤皇思想を利用して、藩論を味方に藩参政に食い込んで行った若い有志達(維新の志士達)が、明治維新を主導したのである。

長州藩参政・周布政之助(すふまさのすけ)は、高杉晋作ら長州藩の若い藩士達の良き理解者として、藩政改革を目的に尊皇攘夷を推進し倒幕のきっかけを創った。

「酒癖が悪かった」とも「愚直なほど一途な性格だった」とも言われる周布は、多くの舌禍事件を起こし、度々に逼塞処分(ひっそく/閉門より軽いおとなしくしている処分)を受けたが、その有能さから復活を果たし、その都度長州藩々政へ復帰している。

千八百六十四年の禁門の変や第一次長州征伐に際して周布政之助は、事態の収拾に奔走したが、藩政の実権を次第に椋梨藤太ら保守佐幕派(俗論派)へ奪われる事となり、その責任を感じた周布は山口矢原(現・山口市幸町)の地で切腹を遂げた。

いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で周布政之助が果たした役割と影響は少なくはない。


「鶏と卵はどちらが先?」のような話だが、学問的に興味を持とうが敵(攘夷)を知るのが目的だろうが蘭学を学べば当然ながら白人社会の思想も学ぶ事になる。

すると永く続いた封建領主制に疑問を持ち、藩主の意向など無視して自らの信じる所をまい進する。

その拠点と成った松下村塾(しょうかそんじゅく)は、元々松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

松下村塾の創立者・玉木文之進(たまきぶんのしん)の玉木家は日露戦争の英雄とされる乃木希典(のぎまれすけ)の生家・乃木家の分家で、若き頃の希典(まれすけ)も松下村塾で文之進(ぶんのしん)の教育を受けている。

井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する千八百五十八年(安政五年)、希輔(まれすけ)が九歳(数え十歳)に成った頃の事だった。


日露戦争の英雄とされる乃木希典(のぎまれすけ)は、千八百四十九年(嘉永二年)、長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士(馬廻)、乃木希次(のぎまれつぐ)と常陸国土浦藩士長谷川金大夫の娘・長谷川寿子(乃木壽子/のぎひさこ)の三男として長府藩上屋敷生まれる。

希輔(まれすけ)は三男では在ったが、先妻・秀との子・長兄・乃木信通、後妻・寿子との子・次兄・乃木次郎が相次いで夭折した為、事実上の長男として育っている。

希典(まれすけ)が生まれた長府藩上屋敷は現在の東京都港区六本木ヒルズに成っている場所で、幼少期に蚊帳の下で寝ていた処、蚊帳の金具が落ちて左目に当たった為、「左目がほぼ失明状態になった」とされる。

父・乃木希次(のぎまれつぐ)は石高五十石〜百五十石の長門国長府藩・定府藩士で故実に詳しく、長州藩主・毛利慶親の嗣子・毛利定広の妻、銀姫(後に安子と改名)の守役や、藩の諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤め「故実家」として知られる存在だった。

乃木家は侍医の家とされ、宇多源氏流近江源氏・佐々木氏の佐々木高綱の子孫(高綱流・野木氏)を名乗り、吉田松陰の叔父に当たる松下村塾の創立者・玉木文之進(たまきぶんのしん)の玉木家は乃木家からの分家である。

井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する千八百五十八年(安政五年)、九歳(数え十歳)に成った乃木希典(のぎまれすけ)は江戸から長府に帰郷し、若き希典(まれすけ)も松下村塾で玉木の教育を受けている。

つまり乃木希典(のぎまれすけ)は最初から「松下村塾」を中心とした勝ち組長州閥の一員で、維新後の人脈について不足は無かった筈である。

帰郷から七年、千八百六十五年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが「元治の内乱」と呼ばれる内乱を馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し倒幕派政権を成立させる。

高杉晋作らは、薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。

高杉らは西洋式軍制導入の為に民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、十六歳(数え十七歳)に成っ希典(まれすけ)は長州藩諸隊の一つ長府藩・報国隊に入り奇兵隊に合流し幕府の第二次長州征伐軍と戦う。



頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
しかし松陰は、知識欲に関しては異常とも言える関心があり、知識欲の為には周囲や家族の迷惑などまったく考慮し得ない無鉄砲なところが在った。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。

もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。

当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。

だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。

しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。


そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山の師事をして蘭学を学んだ。


佐久間象山(さくましょうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家で、門弟に明治維新の英雄を多く排出した松下村塾の塾長・吉田松陰(よしだしょういん)がいる。

千八百十一年(文化八年)二月二十八日、信濃松代藩下級藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる。

佐久間家は五両五人扶持という微禄であったが、父・国善は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。

象山(しょうざん)は、父・国善が五十歳、母は国善の妾・まん(足軽の荒井六兵衛)が三十一歳の時に生まれた男児であった。

養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だった為、父・国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけた。


象山の烏帽子親(えぼしおや)は窪田岩右衛門馬陵恒久と言う郷里・松代の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である。

ただし象山の性格に、人を見下し勝手な事をする驕慢(きょうまん)な所があったのを憂い、窪田恒久(くぼたつねひさ)は死ぬまで象山の行く末を心配した。

若き象山(しょうざん)は、経学と数学を学び、特に数学に興味を示し、熱心に学んだ。

若年期に数学の素養を深く身に着けた事は、この後の象山(しょうざん)の洋学吸収に大きく寄与する。


佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を二度に渡って破った名将として名高い村上義清に八千石で仕えた佐久間大学という。

大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩三万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて二百五十石を食(は)んだ。

その後、信政が信濃上田藩の初代藩主・真田信之の世継として松代藩を継いだ為、佐久間国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。

しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて百石を食(は)み、 この国品が佐久間家中興の祖とされている。


象山(しょうざん)は十四歳で藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、十六歳の時に美濃国岩村藩儒学者・佐藤一斎の門下生であった藩重役・鎌原桐山(かんばらとうざん)に入門して経書を学び、鎌原桐山は最も象山に影響を与えた。

また同じ十六歳の時に藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山(しょうざん)は数学を「詳証術」と称したという。

千八百二十八年(文政十一年)、父・国善が高齢を理由に家督を譲った為、象山(しょうざん)は十七歳で佐久間家の家督を継ぐ。

千八百三十一年( 天保二年)三月、象山(しょうざん)二十歳の時に藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)の世子である真田幸良(さなだゆきよし)の近習・教育係に抜擢されるも、高齢の父に対して孝養ができないとして五月に辞任した。

藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)は象山(しょうざん)の性格を「癇が強い」としつつも才能は高く評価していた。

二十歳の時、象山は漢文百篇を作って桐山に提出すると、師・鎌原桐山(かんばらとうざん)ばかりか藩主・幸貫(ゆきつら)からも学業勉励であるとして評価されて銀三枚を下賜されている。

千八百三十二年(天保三年)四月十一日、藩老に対して不遜な態度があったとして象山(しょうざん)は藩主・幸貫(ゆきつら)から閉門を命じられた。

これは武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず、象山(しょうざん)は絶対に誤り無しとして自説を曲げなかった。

その為、象山(しょうざん)は「長者に対して不遜である」として藩主・幸貫(ゆきつら)の逆鱗に触れ閉門を命じられる。

この閉門の間に父・国善の病が重くなった為、藩主・幸貫(ゆきつら)は八月十七日付で象山(しょうざん)を赦免するも国善はその五日後に死去している。

千八百三十三年(天保四年)十一月、象山(しょうざん)は、江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。

この頃の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。

従って象山(しょうざん)は、千八百三十九年(天保十年)の二十七歳の時に江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

ところが千八百四十二年(天保十三年)、象山(しょうざん)が仕える松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が幕府老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。

藩主・幸貫(ゆきつら)から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山(しょうざん)は沿岸防備の第一人者・江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)の下で兵学を学ぶ事になる。

象山(しょうざん)は、藩命に拠り江川英龍(えがわひでたつ)に洋式砲術を学んだ。

江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)は、伊豆韮山代官を務めた幕臣で近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築いて日本に西洋砲術を普及させた人物である。

象山(しょうざん)は西洋兵学の素養を身につける事に成功し、藩主・幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。

また象山(しょうざん)は、江川英龍(えがわひでたつ)や高島流砲術家兼洋式兵学者・高島秋帆(たかしましゅうはん)の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。

以降、象山(しょうざん)は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、千八百五十三年(嘉永六年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

しかし千八百五十四年(嘉永七年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。

象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は千八百六十二年(文久二年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
千八百六十四年(元治元年)、象山(しょうざん)は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。

しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山(しょうざん)には危険な状況であった。

千八百六十四年(元治元年)七月十一日、供も連れなかった象山(しょうざん)は三条木屋町で因州藩士・前田伊右衛門、熊本藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)等の尊皇攘夷過激派の手にかかり暗殺される。


若き吉田虎之助(松陰)は、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航する。

松陰は、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれ、翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見も在ったが、時の老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。


翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。

そして幸運と言うべきか歴史の必然だったのか、長州藩内に在って倒幕運動の指導的役割を果たした松下村塾出身者は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用されて藩政に参画して行く。


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の皇子・良光(ながみつ)親王の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。

すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる。

伊藤十蔵は、前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいたのだが、その周防国熊毛郡に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤博文、等を引き連れて会いに行く。

松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤博文の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。


千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。

松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。

吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導して明治維新の原動力となった。

その中心人物のひとりが、高杉晋作だった。

高杉晋作は、政務役筆頭・周布政之助(すふまさのすけ)の後援を受け、長州藩の若手藩士達のリーダーとして共に尊皇攘夷を推進した。

そして今ひとり、維新の英雄と語りつがれる木戸孝允(桂小五郎)がいた。

桂小五郎(かつらこごろう・木戸孝允/きどたかよし)は江戸末期(幕末)の長州藩士で、吉田松陰の弟子として尊皇攘夷派の中心人物である。

後に名乗った木戸姓は、(慶応二年)の第二次長州征討前に藩主・毛利敬親から賜ったものである。

桂小五郎(かつらこごろう)は、西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられ、倒幕後は木戸孝允(きどたかよし・きどこういん)を名乗り長州閥を代表する政治家と成った。


桂小五郎は、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれ、生家・和田氏は毛利元就の七男・毛利元政の血を引くと言う名家の藩医だった。

和田小五郎は長男ではあったが、病弱で長生きしないと思われていた為に長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていた事から小五郎は養子に出る事になる。

この婿養子を和田家に迎えたには、実父・和田昌景に士分(武士の身分)と秩禄を得る希(のぞみ)が在っての事かも知れない。

小五郎は、七歳で自宅向かいの家禄百五十石・桂氏の末期養子(養父・桂九郎兵衛)となり、桂姓を名乗って長州藩の大組士と言う武士の身分と秩禄を得る。

その桂氏の養父・九郎兵衛と翌年には養母も亡くなった為に、小五郎は桂家当主を引き継ぐも生家の和田氏に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。

十代に入ってからの若き桂小五郎は、藩主・毛利敬親による親試に於いて即興の漢詩と孟子の解説で二度ほど褒賞を受け、長州藩の若き俊英として注目され始める。

千八百四十六年(弘化三年)、十二歳の小五郎は長州藩の師範代である新陰流剣術・内藤作兵衛の道場に入門し、剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められ始めている。

剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可されて江戸三大道場の一つ斎藤弥九郎の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。

千八百四十九年(嘉永二年)、小五郎は十五歳で吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評され、後年「桂は、我の重んずる所なり」と松陰は述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる。

藩主・毛利敬親(もうりたかちか)、そして松下村塾(所謂松陰派)出身者の登用に熱心な理解者だった政務役筆頭・周布政之助の引き上げで藩政府中枢に頭角を現し始めていた小五郎は、久坂玄瑞(義助)とともに藩開明派として力を着けて行く。

藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、藩命に依り江戸から京都に上る。


松下村塾に「秀才が集まった」と言うが、向き不向きの選択を間違えずに、人間やる気に成れば、大抵の人間が途轍もない事を遣りおおせるものである。

吉田松陰の下に、やる気の若者が集まった事は、時代の要請とは言えその指導力は大したものである。


長州藩の第十三代藩主(安芸毛利家二十五代当主)・毛利敬親 / 慶親(もうりたかちか / よしちか)は、藩内の勤皇攘夷派(倒幕派)、対する佐幕派(俗論派=保守派)のいずれの意見にも「そうせい」と頷く所から「そうせい侯」と陰口をたたかれた人物である。

勿論、倒幕から維新政府に到る長州藩の存在は群を抜いて大きかったが、藩主の毛利敬親 (もうりたかちか)は幕末の四賢候(ばくまつのしけんこう)に並び評されずも、見事な「そうせい侯」を演じて臣下の邪魔をせず、結果、長州主体の倒幕を自主的に完結させた。

一見、「そうせい」ばかりではリーダーとして頼りない評価があるかも知れないが、視点を変えれば目を掛けた部下に藩政を任せ切る敬親(たかちか)の「度量の大きさ」もチラつく。

勿論、毛利敬親 (もうりたかちか)は家臣を見る目に優れており、多くの低い身分の者を取り立てた上での「そうせい」で、闇雲に藩政を任せた訳ではない。

敬親 (たかちか)が自藩内で見出した吉田松陰は、自らの私塾・松下村塾で、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)を始めとする多くの有志を育てた。

そして、松陰の松下村塾を支援した政務役筆頭・周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)を登用したのも敬親 (たかちか)公だった。

あくまでも結果論であるが、薩摩の島津久光(ひさみつ・忠教/ただゆき)や土佐の山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)の様に藩実力者の立場を持って臣下の邪魔を続けた事のどちらが経営者として相応しいのだろうか?

日本の天皇制も「君臨すれど統治せず」が国家・国民の風土に合っていたとするなら、現代の経営学に照らせば「そうせい侯」も部下の自主性と能力を引き出す立派な君主の生き方かも知れない。


幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)は現代言う派閥仲間の様な存在で、幕末動乱期の幕政に連携して積極的に口を挟み存在感を誇示した大名グループである。

幕末期に活躍した宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四代藩主・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の四人の大名を言う。

但し、千八百五十八年(安政五年)の斉彬(なりあきら)没後は薩摩藩十二代藩主・島津忠義の父・島津久光(しまづひさみつ)を四賢候に加える場合もある。

つまり四賢候は、斉彬(なりあきら)の病没と久光(ひさみつ)の登場でバトンタッチまたはプラスワンと言う形になるのだが、この四賢候の経歴を見てもらえば判るが血統はともかく藩主としては成り上がりばかりである。

徳川宗家自体もそうだったが、この時期になると各大名家ともに虚弱精子劣性遺伝と言う血統主義の弊害に悩まされて継嗣に恵まれず、連技(分家)などから藩主候補を連れて来て何んとか体裁を整えるのがやっとだった。


幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)の一人と称される伊達宗城(だてむねなり)は、数奇な運命を辿って宇和島伊達藩八代藩主に成った男である。

伊達宗城(だてむねなり)は、知行三千石の大身旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれ幼名を亀三郎と称し、祖父・山口直清が宇和島藩五代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物だった血縁で九歳の時に宇和島藩主・伊達宗紀の参勤交代による在国に際し仮養子となる。

この山口亀三郎仮養子の時点では、継嗣以外の次男以下を血縁に拠る救済措置として便宜上仮養子としたもので、その後の山口亀三郎(宗城/むねなり)は一旦は宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となって伊達亀三郎を名乗る。

所が、藩主・宗紀に中々嗣子となり得る男子に恵まれない。

そこで伊達亀三郎は十一歳で藩主・宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を採って養子となり伊達宗城(だてむねなり)を名乗るるが、貞は早世してしまい婚姻は為されないまま宗紀の隠居に伴い宗城(むねなり)は二十六歳で宇和島藩五代藩主に就任する。

藩主となった伊達宗城(だてむねなり)は藩の財政を立て直して力を着け、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と並び称される。

ただしこの四賢侯(しけんこう)は後に付けられたもので、当時は本人達は勿論周囲もこの名称は使用してはいない。


幕末の四賢候は、幕末期の幕府老中・阿部正弘に幕政改革を訴えその推進に参画をしたが、千八百五十八年(安政五年)に阿部正弘が死去、その後大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。

十三代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かった為、松平慶永(よしなが/春嶽)、山内豊信(とよしげ/容堂)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)の四賢侯に加えて水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき/一橋慶喜の実父)らは次期将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推していた。

四賢侯らに対抗する大老・井伊直弼は地位を利用して紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ)を推し、強権を発動し安政の大獄を引き起こし、結局、井伊が推す慶福(よしとみ)が十四代将軍・家茂となる。

将軍継嗣問題で大老・井伊直弼と真っ向から対立し政争に敗れた宗城(むねなり)は、他の四賢侯・松平春嶽、山内容堂、島津斉彬、それに水戸藩主・徳川斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳を儲けており、隠居謹慎を命じられた宗城(むねなり)はその宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。

この政争に敗れた四賢侯と水戸・徳川斉昭(とくがわなりあき)らは揃って隠居謹慎を命じられたが、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、孝明天皇の崩御、十四代将軍・家茂の死と続いて四賢侯は復活し十五代将軍・慶喜が誕生する。

伊達宗城(だてむねなり)は謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、島津斉彬の死去後に薩摩藩主と成った島津茂久の父親として薩摩藩の実権を握った島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

千八百六十七年(慶応三年)の王政復古の後、宗城(むねなり)は派新政府の議定(閣僚)に名を連ねたが元々心情守旧派で、戊辰戦争が始まると薩長の行動に抗議して新政府参謀を辞任している。

宗城(むねなり)に限らず四賢侯は夫々新政府の議定(閣僚)に名を連ねたが、結局旧大名としての守旧的な考え方が旧下級家臣上がりの新政府要人とは馴染まず名誉職に追いやられて国政から外されて行く。


大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に裁決し、「安政の大獄」に拠る強権政治で尊攘派の怨嗟をうける。

特に藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていた。

しかし薩摩藩内の情勢が変わり、止む無く薩摩から有村次左衛門のみが加わって水戸の激派が独自に大老襲撃を断行する。

この大老襲撃計画の警告は井伊家に届いていたが、直弼(なおすけ)は大老職に在る者として臆病の批判を恐れ、あえて護衛を強化しなかった。


千八百六十年(安政七年)、直弼(なおすけ)が幕府大老に就任して二年が経っていた。
そこで世に言う「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」が起こる。

「桜田門外の変」は、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて尊攘派の水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。

大老襲撃隊は東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠で決行前の宴を催し一晩過ごし、当日朝品川宿を出発して東海道を進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂、神明坂、中之橋を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで外桜田門へ向かい、大名駕籠見物を装って登城する直弼(なおすけ)の行列を待つ。

三月三日の当日朝は生憎の気象で江戸市中は季節外れの雪で視界は悪く、井伊藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から登城する直弼(なおすけ)の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていた。

その登城途中の直弼(なおすけ)を、大老襲撃隊の水戸藩過激派浪士は江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃する。

その襲撃の端緒から直弼(なおすけ)は不運だった。

駕籠にめがけて発射した襲撃隊の合図のピストルの弾丸によって直弼(なおすけ)は腰部から太腿にかけて銃創を負い、雪の上に放置された駕籠の中で動けなくな成っていた。

供周りも不運である。

大老の体裁を整えた雪中の行列の為、襲撃を受けた」彦根藩士は柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった為、鞘で抵抗したり素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢で、抗しきれず斬り伏せられてしまう。

護る者の居なく成った直弼(なおすけ)の駕籠に次々に刀が突き立てられ、有村次左衛門に駕籠から引きずり出されて首を撥ねられて止めを刺され、直弼(なおすけ)は絶命した。

この独裁者として評判が悪かった井伊直弼(いいなおすけ)であるが、米国のペリーが来航して「開国・通商を迫る」と言う予想外の事態(特殊な事情)がきっかけで台頭しなければチャンスが無かった。

そして周囲の実力者に担ぎ上げられて権力を掌握すると独裁者に変身し、自分を推した味方した者まで切って棄てる冷酷な所は、誰とは言わないが、たまたま派閥の番頭で金集めは派閥の領袖がしていた為に、金銭的に身綺麗だっただけで、派閥の部屋住みの身から総理の座を手に入れて独裁者に変身した近頃の総理大臣に酷似している。

但し井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺の頃から尊攘派の知識人が外国の圧倒的な先進国力を学んで攘夷を棄て、尊王開国派に転進して倒幕に向かったのは実に皮肉な結果で、直弼(なおすけ)の開国の決断は結果的に歴史が肯定する結果と成っている。

ただ井伊直弼(いいなおすけ)は、既に命運尽きる落日の江戸幕府に在って、強引な政策をして最後の炎を一瞬たぎらせた事は確かである。



青雲の志を抱いた者だけが艱難辛苦に耐え得る生き方が出来、凡なるを旨とする者にその忍耐はない。

常識的に生きれば楽な人生を送れるかも知れないが、アンカリング効果的な常識に囚われた発想からは何も生まれず、型破りな発想からこそ未来が開ける。

時代が創った常識は次の時代では不要に成るのが当たり前で、明治維新の主役と成った者に誰一人常識に囚われた者は居なかった。

つまり、もっともらしい今日的常識を振りかざす者に、次代を担う大物など居ない。


元々野心満々に、王になる為に列島に渡り来た氏族の血統を受け継ぐのが彼らで、時の温くもりの中に抱かれて生きる幸せは、彼らの生き方にはない。

つまり列島に動乱を引起すのは皇統の影人達の氏族の思い、悲しくもその血だった。

吉田松蔭の志を継いでリーダー的な役割を果たしたのが高杉晋作である。

ここでも皇統の影人の末裔が現れる。

高杉晋作の高杉家は、元は清和源氏・武田姓で、清和(河内)源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗った事に始まる武田氏の支流で、高杉はその系図からして、正統な尊皇派なのは当り前の事だった。

その武田氏は、嫡流が甲斐国守護に任命された他、安芸国・若狭国・上総国に庶流があり、その内の安芸国武田氏の末裔が、戦国時代には出雲の尼子氏に仕えた。

その後、始祖となる高杉春時の代に毛利氏に仕えて備前国三谿郡高杉村を領し、武田姓より高杉姓に改める。つまり、安芸国武田氏の枝の末裔が、毛利家歴代藩士(家臣)・家禄百五十石〜二百石の高杉家と言う事になるのである。


高杉晋作も稀代の天才の部類であるが、どうもこの天才と言われる人種、最後まで生き残って、自分の手がけた仕事の行く末を見る運には恵まれないらしい。

長州藩で倒幕を主導した晋作もその口で、倒幕を見る事無く肺結核の為に死去している。

晋作には時間が無かった。

彼は本来、保守的な意見に迎合するのが苦手で、その事には自信がない。

それでも、こんどばかりは、自説を曲げても藩論を統一させた。

この遠大なシナリオを書いたのが、自分だからである。

自らの体の変調に気付いてから、もうだいぶ時間が経過している。

日に日に体が衰弱するのが晋作にはヒシヒシと判る。

しかし、自分の目的を達するには、走り続けるしかない。

時期を逸すれば、事は頓挫する。

高杉晋作は病を隠してがむしゃらに事を運んだ。


桂小五郎(かつらこごろう)は、藩論をまとめて長州藩から英国への秘密留学を実行に漕ぎ着け、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の五名を藩の公費で留学させる。


藩政府中枢に加わった小五郎は京に上洛し長州代表の一員として朝廷をめぐる政治活動をするも、会津藩預かりの新選組に拠る池田屋事件など勤皇派と佐幕派の朝廷をめぐる争いは激化して行く。

小五郎は当時としては長身の大男で神道無念流剣術の免許皆伝を得て剣豪と称されたが、一方で在京中は武力闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。

京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、新選組の池田屋襲撃事件では運良く外出していて奇跡的に難を逃れている。

八月十八日の政変(七卿落ち)が起こり、長州藩と長州派公卿が京都から追放されるが、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権の為に久坂らと伴になおも活動をし続けている。

八月十八日の政変から禁門の変に到る動乱の中、小五郎は京に在って政治活動を継続するも長州藩兵が敗れて敗走し、潜伏生活を余儀なくする。

朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降り、不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑と言う対応で長州藩は責任を取った。

その後、長州俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清し始めたが、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事クーデターが成功し俗論派政権による政治が終わりを告げる。

この後、桂小五郎がどこかに潜伏しているらしい事を察知した高杉晋作・大村益次郎達に拠って探し出され、小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。

長州政務の座に入ってからの小五郎は、高杉達が所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。

桂小五郎と坂本龍馬とは、慶応元年から慶応三年にかけて頻繁に会談していた。

土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに薩摩藩との薩長同盟を斡旋され、長州藩は桂小五郎を代表として交渉、秘密裏に同盟を結ぶ。



幕末の動乱期に坂本龍馬(さかもとりょうま)、武市瑞山(たけちずいざん)ら多くの人材を輩出した維新の雄藩が土佐藩(とさはん)である。

土佐藩(とさはん・高知藩/こうちはん)は廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩で、土佐国は四国の太平洋側の現在の高知県に位置していた。

戦国時代末期、土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていたが、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて長宗我部盛親は西軍に与し改易となる。

豊臣氏恩顧の大名で遠江国・掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊は東軍(徳川家康方)に味方した為に大幅な加増を受けて、土佐一国二十四万二千石(実禄は二十万万二千六百石余り)を与えられこの地を治める事となり、以来、明治時代初頭まで山内氏が治めている。

山内氏が豊臣秀吉から土佐一国を与えられ移って来た時、土佐には一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が多数存在しており、彼らは藩政当初より新領主・山内家に馴染まず反乱を繰り返した。

山内氏は、その一領具足の懐柔に力を注いだが、藩政の中枢には彼らを入れず高知城下に住む山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(郷士)の二重構造が幕末まで続いた。

長宗我部氏遺臣の系譜を引く一領具足の郷士は基本的には在郷武士であり、土佐藩に於いては武士(上士)の下位で下士(足軽)の上位に位置づけられていた。

長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙って千六百十三年(慶長十八年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後新田等の開発を行う度に正式な郷士として取り立てられて来た。

この制度が功を奏して領内の開発が進み、千八百七十年(明治三年)の廃藩置県前には土佐藩の本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田の合計は四十九万四千石余に達していた。

幕末の土佐藩には十五代・山内豊信(容堂)が登場し、吉田東洋を藩参政に起用し藩政改革を断行する。

吉田東洋はその藩政改革で保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で豊信が隠居すると武市瑞山(たけちずいざん)を中心とした土佐勤王党により暗殺された。

後に勤王党は、藩政の実権を回復した山内容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧・解散される。

武市瑞山一味の暗殺に倒れた藩参政・吉田東洋だったが、東洋の門下より後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を輩出している。

東洋とは反目関係に在った武市瑞山(たけちずいざん)側にも、郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材がこの藩より輩出されて居るのは承知の通りで、山内容堂(豊信)の進言で徳川慶喜に拠る大政奉還がなされ、土佐藩は薩長土肥の一角を為して時代転換の大きな役割を演じた。


千八百六十一年(文久元年)、武市瑞山(たけちずいざん/半平太)は一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて江戸にて土佐勤王党を結成する。

瑞山(ずいざん/半平太)は坂本龍馬とは遠縁にあたり、その関係だが、瑞山(半平太)が城下新町田淵の郷士・島村源次郎の長女・富子と結婚し、その島村家は坂本家や龍馬の父・坂本八平の実家・山本家と縁があり、富子の父・源次郎の妹・佐尾子は白札・山本家の八平の兄・新四郎の子・代七と結婚して山本家に嫁いでいる。

翌千八百六十二年(文久二年)に藩主・山内豊範への進言を退けた土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋の暗殺を那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助らに指令、暗殺を実行させている。



薩摩藩から頭角を現した西郷吉之助・隆永、後の西郷武雄・隆盛(たかもり)は、明治維新の立役者の一人である。

本書で西郷隆盛に関して「西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)」と表記しているには実は大きな意味が在る。

実は維新後、明治政府の担当官が西郷吉之助・隆永の名を父親の名・隆盛(たかもり)と間違えて登記したのを西郷が咎めずに「それで良かごわす」として正式に隆盛(たかもり)と名乗るようになったからである。

千八百二十八年(文政十年)鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄四十七石余)の第一子として生まれ十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

西郷氏は藤原氏流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。

肥後・菊池氏は建武の親政から南北朝並立期にかけて、一貫して後醍醐天皇(南朝方)に与力した有力豪族である。

そう、西郷吉之助は、まさしくあの「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の血筋を受け継ぐ南朝の影人だったのである。

六代前の西郷九郎兵衛から薩摩藩の記録所にその名が見える処から、島津氏に仕えたのはこの頃からと思われる。

薩摩(島津)藩に於ける西郷家の家格は御小姓与であり下から二番目の身分である下級藩士で在った。

しかしながら、肥後(熊本県)菊池氏の血脈を継いでいた。

西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)は、一見豪放に見えて繊細緻密な名将である。

良く観察して見ると、実は勤皇の志士の中でも大軍の指揮を任せられる将の器だった者は意外と少なかったような気がする。


薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)に見出された西郷吉之助(隆永/隆盛)は、しぶといのが身上である。

若き頃の西郷隆盛(隆永)は、すこぶる周囲の同僚から評判が悪い男だった。

それと言うのも若き日の隆盛(隆永)は理想が高く、為に役人として要領良く立ち回り私腹を肥やす同僚や上司に批判的だったからだが、信念に基づく大胆な正論の為に煙たい存在と嫌われて居た。

この隆盛(隆永)の周囲に迎合しない信念を持つ辺りが、薩摩藩々主(第十一代)・島津斉彬(しまづなりあきら)や藩重役も隆盛(隆永)を認めるように成り、やがて薩摩藩の若手有志の間で評価され、隆盛(隆永)信奉者が増えてリーダーの一人と目される様になる。

そしてリーダー格になってからの隆盛(隆永)は、よほど重要な事以外は「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)。」と、滅多な事では意見を争わなかった。

それで益々藩内の人気が高まった。

しかし隆盛(隆永)を取り立てた島津斉彬が没すると、大胆な正論は主家・島津家の第十二代藩主・島津忠義(しまづただよし)の父・久光(ひさみつ)の怒りを買い、度々島流しに遭っている。


幕府の中央にこの井伊直弼(いいなおすけ)が出現した頃、もう一つの幕末雄藩となる薩摩藩の藩政を島津久光(しまづひさみつ)と言う人物が掌握する。

幕末の薩摩藩に於ける事実上の最高権力者・島津久光(しまづひさみつ)は、明治維新の動乱期に影響力を発揮して四賢候の一人と並び称される人物である。

しかし四賢候の一人と評価される島津久光(しまづひさみつ)は、薩摩藩から西郷隆盛、大久保利通ら維新の立役者を輩出した事から維新政府で評価を得たのだが、本来の考え方は権力者に有り勝ちな守旧派で、別に最初から倒幕に熱心だった訳ではなく公武合体派だった。

島津氏二十七代当主・(島津薩摩藩十代藩主)・島津斉興(しまづなりおき)の五男として誕生した島津久光(しまづひさみつ)は、種子島家・種子島久道の養子や島津一門家筆頭の重富・島津家の次期当主・島津忠公の娘・千百子(ちもこ)と婚姻し婿養子となるなどの経緯を経て元服、忠教(ただゆき/島津久光)を名乗る。

千百子(ちもこ)と婚礼を挙げて重富・島津家の家督を相続した島津忠教(ただゆき/島津久光)は、父・斉興(なりおき)の後継の地位(薩摩藩主)をめぐって、兄・斉彬(なりあきら)と忠教の兄弟をそれぞれ擁立する派閥による御家騒動(お由羅騒動)に巻き込まれる。

この騒動は幕府の介入を招いて父・斉興(なりおき)の引退を早め、異母兄の十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)が誕生する。

十一年後の千八百五十八年(安政五年)、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任した頃に兄・斉彬(なりあきら)が病没し、その遺言により忠教(ただゆき/久光)の実子・忠徳(茂久/後の忠義)が藩主に就任する。

存命だった忠教(ただゆき/久光)の父・十代藩主・島津斉興(しまづなりおき)が十二代藩主・島津茂久(忠義)を後見していてが、その斉興(なりおき)が病没して十二代藩主・島津茂久(忠義)の実父としての忠教(ただゆき/久光)の政治的影響力が増大し、久光(ひさみつ)と改名して「国父」・「副城公」として遇されて藩政の実権を掌握し事実上の最高権力者となる。

藩政の実権を掌握した島津久光(ひさみつ・忠教/ただゆき)は、既に齢(よわい)四十二歳を数えていた。

この久光(ひさみつ)の藩政掌握の過程で小松清廉(帯刀)や中山中左衛門など重用、大久保利通・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実ら、後に精忠組と名付けられる中下級藩士から成る有志グループを登用する。

久光(ひさみつ)は、この藩政掌握の間に反りが合わない西郷隆盛を無断東上の罪で責めて徳之島、沖永良部島に配流し、藩内有志の嘆願により赦免するまで流配を解かなかった。


幕末の薩摩藩重臣家格藩士として有名な小松帯刀(こまつたてわき)の本名乗りは小松清廉(こまつきよかど)である。

清廉(きよかど)は島津家一族及び重臣の十七家から構成される薩摩藩重臣家格・一所持(いっしょもち)領主の一家・喜入領(五千五百石)領主・肝付兼善(きもつきかねよし)の三男として薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷に生まれる。

このめずらし肝付(きもつき)氏の本姓は伴(大伴)氏で、古代の大豪族の末裔でもある。

肝付清廉(きもつききよかど)が小松氏を名乗ったには、清廉(きよかど)が二十一歳の時に同じ一所持(いっしょもち)領主家・吉利領主(二千六百石)・小松清猷(こまつきよもと)の跡目養子となって小松家々督を継承し、宮之原主計(みやのはらもんど)の養女となっていた清猷の妹・千賀(近)と結婚したからである。

小松氏の本姓は、建部氏より平惟盛入婿により平氏に改姓されたとされ、家系は禰寝(ねじめ)氏嫡流の小松氏当主の家系を名乗っていた。

建部氏(たけべし)は日本の古代氏族の一つで、古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団が興りとされ、禰寝氏(ねじめし)は大隅国の有力国人領主、戦国大名、島津氏との領土争いを経て薩摩藩士と成った家系である。

また、同じ薩摩藩士から明治期の軍人・政治家として名を成した山本権兵衛(やまもとごんべい)も、禰寝氏(ねじめし)流建部氏(たけべし)から山本と姓を改めて島津氏に仕えた土豪一族である。

結婚して二年目の千八百五十八年(安政五年)、小松清廉(こまつきよかど)は小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)と改名、以後は小松帯刀(こまつたてわき)が一般的に通り名となる。

長崎で洋学を学んだ小松帯刀(こまつたてわき)は西郷隆盛(隆永)依りも七歳年下で、島津斉彬(しまづなりあきら)に見出された隆盛(隆永)依りも少し遅れ、島津久光に才能を見出されて側近となり大久保利通と共に藩政改革に取り組んだ。

島津久光に嫌われた西郷隆盛(隆永)を、藩の逸材として再び登用するように進言したのはこの帯刀(たてわき)だった。

帯刀(たてわき)は久光に拠る上洛に随行し、帰国後は家老職に就任し薩摩藩の近代化に力を注ぐ一方、西郷隆盛(隆永)の力量を認めて不仲である島津久光との仲を取り持ち、隆盛(隆永)の活躍の場を創った。

薩英戦争後、帯刀(たてわき)は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席し、一方で藩要職を兼務して藩政をリードしている。


千八百六十二年(文久二年)、四十五歳に成っていた島津久光(しまづひさみつ)は尊皇攘夷と佐幕で揺れる京の都へ、持論の公武合体運動推進の為兵を率いて上京する。

その京で、久光(ひさみつ)は有馬新七ら自藩々士を多数含む尊攘派過激分子が共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義邸を襲撃しょうと伏見の船宿寺田屋に集るを知り、大久保一蔵(利通)らを派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが大久保が失敗した為、鎮撫使を派遣して切り合いとなる寺田屋騒動(てらだやそうどう)を起こしている。

その後、「八月十八日の政変」、「禁門の変」、「第一次長州征伐」、「第二次長州征伐」、「将軍家茂の薨去」、「孝明天皇の崩御」の経緯の中で、風向きは久光(ひさみつ)の公武合体推進から倒幕へと流れが変わって行く。

藩内では絶対君主と解される藩主やその代行者で在っても現実には家臣(部下)が着いて来なければ無力で、久光(ひさみつ)の公武合体運動は頓挫し、小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通ら藩論が倒幕に傾く中、久光(ひさみつ)は政治的妥協の可能性を断念し薩摩藩指導部は武力倒幕路線を決断する。

病を得た久光(ひさみつ)は薩摩に帰郷、朝廷より久光・茂久へ討幕の密勅が下され、将軍・徳川慶喜による大政奉還の奏請を受けて上京が命じられるも病の為応じられず、息子である藩主・茂久が藩兵三千を率いて鹿児島を出立、その後、中央政局は王政復古、戊辰戦争へと推移している。

維新後の久光(ひさみつ)は五十六歳の千八百七十三年(明治六年)に東京に上京し、新政府に出仕して内閣顧問・左大臣に任じられるが政府の意思決定からは実質的に排除され、廃藩置県、廃刀令等の開化政策に反抗したが、久光(ひさみつ)の意を汲む者は居なかった。


京都郊外の伏見(現在の京都市伏見区)の旅館・寺田屋は、討幕派の定宿となり幕末史に名を刻んだ旅館である。

世に寺田屋騒動(てらだやそうどう)、寺田屋事件(てらだやじけん)と呼ばれるものは二つ在り、一つは千八百六十二年(文久二年)に発生した薩摩藩尊皇派らの粛清事件であり、もう一つは千八百六十六年春三月(旧暦・慶応二年正月の終わり)に発生した伏見奉行捕り方に拠る坂本龍馬襲撃事件である。

最初に起こった寺田屋騒動(てらだや騒動)・薩摩藩粛正事件は、千八百六十二年(文久二年)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件である。

千八百六十二年(文久二年)、有力外様大名・薩摩藩の事実上の最高権力者・島津久光は日本中の尊王派の期待をその身に背負って藩兵千名を率い上洛する。

しかし尊王派の期待空しく、当時の島津久光の本音は公武合体で倒幕の意志は無かった。

その久光に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義邸を襲撃する事を決定し、伏見の船宿寺田屋に集る。

当時寺田屋は薩摩藩の京都での定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だった。

実は、上洛した島津久光は島津家と関わりが深い公卿・近衛忠房(このえただふさ)らに持論である公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を既に受けていた。

そこに、自藩過激派が多数含まれるこの襲撃謀議の発覚だった。

謀議を察知した久光が、大久保一蔵らを派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが大久保は失敗する。

島津久光は彼らの同志である尊王派藩士を派遣して謀議グループを藩邸に呼び戻し、久光自らが説得しようと大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助・上床源助ら特に剣術に優れた藩士を九名選んで鎮撫使として派遣する。

寺田屋に赴いた大山綱良らは、久光の藩命として有馬新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、同士討ちの激しい斬り合いが始まった。

この切り合いに拠って、討手の道島五郎兵衛と寺田屋に居た有馬新七とその同士・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵ら六名が死亡、田中謙助と森山新五左衛門の二名が重傷を負った。

この時寺田屋の二階には、まだ大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎などが居たが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。

この寺田屋事件には、後に明治の元勲となる若き日の大山巌(おおやまいわお/弥助)や西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち)も参加して居たが、年齢若きを持って助命謹慎の処分を受けている。

負傷した田中謙助と森山新五左衛門の二名は切腹させられ、薩摩藩以外の尊王派諸藩浪士は諸藩に引き渡されたが引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。

船内で田中らを斬った柴山矢吉は後に発狂したと伝えられ、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い一方で、寺田屋で投降した大山巌・西郷従道ら尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職を得ている。

この寺田屋事件の処置に拠って島津久光に対する朝廷の信望は大いに高まり、公武合体政策の実現(文久の改革)の為に江戸へと向かって行った。


もう一つの寺田屋事件(てらだやじけん)、坂本龍馬襲撃の方は千八百六十六年春三月(旧暦・慶応二年正月の終わり)に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件である。

伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を取り囲むのを察知した龍馬の愛人・お龍は、風呂から裸のまま二階へ階段を駆け上がり危機を知らせ、龍馬は主に銃で反撃するも左手の親指を負傷しながら逃走した。

龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、暫くの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏している。


千八百六十二年(文久二年)、土佐藩参政・吉田東洋の暗殺に成功した武市瑞山(半平太)は東洋派重臣を藩の要職から追放し、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握すると伴に藩主・山内豊範を奉じて京に進出する。

現代の政治経済のリーダーでも同じ事だが、藩主と言えども藩論に左右される立場で、家臣(部下)が全員そっぽを向けばリーダーシップは発揮できないのである。

血統だけを根拠にリーダーの座に収まっていた幕末期の藩主はお飾り的に成って絶対君主的威光は無く、正直、尊皇攘夷思想や勤皇思想を持つ家臣の暴走を止める力も無かった。

上洛した瑞山(半平太)は、土佐藩の他藩応接役として他藩の志士達と関わる一方で、朝廷工作に奔走して幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣させようとし、その動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決した際、これをくつがえそうと入京を画策した一橋慶喜を一時妨害する裏工作に成功するなど神出鬼没の働きをしている。

京での瑞山(半平太)は配下の岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛らを使って「天誅、斬奸」と称して刺客を放ち、数々の佐幕派暗殺に関与し政敵を暗殺し、その年の秋には朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下に柳川左門と言う変名で副使姉小路公知の雑掌となり江戸に随行している。



西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)と並んで「維新の三傑」と称される大久保利通(おおくぼとしみち)は、薩摩藩・御小姓与と言う身分格の下級武士で琉球館附役の大久保利世の長男として生まれている。

利通(としみち)は藩の記録所書役助として初出仕するも、お由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、余程能力を買われていたのか島津斉彬が藩主となると藩記録所御蔵役として復職し、四年後には徒目付(かちめつけ)になる。


大久保利通が薩摩藩改革派の指導者として頭角を現したのは、奄美大島潜伏を命じられた西郷吉之助(隆永/隆盛)を盟主的存在とし後に世間が「誠忠組」と名付けた薩摩改革派グループが水戸藩浪士と共同して大老・井伊直弼を暗殺し、京都への出兵を行おうとする「突出」を大久保利通らが主導して計画した事である。

これは後に起こる二・二六事件のようなもので、薩摩藩内の言わば青年将校に拠る藩主や藩重役に対する反乱とも言える行動だった。

しかしその利通(としみち)達の「突出」計画は、藩主・島津茂久及びその父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫し、結局井伊直弼暗殺には有村次左衛門のみが桜田門外の変に参加し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。

その後大久保一蔵(利通)は、薩摩藩主の父・薩摩藩の事実上の最高権力者・島津久光の上洛に伴って京に上り、そこで寺田屋騒動(てらだや騒動)に直面する。

しかし出世の糸口を掴んだ一蔵(利通)は、薩摩改革派グループのリーダーで在りながら薩摩藩尊皇派粛清事件をクールに見過ごして、自分の保身を図る事を遣って退けている。

生来秀才型の人間で論理的だった一蔵(利通)は、不人情でキツイ性格の理論派タイプとして余り周囲の人気は無かったが、とにかく「権力欲と実行力は強かった」とその人物像が伝えられている。


西郷吉之助(隆永)が政局に関わり実力を発揮し始めたのは、沖永良部島の流罪から復帰し、千八百六十四年(元治元年)西郷三十六歳に起こったの禁門の変以降の事である。

斉彬(なりあきら)の後を継いだ第十二代藩主・島津茂久(忠義)の実父として最高権力者の島津久光(しまづひさみつ)に何度も遠島(流刑)と言う目に遭いながら、あたかも後醍醐帝の怨念にでも後押しされるかのごとく不死鳥の様によみがえり、薩摩藩をリードして行く。

確かに彼に相応の資質が在ったのだろうが、長州藩がかなり孤軍奮闘した後で薩摩藩が倒幕に加わった事など「あらゆる条件が揃う」と言う見えない幸運にも吉之助(隆永)は恵まれている。

左様に運も実力のうちではあるが、隆盛(隆永)の場合は、さらに信念に基づく大胆な正論を相手の地位に臆す事無く主張するその特別な人格が周りを引き付けていた。

我輩が、西郷隆盛(隆永)にワクワクする魅力を感じるのは、権力に固執せず、純粋でクールな信念の美学に生きる熱血漢な男達で、この時代に我輩にとって最高に魅力的生き方をしたのがこの男、西郷隆盛である。

坂本竜馬も捨て難い人物だが、西郷の私心を捨てる生き様には少し及ばない。


少し横道にそれるが、西郷隆盛(隆永)が仕官していた薩摩・島津家には囁かれる初代・薩摩領守護職・島津忠久の出生の秘密がある。

薩摩島津家の祖・島津忠久の「源頼朝公落胤説」である。

秦氏の子孫・惟宗(これむね)氏の流れを汲む惟宗基言(これむねもとこと)の子で平安末期の官僚兼武士・惟宗広言(これむねひろこと)が、主筋である藤原摂関家筆頭・近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下る。

その子の惟宗(島津)忠久が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から同地の地頭に任じられ島津氏を称したのが「島津家の始まり」とされる。

しかし、源頼朝に拠る惟宗(島津)忠久抜擢の背景がはっきりせず、惟宗(これむね・島津)忠久が惟宗(これむね)広言の子であるかどうかも疑問で、摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局が源頼朝の側室で、「忠久は頼朝の落胤」とする説が「島津国史」や「島津氏正統系図」などに記されている。

丹後局(たんごのつぼね/丹後内侍・たんごのないし)は、源頼朝の乳母・比企尼の娘で、後白河天皇の側室となり権勢を振るった。

官人・惟宗広言(これむねのひろこと)と密かに通じて島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って頼朝の側近・安達盛長に嫁いだとしている。

しかし頼朝が足繁く安達の屋敷に通うなど忠久の出生を疑わせる動きが在った事は事実で、安達盛長との婚儀自体が隠れ蓑だった可能性もある。

何しろ氏族社会では稚児小姓(ちごこしょう)との衆道(しゅうどう/男色)関係も一般的に在った時代で、何も無い主従の信頼関係は脆(もろ)いものである。

誓約(うけい)の国・日本に古くからある連語の「一肌脱ぐ」は、今は「人を助ける」と言う広い意味に使われるが、元来相手に誠意を見せる為のこう言うナチュラル(自然体)な誓約(うけい)対応の時に使うのが正しい。

それだからこそ、「一肌脱ぐ」は効果的な手段と成って「助けたい相手の力に成る」と言うものである。

氏族社会では、主が気に入れば女房(正史室)の召し上げや献上は指して珍しくない事で、中には夫の栄達の為に夫の女房(正室)籍のままの事も在った。

「お家」が大事な時代だったから情とは別の次元の話しで、「お家が権力者の後援を得る」と言う「利」がある事は立派な価値観だった。

だから今と成っては全てが闇の中だが、この時代は親名乗りはそのままに実は帝や将軍(鎌倉殿)の種である可能性は在る。

これは伝承であるが、妻・北条政子の激しい気性を恐れた源頼朝が落胤・忠久の将来を案じて藤原摂関家筆頭の近衛家に依頼、「惟宗(これむね)氏の系図に紛れ込ませた。」と言うものである。


島津氏の「頼朝ご胤説」は、偽源氏説として否定する意見の方が圧倒的に強いが、現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無い。

同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通している事は、共に後の九州を代表する武門一族の祖でありながら、「彼らの出自がはっきりしない」と言われ、いずれも「母親が頼朝の妾で在った事から、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されている事である。

実は伊豆国から相模国にかけての氏族の古い姓には、何故か九州の氏族と同じものが多い。

島津氏が使っている丸に十文字の旗印も、伊豆国から相模国にかけての氏族に十文字を使ったものが多く、それが九州の在地の豪族にも同じように多かった。

薩摩・島津家の旧姓・惟宗(これむね)は日向国・南の名族だったから、東に日が昇る日向と伊豆国・東〜相模国にかけての土地柄が似ているので、九州の氏族が移り住んで定住したのではないだろうか?

と成れば、惟宗(これむね)氏が島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)に赴任し、鎌倉殿(将軍・源頼朝)に地頭職を任じられても氏族の血統としては故郷に帰るだけの事である。

いずれにしても、島津氏も大友氏も平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っている。

その意味では、頼朝が信頼するに足りる「何か」が在ったのではないだろうか?

確実なのは、島津忠久の出とされる惟宗氏も大友能直の出とされる近藤氏も元々九州の名族ながら、当時の彼らの勢力ではさしたる評価の一族ではない。

頼朝による抜擢がなければ、戦国大名として歴史に登場する事無く埋もれていた筈である。

その島津家は、鎌倉期、南北朝期、室町期を通じての薩摩守護を勤め、戦国期には一時期は九州全土を席巻する勢いの勢力を誇った。

豊臣家の天下を迎える安土桃山期と関が原合戦の難局を生き抜いて、江戸期には外様大名の薩摩・島津藩として薩摩・大隅の二ヶ国、日向国諸県(もろあがた)郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有し、石高九十万石を数えた江戸期有数の大藩のまま倒幕勢力の鍵を握る立場で明治維新を迎えるのである。

そんな薩摩・島津藩が「西郷隆盛」と言う人材を得て、歴史の転換期に勝ち組みに成ったのは歴史の皮肉なのかも知れない。


事のついでだが、九州・豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)は、元は相模の国に在って近藤氏を名乗っていた。

その近藤氏が、鎌倉幕府が成立すると源頼朝の妾であった初代・大友能直の母(利根局)の縁で源頼朝の寵愛を受け、平家方が多かった九州の抑えに豊後国(現大分県)の守護職に任じられ、戦国時代には大友義鎮(大友宗麟・二十一代当主)が活躍して豊後・筑前・筑後など北九州を支配した戦国大名に成長している。

その後の大友氏(おおともし)は、宗麟の死後に息子の義統が文禄の役(朝鮮出兵)における敵前逃亡を咎められ豊臣秀吉に改易され、関ヶ原の戦いで、西軍に挙兵して豊後に侵攻し浪人ながら復興を目指したが敗れて降伏している。



薩摩藩家老職に就任した小松帯刀(こまつたてわき)はその権限を十二分に発揮し、一所持(いっしょもち)領主としての私財も投入して多くの倒幕派浪士を支援し、西郷・大久保などの活躍も帯刀(たてわき)在ればこそだった。

在京中の帯刀(たてわき)は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となり、亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したりその妻であるお龍の世話もしている。

帯刀(たてわき)は長州藩の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行った。

なお薩長同盟に於ける密約や桂小五郎が滞在した場所も、京都に於ける帯刀(たてわき)の屋敷で在ったと伝えられる。

千八百六十七年(慶応三年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に帯刀(たてわき)は関与し、討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。

大政奉還発表の際、帯刀(たてわき)は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。

帯刀(たてわき)は、西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主・島津忠義の率兵上洛を主張し、認められて上洛の随行が命じられるも帯刀(たてわき)は病によりこれを断念している。

維新の新政府に於いて帯刀(たてわき)は、病を圧して総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任し、旧幕府の対フランス借財処理など当面する対外事案を処理するも病の悪化により依願退職する。

退職後の療養中も、帯刀(たてわき)は版籍奉還で率先して自らの領地を返上して範を示し、久光の版籍奉還を説得するも、千三百七十年(明治三年)三十六歳の若さで大阪にて病死した。

いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で小松帯刀(こまつたてわき・清廉/きよかど)が果たした役割と影響は、世間に知られている以上に少なくはない。

帯刀(たてわき)が健在なりしば、その後に西郷達鹿児島士族が起こした西南の役も押し止められたかも知れない。



坂本竜馬の才能は、機会(チャンス)に恵まれて開花した。

土佐藩下士(郷士)の軽輩・坂本龍馬は、岩の僅かなひび割れから滲(にじ)み出るように表舞台に姿を現したのだ。

もし、この事を「神の意志だ」と言うのなら、我輩も同意せざるを得無い。

運も実力の内だが、坂本龍馬のデビューは言わば幸運の連続だった。

しかし断って置くが、この明治維新の立役者として人気が高い坂本龍馬、マスメディアが無いに等しい時代のリアルタイムでは一部の関係者しか知らない存在で、維新後新政府関係者が龍馬を語って全国に知られる様に成った。

土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家の次男・龍馬は剣術修行に江戸に出て、高名な北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。

その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と意気投合して友人関係を築き、また重太郎の妹・千葉さな子は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。

龍馬が幕府政事総裁職の松平春嶽に面会出来たのはこの「千葉重太郎の紹介」と言われ、そこからまるで「わらしべ長者」のように春嶽の紹介状を携えて、勝海舟に弟子入りしている。


江戸幕府幕末前後の松平春嶽/慶永(まつだいらしゅんがく/よしなが)は、御三卿・田安家から養子に入った越前・松平藩の第十六代藩主である。

その越前・松平藩の幕末までの道程には数奇な歴史が繰り返されている。

徳川家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(結城秀康)を名乗る。

この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、国持ち大名と成る。

所が、秀康の嫡男・松平忠直は大坂の陣で戦功を立てながらも二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。

千六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

この二代将軍・秀忠の松平忠直に対する仕置きには、徳川本家と越前・松平藩とに関わる或る疑惑が付きまとっている。

この疑惑は、明智光秀=天海僧正説や三代将軍・家光の乳母・春日局が明智光秀の従姉妹だっ事と関連がある。

二代将軍・徳川秀忠の、実は明智光秀の従兄弟・明智光忠だった説である。

本来、結城(ゆうき)秀康は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・松平信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

その結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。

この物語の本章・第三話の本能寺の記述で揚げた様に、「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していたのである。

松平忠直配流の翌千六百二十四年(寛永元年)、忠直嫡男・松平光長は越後高田藩二十六万石弱に移され、入れ替わりに英勝院の縁によって越後高田藩で別家二十六万石弱を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が五十万石で後釜に移封され、福井藩の主な家臣、藩領を継承する。

しかし親藩・御家門(ごかもん)の家格ながら越前・松平藩(福井藩)への幕府の監視が続き、その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、千六百八十六年(貞享三年)第六代藩主・綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主(第五代)昌親が領地半減(二十五万石)の上で再襲した。

その後の越前・松平藩(福井藩)は、支藩松岡藩の再併合により三十万石、千八百十九年(文政二年)の加増に拠り二万石を増やして三十二万石、家格は親藩・御家門(ごかもん)の越前・松平藩(福井藩)が落ち着いた。


千八百五十三年(嘉永六年)、藩主の座に就いた山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)は、従来の門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組(私塾少林塾師弟)」の中心人物・吉田東洋(少林塾主催)を起用する。

豊信(とよしげ/容堂)は、東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じて家老を押しのける形で藩政改革を断行、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用する。

土佐藩主としての自分の産みの親でもある老中・阿部正弘と親しかった豊信(とよしげ/容堂)は、幕政改革を訴えていたが阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立する。

十三代将軍・家定が病弱で嗣子が無かった為、土佐藩主・山内豊信、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。

一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推し大老の地位を利用した安政の大獄で政敵を排除する。

この強行策で、結局直弼が推す慶福が十四代将軍・家茂となる事に決まり、豊信(とよしげ/容堂)はこれに憤慨し隠居願いを幕府に提出、前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、豊信(とよしげ/容堂)は隠居の身となった。

所がこの年十月、豊信(とよしげ/容堂)は斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。

その容堂謹慎中に、土佐藩でクーデターが起る。

桜田門外の変以降は全国的に尊皇攘夷が主流となり、土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である吉田東洋と対立し遂に東洋を暗殺するに到り、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。

幕政に口を出す山内容堂の思想は単純ではなく、公武合体派として藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれと言う行動を取り幕末の政局に混乱をもたらしている。

京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としの為の朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、これ以後佐幕派による粛清の猛威がしばらく復活し、山内容堂も謹慎を解かれて土佐に帰国してまたも藩政を掌握した。

帰国した容堂は隠居ながら最高権力者に返り咲き、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出して党員を片っ端から捕縛・投獄する。

勤王党首領の瑞山は容堂に切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ土佐勤王党は壊滅させられた。



明治維新の主役の一人とされる坂本龍馬(さかもとりょうま)は、江戸時代末期の土佐藩士である。

千八百五十三(嘉永六年)に江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道でも剣を学んだとされ、十二月には佐久間象山の私塾にも通っている。

千八百五十四年(安政元年)に土佐に戻った後、千八百五十六年(安政三年)に再び遊学している。

坂本龍馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶ他に城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

この二度目の龍馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。

龍馬は通称で、本名は坂本直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)他に才谷梅太郎などの変名がある。

その出自であるが、坂本家が主君に差し出した「先祖書指出控」には、「先祖、坂本太郎五郎、生国は山城国、郡村未だ詳らかならず、「仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住致す」とある。

この「仕声弓戦之難」が、千五百八十五年(天正十三)の秀吉に拠る紀州(根来衆・雑賀衆)征伐であり、長岡郡才谷村が、雑賀、伊賀、根来、の落人達が住み着いた所である。

勿論、山崎の合戦に敗れた明智一族の一部が共通の敵を持つ根来衆・雑賀衆と同じ才谷村(高知県南国市才谷)に隠れ住み着いても不思議は無い。

しかし、土佐才谷村での坂本家は、千五百八十八年(天正十六年)才谷村の検地では「坂本」の名は見えず、村の三番目の百姓として登録されているに過ぎない。

二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。

従って三代目太郎左衛門までは、公認の名字をもたぬ有姓階層の百姓身分と考えられる。

有姓階層としての百姓家が、坂本龍馬の先祖・才谷家である。

四代目守之、五代目正禎は才谷村の字(あざ・地名)の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

千六百六十六年(寛文六年)三代目太郎左衛門の次男・才谷八兵衛は高知城下に出て、屋号を「才谷屋」と言う質屋を開業して次第に力を着け、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。

その後才谷(大浜)家は、千七百三十(享保十五年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるに到った。

龍馬の五代前、商家・才谷屋(才谷六代目・大浜姓)直益は、千七百七十年(明和七年)に郷士の株を買い長男の大浜直海に坂本姓を名乗らせている。

明智氏傍流を名乗り、「明智氏所縁の坂本を姓とした」と言う。

これで漸く、土佐才谷郷にたどり着いた百姓家が、名字帯刀、即ち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分に成ったのである。

その後の、坂本直海の孫の代に白札郷士山本覚右衛門の次男を坂本家の養子に迎え、坂本直足(さかもとなおたり)とした。

坂本直足(なおたり・八平)の次男が坂本直陰(なおかげ・龍馬)である。

なお、坂本直足は土佐屈指の豪商の側面も持ち合わせている。

坂本家は桔梗紋を家紋として用いており、明智氏の一族で「明智秀満(明智光秀の重臣・三宅秀朝の子で光秀の次女と婚姻、義理の息子にあたる)」の末裔であると坂本家(才谷家)には伝えられているが真贋の程は不明である。

唯一明智氏の居城が坂本城である事から、この坂本家の伝に僅かな関わりを感じるだけである。

しかしながら坂本家の精神として、坂本龍馬に明智氏の思いを抱かせていた事は否定出来ない。

龍馬の父は土佐藩郷士・坂本八平(直陰)で龍馬はその次男、そして母は幸と言う。

兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)が居る。

一般的に知られている龍馬の妻は「おりょう(本名は楢崎龍子/ならさきりょうこ)」、ただ資料に拠っては故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。

つまり北辰一刀流小千葉道場・千葉重太郎の妹・千葉さな子が、龍馬の正式な妻だった可能性は強い。

楢崎龍または龍子とも言われる通称「おりょう」は、医師・楢崎将作の長女として生まれた。

「おりょう」の父・将作は京都柳馬場三条南で医者を開業していたが、尊王の志士らと積極的に交流していた為に井伊直弼による安政の大獄で連座して捕らえられ獄死している。

「おりょう」の一家は父の獄死に拠り生活に困るように成り、母と幼い四人の弟妹を養う為に旅館・扇岩で働くも間もなく旅館を辞めて天誅組残党の賂(まかないふ)となる。

その天誅組が幕府の追討を受けると、「おりょう」は各地を放浪するようになった。

その各地放浪の最中に坂本龍馬と出会い、自由奔放な所を龍馬に気に入られて愛人となりその世話を受けて寺田屋に奉公する事となる。

「おりょう」は気性は激しいが、その激しさで、「竜馬を愛していた」と言う事で有ろう。

坂本龍馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。

直ぐ上の姉・乙女(おとめ)は「男勝りの気性だった」と言われ、反対に優男だった龍馬を「いつも叱咤していた」と伝えられている。

しかし異性に関しては並の男に違いなく、チャッカリ二人の女性を愛していたのだろうか?

当時としては長身優男の龍馬だが、面影があの護良親王(もりながしんのう)に良く似ていた。

護良親王(もりながしんのう)の遣り残した思いを抱いて輪廻転生を起こしたのか?

それは再び、スロットルマシーンの絵柄が揃うようにDNA遺伝子的な配列が揃って、新たなる「護良親王(もりながしんのう)」が龍馬の命に生まれ出たのかも知れない。

龍馬の心根の優しさこそ、その時代に生きた護良親王(もりながしんのう)同様に、薄命の革命児だったのだろうか?

本命の、「おりょう」こと龍子は、幕府の詮議で龍馬が危ない時、たまたま湯を使っていたが、戸惑う事無く急を知らせに全裸で部屋まで走ったそうである。

気性は激しいが、その激しさで、「龍馬を愛していた」と言う事で有ろう。


土佐の郷士から倒幕運動に加わった一人に、後に坂本龍馬と盟友になる中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が居る。

中岡慎太郎は、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の北川郷大庄屋・中岡小傳次、はつの長男として生まれた。

長じて慎太郎は土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の豪農から郷士に取り立てられた「白札郷士」の武市瑞山(半平太)が城下の新町に開いた剣術道場に入門する。

この武市道場の門下には後に「人切り以蔵」と恐れられた岡田以蔵等も居り、武市瑞山(半平太)の過激な思想が中岡慎太郎にも及んで居たと推測される。



勝海舟(かつかいしゅう)は、幕臣でありながら、結果的に明治維新に重要な役目を果たしている。

ただし幕臣とは言え、勝家は小身無役の貧乏旗本である。

勝海舟(かつかいしゅう)の本名は勝義邦(かつよしくに)、幼名は麟太郎(りんたろう)と言う。

素姓から言えば、海舟(かいしゅう)の出自はかなり庶民的である。

盲人で在った越後国の住人の曽祖父・銀一は江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功する。

その曽祖父・銀一の巨万の富を使って御家人株を入手して男谷家を興した男谷平蔵の三男・小吉(海舟の父)が、小普請組と言う小身無役の旗本・勝家に養子に出され、勝麟太郎(海舟)の父・勝小吉が誕生した。

幕府から安房守に任ぜられた事から勝安房(かつあわ)と呼ばれた為、安房(あほう)と同じ音の安芳と、維新後改名して勝安芳(やすよし)とした。

海舟は号で、この号、佐久間象山よりもらった「海舟書屋より取った」と言う。

父は旗本小普請組の勝小吉、母は信と言う。

幼少時の麟太郎(りんたろう)は、十一代将軍徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召され、勝麟太郎(りんたろう/海舟)に出世の道が開けたかに見えたが、慶昌が早世した為その望みは消えている。

この辺りに人の世の無常を悟って、結構「聡明な皮肉屋の勝海舟」と言う人柄が生まれたのかも知れない。

その後、勝麟太郎(りんたろう)は赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りして蘭学を学び、蘭学者・佐久間象山の知遇も得ている。

佐久間象山の知遇を得た勝海舟(かつかいしゅう)の妹の順子は、象山に嫁している。

勝は象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に蘭学塾を開く。

後に日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となる。

勝の信条は「物分りの良い事」である。

この信条は情勢分析を正確なものにし、幕臣と言う立場に拘らない判断をする事になる。

勝海舟(かつかいしゅう)の出世の糸口は、ペリーが黒船船団を率いて来航し、「開国」を要求した事にある。

「開国」の問題は内政と違う深刻な外交問題で、老中首座・阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破る事に慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。

海防意見書を提出した勝海舟(かつかいしゅう)の意見書は阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の役入りを果たした。

幕府が洋式海軍技術・操練術移入の目的でオランダ人を招き長崎に「海軍伝習所(海軍学校)」を開いた為、勝海舟(かつかいしゅう)はその「海軍伝習所(海軍学校)」に入門する。

海舟(かいしゅう)はその蘭語が良く出来た為に教監も兼ね、オランダ人教官と伝習生の連絡役も果たす内に海軍伝習所での指導者的地位を確立して、足掛け五年間を長崎で過ごしている。

勝海舟(かつかいしゅう)がこの間に学んだ洋式海軍技術・操練術は、幕府随一のものと成って居た。

幸運な事に、この欧米列強の外圧の中、幕府は米国の視察を試みる。

千八百六十年、勝海舟(かつかいしゅう)は幕命に依り、万延元年・幕府遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)の随行船・咸臨丸で太平洋を横断し米国(アメリカ)へ渡る。

実際にこの計画を立ち上げたのは、岩瀬忠震(いわせただなり)ら一橋派の幕臣で在ったが、安政の大獄で引退を余儀なくされた為、「計画だけが遂行される」と言う幸運に恵まれ、木村摂津守喜毅が軍艦奉行となり、勝は遣米使節の補充員として「教授方取り扱い」と言う立場で咸臨丸に乗船した。


千八百五十四年(嘉永七年三月三日/西暦三月三十一日)に締結された日米和親条約に続き、千八百五十八年(安政五年六月十九日/西暦七月二十九日)には日米修好通商条約が締結された。

両国の批准書交換は「ワシントンで行う」とされた為、江戸幕府は米国に使節団を派遣する事となった。

米国での批准書交換を提案したのは条約の交渉を行った外国奉行・岩瀬忠震(いわせただなり)であったが、安政の大獄で左遷となり、さらに蟄居をさせられた為、岩瀬は使節には加われなかった。

千八百五十九年(安政六年)九月、遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。

外国奉行としては村垣が先任で在ったが、村垣は知行五百石、対して新見は知行二千石の格上大身で在った為、新見が正使に、村垣が副使となった。

目付(監察官)には、秀才の誉れ高い小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれた。

本来目付は不正が無いか等を監察するのが任務であるが、非公式ではあるものの小栗には通貨の交換比率の交渉と言う役目あった。

新見、村垣、小栗の三人を正規の代表とする使節団七十七人は、ジョサイア・タットノール代将が司令官・ジョージ・ピアソン大佐が艦長を務める米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米する事になる。

また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳(みずのただのり)の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣する事にした。

その咸臨丸の司令官には、軍艦奉行並で在った木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)を軍艦奉行に昇進させ命じた。

軍艦奉行・木村喜毅は、咸臨丸乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟(かつかいしゅう)をはじめとする海軍伝習所出身者で固める。

また、木村は通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選んだ。

土佐国漁師・中浜万次郎は、漁に出て遭難、五日半の漂流後奇跡的に無人島・鳥島に漂着、米国捕鯨船に救助され米国に滞在する。

無学だった万次郎は、米国滞在中にオックスフォード学校やバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んで帰国、英語・造船知識が豊富で鎖国中に在った日本では希少な存在だった。

そしてこの遣米使節には、後の慶応義塾創設者・福澤諭吉(ふくざわゆきち)が軍艦奉行・木村喜毅の従者として乗船している。

この幕府遣米使節・正使一行及び随行船・咸臨丸の乗員から、幕末の動乱期と維新後の新国家建設に力を発揮した人材が育ったのだ。


随行船・咸臨丸の指揮を執る軍艦奉行・木村喜毅は、外洋航行に不慣れな日本人乗組員の航海技術では咸臨丸の太平洋横断に不安ありと考える。

そこで技術アドバイザーとして、難破し横浜に滞在中だった測量船フェニモア・クーパー号の艦長で海軍大尉ブルックを始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせる。


千八百六十年(安政七年一月十八日/西暦二月九日)、使節団一行は品川沖でポーハタン号に乗船、横浜に四日停泊した後、一月二十二日/西暦二月十三日、サンフランシスコに向け出港した。

途中激しい嵐に遭遇して石炭を使い過ぎ、千八百六十年(安政七年二月十三日/西暦三月四日)補給の為にホノルルに寄港している。

この日付けに関して、実はホノルル到着の二日前に既に日付変更線を通過しているが、一行の多くは日付の調整を行っていない為、日記の日付が実際の日付と一致しない。

使節団一行は、ハワイ滞在中にハワイ王国国王・カメハメハ四世に拝謁している。

千八百六十年(安政七年二月二十六日/西暦三月十七日)ホノルルを出港、三月八日(西暦三月二十八日)にサンフランシスコに到着した。

三月十一日(西暦三月三十一日)には、サンフランシスコ市長主催の歓迎式が行われている。


一方、随行船・咸臨丸も嵐に遭遇し、軍艦奉行・木村喜毅の予想通り外洋航行に不慣れな日本人乗員は使いものにならなかった。

だが、ブルック以下米国人乗組員の働きにより、ポーハタン号より十日早い二月二十七日(西暦三月十八日)に咸臨丸はサンフランシスコに到着していた。

ポーハタン号の到着により咸臨丸の随行任務は完了したが、咸臨丸の損傷が酷く修理の必要があった。

修理の為サンフランシスコに留まる間、勝海舟(かつかいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)等咸臨丸の乗員らは現地の人々との交流も行っている。

諭吉は写真館に出掛け、アメリカ人の少女と一緒に写真に写り、また、英和辞典を作成する為に福沢と中浜はウェブスターの英中辞典を買い求めている。

咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、千八百六十年(安政七年閏三月十九日)に米国人乗員を雇ってサンフランシスコを出発、ホノルルを経て安政七年五月五日に浦賀へと帰還した。


使節団正使一行の方はサンフランシスコに九日滞在し、万延元年三月十七日(西暦四月七日)、パナマへ向かって出港した。

千八百六十年(万延元年閏三月四日/西暦四月二十四日)、正使一行はパナマに到着。

しかしこの時、パナマ運河はまだ完成していなかった為、一行はパナマ地峡鉄道が特別に用意した汽車で大西洋側のアスピンウォール(現在のコロン)へと移動した。

汽車は途中小休止をはさみつつも三時間でパナマ地峡を横断し、一行は大西洋に到達し、使節団の到着を待っていたロアノーク号に乗り換えた。

アスペンウォールを千八百六十年(万延元年閏三月六日/西暦四月二十六日)に出港し、ワシントンには閏三月二十五日(西暦五月十五日)に到着した。

翌閏三月二十六日(西暦五月十六日)に、一行はカス国務長官を訪問し、二十七日(西暦五月十七日)にブキャナン大統領に謁見・批准書を渡した。

五日後の四月二日(西暦五月二十二日)批准書は交換され、使節団最大の任務は完了した。

ワシントンには二十五日間滞在するが、その間にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れるなど、休む間もない日々を過ごしている。

ワシントン滞在中の四月十六日(西暦六月五日)には再び大統領に謁見、またこの前後複数回に渡り、小栗忠順(おぐりただまさ)に依る金銀貨幣の交渉が行われている。

米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの合意には至らなかったが、小栗はこの交渉の過程でタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げた。

使節団一行は四月十九日(西暦六月九日)に、ボルチモア経由でフィラデルフィアに向けてワシントンを出発、翌二十日(日付け変更のため西暦では六月九日)に到着している。

フィラデルフィアには六日間滞在し、造幣局を見学し、日米金貨の分析実験や金銀貨幣の交渉も引き続き行っている。

四月二十七日(西暦六月十六日)午前にフィラデルフィアを出発、同日午後にはニューヨークに到着した。

ニューヨークでは空前と言われる大歓迎を受け、十三日日間滞在し、五月十二日(西暦六月二十九日)、ナイアガラ号で帰国の途についた。

帰国の為ニューヨークを出発した一行は、途中サン・ヴィセンテ島ポルト・グランデ(現カーボベルデ)、ルアンダ(アンゴラ)を経由し、七月十一日(西暦八月二十七日)には喜望峰を通過しインド洋に入った。

バタヴィア(現ジャカルタ)、香港を経由し九月二十七日(西暦十一月九日)に品川沖着、翌日下船し使節団は帰国を果たした。



慶應義塾の創設者・福澤諭吉(ふくざわゆきち)は、千八百三十五年(天保五年十二月十二日/西暦一月十日)、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区)に在った豊前国中津藩(現・中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助・於順の次男(末子)として生まれる。

諭吉(ゆきち)は、最初中津藩士のち幕府御家人、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者として幕末から明治を生きた。

慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。


諭吉(ゆきち)と言う名の由来は、儒学者でもあった父・百助が「上諭条例(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)」を手に入れた夜に諭吉(ゆきち)が生まれた事による。

父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に中津藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。

儒学者・百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園(なかむらりつえん)がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。

百助は中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなす事もできずにこの世を去った。

その為息子である諭吉(ゆきち)は、後に福翁自伝で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。


千八百三十六年(天保六年)、父・百助の死去により中村栗園(なかむらりつえん)に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現・大分県中津市)で過ごす。

諭吉(ゆきち)は、親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うと言う価値観はもっていなかった。

お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、諭吉(ゆきち)は悪童まがいの溌剌とした子供だったようだ。

しかし諭吉(ゆきち)は、刀剣細工や畳の表替え、障子の張替えを熟(こ)なすなど内職に長けた子供であった。

その諭吉(ゆきち)は、五歳頃から藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。

初め読書嫌いであったが、十四〜五歳になってから近所で自分だけ勉強をしないと言うのも世間体が悪いと言う事で、諭吉(ゆきち)は勉学を始める。

しかし始めてみると直(す)ぐに実力をつけ、以後諭吉(ゆきち)は様々な漢書を読み漁り、漢籍を修める。

八歳になると、諭吉(ゆきち)は兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。


諭吉(ゆきち)は「論語」、「孟子」、「詩経」、「書経」は勿論、「史記」、「左伝」、「老子」、「荘子」に及び、特に「左伝」は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記した。

この頃に諭吉(ゆきち)は、先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まる様になっていた。

また諭吉(ゆきち)は、学問の傍ら立身新流の居合術を習得した。

諭吉(ゆきち)の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉(ゆきち)の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。

従って、諭吉(ゆきち)の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡る事が出来る。

のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。


幕末の時勢の中、千八百五十八年(安政五年)には無役の旗本で石高わずか四十石の勝安房守(号は海舟)らが登用される。

同じ頃、江戸居留守役・岡見清熙の差出で諭吉(ゆきち)にも中津藩から江戸出府を命じられる。

諭吉(ゆきち)は江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となる為に、吉川正雄(岡本周吉、後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。

諭吉(ゆきち)達師弟は、築地鉄砲洲に在った奥平家の藩邸(中屋敷)に住み込み、そこを蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」として蘭学を教えた。

まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移って来た佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が「一小家塾」に入塾する。

この蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」が後の学校法人・慶應義塾の基礎となった為、この年が慶應義塾創立の年とされている。


千八百五十九年(安政六年)の冬日米修好通商条約の批准交換の為に使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米する事となり、その護衛として随行船・咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣する事が岩瀬忠震(いわせただなり)の建言で決定した。

千八百六十年(万延元年一月十九日/西暦二月十日)、諭吉(ゆきち)は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村喜毅(きむらよしたけ/摂津守)の従者として、アメリカへ立つ。

後に諭吉(ゆきち)は、蒸気船を初めて目にしてからたった七年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べているが嘘である。

実際に操船したのは、軍艦奉行海軍・木村喜毅(きむらよしたけ)が外洋航行に不慣れな日本人乗組員の航海技術を心配し、測量船フェニモア・クーパー号の艦長・大尉ブルックを始めとする米国軍人の乗組員だった。

諭吉(ゆきち)と咸臨丸の指揮官を務めた安房守・勝海舟(かつかいしゅう)はあまり仲が良くなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた。

一方、摂津守・木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)と諭吉(ゆきち)は明治維新によって木村が役職を退いた後も、晩年に至るまで親密な交際を続けていた。

帰国した年に、木村喜毅(きむらよしたけ)の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方(現在の外務省)に出仕する事に成った事や戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。


千八百六十四年(元治元年)には、諭吉(ゆきち)は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら六名を連れて来た。

同年十月に諭吉(ゆきち)は、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として百五十俵・十五両を受けて格が「御目見以上」となり、「御家人」となった。

千八百六十一年(文久元年)に諭吉(ゆきち)は、中津藩士・土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。

その年の冬、竹内保徳を正使とする文久・遣欧使節(けんおうしせつ)を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣する事となる。

千八百六十二年(文久二年)一月一日(/西暦一月三十日)、諭吉(ゆきち)もこの遣欧使節(けんおうしせつ)に翻訳方としてこれに同行する事となった。

同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、諭吉(ゆきち)と行動を共にした。

シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪れた。

ヨーロッパの病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについて見聞した諭吉(ゆきち)は、この経験で日本に洋学の普及が必要である事を痛感する。 千八百六十五年(慶応元年)に始まる幕府の長州征伐の計画について、諭吉(ゆきち)は幕臣としての立場から方策を献言した。

その「長州再征に関する建白書」では、大名同盟論の採用に反対し、徳川幕府の側に立って、その維持の為には外国軍隊に依拠する事も辞さないと言う立場を採った。

この見通しによって、維新後の新政権の為に何の貢献もなしえない事が当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがう事が出来る。

長州征伐で幕府が長州藩に敗北したと聞き、諭吉(ゆきち)はイギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳「雷銃操法」を訳し始める。

続いて、戊辰戦争に際し仙台藩が諭吉(ゆきち)に翻訳せしめた「兵士懐中便覧」は奥羽越列藩同盟藩士の多くが読んだとされる。

千八百六十九年(明治二年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書「洋兵明鑑」を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳している。



千八百六十年(万延元年)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、岩倉具視は「公武合体(朝廷と幕府の一体化)」を薦め、和宮(皇女・孝明天皇の妹)の降嫁を推進した。

この為、尊王攘夷派の志士達は岩倉具視を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけ、岩倉具視はその風あたりを避けて、京都洛北の地「岩倉」に幽居した。

しかし、幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を続け、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で「倒幕派へと路線を変更」させた。

岩倉具視のこの変わり身の早さは、流石先祖に鎌倉初期の英傑である土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)を持つ血筋の、先祖譲りの政治処世術で有る。

悪く言えば政治的信念ではなく旗色を窺って勝ちに乗る手法で、余り上等とは言えない。

しかしいつの世も、勝ち残るのはこのタイプである。

千八百六十一年(文久元年)、西郷吉之助に出番が廻って来る。

薩摩藩主島津久光は公武周旋に乗り出す決意をし、重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀仲左衛門らの進言で西郷吉之助に召還状を出した。

二月、西郷吉之助は主君・島津久光に召されたが、久光が無官で先代の斉彬ほどの人望が無い事を理由に「上京すべきでない」と主張したので、久光の不興を買った。

西郷は、一旦主君島津久光の上洛の同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。

三月、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。

坂本竜馬は、千八百六十一年(文久元年)に武市瑞山(半平太)らの土佐勤王党結成に参画するが、翌年の勤王党による吉田東洋の暗殺には参加せず、千八百六十二年三月に沢村惣之丞とともに脱藩した。



京洛の地は、土佐勤王党の岡田以蔵(おかだいぞう)や薩摩の田中新兵衛(たなかしんべえ)らが暗躍、近藤勇ら会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)預かりの京都見廻組などが対抗して騒然とした雰囲気の中に在った。

人斬り新兵衛と維新史に名を残した田中新兵衛(たなかしんべえ)は薩摩藩士とされるが、実際は島津家一門の島津織部家の家臣で、つまり新兵衛(しんべえ)は薩摩藩では私領持ちの家臣の陪臣身分(私領士)である。

田中新兵衛の出自には諸説あり、現地・薩摩(鹿児島)の伝承では薩摩・前ノ浜の船頭とも薬種商ともされている。

「剣術に優れていた」とされているが流派は不明で、薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまるけんちん)が示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した剣術・薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)とする説もあるが、確証は無い。

現代に伝わる薩摩・野太刀(のだち)示現流(自顕流)は、「蜻蛉(トンボ)」の姿勢で「横木打ち」の打ち込みを「反復して練習する必殺剣である」とされている。

新兵衛(しんべえ)が島津織部家の下士(下級武士)に取り立てられたには、薩摩鹿児島藩の豪商兼士分の森山新蔵の紹介に拠るとされ、森山新蔵が後に世間が「誠忠組」と名つけた薩摩改革派グループの一員として活動資金を担当した事から、新兵衛(しんべえ)の行動は森山新蔵の影響力の下に在った可能性もある。

この薩摩改革派グループは、奄美大島潜伏を命じられた西郷隆盛を盟主的存在とし、大久保利通らが主導して水戸藩浪士と共同して大老井伊直弼を暗殺し、京都への出兵を行おうとする「突出」を計画した。

所が、藩主島津茂久及びその父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて「突出」の計画は頓挫し、結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。


岡田以蔵(おかだいぞう)と田中新兵衛(たなかしんべえ)が行動を伴にするのは、新兵衛(しんべえ)の人斬り新兵衛としての名声が武市瑞山(半平太)に届いた千八百六十二年(文久二年)の事である。

その千八百六十二年(文久二年)、薩摩藩々父・島津久光は前藩主の兄・斉彬の意思で在った「公武合体」の実現する為に藩兵を率いて上洛、身分の低い田中新兵衛(たなかしんべえ)はこれに随行適わず単独で上洛をめざし、上京後は海江田信義や藤井良節の元に身を寄せ暗殺と言う過激な手段を取り始める。

新兵衛(しんべえ)の最初の標的は、安政の大獄の実行者で九条家諸太夫の島田左近だった。

その島田左近を加茂河原まで追い詰めて惨殺、首を先斗町の川岸に斬奸状とともに晒した。島田左近は九条家の威光を利用し京都では「今太閤」と言われるほどの実力者で在ったのでこの天誅暗殺(テロ)は評判となり、京都に於ける暗殺テロの先駆けと成る。

新兵衛(しんべえ)は島田暗殺事件後に土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)と知り合い義兄弟の契りを交わし、以後瑞山(半平太)の影響下に在って土佐藩下士の岡田以蔵などと共に、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを暗殺したと伝えられる。

しかし新兵衛(しんべえ)の天誅暗殺(テロ)のリスクは大きく、危ない橋渡りは永くは続かない。

千八百六十三年(文久三年)、勤皇派の姉小路公知が朔平門で襲撃され斬られる事件「朔平門外の変」が起こり、その現場には田中新兵衛の差料「薩摩鍛冶奥和泉守忠重」が残されていた。

新兵衛(しんべえ)は捕縛され、新兵衛が負っていた傷も生き残りの姉小路公知卿随員の証言と一致していた。

しかし取り調べ中に証拠の刀を手渡された新兵衛は、尋問の隙をついて自刃した為に真相は闇の中と成ってしまう。

現場に在った愛刀については盗難濡れ衣説もあるが、新兵衛(しんべえ)実行犯説が有力である。

岡田以蔵にしても田中新兵衛にしても身分は下士(下級武士)で、身体能力に優れるも思想に特に考えが在る訳でなく勤皇攘夷思想派の手先として暗殺の道具に利用されただけの生涯が涙を誘う。

また、藩主と言っても上級武士と言っても、先祖の功績が三百五十年に渡って身分の固定を招いた血統体制である。

一方は二千年来の血統体制の枠内で這い上がろうともがき、一方はその血統体制を打ち破ろうととした違いはある。

違いはあるが、京都見廻り組や壬生浪士組(みぶろうしぐみ・新撰組/しんせんぐみ)として幕藩体制(公武合体)側に立ち勤皇攘夷派と対峙した近藤勇や土方歳三達も境遇は似たような下士(下級武士)や見なし武士で、「認められたい一心」が彼等の哀しい生き様だったのかも知れない。

もっとも、この出世を餌に下の者に汚い事を押し付ける手法は現代に在っても似たような物で、公官庁の役人上下間や「秘書が勝手にやった」とうそぶく政治家など、まぁ人間やる事は余り進歩してはいない。


新選組局長として名を残す近藤昌宜(まさよし・勇/いさみ)は、千八百三十四年(天保五年)秋に農民・宮川久次郎の三男として武蔵国多摩郡上石原(現在の東京都調布市野水)に生まれる。

幼名を宮川勝五郎と称した近藤勇(こんどういさみ)は、千八百四十九年(嘉永元年)天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。

宮川勝五郎(勇)は盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である島崎家へ養子に入り、島崎勝太と名乗るも後に島崎勇と名乗った後に正式に近藤家と養子縁組し近藤勇を名乗った。

千八百六十三年(文久三年/万延元年)に徳川御三卿の一つ清水家の家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚し、その翌年に、近藤勇は府中六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目の襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぐ。

その年千八百六十三年(文久三年/万延元年)、江戸幕府は清河八郎の献策を容れ十四代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募ったに応じ、天然理心流剣術宗家を継いだ近藤勇は斎藤一を除く試衛館の八名がこれに参加する事を決める。

局長の近藤勇(こんどういさみ)と伴に新選組副長として名を残す土方歳三(ひじかたとしぞう)は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に広がる「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の大百姓(豪農)の家系に生まれる。

歳三は、十四歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店(現在の松坂屋上野店)」へ奉公に出、二十四歳に成るまでの十年間を江戸上野で過ごしている。

その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積み、日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、千八百五十九年(安政六年)歳三は天然理心流に正式入門する。

近藤勇と土方歳三が出会った日野の佐藤道場主・佐藤彦五郎は日野宿名主で歳三とは従兄弟であり姉・のぶが嫁いでいる事から歳三も彦五郎宅には良く出入りしていた。

佐藤彦五郎は井上源三郎の兄、井上松五郎の勧めで天然理心流に入門、自宅の一角に佐藤道場を開いていた縁で彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援していた。

歳三もこの佐藤道場で腕を磨き、近藤と土方とは年齢的には六ヵ月ほど土方の方が若いだけだが、近藤が天然理心流宗家と言う事で土方は近藤を立てている。

近藤勇は他の浪士組一行と共に京都に向けて出発、近藤勇が浪士組に参加すると土方歳三も近藤道場(試衛館)の仲間と伴に幕府の征夷大将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し京都へ赴く。

徳川家茂警護の浪士隊は中山道を進み約二週間かけて京都に到着すると、壬生(みぶ)郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、同家の世話になる。

浪士組を指揮する清河八郎は京都に逗留しすると、当初の徳川家茂の上洛警護を翻して朝廷に尊皇攘夷の建白書を提出する。

それに異議を唱えた近藤ら八名や水戸郷士の芹沢鴨ら合計二十四名は京に残留し京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」と名乗り活動を開始する。


新撰組(しんせんぐみ)は、屯所の在った壬生の地を取って名付けた壬生浪士組(みぶろうしぐみ)約六十名を持って組織した幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保の支配下に在った京都の治安部隊で、新撰組(しんせんぐみ)は後の名称である。

当初、新撰組の母体となる浪士組結成を呼びかけて江戸で人数を募ったのは庄内藩士・清河八郎で在った。

元々は将軍・徳川家茂が京都へ上洛するにあたって不穏な空気の漂う京都を警備する目的で幕府が資金を出して集まった浪士の一団で在ったが、清河には元々尊王攘夷の思惑があり江戸から京都へ赴くに至って尊攘思想をいきなりぶち上げ幕府を裏切った。

この清河八郎の組織結成の趣旨を勝手に翻した暴走に拠って幕府から見放され、一時浪士組(新撰組)は解散の危機に立たされる。

当の清河八郎は江戸に戻され幕吏に拠って斬られたが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総師、永倉新八など一部の浪士達十三名はそのまま京都に留まり、浪士組(新撰組)のスポンサー探しに奔走する。

その後、壬生村の郷士・八木源之丞の家を拠点として浪士達十三名は居候を始め、見廻組の佐々木唯三郎の取り成しを得て京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)充てに召抱えの嘆願書を出した。

浪士組(新撰組)は松平容保の預かり浪士隊として採用され、八木源之丞の家を屯所と定めて洛中(京都市中)の見廻りを開始するが、浪士組は壬生浪と呼ばれ、始めは乱暴者として世間から不評を買っていた。

この不評の主因は、清河八郎の粛清の後に近藤勇と伴に浪士組のトップに成った芹沢鴨グループに拠るもので、新選組結成前から近藤ら浪士達とのいざこざが耐えなかった問題児で在った。

その後、京都守護職・松平容保の預かりとなった新選組が組織立って来るに至って、芹沢は障害として暗殺されている。


壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の多くの出身者は正規の侍ではなく、侍に憧れて時代に遅れて来た武士道主義者で在った事から佐幕派として時代の流れに逆らった集団だった。

新撰組隊士は正規の侍になる事を宿願として居り、目的達成の為に侍に匹敵する活躍をし夢破れて儚(はかな)く散った為に特に現代の若者達から幕末日本を象徴する存在とみなされ根強い人気を誇るが、その実態には疑問が残る所もある。

佐幕派の人斬り集団と見られ勝ちだが煩雑に人を斬りまくる暗殺集団で在った訳では無く、本来は不穏不逞浪士を捕縛する事が目的で、最初から斬殺を目的としては居なかった。

一方で局長の近藤勇らは新撰組内部で凄惨な権力闘争を行い、局内敵対勢力を容赦なく殺害して隊の実権を掌握した。

同時に隊の規律維持の為に厳しい局中法度を定め違反者に対し粛清を行った事や、「誠」の一字の隊旗や袖口に山形の模様を染め抜いた独特の羽織でも知られ、京都の治安部隊としては町人や百姓身分を含む非正規部隊で在った。

為に、侍に憧れる余り「内規に反した等」として粛清された者は相当数に上るとされる。

一説には勤皇志士との斬り合いで死亡した者より「粛清で落命した者の方が多い」とも言われ、思想こそ違うがさながら戦後の左翼運動の中で行われた連合赤軍の内部粛清と行き着く感性が酷似している。

新撰組は主として京都に置いて、体制側として「テロ集団」の弾圧に当り反幕府勢力弾圧・警察活動に従事した後、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還後、近藤勇や土方歳三ら幹部は幕臣と成って夫々に鳥羽伏見の戦いなどの戊辰戦争に旧幕府軍の一員として戦った軍事組織が新撰組(しんせんぐみ)である。

新撰組の表記に関しては新選組と表記された資料も多く、局長の近藤勇自身も「撰」・「選」の両方の字を用いている所から表記する場合はいずれも正解となる。

建前の武士道など残酷なもので、この幕末期に於いて「剣の腕が立つ」など見掛け格好は良いかも知れないが、それは只の古風な侍の羨望や強い者に対する庶民の憧れで、役に立つのは精々人切り暗殺の類である。

本当の力は知恵の方に在る事を、坂本龍馬を始めとする有意の志士達は知っていた。

武市瑞山(たけちずいざん/半平太)などは「かなりの使い手」と評されているが、大抵の修羅場は逃げの一手だった。

哀れだったのは、武士道の建前を信じて暗殺の道具にされた岡田以蔵(おかだいぞう)、田中新兵衛(たなかしんべえ)らや、新撰組の近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)達だったのでは無いだろうか?



千八百六十二年(文久二年)、長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊皇攘夷(尊攘)派が台頭し、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、関門海峡に於いて外国船砲撃を行う。

高杉も尊攘運動に加わり、千八百六十二年の末には同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを行う。

また、五十九年に処刑された松蔭の遺骨を小塚原から世田谷に移して会葬する。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷吉之助は、千八百六十二年(文久二年)三月、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航、伏見に着き激派志士達の「京都焼き討ち・挙兵の企て」を止め様と試みた。

しかし四月に姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破った事や堀仲左衛門・有村俊斎から西郷が「志士を煽動している」と報告を受けた事から激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。

捕縛された西郷らは十日、鹿児島へ向けて船で護送されて行く。


この頃京都では、薩摩の意見も取り入れ、千八百六十二年(文久二年)七月に松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏八月に会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となって、幕権に僅かながら回復傾向が見られていた。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)は、公武合体派ながら幕府親藩の藩主としては珍しく尊攘派勢力にも理解を示し、幕府に拠る長州征討に反対するなど、討幕軍からも一定の評価を得た人物である。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく) は明治維新動乱期の越前(福井)藩主だったが、生まれは徳川御三卿・田安家の八男坊として江戸城内・田安邸に産まれている。

十一歳の時、越前(福井)藩主・松平斉喜(まつだいらなりさわ)の養嗣子となり、斉喜(なりさわ)の死去によって越前(福井)藩主に就任した。

ペリーが浦賀に来航した頃(千八百五十三年/嘉永六年)、二十六歳になっていた春嶽は強硬な鎖国攘夷論者で、海防強化を主張し水戸藩主徳川斉昭の海防参与任命を薩摩藩世子島津斉彬とともに働きかけて実現させている。

その後春嶽 (しゅんがく)は、総領事ハリスが下田に着任(千八百五十七年/安政三年)して通商開国を迫った時に鎖国攘夷では国際的に通用しないとして開国通商論者に転じている。

松平春嶽(まつだいらしゅんがく・慶永/よしなが)は、後に伴に四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)と連携して幕政に関与を図り存在感を誇示した。

将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたが、千八百五十八年に幕府が朝廷の勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老・井伊直弼(いいなおすけ/彦根藩主)を詰問した。

所が井伊直弼の反撃に合い、その不時(勝手)登城を理由に、春嶽 (しゅんがく)は僅か三十一歳で隠居・謹慎に処せられた。

藩主を退(しりぞ)かされ江戸霊岸島に幽閉された春嶽 (しゅんがく)だったが、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると謹慎を免除され、その後幕政参与を命じられている。

春嶽は参与に任じられると、公武間の対立を解消する為の将軍・家茂の上洛を進言し、京都の尊攘派勢力対処策として、武力制圧ではなく公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策を主張し幕府にその意見を認めさせている。

千八百六十三年、春嶽三十六歳の時に将軍に先発して入京し、先に上京していた将軍後見職・一橋慶喜や守護職・松平容保とともに公武合体派勢力挽回に務めたが、京都の情勢は尊攘派に有利で、公武合体派連合策は挫折した。

同じ年に起こった「禁門の政変」に拠って攘派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽 (しゅんがく)は再び上洛し、慶喜・容保ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命される。

その後春嶽 (しゅんがく)は、朝廷参与を辞任、長州征討をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたりした。

所が、その間役職を引き受けたり離れたりの出入りが激しく、長州征討策に関しては最後まで反対だった阻止できず、幕府軍不利の戦況の最中に将軍家茂が大坂城で病没し休戦と成っている。

慶喜の大政奉還、王政復古後は、明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担う一方幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力して、明治維新後の初期にも重要な役割を果たしている。


一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた島津久光は、伏見の寺田屋に集結している真木和泉・有馬新七らの激派志士を鎮撫する為、千八百六十二年(文久二年)四月に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。

奈良原らは激派を説得したが聞かれず、止むなく有馬新七ら八名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。

この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には吉之助三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。

千八百六十三年(文久三年)五月に長州藩の米艦砲撃事件、七月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、西郷吉之助は処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦し様とし、十月、土持が造ってくれた船に乗り、鹿児島へ出発し様としていた時、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。

世間では開港に反対する攘夷急進派が、八月に奈良五条の天誅組の乱と長州への七卿落ち、十月に生野の変など種々の抵抗をして、幕権の失墜をはかっていた。

元々公武合体派とは言っても、天皇の下に賢侯を集めての中央集権をめざす薩摩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていた。

所が、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。

この苦境を打開する為に大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めも在って、西郷を赦免召還する事にした。

千八百六十四年(元治元年)二月、吉井友実や弟・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に西郷吉之助を迎えに来たので、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた。


高杉晋作は、千八百六十三年(文久三年)には廻船問屋の白石正一郎邸に於いて奇兵隊を結成、赤間神宮を本拠とする。
その後、教法寺事件で総監を罷免されている。

この年、尊攘派の長州藩と過激派公卿は、天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を徳川将軍及び諸大名に命ずる計画が取り決められ、徳川幕府が命令に従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬る陰謀があった。

この陰謀が事前に薩摩藩に漏れ、長州藩と対立していた薩摩藩と藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派に反感を持つ孝明天皇や公武合体派の公家が大結託してこの陰謀を潰してしまった。


過激攘夷派の長州藩による攘夷親征の動きに対抗して、千八百六十三年(文久三年)公武合体派の会薩・中川宮らが提携して、孝明天皇の承認の下、「八月十八日の変」と名付けられた朝廷政変を決行した。

この政変に於いて、薩摩藩・会津藩などの公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の公卿の三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七人の公卿が宮中参内を拒否(追放)され、進退窮まっていた。

急進派の七卿には不運だったが、抗争に破れて京都を追われて長州の国許に落ち延びる長州藩兵には絶好のチャンスだった。

何はともあれ、公卿には天子の傍近くに仕える「血脈の資格」がある。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)が決断を下す。

「三条公ら七公様には、わしら長州にご案内いしようる(いたそう)。」

長州の国許には、練りに練った計画が存在した。

七卿をその計画に引き入れる絶好のチャンスで、撤退を指揮していた久坂玄瑞はその計画遂行の首謀者の一人だった。

長州藩士の久坂玄瑞が案内して従者数十人と共に長州藩へと逃れ、俗に「七卿落ち」と称された。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)は萩藩医・久坂良迪の二男として生まれる。

藩校明倫館に入って医学および洋書を学んだ後、吉田松陰の名を耳にして松下村塾に入熟、村塾の三秀(久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿)の一人と言われた。

久坂玄瑞が余程優秀だったのか、吉田松陰は長州第一の俊才であると認め自分の妹・文と娶(めあわ/結婚)わせている。

久坂玄瑞は、安政の大獄によって義兄の吉田松陰が刑死すると、長州藩における過激な尊皇攘夷派の中心人物と成って行く。

倒幕派の公家三条実美や姉小路公知らとは、久坂玄瑞はその尊皇攘夷運動を通じて七卿落ち以前から旧知の中だった。

久坂玄瑞の案内で長州に下向した三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、真っ直ぐ萩(長州藩藩都)には向かわなかった。

向かったのは、長州二ヶ国の内、周防国熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿は逃れた長州周防の地・田布施で松陰派に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」人物を七卿に引き合わせたのが、それが吉田松陰門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)と井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。

中岡慎太郎が本格的に志士活動を展開し始めたのは、千八百六十一年(文久元年)に師である武市瑞山(半平太)が江戸にて結成した土佐勤皇党に加盟してからである。

翌年(文久二年)、中岡慎太郎は俊英と評判の長州・久坂玄瑞・山県半蔵と伴に松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し大いに意識を高めて居る。

京都で八月十八日の政変(文久三年)が起こり土佐藩内でも武市や中岡の尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まった為、慎太郎は速やかに藩を脱藩し久坂玄瑞らを頼って長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。

亡命後、慎太郎は長州藩内で脱藩志士達のまとめ役を勤め、久坂玄随の案内で三田尻近くの田布施に都落ちしていた公家・三条実美ら七卿の衛士として随臣となり長州を始め各地の志士達との重要な連絡役となる。


和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。

会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。

都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。

この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。

これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。

この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。


一方、武市瑞山(たけちずいざん/半平太)の土佐勤王党は、結党二年後の千八百六十三年(文久三年)には百九十二名が連判に参加、瑞山(半平太)は白札から上士格留守居組に出世、更には京都留守居加役となるが、その年の八月十八日会津藩と薩摩藩が結託したクーデター(八月十八日の政変)が発生し事態は一転する。

長州藩が中央政界で失脚し勤王派は急速に衰退し代わって公武合体派が主導権を握る不運が瑞山(半平太)に訪れるのである。

瑞山(半平太)は、その政変の四ヶ月前に薩長和解調停案の決裁を山内容堂に仰ぐために帰国していたが、捕縛されていた側近の平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太が青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとした事を理由に切腹を命じられ、他の勤王党同志も次々と捕縛される。

自身もこの政変が土佐藩に影響し、老公と呼ばれた公武合体派の前藩主・山内容堂の影響力が再び増し、瑞山(半平太)は、政変後に逮捕投獄されるがまだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺を一年半の獄中闘争で否定し続けた。

東洋暗殺を否定し続けた瑞山(半平太)だったが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により土佐藩での罪状は決定する。

千八百六十五年(慶応元年)「君主に対する不敬行為」という罪目で老公・容堂に家禄は召し上げの上切腹を命ぜられ、誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて武士の気概を見せ果てて居る。


岡田以蔵(おかだいぞう)は、維新動乱期のあだ花とも言える「人斬り以蔵」と呼ばれた反体制側のテロリストである。

彼が不幸だったのは師事した相手が、後に尊王攘夷に傾いて土佐勤王党を起こした武市瑞山(たけちずいざん/半平太)だった事である。

以蔵(いぞう)は二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として土佐国・香美郡岩村に生まれ、弟に同じく勤皇党に加わった岡田啓吉がいる。

父・義平が、千八百四十八年(嘉永元年)に土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備を目的に足軽として徴募されて高知城下の七軒町に住むように名る。

以蔵はこの足軽の身分を継いで我流ながらも剣術がかなりの腕前で在った以蔵(いぞう)は、武市瑞山(たけちずいざん/半平太)に師事し小野派一刀流剣術を学ぶ。

瑞山(半平太)が土佐藩庁に江戸での剣術修業を願い出て藩臨時御用の名目を得、藩の許可を得て江戸に出るに同行させる五人の内の一人に指名された以蔵(いぞう)は、五十嵐文吉、多田三五郎、阿部多司馬、多田哲馬らと瑞山(半平太)従い、江戸に出て桃井春蔵の道場・士学館で鏡心明智流剣術を学ぶ。

その後も以蔵(いぞう)は、瑞山(半平太)に従って中国、九州の各地で武術修行を続け、やがて師である瑞山(半平太)が結成した土佐勤王党に加盟する。

土佐勤王党には坂本龍馬(さかもとりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)も加盟した。

だが、両者は現実的でない瑞山(半平太)の攘夷運動に疑問を抱き尊皇倒幕を掲げて独自行動を採る中、以蔵(いぞう)は瑞山(半平太)に従って「暗殺」と言う過激な行動を繰り返し、薩摩の田中新兵衛と共に「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられる。

以蔵(いぞう)は、瑞山(半平太)の暗殺の道具として使われたのか在る時から土佐勤王党の名簿から削られ、公武合体派の土佐藩下目付けの井上佐一郎を始め同志の本間精一郎や池内大学、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人を暗殺している。

安政の大獄を指揮した奉行所与力・長野主膳の愛人・村山加寿江(村山たか)の子・多田帯刀などを天誅と称して暗殺、また村山加寿江は彦根藩・井伊直弼の妾より直弼腹心奉行所与力・長野主膳(ながのしゅぜん/義言よしとき)に妾として下げ渡され経緯のある女だった。

井伊直弼の愛人でも在った為に、村山加寿江(村山たか)は安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送る直弼のスパイとなり大獄に大きく加担した女で在った。

本来は誅殺したい所であるが、捕らえた以蔵(いぞう)達は加寿江が女性の為に三条大橋の東に向かって左側の行詰まりの橋の柱に罰文を付けて縛りつけ三日三晩生き晒しにし助命している。

それにしても、この村山加寿江(村山たか)を三日三晩縛りつけて生き晒しにした話し、京都市左京区・金福寺の所蔵で「村山たか生き晒しの図」が残っているからには市中で評判に成っただろうから、見す見す幕府側に縁(ゆかり)ある加寿江に京都町奉行所も京都見廻り組も救出の手を差し伸べなかった事は大いに疑問である?

それほど京洛の地が、無政府状態に成ってしまっていたのだろうか?

或いはことさら尊王攘夷派の無法振りを天下に示す為に、村山加寿江(村山たか)の三条河原の生き晒しを敢えて放置したのかも知れない。

瑞山(半平太)は土佐藩の多くの支持を得て白札から上士格留守居組に出世、更には京都留守居加役となるが、その年の八月十八日会津藩と薩摩藩が結託したクーデター(八月十八日の政変)が発生して土佐勤王党の立場が一転、瑞山(半平太)が土佐に戻ると以蔵は土井鉄蔵と名を変えて一人京都に潜伏した。

しかし潜伏して居た以蔵(いぞう)は、クーデター翌年の千八百六十四年(元治元年)の年半ば頃、幕吏に捕えられ入墨の上京洛追放となり、同時に待ち構えていた土佐藩吏に捕われ国元へ搬送される。

土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛に於ける一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山(たけちずいざん/半平太)を詮議、下士の以蔵(いぞう)らは厳しい拷問を受けその過酷な拷問に耐えたが、遂に以蔵(いぞう)は全てを白状し、千八百六十五年(慶応元年)に打ち首の上晒し首となった。


「八月十八日の政変」は薩摩藩・会津藩の公武合体派が尊皇攘夷派の長州藩などを京都から追放した朝廷に於けるクーデターである。

この八月十八日の政変で長州藩と過激派公卿は京都から追放され、京都に於ける尊攘過激派は一掃される事になり、後の池田屋事件、禁門の変の遠因となった。

この長州に落ちた七卿の存在が、倒幕派の長州集合を招き、密談の中で、松陰派がかねて関心を寄せていた「南朝末裔の存在」と結び付いたのだ。

その南朝の末裔が、長州の吉田松陰が目をつけ「密かに親交を結んでいた」と言われる南朝の系図を有する「大室家」と言う家の存在で在った。

実はこれにはカラクリがある。

吉田松陰が隠し玉として南朝の末裔を把握していたのには、合理的な裏付けがあるのだ。

彼(吉田松陰)の幼時の名字は杉であり、幼名は大次郎または虎之助で杉大次郎または杉虎之助と称する。

この杉氏には、多々良氏族大内氏支流説があり、長い事、大内氏及びその後の領主毛利氏に仕えた名門武将の家柄で、密かに南朝の末裔の守護(守役)も兼ねていた可能性が伺える。

杉虎之助(吉田松陰)は、長じて吉田家に養子に入る。

吉田家の本姓は藤原を称し、養子後の通称は吉田寅次郎である。

つまり吉田松陰の倒幕計画の原点に、南朝末裔の存在は当初から組み込まれていた。

そこに、中央の尊王攘夷派公家が落ち延びて来て、挽回の策を画策した事が、謀議に因る南朝末裔擁立を決定付けた。

「大室家」は、吉野から防周(山口県)に逃れた南朝方後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王の皇子「良光(ながみつ)親王の末裔だ」と言うのである。

明治維新の折、この南朝「大室・某」が、ひょっこり顔を出す、「奇妙な噂話」がある。

それは、「睦仁親王(明治天皇)」別人説である。

つまり病弱だった明治天皇が、維新のどさくさの折に屈強な「誰か」と「入れ替わった」とする、とんでもない話が有るのだ。

ご丁寧な事に、この「誰か」は、密かに「正統な、南朝の皇位継承者だ」と言うのである。



長州藩からはもう一人、長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった医師・西洋学者・兵学者の大村益次郎(おおむらますじろう)が出た。

益次郎(ますじろう)は、周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじむら)字大村に、村医兼農業の村田孝益(むらたたかます)と妻うめの長男として生まれる。

若い頃の大村益次郎(おおむらますじろう)は父が使う村田姓で幼名は村田宗太郎、通称は村田蔵六(良庵)を名乗って居た。


千八百四十二年(天保十三年)、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は十八歳で防府の蘭法医・梅田幽斎(うめだゆうさい)に医学や蘭学を学ぶ。

翌千八百四十三年四月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、蘭学者・高野長英らが学んだ広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入る。

村田蔵六(むらたぞうろく)は塾咸宜園(かんぎえん)で二年間、漢籍、算術、習字など学び帰郷して梅田門下に復帰する。

その後、千八百四十六年(弘化三年)、大坂に出て医師・蘭学者の緒方洪庵(おがたこうあん)の私塾・適塾(てきじゅく)で学ぶ。

適塾在籍の間に、蔵六(ぞうろく)は長崎の奥山静叔の下で一年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
千八百五十年(嘉永三年)、村田蔵六(むらたぞうろく)は父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵(むらたりょうあん)と名乗る。

三年後の千八百五十三年(嘉永六年)、蔵六(ぞうろく/良庵)はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねる目的で伊予国宇和島へ行く。

宇和島に到着した蔵六(ぞうろく/良庵)は、二宮や藩の顧問格であった僧・晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士・大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。

ちょうどその時代は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代で、蔵六(ぞうろく/良庵)は伊予宇和島藩の要請で出仕する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。

千八百五十四年(安政元年)から翌千八百五十五年(安政二年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。

長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。

ズッと後日談だが、後年、益次郎(ますじろう/村田蔵六/むらたぞうろく)が京都で襲撃され重傷を負った後、蘭医ボードウィンの治療方針の下でイネは益次郎(ますじろう)を看護し、その最期を看取っている。


八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新撰組が発足し、その後新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺し、権力を握った近藤勇が局長となった。

土方歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。

新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

そして新撰組の名を天下に轟かせる中川宮朝彦親王暗殺法化計画阻止の池田屋事件取り締まりに成功し新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜わっている。


池田屋事件(いけだやじけん)は、千八百六十四年(元治元年)の夏に当時の政府側である幕府方(佐幕派)の京都守護職配下の治安維持組織・新撰組が尊皇攘夷思想や勤皇思想を持つ反政府派浪士が潜伏する京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋を襲撃した事件である。

反政府派のテロにしても政府の弾圧にしても、「良かれ」としてやってもその結果は行動を起こした側の利に必ずしも適う結果になるとは限らない。

池田屋事件の場合は、多くの尊攘派浪士を失い明治維新が一年遅れたとも、尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったとも言われて意見が分かれる所だが、この武力行使が幕府方(佐幕派)の為に効力を発揮したのは「僅かな期間に過ぎない」と思われる。

昔から「藪を突いて蛇が出る」と言う諺(ことわざ)もあり、下手な弾圧は次の怒りと団結を生むものである。

政権側の幕府方(佐幕派)にしてみれば、この弾圧はいっそう尊皇攘夷思想や勤皇思想に強い火を着けた結果に成った。

但し、士分に伸し上りたい一心の新撰組に限定すれば、この事件で大いに名を売ってその存在を天下に誇示した事は成果では在った。



幕末期の京都は、帝をめぐって政局の中心地となり、尊攘派の長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。

尊皇攘夷や勤皇等の思想を持つ諸藩の浪士が勢力挽回を試みて潜伏して活動しており、京都守護職は新撰組を用いて市内の警備や探索を行わせていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、新撰組・諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め、武器や長州藩との書簡等が発見された為に古高を捕らえて会津藩に報告をする。

枡屋の古高を捕らえた新選組は土方歳三の拷問により古高を自白させるに到った。

その計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて挙兵、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺せしめ、孝明天皇を長州へ連れ去ると言うもので在った。

そうした中、新撰組は更なる山崎烝・島田魁らの探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕を受けて対策を協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。

取り締まりを決意した新撰組は、会津藩・桑名藩等に応援を要請するが会津らの動きが遅く時刻に成っても動かなかった為、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊十名と土方歳三隊二十四名、総勢三十四名を二手に分け捜索を開始する。

出動した新撰組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索し、亥の刻(二十二時頃)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見した。

近藤勇は近藤隊十名の内六名に屋外を固めさせ、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の四名で尊攘過激派二十数名の中に斬り込み、真夜中の戦闘となる。

襲撃を受けた熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら志士達は応戦しつつ池田屋からの脱出を図るも適わず宮部は自刃、桂小五郎(後の木戸孝允)は池田屋より屋根を伝い逃れ対馬屋敷へ逃げ帰っている。

切り込んだ四名の内、沖田は戦闘中に喀血(とけつ・肺結核)し、藤堂は汗で鉢金がずれた所に太刀を浴びせられ額を斬られ血液が目に入り戦線離脱し、新撰組側は一時近藤・永倉の二名となる。

だが、別方面から駆け着けた土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、九名討ち取り四名捕縛の戦果を上げる。

土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士は裏口から脱出しようと試み、裏口を守っていた新撰組・安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達の所に必死の斬り込みをかけて逃亡する。

しかし奥沢は死亡、望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃、深手を負った安藤・新田も一ヶ月後に死亡している。

会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着したが、土方歳三は手柄を横取りされぬようにその藩兵を一歩たりとも近づけさせなかったが、この戦闘で逃走した数名の尊攘過激派は、続く翌朝の新撰組の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し二十余名を捕縛した。

翌日の正午、新選組は壬生村の屯所に帰還の途に着くが、騒ぎを聞き付けた見物人で沿道は溢れていた。

正直、一般の庶民にして見れば尊攘派と佐幕派の争いなど関心が無く、争い事は迷惑な話で早く平和に収まれば勝つのはどちらでも良い。

そんな中で尊攘派浪士の御所焼き討ち、京の町に火を着けるクーデター計画など、手前勝手な反政府テロ以外の何物でもない。

この池田屋事件で御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功したとして新選組の名は天下に轟き、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの実力者が戦死し大打撃を受ける。

長州藩は、この池田屋事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し禁門の変(きんもんのへん)を引き起こす。


蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる禁門の変(きんもんのへん)は、幕末動乱期に孝明天皇をめぐる守護(陣営抱え込み)で対立した尊攘派の長州藩々兵と佐幕派の会津・桑名・薩摩各藩の禁裏(御所/皇居)守備隊が武力衝突した事を指して呼ぶ。

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、前年の千八百六十三年(文久三年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変(七卿落ち)」で京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていた。

そして巻き返しを図る長州尊攘派は京や大坂に潜伏し、密かに復権工作の行動を続けていた。

元治元年に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられ、それに反対及び慎重派の桂小五郎や高杉晋作などと対立、長州藩内も藩論が割れていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされる。

来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付き、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず脱藩して京都へ潜伏する。

脱藩した高杉晋作は、桂小五郎(木戸孝允)の説得で二月には帰郷するが脱藩の罪で野山獄に投獄され、六月には出所を赦されて謹慎処分となる。


一方西郷吉之助は、千八百六十四年(元治元年)三月、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、京都に到着して薩摩藩兵・軍賦役(軍司令官)に任命される。

京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。

そこで藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採る事で、この難局を乗り越え様とした。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易で在った。

攘夷派は攘夷と唱えながら、二枚舌で外夷と通商している事自体を怒ったのである。

その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が相次いで起きている。

千八百六十四年(元治元年)四月、藩政改革派の西郷吉之助は小納戸頭取・一代小番に任命された。

池田屋事件からまもない六月、強硬派の長州懐柔の為朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。


高杉晋作が投獄されている間も急進派の勢いは止まらず、積極派の三家老(福原越後・益田右衛門介・国司信濃)派は、討薩賊会奸(とう・さつぞく・あいかん/薩摩と会津)を掲げて挙兵してしまう。

家老・益田右衛門介や久坂玄瑞(くさかげんずい)等は山崎天王山宝山に、家老・国司信濃や来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、家老・福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めてそれぞれに陣営を構える。

しかし迎え撃つ会津藩と薩摩藩もこの事有るを想定し、京都守護職で在った会津藩主・松平容保は薩摩藩・西郷隆盛等と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を既に整えていた。

この長州藩の行動に、朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)は長州勢に退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突「禁門の変」が起こる。

これに対し、西郷吉之助も一時は「薩摩が長州ば相手に兵を出すんは、よろしくありもはん。」と、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、七月の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

しかし、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、「天子様お守りのこっは、おいが引き受けもす。」と、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した。

この時、西郷吉之助は銃弾を受けて軽傷を負っている。

この事変で西郷らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸(さつぞく・あいかん)」の思いが強くなった。

結果、尊皇攘夷を唱える長州勢は大敗を喫して壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎ら尊攘派の主力は戦死した。

この変事の由来となった「禁門」とは「禁裏(御所/皇居)の御門」の略した呼び方である。

蛤御門の変とも呼ばれるのは蛤御門付近が激戦区であった為で、蛤(はまぐり)御門の名前の由来は、「天明の大火」の際にそれまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤(はまぐり)に例えられた為である。

禁門の変(きんもんのへん)の戦闘後、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち、会津勢も長州藩士の潜伏を理由に中立売御門付近の家屋を攻撃し、二ヵ所から上がった火が京都市街に広がって北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の街区や社寺が焼失している。

この禁門の変が、「御所へ向けて発砲した朝敵」として第一次長州征伐を行う切欠になる。


長州藩は尊皇攘夷・公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。

しかし千八百六十三年(文久三年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変により京より追放される。

翌千八百六十四年(元治元年)には、八月十八日の政変で問われた藩主父子の赦免などを求めて長州軍が京へ軍事進攻する禁門の変が起こる。

その尊皇攘夷を掲げて幕府に反抗する長州藩に手を焼いた幕府は、長州征伐(第一次)に踏み切った。

朝廷は京都御所へ向かって発砲を行った事を理由に長州藩を朝敵とし、将軍・徳川家茂に対して長州征討(第一次)の勅命を下す。

幕府は前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士・西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ三十六藩・十五万の兵を集結させて長州へ進軍させる。

一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂して尊皇攘夷派が勢いを失い、保守派(俗論派)が政権を握る。

征長総督参謀の西郷隆盛は、政権を握った長州藩保守派(俗論派)と和解交渉に入る。

西郷隆盛は禁門の変の責任者である三家老(国司親相・益田親施・福原元|)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩庁はこれに従い恭順を決定する。

幕府側はこの処置に不満であったが、十二月には総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられている。

この撤兵、幕府側の不満も然る事ながら、恭順した側の長州藩内尊皇攘夷派の不満を怨念として燃え上がらせる結果と成った。



新撰組は禁門の変への出動を経て、近藤は隊士募集の為に帰郷し、ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。

そして千八百六十七年(慶応三年)に新撰組は幕臣となり、代表の近藤は御目見得以上の格に昇格して幕府代表者の一員として各要人との交渉を行う。

新たに参加した伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助、斎藤一らが新撰組を抜けてこれに加わった。

伊東は近藤を暗殺しようと企(たくら)むが、近藤は伊東を酔わせ帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させ、その後も他の御陵衛士達を誘い出して夜襲し藤堂らを殺害する。

この報復で、近藤は伏見街道で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷した為に鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いる事ができずに大坂城で療養している。

近藤が大阪城で療養中に鳥羽・伏見の戦いに於いて敗れた新撰組は、将軍・慶喜や松平容保などの幕府要人と伴に幕府軍艦・開陽丸で江戸に戻る。



京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり/会津藩主)とタックを組んで京都に於ける幕府方の主力となったのが京都所司代・松平定敬(まつだいらさだあき/桑名藩主)である。

桑名藩第四代藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)はいわゆる高須四兄弟の末弟で、兄に尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保などが居る。

松平定敬(まつだいらさだあき)は、美濃高須藩主(たかすはんしゆ)・松平義建(まつだいらよしたつ)の九男から桑名藩・松平久松氏(まつだいらひさまつうじ)に養子に入った人物で、松平容保(まつだいらかたもり)とは兄妹である。

徳川家康の母・於大の方の孫(家康の異父弟・松平定勝の三男)に当たる初代・松平定綱(まつだいらさだつな)の久松系松平家としては、定敬(さだあき)は十三代目に当たる。


大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、定敬(さだあき)は軍船・「開陽」で逃げ帰った徳川慶喜に従い、江戸の霊巌寺(江東区)にて謹慎した。

江戸城では小栗忠順(おぐりただまさ)ら抗戦派と大久保一翁と勝海舟ら恭順派が争い、恭順派により恭順工作が進められていた。

桑名藩は会津と並んで新政府側からは敵視されており、桑名の国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から先代当主の遺児・万之助(後の定教)を担いで恭順する事を家老達が決めていた。

そうした国許の情勢の為、徹底抗戦派と見られていた定敬(さだあき)の桑名帰国は困難な状況となり、桑名藩の分領である越後国柏崎へ赴った。

その後は柏崎から会津若松、仙台、箱館へ渡るなどしたが、千八百六十九年(明治二年)五月十八日には横浜へ戻り新政府に降伏した。

三年後の千八百七十二年(明治五年)一月六日に定敬(さだあき)は赦免され、その後は千八百七十六年(明治九年)十一月十一日に従五位に叙位されるを皮切りに、日光東照宮宮司就任するなどして最終従二位に昇叙している。


幕末に京都守護職として徳川宗家を支えた合津藩主・松平容保は、美濃高須藩(たかすはん)から養子に入った藩主である。

美濃高須藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩で、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張藩支藩である。

立藩した藩祖は、御三家・尾張藩第二代藩主・徳川光友の二男・松平義行で、藩は小さいながらも神君・家康の血が流れていた。


高須藩(三万石)の第十代藩主・松平義建(まつだいらよしたつ)には子が多く、息子達は、高須四兄弟(たかすよんきょうだい)を始めとして多くが幕末期に活躍した。

義建次男は尾張藩第十四代藩主・徳川慶勝となり、三男は石見浜田藩主・松平武成となり、五男は高須藩第十一代藩主・松平義比となった後に尾張藩第十五代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。

七男が幕末に活躍した会津藩主・松平容保で、九男が桑名藩主・松平定敬となり、十男・義勇は高須藩第十三代藩主となっている。

つまり義建の子息達・高須四兄弟(たかすよんきょうだい)は、尾張藩藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり/京都守護職)、九男が桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき/京都所司代)と、夫々(それぞれ)幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残している。


松平容保(まつだいらかたもり)は、保科正之(ほしなまさゆき)を藩祖とする会津松平藩九代目の藩主である。

二代将軍・秀忠の庶子とされ、信州高遠の小大名で終わる筈だった正之(まさゆき)は三代将軍・家光(保科の異腹兄弟)の引き立で家康死後に徐々に出世を始め、最上山形城主を経て合津松平藩の初代に落ち着く。

会津松平藩の初代となった保科正之(ほしなまさゆき)は二十三万石に加え南山御蔵入領五万石も預かり実質二十八万石で格式御三家の水戸家を石高で上回っていた。

その恩義に報いる為に、会津松平藩家訓・「会津家訓十五箇条の第 一条・会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を定め、松平容保(まつだいらかたもり)はその家訓を重んじて困難と反対も多い藩内を抑えて「京都守護職を引き受けた」と言われる。


千八百五十六年(安政三年)四月、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は江戸に出、十一月、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える。

同年同月中旬、蔵六(ぞうろく/良庵)は宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となる。

教授方手伝としては、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米二十人扶持・年給二十両を支給される。

翌千八百五十七年(安政四年)十一月、蔵六(ぞうろく/良庵)は築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。

千八百五十八年(安政五年)三月、蔵六(ぞうろく/良庵)は長州藩上屋敷に於いて開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行う。

この蘭書会読会於いて、蔵六(ぞうろく/良庵)は桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。

千八百六十年(万延元年)、桂小五郎との知遇を得たを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、年米二十五俵を扶持として支給され、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。

元々、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の生家は長州であり、長州藩の出仕要請は「願ったり適ったり」だった。

千八百六十一年(文久元年)正月、蔵六(ぞうろく/良庵)は一時帰藩し西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。

二年後の千八百六十三年(文久三年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は萩へ帰国し、手当防御事務用掛に任命される。

翌千八百六十四年(元治元年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行う。

また、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。

村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は語学力を買われ、同千八百六十四年八月には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。

同年外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の年末には、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。

長州藩では千八百六十四年(元治元年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握った。

所が、千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。

同千八百六十五年、蔵六(ぞうろく/良庵)は藩の軍艦壬戌丸売却の為、本人のメモのみで仔細不明だが、秘密裏に上海へ渡っている。

高杉晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、村田蔵六(むらたぞうろく)にその指導を要請する。

桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、村田蔵六(むらたぞうろく)は馬廻役譜代百石取の上士となり、藩命により村田姓から大村姓に改名、大村益次郎永敏とする。

「大村」は故郷の鋳銭司村字大村(すぜんじむらあざおおむら)の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。


千八百六十六年(慶応二年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、藩の明倫館が再開され、大村益次郎(おおむらますじろう)も深く藩政に関わる事に成る。

桂小五郎は同千八百六十六年五月に藩の指導権を握り、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文、井上聞多(井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。

長州藩は、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺を購入し幕府軍に備える。

千八百六十六年六月に戦闘が開始されるも、長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦し、益次郎(ますじろう)は長州藩兵を指揮し勝利の立役者と成った。



尊王攘夷を唱える長州勢は禁門の変に敗北して壊滅、朝敵となり、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らが戦死、自害してしまう。

八月には英(イギリス)、仏(フランス)、米(アメリカ)、蘭(オランダ)の四カ国連合艦隊が下関砲撃、砲台占拠を行い、晋作は赦免されて、和議交渉を任される。

当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えて居たのである。


翌千八百六十三年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州藩に対し、禁門の変に於いて長州藩兵が御所へ向けて発砲した事などを理由に、幕府は長州藩を朝敵として、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。

坂本竜馬は、千八百六十三年(文久三年)の八月の政変で幕政が反動化すると、勝海舟の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って薩摩藩に保護される。

坂本龍馬は、幕府機関である神戸海軍操練所が千八百六十五年に解散されるに伴い薩摩藩の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)に於いて海援隊(かいえんたい)前身となる亀山社中が結成されグラバー商会(英国ジャーディン・マセソン商会代理人)と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸している。

坂本龍馬が中心となり結成した私設海軍・貿易会社として活動した貿易結社・「亀山社中」は物資の輸送や航海訓練なども行い、龍馬は千八百六十六年の第二次幕長戦争に於いて長州藩の軍艦に同乗し下関海戦に従軍する。

翌年には、土佐藩から龍馬の脱藩が許されて土佐藩に付属する外郭機関として亀山社中は「海援隊」と改称されて龍馬は隊長となり、同年に起こった「いろは丸沈没事件」に於いては、紀州藩に賠償金を請求する。


千八百六十四年(元治元年)七月に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、徳川慶喜が西国二十一藩に出兵を命じると、西郷はこの機に乗じて薩摩藩勢力の伸張をはかるべくそれに応じた。

その八月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起き、次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。

この間の九月中旬、西郷は大坂で勝海舟と初めて会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨む事にした。

十月初旬、西郷吉之助は御側役・代々小番となる。

幕府の長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、高杉晋作は福岡へ逃れる。

長州藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田右衛門介らの主戦派は失脚して粛清され、藩庁を再び萩へ移し、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。

千八百六十四年(元治元年)十月、西郷は征長軍参謀に任命され、大坂で征長総督徳川慶勝にお目見えし、意見を具申した処、長州処分を委任された。

そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。

西郷は引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。

結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられ、十二月、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。

収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で西郷の妥協案に従い、千八百六十五年(慶応元年)初頭に福岡藩の周旋で九州五藩に分移させるまで福岡で預かる事で一応決着した。


人と人の出会いは、ある種奇蹟に近い。

しかし、それは歴史の必然かも知れない。

坂本竜馬は、西郷吉之助(西郷隆盛)の援助により、千八百六十五年(慶応元年)、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。

千八百六十五年(慶応元年)五月に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。

その後、「幕府の征長出兵命令を拒否すべし」と説いて藩論をまとめ、大番頭・一身家老組に任命された。

この頃、将軍・徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主・徳川家承以下十六藩の兵約六万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させた後、閏五月に京都に入った。

家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。

六月、鹿児島入りした土佐の中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会う事を約束させた。

しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取り止め、急ぎ上京した。

坂本竜馬は、越前(福井県)藩主松平春嶽にも謁見し勝海舟の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許され、横井小楠とも対面する。

薩長の険悪な仲を憂慮した龍馬は、海援隊(かいえんたい)隊長の立場を利して武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で長州へ流すなどの斡旋を行い、険悪で在った薩摩と長州の関係修復を仲介し、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。

千八百六十四年(元治元年)、中岡慎太郎は石川誠之助を名乗り薩摩藩の島津久光暗殺を画策して上洛したが果たせず、長州方として脱藩志士達を率いて禁門の変、下関戦争と転戦して負傷する。

中岡慎太郎自身のこの頃の手紙に拠ると、一連の変事に於ける幕府方の長州藩への冤罪・薩長雄藩同士の有害無益な対立・志士達への弾圧を目の当たりにして、尊皇攘夷活動から方針を雄藩連合に拠る武力倒幕論に傾き始めていた。

慎太郎は、この雄藩連合に拠る武力倒幕を目指し三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士達のまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊の坂本龍馬や三条の随臣土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて長州藩と薩摩藩との会合による薩長同盟締結を目指す。

千八百六十六年(慶応二年)の正月、中岡慎太郎は海援隊の坂本龍馬と伴に京都二本松薩摩藩邸に於いて長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会見を実現させ、漸く薩長の和解及び薩長同盟の締結を成し遂げる。


この薩長同盟の繋ぎ役をしたのが黒田清隆(くろだきよたか)だった。

K田清隆(くろだきよたか)は、千八百四十年新暦十一月九日(旧暦天保十一年十月十六日)に薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で、家禄僅か四石の下級薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。

千八百四十に清隆(きよたか)が生まれたと言う事は、同じ頃に明治新政府で活躍した長州の桂太郎よりは八歳年上で、同郷の偉大な英雄・西郷隆盛の十二歳年下にあたる。

清隆(きよたか)は長じて藩に出仕し、薩摩藩の砲手に任用となり、剣術でも示現流門下として有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。

千八百六十二年(文久二年)八月、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を、供回りの藩士が殺傷した事件を生麦事件と言う。

生麦事件当時の薩摩藩行列のには一行の中には、後に維新の立役者となる大久保利通もいた。

この時には、二十二歳の清隆(きよたか)が随行の一人として生麦事件に居合わせたが、自らは武器を振るわず「抜刀しようとした者を止めた」と言う。

千八百六十三年(文久三年)、清隆(きよたか)は生麦事件の賠償を要求する英国との間で起こった薩英戦争に参加した後、大山巌と共に江戸で江川太郎左衛門の塾に入り西洋砲術を学び皆伝を受けた。

千八百六十六年(慶応二年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いている。



幕末の政界に影響力を持つ薩摩藩と長州藩は倒幕思想では共通していた。

所が千八百六十四年(元治元年)八月、薩摩藩論を主導する西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通は、長州追い落としに拠る主導権を狙って会津藩・松平容保と協力し京の政界から長州を追放した八月十八日の政変を行い、さらに二日後の禁門の変で長州を京都から追放する。

朝敵となった長州は幕府からの第一次長州征伐(幕長戦争)を受け、この因縁により長州が薩摩を嫌い「薩賊」と呼ぶなど薩長間は敵対関係となった。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせた事に始まる。

土佐の脱藩浪士・坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、千八百六十六年(慶応ニ年)主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅に於いて会談が進められ、交渉中に下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあった。

しかし、千八百六十六年三月(慶応ニ年一月)京都二本松薩摩藩・小松清廉邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、小松清廉と長州藩の桂小五郎が倒幕運動に協力する六か条の政治的軍事的同盟を締結した。


薩長同盟は龍馬最大の功績と言われるが、実際には西郷や小松帯刀ら薩摩藩の「指示を受けて動いていた」と言う説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性に付いては評価が分かれている。

しかしながら、坂本龍馬の人間性を評価していない。

坂本龍馬は、基本的に根が優しく、底抜けに信じ易い性格だった。

その信じ易さは一種の魅力となって、自分の夢にも、薩長連合にも遺憾なく発揮されている。

龍馬には、「感」と言っても結論を「感」に頼るのではなく有効な結論を導き出すヒントになる「取り付きの感」、つまり「信長の感」と同じものが在った。

それだからこそ、一国の枠に充て嵌らない龍馬の海外交易の夢が育ったのである。

そして残酷ではあるが、この維新の大乱期には夢を持った者だけがこの競技(出世のチャンス)に参加する事が出来た。

「維新の大乱」とは、そう言うものだった。

しかし、夢が大きければ大きいほど、リスクも大きかった。

この騒乱は多くの「有意の志士」を失って、少しずつ事が進んでいた。

しかし龍馬の志は、他の志士達とは一風変わっていた。

体制を代えるのはあくまでも夢の一歩だった。

それでも、この危急の時に「無傷で通る訳が無い」と言う覚悟は出来ていた。

いや、まかり間違えれば、この世ともお別れだった。

だとしても、自由な通商が出来る新しい世の中は、座していてはやって来ない。

彼の純真な心根が、周りを巻き込む特異な存在だった点で、彼が明治維新を回転させた「動力源」となり得たのでは無いだろうか?

同年(千八百六十六年・慶応二年)の第二次長州征伐に対して坂本は、亀山社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援する。

千八百六十七年(慶応三年)、坂本龍馬は土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。

後藤象二郎と共に船中八策を策定し、後藤象二郎が山内豊信を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させるきっかけを作ったのである。

恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、平尾山荘に匿われた後、下関へ帰還し、伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)らと共に、農民や町民を中心とした奇兵隊を率いてクーデターを決行した。

初めは功山寺で僅七十人にて挙兵した奇兵隊は、各所で長州藩諸隊を加え、勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒し六十五年には椋梨藤太らを排斥して藩論を統一する。

この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、更に、千八百六十六年(慶応二年)には、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を結ぶ。

この頃、坂本龍馬は長州と薩摩の確執を憂いて長州の説得に赴いていた。

会合の趣旨は伝えてある。

高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上馨、山県有朋などが居並んでいた。

「高杉君、おんしら薩賊・会奸(薩摩賊・会津奸)ちゅうとるが、薩摩ば味方に付けにゃあ、こん国にの明日は無かぞ。」

龍馬がもどかし気に高杉ををうながす。

ここで薩長が手を結ばなければ、事態が動かない事は双方承知で来ている。

「いけん(いかん)竜馬ん、来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉、寺島忠三郎ら命ば落とし取るで、わや(無茶)や、国許の連中は薩摩に憎しで固まっとる。」

「そげん事言うとるけに、長州は孤立しとるんじゃ。感情でものを言う場じゃなかけん、諸君良〜考えてみんしゃい。」

「はあ(もう)、判った。判った。竜馬ん話もじらを言っちょる(だだをこねる)て放たり投げる(放り投げる)訳にいかんじゃけー(から)国許の感情を抑えれば出来ん事なかろう。」

「所で竜馬、実はわしらえらい(きつい)玉を握っとる。」

「玉?・・そりゃ何かこつか?」

「やし(いんちき)やなか、こん事を西郷氏にしゃべれ(聞かせ)ば、あ奴はすどい(抜け目が無い)けに向こうから折れて来る。」

「高杉君、こまい(小さい)事言わんとわしに言うてみい。」

「実はな竜馬、*****・・・・・・・・。」

「うぅ〜む。まっこっか。」。



千八百六十六年(慶応二年)に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂小五郎(木戸孝允)は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして倒幕の立役者に名を連ねて行く。

薩長同盟の下、長州は坂本龍馬を介して薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、新しい様式軍備を整える事が出来た。

幕府側(会津藩・新撰組)は、長州藩の武備恭順や大村益次郎達に拠る武器や艦船を購入の秘密貿易を口実として第二次長州征討(四境戦争)を強行して来るも大島口・芸州口・石州口の三ヵ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も戦意喪失により長州側の勝利が確定する。


その後、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還、戊辰戦争の端緒となった鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城などを経て木戸孝允(桂小五郎)は維新政府の成立を迎えている。



勝海舟(かつかいしゅう)は、アメリカから帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久二年の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。

この間、神戸海軍操練所では「坂本龍馬らを入門させて教授した」とされる。

千八百六十六年、勝海舟は軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。

勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功。

言わば勝は時間稼ぎに利用され、裏切られた為、勝は自らお役ごめんを願い出て江戸に帰って居る。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵六万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。

これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、六月、幕府の長州再征に協力しない様に大久保利通に伝え、その為の朝廷工作を進めさせた。

それに加え、京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行う事を承諾し、薩長和親の実績をつくった。

また、西郷は幕府の兵力に対抗する必要を感じ、十月初旬に鹿児島へ帰り小松とともに兵を率いて上京した。

この頃長州から兵糧米を購入する事を龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。

この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。


千八百六十五年(慶応元年)九月、英・仏・米・蘭四国の軍艦九隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。

一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。

また、尾張藩前藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかし、朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。

これは強制されたもので在ったとは言え、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更と言う意味でも歴史上の大きな決定であった。

「八月十八日の政変」の一件で、朝廷を「どちらが取り込むか」が重要な事を、尊王派も公武合体派(佐幕派)も学習してしまった。

そうなると、尊王派にとって邪魔なのは、公武合体を象徴する孝明天皇と将軍家茂の義兄弟の存在だった。

尊王・倒幕派にシフト変更したその後の岩倉具視(いわくらともみ)には、奇妙な噂が付きまとう様になる。

千八百六十六年年(慶応二年)岩倉は、徳川家茂の死を機会に朝廷の名に於いて列藩招集を行おうとするが失敗する。

孝明天皇の死の際には毒殺説が流れ、岩倉が首謀者として疑われた。



桂小五郎(かつらこごろう)は江戸末期(幕末)の長州藩士で、吉田松陰の弟子として尊皇攘夷派の中心人物である。

西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられ、倒幕後は木戸孝允(きどたかよし・きどこういん)を名乗り長州閥を代表する政治家と成った。

小五郎の生家は、藩祖・毛利元就(もうりもとなり)の七男毛利元政の血を引く名家の藩医だったが、士分(武士の身分)と秩禄を得る為に家禄百五十石の桂家の末期養子となり桂姓を名乗る。

小五郎(こごろう)は当時としては長身の大男で、神道無念流剣術の免許皆伝を得て剣豪と称されたが、一方で武力闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。

藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、藩命により江戸から京都に上る。

京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、新選組の池田屋襲撃事件では、運良く外出していて奇跡的に難を逃れている。

八月十八日の政変(七卿落ち)が起こり、長州藩と長州派公卿が京都から追放されるが、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権の為に久坂らと伴になおも活動をし続けている。

桂小五郎と龍馬とは、慶応元年から慶応三年にかけて頻繁に会談していた桂小五郎は、薩長同盟の長州代表としてこれに関わり、倒幕の立役者に名を連ねて維新を迎えている。


第二次長州征伐が、目前に迫っている時だった。

土佐勤皇党の仲介で、密かに薩長の和睦と連合の話し合いが、京に於いて為された。

長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見の場である。

しかしこの会談は不調だった。

会談場所の座敷きは緊張感に包まれていた。

何しろ今日が今日まで敵対していた相手で、この会談自体が双方の藩論からすれば奇跡に近く、この場に至っても双方無言で睨み合って居るばかりである。

遅れて来た坂本龍馬が、話の進展の無さに激怒するほど、過去の経緯から会見内容は互いに進展していなかった。

まるで、地球温暖化対策会議(京都議定書の批准)で、各国の利害主張ばかりが際立っていたようなものである。

そこで坂本龍馬が、西郷説得の秘策に出る。

だから人生と言うものが面白いのかも知れないが、人間誰しも先の事は闇で、人の生き方は多かれ少なかれその一瞬の思いも拠らぬ事で変わる。

龍馬が西郷の説得を試みる。

「西郷どん、チクッとおいが話しば、聞いてやんせ。」

「何でごわそう。」

龍馬に誘われて西郷が別室へ同道すると、座するもそこそこに「実はの〜。」と長州の切り札を耳打ちをした。

西郷が、「なんちゅうこっを・・・・」と驚嘆の声を上げた。

それは、西郷にとっては想定外の長州の計画だった。

西郷は執念とも言える長州の倒幕の意志を見た。

そしてそれは、長州の並々ならない周到な計画を意味していた。

「おはん、そんこっは、ほんでごわっか?」

「ほんじゃとも、岩倉(具視・ともみ)公さも、三条(実美・さねとみ)公さも長州に乗っとるぜ(是)よ。」

瞳は澄んでいたが、正面から西郷を見据える龍馬の表情が何時もの屈託の無い笑顔を押し殺していた。

西郷隆盛が唸ったのも無理は無い。

尊王攘夷運動の根幹を為すのが、徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で基礎が作られた「皇国史観」で、まさに南朝・良光親王の末裔は新生日本に打って付けの帝のお血筋だった。

この尊皇攘夷騒動の中で、西郷隆盛は何度も決断を迫られる場面に遭遇している。

それにしても、南朝の末裔とは驚きの事態である。

「これは正しい選択だろうか?」

この話、本来ならライバル関係でもある長州にみすみす主導権を握られる話である。

しかし西郷家は、最後まで南朝方に与力して戦った九州の名門・菊地家の由緒正しい分家で、「南朝再興の画策」と聞かされれば無気(むげ)には出来ない。

「そげな手がごわったか・・・」

薩摩藩を背負う身で迂闊な話しには乗れないから、ここは西郷にとって集中力を必要とする場面である。

無言の時が流れた後、西郷は「フゥー」と大きな溜息を付いた。

落着くには息を吐き出す事が一番で、冷静さを取り戻す。

龍馬の言に西郷吉之助が考えて見れば、答えは確かに一つである。

火急の今は、龍馬が言うように我等倒幕派の言う事を聞いてくれるお上(天皇)が倒幕後の新政権には必要である。

朝廷と言う狭い場所に世間から隔離されて居る皇室にとって、外国人嫌いは単純に「右脳域の感性」の問題である。

しかし物事の決定には「左脳域の計算」も無視は出来ず、正直、攘夷論者の父帝・孝明天皇(こうめいてんのう)の強い影響を受けた皇太子・睦仁親王(明治天皇)は、困った存在になる筈だった。

お上(天皇)が認めなければ倒幕は夢と消える。

永く皇統に在ったお上(天皇)が急に考え方を変えたりする筈も無く、益してや急に現れた身分が低い自分達拠りも取り巻きの保守的な公家共の言う事を重視する筈である。

君側の奸(くんそくのかん)とは君主(統治者)の側に在る不忠者を指す言葉である。

しかし考えて見るに、君主(統治者)の意に反する行為をする事が不忠なのか、間違えた君主(統治者)の意を具現化し続けるイエスマンが不忠なのか判断に苦しむ所である。

つまり突き詰めて行けば、君主(統治者)の意には時に間違いがある事も事実で、結局の所「忠義」は、君主(統治者)の側に在る者にとって、功名心と駆け引きのアイテムであり、生々しく言えば、守りたいのは自らの地位と利権と言う事に成る。

親王宣下を受け立太子を宣明している孝明天皇の第二皇子・睦仁(むつひと)親王を説得などしている刻(とき)の余裕が無い事を、岩倉卿(具視/いわくらともみ)も三条卿(実美/さんじょうさねとみ)も充分に承知していた。

西郷は熟考し、慎重に自問自答した上で「公家衆が乗っているなら、この計画は間違いでは無い」と決断した。


西郷は、龍馬から容易成らない陰謀を聞き、「正に天命」と薩摩藩内を説得しても長州と組む決意を固める。

「判りもした。ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)。薩摩藩内のこっは、おいが引き受けもす。」

「西郷さ、これで日本の未来は決まったぜ(是)よ。」

西郷隆盛が長州の隠し玉「南朝の末裔」に飛び着いたのには無理からぬ理由が在った。

実は「倒幕後の国の在り方」に、西郷隆盛は悩んでいた。

倒幕後の国家体制について、隆盛は今が今まで青写真が描けないでいたのである。

今更いずれかの藩侯(大名)に新たに幕府を開かせる気はない。

それでは旧体制の振(ぶ)り返しになる。

薩摩藩としては痛い所を突かれた格好だが、良く良く考えれば今の帝(孝明天皇)も皇子も公武合体派で、現在のお上(帝)が倒幕に組する事は無い。

一気に倒幕を果たし、新たな政権を打ち立てる上で親・薩長のお上(天皇)を据えるには、この「南朝再興の画策」を密かに成す事は、最善の策に違い無かった。

つい最近に成るまで、つまり彼らの親の代までは思っても見なかった倒幕の機運が、今は全国に盛り上がりを見せていた。

そして倒幕後の国の在り方も、「帝の親政(直接統治)」と、尊皇攘夷(勤皇倒幕)派は思い描いていた。

それには公武合体(親徳川)意識の強い帝・孝明天皇が邪魔だった事は確かだ。

極めて状況証拠的な発想であるが、その邪魔な孝明天皇は不自然な病死で崩御され根強く「暗殺説」が囁かれている。

そうなると大儀の為には「帝さえ誅する」と言う事になり、純粋な尊皇思想ではなく「制度としての帝を必要」とする事で、尊皇は「制度上の建前」と言うのが「倒幕派の本音」と言う事に成る。

その倒幕派の本音「制度上の帝の存在」が優先される必要であれば、吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき長州藩の隠し玉「南朝の末裔」は、倒幕後の国のあり方を設計する上で周囲を納得させ得る好都合な存在だった。



大内氏を頼った良光(ながみつ)親王は、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。

後醍醐天皇の十一番目の皇子・懐良(かねなが)親王は、父帝・後醍醐の命により、僅(わずか)七〜八歳と幼いながらも征西大将軍に任命され、千三百三十六年(建武三年/延元元年)頃に「吉野を出立、九州を目指した」と言われて居るが、目的は九州の地に南朝の地盤を築く事だった。

千三百六十一年(正平十六年)には一時九州を制圧、懐良(かねなが)親王は大宰府 に入って征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生、その後十一年間に渡って九州南朝勢力の全盛時代を築いたが、その後九州は北朝方に平定され、懐良は征西将軍の職を甥にあたる良成(ながなり)親王(後村上天皇の皇子)に譲り「筑後矢部で病没した」と伝えられる。

懐良(かねなが)親王は、幼くして九州制圧に任じたが、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いている。二十歳代半ばに達したその皇子が、我が子を為さないとは考え難い。

懐良(かねなが)親王の皇子・良光(ながみつ)親王は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)に圧されて劣勢となった九州の南朝方征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内家に下向している。

大内家では、良光(ながみつ)親王こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿(かくま)ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。

懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たる良光親王(ながみつしんのう)は、正確には親王の子であるから本来なら良光王(ながみつおう)と呼ぶのが正解である。

しかし懐良親王(かねながしんのう)が、九州南朝として吉野宮本家よりも広域な実効支配を確立していた事からか、或いは隠し玉として依り価値を求めたのか大内家では良光王(ながみつおう)を親王(しんのう)としていた様である。

或いは親王と呼んだのは、懐良親王(かねながしんのう)の九州統治を九州王朝と認めて居たのかも知れない。

また、南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子・満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。

良く後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見され、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は、懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。


千四百年、南朝征西将軍・九州王・懐良親王(かねながしんのう)の皇子・良光親王(ながみつしんのう)が、室町時代前期の武将・大内氏第九代当主・大内弘世(おおうちひろよ)の七男で第十代当主・大内義弘の弟・大内弘茂(おおうちひろしげ)に連れられて田布施・麻郷に来た。

千四百年当時大内家は、前年の応永の乱で将軍・足利義満率いる幕府軍と交戦し当主・大内義弘を失い、足利義満方に降りた大内弘茂(おおうちひろしげ)と大内盛見(おおうちもりみ/後に第十一代当主)が内紛戦闘状態で、親王を田布施・麻郷に非難させたようだ。

この良光(ながみつ)親王の末裔が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良親王(かねながしんのう)の怨念を晴らすかの様によみがえったのでなければその疑惑は説明が着か無いのである。

大室家の出自に疑いを持ち「調べた結果百姓の出」など非難する者が居るが、それは余りにも歴史に未熟な証である。

そもそも論から言えば本姓の百姓は氏族であり、ましてや毛利家長州藩に在って維新以前より立派に「大室と言う氏姓(しせい)を永く名乗って居る」と言う事は、長州藩が認める家系を大室家が有していた事になる。

この大室の意味だが、後醍醐帝の南朝を退けて足利尊氏が起こした「室町幕府拠りも大なりの意味」と穿(うが)って見たが、我輩のこじ付けだろうか?


肥後菊地氏はその九州に於ける有力な南朝支持者で、九州南朝軍の主力として活躍した。

つまり西郷隆盛にとって良光(ながみつ)親王は、先祖(菊地氏)が祭り上げて九州を制圧する為に戦った皇子の直径の血筋で、思案などする理由も無い事態だったのである。

西郷隆盛が竜馬の説得に乗り、「コロリ」と態度を変えるに、南朝・懐良(かねなが)親王の末裔は、充分すぎる存在だったのである。

土佐藩士・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の画策、坂本竜馬の仲介で長州藩士の桂小五郎(木戸孝允 ・きどたかよし/きどこういん)と対峙した西郷が聞いたのは、薩長同盟の密約とともに提示された容易ならぬ策だった。

「幕府は、もうあかんぜよ。西郷さも腹ば括りんしゃい。」

薩摩藩は密貿易もして居るくらいで、近隣諸国の植民地化情勢にも詳しい。

言われてみれば、今の幕府では外圧に対処し切れるものではない。

特に将軍家持と義兄弟だった孝明天皇は、極端な守旧派、公武合体論者で、その感情だけでは、害にこそなれ、国の為にはならない。

「判り申した。おいどんから頭バ下げ、桂どんに密約ば申し込むばい。」

西郷が聞いたのは岩倉具視(いわくらともみ)を通した朝廷工作で、それも公武合体派の「徳川家茂と孝明天皇を始末し、新帝を立てる」と言う奇想天外な陰謀を含んでいた。

「長州藩に、戦で幕府に勝ってもらぜよ。西郷さ、薩摩ん名義で武器ば買いんしゃい。」

長州救済の為に、坂本が設立していた貿易会社の「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が薩摩と長州の間に入り、薩摩藩名義で外国から武器を買い、それを「幕府に内密で長州藩に売る」と言う策である。

「良か、良か、坂本どんば好きんこっやんが良かばい。」


千八百六十六年(慶応二年)一月、西郷は村田新八・大山彦八(成実、大山巌の兄)を伴って上京して来た桂小五郎を伏見に出迎え、京都に帰って二本松藩邸に入った。

西郷は小松帯刀邸で桂小五郎(木戸孝允)と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書「薩長同盟」に裏書きをした。

その直後、坂本龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護する。

その後、三月に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航して鹿児島へ向かい、鹿児島藩に落ち着いた。

四月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが入れられると五月から小松・桂らと藩政改革にあたった。


千八百六十五年(慶応元年)長州藩では、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して「元治の内乱」と呼ぶをクーデターを起こし保守派を打倒し、長州藩内に倒幕派政権を成立させた。

高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。

また、長防士民合議書を三十六万部印刷し、士農工商隔(へだ)てなく領内各戸に配布する事で領民を一致団結させた。

十四代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。

幕府は大目付・永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中・小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

「四境戦争」とも呼ばれている第二次長州征討の戦争であるが、幕府は当初五方面から長州へ攻め入る計画だった。

しかし萩口攻めを命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。

その為萩口から長州を攻める事ができず、四方から攻める事になり「四境戦争」と呼ぶ事と成った。

千八百六十六年(慶応二年)六月七日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、十三日には芸州口・小瀬川口、十六日には石州口、十七日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。

長州側は、山口の藩政府の高杉晋作ら倒幕派政権の合議制により作戦が指揮された。

第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の四方から攻めた為、長州側では四境戦争と呼ばれる。

この四境戦争、奇兵隊や長州藩諸隊を編成し新式兵器で武装した長州側に対し、幕府の出兵命令を拒んだ藩も多く、幕府軍側の士気が上がらない。

第二次征討は各攻め込み口で長州側が善戦し、幕府軍側は主要な長州藩内に攻め込めず、事実上幕府軍の全面敗北に終わる。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎である事が知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力を失う結果を招いた。

その為、この第二次征討の敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けた事と成る。


将軍家茂は、千八百六十六年(慶応二年)第二次長州征伐(幕長戦争)の最中、六月に大坂城滞在中急死する。

二十一才の若さだった。

死因は病死とされたが、毒殺の噂が絶えない。

孝明天皇は、千八百六十六年(慶応二年年)十二月に三十六才で急に崩御された。

死因は疱瘡による病死と言われているが、毒殺説と刺殺説が付きまとっている。



第二次長州征討終了後、大村益次郎(おおむらますじろう)は山口に帰還、年末には海軍用掛を兼務し、海軍頭取・前原彦太郎(前原一誠)を補佐する。

千八百六十七年(慶応三年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助、大久保一蔵(利通)ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われる。

長州藩論は分立し、益次郎(ますじろう)は慎重論を唱えたが、大久保一蔵が長州に来て討幕を説得した事で藩論は出兵論に傾く。

徳川慶喜による大政奉還後の千八百六十八年(明治元年)一月中旬、鳥羽・伏見の戦いを受け、藩主・毛利広封(もうりひろあつ)が京へ進撃、益次郎(ますじろう)は随行する形で用所本役軍務専任となる。

千八百六十八年(明治元年)二月、益次郎(ますじろう)は王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。

その月、益次郎(ますじろう)は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。

翌三月、益次郎(ますじろう)は明治天皇行幸に際して大阪へ行き、月末の天保山での海軍閲兵と翌四月初旬の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。

同四月、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。

益次郎(ますじろう)は岩倉具視に意見具申の手紙を送り、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。

益次郎(ますじろう)は京都に在った新政府の指示を受け、東叡山寛永寺に立て篭もりの姿勢を見せる彰義隊(しょうぎたい)の駆逐を敢行した上野戦争(うえのせんそう)を全権指揮する。

千八百六十九年(明治二年)、函館五稜郭で、榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し、戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい時代が開かれた。



上野山(寛永寺)にある筈の天海(光秀)が封印した「賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)」が、何故か吉田松陰の手中に在った。

その錫杖が高杉晋作に渡り、坂本竜馬を経て西郷隆盛の手元に落ち着いた時、薩長連合が完成する。

我輩には、「賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)」の妖力が皇統所縁の血統を呼び寄せ、倒幕の機運を盛り上げて行った様な気がする。

実はこの賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)、お福(春日の局)の手により密かに婚家の稲葉家で保管していた。

お福が何故、光秀が二代目天海僧正に命じて封印した賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)の封印を、密かに解いたのかは未だに判らないが、その後代々山城国淀藩稲葉家に受け継がれ、幕末期に稲葉家城代家老田辺家から、公家の三条実美を介して吉田松陰に渡っていた。

何しろこの錫杖と独鈷杵(とっこしょ)は皇統を守護する者の証であり、お福(春日の局)に何らかの心境をもたらせる妖力くらいは、持ち合わせていても不思議はない。


林政秀の子、林正成(はやしまさなり)は、戦国時代、江戸時代の武将で、はじめ豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣となり、秀秋を補佐した。

千六百年の関ヶ原の戦いでは、平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した。

しかし、千六百二年、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると、林正成(はやしまさなり)は浪人となって不遇を囲っていた。

関が原で大勝し徳川の天下が固まると、斎藤利三の娘お福は家康の勧めで嫁に行く事になる。

家康が選んだ相手は、林正成(はやしまさなり)だった。

お福は美濃の稲葉重通の養女となって、正成を稲葉家の婿に迎える。

美濃国の稲葉氏と林氏は元々同族で、伊予国(愛媛県)の河野水軍の一族である。

河野水軍は源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。

鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方した為に一時的に衰退した。

その後、南北朝時代には九州の南朝勢力で在った懐良親王に従い南朝に属したが、幕府に帰服している。

林正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕えた。

稲葉 正成(いなば まさなり)は、千六百七年に家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名に列した。

お福の方は、一万石の小領主の妻の立場で推されて三代将軍家光の乳母となり、「春日の局」と呼ばれて大奥はおろか、幕政にも影響を与え得る立場に昇格する。

余りにも出来過ぎた話で、これは間違い無く家康に引かれたレールの上を乗って行った結果としか考えられず、正成とお福に対する家康流の処遇だった。

この一連の動きは、当然のごとく二代将軍秀忠、天海僧正の言わば明智閥(あけちばつ)形成への画策の要素も多分にあった。

お福(春日局)には稲葉正成との間に正勝、正利の二男が在ったが、彼女が正成と離婚した形を取り、三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

この時の小田原藩領は相模の足柄上、足柄下、淘綾(ゆるぎ)、大住、三浦郡で、約五万石、駿河の駿東郡一万三千石、伊豆の賀茂郡三千石、下野芳賀郡に二万一千石、常陸新治郡五千石、武蔵豊島郡、新座郡に二千石、などであった。

しかし翌年に三十八歳で死去した時、嫡子の正則はわずか十一歳だったが、春日局の計らいで特例の斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。

相続した正則は四歳で生母に死別した為にお福(春日局)に育てられたので、孫と言うよりは実子も同然で、家光にも可愛がられ四代将軍家綱には老中として仕え、千六百八十年には十一万石の増石を見、都合十九万五千石まで膨れ上がった。

三代将軍・家光の乳母、大奥総取り締まり「春日局」の子であるから、子供の稲葉正勝が家光の小姓に登用され、三代将軍家光の代に老中に登用されても不思議ではない。

しかし、一時期家康の寵愛を受けたお福(春日局)である。

穿(うが)った考えだが、林(稲葉)正成と婚儀を結びし時、既に「お福(春日局)の胎が膨らんでいた」と言う事なら、稲葉正勝は徳川家康のご落胤である。

親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されてもそれこそ違和感が無い。

三代続いた稲葉小田原藩は、稲葉正通(まさみち・正往)の代も京都所司代の幕職を務めた。

正通(まさみち)は、その後政争に敗れて越後高田領に移されが、後に復活して下総佐倉を領し、父の正則同様に老中職を勤めている。

この末裔が淀藩稲葉家で、幕府内では代々京都所司代や老中職と言った要職を歴任している。

幕末時の藩主・稲葉正邦(いなばまさくに)は、山城国に移封された淀藩稲葉家十二代目当主であり、最後の藩主であるが、稲葉正誼の元へ養子入りした。

正邦(まさくに)は、二本松藩主・丹羽長富の次男で、幕府内では京都所司代・老中職も務めたが、譜代の城代家老田辺家などの藩重役首脳部とはうまく行かず、京都朝廷と譜代重臣達との「賀茂の錫杖密約」の成立により勝手に朝廷に恭順されてしまう。

この時、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた稲葉正邦は、自らの藩が「自らの決定無くして幕府に反旗を翻す」と言う事態に遭遇、結局淀へ退去する事となる。

稲葉家はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦は子爵に叙任され、千八百八十五年には神道本局(神道大教・しんとうたいきょう)初代管長となっている。


第二次長州征伐は、千八百六十六年(慶応二年)六月の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。

大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大村益次郎が指揮した山陰口は奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で連戦連勝し、大島口・小倉口も高杉晋作の電撃作戦で勝利し、幕府軍は惨敗続きであった。

鹿児島に居た西郷は七月に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。

長州藩は、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。

高杉晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として小倉方面の戦闘指揮、幕府の第二次長州征伐軍と戦ったが、高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破っている。

幕府軍は各地で敗退し、その間に江戸から出陣して大坂城に入り、「長州征伐」の戦況を見守っていた第十四代将軍・徳川家茂が突然病死し、長州征伐の休戦命令を出すに至る。

将軍・家茂の死去の報を受け、事実上「長州征伐」は幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜する。

長州一藩を押さえられなく成った幕府は、求心力を失い権威は格段に落ちる事になる。

しかも頼みの朝廷工作は、巻き返しつつ在った岩倉具視(いわくらともみ)ら、強行尊王派公家達に握られていた。

しかしその戦いの最中、高杉晋作は無理が祟ったのか肺結核発症の為桜山で療養し、商家の林算九郎邸で惜しくも二十七歳の時に死去する。


一方幕府は、七月に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、八月の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て休戦の御沙汰書を出してもらった。

将軍・家茂の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、十二月の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。

この間、西郷は、九月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命され、大目付役は返上した。

長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。

都の朝廷、皇居内裏では岩倉具視(いわくらともみ)ら過激派公家が実権を握り、穏健派を取り込んで何やら画策し、佐幕派公家を粛清して内裏内は女官に至るまで一掃され入れ代わっている。


土佐藩々政に復帰した前藩主・山内容堂だったが、容堂が知らない所で政局は大きな動きを見せ始めていた。

千八百六十六年(慶応二年)東洋暗殺の直前に脱藩していた坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元ら土佐脱藩浪士達の仲介に拠って薩長同盟が成立し、時代が明治維新へと大きく動き出したのだ。

薩長同盟の翌月には、中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により京都に於いて薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛と土佐の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟・寺村左膳・間部栄三郎が会談し、幕府排除と王政復古の為の薩土同盟が成立し土佐藩全体が徐々に倒幕路線に近付いて行く。


後藤氏の遠祖は藤原利仁流後藤氏で、言わば藤姓武士の一分派と言う事に成る。

土佐藩参政・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の先祖・播磨後藤氏は、播磨別所氏家臣・後藤将監基国(後藤氏当主)で、安土桃山時代から江戸時代初期の武将・黒田孝高(如水)の家臣、後に豊臣秀頼の家臣・後藤基次(ごとうもとつぐ/通称・又兵衞)は後藤基国(ごとうもとくに)の次男だった。

豪傑として知られた後藤又兵衞基次の兄の家が、又兵衛の叔父にあたる播磨の住人・後藤助右衛門で、父とともに山内一豊に召し出され土佐に移り住んだのが、土佐藩上士・後藤氏である。

後藤象二郎 / 象次郎(ごとうしょうじろう)は、その後藤氏・土佐藩の馬廻格百五十石・後藤助右衛門正晴の長男として土佐郡高知街片町に生まれた。

少年期に義理の叔父・吉田東洋の少林塾にて学び、吉田の推挙により千八百五十八年(安政五年)幡多郡奉行、二年後の千八百六十一年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍するも、千八百六十二年(文久二年)に武市瑞山の策謀に依り吉田が暗殺されて失脚する。

しかし、千八百六十三年(文久三年)に象二郎 (しょうじろう)は藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得るとともに、江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学も学ぶ。

千八百六十四年(元治元年)、象二郎 (しょうじろう)は大監察に就任し公武合体派の急先鋒として、武市瑞山らを切腹させるなど土佐勤王党を弾圧する。

所が土佐勤王党弾圧から三年、千八百六十七年(慶応三年)に成って象二郎 (しょうじろう)は公武合体派から尊皇攘夷派に転換、尊皇攘夷派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる「新政府綱領八策(船中八策)」を聞き及んで自分の発案として前藩主・山内容堂に将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議する。

この後の象二郎 (しょうじろう)は在京土佐藩幹部の同意を得た後に、薩摩藩の賛同も得て薩土盟約の締結を為すも帰国して報告すると、容堂は武力発動の可能性を持つ盟約に難色を示す。

折りしも長崎で起きたイギリス人殺害事件で海援隊士に容疑がかかったイカルス号事件の処理で土佐に乗り込んで来た英国公使パークスとの交渉を象二郎 (しょうじろう)が命じられるなど時間を消耗した為、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。

時流が薩長同盟によって倒幕へ傾斜した事に対する焦りがあり、薩摩との提携解消後も象二郎 (しょうじろう)は大政奉還への努力を続ける。

流石に前藩主・山内容堂も大勢を読み、千八百六十七年(慶応三年)十月三日に象二郎 (しょうじろう)は容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出、十一日後の十月十四日、将軍・徳川慶喜がこれを受けて大政奉還を行う。

これらの功により、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は土佐藩中老格七百石に加増され、役料八百石を合わせて計千五百石取りに栄進する。

翌千八百六十八年(慶応四年)パークス襲撃事件鎮圧の功により、象二郎 (しょうじろう)は中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られ、更に維新の功により明治帝(新政府)から賞典禄一千石を賜っている。

象二郎 (しょうじろう)は、新政府で参与、左院議長、参議などの要職に就くが、千八百七十三年(明治六年)の征韓論争に敗れ、三十五歳に成っていた象二郎 (しょうじろう)は板垣退助・西郷隆盛らと共に下野、板垣退助・江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。

千八百八十一年(明治十四年)、象二郎 (しょうじろう)は下野後八年間民選議院設立運動をしていたが、板垣退助を中心として自由党を結成して後に大同団結運動を推進するが、のちに政府への協力に転じる。

黒田内閣や第一次松方内閣で逓信大臣、第二次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任、千八百八十七年(明治二十年)、四十九歳の象二郎 (しょうじろう)は伯爵を授けられた。



山内容堂は幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた藩論を止める事も時代の流れに抗する事も出来なかった。

そんな折、土佐藩参政・後藤象二郎は坂本龍馬より幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案、及び「船中八策」を聞いていて自分の案として容堂に進言する。

容堂はこれを妙案と考え千八百六十七年(慶応三年)の秋、老中板倉勝静らを通して十五代将軍・徳川慶喜に建白し、慶喜はこれを受け入れて朝廷に大政奉還した。

しかし容堂の慶喜に対する建白の思惑は列侯会議で、徳川宗家温存路線だったにも関わらず大政奉還後の明治政府樹立までの動きは、終始薩摩・長州勢に主導権を握られて討幕強行派のペースで進んだ。

山内容堂(やまうちようどう)は、小御所会議に於いて強行派の公家・岩倉具視、薩摩藩・大久保利通らと対立したが押し切られ 王政復古の大号令が発せられて戊辰戦争に到る事となった。

いずれにしても土佐山内家は藩祖・山内一豊以来時流に乗るのはお家芸で、維新に乗った土佐藩は薩長土肥の一角を占め山内容堂(やまうちようどう)は維新の四賢候と並び称されるが、結局政府の意思決定からは実質的に排除されて晩年は放蕩三昧の荒れた生活を送って生涯を閉じている。



徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、水戸徳川藩藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきら)の七男として生まれ御三卿・一橋徳川家の養子を経て江戸・徳川幕府最後の征夷大将軍に任じた江戸幕府第十五代征夷大将軍である。

十四代将軍・徳川家茂の将軍後見職として後見を務めていた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、千八百六十六年(慶応二年・年末)将軍家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任する。


千八百六十七年には、薩長による討幕運動の推進によって幕府は権威を失い事態収拾に苦慮するが、有力藩侯の心も幕府から離れる動きを露にし始めていた。

十五代将軍・徳川慶喜が、この年の十一月九日に突然二条城で大政奉還を宣言する。

将軍・慶喜は明治天皇に「大政奉還(政権返上)」を行なった上で、徳川家首班に拠る合議制の公武合体政権を目指す。

しかし大政奉還により江戸幕府は発言権を弱体化させ、有力藩侯の賛同も得られずに事実上滅亡の経緯をたどり、翌年の王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。


翌千八百六十八年(慶応四年正月)岩倉具視(いわくらともみ)が王政復古の大号令と徳川慶喜の「辞官納地発令」実現に漕ぎ着け、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、旧幕府軍を残したまま徳川慶喜が大坂城から海路江戸城へ逃げ戻る。

徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、勝海舟の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだのである。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍在位は、王政復古の大号令までの僅か一年ので在ったが、折からの動乱の中、在京在阪(京都・大阪)に終始する生活で江戸城で執務を行なえなかった唯一の将軍である。

維新後徳川慶喜は、駿府(静岡県静岡市)で謹慎生活を送っていたが、勝海舟の復権運動もあり明治天皇に謹慎を解かれると公爵として大正時代まで生きた。



千八百六十七年(慶応三年)三月上旬、西郷は村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。

三月、西郷は主君・島津久光を奉じ、薩摩の精鋭七百名を率いて上京する。

その後も西郷は精力的に動き、五月には京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。

六月、西郷は山県有朋を訪問し、初めて倒幕の決意を告げ、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通・伊地知正治・山県有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をし、西郷が坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らと会し、薩土盟約が成立した。

千八百六十七年(慶応三年)九月、島津珍彦が兵約千名を率いて大坂に着いた。

その九月、後藤が来訪して坂本龍馬案に基付く大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期する様に求めたが、西郷は一旦拒否し、後日了承している。

土佐藩(前藩主山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、十月に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。

将軍・慶喜が大政奉還を決意した背景には、公議政体論に拠って江戸幕府に代わる諸侯会議を招集するとした龍馬の新政府構想案が在った。

処が、同じ日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していて、後日朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出されたのである。

遂に維新革命の密勅が下った。

密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、千八百六十七年(慶応三年)十一月、藩主忠義を奉じ、兵約三千名を率いて鹿児島を発した。

途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して京都に着いた。

長州兵約七百名も摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。

また、この頃芸州藩も出兵を決めた。

諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、十一月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布の為の工作を始めさせた。

十二月、薩摩・安芸・尾張・越前に宮中警護の為の出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら四藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は徳川幕府の命運を決め、その後の幕藩体制の清算的な意味合いを持つ戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。

坂本龍馬が近江で暗殺された直後の慶応三年の末、将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令が発せられる。

徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告し前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられる。

慶喜は謹んで受けながらもこの通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになった為、使者として慶喜のもとへ派遣された松平春嶽らに「配下の気持ちが落ち着くまでは不可能」と言う返答をおこなった。

前将軍・徳川慶喜は、軽挙妄動を慎むように命じつつ政府に恭順の意思を示す為に京都の二条城を出て大坂城へ退去している。

松平春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地の返納を実行するだろうと言う見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告するも大坂城に入った後に慶喜からの連絡が途絶える。

新政府に於いて、大坂城入城後の徳川慶喜の態度に関して会議が行われ、参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、「ただちに領地返上を求めるべきだ」と主張した。

だが、松平春嶽は「旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしている」と睨み、「性急強硬な命令では説得が不可能である」として「今は徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定すると言う曖昧な命令に留めるべき」と主張した。

岩倉卿(具視)も松平春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断した為、この命令が出される事に決し、再度松平春嶽と徳川慶勝が使者に立てられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。

所が、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行い庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件を誘発する。

この薩摩藩邸焼討事件より、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まり、前将軍・徳川慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始し、旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶喜の旧幕軍出兵の報告を受けて政府では緊急会議が招集される。

政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張し会議は紛糾する。

この紛糾した会議は、政府議定・岩倉具視が徳川征討に賛成した事で大勢は旧幕軍征討に決し、在京政府軍に迎撃開戦の準備を通達した。

緒戦は、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

夕刻、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見付近でも衝突して戦端が開かれる。

新政府軍の京都周辺の兵力は約五千、対して旧幕府軍は一万五千を擁していたが、薩摩を中心とする新政府軍の新鋭軍装に対し旧幕府軍の装備は旧式の上狭い街道での縦隊突破を図り優勢な兵力を生かし切れずに新政府軍の弾幕射撃に拠って前進を阻まれる。

この戦闘、最初から旧幕府軍の士気が低く、鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで指揮系統が混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊・八百名)に敗れ敗走した。

翌日の淀の戦いでは両軍一進一退の戦闘が続いたが、三日目になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え新政府軍が官軍となる。

錦旗(きんき)と呼ばれる菊章旗は、赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり描いたりした日之御旗と月之御旗の二振り一組の御旗である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)に際して後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が歴史上の錦旗の初見とされ、以後朝敵討伐の証として天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。

維新の動乱に際しては、鳥羽伏見の戦いに於いて薩摩藩の本営で在った東寺に初めて錦旗が掲げられた。

この時使用した錦旗は、慶応三年秋に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に朝廷拠り調製を委嘱された物と伝えられる。

十四代将軍・徳川家茂の急死と孝明天皇の崩御、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還を機会に明治帝(睦仁親王)の側近公卿は尊皇派に入れ替わって居たが、明治帝(睦仁親王)みずからが薩長に錦旗の使用を許したかは疑問である。

王政復古の勅を起草した岩倉卿の腹心・玉松操(たままつまひろ)のデザインを元に大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で密造させた。

もう半分は数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てた。

その後戊辰戦争の各地の戦いで薩長両軍を中心に使用され、官軍の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場となった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与える。

錦の御旗を目にした前線の幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を、土佐藩士・田中光顕は目撃している。

この錦旗、「岩倉具視が偽造した」と言う説もあるが、真贋は定かではない。

いつの間にか、西郷吉之助(隆永/隆盛)は持って生まれた度量の大きさで官軍の精神的支柱のごとき存在に成っていた。


旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でも在った淀藩主・稲葉正邦を頼って、淀城に入り建て直しを図ろうとするが、淀藩に新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んでいる。

入城を拒絶された旧幕府軍は淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗し、この戦闘の最中に新選組結成時からの主要幹部隊士の一人で在った井上源三郎が戦死した。

幕府軍は淀千両松から後退を重ね、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて橋本付近に布陣し、西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張る。

東に男山、西に淀川を控えた橋本では、迎え撃つ旧幕府軍に地の利は在ったが、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り旧幕府軍へ砲撃を加え始める。

突然の西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、この戦いで京都見廻組々長・佐々木只三郎が重傷を負い後に死亡、新撰組諸士調役兼監察・山崎烝が重傷負い後に死亡、山崎と同格の吉村貫一郎が行方不明と成り、旧幕府軍は淀川を下って大坂へと逃れて行く。

幕臣強硬派に圧されて薩摩征伐を許した前将軍・徳川慶喜は元々開戦に積極的で無く大坂城に居り、旧幕府軍の敗戦が決定的と成って自分に追討令が出たと聞くと、その夜には僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱する。

慶喜主従は、主戦派の幕臣に無断で大坂の天保山沖に停泊していた旗艦「開陽」に座乗し、榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府艦隊は江戸へ退却した。

この新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限り、前将軍・徳川慶喜が江戸に向かって逃亡した為に旧幕府軍の全面敗北と成り、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北越戦争、会津戦争、東北地方での列藩同盟戦争、箱館戦争と続く事に成る。


幕府海軍旗艦「開陽」を指揮していたのは、幕府海軍副総裁に任ぜらた榎本武揚(えのもとたけあき)である。

後に榎本武揚(えのもとたけあき)を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれ、その突出した秀才故に歴史の変わり目に登場する。

武揚の父・円兵衛は元の名を箱田良助と言い、備後国・福山藩・箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の出身で、郷士で庄屋・細川家の秀才の誉れが高い次男だった。

箱田良助は、江戸へ出て伊能忠敬の筆頭内弟子天文学・測量学を学び、忠敬に伴って日本各地の測量に歩き、地図の製作にも携わって優れた数学者・測量家として世に知られように成っていた。

師・伊能忠敬が亡く成ると、箱田良助は幕臣・榎本家(家格は御徒士/おかち)の株を五十両(千両説あるも法外な値である)で買い、女子しか子が無かった榎本家の娘と結婚する事で養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称して幕府天文方に出仕する。

榎本釜次郎は、この榎本円兵衛武規(箱田良助)の次男に生まれ、幕府御用学者の父に恵まれて幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、十九歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。

その後釜次郎は、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、オランダに留学して国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国する。

帰国後、榎本武揚(えのもとたけあき/釜次郎)は軍艦頭並を経て大政奉還後の千八百六十八年(慶応四年)に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。

新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて、幕府海軍総裁・矢田堀景蔵は軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が実質的に幕府海軍を抑えていた。

将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争が起るも、開戦直後鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城に居た慶喜らは主戦派の幕臣に無断で大坂の天保山沖に停泊していた旗艦「開陽」に座乗し、榎本の率いる旧幕府艦隊は江戸へ引き揚げた。

新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに軍艦・開陽、回天、蟠竜、千代田形、輸送艦・神速丸、美嘉保丸、咸臨丸、長鯨丸の八艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。


その後新撰組副長・土方歳三は局長の近藤と伴に幕臣に取り立てられるが、徳川慶喜が征夷大将軍を辞し大政奉還、王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊する。

鳥羽・伏見の戦いが始まると、歳三は墨染事件で負傷した局長・近藤勇の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。

幕府軍艦・開陽で大阪を脱出し江戸に戻った近藤勇(こんどういさみ)と土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕府の命を受けて近藤は大久保剛、土方は内藤隼人改名して甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走、その際に意見の対立から永倉新八、原田左之助らと離別する。

その後、近藤は大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集、再起を謀っていた。

香川敬三率いる新政府軍に包囲され局長・近藤は切腹を図るが、歳三が近藤の切腹を止め、近藤勇は越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。

しかし、大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、その為総督府が置かれた板橋宿まで連行される。

近藤は板橋宿総督府でも大久保の名を貫き通したが、元新撰組隊士から御陵衛士に移った一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され捕縛された。

土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じ、歳三は江戸へ向かい勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが結局実現せず、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首されている。


新撰組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)は局長・近藤勇出頭後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一(山口二郎)に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流する。

江戸城無血開城が成立すると、歳三は江戸を脱走し秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を勤め下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させるなど転戦する。

その後壬生の戦いに敗走、新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送され三ヶ月ほど療養生活を送り、全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力する。

歳三は会津から仙台へ向かい榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、榎本武揚らと共に仙台折浜(現:宮城県石巻市折浜)を出航、蝦夷地に渡った。


薩摩藩・長州藩を中心とする勤皇派の圧力に屈した十五代将軍・徳川慶喜が、土佐藩主・山内容堂の進言に拠り千八百六十七年(慶応三年)に大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると松平容保(まつだいらかたもり)も京都守護職も廃止される。

直ちに王政復古の大号令が行われたこの頃、内戦の混乱に乗じて欧米列強国が介入して来るを恐れ、徳川慶喜を新政府に参加させる事に拠り徳川家の懐柔と温存を自説とした土佐海援隊隊長・坂本龍馬が西郷隆盛達倒幕急進派と意見対立していた。

その坂本龍馬が、土佐陸援隊長・中岡慎太郎もろとも近江屋で暗殺される。

坂本龍馬が暗殺されたのは、龍馬が提唱した「船中八策(せんちゅうはっさく)の為ではないか?」と言われている。

船中八策(せんちゅうはっさく)は、幕末維新の動乱期、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が千八百六十七年(慶応三年)六月に土佐藩船「夕顔丸」で上洛中の洋上で策定起草した「新国家体制の基本方針」とされて伝えられたものである。

だが、その船中八策(せんちゅうはっさく)の原文書も写本も現存せず詳しい成立過程も全く不明で、本当に龍馬が提唱した事実が在るかどうかも疑問視されている。

しかしながら龍馬は、徳川将軍家の新政府参加を求める諸侯側と武力による倒幕を図る薩長勢力の駆け引きの渦中に在って、徳川将軍家の新政府参加を提唱していた。

龍馬は諸外国の圧力に危機感を抱き、それに対抗する為の国内勢力を平和的に結集する為に再編成する事を目指していた。

内戦の混乱に乗じて欧米列強国が介入して来るを恐れ、徳川慶喜を新政府に参加させる事に拠り徳川家の懐柔と温存を自説とした土佐海援隊隊長・坂本龍馬が、西郷隆盛達倒幕急進派と意見対立していたのだ。

千八百六十七年(慶応三年)に成って土佐藩大監察・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は公武合体派から尊皇攘夷派に転換、尊皇攘夷派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる「新政府綱領八策(船中八策)」を聞き及んで自分の発案として前藩主・山内容堂に十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還を提議する。

武力衝突を嫌った前藩主・山内容堂は天下の大勢を読み、千八百六十七年(慶応三年)十月三日に象二郎 (しょうじろう)は容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出、十一日後の十月十四日、将軍・徳川慶喜がこれを受けて大政奉還を行う。

土佐藩前藩主・山内容堂から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、十月に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。

将軍・慶喜が大政奉還を決意した背景には、公議政体論に拠って江戸幕府に代わる「諸侯会議を招集する」とした龍馬の新政府構想案が在った。

徳川将軍家も諸侯としてその会議に参加し、国家改革の主導権を徳川家が執る事を狙った徳川慶喜の行動が、先手を打った「大政奉還(たいせいほうかん」だった。

拠って龍馬は、大政奉還後の十一月に「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数枚自筆(直筆)しており、それを持って後に通称・俗称を「船中八策(せんちゅうはっさく)」と称するなら、正式呼称は「新政府綱領八策」が正しい事になる。

その「新政府綱領八策」内容が土佐藩大監察・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から土佐藩前藩主・山内容堂(やまのうちようどう)を通じて将軍・徳川慶喜に伝わり、大政奉還を決意させた。

しかしその坂本龍馬が、土佐陸援隊長・中岡慎太郎もろとも近江屋で暗殺される。

徳川慶喜の目論みは提唱者の坂本龍馬が暗殺されて、薩長勢力が思う壺の大政を奉還しただけの一方的な結果に成った。

坂本龍馬の「新政府綱領八策(船中八策)」は上手く後藤を通じて山内容堂に徳川慶喜へ奏上させる事に成功し、「大政奉還」と言う大きな鯛を釣り上げた。

しかしながら、その気が無い薩長勢力には坂本龍馬の「新政府綱領八策(船中八策)」は土佐藩の私案に過ぎず、薩長勢力にとっては「慶喜が大政奉還をしたから」と言って徳川将軍家も諸侯としてその会議に参加させる事を同意した訳ではない。

しかし龍馬は、この「新政府綱領八策(船中八策)」の実現にある程度の確信を持って居た可能性がある。

と、すれば、もしかするとこの辺りの虚実ない交ぜの駆け引きで、薩長勢力の主だった者が龍馬には色良い感触を伝えていて土佐藩を罠に嵌めた事も考えられる。

まぁ下士(下級武士)上がりの智謀者の策略に、お殿様連中が他愛無く捻挙(ねじあ)げられたのかも知れない。



坂本龍馬暗殺から僅か一月半後、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵と幕府勢との衝突から鳥羽・伏見の戦いが起こると会津藩兵も戦うが敗走し大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱した為、容保(かたもり)はその慶喜に従い、弟の桑名藩藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)らとともに幕府軍艦で江戸へ下る。

将軍・徳川慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立するも会津藩内では武装恭順が大方の重臣の意見で在った。

もはや態勢を変えられないと悟った松平容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。

西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われると、新政府軍(官軍)は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。

松平容保(まつだいらかたもり)は隠居謹慎するが、何しろ京都見廻組や壬生浪士組(みぶろうしぐみ・新撰組/しんせんぐみ)を組織して勤皇派浪士を取り締まった会津松平藩は幕府派の重鎮と見られて新政府軍(官軍)から敵視されていた。

戊辰戦争で容保(かたもり)は、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い会津城(鶴ヶ城/若松城)に篭城する。

会津戦争に際して会津藩が組織した十五歳から十七歳の若い少年武士が、市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し総勢二十名が飯盛山自刃、十九名が命を落とした白虎隊の悲劇は、この篭城戦初期の城外迎撃戦で起こっている。

会津勢の立て篭もる会津城(鶴ヶ城/若松城)は一ヵ月の間持ち堪え、板垣退助勢に薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったがその後容保(かたもり)は降伏勧告に応じて会津城(鶴ヶ城/若松城)は開城され、家老の佐川官兵衛らに降伏を呼びかけている。

会津落城後の容保(かたもり)は妙国寺に謹慎した後、和歌山藩に移され明治五年に謹慎を説かれ、明治十三年より東照宮宮司に任ぜられた。



千八百六十八年(慶応四年)戊辰戦争が勃発し、薩長同盟の繋ぎ役を務めた黒田清隆(くろだきよたか)は、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。

同千八百六十八年(慶応四年)三月、北陸道鎮撫総督・公卿・高倉永祜(たかくらながさち)の参謀に、薩摩の黒田清隆は長州の山縣有朋とともに任命される。

北越戦争に際して清隆(きよたか)は、長岡藩を降伏させ新発田藩を降し新潟を占領して所期の目標を達し越後の戦闘が決してから秋田に上陸して庄内を背後から攻略、西郷隆盛と合流して米沢藩と庄内藩を帰順させ鶴岡城を接収してこの北越・北陸日本海方面の戦闘を終わらせた。

その任務終了後、清隆(きよたか)は一旦鹿児島に帰り、翌千八百六十九年(明治二年)一月に軍務官出仕に任命される。

箱館戦争が始まると、清隆(きよたか)は二月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、三月に東京を出港し途中、宮古湾停泊中に旧幕府軍の新政府軍・主力艦「甲鉄」奪取作戦である宮古湾海戦に遭遇している。

四月十九日日に清隆(きよたか)は蝦夷の江差に上陸して旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を取り、五月に成って旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命の為の内部工作を手配している。

五月十一日の箱館総攻撃では、清隆(きよたか)自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んで榎本武揚に降伏を勧め、武揚は十七日に降伏した。

戦後処理に於いて、清隆(きよたか)は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、彼の為に丸坊主に成った事もあり、榎本問題は二年六ヶ月を費やして千八百七十二年(明治五年)一月六日に漸く榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

その榎本助命交渉の最中も、樺太でのロシアの圧力が増した為、千八百六十九年(明治二年)八月に開拓使長官として赴任していた「七卿落ち」の公卿の一人だった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を補佐する形で、千八百七十年(明治三年)五月に清隆(きよたか)は樺太専任の開拓次官と成った。

開拓次官と成った清隆(きよたか)は七月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して十月に帰京し、二十日に建議して、樺太は3年も持たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。


箱館戦争(はこだてせんそう)は戊辰戦争(ぼしんせんそう)の旧幕府勢力の最後の抵抗で、幕藩体制清算の最終段階の戦だった。

幕臣海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)ら一部の旧幕臣は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。

恭順派の幕臣・勝海舟(陸軍総裁、後に軍事総裁)の説得で富士山丸など数隻を引渡すが、開陽丸など主力艦の温存に成功した。

榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、榎本らは開陽を旗艦として八隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦四隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送船四隻)を率いて品川沖を脱出し、仙台を目指す。

この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志(旗本)、陸軍奉行並・松平太郎(小禄幕臣から出世)などの幕臣重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など総勢二千余名が乗船していた。

榎本艦隊は出航翌日から太平洋上で悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美嘉保丸の二隻を失いながらも一ヵ月後には仙台東名浜沖に艦隊が集結し、直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに庄内藩支援の為に千代田形と陸兵約百名を乗せた運送船二隻(長崎丸・大江丸)を派遣した。

しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、松平容保の会津藩を始めとして米沢藩、仙台藩と主だった藩が相次いで降伏し、庄内藩も榎本艦隊の援軍が到着する前に降伏して東北戦線は終結する。

榎本艦隊に拠る庄内藩支援が陸兵約百名と少なかったのは、榎本には蝦夷地に禄を失った旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと言う構想が在り、本気で奥羽越列藩同盟を支援し兵を損なうのを恐れたからである。

松前藩以外の蝦夷地は、幕府直轄地だった。

十九歳で蝦夷幕府直轄地差配箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加した榎本武揚にとって、蝦夷は「魅力的な未開の地」と言う認識が在ったのだ。

榎本武揚は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。

旧幕府軍は約四千数百の兵力で、ほとんど交戦する事無く藩主が逃げ出した松前藩の箱館五稜郭などを占領し、蝦夷地を平定して蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。

新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、旧幕臣は箱館政権を樹立し総裁は入れ札(選挙)に拠って決められ、榎本武揚が総裁となった。

総裁に就任した榎本はイギリス軍艦に改めて嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺し新政府軍を派遣する。

新政府軍が蝦夷地に向かう中、旧幕府軍が江差攻略に成功した夜、天候が急変し風浪に押されて軍艦・開陽は座礁、開陽救出の為に到着した軍艦・回天と輸送艦・神速丸の内神速丸も座礁してしまう。

防衛の要となる旗艦・開陽と神速丸を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、土方歳三は馬上で指揮を執ったが、その乱戦の中銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していた。

主戦派の土方歳三が戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。

幕臣に取り立てられた近藤勇と土方歳三の夢は、幕臣として徳川家の存続に貢献し大名に出世する事だった。

その夢を、土方歳三は最後まで追って居たのかも知れない。

時の流れには個人の力など知れたもので、時代は変革を望んでいたのだ。

尚、榎本武揚(えのもとたけあき)は、後年その才を惜しむ黒田清隆(くろだきよたか)の助命嘆願活動が功を奏し明治五年に特赦出獄し、その才能を買われて新政府に登用され復権を果たし、爵位を賜って子爵に叙任されている。


函館戦争の終結に成果を挙げた黒田清隆(くろだきよたか)は千八百七十一年(明治四年)一月から五月まで米国と欧州を旅行し、米国の農務長官ホーレス・ケプロンに顧問就任を承諾させ、他多数のお雇い外国人招請の道を開いている。

米欧旅行の帰国後の十月十五日に開拓使長官・公卿・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が辞任した後は、清隆(きよたか)は次官のまま開拓使の頂点に立った。

千八百七十四年(明治七年)六月二十三日、清隆(きよたか)は陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられて同年八月二日、清隆(きよたか)は参議兼開拓長官となり、榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に官登用した。

北海道経営に携わった清隆(きよたか)は、基盤整備事業を起こし支出超過を招いて苦慮し、千八百七十三年(明治六年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。

千八百七十三年(明治六年)の征韓論に際して、参議になっていた清隆(きよたか)は内治重視の立場から西郷らに反対し、翌千八百七十四年(明治七年)の台湾出兵に際してもロシアの脅威をあげて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避ける為速やかに外交交渉に入る事を唱えている。

この千八百七十四年(明治七年)、ロシアとの交渉にあたって清隆(きよたか)は榎本武揚(えのもとぶよう)を使節に推薦して容れられ、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結にあたっている。

清隆(きよたか)本人は、千八百七十五年(明治八年)の江華島事件をきっかけに、翌年(明治九年)二月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。




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作者本名・鈴木峰晴