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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【皇統と鵺の影人 第二巻】作者本名鈴木峰晴

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第二巻

未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
源氏と勘解由小路
平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原
・(白河院政と平清盛)・(源頼朝・義経) ・(北条政子と執権

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)
・(皇国史観と集合的無意識) (日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第二巻・本章の【第一話】

源氏と勘解由小路

源平合戦(源氏と勘解由小路)

◇◆◇◆源平合戦(源氏と勘解由小路)◆◇◆◇◆

神の杜(もり)に風が渡り、木々がざわめき、陽光は東より上りて、木漏れ日が優しく影を落とす。

平安の雅(みやび)は都に暮らす貴族達の生活で、今となっては文化的歴史資料ではあるが、その時代のわずかな特権階級の人々の痕跡で、大半の民人達は雅(みやび)にも歴史にも無縁の生活を送っている。
さながら現代のヒルズ族とフリーター以上の格差社会だった事であろう。


天皇が執務と居住する宮城(禁中)が在る所を都と呼ぶ。

その皇居の内裏(こうきょだいり)は、天皇の居住区であり妻子も同居していたが、妻・妾(側室)に関して天皇は多妻制だった。

天皇の妻に関しては資格に厳格な決まりが在り、「皇后又は妃(ひ/きさき)」と呼ぶ妻の資格は「四品以上の内親王」を妻にした場合で二名以内、平安期以降の別称に「中宮(ちゅうぐう)」がある。

三位以上の公卿の娘が配偶する場合は三名以内の「夫人(ふじん/おおとじ)」があり、五位以上の貴族の娘であれば「嬪(ひん/みめ)」と呼ばれ、「嬪(ひん/みめ)」は平安期以降は女御(にょうご)とも呼ばれ四名以内と定められていた。

その他、順次地位が下がって行くが、定員十二名の「更衣(こうい)」、定員無しの「御息所(みやすんどころ)」、定員十二名の「御匣殿(みくしげどの)」などの女官も天皇の配偶者である。

いずれにしても、格(階級)さえ下げれば公式最大は三十三名プラス無限大の配偶者が天皇には認められていた。

尚、呼称・「御息所(みやすんどころ)」に関しては後に意味が転じて皇太子・親王の配偶者を称するようになった。


天皇が公の執務を司る宮城(禁中)の内側、天皇が常住し、「皇居」、「御所」などとも呼ばれる区画を「内裏(だいり)」と呼び、天皇に近侍してそこに務める女官を内侍(ないし)と呼ぶ。

内侍(ないし)は宮城(禁中)の後宮(内裏)に在った律令制に定められた役所で、奏請、伝宣、宮中の礼式等等を掌る内侍司の女官の総称で、役職位としては「尚侍(ないしのかみ/従三位相当)」二人、「典侍(ないしのすけ/従四位相当)」二人、「掌侍(ないしのじょう/従五位相当)」四人、他に「権掌侍(ごんのないしじょう)」二人と定められていた。

女官(内侍/ないし)は未婚である事が条件で、天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する役目で在ったが、皇后(中宮)・妃・夫人・嬪(ひん)などと呼ばれる天皇の「妾(側室)」は女官の中から選ぶしきたりが在り、「妾(側室)」に代わる存在でも在った。

つまりお定め上、内裏(だいり)の女官は寵愛の有無に関わらず最初からお召し自由の天皇の妾妻だった。

血統至上主義の皇統に在って止む得ない事だったのかも知れないが、皇居内裏(こうきょだいり)は天皇独占のハーレムだった事になる。


平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。

そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階級として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。



平安中期、俘囚(ふしゅう)に置いた蝦夷族(えみしぞく)に拠る反乱は散発するものの、蝦夷地(えぞち/北海道)を除いてほぼ日本列島を掌握した大和朝廷は貴族文化と摂関政治(せっかんせいじ)の時代を迎えつつ在った。

摂関(せっかん)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)の二つの役職の事で、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や百官の最上位・関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)と呼ぶ。

天皇君主制を取る国家に於いて、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行う事ができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)事、またはその役職を摂政(せっしょう)と言う。

摂政(せっしょう)には、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、或いは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。

この場合の摂政(せっしょう)は、君主の成人や病気の快癒に拠って解任され得る性質のものである。

しかし関白(かんぱく)はそうした一時的処置と違い、律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位(百官の最上位)としてズバリ天皇が健在で在っても代わりに政治を行う職である。

関白位(かんぱくい)は、形式上は天皇が実務を任せる形ではあるが治世運営上の実質的最高責任者でその権限は強力だった。


藤原北家・良房流一族が、代々この摂関政治(せっかんせいじ)を世襲する足掛かりを築いたのが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)の父・追贈太政大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/右大臣・藤原内麻呂の子)である。

冬嗣(ふゆつぐ)の立身のきっかけは、二十一歳の時に賀美能親王(かみののしんのう/後の嵯峨天皇)の春宮大進(皇太子の家政一般役・序列三位)を就任し信頼を得た事で、後に序列二位の春宮亮(とうぐうのすけ/春宮坊の次官)に昇進している。

その賀美能親王(かみののしんのう)が、二十三歳で五十二代・嵯峨天皇(さがてんのう)として即位し、冬嗣(ふゆつぐ)は即位の日に正五位下、翌日には従四位下に越階昇叙する。

因(ちな)みに、皇太子の事や住居を東宮(とうぐう)と呼ぶのは天皇の御所の東側に在ったからで、春宮と書いて「とうぐう」と読むのは東が「春」の方位だからである。

帝御所(天皇)・東宮御所(皇太子)・中宮御所(皇后)には、それぞれの住居身辺を警備する為に交代で宿直(とのい)をする役目が存在した。

春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)や春宮亮(とうぐうのすけ)にも宿直(とのい)と言う職務が在り、宿直(とのい)は宮中や役所に泊まり込んで夜間の警備をする事、または夜に貴人の傍(そば)に控えて相手をする事でもあり、気心が通じなくては勤まらない。

皇統を継ぐ春宮(しゅんぐう/とうぐう)の主な仕事は子創りであり、冬嗣(ふゆつぐ)が春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)の職に就いた時、賀美能親王(かみののしんのう)は二十歳(はたち)とお盛んな時であるから、一歳年上の冬嗣(ふゆつぐ)が、その良き相談相手として信を得た事は想像出来る。

この次期天皇や次期藩主に息子を側近として付けるのは古典的な方法だが、付けられる方の選択肢は狭いから数少ない中から信じるに足る者を選ばねばならない。

つまり嵯峨天皇(さがてんのう)にとって藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は最も信頼出来る側近であり、叙任や朝廷人事に天皇の個人的な意向が反映されている点で至極人間臭い人事だったのである。

右大臣・藤原内麻呂の子・冬嗣(ふゆつぐ)は時の天皇・嵯峨(五十二代・桓武朝流第三代)の一歳年上の側近として信頼が厚く、嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭(くろうどのかみ)となった。

蔵人(くろうど/くらんど)とは天皇の秘書的役割を果たす官職で、日本の律令制下の令外官の一つである。

そもそもの蔵人所(くろうどどころ)の設置には、八百九年(大同四年)に即位した嵯峨天皇(さがてんのう)と皇位を譲位した兄・先帝・平城上皇との確執が背景に在った。

先帝・平城上皇は、平城太上天皇の変(薬子の変/くすこのへん)を起こすなど皇位復帰を画策していた。

為に嵯峨天皇は、翌八百十年(大同五年)に兵を動かして平城上皇を出家に到らしめる。

また、平城上皇側に機密がもれないようにする目的で、新たな秘書役として藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を蔵人頭に、清原真野(きよはらのまの)らを蔵人に任命したのが始まりである。

蔵人所の名目上の責任者「別当(べっとう)」は大臣一名が兼任し、詔勅を各省に伝達する役目だった。

実務上の責任者「蔵人(くろうど)の頭(とう/かみ)」には、二名が選任された。

文官として太政官職の中弁から一名が補任されて「頭弁(とうのべん)」と呼ばれ、もう一名は武官として近衛中将から補任され「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれた。


蔵人(くろうど)が控える蔵人所(くろうどどころ)は、内裏校書殿(だいりきょうしょでん)の北部に置かれ、元々天皇家の家政機関として事務を行う場所の事を指し、書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱った。

何しろ蔵人(くろうど)は天皇の秘書的役割(側役・側近)の立場で、良くも悪くも天皇の意向に直結する部署である。

やがて蔵人所(くろうどどころ)は、訴訟にこそ関与しなくなるが侍従や少納言局や主鷹司など他の組織の職掌を奪って行き、詔勅、上奏の伝達や、警護、事務、雑務等殿上に於けるあらゆる事を取り仕切る機関となった。

平安時代中期になると内豎所・御匣殿・進物所・ 大歌所・楽所・作物所・御書所・一本御書所・内御書所・画所など「所」といわれる天皇家の家政機関一切をも取り扱うようになって権力は集中して行く。


藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、八百十年に嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任した事に家勢の上昇が始まった。

その後の冬嗣(ふゆつぐ)は嵯峨天皇の下で急速に昇進し、既に十年近く前に参議となっていた藤原式家の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)をも追い越し大納言として台閣(たいかく/政策決定機関・議政官)の長と成り、最終的には父・内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ、北家隆盛の基礎を築いた。

その冬嗣(ふゆつぐ)の子・藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、「承和の変」に於いて伴・橘両氏及び藤原式家を失脚させて八百五十七年に人臣として初めて太政大臣に就任する。

また、良房(よしふさ)は文徳天皇(もんとくてんのう/五十五代)に娘を嫁がせ、その結果五十六代・清和天皇(せいわてんのう)が誕生し、良房(よしふさ)は天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築き、八百六十六年には「応天門の変」に於いて伴・紀両氏を失脚させ、人臣として初めて摂政(せっしょう)へと就任する。

この藤原良房(ふじわらのよしふさ)の、娘を天皇家に嫁がせて次代の天皇と母系的繋がりを持つ手法は藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなって摂関政治(せっかんせいじ)体制を確立して行った。



古代豪族・滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇(第五十六代)の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や滋野東人・楢原氏(ならばらうじ/紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

古代豪族・紀(き)氏系流・深井氏に、清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が入る形で滋野(しげの)氏は成立している。

滋野氏と婚姻関係を結んだのは貞元親王(さだもとしんのう)ではなく弟の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)であると言う説もあり、「続群書類従」では貞元親王(さだもとしんのう)ではなく貞保親王(さだやすしんのう)としている。

しかし、当の白鳥神社で祀られているのは何故か貞元親王(さだもとしんのう)である。

この点、醍醐天皇(第六十代)から滋野姓を賜った善淵王(よしぶちおう)が禰津西宮(ねずさいぐう)に四之宮権現として祖父を祀っている事からすると、第三皇子の貞元親王(さだもとしんのう)ではなく第四皇子の貞保親王(さだやすしんのう)と言うのが正しいと想われる。

つまり清和天皇の第四皇子に貞保親王(さだやすしんのう)と言う人物がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれていた。

その貞保親王(さだやすしんのう)は琵琶の名手とされていて、宮中で琵琶を弾いていた時にその音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り糞をし、その糞が皇子の眼に入って、眼病になった。

為に加沢の温泉に眼病治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏と伝えられて居る。

この清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)と第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が信州上田の地で錯綜した伝説として定着している。

つまり信州上田地方・東部町禰津(ねず)の地、貞元親王(さだもとしんのう)の陵に把つた神社が山陵宮獄神社と言い、貞元親王(さだもとしんのう)が第三皇子にも拘らず四ノ宮権現とも言っている。

東部東深井深井正、深井信司氏の系図に拠ると、四ノ宮と言うのは貞元親王(さだもとしんのう)が清和天皇の「第四の二皇子と言う意味」としているが、別の「続群書類従」では貞保親王(さだやすしんのう)とあり、それならば四ノ宮権現の意味が判る。

上田市・田町に配当屋と言う物が在ったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をする所であり、ここの管理は「深井氏が永くしていた」と言う。

第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が琵琶演奏の名手であり、禰津(ねず)の四ノ宮権現の前には巫女が沢山いた事、下之条の両羽神社にも巫女がいた事などから察するに、貞元親王の末と称する滋野氏なるものは芸能を伝える仕事をもって広域に広まって行った者達かも知れない。

この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、神社=神楽=巫女舞い=芸能=神前娼婦(巫女)の図式が成立していた。

滋野氏流海野氏からは、望月氏・禰津(ねず)氏・ 真田氏らが分かれ、さらに会沢・塔原・田沢・矢野・岩下などの諸氏が分出した。

滋野姓禰津氏族・浦野氏については禰津氏の後裔説、海野氏の後裔説、清和源氏満政流・浦野氏説など諸説がある。



平安時代初期の八百六十四年(貞観六年)から八百六十六年(貞観八年)にかけて発生した富士山の大規模な噴火活動を貞観大噴火(じょうがんだいふんか)と言う。

この噴火は、山頂から北西に約十キロメートル離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火で、長尾山他二〜三のスコリア丘(単成火山)を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。

噴出物の総量は約七億立方メートルにも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。

江戸時代中期の千七百七年(宝永四年)に起きた宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と伴に、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火の内で最大規模とも言われている。

なお、、九世紀半ばまで日本の富士山北麓に在った湖でこの噴火で埋没した「剗の海(せのうみ)」の残片が現在の富士五湖の内の二つ、西湖と精進湖である。

また、富士山の北西に位置する青木ヶ原樹海は、この噴火の溶岩流の上に千二百年の時を経て再生した森林地帯である。

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)は、日本の首都が平城京から長岡京を経た末に平安京に落ち着いてちょうど七十年目にあたる年である。

朝廷では清和天皇の外祖父・藤原良房が皇族以外で初の摂政に就任し、後の藤原北家繁栄の礎を築きつつあった。

良房は二年後の八百六十六年(貞観八年)、応天門の変に於いて大納言・伴善男(とも のよしお/大伴氏)を流罪に追い込み、その権勢を一層磐石とする。

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)は、大和朝廷(日本の首都)が平城京から長岡京を経た末に平安京に落ち着いてちょうど七十年目にあたる年である。


実はこの「貞観(じょうがん)の富士山大噴火」から五年後に、奥州三陸地方で貞観大地震(じょうがんだいじしん)が発生している。

この事から、日本列島の地殻活動期として火山噴火と大地震は何らかの繋がりが在りそうである。

歴史書「日本三代実録」に、その日本最古の大地震・貞観大地震(じょうがんだいじしん)の記録がある。

平安時代の八百六十九年に奥州太平洋岸にて発生した貞観地震(じょうがんじしん)は、当時の歴史書「日本三代実録」に、「海は猛(たけ)り吼(ほ)え、津波が怒濤(どとう)のように多賀城下に押し寄せ、千人がおぼれ死んだ」と記述がある。

当時の海岸から約五キロ内陸の多賀城跡(宮城県多賀城市)周辺では道路が寸断された跡が見つかり、仙台市などでは津波で運ばれた堆積物もあった。

八百七十八年(元慶二年十一月一日)には関東南部でマグニチュード七・四以上の直下型大地震・元慶地震が発生、奥州鎮撫の拠点である相模国・武蔵国が混乱する。

日本の元号の一つ「元慶(がんぎょう、げんけい)」は、清和天皇(せいわてんのう/第五十六代)の第一皇子・陽成天皇(ようぜいてんのう/第五十七代)と、続く光孝天皇(こうこうてんのう/第五十八代)の御世である。

元号としては貞観(じょうがん)の後、仁和(にんわ)の前にあたり、八百七十七年から八百八十五年までの八年間を指す。

この貞観(じょうがん)から仁和(にんわ)にかけての時代は、元慶(がんぎょう)も含めて地殻変動が活発な時期だった。


この元慶地震、伊勢原台地の西南端、平塚市岡崎丸島の平野で行われたボーリングにより明らかにされた「伊勢原断層の活動ではないか」と考えられている。

元慶地震の混乱に乗じて出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)が反乱し、秋田城等を焼く元慶の乱(がんぎょうのらん)が勃発、鎮圧に五〜六ヵ月を要している。

この出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)の反乱、立場の違いで朝廷側に言わせると反乱だが、蝦夷の俘囚側にすれば部族抵抗の聖戦である。

つまり七百八十年代以降に桓武天皇の命で坂上田村麻呂が制圧した東北の蝦夷も、この頃はまだ隙あらば抵抗している最中だった。

この年(元慶二年)、朝廷の統治組織として地方官任命交代をスムースにさせる為の令外官・押領使が新設されている。


平安中期の八百八十七年(仁和三年)に起こった仁和大地震では、日本三代実録に「都(京都)の建物は倒壊し圧死する者多数在り、海岸には海潮(津波)が押し寄せ無数の人がおぼれ死んだ。

大阪湾岸も「津波被害が甚大だった」と記録があり、更に「東海から四国にかけて甚大な被害があった」と言う。

仁和地震後、臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ)が定省親王(さだみしんのう)に服して第五十六代天皇に即位し・宇多天皇(うだてんのう)となり、 藤原基経が初の人臣関白に就いている。


平安中期の中央政治に於いて目立つ事は、藤原北家流・藤原基経(ふじわらのもとつね)、藤原時平(ふじわらのときひら)親子と中流学者貴族・菅原流(すがわらりゅう)出自の菅原道真(すがわらのみちざね)の存在である。

関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)は、左大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の長男・藤原長良(ふじわらのながよし)の三男である。

基経(もとつね)は、摂政で在った叔父・藤原良房(ふじわらのよしふさ)の養子となり、養父・良房(よしふさ)の死後摂、政関白太政大臣まで昇り詰め、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代に渡り朝廷の実権を握った実力者だった。


主人公となる藤原時平(ふじわらのときひら)は、当時権勢を極めていた藤原北家流・関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の長男である。

父の藤原基経(ふじわらのもとつね)は陽成天皇(ようぜいてんのう/五十七代)を廃し、仁明天皇(にんみょうてんのう/五十四代)の第三皇子・時康親王(ときやすしんのう)を擁立して光孝天皇(こうこうてんのう/五十八代)と為し、自らは太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた為に光孝天皇は常に基経(もとつね)の意を迎えていた。

何度も繰り返された事だが、天皇を蔑(ないがし)ろにする大逆臣も次の天皇を創ってしまえばその天皇にとっては恩義在る大忠臣になる。

結局の所この国では、天皇の権威を利用する事が権力掌握の最善策だった。


八百八十六年(仁和二年)、時平(ときひら)元服に際して、光孝天皇(こうこうてんのう)は参議・橘広相(たちばなのひろみ)が起草した告文を持って宮中でも最も重要な仁寿殿で式を執り行わせ、自ら加冠の役を果たし、この十六歳の少年に正五位下を授けている。

その後、藤原時平(ふじわらのときひら)は光孝天皇(こうこうてんのう/五十八代)の贔屓を得て従四位下に進み、右近衛権中将となる。


八百八十七年(仁和三年八月二十六日)、「仁和地震(東海 東南海 南海連動?)」が発生する。

仁和地震の推定マグニチュードは八〜八・五 、京都で民家、官舎の倒壊に拠る圧死者多数で特に摂津国での被害が大きかった。

「日本三代実録」にある畿内の甚大な被害記録は南海地震を示唆するが、五畿七道諸国大震とも記録され、地質調査によると東海 東南海地震も「同時期に発生した」と考えられる。

この地震の痕跡として、静岡県富士市浮島ヶ原低地に於ける断層活動に拠る水位上昇痕が「痕跡として相当する」とされている。

ちょうど強力に成り過ぎた藤原氏の勢力をけん制・対抗する為に、宇多天皇(うだてんのう)が菅原道真(すがわらのみちざね)を重用した頃の出来事だった。


さて、もう一方の主人公・菅原道真(すがわらのみちざね)であるが、菅原氏(すがわらうじ)は道真(みちざね)の曾祖父・菅原古人(すがわらのふるひと)の時に土師氏(はじうじ)より氏を改め、土師宿禰(はじのすくね)から菅原宿禰(すがわらのすくね)、後に菅原朝臣(すがわらのあそみ)に昇った。

道真(みちざね)の祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)と父・菅原是善(すがわらのこれよし)はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。

父・菅原是善(すがわらのこれよし)は祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)の四男で、菅原道真(すがわらのみちざね)は父・是善(これよし)の三男だった。

八百七十七年(元慶元年)、菅原道真(すがわらのみちざね)は式部少輔に任ぜられ、同年家の職である文章博士を兼任する。

つまり道真(みちざね)は、菅原氏(すがわらうじ)の系図に於いても嫡流外に生まれ、当初は家の格に応じた職に着いていた。

二年後の八百七十九年(元慶三年)、道真(みちざね)は従五位上に叙せられ、七年後の八百八十六年(仁和二年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し任国・讃岐へ下向、四年後任地讃岐国より帰京している。

その頃、光孝天皇(こうこうてんのう)は病を得て、臣籍降下(しんせきこうか)させていた子息・源定省(みなもとのさだみ)を親王に復し、急遽立太子させた。


宇多天皇(うだてんのう/五十九代)も、陽成天皇(ようぜいてんのう/五十七代)と実力者の関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の主導権争いに翻弄されて数奇な運命を辿った人物である。

光孝天皇(こうこうてんのう/五十八代)の第七皇子・定省親王(さだみしんのう)は、藤原基経(ふじわらのもとつね)に廃され上皇となった陽成(ようぜい)を納得させる条件として光孝天皇(こうこうてんのう)の践祚(せんそ)に際して臣籍降下していた。

定省親王(さだみしんのう)は臣籍降下に際して源氏の姓を賜って源定省(みなもとさだみ)を称し、つまり光孝朝の親王からは立太子せず、一代限りと言う形式を踏んでいた。

所が、陽成上皇(ようぜいじょうこう)が健在の内に光孝天皇(こうこうてんのう)が病を得て情況が変わり、慌てた藤原基経(ふじわらのもとつね)の後押しで、基経(もとつね)の異母妹である尚侍・藤原淑子の猶子(ゆうし/養子)・源定省(みなもとさだみ)は急遽皇族に復帰して皇太子に立てられる。

この処置、皇族復帰翌日の立太子、同日、「先帝・光孝天皇(こうこうてんのう)の病没と定省親王(さだみしんのう)の践祚(せんそ)」と言う慌しさだった。


この皇族復帰した定省親王(さだみしんのう)が宇多天皇(うだてんのう)として即位するが、宇多天皇は先帝に引き続いて父・基経(もとつね)に大政を委ねて初めて関白に任じ、時平(ときひら)は蔵人頭に補せられる。

所が、詔の「阿衡」の文字を巡って宇多天皇(うだてんのう)と基経(もとつね)が紛糾し、最後は基経(もとつね)が宇多天皇(うだてんのう)に自らの誤りを認めさせる詔を出させ藤原氏の権勢を示した。

だが、これでは宇多帝が面白い筈は無い。
この「阿衡事件」と呼ばれる事件が起きて宇多天皇と藤原氏一族との間でしこりの芽が生まれる事となる。


菅原道真(すがわらのみちざね)の才に目を着けた宇多天皇(うだてんのう/五十九代)が、皇統の外戚として権勢を振るいつつ在った藤原氏を牽制する意図も在って登用する。

道真(みちざね)にとって幸運だったか不幸だったかは定かではないが、宇多天皇(うだてんのう)に藤原氏の権勢を牽制する思惑が無かりせば、如何に優秀な道真(みちざね)で在ってもそこまでの栄達は望めなかったかも知れない。

登用された道真(みちざね)は宇多天皇(うだてんのう)の信任を受け、以後要職を歴任する事になる。


道真(みちざね)は、八百九十一年(寛平三年)蔵人頭に補任され、ついで式部少輔と左中弁を兼務し、翌年、従四位下に叙せられ左京大夫を兼任、さらに翌年には参議式部大輔に補任され、左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任され出世の階段を一気に登って行く。

八百九十四年(寛平六年)、道真(みちざね)は遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止される。

翌八百九十五年(寛平七年)には従三位権中納言に叙任、春宮権大夫を兼任して道真の長女・衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、翌(寛平八年)には民部卿、八百九十九年(寛平九年)には宇多天皇(うだてんのう)の子・斉世親王(ときよしんのう)の妻に娘を嫁している。

藤原時平(ふじわらのときひら)も昇進を続け、寛平年間の初めに昇任し讃岐権守を兼ね従三位に昇るも、八百九十一年(寛平三年)になると父・基経(もとつね)が死去してしまう。

父の死の時点で時平(ときひら)はまだ年若く、宇多天皇(うだてんのう)は藤原摂関政治を避けて親政を始め、皇親である源氏や学者の菅原道真(すがわらみちざね)を起用する。

宇多天皇(うだてんのう)にとっては藤原氏を牽制する絶好の親政の機会で、時平(ときひら)を参議とするが藤氏長者には右大臣となっていた大叔父の藤原良世を任じ、同時に仁明天皇(にんみょうてんのう/五十四代)の孫・源興基(みなもとのおきもと)を起用する。

二年後の八百九十三年(寛平五年)には時平(ときひら)とは血縁のない敦仁親王を東宮に定め、時平の外戚への道を封じて優れた学者として知られる菅原道真(すがわらみちざね)を参議に起用し、着々と藤原氏一族の弱体化を謀る。

八百九十九年(寛平九年)、宇多天皇(うだてんのう)は道真(みちざね)を引き続き重用するよう強く求めた後に醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位し、藤原時平(ふじわらのときひら)と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。


菅原道真(すがわらのみちざね)は、正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。

それでも藤原北家の直系である時平は排斥される事はなく、左右衛門督、検非違使別当を経て中納言に任じられ、右近衛大将、春宮大夫を兼ね、次いで大納言に転じ、左近衛大将を兼ね、蔵人所別当に補し正三位に叙すなど順調に昇進した。

その藤原時平(ふじわらのときひら)に転機が訪れる。

八百九十七年(寛平九年)、宇多天皇(うだてんのう)が譲位して上皇となり第一皇子・維城親王(これざねしんのう)を醍醐天皇(だいごてんのう/六十代)として即位させ、時平(ときひら)を空位となっていた藤氏長者としている。

宇多法皇(上皇)は新帝・醍醐に「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。その為に顧問を備えて、宜しく輔導すべきである」と戒めた為、醍醐天皇(だいごてんのう)は権大納言の道真(みちざね)を起用して、時平(ときひら)とともに内覧を任せた。

八百九十九年(昌泰二年)、菅原道真(すがわらのみちざね)は右大臣に昇進し右大将を兼任、二年後の九百一年(延喜元年)従二位に叙せられ、一方の時平(ときひら)は左大臣兼左近衛大将となるが、同時に道真も右大臣となり両者並ぶも学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。

時平(ときひら)は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真(みちざね)が異を唱えて両者は対立するようになる。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真(みちざね)の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。

道真(みちざね)は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう助言する。

これを知った時平(ときひら)の心中は穏やかで居られる訳もなく、二年後の九百一年(延喜元年)に大納言・源光と謀り、道真(みちざね)が醍醐天皇から皇位の簒奪を謀り「娘婿・斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとした」と誣告(ぶこく/罪無き虚偽の申告)する。

醍醐天皇(だいごてんのう)がこれを信じた為、道真(みちざね)は罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、九州大宰府に落とされる。


大宰府(だざいふ)は和名を「おほ みこともち の つかさ」とされ、別名を「総領(そうりょう)」とも呼ばれた。

大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、言わば広地域地方行政長官である。

大宝律令以前、広地域地方行政府は吉備大宰(六百七十九年/天武天皇八年)、周防総令(六百八十五年/天武天皇十四年)、伊予総領(六百八十九年/持統天皇三年)などが在った。

しかしこれらの広地域地方行政府は大宝令の施行とともに廃止され、七世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関大宰の帥(大宰府)のみが残された。

九州の大宰府は、七百一年の大宝律令に拠って政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えて良い。

大宰府(だざいふ)は、大宝令の施行以前に於いて「筑紫総領(つくしそうりょう)」とも表記されているが、多くの史書では太宰府と記され、現在でも地元は太宰府「だざいふ」を使っている。

現在、遺跡は国の特別史跡とされ、その想定範囲は現在の太宰府市及び筑紫野市に当たる。

なお現在の史跡は、地元では「都府楼跡(とふろうあと)」或いは「都督府古址(ととくふこし)」などと呼称される事が多い。


平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。

都市名や菅原道真を祀る神社・太宰府天満宮では「太宰府」と言う表記を用い、単に「宰府」と略す事もある。

長官は大宰帥(だざいのそち)と言い従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていた。

平安時代には皇統の親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥(だざいのごんそち)が実際の政務を取り仕切った。

帥(そち)・権帥(ごんそち)の任期は五年だったが、道真(みちざね)の様に大臣経験者が大宰帥(だざいのそち)に左遷された場合は実務権限は無かった。


この左遷を聞いた宇多上皇(うだじょうこう/法皇)は醍醐天皇(だいごてんのう)に面会してとりなそうとしたが醍醐天皇は面会せず、道真(みちざね)長男・高視を初め、子供四人が流刑に処されている。


元々権力者ほどその権力を失う事に最大の恐れを抱くから常に周囲には懐疑的であり、そしてその恐れは身近の実力者に及ぶ。

例え冤罪(えんざい/ぬれぎぬ)でも、一度誣告(ぶこく/罪無き虚偽の申告)されると、日本の古典的な法的取調べ処置は永い事「証人の証言の採用」と「拷問自白型」だったから、悪意の証言を採用してしまうケースも多かった。

しかしその身近の実力者も五十歩百歩で、気を緩めると「天皇の首のすげ替え」さえも画策する。

重臣に力を持たれてしまうと例え天皇でもどうにもならず、つまりいつの世も素直に天皇の権威を認めていたのは下々の者だけで、日本の永い皇統の歴史は天皇の権威を利用する為だけの時の実力者に翻弄され続けた歴史でもある。

この事件の背景については、藤原時平(ふじわらのときひら)による「全くの讒言」とする説から宇多上皇(うだじょうこう/法皇)と醍醐天皇(だいごてんのう)の対立に道真(みちざね)が「巻き込まれた」とする説まで諸説ある。

尚、この宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り臣籍に降下して宇多源氏流となり、平安期に近江を地盤とした武家・佐々木氏、また佐々木六角氏や佐々木京極氏を排出した。

但し佐々木氏には、古代から平安時代中期まで近江の国に勢力を持っていた阿部臣・沙沙貴山君(ささきやまのきみ)後裔説、や宇多源氏流佐々木氏と沙沙貴山君(ささきやまのきみ)の同化説などがある。


現在は学問の神として親しまれる菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安時代に学者高級官僚として宇多天皇に重用され昇進し、醍醐朝では右大臣にまで昇ったが、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。

菅原道真(すがわらのみちざね)の左遷任地での没後、天変地異が多発した事から、「朝廷に祟りを為した」とされ、天満天神として信仰の対象となる。

菅原道真(すがわらのみちざね)は左遷の地・九州大宰府で薨去して同地に葬られ、後に太宰府天満宮として祀られている。

道真(みちざね)が都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」は有名である。

左大臣兼左近衛大将・藤原時平(ふじわらのときひら)は、道真(みちざね)を左遷させて政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、道半ばの三十九歳の若さで死去した為にその早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。

この頃坂東(関東)で活躍した武人に藤原利仁(ふじわらのとしひと)が居る。

藤原利仁(ふじわらのとしひと)は、平安時代中期の代表的な武人として伝説化され多くの説話が残され、藤原秀郷(ふじわらひでさと)と並んで藤原氏の武家社会への進出を象徴する人物と言える。

利仁(としひと)の家は藤原北家魚名系流で、祖父・藤原高房(ふじわらのたかふさ)は受領を歴任したほか盗賊の取締りで名を上げ、父は中納言・藤原山蔭の同母兄弟にあたる民部卿・藤原時長(ふじわらのときなが)である。

藤原利仁(ふじわらのとしひと)左近将監などを経て、九百十一年(延喜十一年)上野介となり、翌年に上総介に任じられた他下総介や武蔵守など坂東(関東)の国司を歴任する。

その間の九百十五年(延喜十五年)に、利仁(としひと)は下野国高蔵山で貢調(こうちょう/貢物)を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめてこの年に鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であった。

利仁(としひと)の後裔を称する氏族は多く、利仁(としひと)次男・藤原叙用(ふじわらののぶもち)が伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)を務め、「斎宮頭(さいぐうのかみ)の藤原=斎藤」を名乗って斎藤氏の祖となる。

その斎藤叙用(さいとうのぶもち)の孫・斎藤忠頼(さいとうただより)が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、利仁流・牧野氏の祖となり、また加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。

同じく叙用(のぶもち)の孫・斎藤為時(さいとうためとき)の家系からは吉田氏、前田氏、斎藤尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、斎藤重光から加藤氏が出、加藤氏は鎌倉幕府の有力御家人に成り、美濃国・遠山荘を領有した事から遠山氏が出る。

尚忠流・美濃斎藤氏は美濃守護・土岐氏の守護代を勤めた後名跡を斉藤道三に奪われ、道三は下克上で土岐氏から美濃国を奪って戦国大名に伸し上った。

藤原時平(ふじわらのときひら)の死後、藤原北家の嫡流は弟の藤原忠平(ふじわらのただひら)とその子孫へ移って藤氏長者となり、時平流は中央権力から遠退いて行った。

そして藤原忠平(ふじわらのただひら)の時代に入ると、関東一帯で平将門(たいらのまさかど)が、瀬戸内地方一帯で藤原純友(ふじわらのすみとも)が乱を起こす「血統の権威が綻(ほころ)びを見せ始めた」とも言える承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱を迎える事になるのだ。


平安中期の大乱・「承平天慶の乱」勃発時に朝廷で鎮圧の最高指揮を執ったのが藤原忠平(ふじわらのただひら)である。

藤原忠平(ふじわらのただひら)は、藤原北家流・関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の四男として生まれ、春宮大夫兼左兵衛督、検非違使別当、権中納言、蔵人別当兼右近衛大将と順調に昇任した。

忠平(ただひら)が任じた大和政権に於いて別当(べっとう)は、読んで字の如く「別に当てる」と言う令外官の官職名である。

太政大臣(一位相当/非常設空位あり)、左大臣・右大臣(二位相当)、大納言(正三位相当)などの太政官、中納言と参議を加え議政官などの本官を別に持つ者が、他の管轄の役職を持つ場合にそれを補佐する役職名として別当を使い、 律令制度の下で令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの兼職担当責任者を指す。

機関の統括責任者ではあるが、兼職であるから所内部の実務については官職・頭(かみ)が指揮しており別当(べっとう)はその運営に直接関与しなかった。

例えば、検非違使(けびいし)別当は検非違使庁そのものは統括するが検非違使(けびいし)ではなく、同様に蔵人所別当(くろうどどころべっとう)も蔵人所を統括するが蔵人(くろうど)ではなかった。

別当は朝廷内に在っては対外的な担当責任者であるとともに、天皇と太政官との連絡にあたったもので、後には一部の寮・司にも別当が設置された。

尚、朝廷組織とは別に、鎌倉幕府に於いて武官の総責任者(長官)を侍所別当(さむらいどころべっとう)、文官の総責任者を政所別当(まんどころべっとう)、公文書の総責任者(長官)を公文所別当(くもんじょべっとう)とした役職名も存在した。


父・基経(もとつね)の後を継いで出世の階段を昇り始めたのは長兄・藤原時平(ふじわらのときひら)だったが、時の天皇・宇多(うだ)は摂関を置かずに親政を目指して学者の菅原道真(すがわらみちざね)を登用、長兄の時平(ときひら)らと政治を主導する。

その宇多天皇が八百九十七年(寛平九年)に譲位して醍醐天皇が即位すると、兄・時平(ときひら)は左大臣、道真(みちざね)は右大臣に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真(みちざね)は失脚する。

長兄・藤原時平(ふじわらのときひら)は政権を握り諸改革に着手するが、九百九年(延喜九年)に三十九歳で早世、幼くして聡明で知らた忠平(ただひら)は次兄の仲平を差し置いて藤氏長者として嫡家を継ぎ、藤原北家流はその後は忠平(ただひら)の系流に移った。

忠平(ただひら)の妻・源順子は宇多天皇の皇女(養女説在り)であり、宇多天皇側近であった菅原道真とも親交が在り、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたとも伝えられている。

病弱の醍醐帝に代わって宇多法皇(上皇)が国政に最関与を始めた時、藤原忠平(ふじわらのただひら)は宇多法皇(上皇)の推しで出世を早めている。

以後、忠平(ただひら)は醍醐天皇の下で出世を重ね、大納言に転じて左近衛大将を兼ね、五年後の九百十四年(延喜十四年)に右大臣、その十年後の九百二十四年(延長二年)には左大臣となる。

左大臣に昇って六年、醍醐天皇は病が篤い為に第十一皇子・寛明親王(ゆたあきらしんのう/朱雀天皇)に譲位、朱雀天皇は、譲位して上皇と成った醍醐から「左大臣・藤原忠平の訓を聞く事」と諭されている。

新帝・朱雀が幼少である為に基経(もとつね)の没後は久しく置かれなかった摂政関白位を再開、忠平(ただひら)が摂政(せっしょう)に任じられる。

この忠平(ただひら)摂政時代の九百三十九年、過っての忠平(ただひら)家人・平将門(たいらのまさかど)と藤原北家一門の遠戚である藤原純友(ふじわらのすみとも)による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧されている。

九百四十六年(天慶四年)朱雀天皇が元服し為、忠平(ただひら)は摂政を辞すが、朱雀帝に詔され引き続き万機を委ねられ関白に任じられた。

三十五歳若さで臣下最高位に昇り詰めた藤原忠平(ふじわらのただひら)は、死去するまでの三十五年間もその地位を維持し、村上天皇の初期まで長く政権の座に在った。



氏族の価値観は日本列島に渡り来た時からまずは部族の生きる土地を獲得する事で、それは名誉欲、支配欲を武力で勝ち取る事である。

勿論、現代の様に甘っちょろい建前の「懸命に生きる」では無く、この時代の氏族(武士)が「懸命に生きる」と言う事は、文字通り「命懸け」で生きる事だった。

時代背景に於いて、「懸命に生きる(命懸け)」は氏族(貴族・武士)に生まれた時からの重い宿命で、その厳しい生き方に共感を覚える現代人も多いだろうが、それは日本列島の住人の支配者側だけの史実だった。

つまり後世の歴史物語に現れるのは、その時代の代表的な選ばれし一部で、移し世の全体像ではけしてない。

事の大小軽重はともかく、人間生きていればそれなりのドラマはある。

庶民にも波乱万丈のドラマはある筈なので、我輩としては庶民の生き様も知りたい所だが、そうした記録は残らない。

何しろ基本的に、文字は長い事氏族の間のもので、「氏族だけが独占使用するものだった」から庶民には学ぶ術が無かった。

それで残念ながら、古い文書に庶民のささやかなドラマは書き残されては居ない。

増してや、歴史と言う大枠の中では庶民の小さなドラマなど「取るに足らないもの」になってしまう。

ただし、この取るに足らない部分に隠された庶民に対する為政者の悪事は、「数多くなされて来た」と理解すべきである。


何度も言うが、征服氏族の争う理由は神代からずっと領地の拡大と覇権である。

これは彼らが、勝手に「未開の地」と称した日本列島に、新天地を求めて進入して来た征服部族を先祖に持つ人種だったからである。

この氏族の覇権思想、何やら後世にネイティブアメリカン(アメリカインディアン)から米大陸を奪取して、未だに武力覇権思考で世界中をかき回している「米国の感性」と良く似ていそうである。


戦後間もない頃、復興日本は映画娯楽が全盛で、米国から西部劇と言われる米大陸開拓の映画が盛んに封切られた。

大陸移民が困難に遭いながらも新しい大地で生活の基盤を創る映画だが、その中に原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)との抗争が描かれている。

欧州からの開拓移民家族が原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)に襲われ、勇気ある市民や騎兵隊がそれを救う筋立てだが、近頃はめっきりそうした映画をハリウッドは作らなくなった。

何故ならば、原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)の土地を勝手に切り取り強盗をしたのは欧州からの開拓移民の方だからで、開拓時代の熱気が冷めた今ではその正当性を映画で主張するのは難しいからである。

つまり原住民・アメリカンインディアン(ネイティブアメリカン)側からすれば侵略者へのレジスタンスで、一方的に白人正義を描く当時の西部劇映画には怪しい意識操作の意図を感じるのである。

これは遥か昔の日本列島で、渡来氏族(征服氏族)が原住民・縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の土地を奪い、西日本列島を支配する大和朝廷(ヤマト王権)を打ち立て、縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を鬼・鵺・土蜘蛛と呼んで彼等のレジスタンスを強盗行為に仕立て上げた事に酷似している。

そしてその支配範囲を広げて行く過程で、大和朝廷(ヤマト王権)は原住民・縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を俘囚と呼ぶ形で米国のインデアン居留地宜しく一定地域に閉じ込めて管理し、俘囚が起こしたレジスタンスを鬼退治の物語にした。

つまり米国の騎兵隊も日本の家業武士団も、当初は原住民のレジスタンス対策から始まり、米国の白人政府も日本の大和朝廷(ヤマト王権)も、原住民を悪役に仕立てて自分達に有利な喧伝に精を出したのである。

血統のリレーと歴史の動きに、役割を果たしているのは人間の持って生まれた「本能」である。

従って普通に異性を求めるし、良い暮らしがしたい或いは権力を握りたいなどの上昇志向を誰しも持ち合わせている。

耕作地・支配地を基本とした氏族の上昇志向は、何の事は無い鎮守氏上から長く続いたDNA的なもので、言わば血統に染み付いた争えない血である。

その「本能」を、争いが無いように整理して秩序を守る(管理調整する)のが朝廷に託された役目で在った。

所が、その朝廷さえ、氏族の上昇志向の舞台であるから、人間とは「しょうも無い生き物」である。

氏の血統を引き継ぐ選ばれし者も、その負った血の重みで、人生はけして平坦なものではない。

名誉欲、領地・金銭欲に塗れて、複雑な暗闘が繰り広げられていた。

神々の末裔は、切なくも過酷な運命に弄ばれる定めを紬(つむぎ)ながら、生きるのである。

役(賀茂)小角(えんのかもおずぬ)が陰陽組織を編成した時点では、まだ葛城朝の私兵的組織だった。

そしてもっぱら「山岳ゲリラの鎮圧と恭順」、帝の「ある密命(大王の密命)の履行」などの非公式な活動に終始していた。

しかし、正式に陰陽寮が設立されると、正規(公)の職務も割り当てられる。

律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。

陰陽寮の担う役割は多岐にわたり、天文気象学や暦学の発表(気象庁など)、呪詛・占術や信仰の管理監督(今で言う神社庁や一部公安警察)と言った表向きの仕事の傍(かたわ)ら、天皇の意志を具現化する役目も負っていた。

陰陽寮の表の公務は、信仰や占術、呪術の統一と運用をもって統治に活用する機関であった。

しかし、陰陽寮の裏の顔の実体は、大王(おおきみ・天皇)直属の「秘密警察」兼「諜報工作組織」である

いくら建前の奇麗事を言っても、国家の本音に「諜報工作機関」を必要とするのは矛盾である。

これが多くの場合、信仰を利用する所に権力者の狡猾さを感じるのだ。

陰陽寮次官の「陰陽助・勘解由小路(かでのこうじ)」の一部は、朝廷の表陰陽寮(おもておんみょうりょう)長官である「陰陽頭・土御門(つちみかど・安倍)」の所管した正式業務とは違い、朝廷組織とは独立して大王(おおきみ)の私的意向を果たす役割を担う。

それが、裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党である。

人類に「群れ」や「国家」と言う物が成立して以来、為政者にとって「情報の収集と情報操作、裏工作」は、権力維持に不可欠なアイテムである。

従って、国家機関にはダーティな影の部分が存在して当たり前である。

勿論、建前の「神の威光を持って統治する」には似合わない組織で表沙汰にした文献は存在しないが、朝廷に於いてその部分を担うのが裏・陰陽量組織の勘解由小路党だった。



賀茂氏の血を継ぐ陰陽寮の陰陽助、勘解由小路家(かでのこうじけ)の由来は、勘解由使(かげゆし)と言う官職である。

坂上田村麻呂を使い、本当の意味で日本列島の大半を征服した大王、桓武天皇(第五十代)は、新王統の創始を強く意識し、積極的な政治・行政改革を展開した。

中でも帝の支配威を国内に周(あまねく)拡げる為に、弛緩しつつあった地方行政の再構築に取り組んだ為、その遂行手段として誕生したのが勘解由使(かげゆし)である。

その勘解由使(かげゆし)の役目を多く賜っていたのが賀茂氏で、賀茂氏の当主が陰陽寮の陰陽助として貴族に列した事から、勘解由(かでの)の名は官職名から公家の呼称となり、勘解由小路家(かでのこうじけ)と言う名跡になった。

桓武天皇(第五十代)の支配威強化を目指した支配体制再構築の行政改革は地方に及び、国司の交代事務引継ぎが難題と成って利権紛争が頻発した。

前任国司やその親族、家臣が在地領主化して定住した為に新任で赴任して来る者との間には、権限と既得権益の争いが発生する。

その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設される事と成った。

律令制下で、国司の交代事務引継ぎが問題なく行われた証として、後任国司から前任国司へ交付されたものが解由状(げゆじょう)である。

受領(ずりょう)による国司交替時の利権紛争を抑制する目的で、監査したのが勘解由使(かげゆし)だった。

受領(ずりょう)と言う呼称の起源であるが、行政官の長(受領/ずりょう・国司)の国司交替の際に、後任の国司が適正な事務引継を受けた事を証明する「解由状(げゆじょう)」と言う文書(受け取り証明)を前任の国司へ発給する定めと成っていた。

その制度から、国司交替で赴任して来て実際に解由状(げゆじょう)をもって現地の権限を受領する国司を「受領(ずりょう)」と呼ぶようになった。

その官位を簡単に言うと、中央から赴任して来た行政官の長(受領/ずりょう・国司)は守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)であるが、上野国、常陸国、上総国などの親王が任国する地方は次官の介(すけ)、権介(ごんのすけ)がその任にあたった。

これらの様々な肩書きが在りながら、入国後の現地での権限がほぼ同じである為に、その交替方法を採って「国司行政官」を便宜上一括して「受領(ずりょう)」と呼んだのである。

これらの行政官、守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)及び介(すけ)、権介(ごんのすけ)は官位が四位〜五位どまりの下級貴族であったが、この制度は任命された国司に対して租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲すると言うものである。

中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得た為にその権限は強く、その権限を背景に蓄財を行いそのまま任国に土着して解任後もその勢力をたもったまま地方豪族に収まるものが出て来た。

国司交替によって地方に土着した元国司の豪族と新任の国司の間でその権限委譲が円滑に行く為の物が「解由状(げゆじょう)」であるが、当然ながら前任者の既得権益を後任者が簡単には譲り受けられず抗争に発展する事も多かった。

また、円滑に権限委譲が行なわれてもその後の租税収取などの立場が、勢力と財力を蓄え土着した元国司豪族と入れ替わる為、紛争を起こす火種になっていた。

この解由状による受領(ずりょう)を観察する役目の行政監査官が「陰陽助(陰陽寮次官)」勘解由小路(かでのこうじ・賀茂)家の「勘解由使(かげゆし)」である。

つまり勘解由使(かげゆし)は、国司の不正を監視・摘発する為に設けられた令に規定のない令外の官(特別な役職)で、日本の平安期に於いて「地方行政」を監査監督する為に設置され、地方行政監査官を担当した。

令に規定のない「令外の官」と言う事は「情況に応じた権限が発揮できる」と言う事で、平安初期、地方行政を監査・監督する為に設置され、その後、監査の対象は内官の監視へと拡大した。

いずれにしても、明らかに勘解由使(かげゆし)は「監査官」と言う言わば摘発官であり工作員である。

さながら米国のFBIと言うより「CIA」と言う所か?

勘解由使は、平安末期頃まで、「監査機関としての統合任務を負った機能を担い続けた」と考えられている。


大和朝廷の直轄機関として陰陽寮が設けられたのは、統治の上で多くの機能を掌握できるからである。

今風に表現するならば、NASA(航空宇宙局)とCIA(中央情報局)、NAS(科学アカデミー)、FBI(連邦警察)、占い・宗教思想のコントロール、動植鉱の薬物採取、鉱物資源探査、鉱物資源加工指導、など多岐に渡る。

つまり、当時の最先端の知識と技術を持ち、しかも戦闘能力も持ち合わせる特殊工作集団だったので有る。

今でこそ神官と武士は線引きがされ、分けられて考えられているが、元を正せば両者に線引きはない。

つまり、永きに及び神官が武士で、武士が神官と言う表裏一体のものだった。

その事こそ、氏神(神社)の成立ちであり、武士が修験山伏の出自の証明である。

そこに仏教が伝来して、僧兵と言う僧侶兼武士が発生したが、それも「武」の部分は修験山伏を祖としていた。

このように現在では人命を尊ぶイメージの強い神官や僧侶は、元々は戦闘要員の武士と同じ者が兼業していた事になる。

考えて見れば、武田信玄も上杉謙信も入道(仏門に帰依)しても、己の為に領土拡張を戦っている。

その他の武将もそうだが、平安期から安土・桃山期まで、神仏は戦勝を祈願し、家の隆盛を願う為の信心だった。

つまり、仏教の本質が己に運をもたらす現世利益であり、平和と慈愛の仏心などは当時の人々には無かったのである。

この神官や僧侶と武士の間に、明確な線引きが確立したのは江戸期に入ってからで、それ以前の都合の悪い「信仰の利用の歴史」に、口を拭っている事に、胡散臭さを感じるのは我輩だけだろうか?

神官や僧侶の人命についての認識がこの程度だから、姦淫(性に対する認識)についても、生臭くても何の不思議も無い。

それを、聖人君子のように、開祖、開基の高僧を扱う。

当然ながら、その高潔さは庶民の信仰を集める為の方便である。


十世紀中葉から後期にかけての平安期、特定の家系へ世襲として官職に伴う権限義務を請け負わせる官司請負制が、中央政界でも地方政治でも著しく進展して行った。

この官職の世襲体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。

つまり官職の世襲制体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育を施(ほどこ)して家業を担う人材を育成した。

中でも、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、その勲功者家系が貴族(公家)とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識され、その武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態と見なされる事になる。

地方政治に於いて国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ形態で、朝廷の財政は地方からの収入に拠っていた。

この、時行政権が委任された者が、現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれて大きな権限を背景として富豪層からの徴税に拠って巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開した。

当然ながら受領は、解由制(げゆせい)や受領考過定など監査制度の制約も受けていたが、それでもこの赴任して来た国司(受領)と郡司・田堵・負名・百姓階層などの在地勢力との間で紛争が生じる。

国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)と呼ぶ国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴える行為が頻発した。

また官司請負制に拠る官職の世襲制体制に伴いない、この十世紀前期に時代を代表する「荘園(しょうえん)」と呼ぶ権門層(有力貴族・寺社)の私領(私営田)が、従来の租税収取体系が変質した事で次第に拡大形成し、発達して行ったのもこの時期である。

権門層は、私領する荘園を国衙(こくが)に収公されないよう太政官(官省符荘)、民部省や国衙の免許(官省符荘)を獲得し運営して財を蓄え、大きな勢力に育って行った。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。


十世紀後期に登場した花山天皇は、こうした動きに対し権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布し、かなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれている。

しかし、その後の摂関政治が必ずしも権門優遇策をとった訳ではなく、摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。

摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾への対処、そして権門の荘園整理にどう取り組むかと言う点に在り、その摂関政治による諸課題への取り組みに漸く成果が見られ始めたのが、十一世紀前期〜中期にかけての時期である。

この諸課題への取り組み期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになった。

また、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた為、十世紀前期に始まった王朝国家体制は、寄り中世的な後期王朝国家形態へ移行して行った。


平安時代に起こった武士台頭の背景は名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)である。

名田(みょうでん)または名(みよう)は、日本の平安時代中期から中世を通じて荘園公領制に於ける支配・収取(徴税)の基礎単位である。

この平安時代中期頃には、律令制の解体が進展し百姓(注・農民ではない。)の中に他から田地を借りて耕作し、田堵(たと)と呼ばれる田地経営をおこなう有力百姓層が出現して富の蓄積を始めた。

有力百姓の田堵(たと)には古来の郡司一族に出自する在地豪族や土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、彼等は蓄積した富を持って、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めた。

この平安時代、朝廷政府は土地(公田/くでん)を収取の基礎単位とする支配体制を構築していたが、律令制を支えていた戸籍・計帳の作成や班田の実施などの人民把握システムが次第に弛緩して行き、人別的な人民支配が存続できなくなった。

そうした収取体制の弱体化を改革する為に、朝廷政府は度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、まず国衙(こくが)の支配する公田が、名田(みょうでん)または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成される。

この名田(みょうでん)を基礎とする支配・収取体制を名体制(みようたいせい)と言う。

国衙(こくが)領に於いて公田(くでん)から名田(みょうでん)への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。

更に荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵(たと)が請け負うようになり、田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになって行き、荘官や名主の地位を得るに到る。

その下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となった。

田堵(たと)は荘園・公領経営に深く携わり、その経営規模に拠って大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれ、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たした。

尚、荘園・公領経営期から名田経営者一族が力を着けて自営を始める後の守護領国制の守護大名(しゅごだいみょう)や戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来はは「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、「大いに名が轟くから大名」は怪しい解説である。


一方で「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に、田堵(たと)が対抗する為の自衛武力の整備が始まっている。

その群盗の活動は九世紀を通じて活発化した為、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

盗賊の取締りで名を上げた勲功者が武士の初期原型となり、彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。

つまり平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、名田経営を行う下級貴族・百姓の私兵組織として発展し、その財力と武力の相乗効果で力を蓄え、中央の朝廷政権の制御は衰えた。

そしてこの私兵組織を保有する名田経営者一族が、その組織の維持と拡大の為に共同して武力活動を行い、俘囚(奴婢身分)の反乱や、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱、前九年の役と後三年の役、治承(じしょう)のクーデターなどを経て主従関係が成立し、武門の政権・鎌倉幕府が成立するのである。



一口に影人と言っても、実は大小二系統の流れがある。

「小の系統」、勘解由小路(賀茂)家は、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系であり、京都で賀茂神社を奉る賀茂氏(葛城御門)の流れの陰陽師であり、陰陽寮の陰陽助として土御門(安倍)家に次ぐ上席陰陽師貴族の家柄で有る。

平安時代になると、葛城氏系賀茂氏の血統は女系の婚姻でも藤原氏、大伴氏、服部氏などの支流と繋がり、あらゆる形で血統が大きく広がりを見せ始める。

つまり多くの氏族にも女系で賀茂の血が広がり、氏は違っても勘解由小路党に加わる者も多かった。

その一党が貴族の生活を棄てて、この時代から地に潜る。

時を経て、変化を遂げた政権運営の時代の要請が、嫌応なしにそれを要求していた。

この頃になると、貴族達が怯えた「鵺(ぬえ)」は、実は民衆の中ではなく、貴族(征服部族)の血統の中にこそ潜んでいたのだ。

以前から課せられている今ひとつの帝の密命「大王(おおきみ・天皇)の密命」の方は、表に現れる事も無く順調に進んでいたが、帝に仇を成す鵺(ぬえ)退治も、陰陽師設立以来の賀茂氏の役目の一つである。

その役目は、いかなる事があっても守り務めねばならない。

しかし時代は変わる。

朝廷の実権は時々の有力者に握られ、皇室独自の予算が組めなくなって久しい。

増してや非公式の影の予算など、もはや在る筈も無い。

勘解由小路(かでのこうじ)党は、必然的に自活の道を持って生き延びる事になった。

これより先、この物語には「勘解由小路(かでのこうじ)党」の名が頻繁に出て来る事に成る。

しかしながら、この「勘解由小路(かでのこうじ)党」は、その生い立ちから活動まで帝の秘せる諜報工作を受け持っていた所から、日本史の正史にはほとんど顔を出さない謎の組織である。

推理小説も歴史の真実も同じ事だが、古文書・文献の類も表向き在り得そうな事が記述の主体に成る。

だが、在り得ない存在こそが意図的に隠したい歴史事実で、誰も都合が悪い隠したい事実を書き残す訳が無い。

だからこそ文献の内容を信じ過ぎると既成概念で真実を見る目が曇る。

諜報工作機関は何時の時代にも存在したから、勘解由小路(かでのこうじ)党が「正式な古文書・文献の類に無いから」と言ってその存在を否定する事は出来ないのである。



月には妖気がある。

闇を照らして人々を和ませるが、天が機嫌を損ねると月は隠れてしまう。

暗闇は「人に、何かが襲い来るのではないか」と、恐怖心を抱かせる。

影人達には、その月の明かりが良く似合う。

御所は月明かりに抱かれて静まりかえっていた。

月明かりを背負って屋敷塀沿いの小路を歩む解由小路(賀茂)吉晴の前に、己の影が黒く伸びて地を這っている。

千年の都は、動乱の兆しさえ知らずに眠りを貪っている。

雲が足早く動き、月が隠れて、都が闇に消えた。

解由小路(賀茂)吉晴の手には、古ぼけた倭文(しずおり)の布に包まれた賀茂の六輪の手錫杖(てしゃくじょう/短錫杖)が握られていた。

伝教大師・最澄が中国天台の本山から持ち帰った由緒ある錫杖だった。

祭壇が設けられ、その灯明の灯りに揺れる祭壇には弘法大師・空海が日本にもたらした仏法の法具(密教法具)・独鈷杵(とっこしょ)が一振り祀られていた。

この賀茂の錫杖(しゃくじょう)と空海の独鈷杵(とっこしょ)は、七百年代末頃に征服王「桓武天皇」から賜った葛城氏族系賀茂家の家宝である。

錫杖(しゃくじょう)は、シャクシャクと呪詛法要のリズムを取る他、合図としても使われる修験山伏の象徴的必需具で、勘解由小路党の棟梁の象徴だった。

そしてこの青銅製の、大切に磨きあげられた空海の独鈷杵(とっこしょ)が、時々の乱の渦中に在って「妖気を放つがごとき存在になる」と判るのは、まだ先の事だった。


陰陽寮の陰陽助、勘解由小路の屋敷広間に集まった勘解由党の面々は、天台、真言の主だった修験山伏(修験道師)ども、服部(伊賀)、大伴系大原(甲賀)の武術集団の三十人差配頭の五十人だった。

先程多くの者が踏み荒らした庭の下草から、青臭い匂いが、広間まで漂ってきた。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。

勘解由小路吉晴は、勘解由小路党の盟主である。

総差配、勘解由小路(賀茂)吉晴が一同に言い渡す。

「帝(みかど)の思(おぼ)し召しじゃ。我ら一同諸国に散り、田畑を耕して影に廻り、帝の御為に身命(しんめい)を賭(と)しても、お使えする。この事しかと頼み参らす。」

「承知。」

吉晴は、暫く無言で一同を見渡していた。

沈黙の中、油灯明の焼ける音だけが、ジリジリと聞こえていた。

「今一度良いの御一同、我らが取るべき道は一つ、影に徹する事じゃ。」

「承知。」
勘解由小路党はその存在意義を求めて変身し、地に潜って存続する道を選択した。


もうお判りだとは思うが、勘解由小路家の勘解由(かでの)は「影良し」に通じている。

勘解由小路家は朝廷の密命を帯び、配下の修験山伏(修験道師)頭三百名を放った。

天台(比叡山・台密山伏)、真言(根来寺・真言山伏)として身をやつし、山河に分け入り、全国に散った。

彼らはこれ以降、密命を秘めてその土地の草として土着、皇統に事ある時に備えている。或る者は僧侶、或る者は神官、或る者は修験者(山伏)、或る者は郷士に身をやつし、「十数代に渡って皇統護持の使命を果たさんとする覚悟の者ども」であった。

そうした彼らは、後の世で不本意にも「忍者」と呼ばれる事になる。

事実は修験道師であり、神官、僧侶、僧兵、郷士、小領主(国人領主)であり、白拍子だったのである。

確かに、世を忍ぶ仮の姿を持つ事から「忍び」と言われればその通りだが、初期のルーツは勘解由小路党の面々だったのである。

その成り立ちが、蝦夷(えみし)ゲリラ摘発の「秘密検非違使組織」で有る所から、当初は朝廷から活動費が出ていた。

そして暫くの間は、伝統的に帝直属の工作機関として存続していた。

しかし地に潜って二世代も経つと、中央に組織が無い為に、次第にその存在さえ忘れられがちになった。

だが、「帝の御為」と言う精神的な申し送りだけは、相伝される知識や技術とともに子孫代々伝わって行った。

それが、彼らの伝え得る誇りだったからで有る。

その後は地に潜り、秘密工作能力を併せ持った「自活する特殊監査官」に変貌を遂げたので有る。

当然の結果で有るが、広く知識を修め武術を修めた彼らは受け入れた土地で認められ、その土地で指導的な立場に立ち、やがて支配階級とは一線を画す興味深い独特の村文化(庶民の文化)を醸成する事になる。

つまり、下層氏族(有姓百姓)の武農兼業集団に拠る独立統治組織の土着衆を各地に生み出したのである。

そうした草の内の一群に、美濃国・土岐郡妻木郷(岐阜県土岐市妻木町)に住み着き大郷士として成功、名門流故に鎌倉幕府から地頭職を任じられた勘解由(かでの)家がある。

この勘解由(かでの)家、やがて所領の「妻木」を名乗るようになるのだが、この妻木家から遠い将来の戦国期に歴史に名を残し、天下の趨(すう)勢を左右した男に嫁ぐ、「煕子(ひろこ)」と言う娘が現れる。

その話は、この物語の第三章で記述するので、楽しみにしてもらいたい。


一方で被支配層の民人は氏族とは違う庶民文化を構築して、彼らなりの素朴な生活をしていた。

第五章で詳しく話すが、被支配層の民人は、彼らなりに修験の教えに影響されながら支配階級の争いをよそに、「生活基盤と庶民思想」を確立して懸命に生きていたのだ。


都の公家・勘解由小路家は、その役割に於いて帝から影の働きが期待されていた。

公家屋敷は残してはいるが、勘解由小路党の棟梁は、その為に分かれた影分家が世襲した。

勘解由小路党は、東大寺の良弁(ろうべん)僧正とその高弟の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が、巨岩石に仏像を彫刻した事から修験道の信仰を集めた笠置(かさぎ)山を本拠とし、笠置寺の護持僧に身をやつす。

これ以後、勘解由小路党の司令塔は笠置寺だった。



古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏や源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。

この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師(山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。

平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。

所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。


平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。

凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。

この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。

つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。

また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。

これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。

この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたたのは、平高望(たいらのたかもち)、藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末〜十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。

彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。

そうした彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。

朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。

当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。


家業武士の隆盛に拠り刀剣は前代の直刀から湾刀に、弓は従来の丸木弓より「伏竹」と呼ばれる木弓に竹を魚膠で貼りつけた強力な弓に、甲冑は大鎧(おおよろい)、胴丸(はらまき)と呼ばれる現在でも馴染みが深い形状の物が出現する。

大鎧は挂甲(けいこう・古墳時代の甲冑)に影響を受け、腹巻は短甲(たんこう・古墳時代の甲冑)に「影響を受けている」と言われる。


土地の草が小さい影なら、大きい影は源氏の血流である。

清和(せいわ)源氏流は、清和天皇(第五十六代)に端を発する高貴な後胤貴族(こういんきぞく)の血筋を有する武門の一方の旗頭である。

後胤(こういん)そのものは子孫の別称で、「誰々の後胤(こういん)」と言う様に用法上は誰にでも使える用語である。

つまり貴方様にも、既に後胤(こういん)を得たかこれから後胤(こういん)を得る事もある。

しかし後ろに貴族(きぞく)が付いて後胤貴族(こういんきぞく)となると、基本的には臣籍降下した元親王の子孫(皇族)で皇統の血筋を持つ血族を指す。

帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子(東宮)、その他は親王を称して次の帝となる事に備える。

だが、継ぎから外れた者は親王を称して皇族と成るが、帝の代が代われば序列が変わり王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かない。

だから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。

平氏流(へいしりゅう)は桓武天皇(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する高貴な血筋・高望王(たかもちおう)流の武家の一門で、臣籍降下で賜姓の「平氏」を賜った。

源氏流(げんじりゅう)は、皇室と祖を同じくすると言う名誉の意味を源(みなもと)姓に込めて、嵯峨天皇(第五十二代)が生まれた我が子らにその源(みなもと)姓を与えたに始まる。

中でも村上天皇から臣籍降下した村上源氏は、宗家筋が朝廷公家・堂上家(どうじょうけ)となって天皇に仕えた。

以後源氏は夫々(それぞれ)の祖と仰ぐ天皇の号をもって、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏などその氏族の称とし、下級貴族や武士として家名を繋いだ。

清和(せいわ)源氏流は、清和天皇(第五十六代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。

その清和(せいわ)天皇の血筋として村上源氏、清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏、など、清和源氏だけで二十一流がある。

この後胤貴族(こういんきぞく)、一部が藤原氏に伍して堂上貴族として朝廷の中枢に残ったが、大半は時代が下がり代が替わるに従って地方役人が精々の身分で、ただの平氏流や源氏流の一氏族に成って行った。


源氏流は、けして朝廷の密命を帯びた訳ではない。

しかしながら皇統の血流・皇胤(こういん)貴族であるから、和邇、大伴、中臣、蘇我、と言った諸王族の出自よりも遥かに皇統には思い入れが強い。

後胤(こういん)そのものは、「誰々の後胤(こういん)」と言う様に用法上は誰にでも使える用語である。

しかし後ろに貴族(きぞく)が付いて後胤貴族(こういんきぞく)となると、基本的には臣籍降下した元親王の子孫(皇族)で皇統の血筋を持つ血族を指す。

帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子(東宮)、その他は親王を称して次の帝となる事に備える。

だが、継ぎから外れた者は親王を称して皇族と成るが、帝の代が代われば序列が変わり王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かない。

だから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。


源氏流にも諸派があり、村上源氏、清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏、など清和源氏だけで二十一流が在り、源頼朝は清和(陽成)系河内源氏が正確である。

皇統から臣籍降下で、賜姓の「源氏」を賜った血統で、武門として朝廷の統治を補佐する家柄である。

彼らは武門と言う事で特に天台、真言の両密教との交流が激しく、勘解由小路党とも近い関係だった。

彼らも代を重ねて枝を広げて全国に散って行き、それぞれが土地の有力地侍・武将(後には在地領主・国主)として根付いて行った。

実を言うと頼朝の「河内清和源氏」と言っても、最初の頃の系図が、「多分に怪しい」とする意見もある。

恐らく河内源氏流が皇統から発した武門と言っても、武門化する前の「貴族としての位が村上源氏と違い当初相当低かった」のでは無いだろうか。

いずれにしても、「怪しくも」その後の力の実績が長く続くとそれが本当らしくなり、人が認める様に成る。
そうなると清和源氏は武門の名門である。

この「源氏の統領」の血筋を狙って、何が何でも「嫁」になったのが北条政子である。

この北条政子こそ、鎌倉期を代表する強(したた)かな鵺(ぬえ)の一人だった。

実は北条の血筋もバリバリの皇胤(こういん)貴族、桓武平氏で、それも、平清盛よりも有力な家柄の筋にあたる。
,br> 過っては 、北条(平直方流)の方が、高位の役職に在ったのである。

その話は後述するが、この平氏の血筋、皇統に繋がる名門貴族の出自で有りながら、どう言う訳か伝統的に皇統と度々「権力争い」のいさかいを起こす星の下にある。

或いは、平氏が自他共に赦す名門過ぎた事が、根底に在ったのかも知れない。

ここで平氏の対極に居たのが勘解由小路であり、河内源氏だった。

つまり両者とも、位が低いがそのぶん皇統に対する誇りだけが大事な「存在意義」だったのである。

それ故に影の精神が成立し、影は影のまま活躍する。

地方豪族を主体にした武士が台頭し、平安時代中期に出現した「大鎧(おおよろい)」は、騎射を主要戦闘形式として想定され、観掛けにも凝った造りで、武将の象徴として代々の当主に着用される「源家重代の鎧・八領」とか「平氏重代の鎧」は、家系を貫く「嫡流の象徴」と言う意味をも持っていた。

その大鎧を簡略、軽量化して作られた「胴丸」は、徒歩戦を主要戦闘形式に想定され、比較的身分の低い者の軽武装用に考案されたもので有る。

勘解由小路党(修験系)は好んでこの軽武装、「胴丸」を使用した。

立場上身軽な機動力が信条だったからである。


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(平将門と村岡良文)

◇◆◇◆(平将門と村岡良文)◆◇◆◇◆

昔の人は、統治者を天孫降臨伝説の「神」に上手い事仕立て上げた。

皮肉交じりの嫌味を言えば、確かに統治者の所業には法則的に「人間味」が無い。

これだけ民主主義国家とされる現在の自由で民主的な政権でも、都合の悪い事は「庶民に見せまい」とする国民に対する隠し事が在るのが政治であるから、過去の歴史に於いて定説や常識に囚われて居ての歴史解釈がミスリードに成る可能性は大きい。

つまり多数の不都合な事実が予測されるこの国の正史に於いて、都合良い脚色もされずに現代(今)に残って居る訳が無い。

貴方もご承知の様に、人間の多くは権力を握った途端に善人では居られなく成りその人格は自己保身と欲の権化に変身する。

何故なら権力者への道は功名心に始まり、巧みな扇動と駆け引きで競合する者を蹴落として上り詰めるもので、結局、守りたいのは自らの利権である。

そうした権力者などは根本的に善人には出来ない芸当だから、主義主張を超越して信用も尊敬も出来ないし、現実の彼等の善意は宛にも成らない存在なのである。

重要な発想を得るには視点を柔軟に変えて見る事で、歴史的に権力を握るに際して卑怯な振る舞いが無かった事例などこの世に存在しない。

つまり政権の転換は、多くの人々の思いと人生が費やされている。

それを綺麗事で覆い隠した歴史が正史とされる所に、人間の嫌らしさを感じるのは我輩だけだろうか?


話は源氏流の台頭以前の時代、平安中期に遡る。

平氏流は桓武天皇(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、一方の旗頭であった。

平氏流もまた、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。

平氏の大基(おおもと)にあたる桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではないのだが、良くも悪くもその個性を血筋として受け継いだ事が、その後の桓武平氏を名乗る指導者達の厄介で強烈な生き方として現れるのである。


源氏が武門としてデビューする前、平氏は当初、朝廷の正規軍として期待されていた。

その大半は中国・四国、九州、或いは関東の守りの要として赴任、所領を得て土着する者も多かった。

当時地方の統治について、政治は藤原氏一門、警察・防衛は平氏一門が、主に担当していた。

特に関東以北には、先住民族の蝦夷(えみし)と呼ばれる他民族(当時)が独立して存在し、これの抑えが必要で平氏が多数配置されたのだった。

この関東系の平氏については、昔から中央の役人と「一線を画していた」事も事実だった。

つまり中央に遠く、目が届き難い為、発想が朝廷政府の意向に囚(とらわれ)ない自由なものだった。

当時の気分としては、高貴なはずの自分達が、都から遠い辺境の警備に追いやられ、「苦労をさせられている」と言う、ひがみと恨みが根底にあったのである。

そして、応分の裁量権も暗黙のうちに存在した。

「応分の裁量権」と言えば綺麗だが、つまりは私的武力を背景にしたかなり勝っ手放題だったようである。

地方豪族、地方国主(臣王)の集合体をまとめていた朝廷(帝)の権威は、ご託宣(神の助言による統治)である。

そして地方統治は、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を持って行なっていた。

神の権威を持って任ずる帝に、武力は不要の筈だった。

その帝の代わりに、中央から派遣されて朝廷の地方行政業務を代行したのが、強力な武力(私兵)を背景にした藤原氏の一党である。

ところが、藤原氏の勢力が衰え始めた平安中期頃になると、中央から派遣された地方行政官としての藤原氏は無力化し、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を拡大して勝手な領地争いを始め出した。

その地方での混乱を、「神の力で統治する朝廷(帝)の権威」と言う建前から、直属の武力を持たない帝が押さえられる訳も無い。

そこで考えたのが、皇統に拠る変則的な帝の私兵、親王臣籍降下によ拠る軍事力の創立である。

桓武帝(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する皇胤(こういん)貴族の血統賜姓の「平(氏)」を賜った高貴な血筋の武家の一門が、朝廷の正規軍として期待されていたのである。

その平氏が独自に実力を強め、帝のコントロールから変わり始めると、次に送り出したのが同じ皇胤(こういん)貴族の「源(氏)」と言う訳である。

そして官僚部門を受け持つ藤原氏は、武力に勝る平氏に、全国各地で次第に権限を抑えられて弱体化して行った。

藤原氏の弱体化で頭を押さえる者が居なくなると、行政官の長(受領/ずりょう・国司)として赴任して来た平氏系の下級貴族及びその部下として赴任した下級官司は武装を強め、赴任した地方で勝手に所領を取り合う私闘を始める。


戦人(いくさびと)には、相手に憎しみなど無い。

獲物を前にワクワクさせる血が騒ぐだけだ。

この時代の氏族領主は、戦を持って領地を獲得する事が持って生まれた唯一の生き甲斐だった。

それを象徴するのが、「相馬小次郎(平)将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事になる。


頼朝挙兵から遡る事、約二百二十年前、関東一帯で、「平将門の乱」が起こっている。

この平将門の乱は、ほぼ同時期に藤原純友が瀬戸内地方一帯で起こした乱を併せ総称して俗に「承平天慶の乱(九百三十五〜九年)」と呼ばれている。

背景に在ったのは、氏族社会に於ける中央と地方の政治抗争である。

ちなみに、この頃にはまだ勢力は弱いが源氏系の官司も赴任し始めている。

平将門も藤原純友も受領と土着した元国司豪族や地方富豪層の間の緊張関係の調停に独自の武装勢力を形成して積極介入し、結果中央(朝廷)との敵対に追い込まれ追討を受けて滅ぼされた。


平安末期に歴史を刻んだこの男・平将門は、人柄が素直過ぎて疑う事が苦手だった。

それが幸いして人望を集めたのだが、現実の腹黒い輩が溢れるこの世は不幸な事に将門の正義感だけでは通用しない。

平将門(たいらのまさかど)は結果的に謀反人に成ってしまったが、あながち悪人ではない。

どちらかと言うと正義感が強い純真な心の持ち主で有った。

こうした歴史物語に登場する人物は、決まって数奇な運命に翻弄される事になる。

彼の場合は、信じていた朝廷(政権)への失望が、反乱を起こした原因だった。

いつの世も同じであるが、既得権にあぐらをかいた権力者は己の利にのみ関心がある。

その不条理を純粋な若者は許せない。

所がその不条理を正そうとすると、反体制側として逆賊の汚名を着る。

この二千年の間にこうした事が、何度繰り返された事だろうか?


今の世でもそうだが、こうした若者の正義感と純真さは塀の上を歩いている様な危(あやうさ)があり、転び方次第では悪役にされたり自ら汚名をかざしたりの暴挙に出てしまう。

平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こし、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、一時中央政権から「独立させた」と言う。

平将門は、桓武天皇の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)から数えて、系図五代目になる。

桓武天皇(第五十代)は、あらゆる点でその在位中に強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言では無く、平将門は正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。


この将門の乱、最初は関東での身内同士(将門とは伯父と甥の間柄)の相続争いに端を発したものである。

相馬の小次郎・平将門は、鎮守府将軍として下総(今の千葉県)に広大な領地をもつ平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれた事に成っている。

しかしこれには異説があり、「村岡(平)良文(むらおかよしふみの)の子である」と言う古文書が、所縁の地・相馬から出ている。

奥州相馬系図の中に「忠頼、村岡二郎良文子、継将門が跡」の一文があり、平良文と平良将は兄弟で、相馬小次郎・平将門は良文の実子だが良将の養子となって家督を継いだ事が書かれている。

平将門が良文の実子であるならば、「将門の乱(承平の乱/じょうへいのらん)」に村岡(平)良文との関わりが一切無いのが不自然である。

それでは何故、平将門が新皇を名乗る反乱を起こした時に村岡(平)良文(むらおかよしふみの)はこれを傍観していたのか?

実はこの時、奥州(出羽国)の俘囚(蝦夷/えみし)が叛乱を起こし、奥州・鎮守府(胆沢城)に鎮守府将軍として奥州に赴任、釘着けに成っている間に将門が討ち死にして乱が鎮圧されてしまったのである。


奥州相馬系図「忠頼、村岡二郎良文子、継将門が跡」だが、あまり古文書を引き出すと、頭の固い古文書マニアと間違えられるので避けたい所だが、ここは重要な要素があるので敢えて記載する。

奥州相馬系図に於いて村岡(平)良文については、

「鎮守府将軍、北斗星北辰大菩薩の落胤、依之満月九曜星胸現、蒙勅定、常陸大掾国香為誅伐、養子召共将門。急上州馳下。数度及合戦。於染谷川辺即時一戦討勝。因茲国香一族共以滅亡。委細之儀妙見之縁起有之也」

とある。

また、平将門については

「良文為ニ甥タルニ依テ、養子ニ成 家督相続。其以後嫡子忠頼跡譲。下総内相馬ト云所エ隠居。内裏建居住。去程東八国之諸侍皆以官位昇進。因茲将門蒙勅勘落命。相馬之内裏破滅也。其後武州之内江戸之明神現玉フ。平新皇御存生之内、相馬之家之紋牒馬改。二男小次郎ニ譲玉也。」

とある。

大和朝廷に反旗を翻し「新皇」を名乗った平将門だが、もし平将門がこの村岡(平)良文の実子(次男)であれば、「新皇」を名乗っても不思議はない。

良く見て欲しいが、父親・村岡(平)良文について鎮守府将軍はまだしも「北斗星北辰大菩薩の落胤」と名乗り在る所に、この時代の坂東(関東)における朝廷の権威が届き難い政情が垣間見える。

まぁ村岡(平)良文にして見れば、古(いにしえ)人が神を名乗ったのだから、自分が「菩薩の落胤を名乗って何が悪い。」と言いたいのだろうが、「北斗星北辰」は天地(全宇宙)の最高神(天之御中主神)の事で、まるで自分を「天子」と名乗って居るようなものである。

この関東鎮守府将軍・桓武平氏葛原(かずはら)親王流五代・村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)の子孫が、源義家(八幡太郎)に従って奥州(東北)と坂東(関東)の治安にあたる縁を持つ。

その坂東(関東)各地に土着して土豪武士となり、その支族諸氏が八つの氏族に大別されていた為に「坂東八平氏」と呼ばれる。

「坂東八平氏」には、秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏、梶原氏、大庭氏、長尾氏、江戸氏などがその時々の各氏族の勢力により様々に入って数えられる。

その後坂東八平氏は、東国を根拠地に独自に勢力を伸ばして鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持つ河内源氏流・源義朝に従い「保元の乱」に戦功を挙げる。

所が、平家の棟梁・平清盛と袂(たもと)を分けた源義朝が「平治(へいじ)の乱」を起こし、「坂東八平氏」は義朝に味方するも義朝が乱に敗れて死亡すると平清盛に臣従して平家の元に御所の警備を勤めたり各地の官吏を務めている。

時が流れ、やがて義朝の三男・継子の源頼朝が旗揚げすると、平家の専横政治に不満を持っていた村岡良文(平良文)の子孫・「坂東八平氏」の大半が源頼朝の挙兵に呼応して平家滅亡・鎌倉幕府の成立に参加して幕府の有力御家人に納まっている。



平将門(たいらのまさかど)が受け継いだ義父・平良将(たいらのよしまさ)の平氏流は、坂東(関東)の平氏としては名門の一族だった。

平安群盗鎮圧の為に鎮守府軍として坂東(関東)に派遣された原初の武士達(自衛武力)の中に>桓武平氏流(かんむへいしりゅう)の平良将(たいらのよしまさ)が居た。

平良将(たいらのよしまさ)は下総国を本拠とした桓武平氏流の中心人物で、歴史的には村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)武家平氏の実質的な祖の一人と目されている。

桓武天皇の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)が、宇多天皇の勅命により平朝臣(たいらのあそみ)を賜与され臣籍降下し平高望(たいらのたかもち)を名乗った。

この平高望(たいらのたかもち)が上総介(国司)に任じられて坂東(関東)に下向した時、三男の平良将(たいらのよしまさ)は、長男・国香、次男・良兼の兄達と伴に父・高望(たかもち)に同行している。

分家した平良将(たいらのよしまさ)は下総国に在って未墾地を開発して私営田を経営、更に鎮守府将軍を勤め家勢を目覚しく発展させる。

しかし平良将(たいらのよしまさ)には男子が無く、同じ関東鎮守府将軍・桓武平氏葛原(かずはら)親王流五代・村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)の子を養子とし、平将門(たいらのまさかど)を名乗らせる。

この血統を異とする婿養子・平将門(たいらのまさかど)が、義理の伯父・平国香(たいらのくにか)の欲を誘発させたのかも知れない。


その父・良将(よしまさ)が亡くなって、将門が朝廷に相続の保証と官位を願い出て都にいる二年の間に、伯父の平国香(たいらのくにか)鎮守府将軍に所領を全て奪われていた事から、この騒動は始まる。

広大な所領を有する平良将(たいらのよしまさ)が亡くなり、家督を継いだ養子の平将門は都に出向いて留守だった。

伯父の平国香にして見れば、所領横領の絶好の機会が訪れた事になる。

この「戦は武士の本分」の原点は勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。

さながら坂東(関東)は、力有る者が無法に武力で勢力を拡大する西部開拓史時代のアメリカ西部劇を見るようではないか。


この時代、荘園(領地)経営は大事業で、自分達の虎の子だから開墾や土地の改良から始めて、慈(いつく)しんで育てるものだったから、「一所懸命」の原点で思い入れもひとしおだった。

平将門は、義父の残した所領を留守中に義理の伯父に横領されていた事になる。

都から帰郷した平将門も、領地横領を横領されていて驚いた。

所領を横領されれば、父の代から臣従する一族や家臣団も路頭に迷う。

将門が留守の間、所領から追われて辛酸を舐め耐えて来た者共も多く、本来なら直ぐにでも戦を仕掛け父の所領を取り返すべき所だが、当初相手が伯父の「国香」の事と我慢をし、「さも浅ましき者共よ。」と自重して独自に新田の開墾などしていた。

処が、伯父の平国香の方が後ろめたいから、将門に「何時攻められるか」と不安が募る。

甥・平将門の所領を横領した平国香(たいらのくにか)側からすれば、手に入れた筈の領地の一郭に独立した将門の開墾地が在るのは不安材料で、いつ何時将門が力を着けて取り返しに出ないとも限らない。

まぁ、「災いの芽は、早くに摘んでしまおう」と言う発想だった。

結果、将門を倒して「不安を取り除こう」と、伯父の平国香党が嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)と結託し、平将門に襲いかかる。

義理の仲ではあるが、「伯父・平国香」対「甥・平将門」と言う肉親同士の領地の取り合いに成ったが、この時代さして違和感は無い。

新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。

【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。

そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、親子・兄弟・叔父甥でさえも争う結果になる。

そもそも当時の氏族の価値観で言えば所領の拡大の最優先が正義で、争う相手が肉親もくそもない。

米国の西部開拓史でもそうだったが、開拓時代は土地と奴隷(日本の場合は奴婢)の武力による取り合いが為されている。

開拓時代のお定まりで、日本の氏族(征服部族)も根本が好戦的な部族で、土地と奴婢(ぬひ)の取り合いである。

相手の甥・平将門が父親・平良将を亡くし、しかも将門が都に出仕していて留守となれば、これは平国香にとって又と無い絶好の領地横領の好機(チャンス)だった。

この大番役(京都御所守護)で所領を留守にして居る間に、身内に所領を乗っ取られる「大掛かりな空巣話し」は平将門の例に止まらずその後も多発している手口である。

後に記述する伊東祐親(いとうすけちか)と工藤祐経(くどうすけつね)の「曽我兄弟の仇討ち」に発展したいざこざも有名であり、それらは無数に存在する。

平将門はこれを返り討ちにして国香を討ち取り、事の顛末を朝廷に報告、一族の私闘として罪を許される。


その後も将門を狙った動きは続き、将門は、上総介(平)良兼(かずさのすけ・たいらのよしかね)に騙されて一時は滅ぼされそうになるが、何とか勢力を盛り返した。

その勢いで国香の子「貞盛」を戦いで破るが、討ち取るに到らず取り逃がしている。

これらの争いは、所領をめぐる同族の私闘で有る。

この関東の平一族同士の理不尽な土地争いの揉め事を朝廷がうまく裁けず、現地の事務方役人、藤原氏も手が付けられず、放置状態にして将門を怒らせてしまった。

将門にとって不幸だった事に、そうした指導力欠如の朝廷とのいざこざは、将門の所ばかりでなかったので、関東の揉め事に将門の出番が増え、将門の名声が上がって行って坂東(関東)武士の盟主に成ってしまった。

この事例はどこかで聞いた様な話で、今でも現場を確認しない役人の怠慢によるトラブルは、後を絶たない。


実は清和源氏(せいわげんじ)の台頭するきっかけにも、平将門(たいらのまさかど)の存在が大きく影響している。

清和源氏(せいわげんじ)は清和天皇を祖とする皇胤一族が源姓を賜り成立したとされるが、清和天皇を祖とする陽成源氏説も存在する。

ここでは一応、通説とされる清和源氏(せいわげんじ)で記述して置く。

清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流とする。

九百三十八年(承平八年)、源経基(みなもとのつねもと)は武蔵介となり同じく赴任した武蔵権守・興世王(おきよおう/おきよのおほきみ/皇族ながら誰の血筋かは不明)と共に武蔵国現地に赴任し、事件を起こす。

赴任早々に検注(国司が貢物・賄賂を受け取る)を実施すると、在地の豪族・足立郡大領・武蔵宿禰武成(むさしのすくねたけなり)の子である足立郡司で判代官の武蔵武芝(むさしのたけしば)が検注を拒否する。

正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていた事を理由に武蔵武芝(むさしのたけしば)が検注を拒否した為、興世王(おきよおう)・経基(つねもと)らは兵を繰り出して武芝(たけしば)の郡家を襲い略奪を行った。

有無を言わせぬ武力行使など酷い話だが、この時代、任国制の受領支配に拠る派遣官司の行状など、実状はそんなものかも知れない。

この話を聞きつけた平将門(たいらのまさかど)が私兵を引き連れて武芝(たけしば)の許を訪れると、経基(つねもと)らは妻子を連れ、軍備を整えて比企郡の狭服山へ立て篭もる。

その後、興世王(おきよおう)は山を降りて武蔵国府にて将門(まさかど)・武芝(たけしば)らと会見するも、経基(つねもと)は警戒して山に留まった。

その後、興世王(おきよおう)・経基(つねもと)と将門(まさかど)・武芝(たけしば)双方の和解が成立して武蔵国府で和やかに酒宴が行われていた。

所が、その酒宴の最中に武芝(たけしば)の者達が勝手に経基(つねもと)の営所を包囲した為に、経基は将門(まさかど)らに殺害されるものと思い込んで慌てて京へ逃げ帰り、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告(ぶこく/偽りの申告)する。

この源経基(みなもとのつねもと)の誣告(ぶこく/偽りの申告)は、将門らが常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまった。


そこに決定的な事件が起きた。

常陸国の住人・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が国司(国府長官)・藤原維幾(ふじわらのこれちか)と対立、維幾(これちか)が玄明(はるあき)を追捕するを将門が庇護し争いに介入する。

九百三十九年(天慶二年)十一月、平将門(たいらのまさかど)は、軍兵を集めて常陸国府に追捕撤回を求めるも常陸国府はこれを拒否し宣戦布告をされるを持って終(つ)いに挙兵する。

つまりその争いの介入の過程で引くに引けない国司との合戦が起き、朝臣(朝廷の役人)藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕らえてしまったのだ。


事は都から遠く離れた関東で起きている殺気立った揉め事で、事は迅速を要し悠長に朝廷の裁定など待っては居られない。

所が、中央政府である朝廷の煮え切らない態度に失望した将門に、もはや猶予は無かった。

将門は、「朝廷は頼りに為らない」と、自ら行動を起こしたのだ。

人間、一生の内には理不尽な事に遭遇する事が多々ある。

その理不尽に異論があるなら戦えば良く、戦わないならゴチャゴチャと影で文句など言わない方が良い。

絶えず決断を迫られ、それに誤まれば命を失う時代なのに誰にでも訪れる躊躇(ちゅうちょ)はこの時の将門には無用の局面だった。

中央を頼れないのなら、独自に現地処理をするしか無いのだ。

この後に引けない状況から、平将門は意を決めて坂東武士を結集、関八州に代官を配置し「新皇」を名乗ったのだが、若い将門にすると「自分ならもっと上手く統治してみせる。」と言う思いが在ったからである。


下総国佐倉は父・平良将の所領である。

佐倉の里は、春の嵐に見舞われていた。

この嵐、言わば大気の胎動で、この嵐が通り過ぎてこそ季節は初夏を迎える。

平将門は、朝廷の地方紛争処理が一向に進まない事に憤慨していた。

冷静に見回すと、周囲には将門を頼りにする豪族が溢れていた。

「面白い。良い機会じゃ。都にひと泡ふかせようぞ。」

朝廷が出来なければ自分がやるしかない。

将門に、フツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。


平将門(たいらのまさかど)は反乱を起こし、中央派遣の朝廷役人を捕縛または追放し、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、関東の地を一時中央政権から独立させた。

その事態に、直属の武力を持たない朝廷は上を下への大騒ぎとなり、さしたる対策も出来ず、太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)が僅(わず)かに関東地方に鎮圧命令書を乱発、影の工作を勘解由小路党に託したに過ぎない。


藤原純友(ふじわらのすみとも)は、平安時代の大乱・「承平天慶の乱」の関東側の平将門の乱と併せて瀬戸内側の首謀者とされる人物である。

藤原純友(ふじわらのすみとも)は藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家流の出身で、大叔父には摂関政治の最高位・摂政関白太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)がいる名流の出自である。

純友(すみとも)自身は、大宰少弐(大宰府の官)だった父・藤原良範を早くに失う不遇で出世の道を絶たれ地方官となる。

赴任先は伊予国で、父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾(律令制・伊予三等官)として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側に在った。

所が純友(すみとも)は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人達が税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていた海賊行為を鎮圧するも、元名帰任(役を解かれる)後も帰京せず伊予国に土着する。

当時の土着武士は自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりした事で任国制の受領支配に不満を募らせていた。

その為に純友(すみとも)は、九百三十六年(承平六年)頃に京の貴族社会から脱落した東国初期世代の武士と同様の境遇にある土着の中級官人層の不満を集める頭目として、伊予国日振島を根拠に千艘以上の船を操る組織を有する海賊となり、瀬戸内海全域に勢力を伸ばす。

純友(すみとも)は、坂東(関東)で平将門(たいらのまさかど)が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こす。

この両者、時を同じくしての蜂起に共謀説も在るが、将門(まさかど)がいち早く新皇を名乗り曲がりなりにも国家の体裁を整えたに比べ、純友(すみとも)はそうした事に着手しなかった点で、都に攻め上り関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に取って代わる野心が在ったのではないだろうか?


「相馬小次郎(平)将門(たいらのまさかど)を追討せよ。」

朝廷から、関東武士に院宣が飛ぶ。

届けたのは帝の手の者、勘解由小路党の面々である、

承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱を一括)当時の朝廷は、朱雀天皇(すざくてんのう/第六十一代)の代だったが、小一条太政大臣(こいちじょうだじょうだいじん)・藤原忠平(ふじわらのただひら)がお傍に居た。

藤原忠平は、朱雀天皇(すざくてんのう)の時に摂政、次いで関白を任じて朝廷の政治を司っていたのだ。

帝の傍近くに在った殿上人達は、この事態に驚愕する。

平将門が独立を宣言して新皇を名乗るとなると、朝廷の権威は失墜する。

しかし只独り、この騒ぎに「いずれ治まる」と慌てない男が居た。
時の摂政・藤原忠平だった。

正妻にあたる中宮に藤原穏子(忠平の姉)が先代・醍醐天皇(だいごてんのう)に嫁して居た為、 朱雀天皇は太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)の甥にあたる。

朝廷直属の秘密工作機関、解由小路(賀茂)吉晴ら解由小路党を実質的に使っていたのはこの太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)である。

平将門(たいらのまさかど)反乱の報を聞き、藤原忠平(ふじわらのただひら)は解由小路党棟梁・解由小路(賀茂)吉晴を内裏に呼び、事態収拾の策を命じている。


相馬の小次郎・平将門は、平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷ら討伐軍とは「猿島郡の北山」で迎え撃つ事に成った。

乱ある所に出世の機会あり。

俵藤太(田原藤太/たわらのとうだ・たわとうた)の通称で知られる藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は在・下野国の官職・掾(じょう)を任ずる下級官・藤原村雄の子で、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔として原初の武門(武士)に成った平安時代中期の武将である。

藤太は藤原氏の長・太郎の意味であるが、この通称は秀郷(ひでさと)の武勇を伝説化した百足退治伝説や百目鬼伝説などの脚色を因とするのが妥当である。

秀郷(ひでさと)の出自については、「下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」と言う説もあるが、この血統重視する時代に幾ら朝廷が将門(まさかど)の乱に窮したとは言え、平氏流の平貞盛(たいらのさだもり)を差し置いて押領使に任じるだろうか?

つまり末葉では在ったが、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔である方がこの際は自然である。

秀郷(ひでさと)は、九百三十九年(天慶二年)平将門(たいらのまさかど)が天慶の乱と呼ばれる兵を挙げて坂東(関東)八か国を征圧すると、平貞盛と連合し、翌九百四十年(天慶三年)二月に将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定し名を挙げる。

平将門(たいらのまさかど)追討時、藤原秀郷(ふじわらひでさと)は乱平定の直前に「下野国・掾(じょう)兼押領使に任ぜられた」とされる歴史学者が複数居り、秀郷(ひでさと)無役説が主流だが、将門(まさかど)の乱平定の功により従四位下に叙され下野守に任じられ、さらに武蔵守・鎮守府将軍も兼任するようになった。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)、基は下野国の掾(じょう)であったが平将門(たいらのまさかど)追討の功により、秀郷(ひでさと)は従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大して源氏流・平氏流と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。

尚、この時の押領使・藤原秀郷は藤原南家流で、子孫が遠近江から駿河、伊豆などに土着し、後に工藤・伊東・入江氏らを輩出、さらに工藤氏から天野氏や狩野氏、入江氏から吉川氏などが別れ出て源頼朝の平家追討の旗揚げに呼応している。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)の後裔、佐藤公清(ふじわらのきみきよ)の曾孫・佐藤基景(さとうもとかげ)が伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤基景を名乗った事に由来する秀郷流伊藤氏も在る。


旧暦二月の半ば、僅(わず)かに春先で在ったが関東の沼地はまだ寒い。

この時期は都合が悪い事に農繁期で、その上に関八州の押さえの為に手勢の兵を散らしていて、甲冑に身を固めた将門の軍勢は思いの外に整わなかったが仕方が無い。

それに平貞盛は以前何度か戦をまみえて、取り逃がしてはいるが破っているから恐れるに足りない自負が将門にある。

両軍対峙して見たが、平貞盛ら討伐軍との互いの兵力が拮抗して、そう簡単に決着が尽くような状況に無く、北山の戦は混戦の様相を呈していた。
「引くな、押し包まれるぞ」

「ワー」と言う自らを鼓舞する時の声と伴に、寄せ手の軍勢が殺到して来た。

双方の距離が窄(すぼ)まり、「者供、矢を番(つが)えろ〜。放て。」の号令が将門から飛ぶ。

「ヒュル、ヒュル」と凄い数の矢が一度に敵陣を襲い、腕を射抜かれる者、肩を射抜かれて膝を着く者、脚や胸に傷を負う者、一瞬寄せ手の平貞盛勢が怯(ひる)んだ。

「しめた、勝機は掴んだ」、その一瞬の期を逃さず、将門は反撃に転じる。

「それぇ〜包んで討ち取れ〜。」

混戦の中、思わぬ事態が発生した。

戦に於いては弓矢の数がものを言うが、弓矢で敵将を狙い、射掛けて討つのは容易な事ではない。

現実には、例え当たってもまぐれ当たりで致命傷には中々至らず、白兵戦の前哨として、幾らか相手の戦意なり戦力を弱められれば良い方だった。

それでも、両軍対峙すればまず矢が放たれ、次に切り結ぶか行き成り馬で敵陣に攻め込むのが野外戦(城外戦)である。

もっとも、この時代にはまだ本格的な城は無く、館造りの屋敷が武士の住まいだった。

後の南北朝並立時代の城もまだ砦と言う方が相応しい物で、本格的に城が造られるのは戦国期の中頃位からである。

ともかく、館に篭っても不利で持ち堪えられないから野外戦(城外戦)が主流だった。

北山の地で平将門勢と平貞盛勢は激突して各所で切り結び槍を突き、怒号が乱れ飛んでいた。

その混乱の中、有ろう事か白羽根の矢が一本、シュルシュルと味方の陣営から飛来して、将門の額を貫いた。

「バタッ」と将門が仰向けに倒れた。

慌てた味方が駆け寄って将門を抱き起こしたが、既に息絶えていた。

矢は額に刺さったままの壮絶な死で、即死だった。

この一瞬の出来事で、正式に将門討伐を組織した朝廷の征東軍が到着しない内に反乱軍の盟主が討たれ、戦いは終っていた。

関東で起きた将門の乱は、あっけなく平定されたのである。

本来なら、そう簡単に決着が尽くような状況ではなかった。

処が、奇蹟が起こる。

朝廷の鎮圧命令を受けた平貞盛(後の伊勢平氏)ら討伐軍との「北山の合戦」であっけなく敗れ、将門は敗死してしまった。


平将門は討たれてしまったが、めぐり合わせとは不思議なものでこの将門の起こした争乱(承平の乱/じょうへいのらん)がまさか後の鎌倉幕府成立の芽となるなど、将門本人は勿論の事、誰も思いも拠らない事だった。


この戦い、乱戦の中で一瞬の油断により不運にも平将門が頭を矢に射られて絶命し、「貞盛方の勝利と成った」と記述にあるが、「流れ矢」と言うのがどうも臭い話である。
これは、簡単なトリックかも知れない。

実際には、当時合戦の最中に「将」が矢を射られて絶命するなど偶然に近い確率であり、合戦のドサクサ紛れに至近距離から命を狙われた可能性が多分にある。

実は勘解由小路党の裏の仕事の中に、天罰がある。

大王(おおきみ)の神的権威を実証するには天罰が必要である。

平たく言えば帝(みかど)に対する「恐れの演出」で、帝のご意向に沿わない者には相応の天罰が下ったのだが、その神の仕置きの代行こそが勘解由小路党の重要な仕事の一つだった。


話し変わって左衛門府に拘禁されてしまったその後の源経基(みなもとのつねもと)であるが、九百三十九年(天慶二年)の初冬、将門(まさかど)が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行う。

その将門(まさかど)の反乱行為で、以前の経基(つねもと)誣告が現実となった事に拠って経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられ、征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられ将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京する。

源経基(みなもとのつねもと)は、九百四十一年に追捕凶賊使となり、小野好古(おののよしふる)とともに瀬戸内で起こった藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古(よしふる)に拠って乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまる。

それでも経基(つねもと)は、その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰め源氏隆盛の基礎を築いた。



チチチチ、チ、チュチュン、チュチュンと、長閑(のどか)な小鳥の囀(さえず)りが春風に乗って聞えて来る。

鳴き声は長閑(のどか)だが、今朝は花曇の曇天(どんてん)で、先程からすると風も幾らか強く成って来た。

聞いている間に小鳥の数が増えて来て、鳴き声が激しく成って来た。

春先は天候が急変するから、雨が降って来るかも知れない。

将門の乱当時、朱雀天皇(すざくてんのう・六十一代)は僅か十三歳の為、伯父の藤原忠平(ふじわらのただひら ・藤原の長者)が摂政(せっしょう)として政務を司(つかさど)っていた。

「摂政(せっしょう)様、吉晴めにございます。」

小鳥の鳴き声で目覚めていた藤原忠平(ふじわらのただひら)は、早朝の寝間の床の中で勘解由小路党棟梁・勘解由小路(賀茂)吉晴の声を突然聞いた。

彼が参上するからには、命じてあった事の報告である。

「吉晴か、して首尾は如何に?」

摂政・藤原忠平は、半身、身を起こして応じた。

暗闇で姿は見えねど、何時(いつ)ものように吉晴の声が耳元で聞えている。

勘解由小路党は、敵に廻せば恐ろしい相手である。

勘解由小路党棟梁・勘解由小路(賀茂)吉晴の名は、世襲々名で代々吉晴を名乗っている為、巷では「何百年も生きる妖怪」と畏怖(いふ)され、囁かれている。

「弓を持って仕留めましてござる。」

「それは上々、働き大儀である。・・帝もお喜びになるであろぅ。」

「我ら、帝の御為が生き甲斐にござる。」

勘解由小路党は、帝の敵と見れば摂政の藤原忠平とて容赦はしまい。

その凄みが、数百年も帝を守って来た。

「その勘解由(かでの)の忠義が、代々帝を護持しまいったのじゃ。」

「お役目とは言え吉晴めも、将門の心情は惜しきものでござった。」

「将門も哀れよ、正攻法で世が収められん事に気付かぬ。真っ直ぐな人間は、嘘もつかぬ故人気が上がり人も集まるが、概して痛ましい最期になる。」

「御意、寝醒めが悪いほどにお気の真っ直ぐな方でござった。」

「吉晴早々で悪いが、瀬戸内の純友(藤原)もきな臭い。世を乱(みだ)してはならぬ。」

「お任せ下さい。」
その返事を境に、勘解由小路(賀茂)吉晴の気配は、忠平の寝所から「フッ」と消えていた。


陰陽寮(勘解由小路党)に「新皇の存在」は認められない。

彼らがこの大事件に、「暗躍しなかった」と言う証明はない。

しかし彼らの存在は、けして公に明らかにはされていない。

闇に住むからこその凄みがあるからだ。

討たれた将門の首は、京の都で晒し首と成った。

その首が忽然と姿を消し、「関東の武蔵の国(現在の東京都千代田区大手町)迄飛んだ」と言う伝承が残った。

今に残る、将門の怨念話の始まりである。

教の都で晒し首になった将門の首が、空を飛んで関東の一郭・武蔵国まで戻り来た。

ここで「平将門の怨念が・・・」とすれば娯楽小説のフアンには良いのだろうが、醒めた目で見れば「誰かの作為」を感じる怪しげな話で、この将門の「ドサクサ討ち死に」とその後の「首の移動」に「何者かが介在している」と考えるのが当然である。

まるで将門が、鵺(ぬえの)怨霊扱いの所から、朝廷側の「将門人気潰しの謀略宣伝」ではなかったのか。

こうした流言に拠る情報操作も、陰陽寮(勘解由小路党)の仕事だった。


瀬戸内海で蜂起した藤原純友(ふじわらのすみとも)の勢力は畿内に進出、九百三十九年(天慶二年)には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前国介・藤原子高と播磨国介・島田惟幹を襲撃させ子高の鼻を削いで捕らえ、妻を奪い子供らを殺した。

朝廷側の太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)は、九百四十年(天慶三年)小野好古(おののよしふる)を山陽道追捕使、源経基(みなもとのつねもと)を次官に任じるとともに純友の懐柔を謀り、従五位下を授ける一方で兵力を東国に集中させる両面の策を講じる。

純友(すみとも)は従五位下を受けたが海賊行為は止めず、同年(天慶三年)には、淡路国、讃岐国の国府を、さらに大宰府をたて続けに襲撃し略奪を行った。

山陽道追捕使・小野好古(おののよしふる)は、淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪った純友(すみとも)の水軍が「京に向かって漕ぎ上りつつある」と報告、朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れた。

京の各所で放火が頻発し、藤原慶幸を山城国の入り口・山崎に派遣して警備を強化するが、その山崎が謎の放火に拠って焼き払われるなど事件は続いた。

京への直接的脅威と言う点では極めて深刻な状況で、純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけての所謂「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しとの見方もある。

しかしこの緊迫した状況は、坂東(関東)より「平将門(たいらのまさかど)討滅す」の報告が京にもたらされ一変する。

平将門(たいらのまさかど)討滅すの報に動揺した藤原純友(ふじわらのすみとも)は、本拠地・日振島に船を返し、純友(すみとも)は戦闘行為を自粛した為、大宰府から解状と朝鮮半島・高麗からの牒、中華大陸・呉越に対して使者派遣が無事に行われている。

戦闘行為を自粛した純友(すみとも)だったが、朝廷は東国の将門が滅亡した事に拠り兵力の西国への集中が可能となった為、純友討伐に積極的になり、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、純友(すみとも)方・藤原文元を備前国介・藤原子高襲撃犯と断定して追討令を出す。

将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が、純友(すみとも)を挑発し文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの選択を迫るものだった。

交戦の決断を下した純友(すみとも)は水軍・四千艘を率いて出撃、順次伊予国、讃岐国、備前国、備後国、長門国、土佐国を襲い放火・略奪を繰り返すも、翌年早春に純友方の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降り、形勢が替わって本拠地・日振島を朝廷軍に攻められる。

純友(すみとも)方は敗れて西に逃れ、大宰府を攻撃して占領して柳川に侵攻するが大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れ、到着した小野好古(おののよしふる)と大蔵春実(おおくらのはるざね)率いる官軍に大宰府と博多湾で大敗、純友は小舟に乗って伊予に逃れる。

逃亡した藤原純友(ふじわらのすみとも)は伊予国に潜伏している所を警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕らえられ、二年に及ぶ乱は幕を閉じ、純友(すみとも)獄中で没した。



人々が平将門の怨念を恐れて、「名声」と言う得を得たのは天文学・易学・吉凶方位学などの占術を任とする陰陽寮とその首座・安倍晴明だった。

将門の首が飛んで行けば怪奇現象で、将門は恐れられこそすれお付き合いをしたいとは思わなくなる。

言わば将門を恐ろしい鵺(ぬえ)に仕立て上げたのである

処が、この流言が陰陽寮にとって思わぬ波及効果をもたらす。

この件で殿上人(貴族社会)が震え上がり、恐れから陰陽師の占術が流行り始め、やがて天才陰陽師・安倍清明の一族がもてはやされる時代になる。


影が動いて、新皇・将門は暗殺されたのかも知れない。

当然ながら、「首の移動」は将門一門の何者かが首を奪還した。

或いは将門人気潰しの朝廷側陰謀、そのどちらかで有ろう。

平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こし、関東一円を手中に収めて勝手に天皇並に即位、「新皇」を名乗ったのが九百三十九年(天慶二年)の末で、翌九百四十年(天慶三年)の春先には、平貞盛らに鎮圧され、将門の首は晒し首にされる為に都に送られている。

平将門の乱が起こったのは、陰陽師・安倍 晴明(あべの せいめい)が、二十歳の時の事で、陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学びつつある時だった。

この平将門の乱の混乱とその将門の首が、「関東まで飛んだ」と言う怪奇な事件に都人が恐れ戦(おのの)いた為、陰陽道による占術や呪術の儀式が盛んになり、陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)が、特に名声を博す「きっかけになった」と言われている。


将門を討った平貞盛の子孫は後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として平清盛に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は、赴任してきた清和(河内)源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代頭領と結び、後述する奥州での前九年の役や後三年の役で、源氏の棟梁源頼義・義家、親子の配下に組み込まれて、共同の利害関係が構築され、源氏とは深い関わりを持つ。

その代表的な有力平氏系豪族は、三浦氏、上総(かずさ)氏、千葉氏、などで在った。

従って、平姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。

関東の平氏には、「それなりに源氏を助ける歴史的要素が在った」と言える。



平安中期、九百年代の後半に中央政界で権力を振るったのが、藤原不比等(ふじわらのふひと)の系流の一つで最後に中央での勢力を築いた藤原北家九条流の摂政・太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)である。

平安中期の藤原北家流を中心とした摂関政治に於ける熾烈な権力闘争の相手は血を分けた兄弟であり、その時代の藤原家の最高実力者が娘を皇統に嫁す事で女系を介して天皇の外祖父として結び付き、皇統を左右する図式が続いていた。

その中でも日本史上途出して居たのが、執念で後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父となった藤原道長(ふじわらのみちなが)だった。


九百三十五〜九年に坂東(関東)一円で起こった平将門の乱や瀬戸内で一円で起こった藤原純友の乱を総称する承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱が終わって凡そ三十年余り後、平安時代中期を代表する公家・藤原道長(ふじわらのみちなが)は藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男(四男説あり)としこの世に生を受けている。

藤原道長(ふじわらのみちなが)の祖父の藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、藤原北家の藤原忠平(ふじわらのただひら)の次男だったが、村上天皇の治世を右大臣として支えた実力者で、娘の中宮・安子が後の冷泉天皇(六十三代)、円融天皇(六十四代)を生んだ事で外戚として立場を強化した。

この為に師輔(もろすけ)は、藤原忠平(ふじわらのただひら)嫡流である兄の藤原実頼(ふじわらのさねより)の家系・藤原北家流・小野宮流よりも優位に立ち、中央の摂関位を継承する家系となる。

摂政・太政大臣だった兄の藤原実頼(ふじわらのさねより)が死去すると師輔(もろすけ)の長男の藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)が摂政となるが、二年後に急死してしまう。

嫡男・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の後継を、次男の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と三男で道長(みちなが)の父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が争うが、結局兼通(かねみち)に関白が宣下される。

関白・藤原兼通(ふじわらのかねみち)と弟・兼家(かねいえ)は不仲で、兄・兼通(かねみち)は病に倒れて病死するが、死ぬ寸前に兼家を降格させるなど兼家(かねいえ)は不遇の時期を過ごす事に成る。

関白・藤原兼通(ふじわらのかねみち)の最後の推挙により、後継には小野宮流の藤原実頼(ふじわらのさねより)の次男・藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が関白となったが、その頼忠(よりただ)が兼家(かねいえ)を右大臣に引き上げてやり、父・兼家(かねいえ)は漸く不遇の時期を脱した。

九百八十三年(永観二年)、円融天皇(六十四代)は花山天皇(六十五代・冷泉天皇の皇子)に譲位し、東宮(皇太子)には詮子(藤原兼家の次女)の生んだ懐仁親王(かねひとしんのう)が立てられる。

懐仁親王(かねひとしんのう)の早期の即位を望んだ兼家(かねいえ)は、三年後に兼家と三男の道兼が中心となって策謀を仕組み、花山天皇を唆(だま)して内裏(だいり)から連れ出し出家退位させてしまう。

速やかに幼い懐仁親王(かねひとしんのう)が即位(践祚/せんそ)して一条天皇(六十六代)となり、外祖父の兼家(かねいえ)は摂政に任じられ、息子達を急速に昇進させ始める。

父の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が摂政になり権力を握ると道長(みちなが)も従三位に叙し、左京大夫を経て権中納言となるが、道長(みちなが)は五男であり道隆(みちたか)、道兼(みちかね)と言う有力な兄が居た為に、始めはさほど目立たない存在だった。

所が、父・兼家(かねいえ)の死後に摂関となった、その道隆(みちたか)、道兼(みちかね)と言う有力な兄達二人が伝染病により相次いで病没してしまう。

当時、道隆(みちたか)の嫡男・藤原伊周(ふじわらこれちか)は、道長(みちなが)を凌いで内大臣に任じられ父の後継者に擬されていた。

伊周(これちか)は自らが関白たらんと欲し、時の一条天皇の意中も伊周(これちか)に在ったが、道長(みちなが)は自らが摂関になろうとする。

一条天皇の母后・東三条院(詮子)はかねてより弟の道長(みちなが)を愛し、逆に甥の伊周(これちか)を疎んじていた為に道長(みちなが)の登用を強く推したが、天皇が考えを変えないため涙を流して固く請い迫まり、遂に一条天皇も母后に推されるかたちで道長(みちなが)の登用を決めた。

この藤原道長(ふじわらのみちなが)の生きた時代は、朝廷内裏での争そいを他所に平安貴族文化が花開いた次期で、古典文学界に足跡を残す二人の女流作家を排出している。

一人はご存知の「枕草子」を記した清少納言(せいしょうなごん)と言う作家・歌人で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の「役職名から採った」とされ、「清少納言」は女房名で「本名は清原諾子(なぎこ)」と言う説もあるが不詳されている。

九百八十一年(天元四年)頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)の後裔である橘氏長者・中宮亮(ちゅうぐうしき/皇后事務職)の陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌年一子・橘則長(たちばなののりなが)を生むも、武骨な夫と反りが合わずやがて離婚する。

ただ、前夫・則光との交流はここで断絶したわけではなく、一説では離婚五年後の九百九十八年(長徳四年)頃まで交流があり、「妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だった」と伝えられている。

その離婚の後、時期は判然としないが、清少納言(せいしょうなごん)は藤原南家流の摂津守・藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し娘・小馬命婦(こうまのみょうぶ/歌人)を儲けいる。

いずれにしても清少納言(せいしょうなごん)は、国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。

九百九十三年(正暦四年)、一条天皇の時代に私的な女房として一条天皇中宮(皇后)・定子に仕え、博学で才気煥発な清少納言(せいしょうなごん)は、主君・定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に名を残す。

「枕草子」には、「ものはづくし(歌枕などの類聚)」、詩歌秀句、日常の観察、個人の事や人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言(せいしょうなごん)が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったもの全てがまとめられている。

中宮(皇后)に仕える清少納言(せいしょうなごん)との親交が諸資料から窺える貴族に、藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房などが在り、特に左中将・藤原実方(ふじわらのさねかた)との贈答が数多く知られ事から恋愛関係が想定される。

千年(長保二年)に一条天皇中宮(皇后)・定子が出産時の不幸で没してしまい清少納言が宮仕えを退いて後、もう一人の女流作家・紫式部が一条天皇中宮(皇后)・彰子(藤原道長の長女)に伺候する。


御伽話になった源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の武勇伝が生まれた時代は、この時代の事である。

源頼光(みなもとのよりみつ)は清和源氏の三代目にあたり、鎮守府将軍・源満仲の長子で平安時代中期の武将であるが、俗に「らいこう」とも呼ばれる。

頼光(よりみつ)は、父・満仲(みつなか)が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれた。

その源頼光(みなもとのよりみつ)の異母弟には大和源氏の源頼親(みなもとよりちか)と、後に武家源氏の主流となる河内源氏初代・源頼信(みなもとのよりのぶ)が居る。

尚、河内源氏の二代が奥州で前九年の役を始めた源頼義(みなもとよりよし)で、その息子が八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとよしいえ)へと続く。

頼光(よりみつ)の父・満仲(みつなか)は摂津国多田に源氏武士団を形成し頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向に在った。

九百八十六年(寛和二年)頃、居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ・三条天皇)が皇太子となった際に、摂津源氏の棟梁・頼光(よりみつ)は春宮権大進(皇太子近習)に任じられる。

その後の九百九十年(正暦元年)、関白・藤原兼家の葬儀に際しての藤原道長の振る舞いに感心して、頼光(よりみつ)は「側近として従うようになった」と伝えられる。

九百九十二年(正暦三年)には、頼光(よりみつ)は備前守に任官しているが都に留まっており、「遙任であった」と思われる。

東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに頼光(よりみつ)も参加している。

千一年(長保三年)には、源頼光(みなもとのよりみつ)は受領に拠り美濃守を兼任、この時は「任国へ赴いていた」と推測される。

一方で源頼光(みなもとのよりみつ)は、後世に成立した「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」、室町時代になって成立した「御伽草子」などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。

その説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱(わたなべのつな/俗称・金太郎)を筆頭にした頼光四天王や藤原保昌などの「強者の家臣がいた」と言われ頼光が実際に郎党を従えていたと考えられる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)は、京都と丹波国の国境の「大枝(老の坂)に住んでいた」とされる鬼の頭領で、「盗賊で在った」ともとも伝えられるが、鬼にしても土蜘蛛にしても、当時の群盗と呼ばれる集団は蝦夷(エミシ/先住民)のマツラワヌ者達である。

室町時代の物語を集めた「御伽草子」などに拠ると、酒呑童子の姿は「顔は薄赤く髪は短くて乱れた赤毛、手足は熊の手のようで背丈が四十尺(六メートル)以上で角が五本、目が十五個も在った妖怪」と言われる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)が本拠とした大江山では、彼は「龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていた」と言う。

その酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐したのが、源頼光(みなもとのよりみつ)とその部下達である。


藤原道長(ふじわらのみちなが)は兄・道隆(みちたか)の嫡子・伊周(これちか)との政争に勝って、漸く左大臣として政権を掌握する。

政権を掌握した道長(みちなが)は一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)と為すが、先立の后に定子が居り既に第一皇子・敦康親王らを生み帝の寵も非常に深かったが、道長は定子を皇后宮と号する事で前例が無い一帝二后を強行した。

入内後十年目にして彰子(道長長女)は土御門殿に於いて皇子・敦成親王(あつなりしんのう/のちの後一条天皇)を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王(あつながしんのう/後朱雀天皇)も生まれて道長(みちなが)待望の孫皇子が誕生した。

千十一年(寛弘八年)、病床に臥した一条天皇は冷泉天皇(六十三代)の皇子・東宮・居貞親王(おきさだしんのう /六十七代・三条天皇)に譲位し、剃髪出家した後に崩御する。

実は東宮・居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ)は、一条天皇より四歳年上で二十五年と言う長い東宮時代を経て、三十六歳で漸く一条帝の譲りを受けて即位した。

三条天皇(六十七代)は次の東宮(皇太子)に、一条天皇と彰子(道長長女)の間に生まれたまだ四歳の敦成親王(あつなりしんのう)を立て、先帝・一条の践祚(せんそ)に報いている。

道長(みちなが)は、東宮時代の三条天皇に次女・妍子(けんし/きよこ)を入内させていたが、これを三条帝即位翌年に皇后(号は中宮)とした。

三条天皇は道長(みちなが)に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任する。

道長(みちなが)は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后・超子を失い成人してから即位した三条天皇と道長の連帯意識は薄く、妍子(けんし/きよこ)が禎子内親王を生んだ事もあり三条天皇は親政を望んだ為に道長(みちなが)と天皇との関係は次第に悪化して行った。


清少納言(せいしょうなごん)と対峙するもう一方の平安時代中期の女性作家、歌人として「源氏物語」の作者と考えられている紫式部(むらさきしきぶ)は、藤原北家の出自で、越後守・藤原為時の娘で母は摂津守・藤原為信の女である。

通説では、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多く、54帖にわたる大作「源氏物語」、宮仕え中の日記「紫式部日記」を著したと伝えられている。

父・藤原為時(ふじわらためとき)は三十歳代に東宮・師貞親王(もろさだしんのう)の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、律令制における八省の一つ式部丞(しきぶしょう/現在の文部省に近い)の式部大丞(実質的な長官)と出世したが、花山天皇が出家すると失職していまう。

紫式部の式部は、父・藤原為時(ふじわらためとき)のの官位・式部大丞(しきぶたいしょう)から採ったようである。

その藤原為時(ふじわらためとき)は不遇な日々を送っていたが、一条天皇に詩を奉じた結果、当時隣国の若狭に宋の商人が渡来して対中華貿易の窓口に成っていた為に漢文の才を持つ為時が選ばれ越前国の受領となり、紫式部は娘時代の約二年を父の任国(越前)で過ごす。

いずれにしても紫式部(むらさきしきぶ)は、清少納言(せいしょうなごん)と同様に国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。

九百九十八年(長徳四年)頃、紫式部は親子ほども年の差がある蔵人・山城守・藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし/大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず間もなく夫・宣孝(のぶたか)と死別した。

その後紫式部は、一条天皇の中宮(皇后)・定子の死去の後を継いだ中宮・彰子(藤原道長の長女、後・院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも千十二年(寛弘八年)頃まで「仕え続けた」とされている。

実はこの紫式部、現在でも本名は不明で諸説あり、当時の受領階級の女性一般がそうであるように紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。

その為に、紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており、婚姻関係も含めて定説が無い状態である。


三条天皇には妍子(けんし/きよこ)とは別に東宮時代からの女御・娍子(せいし/藤原済時の娘)が第一皇子・敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、三条帝は娍子(せいし)も皇后(号は皇后宮)に立てようとした。

ところが娍子(せいし)の立后儀式の日に道長(みちなが)は妍子(けんし/きよこ)の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしない事態となった。

その為に、意を決した右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が病身を押して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった。

翌年の娍子(せいし)参内の行賞として娍子(せいし)の兄の藤原通任を叙任しようとした際に、道長(みちなが)は本来は長年に渡り娍子(せいし)の後見をしたのは「長兄の藤原為任(ふじわらのためとう)である」として通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判し、最終的に為任を昇進させた。

三条天皇と道長(みちなが)との確執から政務は渋滞し、三条帝は密かに実資(さねすけ)を頼りとして対抗を試みるが、筋を通す実資(さねすけ)も流石に権勢家の道長と正面から対抗できず大勢は道長に有利であった。

千十四年(長和三年)、孤立した三条天皇は失明寸前の眼病に罹り、いよいよ政務に支障が出た事を理由に道長(みちなが)はしばしば譲位を迫る。

外孫の早期即位を図る道長(みちなが)が敦成親王(あつなりしんのう)の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王(あつながしんのう)の東宮までも望んでいるのは明らかで、三条天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。

しかし道長(みちなが)は、皇統に巣食う鵺(ぬえ)と化して己の野望の為に三条帝を追い詰めて行く。

翌千十五年(長和四年)譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬ事を詔(みことのり)するが、その翌月に不吉にも新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。

この火災を理由に、道長(みちなが)はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子・敦明親王(あつあきらしんのう)を東宮(次期帝)とする事を条件に敦成親王(あつなりしんのう)への譲位を認めた。

千十六年(長和五年)、終(つ)いに三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王(あつなりしんのう)が後一条天皇として即位し、東宮には約束通り敦明親王(あつあきらしんのう)が立てられる。

道長(みちなが)は摂政の宣下を受け、僅か在位六年で退位した三条上皇は出家して法皇となるも、程なく四十二歳で恨みを残しながら没した。

三条法皇の死後、その長子・敦明親王(あつあきらしんのう)は父の不遇な生涯をまざまざと見ていた。

三条法皇の死後、敦明親王(あつあきらしんのう)は道長(みちなが)に無言の圧迫を掛けられ、道長(みちなが)の権勢に恐れを抱いて終(つ)いに自ら東宮を辞退する挙に出る。

道長(みちなが)はそれを喜び、娘の寛子を敦明親王(あつあきらしんのう)嫁させ、さらに親王を准太上天皇として優遇し、冷泉・円融両系の両統迭立に漸く終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰す事になった。


藤原道長(ふじわらのみちなが)は従一位太政大臣に任じられ位人臣を極めるが、これは後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕する為で、程なくこれを辞し摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲り後継体制を固めた。

道長(みちなが)は一応政治から退いた形になるが、その後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。

道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出した。



平将門を討ち勝利した平貞盛の方で有るが、その後も地元の将門人気は強く、関東には居辛く成って、伊勢の国に移住する。

ここでも、相当強引に所領を獲得した様で、争いの記録が伊勢に残っている。

伊勢平氏の祖・平貞盛は、平将門の所領を横領して将門を追い詰めた平国香の息子である。

平国香、平貞盛父子は平将門を討ち取るべく兵を出すが、平将門の返り討ちに合い父・国香を討ち取られ、その後には子の平貞盛も平将門との戦いで破れるが、命を落とす危うい所で逃げ延びている。

平将門は平国香、平貞盛父子との戦いに勝利して力を盛り返したが、近隣の揉め事などの仲裁や朝廷との交渉を引き受けている間に、その指導力欠如の朝廷とのいざこざ腹を立て坂東武士を結集、関八州に代官を配置し、「新皇」を名乗った為に平貞盛に平将門を討ち取る機会が巡って来た。

朝廷から、関東武士に将門追討の院宣が飛び、平貞盛(後の伊勢平氏)は押領使・藤原秀郷ら討伐軍と共に「猿島郡の北山」で平将門と対峙、その合戦で平将門は流れ矢に当たってあっけなく敗死、平貞盛は勝利を収めている。

伊勢平氏と言うと、言うまでも無く地盤は伊勢の国である。

それが何故、紀伊半島が本拠地の勘解由小路党とそりが合わないのか、理由は簡単である。

伊勢平氏平貞盛が関東から移り住み、強引に領地を拡大した相手が、勘解由小路党の草でもある在地の小豪族達の所領だった。

元々関東で起きた平将門の新皇事件の発端でも、平国香、貞盛親子が平将門の所領を乗っ取ったからで、伊勢平氏平貞盛の領地と勢力拡大の執着心は並大抵のものではない。

どうやらこの伊勢平氏一族、歴代並外れた野心の持ち主だったようである。

伊勢平氏(平家)側では、関東を捨てて伊勢に来た。

この時代の豪族としては、新たな土地で形振(なりふ)り構わずに勢力を拡大しなければならない。

しかし、在地の小豪族達にして見れば、勝手に赴任して来て強引に領地を拡大されては堪った物ではない。

その小豪族達が、勘解由小路党の草や所縁(ゆかり)の者だったから自然に天下の色分けが出来るもので、平家、土御門(安倍)連合対源氏、勘解由小路(賀茂)連合の構図が出来上がって、先祖以来の天敵となって行く。

貞盛の子・維衛(ただひら)の代には、所領を相当広げ、伊勢守に任じられる。

正度(まさのり)正衛(まさひら)忠盛(ただもり)と続き、忠盛の代には主に現在で言う警察、鎮圧部隊的な仕事で成功した。

忠盛は、上位の官位を得、貴族並みの扱いを受ける様に成る。

しかしこの頃には、平氏は面目を失う失態を起こしている。


長元の乱(ちょうげんのらん)=平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は、平安時代の千二十八年(長元元年)に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた反乱である。

平安時代のこの反乱は、関東地方では平将門(たいらのまさかど)の乱以来の大規模な反乱だった。

平忠常(たいらのただつね)は、平将門の叔父・平良文(たいらのよしふみ)の子孫に当たる。

忠常(ただつね)は上総国、下総国、常陸国に父祖・平良文(たいらのよしふみ)以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。

千二十八年(長元元年)六月、忠常(ただつね)は安房守・平維忠(たいらのこれつね)を焼き殺す事件を起こす。

原因は不明だが、受領と在地領主である忠常(ただつね)との「対立が高じたも」と説明されている。

続いて忠常(ただつね)は、上総国の国衙(こくが/地方政治を遂行した役所)を占領してしまう。

上総介・縣犬養為政(あがたいぬかいのためまさ)の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三ヵ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。


この乱の鎮圧に朝廷は検非違使・平直方(たいらのなおかた)を主将とする討伐軍を派遣するが三年にわたって鎮圧できなかった。

平直方(たいらのなおかた)は検非違使を罷免され、直方(なおかた)は伊豆に一族の安住の地を得、後にこの子孫が鎌倉期の北条氏となる。

代わって源氏武士団有力武士・源頼光(みなもとのよりみつ)の弟・源頼信(みなもとのよりのぶ)が起用されるに及び忠常(ただつね)は戦わず降伏した。


当時の検非違使・平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、関東で発生した「鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の孫の乱=長元の乱(ちょうげんのらん)=平忠常の乱(たいらのただつねのらん)」の鎮圧に追討使として失敗してしまい、役を解かれて伊豆の国に在住する。

この平直方の流れが伊豆に小さな所領を得て、後に鎌倉幕府執権・北条家となる。

直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて伊豆の国に在住する。

直方の父は平時方(たいらのときかた)と言った。

但し平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在するので書き添えて置く。


「村岡良文の孫の乱」と一部文献にある乱は、実際には良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の事で、この「長元の乱」が関東における源氏の台頭のきっかけとなる。

平直方が大敗を喫して乱の制圧に失敗し、京都に召還され朝廷から検非違使の任を解かれた関東での「長元の乱」の乱鎮圧に、清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)が成功し、結果関東では源氏の勢力が強まり鎮守府将軍などの現地武門トップの地位は源氏へと移ってしまうのである。

この後、平氏が受け持っていた坂東(関東)と奥州の警備は源氏が取って代わり、「前九年の役・後三年の役」の奥州大乱に源氏が関与して行く事になる。

この時点で、朝廷では源氏ほど伊勢平氏は、同じ武門でもたいして重要な仕事をしていた訳ではない。

伊勢平氏が平清盛の代に「平家」として台頭するのはまだ少し先の事である。


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(八幡太郎と奥州藤原)

◇◆◇◆(八幡太郎と奥州藤原)◆◇◆◇◆

奥州(東北)では、つい数十年前の現代まで一家族が素っ裸で肌を寄せ合って寝ていた。

当然ながら父も母も素っ裸で、夜になると父の傍に男の子、母の傍に女の子と、七〜八人の子供が素っ裸になり父と母に素肌をつけ寄せ合って眠る。

極寒の地で、「何故素肌になるのか」と現代の人々は訝(いぶか)しがるだろうが、犬や猫が子供を抱き寄せて眠る姿と同じで、人が肌を寄せ合い抱き合って眠ると温かいのである。

そしてこの地方独特の就寝風習は、蝦夷族(えみしぞく)伝来の風習の名残かも知れない。


奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

清和源氏流河内源氏二代・源頼義(みなもとよりよし)は、河内源氏初代の父・源頼信に従って平忠常の「長元の乱」を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得て相模守・常陸守などの坂東での要職を歴任して居る。

その間に源頼信は東国の掌握を進め、多くの東国武士を家人として武門の棟梁としての地位を固めた。

その源頼義(みなもとよりよし)が奥州に乗り込んで来る。

源頼朝の五代前に遡る村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任したのだ。


源頼義は、野心から前九年の役(ぜんくねんのえき)を聞き起こした奥州(東北)鎮守府将軍である。

息子に、源家を武門の棟梁としての名声を定着させ、源氏の長者が将軍職に任ずる慣例の基と成る八幡(はちまん)太郎・源義家がいる。

この鎮守府将軍・源頼義は、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。

それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説など色々有るが、たとえ後者としても安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。

蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、阿部氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。

朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

安倍氏蝦夷(エミシ)族長説を解説すると、縄文人とその後に成立する弥生人の経緯に遡る事になる。

氷河期に、結氷で地続きと成った樺太経由で遣って来て土着した縄文人に、その後黒潮・暖流に乗って島伝いに遣って来たポリネシア系の部族が混血して弥生人が成立し、列島各地に縄文系蝦夷(エミシ)人の弥生集落が生まれた。

その後、中華大陸や朝鮮半島経由で遣って来たのが渡来系の征服部族・氏族で、彼らは当初夫々(それぞれ)の部族が都市国家もどきの倭の国々を成立させ、それが徐々に併合されて勢力を拡大して行く。

この渡来系の征服部族・氏族と在来の縄文系蝦夷(エミシ)人の弥生集落との意思疎通の手段として生まれたのが、「日本語のルーツ」だった。

そうした過程で、一時坂東(関東)地区がその縄文系蝦夷(エミシ)人の弥生集落と渡来系の征服部族・氏族のせげみ合いの地となり、「平安群盗と原初の武士達」が生まれている。

渡来系の征服部族・氏族は、縄文系蝦夷(エミシ)人の弥生集落を制圧しながら東北・北海道へ追い遣り、そこで東北地区の縄文系蝦夷(エミシ)人の弥生集落を「俘囚の自治地区」として押し込めた。

この俘囚の自治地区の長を「俘囚長」としたのだが、その「俘囚長」こそが縄文系蝦夷(エミシ)人(弥生人)の王・「火の神・アピエ(安倍御門)」だった。



そのちょっかいを出すタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。

安倍頼時の息子・貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と源頼義が言い出したのだ。

明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せ頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。

源頼義が兵を率いて奥州に居座り、戦を継続させる。

この奥州の混乱で、頼義の鎮守府将軍・後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き戦闘は続く。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。

一時は安倍側が戦況有利に成って、源頼義は窮地に立った。

だが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。


清原氏は、東北蝦夷(とうほくえみし)の流れを汲む俘囚長出自の豪族と言われ、同じ俘囚長出自と言われる安倍氏とともに出羽の有力な豪族だった。

つまり奥州・清原氏は、奥州・安倍氏と同じ蝦夷(エミシ)族長説がある俘囚長の家柄である。

安倍氏相手に前九年の役を始めた源頼義は苦戦を強いられ、活路を見出す為にその安倍氏と並ぶ強大な勢力を持つ清原氏を味方につける策略をめぐらす。

前九年の役当時の奥州・清原氏の総領は清原光頼(きよはらみつより)だったが、源頼義の再三の援軍懇請についに挙兵を決意、弟の清原武則(きよはらたけのり)を総大将とする援軍を派遣する。

しかし、分家の当主・清原武則には奥州で強大な力を誇る安倍氏に取って変わる野心が在った。

それで実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱に於いて、清原家総大将として源頼義方に付き、形勢不利だった戦局を一変させて頼義に勝利させている。


この安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は朝廷の実力者藤原氏の助力で戦功を認められ正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。

この叙任に於いて朝廷に味方した事に成った清原家の当主・清原武則(実際には総領の弟)は、破格ながら従五位下・鎮守府将軍に任じられ、中央での扱いは兄の清原光頼(きよはらみつより)ではなく弟・清原武則(きよはらたけのり)を奥州鎮守府将軍として任用した。

この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家分家・清原武則(きよはらたけのり)家(後の奥州藤原家)に代わった。

これが、千五十年代に実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる奥州(東北)の戦乱である。


この奥州の地は、冬の戦には不向きな土地だった。

この辺り、旧暦の正月に入るひと月ほど前には、白いものが「ハラハラ」と舞降りて来る。

やがてその雪が吹雪と成り、その先の月日は数ヶ月間も長い間この奥州地方は雪に埋もれて風の音以外は静まり返る。

この雪が味方して、地の利を持つ安倍頼時と嫡男・貞任(さだとう)方を有利に導く。

それだけではない。

源頼義(みなもとよりよし)が初めて奥州の地に足を踏み入れた時、奥羽の地は季節が夏に成らんとするのに凍えるほどの寒風が吹き荒れていた。

「やませ(山背)」は、主として日本列島の北海道・東北(奥州)地方に発生する歓迎されざる気象現象である。

初夏から夏の時期にかけて、北海道・東北(奥州)地方の太平洋側にオホーツク海気団より吹く北東風または東風の冷たく湿った強い風が吹く事が在る。

特に梅雨明け後に吹くこの季節外れに冷たい強風の事を人は「やませ」と呼び、「やませ」の風が吹くと沿岸部を中心に気温が下がり、海に面した平野に濃霧が発生し易くなる。

この気象現象は通常三日ほどで収まるが、「やませ」が長引くと低温と日照不足に拠って水稲などの農作物に被害を及ぼし、長期化は東北地方全域に凶作を引き起こす。

「やませ」の影響で、太平洋側では日照時間は少なく気温も低くなる為、長く吹くと冷害の原因となり、凶作風、飢餓風とも呼ばれて、知られるものだけでも江戸四大飢饉、昭和東北大飢饉などの大飢饉の記録が残されている。

この「やませ」の季節外れの寒風には、源頼義(みなもとよりよし)が率いる坂東武者もてこずり苦しんでいる。

蝦夷族(えみしぞく)が追いやられた北海道・東北(奥州)地方は、列島の西側を統一した大和朝廷の進出を阻むほどに、冬季の厳しさだけでなく「やませ」の存在も北海道・東北(奥州)地方が厳しい風土に在ったのだ。

十二年間もの永い間、前九年の役の決着がつかなかったには、この地方独特の気候が源頼義(みなもとよりよし)ら関東方を苦しめた事も大きかったのである。

奥州はまだ未開の、凍えそうな秘境だった。


この奥州安倍家壊滅の時から、貴族陰陽寮首座・土御門(安倍)家の怨念は、河内源氏家と、損得づくの計算で蝦夷仲間を裏切った清原氏に向けられて朝廷内を暗躍、対抗勢力の平氏と結んで、失地回復を画策するに到る。


後の記述で明らかになるが、この平安時代に陸奥国の俘囚の長とされた奥州の豪族・安倍氏の末裔が実は現代によみがえっている。

蝦夷系棟梁安倍貞任の弟・安倍宗任が厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で、源頼義、源義家の率いる軍勢に破れ、降伏して最初四国配流、後に九州に配流された。

その安倍一族の末裔が維新後の日本に頭角を現し、昭和から平成に掛けて政界の有力者一族に踊り出るのは、凡そ千年(九百五十年)近い歳月を要する事になる。


それから二十年後、源頼義に助勢して安部氏を討った功績に拠り鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。

この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子・義家である。

源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。

以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。

源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。

処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で養子取りの祝い事の際のいざこざから、弟(いずれも藤原庶流からの養子縁組に拠る義弟)の清衝と家衝が敵に回り兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。

これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは殺し合いに発展する。

この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源の義家に、清衛と家衛が投降した。

源義家は投降した二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。

しかし家衛がその仕置きに不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。

それでまた二人が戦乱を引き起こし、奥州は再び戦乱に成ってしまった。

清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。

その後、源義家(八幡太郎義家)は苦労の末、弟の源義光(新羅三郎義光)の助けも借りて、家衛を討ち取る。

これを千八十年代に起こった、「後三年の役」と言う。


この源義家(八幡太郎義家)に助力した清和河内源氏・源義光は新羅三郎義光と別名乗りを言い、近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服した事から新羅三郎(しんらさぶろう)と称し河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男である。

新羅三郎義光の母は平直方の女で、同腹の兄には、源氏の棟梁として最も著名な将軍・八幡太郎義家(石清水八幡宮で元服)や加茂二郎義綱(京都の賀茂神社で元服)がいる。

左兵衛尉の時、後三年の役に兄の源義家が清原武衡・家衡に兄弟に苦戦していると知るや、朝廷に完奏(願い出て)して東下を乞うたが許されず、千六十七年(寛治元年)に官を辞して陸奥に向かい、兄に助力して奥州(東北)平定に貢献する。

しかし長兄・源義家の死去後、源氏の棟梁奪取を企み次兄の源義綱を源義忠暗殺事件の冤罪で佐渡に配流、その配流先の佐渡で再び源為義の追討を受け義綱は自害するも真相が発覚し、義光は自らの勢力が強い常陸国に逃亡せざるを得なくなる。

河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。

甲斐源氏は、「新羅三郎」こと源頼光の三男・「源義光」の次男であった武田冠者・源義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、継子・源清光(みなもとのきよみつ)も武田郷で生まれる。


清原家衛を討ち取って漸く奥州の騒乱を平定した源義家だったのだが、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損で在った。

この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。

義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。

それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。


しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。

朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分にに従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。

源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。

その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。

つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権)での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。


この変則的な朝廷の処置の結果、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。

この清衡には元々奥州清原家の安泰を願って藤原氏の系流から養子に来た経緯があり、領有した奥州全域の富を背景に、時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。

後三年の役の後に清原氏が藤原氏に代わった経緯であるが、前の戦・前九年の役が終わった後、清原武則(きよはらのたけのり)の息子・清原武貞(きよはらのたけさだ)は安倍氏一門の有力豪族で前九年役敗戦後に処刑された藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を自らの妻として再婚していた。

この清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻となった藤原経清(ふじわらのつねきよ)の元妻は、前九年の役で戦死した安倍氏の当主・安倍頼時の娘で亜ある。

その安倍頼時の娘で亜と、平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷の子孫・藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)・藤原経清(ふじわらのつねきよ)との間に生まれた息子が居た。

その連れ子は清原武貞(きよはらのたけさだ)の養子となり、清原清衡(きよはらきよひら)を名乗り清原家の継嗣に納まった。

その後、安倍氏と清原氏の惣領家の血を引いたの異父弟・家衡(いえひら)も生まれている。

後三年の役後、中央で摂政関白を任じていた藤原師実(ふじわらもろざね)が同じ藤原北家流である事から目をかけられて戦後処理が有利となり、「後三年の役」の後の源義家(みなもとよしいえ/八幡太郎)に対する処置とは対照的に清原清衡(きよはらきよひら)は清原氏一門の旧領すべてを手に入れる事となる。

清原清衡(きよはらきよひら)は摂政関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に願い出て許され、実父・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の姓・藤原に復し、清原氏は奥州藤原氏と成った。

尚、時の白河天皇に深く信任された摂政関白・藤原師実(ふじわらもろざね)は藤原頼通(ふじわらよりみち/太政大臣)の長男で藤原道長(ふじわらみちなが)の孫にあたる。

奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家が誕生して、奥州の蝦夷族は過渡期的に自治政府もどきの統治を受ける事になったのである。


平将門や村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)が反乱を起こす影に、実は土御門(つちみかど・安倍)家の存在がある。

平氏は源氏より早くに武門化して、関東や東北の入り口まで赴任している。

軍事警察部門(武門)を担当していたから、当然蝦夷運営には気を使い、戦略的に土御門家とは「太い付き合い」となる。

つまり建前ではない「精神的連合関係」が構築され、平氏の動きに現れていた。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行くのだが、この立場の上昇が平氏の反乱や前九年・後三年の役、そして清盛平家の台頭と関わりがない訳が無い。



もう、かなり以前から兆候は在った。

いつの世も、政権末期には大乱が訪れる。

この源平に於ける平氏の優劣が、再び逆転するのは白河上皇(法皇)の登場がきっかけである。

白河上皇(法皇)は、藤原氏による摂政・関白政治を改め、自らが政治権力を掌握する野心を持っていた。

長く太政大臣を独占していた藤原一族の勢力が漸く衰えを見せて、地方の政治運営が乱れていた。

そこで、藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党)は邪魔である。

対抗するもう一方の武門の旗頭、平氏の力の育成に密かに腐心していた。

白河上皇(法皇)は藤原氏を退け、源氏の力を削いで院政を引く。

院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治で、特に、千八十六年の白河上皇の時代から平家滅亡の千百八十五年頃までを「院政時代」と呼ぶ事があり、院政を布く上皇は「治天の君」とも呼ばれた。

但し、この院政と言う表現は後の世の命名で、天皇が余力ある内に引退し「若き子(孫)の帝を後見する」と言う意味では院政へのめばえは持統天皇・元正天皇・聖武天皇などから見られる。

当初は大兄制(同母兄弟中の長男)であり皇位継承が安定していなかった為、譲位と言う意思表示に拠って意中の皇子に皇位継承させる為にとられた方法と考えられている。

この太上天皇(上皇)が天皇に代わって政務を直接行う形態は、平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や円融天皇などにも見られ、これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。

その後、「神の意向で統治する」と言う精神的統合の象徴である天皇家の存在から、当時はまだ強い王権の状態を常に維持する為の政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分で在った。

また平安時代中期には、血統至上主義に在る皇統として虚弱精子劣性遺伝の影響を受け、幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮する為の若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかった為に、父系によるこの仕組みは衰退して行く。

そして代わりに、母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家流が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治(せっかんせいじ)が隆盛して行く事になる。

その藤原北家流の摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

即位四年後、後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。



千九十六年(嘉保三年十二月十七日)、「永長地震(東海 東南海連動)」が発生する。

永長地震の 推定マグニチュードは八〜八・五 、皇居(京都)の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下、近江国の勢田橋が落ちた。

白河天皇の第二皇子・堀河天皇の御世に起きたこの地震の津波により、駿河国で民家社寺四百余が流失する。

畿内、琵琶湖、及び揖斐川付近の強震動及び伊勢国・津や駿河国の甚大な津波被害から東海・東南海連動地震と推定され、この地震の二年二ヶ月後に「康和・南海地震」が発生した。


この頃、坂東(関東)から移り住んだ伊勢平氏は、平正盛(たいらのまさもり)の代に成って居た。

伊勢平氏の武将で御所に北面武士(御所の警護をする職務)として出仕していた平正盛(たいらのまさもり)は、白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用される。

平正盛(たいらのまさもり)の子・平忠盛(たいらのただもり)は十三歳で左衛門少尉となり、千百十一年(天永二年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。

千百十八年(元永元年)生まれの平清盛(たいらのきよもり)は「忠盛(ただもり)二十二歳の時の子供」と言う事に成る。


清盛(きよもり)の父・忠盛(ただもり)は伊勢平氏で初めて昇殿を許され、北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たす。

白河上皇の信任厚い忠盛(ただもり)は「諸国の受領を歴任した」と伝えられるが、代理を立て京に常駐していたので受領国に在地した事は無い。

また、忠盛(ただもり)は日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、それが「清盛(きよもり)の勢力増大の元に成った」と解されているが、勿論この日宋貿易は白河上皇と組んでの事業だった。


この平正盛(たいらのまさもり)、自分の所領を寄進するなどして白河上皇(法皇)に取り入り、出世の糸口を掴んだ。

その後上皇の護衛などして信頼を得、平正盛(たいらのまさもり)は昇進を果たして行く。

平正盛(たいらのまさもり)の子・忠盛(ただもり)の代に成ると、盗賊の捕縛、寺社強訴の合戦鎮圧、海賊の鎮圧と活躍、朝廷での権威は源氏を上回る様に成る。

忠盛(ただもり)は、没した時には「正四位上行部卿」と言う高官に出世していた。

その忠盛(ただもり)の嫡男が、平清盛(たいらのきよもり)であるが、この清盛(きよもり)には白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が付きまとっている。

ここからの平清盛(たいらのきよもり)一党を他の平氏と区別して平家とする。


十四年後の千八十六年、白河天皇は当時八歳の善仁皇子(たるひとのみこ/七十二代・堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となって堀河幼帝の後見を理由に白川院と称して引き続き政務に当り、これが「院政の始まりである」とされている。

千百七年(嘉承二年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が四歳で即位し、またも白河上皇は院政を続け白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨する政治体制が成立した。



千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇(すとくじょうこう)方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶのだが、この「保元の乱」の主役が悲劇の帝・崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)と権謀術策の帝・後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に法皇)だった。


鳥羽天皇(七十四代)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ・待賢門院)の第一皇子として顕仁親王(あきひとしんのう・後の崇徳天皇/すとくてんのう)は生まれるが、顕仁(あきひと)は父帝・鳥羽には疎んぜられた。

疎んぜられた理由だが、これは「古事談」のみの記述であり真偽は不明ではあるが、崇徳天皇は白河法皇(七十二代)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は顕仁(あきひと)を「叔父子と呼んで忌み嫌っていた」と言う逸話が記されている。

藤原璋子(ふじわらのしょうし)が十六歳で鳥羽天皇(七十四代)の下に入内(結婚)した時、二歳年下の鳥羽天皇はまだ十四歳、院政を敷いた白河法皇は当時六十四歳の最高権力者で、その可能性が無い訳ではない。

この白河法皇、中宮・賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持つなど女性関係が乱れ、加えて関係を持った女性を次々と寵臣等に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時広く流布され信じられる原因ともなっている。

その疑惑の皇子・顕仁親王(あきひとしんのう)は千百十九年(元永二年)五月下旬に生まれ、翌六月中旬に親王宣下を受けるも波乱の人生が待っていた。

千百二十三年(保安四年)正月二十八日に白河法皇(七十二代)の推しも在って顕仁親王(あきひとしんのう)は五歳で皇太子となり、同日に鳥羽天皇(七十四代)の譲位により践祚(せんそ)、同年二月十九日に第七十五代・崇徳天皇(すとくてんのう)として即位した。


即位から六年後の千百二十九年(大治四年)、崇徳天皇(すとくてんのう)十一歳の時に関白・藤原忠通(ふじわらただみち)の長女である藤原聖子(ふじわらのきよこ/皇嘉門院)が七歳で入内(結婚)する。

藤原聖子(ふじわらのきよこ)入内の同年七月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)の擁護者・白河法皇が亡くなり、崇徳とは合わない鳥羽上皇が院政を開始、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立する。

院政開始後の鳥羽上皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛して得子所生の体仁親王(なりひとしんのう)の即位を目論み、千百四十一年(永治元年)十二月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫りこれを承知させると、体仁親王(なりひとしんのう)を近衛天皇(七十六代)として即位させる。

体仁親王(なりひとしんのう)は崇徳天皇(すとくてんのう)の中宮・藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子であり「皇太子」の筈だったが、鳥羽上皇の画策で譲位の宣命(みことのり)には「皇太弟」と記されていて、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。


崇徳天皇(すとくてんのう)は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになる。

新院・崇徳は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、「久安百首」をまとめ「詞花和歌集」を撰集し、鳥羽法皇が和歌に熱心でなかった事から、当時の歌壇は崇徳を中心に展開している。

鳥羽法皇も表向きは崇徳に対して鷹揚な態度で接し、病弱な近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合に備え、崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう/母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。


平清盛(たいらのきよもり)二十九歳の頃、祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなる。

この闘乱事件で、清盛(きよもり)の郎等の放った矢が宝殿に当たると言う信仰上の不敬事件が発生した。

祇園社を末社とする延暦寺は、忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の処置(罪)を贖銅三十斤と言う罰金刑に留めた。



平安時代末期、平清盛が青年に成った頃、十二歳年上の藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)が居た。

藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)は藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子で、平治の乱の主役の一人である。

通憲(みちのり/信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭で在った。

しかし父・実兼が千百十二年(天永三年)に蔵人所で急死した為、通憲は七歳で縁戚であった高階経敏(たかしなのつねとし)の養子となる。

高階氏(たかしなうじ)は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。

通憲(みちのり/信西)は養子に入った高階氏の庇護の下で学業に励み、大学頭だった父祖譲りの学才を磨き上げて行く。

千百二十一年(保安ニ年)、十六歳の通憲(みちのり/信西)は養父・経敏と「はとこの関係」である高階重仲の女を妻としている。

通憲(みちのり/信西)は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。

「永昌記」に拠ると、通憲(みちのり/信西)の官位の初見は、天治元年四月二十三日(千百二十四年)の条・中宮少進(中宮・藤原璋子/ふじわらのしょうし)の記述である。

通憲(みちのり/信西)は、その年十一月、璋子(しょうし)の院号宣下(いんごうせんげ)に伴い待賢門院蔵人(じけんもんいんくらんど)に補された。

その後通憲(みちのり/信西)は、璋子の子である崇徳天皇(すとくてんのう/第七十五代)の六位蔵人(ろくいのくらんど)も務めたが、千百二十七年(大治二年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。

この年、通憲(みちのり/信西)ニ人目の妻である藤原朝子が、鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている。


散位(位階のみを持つが執掌を持たず)となった通憲(みちのり/信西)は、千百三十三年(長承二年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになる。

当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に、通憲(みちのり/信西)は院殿上人、院判官代とその地位を上昇させて行った。

その後通憲(みちのり/信西)は、日向守に任命されると伴に、「法曹類林(法令集と判例集)」の編纂も行っている。

通憲(みちのり/信西)の願いは、実家の曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。

しかし、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みで、高階氏の戸籍に入った通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなっていた。

また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していて道は絶たれたも同然で、失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになる。

「台記」に拠ると、遁世の噂を耳にした藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、通憲(みちのり/信西)に書状を送って数日後、通憲と頼長は対面を果たしている。

鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母がニ人目の妻・藤原朝子だった事の縁で、上皇は出家を思い止まらせようと配慮する。

千百四十三年(康治二年)に鳥羽上皇は、通憲(みちのり/信西)を正五位下、翌千百四十四年(天養元年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命する。

更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任する為に必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えた。

それでも通憲(みちのり/信西)の意思は固く、同千百四十四年七月ニ十二日に出家してこの時「信西」と名乗った。

出家しても俗界に想いを残していた「信西(しんぜい)」は、千百四十八年(久安四年)鳥羽法皇の政治顧問だった葉室(藤原)顕頼(あきより)が死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取する事に成功する。

「信西(しんぜい)」が鳥羽上皇の信任を得る中、千百五十五年(久寿二年)に近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。

候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院(びふくもんいん・藤原得子/ふじわらのなりこ)のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が後継と決められた。

若い守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)が立太子しないまま二十九歳で即位する事になった。

守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がった為である。

この突然の雅仁親王擁立の背景には、上皇の第四皇子・雅仁親王を妻・朝子を乳母に養育していた信西の「策動があった」と推測される。

後白河天皇(雅仁親王)が即位して信西の権力が高まり、この辺りから大乱の兆しが始まっていた。


延暦寺・祇園社闘乱事件の九年後、清盛(きよもり)三十九歳の頃に「保元の乱」が起こっている。

千百五十五年(久寿二年)七月二十四日、予(かね)てより病弱だった近衛天皇が十七歳で崩御し、改めて後継天皇を決める王者議定が開かれる。

順当なら美福門院の養子に治まった崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)が候補として最有力だった。

だが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(まさひとしんのう)が立太子しないまま二十九歳で、後白河天皇(七十七代)として即位する事になった。

背景には崇徳(すとく)の院政によって自身が掣肘される事を危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳(すとく)の寵愛が聖子から兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)に移った事を恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀が推測される。

この後白河天皇(七十七代)の即位により崇徳(すとく)の院政の望みは粉々に打ち砕かれる。

後白河天皇即位の翌千百五十六年(保元元年)五月、鳥羽法皇が病に倒れ、崇徳(すとく)は臨終の直前に見舞いに訪れたが対面は適わず七月二日申の刻(午後四時頃)に崩御した。

鳥羽法皇は臨終の床で崇徳(すとく)との対面を拒否、側近の藤原惟方に自身の遺体を「崇徳に見せないように」と言い残した為、崇徳(すとく)は憤慨して鳥羽田中殿に引き返すも、後白河天皇と崇徳上皇(すとくじょうこう)の間は誰が見ても険悪な状態に成っていた。


鳥羽法皇が崩御して程なく、二月後に事態は急変する。

千百五十六年(保元元年)七月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流される。

法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集める事を停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる崇徳上皇(すとくじょうこう)方への先制攻撃と考えられる。


千百五十六年(保元元年)七月九日の夜中、崇徳上皇(すとくじょうこう)は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある鳥羽天皇・第二皇女、統子内親王(むねこないしんのう/母は中宮藤原璋子)の御所に押し入る。

「兵範記」の同日の条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、自らの第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。

崇徳(すとく)に対する直接的な攻撃は未だ無かったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まって居れば拘束される危険もあった為に脱出を決行したと思われる。

翌十日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳(すとく)の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。

崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳(すとく)は今は亡き平忠盛が重仁親王(しげひとしんのう)の後見だった事から、忠盛の子・清盛が味方になる事に一縷の望みを賭けていた。

所が、「愚管抄」に拠ると重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力する事を命じた。

天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり(「兵範記」の七月十日の条)」として武士を動員し、十一日未明、白河北殿へ夜襲を掛けた為に白河北殿は炎上し、崇徳(すとく)は御所を脱出して行方をくらます。

十三日になって、逃亡していた崇徳(すとく)は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも、しかし覚性が申し出を断った為、崇徳(すとく)は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。

十日ほどして讃岐配流処置が決まり、二十三日に成って崇徳(すとく)は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。

天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来に成る凡そ四百年ぶりの出来事で、崇徳上皇(すとくじょうこう)に同行したのは寵妃の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女房だけだった。

その後崇徳上皇(すとくじょうこう)は、配流先の讃岐での軟禁生活の八年後、四十六歳で二度と京の地を踏む事はなく、千百六十四年(長寛二年)八月下旬に崩御した。



平清盛、「皇統の出自」と言っても桓武天皇(第五十代)から数えて十三代目になる枝で、最初の身分は低い。

平清盛は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として本拠地・伊勢の産品(うぶしな/現在の三重県津市)で産まれた事に成っているが生母は不明で、一応生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれる女性の「妹ではないか」と通説されている。

伊勢平氏の棟梁・平清盛は伊勢平氏棟梁・忠盛の嫡子として生まれ、白河法皇の晩年の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)に仕えて出世の糸口を掴んでいる。

しかし怪しいのは、白河院政下の追討使として院近臣を務めた平忠盛の嫡子とは言いながら、平清盛が祇園女御(ぎおんのにょうご)の下で育てられた経緯である。

一説には、幼少の平清盛を庇護していたのは白河天皇(しらかわてんのう)の妾(正式ではない)とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれた謎の女性で有る事や清盛が十二歳で異例の従五位下左兵衛佐に叙任された事から清盛の実父は「白河天皇である」とのご落胤説もある。

どうやら平正盛(たいらのまさもり)は、妻(祇園女御/ぎおんのにょご・の妹)を一夜白河天皇に献上(お召し上げ)したか、それとも白河天皇の隠し子を我が子として引き受けた可能性がある。

それがつまり、平清盛(たいらのきよもり)・・・らしいのだ。

「武家の棟梁」とは言いながら、実態は公家どころか「天皇の隠し皇子(かくしみこ)」と言う出自であれば朝廷から別格の支援を得ても不思議は無く、「武士から身を起こした」と清盛を単純には評せ無い。

それを武家である平家の継嗣(世継ぎ)に納まった所から、建前上は「武家の棟梁として始めて権力を掌握した」と評される。



武士が「潔(いさぎよ)い」などと言うのは綺麗事で、ご承知のように歴史の真実には綺麗事ばかりが在る訳ではない。

何しろ稚児小姓(ちごこしょう)との衆道(しゅうどう/男色)関係も一般的に在った時代で、何も無い主従の信頼関係は脆(もろ)いもので、氏族社会では夫の栄達の為に女房(正室)の召し上げや献上は指して珍しくない事だった。

「お家」が大事な時代だったから召し上げや献上は情とは別の次元の話しで、「お家が権力者の後援を得る」と言う「利」がある事は立派な価値観だった。

誓約(うけい)の国・日本に古くからある連語の「一肌脱ぐ」は、今は「人を助ける」と言う広い意味に使われるが、元来相手に誠意を見せる為のこう言うナチュラル(自然体)な誓約(うけい)対応の時に使うのが正しい。

それだからこそ、「一肌脱ぐ」は効果的な手段と成って「助けたい相手の力に成る」と言うものである。

まぁ、もしかしたらこの時代の女性の方が余程「潔(いさぎよ)かった」のかも知れない。

召し上げも、中には召し上げられる方の女房(正史室)籍のままの事も在ったから、今と成っては闇の中だが平清盛が帝の種である可能性が在っても不思議はない。

武士の任官は三等官の「尉」から始まるのが通常で、二等官の「佐」に任じられるのは極めて異例な事で、落胤説にしろ祇園女御(ぎおんのにょうご)の口利きにしろ、いずれにしても清盛が相当朝廷(帝)に対するコネ(縁故関係)が強かった事に成るのである。


平清盛(たいらのきよもり)は忠盛(ただもり)の長男とされ、生母はすでに死去した事と成って居たが、何故か幼名が今日に伝えられていない。

もし噂通り、清盛(きよもり)が白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤であるならば、伊勢平氏一門の棟梁・平忠盛(たいらのただもり)の所へ養子に入った事になる。

そして清盛(きよもり)は、白河天皇(しらかわてんのう)の愛妾・祇園女御(ぎおんのにょうご)に育てられたとも伝えられている。

一応継母は忠盛(ただもり)の正室・藤原宗子(池禅尼)であり、忠盛(ただもり)と宗子(池禅尼)の間に家盛(いえもり)、頼盛(よりもり)と言う清盛とは腹違いの男児を産んでいる。

そうなると、本来の伊勢平氏の嫡流は家盛(いえもり)、頼盛(よりもり)の兄弟が正統な嫡流である。

従って忠盛(ただもり)の正室・藤原宗子(池禅尼)の子としては、二男・家盛(いえもり)が母の後押しで嫡子となる可能性もあった。

唯、奇妙な事に清盛(きよもり)が初の出仕で従五位下・左兵衛佐と異例の叙任以来、別格扱いだった事も事実である。

そんな中の千百四十七年(久安三年)に、清盛(きよもり)が「祇園闘乱事件」を引き起こして処罰される。

父・忠盛(ただもり)も、この「祇園闘乱事件」に連座され危うく責任を取らされそうに成った事により、次男・家盛(いえもり)の存在感は急速に高まった。

家盛(いえもり)は、同年千百四十七年(久安三年)十二月に受領・常陸介(ひたちのすけ)となり、翌千百四十八年(久安四年)正月には従四位下・右馬頭となって清盛(きよもり)に迫る勢いを示し嫡子となる機運が高まって行く。

まぁ、「清盛(きよもり)の立場危うし」と言う所だったが、肝心のライバル・家盛(いえもり)が千百四十九年(久安五年)に)病死してしまう。

家盛(いえもり)の病死で父・忠盛(ただもり)の落胆は大きかったが、清盛(きよもり)は対抗馬が消えた事で伊勢平氏棟梁の後継者の地位を確実なものとする。

何故なら、もう一人の宗子(池禅尼)の子・頼盛(よりもり/忠盛五男)は二男・家盛の同母弟と言っても清盛とは十五歳の年齢差があり、清盛を押しのける事は無理だった。

ただ、頼盛(よりもり)は正室の只一人の子として優遇され、亡兄・家盛(いえもり)の地位を継承して十七歳で受領・常陸介(ひたちのすけ)に任じられている。

この時点で五男・頼盛は異母兄の三男・経盛(つねもり)、四男・教盛(のりもり)は未だ受領ではなく、五男・頼盛は一門の中で清盛(きよもり)に次ぐ位置にいた。

千百五十年(久安六年)には、忠盛(ただもり)の正室・藤原宗子(池禅尼)が崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母となり、忠盛は親王の乳父(めのと)に成っている。

二男・家盛(いえもり)の病死から四年目の千百五十三年(仁平三年)、平忠盛(たいらのただもり)が公卿昇進を目前に病死し、家督は清盛(きよもり)が継いだ。

千百五十六年(保元元年)の「保元の乱」では、頼盛(よりもり)は、母・藤原宗子(池禅尼)の助言に従った清盛と伴に後白河天皇側に付いて戦い勝利する。

保元の乱の後、頼盛は異腹の庶兄・教盛とともに昇殿を果たす。

清盛(きよもり)が乱の功績により播磨守になった事で、頼盛(よりもり)は清盛の知行国・安芸国の受領となった。

頼盛自身の知行国・常陸国の受領には代わりに同じく異腹の庶兄・経盛が任じられる。

翌千百五十八年(保元三年)八月、頼盛(よりもり)は二回目の常陸介(ひたちのすけ)となり、十月には藤原顕長と知行国を交換して三河守となり、同年には清盛の長子・重盛も遠江守となっている。

千百五十九年(平治元年)、頼盛(よりもり)は「平治の乱」を兄・清盛に従って戦い、その功に拠り頼盛は尾張守となって受領する。

清盛(きよもり)は、「平治の乱」の事後処理に於いて宿敵・源義朝の忘れ形見・源頼朝の死罪を継母・池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願に応じて伊豆へ流刑としている。


「平治の乱」で源義朝を破った平家の勢力は他より抜きん出たものとなったが、乱で共に活躍した頼盛(よりもり)と重盛(しげもり/清盛長子)は、官位に於いて大きく明暗を分ける事になる。

兄・清盛に従って居た頼盛(よりもり)は、伊勢平氏(平家)一門の隆盛と伴に出世するが、五歳と僅かな年齢差でほぼ同年代の清盛の長子・重盛の出世が早く、年上の頼盛(よりもり)は甥の後塵を拝する事になる。

その後の千百六十一年(応保元年)に頼盛(よりもり)は正四位下となり、位階では重盛(清盛長子)を一旦は上回る。

だが、重盛(清盛長子)も、千百六十二年(応保二年)に正四位下、千百六十三年(長寛元年)には従三位、千百六十四年(長寛二年)には正三位と瞬く間に引き離し、千百六十五年(永万元年)には二十八歳で早くも参議となった。

この出世の差に、頼盛(よりもり)が心中に悶々と不満が湧いたとしても、無理からぬ所かも知れない。

千百五十五年(永万元年)、二条天皇が、千百五十六年(永万二年)に摂政・近衛基実が相次いで薨去した事に拠り二条親政派が瓦解して後白河院政派が息を吹き返す。

頼盛(よりもり)は後白河院近臣としての活動が評価され、仁安と改元された八月二十七日には従三位に叙せられ平氏で三人目の公卿となる。

千百六十七年(仁安二年)五月十日、重盛(清盛長子)に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下され、五月十七日、清盛が太政大臣を辞任する。

これで重盛(清盛長子)は国家的軍事・警察権を正式に委任される事となり、清盛の伊勢平氏棟梁の地位は継子・重盛に継承される事を意味した。

しかしながら、家督を譲って隠居した筈の清盛はその後も力を温存して政局を指導し、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在したと思える人事で、頼盛(よりもり)は子の保盛とともに全ての官職を解官される。

千百七十六年(安元二年)七月、建春門院(異腹の姉に清盛の妻で二条天皇の乳母の時子)が薨去した事で、今まで隠されていた後白河院と平家の対立が表面化する。

同年十二月初旬、後白河院と平家の対立の中、後白河院近臣として頼盛(よりもり)は漸く権中納言に昇進する。


平清盛には「出生に疑惑がある」とされている。

平清盛の血流・平氏は、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。

平氏流(へいしりゅう)は、桓武天皇(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、源氏流(げんじりゅう)に対抗する一方の旗頭であった。

しかしそれは武家としての平氏流であり、平氏として既に代を重ねた武家・平家は、かなり格が落ちていた。

つまり第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王の子・高望王(たかもちおう)が宇多天皇の勅命により「平朝臣」を賜与され臣籍降下して居る事から、皇統としては枝の枝である。

まぁ遠縁と言えば「そうかも知れない」と言うほど皇統と離れている平清盛が、目覚しい出世をするのである。


父・忠盛の死後、平清盛は平氏棟梁となり「保元の乱」で後白河天皇の味方をして信頼を得、「平治の乱」で源頼朝の父・源義朝を破って最終的な勝利者となる。


平清盛には、類稀(たぐいまれ)な政治力があった。
その政治力を発揮し、平清盛は武士では初めて太政大臣に任ぜられる。

出世街道を駆け上り強大な権力を握ると、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築いた。

しかし平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握る。

だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、木曽(源)義仲や源頼朝ら各地の源氏に拠る平氏打倒の兵が挙がる中、平清盛は原因不明の熱病で没した。


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(白河院政と平清盛)

◆◇◆◇◆(白河院政と平清盛)◆◇◆◇◆◇

元を正せばこの院政話の発端は、後三条天皇(第七十一代)の御世に中央で平安時代全般に渡り、長く続いた藤原一族の政治力の衰えから始まっている。

求心力を失っては国家運営は出来ない。

後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族とは直接の血縁関係が無い。

それ故に藤原氏を遠ざけ、村上天皇の具平親王(ともひらしんのう/村上天皇・第七皇子)の子・師房(もろふさ/村上天皇・孫)が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓し、始まった村上源氏の皇胤(こういん)貴族の血を引く兄弟、左大臣・源俊房(みなもとのとしふさ)、右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)を就任させた。

村上源氏を取り立てる事で、藤原氏に対抗する皇統の権力独占を図り、天皇親政へと向かった。

そこで、藤原氏から政治権力を朝廷に戻す為に、後三条天皇は、自分の次の天皇として第一皇子の貞仁親王(白河天皇)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子「輔仁(すけひと)親王」を据える様に遺言する。

後三条天皇の皇子白河天皇(第七十二代)が即位したのだが、この天皇、余りにも野心的過ぎた。

色々と理由を付けて十歳にも満たない「子供」の堀河天皇(第七十三代)に帝位を譲り、早々と上皇となって政治の実権を握り、「院政」を敷いた事に端を発する騒動が起きるのである。

言わば「幼い天皇は、上皇の傀儡」と言うやつだ。

この院政を影で支えたのが、勘解由小路党の諜報工作組織だったのは言うまでも無い。

その傀儡、堀河天皇が亡くなると更に五歳にも満たない「孫」、鳥羽天皇(第七十四代)に即位させ白河上皇は院政を続けた。

その鳥羽天皇が成人すると無理やり退位させ、またも「ひ孫」の幼児・崇徳天皇(第七十五代)を即位させて院政を続けた。
よほど、お飾りを立てての院政が都合が良かったらしい。

処がこの白河天皇は、父帝後三条天皇の遺言でもある「堀河天皇の次には輔仁(すけひと)親王を天皇位に就ける」との約束を反故(ほご)にしたのだ。

この頃、何代も後に政局を左右する宗教上の芽が密かに芽吹いていた。

高僧仁寛(にんかん)の伊豆配流である。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた仁寛(にんかん)の伊豆配流が行われたのは、八幡太郎源義家が奥州攻めに失敗して没してから数年後の事だった。

調べて見ると、大和朝廷に於けるこの半島(伊豆国)の扱いは謎に満ちていた。

確かに、長い事「貴族配流の指定地」として、伊豆国は活用されていた。

しかしこの地が、凡そ配流の地に相応しくない明るい陽光が降り注ぐ温暖な地である事が、尚更「何故に?」と疑問を強く意識される。

思うに、伊豆が貴族配流の不可思議な指定地となっていたのは、「完全に朝廷が掌握管理できる場所」、つまり政治的地盤を有する安定した地域の内で最東端の場所だったからである。

それが「王朝の発祥地(地元)故に」とリンクしていれば、流人管理上合理的な説明が付く。

仁寛は、村上源氏の血を引く有力貴族の出自である。

父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。

また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇の皇后で堀河天皇の母にあたる。

まさに権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。

しかも仁寛の兄の勝覚は、真言宗の重要な高僧(醍醐寺座主)で、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖である。

仁寛はこの兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。

そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた「輔仁親王の護持僧」となるのである。


人間考える事は、五百年や八百年経っても同じで有る。

この時代、名家には拝領地、神社には御神領、寺には寺領が在った。

それを分割して分家を創設するか、世継ぎのいない他家への婿入り、そして宮司・神官や寺の門籍を継ぐのは高位氏族の世継ぎ以外の次男三男達の行き所だった。

つまり一休禅師(トンチの一休さんモデル・分裂皇統・後小松天皇の御落胤)の例の様に、寺社は氏族の天下り先だった。

ちなみに彼(一休禅師)が庶民に人気が在るのは、「女犯・飲酒・肉食」と言った破壊坊主であったからで、とりもなおさず庶民の共感を得る本音で生きていたからである。

簡単に言えば、寺社は当時の「天下り先」と言う事になる。

それが現代では形を変え、「外郭団体」と言う事に成るのかも知れない。


白河上皇は、息子の堀河天皇の次には「輔仁親王に次は天皇位につけてやる」と約束していた。

しかし堀河天皇が夭折すると、「次は輔仁親王(すけひとしんのう)を帝に立てる」との約束を破り、わずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言の時と弟との約束の時と二度も約束を反故(ほご)にした訳である。

この時、村上源氏の一族はこの輔仁親王即位を支持していたので、当然、不満と反発が起こり白河上皇(第七十二代)は孤立する。

そこに事件が起こる。
鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。

白河天皇の内親王・令子の御所に匿名の「輔仁親王(すけひとしんのう)と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言う落書が投げ込まれた。

白河上皇の密命で、勘解由小路党が動いたので有る。

更にこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童子の名が書かれていて、この千手丸は醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた[稚児」だった。

村上一族連座を狙った、所謂「千手丸事件」である。

たかが童子(わらべ)の千手丸が何故に捕らえられ、それが歴史的事件にまで発展したのだろうか?

それには説明すべき訳がある。

千手丸が醍醐寺三宝院で仁寛の兄の「勝覚に仕えていた稚児」と言う事は、当時の常識では勝覚と千手丸が特別な関係、「衆道(男色)に有った」と言う事である。

衆道(男色)は男性が男性を性行為の相手とする生殖には関わり無い行為で、言わば邪道である。

但し平安期の貴族や武士の間で広まった衆道(男色)には、現代の所謂ゲイのホモセクシャルとはまったく違う意味合いが在った。

男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行く。

特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

この衆道(男色)が、権力抗争に明け暮れる氏族社会の風土に溶け込んでその目的は忠誠心と信頼関係の証明手段に成り、つまり衆道(男色)は権力構築と深く関わった誓約(うけい)の進化形だった。

それ故当時の衆道(男色寵愛/稚児小姓)を時代背景的に捉え、現在の倫理観で邪道と簡単に決め付けないで欲しい。

当時の貴族や武士階級では衆道は嗜(たしな)みとも言われるほど一般的であり、主君の寵童出身である事は出世への近道でもあったのだ。

元々日本の衆道(男色寵愛/稚児小姓)は、所謂ゲイのホモセクシャルではなくバイ・セクシャル(両刀使い)であり、平安期に「僧籍の者の間から始まった」と言われるくらいで宗教的な戒めの考え方は無いから身分の高い者が行っていても常識の範疇で在ってそう異常には思われなかった。

織田信長と若い頃の前田利家、徳川家康に於ける井伊直政との間柄も有名な衆道(男色)関係である。

また、豊臣秀吉が信頼し一際寵愛した石田三成との衆道(男色)関係や、織田信長と徳川家康の間でも清洲同盟の結束の固さから衆道(男色)は疑われている。

綺麗事の英雄伝ばかり見せられている時代劇好きの諸氏にとっては、英雄の別の顔を見せられるのは夢を壊す事に成るかも知れないが、現代とはまったく違う当時の倫理観の中で実在した抹殺出来ない事実なので、これからの物語でも追々記述して行く事になる。

千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。

仁寛も捕らえられ、尋問を受ける。

当初彼は否認したが、六日目には自白させられている。

仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪(配流)となった。

勿論、輔仁親王と村上源氏の力を削ぐ為の白河上皇が「仕組んだ」、院政継続の陰謀である。

後述するが、この仁寛の伊豆流罪、後の世の南北朝時代に影響が出るから、世の中は面白い。

まさか仁寛の「執念の呪詛」何て事は、無いと思うが。

この時代、いずれにしても天皇、上皇が、「直接自分で政治権力を持とう」として権力闘争を始め朝廷に混乱を招いていた。

そして所謂(いわゆる)帝の家臣団にも様々な対立の構図が出来上がって行く。

後の後白河院政の時代に、この村上源氏から正二位源氏長者と言う天皇の外祖父が現れるが、それはまだ少し先の話になる。



この時代、幾つかの権力闘争の力が複雑に絡み合って政情に影響を与えている。

先ず蝦夷族内部の指導権争いで有るが、土御門(安倍)家一本だった体制が清原(藤原)家の台頭で分裂する。

この清原家が八幡太郎源義家に付き、奥州安倍家を滅ぼして東北(奥州)全域を手中にして藤原家から藤原姓を貰った言わば藤原、源氏、清原(奥州藤原)ラインである。

当然対抗するのが、平氏、土御門(安倍)ラインと言う構図が成立って来る。

つまり伊勢平氏の台頭は偶発的なものでは無く、明らかに藤原氏の力を抑えたい白河天皇の思惑から始まっていた。

白河天皇は、強力な藤原、源氏、清原(奥州藤原)ラインに対抗させて自らの力を発揮する為の駒に、それまで下級役人だった落ち目の平氏の育成を意志を持って狙ったのだ。

こうした背景の上で、平安末期から鎌倉初期の歴史絵巻が展開して行くのである。


世間は平家を「武門」と紹介するが、平清盛(たいらのきよもり)の父・忠盛(ただもり)が没した時には「正四位上・行部卿(法務大臣)」と言う昇殿可能な高官に出世していて、その子・清盛(きよもり)は幼少より貴族生活をして居る。

勿論政府高官の嫡子が、ぼろ布をまとって洛中を徘徊するなどは、現実として許されない事である。

清盛(きよもり)を「奔放な武士の子として育った」と描くのは、只の作者イメージか、物語を愉しませる為の脚色である。

誤解しては困るが、平清盛(たいらのきよもり)は時代を変えようと武門を代表して貴族体制に挑戦した男ではない。

何故ならば、平清盛(たいらのきよもり)は娘・徳子を高倉天皇に入内させ、孫・安徳を天皇継嗣としてする外祖父に納まった。

武門の武力を権力奪取に利用したのは確かだが、貴族体制の中で成功する手段を用いた事は事実で、本当の武家政治の始まりは源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府である。



白河天皇の登場で、藤原氏の摂関政治から天皇の直接統治が試みられた。

これは、或種(あるしゅ)の「革命」と言って良い。

何故なら、大和朝廷成立当初からの天皇としての立場が神秘的象徴としての重みを基に君臨するもので、余り細かく意見や指示を出す習慣が無かった。

つまり天皇は、長期に渡り神格化させ、下世話な立場で在っては成らない程に尊い存在で在ったのだ。

言い換えれば、和邇(わに)、葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、曽我(そが)、藤原(ふじわら)、と言った大豪族(臣王?)達の時々の影響下で実質的には象徴的要素が確立して直接天皇が意見や指示を出す習慣が失われ、天皇の直接統治は馴染まない風土が育って居たからかも知れない。

後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子だった第七十二代・白河天皇(後に上皇・法皇)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言した。

処が白河天皇は、色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据え、自らは白河上皇を名乗り勘解由小路党を手足に諜報活動をさせ、有力氏族の力を弱めて次々に幼帝を立て院政を始めてしまう。

所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。


第七十四代・鳥羽天皇(とばてんのう)は、第七十三代・堀河天皇と贈皇太后(藤原苡子)の皇子である。

子に崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇が居るが、「古事談」の記述では崇徳天皇を第七十二代・白河天皇の実子としている。

千百三年二月(康和五年)に生まれた鳥羽天皇(とばてんのう)は、生後間もなく母・苡子が没した為、祖父の白河天皇(法皇)の下に引き取られて養育された。

鳥羽天皇(とばてんのう)は、誕生から七ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、五歳で即位、政務は白河法皇が執る。

千百十七年(永久五年)、鳥羽天皇(とばてんのう)十四歳の時に白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内する。

翌千百十八年に鳥羽天皇(とばてんのう)は藤原璋子を中宮とし、以後五男二女を儲けるも長子・崇徳には白河天皇の実子説在り。

白河法皇が政務の実権を握り続ける中、千百二十三年(保安四年)二十歳の鳥羽天皇(とばてんのう)は長子とされる崇徳天皇(すとくてんのう)に皇位を譲位する。

この崇徳天皇(すとくてんのう)への譲位は、白河法皇が実権を握り続ける為に鳥羽天皇(とばてんのう)を退位させたとされている。

千百二十九年(大治四年)白河法皇が崩御し、今度は鳥羽上皇が二十六歳にして漸く院政を敷き政務の実権を握る。

鳥羽上皇は、白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。

さらに鳥羽上皇は、故・白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、崇徳天皇を退位させ、所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を即位させる。

鳥羽上皇は崇徳、近衛、後白河の三代二十八年に亘り政務の実権を掌握し、千百四十二年(康治元年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。

鳥羽法皇は皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ為それを原因として、法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する。


白河上皇(第七十二代)が亡くなると、先に退位させられた鳥羽上皇(第七十四代)が権力を握り、崇徳天皇(第七十五代)を退位させ僅か二歳の近衛天皇(第七十六代)を即位させて同じ様に院政を引く。

しかしその近衛天皇が、予定外の十六歳で亡くなって話がおかしくなった。

崇徳上皇にしてみれば、今度は自分の子「重仁親王が帝位に付く」と思ったのに、後白河天皇(第七十七代)に浚(さらわれ)てしまう。

鳥羽上皇(第七十四代)が亡なると、若くして引退させられた崇徳上皇(第七十五代)と後白河天皇(第七十七代)の権力争いが始まる。


ここで皇統の影人として活躍するのが皇室直属の秘密諜報組織・勘解由小路党である。

この時、陰陽師影総差配、勘解由小路吉次を握っていたのが後白河天皇だった。

ただ、建前「神の名に於いて統治する帝や院」にとって、それはあくまでも影の諜報組織であり続けなければならない宿命を帯びていた。

後白河法王が院政を敷くに当たり、勿論その権威だけではその院政の維持運営は適わない。

院(後白河法王)の傍近くに居て、歴史的に表面には出せない実行組織(秘密諜報組織)が存在しなければ、あまたの公家貴族や武士などの勢力を操れる訳が無いのだ。

その勘解由小路党は、後白河天皇から内々で「影領」を賜っていた。

名目は後白河天皇の持ち物(御領地)と言う事に成っている「伊豆の荘園・狩野荘」である。

白河上皇(院)以来、賀茂家に所縁の地である狩野荘を介して、影働きの関係が成立していたのだ。


第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。

千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると「保元の乱」が発生する。


「上皇(法皇)と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。

崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛、源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして崇徳方の動きを封じた。

崇徳上皇(法皇)方は大敗をきっして源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇(法皇)は「讃岐」に流配刑と成った。

勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。

この争いの中に、源姓、平姓が双方に出て来るが、実は親・子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いで在った。

この時の動乱を「保元の乱」と「平治の乱」と言うが、この争乱をきっかけに武力が政権維持に欠かせない事が証明され、武家が勢力を伸ばして政治の実権を握る様に成って行った。

同時に、官僚(公家)の藤原氏は衰えを見せる事に成る。

一旦は手を握った平清盛と源義朝であるが、此処から平清盛が政治力を発揮して中央の権力を独占掌握してしまう。

この政治力、朝廷運営の吉凶を占う助言者としての土御門(安倍)家の奏上が、ものを言っているかも知れない。



支配者の血統身分である氏族(武門)の間では支配権が価値観だったから、親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が続くが、その一方で庶民(民人)は生きる為に一村落皆身内気分の「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて、統一的な精神性など無かった。

この辺りは第五章で詳しく後述するが、庶民(民人)はその被支配者としての平和的な生き方の上で、当時としては知恵を絞って最良の選択をしていたのである。

「保元の乱」と「平治の乱」で中心的役割を担った武将の一人源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝や源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男/源義経・達の父親である。

平安の都(京)に生まれた源義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。


平清盛(たいらのきよもり)に対抗する勢力を主に坂東(関東)で築いた源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は、やはりこの時代では珍しくない武力で勢力を拡大した。

その標的に成ったのが、坂東(関東)に点在した御厨(みくり・みくりや)と呼ばれる荘園(神領)だった。


御厨(みくり・みくりや)とは、「御厨(神の台所)」の意で、神饌(しんせん/供物)を調進する場所の事で、本来は屋舎(おくしゃ/建物)を意味する。

また御厨(みくり・みくりや)は、神饌(しんせん/供物)を調進する為の領地(神領)も意味する。

つまり「御厨(みくりや)」は、皇室や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味した。

中世日本に於いては、皇室や伊勢神宮など、有力な神社が荘園(神領)=御厨(みくりや)を持ち、後に地名及び名字として残った。

本格的武家社会が成立する鎌倉時代には、荘園(神領)が全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになっていた。

また中世では、荘園(神領)が度々武士団によって略奪・押領される(武士の領地化)と言った事が起こっている。

特に相馬御厨(そうまみくりや)や大庭御厨(おおばみくりや)は源義朝(みなもとよしとも)の濫行(らんぎょう)で歴史上有名である。


相馬御厨(そうまみくりや)は伊勢神宮の荘園だった。

相馬御厨(そうまみくりや)は、現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市のあたりにあった中世の寄進型荘園の一つである。

千葉常重によって成立した相馬御厨(そうまみくりや)は伊勢神宮に寄進されたが、藤原親通や源義朝(みなもとよしとも)から脅かされる。

千葉常胤(ちばつねたね)はこれを回復し再度伊勢神宮に寄進するが、平家政権になると佐竹義宗に奪い取られてしまう。

これを奪回する為に、千葉常胤(ちばつねたね)は源頼朝(みなもとよりとも)を利用した。

相馬御厨(そうまみくりや)をめぐる攻防が、治承・寿永の乱の原動力の一つとなった。

相馬御厨(そうまみくりや)は在庁官人が在地領主に変貌していく過程で、国司や目代と激しく対立した在地領主層が脆弱な地位を守る為に寄進を行った。

寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行った事の例示としてよく取り上げられる。


大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)に在った寄進型荘園の一つである。

その大庭御厨(おおばみくりや)は、鎌倉時代末期には十三の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。

大庭御厨(おおばみくりや)は鎌倉景政(かまくらかげまさ/平景政・たいらのかげまさ)によって開発された。

伊勢神宮に寄進されたが、源義朝(みなもとよしとも)の乱入を防ぐ事は出来なかった。

千百四十四年(天養元年)、源義朝(みなもとよしとも)の大庭御厨濫行事件が起きる。

源義朝(みなもとよしとも)は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張する。

源義朝(みなもとよしとも)は在庁官人と伴に大庭御厨(おおばみくりや)に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせる。

大庭御厨(おおばみくりや)の荘園主・伊勢神宮は直ちに朝廷政府に、源義朝(みなもとよしとも)の濫行を提訴する。

しかし、その最中に源義朝(みなもとよしとも)は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨(おおばみくりや)に再侵攻する。

源義朝(みなもとよしとも)は、大庭御厨(おおばみくりや)の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。

相模大庭御厨一帯を支配した大庭氏(鎌倉景政流平氏)は、保元の乱以降、源氏の配下となった。

大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨(おおばみくりや)は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。

こうした寄進型荘園の歴史経緯から、市町村名に限らず大字や小字として日本各地に「御厨(みくりや/荘園)」の地名が残っている。

例えば、静岡県御殿場市の旧地名は駿東郡御厨町であり、静岡県磐田市の旧地名は磐田郡南御厨村である。



千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶ。

しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。

乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられる。

だが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。

ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

実際の平治の乱の原因は、後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

千百五十六年(保元元年)七月、鳥羽法皇が崩御する。

藤原信西(しんぜい)はその鳥羽法皇の葬儀を取り仕切り、直後には対立勢力である崇徳上皇と藤原頼長を挙兵に追い込み「保元の乱」が起こる。

この際、信西は源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。

乱後の処理として、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。

また、信西は摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行い、大内裏の再建や相撲節会の復活など、絶大な権力を振るう。

この政策を行なう上で強引な政治の刷新は反発を招き、信西は自分の息子たちを要職に就けた事が旧来の院近臣や貴族の反感を買った。

一方、千百五十八年(保元三年)八月には後白河天皇が院に退き、鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。

この皇位継承は美福門院と信西の協議で行われ、「仏と仏との評定」と評された。

この二条天皇の即位に伴い、信西も二条天皇の側近に自分の子を送り込む。

今度はその事が天皇側近の反感を招き、後白河院近臣、二条天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。

やがて後白河院政派の藤原信頼(ふじわらののぶより)、二条天皇親政派の大炊御門経宗(おおいのみかどつねたか/藤原経宗)、葉室惟方(はむろこれかた/藤原惟方)らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出す事になる。

藤原信頼は武門の旗頭・源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保(摂津源氏)も味方につけ、軍事的な力を有するようになって行く。

最大の軍事貴族である平清盛は、その中に在って信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。

千百五十九年(平治元年)十二月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃、「平治の乱」が勃発する。

信西は事前に危機を察知して乳母の子・藤原師光(ふじわらのもろみつ)らと山城国の田原に避難していた。

しかし、三条殿襲撃の知らせを聞くと追手からの逃亡を諦め、師光(もろみつ)らの郎党に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。

行方を捜索していた源光保(摂津源氏)は死体を地中から掘り起こし、首を切って京に戻り首は西の獄門の棟木にさらされた。

信西の死については、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見され掘り返された際に「自ら首を突いて自害した」と言う説も在る。

信西は学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られたが、その才能故に多くの敵も作ったのだ。



千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は信西と対立していた藤原信頼と手を結び、謀反を起こして後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。

しかし「源義朝立つ」の急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

この平清盛の熊野(和歌山)参り、実は源義朝方の不穏な動きを察した清盛が用意周到の上に画した「誘い出しの罠だった」とも思える手際の良さで、義朝の完敗だった。

破れた源義朝は清盛の武力に抗し切れず畿内の地に留まる事をあきらめ、鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・源義平(長男では在るが妾腹で、嫡男はあくまでも三男の源頼朝)と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、義朝嫡男・源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。


現代の日本では親子の関係が希薄なものになり、親殺し子殺しが多発している。

栄養価の高い育児ミルクが普及し、日本の母親が、自らの赤子に母乳を与えなくなって久しい。

栄養は確かに育児ミルクで充分だろう。

しかし、愛情はどうなのだろうか?

我輩はこの親子関係の希薄化の遠因一つに、授乳に対する「母親の態度があるのでは無いか」と思われて成らない。

母乳で育てる事を嫌う母親の言い分の大半は「体型が崩れる」と言う、言わば自分本位なもので、我が子に対する心構えが最初から希薄に成っているのではないだろうか?

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。

その大事な授乳期間に、母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?


乳首を吸われて気持ちが良いのは、何も彼氏や旦那様だけの為にあるからではない。

当然ながら、授乳をさせる母親への恵みを考えて、「快感の感じ易いものに出来上がっている」と考えるべきである。

戦後の個人主義偏重の自由思想が、子育ての責任感をも希薄にする事が自由であるかのごとく曲解されている。

これを、単なる時代の変化で済ませて良いものだろうか?

時代の変化はわが国でも幾つもある。

たとえば戦後十年、昭和三十年位まで日本の母親はバスや電車の中、公園のベンチなど人前で堂々と我が子に授乳させて居て、それが極普通の日本の風景で周りもまったく違和感が無かった。

それが、以後の母親は乳房を人前で晒す事が恥ずかしくなったのか何時の間にかそんな風景は見かけなくなり、時代考証的には有ってしかるべきドラマからもそうした風景は無く成った。

そうした風潮から、我が子に母乳を与える母親は減り、親子の「直接肌に触れる」と言う基本的で大切なコミニケーションの機会は失われて行った。

これは、本来あるべき潜在的な親子の絆を育む機会を放棄したようなもので、実は多機能である人間の脳の一部に発育上での弊害が在り得るのではないだろうか?

男女ともに、母親の役目、父親の役目、性への理解の「と場口(最初の一歩)」で、「正しい情報を得られていないのではないか」と疑っている。

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。

その大事な授乳期間に母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?

人間皆等しく、自分に都合の悪い原因は考え着か無い。

いや、考えたがらない。

本来、他の動物では在り得ない未成熟な異性(未成年)を狙う性癖、正常な異性愛ではない極端な性癖など、子供の頃母親の肌に触れる初歩の快感や安心感を得られず育った事との因果関係を考えて見てはどうだろうか?

また、近頃の若者が直ぐに切れる性格の一因にも、この事が影響しているやに感じるのだ。


この時代から戦国期まで、親兄弟が殺し合う時代が続いた。

これは子育てと教育の問題で、ある意味今に共通する。

この章で、源氏や平氏の親子がそれぞれ上皇側と天皇側について殺し合って居るが、彼らには庶民ほどの身内の親近感がない。

本来人間は、共に生きる事で互いを理解し合うもので有る。

所が、たまに出てくる「乳母の存在」から判るように、或る程度の家柄の家庭だと母親が直接育てない。
いや、育てさせない。

父親も、子供が大きく成るまで接触が少ない仕組みだった。

それで親子の情は湧き難く、絆が生まれないのだ。

これは一種の英才教育である。

どちらかと言うと、「子供は何時の間にか大きく成った」と言う処だ。
権力者には、「血も涙も不要」そうした英才教育の考え方が、根底にある。

それ位冷酷で無いと、権力者足り得ないのだ。

その親子の接触の無さが、互いの愛を育まず、幾らでも残酷になれる。

本来、乳幼児から三歳くらいまでに母親の温もりは大事だ。

その後、十歳位までは、両親の愛情を感じさせながら「育てて」やらないと、互いの心の繋がりは育たないし、他人に対する優しさなど殊更に育たない。

その子が、優しさを欠落したまま、次の親になる。

人間として、悪い連鎖だ。

それで、親子が殺し合うのが、当時の時代のすう勢だった。

しかし現代でも、二世三世議員の両親は、父親が「中央」、母親が「選挙区」と忙しく、育児に手抜きで育った情の無い人間が、政権の中枢に座っている。

歴史は繰り返されるのか、それともこの事実が真理なのか?

断って置くが、この殺し合いは当時としても庶民には無縁の権力者の世界の事である。

しかし現代では、多くの家庭で親が共稼ぎをしなければ家計を維持できない環境になりつつある。

つまり、共に生きる事で互いを理解し合う事が不足する世の中になってしまったのではないだろうか?


乳母(うば)と言えば、日本史上最強の乳母(うば)は、鎌倉幕府を成立させた源頼朝(みなもとよりとも)の乳母(うば)・比企尼(ひきのあま)をその第一に数えてもけして間違いではない。

千百四十七年(久安三年)、清和天皇(せいわてんのう/五十六代)を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信(みなもとよりのぶ)、源頼義(みなもとよりよし)、源義家(みなもとよしいえ)らが河内源氏として東国に勢力を築いた。

その河内源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は、公家で熱田神宮大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)との間に三男が生まれ、幼名を鬼武者(おにむしゃ)と名付けられる。

鬼武者(おにむしゃ)は、武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻・比企尼(ひきのあま)が乳母(うば)として育てていた。

比企尼(ひきのあま)が鬼武者(おにむしゃ)の乳母(うば)と成った経緯は不明だが、夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が藤原秀郷流の下級貴族だった事から、北家と南家の違いはあるが熱田神宮大宮司・藤原家からの依頼だったのかも知れない。

清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は保元の乱で平清盛と共に後白河天皇に従って勝利し、乱後は左馬頭(さまのかみ/馬寮の武官長)に任じられる。

保元の乱当時、鬼武者(おにむしゃ)と名付けられた義朝と由良御前との子は九歳だった。

やがて鬼武者(おにむしゃ)は元服して源頼朝(みなもとよりとも)を名乗り、三男で在りながら清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)の継嗣として官に登用され、宮廷武官の道を歩み始める。

千百五十八年(保元三年)、頼朝十一歳の時には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王(むねこないしんのう)に仕え皇后宮権少進(こうごうごんしょうじょう)、翌年(平治元年)には統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらんど)に補される。

所が、その年(千百五十九年)に平治の乱(へいじのらん)が勃発し、後白河院政派の主将として平治の乱に参戦した父・源義朝が敗死し、初陣で参戦して居た嫡男・頼朝は死罪に処せられる所を池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願で救われ、伊豆国に流罪となる。

「吾妻鏡」に拠ると、頼朝の乳母で在った比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允(かもんのじょう)と共に京から領地へ下り、千百八十年(治承四年)の秋まで二十年間の永きに渡り伊豆国流人・頼朝に仕送りを続けた。

比企掃部允(ひきかもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)の間には男子は無く娘が三人居た。

嫡女・丹後内侍(たんごのないし)は惟宗広言(これむねのひろこと)と密かに通じて「島津忠久(しまづ ただひさ)を産んだ(異説あり)」とされ、その後坂東(関東)へ下って安達盛長(あだちもりなが)に再嫁し、盛長は頼朝の流人時代からの側近となる。

次女・河越尼は武蔵国の有力豪族・河越重頼(かわごえよりしげ)の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清(いとうすけきよ)に嫁ぎ、死別した後・源氏門葉である平賀義信(ひらがよしのぶ)の室となっている。

比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の所領から頼朝に米を送り続け、三人の娘婿に頼朝への奉仕を命じていて長女・丹後内侍(たんごのないし)と次女・河越尼の娘はそれぞれ頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)、異母弟・源義経(みなもとよしつね)に嫁いでいる。

夫の掃部允(かもんのじょう)は頼朝の旗揚げ前に死去したが男子に恵まれなかった為、比企氏の家督は甥の比企能員(ひきよしかず)を尼の猶子(養子)として迎える事で跡を継がせ、後に能員が頼朝の嫡男・頼家(よりいえ/二代将軍)の乳母父となって権勢を握ったのは、この比企尼(ひきのあま)の存在に於けるが大である。

比企尼(ひきのあま)の動向や死没年は不明だが、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて納涼や観菊の宴会を催すなど、頼朝の尼への思慕は最後まで厚く、比企尼(ひきのあま)の存在は「鎌倉幕府成立過程に於いて大きく影響した」と考えられるのである。

尚、掃部允(かもんのじょう)は、律令制に於ける宮内省に属する令外官の官職名で、比企掃部允(ひきかもんのじょう)の本名は比企尼(ひきのあま)同様に不明である。



勘解由小路(賀茂)吉次は、イラクサ染めの倭文(しずおり)の布に包まれた青銅製・金輪六輪の手錫杖(てしゃくじょう/短錫杖)と空海の独鈷杵(とっこしょ)を父・吉晴から受け取っていた。

その手錫杖と独鈷杵は、まさしくあの勘解由小路の棟梁の印(しるし)だった。

山伏の定番所持品、「修験錫杖」の原型(モデル)になった錫杖がこれである。

この手錫杖と独鈷杵ある所いつも大乱がある。

錫杖が乱を呼び寄せるのか独鈷杵が乱を呼び寄せるのか、賀茂の血が乱を呼び寄せるのかは定かではない。

勘解由小路党の棟梁は代々吉晴を名乗って来た。

しかし今の棟梁は、吉次を名乗って居た。

勘解由小路(賀茂)吉次は勘解由小路家の次男だったが、兄と十五歳も歳が離れていたので、病死した兄に代わり二十二歳の時に、引退して余生を送る父の指名で勘解由小路党の棟梁に成って、世間では金売りの商人に化けて活動していた。

彼が吉次のままだったのは、表の貴族籍は兄の忘れ形見に継がせ自らは影の棟梁に徹する為だった。

ちょうど後白河天皇(第七十七代)が退位し上皇(法王)になり、「保元の乱」が終わって三年ばかりの清盛平家全盛時代の頃である。

尚、金売吉次(かなうりよしつぐ)については、京の都三条通りに商人としてお店(たな)を出していた所から、「三条吉次と呼ばれていた」とする言い伝えもある。

吉次が源家の事で最初に命じられたのは、後白河上皇(法王)腹心の藤原通憲(信西)からで、「平治の乱」で源義朝が平家に負けて討たれた為に武門の均衡が壊れ、平家の力が突出して強くなる。

その平家の力を削ぐ為に、「源義朝の遺児の中から数人選んで育てよ」との天命だった。

それなら幼少の者の方が想い通りに教育し易い。

鞍馬山に、文武に優れた荒法師と息子の一人、他数名を送った。

選んだ遺児は遮那(しゃな)王、送った荒法師(総軍師)は武蔵坊弁慶、吉次の息子の名を伊勢(三郎)義盛と言う。


ここに一つキーワードがある。

保元の乱で功績の在った源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に、隠された何かが有るのだろうか?

勿論、平清盛の白河天皇御落胤説が本当なら、然(しか)るべきだが、藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?

勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?

或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。

つまり武士として力は有ったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。

それに比べ、桓武天皇の子「高望王(平姓)」の直系、平清盛とその一族は厚遇され、しばらくの間は、後白河上皇と平清盛の蜜月が続いた。

妻・平時子の姉妹である平滋子(建春門院)を上皇に娶せ、その間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子とした。


「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位、自らは法皇と成って院政を敷こうとする。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも院近臣・藤原信西(しんぜい)と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。



平安後期になると、陰陽貴族安倍家とは関わりない公家の号としての土御門(つちみかど)の使われ方が現れる。

日本史上稀にみる激動の時代、平安時代末期から鎌倉時代初期にわたる十二世紀後半に、皇統の影人として登場した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)である。

或いはこの頃、勘解由小路吉次が兄の忘れ形見に名跡を譲った貴族・勘解由小路家が断絶して、勘解由小路の名跡が宙に浮いていたのかも知れない。

源通親は土御門を名乗る公家で在ったが、安倍氏の血筋ではない。

通親は村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していたようである。


源(土御門)通親は村上源氏嫡流に生まれたが、源氏と言っても武家(ぶけ)ではなく後胤貴族・村上源氏は公家(くげ)の名流である。

公家(くげ)とは、武家(ぶけ)に対する言葉として京都の朝廷を構成する貴族・官人の総称で、元来は天皇または朝廷を指して「こうけ」または「おおやけ」と呼んでいた。

だが、鎌倉時代以降武力で帝(みかど/天皇)に奉仕する幕府を「武家(ぶけ)」と称するようになると、それに対比して朝廷において政務一般をもって帝(みかど/天皇)に奉仕する文官一般を「公家(くげ)」と呼ぶようになった。

殿上人(てんじょうびと/うえびと)は、日本の官制に於いて五位以上の者の内、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇る事を許された者の事を指し、この清涼殿の殿上の間(ま)に昇る事を昇殿(しょうでん)と言う。

公家(くげ)とは、昇殿を許された「堂上家」と「地下家」から広義に構成されるが、一般的には堂上家を指して公家(くげ)としている。

つまり殿上人(てんじょうびと/うえびと)と昇殿を許された「堂上家」と公家(くげ)は、言い方は違うが意味は一緒である。

官職としては、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議に就く血統の家柄で、家格としては、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区別があり、古くからある家を旧家、文禄慶長以降創立の家は新家と呼ばれ、幕末には百三十七家の多くを数えるに至っている。

平安時代末期ごろから貴族社会に於いて公卿に昇る家柄が限定されるようになり、藤原北家による摂家の確立に伴って家格が固定化し、鎌倉時代前期ごろまでに公家社会の基礎が形成された。

摂政関白をはじめ、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・近衛大将・大弁以下〜の官職名を家柄により世襲した為、この公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。

但しこの官職を公家(くげ)に限定されず、朝廷より有力武家(ゆうりょくぶけ)にも与える事によって、朝廷の権威を維持すると同時に武家(ぶけ)の権威を認める事で双方の存在を担保し合う形式が採られていた。

鎌倉に幕府が成立しても、実はまだ公家(くげ)の出番は在った。

鎌倉時代を通じ、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権(鎌倉幕府)に相対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権(朝廷)が共存して存在しており、両政権がおおむね協調連携しながら政務にあたっていた。

しかし鎌倉幕府ができて以降大政は武家に移り、「後醍醐天皇の建武の親政」や南北朝並立などの動乱を経ながら公家(くげ)の職権は序々に空虚と化して室町時代には幕府および守護によって公家政権の権限が侵食されて次第に有名無実化の道を辿って行く。

江戸時代に入ると、公家社会は幕府から保護を受ける事となったが、反面、天皇と公家を規制する「禁中並公家諸法度」が定められ、これにより江戸時代の公武関係が規定された。

公家社会は幕末まで温存されたが、明治維新期に解体され公家のほとんどは華族身分へ移行した。

平安時代末期に官庁街である大内裏が消滅して以降、庁舎内で会議や事務が行われる事はなくなったが、太政官や各省のポスト(役職名・肩書き)だけは明治維新を迎えるまで残った。


実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。

権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的で在ったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。

つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。

十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代であった。

だが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。


源(土御門)通親は村上源氏嫡流の公家であるが、この殿上人(てんじょうびと/うえびと)の多くは藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の枝で、源(土御門)通親は少数派である。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)とは、右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする家系で、藤原房前(ふじわらのふささき)の邸宅が兄の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の邸宅よりも北に位置した事がこの名の由来である。

従って藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を祖とする家系は、藤原南家(ふじわらなんけ)と言う事に成る。

天武大王(てんむおおきみ・天皇)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の引きで不比等(ふひと)は右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成った。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は藤原四家の中では最も遅い時期に興隆したが、その結果として政争の矢面に立つ事から逃れ藤原四家の中では最も根を拡げる事になる。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の祖・藤原房前(ふじわらのふささき)は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正大王(けんしょうおおきみ/天皇)の側近として長屋王(ながやのおう)と政権を争った。

聖武帝朝になると、七百二十九年(神亀六年)の長屋王の変(ながやのおうのへん)により南家・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が政権を掌握し、藤原四子政権で北家・藤原房前(ふじわらのふささき)も中心人物として政権を主導したが、七百三十七年(天平九年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに四人とも病没してしまう。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は、奈良時代後期〜平安時代初期にかけて光仁帝朝で房前(ふささき)の子である藤原永手(ふじわらのながて)と藤原魚名(ふじわらのうおな)が左大臣となる。

だが、永手(ながて)の嫡男・家依(いえより)は早逝し、魚名(おな)は氷上川継の乱に連座して失脚した事もあり、南家と式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城帝朝以後、八百七年(大同ニ年)の伊予親王の変で南家が、さらに八百十年(弘仁元年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が急速に台頭し他家を圧倒するようになる。

さらに、冬嗣(ふゆつぐ)が文徳天皇(もんとくてんのう)、そして冬嗣(ふゆつぐ)の子・良房(よしふさ)が清和天皇(せいわてんのう/清和源氏の始祖)、そしてその養子(甥)・基経(もとつね)が朱雀天皇(すざくてんのう)と村上天皇(むらかみてんのう)の、それぞれの外祖父と成って北家嫡流が皇統三代に渡り外戚の地位を保ち続けた事が、同家の優位を確固たるものにした。

この経緯が以後の、「北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白」と言う図式を決定づける事になり、この藤原北家系による「摂関政治」が後の藤原道長・頼通父子の時代に全盛を極める事となる。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格は引き続きこの五家が独占した為、他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。

尚、この堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)と言う格式であるが、天皇の御殿である清涼殿(平安京の内裏における殿舎)の南廂・殿上間に昇殿出来る資格が世襲された公家の家格の事で、殿上人(てんじょうびと/うえびと)とも呼ばれる。

また、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族(武家)が藤原北家の末裔と称した。


平安時代中期以降、公家社会に圧倒的な勢力を誇った藤原氏に対し、ほとんど唯一、それに対峙して永くその最上層に地歩を占めたのが、皇胤(こういん・天皇の種の意味)貴族の誇りをもつ村上源氏であり、その地位を確立したのが源通親(みなもとのみちちか)である。

村上源氏嫡流に生まれた通親(みちちか)は、後白河上皇の院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。

通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。

高倉天皇は、後白河天皇の第四皇子で、母である皇太后平滋子は清盛の妻平時子の妹、皇后は平清盛女平徳子(後の建礼門院)安徳天皇と、その異母弟、後鳥羽天皇らの父である。


平安宮の内裏の真横から左に伸びている西(左京)の勘解由小路の一番平安宮よりに、勘解由小路家の屋敷が有る。

その屋敷から、誰にも見られずに内裏(だいり)の帝の傍近くに行けるのは、何故か勘解由小路党の棟梁だけである。

「帝、お召しに御座いますか?」

最近、帝のお召しが頻繁である。

決まって寝屋に入ってから呼び出される。

「おぉ、吉次か、近こうおじゃれ。」

「既に屏風の影に控えております。」

「そか、吉次、近頃の太政(清盛)め、少々目障りじゃ。」

帝も、有力者共のコントロールには心を痛めていた。

皇胤氏族の血が騒ぐのか、燃える思いが湧き上がって来た。

最早(もはや)、一歩も引けなかった。

御所から見る月が奇妙に大きく手が届きそうに僅かばかり欠けて、辺りが恐ろしく明るく、月を眺めに庭近くまで歩み出た後白河上皇を見下ろしていた。

「清盛めが月、欠けておじゃる、のう吉次。」

院(上皇)は、月を見上げて吉次に言った。

「委細承知。」

もう、吉次の気配は内裏から消えていた。


現存する古文書によると、天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて成立した伊豆国は、天城連山をはじめ多くの山に囲まれた山国である。

まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せばわざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。

つまり、昔の国(伊都国)を、文字を変えて「復活させたのでは?」とも取れるのだ。

伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇(院)期に成立し、十二世紀の「鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げた」とされる。

当時の「伊豆狩野荘」は後白河上皇(院)の御領地である。

つまり、後の江戸徳川幕府の幕府直轄領韮山代官所に至るまで、何故か伊豆国は象徴的に重要な場所だった。

特筆すべきは後白河上皇と勘解由小路党が、「伊豆狩野荘で結び付く」と考えられる点である。

つまり「伊豆狩野荘」は、賀茂氏流れで、伊豆の国に縁のある勘解由小路党の「秘密受領地(活動資金源)であった」とも解釈出来るのだ。

こうした影の拝領地は、後に後白河上皇から紀伊半島にも数箇所賜っている。


千百六十七年に、清盛は太政大臣に上り詰め、武士として初めて位人臣(くらいじんしん)を極めた。

武を持たない公家の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が、出世の糸口を掴むには平家の力が要る。

彼は官僚として出世の後ろ盾に平家を選んだ。

清盛の弟である平教盛の婿になった通親(みちちか)は千百七十九年(治承三年)に蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。

これが、平家・土御門連合が成立する一つの要因となっている。

翌年の清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放の影響を受けて土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、親平家の公家として摂関家の九条兼実やその周辺(代表格が藤原定家)と対立している。


この時期の平家は、まさしく並ぶ者なき実力者である。

しかし清盛は、太政大臣就任三ヶ月ほどで原因不明の腹痛(重病)に倒れ、一時は死の境をさまよった。

勘解由小路党の仕業で有るが、清盛は奇跡的に乗り切っている。

これを機に、平清盛は太政大臣を辞めて隠棲して入道となり、相国入道と呼ばれる。

しかし実権は手放さず、絶大な権力を維持したままだった。

平家は一族で主要官位を独占し全国に五百余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にした。

この扱いの差を不満とした源義朝は、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。しかし平清盛に破れ敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で部下に殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが後に鎌倉に幕府を開く源頼朝だった。


平家に逆らう勢力が無く成ると、清盛は後白河上皇(法皇)と対立、院政を止めさせて朝廷を抑える方策に出る。

いよいよ土御門(安倍)家の野望と清盛平家が牙を剥いたのである。


清盛は高倉天皇(第八十代)に、自らの娘である平徳子(建礼門院)を嫁がせ(入内・にゅうだい)、天皇の外戚となった。

更に清盛は娘の平盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせたのを始め、多くの子女を有力公家衆と娶わせるなど、婚姻政策を駆使して巧みに権力を拡大して行った。

処が、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河上皇(出家して法皇)を始めとする院の政勢力は、次第に清盛と対立を深めて行く。

清盛平家が、公然と「鵺」に変貌し、土御門(安倍)家と組んで朝廷と皇統の簒奪(さんだつ)を始めたのである。

「近頃の相国入道(清盛)のなせるは、目に余る。」

「源氏をお使いあそぶべし。」

対抗する組織は、賀茂氏の流れを汲む勘解由小路家を於いて他に無い。

当然勘解由小路と土御門との間に暗闘が起こるが、公家化した土御門と違い、「在地の草」と呼ばれる郷士、陰陽修験行者などの実践部隊の大半は勘解由小路のみが掌握していた。

或る日の夕刻、吉次は九條大路を歩いていた。

齢(よわい)五十を過ぎてもなお矍鑠(かくしゃく)としていて、若い者には劣らない吉次だった。

歩くと、知恵が湧く。

それで先ほどから、あてどもなく洛中を彷徨っていた。

戦略は万全だった。

その為に、遮那(しゃな)王(牛若丸)に、三男の伊勢(三郎)義盛を付けて奥州へ出した。

「清盛が、何の役に立つと言うのだ。」

奴は、己の利だけに血道を上げている。

雨足が急に早く成った。

吉次は、先ほどから雨の雫を両手で受け止めていた。

瞬く間に降水は手のひらを埋め、隙間から零れ落ちた。

この恵みが、この国を豊かなものにしている。

武門の誰もが、雨の恵みをもたらす訳ではない。
,br> 恵みをもたらすのは帝の徳で有り、我々の呪詛の筈である。

勘解由党の全力を挙げて、清盛の追い落としは始まっていた。


この頃から後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。

高級遊女「白拍子」の基となった飛鳥期の神前娼婦(巫女)も簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)だった。

何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、貴人・官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。

その神前娼婦(巫女)の進化形ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)が、「白拍子」だった。

日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。

しかし人間の考える事は何百年何千年と進歩は無いらしく、この白拍子の存在は李王朝時代の妓生(キーセン)、現在の朝鮮半島北側の国・北朝鮮の「よろこび組」も基本は歌舞音曲の芸能と性交接待が役目と言う点でまったく一致している。

その「白拍子遊び」の流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。

世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。

遊び女として、相手の懐に飛び込み、生の情報を拾ってくる白拍子の元締め、勘解由小路党総差配・吉次に勝る組織的諜報力は無い。

もたらされた情報が、後の政局を左右する貴重なものが得られたのである。

近頃やたらと「品格」が問題になる。

しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」にする権力者の不正は跡を絶たないのである。

どうやら「貴人(特権階級)」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。

もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。


勘解由小路党総差配、吉次が後白河法皇に進言、高級娼婦「白拍子」を育成して諜報機関に組み入れた。

「白拍子」、実は急造の組織ではない。

密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。

それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。

男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。

一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。

「白拍子」にとって、性行為は課せられた仕事で有り、殿方を満足させるのは性技術である。

従って、予めの修練には相応の教育が課せられ、充分な実践教育を受けて、世に出る事になる。

心構えが違うから、いかなる行為にも躊躇(とまど)いなど無い「性人形」と化す。


この白拍子を、現代の感覚で単なる娼婦と誤解しては困る。

男性にとっての付加価値観は、「高嶺の花を抱く」であり、性技や芸技の修行は基より知性と教養をも修めた女性が始めて白拍子に成れた。

白拍子には諜報機関の女性諜報員としての側面も在ったから、時の為政者も納得するほどの知性と教養を兼ね備えて下手な不勉強者よりも「充分に論議のお相手が出来た」と伝えられている。

後の世の花魁(おいらん)も然りだったが、その遊び女としての価値観は美貌と美しい姿態に加えて知性と教養を兼ね備えた女性と遊ぶ事であり、格式が高い点ではまさに高級娼婦だった。


この章の冒頭で記述したが、平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。

そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階層として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。

その律令制に於ける被差別階層の賤民(せんみん)を、奴婢(ぬひ)と称して地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、遊び女(め)として育て上げる。

更に殿上人に伍す学問を身に着けさせて、呪詛巫女に仕立て上げた。

その巫女の身分も親子代々受け継がれ、それを統括するのも勘解由小路党の役目だった。

その延長上に「白拍子」の組織は出来上がった。

律令制に於いて、民は良民と非良民に分けられていた。

「非良民」とは支配者に税を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。

その被差別階級は生き方が制限されていて、「白拍子」の身分は、奴婢(ぬひ)としての生活の中ではより益しな方だった。

目的が女性(によしょう)の立場を生かした高度な情報収集であるから、相手の懐(ふところ)へ入らなければ仕事にならない。

それ故舞の衣装は、本来裸身が透ける様な白の薄絹で、淫秘な雰囲気をかもし出し、殿方の誘惑には余念がない。

男達の五感に訴え、彼らの気持ちを良好にさせるにはそれなりの演出が必要で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激、誘惑する業が今様を踊る「白拍子」の役目であるから、その音曲なり、姿なりは相応にエロチックで、魅力的なものでなければならない。


駿河国三保(静岡県静岡市清水区)清水港の南東に位置する凡そ七キロの砂浜が、日本新三景の一つ「三保の松原」である。

ここに、「羽衣の松伝説」が残っている。

三保の松原浜には、その昔天女が舞い降り、浜で遊ぶ為にその羽衣をかけたとされる樹齢六百五十年ほどの老松が立っている。

海での遊びに夢中になり、漁師に羽衣を取られてしまい、天に帰る事が出来ない天女に羽衣を返す条件が、「天女の舞だった」と言われて居る。

「三保の松原」は、五万本を越える松が生い茂り、松林越しに富士山が広がって、晴れた日には絶景である。

この「天女の舞」は神楽舞で、天女は神巫女であり、神巫女は神に仕え神の声を聞くのが仕事の「天女」と言う事に成る。

娯楽に欠ける古(いにしえ)に在って、人心を惹(ひ)きつける信仰や統治の手段に、神事としての神楽舞様式が「娯楽芸能の役割も担っていた」と考えたい。

従って神楽舞は、信仰や統治に利(り)する伝承神話が題材であり人心啓蒙(けいもう)目的を主題にしていた。

天女は空を飛ぶ為に、羽の変わりに羽衣を纏(まと)う。

羽衣とは、蝉やトンボの羽のように薄く軽く透明に出来た薄絹で出来ている。

つまり、北辰伝説に拠る浜に舞い降りた天女は建前が神の使いで、観音様や中東・西欧の女神同様に限りなく裸身だった。

現在の服飾に於ける流行傾向にも通じるが、薄絹の衣は女性を最高に引き立たせるアイテムである。

そして当時、薄絹は宝飾類以上に非常に高価な物だった。

絹の製法は古代中華帝国で始まり、「紀元前三千年以上前から歴史がある」と言われる。

日本には、早くも紀元前の弥生時代に絹の製法(養蚕と織布技術)は伝わっており、律令制下では絹織物で納税が出来た。

薄絹は「紗(さ)」と呼ばれる高級品で、織り目を詰めずに格子状に織り込む特殊技法で、透ける絹地を作り、身分の高い者に珍重された。

平安期から鎌倉期にかけて流行した上流社会の「白拍子遊び」は、この天女・羽衣の巫女舞神楽をベースに、上流社会の「慰め遊び」として成立したもので、薄絹が採用されたのは、目的に添う極自然な要求からである。

余談だがこの天女光臨の話は全国に散在する。

中でも琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地長門国(山口県)は有名である。

長門国(山口県)に於ける下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と、朝鮮半島・百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

その浜と太子上陸の関係が、三保の「羽衣天女伝説」に良く似ているのだ。

この三保羽衣天女伝説、長門国(山口県)の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承ばかりでは無く、実は似たような話が全国に散見される。

鳥取県倉吉市仲ノ町 に在る小高い山「打吹山(うつぶきやま)」に、「打吹天女伝説(うつぶきてんにょでんせつ)」と言う三保羽衣天女伝説にほとんど同じ内容の伝説が在る。

その伝説に拠ると、昔、一人の男が東郷池の浅瀬で美しい天女が一人水浴びをしているのを発見し、男はこの世の者とは思えない美しい裸身の天女に恋をして近くに脱いであった衣(羽衣)を隠してしまう。

羽衣を失って天に帰れない天女は、仕方なく男の女房になり二人の子を授かった。

授かった子もスクスクと成長し、親子四人が幸せに暮らして居たある日、天女は夫が隠していた羽衣を見つけてしまう。

天女が自分の体に羽衣を羽織って見ると、今まで在った親子の愛情はたちまち薄れ、子ども達を地上に残したまま天界に飛んで行った。

残された二人の子ども達は大いに悲しみ、近くの小高い山に登り、必死で笛を吹き太鼓を打ち鳴らし母親に呼び掛けるも、母親の天女は二度と地上には帰って来ない。

しかしその二人の子供の、笛を吹き太鼓を打ち鳴らしての母親への哀れな呼び掛けから、近くの小高い山は何時しか「打吹山(うつぶきやま) 」と呼ばれ伝説となった。

現在は北朝鮮に在る朝鮮半島の聖地・金剛山(クムガンサン)、その「九龍の滝」の上流に八つの淵があり「八人の天女が沐浴した」と言う天女伝説がある。

つまり日本列島の全国各地に存在する羽衣天女伝説も、基は朝鮮半島経由で伝わった外来伝説であり、琉球王朝の羽衣伝説にも二種類の同様の伝説がある事から、琉球島と朝鮮半島はいずれも中華大陸からの渡来伝承と推測できるのである。



鎌倉の頼朝館に、弟の範頼が参上した。

「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」

「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」

「目の保養と申しますと?」

「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」

「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」

「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか、者供に見せねば成らぬ。」

言い出したら、聞かない性格の頼朝が言い出した事である。

これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。

静には酷だが、舞せる他に収まりそうも無かった。

「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」

「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」

流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。

異腹弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で白拍子舞の披露を命じられた。


この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。

後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。

状況的に条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。

このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが現実を描写する。

永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。

そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。

静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。

今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。

そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。

それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。

従って今様(当世風)神楽にはそうしたエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。

本来、白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。

後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱を受けた」事になる。

これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人(高級貴族役人)を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。

古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。

そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。


原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。

欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽から発生して発達し、娯楽の側面を持つに到った。

日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る神事から発生して発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め踊り手は巫女が勤めた。

神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが神官の出自は渡来系氏族で、巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。

そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。

遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。

この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。


そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。

目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。

記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。

身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を舞い踊る所に、その真髄がある。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの鎌倉前期に衣の重ね着は在っても下着は無い。

それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、後の案土桃山期に歌舞伎踊りで出雲の阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。

この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った必然的真実の所以(ゆえん)である。

これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。

その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。

しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。

最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りにはドラマで再現し難い事情がある。

それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。

もっとも映像化出来ないものは沢山在り、日本の既婚女性の化粧習慣だった「お歯黒」は、「映像化には不気味だ」として時代考証の段階で外され再現はしない。

しかしそれが長く続くと後世に残る映像には「お歯黒」を施粧した女性の登場場面は無くなり、やがて記憶から忘れ去られる事だろう。


神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰も露わなストリップダンス」と言われている。

「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。

それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。

この「白拍子」、法皇の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に、諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。

同時に吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っている。

ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾静御前とよしみを通じている。

この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。

「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。


千百七十七年には、院(後白河)と平家(清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。

これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。

藤原師光(ふじわらのもろみつ/西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。

この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

千百七十九年(治承三年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。

まず、娘の盛子が死去する。

法皇は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。

更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。

これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は重盛の死去と同時に重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。

驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。

ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。

そして、この不幸に追い打つような立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。

清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房(ふじわらのもとふさ)を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。

勘解由小路党は諜報機関であり、軍ではないからこの清盛の専横を阻止する正面切った力は後白河院側にはない。
せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、終(つ)いにこの年末近くに、鳥羽殿に幽閉してしまう。

幽閉されても、勘解由小路党の連絡は生きていた。

しかし後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平氏政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ勢力と成った。


権力を握った者は他人(ひと)を支配し、その全能感に酔いしれて神に成った気がする。

そして同時に、権力を失う事を恐れて統治を言い訳に人の心を失う。

正直や正義感だけでは生きて行けないのが浮世(現世)の現実だが、例え動機が正義でも、権力志向の者ほど正直や正義感ではやって行けなくなり、やがてそう言うものに麻痺して来る。

それは麻薬と同じように繰り返される間違いだが、こうした傾向は人が生身の人間である限り終わらない弱点である。

平清盛も、握った権力に酔いしれて知らぬ間に多くの敵を創ってしまった様である。



平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でも在った。

公家と武家の狭間とは言え武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられる。

「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行くのである。



勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、鳥羽殿で院(上皇)に拝謁した帰りの夜道を急いでいた。

院の仰(おお)せは、何時も難題である。

節くれだった古木を撫でる様に風が渡り、サワサワと葉音を立てている。

雲が切れて、月が顔を出した。

半月だった。

「そろそろ、始めるか。」吉次が呟いた。

吉次自らが作・演出の壮大なドラマが、始まる時を迎えていた。

徳子が高倉天皇(第八十代)の子を産むと、清盛は治承四年(千百八十年)娘婿の高倉天皇を退位させて、自分の孫にあたる安徳天皇(第八十一代)を即位させ、無理やり高倉天皇を退位させてしまう。

娘徳子の産んだ「幼い赤子」を天皇(安徳天皇・第八十一代)にする事で、天皇の外祖父として、絶頂期を迎え、絶大な権勢を振るったのだ。

この頃から、「平家であらずんば、人にあらじ」の専横が始まり、地方での不満は重なり増えて行ったのである。


勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、土御門(源)通親に呼び出され、後白河上皇(法王)の意志を告げられた。

「吉次、院(後白河法王)は清盛めの専横をお怒りじゃ。あやつ、嫡男の重盛や娘の盛子の死にも動ぜぬ。」

「清盛は天罰を、天罰と恐れぬ鵺(ぬえ)にござりますれば・・・。」

「早よう清盛に病に落ちるよう、院(後白河法王)は祈っておいでじゃ。」

「院(後白河法王)の祈り、必ずや天に通じまする。」

「判った。院(後白河法王)にはお伝えして置く。」


後白河法皇の怒りも通じず、清盛の力は一向に衰えなかった。

だが、頼朝が伊豆で挙兵した二年後、清盛は高熱を発して、病死してしまう。

病名は判らないが、焼き討ちした興福寺(藤原氏系)の、「坊主の祟り」と言う噂が流れている。

現代では、この清盛の病名は異国船が持ち込んだマラリア病説が有力説である。

ただしこの病死、後白河法皇の蜜命を受けた勘解由党の白拍子が、「関係しては居ない」と言う証拠も無い。


千百八十一年(治承五年)正月、平清盛の娘婿・高倉院が池殿で崩御、幼帝・安徳では政務が執れず、平家のクーデターで失脚していた後白河院の院政再開が止む無しと成る。

そうした中、今度は清盛が病に倒れてしまう。

清盛は、高熱と幻覚に苛まれて、病と闘っていた。

「生きたい。」

清盛はまだ、野望の仕上げをしていなかった。


安徳帝は余りにも幼い。

朝廷における院(上皇)方の勢力や源氏をことごとく潰し、安徳帝の行く末を見守らねばならない。

しかし、願いは叶わなかった。

同年閏二月四日に、清盛は病死する。

高倉帝と清盛の相次ぐ死は、国政に於ける最高権威と実質的指導者が一挙に失われた事を意味し、平家にとって致命的な打撃となった。

清盛嫡男で後継者としていた平重盛が死に、継いで清盛の死後、平家の棟梁は清盛三男・宗盛が継いでいた。

此処に到って後白河院は、「期が熟した」として再び伊勢平氏(平家)と源氏を戦わせて平家の力を削ぐ陰謀に出る。


現代の権力志向の人間にも通じる所だが、氏族は「愚かな生き物」であるから、領地に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。

当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。

しかし、世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。

現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。

上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に一生心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。


平清盛の人物像だが、どうも物語の敵役に描かれて、非道な人物と誤解され易い。

現実の清盛は、どうも優しい一面を持ち合わせていたようで、結果を見ると、継母・池禅師の嘆願を容れ助命された源義朝の子供達(頼朝や義経など)に彼の死後平家を滅ぼされている。

清盛の優しい一面を伝えるエピソードで、平安末期から鎌倉期に到る激動の物語に絡む人物が居る。
その人物を、大庭景親(平景親)と言う。

大庭景親(平景親)は、鎌倉(平)景政(かまくら/たいら/ かげまさ)の曾孫にあたり、桓武平氏の流れをくむ平氏の血筋であるが、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の父の代から相模国(神奈川県)鎌倉を領して鎌倉氏を称していた。

鎌倉氏は、後三年の役の折に源義家に属して従軍、鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、この後三年の役で右目を射られながらも奮闘した逸話が残されている。

大庭景親(平景親)が鎌倉氏ではなく大庭氏を称したのは、鎌倉氏が相模国高座郡(藤沢市周辺)に大庭御厨(おおばみくりや)と呼ぶ新田を開発した事に由来する。

大庭景親(平景親)も鎌倉氏流れの武将だったから、当然鎌倉景政(かまくらかげまさ)の時代から源氏に従っていた。

平清盛と源義朝が同盟した「保元の乱」が起こると、源義朝に従い白河殿を攻撃、武勲を上げている。

しかし、平清盛と源義朝が対立して「平治の乱」が起こり、大庭景親(平景親)も源義朝方に加わったが敗れ、平家方の囚人となった。

敵方の主力武将である。

本来なら打ち首にされても仕方ない所だが、平清盛が名門が滅びるのを惜しんで助命した為、大庭景親(平景親)は以後平氏の忠実な家人となり、以仁王の乱でも平家方として参加している。

この大庭景親(平景親)が、治承四年源頼朝の挙兵に際して「石橋山合戦」で弟の俣野景久と共に参戦、源頼朝を破った追討軍の大将である。

最もこの戦い、頼朝の兵は僅(わず)か三百、景親の追討軍は三千で、勝負は最初から見えていた。

頼朝側にすれば、三浦半島の豪族、三浦氏の援軍を待っていたのだが、前夜の豪雨で三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れず、後方から迫る伊東祐親(すけちか)の追っ手に退路を絶たれた形で大庭景親の追討軍に大敗、散々に敗走する。

敗れた頼朝は山中を逃げ回り、僅(わず)か六人に護られて洞窟(土肥・椙山のしとどの窟)に隠れている所を、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が見逃して助けている。

九死に一生を得た源頼朝は、神社・箱根権現の勢力に助けられ、船で相模湾を横切り安房国(千葉県)に向かう。

安房国で三浦一族と義父・北条時政と合流、その後大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らを派遣し、説得して味方につけると元々中央の平家に不満だった坂東(関東)武士は、こぞって源頼朝の下に結集して行った。

源頼朝、三島大社での旗揚げから僅(わず)か二ヶ月、やがて五万の大軍に膨れ上がった軍勢を従えて頼朝は鎌倉に入り、軍事組織の「侍所」を手始めに武家の臨時政府を設立、武家の棟梁と御家人の主従関係確立したのである。

このなだれ現象的な頼朝再挙の過程に在って大庭景親(平景親)は坂東(関東)勢の中で孤立、投降したが赦されずに猜疑心の強い源頼朝は、忠誠心を確かめる為に頼朝方に付いていた兄の大庭景能に固瀬川辺りで斬首させている。

大庭景親(平景親)の物語は、平清盛と源頼朝の人物像の違いを示すエピソードでもある。


千百八十一年(治承五年)正月、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は従三位となって公卿に列した。

しかし、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親(みちちか)は上皇の喪中を表向きの理由に、次第に平家との距離を取る様になって行った。

通親(みちちか)は平家の落日を、予測したので有る。

平清盛の死をきっかけに、後白河法皇と取り巻きの朝廷公家が動き出す。勘解由小路党の動きも活発になり、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に届けて旗揚げを要請している。

幼い安徳天皇(第八十一代)は、最大の後ろ盾を失ったのだ。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。

平清盛は、後継者の育成に失敗したのかも知れない。

後日談であるが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

清盛没後、四年目の事で有った。

異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは、明らかに安徳天皇である。

しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。

いよいよ平安期は、末期の様相を呈して来た。


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(源頼朝・義経)

◇◆◇◆(源頼朝・義経)◆◇◆◇◆

此処からこの物語は鎌倉時代の詳しいご案内に入って行くのだが、まずは鎌倉幕府の成立までを大略して置く。

平安末期、皇統は院政を敷く上皇(法皇)と天皇が夫々に平家と源氏の武門を味方に着けて統治の実権を争う「保元の乱」、平家・平清盛(たいらのきよもり)と源氏・源義朝(みなもとよしとも)の武門雌雄を決する「平治の乱」を経て勝者・平家が強い権力を握る。

平清盛(たいらのきよもり)は強大な権力を握ると、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築き、結果地方の武士達の不満を招いてしまう。

そうした地方の武士達の不満が結集された「治承(じしょう)のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)」の源頼朝(みなもとよりとも)の大乱を経て千百八十五年(旧来は千百九十二年説だった)、初めての武家政権である源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府は成立する。

その鎌倉幕府成立に貢献した御家人(家来衆)を、将軍・源頼朝(みなもとよりとも)は追捕使として各地に配置し、やがてその追捕使を守護職・地頭職に任命する。

源頼朝(みなもとよりとも)の死後、妻・北条正子との間に為した二人の子を順次二代将軍、三代将軍にするが、結局源氏の棟梁の血は途絶え北条家が得宗家(執権家)として鎌倉幕府の実権を握る。

そして朝廷と実質北条家が仕切っていた鎌倉幕府との「承久の乱(じょうきゅうのらん)」を経て武士の政権・鎌倉幕府は完全に朝廷をも抑えてしまった。

源将軍家及び北条得宗家(執権家)の支配した鎌倉期の地頭職・守護職の所領については幕府が認めた実効支配を朝廷が追認、官位を叙任するだけの事で天皇が所領を分け与えた訳では無い。

武家政権の成立で朝廷はその力を大きく失ってしまったが、世間に対する大小名の唯一の権威付けが官位の叙任であるから、叙任機関としての存在価値として残った。

千百八十五年頃の源頼朝の鎌倉開府から後醍醐天皇が北条得宗家九代・北条高時を破る千三百三十三年までの百四十八年間を鎌倉幕府と言う。



さて、凡その経緯(いきさつ)をダイジェストでご案内した所で、源頼朝(みなもとよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)夫婦の事から話を始める。

源頼朝(みなもとよりとも)の清和(せいわ)源氏は、清和天皇(第六十四代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。

この「源氏の棟梁」の血筋を狙って、何が何でも「源頼朝」の嫁になったのが「北条政子(ほうじょうまさこ)」である。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。

源氏の頭領「源頼朝」は源義朝の三男で在ったが、母が正室(藤原季範の娘由良・御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。

幼名を、「鬼武者」と言った。

将門の時も言ったが、こうした歴史物語に登場する人物達は、大方の所、数奇な運命に翻弄される事になる。

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は保元の乱の折りに父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにも関わらず、「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝や義経は助命され頼朝は伊豆の蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

この時代、その血統に生まれた事は生まれながらに権力者となる幸運でもあるが、生まれながらに生き方を決められる「不自由」と言う不幸も背負って生まれて来る。

そして源義朝の子供達は、一瞬足りととも心安らげぬその血統に生まれた宿命とも言える過酷な人生を辿る事になる。



源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に清盛の継母・池禅尼(平清盛の父・平忠盛の継室/後妻)の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国「蛭ヶ小島」に流される。

頼朝の助命をした池禅尼(いけのぜんに)は、平清盛(たいらのきよもり)の継母に当たる平安時代末期の女性である。

出家以前の名を藤原宗子(ふじわらのむねこ)と称し、父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘にして中関白・藤原道隆の子・隆家の後裔に当たる待賢門院近臣家の出身だった。

義子に当たる平清盛(たいらのきよもり)については、「祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹」とされる異腹の女性の子や白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が在る。

藤原宗子(ふじわらのむねこ)は伊勢平氏流棟梁・平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛と言う清盛とは腹違いの男児を産んでいる。

宗子(むねこ)の従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいた事から美福門院ともつながりが在るなど、夫の平忠盛を支える強力な人脈を持っていた。

また、近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性も在った崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられている。

千百五十三年(仁平三年)、夫・忠盛が死去すると宗子(むねこ)は出家し、六波羅の池殿で暮らした事から池禅尼と呼ばれた。

その三年後の千百五十六年(保元元年)鳥羽法皇崩御により「保元の乱」が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場に在った事から平氏一門は難しい立場に立たされた。

しかし池禅尼(いけのぜんに)は崇徳方の敗北を予測して、息子・頼盛に義兄・清盛に確り付いて協力する事を命じた。

この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持する事に成功した。

更に三年後の千百五十九年(平治元年)の「平治の乱」に於いては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の有力武門が駆逐された。

その翌年、千百六十年(永暦元年)二月、敵将・源義朝の嫡子で十四歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。

この際、池禅尼は清盛に対して「頼朝の助命を強力に嘆願した」と言われている。

また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めた為、遂に清盛が折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。

この減刑、「平治物語」では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだった事から池禅尼が助命に奔走したと、ドラマチックに表現されている。

しかし実際には、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。

その頼朝助命成功後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。

頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。


頼朝の流刑先・伊豆蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。


源頼朝の父・義朝には、平治の乱の折に義朝に従い、共に討ち死にした長男次男が居たが側室の腹だった。
この妾腹の子を「庶子」と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って、正室の腹である頼朝が、源氏の棟梁・義朝の三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

勿論庶兄に当たる者は、正室に世継ぎ(家長)があればその家臣、無ければ世継ぎと言う事になり、庶子ばかりの場合は、御家騒動に発展する事もあった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国韮山の地で過ごしている。

この流人・源頼朝の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族北条家で、当主は北条時政と言った。

北条政子は、その北条時政の娘である。

弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。

傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。

待てよ、それこそ個人の人物像など十人十色で、源頼朝を「武士らしくない」などと「べき論」で責める方が単細胞かも知れない。

確かに頼朝は、切った張ったに相応しくない繊細な思考の男だったのかも知れないが、それがどうした。

そんな人間は山ほど居て当たり前で、世の中氏族に生まれたからと言って単純に武士らしく勇ましい人間ばかりが居る訳が無いではないか。

頼朝は、まさに頼朝らしい方法で天下を取ったのだが、それでも世間の目は派手な英雄を望む物で、地味で陰湿な手段は好まれる物ではない。

九郎義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり人気は上々である。

これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。

日本人の琴線に触れる感情、源頼朝と源義経の故事に由来する判官贔屓(はんがんびいき)の原点は、大衆のほとんどが氏族に抑圧されて生きて来た弱い立場の蝦夷族の末裔だったからである。

源九郎判官・義経(みなもと・くろう、ほうがん・よしつね)と人は呼ぶ。


武士として始めて幕府を開いた名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?

見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。


歴史の多面性を、その時代の単なる英雄伝にしてはならない。

それは痛快で判り易いかも知れないが、歴史のほんの一部に過ぎないからである。

それでも武士に生まれた彼等は、怖気付(おじけつ)いては居られない。

権力志向と新たな所領獲得の執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。


頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の棟梁」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因で在った。

勿論この坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝への加勢、純粋な動機では無く氏族特有の権力志向と所領獲得の執念を実らせる「絶好の機会」と捉えての行動だった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。

真っ先に上げられるのが、北条一族である。

そして、緒戦の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。

千葉氏、上総氏などの安房の豪族平氏達も「しかり」である。


攻める方に、憎しみなどは別に無い。

獲物を前に勝手に戦人(いくさびと)の血が騒ぐだけだ。

武士は、もう長い事権力と領地を得る為に戦をするのが仕事だった。

守る方も、攻められれば座して攻めさせる訳には行かない。

あわ良くば返り討ちにして、利を得る。

そこに在るのは、損得の打算に裏づけされた出世の為の「ギャンブルへの参加」だけではないのか?

けして、「一門の為」などと言う、美しい話ではない。

これが、現代の政治家の派閥や政党の集合離散と、ダブって見えるのは、色眼鏡に過ぎる事だろうか?彼らは、本当に「政治理念」で行動しているのだろうか?

それを象徴するのが、例の「平将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事に成る。

頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。

この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。

彼らは平氏では在ったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。


将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は源氏の関東進出や東北進出で、源氏の歴代棟梁と御家人関係(臣従関係)を結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役や後三年の役で源氏の棟梁源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

もっとも平清盛(たいらのきよもり)の白河天皇御落胤説が本当なら、他の平氏は平家とは一線を画しても不思議はない。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。

その関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。

つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。

従って、時代と地の利を得たのが頼朝であった。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。

初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かに上手い。

しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


一方、北条(平)政子は、野心に満ちて居た。

田舎の地方豪族のままで終わるなど我慢が成らない。

そこに頼朝が流されて来た。

名高い清和源氏の直系で、義朝の三男とは言へ、正妻に生まれて扱いは嫡男であり、父・義朝とともに妾腹の兄二人を平治の乱で失い今や系図の筆頭を名実伴に引き継ぐ身である。

桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。

北条正子の実家・平直方流は、正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。

野心に満ちた北条(平)政子が、名家の棟梁「頼朝」を放って置く訳が無い。

武門で、「平清盛一族に対抗出来る」これ以上の高級血統ブランドはないのだ。

何としても、「ものにしよう。」と思った事だろう。

そもそも「愛と性行為を合致させよう」などと思うのは、現代の幻想に過ぎない。

現代の女性には「認め難い事実」かも知れないが、歴史的に女性が置かれた立場からすると、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永い事女子に出来る大事な生きる為の常識的な武器(能力)だった。

北条(平)政子は頼朝より九歳ほど歳下である。

しかし、生来のしたたかさを持ち合わせてこの世に産まれて来ていた。

流人で伊豆に来ている心細い頼朝青年を、うら若き政子が身体を張って誘惑するのは、「容易(たやす)い事だった」に違いない。

正子は頼朝の側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)を介して接近を試み、盛長(もりなが)も北条氏を味方に引き入れるには得策と解して積極的に助力している。


安達盛長(あだちもりなが/安達)は、源頼朝の流人時代からの側近で、当初は足立を称していたが盛長晩年の頃から安達の名字を称した。

同じ鎌倉幕府の御家人・足立遠元(あだちとおもと)は、盛長(もりなが)年上の甥にあたる。

盛長(もりなが)の出自に関しては「尊卑分脈」に於いて小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図に拠って異なり、その正確な出自は不明である。

足立盛長(あだちもりなが)は頼朝と北条政子の間を「取り持った」とされ、源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕える。

また、盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が過って宮中で二条院(二条天皇)の女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、頼朝に「京都の情勢を伝えていた」と言われている。

側近として頼朝に仕えていた盛長(もりなが)は、頼朝配流先・蛭ヶ小島の地に近く、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た天野郷の天野遠景(あまのとおかげ)とも親しい間柄だった。

また、平家に拠って伊勢の所領を放棄し、伊豆に流れて来て密かに平家打倒に燃え機会を伺っていた加藤景廉(かとうかげかど)の一族とも密かに気脈を通じていた。


千百八十年(治承四年)の頼朝挙兵に従い、盛長(もりなが)は使者として各地の関東武士の糾合に当たり石橋山の戦いに敗れた後は源頼朝とともに安房国に逃れ、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方に着ける使者を務めた。

頼朝が安房での再挙に成功して坂東(関東)を制圧し、鎌倉に本拠を置き坂東(関東)を治めると、鎌倉幕府の御家人として千八百八十四年(元暦元年)の頃から北関東を固める為に上野国の奉行人とり、後に起こった奥州藤原家討伐の奥州合戦にも従軍している。

足立を安達に改姓した安達盛長(あだちもりなが)は鎌倉殿(将軍)・頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用(息抜き)で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。

この頼朝の私用(息抜き)については、妻・正子の目を盗んだ愛妾との密会の場を盛長(もりなが)が提供していたとも盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が目当てだったとの風聞もある。

その後鎌倉殿(将軍)・頼朝が千百九十九年(正治元年)に落馬死(?)をすると、盛長(もりなが)は出家して蓮西と名乗り二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画、三河の守護にもなっている。

盛長(もりなが)は同年(正治元年)の秋に起こった有力御家人・梶原景時の変では幕府内の強硬派の一人となり景時を追い詰めている。

頼朝落馬死(?)翌年の四月に安達盛長(あだちもりなが)は死去したが、安達氏は盛長の子・景盛景盛の娘・松下禅尼が三代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏に嫁ぎ、四代執権・北条経時、五代執権・北条時頼を産むなど鎌倉時代を通じて繁栄する。



北条政子が頼朝に強烈なアプローチをして、二人は首尾良く恋仲になる。

実の所、恋仲と言うより「政子に垂らし込まれた」と言う方が正確だった。

政子の性格は攻撃的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れる。

多分に加虐的性交を好み、何時も頼朝を上位で責めたて快感をむさぼった。

彼女が最も得意とするのは騎上位で、頼朝の上で激しく上下する事であったが、それが気弱な性格の頼朝の性癖に合っていたから、世の中上手く出来ている。

頼朝は、流人と言う拘束感の苛立ちを、政子との強烈な睦事に逃げ込む事で日常から救われていた。

頼朝は政子に「愛されている」と確信し、彼女を愛した。

つまり頼朝は政子に嵌まってしまったのである。

そうした二人の間の関係が、そのままこの夫婦の人生に現れる。

男女が睦み会えばその結果が出る。

やがて頼朝と政子の間に娘が誕生する。

それを知った父親の北条時政は、平家の矛先が自分に向かう事を恐れて、平家の伊豆国代官・山木(平)兼隆(伊豆の国目代・判官)に政子を「嫁がせよう」と画策する。

田舎小領主の時政にすれば、源氏の流人と自分の娘が縁を結ぶなどとんでもない。
それだけで、清盛の「敵に廻った」と見なされる。

時政は「我が家門大事」で、飛ぶ鳥落とす勢いの平家(清盛一族)に逆らうなど、危険極まりないのである。

時政は、慌てて娘・正子を無難な相手に嫁がせる事にする。

目を着けたのが伊豆目代・山木(平)判官兼隆だ。

山木(平)兼隆(やまき・たいらの・かねたか)は、山木判官と呼ばれた平家の伊豆目代(伊豆に於ける代理執行者)だった。

桓武平氏流大掾(だいじょう )氏の庶流和泉守・平信兼の子で大掾兼隆(だいじょうかねたか)とも名乗った検非違使少尉(判官)だった。

しかし理由は不明だが、父・平信兼(たいらののぶかね)の訴えにより罪を得て伊豆国・山木郷に流され、郷の名・山木を名乗る。

その頃、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した治承三年のクーデター後、懇意があった伊豆知行国主・平時忠により兼隆は伊豆国目代に任ぜられた。


山木兼隆が不運だったのは、流罪で伊豆に流されて来た源氏の棟梁・源頼朝(みなもとのよりとも)の愛人・北条政子(ほうじょうまさこ)との婚姻話が舞い込んだ事である。



父・時政の思惑もあり、熱心に縁組運動をした為に政子に山木(平)判官兼隆から縁談が来たが、政子の方は不満だった。

平家の伊豆目代・山木(平)判官兼隆は、都に常駐して中央政府を仕切る平家(平清盛一族)の遠隔地の所領管理を代行する傍ら、伊豆国を取り仕切る地方政府の長(代官=検非違使)だった。

地方郷士の父・時政にすれば、平家の危険人物・流人の源頼朝と出来てしまった娘を山木(平)判官兼隆に押し付けて北条家の安泰を図ったのである。

しかし政子にして見れば、元はと言えば一度都で失敗して伊豆国に流されて流人身分だった兼隆が、赦免されて伊豆目代に登用された経緯があり、先の出世は知れている。

山木判官は平家の伊豆目代としてこの地にあり、伊勢平氏の祖・平維衡末裔の平ブランドで清盛平家とは血統も近かったが正統・清盛平家ではなく、精々伊豆の国で威張る程度の身分で終る事は目に見えていた。

北条(平)政子が当時特異な存在の女性(にょしょう)だったのは、その行動からも明らかである。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していた。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

その禁を破ってでも肉体(からだ)を餌に、流人とは言え源氏の棟梁・源頼朝と折角懇(ねんご)ろになり、姫まで為したのに父の北条時政が清盛平家の威光を恐れて山木(平)判官兼隆と婚儀を結んでしまった。

このままでは自分は伊豆の田舎で、目代(出先の役人)の女房で終ってしまう。

所が、北条(平)政子はその並外れた野心故に、親の薦めた政略婚相手を親に攻め滅ぼさせてでも源氏の棟梁・源頼朝の押しかけ女房に納まる決意をする。

野心旺盛な北条政子は、一計を案じて祝言の日取りを三島大社の大祭の日に合わせ、源頼朝に囁いた。

「わらわは、祝言の夜に必ず山木館より抜け帰る故、必ず兼隆を討ち取っておくれ。」

祝言の夜に政子が逃げ帰れば言い訳が利かないから、流石に優柔不断の頼朝も、慎重な父・時政も腹を括るより他は無い。

婚礼当日に逃げ出した恋人の下に逃げ戻る・・・源頼朝と北条正子の物語を、今風に描けば大恋愛になるかも知れない。

時代考証を無視して物語を作る作者が多いが、それは現代的なものの考え方の方が読者には受け入れ易いからである。

しかし北条正子が恋したのは、明らかに源頼朝にではなく「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

それが証拠に、天下の権力を奪取した後の北条正子は鵺(ぬえ)と成り源氏の血を喰らい尽くして北条得宗家を確立させている。

当時の女性の価値観は実家や先方の血筋と言った現実が大事で、現在とはかなり違うものだから男女の恋愛の形も違って当然である。

それでも今風の解釈でロマンチックな夢を見て「明るく楽しく生きたい」と言うのは、逆説的に言うと現実逃避の一面がある。

それは、現実から逃避して夢を見ている方が人生は遥かに楽しい。

所がここが一番難しい所で、「人生楽しければ良い」と言いながら夢を見たいのが人間であり、欲が深い事にそれでも真相を知りたいのも同じ人間である。



その頃「都」では、異変が起こっていた。

平安群盗(蝦夷ゲリラ)の出没が未だ収まらず、何時(いつ)恐ろしい場面に出食わさないとも限らない恐怖を都人の深層心理の中に孕(はら)んで居たのが当時の平安の都だった。

その異変とは、日本中に飛んだ以仁王(もちひとおう)の令旨と、鵺(ぬえ)退治で名声高い源頼政一党の蜂起である。

摂津源氏の嫡流である源頼政は、保元の乱では後白河天皇(第七十八代)方に属して平清盛、源義朝(頼朝の父)らと共に崇徳上皇方と戦った。

源氏嫡流の摂津源氏の武将だった源頼政が、三位頼政(さんいのよりまさ)と呼ばれたには経緯が在る。

平治の乱の折りに御所の大内(内裏/だいり・御所)守護としての立場から、幼帝・六条天皇(ろくじょうてんのう・第七十九代)と後白河法皇を奉じていた平清盛方の陣営に助勢、その功績でそれまで源氏の最高位が正四位下が定番だった叙任慣習を破り従三位に叙せられたからである。

その後、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の挙兵(きょへい)をする。

後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、兄の守覚法親王が仏門に入った為に繰り上げ第二皇子と成った平安時代末期の皇族で、幼少の頃から書や学問、詩歌や笛の才能に優れていた。

以仁王(もちひとおう)は、当然親王になる資格があった天皇の皇子であるが、平家政権の圧力があり「親王宣下を得られなかった」とも言われている不運な皇子だった。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族、鳥羽天皇の皇女・ワ子内親王(あきこないしんのう)は、后位を経ずに女院となり「八条院」と号し、終生未婚であった。

八条院は、父母の莫大な遺産や荘園のほとんどを相続し、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群二百数十箇所に及ぶ荘園が女院の管領下に在って八条院領と呼ばれ甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。

つまり後白河天皇の第三皇子・以仁王は、その八条院の猶子(ゆうし/姓を変えない養子)である。

以仁王は若くして英才の誉れが高く、天台座主最雲の弟子となったが師の没後還俗(げんぞく)して元服、皇位継承の有力候補と目されていた。

しかし、異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により親王宣下も受けられぬ不遇をかこって居た所、平家のクーデターが起こり父・後白河法皇が幽閉され、以仁王自身も知行地・常興寺(領)を没収される。

その邸宅が三条高倉に在った事から、以仁王(もちひとおう)は高倉宮または三条宮とも称されていた。

しかし「父・後白河とも疎遠の上に、父・後白河が譲位後に妃とした滋子(平清盛の妻・二位尼時子の妹)とも不仲であった」と言われ、平清盛の妻・時子は高倉天皇生母であるから、実権を平家一門に握られた以仁王(もちひとおう)の不満は当然の事だった。

千百八十年(治承四年)実権を平家一門に握られた不満から、ここに到って以仁王は終(つい)に平家討伐を決意し、源頼政と共謀して密かに平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に向けて発し、平家打倒の挙兵をうながしたのである。

しかしこの事はすぐに露見して平氏の知る処と成り、「宇治橋の戦い」に敗れて奈良に逃れようとする途中、光明山鳥居の前(京都府山城町)で以仁王(もちひとおう)と源頼政は討ち取られて早期に鎮圧されてしまう。

この「以仁王の乱」、「源頼政の挙兵」とも呼ばれた蜂起そのものは、以仁王(もちひとおう)自身は準備不足の為に計画が露見して平家一門の追討を受け殺害された。

だが、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。


清盛一族(平家)の専横に怒った後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる。

するとこの時、平家全盛の折に源氏の武士でありながら宮中に大内(だいり・御所)守護として使えていた源(三位)頼政は、京に在って源頼朝や木曾(源)義仲より早く、大内(だいり・御所)守護として立ち上がる。

村上源氏流れ・鵺(ぬえ)退治の源頼政は、嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱、養子の源兼綱らと共に清盛一族(平家)打倒の最初の挙兵を行い、宇治橋の合戦にて無念の討ち死を果たしている。

源頼政の行動は源氏や平家ではなく、最期まで大内(だいり・御所)守護としての立場を貫いた皇統護持だったのである。


伊豆の国長岡の「古奈」に美しい娘がいた。

この「古奈」であるが、伊豆の国が伊都国と考えると、「古奈良」の可能性がある。

そもそも「古奈」の地名は、事代主命の后神である伊古奈比当ス(いかなひめのみこと)から「名を貰っている」と考えられ、辻褄が合うのである。

伊豆の国「古奈」の美しい娘は、長じて京に上り近衛の院(近衛天皇)に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。

この朝廷内裏(ちょうていだいり)への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。

つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。

やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。

処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八九年の生涯を閉じたのである。

源(三位)頼政が伊豆国長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。

あやめ御前の父親は、一時伊豆に配流になった「貴族の藤原為明」とも言われているが、確たる証拠はない。


以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って行く。

「平家清盛以下平家一門を追討せよ。」

この以仁王の令旨(りょうじ)、全国に運んだのは誰であろう?

源行家(みなもとのゆきいえ)が届け歩いたと伝えられるが平家の権力が絶頂の時で、勿論朝廷の影の組織なくしてそれは成し得ない。

つまり勘解由小路吉次の手の者が源行家(みなもとのゆきいえ)と組み、目立たないように彼らしか知らない獣道を走り継いで、全国に令旨(りょうじ)を運んだので有る。

歌舞伎の勧進帳・安宅関で、義経、弁慶一行が山伏姿に身をやつして居るが、当時比較的フリーパスの合意が形成されていた修験者に対する扱いが、治外法権的に「余程大きな後ろ盾、または権限の習慣があった」とも推測される。

寺社造営の勧進も含め、修験者(山伏)は、「公務で動いている」と言う解釈だったのである。

この動きとタイミングが合う様に、代官山木(判官)兼隆と政子の婚礼話が進んだが、婚礼の当日の夜、政子は陣屋を抜け出して頼朝の下へ逃げ戻る。

頼朝も、時政も、そこに至っては「もはやこれまで。」で、後戻りが出来ない。

つまり北条正子は、意図的に差し迫った情況を作って父・北条時政を頼朝の旗揚げに巻き込んだ。

頼朝と時政は、その夜の内になけ無しの僅かな兵をかき集め、山木(平)兼隆の陣屋に夜襲を掛けて討ち取ってしまう。

この山木判官邸討ち入りに頼朝が指揮したのは、北条時政の一族郎党、頼朝側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)、頼朝の友人・天野遠景(あまのとおかげ)の一族、所領を棄る羽目となって伊勢以来の平家に恨みを持つ加藤景廉(かとうかげかど)一族らが加わった軍勢だが、さして大軍ではない。

此処に頼朝は、平家打倒の旗揚げを三島大社(三島明神)でする事に成るのだが、どう見ても政子の行動が「きっかけ」と見えて来る。

しかし当日が三島大社の祭礼の日で、山木の家人(郎党)が出払っていて「守り切れなかった」と言うから、婚礼で油断させた最初からの「計画的陰謀説」も考えられる。


静岡県・函南町間宮には、浄土宗・広渡寺(こうどじ)がある。

この広渡寺(こうどじ)は、仏教の寺でありながら神社も併設されている。

この浄土宗・広渡寺(こうどじ)の神社併設の由来が、源頼朝の挙兵に関わる物語の一端を覗かせる逸話である。

源頼朝が源氏再興祈願の為に、毎夜「丑の中刻(午前2時頃)」に三島大社(三島明神)に詣でて居た。

為に頼朝は、仮の館が在った「蛭が小島」と「三島大社(三島明神)」の中間に在る広渡寺(こうどじ)で「時間合わせの為に仮眠休息した」と伝承される。

それにしても「丑の刻参り」とは・・・、頼朝の陰湿な執念を象徴するエピソードで在る事は間違いない。


その後平家を倒して鎌倉幕府を成立させた頼朝は、この祈願時に「世話に成った礼」として源氏の象徴である八幡神(八幡大菩薩)の神社を広渡寺に寄進した。

伝えられる「弓矢の守護神が夢 に出てきた」は後の創作だが、間宮・広渡寺(こうどじ)と頼朝の間にそれなりの縁が在った事は事実である。

頼朝は、この寄進した八幡神社に自らの尊像を彫刻して「間宮正八幡」と号して安置し、永く広渡寺の鎮守の神と崇め奉られている。

こうしたその時代(リアルタイム)に頼朝が残した建造物が存在する所から、流人中の源氏再興祈願は事実で挙兵の意志は在ったのだろう。

だが、その挙兵のタイミングが計画的だったのか、頼朝の妻・北条正子絡みの偶発だったかは定かではない。

偶発的なものなら、以仁王の令旨(りょうじ)はタイミングが良かっただけで、頼朝にとっては或る意味「女を取り合う揉め事」が先だったようでも在る。

頼朝と政子の経緯も良く知らされず、婚礼の日に夜襲で討たれてしまった山木判官(平)兼隆こそ、哀れである。

もっとも、この一連の出来事が、「政子の描いた謀り事ではない」と言う、確たる証拠も無い。


運良く頼朝には、以仁王の令旨(りょうじ)と言う「大義名分」が出来た。

それで、頼朝は生き残りを賭け、近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を味方に集め始める。

伊豆で旗揚げした頼朝は、急遽近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を集めて、まず、父・義朝の地盤だった相模の国(神奈川県)の平定に乗り出す。

地縁があるから頼朝に有利な筈だった。

しかし、急場の旗揚げは隠しようも無く、ろくに根回しをしてない頼朝には僅かな兵しか集まらなかった。

頼朝の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」は、あっけなく敗れている。

千百八十年(治承四年)八月の二十二日、源頼朝のその後の人生観を変える石橋山合戦が箱根山中を舞台に起っている。

山の天候は変わり易い。

この時期の箱根山中は暫(しば)し大雨や濃霧に見舞われる為、薄暗く見通し悪い日々が続く。

伊豆で山木判官(平)兼隆を討ち、平家打倒の旗を挙げた源頼朝は、同月、関東進出をめざし三百余騎を率いて東国に向かって行軍を開始した。

一方、源頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、追討軍三千余騎を率いて西に向かった。

三百余騎の源頼朝軍は、平家方・大庭景親の軍勢が討伐に来たのを迎え撃つ為に相模の国・小田原の西方箱根の山塊が相模湾になだれ落ちる断崖のある石橋山に布陣する。

平家方は、大庭景親とその弟・俣野景久ら三千余騎で対峙し、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣する。

また、源頼朝軍の後方には平家方・伊東祐親の軍が挟み撃ちで布陣しする。

しかしこの対峙した勢力、平家方は三千余騎、源頼朝の軍勢は僅(わずか)三百騎で圧倒的に平家方が有利だった。

翌二十三日、大雨と濃霧の中で本格的戦闘が始まり、石橋山で敵味方が入り混じって勇壮に良く戦ったが多勢に無勢で平家軍に包囲されて敗れ、散り散りに湯河原方面に敗走する。

その後も頼朝軍は敗走しながら追撃する大庭軍と現在の湯河原町鍛冶屋の堀口あたりで戦い、頼朝軍は或る者は討たれ或る者は自害し壊滅した。

敗れた頼朝・北条時政ら主従は、周囲に岡崎義実、土肥実平など総勢七騎が残るのみとなって絶対絶命の危機に陥る。

湯河原の郷士・土肥次郎実平の案内で今の城山から箱根湯河原の山中を霧を味方に逃げ回り、石橋山の背後にある山中のに逃げ込み、桜郷の谷奥に在る洞窟に隠れて大庭軍をやり過そうとする。

その時、平氏家・大庭軍に属する武将・梶原景時(かじわらかげとき)に洞窟に身を隠している所を発見され、絶体絶命のピンチを迎えるが、どうした事か梶原は見て見ぬふりをしてその場を離れ、頼朝を見逃し助けてしまう。

常に討ち死にの恐怖に晒されながら九死に一生を得た頼朝主従は、山を下る途中の小道の峠でまたも大庭軍に出くわし、小道地蔵堂の純海上人にかくまわれ危機を脱している。

危機を脱し一命を得た頼朝主従は、八月二十六日土肥実平と共に相模の国・真鶴岬(まなずるみさき)から脱出、小船で海路安房の国(千葉県)に向かい、八月二十九日安房の国・猟島(かがりじま)に上陸しする。


三浦義澄(みうらよしずみ)は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明(みうらのすけよしあき)の次男である。

義澄(よしずみ)の妻は伊豆伊東荘の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘だが名は不明。

千百五十九年(平治元年)の平治の乱では、義澄(よしずみ)は頼朝の父・義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)に従うが、平家方に敗れて京都から郷里の相模国矢部に落ち延びる。

その後兄で三浦氏継嗣の杉本義宗が亡くなり、義澄(よしずみ)が三浦氏の家督を相続する。

千百八十年(治承四年)に源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には頼朝方として出陣するも、悪天候の為増水した丸子川(酒匂川)を渡れず、参戦できずに引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となった。

その後三浦義澄(みうらよしずみ)ら三浦氏の郎党は、平家方との衝突を避け海路安房国へ一時撤退するが、房総半島へ渡って来た頼朝軍と合流し、後に頼朝に帰伏した畠山重忠らと共に鎌倉に入る。

頼朝方の関東での優勢が揺ぎ無いものに成りつつ在ったこの頃、義澄(よしずみ)は平家側についていた妻の父である伊東祐親(いとうすけちか)が捕らえられてその身を預かる事となる。

義澄(よしずみ)は頼朝に助命を嘆願して祐親の事を許させるが、しかし祐親(すけちか)は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。

頼朝が関東を制圧すると、三浦義澄(みうらよしずみ)は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる。


さて安房に逃れたその後の頼朝主従は、安房(あわ)・上総(かずさ)の豪族・上総広常(かずさひろつね)や千葉常胤(ちばつねたね)の支援を得て再起を図り、再び反平家の旗を挙げ精鋭三百騎を従え上総から鎌倉に向い、途中関東の有力な豪族を味方につけて頼朝は大軍を率いている。

実はこの頼朝再起を飾った安房(あわ)国・千葉氏と上総(かずさ)国・上総氏は、鎌倉幕府成立までが華やかだった。

千葉常胤(ちばつねたね)は、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一家である桓武平氏良文流千葉氏の一族で官途名は千葉介(ちばのすけ)であり、平安末期に於ける下総国の有力在庁官人領主で在った。

千葉常胤は、多くの坂東武士同様に保元の乱に出陣し、源義朝の指揮下で戦っている。

その後、平治の乱を起こした義朝が敗死し、平清盛の平家が中央政治を独占する。

平治の乱から二十一年後、源義朝の継子・源頼朝が伊豆国で挙兵し、石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに千葉常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送った。

千葉常胤(ちばつねたね)と源頼朝との最初の会見は上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたとされ、常胤(つねたね)は加勢に応じたが、その交渉過程は「吾妻鏡」、「源平盛衰記」の夫々に相異が見られ、本当の所は定かではない。

いずれにしても常胤の参陣の背景には、国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と頼朝の父・源義朝との間に昔の関係が在ったからである。

千葉常胤(ちばつねたね)は、頼朝挙兵時既に高齢で、胤頼(千葉常胤の庶子)と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府(現在の市川市)に襲撃してこれを討っている。

所が、匝瑳郡に根拠を置き平家政権に拠って下総守に任じられていた判官代・藤原親正(親政)が、頼朝討伐に向かう途中でこの知らせを聞いて急遽千葉荘を攻撃した。

急遽引き返した成胤と親正は戦いに及んで判官代・藤原親正を捕縛する事に成功している。

常胤は一族三百騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣した。

源頼朝の軍勢は、千葉常胤や上総広常(かずさひろつね)の与力を得て源家の本拠地・相模国鎌倉を目指す間に、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)などの大半が与力に加わって軍勢は五万騎に膨れ上がったと伝えられる。

千葉常胤は源氏軍の与力として活躍し、富士川の合戦後上洛を焦る頼朝を宥めたと伝えられ佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還している。

平家討伐には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加、その後は豊後国(大分県)に渡り軍功を上げた。

その後常胤(つねたね)は洛中警護のため上洛した他、奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して東海道方面の大将に任じられて武功を挙げ奥州各地に所領を得ている。

安房国・千葉氏は、奥州合戦で武功を挙げ奥州各地に所領を得たを最後に、当主・千葉常胤が高齢だった為に一連の有力御家人に対する北条家の粛清を免れ、源将軍三代と北条執権制確立までの政争にはほとんど名前が出てこない。

再び中央の歴史に名を登場させるのは、元寇戦での九州の活躍以降であるが子孫は各地で永らえて守護大名・戦国大名となった。

本宗家・千葉氏は室町時代末期までの約四百年間を、子孫が武蔵国、上総国、下総国の豪族領主として叙々に衰退し、桃山期の豊臣秀吉に拠る小田原平定(後北条氏)に拠り滅亡する。

常胤の次男が相馬氏を継いだ千葉常胤流相馬氏の子孫は下総と奥州に分かれ、南北朝時代には互いに抗争し、江戸期には下総流は旗本、奥州流は中村六万石の藩主となり明治維新を迎えている。

尚、この下総国・千葉氏が西の周防国・大内氏と並ぶ妙見信仰(北斗北辰信仰)の有力な保護者で、後世・千葉周作(父は千葉氏流相馬中村藩剣術指南役・千葉成胤)の剣術・北辰一刀流の名はこの妙見信仰(北斗北辰信仰)に因(ち)なんだものと思われる。

また妙見信仰(北斗北辰信仰)を題材にした南総里見八犬伝にも、千葉氏の妙見信仰保護の影響が安房国の地に「生き続けていた」と思われる。


もう一方の上総氏(かずさうじ)は上総介(かずさのすけ)或いは上総権介(かずさごんのすけ)として上総、下総二ヶ国に所領を持ち、房総平氏惣領家として大きな勢力を有していた。

親王任国である上総は、介が実質的な国府の長である。

上総広常(かずさひろつね)は上総権介・平常澄の八男・嫡子として生まれた。

上総介広常(かずさのすけひろつね)或いはの呼称が広く用いられるが本姓は平氏で、正式な名乗りは平広常(たいらのひろつね)である。

源義朝が平治の乱で敗れる前、上総広常は源義朝の郎党として保元の乱では義朝に平治の乱では頼朝の諸兄の長男・源義平に従い戦っている。

平治の乱に敗れると平家の探索をくぐって戦線離脱して領国に戻り、その後は平家に従った。

しかし平家の有力家人・藤原忠清が上総介に任じて来た為に国務を巡って忠清と対立、平家姻戚の藤原親政が下総に勢力を伸ばそうとするなど広常は平清盛と離反して行く。

源義朝の継子・源頼朝が伊豆国三島で挙兵するも石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃れて来る。

その源頼朝が安房国・千葉常胤(ちばつねたね)の与力を得て再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、二万騎の大軍を率いて頼朝の下へ参陣する。

上総広常参陣後の関東武士は鎌倉を目指す頼朝方にこぞって参陣、坂東最大の勢力で在った広常の加担が源頼朝挙兵の成否を決定付けたとも言える。

富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して広常は常陸国の佐竹氏討伐を主張し、佐竹義政(源氏)を殺害し佐竹秀義は敗走している。

本来なら頼朝方最大の勢力を持つ上総広常(かずさひろつね)は、鎌倉御家人でも最有力になる筈だった。

しかし上総広常は謀反を企てたとして、双六に興じる最中に頼朝に命じられた梶原景時に謀殺され嫡男・能常は自害、上総氏は所領を没収され滅亡した。

上総広常の謀反話しは、没収された所領を他の御家人に分け与えてから「無実が判明した」として遺族の名誉は回復されるも所領は戻らず、どう見ても猜疑心が強い頼朝が目の上のタンコブだった広常の排除を画策した濡れ衣の疑いが強い。

或いは、猜疑心が強い頼朝の性格を利用した頼朝周囲の北条正子や北条時政、信任厚い比企能員(ひきよしかず)や梶原景時らの讒言に拠るものだったのかも知れない。

頼朝は境遇から学んで、「人間、強(したた)かでなければ世の中に遅れを取る。」と骨身に染みていた。

野心と平穏は両立せず、いずれか一方を採るしかないが、自らが平穏を望んでも他人の野心に翻弄されるのが世の中の切無さである。

つまり現実の世間は、強(したた)かでない為政者など半日も持たないで消えて行く冷たい世の中なのである。


桓武平氏良文流千葉氏の支流にあたる相馬氏(そうまうじ)は、下総国、陸奥国(後の磐城国)を領した一族である。

この相馬氏(そうまうじ)が、領主として七百年以上もの永い間統治する実績を残し、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主となる。

相馬氏初代の相馬師常(そうまもろつね)は鎌倉時代初期の武将・千葉常胤の次男で、師常が父・常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続された事に始まる。

相馬御厨(そうまみくりや)は平忠常以来の房総平氏の代々の土地で、上総氏(かずさうじ)の祖である常晴が既に相馬氏を称し、その相馬常晴の子・常澄(父親と折り合いが悪く家督は継がなかった)も相馬六郎と号し、また常澄の子・常清も相馬氏を称していた。

鎌倉初期、上総広常の失脚と共に千葉師常が相馬御厨(そうまみくりや)の地に据え、それに因んで相馬氏を称し、常清の系統は姓を相馬氏から角田氏に改めている。

相馬師常(そうまもろつね)には、平将門(たいらのまさかど/相馬小次郎)の子孫である篠田師国の養子に入り、将門に縁の深い「相馬御厨(そうまみくりや)を継承させた」とする伝承がある。

但し、将門が本拠としていたのはもっと北の豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかなく相馬氏による相馬郡支配の正当化を図る為のこじつけとする見方もある。

相馬師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、四代胤村の死後、後を託した後妻の子・師胤(五代)と先妻の子・胤氏とが家督を争った。

相馬師胤は父の譲状を鎌倉幕府に提出したが幕府はこれを認めず、胤氏を継承者として認めた。

この為、師胤の子・重胤(六代)の代に所領として許された陸奥国(磐城)行方郡に入り、胤氏一族は下総に残留して下総相馬氏となる。

この両家はその後も所領争いを繰り返し、後の南北朝の戦いでは奥州側は北朝方、下総側は南朝方であった。

奥州の相馬氏は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州に領地を受けた後、千葉一族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州に於いて数少ない北朝方の一族として活躍したものの、南北朝の争乱が収まるとやや衰退する。

室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお、戦国時代初期には、行方郡・標葉郡・宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。

しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の大名・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは三十度以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。

やがて伊達氏に伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ、独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せたという。

奥州相馬氏と下総相馬氏は、千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉に拠る小田原の役でも敵対関係となり、奥州側は豊臣方について本領を安堵され大名として残ったのに対し、下総側は小禄の旗本として衰退、両相馬が正式に和解したのは十八世紀に入ってからとされている。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて中立して勝敗を見定めるも、豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣 の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていた為に西軍寄りとみなされる。

為に戦後徳川氏により一旦改易されたが、これを訴訟を起こして凌ぎ切り、再び本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜く事に成功した。

その後も、秋田に転封された佐竹氏とは養子を送りあうなどして補完関係を築き、奥州相馬氏は福島県相馬地方を明治時代にいたるまで、実に七百年以上もの長い間統治し、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。

相馬氏は下総、陸奥の他にも分家、諸族は日本全土に拡散しており、彦根藩・井伊家に仕えた一族の末裔からは相馬永胤を輩出している。


石橋山合戦で平家方として頼朝軍の後方から参戦した伊東祐親(いとうすけちか)と源頼朝の間には、かなり悲惨な因縁話が伝承されている。

流人となった頼朝だが、伊豆配流と言う事は伊豆配流と言う事でそこは高貴な後胤貴族の血を引く源氏の棟梁で、伊豆国内ならば比較的自由に行動が出来た。

十四歳の若者から三十三歳で旗揚げするまでの十九年間、ちょうど恋の季節を伊豆国で送った頼朝である。

北条正子と割り無い仲に成る前に、一つの恋が在った。

その恋の相手が伊東祐親(いとうすけちか)の三女・八重姫で、頼朝は二十五歳だった。

何時(いつ)の世でも、女性(母性)にとっては悲劇の主人公は恋の相手として魅力的である。

正直、名門・源氏の若き棟梁が流人として父・伊東祐親(いとうすけちか)に預けられたとなると、哀れみ混じりに八重姫(伊東八重)の母性本能をくすぐらせ、やがて恋に落ちたのかも知れない。

源頼朝の監視を任されていた伊東祐親(いとうすけちか)の娘・八重姫は、祐親(すけちか)が大番役(朝廷警護の任)で上洛している間に頼朝と通じて一子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。

その千鶴丸が三歳に成る頃、大番役を終えて京から戻った祐親はこの事実を知ると「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と激怒する。

そして祐親(すけちか)は、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川轟ヶ淵に沈めて殺害、さらに頼朝自身の暗殺も図り、娘・八重を取り返して伊豆国江間の住人、「江間小四郎(えまのこしろう)に嫁がせた」と伝えられる。

この危機に、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻として頼朝と親交が在った祐親(すけちか)次男・祐清(すけきよ)が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、「北条時政の館に匿われて事なきを得た」と伝えられている。


ここで藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)の地方豪族について説明して置く。

天武大王(てんむおおきみ・天皇)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の引きで不比等(ふひと)は右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、武智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成った。

藤原南家(ふじわらなんけ)とは、右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を祖とする家系で、武智麻呂(むちまろ)の邸宅が弟の藤原房前(ふじわらのふささき)の邸宅よりも南に位置した事がこの名の由来である。

藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)の祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)は北家流の藤原房前(ふじわらのふささき)とともに、元正帝朝から聖武帝朝にかけて長屋王(ながやのおう)と政権を争った。

七百二十九年(神亀六年)の長屋王の変により武智麻呂(むちまろ)は政権を掌握し、他の兄弟たちと共に聖武帝朝で政権(藤原四子政権)を主導したが、八年後の七百三十七年(天平九年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

武智麻呂(むちまろ)には四人の息子があり、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)は孝謙帝朝〜称徳帝朝にかけて、長男・藤原豊成(ふじわらのとよなり/右大臣)と次男・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/大師)が続いて大臣となった。

特に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/後に恵美押勝)は淳仁天皇を擁立すると、息子三人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を含む親子四人を公卿(参議)とするなど前代未聞の権力を独占したが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により失脚した。

次男・藤原仲麻呂の一族は滅んだものの、その後も藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)は桓武帝朝に於いて、武智麻呂(むちまろ)の長男・右大臣・藤原豊成(ふじわらのとよなり)の子・継縄(つぐただ)と、三男・乙麻呂(おとまろ)の子・是公(これきみ)が続いて右大臣となり、南家流は有力公家の勢力を維持した。

所が、八百七年(大同二年)の伊予親王の変(でっち上げの粛清)により、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)、藤原雄友(是公の子:大納言)・藤原乙叡(継縄の子:中納言)が失脚し、中央貴族としての南家流は衰退した。

しかし、藤原乙麻呂(右大臣・藤原豊成・三男)の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲(ふじわらのためのり)の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊藤氏、伊東氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏と言った平安末期から鎌倉期に頭角を現す藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)各氏の祖となった。

また平安中期以後は、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)に押され政治的に衰退する中、南家流(なんけりゅう)武智麻呂の四男・巨勢麻呂の子孫が中央貴族として生き残り、多くの学者公家を輩出した。

代表的な所で、平安の院政期に院近臣として勢威を得た藤原信西(ふじわらのしんぜい/通憲・みちのり)はその代表である。

また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった藤原範季(ふじわらののりすえ)の子孫からは堂上家である高倉家(南家流)を輩出している。

鎌足系流の藤原氏は、平安期までは本姓の藤原を称したが、その後の鎌倉時代以降なると姓の藤原ではなく家名(苗字に相当)である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名乗る公家と成り、公式文書以外では藤原姓は名乗らない形で家名をつなげて行く。


藤原南家流工藤氏は、八百五十二年(仁寿八年)当時の祖・藤原為憲(くどうためのり)の官職が「木工助」であった為「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。

その後、為憲流工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤氏に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤氏」と称し、この「伊豆工藤氏」の一部が後に「伊藤(伊東)氏」となった。

伊東祐親(いとうすけちか)は、平安時代末期の伊豆国の在地豪族で藤原南家為憲流工藤氏の流れを汲む伊東祐家の子で在ったが、父・祐家が早世すると、祖父・伊東家継は祐家の兄弟・工藤祐継(くどうすけつぐ)に本領の伊東荘を与え孫の祐親(すけちか)には河津荘を与えた。

本領を工藤祐継(くどうすけつぐ)に渡され伊東氏の総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親(すけちか)は、訴訟を起こして争い、祐継(すけつぐ)の死後にその子・工藤祐経(くどうすけつね)から伊東荘を奪った。

これを恨んだ祐経(すけつね)は祐親(すけちか)の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)を狩りの場で射殺し、これが後に祐親(すけちか)の孫が達(曾我祐成・時致)が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。


伊東祐親(いとうすけちか)は東国に於ける親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治の乱に敗れて伊豆に配流されて来た源頼朝の監視を任され、娘・八重姫の悲惨な恋の当事者と成ったのである。

祐親(すけちか)の暗殺の手を逃れ北条時政の館に匿われた源頼朝は、やがて時政の娘・正子と新たな恋を始めていた。

千百八十年(治承四年)に頼朝が伊豆目代・山木(平)判官兼隆を討って挙兵すると、祐親(すけちか)は大庭景親(おおばかげちか)らと協力して石橋山の戦いに後方から頼朝方の退路を絶ちこれを撃破する。

しかしやがて安房国で勢力を盛り返した頼朝に拠って逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられて娘婿の三浦義澄に預けられる。

危ない所を知らせた次男・祐清(すけきよ)への恩義も在り、三浦義澄による助命嘆願が功を奏して一時は頼朝に一命を赦された祐親(すけちか)だが、この助命を深く恥入り祐親(すけちか)は自害して果てた。

尚、近頃は現代の倫理観に当時を無理に当て嵌め、「伊東祐親(いとうすけちか)は極悪人」とする意見を持つ者もいるが、それを言うなら武力簒奪だろうが陰謀だろうが領地簒奪は武士の習いであり、殊更伊東祐親(いとうすけちか)を俎上に上げなくても武士は全員極悪人である。

恥ずかし気も無く、自分の正義感を満足させたいだけで「こうあるべき」と言う「べき論」を真っ先に掲げて思考を始める怪しげな綺麗事歴史論者の姿勢は、結果的に歴史を捻じ曲げてしまう。



石橋山合戦時に頼朝を助けた梶原景時(かじわらかげとき)は、後に鎌倉幕府で有力御家人に列せられている。

その梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての桓武平氏流の関東土着武将である。

梶原氏の出自は桓武平氏の一族で、親王任国制度の下で親王の代わりに実務を取り仕切る親王の血族・下級貴族として赴任し関東に土着した桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ)を祖とする坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族である。

つまり梶原氏は、源頼朝が旗揚げした時に平家方として石橋山の合戦で迎え撃った平氏流・大庭氏とは同族である。

坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ)を祖とする諸氏が八つの氏族に大別されていた為に「八平氏」と呼ばれる。

この「八平氏」、秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏、梶原氏、大庭氏、長尾氏などがその時々の各氏族の勢力により様々に入って数えられる。

梶原景時(かじわらかげとき)の曾祖父または従曾祖父に、後三年の役で源義家の下で戦い武勇を謳われた鎌倉景政(梶原氏の祖・景久の従兄弟)がいる。

梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人で在ったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

千百八十年(治承四年)、伊豆に流されていた源義朝の嫡男・源頼朝が北条時政の支援を得て挙兵し伊豆国目代山木兼隆を殺害して父・源義朝の地盤だった坂東(関東)を目指す。

頼朝・挙兵の報に、梶原景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破り、敗走した頼朝は山中に逃れる。

大庭景親は敗走した頼朝の追跡を続け山中をくまなく捜索するも、この時、土肥・椙山の「しとどの窟」に頼朝が隠れる在所を梶原景時は知るも「この山には人跡なし」と報じて景親らを別の山へ導き頼朝を救った。

やがて一旦逃れた安房国で体制を整えた源頼朝が、次第に合流して膨れ上がった関東の軍勢を引き連れて鎌倉めがけて攻め寄せる頃には、景時も手勢を率いて頼朝方に加わった。

この時点での梶原景時の不審な行動は、中央に不満を持った彼の一存だったのだろうか?

或いは密命を帯びた勘解由小路の手の者が、後白河法皇の意向を蜜書で伝えていたのかも知れない。


石橋山の合戦より源頼朝に従った土肥氏は、相模国土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町)に起こった氏族で、桓武平氏良文流中村宗平の次男・中村実平(土肥次郎と号した)が土肥郷を分領して土肥氏・土肥次郎実平を名乗ったのが始まりである。

湯河原の郷士・土肥次郎実平(どひじろうさねひら/土肥実平・どいさねひら)は、父・中村宗平や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部に於いて有力な武士団を形成していた。

源頼朝が伊豆の三島で挙兵した時、土肥次郎実平は一子・小早川弥太郎遠平と伴に中村一族を率いて頼朝の下に馳せ参じ、石橋山の合戦に敗れた頼朝を守って最後まで付き従い再起を図る安房にも同行して鎌倉幕府創立に目覚しい功績を挙げる。

その功績の為土肥氏は鎌倉御家人の中でも地位が高く、土肥郷に北に隣接する早川荘をも支配下に置くなど勢力を伸ばした。

実平の嫡男・小早川遠平も椙山までは共に居たが、伊豆山権現に逃れていた北条政子(の元に使者として訪れ、頼朝が安房へ逃れた事を伝えている。

土肥実平は、その後の平家追討を掲げた治承・寿永の乱では和田義盛と共に頼朝代官である範頼・義経の西国遠征軍の奉行として吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられ平家追討に功を挙げる。

鎌倉幕府成立後も、土肥実平は中央で有力な御家人として勤めつつ吉備三国の惣追捕使(守護)に留まり鎌倉下の中国地区の抑えの要を任じている。

実平の没年は不明なるも、「吾妻鏡」に於いては千百十九年頃の記述を最後に歴史の資料から姿を消している。

時が移り、千百九十九年(建久十年)の将軍・源頼朝の死去の後に一連の北条氏に拠る有力御家人の粛清が始まり、千二百十三年(建保元年)に和田合戦が勃発した時、小早川(土肥)惟平(遠平の子/実平の孫)が同族の土屋氏と伴に和田氏に与して戦った。

和田合戦は和田氏側の敗北に終わり、その戦いで惟平の二人の息子がこの合戦で討ち死にし、惟平も北条氏に捕縛されて斬首されるも、老いた遠平が辛うじて本領を維持するが土肥氏は次第に衰退して行った。

その本家衰退の一方で、小早川遠平の養子・景平は安芸国沼田荘地頭職を養父から譲られていたが、彼は安芸に下向して戦国期頃から表舞台に登場する毛利両川体制として有力郷士から戦国大名となる・安芸・小早川氏の祖となる。

その後、実平の子孫・土肥実綱が頭角を現して鎌倉将軍・九条頼嗣、執権の北条時頼、北条時宗に仕えて活躍し、土肥氏を再度歴史の表舞台に引き上げた。

この実綱の弟・土肥頼平が越中・土肥氏(地頭職として越中へ入り在地領主化)の祖となるのである。


鎌倉御家人・渋谷氏(しぶやし)は桓武平氏流秩父氏の一派で、後に現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市となる広域な一帯に勢力を張った一族である。

秩父重綱(平重綱)の弟・基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、その河崎冠者が相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫・重国の代に渋谷庄の司を称したのに始まる氏名乗りである。

渋谷氏の名ある人物としては、平安時代末期の渋谷重家(河崎重家)、源義朝に従って平治の乱に参戦し渋谷金王丸、源頼朝の治承(じしょう)のクーデターで平家方から頼朝の御家人になった豪傑・渋谷重国が知られる。

渋谷氏(しぶやし)の以前の本拠地は川崎で、平安期は川崎氏を名乗っていたが、河崎から現在の綾瀬市西部を流れる目久尻川河畔に開けた相模・渋谷荘(高座郡渋谷村)の荘司になったと考えられ、 この川崎重国(渋谷重国)が最初に渋谷氏を名乗ったものと推測できる。

渋谷重国は平治の乱では源義朝の陣に従うが、義朝が敗れて所領を失い陸奥へ逃れようとした佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助し、秀義を婿に迎えている。

千百八十年(治承四年)八月の源頼朝挙兵には、秀義(旧佐々木氏)の息子達には頼朝に従わせ、重国は頼朝から加勢を打診されるも平氏に対する旧恩から石橋山の戦いで平家方の大庭景親の軍に属す。

石橋山の戦いで頼朝が敗れると大庭景親が重国の下を訪れ、頼朝方に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう要請する。

重国は「彼らが旧恩の為に源氏の元に参じるのを止める理由はない。当方は要請に応じて外孫の佐々木義清を連れて石橋山に参じたのに、その功を考えず定綱らの妻子を捕らえよとの命を受けるのは本懐ではない」と拒否した為に、景親はそのまま戻っている。

夜になって佐々木兄弟は途中で行き会った僧・阿野全成(あのぜんじょう/頼朝異母弟)を伴って重国の館へ帰着し、重国は喜んで彼らを匿い手厚くもてなした。

その後の渋谷重国は、石橋山の戦いで敗れて逃れた安房の国で再起し勢力を強めて鎌倉入りする頼朝に臣従して所領を安堵され、子の高重と共に御家人となる。

小田急江ノ島線の駅名「高座渋谷」は、旧・高座郡渋谷村に由来し、渋谷氏の本貫地として渋谷と言う地名が在った事の名残を伝えている。

東京の渋谷区については武蔵国に移住した渋谷氏一族の支族があり、現在の東京都渋谷区一帯を領した事に始まっている。

つまり渋谷氏一族の支族が、谷盛七郷と呼ぶ渋谷・佐々木・赤坂・飯倉・麻布・一ツ木・今井を領し渋谷城を築いていた事から「渋谷区として現在に名が残った」とされる。

しかしもう一つ、以下の通り渋谷区の由緒には薩摩藩との縁(ゆかり)説が在る。

北条氏が三浦氏を破った「宝治元年の合戦」に拠る渋谷光重の戦功の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得た為、長男・重直を本領の相模国に留め、地頭として他の兄弟をそれぞれの地に下向させる。

この北薩摩に下向させ渋谷光重の息子達が、赴任先の地名を名字として守護職・島津氏につぐ薩摩の雄力豪族となり、戦国時代に至るまで渋谷五家(祁答院家・東郷家・鶴田家・入来院家・高城家)としての活動が確認できる。

尚、彼らは最初から東郷氏や入来院氏(いりきいんうじ)、祁答院氏(けどういんうじ)を称した訳けでなく、現在の姓に改姓した年は不明であるが、なかでも国衆として成長した入来院氏は、清色城(きよしきじょう)を本拠として渋谷五家一族では最有力な存在で在った。

渋谷五家一族は、寺尾・岡本・河内・山口などの諸氏家も分出して守護職・島津氏に対して勢力を保ち、南北朝内乱以降も向背し続けるも、永禄十二年に薩摩・大隅国衆はほぼ平定される。

つまり薩摩・大隅国衆の中に鎌倉時代中期以降に薩摩に移住した渋谷氏の一族が在り、薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏を名乗って国人領主となり、後年いずれも薩摩藩士なった。

その関わりからか、江戸期に現在の渋谷川左岸に薩摩藩地が在った事実から武蔵国渋谷氏も薩摩藩に組み入れられて薩摩藩渋谷藩地が残り、現在の渋谷区の由緒とも言われている。

尚、渋谷五家の一・薩摩東郷氏から明治新政府の海軍提督・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が出ている。

また東郷氏の分流の白浜氏の一族は江戸時代に渋谷氏に復し、この白浜氏一族の渋谷貫臣の娘は薩摩藩々主・島津宗信の生母である。


初期鎌倉幕府の有力後家人に和田氏が在る。

和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里(現・神奈川県三浦市初声町和田)に所領が在った事から和田を苗字とする。

千百八十年(治承四年)、源頼朝が平家打倒の挙兵をすると三浦氏一族は頼朝に味方する事を決め、頼朝と合流すべく三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠の三浦半島を出立する。

この三浦勢の中に三浦流・和田義盛と弟の小次郎義茂もこの軍勢に参加している。

絶好の機会に、和田義盛には気合が入っていた。

勿論、和田義盛に義心が無かった訳ではないが、当然「出世のチャンス」と言う打算も多かった。

その打算が在ったからこそ坂東(関東)の豪族達は、三浦氏流にしても工藤氏流にしても身内でありながら平家方と頼朝方に分かれて戦う選択をした。

出世とは世に出る事である。
世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。

所が折悪しく、丸子川(酒匂川/河口は現・小田原市)が大雨の増水で三浦勢は渡河出来ず、川の流量が下がるのを待っている間に石橋山の戦いで平家方の大庭景親が頼朝軍を撃破してしまった。

敗走した源頼朝は行方知れずになり、三浦勢は止む無く本拠地・三浦半島衣笠城へ兵を返す帰路、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦となった。

この合戦、武勇にはやる和田義盛が畠山の陣の前で名乗りをあげて挑発してしまい、合戦に成り掛かる。

しかし双方に縁者も多く、例えば畠山勢を率いる畠山重忠にとって相手の三浦氏当主・三浦義明は母方の祖父などの事から一時和平の方向に向かう所だった。

所が、事情を知らない義盛の弟・小次郎義茂が畠山の陣に突入して合戦になってしまい、双方戦死者を出したと「源平盛衰記」には記されている。

その二日後、畠山重忠は他の平家方と合わせて数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲う。

兵力に差がある上に前の合戦で疲労していた三浦一族は止む無く城を捨てて海上へ逃れ、海上で石橋山から逃れて来た北条時政(頼朝の舅)らと合流する。

和田義盛ら三浦一族は、三日後に相模湾を渡って来た盟主・頼朝を安房国平北郡猟島で迎えた。

この源頼朝の安房上陸に関しては、和田義盛の和田氏に安房国・和田御厨(わだみくりや)と呼ぶ所領が在った事がその要因と想像されるが、和田氏の本拠地が相模国三浦郡和田の里か、この安房国・和田御厨(わだみくりや)はまだ歴史家の意見が分かれている。

安房に集結した頼朝方の残党は再挙を図り、有力な千葉常胤には安達盛長が上総広常には義盛が使者と成るなど各地の武士に参陣を命じる。

千葉常胤は直ちに挙兵して頼朝を迎えたが上総広常は中々応じず、頼朝が安房を発して房総半島を北上し千葉氏らを加えて隅田川に達した時、広常は漸く二万騎の大軍を率いて漸く参じ、「頼朝の器量を計った上で心服した」と伝えられている。

勿論、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、坂東八平氏を始めとする坂東(関東)武者にも届いていた。

そして北条正子が睨んだ通り、源氏の棟梁・源頼朝は平家追討の旗印として威力が在った。

頼朝方に参じる坂東(関東)武士が増えて来ると、一時は平家方に就き由比ヶ浜で和田義盛ら三浦一族と戦った畠山重忠も翻意して頼朝方に参じ、旗揚げから僅か二ヶ月余りで五万騎の大軍を率いた頼朝は源氏の本拠・鎌倉に入った。


三浦一族と合戦に及んだ畠山氏は桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ/村岡良文)を祖とする坂東八平氏の一つ秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領し、秩父氏の同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。

古くは源義家の頃から、畠山氏も多くの東国武士と同様に源氏の家人と成って仕えていた。

しかし平治の乱で源義朝が敗死すると、父の畠山重能は平家に従って二十年に渡り忠実な家人として仕えた。

何も無ければそれなりの事だったが、千百八十年、伊豆の北条時政の下に流人として在った源義朝の継子である三男・源頼朝が、北条正子の婚礼騒ぎに乗じて以仁王の令旨を奉じ挙兵する。

この源頼朝の挙兵に際して、畠山重忠(はたけやましげただ)は当初敵対する。

この源頼朝の挙兵の時は、父・畠山重能が折悪しく大番役で京に上っていた為、領地に在った十七歳の重忠が一族を率いて対処する事になり、平家方として頼朝討伐に向う。

その畠山重忠の軍勢が戦場へ到達する前に、源頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走していた。

相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で、丸子川(酒匂川)が大雨の増水で渡河出来ずに引き返して来た和田義盛ら三浦勢と遭遇し、合戦となり双方に死者を出して兵を引いた。

その後、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した畠山重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、多勢に無勢と成った三浦一族は城を捨てて海路安房を目指して逃亡するも、重忠は母方の祖父で一人城に残った老齢の三浦氏当主・三浦義明を討ち取った。

源頼朝は逃れた安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて二万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に軍勢を進めて来た。

双方の判断で敵味方に分かれた為に和田義盛(わだよしもり)と合戦に及び、三浦一族の当主・三浦義明を討ち果たす仕儀と成った畠山重忠は、その後の顛末で平家方に組する事の雲行きの怪しさを実感する。

畠山重忠は決断し、河越重頼、江戸重長とともに長井の渡しで先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を帰参し帰伏して頼朝を喜ばせ、重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受ける事なく鎌倉に入った。

畠山重忠は以後頼朝に臣従し、治承・寿永の乱では知勇兼備の武将として常に先陣を務めて活躍し、武勇の誉れ高くその清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され幕府創業の功臣として鎌倉幕府内で重きを為す。

源頼朝勢の追討戦に拠る平家滅亡後、畠山重忠は御家人に列して鎌倉幕府の要人となり鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳くなどの栄誉を得ている。

また重忠は、この頃に将軍・頼朝の舅にあたる北条時政の娘を妻に迎えている。

しかし畠山重忠は、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略に拠って謀反の疑いをかけられ、詳細は後でのべるが止む負えず起こした「畠山重忠の乱」で一族とともに滅ぼされている。

その後源頼朝方は、平維盛率いる平家の追討軍を駿河国・富士川の戦いで撃破し、関東の固めに入った頼朝方は常陸国の佐竹氏を討ち、和田義盛と上総広常は佐竹秀義を生け捕りにした。

鎌倉へ凱旋した和田義盛に、関東統治の為にの諸機関を設置した頼朝が義盛の望み通りに侍所別当を任じ、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成するとその入御の儀式に際して義盛は居並ぶ御家人の最前に立っ名誉も与えられている。

所領獲得の執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の、怖気付(おじけつ)いては居られない生き様だった。


鎌倉幕府が成立すると、頼朝方に付いた三浦義澄(みうらよしずみ)は鎌倉幕府の有力御家人となり、頼朝が死去した後には二代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。

頼朝が死去の翌年、義澄(よしずみ)は梶原景時の変で梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた僅か三日後に病没している。



憶測するに、頼朝は余り武将には向かない臆病者で、緒戦の「石橋山の合戦」の敗北でよほど恐い思いをしたのか以後の戦は全て弟達に任せて最後まで自ら戦には出なかった。

京都に上洛したのも、完全に安全を確保した後である。

頼朝が後の世まで人気が出ないのは、この武将にあるまじき臆病さを「嫌われていた」からではないか?

勿論、武力だけが力ではない。

古来より、知力に基ついた交渉力も立派な力だった。

それを先の大戦では、「武士道の国」と胸を張り、武力に頼って滅びの道を突き進んだ。

考えて見れば昭和の大戦は、古(いにしえ)の奇跡、誓約(うけい)の知恵を持った祖先にも劣る、独り善がりの判断だったのである。


世の中不思議なもので、気弱で臆病な者が最後に笑うケースが目立つ。

臆病は慎重に通じ、源頼朝などの戦はその典型で、弟二人に指揮を取らせて、自分は戦場に出て来なかった。

平清盛流平家全盛の世である。

戦場に出ない源頼朝だったが、その劣勢を頼朝は調伏と言う政治力で平家討伐の見方を集め見事に引っくり返した。

実はこの源頼朝は手紙魔で、味方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

つまり信頼の獲得には、いかに「コミニケーションが大事」と言う事で、努力を惜しんで見方は増えないのである。

後の徳川家康もこれに近く、長い事、織田信長の属将みたいに従属して、最後に天下を取ったが、戦に於いてはとても勇猛な武将とは言い難く、配下の武将に助けられた口である。

現在に於いても、実は「行け行けドンドン」の強引な手法は長続きせず、最後に笑うのは向上心を兼ね備えた慎重派である。


後白河法皇にすれば頼朝が武勇に優れないのは好都合で、ともかく平家の力を削ぎさえすれば良い。

元々、相模から安房に掛けての関東(坂東・東)と言う土地は、以前は父・義朝の地盤で、源平を問わず所縁の豪族が多かったのだ。

しかし、頼朝に呼応して旗揚げに参加した安房の豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤は、紛れも無き桓武平氏の一門である。

彼らは、後に鎌倉幕府の有力御家人として政権中枢に座る事になる。

その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。

つまり、時代と血筋と地の利を得たのが頼朝であった。

それに引き換え、むしろ常陸の国の河内源氏の佐竹氏など、八幡太郎(源)義家の弟、義光の流なれど、頼朝に加勢せず、頼朝上洛の枷になったくらいだ。

この線引きの前提にあったのが、平将門の新皇事件である。

関東の平氏は両派に分かれて戦い、将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士・国人領主として関東に土着した平氏の武士達は、源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での「前九年の役」や「後三年の役」で、源氏の棟梁、源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、長期に生死を共にして恩賞を受け取り、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って、平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。

初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かにうまい。

しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


頼朝が「石橋山の合戦」の敗北、関東での再起などでもたついている間に、木曾で旗揚げした源義仲が平家追討を掲げて京の都に進撃する。

頼朝に先んじて、河内源氏の傍流・「木曽義仲」が、以仁王の令旨(りょうじ)に応じて旗揚げし、平家を追い落として京への上洛に成功する。平清盛病没の、約二年後の事である。

清盛の死で平家軍団の求心力が落ち、しかも平家の公家化が進んで軟弱に成っていたのだ。

その軟弱さは、この後記述する富士川の合戦で証明できる。

頼朝を追討する為に東へ行軍して、富士川に対峙した時、飛び立つ水鳥の羽音を大群と勘違い、驚いて逃げ帰る失態を演じている。

木曽(源)義仲についても、倒した頼朝側の後の情報操作で、田舎者の粗野な男にされているが、正しい評価をして欲しい。

木曽(源)義仲は文武に厚く、肉親の情や回りの者への情けもあった。


木曽次郎・源義仲は、頼朝の従弟(いとこ)に当たる。

この時代にしては大柄な体格で見るからに無骨者で強そうだったが、心は純朴な田舎育ちの好青年だった。

木曽義仲は、源為義の孫にあたる源義賢の子で、幼名を「駒王丸」と言った。

武蔵(むさし・今の埼玉県)の国で生まれたが、父の死で落ち延び、木曽(長野県)で育ったので、「木曽(源)義仲」と言う。

義仲が信州(信濃の国)木曽で旗揚げしたのも、勝手にした訳ではない。

以仁王(もちひとおう)の平家追討の命令書、令旨(りょうじ)が届いたからである。


源義経・家臣団に関して、帝(後白河天皇)の手に拠る・勘解由小路党修験黒幕説に付いては多くの状況証拠が存在するが、源義経同様に同じ源氏流の木曽(源)義仲にも、勿論そうした情況証拠が存在する。

源頼朝の命で源範頼・源義経らが京に攻め上るまでにいち早く行動を起こし、平家を都から追い落として都を制圧した木曽(源)義仲にも、実は後白河天皇の手が伸びて、勘解由小路党の仁科大助(戸隠大助)と言う信州(長野県)の戸隠修験武者が軍師として付いていた。

木曽義仲に仕えた仁科大助、通称戸隠大助は修験武術の達人で、平安時代末期に信州(長野県)戸隠山で修験道を学び後に戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術と呼ばれるの修験武術の始祖(異説もある)と伝えられる人物である。

戸隠は、「天岩戸が空を飛び、信州のこの地に落ちた」と言う御多聞に漏れない伝説から付けられた名で、修験信仰は盛んだった。
つまり信州(長野県)は戸隠修験道の本拠地である。

真贋は定かでないが、その仁科大助(戸隠大助)が、主(あるじ)とした木曽義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、「伊賀流忍術をも取り入れて完成させた」とされる戸隠修験武術が、「戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術」と呼ばれる「修験武術の流派のひとつに成った」と伝承されているのである。

この事からして、世間で使われている「忍術」なる名称は、修験者が編み出し磨きを掛けた「修験武術の事である」と判る。

木曽義仲の旗揚げの直接的切欠は、皇子・以仁王の令旨が届いたからであるが、こう言う木曽義仲と戸隠大助との経緯を辿ると、義仲の成育時点から勘解由小路党を介して帝(後白河天皇)の手が廻って居た事は容易に想像が着く。


挙兵した以仁王(もちひとおう)が平家に討たれ、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護した義仲が、木曽で旗揚げする。

木曽義仲が旗揚げすると、平家は、清盛の息子平維盛(たいらのこれもり)と甥の平通盛(たいらのみちもり)を大将に、追討軍十万の大軍勢を編成、越前で両軍は激突する。

しかし、山間部の戦いに慣れた義仲軍に、贅沢な都生活で軟弱公家化していた平氏軍は全く歯が立たず、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗退する。

この山岳戦、後白河上皇の命を受けた勘解由小路吉次の手の者が支援していれば、彼らは山になれた修験山伏で、結果は最初から見えていた。

その勢いで義仲軍は平氏の大軍を破って押し進み二ヵ月後には京に到達、上洛する。

義仲もまた、義経張りの戦上手(いくさじょうず)で、平家は持ち堪える事が出来ず京の都を明け渡してしまう。

この時平家は、都落ちに際して安徳天皇は勿論、後白河上皇など、朝廷諸共を奉じてあくまでも「正規の政権の体裁を整えよう」と謀った。

しかし、勘解由小路党の手の者により、この「平氏の都落ち」から身を隠して逃れた後白河上皇は、「平氏を賊軍」と宣言してしまう。

馴染みの、天皇側と上皇側の二手に分かれての争いの構図が、建前上またも出来上がったのだ。

この後白河上皇(法王)が、平家の都落ちから逃れられたのには、皇統直属の影の組織、勘解由小路党が活躍した。

彼ら勘解由小路党は、平家を嫌っていた。

平家の後白河上皇(法王)に対する考え方が赦せなかったのだ。

千百八十三年(寿永二年)夏、平家が木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。

その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母で在った藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)で在った藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎え、伊子(いし)は通親の子・曹洞宗開祖・道元を為している。

これに拠って土御門(源)通親は、新帝・後鳥羽天皇の後見人の地位を手に入れる一方で法皇の近臣としての立場を確立し、新元号「元暦」選定などで、平家や義仲に拠って失墜させられた後白河院政の再建を担う事になった。

後鳥羽天皇は後白河法皇の孫で高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘七条院殖子で、安徳天皇とは異母弟になる。


逃れた後白河上皇(法王)は進攻して来た木曾義仲に保護される。

木曽義仲は、京の町で、朝日将軍と呼ばれ、一時後白河上皇から「征夷大将軍」の位も授かっている。

しかし悲劇はすぐにやって来る。

遠く関東に在って義仲の都制圧成功にあせったのが、頼朝と政子の野望カップルである。

このままでは従弟の義仲に、良い所を持って行かれてしまう。

処が、真に頼朝に都合よく、絶好の機会が訪れる。

後白河上皇の存在である。

「院政復活」をもくろむ後白河上皇は、平清盛の孫である安徳天皇を廃し、自分の意思で次期天皇を決めようとして擁立する次期天皇の人選で義仲と意見が対立する。

義仲は純真な発想で、令旨を発して自分にこのチャンスを作ってくれた、「亡き以仁王(もちひとおう)の遺児北陸宮(ほくりくのみや)こそ、次期天皇にふさわしい」と思ったのだ。

しかし、後白河上皇は権力の集中を危ぶみ、義仲将軍主導の天皇選びを嫌って「ウン」とは言わない。

結局、義仲が折れるのだが、この一件で、後白河上皇は義仲を嫌ってしまう。

勘解由小路党の機能が発揮され、後白河上皇の意向が鎌倉に伝えられ、出遅れた頼朝は「しめた。」と小躍りをする。

ここで後白河上皇と鎌倉の源頼朝、両者の利害が一致、一つの「謀略的筋書き」が出来上がった。

義仲が後白河上皇の平家打倒の命を受け京を離れた隙に、源範頼、義経の頼朝軍に京を占拠され、見事「逆賊」にされてしまった。

計算された陰謀である。

義仲は、源氏の同士討ちを嫌い、何度も頼朝軍に恭順の意を表しているが、頼朝は聞き入れなかった。

それで、頼朝夫婦の「従弟殺し」が始まるのだ。


巴御前(ともえごぜん)は、最初に平家を都から追い落として朝日将軍と呼ばれれた木曾(源)義仲の愛妾である。

木曾(源)義仲は、幼名を駒王丸と言い、乳母の嫁ぎ先である木曽の中原兼遠(かねとう)の処で、平家討伐の旗揚げまで育った。

兼遠の三人の男の子と、一人の娘とは兄弟のように育っている。

娘の「巴(ともえ)」とは成長して恋仲になり、子供(長男義高)も設けるが、巴の父「中原兼遠」は大変な律儀者で、娘「巴」の義仲正妻の座を遠慮、あくまでも娘を義仲の妾(側室)とし、義仲の正妻には源氏の血を引く娘を据えている。

現代の婚姻制度と勘違いして貰っては困るが、例え正式に木曽(源)義仲の婦人と成ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから巴御前(ともえごぜん)の名乗りは中原巴(なかはらともえ)である。

中原兼遠は、野望みなぎる政子の父・北条時政とは対照的に控え目な人物かも知れない。


中原兼遠の先祖は、古代まで遡れ名家と表現できる古代豪族・中原氏流である。

豪族・中原氏流は、安寧大王(あんねいおうきみ/第三代天皇)の第三皇子である磯城津彦命(しきつひこのみこと)が源流と言われているが確証はない。

しかし古代の豪族として中原氏流は、大和朝廷に「一定の勢力を築いて居た」と考えられる。

はじめ磯城津彦命(しきつひこのみこと)の子孫は、十市氏(といちうじ)の十市県主(といちあがたぬし)から十市首(といちのおびと)・十市宿禰(といちすくね)と名を替えて行く。

九百七十一年(天禄二年)に十市有象・以忠が中原宿禰(なかはらすくね)姓に改め、九百七十四年(天延二年)に中原朝臣(なかはらのあそみ)姓を賜った事に始まった。

また、大和の国衆・十市氏が中原氏を称して居て、中原氏は十市県主(といちあがたぬし)に由来するとも言える。

古代豪族・中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記・少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。

また中原氏は、東市正(ひがしのいちのかみ)を世襲し京都の行政に深く携わって公家・押小路家を名乗った。

中原氏嫡流の押小路家は地下家筆頭の公家として存続し、明治時代には華族に列せられ、男爵となった。


平安末期、信濃国木曾地方に本拠を置く豪族で、「木曾中三」を名乗りとする中原兼遠(なかはらのかねとお)が木曾義仲(源義仲)の平家討伐の旗揚げに参加している。

千百五十五年(久寿二年)の大蔵合戦(源氏・秩父氏の同族間による争い)で源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸(義仲)を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育する。

兼遠(かねとお)の妻が木曾義仲(源義仲)の乳母だった関係で平家から義仲を匿い育てた縁で娘の巴御前(ともえごぜん)を義仲の妾に付けて居る。

駒王丸(義仲)は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒令旨(りょうじ)に呼応する。

治承・寿永の内乱に於いて平家を都から追い遣り、その後源頼朝の差し向けた源範頼(みなもとのりより)・源義経(みなもとのよしつね)等と戦う。

中世には中原親能(なかはらのちかよし)のように鎌倉幕府と関係を持つ者も現れた。

また、中原親能(なかはらのちかよし)の弟が鎌倉幕府・源頼朝の側近と成った中原広元(大江広元/おおえのひろもと)である。

親能(ちかよし)の養子となった中原師員(なかはらもろかず)の子孫は摂津氏を称し、鎌倉・室町の両幕府の実務面で活躍した。

樋口氏は平安時代末期に、中原兼遠の次男・中原兼光が信濃国筑摩郡樋口谷(または伊那郡樋口村)を領した事から、樋口兼光と名乗った事が発祥である。

兼光は弟・今井兼平らとともに木曾義仲の重臣として、後世に義仲四天王の一人に数えられるほどに活躍した。


時代が下り、戦国時代には中原兼遠(なかはらのかねとお)の子孫は越後国に移り、惣右衛門兼豊の代には上田長尾家の長尾政景、ついで長尾上杉家の上杉謙信のに仕えていた。

兼豊の長男・与六兼続は婿養子として越後の名族・直江家を継ぎ、上杉家の家老となり主君・上杉景勝の片腕として主を支え続けた。

なお本家の家督は三男・与八秀兼が継ぎ、その子孫は江戸時代を通して米沢藩士として存続した。

江戸時代についての樋口氏は米沢藩の平侍約七十戸中にあり、藩内席次は第四十二位位、石高は二百五十石だった。


さて、物語を本筋に戻すが、妾の立場では在ったが義仲を慕う「巴」は女性の身で武具に身を包み、父や男兄弟と伴に義仲の旗揚げに参戦した。

巴の参戦はけして形式的なものではなく、戦闘で「立派に戦果を上げる働きをした」と言われている。

但しこの巴御前(ともえごぜん)の女武者としての働きは「後の創作だ」と言う意見が強く、精々武者姿で義仲に同行したくらいの事ではないか。

山育ちでがさつだったが、義仲への愛は本物で有る。

純粋に愛に生きた女武者「巴御前」は、今も世の語り草になっている。

宇治川の合戦で、義経軍に敗れた義仲は、北陸方面に敗走するが、嫌がるのを説得して「巴」を逃がし、琵琶湖畔の粟津で哀れ討ち死にする。

現在と比べて選択肢は狭いが、男女の事は当事者の問題で、例え妾であろうとも、「巴御前」の「夢見る白馬の騎士」は、正しく幼馴染の木曽次郎・源義仲だったのである。

「巴御前」は命を永らえ、義仲の菩提を弔う生涯を送った。

義仲挙兵から、わずか一年後の事だった。

木曽義仲については、後の後白河上皇の名誉や鎌倉幕府の情報操作で、「上洛後、京で乱暴狼藉を働いた」等と意図的に悪い噂を流し、討たれて当然のように天下に流布された。

しかし純粋な好青年が、本当の義仲の実像で有る。

その後も芝居などの台本で、興行的に、悲劇の名将「源義経」を美化する為に悪役に仕立てられ、真実が歪められて来た。

それらを、素直にそのまま、「こうだった」と、義仲像を記述する文章も数多い。

時の権力者の都合で、情報操作はいつの時代にも存在する。

情報戦略は、勘解由小路吉次が率いる、「影」の最も得意とする処である。



平安末期から鎌倉初期にかけての花形スターは何と言っても源義経である。

この源義経が幼少の牛若丸(源義経)の頃から、「後白河院(上皇)の手の中に在った」と言う事を貴方は信じるか?

いや、それ以前の母の代から後白河天皇の命に拠る「皇統を守る裏陰陽寮・勘解由小路党の関与が在った」とは思わないか。

源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。

源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。

兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。
,br> 鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。
,br> 本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。
,br> しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。

義経の母常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。

つまり出自が定かでないこの美女が、裏陰陽寮・勘解由小路党の「女諜報員では無い」と言う確証も無いのである。

その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。

所が、「平治の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。

この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。

そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。

平清盛にすれば、常盤御前は命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。

それで、助命を聞き入れ、常盤御前に触手を伸ばしてしまった。

その清盛の煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。

その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に戦利品として母を抱いた男が平清盛だったのである。

一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事では在った。

その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。

領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば正確な武門に生きる者の生活の正しい表現だった。

この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は、一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え、何年もかかる事が多かった。

だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。

その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。


伊勢(三郎)義盛は、父・勘解由小路吉次にある事を命じられていた。

「三郎、此度は鞍馬山の遮那王(しゃなおう・義経)を帝の為に武将としてお育てせよ。」

「まだ幼い遮那王(しゃなおう)様ですか?」

「頼朝様や範頼様ではもうご自分の意見が出来上がっている。それに遮那王なれば我らとの縁(えにし)も深い。」

「縁(えにし)とは?」

「遮那王の母御である常盤(ときわ)は、元々我らが手の白拍子じゃが、中宮九条院様の雑仕女(ぞうしめ)に参内させておった。」

「なるほど、それ故常盤様は身体を張った御助命を・・・」

得心したように、伊勢義盛が頷いた。

勘解由小路党の女人・白拍子ならさほどの事は造作もなくやり応せるが道理である。

「われら、選り優(すぐ)りの白拍子を帝のお傍にも平家にも源家にも潜ませて居るわ。」

父・勘解由小路吉次は、自らが構築した白拍子の女体ネットワークに自信を持ち、不適に笑っていた。

「父上、常盤様との縁(えにし)の経緯(いきさつ)が判り申した。ならば、仰せの通りに成して見せまする。」

「武蔵坊(弁慶)を付ける故、素直に、真っ直ぐに・・・な。」
「委細承知。」

伊勢(三郎)義盛は源義経が鞍馬山で剣の修行をしていた牛若丸・遮那王の頃から武蔵坊弁慶と共に義経に臣従し、最初から最後まで行動を共にしている。


戦いに敗れた総大将の子が生き残る手段の一つに仏門に入ると言う慣わしが在った。

幼い牛若丸(義経)は、父親が誰か知らぬまま鞍馬寺に預けられたのである。

しかし僧侶に成るべく準備をしていた牛若丸(義経)は、鞍馬寺で何者かに自分の身の上(身分)を教えられ、平家打倒を誓って剣の修行を始める。

何者かが勘解由小路の手の者で有ったのは言うまでも無い。

この修行した剣の流儀は「京八流の剣」と言われ、いずれも修験道の武術より興っている。

この頃、弁慶(武蔵坊)など数人の部下を得ているが、五条大橋の「牛若、弁慶」の話は、興行的には面白いが、「眉唾ではないか」と思われる。

牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いの場とされる京・五条橋は、当時まだ存在しなかった。

従って、出会いシーン「京・五条橋の下り」は後世の創作である。

牛若丸(源義経)と弁慶の「五条橋に於ける出会い」の下り以外の有名な脚色・創作例は、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。

義経に集まった郎党は、やはり源氏の血筋に「魅力を感じて集まって来た」と言うのが、現実的である。


実は、この源義経(牛若丸)をサポートして世に送りだした修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方」の御意志が働いていた。

「平治の乱」で源氏と言う抑止力を失った後白河上皇(法皇)が、源氏復興を画策していたのだ。

源義経(牛若丸)の少年期は、後白河上皇(法皇)と平清盛とのせめぎ合いの中で「治承のクーデター」が起こり、朝廷は飾り物に棚上げされ、権力は完全に平家が手中にしてしまっていた時代だった。

源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。

その担ぎ出した男達の素性が、或る「やんごとなき方」の命を帯びた修験山伏・剣術熟達の一団だったのである。

京八流は、盾を使わない剣法として修験者から生まれ、様々に考案されて発展した。

これは、歴史的に世界でも珍しい剣法(術)と言われ、「相打ち確率が高い」と言われるが、その発祥の経緯でたまたま相手が未開で有った為に、「剣を持たない」と言う環境から始まっている。

それが精神的におかしな発展を遂げ、卑怯な振る舞いはしない剣術の精神になったが、初期蝦夷(えみし)討伐の時点では相手に「まともな剣は無かった」と考えると充分に卑怯だった筈だ。


傍目には凄い事でも、当事者にとっては「日常の事」と言う事は常に存在する。

つまり、人の能力はかなりの可能性を秘めていて、その発揮の仕方がそれぞれ個別に違うから、自分が成せぬ事に人々は驚嘆する。

そうした超人的技が、修練に拠ってある程度は成し得るから、術者が生まれて来たのだ。

その練達の各分野の術者は、全てわが国では陰陽修験の術に端を発しているのである。

わが国では、精神が伴う事を「道(どう)」と表現する。

「術」から始まったものが「道」にと発展して、剣術が武士道になった。

後に「道」となる弓術も、氏と武の繋がりが深く、「弓取り」は武士を意味し、神事の破魔矢(はまや)・流鏑馬(やぶさめ)などに弓矢が使用されている。

また、「道」は、人に指針を伝える為にある。

奈良時代を起源とする流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代には宮廷行事として盛んに行なわれたが、武家時代に入ると兵法の修練の一つとして取り入れられ、特に、鎌倉幕府の奨励により盛んに成った。

破魔矢(はまや)の元は覇磨矢で競技(うでためし)の意味だが、縁起物の神事にに使われ破魔(はま)なった。

つまり、「道」は、人に指針を伝えと同時に精神的な拠り所の意味合いもある。

だとするなら性行為には精神が伴い、指針が示されて当然でなければならない。

しかしながら、そうした概念が性に関しては「臭い物には蓋」式に、全て否定されている。


武蔵坊弁慶は、源義経に付き従う怪力無双の僧兵として広く知られている。

兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

この牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いが京・五条橋と言うのは後の藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の「矢作橋の出会い」と同様に後の作家の創作で、高貴な方の謀略に拠る出遭いの方が遥かに信憑性が高いのである。

武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問」説も浮かんでいる。

つまり武蔵坊弁慶は、最澄が興した、天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「修験者(山伏)だ」と言われている。

これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を彼らが影で支えていたのではないだろうか。

義経主従の主たる人物の半分、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢(三郎)義盛、駿河(次郎)清重、熊野喜三太、鷲尾(三郎)経春らの正体は、「修験山伏関係」と考えて不思議は無い。

強力有能な軍事顧問団であるから、恐らく勘解由小路・吉次の主力の一部だったのではないだろうか。

智謀と怪力で「主君・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山したが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。

牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いの場とされる京・五条橋は、当時まだ存在しなかった。

従って、出会いシーン「京・五条橋の下り」は後世の創作である。

弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなど凡(およ)そ創作劇的である。

また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については、都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。

本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。

同様に、伊勢三郎義盛の出自が明らかでないのは、ひとえにその出自を秘す陰陽修験の諜報組織に伊勢義盛が関わって居たからである。

いずれにしても謎の多い人物で「義経記」では、義盛は伊勢国二見郷(浦)の人で「伊勢の度会義連(わたらいよしつら)」と言う「伊勢神宮の神主の子である」とされ、また三重郡司川島二郎俊盛の子として「三重郡福村(現菰野町福村)で生まれた」とも伝えられて居る。

三重郡司(みえ・こおりつかさ)の川島家と言い、伊勢神宮の神主・度会家(わたらいけ)と言い、実は借り物の系図と言う事も伊勢三郎義盛の場合は大いに有る。

伊勢(三郎)義盛は、幼少時に伊賀の中井・某の下で養育されていた。

その後、若い頃に度会郡二見郷に流落し、江村に在住して伊勢江三郎を名乗り、武芸全般の修行をしている。

しかし、何しろ修験の草(影人)の事である。

修行時代の若い頃から、居所も名前もその都度身元を気取られないように転々と変え鈴鹿山に潜伏して一時、焼下小六を称していた。

その後焼下小六は上野国荒蒔郷に潜居して居たが、父・吉次の依頼(命令)で源義経の鞍馬から奥州下向に際し家人として加わり、伊勢(三郎)義盛を名乗っている。

これは余談だが、後の南北朝並立時代にこの伊勢の度会(わたらい)郡所縁の伊勢大神宮の神主・渡会氏が南朝方後醍醐帝にお味方する場面が存在する。

或いはこの度会氏が伊勢(三郎)義盛と関わりがある「勘解由小路所縁の家柄」と考える事に無理が無いかも知れない。

伊勢(三郎)義盛は、勘解由小路(賀茂)吉次の三男である。

こうした歴史物語に登場する人物は、決まって数奇な運命に翻弄される事になる。

源義経を支えて、脇役ながら大儀に生きた伊勢(三郎)義盛もその一人だった。

吉次は帝の命を受け、遮那王(しゃなおう・義経)を平家打倒の旗印にする事を画策していた。

それで宛てになる三男の義盛を相談相手につけて、逐一義経身辺の動静の報告も受けていた。

義経がどこに在っても、勘解由小路の修験山伏のネットワークは確実に吉次に報告をもたらす。

伝えられる伊勢(三郎)義盛の出自は、「伊勢神宮と関わりのある豪族の家柄だ」と言われる伊勢大神宮の神主だった。

伊勢大神宮は皇統を守る御神域で祭神は天照大神、代々皇統に繋がる者が神主を勤めている。

すると、勘解由小路吉次の表向きの顔は、「伊勢大神宮の神主を兼業する豪族」と言う事である。

これは先祖代々勘解由小路家の次男三男の天下り先に伊勢大神宮の神主職が確保されていたからで、兄が病死する前に吉次は此処で修行をしていた。

伊勢(三郎)義盛は人懐こく、誰にも好かれる天性の輝きを持ち合わせていて、義経主従の中では元気印のムードメーカーを引受けていた。

しかしその明るさとは裏腹に、武術は表裏に関わらず達人だった。

彼の活躍が「義経記」など後の扱いが地味なのは、(三郎)義盛が生まれ持っての「裏影人・勘解由小路」の血筋だからで、活躍の伝承が地味なのは仕方が無い。

派手好みの世間は、どうしても義経と弁慶の話しに終始してしまう。

弁慶は比叡山延暦寺の修験山伏だが、「熊野の別当(熊野大社の神宮寺の総監督者)の息子」と言われている。

常陸坊海尊は、「近江の国の園城寺(三井寺)の僧だった」と言われている。

いずれにしても義経には、密かに修験山伏の幹部が付いていた事になる。

彼らの狙いは、義経に武将としての素養を身に着けさせ、成長を待つ事だった。

我輩がワクワクする魅力を感じるのは、権力の野望に固執せず純粋な信念の美学を生き甲斐に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的な生き方をしたのがこの男達、伊勢(三郎)義盛、源義経、武蔵坊弁慶の鞍馬山トリオである。

私欲を持たない「滅びの美学」を持つ男は魅力的だ。

まぁ、利己的な世間に在って希少価値だからで、その危な気な香りに心惑わされる女性も結構多い。


遮那王(牛若丸・源義経)は、預けられて五年後に鞍馬山を降り監視の目を逃れて京を脱出、平家の監視から行方をくらました。

義経十六歳の時であった。

十六歳に成っていた遮那王(牛若丸・源義経)は一見女子と見紛う優男ではあったが、度胸もあり剣の腕も立つ魅力的な若者に育っていた。

奥州街道を、若き日の遮那王(牛若丸・源義経)を衛して武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)や伊勢義盛(いせよしもり)、亀井六郎など十騎ほどの騎馬の一団が奥州藤原氏の本拠・平泉を目指して進んでいる。

京を脱出した義経は、お膳立てを得て東北の大豪族・奥州藤原氏の頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら)を頼った。

ちょうど平清盛が太政大臣に成って平家全盛の時代であるが、幸い奥羽六ヵ国の雄・奥州藤原家(昔の清原家)は別格で、平氏としても影響が及び難かった。

藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきでである。

少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、勘解由小路の仕事に、確たる証拠は残らない。

それにしてもこの時代、金と言う鉱産物を扱うのは「修験系の山師」と考えるのが、まともではないだろうか。

藤原秀衛(ふじわらひでひら)は、一目で義経の才を見抜き、喜んで奥州に迎え入れた。

源家は、八幡太郎源義家以来奥州藤原家とは縁が深い。

秀衛が義経に見たのは、瞬時に状況を判断し即応する常人に無い才であった。そして表には出せないが、内々でやんごとない高位の人物の「蜜命書」が添えられている。

それでなくとも、中央の「土御門(安倍)」と奥州の「藤原(清原)」とは蝦夷族長の主導権で対立している。つまり利害関係の延長線上に少年義経(遮那王)の奥州行きは有ったのである。


藤原家で六年間、義経は秀衛に息子の様に可愛がられたが、兄頼朝の挙兵を聞き時節到来と伊豆に駆けつける。

藤原秀衛が軍事顧問的に、配下の佐藤兄弟を義経の手勢として付けてよこした所を見ると、義経の挙兵は「秀衛、予定の範疇だった」のかも知しれない。

藤原秀衛(ふじわらのひでひら)が義経(よしつね)に付けて寄越した佐藤継信・佐藤忠信の兄弟の出自は奥州藤原家と同じ藤原北家流で、後に歴史研究上の一般呼称で信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族とされる佐藤氏である。

兄弟の父は佐藤基治(元治とも)と言い、信夫(しのぶ)の飯坂温泉付近(現・福島県福島市)の地に「信夫荘司・湯荘司」と称した荘園を所領する土豪だった。


富士川の戦いは、言わば臆病者同士の戦いである。

石橋山の合戦に破れ、房総半島(安房国)に逃れた源頼朝は、安房国で大勢を建て直し、僅か二ヶ月弱で関東武士十万余を味方にして相模国鎌倉に陣を構える。

朝廷を力で抑えていた平家政権にとってはこの源頼朝の所業は反乱である。

これを知った平清盛は、頼朝追討の宣旨を願い出て総大将(追討大将軍)に平維盛(たいらのこれもり)を据え、反乱鎮圧の兵を編成する。

頼朝追討の宣旨を受けた平維盛(たいらのこれもり)率いる数万騎が駿河国へと達すると、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し翌々日に黄瀬川で甲斐の武田源氏・武田信義、舅の北条時政らが率いる二万騎と合流する。


源頼朝に助力し、平家を滅亡に追い込む勢力の中でも有力だった一つが武田信義(源信義)率いる甲斐武田氏だった。

清和源氏の河内源氏系甲斐武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光)と位置づけられる。

但し甲斐源氏・武田氏の本祖は、義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)に於いて武田姓を名乗ったとする説が有力である。

その武田冠者・源義清の嫡男・清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、「甲斐国へ配流された」と伝えられ、配流先は「巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)である」とされているが、説に拠っては現在の「昭和町西条」とも考えられている。


「新羅三郎」こと源頼光の三男・「源義光」の次男であった武田冠者・源義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、継子・源清光(みなもとのきよみつ)も武田郷で生まれる。

千百三十年(大治五年)、源清光(みなもとのきよみつ)は一族の佐竹氏(伯父佐竹義業の系統)と争い、朝廷より父・義光と伴に常陸から追放され、甲斐国八代郡市河荘に(山梨県市川三郷町、旧西八代郡市川大門町)へ流罪となる。

親子は平塩岡に館を構え(館は中巨摩郡昭和町西条とも)、義清は同荘の荘官として勢力を拡張し、源清光は、黒源太(くろげんた)清光、とも、逸見(へんみ/へみ)清光とも呼ばれる。

勢力拡張に努める清光は、甲斐国北西部(現在の北杜市、旧北巨摩郡域)の逸見荘(へみそう)へ進出して逸見冠者(へみのかんじゃ)を称するなどした。

その後清光の子孫らは甲府盆地の各地へ進出し、各地域の地名を姓とし逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の諸支族の祖となった。

逸見光長(へんみみつなが)は平安時代末期の武将にして甲斐源氏の祖・源清光(みなもとのきよみつ)の長男に当たるが少し複雑で、双子と伝えられて武田信義は双子の弟になるが、別の説として「異母兄弟説」もある。

いずれにしても、後の三河松平家の様に継子に当たる長男が二人居るのはお家騒動の要因で、武田流逸見を継いだ逸見光長(へんみみつなが)と祖父・源義光の武田氏に復して武田信義を名乗った弟とは別の道を歩んだ。

逸見光長(へんみみつなが)の子には逸見基義・深津義長・逸見義俊・逸見保義・飯富宗長らが上げられるが、弟とされる武田信義の系統の華々しい経歴に比して、光長(みつなが)の系統はヒッソリと歴史上から消えている。


甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の本流であり、四代・武田信義(源信義)は以仁王(もちひとおう)から令旨を受け取り甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。

当初は武田信義(源信義)も独立的立場を取っていたが、富士川の合戦を期に北条時政の説得に応じ、源頼朝に協力して戦功をあげ駿河守護を任ぜられる。

武田信義(源信義)は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命され、その子の信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築いた。

しかしその後その甲斐武田氏の勢力拡大を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し弟や息子達の多くが死に追いやられた。

上総、下総二ヶ国に所領を持つ大勢力・上総広常(かずさひろつね)にしても、同様に謀反の疑いを持って梶原景時に謀殺させている所から、猜疑心が強い頼朝にすれば、甲斐源氏を名乗る大勢力・武田氏は源氏の棟梁に取って代わる危険な存在だったのである。

それでも信義の五男・信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となり、信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。



平清盛が没する約四ヶ月ほど前に起こった平家に拠る追討軍と源頼朝軍の「富士川の戦い」は、言わば臆病者同士の戦いである。

源頼朝は富士川の戦いで平維盛(たいらのこれもり)軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛(これもり)軍を破る。

敗走する平家軍を追撃して殲滅するチャンスだったにも関わらず、臆病者の頼朝は深追いする事無く兵を引いている。

富士川の戦い(ふじがわのたたかい・「浮島ケ原」と呼ばれる湿地帯)とは、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河国(静岡県)富士川で、行われた合戦である。

源頼朝の兵(関東武者)と追討の為に派遣された総大将・平維盛(たいらのこれもり・弱冠二十三歳・平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)ら平氏方(関西武者)の兵が戦った合戦であり、源平合戦と呼ばれる一連の戦役の一つだった。


平清盛の嫡孫・平維盛(たいらのこれもり)は源頼朝の挙兵に際し追討大将軍と成り、軍勢を引きいて東へ進み富士川に達した。

所が、富士川畔の富士沼(浮島原)から飛び立った数千羽の水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走する。

ただし、羽音に拠って源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとした所、不意の命令に混乱して壊走したと言う説もある。

いずれにしても、平家軍は散り散りに都へ逃げ帰り祖父・清盛の怒りを買う。

この平家方頼朝追討軍、永年の都暮らしで「公家化して軟弱に成って居た」と言われて居る。


関東武士十万余を率いて富士川までやって来ていた源頼朝が、平家との富士川の合戦に大勝した帰途、弟を名乗る若武者が垢抜けない供廻りの武将を十騎、列する南部馬は凡そ三十騎、その内二十騎は荷駄を負い軽輩を凡そ二〜三百ほど従えて訪ねて来た。

取次ぎの者は、その若武者が「腹違いの弟・九郎義経を名乗っている」と頼朝に告げた。

弟を名乗られては会わぬ訳にも行かず、頼朝はその一団を遠望した後急こしらえの座所を決めて招き入れる。

源義経は奥州の王とも言える藤原秀衛の支援を得て、兄・頼朝も得心する戦支度を整えていた。

義経は設(しつら)えの良い立派な大鎧を身に着け、供廻りも相応の身支度はしていたのだが、どうも頼朝にはこの一団が胡散臭く映る。

義経が身に着ける鎧兜(よろいかぶと)は、敵の攻撃から身を守る防具として七百九十四年に桓武帝が平安京(京都)に都を移した平安期の頃に上級の武士の間で始まり、源平の鎌倉期を経て後醍醐帝の南北朝期頃まで用いられ発達した武具である。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

今も昔も技術の発達には、戦の存在がその切欠に成る事実が悩ましいが、桓武帝が本格的に東国(坂東)支配に乗り出し征夷を唱えて東北(奥州)蝦夷の征伐を始めた事が必要に迫られて武具の発達を促したのである。

鎧(よろい)は甲冑具足とも呼ばれて本格的な物は平安期に始まり、南北朝期頃まで用いられた物を大鎧と言い大鎧は頭を覆う兜と肩、腕、手、胴を防御の為に覆う甲冑具足を総称する呼び名である。

まず、兜の上に立つ飾りは「脇立」、横に出ているものが「吹き返し」、頭の横後ろを守る蛇腹が「しころ」、顔を守るものが「面頬 (めんぽう)」、その下に付いている首を守る蛇腹が「垂れ」、兜の紐は「忍紐」と称する。

次に肩を被うものが「袖」、腕に被せるものが「篭手」、手の部分は「手甲」と呼び、胴の前板は「胸板」、胴の下の何枚かの蛇腹部分は「草摺(くさずり)」、その「草摺」の上に付けて股から腿を被うものを「はい楯」、脚を被うものを「脛当」と言う。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても条件が同じだった。

この大鎧は上級の武士が使用するもので、大鎧とは別に同時代に簡便な防具として雑兵や修験山伏が着用し、元は腹巻と呼ばれた胴丸と呼ぶ防具がある。

胴丸には始め袖は無かったが、鎌倉末期より大袖を付けて武将も着用するようになり大鎧は衰退する。

室町後期から戦国期には防禦率良く活動的なものを求めて当世具足と呼ばれる防具が開発され大鎧や胴丸は使われなくなるのだが、この兄弟対面時はまだ大鎧の時代だった。


弟とは言え初対面の義経を、頼朝は黄瀬川の辺(ほとり)で謁見した。

その「弟」と名乗る見知らぬ若武者は、「僅かではありますが手勢を引き連れて兄上に御助勢仕りたく負かり越した故、なにとぞ御味方に加えて頂きたい。」と口上を述べる。

頼朝にすれば、予期せぬ腹違いの弟・義経の来訪だった。

義経を正面から見据えた頼朝を見返す義経の瞳は、吸い込まれそうに眩しく澄んでいて、内心頼朝はうろたえた。

頼朝が、後方に控えるその「義経が手勢」と言う武士団見ると、数は少ない供回りだがいずれも役に立ちそうな強兵(つわも)の面構えの面々である。

ふと、頼朝に疑心が湧いた。

「面妖な供回り・・・この者達は何者じゃ?」

その風体(ふうてい)怪しき義経他の十騎余りの武将に、徒歩(かち)で従う軽輩が凡そ二〜三百余り。

戦支度の身成りこそまともだが、この一団はどこか違う匂いがする。

頼朝は奇異に思い猜疑心が浮かんだが、出掛かった言葉を飲み込んだ。

今は味方が多いほど良い。

今や頼朝の下には十万余り、義経の供はたいした兵力ではないが、「平家」と言う大敵と対峙する今、一騎でも多く味方は欲しい。

正直兄弟の実感の湧かない頼朝だったが、その弟に会うと相手の義経は兄に会った感動を表情一杯に浮かべていた。

頼朝は、その表情を見て一応手元に置く事にした。

体格は小柄で身軽そうだったが、義経は陰陽武士団に守られてスクスクと育ち、気楽に近付ける雰囲気を持ち爽(さわ)やかな顔付きが出来る好男子に育っていたのだ。

当時は家長制度が強い時代だから、身内と言えども庶弟は制度的に臣下(部下)である。

この時点で、頼朝にすれば都合の良い手駒が増えた程度で兄を慕う義経に比べあまり兄弟対面の感慨は無い。

本音で言えば、戦の先陣を任せて消耗させても惜しくない程度の手駒が増えた思いだった。

その兄弟愛の温度差は、その後の逆らえない運命を義経にもたらす事になる。


義経は伊豆の国と駿河の国の国境(くにざかい)黄瀬川の畔(ほとり)、木瀬川宿在長沢で兄頼朝と対面を果たしている。

義経の方は純真な若者で、余り苦労して育ってはいないから兄との合流は感激で、兄に助力できる事を喜んでいた。

この体面の場、現在では八幡神社があり対面に使った一対の石(対面石)が片隅に残されている。



義経の一番の不幸は、天才故に、そして部下に恵まれた為に余りにも戦闘に勝ち過ぎた事だ。

そして、嫉妬深く疑り深い兄夫婦がいた事である。

そして兄夫婦の、「弟殺し」が始まるのだ。


兄・頼朝の為に、恨みも無い従弟の木曽義仲を討ったのも、連戦連勝のあげく壇ノ浦で平家を殲滅したのも義経の成果だった。

だが、いかに強くとも素顔は若武者である。

それで京に凱旋すると、自分の人気に酔ってしまった。

白拍子遊びに、熱を上げたのだ。

しかしこの頃には、既に「義経切り捨て」の陰謀は、鎌倉で進んでいた。

まぁ現代でも同じだが、権力を握ると今までの純粋な理総論から途端に「人間が変わって私欲に走る」と言う見っとも無い行動をするのが人間である。

頼朝夫婦は、自分達の考えと同じように周囲の身内や部下を見ていたから、権力を握ると粛清を始める。

頼朝にとって源氏の血筋は諸刃の剣で、味方ではあるが「源氏の棟梁座を自分と取って代わられる恐れがある」脅威の存在だった。

そして、義経は戦上手で陽気な人気者だった。

義経を誰かに担がれては、明らかに不人気な自分に分が悪くなると頼朝の猜疑心が頭をもたげても無理からぬ所だった。

源頼朝は、武士としても軟弱だったが、夫としても妻の北条政子の尻に引かれていた。

政子は強烈に勝気な姉さん女房で、どちらかと言うと策略に富む官僚タイプの武人らしくは無い頼朝は、女性の感性を兼ね備える姉さん女房の言い成りだった。

当時の女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。

大胆かつ濃厚な技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めである。
,br> その政子の感性は冷酷で、自らの権力維持の為に「邪魔者を消し去る事」である。

「我殿、九郎様(義経)の都での評判、我殿にとっては善からぬもの、殿を凌ぐ者をこの世に置いてはなりませぬ。」

寝屋で裸身を絡めながら、政子は義経の追い落としに掛る。

義仲(木曾)の次は、九郎様(義経)か・・・?

基より頼朝もその気だったから、「承知しておる」と応じて政子の裸身を攻めに掛る。

「ならば、宜しゅうございます。」

頼朝の攻勢を政子が受けてたち、鎌倉・頼朝屋敷の奥の寝所は、さながら二匹の獣が交わるような雄たけびを洩らし始めた。

つまり、源義経(牛若丸・遮那王)は、腹違いの兄(源頼朝)に愛されなかった人物である。

純粋だったが故に、一途に兄(源頼朝)の権力奪取に尽くしながら、その思いは通じる事が無かったのである。

義経人気が兄(源頼朝)に危険視された事と、傍(そば)に仕える者達が、「或る組織の者」だったが為に、疑り深い兄(源頼朝)とその嫁(北条政子)の猜疑心の的に成ったのである。


東国は清和源氏の地盤であり、将門以来の反平家(反伊勢平氏・清盛一族)方の平氏(将門子孫を自称する三浦氏、上総氏、千葉氏、等)の地盤だった。

それに引き換え、西国は平家方(伊勢平氏・清盛一族)につく平氏と土着した藤原氏の枝が多かった。

東国軍(源頼朝軍)に京の都を追われた平家は西国で体制を整え、再び京に攻め上る事を画策していた。

その平家追討をしたのが、源範頼(みなもとののりより・頼朝実弟)を総大将とする東国軍(源頼朝軍)で、その先頭に常に立ち、奇策を用いて連戦して行ったのが、源義経(頼朝腹違いの義弟)とその一党だった。

西国諸国で行われた平家追討戦は、源義経とその一党の目覚ましい働きで、一ノ谷(摂津国福原)、屋島(讃岐国屋島)、壇ノ浦(長門国赤間関壇ノ浦)の合戦と転戦し、平家は西へ西へと追われて行った。


源義経の軍勢に追われた平家一門が、瀬戸内海を主戦場に西国をめざして落ちて行ったのは、安芸の国(芸州/広島の呉)を中心とした瀬戸内海航路を整備し、資力を蓄えたのが一門の盟主・平清盛だったからである。

つまり平家一門にとって、盟主・平清盛が財源として育て挙げた瀬戸内海は、本来最も頼れる「縄張りの内」の筈だった。

今では日本有数の観光地の一つと成っている厳島神社(いつくしまじんじゃ)・宮島(みやじま)も平家一門と縁(ゆかり)が深い瀬戸内海の信仰の拠点である。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、千百六十八年(仁安三年)頃に平清盛が社殿を造営したが、千二百七年(建永二年)と千二百二十三年(貞応二年)の二度の火災で全てを焼失した。

厳島神社は平家の守り神で、平家一門の隆盛とともに当社も盛え、平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。

俗に「安芸の宮島」と呼ばれる厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、日本全国に約五百社ある厳島神社の総本社とされ、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社である。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、式内社(名神大社)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されていて「平家納経」でも有名である。

厳島神社のある厳島(宮島)は「日本三景」の一となっていて、高さ十六メートルの大鳥居(重要文化財)も春日大社(奈良県)と気比神宮(福井県)の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一とされ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。

厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一である。

祭神は、朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)である。

三柱(みはしら)の女神「宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)」は、大和朝廷によって古くから重視され祀られていた。

その厳島神社(いつくしまじんじゃ)三柱の女神の一神・市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合し大願寺として、大願寺は・江島神社(神奈川県江の島)・都久夫須麻神社(滋賀県竹生島)と共に「日本三弁天の一」ともされている。

厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。

五百九十三年(推古天皇元年)、土地の有力豪族で在った佐伯氏・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

文献での初出は八百十一年(弘仁二年)で、「延喜式神名帳」では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。

現在残る神社の社殿は、千二百四十年〜千二百四十三年の仁治年間(鎌倉幕府・北条執権時代)以降に造営されたものである。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が千五百五十五年(弘治元年)の「厳島の戦い」で勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。

中国地方の覇者となった毛利元就は大掛かりな社殿修復を行い、また日本全国を制覇した豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。

江戸時代には、庶民の娯楽の一つとして厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治維新が落ち着いた千八百七十一年(明治四年)に厳島神社は国幣中社に列格し、千九百十一年(明治四十四年)に官幣中社に昇格した。


義経は「戦闘」の天才で在った。

それは直感的なもので、あまり理論的ではない。

しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は後にも先にも彼一人である。

この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、弁慶達比叡山延の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて自らも先頭に立ち戦闘を為し得たのは義経の才である。

つまり、状況判断と決断である。

どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。

どちらかと言うと義経は「即応自在型」で、戦略ではなく戦闘の天才だった。

だが現代の目で分析して見ると、義経に敗れた平家の方が世間を知らず過ぎた様である。

一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、平家方には大胆な奇襲である。

しかしこの奇襲、義経と平家方には温度差がある。

つまり都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害で在った。

しかしその考え方は、公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いである。

考えてみると、普通人間でも急斜面では四足になる。

四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定している。

義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育ち、奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。

関西の馬に比べ、蝦夷馬は体格も良く力も強かったから、前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。

この馬は奥州の特産で在ったから到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。

奥州藤原家に身を寄せていた若き義経もそれを見る機会には恵まれていた筈で、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたのである。

元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。

従って、今日の日本人が思うほど義経の決断はそれ程大したものではない。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。

同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。

つまり一ノ谷(城戸の戦い)に於ける平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。

それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは誰しもが認める所である。

信長も天才であるが、タイプが違う。

信長の才能は「知略」であり、「戦略」である。

ただ義経はまだ若く、藤原氏に可愛がられた為に兄・頼朝の様に二十年間も田舎で流人生活を送った苦労の経験が無かった。

それで、素直にまっすぐ育った。

或る意味「やんちゃ坊主」で開けっ広げ、けして謀事などする男ではない。

義経が殊更に政治センスの無い若者に育ったには、取り巻きの弁慶達の影響が「多分にある」と推測されるが、義経の育て方について、裏に義経に政治に興味を持って欲しくない「或る方の意向が働いていた」とは考えられないか。

この辺りは、木曽で暖かく育てられた義仲と似ている。

義仲の事は他で記述しているので割愛させてもらうが、一言で言えば「乳母の里に匿われて、のびのびと育った」と言う事である。

幼くして身近な身内に恵まれず一人ぼっちで育った義経は、肉親恋しさで純真に兄・頼朝を慕い兄の為に戦闘の矢面に立った。

従って、天下の権力には欲心も邪心も無い。

義経は、純粋に父・義朝の無念を晴らし、兄・頼朝の源氏再興の為と信じて一途に戦ったのである。

義経の、兄の旗揚げ参加から奥州落ちまでの行動を見れば、すぐに判る。

そこには、兄・頼朝が問題視すべき部分はまったく無い。



屋島は讃岐国(香川県高松市)に在り、瀬戸内海上に台形の概観を持つ島で、源平の合戦の主戦場のひとつ「屋島の戦い(やしまのたたかい)」と成った。

平安時代末期の千百八十五年(文治元年)、一ノ谷で敗れた平家が屋島に本拠を置いた所から源氏との決戦の場とった。


源義仲(木曽義仲)に敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れるも在地の武士達が抵抗して大宰府からも追われてしまう。

平家はしばらく船で流浪していたが、阿波国の豪族・田口成良(たぐちしげよし)に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置く事ができる。

折りしも鎌倉の源頼朝と源義仲(木曽義仲)の抗争が起きて義仲は滅び、その期に乗じて平家は失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。

しかし、頼朝の弟の範頼・義経の兄弟に攻められて大敗を喫した「一ノ谷の戦い」で平家は一門の多くを失う大打撃を蒙る。

一ノ谷の戦い後、源氏の総大将・源範頼は一旦鎌倉へ帰還し、源義経が頼朝の代官として京に留まった。

平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて讃岐国屋島に内裏(だいり/天皇の座所)を置いて本拠とし、平知盛(たいらのとももり/清盛四男)を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。

平家はこの長門国彦島の拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。

一方の鎌倉方は水軍を保有していなかった為、長門国彦島攻め・讃岐国屋島攻めに踏み切れず平家の水軍に傍観が続いた。

鎌倉へ帰還していた源範頼が再び大軍を揃えて九州・中国地方の制圧に掛かるが、長門国彦島は孤立しながらも強固に抵抗する。

京に在った源義経は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得、摂津国の水軍・渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集める。

渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。

しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。

景時は「進むのみを知って、退く事を知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、私は猪武者で結構である」と言い返した。

義経が四国に向けて出航するに際し、天候が崩れて暴風雨と成る。

暴風雨の為、諸将は出航を見合わせを提言、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅し、僅か五艘、手勢百五十騎で出航を強行する。

義経の船団は暴風雨をつき通常三日の航路を四時間ほどで阿波国勝浦に到着、在地武士・近藤親家を味方にした。

屋島の平家方は、田口成直(田口成良の子)が三千騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、屋島には千騎程しか残って居なかった。

その千騎も阿波国、讃岐国各地の津(港)に百騎、五十騎と分散して配しており、「屋島は手薄である」との情報を阿波国勝浦の在地武士・近藤親家から手に入れ、義経は好機と判断した。

義経は平家方の豪族・桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破り、徹夜で讃岐国へ進撃して翌日には屋島の対岸に至った。
今なお屋島は相引川によって隔てられているが、江戸時代の新田開発により陸続きに近くなるまで、この頃の屋島は独立した島になっていた。

しかし干潮時には騎馬で島へ渡れる事を知った義経は、屋島強襲を決意する。

義経はわずか百五十騎の寡兵である事を悟られない為に、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏(だいり/天皇の座所)へと攻め込んだ。

海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は、四国の陸地伝いに攻め寄せた義経軍に狼狽し、内裏を捨てて屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。

この時の義経の勝因は、貴族化した平家方には想像できない暴風雨の中の渡海と陸伝いの奇襲だった。

やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は長門国彦島へ退き、屋島の陥落により四国に於ける拠点を失った。

既に九州は源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は長門国彦島(現山口県)に孤立してしまう。

義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨む事になる。



瀬戸内海を西に下りながら戦った源平最後の決戦は、「壇ノ浦の戦い」だった。

この戦いに参戦した西国方(平家方)水軍の中に、北部九州の水軍、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 「松浦(まつら)党」が居た。

その松浦(まつら)党の中に、清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、松浦(まつら)水軍一族こぞって平家方に着いていた。

この壇ノ浦の戦い、勝敗の帰趨(きすう)を決めたのが実は松浦(まつら)水軍主力の寝返りだった。

松浦(まつら)水軍のルーツは、嵯峨源氏の渡辺綱を始祖とする渡辺氏流の分派とされ、摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した。

渡辺綱(源綱)の子・奈古屋授(渡辺授、源授)の子が松浦(まつら)党の祖・松浦久(渡辺久、源久)で、肥前国松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持って松浦の苗字を名のる。

本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下に在ったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、治承・寿永の乱(源平合戦)に於いては当初は平家方の水軍で在った。

この経緯だが、松浦水軍は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦(まつら)氏系の者が大半だが、一部に前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・貞任(さだとう)と共に戦って破れ、奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の三男に安倍季任(あべのすえとう)がいた。

安倍季任(あべのすえとう)は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となる。

松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

その松浦実任(安倍季任/あべのすえとう)の子孫・松浦高俊は、平清盛の側近に取り立てられ西国方(平家方)の水軍として活躍し、瀬戸内海を転戦している。

何故九州の地方豪族・松浦高俊(まつらたかとし)が、平清盛の側近足り得るのか?

つまりは、敵の敵は見方で、「前九年の役」での勢力構図の縁(えにし)である。

その縁(えにし)で、松浦水軍は何時の頃からか平家の家人を任じていた。

これぞ、藤原摂関家、清和源氏(河内流)、解由小路家(葛城・賀茂氏流)、奥州藤原家(清原家)対、桓武平氏(伊勢流平家)、土御門(安倍氏流)の二大勢力の暗闘が、糸を引いてそっくり平家の登用に影響されていた事になる。

奥州藤原家(清原家)の遮那王(しゃなおう・源義経)庇護も、そうした勢力構図が背景に在ったのである。


さて松浦水軍主力の寝返りだが、松浦水軍は中心となる氏の強い統制によるものではなく一族の結合体と言う形態の同盟的なもので、一族は夫々(それぞれ)の拠点地の地名を苗字としその中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となっていた。

その緩い結合の為、当初は高俊に合して平家方の水軍であった松浦党の主流は、壇ノ浦で平家方不利と見て松浦高俊一族を除いて源氏方に寝返りを謀り、壇ノ浦の戦いに於いて源家方に付いて源家方の勝利に大きく貢献した。

海戦だった壇ノ浦の戦いに、松浦水軍主力の寝返りに合った平家方は圧倒的不利に総崩れとなり、御座船を包囲されて退路を絶たれ「もはや是まで。」と平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、哀れ二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

敗れた平家方の総大将の平宗盛・清宗父子は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

源義経主従の活躍ばかりが喧伝されて有名だが、壇ノ浦の戦いの勝敗はあくまでも松浦(まつら)水軍主力の寝返りだったのである。


鎌倉幕府が成立して守護・地頭制が敷かれ、松浦党はその壇ノ浦の戦いの功を認められて鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられた。

だが、鎌倉初代将軍・源頼朝が東国から九州に送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの「下り衆」と呼ばれる東国御家人の下に置かれ、その「両者の確執は絶えなかった」と言う。

一方の松浦水軍・松浦高俊は、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により平家方が源範頼・源義経軍に敗れたが、高俊(たかとし)は生き残った。

生き残った高俊(たかとし)は、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった後に高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害を恐れて先祖・安倍宗任以来の旧姓・安倍姓に戻して名乗り、以後長門国油谷(山口県)に安倍家は存続する事になる。

この長州・安倍家(松浦高俊・娘)の子孫が土地の名家として八百年以上続いて現在に至り、後の現代の世に政治家一族として名を馳せる事になるが、賢明なる読者の貴方はもう誰の事か見当が着いている筈である。


萩から西へ四十キロ行った周防国日置郷・旧・油谷町(ゆやちょう/現・長門市油谷)が長州・安倍家の本拠地である。

随分先の事だが、江戸時代に日置郷の大庄屋を務めた名家・長州安倍家の当主を名乗る安倍晋三の父・安倍晋太郎(元外務大臣)の墓所は、この長門市油谷(ゆや)に在る。

安倍晋太郎(元外務大臣)は、岸信介(元総理経験者)の女婿(長女・洋子と結婚)として外務大臣秘書官となって岸に仕える。

岸内閣では内閣総理大臣秘書官に就任、中央政界への地歩を固め、第二十八回衆議院議員総選挙に打って出て当選を果たす。


松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。

壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の松浦(まつら)党(佐志氏や山代氏)などの海上勢力は、つとに知られている所である。

松浦水軍は、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)でも水軍として駆り出され、転戦した記録があり、その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」だった。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に水軍としての松浦党の出番は終了する。

僅かに松浦氏傍流の平戸・松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降に旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として存続した。


壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したのは、平清盛が病没して、僅か四年目の事である。

平家(伊勢平氏の平清盛一族)の栄耀栄華は僅か二十五年、平清盛一代限りの事であり、この点は後の織田家や豊臣家に似ている。

敗れた平家方の安徳天皇は入水死し、総大将、平宗盛は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。


「評判を立てる。評判を煽(あお)る。」を組織的に工作し、予め強敵の印象を相手に与えて恐れさせる事も立派な軍略である。

そしてその平家討伐の軍略に、当初は九朗・義経一党が担ぎ挙げられて喧伝された。

義経主従は、この西国追討戦にめざましい戦果を上げて、都に凱旋して民衆の熱狂的人気を博して居る。

面白いもので、周りが持ち上げると、人間その気になる。

義経はまだ若かったのかも知れない。

武将としての義経の絶頂期は、この僅かな時期だったのである。

所がその年も変わらない内に義経は、後白河上皇と頼朝のそれぞれの思惑による陰謀に嵌まり、逃亡生活を余儀なくされる。

千百八十五年(文治元年)五月、平家が源義経の活躍に拠って滅ぼされると、義経は鎌倉にいる兄の源頼朝と対立を余儀なくされる。

後白河法皇は土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の上奏(勧め)もあり、義経に対して「頼朝追討」の院宣を出したものの、義経にその気がない。

その内頼朝軍が入京して、兄と戦いたくない義経は逃亡してしまった。

源義経には、人を引き付けるに充分な魅力があった。

それは、ほとばしる様に純粋な心情だった。

それ故、都落ちしても欠ける事がない「損得ずくでない郎党が」多く集まった。

そして女達も熱を上げていた。

人は、信じてくれるリーダーに集まるものである。

元々修験山伏に端を発する武術をもって生まれた軍事組織が、平氏であり源氏である。

そして、組織の中核をなすのは同族集団の結束である。

従って有力な他人を仲間に入れても、娘など与え婚姻関係を介して取り込む事が多い。

それ故その棟梁には子沢山が要求された。

それが叶わぬ時は、一旦養女養子を儲ける方法がなされて、同族関係を成立させていた。

そうした婚姻の関わりが無い場合は、下(従)が「棟梁(主)に惚れて付いて行くか、損得ずくの上」と言う事に成る。

義経主従は、人間的な信頼関係の集団で、下(従)が棟梁(主)を放っておけない感情が介在していた。

これは一般的な「武士道とは違う主従関係」と言って良い。

江戸期以前の武士に滅私奉公の武士道を求めるのは時代考証を無視したナンセンスな事であり、江戸期に於いても幕藩体制の維持の為に武士道を求められていたのは下級武士だけである。

江戸期の町民農民に、武士道の精神などある訳が無い。

そんな訳で、日本を「武士道の国」と言って国民の思想教育に利用したのは、明治維新後の国家体制と軍部である。


幕府を開いて政権を運営すると成ると武官ばかりではなく文官も必要と成り、源頼朝の側近に大江広元(おおえのひろもと/中原)が登場する。

鎌倉幕府の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した大江広元(おおえのひろもと)は、始めは朝廷に仕える下級貴族(官人)、つまり朝臣だったが鎌倉に下って源頼朝の側近となった人物である。

大江広元(おおえのひろもと)の出自は諸説あり、一説には「江氏家譜」に於いて藤原光能の息子で、「母の再婚相手である中原広季の下で養育された」とされる。

また、一説には「尊卑分脈」所収の「大江氏系図」に於いて大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に「続群書類従」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としているなど正直ゴチャゴチャでその詳細は不明である。


広元(ひろもと)は当初、中原姓を称して中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていた。

大江姓に改めたのは、晩年に陸奥守に任官した以後の事である。

源頼朝が坂東(関東)を制圧し鎌倉に本拠地の館を構えた頃、中原広元(なかはらのひろもと)は兄・中原親能(なかはらのちかよし)の縁で頼朝の拠った鎌倉へ下り公文所の別当となる。

広元の兄・中原親能(なかはらのちかよし)は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。

源頼朝が二品右大将(右近衛大将/うこんえのだいしょう)となり公文所を改めて政所としてからは、広元(ひろもと)はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与し、「吾妻鏡」に拠ると頼朝が守護・地頭を設置したのも「広元の献策に拠る」とされている。


足立遠元(あだちとおもと)は、鎌倉御家人として鎌倉殿(将軍)・源頼朝に仕えた文官要素の高い平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。

遠元(とおもと)の父は鳥羽院の北面武士を務めた藤原遠兼で、同じ鎌倉御家人の有力者で頼朝側近の安達盛長(あだちもりなが)は年下の叔父にあたる。

足立氏は藤原氏の流れを汲み、遠元の父・遠兼の時に武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)に移り足立姓を名乗ったとされる。

一方では、武蔵国造(むさしくにのみやっこ)の流れで承平天慶の乱の時代に足立郡司で在った武蔵武芝の子孫である「在地豪族だった」とする説もあり、出自については不明な点が多い。

遠元(とおもと)は、平治の乱で源義朝の家人に加わり陣に従い、義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)率いる十七騎の一人として戦った。

治承・寿永の乱に於いては、挙兵した義朝の遺児・源頼朝が下総国から武蔵国に入った時期に、遠元(とおもと)葛西氏らと共に手勢を率いて迎えに参上し家人と成っている。

千百八十四年(元暦元年)、足立遠元(あだちとおもと)は成立間もない鎌倉幕府の公文所の知事家(寄人)に補任され、千百九十年(建久元年)に頼朝が上洛した際、布衣侍(ふいもち/参内衣装の裾持ち)十二人の内に選ばれて参院の供奉をし、頼朝の推挙で官位・左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられる。

遠元(とおもと)は京都権門(中央の有力武家・公家・寺社などの勢力)とも繋がりを持ち、娘の一人は院(後白河法皇)近臣の藤原光能(ふじわらのみつよし)に嫁ぐなどして幅広い縁戚関係を築き、主に朝廷工作などを担当する官僚として活躍する。

遠元(とおもと)は、、頼朝死後に成立した十三人の合議制の一人に加わるなど有力御家人の一人に数えられている。



源頼朝には、「源氏の血筋」と言うブランド以外に何もない。

それでも、その金看板を「利用しよう」と周囲に人が集まって来る。

そうした環境下で、戦に自信が無い源頼朝には謀略を楽しむ癖が在った。

打つ手が次々と功をそうすると、謀略こそが頼朝の天下取りに頼れる武器だった。

それにしてもここは一番、人気者の腹違いの弟・義経の手綱は確り握っておかねばならない。

「政子、伝え聞くに都の義経はチト舞い上がって居る様じゃ。」

「それなら、身を固めさせては、アァ・・・・。」

睦み合い、身を絡ませて繋がり合っての夫婦の会話である。

男女の事は、決まった睦相手が居れば収まるものである。

「そう思うか、ワシもそう思うていた。」

「こちらの手の内で、心当たりはございますか?」

「うむ、重頼の姫が良かろう。」

「ならば、早速河越殿を呼び出して、申し付けなさりませ。アァ・・・。」

「良かろう正子。明日にでも河越に申し付けるぞ。」

意を決した頼朝の正子を攻める動きが早くなり、正子が応じて二人だけの世界に入って行った。


義経の女と言うと白拍子の「静御前」が余りにも有名で、ほとんど国民的に知られているので、静御前とのエピソードは、粗方割愛する。

もう一人の、「静」の影に隠れた「正妻」の方を取り上げたい。

正妻の方は、「河越氏の娘」とされ兄頼朝の命令で義経と結婚していて、郷姫・郷御前、京姫・京御前など色々言われていて名の方は判然としない。

当時は、よほどの事がないと女性の記述は「誰々の娘、誰々の妻」と言う書き方が主流で実名が判らない。

従って正妻の名は仮に埼玉から摂って勝手に「玉御前」とするが、あくまでも「仮」であるので、この名を現実と信じない様に願う。

河越重頼(かわごえしげより)の娘に関しては「源平盛衰記」に「郷御前」とある為、現在の解説では「郷御前」と記述する物も多いが研究者の間では依然として河越重頼(かわごえしげより)の娘であり、「郷御前」は疑問視されている。

父親の方は、しっかりした記述があり、武蔵の国、比企(ひき)一族の「河越重頼」で有る。

河越重頼は秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた比企氏(比企能員)や同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。

河越氏も関東豪族の名家であり、今の埼玉県川越市は、そこから来ている。

河越重頼の養母は、比企尼(ひきのあま)と呼ばれ、頼朝の乳母であった。
,br> 頼朝にすれば、血は繋がらないが、身内の気分の一族である。

また、比企尼(ひきのあま)は、後に「比企能員(ひきよしかず)の変を起こした」と言われる鎌倉二代将軍・源頼家の妾妻「若狭の局(わかさのつぼね)」の父・比企能員(ひきよしかず)の養母でもある。


当然ながら、頼朝の方には義経取り込みの思惑が在った。

しかし義経には、頼朝には油断なら無い者共、弁慶達修験者(山伏)の影の力が付いていた。

この辺りは綱引きになる。


「静」は、都で評判の美人白拍子で、現代風に言えばトップ・アイドル的存在だった。

方や、そのトップ・アイドルの相手が平家追討に成功し、源氏の総大将・頼朝を凌ぐ人気の若武者・源義経となれば、都雀達に評判のカップルである。

だが、このカップルの誕生には周囲の思惑も有りそうだ。

源頼朝は、この腹違いの弟・義経を取り込もうと身内気分の河越重頼(乳母の子)の女(姫)を正妻に据えた。

義経は純真だから、この兄・頼朝の行為を純粋に喜んだのだが周囲の修験系側近達は慌てた。

義経を取り込まれては元も子も無い。

「弁慶殿、さて困ったものじゃが、わが殿は頼朝様から使わされた玉姫様に夢中じゃ。」

「三郎(義盛)殿、わしも気にして居った。如何にすれば?」

「殿に我らの手の女性(にょしょう)を宛がっては?」

実は、都での義経の評判を煽ったのは、勘解由小路修験の策謀で、源頼朝の権力が集中するのを阻止するのが使命だった。

「ならば、静が良かろう。美人の上に床技も手慣れ故、殿も夢中になる。」

「うむ、静ならば殿の都での評判も益々あがる。三郎(義盛)殿、早速手配されい。」

勘解由小路修験の伊勢義盛や弁慶は、白河上皇の命を受けての義経側近で、義経が兄・頼朝に取り込まれては、対抗上都合が悪い。

表立って対抗は出来ないが、対抗する為に傘下の白拍子の中から飛び抜けて美人の「静」を宛がった。


義経が、「色を好む英雄だった」と言う逸話話しは、枚挙に暇がなかった。

元々純真で優しく、女性を愛する事にてらいが無い。

そして、彼の魅力はそれだけではない。

源義経は、出自が良い上にイケメンと来ている。それで、女性にもてない訳が無い。

玉御前が、「兄から押し付けられた相手」とは言え、二十代後半になって男盛りの義経に、十七才の美少女の嫁である。

心が動かない訳はない。

実際の処両手に花で、八艘飛びの義経は、静御前と玉御前の間を、「飛び歩いた」と、言われている。

その辺りも人間臭くて、後の庶民人気の元に成っている。

源頼朝には、都(京)での九郎(義経)の人気が気に掛かって成らなかった。

このまま放置すれば、後白河院(上皇)と西国の武将どもに祭り上げられて鎌倉に攻めよせないとも限らない。

そこに、後白河院(上皇)の巧みな陰謀が有ったのだ。

せっかく力が強く成り過ぎた平氏を以仁王(もちひとおう)の令旨をきっかけに取り除いても、源氏が取って代わっては朝廷の院政の為には何もなら無い。

後白河上皇が目標とするのは、あくまでも天皇の権力を強め院政を取る事で、このままでは平家が源氏に代わっただけで平家打倒を画策した意味が無かった。

後白河上皇は焦っていた。

源氏の勢力が固まる前に手を打たねばならない。

老獪な後白河上皇は、次の画策を謀る。

大きく成った源氏の力を削ぐには源氏を分裂させて、互いに争わせる事だ。

後白河上皇は、実力、人気の高い義経に目を付けた。

と言うよりも、義経には幼少の頃から勘解由小路の影の手の者達を配してある。

用意周到な後白河上皇にしてみれば、いよいよこの謀(はかりごと)を、利用する時が来たのだ。

後白河上皇は、確信犯的に頼朝を無視し、直接、義経に検非違使(けびいし)の官位を与える。

検非違使は令外の官で、治安維持を任務とし、警察権、裁判権を有した。

検非違使(けびいし、けんびいし)は律令制下の令外官の一つで、「非違(びい/非法・違法の意)を検察する」の意味し、云わば現在の警察と裁判所を兼務した検非違使庁が設けられ、京都の治安維持と民政を所管した官職である。

凡そ八百二十年代頃に設置され、当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務し、官位相当は無いがこの職が五位から昇殿が許され殿上人に出世となる目安となっていた。

四等官の長官(頭/カミ)に相当する「別当(べっとう)」、四等官の次官(助/スケ)に相当する「佐(スケ)」、四等官の判官(允/ジョウ)に相当する「大尉(ダイジョウ)」、四等官の判官(ジョウ)に相当する「少尉(ショウジョウ)」、四等官の主典(属/サカン)に相当する大志、少志などの官職からなる組織が編成される。

令外官ながら徐々に権限が強くなり、司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安・司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使(けびいし)は大きな権力を振るうようになる。

平安時代後期には平安群盗などの出没もあり、検非違使(けびいし)が令制国にも置かれ、刑事事件に関する職権行使の為に律令とはちがった性質の「庁例(使庁の流例ともいわれた慣習法)」を適用するようになった。

また、この頃から検非違使庁に於ける事務は別当の自宅で行われるようになった。

しかし平安時代末期になると摂関政治(せっかんせいじ)が弱体化し、法皇・上皇の院政(いんせい)に移行した為に御所の軍事組織である北面武士に取って代わられる。

更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると検非違使庁は次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ侍所(さむらいどころ)に権限を掌握される事になった。


形として、朝廷の命で京の王城の地は義経が守る事になる。

この叙任、本来は頼朝の推挙を得るべき筋で有るが、後白河上皇はあえて頼朝を無視、兄弟の離反を謀ったのである。


源家の棟梁・源頼朝は、肝が据わって自ら戦闘の斬り合いに参加する異腹の弟・義経に嫉妬と恐れを抱いていた。

頼朝が怒り義経討伐を決意すると、後白河上皇が義経に対し頼朝追討の院宣(いんぜん)を発し、兄弟の仲は決定的なものに成る。

この院宣、義経が後白河上皇を「脅して書かせた」とする説もあるが、それは、日頃の義経の行動にはまるで似合わない。

やはり老獪な後白河上皇の策謀と、弁慶達「影の暗黙の拝命」と取るのが正解であろう。

弁慶達ブレーンが、義経にとってリスクのある「上皇直接の叙任」を反対しなかった事こそ、彼らの本質が影だった事を示している。

こう書くと後白河上皇だけが悪い様に見えるが、頼朝は苦労を重ねて大人の見方が出来る。

政治センスのある頼朝に、ある意図が無ければ易々とは上皇の策略に乗らない筈だ。

つまり兄頼朝には、予め後白河上皇の動きを予測していた節が有る。

それに反して義経には、「兄を出し抜こう」と言う気はまったく無い。

検非違使も、「上皇に褒められて、兄も喜ぶ」と軽く考えていた。

「兄が怒っている」と判ると鎌倉近くまで出向き、面会を断られても諦め切れずに、言い訳状(弁疎状・腰越状)も提出して誤解を解こうとしている。


源頼朝が弟・義経の忠誠心を疑ったのは、武蔵坊弁慶や伊勢(三郎)義盛等の修験武士団が義経の周りを固めていた事である。

彼等修験武士団は、義経にとっては兄・頼朝の為に戦功を上げるには頼るに足る家臣だったが、同時に兄・頼朝には「後白河上皇(出家して法王)が後ろに付いている」と思われる最後まで気を赦せない一団を率いていた事になる。

源頼朝は、多感な青年期を伊豆国・蛭ヶ小島で流人として周囲を敵に囲まれて育った。

それ故に猜疑心が人一倍強く、唯一の頼りは「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

血筋以外に頼りどころがなかった頼朝に取って、同じ源家の血筋を持つ腹違いの弟・義経は、内心唯一の財産・「源氏の棟梁の血筋」を侵食する腫れ物のように不快な存在だった。

冷たい様だが頼朝にしてみれば、平家を滅ぼしさえすれば異腹の弟・義経はもう用無しだった。

腫れ物の始末は、平家が滅んだ今が好都合である。


平家の時代までは公家と武士の境は曖昧で、同じ氏族(支配階級)の出自だから公家も武力を有していたし武士も公家生活をする者も居た。

しかし天下を掌握した源頼朝は、平家の公家化(貴族化)が「軟弱さに結び付いた」と見て武士の公家化を嫌って都から遠く離れた鎌倉に幕府を開き、武門と公家の間に明確な線を引いた。

頼朝が後に幕府を開いた鎌倉は、全面を海、三方を山に囲まれた要害の地である。

この時代はまだ城を築く習慣が無く、武門の棟梁と言えど堅固ではあったが屋敷住まいだった。

この地鎌倉は源家と関わりが強く、源頼信、頼義、義家、そして頼朝の祖父・源為義の代まで四代に渡って相模守を務めていた。

頼朝の父・源義朝は寿福寺の周辺に屋敷を所有した。

そうした地縁があるから、京からやって来た平家の追討軍を富士川の戦いで迎え撃ち、それを破った頼朝はその足で後に鎌倉幕府の置かれる大蔵(雪ノ下)に屋敷を造り入って居る。

頼朝は鎌倉に入ると、まず先祖が造営し守って来た元八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の地に移し、行政機構を整え始めている。

世の常で、陽気な男には人望が集まる。

その人望が陰気な同僚に妬まれ、猜疑心の強い上司には危険な存在と映る。

生来陽気な義経には、人望が在り過ぎたのである。

千百八十年(治承四年)の事だった。

兄・頼朝の猜疑心など思っても見なかった義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、洋々と鎌倉の兄・頼朝の下へ向かった。

所が頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経を留め置いている。

天真爛漫に兄を思っていた義経は、この仕置きに困惑する。

満福寺に留め置かれた義経は、この時初めて兄・頼朝の自分への不信を実感、兄頼朝に対し自分が叛意のない事を示す言い訳状(弁疎状・腰越状)を頼朝の側近・大江広元に託している。


「兄上、義経が目通りを願って沙汰を待ち詫びて居ります。会って遣ってはいかがか?」

頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)が、異母弟・義経との仲を取り持とうとする。

「会うは成らぬ、今と成っては義経は疎(うと)ましい存在よ。」

「それでは、兄者の為に戦った義経が不憫(ふびん)です。」

「成らぬ、くどいぞ範頼。政子も会うては成らぬと申している。」

「しかし、姉上も会うてやれば良いにと・・・」

「政子も表向きと本心は違うわ。義経には裏に陰陽修験と帝が付いて居る。わしには信じられん。」

「・・・・。」


義経は、「説明すれば解かってくれる」と、兄を信じていた。

しかしそんな斟酌(しんしゃく)は頼朝には無い。

青春の大半を流人生活で育った頼朝には、肉親の情よりも、強い者への猜疑心の方が強かった。

平家追討に際して目覚ましい働きをした源義経(異母弟)は、源頼朝に取って源氏の棟梁としての自らの立場を脅かす存在に成長していて、頼朝がそれを怖れた事も事実である。

しかも義経の裏には、影がしっかり付いていた。

影の正体は、頼朝に凡(おおよ)そ見当が着く。

弁慶達、比叡山延暦寺の修験者(山伏)は、時に「頼朝のただならぬ敵」となる。

それで平家の始末が終れば、義経は頼朝にとって「脅威の存在」にしかならない。

つまり頼朝は上皇の策略に乗った振りをして義経を取り除き、返す刀で上皇の動きを封ずる積りだったのだ。


渋谷川とその支流に挟まれた台地が天然の要塞と成って渋谷氏の館(渋谷区 渋谷三丁目)があり、現在は金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)と言う神社に成って居る。

渋谷氏の館が築かれたのは、千五十一年(永承六年)に前九年の役での武功により秩父重綱の弟・河崎基家(武蔵国橘樹郡河崎に住む)の孫・渋谷重国に与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄(としまぐんやもりのしょう)の地である。

また金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)は渋谷氏歴代の居城渋谷城址の一部で、千九十二年(寛治六年)に河崎基家(かわさきもといえ)が城内の一角に創建した。

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)の名称の由来は、渋谷常光(金王丸・後に僧籍に入って土佐坊昌俊/とさのぼうしょうしゅん)からとされ、渋谷常光(金王丸)は源義朝、頼朝親子に仕えた武将だった。

土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん/渋谷常光)は源頼朝の命を受けて京・堀川の館にいる源義経に夜襲をかけ、利あらずして逆に討たれた武将である。

土佐坊昌俊は、弟・三上弥六(弥六)家季ら八十三騎の軍勢で鎌倉を出発し、十七日に京の源義経の館である六条室町亭を襲撃する。

源義経の家人の多くは六条室町亭を出払って居て手薄で在ったが、義経は佐藤忠信らを伴い自ら打って出てて応戦する。

そこに源行家(みなもとのゆきいえ)の軍勢も義経方に加わり、敗れた土佐坊昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、九日目の二十六日に家人と共に六条河原で梟首(きょうしゅ/晒し首)にされた。


兄・頼朝が差し向けて来たのは、問答無用の追っ手だった。

「兄上、何故に我心通ぜぬ。」

兄に信じてはもらえぬ源義経は、哀しい運命に天を仰ぎ心中で悲痛な叫びを上げていた。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。


後白河上皇(法王)は激怒していた。

義経が牛若丸・遮那王(しゃなおう)の頃から密かに人(伊勢義盛や弁慶など)をやり育てて来た。

長じて都に戻れば白拍子の「静(御前)」まで与えている。

それが苛立つ事に送り込んだ連中がことごとく義経側に着き、何とした事か上皇(法王)たる自分の意に沿わず義経を思う様には操れない。

義経が「頼りに成らない」と判ると後白河上皇も変わり身が早く、僅か一ヵ月で今度は義経追討の院宣を頼朝に与えている。

平氏からの乗り換えと言いこの乗り換えと言い、後白河上皇は見え見えの調子の良い男である。

さしずめ、こうした信念のない動きを現代の若者に教えれば、「ゴシラカワル(変わり身の早いやつ)」なる造語が、出来るかも知れない。

しかし、現代でもこう言う「処世術」に長けた者は居るので、あながち後白河上皇を責められない。

武力を持たない権力者の「唯一の武器」と言えるものであろう。

勿論、影で助言していたのは土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)を於いて他に無い。

義経に西国武士が味方しなかった事を、「恩賞を与える権利」が、「義経に無かったから」とする説がある。

これも清盛や義仲、そして頼朝にこりた後白河上皇が、その後に力を持たせない様にわざと与えなかったのではないか?

しかし院宣だけでは、義経と縁故の薄い武士までは動かない。

恩賞があるからこそ命を賭けられるのだから、新たに義経に呼応する者は少なかったのである。

まぁ坂東(ばんどう/関東)武士も只のお人良しや「義」のものでは無く、氏族に生まれ育った命賭けの権力志向と所領獲得の執念だった。

出世とは世に出る事である。

世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。

氏族の栄光と破滅は常に決断の中に生まれる。

命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。

つまり所領を得るのは成功報酬で、その打算無くして命など懸けられない。

上皇の方針転換で、天台(台蜜山伏)、真言(真言山伏)などの影の勢力も、これを機に積極支援は出来なくなった。

平家の凋落の過程も木曽義仲の場合もそうだったが、例え日の出の勢いであろうとも、一旦坂を転げ始めると我が身大事で身を呈して転落を止めるものなど居ない。


兆(きざ)しは在った。

兄・頼朝の態度は、初対面の木瀬川宿でも妙に他所他所(よそよそ)しかった。

それも義経にすれば、急の弟の出現に「兄・頼朝が戸惑っている」と解していた。

しかしこの仕打ちからすると、最初から頼朝は我身を「信頼する弟」とは思っていなかったのでは無いのだろうか?

義経は天を仰いだ。


都の盆地には優しい雨が降っていたが、伊勢(三郎)義盛は手酷い憔悴感に襲われていた。

「もはや義経公は、院(後白河法皇)にも見捨てられ申した。」

伊勢(三郎)義盛は、「これは正しい選択だろうか?」と自問自答していた。

父・吉次からは、引き上げの指示が届いている。

しかし例え父の命があろうとも、このいたわしい源家の若武者を見捨てる事など出来ない自分がそこに居た。

伊勢(三郎)義盛は、義経に親近感を抱いていた。

言わば名門の非嫡子(跡継ぎ以外)に生まれ、どう頑張っても世間が認める嫡子には適わない。

そこにある種の無情さを感じて心底義経に傾倒していた。

哀しい事に源義経は、違う世界を知らずに育っていた。

従う伊勢(三郎)義盛も、その氏素性から実は自分の生き方を信じて疑う事はなかった。

「我が殿・義経様は善人過ぎる。この気質はもう直るまい。」

これは、義経に従う者達の共通した思いだった。

「義盛(伊勢)殿、最早(もはや)我らは義経様に付いて行くしかあるまい。」

流石の弁慶が、半ば諦めて義盛に言った。

「いかにも、あの真っ直ぐさにお育てしたは我らじゃ、義経様は生き甲斐じゃで。」

例えその気質が災いで在っても、義経の一本気さは人をワクワクさせる大きな魅力である。

損得勘定も、忠義でもない。

唯、二人とも義経と言う人間が好きなのである。

伊勢(三郎)義盛は、弁慶と共に義経を素直に育て過ぎた事を悔やんでいた。

義経に政治向きの関心を持たせないようにしたのは、父・勘解由小路吉次(かでのこうじよしつぐ)の命である。

自らが野心を持たず、「天皇の親政を武力で一途補佐する将軍を育てよう」としたのだ。

しかしそれが仇になって兄を一途に信じ、疑う事も駆け引きも知らない。

彼はこの「真っ白な青年の為に死のう」と覚悟を決めていた。

もとより、弁慶も同じだった。

ここに至っては、そのくらいの事しか彼らに策は残ってはいなかった。


やがて、義経追討の兵を頼朝が上げる。

流石に、兄思いの義経が頼朝の本心を知り、対決の腹を決めた時は既に手遅れの状態であった。

義経に取ってはとんでもない兄夫婦で、そこまで陥(おとしい)れる事は不条理な事だが、まぁそこまで行かなくても強欲な身内との諍(いさか)いは世間に良くある事かも知れない。

その追討軍が駿河国黄瀬川に達する頃、義経は三百騎余りを率いて京を落ち、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出する。

義経は西国九州の緒方氏を頼って西国武将を集め、兄・頼朝に対抗する計画だった。

所が、落ち目に成ると全てが悪い方に転がって行く。

率いた船団が暴風の為に難破し、義経主従は「乗っていた軍船の沈没」と言う不運も見舞われて兵の大半を失い、摂津に押し戻されてしまった。

これにより義経の九州落ちは不可能と成り、諸国を逃げ回る事しか出来なかった。

義経主従は一時吉野の修験道の寺を頼って潜んだが、そこも永くは匿ってくれない。

この時、義経付きの影達は、上皇の保身の為に修験仲間にも見捨てられたので有る。


しかし兄・頼朝の追っ手に追われて逃げ回るこの時期でも義経に与力するものも現れる。

勘解由(かでの)の草として紀州熊野に土着した郷士集団・熊野雑賀党である。

熊野雑賀党・鈴木氏(すずきうじ)の血筋は、日本に於いて一位〜二位を争う大姓の一つで現在では約二百万人程が名乗り、物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自で神主であり武士である。

熊野別当(くまのべっとう)または熊野三山別当(くまのさんざんべっとう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたった役職で、諸大寺や神宮寺、門跡寺院に於いて、別当・門跡などの責任者に近侍した坊官の中に於ける最高の地位である。


その熊野別当庶流の雑賀衆鈴木党総領家の三男・(三郎)重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い、奥州まで同行して平泉・高館(たかだち)衣川館で源義経と共に討ち死にした事になっている。

まぁ、この鈴木三郎重家の行動も突然と言うのでは無く伏線は在った。

鈴木三郎重家の弟・亀井六郎重清は早くから源義経に臣従して一の谷、屋島、壇ノ浦と処々の戦に軍功建て武名を顕していた。

義経奥州に落っるに及び、弟の「亀井重清が隋行する」と、兄の藤白・総頭領三郎重家に報じた。

それを聞き、鈴木三郎重家は叔父・七郎重善と共に源義経に随行を決意し、逃避行の難に赴いたのである。

所が、叔父の七郎重善は三河矢矧駅にて脚の疾(やまい)に罹(かか)り、そこにて休養中に義経主従の高館戦死を聞き、三河の里人の請うままに「挙母の里」の奥なる猿投山に熊野権現を勧請して仕へ、挙母の里に住み着いたその子孫を三河・鈴木(挙母・鈴木氏)と言う。

もう誰が見ても落ち目の源義経を、それでも支えようとするほど熊野・雑賀党は自由な郷士集団だった。

そしてこの鈴木三郎重家は、平泉・高館(たかだち)衣川館で討ち死にせず、義経の命で生き残り、奥州から蝦夷(えぞ・北海道)の地まで、「義経生存伝説を残し続けた」と噂される人物である。

また、この時鈴木(三郎)重家に同行した叔父の鈴木(七郎)重善は途中三河に至って足を患い義経主従との同行を断念し、(七郎)重善の一族郎党と三河国・賀茂郡の高橋庄に留まらざるを得なかった。

その鈴木(七郎)重善一族が、三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こしている。

三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こした(七郎)重善のその後の子孫・三河国鈴木家は、鎌倉期、建武の親政、南北朝並立、室町期、戦国期、安土桃山期を生き抜いて、三河松平家の家臣として歴史の表舞台に現れる。

この三河鈴木家、三河松平家の臣下武将として家康に臣従し、徳川政権(江戸幕府)誕生に参加して江戸徳川家の譜代旗本として生き残る。

それから二百数十年後の幕末には、数馬家(相模・伊豆・上総・上野に二千四百石)、正左衛門家(摂津・常陸に千二百石)、万次郎家(三河・上総 に千石)の旗本三鈴木家が残り、明治維新を迎えている。

また義経に奥州まで同行した鈴木(三郎)家重の実家、熊野の雑賀衆鈴木党宗家は、鈴木(次郎)重治が継いでいる。

その「鈴木宗家」の子孫が、後の安土桃山時代に大活躍する物語があるが、先の物語のお楽しみにして欲しい。


鎌倉に入った源頼朝は、武士の棟梁として組織化を図る。

従うを家人(臣下)とし、従わぬを攻め滅ぼして全国の武士を武力統一する。

板張りの大広間に多数の丸御座が居並ぶ形に敷かれ、一段高く鎌倉殿の座所が設(しつら)えて在り、名のある御家人達が鎌倉殿から発せられる言葉を待っていた。

源頼朝は、圧倒的な権力の集中に成功しつつ在った。

平安時代に於いては、貴族や武家の棟梁に仕える出仕武士を「家人」と呼んでいた。

征夷大将軍の家人を特に「御家人」と称するが、鎌倉殿御家人の成立は、源頼朝に拠る鎌倉幕府の樹立経緯と密接に関連する。

源氏の棟梁を継いだ源頼朝が平家を倒して天下の実権を握り征夷大将軍の官位を得て鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿(将軍・源頼朝)と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人(鎌倉殿御家人)と呼ぶようになった。

つまり平家と覇を争う初期の頃から、頼朝は自分に従う「家人」を集めていた事に成る。


千百八十年(治承四年)の源頼朝が伊豆で挙兵の際には、元々平清盛に拠って伊豆へ流人とされた頼朝の家人は極僅かで、大半は妻・北条正子の父・北条時政の手勢と流人の地伊豆で知り合った加勢だけであった。

その為父・源義朝の旧家人だった南関東の武士達を「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では累代の認識は無く主従関係は個々に結ぶ習慣であり頼朝に従属しない武士も多く、石橋山の合戦は惨敗だった。

その後頼朝が安房の国で再挙挙兵に成功し、鎌倉に平家に対抗する東国臨時政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入って行く。

そこで後白河天皇(ごしらかわてんのう)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨が利用され、急速に増加した支配下の武士を秩序だって組織化する為に令旨に従って頼朝の支配に入った武士は一律に「御家人」として組織された。

源家の棟梁・鎌倉殿と主従関係を結び、従者となった武士を御家人と呼び、全国の御家人の総数は約四百八十家余りであり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。

鎌倉幕府と御恩・奉公の契約関係に無い「非御家人」の数も多く、非御家人の中には悪党となって幕府や公家・寺社への反抗を行う者も現れた。

御家人には、東国に在住し早い時期から頼朝に臣従していた者が鎌倉殿から直接所領安堵を受ける御家人と、荘園領主たる本所や国司の地位権限を追認した本宅安堵を受ける御家人に分けられる。

鎌倉殿から直接所領安堵を受けた御家人は、地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。

鎌倉幕府成立に武功が在って直接所領安堵を受けた有力御家人は広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる者も在ったが、零細な御家人も含め御家人相互の主従関係・支配関係は厳しく禁じられ、鎌倉殿に等しく従属する家人として身分上は同格として扱われた。

本宅安堵の御家人は、国を単位に編成されて「国御家人」と呼ばれ、大番役(鎌倉警護)への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。

この国御家人を統括するのは守護の任務であり、大番役(鎌倉警護)を催促するとともに大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。

この御家人の名簿に載っているのが幕府認定の武士であり、乗っていない武士は未登録の言わば「まつらわぬ者」で、反政府勢力或いは悪党・野武士の類と言う事に成る。

鎌倉殿・源頼朝がこの守護地頭職(しゅごじとうしょく)の任命権を朝廷から得た千百八十五年を持って鎌倉幕府の成立とする説が、千百九十二年の頼朝征夷大将軍就任時説から修正されつつある。

守護(しゅご)と地頭(じとう)の役割の違いを簡単に説明すると、守護(しゅご)は地頭(じとう)の管理と言う現在の公安部警察権に近い治安維持権限を持ち、地頭(じとう)は現在の税務徴収権や地方警察権に近い権限を持っていた。



十一世紀頃、神仏の由来や縁起を白拍子が新鮮な当世風に歌う、歌謡として登場してきた「今様」と名付けられた楽曲がある。

白拍子は古く遡ると、巫女による「巫女舞が原点にあった」とも言われて、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

巫女が布教の行脚(あんぎゃ)中において直垂(ひたたれ)姿の舞を披露して行く中で次第に芸能を主とした遊女へと転化して行く。

その内に、巫以来の伝統の影響を受けつつ白い薄絹の直垂(ひたたれ)を着て遊女が舞う「男装の男舞」に長けた者を指して言う様になった。

白拍子は院政期(平安時代の後期から鎌倉初期)に最も活躍していた遊び女で、その「今様」を歌いながら、そして白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)と言う男装で、男舞と呼ばれる舞を舞っていた。

勿論、殿方を誘惑する事が仕事であるから形は男装だが、そこは遊興の酒席、相応の色気が必要で、衣装は裸身が透ける当時としては相当高価な薄絹が用いられていた。

白拍子は遊び女と言っても、基本的に上流社会の男性を相手にしていたから、当時としては相当高度な知識を持っていた。

同時に床技(性技)にも長けて居なければならない白拍子を、「誰が育てたのか」、考えた事があるだろうか?

殿方に心地良い存在として、心身ともに育てられた女性である。

そこに存在するからそれを認めれば良いのではなく、裏に何があるのかを見極めなければならない。

白拍子が何故育成され、何がターゲットに成ったのかを考えると、背後に影人の存在が見え隠れする。

そう、諜報機関としての影の存在が、「特殊任務を帯びた女性を育てた」とも考えられるのだ。

その白拍子で、義経に愛されたのが静(御前)だった。

義経は、戦勝凱旋の華やかな見た目とは裏腹に、苛立ちを抱えていた。

そんな時に出会えたのが静御前である。

実の所、白拍子・静(しずか)には高位の権力者の相手が出来るだけの教養と芸妓術、性技術が備わっていた。

若い義経には、今まで出会った事の無い新鮮な女性に見え、彼はそれにコロリと参ってしまった。

静御前の性格は優しく何事も受動的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れていた。

白拍子として余程仕込まれているのか、多分に被虐的性交を好み、何時も義経の好みに攻め立てられる事で快感をむさぼった。

彼女が最も好みとするのは、後背位で後ろから激しく攻め立てられる事であったが、それが受身な性格の彼女の性癖に合っていた。

男女の中とは上手く出来ているもので、義経は老獪な帝と兄の板ばさみ感の苛立ちを静御前との強烈な睦事に逃げ込む事で、日常から救われていた。

静にしてみれば、義経は客の域を超えて好いた始めての相手だった。

義経は「静御前に愛されている」と確信し、彼女を愛した。そうした二人の間の関係が、互いに快適だったのである。

静御前の母は礒禅師(磯野禅尼)と言い、讃岐出身説があるが、白拍子が、陰陽師の諜報機関となれば、大和国(奈良県大和高田市磯野)出身が正しいと思われる。

一説には、静御前の母は礒禅師が「白拍子の祖」と言われているが、初期の育成メンバーの一人だったのが、義経に付随して娘の静御前に脚光があたり、評価が上がったのであろう。

妾の静御前は当初逃亡に同行して四国などにも行ったが、紀州の吉野辺りで捕まって母の礒禅師とともに鎌倉に囚われの身と成り、鶴岡八幡宮の回廊舞台で、頼朝の前で舞を舞わされる有名な話が有る。

挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。

話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。

工藤祐経(くどうすけつね)は若い頃に都で平重盛に仕え、歌舞音曲に通じて鼓(つづみ)を打ち、白拍子舞の今様を歌う名手である。

頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。

後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。

元々武士の素養とされる言葉に「武芸百般」がある。

この「武芸百般」の意味に於いて、武芸を武術と同じ意味に取り違えているから、思考に始めから錯誤が生じる。

後の世において、芸を「軟弱なもの」と決め付ける先入観がこの錯誤を作ってしまった。

本来、「武芸」の「芸」はあくまでも「芸」で、およそ武士たる者は歌いの一声、舞の一指し、鼓(つづみ)の一打ちも「たしなむ」のが素養とされていた。

その素養意識が、武士のルーツである垣根の無かった神官・神事に通じる神楽舞から「連綿と続くもの」だからである。

すなわち、無骨者では「神の支援が得られない」と言う既成概念が残っていて、無芸の者は「リーダー足り得る要素に欠ける」と言う評価が残っていた。

文武両道、武芸百般の超人が、この国では氏上(氏神)から続くリーダーの理想像なのである。

従って教養豊かな武人こそ尊敬され、武人の「芸」は、磨くべきものだった。

この鶴岡八幡宮の「静御前の舞のエピソード」は、義経逃亡の翌年の事である。


村岡五郎・平良文の孫に、秩父平氏の祖である秩父(平)政恒が居り、その秩父平氏の一党に河越氏がある。

つまり、源義経の正妻「玉御前(仮名)」の父は、坂東平氏流(秩父平氏)・河越氏で、河越(平)重頼を名乗り家紋は九曜紋である。

この河越氏一族、頼朝の命令で娘(仮名・玉御前)を義経と結婚させたのだが、親や領主などに決められた政略結婚でも、ともに生活すれば愛情は育つ。

最初から「嫌だ嫌だ」と思い込んでいない限りは、「情」は結婚後の生活の中で充分に育つ。

それは愛の育たない結婚も有ったのだろうが、それは現代の自由恋愛でも同じ事で、きっかけがその先の人生を支配するものではないのである。

その後頼朝と義経が対立し頼朝が義経追討令を発した時、不幸な事にこの時頼朝の脳裏を掠めたのは自らの経験である。

妻方の北条(平)家の後押しで再起を果たした頼朝にとって、義経の妻(正妻)が河越重頼の女(むすめ)であるからには河越氏一族が義経方に寝返り、何時自分の寝首を欠かないとも限らない。

頼朝は重頼に娘の離婚を命じて河越一族の忠誠を試そうとするが、肝心の娘は鎌倉に戻らない。

正妻「玉御前(仮名・河越重頼の女・むすめ)」は、義経を「憎からず」と思ったらしく、後に義経が頼朝から終われる身に成っても父親の命に逆らい親元には帰らなかった。

それで河越重頼(かわごえしげより)を始め河越一族が頼朝の勘気にふれ、一族は処刑されている。

猜疑心の塊(かたまり)のように育った頼朝にすれば、「禍根は断つべき」だったのである。

当時の娘は、一般的に生家の方(親の在所)を大事にする時代だから、河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)は余程義経を愛したのであろう。


何時の間にか晩秋は過ぎ、初冬の吹き降ろしが始まって白いものが「ハラハラ」と舞降りて来た。

雪は、追っ手から身を隠してくれる。

義経は僅かな手勢を連れて豪雪の奥州路を前屈みに進み、育ての親とも慕う藤原秀衛(ひでひら)の下を目指した。

吹雪の中、みの傘を飛ばされないように凍える左手で押さえながらの行軍である。

しかし、まだ希望は有った。義経は、秀衛(ひでひら)とは「育ての親同然の気持ちが互いにある」と確信していたのだ。


男女の中など、想っているほどそう難しいものではない。

元々男女の中など知り合うまでは他人であるから、その知り合い方が例え今と違って他人から強制されたものでも、いざ夫婦(めおと)になって一緒に暮らしてしまえば「情が湧く」と言うものである。

深く愛し合う者達が現れても、何の不思議もない。

玉御前は潜行して奥州に落ち延びる義経に途中で追いつき、奥州藤原家の元まで同行した。

本来、男女の仲は「共に生きる事」で絆が深くなるものである。

若い娘にとって、連れ合いには「白馬の騎士を夢見る」と言う気持ちに、今も昔も変わりは無い。

元々義経とは十歳ほど歳が違うが、男女の事は当事者が決める事で、その男女の感情に玉御前が行き付いたのである。



先ほどから褥(しとね)の傍らに身を横たえて、微かに寝息を立てている玉(御前)が義経は愛しかった。

この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

それ故男女の営みは激しいものになる。

玉(御前)との嵐の様なひと時など、既に夜のしじまの中に掻き消えている。

玉(御前)は、親兄弟の説得も身の危険も何もかも振り切って草深い陸奥(みちのく)まで夫(義経)を追って来た。

見かけより遥かに芯の強い女子(おなご)だった。

肉親を見捨てても、愛する夫とともに生きる道を玉御前は選んだ。

それはこの時代の女性としては珍しい純真な覚悟で有り、愛の形かも知れない。

やがて河越の一族が頼朝の怒りに触れ、「討ち取られた」と知らせがもたらされても、玉(御前)は気丈に振る舞い、弱みを見せ号泣したのは二人きりに成ってからだった。玉(御前)は泣きながら義経にすがり付いて、そのまま二人は睦事に縺れ込んで行った。

獅子奮迅の働きから、急に開放された。

気持ち良く戦っていたのに、その先の情景が、突然無くなった。

義経は、続きを知りたい欲望に駆られたが、夢の続きは無かった。

この期(ご)に及んでも、忘れられるものではない。

義経が夢に見るのは兄・頼朝だった。

不思議な事に、夢の中の頼朝はいつも上機嫌で笑っていた。

見る夢は、過ぎし時の熱く胸躍る愛しい日々だった。

夢の中で自分は、兄・頼朝の敵と必死に戦っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい埋め合わす事の出来ない現実が、義経の胸を過(よ)ぎる。

何故か、まだ兄を愛している自分がいた。

「兄者(あにじゃ)、何故にこの義経を信じ申さず?」

陸奥(みちのく)での平和な日々は二年ほど続いて、しばらくは玉御前なりに幸せな日々を送っていた。

玉御前はやがて義経の子を産み、最後は義経と伴に衣川館で藤原泰衡の奇襲に合い、自刃前の義経の手にかかって母子伴に義経と運命を伴にしている。

玉御前は僅か五年間の結婚生活を、けなげに生きたのだ。

義経逃亡から四年の歳月が過ぎていた。


奥州藤原家は三代に渡って東北地方一帯を支配し、さながら独立国家の様に栄華を極めた。

その名残が、平泉の中尊寺にある。

泰衡は、その四代目に成る筈だった。

それが老獪な頼朝夫婦に上手く騙され、罠に嵌められて滅ぼされてしまった。

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

源頼義が源氏の棟梁として、東北・奥州の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任し、清原氏(後の藤原氏)と組んで安倍氏を滅ぼした事に始まり、奥州藤原家の成立に河内源氏は深く関わっていた。

言わば義家源氏流は、奥州藤原家の生みの親に等しかった。

「後三年の役」の後、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。

この清衡が、領有した奥州全域の富を背景に時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。

奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家の誕生である。

その後藤原家は、基衛(もとひら)、秀衛(ひでひら)と続き、秀衛は「鎮守府将軍」に任官する。

その奥州藤原家最盛期の頃、鞍馬山を抜け出した源義経が、平家の目を忍んで秀衛を頼って来たのだ。

そして、息子同然に扱われて頼朝旗揚げの日まで過ごした。

時が移り、平家討伐の後、義経が兄頼朝に追われて、育ての親である奥州藤原家の秀衛(ひでひら)の元に逃げ込んで来た。

当時奥州藤原家は三代目秀衛の代で、長く安定した奥州の統治を続けた為、地方の豪族と言ってもまるで独立国家の様に勢力が強く、いかに源頼朝としても容易く手は出せない。

莫大な資力と兵力を蓄えた奥州藤原家と、戦闘の天才・義経が結び付いたのである。

秀衛にとって義経は我が子同然に可愛い、「優秀な息子が戻って来た」と言う思いにかられ、自分の後の奥州運営を義経に任そうと思った。

惜しむらくは、秀衛の息子、世継の泰衛(やすひら)と妾腹の庶兄、国衛(くにひら)には頼朝に対抗する技量が無かったのである。

それで秀衛は義経を主君とし、二人の息子に義経に仕える様に遺言を申し付ける。

藤原秀衛が病で亡くなったのは、義経が奥州に逃げ込んで一年後の事である。


最初は、泰衡も父の言い付けを守っていた。

しかし、秀衛が亡なって二年間も上皇の義経追討の院宣を盾に、頼朝に脅かされ続けると、泰衛は頼朝の圧力に抗せず、頼朝の命令を守れば、「奥州藤原家を存続させてくれるだろう」と信じた。

藤原泰衡は、遂に配下の長崎太郎に義経主従を闇討ちで衣川館に襲撃させ、義経を自害させる。


高館(たかだち)は北上川の支流・衣川の辺(ほとり)、中尊寺の東南にある丘陵の呼び名であるが、そこの屋敷も高館或いは衣川館と呼ばれ義経主従の住まいに成って居た。

「義経記」や「吾妻鏡」を総合すると、千百八十九年(文治五年)源義経主従が平泉衣川の高館(たかだち・衣川館)において藤原泰衡の家臣・長崎太郎の軍勢五百騎に囲まれた。

僅か五百騎だったが、衣川館の義経党はそれで足りる小勢だった。

その時義経に従うは百戦錬磨の兵(つわもの)で在ったが、戦えるのは武蔵坊弁慶、伊勢義盛(いせよしもり)、片岡八郎、鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟、鷲尾義久(わしおよしひさ)、増尾(ますお)十郎、備前平四郎(びぜんへいしろう)の八人だった。

それに正室(仮・玉御前)の老傳役(ろうもりやく・六十三歳)の増尾十郎権頭兼房(ますおじゅうろうごんのかみかねふさ)と、従者・喜三太(きさんた)の二人を加えても僅か十人の総勢で、如何に義経党と言えど、五百騎相手に十騎ばかりで勝ち目など最初から無かった。

夕暮れ時の、突然の事だった。

まだ暗くなるには一刻程はあるその日の衣川館は、長崎太郎の藤原勢五百騎に蟻の子一匹通さないように十重二十重(とえはたえ)と包囲されていた。

「ワァー」と時の声が上がり、寄せ手は一時に襲い掛かって来た。

不意を喰らった義経主従は、僅(わず)かな手勢ながら歴戦の兵(つわもの)で、追っ取り刀で防戦する。

備えがないから義経一党は防戦一方で、先が知れていた。

「おのれ、泰衡(藤原やすひら)め裏切りおって。」

弁慶の叫びにも似た、無念そうな声が聞えてきた。

寄せ手が「味方の筈の藤原勢」と知って、義経は覚悟を決めていた。

ここを逃れても、最早(もはや)兄・頼朝の追ってから逃れて身を寄せる所はこの大八州(おおやしま)には無い。

「殿、此処は我らが防ぎます。どこぞに落ちられよ。」

「おぉ義盛(伊勢)か、最早(もはや)これまでじゃ、逃げも隠れもせぬ。世話になった。礼を言うぞ。」

「何んの、拙者も地獄までお供いたす。」

哀しいかな源家の九男坊に産まれた事で、遮那王(しゃなおう・源義経)は、幼い頃から運命(さだめ)に立ち向かう気力を持たされて育っていた。

一瞬の分れ目が、運命を決する。義経は、この期(ご)に及んで美を取った。

藤原泰衡の裏切りを知った義経は、寄せ手と何度か切り結んで「弁慶世話になった。これで幕引きじゃ。」と叫んだ。

武蔵坊弁慶以下八人の兵(つわもの)が藤原勢と斬り結び皆義経を守って次々に討ち死にして行く。

「此処は通しませぬ。殿は館内(やかたうち)で御最後を・・・」

弁慶が寄せ手を防いでいる間に義経は館の奥に戻り、正室(仮・玉御前)と子供は義経の手に掛かって果て、義経も自刃して波乱の生涯の終焉を迎えた。

館に火が放たれ、紅蓮の炎が上がっていた。

源義経の生涯は帝の思いに仕組まれ、翻弄された不条理なものだった。

それでも義経は、短いが確かな愛の時間にもめぐり合っていた。

その時確かに、純粋過ぎた義経の人生の一時は花火の様に一瞬美しく輝き、そして儚(はかな)く散って消えた。

その消え行く花火の残像を求めたのが、東北から蝦夷(えぞ)までの義経逃避行伝説、果ては大陸渡航にまで到る義経ジンギスカン伝説かも知れない。

源義経が栄光と挫折の試練を越えて、その先に見た物はいったい何んだったのか?



胸騒ぎがした。

何者か知らぬが、恐ろしく強力な鵺(ぬえ)がこの世にいる。

藤原秀衛が亡く成った事で既にあきらめてはいたが、勘解由小路・吉次(かでのこうじよしつぐ)は義経に付けた三男・伊勢(三郎)義盛の身が案じられた。

空に浮かんだ月は三ケ月と言う奴で、細く頼りなげで物悲しく何かを失いそうな恐怖が勘解由小路・吉次を身震いさせた。

伊勢(三郎)義盛は、父・吉次の命で伊勢から鞍馬山に遣って来た。

まだ子供ながら、豪胆で俊敏な若者、「遮那王(しゃなおう)」がそこにいた。

間違いなく初めて会った相手なのに、伊勢(三郎)義盛はこの若き貴公子遮那王(しゃなおう・源義経)と以前から長い事一緒にいた様な気がして何故か血が騒いだ。

その思いは、伊勢(三郎)義盛が衣川館で討ち死にするまで終始途絶える事無く続いていた。

源義経の日常が安らぎの中に在ったのは、玉御前との奥州での僅かな日々のような気がする。

義経は、自分の役目が終わった事を承知して心穏やかな気分に成っていたのだ。


源義経は時代に翻弄された自らの短い人生を正面から受け止めて、それについて不服は最後まで言わなかった。

例えそれが不条理でも「現実」と受け止めて、余分な事を考えない。

底抜けに純真だった。
,br> その潔さが、「伊勢(三郎)義盛に命を賭けさした」と言って過言で無い。

結局の所、鞍馬山で僧侶に成り安穏と静かな日々を送る筈だった義朝の九男・遮那王(しゃなおう/源義経)に目を付け「利用し様」と画策して教育係りまで着け、世間に連れ出した「政治勢力が在った」と言う無情な政争が切欠である。

生き方が変わった遮那王(しゃなおう/源義経)に取って、権力の狭間で翻弄されたそれが、幸せだったかどうかは今となっては判らない。

義経の首は鎌倉に届き、これで泰衛が「奥州藤原家は安泰」と思ったのは、つかの間の事だった。

勘解由小路吉次は、奥州に放っている手の者からの知らせで、息子の伊勢(三郎)義盛が衣川館で主君の義経と伴に討ち死にした事を知った。

「これで、頼朝を抑える手立ては失った。」

万策尽きたのだ。

しかし息子の伊勢(三郎)義盛が密かに鈴木(三郎)重家に密名を与え、逃がした事を知った。

吉次は、込み上げて来る無念の思いをそっと抑えた。

吉次は実直豪胆な男で、部下思いだった。

しかし帝の命令は絶対であったから、数多い犠牲にも目を瞑っていた。

また、そう言う生き方しか出来ない悲しい集団を率いていた。

「時が来れば、皆をこの境遇から外して自由に暮らさせたい。」

吉次は呟いていた。

頼朝にしてみれば、十倍の敵でも倒し得る「戦闘の天才義経」がいたからこそ躊躇していた奥州攻めが可能に成ったのだ。

何しろ名高い義経が相手に居ては、頼朝の軍勢が最初から腰が引けてしまう。

しかし奥州の治外法権的勢力を認めていては、頼朝の天下は完成しない。

その奥州藤原家の命綱(義経)を、「頼朝に騙されて」泰衛は殺してしまった。

最初から頼朝が奥州を狙っている事を知っていた秀衛と、ぼんぼん育ちの泰衛の甘い読みの違いだった。

「しめた」とばかり頼朝は、朝廷に奥州討伐の院宣(いんぜん)を願い出て、それが届くのを待たずに大軍を率いて奥州に攻め込み藤原軍を撃破、泰衛は部下の裏切りで殺され、奥州藤原家は滅亡する。

尚、この源頼朝(みなもとよりとも)の奥州討伐の際、源義経(みなもとよしつね)の郎党として活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟の父・佐藤基治(元治)は、信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族を率いて石那坂に陣を敷き防戦するも敗れて所領の信夫(しのぶ)逃げ帰る。

信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族は、赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが、南北朝期に惣領家伊勢へ移住する一方、分家や庶流の一部が故地・信夫(しのぶ)周辺に残り、相馬氏、佐竹氏に仕えて永らえ、幕末には陸奥白河藩の代官となっている。


奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地である。

その平泉に在る奥州藤原氏三代ゆかりの菩提寺・中尊寺は天台宗東北大本山で、台密修験の奥州(東北)の本拠地としての側面も存在した。

中尊寺は八百五十年(嘉承三年)に慈覚大師に拠って開かれし後、「藤原氏初代・清衡が再興させた」と伝えられている天台宗の寺で、本堂には開祖・伝教大師(最澄)が比叡山で点火した「不滅の法灯」を分け移した火が燃え続けている。

源頼朝は藤原泰衡を脅して腹違いの弟・義経を討たせ、その後大軍を送って奥州藤原氏を滅ぼした。

藤原泰衡を攻め滅ぼすと、奥州藤原氏の栄華を極めた平泉の金ぴか中尊寺(金色堂)の噂を聞いていた頼朝は早速奥州藤原氏の隠し金山を探させるが、幾ら探しても見つからない。

奥州には、「さぞかし立派な金鉱が在る」と思っていた頼朝は空振りを喰ってガッカリした。

奥州に藤原氏の隠し金山は無く、奥州藤原氏は金を買っていたのだ。


正確に言うと、平泉の太平洋側に在る北上山地には砂金が採れる北上川の支流が相当に在った。

だが、その砂金は独自にアジア当面と交易して高価な木材紫檀や象牙を輸入したりで、中尊寺金色堂などを造営している。

また、金売吉次と言う都の金商人に売り渡したりで藤原清衡、藤原基衛、藤原秀衛の三代に採りつくしていた。

砂金を採り尽した後の藤原家は、アジア当面と交易して手にした高価な木材紫檀や象牙を売り捌(さば)いて、金売り吉次と取引していた。

げんに平安期から現代に到るまで、奥州からはめぼしい金山の存在は確認されては居ず、金の出所は北上支流の砂金だけだった。

中尊寺は天台宗、つまり台密修験の奥州(東北)の本拠地でもある。

そもそも、金鉱であろうが銀・銅・鉄であろうが、元々鉱山の探索や開発従事は修験道の守備範囲で守備範囲である。

修験道の流れは賀茂・勘解由小路が帝の手足となる裏・陰陽寮の守備範囲とくれば、源義経を奥州藤原家に逃れさせた「金売り吉次」が、陰陽修験と関わりがあっても不思議ではない。

推測するに、「金売り吉次」こと勘解由小路・吉次の売っていた金の出所は、伊豆の「帝の隠し金山」に違いない。

つまり、帝の軍資金調達に「帝の隠し金山」の産金を預かって奥州藤原氏に売っていたのが勘解由小路・吉次だったのである。

源義経が青年期を藤原秀衡の庇護の下に育ち、長じて兄・源頼朝の追っ手から逃れて奥州平泉に逃げ込んだ経緯の裏に在ったのが、勘解由小路・吉次の奥州藤原氏との縁(えにし)無くしては「辻褄が合わない話し」なのである。



「前九年の役」で源頼義に滅ぼされた安倍氏で有るが、枝の一部が生き残って国人領主にまで復活、鎌倉時代から室町時代まで、領地のいざこざを起こして戦った記録がある。

奥州(東北地方)の虐げられた長い歴史に於いて、僅(わず)かに光の見えたのが、藤原三代の百年間である。

その後はまた、外からの権力者がやって来ては、蝦夷(エミシ)の子孫達を七百年間虐げ続けて明治維新を迎えるのだ。

時の変遷を受けての「日本人単一民族」は認めるが、天孫降(光)臨伝説の昔から、「大和単一民族」と言うのには無理が有り過ぎる。

政治はともかく、東北地方の「経済的劣勢」は、今に於いても続いている。

日本の戦後の「高度成長期」を下から支えた多くの集団就職組を、東北地方が排出した事を、忘れてはならないのだ。



武士として軟弱だった源頼朝を弁護するが、彼の経験と育ち方からすると、それも止むを得ない。

彼は父義朝に従い、十四才で初陣した平治の乱で平家に敗れて捕らえられている。

命は助けられたが囚われ人として監視下に置かれ、周囲に修験の兵法武術指南が居た弟・源範頼(みなもとのりより・蒲冠者/かばのかんじや)や弟・源義経(牛若丸・遮那王)と比べて源頼朝は流人の生活が長く、武門の棟梁としての兵法武術(剣術修行や戦術習得)の類を学ぶ機会は奪われて育った。

ちなみに、弟・範頼は武蔵の国石戸の反平家系の関東平氏に匿われ、異母弟・義経には強力有能な修験山伏の軍事顧問団が付いて武術戦術を教えていた。

初陣の「平治の乱」で破れた上に、清盛打倒の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」でもあっけなく敗れている源頼朝が戦に自信が無くても仕方が無い。


頼朝の実戦の思い出は惨憺たるものである。

彼が経験したのは「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し破れて伊豆に流人に成った事と、「石橋山の合戦に敗れた」と言う二つの負け戦で、これでは頼朝が戦にはからきし自信が無くて当然である。

そう成ると頼朝の戦は、知恵を絞った陰湿な諜略(ちょうりゃく)・謀略(ぼうりゃく)の類に成る。

猜疑心の強い男だからその戦、極めて繊細・周到なものに成りそれが思いの外に天下取りに有効だった。


弟・範頼と異母弟・義経を使い平家を壇ノ浦で滅ぼし、人気の高い弟義経を逃げ込んだ奥州藤原家に殺させ、その奥州藤原家を滅ぼすと頼朝の最初の挙兵から十年の歳月が過ぎていた。

この天下取りの間、頼朝が内心何を感じているのかは誰にも判らなかった。

危険(リスク)を避ける生き方も批判は出来ないし、危険を冒しても大きな果実を得る(ハィリスク・ハイリターン)の選択肢もある。

打つ手の全ては、頼朝の腹の中にしまわれて居た敗戦経験からの周到な閃(ひらめ)きだった。

負け戦ばかりの体験で怖い思いばかりした源頼朝だったが、怖いからこそ慎重に知恵を絞り天下に辿り着いたのかも知れない。

怖い経験は学習の基で、勇猛果敢は見掛けは良いが慎重さに欠ければそれだけリスクが伴う。

実は、後に室町幕府を開く足利尊氏も江戸幕府を開く徳川家康も、怖い思いの負け戦を経験しているのだが、その話しは追々その時代に詳しく紹介する。

ただ今言える事は、現代の再起劇にも通用する事だが命さえ永らえれば挫折経験も幸運の内である。

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の各創始者・源頼朝、足利尊氏、徳川家康には共通する負け戦の経験がある。

つまり負け戦の経験が慎重さを身に着けさせ、その経験が生かされて彼等は「天下人に成れた」と言えるのである。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は父・源義朝に従った「平治(へいじ)の乱」で平清盛に破れ、伊豆韮山に流されて不遇の青年期を過ごした。

その後頼朝は伊豆の国・三島大社で旗揚げをするが、「石橋山合戦」で大庭景親(おおばかげちか)に破れ、命からがら逃げ隠れている所を平家方の武将・梶原景時(かじわらかげとき)に助けられて一時海路で安房国・下総国に逃げ延び、以後は何時も後方に在って戦には出陣していない。


後世に室町幕府を開いた足利尊氏の場合も、そこで意地を張っていたら命を落としていた負け戦の経験がある。

後醍醐帝の建武政権に叛旗を翻す事を決意した尊氏は、新田義貞軍を「箱根・竹ノ下の戦い」で破り京の都へ進軍を始めると同時に京都進軍の正統性を得る為に後醍醐帝に対立するもう一方の皇統・持明院統の光厳上皇へ連絡を取り大儀としてして軍を率いて入京、後醍醐帝は比叡山へ退いて尊氏は都を制圧する。

だが、ほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の連合軍との「京での戦い」は劣勢で、これに敗退して赤松円心の進言を容れて九州に下っている。

江戸幕府を開いた徳川家康の場合は、武田信玄を迎え撃った「三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)」の大敗若さを露呈した経験で、それこそ敗走する馬上で脱糞する恐怖を味合っているのである。

家康は「三方ヶ原合戦大敗の経験」を生かして以後の戦は周到な用意をした上で戦いに臨んでいる。

敢えて言えば、天才武将・織田信長にはそれほどの負け戦体験が無かった所に慢心が生まれ、彼は天下に手が届か無かったのかも知れない。

そんな訳で源頼朝の「武将にあるまじき臆病」が、案外彼の天下取りの秘訣かも知れない。

つまり後の大衆がヤンヤの喝采をする様な武勇伝は、見かけは痛快かも知れないが所詮は娯楽の世界だけの物語である。


乗馬に於ける遅駆けの事を「地道(じみち/なみ足)」と言い、対する早駆けの事を「早道」と言う。

この乗馬方法から転化した「地道に〜をする」と表現する語源で、急がず安全慎重に努力を積み重ねて事に進む意味を表している。

また、「地道」から派生した言葉に「地味」が在り、に「地味」対する言葉としては「派手」がある。

つまり源頼朝は「地道」に徹して戦に出ず、「派手」な戦の総大将には弟の源範頼(みなもとのりより)と腹違いの弟・源義経(みなもとよしつね)を充てた為に、武将としては「地味」な存在だった。

石橋山の合戦の失敗以来、根回しに根回しを重ね慎重に事を運んだ頼朝も、いよいよ自分の天下に確信を持つ日が訪れる。

この年、頼朝は大軍を率いて悠々と上洛する。実質的に、首都(京都)を完全掌握し実権も握ったのだ。


頼朝は軍事力を背景に、諸国に守護・地頭を設置する事、自分の遠縁にあたる親源頼朝派の九条兼実を摂政(せっしょう)に任じさせる事、「議奏」公卿制度導入などの要求を認めさせた。

権中納言であった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)も議奏公卿に選ばれたものの、この改革が「武家政権樹立」への頼朝の野望の第一歩である事に気付いて憂慮した。

通親(みちちか)は早めに手を打とうと法皇に上奏(勧めて)、これらの改革を有名無実化させる事に成功し、千百八十八年(文治四年)には源氏長者に任じられ、その翌年に土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は正二位となった。

そして、千百九十年(建久元年)、頼朝が征夷大将軍を望んだ時も法皇と通親(みちちか)は頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわしている。

この土御門通親の老獪さのおかげで、頼朝の征夷大将軍就任は後白河法皇の崩御まで待たねば成らなかった。


平安時代末期から鎌倉時代初期、この政情不安定な歴史の変革期に、宗教界では新しい仏教の一派が天台宗から分かれて芽吹いていた。

後に一向宗(浄土真宗)の基となった親鸞(しんらん)の師、浄土宗の法然(ほうねん)が現れ、精力的に布教を始めている。

法然(ほうねん)は、美作国久米南条稲岡庄に生まれる。

父親は漆間時国(うるまのときくに)と言う久米郡の押領使(おうりょうし・任命された土地の治安維持権限者)だったが、法然(ほうねん)九歳の時に稲岡荘の領所・明石定明の夜襲を受け深手を負い、その時の傷がもとで落命する。

漆間時国(うるまのときくに)はその臨終に際して子・勢至丸(法然/ほうねん)に復讐の無益である事を聡し出家するように遺言した。

九歳の法然(ほうねん)は父の遺言に拠り出家し、十三歳で比叡山に登る。

法然(ほうねん)は多くの先達の教えを請い、修行の末四十三歳の時に阿弥陀仏の本願の真意感得し、浄土宗を開く。

阿弥陀仏の本願「全ての者を等しく救おうとする仏の慈悲」を信じて、「南無阿弥陀仏」と唱える事により救われる事を教えている大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を教えとした浄土宗(じょうどしゅう)は、千百七十五年(承安五年)に開祖・法然上人によって開かれた。

南無とは「おすがりします」の意味で、「阿弥陀仏におすがりします」と解されている。

阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では釈迦の別名で、仏陀も同じ意味である。

浄土宗の総本山は宗祖・法然上人が草庵を営んで後半生を過ごし没した縁(ゆかり)の地東山吉水(よしみず)を起源として建てられた寺院が、京都市東山区林下町に在り、智恩院(ちおいん/華頂山智恩教院大谷寺)と呼ばれている。

この教えが、権力者より民衆を救い、「拠り所」とする為の教えだったので、庶民の間で急速に広まって行った。

辻説法から始まった法然(ほうねん)の教えは、やがて来る南北朝の混乱、戦国期の混乱を経て、民衆に支持される一向宗(浄土真宗)へと昇華して、正面から氏姓制に対抗する庶民の大勢力に育って行く。

血統や身分に関わり無く「人は皆平等」と説くこの法然(ほうねん)の存在は、血統を重んじた当時の社会体制には恐ろしく異端であった。

しかし、次第に民衆の中に浸透して行った処を見ると、庶民はけして体制に甘んじていた者ばかりでは無かった事になる。


後鳥羽天皇の宮廷には二人の有力な后がいた。

九条兼実の娘である中宮藤原任子と通親の側室・藤原範子の連れ子で通親(みちちか)の養女であった女御「源在子(源通親の養女能円法印の女)」である。

千百九十五年(建久六年)、在子が為仁親王(ためひとしんのう/後の土御門天皇)を生むと、この勢いを背景に兼実の政敵である近衛基通や故後白河法皇の近臣達と組んで親源頼朝派の九条兼実(くじょうかねざね)排除に乗り出した。

そして、頼朝や大江広元ら鎌倉幕府要人との和解に成功した通親(みちちか)は、千百九十六年(建久七年)冬、に兼実不在のまま朝議を開催して基通の関白任命を決議、鎌倉寄りの九条兼実の失脚を確定させた。

二年後、天皇家の統治権(親政)に最後まで拘った後白河上皇が崩御、重石が取れた頼朝は、朝廷より「征夷大将軍」に任じられる。

千百九十二年(建久三年)に後白河法皇が崩御すると、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はその独特の計算から、態度を一転して摂政・九条兼実が提案した頼朝への征夷大将軍任命に真っ先に賛同して、頼朝への「貸し」を作っている。

この辺りが、信念だけでは権力の中で生き残れない「政治家の処世術」と言えばそれまでだが、とどのつまりは庶民が望むような「純粋な者は生き残らない」言う事を歴史が証明している。

裏を返せば、この「二枚舌三枚舌の老獪(ろうかい)な者しか権力に留まれない」と言う点で現代に通じ、清廉な政治家や官僚は見てくれだけの「まやかし」と言う事である。

後白河法皇の死後、彼の娘である覲子内親王(宣陽門院)の後見に通親(みちちか)が任じられ、その莫大な財産の管理を命じられるなど、法皇死後もその政治的基盤の確保は怠る事はなかった。


武門として天下を掌握した源頼朝は鎌倉に幕府を開き、守護地頭制を確立して鎌倉幕府の有力御家人を各地に守護職・地頭職として任用配置し、全国に権力が及ぶ様にする。

「鎌倉殿」が、鎌倉幕府・朝征夷大将軍に叙任された源頼朝の呼称だった。

中央官僚には侍所(さむらいどころ)別当(長官)や政所(まんどころ)別当(長官)を置いて御家人を管理させる。

この鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)は梶原景時だったが、政所(まんどころ)初代別当(長官)は源頼朝の側近実務官僚・大江広元である。

その大江広元の四男・大江季光の子孫が安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主となり、毛利元就が出て戦国大名に成長、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導している。

この源頼朝の征夷大将軍叙任以後、征夷大将には「源氏の長者(統領)」が就任するものと格式化され、形式上も含め、以後の室町・徳川、両幕府まで続く事になる。


源頼朝の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常で、源義経主従の様に平家を滅ぼした本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。

源範頼(みなもとのりより)の運命もそんな所で、頼朝の将軍叙任後、頼朝夫婦はもう一人の弟・範頼に難癖を付けて殺し、有力な御家人にも同様な嫌疑を掛けて反逆の憂いを次々と取り除いて行く。


源範頼(みなもとのりより)は、頼朝の同腹の兄弟で、腹違いの弟・義経の兄である。

幼少の頃の名を、蒲冠者(かばのかんじや)と言う。

源氏の棟梁としてトップに在った頼朝と、腹違いながら末っ子で派手な戦(いくさ)ぶりの義経の陰に隠れて、世間では存在が薄いが、実は、中々の人物である。

父・義朝の平治の乱敗戦のおり、幼かった為に助命された蒲冠者は身の置き所を求めて監視の目を盗み、遠州(今の静岡県西部)から源家の昔からの地盤、関東に脱出する。

蒲冠者は武蔵の国石戸(今の埼玉県・北本市付近)辿り着き、秘密裏に源氏に味方する人々に出会ってそこに安住する。

この時に集って来た範頼の家臣郎党の中に、義経と同様に勘解由小路党の手の者が密かに紛れ込んでいた。

彼らの目的は義経とほとんど変わらなかったが、何故か義経ほど大物は派遣されなかった。

二十年の歳月が流れ兄頼朝が挙兵、範頼は呼応して頼朝軍に鎌倉の地で合流する。

頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。

範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。

その手腕は、義経のはなばなしい戦闘の影に隠れてはいるが、けして弟には引けは取らない。

それ処か、大軍の統率力は義経より遥かに秀でている。

当然だが、勘解由小路党の軍事顧問団が機能していたのだ。

その信頼が置ける筈の実弟すら、小心者の頼朝は信じられない。

範頼の周囲にも勘解由小路党の影が、油断ならぬ相手として見え隠れしていたからで有る。

源頼朝が弟の範頼(のりより)に猜疑心を募らせていたのは、不幸にして武将としての資質が範頼(のりより)の方が遥かに勝っていた事である。

戦にまったく自信が無い武門の棟梁・頼朝にとって、諸将の信頼を集めるもっとも武将らしい弟・範頼は危険な存在になりつつ在ったのだ。

源頼朝の実弟・源範頼を北条正子が追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。

それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。

当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

工藤祐経(くどうすけつね)の工藤氏は、「藤原南家為憲流」を祖とする藤姓工藤氏の一族で、伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏とも同じ一族の伊豆の国辺りの小領主だった。

藤原南家流は本姓を藤原氏とし、南家・藤原武智麻呂の四男・藤原乙麿の後裔を称し乙麿六代の孫・藤原維幾(ふじわらこれちか)は常陸介として東国に下向し、平将門の乱(天慶の乱)に平貞盛・藤原秀郷らと協力して将門を討滅する功を立てた。

その藤原維幾(これちか)の子・藤原為憲(ふじわらのためのり)は官職が「木工助」であった為「工藤大夫」と称し工藤為憲(くどうためのり)と称して工藤氏の源流とする。

工藤為憲(くどうためのり)は東国に定着し、子孫が伊豆・駿河・遠江地方に広がってして工藤・伊東・入江氏らが分かれ出、さらに工藤氏から天野氏や狩野氏、入江氏から吉川氏などが別れ出ている。


油断も隙もないのが氏族武家社会で、工藤祐経(くどうすけつね)は平将門と似たような苦い経験をする。

父の工藤祐継(くどうすけつぐ)が死に祐経が所領を継ぐと、叔父の伊東祐親(いとうすけちか)が後見人となり工藤祐経は祐親の娘・万劫御前を妻とし、祐経は都に上洛して平重盛に仕えるようになる。

だが、祐経(すけつぐ)が在京している間に伊東祐親は祐経の所領を横領してしまい、妻の万劫御前(まごうごぜん)まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。

叔父・伊東祐親の酷い仕打ちに深く怨んだ工藤祐経は、郎党に祐親の狩の帰りを狙い討ち取ろうとする。

郎党の放った矢は祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死に祐泰の妻の満江御前(土肥実平の娘)とその子・一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が残された。

後家になった満江御前は、舅の伊東祐親に勧められて祐親の甥にあたる曽我祐信と三度目の再婚をし、二人の遺児は曽我を名乗る事に成った。

この時残された一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が、後に富士の裾野の巻狩り折に工藤祐経(くどうすけつね)を親の敵と狙う事になる。


工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁・源頼朝(みなもとよりとも)に途中から従い、源範頼(みなもとのりより)の軍に加わって山陽道を遠征し豊後国へも渡って居る。

鎌倉幕府成立に助力した工藤祐経は奥州合戦(奥州藤原氏討伐)にも従軍し、その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。

つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

その工藤祐経(くどうすけつね)の絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく、伊豆の国の伊東氏(伊東祐親/いとうすけちか・嫡男・河津祐泰/かわづすけやす)の息子二人(曽我兄弟・母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。

この事件の経緯と事情は、あくまでも私闘である。

しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。

場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件で在った。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。

兄・曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)はその場ですぐに仁田忠常(にったただつね)に討たれた。

しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

余談だが、この時に曽我五郎時致(そがのごろうときむね)と頼朝の間に入って頼朝を警護した一人が、初代・豊後守護職として豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)の初代・大友能直(おおともよしなお)だった。


伊豆工藤氏からからの分家は狩野氏、伊東氏、河津氏など夫々(それぞれ)の地名を苗字とするようになり、総領家からは源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府成立に助勢して有力御家人に取り立てられた工藤祐経(くどうすけつね)を輩出した。

伊東氏(いとううじ)に転じた伊東祐親(いとうすけちか)は平家側に廻って滅亡した。

しかし祐経流伊豆工藤氏が九州日向の地に地頭職を得た事からその子孫が南北朝時代に日向に移住し土着して伊東氏(いとううじ)を名乗って南九州に勢力を広げ、周囲の大友氏や島津氏と抗争を繰り返した。

駿河工藤氏からは、代々駿河守を勤めた受領系の豪族・工藤行政(くどういくまさ)と言う人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂氏"を称し、拠って二階堂氏も源流を藤原南家流に同じくする。

尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。


「頼朝が討たれた」と言う誤報が、思わぬ事態に発展する。

ここで範頼が兄嫁・政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、頼朝夫婦が「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。

酷い「難癖」である。

範頼は弁明したが聞き入れられず、伊豆修善寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。

最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳が無かったのである。

この一件、その後の北条家の動きから考えて、別の見方もある。

曾我兄弟が親の敵祐経を討ち取った後、さらに頼朝の仮陣屋めがけて討ち入った理由は大きな疑問である。

ずばり「頼朝も討ち取る事にあった」と言う可能性は棄て切れない。


失敗して未遂に終わったが、実は北条時政が曾我兄弟を仕向け、「頼朝暗殺を仕組んだ張本人」と言う北条家の陰謀の疑いで有る。

宿舎の設営が、駿河の守護で在った北条時政の手に拠って行われていた事から、「警備の厳しい屋形を急襲出来た事に、何か有る」と推測されるからで有る。

頼朝は打ち漏らしたが、結果的に範頼失脚の難癖をつける結果に成ったのだ。



坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝加勢も、只のお人良しや「義」のものでは無いから、それこそ幕府成立後も飽くなき権力抗争が繰り広げられる事に成る。

実は、この陸奥国鞭指庄(むさししょう)など二十四ヵ所に所領を得た日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)と播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った侍所(さむらいどころ)別当(長官)の梶原景時(かじわらかげとき)は、当時の新興勢力の中では北条家(北条時政)を凌ぐ可能性を秘めていた。

つまり北条家に取っては、工藤家と梶原家は危険な存在の有力御家人だった事である。

その辺りから透けて見えるのが、この「曽我兄弟あだ討ち事件」と、これからご案内する「梶原景時の変」の仕掛け人の本当の意図である。


梶原景時(かじわらかげとき)は源頼朝に信頼され、播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)だった。

鎌倉幕府御家人・梶原景時が鎌倉殿(鎌倉征夷大将軍)・源頼朝に信頼される訳は、「石橋山合戦」の折に追討軍の大庭景親(平景親)を裏切り、洞窟に逃げ隠れていた源頼朝を見逃した事に拠る命の恩人だからである。


千百九十九年(正治元年)独裁専制政治を行っていた鎌倉殿(源頼朝)は、「落馬事故??」で急逝する。

日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

その一つが、この「最高権力者・源頼朝の落馬事件」である。

度々の事だが、政権の正当性を主張する為の作文は必ず在った。

指導階層(権力)が結託すれば、歴史の捏造など造作も無い。

つまりサスペンス風に言うと、北条正子は「源頼朝落馬事件の重要参考人」と言う事に成る。

ただし、「その陰謀の証拠を挙げよ」と誰に迫られようと、簡単に証拠が挙がらないからこそ陰謀なので、その命題の経緯と結果から陰謀の可能性を導き出すのが歴史考である。


1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。

頼朝嫡子・源頼家が家督を継ぎ将軍職に就任するのだが、将軍独裁体制に対する御家人達の鬱積した不満が噴出、源家の忠臣・梶原景時もこれに加わって将軍・頼家は僅か三ヶ月で訴訟の採決権を奪われてしまう。

北条政子(ほうじょうまさこ)・北条時政(ほうじょうときまさ)・北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。

代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、頼家の将軍独裁は押さえられた。



宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。

宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。

中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。

宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。

中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。

1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。

1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する

1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。

1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。

鎌倉幕府に在っても梶原景時(かじわらかげとき)は源家の忠臣に徹して、鎌倉殿専制政治をとる頼朝の鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役で在った為、御家人達からは恨みを買い易い立場に居たのは事実だった。

その恨みを利用した最初の権力闘争が鎌倉幕府内部で起こった。

そして毎度お馴染みの飽くなき権力抗争が、鎌倉でまたも繰り広げられた訳である。

梶原景時は、源頼朝の落馬事故の後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられて居た。

政権も軍事力も、現実的には「北条時政」が掌握していたのだが、それでも世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、景時が動けば地方武士が集まる危険があった。

今の内に危険な芽を摘んでしまおうと北条時政は思い、将軍御所詰め所での結城朝光らの戯言「忠臣二君に仕えず」を「梶原景時が讒言する」と女官・阿波局に言わしめる。

驚いた結城朝光は三浦義村、和田義盛ら他の御家人達に呼びかけて、景時を糾弾する連判状の六十六名の署名を一夜の内にかき集めて将軍側近官僚の政所別当(長官)・大江広元に提出した。

将軍・頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、自分に突き付けられたのは六十六人の御家人連判状で言い訳の仕様など無い。

景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向し謹慎する。

一部の御家人は、景時の権威と勢力さえ抑えれば良かったので謹慎によって景時を支持、景時は一端鎌倉へ戻ったが、将軍・頼家は景時を庇う事が出来ずに鎌倉追放を申し渡してしまう。

景時への仕置きは進み、鎌倉の邸は取り壊され播磨国守護に朝光の兄・小山朝政が代わり、美作国守護は和田義盛に与えられる。

ここに到って鎌倉に居れなくなった梶原景時は、支援公家衆が多い京での反乱を目論んで再起を図るべく一族を引き連れて京への上洛を目指す。

所が、それを察知した北条時政が手を回し、京に逃げようとした梶原一族を討つべく道中に討伐のふれを出していた為に駿河(今の静岡)清見関で、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)・吉川氏(吉川友兼)ら地元武士に発見される。

包囲された狐ヶ崎(静岡市清水区)に於いて合戦となり、一族次々に討ち取られて景時と嫡子・景季、次男景高らは山へ引いて戦った後に自害し滅ぼされている。

石橋山合戦時の頼朝の命の恩人、梶原景時(かじわらかげとき)は鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、「梶原景時の変」と呼ばれる政変で一族とともに滅ぼされた。

平家討伐の軍事行動時代以来源義経と対立し、頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられているが、これは判官贔屓の心情を持つ民衆向けの脚色と、時の権力者北条家の思惑が一致した結果ではないだろうか?

この「梶原景時の変」は、忠臣で在った景時を邪魔に思う北条時政・北条正子親子の陰謀で、その後の二代将軍・源頼家の将軍職を追放の序章と成ったのである。

この梶原景時一族の滅亡を評して、京都では「将軍・頼家の大失策である」とした結果は直ぐに現れる。

景時追放の三年後、将軍とは名ばかりの頼家は、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、比企能員(ひきよしかず)は時政に滅ぼされ、頼家は北条氏に拠って将軍職を退任させられた後暗殺され北条氏が幕府の実権を握る事になる。

二代将軍・源頼家の将軍在位は僅かに四年であった。


千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。

新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。



正直、余程の事が無い限り人間に差がある訳ではないのだが、不断の努力を条件に天運に恵まれた者が天命に導かれて事を成し遂げる。

そして現実などこんなもので、時代の天命は、最も猜疑心が強く小心者で謀議に長けた武将・源頼朝の頭上に輝いた。

源頼朝に武力で対抗する者が居なくなって鎌倉に権力が集中し、皇室の力は弱まり、政治権力は鎌倉幕府が確実に掌握しつつあった。

しかし頼朝は、征夷大将軍就任後僅か七年で、落馬が元で亡成っている。

この落馬も、その後の政子の「子殺し(源頼家と源実朝)」を見ると、本当に事故か疑ってしまう。

肉親の愛に飢えていた義経に比べ身内をも信じなかった頼朝が、「身内に裏切られたのではないか」と推測するのは、自然な事では無いだろうか?

いずれにしても、落馬事故とは「天下を掌握した男」にしてはあっけない頼朝の死に方である。

「フト」、頼朝は腹の底から笑う事を忘れたまま死んで行ったような気が、我輩はした。



鎌倉幕府の編纂した正史には、何故か空白がある。

不自然極まりない事に、「吾妻鏡」には、初代将軍・鎌倉殿・源頼朝の死の前後三年間が欠落していて、それが「源頼朝落馬死の謎」である。

通説では、千百九十八年(建久八年)の十二月に、相模川の橋供養に臨席した源頼朝が帰路に落馬し、それが原因で「十七日後の翌年一月半ばに死去した」と伝えられているが、不審な事が多い。

鎌倉殿・源頼朝が「落馬が原因で死んだ」と「吾妻鏡」に書かれたのは死後十三年も経った後の事で、当初は死因も死亡時期も明確な記載が無く、「本当に事故死だったのか?」と言う疑問が湧くのは当然である。

また都合の悪い事を排除し、この謎をその権力で創造し得るのは尼将軍と謳われた北条正子以外には考えられず、我が子(源頼家と源実朝)を含め異常なまでに源氏の血を排除し、北条執権家を確立した事を考えれば「北条政子下手人説」が浮上して来るのは当然の結果である。


バラシテしまうと、傍目偉大な事をした者でもその当事者はさして「偉大な事をした」とは思っていない事が多い。

つまり人生なんか行き掛かりの連続で、それをこなしていたら「何時の間にか達していた」と言うのが成功者の実感である。

えらそうな事を言っても、確信は後から付いて来たもので、事の最初から在った訳ではない。

「何故そうなるか」と言うと、それは周囲の存在と、めぐり合わせである。

それを、「強運の持ち主」と言うらしいが、それは部分的な目に見える現象で、実はどこかでその分の付けを、別な形で払わされている事が多い。

従って、能力に関わり無く、どんなにジタバタしても裏目にしか出会えない人間の方が遥かに多い。

そうした運否天賦が存在する事を自覚するから、最期は神頼みになる。

所が、そんな神頼みを神が叶えた実績など、この長い歴史を見ても過って無い。

何故なら、信心深い人間が誰しも幸運に恵まれるなど見た事が無い。
精々、めぐって来た小さな幸せを神に感謝するくらいが、多くの人間の人生である。

飛び抜けた血統故の不幸な流人の前半生と、その後の身内を殺し続けて天下人に上り詰めた頼朝の後半生、貴方は幸せと観るか、不幸とみるか?


千百九十九年(建久十年)土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は右近衛大将就任を直前に「源頼朝急死」の一報を受ける。

本来であれば、国家の柱石たる頼朝の為に喪を発して、その期間内は人事異動を延期する慣例になっていたのであるが、通親は頼朝死去の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上、発動してしまう。

同時に、「右近衛大将の推薦」という形式で(次期将軍になるであろう)頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取ってから「頼朝死去の喪を発する」と言う離れ業を演じた。

この年(建久十年)に通親(みちちか)は正二位内大臣に昇進している。

後白河法皇・源頼朝は既に亡く、九条兼実も失脚した以上、朝廷・幕府・院の全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出したのである。

土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の嫡男源通宗は参議になったものの千百九十八年(建久九年)に三十一歳の若さで没したが、その娘源通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇(第八十四代)が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の二代の天皇の外戚になった。

通親の子供達―通具・通光(嫡子)・定通・通方はそれぞれ堀川家・久我家・土御門家・中院家の四家を創設し、明治維新にいたるまで家名を存続させた。

ちなみに後の南北朝期に活躍する北畠家は中院家の、明治維新に活躍する岩倉家は久我家の庶流にあたる。

最も歴史に名を残したのは、通親と側室・藤原伊子(ふじわらのいし)との間に生まれた六男である。

幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。

彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から二十四年後の事である。

曹洞宗などでは通親(みちちか)は「久我(こが)通親」と呼ばれている。


恐ろしく強力な鵺(ぬえ)の正体が、「北条政子と呼ばれる女性(にょしょう)だ」と知ったのは、吉次が臨終真近い頃だった。

「まさか、女(おなご)とは・・・抜かった。」

既成概念で、女性の政子の事は吉次もノーマークだったのである。

どうやら、「鵺(ぬえ)」と言う妖怪は、人の体の中に宿っているらしい。

それも時には美しい女体に・・・


勘解由小路党の影屋敷で、吉次は賀茂の錫杖(しゃくじょう)を握り締め、祭壇に据えた空海の独鈷杵(とっこしょ)を見詰めていた。

「源氏の家も永くはあるまい。」

勘解由小路・吉次は荒い息の合間に口走った。

顔は苦く笑っていた。


それから二十年余り、勘解由小路・吉次の予言通りに源家から北条家に北条執権家として実権が移る事になるのだが、吉次はそれを言い当ていた。

同じ平氏の血筋であるから、当然と言えば当然だが、若い頃の北条政子の顔は、あの平将門の顔に何故か似ていた。


勘違いして貰っては困るが、源頼朝(みなもとよりとも))婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、政子(まさこ)の名乗りは生涯を通じて北条政子(ほうじょうまさこ)である。

政子(まさこ)は、生涯実家の北条家を背負って生きたのかも知れない。

将門の怨念が取り付いたかのように、政子(まさこ)は周到な鵺(ぬえ)だったのである。


あまり表舞台には出なかったが、義経(牛若丸)には実母兄が二人いた。

義経の母「常盤御前」と源氏の棟梁「源義朝」の間には、今若丸、乙若丸、牛若丸がいたが「平治の乱」で義朝が討たれた後、絶世の美女だった常盤御前は敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、身体を張って三人の助命に成功している。


この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

平清盛にとって「常盤御前」は、中々得られない良い気晴らし相手だった。

何しろ命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で有る。同じ裸にひん剥いて嬲るにしても、征服感や興奮の度合いが違う。

常盤御前も保身と息子三人の助命が掛かっているから、清盛にいくら辱めを受けても身体を張って耐え通し、一女(廊御方)を産むが、やがて清盛に飽きられ、貧乏公家の一条長成に嫁して一条能成を産む。

次兄の乙若丸は、早い時期に平家に陰謀を察知され美濃(岐阜県)墨俣川の辺りで討ち取られてしまったが、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)、阿野全成(今若丸)は、正に北条に殺されたのである。

阿野全成(あのぜんじょう)は平安時代末期から鎌倉時代の僧侶兼武将で源義朝の七男、初代鎌倉幕府将軍源頼朝とは腹違いの弟にあたり、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)になる。

阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、甥で二代将軍の源頼家と対立して殺害されとする説が主流を占めているが、事実は北条に殺されたのである。

二代将軍の源頼家との対立説は、頼家を殺害させた北条家が執権として権力を握った後の捏造である。

父・源頼朝が平治の乱に破れ、平家全盛の時代だった為に全成(ぜんじょう)は幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗るが、ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。

長じて「全成(ぜんじょう)」と名乗る僧侶に成って居た今若丸(阿野全成)は、僧籍のまま源頼朝挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚する。

その保子は頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降阿野全成(あのぜんじょう)は源頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いて、駿河(静岡県)の国・阿野の庄(今の沼津市原・浮島)を拝領、大泉寺を建て阿野姓を名乗る。

しかし頼朝が死ぬ(事故死?)と、「阿野全成(今若丸)」も義経と同じように北条に狙われ、関東の常陸(ひたち・茨城県)に流刑の上、首を討たれているのだ。

ちなみに、阿野全成の妻は阿波局(あわのつぼね)と言い、政子の妹、時政の娘である。

息子の時元の方は、政子にとっては「甥」、時政にとっては「孫」であるが、政子は源氏の血筋には容赦は無い。

北条氏の手に拠って源氏の血統が次々と粛清される中、全成(ぜんじょう)の長庶子ら三人は僧籍に入っていた為に難を逃れるが、武家の系統を受け継いだ息子(全成の四男・正室の子の為嫡男)の「阿野時元」も、同じ運命を辿って父の遺領である駿河(静岡県)の国・阿野の庄で北条の大軍に囲まれ討ち取られている。

常盤御前が体を張って守った義朝の血筋三人、武門源氏の血筋はここに途絶えてしまった。

ただしこの阿野の血筋、女系ではあるが公家として残った。

これは後日談になる全成の娘の事であるが、藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が公家としての阿野氏の祖となっている。

後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。

この時阿野廉子は、我が子可愛さに有力世継ぎ候補の大塔宮譲良(もりなが)親王を陥れるざん言をする。

天皇はこれを受けて譲良(もりなが)親王を捕縛、鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。

その後、後醍醐天皇(新田、北畠、楠木側の南朝)と後伏見上皇(足利側の北朝)が決定的に対立、一時南朝方が有利になる。

この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなか)親王は不運だった。

敗走する足利直義(尊氏の弟)は、どさくさにまぎれて大塔宮護良(もりなが)親王を斬殺するに及ぶが、それは、まだずっと先の話である。


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(北条政子と執権)

◇◆◇◆(北条政子と執権)◆◇◆◇◆

源頼朝には、就寝中に正体が判らない魔物に襲われ魘(うな)される悪夢の日々が続いた。

多分、頼朝の深層心理の中に巣食う魔物だったに違いないが、本能的に恐ろしさを感じたそれは、頼朝が必死で払い除けても払い除けても襲い来るのだった。

「ウッ、・・・夢か。」

鎌倉の屋敷の寝所で、源頼朝は負け戦に追われる夢で目覚めた。

未だ馬の嘶(いなな)き、追っ手の呼び合う声が脳裏に残っている。

卑怯だろうが汚かろうが、戦は勝たねば意味が無い。

信じられるのは、己の才覚だけだった。

「そうか、わしは将軍・鎌倉殿だった。」

上半身を起こすと、床に同衾して寝息を立てているのは、惟宗忠康(これむねただやす)の正妻(畠山重忠の娘)だった。

母方が比企能員妹(丹後局)だった事で頼朝とは幼馴染だった事から、忠康(ただやす)に命じて妾に上がらせた。

先程の悪夢を振り払うように、頼朝は寝ている女に覆い被さった。

この妾と頼朝との間に、後に薩摩・島津藩の初代になる惟宗(島津)忠久(これむね・しまづただひさ)が、頼朝・庶子として生まれている。

源頼朝に、最初から平家を倒し天下を取る自信が有った訳ではない。

実を言うと、狙っても居なかった。

どちらかと言うと、妻の北条政子にけしかけられた弾みで思わぬ旗揚げをした。

少しずつ自信を持ったのは、房総半島(安房国/千葉県)に逃れた後の再起の旗揚げに、坂東武者が参集してからである。



ここからは、尼将軍北条政子と北条執権家について記述する。

北条政子が、新婚初夜の夫から始め、頼朝の従弟、頼朝の実母兄弟一人、異母兄弟二人のうち一人とその子、頼朝との実の子二人とその子三人(つまり孫)と源氏の血筋を皆殺しにし、北条執権家を確立する。

頼朝の妻北条政子の父・北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。

桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)だった。

平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて止む無く伊豆の国に在住する。

時政の父は平時方(たいらのときかた)と言った。

但し、平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても当時権勢を誇っていた清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければたいした出世は望めない。

時方は伊豆の国北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

つまり、北条・氏(ほうじょう・うじ)平朝臣・姓(たいらあそん・かばね)時政である。

地方の小豪族だったが、自分の支配地に源氏の棟梁の血筋を引く源頼朝が流されてきて、その監視役を勤めた事で様相が変わる。

娘政子が、強引に頼朝と出来てしまったのだ。

娘の政子に引きずられる様に頼朝の挙兵を助けた時政だが、その後の時政の「甲斐源氏・武田氏」を味方につける諜略工作など、存外に上手く行って坂東武士団の参加が続き、娘婿が天下を取ってしまった。

天下人の義父であるから、思いもしなかった政権中枢に座る事になる。

鎌倉幕府が成立し、守護地頭制を設ける「勅許(ちょっきよ)」を授かると、時政は初代京都守護に着任する。

幕府を遠い「鎌倉」の地に開くからには、朝廷が相手となる重要地区の京都守護職は、まさに幕府の代理であり将軍・頼朝の代理である。

その後、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。

しかし時政は是を長く勤めず、自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

頼朝が落馬事故(?)で亡成ると、二代目征夷将軍に、頼朝の嫡男「頼家」が跡を継ぐ、勿論、頼朝と政子の長男である。



頼家の代に成ると、北条時政はいよいよ政権内で力を持ち、宿老会議(有力御家人十三人の合議制)を設けて、政務の実験を握るようになる。

何しろ、将軍は自分の孫である。

頼家が将軍に成って二・三年の間に有力御家人の梶原氏や城氏の反乱が有るが、時政が鎮圧している。

何時(いつ)の時代でも権力抗争は付き物だが、この平安末期から江戸初期に到る時代は武力行使と言う直接的手段が、判り易い権力抗争の手法で、権謀術策で政敵を追い込んで行くのが、北条父娘の邪魔者排除の手口だった。

梶原景時ら梶原一族は、桓武平氏の血筋ながら石橋山で頼朝を助けて四ヶ月後、源頼朝に乗り換えて成功し、頼朝の信任厚く鎌倉幕府初代侍(さむらい)所の所司(ところつかさ)となった。


頼朝死後も鎌倉有力御家人、梶原景時は十三人のメンバーの一人に数えられていた。

しかし、世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、彼が動けば地方武士が集まる危険があった。

この北条に対抗できる梶原景時の勢力は、時政に取って見るからに危険だった。

「今のうちに、芽を摘んでしまおう」と、時政は思ったのだ。

それで、六十六人の御家人連判状で、景時を弾劾する。

窮地に落ちて京に逃げようとした梶原一族を、駿河の国(今の静岡県中部)で、まんまと地元武士に討たせている。

政権も軍事力も、現実的には「時政」が掌握していたのだ。



1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し釜倉将軍を就任するのかが、同年4月12日、北条時政と北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。

理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。

この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。

この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。


鎌倉殿とは鎌倉幕府を開府した源頼朝(みなもとよりとも)を指す略称である。

頼朝(よりとも)が幕府を開いた一時代・鎌倉時代の詳しいご案内に入って行くのだが、まずは鎌倉幕府の成立までを大略して置く。

平安末期、皇統は院政を敷く上皇(法皇)と天皇が夫々に平家と源氏の武門を味方に着けて統治の実権を争う「保元の乱」、平家・平清盛(たいらのきよもり)と源氏・源義朝(みなもとよしとも)の武門雌雄を決する「平治の乱」を経て勝者・平家が強い権力を握る。

平清盛(たいらのきよもり)は強大な権力を握ると、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築き、結果地方の武士達の不満を招いてしまう。

そうした地方の武士達の不満が結集された「治承(じしょう)のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)」の源頼朝(みなもとよりとも)の大乱を経て千百八十五年(旧来は千百九十二年説だった)、初めての武家政権である源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府は成立する。

その鎌倉幕府成立に貢献した御家人(家来衆)を、将軍・源頼朝(みなもとよりとも)は追捕使として各地に配置し、やがてその追捕使を守護職・地頭職に任命する。

源頼朝(みなもとよりとも)の死後、妻・北条正子との間に為した二人の子を順次二代将軍、三代将軍にするが、結局源氏の棟梁の血は途絶え北条家が得宗家(執権家)として鎌倉幕府の実権を握る。

そして朝廷と実質北条家が仕切っていた鎌倉幕府との「承久の乱(じょうきゅうのらん)」を経て武士の政権・鎌倉幕府は完全に朝廷をも抑えてしまった。

源将軍家及び北条得宗家(執権家)の支配した鎌倉期の地頭職・守護職の所領については幕府が認めた実効支配を朝廷が追認、官位を叙任するだけの事で天皇が所領を分け与えた訳では無い。

武家政権の成立で朝廷はその力を大きく失ってしまったが、世間に対する大小名の唯一の権威付けが官位の叙任であるから、叙任機関としての存在価値として残った。

千百八十五年頃の源頼朝の鎌倉開府から後醍醐天皇が北条得宗家九代・北条高時を破る千三百三十三年までの百四十八年間を鎌倉幕府と言う。



さて、凡その経緯(いきさつ)をダイジェストでご案内した所で、源頼朝(みなもとよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)夫婦の事から話を始める。

源頼朝(みなもとよりとも)の清和(せいわ)源氏は、清和天皇(第六十四代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。

この「源氏の棟梁」の血筋を狙って、何が何でも「源頼朝」の嫁になったのが「北条政子(ほうじょうまさこ)」である。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。

源氏の頭領「源頼朝」は源義朝の三男で在ったが、母が正室(藤原季範の娘由良・御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。

幼名を、「鬼武者」と言った。

将門の時も言ったが、こうした歴史物語に登場する人物達は、大方の所、数奇な運命に翻弄される事になる。

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は保元の乱の折りに父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにも関わらず、「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝や義経は助命され頼朝は伊豆の蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

この時代、その血統に生まれた事は生まれながらに権力者となる幸運でもあるが、生まれながらに生き方を決められる「不自由」と言う不幸も背負って生まれて来る。

そして源義朝の子供達は、一瞬足りととも心安らげぬその血統に生まれた宿命とも言える過酷な人生を辿る事になる。



源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に清盛の継母・池禅尼(平清盛の父・平忠盛の継室/後妻)の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国「蛭ヶ小島」に流される。

頼朝の助命をした池禅尼(いけのぜんに)は、平清盛(たいらのきよもり)の継母に当たる平安時代末期の女性である。

出家以前の名を藤原宗子(ふじわらのむねこ)と称し、父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘にして中関白・藤原道隆の子・隆家の後裔に当たる待賢門院近臣家の出身だった。

義子に当たる平清盛(たいらのきよもり)については、「祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹」とされる異腹の女性の子や白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が在る。

藤原宗子(ふじわらのむねこ)は伊勢平氏流棟梁・平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛と言う清盛とは腹違いの男児を産んでいる。

宗子(むねこ)の従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいた事から美福門院ともつながりが在るなど、夫の平忠盛を支える強力な人脈を持っていた。

また、近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性も在った崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられている。

千百五十三年(仁平三年)、夫・忠盛が死去すると宗子(むねこ)は出家し、六波羅の池殿で暮らした事から池禅尼と呼ばれた。

その三年後の千百五十六年(保元元年)鳥羽法皇崩御により「保元の乱」が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場に在った事から平氏一門は難しい立場に立たされた。

しかし池禅尼(いけのぜんに)は崇徳方の敗北を予測して、息子・頼盛に義兄・清盛に確り付いて協力する事を命じた。

この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持する事に成功した。

更に三年後の千百五十九年(平治元年)の「平治の乱」に於いては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の有力武門が駆逐された。

その翌年、千百六十年(永暦元年)二月、敵将・源義朝の嫡子で十四歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。

この際、池禅尼は清盛に対して「頼朝の助命を強力に嘆願した」と言われている。

また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めた為、遂に清盛が折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。

この減刑、「平治物語」では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだった事から池禅尼が助命に奔走したと、ドラマチックに表現されている。

しかし実際には、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。

その頼朝助命成功後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。

頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。


頼朝の流刑先・伊豆蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。


源頼朝の父・義朝には、平治の乱の折に義朝に従い、共に討ち死にした長男次男が居たが側室の腹だった。

この妾腹の子を「庶子」と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って、正室の腹である頼朝が、源氏の棟梁・義朝の三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

勿論庶兄に当たる者は、正室に世継ぎ(家長)があればその家臣、無ければ世継ぎと言う事になり、庶子ばかりの場合は、御家騒動に発展する事もあった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国韮山の地で過ごしている。

この流人・源頼朝の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族北条家で、当主は北条時政と言った。

北条政子は、その北条時政の娘である。

弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。

傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。

待てよ、それこそ個人の人物像など十人十色で、源頼朝を「武士らしくない」などと「べき論」で責める方が単細胞かも知れない。

確かに頼朝は、切った張ったに相応しくない繊細な思考の男だったのかも知れないが、それがどうした。

そんな人間は山ほど居て当たり前で、世の中氏族に生まれたからと言って単純に武士らしく勇ましい人間ばかりが居る訳が無いではないか。

頼朝は、まさに頼朝らしい方法で天下を取ったのだが、それでも世間の目は派手な英雄を望む物で、地味で陰湿な手段は好まれる物ではない。

九郎義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり人気は上々である。

これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。

日本人の琴線に触れる感情、源頼朝と源義経の故事に由来する判官贔屓(はんがんびいき)の原点は、大衆のほとんどが氏族に抑圧されて生きて来た弱い立場の蝦夷族の末裔だったからである。

源九郎判官・義経(みなもと・くろう、ほうがん・よしつね)と人は呼ぶ。


武士として始めて幕府を開いた名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?

見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。


歴史の多面性を、その時代の単なる英雄伝にしてはならない。

それは痛快で判り易いかも知れないが、歴史のほんの一部に過ぎないからである。

それでも武士に生まれた彼等は、怖気付(おじけつ)いては居られない。

権力志向と新たな所領獲得の執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。


頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の棟梁」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因で在った。

勿論この坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝への加勢、純粋な動機では無く氏族特有の権力志向と所領獲得の執念を実らせる「絶好の機会」と捉えての行動だった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。

真っ先に上げられるのが、北条一族である。

そして、緒戦の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。

千葉氏、上総氏などの頼朝側に付いた安房の豪族平氏達も「しかり」である。


攻める方に、憎しみなどは別に無い。

獲物を前に勝手に戦人(いくさびと)の血が騒ぐだけだ。

武士は、もう長い事権力と領地を得る為に戦をするのが仕事だった。

守る方も、攻められれば座して攻めさせる訳には行かない。

あわ良くば返り討ちにして、利を得る。

そこに在るのは、損得の打算に裏づけされた出世の為の「ギャンブルへの参加」だけではないのか?

けして、「一門の為」などと言う、美しい話ではない。

これが、現代の政治家の派閥や政党の集合離散と、ダブって見えるのは、色眼鏡に過ぎる事だろうか?彼らは、本当に「政治理念」で行動しているのだろうか?

それを象徴するのが、例の「平将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事に成る。

頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。

この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。

彼らは平氏では在ったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。


将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は源氏の関東進出や東北進出で、源氏の歴代棟梁と御家人関係(臣従関係)を結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役や後三年の役で源氏の棟梁源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

もっとも平清盛(たいらのきよもり)の白河天皇御落胤説が本当なら、他の平氏は平家とは一線を画しても不思議はない。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。

その関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。

つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。
従って、時代と地の利を得たのが頼朝であった。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。

初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かに上手い。

しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


一方、北条(平)政子は、野心に満ちて居た。

田舎の地方豪族のままで終わるなど我慢が成らない。

そこに頼朝が流されて来た。

名高い清和源氏の直系で、義朝の三男とは言へ、正妻に生まれて扱いは嫡男であり、父・義朝とともに妾腹の兄二人を平治の乱で失い今や系図の筆頭を名実伴に引き継ぐ身である。

桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。

北条正子の実家・平直方流は、正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。

野心に満ちた北条(平)政子が、名家の棟梁「頼朝」を放って置く訳が無い。

武門で、「平清盛一族に対抗出来る」これ以上の高級血統ブランドはないのだ。

何としても、「ものにしよう。」と思った事だろう。

そもそも「愛と性行為を合致させよう」などと思うのは、現代の幻想に過ぎない。

現代の女性には「認め難い事実」かも知れないが、歴史的に女性が置かれた立場からすると、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永い事女子に出来る大事な生きる為の常識的な武器(能力)だった。

北条(平)政子は頼朝より九歳ほど歳下である。

しかし、生来のしたたかさを持ち合わせてこの世に産まれて来ていた。

流人で伊豆に来ている心細い頼朝青年を、うら若き政子が身体を張って誘惑するのは、「容易(たやす)い事だった」に違いない。

正子は頼朝の側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)を介して接近を試み、盛長(もりなが)も北条氏を味方に引き入れるには得策と解して積極的に助力している。


安達盛長(あだちもりなが/安達)は、源頼朝の流人時代からの側近で、当初は足立を称していたが盛長晩年の頃から安達の名字を称した。

同じ鎌倉幕府の御家人・足立遠元(あだちとおもと)は、盛長(もりなが)年上の甥にあたる。

盛長(もりなが)の出自に関しては「尊卑分脈」に於いて小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図に拠って異なり、その正確な出自は不明である。

足立盛長(あだちもりなが)は頼朝と北条政子の間を「取り持った」とされ、源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕える。

また、盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が過って宮中で二条院(二条天皇)の女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、頼朝に「京都の情勢を伝えていた」と言われている。

側近として頼朝に仕えていた盛長(もりなが)は、頼朝配流先・蛭ヶ小島の地に近く、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た天野郷の天野遠景(あまのとおかげ)とも親しい間柄だった。

また、平家に拠って伊勢の所領を放棄し、伊豆に流れて来て密かに平家打倒に燃え機会を伺っていた加藤景廉(かとうかげかど)の一族とも密かに気脈を通じていた。


千百八十年(治承四年)の頼朝挙兵に従い、盛長(もりなが)は使者として各地の関東武士の糾合に当たり石橋山の戦いに敗れた後は源頼朝とともに安房国に逃れ、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方に着ける使者を務めた。

頼朝が安房での再挙に成功して坂東(関東)を制圧し、鎌倉に本拠を置き坂東(関東)を治めると、鎌倉幕府の御家人として千八百八十四年(元暦元年)の頃から北関東を固める為に上野国の奉行人とり、後に起こった奥州藤原家討伐の奥州合戦にも従軍している。

足立を安達に改姓した安達盛長(あだちもりなが)は鎌倉殿(将軍)・頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用(息抜き)で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。

この頼朝の私用(息抜き)については、妻・正子の目を盗んだ愛妾との密会の場を盛長(もりなが)が提供していたとも盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が目当てだったとの風聞もある。

その後鎌倉殿(将軍)・頼朝が千百九十九年(正治元年)に落馬死(?)をすると、盛長(もりなが)は出家して蓮西と名乗り二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画、三河の守護にもなっている。

盛長(もりなが)は同年(正治元年)の秋に起こった有力御家人・梶原景時の変では幕府内の強硬派の一人となり景時を追い詰めている。

頼朝落馬死(?)翌年の四月に安達盛長(あだちもりなが)は死去したが、安達氏は盛長の子・景盛景盛の娘・松下禅尼が三代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏に嫁ぎ、四代執権・北条経時、五代執権・北条時頼を産むなど鎌倉時代を通じて繁栄する。



北条政子が頼朝に強烈なアプローチをして、二人は首尾良く恋仲になる。

実の所、恋仲と言うより「政子に垂らし込まれた」と言う方が正確だった。

政子の性格は攻撃的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れる。

多分に加虐的性交を好み、何時も頼朝を上位で責めたて快感をむさぼった。

彼女が最も得意とするのは騎上位で、頼朝の上で激しく上下する事であったが、それが気弱な性格の頼朝の性癖に合っていたから、世の中上手く出来ている。

頼朝は、流人と言う拘束感の苛立ちを、政子との強烈な睦事に逃げ込む事で日常から救われていた。

頼朝は政子に「愛されている」と確信し、彼女を愛した。

つまり頼朝は政子に嵌まってしまったのである。

そうした二人の間の関係が、そのままこの夫婦の人生に現れる。

男女が睦み会えばその結果が出る。

やがて頼朝と政子の間に娘が誕生する。

それを知った父親の北条時政は、平家の矛先が自分に向かう事を恐れて、平家の伊豆国代官・山木(平)兼隆(伊豆の国目代・判官)に政子を「嫁がせよう」と画策する。

田舎小領主の時政にすれば、源氏の流人と自分の娘が縁を結ぶなどとんでもない。 それだけで、清盛の「敵に廻った」と見なされる。

時政は「我が家門大事」で、飛ぶ鳥落とす勢いの平家(清盛一族)に逆らうなど、危険極まりないのである。

時政は、慌てて娘・正子を無難な相手に嫁がせる事にする。

目を着けたのが伊豆目代・山木(平)判官兼隆だ。

山木(平)兼隆(やまき・たいらの・かねたか)は、山木判官と呼ばれた平家の伊豆目代(伊豆に於ける代理執行者)だった。

桓武平氏流大掾(だいじょう )氏の庶流和泉守・平信兼の子で大掾兼隆(だいじょうかねたか)とも名乗った検非違使少尉(判官)だった。

しかし理由は不明だが、父・平信兼(たいらののぶかね)の訴えにより罪を得て伊豆国・山木郷に流され、郷の名・山木を名乗る。

その頃、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した治承三年のクーデター後、懇意があった伊豆知行国主・平時忠により兼隆は伊豆国目代に任ぜられた。


山木兼隆が不運だったのは、流罪で伊豆に流されて来た源氏の棟梁・源頼朝(みなもとのよりとも)の愛人・北条政子(ほうじょうまさこ)との婚姻話が舞い込んだ事である。



父・時政の思惑もあり、熱心に縁組運動をした為に政子に山木(平)判官兼隆から縁談が来たが、政子の方は不満だった。

平家の伊豆目代・山木(平)判官兼隆は、都に常駐して中央政府を仕切る平家(平清盛一族)の遠隔地の所領管理を代行する傍ら、伊豆国を取り仕切る地方政府の長(代官=検非違使)だった。

地方郷士の父・時政にすれば、平家の危険人物・流人の源頼朝と出来てしまった娘を山木(平)判官兼隆に押し付けて北条家の安泰を図ったのである。

しかし政子にして見れば、元はと言えば一度都で失敗して伊豆国に流されて流人身分だった兼隆が、赦免されて伊豆目代に登用された経緯があり、先の出世は知れている。

山木判官は平家の伊豆目代としてこの地にあり、伊勢平氏の祖・平維衡末裔の平ブランドで清盛平家とは血統も近かったが正統・清盛平家ではなく、精々伊豆の国で威張る程度の身分で終る事は目に見えていた。

北条(平)政子が当時特異な存在の女性(にょしょう)だったのは、その行動からも明らかである。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していた。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

その禁を破ってでも肉体(からだ)を餌に、流人とは言え源氏の棟梁・源頼朝と折角懇(ねんご)ろになり、姫まで為したのに父の北条時政が清盛平家の威光を恐れて山木(平)判官兼隆と婚儀を結んでしまった。

このままでは自分は伊豆の田舎で、目代(出先の役人)の女房で終ってしまう。

所が、北条(平)政子はその並外れた野心故に、親の薦めた政略婚相手を親に攻め滅ぼさせてでも源氏の棟梁・源頼朝の押しかけ女房に納まる決意をする。

野心旺盛な北条政子は、一計を案じて祝言の日取りを三島大社の大祭の日に合わせ、源頼朝に囁いた。

「わらわは、祝言の夜に必ず山木館より抜け帰る故、必ず兼隆を討ち取っておくれ。」

祝言の夜に政子が逃げ帰れば言い訳が利かないから、流石に優柔不断の頼朝も、慎重な父・時政も腹を括るより他は無い。

婚礼当日に逃げ出した恋人の下に逃げ戻る・・・源頼朝と北条正子の物語を、今風に描けば大恋愛になるかも知れない。

時代考証を無視して物語を作る作者が多いが、それは現代的なものの考え方の方が読者には受け入れ易いからである。

しかし北条正子が恋したのは、明らかに源頼朝にではなく「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

それが証拠に、天下の権力を奪取した後の北条正子は鵺(ぬえ)と成り源氏の血を喰らい尽くして北条得宗家を確立させている。


当時の女性の価値観は実家や先方の血筋と言った現実が大事で、現在とはかなり違うものだから男女の恋愛の形も違って当然である。

それでも今風の解釈でロマンチックな夢を見て「明るく楽しく生きたい」と言うのは、逆説的に言うと現実逃避の一面がある。

それは、現実から逃避して夢を見ている方が人生は遥かに楽しい。

所がここが一番難しい所で、「人生楽しければ良い」と言いながら夢を見たいのが人間であり、欲が深い事にそれでも真相を知りたいのも同じ人間である。




1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。

北条政子(ほうじょうまさこ)・北条時政(ほうじょうときまさ)・北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。

これは幼少の二代将軍・頼家の源氏政権・に対する北条一族に依る一種のクーデターである。


同年4月12日、北条時政と北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。

理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。

この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。

この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。


以下合議制のメンバー「宿老達」についてご紹介する。

宿老・北条義時、1205年(元久二年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に北条時政の嫡男・北条義時が二代執権となる。

北条義時(ほうじょうよしとき)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

北条義時(ほうじょうよしとき)は鎌倉幕府二代執権である。

初代・執権は鎌倉幕府を開いた源頼朝の義父で、尼将軍・北条正子の父・北条時政で、鎌倉幕府成立の際に北条正子が源頼朝の正妻であった事から北条時政・正子親子が源頼朝に与力、源の血筋が絶えた後の鎌倉幕府の執権を代々世襲し、二代執権の北条義時は北条正子の弟にあたる。

北条義時が鎌倉・二代執権に着く切欠は、北条時政と北条正子・義時の親子の内紛からである。

三代将軍には、二代将軍・源頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任するのだが、初代執権・北条時政は娘の政子も驚愕する計画を進めていた。

実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがあさまさ)」を将軍に就けようとしたのである。

平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟がとても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に伊豆へ隠居させられて完全に失脚、姉・正子の後押しで義時が二代執権に成る。

父・時政の平賀朝雅の将軍擁立計画を阻止した政子・義時姉弟は、頼朝次男の実朝(さねとも)を三代将軍に据え、鎌倉幕府の実権を掌握し続けるのだが、尼将軍・北条正子の力は義時のそれを上回っていた。

千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁(くぎよう)に暗殺され、源家の血が途絶えた事で、北条執権家が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とし、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。

しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到り、承久の乱に発展した。



宿老・政所別当・大江広元は鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家で、将軍・源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担う。

大江広元(おおえのひろもと/中原)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

幕府を開いて政権を運営すると成ると武官ばかりではなく文官も必要と成り、源頼朝の側近に大江広元(おおえのひろもと/中原)が幕府御家人として登場する。

鎌倉幕府の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した大江広元(おおえのひろもと)は、始めは朝廷に仕える下級貴族(官人)、つまり朝臣だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となった人物である。

大江広元(おおえのひろもと)の出自は諸説あり、一説には「江氏家譜」に於いて藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたとされ、また、一説には「尊卑分脈」所収の「大江氏系図」に於いて大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に「続群書類従」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としているなどその詳細は不明である。

広元(ひろもと)は当初、中原姓を称して中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていた。

大江姓に改めたのは、晩年に陸奥守に任官した以後の事である。

源頼朝が坂東(関東)を制圧し鎌倉に本拠地の館を構えた頃、中原広元(なかはらのひろもと)は兄・中原親能 (なかはら の ちかよし)の縁で頼朝の拠った鎌倉へ下り公文所の別当となる。

広元(ひろもと)の兄・中原親能(なかはらのちかよし)は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

中原親能は、千百八十三年(寿永二年)に源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。

源頼朝が二品右大将(右近衛大将/うこんえのだいしょう)となり公文所を改めて政所としてからは、広元(ひろもと)はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与し、「吾妻鏡」に拠ると頼朝が守護・地頭を設置したのも「広元の献策に拠る」とされている。

さて、鎌倉幕府のブレーンとして活躍した大江広元(おおえのひろもと)のその後であるが、頼朝の死後の広元(ひろもと)は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱の際は嫡男・大江親広が官軍に就いた為、袂を分かつ悲運に直面する。

しかし承久の乱に際しては強行に即時出兵論を支持した。

広元(ひろもと)は嫡男・大江親広をあきらめて、あくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者のひとりとなる。

和田義盛の乱に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟に於いて広元(ひろもと)が二代執権・北条義時とともに「連署」をした文書が存在する。

また頼朝が強い繋がりを持っていなかった公家・土御門通親(つちみかどみちちか)などの公卿とも独自の連絡網を持っていた事なども明らかになっていて、広元(ひろもと)の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る「重要な地位を占めるものだった」と、指摘されている。

尚、広元長男・大江親広は政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もり、その子孫は寒河江氏などに繋がると伝えられる。

特記すべきは、広元四男・毛利季光が宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに源頼朝持仏堂であった法華堂で自害するも、その四男・毛利経光は越後に居た為に巻き込まれず所領を安堵され、そのまた経光の二男・時親は伊豆南条と安芸吉田庄を相続し、戦国大名・安芸毛利家の始祖となっ毛利元就に繋がっている事である。

宿老・問注所執事・三善康信は宿敵・平家により伊豆の蛭ヶ小島に流されていた将軍・源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家で母が頼朝の乳母の妹だった。

三善 康信(みよし の やすのぶ)は、鎌倉幕府の初代問注所執事や鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

元々三善家は算道の家柄で太政官の書記官役を世襲する下級貴族の出身で、父は三善康光(みよし の やすみつ)、または康久(やすひさ)とされる。

康信 (やすのぶ)は母が源頼朝(みなもと の よりとも)の乳母・(特定は定かでないが、比企尼又は寒河尼又は山内尼)の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に三度京都の情勢を知らせていた。

治承四年(1180年)5月の以仁王(もちひとおう)の挙兵の二ヶ月後、康信( やすのぶ)は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝(よりとも)の挙兵に大きな役割を果たした。

元暦元年(1184年)4月、康信は頼朝(よりとも)から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されこれを承諾した。

頼朝(よりとも)の落馬死後、二代将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加する。

承久三年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元((おおえのひろもと) )の即時出兵論を支持した。

宿老・政所公事奉行・ 中原親能 (なかはら の ちかよし)は宿老・大江広元の兄で公家出身の御家人で将軍・源頼朝の次女三幡の乳母夫。

宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。

宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。

中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。

宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。

中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。

1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗比企能員とともに頼朝から感状を受けている。

1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する。

1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。

1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。


宿老・中原親能は三浦大介義明の嫡男で源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。


宿老・三浦義澄は源義朝の落胤ともいわれ、将軍・源頼朝の挙兵に参陣重陽され後に頼朝の異母弟宿老・阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)

三浦義澄(みうらよしずみ)は鎌倉幕府十三人の合議制のメンバーである。

三浦義澄(みうらよしずみ)は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏(桓武天皇の皇子・葛原(かずはら)親王流)の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明(みうらのすけよしあき)の次男である。

本来の三浦姓は御浦(みうら)で、御厨(みくりや)・御園(みその)と同じ意味で「御(神の)」と言う意味である。

それで、神職ではない武士が「御(神の)」を名乗るのは恐れ多いから「御(み)を三(み)に変えて名乗った」とされている。

義澄(よしずみ)の妻は伊豆伊東荘の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘だが名は不明。


宿老・和田義盛・侍所別当で三浦大介義明の孫。和田合戦で滅亡。宿老・比企能員(ひきよしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子、源頼家の乳母夫。比企の乱で滅亡。

和田義盛(わだよしもり)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

初期鎌倉幕府の有力後家人に和田氏がある。

和田氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)のひとつ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里(現・神奈川県三浦市初声町和田)に所領が在った事から和田を苗字とする。

千百八十年(治承四年)、源頼朝が伊豆の国(いずのくに)・三島で平家打倒の挙兵をすると三浦氏一族は頼朝に味方する事を決め、頼朝と合流すべ以下五百余騎を率いて本拠の三浦半島を出立する。

この三浦勢の中に三浦流・和田義盛と弟の小次郎義茂もこの軍勢に参加している。

絶好の機会に、和田義盛には気合が入っていた。

勿論、和田義盛に義心が無かった訳ではないが、当然「出世のチャンス」と言う打算も多かった。

その打算が在ったからこそ坂東(関東)の豪族達は、三浦氏流にしても工藤氏流にしても身内でありながら平家方と頼朝方に分かれて戦う選択をした。

出世とは世に出る事である。

世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。

所が折悪しく、丸子川(酒匂川/河口は現・小田原市)が大雨の増水で三浦勢は渡河出来ず、川の流量が下がるのを待っている間に石橋山の戦いで平家方の大庭景親が頼朝軍を撃破してしまった。

敗走した源頼朝は行方知れずになり、三浦勢は止む無く本拠地・三浦半島衣笠城へ兵を返す帰路、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦となった。

この合戦、武勇にはやる和田義盛が畠山の陣の前で名乗りをあげて挑発してしまい、合戦に成り掛かる。

しかし双方に縁者も多く、例えば畠山勢を率いる畠山重忠にとって相手の三浦氏当主・三浦義明は母方の祖父などの事から一時和平の方向に向かう所、事情を知らない義盛の弟・小次郎義茂が畠山の陣に突入して合戦になってしまい、双方戦死者を出したと「源平盛衰記」には記されている。

その二日後、畠山重忠は他の平家方と合わせて数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲う。

兵力に差がある上に前の合戦で疲労していた三浦義澄(みうらよしずみ)ら三浦一族は止む無く城を捨てて海上へ逃れ、海上で石橋山から逃れて来た北条時政(頼朝の舅)らと合流する。

和田義盛ら三浦一族は、三日後に相模湾を渡って来た盟主・頼朝を安房国平北郡猟島で迎えた。

この源頼朝の安房上陸に関しては、和田義盛の和田氏に安房国・和田御厨(わだみくりや)と呼ぶ所領が在った事がその要因と想像されるが、和田氏の本拠地が相模国三浦郡和田の里か、この安房国・和田御厨(わだみくりや)かはまだ歴史家の意見が分かれている。

安房に集結した頼朝方の残党は再挙を図り、有力な千葉常胤(ちばつねたね)には安達盛長(あだちもりなが)が上総広常(かずさひろつね)には義盛が使者と成るなど各地の武士に参陣を命じる。

千葉常胤は直ちに挙兵して頼朝を迎えたが上総広常は中々応じず、頼朝が安房を発して房総半島を北上し、千葉氏らを加えて隅田川に達した時、広常は漸く二万騎の大軍を率いて漸く参じ、「頼朝の器量を計った上で心服した」と伝えられている。

勿論、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、坂東八平氏を始めとする坂東(関東)武者にも届いていた。

そして北条正子が睨んだ通り、源氏の棟梁・源頼朝は平家追討の旗印として威力が在った。

頼朝方に参じる坂東(関東)武士が増えて来ると、一時は平家方に就き和田義盛ら三浦一族と由比ヶ浜で戦った畠山重忠も翻意して頼朝方に参じ、旗揚げから僅か二ヶ月余りで五万騎の大軍を率いた頼朝は源氏の本拠・鎌倉に入った。

その後源頼朝方は、平維盛率いる平家の追討軍を駿河国・富士川の戦いで撃破し、関東の固めに入った頼朝方は常陸国の佐竹氏を討ち、和田義盛と上総広常は佐竹秀義を生け捕りにした。

鎌倉へ凱旋した和田義盛に、関東統治の為にの諸機関を設置した頼朝が義盛の望み通りに侍所別当を任じ、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成するとその入御の儀式に際して義盛は居並ぶ御家人の最前に立っ名誉も与えられた。


宿老・安達盛長(あだちもりなが)は源頼朝の乳母・比企尼の娘婿で伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。

安達盛長(あだちもりなが)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

平安末期鎌倉初期に掛けての武将・安達盛長(あだちもりなが/足立)は、源頼朝の流人時代からの側近で、当初は足立を称していたが盛長晩年の頃から安達の名字を称した。

同じ鎌倉幕府の御家人・足立遠元(あだちとおもと)は年上の甥にあたる。

盛長(もりなが)の出自に関しては「尊卑分脈」に於いて小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図に拠って異なり、その正確な出自は不明である。

足立盛長(あだちもりなが)は頼朝と北条政子の間を「取り持った」とされ、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕える。

また、盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が過って宮中で二条院(二条天皇)の女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、頼朝に「京都の情勢を伝えていた」と言われている。

側近として頼朝に仕えていた盛長(もりなが)は、頼朝配流先・伊豆の国(いずのくに)・蛭ヶ小島の地に近く、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た天野郷の天野遠景(あまのとおかげ)とも親しい間柄だった。

また、平家に拠って伊勢の所領を放棄し、伊豆に流れて来て密かに平家打倒に燃え機会を伺っていた加藤景廉(かとうかげかど)の一族とも密かに気脈を通じていた。

千百八十年(治承四年)の頼朝挙兵に従い、盛長(もりなが)は使者として各地の関東武士の糾合に当たり石橋山の戦いに敗れた後は源頼朝とともに安房国に逃れ、下総国の大豪族である千葉常胤(ちばつねたね)を説得して味方に着ける使者を務めた。

頼朝が安房での再挙に成功して坂東(関東)を制圧し鎌倉に本拠を置き坂東(関東)を治めると、鎌倉幕府の御家人として千八百八十四年(元暦元年)の頃から北関東を固める為に上野国の奉行人とり、後に起こった奥州藤原家討伐の奥州合戦にも従軍している。

足立を安達に改姓した安達盛長(あだちもりなが)は鎌倉殿(将軍)・頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用(息抜き)で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。

この頼朝の私用(息抜き)については、妻・正子の目を盗んだ愛妾との密会の場を盛長(もりなが)が提供していたとも盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が目当てだったとの風聞もある。

その後鎌倉殿(将軍)・頼朝が千百九十九年(正治元年)に落馬死(?)をすると、盛長(もりなが)は出家して蓮西と名乗り二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画、三河の守護にもなっている。

盛長(もりなが)は同年(正治元年)の秋に起こった有力御家人・梶原景時の変では幕府内の強硬派の一人となり景時を追い詰めている。

頼朝落馬死(?)翌年の四月に安達盛長(あだちもりなが)は死去したが、安達氏は盛長の子・景盛の娘・松下禅尼が三代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏に嫁ぎ、四代執権・北条経時、五代執権・北条時頼を産むなど鎌倉時代を通じて繁栄する。


宿老・足立遠元は宿老・安達盛長の甥にあたるも足立氏の祖。

足立遠元(あだちとおもと)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

足立遠元(あだちとおもと)は、鎌倉御家人として鎌倉殿(将軍)・源頼朝に仕えた文官要素の高い平安末期から鎌倉初期に掛けての武将である。

遠元(とおもと)の父は鳥羽院の北面武士を務めた藤原遠兼で、同じ鎌倉御家人の有力者で頼朝側近の安達盛長(あだちもりなが)は年下の叔父にあたる。

足立氏は藤原氏の流れを汲み、遠元の父・遠兼の時に武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)に移り足立姓を名乗ったとされる一方では、武蔵国造(むさしくにのみやっこ)の流れで承平天慶の乱の時代に足立郡司で在った武蔵武芝の子孫である「在地豪族だった」とする説もあり、出自については不明な点が多い。

遠元(とおもと)は、平治の乱で源義朝の家人に加わり陣に従い、義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)率いる十七騎の一人として戦った。

治承・寿永の乱に於いては、挙兵した義朝の遺児・源頼朝が下総国から武蔵国に入った時期に、遠元(とおもと)は葛西氏らと共に手勢を率いて迎えに参上し家人と成っている。

千百八十四年(元暦元年)、足立遠元(あだちとおもと)は成立間もない鎌倉幕府の公文所の知事家(寄人)に補任され、千百九十年(建久元年)に頼朝が上洛した際、布衣侍(ふいもち/参内衣装の裾持ち)十二人の内に選ばれて参院の供奉をし、頼朝の推挙で官位・左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられる。

遠元(とおもと)は京都権門(中央の有力武家・公家・寺社などの勢力)とも繋がりを持ち、娘の一人は院(後白河法皇)近臣の藤原光能(ふじわらのみつよし)に嫁ぐなどして幅広い縁戚関係を築き、主に朝廷工作などを担当する官僚として活躍し、頼朝死後に成立した十三人の合議制の一人に加わるなど有力御家人の一人に数えられている。

宿老・梶原景時は石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けた。

源頼家の乳母夫で失脚後に梶原景時の変を起こし討死する。

梶原景時(かじわらかげとき)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

梶原景時(かじわらかげとき)は、平安末期から鎌倉初期に掛けての平氏流の武将で、源頼朝が開いた鎌倉幕府の有力御家人である。

梶原氏の出自は桓武平氏の一族で、親王任国制度の下で親王の代わりに実務を取り仕切る親王の血族・下級貴族として赴任し関東に土着した桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ)を祖とする坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、源頼朝が旗揚げした時に平家方として石橋山の合戦で迎え撃った平氏流大庭氏・大庭景親とは同族である。

坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ)を祖とする諸氏が八つの氏族に大別されていた為に「八平氏」と呼ばれ、秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏、梶原氏、大庭氏、長尾氏(後に長尾輝虎を世に出す家系)、江戸氏などがその時々の各氏族の勢力により様々に入って数えられる。

梶原景時(かじわらかげとき)の曾祖父または従曾祖父に、後三年の役で源義家(八幡太郎)の下で戦い武勇を謳われた鎌倉景政(梶原氏の祖・景久の従兄弟)がいる。

梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人で在ったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

千百八十年(治承四年)、伊豆の国(いずのくに)に流されていた源義朝の嫡男・源頼朝が北条時政の支援を得て挙兵し伊豆国目代・山木兼隆を殺害して父・源義朝の地盤だった坂東(関東)を目指す。

頼朝・挙兵の報に、梶原景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い石橋山の合戦で寡兵の頼朝軍を打ち破り、敗走した頼朝は土肥実平(どひさねひら)など僅か七騎と山中に逃れる。

大庭景親は敗走した頼朝の追跡を続け山中をくまなく捜索するも、この時、土肥・椙山の「しとどの窟」に頼朝が隠れる在所を景時は知るも「この山には人跡なし」と報じて景親らを別の山へ導き頼朝を救った。

やがて一旦逃れた安房国で体制を整えた源頼朝が、次第に合流して膨れ上がった関東の軍勢を引き連れて鎌倉めがけて攻め寄せる頃には景時も手勢を率いて頼朝方に加わった。

源頼朝が平家を滅ぼし鎌倉幕府を開くと、梶原景時は石橋山の戦いで源頼朝を救った事から重用され侍所所司・厩別当となり、有力御家人に数えられる。

頼朝の信任厚く教養にも優れて居た為、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた一方で、判官贔屓で知られる源義経と対立し、頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。

鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、梶原景時の変と呼ばれる変事で一族とともに滅ぼされた。


宿老・政所執事・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は宿老・大江広元、宿老・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚で政所執事を務めた公家。

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

行政( ゆきまさ)は、代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。

苗字二階堂(にかいどう)は、建久三年(1192年)11月25日に建立された永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に、行政(ゆきまさ)が邸宅を構えたことに由来する。

家系は藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで父は工藤行遠(くどうゆきとう)、母は源頼朝の外祖父で代熱田大宮司・尾張目代(律令制の官職)・藤原季範(ふじわら の すえのり)の妹である。

父・行遠(ゆきとう)は工藤氏の流れ代々従五位下の下級貴族。

「工藤二階堂系図」では維遠、維行、維頼、行遠の四代が遠江(とうとうみ)守に任官したことになっている。

父・行遠(ゆきとう)は『尊卑分脈』傍注によると、遠江国司を殺害して尾張国に配流されたとあり、おそらくそのときに熱田大宮司・藤原季範の妹との間に行政( ゆきまさ)が生まれている。

行政(ゆきまさ)は母方が熱田大宮司家であった縁により源頼朝に仕えたものと思われる。


治承四年(1180年)6月29日に公家・桓武平氏高棟流・平時忠(たいら の ときただ)が伊豆の知行国主に任官する。

知行国主・平時忠(たいら の ときただ)が兼隆(かねたか)の目代任命(律令制下の地方官の代官)するを機に北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)は娘・北条政子(ほうじょうまさこ)を兼隆に嫁がせようと画策する。

帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた時政は平家の怒りを恐れ、娘・政子を兼隆のもとへ送ろうとするが、勝気な政子は逃げ出して頼朝のもとへ行ってしまう。

同治承四年(1180年)8月、源頼朝に従う行政(ゆきまさ)は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵、伊豆目代(律令制下の地方官の代官)・山木兼隆(やまきかねたか)の館を急襲する。


三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため山木兼隆(やまきかねたか)は満足に戦うことができず、頼朝配下・加藤景廉(かとうかげかど)によって討たれた。

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は鎌倉幕府成立に貢献して頼朝(よりとも)に重用される。

文治五年(1189年)7月、奥州藤原氏頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら) との奥州合戦では、合戦の次第を報告するにあたってそれを行政(ゆきまさ)が書いた。

建久四年(1193年)、行政( ゆきまさ)は五位に叙され民部大夫(律令制の官職)と呼ばれるようになり、同年に鎌倉幕府政所別当が複数制になった時に別当に昇格した。 政所においては別当頭大江広元 (おおえのひろもと)を補佐し、広元(ひろもと) が在京して不在の折には代わって政所の業務を統括した。

以上十三人の合議制は、1199年(建久10年)の年末には宿老・梶原景時が失脚、翌年には宿老・三浦義澄と宿老・安達盛長が死去したことで解体され、いよいよ北条執権家が得宗家として実権を握った。



父・頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

若狭の局(わかさのつぼね)は妾妻で在ったが、例え鎌倉二代将軍・源頼家の正妻で在ったとしても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、若狭の局(わかさのつぼね)の姓(かばね)名乗りは比企である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

比企能員(ひきよしかず)は、秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた為に、同族系の河越重頼や、同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。


父の事故死で家督を相続したニ代将軍・頼家が跡を継いだ時は若干十九歳、利発で若さに溢れていた。

ニ代将軍・頼家が、父・頼朝と同じ将軍独裁の体制を整えようとした矢先の千二百三年(建仁三年)、頼家二十二歳の時に突如として罹病、危篤に陥る。

この異変を、近親者の何者かが関与した可能性(暗殺陰謀)を否定出来ない所に、この時代の非常冷酷さが伺えるのだが、「母・政子が関与していた」と言う証拠は無い。

いずれにしても、この頼家の一時危篤を期に北条時政・北条政子の野望が噴出、世継ぎ(相続議)の会議を開く結果と成る。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡の相続を主張、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出して対抗し、北条氏と比企氏との対立が鮮明に成って、頼家と若狭の局を劣勢に追い込む事となった。

幸い危篤だった将軍・頼家は一命を取り止め、病が癒えて復帰したものの、既に遅かった。

老臣会議制を敷かれて将軍独裁権限は奪われた後で、老臣会議制を主宰する北条時政の専横に、頼家は将軍とは名ばかりの立場に置かれ居たのだ。

将軍・頼家は、失意と共に北条氏への怨念と復讐の炎を燃やす。

源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、頼るは有力御家人の一人、妻(若狭)の自家・比企能員(ひきよしかず)と比企一族だった。

北条政子が我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない。

危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子で、政子はこの時に我が子・頼家を除く決意をした。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。


比企能員(ひきよしかず)は、鎌倉初代将軍・源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の甥で、後に比企尼の養子となり鎌倉幕府の有力御家人に列する。

比企氏の一族は、藤原・秀郷流の系図を有する武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を領した関東の豪族と伝えられ、つまり藤原南家・秀郷流であるから伊豆の工藤一族などとは遠い同族になり、また比企氏は秩父平氏流も継いで居てその流れも称している。

比企尼(ひきのあま)は伊豆流罪となっていた流人時代の源頼朝を「支援していた」と言う。

その関係から比企氏は、頼朝旗揚げの早い時期から頼朝を支えた御家人として活躍している。

流罪中も乳母・比企尼(ひきのあま)支援を受けていた源頼朝は、鎌倉殿と成ると比企尼(ひきのあま)の猶子(ゆうし/養子)・比企能員(ひきよしかず)を側近として重用する。

比企氏の一族は、比企尼長女・丹後内侍(たんごのないし/安達盛長室)の娘が源範頼に嫁ぎ、河越重頼に嫁いでいた比企尼次女・河越尼は二代将軍・源頼家(頼朝・嫡男)の乳母と成って娘(本書では仮名・玉御前)が源義経に嫁いでいる。

二代将軍・源頼家は、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、武力行使も準備していたのだが返えってそれを察知され、「頼朝の法事」と称して時政邸に招かれる。

能員(よしかず)は一族の反対を押し切って疑いも持たず時政邸に行き、待ち構えていた時政の家人に首を刎ねられて討ち取られてしまった。

同時に比企一族も北条方の義時・泰時親子に攻撃を受け小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、結果比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ伊豆国・修禅寺に流され幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。

頼家の将軍在位は僅か四年で在った。


「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。

夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る。

なお、この事変、世に言う比企能員(ひきよしかず)の変であるが、かなり胡散臭いのである。

比企能員(ひきよしかず)の変は、二代将軍・源頼家が危篤状態に陥った機会を得て、北条時政が仕組んだものと考えるのが自然である。

北条氏征伐を企てたとされる比企能員(ひきよしかず)が、敵である筈の北条時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは「比企氏の変」自体が「北条氏のでっちあげであろう」との見方が為されている。

その企てを知らなかったからこそ、比企能員は呼び出されて北条時政邸に出向き、北条時政の命を受けた天野遠景(あまのとおかげ)や仁田忠常(にったただつね)らに謀殺されたのではないだろうか?


三代将軍には、頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任する。

しかし時政は、娘の政子も驚愕する計画を進めていた。

実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがともまさ)」を将軍に就けようとしたのである。


源頼朝の挙兵時、伊豆在住で最初に呼応した土豪達三百騎の中に、後に鎌倉御家人と成る天野遠景(あまのとおかげ)、仁田忠常(にったただつね)、加藤景廉(かとうかげかど)などの武将が居る。

鎌倉御家人・天野遠景(あまのとおかげ)は、工藤祐経(くどうすけつね)の藤原南家工藤氏の一族で、後に毛利両川の一家になる吉川氏とも同族であるが、伊豆国田方郡天野に住してその地名を取り天野氏と称した。

遠景(とおかげ)は平家の家人で在ったが、天野郷が源頼朝の配流先・蛭ヶ小島の地に近かった事もあり、幽閉生活を送っていた源頼朝や安達盛長(あだちもりなが)と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た。

源頼朝の挙兵には当初から付き従う事に成った天野遠景(あまのとおかげ)だったが、石橋山の戦いでは敗北を喫して敗走する。

その後再起を図って鎌倉に入った頼朝と合流して従い富士川の戦いの後、平家軍に合流しようとした伊東祐親を捕縛する手柄を立てている。

鎌倉の源頼朝が平家追討の準備をして居る頃、京では木曾義仲が信濃国を中心として勢力を拡大し、頼朝に先んじて平家を都から追い落として上洛をしてしまう。

頼朝の命を受けた天野遠景は木曾義仲への使者を務め、義仲の嫡子・義高を人質とする事に成功し、翌年には甲斐源氏の一条忠頼を謀殺した。

その後開始された平家追討軍では、遠景(とおかげ)は頼朝の代官・源範頼に従い西国を攻め進み周防国から九州・豊後国へ渡る。

平家滅亡後、平家追討に大功のありと認められた遠景(とおかげ)は、十二人の内の一人として頼朝より感状を受けている。

鎌倉幕府成立後は、追放された源義経の探索と鎮西に於ける鎌倉幕府勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に天野遠景(あまのとおかげ)は補任され、律令制度上の鎮西統治機関である大宰府の機構に関与してその実権を握った。

遠景は十年年近くの永きに渡って九州・大宰府方面で活躍するも鎮西御家人らの協力は得られず、寺社や荘園領側との軋轢も治まらない為、奉行職を解任され、鎌倉へ帰還する。

その後遠景(とおかげ)は、頼朝死去後に起こった梶原景時の変や比企能員(ひきよしかず)暗殺にも関与している。

死亡時期は不明だが、天野遠景の墓は伊豆長岡に在る。


鎌倉御家人・仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)は、伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で、源頼朝が挙兵するとその家臣と成る。

平家追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ、奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に於いても戦功を挙げる。

また富士の裾野で起こった大事件、曾我兄弟の仇討ちの際には忠常が兄の曾我祐成(そがのじゅうろうすけなり)を討ち取っている。

忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞うほど頼朝からの信任は厚かったと伝えられ、頼朝死後は二代将軍・源頼家に仕えた。

仁田忠常は、その二代将軍・頼家からの信任も厚かったのだが、運命の歯車が突然狂う事件が起きる。

二代将軍・頼家が病で危篤状態に陥り、忠常は時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員(ひきよしかず)を北条時政の命に従い謀殺した。

所が、頼家が病から回復すると比企氏が北条時政によって滅ぼされたと知り、激怒した頼家は北条追討の将軍命令(御教書)を発した為、仁田忠常は逆に頼家から時政討伐の命令を受ける事に成る。

そんな状況下で、仁田忠常は頼家の命を受けながらも能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かい、その帰宅の遅れを怪しんだ弟達が騒ぎを起こしてしまう。

その軽挙から北条氏側に頼家方寝返りの疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で北条義時の命に拠って加藤景廉(かとうかげかど)に、弟(五郎忠正・六郎忠時)らと共に滅ぼされる。

仁田忠常(にったただつね)は、所謂(いわゆる)比企能員の変(比企の乱)に巻き込まれた訳である。

伊豆仁田(静岡県田方郡函南町仁田)には、忠常の墓と館跡がある。


藤原北家魚名流・利仁流加藤氏が、鎌倉御家人・加藤景廉(かとうかげかど)の出自である。

藤原利仁の祖父・藤原高房は受領を歴任した他盗賊の取締りで名を上げた。

孫の藤原利仁は上総介や下総介、武蔵守など坂東の国司を歴任し鎮守府将軍を任じている。

その流れを汲む加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士・藤原景道(かとうかげみち)で、加賀介と成った事から加賀の藤原を略して「加藤を称するように成った」とされる。

加藤景廉(かとうかげかど)は藤原景道の孫にあたり、景道の子加藤景員(かとうかげかず)の次男である。

景廉(かげかど)の父・加藤景員(かとうかげかず)は元々伊勢国を本拠としていたが、平将門の乱の件で坂東(関東)から逃れて来た平貞盛流の平家との争いに拠り伊勢の所領を棄てている。

景廉(かげかど)は兄・光員(みつかず)と共に父・景員(かげかず)に従って伊豆国に下り、その地で藤原南家工藤流・狩野茂光らの協力を得て伊豆土着勢力と成った。

伊勢以来の平家に恨みを持つ加藤景廉(かとうかげかど)一族は、密かに源氏の継嗣・源頼朝やその側近の安達盛長(あだちもりなが)と気脈を通じ旗揚げの機会を伺っていた。

源頼朝が挙兵すると、平家とは伊勢国以来の因縁を持つ加藤景廉は父・景員(かげかず)や兄・光員(みつかず)と共にその麾下に参じ平家の伊豆目代・山木兼隆を討ち取ると言う大功を立てた。

頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄光員と共に甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れるが、やがて甲斐源氏・武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦いで駿河目代・橘遠茂を攻め滅ぼす。

所謂(いわゆる)治承・寿永の乱では、源範頼率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得、その後の奥州合戦(奥州藤原氏討伐)でも戦功を立てた。

加藤景廉は頼朝の信任が厚く、頼朝の命により安田義資を誅殺してその父・安田義定の所領遠江国浅羽庄の地頭職を与えられその地の地頭を任じた。

頼朝が死去した後、梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、景廉(かげかど)が景時と親しかった為一旦は連座して地位を失うも、比企能員の変に於いて北条時政の命で比企能員(ひきよしかず)を謀殺した仁田忠常を北条義時の命に拠って謀殺している。

その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、景廉(かげかど)は再度元老の座に返り咲くも三代将軍・実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家して居る。

千二百二十一年(承久三年)に起こった承久の乱では、加藤景廉(かとうかげかど)は宿老の一人として鎌倉に留まったが乱の最中に没した。

尚、この加藤景廉(かとうかげかど)が美濃国・遠山荘(現・岐阜県恵那市岩村町)の地頭に補任され、景廉(かげかど)死後、長男・加藤景朝(かとうかげとも)は、名を加藤から地名である遠山姓へと変え、以後その地を永に渡って遠山氏が治めていた。

この遠山氏が岩村城の初代城主として知られ、南北朝並立の混乱期から戦国の大動乱を凌いで江戸期まで生き残り、交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱いとして外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず大名並の格式を得ていた家である。


畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、畠山氏を滅ぼすと同時に鎌倉幕府の北条氏初代執権・北条時政を政権追放に追い込んだ事件でもある。

畠山重忠の乱も北条氏による有力御家人排斥の一環と言う側面を持つ鎌倉幕府内部の政争の一つであり、乱の背景には武蔵国の支配を巡りる留守所総検校職・畠山重忠と北条時政を背景とした武蔵国司・平賀朝雅との対立が在った。

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き「梶原景時の変」、「比企能員の変」に拠って有力者が次々に滅ぼされ、まだ十四歳の三代将軍・源実朝を擁して幕府の実権は岳父にあたる北条時政が握っていた。

畠山重忠は鎌倉幕府成立にあたり、前政権の平家追討には常に先陣を務めその武勇と人望により、頼朝からその死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人である。

その畠山重忠は北条時政の前妻の娘婿であり、「梶原景時の変」、「比企能員の変」ではいずれも北条氏側に与力していたにも拘らず、京の平賀朝雅亭の酒宴で朝雅と重忠の嫡子・重保との間でどちらが仕掛けたか不明だが言い争いが起こった。

その言い争い相手の平賀朝雅(ひらがともまさ)が北条時政の継妻(後妻)・牧の方(牧鍾愛)の娘婿で、牧の方が溺愛すると同時に自らの地位保全の為に夫・北条時政を操り武蔵国司の朝雅の立場を後援していた。

まぁ牧の方にして見れば、尼御台・北条正子と二代執権・北条義時はなさぬ仲の先妻の子で、畠山重忠も前妻の娘婿と言う不安が在っての対抗心かも知れない。

京の平賀朝雅亭での言い争いが後を引き、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴(ざんそ)し、牧の方はこれを畠山重忠父子の叛意であると時政に訴える。

つまり畠山重忠の乱のきっかけは、私恨と女のヒステリーと言う事に成る。


言い争いから十八日後、鎌倉はにわかに大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。

同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた畠山重忠嫡男・重保も、「何事か?」と郎従三人を連れて由比ヶ浜へ駆けつけると、北条時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませた為、自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々討ち取られた。

その頃、「鎌倉に騒ぎがある」と聞いた畠山重忠は本拠地・菅谷館を出発して鎌倉に向かっていた。

鎌倉へ向かっている重忠を「謀反人が兵を率いて攻め上って来る」と道中で誅殺するべく、時政の命により北条義時率いる大軍が派遣された。

畠山重忠は二俣川で討伐軍に遭遇する。

鎌倉に遣って来た重忠の一族は弟・長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ出払っていて重忠が率いていたのは子の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下百三十騎程度の小勢に過ぎず、畠山重忠謀反は虚報で重忠は無実で在った。

この朝には息子の重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退く事はせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。

北条義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦は、四時間余り繰り広げられた。

やがて激戦の後に、重忠が愛甲季隆の放った矢に討たれて首級を取られた為、重秀以下は自害して果てた。


この合戦の結果に、畠山重忠の謀反は北条時政と後妻・牧の方(大岡鍾愛)、そして娘婿・平賀朝雅の策謀と確信した北条義時は激怒していた。

義時にとって畠山重忠は父・時政の前妻の娘婿であり、つまり重忠は義時と正子の義理の兄弟にあたる。

その義理の兄弟を、父・時政は後妻・牧の方可愛さに平賀朝雅に肩入れして無実の汚名を着せ、自分(義時)に討たせてしまった。

父・時政のその仕打ちに、その日の夕方には義時の命に拠り鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らに拠って討ち取られている。

この乱の始末は、幼少である将軍・源実朝に代わり尼御台・北条政子が取り仕切り、畠山氏の所領の一部は勲功として重忠を討った武士達に与えられたが、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟に拠って鎌倉を追放され、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された。

残された重忠の所領は時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏を継承した事により平姓秩父氏の畠山氏は滅亡し、武蔵国は義時の弟時房が守護・国司となった。

尚、この重忠の妻が源氏流・足利義純に再嫁して義純が畠山氏を継承した事から畠山氏の名跡が平氏流から源氏流に移り、後の室町期や南北朝期などに活躍する源氏流・畠山氏が誕生したのである。


源頼朝の房総に於ける再挙兵には坂東武者の大半が呼応する中、平家方に徹して抵抗した荘園領主に相良氏(さがらうじ)・相良頼景(さがらよりかげ)が在る。

相良氏(さがらうじ)は藤原南家(乙麻呂)の流れを汲み、平将門の乱に活躍した藤原為憲(ふじわらためのり)の後裔にあたる周頼が、平安期に遠江国・相良荘に住んだ事から相良氏を称し、工藤氏・伊東氏らと同族になる。

その相良氏(さがらうじ)は、鎌倉期に肥後国多良木荘の地頭職から勢力を築き、やがて最盛期には肥後国南部を支配した戦国大名である。

平安末期の遠江国・相良荘領主・相良頼景の時代に相良氏(さがらうじ)は伊豆で兵を挙げた源頼朝を無視して協力せず、その後も平家方に徹して頼朝に対して不遜な振る舞いを続けた為、鎌倉幕府が成立すると相良頼景は肥後国・多良木荘に追放された。

しかし相良頼景は、千百九十七年(建久八年)、鎌倉に行き許されて将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられて多良木荘の地頭に任命される。

さらに、相良荘に残っていた頼景の長男・長頼も二俣川の合戦(畠山重忠の乱)で手柄をたて人吉荘を与えられた。

相良頼景が領した多良木荘四ヶ村のあとは長頼の子・頼氏が継いで為に多良木荘の地頭・相良氏は上相良氏、人吉荘は長頼三男・頼俊が継承して人吉荘の地頭・相良氏は下相良氏と呼ばれる。

この上相良氏と下相良氏は、南北朝並立の時に多良木の上相良氏は菊池氏に通じて南朝方に属し、人吉の下相良氏は北朝方に付き、対立関係となった。

その後南朝方の弱体化と伴に上相良氏の勢力も弱まって終(つい)に北朝方に降伏、下相良氏の隆盛が際立つように成った。

室町時代の千四百四十八年、下相良氏の相良長続(さがらながつぐ)が上相良氏を滅ぼし、球磨・八代・葦北の肥後三郡の統一に成功する。

戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の後を継いだ相良晴広の時代には有名な分国法・「相良氏法度二十ヵ条」や「晴広式目十一ヵ条」を制定し、また明との貿易にも取り組んで相良氏は最盛期を迎えた。

晴広の子・相良義陽の代に入って、千五百八十一年に南から島津義久の侵攻を受けて降伏。

しかも同年に当主・義陽が甲斐(宗運)親直(阿蘇氏家老)と戦って戦死する。

相良氏は一時、滅亡の危機に立たされるも、義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州平定後、豊臣秀吉より人吉二万石の領主として存続を許された。

千六百年の関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返った為、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏は人吉藩として存続した。

相良氏(さがらうじ)は、相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで八百以上領地替えされる事もなく続いた世界でも稀有な大名(領主)である。


清和源氏新羅三郎義光流・信濃源氏・平賀朝雅(ひらがともまさ)は、北条時政の後妻・牧の方の娘婿に当るが、この時政の娘は北条政子・北条義時姉弟とは腹違いの後妻・牧の方の娘で、牧の方の色香に迷った時政の、そそのかされての企てである。

北条時政が継室(後妻)・牧の方に操られて可愛がった鎌倉幕府の御家人・平賀朝雅(ひらがともまさ)は、源義光(新羅三郎)流で源氏門葉として源頼朝に重用されていた平賀義信の次男で母は頼朝の乳母である比企尼の三女だった。

北条時政は、「畠山重忠の乱」で畠山氏討伐の翌月には源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿(将軍)として擁立しようと画策する。

北条政子・北条義時姉弟には生憎、平氏流の二代執権・北条義時とは違って平賀朝雅(ひらがともまさ)は源氏流で、幕府随一の実力者・北条時政が無理を通せば朝廷に願い出て征夷大将軍を任ずる資格がある。

しかしそれを許しては権力が平賀家と後妻・牧の方に移り、尼御台・北条政子の政治生命は終わってしまう。

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)に絡んで平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟が、とても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に武力で押さえ込まれ伊豆へ隠居させられて完全に失脚してしまう。

その平賀朝雅は、幕府の実権を握った北条義時の命を受けた山内首藤通基(経俊の子)に拠って京都で殺害されている。

何故、北条政子・北条義時姉弟が「そこまでやるのか」と言えば、今まで自分達が為して来た政敵粛清の矛先が今度は確実に自分達姉弟に向かうからである。

それでも、流石(さすが)に政子・義時姉弟には父・時政は殺められず伊豆に幽閉する事にした。

平賀朝雅の件で時政は失脚し、この一件で時政は出家して明盛(法名)と称し実権は政子と義時の姉弟に完全に移っていた。

牧の方と伴に伊豆に幽閉された時政の失脚は、頼朝挙兵から二十五年目の事である。

時政はそれから十年後に、寂しく伊豆で没している。


北条氏に拠る一連の鎌倉有力御家人・粛清劇の最後を飾ったのが、和田合戦(わだがっせん)である。

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の千二百十三年(建暦三年)に鎌倉幕府内で起こった有力御家人・和田義盛(わだよしもり)の反乱だった。

和田義盛(わだよしもり)は源頼朝蜂起の際、本拠・衣笠城で討ち死にした三浦義明の孫にあたる平家三浦流の武将で、平安時代末期から鎌倉時代初期の鎌倉幕府の有力御家人として頼朝の坂東(関東)制圧に助力し、初代侍所別当を任じた。

三浦氏の一族として源頼朝の挙兵に参加し首尾良く頼朝が(関東)制圧に成功すると、鎌倉に設置された頼朝の初期武家政権の初代侍所別当に任じられる。

和田義盛は、その後平家追討を掲げた治承・寿永の乱では頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任された実弟・源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り平家の背後を遮断して武功を立てる。

また義盛は、平家滅亡後の奥州合戦にも従軍して武功を立てている。

千百九十九年(建久十年)の将軍・源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが次々と続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされている。

千二百三年に成ると二代将軍・頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政・義時父子に拠って頼朝の次男・実朝(さねとも)が三代将軍に擁立され、執権と成った北条氏が幕府の実権を握りつつ在った。

梶原景時の変での景時弾劾追放で和田義盛は中心的な役割を果たし、その後の比企能員の変、畠山重忠の乱と言った一連の御家人の乱でも北条氏に与していた。

しかし、二代執権・北条義時の度重なる挑発を受けて挙兵に追い込まれ、横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒する為の挙兵をするも、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し鎌倉で市街戦を展開する。

この和田合戦が勃発した時、土肥実平の孫・小早川(土肥)惟平(遠平の子)が同族の土屋氏と伴に和田氏に与して戦っている。

和田義盛は幕府軍を相手に二日間に渡って鎌倉で市街戦を展開するが、将軍・実朝を擁して兵力に勝る幕府軍が和田方を圧倒し、義盛は力尽き敗れて討ち死にと成り和田一族は滅亡した。

この合戦の勝利により、北条氏の執権体制は拠り強固なものと成っている。

和田合戦は和田氏側の敗北に終わり、その戦いで惟平の二人の息子がこの合戦で討ち死にし、惟平も北条氏に捕縛されて斬首され、残された老齢の小早川(土肥)遠平が永らえて辛うじて本領を維持するに到っている。

まぁ権力抗争は何時(いつ)の時代でも付き物だが、この平安末期から江戸初期に到る時代は武力行使と言う直接的手段が権力抗争の手法だった訳である。


三代将軍に就任した頼朝の次男、実朝(さねとも)は、兄・頼家の最後や北条執権家の時政(祖父)と政子(母)・義時(叔父)兄弟との非情な内紛を見せられて身の処し方を学んだ。

母・政子と叔父・義時の権力への燃え盛る執念は並大抵ではなく、そこに触れれば将軍と言えども火傷は必死だった。

実朝(さねとも)は政治には関心を持たず、文化文芸にいそしみ、政治は母政子と、叔父の北条義時に任せていた。

それでないと、兄頼家の「二の舞」である。

それ故三代将軍・実朝は、皮肉にも文化人としてそれ成りの足跡を残している。

処が、それでもなお実朝を確実に取り除きたい勢力が存在した。

北条時政・北条政子にとって、野望を脅かす頼朝の血統(源氏の血)の存在そのものを赦せなかった。

使ったのは、先の将軍「頼家」の次男・公暁(くぎょう)である。

これは、或る事を目論む一族の血筋にとっては、最高に都合の良い方法であった。

つまり源家の根絶やしが目的で無ければ、こんな事は考えられない。

公暁(くぎょう)に父の仇は「実朝」と吹き込んで、鶴岡八幡宮で暗殺させ、その直後後、公暁も犯人として討ち取っているのだ。

これは、たくらんだ側の「源氏の血筋殲滅プロジェクト計画」に於いて、「一挙両得作戦」と言う事である。

最近の文献では、実は「実朝」は政権運営に意欲を示したので、「陰謀の標的にされた」とする見解が、優勢に成っている。

頼家には、一幡(いちまん)、公暁(くぎょう)以外にも二人の男児が居たが、三男千寿(せんじゅ)、四男禅暁(ぜんぎょう)はそれぞれ自害、殺害で命を落としている。

公暁に殺された三代将軍実朝には、子がいなかったので、「完全」に源頼朝家の血筋は途絶えてしまう。

一人の母親として、女として、政子が「涙を流さなかった」とは思いたくないが、それにも勝る目的が、彼女には有ったのだ。

鎌倉幕府の実権が、完全に政子のものに成ると、弟・義時を使って政子は尼将軍と言われ、幕府の采配をする。

将軍には、幼い九条(藤原)頼経(よりつね)を京から向かえ第四代征夷大将軍とし、自らが後見人と成った。

この北条家の専横政治を「良い事」とはしない朝廷は、後鳥羽上皇(前の第八十二代天皇)を中心に宣旨(せんじ)を発し西国武将を集めて「承久(じょうきゅう)の乱」を起こす。

鎌倉幕府は朝敵となったが、政子はものともせず、鎌倉武士団を召集して大軍を編成、反乱軍を一掃、後鳥羽上皇を捕らえて、隠岐島に流してしまう。

武士による幕府で良い思いをした連中が、「返せ」と言われて、「はいそうですか。」と朝廷に権力を返す訳がない。

利(既得権益)に準じれば今も昔も答えは一つである。



後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天皇であり、後に上皇(じょうこう)である。

後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、高倉天皇(たかくらてんのう/第八十代天皇)の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子(七条院)で後白河天皇(ごしらかわてんのう/第七十七代天皇)の孫で、幼帝・安徳天皇(あんとくてんのう/第八十一代天皇)の異母弟に当たる。

後鳥羽天皇は文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。

鎌倉時代の千二百二十一年(承久三年)に、承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時に朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、千二百三十九年(延応元年)に同地で崩御した。


平安末期の千百八十三年(寿永二年)七月二十五日、源頼朝(みなもとよりとも)の従弟(いとこ)・木曾義仲(きそよしなか)の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇(あんとくてんのう)と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。

これに従わなかった後白河法皇(ごしらかわほうおう)と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。

この過程で木曾義仲(きそよしなか)や源頼朝(みなもとよりとも)への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚(しんしゅせんそ)問題」が浮上していた。

同千百八十三年八月に入ると、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。

結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた後白河法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。

後白河法皇は九条兼実(くじょうかねざね)にこの答えをもって勅問した。

九条兼実はこうした決断の下せない後白河法皇の姿勢に不満を示した。

だが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚(しんしゅせんそ)」に賛同し、継体天皇(けいたいてんのう/第二十六代天皇)は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると「継体天皇先例説」を主張した。

ただし「日本書紀」には「継体天皇先例説」に合致する記述はなく兼実の誤認と考えられているが、兼実は「日本書紀にはこうしたと記述がある」と勅答している。

千百八十三年八月十日には、法皇が改めて「継体天皇先例」について左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。

そのうちの藤原俊経(ふじわらのとしつね)が出した勘文が「伊呂波字類抄ー乃ー璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なのでー正当な持主の下にー必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者として義仲は北陸宮(ほくろくのみや/以仁王(もちひとおう)の第一王子)を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である四歳の尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させる事に決めた。

この即位には、丹後局(たんごのつぼね)の進言があったという。

千百八十三年八月二十日後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。

即位式は、千百八十四年(元暦元年)七月二十八日に、同様に神器のないままに実施された。

安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため、千百八十三年(寿永二年)から平家滅亡の千百八十五年(文治元年)まで、安徳天皇と後鳥羽天皇の在位期間が二年間重複している。


壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収されることがなかった。

千百八十七年(文治三年)九月二十七日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。

以後も、千百九十年(建久元年)一月三日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。

千二百十年(承元四年)の順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の践祚(せんそ)に際して、後鳥羽天皇は既に上皇になっていた。

後鳥羽天皇は、奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなす事とした。

だが後鳥羽天皇は、その二年後の千二百十二年(建暦二年)になって検非違使であった藤原秀能(ふじわらのひでよし)を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。


伝統が重視される宮廷社会に於いて、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種の「コンプレックス」であり続けた。

また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていない事と天皇の不徳が結び付けられる場合があった。

後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服する為に強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。


千百九十二年(建久三年)三月までは、後白河法皇による院政が続いた。

後白河法皇(院)の死後は、関白・九条兼実(くじょうかねざね)が朝廷を指導した。

兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となった。

これは内大臣・土御門通親(つちみかどみちちか/源通親)の策謀によるといわれる。

千百九十六年(建久七年)、通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。

この建久七年の政変には、頼朝の同意があったとも言う。


千百九十八年一月十一日、後白河天皇は土御門天皇に譲位し法皇に成る。

以後、土御門、順徳、仲恭と千二百二十一年(承久三年)まで、後白河は三代二十三年間に亘り上皇として院政を敷く。

後白河は上皇になると、旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であったが、土御門通親をも排し殿上人を整理して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採った。

千百九十九年(正治元年)の頼朝の死後も、後白河法皇は台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

千二百二年(建仁二年)に九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。

既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。


翌千二百三年(建久三年)の除目は後鳥羽上皇主導で行われたと、藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は「除目偏出自叡慮云々」と「明月記」の建久三年一月十三日条に記している。

また、後鳥羽上皇は公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。

その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」と「明月記」の建暦元年八月六日条に評している。

その後、源千幡が三代将軍になると、後鳥羽上皇が自らが千幡を「実朝」の名乗りを定めたと「猪隈関白記」建仁三年九月七日条に記してある。

実朝を取りこむ事で幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきた。

この事から、朝幕関係は一時安定期を迎えるが、実朝が甥の公暁に暗殺された事でこの関係にも終止符が打たれ、宮将軍も上皇の拒絶にあった。


千二百十九年(承久元年)、内裏守護(だいりしゅご)である源頼茂(みなもとのよりしげ)が西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠って討死を遂げる。

その変事の際、火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。

この原因については頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が後鳥羽上皇の討幕の意図を知ったからなど諸説ある。

この為、後鳥羽上皇は堀川通具(ほりかわ みちとも)を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。

だが、東国の地頭たちはこれを拒絶した為、最終的には西国からの費用で再建される事になった。

ただし、その東国の地頭の役不調にかかわる背景として朝幕関係の悪化があったのか、朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのかについては不明である。

この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった。


千二百二十一年(承久三年)五月十四日、後鳥羽上皇は、時の鎌倉幕府執権・北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、鎌倉幕府の大軍に完敗。

承久の乱完敗からわずか二ヶ月後の七月九日、十九万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。

父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。

これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。

さらに、在位わずか三ヶ月足らずの仲恭天皇(当時四歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。



仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)は歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の第四皇子で、嫡出の皇子として誕生して生後一か月の十一月二十六日に立太子する。

父の順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祖父の後鳥羽上皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)と共に鎌倉幕府執権・北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、千二百二十一年(承久三年)四月二十日日に譲位され四歳で践祚(せんそ/即位宣言)される。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、即位後わずか七十八日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされずしまいだった。

為に仲恭天皇は、九条廃帝(くじょうはいてい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。

同千二百二十一年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北する。

後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。

同千二百二十一年七月九日に鎌倉幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。

仲恭天皇は幼児で、将軍・九條頼経の従兄弟である事からその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている。

仲恭天皇は、まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、千二百三十四年(天福二年)十七歳にて崩御する。

仲恭天皇は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「仲恭天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。


承久(じょうきゅう)の乱は、頼朝没後から数えて、二十二年後の事である。

千二百二十一年(承久三年)五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた。

承久の乱(じょうきゅうのらん)と呼ばれるこの変は、結果的に後鳥羽上皇側が北条政子率いる鎌倉幕府側に敗れた兵乱である。

発端は千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源家の血が途絶えた事である。

北条執権家が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とする。

以後このモデルが完成して、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。

しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到る。


この時代、源氏・平氏・藤原氏等の後裔が武門として地方に家を構え、夫々に活動していたがその宗家・本家に当たる家は朝廷に残って公家として天皇に仕えていた。

そして朝廷では、藤原氏嫡流家が力をつけて上位の役職(摂政・関白・太政大臣)を独占する家柄と成り、徐々に五摂家(ごせっけ)が成立しつつ在った。

五摂家(ごせっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家の事で、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家がある。

摂関家(せっかんけ)、摂家(せっけ)、執柄家(しっぺいけ)とも言い、この五家が大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白・太政大臣にまで昇任出来る家格を有した高級公家である。

本来の摂政は、天皇が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行う事ができない時、天皇に代わってそれを行う(政を摂る)事、またはその役職の事である。

多くの場合、君主の後継者(東宮/皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任した。

その君主近親の慣例を破って藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である「令外の官」として定義される事となる。

藤原良房が摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承され、後に道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。

平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であった事から、弟の基房が摂関の地位を継いだ為に、摂関家は近衛流と松殿流に分立。

さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、その弟である兼実が関白となった事で、九条流摂関家が成立した。

この三流の内、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出す事なく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。

その結果摂関家として近衛・九条の両流が残ったが、近衛流が殿下渡領(藤氏長者の伝領)以外の摂関家領のほとんどを掌握していた。

九条流は天皇の外戚としての血縁関係と鎌倉幕府との良好な関係に拠ってもたらされた摂関就任の実績に拠って漸く摂関家としての地位を安定化させ
鎌倉期の千二百五十二年(建長四年)に鷹司兼平(近衛家実の四男)が関白に就任して鷹司家が摂家入りする。

また千二百七十三年(文永十年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任して九条家の摂家の地位が確認された。

これで近衛流摂関家からは嫡流の近衛家、並びに兼平により鷹司家が成立し、さらに九条流摂関家からは、道家の子実経が一条家、及び教実が九条家、良実により二条家がそれぞれ成立した。

この事で、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の「五摂家」体制が確立される事に成る。


もう読者にはお判りと思うが、鎌倉幕府に於いても歴史の表面にこそ現れないが、帝及び公家衆と幕府との間には始終暗闘が在った。

その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護・地頭職(御家人)に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

そして当時はまだ、列島の東西で朝廷と幕府の勢力に微妙な温度差が在った。

東国武士を中心に本拠を鎌倉に置き、源頼朝を棟梁として樹立された鎌倉幕府では東国武士を中心に諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していたが、この事は西国武士の不満を誘い、結果西国は鎌倉幕府が実効支配をし切るに到らず依然として西国での朝廷の力は強かった。

つまり根本的な原因を一言で表現すると、政府が二つあり「出先機関が同じ土地に重複している」と言う状態だったのである。

後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士千七百余騎が集まった。

後鳥羽上皇は、鎌倉追討軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、初めて御印(みしるし)となる錦旗(きんき)を藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らに下賜し使用を許している。

この後錦旗(きんき)が政局の節目で威力を発揮するなど、当の後鳥羽上皇は意識していたのだろうか?

翌日、藤原秀康率いる八百騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃する。

伊賀光季は奮戦して討死したが、その変事は鎌倉に知らされる。

後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の宣旨(せんじ)を発する。

後鳥羽上皇追討に立つの知らせを聞いた時、尼御台と呼ばれていた北条政子(ほうじょうまさこ)は齢(よわい)六十五歳を数える当時としては老女になっていた。

そしてその老女が、実質的に鎌倉の支配者だった。

摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、政子が三寅を後見して将軍の代行をする事になり、世に「尼将軍」と呼ばれるように成っていたのである。

この後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)に対し、鎌倉方(東国武士)も動揺を見せたが、尼将軍・北条政子が「今日の鎌倉御家人の繁栄あるは、夫・頼朝のおかげなるぞ。皆の者、獲得した権益を放すまい」と叱咤し、ニ代執権・義時を中心に御家人を結集させる事に成功、団結して京に向かって出撃する。

この時の正子の名演説が「関東武士を結束させた」とされているが、関東武士の本音としては「折角の利権を西国武士に取られる恐れで結束した」と考えるのがまともではないだろうか?

鎌倉を出立して都に攻め上る幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、「吾妻鏡」に拠れば最終的には「十九万騎の大軍に膨れ上がった」とされている。

朝廷の権威を信じ、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら朝廷側首脳は狼狽した。

大軍を擁した幕府軍は易々と都を落とし、朝廷・御所を取り囲んでしまう。

形勢不利と見た後鳥羽上皇は、命惜しさに日和見(ひよりみ)をして幕府軍に使者を送り、この度の乱は「謀臣の企てであった」として義時追討の宣旨(せんじ)を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨(せんじ)を下す。

上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら朝廷側に組した武士は東寺に立て篭もって抵抗するが、三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害している。

承久の乱(じょうきゅうのらん)が終結すると、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。

討幕計画に反対していた土御門上皇は、自ら望んで土佐国へ配流され、後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流される。

仲恭天皇(九条廃帝・明治以降に仲恭の贈名)は廃され、行助法親王の子が、後堀河天皇として即位した。

この時政子は、正に女阿修羅となり、「上皇側に組みした者達」を徹底して弾圧している。

京の町は、政子の過酷な弾圧に震え上り、幕府に刃向かうものは居なくなる。


さて、鎌倉幕府のブレーンとして活躍した大江広元(おおえのひろもと)のその後であるが、頼朝の死後の広元(ひろもと)は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱の際は嫡男・大江親広が官軍に就いた為、袂を分かつ悲運に直面する。

しかし広元(ひろもと)は嫡男・大江親広をあきらめて、あくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者のひとりとなる。

和田義盛の乱に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟に於いて広元(ひろもと)が二代執権・北条義時とともに「連署」をした文書が存在する。

また頼朝が強い繋がりを持っていなかった公家・土御門通親(つちみかどみちちか)などの公卿とも独自の連絡網を持っていた事なども明らかになっている。

広元(ひろもと)の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る「重要な地位を占めるものだった」と、指摘されている。

尚、広元長男・大江親広は政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もり、その子孫は寒河江氏などに繋がると伝えられる。

特記すべきは、広元四男・毛利季光が宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに源頼朝持仏堂であった法華堂で自害する。

その四男・毛利経光は越後に居た為に巻き込まれず所領を安堵され、そのまた経光の二男・時親は南条と安芸吉田庄を相続し、戦国大名・安芸毛利家の始祖となって毛利元就に繋がっている事である。


尼将軍・北条政子は京・朝廷を押さえる為に、「六波羅探題」を設置して、朝廷と関西を見張らせ、北条得宗家(鎌倉幕府執権)の礎を確立している。

また、幕府は西国での多くの没収地を得、これを戦功があった鎌倉御家人に大量に給付した為、鎌倉御家人の多くが拝領地支配の為に西国に移住、幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶように成る。

この承久(じょうきゅう)の大乱に、何故か勘解由小路(かでのこうじ)党総差配・(賀茂)吉次は、後鳥羽上皇の為に積極的には動かなかった。

院(後白河法王)の度重なる日和見で、息子の伊勢(三郎)義盛を失い、権力の非情さが骨身に沁み、未だ覚めやらなかったのである。

「後鳥羽上皇様が、後白河の院様のごとく成らねば良いが・・・」

勿論、上皇の宣旨(せんじ)を届けるなどの雑事はこなしていたが、後鳥羽上皇の倒幕の覚悟に、懐疑的だったのである。

案の定朝廷側に組した武士、倒幕派の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは上皇に見捨てられている。

この承久の乱の結果親朝廷派の勢力は衰え、執権北条氏と所領の給付を受けた御家人との信頼関係がより強固に成り、幕府勢力が優勢と成って北条執権家が事実上の最高権力者と成る。

朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承や大臣の登用などに影響力を持つように成った。

親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、朝廷は親幕派で占められ、以後幕府の意向を受けて朝廷を主導する事と成った。

目の前の敵と対峙し危機を煽る事は、不満を逸らし団結させる為の為政者の高等テクニックである。

「良かれ」としてやってもその結果は行動を起こした側の利に必ずしも適う結果になるとは限らないのが歴史である。

もしかすると、後鳥羽上皇が起こした承久(じょうきゅう)の乱は返って北条執権家の権威を不動のものにする後押しに成ったのかも知れない。



第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去の際には、「伊賀氏の変」と伝えられる政変未遂事件が起きている。

伊賀氏は北条得宗家とは外戚関係にある有力御家人で、承久の乱では京都守護に赴いて居て後鳥羽天皇(上皇)に抗い屋敷を取り囲まれて自害している。

伊賀朝光(藤原朝光)の長男・伊賀光季(いがみつすえ/光末)は第二代執権・北条義時の義兄に当たる。

北条義時の継室・伊賀の方は伊賀光季(いがみつすえ)の妹、伊賀光宗は伊賀光季(いがみつすえ)の弟だった。

伊賀氏は藤原北家秀郷流と伝えられ、鎌倉時代初期の藤原朝光(ふじわらのあさみつ)が伊賀守に任じられて伊賀守朝光以降は伊賀を名字とした。

鎌倉時代初期は鎌倉幕府の有力御家人で在ったが、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻・伊賀の方が伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。

執権・北条義時の急死に関しては後妻・伊賀の方の毒殺説もある。

この政変を画策した伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力のあった三浦義村と結ぶが、これは尼将軍・北条政子の地位を伊賀氏に取って代わられる危機だった。

伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は三浦義村に泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐ事に成功し、義時の長男で在った北条泰時を執権に就任させる。

いずれにしても尼将軍・北条政子は、北条得宗家の権力維持の為に凄まじい権力闘争を勝ち抜き続けた事になる。


この政変未遂により伊賀の方・光宗・実雅は流罪となったが、彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は義時の実子であるを以って厳罰を免れ、後に第七代執権に就任している。

伊賀氏の一部は赦されて残ったが力を弱め、政変未遂後は評定衆や引付衆など幕府の中堅実務官僚として活躍する家系として残っている。

この子孫が代を経て鎌倉幕末期に顔を出すが、それは遠く下って後醍醐天皇が現れる時を待たねば成らない。


弟義時が亡成ると、尼将軍・北条政子は泰時(義時嫡男)を執権に据えて、鎌倉幕府の北条家「継承」による執権政治を確立する。

名目源氏の代行を、平氏の北条家が「代行して執り行う」と言う絶妙の形態で源平連立政権を確立、朝廷の干渉する隙を与えなかったのである。



北条泰時(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府執権得宗家北条氏の二代・北条義時の長男(庶長子)として、千百八十三年(寿永二年)に誕生した。

幼名は金剛と名付けられ、母は義時側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明である。

泰時(やすとき)が誕生した頃、父の義時は二十一歳で、祖父の北条時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして三年目の頃の事である。

金剛(泰時)が十歳の頃、御家人・多賀重行が金剛(泰時)と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかった事を征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)に咎められた。

金剛(泰時)は征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)の外戚であり、幕政中枢で高い地位・執権を持っていた北条氏は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。

頼朝の譴責(けんせき)に対して重行は、「自分は非礼とみなされるような行動はしていない、金剛(泰時)も非礼だとは思っていない」と弁明し、金剛(泰時)に問い質すよう頼朝に促した。

そこで頼朝が金剛(泰時)に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。

しかし頼朝は、重行は言い逃れの為に嘘をつき、金剛(泰時)は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、金剛(泰時)には褒美として剣を与えたと、「吾妻鏡」に収録されている。

この逸話は、泰時(やすとき)の高邁な人柄と、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛を端的に表した話と評されている。

但し肉親の情に薄い頼朝(鎌倉殿)の真意は、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛よりも「御家人・多賀重行を排除する意向が先に在った」と観るべきかも知れない。

「吾妻鏡」によれば、泰時(やすとき)は千百九十四年(建久五年)二月二日に十三歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝(鎌倉殿)から「頼」の一字を賜って偏諱(へんき)として頼時(よりとき/泰時)と名乗る。

頼時(よりとき)が後に泰時(やすとき)と改名した時期については不明とされている。

改名時期に関しては、千百九十九年(正治元年)、頼時(よりとき/泰時)の烏帽子親である頼朝が亡くなった直後にあたる時期が推測できる。

「吾妻鏡」を見ると千二百年(正治二年)二月に「江間大郎頼時」、千二百一年(建仁元年)九月には「江馬太郎殿泰時」と表記され、凡その改名時期が推測できる。

また、頼時(よりとき/泰時)元服の際には、頼朝の命によって元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められていた。

泰時(やすとき)は、改名後の千二百二年(建仁二年)八月には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。

翌千二百三年(建仁三年)に嫡男・時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。

その年の九月、泰時(やすとき)は比企能員の変で比企討伐軍に加わっている。


千二百十一年(建暦元年)、泰時(やすとき)は令外官・修理亮(しゅりのすけ)に補任される。

翌千二百十二年(建暦二年)五月、泰時(やすとき)異母弟で正室の子であった次郎朝時(じろうともとき)が第三代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され、失脚している。

千二百十三年(建暦三年)の和田合戦では、泰時(やすとき)は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

泰時(やすとき)は、千二百十八年(建保六年)に父・義時から侍所の別当に任じられ、翌、千二百十九年(承久元年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱では、三十九歳の泰時(やすとき)は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。

承久の乱後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。

泰時(やすとき)は、以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。


千二百二十四年(貞応三年)六月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。

伯母である尼御台・北条政子は泰時(やすとき)と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。

泰時(やすとき)は政子の後見の元、家督を相続して四十二歳で第三代執権となる。

伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。

父・義時の遺領配分に際して泰時(やすとき)は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。

政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時(やすとき)は「自分は執権の身ですから」として辞退した。

伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時(やすとき)の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。

泰時(やすとき)は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。

これが後の得宗・内管領の前身となる。


千二百二十五年(嘉禄元年)六月に有力幕臣・大江広元が没し、七月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。

後ろ盾となり、泰時(やすとき)を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時(やすとき)は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになる。

泰時(やすとき)は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。

叔父の六波羅探題・北条時房を京都から呼び戻し、泰時(やすとき)と並ぶ執権の地位に迎える。

「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。

泰時(やすとき)は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計十一人の評定衆を選んで政所に出仕させる。

これに執権二人を加えた十三人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。


三代将軍・源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、八歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせる。

実朝暗殺以降六年余、幕府は征夷大将軍不在であったが、千二百二十六年(嘉禄二年)頼経が正式に征夷大将軍となる。

泰時(やすとき)は、初代将軍・頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。

頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時(やすとき)自身で決定する旨を宣言した。

この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。

また、鎌倉の海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時(やすとき)だった。


千二百二十七年(嘉禄三年)六月十八日、泰時(やすとき)次男・時実(ときざね)が家臣に十六歳で殺害された。

次男・時実(ときざね)殺害の三年後の千二百三十年(寛喜二年)六月十八日には長男の時氏(ときうじ)が病のため二十八歳で死去する。

その一か月後の七月、三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は十日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く八月四日に二十五歳で死去するなど、泰時(やすとき)は立て続けに不幸に見舞われた。


泰時(やすとき)には、歴史的に賞賛すべき功績がある。

「御成敗式目」である。

承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。

幕府評定衆は、紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。

泰時(やすとき)は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。

泰時(やすとき)は「道理(武士社会の健全な常識)」を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。

泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、千二百三十二年(貞永元年)八月、全五十一ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。

初めはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。

完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った二通の手紙の中で、式目の目的について書き送っている。

「御成敗式目」は日本における最初の武家法典である。

数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、千二百三十一年(寛喜三年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、それへの対応に追われた。

「御成敗式目」制定の背景にはこの社会不安もある。

それ以前の律令が中国法、明治以降現代までの各種法律法令が欧米法の法学を基礎として制定された継承法である。

対し、式目はもっぱら日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で日本法制史上特殊な地位を占める。


千二百三十五年(嘉禎元年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、泰時(やすとき)は強権を発して寺社勢力を押さえつけた。

興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。


千二百四十二年(仁治三年)に四条天皇が崩御した為に、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていた。

泰時(やすとき)は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対する。

忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。

この強引な措置により、九条道家(くじょうみちいえ)や西園寺公経(さいおんじきんつね)ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。

新天皇の外戚(叔父)である土御門定通(つちみかどさだみち)は泰時(やすとき)の妹である竹殿を妻としていた為、以後泰時(やすとき)は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させて行く事になる。


「吾妻鏡」に依れば、千二百四十一年(仁治二年)六月二十七日、泰時(やすとき)は体調を崩しており騒ぎになったが、この時は七月二十日に回復している。

「鎌倉年代記・裏書」に依ると、千二百四十二年(仁治三年)五月九日、泰時(やすとき)は出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号した。

この時、泰時(やすとき)の異母弟の朝時(ともとき)をはじめ、泰時の家来五十人ほども後を追って出家する。

出家から一ヵ月半後の六月十五日、泰時(やすとき)は六十歳で死去した。

「皇位継承問題が大きな心労になった」ともされて、公家の日記である「経光卿記抄」の六月二十日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ高熱に苦しみ没したとされている。



鎌倉幕府有力御家人の内、平安期から近江国に本領を構えていた武士に佐々木氏が在る。

宇多源氏流佐々木氏は鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系で、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、近江本領・佐々木秀義の子である佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱はそれに参じて活躍する。

その武功に拠り鎌倉幕府の成立後に佐々木氏兄弟は近江を始め四人で十七ヵ国の守護へと補せられ、本領佐々木氏惣領・佐々木信綱の家だけでも、鎌倉期には近江他数ヶ国の守護に代々任じられていた。


宇多源氏佐々木流・佐々木信綱(ささきのぶつな)は、後に近江国守護を務める鎌倉御家人・佐々木定綱の四男として生まれる。

千二百二十一年(承久三年)、本領佐々木氏・佐々木信綱(ささきのぶつな)は朝廷方・後鳥羽上皇か幕府方・北条正子かの選択を迫られる承久の乱に直面する。

長兄の広綱は朝廷方、信綱(のぶつな)は幕府方として承久の乱に加わり、宇治川を挟んで対する朝廷方を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、朝廷方からの矢と急流により渡れず、足止め状態に陥った。

信綱(のぶつな)は中州に於いて策を練り、長男の重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、加勢に来た泰時の長男である時氏と共に川を渡り朝廷方を破る。

これにより乱の大勢は決し、朝廷方に属した長兄の広綱は斬首となり、翌年、信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江国・佐々木豊浦、羽爾堅田、栗本北郡の地頭職を得る。

その後の千二百二十六年(嘉禄二年)前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得る為の朝廷への使者を務め、六年後の千二百三十二年(寛喜四年)には近江守に任ぜられる。

千二百三十五年(文暦二年)には、信綱(のぶつな)は承久の乱で得た佐々木豊浦に代わり、尾張国長岡の地頭職を得ている。

その後佐々木氏では、長男の重綱が廃嫡と成っていた為に三男の泰綱が本領佐々木氏を継ぐ筈だったが、長男・重綱の訴えを幕府受け入れた為に、止む終えず佐々木信綱が四人の息子に近江その他の所領を分けて継がせる。

実はこの幕府裁定には、本領佐々木氏の所領が「群を抜いて大きい」と言う幕府方の警戒心もあり、それを察知して先手を打ったた信綱(のぶつな)の苦心の処置だった。

この内、近江は長男の重綱が坂田郡大原荘を、次男の高信が高島郡田中郷を継ぎ、江南(近江南部)の所領を三男の泰綱が継ぎ、江南守護職を務めて六角氏を名乗った。

六角氏を名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。

泰綱の一族である六角氏が佐々木氏の嫡流である事は変わりはなかったが、この所領分割の為にその勢力は大きく減退する事になる。

尚、この六角氏は、元弘の乱(げんこうのらん)に拠る鎌倉幕府の滅亡時の当主・六角時信が六波羅探題に最後まで鎌倉方に味方したが敗れ、宮方に降伏して六角の家名は生き延びている。


また、鎌倉御家人の中に、宇多源氏の流れを汲む近江源氏・佐々木氏の別家に京極氏が在る。

その佐々木氏分家として江北(近江北部)にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の佐々木氏信を祖とする一族が、後に館の地名を取り京極氏と呼ばれる様になる。

京極氏は、源頼朝が開いた鎌倉幕府期には江北六郡の地頭職を務め、始祖の京極氏信は鎌倉幕府の評定衆を務め、後を継いだ京極宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。

この鎌倉御家人・佐々木流京極氏が、後に後醍醐天皇の元弘の乱(げんこうのらん)に宮方として加わり、建武の新政に要職に任じるのは、凡そ百五十年余りも先の事である。

尚、元弘の乱(げんこうのらん)に於いて宇多源氏佐々木流同祖一族の六角氏は鎌倉方、京極氏は宮方に別れた為、勝ち組の京極氏が遥かに六角氏を凌ぐ時代が続いた。

室町期以降は、同祖一族の六角氏と京極氏は近江国の覇権をめぐって敵対し、幾度と無く戦を交えている。

また六角氏は応仁の乱や足利将軍家第九代・足利義尚や第十代・足利義材の討伐を受けるなどを跳ね除けて生き残り戦国大名化して行く。

戦国期に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場して足利将軍家の管領代となり、観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏は最盛期を迎えた。

しかし江南(近江南部)の六角氏は、江北(近江北部)で勢力を拡大しつつある浅井氏に圧され、次第にその勢力を弱めて行った。

京極氏の跡継ぎ争いに乗じて浅井氏が独立し、勢力を広げてやがて京極氏を下克上で凌いだ浅井氏が北近江を制圧し、戦国大名・・浅井亮政が誕生した。

また、京極高詮(きょうごくたかのり)の代に、弟である高久が近江の尼子郷を分け与えられ、尼子高久を名乗り尼子氏の始祖となる。

その後尼子氏が出雲、隠岐の守護代を務めている居る間に惣領家・京極氏が跡継ぎを巡って京極政経と高清の間で京極騒乱と呼ぶ争いが起きる。

この京極騒乱や六角氏との近江覇権抗争や浅井氏の下克上など、惣領・京極氏が力を失う中、尼子氏の独立性が益して戦国大名・尼子氏が誕生する経緯を辿るのだ。



鎌倉時代中期、仏教の大宗派となる日蓮宗 (法華宗)が登場する。

鎌倉時代の仏教の僧日蓮(にちれん)は、鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖である。

幼名を善日麿(ぜんにちまろ)と名付けられた日蓮(にちれん)は、千二百二十二年(貞応元年)二月十六日に安房国長狭郡東条郷片海(現・千葉県鴨川市)の小湊で誕生する。

父は現・静岡県袋井市に在する貫名一族出自・三国大夫(貫名次郎/ぬきなじろう)、母は梅菊(うめぎく)とされている。

日蓮は、その書「本尊問答抄」、「佐渡御勘気抄」、「善無畏三蔵抄」、「種種御振舞御書」等に於いて、「海人が子なり」、「海辺の施陀羅が子なり」、「片海の石中の賎民が子なり」、「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。


千二百三十三年(天福元年)十歳になった善日麿(ぜんにちまろ)は、安房国(あわのくに/現・千葉県 )清澄寺(せいちょうじ)の道善房(どうぜんぼう)に入門する。

千二百三十五年(天福三年)、十二歳の善日麿(ぜんにちまろ)は師・道善房(どうぜんぼう)より薬王丸(やくおうまる)の名をいただく。

千二百三十八年(暦仁元年)、薬王丸(やくおうまる)は出家し「是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」の名を与えられる。

修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、千二百四十五年(寛元三年)遊学に旅立ち、比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学する。

翌千二百四十六年(寛元四年)三井寺をかわきりに八年間、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院、天王寺、東寺を遊学する。


千二百五十三年(建長五年)、遊学の度を終えた修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、清澄寺(せいちょうじ)に帰山する。

同千二百五十三年(建長五年)四月二十八日朝、是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、「立教開宗」して正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。

是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は「立教開宗」を期に名を日蓮(にちれん)と改める。

日蓮(にちれん)は、川越の天台宗寺院・中院(なかいん)・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂(でんぼうかんじょう/指導者の位・阿闍梨)を受け正式な僧侶となる。


千二百五十四年(建長六年)、日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)を退出し、当時幕府所在地である鎌倉にて辻説法を開始する。

独自の立教開宗を始めた日蓮(にちれん)は、千二百五十七年(正嘉元年)に村山修験の中心地・富士山興法寺(ふじさんこうぼうじ)大鏡坊に法華経を奉納する。

所伝によれば、千二百五十八年(正嘉二年)に日蓮(にちれん)は、日蓮宗の本山(霊蹟 寺院)となる実相寺にて一切経を閲読(調べながら読む)とある。

この頃日蓮(にちれん)は、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房(ほうきぼう)としている。


千二百六十年(文応元年)七月十六日、日蓮(にちれん)は立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。

安国論建白の四十日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の日蓮(にちれん)の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。

千二百六十一年(弘長元年)五月十二日、日蓮(にちれん)は鎌倉幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流され、後に「伊豆法難」とされる。

その後解放されるが、千二百六十四年(文永元年)に、後に「小松原法難」とされる事件が起きる。

日蓮(にちれん)は安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で、念仏信仰者の幕府御家人・地頭・東条景信(とうじょう かげのぶ)に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失った。


千二百六十八年(文永五年)蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮(にちれん)が他国からの警鐘を鳴らしていた侵略の危機が現実となる。

日蓮は幕府第八代執権・北条時宗、北条得宗家執事・平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。

千二百六十九年(文永六年)、日蓮(にちれん)は富士山に経塚を築く。

千二百七十一年(文永八年)七月、日蓮(にちれん)が真言律宗の僧・極楽寺良観(忍性/にんしょう)の祈雨対決の敗北を指摘する。

勿論この祈雨対決は、あくまでも現代科学では立証が難しい信仰上の結論である。

同千二百七十一年九月、極楽寺良観、法性寺念阿弥陀仏(空阿/くうあ)等が連名で幕府に日蓮(にちれん)を訴える。


北条氏得宗家の御内人・平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして日蓮(にちれん)は佐渡流罪の名目で捕らえられる。

日蓮(にちれん)は腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。

このとき左衛門尉・四条金吾/頼基(しじょうきんご/よりもと)がお供をし、日蓮(にちれん)の刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。

処刑を免れた日蓮(にちれん)は十月、評定の結果佐渡へ流罪と決する。

日蓮(にちれん)は流罪中の三年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させた。


日蓮(にちれん)の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わる。

その事から、日蓮(にちれん)の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考える事が一般的である。


千二百七十四年(文永十一年)春に、日蓮(にちれん)は赦免となり、幕府評定所へ呼び出される。

「撰時抄」に依ると、北条宗家執事・平頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮(にちれん)は「よも今年はすごし候はじ」と答える。

同時に日蓮(にちれん)は、「法華経を立てよ」という幕府に対する三度目の諌暁(かんぎょう/いさめさとす)をおこなう。

その後日蓮(にちれん)は、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の招きに応じて身延入山し、身延山を寄進され身延山久遠寺を開山する。

千二百七十四年(文永十一年)、日蓮(にちれん)が予言してから五か月後に「文永の役」と名付けられる蒙古襲来が起こる。


あくまでも信仰に有り勝ちな伝承が、ここに在る。

千二百七十七年(建治三年)九月、身延山山頂からの下山中、日蓮(にちれん)がお弟子一同に説法をしていた所、それを聞いていた七面天女が現れる。

七面天女は、その場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし感激させたと伝えられている。


千二百七十九年(弘安二年)九月二十一日、日蓮宗信者内で内紛が起こる。

日弁・日秀派の駿河・熱原神四郎(あつはらのしんしろう)等二十人が、滝泉寺院主代・行智等に讒(ざん/陥れる為の告げ口)せられ鎌倉に送らる。


千二百八十一年(弘安四年)、弘安の役と呼ばれる蒙古軍の再襲来が起こる。


日蓮宗の一部では、日蓮上人が「蒙古襲来(元寇)を言い当てた」や「上人の法力で神風を吹かせ蒙古軍をせん滅させた」と言う信仰上の言い伝えも存在する。

しかし日蓮上人が、蒙古襲来(元寇)を言い当てたのだって、なにも上人の法力の為せる技では無い。

当時の東アジア情勢と鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が、蒙古への服属を求める内容のフビライ・ハーンの国書を拒否(きょひ)していたのだから、憶測は着く。

そして勿論、蒙古襲来(元寇)時に蒙古軍がシケ(暴風)に拠って大打撃を受けた神風(かみかぜ)だって自然現象で、日蓮上人の法力ではない。


千二百八十二年(弘安五年) 九月八日、日蓮(にちれん)は病を得、庇護者である地頭・南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山する。

身延下山から十日後の九月十八日、日蓮(にちれん)は武蔵国・池上宗仲(いけがみむねなか)邸(現在の本行寺)へ到着する。

日蓮(にちれん)は池上氏の館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名する。

十月八日、日蓮(にちれん)は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。

この後継者と定めた弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。

十月十三日辰の刻(午前八時頃)、日蓮(にちれん)は池上宗仲邸にて六十一歳で死去する。

日蓮(にちれん)終焉の地・池上宗仲邸は現在、大本山池上本門寺となっている。



少し時代が下がるが、鎌倉後期、執権北条時宗(第八代)の時代「元寇」として日本に襲来したのは、実は「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。

この時は、二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹いた。

海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。

須佐王(スサノウ)が、怒り暴れたのだろうか?

内陸の国「元(モンコル)」には、本来海軍はない。

モンゴル帝国の第五代大ハーン(皇帝)・フビライが二度目の元寇時に日本に襲来に使った軍船は、南宋船である。

二度目に日本を攻める計画を起こした時、フビライは必要な船を揃えるに南宗を拠点にしていたイースラム商人の貿易船に目を着けた。

フビライはイースラム商人を提督に採用して軍船を作らせ、足りない分は貿易船を徴用して軍船団を揃えた。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍とイースラム商人の貿易船だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。

南宋の船団は、戦う事なく被害を出し撤退している。

この時の国難に有って、土御門家一門は呪詛をもって国家護持を祈願している。

そして、第十四代執権・北条高時の鎌倉幕府滅亡の時まで、桓武平氏直方流北条家の系図の本流は「北条得宗家」として執権政治を独占して行った。


良いか悪いかの論議はさて置き、表向きの奇麗事ばかり言って事を済ませてしまうのが日本人の妖しい所だが、その根源にあるのは「国の成り立ちと、その後の歴史だ」と言う事実が物語っている。


我輩が「日本の歴史は二枚舌建前社会の歴史だ」と言う理由の一つは幕府の存在である。

「神の威光で統治する」と言う呪術的発想から、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用されて成立した古代大和朝廷は建前に於いて武力を持てなかった。

必要がある時は、「有力氏族(臣王家)が天皇家の命に従う」と言う建前である。

しかし本音では直属の武力機関を持ちたかったので、皇統に繋がる賀茂・葛城氏を筆頭にした秘密組織「陰陽修験」を組織させて大王(おおきみ・後の帝・天皇)の意向を具現化した。

それでも、統治の実権は大和朝廷の有力氏族(臣王家)である和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)、安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)などに入れ替わり実権を握られていた。

彼らは建前としては天皇家を仰ぎながら、本音の部分で武力を背景に天皇家を蔑(ないがし)ろにし、相当独裁的な政治をしていた歴史が窺える。

有力氏族(臣王家)の勢力は平安期の中頃まで続いたが、本音の部分では天皇家も実権を握りたい。

有力氏族(臣王家)に対抗させる為に後胤貴族の武門化を進める。

桓武平氏や清和源氏などがそれである。

所が、代替わりを重ねて桓武平氏や清和源氏の血流れが枝分かれし、天皇家と血統的に遠くなると、その武力を背景に事実上の支配者に収まって行く。

言うなれば建前では天皇家を仰ぎながら、その実天皇家は、武力に拠る実質覇者の権威着けに利用する為の存在価値だった。

徳川幕府(徳川家)も、室町幕府(足利家)も、建前では天皇家を仰ぎながらその実強力な支配権の世襲制を確立し、外(他国)から見た権威は「日本の王」そのものである。

これは、桃山期に於ける豊臣太閤家も、天皇家を仰ぎながら実効支配していた点では変わりはない。

鎌倉幕府に到っては、天皇家ばかりか源将軍家まで建前に置いて北条執権家が、実質世襲支配をして居る三重の建前形式を採って居た。


承久の乱から約四年、泰時の執権就任を見届けると、北条政子は病に倒れ、「帰らぬ人」となった。

頼朝旗揚げ後、四十五年間が過ぎていた。

尼将軍・北条政子は頼朝没後二十六年間を、権力維持の為に生き抜いたのだ。

この北条政子の生涯をかけた河内源氏絶滅のシナリオは、土御門家の「怨念の呪詛パワーに揺り動かされたもの」か、どうかは判らない。


北条政子については、「日本で始めて天下を取った女性」と評価する向きも居られるが、我輩に言わせれば、彼女は女性としてではなく、女性が「男性の真似」をして殺戮を繰り返しただけである。

北条正子は、類稀な「鵺(ぬえ)」の女性(にょしょう)だった。

夫婦は、良きに付け悪しきに付け影響し合うもので、源頼朝とその妻・北条正子は互いに影響し合って修羅の道を歩んで居たのかも知れない。

北条政子は、源家の嫁としては稀代の鬼嫁には違いない。

同じ平氏の血筋であるから、当然と言えば当然だが、若い頃の北条政子の顔は、あの平将門の顔に何故か似ていた。

自らが産んだ子供、そして孫まで殺めた天下取り。

「何もそこまでして・・」と思うのが健全な人間で有る。

それを思わないで、どんな手を使っても目的を遂げようとするのが鵺(ぬえ)である。

妖怪には人の心は無い。


当時の氏族社会では、「何々氏の娘」と言う氏の家に属する考え方の意識が強い強かった。

源頼朝と北条正子の夫婦のように夫婦別姓で、織田信長の正妻・帰蝶(きちょう/濃姫)の場合も斉藤道三の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう)が正しく、豊臣秀吉の晩年の妾・淀殿(淀君)の本姓名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)が正しい名乗りである。

そう言う価値観だったから、実家にとって「頼もしい人物」が正妻として嫁いだり妾に上がったりする条件だった。

つまり鵺(ぬえ)と化した北条正子は、当時の「氏の家の価値観」と言う帰属意識に従って実家を盛り立てただけかも知れない。

まぁ、見上げた気性の激しさと根性を持つ女性だった事は確かだが、彼女が現代に居たらもっと早くに塀の中に転げ落ちた事は想像に難くない。

北条正子にとっては、気性に合う良き時代だったのだ。



鎌倉幕府成立後、国家の運営権は武家が握るように成った。

そしてその権限は、尼将軍・北条政子が「承久の乱」に勝利して以後、権力を握った北条執権家が実質幕府を運営していた。

鎌倉時代に制定された武士政権の為の法令( 式目)が、御成敗式目(ごせいばいしきもく)である。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、第二代執権・北条義時の長男・北条泰時(第三代執権)が中心になり、一門の長老北条時房を連署とし太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定された。


源頼朝が為した鎌倉幕府成立時には、成文法が存在しておらず、表向き律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をして来た。

鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であった。

その為に鎌倉幕府が蓄積して来た法慣習が、律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。

鎌倉時代初期はまだ、関東は源氏・鎌倉幕府の政権、関西は京都の公家と西国の武家の政権が両立した様な状態だったのが「承久の乱」で関西の公家と西国の武家の勢力が衰える。

承久の乱以後、鎌倉幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉め事が増加する様になる。

また、幕府成立から半世紀近くたった事で、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化して行った。

更に数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、千二百三十一年(寛喜三年)には寛喜の飢饉が追い討ち隣、最悪の猛威として社会不安な世情であった。

そこで第三代執権・北条泰時が評定衆の一部との協議によって、御成敗式目(ごせいばいしきもく)は制定された。


この武家法の目的は、鎌倉幕府御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化する事である。

当時の武士(特に御家人)が巻き込まれ易かったのは、地頭として治める荘園に於ける荘園領主である公家との揉め事であり、武家社会との調和を図る為にこの武家法は制定された。

また、御成敗式目(ごせいばいしきもく)は武家法で、例えば妻が夫以外の男を私通した場合、妻とその相手の男が罪に問われる姦通罪がある。

しかし面白き事に、夫が側室(妾)を持つ事や稚児遊び・衆道(しゅどう)の類は禁じられるどころか或る種ステータスとして容認されていた。

また、あくまでも武家法であるから平民・非民にはこの法令は及ばない。

つまり村落部に於ける「夜這い制度」や「寝宿制度」、そして「筆おろし(ふでおろし)の風習」と「水揚げ(みずあげ)の風習」は、取締りの対象ではない。

また、「暗闇祭り(くらやみまつり)」も目こぼしの対象だった。


御成敗式目(ごせいばいしきもく)は鎌倉幕府の基本法で日本最初の武家法だが、公家法からの幕府法の独立を宣言したものとする解釈が通説となっている。

式目の適用は武家社会に限られ、朝廷の支配下では公家法、荘園領主の下では本所法が効力を持った。反対に幕府の支配下では公家法・本所法は適用されないものとして拒絶している。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、公家と武家社会との調和を図る為に制定されたもので、武家法の体系化や武家法に基づく新秩序形成を目的とした訳では無い。

少なくても御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、公家法の存在を前提かつ形式的な「模範・素材として活用した物」と言える。

なお、御成敗式目(ごせいばいしきもく)は鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効であった。

足利尊氏も御成敗式目の規定遵守を命令しており、室町幕府に於いて発布された法令、戦国時代に戦国大名が制定した 分国法も、御成敗式目を改廃するものではなく、追加法令と言う位置付けであった。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は女性が御家人となる事を認めており、この規定によって戦国時代には女性の城主が存在し、立花城主の立花ァ千代、淀城主の淀殿などが知られる。

江戸幕府に於いて「武家諸法度」の施行に依り、御成敗式目(ごせいばいしきもく)は武士の基本法としての位置づけを譲る事になる。

だが、法令としての御成敗式目(ごせいばいしきもく)の有効性には変わりなく、明治時代以降に近代法が成立するまで続いた。



約百三十五年続いた鎌倉幕府に於いて最大の国難、元寇(げんこう)が起きている。

元寇(げんこう)は、広域倭の国内の国々との武力紛争を除くと大和朝廷成立後初めてにして最大の他国からの侵略戦だった。

この「元寇(げんこう)」 と言う名称については旧用語の判り難さがあり、「モンゴル襲来」と表現すべきとする意見が採用されつつある。

平家を倒して鎌倉幕府を成立させた源頼朝が没して二十二年後、尼将軍と呼ばれて鎌倉幕府を率いる北条政子の横暴を理由に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、後鳥羽上皇が敗れている。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱を勝利で収めた事で、権力を確たるものにした北条執権家の治世で最大の出来事は、鎌倉幕府成立後七十五年目の元軍の襲来だった。

鎌倉後期、執権・北条時宗(ほうじょうときむね/第八代)の時代に、大陸の大帝国・元(げん/モンゴル)の大軍(たいぐん)が襲来する。

元(げん/モンゴル)帝国を支配(しはい)した蒙古人(モンゴル人)のフビライ・ハーンは、モンゴル帝国を興したチンギス・ハーンの孫(チンギスの四男トルイの子)にあたる。

フビライ・ハーンは、朝鮮半島の国・高麗(コリョ)を征服(せいふく)し属国とした後、日本をも属国に従えようとして蒙古への服属を求める内容の国書を携えた使者を送った。

しかし、時の鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否(きょひ)し、九州の防備(ぼうび)をかためた結果、日本は国難回避で結束した。

千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗(コリョ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。

元軍は集団戦法で個人武術戦法の日本軍を苦しめ火薬を使い有利に戦ったが、日本の武士も良く防戦する内に元軍の船団がシケ(暴風)に拠って大打撃を受け、後方支援(食料や武器の補給活動)を失って退却する。

九州西北部に広がる玄界灘(到る東シナ海)は、南風が吹くシケ(暴風)と成って海面が大荒れに荒れる。

蒙古の襲来と南風のシケ(暴風)が重なって、長崎県の松浦市鷹島の入り江には蒙古の船が沈んでいる。

上陸後の陸戦の為、鎖合わせに繋いで停泊していた四千四百隻の蒙古の大船団は、荒れる海で繋ぎ合わされた舟が互いに引き合って転覆した。


この第一回目の元寇(げんこう)を「文永(ぶんえい)の役(えき」と呼ぶのだが、内陸の国「元(モンコル)」には本来海軍はない。

実は「元寇」として日本に襲来した兵の大半は、「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。

最初の襲来に失敗した元軍(げんぐん)は、七年後の千二百八十一年(弘安四年)に新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮半島と中国本土の二方面から北九州へ攻めよせた。

モンゴル・中国・高麗(コリョ/朝鮮)の兵士からなる元軍は混成軍の為に指揮系統にまとまりが無く、引き換え日本軍は海岸荷を石垣を築いて上陸を阻み、元(げん)の船に乗り込む奇襲で戦うなど水際戦は有利に戦っている。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の江南海軍だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。

日本に幸運な事に、この時も元軍(げんぐん)はシケ(暴風)に会い、南宋の船団は多くの船が沈ずむ被害を出して戦う事なく撤退している。

二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹き、海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。

日本の海の神・スサノウが、怒り暴れたのだろうか?

陸上戦に強い元軍だったが、日本攻略に失敗したのは本国のフビライ・ハーンが日本の気象状況と海上戦に疎(うと)かったにも関わらず侵略戦を強行させた慢心がもっとも主な原因と考えられる。


北条時宗(ほうじょうときむね)は鎌倉幕府の第八代執権で、先祖は源頼朝の血筋を根こそぎ絶って天下を我が物とした桓武平氏流・北条時政、正子親子の血を継ぐ得宗家嫡流に生まれた者である。

北条時宗(ほうじょうときむね)が育った時代は、宗尊(むねたか)親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が鎌倉方の要請で征夷大将軍を務めていた。

河内源氏(八幡源氏)嫡流家である源頼朝の血筋が途絶えた後、北条執権は形式的に傀儡将軍を置いていてその就任を親王に頼っていた。

その宗尊(むねたか)親王から時宗を賜り千二百六十四年(文永元年)に、六代執権・北条長時が出家、北条政村が七代執権と成ったに伴い時宗は十四歳で連署(執権の補佐を務める)に就任する。

事の真贋は定かではないが、宗尊親王が「幕府転覆を計画していた」とされ、幕府連署・北条時宗は千二百六十六年(文永三年)に執権・北条政村や一族の重鎮北条実時と協力して、宗尊親王の征夷大将軍廃位と京都送還、宗尊親王の嫡男・惟康(これやす)親王の征夷大将軍擁立などを行った。

その政変の二年後、千二百六十八年(文永五年)高麗(コリョ)国の使節がモンゴル帝国・チンギス・ハーンの国書を持って大宰府を来訪、モンゴル帝国(蒙古)への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。

モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるその国家存亡の国難時期に、北条時宗(ほうじょうときむね)は七代執権・北条政村から執権職を継承し、第八代鎌倉幕府執権と成る。

時に北条時宗・十九歳の春三月(旧暦)だった。

執権と成った北条時宗は、降り掛かる国難「モンゴルの国書」に対する返牒など対外問題を補佐されている前執権の政村や北条実時、安達泰盛、平頼綱らと協議、これを跳ね返す方向で異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせている。

千二百七十一年(文永八年)再びモンゴルの使節が来日し武力侵攻を警告すると、時宗は得宗権力の強化を図る一方、九州の名家・少弐(しょうに/武藤)氏をはじめとする西国有力御家人に防衛戦の準備を整えさせている。

裏を返すとこの国難は、北条時宗に取っては自分の権力を磐石なものとする絶好の機会だった。

外圧を利用すれば国内の不満を鎮圧するにはもって来いの理由で、弟・時宗が執権になった事に不満を持って朝廷に接近していた六波羅探題南方の異腹の兄・時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を「二月騒動」で誅殺している。

暴風と言う幸運も二度重なり、北条時宗は「モンゴル軍の襲来」と言う国難を回避した。

しかし、その戦後に今度は従軍貢献した御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、以後の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、北条時に宗は難題がいくつも積み重なっていた。

北条時宗は第二次襲来の「弘安の役」の三年後の千二百八十四年(弘安七年)には「既に病床にあった」とされ、三十四歳で病死した。


北条時政と正子には、恐怖政治を行う非情な決断をする必要は確かに在った。

覇権を争そうべく生を受けた氏族の栄光と破滅は、常に決断の中に生まれる。

戦人(いくさびと)には冷酷な決断をも要求され、躊躇(ためら)えば一族郎党全滅も在り得る時代だったのである。

もっとも現代でも、政・財・官で「善人が出世した」と言うのは聞いた事がない。

出世した人物ほど、「こうあるべき」と言う建前の「べき論」の影でかなりの事を犯っていなければ競争に勝てないし蓄財も得られない。


鎌倉幕府の成立には、以仁王(もちひとおう)を始めとする多くの貴族や地方武士の想いが在って治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)が始まった。

その歴史的経緯の中で事実を辿れば、源範頼にしても源義経にしても、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れない残酷な「世の習い」と言う事実は「歴史の皮肉」と言うべきなのだろか?

新興の中小企業なども同様だが、事業が軌道に乗って楽をするのは二代目経営者で、鎌倉幕府の場合はそれが北条執権家であり、創業者・源頼朝やそれをサポートした初期の御家人・幹部ではない。

北条家は源氏の血筋を壊滅させ、度重なる粛清で有力御家人を潰し、もはや執権得宗家に敵対する勢力はなくなり、勘解由小路党の出番がなくなって遥か鎌倉末期の動乱まで帝の影御用務めは僅に成ってしまった。

そうした事情で勘解由小路党は全国に散り、修験郷士として土着各自が生計を立て、次の動乱に備える事になる。

或いは、義経の件で息子・伊勢義盛を失った勘解由小路吉次が、これを期に配下に自由を与えたのかも知れない。

百十年の歳月が流れ、八代の子孫が入れ替わり勘解由小路党の或る者は郷士、或る者は僧侶、或る者は修験者と、土地に根付いた草になった頃、時の帝、後醍醐天皇が突然動き出す。



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作者本名・鈴木峰晴