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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【皇統と鵺の影人 第二巻・二話】作者本名鈴木峰晴

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第二巻【第二話】

未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教・(南朝の衰退と室町幕府
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)
・(皇国史観と集合的無意識) (日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




後醍醐帝(真言立川と南北朝) 醍醐寺と仁寛僧正 【陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第二巻・本章の【第二話】

後醍醐帝(真言立川と南北朝)

(醍醐寺と仁寛僧正)

◇◆◇◆(醍醐寺と仁寛僧正)◆◇◆◇◆

生きているのか生かされているのか、命にはそれ自体に神秘が伴う。

そしてその人生は、絶えず思いもよらない方向に転がる。

幸せか不幸かはその人間の価値観で、その生き方を他人がとやかく批評するものでも無い。

貧しくても平凡でも結構幸せな人生に思う人間も居るし、金持ちで変化に富んでいても不幸に思う人生もある。

それ故、信仰は生活に根着いて命脈を永らえて来た。



人類は生意気にも神になった。

そして自らの生物学的生態系まで壊してしまった。

シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。

従って、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは稚拙な勘違いである。

そこで問題なのが人間と言う生物の「特殊な進化」なのだ。

脳が異常に発達して物事がシンプルに処理できなくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。

つまり生物としての性欲を「恥ずかしいもの」と勘違いする事から様々な悲劇が始まっている。

性欲を「恥ずかしいもの」とする事が「勘違いだ」とすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか異性に対する独占欲の拘(こだわ)りの問題である。

そこで誓約(うけい)の性交が群れの維持に重要な役割を果たし、その証明としてS(支配者)・M(被支配者)遊技の「擬似の群れ」が誕生する。

言って置くが、男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。

つまり人間は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。

戦後も六十年を経て、そろそろ「自分が愉しければ」と子育てさえ放棄した私権ばかりに偏った考え方を、「見直す必要が有る」と考えても良いのではないか?

女性が「産まない権利」を主張する事は「生態系上不自然な事」と言わざるを得ず、個人の私権ばかりを言い立てて少子高齢化を引き起こしている日本人は滅びの道を歩み進む事になる。

「姦淫は即ち悪である」と言う先入観は、発想の落とし穴に成る。

この先入観から【真言密教立川流】の評価に入り「淫邪教」と切って捨てる安易な建前主義者が居るから、【左脳域】に偏重した人間ばかりのストレス社会が如何(いか)にもまともな事のように成ってしまった。


「右脳域と左脳域の話し」と言っても、けっして思想上の右翼や左翼の話ではない。

脳の果たす役割として、脳みそが右脳と左脳に分かれていて、思考が右脳域は本能と感性を得意とし左脳域は理性や論理、計算を得意とする部分が在るからである。

帰属意識や信仰などの右脳域の感性を優先してしまうと具体的事実を検討する能力を停止してしまう事に成り、本来ならば見るべき事を「見ない」と言う事に陥り易い。

かと言って、まったく違う結論を得るこの事象に於いては、左脳域の理性や論理では短絡軽薄に「情」に欠ける論議に陥り易い。

現代人が史実に死角を作るのは「常識」と言うキーワードで、実は歴史に「定説」はあるが「常識」は存在しない。

そして世に言う「定説」には「常識」と言う物差しが採用されているのであるから、「常識」で組み立てられた死角だらけの歴史が存在するのである。

右脳域の思い込みから始まる歴史観も在れば、左脳域の思い込ませから始まる歴史観もあり、そこで二つの選択肢が生まれて本音と建前の葛藤が始まる。

誤解して貰っては困るが、脳の思考が右脳域の感性と左脳域の理性に役割が分担されていても、現実問題として人間はその両方を一度に働かせて居て、つまり世に言う右脳人間・左脳人間などと言う極端な者は存在しない。

つまり右脳派人間や左脳派人間の括(くく)りは、結論の主体をどちらに置いて主張行動するかの性格的な問題で、脳その物が偏って働いている訳ではない。

解説すると、通常人間の思考は常に右脳域の感性と左脳域の理性のどちらかの思考を主体にするかの選択をして居て、芸術関係の右脳域の感性を主体にした思考の中にも左脳域の理性が混在しているのが通常の事である。

右脳域の感性と左脳域理性は思考の中で混在する物だが、視点を何処に置いて思考をするかで論点は変わり、歴史の事象も、実は右脳域の思考で初めてか左脳域の思考で初めてかでまったく違う結論を得るからである。

つまり人間の思考結果は単純に右か左かではないのだが、但し一瞬の行動の中には右脳域の感性のみが働く瞬間が在り、それこそが後先を考えない右脳域の感情の発露と言う事に成る。


最近世間を騒がせている各種の「偽装問題」は、【左脳域(理屈と計算)】ばかりに視点が行って、【右脳域(感情)】の感性を無視したバランスの悪さが引き起こしたもので、民間・官庁を問わずに【左脳域(理屈と計算)】ばかりの人間が「何と多い事」と呆れるばかりである。

我輩に「未来が狂うのは冗談ではない。」と言う気持ちからであるが、実は人類がドンドン【左脳域】ばかりに価値判断を偏らせて行く心配からである。

例を挙げると、現在の教育は【左脳域】ばかりに偏重して、成績が良ければ高資格を得て「将来高い地位に就いて幸せに成れる。」と、そこから落ちこぼれた人間が心の行き所を失うのも構わず、知識の詰め込みを強要する教育体制に親も国家も血眼に成っている。

つまり教育に於いて【右脳域】の無意識の感性を育てる必要性を切り捨て、私権ばかりを追いかける人間を育て、仕舞いには親子兄弟の命の遣り取りにまで発展させている。

【右脳域】の無意識の感性が働かない事は「情が無い」と言う事で、厚生労働省の薬害や年金の処理が、【左脳域】の論理や計算に発想が偏っているから被害に遭う国民の救済など眼中に無く、被害に遭われた方々の【右脳域】の被害感情を汲み上げる態度も無く全く噛み合わない状態を長々と続けている。

「成績優秀な官僚」と言っても優秀なのは【左脳域】の論理や計算だけで、人間性のバランス【右脳域】の「無意識感性に欠ける人間に育っている」と言う事である。


政治に【右脳域】の感性を持ち込まない悪政をするから、弱者は【左脳域】の論理や計算の中で切り捨てられ、「障害者支援法」と言う名の聞き触りだけ良い「改悪法」がまかり通る。

政治家は「国益の為」を連発して国民に犠牲を強(し)いるが本末転倒で、国民有っての国家ではないのか?

米国かぶれした小泉氏と竹中氏の五年間は、正にこの【左脳域】の論理や計算だけの政治だった。

彼らが行なった「規制緩和」と言う箍(たが)を緩めた結果が、ライブドア、構造設計偽装、違法ホテルチエーン、コムスン、駅前留学のノバ、などなどの【左脳域】論理で「儲ける為には手段を選ばず。」の急成長企業を生み、順法に徹した中小企業は彼らに駆逐された。

それのみならず、「規制緩和」はタクシーや観光バスなどの許認可を緩め、結果的に従事する者に過酷劣悪な労働条件を強いる結果になった。

しかし彼らの【左脳域的】な考え方は、国民にすべからく蔓延している。

それにして昨今の風潮として、「結婚すると個人の自由が無く成る」とか、「子供を産むと金がかかり、自分が楽しめなくなる。」と言った【左脳域(理屈と計算)】ばかりのバランスの悪い人も多いので、この国の全てが【左脳域(理屈と計算)】ばかりに「偏った国に成ってしまったのではないか」と、嘆く次第である。



そもそも「占い」や「信仰(宗教)」は、【左脳域】の理性や計算を前提とした意識ストレス状態から脱して、その帰結する所【右脳域】の本能的無意識リラックス状態を引き出す為のものである。

つまり、「占い」や「信仰(宗教)」はもっともらしい【左脳域】の理性や論理を並べながら、最後は「目に見えぬ神の力や奇跡」と言った【右脳域】の本能的無意識リラックス状態である「精神世界」へ導くものである。

有名な興奮物質として【左脳系本能】のストレス興奮物質・アドレナリンがある。
アドレナリンはリラックス物質ではなく緊急時の感性に拠る興奮物質で、恐怖や身の危険を察知した時、あるいは争いを必要とする時に素早く対応する為のストレス脳神経系物質である。

このアドレナリンの放出状態から開放される表現が「安堵(あんど)する」で、一気に【左脳域】の思考から【右脳域】の本能的無意識リラックス状態に切り替わった事を意味している。

脳神経系に於ける神経伝達物質・アドレナリンはストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると一時的に心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。

アドレナリンは、「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の【左脳域】の活性ホルモンと呼ばれて居る。

つまり、人間を含む動物が「敵から身を守る。或いは獲物を捕食する必要にせまられる。」などと言う状態に相当するストレス応答を全身の器官に引き起こす交感神経が興奮した状態で血中に放出される脳神経系物質がアドレナリンである。

占いや信仰(宗教)などにおいてはその根源に在るのが「恐れ」であるから、当初【左脳域】の理性的意識の恐怖興奮物質・アドレナリンから入ってその後の演出効果から【右脳域】の本能的無意識リラックス興奮物質・ベーターエンドロフィンに入って陶酔状態に成るようにその儀式次第が完成されていて、【右脳域】の活動で「心の救いを感じる仕組み」に成っているのである。

息詰まるような【左脳域(理屈と計算)社会】である現代にあっては、その裏返しとして【右脳域】の「精神世界(本能的無意識リラックス状態)」へ導く占いや信仰(宗教)が、論理的でないからこそ頼りにされているのである。

その論理的でない宗教上の教義(無意識リラックス状態)を、【左脳域】の理性や論理を並べて「真言密教立川流は淫邪教である」と決め付けるのは実は次元の違う話である。



「真言立川流」は宗教であるから、【右脳域】の精神世界の事で、実は天孫降(光)臨の神話と同じ性格を持っていて、【左脳域】の理性や論理では眉唾物であっても、他の宗教の「奇跡」と同じで、救われる人間が存在したから成立し、しかも一時期かなり隆盛を見た宗派である事を前提にしなければならない。


宗教や占術(せんじゅつ)などは、時を経るに従って時代とともに体系付けられ、磨き上げられて大成して行く。

元を正せば権力者の政治利用であっても、定着すれば一応の意義を持つ。

つまり、綺麗事は為政者の統治の道具である。

平たく言えば、先人の【右脳的】発想に後世の人間が【左脳的】な理性や論理であれこれ理屈を並べてさもそれらしく作り上げたものである。

つまりそうした教義は、磨き上げられて重みが増して行くものだが、その過程でそれは一人歩きを始める。

陰陽師の布教した密教・妙見信仰も、一人歩きを始めればそれ自体が意志を持ち進化の過程を辿って行く。


北斗・北辰妙見信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化され、その古代妙見信仰が五百年代から六百年代にかけて渡来人と伴に日本列島・大和の国に渡来した。

妙見とは「優れた目を持つ」の意味だが、この優れた目とは「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の「根幹を為す信仰」として活用された。

初期陰陽修験道は、有る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。

この密命が大王(おおきみ)の密命なのだがそれは後の章で記述する。

信仰が大衆に広まるには、【右脳域】の本能的無意識リラックスの救いが必要で、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。

実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。

北辰妙見信仰の「祭事・北辰祭」がエロチックな内容の為、それを理由に大和朝廷は七百九十六年(延暦十五年)に「風紀の乱れ」を理由に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止する。

しかし本音の部分では「神を持って統治する朝廷」が、人心をコントロールできない新たな信仰に「危機感を募らせた」と言う事態の解消目的が「真相ではないか」とする学者が多い。

所が禁止から僅か十年余りで、八百六年に空海(弘法大師)が唐から帰国して高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山すると、北辰妙見信仰を取り込んで「妙見大菩薩」と言う真言密教の仏様に迎え入れる。

この空海(弘法大師)を朝廷が受け入れ重く遇した背景には、渡来宗教・妙見信仰を国家体制の中に組み込む目的があったのではないだろうか?

信者の居る既存の宗派がいきなり教義を変更するのは難しいが、先進国家である中華帝国から修行して帰国した空海(弘法大師)は、コントロールに苦慮していた妙見信仰を国家体制の中に組み込む事にもってこいの存在だった。

日本の真言宗が、真言陀羅尼(マントラダーラニー/しんごんだらに)を唱え、大日如来(本尊)を念じる教義である。

実は空海(弘法大師)が中国大陸から持ち帰った教義を総合的に整理して教義とした為、空海(弘法大師)が持ち帰った教義の中に北辰妙見信仰と仏教が中国大陸で結び付いた「妙見大菩薩信仰/陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」が含まれていたからである。

この北辰妙見信仰は、百三十年余り以前に初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていた為、真言密教と初期修験道は一体化して行き東密修験道は総本山金剛峰寺(真言宗)を本拠地に、そして同時期に帰国した最澄(伝教大師)が天台宗を創建すると同じく台密修験道として比叡山延暦寺(天台宗)を本拠地として融合する。


インド・ヒンドゥー教の神や祭祀、そしてチベット仏教は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。

弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰、そしてチベット仏教に関わる教義や祭祀も含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教やチベット仏教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

「ヒンドゥー」の語源は、サンスクリット語(梵語)でインダス川を意味し、宇宙の創造を司るブラフマー神 、宇宙の維持を司るヴィシュヌ神 、宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司るシヴァ神 、この神々は三神一体(トリムルティ)と呼ばれて「一体を為(な)す」とされている。

しかし現在では、創造神・ブラフマー神を信仰する人は減り、現世神・ヴィシュヌ神と愛の神・シヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。

インド・ヒンドゥー教は神々への信仰と同時に輪廻や解脱と言った独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。

ヒンドゥー教は、キリスト教やイスラム教のような特定の開祖に拠って開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ「時代に従って変化したもの」と考えられている。

インド・ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されて来た多神教である。

また地域や所属する集団によって非常に多様な信仰形態をとる為にヒンドゥー教の範囲は非常に曖昧で、生活に密着した赤裸々な神であり、煩悩を容認し性に赤裸様(あからさま)ある。

何しろインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国である。

インド・ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であり、つまり性愛の神様でもある。

ヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性があり、古来日本の五穀豊穣と子宝信仰の共通性としての性交信仰に通じる所がある。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道と人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?


中国領チベット地域・ネパール連邦民主共和国・ブータン王国はヒマラヤ山脈の一郭に在り、「夜這いのルーツの国々」である。

「夜這いの国々」などと言うと、現代日本の性規範では好奇な目で見るだろうが、それは単なる文化の違いで、過っての日本にも存在した文化であり、非難されるものでも蔑(さげす)まれるものでも無い。

要はそれが現地の習俗であれば、それを他国が自分達の尺度で量り批判するのは単純過ぎる考え方である。


日本に於いて、平安時代から昭和初期、一部は戦後直ぐの集団就職(しゅうだんしゅうしょく)で村落部に若者が減るまで農漁村の村落部に存在した「夜這い制度」のルーツは何処から来たのだろうか?

勿論「夜這い制度」は自然発生的な制度で、原始的婚姻制度としては繁殖相手を選択する極自然で素朴なものである。

そしてそれを理論的に裏付けたのが、「北斗・北辰信仰(妙見信仰/みょうけんしんこう)」であり、その後に弘法大師(こうぼうだいし/空海)が多くの経典と伴に中国から持ち込んだ密教(真言密教)だった。

チベット仏教(ラマ教)の地域であるチベット、同じくブータン、そしてネパールと言う言わば中国・日本への仏教伝来ルートの国々は、現在でも一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)や一夫多妻(群れ婚)の国である。

弘法大師(空海)が、桓武天皇の御世に中国から持ち帰った真言密教は、桜の原種・ヒマラヤ桜と同様に、中華帝国を経由して日本列島に伝わったネパールやブータン発祥の性文化そのものである。

「夜這い制度」を守る村落共同体内での「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく、共同体としての素朴な「積極的協調精神」である。

つまり「共生主義」は、女性側に選択権がある「夜這い」と言う極自然発生的な制度や「一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)」の制度である。

また、家族単位の「群れ婚状態」も在り、その家の長男が嫁をとり財産を引き継ぐと、男兄弟が何人居ようとその家に同居し長男の嫁をセックスの対象として共有させてもらう一妻多夫婚が普通である。

逆のケースとして、娘だけ何人も居る家庭では長女にだけ婿をもらい、他の娘はその婿をセックスの対象として共有する一夫多妻も存在する。

これは一家一族の財産の散逸を防ぎ、かつ一族共栄の為の知恵であり、一族の血流を閉ざさない為の合理的な保険的手段だった。


弘法大師・空海がもたらした真言密教の教えでは「あるがままに眺める」としていて、これはインド・ヒンドゥー教の教義に通じ、欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定している。

それ故真言密教の教えでは、真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事に拠って、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

つまり弘法大師・空海のもたらせた初期真言密教の教えでは、本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。



歴史には人間が営々と築いた連続性があり、歴史を研究する場合は連続性的検証を心掛ける事が重要である。

所が、「その時代の専門研究」と称して歴史の中の一ヵ所だけを切り取って研究するとその研究者の思い込みから想わぬ誤解を招いてしまう事がある。

例えば良く知られている事に、キリスト教が繁栄したのは王族、元老院、貴族達の堕落から滅亡したローマ帝国を反面教師とした禁欲主義だったからと伝えられている。

つまりそれ以前に起こった現象が反省を招いて次の世を作り、歴史は時系列的に積み重なるもので最初から欧米人が禁欲主義者ではなかった。

そしてもっとも困るのは、時系列的に変化する思想や倫理観に思考を向けず現在の思想や倫理観を当時の時代に充て嵌めて解釈する事で、当時常態化していた事にも現代の基準で否定的に成ってしまう事である。

この物語で良く取り上げるが、「常識」と言う言葉はコモンセンス(common sense)の訳語として明治時代頃に日本に普及し始めた言葉で、実はこの時代以前には常識(じょうしき)と言う概念も用語も存在はしなかった。

維新後の日本政府は、欧米列強国に並ぶ為に欧米化を模索して「常識」と言う言葉と伴に、「建前」の構築が始まった。

それ以前の日本人はもっと「あるがまま」の本音が主流だったが、「常識」と言う言葉に脅かされるように日本人は「建前」ばかりを言うようになった。

「常識」の普及前に使っていた似たような言葉に「世の常」があるが、この場合いの「世の常」の意味は自然発生的な世の中の常態を指す言葉で、言わば真言宗を広めた弘法大師(空海)の教え、「あるがまま」の境地に近い。
従ってこの「常識」と言う言葉を、明治維新以前の時代に台詞などで使うのは本来は時代考証に触れるのである。

つまり時系列を無視した夫婦別姓問題もそうだが歴史の連続性連続性を考察しないと、時代考証的に的外れな答えを生み出してしまうのである。



平安時代末期から鎌倉時代、性交による即身成仏を説き、室町期から江戸期にかけて弾圧されて滅びた謎の宗教に「真言立川流」がある。

つまり性交に拠る快楽の極致が、即ち即身成仏の「極楽浄土だ」と言うのである。

こうした伝承を扱うに、現代の先入観を重視して安易な結論を出しては成らない。

真言密教立川流を、現代の倫理観で計る単純な発想で「淫邪教」と言うのは簡単である。しかしそんな事では推し量れない何かが、立川流にはある。

人間の認識など発想で変え得(う)るものだから、本来常識とか普通と言うものは本人が思い込んで居るだけで存在しない。

つまり、現実に則さない妖しげな「建前を信じる」と言う事は、その建前を簡単に信じる「オメデタイ連中」と言う事になる。

そもそも、右脳思考と左脳思考の二極面の性格を持つ人間に、思想や宗教で人間の欲心が抑えられる訳が無い。

現に、日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では不倫と売春の文化で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。

性交相手に老若美醜(ろうにゃくびしゅう)を選ばない事が、観音菩薩や弁財天の慈悲の心である。

群れ社会(村落社会/共生社会)に於いては、この観音菩薩や弁財天がごろごろ居た事になる。

この素晴らしき考え方を、欧米文化の「罪の意識」に変えた事が、日本と言う国の村落社会から「共生社会」を取り上げ、群れ社会を消滅させて極端な私権社会に走り、「親子兄弟でさえも殺す」と言う殺伐とした社会を創造した。

つまり、「現代のこの世の合意認識が、正しい生き方だ」と言う確信など無いのである。


人間の「業(ごう/カルマ)」と言うものは本能の事ように言われるが、実は、「知性・理性」と言った余分な事を考えるように成った事こそ「業(ごう)」なのである。

何故なら、素朴な生物本能に「業(ごう)」何てものは存在しない。

客観的に見れば、本来、素朴な筈の性行為に、「煩悩(ぼんのう)」と言う特別な理由をつけたがるのが人間の悪い所である。

調理(料理)は、基本的な科学である。

人類は食べ物を調理(料理)する事を覚えて他の動物と比べ【左脳域(理屈と計算)】を格段に進歩させて来た。

それまでの【左脳域(理屈と計算)】は、獲物を前にして「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の決断が主な【左脳】の仕事だった。

そして衣服で気候(寒暖の差)や外敵から身を守るようになると、【左脳域(理屈と計算)】で裸身に羞恥心を抱くように成った。

しかし人類は【左脳域(理屈と計算)】ばかりに価値観を偏重し過ぎて、滅びの道を歩んでいる気がしてならない。

近頃の「地球温暖化」も「少子高齢化問題」も、そして「教育問題」も【左脳域(理屈と計算)】ばかりの価値観で論じていては解決しないであろう。

弘法大師(空海)の真言密教について、現在の性規範を当て嵌めて「そんな信仰が在る訳が無い」は、検証もしない感情だけの無茶苦茶発想のな言い分である。

それでも、とかく性に関する事と成ると「考えるのも気持ちが悪い」や「口にするのも汚らわしい」と言う発言が出て、真面目な論議も無しに事を収めようとする。

こんな事は本音の部分で誰でも承知している事だが、現実を認めない感情論や建前論は正直意味が無い。

信仰(宗教)に於ける性意識は、「個人の好き嫌い」と言った個々の感情が問題ではない。

誰にでも経験がある事だが、現実の人間はそれほど奇麗事ばかりで生活している訳ではない。

中には自分の悪事・悪行を棚に上げて奇麗事ばかりを言う者も居るが、大抵の人間は悪事・悪行を働いても善意も併せ持っている。

それ故に人々を悪事・悪行の罪の意識から救わねばならない。

人々を救わねばならないから、信仰(宗教)はその事に共通する「救い」の機能を持っている。

人間は普通に善人で普通に悪人、普通に清廉だし普通にスケベである。それらを併せ持つのが人間だから、そうした矛盾から救う事が宗教上の教えで、仏教に限ったものではなくキリスト教でも悪事・悪行を悔い改めて「懺悔(ざんげ)」すれば救いの手を差し伸べる。

そんな事を認めれば、悪事・悪行をしても「信仰(宗教)をすれば赦されるのか?」と批判されそうだが、実はその通りである。

裏返せば、信者の居ない信仰(宗教)は成り立たない。

人間、何らかのご利益が無ければ信仰(宗教)などしないのである。

弘法大師(空海)が真言宗の教えの中ではっきり言っている。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」とされてる教えが真言密教の理念である。

つまり鎌倉期以前の真言密教は「煩悩」を容認し、その矛盾する現実生身の人間の生き方を念ずる事で救うものだった。

そして現在に至る鎌倉期以後の真言密教は弘法大師(空海)が唱えた教えではなく、開祖・弘法大師が否定した儒教思想(朱子学)を取り入れた「修正真言宗」なのである。



醍醐寺は、京都市伏見区に在る真言宗醍醐派總本山で、国宝五重塔をはじめ数々の国宝・重要文化財を蔵する世界遺産である。

醍醐とは仏教用語で非情に手間の掛かる貴重な牛・羊乳化工品の食べ物で濃厚な肉汁の甘みを有する食べ物の事である。

醍醐味はこの貴重な牛羊乳化品の味を指し、それが転じて醍醐味は「貴重な」とか「真髄」と言う意味に転用されて、帝の名前(醍醐天皇・後醍醐天皇)や寺の本山の名前に用いられる様になった。

「真言立川流」を始めたのは見蓮(もくれん)と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

当然ながら見蓮(もくれん)は勘解由小路(かでのこうじ)党の手の者、草である。

見蓮(けんれん・兼蓮とも?)は伊豆に流されていた真言宗・醍醐寺三宝院の開祖・勝覚の弟・仁寛僧正に奥義を授かり真言密教立川流の開祖となる。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)である。

だから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮(もくれん)が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。


この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方が在った。

つまり宗教上、人類の「種の保存」と言う基本的本能をどう導き、どう処理するのかは支持を得て信者を増やす為に勘解由小路党としても重要な事だった。

しかし、真言密教立川流の教義に性交密義の教えが在る所から、同宗派の対抗勢力からその部分を突かれ、時の室町幕府からも敵対視されて室町期以後弾圧され続けて消滅した。

真言立川流の基本になった醍醐(だいご)寺三宝院の秘伝奥義を見蓮(もくれん)に伝授したのが、伊豆に流刑になっていた仁寛(にんかん)僧正である。

この二人の出会い、偶然でも何でもない。

伊豆に配流され、大仁に住まいし仁寛(にんかん)僧正の動静を探る為に、白河上皇に命ぜられた勘解由小路党の草、立川の陰陽師・見蓮(もくれん)が近付いて、ミイラ取りがミイラになった図式で有る。

勿論、見蓮(もくれん)は勘解由小路党の手の者であるが、見張るべき仁寛(にんかん)僧正は村上源氏流であり、同じ真言宗の僧籍最高位「阿じゃ梨」である。

更に、仁寛僧正の兄の「勝覚僧正」は、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。

言わば尊敬してやまないあこがれの師の見張をさせられた様な物で、見張ると言うより直ぐに心服してしまった。つまり、結果は最初から判っていた様な物である。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた仁寛(にんかん)僧正の伊豆配流が、永久元年(千百十三年)と言うから、八幡太郎源義が「後三年の役」と言われた奥州攻めを公務と認められず、自腹で恩賞を配り、寂しく没してから数年後の事である。

仁寛僧正は、村上天皇の皇子、具平(ともひら)親王の子師房(孫)が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓し、始まった村上源氏の血を引く、有力貴族の出自である。

仁寛は、後三条天皇の遺命により第三皇子輔仁(すけひと)親王の「皇太弟(幼少よりの側近)」として祖母から英才教育を受けていた。

余談だが紫式部が源氏物語に登場させた「光源氏」のモデルは、この具平(ともひら)親王説がある。

仁寛の父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。

また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇(第七十二代)の皇后で堀河天皇(第七十三代)の母にあたる。

正に権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。

仁寛の兄の勝覚は、真言宗の歴史の中でも大変に重要な高僧である。

と言うのも、彼こそが真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。

仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び、真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。

そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた輔仁(すけひと)親王の護持僧となるのである。

後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族を遠ざけ、左大臣に源俊房、右大臣に源師房を就任させた。

村上源氏を取り立てる事で、中臣(臣王)藤原氏に対抗する皇統重視の権力独占を図って天皇親政へと向かい、院政の時代が始まる。

後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子白河天皇(第七十二代)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言したのである。

しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据えた。

所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。

白河上皇は、堀河天皇即位の時周りを納得させる為に、「次には輔仁(すけひと)親王を天皇位につけてやる。」と約束していた。

しかし、堀河天皇が夭折すると、約束を破りわずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言時の約束とその後の弟との約束を、二度も反故にしたのである。

この時、村上源氏の一族は、輔仁(すけひと)親王が天皇位に就く事を期待して親王を支持していた。

それに、村上源氏の源俊房を左大臣、弟の顕房は右大臣と優遇してくれた。

それなのに「後三条天皇(第七十一代)の遺言」が反故にされては当然不満である。

この為に勘解由小路党は、白河上皇の命令で、意に沿わない仕事をしている。

仁寛僧正の伊豆流刑は、実は余りにも不可思議な事件が発端だった。
所謂「千手丸事件」である。

その事件が起こったのは、鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。

白河上皇(第七十二代)の内親王・令子の御所に匿名の落書が投げ込まれた。

内容は「輔仁(すけひと)親王と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言うものである。

更にこの落書には、「暗殺実行犯」として千手丸なる童子の名が書かれていた。

この千手丸は、醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた稚児だった。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

それが「世の習い」と言うもので、「臭い物には蓋をする」と言う建前主義者が悲鳴を上げて卒倒するかも知れないが、歴史の真実を炙り出すには深く切り込まざるを得ない。

明治維新後タブーに成った部分だが、ハッキリ言えば女性の肉体には男根を受け入れる穴が三つあり、男性の肉体にも穴が二つある。

つまり衆道(男色)・稚児小姓は、その二つを使って主(あるじ)と性的な行為に及ぶ事である。

現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。

ただし現代のように男性同士に偏った個人的な性癖ではなく男女両刀使いが一般的で、そして明治維新前の主従関係では、それは上流社会の嗜(たしな)みとして公然と認められていた。

従って日本に於いては平安末期から明治維新までの永い間、肛門性交を否定する環境に無かった訳で、今は口に出すのはタブーだが行為は密かに廃(すた)れずに残っている。

近年では祭典の出し物として世俗一般の稚児行列が加わっているが、昔の寺の稚児は僧侶の愛玩目的であった。

しかし稚児はその時代の社会合意で在ったから稚児の成り手の希望は多く、僧侶は選ぶのに苦労した程だと言う。

これには事情があり、当時の僧侶は時代的に最高の学問を修めたステータスで、庶民の学校が存在しない時代に稚児に上がって僧侶に可愛がられ、学ぶ事で将来僧侶に成る早道だった。

また元服前に稚児に上がって寺を去っても、今の卒業証書と同じで「**寺の**僧侶の稚児を務めていた」は学が有る証拠で、貴族社会や武家社会に務め口の門が広がり出世の道が開けた。

そうした経緯から世の中に稚児=出世の連想が生まれて、現在の祭典の出し物としての稚児行列となった。

現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。

しかし歴史を語る上で、ここで一度「異常」の定義について考えて置きたい。

この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、こうした基準は歴史と伴に変遷するものである。

「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。

つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。

そう言う訳で、現在の個人の思想信条や社会合意を基準に過去の歴史的な事象を「信じられない」と否定して葬り去ってはならない。

稚児小姓の歴史は古く、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった事が最初である」とされている。

それが平安時代には、公家や僧侶とやがては武士と言った氏族全般に一種のステータスとして稚児小姓の愛玩風習が広がり、鎌倉時代から明治維新まで習慣として残っていた。

稚児(ちご)を寵愛する風習の原点は、古来から伝わる我が国の自然信仰に有る。

「神霊は幼い子供の姿を借りて現れる」と言う自然信仰の下、神が降りる為の仮の肉体として「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼ぶ稚児の肉体を「神仏の顕現」と見なす宗教的側面が在った。

少年を「神霊の化身」とし、稚児を「尸童(よりまし)または依憑(よりわら)」と言う神が降りる状態にする為の肉体的交わり自体を神聖視する信仰が日本の男色の風習の背後に存在した。

稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされ、神仏習合の修験道(密教)では呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムであった。

つまり僧侶の間で始まった衆道(しゅどう)は稚児(ちご)と呼ぶ小坊主に御伽(おとぎ)をさせる事で、その根底に在ったのがインドヒンズー教に端を発する弘法大師(空海)が中国から持ち帰った梵語(ぼんご/サンスクリット語)経典の解釈から始まる呪詛的な意味合いを持っていた。


古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」と言う名で括られて演じられていている。

その「延年」の演目には稚児(ちご)も出るのが特色で、鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた「延年」の場に於いて稚児舞(ちごまい)を舞った少年が、指名されて僧侶と同衾(男色/衆道)する事が行われた。

この辺りを観てしまうと、どこまでが信仰心か疑わしく、むしろ遊興の口実の一環として信仰に結び付けられ「稚児との男色(衆道)の交わりが為されていた」と考えられる。


この男色仏教界起源説を証明するに「御伽(おとぎ)」を解説する。

仏教用語は、その生い立ちから梵語(ぼんご/サンスクリット語)に起因するものが多である。

梵語(ぼんご/サンスクリット語)は、古代・中世期にインド亜大陸や東南アジアに於いて公用語として用いられていた古典言語である。

現在のインドでは、母語、日常語としての梵語(ぼんご)の話者はほとんどいないが、宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語としてその権威は現在も大きい。

梵語(ぼんご/サンスクリット語)は釈迦の時代に公用語として普及し、ヒンドゥー教・仏教などの宗教・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に亘って用いられた。

仏教に於いては、釈迦の時代にはインド各地でパーリ語などのプラークリットと呼ばれる地方口語が一般に用いられてより民衆に近い言葉で文献が書かれた為に最初は梵語(ぼんご/サンスクリット語)は用いられなかったが、紀元の前後を境にして徐々に取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに東アジアの多くの国々へ伝えられた。

日本では一般に「言語扱い」とされ「サンスクリット語」と呼ばれ、梵語(ぼんご/ブラフマンの言葉)とも呼ばれて、主に日本に於ける仏教関連の辞典や書物に用いられ、時代は少なくとも真言宗の開祖・空海までは遡れる。


御伽話(おとぎばなし)や御伽小姓(おとぎこしょう)に使われる伽(とぎ)の文字は、梵語(ぼんご/サンスクリット語)のカ・ガの音を「カ(漢語)ガ(呉語)」に当てた字である。

清浄閑静な場所を指す「伽藍(がらん)」、仏に手向ける水を意味する「閼伽(あか)」、極楽浄土に居ると言う想像上の鳥「頻伽(びんが・迦陵頻伽/かりょうびんが)」、冥想による寂静の境地を指す「瑜伽(ゆが/ヨーガ)」などの仏教用語使われる文字で、伽(とぎ)はその訓読みである。

我が国では仏教の極楽浄土の解釈から転じて、御伽(おとぎ)とは貴人・敬うべき人を慰める事を意味し、御伽話(おとぎばなし)とは若君の夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める為に話し相手又は物語の語り部(かたりべ)となる為の空想的な伝説・昔話である。

伽(とぎ)とは、主君や病人の為などに夜寝ないで付き添う人を伽(とぎ)と言い、また寝所に侍(じ/仕え)る侍妾(じ‐しょう/そばめ)が男の意に従って夜の共寝をし、貴人の夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める事を伽(とぎ)または御伽(おとぎ)や夜伽(よとぎ)と言う。

幼君に仕えて、その遊び相手となる小姓を御伽小姓(おとぎこしょう)と言うが、御伽小姓(おとぎこしょう)には往々にして敬うべき主君に仕え夜の連れ連れ(つれづれ)を慰める衆道(男色)・稚児小姓の場合も存在する。

この稚児小姓の習俗が、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった」とされている事から、御伽(おとぎ)や伽(とぎ)の文言が仏教用語から発生していて不思議は無い。

つまりこの御伽(おとぎ)には、幼君の遊び相手や添い寝語り(御伽話)から主君の性的愛玩相手まで広義の意味は幅広く、この他に通夜を仏教用語で伽(とぎ)と言い、通夜(つや)の夜に死者の傍(かたわ)らで夜通(よどお)し過ごす事も夜伽(よとぎ)と言う。


当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手で、当然ながら「千手丸事件」の千手丸は勝覚僧正の寵愛を得ていた事になる。

つまり稚児との男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まった。

さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行き、特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五〜十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。

しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

余談だが、この時代の僧侶に仕える稚児は衆道(男色)の相手を務める事が普通だったから、千手丸は高僧・勝覚僧正に愛玩されていた少年で、村上源氏の一族を牽制する為のスキャンダルとしては申し分が無い。

つまりこの「勝覚僧正と深い仲の衆道(男色)稚児」と言うのがポイントで、現在の「僧院に仕える千手丸なる只の童子」と言う感覚で千手丸の存在を捉えると状況を見誤る。

当然の事ながら、勘解由小路党と醍醐寺は同じ密教修験として深い繋がりがある。

しかし白河上皇の命は無視できない。

そこで妥協案を考え、仁寛(にんかん)に犠牲になってもらう最小範囲の連座に止める事にした。

千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。

仁寛僧正も捕らえられて尋問を受け、当初仁寛はその暗殺指示を否認したが、六日目には自白させられている。

仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪となった。

それにしても、この事件は不自然極まりない。

「天皇暗殺計画」と言う普通なら親族縁戚に至るまで類が及ぶ大事件にも関わらず、何故か罰を受けたのは仁寛と千手丸だけである。
この事件に拠って、輔仁親王と村上源氏の力は大きく削がれたが、二人以外特に罰は受けていない。

当然連座が考えられる千手丸の師・勝覚僧正すらお咎めは無かった。

仁寛の取調べの時も、白河上皇以外の公卿達はあまりにも見え見えの茶番劇に「全く処分をやる気の無い様子だった」と言う。

それに、「暗殺計画自体が余りに杜撰過ぎる。」と言うのも、勘解由小路党の仕事に最初から手抜きがあり、逃げ場を作っていたからである。

要するに、これは白河上皇(第七十二代)が「自らの院政継続の為に仕組んだ陰謀だったのではないか?」と言う事だ。

邪魔な輔仁(すけひと)親王と村上源氏の力を削ぐ為に、嘘の自白をさせ、事件をでっちあげたが、流石に輔仁(すけひと)親王達には直接手を出さず「仁寛(にんかん)だけを罰した」のは、修験道・勘解由小路党の「組織力に遠慮した」と憶測される。

仁寛僧正が伊豆配流後僅か五ヵ月ほどで断崖から身を投げた背景は、わが身の不幸を嘆いたのでは無く全てを一身が背負う事で天皇家のお家騒動を決着させ、輔仁(すけひと)親王と村上源氏一門を温存する計算が働いた上の覚悟の自害だったのではないだろうか?


見蓮は、理論的な真言密教と陰陽道の真髄を仁寛(にんかん)に教わった。

星辰信仰の上に立脚した陰陽五行(木・火・土・金・水)の自然哲学思想の講義である。

この真言宗や天台宗の密教教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれた。

そして、初期修験道が目指した性(生命パワー)による呪詛の教義も、進化して行った。


修験道の祖神は八咫烏(ヤタガラス)である。

八咫は当時尺度を示すが、意味としては「大きい」を表現している。

八咫烏(ヤタガラス)は古代中国の信仰では、太陽の中にいる「巨大なカラス」だと言われている。

日本では神魂命(かみむすびのみこと)または「かもたけつの命」と呼ばれ、「熊野大社に使わされた」と、神話に有るそうだ。

知恵と導きの神と言われている。

役小角(えんのおづぬ)は「八咫烏(ヤタガラス=かもたけつの命)」の子孫である。

修験道には役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

修験者とは修験道を修行する人で、山伏とも言い修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」は修験道系密教の祖と言われる人物で、後に神格化されてしまっている。

ただし、役小角(えんのおづぬ)は間違いなく天武大王(おおきみ/天皇)の御代現実に居た人物で、文献にも残っている。

「役君小角(えんのおづぬ)」は初め葛木山(葛城山=かつらぎさん)に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に、ざん訴され、伊豆島に流された」とある。

その後赦されて都に舞い戻るが、伊豆半島には「賀茂郡(もしかすると、平成の合併で旧が着くかも)」と言う土地の名称が未だに存在している。

この伊豆配流、その後修験道が朝廷の機関「陰陽寮」に組見込まれる経緯から考えると、額面通り受け取れない。

もしかすると、「役小角(えんのおづぬ)」が、伊豆半島に立て籠もった「蝦夷族反乱の掃討作戦」に、秘密裏に出陣していたのかも知れない。

または、我輩の主張通り、「葛城氏発祥の地」伊豆に潜り、秘密諜報組織「陰陽師」の組織化を進めていたのかも知れない。

前者の場合を考察すると、何故こうした「報道の統制が行われるか」と言うと、伊豆の蝦夷族反乱が全国の一斉蜂起に繋がる恐れがあり、局地戦に留める為には、その事実さえ覆い隠す「政治及び軍事的配慮の必要性があった」と考えられる。

藤原南家の氏族大量投入は伊豆支配の再構築であり、伊豆葛城山、伊豆の賀茂郡の名が残ったのは、「大和朝廷の支配が届いている」と言うアピールの為では無いのだろうかとも考えられる。

しかし、そんな事は「在り得ない」と我輩は考える。
後者の方が合理的だからである。

後者の場合であれば、文字通り秘密組織をホームグランド(地元)に帰って、賀茂一族の身内主体に、「秘密裏に組織する必要性があったからだ」と考えられる。

我輩の推測は、この後者の立場を採っている。

何故なら、身内主体に組織する理由は組織の秘匿性であり、目的にも秘匿性が在ったからである。

そして、何にも動かされない伊豆七島から三島までの賀茂・葛城の史跡が存在する。


小角(おずぬ)の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に奈良(都)で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。

従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事である。

上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔とされている。

皇室の神鳥、八咫烏(ヤタガラス)にまつわる有名な話としては、「神武天皇が東征の折、熊野山中で道に迷い、八咫烏(ヤタガラス)が大和までの、熊野路を先導して功績をあげ、案内をした場所に「大和朝廷は成立した」と言う伝説がある。

その後、その八咫烏(ヤタガラス)が「鴨県主(かものあがたぬし)の遠祖となった」とする伝説で、「鴨県主(かものあがたぬし)」が賀茂・葛城氏の事である。



紀伊半島・奈良一帯が日本史に重要な土地とされた訳は辰砂(しんしゃ)の存在に負う所が大きい。

辰砂(しんしゃ)の名の由来であるが、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出した事から、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれるようになった。

日本では魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述され、弥生時代から産出が知られていて奈良県以外でも徳島県、大分県、熊本県などで産する鉱石鉱物である。

辰砂(しんしゃ)は硫化水銀類からなる鉱物で、別名に赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。

水銀は毒性が高いと言われているが、それは有機水銀や水に易溶な水銀化合物の事で、辰砂(しんしゃ)のような水に難溶な化合物は「毒性が低い」と中国医学では考えられ「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的として、現在でも使用されている。

古来日本では「丹(に)」と呼ばれ、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている水銀系の重要な鉱石鉱物だった。

辰砂(しんしゃ)は透明感のある深紅色の菱面体結晶、或いは不透明な赤褐色の塊状として産出し、錬丹術などでの水銀に精製された。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

八咫烏(ヤタガラス)は、紀伊半島を勢力圏としていた豪族・丹生氏が、神武天皇に味方した事を指していると、言われている。

賀茂氏の方はその八咫烏(ヤタガラス)神魂命(かみむすびのみこと)の祭祀を司る賀茂神社を奉る祠官である。

紀伊半島では、丹(辰砂・水銀)が採れた。

その丹を司(つかさど)るのが、丹生(たんじょう)氏である。

この辰砂(水銀)に目を付けて高野山を真言宗の本山としたのが、弘法大師(空海)であった。

当時水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ、ついで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、次に金の精製に使われるなど貴重なもので在った。

日本の古くからの「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。

従って、当時「辰砂」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事で在った。

つまり、弘法大師には「辰砂(水銀)」を背景にした資金力があった。

それで、真言宗は信徒の懐を当てにする事なく全国に寺を展開して、急速な布教が出来たのだ。

そして仁寛(にんかん)は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮(もくれん)に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

陰陽師だった見蓮(もくれん)の方は、表向き修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の所縁の地、伊豆の賀茂郷を訪れ、大仁の里で仁寛(にんかん)にめぐり合っていた。

悠久の時を経て、命を繋いで来たのは生きる者の「本能」である。

その本能を、愚かにも文明人は「嫌らしいもの」として「否定する事が文明」と思い続けている。

入り口を間違えては、如何なる発想も正しき答えは導き出せない。

しかしこの考え方、中国から密教を持ち帰った時点では、弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)も勿論持っては居なかった。

簡単に言ってしまえば、最新鋭の仏教である密教が日本に渡来以後、編成作業の発展段階で密教に解釈上の違いが生じたのである。


弘法大師の開いた真言宗の教えの中に見られる密教には、「超人的修行」による呪力で人を救おうと言う教義が在った。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。

言わば、政治犯の流人である。

そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

古書によると、元々伊豆島(半島)は、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」が配流され、賀茂郡の名が残ったほど陰陽師・所縁の土地である。

しかし、今後記述する伊豆七島に端を発する賀茂氏の伊豆半島支配の経緯を見ると、この配流が皇統交代の事実を隠す後世のカモフラージュであり、賀茂氏の「旧本拠地」と言う事になる。

裏を返せば、勘解由小路党の血縁者も残る特異な土地柄で有る為、警備上容易だった事から、「しばしば政治犯の流刑地に当てられた」と、考えられるのだ。

後に源頼朝が配流されたのも、この慣習に機械的に拠った為で有る。


現代的に理解すると、仏教の教えは殺生を禁じている。神の教えも平穏(平和)を願うものだ。

しかしながら、神官は武士であり、仏教僧も武士だった。

今日の現代人が神官や僧侶に対する既成概念で間違い易いのは、主として江戸期以降の分業化した身分制度の神官や僧侶を想定する所である。

本書で何度も記述している通り、室町期の末期までは公家や武士は言うに及ばず神官や僧侶も氏族の特権的な身分で、公家や武士とは兼業みたいなものである。

だから修験道師、東蜜・台蜜の両修験坊も氏族の出自で、祝詞(のりと)や経(きょう)を読みながら京八流の流儀を基本として派生した剣術武術の鍛錬にも余念が無かった。

上杉謙信も武田信玄も入道(仏門に入る)してまだ戦(いくさ)をしていた。

九州の大友宗麟は仏門に入った後、キリスト教に宗旨変えしてもまだ戦(いくさ)をして居る。

現代風に信仰を解釈すると、一見「言動不一致」に見えるこの状態、実は当時の思想からすると何の不思議も無い。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。

つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。

それ故、「祈れば勝利を得られる」と現世利益を願って信仰するものであるから、戦(いくさ)で他人を殺生する事に何の矛盾も無い。

これが変化したのは江戸期に入って以後、徳川幕府の政策で「神仏混合策」がとられ、神と仏が生死分業になり、仏教が主に死後の世界を担当するようになって初めて、仏の道と殺生を禁じる事が結び付いた。

本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

従って、近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。

この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て、密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。

弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

かつて独立した仏教王国であったラダックは、ジャンム・カシミール州の東側半分以上を占めて、パキスタン、中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い位置に存在する。

十七世紀、ダライ・ラマ五世による侵略計画によりチベットとの関係が崩れ、それに乗じてカシミール王国がラダックを併合する。

その後英国がインド全域を領有した為、ラダック王国は英領インドの一部を経て国土がインド、中華人民共和国、パキスタンに分割されている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。

ラダックには多数の仏教寺院ゴンパが在り、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教に於いては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教に於いて性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。



信仰(宗教)や性をテーマにするにあたって、我輩はそれらを否定や肯定する為に書いているのではない。

我輩の文章を調べてもらえば判るが、どちらかと言うと我輩は無神論者なのだがそれを他人に押し付ける気は無く、信仰(宗教)や性のパートナーの存在で、精神が救われる人間は多い筈であり、何を信ずるかは各々の勝手で有る。

だから信心に於けるプラスもマイナスも性に絡むリスクも、その責任は各々にある。

自分と「価値観が違うから」と言って、相手の価値観を「間違った考え」と頭から決め付けてはいけない。

そこから軋轢(あつれき)が始まり、争いになる。

いかなる価値観にもそれなりの理屈がある。

冒頭で申し上げた通り、「姦淫は即ち悪である」と言う先入観は発想の落とし穴に成る。

この先入観から【真言密教立川流】の評価に入り「淫邪教」と切って捨てる安易な建前主義者が居るから、【左脳域】に偏重した人間ばかりのストレス社会が如何(いか)にもまともな事のように成ってしまった。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。

そこには精神的感情が介在する。
それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。

つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で結論を導き出す。

従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。

喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。

その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂(いわゆる)「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。

人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。

言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

「歓喜法」に付いては、「性は生に通じる」と言う考え方から、「精気をよみがえらせる」、つまり気力をみなぎらせる呪力が在り、生理的にまんざら出鱈目ではない。

道徳的には意見があろうが、体調としては抑制する事が良いとは限らない。

だいたい、日本人も二枚舌で、以前第一次南極観測越冬隊に「南極二号」と言うダッチワイフを携行した時は、建前上の批判的ではなく、「さもあろう」と、総じて本音の理解を示している。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。

それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。

当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。

真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。

快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事に拠って、常人には無い激しい反応を見せる。

それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。

それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空(くう)」である。
空(くう)に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空(くう)に成れば、如何なる行(ぎょう)を求められても、それを不条理と思う事は無い。

実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。

言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。

しかし、そこに到達するには、「空(くう)」が要求されるのである。

その「空(くう)」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行(ぎょう)を施され、呪詛巫女が空(くう)に及ぶには、その行(ぎょう)の厳しさに相応の覚悟が要る。

女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。

そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。

当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。

その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民(せんみん)の利用である。

奴婢(ぬひ)として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

実はもう一つ奇抜な方法も存在するが、その代表的なものを後ほど第四巻の冒頭で詳しく記述する。


八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子・安殿親王(あてのみこ)が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

空海(弘法大師)の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事ができる。」としている。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典の一部に、密教がある。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び(手の指で種々の形を作る事)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれている。

修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。

呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。


仏教を現代風聖人解釈で考察すると、弘法大師・空海が日本に伝えた密教の本質を理解できない。

本来密教には、エロチックな色彩に彩られた神々が存在するのでご紹介する。

例えば、帝釈天(たいしゃくてん)は力の神、阿修羅(あしゅら、あすら)は正義の神だが、何度戦っても阿修羅(正義)は帝釈天(力)に勝てず、未だ天上で戦っている。

その戦いの始まりだが、そもそも阿修羅の一族は密教の守護神である天部の一・帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天とも言う)に住んでいた。

また阿修羅には舎脂(シャチー)と言う娘が居り、「いずれ帝釈天に嫁がせたい」と思っていたのだが、その帝釈天が舎脂(シャチー)を力ずく(誘拐して凌辱した)で奪ってしまう。

しかも力ずくで奪(うば/強姦)われた舎脂(シャチー)は、そのまま帝釈天に惚れて親の許しも無く結婚してしまう。

その帝釈天(たいしゃくてん)の無法を怒った阿修羅が、帝釈天に度々戦いを挑む事になる。

この阿修羅が帝釈天に度々戦いを挑む所から、その戦いの場所を称して「修羅場」と呼ぶ用法が出来た位である。

しかし帝釈天は力の神の為、戦いは常に帝釈天側が優勢で阿修羅は何度戦っても阿修羅(正義)は帝釈天(力)に勝てずに居た。

それにしても、神である帝釈天が強姦したり、強姦された阿修羅の娘・舎脂(シャチー)がそのまま帝釈天に惚れて妻と成り、母・阿修羅に逆らうなど人間臭いのがヒンドゥー教・サンクリットの神々である。

つまり性に関する戒律は、渡来当時の密教の本質には存在しなかったのだ。


尚、イスラム教シーア派の信仰上の行事に、指導者の殉教の苦しみを体験するアシュラ(アーシューラー)がある。

一年で最初の月の十日目の日に当たるイマーム・フサインが殉教した日が、殉教追悼の日とされている。

シーア派のアシュラは、鎖の鞭(くさりのむち)で両肩から背中を自ら打ちながら行進する苦行である。

仏教とイスラム教の狭間に、形は違えど阿修羅(アーシューラー)が在る事から、信仰も影響し合っているのかも知れない。


本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。

お金に見立てた寺院発行の紙の束を供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。

そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教・立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。

立川流の教義は、真言宗の「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、「当相即道(とうそうそくどう)」の意味は、「在り形(ありがたち)そのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。

「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。

この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。

この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。

如来(にょらい)は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。

つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。
禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


立川流では、

「全ての主である様な心地となる事」、「欲心をもって異性を見る事」も、また、男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。

と、全てのものをその本質に於いて積極的に性を肯定している。

つまり色欲の煩悩を含めて人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。

儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後ほどこの章で記述するが後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


立川流の経典は理趣経(りしゅきょう)を習している。

そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。

邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏(どくろ)を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏(どくろ)の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。

また、髑髏(どくろ)には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず立川流が髑髏(どくろ)を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?


立川流の髑髏(どくろ)本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏(どくろ)の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。

こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。

真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。

立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。

この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。

しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。

九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。

安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。

五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。

「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。


呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆(うるし)を塗る。

朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。

水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。

仕上がったら、よく乾燥させて上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が、呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏(どくろ)本尊を会得させる為の物だった。

これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。

一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。

和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。

その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。

願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊と為し、八年目にようやく「髑髏本尊」が完成する。

この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。

陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。

この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。

そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。



この宗教の奇怪な儀式、現在の感性に寄り「邪教」と決め付けるのは簡単である。

しかし当時の考え方では米作に於いても、子作りに於いても命をもたらすのは神の奇蹟である。

その奇蹟を「引き出したい」と言う素朴な思いを叶える本尊作りに、命を作り出す「神秘な行為を込めた」と考えれば、さして違和感がない。

大体に於いて、「邪教」と決め付ける方々もこれが武将の国取りだと「当時の世情だから」と容認して英雄扱いするが、「規模の大きい強盗」ではないか?時によって、或いは内容に拠って論旨が変わるのは正しく無い。

何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。

こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。

その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂(いわゆる)「洗脳状態」に陥(おちい)る状態が信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は遠く印度の仏教に遡る。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。

財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は「商(あきない)は永くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命である為、老舗跡(しにせ)の跡継ぎの確保は重要だった。

その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の神社を祭ったのである。

つまり稲荷神は幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼(だきに)天が真言立川流の御本尊である。

茶吉尼(だきに)天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。

茶吉尼(だきに)天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(ダキニ天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属(けんぞく/属神)とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天(ダキニ天)は仏教の神となる。

元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、荼枳尼天(ダキニ天)は裸体像で髑髏(どくろ)などを抱えもつ女神の姿で描かれる天様になって、後に性や愛欲を司る神とされ、更には人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされる様になった。

荼枳尼天(ダキニ天)は自由自在の通力を有し六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天(ダキニ天)が大日如来(神道では天照大神)が化身した大黒天によって調伏されて仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許(ゆる)された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天(ダキニ天)は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天(ダキニ天)を祀り、髑髏(どくろ)を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。

真言密教では、胎蔵界の外金剛院・南方に配せられ、形像は小天狗の白狐に跨る形をしている為に「辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)」とも呼ばれ、天皇の即位灌頂儀礼に於いて「荼枳尼天(ダキニ天)を祀っていた」と言う記録も存在し、平清盛や後醍醐天皇などが荼枳尼天(ダキニ天)の修法を行っていた事でも知られている。

インドに於いてはジャッカルが荼枳尼天(ダキニ天)の使い神の象徴とされていたが、中国や日本に伝わった時、インドに居たジャッカルが居ない為に狐が代用されて使い神とされた為に日本では神道の権現・稲荷(大明神)と習合する。


仏教が「死後の利益」に変化した大きなきっかけは、歴史の中ではさして古い話しではない。

ズウット下って、高々三百数十年前の徳川政権成立の頃の事で有る。

当時神社勢力の武士と寺院の仏教勢力とで争いが絶えなかった為、政権安定の為に「神仏混合政策」を取って、幕府主導で分業化させた。

あくまでも権力者の統治の都合が、分業化の目的で有る。

すなわち、生きている間は神社の担当であり、神様にお賽銭でご利益を願う。

お寺のお布施は、仏様(死者)を媒介にお寺にもたらされる物である。

身内の弔いの為にお布施をする様になったのはそんな訳で、日本仏教界の苦肉の作と言えない事も無い。


江戸時代以後、徳川幕府の政策的住み分けにより、死んでからの「心の拠り所を寺院が担当した」事から、現世利益は言い難い。

止む負う得ず日本の仏教は、死後の利益を主に説く様になった。

従って形(外観)は他国の仏教と似ているが、「日本の仏教は政治の都合によって本来の教えでは無い独特の進化を遂げた」と言って過言ではない。

良く言えば仏教は新たな教義に活路を見出した。悪く言えば「死後の不安を掻き立てて、お布施を稼いでいる」と言う罰当たりな表現も考えられる。



真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。

安倍晴明より少し後の、平安中期の時代に活躍した仁海(じんかい)僧正は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。

仁海(じんかい)僧正は真言宗の密教(東密)の総本山・東寺の長者(東密根本道場の最高位)と成り、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶である。

和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に登った仁海(じんかい)僧正は、そこで占星術を身につけて学僧としても知られるように成り、僧籍に在りながら良く陰陽呪術を修めしばしば五行の考えに基づく易を使い、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされ、名声を博した仁海(じんかい)僧正は「雨僧正」と呼ばれる。

この事は当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていた事を示している。

醍醐寺隨心院 (ずいしんいん)は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海(じんかい)僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。

仁海(じんかい)僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で「女犯」などと評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので勢力争いもするし女性も抱く。

高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。

と言うよりも、密教僧に於いては「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、真面目に為されていたのである。

平安中期の当時としては、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶・仁海(じんかい)僧正は、自らの真言密教と陰陽道の性交呪詛「歓喜行」を持って長生きを為したのかも知れない。



陰陽師の見蓮に、仁寛(にんかん)が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。

鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。

この和解、「何が大きかったか」と言えば、互いに味方として組んでいた相手が無くなった事である。

勘解由小路(賀茂)家の最大のターゲット清盛平家も断絶している。

土御門(安倍)家が恨んでいたのは、奥州藤原家と八幡太郎義家直系の源頼朝の一族で有るが、いずれも家系が断絶している。

源氏も平氏も残っているが、それらは直接対決した一族ではなかった。

そうなると皇統の共通の敵は、直方流平氏の「鎌倉幕府執権・北条得宗家」と言う事になる。


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(南北朝と真言密教)

◇◆◇◆(南北朝と真言密教)◆◇◆◇◆

此処からこの物語は室町時代の詳しいご案内に入って行くのだが、まずは室町幕府の成立までを大略して置く。

北条得宗家(執権家)の支配が続いていた鎌倉幕府の末期、天皇親政を志した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が立ち上がり、「元弘の乱(げんこうのらん)」を起こす。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に呼応して第一皇子の大塔宮・護良親王(もりながしんのう)、公家の北畠顕家(きたばたけあきいえ)や源氏の武将・足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)、悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)や赤松則村(あかまつのりむら/円心)、名和長年(なわながとし)らが後醍醐方に味方して鎌倉幕府滅亡を滅亡させる。

千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)に倒幕に成功した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が「親政(天皇がみずから行う政治)=建武の新政」を開始するも、しかし味方した武士よりも側近公家を優遇して不満を募らせてしまう。

この武士不満と幕府滅亡後の混乱に乗じて、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の倒幕に助力した足利尊氏(あしかがたかうじ)が北朝を立て、新たな武家政権を画策して後醍醐方の南朝と日本中を二分する内戦になる。

その吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する「南北朝並立期」は、吉野朝の頑張りと南朝の征西大将軍懐良(かねなが)親王の九州朝や義良親王(のちの後村上天皇)の東北地方経営など地方でも頑張りを見せ、千四百三十七年頃まで約四十五年間も続いた。

室町幕府の成立時期については、足利尊氏が幕府の施政方針が建武式目として確立・明示された千三百三十六年(建武三年)十一月が有力説で、尊氏が北朝の光明天皇に征夷大将軍へ補任された千三百三十八年(暦応元年)とする説は分が悪い。

吉野朝廷(南朝)の力の衰えと伴に漸く実質成立した足利将軍家の室町期は、三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の頃と言われる。

室町期の北朝系天皇及び公家衆の朝廷は大小名の権威付けとしての官位叙任の機関として命脈を繋いで来たが、権威ばかりで金も力もほとんど無い状態だった。

千三百三十六年の足利尊氏の室町開府から、十五代・足利義昭が織田信長に追放される千五百七十三年までの二百三十七年間を室町幕府と言う。



この物語、実は書き始めた当初から比べると、遥かに膨らんでいる。

書いているのは確かに我輩だが、途中からは「何か」に押されて、その何かに我輩が書かされて居るような気がする。

「何か」に押されて湧き上がって来る物語を、「伝えねば成らない」と言う使命感が、何物なのか?

未だ思い当たらないまま、鎌倉末期を迎えていた。


北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつ在った。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。

それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事と成った。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。

その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。

従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。

本来、男女の交合は尊い物である。

男女の陰陽を現世の基本として人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。

この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的で在った」と言う事である。

そして後の世で、その結果的意義が証明される事になる。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。

至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮(さつりく)に行くよりよほど良い。

ベトナム戦争当時、ジョンレノン・ヨーコ夫妻が「公開ベットイン」による反戦抗議をしたように、男女の和合は平和と安定のシンボルだからである。

精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。

そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。

その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。

難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って愛が無いとも言い切れない。

何よりも性に対する位置付けが、「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。

それが、政治的に迫害されるに至った訳は、これから追々明らかになる。

歴史の必然とは、後世に成って見ないと判らないものである。

つまり、前が存在して初めて後が存在する。

偶然と思われた様々な事の集積が後の世で思わぬ事態に発展し、新しい歴史がつぐまれて行くものである。



京都醍醐寺に文観弘真(もんかんこうしん)と言う僧侶がいた。

彼は先人で有る仁寛(にんかん)僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮(もくれん)の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。

後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

文観は、僧侶にしては恐ろしく身軽で、何やら武術の心得もあり、得体の知れない所があったが、如何(どお)やら奈良西大寺の真言僧の若い頃に修験武術を会得しているらしかった。

文観の出自は不明だが、過去が見えない事から勘解由小路党の草で有る事はどうやら間違いなさそうで有る。


伊豆の国三島大社は平安時代の書物に名が出て来るほど古い神社で、古過ぎていつ頃から在るのかも判らない由緒ある神社である。

三島は古くから伊豆国の国府が在った所であるが、その三島大社の祭神が、「田京の広瀬神社から移したもの」と言われている。

つまり田京は、三島より古い時代の「伊豆の中心地」と言う事になる。

伊豆の国一ノ宮・三島神社は創建が古く、古代史に記録が無い為いつ頃から存在した物かもハッキリしないが社格は大社で、主祀神は「事代主神」であるから古代賀茂信仰の「重要な位置を占めていた」のではないだろうか?

三島大社は、鎌倉幕府成立の折、「源頼朝」が兵を集め旗揚げした神社としても有名で、勿論平家打倒の祈願もしている。

三島大社の入り口付近にある巨石の名を「祟り(たたり)石」と言う。
この石、以前は境内の別の場所にあったのだが、邪魔なので「退(ど)かそう」とすると、良くない事が起こる。

それで霊石として祭られている。

これは執権体勢に固執する北条政子の怨念が、「幕府を退かすのを嫌っての重(おもし)」かも知れない。

歴史的に捕らえると、政治と宗教の主導権争いが、絡み合って見えて来る。

今は、そこに至る過程に在った。

執権の北条氏も、その他の鎌倉武士達も、その多くが伊豆の出身で、三島大社に縁が深い。

その神社に祭られている霊石の化身と成ると、結構に厄介である。

どうも三島大社の使いで鎌倉幕府の守り神として機能しているらしい。

三島大社であれば、これから起こる文観弘真の未来も充分に見通している恐れがある。

つまり「祟り(たたり)石」は、いずれ文観弘真が「幕府に仇なす存在」に為すと、予知していたのかも知れない。

鎌倉幕府は三島大社の氏子で、大社としては幕府の行く末を無視はできない。


その頃、鎌倉幕府の推挙により第九十六代天皇に、後醍醐天皇(第九十六代)が即位した。

後醍醐帝は、三十一歳と若いが当時としては男盛りの年齢の、やり手の天皇で野心も旺盛であった。

これは全ての人間に通じる事だが、志(こころざし)が人生最大の武器である。

志(こころざし)無い者に、明日は開けない。

この強烈な志(こころざし)の帝(みかど/天皇)・後醍醐が、正に時代を大きく動かそうと試みていた。

幕府にすれば、若いから「言う事を聞かせる事が容易に出来る相手」と踏んでいたが、とんだ読み違いである。

後醍醐天皇こそは鎌倉幕府を滅ぼし、一旦は天皇の親政に拠る「建武中興」を成立させ、その志淡足利尊氏に吉野に追いやられて「南北朝並立時代」と言う権力の異常事態を引き起こした一方の張本人である。

後醍醐天皇(第九十六代)は、正に歴史の変わり目に必ず現われる、須佐王(スサノウ)の化身だった。

これを機に、日本は新たな動乱の時代に流れて行く。


智方(ちかた)神社と言う神様は「国境を守る神様」と言われている。
伊豆国と駿河国の国境にも智方(ちかた)神社が在った。

静岡県の東部、駿東郡清水町を走る旧東海街道沿いの黄瀬川東岸の畔(ほとり)、古木に見守られてひっそりと佇(たたず)む智方(ちかた)神社の一角に、縦横一間半ほどの小さな御陵墓が在る。

南朝後醍醐天皇の第三皇子、大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王の御陵墓である。

伝承によると、建武二年(千三百三十四年)七月、鎌倉で足利直義に大塔宮譲良(もりなが)親王が殺された時、お側に仕えていた親王寵姫(宮入)の「南の方(雛鶴姫・藤原保藤の女)」が、譲良(もりなが)親王の御首(みくび)を携えて、鎌倉を脱出する。

南の方は従者を伴い、譲良(もりなが)親王の御首(みくび)を携えて足利方の追手の目を避けて南朝の宮居に辿り付くべく足柄街道を西進、ここ(木瀬川)まで逃げ延びて来た。

しかし折悪しく氾濫した黄瀬川を前にして、「これ以上は進めない」と諦め、黄瀬川の辺(ほとり)に小さな祠(ほこら)を見つけ、葬った所が、後世の人々の尽力で智方(ちかた)神社となったのだそうだ。

この地は、東海道三島宿と次の木瀬川宿の中間「長沢」と呼ばれ、木瀬川在地の範疇に入っている。

木瀬川宿は、鎌倉時代から箱根路の隆盛に伴い、木瀬川西岸の畔(ほとり)に発達した古い時代の宿駅である。

三島宿と沼津宿の間に位置し、天正の末から慶長の初め頃に廃された為、江戸期の東海道五十三次の中には無い。

源頼朝もしばしばこの地に宿営していて、「海道記」などの紀行文や「吾妻鏡」などの当時の文献にもよくその名が見える。

ここ木瀬川は、北駿河の藍沢、竹の下へ通じる足柄路への分岐点で、交通の要衝だった。

足柄路は箱根路が開かれるまでは東海道の本道だった。

ちなみに「木瀬川宿で対面した」と言う源頼朝、義経兄弟の対面石は、この智方神社を東に数百メートル行った八幡神社、やはり長沢の地に在る。

大塔宮譲良(もりなが)親王は直系の皇統でありながら、唯一実力を持って征夷大将軍を名乗った親王だった。

実はこの二つの神社は我輩の日々の散歩コースで、愛して止まない存在である。

我輩は何処かの思想国家の様に、「意見が違うから」と言っていかなる宗教でも、歴史遺産、文化遺産を破壊しようなどとは考えない。

神社も寺も、それなりの歴史を刻んだ遺産である。

特にそれらは、地域のコミニティスペースとしての役わりもあり、貴重な存在で有る。



話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ/皇位の継承)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々だった。

尊治親王は、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。

即位した後醍醐天皇(第九十六代)は、本来持明院統から出るべき次期皇太子を拒み、自分の系統(大覚寺統)から皇太子を定め、皇位継承問題で持明院を支持する鎌倉幕府と対立を始める。

京の地では、醍醐(だいご)寺が、勘解由小路党と文観弘真(もんかんこうしん)の活動の拠点になった。

これは、醍醐寺・報恩院の僧上「道順」、の支援である。

道順僧正は後宇多天皇の信任厚い僧侶で、密教にも見識があった。

当時、道順僧正は立川流の奥義の第一人者だったのである。

ちなみに後の後醍醐天皇は、後宇多天皇の皇子である。

弘真が後醍醐天皇と結びついたのは、「道順僧上」の存在が、在ったからと、言われている。


文観弘真(もんかんこうしん)は、大和の国・奈良西大寺の真言僧として、名を成した事に成って居たから、寺内でも一目置かれていた。

そして少しずつ、文観弘真(こうしん)の名も、世に知られるように成って行った。

この文観の本音で言えば、「理屈はともあれ」人間の性的欲求は自然なもので、「ただ禁じれば良い」は「好結果をもたらさない」と考えていた。

明確な信念だったから、その教義が崩れる事は無い。

揺らぎ無い信念は、「尊い悟り」と解される。

文観弘真の世間の評価は、おのずと「徳」の有る名僧侶に成っていた。

そうして、長い月日が過ぎて行った。

鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観(もんかん)は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。

これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。

文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、文観(もんかん)は醍醐三宝院の権僧正と出世した。

天皇が帰依したという事実は、文観にとって「大きな後ろ盾ができた」と言う事であった。

賀茂の錫杖(しゃくじょう)は、道順僧正から文観弘真(もんかんこうしん)僧正の手に渡っていた。

文観弘真僧正は、小野文観(おののもんかん)とも名乗っている。

実は出自不明と言われる文観弘真は、勘解由小路吉次の三男、伊勢(三郎)義盛の忘れ形見で、後に伊勢国(三重県亀山市 関町小野・旧鈴鹿郡関町小野)の国人武将となった小野(伊勢)義真の末裔小野(伊勢)弘真だったので有る。

伊勢の国(三重県)関町は戦国から江戸期にかけて火縄の産地として有名だった。

京都醍醐寺は、朝廷と深い関わりがある。

皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺で、つまり天皇家の一方の守り寺である。

ついでながら、もう一方の皇統は、持明院統(後の北朝)である。

その醍醐寺僧正に、文観弘真(もんかんこうしん)がなった。

時の天皇は、野心旺盛な若き後醍醐天皇である。

二人は、意気投合する。醍醐寺大覚寺統の密教僧侶達が、仕込んだ事かも知れないが、高天原の執念(呪詛)の筋書きに違いない。

文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教・立川流を直伝する。

茶吉尼(だきに)天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。

退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色で、この教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。

後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王(しんのう)、内親王(ないしんのう)を設けている。この「子沢山」は、後の出来事を思うと、「歴史の必然だった」かも知しれない。

つまり、「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。

「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、記述はない。

唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。

そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。

その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は、真言立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。

文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観(もんかん)の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。

右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。

これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)、左派(真言立川)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。

「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ、真言立川は衰退して行った。

つまり、負けた方が「弾圧された」のである。

そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていたのである。

当初は文観(もんかん)の立川流(左派)が勢いを持ち、その教えを広めていた。

勘解由小路党、土御門党、台密僧、東密僧がチームワークで、文観僧正をサポートするのだからご利益の信用は絶大なものに成り、次第に後醍醐天皇側に付く武将達も増えて来る。

この時醍醐寺座主「文観僧正」は、幕府倒幕の挙兵の謀議に加わり、軍師として活躍する傍ら、幕府転覆の髑髏(どくろ)呪法による「倒幕祈願」を行っている。

後醍醐天皇の依頼で、鎌倉幕府を「呪い倒そう」と言うのだ。

見上げた北の空に輝く動かぬ星が、文観の野望を叶えてくれそうに瞬(またた)いている。
北斗星は、我らが星だった。


この文観(もんかん)呪詛劇場の主役が、阿野廉子(あのかどこ)である。

中宮の上臈(御付の女官)として宮廷内裏に入侍していた時、阿野廉子(あのかどこ)は数えの十九歳だった。

閑院流藤原氏の阿野公廉(あのきみかど)の娘として生まれ、同じ閑院流の洞院公賢(後に太政大臣)の養女となり、西園寺禧子(さいおんじきし)の後醍醐天皇中宮冊立の際に上臈(御付の女官)として入侍していた。

中宮になった西園寺禧子(さいおんじきし)は藤原禧子(ふじわらのきし)とも名乗り太政大臣西園寺(藤原)実兼(さねかね)の三女で、廉子(かどこ)より二歳年下だった。

中宮とは、平安時代以後に一人の天皇に対して複数の皇后が立てられた場合、最初に立后された皇后以外の皇后、皇太后、太皇太后の総称で、内裏の中央の宮に住む事から付けられた呼び名である。

入内(にゅうだい)して半年程経った時の事である。

その十六歳の中宮・西園寺禧子(さいおんじきし)が、夜な夜な奥の院の離れに出かけて行く。

阿野公廉(あのきみかど/藤原)の子女・の阿野廉子(あのかどこ)は興味を抱き、中宮が「毎夜何をしているのか確かめよう」とそっと部屋を抜け出した。

上臈の阿野簾子(あのかどこ)は、ほのかな月明かりを頼りに暗い庭に歩を進めた。

今宵は、半月だった。

音を立てないよう、裸足でユックリと庭を進んで、離れの窓に辿り着いた。

生い茂った夏草と建物の境に、人ひとり歩ける土の隙間が建物に沿って続いている。

耳を凝らすと、かすかに、なまめかしい声が聞こえる。

「あえぎ声」、と言うやつだ。

阿野簾子(あのかどこ)は、「これは誰かが睦事(むつみごと・性行為)をしている。」と、確信した。

興味があるから覗こうと窓に近寄った。

窓の位置が高いので、自然と上から中を見下ろす格好に成った。

何しろ、相手は横に成っているので窓より低い位置にいる。

内裏(だいり)の庭の警護は、勘解由小路党が請け負っている。

先ほどから気配を消して阿野廉子(あのかどこ)を追って来ていた。

林の中に隠れるようにたたずむ離れは、重要な警護の場所ではあるが、紛れ込んで来たのは閑院の宮家洞院公賢の娘で、源義経の兄、阿野全成(今若丸)の血を引く清和(河内)源氏の末裔でもある上臈の阿野廉子(あのかどこ)である。

非力な若い娘で、害を及ぼす様子も無いから帝の夜伽の場で騒ぎにするのは、憚(はばか)られ、見咎めずに様子を見ていた。

廉子が中を覗くと、無数の油灯明が灯された離れの部屋は思いの他広く明るい。

覗くと、一組の全裸の男女が、組みつ、ほぐれつ、「男女の営み」をしているのが目に入った。

阿野簾子(あのかどこ)は咄嗟に顔をずらして、見咎められないか様子を見た。

それから誰かに見つからないか辺りを伺い、誘惑に駆られてまた覗いた。

これは好機(チャンス)だった。

何しろ知りたい盛りの年頃なのに、内宮に入れば、原則男との接触は禁じられている。

最初良く判からなかったが良く見ると、どうやら女は中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)らしい。

「忌々しい、中宮はまだ子どもと思っていたが、宜しくやっている」

腹がたったが、「相手は中宮」と思い直した。

こんな場面には、出くわす事もめったに無い。とことん見てやれと、腹を決めた。

「男は誰だ」と見ていると、ちょうど男女の上下が入れ替わって、男は後醍醐帝と知れた。

「なんだ、ただの夫婦の営みだったのか」と、当然さに納得した。

それが、二人の身体の位置が変わって営みの様子が見易く成り、阿野簾子(あのかどこ)は、思わず身を乗り出した。

処が、何とも間が悪く、馬乗りに成って上半身起こした中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)の顔が、窓の正面に向いて、阿野簾子(あのかどこ)と目を合わせてしまったのだ。

中宮・禧子(きし)は一瞬動きを止めて、こちらを見た。

阿野簾子(あのかどこ)は中宮・禧子(きし)に見据えられて、隠れる事も忘れていた。

何しろ相手は恐れ多い中宮である。

胸の膨らみが、白く美しかった。

中宮・禧子(きし)は、ひと目で阿野簾子(あのかどこ)と承知した様で、少し驚いた様な顔をし、阿野簾子(あのかどこ)の方に視線を向けたままでいたが、別に騒ぐでもなく気を取り直した様にまた動き出し、そのまま行為を続けた。

阿野簾子(あのかどこ)の方は突然の悪事露見で、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)に射すくめられる様に固まって、呆然とその光景を眺めていた。中宮・禧子(きし)は、黙って見せる覚悟をしたのだろう。

阿野簾子(あのかどこ)が見ている事を承知しながら、中宮・禧子(きし)は後醍醐帝に馬乗りの姿勢で、阿野簾子(あのかどこ)にわざと見せ付けるかの様に激しく動いていた。

激しい時が流れ、そのうち中宮・禧子(きし)の顔つきが崩れると、「嗚呼―」と大きい声を発して、後醍醐帝の上に打ち伏してしまった。

あれが、「イクって事か」、阿野簾子(あのかどこ)は、初めて他人の睦事を眼にしたのだ。

男女の営みだけに目が行って居たが、良く見ると奇妙な飾りの部屋だった。

阿野簾子(あのかどこ)はそれに気が付いて、しっかりと、中を見回してみた。まるで、寺の本堂の様な造りだった。

漸く中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が起き上がり、チラリと阿野簾子(あのかどこ)の方に目を向けると、恥ずかしそうに笑って目をそらした。

中宮・禧子(きし)の無防備な裸身が、阿野簾子(あのかどこ)には頼りなげに感じた。

良く見ると他にも人の気配があり、あの文観弘真(もんかんこうしん)僧正の姿も目に入った。

「帝と中宮様が人前で・・・・」
阿野簾子(あのかどこ)は、その事実に衝撃を覚えた。

後醍醐帝も起き上がり、裸のまま二人で正面の本尊らしい仏像の前に進んだ。

二人とも奇妙な歩き方をしている。

禹歩(うほ)または反閇(へんばい)と呼ぶ、先に出た足にあとの足を引き寄せて左右に歩みを運ぶ歩行方法である。

見入っていると、何か、赤黄色い丸みを帯びた物を捧げるように取り出して、手前の座卓くらいの高さの台の上に置いた。

二人とも、首から数珠の様な物を提げていた。何か儀式をしているらしく、二人とも何かぶつぶつと唱えている。

赤黄色い丸みを帯びたものは、良く見ると髑髏(どくろ)の形をしていた。

中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は何か唱えながら股間に手をやると、その手で、髑髏を撫で回していた。

髑髏が濡れた様に光って見えた。

後で知ったが、陰液(和合水・精液)とやらを、髑髏に塗っていたのだ。

中宮・西園寺禧子(さいおんじきし)はなおも自分の手を、股間と髑髏に交互に運び、それを後醍醐帝が手を合わせて拝んでいた。

その声が大きくなり、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と唱える、文観(もんかん)僧正の呪文の様なものが聞こえて来る。

「何かの、呪いの儀式か?」
傍目には、酷くおどろおどろしい物である。

やがて、後醍醐帝は僧侶の衣装を、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は白無垢の着物を身にまとい、何か唱えながら、髑髏を元の処へ戻した。戻し終わると、二人は髑髏に向かって平伏し、手を合わせてまた平伏した。

すると何処からか二組裸の男女が現れ、互いに絡み合いを始めた。

彼等は阿野簾子(あのかどこ)の見知りの者達で、帝側近の公家、日野資朝(ひのすけとも)とその妻、日野俊基(ひのとしとも)とその妻達だった。

資朝(けとも)は権中納言、俊基(としとも)は蔵人頭(くろうどがしら/秘書長官)を任官していて二人とも帝寵愛の側近だった。

向き直った後醍醐帝と中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は、二組の男女に向かって、先ほどからの呪文のなものを唱えている。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

その前で二組の男女は絡み合い、相手を変えて、また絡み合った。

後醍醐帝の呪文に勝るとも劣らない「女の善がり声」が響き渡っている。

「これは、帝の呪詛・・・」
阿野簾子(あのかどこ)は、「噂の呪術を施しているのだ」と合点が行った。

ひとしきりすると二組の睦事が佳境に入り、文観(もんかん)僧正の呪文が一段と大きくなる。

すると中宮・西園寺 禧子(さいおんじきし)が立ち上がり、再び白無垢をハラリと落とすと裸身を晒し、先ほどの髑髏をうやうやしく持ち上げ、また台の上に移した。

その時中宮・ 禧子(きし)は、チラリと阿野簾子(あのかどこ)が見ている事を確かめて微笑んだ様な気がした。

数珠以外全裸の中宮・西園寺 禧子(さいおんじきし)は、進み出て二組の男女の中へ加わり、自ら誘って二人の男と交互に交わりを始めた。

中宮・禧子(きし)と一人の男が交わっている間、他の三人は絡むように女に刺激を加え、快感を促していた。

二人の男は入れ替わり立ち代り必死で中宮・禧子(きし)を攻め立て、恐ろしく長い時間その行為は続いて中宮・禧子(きし)は狂った様に叫び身もだえ続けた。

僧形の文観は、その傍らで表情も変えずに相変わらず呪文の様なものを唱えている。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

男二人は、次々に達した様で、中宮・禧子(きし)はまた股間に手をやり、何か唱えながら髑髏をなで始めた。

思い描いていた阿野簾子(あのかどこ)の睦事とは違って、目の前で為されているのは不気味な儀式だった。

阿野簾子(あのかどこ)はそれを見て急に恐く成り、自分の部屋に逃げ帰ろうとした。

逃げ帰る筈だった。

奇妙な事に、意志とは裏腹に足が動かないのだ。

明け方近く夜が白いで来て、木立も見えているのに、身動きが出来ない。

「これでは盗み見が発覚する」

呆然と、立ち尽くした。

一刻ほどしてようやく金縛りの状態が解け、簾子(かどこ)が必死で内裏の中央に駆け込むと、暫くして中宮・禧子(きし)が戻って来た。

中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は上臈・阿野簾子(あのかどこ)を姉のように慕い頼りにしていたから、盗み見を咎めるでもなく「後醍醐帝の命による呪詛のお勤めである」と説明し、けして他言せぬよう口止めをした。

簾子(かどこ)には、日頃の帝の言動から呪詛の目的がどうやら鎌倉幕府を呪い倒す「鎌倉(北条)調伏・倒幕祈願」と察しが付いた。

翌日の夜も、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)はあの離れに出かけて行く。

阿野簾子(あのかどこ)にしてみれば二歳年下の中宮・禧子(きし)が毎夜お楽しみなのに、自分は寂しく一人寝で、どうも面白くない。

退屈さもあり、性懲りも無くまた覗きに出かけた。

庭から離れに廻るので、夜衣姿の軽装である。

昨夜は夢中で気が付かなかったが、簾子(かどこ)が歩みを進める事に泣き止む夏虫の声さえ気に成った。

ようやく昨夜の窓に辿り着き、その夜は始めから見る事が出来た。

まず、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)と文観弘真(もんかんこうしん)僧正が後醍醐帝の前にひれ伏し「今より鎌倉調伏祈願を始めます。」と挨拶をなし、立ち上がると一礼して着衣を脱ぎ捨て全裸になり、おごそかに和合を始める。

やがて、中宮・禧子(きし)の口からなまめかしい声が漏れ始める。

その顔が、阿野簾子(あのかどこ)が始めて覗いた時の中宮・禧子(きし)の顔で、文観弘真(もんかんこうしん)僧正の教えのごとく「今、極楽をさまよっている」と言うのか?

感じているのだ。
感じなければ、呪法の歓喜パワー効果は無い。

組みつ、ほぐれつ、激しい動きだ。

他の者は一斉に、般若心経(般若波羅蜜多理趣・・・・)を唱え始める。


二人が始めると、皆周りに集まり呪文のなものを唱え二人の様を凝視している。

文観弘真(もんかんこうしん)僧正の男の物が中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)の中に入って行く。

中宮・禧子(きし)は文観(もんかん)僧正の立川流の秘術でも施されているのか、ものすごい善がり声とともに果てた。

その、へたり込んだ中宮・禧子(きし)に、情け容赦なく日野資朝(ひのすけとも)が覆いかぶさりまた抽送を始める。

中宮・禧子(きし)の歓喜は止らず最早「極楽浄土」を彷徨う風情で有る。日野資朝(ひのすけとも)が果てると、後醍醐帝が再び中宮・禧子(きし)に挑んで行く。

この連続性交の体現が「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させる。

快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

これが「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地で、「呪術に威力を発揮するトランス状態に入った」と解されていた。

ものすごい光景に、隠れ見ていた阿野簾子(あのかどこ)は思わず身を乗り出して、日野資朝(ひのすけとも)に見咎められた。

簾子(かどこ)は、日野俊基(ひのとしとも)に取り押さえられたが、「簾子(かどこ)であろう、咎める出ない。これに寄せぃ」

後醍醐帝の命で部屋に迎え入れられ、日野俊基(ひのとしとも)に衣類を全て剥ぎ取られ、仲間に加わる事になった。

後醍醐帝は、警護する勘解由小路の者の報告により既に承知で、面白がっていたので有る。

絶頂(イク瞬間)感が密教で言う「無我の境地」で、法力のパワーの「源」と考えられている。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)に跨った後醍醐帝が身体を起こし、繋がったまま九字を切る。

「あぁー。」
その最初の絶頂に「中宮・禧子(きし)が達して、だらりと身体の緊張を緩め長々と横たわった。

すると、後醍醐帝が中宮・禧子(きし)を離して起き上がり、阿野簾子(あのかどこ)を手招きする。

中宮・禧子(きし)に代わって、「お勤めをしろ」と言う意味である。

初体験がこんな形に成ろうとは、簾子(かどこ)も夢にも思わなかったが、気が付くと、後醍醐帝の股間は目の前でそそり立っていた。

宮中での帝の命令は絶対で、最早精一杯努めてお喜び頂くしかない。

簾子(かどこ)は後醍醐帝の指図のままに応じていた。

暖かい物にを包見込んだ感触が、激しい刺激になって襲ってくる。

「うぅーむ。」
えも言われぬ快感に、阿野簾子(あのかどこ)は堪らず絶頂を迎えた。

経験浅い簾子(かどこ)は、恥ずかしい程、あっけなかった。

しかし後醍醐帝は放してくれず、簾子(かどこ)は後醍醐帝受をけ入れたまま、再びお勤めを始めた。

若さとはすごいもので、簾子(かどこ)に後醍醐帝の男の物が、自分の中で、再び元気に成るのを感じた。

簾子(かどこ)は正気付き、再び腰を使ってお勤めを再会した。

まるで後醍醐帝の手の中に、簾子(かどこ)はあった。

少し余裕が出来て横を見回すと、あの日野資朝(ひのすけとも)の妻が文観弘真(もんかんこうしん)僧正と真最中で、裸身が激しく揺れている。

日野資朝(ひのすけとも)の妻は、すごい善がり声を発して簾子(かどこ)を驚かせた。

傍らで、日野俊基(ひのとしとも)相手に中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が、大きくあえいで、やがて二度目の絶頂を迎えた。

「良おし、良おし、此れで法力が強くなるわい。」

文観弘真(もんかんこうしん)僧正が、悦に入って言った。

中宮・禧子(きし)は起き上がると、文観(もんかん)僧正 とともにあの髑髏をささげて台に据えた。

前に見たように、股間の「和合水」を手に取り、髑髏に丁寧に撫で付けていく。

後は、後醍醐帝の見守る中、側近とその妻を交えての乱交となる。

何組もの男女が、一斉に「鎌倉(北条)調伏」を叫びながら腰を振るのは圧巻で有る。そして、「和合水の髑髏塗布」が繰り返されるのだ。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

若い阿野簾子(あのかどこ)は引っ張りだこで、休む暇が無い。

あまりの事に、「よこしまな目的で覗きを始めた罰が当たったのか」と、そんな不安も横切った。

快感で気が遠く成って行った。

「初めてにしては上々じゃ。」

後醍醐帝の声がした。

気が付くと、お勤めは終わっていた。
,br> 簾子(かどこ)は、気を失っていたのだ。

「簾子(かどこ)は仕込み甲斐がありそうじゃで、毎夜呼ばえ。」

帝の厳命が下った。

それから毎日、阿野簾子(あのかどこ)には「加持祈祷のお勤め」の修行が待っていた。

毎夜集まる帝の側近とその妻を交え、簾子(かどこ)他の上臈(女官)も数名はべらせて歓喜行を行う。

後醍醐帝の「鎌倉(北条)調伏・倒幕祈願」に対する情熱は激しく、その呪術の矛先は壮絶な「歓喜行」となって簾子(かどこ)の裸身に集中した。


帝の寝所の事について触れれば「非常識」と非難されるかも知れないが、この時代、「常識」何て言葉は元々無いから、当然「非常識」何て言葉もない。

「常識」とは、コモンセンス(common sense)の訳語として明治時代頃に日本に普及し始めた言葉で、実はこの時代に常識(じょうしき)と言う概念も用語も存在はしなかった。

「常識」の普及前に使っていた似たような言葉に「世の常」があるが、この場合いの「世の常」の意味は、自然発生的な世の中の常態を指す言葉で、言わば真言宗を広めた弘法大師(空海)の教え「あるがまま」の境地に近い。

つまり朝廷内裏(ちょうていだいり)とは言え、真言密教の於ける自然発生的な「あるがまま」の現実生活が在っても良い訳だ。

従ってこの時代に「常識」と言う言葉を明治維新以前に使うのは、正直な所「時代考証」に触れるのである。



護良親王を産んだ最初の皇后・源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・北畠(源)師親(きたばたけ・みなもと・もろちか・村上源氏)の娘で、中宮・禧子(きし)は、言わば後妻である。

千三百二十二年(元亨二年)後醍醐天皇の中宮・禧子(きし)が懐妊したのに際して、文観は安産祈願の祈祷を行った。

しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺す事をも意図していた為、それを訴えられて高時の怒りを買った文観は、鹿児島の鬼界ヵ島(硫黄島)へ配流される。

文観弘真(もんかんこうしん)僧正が流されたは、荒海が逆巻きウミネコが哀しげに鳴きながら乱舞する絶海の孤島・・・鬼界ヵ島(硫黄島)だった。

潮風が辺りに漂い海鳴りが聞えて来る。

手酷い憔悴感に襲われてが、文観(もんかん)の心は穏やかだった。

この島流しの折、「何故に文観(もんかん)が易々と口を割ったのか」と後の歴史家が疑問を呈すが、文観には、勘解由小路党の諜報活動によりこの事態の予測が付き、「もはや逃れられない」と承知していたから、やがて来る事には覚悟の上だった。

それが、傍目には立派な「悟り」と映る。

だからこそ、世間で文観(もんかん)僧正は修行を積んだ徳のある僧侶で通用した。

文観は首謀者の一人として、六波羅探題に捕まってしまったのだ。

捕らえられて文観が「しら」を切ろうにも、あらかじめ、真言宗右派(禁欲派)が事ごとくばらしてしまっていた。

証拠は、自筆に拠る北条氏調伏・逆賊退治の護摩次第書である。

それで仕方なく、倒幕の呪詛をしていた事を認めた。

当時は、呪詛が効果のあるものと、万人が信じていた。

山伏の布教活動の成果である。

文観は、幕府を呪詛した重罪人である。

文観は鎌倉幕府により流罪となり、「鬼界ヵ島(硫黄島)」に流される。

この時捕まった多くの者が、死罪を免れている。

首謀者の多くが、皇室に繋がる「高貴な身分」の者か、修行を積んだ「高位の僧籍」の者で、「罰当たりを恐れた」と言う、まだ素朴な時代だった。

文観(もんかん)の命を救ったのも、その動じない態度が鎌倉方に悟りの徳と見えたからである。

「島流し」に合った文観(もんかん)であるが、彼には勘解由小路(賀茂)家が付いている。

少し本土は遠いが、勘解由小路党の水軍は海を渡れる。

鬼界ガ島に流されてなお、文観は後醍醐天皇に親書を送り、討幕を指南した。

即位六年目、千三百二十四年、後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。

後醍醐天皇は側近の蔵人・日野資朝(ひのすけとも)や蔵人・日野俊基(ひのとしとも)らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が後醍醐帝を庇って罪を被り、首謀者とされ佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。

美濃国に在った後醍醐帝勤皇の士・多治見国長や土岐頼兼らは、追い詰められて自刃した。

これを「正中の変」と言う。


日野(ひの)家は藤原氏北家流の名家の家格を有した藤原が本姓の公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。

謀議に加わった日野資朝(ひのすけとも)の資実流日野氏は藤原実光(ふじわらのさねみつ)の子・藤原資長(ふじわらのすけなが)から三代・藤原資実(ふじわらのすけざね)の頃より日野資実(ひのすけざね)を称して藤原北家・日野流とした。

資実流日野氏は代々中納言止まりだったが、日野俊光(ひのとしみつ)が権大納言まで昇った為に資実流日野氏を嫡流、種範流日野氏を俊光(としみつ)傍流としている。

後醍醐天皇の影響で宋学に傾倒した日野資朝(ひのすけとも)は資実流日野氏・日野俊光(ひのとしみつ)の子であるが、父・俊光が持明院統の重臣であったにもかかわらず、あえて大覚寺統の後醍醐に仕えた為に父から勘当されている。

日野氏(ひのうじ)は本姓を藤原氏とし、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の長男・藤原真夏(ふじわらのまなつ)を祖とする藤原北家流を称していた。

中納言・藤原公国(ふじわらのきみくに)の三男・藤原実光(ふじわらのさねみつ)の子・藤原資憲(ふじわらのすけのり)から五代・藤原種範(ふじわらのたねのり)が、日野種範(ひのたねのり)を称して藤原北家・日野流とした。

種範流日野氏は、息子の日野俊基(ひのとしもと)が後醍醐天皇の影響で宋学に傾倒し、鎌倉幕府倒幕謀議に加わって元弘の乱(げんこうのらん)の早い時期に捉えられ、鎌倉の葛原岡で処刑された為に日野種範(ひのたねのり)の系統は衰退した。


尚、堂上家としての日野氏以外に、本願寺開山の親鸞(しんらん)上人も日野家の出身で、西本願寺・東本願寺の大谷家と、親鸞の孫覚如の子存覚を祖とする錦織寺の木辺家も日野流である。


鎌倉末期、後醍醐帝が即位した頃の蔵人頭(秘書長官)の権中納言・日野資朝(ひのすけとも)は、権中納言・日野俊光を父に持つ鎌倉時代後期の帝側近公家である。

後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕謀議には、側近の蔵人(くらんど/秘書)を主力に参画(さんかく)を許され、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)、藤原隆資(ふじわらのたかすけ)、藤原師賢(ふじわらのもろかた)、平成輔(たいらのなりすけ)など極少数が参加した。

鎌倉時代末期の公家・日野俊基(ひのとしもと)は、蔵人(くらんど/秘書)として後醍醐天皇の親政計画の謀議に参加し、諸国を巡り反幕府勢力を募る役目を負う。

その動きが幕府方六波羅探題に察知され、千三百二十四年(正中元年)の正中の変で日野資朝(ひのすけとも)らと逮捕されるが処罰は逃れ京都へ戻る。

しかし後醍醐帝の倒幕の意志は固く、俊基(としもと)も再び討幕謀議に参加し、千三百三十一年(元徳三年/元弘元年)に二度目の発覚をし、捉えられ鎌倉の葛原岡で刑死する。


ちなみに、甲州街道の五番目の宿場町で現・東京都日野市は中納言・日野資朝の玄孫にあたる宮内資忠なるものが、当所に移住して武蔵国・土淵ノ庄を初めて「日野と号した」と言う説がある。

この日野氏一族は、源義経の兄・阿野全成(今若丸)の血を引く清和(河内)源氏の末裔でもあり、後醍醐帝の愛妾・阿野簾子(あのかどこ)は阿野全成(今若丸)の直系である。

つまり、日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしとも)と簾子(かどこ)が同族で、後醍醐帝の側近公家は阿野(日野)一族で固められていたのだ。


勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。

そして、その本質は賀茂家の影人の血筋で、つまり日野家も影の血を引いていたのだ。

それ故、今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。

だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は京都の六波羅探題に警戒されていた。


日野資朝(ひのすけとも)が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

護良親王(もりながしんのう)は天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っている。

この時に門室を置いたのが東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺だった事から、大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。

その後門跡を継承して門主となり、後醍醐天皇の画策で天台座主となって居るが、護良親王(もりながしんのう)は武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む「極めて例が無い座主であった」と言われている。

後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動に明け暮れている頃、護良(もりなが親王)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。

譲良(もりなが)親王は見た目優男だったが、剣の腕は立ち勇気も持ち合わせていた。

この譲良(もりなが)親王の顔が源義経良く似ていて、まさか義経の遣り残した思いが「輪廻転生を起こしたのか?」とさえ思わせる。

それはあたかも、スロットルマシーンの絵柄が揃うようにDNA遺伝子的な配列が揃って、新たなる「義経」が親王としてこの世に生まれ出たのかも知れない。

比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞として、台密山伏の本拠地として名高い。

元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。

覇王を目指した男・後醍醐帝を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆は在った。

生まれ来る皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。

我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せずクールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。


帝のお気持ちを安んじ、お慰めするのが簾子(かどこ)の役目で有る。

簾子(かどこ)は、後醍醐帝に目覚めさせられたのか、生まれつきの淫乱性なのか、嬲られるのが事の他好みの様で、身分など討ち忘れて、縛(しば)かれても、晒されても、意のままにしてこそ寵愛を得る。


縄を掛けられ吊るされるあさましい姿で尻を差し出して「鎌倉(北条)調伏」を唱和しながら激しく帝のお相手を為し、乱交に参加する。

彼女は、非日常の被虐感を好む性格だった。

それ故、その場に直面すると、臆する事無く後醍醐帝の要求に応じた。

やがて簾子(かどこ)は、中宮・ 禧子(きし)を押しのけて帝の寵愛を一身に集めるようになる。

通常、女性の戦いは如何に寵愛を得るかで有り、「簾子(かどこ)は中宮・禧子(きし)に女の争いで勝った」と言う事である。

不幸な事にこの時代、それが女性に取って何て事は無い日常だった。

後醍醐帝の倒幕計画が失敗した「元弘の乱」が起こると、阿野簾子(あのかどこ)は、後醍醐帝の隠岐島配流に随行する。

南朝後村上天皇(義良親王)、恒良親王、成良親王、祥子内親王、準子内親王の母となり、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐帝が開始した建武の新政に於いては、准三后(正妻に順ずる)の栄誉を授かる。

その後、簾子(かどこ)は足利尊氏と結託して後醍醐帝と対立した護良親王の失脚、殺害にも関与したとされる。

簾子(かどこ)は足利尊氏が新政に離反した後の吉野遷幸にも同行し、最期まで後醍醐帝に従った。

後醍醐派の頼みはあの凄まじい「歓喜性交の荒行」である。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と、文観僧正が九字呪文を唱える。

その七日七晩に渡る文観渾身の呪法は、大願成就する前に「発覚」する。

潜伏していた真言宗右派(禁欲派)が、醍醐寺の修行僧に化け、「恐れながら。」と、北条方(六波羅探題)に通報したのである。


鎌倉幕府の滅亡、建武中興、南北朝の争乱と続く十四世紀の大動乱時代、 後醍醐天皇方は修験道師(山伏)達によって、「全国的に緊密な情報網を張り巡らしていた」と言われる。

彼らは勘解由小路党の結束の元、相互に強い連携を持って後醍醐天皇を支えていた。

数の上では絶対的に優勢な鎌倉幕府軍を敗って、一時的にもせよ成立したのはこのネットワークあればこその快挙だった。

後醍醐天皇による親政の建武中興は、正しく宮方に立った勘解由小路党の全国的なネットワークに支えられたものであった。

実を言うと、後醍醐天皇の意思によって企てられた「建武中興」なるものは、それまでの武家による支配体制に対して、公家と社寺と言う守旧勢力が起こした「反動的復古運動である」と言うのが最近の見方である。

後醍醐天皇の影に在ってそれを画策したのが、醍醐寺座主「文観僧正」である。

醍醐寺は修験道を体系化した理源大師聖宝(りげんたいししょうぼう)が開基、 後に修験道当山派の総本山になる寺である。

かくて、文観の人脈と醍醐寺の寺縁によって全国の修験系の寺院が、その倒幕運動に加わり、これが後醍醐天皇方を支える基盤となった。

元弘元年、倒幕の密議が露見した時、 後醍醐天皇が逃げ込んだ笠置山は文観の相弟子聖尋(東大寺別当)が統べる寺で在ったし、 後醍醐天皇の第一皇子、護良(もりなが)親王が挙兵した吉野山の金峯山寺は醍醐寺系の寺であり、いずれも、修験導師(山伏)の寺である。


当時天皇は、大覚寺統と持明院統が交互に即位する約束に成っていた。

しかしそれは、勿論皇統の継承争いに憂慮した側面もあるが、基を正せば天皇家が一本にまとまり、団結して「力を集中しない様に」と言う目論みの「皇室分断作戦」で出て来た鎌倉幕府主導の制度だった。

鎌倉幕府による朝廷への介入が進み後嵯峨天皇(第八十八代)の皇子二人が、後深草天皇(第八十九代)持明院統と亀山天皇(第九十代)大覚寺統の兄弟で皇位に就いた所から鎌倉幕府に利用され、その子孫が代わり番で皇位を継ぐ慣習が生まれて居た。


後醍醐天皇は大覚寺統の後宇多天皇(第九十一代)の第二皇子であるが、持明院統の花園天皇 (第九十五代)の皇太子に立ち、千三百十八年に花園天皇からの譲位によって第九十六代天皇に即位する。

後醍醐天皇が鎌倉倒幕を目指したのは、鎌倉幕府主導の「皇室分断作戦」制度に正面から挑んで、一本化を図る事だった。

しかし順番で、「次に天皇が出せる」と期待していた持明院統は黙って座しては居ない、幕府側に回った。

そう成ると、後深草天皇の血統(持明院統)と亀山天皇の血統(大覚寺統)の対立がここから始まる。

幕府は後醍醐天皇を圧さえる為に持明院側を利用しに掛かり、朝廷はゴタゴタが絶えなくなる。

持明院統・後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、このままでは、天皇は今まで通り鎌倉幕府の「飾り物」に成ってしまうと、即位六年目の千三百二十四年に鎌倉幕府からの政権奪取を秘密裏に画策する。

この後醍醐天皇の動きが、鎌倉幕府の倒幕、「建武の親政」そして「南北朝並立時代」の百年(含む後南朝の抵抗)に余る戦乱の序章だった。


後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。

美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。
これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。

そして、その本質は賀茂家の影人の血筋で、つまり日野家も影の血を引いていたのだ。

それ故、今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。

だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は警戒されていた。

日野資朝(ひのすけとも)が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

その頃、護良親王(もりなが)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。

比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞とした台密山伏の本拠地として名高い。

元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。

覇王を目指した男を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆はあった。

生まれて来る皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。

我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せずクールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、やはり悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。


一度「正中の変」で倒幕謀議は失敗したが、後醍醐天皇はあきらめず機会を狙っていた。

六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は再び「元弘の乱(げんこうのらん)」を引き起こす。

元弘の乱(げんこうのらん)は、千三百三十一年(元弘元年)に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。

この乱は、千三百三十三年(元弘三年・正慶二年)に鎌倉幕府が滅亡に到るまでの一連の戦乱を含め元弘の乱(げんこうのらん)とする事も多いが、その発端が「正中の変」の後、処分を免れた側近の日野俊基(ひのとしもと)や真言密教の僧・文観らと再び倒幕計画を進めた後醍醐帝の再度の倒幕計画だった。

再び討幕を企てた後醍醐天皇で在ったが、またも密告によって露顕してしまう。

後醍醐帝の側近である吉田定房が帝を案ずる余り六波羅探題に倒幕計画を密告してまたも倒幕計画は事前に発覚、六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り込んだ為に後醍醐帝は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山へ向かい、そこで挙兵した。

二条為世の娘・為子との間に産まれた尊良親王(たかながしんのう)は、父・後醍醐帝と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されている。

後醍醐天皇が勘解由小路党の内密の本拠地、笠置山(城)に移り挙兵すると、後醍醐帝の挙兵に呼応して、呼応して後醍醐帝の皇子・護良親王の吉野山・金峯山寺蜂起や難波・河内国の悪党、楠木正成(くすのきまさしげ)が南河内の下赤坂城で挙兵する。

楠木正成は文観の真言立川の「教義」を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を試みたのである。

後醍醐帝・笠置山(城)挙兵の知らせは、急ぎ幕府方に伝わった。

六波羅探題軍が京の御所を急襲して、計画に加担した者は皆逃げる間もなく捕縛された。

これを、「元弘の変」と言う。

この時「正中の変」で捕らえられていた日野資朝(ひのすけとも)は佐渡国、この「元弘の変」で捕らえられた日野俊基(ひのとしもと)は鎌倉にてそれぞれ幕府方に殺されている。

種範流日野氏は、明治維新後に南朝(吉野朝廷)が正統とされると、日野俊基(ひのとしもと)は倒幕の功労者として評価され、千八百八十七年(明治年二十)には俊基(としもと)を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基(としもと)自身にも従三位が追贈された。


後醍醐天皇が笠置山に逃亡した為、鎌倉幕府執権・北条高時は持明院統・後伏見天皇の第三皇子の量仁(かずひと)親王を光厳(こうげん)天皇(北朝初代)として擁立させた。



影の当主・吉次亡き後、勘解由小路(かでのこうじ)家は、母方の近衛家から従弟が名跡を継いだ。

大方、権中納言(ごんちゅうなごん)までは上れる家系だった。

名は残ったが、もう諜報機関としての機能はしない。

しかし、皇統護持の影の組織として残す為に、笠置山に指示系統の主体を移して生き残りを図った。

後醍醐帝が二度目に挙兵した笠置(かさぎ)山は、六百六十一年に笠置山の巨岩石に実忠和尚、良弁僧正が仏像を彫刻され、それを中心に笠置山全体が、修験行者の修験場として栄える事となった。

つまり元々勘解由小路党の強固な霊場基盤であった。


平安末期の末法思想の流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け、笠置詣でが行われる様になる。

千百九十一年(建久二年)、藤原貞慶(解脱上人)が興福寺から笠置寺へ移り、笠置山は信仰の山として全盛期を極めた。

しかし二百六十年後、後醍醐天皇の挙兵により全山炎上、灰燼に帰したのである。

これが転機だった。

笠置山全山が灰燼塵と帰したこの時を境に、勘解由小路党の司令塔は無くなり、これより各流れが独自の判断をする様になった。


幕府方は、後醍醐方討伐の為に大仏貞直(おさらぎさだなお/北条貞直)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ/北条貞冬)、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの大軍を差し向ける。

まず後醍醐帝の笠置山が陥落、次いで護良親王の吉野山・金峯山寺も陥落して護良親王はいずこかへ潜伏し、最後は楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。

その下赤坂城で幕府軍は苦戦を強いられる。

楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して、大木を落とし熱湯を浴びせ予め設けて置いた二重塀を落としたりと言った奇策を駆使し持ち堪えていた。

しかし敵方に包囲されての長期戦は不利と見た楠木正成は、自ら下赤坂城に火をかけ自害したように見せかけて姿をくらませる。

やがて笠置山を逃亡した後醍醐天皇が側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられ隠岐国に流された為、討幕勢力は弱体化する。

この動乱で、長く続いている皇統に大問題が発生する。

そして、天孫の「万世一系」が危機に陥る。

この事を、「歴史の必然」が、遥か前から予期していたのだ。


元弘元年(千三百三十一年)に元弘の変が勃発した炎が、まだチロチロと種火に成って燃えていた。

二度目の倒幕計画、笠置(かさぎ)山挙兵に失敗して捕らえられた後、醍醐天皇は隠岐(おき)の島へ流される。

後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳(備前国の武士)は、 熊野の山伏達が開いた熊野修験分流「児島修験」の人物で、戦前は小学校の唱歌にも歌われている。

隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺(がくえんじ)も天台修験の古刹である。


一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めていた。

潜伏して再挙兵の機会を伺っていた護良親王と楠木正成だったが、まず楠木正成が河内国金剛山の千早城で挙兵し、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

正成は赤坂城を奪回し、鎌倉方六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破する。

鎌倉幕府は再び鎮圧に乗り出して大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向ける。

幕府方は楠木正成配下の平野将監らが守る上赤坂城を攻めるが苦戦するも上赤坂城の城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させる事に成功、吉野でも護良親王を破って敗走させている。

次いで幕府方は楠木正成の篭る千早城の攻略に掛かるが、三ヵ月に渡って正成に翻弄されている間に幕府方の武力権威が落ちて各地に倒幕の機運が広がって行く。

隠岐島に流された後醍醐天皇は、息消沈する処か沸々と湧き上がる倒幕意慾を駆り立てて島での日々を過ごしている。

播磨国で赤松則村(円心)が挙兵し各地で反乱が起きた頃、後醍醐天皇は時来たりと名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。

元弘の乱(げんこうのらん)を起こし、隠岐(おき)の島に流されていた後醍醐天皇が船上山で再起した為、幕府方はこれを討つ為に足利高氏、名越高家らの援兵を送り込む。

所が、名越高家が赤松則村(円心)に討たれ帝方と幕府方が五分五分の形勢になりそうな所で、足利氏棟梁・足利高氏(あしかがたかうじ/後に尊氏)が丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻し倒幕の旗を揚げ、帝方の赤松則村(円心)等と呼応して六波羅探題を攻め落として京都を制圧する。

敗れた北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが果たせず、近江国の番場蓮華寺で自刃している。


足利氏(あしかがうじ)は、源(八幡太郎)義家の四男・源義国(みなもとのよしくに)の子・源義康(みなもとのよしやす/足利義康)が居住する下野国足利庄(栃木県足利市)の足利を称して足利氏の祖となる。

源(八幡太郎)義家の四男・源義国(みなもとのよしくに)の次男(または三男)で、新田荘を相続した源義重(みなもとのよししげ/新田義重)は異母兄に当たる。

鎌倉期の足利氏(あしかがうじ)は幕府有力御家人として一郭を占め、将軍家一門たる御門葉の地位に在ってそれなりの立場を維持していた。

だが、鎌倉幕府は四代目から肝心の源頼朝の血統が絶えて平氏・北条得宗家が幕府執権として実権を握り、内心じくじたる想いが在ったのかも知れない。



隠岐(おき)の島に流されていた後醍醐天皇が船上山で再起し、帝方と幕府方が五分五分の形勢になりそうな所で坂東(関東)に於いて新田氏棟梁・新田義貞(にったよしさだ)が野国・生品明神で倒幕の旗を揚げる。

挙兵した新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やし、足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)らも合流して相模国に達する頃の新田軍は数万規模に膨れ上がった。

新田軍の進撃に、幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃の為に向かわせるが、「小手指ヶ原の戦い」や「分倍河原の戦い」でことごとく敗退し、幕府軍(鎌倉勢)は鎌倉へ追い詰められて行く。

鎌倉に入るには狭い七切通し小道しか無く、天然の要塞と成っていた。

幕府軍(鎌倉勢)はその七切通しを封鎖するも、新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂と言う三方の切通し小道から攻め入って行きてこずって撤退する。

守りの固い鎌倉に手を焼いた新田義貞は、幕府軍(鎌倉勢)の裏をかいて引き潮の七里ヶ浜の浜伝いに稲村ガ崎から鎌倉へ突入、背後を突かれ幕府軍は総崩れとなり北条高時ら北条一門は応戦するも力尽き、北条氏の菩提寺・東勝寺に於いて滅亡する。


新田氏(にったうじ)は、源(八幡太郎)義家の四男・源義国(みなもとのよしくに)の子・源義重(みなもとのよししげ/新田義重)が居住する上野国新田荘(群馬県太田市)の新田を称し新田氏の祖となる。

新田義重(にったよししげ/源義重)は源(八幡太郎)義家の四男・源義国(みなもとのよしくに)の長男で、足利庄を相続した源義康(みなもとのよしやす/足利義康)は異母弟に当たる。

鎌倉期は幕府御家人として一郭を占めるが、鎌倉幕府は四代目から肝心の源頼朝の血統が絶えて平氏・北条得宗家が幕府執権として実権を握り、内心じくじたる想いが在ったのかも知れない。

鎌倉期の新田氏(にったうじ)は源義国(みなもとのよしくに)の本宗家であり武家の名門で在った。

しかし新田氏本宗家は源頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称する事が許されず官位も比較的低く、受領官に推挙される事も無かった。

また、早期に頼朝の下に参陣した新田流・山名氏と新田流・里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。

同じ親戚にあたる足利氏(あしかがうじ)が将軍家一門たる御門葉の地位に在った為、新田氏本宗家は足利氏よりも鎌倉幕府内で低く見られていた為に幕府に不満を持っていた。



護良親王を産んだ源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・源師親(みなもともろちか・村上源氏北畠家)の娘である。

尊良(たかなが)親王を「第一皇子」とするものも世間に見受けられるが、これは第一皇子の護良(もりなが)親王が仏門(天台宗)にあって、世俗の舞台へのデビューが、尊良(たかなが)親王より遅れた事による間違いである。

第一皇子の護良(もりなが)親王は千三百八年生まれ、尊良(たかなが)親王は千三百十一年生まれで、護良(もりなが)親王の三歳年下の第二皇子に成る。


護良(もりなが)親王が吉野に挙兵、河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)も千早城に挙兵する。

勘解由小路党が動き、修験系の荒法師、悪党などに宣旨(せんじ)が飛び、呼応して各地に幕府討伐の火の手が上がる。

赤松(円心)則村の三男・赤松則祐(あかまつそくゆう/のりすけ)は、始め比叡山で僧となっていたが、千三百三十一年(元弘元・元徳三)年の護良親王挙兵に加わって護良親王に近侍、腹心として各地を転戦している。

その赤松則祐(あかまつそくゆう)の伝手で、父・赤松(円心)則村に「朝敵を討伐せよ! 功績あらば恩賞を取らせる」と護良親王(もりながしんのう)が挙兵を促すの宣旨(せんじ/命令書)が届く。

播磨の田舎で不遇を囲っていた赤松円心に取っては、家名を挙げ世に出るチャンスだった。

円心は宣旨(せんじ)に呼応する決意を固め、挙兵する。


赤坂城や千早城(ちはやじょう)に於いて智謀(ゲリラ戦法を駆使)を用いて幕府軍を翻弄した楠木正成(くすのきまさしげ)や、播磨国苔縄城にて挙兵した赤松円心(則村)のように諸国の反体制武士集団「悪党」が続々蜂起して鎌倉幕府を苦しめた。


大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王は、皇子(みこ)としては異常に剣の腕が立った。

一見やんごとなき美貌の皇子でなよやかに見えたが、剣を持たせるとその剣気は構えただけで相手を圧した。

これには、楠木正成も赤松円心(則村)も舌をまいた。

天台座主時代に荒法師どもと相当に腕を磨いた様だが、そこには並々ならぬ倒幕の強い意志を感じ二人とも護良(もりなが)親王に心服していたのだ。

還俗した護良親王(もりながしんのう)は、北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした。

つまり、北畠親房(きたばたけちかふさ)は護良親王(もりながしんのう)の義父に当たり、北畠顕家 (きたばたけあきいえ)が義兄弟にあたる。

北畠親房(きたばたけちかふさ)は村上源氏庶流の公家で、北畠(源)親房(きたばたけ・みなもとのちかふさ)が正式な名乗りである。

親房(ちかふさ)は南北朝期に生きた公家で、息子の北畠顕家 (きたばたけあきいえ)と共に南朝後醍醐天皇にお味方して活躍した公家で在りながら武門として活躍した武将でも在った。

この護良親王(もりながしんのう)の、憂いを含んだ優しそうな面影が、何故か源義経に似ていて、彼の悲劇的未来を案じさせていた。

しかし、自分が義経に似ているなど、護良親王は知る縁(よすが)も無かった。

「隠岐(おき)の島」に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国の豪族である名和長年(又太郎)によって船上山に迎えられ、ここで朝臣千種忠顕(ちぐさただあき)を挙兵させた。

隠岐を脱出した後醍醐天皇を擁し船上山 (せんじょうざん)に立て籠もったのは、大山寺の衆徒、信濃坊源性の兄である名和長年(海運業を営む悪党)であり、天台修験の山伏達の寺である大山寺 (だいせんじ)の僧兵達も駆けつける。

つまり、後醍醐帝の味方は身内(婚姻関係)の「村上源氏。北畠家」、「修験の山伏達」と幕府に逆らう「悪党」、そして皇胤武士の「河内源氏・足利家や新田家」である。

彼らは、各々北条得宗家の治世を快く思わない立場の人々では在った。


名和長年(なわながとし)は、鎌倉幕府の倒幕を志して隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が島を脱出すると、これを船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった南北朝時代の武将である。

伯耆国(ほうきのくに)名和(現・鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、赤松氏と同じく村上源氏雅兼流を自称しているが、長年(がとし)は武装大海運業者だったとする説、悪党と呼ばれた武士であったとする説がある。

悪党と呼ばれ聞き耳が悪いが悪人ではなく、鎌倉幕府にマツラワヌ為に幕府御家人に加わらない在地の勢力を悪党と呼んでいた。

いずれにしても明治維新時の倒幕の志士同様に、現状の境遇から浮上したい志を持つ者にとって後醍醐天皇の倒幕の志しは潜在一隅の機会だった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)ら源氏流の有力鎌倉御家人が鎌倉幕府から後醍醐方に寝返る前に後醍醐天皇の元に幕府倒幕の旗を掲げたのは、悪党と呼ばれた河内国豪族・楠木正成(くすのきまさしげ)や播磨国豪族・赤松則村(あかまつのりむら/円心)、そしてこの名和長年(なわながとし)ら元々幕府にはマツラワヌ者達だった。

長年(ながとし)は、幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政において、河内国の豪族・楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられる。

また後醍醐帝は、長年(ながとし)を伯耆守(ほうきのかみの)に任じ、名和氏の出自である商業者的性格を重んじて京都の左京の市を管轄する機関の長である東市正に任じている。

長年(ながとし)が伯耆守(ほうきのかみの)であった事から(キ)、同じく建武の新政下で重用された難波の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)の(キ)、藤原秀郷小山朝光流・結城親光(ゆうきちかみつ)の(キ)、村上源氏久我流武将公家・千種忠顕(ちぐさ ただあき)の(クサ)と合わせて「三木一草」と称された。


新田氏と足利氏は源義家の子の源義国の子、即ち源(八幡太郎)義家の孫に当たる源義重と源義康をそれぞれの祖とする、清和源氏河内流れの名流であり鎌倉幕府では有力御家人(要人)で在った。

所が、赤松則村が幕府軍の名越高家に快勝した事を契機として、新田義貞と足利高氏は鎌倉幕府(北条執権)から離反する。

これを好期として、後醍醐天皇が混乱に乗じ隠岐の島を脱出、伯耆国にて鎌倉倒幕の「綸旨(りんじ)」を発する。


新田・足利の両氏の祖と成った源義国(みなもとのよしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将・源義家の四男である。

源義家の長男・源義宗が早世し次男・源義親が西国で反乱を起こすなどして継嗣から外れた為、兄の三男・源義忠とともに次期「源氏の棟梁候補」としての期待されてた。

しかし源義国(みなもとのよしくに)は、乱暴狼藉を行った事や時代の趨勢に合わないと父・義家に判断されて後継者から外されて行った。

千百六年(嘉承元年)、義国(よしくに)は叔父・源義光(頼義の三男で源義家の弟/新羅三郎)や従兄弟源義業との対立する。

いわゆる「常陸合戦」と呼ばれる合戦に到ってその結果、義国(よしくに)は勅勘(ちょっかん/天皇からのとがめ)を蒙って父・義家に捕縛命令が下り、相手の義光及びその与党・平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。

義国(よしくに)はその「常陸合戦」には敗れ、常陸国は義光流の佐竹氏に譲る事になったが、足利庄を成立させるなど下野国に着実に勢力を築いて行った。

また、義国(よしくに)は長男・源義重(みなもとのよししげ)を伴って上野国に新たに田地を開拓し、新田荘として勢力を築いている。

長男・源義重(みなもとのよししげ/新田義重)は居住する上野国新田荘(群馬県太田市)の新田氏を称し、次男(または三男)・源義康(みなもとのよしやす/足利義康)は居住する下野国足利庄(栃木県足利市)の足利氏を称してそれぞれの祖となる。

源義国(みなもとのよしくに)は晩年にも勅勘を被るなど気性の荒さは改まらず、荒加賀入道と言われた。

義国(よしくに)末裔には山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏、世良田氏、戸崎氏などがある。


後醍醐天皇は、大塔宮・護良親王(もりながしんのう)などの自軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、承久の乱(じょうきゅうのらん)・後鳥羽上皇の故事に倣(なら)って錦旗(きんき)を北畠顕家や足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松則村(円心)らに下賜し、その使用を許している。


後醍醐天皇の呼びかけに応じ、有力武将の足利尊氏や、新田義貞が呼応して味方と成った。

源氏は本来皇統を守護するのが筋で有る。

護良(もりなが)親王、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心らの活躍で幕府方を各地に圧倒、幕府方の関西の拠点、「六波羅探題」を足利尊氏、楠正成らが攻めこれを打ち破った。

千三百三十三年に足利高氏は六波羅探題を攻略して北条仲時を自害させた。

そして身分が低いため足利高氏の嫡子足利義詮を大将として擁した新田義貞は本拠地の「鎌倉」を攻め、これを攻略、田楽と闘犬に耽っていた幕府執権「北条高時」や内管領長崎高資らを「もはや、これまで。」と自害させて倒幕に成功、鎌倉幕府は滅びる。

やがて後醍醐天皇が、都に上洛して皇位に復帰、新政権の体制造りに着手する。


関東御家人の名門で、当時鎌倉幕府の京都出先機関、六波羅の首脳部にいた藤原氏流の出自と言われる伊賀兼光は、文観の媒介により討幕計画に加わり、後に建武新政期、後醍醐の寵臣としてあらゆる政府機関に名を連らねた人物で有る。

後醍醐は討幕計画にあたって、腹心の公家、日野資朝(ひのすけとも)などを山伏姿にやつさせて密かに地方へ派遣して遊説させ、北条氏専制下に恵まれなかった源氏諸流の勤皇の将を募ったとされる。

この日野資朝(ひのすけとも)の山伏活動をサポートしたのが、勘解由小路党である事は言うまでもない。

一方で信仰を媒介に、文観が関東政権の中枢まで手を延ばしていた事になる。

党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、元弘三年(千三百三十三年)に倒幕が実現した。

これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者(最高位)にまで上り詰めた。

これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、建武二年(千三百三十五年)に大規模な弾圧を加えた。

理解して欲しいが、当時の僧侶は現在とイメージがまったく違い、僧侶を平和的イメージに変えたのは後世の事で、僧兵と言う武力を持って居て、自らの信仰と権力を武力行使を持って決着させる利権集団だった。

立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。

一長者(いちのちょうじゃ)の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られたが屈せず、後醍醐天皇に親書送り続けた。

その後も文観は吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して門下を陰で動かして働いた。


大勢に利あり、ようやく後醍醐天皇は皇位に復帰した。

しかしこの天皇、基本的に権力志向が強く我侭だった。

後醍醐帝と、息子の大塔宮護良(もりなが)親王の微妙な対立が表面化する。

大塔宮護良(もりなが)親王は、畿内の反幕府軍を結集するため親王の名前で「綸旨」を連発したが、本来、「綸旨」を下す事ができるのは、唯一天皇のみである。

親王のような立場で各地に命令を下すとなれば、それは「綸旨」ではなくて、「令旨」でなければならない。

しかし火急存亡の時である。

親王は、令旨ではインパクトが弱い為に敢えて「綸旨」を名乗って各勢力に檄を飛ばした。

これが好結果に結び付いて、帝の為になったのだが、自我の強い後醍醐帝から見れば、これは「自らの立場、皇位を公然と侵す行為」で、不愉快だった。

つまり後醍醐天皇は、嫉妬深く猜疑心が強く我が侭だった。

しかし、倒幕勢力の一翼を担った大塔宮護良(もりなが)親王の大功績を無視する事は到底できず、親王の要求した征夷大将軍の地位を、後醍醐帝は認めざるを得なかった。

建武新政府では、護良親王が当初征夷大将軍・兵部卿に任ぜられる。

それでも内心、後醍醐帝は、自分の意に沿わない独断をする護良(もりなが)親王の存在を疎ましく思っていた。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王(もりながしんのう)は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となった。

これも大塔宮護良(もりなが)親王の立場からすれば、全国の武士を糾合する立場を天皇の息子である親王が持てば、何かと「朝廷がやり易くなるだろう」、との配慮から出たものと思われる。

だが、武家の棟梁と言う権限者の立場を親王に「認めさせられてしまった」と言う点に於いて、公家と武家の隔てなく上位に立とうとしていた後醍醐帝からすれば、誰であろうと将軍職を認めた事自体が「口惜しいしい限りであった」と察せられる。


後醍醐帝(第九十六代)は、激怒していた。

図星を言われると腹が立ち、相手に敵意を抱く小心者の人間も居る。

言う譲良(もりなが)親王の方は父帝に誠意を持って居ても、後醍醐天皇は一見豪胆に見えるが豪胆に振舞う者ほど繊細な一面が在り、図星を気にして自尊心を傷付けられ、利発な親王に恨みを抱く。

宮廷禁裏に在って学問こそ学んでいたが、何せ帝王学の悪しき所で「全ては帝たる朕(ちん)の意のままになる」と人の気持ちが判らない。

つまり武家の実権を護良(もりなが)親王に握られた事を、我が子相手に嫉妬したのである。

それで親王の善意も「面子を潰された」としか思えず、哀れ譲良(もりなが)親王は、父・後醍醐帝に疎(うと)まれて居た。


護良(もりなが)親王は建武政権においても足利「尊氏らを警戒していた」とされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし護良(もりなが)親王は、足利尊氏の他に父の後醍醐天皇やその寵姫・阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集めたりした為に征夷大将軍を解任される。

更に護良(もりなが)親王は、千三百三十四年(建武元年)冬には皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。


足利尊氏の配下名和長年、結城親光らが兵を連れて護良親王(もりながしんのう)の下に出向いて来た。

尊氏は「後醍醐帝の命で親王を捕らえに来た」と親王に告げる。

親王は、父・後醍醐帝の思いも拠らぬ仕打ちに心臓をギュウと握られる様に締め付けられて身が固まった。

「これは何かの間違いである。父帝は、誤解あそばされたに違いない。」


権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出て来るのが通例である。

そんな時に、天皇の寵愛する女官、阿野簾子(あのかどこ)も、自分の子供義良(のりなが)親王を次代の天皇に就けようと、有力な候補でライバルである大塔宮への讒(ざん)言を、帝の寵愛を良い事に褥(しとね)で繰り返した為、いよいよ親王への風当たりは強くなる。

この阿野廉子(あのかどこ)の行為、母親であるから気持ちの点では充分理解できるが、この時代に「正妻の嫡男を排除する為に落とし入れよう」と言うのは、社会ルール的には相当の悪女に他ならない。

何しろ阿野簾子(あのかどこ)は、北条正子の妹・阿波局(あわのつぼね)の血を引いている。

芯は、恐らく北条政子並の野心家だったのだろう。

簾子(かどこ)が血を受け継いでいる桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その在位中に強烈な指導力を発揮したあらゆる点で日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。

母系ではあるが、正に阿野廉子(あのかどこ)はその最強の血を受け継ぐ桓武平氏直方流の北条正子と同じ血を受け継いでいた。

源義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は源頼朝、源範頼)で、源氏の棟梁の血を引く阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)と、桓武平氏直方流・北条政子の妹で北条時政の娘である阿波局(あわのつぼね)の血を受け継ぐ阿野廉子(あのかどこ)である。

公家・阿野家の近衛中将・阿野公廉(あのきんかど)の娘に生まれた廉子(かどこ)だった。


後醍醐帝と阿野廉子の会話は、絡み合っての睦事の最中である。

女官・阿野廉子(あのかどこ)は、後醍醐帝をお慰めする床の中、艶かしい腰使いで帝を翻弄しながら、執拗に護良(もりなが)親王非難の換言を聾(ろう)していた。

「近頃の大塔宮(護良親王)様の為され様は、天子(てんし)様を蔑(ないがし)ろにして、少々勝手ではござりませぬか?」

睦み合いながらの愛妾の言でも、耳元で度重なれば帝をその気にさせる。

わが子ながら人気と人望を集める大塔宮(護良親王)の存在は、後醍醐帝にとって危険なものに映り始めていた。

「おぉ左様左様わらわもその事、気にして胸が痛うおじゃる。」

「ならばいっその事、宮(護良親王)様を捕らえて都からお流し(島流し)になされませ。」

「されば、如何にしようかのぅ〜。そうじゃ、朝を待つて堂上(公家)の者人に申し付けようぞ。」

「いえ天子(てんし)様、その儀ならば足利殿に捕らえさせましょうぞ、あの方なら手勢も多ございます。」

「尊氏でおじゃるか・・・皇子(護良親王)は素直に縛(ばく)に付くかのぅ〜。」

「そう足利殿が宜しゅうございます。」

「廉子(かどこ)がそう申すなら、尊氏に申し付けようぞ。」

実は阿野廉子、三日ほど前に帝に内緒の独断で足利尊氏には協力を要請して内諾を受けていた。

鎌倉の北条執権に変わって部門の棟梁と成りたかった尊氏に取っては、皇子でありながら征夷大将軍を名乗る皇子・大塔宮(護良親王)は厄介な存在で、渡りに船と廉子(かどこ)と利害が一致していた。

しかし利害が一致して「利」で結び付いた者は、いずれ利害が反すれば敵になる。

阿野廉子は、己の子可愛さに大塔宮(護良親王)を捕縛させて足利尊氏に力を着けさせ、結果、帝の立場を弱めてしまったのだ。


平氏の大祖にあたる桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではない。

桓武天皇は、征服王としてはこの国の歴史に偉大な足跡を残したが、征服される側にとっては、恐ろしい阿修羅のごとき相手である。

その桓武天皇の皇子・勝原(かつはら)親王を祖とする後胤貴族として、良くも悪くもその強烈な個性を血筋として受け継いだ事が、その後の桓武平氏を名乗る指導者達の、厄介で強烈な生き方として現れるのである。

阿野廉子(あのかどこ)も、そんな運命を背負ってこの世に現れた鵺(ぬえ)かも知れない。

中宮(皇后)・西園寺 禧子(さいおんじ きし)付きの女官から強烈な性技で後醍醐天皇の寵愛を得、挙句の果てに世継ぎと目されていた大塔宮・護良(もりなが)親王を失脚させて、庶子である我が子の天皇擁立を企んだ阿野廉子(あのかどこ)は、私欲の為に「南朝弱体化の遠因」と成った。

結果的に、最も武の分野で後醍醐帝と建武の親政を支える筈の大塔宮・護良(もりなが)親王を、みすみす足利方に誅殺される結果を招いているからである。

女系ではあるが、阿野廉子(あのかどこ)の気性の激しさは、間違いなく桓武天皇に繋がる北条平氏・北条(平)政子の血によるものではないだろうか?


この、後醍醐天皇に寵愛された女官の阿野簾子(あのかどこ)、想像するに「相当の性技達者な女性」と言う事になる。

何しろ後醍醐帝は立川流の信奉者である。

生半可なお相手では、寵愛などされる訳も無く、傍目も気にせず恥も外聞も無い体当たりのお相手を務めた事になる。

その行為が、後醍醐帝にたいする愛の深さを体現する物差しだった。

元々帝になる人物には、何もかも周りのお付き人がするから、羞恥心など育たない。

後醍醐帝が立川流を実践しているなら、縛(しば)かれても、晒(さら)されても、意のままにしてこそ寵愛を得る。

それが大胆に出来る女性(にょしょう)でなければならないのであろう。

絶対的権力を標榜する後醍醐天皇にすれば、女性(にょしょう)相手の要求でも、相手に逆らう事など赦せるものではない。

全てに於いて従順でなければ、納得も癒されもしないのである。

後醍醐帝は、毎晩寵愛する女官の阿野簾子(あのかどこ)を相手に、文観僧正直伝の男女の営(いとなみ)激しい立川流呪詛を行った。

この阿野簾子(あのかどこ)、後醍醐帝に目覚めさせられたのか、生まれつきだったのか、嬲(なぶ)られるのが事の他好みのようだった。

簾子(かどこ)は、女官を集めて呪詛の手助けをさせ、身分など討ち忘れて、縄を掛けられ吊るされるあさましい姿で尻を差し出して「鎌倉(北条)調伏」を唱和しながら激しく帝のお相手をする。

この時代の女として「天晴れ(あっぱれ)」と言えば天晴れで、後醍醐帝も簾子(かどこ)には骨抜きだった。

その甲斐あって強力な護良(もりなが)親王を鎌倉に幽閉させ、息子の義良(のりなが)親王を後村上天皇(ごむらかみてんのう)として即位させる事に成功する。

阿野廉子(あのかどこ)の美しい女体に宿っているのは、どうやら、「鵺(ぬえ)」と言う妖怪だったのである。


人は壷に嵌(はま)ると俄然やる気を出す。

己が「天下を意のままにしよう」と言う野心の塊のような後醍醐帝だったが、それだけではない。

帝には生まれ持っての策略を楽しむ癖が在った。

鎌倉の倒幕は、後醍醐帝のそうした人物像が発揮されたのである。

後醍醐天皇には、「帝の在るべき理想」として、帝の権力を「絶対の物に出来る」と言う過信があった。

その自尊心が、仇(あだ)に成る。

絶対の過信が、我が子ながら己に代わるべき力を持つ大塔宮護良(もりなが)親王の存在に不安を抱き、疎(うと)ましく思った。

現代でも通じる所だが、この自尊心と言うものは、大概の処本人にとって良い結果は導き出さない。

後で後悔する為に存在する代物(しろもの)の感情で有る。

人間の怖い所は、【左脳域】の論理的思考に拠る欲望と嫉妬である。

世の災いの元凶は、もっぱらこの欲望と嫉妬にある。

人間、権力を握ると猜疑心が強くなる。

余人に有らず、見様に拠っては護良(もりなが)親王には、武人達が逆立ちしても得る事の無い、皇位を継ぐ資格がある。

皮肉な運命だが、その血の裏づけこそ後醍醐帝が親王に嫉妬し、事を見誤る落とし穴だった。

本来、後醍醐天皇が最も信頼すべきは護良(もりなか)親王の筈だった。

まぁ、世間に良くある「親子のライバル心」と言ってしまえばそれまでだが、権力に執着する余り後醍醐帝は護良親王(もりながしんのう)を失った大きさに気が付かなかった。

もしも・・は現実には無い事だが、この一件が後醍醐帝の運命を変え、皇統が分裂し、遠く明治維新の頃まで尾を引くとは、誰も予測できる物ではない。


後醍醐帝は、愛妾・阿野簾子の色香に惑(まど)わされ、決定的な間違いをした。

後醍醐天皇は、人間としての思い遣りよりも覇権への欲望を優先した。

その凄まじい覇権への思いは、最も心強い息子・大塔宮護良親王さえも信じられなかった。

権力志向への代償であるが、そうした過酷な決断をする事への容認の方法論もあり、間違った結論かどうかは永久に出せない結論かも知れない。

確かに強い意志は覇権への最大の武器だが、覇権への思いが強くなるほど味方は減り、張本人は孤独に成って行くのが定めである。


鎌倉幕府・北条執権に拠って無力に置かれていた神の力を持って精神的な統治をする、建前のお飾り帝(みかど)からの脱却を計った後醍醐帝の意に最も添ったのが大塔宮護良(もりなか)親王である。

大塔宮護良(もりなか)親王が、親王の身を持って征夷大将軍に任じた事こそ、父帝・後醍醐が臨んだ親政を担保する唯一の方法だったのである。

桓武平氏の傍流である北条執権家から「主導権を取り戻そう」と言う点では、源氏傍流の足利家も新田家も同じ気持ちだった。

唯、足利家の尊氏の方には、北条執権家に取って代わり「新将軍家を興そう」と言う野心が有った。

新田家より源氏の血が濃い足利家にして見れば、この後醍醐帝方への助勢の手柄で、新将軍の座は手に届く距離だった。

所が、後醍醐の皇子・護良(もりなが)親王が当初征夷大将軍・兵部卿に任ぜられ、後醍醐天皇は自ら直接政治に関与する「建武の親政」を始めてしまった。


憧(あこが)れだけでは国は統治出来ない。

足利尊氏が見た後醍醐天皇の「建武の親政」は、唯の天皇直接統治(親政)への憧(あこが)れだった。

充てが外れた足利尊氏は、不満である。それ故、「後醍醐帝・親政」の弱体化を狙ってチャンスを窺っていた。

この時点で、北条に代わる野望を持って後醍醐帝側に付いた足利尊氏と我が子に帝の位を継がせたい帝の愛妾・阿野簾子との「護良(もりなか)親王失脚」の利害は一致していた。

阿野簾子が足利尊氏と結んで、反足利色を強めていた大塔宮を後醍醐天皇にざん言した為、千三百三十四年十月、後醍醐帝は足利尊氏に護良(もりなが)親王の捕縛を命令する。

捉えられた護良(もりなが)親王は、鎌倉の足利直義の元に送られて土牢に幽閉された。

この幽閉の悲劇に付き合い、最後まで供をしたのが、親王の寵姫(宮入)の「南の方(雛鶴姫・藤原保藤の女)」だった。

これは、結果的に後醍醐天皇の独裁者としての首を絞める事になる。

倒幕の戦いに功績があり、皇族ながら征夷大将軍の地位を以って武士に君臨、天皇の親政を護持しようとした大塔宮護良(もりなが)親王を、世情に疎(うとい)い後醍醐帝が、思慮浅く「私情を以って追放した事は大失敗」と言わざるを得なかった。

ここら辺りが、世間知らずに帝として育った者の限界だったが、この国に帝をいさめる習慣は、元々無かったのである。


大塔宮護良(もりなか)親王は、聡明で利発な上に、父帝をこよなく愛していた。

そして、最も後醍醐帝の意志を理解した皇子だった。

だからこそ、隠岐国に流された父帝を再び皇位に就ける為に立ち上がった。

その、一途に父帝の為に成したる思いが通じず父帝の追っ手が来た時、護良(もりなか)親王は謀反の心が無い事を証明する為にまったく抵抗しなかった。

父帝の命で天台座主、尊雲法親王として比叡山にあり、剣の修行には事欠かなかった護良(もりなが)親王は、その卓越した武術がありながら素直に縛に付き、父に意志が通じない悲しみで、失意の内に鎌倉に送られて東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたのである。

「帝が、そう思(おぼ)し召したか?ならば、仰せのままに致すしかあるまい。」

勘解由小路党は護良(もりなが)親王を哀れに思ったが、後醍醐天皇の意には逆らえなかった。

護良(もりなが)親王は、例え皇子でなくても利発で純粋な若者として十分な魅力があった。

そう、護良(もりなが)親王は「帝の第一皇子」と血筋が最高の上に、すこぶるイケメンであった。

そして、何よりも純真だった。

楠木正成(くすのきまさしげ)も、赤松円心(則村)もそこに惚れていた。

鎌倉まで同行した南の方など、自らの危険をも顧(かえり)みない行動をした。


後醍醐帝は、猜疑心と色ボケで護良(もりなが)親王を失う大失敗をしたのだが、失敗の事例の大きな一つは、赤松円心を敵に廻した事である。

赤松(円心)則村は朝廷(後醍醐天皇)側に組して鎌倉幕府倒幕の挙兵をした人物である。

播磨の国の反体制武士集団「悪党」の頭目であった赤松則村(円心)は、赤松円心の息子・則祐(そくゆう)が護良親王に近侍していた関係で、護良親王の挙兵に参戦、苔縄城で挙兵、京に攻め入り幕府軍と戦った。

円心は、播磨に六波羅軍を迎え討ってこれを撃破、この戦勝で足利や新田が幕府を見限る切欠を作っている。

赤松円心、則祐(そくゆう)親子は、幕府討伐に戦功を上げたが、護良親王が後醍醐天皇によって鎌倉に幽閉された後は後醍醐天皇を見限り、後醍醐天皇と対立する足利尊氏側に与力する。

後醍醐天皇側の新田義貞軍は、五十日間に渡って赤松円心の「白旗城」を攻めたが結局攻め切れず、後醍醐天皇側吉野落ちの要因にもなっている。

これ以後、朝廷の権威は失墜し、武士の力は武士でしか押さえられなく成って行く。


足利尊氏(あしかがたかうじ)は後醍醐天皇を吉野に追いやり、室町幕府を建てた人物である。

鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が得意絶頂で「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、護良親王を排除した事から武力の後ろ盾の要を失い、武士を軽んじた事と合いまって、わずか二年で失敗する事になってしまった。

後醍醐天皇は、倒幕に協力した武士達よりも周りの側近や公家達を厚く処遇し、相変わらず阿野簾子との性交に勤(いそ)しむばかりで、武士達の反感を買ったのである。

帝の地位をもってすれば、誰もが「自分の言う事を聞く」と、判断を誤っていたのだ。

所が、武士達の立場にすると鎌倉幕府で一度手にした特権を、みすみす公家中心の政権に渡す訳などない。

そうした武士達の不満に押されて、足利尊氏が政権奪取の野望を抱き、叛旗を翻し、鎌倉に勝手に幕府を開こうとして、後醍醐天皇と対立する。

多くの主君は戦の前線に出る事は無く、第一線で命がけで戦うのは部下である。

まぁ今日の現代に於ける企業戦争でも同様で、前線に立つのは現場の人間である。

そこで大事なのは主君と現場の意志の疎通であるが、これが「良いから言う事を聞け」と主君の一方的な意志になり過ぎると目先は良くても永い間に疎通が動脈硬化を起こしたり血栓で塞がったりする。

後醍醐天皇は強い天皇の在り方を標榜する余り、護良(もりなが)親王や足利尊氏(あしかがたかうじ)を敵にする愚を犯した事になる。


室町幕府の初代征夷大将軍は・足利尊氏(あしかがたかうじ)は幼少の頃又太郎と名乗っていた。

足利又太郎(後の尊氏)は、鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏の次男として生まれる。

長男・足利高義がいたが、早世した為足利又太郎(後の尊氏)が家督を相続する事となった。

足利氏は河内源氏の足利氏嫡流家で武家の名門だが、北条政子以来の鎌倉幕府執権・北条家(平氏)の御家人として風下に居た。

元服当初、執権・北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗って居る。

しかし足利氏嫡流家としては、元々武家の名門として天下取りは悲願だった。

北条執権家とは浅からぬ縁(えにし)が在ったが、後醍醐帝の倒幕挙兵は千載一遇のチャンスだった。

北条執権家の命を受け西国の討幕勢力を鎮圧する為に名越高家とともに上洛した足利高氏は、天皇方に付く事を決意して所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。

鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐帝の信任厚く、天皇の諱・尊治から御一字を賜り高氏改め尊氏と改名する。

後醍醐帝の「建武の親政」に在って、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられた足利尊氏は、三十ヶ所の所領を与えられ武門の最上位に立っていた。

しかし足利尊氏は、何故か「建武の親政」に中央における主なポストを得ていない。

いずれにしても、足利尊氏(あしかがたかうじ)が思い描いて居たのは、征夷大将軍に就任して自らの幕府を起こす天下取りだった。

尊氏が鎌倉幕府・北条執権家から寝返って後醍醐天皇に味方したのは、本音は「北条執権家に取って代わるチャンス」と見たからだ。

所が鎌倉幕府を倒してみると、尊氏の思惑は外れて後醍醐天皇は周囲の公家を重用して親政を始めてしまう。

これには後醍醐帝の公家政治の意志が働いたのか、それとも足利尊氏に最初から別の狙い「足利幕府成立」が在ったのかは謎である。



足利尊氏は、既に覚醒していた。

そうさせたのは、抑え切れない皇胤氏族の血だった。

事情が変われば、態度が変わるのが培った武士の気構えである。

チャンスがあれば、もう「天下を掌握したい」と、荒ぶる気持ちを抑え切れない。

後醍醐帝を奉じて戦ったのに「報われて居無い」と感じている武将も多かった。

命賭けの権力志向と所領獲得の執念は、氏族に生まれ育った者の唯一の生き様だった。



千三百三十四年(建武元年)、後醍醐天皇の元弘の乱(げんこうのらん)に拠って鎌倉幕府が滅亡した後に「建武政権」が成立した。

中先代の乱(なかせんだいのらん)はその翌年の千三百三十五年(建武二年)七月、鎌倉幕府第十四代執権・北条高時の遺児・時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府復興の為に挙兵した反乱を起弧す。

この反乱、先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配した事から「中先代の乱」と呼ばれている。

天皇親政である建武の新政が開始されると、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子・成良親王を長とし尊氏の弟・足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。

しかし後醍醐天皇が武家を軽んじて公家を重用した為に建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。

千三百三十五年(建武二年)には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家の西園寺公宗や日野氏らが京都に潜伏していた北条高時の弟・北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。

西園寺公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、北条泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。

北条氏の旧領である信濃に潜伏していた第十四代執権・北条高時の次男・時行は、旧譜代の諏訪頼重や名門豪族の滋野氏(しげのうじ)らに擁立されて挙兵し、時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。

北条時行勢の保科氏や四ノ宮氏らは青沼合戦に於いて信濃守護小笠原貞宗を襲撃し千曲川沿いを転戦し、この間に諏訪氏(すわうじ)、滋野氏(しげのうじ)らは信濃国衙(しなのこくが)を焼き討ち襲撃して国司(清原真人某)を自害させたあと、武蔵国へ入り鎌倉へ進軍する。

時行軍は女影原(埼玉県日高市)や小手指原(埼玉県所沢市)、井手の沢(東京都町田市)など各地で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍勢を撃破、鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。

足利直義は幼い尊氏の子・義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。

その時鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)が幽閉されていたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王(もりながしんのう)を殺害させている。

北条時行勢は逃げる足利直義を駿河国安倍川の西、手越河原で撃破し敗走させると鎌倉を一時支配した。

足利直義は三河国に駐在し、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。

北条時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請する。

しかし足利尊氏を総追捕使と征夷大将軍に任ずれば武家政権が成立し、天皇親政が崩壊する為に後醍醐天皇はその要請を拒否する。

足利尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。

足利尊氏は弟・直義と合流し、遠江国橋本、小夜の中山、相模国相模川など各所で北条時行勢を連破し、時行は鎌倉を保つこと二十日程度で逃亡し、諏訪頼重らは自害する。

北条時行に戦勝した足利尊氏は、鎌倉に於いて乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配したり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する。

北条時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田氏や北畠顕家の軍などに属して足利方と戦うが、千三百五十二年(正平七年/文和元年)に足利方に捕縛され、翌年、鎌倉に於いて処刑される。


後醍醐帝と足利尊氏の暗闘はこの中先代の乱(なかせんだいのらん)から始まっていた。

その時足利尊氏が何を感じているのかは、誰にも判らなかった。

只、尊氏にそれを決意させた事は、後醍醐帝に慢心と言う隙が在ったのかも知れない。

そして全ては、足利家としての悲願が尊氏の腹の中にしまわれて居た為の周到な閃(ひらめ)きだったのかも知れない。

勿論恐れ多いから、足利尊氏には後醍醐帝の命まで短める気は無い。

後醍醐帝が建武政権を放棄し、自分(尊氏)を将軍職に据えれば事足りる事だった。

尊氏に天下取りの勝算に確信が在った訳では無いが、武門の第一人者に躍り出て大軍を擁していた事は事実だった。

幸い、唯一武門を統一出来る護良(もりなが)親王は鎌倉に幽閉してある。

そして譲良親王失脚の後、醍醐帝の主力である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)を奉じて奥州の平定に向かい、都は留守だった。

「今なら我らに味方する者も多い筈だ。」

今は、足利尊氏が後醍醐天皇を退位させ天下を取るには好都合な環境で、とにかく後醍醐天皇の武士を冷遇した「建武の親政」に鎌倉倒幕に加勢した武士達の不満が募っていた。

奇妙な事に、天皇を蔑(ないがし)ろにする者は天下の大逆臣であるが、次の天皇を創ってしまえばその天皇にとっては恩義在る大忠臣に成り、逆臣の評価はかき消えてしまう。

そしてその天皇に代わるべき資格の皇族は、親王や王を含めて常に幾通りかの皇統が用意されていた時代だった。

天子様が唯一絶対のものではなく、血統が適格者であれば「すげ替え得る事」は歴史が証明し、現に鎌倉幕府主導の「皇室分断制度」で大覚寺統と持明院統が交互に即位する約束に成っていた事が、火種としてくすぶっている。

持明院統から天皇を出し、即位させれば事足りるのである。

足利尊氏の権力への執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男の、怖気付(おじけつ)いては居られない恰好の機会だった。



後醍醐帝は不機嫌だった。

いや、むしろ想像すらしていなかった足利尊氏の反逆に動揺していた。

後醍醐帝は自らの威光を過信していた。

御所に在って帝王学を学んだ者の慢心で、武士の不満など自らの一言で押し通るくらいに考えていた。

鎌倉倒幕も「自らの威光在っての事」と、己の手柄に思って帝は加勢した武士達の努力に意を払わない。

部下の働きに恩義を感じない権力者は、いずれ部下に裏切られる。

リーダーに有り勝ちな間違いは、部下の働きまでも「己のリーダーシップの成果」と自惚れる事である。

それは究極の世間知らずだが、帝位とはそう言うものかも知れない。

いずれにしても後醍醐天皇は「武士の気持ち」を勘違いしていた。


これは現代に通じる良く在る過(あやま)ちだが、後醍醐天皇と足利尊氏の勝敗を分けた主因を端的に言う。

部下は指導者が偉いから付いて行くのでは無く、「食わしてくれる」から付いて行くのである。

経営者も、政治家もここに心しなければ部下や大衆は付いて来ない。

経営者や政治家が、後醍醐天皇のように「自分が偉い」と自惚れて一部の者だけの利を図れば多くの敵を作り、その指導力は短命に終るのである。

帝の気持ちとは違い武士達の本心では、内乱は鎌倉幕府の権威失墜に乗じた一種の出世のチャンスだった。

彼らが朝廷の役割として求めていたのは、鎌倉期と同じく武力を持って他を圧した本当の権力者に「権威」を与え、「秩序」を形成する為に武力を持たず官位の任命権だけを保有して自分達武士に「権威」与える役割を担い続けて欲しかっただけである。

後醍醐天皇は、氏族の基本的な【左脳域】の感性に、注意を払わなかった。

実はこの【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っているから、征服部族である氏族の基本的な感性は、「利を戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考である。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。

後醍醐天皇は、詰まる所「神の威光で統治する」と言う【右脳域】の感性を「建前」そのままに信じ過ぎて、武門の氏族の感性が【左脳域】の損得勘定を優先する事に気が付かなかったのである。

同舟異夢(同じ仲間に居るがそれぞれに思う所が違う)の組織には求心力が必要で、この国では永い事「お血筋」が求心力の条件に成って来た。

後醍醐天皇にお味方した武将達も典型的な同舟異夢で、大半がこの動乱を武門としての「出世の機会」と捉えていた。

勿論、後醍醐天皇にはこれ以上申し分ない「お血筋」が在ったのだが、帝のお血筋だけで「求心力が保たれる」と思い上がった後醍醐天皇に、従う者の気持ちを汲む度量がなかったのである。

キツイ言い方をすれば「世情に疎(うと)い」と言う事で、案外現代の二世〜三世議員と勝ち組み官僚が「弱者の痛みが判らない」のと同じかも知れない。


足利尊氏は考えていた。

あんな独り善がりの帝では、命をかけた我々武士が報われぬ。

どなたか別の帝をお立てして、後醍醐帝には早々に降りていただかねばならない。

厄介なのは新田と楠木か?

問題は吉野の山伏どもじゃ、何とも手が付けられぬ。

足利尊氏の脳裏に浮かぶのは、「それが正しい選択だろうか?」と言う自問自答の思いである。

相手は老獪な後醍醐帝で、お味方する武将も多いから情勢はけして楽観出来ない。

「この戦、長引くやも知れぬ。」

それでも尊氏は、あの身勝手な後醍醐帝にはもう付いては行けなかった。

思いは駆け巡った。
そして決めた。

「勝てば、何とでも理屈はつけられる。」と、尊氏は呟いた。


後醍醐帝は、目の前で信じられない光景を見ていた。

足利尊氏の下に続々と武将が終結していた。

明らかに帝の読み違いである。

彼らは鎌倉幕府の倒幕にこそ力を貸したが、武士の利権までも放棄をする気はなかった。

むしろ事に乗じて、現状より自分の地位が向上する事が狙いだった。

そんな損得ずくの彼らに、帝の威光などと言う「建前」が通用する訳がない。

そもそも足利尊氏が反旗を翻(ひるがえ)すなど、後醍醐天皇には想定外だった。

帝の権威に自惚れていたから、考えも着かなかったのだ。

「おのれ、欲に駆られた悪漢共め!いずれ天罰を誅してくれようぞ。」

後醍醐天皇は、この状況を信じられないながらも、自らの勝利を信じた。

まだ、多くの忠臣が残っていたからである。

この時、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞や北畠顕家が天皇の命により足利尊氏討伐に立ち上がる。

この時代、彼らの行動を突き動かしていたのは使命感である。

厳密に言うと、征服者氏族の使命感で今の感覚ではとても理解はし難い。

肝心なのは、「皇統に自分の氏族がどう絡むか」と言う事だった。

言わば血の論理である。

この血の論理が、後の昭和二十年の敗戦まで続く。

いや、まかり間違うと、形を変えて今(現代)でも続いているのかも知れない。


後醍醐天皇に与力したのは仏教界だけではない。

鎌倉時代末期の渡会家行(わたらいいえゆき)は、伊勢神道の大成者で、後宇多天皇、後醍醐天皇親子に自書の神道思想を表した書物を叡覧に供された事や、北畠親房との親交から神領民を蔵人所の「供御人」として組織し、北畠軍の中核として、一貫して南朝方に加担した。

この渡会(わたらい)氏は、伊勢国・渡会郡より起こった伊勢神宮の外宮の世襲神官の家柄である。

正確に言うと「渡会郡より起こった」と言うよりも、渡会(わたらい)氏の名から郡名が付けられた様で、初は磯部氏を称していた渡会氏が奈良期に「渡相姓」を下賜され、伊勢国の伊勢神宮の神領を伊勢国渡会郡とする郡名が成立した。

渡会郡は伊勢神宮の神領地で、伊勢外宮の古名が「渡会の宮」と呼ばれていた所から、渡会氏は「神官領主(神官荘園主)」だと考えられる。

この最も初期の鎮守氏上(氏神)氏族に近い形の「神官領主(神官荘園主)」として有名なのは、豊前国国・宇佐神宮の宇佐氏や信濃国・諏訪大社の諏訪氏(戦国大名)などが直ぐに浮かんで来るが、勿論神官領主(神官荘園主)も武装兵力を有した武門の領主の一面を兼ね備えていた。


名門宇多源氏・佐々木流京極氏のその後であるが、鎌倉時代末期に当主となった京極導誉(きょうごくどうよ/佐々木高氏)は、朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが元弘の乱(げんこうのらん)が起こる。

千三百三十三年(元弘三年)に後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げると京極導誉(佐々木高氏)はそれに寄与し、建武の新政に訴訟機関・雑訴決断所(裁判所)の奉行人を任じて加わる。

所が、近臣公家ばかりを優遇する後醍醐帝の政策は武士層の支持を集められず、失望した武士層が新政に対して各地で反乱を起こす事態となる。

千三百三十五年(建武二年)、北条時行らが中先代の乱を起こし鎌倉を占拠すると、京極導誉(きょうごくどうよ)は足利尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲し勝利に寄与する。

足利尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せた為、朝廷が新田義貞(にったよしさだ)を総大将とし、尊良親王(たかながしんのう)を奉じた足利尊氏討伐軍を発する。

朝廷が討伐軍を発すると、導誉(どうよ)は尊氏の弟・直義を大将とする尊氏軍として義貞軍を矢作川で迎え討ち戦うが敗れ、手超河原では弟の貞満も討たれ一旦は義貞に下って降伏、朝廷方に加わる。

所が、尊氏が三島に軍を集結させ、大軍率いて箱根峠に進み布陣する。

主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となり、尊氏方が終始押し気味の展開と成って朝廷方から大友貞載、塩谷高貞など寝返る武将が続出する。

退路を断たれる恐れが出た朝廷方総大将・新田義貞が軍を撤退させるに及んで京極導誉(きょうごくどうよ)が寝返り、再び尊氏方に回った為、朝廷方は総崩れとなり敗走した。


三年後の千三百三十八年(延元三年/暦応元年)後醍醐天皇らを吉野に追った足利尊氏が、京で北朝の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が開かれ、南北両朝並立時代に入る。

箱根の戦い(竹ノ下の戦い)で尊氏方として戦い勝利した京極導誉(きょうごくどうよ)は、その功績を評され引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の六ヵ国の守護を務める有力者となる。

京極導誉(きょうごくどうよ)は足利幕府に於いて要職に着き、対南朝方との戦にも参加するなどして活躍し、守護大名の抗争を調停し、一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経、斯波義将親子の失脚には積極的に関与するなど影響力を行使している。

足利尊氏に仕えた京極導誉(きょうごくどうよ/佐々木高氏)の活躍により京極氏は室町時代、出雲・隠岐・飛騨の守護を代々つとめ四職(侍所の長官になれる家)の一つとして繁栄したが、後の応仁の乱の後は家督争いや戦国大名・浅井氏の台頭により衰退した。


足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、後醍醐天皇に忠誠を誓った新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め寄せて来る。

足利軍は新田軍を箱根・竹ノ下で迎え撃ち、これを破って都に進軍する。

都では一時後醍醐天皇を比叡山へ追いやったが、奥州から上洛した村上源氏流・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が足利軍を迎え撃ち、戦況は北畠軍優勢に推移する中、体制を整え直した新田義貞軍や楠木正成(くすのきまさしげ)軍も合流して足利軍は防戦一方となる。

撤退を余儀なくされるが鎌倉へは戻れず、足利尊氏は止むなく都を放棄して西国方面へ落ち延び、一時九州まで追い落されて行く。

この北畠顕家(きたばたけあきいえ)に敗れて西国に落ち延びた足利尊氏は、生まれて始めての死の恐怖を味わっている。

それ故に、西国に落ち延びた足利尊氏は、かの地で慎重に周到な準備を進めて都に攻め戻って来た。

西国武士の支持を集めた足利軍は大軍に膨れ上がっていて、北畠、新田、楠木の連合軍も各地で防戦するが今度は戦況不利で支え切れず、尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り都を再び制圧した。


湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、九州で勢力を盛り返して東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃つ後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に於いて行われた合戦である。

足利尊氏は水軍を率いて瀬戸内海を東上、弟・足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進んで来る。

新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備え、援軍として後醍醐天皇に差し向けられた楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。

合戦が始まると足利方・少弐頼尚(しょうによりなお/よりひさ・九州の有力武将)は和田岬の新田軍に側面から攻撃を賭け、同じく足利方・斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回る。

また、海路を東進して来た足利方・細川定禅が生田の森付近(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、二本松に布陣していた後醍醐方・新田義貞が退路を絶たれる危険を感じて東走した為、後醍醐方・楠木正成の軍は敵中に孤立してしまう。

楠木正成は窮地に陥ったが、圧倒的に兵力に勝る足利軍相手にもはや手の打ち様が無かった。

正直な所楠木正成は「河内の悪党」と呼ばれ、鎌倉幕府の北条執権家を篭城戦で手こずらせた知将だが、それは山岳戦での事で平地戦では奇策も通用しない。

瀬戸内海を東上して来た足利尊氏の本隊は後醍醐方・新田義貞が撤退した和田岬から悠々と上陸し、取り残された楠木正成軍は弟の楠木正季ら一族とともに奮戦するも軍勢は壊滅状態となり自害する。

東走した後醍醐方・新田義貞の軍勢は形勢不利と見て楠木正成軍を見捨てて都に撤退、湊川の戦いは足利方の圧勝に終わる。

その後足利尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れ、一旦は和議に応じた後醍醐天皇は光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲って武家政権の成立を尊氏に許した。

だが、あきらめ切れず再起を図る後醍醐天皇は都を脱して御座を吉野に遷し、「三種の神器の本物はこちらに在り」と宣言、再び味方を結集して足利尊氏に武力対抗を開始する。


この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなが)親王は不運だった。

大塔宮護良親王は土牢に在って、掛け違った父帝との感情を思っていた。

そして護良親王は、仏に問いかけた。

「この悲運は、課せられた試練なのか?」

人間、自分が切り開ける運命は精々百の内の十くらいで、運の良し悪しを別にして後の九十は周りが造るものである。

帝の皇子に生まれれば自分らしく生きたくても、思い通りに行かないからこそ人生は面白く、また哀しい。

天台座主まで勤めた自分には、悟る物の無い事を知って神も仏も偽りの存在に思えた。

しかしこの土牢から、自分が生きて出られないとは思っても見なかった。

かならず、父帝の「赦しがあるもの」と信じていた。

護良親王は、「いずれ父帝の勘気が解ける」と期待していた。

しかしその便りは一向に届かない。

「父上、何故に我心通ぜぬ。」

父帝に愛されぬ護良親王は、父帝の理不尽な扱いに天を仰いで号泣した。


光は影に支えられて初めて輝く。

影の存在なくして、光は際立たない。

しかし大概の所、支えられた光の方は勝手なもので、「影」の恩を忘れる間違いを犯す。

影の定めとはこの様に不条理なものである。

報われるのは調子が良い「ご機嫌取りに長けた者」だけで、純粋な影ほど「報われないもの」と最初から決まっているのかも知れない。


歳月と言うものは、人間の思惑などは関わりも無く流れて行くもので、時には残酷でさえある。

人間の思惑などは関わりも無く歳月は流れ、ふと気が付くと時代から取り残される事も多い。

晩年を迎え、立ち止まって人生を振り返るとこの血生臭い自分の一生は何の為だったのか?

暗たんたる思いが湧き上がって来る。

信じるが故に走り続けた結果が、この有様だった。

実の処、護良親王(もりながしんのう)の日常が安らぎの中に在ったのは、この土牢に送られてからの、南の方との僅かな日々だった。

最早、自分の役目は、帝の邪魔に成らない事だけだった。

大塔宮(おおとうのみや)譲良親王(もりながしんのう)の寵愛深い「宮や入り・妾(側室)」雛鶴姫(ひなずるひめ/南の方)は藤原保藤の娘だった。

還俗した護良親王(もりながしんのう)は北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした為、雛鶴姫(ひなずるひめ/南の方)は側室だった。

氏社会の男女は今のように自由に正夫婦には成れなかったが、護良親王と雛鶴姫(南の方)のような若い恋人同士には、身分違いでも妾(側室)の道は在った。

楠木正成(くすのきまさしげ)の兵に下致(げち)を下し、父帝と作戦を練っていた。

突然、その先の情景が無くなった。

護良(もりなが)親王は続きを知りたかったが、夢の続きなど見れるものではなかった。

到底忘れられるものではない。

護良(もりなが)親王が夢に見るのは、父・後醍醐天皇だった。

不思議な事に、夢の中の後醍醐天皇はいつも上機嫌で笑っていた。

見る夢は、過ぎし時の熱く愛しい日々だった。

夢の中で、自分は父・後醍醐を守って、見えない敵と必死に戦っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい現実が護良(もりなが)親王の胸を過ぎる。

自分は、間違いなく未だ父を愛していた。

「父上、何故に我(わ)をお怒り遊ばしてごじゃる。」

大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王は、しばし寝顔を眺めた後、南(の方)の頬を軽く撫でて見た。

夢の中なのか、南は吐息の様な声を発して寝返りを打った。

親王は、褥(しとね)の傍らに身を横たえて優しい寝息を立てている南(の方)が、狂惜しく愛しかった。その寝顔さえ、かけがえの無い宝に思えた。

それは、間違いなく愛だった。

愛する者への思いは胸中複雑で、一口で「愛」と言うが、愛はそう簡単なものではない。

実は愛情にも、直感的なものと時間をかけて育まれたものとがある。

勿論それを、理屈で意識した訳ではないが、二人の愛は時間をかけたものであり、揺るぎない物に育っていた。

だからこそ、雛鶴姫(南の方)は命をかけて護良(もりなが)親王に同行し、一途に鎌倉まで付いて来た。

この時代、「妻問婚(つまどえこん・男が妻の家に通う)時代」が終焉を迎え、「一夫一婦制」が定着して武士を含む貴族社会の恋愛は、歌や文(ふみ)のやり取りから始まる。

しかし、実は恋愛と結婚は別にするのが普通で、結婚となると家と家の結びつきが第一となる。

それで、本命の恋人が愛人(愛妾)に収まる形態をとる事になる。

それは、当時の貴族(氏族)社会の一般的な合意だった。

何しろ家と家の結びつきが第一の婚姻だから、親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面何て事は普通である。

現代感覚の個人尊重主義では「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為している。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

個人主義が蔓延している現代社会人には、個人の意志を無視する誓約(うけい)の概念を理解する事は難しい。

本音で言えば、自分が可愛いから他人(ひと)の愉快の為に性交を強いられて不愉快な思いをするのは御免(ごめん)である。

しかしそれも自分が可愛いからの気分の問題で、もしかしたらその不愉快はネガティブな思い込みに過ぎないのかも知れない。

同じ自分が可愛いからを置き換えて、「家門や自分の出世の為の目出度い事」とポジティブ考えれば、政略婚、献上婚を受け入れたり稚児小姓に上がって衆道(男色)の性交を強いられても「不愉快ではない」と納得が出来る。

要は価値観の問題で、氏族社会では一族一家が一蓮托生の群れ社会だったから、血筋や家門の価値観を高める為に女性は重要な役割を担っていたのである。


そう考えると、木曾義仲の巴御前や源義経の静御前の時代らしい立場が見えて来る。

後の、大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)に於ける「南の方」も、その類である。

この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

それ故男女の営みは、身分をかなぐり捨てた激しいものになる。

南(の方)は譲良親王(もりながしんのう)を慕い、愛を貫く為に自ら望んで鎌倉まで来ていた。

もはや親王を慰めるものは、南(の方)との狂惜しくも愛しい嵐の様なひと時をおいて他に無かった。

その頃も、牢の外は日々情勢が移り変わり、鎌倉の足利勢は敗戦を繰り返して後退を繰り返していた。

鎌倉を敗走する処まで追い詰められた足利直義は、どさくさにまぎれて哀れ大塔宮・護良親王(もりながしんのう)を斬殺するに及ぶ。

直義に討たれる直前、父・後醍醐帝と足利家が争っている事を、幽閉されて居た護良親王(もりながしんのう)は漸く知った。


護良(もりなが)親王二十七歳の或る日、足利直義が、物々しい戦仕度の出で立ちで土牢に現れた。

入ると直ぐ、直義は家臣・淵辺義博に「宮のお命締めまいらせ。」と命じた。

淵辺は抜刀し「宮、お恨み召さるな、恐れながら致し仕方なき仕儀となりまして、お命、締めまいらせる。」と言葉を発して切りかかった。

鎌倉に捕らえられて以来、東光寺の土牢に在って護良(もりなが)親王は何も聞かされてはいなかった。

「されば、我がお傍に居さえすれば・・・」

嘆きはあったが、父を恨む気持ちはなかった。

「結局自分の運命がそれまでだったのだろう」と、護良(もりなが)親王は悟っていた。

護良親王(もりなが)の悲劇は、源義経のそれと似て、嫉妬深い身内に拠る理不尽なものだった。

この国は開闢(かいびゃく)以来戦闘的な氏族支配の国で、必ず勝者と敗者が出る。

大概の所、敗者は「建前」を信じてまともに生きて来た純粋な心の持ち主である。

現実は残酷で、純粋な心の持ち主など生き残れないから誉められる事は無い。

それでは「勝者は?」と言うと、「建前」と「本音」を上手く使い分けるいささかズルイ輩である。

矛盾する事に、政治も経済活動も宗教も、そのズルイ輩が「利」を得るように世の中が出来ている。

それは現代にも通ずるが、つまり勝者とはそう言う信用なら無い輩でなければ成り得無いのが道理である。

源義経もそうだったが、大塔宮護良親王は哀れなくらい純粋な心の持ち主だった。

純粋な心の彼らは、初めから生き残れない運命だったのかも知れない。


大塔宮(おおとうのみや)・護良親王(もりながしんのう)は、報われない正義を貫き通して短い生涯を終えた。

時は巡り、人は変わっても歴史は繰り返される。

残念ながら護良(もりなが)親王は、違う世界が有る事など思いもよらなかった。

この時代、産まれに拠って生き方が定まってしまうのである。

護良親王(もりなが)もまた、後醍醐帝の皇子(みこ)に生まれた事で、哀しいかな義経同様に運命(さだめ)に立ち向かう気力を幼い頃から持たされて育っていた。

護良(もりなが)親王は、皇統に生まれて来た者として最後まで見苦しい態度はしなかった。

たとえ自分の居場所が無くても、それが、父の名誉を守るただ一つの皇子として出来る事だった。

傍から見れば不条理な事でも、父との絆は守りきった。

護良(もりなが)親王は、その純真さ故の「立派な生涯を送った」と言えるのかも知れない。

直義の家臣・淵辺義博に殺された護良親王の遺骸は、東光寺の土牢に一時そのまま放置される。

だが、都より親王に従い身の周りの世話をしていた雛鶴姫(南の方、或いは竹原滋子とも言う)と呼ばれる寵姫に、変わり果てた御首だけを救い出されて、伊豆の国木瀬川の畔まで逃れて来たので有る。

南の方、或いは竹原滋子とも呼ばれた藤原雛鶴(ふじわらのひなずる)は、良く正妻の北畠(源)親房の娘・北畠源立花(きたばたけみなもとのたちばな/立花姫)と混同されるが、藤原雛鶴は大塔宮・譲良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)が最も愛した妾室(側室)だったのである。


大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)は、親王でありながら、源義経と同様に血の宿命に拠る「悲劇の武将」だった。

護良親王(もりながしんのう)の場合は、後醍醐帝の第一皇子(だいいちみこ)に産まれた事が、その悲劇を背負う宿命の全てだった。

その血筋故に盟主と仰がれ、避ける事も出来ずに立場を全うするのが、氏族に産まれた者の定めである。

あたかも、歴史物語に登場する人物達が数奇な運命に翻弄される事にこそ、彼ら一族に産まれた者が、知らずに払う代償なのかも知れない。


大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)は、父・後醍醐帝に愛されなかった人物である。

人間何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。

高貴な生まれだからと言って、人生何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

親王は、心を開かない父帝に生涯心痛めながらも純粋に父帝を慕っていた。

それは、後醍醐帝の第一皇子として育てられた無償の愛だった。

護良親王(もりながしんのう)は、武をもって鎌倉幕府から父(後醍醐帝)が権力奪取する事に尽くし、帝の「建武の親政」を成立されながら、父(後醍醐帝)に疎(うと)まれて足利方・鎌倉に入牢、惨殺されている。

護良(もりなが)親王についてもその死を悼んでか、源義経同様に東北地方に逃れた生存説が存在し、親王の妃立花姫・陸良親王(護良親王の子・興良親王とも)・華蔵姫(親王の娘)寵愛深い雛鶴姫(南の方)及びその従者に関しては様々な消息伝説が存在する。


後醍醐天皇と二条為世の娘・為子との間には二人の親王が居て、兄は尊良親王(たかながしんのう)、弟は宗良親王(むねながしんのう)である。

尊良親王(たかながしんのう)は元弘の乱に父・後醍醐帝と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ土佐国に流された。

しかし尊良親王(たかながしんのう)は土佐を脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還している。

千三百三十五年(建武二年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いるも敗退した。

この時は、義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥州平定に任じていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が奥州平定の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京する。

上京した顕家(あきいえ)の奥州軍は、新田義貞、楠木正成、名和長年の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏(たかうじ)は九州へと落ち延びる。

翌年、九州に落ちた尊氏(たかうじ)が力を盛り返して上洛して来ると、尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)と共に北陸に逃れた。

しかし千三百三十七年(延元二年/建武五年)三月六日、尊良親王(たかながしんのう)が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る。

尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)の子・新田義顕(にったよしあき)と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、三月六日に義顕(よしあき)や他の将兵と共に自害した。

自害の寸前、義顕(よしあき)は尊良親王(たかながしんのう)に落ち延びる事を勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げる事はできないと述べて拒絶したと伝えられる。


後醍醐天皇の皇子で、金ヶ崎の戦いに敗れて散った尊良親王(たかながしんのう)の弟に宗良親王(むねながしんのう)が居る。

千三百三十年(元徳二年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。

父・後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となる。

しかし足利尊氏が反旗を翻し、建武の新政が崩壊して南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良(むねなが)を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。

千三百三十八年(暦応元年/延元三年)には、義良親王(のりながしんのう)と伴に北畠親房(きたばたけちかふさ)に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとする。

しかし宗良親王(むねながしんのう)が乗船した船が、暴風に遭って座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)のもとに身を寄せる

もう一方の義良親王(のりながしんのう)の船は、その暴風で伊勢に漂着し船団は離散している。

千三百四十年(暦応三年、興国元年)に足利方の高師泰(こうのもろやす)・仁木義長(にっきよしなが)らに攻められて井伊谷城が落城するも宗良親王(むねながしんのう)は脱出する。

余談だが、この井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)の後裔が徳川家康の寵愛を得て、彦根藩・井伊家を再興した井伊直政(いいなおまさ)に、そして幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ)へと繋がって行く。

その後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した記録が在る。

千三百四十四年(興国五年/康永三年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族・香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。

南北朝時に「信濃宮」と呼ばれた宗良親王(むねながしんのう)を奉じて内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、三十年に渡って信濃の地に庇護した伊那郡の豪族・香坂高宗(こうさかたかむね)も南朝の忠臣である。

香坂高宗(こうさかたかむね)は信濃望月氏の一族とされ、信濃望月氏一族の多くが、信濃宮・宗良親王(むねながしんのう)に与して南朝方として戦っている。



後醍醐天皇の腹心・村上源氏流れの北畠顕家(きたばたけあきいえ) は元々公家の家柄であるが、鎌倉時代から南北朝を経て室町時代に武士化した元公家も結構多い。

北畠家(きたばたけけ)は公家の一家で、後に伊勢の戦国大名ともなった氏族である。

村上天皇を始祖とする村上源氏の流れを汲む名門で、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移った事から「北畠」を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えた。

鎌倉時代末期に北畠親房が出て、後醍醐天皇の「建武の新政」を支え、後醍醐帝没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す「神皇正統記」を記した。

北畠親房(きたばたけちかふさ)の長男・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、父とともに義良親王(のりながしんのう/後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴た。

その奥州鎮定の途中に足利尊氏が建武政権から離反した為、奥州から兵を率いて尊氏を京都から追い、以後、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。


朝廷(南朝)側の北畠顕家 は、北畠親房を父に持ち村上源氏の流れをくむ公家・北畠家の当主だったが、北畠家は武門でもあった。

縁戚でもある後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を決意して兵を上げた為、その去就が決まった。

後醍醐天皇に近侍し、建武の新政を補佐していた北畠親房の長男が北畠顕家(きたばたけあきいえ) である。

この時から、北畠顕家(きたばたけあきいえ) が足利尊氏の最大のライバルに成る。

鎌倉幕府の倒幕に成功して千三百三十四年(建武元年)建武の新政が成ると、北畠顕家(きたばたけあきいえ)はまだ後醍醐帝の威光が届いていなかった奥州(東北地方)経営の為に従三位陸奥守を拝命する。

後醍醐天皇の皇子である義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)を奉じ、父・親房とともに陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に下向、その年(建武元年)従二位に再び叙任し翌・建武二年には鎮守府将軍に任ぜられる。

所が、足利尊氏が鎌倉にて後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し軍を率いて都に迫った為、顕家(あきいえ)は奥州の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京し、新田義貞、楠木正成、名和長年の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる。

顕家(あきいえ)はこの戦勝の功に拠り権中納言に任官するも、留守中に奥州で蜂起した足利方を掃討する為に再び奥州へ戻っている。

この留守中に九州へ落ち延びた足利尊氏が西国武将を結集して勢力を盛り返し、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で新田義貞・楠木正成の両軍を破り都を制圧して後醍醐天皇を吉野に追いやってしまう。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は千三百三十八年(建武五年)、義良親王(のりながしんのう)を奉じて再び西上して足利方と戦い鎌倉を攻略する。

その勢いに乗じて美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で足利方に勝利したものの、足利方主力が近江国から美濃に入った事を知った顕家は度重なる戦闘で兵力の減少や疲弊により京攻略を諦めざるを得なくなる。

顕家(あきいえ)は止む負えず吉野の背後である伊勢に後退し、次いで伊賀に進出した。

その後も顕家(あきいえ)は奈良などを中心に高師直の大軍を相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが遂に和泉国堺浦石津に追い詰められる。

足利方に包囲されて尚も奮戦したものの、予定していた味方の援軍到着遅延の為に高師直軍との戦いでは劣勢に回り北畠全軍が潰走し、顕家(あきいえ)は共廻り等二百騎を従え最後の抵抗を試みるが落馬して討ち取られてしまう。

この後醍醐帝の為に獅子奮迅の活躍を見せた北畠顕家(きたばたけあきいえ) 、討ち死にした時の年齢は「まだ僅かに二十一歳だった」と伝えられている。


離反した足利尊氏は、翌年、京都に於いて朝廷(南朝)側の北畠顕家(きたばたけあきいえ) と戦い敗れて敗走する。

尊氏を退けた朝廷(南朝)側・後醍醐天皇方が、一時は日本全土を掌握したかに思えた。

一旦北畠顕家(きたばたけあきいえ) に敗れ、西国方面に敗走した足利尊氏だったが、その後、九州落ちて九州、中国地方の武士の協力を得、勢力を盛り返した足利尊氏は持明院統の光巌上皇(持明院統・初代南朝天皇)の院宣(いんぜん)を掲げて、京に攻め上る。

それに関東(坂東・ばんどう)武士も呼応して、後醍醐天皇側は挟み撃ち状態に陥ったのである。

足利―持明院統―真言宗右派の利害が一致、連合が成立したのだ。

足利尊氏が湊川の戦いに於いて後醍醐天皇方の新田義貞、楠木正成らを撃破して後醍醐方に勝利し、入京(京に入った)した。

建武三年(千三百三十六年)に尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇は味方の台密修験の本山、比叡山延暦寺に逃走する。

後醍醐から三種の神器を接収した足利尊氏は後伏見天皇第二皇子・豊仁親王(ゆたひとしんのう)を、光厳上皇の院宣をもって光明天皇として即位させて京都に武家政権(室町幕府)を成立させる。

両軍対峙した湊川の戦、更に敷山の戦いに敗れ、後醍醐天皇(南朝)は、尊氏の接収した三種の神器は偽者と宣言、朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れる。

だが、足利尊氏は豊仁(ゆたひと)親王を光明(光明)天皇(北朝第二代)とした為に、南北両朝が並立する。

後醍醐天皇(南朝)は、多数の親王を東北や九州に派兵して南朝(宮方)の橋頭堡を置き、再び味方に着いた新田義貞(にったよしさだ)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、楠木正成(くすのきまさしげ)らを畿内、北陸などに南朝(宮方)勢力の拡大を命じた。

鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将・脇屋義助(わきやよしすけ)は、新田義貞(にったよしさだ)の弟で、新田朝氏の次男に当たる。

名字の「脇屋」は、居住して居た群馬県太田市中央部に位置する脇屋(わきや/現・脇屋町/わきやちょう)の地名(町名)が由来で脇屋氏の初代が義助(よしすけ)である。

脇屋義助(わきやよしすけ)は、千三百三十一年(元弘元年)にひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていた兄・新田義貞とともに新田荘にて後醍醐天皇の元弘の乱(げんこうのらん)に応じて鎌倉倒幕の挙兵し、鎌倉を攻める。

執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、千三百三十三年(元弘三年)に諸将の論功行賞に拠って義助(よしすけ)は正五位下に叙位され左衛門佐に任官する。

同年、一時期は駿河国守護にもなり、千三百三十五年(建武二年)の足利尊氏の蜂起以後は兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任し、この頃設置された武者所の構成員(同所五番)と成り、その後も義助(よしすけ)は常に兄・義貞と行動をともにして各地で転戦した。

千三百三十六年(延元元年/建武三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は南朝・刑部卿に転任する。

南北両朝の戦闘が続き、千三百三十八年(延元三年/建武五年)に兄・義貞が越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で不慮の戦死をすると義助(よしすけ)は越前国の宮方の指揮を引き継ぎ、翌年には従四位下に昇叙する。

義助(よしすけ)は兄・義貞亡き後の南朝北陸方面軍の軍勢をまとめて越前国黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前国から退いた。

千三百四十二年(康永元年/興国三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は中国・四国方面の南朝総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国の国府(現在の今治市)・ 国分山(唐子山)城で突如発病し、そのまま病没する。



北条(平)得宗家が君臨する鎌倉幕府の倒幕に立ち上がり、後醍醐天皇に合力したのは、源氏の諸家と修験に繋がる畿内近郊(河内や播州)の悪党である。

つまり、彼らは影人だった。

北畠(源) 顕家(きたばたけ・みなもと・の・ あきいえ)は村上源氏流の公家で、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかどみちちか)の後裔であり、新田(源)義貞(にった ・みなもと・の・よしさだ)は、河内源氏流、鎌倉時代末期の幕府御家人、上野国(上州)に土着した新田氏の棟梁である。

足利(源)尊氏(あしかが・みなもと・の・ たかうじ)も、河内源氏流、鎌倉時代末期の幕府有力御家人である。

彼・足利尊氏が倒幕に合力しながら裏切って室町幕府を成立させても、後醍醐天皇を、徹して追い詰め切れなかったのは源氏の血の為だった。

現に足利尊氏は、吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、天龍寺の造営などを行っている。


河内悪党の楠木正成(くすのきまさしげ)は橘氏流を名乗っているが、確証は無い。

何しろ、鎌倉幕府の御家人帳に記載がない無名の家柄で、河内を中心に付近一帯で活動する土豪であった。

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれたが、この「悪党」の意味は「祭(奉)らわぬ者」と言う意味で、つまり鎌倉幕府に「祭(奉)らわぬ」から悪党なのである。

鎌倉幕府の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)の挙兵は、伊賀兼光や真言密教の僧である「文観の要請」と考えられる。



北条執権政権末期の鎌倉幕府の御家人に、伊賀兼光と言う武将が居た。

関東御家人の名門で、当時鎌倉幕府の京都出先機関・六波羅探題の首脳部にいた藤原氏流の出自と言われる伊賀兼光は、文観の媒介により討幕計画に加わり、後に建武新政期には後醍醐の寵臣としてあらゆる政府機関に名を連ねた人物で有る。

史実を追うと、この兼光が建武の親政成就以前から幕府を裏切り後醍醐方に「内通して元弘の乱(げんこうのらん)の成功に貢献した」と見られている。

伊賀(山城)兼光の正体は藤原兼光と言い、先祖が鎌倉・伊賀氏の変で一度は流刑を味わい復帰した伊賀氏の家系で、鎌倉幕府の六渡羅評定衆と言う高位の御家人で有りながら鎌倉方北条執権家に対する不満分子の中心的人物で有った。

建武の新政後、この伊賀兼光が新政権で重用された事から、在京の反北条の御家人や武士を調伏して後醍醐天皇方に寝返りさせる「中心的な役割を担った人物」と目されている。

伊賀兼光は、「前の伊勢の守(国司)だ」と言うから、伊勢赴任により藤原から伊賀を名乗ったと見られ、当然伊賀国の郷士との関係も深く成ったので有ろう。

彼は後醍醐天皇の腹心であった醍醐寺座主・文寛上人の要請により、後醍醐天皇方に寝返った。

鎌倉期の「伊賀氏の変」でも記述しているが、伊賀氏は藤原北家秀郷流と伝えられ、鎌倉時代初期の藤原朝光(ふじわらのあさみつ)が伊賀守に任じられて伊賀守朝光以降、伊賀を名字(苗字/なえあざ)とした。

鎌倉時代初期は鎌倉幕府の有力御家人で在ったが、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻・伊賀の方が伊賀の方の実子・政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。

執権・北条義時の急死に関しては後妻・伊賀の方の毒殺説もある。

この政変を画策した伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力の在った三浦義村と結ぶが、これは尼将軍・北条政子の地位を伊賀氏に取って代わられる危機だった。

伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、三浦義村に泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐ事に成功し、義時の長男で在った北条泰時を執権に就任させる。

この政変未遂により伊賀の方・光宗・実雅は流罪と成ったが、彼らに担ぎ上げられそうに成った当の政村は厳罰を免れ後に第七代執権に就任している。

伊賀氏の一部は赦されて残ったが力を弱め、政変未遂後は評定衆や引付衆など幕府の中堅実務官僚として活躍する家系として残っていた。

伊賀兼光は鎌倉幕府の実務官僚で、六波羅探題・越訴頭人で在った山城守伊賀光政の子で在った為に父の官名にちなみ山城兼光とも名乗っている。

兼光も、鎌倉時代末期には六波羅探題の引付頭人兼評定衆となっている。

後醍醐天皇による「正中の変」に内通し、建武新政期には後醍醐に重用された伊賀兼光だったが、その栄華は足利尊氏の挙兵で僅か二年で終わり、南北朝並立の混乱の中、ヒッソリと歴史から姿を消している。

また、三重県上野市の旧家から発見された上嶋家文書(写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)役者の観阿弥(觀阿彌)で、その母は楠木正成の「姉か妹である」と言う。

と成ると、影人として各地に根を下ろした草の郷士・豪族の類だったのではないだろうか?

つまり正成の甥が観阿弥と言う事になる。

偽の系図とも言われているが、確実に偽と言う根拠も特にない。

ちなみに観阿弥の息子世阿弥(世阿彌)は、先祖は服部氏と自称していた。

「観阿弥・世阿彌の諜報員説も根強い」となれば、楠木氏は「修験系郷士(勘解由小路党)に関わりがある」と見て良い。

楠木正成(くすのきまさしげ)は山岳戦が得意であり、一介の小土豪でありながら、思わぬ動員力もあった。

楠木正成の天性の人懐こさは、勘解由小路(賀茂)の血であり、持ち前の本能だった。

赤坂城、千早城の篭城戦の侵出奇没な活躍は目覚しかったが、城外にも多くの同志が居たからである。

楠木正成(まさしげ)は、伊勢(三郎)義盛に似て、目鼻立ちの整った役者顔をしていた。

そして顔に似合わぬ豪胆さを秘め、最後は損得抜きで義に準じる潔さを持っていた。

つまり鎌倉幕府も後の足利尊氏も再三に渡り楠木のゲリラ戦法に手こずっていたのは、紀伊半島全域が真言、天台、両密教の霊場で修験(勘解由小路党)の大拠点だったからである。

後醍醐天皇が亡命吉野朝(南朝)をうち立て、四十五年間も吉野朝が存続したのも、修験(勘解由小路党)の大拠点だったからに他なら無い。

実は、楠木正成(くすのきまさしげ)は護良(もりなが)親王に従って挙兵している。

護良(もりなが)親王失脚の政変劇は、正成が出兵して京を留守にした最中に強行された。

楠木正成は鎌倉幕府倒幕のほとんど全期間、護良(もりなが)親王の指揮下で戦っており、政権樹立後に起こった後醍醐天皇による護良親王の失脚事件は、次期天皇の腹心を自任していた正成にとって予定外の大事件で在った。

裏の影だった為に血統の看板を持たない楠木正成は、北畠、足利、新田と違い、護良(もりなが)親王の後ろ盾を失っては部下の求心力を失う。

しかしそんな計算ずくではない不思議なものに、楠木正成(くすのきまさしげ)は突き動かされていた。

正成は、初めて護良親王(もりながしんのう)に会った時、長い事捜していた相手にめぐり合った様な気がした。

その後護良親王は、「父帝に幽閉される」と言う不幸に見舞われるが、楠木正成は最後まで後醍醐天皇を盟主と仰いで戦った。

不思議な事に何故か正成には、護良親王の「父帝を頼む」と言う思いが、声無き声となって、親王幽閉後も途絶える事無く伝わって来ていたのだ。

一方、楠木正成と違い「血統と言うブランドを持つ」表の影人の北畠、足利、新田は、北条得宗家の後釜を争い始めた。

氏族にとって「御定まり」と言うべき「鎌倉幕府成立当初の勢力争い」と同様の内紛が、再び起こっていたのだ。



鎌倉幕府が崩壊、後醍醐天皇の「建武の親政」が始まると、文観はやっと「赦免」となって鬼界ガ島から帰って来た。

後醍醐天皇が、鬼界ガ島に流された盟友の文観を忘れる訳が無い。

早速の「赦免」の沙汰である。

この日を文観は、一日千秋の思いで待っていたのだ

しかし帰って来た文観は、後醍醐天皇の元へ行かなかった。

既に武人共が幅を利かせて勢力争いをして居て、文観の居場所が無かったのだ。

それに、流人の生活は過酷で、精神にかつての気力は残っては居ない。

文観の法力はめっきり衰えていた。

京の御所に行っても、改革を始めた後醍醐天皇の御役に立つ自信は無かったのだ。

楠木一族の地、河内の国・高安の金剛寺に居を構えて、養生する事にした。

体力的に、和合の呪詛ができない。

食料事情が悪い鬼界ガ島の流刑時代に、著しく体力を失っていたのだ。

島の人々は高名な僧侶文観には親切だったが、自分達も食べるのがやっとで、文観を食べさせるにはよほどの犠牲を払っていた。

名だたる僧侶だからこそ、文観(もんかん)僧正は島民上げて庇護されたのだ。

流刑の間、法力を高める歓喜法の相手をする女人も島には居なかった。

女人の流刑者も居るには居たが絶対数が足りず、島の男達の共有物みたいな「掟(おきて)」が生きていた。

独占を主張すると、殺し合いに成りかねないのが島の事情だ。

歓喜呪法の占術処では無かったのだ。

文観はボロボロに成った文観が回復するのに、修験道の秘薬の薬効をもってしても、二年の歳月を要した。

その間に南北二つの朝廷が並立して、乱世が始まってしまった。


千三百三十五年(建武二年)、名和長年(なわながとし)は西園寺公宗が北条氏の残党と組み新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に処刑している。

その後信濃で北条時行らが蜂起し鎌倉を一時占領した「中先代の乱」の討伐を契機に、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政権から離脱すると、長年(ながとし)は楠木正成、新田義貞らと共に宮方(南朝方)として尊氏と戦う。

だが、延元元年の湊川の戦いの後に京都に入った尊氏に敗れ、名和長年(なわながとし)は討死し、宮方(南朝方)は劣勢に追いやられて行く。

長年(ながとし)と嫡男・義高を失った名和氏は、長年(ながとし)の孫・顕興(あきおき)を盟主に奉じて、菊池武光を頼って肥後八代に下向し菊池氏と伴に九州の宮方として南朝に組するも、最後は足利方に降伏して八代城主として室町時代を迎えた。

その後長年(ながとし)の子孫は戦国期を生き抜いて柳河・立花氏の客分となり、江戸期は立花家の家臣として伯耆氏を称した後、名和姓に復して明治維新に至った。

千八百七十八年(明治十一年)、長年(ながとし)子孫・名和長恭は南朝の忠臣で在ったという由緒から、明治政府から名和神社の宮司に任ぜられて男爵を授けられた。


宮方(南朝方)は、両軍対峙した湊川の戦、さらに敷山の戦いに敗れ、後醍醐天皇(南朝)は朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れる。

そう、吉野山は八咫烏(ヤタガラス)の言わば本拠地である。

八咫烏(ヤタガラス)は神の使いであり、朝廷に「事有る時」に救いの手を伸ばす。

この壮大な物語は末代までの「朝廷護持」の為に、あらかじめ「神が設定した」事なのかも知れない。

それに、「真言密教立川流が必要だった」とは考えられないか?

足利尊氏は、京に光明天皇(北朝)を擁立して、天下に「天皇を名乗るものが二人居る」、南北朝並立時代に突入する。

吉野に逃れた後醍醐天皇方は北朝・光明天皇を認めず、南北二つの朝廷が並立して、五十年以上に及ぶ武力対立が続いた。

これを、南北朝並立時代と言う。

後醍醐天皇の「建武の親政」(天皇の直接統治)が、二年と持たなかったのである。


後醍醐天皇が逃れた吉野には修験道の本山・金峯山寺(きんぷせんじ)が或る。

金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山で、本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝える。

総本山・金峯山寺の所在する吉野山は、古来山桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝(吉野朝)の中心地で、吉野御所が在った。

「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、奈良県吉野郡の吉野山(吉野町)と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する同郡・山上ヶ岳(天川村)を含む山岳霊場を包括した名称である。

吉野・大峯山系は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。

吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。



足利―持明院統に追われた後醍醐天皇方は、吉野山に逃れ徹底抗戦を謀っていた。

吉野朝では相変わらず、女官達と親王達は毎夜乱交を繰り返していた。

それは、描写するのもはばかられる、想像を絶する隠避な行為の連続で有る。

しかし良くしたもので、それには必然性のある何かの力が働いていたので有る。

危機に在って、南朝の皇統を絶やさぬ為に親王の数を増やす現実的な必要が在ったのだ。

流刑の為に法力を弱めていた文観の、朝廷への中央復帰の目は無くなってしまった。

これは同時に、真言密教立川流の衰退を意味していた。
その、挽回の余力は、もう文観には無かった。

何よりも、心血を注いだ「髑髏本尊」を、流刑の捕縛の祭に幕府方に押さえられ、手元から失った事が、文観の法力を弱めていた。

宿敵真言宗右派の進言により文観所有の「髑髏本尊」が、鎌倉幕府に対する倒幕祈願の呪詛の証拠と訴えられ、鬼界ガ島、流刑の間に焼却されてしまった。

この埋め合わせは、簡単には出来ない。

新たな本尊の開眼には、七日七晩の荒行と八年の歳月が必要となる。

文観の回復を待っていては、とても間に合わない。

呪詛が効かねば、文観の出番は無い。

河内国高安の、「金剛寺」の生活は文観にとって隠遁に近かった。

一度だけ、後醍醐天皇のたってのお召しで吉野宮に出向いた。

激しい合戦の最中であった。

良くしたもので、吉野山中と近隣の村々、遠くは京の都まで、上手く「裏の行き来のルート」は出来ていた。

吉野山中の修験道は全て南朝方と言って良い。

案内が居れば、行き着くのは存外に容易だった。

文観は獣道をかき分けて、吉野宮に辿り着いた。

かつての盟友の到来に、後醍醐天皇も喜びと伴に文観を迎えた。

後醍醐天皇は、自らの死期が近い事を察して、文観にある事を頼む為に、召し出したのである。

「文観、親王達の行く末が心配じゃ、これを頼む。」文観は、天皇から一通の書状を預かった。

二人の間には、信頼があった。

後醍醐天皇は吉野朝の子孫が京の都を奪還する事を願って、その時必要な軍資金を用意してあった。

吉野朝が軍資金を「豊富」なのには、れっきとした理由がある。

実は吉野山一帯は、弘法大師が目を付けた豊富な水銀の産地である。

中国から経典を持ち帰った弘法大師(空海)は、水銀を使って「金を精製する技術」も持ち帰っていた。

弘法大師の真言宗布教にも、この資金は大いに役立った筈だ。

つまり、金を得るには吉野の地が、戦略上重要だった。

その豊富な資金を五分割し、四人の親王と文観に託したのである。

その噂は、すぐに広まった。

楠木一族が寺の警護を申し出たが、文観は「無用じゃ。」とそれを蹴った。

警護が付いたのでは、噂が本当になる。

何も警護が無ければ、反って疑われ難い。

だが、それは実際に起きた。

噂を聞きつけた北朝方の軍勢五百騎に、金剛寺が取り囲まれたのである。

意気込んで来た北朝方も、寺に警護が一人もいないので腰を折られた形だが、早速文観を詰問する為に対面した。

「南朝方と通じて、陰謀の疑い是あり。これをいかに申し開く?」

文観は少しも慌てず、「何も無いから、どこぞをひっくり返しても良い、好きに捜せ。」と切り抜けた。

北朝方の兵士どもは、それこそ竈(かまど)の灰の下まで掘り起こしたが、何も出ないので単なる「流言の類」と、結論付けた。

高位の僧に刃(やいば)を向ける度胸は、仏罰を恐れる素朴な軍勢の将には、無かったのである。

これは冷や汗もので、寸での処で、従う勘解由小路の者に軍資金のありかを認(したた)めた書状を託して逃がしていた。

この事が、南朝の財宝隠匿説そのものを流言とする北朝見解と発展する事になる。

それが、「文観、してやったり」と言う知力に長けた最後のご奉公在った。

修験者に持たせた書状は、中国地方に落ち延びて行った「或る親王」の手に渡って、無事だった。

後ほど明るみになるが、その親王の子孫はその書状の秘密を五百五十年間余り守り抜き、明治維新の折にその軍資金が「長州の倒幕資金に宛てられた」と言う噂がある。

あくまでも、噂である。

書状を、無事に南朝方に返した文観は、平穏な日々を送っていた。

そのうちに後醍醐天皇も吉野で崩御され、時代は移り行く・・・。三年もすると、文観は悟った。

「最早(もはや)、自分の時代は終わった。」

見蓮の顔が浮かんだ。あの・・・「やっと老いて死ねる。」と言ったあの安堵の表情が・・・。

ようやく体力は回復したが、既に神は後継者をお望みで、文観の復活ではない。

思えば、神の命ずるままに、重い責任を背負ってここまで来た。

どうやら、ここらで「荷を降ろせ」と言う事らしい。

若かった文観も、今は老僧の体を為していたのだ。

南北朝の争いは、近くで激しく続いていたが、心は穏やかだった。


信じられないかも知れないが、DNA的な血の記憶が、未来に受け継がれる可能性は否定できない。

何故なら、それが人間でなくても子を産んで育てる本能は自然に備わっている。他の遺伝情報が無意識のうちに伝播されても何の不思議もない。


後醍醐天皇の第七皇子、義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)の母は、阿野公廉(あのきみかど/藤原)の子女・阿野廉子(あのかどこ)である。

千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)、後醍醐天皇の主導に拠る元弘の乱(げんこうのらん)が成功して鎌倉幕府が滅亡し、父・後醍醐天皇が建武の新政を始める。

五歳と幼い皇子・義良(のりなが)は、北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。

千三百三十四年(建武元年)、皇子・義良(のりなが)は多賀城に於いて親王となるも、翌千三百三十五年(建武二年)足利尊氏が新政から離反した為、北畠親子とともに尊氏討伐へ京に引き返す。

千三百三十六年(建武三年)、九歳の義良親王(のりながしんのう)は行在所比叡山に於いて元服を行い、同時に三品陸奥太守に叙任され、尊氏が京で宮方に敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。

千三百三十七年(延元二年/建武四年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、その後夏に成って再度上洛を始める。

義良親王(のりながしんのう)は同年冬に鎌倉を攻略し、翌千三百三十八年(延元三年/暦応元年)さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父・後醍醐天皇が居る大和の吉野行宮に入った。

父・後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集する為に各地に自らの皇子を派遣する中、義良親王(のりながしんのう)も宗良親王(むねながしんのう)と伴に北畠親房・顕信に奉ぜられて伊勢国大湊から船団を率いて三度目の奥州平定を目指す。

しかし義良親王(のりながしんのう)一行は途中暴風に遭って船団は離散し、義良親王(のりながしんのう)の船は伊勢に漂着する。

翌千三百三十九年(延元四年/暦応に年)、義良親王(のりながしんのう)は吉野へ戻り、間もなく皇太子と成る。

同年父・後醍醐天皇の譲位を受けて践祚(せんそ)し、南朝の第二代天皇・後村上天皇(ごむらかみてんのう)を名乗り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。

この後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、遥か五百七十年ほど後の千九百十一年(明治四十四年)、明治政府から南朝が正統とされた為、歴代天皇として認定されるようになった。


後醍醐天皇の波乱の人生も、終焉を迎えようとしていた。

帝は、多くの思いを残してまだ未練を引きずっていた。

この帝の強烈な思いが、やがて怨念となって後の世に現れる。

後醍醐天皇は、失意のうちに吉野で崩御された。

しかし、帝の魂は皇統の皇子達に残った。

この後醍醐帝の怨念の魂は輪廻転生を繰り返し、やがて遥か江戸幕府の倒幕へと到るとは、この時はまだこの世の誰もが知る由もなかった。



文観弘真(もんかんこうしん)僧正の真言密教立川流に心酔した後醍醐天皇は、教義に添って多くの子を為すのだが、この「後醍醐天皇の子沢山」は、後の出来事を思うと「歴史の必然だった」のかも知しれない。

後醍醐天皇のお相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで十六人に及ぶ親王(しんのう/皇子)、内親王(ないしんのう/皇女)を設けられている。

正直、一頃の親王(しんのう/皇子)・内親王(ないしんのう/皇女)の誕生時期が重なるほど後醍醐帝の子創りがお盛んだった為、どなたが何番目のお子なのか不明なくらいだった。

南北朝期の初期、中央の畿内では北朝方・足利高氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

その他に中国・四国を中心に活躍した第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)、越後・越中・信濃で活躍した宗良親王(むねながしんのう)、新田義顕(にったよしあき)と共に戦い越前国金ヶ崎に散った尊良親王(たかながしんのう)など、帝の意を受けて戦った多くの皇子がいた。

千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」まで南北朝の抗争が六十年間続いたのは、多くの親王が各地で抵抗したからである。

つまり真言密教立川流に心酔した後醍醐帝の「子沢山」が「歴史の必然だった」と思えるほど、南朝方は「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。



足利尊氏の人間評価は分かれるものの、室町幕府を開府した英雄的武人とされる。

しかし彼の弟・足利直義(あしかがただよし)も兄・尊氏に勝るとも劣らない武人だった為に、兄弟相争う観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は起こった。

足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い遣りほぼ天下を手中にするまでは、弟・足利直義(あしかがただよし)は力を合わせられる良き相方だった。

所が元々親子兄弟はライバルの側面を持つから、なまじ臣下に納まり切れない弟が居ると覇権争いが起きる。

都を掌握して北朝天皇を建てた足利尊氏は、弟の足利直義(あしかがただよし)と想いもしなかった対立をする破目に成る。

初期の足利幕府に於いては、足利家の家宰的役割を担い主従制と言う私的な支配関係を束ねた執事・高師直(こうのもろなお)が軍事指揮権を持つ将軍・足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。


高師直(こうのもろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で足利尊氏時代に執事を務め、弟には高師泰(こうのもろやす)がいる。

高氏(こうのうじ)の本姓は、天武大王(第四十代天皇)の長子・高市皇子(たかいちのみこ)を祖とする氏族・高階氏(たかしなうじ)であり、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて「こうのもろなお」と呼ばれる。

高市皇子(たかいちのみこ)と御名部皇女(みなべのひめみこ)の子・長屋王が起こした長屋王の変の際、父・長屋王(母:御名部皇女)と共に自害した桑田王の子・磯部王が助命され、その孫の峯緒王が承和11年(844年)に臣籍降下して高階真人(たかしなのまひと)を賜る。

高階真人(たかしなのまひと)の家系は公家として活躍するも、後白河天皇(第七十七代)側近の大蔵卿・高階泰経(たかしなのやすつね)、寵妃・高階栄子(丹後局)が有力者に数えられるを最後に中央から消えて行った。

高氏(こうのうじ)は、源氏の棟梁・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の庶子(実際は乳母弟らしい)と云われる高階惟章(たかしなこれあき)が、義家の三男・新田・足利両氏の祖である源義国(みなもとのよしくに)と共に下野国に住した事に始まり、代々足利氏の執事職を務めていた。

高階氏(たかしなうじ)は公家としては凋落したが、末孫の武家・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟が、室町幕府を開府した足利尊氏の側近として活躍の場を得た。


訴訟を担う足利直義(あしかがただよし)は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱う事が多かったが、鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向していた。

その為足利直義(あしかがただよし)の政務は、自然に公家・寺社や有力御家人の既存の権益を保護する性格を帯びるように成った。

一方、武士を統率し南朝方との戦いを遂行する師直(もろなお)は、従来の荘園公領制の秩序を破っても権益を獲得しようとする武士達を擁護する事で軍事力を組織していたのだが、そのそれぞれの立場の違いから必然的に両者は対立する事になる。

南北朝時代の初期に楠木正成(くすのきまさしげ)・北畠顕家(きたばたけあけいえ)・新田義貞(にったよしだだ)ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟らの戦功は目覚ましかった。

しかし千三百三十九年に後醍醐天皇(第九十六代)が没して後の畿内は比較的平穏な状態となった為に師直(もろなお)の勢力は後退し、尊氏の弟・直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。

千三百四十七年(正平二年/貞和三年)に入ると、南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)が京都奪還を目指して蜂起し、直義派の細川顕氏(ほそかわあきうじ)・畠山国清(はたけやまくにきよ)が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、さらに山名時氏(やまなときうじ)も増援派兵されたが京都に敗走した。

代わって起用された(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は、翌千三百四十八年(正平三年/貞和四年)の四條畷の戦いで南軍を撃破し、更にに勢いに乗じて南朝方の本拠地・吉野を陥落させ、後村上天皇(第九十七代、南朝第二代)ら南朝方は吉野奥の賀名生(あのう/奈良県五條市)へ落ち延びた。

この結果、幕府内で直義(ただよし)の発言力が低下する一方、師直(もろなお)の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車が掛って行く。

千三百四十九年(正平四年/貞和五年)六月、上杉重能(うえすぎしげよし)や畠山直宗(はたけやまただむね)、禅僧の大同妙吉(だいどうみょうきち)らの進言により、直義が将軍・尊氏に要求した結果、師直(もろなお)は執事を罷免され、後任は甥の高師世(こうのもろよ)となる。

「太平記」に拠れば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされ、さらに直義は、北朝の光厳上皇(こうごんてんのう/北朝第一代)に追討の院宣を要請して師直を討とうとしている。

まだ力を保有していた師直(もろなお)は、八月十二日に河内から軍勢を率いて上洛した師泰(もろやす)とともに直義を討とうとし、翌十三日、直義(ただよし)は尊氏の邸に逃げ込むが、師直(もろなお)の軍勢が尊氏邸を包囲し、上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)の身柄引き渡しを要求する。

禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)の仲介もあり、重能・直宗の配流、直義が出家し幕政から退く事を条件に、師直(もろなお)は包囲を解き直義に代わり鎌倉にいた尊氏の嫡子・義詮(よしあきら)が上洛して政務統括者となる。

この事件は、直義派の排除の為に「尊氏・師直が示し合わせていた」とする説もある。

同年十一月に義詮(よしあきら)が入京し、十二月に直義(ただよし)が出家して恵源と号して一端は治まりかけたこの月に上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)が配流先で師直(もろなお)の配下に暗殺された事から、両者の緊張は再び高まった。

この年の四月に長門探題に任命されて備後国に滞在していた直義の養子・直冬(なおふゆ)は、事件を知って直義に味方する為に上洛しようとしたが、幕府が討伐軍を送った為に直冬は九州に敗走し、直冬は少弐氏らに迎えられ九州・中国地方に勢力を拡大して行く。

翌千三百五十年、北朝方は「貞和」から「観応」に改元し、その十月、西で拡大する直冬(なおふゆ)の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討の為に出陣するが、その直前に直義(ただよし)が京都を出奔していた。

足利直義(あしかがただよし)は畠山国清(はたけやまくにきよ)、桃井直常(もものいただつね)、石塔頼房(いしどうよりふさ)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)、吉良貞氏(きらさだうじ)、山名時氏(やまなときうじ)、斯波高経(しばたかつね)らを味方に付け、関東では十月に上杉憲顕(うえすぎのりあき)が高一族の高師冬(こうのもろふゆ)を駆逐する。

足利尊氏は備後から軍を返し、高兄弟もその軍勢に加わるこの時点に観応の擾乱の始まりを求められ、十一月には直義(ただよし)が高兄弟の追討の為に諸国の兵を募る。

その十一月には光厳上皇による足利直義追討令が出されると、直義(ただよし)は十二月に南朝方に降り、兄・尊氏と高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟との勢力に対抗する。

千三百五十一年(正平六年/観応二年)一月、足利直義(あしかがただよし)軍は京都に進撃し、留守を預かる足利義詮(あしかがよしあきら)は備前の尊氏の下に落ち延びた。

一ヵ月後の同年二月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで直義軍に敗れ、尊氏は高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の出家を条件に直義(ただよし)と和睦する。

高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義(ただよし)派の上杉能憲(師直に殺害された重能の養子)の軍勢により、摂津の武庫川(兵庫県伊丹市)で一族とともに謀殺され、直義(ただよし)は義詮の補佐として政務に復帰する。

一旦は平穏が戻ったものの幕府内部では直義(ただよし)派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況に成って行った。

そんな情勢の中、近江の佐々木道誉(ささきどうよ)や播磨の赤松則祐(あかまつのりすけ/そくゆう)らが南朝と通じて幕府に反すると、足利尊氏は近江へ、足利義詮(あしかがよしあきら)は播磨へそれぞれ出兵する。

実は、足利尊氏・義詮(よしあきら)親子と佐々木道誉(ささきどうよ)らには密約があり出兵の真の狙いは京都の挟撃と言われており、八月、直義は桃井、斯波、山名氏を始め自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ至った。

足利直義(あしかがただよし)派が関東・北陸・山陰を抑え、西国では直義の養子・直冬が勢力を伸張している状況を見て、足利尊氏は南朝と交渉し、和議の提案と直義・直冬追討の綸旨を要請する。

南朝方は、北朝方が保持していた三種の神器(南朝は贋物であると主張)を渡し、政権を返上する事などを条件に和睦に応じ、十月には尊氏は南朝・後醍醐天皇方に降伏して綸旨を得る。

綸旨を得た足利尊氏は、息子の義詮(よしあきら)を京に残して南朝との交渉を任せ、直義追討の為に出陣し、翌千三百五十二年(正平七年/観応三年)には直義を駿河国薩埵山(さったやま・静岡県静岡市)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで破って鎌倉に追い込み降伏させる。

降伏し鎌倉に幽閉された直義(ただよし)は二月に急死するが、「太平記」は尊氏による毒殺であると記している。


この足利尊氏の南朝方への降伏により北朝方の崇光天皇や皇太子・直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭され、また年号も北朝方の「観応二年」が廃されて南朝方の「正平六年」に統一され、これを「正平一統」と呼ぶ。

南朝方(宮方)の勅使が入京して具体的な和睦案の協議が開催された。

南朝方(宮方)は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据える事や、建武の新政に於いて公家や寺社に与える為没収された地頭職を足利政権が旧主に返還した事の取り消しなどを求め、北朝方と対立する。

足利義詮(あしかがよしあきら)は譲歩の確認の為に尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。

正平一統が成立し、南朝方の後村上天皇が帰京する噂が立つと各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生(あのう/奈良県五條市)から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)まで移転する。

南朝方は北畠親房(きたばたけちかふさ)の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企てる。

千三百五十二年(正平七年)二月には尊氏の征夷大将軍を解任し、代わってこれに就任した宗良親王(むねながしんのう)を奉じた新田義興(にったよしおき)、新田義宗(にったよしむね)らが鎌倉を奪還した。

この情勢に、弟・足利直義を破ったばかりの足利尊氏は武蔵へ逃れる。

南朝方主力の楠木正儀(くすのきまさのり)や北畠顕信(きたばたけあきのぶ)、千種顕経(ちぐさあきつね)、千三百五十二年(正平七年)直義派であった山名時氏(やまなときうじ)などが京都を攻略し、義詮は近江へ逃れ、正平一統は破れる。

この時北朝方の光厳上皇(こうごんてんのう/北朝第一代)、光明上皇(こうみょうてんのう/北朝第二代)、崇光上皇(すこうてんのう/北朝第三代天皇)、直仁親王(なおひとしんのう)が京都に取り残され、南朝方に捕われて賀名生へ連行された。

南朝方が京と鎌倉を同時占拠すると、後村上天皇は賀名生(あのう)から山城国男山(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ到り、近江へ逃れた足利義詮(あしかがよしあきら)は正平一統を破棄、正平七年の年号を観応三年に戻し協議された統一案も破棄されるが、一部は影響した。

足利義詮(あしかがよしあきら)は諸守護を動員し、美濃の土岐氏、四国の細川氏、播磨の赤松氏、近江の佐々木氏らの勢力を集め、足利直義派であった山名氏や斯波氏らの協力も得て、三月に京都を奪還、尊氏も新田勢を追い鎌倉を奪還している。

こうした南朝方不利の情況で、後村上天皇は五月に山城八幡から賀名生(あのう/奈良県五條市)に逃れるもこの際、従っていた四条隆資が戦死している。



この観応の擾乱(かんのうのじょうらん)により、足利尊氏・直義(ただよし)の両者に分割されていた将軍の権力は尊氏のもとに一本化される。

将軍の親裁権は強化されるが、高師直(こうのもろなお)に拠って吉野を陥落させられ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝方に、直義(ただよし)・尊氏が交互に降るなど息を吹き返し延命した為、南北朝の動乱が長引いたと言う指摘もある。

尊氏が南朝方に降った時に南朝が要求した条件に「皇位は南朝に任せる」と言う項目が在った為、北朝方の皇位の正統性が弱められる結果となった。

治天の君(ちてんのきみ/実権掌握者)であった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子・直仁親王が南朝に連れ去られ、南朝の後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収された。

北朝方は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥り、幕府にとっても尊氏が征夷大将軍を解任された為、幕府自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。

最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・幕府・守護)らの政治執行がすべて遅滞する事になり、ここに幕府・北朝側は深刻な政治的危機に直面する事になる。

事態を憂慮した二条良基は勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の実母広義門院に治天の君となる事を要請し、困難な折衝の上漸く受諾を取り付け、広義門院が伝国詔宣を行う事によって崇光弟の後光厳天皇即位が実現する事となった。

「続本朝通鑑」に拠ると、二条良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん。」と啖呵を切ったと言われている。

実は当時、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはされておらず、治天による伝国詔宣(でんこくしょうせん)により即位が可能であるとする観念が存在していた。

つまり南朝方が、治天を含む皇族を拉致したのはその為だが、女性を治天にすると言う盲点を衝いた事になる。

後光厳、後円融、後小松、称光と四代に渡って後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝方内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執が在ったとされている。

結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、次の後花園天皇(ごはなぞのてんのう/第百二代・崇光の曾孫)以降、皇位は崇光系が受け継ぐ事となった。



南朝方の武将で忘れてならないのが、九州の菊池氏である。

菊池氏(きくちうじ)は本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族で、系図上もそうした物が多い。

しかし菊池氏(きくちうじ)の本姓・藤原氏には疑問を持つ研究者も多く居て、藤原氏本姓説の真贋は不明である。

菊池氏(きくちうじ)には、菊池周辺に土着していた勢力・古代鞠智族(こだいくくちぞく)後裔説があり、鞠智(くくち)とは山の麓の谷から平野へ出る口を指すと言われる説である。

つまり菊池氏(きくちうじ)は、阿蘇氏(あそうじ)と並び古代ヤマト王権(大和朝廷)成立以前から肥後国に存在した有力部族の可能性もある。

菊池氏(きくちうじ)が中央に名を轟かせたのは、元弘の乱(げんこうのらん)に後醍醐天皇に与力して活躍した菊池武重(きくちたけしげ)である。

後醍醐天皇の討幕運動に端を発する元弘の乱に、九州から参戦したのが藤原氏(大宰府の官・藤原政則の子の則隆)を祖とする菊池氏である。

鎌倉時代後期、菊池武時は討幕運動に賛同して九州における北条氏勢力である鎮西探題の北条英時を攻めるが、英時に加勢した少弐氏(しょうにし)や大友氏により討たれてしまう。

その後も菊池氏は後醍醐帝に助力、建武の新政に参加する。

しかし、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政から足利尊氏が離反し、一時後醍醐帝方に京都を追われた尊氏は九州へ逃れた時、少弐貞経(しょうにさだつね)の子・少弐頼尚(しょうによりなお)が赤間関へ尊氏を迎える為に赴いた。

その少弐頼尚(しょうによりなお)に対して、後醍醐帝(宮方)勢力であった菊池武敏は大宰府を攻めて少弐貞経を滅ぼす。

その後の千三百三十五年(建武二年)、菊池武時の子・武重が新田義貞陣営に加わり足利勢の足利直義と箱根・竹ノ下に対峙、有名な「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の奇功を成功させる。

この菊池千本槍が、後の戦法に大きな影響を残す新型の戦法である。

実は、南北朝時代の戦法に槍はまだ普及しておらず、刀によるものが主流だった。

処が菊池武重は、竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案する。

部下に命じ、竹やぶから各自手頃な竹を各々長さ一間(二メートル)ほどに切らせ短刀を縛り付けて槍を作らせた。

この槍に足利(直義)勢三千は苦戦し、千名の菊池(武重)勢に敗れている。

この戦果に菊池武重は、大和の国で刀鍛冶をしていた南朝方の郷士「国村延寿」と言う者に本格的な槍を作らせ、その後兵器として一般的なものになって槍は定着した。

菊池武重の依頼を受けた国村延寿は悩んだ挙句、最終的に槍の穂先を独鈷杵(とっこしょ)の頭と同じ形状にした。

元を正せばインドに在った武器・槍の穂先が変化したものであるから、それがピタリと収まった。

菊池武重に槍造りを命じられた国村延寿は、その後菊池姓をもらい菊池延寿と名乗り九州菊池に住んだ。

一方、菊池武敏らは同じ千三百三十五年(建武二年)に阿蘇惟直らとともに多々良浜の戦い(現在の福岡市東区)で足利尊氏と戦って敗北するが、敗走した菊池氏は本拠の菊池郡に勢力を維持する。

足利尊氏が多々良浜の戦いの後に再び上洛し、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都は足利方が制圧する。

その後京都に足利氏の武家政権が成立して足利が北朝を立て、後醍醐天皇は吉野に南朝を成立させた為、南北朝並立時代となる。

千三百四十八年、南朝は、征西将軍として後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねながしんのう)を九州へ派遣する。

千三百二十九年(元徳元年)藤原為道の娘を母として懐良王(かねながしんのう/後醍醐天皇の皇子)が誕生する。

懐良親王(かねながしんのう)は、南北朝時代に南朝の征西大将軍で在った事から征西将軍宮と呼ばれた。

千三百三十六年(北暦・延元元年/南暦・建武三年)、七歳の懐良(かねなが)親王は幼いながらも後醍醐帝の命により征西大将軍に任命され、五条頼元親子ほか藤原孝範ら十二名の従者に補佐されて九州を目指して吉野を出立する。

千三百三十九年(北暦・延元四年/南暦・建武六年)征西将軍宮・懐良(かねなが)親王一行は海賊衆である熊野水軍の援助を得て伊予忽那島に到着、四国の忽那島で三年間宇都宮貞泰の処に滞在している。

千三百四十二年、懐良親王(かねながしんのう)一行は伊予忽那島を出発、日向を経て薩摩山川津に到着宇都宮貞泰と共に九州へ上陸する。

薩摩国の谷山隆信の谷山城、肥後菊池武光の菊池城を経て、菊池武時の子・菊池武光や阿蘇惟直に擁立されて阿蘇惟直(あそこれなお)の肥後・隈府城に入り、征西府を開いて九州経略(九州平定)を開始する。

懐良親王(かねながしんのう)を奉じる菊池氏や阿蘇氏は、多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた九州の南朝勢力である。

九州には尊氏が東上の際に鎮西総大将として博多に残した一色範氏・仁木義長らの足利勢力がいた。

さらにこの時「観応の擾乱」と呼ばれる足利家の内紛で、叔父で養父である足利直義に味方し、父・尊氏に反旗を掲げた尊氏の子・足利直冬が九州へ入り肥後川尻で少弐頼尚に擁立されると、九州は室町幕府方、足利直冬方、南朝(懐良)方と三勢力の鼎立の戦乱状態となる。

懐良(かねなが)親王が征西府を開いて五年、千三百五十二年(正平七年/文和元年)懐良親王を擁立した菊池氏は、針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で勝利する。

懐良(かねなが)親王は豊後国攻略に日田へ向けて出発し転戦、玖珠 由布 狭間を経て豊後 府中へ進み、速見郡 大神から豊前国宇佐 城井へ入ると、大友氏時や宇佐大宮司らは親王軍に降参する。

筑前国植木を通り博多に進攻した懐良親王(かねながしんのう)は、宇佐神宮に白鞘入剣(国重要文化財)を奉納している。

降参した大友氏時の目付役として藤原孝範を豊前大家郷(大江郷 現中津市)郷司に補任し丸山城に居いたが、大友氏時は間もなく離反し高崎城に篭城する事態となる。

懐良親王(かねながしんのう)が九州に上陸して早十七年後の千三百五十九年(正平十四年/延文四年)筑後川の戦い(大保原の戦い、現福岡県小郡市)が起こる。

菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝方が、直冬方から幕府に復帰した少弐頼尚傘下の北朝方を破り、南朝方が九州の拠点である大宰府を制圧する。

以後十余年間、懐良親王(かねながしんのう)は一時「九州南朝」と言われ足利幕府も手を焼く勢力を誇って九州を統治している。

懐良親王(かねながしんのう)には、「日本国王・良懐(ながかね)」として明の太祖(洪武帝)の冊封を受けた事実がある。

その事から、懐良親王(かねながしんのう)が国際的には日本国王だった時期が存在する。

しかし、千三百七十五年に室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(いまがわさだよ/了俊)により大宰府を追われる。

貞世(さだよ)の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏(しょうにし)と同盟して渋川探題を奉じた大内氏と対立するが、後の戦国時代に大友氏により菊池氏の主力は滅ぼされ、幾つかの枝が九州各地に残る事と成った。

この菊池氏の末裔が明治維新の英雄として登場するのは、まだ随分先の事である。



九州に於ける南朝方・菊池氏のライバルとなったのは、北朝方・少弐氏(しょうにし)である。

少弐氏(しょうにし)は、藤原北家の秀郷の子孫と称する武藤氏の一族で、筑前・肥前など北九州地方の鎌倉幕府・御家人及び守護大名として勢力を築いたとされる。


少弐氏(しょうにし)は、武藤氏・武藤資頼(むとうすけより)が大宰府の次官である官職・大宰少弐(だざいしょうに)に任命された事から少弐氏(しょうにし)を名乗り始まる。

資頼(すけより)は藤原秀郷(ふじわらひでさと)の流れを汲む武藤頼平(むとうすけひら)の猶子(ゆうし/養子)となって武藤の名跡を継ぐが、資頼(すけより)の本当の出自は不詳である。

その意味では、少弐氏(しょうにし)は、資頼(すけより)の養父の武藤頼平(むとうすけひら)の家系からすれば、頼平(すけひら)の先祖である藤原秀郷の後裔になる。

しかし、武藤氏の猶子(ゆうし/養子)・資頼(すけより)の血筋からすれば、先祖不詳と言う事になる。


武藤氏の猶子(ゆうし/養子)となった資頼(すけより)は、初め平知盛(たいらのとももり)の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり、知人の梶原景時(かじわらかげとき)を頼って投降し、三浦義澄(みうらよしずみ)に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人(御家人)となる。

その後、武藤資頼(むとうすけより)は、源頼朝の奥州合戦に出陣して功を立て、出羽国大泉庄の地頭職に任ぜられる。

平家滅亡後、資頼(すけより)は官職・大宰少弐(だざいしょうに)に任じられ、名乗りを武藤から少弐(しょうに)に変える。

頼朝は、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして資頼(すけより)を登用、少弐資頼(しょうにすけより)は、鎮西奉行をはじめ北九州諸国の守護となる。

この頼朝による資頼(すけより)抜擢が、その後の少弐氏(しょうにし)の興隆のきっかけである。

鎌倉時代末期の千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こる。

少弐貞経(しょうにさだつね/少弐氏第五代)は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始される。

その後、新政から離反した足利尊氏が千三百三十六年(建武三年)に京都から駆逐され、九州へ逃れる。

貞経(さだつね)の子・少弐頼尚(しょうによりひさ)は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。

頼尚(よりひさ)は、足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破って京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍した。

南北朝並立の危うさを含みながらも足利幕府が成立して、頼尚(よりひさ)は尊氏より恩賞として筑前国、豊前国、肥後国、対馬国などの守護職を与えられる。


九州に於ける南朝方の勢いが盛んになる室町時代を迎えると、頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。

しかし、北朝方についた八代当主・少弐冬資(しょうにふゆすけ)が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動する。

南朝の九州勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州に度々侵攻する様になる。

少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をした事もあったが、その後は度々敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。

少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第十五代代当主・政資(まさすけ)が大内氏によって討たれて一時滅亡する。

後に政資(まさすけ)の子である少弐資元(しょうにすけもと)が第十六代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かす事は困難であり、拠点を肥前に移さざるを得なくなる。

この時代も肥前北部の綾部には肥前守護で九州探題であった渋川氏が健在であったので肥前南部に移る。

当時の肥前南部は九州千葉氏が支配していた。

その九州千葉氏の内紛に乗じて資元(すけもと)は同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。

だが、今度は家臣の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって、資元(すけもと)は次第に衰退して行く。

少弐資元(しょうにすけもと)は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。

しかし、大内義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏(しょうにし)はまたも一時滅亡した。

資元(すけもと)の子で第十七代当主を継いだ少弐冬尚(しょうにふゆひさ)は、少弐氏(しょうにし)を再興する。

その後、冬尚(ふゆひさ)は龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の曾孫・龍造寺隆信と争い、千五百五十九年(永禄二年)に勢福寺城で自害し、少弐氏は滅亡した。



今川貞世(いまがわさだよ/了俊)を排出した今川氏(いまがわうじ)家系は、清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。

吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有して、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。

今川家は、室町時代にその吉良家分家として駿河の守護に代々任命され、さらに遠江守護家も分流する。

また、初期の分家である今川関口家は室町幕府の奉公衆であった。


今川貞世(いまがわさだよ)は、足利流・今川氏の一族で鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将で、守護大名である。

室町幕府執事となった細川清氏が千三百六十一年(正平十六年/延文六年)に失脚して南朝に下ると、今川貞世(いまがわさだよ)は父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。

貞世(さだよ)は軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、千三百六十七年(正平二十二年/貞治六年)に二代将軍・足利義詮が死去すると出家・了俊(りょうしゅん)を名乗る。

今川了俊(いまがわりょうしゅん/貞世)は、三代将軍・足利義満時代の千三百七十年(建徳元年/応安三年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行(しぶかわよしゆき)の後任の九州探題(九州の統括長官)に推薦され、正式に任命された。



今川了俊(いまがわりょうしゅん/貞世)が就任した探題(たんだい)とは、鎌倉幕府や室町幕府に於いて、政務について裁決を行う重要な職位を指す。

探題(たんだい)は、元々仏教用語で使われていた職で、僧の資格を問う論議に於いて出題に対し出された答えに判定を行う役の僧を言った。

その判定役名・探題(たんだい)を、裁判権など重要な判定を行う幕府の職位に転用したものである。


鎌倉幕府に於ける探題(たんだい)は、幕府の両所たる執権(政所別当/政務執行者/管領とも呼ぶ)と連署(公文書に執権と連名で署名)の中央二役職、そして畿内周辺を担当する重要出先機関・六波羅探題職を指す。

執権、連署、六波羅探題の三職他、西国に置かれた広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職にも探題(たんだい)の名が与えられた。
この西国に置かれた探題(たんだい)は、関東・相模国に在った鎌倉幕府が西国運営の為に置いた出先機関とその職責者を指す名称で、長門探題(中国)、鎮西探題(九州)の二ヵ所に設置赴任されていた。


時が移り、京都・畿内に政府を開いた室町幕府では鎌倉の執権に相当する執事(政務執行者)または管領(将軍補佐/幕政統轄)が置かれた。

室町幕府初期に於ける将軍補佐役が、足利氏の譜代家人から採用される執事の職で、二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の晩年から幼少の三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の頃までに、執事から管領の呼称変更がなされている。

これら執事または管領は探題とは呼ばず、やはり京都・畿内の中央から遠い奥羽や西国に於いて広範な執行権を持つ職に対して探題が用いられた。

室町期の探題(たんだい)は、奥州探題(陸奥/青森、岩手、宮城、福島)、羽州探題(出羽/秋田、山形)、中国探題(旧・長門探題)、九州探題(旧・鎮西探題)の四ヵ所である。



観応の擾乱後に、南朝方の菊池武光が征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)を奉じた征西府、初代室町将軍・足利尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬らが分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた。

その南朝方征西勢力の九州の平定の為に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は北朝方九州探題(九州の統括長官)として派遣される。

命を受けた了俊(りょうしゅん)は、本国・遠江で九州出立つの準備をした後、千三百七十年十月に京都を出発する。

千三百七十一年(建徳二年/応安四年)五月に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は中国地方・安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら国人衆を招集し、次いで十二月に九州へ渡り豊前へ至っている。

了俊(りょうしゅん)は周防・長門の大内弘世(おおうちひろよ)、義弘(よしひろ)父子らの協力も得て新興の国人勢力と連絡し、豪族・阿蘇惟村(あそこれむら)の協力を得て豊後に嫡男の今川貞臣(いまがわさだおみ)を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませる。

弟の今川仲秋(いまがわなかあき)は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊(りょうしゅん)自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。

千三百七十一年(文中元年/応安五年)六月、了俊(りょうしゅん)は南朝方・懐良親王(かねながしんのう)、菊池武光(きくちたけみつ)らを筑後高良山(現・福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。

この後、九州に於ける南北朝対決の戦局は肥後へ移り、千三百七十四年(文中三年/応安七年)七月、了俊(りょうしゅん)は水島(現・熊本県菊池市)まで出兵した。

千三百七十五年(天授元年/永和元年)、了俊(りょうしゅん)は水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世(おおともちかよ)、筑前の少弐冬資(しょうにふゆすけ)、大隅の島津氏久(しまづうじひさ)らの来援を呼びかける。

三人衆の内、唯一九州探題と対立していた少弐冬資(しょうにふゆすけ)は着陣を拒んだが、島津氏久(しまづうじひさ)の仲介で来陣した。

了俊(りょうしゅん)は水島の陣に於いて、獅子身中の虫なる危険を孕む冬資(ふゆすけ)を宴の最中に謀殺する挙に出る。

この水島の変により面子を潰された島津氏久(しまづうじひさ)は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。

また、大友親世(おおともちかよ)も探題に対して嫌疑を抱き、了俊(りょうしゅん)への支援を止めてしまった。

九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった周防・長門の守護・大内氏に協力を要請する。

これに対して大内弘世(おおうちひろよ)は難色を示したが、子の大内義弘(おおうちよしひろ)は了俊(りょうしゅん)を支持し、九州に援軍を派遣している。

また、大内義弘(おおうちよしひろ)の援軍を派遣により、大内氏と婚姻関係の在った大友親世(おおともちかよ)も、消極的では在ったが北朝方に帰順した。

水島の変から二年後の千三百七十七年(天授三年/永和三年)、了俊(りょうしゅん)は菊池武朝(きくちたけとも)・阿蘇惟武(あそこれたけ)ら南朝勢力と肥前蜷打(現・佐賀市高木瀬)で激突する。

この肥前蜷打の戦いは北朝方・九州探題の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取っている。

蜷打の戦い以降、了俊(りょうしゅん)は再び南朝方に対する攻勢を強め、千三百八十一年(弘和元年/永徳元年)には菊池武朝(きくちたけとも)を本拠地・隈部城から追放している。

南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対して了俊(りょうしゅん)は、五男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年十月に帰順させている。

千三百九十一年(元中八年/明徳二年)に八代城の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させ、千三百九十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。

但し、南北朝合一後も氏久の息子・元久と対立、了俊(りょうしゅん)は千三百九十四年(応永元年)に四男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任された為、島津氏討伐は失敗に終わった。

外交では懐良親王(かねながしんのう)を指すとされている「日本国王良懐」を冊封する為に派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍・足利義満の手に委ねた。

また、朝鮮半島・高麗の使者・鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、千三百九十一年(元中九年)に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。


千三百九十五年(応永二年)七月、了俊(りょうしゅん)に上京の命が下り、同年八月に上京する。

ところが、上京した了俊(りょうしゅん)は幕府から九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として、了俊(りょうしゅん)の前探題だった渋川義行(しぶかわよしゆき)の次男・渋川満頼(しぶかわみつより)が任命された。

南北朝合一を達成して将軍権力を確立した第三代将軍・足利義満が、了俊(りょうしゅん)の九州に於ける勢力拡大や独自の外交権を危険視していた事が推測される。

了俊(りょうしゅん)は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の今川仲秋(いまがわなかあき)、甥の今川泰範(いまがわやすのり)と分割統治する事となった。

了俊(りょうしゅん)は守護職として駿河の統治に専心した。

千三百九十九年(応永六年)、大内義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。

この千三百九十九年(応永六年)、了俊(りょうしゅん)鎌倉公方・足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。

応永の乱平定後の千四百年翌(応永七年)には関東管領・上杉憲定(うえすぎのりさだ)に対して了俊(りょうしゅん)追討令が出される。

しかし、了俊(りょうしゅん)は上杉憲定(うえすぎのりさだ)や甥の今川泰範(いまがわやすのり)の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、千四百二年(応永九年)には上洛し、政界に関与しない事を条件に赦免された。

この今川一族が、遠江国と駿河半国の守護地を営々と守り、戦国時代に至って今川義元(いまがわよしもと)を排出している。



北朝・幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(いまがわさだよ/了俊)により北朝九州政権が大宰府を追われる頃、良光親王(ながみつしんのう)は形勢不利となった九州の戦況挽回の為に大内氏を頼った。

良光親王(ながみつしんのう)は南朝・後醍醐帝の皇子で、南朝の征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たり、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。

懐良親王(かねながしんのう)の皇子・良光親王(ながみつしんのう)は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(いまがわさだよ/了俊)に圧されて劣勢となった九州南朝方・征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内氏に下向している。


大内氏(おおうちうじ)の出自については、日本の氏族の一つ多々良氏が本姓とされるが、古代の記録が無く伝承の域から脱し得ない。

伝承に拠ると、大内氏は百済(くだら)の聖明王(さいめいおう)の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の後裔を称し琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗る。

その多々良氏が後に大内村に居住した事から「大内を名字とした」と伝えられるが、代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出である事以外は確たる証明は出来ない。

いずれにしても大内氏(おおうちうじ)は、中央の貴族の末裔を称する「源平藤橘その他」の武家とは異なり在地の「多々良」と名乗る官人が平安後期の頃より徐々に力を着け、平安末期の当主・多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられる。

その多々良盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲し、十四世紀頃から周防国の渡来伝承・琳聖太子の「後裔を名乗った」とされる。

大内氏は、周防国々府の「介(すけ)」を世襲した在庁官人から領主に台頭し、守護大名から戦国大名に移行した。

鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き実質的な周防の支配者となっていた為、鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。

南北朝時代に入ると、大内氏(おおうちうじ)で家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争する。

背景に在ったのは、南朝宮方・後醍醐天皇に組する当主・大内弘幸と北朝を擁立した足利方・足利尊氏に組する事を画した叔父の大内長弘との対立だった。

この抗争に勝利した大内弘幸の子・大内弘世は、南朝宮方として千三百五十八年(正平十三年)に隣国・長門国守護の厚東氏と戦いその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐った。



後醍醐天皇の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)は、千三百三十八年(延元三年/暦応元年九月に征西将軍宮・懐良親王(かねながしんのう)と伴に伊勢大湊から出港して土佐国に入る。

満良親王(みつながしんのう)は、新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南朝軍を従えて、千三百四十年(延元五年/暦応三年)正月、四国高知の武将・大高坂松王丸(おおたかさかまつおうまる)の救援の為に潮江山に布陣する。

満良親王(みつながしんのう)の宮方軍勢は、北朝方・細川定禅(ほそかわじょうぜん)の要請を受けた四国北朝軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。


これに拠り南朝宮方・大内氏の勢力は周防と長門の二カ国に拡大し、弘世は本拠地を山口(山口県)に移し懐良(かねなが)親王の隠し皇子・良光王(ながみつおう)を密かに迎え入れる。

しかし五年後の千三百六十三年(正平十八年)、中央を北朝・足利方がほぼ掌握するに及んで、大内弘世は良光王(ながみつおう)の存在を秘したまま北朝・足利方幕府に帰服する。

北朝・足利方幕府方に帰服した大内弘世の跡を継いだ大内義弘は、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務める。


南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。

しかし大内弘世(おおうちひろよ)は、その後北朝・足利方に寝返った為、満良親王(みつながしんのう)は千三百四十二年(興国三年/康永元年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びその後の消息は不詳とされる。

満良親王(みつながしんのう)のその後の消息は不詳だが、遠江国・方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選(むもんげんせん)や、千三百五十一年頃に周防国で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう)が、後身であるとするなど多説がある。


後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と懐良親王(かねながしんのう)の継嗣・良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見される。

この誤解の為に、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。

尚、良光王(ながみつおう)を親王と記載するには、懐良親王(かねながしんのう)が幼くして九州制圧に任じ、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いて居た為、独立した九州王朝だったと見る状況が在ったからである。

懐良親王(かねながしんのう)が九州に渡り時を経ると、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、九州に於ける懐良親王(かねながしんのう)は幾多の戦いを勝ち抜いてさながら九州王国並みの強固な地盤を築いている。

そうした懐良親王(かねながしんのう)の勢力を認めて、明の太祖(洪武帝)がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良(かねなが)に宛て送り来る。

懐良親王(かねながしんのう)は、始めは断るものの、後に「日本国王・良懐(ながかね)」として冊封を受け、明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

この名を前後させ「日本国王・良懐(ながかね)」として明の太祖(洪武帝)依りの冊封を受けた事を根拠に、その第一皇子を同様に光良(みつなが)から良光(ながみつ)として親王を名乗った可能性を感じる。


千三百九十一年(明徳二年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍し、結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の六ヵ国を領する守護大名となり、大内氏の最盛期を築き上げた。

千三百六十年(正平十五年、延文六年十一月二十一日〜八月三日)、「正平(康安)地震(東南海)」が発生する。

正平(康安)地震の推定マグニチュードは八〜八・五 、また「太平記」などの記録から翌千三百六十一年に「南海地震が発生し(東南海 南海連動?)」と考えられる。

また、これに前後して東海、東南海地震が発生した可能性もあり、伊勢神宮の「神宮文書」の記録から、東南海 南海地震とも考えられる。

この正平(康安)地震は、南朝勢力の衰微した南北朝時代(室町時代前期)に発生した南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。


この頃室町幕府は、三代将軍・足利義満の代に成っていた。

大内氏の隆盛を危険視した将軍・義満は事あるごとに大内義弘を挑発、挑発に乗った義弘は鎌倉公方の足利満兼と共謀して、千三百九十九年(応永六年)に畿内の領国・和泉・紀伊の軍勢を主力に堺で挙兵するも敗れて敗死する。

この時点でまだ本来の大内氏の本国・周防・長門・豊前・石見は無事だったが、義弘の死後再び家督を巡っての抗争が起こり大内氏の勢力は一時的に衰退する。

しかし室町幕府は、周防・長門の守護職を義弘の弟である大内弘茂に安堵された。

その後の大内氏は北九州方面に進出、少弐氏・大友氏と当主・大内盛見が討ち死にするなどの死闘を繰り返し、北九州・中国地方の覇権を確立して京都を追われた放浪将軍・足利義稙を保護して上洛を果たし、管領代として室町幕政を執行するなど中央で一大勢力を築き上げる。

しかし大内氏が中央に長期在京している間に、安芸武田氏の武田元繁や出雲国の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となって当主・大内義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦う。


中国地方の有力者・大内氏では、良光親王(ながみつしんのう)こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。

この良光(ながみつ)親王の末裔が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良(かねなが)親王の怨念を晴らすかの様によみがえった話しは、維新の時代を迎えた頃にジックリと記述する。



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南朝の衰退と室町幕府

◇◆◇◆(南朝の衰退と室町幕府)◆◇◆◇◆

南北朝初期の頃はまだ南朝方の勢力も強く、互いに味方を募り予断を許さない状況が続いた。


さて、信濃国から甲斐国、駿河国にかけて望月氏と言う姓を多く見かける。

それらの望月氏は、信濃望月氏と言い古代豪族・滋野氏(しげのうじ)の流れを引く望月村の土着の豪族・望月氏の一部が各地に移住して広めた名前である。

そもそもの望月氏名乗りの由来は、八百六十五年(貞観七年)の平安時代初期、それまで朝廷が八月二十九日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日=八月十五日に改めた事に由来する。

この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏(しげのうじ)であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族に因(ちな)んで望月の姓が与えられた。

滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や原氏(紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

指摘を承知で一応ご紹介するが、滋野氏(しげのうじ)は貞保親王(さだやすしんのう)が信濃国海野庄(現:長野県東御市本海野)に住し、その孫の信濃国小県郡に本拠を置いた善淵王(よしぶちおう)が九百五年(延喜五年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)された事に始まる皇別氏族である。

皇別氏族の真贋はともかくこの滋野氏(しげのうじ)が古代の名族で在る事に疑いは無く、枝に海野氏や望月氏・禰津氏(ねずうじ)などの諸族が在り、海野氏流には戦国期から江戸期の大名家となる真田氏の名も在る。

信濃望月氏の全盛期は、平安末期の千百八十年(治承四年)の木曾義仲(源義仲)挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。

木曾義仲が越後の平家方を迎撃した千百八十二年(寿永元年)九月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録がある。

この佐久衆の中心が、古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定され、また、義仲の四天王と評された根井光親も望月氏の傍流と伝えられている。

義仲が一旦は平家方を都から追い落とすも、源頼朝(みなもとよりとも)の命を受けた鎌倉方総大将・源範頼(みなもとのりより)の軍勢が源義経(みなもとよしつね)軍を擁して上洛し、義仲は敗走して琵琶湖畔の粟津で討ち死にする。

木曾義仲滅亡後の信濃望月氏は、鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。

その後信濃望月氏は、千百八十八年(文治四年)の奥州藤原征伐に従い、六年後(建久五年)の安田義定・義資父子の謀反を幕命により追討している。

さらに、北条執権家の粛清が吹き荒れた千二百十三年(建保元年)和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち信濃国和田を恩賞として賜っている。

後醍醐天皇が起こした元弘の乱(げんこうのらん)に拠って鎌倉幕府が滅亡した後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵する。

足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け、一時本拠地の望月城(現佐久市/旧北佐久郡望月町)を喪うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。

続く南北朝の争いでは信濃望月氏一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を三十年に渡って庇護した伊那郡の豪族・香坂高宗も信濃望月氏の一族とされる。



苦労の末に、宿敵・新田義貞を筑前で破り討ち取った足利尊氏は、光明天皇(北朝第二代)より「征夷大将軍」に任ぜられる。

これをもって室町(足利)幕府は成立する。

これは現代に通じる良く在る過(あやま)ちだが、後醍醐天皇と足利尊氏の勝敗を分けた主因を端的に言う。

部下は指導者が偉いから付いて行くのでは無く、「食わしてくれる」から付いて行くのである。

経営者も、政治家もここに心しなければ部下や大衆は付いて来ない。

経営者や政治家が、後醍醐天皇のように「自分が偉い」と自惚れて一部の者だけの利を図れば多くの敵を作り、その指導力は短命に終るのである。


鎌倉幕府を滅亡に追い遣った元弘の乱(げんこうのらん)の主役・後醍醐天皇や護良親王(もりながしんのう)、多くの親・後醍醐帝派の武将にした所で、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が、必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが「世の習い」と言う残酷な事実である。

ここで南北朝の乱世を制し天下を押さえたのが、「歴史の皮肉」と言うべきか二〜三番手の論理に当て嵌まる足利尊氏で、南朝方を畿内吉野山と東北・九州に押し込めて室町幕府を開いた。


人間の人生何てものは、実は偶然に弄(もてあそ)ばれるもので、それは「どんな両親から生まれて来たか」から既に始まっている。

そしてその偶然は、その者が命のともし火を潰(つい)えるまで連続して続く。

つまりその者が人生に於いて「たまたま成功したから」と言って、「本人だけが偉い」何て事は在り得ない。

むやみやたらな「頑張れ」は残酷な言葉で、努力は必要だが努力だけではどうにも成らないのが偶然に弄(もてあそ)ばれる人生である。

人間、多少能力が有ったくらいでは簡単には成功を得られない。

まぁ好運も能力の内かも知れないが、それ以外に犠牲にするものも在って初めて成功する場合が多い。

正直や正義感だけでは生きて行けないのが浮世(現世)の現実だが、つまり僅かばかりの成功者は愛情だったり正義感や良心だったりを棄てて初めて成功している。

政治家にしても官僚にしても企業にしても、トップに成るには熾烈な競争を勝ち抜くもので、権力抗争に於いて例え動機が正義でも権力志向の者ほど正直や正義感ではやって行けなくなり、やがて目的を優先するあまりそう言うものに麻痺して来る。

従って我輩は、権力的に出世を果たした者は「相応の無理を重ねている」と思っているから然して尊敬はして居ないし信用もしていない。

しかしそう言う出世者に、過大な期待を持つのが民衆の常でもある。


その後も南朝方は「三種の神器」を奉じ、吉野山中一帯を本拠地として度々京にも攻め上り、まだ健在で抵抗を続けていた。

しかし三年に亘る激しい攻防戦で、楠木、新田、北畠、千種、名和、結城などの名だたる武将が戦死し、その戦いの最中に後醍醐天皇も崩御される。

真言立川流の呪力は、終(つ)いによみがえらなかったのである。

文観は、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して、真言密教の根本道場「東寺」の東寺長者(とうじのちょうじゃ)大僧正となる。
一時は立川流を「国教にするか」と言う所まで広めた文観は、河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で、享年八十歳にて没した。

文観は、当時としては珍しく八十歳と言う長寿を全うしたそうである。

立川流の呪法の効き目なのかも知れない。

文観は、死期を迎える僅か前まで村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。

その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派はチャッカリ教義に取り入れて立川流を邪教とし、禁欲の教義を広めた為に安土地桃山期には真言密教立川流はほとんど無くなり江戸初期には完全に消滅してしまった。

実は、儒教思想採用後の「性欲を煩悩」とする宗教観は、一見正論の様で根本的に間違っている。

人間の「業(ごう/カルマ)」と言うものは本能の事ように言われるが、実は「知性・理性」と言った余分な事を考えるように成り、人間が利の追求の為に嘘つきに成り手段を選ばなく成った事こそ「業(ごう)」なのである。

何故なら、素朴な生物本能に「業(ごう)」何てものは存在しない。

客観的に見れば、本来、素朴な筈の性行為に特別な理由をつけたがるのが人間の悪い所である。

この教義上の争いは、人間の本質を生かして調和して行くのか、建前に紛らわしてしまうかの「せめぎ合い」だったのだが、結果的に建前に紛らわす無理な方法を採ってしまったのである。

しかし不思議な事にこの禁欲の教え、支配階級だけは血統の維持を名目に例外で、昭和の敗戦で民主憲法が出来る前までの永い間、天皇を始め氏族(貴族や武士)から大商人まで「妾」を沢山こしらえて居た。

つまり矛盾する事に姦淫を禁じられたのは貧しい民ばかりで、「お前らは家庭や社会を乱さず、真面目に働いて上納しろ。」と言わんばかりである。

もっとも、或る意味現実的だったのかも知れないが、戦後の昭和三十三年以前までは売春(公娼制度)が公認されていたから、儒教精神も諸々の仏教信仰もかなり鈍(なまく)らの「建前」だったのかも知れない。

そこを取り上げれば、真言密教立川流が建前ではなく赤裸々に人間の本能に迫り、そこから人間の本質を生かして「調和して行こう」としたのは、それなりに一つの真理の探究ではなかったのか?


本来男性は存在そのものが生殖本能の塊であり、今は社会環境(社会的制約)が許さなく成って発揮する範囲が極端に減った。

だが、本来「男性の向上心や闘争心」の原動力は女性の存在である。

男性の基本的本能にある潜在意識は女性と良い交尾する事で、その為に努力するように思考回路は出来ている。

この辺りの否定出来ない男性の本能については女性の理解が必要で、そこを無視して女性の感性を押し付けるから男性の向上心や闘争心が削(そ)がれて、世に頼り無い男ばかりが出現する事になる。

貴女の旦那様が面白くも無い無気力で平凡な男性なら、それが貴女に原因があるかも知れない。

現在の社会事情では、当然ながら男性が無分別に「良い交尾」をして歩く事は出来ない。

男は、単純な生き物であるから、いたずらに本能が抑制されれば力を発揮する意欲は自然に減退する。

そう言う制約の中で旦那様が本能に火を着けて、向上心や闘争心を発揮させるには「貴女の心掛けが必要」と言う訳である。

つまり貴女が妻や娼婦を使い分けて演じ、旦那様の本能に火を着ける事で新しい未来が開けるのかも知れないのだ。

そうした貴女の心掛け無しに只「頑ん張れ」と尻を叩いても、単純な男性としての旦那様は餌も無しに向上心や闘争心が燃える訳が無いのである。

必要なのは人間と言う動物に「何が大切か」と言うと「発想の転換である」である。

頑(かたく)なに、既存の常識・建前を振りかざしていたのでは、自ら生き方を狭くするばかりで、けして得策ではない。

物事を柔軟に考えると、哀しいかな動物の一種類としての人間の本能には犬と同じに「優劣主従の関係」を欲求する心理的遺伝子が残っている。

これは群れを作る動物には必ず存在する自然本能で、後に発達した論理「人間平等精神」とは矛盾がある。

所が、人間界の建前ではその本能を無視し、「人間は平等だ」と奇麗事を言う。

そこで、その本能と建前の乖離(かいり)により、様々な問題が引き起こっている。

つまり一部の人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する訳である。

所が、世間の建前は「人間は平等だ」と言う事に成って、深層心理にフラストレーションが溜まる。

このはけ口が、時として学校での虐(いじ)めや家族内虐待に向かったり、絶対権力者を求めて新興宗教の教祖に、無条件で嵌(はま)ったりする。

果たして、性欲に蓋をするだけで事足りるのだろうか?

高齢者にだって、性欲はある。

世間の建前では「良い年をして。」が前提に成っていて、高齢者の性は切り捨てられている。

何故ならば現代社会に於いて、老人の性は社会秩序と相容れない制約環境に取り囲まれているからだ。

つまり、老人達の生命の人間性を無視し、社会秩序の安定と言う別の理由の為に、理性を強いているだけだ。

しかし人間は、もてたいパワーから人生が始まり、もてたいパワーが、生きる希望や向上心の原動力に成っている事は誰も否定出来ない。

今でこそ、性欲の事をおおっぴらにする事を「はしたない事、社会秩序に反する事」と、密封されているが、昔は違った。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多く在った。

中国で古くからある「医食同源」と同じように、「性は生に通ず」が、この教えの基本である。

勿論、「社会秩序を配慮する」と言う注釈付ではあるが、健康の為の特効薬である事は、間違いない。

現代に於いて、高齢化社会の出現は社会問題になっている。元気に働ける高齢者を創出する事が求められているのだ。

だとするなら、高齢者の性欲を否定する事は彼らの生きがいを取り上げる事にならないのか。

この理解の無さが生きる気力を低下させ、精神や肉体の老化を促進させるとは考えられないか?

批判も多いと思うが、一つの真理である。



どうも都合の悪い過去は「無かった事」にするのが人間である。

真言立川流についても、現存する文献から導き出して「淫邪教とは別の信仰だ」とする研究者も多い。

しかしながら、我が国のみならず洋の東西を問わずに、権力に敗れた側の信仰の教義は根こそぎ隠滅されて当然である。

ましてやその教義が、勝った側の教義と正反対であれば、「無かった事」にしなければ都合の悪い過去である。

当然の事ながら、生き残る為や外聞を慮(おもんばか)って「文献の改ざん」などが行なわれる事、つまり「無かった事」にする事も有って然るべきで、現存する文献からのみ結論を導き出すのはバランスが悪い。

歴史上の事象を考察する時、書き残された文献に対してはそれを盲目的に受け入れず客観的視点を持って臨まなくては成らない。

この物語の当初から申し上げている通り、現代まで残る文献には必ず何らかの意図が含まれるものである。

現在の社会合意の物差しから大いにはみ出しているこの「真言立川流」の存在に於いて、時代背景を考慮すれば「都合の悪い過去」として葬り去るには好都合の文献しか残らなくて当然である。

「始めに結論ありき」でそこを意図的にホジリ出して、無理やり「無かった都合の悪い過去に仕上げよう」と言うのであれば、それは少し違うのではないか?

それ故、あえて「真言立川流」の案外事実かも知れない俗説を採って物語を進めた。

「根拠」は何かと尋ねられれば証拠がないので憶測の域を出ないが、後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

一度広まった信仰を消滅させるのは、本来並大抵の事ではない。

それを攻撃し消滅させるには強力な材料が必要である。

この徹した「真言立川流」へ弾圧振りの理由が、かの教義が髑髏(どくろ)信仰とまで行かなくても、「世俗的、かつ非禁欲的だったからこそではないか」と推察されるのである。


真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経(りしゅきょう)の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。

そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。

そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。

しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。

神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深い筈の庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

日本に於ける所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

京都府宇治の県(あがた)神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした過去の事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。

当時の庶民感覚は、元々「性」にたいしておおらかだった。

信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として「大いに支持された」と言う事だろう。

そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。

朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。

空海の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(こうぼうだいし・空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

所が、そのライバルが現れる。

鎌倉期〜安土桃山期にかけて大陸で「元」が起こりその侵攻を避けて南宋から渡って来た知識人が朱子学等最新の「儒教」を伝て、否定されて一度は衰退していた「儒教」が幅を利かせ始め、日本の「性」に対する意識は主として支配者側と庶民側に二分して行く。

日本と言う国は、皇統を始めとする血統至上主義の氏族社会が永く続いたので、現代の人々も未だに血統に対しては異常な程「氏族で在りたい病」として反応する。

現代人もそうした心理背景を思考の中に内在しているから希望的に先祖が氏族で在る事を望み、儒教・儒学(朱子学)を基本として採り入れた「武士道精神」などと言う綺麗事に騙され易い。

しかし、勘違いしては困る。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、過つての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも明治維新までは根強く残っていたのは確かである。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観を、まるで二千年来の歴史的な意識思想とする所に、大いに妖しさを感じるのである。


皇統・大覚寺統は、鎌倉後期〜南北朝並立時代に皇位に即いた皇室の系統で、同じ皇統である持明院統と対立していた。

皇統・大覚寺統は、第八十八代・後嵯峨天皇の子である第九十代・亀山天皇の子孫である。

亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨に在った大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの大覚寺統の名称が付けられた。

院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起る。

この対立を、鎌倉幕府は両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定する。

後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王(後醍醐帝)に皇位を継がせようとする。

だが、尊治親王が後醍醐天皇として即位すると、後醍醐天皇はこの妥協案に従わず皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。

これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策、元弘の乱(げんこうのらん)を起こしたこの為、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。


一方持明院統は、鎌倉後期〜南北朝並立時代の日本の皇室の系統で、第八十八代後嵯峨天皇の子である第八十九代後深草天皇の子孫である。

持明院統と言う名称は、鎮守府将軍・藤原基頼(ふじわらのもとより/藤原道長の曾孫)が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称した事に端を発する。

基頼の孫・持明院基家の娘・陳子(のぶこ)は守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子・茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった。

後堀河天皇の即位に依り、守貞親王(もりさだしんのう/安徳天皇の異母弟)には太上天皇の尊号が贈られた為、守貞親王(もりさだしんのう)は、後高倉院と称した。

そして、後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣(なら)って持明院邸内に住んだ。

これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統の事を持明院統と称された。


鎌倉幕府の推挙により、第九十六代天皇に三十一歳と若くてやり手の皇子で野心も在った大覚寺統(だいかくじとう)・後醍醐天皇が即位すると、天皇親政を目指して鎌倉幕府の倒幕を目論む。

対抗する持明院統(北朝)や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せる。

所が、千三百三十三年に鎌倉幕府は滅亡し建武の新政が成ると、後醍醐天皇復位によって持明院統・木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、新体制施行二年半にして足利尊氏が挙兵、建武の新政体制は崩壊する。

吉野に逃れた大覚寺統の南朝天皇(後醍醐天皇系)と、足利尊氏に擁立された持明院統の北朝天皇(光厳天皇系)の対立時代=南北朝時代となる。

観応の擾乱の際、持明院統(北朝)は京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、その後大覚寺統(南朝)が巻き返して半年で崩壊する。

後に室町幕府・三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が「南北朝合一」を受諾する。

後亀山天皇(南朝)が三種の神器を持明院統(北朝)の後小松天皇に引き渡して「南北朝合一」とし、南北朝の分裂は終わった。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。

そして以後の皇位が持明院統だけで継承された為、大覚寺統の子孫は不満を抱き、再び南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立て篭るなどの抵抗を十五世紀半ばまで「後南朝」として続けた。

一方、持明院統の系統は次の称光天皇(しょうこうてんのう/第百一代天皇)の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続く事になった。


鎌倉期以後、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院に於いて研究された「儒教」はやがて支配者側に浸透し、儒教を批判した弘法大師のお膝元真言宗も、一部が「儒教」の知識を取り入れて二派に分かれて行く。

もっとも儒教・儒学(朱子学)の精神思想が盛んだったお隣の韓国にも、都合が良い事に「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は例外と言う「両班(ヤンバン・特権貴族階級)」と言う制度上の抜け道は存在したのだが、勿論「儒教」一派も都合の悪い事は意図的に考慮から外している。

後醍醐天皇の「建武親政」当時、皇統は大覚寺統と持明院統に分かれ皇統の継承争い発展していた。

為に、皇統護持の寺・真言宗醍醐寺も大覚寺統と持明院統に分かれ、弘法大師の真言密教を発展させた立川流の大覚寺派と真言宗に「儒教」を取り入れた持明院派の教義上の主導権争いがリンクしていた。

そして、南北朝並立時代は、皇統同士の継承争い、皇統と武門の権力闘争、大覚寺派と持明院派の主導権争いが複雑に絡んで、南北朝四十五年、後南朝五十数年と約百年に渡り内乱が続いたのである。

南朝方の抵抗は続いていたが、国土の大半を統治下に収めた皇統持明院統と足利(源)尊氏、真言宗持明院派がほぼ勝利を収めると、当然の事ながら、「儒教」を取り入れた持明院派の教義が真言宗の主流となり、真言密教立川流は弾圧され衰退の道を辿って行く。

一度根付いた大規模な信仰を根こそぎ消滅させる事は、本来並大抵ではない。

そこで攻撃する為の信者さえ納得し得る大義名分(淫邪教と呼ぶ)が採用され、真言宗は殊更儒教色の強い教義となった。


近頃、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して真言密教立川流は「淫邪教では無かった」と唱える学者がいるようだ。

性的教えだから即「淫邪教」と決め付けるのは短絡過ぎるので「淫邪教では無い」までは賛成だが、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して別の名も無い一派を登場させ、その一派が「淫邪教」で在るかのごとく摩り替えるのはかなり無理がある。

そもそも弘法大師(空海)が持ち帰った真言密教は、桜の原種・ヒマラヤ桜と同様に中華帝国を経由して日本列島に伝わったネパールやブータン発祥の性文化そのものである。

そうした事実背景が在りながら、真言密教には「淫邪の教えは無かった」としたいのである。


室町期以後に「淫邪教」として散々弾圧し、衰退させた歴史的経緯がある「真言立川流」を、今に成って別の名も無い一派が「淫邪教」で在って、「本当の真言立川流は全く違うものだった」とする研究者が存在する。

だがそれでは、一度根着いた信仰を徹して弾圧する為の大儀名分はいったい何だったのか?

それを言うなら、太平記に「文観僧正の手の者と号して、党を建て、肘を張るもの洛中に充満して、五〜六百人に及べり」とある。

この記述に拠り、文観僧正が非人達を武装組織した「私兵だった」と言う指摘があり、徒党を組んで乱暴狼藉に及び婆娑羅な風俗を「洛中に蔓延させた」とされるが、歴史物語は主役敵役・敵味方が在って初めて面白くなる。

何度も言うが、古文書の存在のは歴史過程のヒントになるかも知れないが「不都合な過去を消す為」と言う政治的効用も在り、「必ずしも事実とは受け取れないもの」と心得るべきである。

何しろは文観僧正は稀代の妖僧で、真言立川は淫邪教と鎌倉方と真言宗右派(禁欲派)に排斥されて後の記述なので、お定まりの時勢に沿った捏造物語かも知れない。

元々日本の仏教や神仏習合の修験信仰については、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

ヒンドゥー教の国・インドにはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

そして冷静に考えれば、「淫邪教」と決め付けるだけのエロチックな要素(必要条件)が「真言密教立川流」に存在しなければ説得力に欠ける話で、徹底弾圧の大儀名分足り得無いではないか?

その揺ぎ無い徹底弾圧の事実と、「別の名も無い一派が淫邪教」だったする事の整合性がない。

ただ金沢文庫(かねさわぶんこ)の「文献に在ったから」と、南朝・後醍醐帝まで信仰した「真言密教立川流を全く違うものだ」とする事こそ、強引なこじ付けではないだろうか?

鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝・室町幕府時代以後に金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を明治期まで管理したのは、真言律宗別格本山・称名寺 (しょうみょうじ)で、真言密教立川流については同じ真言宗門として、「有っては成らない」と言う都合が悪い立場の寺なのである。

そうした周辺事情を考慮すると、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献内容にも、手放しの信頼は置けないのである。

事、良識派を気取る研究者の「有ってはならない」と言う希望的な意図する思いが、該当する文献を掘り起こした「研究成果」と、うがって考えるのは我輩だけだろうか?

そして真実から目を背(そむ)けられ、歴史も文献もでっち上げられて「無かった事にする」のである。

我輩は、時代考証に拠る推測で、現在とは違う宗教観や風俗習慣が「有って当然」と思うが、こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗してくる。

彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無い。や、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。

それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。

所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある事を忘れてはならない。

伝説や風聞を疎(おろそ)かにする研究者は、本物ではない。

時の権力を慮(おもんばか)っての真実口伝(くでん)も充分に考えられ、真実の歴史を紐解くヒントは伝説や風聞の中にこそ眠っているのである。

伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れない。

「社会的現実」と言うものは、時代と伴に変遷するものであるから、現在の「社会的現実」を持ってその時代の庶民意識や価値観を判断すべきではない。

実は、宗教(信仰)と言えども、常に「社会的現実」には迎合して変節するものである。

例えば、元々仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定していた。

所が、時代の変遷と伴に南北朝並立期の北朝・持明院統と結び付いた「真言宗右派」が、南朝・大覚寺統と結び付いた性におおらかな「左派・真言立川流」に対抗する為にその性に厳格な儒教思想を取り入れる。
「真言宗右派」は、北朝方・足利派の勝利に拠って「左派・真言立川流」を淫邪教として排除に掛り、仏教諸派が追随して儒教思想を取り入れた。

つまり真言原理主義からすると、生き残った真言宗右派は真言宗開祖の教えを守らない事に成り、変節した事になる。

しかし、「弘法大師(空海)様がそんな教えを説く筈が無い。」と、始めから否定して言うのが、宗教家の都合の良い本質である。


残念な事に、リアル(現実)な歴史観は宗教観と政治思想に拠って捻じ曲げられるのが常である。

はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。

恥ずかし気も無く、自分の正義感を満足させたいだけで「こうあるべき」と言う「べき論」を真っ先に掲げて思考を始める怪しげな綺麗事歴史論者の姿勢は、結果的に歴史を捻じ曲げてしまう。

つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。

そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を鬼の首を取ったがごとく取り上げる。

都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられるのである。


歴史の流れを読む事とは、バラバラのパズルチップをかき集め当て嵌めて行く作業であり、正しい答えは断片を捉えても見えてはこない。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。

真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅(またら)神を本尊とする「玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)」と言う一派があった。

そうした事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。


それでも醍醐寺統の皇統は続き、天皇を名乗って政権奪還を試みる。

後醍醐天皇が崩御されて(亡くなって)十年ほどする頃、勢力は次第に衰えて吉野宮も陥落する。

だが、吉野朝(南朝・大覚寺統)はその後も抵抗を続けて四十五年間がんばり、一度三代将軍・足利義満の時代に和解、「三種の神器」も引き渡すが「明徳の和約」による約束を反故にされる。

その和約後、北朝(持明院統)が交代で皇位を渡さなかった為に、また吉野を本拠に抵抗を始め、更に「後南朝」に拠る五十年余の抵抗の歴史が存在する。

明徳の和約(めいとくのわやく)は、千三百九十二年(明徳三年/元中九年)に分裂していた皇統、吉野朝(南朝・大覚寺統)と北朝(持明院統)間で結ばれた和議と皇位継承について結ばれた協定である。

この明徳の和約(めいとくのわやく)は「明徳の和談」、「元中一統」とも称される。

この和約に従ってユリウス暦千三百九十二年十一月十九日(明徳三年/元中九年閏十月五日)、吉野朝(南朝)の後亀山天皇が吉野から京都に帰還する。

京都に帰還した吉野朝・後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が図られた。

これに拠って、千三百三十六年(建武三年)以来の朝廷の分裂状態が五十三年振りに一旦終了した。

しかしそもそも、この「明徳の和約」は内乱の解決を図る室町幕府第三代将軍・足利義満らと吉野朝(南朝)方でのみで行われ、北朝方は蚊帳の外だった。

それで、北朝方はその和約内容を知らされず「当事者として合意を約したものでもなかった様」である。

その為か、北朝では「譲国の儀(正統な南朝から受け継ぐ意味)」の実施や両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。

北朝の後小松天皇は、その経緯から吉野朝(南朝)の後亀山天皇との会見を拒絶する。

後小松天皇は、平安時代末期に安徳天皇と伴に西国に渡った神器が安徳帝の崩御と伴に京都に戻った先例を採り「吉野朝(南朝)と約した」とされる「譲国の儀」を無視する。

その先例に則って後小松天皇は、上卿(権大納言)・日野資教、奉行(頭左大弁)・日野資藤らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷して一方的に決着させる。

元号についても朝廷では北朝の「明徳」を継続し、二年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、後小松天皇や公家達の反対意見を足利義満が押し切る形で漸く実現した。

さらに王朝国家体制下の国衙領(こくがりょう/国衙が支配した公領)の扱いについても吉野朝(南朝)と北朝は元々の方針が違い、双方が対立する。

「建武の新政」以来、知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとして来た吉野朝(南朝)と、知行国として皇族や公家達に与えて国衙領の実質私有化を認めて来た北朝との対立だった。

吉野朝(南朝)方が北朝側の領主権力を排除して和議の内容はほとんど無視され、実際に朝廷が保有出来た国衙領は「僅かで在った」と見られている。

尚も北朝方は、両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)が条件で在ったにも関わらず、千四百十二年(応永十九年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。

その称光帝には嗣子が無く、千四百二十八年(正長元年)の崩御よって持明院統の嫡流は断絶する。

嫡流断絶にも関わらず、後小松上皇は傍流である伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)の約束を反故にした。

反発した吉野朝(南朝)の後胤や遺臣らは再び吉野に篭り、朝廷や幕府に対する反抗を十五世紀後期まで続け、これを後南朝と言う。

吉野朝(南朝・大覚寺統)苦難の百年間である。


清和源氏の河内源氏系・甲斐武田氏は、鎌倉時代後期には、確認される唯一の鎌倉期甲斐守護として石和流武田氏の武田政義がいる。

武田政義は後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱に於いて幕軍に従い笠置山を攻めているが、後に倒幕側に加わり幕府滅亡後は建武の新政に参加している。

千三百三十五年(建武二年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝期には安芸守護で在った武田信武が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、南朝方の武田政義を排して甲斐国守護となった。



一方の持明院統の方であるが、こちらにも色々在った。

足利氏の後押しで、北朝が圧倒的に有利となり南朝は紀伊半島の山岳部などに追いやられて、この優勢に北朝の天下は順調に事が進んだかに見えたが、北朝の系統にも疑問を投げかける歴史家もいる。

現世に於いて、神の分身である帝の下す天罰は、勘解由小路(賀茂)党が具現化する役目を負って来た。

しかし南北朝並立の動乱期を節目に、その勘解由小路(賀茂)党が四散して帝の影の力(天罰)が直接周囲に及び難くなった事が、弱体化したまま足利幕府の上に乗った北朝・天皇家と朝廷の姿である。

つまり武力や諜報活動能力を持たない北朝・天皇家は、足利・室町幕府の全くのお飾りと化していた。


足利尊氏には将軍に成る野心は有ったが、最初から天下を取る自信が有った訳ではない。

実際、旗揚げはしたものの茨の道で、一度は北畠顕家との京での戦いに敗れ九州に逃れて再起を果たし後醍醐帝を吉野に追う事に成功したが決定打が無く南北朝並列の不安定な幕府の運営を強いられた。

その後、足利尊氏の開いた足利家の室町幕府が絶対的な権力を握るには、第三代将軍・義満の時代に南北両朝が和解するまで待たねば成らなかった。

とは言え、足利尊氏の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常で、護良親王(もりながしんのう)の様に鎌倉幕府・北条一門を滅ぼした本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。



後醍醐天皇の元弘の乱(げんこうのらん)に拠って鎌倉幕府が滅亡した後に成立した建武政権から離反した足利尊氏が、南北朝並立時代を有利に進めて開府した武家政権の事を「室町幕府」と呼ぶ。

室町幕府と言う呼称は、他の幕府と識別する為に後世に呼ぶ様に成ったもので、三代将軍・足利義満の代になって室町通今出川付近に造営した将軍の公邸である花の御所(室町殿)が由来となっている。


室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲し、基本法としては千三百三十六年に尊氏が建武式目を制定し、具体的な法令としては鎌倉時代の御成敗式目(貞永式目)を適用し、必要に応じて「建武以来追加」と呼ばれる追加法を発布して補充している。

初期の幕府(室町)政治は、まだ南朝が存在した事もあり不安定であった上に足利尊氏が弟である直義と権限を分割し、尊氏が武家の棟梁としての職務を行い、その他の一般行政・司法は直義が行う「二頭体制」が取られていた。

下文・御教書等の公文書も尊氏・直義が其々の職務に関する文書を自己の権限で発給し、その下に将軍の補佐である執事を始めとして侍所、政所、問注所、評定衆、引付衆が其々設置される。

だが、兄・尊氏の執事である高師直(こうのもろなお)と弟・直義との確執が、尊氏・直義兄弟間の内乱である「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」へと発展し、幕府役人も両派に分裂して幕府機構は危機的状況に陥った。


その後、尊氏の後継となった第二代将軍・義詮(よしあきら)が幕府機構の再建に努め、執事の権限を強化して「管領」と称される様になる。

だが義詮(よしあきら)は病に倒れ、幼少の後継者・第三代将軍・義満の為に細川京兆家の当主・細川頼之(ほそかわよりゆき)を管領に任じて後見をさせた以後、頼之後見期及び義満による親裁期を経て将軍を頂点とする政治機構が構成される。

室町幕府は将軍直轄の軍事力として奉公衆が編成されたが、体制は守護大名による連合政権であり、足利家の執事職を起源とする管領は鎌倉幕府の執権程は実権が無く、幕政は原則的に合議制であった。

将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三氏が交替で就き(三管領と呼ばれる)侍所長官である所司には赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の四氏(四職と呼ばれる)が交替で就任した。

幕府要職には細川氏、斯波氏、山名氏、一色氏、畠山氏等、あく迄も足利氏の臣下筋である数カ国に渡る守護職に就いている有力守護大名が就き、渋川氏、今川氏、吉良氏等の足利一門は家来筋ではないので幕府要職に就く事は無いのが特徴である。


畠山氏は桓武平氏流の平良文(たいらのよしふみ/村岡良文)を祖とする坂東八平氏の一つ秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領して居た。

村岡良文流平氏・畠山氏(はたけやまうじ)の棟梁・畠山重忠(はたけやましげただ)が、源頼朝(みなもとのよりとも)が起こしたの治承のクーデターに加わって鎌倉幕府成立に貢献する。

畠山重忠(はたけやましげただ)は鎌倉幕府の御家人に納まって幕政に参加していたが、北条時政の画策した時政の後妻・牧の方(牧鍾愛)の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)の将軍就任運動と先妻の子である時政の娘・北条正子と時政の息子・北条義時(ほうじょうよしとき)との権力争いが起こる。

重忠(しげただ)も北条時政の前妻の娘婿だった為に、後妻・牧の方を寵愛していた時政に謀反人とされ、追っ手を掛けられて世に言う畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)で郎党共々討ち取られてしまう。

この畠山重忠(はたけやましげただ)の妻が源氏流・足利義康の四男・足利義兼(あしかがよしかね)の庶長子・足利義純(あしかがよしずみ)に再嫁して義純が畠山氏を継承した事から畠山氏の名跡が平氏流から源氏流に移り、後の南北朝期や室町期などに活躍する源氏足利流・畠山氏が誕生した。

義純の家系(足利流畠山氏)は名門・畠山氏の名跡を継承した事から、後に足利一門の家臣筋分家の中で斯波氏に次いで高い序列に列せられ、細川氏など他の家臣筋の分家とは異なる待遇を足利宗家から受ける。


千三百三十六年(建武三年)に足利尊氏(あしかがたかうじ)が室町幕府を創立すると、足利流・畠山氏はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の四ヵ国の守護に任じられた。

足利家の内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山氏嫡流の畠山高国・国氏父子は滅ぼされてしまう。

本来の嫡流である奥州畠山氏が衰退する中で、畠山国清の家系(河内畠山氏)が畠山氏の惣領格となり、関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立して東国から追放される。

国清家はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深(はたけやまよしとう)が後に守護職に任命され畠山氏を再興させる。

義深(よしとう)の子・畠山基国は、千三百九十一年の明徳の乱で功績を挙げるなどして三代将軍・足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力を着ける。

足利流・畠山氏は、千三百九十八年に管領職に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛氏や京兆細川氏とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。

基国の子・畠山満家は三代将軍・義満には冷遇されたが、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。

満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の干渉に苦しめられるが、畠山氏の内紛を鎮めて細川氏や山名氏と拮抗する勢力を維持した。

しかし、持国の子・畠山義就と甥・畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それに細川氏や山名氏が絡んで後の応仁の乱の一因になった。

応仁の乱の終息後も、政長流と義就流との身内の対立は続いて、同じく管領家で在った細川政元の策略により弱体化し衰退した為、支配地の守護代や被官の自立や下克上を促す結果となった。

越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが紀伊国だけは最後まで勢力を保っも、守護職としての支配権は豊臣政権や徳川政権の大名任封ではじき飛ばされてしまう。

戦国の戦乱が終わる頃には、畠山氏は見る影も無く勢力を失ったが、家柄の良さを徳川家康・秀忠親子に認められ、江戸時代に於いては旗本や高家として数家が残った。



室町幕府の地方統治機構としては、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こると、足利尊氏は鎌倉に東国十ヵ国を統括する機関として鎌倉府・鎌倉公方を設置し、尊氏の子・足利基氏を鎌倉公方(長官)としてその基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。

鎌倉公方は室町時代を通じて幕府と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立して行った為、これに対抗する幕府は東国や陸奥の有力国人を京都扶持衆として直臣化した。

そうした背景の中、足利義教の代に永享の乱を起こした第四代鎌倉公方・足利持氏を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子・足利成氏を新しい鎌倉公方とした。

しかしその成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、更に関東管領・上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家に分裂した為、応仁の乱が始まる前に東国は騒乱状態となる。

この東国の騒乱に幕府も手を拱いていた訳ではなく、八代将軍・足利義政の庶兄・足利政知を関東に堀越公方として派遣するも、堀越公方も政知の死後に今川氏の重臣伊勢盛時(北条早雲)によって倒されて、失敗に終わった。

また、鎌倉公方から古河公方となった足利成氏の血統も小弓公方との分裂を経て、盛時の子孫である後北条氏によって傀儡化させられて行く。

九州には九州探題が設置され、本拠を博多(福岡県福岡市)に置くも初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。

東北地方には奥州探題が設置されるも、奥羽二ヵ国が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は稲村公方と篠川公方が設置され、斯波家兼が任じられ、家兼の死後に羽州探題が分裂し、出羽の斯波氏は最上氏となる。


室町幕府・足利将軍家を全盛に導いた三代将軍・足利義満の頃、「明徳の乱」が起こっている。

いつの世も同じだが、頂点に立たない限り「出る杭は打たれる」が世の習いで、この時の「出る杭」は新田流・山名氏(やまなうじ)である。

山名氏の本姓は源氏で、家系は清和源氏の河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子義国を祖とする名門・新田氏の一門に数えられる。

新田氏開祖となる新田義重の庶子・三郎義範(さぶろうよしのり/または太郎三郎とも)が、上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗った事から山名氏を称して始まった家系である。

但し山名氏(やまなうじ)には、新田氏と足利氏が共に先祖は義国流源氏の嫡流で同族でもある事から、岩松氏と同様に足利氏一門という説も存在する。

いずれにしてもその山名氏(やまなうじ)棟梁・山名義範(やまなよしのり)は、平安末期の治承(じしょう)のクーデターの旗頭の一人・源頼朝に早くから従い御家人となって鎌倉幕府開府に功を挙げ、源氏門葉として優遇された。


鎌倉幕府が後醍醐天皇の倒幕蜂起に拠って倒され、足利尊氏が建武の新政に反旗を翻す南北朝時代、新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、時の山名氏棟梁・山名時氏は縁戚の足利尊氏に従った。

足利尊氏が征夷大将軍に就任して室町幕府を開くと山名時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張った。

その後の観応の擾乱では足利直義に従ったが、二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の時代に幕府側に帰参し、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。

力を着けた山名氏(やまなうじ)は、時氏の子・氏清の時には一族で全国六十六ヵ国中十一ヵ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。

そこで、史上何度も繰り返される「出る杭」が登場する。

余りにも目覚しい山名氏(やまなうじ)の権勢の結果、三代将軍・足利義満から危険視され、義満は山名一族離反の謀略を執拗に試みる。

そして千三百九十一年(元中八年・明徳二年)、山名氏清は将軍・義満の度重なる挑発に堪りかね、甥(兄・師義の子)で婿の満幸や兄の義理と共に挙兵、「明徳の乱」を起こして同年十二月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻に遭って当主・氏清は戦死してしまい、満幸は逃亡したが後に捕えられて処刑、義理は出家して没落した。

惨敗した山名氏だったが当時の有力者の中は縁戚だらけで家名廃絶への助命嘆願の声も在り、山名氏清の三人の甥だけが山名氏として守護職の存続を許される。

一族は大幅にその勢力を減ずるに到り、勢力範囲は氏清の弟・時義の子・時熙の但馬守護職、氏清の婿・満幸の兄・氏之の伯耆守護職、氏清の兄・氏冬の子・氏家の因幡守護職のみとなった。

しかし六代将軍・足利義教の代に、再び山名氏隆盛の機会が訪れる。



赤松氏(あかまつうじ)は、鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した氏族で、後醍醐天皇の鎌倉幕府の打倒、足利尊氏の室町幕府の創設に寄与し、守護大名となる。

室町期を守護大名の一人として勢威を振るった後に嘉吉の乱(かきつのらん)を起こし、応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作った。

出自に関しては、村上源氏流として居るが信憑性は無く、鎌倉末期の棟梁・赤松則村(赤松円心)が北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する「村上源氏の末裔を自称する事を許可された」と言う説が近頃では浮上している。

南北朝時代に入ると、赤松円心は後醍醐天皇に味方したにも関わらず、建武の新政で守護国を没収された事などから、新政から離反した足利尊氏に味方する。

足利尊氏が一時形勢不利で九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、千三百三十六年(延元元年/建武三年)の湊川の戦いに於いて尊氏を勝利に導く遠因を作った。

円心の三男・則祐は第二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)や管領職・細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い次期将軍・足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。

その功により播磨国の守護職に任じられると共に、室町幕府内では京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職の一つとなって幕政に参画した。

赤松氏(あかまつうじ)は、円心の長男・範資(のりすけ)には摂津、次男の貞範(さだのり)には美作、三男の則祐(のりすけ/そくゆう)には備前の守護職が与えられ、播磨と合わせて四ヶ国の守護となる。

しかし本来の宗主家である範資(のりすけ)の摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は一旦庶流となり七条家を称した。


十五世紀に入った千四百四十一年(嘉吉元年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)父子が結城合戦の祝勝会で、第六代将軍・足利義教を暗殺すると言う「嘉吉の乱(かきつのらん)」を起こし、それにより赤松氏は山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐(みつすけ)・教康(のりやす)父子は殺され、赤松氏本流は没落し領地は功により山名氏に引き継がれた。

嘉吉の乱(かきつのらん)は、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)謀殺事件である。

時の将軍が謀殺されるなどはとんでもない大事件だが、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)はそのとんでもない事件で命を落とした歴史的将軍である。

嘉吉の乱(かきつのらん)のそもそもの事の起こりは、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が自らの権力強化を目論んで有力守護を廃する動きをした事に端を発している。

六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)は、その降って湧いたような将軍就任の経緯も在ってかコンプレックスの塊だった。

義教(よしのり)は三代将軍・足利義満の三男で、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の同母弟だが、得度して門跡となり「義円」と名乗った同じ日に、義満に溺愛された異母弟の足利義嗣が従五位下に叙爵されており、義円は義満の後継者候補から外れた。

その異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)は、関東地方で起こった上杉禅秀の乱に関与していたとして将軍・義持(よしもち)が相国寺等に幽閉、二年後の千四百十八年(応永二十五年)に殺害している。

門跡となった義円は、十一年後には百五十三代天台座主となり一時大僧正も務めたが、千四百二十五年(応永三十二年)、四代将軍で兄の足利義持の子・五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が急逝(在職三年で早世)し、義持も千四百二十八年(応永三十五年)正月に重病に陥った。

前将軍・義持が後継者の指名を拒否した為に群臣達の評議が行われて結果、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の四人中から、石清水八幡宮で籤(くじ)引きを行い将軍を決める事となり、義持の死後籤(くじ)を開封して義円が後継者に定まった。

為に義円は還俗して義宣と名乗り、義宣は義教(よしのり)と改名して参議・近衛中将に昇った上で征夷大将軍となったが、その後継手段から「籤(くじ)引き将軍」とも呼ばれた。

門跡に在った義教(よしのり)は六代将軍となっても将軍としての帝王学を学んだ訳でもなく、周囲の重臣は四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)や五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)の代からのベテランで扱い辛い。

この時代の将軍権力継承のシステムとして、当時の出仕習慣では多くの有力者は次期将軍と目される者に自らの子女を男なら幼い頃から御伽(男色)相手を務めるなどの稚児小姓・御伽衆として館に上げ、女なら側女にお仕えさせて強固な関係を築き、お家の次代の安泰を図る。

子飼いの臣とはそんなものだが、所が門跡に在った籤(くじ)引き将軍・足利義教(あしかがよしのり)にはそうした有力豪族との接点が無い。

つまり信頼を置くべき臣従関係として、有力守護職との間で事前に形成されるべき将軍職継承の為の暗黙の絆・「誓約(うけい)」が無いままの異常事態だった。


現代のオーナー経営者の息子への社長移譲でも同様で、前社長の長老役員は若い新社長には扱い難い相手である。

だから若い新社長が手腕を発揮するには、長老役員には徐々にお引取り願いたい所だが、それが「籤(くじ)引きで決まった」となると尚更に権威など無い。

そこで強権を発動して力を見せ付ける手段に出たのだが、籤(くじ)引き将軍・足利義教(あしかがよしのり)の遣り方は、世俗を離れていた為か余りにも性急強引過ぎた。

義教(よしのり)には、将軍職を強固な物にする為に扱い易い子飼いの重臣を揃える必要があった。

その為幕府の最長老格となっていた赤松満祐(あかまつみつすけ)は将軍・義教に疎まれる様になっており、千四百三十七年(永享九年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。

将軍・義教は赤松氏庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、千四百四十年(永享十二年)三月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

また、同年五月に大和永享の乱が起き、大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が将軍・義教の命により誅殺され、「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱した」と称して家督を子の教康に譲って隠居する。

千四百四十一年(嘉吉元年)四月、足利持氏(あしかがもちうじ/四代目の鎌倉公方)の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、一年以上に渡って籠城していた結城氏朝(ゆうきうじ)の結城城が陥落(結城合戦)した。

捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首され、これより先の三月に出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、将軍・義教の当面の敵は皆消えた。

有力守護を抑えて将軍の地位を強化しようと、一色義貫、土岐持頼ら有力守護を討って幕府の権威を高めんと画策した将軍・義教の矛先が、次に赤松満祐(あかまつみつすけ)に向いて来るのは間違いなかった。

黙って居れば、将軍・義教の意に沿わない守護は潰されてしまう運命で、事此処に到っては赤松満祐一族は切羽詰っていた。

赤松満祐(あかまつみつすけ)の子・教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ将軍・義教を招いた。

この宴に相伴した大名は管領・細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村など将軍・義教の介入によって家督を相続した者たちで、他に公家の三条実雅(義教の正室・三条尹子の兄)らも随行している。

つまり宴に同席したのは、赤松満祐(あかまつみつすけ)・教康(のりやす)の父子以外、全ては将軍・義教お気に入りの取り巻き連中だった。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれて屋敷の門が一斉に閉じられる大きな物音がたち、癇性(かんしょう)な将軍・義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた公家・三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えたと言う。

その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者・安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。

周囲に居たのは将軍・義教の取り巻き連中だったのだが、赤松父子やその家人と覚悟が違い、誰もほとんどが義教を救おうと動かないまま義教が討たれると、無抵抗のままに各々自分の屋敷に逃げ返っている。

管領・細川持之を始め諸大名達は、赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極める為に邸へ逃げ帰ると門を閉じて引き篭(こも)ってしまう。

それでなくても籤(くじ)引きの候補者はあと三人残っていて、つまり赤松氏が帝や先代先々代の将軍の血筋と「合意上の行動か」と疑いを持ったのだ。

しかし義教暗殺は、実際には赤松氏に拠る単独犯行で、赤松満祐一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害する積りで居た。

だが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかった為に赤松満祐一族は領国に帰って抵抗する事に決め、邸に火を放つと将軍の首を槍先に掲げて隊列を組んで堂々と京を退去した。

その後漸くして管領・細川持之が評定を開き、義教の嫡子・千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とする事を決定し体勢を整えた。

将軍・義教の葬儀の後、細川持常、庶流・赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。

討伐軍が領国へ侵攻すると、赤松満祐一族は各方面で善戦するが力尽き城山城へ籠城するが山名一族の大軍に包囲され、翌々日幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた赤松満祐(あかまつみつすけ)は教康(のりやす)や弟の則繁を城から脱出させ、自らは切腹した。

その後、赤松氏の遺臣が千四百四十三年(嘉吉三年)の禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器の神璽を千四百五十七年(長禄元年)の「長禄の変」で取り返し、南朝皇胤を殺した功により、赤松政則(あかまつまさのり/満祐の大甥)の時に再興を果たす。

赤松政則(あかまつまさのり)は「応仁の乱」では細川勝元(ほそかわかつもと)に与し、その功により播磨・備前・美作の三ヶ国を領する大々名にまで返り咲き、千四百八十八年(長享二年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐し本拠を置塩城に移した。

播磨・美作・備前の守護戦国大名・に帰り咲いた赤松政則(あかまつまさのり)は、七条家後裔の赤松義村を政則(まさのり)の養子に入れて後継とし、宗家への復帰を果たす事となる。


その後赤松氏宗家は、秀吉没後の千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍(石田方)に与した為、自害を余儀なくされた。

同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払った事を理由として徳川家康から自害を命じられ、大名としての赤松氏は滅亡した。

但し赤松則村(円心)の三男・赤松則祐(あかまつそくゆう/のりすけ)の五男・有馬義祐の後裔で摂津有馬氏当主・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の役に於いても徳川方で功を挙げた事により筑後国久留米に二十一万石の大封を与えられ、宗家・赤松氏と明暗を分けている。

この有馬義祐の家系は久留米藩の他に、享保年間には紀州藩士・有馬氏倫(ありまうじのり)が紀州藩主だった八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)に仕え、吉宗が将軍に就任すると側御用取次に栄進して伊勢国三重郡に千三百石を与えられた。

その後有馬氏倫(ありまうじのり)は、下野国芳賀郡に千石、千七百二十六年(享保十一年)伊勢・下野・上総国内に七千七百石を加増され、翌年には領地の朱印状を賜って事実上一万石の大名となり、ここに伊勢西条藩を立藩した。

また旗本・赤松家の分家の旗本だった石野則員の子・則維は、嗣子のなかった久留米有馬家に養子に入り、大名家の家督を相続している。



千四百四十一年(嘉吉元年)、六代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、山名氏当主・山名持豊(山名宗全)は赤松氏討伐の総大将として大功を挙げる。

この功績に拠って山名氏は、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げるに到った。

しかし力を着けた山名宗全(持豊)は、幕府の主導権をめぐって管領・細川勝元と対立、足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、千四百六十七年(応仁元年)には応仁の乱の勃発に到った。

この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である千四百七十三年(文明五年)に山名宗全は病死、同年に細川勝元も急死している。



室町幕府時代に勢力を持った一色氏(いっしきうじ)は、清和源氏流・足利氏(あしかがうじ)の支族で武家のひとつである。

足利氏(あしかがうじ)は、源(八幡太郎)義家の四男・源義国(みなもとのよしくに)の子・源義康(みなもとのよしやす/足利義康)が居住する下野国足利庄(栃木県足利市)の足利を称して足利氏の祖となる。

鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人・足利流宗家四代当主・足利泰氏(あしかがやすうじ)は、名越流北条氏・北条朝時の娘を娶り足利家氏(あしかがいえうじ/斯波家氏)、足利義顕(あしかがよしあき/渋川義顕)を儲ける。

本来、北条朝時の娘が泰氏(やすうじ)の正室であり、その長子・足利家氏が後継者と目されていたが、泰氏(やすうじ)と得宗家との婚姻が決まり、家氏(いえうじ)の母・朝時の娘が正室から側室に移される。

泰氏(やすうじ)が得宗家・北条時氏の娘を娶り足利頼氏を儲けた為、足利氏・嫡男の座も正室の子である足利頼氏となった。

名越朝時の娘の腹になる本来の嫡男・足利家氏が尾張足利家を起こし後の斯波氏の祖となる経緯もあり足利一門の中でも斯波氏は格別の家格を誇る事となる。

そしてまた、泰氏(やすうじ)は桜井判官代・俊光(詳細不明)の娘を娶り足利公深(一色公深/いっしきこうしん)を儲け、公深は外祖父である桜井判官代・俊光より三河国幡豆郡吉良荘の地頭の身分を譲り受け、吉良荘一色郷(愛知県幡豆郡一色町)に住み、後に足利家の四職のひとつの家となる一色氏の祖となる。

その足利泰氏の子・一色公深(いっしきこうしん) を祖とし、三河の吉良荘一色(現・愛知県幡豆郡一色町)を本貫として一色氏を名乗った事が、足利流・一色氏の始まりである。


後醍醐天皇が元弘の乱(げんこうのらん)を起こすと足利氏当主・足利尊氏は北条得宗家に反旗を翻し、後醍醐帝にお味方した為一色氏もこれに従い北条氏を破る。

所が、建武の新政が始まると後醍醐帝が周囲の公家衆ばかりを重用する為、武士の間から不満が出ていた所に北条氏の残党が中先代の乱を引き起こしたのを期に足利尊氏は後醍醐帝に反旗を翻し、新たな幕府の創設を企てる。

一色氏は宗家当主・足利尊氏に従い新たな幕府の創設に助力して後醍醐帝方と戦い、次第に戦況が有利となって帝を吉野に押し込め室町幕府が創立される。

室町幕府が創立され、九州で南朝方・良光(ながみつ)親王が勢力を広げると、足利流の一色範氏・一色直氏は期待されて九州探題となるが戦果が上がらず、一色氏は一時衰退する。

それでも一色範氏の二男・一色範光の一族が漸く功績をたてて家勢を回復し、三河・若狭・丹後三ヵ国の守護大名となると同時に、四職家の一つとして権勢を奮い一色氏は最盛期を迎えた。


しかし一色氏が力を着け過ぎた為、室町幕府の第六代将軍・足利義教に時の一色氏の当主一色義貫が殺害されてしまった上、若狭武田氏の攻撃を受け一色氏は勢力を縮小させてしまう。

その後、一色義直が第八代将軍・足利義政の信任を受けるが、応仁の乱では細川勝元の東軍に与した若狭武田氏との反目から一色氏は、山名宗全の西軍に与して敗れた為、次第に衰退の一途を辿るようになる。

応仁の乱の後は丹後守護の座をめぐり若狭の武田氏(東軍・細川方)との抗争が続く一方で、戦国時代に入ると日本全国各地に於いて反乱・下克上が続発し、一色氏の領域も同様でさらに勢力は衰退してしまう。

そんな情勢の中、千五百七十九年には織田信長の命令を受けた明智光秀軍等の侵攻に遭って当主の一色義道が殺され、子の一色義定は織田信長に実力を認められ一色氏を復興させるが、織田信長亡き後の豊臣政権下で細川氏に謀殺される。

叔父の一色義清も義定を継いで細川軍と懸命に戦ったが、千五百八十二年に敗れて丹後に於ける本宗一色氏は完全に滅亡してしまった。


名門名家と言えど、時流に乗れなければ生き残れない。

しかしながら一色氏の支族は各地に点在しており、関東には鎌倉公方の御一家として一色直氏の孫・一色長兼の一族・幸手城主一色氏が居り、古河公方の終焉まで仕え、江戸時代には旗本や水戸藩士として続いた。

また、戦国時代に甲斐守護・武田氏に仕えていた一色流土屋氏は、武田氏滅亡後に土屋忠直が徳川家康に召出されて上総・久留里藩(くるりはん)二万石の藩主となる。

この一色流土屋氏は、当主が土屋直樹の代に狂気を理由に改易され、土屋氏は直樹の長男の家系が三千石の旗本として存続した。

その他、織田豊臣両氏に仕えた一色・丹羽氏の丹羽氏次は、江戸時代に三河伊保藩(一万石/後に美濃岩村藩二万石)の藩祖となった。

また徳川家康の側近として仕えた臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)は一色氏の末裔であり、崇伝・従兄弟に一色範勝の一族あり、徳川家旗本として仕えるも寛文五年に無嗣断絶となっている。



室町幕府の特徴としては、荘園公領制の崩壊=守護領国制への移行や貨幣経済の進展等が挙げられ、守護大名がその領国の武士と主従関係を結び、被官化して一元支配する様に成った。

鎌倉期との比較であるが、鎌倉期は室町期と比べ個々の御家人が直接将軍と主従関係を結んでおり、有力御家人の被官の様な例外はあるが、通常守護職は国内の御家人の監督者に過ぎなかった。

つまり鎌倉期は全ての御家人が将軍家の家臣だったが、室町期では守護大名がその領国の武士と主従関係を結んで居た為に室町将軍家すら上回る程の実力を蓄えた守護大名が生まれる土壌を作ったのである。

その守護大名の有力化に対して、室町将軍家も守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結び、将軍直轄の軍事力として「奉公衆」を編成し、軍事力を強化するのみならず、守護大名の領国支配に対抗したのである。

しかし、守護大名は幕府から守護職に任命されたと言う権威を背景に領国の支配を進めて居た為、幾ら勢力を拡大しようとも室町将軍の権威を否定する訳には行かず、個々の守護大名を幕府が討伐した例はあるものの守護大名と室町将軍が全面的に対立する事は無かった。

将軍の権威の失墜は即ち守護大名の権威の失墜を意味し、事実室町後期になると守護大名の権威は失墜し下克上の世に移って行くのである。


応仁の乱以降、将軍の権威が失墜すると細川氏以外の三管領四職も没落し、更に戦国時代中期に至って細川氏の勢力が減退すると室町幕府の諸制度は形骸化していった。

その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭していった。

山城国南部では山城国一揆が形成され、地域住民(在地支配層の他、農民等も参加)による自治に至った事例もある。

これらの国人勢力も互いに整理統合されながら、強力な戦国大名が成長し、これが群雄割拠して幕府支配に取って代わり、以後の戦国時代への流れを作っていく事になる。



南北朝時代突入から約四十五年、足利第三代将軍・義満の時代は室町幕府が最盛期の頃である。

北朝第五代・後円融天皇(通算第九十九代)の南朝第四代・後亀山天皇の時代に両朝廷は一旦和解した。

「明徳和約」をもって、南朝・後亀山天皇から北朝の後円融天皇(北朝五代)の皇子「後小松天皇(第百代)に和解の上に繋がれた事に成っている。

しかし、この南北朝が和解した「明徳和約」上の統合皇位継承者・後小松天皇には不可解な噂が付きまとっている。

この、後小松天皇には「出生疑惑が有る」と言うのだ。

彼の実の父は、当時並ぶもの無き権力者の将軍「(足利)義満だ」と言う説である。
そして後小松天皇の父君であらせられる先帝・後円融天皇(ごえんゆうてんのう/北朝第五代・歴代第九十九代)は、「自殺した」と言うのだ。

この恐るべき噂はまことしやかに都の巷間に流れて居り、原因は病弱だった後円融天皇が時の権力者足利将軍・義満に飾り者にされ皇后・妃三人を次々犯され、反撃も出来ず「世を儚んで命を絶った」と言う噂が流れた。

決果、皇后から生まれた後小松天皇は、将軍・義満の種で、「皇統は途絶えた」と言う噂である。

後小松天皇(ごこまつてんのう/北朝第六代・歴代第百代)と将軍・足利義満(あしかがよしみつ/室町三代将軍)の不可解な関係に於いても、後円融帝が虚弱精子劣性遺伝だった可能性も否定できず、北朝系の皇統は河内源氏・足利氏嫡流家に完全に入れ替わって居たのかも知れない。

もっとも足利家も、清和源氏河内流れの皇統を持つ皇胤貴族の出であるから、例えそうだとしても厳密に言えば皇統が途絶えた訳ではない。


この噂を「根も葉も無い」と切って棄てる訳に行かないから不可解な疑惑となった。

噂の傍証として挙げられるのが、将軍・足利義満の冊封(さくふう)騒ぎと朝廷より「太上天皇(だいじょうてんのう/だじょうてんのう)」の尊号を下賜されそうに成った事である。

将軍・足利義満は、将軍職を第四代・義持に譲ると朝廷・帝を差し置いて勝手に中華・明朝の洪武帝から「日本国王」の称号を得ている。

これは明らかに明国からの冊封(さくふう)であり、国際認知から言えば、天皇ではなく足利義満が国家元首である。

冊封(さくふう)とは多分に建前の部分(形式的)ではあるが、或る種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、交易などの為の国家間認知として当時無くてはなら無いもので、それが、冊封(さくふう)朝貢(ちようけん)の制度である。

すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国の体裁)をとる事で、中華帝国承認国家と言う或る種の国際関係の形式を成立させていたのだ。

つまり、近隣国の存在を国際的に認定する役目を、中国歴代帝国の皇帝は長い事負っていた。

冊封(さくふう)は、近隣国の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、その対外的地位を義満は使者を送る朝貢(ちようけん)により「日本国王」の称号を獲得していた。

更に後小松天皇の出生疑惑の決定的な事実として、「太上天皇(だいじょうてんのう)」の尊号下賜騒ぎがある。

太上天皇(だいじょうてんのう)は、本来皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号で、上皇(じょうこう)と略す場合が多く、法王または「院」と称されるも事多い。

そのとんでもない「太上天皇(だいじょうてんのう)」の尊号を、足利義満の死後ではあるが天皇でも無い義満に朝廷・後小松天皇より賜ると言う本来在り得ない事が起こる。

つまり後小松天皇には足利義満が実の父親と言う「認識が在ったのではないか?」としないと、説明が着かない疑惑である。

息子の四代将軍・義持がこの尊号を慌てて辞退しているが、この本来在り得ない話も後小松天皇の実父が義満と言う疑惑が事実なら在り得そうな話である。


その後、「明徳和約」に反して足利氏・北朝方は南朝方に天皇の位を回さなかった為に、南朝方はまたも吉野に潜行(後南朝)およそ五十年のゲリラ戦を展開する。

この「後南朝方再挙」の動きそのものが、「足利義満・北朝乗っ取りが原因」とする研究者もいる。


清和源氏の河内源氏系甲斐・武田氏は、室町期には千四百十六年(応永二十三年)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、「上杉禅秀の乱」に於いて武田信満は、女婿にあたる上杉禅秀に味方した。

だが、京都の幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受け自害する。

六代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、十六代・信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。



南朝方の存在は、どうした事か遥か後の明治維新後、突如正式に認められて戦前の歴史教科書などに「吉野朝時代」と明記された事もある。

うがった考えだが、もしかするとその後の権力者達の朝廷離れの歴史を予測して、スペヤーとして二系統、「神が用意した」とするのは強引な解釈だろうか。

実は明治維新の折、この吉野朝(南朝)の皇統がひょっこり顔を出す「奇妙な噂話」がある。

それが妙見信仰、つまり真言密教所縁(ゆかり)の地だったのは偶然だろうか?


多々良姓は、周防、長門地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。

そして大内氏は、妙見信仰の最大の庇護者だった。

下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では妙見信仰は長く保護され、人々に根付いていた。

南北朝時代には、大内弘世は南朝側として周防、長門の豪族を服属させ、「建武親政」に協力すると、正平十八年には一転して北朝側に寝返り、周防、長門両国守護に任じられた。

この寝返りは、実は大内氏の存続を守り、しいては南朝の皇子「良光(ながみつ)親王」を密かに匿い守る為の算段だった。

庇護した皇子の南朝方が天皇に返咲けば、関白太政大臣も夢ではない。

その大内氏は戦国時代に配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられたが、大内氏の血脈が「良光親王」の血統を守り、神主などの武門以外で多々良姓を名乗り永らえていたとしても不思議は無い。

この大内氏の密かな陰謀は毛利家にも引き継がれ、良光親王を守って下向した藤原氏の枝、佐藤氏を名乗る世襲代官がこの地を代々ひっそりと守って明治維新を迎える。

防周(山口県)は本州最西端に位置し、大和朝廷成立前の朝廷の祖とも考えられる須佐王(スサノウ)所縁の須佐町がある。

或る種、朝廷のスペアーが所在しても違和感が無い。
藤原姓の前の姓は中臣(なかとみ)で、中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖とする呉族系の血筋で、隼人の一族である。

まだ大和朝廷初期の頃は、関東から東北にかけては朝廷の支配が及んではいなかったから、強い戦人(いくさびと)の協力が欲しかったのかも知れない。


源頼朝以前の源氏の緒将の白い旗印には、十の字は良く使われていた事実がある。

源氏を武門の棟梁の血筋と決定付けた八幡太郎義家は源義家と言い、頼朝の五代前の源氏の棟梁である。

鎌倉幕府の御家人の苗字も、薩摩の国人の苗字と共通するものが顕著に多いのだ。

この件に関しては謎が多く、決定的な繋がりは不明だが薩摩の国人と源家の間にはかなりの接点が存在する。

そう考えると、源平の合戦で平家が西国や九州を頼りまた一部が落人(おちゅうど)と成って、日向の国の山深い所に落ち延びた事にも、何か正反対の歴史的な裏付けがあるかも知れない。

この合戦で、平家が源氏に滅ぼされた事に歴史的必然性があるとするなら、勘解由小路党もまた、「時代の要求と伴によみがえるもの」かも知れないのだ。

そもそも、戦国の大乱は、室町幕府成立に端を発している。

後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、身近の宮廷公家を身贔屓して武士の多くに反感を買い失敗する。

やがて足利尊氏と後醍醐天皇(大覚寺統)が皇統問題で対立し、経過は前述したので割愛するが、後醍醐天皇方が敗れて吉野に逃れる。

足利方は、光巌上皇―光明天皇(持明院統)を立てて室町幕府を成立させるが、吉野に逃れた後醍醐天皇方はこれを認めず、南北二つの朝廷が並立して、四十五年に及ぶ武力対立が続いた。

この戦い、後醍醐帝が皇子を各地に派遣した為、九州や東北の地でも土地の有力者がそれぞれに組して戦った。
これを、南北朝時代と言う。

つまり時の権力者が朝廷に手を入れて「意のままにしょう」とする時、或いは天皇が自らの意思で直接統治をしようとする時、日本中が混乱に巻き込まれるのだ。

それは、歴史が物語っている。


この南北両朝並立が、実は皇室が全ての力を失う重要なターニングポイントだった。

それまでは勘解由小路党を始め、曲がりなりにも「影人達」を確保して、帝なりに、朝廷なりに力を発揮していた。

所が、その多くが後醍醐帝(南朝)方だった為に、北朝・足利幕府成立後に敗退を重ねながら四散して行き、北朝は武力的には丸裸に近くなってしまった。

矛盾をかかえながらも、朝廷が抱えていた「諜報工作機関」の子孫達との直接的な繋がりが、完全に切れてしまったのである。

この時勘解由(かでの)党の直流が、草として根付いたのが美濃国・妻木の里だった。

この美濃国・妻木に根を下ろした勘解由(かでの)妻木家が、安土桃山期に一人の女性(にょしょう)を嫁に出した。

この妻木家の女性(にょしょう)を娶ったお相手が歴史に残る大人物だったが、その話は後ほどの楽しみにしてもらいたい。

この「諜報工作機関」の子孫達との直接的な繋がりが完全に切れてしまった事が、皇室としては手足をもがれた酷く痛い結果だったので、以後は形式の上の皇位として永い冬の時代を送る事になる。

そして朝廷は、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「建前の世界にのみ」生き続ける事になって、明治維新までの永い眠りに付く事に成るのだ。

それでもこの国は皇統と影人の国で、室町幕府に於いても歴史にこそ現れない帝及び公家衆と幕府との間には暗闘が在った事は想像に難くない。

もうお判りと思うが、その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護大名に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。


この南北朝並立時代の騒乱のなかで、有力部将が力を着けたり失ったりしながら入れ替わって行き、後の守護大名の成立に辿り着いて行く。

やがて守護大名は、勝手に領地争いを始め、幕府の統制は利かなくなる。

しかしながら、この入れ替えの学習が、その後の「下克上」に形を変え、戦国大名の割拠する時代を作り出してしまったのである。

この戦国時代の幕開けを告げるのが「応仁の乱」であった。

実は六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」後も北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ)の約束が約束不履行から混乱は続き、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間も頑強に戦っていた。

千四百四十一年(嘉吉元年)の「嘉吉の乱(かきつのらん)」は、南朝の残党が抗戦をあきらめて僅か四年、応仁の乱(おうにんのらん)が始まったのが千四百六十七年(応仁元年)であるから、南北朝並立時代の武力混乱の社会風潮が「依然続いていた」と見て良いだろう。


足利義政(あしかがよしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけて在職した室町幕府の第八代将軍である。

足利義政(あしかがよしまさ)は無能な将軍で、天下の大乱「応仁の乱」の発生は義政(よしまさ)の治世能力の欠如が指摘されている。


足利義政(あしかがよしまさ)は、第六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の三男として生まれる。

千四百四十一年(嘉吉元年)、父・義教が「嘉吉の乱」で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺された後、同母兄の足利義勝が七代将軍として継いだ

所が、千四百四十三年(嘉吉三年)にその義勝も早世した為、義政は管領の畠山持国などの後見を得て八歳で将軍職に選出される。

それから六年後、元服を迎えた十四歳、千四百四十九年(宝徳元年)に正式に第八代将軍として就任した。

将軍・義政(よしまさ)は、祖父の三代将軍・足利義満や父・六代将軍・足利義教の政策を復活させようと試みる。

千四百五十四年(享禄三年)に畠山氏のお家騒動が起こり、八月二十一日に山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。

義政は細川氏・山名氏に対抗する為、この問題で義就を支持、宗全の退治命令も畠山義就復帰の一環とされ、同時に「嘉吉の乱(かきつのらん)」で宗全に討伐された赤松氏の復興を狙ったとされる。

千四百五十五年に義政(よしまさ)が二十歳の年齢から約三十年間に及ぶ、関東地方で起こった大規模な内乱「享徳の乱(きょうとくのらん)」が発生する。

「享徳の乱(きょうとくのらん)」に対して義政(よしまさ)は、鎌倉公方・成氏の追討令を発して異母兄の堀越公方・足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行う。

しかし将軍・義政(よしまさ)は、幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎(うと)んで幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねてしまう。

この頃飢饉や災害が相次ぎ、特に千四百六十一年(寛正二年)の寛正の大飢饉は「京都にも大きな被害をもたらした」とされる。

殊に寛正の飢饉の間に、それを意に介さずに花の御所(京都市上京区)を改築し、後花園天皇の勧告さえも無視した事は悪名高い。

千四百六十七年(応仁元年)正月、将軍・足利義政の継嗣争い等複数の要因によって、十一年間に及んだ「応仁の乱」が発生する。

千四百七十三年(文明五年)義政(よしまさ)は、正室・日野富子との間に生まれた嫡男(実弟の義視を養子にしていた為次男)・足利義尚(あしかがよしひさ)に将軍職を譲る。

「応仁の乱」は、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。

この様な状況の中、将軍・義政(よしまさ)は邸宅や日本庭園の造営などや猿楽、酒宴に溺れていった。

将軍としての責任を放棄した前将軍・義政(よしまさ)は、東山文化を築くなど、もっぱら文化人として日々を送った。

千四百八十二年(文明十四年)には東山山荘(東山殿)の造営を始め、祖父・義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。

千四百八十九年(延徳元年)、義政(よしまさ)嫡男・足利義尚(第九代将軍)が六角討伐の陣中で死去する。

止む無く義政(よしまさ)は、政務の場に復帰する事を決意するが、正室・日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執る事が困難となった。

為に義政(よしまさ)は、美濃の土岐成頼の下に亡命していた義政同母弟・足利義視(あしかがよしみ)と和睦し、甥で義視の嫡男・義材(義稙)を自らの養子に迎える事で第十代将軍に指名して後事を託した。



応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の足利八代将軍・義政の時に、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発し幕府管領職の細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)と言う有力守護大名が二つに分かれて争った為に起こった全国規模の内乱である。

応仁の乱を戦った山名宗全(やまなそうぜん)と細川勝元(ほそかわかつもと)は同じ室町中期の有力守護大名だったが、実は二十六歳差と親子ほども宗全(そうぜん)の方が年上だった。

そして最初から仲が悪かった訳ではなく、宗全(そうぜん)は嘉吉の乱で亡くなった但馬守護職・山名熙貴(やまなひろたか)の娘を猶子に迎え、細川勝元(ほそかわかつもと)の下に嫁がせ(勝元の正室・ 春林寺殿)、同盟関係を築いていた。


細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の足利将軍家の支流で・武将・守護大名、三管領のひとつである細川氏嫡流・京兆家の当主・細川持之(ほそかわもちゆき)の嫡男として生まれる。

勝元(かつもと)の京兆細川氏(けいちょうほそかわうじ)は、元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流の名門であり、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

千四百四十二年(嘉吉二年)八月、勝元(かつもと)十三歳の頃に父・持之(もちゆき)が死去した為に家督を継承する。

家督継承に拠り、第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元(かつもと)と名乗り、叔父の細川持賢(ほそかわもちかた)に後見されて摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヵ国の守護職となった。

千四百四十五年(文安二年)勝元(かつもと)十六歳の頃、河内・ 紀伊・越中・山城の四ヵ国守護職・畠山持国(はたけやまもちくに/徳本)に代わって管領職に就任する。

足利氏流名門・京兆家の当主・細川勝元(ほそかわかつもと)は、以後三度に渡って通算二十三年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。

細川勝元(ほそかわかつもと)が任じていた「管領(かんれい)職」とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名宗全(やまなそうぜん)が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官である。

侍所の長官職は、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをしていた。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主であり、もう一方の旗頭・山名宗全(やまなそうぜん)は、室町時代の守護大名で、室町幕府の四職のひとつ新田氏族・山名家の出身である。


足利六代将軍・義教の時、義教が「三管四職」を無視して専制政治をした為に不満を抱いた四職・赤松家の赤松満祐(あかまつみつすけ)に誘殺される大変事が在り「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼ばれた。

所が、細川勝元が「嘉吉の乱(かきつのらん)」の鎮圧に功労のあった山名宗全の勢力削減を図って、「嘉吉の乱主謀者一族」の赤松氏にも関わらず失脚して都を追われた自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てた事から、細川勝元と山名宗全の両者は激しく対立するようになる。

その細川勝元と山名宗全が、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていた為に対立は激しさを増し、八代将軍・義政の実子・足利義尚を次期将軍に押す山名宗全と将軍継嗣・足利義視の後見人である細川勝元との対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、全国規模の大乱となった。

千四百六十八年(応仁元年)五月には世に言う「応仁の乱」が本格化し、山名宗全(やまなそうぜん)は出石・此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。

当初西軍(山名)は、室町亭の将軍らを確保した細川勝元(ほそかわかつもと)率いる東軍に対して劣勢であったが、八月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。

大内政弘は当時、周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有する有力守護大名で、東西の軍事勢力は完全に拮抗した。

為に戦乱は勝敗が着かないまま五年間も続き、千四百七十二年(文明四年)には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、宗全(そうぜん)は同年五月に自害を試みている。

結局、戦乱は都合十一年にも渡って戦闘が長引き、応仁の乱の長期化は室町幕府の形骸化を引き起こし、無政府状態になった京都の市街地は盗賊に何度も放火され焼け野原と化して荒廃した。

やがて幕府権力そのものも著しく失墜し、勝元派と宗全派に二分して戦乱に加わって上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、守護大名の留守に領国を脅かす勢力が台頭して諸大名は京都での戦いに専念出来なくなって行った。

千四百七十三年(文明五年)になって当事者の山名宗全と細川勝元が相次いで死去、漸く双方の息子が和睦して応仁の乱(おうにんのらん)は一応の終息を見ているが、守護大名の領国では新興勢力が台頭して手が付けられない守護職が続出した。

下克上(げこくじょう)に明け暮れ、国主が武力で入れ替わる「戦国期」に入っていたのだ。



皇室の最も重要な行事に、践祚(せんそ)が在る。

践祚(せんそ)とは、天皇位の継承(天子の位を受け継ぐ事)であり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。

古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就く事で、「阼」は天子の位を意味する。

これに続いて位に就いた事を内外に明らかにするを即位と言う。

日本に於いて、第五十代・桓武天皇以前の現代では、践祚(せんそ)は即位と同義だった。

第五十代天皇である平城天皇は、即位に先立ってこの践祚(せんそ)を行い、その後に即位式を行っている。

これ以後、践祚と即位の区別がなされるようになったと思われる。

丁度この践祚(せんそ/天皇位の継承)の形式が始まったのが、桓武天皇の時代と重なった事で、やはり桓武天皇の「新しい時代を切り開こう」と言う強い意志を感じる。

この区別の為、践祚のみで即位式が行われなかった第八十五代・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、「半帝」と呼ばれて太上天皇号も崩御後の諡号(しごう/おくりな)も贈られる事も無かった。

順徳天皇の第一皇子・懐成親王(かねなりしんのう)が、承久の乱に絡んで四歳で践祚(せんそ)するもわずか七十八日間で廃され、即位も認められていなかった。

懐成親王(かねなりしんのう)が即位を認められ「仲恭(ちゅうきょう)」の諡号(しごう/おくりな)が贈られたのは、実に崩御から六百三十六年後の事である。

天皇が崩御(ほうぎょ/亡くなる)した場合の践祚(せんそ)は諒闇践祚(りょうあんせんそ)、譲位の時の践祚は受禅践祚(じゅぜんせんそ)と称し、古くはその儀式に違いがあった。

この違いは譲位の時には前天皇が譲位の宣命を出す「譲位宣命宣制」が践祚(せんそ)の最初の儀式として行われる為である。

但し現憲法下では生前に帝位を譲る「譲位の制度」がない為、崩御(ほうぎょ/亡くなる)時の践祚(せんそ)しか存在しない。

践祚(せんそ)にかかる儀式を「践祚の儀(せんそのぎ)」と言い、先帝崩御後直ちに行われる「剣璽等承継の儀」及び新帝が即位される。

現憲法下では、即位後初めて三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)を引見される「即位後朝見の儀」は共に国事行為とされる。

さらにその後、先帝の諒闇(りょうあん/新帝が喪に服する期間)が明けて行われる御大典「即位の礼」・「大嘗祭(おおにえのまつり/にいなめさい)」へと続く。

践祚(せんそ)し皇位を継承するには「三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」を先帝から受け継ぐ事が必要とされる。

三種の神器は八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)で構成されるが、その内八咫鏡(やたのかがみ)は祀られている賢所(かしこどころ)を含む宮中三殿を相続する事によって受継ぐ。

続いて、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)を受継ぐ儀式が「剣璽等承継の儀」となる。

皇位そのものの証明は三種の神器の所持を以て挙げられる為、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つとなっている。


南北朝時代から室町時代を経由して戦国時代の乱世に、上下関係の身分秩序を侵す武力行為で上位者を倒して地位を乗っ取る事が下克上(げこくじょう)である。

金も力も無い天皇家が、その乱世の下克上(げこくじょう)の時代でさえ践祚(せんそ)し皇位を継承し、生き残ったのは何故だろうか?

時の権力者へ官位・官職を授けて権威を持たせる事が天皇の主たる仕事であり、兵を持たない非力な立場でも、その認定者としての存在価値故に天皇家は永く続いた。

その背景に在ったのは、日本が「血統至上主義社会」だったから、歴史的に稀有な存在として他に変え難い天皇家である。

だからこそ、これ以前の日本史もこれ以後の日本史も、その存在を利用したり蔑(ないがし)ろにしたりしながらも天皇家を中心に廻って行く事になる。

南北朝並立時代も、これから起こる本能寺の変や明治維新も、そこに天皇家が在っての事である。



千四百九十八年(明応七年九月二十日)、「明応地震(東海 東南海連動)」が発生する。

明応地震の推定マグニチュードは八・二〜八・四、紀伊国から房総にかけてと甲斐国に大きな揺れがあり、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流され、浜名湖が海と繋がった。

この明応地震が起きた時は、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争う戦乱・応仁の乱(おうにんのらん)の真っ最中だった。

震害よりむしろ津波の被害が大きく、伊勢国大湊で家屋千戸、溺死者五千人、伊勢国志摩で溺死者一万人、駿河国(静岡県)志太郡で溺死者二万六千人などの被害が記録されている。

地質調査によれば、ほぼ同時期に「南海地震も発生した」と考えられ、同じ年(千四百九十八年)の「日向灘地震がこれにあたる」との説もある。


応仁の乱後の山名氏であるが、力を振るった当主・山名宗全の死後、家督は孫(四男説あり)の政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退して行く。

室町幕府の統制が利かなくなり、下克上が始まって山名領内では毛利次郎の乱を初めとする国人による反乱が相次ぎ、播磨、備前、美作は赤松政則(赤松満祐の大甥)に奪われ、政豊は奪回を企てるも千四百八十八年(長享二年)に敗れ、播磨から撤退した。

さらに山名氏は、備後守護の次男・俊豊と備後国人衆とも対立、俊豊を廃嫡して三男の致豊を後継者に決めて決着を着けたが、その過程で国人衆の支持を取り付ける為に特権を与え、それが守護権の縮小に繋がってしまった。

また、出雲国の尼子経久、周防国の大内義興、備前国守護代浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、致豊の弟・誠豊の時代には、誠豊が但馬国、山名豊時の孫・山名誠通が因幡国をかろうじて支配すると言う状態になった。

これを契機として山名氏宗家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、宗家の家督をめぐって争いを始める。


千五百二十八年(享禄元年)には藤樹・誠豊が死去し、甥の山名祐豊が但馬国守護を継ぐも祐豊は一族の誠通を討って弟の豊定を因幡国守護とし、山名氏の統一を果たす。

また山名氏統一を果たした山名祐豊は、安芸国の新興勢力・毛利元就とも手を結び旧来の山名氏を戦国大名として再興させた。

漸く再興なったと見えた山名氏だったが、中央に覇を唱えた織田信長の勢力が伸張して来ると、千五百八十年(天正八年)、信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に取り囲まれて祐豊は死去している。

その後羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従した祐豊の次男・山名堯熙(やまなあきひろ)は、馬廻衆として秀吉に召抱えられ、その後播磨国に所領を与えられた。

また因幡国では、山名豊定の子、山名豊国が秀吉を通じて信長に降伏し、秀吉の家臣となって豊国は秀吉から因幡に所領を与えられ、御伽衆として迎えられている。

因幡国・山名氏の豊国(祐豊の甥で娘婿)は、豊臣対徳川の圧力高まる早くから徳川家康に従った為、千六百一年(慶長六年)に家康から但馬国・村岡に知行六千七百石の所領を与えられ、江戸期を交代寄合格(こうたいよりあいかく/大名待遇)旗本として存続した。

さらに村岡山名氏は、徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)と同じ屋形号(敬称)も許され「お館様(おやかたさま)」と呼ばれる名誉を得ている。

屋形(やかた)とは、公家や武家など貴人の「館」の事を意味し、室町幕府及び江戸幕府に於いては、名門或いは功績ある武家の当主に許された称号または敬称であり「屋形号」と言う。

「屋形号」が成立したのは室町時代初期の頃であり、足利氏の一門や有力な守護大名、守護代、主に室町幕府の成立や謀反人討伐に功ある国人領主に許された。

これが派生して、戦国期には家臣が国人領主を呼ぶ「お館様」に成ったが、厳密に言うと正式な「屋形号」は、時の幕府が認めた称号または敬称に限られる。


この但馬国・村岡の山名氏だが、明治維新後の千八百五十九年(明治二年)、当主・山名義済が知行を一万一千石への高直しを明治政府に認められ大名となり、新たに但馬村岡藩の立藩に成功する。

この但馬国・村岡藩立藩に拠り但馬村岡藩山名氏は、千八百八十四年(明治十七年)華族として男爵に叙された。

尚、千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣で、但馬国・山名氏の堯熙(やまなあきひろ)の子・山名堯政(やまなあきまさ)は大坂の豊臣方に付き、大坂城で戦死するも堯政の子は、山名家旧臣清水氏の養子となる事で生きながらえ、曾孫・時信の代になって山名氏に復し山名時信を名乗って居る。



下剋上の戦国時代を迎える端緒となったのが、後の二代目当主から後北条氏と呼ばれる事になる北条早雲(伊勢氏)の新九郎盛時(しんくろうもりとき)の存在だった。

伊勢氏は源氏流・足利氏の根本被官(代々家臣の出)の一族である。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の「建武の新政(けんむのしんせい」に乗じて北朝・室町幕府を成立した足利尊氏(あしかがたかうじ)に仕えた伊勢貞継(いせさだつぐ)の系統が室町幕府政所執事を出す京都伊勢氏となる。

その伊勢本宗家・伊勢貞継(いせさだつぐ)の弟・盛経(もりつね)の系統の備中・伊勢氏は将軍の近習や申次衆を出していた。

将軍申次役や申次衆は、室町幕府の幕閣である政所執事や管領に次ぐ将軍の側近政務官僚である。

尊卑分脈の伊勢氏系図によると伊勢盛定(いせもりさだ)は備中・伊勢氏惣領・伊勢盛綱の四男であり、長男の盛富(もりとみ)が備中伊勢氏の惣領と推定される。

盛富(もりとみ)は父と同じ肥前守となり、備中守となった盛定(もりさだ)は兄と所領を分かち備中荏原郷(岡山県井原市)を領し高越山城主になった。


京都伊勢氏の貞親(さだちか)は千四百五十四年(享徳三年)に備中守から伊勢守に転じており、義兄弟になった盛定(もりさだ)に伊勢氏にとって重要な意味のある備中守を譲った。

伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は、千四百六十年(長禄四年)頃に備前守に転じている。

備中守は、貞親(さだちか)の弟・貞藤(さだとう/江戸時代以来、早雲の父と考えられていた)が継承している。


伊勢盛定(いせもりさだ)は備中伊勢氏惣領の兄・盛富(もりとみ)と並んで将軍申次を勤め、一族内でも重要な地位を占めていたと考えられている。

盛定(もりさだ)の名は畠山義就との交渉=千四百五十五年(享徳四年)や千四百六十年(長禄四年)の近江守護六角政堯追放事件、千四百六十三年(寛正四年)、幕府から追討命令を受けた信濃国人・高梨政高(たかなしまさたか)の赦免の交渉などの記録に見える。

これらの記録から、盛定(もりさだ)は八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の時代に幕政の中枢にあった貞親(さだちか)を外交交渉の面で補佐する立場にあったと考えられる。

千四百六十六年(文正元年)、「文正の政変」と呼ばれる斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題を巡って貞親(さだちか)は将軍継嗣の足利義視(あしかがよしみ)と対立する。

伊勢本宗家・貞親(さだちか)は、「足利義視(あしかがよしみ)の暗殺を企てた」と糾弾されて臨済宗の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)、斯波義敏(しばよしとし)、赤松政則(あかまつまさのり)らと共に京都を出奔する事件が起き、盛定(もりさだ)はこれに同行している。

この斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題に盛定(もりさだ)が深く関与し、斯波氏が守護に就いていた遠江の国人の堀越・今川氏や横地氏、勝間田氏の申次として連絡を取って居た。

根拠として、応仁の乱が起こると遠江は早々に貞親(さだちか)が支持する斯波義敏(しばよしとし)の支配下になった点が指摘されている。

この伊勢盛定(いせもりさだ)の娘が、北川殿として今川家に嫁いだ事から伊勢氏と今川氏とに縁(えにし)ができ、盛定(もりさだ)の子・新九郎盛時(しんくろうもりとき)が後北条家の祖となる。


伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は将軍の赦免を受けて京都へ復帰し、千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こる。

駿河守護の今川義忠(いまがわよしただ)は上洛して花の御所に入り、東軍に属した。

義忠(よしただ)は貞親(さだちか)の屋敷をしばしば訪れており、盛定(もりさだ)は本宗家と今川氏との申次を務めた。

その申次の縁で、盛定(もりさだ)の娘・北川殿が義忠(よしただ)の妻となったと考えられる。

以前、北条早雲(伊勢新九朗)が伊勢素浪人と考えられていた時期の日本史解釈では、北川殿は側室とされていた。

だが、将軍近臣の備中伊勢氏と今川氏とは家格に遜色がなく、現在では北川殿は正室と考えられており、結婚の時期は応仁元年頃と推定されている。

盛定(もりさだ)の娘・北川殿は千四百七十一年(文明三年)に嫡男・龍王丸(今川氏親/いまがわうじちか)を生んだ。

伊勢盛定(いせもりさだ)の所領・備中荏原郷(岡山県井原市)で、千四百七十一年(文明三年)に発給された文書に新九郎盛時(しんくろうもりとき)の署名がある。

この時期、新九郎盛時(しんくろうもりとき)は京都で活動する父・盛定(もりさだ)に代わって所領の荏原郷(えばら)の支配を行っていたようだ。

千四百七十六年(文明八年)、今川義忠(いまがわよしただ)は遠江で横地氏、勝間田氏と戦い勝利するが、帰路に残党に襲われて討ち死にした。

従来、横地氏と勝間田氏は西軍の斯波義廉(しばよしかね)に内応した為に義忠(よしただ)がこれを討ったとされていた。

だが、近年の研究によって、これ以前から義忠(よしただ)は東軍の斯波義寛(義敏の子)の遠江の被官の国人と戦っている事が明らかになっていて、義忠(よしただ)は同じ東軍と戦っていた事になる。

この際に盛定(もりさだ)は、婿の義忠(よしただ)ではなく横地氏、勝間田氏を支援していたと考えられている。


幼少の今川龍王丸に対して不安を持った家臣の一部が今川義忠(いまがわよしただ)の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)を擁立して家督争いが起こった。

ここで、盛定(もりさだ)の娘・北川殿の弟・伊勢新九郎(盛時)が駿河に下向して、龍王丸成人まで小鹿範満(おしかのりみつ)を家督代行とする事で調停を成功させている。

後の北条早雲(伊勢新九郎)の最初の活躍とされる事件だが、近年、伊勢新九郎(盛時)の父・盛定(もりさだ)が幕府の重要な地位にあった事が近年明らかになった。

その事で、伊勢新九郎(盛時)は盛定(もりさだ)の代理として幕府の意向を受けて駿河下向したと言う説が有力になりつつある。

今川氏の家督争いで浮上した小鹿範満(おしかのりみつ)は関東管領・上杉氏の一族(上杉政憲)の娘を母としており、関東管領の影響力が駿河に及ぶのを幕府が嫌った。

この為、幕府(東軍)と敵対関係にあった義忠(よしただ)の子の龍王丸だが、幕府が龍王丸支持に切り替えて、龍王丸の叔父にあたる伊勢新九郎(盛時)を派遣したと言う説を出している。

一方、歴史書・軍記物の「鎌倉大草紙」に記した今川氏の家督争いについて、伊勢新九郎(盛時)の活動が見られない事から新九郎の調停の実在に疑問を呈する説もある。

その後、伊勢新九郎(盛時)は駿河から京へ戻り、千四百八十一年(文明十五年)に九代将軍・足利義尚(あしかがよしなお)の申次衆になっている。


千四百八十七年(文明十九年)に、伊勢新九郎(盛時)は再び駿河へ下向して小鹿範満(おしかのりみつ)を討ち今川龍王丸を家督に就かせた。

千四百九十三年(明応四年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方・足利茶々丸を討っている。

伊勢宗瑞(盛時が出家)の堀越公方(ほりこしくぼう)・足利茶々丸に対する下克上・伊豆奪取事件は、戦国時代の幕開けとされる事件である。

近年の研究では、この事件は中央で起こった管領・細川政元が十代将軍・足利義材を追放して茶々丸の弟の(あしかがよしとお)を将軍に据えた「明応の政変」に連動して起こったとする説が有力である。



鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍・足利宗家が関東十ヶ国に於ける出先機関として設置した鎌倉府の長官である。

鎌倉公方はあくまでも歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではなく当時の一般呼称は「鎌倉御所」か「鎌倉殿」である。

また、鎌倉公方は将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、立場は鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。

関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。

千三百四十九年に足利尊氏と弟の足利直義が対立し「観応の擾乱」に発展した際、直義に代わって政務を執る為に上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代とする。

関東管領・足利基氏流(関東足利氏)は執事・上杉氏を補佐役として関東十ヶ国を支配し、後に陸奥国・出羽国も管轄した。

その関東足利氏が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。


元々の「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であった。

所が、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家(関東足利氏)」が「鎌倉(関東)公方」となった。

永享の乱の際には、鎌倉(関東)公方は関東管領・上杉氏とも対立し、第四代鎌倉公方・足利持氏が上杉氏に敗れ、千四百三十九年に自害させられた事で一旦関東足利氏は断絶した。

千四百四十七年に、自害した足利持氏の子・成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて鎌倉(関東)公方は復活する。

この足利成氏が、後に室町幕府と対立し「享徳の乱」を起こし、千四百五十五年1に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった。

この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方(関東足利氏)は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させた。

享徳の乱終結後、「古河公方」は関東管領・上杉氏と伴に関東地方を支配する形態、「公方−管領体制」を千五百七十年代まで継続させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。

ただし「古河公方」の関東支配最末期は、後北条氏が関東管領の権限を事実上掌握して、時代は戦国へと向かって行く。

後北条氏が関東管領の権限を事実上掌握したが、鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方は関東諸豪族から支持されて一定の権力構造が存在した。

従って後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触してその内部に入り込み、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。

つまり関東に於ける戦国時代は古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。


ちょうど、「下克上」の世の中に入りつつある頃で、家臣が力を付けて武力で主人に取って代わったり、有名無実の立場に押しやって実権を握ったりが全国的に起こっていた。

強い者が、勝手に支配地を広げるのが当たり前の世の中だった。

後北条の伊勢新九朗(北条早雲・伊勢平氏の直方系流を自称)が現れ、駿河の興国寺城をかわきりに、伊豆国、相模国と所領を広げ、室町幕府のコントロールから外れて勝手に戦国大名に伸し上がった頃で、力だけが頼りの時代である。

実はこの伊勢新九郎盛時、正確に言うと存命中に北条氏を名乗った事は無い。

伊勢氏はけして家格が低い家ではなく、京の都に於いてはそれなりの名家であった事から、新九郎盛時は生涯伊勢氏を名乗っている。

第二代当主・伊勢氏綱が父・新九郎の死後、伊勢平氏の直方系流を自称して鎌倉時代の執権家・北条氏を名乗り北条氏綱と名乗った為、初代・伊勢新九郎盛時の号が早雲庵宗瑞だった事から世に北条早雲と呼ばれるようになった。

戦国時代の幕開けに下克上で伸(の)し上がり相模国を本拠地に関東一円に勢力を伸ばした後北条家の始祖北条早雲は、若い頃に伊勢新九郎盛時と名乗り、早雲時代の後北条家は、基はと言えば桓武平氏流れ「伊勢家」である。

室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自であり、早雲(新九郎)の父・伊勢盛定は八代将軍・足利義政の申次衆として重要な位置にいた。

早雲(新九郎)の伊勢家は、家格は高いが備中国・荏原郷の半分を領する小領主で、早雲(新九郎)本人もこの「荏原郷で生まれた」とされている。

千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、駿河守護職・今川義忠が上洛して東軍に加わった時、今川義忠はしばしば将軍・足利義政の下に参内してその申次を早雲(新九郎)の父・伊勢盛定が務めている。

恐らくはその縁で、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿が今川義忠と結婚し、早雲(新九郎)は今川家の縁者に成る。

所が、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿の夫今川義忠は、千四百七十六年(文明八年)遠江国の塩売坂の戦いで討ち死にした。

為に残された義忠の嫡男・龍王丸に家督を継がせようと言う勢力と一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して家督を継がせようと言う勢力で家中が二分される家督争いとなった。

これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、龍王丸派にとって情勢は不利であった為に、早雲(新九郎)は幕府政所執事・伊勢貞親と父・伊勢盛定に命じられて駿河国へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする条件でこの今川家家督騒動を決着させている。

その後早雲(新九郎)は、千四百八十七年(長享元年)に甥の龍王丸の家督継承を磐石なものにする為に兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は今川・駿河館に入り、二年後に元服して今川氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲(新九郎)は伊豆国との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられて今川氏の家臣となって駿河へ留まり、駿河守護代の地位を得ている。

興国寺城(現沼津市)を得た早雲(新九郎)は、その地を皮切りに中央「享徳の乱」の政治混乱の中で関東公方・足利成氏が幕府に叛いて今川家が関東に出兵した事を機会として、堀越公方が領有していた伊豆国一国を手に入れる。

この伊豆国を足掛かりとして、早雲(新九郎)の跡目を継いだ伊勢氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。

以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東平野部のほぼ全域に覇を唱える大戦国大名・後北条氏と成るのである。

既に室町幕府・足利家が弱体化し、戦国の世に成っていたのだ。

征服部族の遺伝子を持つ彼らは、本能的に「戦って勝ち取る」と言う事が、シンプルに染み付いていたのである。



南北二つの朝廷が並立した時代の置き土産は、後の世に意外な形で芽吹く事になるが、それは遥か明治維新まで待たねばならない。

そしてもう一つ、これもまだ先の話だが、「承久(じょうきゅう)の乱」から三百五十年後に、平将門、村岡五郎(平良文)、平清盛、平(北条)政子、この「平氏の精神を継ごう」と言う阿修羅を背負った男が、忽然と現れる。



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作者本名・鈴木峰晴