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samurai 【皇統と鵺の影人 第四巻】作者本名鈴木峰晴前のページに戻る。

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第四巻

未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代
(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)
・(皇国史観と集合的無意識)・(日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




皇統と光秀(家康・天海編)陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第四巻・本章の【第四話】

皇 統 と 光 秀(家康・天海編)


(関が原)

◇◆◇◆(関が原)◆◇◆◇◆

豊臣秀吉の一族郎党家臣軍団の中には、妻方の武将が多く居た。

秀吉の正室・高台院(おね/ねね)の実家は尾張国朝日村郷士・杉原(木下)家で、養家は浅野家ある。

北政所として知られる秀吉の正妻「おね(ねね)・高台院」の父親・杉原(木下)定利の出自は、桓武平氏・平貞衡流桑名氏の分流・平光平(杉原光平)を祖とする杉原氏で、土着郷士として杉原ともう一つ木下を名乗る事も在った。

家定は、織田信長に使えていた当時は木下定利を名乗り、武将と言ってもさして大物ではなかった。

所が、杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先である浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)に養女と預けた娘・おね(ねね)とややの二人の内の一人、姉の方の「おね(ねね)」を、信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。

浅野氏の家系は清和源氏・源頼光(土岐頼光)流土岐氏の庶流で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で鎌倉幕府御家人・土岐光衡(ときみつひら)の次男で判官代・土岐光時(ときみつとき)が土岐郡浅野の地で浅野氏を名乗ったに始まる土岐氏の古い時期からの一族である。

ここで疑問なのは、戦国期の氏族娘の常識的な嫁ぎ先は格上を狙う筈が、出自の定かでない格下の小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えてまで折角格上の浅野家に養女に出して嫁入りの準備をしていた「おね(ねね)」を嫁がせた事である。

あの戦国期に只の恋愛に拠る婚儀など想定の他で、このおね(ねね)の婚礼、実父の木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を、藤吉郎(とうきちろう)に見ていたからに違いない。

その家格以上の大きな価値こそが、氏族とは違う山窩衆(さんがしゅう)の長者(棟梁)としての藤吉郎(とうきちろう)の出自だったのなら、納得出来る理由ではないだろうか?

勘違いして貰っては困るが、羽柴秀吉婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、北政所「おね(ねね)」の姓(かばね)名乗りは実家の杉原(木下)または養女先の浅野である。

結局、おね(ねね)の兄弟・家定を始めその家定の嫡男・木下勝俊(若狭国後瀬山城八万石秀吉死去後改易)二男・木下利房(備中足守木下家)、三男・小早川秀秋(筑前小早川家)、四男・木下延俊(豊後日出木下家)など杉原(木下)家一族の全てが藤吉郎(とうきちろう)に臣従している。

おね(ねね)養父家の浅野家からも、妹・ややが浅野家を継ぎ、その婿養子・浅野長政(安井長吉)は甲斐国二十二万石を与えられ豊臣政権の五奉行筆頭まで上り詰めたが「石田三成と犬猿の仲だった」と伝えられて居る。


秀吉のあだ名はサルと伝えられるが、おね(ねね)の実父・木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を持つ男、秀吉の顔はけして猿顔では無かったし、信長も、「サル」などとは呼んではいない。

生家と言われる中村郷も平野部の里で、山深い里ではない。

秀吉の幼名「日吉丸」の名は、生誕の地・尾張国中村(名古屋市中村区)から程近くに在る「清洲山王宮・日吉神社(現在の清須市清洲)から採って名付けられた」と言われている。

その日吉神社では、大巳貴神(オオナムチノカミ)と、大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀っている。

この大巳貴神(オオナムチノカミ)は、大国主(オオクニヌシ神)と言った方が通りが良いかも知れないつまり別名は大黒様である。

神話に於いて大巳貴神(オオナムチノカミ/大国主神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の前に地上(豊葦原中津国)を支配していた王で、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国譲りをして後に出雲大社の神となった。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、もともと近江(滋賀)の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)一帯を治める山の神だった。

史書に拠ると、滋賀の日吉大社では、東本宮に大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀り、西本宮に大己貴神(オオナムチノカミ/大国主神)を祀っている。

その滋賀・日吉大社では、最初に在ったのはそれとは別の牛尾山山頂の奥宮で、東本宮は里宮として創建されたらしいが、その年代が崇神大王(すじんおおきみ/天皇)七年と伝えられるから紀元前九十年となり、何処まで本当か定かではない。

公称創建とされる年代から凡そ七百八十年の後、滋賀・日吉大社は大津京を守る神として大神神社の大己貴神(オオナムチノカミ)を勧請して、それが大山咋神(オオヤマクイノカミ)よりも格上だとして大巳貴神(オオナムチノカミ)を大宮と称するようになる。

その滋賀・日吉大社は、七百九十四年の平安京遷都に拠って都の鬼門に当たる事から、鬼門除けの神社として出世する事になった。

それから約十二年後の八百六年(大同元年)、伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)が中国で修行を終えて帰国し、比叡山に延暦寺を建立した際に古くからこの山の神だった大山咋神(オオヤマクイノカミ)を寺の守護神とした。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、比叡山の王と言う事で山王と呼ばれ、また、中国・天台宗の本山(国清寺)に祀られていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にちなんで山王権現、日吉山王や日吉権現などとも呼ばれるようになって全国に分社が創建された。

伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)の天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、山王権現や日吉山王、日吉権現は天台宗の布教活動の中で全国に広まり、日吉神社が増えて行った。

比叡山の前の名が日枝山(ひえのやま)である事から日枝神社(ひえじんじゃ)とも呼ばれる。

清洲山王宮・日吉神社もその一つで、清須城下の総鎮守神として奉られてるのだが、その使い神が「猿」である所から後の脚本作家が秀吉のあだ名として採用した感が強い。

しかしそれでも世間から「サル」と呼ばれるとしたら、その由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。

そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。

信長が生駒吉乃(いこまきつの)に逢う為に通ったの生駒屋敷で、吉乃(きつの)から預けられた日吉と言う小者、何故か氏も名乗らないが、一通りの読み書きは基より歌まで嗜(たしな)む。

正式な出自名乗りも無い日吉の教養は当時としては奇怪な存在だったが、信長は愛妾・吉乃(きつの)からその出自を聞いて「これを生かさぬ手は無い」と閃(ひらめ)いた。

つまり日吉が、山窩(サンカ・サンガ)の棟梁家の血筋と知ったからだが、そこで信長は余人の様に氏の出自には拘らない。

尾張国中村に広大な屋敷を構え、蜂須賀や生駒、織田信長にさえ一目置かれ、数万人規模の土工夫を動員出来ながら氏(うじ)を持たない日吉丸(秀吉)の素性は、いったい何者だったのか?


この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。

この戦国末期に成ると、かなり共生・交流は出来つつ在ったが、先住系のマツラワヌ(祭らわぬ)民、つまり氏上(氏神)を祭らぬ民の末裔集団・山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が増殖して各地に存在していた。

統治部分や土地は氏族が握っていたから、彼ら末裔集団の縄張りは狩猟に拠る自活遊民や土木、物流(荷役や運輸)などの請負(人海労働)を得意として世の中と関わっていた。

秀吉の出自については、この山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。

秀吉には氏姓に通じる記録がまったく出ない上に、蜂須賀(小六)正勝など川並(かわなみ)衆と呼ばれ、河川水運を生業とする野武士集団千二百騎の支援を得ている。

蜂須賀(小六)正勝は小豪族の出自とされるが、蜂須賀は地名であり、「蜂須賀村の小六さん」かも知れない。

蜂須賀(小六)正勝は、戦国期から安土桃山期に掛けて木下藤吉郎・秀吉(羽柴筑前守〜豊臣秀吉)に臣従して活躍、秀吉から阿波一国を与えられて国主大名となっている。

蜂須賀氏の出自は、織田信長の父・信秀の本拠地・勝幡城から東に二キロほどの尾張国・蜂須賀郷に屋敷が在った国人領主と言われているが、詳細は不明である。

蜂須賀(小六)正勝は、濃尾平野を流れる木曽川の水運利権を握っていた「川並衆」の棟梁である。

川並衆の配下は二千、その内千八百ほどは戦闘能力がある。

どこの領主にも臣従しない在野勢力(野武士)で、規模から言うと三万石から五万石の小大名位の実力がある。

それにしても、あくまで独立勢力として存在していた「川並衆」とその棟梁・蜂須賀(小六)正勝の独立を、何故に織田信秀を始めとする戦国領主達が黙認していたのだろうか?

そこに考えられるのは、蜂須賀氏の「特殊な出自の為ではなかったのか?」と推測が膨らむのである。

蜂須賀(小六)正勝とは義兄弟の契りを交わした仲の前野長康(まえのながやす)は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の古くからの家臣で戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。

この前野長康(まえのながやす)は俗に言う秀吉の墨俣城一夜城築城に協力した頃からの最古参の家臣だった。

前野は実父の旧姓で、尾張国葉栗郡にあった松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿になり、坪内長康(坪内光景)とも名乗っている。

秀吉の出世に伴って最終的には但馬国・出石に十一万石を与えられたが、その後関白・豊臣秀次の仕置きに伴って秀吉に改易切腹させられている。

ここで注目したいのは、川並衆の統領・蜂須賀(小六)正勝の実力である。

前野長康(まえのながやす)は小なりとも城持ちの豪族で、蜂須賀(小六)正勝とは縁戚になる尾張国中村・生駒氏(生駒吉乃の生家)も有力豪族であるから、蜂須賀党の頭目・蜂須賀(小六)正勝の実力は城持ちクラスの力がある豪族と互角だった事が伺える。

その蜂須賀(小六)正勝も前野長康(まえのながやす)も木下藤吉郎時代から秀吉の出世に協力し、やがて家臣に納まっている。

伊勢湾の海運に関わる商業都市「津島湊(つしまみなと)」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄えていた織田家と、木曽川河川の海運を握る川並衆に、争うか手を結ぶかの接点があっても不思議はない。

秀吉を重用した織田信長と言い、蜂須賀、前野、生駒と言い、木下藤吉郎(羽柴秀吉)に小才があったくらいでは重用したり家臣として心服はしない筈で、何か特別の血筋でも秀吉になければ説明が着かない謎である。

もし蜂須賀(小六)正勝が、伝えられる小豪族の出自であれば、先祖の氏姓は当時でも公表された筈である。

そして、それだけの血筋と支配する野武士集団があれば、例え枝葉とは言え、当時ろくに部下を持たない小者の木下藤吉郎(秀吉)に助力する必然性は無い。

つまり、川並(かわなみ)衆は山窩(サンカ・サンガ)の集団であり、蜂須賀(小六)正勝はその頭目だった。

そして日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)自身も、蜂須賀小六さえ心服させる山窩(サンカ・サンガ)の総領家(先住系の王家)の出自だったのではないだろうか?

血統至上主義の当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。

また、殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を貰うのが普通の状態に成っていた。

つまり豊臣秀吉は、男性精子に欠陥が在るほどの「第三勢力として名門の出自だった」との推測が成り立つのである。


豊臣秀吉は、氏族系百姓(商人や工業主、鉱山主、船主、村主、庄屋、名主、地主など)と専業武士(統治と武力行使を担当)の間に明確な線引きをして、「太閤刀狩」と言う「身分制度改革」を強力に推進した。

その理由こそが、彼自身の出自が支配階級の血統である氏族系ではなかったからではないだろうか?

つまり豊臣秀吉は、山窩(サンカ・サンガ)だった説を採れば氏族系百姓でさえ無かった。

まぁ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が資金源にした銀鉱脈の開発も、その根底には山窩(サンカ・サンガ)の山師(鉱山師)が協力していたからである。

秀吉に武骨な武士の感性が薄いからこそ、金の使い方が際立っていた。

この銀鉱脈の開発の山師(鉱山師)は、秀吉が天下を収めるに貴金属の採掘で助力したと同時に、秀吉が支配地を拡大するにつれて金銀の採掘量に大きく貢献している。

秀吉は本拠地とした大阪で商業を奨励し、その発展に努め、その莫大な商いの見返りに利益の一部を献上させていた。

天下人となった秀吉には、莫大な金銀が蓄積されていた。


秀吉が山窩(サンカ・サンガ)の出身だからこそ、古来からの血統を重視した氏族制度を、「太閤刀狩」のその時点でご破算にして、自分やその一党を含め、乱世で頭角をあらわした桃山時代当時の専業武士(統治と武力行使を担当)を、その出自に関わり無く「新たな支配階級として確定させる狙いがあったのでは」と疑えるのである。

何しろ秀吉の直系の家臣は、蜂須賀小六を始め、大半が氏族系の出自ではない事を考えると、「太閤刀狩」の原点が見えるのである。

従来の解釈として、刀狩(かたながり)は、百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策とされている。

しかし間違っては困るが、厳密には百姓は有姓氏族である。

そして農民は民人(良民と非人/餞民)が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。


貴族、武士、神官、僧侶も永い兼業時代があり、同様に町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。


一般的に「太閤刀狩」は豊臣秀吉が百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った安土桃山時代の政策として知られている。

最初に刀狩を行なったのは織田氏家臣の柴田勝家が越前国の一向一揆の鎮圧の為に行っている。

千五百八十五年六月(天正十三年)秀吉が高野山の僧侶(僧兵)に対して武装放棄を確約させており、これを刀狩の最初とする見方もある。

同千五百八十五年八月に秀吉は、第二次雑賀攻め(太田城の戦い)に於いて根来衆や雑賀衆から武器没収を行っいる。

その三年後の千五百八十八年八月(天正十六年七月)に、本格的豊臣政権を樹立した秀吉が刀狩令(同時に海上賊船禁止令)を出して大規模に推進した政策を指す。


豊臣政権成立時に、秀吉本人も含め従来の氏族ではない身分の者が戦国期の動乱の中から勢力を得て新たに氏族(武士)の列に加わり、一国一城の主・領主階級となった。

同様に明治維新の際も、旧藩主以外に維新に貢献した下級武士が爵位を授かって貴族に列している。

その上で、豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、明治政府の「廃刀令」も実行された。

詰まりの豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、明治政府の「廃刀令」も、本音は新体制確立の為に出回っている武器を取り上げて政権の安定を狙ったものである。



「太閤刀狩」をご案内したついでに、太閤検地 (たいこうけんち)もご案内して置く。

豊臣秀吉が全国的に行った田畑の測量及び収穫量調査(山林を除く)を「太閤検地 (たいこうけんち)」と言い、別称として天正の石直(こくなお)し、文禄の検地とも言う。

秀吉は、千五百八十二年から各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。

秀吉は、千五百九十一年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤ではなかったが、学術上の呼称は太閤以前の検地も含めて「太閤検地」と呼ばれている。

太閤と成った千五百九十一年に、秀吉は全国の大名に対し、国郡を基準とした石高帳(一国御前帳)の作成を命じた。

勿論、秀吉の検地以前にも各地の大名によって検地は行われており、特に織田信長によって大規模な検地が行われて「太閤検地の原型になった」と言われている。

信長の命令で柴田勝家が行った越前・加賀・能登などの検地は「国中御縄打」と呼ばれ一五七六年頃の実施である。


戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」と言う団体として領主に年貢を納める「地下請(じげうけ)」と言う制度ががほとんどだった。

この体制下では一つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められると言った複雑な権利関係が存在した。

太閤検地ではこう言った権利関係が整理され、一つの土地に複数の耕作者=納税者が存在する事はなくなった。

しかしこれは帳簿の上での事で、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。

この検地により、表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位が統一された。

ただし、実際に計測していないまま申告された例も多く存在し、また検地が実施されても例外は多数存在した。



信長ほどの男が、単に「目端が利く」程度の男を、その才知だけで認める筈は無い。

日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)に、もっと大きな価値があったのである。

つまり秀吉には、氏族には関わり無い特殊な人々の動員力が在った。

それが、信長の認めた秀吉の力量だった。

氏族の草と深い関わりを持ち、彼らを自在に操る明智光秀と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だったのである。

尾張国中村郷に広大な屋敷を構えていながら「氏素性が無かった」と言われる日吉丸(秀吉)の出自、不都合なら他の武将の様に氏族の系図を買うなり乗っ取るなりをすれば良い。

所が秀吉は、誰にでも解る形で妻方の姓・木下を名乗ってそれ(系図の作文)をしなかった。

木下藤吉郎・・・羽柴秀吉が羽柴を名乗ったのは「織田家の有力武将・丹羽氏と柴田氏から一字ずつ貰う」と言う世間的にも解り易い手段だった。

この事自体も、敢えて「氏素性が無い事」を世間に強調しているようで、「何処かの誰か達に何かをアピールし続けていた」と受け取る方が至極まともな受け取り方ではないだろうか?

考えられるのはただ一つ、「氏素性が無い事」は、秀吉にとって何らかの価値が在った。

つまり、「氏素性が無い者達」の棟梁として君臨し続ける為に、氏族の系図取得は邪魔だったのではないだろうか?

そしてそれは、奉(祭)らわない者として正史には現れない大きな勢力が秀吉の出現で融合される桃山期まで存在していて、そうした出自などに拘らない天才・織田信長がその仕掛け人だったのではないだろうか?

明智光秀には日向の守と言う官位と惟任(これとう)と言う九州名族の姓、丹羽長秀には惟住(これずみ)と言う九州名族の姓を朝廷より与えさせていながら、羽柴秀吉には筑前守の官位だけで姓を与えなかった。

その事も、或いは秀吉が氏族以外の族長(奉(祭)らわぬ者)の血筋だった証かも知れない。

この辺りに、天才・織田信長が木下藤吉郎・秀吉を重用した秘密が在り、れっきとした狙いが有った。

日吉丸(木下藤吉郎)召抱え当時の織田家の兵力は、出先の砦まで引っ掻き集めても精々兵五千足らずだった。

野武士集団とは言え兵千二百は、数万石の武将に相当する。

どうせ農閑期に戦をする半農武士ばかりだった時代である。

正直木下藤吉郎を雇った頃のまだ尾張の弱小大名家の織田信長にして見れば、川並衆の武装野武士集団千二百騎は、織田家にとって大きかった。

山岳戦に強く、土木工事、利水工事に強い川並(かわなみ)衆は、信長の戦略上必要な氏姓に関わらない第三の勢力だった。

太閤記で秀吉出世談の一つに挙げられる逸話である墨俣一夜城の迅速な整備も、他の信長配下の武将達が修復の手に余った倒壊した岐阜城々壁の修理を秀吉が木下藤吉郎時代に短期間で成し得たのも、彼がそうした土木職人群の首領だったからである。

実の所、乱世に在ってリアリスト(現実主義者)の織田信長が価値のない者を登用する訳がない。

益してや、明智光秀と羽柴秀吉は、新参でありながら織田家内で破格の扱いを受けている。

つまり織田信長が浅井家と朝倉家を滅ぼした頃には、勘解由(かでの)と源氏の草々に通じ、自在に操る明智光秀と山窩(サンカ・サンガ)衆の棟梁・羽柴秀吉の両名は「信長の左右の腕、車の両輪」とも言うべき存在である。

どの古文書にも記されてはいないが、織田信長が目を付けた明智光秀と羽柴秀吉の各々が持つ秘められたその特殊な能力は、意外性をも武器として「秘してこそ効果がある」と言うものだったのである。


重ねて言うが、羽柴秀吉と言う男は氏族の端に当たる有姓氏族の末裔・「百姓」ですらも無い。

つまり有姓氏族の末裔ですら無いから、妻方の木下姓を借りて名乗ったほどである。

従って、安易に秀吉の出自を「百姓」と表記するのは間違いだからこそ、山の民(山窩/サンカ・サンガ)の出自として「猿(サル)」と表現したのである。

そしてまた、秀吉が氏族でない勢力を結集できる血統の出自だからこそ、常識の枠に嵌らない思考の織田信長は自らの手元に置いて重用し、秀吉が天下を取れた要因にもその氏族でない勢力が結集しポスト信長を勝ち抜いたからである。

秀吉の出世の裏付けとして「山窩(サンカ・サンガ)出自説を採らない」となると、天下取りの合理的説明が付かないから「人たらしの才能」などで誤魔化す事になる。



有能な補佐役・調停役の豊臣秀長は秀吉の異父弟と言われ、母親の名は「なか」で同じだが父親が「竹阿弥」と言う母親の再婚相手で、義理の父になり実父とは違う。

一説には「実の父」と言われて居る木下弥右衛門は百姓とも足軽とも伝えられるが、情報が錯綜していて実は妻のネネ(オネ)の父親で、秀吉(日吉丸)の実父ではない。

すると、実父は何者なのか?

故郷中村の地元に伝わる伝承では、日吉丸の生家は「広大な田地を有していたと伝わる郷士」または「村長級の富裕層であった」と伝わっている。

その謎の秀吉の実父が、山窩(サンカ・サンガ)集団の相当の実力者だった。

長年資金を備蓄した裕福な状態での五万石の大名でも、千五百〜二千騎の兵を揃えるのがやっとである。

この時代、川並衆と言い、雑賀、根来、伊賀衆と言い、主を持たぬ独立勢力は、そこかしこに居た。

織田信長は、奴婢(ぬひ)としての記載も無い「治世にまつらわぬ山の勢力」を味方に引き入れる為に、山窩(サンカ・サンガ)の総領家を継ぐ男、日吉丸を召抱え、木下弥右衛門の娘ネネ(オネ)を娶らせて木下姓を名乗らせている。

氏姓に拘らない信長ならではのこの方策が、もう一方の光秀指揮下の影人郷士とともに、信長の天下布武を推進させたのである。

羽柴秀吉が氏族であれば、源・平・橘・藤の系流か古代豪族系の姓を有していた筈で、つまり豊臣秀吉(とよとみのひでよし)には遡る氏系図が無かった。

だからこそ、新しく朝廷依り豊臣姓を賜った。


この豊臣秀吉が出自が、天下を取った後の豊臣家と徳川家康との情報戦に大きな影を落とす。

秀吉が雑賀、根来、甲賀、伊賀などに冷たい筈である。

信長は、役に立ちさえすれば出自など拘らなかったが、他の者は拘った。

そしてそれは、どちらか一方ではなく、双方だった。

しかも陰陽修験は、山窩(サンカ・サンガ)川並衆に取って大昔から敵対関係にあった存在である。

つまり、陰陽修験に端を発する光秀指揮下の影人郷士と、先住被征服民族に端を発する山窩(サンカ・サンガ)は、二千年を超える対立の歴史を引きずっていて、志ある陰陽修験系郷士(影人)は、こぞって徳川方に付いたのである。

これは別の面で、血統の争いでもあった。

秀吉は朝廷から関白、次いで太閤(たいこう)と言う官位と、豊臣(とよとみ)と言う賜姓(しせい)を貰い氏族の仲間に入ったが、歴史ある氏族達は腹の中で面白くは無かったのである。

先住系の民・山窩(サンカ)と思しき権力者・豊臣秀吉の出現は、庶民には歓迎されたかも知れないが、氏族には認め難いもので、「猿(サル)」の陰口もその現れだった。

この物語を、最初からここまで読み進めた貴方には、もうお判かりの筈である。

百姓は本来有姓の氏族であるから、秀吉が百姓なら木下の姓など貰う必要は無いのである。

秀吉が、姓を持たない部族の有力者であったからこそ、秀吉は部族仲間の助力で思いも寄らぬ実力を発揮し、天下を手中にした。

しかし彼の死後、徳川幕府成立すると秀吉恩顧の非氏族系有力大名(蜂須賀氏、福島氏、加藤氏等)は次々と粛清され、改易、減封などでその姿を消して行ったのである。


秀吉の戦法に、水攻め、条件諜略などの直接武力に訴えない戦法が多いのは、「武士は戦うもの」とする思考とは些(いささ)か考えを異とするいかにも庶民(山窩感覚)出自の思考の発露である。

味方の損害は極力軽微に抑えるこの戦法、実は弟の木下小一郎(後の大納言秀長)の発案が多かった。

「巡り合わせ」と言えばそれまでだが、秀吉のように出自(氏素性)が定かでない者にしてみれば、闇に生きる影人の存在は不気味過ぎた。

この際、奴らを根絶やしにするのが、豊臣家安泰と考えた。

それでも長い事権力者の奇麗事で刷り込まれた武士の建前を、庶民の感覚(山窩感覚)で理解した武士の立場に、間諜活動は卑怯でさげすむべきものだったのである。

これは明らかに誤りである。

諜報機関を持たない権力組織など存在しない。

むしろ秀吉は、彼らを手懐(てなず)けるべきだったのである。

所がその部分は、お館様が光秀に任せていたから、その重要性について秀吉には認識が無い。

これが豊臣家滅亡の遠因になる。

暗殺、謀殺を含む諜報戦にからきし弱かったのだ。


織田家・信長直臣内では、同格は愚か多少は格下でも遜(へりくだ)って敵を作らない世渡り上手を発揮して伸し上がった秀吉には、凡そプライド高い氏族とはかけ離れた生き方が在った。

見栄え格好は悪かったが、多少影口は叩かれてもそれで相手が利用出来れば生き方としては秀吉の勝ちである。

それは、秀吉の氏素性が怪しかった故に自然に身に着いた知恵だったのかも知れない。

それでも羽柴秀吉は、自分を見出した信長を慕って信長の金魚の糞のごとく付き従っては居たが、正直「織田家に奉公している」と言う感覚は微塵も無く、信長の子供達にまで臣従する積りなど毛頭無かったのである。


ここで、話題が多い生駒氏を紹介する。

生駒の名字は、大和国平群郡生駒(生駒庄/現在の奈良県生駒市)を本貫とする。

藤原良房(忠仁公/藤原北家・藤原冬嗣の二男)の子孫が生駒の地に移り住み本拠とするようになり、後に生駒を名乗るようになった。

また別の説では、藤原時平の曾孫・信義が生駒庄の司(つかさ)となった事から「生駒を称した」とも言う。

室町時代に応仁の乱の戦禍から逃れる為、家広の頃に尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。

尾張生駒氏三代・生駒家宗(いこまいえむね )の時、織田信康(織田信長の叔父)に仕えていたが、織田信長が生駒屋敷に出入りするようになり、後に仕える事となる。

家宗(いえむね )の子・生駒吉乃が信長の側室となり、信忠・信雄・徳姫を産み、後に正室として扱われる。

生駒氏(いこまうじ)は、安土桃山時代に尾張生駒氏(おわりいこまうじ)と土田生駒氏(どたいこまうじ)分化するが、江戸時代にも度々両家の交流が行われている。

尾張生駒氏(おわりいこまうじ)・生駒家長(いこまいえなが)、土田生駒氏(どたいこまうじ)・生駒親正の代に織田信長に仕え織田氏家臣として織田家統一・天下統一に向けた戦国時代を支える。


尾張生駒氏が生駒氏の宗家で、灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え小折城を居城としていた室町時代から江戸時代以後までの武家商人である。

桶狭間の戦いの戦功により信長から安堵状を受け、領内を自由に商売していた為、信長の大躍進の裏には生駒家の資金力や情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたとの指摘もある。

生駒氏(いこまうじ)の家業「馬借」とは陸の物流業で、川の物流業である川並衆・蜂須賀氏等との地理的近接交流、養子、婚姻関係がみられる。

川並衆は、人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)とするのが一般的である。

その山窩(サンカ・サンガ)の有力家の息子として生駒屋敷に出入りしていた藤吉郎(後の豊臣秀吉)と言う若者が、側室・生駒吉乃の下を訪れる織田信長に吉乃の仲介を得て織田家に仕官する。

吉乃の兄・四代・生駒家長・五代・生駒利豊(としとよ/家長の四男)伴に信長に仕え、千九百余石を知行した。

本能寺の変後は信長の次男・織田信雄へ仕えるも、「小牧・長久手の戦い」の後に織田信雄が追放され浪人し、その後生駒家長・生駒利豊の親子は豊臣秀吉へ仕えた。

生駒家長は、秀吉没後に徳川家康の四男・松平忠吉の尾張入府の案内を任された際、そのまま尾張国に留まって家臣となり、千九百余石を知行した。

生駒家長・利豊の親子は、「関ヶ原の戦い」では東軍の福島正則軍に陣借りして参戦している。

尾張生駒氏の家督は、一旦家長三男の善長が継ぐが、その後、五男の利豊が継ぎ後の尾張藩主となる家康の九男・徳川義直に仕える。

尾張生駒氏の子孫は尾張藩士として加増を繰り返し四千石の知行を得、家老職も勤めて幕末まで続いた。

尚、家長三男・善長は利豊に家督を譲った後、妹の嫁ぎ先の蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老家、阿波生駒家として続いた。


生駒氏(いこまし)には、六角氏傍系の土田氏を養家とする讃岐生駒氏もあり、土田生駒氏(どたいこまし)とも称される。

生駒豊政の妹が嫁いだ土田氏より子・親重(政久)を養子に迎え生駒姓を与え養子分家としたのが始まりである。

土田氏には信長の祖母・いぬゐ、母・土田御前、織田信長・豊臣秀吉に仕え重用された生駒親正(土田甚助)が出る。

土田生駒氏(どたいこまし)・生駒親正は、秀吉に讃岐国六万石余りを与えられ丸亀城に移り大名となる。

生駒親正は豊臣政権下で着々と知行を増やし、千五百九十五年(文禄四年)には讃岐国十七万千八百石を与えられた。

讃岐大名家初代・生駒親正は秀吉の信頼厚く、豊臣政権の三中老として遇されるなど重用されていた。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、家門の存続を図る為に親正が西軍に属する一方で、子・生駒一正が東軍の徳川家康に属して戦う。

戦後、一正が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵され、ほどなくして親正は讃岐に戻り、丸亀城から高松城に移る。

生駒親正は千六百三年(慶長八)に高松城にて死去している。



大坂城本丸・畳み張りの大広間に一段高く畳み張りの座所が設(しつら)えて在り、晴れて家康が臣下の礼を摂るのを秀吉がおう揚な態度で座して待って居た。

居並ぶ有力大名の前で家康が臣下の礼を摂って初めて、秀吉の天下が公になる通過儀礼的な儀式だった。



本能寺の変で各地の有力大名が織田信長の次を狙って動き出した頃、その間(はざま)に在ってキラリと光る弱小領主一族がいた。

東信濃から西上野に勢力を保っていた真田一族である。

真田家がその存在を天下に知らしめたのは、徳川勢との「上田神川の合戦」に勝利した事である。

その顛末を書き記して置く。

戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死する。

すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸(さなだまさゆき)は織田信長に恭順した。

つまり、真田信繁(幸村)の祖父にあたる幸隆や叔父達、父・昌幸も、上杉謙信や 武田信玄が一目置く武将だった。

その後、本能寺の変で明智光秀に反逆された織田信長が横死する。

父・真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に果敢抵抗した事である。

昌幸(まさゆき)は徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。


最初の徳川対真田の戦いは、徳川軍敗戦と成った【上田・神川の合戦】である。

千五百八十二年(天正十年)六月に京都で織田信長が本能寺の変で横死し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる五万六千の兵で織田領上野に侵攻する。

織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる二万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。

これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可(もりながよし)も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退する。

その為、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。


甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。

このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。


千五百八十二年(天正十年)十月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換する事とした。

翌千五百八十三年(天正十一年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。


千五百八十五年(天正十三年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではない事を理由にして拒否する。

さらに昌幸は、敵対関係にあった上杉氏と通じた。

同五百八十五年(天正十三年)七月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知る。

家康は八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約七千の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開する。

これに対して真田方は約千二百人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。

また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

五百八十五年(天正十三年)閏八月二日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。

さらに後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。

この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は千三百人もの戦死者を出したと言われる。

一方、真田軍は四十人ほどの犠牲ですんだと伝えられる。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後二十日日間程対陣を続ける。

この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政/一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の五千)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は二十八日に上田より撤退した。

その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、十一月には譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退する事になる。



小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを乗り越え、徳川家康を臣従させた羽柴秀吉には次の仕事が待っていた。

織田信長の後継者に納まったとは言え、羽柴秀吉は未だ中央を制しただけである。

群雄割拠の戦国末期、豊臣政権が確立する直前の日本列島には夫々の地に下克上を勝ち抜いた群雄達が、覇を唱えて夫々に広大な支配地を押さえて君臨して居た。

早い時期に下克上で地盤を固めた先祖・伊勢新九郎盛時(北条早雲)からの世襲の関東・北条氏以外、ほとんどは自分の代で切り取ったもので、何も考えない者にこの位置は在り得ない。

つまり知力と武力を兼ね備えた勝ち残り組みが、秀吉の前に立ちはだかっていたのだ。

東北に覇を唱えた伊達政宗、広大な関東を押さえた北条氏、上越の最強軍団・上杉景勝、四国をほぼ手中にしつつ在った長宗我部元親、中国地方の覇を唱えた毛利輝元、北部九州を抑えながら南部九州の島津義弘に制圧されかかっている大友宗麟など、それらの整理が信長が遣り残した「天下布武」の仕上げの仕事だった。


中国地方の毛利輝元は天下の情勢を様子見をしていたが、千五百八十三年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いの後には人質を送って秀吉に臣従した。

その後起こった四国征伐や九州征伐にも輝元は先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後などの所領を安堵されている。


秀吉は天下統一に際しての軍事行動に度々背後を四国の長宗我部氏に脅かされた為、四国出兵を考えるようになる。

秀吉・長宗我部元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。

交渉決裂により、秀吉は本能寺の変によって中断された千五百八十一年(天正九年)から千五百八十二年(天正十年)にかけての織田信長による四国進出の仕上げを計画する。


千五百八十五年(天正十三年)、天下統一に避けては通れ無い秀吉の勝ち残り組みの一家・四国の覇者・長宗我部氏に対する四国攻めが始まる。

羽柴秀吉は天下の覇者となるべく四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め四国への進軍を命じた。

長宗我部方兵力は四万に対し、関白に就任する力を着けた秀吉方の兵力は十二万の大軍に及んだ。

讃岐・阿波で次々に秀吉軍の進撃を許し谷忠澄や白地城の重臣達も長宗我部元親に降伏を進言した為、蜂須賀正勝との交渉により元親は降伏し、長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、その他の三ヵ国は没収された。


九州征伐は、千五百八十六年(天正十四年)七月から千五百八十七年(天正十五年)四月にかけて行われた、羽柴秀吉(豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。

戦国時代後半の九州地方は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開され、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称する。

三者の内から薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、著しく勢力を拡大する。

さらに島津氏は、大友氏の重鎮・立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州地方への影響力も強めて九州平定をほぼ目前にしていた。

大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避する為に羽柴秀吉に助けを求める。


長宗我部氏に対する四国攻めの翌年、天下統一に避けては通れ無い勝ち残り組みの一家・九州の覇者・島津氏に対する秀吉の九州征伐が始まる。

千五百八十六年(天正十四年)の初期の秀吉方の主軸は黒田孝高で、千五百八十七年(天正十五年)秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げだった。

羽柴秀吉は九州で大友氏を追い詰めて九州統一を目前にしていた島津氏の島津義弘を相手に九州の役(きゅうしゅうのえき)を起こし、約十ヶ月掛けて島津氏を薩摩領近くの出水、川内まで追い落として降伏させている。

島津氏は九州の大部分を没収されたが、島津義弘に薩摩・大隅の二ヵ国を安堵され九州は平定された。


九州征伐から四年、千五百九十年(天正十八年)に天下統一に避けては通れ無い秀吉の最後の決戦・勝ち残り組みの一家・関東の覇者・後北条氏に対する小田原平定が始まる。

秀吉方の主力十七万の大軍は、東海道から山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍一万で伊豆半島をめぐって下田城を陥落させ、小田原に迫らせる。

東山道を進む秀吉方北国勢・三万五千も関東の支城を攻略しつつ、小田原城の孤立を図って行く。

対する後北条氏は、精鋭部隊五万を小田原城に集め篭城を挑むも、秀吉方の石垣山一夜城が完成した事で後北条側に決定的な打撃をもたらした。

この時、北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾した。

為に、本来は月二回ほど行われていた後北条家に於ける定例重役会議であった「小田原評定」と言う言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

なお、この小田原平定戦の支戦・忍城(おしじょう/埼玉県行田市/城代・成田長親)の戦いで、石田三成を大将する秀吉方は攻めあぐみ、三成の武将としての才の無さを露呈する。

この忍城(おしじょう)篭城戦が、映画「のぼうの城」のモデルになった。

秀吉は後北条氏の五万の兵が篭城する居城・小田原城を総計二十一万に上る大軍勢で包囲し、北条氏政・北条氏直父子を投降させる小田原攻め(小田原平定)を敢行する。

氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、小田原城は陥落する。

戦後処理では、後北条の旧領はほぼそのまま徳川家康に充てがわれる事と成る。

この小田原攻めの時点で東北に覇を唱えた伊達政宗は羽柴秀吉に臣従し、小田原攻めに加わって領地は減封されたが伊達家は大名として生き残っている。

この羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の四国攻め・九州征伐・小田原平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長が「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。



島津義久(しまづよしひさ)は、実父・第十五代当主・島津貴久(しまづたかひさ)から薩摩の守護大名・戦国大名島津氏の家督を継いだ戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩・島津氏の第十六代当主である。

千五百五十四年(天文二十三年)、義久(よしひさ)は島津氏と蒲生(がもう)氏、祁答院(けどういん)氏、入来院(いりきいん)氏、菱刈(ひしかり)氏などの薩摩・大隅の国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。

以後、国衆との戦いに従事しており、千五百五十七年(弘治三年)には蒲生氏が降伏し、その九年後の千五百六十六年(永禄九年)、薩摩統一の途上に義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第十六代当主となっている。

島津氏の家督を継いだ島津義久(しまづよしひさ)は、国衆(国人衆)が割拠する薩摩・大隅・日向の三州を制圧、九州北上をする。

千五百六十九年(永禄十二年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌千五百七十年(元亀元年)には東郷氏、祁答院氏が降伏、ようやく薩摩統一がなった。

千五百七十二年(元亀三年)五月になると、以前から日向真幸院の帰属を巡って関係が悪化していた日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)が重臣の伊東祐安(いとうすけやす)に三千人の軍勢を与えて島津方への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘がこれを迎え撃った。

この木崎原の戦いで島津軍は、敵将・伊東祐安を筆頭に兵五百人以上を討ち取る圧勝を挙げ、これと同時に、並行して大隅の統一も展開しており、千五百七十三年(天正元年)に禰寝(ねず)氏を、翌年には肝付(きもつきし)氏と伊地知氏を帰順させて大隅の統一も果たしている。

最後に残った日向に関しては、千五百七十六年(天正四年)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退の一途を辿る。

こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一と言う島津氏の悲願が達成された。

伊東義祐(いとうよしすけ)が亡命した事により豊後・大友宗麟が千五百七十八年(天正六年)秋、大軍を率いて日向に侵攻して来る。

侵攻して来た宗麟は務志賀(延岡市無鹿/無鹿は宗麟の名付け)に止まると田原紹忍が総大将に任命され、田北鎮周・佐伯宗天ら四万三千を率いて、戦いの指揮を取る事になる。

この大友軍侵攻時、島津軍は家老・山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は三千余人となった。

大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いたが、翌月には義久が二万余人の軍勢を率いて出陣し佐土原に着陣する。

島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。

大友軍は、当主・宗麟が居ない事もあり、団結力に欠け、大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。

無秩序に攻めて来る大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と出し、大友軍を壊滅させる。

この通称「耳川の戦い」とも「高城川の戦い」とも呼ばれる戦いで、島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め二千から三千の首級を挙げた。

また千五百八十一年(天正九年)には肥後国・球磨の相良氏が島津氏に降伏、これを帰順させている。

「耳川の戦い(高城川の戦い)」で大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭して来る。

龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請して来た為、それに応えた島津軍は千五百八十二年(天正十年)、龍造寺方の千々石城を攻め落とした。

翌年に成ると、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背き、島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら千余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。

千五百八十四年(天正十二年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後の水俣まで出陣する。
家久は島原湾を渡海し、安徳城に入った。

有馬勢と合わせてその数五千余りで、龍造寺軍二万五千(六万説あるも??)と言う圧倒的兵力に立ち向かう。

家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め一門・重臣など三千余人を討ち取り、見事に勝利し、ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降る事となる。

龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実、筑後国の筑紫広門らが、次々と島津氏に服属や和睦して行った。

この千五百八十四年(天正十二年)、中央では豊臣秀吉と徳川家康が対峙した小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)が起こった年で、豊臣政権が確立し始める頃である。

千五百八十五年(天正十三年)、義久の弟・義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光(あそこれみつ)を下した。

これにより九州で残す所は大友氏の所領、筑前・豊後のみとなるも、この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられる。

秀吉の戦禁令の書状に島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視して大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じ、翌千五百八十六年(天正十四年)筑前の西半を制圧し、残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。

その年の夏、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした二万余人が岩屋城を落すも、この戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算となった。

直後に宝満山城も陥落させたが、立花城は諦め豊後侵攻へ方針を転換する。

島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還されている。

島津義久は肥後側から義弘を大将にした三万七百余人、日向側から家久を大将にした一万余人に豊後攻略を命じる。

しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取った為、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。

家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、大伴氏重臣・利光宗魚(としみつそうぎょ)が戦死するも抵抗は続いた為、義久は大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした。

長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)・信親(のぶちか)、十河存保(そごうまさやす / ながやす)ら総勢六千余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。

家久はこれを迎え撃つ形で戸次川を挟んでと対陣し、合戦は敵味方四千余りが討死した乱戦で在ったが、家久は「釣り野伏せ」戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。

長宗我部信親、十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり大勝した。

この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏し、大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とし、家久は終(つ)に大友宗麟の守る臼杵城を包囲する。

千五百八十七年(天正十五年)に成って、秀吉の九州征伐 が始まる。

豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢十余人が豊前国に到着し、日向経由で進軍した為、豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下って行く。

秀長軍は山田有信ら千五百余人が籠る高城を囲み、また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰して来る島津軍に備えた。

島津軍は後詰として、義弘・家久など二万余人が根白坂に一斉に攻め寄せたが、島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した。

島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主・島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。

義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改め、その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。

義久は降伏したものの、義弘・歳久・新納忠元・北郷時久らは抗戦を続けていた。

義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけると言う事件を起こしている。

豊臣秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義久には男児が無かった為、義弘の子である久保(ひさやす)に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていたその久保(ひさやす)日向諸縣郡を宛がった。

またこの際、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)には秀吉から直々に大隅の内から肝付(きもつき)一郡が宛がわれている。

かつて九州の大半を支配していた島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種と言った新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。

豊臣政権との折衝には義弘が主に当たる事になるも、島津家は刀狩令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。

この頃京都では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないと言う噂が立ち、石田三成の家臣が義弘に内報している。

また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。

その矢先に秀吉は文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。

しかし、島津家は秀吉の決めた軍役は十分に達成する事ができなかった上、重臣の一人・梅北国兼(うめきたくにかね)は名護屋に向かう途中の肥後で反乱を起こす。

これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。

また千五百九十三年(文禄二年)、朝鮮で久保(ひさやす)が病死した為、久保の弟・忠恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。

千五百九十四年(文禄三年)、義久の弟・義弘は石田三成に検地実施を要請する。

検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われる事となった。

これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。

当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた為、これを「両殿体制」と言う。

秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は万石の加増を受けた。

しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。

義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、「事前に義久の了解を得ていた」と言う説もあり、事件後には家臣達から「忠棟の子・伊集院忠真と連絡をとらない」と言う起請文をとっている。

千六百年(慶長五年)関ヶ原の戦いに於いては、京都に居た義弘は西軍に加担する事になる。

この間、義弘は再三に渡り国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。

戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。

家康に謝罪する為に忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している。

忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。

義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できない為、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。

結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。

徳川家康による領土安堵後の千六百二年(慶長七年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。

この頃の体制を指して「三殿体制」と呼ぶ。

島津義久は、千六百四年(慶長九年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築いて移り住んだ。

しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから忠恒との関係は次第に悪化したと言われる。

忠恒・亀寿夫妻の間には一人も子が無かった事から、義弘は外孫の島津久信を忠恒の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。

また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。

義久は優秀な三人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。

しかし、織田信長の後を継いで中央を制した豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅二ヵ国と日向・諸県郡(もろかたぐん)を安堵される。

豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。



千五百九十年(天正十八年)に後北条氏の五万の兵が篭城する居城・小田原城を総計二十一万に上る軍勢で包囲し、北条氏政・北条氏直父子を投降させる小田原攻め(小田原平定)を敢行する。

この小田原攻めの時点で東北に覇を唱えた伊達政宗は羽柴秀吉に臣従し、小田原攻めに加わって領地は減封されたが伊達家は大名として生き残っている。

この羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長の「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。



織田信長が天下布武を目指して京の都に上洛を果たし、周囲の有力大名や一向宗の包囲網の駆逐に励んでいたちょうどその頃、奥州の地では伊達政宗(だてまさむね)と言う竜が頭角を現し、盛んに領国を広げていた。

戦国大名として奥州の地で気を吐いた伊達政宗(だてまさむね)は、定説では藤原北家魚名山蔭流・伊達氏とされ。

伊達氏は、鳥羽天皇中宮・待賢門院(たいけんもんいん)の非蔵人・権中納言・藤原光隆(ふじわらみつたか)の息子で平安時代末期の武将・伊達朝宗(だてともむね)を祖としているが異説もある。

魚名山蔭流の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)は平安時代前期の公卿・藤原高房の次男で、山蔭(やまかげ)の九代後に常陸の国に常陸介として赴任した常陸介・藤原実宗(ふじわらのさねむね/中村宗実・なかむらむねさね)が居た。

その藤原実宗(ふじわらのさねむね)は、都に於いて従五位下遠江守・常陸介の官位を得る一方、常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族だった。

この常陸介・藤原実宗(ふじわらのさねむね)の代に「伊佐、若しくは中村と称した」とされ、その四代後に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)が居て、母が源為義(みなもとのためよし)の娘とされる為、念西(ねんさい)は源頼朝(みなもとよりとも)の従兄弟にあたる。

常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい/朝宗・ともむね)には子息に為宗、宗村(為重)、資綱、為家らがあり、娘には源頼朝(みなもとよりとも)の側室・大進局(だいしんのつぼね/僧・貞暁の母)として知られた女性が居た。

千百八十年(治承四年)に源頼朝(みなもとよりとも)が挙兵した際には、母方の従兄弟と言う関係も在って念西(ねんさい)はその麾下に馳せ参じる。

常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)は源頼朝(鎌倉幕府)の御家人となり、千百八十九年(文治五年)の奥州合戦に際しては、四人の子息とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。

奥州合戦(奥州藤原攻め)で功を立て、この功によって激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡(福島県)を賜り、旧来の常陸国の所領は長男の為宗が相続し、伊達郡は次男・宗村が相続しこれを契機に伊達を称して伊達氏が起こった。

次男・宗村の後裔は伊達氏として存続、戦国期に奥州の覇者・伊達政宗(だてまさむね)を輩出して以後東北の雄藩として維新まで栄えている。

但しこの伊達氏、一般に「念西(ねんさい)を伊達朝宗、為重が後の二代当主・伊達宗村である」と言われが、初代を「宗村」としている文章類も多く見受ける事から二代当主とされる伊達宗村が念西であると言う説もあるが、初期伊達氏の系譜にはその他諸説が入り乱れて確定はしていない。


伊達家第十七代当主(仙台藩初代藩主)伊達政宗(だてまさむね)は伊達藤次郎政宗と呼ばれ、伊達家中興の祖と呼ばれる第九代当主・伊達大膳大夫政宗の名に因(ちな)んで正宗を名乗っている。

奥州(東北)の雄・伊達政宗も、織田信長同様に母に愛されなかった男である。

それも生半端な話ではなく、母・最上義姫は弟・小次郎(政道)が生まれるとそちらを可愛がり、政宗に降りかかった二度の暗殺未遂事件の首謀者が母・義姫だった。

それで止むなく、政宗は弟・政道を自らの手にかけて殺害している。

伊達政宗の母・最上義姫は、出羽国(山形・秋田)の戦国大名・最上義守の愛娘で次の当主・最上義光の妹に当たる。

義姫は、最上家から所領が隣接して対立関係に在った出羽国の(山形・秋田)の戦国大名・伊達家に十六歳で嫁ぎ、三年後の十九歳で伊達家継嗣・梵天丸(政宗)を産んでいる。

或いは政宗の壮絶な戦ぶりは、織田信長同様に母に愛されたくて己の能力を証明したかった事が原動力かも知れない。

政宗(まさむね)は、千五百六十七年の九月に生まれたとするから、豊臣秀吉とは三十歳、徳川家康とは二十四歳も年下になり、政宗誕生の翌年には織田信長が足利義昭を奉じて大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ上洛している。

千五百七十年(元亀元年)の姉川の合戦が政宗が四歳の時で、千五百八十二年(天正十年)六月の本能寺の変当時でも漸く政宗は十六歳で、つまり遅れて戦国期に生まれて来た不運の名武将だったのかも知れない。


千五百六十七年(永禄十年)出羽米沢の米沢城に生まれた伊達政宗(幼名・梵天丸)は、五歳のみぎり疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。

当時はまだ天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。

政宗は千五百七十七年(天正五年)に数えの十一歳で元服、二年後の十三歳で仙道の戦国大名・三春城主田村清顕の娘・愛姫を正室としている。

元服から四年、政宗は隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に十五歳で初陣し勝利を収める。

この相馬氏との合戦で見せた政宗の政宗の武将としての素質を見抜いていた父・輝宗は、四十一歳若さで家督相続を伝え十八歳の正宗に家督を譲り伊達家十七代を継承する。

その後正宗は、小手森城主の戦国大名・大内定綱や二本松城主の戦国大名・畠山義継など近隣武将と戦い、反伊達連合軍を形成した佐竹氏・蘆名氏など三万の連合軍を安達郡・人取橋付近で六千に満たない兵力で迎え撃ちかろうじて勝利を納める。

人取橋の戦いに勝利した政宗は正妻・愛姫の実家田村氏の協力を得て更なる侵攻を行う。

千五百八十八年(天正十六年)に安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる郡山合戦にて伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との戦闘で相手国の領土を奪い、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く戦国有数の大名となる。

しかし中央では既に豊臣秀吉が天下を掌握しつつあり、朝廷から関白の位を得て関白・豊臣秀吉は関東・奥州(東北)の諸大名、特に関東の北条氏と奥州(東北)の伊達氏に対して私戦禁止命令を発令した。

だが、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。

会津の蘆名氏・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破りさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼす。

次いで戦国大名・白河義親、石川昭光、岩城常隆、大崎氏、葛西氏を服属させ現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部を勢力下に置いて支配し、全国的にも屈指の領国規模を築く大々名に成っていた。

だが、政宗には転機が訪れていた。

正宗が奥州(東北)に覇を唱えた頃には織田信長の統一事業を継承した豊臣秀吉が「天下布武」の最終段階に漕ぎ着けていて、秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられる。

その秀吉の恭順を促す書状を当初無視していた正宗も、同盟関係に在った関東に大国を領する後北条氏が秀吉の二十万余の大軍に攻められる(小田原征伐)に及んで、後北条氏に味方して秀吉と戦うべきか秀吉方に参陣して小田原攻めに参加するか直前まで迷っていた。

出した結論が、秀吉に服属し小田原に参陣す事だった。

伊達政宗は戦国の世に生まれて、少なくとも奥州制覇を目論んだ男である。

しかし残念な事に奥州最大の戦国大名に手が届いた頃は、既に中央では豊臣秀吉が関東の後北条氏以西を制覇してその力は強大だった。

引く事も将の器の内で、ここで意地を通すのが必ずしも名将ではない。

圧倒的な秀吉の力を前にして、政宗は伊達家の存続を考えざるを得なかった。

伊達政宗の助勢援軍を頼りに小田原に篭城していた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、北条氏の滅亡と正宗の服属により残されていた関東と奥州は平定され、秀吉の天下取りは達成された。

関白殿下・豊臣秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉との対立をあきらめ服属する事で、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされた会津領などは没収されたが七十二万石になった本領を安堵される。

この時に空(あ)いた合津領に、伊達政宗の抑えとして四十二万石で移封されて来たのが蒲生氏郷(がもううじさと)だった。

その後政宗は葛西大崎一揆に絡んで嫌疑をかけられ、扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に五十八万石に減封されての転封となり、移封先の城名を岩出山城に変えている。

豊臣秀吉が朝鮮半島と中華帝国の平定の野心を抱き朝鮮出兵を決めると、政宗は従軍して朝鮮半島へ渡る。

この朝鮮出兵時に政宗が派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させ伊達家の部隊に誂(あつら)えさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。

これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになって「伊達男」の語源になった。

太閤となり関白職を甥の豊臣秀次に譲った秀吉だったが、その関白・豊臣秀次が秀吉から謀反の疑いをかけられ切腹した時には秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となる。

この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。

政宗自身も秀吉から秀次謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れている。

いずれにしても、織田軍団相手に不敗を誇った上杉家に直江兼続が在る限りの警戒と同様に、ほぼ奥州を平らげた伊達政宗の力量を秀吉は警戒して事あるごとに牽制していたから、それが正宗にとって忍従の日々だった事は事実である。



この桃山時代に、天正の大地震が発生している。

天正大地震(てんしょうおおじしん)は豊臣秀吉が関白に任じられた西暦千五百八十五年の一月十八日(和暦天正十三年十一月二十九日)に発生した大地震である。

この地震は天正地震、白山地震とも呼ばれ、震源地は飛騨国(現在の岐阜県北西部)、マグニチュードは八前後と推定されている。

しかし、震源域も未確定である為に現存資料の精度は高くないが以下のごとく被害は相当に甚大広域に渡る為、史上特筆するべき地異現象である。

琵琶湖底にある集落遺跡「下坂浜千軒遺跡」(現・滋賀県長浜市)は、天正大地震(てんしょうおおじしん)に拠る液状化現象により「集落が水没した跡」と解明された。

越中国(えっちゅうのくに)では天正大地震(てんしょうおおじしん)で木舟城(富山県高岡市福岡町木舟)が倒壊、前田利家の弟・木舟城主・前田秀継夫妻など多数が死亡した。

また、戦国時代に飛騨国・白川郷を支配した帰雲城主・内ヶ島氏一族が居たが帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主・内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。

その、帰雲城周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出す事となった。

飛騨国・郡上では、奥明方(現・郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時六〜七十軒)が一瞬で崩壊し、「辺り一面の大池と成った」と伝えられている。

その他、美濃国では大垣城が全壊焼失、近江国では長浜城が全壊し城主・山内一豊の息女与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡するなど、近畿、東海、北陸にかけての各地で甚大な被害が出た。

山城国 ・京都(首都)ではこの大地震で東寺の講堂や灌頂院が破損、三十三間堂では仏像六百体が倒れた。

尾張国では、五条川河川改修に伴う千九百八十八年(昭和六十三年)の清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。

千五百八十六年(天正十四年)に織田信長の次男・織田信雄に拠って行われた尾張国・清洲城の大改修は、「この地震が契機だった可能性が高い」とされた。

キリスト教宣教師(ポルトガル)・ルイスフロイスの手記「フロイス日本史」に、若狭湾と思われる場所で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に天正大地震(てんしょうおおじしん)の震源域が伸びていた可能性もある。

関連して「兼見卿記(公家で京都吉田社の神主)」には、丹後、若狭、越前など原発銀座と呼ばれる若狭湾周辺に大津波があり、家が流され多くの死者を出した事が記されて、原発の安全性に対する不安が広がっている。


秀吉の名軍師として江戸期にでっち上げられた竹中半兵衛や黒田勘兵衛と違い、この両名よりも、大納言豊臣秀長(羽柴 秀長・とよとみのひでなが・はしばひでなが)の方が実質の軍師らしく兄・秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。

少し横道に逸れるが、大納言豊臣秀長の話しの前に竹中半兵衛や黒田勘兵衛の事を記述して置く。

羽柴秀吉の名軍師として世に有名な竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての実在の武将で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の名参謀として同時代に黒田孝高(黒田官兵衛)と並び称される参謀として活躍し、後の小説等では天才軍師と称されている。

しかしこの竹中半兵衛、羽柴秀吉の軍師としては実は日本人が認識しているほど策士として活躍した記録は沢山は無い。

竹中半兵衛は、優れた交渉人(ネゴシェーター)ではあるが、常に秀吉の傍らに居て「軍師として指南した」と言うよりも、交渉事で出歩いていたいていたのが羽柴家に於ける実態だった。

竹中家は、斉藤道三が下克上で手に入れた美濃国・斎藤氏の家臣で、美濃不破郡・岩手城主の父・竹中重元の死去により家督を継いだ半兵衛重治は、美濃・菩提山城主となって父・斉藤道三を討って美濃国主に納まった斎藤義龍に仕えた。

竹中半兵衛が策士として後の世に残ったのは、斉藤義龍亡き後を継いだ主家・斉藤龍興がどうしょうも無い主君だった為に、龍興を諌める為にその居城・稲葉山城(後の岐阜城)を「僅か十六〜七人の手勢で乗っ取る」と言う快挙を成した為である。

竹中半兵衛が男を挙げた稲葉山城(後の岐阜城)乗っ取り劇は大胆と言えば大胆だが、乗っ取られた側からすると半兵衛が「味方の武将」と言う油断もあり虚を突かれた格好で、条件が揃っていなければそう易々とは成功しない。

この竹中半兵衛の稲葉山城(後の岐阜城)乗っ取りを「美濃国攻略の好機」と捉えた織田信長の仕官の誘いを半兵衛は断り、城を龍興に返して浪人となり、一時浅井長政の客分になっていた。

その後信長の侵攻により美濃国主斎藤氏は滅亡すると、信長は秀吉を半兵衛の説得に遣わして再び半兵衛に仕官の誘いをさせるが、結果的に半兵衛は織田家の直参を断り羽柴秀吉に仕えている。

信長の侵攻により美濃国々主斎藤氏は滅亡し、龍興は逃亡して越前国の朝倉家に身を寄せている。

羽柴秀吉に任官後の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)は、織田信長の越前朝倉家攻めで織田家と浅井家が敵対関係になる。

すると半兵衛重治は、過っての客分時代の浅井人脈を使って調略活動を行い、浅井家側の武将数名を織田方に寝返させる働きをしたが、秀吉に従って姉川の戦いや中国遠征に参加するも宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させた以外大した戦功は無い。

それよりも、同僚の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得に行って捕縛され、黒田官兵衛の寝返りを疑った信長に、人質の長男の松寿丸(黒田長政)殺害を命じられたがこれを助けて官兵衛から感謝されている。

同じく羽柴秀吉の名軍師として世に有名な黒田官兵衛孝高/如水(くろだかんべいよしたか/じょすい)は戦国時代、安土桃山時代、豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍して豊前国中津城主と成った戦国時代〜江戸時代前期にかけての武将・大名である。

播磨国の西播最大の大名・小寺政職に仕えて姫路城代を勤めていた黒田家は、官兵衛の父・職隆の代に主君・小寺政職から「職」の一文字を与えられ養女を貰い受けて小寺の名字を名乗っている。

小寺(黒田)家の家督を継いだ官兵衛は、進行して来た織田方に付く為に奔走して播磨の大半をまとめ、羽柴秀吉を姫路城に迎え入れて城を明け渡し、その与力となる。

その後、羽柴秀吉の幕僚と成った黒田孝高(黒田官兵衛)は、織田信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛され土牢に押し込められてしまう。

黒田官兵衛の寝返りを疑った信長に、竹中半兵衛は人質の官兵衛長男・松寿丸(黒田長政)殺害を命じられたがこれを助けて官兵衛から感謝されている。

一年後に荒木村重の有岡城は落城し、黒田官兵衛は家臣の栗山利安に拠って救出されたのだが、長期の入牢で関節に障害が残り歩行が不自由になって、以後の合戦の指揮には輿を使う始末だった。

この荒木村重を破ったのは、後の織田家の相続会議・清洲会議に四宿老の一人として名を連ねる池田恒興(いけだつねおき)で、恒興はその功に拠り村重の旧領の内摂津有岡十二万石を領して大名の列に加わっている。



高松城水攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起って信長が横死し、羽柴秀吉が中国大返しで畿内に戻る時に黒田官兵衛は毛利輝元と和睦交渉に成功している。

また、黒田官兵衛は羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いに先立ち、毛利との外交に手腕を発揮して毛利輝元を味方に着けている。

織田信雄、徳川家康連合との小牧・長久手の戦いの頃には竹中半兵衛に助けられた長男・松寿丸が元服して黒田長政を名乗り、秀吉の紀州攻め・四国攻めが始まると根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親の兵を破って長政は武将としての名声を上げた。

豊臣(羽柴)秀吉に臣従していた黒田官兵衛、黒田長政親子は、秀吉亡き後力を着けて来た徳川家康に接近する。

つまり、「処世術に長けている」と言う事で、関が原では東軍として参戦している。

黒田家は、関ヶ原の合戦の後に家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で五十二万三千石を与えられ大藩と成ったが、これは官兵衛の知恵よりも息子・長政の武勇に拠る所が大きい。

息子の黒田長政が筑前国々主となると、黒田官兵衛(如水)も中津城から福岡城に移り、そこで亡くなるまで隠居生活を送った。

しかし、いずれにしても竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が、そこそこの働きこそすれ秀吉に天下を取らせる程の「大きな働きをした名参謀」とするのには無理があり、「その一端を担った」とする方が正しい。


さて、本筋の秀吉の名軍師・豊臣羽柴秀長は幼名を小竹(こちく)、長じて小一郎と言い、秀吉の異父弟(一説には同父弟)とするのが一般的である。

秀長は、秀吉がおね(ねね/高台院)との婚礼後に足軽小頭に出世したのを機会に声を掛けられて臣下となった。

しかし秀長の父・竹阿弥(ちくあみ)は織田信長の父・信秀の同朋衆(雑務や芸能にあたった御坊主衆)で、「武士の心得など無かった」と言われる秀長が、僅かな期間で秀吉の補佐をする武将になったのは稀な才能と言えるのではないか。

秀長は生来の知恵者に生まれたらしく、度重なる兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らに在って指揮を補佐し、「的確な助言に定評が在った」と言われている。

温厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し天下統一に貢献、後には名調整役として各大名からも頼りにされる人格者であった。

千五百八十三年(天正十一年)木下小一郎から羽柴長秀を名乗り、従五位下美濃守に叙任され、翌年には長秀から秀長に改める。

羽柴秀長は、秀吉の天下掌握後は大和国の郡山城に入り、百万石を超える大身となり、千五百八十六年(天正十四年)従三位に昇叙して権中納言、翌千五百八十七年(天正十五年)従二位に昇叙し、権大納言となり大和大納言と呼ばれる。

天下を掌握した秀吉は、その他にも乏しい親族を次々に取り立て、甥の秀次を近江国八幡四十三万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、身内で固めて淀の方(茶々)との間に出来た実子の鶴松を後継者と定めた。

この辺りから豊臣家に暗雲が漂い始める。

秀吉の両手とも知恵袋とも評された、豊臣秀吉の弟・大納言秀長の病である。

千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、頼りになる弟の大納言秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。

この一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死、誰かの呪いが効いているのでなければ、明智(南光坊)と雑賀孫市の仕掛けた陰謀、病死に見せかけた「暗殺ではない」と言う証拠はない。


さて大藩主となった丹羽長秀(にわながひで)の丹羽氏のその後だが、丹羽長重(にわながしげ)の代になって浮沈が激しく何故か歴史の表舞台で華々しい活躍はしていない。

それと言うのも、丹羽長秀の嫡男・丹羽長重は越前・若狭・加賀二郡百二十三万石万石を相続したのだが、百二十三万石は突出して大封の為に羽柴秀吉には長秀の病死を期に丹羽氏の勢力を削ぐ意志が芽生えていた。

千五百八十五年(天正十三年)に父・長秀が没して家督を相続したばかりの長重(ながしげ)に、秀吉が賤ヶ岳の戦いの後始末・佐々成政の越中征伐に従軍した際の長重の家臣に「佐々成政に内応した者がいた」との嫌疑を掛け、越前国、加賀国を召し上げて若狭一国十五万石に減封の仕置きをした。

更に重臣の長束正家や溝口秀勝、村上義明らもヘッドハンティングで召し上げられ、更に二年後の九州攻めの際にも家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、丹羽氏は僅かに加賀加賀国松任(現白山市)四万石の小大名に成り下がってしまう。

もっともこの時期、羽柴秀吉は豊臣政権確立の為に盛んに血縁関係の大名を京・大阪の周辺に配置していた為、丹羽氏の百二十三万石はその原資に充てられた匂いがする。

その後丹羽長重(にわながしげ)は、小田原攻めに従軍した功によって、加賀国小松十二万石に加増移封され、この時に従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたて小松侍従(小松宰相)と称された。

また長重(ながしげ)は、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦った為、戦後徳川家康から一旦改易の処分を受けている。

その長重(ながしげ)が、三年後に常陸古渡藩一万石を与えられて大名に復帰し、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦して武功を挙げ五年後に常陸江戸崎藩二万石に加増移封された。

後日談だが、その後の長重は余程将軍家の覚えが良かったのか、その加増移封の更に三年後に陸奥棚倉藩五万石に加増移封され、更に五年後の千六百二十七年に陸奥白河藩十万七百石に加増移封ぜられて初代藩主となり、白河城を築いている。


天下を統一した羽柴秀吉は、出自(氏素性)が定かでない新興勢力である。

しかし、永い事日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。

その「お血筋」に関わりの無い人物羽柴秀吉が、にわかに朝廷から豊臣の姓を賜り、「関白だ太閤だ」と、ノサバリ始めた。

当然ながら、「お血筋」を誇る旧勢力は内心不満で、唯一対抗しうる人物徳川家康に期待した。

影のプロジェクトは、影人達の支援を得て、順調に進んだ。

雑賀の女間諜は、当時最強だった。

孫市は、秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐から生き残ったそのほとんどを、秀吉血族の奥向き女房の元に忍ばせている。

相次ぐ秀吉身内の死は、「雑賀、根来の怨念の呪い」と言って良い。

そして、大きな意味が在った。

この親族城主配置体勢が崩壊した事で、明らかに豊臣家(秀吉)の力を削ぐ出来事だったからである。


信長亡き後、秀吉にアドバイスしていたのは千利休と異父弟の大納言・豊臣秀長である。

もう一人の千利休は氏族出自の他人だから、いずれ袂を分かつ工作をすれば形が付く。


比叡山の山道に続く小川沿いの小路を連れ立って歩きながら、光秀(南光坊)と孫市は情報交換をしていた。

「孫市、やはり知恵袋の秀長が問題じゃ。あ奴が居なければ、秀吉など直ぐに事に困る。」

「南光坊、案じるな、既に大和郡山城には手の者を放っておる。奥向きの女性(にょしょう)も二人・・・」

「して、首尾は?」

「病に臥せり、最早(もはや)時間の問題でござる。」

「事が露見せぬ内に、秀保も、同様にのぅ。」

「家康殿は賀茂のお血筋、秀吉は鵺(ぬえ)・土蜘蛛の類、何が関白じゃ、天下は豊臣にはやれぬ。」

「やはり、お主も拘(こだわ)るか?」

「拘(こだわ)らいでか、この国は永い事それでやって来た。光秀を助力するはその為ぞ。」

「そぅよのぅ、どうやら我ら二人、天命を持たされてこの世に居るやも知れん。孫市、まぁ飲め。」

「おぅ、今宵は酒が旨い。」

「秀吉・・・か、奴は足りるを知らぬ男じゃ。」

「如何にも孫市様、しかしながら足りるを知らぬは何処(いずこ)の武門にても同じでござれば・・・」

「光春殿の言もっともじゃが、奴は山猿で武門ではない。皆が秀吉の威光に臆する事なければ良いが・・・」

「それは家康殿に取っても当方に取って吉でござれば、秀吉亡き後、事が起きればお味方する者も多いと存知ますぞ。」

「孫市殿、それにしても秀吉に何時までも生きていられてはのぅ〜。」

「お主も気が短い。わしは抜かりなく僅かづつ盛らして居るわ、秀吉も永くはない。」

「孫市起こるな、飲め。それがわしの生き甲斐じゃで。」

「言われなくても、お主の意向は心得て居るわ。」

孫市も光秀も壷に嵌った酒は底なしで、語りは尽きない。

「実は、淀城の鶴松、丹波国亀山城の秀勝の元にも放っておる。そちらも警備は甘い故、少しずつ盛っておる。」

「そうか、しかし全て殺ってしまっては、明らかに不自然じゃ。」

「それも考えて、近江八幡の秀次だけは、後々噂を流して仲違いささせる積りじゃ。見て居れ、秀吉め自ら甥を始末するぞ。」

「そうよのぅ、秀次は関白じゃが、拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が産まれたで、近頃は秀吉が疎んでおる。秀吉の周りを時をかけて剥がして行けば、やがて豊臣の血は無くなる。秀吉は諜報には無知じゃで、お主のような怖い相手を敵に廻しおった。」

「いずれ、徳川様の天下になるじゃろぅ。」

南光坊天海(光秀)と雑賀孫市の謀殺謀略は、静かに進んでいた。


豊臣秀次は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、当時実子に恵まれなかった秀吉の養子となる。

戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次(はしばひでつぐ)と改名する。

豊臣秀次が、最初、三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたのは、信長が開始した四国征伐において秀吉が四国に対する影響力を強める為に甥で養子の信吉(のぶよし/秀次)が送り込まれた事に拠るものである。

その秀次が養子入りした名門・三好氏(みよしし)は信濃源氏流れの氏族である。

三好氏は、鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、室町時代は管領・細川氏に臣従しての阿波の守護代と成っていたが、管領・細川晴元の代に三好長慶(みよしながよし)が臣従したまま勢力を拡大しして主家を上回る力を着け、細川家は弱体化する。

三好長慶(みよしながよし)は、恐れを為した細川晴元を逃亡させてる下克上で畿内随一の勢力となり、さらに長慶は第十三代室町将軍・足利義輝と戦ってこれを近江に追い、戦国時代には阿波国をはじめ四国の一部と畿内一円に勢力を有する有力な戦国大名となった。

戦国時代初期の一時は、三好長慶(みよしながよし)が都に在って天下に号令した為、実質天下人の役割を担った。

だが、抵抗勢力が強くて政権の体を確立し得ない内に三好長慶(みよしながよし)が死去、また長慶が勢力拡大に力として来た弟達や嫡男・義興を失っていた為に家老であった松永久秀や三好三人衆が三好家内で内乱の勢力争いとなって三好宗家は衰退する。

三好一族は、織田信長が足利義昭を奉じて入京して来た時に抵抗を試みるが敗れて四散し、足利義昭の十五代将軍宣下を許して畿内の勢力を失い、四国の阿波国など地方に勢力を残すのみと成る。

やがて将軍・義昭と信長が対立し、将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれると、三好宗家の義継や三好三人衆は義昭方について信長と対立するも呆気無く破れて以後は織田信長に臣従して家名を永らえる者が多かった。

そうした経緯の中、三好一族の三好康長だけがまだ四国・阿波の国で勢力を保っていた為の秀吉の政略だった。


三好家に養子入りした秀吉の甥・三好秀次は、三好氏家督のまま羽柴姓を賜り名として羽柴秀次と改名する。

その秀次は、秀吉の武将として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参戦、武功を挙げたり失態もあったが、紀伊・雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ近江八幡に四十三万石を与えられ、小田原征伐にも参加してその戦後処理で尾張国と伊勢北部五郡など都合百万石の大領を与えられている。

相次ぐ身内の死で残ったのは小早川に養子に出した秀秋(妻方)と秀吉方甥の秀次だけだった。

関白・秀吉は千五百九十一年(天正十九年)に秀次を後継者と定め関白職を譲るが、全権を譲らず太閤と呼ばれて実質天下人の地位に在った。

その為に、豊臣政権が二重権力化しかけた千五百九十三年(文禄二年)、淀の方(茶々)との間に再び実子・拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。

この対立にも、謀殺計画に雑賀孫市が、諜報活動としての煽動に一枚噛んでいても不思議は無い。

千五百九十五年(文禄四年)、ついに秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させ、妻子もことごとく処刑する事になる。

この、実子・(秀頼)可愛さに成功まで大いに力になってくれた弟や甥を追いやり排除する秀吉の心情は、近頃の同族経営会社の後継問題で良く見る見苦しい風情である。

しかし本来の氏族の掟では養子も実子も「子は子」の扱いであるから、やはり秀吉には氏族とは違う庶民感情の血が流れていたのではないだろうか?

経営者が、我が子可愛さに情に流されれば身内の結束は崩壊して企業は貴重な戦力を失う事になる。

この秀次の死で、豊臣本家・拾丸(ひろいまる/秀頼)を補佐する秀吉の肉親は全滅したに等しかったのである。



「徳川殿。お目覚めでござるか?」

女性(おなご)と励んでいた家康は、天井から掛けられた聞き覚えのある声を聞いた。

「何者じゃ。」

大胆不敵にも、断りも無く家康の寝所に入ってくる奴が居る。

「孫市めにござる。光秀の親書携えてまかりこした。」

「孫市か・・・光秀殿からでは仕方ない。大儀じゃ。これに・・」

江戸城本丸、徳川家康の寝所に影のごとく現れる雑賀孫市には、家康も毎度肝を潰す。

これではユックリ女性(おなご)も抱け無い。

庭番・服部半蔵の「手引き」とは言え、気持ちの良いものではない。

「今、お手元に降ろしますれば・・」

薄暗い天井から、油紙に包まれた書状が「スーッ」と舞い降りてくるのを、同衾していた女性(おなご)が裸のまま起き上がり手を伸ばして受け取り、家康に手渡した。

恐れも無く天井から舞い降りる書状を受け取ったその女性(おなご)に孫市は見覚えがある。

同衾していた女性(おなご)は、光秀から家康に献じられたお福だった。

家康は半身起き上がって、それを受け取り、「お前達は下がれ。」と人掃(ひとばらい)して灯明の明かりを近付けた。

書状を開くと、見覚えのある光秀の筆が家康に語りかけて来る。

一通り読み終わると、家康は灯明の火を手紙に移し、火鉢に放り込んだ。手紙が中で燃え上がるのを見届けて、家康は天井を見上げた。

「孫市ご苦労じゃった。光秀殿に、合い判ったと伝えよ。」

「承知仕(しょうちつかま)った。」

「御免!」

もう、天井から人の気配が消えていた。



光秀の計画は、順調に進むかに見えた。

後は、結城秀康が豊臣家を継ぐように仕向ければ良い。

しかし、思わぬ誤算が生じた。

柴田勝家の養女(浅井長政の娘・信長の姪)達の存在である。

中でも、長女「淀」に秀吉が惚れ、側室とした事から、計画は狂い始める。

「淀(茶々)」が、秀吉の子「鶴松」を懐妊するのだ。


一度目の子「鶴松」は、幼逝(ようせい・すぐに亡くなる)するが、二度目の子は育つ。

名は、ご存知「秀頼」である。

元々秀吉は、織田信長の妹市姫に適わぬ化想をしていた。

それが、運命のいたずらで市姫の娘・淀姫が手に入った。

処がこの淀君が、年配の秀吉の相手を嫌がりもしない。

むしろ積極的に抱かれたがる。

相手が若い姫だから秀吉は有頂天になったが、淀君の方は母市の方の遺言で、「浅井家の血を分けた和子(わこ)に天下を取らせよ」と言い含められていた。

従って秀吉に積極的に抱かれ、そして「秀頼」を設けたのである。

秀吉がお市様に懸想したには、主君・信長に対する思慕の想いが有る。

その思慕の想いが、淀君に向けられたのには、氏素性に劣等感を持つ男の、人間臭い思い入れが合った事は否めない。

秀吉に信長程の思考の才能があれば、これは拘る事は無い話だった。

つまり、秀吉は鵺(ぬえ)にさえ成れなかった男である。


当然秀吉は、万難を排しても自分の子・秀頼を世継とする。

「皮肉なり、秀吉。」

光秀は、運命の悪戯(いたずら)を呪った。

この歴史の悪戯(いたずら)は、明らかに信長の血脈破壊の策略に乗じての光秀の天下取りの企てに大きな影を落としている。

今まで、子を成さなかっただけに、急に授かるとは不思議と言えば不思議だ。

これで、光秀の陰謀は謀らずも長期戦になって行くのである。

尚、浅井長政三女お江(おごう)は、徳川秀忠(光忠)の下に嫁いでいる。

山崎の合戦の後、光秀と光春は比叡山の松禅寺に僧侶として隠遁(いんとん・隠れ住む)していた。

光秀は隠遁生活の中で、密かに徳川家康に書状を送り続けながら、帯同した「光春」に徹底して徳川家天下取り後の政権運営について、教え込んだ。

「良いか光春、かならず光忠が天下を継ぐ、お前はその補佐の為に心して学問にはげめ。」

「心得ました。」

見栄や立て前の武士の意地など、光秀にはない。

基本的な心情は勘解由小路党の草に近い故、身代わり潜行は作戦の内だった。

それにしてもそこに至るまでに、「止むを得ない」とは言え、多くの親族子飼いを失っていた。

主を失った出城の壮絶な落城が相次ぎ、討ち死が続いた。

寺に籠もって隠遁する間、光秀は彼らの冥福を拝んでいた。


たった一人の相手との出会いで、人生が変わる事が往々にしてある。

それだから面白いのだが、その出会いを掴(つか)むか見過ごすかが人生の大きな分れ目かも知れない。

その出会いの連続が人生なのだから、持つべきは「師と仰(あお)げる友」である。

持つべきは友で、光秀は孫市に教わる事も多かった。

思い出すのは、孫市との伴に戦った日々である。

比叡山松禅寺に隠遁した明智光秀は南光坊と名乗って僧籍にあり、比叡山の僧坊は浮世から隔絶した静寂の中にあった。

それでも光秀は、阿国をはじめとする雑賀衆の繋ぎを得て手に取るように天下の情報を把握し、盟友・徳川家康に親書を送り続けた。

秀吉に「討ち取った」と思われているから、その分警戒されずに落着いて策が練れる。

浮世の己を捨てたからこそ手に入れた、願っても無い黒幕の位置だった。


生活が一変した。

隠遁生活は、読経の声が流れるのどかな日々だった。

天海がたまに寺の境内から外に出ると、抜ける様な青空の下、山間(やまあい)の斜面を利用した何段かのわずかな水田(棚田)も、もう稲刈りが始まっていた。

日本の何処にでもある村里の景色で、変哲とてないありふれた日常の風景である。

見上げると、抜ける様な青空が広がり、天海を優しく慰めてくれる。

こんなに落ち着いた日々は久しぶりで有る。

心静かに日を送り、やがて、漆黒の闇が訪れた。

孫市が光秀への書状を携えて差し向ける繋ぎ役は、大方阿国だった。

何時もながら達筆な文(ふみ)だが、雑賀仕込みの密書仕立てで、常人には判読できない。

阿国が光秀の下を訪れると、何時も酒(ささ)の相手をして時を過ごし、暗黙のうちに光秀の褥(しとね)に滑り込んで一夜を過ごす。

阿国が褥(しとね)に潜る時は素肌で、煩わしい衣類が除かれた柔らかい肌の感触が直接光秀の脳を刺激する。

一時寝物語に孫市の消息などを語った後、阿国は自ら光秀に圧し掛かって来る。


羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽(にわ)長秀、滝川一益、皆討ち揃っての軍議の席、信長が発言を求めたのは光秀だった。

その答えを言わぬ内に、その先の情景が、突然無くなった。

結果を知りたかったが、夢の続きなど見れるものではなかった。

どうしても、忘れられるものではない。

光秀が夢に見るのは、決まってお館様・信長だった。

不思議な事に、夢の中の信長はいつも上機嫌で、豪放に笑っていた。

過ぎし時の、胸躍る熱く愛しい日々だった。

夢の中で自分は、信長の命を奉じて敵と必死に戦っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい現実が、光秀の胸を過ぎる。

討ち取って置きながら、何故か憎めない偉大な男だった。

比叡山松禅寺に隠遁していた南光坊(明智光秀)は、良く織田信長の夢を見た。

「お館様、何故に大それた事を・・・」

光秀の嘆(なげ)きは、彼の生涯に渡って続いた。

信長は常識を破った男ではない、新しい常識を作り出した男である。

光秀も、充分それを理解していた。

しかしこの国には、鬼神の信長を持ってしても、たった一つだけ覆(ひるがえ)す事の出来ない結界がある。

それが、影人に守られた「皇統」なのである。

雑賀孫市に、勿論阿国への愛情はある。

しかし、愛情ほど難しいものは無い。

つまり、愛の形には色々なものがあり、その本質がそれぞれに違うからである。

つまり、形が違わなくても欲する愛の形に拠って、それは否定されたり受け入れられたりする。

性交が「即愛とは限らない」と言う考え方も存在し、孫市と阿国の愛情もそんな所である。

「ゴー」と言う風音が耳に入って、光秀は褥(しとね)から身を起こした。

ふと、傍らに目をやると褥(しとね)に身を横たえて、優しい寝息を立てている阿国が不思議だった。

孫市と言う恋人がありながら、何を思って光秀に身を赦すのか?

先ほどの阿国との嵐の様なひと時など、既に夜の激しい風音の中に掻き消えている。

出雲阿国は、唯の踊り女ではない。

光秀が思い知らされたのは、彼女が、女子(おなご)ながらも、修熟した武芸の練達者だった事である。

或る日、光秀の下を訪れた阿国が、軽い手傷を負っていたのを見咎めて仔細(しさい)を問い質すと、雑賀孫市よりの繋ぎを光秀に届ける道すがら、太閤の手の者と見られる男達と遭遇、「三人ほど倒してきた」と、事も無気に言う。

阿国は手の内は見せた事が無いが、男三人倒して「かすり傷」と言う浅手で済むからには、かなりの手練(てだれ)に違いない。

忘れていたが、彼女は雑賀郷で生まれ育った生粋の雑賀の女だった。


光秀はめぐり合わせで、雑賀孫市、服部半蔵を始めとする、雑賀、伊賀、甲賀、根来、柳生など勘解由小路党にその祖を見出す草達の司令塔、謎の僧侶「南光坊天海」に変身していた。

勿論それが、家康の依頼でも在った。

これで、家康の影の力は、磐石な物に成っていたのだ。


家康は三方が原合戦以来の苦労人で、何事にも注意深く、基本的に待ちが得意だから強引な手法は用いず、何事もジックリ腰を据えて見定めて機が熟するのを待つ。

光秀とは馬が合い、光秀の心の底を見透かした上で信用したのは、老獪な家康だけだったのかも知れない。

光秀には秀才の才に加え、侮りがたい人脈がある。

その人脈が、影で共通していたのが、まさに家康の天下取りには幸いした。

つまり、あらゆる条件が重なって初めて天下に手が届くのだ。

相変わらずのどかな日々が続いた。

遠くを見渡せば、霞の彼方に低い山々が連なってこの盆地を囲んでいる。

南光坊天海(明智光秀)は、ぼんやりと空を眺めていた。

どんよりとした曇り空、紫陽花が見事に咲き誇っていた。

先ほど、家康への書状をしたため阿国に持たせたばかりで、しばらくのんびり出来そうだ。

同じ頃、別の場所でもう一人空を見上げる男がいた。

今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした曇り空、そこかしこにぬかるみが点在している。

この季節のありふれた日常の風景である。

今頃河内雑賀郷は、田の泥でも捏(こ)ねているだろうか?

雑賀孫市(鈴木重意・しげおき)は、懐かしそうに故郷を思い出していた。


実は、光秀は信長より六歳ほど年長である。

家康と信長では、更に四歳差が有るから都合十歳ほど違う。

秀忠(光忠)の将来の補佐は、若い光春に任すしかないのだ。

光春は、若き日の光秀と見まがうほど光秀に似ていた。

秀吉に引き合わせたら、さぞかし「光秀がよみがえったか」と「戦慄するであろう」と思われた。


この頃の家康と光秀は、秀吉の死亡か豊臣家の弱体化を辛抱強く待つ事に合意していた。

元々、家康の辛抱強さは万人が認める超一級品である。

秀吉がマスターした信長の知略が、枯渇するのを待っていたのだ。

現実の処、秀吉は信長から戦以外の事はあまり教わってはいない。

それで四国攻めや九州征伐、相模の北条を小田原平定で滅亡させて敵対する者が居なくなると真価を発揮する処がない。


家康は、またも寝所で気配を殺した何者かの気配を感じた。

「そこに居るのは誰じゃ。」

「孫市にござる。家康殿、光秀殿から暫し秀吉の風下に立たれよと口伝が・・・。」

「孫市か。如何にも、秀吉には勢いが在る。暫しあ奴に存分に天下をまとめさせるしかあるまい。」

「御意。」

「して孫市、光秀殿からは如何なる策を・・・」

「秀吉に三河・遠近江・駿河を返上して新たに北条の坂東七ヵ国を所望されいとの伝にござる。」

「坂東に下れと申すか。」

「都より遠避かれば、それにて秀吉も家康殿への警戒を解きましょうほどに。」

「いかにも、さすれば時も稼げよう。」

この頃、北条亡き後の関東七ヵ国に徳川家康は移封になっているが、それは秀吉の発案ではない。

都から領国が遠退く事で秀吉を安心させる為、光秀の提案をわざと秀吉に言わせた様なものだ。

京から遠退いたが、所領地は五ヵ国から七ヵ国に広がった。

領国が遠方故、秀吉の干渉も少ない。

そして何よりも、秀吉と何か在っても迎え撃つ時間が稼げる。

鎌倉幕府の前例も在り、ジックリと力を蓄えるには持って来いの位置関係である。


南光坊(明智光秀)は、雑賀孫市が持参した家康からの書状に目を通して「解けた。」と叫んだ。

「孫市、小早川(隆景)が大老に登用され居った。これで得心が行ったわ。」

「やはり密約で在ったな。」

「うぅ〜む、わしの誤算は秀吉めが根回しじゃったか。」

「光秀殿、今と成っては申しても仕方あるまいぞ。」

「まさか、毛利の小早川(隆景)が追撃せずの密約するとは思わなんだ。」

「お主の策では、秀吉も当然毛利に張り付き動けぬ予定だったからのぅ。」

「それで毛利と小早川は豊臣重臣の座を手に入れ居った。」

「宇喜多(秀家)も秀吉の側に廻って居った故、お主に運が無かったのう。」

明智光秀の計算では、羽柴秀吉も北陸方面の柴田勝家同様に中国方面の毛利に張り付き動けぬ予定だった。

天下の秀才・明智光秀さえ読み切れずに驚愕した余人では出来ない迅速な中国大返し。

それを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家の輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

だが、秀吉は織田新帝国成立宣言の警護の為に、秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を予め持参していた。

それで何とか和議交渉の場は造られたが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。

追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。

そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて密約し和議に持ち込んだ。

秀吉は天分とも言うべきか、生来他人の懐に入るのは得意だった。

それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。

「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。

そして更に秀吉は、万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。

その結果、小早川隆景は毛利家陪臣の位置に在りながら筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の主家・毛利輝元と並んで秀吉から豊臣政権の重臣(大老職)に登用される。

同じく宇喜多八郎(秀家)は備中東部から美作・備前の五十七万万四千石を拝領して豊臣政権の重臣(後世に大老職と呼ばれる)に登用されている。

つまり秀吉の中国大返しは、秀吉の持つ特殊な機動力と小早川密約(こばやかわみつやく)の合わせ技だったのである。


豊臣秀吉が天下を取った後、その甥の「豊臣秀次」が謀反の疑いで流罪・処刑された。

その時、朝廷の 陰陽頭(陰陽師の頭領)土御門家が、秀次の謀反の為に「陰陽術を使った」 と言う罪状で同じく流罪となって、一時土御門家の存続危機を迎えている。


天下人と成った豊臣秀吉に、国内で逆らう者は居なくなった。

傲慢な事に、人間は増長すると何を始めるか判らない。

やがて、戦上手の真価を発揮する処がなくなった秀吉は、案の定「墓穴」を掘る行動に出た。

「文禄・慶長の役(朝鮮征伐)」である。

大陸侵攻については「生前の織田信長の夢」と言う説もあるが、これも証拠は何処にも無いが知恵を付け秀吉を煽り立てたのは光秀、家康ルートのお定まりの策略かも知れない。

ただ、明国や朝鮮への出兵など秀吉が自分で思い付いたかどうかは疑わしく、誰かが知恵を付けた或いは織田信長の夢を実行した可能性は否定できない。

いずれにしても大名の多くが、この実り無き侵略戦(文禄・慶長の役)に駆り出され、勝利の見えない泥沼の戦いの中で消耗して行ったのである。

この時点で、弟の大納言秀長が存命なら、「この無謀な侵略は押し留めた」と言うのが現代での豊臣秀長の評である。


如何なる組織も同舟異夢(同じ仲間として居るがそれぞれに思う所が違う)の集まりであるから求心力が必要で、この国では永い事「お血筋」が求心力の条件に成って来た。

織田信長も、頭角を現すまではその「お血筋」を求心力に後押しをされて戦国の一国を手中にした。

後は働きに応じた恩賞と所領を与える「取り立て」が多くの将兵を傘下に置く求心力だった。

しかし豊臣秀吉の場合は所詮「氏の血筋」と言う求心力も持たない為に、信長の発想の受け売りだけだったので、天下が統一された桃山期に武将達にその恩賞と所領を与え続け、己への求心力を続けるには他国の侵略に手を染めるしかない。

つまり豊臣秀吉が織田信長から学んだ部下の掌握術は覇権を握るまでの途上の事で、領土を切り取り分け与えて臣従させる事だった。

矛盾する事に、秀吉が天下を掌握した時点で切り取る領土は国内には無かった。

天下統一後(天下布武の達成後)の事は、織田信長がどうしょうとしていたのか秀吉は聞いては居無いし、信長が亡くなった後では彼のやる事は見る事も出来ない。

そして、唯一秀吉を諌め導ける弟・大納言秀長は、この世に居なかった。

全て、家康の長生きに賭けた南光坊天海(光秀)と雑賀孫市の注文通りに、事は進んでいた。

豊臣家の身内の大半を無くした淀の方と秀頼など、赤子の手をひねるより優しい。

秀吉は、手に入れたいものを手中にして守りに廻ってからは、まるで精彩が無い。

不幸な事に、彼は天下と言う失うものが出来て弱気になり、空威張りと猜疑心が秀吉持ち前の才能を消していた。

実は、秀吉本人もその現実を充分に実感していて、その恐怖を打ち消す為に、無謀にも他国に兵を進める道を選んだ。

この傾向、多くの覇王に共通する所であり、一旦転がり出すと中々止められるものではない。

本人は読み切って手を打った積りでも、そう素直に事は運ばない。

結果的に、後悔が先に立つ事が多いのだ。


この起こるべき事を、近隣諸国の歴史書に通じた明智光秀(南光坊天海)は予測していた。

明智光秀(南光坊天海)は家康に長生きを望み、天下掌握の後は拡大政策を取らず、官僚に拠る整理縮小(大名取り潰しや配置換え)で内政をコントロールする方式を考えていた。

従って、全ての責任と権限を自らに集結させず、人に任す術を覚える事が、「秀吉が陥った覇王病から逃れる道だ」と説いていた。

つまり、いたずらに権力に固執する事のおろかさを説いたのである。

この考え方、後に家康の後継者選びに真価を発揮する。


文禄・慶長の役(朝鮮征伐)は、天下人と成った豊臣秀吉が「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心を持った事から始まった。

秀吉の「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心の背景には、武将達を束ねる為の求心力の確保である。

多くの武将が秀吉に臣従して来た背景にあるのが所領の加増(つまり分け前)で、日本中を統一した秀吉が武将達に分け与える土地を確保するには、無謀で在っても国外に打って出る以外に無かったのかも知れない。

人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。

そして危険な事に、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。

朝鮮及び中華帝国の侵略を目的とした文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の実行である。

或いは織田信長の天下布武の最終ビジョンの中に「朝鮮及び中華帝国の侵略」があり、秀吉はその事を信長から聞いて居たのかも知れない。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正、福島正則、小西行長、黒田長政、浅野幸長らを主力に十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出した。

当時の李氏朝鮮王朝は然したる軍事力を持っては居なかったので、当初遠征軍は勝利を重ねて半島の南部を簡単に制圧占領している。

しかし他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。

国内なら戦は氏族同士の争いだが、他国ともなると民族意識が強く容易に屈服はしないばかりか、民族が団結して民衆まで敵に廻る。従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。

その後朝鮮の宗主国・明帝国の軍勢が南下して来て一進一退の攻防となり、小西行長と石田三成が謀って「明帝国」の降伏を偽り一度講和に持ち込む。

所が、互いに勝利を思い込んだ講和交渉がまとまる訳も無く、決裂して秀吉は千五百九十七年(慶長二年)に十四万の大軍勢を持って二度目の出兵を命じている。

この二度に渡る半島に対する派兵を、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役と呼んでいる。

後のベトナム戦争やイラク戦争に於ける米軍の様相で、その苦戦の泥沼に秀吉子飼いの大名達でさえ不満が鬱積して行った。

一方、朝廷から「太閤」の位を得た秀吉は、天下人として栄耀栄華を極める豪華な生活をしていた。

金の茶室、金の茶釜では、詫び茶の千利休と対立しても仕方がない。

秀吉は、こけ脅しに権力をひけらかす事しか、周りを圧する方法を思い付かなかったのかも知れない。


千利休(せんのりきゅう)は田中与四郎(與四郎)と言い、和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれである。

幼名は与四郎(與四郎)で後に宗易(そうえき/法名)、そして抛筌斎(ほうせんさい)と号した千利休は、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた茶人である。

織田信長が堺を直轄地とした時、宗易(そうえき)は「茶道具の目利き」として目を着けられ、信長に茶頭として雇われ手元に置かれて世に認められる。

その後本能寺の変で信長が自刃、「天下布武」の後を継いだ羽柴秀吉(豊臣)にも茶人として登用され、茶会で扇町天皇に茶をたてる為に、南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から「利休」の号を賜っている。


言うまでも無いが、利休(りきゅう)はわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる大茶人である。

利休の祖父は足利義政の同朋衆だった「千阿弥(せんあみ)」と言い、「その名の姓を取り、千を姓とした」と、利休の曾孫である江岑宗左(こうしんそうさ)に拠り家伝されている。

堺の南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から与えられた「利休」と言う居士号を合わせて、「千利休(せんのりきゅう)と号していた」と言われて居る。

千阿弥 (せんあみ)は足利義政・義尚に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)で、千利休の祖父とされる。

同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降江戸幕府時代を通じて明治維新までに、将軍や大名諸藩の当主近くで来客の給仕などの雑務や接待の芸能にあたった武家の職名である。

時宗を起こした一遍上人の下に芸能に優れた者が集まった事が同朋衆(どうぼうしゅう)と言う役職の起源とされ、時宗を母体としているに為に阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ、阿弥号を名乗る通例があるが阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。

同朋衆(どうぼうしゅう)は剃髪していた為に坊主と呼ばれたが、この物語のそもそも論のごとく氏族のくくりは在っても武士と神官・僧侶は線引きなど無く、同朋衆(どうぼうしゅう)も出家している訳ではない。

おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。

元々の能舞は、「田楽能舞」と言われて住民に密着した素朴な奉納神事だった。

それが室町期に同朋衆(どうぼうしゅう)の手で発展して、能舞は貴族や武士が鑑賞する芸能になった。


大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。

むごい事に利休の首は一条戻橋で晒し首にさせられたが、秀吉勘気の理由は不明で有る。

秀吉勘気の憶測であるが、人がリラックスしたり感動するのは【右脳域】の感性で、災害時に遭遇した人は限りなく優しくなれ、損得の計算を忘れて救助を心掛けその事に人は皆感動する。

文化芸術はその【右脳域】の範疇にある。

茶道に於ける千利休と豊臣秀吉の師弟の例で言えば、千利休は【右脳域】の感性で「侘び茶」の茶道を大成した。

所が、豊臣秀吉は茶道を【左脳域】の計算で扱い、金ぴかの黄金で飾る愚を冒した。

これでは千利休の茶道の本質を否定され、両者が対立しても仕方が無い。

利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。

いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。

そして陰陽修験道を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。

その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。

それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満の頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。

当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。

それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。

何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。



蒲生氏郷(がもううじさと)の嫡男・蒲生秀行(がもうひでゆき)は千五百九十八年(慶長三年)三月、秀吉の命令で父・氏郷(うじさと)の遺領会津九十二万石から宇都宮十八万石に移封された。

理由として、秀行(ひでゆき)がまだ十三歳の若年で在った為の蒲生騒動(家臣の対立)が有力である。

他に、秀行(ひでゆき)の母すなわち織田信長の娘の冬姫が美しかった為、氏郷(うじさと)没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った説がある。

また秀行が家康の三女の振姫(正清院)を娶っていた親家康派の為に石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説もある。

秀行は宇都宮の経営に力を入れ、武家屋敷を作り町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行なう。

蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した。

そうした中、石田光成と上杉景勝の密約連合軍が徳川家康の挟撃(挟み撃ち)を狙い、上杉軍が家康を挑発する。

千六百年(慶長五年)、徳川秀忠は関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つ為、蒲生秀行(がもうひでゆき)の宇都宮に入った。

その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣した為、秀行は本拠の宇都宮で秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた上杉景勝軍への牽制と城下の治安維持を命じられる。

関ヶ原の戦いは東軍(家康軍)の勝利に終わり、戦後、秀行(ひでゆき)はその軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した。

秀行は家康三女・振姫(ふりひめ)と結婚していた為、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された。

しかしその後は順風満帆とはいかず、会津地震に遭うなどの非運、家中騒動の再燃なども重なり、その心労などの為に、千六百十二年(慶長十七年)五月十四日に死去する。


陸奥国会津藩初代藩主・蒲生秀行(がもうひでゆき)の跡は、千六百二年(慶長七年)生まれの長男の忠郷(たださと)が継いだ。

蒲生忠郷(がもうたださと)は、千六百十二年(慶長十七年)父・秀行が死去した為に十歳で会津六十万石を継ぐ。

家康の外孫でもある忠郷(たださと)は弟・鶴千代と共に家康によって元服、松平姓と将軍・徳川秀忠の偏諱を与えられ松平忠郷と称した。

しかし未だ若年であった為、母・振姫の後見を受けた。

その母・振姫の勘気による仕置で家老・岡重政の死罪、祖父蒲生氏郷時代から弟の忠知の時代まで続いた重臣間の抗争など家中は安定しなかった。

千六百十五年(慶長二十年)の大坂の陣に於いて、十三歳の忠郷(たださと)は江戸留守居を命じられ、武功を挙げる機会を得なかった。


千六百十九年(元和五年)、十七歳の忠郷(たださと)は正室に藤堂高虎の娘を迎える。

千六百二十四年(寛永元年)に蒲生家は、江戸藩邸に大御所・秀忠と将軍・家光の御成(おなり)を迎えた。

この間も重臣層の抗争、訴訟は続いていたが徳川閨閥の故にか大事に至らず、千六百二十六年(寛永三年)、後水尾天皇の二条城行幸に際し上洛、行幸の後、正四位下参議に昇進する。

この時疱瘡に罹患し、翌千六百二十七年(寛永四年)一月四日享年二十六歳で没した。

正室・藤堂氏女との間には嫡子が無かった為、本来なら蒲生氏は断絶する処であった。

だが、母が家康の娘であると言う事で、上山藩四万石を領していた弟の忠知を後嗣として伊予松山二十四万石が与えられ、三十六万石の大減封となったものの存続を許された。

しかし蒲生氏は藩主・蒲生忠知に嗣子無く、千六百三十四年(寛永十一年)に死去の為断絶した。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて一時は九十二万石の大藩を領した本宗・蒲生氏は、織田信長の次女・冬姫と徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)の血を継いだ名家だったが、血統が途絶えて人々から忘れ去られて行った。



雑賀孫市は、復讐を果たそうと秀吉の命を狙って二度ほど大阪城に潜り込もうとした。

しかし、流石は築城の名手秀吉の作だった。

潜り込めても、とても秀吉の許までは近寄れ無い事を知った。

それ故、時間は掛かるが阿国一座に身を潜め、明智光秀(南光坊天海)の策略に絞り、残った配下を使って助力する事にした。

元々諜報機関の大半は光秀と家康が握っている。

影働きなら、孫市の居場所は在った。 ただし自由人の孫市には服部半蔵のような人に使われる生き方は出来ない。

この頃にはもう、孫市の心に変化が生じている。

空しいのである。

それで、光秀の事が終わったら「芸能活動に絞って生きよう」と考えていた。

それで、腰の大小は行李(こうり・衣装箱)の奥深く納めた。

町人姿の孫市は、普段大小を腰にする事もはばかられ、身を守るのは、護身用に携帯した二本の独鈷杵(とっこしょ)と言う武器だけだった。

この武器は、元々修験僧兵が愛用したものである。独鈷杵(とっこしょ)は金剛杵(ヴァジュラ・・こんごうしょ)とも呼ばれ、守護神の金剛神(ヘラクレス)が手にしていた。

人間の心の中の悪しき煩悩を撃ち砕き、本来の人間性を引き出す為の法具で、元の形状は鉄アレーの様な物で、球形にあたる部分の両側が杵(きね)の形を成し、真ん中を握る形状をしていた。

その鉄アレーの杵(きね)状の両側部分の杵(きね)を、インドにあった武器、「槍の鉾先」に着け替えたのが独鈷杵(とっこしょ)である。

それがインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的意味合いをもって修験密教僧を現す為の法具となり、布教と護身を兼ねて独鈷杵(とっこしょ)を携えていた。

その独鈷杵(とっこしょ)武術の使い手雑賀孫市は、間違いなく修験の草である。

諜報活動中、秀吉に付いて居た「こぼれ雑賀者・こぼれ根来者」と遭遇する事があったが、残らずこの武器で始末した。

「こぼれ雑賀者・こぼれ根来者」達は、刃(やいば)を交えた相手が雑賀孫市と知って、驚愕の表情を浮かべながら絶命した。

孫市と確認した一瞬後には額に独鈷杵(とっこしょ)を突き立てられていたのだ。

孫市は、独鈷杵(とっこしょ)武術の名手だった。

独鈷杵(とっこしょ)は真ん中にグリップ(握り手)部分があり、その前後に槍の穂先状の突起が付いた武器で、握って順手で前に繰り出して相手の腹部を刺す。

逆手で振り下ろせば相手の頭部や肩をねらえる。

剣を使えない場所や状況で、特に接近戦で威力を発揮した。

この武器、体術(柔術)と組み合わせて、若い頃修練した術で有る。


正直に言うと、天下人に成った秀吉は、結構孤独感に苛(さいな)まれて居た。

弟の大納言・秀長を失ってからは尚更で、大老筆頭に置いた徳川家康が大きく眩しく見えていた。

家康には人望も在った事から、天下を握った太閤(豊臣秀吉)も扱いに苦慮していたのだ。

人間の欲望には際限が無い。

誘惑に駆られると、「上を上を」と求め始め、行き着く所まで伸び上がろうとする。

多くの相手を犠牲にし、自分も多くのものを失って、いざ上がって見ると虚しく孤独な地位なのだが、上昇志向の者ほど何故かその誘惑には勝てない。

しかしながら、この命題は導き出す答えが難しく、実は平凡な人生に生きる事が最も自分に恥じる事の無い人間らしい生き方なのだろうが、その生き方で生きる事も結構しんどいのは事実である。


雑賀孫市は豪胆な男で、どんな事態でも沈着冷静、笑って敵を殺す度量が有る。

豊臣秀吉は、それと知らずに厄介な男を敵に廻して居た。


大阪に出かけていた孫市が戻って来て、隠棲先の南光坊(光秀)の宿坊に顔を出した。

「おぉ、孫市、首尾はどうじゃった?」
顔を見るなり、待ち兼ねたように南光坊(光秀)が首尾を聞く。

「永く張っていれば隙は必ず出来るものじゃて。恐らく太閤(秀吉)は、三月か四月の間に、病で一命を落す筈じゃ。」

「それは上々、淀殿の豊臣の体制が固まっては面倒だからな。」

傍らに控えていた光秀の従兄弟・光春が、指示も受けずに既に酒宴の支度をして居る。

孫市が自信満々の顔付きで、南光坊(光秀)の正面に「ドッカ」と座り込む。

「しかしお主も無理を言う。危ない働きじゃ。太閤(秀吉)に毒を盛らせるなど、わしに自害させるに近い事をさせるわい。」

苦情を言ったが、孫市の顔は笑っている。好首尾だった事が、南光坊(光秀)にも伺えた。

「大儀じゃった。これで内府(家康)様も、事を起こし易くなる。」

「何の、我らとて思いは同じじゃった。」

南光坊(光秀)は、こんなに鮮やかな闇働きが出来るのは、天下広(てんかひろし)と言えども、雑賀孫市を於いて他にない事を改めて知らされた。

流れの中で、ごく自然に光春の酌が入って、二人は杯を交わし始めていた。

「内府(家康)様の注文もうるさい。鉄砲やクナイならば造作が無いに、病で仕留めよとはのぅ。」

「後々、疑われるのは内府(家康)様じゃ、謀殺はまずいと踏んだのであろう。」

「光春殿も一杯やれ。飲まぬ者が居ると堅苦しい。」

「しからば、拙者も頂きます。」

「そうしろ、そうしろ、今宵は目出度い酒じゃ。」



やがて、秀吉は病に倒れる。

秀吉は死を前にして、我が子「秀頼」の事を、秀吉は五大老筆頭の家康に質濃く頼んでいる。

秀吉にすると、柴田勝家との清州談判以来、何かと「作戦を耳打ちしてくれた」、頼りになる家康である。

それ故、「恩義に感じてくれるもの」と踏んで、ナンバーツウの大老筆頭として処遇して来た。

秀忠の正妻は、秀頼の母・淀殿の妹、於江与(おえよ・信長妹お市の三女)で、秀忠と於江与(おえよ)の娘千姫を秀頼の正妻に迎えている。

家康にとって、秀頼は孫娘の夫と言う事になる。

病を得た秀吉は、豊臣家の将来と年若い秀頼の事を家康に頼むしかなかったのだ。

「秀頼の事、重ね重ね頼み候。」

しかし、その秀吉の願いは虚しかった。

基より、家康も光秀も真意を隠し、この日が来るのを待っていた。

家康は「長生きした者が勝つ」と、ひたすら健康に気を使い、天台宗、真言宗、修験道秘伝の薬種にも豊富な知識を持ち合わせていた。

この点、天台宗の僧門に隠棲した光秀(南光坊)からも、家康が秀吉に生き勝為に、相当の助言があった筈である。

秀吉は、居ない筈の光秀の手の上で長い事踊らされていたのだ。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」・・・秀吉の辞世の句である。

人を懐柔する能力には特に優れていたと評される山猿(山窩/サンカ・サンガ)の盟主・豊臣秀吉の生涯は、古き時代の血統至上主義社会を破壊する事に在ったのではないだろうか?


念の為解説して置くが、五大老(ごたいろう)とは豊臣政権末期(文禄年間)に豊臣家の家老(大老)として政務にあたった徳川、前田、上杉、毛利、宇喜多の有力五大名を指した言葉であるが、当時は「五大老」の呼び名は無く「五人御奉行」などと呼ばれていた。

しかしながら、江戸時代に所謂(いわゆる)五奉行(こちらは主に「五人御年寄」などと呼ばれていた)と職責地位の解釈が混乱した為、後に便宜上「五大老」と呼ばれる様に成ったものである。

正確には、最初の「五大老」に相当したのは徳川家康(関東に二百五十六万石)、 前田利家〜前田利長(北陸地方・加賀など八十三万石)、毛利輝元(中国地方に百二十万石)、 宇喜多秀家(中国地方・備前五十七万石)、小早川隆景〜小早川秀秋(北九州・筑前三十三万石)で、上杉隆景〜上杉景勝(東北地方・会津百二十万石)は小早川隆景死後に小早川秀秋と入れ替わって就任した。

五奉行(ごぶぎょう)についても当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、主に豊臣政権の実務を担う五人程の奉行職にあたる吏僚的人物を指して呼ばれる言葉だが、「御年寄」などと呼ばれていたものを後に便宜上「五奉行」と呼ぶ様に成った。

主な五奉行(ごぶぎょう)は、浅野長政(筆頭・甲斐甲府二十二万石)、石田三成(近江佐和山十九万石)、増田長盛(大和郡山二十二万石)、長束正家(近江水口五万石)、前田玄以(丹波亀岡五万石)を指すが、大谷吉継(越前敦賀五万石)や小西行長(肥後宇土二十万石)など多くの者も場合に依っては吏僚職を担当するなど、組織・職制が余りきっちりしたものではなく、かった。

従って当時を再現するに「五大老の誰々様」や「五奉行の誰々様」は本来史実に合わないが、便宜上が定着しているので不本意ながら使わないと返って混乱するので本書の表記も合わせている。

本来は五人御奉行(五大老)と五〜七人程度の御年寄(五奉行)が豊臣政権末期の政権職だったのである。


この豊臣政権の所謂(いわゆる)五大老任用についても、実は史実から隠されたある秘密が浮かび上がる。

秀吉に重用された小早川隆景は毛利元就の三男で、父・元就に次兄・吉川元春と共に本家・毛利家を支える毛利両川体制の教え受け、長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として本家・毛利家を支える。

次兄・元春が九州の陣中で没した後は、隆景一人で本家(長兄)・毛利隆元の遺児である当主・毛利輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がなかった。

秀吉に臣従後の隆景は、毛利本家を守りながら豊臣秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定に積極的に参戦し、功績を挙げて筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられている。

織田信長健在の頃より中国方面担当として毛利氏と対決して来た豊臣秀吉は、敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価して親任厚く処遇する。

小早川家が、毛利の陪臣分家的な位置にも拘らず秀吉政権下で後に五大老と言われた徳川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元と並ぶ重臣として小早川隆景を遇している。

この秀吉の小早川隆景厚遇の理由だが、実は毛利方が本能寺の変を知って居て、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景が高松城下の講和を容認し、中国大返しを毛利方が追撃しない決断を下す密約をし、秀吉の「天下取りを容易にした」と解釈する。

その密約に対する謝意と信頼」と考えれば、小早川隆景厚遇の得心が行く。

その隠された史実なくして、毛利氏系から二人も豊臣政権に重臣を登用する理由は見当たらない。

惜しむらくはこの隆景には実子がなく、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下家定の五男で豊臣秀吉の養子と成っていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。



伊達正宗にとって重石となっていた豊臣秀吉が文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の第二次出兵「慶長の役」の最中に病死する。

奥州に大国を領しながら豊臣政権下で大老職にも就けられない冷遇を受けていた正宗にして見れば、継子・秀頼の行く末は秀吉から何も頼まれては居ない。


千五百九十八年(慶長三年)八月十八日、自らが引き起こした文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき/朝鮮征伐)の最中、太閤・豊臣秀吉は病死する。

豊臣秀吉と言う重石が取れた政宗は秀吉の遺言を破り、五大老・徳川家康の六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫とを婚約させ反豊臣色を鮮明にして行く。

仙台伊達藩・伊達政宗は、外様の中でも反豊臣・親徳川が色濃くしかも所領が大阪には遠く、一蔵等雑賀党を家康から預かるには適していた。


千六百年(慶長五年)に徳川家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ上杉討伐の出陣を行うと、政宗は家康に従軍して上杉の支城白石城を陥落させるなど活躍した。

だが、家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し為、小山まで北上していた家康は急遽反転して西へ向かった。

この際家康は、政宗に上杉景勝を会津に釘付けにさせて置く為に「新たに四十九万石の領土を与える」と言う百万石のお墨付きを与える。

所が「和賀一件」の策謀を咎められ四十九万石加増の約束を反故にされ、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて二万石の加増のみに止まっている。

仙台開府の許可を得た政宗は、関が原合戦の翌年、千六百一年(慶長六年)に仙台城と仙台城下町の建設を始め、居城を移して仙台藩が誕生した。

仙台藩・伊達六十二万石については、後に近江と常陸に小領土の飛び地二万石の加増を受けた事で公称六十二万石とされた。

その後の千六百十三年(慶長十八年)には伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図してエスパーニャ帝国国王フェリペ三世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造する。

政宗は、家康の承認を得て支倉常長(はせくらつねなが)ら一行百八十余人を慶長遣欧使節としてヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。

その慶長遣欧使節派遣の翌年、千六百十四年(慶長十九年)には豊臣家最後の抵抗大坂の役が起こり、政宗は大阪城攻めに参戦して家臣の将・片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。

しかし関東二百五十万石を領した後北条氏との同盟を破り豊臣秀吉に臣従して後北条氏を滅亡に追いやり、徳川家康に乗り換えて豊臣家の滅亡にも加担した伊達政宗の天下への影響力は一流だった言って良い。

伊達政宗は二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の頃まで仕え、千六百三十六年(寛永十三年)五月に江戸で波乱の生涯を閉じている。

政宗亡き後の伊達家は外様ながら徳川家とは姻戚関係を結び、東北の雄藩として明治維新まで永らえ華族令施行により伯爵を賜っている。



僧衣姿の光秀は久しぶりに比叡山の宿坊から抜け出し、山腹に居た。

何とした事か、戦から離れて見て心安らぐ日々に本物の「生きてる実感」が光秀には有った。

フト見降ろすと、穏やかな陽光が降り注ぐ背丈の短い草ばかりが生い茂る山裾に、見覚えがある人影がへばり付く様な細道の峠を一つ越えて来る。

その男の姿は見る見る内に大きくなり、顔が判るほどに成った。

「何と言う健脚の男が登り来るとあきれて居ったら、やはり孫市殿か?」

恐ろしいほどの健脚で登り来たのは、生涯の友・雑賀孫市だった。


「おぅ光秀殿、息災か?」

「息災じゃとも、この生活じゃからな。しかし良う来たな。」

「お主が、わしを待っているような気がしてな。」

「永い付き合いだ、通じたのかも知れん。如何にも待って居ったと申して置こう。」

「所で、漸く太閤(秀吉)が身罷(みまか)った。次の手をどう致す?」

「承知して居る。大方お主の仕事が上手く行ったのじゃろう。次の思案は次々に湧き出て来るが、隠遁の身はもどかしい物よ。」

「内府(家康)殿の下に行って来たが、相変わらず達者だったわ。」

「また寝所に潜り込んだか?」

「福殿がお相手をしている所を見計らってな。」

「如何にも、ならば口は固い。」

「どうじゃ光秀殿、祝い酒じゃ昼間から一献傾けようぞ。」

「おぅ、お主が相手なら旨い酒になる。」

光秀は答えながらもう宿坊に向って歩き出していた。

「光秀殿の思案、聞いて置かねばわしが動けんからな。」

「お主が居るからわしは此処からでも天下を動かせる。」

「乗り掛かった船だ、今更後には引けん。」

「それだけか?」

「いゃ、本音を申せば明智光秀と言う天下の秀才が、この世をどう仕上げるのか楽しみでな。」

山間の小路を連れ立って歩きながら、互いに尽きぬ話をした。


正直この戦国期と言えど、周囲の環境などで使命感を持つ者は居ても織田信長の様に少年の頃から天下取りの大望を抱く者は少ない。

かなりの英雄でも大概の所は成長するに従って経験と伴に自信が芽生え、やがて天下取りの大望を抱く頃にはひとかどの大人に成っている。

豊臣秀吉や徳川家康にした所でそれは同じ事で、後は相応な力を得た時に都合良くチャンスがめぐって来た者だけに天下取り挑戦の機会がある。

勿論徳川家康にも、最初から天下を取る自信が有った訳ではない。

しかし織田信長と同盟して信長の勢力拡大と伴に力を着け、何時の間にか大勢力を有する五ヵ国(三河・遠近江・駿河と信州・甲斐の一部)近くの大国の国主に成って居た。

そこに天下の知将・明智光秀(南光坊)が付いたのだから鬼に金棒である。


徳川家康は政務の傍ら、熱心に子創りに励んでいた。

ここは秀吉との長生き勝負の必要に迫られていたからである。

人間の脳は必要を感じる事でその対処をする。

年齢を重ねて繁殖の意慾や必要性を感じなくなれば、脳はおのずと生命力を徐々に衰えさせて行く。

この徳川家康と言う助平親父、実は生命力と性欲が大いに関係が在る事を知っていたから生涯子創りに励んだ。

現代に於いても、政財界で生々しい現実と対処している者ほど精力的で性欲も衰えない。

要は気力の問題で、脳はある程度制御できるものであるから元気で居たいなら自ら老ける思考は高齢者にはご法度である。


その後徳川家康は関東七ヵ国に国替えに成り、都から遠退いたが所領は他に並ぶべきもない大国に膨れ上がった。

何しろこの時点で徳川家は、豊臣家の蔵入地(直轄地)二百十万石を上回る関東二百五十万石の太守である。

これで力を蓄えれば、豊臣とも充分に対抗できる。

政権奪取構想は、静かに着々と進んでいた。

面白いもので、後醍醐天皇や今川義元、武田信玄や織田信長のように最初から明確に望んで天下を目指した者は上手くは行かず、そう明確に目指した訳ではない源頼朝や足利尊氏、徳川家康にチョットした運が転がって天下の覇権が廻って来た。

つまり明確に天下を望めば手法が強引になり、敵が多くなって挫折する。

「ヒョットして機会があればもうけもの」程度の者が、案外天下取りの秘訣かも知れない。



千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の年に、潜行して闇に行脚する雑賀孫市(さいがまごいち)と旅芸人に身をやつした阿国は「ツンツルテンと表現する丈の足りない子供の浴衣の様な衣装」で妙齢の美女が腿も露(あらわ)に「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りを踊って爆発的人気を得る。

ツンツルテンはこの時のお囃子(はやし)の音を、阿国のミニ丈(こども)の格好と合わせたものが伝わって「後世に使われた」と言う説が在る。

俗説では坊主頭の事を「ツンツルテン」と表現するが、或いは客席からかいま見えた阿国の秘所に、あるべき黒いものが無かったのかも知れない。

それであれば、観客が大いに沸いても納得する。

客寄せ目当ての「元祖ミニ丈のファッション」と言う事である。

いや、腰を巻く布以外、下着を身に着ける習慣が無い時代だから、元祖ノーパン風俗芸能かも知れない。

いずれにしても、元祖にして最も有名なアイドル歌手兼踊り子で有るから、デビュー前のアイドル歌手や新人女優は、「見せてなんぼ、見られてなんぼの見世物になる」と言う事の覚悟にあやかって、人気が取れる様にお参りして置いた方が良いかも知れない。



秀吉が亡くなると意味を失った朝鮮征伐は中止され、派遣部隊は続々と帰還するが何の恩賞も出ない。

多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇った。

その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。

この男、石田三成は太閤殿下に可愛がられ、のぼせ上がって他人(ひと)の気持ちが判らなく成っていた。

そこへ武将達の嫉妬が集中した。

天下分け目の関が原の合戦、東軍・家康陣営に付いた秀吉恩顧の武将達の顔ぶれを見ると、案外男の嫉妬が一番の勝敗の分かれ目かも知れない。



「安土桃山時代」で最も有名な何人かの女性の一人は「織田信秀」の娘、つまり織田信長の妹・お市の方(おいちのかた/織田秀子)である。

お市の方(おいちのかた/織田秀子)は、絶世の美女と後世に伝えられる。

越前浅井家の長政に嫁ぎ、嫁家を兄・信長に攻め落とされ、茶々、初、於江与の三人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、二度目の落城に遭遇する悲劇の女性である。

この絶世の美女・お市の方に、織田家武将・羽柴秀吉は浅井家輿入れの頃より適わぬ懸想をしていた。

そして浅井の主城・小谷が陥落した時も、お市の方とその娘・茶々、初、於江与を救出した織田方の武将の一人が秀吉だった。

この小谷落城の折、浅井家・長男の万福丸は捕われて殺害され、次男の万寿丸は出家させられて女性だけが赦される。

お市の方(おいちのかた/織田秀子)は、子連れの後家になって織田家に戻って来た。

しかし主君・信長が健在の間、秀吉はお市の方(おいちのかた/織田秀子)に手も足も出せなかった。


明智光秀が突然「本能寺の変」を起こし、信長は大軍に包囲されて割腹する。

秀吉は、天下とお市の方(おいちのかた/織田秀子)を同時に手に入れるべく行動を起こし清洲会議(きようすかいぎ)で有利に立つも、「織田家を蔑ろにする」とお市の方には嫌われてしまう。

お市の方は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う秀吉に織田信孝(信長の三男)を立てて対抗する。

同時に、織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、浅井三姉妹(茶々、初、於江与)を連れ子に再婚する。

しかし信長亡き後の織田家内の主導権争いで、羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、居城・北ノ庄城に逃げ篭る。

その後お市の方は、夫・柴田勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城し、羽柴方と応戦したたが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。

この数奇な運命のお市の方忘れ形見・浅井三姉妹は、その後も波乱含みの人生を送る事に成る。

長姉の「茶々」は豊臣秀吉側室に納まり、その後の歴史を左右する豊臣秀頼の生母・淀の方(秀吉の妾妻)となって息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康と対立する。

淀の方(秀吉の妾妻)と成った茶々(ちゃちゃ)は、大阪城で三度目の落城に合い息子・秀頼と伴に自害している。


お市の方(おいちのかた/織田秀子)に適わぬ懸想をしていた秀吉は、自らが攻めた北の庄城落城で懸想の相手を失った。

しかしその娘・茶々(ちゃちゃ)の若い肉体を手に入れて、永年の想いのたけをぶつけたに違いない。

実は秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間には、秀頼の前に長男・鶴松が居たのだが病で夭逝している。

秀頼は、秀吉の二男に当たるのだが、疑問が残るのは秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間に出来た二人の子供・捨(鶴松)と拾(秀頼)が「本当に秀吉の子だろうか?」と言う素朴な謎である。

秀吉は、好色・女好きで知られて側室三百名とも言われ、主だった側室だけでも十三名を数える稀代の艶福家である。

長年連れ添った正妻・北政所「おね(ねね)」との間だけでなく、京極竜子(きょうごくりゅうこ・松の丸/京極殿)、や前田利家娘・加賀殿(摩阿)、織田信長の娘・三の丸殿(蒲生氏郷の養女)を始め、数多く居た側室(そばめ)との間にもいっこうに子を為せなかった。

子が為せない事で秀吉には、別勢力である山窩(サンカ・サンガ)の総領家(王家)の出自とされる名家の定めとも言える虚弱精子劣性遺伝を煩(わずら)っていた疑いがある。

長浜城時代の側室に「一男一女を授かった」と言う説があるもその子が成人した痕跡は無く、実在も証明されてはいない。

その秀吉が突然とも言える快挙で、茶々(ちゃちゃ)を二度も懐妊させ得たとは到底考えられない。

若い頃から四十六歳に成るまでほとんど子が為せなかった秀吉に、立て続けに子が出来た事には、誰もがいぶか(疑わしく思う)った。

捨(すて/鶴松)と拾(ひろ/秀頼)の本当の父親を大野治長とする説、また石田三成とする説が有力で、片桐且元説も在る。

秀吉本人もその事は承知の上で、それでもなお茶々(ちゃちゃ)の母・市に憧れていた事や、茶々(ちゃちゃ)の産みし捨(鶴松)と拾(秀頼)が、即ち主家・織田の血を引く事で、世継ぎとして満足していたのかも知れない。

であれば、疑惑の実父には状況証拠から石田三成が浮上して来る。


この捨(鶴松)と拾(秀頼)の父親別人説を豊臣恩顧大名達が百も承知していた。

為に、関が原の合戦の折やその後に続く大阪冬の陣・夏の陣に多数の恩顧大名が「東軍(家康方)に廻ったのではないか」と言う見方も在る。

慎重な徳川家康が、豊臣家に代わって天下を取る事に自信を深めたのは、秀吉子飼い(恩顧)の大名達の大半が豊臣秀頼の実父に別人説疑惑を持っていたからである。

これで秀吉正妻・北の政所が家康の味方に着けば、秀吉子飼い(恩顧)の大名達は「安心して勝ち馬に乗る」と言う決意ができるのだ。

正妻・北政所「おね(ねね)」が豊臣家滅亡を黙認してまで身内の子飼い大名達を東軍に廻らせた事も、父親別人説に信憑性を持たせている。

まぁ血統至上主義の世に在って、豊臣秀吉は徳川家康との「子作り合戦に負けた」とも言えるのである。



文禄・慶長の役(朝鮮征伐)は、天下人と成った豊臣秀吉が「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心を持った事から始まった。

その文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の出兵最中に、太閤まで上り詰めた天下人・豊臣秀吉が病死する。

秀吉が亡くなると意味を失った朝鮮征伐は中止され、派遣部隊は続々と帰還するが何の恩賞も出ない。

多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇った。

その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。

この男、石田三成は太閤殿下に可愛がられ、のぼせ上がって他人(ひと)の気持ちが判らなく成っていた。

そこへ武将達の嫉妬が集中した。

天下分け目の関が原の合戦、東軍・家康陣営に付いた秀吉恩顧の武将達の顔ぶれを見ると、案外男の嫉妬が一番の勝敗の分かれ目かも知れない。



当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手である。

この時代、ひとかどの将とも成ると稚児小姓を愛玩し、肉体関係を通じて信頼が置ける側近に育てる習慣が在った。

稚児小姓上がりで最も有名な者は、織田信長の側近・森欄丸である。

稚児小姓とは閨で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から出世している。

また、徳川家康における井伊直政との間柄も有名な話で、徳川譜代大名・井伊家の藩祖・井伊直政は、家康に見出される。

直政は小姓(児小姓)として、家康の男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

豊臣秀吉の小姓から凡(およ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五〜十八歳の頃の事である。

その長浜・観音寺(伊富貴山観音護国寺/いぶきやまかんのんごこくじ)に秀吉が休息に立ち寄って茶の接待を受け、三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。

しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

この逸話とは別に、羽柴秀吉が近江(長浜市)主となった千五百七十四年(天正二年)頃に地元仕官説が在る。

石田氏は旧石田郷の郷名を苗字とした土豪で、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に本拠を構えていた。

三成は幼名を佐吉と称し、秀吉が長浜城主となって父・兄と共に秀吉に仕官し「佐吉自身は小姓として仕える」とする説もあるが、いずれも「稚児小姓」として仕えたのでければその後の信任は無い。

ここにある疑いが生じた。

もしも豊臣家二代・秀頼が、淀君(茶々)の不倫の末の子であるなら、天下人・秀吉が我が子誕生にまつわる事でそうも容易(たやす)く信じるものだろうか?

そこに、或る合意のシナリオが浮上する。

秀吉は、豊臣家二代・秀頼について「何もかも承知の上」と言うよりも、むしろ積極的にこの豊家継嗣の誕生を企てたのではないだろうか?

子種が無いと想われたにも関わらず淀君(茶々)の子を我が子としたには、「我が子と想いたかった」や「儚い願望」ではなく、淀君(茶々)の子を我が子として押し通したのではないか?

漸く手に入れた淀君(茶々)は、秀吉が永い間懸想していた織田秀子(市/おいちの方)の娘である。

石田三成については、秀吉の愛玩稚児疑惑がある。

だとするなら或いは自らに子種が無い事を認識して寵愛する三成に淀君(茶々)との子を創らせ、確信的に自らの子としたのかも知れない。

本当は判っているのに、それを認めたがらない事は往々にしてある。

現代に於いては、子が欲しい夫婦に不妊治療に非配偶者間人工授精(AID)と言う夫以外の精液を使用して妊娠する方法がある。

不妊の原因が夫に避けなければならない遺伝子がある場合、夫が無精子症で全く精子がない時やそれに近い条件の時、血液型の不適合、手術・薬剤による射精 異常である場合などがAID不妊治療の対象になる。

現代でこそ医療技術が向上して人工授精が施術可能に成った。

だがしかし、昔はそうした事は望むべきも無いから、天からの授かりものとして相手不詳の子種を得るしか方法が無かった。

つまり秀吉も、或いは承知しながら淀君が懐妊した子種が自分の物と想えない事を認めたがらなかったのではないだろうか?



苦労して外国の戦から帰って見ると、同僚の石田三成が、すっかり幅を利かせて何時の間にか大きい顔をしている。

豊臣家の大番頭(大官僚)然として、豊臣家を差配していたのだ。

「何じゃ、自分は、太閤殿下の傍で悠々としくさって。」

「そうだ、そうだ、異国で苦労して戦った我々の身にもなって見ろ。」

三成は論理的秀才ではあるが、人心掌握は下手である。

不満が出ても、涼しい顔をしている。

「負け戦に、恩賞などあろうか。」

冷やかに判断して、相手の感情や能力を推し量ろうとはしない。自分の価値観で、押し通す。

この男・・・三成は、自分が利口過ぎて他人(ひと)の気持ちが判らない。

そしてまずい事に、ハナから馬鹿にしている相手だから、理より本能で動く無骨者の男達が案外猜疑心強く嫉妬深い事に思い至らない。

つまり三成とまったく物差しが違う相手に、三成は自分の価値観を押し付け自分の価値観で相手を量っていたのである。

なまじ多少学問が出来たり上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。

石田三成もそうした手合いで、秀吉に見込まれて出世を重ねるほど独り善がりなその慢心が強くなり、周りが見えなく成っていた。

それが信長ほどの天才で、相手が認めざるを得ない力量があれば別だが、三成は根が官僚肌でそこまでに至らない。

もつとも厳密に言えば、秀吉の下に統一成って味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上は恩賞の出し様が無い。


正直だけでは生きては行けない時代だった。

石田三成の純粋な生き方には庶民に共感を呼ぶ所はあるが、当時の南光坊(明智光秀)や徳川家康に取っては採るに足らない相手だった。


本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。

もっともこの時代の求心力はあくまでも恩賞としての所領の獲得で、大名を潰してまで再分配するほどの力も、例え関が原で勝利しても豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には、恩賞を取り仕切れる絶対的な信用は武将達に無かった。

それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接し差配した。

人間は、困った事に「信じて居たのに裏切られた」と言う被害者意識を持つが、良く考えて欲しい。

「信じて居た」は、相手に対する一方的な思い込みで、それを持って「裏切られた」と恨むのは「甘えた筋違い」と言うもので、ここで考えて欲しいのは「主体の置き方」である。

即ち一方的に相手を信じて満足するのではなく、「相手に信じて貰える努力をして来たか」と言う事である。

これは夫婦間から仕事仲間までで通じる事だが、例え表面に出さなくても心の内で相手をバカにした時から「裏切られる危険性」は格段に増す。

貴方が嫌いな相手は相手も嫌いが相場である。

以心伝心は「対人関係の基本」で、本人は上手く屋って居る積りでもその本心は態度の端々で相手に伝わるものである。

石田三成の悪い所は、学問は学んで利口になったがそれを絶対視して学問が新しい発想の原点に過ぎない事を忘れていた点である。

つまり理屈は合って居ても、世の中に通用し無い事は多々ある。

なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。

それでも困った事に、自らを利口と自覚する石田三成は、「何があろうとも相手が悪い」と言う傲慢な人間になっていた事である。

反面、良く考えて見れば石田三成に人気が無くて当然である。

彼は、豊臣諸大名に高クオリティを要求した。

その手法はワザワザ敵を作るようなもので、当然無骨一辺倒の大多数の現状派は、それを実現する自信の無さも有って反発する。

それを、「彼には人気が無い」と、一言でかたずけてはいささか不憫ではある。

石田三成は、周囲の知恵も無い同僚連中が「這いつくばってでも出世をしよう」としているのを馬鹿にしていた。

無骨で無知な彼らの取り得は、三成には到底出来ない主君・秀吉に人目も憚(はばか)らずゴマをすり、意見具申する事もなくひたすら言う事を聞く事である。

三成に言わせれば、調子が良いだけで中身に誠意は感じられない連中だった。

所が、三成には信じられない事だが世の中は上手く出来ているもので、案外そんな連中が主君に可愛がられて三成と然(さ)して変わらぬ知行地(所領)を得る出世するのだ。

主君・秀吉のそう言うところは三成も苦々しく思っていてが、現実だからし方が無い。

つまり根から正直なのは三成だけで、その調子が良い連中がこの豊臣家存亡を賭けた肝心な時に敵方に廻ったのだから、要は恩義など感じては居ず主君・秀吉への奉公も己の為の処世術だった訳である。

唯、己の才に慢心した石田三成は、同僚の粗(あら)ばかり観ていた。

他人を批判的な目でばかり見ている者は、人間関係を壊し、良い人生は築けない。

当然ながら、そうした悪しき考え方は、言わずとも態度で相手に伝わり、味方を失う。

特に「指導的な立場に立とう」と志す者は、相手の良い所も合わせて評価する度量の心掛けが必要で、その配慮に欠けて批判ばかりして居る者は指導的立場に立った時点で失敗する。

慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、出兵組が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。


重鎮・前田利家が死去すると、面白くない武断派の武将七名が共に石田三成に対して露骨に敵対を始める。

福島正則・加藤清正・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長と言うメンバーだが、この記録は蜂須賀家政や藤堂高虎がいずれかと入れかわってる場合がある。

この武断派の武将七名が結託し三成暗殺を計画が三成の大坂屋敷を襲撃して石田三成暗殺未遂事件を起す。

しかし、三成は事前に察知して佐竹義宣の助力を得、大坂から脱出して伏見城内に逃れ、伏見で追っての武将達と睨み合う内に徳川家康の取り成しの為に三成暗殺は失敗する。

しかしながら三成は、この騒動の結果、五奉行の職を解かれて居城・佐和山へ隠居の身となっている。


いずれにしても、石田三成は同僚の恨みを一身に買うが秀才故に敢えて放置してしまう。

これは、家康や光秀には勿怪(もっけ)の幸いである。

家康と光秀は、三成や豊臣(淀君)方がじれる様な仕打ちを繰り返し、米沢の上杉と光成に家康討伐の「のろし」を上げさせる事に成功する。

彼らの企て(作戦)は先ず奥州の上杉が叛乱を起こし、家康が討伐に向かう所を背後から三成が「挟み撃ちにしょう」と言うものだ。


真偽の程は定かでないが、関が原合戦の端緒を開いたのは上杉家・執政・直江兼続の世に言う「直江状」だと言われている。

武将と言う生業(なりわい)は戦商売みたいなもので、命を的にするから知恵や経験が物を言う。

ある程度己に自信がある武将は、まだ出来上がっていない「これぞ」と思う少年に目をかけて己(自分)流の兵法を「一から仕込もう」と言う願望を持つ。

「己の全てを注(そそぎ)ぎ込む」となると、信頼関係が大事だから稚児小姓(衆道)として常に傍(かたわら)に置き、心身ともに愛情を注(そそぎ)ぎながら教え聡(さと)し有能な部下として育てる。

上杉家の天才武将官僚として今直語り草にされている直江兼続(なおえかねつぐ)は若かりし頃、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)の稚児小姓(衆道)として育てられ、言わば上杉謙信(うえすぎけんしん)流武将学の継承者である。

豊臣秀吉の要請で越後から合津に移った上杉百二十万石は、上杉謙信から上杉景勝の代になっていた。

上杉景勝は秀吉政権下で五大老の一人として任じられ、その上杉家・執政・直江兼続と豊臣家直臣で五奉行の一人石田三成とは懇意な間柄だった。

この直江兼続と石田三成の二人が連絡を密にして徳川家康に上杉討伐の兵を挙げさせ、家康が東進している間に大阪で打倒家康の兵を三成が挙げ、「挟み撃ちにする作戦ではなかったのか」と、世に兼続・三成の密約説がある。

直江兼続の祖は系図で言うと、遡れば平安末期の武将・中原兼光(なかはらのかねみつ/樋口 兼光)に辿り着く。

中原次郎兼光は木曽(源)義仲の家臣で、義仲の愛妾・巴御前の兄と言う方が判り易い。

木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口を名乗り、その樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従する。

樋口家は上田長尾家執事、或いは上田長尾家家老とも言われ、樋口兼続は謙信の実姉(景勝の母)の推薦で景勝の小姓近習として五歳と言う幼い頃から近侍していた。

樋口(直江)兼続は、主君・上杉景勝の小姓近習時代に越後の虎と称された国主・上杉謙信の生涯敗れた事の無い戦ぶりと領国経営の生き様に感銘し、生涯その謙信を手本として上杉家を主導するに到っている。

兼続も偉いが、その才能を見込んで任せた主君・上杉景勝の度量の良さも、或いは国主たる者の持つべき才能かも知れない。

上杉景勝は上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、兄の死去で一旦は長尾家を継ぐが、生母が上杉謙信(長尾景虎)の実姉・仙桃院だった為に、子供の居ない上杉謙信(輝虎)の養子と成っていた。

千五百七十八(天正六年)、一代の風雲児・上杉謙信が急死する。

その後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と相模の北条氏から養子に入った上杉景虎との間で御館の乱が起こり、景虎の自害に拠り兼続の主君・景勝が上杉家を相続し越後国主と成る。

その上杉家内乱の三年後に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、直江家の血脈が途絶えてしまう。

跡取りの無い直江家を継ぐ事を主君・上杉景勝に命じられた樋口兼続は、その命により直江景綱の娘で直江信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)に入って直江家を継いで直江兼続を名乗り、越後与板城主となる。

直江家を継いで直江兼続と成った兼続は、主君・上杉景勝の信任厚く上杉家を取り仕切る事を任されて、合津国替えの時点では陪臣ながら出羽米沢に六万石の所領が与えられて居る。

景勝より配下に預けられた与力(よりき)の軍勢を加えると、上杉百二十万石の四分の一に相当する凡そ三十万石に相当する軍勢を与えられていた。

その後、関が原合戦の後処理(仕置き)で上杉家が米沢三十万石に減封されると、兼続は自らを五千石の知行に減らして家臣を説得、抱えた家臣を手放す事無く領国経営に力を入れて産品を増やし、石高以上の国力を生み出して後の世まで称えられている。


この計略の事態は、南光坊(光秀)が読み切っていて、石田三成が画策した東北(上杉)、関西(毛利その他)の挟み撃ち作戦は、最初から失敗する運命だった。

家康が選んで編成した対上杉討伐軍は、親徳川軍と、豊臣恩顧の部将(大名)ではあっても、大方は石田三成嫌い急先鋒の部将(大名)達であった。

彼らは、三成に対して先の朝鮮征伐の折の恨みがあった。

加藤清正、福島正則達である。

南光坊(光秀)と雑賀孫市、服部半蔵、過っての勘解由小路党に繋がる者共は、南光坊(光秀)を盟主として、暗躍する。

彼らにすれは、豊臣家と言うまるきり血統の裏付けが無い家が天下人で有る事が、既に異常事態である。

諜報関係を東軍(徳川方)に全て握られていたが、正攻法の正論家・石田三成は気が付かない。

石田三成は庶民の出自で、根が善良である。

その三成が、信義だけを信じて老獪な徳川家康相手に関が原の合戦を挑んだ。

善良な武将など戦に勝てる訳が無い。

善良な市民の悪い癖は、幾ら裏切られても、「お上を信じたがる」幻想を持ち続けている事で有る。

つまりそれは、永い事培われた征服部族の意識操作の影響である。

性善説に立ち、疑って掛かるのが「低俗な事」と、原則論に拘(こだわ)って真実に蓋をし奇麗事に終始する。

気持ちは判るが夢物語で、およそ権力者が奇麗事だけで勝ち上がって来る訳がない。

豊臣家の執政役を任じていた石田三成と上杉家の当主・景勝、そして上杉家々老・直江兼続は生真面目な所が共通している。

世の不条理では在るのだが、その生真面目が権謀術策の世に在って時には邪魔に成る。

そう言う意味に於いて、豊臣家を滅ぼすきっかけを作ったのは石田三成の生真面目さである。

天皇家ならともかく、豊臣を奉じての大義名分だけでは他人(ひと)は動かない。

本来、ニ〜三十万石程度の中規模大名である三成がこの戦勝で伸し上がり、過日の秀吉のように主家である織田家を尻目に天下を取り、上に立たれて苦い思いをさせられるのは、自分達は御免である。

そうなると自他ともに実力を認める大々名の家康に付く方が、より現実的で納得が行くのである。

徳川家康は源頼朝と同じ手紙魔で、見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

人はそうした努力には絆(ほだ)されるもので、つまり信頼の獲得にはコミニケーションが大事であるから、その「努力を惜しんでは成らない」と言う事である。


関が原合戦は千六百年(慶長五年)の出来事で、石田三成は千五百六十年(永禄三年)の生まれだから、ちょうど四十歳で男としては盛りであった。

しかし戦に対する周到さは、合戦当時既に五十七歳に成っていた徳川家康の方が遥かに勝っていた。

その時家康が何を感じて居たのかは、誰にも判らなかった。

慎重と言えば体裁が良いが、危険(リスク)を避ける生き方も批判は出来ないし危険を冒しても大きな果実を得る(ハィリスク・ハイリターン)選択肢もある。

全ては家康の心の中にしまわれて居た敗戦経験からの、周到な閃(ひらめ)きだったのかも知れない。


千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の合戦に十八歳で初陣してから、もう三十九年間も事有るごとに戦って負け戦の味も舐めて来た家康にとって、勝ち方は無数にある。

それに引き換え三成は有能な行政官僚ではあるが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、九州征伐の参陣でも輜重(しちょう/後方支援)を担当するなど、まともに大軍を指揮した実戦経験は乏しかった。

石田三成と感情も露に対立した福島正則(ふくしままさのり)は、尾張国(現在の愛知県海部郡美和町)で生まれている。

正則の母が「豊臣秀吉(日吉丸/木下藤吉郎)の叔母だった」と伝えられ、その縁で「幼少より秀吉に仕えた」とされるが、それらは後の記述で詳細は不明である。

織田信長の弔い合戦となった明智光秀との山崎の戦いで軍功をあげ、五百石の知行を与えられ、翌年の織田家中主導権争いとなった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る大功を立てて賤ヶ岳の七本槍の中でもその武功第一と賞され、五千石を与えられた。

その後も福島正則は秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、九州征伐の後に伊予国今治十一万石の大名に封ぜられている。

やがて日本全国を統一して豊臣政権が誕生すると、千五百九十二年(文禄元年)朝鮮半島・中国大陸に進出する野心を持った秀吉が「文禄の役」を起こす。

福島正則は、文禄の役では戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・来島通総などの諸将を率いる五番隊の主将として出陣、京幾道の攻略にあった。

この朝鮮出兵の功で、正則は千五百九十五年(文禄四年)に尾張国清洲に二十四万石の所領を与えられた。

この朝鮮出兵最中の千五百九十八年(慶長三年)太閤・豊臣秀吉が病死すると朝鮮での戦闘は中止され、遠征軍が引き上げて来る。

所が武闘派の福島正則や加藤清正は、官僚統治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪化していた。

石田三成は正論の徒であり、正しいと思えば誰にでもズケズケとものを言う。

言う方は相手の為を思って言って居ても、図星を言われると腹が立ち相手に敵意を抱く小心者の人間も多く居る。

武闘派の福島正則や加藤清正は一見豪胆に見えるが豪胆に振舞う者ほど繊細な一面が在り、図星に自尊心を傷付けられて恨みを抱く。

いずれにしても「有能な官僚統治派が、有能な指導者とは限らない」と言う事であり、官僚統治派は有能な指導者在っての憎まれ役が相応なのである。


豊臣秀吉没年の翌年に、五大老の一人として豊臣政権安泰に尽力し徳川家康を牽制していた前田利家が病没すると、福島正則は朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こし、この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意している。

その経緯から正則は家康と昵懇(じっこん)の仲の秀吉恩顧大名の一人となる。

その為、これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させ、徳川家と福島家は縁戚の体を為すに到っていた。



徳川家康が、難癖ではあるが会津・上杉家の豊臣家に対する謀反を言い出し討伐の軍を編成した時、正則は六千余りの軍勢を率いて従軍していた。

その上杉討伐の北上行軍の途中、上方(京・大阪)方面で石田三成が挟み撃ちを狙って家康討伐を掲げて挙兵する。

この三成挙兵の報を受けて、家康と行軍中の諸大名・諸将はどちらに味方するのかの選択を迫られ去就に窮して動揺する。

その迫られた去就を決定つけたのが、あらかじめ家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていた福島正則の談合密約に拠る正則主導の小山評定である。

小山評定では動揺する諸大名・諸将の機先を制して、正則がいち早く家康の味方につく事を誓約した為に秀吉恩顧の正則の姿勢に諸将は一致して同意、反転して西上する方針が決定する。

福島正則をいち早く味方に就けていた勇猛を持って知られる黒田長政(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛/如水)の長男である。

父・黒田孝高(官兵衛/如水)が播磨国の西播最大の大名・小寺政職に仕えて姫路城代を勤めていた黒田家は、官兵衛の父・職隆の代に主君・小寺政職から「職」の一文字を与えられ養女を貰い受けて小寺の名字を名乗っている。

小寺(黒田)家の家督を継いだ官兵衛は、千五百七十七年(天正五年)進行して来た織田方に付く為に奔走して播磨の大半をまとめ、羽柴秀吉を姫路城に迎え入れて城を明け渡し、そのまま秀吉の与力となる。

小寺(黒田)家が当初は新参者だった為に、臣従の証として長政は織田信長の人質として、織田家家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城にて過ごして居た。

黒田長政(くろだながまさ)が近江国長浜城に人質に成った翌年、信長に一度降伏した荒木村重(摂津・伊丹城主)が信長に反旗を翻した為、父・孝高は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで村重に拘束された。

信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、「村重方に寝返った」と考えて長政を処刑しようとしたが、竹中半兵衛は長政を処刑したと偽って助命する。

この半兵衛の機転により、長政は危うい所で一命を助けられている。

その一年後に荒木村重の有岡城は落城し、黒田官兵衛は家臣の栗山利安に拠って救出され裏切りの疑いは晴れたのだが、長期の入牢で関節に障害が残り歩行が不自由になって、以後の合戦の指揮には輿を使う始末だった。

そんな父・孝高(官兵衛/如水)に代わって、黒田長政が秀吉の下で備中高松城攻めに従い中国地方の毛利氏と戦い、将としての才覚を示し始めている。

本能寺の変、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と秀吉が天下を取る過程に加わって徐々に加増され、九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。

戦後、父子の功績をあわせて豊前国・中津に十二万五千石を与えられ、千五百八十九年(天正十七年)に父・黒田孝高(官兵衛/如水)が隠居した為に長政は家督を相続し、同時に従五位下・甲斐守に叙任されている。

長政は文禄・慶長の役にも渡海し、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒隊となった。

秀吉が死去し、三成ら文治派と福島正則や加藤清正ら武断派の対立が起こると、長政は武断派に与し五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎える。

前田利家の死去をきっかけとした武断派の福島正則や加藤清正らの石田三成襲撃にも参加している。

石田三成襲撃事件の翌年起こった関ヶ原の戦いで黒田長政は兵五千四百を率いて一番の武功を挙げ、筑前福岡藩五十二万三千石を与えられ、福岡藩の初代藩主となった。

秀吉恩顧大名の一人だった長政は、やがて起こった大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、嫡男・黒田忠之に代理出陣させる羽目になったが、翌年の大坂夏の陣では二代将軍徳川秀忠に属して豊臣方と戦っている。


この小山に於ける軍議(小山評定)で、ちゃっかり上手く立ち回った武将に山内一豊(やまうちかつとよ)が居る。

山内一豊(やまうちかつとよ)の生まれた山内氏の出自は諸説在り、土佐藩提出の「寛政重修諸家譜」では藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔を称しているが、決定的な証明を得る資料は見つかっていない。

はっきりしているのは、一豊(かつとよ)の祖父・久豊が尾張上(山側)四郡を支配する尾張守護代岩倉城主・織田氏(伊勢守家)に重臣として仕えていた事である。

一豊(かつとよ)の父・山内盛豊も守護代家・伊勢守織田氏に使え、一豊(かつとよ)はその三男だった。

父・山内盛豊は尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)に居城・黒田城を持ち守護代家・伊勢守織田氏の家老をしていた。

そこに現れたのが、もう一方の尾張下(海側)四郡を治める尾張守護代清洲城主・織田氏(大和守家)の家老家から下克上で伸し上った織田信長である。

織田信長は尾張下(海側)四郡を実質支配する事に成功すると、次に一豊(かつとよ)の父・山内盛豊が仕える伊勢守織田氏の尾張上(山側)四郡に触手を伸ばして対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれ黒田城を襲撃されて兄・十郎が討死する。

兄・十郎の討ち死にから二年後には主家の岩倉城が落城し、この際に父・盛豊が討死ないし自刃したらしく主家と当主を失った山内一族は離散し流浪する事になる。

流浪する事と成った一豊(かつとよ)は転々と主家を代え、千五百六十八年(永禄十一年)、ちょうど織田信長が神戸氏を降伏させ伊勢国を平定した頃に信長に仕えるようになり、木下秀吉(豊臣秀吉)の与力となった。

この間に一豊(かつとよ)は、良妻と評判高い見性院(けんせいいん/千代とする説あるも実名かは不明)と結婚している。

一豊の妻である見性院(千代、まつ?)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、真偽の程は定かではないが嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で「名馬(鏡栗毛)を買った」と伝えられている。

この名馬(鏡栗毛)、主君・信長の馬揃え(軍事パレード)の際にその馬の見事さから信長の目にとまり「武士の心得怠り無し」と加増された話は有名である。

その後の山内一豊(やまうちかつとよ)は木下秀吉(豊臣秀吉)の与力として千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、三年後の朝倉攻め刀禰坂(とねざか)の戦いなどに出陣し、朝倉攻めでは矢を受けて顔に重傷を負いながらも敵将・三段崎勘右衛門を討ち取った。

一豊(かつとよ)は近江国浅井郡唐国(現在の長浜市域)で四百石を与えられ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直している。

一豊(かつとよ)が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直して四年後の千五百七十七年には播磨国有年(兵庫県赤穂市内)で二千石、本能寺の変に拠る信長の死後もそのまま秀吉の家臣として従い、秀吉の天下取りに加わって賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに参陣している。

主君・羽柴秀吉(豊臣秀吉)がほぼ天下を手中にする頃には、一豊(かつとよ)は秀吉の甥・豊臣秀次の宿老となり千五百八十五年(天正十三年)には若狭国高浜城主、間も無く近江長浜城主となり二万石を領している。

その後の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の小田原平定(北条氏)に参陣後、一豊(かつとよ)は遠江国掛川に五万一千石の所領を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)、一豊(かつとよ)が宿老と成った秀次が謀反の疑いで処刑され危うく連座されそうになるが上手く免れ秀次の所領から八千石を分けて加増されている。

豊臣秀吉の死後、豊臣家を上回る実力を持つように成った徳川家康と豊臣家・淀方や石田三成が天下の実権をめぐって反目を始め、一豊(かつとよ)に一大転機が訪れる。

千六百年(慶長五年)、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵する。

すると一豊は下野国小山に於ける軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、豊臣恩顧大名で在りながら真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し家康を喜ばせている。

何んとも調子が良い話しだが、勝ち馬に乗るのも武将の才覚で一豊(かつとよ)の選択肢は満更責められない時代だった。

関ヶ原の戦いの本戦では、一豊(かつとよ)は東軍に与して毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の軍議(小山評定)及び東海道諸将の取りまとめなどの功績を高く評価される。

一豊(かつとよ)は、土佐国一国・九万八千石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高)を与えられた。

尚、この石高については後の山内氏自身の検地で二十万二千六百石余の石高を算定して幕府に申告し、幕末まで存続する土佐藩が成立して居る。

山内一豊の読みに関しては、先の「寛政重修諸家譜」では「やまうち」とひらがなルビ付けが在り、また家臣に与えた偏諱の読みも「かつとよ」で在る為、通常世間で読まれている「ヤマノウチカズトヨ」は正確ではない。


朝鮮征伐の折の恨みが在った大名達は、三成の家康討伐の挙兵を聞くと、こぞって家康側にまわった。

「三成ごときを此処で勝たせて、これ以上大きい顔をされてたまるか。」が、本音である。

ちなみに、この時結城秀康は徳川方の一員として、宇都宮に陣取っていた。

徳川東軍が関が原に向かった際には、上杉軍追撃の押さえと成った為、関が原戦には参戦していない。

徳川家康を総大将とした東軍はふた手に分かれて上方に攻め上る事となり、家康本隊の東海道方面軍と家康長男・秀忠を大将とする中山道方面軍の二隊が夫々の街道を進軍して行く。

東軍・家康方の東海道方面軍が福島正則(ふくしままさのり)の居城・尾張清洲に到達した関ヶ原の戦いが始まる前、福島正則は先鋒を買って出て出陣し、池田輝政と先鋒を争い、清洲から美濃方面に進軍して西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは黒田長政らと共同で城を陥落させている。


安土桃山時代から江戸時代にかけての武将として会津藩四十万石に昇りつめた大名・加藤嘉明(かとうよしあき)は、晩年に嘉明(よしあき)を名乗るまで、繁勝(しげかつ)を名乗っていた。

繁勝(しげかつ)は千五百六十三年(永禄六年)、三河国の松平家康(徳川家康)の家臣である加藤教明(岸教明)の長男として生まれる。

生まれた年の三河一向一揆で父・教明(岸教明)が一揆側に属して家康に背き、流浪の身となって繁勝(しげかつ/嘉明)も放浪する。

やがて尾張国で、加藤景泰(加藤光泰の父)の推挙を受けて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出され、その小姓として仕えるようになる。

織田信長死後の千五百八十三年(天正11年)には、秀吉と織田家筆頭家老の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いで、繁勝(しげかつ/嘉明)は福島正則、加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。

秀吉は信長の統一政策を継承し、繁勝(しげかつ/嘉明)は千五百八十五年(天正十三年)の四国攻め、千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐、千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐などに水軍を率いて参加した。

繁勝(しげかつ/嘉明)はこの間の武功から、千五百八十六年(天正十四年)には淡路国志智に於いて一万五千石を与えられ、大名に列している。

千五百九十二年(文禄元年)からの文禄の役では、繁勝(しげかつ/嘉明)は水軍を統率して李舜臣指揮の朝鮮水軍と戦った。

その功績により繁勝(しげかつ/嘉明)は、千五百九十五年(文禄四年)には、伊予国正木(愛媛県松前町)に六万石を与えられている。

その後の繁勝(しげかつ/嘉明)は、慶長の役に於いては、漆川梁海戦で元均率いる朝鮮水軍を壊滅させ、蔚山城の戦いでは明・朝鮮軍の包囲で篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ蔚山城(倭城)の清正を救援する武功も立て、十万石に加増されている。


千五百九十八年(慶長三年)八月に秀吉が死去すると繁勝(しげかつ/嘉明)は帰国し、豊臣政権における五奉行の石田三成と五大老の徳川家康の争いでは家康方に属する。

千五百九十九年(慶長四年)、五大老の一人前田利家の死後に加藤清正らが三成殺害を企てた暗殺未遂事件事件には、繁勝(しげかつ/嘉明)も襲撃メンバーに参加している。

千六百年(慶長五年)、家康が会津の上杉景勝の謀反を主張して討伐を発令すると、繁勝(しげかつ/嘉明)も従軍する。

家康らの大坂留守中に三成らが挙兵し、引き返した東軍(徳川方)と美濃で衝突して関ヶ原の戦いに至ると、繁勝(しげかつ/嘉明)は前哨戦である岐阜城攻めや大垣城攻めに於いて戦い、本戦では石田三成の軍勢と戦って武功を挙げた。

留守中の伊予本国(伊予方面関ヶ原の戦い)でも、加藤家家臣の佃十成が毛利輝元の策動を受けた侵攻軍を撃退している。

その功績により、戦後、繁勝(しげかつ/嘉明)は伊予松山二十万石に加増移封され、完成は蒲生忠知の城主時代になるが、松山城の建築を開始している。


千六百十四年(慶長十九年)に起こった豊臣氏との戦いである大坂冬の陣では、繁勝(しげかつ/嘉明)は豊臣恩顧の大名であった為、家康に危険視される事を恐れて江戸城留守居を務める。

翌千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、繁勝(しげかつ/嘉明)は二代将軍・徳川秀忠に従って参陣した。

四年後の千六百十九年に起こった福島正則の改易で、繁勝(しげかつ/嘉明)は広島城の接収を行った。

千六百二十七年(寛永四年)会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減転封された後を受けて、嘉明(よしあき)は会津藩四十万石に加増移封された。

大封を得た加藤家だが、嘉明の死後、家督を継いだ嫡男・明成が暗愚な為に家中で堀主水立ち退き事件を起こす。

江戸幕府の介入を招き、減封の上嗣子を立てて家名存続との裁定となるも、明成が息は無いと頑固に主張した為に嘉明(よしあき)が興した加藤家は改易されるに到る。



石田三成が西軍(豊臣方)の総大将に据えた毛利輝元(もうりてるもと)は、下克上で大内氏を倒して周防・長門を奪った陶(すえ)氏を倒した毛利元就(もうりもとなり)の嫡男・毛利隆元の嫡男で、言わば毛利家の正統三代目である。

安芸(現在の広島県)に生まれ、幼名は幸鶴丸を称した毛利輝元(もうりてるもと)は父・隆元が急死した為十一歳で家督を継ぐも若年の為、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行していた。

毛利幸鶴丸は、千五百六十五年に十三代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され十二歳で元服し、輝元と名乗り同年の月山富田城で初陣を飾る。

千五百七十一年(元亀二年)、輝元十八歳の折に周防・長門・長州・安芸・石見をほぼ制した一代の英雄・祖父の元就が死去すると、毛利両川(もうりりょうせん)体制を中心とした重臣の補佐を受け、元就は漸く親政を開始する。

その親政開始の三年後、千五百七十四年(天正二年)には織田信長の助力で将軍職に就いた十五代将軍・足利義昭からの推挙を得て、輝元は朝廷から右馬頭に叙任され室町幕府の相伴衆に成った。

「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。

月山富田城・初陣の後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大して行く。

祖父・元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利して九州や中国地方に勢力を順調に拡大し続けていた。

所が、千五百七十六年(天正四年)になって織田信長に拠って都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座して来た為、輝元は保護せざるを得ない状況となる。

その上石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると輝元が村上水軍を使うなどして本願寺に味方し、兵糧・弾薬の援助を行うなどした事から信長と激しく対立する。

信長軍団と事を構える事に成った毛利輝元だったが、当時織田軍は越後の上杉謙信と敵対していた事もあり兵が手薄で、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り大勝利を収めた。

その勢いで羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及んだ上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、信長を歯軋りさせるほど織田氏に対して優位に立った。

しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となって行く。

千五百七十九年(天正七年)に成ると、毛利氏の傘下に在った備前の宇喜多直家が織田信長に通じて毛利氏から離反した。

織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉に拠って、毛利輝元は徐々に追い込まれて居た。

輝元も叔父達と共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻して来るなど身動きが採れずにいた。

羽柴秀吉は播磨三木城を長期に渡って包囲し、持ち堪え切れなくなった別所長治は自害させ、因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城させ毛利氏の名将・吉川経家が自害する。

千五百八十二年、羽柴秀吉が毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めにしていた頃、秀吉は京都本能寺にて本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により主君・織田信長滅ぶの報を聞き慌てて毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ毛利氏との和睦を持ちかける。

戦況の不利で和睦を願って居た輝元や小早川隆景らは信長の死を知らずにこの和睦を受諾、結果備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して秀吉の中国大返しを許す事になった。

中国大返しで機内に戻った羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦を経て、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、毛利輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたがいずれが勝利するか確信が持てずに中立を保った。

賤ヶ岳の戦いには協力しなかった輝元は、合戦後に羽柴秀吉を天下人と見定めて接近し、秀吉に臣従し毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し忠誠を誓っている。

その後の輝元は、秀吉家臣として四国征伐、九州征伐にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与して結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の所領を安堵され、豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言輝元と称された。

文禄・慶長の役と呼ばれる二度の秀吉に拠る朝鮮出兵にも輝元は主力軍として兵三万を派遣し、これらの功績から秀吉より五大老に任じられた。

千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に輝元は五大老の一人として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されている。

豊臣秀吉死去から二年、千六百年(慶長五年)に徳川家康と石田三成による対立が遂いに武力闘争に発展、徳川家康が上杉景勝討伐に出陣する隙を突く形で石田三成が西軍の総大将として毛利輝元を擁立し挙兵する。

四十七歳に成っていた輝元は、三成らに擁されて大坂城西の丸に入り西軍の総大将として大坂城に在ったが、関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。

その西軍が関ヶ原で壊滅した後、輝元は徳川家康に申し出て自ら大坂城から退去し決戦を避けている。

一方、毛利両川(もうりりょうせん)の一家・吉川広家は、西軍が負けると判断して黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行い、関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える形となって毛利秀元の率いる毛利軍は不戦を結果とした。

それで毛利家は安泰と思われたが、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収した事から、徳川家康は戦後その本領安堵の約束を反故にして毛利輝元を改易する。

その上で家康は、改めて吉川広家に周防・長門の二ヶ国を与えて毛利氏の家督を継がせようとしたのだが、広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた為に毛利輝元は隠居、毛利秀就への周防・長門二ヶ国の安堵となり毛利本家の改易は避けられた。

この家康の仕置きが、まさか二百五十年後に徳川家への「禍根となる」などとは、流石の徳川家康も知る由もない。

毛利氏は所領を周防・長門二ヶ国の三十七石に大減封されて江戸期を凌(しの)ぎ、遠い歳月を経て明治維新の倒幕急先鋒の藩と成ったのである。



かくして慶長五(千六百)年九月十五日、関ヶ原に東軍八万(家康方)、西軍十万(三成方)が激突する。

一見すると、ほぼ互角か兵力的に西軍有利のようだが、中身が違う。

本当の親三成派部将は、越前・敦賀城主(五万石)の大谷吉継(おおたによしつぐ/大谷刑部)や美濃垂井(一万二千石)の平塚為広(ひらつかためひろ)など数えるくらいだった。

つまり西軍石田方の実質総兵力は二から三万程度、あとは付き合いか様子見で、実状頼りにならない。


相模国平塚の地頭・三浦為高(みうらためたか/為重)の七代目の子孫・美濃垂井一万二千石・平塚為広(ひらつかためひろ)は、千六百年の関ヶ原の戦いで石田方西軍の武将として戦死した。

平塚為広(ひらつかためひろ)の平塚氏は、現在の平塚市岡崎を領した三浦義明(みうらよしあき)の弟・岡崎義実(おかざきよしざね)を祖とし相模国大住郡平塚発祥の桓武平氏三浦氏流平塚氏である。

豊臣秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵(為広)が、秀吉の中国出陣のおりに播磨の戦で黒田孝高(官兵衛)に陣借りをし、高倉山城主・福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えた。

その後為広(ためひろ)は秀吉の継嗣・豊臣秀頼に仕え、千六百年の関ヶ原の戦いの直前、八千石の知行から漸く美濃垂井一万二千石を領するも関ヶ原の戦いで石田方西軍に与し、大谷吉継(行部)軍の一翼をになって伴に討ち死にした。

平塚為広(ひらつかためひろ)の子・庄兵衛も関ヶ原の戦い討死したと伝えられ、弟の平塚久賀(ひらつかひさよし)は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが助命放免されている。

関ヶ原の戦いに生き残った為広(ためひろ)嫡男・為景(左馬助)は、その後の大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。

後々、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔を名乗る者現れるは、嫡男・為景(左馬助)や子・庄兵衛、弟・久賀(ひさよし)の子が生きながらえ残ったと考えられる。


江戸後期には、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で幕府旗本・平塚為善(ひらつかためよし)の娘が将軍・徳川家斉(第十一代将軍)の側室・於万の方となる。

同じく平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で平塚らいてう・本名は平塚明(ひらつかはる)・東京府麹町区三番町生まれが、文芸家・女性運動家として有名である。

千九百四十六年(昭和二十一年)の第一次吉田内閣で運輸大臣を務めた水産事業家・平塚常次郎(ひらつかつねじろう)もまた、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔だった。



この天下分け目の関ヶ原の時、関東七ヵ国を領する徳川家康の手勢・兵三万に対して近江国・佐和山十九万四千石を所領とする石田三成が率いた手勢は僅か兵六千に過ぎなかった。

しかも家康には、未だ未着ながら中山道を登って来る二代将軍・秀忠の軍勢三万五千が西を目指して上って居た。

それでも緒戦は西軍有利に運び、一時は勝機らしきものもあったが、小早川秀秋(秀吉の甥で小早川家の養子)の裏切りに会い西軍、石田方は壊滅的敗北をする。

武将とは一族郎党の一群を率いる棟梁で、その決断能力に一族郎党の命運が掛かっている。

従って、参陣はしたものの関が原戦の当日までどちらに着くか迷う武将が在っても仕方がない。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の手勢・兵六千に加え、三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた平塚為広との連合軍・僅か六千に足らぬ兵力の計一万六千だけだった。


関が原の合戦当時、西軍(石田方)に在って本気で戦った小西行長は、石田三成と盟友関係に在った数少ない武将の一人である。

小西行長は羽柴秀吉の家臣として仕え、関が原の合戦当時は肥後の南半国・宇土、益城、八代の二十万石余りを与えられていた。

行長の父親は小西隆佐と名乗る堺の薬商人で、行長はその次男として京都で生まれた。

始め浪人から下克上で伸し上がった宇喜多直家(備前国の国人領主)の家臣として仕えていた小西行長は、織田信長に宇喜多直家が降伏する時に交渉役を務め羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じてその難役を成し遂げる。

宇喜多直家が死去すると、行長は羽柴(豊臣)秀吉の家臣として俸禄千石を以って仕えた。

父親の小西隆佐が早くから外国からの影響を受ける堺の薬商人と言う経歴で解る通りキリシタンで、子の行長もキリシタンだった。

父・隆佐の拠点・堺は水運の盛んな貿易港だった所から、小西行長は秀吉に舟奉行に取り立てられ水軍を率いていた。

紀州征伐などに水軍を指揮して参戦した行長は、その後の九州征伐や肥後国人一揆の討伐にも功を挙げ、文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の前には肥後の南半国の二十万石余りを領する豊臣家直臣の有力な大名に成っていた。

所領となった肥後の南半国の運営に取り掛かると、本拠として築城した宇土城普請の事で天草五人衆と揉め事となり、肥後北半国を領した隣国の加藤清正らの助勢も在ってこれを鎮圧、その五人衆の所領・天草四万石も転がり込んで計二十四万石の領主となる。

しかし、この頃から隣国の加藤清正とは次第に確執を深める事態になっていた。

文禄・慶長の役(朝鮮征伐)では、行長は豊臣秀吉の命で主力武将として出陣、文禄の役ではそこそこの戦果を挙げているが明との講和交渉に石田三成と共に携わった事から三成との接近が始まっている。

この文禄の役の講和交渉に、秀吉への報告に虚偽があった事が発覚、講和は秀吉の手で破棄されて慶長の役が始まる。

陰謀を画策した行長は一旦死を命じられるが、前田利家や淀君らのとりなしにより一命を救われ先鋒として再び朝鮮に出陣するが、共に先鋒を命じられた加藤清正とは不仲で作戦をめぐって対立、こうした事が対立相関図となって後の関が原の敵味方対陣の要因と成っている。

千五百九十八年(慶長三年)主君・豊臣秀吉が死去する。

秀吉の命じた朝鮮征伐は中止と成って小西行長も帰国を果たすが、福島正則や加藤清正らと対立する石田三成ら文治派に与し、関が原の戦いに石田三成に呼応し西軍の将として手勢の兵四千にて参戦する。

行長は東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦するが小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊の次に標的となり大谷吉継隊、小西行長隊の順で壊滅する。

敗れた小西行長は関が原を脱して伊吹山中に逃れたが、四日後に竹中重門(たけなかしげかど/竹中半兵衛重治・嫡男)の手勢に捕らわれ、約十日後に京都六条河原において石田三成に続いて斬首され首は徳川家康によって三条大橋に晒されている。


近江国の武士・大谷盛冶と豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女で、東殿と言う母の間に幼名・慶松(よしまつ/大谷吉継)は生まれた。

大谷吉継は、母の伝で天正初め頃に秀吉に仕官して小姓となり、その律儀さで寵愛を受ける。

千五百八十三年(天正十一年)、明智光秀が起こした本能寺の変で織田信長が落命すると、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を(勝家の甥/勝家の養子)調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てる。

賤ヶ岳の戦いから二年後、大谷吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

刑部少輔叙任の翌年の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられて功績を立て、その功績などで千五百八十九年(天正十七年)に秀吉から越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の三郡・五万石を与えられ、吉継は越前・敦賀城主となった。

大谷吉継は徳川家康とも親しく、淀君のプライドと秀頼可愛さも在って険悪化する豊臣(石田方)と徳川(家康方)との間に入って関係修復に動き奮闘するが、修復に失敗している。

関が原の合戦前には、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、吉継は「勝機無く無謀」と説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予測しながらも病(ハンセン病と伝えられる)をおして三成の下に馳せ参じ、諸大名を味方に取り込む事に腐心して西軍・豊臣(石田方)に与力している。

大谷吉継(大谷刑部)は、むしろ徳川家康の人柄、将たる者の器に心酔していた。

しかし人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも、己が信ずる譲れない五分がある。

それは馬鹿正直で不器用、純真を絵に描いたような石田三成の豊臣家を思う真情への共感だった。

病に冒されていた大谷吉継(大谷刑部)にしてみれば、滅び行く豊臣家に憐憫の情を抱いたのかも知れない。

ここに到って、豊家(豊臣家)拠りも徳川家が圧倒的な力を持っている事が、判らない大谷吉継(大谷刑部)では無い。

これは正に、大谷吉継(大谷刑部)と言う男の「生き様」の問題だった。

関が原に於ける戦闘では、吉継は関ヶ原の西南・山中村の藤川台に布陣、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦の最中、小早川秀秋の裏切りに合い応戦する。

吉継が一万五千の小早川勢と互角に戦って一進一退の所に、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の四隊四千三百が東軍・徳川(家康方)に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けられて総崩れになり、「もはや挽回は不可能」と判断して自害している。

大谷吉継(大谷刑部)は、その関が原の奮戦振りと敗戦覚悟の石田三成への友情に殉じた生き様から、名声を博して今日に語り継がれている。


関が原の戦いは、一万五千名強とも言われる大軍を率いて参加していた小早川秀秋が、松尾山城砦に去就が明らかでないまま西軍として居座って、東軍有利と見るや寝返った為に僅か半日で勝敗の決着がついた事に成っている。

この小早川秀秋の寝返り、秀秋は秀吉の正妻「おネ(ネネとも言う)」の甥で、淀君や石田三成を嫌う「おネ」を通して家康からの内応話や側近への東軍からの勧誘話が漏れ聞えている。

実はこの裏切り話、裏切りにあらず。

始めから家康方と密約が出来て居た話である。

その証拠は、歴史的に大変重要な小早川側近の勧誘諜略話の後日談があり、その勧誘話の功労者が家康に処遇された結果を見れば明らかである。



関ヶ原は濃霧に包まれていた。

合戦は既にその戦端を開き、先鋒の東軍・福島(正則)隊六千と西軍・宇喜多(秀家)隊一万七千が激戦状態に在った。

突然「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。

無数の矢が「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来、やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。

見ると赤備えの具足の一団が遠目にも鮮やかに見え、血気はやる井伊直政の軍勢が勝手に動き始め福島隊を出し抜いて先鋒の切り込みを開始していた。

両陣から「ワーッ」と歓声があがり、兵馬の距離が縮まって行き、白兵戦に成った。

地を駆ける「ドタドタ」と走り回る足音が敵味方入り乱れて聞え、気合や怒号と共に、刃(やいば)を切り結ぶ「チャリーン」と言う太刀の当たる響きもそこかしこで上がっている。


霧の向こうから、風に乗って合戦のざわめきが家康の本陣まで流れて来る。

この関が原の戦いに於ける徳川家康本陣には、軍師・南光坊(光秀)指揮下の台密(たいみつ)・陰陽陣羽織衆の他に旗本側近として本多忠勝・等と井伊直政が軍勢を率いて守りを固めていた。

実はこの関ヶ原の東西両軍の布陣、誰が見ても西軍有利で、何故この状態で天下の秀才光秀(南光坊)を軍師に据えた家康が迷う事無く戦端を切ったのか、余りにも無謀だった。

家康本陣が桃配山中腹にあり、西軍・松尾山の小早川隊と南宮山の吉川隊に横腹を晒した布陣だったからである。

石田三成はこの東西両軍の布陣を見て、素直に「勝った」と確信したが、そうは成らなかった。

実は、始めから決まっていた事がある。

「天海、松尾山砦の小早川(秀秋)の小せがれは大丈夫か?このまま攻め掛けられれば持たぬぞ。」

「ご安堵召され、林正成めが秀秋殿の傍に仕えております。南宮山の吉川(広家)殿も間違いはございません。」

「合図は?」

「好機を捉え、松尾山下に忍ばせている配下の雑賀孫市の手の者が、山裾に鉄砲を撃ち掛ける事になっております。それを合図に、秀秋殿が攻め降りてまいります。」

「合い判った。それにしても三成は、敵ながら底抜けに真っ正直な男よ。」

「いかにも・・・」

「三成めは、才走って己ばかり利巧と自惚れておるわ。」

「さよう、我らが易々と不利な陣備えすると、東方を舐めてござるな。」

元々三成は、軍人と言うより学者・官僚の器で、戦も図上での考慮でしかない。

戦は日頃の気配りで、味方作りから始める用意周到なものである。

その時に成って、三成のように「筋が通っているから味方になる」などと勘違いするのが、知に溺れる者の弱点と言える。

合戦の火蓋は切られ、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知の両隊は、唯一積極的に決戦を挑んで来た西軍・豊臣(石田方)の大谷吉継(大谷刑部)相手に釘付けの戦闘の最中で、その勝敗の行方を伺う気持ちの定まらない武将達の注目を浴びていた。

家康本陣に居た井伊直政は東軍の先鋒として出撃し、家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を良く補佐して積極的に戦闘に加わり、島津義弘の軍と戦っている。

井伊直政は、家康に見出され小姓(稚児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

織田信長に於ける前田利家や森欄丸もそうだったが、この時代誓約(うけい)の概念に於ける男色(衆道)相手の稚児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかった。


この関が原の戦いで獅子奮迅の活躍した猛将・福島正則(ふくしままさのり)は東軍に布陣して居た。

東西両軍が対峙した関ヶ原の戦い本戦では、福島正則は当初石田勢との直接対陣を希望したが手柄の一人占めを憂慮した家康の思惑で結局叶わず、幾多の戦いで先陣を務めた。

にも関わらず、功を焦った井伊・松平らに抜け駆けされ激怒し、西軍・宇喜多勢一万七千に福島勢六千余りで戦端を開き死闘を繰り広げた。

宇喜多勢に突っ掛かっては見たが、宇喜多秀家隊の前衛を率いた明石全登は音に聞こえた勇将の上に兵は八千で福島勢は劣勢に立たされて押しまくられ、一時壊滅寸前に追い込まれている。

この福島勢壊滅の危機を、正則自身が血相を変えて叱咤し一進一退の攻防を続けている情況で西軍方に配陣していた小早川秀秋が突如東軍方として参戦、それを機に西軍の戦線は次々に崩壊した為に福島正則隊は甚大な被害を受けながらも宇喜多勢を打ち破る事に成功する。

関が原戦大勝利後も、正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走して貢献、戦後処理で安芸広島と備後鞆の計約五十万(四十九万八千二百)石の大封を得ている。


その内に、笹尾山の陣から出陣した三成の本隊と、東軍・黒田(長政)隊五千数百、細川(忠興)隊五千余りが戦闘状態に入る。

三成は、中々戦端を開かない味方の軍勢の呼び水にしようと、陣形を壊して攻め込んで来たのである。

見よ、「三成め、業を煮やして笹尾山から出張って来たわ。」

「大殿、そろそろ孫市が合図を撃ち掛ける頃です。松尾山をご覧下さい。」

合戦のざわめきの中、銃声は聞えなかったが松尾山の山腹で無数の小さな白煙が上がった。

小早川隊は、喚声を上げながら西軍めがけて一斉に下山を始める。

過って打ち合わせた通りの、小早川秀秋の行動だった。

松尾山の小早川隊が「西軍に討ち掛かる」と見るや、脇坂(安治)隊、小川(祐忠)隊、赤座(直保)隊、朽木(元綱)隊らの西軍諸隊も小早川軍に呼応し、西軍は総崩れと成って行く。

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる。

おね(ねね)の実家である杉原(木下)家の継子・家定(おねの兄とも弟とも言われる)の五男にあたり、元服時の初名は木下秀俊(きのしたひでとし)と名乗る。

当時、正室・高台院「おね(ねね)・北政所」との間に子が無かった秀吉は数人の養子を迎えるが、その内の一人が妻方の甥に当たる木下秀俊(きのしたひでとし)で、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名乗らせて手元に置いていた。

その秀俊が、五年後に同じく養子にして大名にした秀吉の姉「智(とも)・日秀(にっしゅう)」の次男・豊臣秀勝が病死した為に、その旧領・丹波亀山十万石を与えられる。

その後、養父・秀吉の命にて小早川隆景(毛利元就の三男)の養子として小早川家に入り秀秋と改名、小早川秀秋を名乗る。

養父と成った小早川隆景は筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を領する筑前名島城主であったが、秀秋は秀吉の側近大名として勤め、丹波十万石の亀山城主を任じていた所、兄・豊臣秀次事件が発生、それに連座して丹波亀山を没収される。

丹波亀山を没収された小早川秀秋は、同年に養父・隆景が隠居した為にその領地筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を継承して筑前名島城主に収まった。

関ヶ原の合戦時の小早川秀秋の優柔不断な行動から軟弱に描かれる場合が多いが、秀吉が朝鮮半島に出兵した「慶長の役」では全軍を指揮する元帥を務め、蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かって初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど勇猛に活躍して居る。

しかし、元帥たる秀秋が守備すべき釜山城を出兵して蔚山倭城の救援に向かった事が「軽率な行動」と批判され、後に筑前名島に復領するが半島出兵中の一時期に領地を召し上げられて越前北庄十五万石へ国替え処分をされている。

秀吉の朝鮮征伐が中止され、半島から帰兵して二年余り、関ヶ原合戦の折に大軍を擁していた小早川秀秋の決断が天下の行方を決したのである。


一方家康本陣から先鋒を務めた井伊直政は、果敢に突撃して島津義弘の本陣を伺い、家臣である敵将・島津豊久を討ち取って居るが、その間島津(義弘)隊は傍観を決め込んで動こうとしない。

島津(義弘)隊が動いたのは、小早川隊が東軍に加勢西軍不利を確認した時で、島津義弘敵前突破を試みている。

島津(義弘)隊の動きを見て追撃に移った井伊直政は、義弘の軍を追撃している際に義弘の軍の鉄砲隊が撃った銃弾が命中し落馬してしまう。

井伊直政はその鉄砲傷が癒えないまま、関が原の戦いから二年後の千六百二年(慶長七年)に破傷風が元で死去している。

敵前突破を敢行した戦闘傍観者の島津(義弘)隊を別にし、西軍部隊は壊滅或いは逃走して、関ヵ原の合戦は東軍勝利の幕を閉じた。


傍観者を決め込んだ島津義弘(しまづよしひろ)は島津家の次男で、薩摩・大隅・日向三ヵ国の島津家国主は兄の島津義久(しまづよしひさ)だったが、関が原合戦当時の島津義弘(しまづよしひろ)は実質的な差配者だった。

戦国期の島津氏は豊後の大友氏をほぼ壊滅させる所まで圧し、一時は筑前・豊前を除く九州全域を制圧したしたのだが、千五百八十七年(天正十五)の羽柴秀吉に拠る九州征伐で、圧倒的物量を持って侵攻して来た秀吉の軍勢に抗し得ずに降伏する。

島津義弘は九州征伐の敗戦処理で大隅一国を安堵され、薩摩安堵の兄・義久と同格の大名に処された。

豊臣政権に臣従したのちは島津氏存続の為に忠勤に励んだ義弘だったが、豊臣政権に反感を持つ兄・義久や家臣団との間に摩擦を起こし、その統制に苦慮している。

五年後の文禄の役に島津義弘は出陣して小西行長や宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せた。

だが、留守中に乱れた家中を統制する為に召還され、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く五十五万九千石余が義弘の名義で与えられて、義弘が島津家の実質的な差配者と成っていた。

その後太閤・豊臣秀吉が病死して徳川家康と石田三成が反目して天下分け目の合戦が始まる。

千六百年(慶長五年)に起こった関ヶ原の役に際しては、当初は徳川家康に与して家康らが会津征伐に出征している間の留守居役として兵・八千にて伏見城の守備に当たる事になっていた。

しかし石田三成らが蜂起すると家康の臣・伏見城将の鳥居元忠は島津義弘の入城を拒否、義弘は石田三成の勢力圏に取り残された形となり、止む無く西軍に属する事に成った。

その後島津義弘は伏見城の攻撃に参加、これを陥落させた。

止む無く西軍に属した義弘だったが、元々親徳川だった義弘は関ヶ原の合戦では合戦が始まっても西軍諸将からの再三の出馬要請にも応じず、一兵も動かす事もなく戦況を見守る。

西軍の敗戦が決定的になると「座禅陣」と呼ばれる捨て身の中央突破を敢行、大打撃を受けながらも堺に辿り着き海路領国薩摩に帰国して、東軍に恭順の意を現わして向島(桜島)に蟄居した。

その後、井伊直政や本多正信に拠る徳川家康への取り成しにより、島津義弘は赦免されている。

関が原合戦に於いて、天下分け目の勝敗を決めた小早川側近の勧誘諜略話には歴史的に大変重要な後日談があるが、それは後ほど明らかになる。


京極高次(きょうごくたかつぐ)が、竜子(松の丸/京極殿)や妻・初の「尻の七光(閨閥)・蛍大名」の汚名を返上したのは関が原の合戦である。

天下人・豊臣秀吉が亡き後の千六百年(慶長五年)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。

会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は翌々日の六月十八日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間の事を頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康の軍勢に伴わせる。

弟の京極高知は当初から秀吉に仕え、千五百九十一年(天正十九年)に近江国蒲生郡五千石、千五百九十三年(文禄二年)に信濃伊那郡六万石、翌年には十万石に加増されている。

京極高知は、兄・高次の大津城六万石より禄高は大きかったが、秀吉の死後は兄・高次の与力大名として兄の家老・山田大炊とともに徳川家康に従い東北に出兵する。

一方、石田三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍への加勢を求められる。

これに対して家康の東軍からも再三の書状により大津城の堅守を頼まれた高次は、大津城の守りが弱い事から一旦は西軍へ属する事を決め、大坂へ嫡子の熊麿(くままろ/京極忠高)を人質として送り大津城を訪れた三成と酒を酌み交わす。

そして関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍・徳川家康に伝えている。

イヨイヨ大阪方西軍が家康討伐の兵を挙げた九月一日、高次は西軍と共に大津城を発ち翌二日には越前の東野へと至るが、東野から海津を経て船で大津城へと軍勢を引き返す。

更に三日には大津城に兵を集めて兵糧を運び込み、浅井三姉妹の長女・淀殿の妹である二女・初(常高院)とともに籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝える。

京極高次の裏切りは西軍の立花宗茂により大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関に居た毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せ、さらに立花宗茂軍がこれに加わる。

七日に成ると、大津城への西軍の寄せ手は一万五千ともその倍以上とも言われる数に増し包囲攻撃を開始したが、高次は城を死守し、容易に城攻めは捗(はかど)らず、城にむけ大砲が打ち込まれる。

十一日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、翌十二日に堀は埋められ、十三日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが二ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。

戦況絶望的な中、浅井三姉妹の長女・淀殿の妹である二女・初(常高院)が篭城するも在り、十四日には西軍拠り和平の使者が送られるが高次は拒否した。

しかし高次は、亡き秀吉の正室・北政所(木下ねね/おね/高台院)の使者・高台院付きの筆頭上臈・孝蔵主(こうぞうす)の説得を受け、京極家老臣・黒田伊豫の説得もあり夜になって降伏した。

十五日に成って朝には、城に近い園城寺で剃髪し七十人程の兵と共に宇治へと去り、その高次は後に紀伊に向かい高野山に入った。


漸く大津城を開城させた西軍だったが、その十五日朝には関ヶ原の戦いが始まっており、正午過ぎには西軍が総崩れとなった為、結局高次の篭城により大足止めされた毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は関ヶ原に参陣する事ができなかった。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は高次の大津城篭城戦の功績を高く評価し、高次は井伊直政からの使者を受け早々に高野山を下りる様に伝えられる。

始めはこれを断った高次だが、更に甲賀組差配・山岡道阿弥(やまおかどうあみ/景友・かげとも)を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山して大坂で家康に会い、若狭一国八万五千石へ加増転封される。

京極高次(きょうごくたかつぐ)は、この千六百年(慶長五年)関が原合戦の年十月に領国・若狭小浜に入り、翌年には近江高島郡の内七千石余りが加増される。

尚、弟・高知は、関ヶ原の戦いで最前線で抜群の功をあげ、丹後守を称することを許されて丹後国一国・十二万三千石を与えられ国持大名となっている。


秀吉亡き後、力を着けて来た家康に寝返る秀吉恩顧大名に、豊臣政権の三中老と列せられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)と中村一氏(なかむらかずうじ)、生駒親正(いこまちかまさ)がいる。

堀尾吉晴(ほりおよしはる)は千五百四十四年(天文十三年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(ほりおやすはる/吉久、泰時)の長男として生まれた。

父・泰晴(やすはる)は尾張国上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)と共に連署した文書が残っている。

その後吉晴(よしはる)は、尾張を統一した信長に仕えたが、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。

その後吉晴(よしはる)は秀吉に従って各地を転戦し、千五百六十七年(永禄十年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたと言われている。

千五百七十三年(天正元年)に吉晴(よしはる)は、近江国長浜の内に百石を与えられた。

その後も吉晴(よしはる)は武功を挙げ、播磨国姫路に於いて千五百石、後に丹波国黒江に於いて三千五百石に加増された。

千五百八十二年(天正十年)の備中高松城攻めでは、吉晴(よしはる)は自害した敵将・清水宗治(しみずむねはる)の検死役を務める。

山崎の戦いで吉晴(よしはる)は、中村一氏(なかむらかずうじ)と共に先手の鉄砲頭として参加している。

吉晴(よしはる)は天王山争奪の際に敵将を討ち取ると言う功績を挙げ、丹波国氷上郡内の黒井城を与えられ、知行六千二百八十四石となる。

千五百八十三年(天正十一年)に吉晴(よしはる)は、若狭国高浜に於いて一万七千石を与えられ大名に列する。

翌千五百八十四年(天正十二年)には、三千石の加増を得て知行二万石とされた。

吉晴(よしはる)は、千五百八十五年(天正十三年)の佐々成政(さっさなりまさ)征伐にも従軍する。

吉晴(よしはる)は、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に四万石を与えられている。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも従軍し、吉晴(よしはる)は正五位下、帯刀先生に叙任された。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも、吉晴(よしはる)は秀次の下で山中城攻めに参加する。

この小田原征伐の役の途中でともに出陣した吉晴嫡子・金助が戦傷死している。

小田原開城後、吉晴(よしはる)はこれらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主十二万石に封じられ、豊臣姓も許された。

この頃に吉晴(よしはる)は、秀次・宿老から独立した立場になった為、後の秀次事件にはかろうじて連座していない。

この後に吉晴(よしはる)は、秀吉の奥州仕置への反抗である九戸政実(くのへまさざね)の乱にも従軍して功があったと言う。

秀吉の晩年には、吉晴(よしはる)は中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、吉晴(よしはる)は東軍に与すも、本戦直前の七月、三河刈谷城主・水野忠重と濃国加賀野井城主・加賀井重望が酒席で争い、重望が忠重を殺害した。

その場に同席した吉晴(よしはる)は、槍傷十七ヵ所の重傷負うも重望を討った為九月の本戦には参加できなかった。

代わって出陣した次男で世子の忠氏(ただうじ)が戦功を賞され出雲富田二十四万石に加増移封された。

千六百十一年(慶長十六年)、吉晴(よしはる)は松江城を建造し本拠を移したが、間もなく六十八歳で死去した。


いま一人の中村一氏(なかむらかずうじ)は、近江国甲賀(現・滋賀県甲賀郡)の瀧(又は多喜)という家の出身とされる。

瀧孫平次(たきまごへいじ/後の一氏)は生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者だったと伝えられる。

一氏(かずうじ)は、早くから織田信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、千五百七十三年(天正元年)頃に秀吉より近江長浜のうち二百石を拝領する。

千五百七十七年(天正五年)の天王寺を攻略する本願寺門跡派の一揆の鎮圧や、千五百八十二年(天正十年)山崎の戦いに、一氏(かずうじ)は鉄砲隊を指揮して武功をたてる。

千五百八十三年(天正十一年)賤ヶ岳の戦いに参戦し、一氏(かずうじ)は和泉国岸和田城主となり三万石を拝領する。

千五百八十四年(天正十二年)秀吉の紀州攻めに於いては、一氏(かずうじ)は新都・大坂防衛の主将として紀州勢と対陣している。

小牧・長久手の戦いにより秀吉軍主力が尾張へ出陣した間隙をぬって岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも一氏(かずうじ)は寡兵ながら城を守り切る。

翌年の紀州反転攻勢に於いても、一氏(かずうじ)は主導的役割を果たした。

千五百八十五年(天正十三年)、一氏(かずうじ)は近江国水口岡山城主になり六万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐に於いて、一氏(かずうじ)は羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分の攻略に成功する。

この小田原征伐の功により、一氏(かずうじ)は駿河国駿府十四万石を拝領する。

また千五百九十五年(文禄四年)に一氏(かずうじ)は、豊臣家の駿河直領(蔵入地)の代官として駿河を任され、千五百九十八年(慶長三年)豊臣政権三中老の一人に任命された。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いで一氏(かずうじ)は、東軍に属すが合戦前の旧暦七月十七日(西暦八月二十五日)に病死する。

一氏(かずうじ)の墓は、家康が今川人質時代に学んだとされる静岡市の臨済寺にある。

なお、合戦には弟の一栄(かずしげ)や、家督を継いだ長男の中村一忠(なかむらかずただ)が出陣し、美濃表で大いに戦った。

戦後、その戦功によって一忠(かずただ)は伯耆一国米子城十七万五千石および国持大名の格式を与えられたが、九年後の千六百九年(慶長十四年)に一忠(かずただ)が急死してしまう。

跡継ぎを欠いた中村家は江戸幕府により改易され、わずか二代で断絶した。


三人目は、生駒親正(いこまちかまさ)である。

生駒氏(いこまうじ)は、安土桃山時代に尾張生駒氏(おわりいこまうじ)と土田生駒氏(どたいこまうじ)分化するが、江戸時代にも度々両家の交流が行われている。

尾張生駒氏(おわりいこまうじ)・生駒家長(いこまいえなが)、土田生駒氏(どたいこまうじ)・生駒親正(いこまちかまさ)の代に織田信長に仕え織田氏家臣として織田家統一・天下統一に向けた戦国時代を支える。

尾張生駒氏が生駒氏の宗家で、灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え小折城を居城としていた室町時代から江戸時代以後までの武家商人である。

「桶狭間の戦い」の戦功により信長から安堵状を受け、領内を自由に商売していた為、信長の大躍進の裏には生駒家の資金力や情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたとの指摘もある。

生駒氏(いこまうじ)の家業「馬借」とは陸の物流業で、川の物流業である川並衆・蜂須賀氏等との地理的近接交流、養子、婚姻関係がみられる。


生駒親正(いこまちかまさ)は、土田生駒氏(どたいこまうじ)・生駒親重(いこまちかしげ)の子として美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)に生まれる。

千五百六十六年(永禄九年)、親正(ちかまさ)は織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。

その後親正(ちかまさ)は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加した。

姫路城主時代の秀吉に仕えていた千五百七十八年(天正六年)の親正(ちかまさ)の知行は約千石だった。

千五百八十二年(天正十年)に本能寺の変が起こり、信長死後親正(ちかまさ)は羽柴秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍する。

親正(ちかまさ)は秀吉に臣従して転戦し、千五百八十四年(天正十二年)に二千石加増されて三千石、千五百八十五年(天正十三年)に二万三千五百石を与えられて大名家に列する。

その後も親正(ちかまさ)は、千五百八十六年(天正十四年)には六万石と着々と知行を増やし、千五百九十五年(文禄四年)には讃岐国十七万千八百石を与えられた。

これに先立ち、親正(ちかまさ)は讃岐の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした三好氏流・十河存保(そごうまさやす)の嫡男・千松丸を預かっていた。

その十河存保(そごうまさやす)の遺領二万石を親正(ちかまさ)が横領する為に、甥の大塚采女に命じて「千松丸を毒殺させた」と伝わる。

その後も親正(ちかまさ)は、十河氏(そごうし)復活の芽を摘む為三好氏に連なる者を徹底的に弾圧した事で知られる。

秀吉の晩年に親正(ちかまさ)は、中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与している。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正(かずまさ)が東軍・家康方に与し、親正(ちかまさ)は在国していたが西軍・石田方に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。

この親子が分かれた事の理由として西軍決起時に在坂して居た為西軍に付かざるを得なかったとも、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう配慮したなどの、説がある。

関ヶ原の戦いの頃、親正(ちかまさ)は剃髪し高野山に入った。

西軍に与した責任を取る為とされて来たが、高野山入りが関ヶ原で戦闘が行われる前であり、東軍寄りの行動の責任を問われた為とする説もある。

戦後、一正(かずまさ)が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は家康に安堵された。

親正(ちかまさ)はほどなくして高野山を降りて讃岐国に戻り、千六百三年(慶長八年)に高松城にて死去した。



浅井初(あざいはつ/常高院・じょうこういん)は、北近江国小谷城主・戦国大名・浅井長政と尾張国・織田信秀の娘・市(織田信長の妹)の間に、所謂浅井三姉妹の二番目の娘として生まれた。

姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠・正室(継室)の江(崇源院)で、他に兄の万福丸と異母弟の万菊丸がいた。

千五百七十三年(天正元年)、初が三歳に成った頃に越前国主・朝倉義景(あさくらよしかげ)と伯父・織田信長との間に戦が起こり父・浅井長政は朝倉方に加勢して伯父・織田信長と交戦する。

浅井勢は善戦するも、小谷城は織田方に包囲され父・長政と祖父・久政の自害により落城してしまう。

母の市と三姉妹は織田方の藤掛永勝に小谷城から救出され、以後親子四人は織田家の下で保護をうける事に成る。

実際に妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護したのは織田信秀(おだのぶかね)の五男・信包(のぶかね)で、信長の同腹の弟にあたる。

千五百八十二年(天正十年)六月、本能寺の変で伯父の織田信長が明智光秀に討たれた為、その光秀を山崎の合戦で討った羽柴秀吉が織田家中で発言力を強める中、筆頭家老・柴田勝家が秀吉と織田家後継者問題で対立をして行く。

その後継者問題で開かれた清洲会議によって母・市は織田家の有力家臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹を連れ子に越前国北ノ庄城へ移る。

その翌年、清洲会議がきっかけで対立していた柴田勝家と羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦で雌雄を争い、敗れた勝家は居城・北ノ庄城に撤退篭城するが、その落城のさいに市は勝家と共に自害した。

浅井三姉妹は敵方の総大将・羽柴秀吉の庇護をうけ、その監視下で生活する事に成る。


千五百八十七年(天正十五年)、数えの十九歳に成っていた浅井初(あざいはつ)は秀吉の計らいにより浅井家の主筋にあたる京極家の当主であり従兄弟でもあった京極高次と結婚する。

千六百年(慶長五年)、秀吉の死後に五奉行の一人、石田三成と五大老の筆頭・徳川家康が対立し、石田三成ら(西軍)が挙兵する。

京極高次は三成側につくと思わせ、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して東軍に属し篭城戦を行い石田方西軍一万五千以上を足止めにして西軍の兵力を分散させる事に成功する。

高次は関が原本戦当日に開城したものの、西軍を足止めした功績で京極高次は若狭一国・小浜八万五千石)を与えられる。

関が原から九年後の千六百九年(慶長十四年)夫・高次が亡くなり、浅井初(あざいはつ)が剃髪・出家して常高院と号する頃、から姉の茶々(淀殿)が豊臣家の実権を掌握し、甥・豊臣秀頼を立てて徳川家康(妹・江の舅)と対立する。

常高院(浅井初)は豊臣方の使者として仲介に奔走し、千六百十四年(慶長十九年)の大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ両家の和議に尽力した。

千六百十五年(慶長二十年)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘・奈阿姫(後の天秀尼)の助命を家康に嘆願するなど、最後まで姉・浅井茶々(淀殿)と妹・妹・浅井江(徳川秀忠室/崇源院)の血縁を生かして奮闘している。

浅井三姉妹の中で、関白秀吉の側室にして二代・秀頼生母の姉・茶々(淀殿)と、征夷大将軍・徳川二代・秀忠正室・江(ごう)と比べ、二女の初(はつ)は夫・京極高次が中堅大名だった為に格下の家に嫁いだと思われ勝ちである。

しかし、出自も定かではない新興の豊臣氏や郷士上がりの松平・徳川氏に比べ、京極氏は室町時代に数ヶ国の守護を兼ね、四職(室町幕府の侍所長官を交代で務める家柄)に列した名門の大名家であり、血統からすると一番格上の家に嫁いでいる。

また、京極氏は北近江の守護職領主でもあり、北近江の国人の一つであった浅井三姉妹の実家・浅井氏の直接の主筋に当たる。

高次と初(はつ)の間に子は無く、妹・江の娘で二代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とした。

側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)など夫・高次の子がいた。



「光秀、どうやら形が着いたようだな。」

「うむ、上々じゃ。だが、細川に嫁がせた娘(玉姫・ガラシャ)も見殺しにしてしもうた。あれは流石に不憫じゃった。」

「光秀、わしら雑賀衆が玉さまをお助けしょうとしたのを、お主は何故止めた。」

「孫市、嫁に出せば細川の妻じゃ。何処から漏れぬとも限らん故、わしが生きて居るとは教えられぬ。」

「おかげで玉さまは、謀反人光秀の娘のまま、逝ってしまわれたは。」


玉は、明智光秀の三女で、十五歳の時に主君織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡男・細川忠興(ただおき)の妻に嫁いでいた。

それが、関が原の合戦の折に夫の細川忠興が父の藤孝と共に東軍徳川方に付いた為、西軍石田方の人質を恐れて玉は自害している。

「玉の死は、三成には痛かっただろうな?」

「計算通りには行かぬものよ。あれでまた、大名の多くが三成を見限った。」

「うむ、不憫じゃが玉姫(ガラシャ)を助ければこの企みが為せなんだからな。」

「その通り、じゃからわしも諦めた。」


明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉姫)の夫・細川忠興(ほそかわただおき)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流の和泉上(半国)守護家である細川藤孝の長男として京都に生まれている。

父・藤孝が将軍・足利義輝に仕える幕臣だった為に、足利義輝の命により同じ一族である奥州家の細川輝経の養子となる。

ただしこの養子縁組は系譜上のもので、細川忠興は養子縁組の後も京都に在って実父・藤孝と行動をともにし、領国・和泉国の上半国も継承した。

三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後、父・細川藤孝は尾張・美濃の大名織田信長を頼って義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立した。

やがて信長と義昭が対立すると父・細川藤孝は信長に臣従し、忠興本人は信長の嫡男・信忠に近習として仕えた。

細川忠興は、天正五年に起こった紀伊国の紀州征伐に加わり十五歳で初陣を飾っている。

また忠興は、信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父・藤孝やその僚友・明智光秀と共に落として信長直々の感状を受け、さらに天正七年の一色攻めでは、信長の命を受けて父・藤孝や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼす功を挙げている。

その年(天正七年)忠興は、信長の仲介を受けて明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)と結婚、この時信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

翌年の天正八年、父・藤孝は功により一色義定領を除く丹後一国十二万石の領主となる。

主君・織田信長の天下布武は目前に迫っていた。

所が、千五百八十二年(天正十年)妻・ガラシャ(玉姫)の父・明智光秀が突如謀反を起こし主君・織田信長が本能寺に討たれてしまう。

この本能寺の変の後、明智光秀と中国大返しで戻って来た羽柴秀吉が山崎の合戦で合間見える時、細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。

この後細川忠興は、山崎の合戦に勝利し柴田勝家との賤ヶ岳の合戦をも征して天下統一を推し進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え丹後領有を許され、小牧・長久手の戦いに参加して功を挙げ、翌年従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた。

その後も九州征伐や小田原征伐、文禄の役にも出兵している。

千五百九十八年(慶長三年)、天下人豊臣秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、翌年には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らと共に石田三成襲撃に加わった。

その年、実権を握った大老・徳川家康から豊後・杵築六万石を加増され丹後十二万石と併せて十八万石を領している。

関ヶ原の戦いでは、細川忠興は徳川家康に与して東軍に参加している。

石田三成が大阪に挙兵した時、細川忠興は徳川家康の下で上杉討伐軍に参陣していたが、豊臣恩顧の有力大名である上に、父・藤孝と正室・ガラシャ(玉姫)が人質として在京していた為にその去就が注目されたがいち早く東軍に入る事を表明し、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

この夫・忠興の決断の為に、伏見に人質として留め置かれていた妻のガラシャ(玉姫)は西軍の襲撃を受け、石田三成方の人質となる事を拒んで自害を余儀なくされた。

また、父の藤孝(幽斎)は忠興の留守を守り丹後田辺城に籠城したが、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦い前に開城して敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入っている。

一方、関ヶ原の戦いに勝利した東軍に付いた細川忠興は、関ヶ原合戦の本戦で黒田長政らと共に石田三成本隊と激闘を演じ、首級百四十ほどを上げその功績から、戦後家康から豊前中津藩三十九万九千石の大藩に加増移封され、その後豊前小倉藩四十万石に移り小倉城を築城する。


その後の豊前中津藩・細川忠興であるが、千六百十四年(慶長十九年)、朝廷から征夷大将軍に任じられた徳川家と豊臣家の間で大坂の陣が起こり、細川忠興は徳川方に付くが三男の細川忠利が参陣し、忠興本人は大坂冬の陣の戦闘には参戦していない。

六年後、忠興は三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。

千六百三十二年(寛永九年)、家督を譲った忠利が肥後熊本藩五十四万石の領主として熊本城に移封されると忠興は熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とし、千六百四十五年に没した。

これは余談だが、この細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)が初代藩主となった細川藩は中々商売上手で、肥後ずいき(随喜・芋茎)を特産品に育てて藩の財政に役立て、その特産品は今に伝わっている。

特産の性具・肥後ずいき(随喜・芋茎)は、江戸時代から芋茎(いもがら)を使ってこけし形に作ったの伝統ある熊本の特産品である。

まぁ何時(いつ)の時代でもこの手の事は熱心であるから、使用すると女性がムズ痒(かゆ)さの為に大いに大胆になる所から大奥で珍重された為、細川藩が徳川将軍家への献上品に定め、「参勤交代のお土産として持参した」と文献に残っている。

随喜(ずいき)とは仏教用語で、大いに感謝したり大いに喜ぶ事である。

その仏教用語が肥後熊本の細川藩で、サトイモなどの茎である芋茎(いもがら)のムズ痒(かゆ)さを使って女性を喜ばす為の民芸伝統性具・肥後ずいき(芋茎)になった。

使用された女性が、ムズ痒(かゆ)さの余りに熱狂して激しく腰を使って性交に及ぶ所から「随喜(ずいき)」と名付けられたこけし形の性具で、ぬるま湯に漬(ひた)して女陰に抽入して使用する。

文献に拠ると芋茎(いもがら)の皮付近に存在する針状結晶のシュウ酸カルシウムが溶解して皮膚に刺さるからムズ痒(かゆ)いらしい。

それを陰茎とカリ首で擦(こす)り、ムズ痒(かゆ)さを和らげようとするから、女性は涙を流すほど激しい抽送を繰り返す事になって「随喜(ずいき)の涙を流す」と言う表現が生まれるほど性交が持続する。



この関が原合戦に際して東軍で活躍した武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)に関しては、どうも豊臣秀吉と同じ山窩(サンカ・サンガ)出自の疑いがある。

それは高虎(たかとら)に(山窩(サンカ・サンガ)出自を顕す土木技術や築城術を持つ集団を抱えている特徴と、何よりも豊臣秀吉や豊臣秀長に過分に可愛がられていた点である。

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、土豪・藤堂源助虎高の二男として近江犬上郡藤堂村に生まれた。

一介の土豪の出自に過ぎ無い高虎は、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えたのを皮切りに北近江の土豪・阿閉氏、磯野氏と次々と主君を代え、次いで織田信長の甥である津田信澄、そして羽柴秀吉へと仕え、最後は豊臣家から徳川家康へと鞍替えを為すなど主家を転々としながら出世を果たした。

当初は仕えた主君に難が在り高虎(たかとら)も不運だったが、羽柴秀長(羽柴秀吉の弟)に仕えてからは何故か秀長に可愛がられて漸く出世への糸口を掴んだ。

羽柴秀長に仕えた時点で、既に高虎(たかとら)はその築城の技術などが認められて三千三百石の知行を拝領して武将の列に入っている。

その後起こった主君秀長の兄・羽柴秀吉と柴田勝家との織田旧主・信長の天下布武(てんかふぶ) の継承権を掛けた決戦・賤ヶ岳の戦いで高虎(たかとら)は目覚しい武功を立てて秀吉の目に留まり、秀吉から直接五千石を拝領する出世劇を得た。

羽柴軍団の将に出世した高虎は羽柴秀長子飼いの中堅の将として仕えて活躍し、秀長の大和国移封にともない一万石を加増されて一万五千石を拝領し小なりとも大名の名乗りを上げるに到った。

その後の秀吉九州征伐への従軍で更なる軍功を立てた高虎は更に一万石の加増を得て二万五千石とし、中堅大名を狙える所まで出世した。

豊臣政権に在って高虎は単に武功によるものだけでなく、実質豊臣政権の屋台骨を背負った豊臣(羽柴)秀長の懐刀として外交や人事、築城と言った官僚技術面でその才能を開花させ、巨大化した豊臣政権の運営には欠く事のできない人物と言う位置を獲得して行く。

豊臣政権が成立して諸大名を抑えての平時の運営に必要なのは優秀な官僚で、その難局に高虎は政治力で良く応えた。

豊臣家ではその高虎の能力を重視し、高虎を従五位下佐渡守に叙任して豊臣家の官僚として諸大名との調整役と言う潤滑油のような役割に使っている。

主君・豊臣秀長が病没し秀吉が文禄の役(朝鮮征伐)を始めると、高虎はまだ若輩の豊臣秀保(秀長の養子/秀吉の姉・日秀の子)を盛り立てて、朝鮮の役に出陣した。

文禄の役では、高虎は水軍を指揮して朝鮮水軍と戦ったが連戦連敗と言う散々な敗北を喫してしまう。

その最中に主君・豊臣秀保が十六歳歳と言う若さで病没、主家である秀長・秀保の豊臣家は解体され行き場を失った高虎は、朝鮮海戦敗退の恥辱と主家の倒壊を嘆いて剃髪して高野山に入ってしまう。

しかし秀吉は、高虎のその才能を惜しみ高虎を召し出して伊予板島(宇和島)七万石を与え直臣とする。

その高虎は、秀吉が没するといち早く次の天下人は徳川家康に成ると予見して高虎は家康に接近した。

この辺りの高虎の行動に、豊臣秀頼の実父・秀吉に疑問を持つ高虎の行動があったのではないだろうか?

徳川家康と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦いでは高虎は東軍・家康方に付いて軍功を挙げ、戦後の論功行賞では家康から伊予半国を拝領し二十万石の中堅大名へとのし上がった。

高虎は今治城を居城と定め、外様大名でありながら徳川家康に信任され、その後の政局で活躍して行く事になる。

藤堂高虎はその後も家康に仕えて信任を得、大坂城の豊臣秀頼の備えとして伊賀一国を拝領して伊勢安濃津城への移封となり、二十二万余石の大名となった。

以後、藤堂家は外様大名でありながら、譜代大名の井伊家と並んで徳川家の先鋒を勤める名誉ある家柄となり、大坂夏の陣で高虎は八尾で大坂方の長宗我部盛親と交戦した。

つまり秀吉恩顧の大名と言うよりも早くに親徳川に走った武将だった。



池田輝政(いけだてるまさ)は織田家の重臣・池田恒興(いけだつねおき)の二男である。

織田信長に仕え、輝政(てるまさ)は兄・池田元助(いけだもとすけ)と共に近習として従う。

信長に従って各地を転戦する輝政(てるまさ)だったが、特に頭角を現したのは弱冠十六歳の折の荒木村重の謀叛に拠る摂津花隈城攻めで北諏訪ヶ峰に陣取り、抜群の軍功を立て信長から感状を授けられた。

荒木村重の乱を沈めると、父・池田恒興(いけだつねおき)が信長より摂津国を拝領し、輝政(てるまさ)は父・恒興とともに尼崎城に入った。

本能寺の変が起こり明智光秀に包囲された信長が自刃した後は、輝政(てるまさ)は父・恒興(つねおき)と共に羽柴秀吉に属し、山崎の合戦の後は父・恒興(つねおき)が美濃大垣城主となり、池田輝政は別に摂津池尻城を拝領する。

臣従する羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが起こり父・恒興と兄・元助(もとすけ)が討死し、羽柴秀吉と徳川家康の間に和議が成立すると、輝政はその遺領を受け継ぎ美濃大垣城主となり後に美濃岐阜城に移っている。

池田輝政は紀州雑賀攻めや佐々成政征伐の為北陸へ遠征、その後、九州平定戦、小田原征伐、会津征伐と各地を転戦しその功により三河吉田十五万二千石を拝領し、秀吉の命により徳川家康の息女・督姫を娶っている。

実はこの徳川家康の二女・督姫(とくひめ)は再婚で、前夫は後北条家最後の当主・北条氏直である。

この婚姻の経緯であるが、甲斐・武田氏滅亡後の徳川氏と北条氏に拠る旧武田領争奪の和睦として北条氏直が督姫(とくひめ)を娶り、徳川家康が北条氏直の義父となる事で両家間の和平が保たれていた。

ところが、千五百九十年(天正十八年)に、豊臣秀吉が小田原攻めを起こして北条氏は滅亡する。

この北条氏滅亡の時、北条氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命され高野山に流された後に赦免された為、督姫(とくひめ)も氏直の下に赴くも、その翌年に氏直が死去した為に家康のもとへ戻っていた。

その督姫(とくひめ)に目を着けた秀吉が計らい、輝政と再婚させたのである。

文禄・慶長の役(朝鮮の役)では輝政は遠征に参加せず、三河吉田に在って東国警備の任を秀吉に命じられていた。

秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いでは義父・家康の娘婿として東軍に属し、同じく東軍に属した福島正則と戦功を争った。

関ヶ原戦後、池田輝政は一連の戦功により播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした。

池田輝政は、千六百十三年(慶長十八年)に姫路城にて急死、死因は中風とされるが当時の見立て故にその精度は定かでは無い。

輝政没後の池田家は、家康二女・督姫の子供達が継ぐ事になり、外様ながら松平姓を許されて徳川家縁者の家格を得ている。

家康は余程二女・督姫の子供達(外孫)が可愛かったのか、池田輝政没後の播磨五十二万石の家督を嫡男・利隆が継ぐのを許した外に二男・池田忠継には備前国岡山城二十八万石、三男・池田忠雄には淡路国洲本城六万石を与えている。



石田三成には、その性格的な穴が在った。

三成もまた、秀才で在った為に他の武将を愚か者と「侮った」のである。

武将達は、三成に恩賞分配の権限が無いに等しい事を見抜いていた。

豊臣家と言う御輿を担ぎ、毛利を名目大将に据えての無理な布陣だったのである。

関が原で敗れた石田三成は伊吹山で捕らえられ、京都六条河原で処刑される。

三成は最後まで、「クールだった」とその人柄は伝えられている。

純粋で無茶な奴は扱い易いから権力者に好かれるが、何を考えているか判らない策士は反対に気味悪がられる。

しかし純粋は諸刃の剣で、まかり間違うと一途に嵌ってまったく扱い難い存在になる。

秀吉が才を愛した石田三成は、秀吉にとって判り易く扱い易い存在だったのかも知れないが、その純粋さ故に余りにも敵を作り過ぎたのではないだろうか?。


この天下分け目の決戦だけは、隠棲していた明智光秀もジッとはして居れず、「南光坊」と名乗って家康本陣に出向いて、僧形のまま家康の傍らで作戦に助言している。

この時点では家康方に付いたとは言え、秀吉恩顧の有力大名は多数残っている。

彼らは小利巧を鼻に掛ける石田三成が憎かっただけで、豊臣家まで滅ぼす気はない。

加藤や福島達である。

従って家康の処置は、慎重だった。

三成ら厄介者を除いただけで豊臣家は残すが、家格は六十万石程度の一大名扱いにして力を削ぐに留まった。

しかし、これで完全に天下の実権は徳川家に移っていた。

千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。

家康は朝廷より、「源氏の長者」と「征夷大将軍」の位を賜ったのである。

「源氏の長者」は公家の最高位であり、「征夷大将軍」は武士の最高位である。どちらも一人で、公家・武士伴に指示監督できる強力な権限だった。

朝廷がそこまで認めては、逆らえば逆賊である。

そのうち豊臣恩顧の大名達も、家康を天下人と認めざるを得なくなる。


実は、関が原の戦いに家康も南光坊(光秀)も大誤算が在った。

息子・秀忠が率いた徳川勢主力三万五千が信州上田の真田家の攻略に手間取り、関が原に遅参した事で加藤清正、福島正則ら石田三成嫌いから東軍(家康方)に味方した秀吉恩顧の大名に義理が出来た事に拠る計算違いである。

秀忠は家康の脇に置かれて然したる実戦経験も大軍を指揮した経験も乏しく、真田方に翻弄されたのである。

この件、家康も秀忠の関が原遅参を叱責しては見たが、経験乏しき秀忠に中仙道進軍を任せた反省をする事もしきりだった。



この秀忠の関が原遅参事件の後日談には、チョットした物語が在った。

三河・牧野氏(まきのうじ)は三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏一族の事である。

三河の牧野氏はその系譜書・家伝によれば「蘇我田口朝臣蝙蝠(そがのたぐちのあそんかわほり)が祖」と言う四国阿波国の豪族・紀姓(きのせい)・田口氏の後裔と言う。

この紀姓(きのせい)・紀氏は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子の紀角宿禰(きのつのすくね)を始祖とする。

田口成良・教良父子は平安時代末期に平清盛に仕えたが、三河・牧野氏始祖と伝えられる人物はその子孫とされる。

この牧野氏一族の中から、越後長岡藩主(七万四千石)を始めとする近世大名・牧野五氏(長岡藩・笠間藩・小諸藩・三根山藩)の徳川譜代の各藩)の流れを輩出した。

牧野氏が石高七万四千石の中堅親藩大名に成れたのは、二代将軍・徳川秀忠の牧野康成(まきのやすなり)への厚遇が在ったからである。


牧野氏は、始め三河に勢力を伸ばしていた駿河の今川氏の傘下にあり、その先祖は松平家(徳川家)の三河国統一の過程に東三河で頑強に抵抗した勢力であった牛久保城の牧野氏だった。

三河国人領主・牧野氏は、三河国内に於ける今川氏の力が後退するまで松平家(徳川家)への抵抗は続けたとされる。

三河牧野氏は宝飯郡の牛久保城と渥美郡の吉田城(今橋城)を牙城にしていたが、十六世紀初めには駿河国の戦国大名今川氏に帰属していた。

やがて、牧野氏は西三河で勢力を急拡大した松平清康(家康祖父)により、千五百二十九年(享禄二年)から千五百三十二年(天文元年)の侵攻で吉田城を奪われた。

宝飯郡の牛久保城を拠点としていた牧野氏(吉田城主牧野家の同族)も、その際に一旦清康に服属している。

しかし、千五百三十五年(天文四年)の家臣・阿部正豊に暗殺された「守山崩れ」で松平清康が落命すると牛久保・牧野氏は再び今川氏に帰属し、その傘下で勢力を盛り返す。

松平清康の孫・徳川家康による、千五百六十一年(永禄四年)四月からの東三河侵攻に対しても牧野氏は今川方として頑強に抵抗する。

しかし、牧野一族からも次第に徳川氏に転属する者が現れ始め、徐々にその勢力が低下して行く。

千五百六十二年(永禄五年)二月、「三州錯乱」の収束を目指した牧野氏の宗主・今川氏真は三河に出陣・親征するが、家康との直接対決に敗れた。

次いで同年九月に東三河駐留今川軍は三州東岡合戦・三州八幡の戦いに大敗する。

翌千五百六十三年年三月、牛久保城外の戦いで今川支持者の牧野保成が死去すると、東三河諸勢の今川氏離反は決定的となった。

牧野家は保成の嫡男・成定が跡を継ぐが、結局、今川氏真(いまがわうじざね)の援軍を得られず孤立し、城主・牧野成定も千五百六十六年(永禄九年)五月までには降参し徳川氏に服属した。

以後、牧野氏は、家康の国衆に列して、東三河の旗頭として吉田城に詰めた酒井忠次の配下となり各地に転戦している。

成定嫡男・牧野康成 (まきのやすなり)の代に成っていた牛久保・牧野氏は、千五百九十年(天正十八年)家康の関東入りの際に大胡藩主(上野国大胡/二万石)として譜代大名に列した。


千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いで牧野康成 (まきのやすなり)は、徳川秀忠軍に属して、西軍・真田昌幸(さなだまさゆき)が守る信濃国上田城攻めに参加した。

この時東軍の総大将・秀忠は二十一歳、牧野康成は二十四歳年上の四十五歳で、本多正信や榊原康政と伴に秀忠の与力武将として補佐する立場だった。

徳川方の刈り田働き(他人の田の稲を暴力的に刈り取る)阻止をめぐる偶発的戦闘で康成(やすなり)は友軍の危機を救援する事を命じたが、これが上田城攻めにまで発展した。

この戦闘開始には偶発説と篭城軍を誘い出す作戦だったと言う説がある。

しかしこの上田城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗で在った為に康成(やすなり)はその責を問われた。

康成(やすなり)は、直接刈り田働きを指揮をした部下の贄掃部氏信(にえかもんうじのぶ)を切腹させるよう命じられたが、康成(やすなり)は「自らが責を負う」としてこれを拒否する。

嫡子・牧野忠成もこの秀忠の命令に逆らい、忠成は贄(にえ)等を伴い出奔した為に大いに秀忠の怒りを買い、康成(やすなり)は上野国吾妻に蟄居処分となる。

但しこの間、牧野氏はお取り潰しの状態ではなく、秀忠の怒りは家康の手前を繕(つくろ)う芝居との見方も否定出来ない。

その後、千六百四年(慶長九年)に後の三代将軍・徳川家光が誕生した事による恩赦で康成(やすなり)の処分が解かれ大胡藩二万石に戻った。

この恩赦の一件から、「秀忠無許可の上田城攻め」は関が原戦遅参と言う大失態の責めが秀忠に及ばない為に、康成(やすなり)が泥をかぶった策ではないかと推察される。

そこからが不思議だが、家康の死去から僅かの間に牧野氏は長岡藩(六万石)を秀忠より拝領、そこからまた加増があるなど何かの恩義を思わせるほど処遇は手厚かった。

また、この大胡藩主・牧野家から長岡藩(加増され都合七万四千石)・笠間藩・小諸藩・三根山藩)の徳川譜代の各藩が成立した。


徳川秀忠が関ヶ原の合戦に遅参したのは、後に「上田合戦」と呼ばれる又も真田勢相手の戦にて手古摺(てこずっ)たからである。

徳川勢と戦った「上田・神川の合戦」に勝ち、信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。

和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸(さなだのぶゆき)と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く二家体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)は、信州・上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。


千六百年(慶長五年)の徳川秀忠の関ヶ原合戦の遅参の因となった上田城の戦いを第二次上田戦とする。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であった。

そこを真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。

そこに石田三成率いる豊臣方西軍と徳川家康率いる東軍で、東西を二分する関ヶ原の戦いが起きる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知り、東北上杉勢討伐に向かっていた軍を西に返した。

この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる三万八千人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。

そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信之と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。

老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。

数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。

充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と言うものだった。

あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮る事はせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言する。

だが、兵力差が圧倒的だった事、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かった事、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かった事もあり、秀忠の決断を覆す事は出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。

昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎで、この時点ですでに戦わずして秀忠隊を三日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加える事によって徳川方に揺さぶりをかけた。

仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、既に三日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。

逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えない事は明らかである。

兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ち堪えれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。

短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読み易く御し易すい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し、乗ればなお良しの二段構えで、狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁(幸村)の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁(幸村)の兄である真田信之の軍勢を差し向ける。

徳川首脳陣には真田一族である真田信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせる事によって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。

迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁(幸村)は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げる。

信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨(かちどき/ときの声)を上げる。

これは、信繁(幸村)が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとした為と推測が出来る。

また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。

事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡した事により、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。

短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、九月八日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。

徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出して来た。

そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走する。

それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。

徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。

さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。

功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していた為、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。

このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。

前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁(幸村)隊二百が秀忠本陣に奇襲をかけた。

信繁(幸村)隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。

秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。

また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せる。

真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか一日で真田方の大勝に終わった。

名将・昌幸(まさゆき)と次男・信繁(のぶしげ/幸村)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、再び数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。



この関が原の戦の頃、秀忠は秀忠で一つの謀略を始めていた。

二代将軍・秀忠は、関が原の戦の仕置きが決着し江戸に凱旋する前夜、密かに比叡山へ使いをやり、天海僧正を京の都に呼び寄せて会っていた。

「久しいのう、秀忠殿。」

天下の将軍相手に、天海の秀忠への挨拶は、親し気で無遠慮だった。

「おぅ天海殿、遠路の呼び出し済まんのぅ。」

「なぁに案ずるな、こちらの方が将軍様より身軽じゃで。」

「所で天海殿、やはり幕府を磐石にするには雑賀と伊賀を使わねばなるまい。」

「如何にも、さしずめ前田利長、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政と言った所か・・・」

「お見通し・・・か。」

「見通さいでか、承知申したぞ将軍・秀忠殿。早速取り掛かるでお任せあれ。」

「この仕儀、大御所には申し上げて無いが。」

「それも承知しておる。闇の仕事はわれら二人の闇の中じゃ。」


源氏長者・征夷大将軍を任じた徳川家康は、翌千六百四年(慶長九年)につかの間の予定で江戸城に戻って来た。

まだ豊臣家の処置は残っていたが、未だ豊臣恩顧の大名は数多く残っていた。

ここからが、「待ちの家康の本領発揮」である。

家康は六十一歳に成って居たが、時の流れが速く感じられるがまだまだ自分には京の都と大阪でやる事が残っている。

その一つは豊臣家の始末で在る。



関が原の合戦から十一年、千六百十一年(慶長十六年)になると、この頃には恩顧大名の当主も息子達に代替わりを始めていた。

秀吉恩顧の有力大名、加藤清正や堀尾吉晴、浅野長政、千六百十三年(慶長十八年)には浅野幸長、池田輝政などが次々と死去、余りに豊臣家が孤立を深めて行った為に徳川方による毒殺説さえもある。

確かに余りにも立て続けなので個々の病死ではなく、秀吉の命に拠る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が何らかの半島の風土病を彼等に感染させ、諸侯の命を短かくしたのではないだろうか?

或いは、徳川家の命を受けた闇の仕事師(忍び)が、暗躍したのだろうか?

時の流れに抗すべくも無く、前田利長、加藤清正など豊臣家が力と頼む有力武将が、櫛のはが欠ける様に次々と病死して行く。

中でも加賀の大身・前田利長亡き後は豊臣家を支える大々名の部将はいなくなる。

前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖である父・前田利家と母・芳春院(篠原一計の娘・篠原まつ)夫婦の長男(嫡男)として生まれるが、まつの母親が高畠直吉と再婚した為に、高畠まつと言う記述も残っている。

利長が成長した頃は、ほぼ豊臣秀吉が天下を手中にした頃で、若き前田利長は父の軍勢よりも豊臣秀吉・旗下の直臣の将として転戦し、秀吉恩顧大名の内に数えられていた。

賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には利家嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。

その父・利家亡き後の五大老職を嫡男・利長が継いで居たのだ。


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(大坂落城)

◇◆◇◆(大坂落城)◆◇◆◇◆

豊臣秀吉死後、着々と強大な影響力を着けた五大老筆頭・徳川家康討伐を目指し、佐和山へ隠居していた元五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将に担ぎ蜂起した関ヶ原の戦いで、三成ら西軍は家康の東軍に撃破される。

この西軍敗退を期に実権を握った徳川家康は戦後処理や論功行賞の主導権を握り、意のままに処して既に天下は家康に移っていた。

関が原の合戦の後、天下の形勢は勝利した徳川家に大きく傾き、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任じて武門の長と認め、関白・豊臣家の天下への影響力は急速に衰えつつ在ったのだ。


この関ヶ原戦の戦後処理の際、家康は豊臣家の力を削ぐ為に二百十万石在った蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約六十五万石程度まで削ってしまう。

また家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくる為に江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。

この時徳川家康は、豊臣秀吉の武将達の扱いを反面教師として学習していた。

秀吉は配下の武将達に大盤振る舞いをして、五万石、十万石、半国、一国と分け与えている。

挙句に、豊臣家直轄領は徳川家より少ない二百十万石で、配下の有力大名の武将達に異心あらば危うい情況も生まれて来る。

つまり家康は、江戸幕府を磐石なものにする為に圧倒的な直轄領八百万石を有する事で他大名に異心を起こさせぬ方策を、その後採る事になる。


徳川家康はこの時既に天下の実権を握っていた。

天下の実権が豊臣家から徳川家に移る過程のこうした時に、旧主筋として別格的存在となる豊臣家への対処を家康は迫られる事になる。

諸侯を心服させ安定した政権を造る為には、徳川家に豊臣家が服属するか処分するかの二つに一つしか道は残されていなかった。

そうした情況下で、秀吉の遺言に基づき徳川秀忠の娘である千姫が豊臣家二代当主・豊臣秀頼に輿入する。

将軍家と成った徳川家康は、幕府を開く為に戻っていた江戸から千六百五年(慶長十年)正月に再び上洛する。

続いて徳川家継子・徳川秀忠が、天下人が徳川家である事を示す様に十数万の兵と伊達政宗ら奥羽の大名を従え率いて上洛する。

家康は天下の実権を徳川家で世襲継承して行く意志を示す為に、将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り大御所となる。

しかしこうした家康の腐心にも心配事は在った。

徳川家の働きかけに応じず、豊臣家は徳川家に服属する姿勢を見せずに頑なな態度を取り続けていた。

そこで問題なのが世間に知らしめる官位の序列である。

慣例に拠る朝廷での豊臣家の官位は最高位・関白であり、豊臣秀頼も順調に昇任を重ね、徳川秀忠の将軍就任時の官位が内大臣で在ったのに対し秀頼は右大臣に成っていた。

つまり秀吉の子として元服を前に関白就任への可能性を残す豊臣秀頼は、徳川家にとって依然無視出来ない存在だったのである。

豊臣秀頼に関白になられてはどちらが上位なのかの問題が生じる。

それを阻止するには豊臣家を徳川家に服属させる以外に策はない。

大御所・徳川家康は、高台院(北政所/おね・ねね)を通じて秀頼の生母・淀殿に、秀頼に対して臣下の礼を取るように要求するなど友好的対話を求めたが、淀君がその会見を拒否した為両者の関係は悪化し家康が六男・松平忠輝を大坂に遣わして融和に努め沈静化を為している。


家康は、関が原の戦いに勝利し軍師として参陣した南光坊・天海(光秀)との別れ際の会話を思い出していた。

決着が着いた南光坊・天海(光秀)が「比叡山松禅寺に戻る」と暇乞いにやって来たのだ。

「おぅ天海殿、これでどうやら先が見えたな。」

「大御所、やはり大阪をお潰しに成り申すか?」

「止むを得まい。淀には不憫じゃが、豊家(豊臣家)を残せば後の天下大乱の元じゃでな。」

「仰せの通りでござる。」

「今ひと働きせねばなるまい。」

「これを最後になされませ。」

「その積りじゃで、お主も知恵を絞ってくれぃ。頼みもうしたぞ。」

「もとより、心得てござる。」

家康はこの時点で、いずれ決意する時が来る事は覚悟していたのである。


千六百十一年(慶長十六年)、御所では後水尾天皇が後陽成天皇の譲位を受けて即位する。

この即位に際して上洛した家康は豊臣家に秀頼の上洛を求め、二条城での秀頼との会見を要請する。

秀頼が二条城に出向いて家康と会見すれば天下に豊臣家の服属を示す事になる為、豊臣家内では反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は何とか実現する。

この年から徳川家康は江戸に将軍・秀忠の幕府を置いたまま、二条城を居城に二元政治を始め、家康は在京の大名二十二名を二条城に招集させて「幕府の命令に背かない」と言う誓詞を提出させている。

その翌年(慶長十七年)になると東北・関東などの大名六十五名からも同様の誓詞をとっている。

この時点で、家康は豊臣家の討伐を選択していたのだ。


千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いに勝利した豊臣政権五大老の筆頭・徳川家康は、朝廷から源氏の長者と征夷大将軍に任命され、南光坊天海(明智光秀)からの助言の下いイヨイヨ江戸に江戸幕府を構築し始める。

この頃はまだ一大名(六十五万石)程度に小さくされたとは言え豊臣家も存在し、秀吉恩顧の有力大名も多数残っている。

そこで家康は、徳川家の征夷大将軍職の世襲を世に知らしめる為に将軍職と江戸城を徳川秀忠(とくがわひでただ/二代将軍)に譲り、自分は大御所を名乗って駿府城に隠居、二代将軍・秀忠の後ろ盾を任じながら諸将に睨みを利かせる。

駿府に在った家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が武家を統制するために定めた法令である。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い後に武家諸将から誓紙を取り付けた三ヶ条に十ヶ条を付け加え、二代将軍・徳川秀忠が千六百十五年(慶長二十年)七月に伏見城で発布(元和令)された。

その同じ年の同じ月に、同じく金地院崇伝(こんちいんすうでん)の起草に拠る「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」も公布されている。


禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立する為に定めた法令で、禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目とも呼ばれた。

幕府は、千六百十三年(慶長十八年)「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、朝廷の行動を制約する法的根拠を得る為に漢文体全十七条の禁中並公家諸法度を朝廷に突き付ける。

禁中並公家諸法度は、徳川家康が臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて起草させ、千六百十五年(慶長二十年)七月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって公布される。

同時に、武家を統制するために定めた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」も幕府が制定し、公布されている。

この禁中並公家諸法度に拠り、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得、江戸時代の公武関係を規定するものとして江戸期を通じて一切改訂はされなかった。

尚、千六百三十一年(寛永八年)に当時の後水尾上皇主導(幕府は間接関与)で青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進と伴に公家の統制を一層進める為に「若公家衆法度」が制定され、これが禁中並公家諸法度を補完するものとなった。


隠居して駿府に在った家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)は徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。

閑室元佶や板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係する。

崇伝(すうでん)は、徳川家のブレーンとして豊臣家との決着の戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与している。

その後、崇伝(すうでん)は、千六百十六年(元和二年)家康の死去に拠る神号を巡り南光坊天海と争い、天海(てんかい)は「権現」を、崇伝は「明神」として祀る事を主張する。

実は崇伝(すうでん)の主張には根拠があり、徳川家の公称・源氏流はともかく元の松平家の賀茂流であれば家康の祭祀は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、「明神」が正しいからである。

崇伝(すうでん)は明神として祀る事を主張するが、天海(てんかい)は源氏流が征夷大将軍の任命条件であるを持って賀茂流の「明神」は不適切と譲らず、最終的には天海の主張する「権現」に決定する。

これはもしかしたらの話であるが、二代将軍・秀忠、南光坊天海、春日局の三人が実は明智流のトリオで在ったのなら源氏流で、賀茂流の「明神」は強行に反対するから金地院崇伝(こんちいんすうでん)には最初から勝ち目は無かった事になる。


その後十三ヶ条(元和令)だった武家諸法度(ぶけしょはっと)は将軍の交代とともに改訂され、三代将軍・徳川家光が参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え十九ヶ条(寛永令)、五代将軍・徳川綱吉はこの十九ヶ条を諸士法度と統合(天和令)している。

その後、六代将軍・徳川家宣が武家諸法度(ぶけしょはっと)を新井白石に改訂(正徳令)させ、七代将軍・家継に引き継がれたが、八代将軍・徳川吉宗が五代将軍・徳川綱吉が定めた「天和令」に戻して改訂の止め置きを命じ、以後これをもって改訂は行われなくなった。



武家諸法度(ぶけしょはっと)は制定されたものの、一旦徳川家康が臣従した主家・豊臣家が存在すれば、豊臣家の政権擁立の一定の理由が存在する事になる。

これから物語を進める大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。

一般にそれは「大坂の陣(おおざかのじん)」とも呼ばれ、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称である。

加藤清正や浅野幸長らの助力で秀頼が二条城に出向いて家康と会見する二条城の会談が実現し、両者の緊張は緩和したものと思われた。

だが、二条城の会談直後の慶長十六年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長十八年に成ると池田輝政・浅野幸長が、そして慶長十九年には家康に次ぐ大老として豊臣家の後ろ盾となっていた前田利家の前田家を継承した二代・前田利長が亡くなる。


関ヵ原では東軍に参陣した浅野幸長(あさのよしなが)は、近江国浅井郡小谷(滋賀県湖北町)に浅野長政の長男として生まれる。

父・浅野長政は豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟で、幸長も豊臣秀吉の直臣として功績を積み、父とともに甲斐国二十二万石を与えられて豊臣政権では五奉行家の内の一家となっている。

しかしこの浅野家は順調には行かず、秀吉と淀君の間に思わぬ実子・秀頼が誕生した為、実子・秀頼の天下人後継を策す秀吉の粛清により、関白・豊臣秀次(養子)の失脚事件が起こり、浅野幸長はそれに連座して能登(石川県東部)に配流された。

この時は、正室・おね(高台院)や前田利家・徳川家康ら五大老のとりなしもあって幸長はまもなく復帰が適っている。

秀吉没後、幸長は文禄・慶長の役の折に朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立し、前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃している。

翌年起こった関ヶ原の戦いでは、浅野幸長(あさのよしなが)は兵六千五百を率いて徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元・長束正家などの西軍勢を牽制した功績で、関ヶ原の戦の戦後に家康から紀伊国和歌山に所領三十七万六千石を与えられている。

大々名に出世した浅野幸長は豊臣恩顧大名でありながら余程家康の信用が厚かったのか、与えられた紀伊国は南から大阪を睨む位置にある。

しかしこの加増から僅か二年、浅野幸長(あさのよしなが)は和歌山で死去する。

この幸長の死、暗殺とも朝鮮から持ち帰った性病とも言われている。

浅野幸長に男子が無かった為に弟の浅野長晟(あさのながあきら)が浅野宗家の家督を継いだのだが、幸長の死の翌年から大坂冬の陣が始まり、その後の夏の陣を経て千六百十五年(慶長二十年)に豊臣家は徳川家康により滅ぼされた。

この大阪の役(大阪の陣)に於いてこの弟・浅野長晟(あさのながあきら)は多くの戦功をたて、浅野長晟(あさのながあきら)の代に安芸国広島藩の福島家が改易されたに伴い、浅野家は安芸国広島藩(四十二万石)に加増転封されている。


百万石の大々名・前田利長が亡くなると、秀吉恩顧大名の主力のほとんどが代替わりと共に徳川家に臣従するか改易減封になって頼るべくも無く豊臣家は孤立して行く。

「あの無礼な狸おやじめ。」と言ったかどうかは判らないが、徳川家の主家としていた淀殿のプライドはズタズタだった。

人間は、怒りを覚えても深呼吸一つで気分が変わる生き物である。

だが、この深呼吸が中々出来ない。

しかし怒りに任せてはろくな事に成らないのも事実である。



ただ大阪城の金蔵には、太閤・秀吉が溜め込んだ莫大な軍資金が在った。

孤立に焦った豊臣家は、資金を使って幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり兵糧や浪人を集めだして幕府との対決姿勢を前面に押し出し始める。

実はこうした緊張状態を、誰よりも待っていたのが家康である。

勿論家康も戦の準備は怠らず、大阪城攻略の兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じると共にイギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。

準備は整えつつ在ったが、家康はきっかけを探していた。

今後諸侯の上に立つ将軍家の立場として、主家筋である豊臣家を討つ事は秩序の否定に繋がり跳ね返って来ないとも限らない。

もはや「きっかけ待ち」だった家康は、主家筋である豊臣家を討つ事の倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩していた。

そのきっかけとして目を着けたのが、「方広寺鐘銘事件」である。


片桐且元(かたぎりかつもと)は、近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれる。

信濃源氏の名族・片桐氏は伊那在郷の鎌倉御家人であったが、本流が片桐郷に残る一方、支流が承久年間以降に美濃や近江に進出する。

この近江に進出した片桐氏が戦国大名化した浅井氏に仕えるように成ったのは且元(かつもと)の父・直貞の代からと言う。

本拠とした須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きであり、同城の支城の一つとして機能するとともに、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。

千五百七十年(元亀元年)から千五百七十三年(天正元年)九月にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落する。

この小谷陥落直前、浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現存している所から当時十七歳の且元(かつもと)も浅井方として戦い落城を経験する。

片桐且元(かたぎりかつもと)の名乗りは、後の関ヶ原の戦いの直前の頃に始めたもので、それまでは片桐直盛(かたぎりなおもり)を名乗っていた。


羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井氏に変わって長浜城主及び北近江三郡の領主となり、多くの人材を募っていた事から直盛(なおもり/且元・かつもと)も秀吉に仕官する。

千五百八十三年(天正十一年)五月、信長死後の織田家の存続を賭けて秀吉と柴田勝家が対立する。

その柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で直盛(なおもり/且元・かつもと)は福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。

直盛(なおもり/且元・かつもと)はこの時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に知行地三千石を与えられている。

千五百八十四年(天正十二年)六月、小牧・長久手の戦いでは、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として百五十人を率いて本陣を守った。

その後の直盛(なおもり/且元・かつもと)は前線で活躍する事はなく、馬廻衆として後方支援などの活動が中心となり、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっている。

その後は秀吉の支配領域の拡大に伴い検地奉行に携わり、九州征伐では軍船の調達、小田原征伐では小田原城の接収、奥州仕置では出羽国秋田での検地などを務める。

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、直盛(なおもり/且元・かつもと)は釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの指令を各軍勢に取り次ぎ、二度度の晋州城の戦いなどに参加する。

千五百九十五年(文禄四年)に直盛(なおもり/且元・かつもと)は、播磨国内などに五千八百石を加増され、摂津茨木城主(一万石)の大名となる。

慶長伏見地震(文禄五年)が発生、直盛(なおもり/且元・かつもと)は、その復興事業に関連した大坂の都市改造計画に関わる。

二年後の千五百九十八年(慶長三年)、直盛(なおもり/且元・かつもと)は大坂城番として城詰めとなり、豊臣秀頼の傅役五人の一人に選ばれる。

千六百年(慶長五年)豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、直盛(なおもり/且元・かつもと)の屋敷に二泊する。

この家康との縁で、直盛(なおもり/且元・かつもと)は家康に接近し、以後、二人は報告・連絡を取りを続けて行く。

この頃に、片桐直盛(かたぎりなおもり)は片桐且元(かたぎりかつもと)を名乗るようになる。

同千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、且元(かつもと)は文治派奉行衆を中心とした石田三成方・西軍に付き、大津城の戦いに増田長盛と同じく家臣を派遣した。

しかし関ヶ原の戦いは、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍が圧勝で勝利する。

東軍勝利の後、且元(かつもと)は長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走する。

且元(かつもと)は、徳川家康に協力的な立場で豊臣秀頼に仕え、為に播磨国と伊勢国の所領六千石と引替に、家康から大和国竜田藩二万四千石を与えられる。

それ以降且元(かつもと)は、大老筆頭としての家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。

しかし且元(かつもと)は、豊臣として徳川家康の圧力をかわしながら秀頼を支え、豊臣家の存続に助力する。

そんな中、千六百十四年(慶長十九年)三月には、豊臣家の威信が賭かった再建開始から十四年目の、且元も十二年間を総奉行として関わって来た方広寺大仏殿がほぼ完成する。

同千六百十四年(慶長十九年)七月末、京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などの疑惑によるとする、方広寺鐘銘事件が起こる。

なんと南禅寺長老の文英清韓(ぶんえいせいかん)に選定させた方広寺鐘銘に在る銘文「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘の銘文が「徳川を呪い豊臣の繁栄を祈願する」と言う言い掛かりだった。

臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)と本多正純を中心に調査が行われ、京都所司代・板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。

八月十三日の夜、大坂城下が静まらない中、片桐且元、大野治長、文英清韓などが駿府へ派遣される。

十七日に鞠子宿にて南禅寺僧・文英清韓(ぶんえいせいかん)が駿府奉行に囚えられる。

十九日の入府より、且元(かつもと)は、金地院崇伝ら相手への弁明に務めたが、家康との会見も無いまま日々を刻んで居た。

しかし、二十九日に駿府入りしていた大野治長の母・大蔵卿局は家康とすんなり対談となり、鐘銘の事も話題とならずに丁寧に扱われるなど分断策の布石も打たれていた。

九月八日、且元(かつもと)は崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい。」と伝えられる。

九月十二日に且元(かつもと)は帰坂し、戦争を避ける為に、「秀頼の駿府と江戸への参勤。」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする。」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る。」の対策の中の一つを早急に選ぶ事を提案する。

この提案、徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明瞭である。

だが、且元(かつもと)はこの提案で大野治房(大蔵卿局の子/大野治長の弟)、渡辺糺(わたなべただす)と言った豊臣家の家臣達から家康との内通を疑われるようになる。

徳川方の豊臣分断策は成功し、暗殺計画も且元(かつもと)の知る所と成り、弟・貞隆、犬山城主・石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去する。

「不忠者である」として改易が決められ、大阪城を退去した且元(かつもと)は弟・板倉貞隆の茨木城へ入り、京都所司代・板倉勝重に援兵を要請した。

この日は、既に板倉勝重から且元(かつもと)の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康に依る徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。

大坂の陣には家康に人質を送って従属し、徳川方として堺の救援をし、二条城の軍議に加わり、家康依り先鋒を命じられる。

大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいる事を、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元(かつもと)に知らせて来たので秀忠に通報するも助命叶わず豊臣氏は滅亡した。

且元(かつもと)前年より肺病を患い、家康より送られた家康の侍医・片山宗哲の診察を受けていた。

その且元(かつもと)が、大坂夏の陣後から二十日日ほどして、五月二十八日に京屋敷にて、六十歳での突如の死を遂げている。

「秀頼に殉死した」との説もあるが、定かではない。



方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、誰かの入れ知恵で徳川家康が最初から書いた筋書きである。

豊臣家は過って羽柴秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を、徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が再建する事になった。

そしてその東山方広寺の修営が終わり梵鐘の銘が入れられた時、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。

梵鐘の銘「国家安康」という句は家康の名を分断したものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」と解釈を為し、「徳川家を呪って豊臣の繁栄を願うものだ」と激怒して見せたのである。

無理に解釈した家康の言い掛かりに過ぎないが、これを受けた豊臣家は駿府の家康の下に片桐且元を弁明の為に派遣する。

ところが、使者に立った且元は家康に目通りも許されずに狼狽する。

漸く本多正純や金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言った家康の側近から、且元は「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、この内のどれかを選ぶように」との内意を受け大阪城に持ち帰る。

しかしはその全てが仕掛けた策謀で、今一人豊臣家の使者として駿府へ立っていた大蔵卿の局(淀殿や豊臣秀頼の乳母・大野治長の母)の持ち帰った証言に拠ると、「家康は機嫌良く会い、鐘銘の事には少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したと言う。

この報告の違いで家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、淀君は片桐且元の裏切りを疑った。

片桐且元の持ち帰った三ヶ条は、且元が「徳川家臣と示し合わせて豊臣家を陥れようとするものに違いない」と信じ込んだのである。

もし、それでなくとも且元の持ち帰った三ヶ条は徳川家康の「実質的宣戦布告」と受け取れる内容で、容認なら無い。

しかし和平派の片桐且元はその三ヶ条に妥協してでも交戦を避けようとする。

淀君は怒り狂って且元をなじり、結果、淀君の信頼を失った豊臣家の忠臣・片桐且元は大坂城を退去するに至っている。

この「方広寺鐘銘事件」のきっかけになった東山方広寺再建の家康の助言からして、秀吉の遺した軍資金を大な再建経費で消費させる事が目的であり、言い掛かりをつけた上で三ヶ条を提示し、それを持ち帰った片桐且元を放逐した事は「幕府に対する反抗意志である」と断定する口実を与えた。

大坂城攻撃を決定するに至る、描いた筋書き通りに事が運んだのである。

こうした状況下で、西国大名五十名から「幕府の命令に背かない」と言う誓詞をとって家康のもくろみは着々と進んでいた。

片桐且元・貞隆は大坂城を退去し、相前後して秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去するに到って期が熟すと、いよいよ家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言し、大坂冬の陣が始まっている。

豊臣家では戦争準備に着手し、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばして兵を募った。

また兵糧の買い入れを行うとともに、大坂に在った徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。

秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。


天下の知将・真田信繁(幸村)は豊臣家に請われて大阪城に入ったが、残念ながら豊臣家にはこの一代の知将を生かす術を持たなかった。

真田信繁(幸村)が戦の作戦を立案しても、豊臣首脳は信繁(幸村)の進言のほとんどを却下した。

真田信繁(幸村)が縦横無尽にその力を発揮するには、豊臣首脳はその戦の全てを知将・信繁(幸村)に任せて置けば良かったのだが、度々信繁(幸村)を統制しに掛かって彼の能力を封じてしまった。

つまり豊臣首脳は、信繁(幸村)の知力よりも自分達の面子を重んじる愚を犯して、戦をより不利なものにしてしまったのである。

浪人を併せた豊臣方の総兵力は約十万、浪人達は歴戦の勇士が多く士気も旺盛で、徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などだったが、いかんせん寄せ集めに過ぎない為に中々統制が執れず、結果、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなっている。

その寄せ集め浪人衆の一人真田信繁(さなだのぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は二段構えの作戦を主張し、まず畿内を制圧して近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍して来る徳川軍を迎え撃って足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無い時には初めて城に立て籠もって戦う策だった。

ところが、豊臣家宿老の大野治長を中心とする家臣達は二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針で籠城を主張していた。

同じ浪人衆の後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り「敵を足止めすべし」と主張して豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派と対立した為に豊臣軍内部は二つに割れていた。

しかし大評定の末に大野治長ら豊臣家臣の籠城する作戦案で落ち着き、周辺に砦を築き防衛線を敷いて幕府方を迎え撃つ事になる。


大野治長(おおのはるなが)は、千五百六十九年(永禄十二年)に京都に生まれる。

弟に、冬夏の大阪の陣で活躍した武将・大野治房(おおのはるふさ)がいる。

大野氏に関したは、大野治長(おおのはるなが)が有名なわりには、その出自や系譜など、詳しい事はほとんど分かっていない。

つまり治長(はるなが)の家系は、「取り立てて言うに値しなかった」と想われる。

その治長(はるなが)が、知行一万五千石の豊臣氏の家臣武将として出世したには、彼の母・大蔵卿局(丹後国の地侍・大野定長の妻)が、浅井三姉妹の長女・茶々(淀殿)の乳母をしていたからに他成らない。

幸運な事に、母・大蔵卿局が乳母を務めた浅井三姉妹の長女・茶々が、豊臣秀吉の側室・淀殿として寵を得、治長(はるなが)は秀吉に約三千石の馬廻衆として取り立てられる。


秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えた治長(はるなが)だが、千五百九十九年(慶長四年)の徳川家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として罪を問われ、下総国に流罪とされる。

翌千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに治長(はるなが)は東軍に参戦し武功を上げた事で罪を許される。

関ヶ原の戦後、治長(はるなが)は家康の命で「豊臣家への敵意なし」と言う家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残った。

十四年後、千六百十四年(慶長十九年)、豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。

その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至るが、消極的和平を主張した治長(はるなが)は真田信繁など主戦派と反目する。
 
千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、治長(はるなが)は敗戦濃厚な中、将軍・徳川秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願う。

しかし治長(はるなが)の願いは適わず、主君・秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。

いずれにしても大野治長(おおのはるなが)が、凋落して行く豊臣家をナントカ永らえようと最後まで努力した事は間違いない。


一方の幕府方であるが、徳川家康は豊臣方が戦の準備を始めた数日後に軍勢を率いて駿府を出発し、その家康の軍勢が十日ほどの行軍で二条城に入る頃、二代将軍・秀忠が六万の軍勢を率い江戸を出発している。

家康は二条城に入城二日後には作戦を開始し、藤堂高虎・片桐且元を呼び先鋒を命じている。

籠城を決めた豊臣方は、水も食料武器弾薬も豊富に備蓄していた事から、大坂城を浮城にしようと淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ様としたが幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、幕府方の被害は行軍に支障をきたす程度に止まっている。

幕府方の動員した兵力は約二十万に上ったが、豊臣家恩顧の福島正則や黒田長政が豊臣方に寝返るのを恐れて江戸城留め置きとし、その子達を大坂に参陣させている。

二条城入城から三週間後の幕府方がほぼ大阪を囲むように結集した頃、家康は二条城を出発して奈良経由で大坂に向かい、茶臼山陣城にて先着していた秀忠と軍議を行っている。


千六百十四年(慶長十九年)十一月十九日、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)の戦闘の火蓋は木津川口の砦に於いて切って落とされる。

その一週間後には鴫野・今福で、三日後には博労淵、野田・福島に於いて激しい戦闘が行われるが、数ヶ所の砦が陥落した後、豊臣方は残りの砦を破棄して大坂城に撤収する。

豊臣方が籠城した大坂城を幕府方は約二十万の軍で完全に包囲した頃、家康は方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布し、茶臼山を皮切りに各将の陣を視察し各将に仕寄(攻城設備)の構築を命じている。

各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に接近して行く。

この接近時に包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦が豊臣方の挑発に乗って始められ豊臣方が幕府方を撃退、幕府方諸隊に大きな損害を与えた。

信繁(雪村)の「敵をおびき寄せて叩く」は、父・真田昌幸(まさゆき)譲りの真田家得意の戦法だった。

真田丸(さなだまる)は、千六百十四年(慶長十九年)大坂の陣(冬の陣)に於いて、豊臣方武将・真田信繁(幸村)が、籠城戦に弱点と読んだ大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。

織田家相続会議である清洲会議(きようすかいぎ)や賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)・小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを経て、豊臣秀吉が織田信長の勢力を引き継ぐ事に成る。

その後秀吉は、紀州征伐(根来衆・雑賀衆征伐)や四国攻めそして九州征伐・小田原平定の統一戦に勝利して天下を手中にする。

天下を手中にした豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られた堅城であった。

しかし、地続きとなる南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が、真田信繁(幸村)が防御を危惧した平野口である。


千六百十四年(慶長十九年)、豊臣秀頼を盟主に据えた豊臣方と徳川家康率いる徳川方が一触即発状態となり、豊臣方(大坂方)は諸国から浪人衆を集める。

以前の上田合戦(第二次)の処分で徳川方に依って幽閉中の真田信繁(幸村)は、高野山から脱出して大坂城に入城する。

大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、積極的な出撃を主張するが、豊臣方(大坂方)は篭城策を採る。

致し方なく籠城に応じた真田信繁(幸村)は、大阪城の弱点と見て平野口に南からの攻勢を想定して独立した出城を築き、自らが守備につく事により徳川方の攻撃を食い止めようとした。

千六百十五年十二月四日(新暦一月三日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。
ここで真田信繁(幸村)は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破る事に成功する。


家康はこの大阪城の攻撃には慎重で講和を策していたが、岡山に着陣した秀忠は家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申する。

家康は敵を侮る事を戒め「戦わずに勝つ事を考えよ」とこれを退け、住吉から茶臼山に本陣を移して新たに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

家康は、予め前の月から淀川の流れを尼崎に流す長柄堤を、伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた。

その長柄堤が茶臼山に本陣を移した翌日辺りに竣工し、大和川がある為に淀川が干上がる事はなかったが川の深さが膝下まで下がった為に大和川の塞き止めも行い、家康はいよいよ大坂城に対する城攻めを本格化させる。

また、茶臼山に本陣を移した翌日辺りから諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘い、大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は二〜三十間、藤堂隊は七間に近接している。

しかし、此処に到って家康は多くの難題を抱えていた。

まずは兵糧不足で、豊臣方の買占めに拠る深刻な兵糧不足の上に真冬の陣でもあり、幕府方の士気が落ちていた。

それに、豊臣を攻め滅ぼすは良いが、戦後処理も頭の痛いものだった。

家康が思案悩むそこへ、天海(光秀)の下へ使いにやった服部半蔵が帰って来た。

「おぅ半蔵か、比叡まで大儀じゃ。天海(光秀)殿は息災じゃったか。」

「ハァハァ〜、面妖な事に天海(光秀)様のお声は若返って聞こえ申した。」

「無理も無いわ。天海(光秀)殿に取っては豊臣家討伐は宿願じゃで、わしも気が若返って折るわ。」

「仰せの通りでござる。」

「して半蔵、守備は如何に?」

「大御所様の仰せの通り天海(光秀)様に逢うて知恵を授かりもうした。」

「この大軍勢じゃ、大阪は力押しで押さば落ちるであろうが、その後の味方の加増が難儀じゃ。その仕儀、天海(光秀)殿の知恵如何に。」

「天海(光秀)様応えるに、如何にも大御所様仰せの通り今や豊臣家の所領は高々六十五万石、この大軍勢に分け与えるには少な過ぎまする。」

「そちはこの義、天海(光秀)殿から何を申し受けては居る?」

「如何にも大局を見通す天海(光秀)様故、事後の心配はしておりましたが、名案これなく、まずは一度豊臣方と休戦して時を稼ぐが一手かと。」

「一度決着を先送りすると申すか。無い袖は振れぬからな。」

「されば、今回の諸将の手柄は棚上げ、時を稼ぐ内に福島など恩顧大名を一つ二つ減封または改易に処して空き領を捻出せねばとても足りませぬ。」

「さようか、しかしそれでも足らんようじゃが。」

「今一つ天海(光秀)様からでござるが、今回はお身内の加増は控えめされ。」

「息子や孫共には加増は無しか。」

「如何にも、ならば諸侯も加増の高に物申す事、憚(はばか)りましょうぞ。」

「合い判った。流石に天海(光秀)殿じゃ。しかし申し付けておる大阪の城落としの妙案がまだじゃが。」

「実は、それも在っての和議の薦めでござる。」

「何、この和議が城攻めの妙案も兼ねていると・・・。」

「天海(光秀)様に大御所様からの伝言を申し伝えた所に依りますと、流石城攻めの名手秀吉の築いた大阪の城落とすのが難儀じゃで、和議を持ちかけてその条件で堀を埋めてしまえば如何かとの言上にござります。」

「その和議、淀が乗るかな。」

「もはや旗色は明白なれば、藁をも掴みましょうぞ。」

「半蔵、大儀じゃ。天海(光秀)殿にわしが礼を申して居ったと伝えい。」

「ハァハァ〜、早速伝えまする。」

この目算を為す手立ては、まず豊臣方を疲弊せねば成らない。

家康は投降を促す矢文を射て(送り)、尚且つ甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始め、更に船場の堀の埋め立ても命じている。

そして投降を促す矢文から六日目、幕府方全軍より一斉砲撃が始められる。

北方の備前島(都島区網島町)方面だけで大筒百門と石火矢が本丸北側の奥御殿に発射され、南方の天王寺口(茶臼山)からは本丸南方の表御殿千畳敷に目標を定めた砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。

この砲撃では国友製三貫目の大砲が用いられており、またイギリスより購入したカルバリン砲四門やセーカー砲一門、つい最近兵庫に到着し漸く間に合ったオランダ製四・五貫目の大砲十二門も含まれていた。

この砲声は京にも届き、「その音が途切れる事はなかった」と伝えられている。


徳川方が奥御殿や表御殿を砲撃する為に接近して来たので、豊臣方はその近接する徳川方に激しく銃撃する。

当初、寄せての防御が竹束のみだった為にその銃撃で徳川方に三〜五百の死傷者が出たが、徳川方が築山・土塁を築いた為に豊臣方の鉄砲の効果は激減している。

豊臣方はこの幕府方の激しい砲撃に対抗して砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたたりしたが、以前劣勢を覆す事ならず、評定の結果、投降を促す幕府方の矢文に応じて和議する事を決する。

戦闘の経過で豊臣方は兵糧に加え弾薬の欠乏が進み、また徳川方が仕掛けた心理戦と今までの常識を超える飛距離を持つ輸入したばかりの新型大砲に拠る砲撃で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、士気は衰えを見せていた。

常識を超える飛距離で天守閣を直撃し淀君を恐怖させた砲弾は、射程五百メートルと当時としては最長射程のカルバリン砲(英国製)だった。

この破壊力五十トンのカルバリン砲(英国製)は、家康が大阪城攻略の為に英国から四門購入したものだった。

特に豊臣家で主導的立場にあった淀君は、幕府方の本丸への砲撃で身近に被害が及び、頑なだった態度を軟化させて和議に応じる気に成た。

淀君は、大筒(大砲)のドーンと言う轟音と、ヒュ〜ンと言う不気味な音ともにドンガリガリと城の屋根を貫通して落下して来る砲弾の恐怖に縮み上がったのだ。

織田有楽斎(長増・ながます/織田信長の実弟)を通じて豊臣方との和平交渉が始まり、有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。

交渉を始めて十日余り、淀君が人質として江戸に行く替わりに篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、和議は一時の時稼ぎである考えの家康はこれを拒否する。

徳川方の京極忠高の陣に於いて、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀君の妹である常高院(京極高次の正室/浅井初)との間で行われた和議交渉の場で家康が提示した講和の条件は、絶妙だった。

幕府方は豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵と城中諸士についての不問を約し、その代わり大阪城は本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める城割(城の破却)が主たる条件で、「今後の抵抗は無い」と形にする事である。

また秀頼・淀殿の関東下向を免じ、淀君を人質としない替わりに「大野治長または織田有楽斎より人質を出す事」として和議は成立している。


成立した和議の条件に乗っ取って、大阪城の一部破却が始まる。

なお、冬の陣の終了後の和議の条件により出城(砦)・真田丸は破壊された。

信繁が真田信繁よりも今では世間の通りが良い真田幸村を名乗ったのは、冬の大阪の陣で一旦和睦し、真田丸を失った以後の文献に登場したからである。

出城(砦)・真田丸の正確な位置については幾つか説が在り、確かな遺構も残っていない為にまだどれも決定的には成って居ない。。

和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すといった儀礼的なもので在ったが、徳川側は家康の命を受け徹底的な破壊を実行する。

講和後、味方した諸将も国表に帰らせ、家康本人も駿河の居城(駿府城)に引き上げた。

駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。

城割(城の破却)はその年の末から美濃の諸将を率いる松平忠明、重臣・本多忠政、重臣・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋め。

翌年の一月より二の丸も埋め立て始める。

二の丸は本来豊臣方の受け持ちの為豊臣方は抗議するが、幕府方は「工事が進んでいないので、手伝う」と強引に進め、二の丸の門や櫓も徹底的に破壊している。

約していなかった二の丸まで「だまし討ちで幕府方が埋め立てた」は後の作家の手に拠る俗説で、二の丸の埋め立ては当初からの和議の内なるが、幕府方が受け持ちを逸脱して二の丸の埋め立てに関わったのは事実である。

二の丸の埋め立てについては幕府方も相当手間取ったらしく「周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した」と伝えられている。


此処で新たな問題に成ったのが、豊臣方が召抱えていた浪人達である。

幕府方は浪人達の仕置きこそお咎め無しにしたが雇った浪人衆は七万人以上に上り六十五万石の豊臣家には相応せず、まさかそのまま豊臣家が召抱えるなど思いも依らなかった。

和議で一部解雇はしたものの、豊臣家はまだ都合八万ほどの兵力を維持したままで、とてもこのまま収まるとは思えない情勢だった。

家康は和平成立後京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で家康は国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、再戦の準備を行っている。

そうした中、京都所司代・板倉勝重より駿府へ大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞と言った「不穏な動きがある」とする報が届く。

幕府方はその報告を受け、浪人の解雇と豊臣家の移封を要求し、その二週間後には畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛する事、小笠原秀政に伏見城の守備に向かう事を命じた。

三日後、家康は徳川義直(家康の九男)の婚儀の為と称して駿府を出発、名古屋に向かう。

その道中の途中で、大野治長の使者が来て「豊臣家の移封は辞したい」と申し出る。

もはやこれまでの回答に、家康は常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ(そう言う事ならどうしようもない)」と豊臣方に伝え、すぐさま諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。

六日間ほど費やして家康が名古屋城に入った頃、秀忠も早々に江戸を出発していた。

その頃豊臣方では和平交渉の当事者・大野治長が城内で襲撃される事件が起き、内部の混乱が露呈していた。

名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康はその足で上洛し二条城に入った。

この頃、関が原の遅参の失敗経験を持つ二代将軍・秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも「家康に伝えてくれ」と依頼している。

四月下旬に、関東の軍勢を従えた秀忠は無事二条城に到着し、家康と本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。

此度の情勢は、前回の大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と比べ遥かに有利である。

大坂城は本丸を残して丸裸であり、兵力も二万ほど減っていて八万弱と篭城戦など出来る状態ではない。

家康は集結した十五万五千の軍勢を二手に分けて、一方は河内路から、いま一方は大和路から道路の整備と要所の警備を行いながら大坂に向かう事を命じた。

この二手の他、紀伊の浅野長晟(あさのながあきら)にも南から大坂に向かうよう命じている。

交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。

豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし付近の村々に放火その二日後には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。

この大野治房勢、一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟(あさのながあきら)勢と戦い討死してしまう。

その後、大野勢は浅野勢と対峙しつつ、堺攻防戦を続けている。

五月に入って戦闘が本格化し、幕府方三万五千が大和路から大坂城に向かって来るところを豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起ている。

しかしこの迎撃、寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取る事が出来ずに、後藤基次隊二千八百が単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら二万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも基次は討死し隊は壊滅する。

次いで到着した明石全登・薄田兼相(すすきだかねすけ)ら三千六百の豊臣方も、後藤基次隊を壊滅させて小松山を越えた幕府方二万と交戦し、薄田兼相らが討死した。

この小松山の戦闘に、更に遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方が漸く到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止める。

そうした小松山道明寺・誉田合戦の激戦の他、八尾・若江合戦が起こっている。

河内路から大坂城に向かう徳川本軍十二万を、豊臣方・木村重成の六千と長宗我部盛親、増田盛次ら五千三百の兵が迎撃している。

まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊五千を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け長宗我部隊は壊滅する。

木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊三千二百らと交戦に入り激戦の末に重成は討死した。

いずれにしても幕府方は大軍で、豊臣方は意地を見せたが大勢は幕府方優勢で戦闘は推移している。

真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方は、小松山で幕府方大和路隊三万五千を押し止めていた。

しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、後藤隊・薄田隊の残兵を回収して後退を余儀なくされ、大坂城近郊に追い詰められている。

この豊臣方の撤退を、幕府方も連続した戦闘に疲弊した為に追撃を行わなかった。


大坂城近郊に後退した豊臣方は、最後の決戦の為に現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築する。

天王寺口は真田信繁(幸村)、毛利勝永など一万四千五百、 岡山口は大野治房ら四千六百、別働隊として明石全登三百、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計一万四〜五千が布陣する。

これに対して幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟(あさのながあきら)四万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直一万五千が展開し、 天王寺口は本多忠朝ら一万六千二百、その後方に徳川家康一万五千が本陣を置き、 岡山口は前田利常ら計二万七千五百、その後方に近臣を従えた徳川秀忠二万三千が本陣を置いた。

豊臣家滅亡を画していた徳川家康の野望は、正に大詰めを向えていた。

戦国最大にして最後の戦いとなる大阪攻め、大激戦となった天王寺・岡山合戦は正午頃に開始された。

果敢に攻め込む豊臣方の真田信繁(幸村)・毛利勝永・大野治房などの突撃により、幕府方の大名・侍大将に死傷者が出て幕府方徳川家康・秀忠本陣は大混乱に陥る場面も在ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直す。

この果敢な攻撃に豊臣方は多くの将兵を消耗し、流石の真田信繁(幸村)も松平忠直の越前勢に討ち取られて午後三時頃には壊滅状態に陥り、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により豊臣方は城内に総退却した。

城内に総退却をしてみたものの、大坂城は本丸以外の堀を埋められ裸同然となってもはや殺到する徳川方を防ぐ術が無い。

真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、秀頼は淀君らとともに籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害し大坂城は陥落した。

豊臣秀頼に嫁していた徳川秀忠の娘・家康の孫・千姫は落城寸前に大阪城を脱出、秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入る事で助命された。

この大坂の役は言わば戦国生き残り合戦の最終章にあたる。

この戦い、殺傷力が強い史上最多の最新銃砲火器に拠る交戦だった事から、過っての弓矢・槍・太刀と言った武器に依る交戦と違って死傷者も多く発生する。

また相手の選別には不向きな武器の為に大阪城に立て篭もる女子供・町人なども無差別に攻撃を受ける悲惨なもので、つまり死屍累々の地獄絵図が繰り広げられた戦だった。


戦後の大坂城には松平忠明(奥平松平家初代)が移り、街の復興にあたった。

大坂復興が一段落すると、松平忠明は大和郡山十二万石に加増移封された。

幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き西国支配の拠点の一つとした為、以降大坂は将軍家の直轄地となり、「天下の台所」と呼ばれる大商業都市となる。


徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)は、浜松藩の庄屋・遠州鈴木家とチョットした縁がある。

旧浜松藩の筆頭庄屋格・旧鈴木権右衛門家は、遠江国・万斛(てんしゅうとおとおみのくに・まんごく/現・浜松市東区中郡町)に在った。

三河国から遠江国に進出した徳川家康が浜松城に入城した頃、遠州鈴木家の在地は万斛村(まんごくむら)と呼ばれ、その庄屋を任じていた。

断って置くが、この遠州鈴木家は江戸期に幕府制定で確立した庄屋制度以前の万斛庄差配(まんごくしょうさはい)の庄屋で、つまり氏族由来の在地百姓家である。

如何に旧鈴木家が有力だった証に、遠州鈴木家は「家康側室・阿茶局(あちゃのつぼね・雲光院/うんこういん)を匿(かくま)った」とされる古文書が残る。

阿茶局(あちゃのつぼね/飯田須和)は、武田氏の臣・飯田(筑後)直政の女で、松平忠輝(家康の六男)、松平松千代(夭折)の母である。

松平忠輝に関しては、阿茶局の家柄軽きを以って家康が「余り好いて居なかった」と言う説が在る。

だが家康は、忠輝を最終的には越後高田六十三万石と信濃国川中島十二万石を合わせ七十五万石の大身に処していた。

つまり忠輝は、家康二男とされるも双子の兄の子説も在る松平(結城)秀康の越前六十八万石依りは確り多くを与えられている。

松平忠輝は、大阪冬の陣では留守居役を命じられ、夏の陣では出陣をしている。

大坂復興が一段落すると、忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。


江戸期の浜松藩別格待遇・旧鈴木家は、一説には室町時代から万斛(まんごく)に屋敷を構え、地元では「強い統率力を持っていた」とされている。

但し平安末期から江戸幕府成立まで、平安末期に源義経に臣従して三河国に土着した三河鈴木家の例にも在るとおり、全国の鈴木一門は紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自から派生した地方豪族である。

そして家康が生きた時代は、鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)が活躍し、鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやす)の存在や水戸藩重臣・雑賀(さいが/鈴木)家の謎など、多くの鈴木家が徳川家康との歴史を刻んでいる。


現在でも、浜松地方一帯は鈴木姓の多い土地柄で、SUZUKI(鈴木)を冠した大企業や浜松市長(二千十四年現在)などが目立っている。



松平忠直(家康二男・結城秀康の長男)は、予(か)ねて家康が腐心した「無い袖は振れない」を読めずに大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであった事を不満としていた。

松平忠直(まつだいらただなお)は越前・松平藩の第二代藩主である。
徳川家康に取っては孫に当たる。

家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(ゆうきひでやす)を名乗る。

この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、松平の姓に復して国持ち大名と成る。

所が、秀康の嫡男・松平忠直は勇猛な武将で、大坂の陣で敵将・真田信繁(幸村)らを討ち取り大坂城一番乗りの戦功を立てながらも、その褒美が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみで在った事に不満を持つ。

その後も二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになり、病を理由に江戸への参勤を怠って正室・勝姫(徳川秀忠の娘)の殺害を企てたり、軍勢を差し向けて家臣を討つなど乱行がエスカレートして行く。

幕府に反抗的態度を取るとなると、如何に将軍の兄の家・越前・松平藩と言えども、秀忠にとっては甥に当たろうと天下に示しが着かない。

千六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は、乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

隠居を命じられた忠直ではあるが、この忠直の行状の伝聞が果たして正しいのかは謎で、正統松平・親藩・御家門(ごかもん)家格の血を継ぐ越前・松平藩の松平忠直と、何故か微妙に存在する二代将軍・徳川秀忠との確執の裏に、公表できない何かが存在していた可能性は否定出来ないのだ。

真田家と徳川家の間には、徳川氏と後北条氏の平和交渉の過程で出た代替領地案を真田家に蹴られた因縁と二代将軍・秀忠が信州・真田家の抵抗に合い秀忠の中仙道軍の関が原到着を遅参させた因縁がある。

その真田信繁(幸村)を松平忠直(まつだいらただなお)は討ち取る功績を挙げたのである。

忠直にしてみれば、得心が行かなくても当たり前だったのかも知れない。



真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは海野頼昌の子とされる海野幸綱(真田幸綱/幸隆)が小県郡真田郷を領して以後に真田姓を名乗ったとされる。

だが、本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので真田氏の清和源氏とする出自は信憑性に欠ける。

真田氏の本家に当たる海野氏は、清和天皇の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)をその家祖とする滋野氏(しげのうじ)三家と呼ばれる望月氏、禰津氏(ねずうじ)、海野氏の内の一家であり、真田氏も海野氏流を名乗っている。

清和源氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流としているので、海野氏流を清和源氏とするは強引な創作系図である。

とにかく真田氏は、山地の谷あいに在る真田郷の在地の小豪族として歴史に登場する。

時代が下がった戦国期になると、真田氏は武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸は織田信長に恭順した。

その後、本能寺の変で明智光秀に反逆された織田信長が横死すると、真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に抵抗した篭城戦だった。

真田昌幸は、徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

真田昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

真田昌幸と次男・信繁は上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。

この時も真田昌幸(まさゆき)と次男・信繁は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な二度目の勝利を収めたのである。

しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に真田昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。

処分はされたものの、二度も徳川の大軍を退けた名将として昌幸・信繁(幸村)親子の名声は高まっている。

紀伊の九度山に蟄居中の真田親子に、孤立無援になりつつある豊臣家から要請があり、真田信繁(信繁・のぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は警戒中の紀伊国和歌山藩・浅野幸長(あさのよしなが)の軍勢の目をかいくぐり九度山を脱して大阪城に参じている。

やがて起こった大坂の陣では、真田信繁(幸村)は大坂城に豊臣方として戦い、冬の陣に於いて一時は茶臼山の家康本陣まで迫る戦ぶりを見せるが、夏の陣で討死している。


一方、徳川方として参陣した嫡男・真田信之(信幸改め)戦功を上げ松代藩十三万石へ加増移封となって真田の家名を残している。

徳川家康は本多忠勝の娘・小松姫を養女に迎えた後、真田家長男・真田信幸(信之・沼田三万石)に嫁がせている。


豊臣秀吉死後の千六百年(慶長五年)、石田三成が徳川討伐を掲げて挙兵する。

父・昌幸と弟・信繁は三成ら西軍石田方に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加する事を決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

徳川秀忠軍本隊三万五千の中仙道軍は、またも上田城に在った父・昌幸の善戦に合って関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加する事ができなかった。

徳川方に付いた真田家長男・真田信幸(信之・沼田三万石)は、関ヶ原戦後、父・昌幸の旧領三万五千石に加え三万石を加増されて九万五千石となり上田藩主となったが、引き続き沼田城を本拠とした。

真田信幸(信之)は西軍に付いた父との決別を家康に表す為に、昌幸らの助命を嘆願し名を信幸から信之に改めている。

義父の本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀州九度山へ流罪となる。

その後、父・昌幸が九度山で亡くなったおりに、信之は父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。

千六百十四年(慶長十九年)、豊臣対徳川の決戦・大坂の役が勃発するも真田信之は病気の為に出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣している。

大坂の役から八年後の千六百二十二年(元和八年)、信之は信濃国松代藩に加増移封され、十三万石(沼田三万石は継承)の所領を得るも、真田氏の本拠地上田を失う。

千六百五十六年(明暦元年)、長男・信吉や信吉の嫡孫で長男・熊之助が既に死去していた為、信之は自らの次男・信政に家督を譲って隠居する。

しかし千六百五十八年(万治元年)二月にその信政も死去した為、真田家では後継者争いが起こる。

長男・信吉の次男で沼田城主・信利が、信之次男の血統・幸道(信政の六男)の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。

最終的には幸道が幕閣の許しを得て第三代藩主となるも二歳の幼少の為に、九十三歳の高齢にも関わらず信之が復帰して藩政を執った。

この騒動により信利の領地は沼田藩三万石として独立し、松代藩は十万石となって真田騒動は落ち着くが、その数ヵ月後信之も死去して居る。



「この勝負、秀吉が明智殿と孫市殿を敵に廻した時点で、既に勝負が着いて居ったわ。」

家康は、しみじみと言った。

他家の人質の身上から、名実共に天下を手中にしたのである。

万感迫る思いが、家康の胸中に去来していた。


勿論、福島正則や盟友・加藤清正等の徳川家康に組した原因は、石田三成との確執ばかりではない。

福島正則・加藤清正共に豊臣秀次や小早川秀秋等と同様に、若い頃から北政所「おね(ねね)」の世話に成り、北政所を母の様に慕っている。

その長年連れ添った北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した事には疑念を持ち、豊臣秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった。

その事も、秀吉恩顧の諸大名が東軍・家康方に組した要因だった。

福島正則(ふくしままさのり)は、関が原の戦いで東軍側に立ち石田三成の率いた西軍を打ち破る大功を立てたが、それでも秀吉恩顧大名の側面も残していて豊臣家存続に腐心している。

もはや家康の時代になっているのに未だ豊家主筋を主張する淀君を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して二条城での会見に豊臣秀頼の上洛を実現させた。

この二条城に於いての家康と秀頼の会見直後に、不思議な事が起こる。

加藤清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も体調を壊して隠居を願い出るが許されずに飼い殺しの状態に置かれている。

この豊臣恩顧大名の相次ぐ死、徳川方の放った忍びの仕業とも大陸から持ち帰った風土病とも言われているが、何故か有力豊臣恩顧大名の当主が多かった。

大坂の陣では大阪方・秀頼に加勢を求められても拒絶したが、正則の恩顧大名の心情を疑われ東軍への従軍も許されず江戸留守居役を命じられた。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、それを機に正則はひたすら幕府への恭順を余儀なくされる。

しかし家康死後間も無くの正則居城・広島城の応急修理に「武家諸法度違反」の難癖を付けられ、咎められて安芸・備後五十万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩と越後国魚沼郡の四万五千石に減封される。

その後嫡男・忠勝が早世した為、正則は幕府に二万五千石を返上して僅か二万石を残すのみになるが、その二万石も正則の死去に際して遺体を幕府の使者が到着する前に火葬した事を咎められ没収され改易、福島家の後を継いだ正則の子・正利は三千石の旗本として家名を継ぐ事になる。


福島正則(ふくしままさのり)の盟友・加藤清正(かとうきよまさ)は、どうやら我輩の推察する所の豊臣秀吉=山窩(サンカ・サンガ)説の立証をしてくれそうな人物である。

智勇兼備の名将として知られている加藤清正(かとうきよまさ)だが、武将の側面として特筆すべき能力を備えていた。

清正は、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並び称される築城の名手としても知られているが、この辺りにその謎解きのヒントがある。

清正は、重臣に登用した飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆(あのうしゅう/石工衆)を用いて熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。

また清正は肥後国領内の治水事業にも意欲的に取り組み、その土木技術は非常に優れており肥後の領国(熊本県内)には現在も清正による遺構が多数存在して四百年後の現在も実用として使われている。

その清正の築城・土木技術は何処から来たのだろうか?

加藤清正(かとうきよまさ)は、鍛冶屋を営む父・加藤五郎助(清忠)と母・伊都の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。

この母・伊都が問題で、秀吉の生母である大政所の「従姉妹(あるいは遠縁の親戚)で在った」とされ、つまりは清正が秀吉とは血縁関係にあるところから同様に土木技術を持つ集団の長の一族だったのでは無いだろうか?

加藤清正(かとうきよまさ)は、藤原北家・利仁流斎藤氏の枝・加藤景廉(かとうかげかど)の末裔を自称するが、証明する証拠は乏しく出自は証明されていない。


千五百七十六年(天正四年)、豊臣秀吉が丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受けて木下姓を羽柴姓に改め織田家内で頭角を現した頃、加藤清正(かとうきよまさ)は秀吉の遠戚として秀吉に仕え、百七十石を与えられている。

秀吉の土木技術はつとに有名で、備中国に侵攻し毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込むなど、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺しと城攻めの名手・秀吉の本領を存分に発揮しているのだが、この中に若き日の加藤清正の姿が在ったのである。

千五百八十二年(天正十三年)明智光秀が本能寺の変を起こして織田信長が死去すると、秀吉の弔い合戦・山崎の戦いに清正も参加して光秀に圧勝する。

その翌年、柴田勝家と秀吉の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いで「敵将・山路正国を討ち取る」と言う武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人と並び称されて、三千石の所領を与えられている。

その後も秀吉の命に従い各地を転戦して数々の武功を挙げ、千五百八十二年(天正十三年)に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年の九州征伐の後に肥後の半国・十九万五千石を拝領して熊本城主となる。

肥後(熊本)の領国運営に力を入れ治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮していた清正だったが、秀吉の野心から朝鮮及び中華帝国の侵略を狙った文禄・慶長の役(朝鮮征伐)が起こり、清正は二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いて朝鮮へ出兵する。

清正は戦果を挙げつつ半島内部に進行し目覚まし働きをした清正は、その勇猛振りから朝鮮の民衆に「犬、鬼(幽霊)上官」などと恐れられた。

所が、清正は三番隊・小西行長と作戦面で対立、またこの朝鮮出兵の頃から元々肌が合わなかった文治派閣僚の石田三成との確執が明との和睦をめぐって顕著なものとなり、その対立が元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻されている。

この辺りの確執が、後の関が原で石田三成・小西行長vs福島正則・加藤清正の関が原対峙の芽と成ったのである。

慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、清正が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。

面白くない清正は五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶って三成に敵対、前田利家が死去すると福島正則や浅野幸長ら六将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こして家康の取り成しの為に失敗した。

しかしその翌年、三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに清正は九州別動隊として東軍に参戦、西軍・小西行長の宇土城や立花宗茂の柳川城を攻め、また蝶略して九州の西軍勢力を次々と破り、戦後の論功行賞で肥後の小西行長旧領を与えられ、加藤清正は肥後一国など都合五十二万石の大々名となる。

加藤清正もまた、主君・秀吉の正室・北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、不思議な事に淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した。

つまり秀頼の実父は別人の可能性があり、加藤清正は秀頼の出生に疑念を持ち、秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。


関が原戦後の清正は、旧主・豊臣家の存続にも腐心して忠義を尽くし、福島正則とともに二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した清正だったが、帰国途中の船内で発病し居城・熊本城で死去している。

清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だった為に幕府に何か難癖を付けられて幕府の命により改易になっている。


さて、豊臣家恩顧の大名は二代・徳川秀忠の代に大半が改易となるのだが、ただ一家だけしぶとく生き残った恩顧大名家がある。

阿波徳島藩・蜂須賀家である。

蜂須賀家は、尾張の国海東郡蜂須賀郷の独立系の小国人領主であって、勿論夜盗の棟梁ではない。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の「矢作橋の出会い」も、当時矢作橋その物が存在せず牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の「京・五条橋の出会い」同様に後の作家の創作で、生駒屋敷での出会いの方が信憑性が遥かに高い。

以外の有名な脚色・創作例は、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。


豊臣家恩顧の大名、それも秀吉が織田家で頭角を現す手助けをした有力な最古参の家臣だった蜂須賀家でありながら、唯一徳川家の粛清を逃れ生き残る離れ業を成し遂げた。

この事には、蜂須賀小六正勝の長男・蜂須賀家政の存在に負う所大である。

蜂須賀小六正勝は、嗣子・家政の正室には先祖からの縁戚である生駒家、生駒家長の娘を娶合わせている。

つまり蜂須賀家と豊臣家とは、縁戚でも有った訳である。

にも拘らず、豊臣秀吉の最古参臣・蜂須賀家が大々名になったのは意外に遅く、千五百八十五年(天正十三年)になった頃である。

蜂須賀小六正勝は四国征伐の後、播磨国龍野(二万石)を領していたが、秀吉の天下統一に於ける戦争に従軍し戦功を挙げていた。

雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後その戦功により秀吉より阿波国を与えられた。

しかし蜂須賀小六正勝は、高齢を理由に嗣子・家政に家督を譲り、長男・蜂須賀家政が阿波国の大半を賜った。

現代でも言える事だが、人生なんていずれにしても運否天賦である。

一歩間違えれば野垂れ死にしたかも知れない異能の者共が豊臣秀吉の所に集まって来て、主君・秀吉の出世と伴に頭角を現し、それなりに五万石、十万石、二十万石の所領を得てひとかどの武将になっていた。

人間の能力何てそんなに差がある訳ではないから、石田三成、福島正則、小西行長、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、大谷吉継など皆「従う相手が当たりだった」と言うべき幸運の持ち主だった。

となれば、秀吉が漸く信長の下で頭角を現した頃から従っていた蜂須賀小六正勝にして見れば、後輩の石田三成、小西行長、加藤清正、福島正則らに所領で追い抜かれた不満は在ったのかも知れない。

厳密に言うと、この入封当時に賜った石高は十七万五千石で、板野郡の一部が他領であり「正身の阿波一国ではなかった」と伝えられている。

その蜂須賀家は、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去し、翌年に前田利家が死去すると豊臣家内も混乱する。

石田三成嫌いの蜂須賀家政は、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに官僚派の石田三成に敵対し、嗣子の蜂須賀至鎮(よししげ)と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親徳川家康派の大名として活動している。

秀吉最古参の幹部である蜂須賀にして見れば、後からのし上がった石田三成に指図されるのは面白くなかった事は容易に想像できる。

その上佐和山城主・石田三成の石高は、徳島城主の蜂須賀家政よりも二万石ばかり上である。

千六百年(慶長五年)に到って石田三成主導の豊臣家と徳川家が対立を強めると、蜂須賀家政は否応なしの生き残りの選択を迫られる。

豊臣秀頼への忠誠という石田三成の掲げる大義名分と現実の徳川家康の力との板ばさみとなり、蜂須賀家政は領地を豊臣秀頼に返納し出家の上、高野山に入り表面上は中立の立場を取りながら、旗色を鮮明にしない。

豊臣家と徳川家の対立が決定的に成り関ヶ原の戦いが起こると、豊臣氏恩顧の大名である蜂須賀家政は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送り大坂久太郎橋・北国口の警護を担当して関が原への出兵を避けた。

しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、至鎮の妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)である事を理由に関ヶ原の本戦で東軍として関が原戦に参加して武功を挙げた。

この時点では、蜂須賀至鎮(よししげ)は所領失領の浪人状態で、蜂須賀家郎党を率いて家康の東軍に参加していた事になる。

この策謀が功を奏し、関が原戦後に家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、家康から旧所領・阿波一国を安堵されるが、家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を子・至鎮に譲って隠居する。

この辺りの蜂須賀家の動きを見ていると、秀吉は最古参の臣・蜂須賀家の処遇を誤ったのではないだろうか?

人間は成功によって慢心すると己だけの才覚と思い勝ちで、苦しい時に手助けした古参の部下の恩義を忘れ勝ちである。

前田家ほどとは行かなくても、せめて五十万石ほど家政に与えて秀頼の行く末を頼んでいれば、風向きは変わったかも知れない。

しかし秀吉は、腹違いの弟や甥を優遇して大身の大名として周囲を身内で固め、最古参の臣・蜂須賀家を中途半端に処遇して家康に取り込まれてしまった。

すっかり家康の傘下に入った蜂須賀至鎮(よししげ)は、千六百十五年(元和元年)の大坂の陣での活躍めざましく、二代将軍徳川秀忠より七つもの感状を受ける働きをした。

この武功に拠り至鎮(よししげ)は、淡路一国八万千石の加増を与えられ、都合二ヵ国二十五万七千石を領する大封を得て徳島藩・蜂須賀家が成立したのである。

家祖・蜂須賀小六正勝の子、蜂須賀家政が阿波の国を与えられて以来、徳島は十四代に亘って蜂須賀家に治められて来たのだが、蜂須賀家は一貫して領内の運営に力を入れ、中央の政治には色気を出さずに家を守る生き方をした。

領内の産業育成に力を入れた徳島藩では吉野川流域での藍の生産が盛んで、吉野川流域の水上運輸や海運も盛んで諸国との交易は隆盛を極め、山窩(サンカ・サンガ)川並衆出自の面目躍如である。

特に十代藩主・重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾により全国の市場をほぼ独占するに至った。

藍商人より上納される運上銀や冥加銀は藩財政の有力な財源となり、阿波徳島藩は石高二十五万七千と言われるが、阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石相当の江戸期においては群を抜く富裕な藩だった。

政争、政治的野心を戒めた阿波徳島藩は幕末の狂騒とは無縁のまま、蚊帳の外で王政復古(明治維新)を迎えた。

千八百七十一年(明治四年)徳島城は廃藩置県とともに徳島県なり、城郭が取り壊されて石垣と庭園とわずかに鷲の門が残されているのみである。

しかし、蜂須賀家の産業育成政策は徳島の繁栄を成し、江戸期には人口四十万人と屈指の大都市に成長し、廃藩置県後に成立した阿波商人達の私銀行も大阪や東京に次ぐ大資金量だった。

千八百八十四年(明治十七年)蜂須賀家は侯爵となり華族に列して家名を永らえている。


前述で秀吉恩顧大名の生き残りは「蜂須賀家だけ」と言ったが、実はもう一家芸州(安芸)広島藩・浅野家が残っている。

但しこの浅野家、開祖にあたる浅野長政と藩祖にあたる長政嫡男・浅野幸長親子共に徳川家康と親しく、秀吉恩顧大名の中では異色な立場に在った。

浅野幸長は母が信長の乳母であり信長とは乳兄弟になる尾張織田氏・織田信長重臣の池田恒興(いけだつねおき)の娘を正室に迎えている。

この池田恒興(いけだつねおき)の次男・池田輝政(いけだてるまさ)は、浅野幸長同様に徳川家康に可愛がられ、関が原の戦いでは家康方東軍に与して播磨国姫路五十二万石に加増移封され、池田家は姫路城主として明治維新に至るまで生き残っている。

浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)は、豊臣秀吉の正妻・「おね(ねね・高台院)」の父親・杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先で、おね(ねね・高台院)を養女として預けた家である。

「おね(ねね・高台院)」はこの浅野家の養女時代に、主君・織田信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。

木下藤吉郎が織田軍団の中で頭角を現して羽柴秀吉を名乗る武将になると、信長の命で浅野長政は秀吉にもっとも近い姻戚として秀吉の与力と成る。

千五百七十三年(天正元年)の近江国・浅井長政攻めで活躍したのを皮切りに織田信長の直臣ながら秀吉の与力として有力武将の地位を固めて行く。

本能寺の変が起こり主君・織田信長が明智光秀に討たれると、信長の死後は秀吉に仕え賤ケ岳の戦いや九州征伐などで武功を挙げ、秀吉が天下を掌握して本格的に豊臣政権が誕生すると、九州征伐の功により若狭国小浜八万石の国持ち大名となった。

また浅野長政は行政手腕にその卓越したものがあり、京都所司代を務めたり太閤検地を主導して行うなど実務面でも力量を発揮、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵でも武功を挙げて、秀吉より甲斐国二十二万石を与えられ、豊臣政権下の東国大名の取次役を命じられている。

浅野長政は、豊臣秀吉の晩年には徳川家康の他、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、小早川隆景らの五大老に次ぐ豊臣政権の五奉行に、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家らと共に任じられて政権運営に参画し深く関わっている。

長政は、嫡男・浅野幸長に家督を譲って隠居した。

この隠居に際して長政は、隠居料として常陸国真壁に五万石を与えられた事が、後の大事件「元禄・赤穂事件」に繋がるのである。

秀吉没後の関が原の戦いでは、長政は恩顧大名でありながら家康の嫡男・徳川秀忠に属して徳川方に参軍し、長政嫡男・浅野幸長は徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制し、戦勝に貢献している。

その功により浅野幸長は、家康から紀伊国和歌山に三十七万六千石を与えられ初代紀州藩主となるが、子供の居なかった浅野幸長の弟・浅野長晟(あさのながあきら)が紀州藩浅野家の跡を継いで、福島家の改易に伴い浅野家は芸州(安芸国)広島に加増転封され四十二万石を拝領する。

天下分け目の関ヶ原役で東軍(徳川方)に味方して論功行賞を受け、安芸・広島に入封していた豊臣恩顧の大名・福島正則(ふくしままさのり)が水害に見舞われ、広島城の石垣の破損修理を幕府の許可無く施行し武家諸法度違反として改易される。

その安芸・広島に豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟・浅野長政(あさのながまさ)の二男・浅野長晟(あさのながあきら)が入封して安芸・浅野広島藩が成立する。

成立した安芸・広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の大部分にあたるその藩領は安芸一国と備前八郡の計四十二万六千石強の大藩知行だった。

浅野長晟(あさのながあきら)の広島入封に関しては、中国地方の太守であたった毛利氏を防長二ヵ国に押し込め、これを可愛がって家康の三女振姫と婚姻させていた長晟(ながあきら)の浅野家に監視させる目的もあった。

その後の安芸広島藩・浅野家は、一族の播磨赤穂藩主・浅野(内匠頭)長矩が後に「忠臣蔵の仇討ち」で有名となる江戸城中で吉良(上野介)義央に対して刃傷に及び、即日改易され切腹となる大事件を起こすなどに見舞われるも連座を逃れて生き残り、明治維新後の廃藩置県まで藩を永らえた。

尚、浅野家の東京移住阻止を目的とする武一騒動が起きて藩は解体されるが、浅野家は侯爵となり華族に列している。


浅野長政・浅野幸長親子が東軍・徳川方に参軍した事については石田三成との不仲説もあるが、小早川秀秋同様にその出自が淀君よりも「おね(ねね・高台院)」に近かった事がその動機ではないだろうか?

天下分け目と言われた関が原の戦いでは、豊臣家は一大名に縮小されかろうじて生き残ったが、この豊臣家の衰退の遠因は「明智光秀と雑賀孫市を敵に回した事にある」と我輩は思いを馳せている。

明智光秀は、信長新帝国の宰相に擬した男である。

表向きには然したる活躍はしなくても、信長は孫市を「百万石に相当する」と、その力量を買っていた。

その両者を、秀吉は気付きもせずに敵に回していた。

そんな豊臣家に先は無い。

秀吉は、目先の天下に目が眩んだのである。



千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。

この春慶長八年、応仁の乱以来長く続いた戦乱の世が、徳川家康のほぼ天下統一で、やっと落ち着こうとした時「かぶき踊り」は生まれた。

徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府が成立 、次いで豊臣秀頼が内大臣に任じられた年、旅芸人「出雲の阿国一座」が京の都で「かぶき踊り」を踊った事に、歌舞使の歴史は端を発する。

勿論雑賀孫市率いる雑賀党の残党一行の隠れ蓑だった。

今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした曇り空、そこかしこに泥濘(ぬかるみ)が点在している。

「ゲコゲコ」とおなじみの泣き声も、うるさい程に聞こえてくる。

この季節のありふれた日常の風景である。

うっとうしいが、この季節があるからこの島国は緑が豊かなのだ。

豊富にあると、当然の様で有難味が湧かない。

つまり水の貴重な国の気持ちが判らない。

今頃河内雑賀郷は、田の泥でも捏ねているだろうか。

それとも、もう苗を植え始めているのか?

雑賀孫市にはもう帰る処は無かったのに、懐かしそうに故郷を思い出していた。

名古屋まで出張って、阿国踊りの幕間(まくあい)だった。

阿国は「かぶき踊り」を始めた当時、三十路近くのまさに女盛りに成っていた。

阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、当時のカブキ者(傾いた者)の衣装やふるまい格好を取り入れた男装をして茶屋の女「おかか」のもとに通うさまを見せ、当時最先端の演芸を生み出した。

この美女が男装、相手役の男性を女装させると言う異様な出で立ちで舞い踊る「かぶき踊り」のうわさはたちまち京の都中に広がり、大ブームを起こす。


飛鳥期の「神前娼婦(巫女)」も簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)だった。

何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、貴人・官人は現支配者として朝廷から赴任して来た相手である。

鎮守氏神の神官に納まった旧支配者が一定の勢力を維持するには、新たに赴任して来た貴人・官人の御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。

その神前娼婦(巫女)の進化形ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)が、平安期に活躍した勘解由小路(かでのこうじ)党の遊妓・「白拍子」だった。

その遊妓・「白拍子」の遊芸や神楽舞(かぐらまい)から発展したのが、室町期の足利文化として育った「能楽(のうがく)」や「狂言(きょうげん)」、そして戦国期の「阿国歌舞伎」だった。

つまり「阿国歌舞伎」の出雲の阿国は、歌舞音曲を用いて旅回りをしながら、情報収集を為すハニートラップ(性を武器にする女スパイ)だった。

その阿国を使ったのが、諜報活動を能(よ)くする在地の勘解由小路党の草・雑賀鈴木党で在った可能性は、極めて高い。

日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中の諜報機関で採用されている最も有効な手段である。


阿国かぶきの出雲の阿国は、雑賀孫市(さいがまごいち)率いる雑賀党の手の者で、孫市の女である。

言うまでも無く雑賀党の出自は在地の勘解由小路党の草であり、阿国の裏の顔は、「全国を股にかけた女諜報員」と言う訳である。

美女が男装で歌い踊るのが観客に珍しく、たいそうな評判を呼んだが、相手役の男性を女装させる事で、「阿国かぶき」と呼ばれた。

阿国は孫市の女で有り、女装と化粧は孫市が世を忍ぶには都合が良かったのだ。

出雲の阿国は、出雲大社所属の鍛冶方「中村三右衛門の娘」と言われている。

正式な鍛冶方は渡来系占有金属技術を持つ百姓身分の氏族であるから勿論中村姓を名乗っていて、その娘・阿国の名乗りは「中村国ではないか」と思われる。

また、こうした渡来系金属技術者の別の顔は、陰陽修験の一郭を占める鉱物山師であると同時に諜報活動者である場合が多かった。

この中村三右衛門の仕事・鍛冶方が曲者で、元々鍛冶師・踏鞴(たたら)師は修験の出身であり、雑賀や根来とは深い関わりがある。

上流社会の歌舞音曲から見世物小屋の軽業に至るまで、実は修験道武術がルーツであり、その当初の主なる目的は密偵だった。


遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて源義経の愛妾・静御前で有名な平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

それと言うのも、元々俘囚身分の蝦夷族社会には自然信仰と群れ婚(集団婚)の習俗が残っていて共生村社会を営んでいた経緯が在ったから、それが容易だったのである。

そうした経緯を踏まえて考えれば判る事だが、出雲阿国は最初出雲神社の巫女だったが神社修復の勧進(寄付集め)の為に旅回りの巫女踊りを始め、「そこから大衆演劇・歌舞伎踊りに到った」とされる。

そして阿国が評判を得たのがツンツルテンの衣装を着た「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りであった。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの時代に衣の重ね着は在っても下着は無い。

それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、歌舞伎踊りで出雲の阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。

そうとするなら、現在の映画やテレビドラマのような優雅な踊りではなく、下着を身に着ける習慣がないノーパンティ時代に丈が足りない衣装で腿も露(あらわ)に踊った事に成る。

もっともこれを史実通りに映画化すれば、今の時代では十八禁指定を採らなければ成らないだろう。

従って現代歌舞伎に於ける見顕(みあらわ)し、仏倒(ほとけだお)れ、引き抜き、早替り、トンボ(を切る)、戸板倒し、宙乗(ちゅうの)り、荒事(あらごと)などの大技もその修験武術の流れを汲む忍び術の名残と言える。

阿国=中村国であるなら現代歌舞伎の名門・中村屋一門の祖が鍛冶方・中村三右衛門で、確証はないが出雲阿国流の末裔かも知れない。


勿論、雑賀者の女諜報員阿国には本来の出自とは違う創作の公式プロフィールが用意される。

一説には、阿国は出雲大社の巫女をしていたが、出雲大社修繕の為に諸国を勧進し、浄財(寄付)を集める手段として「巫女姿で神楽舞や念仏踊りを舞い踊る様になり、やがて男装で踊る様になって、歌舞伎踊りと呼ばれた」とされる。

また一説には「阿国は、河原者であった」とも言われるが、定かな事は明らかではなく、今日までその「いずれかが事実」と信じられ、まさか雑賀の女諜報員とは見抜く者も居ない。

勿論、笛太鼓の音曲に拠る歌と舞踊りの「歌舞の女性」を歌舞伎(かぶぎ)と言うが、かぶきは「傾ぶく」で、常識外れをも意味する。

阿国のかぶきは、実を言うとかぶいては居ない。

原点にあったのは、「かぐら(神座・かみくら)踊り」であり、勘解由小路党の「白拍子」衣装の進化形だった。

公家武家社会には馴染みの「白拍子の男装姿」が、後の阿国の時代の「特に庶民」には異様に見え、相当傾ぶいて受け取られたのである。

上流社会の歌舞音曲から見世物小屋の軽業に至るまで、実は修験道武術がルーツであり、その当初の主なる目的は密偵だった。

従って現代歌舞伎に於ける見顕(みあらわ)し、仏倒(ほとけだお)れ、引き抜き、早替り、トンボ(を切る)、戸板倒し、宙乗(ちゅうの)り、荒事(あらごと)などの大技も、修験武術の流れを汲む忍び術の名残と言える。

旅回りの小屋掛け興行が原点だから、観客席は野っ原にムシロ敷きになる。

それで別名を、「芝居」と言った。

この頃は阿国の歌舞伎踊りも、同じ修験諜報員の仲間である能舞台などで行(おこな)われており、歌舞伎座の花道は「下手側が本花道、上手側が仮花道である事」なども、「能舞台の造りから来ている」と考えられる。

芝居の演目も、長期に渡り重要な民意誘導手段である。

従って「草紙作家、芝居作家」も、勘解由小路党の諜報術の一つだった。

歌舞伎の演目、「勧進帳安宅関」も、元を正すと伊勢(三郎)義盛から父吉次への文に拠る報告書が脚本のネタ基だった。

つまり後の世に「悲劇のヒーロー義経」の人気を世に知らしめ、頼朝を悪役に仕立てたのは、そうしたメディア・コントロール・プロジェクト組織の仕業だったのである。


これがしばし反幕府・反体制の演目に成るのは、時の権力が必ずしも皇統を優遇していないからである。


昨日までどんよりと曇っていた花曇の空が、今日はスッキリと晴れ渡っている。

比叡山松禅寺の南光坊(明智光秀)の宿坊にヒョッコリと孫市が現れ、久しぶりに顔を合わせた南光坊(光秀)と孫市は取り留めない昔話に花が咲いた。

「野心と言うものは、棄てて見ると安堵するものよ。」

「如何にも、世を棄てるもまた善しじゃ。」

静かな時が流れている。

「最後までお館様には勝てなんだ。」

「信長公か・・・たまげたお人じゃった。」

今はもう二人とも修羅場からは遠退いたのだが、何とした事か、その平和な日々に本物の「生きてる実感」が有った。

雑賀孫市からも、織田信長に対する恩讐は消えていた。

「所で、阿国殿は息災か?」

「あれも年齢(よわい)を重ねたわ。」

結局この時の顔合わせが、最後になった。


阿国と旅をして、かれこれ十二年になる。

孫市は、旅先の越前で臨終の時を迎えていた。

従う一座は三十名ほどだった。

いずれも雑賀の手錬(てだれ)ばかりで、今は天海(光秀)の手先をしている。

最早故郷の雑賀郷に帰り住む事は適わない。

権力におもねる事無く、「誰にも飼われていない」と言うのが、雑賀孫市率いる雑賀党の誇りだった。しかし、どうやらこの自主独立精神が通用する時代は、自分の代で終わっていた。

天海僧正(光秀)と、頭(かしら)にした孫三郎重朝(しげとも)に、雑賀衆の行く末は託していた。

重朝(しげとも)には、自主独立には拘らず天海の伝手(つて)で然る所に仕官せよ」と命じてある。

激動の時代だった。

雑賀孫市は、一生を修羅に生きた。

平穏で温々(ぬくぬく)とした、違う世界が有る事は知ってはいたが、修験郷士の雑賀孫市に、そうした卑怯な生き方は出来なかった。

哀しくも、雑賀の頭領家に生まれた者の定めである。

孫市が生きていた時代の事は、何が在ったか全て把握していた。

それが影人、雑賀の頭領・雑賀孫市の仕事だった。

二人の思惑は一致していた。

これほど頼れ充てに成る者を友に得る事は、それ自体幸運以外の何者でもない。

彼の存在は、天海僧正(光秀)に取っても、優に百万石の味方に相当する存在だったのである。


考えてみれば、引き寄せられる様に二人は出会った。

それも、勘解由(かでの・妻木)家の娘が「光秀の妻だ」と言う。

雑賀孫市(鈴木重意・しげおき)は初めて明智光秀に会った時、何故か懐かしさを感じた。

血統が呼び合うのか理屈抜きに気を許せ、孫市は知らぬ内に光秀を助ける仕事をしていた。

金でも宗教でも無い。

ただ湧き上がるような血の思いが、使命感としてそれをさせていた。

孫市の生涯は自主独立・反権力を貫き、その信念を曲げる事は無かった。

ただ、友情の相手と見込んだ「義」の為に、光秀だけには勝手に尽くしていた。

ふと、立ち止まって人生を振り返ると、暗たんたる思いが湧き上がって来る。

既に一族の大半を失っていた。

歳月と言うものは、人間の思惑などは関わりも無く流れて行くもので、時には残酷でさえある。

思えば、この血生臭い一生は何の為だったのか?

孫市が、雑賀郷に自由の楽園建設の夢を信じるが故に走り続けた結果が、この有様だった。

本来男は戦いの場(仕事)を生きる動物で、それを失ったら急速に生命力を失って行く。

覇王病に陥る権力者は何時の時代でも後を絶たない。

しかし「自由の楽園」は夢でしかないのである。

何が男達を駆り立てるのか?勿論それは自分を確かめたい衝動に突き動かされての、「挑戦する事」そのものである。

度胸一つで伸し上がる絶好の機会、下克上の戦国期だった。

支配地の拡大も一国一城の国取りも、天下取りも、男達は群れのボスを目指す本能で「挑戦する事」に駆り立てられる。

だが、全ての武士が同じ思考を持っているとは限らない。

そこが人間の面白い所だが戦国期に在って一国一城の主(あるじ)に相応の実力を持ちながらも、それとは別の思いで生きようとする者もいる。

雑賀孫市は、最後までこの乱世を自由に生きたのである。


今、漸く雑賀孫市に、御国との安らぎの日常が訪れていた。

戦国の乱世を己の信ずるままに、もう充分に生きたから悔いは残らない。

既に自分の入る余地のない処で時代は動いていたが、此処に到って孫市の心境には心残りはない。

雑賀孫市の人生は波乱に満ちていたが、それも、もう終わりでこの世に未練はなかった。


「孫市は居るか?」

ふと、縁側から孫市に明智光秀の声が聞こえた。

「光秀か、久しいのぅ。」

孫市は、薄れ行く生気の床で光秀と話していた。

「お主も息災か、孫市?」

「馬鹿を申せ光秀、この有様じゃあの世へ旅立つのも長くは無いわ。先に行くぞ。」

「おぅ、気が向いたら尋ねる故あの世で待って居よ。」

この期(ご)に及んで、信長との初見の情景が懐かしく浮かんで来る。

孫市は「あ奴ほどの男は、二度と出まい。」と呟いた。

傍に居た阿国が聞き咎め、「何をおっしゃったのですか?」と尋ねたが、孫市はもう事切れていた。



後世に成って見ると、ただ「魅力」と言う点なら織田信長の存在は恐ろしく魅力的である。

明智光秀も雑賀孫市も、信長の毒のある鮮烈な魅力にはとても叶わない。

家康など格好悪くただひたすら子造りと長生きに励んだだけで有る。

ただし、信長のその魅力は、高みの見物に拠る「敗者の事に思いを馳せない」と言う片手落ちな前提を持っての事である。

気楽な物語として捉えれば、織田信長の生き方は、胸が空くような格好が良い事だが、現実は大量殺戮者である事には間違いない。


徳川の天下が確立したこの頃には、家康は既に将軍職を秀忠に譲って大御所を名乗っていた。

余談だが、豊臣秀頼に嫁いだ千姫は秀忠と於江与の子であるが、落城の際に助け出されている。

大阪冬の陣の講和条件である堀の埋め立てなど、光秀のアドバイスであった。


阿国歌舞伎は人気をはくし、世に受け入れられた。

しかし、人気故に新興の遊女たちの間に、いち早くより色気の多い模倣が普及し、官能的な歌舞伎が出現して「遊女歌舞伎・女歌舞伎」と呼ばれるように成った。

折りしも幕府は、儒教・儒学(朱子学)を統治の指針に採用した。

そう成ると、いかがわしい出し物「遊女歌舞伎・女歌舞伎」は容認できない

その為、千六百二十九年(寛永六年・三代将軍・徳川 家光の頃)に、本家の阿国の女歌舞伎諸共「風紀を乱す」として女性を舞台に上げる事を、幕府に禁止されてしまった。

やがて、美少年を中心とした「若衆歌舞伎(男色の風俗を増長させるとして禁止)」の時代を経て、「野郎歌舞伎」と呼ばれ、女形(おがた)と呼ばれる女装の男性が出演する現代歌舞伎の形式が定着して行った。

江戸期に入り世の中が安定して来ると、歌舞伎・猿飼などは「河原者」と呼ばれて差別され、士農工商以下の身分へと落とされて行く。

そこには、体制から外れた彼らの「裏の顔を封じ込めよう」と言う、幕府の思惑が在ったに違い無い。



織田信長の兄弟で、気性激しく個性的な信長と上手く行っていた弟は織田信包(おだのぶかね・信秀の五男)只一人である。

母は兄・信長と同腹の土田御前で、お市の方(秀子)も同腹と伺える。

織田家臣団の中では信長も認める有能な武将で、唯一織田一族の重鎮として各地を転戦し厚遇されている。

信包(のぶかね)は兄・信長に対して一定の発言力もあり、浅井長政の近江・小谷城を包囲、浅井長政の自害により妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護している。

織田信包(おだのぶかね)は北伊勢の支配を目論む兄・信長の命で北伊勢を支配していた藤原南家出自・鎌倉有力御家人・工藤祐経(くどうすけつね)の三男・祐政(すけまさ)を始祖とする長野(工藤)氏の養子として入り、長野(工藤)氏の第十七代当主となって一時長野姓を名乗ったが、同じ兄の命で長野氏を見限り織田姓に復帰している。

その後千五百七十五年(天正三年)の越前一向一揆や千五百七十七年(天正五年)の雑賀党攻めに参戦している。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変の時点では兄・信長の長男・織田信忠の補佐を任されていたのだが、兄・信長も信忠も討ち死に失っている。

本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)が雌雄を決した山崎の合戦に、織田信包(おだのぶかね)は羽柴方に付き、豊臣秀頼・大阪方西軍の石田三成と東軍の徳川家康の合戦、関ヶ原の戦いに際しては西軍に属して戦っている。

信包は関ヶ原敗戦後も家康の温情で罪を問われず、その後も信包は秀吉の嫡男・豊臣秀頼を補佐し続けたが、千六百十四年(慶長十九年)大坂冬の陣直前に豊臣家滅亡を見る事無く大坂城内で急死した。

大乱の戦国期(安土桃山)に在って、しかも織田信長の弟でありながら討たれたり断罪されたりする事無く、七十二歳と言う当時としては長寿を全うした所に、織田信包(おだのぶかね)の誠実無欲な人柄を感じる。


夫・浅井長政の近江・小谷城落城と長政の自害後、助け出されて兄・織田信包(おだのぶかね)に茶々、初、於江与の三姉妹と伴に保護されたお市の方(おいちのかた/秀子)は、兄・信長の命により近江・小谷城(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚している。

織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。

その後姉川の戦いで勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を残して滅亡する。

近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市との間に出来た三姉妹の長女が、通称淀君(よどぎみ)と呼ばれる女性である。

この通称・淀君(よどぎみ)の本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)、朝廷よりの賜名は浅井菊子(あざいきくこ)、官位は従五位下とされ、淀君(よどぎみ)または淀殿(よどどの)は後の江戸期に便宜上呼ばれる様になった名である。

勘違いして貰っては困るが、妾室の淀君(よどぎみ)が例え正妻で在ったとしても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、淀君(よどぎみ)の名乗りは官賜の浅井菊子(あざいきくこ)か実家の浅井茶々(あざいちゃちゃ)である。

賜名の菊子(きくこ)は公文書の署名のみで、普段は生涯茶々(ちゃちゃ)で通している。

つまり茶々(ちゃちゃ)本人は淀君(よどぎみ)の名を使った事も呼ばれた事も無い。

織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、織田信包(おだのぶかね)の下、厚遇されて九年余りを尾張国で平穏に過ごしている。

お市の方(おいちのかた/秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う秀吉に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。

しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。

この数奇な運命の三姉妹、その後も波乱含みの人生を送り、豊臣秀吉側室・淀殿(淀君/浅井茶々)・京極高次正室(常高院/浅井初)・徳川秀忠正室(崇源院/浅井お江与)に納まったが、豊臣秀吉の側室・淀殿(淀君/茶々)に到っては息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康と対立、大阪城で三度目の落城に合い息子・秀頼と伴に自害している。

秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間には、秀頼の前に長男・鶴松が居たのだが病で夭逝している。

秀頼は、秀吉の二男に当たるのだが、疑問が残るのは秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間に出来た二人の子供・捨(鶴松)と拾(秀頼)が「本当に秀吉の子だろうか?」と言う素朴な謎である。

長年連れ添った正妻・北政所「おね(ねね)」との間だけでなく、数多く居た側室(そばめ)との間にもいっこうに子を為せなかった秀吉が、茶々(ちゃちゃ)を二度も懐妊させ得たとは到底考えられない。

それに捨(鶴松)と拾(秀頼)の本当の父親を大野治長とする説、また石田三成とする説が有力で、片桐且元説も在る。

秀吉本人もその事は承知で、それでもなお茶々(ちゃちゃ)の母・市に憧れていた事や、茶々(ちゃちゃ)の産みし捨(鶴松)と拾(秀頼)が、即ち主家織田の血を引く事で、世継ぎとして満足していたのかも知れない。

この捨(鶴松)と拾(秀頼)の父親別人説を豊臣恩顧大名達が百も承知していた為に、関が原の合戦の折、大阪冬の陣・夏の陣に多数の恩顧大名が「東軍(家康方)に廻ったのではないか」と言う見方も在る。

正妻・北政所「おね(ねね)」が豊臣家滅亡を黙認してまで身内の子飼い大名達を東軍に廻らせた事も、父親別人説に信憑性を持たせている。

まぁ血統至上主義の世に在って、豊臣秀吉は徳川家康との子「作り合戦に負けた」とも言えるのである。



茶々(ちゃちゃ)の産みし拾(秀頼)は成長し、徳川家康の三男とされる秀忠と江(ごう)との子・千(せん)を正妻に娶る事になる。

浅井江(あざいごう)は、徳川秀忠への輿入れが再々婚に当たり、つまり結婚は三度目になる。

江戸末期まで、氏族の女性は嫁いでも実家の姓を名乗った。

千(せん)は徳川秀忠と浅井江(あざいごう)の娘であるから、正式な名乗りは徳川千(とくがわせん)である。

大名家の姫であるから通称が千姫(せんひめ)である。


千五百九十七年(慶長二年)四月十一日、父は二代将軍・徳川秀忠、母は継室の浅井江の下に長女として、千姫(せんひめ)は山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。

浅井江(あざいごう)は、徳川秀忠への輿入れが再々婚に当たり、つまり結婚は三度目になる。

千六百三年(慶長八年)に千姫(せんひめ)は七歳で豊臣秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局(異母姉/浅井長政の娘)と伴に大坂城に入る。

その後豊臣家と徳川家は対立し、千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。

この時千姫(せんひめ)は十九歳、秀頼との間に実子は無かった。

この救出時、家康は「千姫を助けた者に千姫を与える」と述べたされ、千姫事件(せんひめじけん)の火種とされる。


その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。

千六百十六年(元和二年)、千姫(せんひめ)は徳川家康重臣・桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。

この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫(せんひめ)を強奪する計画を立てている事が発覚する。

直盛直盛は自害(もしくは家臣により殺害説在り)、坂崎氏は改易処分となる「千姫事件」を引き起こす。


大坂夏の陣の大坂城落城後、元号を元和(げんわ、げんな)に変え同千六百十五年は元和元年に改められる。

千姫(せんひめ)は大坂城落城の翌年、千六百十六年(元和二年)桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚する。

この時、津和野藩主・坂崎直盛(坂崎出羽守/宇喜多忠家の長男)が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てている事が発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった。

坂崎直盛は家康の依頼を受け、火傷を負いながら千姫を救出したにも関わらず、その火傷を見た千姫に拒絶された事で、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている。

この辺りは俗説多く、直盛の火傷には疑問があり、家康が「千姫を助けた者に千姫を与える」と述べた事実はあるが、特に直盛に依頼した訳ではないとされる。

またこの救出劇、実際には千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けたとする説が有力とされる。

つまり坂崎直盛は、決死の働きで千姫(せんひめ)を救出したのでは無く「脱出して来た千姫一行にめぐり合っただけ」と言う事に成る。

別の説として、秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいた。

処が突然、直盛に話が無く姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まった為、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる説も在る。

この千姫を強奪する坂崎直盛の計画は幕府に露見、幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかける。

だが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否したため、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したとも伝わる。

他にも、立花宗茂の計策により、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の諫言に感じ入って自害したとも言われており、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。

大名の坂崎氏は、この騒動の結果断絶したが、次男・重行の孫には中村家初代の中村重豊が中村氏として坂崎氏の血脈を繋いだ。



千六百十六年(元和二年)九月二十六日に、千姫(せんひめ)は桑名城に着いた。

この時千姫(せんひめ)は、父・徳川秀忠から「十万石の化粧料を与えられた」と伝えられる。

翌年の千六百十七年(元和三年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には八月二十八日に桑名を発って姫路城に移って、千姫(せんひめ)は播磨姫君と呼ばれるようになる。

翌千六百十八年(元和四年)には長女・勝姫(後に池田光政正室、池田綱政生母)、千六百十九年(元和五年)には長男・幸千代が生まれた。

この千姫(せんひめ)の結婚生活、順調に行くかと想われたが、千六百二十一年(元和七年)に本多幸千代が三歳で没した。

続いて、千六百二十六年(寛永三年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続いた。

この不幸の連鎖に、前夫豊臣秀頼の呪いを噂されるなどして千姫(せんひめ)は本多家を娘・勝姫と共に出る事となった。

千姫(せんひめ)は江戸城に入り、出家して天樹院と号し、娘・(ほんだかつ)とニ人で竹橋の邸で暮らした。

千六百二十八年(寛永五年)に勝姫(本多勝)が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(せんひめ)は一人暮らしとなる。

千姫(せんひめ)は池田家に嫁いだ一人娘の事を心配し、「天樹院書状」を送っている。

千六百三十二年(寛永九年)父・秀忠が薨去する。

千六百三十九年(寛永十六年)光政と勝姫の嫡男・興輝(おきてる)、後の池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。

千六百四十四年(正保元年)、千姫(せんひめ)は迷信を避ける為に江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。

この事で千姫(せんひめ)は、大奥で大きな権力を持つようになったとされる。


紛らわしい放しだが、秀忠の三女に千姫の娘・本多勝(ほんだかつ)と同じ名前の実妹・勝姫(徳川勝)が居る。

その妹・勝姫(徳川勝)が従兄で越前国福井藩主の忠直(伯父・結城秀康の嫡男)と結婚していた。

その後勝姫(徳川勝)の夫・松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

松平忠直配流の翌千六百二十四年(寛永元年)、忠直嫡男・松平光長は越後高田藩二十六万石弱に移される。

入れ替わりに英勝院の縁によって越後高田藩で別家二十六万石弱を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が五十万石で後釜に移封され、福井藩の主な家臣、藩領を継承する。

千六百五十五年(寛文五年)この忠直弟・松平忠昌の子で福井藩主・松平光通と越後高田藩・松平光長の娘・国(国姫)との間に婚姻の話が持ち上がる。

天樹院・千姫(せんひめ)は、この婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(越後高田藩主・松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行っている。

千六百五十七年(明暦三年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

天樹院・千姫(せんひめ)は千六百六十六年(寛文六年)、七十歳で江戸に死去した。


千姫事件に関与した柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、徳川家剣術指南役として仕えた剣術家である。

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の父は、大和国柳生庄二千石の領主・柳生宗厳(やぎゅうむねよし/石舟斎)で、宗矩(むねのり)はその五男として生まれる。

宗矩(むねのり)の父・宗厳(むねよし/石舟斎)は、千五百六十五年(永禄八年)に兵法家・上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でも在った。

母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)で、兄に厳勝、宗章らがいる。

宗矩(むねのり)少年時代、豊臣秀吉の太閤検地の際に隠田の露見によって父・宗厳(むねよし/石舟斎)が失領し、宗矩(むねのり)も牢人となる。

宗矩(むねのり)は仕官の口を求め、秀吉の北条攻めに陣借りで加わるも適わず、浪々を続けていた。

千五百九十四年(文禄三年)、宗矩(むねのり)は徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父・宗厳(むねよし/石舟斎)の推挙により、漸く二百石で家康に仕える事と成る。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、宗矩(むねのり)は家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領・大和国柳生庄二千石を取り戻す事に成功する。

翌千六百一年(慶長六年)に宗矩(むねのり)は、後の二代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり同年九月十一日に千石加増、合わせて三千石の大身旗本となる。

千六百十五年(慶長二十年)の大坂の役で宗矩(むねのり)は将軍・秀忠の下で従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者七人(人数に異同あり)を愛刀で瞬く間に倒したと伝えられる。

なお、宗矩(むねのり)が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの大坂の役の時だけである。


大坂の役の翌年、千六百十六年(元和二年)には、宗矩(むねのり)の友人でもあった坂崎直盛(出羽守)の反乱未遂事件(千姫事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。

なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰した為、その約束で直盛の説得を行った宗矩(むねのり)は結果的に直盛を陥れた事になる。

宗矩(むねのり)はそれを終生忘れぬ為なのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。

これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。

宗矩(むねのり)は坂崎の嫡子平四郎を引き取って二百石を与えて大和に住ませ、また二人の家臣を引き取り、その内一人には二百石を与えている。

千六百二十一年(元和七年)三月二十一日、宗矩(むねのり)は後の三代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。

その後、三代将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、千六百二十九年(寛永六年)三月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。

さらに宗矩(むねのり)は千六百三十二年(寛永九年)十月三日には、三千石を加増された後、同年十二月二十七日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。

宗矩(むねのり)はその後も功績をあげ、千六百三十六年(寛永十三年)八月十四日の四千石加増で計一万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩する。

さらに晩年に至る千六百四十年(寛永十七年)九月十三日、五百石の加増に続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分二千石の加増もあり、所領は一万二千五百石に達した。

一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、宗矩(むねのり)ただ一人である。

この寛永期前半頃、宗矩(むねのり)は友人の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)を三代将軍・家光に推挙している。

三代将軍・家光に拝謁の結果、宗彭(そうほう)は宗矩(むねのり)の下屋敷に逗留し家光に近侍、お召しに応じて禅を説いた。

千六百四十六年(正保三年)、宗矩(むねのり)は江戸麻布日が窪にある自邸で死没する。

死後、その宗矩(むねのり)の死を惜しんだ三代将軍・家光の推挙により同年四月に従四位下を贈位された。

一万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かった事を示すものと言える。



さて、お福(斉藤福)のその後である。

家康が関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃に、暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福にやがて転機が訪れ、家康の勧めで林正成(はやしまさなり)と言う武将に嫁ぐ事に成った。

この婚儀で、お福の運命が大きく変わる事になるのだ。

お福の相手は林正成(はやしまさなり)と言う武将で実は浪人していたのだが、家康がある事で恩義を感じ心に止めていた男だった。

そのある事とは、林正成(はやしまさなり)が、関ヶ原の戦いの折に平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した男である。

その功労者・林正成(はやしまさなり)が、小早川氏が幕府に処分され、家が断絶すると、浪人となって不遇を囲っていた。

義に厚い家康は、その林正成の身の振り方を考えていたのだった。

織田信長の直臣だった美濃国・国人領主・稲葉一徹と徳川家康には、姉川の合戦以来の親交がある。

家康の意向もあり、お福は美濃国の稲葉重通の養女となる。

この稲葉家養女は林 正成(はやしまさなり)を引き立てる手の込んだ複線で、養女と成ったお福が正成(まさなり)を稲葉家の婿に迎える。

お福の斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁があり、斎藤利三の後室は稲葉一鉄の娘・お安(あん)で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘のお福(春日局)らを産んだ。

お福(春日局)は斉藤利三とその後室・稲葉安(あん)との間に出来た娘である。

斉藤利三は一時稲葉家の家臣に成っていた事が在り、稲葉(一鉄)良通と父・斉藤利三の代で喧嘩別れしていたのだが、稲葉家の当主・稲葉貞通は家康の依頼を受け入れて林正成(はやしまさなり)の大名家を稲葉姓で起こす手助けをした事になる。

林正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ小とは言え大名に列した。

福は母方の伯父・稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第三代将軍・徳川家光の乳母となって権勢を誇ったのだが、この稲葉家とお福のその後の数奇な運命は、後ほどタップリと披露する事になる。


その前にここで、美濃国稲葉氏について解説して置く。

稲葉氏(いなばうじ)の出自であるが、稲葉良通(いなばよしみち)の祖父・稲葉通貞(塩塵)は伊予国の名族・河野氏の一族で、彼の時代に美濃に流れて土豪になったとされている。

また別の説として、稲葉氏(いなばうじ)は安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされる事もある。

稲葉良通 (いなばよしみち / 稲葉一鉄・いなばいってつ)は、千五百十五年(永正十二年)、美濃の国人である稲葉通則の六男として池田郡本郷城に生まれる。

六男と言う事も在り、幼少時に崇福寺で僧侶となって快川和尚の元で学んでいた。

所が、千五百二十五年(大永五年)に父と兄達が牧田の戦いで浅井亮政(あざいすけまさ/浅井長政の祖父)と戦って戦死する。

家督を継ぐ者が居なく成った為、還俗して祖父・通貞(みちさだ/塩塵)と叔父・稲葉忠通の後見のもとに家督と曽根城を継ぎ国人領主・稲葉良通(いなばよしみち)が誕生する。

稲葉良通(いなばよしみち)は美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。

良通(よしみち)は国人領主として、美濃国主・土岐氏、斎藤道三から斎藤氏三代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。

織田信長に仕え、途中から信長三男・織田信孝の副将として一向一揆、長篠の戦い、紀州征伐などなど信長の作戦に参加する。

千五百七十七年(天正五年)の信長の上洛の際、良通(よしみち)は信孝と共に安土城の留守居役を務めている。

千五百七十九年(天正七年)、良通(よしみち)は家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通(いなばさだみち)に譲り、美濃清水城に移るも稲葉家のリーダーとして健在だった。

千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が本能寺の変を起こし信長を死去させる。

清洲会議の後、織田信孝が岐阜城を相続し、美濃国は支配下に置かれる筈だったが、良通(よしみち)は信孝と対立を深める羽柴秀吉に従う様になる。

千五百八十四年(天正十二年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、岩崎山の砦を守備し武功を挙げた。

尚、通貞(みちさだ/塩塵)の娘「安」は斎藤利三に嫁し、利三の娘「福」も徳川家康の命で稲葉良通(一鉄)の庶長子・稲葉重通(いなばしげみち)の養女となる。

林正成は、家康の命で稲葉福と成った稲葉家の婿に迎えられ、林氏から稲葉正成になるなど稲葉氏は斎藤氏と強力な縁戚関係となる。

つまり稲葉良通(よしみち)は江戸幕府第三代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斉藤福=稲葉福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。


稲葉貞通(いなばさだみち)の代になった稲葉氏は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)天下取りを確定させた九州征伐、小田原征伐などに参陣する。

また、貞通(さだみち)は千五百九十二年(文禄元年)からの文禄の役(朝鮮征伐)に於いては諸将とともに朝鮮半島に渡海して転戦している。

徳川家康方と石田光成方が戦った千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍(石田光成方)に与して郡上八幡城に籠もった。

その郡上八幡城が、東軍(徳川家康方)の遠藤慶隆、金森可重らに攻撃されて落城し、その後貞通(さだみち)は東軍に就いて、関ヶ原本戦では加藤貞泰隊に従って活躍した。

結果、関ヶ原本戦は東軍(徳川家康方)の勝利に終わる。
戦後貞通(さだみち)は、戦功により美濃国八幡の知行四万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の三郡内に領地を持つ五万六十石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。

さらに稲葉正成と稲葉福との間に生まれた稲葉正勝は、親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されるなどして老中や京都所司代などを務めている。

相模小田原、越後高田、下総佐倉の移封から山城淀に落ち着いた淀藩(京都市伏見区)・稲葉家(十万二千石)として明治維新を迎えた。



織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代を、織田信長の居城で在った安土城、豊臣秀吉の居城で在った伏見城(桃山)から、安土桃山時代(あづちももやまじだい)と呼ばれる。

しかしながら歴史的経緯からすると、安土城は完成からわずか三年余りしか存在しておらず、伏見城(木幡山)に於いても完成から二年後に秀吉が死去するなど、それぞれ在城は短期間な為、これらを時代の呼称に用いる事自体が「適切ではない」と言う説もある。

桃山の呼称については桃山の地名や城が存在したのでは無く、伏見城の跡地に桃の木が植えられた事から江戸時代に名付けられたもので不適切との指摘もあり、近年では織豊時代(しょくほうじだい)とも呼ばれる。

この時代の始期、信長の安土時代に関しては信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した千五百六十八(年永禄十一年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が倒された千五百七十三年(元亀四年)、安土城の建設が始まった千五百七十六年(天正四年)とするなど多くの説がある。

また、終期の桃山時代に於いても豊臣秀吉が死去した千五百九十八年(慶長三年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した千六百年(慶長五年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた千六百三年(慶長八年)などの説がある。

尚、安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、室町時代と戦国時代の間に在って両時代と重複してしまう所から、何年から何年の間と言う時代区分の定義決定に諸説がある。


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(天海僧正)

◇◆◇◆(天海僧正)◆◇◆◇◆

現在世間で判り得る天海僧正は、徳川家康が江戸に幕府を開く時期に突如歴史の表舞台に登場し、瞬く間に徳川家の「知のブレーン」となってしまう。

そして不思議な事に、天海僧正と徳川家康の過去には、ほとんど接点が無いのである。

いったい如何なる経緯で、徳川家の知恵袋・天海僧正は徳川家康に見出されたのであろうか?

そこで天海が、「家康とは旧知の間柄ではなかったのか」と疑いを持たれるのである。



徳川家康は天海僧正の助言で関東に所領を移し、秀吉を安心させて着々と力を蓄え、その後大阪の陣で豊臣家を滅ぼすと鎌倉幕府に習って朝廷と距離をおく関東の地に幕府を開いた。

室町幕府の衰えから応仁の乱が起こり、群雄割拠の乱世から天下統一(天下布武)までもう一歩の所まで漕ぎ着けた織田信長だったが、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが残酷な事実である。

言わば「信長がつき、秀吉がこねし天下餅、喰らうは家康」の事で、最終的に天下を握って江戸幕府を開いたのは二〜三番手に当たる徳川家康だった事は、「歴史の皮肉」と言うべきなのか?

そして徳川家の行く末を睨んで家康は、千六百五年(慶長十年)に将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲して行く事」を天下に示した。

徳川家康が幕府を開いた土地、「江戸」と言う地名の由来であるが、江戸氏と言う氏(うじ)名から来ている。

この江戸氏、桓武平氏の平良文(村岡五郎良文)の「ひ孫」にあたる平重継(江戸重継)が始祖である。

江戸と言う地名の発祥は、村岡五郎良文(平良文)の孫・平将常が武蔵守となり秩父に住んで秩父氏を称して居た。

その孫・平重継が分家をして江戸(入り江の入り口(戸)と言う意味)の荒川河口の高台・日比谷入り江の小高い丘・江戸に館を構え「江戸氏を称した事に拠る」と伝えられ、広域に通用する江戸の地名が出来た。

つまり坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ、桓武平氏流・秩父氏から出た江戸氏の本拠地は、「武蔵国豊島郡江戸郷之内前島村」と言う土地である。

江戸の呼称については江戸城を築いた室町期の武将・武蔵国守護代・太田(源)道灌(関東管領上杉氏系流)が、一般的には祖としては余りにも有名だ。

だが、江戸氏を名乗り江戸館を築いた江戸重継、重長、親子こそ江戸の祖とも言うべきで、平(江戸)氏の 江戸館の跡に大田道灌が江戸城を造り、その跡に家康が江戸城を築いて幕府の本拠地と為し、その二百六十年後の遷都に拠り帝の宮城になったのである。

この平(江戸)重継の継子・平重長は、当時絶大な権力を持っていた平家の平清盛に臣従していたが、石橋山合戦の後に源頼朝の味方に加わり、後に鎌倉幕府の御家人となっている。

江戸重継の嫡男・江戸重長は、源頼朝が伊豆で旗揚げした時点で、平家(清盛平氏)に信頼された関東の最有力武将だった。

石橋山の合戦に破れた源頼朝は、海路、房総半島に逃れ、その安房の地で豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤などの助力を得、再び勢力を盛り返して武蔵国へ入ろうとするが、それを江戸重長が関東武士を招集して一旦は頼朝の進軍を阻止する。

しかし秩父氏一党は、元々頼朝の父・源義朝の勢力下に在って恩を受けた過去がある。

為、その後、江戸重長をはじめ畠山重忠・河越重頼ら秩父平氏一族は、長井渡まで出掛けて源頼朝に一時平家(清盛平氏)に加担した事を詫び、服従を誓って源頼朝勢に加わって平家(清盛平氏)打倒に貢献すると、後に鎌倉幕府の御家人と成った。

その後鎌倉幕府の滅亡、南北朝の戦乱、戦国期を経て江戸氏は勢力を衰退させ、江戸期を迎える頃には後北条に属して喜多見に五百石を領する小土豪と成る。

徳川(江戸)幕府が成立すると、江戸氏は所領の喜多見氏に改姓し、徳川氏の旗本となる。

五代将軍・綱吉の側小姓と成った喜多見重政は側用人となり、千六百八十五年(貞享二年)に出された「生類憐みの令」の積極的な推進者となり、出世して二万石の大名となる。

出世した喜多見(江戸)重政は御犬様総支配に任じられ、世田谷にも「お犬様御用屋敷」が立てられて江戸氏も一応の再起を見るが、その後身内の不倫沙汰から発生した刃傷事件により改易に遭い、江戸氏の末裔は没落している。



家康にして見れば、仏(幕府)は造ったが魂を入れるのはこれからだった。

天下を取った後、家康は盟友の光秀に会うべく千六百十二年(慶長十七年)に比叡山に使いを出す。

だが、性急に会うのは避けていた。

関東に呼び寄せては見たが、大阪の豊臣家の始末もあり、いたずらに日を送って、気がつくと、関東天台の総禄司に天海僧正を据えてからでも早三年余りの月日が経っていた。

ほとぼりも充分に冷めた頃である。

晩秋の江戸だった。

「光秀殿は息災だろうか?」

比叡山の山肌も、赤く色付いている事だろう。

光秀(天海)殿とは、関が原合戦以来の再会に成る。

天守からは、埋め立てさせた掘割(八丁堀)の先に海が臨める。

遥か武蔵野台地を掠めて富士を望む天守に立てば、茅原が茂る低湿地帯に平川の流れがあり、その河口は湾の入り江にいたって海に注いでいる。

江戸城近くまで海の入り江が迫って直ぐ眼下に見え、天守には潮の香りも漂っている。

家康は江戸川の湿地帯を埋め立て、陸地を作って城下とした。

これからは江戸の町も繁盛させなければならない。光秀の助言を心待ちにしていた。

今日は朝から落着かない家康で、時折気が付いて何度か苦笑をしていた。

想いを寄せる女子(おなご)に会う様な素振りで、とても家臣には見せられない図だ。

公にはしないものの、光秀を呼び寄せても遠慮する相手は既に何処にも居ない。

永く待たせたが、豊臣家を滅ぼして漸(ようや)く光秀殿を傍(そば)に寄せる時が来ていた。

家康は、まず川越中院の「豪海僧正」に命じて比叡山から天海僧正(光秀)を江戸近くの星野山喜多院の二十七代住職として入山させる。

その上で、天台宗の総禄司として格を上げ、「将軍目通り」をさせる事にした。

面倒だが、格付け次第で目通りを許すなど幕府の権威付けの形式も整いつつ在ったのだ。


天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイつくりで、言わば経歴詐称である。

実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台の本山としている。

その後は急ピッチに家康の信任をえて、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。
 
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し、十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。

豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海で在ったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。

しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。

天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。



六十九歳に成っていた徳川家康は、江戸城に「目通り」に来た光秀を見て、家康は驚いた。

光秀殿にしては「いかにも若い」

その若い光秀は、平伏して言った。

「家康様が驚くも無理なし。実は先代の光秀は関ヶ原の少し後に身まかり(亡くなり)申した。」

「真(まこと)か・・・・。」

絶句する家康に、若き僧侶は平伏したまま口上を続けた。

「先代の指示とは言え、永く成りすまして家康様を謀り居りました事を、おわび申し上げます。」

光秀は一度面(おもて)を上げ、また平伏した。

聞いていた家康は、目頭が熱くなった。

「何の、主は光秀殿に間違いは無い。二度に渡る大阪城攻めの、あの見事な知略は、正しく光秀殿じゃった。」

家康の声は、震えていた。止めようにも、熱いものが胸の内から湧き上がって来る。

感極まりながら、先代光秀との思い出が湧き上がる。

「そこ元、光春であろう、今日より秀忠の良き知恵袋に成ってくれ。」

「ご慧眼かんふく致しました。基より、先代光秀より左様に言い付かって居ります。」

「迂闊じゃった。光秀殿より便りの文があるので息災とばかり思って居ったが、そう言えば光秀殿はわしより十五歳も年上じゃった。」

「如何にも大御所様、叔父が生きて居ればとおに八十歳を越えまする。」

「そうよなぁ、わしも齢(よわい)七十に手が届く年じゃで、無理も無い話じゃ。しかし光秀殿が若返ったのなら、めでたい事じゃ。これで徳川の幕府も安泰じゃわ。」

「恐れ入ります。」

「そう申せば、半蔵が天海の声が若返ったと申していたが、すると大阪の役での進言は全て光春殿じゃったのか。何の疑念も無いほどに見事な進言じゃったぞ。」

「ハァハァ〜、恐れ入りました。」

この僅かな会話で、家康は、二代目光秀に全幅の信頼を置いた。

二代目光秀は僧籍に在って「天海」と法号を名乗る天台宗の僧侶となっていた。

そして天海(二代目光秀)は、二代将軍・秀忠の従兄弟だった。

初代・明智光秀(南光坊天海)は、影人に徹した。

「俺も俺も」と言う人間は結構居るが、彼の哲学は今少し知的で、出過ぎた処は無い。こう言うナンバーツウを得た者が、「成功するのが道理」と言うものであるが、大概の所、それを見抜き育てるナンバーワンは少ない。



安土桃山時代から江戸時代初期に跨るミステリーの一つに、明智光秀=天海僧正説が在る。

天海、光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。

天海僧正には謎が多く、徳川家康が天下を取り息子の徳川秀忠が二代将軍に任じた頃、突然の家康の引きで歴史の表舞台に躍り出た。

そして天海は、幕府に対する大きな影響力を持ちながら三代将軍・徳川家光の代まで、何んと百八歳とも百三十五歳とも言われる生涯を生きた。

それにしても、明智光秀=天海僧正説では百歳を遥かに越える長寿はとても説明出来ない。

もし光秀が天海で在ったなら、家康より十歳も年上の光秀が徳川家三代に渡って仕え、「百八歳とも百三十五歳とも生きた」とされるカラクリが必ず在る筈である。

そこで将軍家の相談役を任じた大僧正・天海の素性が何者だったのかを検証すると、確かに明智光秀と明智光春と言う二人の人物に行き当たる多くの事実が存在した。


天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。

天海は、家康、秀忠、家光の三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。

いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。

しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。

我輩が思うに、二人分の生涯が、「ダブって計算された」と見るのが妥当である。

そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。

この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。

徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。

天海僧正が明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。

それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。

この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。


再会を果たした時、人払いをして二人は抱き合って泣いた。

二人は互いに見詰め合っていた。特に、秀忠(光忠)は、晩年の光秀の様子は知らない。

二人に、万感の思いが走った。


初代光秀、つまり初代天海は病に臥せった最晩年、臨終の床の中で天下が秀忠の物に成るのを確信していた。

「光秀、お主とは夢の掛け違いじゃった。」

空耳か、懐かしい信長の声が聞こえた様な気がした。

ようやく、「お館様(信長)を乗り越えた」と安堵したのだ。

死に顔は、安らかであった。

家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目天海に、喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名する。

天海が明智に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の、伊賀超えの家康「逃避行が茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など、家康が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に日光に残っている。

天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。

その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本の最高神である。

それに準じる様に、東を照らすと来て、「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では、神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)である。

つまり、日光東照廟が正しい。

それは、他の実在する人物の神社も同様である。

独自文化と言えばそれまでだが、都合により核心部分を曖昧にするのは、日本列島の専売特許みたいなものである。


秀忠は、相談相手として天海を江戸に置く為に、上野に寺を造営する。

東の比叡山の意味で、「東叡山(とうえいざん)寛永寺」と言う。

寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺でもある。

風水学に長じた天海の助言で、徳川と江戸の守りの位置に、「寛永寺」は在る。

天海の江戸幕府運営は、「光秀の悲願」でもある。

朝廷の壊滅なしに国家運営が出来る事を、何としても、亡き信長に立証しなければ、本能寺の変が意味を成さないからだ。


「お館様、光秀が知略ご照覧あれ。」

光秀は、死してなお、信長の亡霊と戦っていた。

天海(光秀)の夢に出てくる信長は、いつも笑っていた。

「わしの苦労を、光秀、そちが背負(しょう)て、くれおった。」

見事やり応さないと、冥土で、お館様に「光秀ではやはり無理か?」と笑われる。

それを天海が、ひとつひとつ構築して行ったのである。

まず、都は京にそのままにして、行政府は鎌倉幕府に倣(なら)い遠く離れた関東に置く。

朝廷を、実際の国家運営の蚊帳の外に置く狙いが在った。

時代は少し遡るが、大阪冬の陣、夏の陣での豊臣家滅亡以前から、その足場は着々と固めつつあったのである。


天正十八年の冬、秀吉による北条攻めが迫った頃だった。

居城を、浜松城から駿府城へ移して居た家康の寝所に、不意に影が忍び寄って来た。

何時も、突然現れる男の来訪だった。

「お久し振りでございます。徳川様ご壮健で何よりでござる。」

「孫市殿か、光秀(南光坊・天海)殿がまた何か申したか?」

「御意。」

「申して見よ。」

「此度の戦(北条攻め)が終われば、坂東(ばんどう・関東)八州が空きまする。」

「予に、坂東(ばんどう・関東)に移れと申すか?」

「御意。徳川様には力を蓄えられよと光秀(南光坊・天海)殿のお申し入れにございます。」

「何故じゃ。」

「光秀(南光坊)殿が申しまするに、平泉、鎌倉が長く持ちましたは帝のおわす都より遠く、万が一、帝を奉じての寄せ手起こりしも、力さえ蓄え置けば、迎え撃つ為の時が稼げ間する。」

「何と光秀(南光坊・天海)殿は、都近くに構えれば地方にて力蓄えし者に脅かされると申すか。」

「御意。今は坂東(ばんどう・関東)に在って力を蓄えるが肝心かと。」

「さよう申すからには、光秀殿(天海)に何か格別の策でもあるか?」

「同時に伊達の減封とその跡に上杉の奥州国替え策を秀吉進言為されませ。後々伊達は徳川殿のお味方に成りましょうぞ。」

「なるほど如何にもじゃ。わしが伊達と上杉は関東で抑える故、上杉を奥州へ国替えせよと秀吉を焚き付けるか。」

「お館様(信長)が徳川殿を東の備えに置きました故事も在りますれば、秀吉も納得するかと。」

「なるほど、良し、秀吉には信長様の時と同じで予が豊臣様の為に、東の押さえに廻るとでも申そう。」

「如何にも、徳川殿の領国が都から遠逆かれば、秀吉は目先安堵します。」

「これは、光秀(南光坊・天海)殿も長期戦と見て居るな。」

「天下をお取りに成りし後も、坂東(ばんどう・関東)より都を睨むが宜しかろうと。」
「合い判った。」

光秀(南光坊・天海)の策略は当たり、表向き秀吉の命令として、徳川家(家康)は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヵ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の七ヵ国に移封された。

これは百五十万石から二百五十万石への大加増である。

秀吉は、家康を都から遠避ける為に、「他に手が無い」とは言え、家康を超別格の大々名にしてしまったのである。


家康が、秀忠に早々に将軍職を譲り、自らは、駿府(静岡市)に隠居したのも、徳川将軍家の世襲を既成事実化する為である。

勿論、事がトントン拍子に進んだ訳ではない。

ほんのチョットした成り行きが、思わぬ事態に発展する切欠になる。

徳川家康が大御所として駿府(静岡市)に隠居した頃は、まだ西国に秀吉恩顧の大名が多く残っていた頃で、江戸への守りを固める意味が有ったのは言うまでも無い。

これは関が原の戦いに、息子・秀忠が率いた徳川勢主力三万五千が信州上田の真田家の攻略に手間取り関が原に遅参した事で、加藤清正、福島正則ら石田三成嫌いから東軍(家康方)に味方した秀吉恩顧の大名に義理が出来た事に拠る計算違いだった。

この時期、武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定して幕府の統制力を増して行ったのも、天海(二代目光秀)よりの書状の知略に負う所が多かった。

神社、仏閣などの統制をも強化する。

神仏混合政索、参勤交代、貿易の制限、キリスト教の禁止などなどである。

二代将軍・徳川秀忠の正室は、浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)である。

戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市との間の浅井三姉妹(あざいさんしまい)の三女・浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)の前半生は、波乱に満ちたものである。

北近江国小谷城主・戦国大名・浅井長政と尾張国・織田信秀の娘・市(織田信長の妹)の間に、所謂浅井三姉妹の三番目の娘として生まれた。

その後、父・長政と伯父・織田信長が交戦し小谷城は落城、母・市が再婚した義父・柴田勝家は羽柴秀吉と交戦し北ノ庄城も落城と二度の落城を経験する。

江(ごう)のが長女・淀君(浅井茶々)や二女・常高院(浅井初)の姉二人と比べると歴史的に地味な存在であるのは、徳川二代将軍・徳川秀忠の室と言う立場では在ったが、彼女自身が余り軍事・政争に関与する事が無かったからである。

江(ごう)最初の婚姻相手は母の姉(お犬の方)の子・佐治一成(さじ かずなり)で、秀吉の命により十一歳で嫁いだが一成が小牧・長久手の戦いに於いて織田信雄(信長次男)を擁立した徳川家康に味方した為に秀吉の怒りに触れ、一成は所領を没収されるとともに江(ごう)と離縁させられた。

二度目の江(ごう)の婚姻相手は、秀吉の姉・日秀の子で秀吉の甥にあたり秀吉の養子に迎えられた豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)で、江(ごう)との間に娘の完子が生れる。

豊臣秀勝(とよとみのひでかつ)は文禄の役に出陣し、その最中に病を得て巨済島にて病没した為、秀吉の正室・高台院(北政所/木下おね)の甥・豊臣秀俊(小早川秀秋)が遺跡を相続した。

三度目は千五百九十五年(文禄四年)、江(ごう)は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠に二十三歳で再々嫁し、徳川家康の嫡男・秀忠の正室(継室)となり、江(ごう)が秀忠と再々婚した事で娘の完子は伯母の淀殿に引き取られ養われる。

江(ごう)は秀忠との間には千五百九十七年(慶長二年)の千姫を頭に徳川家光・徳川忠長など二男五女を儲けている。


三代将軍・家光は、秀忠の嫡男である。

秀忠の男児は他に、忠長(徳川忠長)と正之(保科正之)がいる。

忠長は、秀忠の子と言う事に成っているが、実は家康最晩年の子である。

いやはや、元気な爺だ。

秀忠は忠長誕生の際、家康に乞うて自分の子とした。

秀忠なりの腹積もりで、次の代には将軍を家康の血統に戻すつもりでいた。

もっとも、家康の方は単純で、「万一の世継のスペアー」くらいに考えて、それほど重要な事には考えていなかった。

ちなみに秀忠の女児は、五人いた。長女は前述の「千姫」で、五女「和子」は後水尾天皇の下に入内(天皇に嫁ぐ)して「東福門院和子」となった。



明智光秀には、徳川幕府成立前後に活躍した「名僧・天海僧正と同一人物ではないか」と言う噂が付きまとって久しい。

現代の推理小説風に言うと、「天海僧正」の身元は不明である。

つまり、天海がどう言う生い立ちをして育ち僧正にまで昇り詰めたのか、一切の信じられる記録が無いのである。

これは、その明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件の一つである。


光秀の側近(腹違いの兄弟とも言われている)に、「斉藤利三(としみつ)」と言う者がいた。

この斉藤利三、明智所縁の「斉藤」と名乗るからには、油売りから身を起こした斉藤道三入道に名跡を乗っ取られた美濃国守護代家の斉藤家の枝が、主家である土岐家の枝、明智家と婚姻関係にあって存続していたのではないだろうか?

斎藤利三(としみつ)は、美濃国守護土岐氏に仕えてその守護代を勤めた美濃斉藤氏の流れで、土岐氏流れの明智氏とは代々濃い縁戚関係に在った。

斎藤利三が生まれた頃は、美濃国守護代・斉藤家はその名跡を斎藤道三に乗っ取られ、利三は道三の嫡子・斎藤義龍に使えていたが、西美濃三人衆の一人・稲葉良通(一鉄)が尾張・織田氏の織田信長(おだのぶなが)の下へ寝返ったのを期に稲葉良通(一鉄)に従って織田家の陪臣となる。

その後利三は稲葉良通(一鉄)と袂を分かち、同じ織田家の臣となっていた六歳年上の腹違いの兄弟とも従兄弟とも言われる明智光秀に臣従して家老的な立場となる。

この利三の娘に「お福」と言う名の者がいた。

利三が腹違いの兄弟なら、「お福」は光秀の姪に当たる。

そう、光秀が信長の命をうけて家康に献上したあの濃姫付きのお端(おはし・端女)・お安(あん)の娘・「お福」である。

この「お福」が、何時の間にか徳川家お世継ぎである「家光」の乳母に納まっていた。

お福と結婚する為に稲葉家に婿入りした林 正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、徳川家康から一万石の大名に取り立てられる。

その後お福は、二代将軍・家光に召されて長男・徳川家光の乳母となり春日の局を名乗る。

偶然は在り得ず、隠された強力な縁故が在ったに違いない。

そう勘繰られても、仕方がない歴史的事実である。

このお福が、後に大奥で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)である。

こうした筋書きからすると、秀忠(光忠)、天海(光春)、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士と言う事になる。うまく行くのは当たり前である。

お福は、家康の命により美濃の稲葉重通の養女と成り、林 正成(はやしまさなり)を稲葉家の婿に迎え二人の男子を設けていたが、一族再興と子供の出世を願って、夫の稲葉正成と離婚までして家光の乳母「春日の局」に成った。

全てを現代風に勘違いして貰っては困るが、稲葉正成(いなばまさなり)と離縁したから姓が戻ったのではなく、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、春日局(お福)の名乗りは婚姻関係に在っても斉藤福である。

息子の稲葉正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

それだけではない。

この物語の次章「維新の大業」で詳しく記述するが、この春日の局(つぼね)の実の息子・稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。

言わばこの淀藩・稲葉家は、「山城国(現在の京都府南部にあたる)」と言う日本の政治的に最も重要な地域の幕府の押さえである。

そうした稲葉家の封領配置からして、単に春日の局(つぼね)の息子と言うだけではなく、非公式ながら「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられ、これこそ、実は徳川政権内部が「明智の血縁に乗っ取られた」と言う一連の証拠である。


稲葉家の事もそうだが、細かく調べて行くと「明智光秀、そして光春が天海僧正ではないか」と言う前提がないと、説明し難い事例はまだ有る。

この章で記述した光秀所縁の豪族に対する徳川家の処置も不可思議で、この事も、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない事実である。

漸く天下を手中にした徳川家にして見れば、唯でさえ強固な幕藩体制を固めたい時である。

家康に従って天下取りに貢献した直参旗本でさえ数千石の知行がやっとなのに、徳川家・直臣でもない直ぐにひねり潰せそうな地方郷士の妻木家や遠山家が、何故か大名格領主として生き残った。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。

妻木家は明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。

「交代寄合」格・旗本扱いの優遇を得た背景理由が、秀忠(光忠)・天海・春日局トリオの身内ならではの計らいに拠るもので、光秀・天海説の密かな符合なのではないだろうか?

徳川幕府成立後の処置として普通に考えれば、両家共に名門ではあるが幕閣にあって潰すに惜しいほどの役に立つ家ではない。

その程度の小領主が、破格の扱いを受けている。

大身の外様旗本並待遇それ自体が特例であり、その特例の上に大名の格式を与えている。

この例外の「交代寄合(大名格)」、他にもあるが全国で僅(わずか)二十家に満たず、二〜三千石程度が多数である。

この光秀所縁の両家に対する徳川家の配慮の裏に「何かある」と考えるのは疑い過ぎだろうか?


少し横道にそれるが、家康が天下人と成って徳川将軍家を起こし全ての武門が徳川家の臣下に列すると、万石取り以上の大名と万石に欠ける旗本に分けられて三河以来の家臣でなくても、万石以下の独立知行地持ち(千石〜九千石)の小領主も将軍家旗本に組入れられる。

この旗本家、二ヵ村から五十ヵ村を支配する凡そ千石以上九千石の大身は約三百騎前後程度で、後の知行数百石取りは御旗本と言うより貧乏御家人(江戸期)と呼ぶ方が相応しい。

幕末時点で、その旗本の中に交代寄合格・二十家、高家格・七家、寄合格・二百七十三家が在った。

尚、交代寄合格には、駿府城代支配の職である久能山東照宮総門番として代々久能の地千八百石を領した榊原清正(徳川四天王の一人・榊原康政の兄)の榊原家宗家、竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の子・竹中図書助(たけなかずしょのすけ)が知行五千石・竹中家(美濃)などの名が見える。

同じく豊臣秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)で後に木下氏と改称し、後の豊臣秀吉に木下姓を与えた人物の杉原家定(いえさだ)三男・延俊が息子の一人延由に立石五ヵ村と向野三ヵ村の合計五千石が分知され、交代寄合格・豊後立石木下領が成立、など約二十家がある。




世の中不思議なもので、権力を握って甘い汁を吸う奴が居ると必ずそれを「ひっくり返そう」と言う奴が現れる。

本当の事を言うと、権力争いなど相当にカッタルイ事であるが、中々それに気がつかず欲が深いのが人間である。

光秀にはその権力にまるで気がないから、それを判った家康だけに加勢していた。

しかしその仕事にも何時か終わりは有る物で、そんな場面も巡って来る。

二代目天海が江戸城に呼ばれるかなり前、関ヶ原の合戦で決着がついたちょうど三年後の千六百三年(慶長八年)の事だ。

光秀(初代天海)は、最早(もはや)全身から気力が脱け落ちて、自らの死期を悟っていた。

冬季には珍しく、陽光うらかな日だった。

「光春、最期に言い残したい事がある。」

比叡山・延暦寺の別院で臨終の時を迎えた光秀(初代天海)は、光春を枕元に呼び寄せ、家康に与える最期の策を伝え、一通の書付を手渡した。

それは、徳川幕府の為に、「裏陰陽組織に似たる物を構築せよ」と言う伝言だった。

「棟梁には、家康殿の落胤・一蔵殿をお据え申せ。」

「確とお伝えします。」

「最早(もはや)家康殿に遺す事なし。」

天下の秀才・明智光秀の、安堵の表情を浮かべた往生だった。

この光秀の遺言に近い話は、光春の脳裏に深く刻まれていた。

聡明な光春には、その遺言に秘める光秀の深い企みには、驚嘆して居さえいる。

家康に目通りの機会があれば、最良のタイミングで、この事は伝えねば成らない。

徳川幕府の「要」とも言うべき知略で、正に「百年の大計」と言うに相応しかったのである。


もし徳川家の第二代・秀忠体勢に特に明智氏との関わりが無いのであらば、将軍家に於ける春日局と天海僧正の存在は説明が着かない。

光秀の死から歳月が流れて、二代目天海(光春)は駿河国・駿府城本丸に在って家康の傍近くに居た。

余人は人払いを済ませ、見渡せば、大御所・家康、二代将軍秀忠(光忠)、春日の局(お福)、それに天海の四人だけの密談だった。

「大殿、先代天海(光秀)より授かりし策がござります。先代の書付(書状)もござりますれば。」

「何!光秀殿の策とな?申してみよ。」

「諸国の動静をば観察する諜報を隠密でする為の新たな組(織)案です。」

「新たな組案とな!」

「実はカクカクシカジカにござります。」

「おぅおぅ、いかにも名案じゃ。幕府直轄ではいかにもじゃで、常陸国に所領を与えた水戸の頼房の所でやらせようぞ。」

「ならば、雑賀の頭・一蔵殿をお召し抱えねがいます。」

勿論徳川家康は、雑賀孫市の養子・鈴木一蔵(後の鈴木孫三郎重朝)が竹千代時代の自らの落胤である事を承知している。

明智光秀と雑賀孫市は、家康落胤・鈴木一蔵(後の鈴木孫三郎重朝)を雑賀党の棟梁に仕立て、やがて「家康の役に立てよう」と計画くしていたのだ。

「雑賀には、光秀殿との事で世話になった。光秀殿の申し置きならば是非もなかろう。そちに任せようぞ。秀忠、早速にな!」

「心得ましてござる。」

家康の十一男・徳川頼房の水戸で、新たな企てが始まろうとしていた。

この初代天海(光秀)の策、歴史に残る奇想天外な策だったが、その種明かしは、次章に譲る。


いずれにしても、秀忠と天海僧正、春日の局は、仲良し従弟トリオだった。

唯一度、この三人が思惑の違いから三代将軍の世継(よつぎ)問題で意見が分かれる。

基より、家康に恩義を感じ徳川に血筋を戻すつもりの秀忠は、忠長を三代目にするつもりでいた。

日頃、何かとそのそぶりを見せていた。

それに危機感を抱いたお福が、天海に相談を持ちかける。

「天海殿、どうやら秀忠様は忠長殿に将軍職をお譲りの意志と見えまする。」

「それはまずい手本になる。それを成せば筋違いで、昔の親兄弟の争いの時代に戻ってしまう。」

天海の意見は、血筋論では無い。

政権を維持担当する為の「筋論」である。

公式の嫡男が廃嫡になれば、悪しき事例が出来る。

世が乱れる基である。

天下を治める徳川家は、あくまでも世に「規範」を見せねば成らない。

そこで、当時既に駿府(静岡市)に隠居していた大御所「家康」に、天海の書状を持参した春日の局が、出向いて直訴に及ぶ。

家康は秀忠を隠れ養子に受け入れた時から、とっくに血筋に拘(こだわる)ってはいない。

書状を読んだ家康は「天海の言い分もっともである。

秀忠の予を思う心情は察するが、此度は天海の言い分を取ろうぞ。」と、結論は直ぐに出た。

「お福(春日局)殿は何もかも承知じゃでな、言う事を聞かんと恐ろしゅうわ。」

家康は上機嫌で、冗談を言った。

「まぁ、何を仰(おっしゃ)ります大御所様。」

「何の!何の!所で、正勝(稲葉)は元気か?」

「正勝(稲葉)殿は御聡明で、心身健(すこ)やかに育ちましてござりまする。」

「頂上至極じゃ。秀忠に申し付けて、いずれは正勝(稲葉)殿も城持ちにするでな。」

「それは有難うございまする。秀忠様もお喜びに成ります。」

「正勝(稲葉)は、家光の良い相談相手に成ろうぞ。」

「流石に大御所様、先の読みは相変わらずでございます。」

「明智(天海)殿の仕込みじゃでな。しかし、お福(春日局)とも永い年月じゃ・・・」

「大御所様とのお引き合わせも、光秀様でした。」

「お福(春日局)、結局天下を取ったのは明智殿かも知れぬのぅ。信長殿の血筋の破壊の目論見、ものの見事に利用しおった。」

家康は、しみじみとした口調で在りし日の光秀の顔を思い浮かべた。

「ほんに、光秀様らしい知略でございますね。」

春日局も、同様の思いに駆られていた。

将軍家は、嫡男世襲の範を示さねばならない。

「平手の爺、鳥居の爺、数多(あまた)の者の命と引き換えに平定した天下じゃ、血筋に溺れるは乱を招く。」

家康は、来し方を懐かしんで感慨に胸を熱くしていた。

秀忠は、信長様の置き土産だった。

信長在っての今日の自分で、信長様が「血統に拘るな」と言うのならその意志を守らねば成らない。

「どれ、秀忠には予が直接言い渡すとしょうぞ。誰かあるか、江戸に文をしたためる故支度をせい。」

女中が一人フッ飛んで来て、慌しく支度を始めた。


家康は早速秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。

秀忠は、感激の涙ながらに平伏した。
言葉こそ少ないが、義父の心情に感極まったのである。

家康が、秀忠(光忠)に耳打ちしたには、「我が志、叶えしは光秀なり、我が志、継ぐはそなたの子・家光なり。」家康はその人物を見抜き、家光に将来を託したのである。

この時家康にはふたつの判断材料があった。

単純な話、流れに逆らうと大混乱する「既成事実」が、体制として既に成立していた。

この体制は、徳川幕府成立に腐心した光秀の十重二十重の知略によって構築されたもので、大御所家康と言へどもこれを犯す事は出来なかった。

秀吉が亡き信長の意思に逆らい、結城秀康を跡取りにせず、跡継ぎを実子の秀頼に固執した事で豊臣家が滅ぶのを目の当たりに学習した。

もし、結城秀康(家康次男)を跡継ぎにしたら、少なくとも豊臣の家名が残ったかも知れない。

信長の知略は、深く根付いて居たのだ。

この一件を経て、三代将軍・家光が誕生する。

この、世継ぎに血統を拘らない家康の考え方には、自分の出生に関わる或る秘密があったのだが、それはこの章の最期に明かす事にする。


実は大きな謎なのだが、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、故に徳川家光が「家康と春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数えて書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

そこで問題なのは、三代将軍・家光が二世と数えるのであれば二代将軍・徳川秀忠の存在は飛ばされている事になり、つまり秀忠が養子で正体が「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

そしてこの事が事実であれば、春日局が駿府まで出向いて家康に家光を将軍に推させた事に納得が行き、徳川家光と徳川忠長(とくがわただなが)は将軍世襲で微妙な状態にあり、保科正之(ほしなまさゆき)だけが二代将軍・秀忠の実子と言う事かも知れない。


こうした隠れた事情が、家康が他界し名実伴に家光の代になると噴出して来る。

秀忠(光忠)の息子三兄弟のうち将軍職についた家光以外の二人兄弟の明暗である。

まず「保科正之」であるが、秀忠(光忠)の庶子と言う事になっている。

確かに正妻の子ではないが、紛れも無く家光の兄弟である。

それを二代将軍秀忠(光忠)は、父・家康に遠慮して高遠藩主・保科正光の継母が家康の異父妹と言う縁故に依り信州高遠の保科家(三万石)に養子に出す。

本来なら正之(まさゆき)は、此処信州高遠の地に三万石の小大名で終わる筈だった。

それが三代将軍家光(保科の異腹兄弟)の引き立で、家康死後に徐々に出世を始め、最上山形城主を経て、合津松平藩の初代に落ち着く。

合津四群二十四万石の太守で、どう見ても家光の兄弟愛が見て取れる。

保科正之は将軍家護持を藩訓とし、家光没後四代将軍・家綱の叔父としてこれを補佐し、徳川政権の安定に尽くした。

余談だが、明治維新前の動乱の京都守護が尾張藩支藩・美濃(岐阜県)高須藩からの養子ではあるが、この保科正之の子孫に当たる松平容保(まつだいらかたもり)である。

この容保(まつだいらかたもり)は、「新撰組の雇い主」と言う方が、判り易い。

保科正之の徳川本家大事の存在が、遠く二百数十年後の会津、飯盛山の白虎隊の悲劇に通じているのだ。

一方、徳川忠長は、秀忠の子ではない。

秀忠とお江(おごう)の二男と言う事に成っているが、秀忠が血筋を戻そうと、家康から貰い受けた子だ。

当初秀忠は、家康の恩義に報いる為に甲斐の国甲府に二十三万石、ついで二万石加増して二十五万石、駿河・府中藩を加えて五十五万石の太守にするが、本人は満足しない。

「本来なら、予が将軍である。おのれ、家光め。」荒れて駿府の居城で刀を振り回し腰元を殺傷に及ぶなど、粗暴な振る舞いも多々あり、二代将軍秀忠もかばい切れず、ついに忠長に甲府蟄居を申し渡す。

翌年秀忠が没すると、三代家光は、忠長に上州高崎藩の安藤重長にお預けを命じた。

忠長は幽閉されたあと、自刃している。

忠長には、自分が将軍に成れなかった事に、不満と、「それなりの言い分があった。」とは、考えられないか。

当時老中としてこの事件の処理に関わったのが、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の二代に渡る重臣・家康落胤の噂高い土井利勝(どいとしかつ)だった。


春日局の呼び名の謂れで有るが、明智光秀は織田信長の命で丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・後の春日・現丹波市春日町)の黒井城を落城させ、一時守城役に、懐刀といわれた斉藤利三を配した。

お福の父親が「初めて城持ちとなった謂れのある土地」と言う訳で、出自を少しでも良く見せる為に、朝廷に「丹波国春日黒井城主娘」と 届け出た事から、「従三位春日局」を朝廷から授かった。

その、「丹波国春日黒井城主・斉藤利三の娘」が、お福(後の春日局)生誕の地と曲解された様である。

家光を「将軍」に押し立てたとして、春日局は大奥に在って絶大な権勢を誇るようになる。



江戸城大奥の体制を確立したのは、従三位・春日局を朝廷から授かった斉藤福である。

当初の江戸城は、大奥は存在したものの政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。

しかし将軍家は、皇居内裏の女官(こうきょだいりのにょかん)同様に奥女中から選ぶしきたりが在る独占のハーレム状態で、「妾(側室)」に代わる存在でも在った為、奥女中は寵愛の有無に関わらずお定め上は最初からお召し自由の将軍の妾妻である。

将軍の側室は基本的に将軍付き中臈(ちゅうろう)、イレギラーで御台付き中臈(御台付き奥女中)からも選ばれる。

将軍が目に適った者の名をお目見え以上の奥女中で老女とも呼ばれる御年寄に告げると、その日の夕刻にはその奥女中が寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。

御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合ってお召しとなり、奥女中の寝間の準備が行なわれた。

寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様(おはらさま)」、男子を出産すれば「お部屋様(おへやさま)」となり、漸(ようやく)正式な側室となる。

さらに我が子が世子となり、やがて将軍ともなれば落飾した側室でも将軍生母として尼御台(あまみだい、落飾した御台所)をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。

当然ながら、将軍のお手が付けば奥女中(御殿女中)から将軍継承者が産まれる事が在る。

万が一他の男との子では血統至上主義の将軍家が成り立たないから、大奥は男子禁制を引く事になる。

事は将軍家の継承問題に関わる大事である事から、三代将軍・徳川家光の乳母・春日局によって組織的な整備がなされて行き現在知られる形の大奥に整えられて行った。

本丸御殿は、表、中奥、大奥に区分され、この内、表と中奥は一続きの御殿で在ったが、大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。

中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が御鈴廊下で、将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていた事からこの名が付いた。


江戸時代に将軍家や大名・旗本など諸家の奥向きに仕えた武家方の女性奉公人を奥女中(おくじょちゅう)とも御殿女中とも言う。

将軍家の大奥には、将軍付の女中と御台所(みだいどころ)付の女中が在り、またその役職に応じて御目見(おめみえ)以上と御目見以下の身分に区別された。

大奥の御目見以上の役職には公家(くげ)の出身が多い上臈(じょうろう)を始め、御年寄、中年寄、御客会釈(あしらい)、中、御坊主、御小姓(おこしょう)、御錠口(おじょうぐち)、表使、御次、御右筆(おゆうひつ)、御切手書、呉服之間(ごふくのま)が在る。

これらの大奥女中には、皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)同様に中から自由に将軍が「妾(側室)」を選ぶしきたりに応ずる事が出仕の条件に在る。

つまり将軍家の定法上は、選り採り見採りの奥女中独占のハーレム状態で、将軍次第で「妾(側室)」に代わる権利義務を有する存在でも在った。

側妾などの「お手つき女中」の縁者はしめたもので幕府要職に取り立てられた者も多く、つまりは太平の世に在って、武家としての出世の糸口が身内の「お手つき」で在り、大名・旗本の諸家でも出世の糸口として同様だった。

また大奥では、奥向き女中の勢力が表向きの政治に影響を及ぼす大きな力を持つ事も在った。

大奥女中は主に公家や旗本の女の内から召し出されたが、町家の女でも旗本を仮親とし出仕する事が在った。

奉公の際は、奥向きの事は一切他言しないなどの誓紙を差し出し、その身は一生奉公を建前としたが、実際には下級の女中は願い出ると暇が出された。

奥女中の内御目見以下の軽い役職には御三之間、御広座敷、御火之番、御使番、御仲居、御末、御犬子供(おいぬこども)などが在った。

大名・旗本の諸家でも、奥女中(おくじょちゅう)の身分はほぼこれに準じたもので、「お手つき」の可能性は合意の上の奥出仕であるから「お手つき」を望みこそすれ主君に拠る奥女中(おくじょちゅう)の手篭めなどの時代劇ストーリーは存在しない。


いずれにしても本丸御殿大奥は、お手つきの有無に関わらず形式上は千人に及ぶ将軍の配偶者の居住区と言う事に成る。

つまり成熟し、発情期に入った女性が千人からの大勢で将軍のお情け(性交)を待っているのが大奥である。

正直発想を女性側に変えれば、奥女中は永久出仕の制度からする建前だと、将軍からお情け(性交)を受けない奥女中の方が長期に可愛そうな男日照りである。

性的本能は誰にも存在するから、性交する自由を奪って奥女中に忍耐を強いるのは人間的に遥かに残酷な事かも知れない。


この男子禁制の大奥、確かに将軍のお種を確定するに充分な制度だった。

しかしこの時はまだ、虚弱精子劣性遺伝と言う氏族の血統至上主義最大の難敵が存在する事を春日局は知る由も無かったのである。

尚、時代劇の武家女中シーンで腰元(こしもと)と言う呼称が聞かれるが、間違いである。

一般には江戸時代に武家方の奥向きに仕える女中と同義に解釈しているが、武家方の女奉公人の内には腰元の呼称は無い。

腰元(こしもと)は上流の商家の人々の側に仕えて雑用をたす侍女(小間使/こまづかい)を指す呼称で、身の回りに置いて使う事から腰元使(こしもとづかい)とも言う。

また、遊女屋の主人の居間や帳場で雑用に使われる女性も腰元(こしもと)と言った。


将軍家・大名家・武家に於ける女奉公人には、「御女中(おじょちゅう)」、「仲居(なかい)」、そして「端女(お端・はしため)」や「下女(げじょ)」などがある。

「御女中(おじょちゅう)」の下に「仲居(なかい)」、「端女(お端・はしため)」や「下女(げじょ)」と言う階級があり、これは字のごとく下働きだが、「御女中(おじょちゅう)」の仕事は貴人(主人)の身の回りに限られている。

つまり「女中(じょちゅう)」は、女性奉公人としては少し上の階級で、貴人(主人)の身近で気持ち良い生活を提供する務めが主であり、「御伽(おとぎ)」と称するお手が付いても不思議では無い立場である。


本来の御伽話(おとぎばな)しは、貴人(主人)を寝かしつける為に寝屋の床内(とこうち)で話す寝物語である。

そこから派生して、貴人(主人)を寝かしつける為の「話し相手」を務める事だが、「性的なお慰め」を務める事も「御伽(おとぎ)」と称される。

貴人(主人)の「話し相手」や「寝物語」を含む「御伽(おとぎ)」は「毎夜のお務め」であるから、「お女中」の仕事で在って「御正室」の役目では無い。

なお、現在に於ける「仲居(なかい)」は、旅館や料亭などで給仕や接待をする女性の職業を指すが、古くは公家や門跡の邸宅で主人の側で奉仕する人の控室を「中居(なかい)」と称した事が語源である。

将軍・大名などの奥向きの料理の配膳室や家政・経理部門に仕える女性の詰める場所を、字が違う「中居(なかい)」と称し、その「奥女中」と「下女・端女(はしため)」の中間の奉公人の意味でも使われた。

また武家社会と同様に、商家などでも奥女中には特別のお務めのしきたりが存在したから、「奥女中」と「下女・端女(はしため)」の中間の奉公人を「仲居(なかい)」と区別して呼んだ。

つまり現在に於いては、旅館の女性従業員を「女中(じょちゅう)」と呼ぶのは用法の間違いで、旅館の女性従業員は「御伽(おとぎ)職務」は無いから「仲居(なかい)」である。

つまり、温泉旅館で「枕営業で稼ぐ女性従業員」は、職能から分別すればあきらかに「仲居(なかい)」ではなく「雑女娼婦」である。

そうなると、旅館に於ける「女中と仲居の錯誤」は、「広域倭の国論」や「百姓解釈」と同様に時代の経過と伴に混同した錯誤かも知れない。



光秀と家康が「何故裏で結び付いたのか?」、その謎を解き明かすには、日本の長い歴史を掘り起こさなければなら無い。

それは、役小角(えんのおづぬ)を祖として、天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)と言った陰陽道(修験道)の系図の結び付きだった。

実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承に於いて、賀茂家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。

すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としている。

だが、その熊の権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。

葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実である。

すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。

藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。

そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。

ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。

つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。

しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?

熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。

「家康殿の家紋、賀茂家の葵紋と見ましたが。」

「いかにも、三河松平は賀茂葵でござる。」

「それがし明知の紋は、土岐桔梗でござれは、互いに密教修験のお血筋と言う訳ですな。」

「なるほど、それは上々、互いに近しくせねばなるまい。」

戦国時代の戦乱は「領主同士の国の取り合い」と言う様な単純な物ではない。

宗教戦争の意味合いもあり、支配者の血統と非血統の争いでもあった。

それらが絡み合いながら、覇権を争っていた。

畿内、伊勢、紀州、の山々は、古来の深山霊場であり、修験者(山伏)の庭だった。

そして、山岳独特の風土が育っていた。

伊賀の(里)国から難波の国にかけて、悪党と呼ばれた楠木正成以来の独立独歩の風土が存在した。

伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆、根来衆、などと呼ばれた領主を持たない修験系郷士の独立武装組織である。

後の徳川将軍家の兵法指南役、柳生新陰流で知られる剣豪・柳生の里は奈良市の東北部にありその先は隣の伊勢の国伊賀甲賀に続く自然豊かな山里である。

当然の事ながらこの多くの山里は、武術の里々で、そのルーツが修験者にある事は間違いない。

この独立組織の紀伊半島の独自の支配は、「天下布武」を目指す信長にとって目障りな存在だった。

彼らが領主を持たず一地方を運営し、傭兵としてどちら側にでも味方をする封建制度に於いて無秩序な存在だったからである。

しかし一方では、彼らの並外れた諜報能力と戦闘能力を自在に操る明智光秀を重用した。

信長が認めた光秀の隠れた能力は、すなわち光秀の源氏に繋がる血筋の顔の広さで有るが、表は朝廷・公家・足利将軍家であり、裏は根来衆・雑賀衆・甲賀、伊賀の傭兵国人集団戸の繋がりだった。

この光秀の人脈の強みに、秀吉は出世合戦で絶えず遅れを取っていたのだ。


天正九年(千五百八十一年)九月、伊賀国人の掃討を目論んだ織田信長は、凄まじい勢いで伊賀国に攻め込んだ。

信長軍は伊賀の六ヶ所の入口から四万の大軍で攻め、伊賀の国人衆達は必死で抵抗したが、多勢に無勢で次々と敗れ二週間で伊賀全土は平定された。

この伊賀攻めに拠って、伊賀国は七堂伽藍に至るまで、全ての施設が焼き払われ、灰燼に帰していた。

しかし明智光秀は、密かに伊賀の残党を援助し、助けている。

家康の伊賀越え(本能寺の変後)は、その翌年の出来事である。

徳川家の歴史書には便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。

また、密約で影に廻った明智光秀の事を抹殺する必要があったからだ。

天台宗と徳川家(三河・松平家)には実は切っても切れない関係があった。

それが、天台宗の本山派(天台山伏)の存在だった。

その天台宗の僧侶として、徳川家が重用したのが南光坊・天海僧正で有る。

明智光秀は山崎の合戦後、天台宗の比叡山・延暦寺に逃れて南光坊と名乗り隠棲する。

天台宗の祖は伝教大師 最澄である。

比叡山・延暦寺は、天台宗の総本山で、京都の鬼門にあたる北東に位置する事もあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。

その後、円仁、円珍の活躍により、密教が極められ、現在の天台宗の形が完成する。

明智光秀(南光坊・天海僧正)と徳川家康には、実は長い宗教的歴史に於いて、庶民の出自である秀吉などには、預かり知らない繋がりがあった。

そして、天海僧正は風水学などの方位に通じ、密教の諸学問を修めていた。


真言密教の本拠の一つに、高野山・根来寺がある。

根来寺は、平安末期の千百三十二年、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)上人が、高野山に大伝法院を建てたのが源流である。

上人は二十歳の頃に高野山に入りたが、その名声や地位が高まると、元々高野山にいた僧侶の反発を招いた。

上人は争いを避け、当時の地位をすべて弟子に譲って根来の地に移り、千百四十三年に世を去った。

妙見信仰と真言宗及び天台宗の僧兵や陰陽師修験者が習合して、山伏が生成され、その教理を全国津々浦々に運んで行く。

その本拠の一つが、真言宗の根来寺であり、その僧兵から名高い根来衆が生まれた。

根来衆は「忍者」と解されるいるが、修験道の山伏(僧兵)が正しい。

布教と、民を祟り病から救う呪詛の業、そして修験者根来衆の別の顔は、山師(鉱脈師)であり、踏鞴を用いる鉄精錬師である。

当然の事ながら、全国の情報も集ってくるから、諜報能力もある。

新義真言宗総本山、大治元年に建立された根来寺は、室町時代になると、九十八院、僧坊二千七百坊、寺領七十万石、僧兵数万となり、紀伊・和泉・河内に一大勢力を誇った。

ちなみに後の織田信長が、尾張を平定、岐阜城を斉藤氏から攻め取った段階の尾張、美濃二ヵ国の合計が八十万石程度である。

根来寺を本拠地とする根来衆がいかに強大な勢力で有ったかが判る。

どうも現代の映像の作り手にすると、一目で見る側に説明が付き易いので、安易にお決まりの衣装を決めているが、よく知られる僧兵の根来衆は、一般的なイメージの頭巾(ずきん)と黒装束の忍者姿ではなく、実際はザンバラ髪で兜や鎧を着けていた。

昼間から忍者姿で行動するなど、奇妙な事はありえない。

もっとも、完全に寺を護持する僧兵は頭巾(ずきん)をし、僧形の衣を身に着けていたのを戯作者が意図的に混合したらしい。

現実には、平服で市井に溶け込む方が余程正体は判り難い。

伊賀衆、甲賀衆、などもこの類で、平常「私は忍者です」みたいな服装をする訳は無く、彼らは武術の修行を積んだ山里の国人武士である。

彼ら山里の国人武士が、天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)と習合して呪術(呪詛)を含む多くの技と知識を駆使していた事を「忍術」と評したのであろう。

根来寺の僧兵は、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた強大な武装勢力であった。

鉄砲については根来寺にいた杉之坊が、津田監物(けんもつ)を種子島に遣わして鉄砲を入手し、根来坂本の鍛冶師「芝辻清右衛門に作らせた」との伝承がある。

つまり当時の渡来近代兵器「鉄砲生産基地」が、それこそ根来衆の別の顔、山師(鉱脈師)、踏鞴鉄精錬師、鍛冶師の範疇で「国産化された」と言う訳である。

根来衆は、この鉄砲生産技術を独占化して自らも武装するとともに、兵器産業として大きく稼いでいた。

この渡来近代兵器「鉄砲および砲筒」に目を付けたのが、雑賀衆と虚け者(かぶき者)の織田信長で、早くからこの鉄砲および砲筒の威力に目を付け、雑賀衆の本拠地、堺から鉄砲を購うと同時に、戦闘に際して「鉄砲傭兵集団・雑賀衆」をしばしば雇っている。

処が、「織田信長」が「一向宗」の総本山である「本願寺(家)」 と対立、「織田家」と「本願寺」は全面戦争に突入する。

雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、本願寺の本拠地である 大阪(石山) にも近かった為、本願寺とは友好的な関係にあった。

その為、「雑賀衆」 は 本願寺 の要請を受け 織田信長の軍勢と戦う事になる。

この時、鉄壁を誇った「雑賀衆」と「根来衆」の連携が一時的に分裂する。

「根来衆」が、実は「根来寺」と呼ばれる 「真言宗」と言う仏教のお寺を中心とした宗教勢力だったからだ。

つまり、「一向宗」である本願寺と宗教的には別の仏教な訳で、つまり「ライバル」だった。

この為「根来衆」は織田側を支援、この影響で根来衆に近かった雑賀衆の幾つかの小勢力も、織田家に味方する事になる。

信長の奇想天外な勝つ為の知略例に、鉄鋼船がある。千五百七十年(元亀元年)信長は逢坂の本願寺攻略を始める。

しかし、本願寺攻めに絡んで敵対した瀬戸内海最強の村上水軍(村上源氏の枝)の海上支援に手を焼いた信長は、伊勢水軍の九鬼義隆に、当時の常識を翻して鋼鉄の装甲を施す事を命じた。

その時代、「鋼鉄船が海に浮く」と言う考え方は世界中に無かった。

千五百七十八年(天正六年)、その鋼鉄船六艘が二百艘の村上水軍を破り、本願寺は攻略された。


織田信長の没後、天下統一を進める羽柴秀吉の約十万の兵による紀州攻めにより、根来寺は全山が炎上する。

信長には好意的であった根来衆も、言わばその権力の継承者である筈の秀吉には、何故か反抗的な態度をとる。

しかしこれには理由が在った。

根来衆が信長側で有った訳は、明智光秀との縁が深かったからで、農民の出自である秀吉など縁も所縁も無い。

根来寺は、紀伊のみならず河内や和泉の一部にもその勢力を及ぼしていたのだが、秀吉がこれらの利権を認めず「取り上げようとした」為である。

更に、天正十二(千五百八十四)年三月に秀吉方と徳川家康・織田信雄連合軍との間で行われた「小牧の戦い」の直前には、南光坊(光秀)の政治工作によって太田党を中心とした根来衆・雑賀衆が家康に加担していた。

これが紀州(根来衆・雑賀衆)征伐の一番大きな原因だったのかも知れない。

この家康に対する根来衆・雑賀衆の加担には、南光坊(光秀)の知略もさる事ながら、松平一門に対する修験道の血脈の裏付けがある。

伊豆の国(静岡県)賀茂郡以外にも賀茂(加茂)をかざした郡(こおり・ぐん)は別に四ヵ所ほど、愛知県加茂郡、岐阜県加茂郡、新潟県賀茂郡、広島県賀茂郡 として全国に存在した。

その事が、「賀茂一族の広がりを示している」と考えられる。

しかし平成の大合併で全ての郡が消滅している。

その一つが三河の国(愛知県)加茂郡で、三河松平家(徳川家)発祥の地である。

何度も言う様だが、元々神社は氏族の祭り神であり、上下の賀茂神社も葛城(賀茂氏)の氏神で、宮司(神官)と武士に境はなかった。

賀茂社の神紋は、賀茂祭の別名「葵祭」でも知られるように「葵」である。

そこから、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられるようになった。

江戸幕府将軍家である徳川家の祖は三河松平氏を名乗り、「賀茂神社の氏子であった」と言う。

言うまでも無いが、この氏子は「氏の子つまり子孫」と言う意味である。

また、近世大名本多氏(徳川・三河松平傍流の家臣)も「賀茂神社の神官と関係があった」と伝え、いずれも葵紋を用いている。

つまり、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」と三河松平家は祖先を同じくしているのだ。

この関係は、本能寺の変当時の家康の伊賀山中突破が、実は根来衆・雑賀衆・伊賀衆の連携支援に生かされる。家康は、信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。

六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。

これを後に「神君伊賀越え」と称される。

後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であるが、光秀の息が掛かった伊賀超えの山中を小人数の供回りで出突破した事は、多分に怪しい。

実はこのエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったのである。

その後の「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆が家康に加担した事からして、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。

「殿、明智殿より早馬で密書が参りました。」

堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。

「何、これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」

「殿、何(いず)れの道を戻りますか?」

「明智殿が手配の伊賀超えじゃ。」

この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが光秀の命を受けた伊賀衆である。

その際の伊賀の棟梁・服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られている。


「違い矢」「並び矢」など、矢紋の家紋を広めたのは服部氏である。

服部は伊賀国阿拝郡服部郷が苗字(名字・なえあざ・知行地の古い呼び名)の発祥地で、俗に言われる諜報を目的とした忍術の祖ある。

弓矢の歴史は古く、狩猟や戦場の武器として利用されて来た。


愛知県(三河)岡崎市に伊賀町と言う地名がある。

その東郷中(ひがしごうなか)に三河松平氏の祈願神社、伊賀八幡宮がある。

つまり三河松平氏は、伊賀とは元々強い関わりがあるのだ。

経緯を言えば、松平第四代親忠が、武運長久と子孫繁栄を祈願する氏神として、伊勢の国伊賀郷から八幡神社を移設した。

松平氏が賀茂神社の氏子と言う修験道の血脈が、この移設を可能にしたに違いない。

第九代の松平元康(家康・初代徳川)にしてみれば、伊賀は先祖代々の所縁の地である。

伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、大げさな手柄自慢では無いだろうか?

いずれにしても、その後天下を取った秀吉の手法は信長の武力圧制政策をなぞっていた。

興味深いのは、小牧・長久手の合戦が、周知の理解として「あくまでも秀吉と家康の間のものとして捉えられている」と言う事である。

これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康では無く「信長の息子信雄」の筈なのだが、根来衆・雑賀衆(紀州)側も世間も家康が主役と見ているのである。

つまり家康の手が、これ以前から「太田党を含めて根来衆などにも伸びていた」と考えられる。

この裏には、源平合戦時に三河の国足助に家を興し、その後三河松平氏に従った鈴木家の存在を忘れてはならない。

江戸幕府では旗本衆に残ったこの鈴木家は、元は熊野の雑賀衆鈴木党総領三郎重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い討ち死にした時の身内が三河鈴木党として郷士化して小城主になったものだ。

いずれにしてもこの鈴木家、家康の配下として、吉野熊野伊賀に強い関係が在ったのは言うまでもない。


そして天正十三(千五百八十五)年三月、秀吉は紀州(根来衆・雑賀衆)征伐に向かった。

「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。

当時の根来衆全体の統率者は、河内国交野郡津田城主で楠木正成の末裔を自称していた津田周防守正信の長男算長(かずなが・監物)を頭とする津田一族だった。

同年同月、僧兵大将津田監物、杉ノ坊照算などが討ち死にする。主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、二〜三の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。

この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・根来衆も滅び去ったのである。

泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、「土佐へ落ちて行った」と言う。

秀吉にとって、根来、雑賀、甲賀、伊賀は、明智方の勢力であり、明智亡き後、徳川と結び付くのを最とも恐れた相手だったのである。



徳川家康の墓所となった久能山東照宮くのうざんとうしょうぐう)は駿河国(静岡県静岡市駿河区)にある神社で、元々は隣接する日本平と共に太古海底の隆起によって出来き、長い年月の間に浸食作用などの為に堅い部分のみが残り、現在のように孤立した山と成った久能山(標高二百十六メートル)に在る。

久能山の由来であるが、六百年頃の推古天皇のみ世に久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、駿河国の名産・静岡茶の始祖といわれる聖一国師など多くの名僧が往来し隆盛を極めたとされる。

戦国期は今川氏の所領と成っていたが、今川氏の滅亡後の千五百六十八年(永禄十一年)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地・久能山に久能城を築いた。

その久能城も、武田氏の滅亡とともに駿河国は三河国の徳川家康の領有するところとなり、その支配下に入った。

天下が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の物となり、家康は一時関東へ国替えとなり久能城から離れるも、関が原の合戦の戦勝を経て征夷大将軍と成り、大阪の役で豊臣家を滅ぼして天下人と成る。

家康は将軍職を二代・秀忠に譲り、大御所と成って当時未だ西国方面に多い秀吉恩顧の大名に備えて、関東・江戸の守りも兼ねた立地である駿河・駿府城に隠居、晩年を駿府で過ごした。

大御所として駿府に在城当時の家康は「久能城は駿府城の本丸と思う」と評して久能山の重要性を説き、千六百十六年五月(元和二年四月)に死没 すると死後その遺言により久能山の地に埋葬された。

その一年後の千六百十七年(元和三年)には二代将軍・秀忠によって社殿が造営され、久能山東照宮と命名した。

特筆すべきは、後に三代将軍・家光に拠って造営された日光東照宮に存在する明智疑惑の桔梗紋などは、久能山東照宮には存在しない。

久能山東照宮の祭神は東照大権現(徳川家康)であり、相殿としては、一時家康が家臣として仕えた(豊臣秀吉)と同盟として家康の出世に力を与えた(織田信長)を祀っている。

その後、三代将軍・家光に拠って日光東照宮が造営され、日光東照宮へはこの久能山東照宮から「御霊の一部を移した」とされている。

久能山東照宮を管理したのは、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領した徳川四天王の一人・榊原康政(さかきばらやすまさ)の兄・清正の交代寄合格・榊原家宗家である。

久能山東照宮は五十年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、落成当初以来の多くの建造物が現存し二千十年に本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されるが、明治初期の廃仏毀釈によって五重塔を失っている。



南光坊天海は、徳川将軍三代に渡る知恵袋である。

そして、突如歴史の表舞台に姿を現す。

天海、光秀説は、随所に光秀生存(正史では山崎の合戦で、土民に竹やりで討たれた事に成っている。)を思わせる証拠が数多く残されているからだ。

天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話がある。千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。

天海の別名「慈目大師」の由来ともなったのが、この千里眼である。

天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こった事や家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。

時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。

読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下を操れるからこその能力では無いだろうか?

天海僧正が明智光秀ならば、光秀は妻・妻木(勘解由/かでの)煕子(ひろこ)の縁もあり、織田家の諜報組織の全てを受け持っていた今で言う情報局長官みたいな立場だった経歴の持ち主で、天海僧正の「千里眼」は容易に納得でき不思議な事ではない。

その光秀の諜報組織を、光春(二代目・光秀)が「ソックリ受け継いで居た」とすれば千里眼など造作もない。

伝わる奇跡の正体は大方そんなものであるが、正体を知らなければ恐ろしい能力を持つ「大師・大僧正」と畏怖され、信仰されるようになる。


そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山した.。

その後日光山の造営は源義朝で、祭神は江戸幕府初代将軍・徳川家康(東照大権現)とし、その他に源頼朝を配祀している。

まぁ、建前源氏の系図を名乗っている徳川家としては、源頼朝を配祀されていても不都合は無い。

日光山は、源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。


千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗・天海僧正に拠って日光に家康が改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、陰陽修験道の色合いが濃い神仏集合の東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も、風水上の江戸の要であると同時にその建設には、いざ江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

つまり日光は、徳川幕府にとって誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の、木造の武士の紋は、明智の家紋「桔梗紋」である。

近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。

また、日光東照宮造営に先駆けてテスト造営され、「家康が寄進した」とされる秩父神社の社殿と言うのがある。

この秩父神社・本殿の、東照宮に負けない豪華な極彩色の彫刻の中に、何故か「桔梗紋」を着けた僧侶の姿が掘り込まれている。

この秩父神社の、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命(県主)が先祖の八意思兼命を祭った。

秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて、実は関東妙見信仰の中心的役わりを担っていた。

その秩父神社に、天海僧正が東照宮建造の予行演習的社殿を家康の為に造営している処からも、家康と天海の宗教的DNAが、密かに山岳(山伏)信仰にある事が推測される。

家康が漢方に通じていた所も、陰陽師(修験山伏)の出自(子孫)らしいではないか。

秩父神社の近くにも、慈目寺や明智寺が存在する。

これは多くの謎である。

「明智平」の命名と言い、天海が明智に関わりがあり、しかも秀忠が日光陽明門の「桔梗紋」を容認している所が、今日の歴史好きたちの想像意欲を掻き立てるのだ。

そしてこれも明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件なのだが、光秀が「匿まわれていた」とされる比叡山松禅寺には、光秀没後三十三年目の年に「願主・光秀」つまり「光秀が寄進した」と彫りこんである石灯籠が存在する。

大阪岸和田に、「本徳寺」がある。

この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて、肖像画も残されている。

江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。
門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。

桔梗門は江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され幕府の要職者が登下乗する門だった。

つまり、天海僧正は、この門を利用していた事になる。

門の前には桔梗門橋が架かっていて、門前の掘割は桔梗濠と呼ばれている。

天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。

天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。

それらは、おびただしい光秀の亡霊だが、今となっては、生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは、特定できない。

しかしながら、天才信長に挑み続けた天下の秀才がいた事は事実である。

これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが浮かんで来る。

大逆転である。

天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事に、なるのかも知れ無い。

徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば至極判り易い話なのである。



この物語で重要なポイントになる、明智光春、明智光忠について、少し書く。

明智光春(あけちみつはる)は、明智光忠同様に織田信長に重用された明智光秀の家臣で、こちらの方は確り記録があり明智光秀の叔父に当たるとされる「明智光安の子である。」とされているが、明智光春には現在二つの説が有る。

一つは明智光安の子で、光秀の従弟、一つは三宅弥平次と言う名で、光秀の娘婿となり、明智の姓を名乗ったとする説である。

この二つの説から選ぶのが通常なのだろうが、何しろ戦国の世で、これが始めから二人居て謀略の為にそれぞれ入れ替わり、しかるべきに収まったのなら辻褄が合うのだ。

つまり、この明智光春も謎の多い人物で、「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物であり誰かをモデルに作られた可能性はあって実在の人物かは確証がない。

伝えられる所に拠ると、明智嫡流だった光秀の父・が早世した為、光春の父・明智光安が後見として明智・長山城主を務めていたのだが、斎藤道三と斎藤義龍親子の争いに敗北した道三方に加担した為、義龍方に攻められ落城する。

光安は自害するが、光春は光秀や光忠らとともに城を脱出して浪人し、年長・明智嫡流の光秀を盟主として一族で行動する。

盟主・光秀が織田信長に仕えると光春は光秀に従って各地を転戦し、武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。

光春の妻は光秀の次女で、荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが村重謀反の際に離縁され、光春と再嫁した。

光秀が織田信長を討った本能寺の変では、光春は先鋒となって京都の本能寺を襲撃し、変事の後は安土城に回ってこれを占拠し守備につくが、羽柴秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死すると「坂本城に移って自害した」とされるが、替え玉が容易な時代でこれも確たる自害の証拠は無い。

巷に流れる光秀生存説を採れば、野に下った光秀に光春が最後まで従った可能性も否定出来ない。


明智光忠(あけちみつただ)は織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たる明智光久又は明智光安の子であるとされるがどちらの子か定かではない。

丹波国八上城主とされる戦国時代の武将で、光春と同様に妻は光秀の娘を娶っている。

光忠は、織田信長の陪臣時代に丹波過部城攻めの功績で織田信長より感書を下される手柄を立てている。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変では、信長の息子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃し、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで主君・光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると「自害して果てた」と伝えられている。

明智光忠にも次郎四郎、次右衛門、などの名前がある。

この明智光忠(あけちみつただ)は実在していたのは事実であるが、しかし「自害して果てた」と伝承されているだけで墓も残っておらず、光忠の事自体公式記録や一級資料にも残っていない。

最後は、丹波八上城(周山城)主で在ったが、これも早い時期からの身代わりとも考えられる。

彼・光忠にも従弟説と娘婿説が存在し、結論がでないのだ。

それどころか光忠は、明智光久(又は明智光安)の子では無く「美濃の百姓の出自」と言う異説まで存在する。

そこで考えられるのが、明智光忠は途中で入れ替わっており、前期の光忠は確かに明智光久(又は明智光安)の子で光秀とは従兄弟だった。

だが、、後期の光忠は「美濃の百姓の出自」と言う可能性も出て来る訳で、それなら本物の明智光忠が徳川秀忠に化ける筋書きに信憑性が出て来るのである。

かりに、江戸初期の天海僧正が、疑われているように明智光秀または明智光春などの明智の者であれば、伝記は、「いかようにも書ける」と考えられ、そこに秘匿すべき物があれば然るべく書き表されてのである。

つまり信長の、血統至上主義を破壊して織田新帝国を成立させる構想は明智光秀に阻止されたが、その目論見の残滓(ざんし)が江戸幕府の中枢に信長の怨念のごとく残ったのかも知れない。

そしてこの事が、二代将軍・秀忠と怪僧正・天海、大奥筆頭・春日局の三人が密かに同じ明智一族に繋がる血統の持ち主と言う疑惑を生み出したのである。

あくまでも推論に過ぎないが、天海僧正の登場にしても春日局の登場にしても、徳川幕府成立後に為された諸般の繋がりが、どう見ても二代将軍・秀忠の本当の出自を疑える情況だった。

それとも世間は、これらの明智に繋がる色濃い疑惑を「ただの偶然だ」と言うのだろうか?


本能寺の変で主家・織田信長を死に至らしめ、羽柴秀吉との山崎の戦いで滅んだ明智氏だが、江戸時代に沼田藩主となった土岐家は自称・明智氏の流れである。

上野国(群馬県)沼田藩主土岐家の祖・土岐定政(ときさだまさ)は、安土桃山時代の武将だった。

父は土岐頼芸の臣・土岐明智定明,母は三河国・菅沼氏の娘と伝えられる。


土岐定政(さだまさ)は美濃多芸郡に住したが、千五百五十二年(天文二十一年)土岐氏主流滅亡の際、父・明智定明が戦死した。

為に二歳で母方の実家を頼って三河に移り外祖父・菅沼定仙(すがぬまさだのり)に養われて成長した後、駿河から戻った徳川家康に仕えた。

この仕官にあたり、明智光秀と同族である事を憚(はばか)って、養家の菅沼を名乗り菅沼藤蔵(すがぬまとうぞう)と称したとされる。

以後、菅沼藤蔵(すがぬまとうぞう)は徳川軍に在り、小牧・長久手の戦いや小田原征伐でも軍功を挙げ、後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に一万石を与えられた。

菅沼藤蔵(菅沼定仙)は歴戦の勇士として名を成したが「性質は粗暴で在った」と伝えられている。

千五百九十年(天正十八年)、豊臣秀吉の裁量で家康の関東入部が決まり、徳川家の石高が大きく増える。

その際に菅沼藤蔵は下総相馬郡に一万石を給され、三年後の千五百九十三年(文禄二年)に家康の命で本姓である土岐氏に復し土岐定政(ときさだまさ)とぢた。

その沼田藩主・土岐家(ときけ)は、明智氏の流れで在りながらお家安泰で、徳川親藩として各地の藩主や大坂城代などを歴任している。

土岐頼殷(ときよりたか)は、出羽・上山藩(かみのやまはん/二万五千石)の第二代藩主で、後に越前野岡藩を経て、駿河田中藩(三万五千石)の初代藩主となった。

老中であった土岐頼稔(ときよりとし)の代に、駿河国田中藩から上野国沼田に三万五千石で入部、幕末まで定着して明治維新を迎えている。

そして徳川幕府成立以来、沼田土岐家(ときけ)は、移封される領国の所在地はともかく江戸に詰めて幕府官僚としての役職を歴任している。

この明智流土岐家への徳川親藩扱いに、初期徳川幕府の体制を固めた「徳川秀忠、天海僧正、春日局(斉藤福)トリオの意向が働いた」と推測するのは無理筋だろうか?

そしてその沼田土岐家(ときけ)処遇を、「大御所・徳川家康も容認した」とすれば、それ相応の隠れた意味があるのかも知れない。


確かに沼田・土岐家(ときけ)は三河以来の家臣であるが、それを言うなら土岐家(ときけ)以上に貢献し家臣と比較しても最初から一万石は厚遇である。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居た。

天下を取った家康がその安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられている。

いずれも、本来ならもっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事との比較である。


それらの縺(もつ)れた糸の全てが、明智の名で一つに繋がっていたのだ。

こう言う歴史の謎は、例え突拍子も無いものでも可能性が出て来た以上それを否定する確実な証拠が出て来なければその謎は現に存在し、それを常識と言う名の想像だけで否定する事は出来ない。



本多正純(ほんだまさずみ)は千五百六十五年(永禄八年年)、本多正信の嫡男として生まれる。

当時、父・正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていた。

正純(まさずみ)は、大久保忠世(おおくぼただよ)の元で母親と共に保護されていたようである。

父・正信が徳川家康のもとに復帰すると、正純(まさずみ)は共に復帰して家康の家臣として仕えた。

正純(まさずみ)が父・正信と同じく智謀家であった事から家康の信任を得て重用されるようになり、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。

関ヶ原戦後、捕らえた石田三成の身柄を家康の命令で預かっている。

また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙するも適わなかった。

千六百三年(慶長八年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、正純(まさずみ)は家康にさらに重用されるようになる。


千六百五年(慶長十年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となる。

家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣(おおくぼただちか)が、駿府の家康には正純が、正純の父・正信は両者の調停を務める形でそれぞれ補佐として従うようになった。

正純(まさずみ)は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。

千六百八年(慶長十三年)には、正純(まさずみ)は下野国小山藩三万三千石の大名として取り立てられる。

千六百十二年(慶長十七年)二月、正純(まさずみ)の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束する。

この斡旋話が詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれる「岡本大八事件」が発生する。

大八がキリシタンであった為、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。

この千六百十二年(慶長十七年)十二月二十二日には築城後間もない駿府城が火災で焼失し、再建がなるまでの間、家康は正純(まさずみ)の屋敷で暮らしている。

この千六百十四年(慶長十九年)に成ると、政敵・大久保忠隣(おおくぼただちか)を「大久保長安事件」で失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでに成る。

また、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは「正純(まさずみ)であった」と言われている。


千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没した後、正純(まさずみ)は江戸に転任して第二代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。

しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。

なお正純(まさずみ)は、家康と正信が死去した後、二万石を加増されて五万三千石の大名となる。

千六百十九年(元和五年)十月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。

この加増により、正純(まさずみ)は周囲からさらなる怨みを買うようになる。

ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う。


二代将軍・秀忠の本格治世と成り幕僚の世代交代が進んでいたが、正純(まさずみ)は幕府で枢要な地位に代わらず在った。

しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、二代・秀忠が権力を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきた事で正純(まさずみ)の影響力、政治力は弱まって行った。

そこに、「宇都宮城釣天井事件」が起きる。


江戸時代の千六百二十二年(元和八年)に宇都宮城釣天井事件は起きた。

下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純(ほんだまさずみ)が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて二代将軍・徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が流罪となった事件である。

ただしこの嫌疑、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因に依る仕組まれたものとされる。


本多正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所・徳川家康の側近であった。

本多正信・正純父子は政敵・大久保忠隣を失脚させるなど、幕府内に強い影響力を持っていた反面、幕閣内では政敵も多かった。

だが、正信の存命中に於いて、正信に逆らえる者は実質おらず、家康も正信の事を、「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。

所が、千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没すると、正純は二万石を加増されて下野小山藩五万三千石となり、将軍・秀忠付の年寄(後の老中)にまで列せられる。

しかし、正純は先代からの宿老である事を恃(たの)み権勢を誇り、やがて将軍・秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。

千六百十九年(元和五年)十月、福島正則の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、奥平忠昌(おくだいらただまさ)を下野宇都宮藩十万石から下総古河藩十一万石へ移封させ、自身を小山五万三千石から宇都宮十五万五千石への加増とした。

だが、このお手盛り三倍加増により、正純は将軍・秀忠やその側近達周囲から一層の反感を買う事になる。

ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う伝聞も在る。


そうした背景を抱えた本多正純は、千六百二十二年(元和八年)将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に一泊する予定で在った為、城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。

四月十六日に将軍・秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」と言う密訴があった。


内容の真偽を確かめるのは後日とし、四月十九日、将軍・秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たとして予定を変更して宇都宮城を通過し、壬生城に宿泊して二十一日に江戸城へ帰還した。

八月、出羽山形藩・最上家親の改易に際して、正純は上使として山形城受取りの為同所に赴(おもむ)く。

その最中、将軍・秀忠は伊丹康勝と高木正次を糾問(きゅうもん)の使者に立てて出羽山形に赴(おもむ)く正純を追わせる。

将軍・秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて将軍・秀忠を圧死させようと画策したなど、十一ヵ条の罪状嫌疑を正純へ突きつける。

秀忠の近持・伊丹康勝と高木正次が上使として正純の下に赴き、その十一ヵについて問い正すと正純は一つ一つ明快に回答した。

しかし伊丹康勝が追加で行なった糾問(きゅうもん)、将軍家直属の根来同心を処刑した事、鉄砲を無断で購入した事、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした事の三ヵ条については回答する事ができなかった。

その為、宇都宮の所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じて改易は赦し、改めて出羽由利郡に五万五千石を与えると減封の代命を伊丹らから受ける。

この時、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で伊丹らの詰問に応じ、さらにその五万五千石を弁明の中で固辞し、逆に正純の態度が将軍・秀忠の逆鱗に触れる事と成る。

伊丹らが正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると秀忠は激怒し、本多家は改易され、正純(まさずみ)ぼ身柄は久保田藩主・佐竹義宣に預けられ出羽国横手への流罪となった。


突然の仕置きだったが、正純(まさずみ)には父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げた過去があり、二代・秀忠には遺恨が在ったのかも知れない。

正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝(どいとしかつ)ら秀忠側近が影響力を一層強める事になる。

本多正純(ほんだまさずみ)は、後に千石の捨て扶持を配所の横手於いて仕置きから十五年後の千六百三十七年(寛永十三年)三月に七十三歳で死去するまで与えられ寂しく生涯を終えている。



千五百五十三年(天文二十二年)、大久保忠隣(おおくぼただちか)は松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世(おおくぼただよ)の長男として三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)で生まれる。

忠隣(ただちか)は、千五百六十三年(永禄六年)から父・忠世(ただよ)の主君・松平元康(まつだいらもとやす/徳川家康)に仕える。

千五百六十八年(永禄十一年)に、忠隣(ただちか)は遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。

これを皮切りに、忠隣(ただちか)は家康の家臣として三河一向一揆、千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、千五百七十二年(元亀三年)の三方ヶ原の戦いに従軍し活躍する。

三方ヶ原の合戦の負け戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、忠隣(ただちか)は家康の傍を離れず浜松城まで随従した事から、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に際して、忠隣(ただちか)は家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業に於いても切り取った領国の経営に尽力した。

この時に土屋長安(大蔵から土屋)も抜擢され、長安(ながやす)は忠隣(ただちか)はの元で辣腕を発揮し、忠隣(ただちか)から大久保の姓を与えられた。

忠隣(ただちか)は千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦い、千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。


千五百八十六年(天正十四年)の家康上洛の時に、忠隣(ただちか)は秀吉の意向で従五位下治部少輔に任じられ、豊臣姓を与えられた。

家康の関東入国の折、忠隣(ただちか)は武蔵国羽生二万石を拝領し、千五百九十三年(文禄二年)には家康の三男・徳川秀忠付の家老となる。

千五百九十三年(文禄三年)に父・忠世(ただよ)が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原六万五千石の領主(後に初代藩主)となる。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い時には、忠隣(ただちか)は東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠に従い中山道を進む。

その西に向かう途中、信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸(さなだまさゆき)に対して、忠隣(ただちか)は攻撃を主張して本多正信らと対立する。

この上田合戦、結果的に東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠を「関ヶ原合戦への遅参」と言う痛恨の結果を為す事になる。
千六百一年(慶長六年)、忠隣(ただちか)は高崎藩十三万石への加増を打診されるが固辞した。

千六百十年(慶長十五年)には老中に就任し、第二代将軍・秀忠の政権有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の体制となる。

二元政治の中、秀忠重臣の忠隣(ただちか)は家康重臣である本多正信・正純父子と対立する。

その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、吏僚派の本多父子に対し千六百年頃の忠隣(ただちか)は武功派に強い求心力を持っていた。

本多父子が家康の後継者に家康次男・結城秀康を推奨していた事もあり、側近として秀忠を後援する忠隣(ただちか)には看過しがたいものが在った。

両者の対立は次第に顕在化の様相を呈し、千六百十二年(慶長十七年)の岡本大八事件(有馬賄賂疑獄事件)を経て一気に沸騰する。

さらに千六百十四年(慶長十九年)に起こった大久保長安事件(幕府御用金横領疑獄事件)に忠隣(ただちか)が連座する。

この長安事件に便乗する形で、浪人の馬場八左衛門が忠隣(ただちか)が大坂の豊臣秀頼に内通していると誣告した為、家康の不興を買った。

忠隣(ただちか)はキリシタンの鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いたところ、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝(いいなおたか/井伊直政の次男)に御預けの身となった。

この時忠隣(ただちか)は、栗太郡中村郷に五千石の知行地を与えられている。

改易の主要な理由については、表向きには馬場の訴状で指摘された豊臣との内通、長安事件の連座の他、忠隣(ただちか)の養女と山口重信との無断婚姻などが提示されている。

だが、本多父子が長安事件を口実に利用し、政敵である忠隣(ただちか)を追い落とす為の策謀を巡らせたとする見解も強い。

本多正純は岡本大八事件に部下・岡本大八が関与した事で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣(ただちか)を排斥する事で足場を固めておきたかったものと思われる。

忠隣(ただちか)の改易は「徳川実紀」も本多父子による陰謀説を支持している。

また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、「和平論を唱える可能性のあった忠隣(ただちか)を遠ざけた」とする説などもあるが、明確な理由は不明である。

その後、忠隣(ただちか)は出家して渓庵道白と号し、千六百二十八年(寛永五年)六月二十七日に七十五歳で死去した。


忠隣(ただちか)に将軍家の許しが下る事は終(つい)に無かった。

しかし忠隣(ただちか)の累代に於ける武功が大きかった事から、大久保家の家督は嫡男の忠常が早世した為、嫡孫の忠職(ただもと)が継ぐ事が許される。

その忠職(ただもと)の養子で忠職の従弟・忠朝(ただとも)の時に小田原藩(十一万三千石)の藩主として復帰を果たした。

また、連座で謹慎していた忠隣次男の石川忠総(いしかわただふさ)は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げた事から最終的に近江国膳所藩主となり、子孫は伊勢国亀山藩(五万石)の藩主となった。



二代将軍・徳川秀忠の懐刀として江戸時代前期の幕府の老中・大老を務めた土井利勝(どいとしかつ)の出自には多数の説が在り、謎に包まれている。

一説では、利勝(としかつ)は徳川家康の伯父・水野信元の三男として千五百七十三年(元亀四年)三月十八日に生まれたとある。

また、利勝(としかつ)は水野信元の三男ながら系図には徳川家家臣・土井利昌の子と記載されているとされる。

家康の伯父・水野信元の三男説に於いては、千五百七十五年(天正三年)に信元が武田勝頼と内通したという罪により織田信長の命で家康に討たれた後、家康の計らいで土井利昌の養子になった。

土井利昌には長男の元政がいたが、それを差し置いて利勝(としかつ)が家督を継いでいる。

そして利勝(としかつ)には、土井利昌の実子として遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれたという説もある。


また、利勝(としかつ)には、家康の落胤という説もある。

井川春良が著した「視聴草」には、家康の隠し子である事が書かれている他、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にも同落胤説が紹介されている。

この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行する事を許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていた為である。

また、元康(家康)と正室の築山殿との仲が冷え切っており、その為に築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたと言う可能性も否定できない所がある。

ただし、元康(家康)には双子説が在り、その説では正室の築山殿の存在に関わらず落胤を儲けた可能性を否定出来ない。

この双子説では、今川氏の人質(築山の夫)ではないもう一人の竹千代(家康)が、相当自由に三河から遠近江を遊び回ったらしく、鈴木一蔵を始め落胤説が数例を数える。

在野の書誌歴史学者・森銑三(もりせんぞう)は、父とされる水野信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している 。

千五百七十九年(天正七年)四月に徳川秀忠が生まれると、利勝(としかつ)は七歳にして安藤重信や青山忠成と共に、役料二百俵で三男・秀忠の傅役を命じられる。

千五百九十一年(天正十九)に、利勝(としかつ)は相模国に領地一千石を得る。

千六百年(慶長五年)九月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。

しかし信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの戦後に五百石を加増され、利勝(としかつ)は知行千五百石としている。

千六百一年(慶長六年)に、利勝(としかつ)は徒頭(かちがしら)に任じられ、千六百二年(慶長七年)十二月二十八日に一万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。

千六百四年(慶長九年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉以下の使節が来日すると、利勝(としかつ)はその事務を総括した。

千六百五年(慶長十年)四月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられる

此れに依り随行していた利勝(としかつ)も従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は二代・秀忠の側近としての地位を固めて行った。

千六百八年(慶長十三年)には、利勝(としかつ)は浄土宗と日蓮宗の論争に裁断を下して政治的手腕を見せ、千六百十年(慶長十五年)一月、下総国佐倉三万二千石に加増移封となった。

同じ年の慶長十五年十月、本多忠勝が死去すると、家康の命令により十二月一日に秀忠付の老中に任じられ、二年後の慶長十七年に一万三千石加増され四万五千石と成る。

千六百十五年(慶長二十年)大坂の陣が起こると、利勝(としかつ)は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに六万二千五百石に所領を加増された。

千六百十五年(慶長二十年)夏には、利勝(としかつ)は青山忠俊、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられる。

千六百十六年(元和二年)、利勝(としかつ)は将軍・秀忠の名で一国一城令と武家諸法度(十三ヵ条)を制定する。

これにより戦国時代は終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれる事と成った。

同千六百十六年(元和二年)四月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝(としかつ)がその一切の事務を総括した。

六年後の千六百二十二年(元和八年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚し、この失脚によって、利勝は名実ともに「幕府の最高権力者」と成った。

千六百二十三年(元和九年)、二代将軍・秀忠は将軍職を家光に譲り、家光は三代将軍と成る。

将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝(としかつ)は家光の傅役を務めた事でこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に幕政に辣腕を振るって行く。

千六百二十五年(寛永二年)、利勝(としかつ)は十四万二千石に加増を受ける。


政権が三代将軍・家光に移ってほどない千六百三十二年(寛永九年)、日本史に残る大事件が二件勃発した。

二代将軍・秀忠の三男・甲斐甲府藩と駿河府中藩二ヵ国の太守・徳川忠長と加藤清正・三男・肥後熊本藩の第二代藩主・加藤忠広が改易さたのだ。

当時老中としてこの二大事件に関わった利勝(としかつ)は、これを期に政治の実権から徐々に遠ざかって行く。

千六百三十五年(寛永十二年)には、利勝(としかつ)は武家諸法度に参勤交代を組み込むなど十九条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定し下総国古河十六万万石に加増移封される。

千六百三十七年(寛永十四年)頃から利勝(としかつ)は中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、三代将軍・家光より慰留されて撤回する。

翌千六百三十八年(寛永十五年)十一月七日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。

それから六年、利勝(としかつ)は千六百四十四年(寛永二十一年)六月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが七月十日に七十二歳で死去する。

利勝(としかつ)の後を、長男の利隆が継いだ。



板倉氏(いたくらし)は、源氏流足利泰氏の次男・渋川義顕(しぶかわよしあき)を源に辿る源氏の後裔である。

鎌倉幕府の御家人・渋川義顕(しぶかわよしあき)は当初は足利庄の板倉の地を領して本貫とし、板倉二郎と称した。

板倉二郎(義顕)は、のち上野国渋川荘を有して渋川氏の祖となっているが、その後裔と伝えるのが江戸期の板倉氏である。


板倉勝重(いたくらかつしげ)は、千五百四十五年(天文十四年)板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。

勝重(かつしげ)の才を恐れた兄・板倉忠重の嫉妬により幼少時に出家し、香誉宗哲(こうよそうてつ)と称して浄土真宗の永安寺の僧となった。

ところが千五百六十一年(永禄四年)に父の好重が深溝城主・深溝松平(ふこうずまつだいら)家・松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死する。

さらに家督を継いだ弟の定重(さだしげ)も千五百八十一年(天正九年)に高天神城の戦いで戦死した為、徳川家康の命で家督を相続する。

その後は主に施政面に従事し、千五百八十六年(天正十四年)には家康が浜松より駿府へ移った際、勝重(かつしげ)は家康より駿府町奉行を拝命する。

千五百九十年(天正十八年)に家康が関東へ移封されると、勝重(かつしげ)は武蔵国新座郡・豊島郡で千石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。

関ヶ原の戦い後の千六百一年(慶長六年)、勝重(かつしげ)は三河国三郡に六千六百石を与えられる。

この加増と伴に、勝重(かつしげ)は京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。

なお、勝重(かつしげ)が二代将軍・秀忠の継嗣・徳川家光(後の三代)の乳母を公募し、斉藤福(春日局)が公募に参加したと言う説があるが、真偽の程は定かで無い。

千六百三年(慶長八年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に、勝重(かつしげ)は従五位下・伊賀守に叙任される。

千六百九年(慶長十四年)には近江・山城に領地を加増され一万六千六百石余を知行し勝重(かつしげ)は大名に列している。

同年の猪熊事件では、勝重(かつしげ)は京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。

千六百十四年(慶長十九年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では、勝重(かつしげ)は本多正純らと共に強硬策を上奏する。

大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、勝重(かつしげ)は朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。

勝重(かつしげ)千六百二十年(元和六年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲り、四年後の千六百二十四年(寛永元年)に七十九歳で死去した。


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(系図・双子竹千代)

◇◆◇◆(系図・双子竹千代)◆◇◆◇◆

遅くなったが、徳川家の出自について少し触れる。

と言っても、徳川家の基と成った松平家そのものにはたいした物は無い。

ただ、徳川家初代・徳川家康の前半生と、その家康が突然清和源氏流を名乗った事には謎が多い。

徳川家が三河の一土着豪族だった頃に名乗っていたのは松平姓で、本来は枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。

三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族だった。

発祥の地名が三河国・加茂郡で、家紋は賀茂神社と同じ葵紋では賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。

しかし、徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図が存在するだけである。

つまり、松平・氏(まつだいら・うじ)賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)が本来の氏姓(うじかばね)である。

だが当時の慣例で、源氏流が武門の棟梁の資格とされ賀茂朝臣(かも・あそん)では武門の棟梁にはなれない。

松平元康(家康)は、駿河・今川家の属将から独立し「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗る。

だが松平元康(家康)が、源家流と言う決定的な証明は為されていない。


それでも、賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)松平・氏(まつだいら・うじ)は古くからの豪族の血筋で、棟梁に値する旗頭である。

それなりの血筋に産まれたばかりに、源頼朝同様に多感な時期を人質の身として過ごした松平元康(徳川家康)は、周囲に味方無く孤独の中で心傷付き育った筈である。

その松平元康(徳川家康)に、織田信長は彼特有の閃(ひらめ・感)きで「何か」を見ていた。

その信長の感は、不幸な結末では在ったが、浅井長政を見出した時も同じだった。


三河・松平家は、けして新田源氏・世良田系などではない。

家康が、ひたすら漢方を頼って、執念で秀吉より永く生き延びたのは、正しく賀茂家の修験秘伝を受け継ぐ者だったからに、違いない。


三河・松平氏(まつだいらし)は初代家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。

この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、賀茂氏の出自と見る方が妥当である。

本来、陰陽修験の賀茂神道と隠密組織系の賀茂氏は、平安時代には陰陽寮の助を務める貴族であり、室町時代頃までは勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、総本家は「戦国時代に断絶した」とされる。

しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。

松平氏が土着居住した三河国は、室町幕府時代末期は細川氏が守護職だった。

守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた為に三河には守護代・東条国氏(とうじょうくにうじ)を置いていた。

千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護は不明となり、三河の支配権は混沌とする。

記録によると松平氏は応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われる。

額田郡国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見え、伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。

三河松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の「伊勢貞親に仕えた」と言われる。

この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国今川氏、西は尾張国(おわりのくに)の織田氏に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

そこで広忠は、織田氏に対抗する為に今川氏を味方につける事を策して継子・松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ人質に出す事を決した。

その所から、松平竹千代の波乱の生涯が始まるのである。


織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。

この任官の時と征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。

いずれにしても源氏の後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。

しかし徳川家が天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。



江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。

大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?

家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?

勿論、三河物語や徳川実記などには記載出来ない多くのミステリーの解明が、この物語の目的でもある。


三河家臣団の結束の強さは周辺諸国の美濃の斉藤氏も、尾張の織田氏も、駿河・遠近江の今川氏にも聞こえていた。

家康には影武者入れ替わり説も在るが、勿論只の影武者の入れ替わりでは三河家臣団が納得する訳が無い。

彼らを納得させるには松平の血の継続が必要で、つまり継嗣が二人居た(双子)のでないと、条件を満たさない事になる。


竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。

徳川家康の母として有名な於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその正室・於富の間に居城・緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。

この於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。

於大の父・水野忠政は、所領の緒川からほど近い三河国にも所領を持っていた。

忠政は、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせる。

それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に娘の於大を嫁がせた。

於富の方は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたる。

それが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。

於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。

水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。

しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。

その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。

広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

勘違いして貰っては困るが、久松俊勝婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗る。

だから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり生涯に於いて水野太方(みずのたいほう)である。

於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていた。

だが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。

於大は、久松俊勝との間には三男三女をもうけている。

桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。

於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。

於大の方は、子の徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられる。

だが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。


実はこの嫡男出産、三河・松平家にとって「密かに大事件だった」のである。

難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、在ろう事か半刻に満たず今一人男子が生まれてしまった。

立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。

松平広忠は直ぐに決断した。

永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。

片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。

「作左(本多)と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」

「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」

呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。

「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」

「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」

「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」

「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」

「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」

「合い判り申した。しからばもう一人のお方は、この鳥居元忠にお任せを・・」

「それで良いか?」

「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」

「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」

「合い判った。嫡男の傅役(ふやく/お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀は両名以外他言無用ぞ。」

「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」


唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事が在った。

これが当時としては、信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそお家騒動の火種になる。

双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。

ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。

それで松平家では片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(ふやく/お守り役)とし内密に育てさせている。

その傅役(ふやく/お守り役)・鳥居忠吉こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られたあの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。

この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(ふやく/お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。

時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ棟梁家の嫡男である。

御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。

それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその実子として預けるのが一般的だった。

嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。

何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。

つまり後に名を挙げる鳥居元忠とは、一時期兄弟の様に育った可能性もある。

もう一人の家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされた竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。

最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。

この戦乱を収めるエースを育てる為に、畿内、東海の影人達が一斉に、密かに動き出していた。

日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。



群馬県太田市に「徳川町」と言う地名がある。

長く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。

新田義重の四男・義季が、得川郷の領主となって新田次郎と称し、父・義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られる。

その義季嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏称した。

その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。

「得川」は本来は「えがわ」と読んでいた。

それが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏「発祥の地」と成っている。

ちなみに、家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。

得川頼有は、娘の子である岩松政経に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は女系の岩松氏に代わった為に父子二代で消滅していた。

それが突然三河国で復活した事になる。

この系図のカラクリをどう読み通したら、合理的な説明が着くのだろうか?

この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏にたった一つだけ心当たりの「接点」が浮かび上がった。


松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五〜六歳の頃)のみぎり、松平家の勢力が衰えた事から今川家の勢力に圧迫された。

父・松平広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は忠誠の証として今川義元の下へ人質として駿河国府中へ送られる。

所が、その旅の途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光(とだやすみつ)の謀略により浚(さら)われ、今川家の反勢力である尾張の織田信秀の元へ送られる。


戸田康光(とだやすみつ)は、戦国時代に田原城を根拠に渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった三河国の武将である。

それが、松平氏の勢力拡大に屈服して松平氏に従い娘の田原御前・戸田真喜(姫)を松平広忠に嫁がせる。

康光(やすみつ)は松平広忠の依頼を受け、渥美半島の老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅付近)から舟で広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を駿府まで送り届ける予定であった。

所が、竹千代一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名、織田信秀の下に到着する。


松平広忠(まつだいらひろただ)を裏切って駿河今川氏に送られる松平竹千代(後の徳川家康)を織田家に届けた戸田康光(とだやすみつ)は、三河戸田氏の棟梁である。

戸田氏は三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)に拠った国人領主家である。

その三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。

三河国の戸田氏は、藤原北家・藤原公季流・正親町三条家の末裔と伝わり、古い時代に於いては十田(とだ)と記した例もある。


戸田氏の運命が大きく動いたのは、三河国に勢力を持っていた松平氏の勢力が弱まった戦国中期だった。

戸田氏や牧野氏を抑え、三河を統一しかけていた松平清康(まつだいらきよやす)の急死により、松平氏の隆盛には陰りが見えはじめていた。

清康(きよやす)の跡を継いでいた松平広忠(まつだいらひろただ)は織田氏の圧迫を受け、嫡男の松平竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質に出す事を条件に後援を申し入れていた。

この時、人質として送られる松平竹千代(後の徳川家康)の今川領・駿河国までの護衛を命じられていたのが戸田氏だった。

松平竹千代(後の徳川家康)の護衛役を命ぜられた戸田家の当主・戸田康光(とだやすみつ)は、三河に於ける今川方の有力な戦国武将で在った。

所が先年、今川義元(いまがわよしもと)に一門の戸田宣成(とだのぶなり)が滅ぼされた事を深く恨み、同じ末路をたどる事を恐れて尾張の織田氏に寝返ろうとした。

康光(やすみつ)は松平竹千代を駿河に送ると見せかけ、織田家に通じて今川氏から離反した。

今川氏の仇敵・織田氏に松平竹千代を届けた為に、これに怒った今川義元は、田原に兵を差し向ける。

今川氏の追討を受け、康光(やすみつ)は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男・尭光(たかみつ)と共に討死し、田原・戸田氏は滅亡した。

宗家が壊滅した為、分家して仁連木戸田家を立てていた仁連木城主で康光次男の宣光(のぶみつ)は今川氏についてその命脈を保ち、宣光系の嫡流が戸田宗家となった。

その後戸田宗家は、棟梁の今川義元が桶狭間で織田信長に討たれて今川家が弱体化し、三河に独立した松平元康(徳川家康)に臣従する。

戸田氏の嫡流・戸田(松平)康長(宣光系)は徳川家康の異父妹・松(久松俊勝の娘)と婚姻して戸田宗家(宣光系)は松平家の家名を下され、戸田松平家と呼ばれた。

その戸田(松平)康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつとして数えられた。

嫡流家(宣光系)は、主に信濃国松本藩(七万石/松本城)を与えられている。

支流には主に宇都宮藩として七万石を与えられていた光忠系、主に美濃国大垣藩主として美濃に十万石を許されていた一西系など、譜代大名としては六家が幕末に至った。



松平竹千代は、送られた尾張で当時十四歳の織田家継嗣・信長と知り合う。

竹千代(たけちよ)は八歳までの幼少時代の一時(二年間)を織田家に在って弟分として過ごし人質ながらも信長と「竹馬の友」で育った事に、表向き成っている。

その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。

この人質が、種を明かせばそもそもスペアーとして密かに鳥居家にて育てられて居たもう一人の影・竹千代だったのである。

松平家が、平手家に縁ある「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓する。

この平手家が、名門・新田(にった)源氏・世良田系だった事から察するに、道筋が見える。

三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まったには、どうやら平手政秀の存在が、「その企てに在ったのであろう」と、我輩は推察する。


「お館様、お申し付け通り、家康殿(竹千代・徳川家康)の得川の系図を作らせましてござる。」

信長の傅役(ふやく/お守り役・教育係)で在った重臣・平手政秀が報告に来た。

織田家で密かに育てられたもう一人の松平影・竹千代は、今川家に在る松平竹千代が元服して松平元康を名乗る頃には、平手家養子として平手家康を名乗っていた。

「出来たか爺(平手政秀)、重上じゃ。これで三河衆も味方に付く、長い事爺(平手)の家に預けて居った事が生きるわ。」

「これで役目が片付いた」と安堵した平手政秀は、ここで傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長から、容易成らない陰謀を聞いた。

「しかしながらお館様、何故平手家康殿(竹千代・徳川家康)に世良田・得川を名乗らせまいる?」

「知れた事よ爺(平手政秀)、家康(徳川家康)には源氏を名乗らせ征夷大将軍にするわ。」

家康(徳川家康)に源氏を名乗らせ、「征夷大将軍にする」となれば織田信長の椅子が無い。

「はて・・・面妖な。してお館様はいかがなされます?」

「わしか、わしは帝(みかど)じゃ。」

信長に「わしは帝(みかど)じゃ」と聞かされて平手政秀は顔色を失った。

「何と、お館様は天子様をいかが致しますか?」

「爺(平手政秀)、天朝も公家共も新しき世には不要じゃ。」

「恐れ多き事を・・・天朝様を・・・それは成りませんぞ。」

驚いた政秀は、即座に信長を諌(いさ)めに掛かった。

恐ろしい事に、自分が傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長が、思わぬモンスターに育っている。

「爺(平手政秀)は不服か?良いか爺(平手政秀)、良く聞け。元康(徳川家康)はわしの外様臣下として征夷大将軍を名乗らせる。お主達内々の者は、左大臣、右大臣はもとより新しき公家になるのじゃ。」

「それはいけませぬお館様。この国は天子の国ですぞ。」

「爺、何を古き事を愚駄愚駄と。わしに逆らうとあれば、爺とて容赦はしないぞ。」

「お館様、この爺が皺腹かき切ってお諌(いさ)め申しても聞けませぬか?」

「黙れ爺、腹かき切れるものなら、かき切って見よ。」

口論の勢いで言った信長の言は、育ての親を自認しているからこそ、重臣・平手政秀を本気にさせていた。

傅役(ふやく/お守り役・教育係)から後見人を任じていた重臣・平手政秀にすれば、「天朝に弓引く」など到底認められる事ではなかった。

だが、誰よりも信長の気性を知るだけに戯言(ざれごと)と捨てては置けなかったのである。

「承知仕った。腹かき切ます故、天朝様に弓引くはお止まりくだされい。」

「爺(平手政秀)はまだ左様にわしを縛るか、勝手にせい。」

口論の末、平手政秀は所領の志賀城(現在の名古屋市北区平手町)へ立ち帰り、見事腹かき切って果ててしまう。

これには流石の信長も、政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。

この国は、余りにも永く血統主義が続いて居て、その価値観が氏族の全てだった。

同じ板ばさみの事態が、後に歴史的大変事として「本能寺の変」が起こるのだが、まさしくこの平手政秀の切腹はその予兆であった。

平手政秀は、新田源氏に連なる「後胤貴族の末裔と言う武士の誇り」と自らが育てた破壊モンスター(怪物)・織田信長との板ばさみに苦慮し、自らの命を絶ったのである。


その後の経緯だが、松平家の「双子の嫡男」の片割れ松平元康(竹千代)が、人質に出した駿府・今川家で育ち、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・(築山殿)・を娶(めと)っている。

この時期、今川家の支配下で育った三河領主・松平元康(竹千代)は、遠江国磐田見附宿の宿の娘・某と愛人関係にあり「初の庶子と言われる男児(一蔵)まで設けた」と言われている。


さて、ここで問題なのが、今川家の血族(関口親永)の娘(築山殿)と夫婦(めおと)に成った属将とは言え、当時の松平元康(竹千代)に「それほど奔放な事が出来たのか?」と言う疑問である。

当時今川家の本拠地・駿府(静岡)に在った松平元康(竹千代)は、属国扱いで人質上がりの三河領主なのだから、当然今川家臣団の目が光って居るのである。

駿府近郊ならいざ知らず、領国三河に近い遠江国磐田見附宿までの遠出が易々と出来る環境には無かった筈である。

それでは、三河、駿河を股に掛けて、奔放な生活をしていた若者は誰だったのか?

この条件で考えられる事は少ない。

この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件である。

つまり同時進行で、織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そう、今一人の影・竹千代が「密かに平手家の手で育てられていた平手家康」としなければ、辻褄が合わないのである。

つまり今川義元の討ち死直後に早々と岡崎城に入城し、迷わず独立を宣言する家康の人物像が、今川家で育った松平元康(竹千代)以外の双子の片割れでなければ「納得」として見えて来ないのである。

そして、筋書きが出来て居たような余りにもスムースな織田、松平両家の提携(清洲同盟)が、誂(あつら)えた様に待っていた。

或いは三河国在地の徳川家臣団と織田信長との間に密約が在っての事であれば、「桶狭間決戦での奇跡」も、もう少し違う見え方をするかも知れない。

松平元康(家康)は、その後躊躇(とまど)いも無く幼少よりの知人ばかりの筈の今川氏と戦って三河東部に進出し、三河国を統一している。

世良田を名乗ったのは、この三河統一の時だった。

信長とは、幼少時の「竹馬の友」の仲かも知れないが、温厚な知識人と言われる今川義元も松平元康(竹千代)にとっては育ての親のごとき存在である。


今川義元は、竹千代(元康)個人に対してそれほど酷い人質扱いなどはしていない。

義元は自分の姪(瀬名姫)を家康に嫁がせ、自分の名から「元」の文字一字を与えて「元康」とし、教育係として護国禅師の太原雪斎をつけるなどむしろ新しい親族として可愛がり期待していた。

それらの経緯を考えると、それが「コロッ」と変わって独立を宣言、岡崎城に入城した松平家嫡男が、正当な「嫡男の資格を有する別人ではなかったのか?」と疑って見たのである。

この竹千代(たけちよ)が尾張人質時代に、父・広忠は死去し三河松平家(岡崎城)は義元の派遣した城代により支配されていた。

その後、今川方に捕えられた信秀の長男・織田信広との人質交換によって竹千代は駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗った事になっている。


千五百六十年(永禄三年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、松平元康は一番割りの悪い先鋒別働隊として今川本隊とは別働で尾張攻略最前線の大高城(尾張国)に在った。

元康は桶狭間で「義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入る。

岡崎城に入城した元康は今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。


三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止めて説得した為に岡崎城に入った事に成っている。

それが実は、岡崎に入城した時の元康(家康)は、既にもう一人の方の竹千代だった。

今川義元の討ち死にを期に三河松平独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。

双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中で在った大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?


もう一人の元康が平手家の養子に入ったと言う仮説だが、そこにこのカラクリを解く鍵がある。

何故なら、本来元康が源氏流を名乗るなら母方の清和源氏満政流を使う方が手っ取り早い。

徳川家康と源氏の接点を敢えて言えば、家康(いえやす)の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏が、清和源氏満政流を称している。

水野氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子経基王(つねもとおう/賜名・源経基)の王子・源満仲の弟にあたる鎮守府将軍・源満政を祖とする。

源満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って「水野氏を名乗った」とされる。

しかし家康(いえやす)が名乗ったのは、本来手近い母方・源満政流ではなく河内源氏・新田流で、あきらかに平手政秀(ひらてまさひで)が称する新田源氏・世良田系図だった。


元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。

この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのだ。

計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。

つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。

如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて「攻め立てられる可能性」と言う危険な賭けに出た事に成る。

これは織田信長の立場にして見れば、三河一ヵ国手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。

しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を、元康はまったく配慮の他で行動し、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?

現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っている。

二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結ぶ。

そして翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。


松平元康(徳川家康)は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、西三河の諸城を攻略して今川家から自立する。

その後家康は、苦心の末に三河一向一揆の鎮圧に成功して西三河を平定し、岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。

東三河の戸田氏や西郷氏と言った諸豪を抱き込みながらも軍勢を東へ進め、千五百六十六年(永禄九年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。

この年、家康は三河国主として朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。

この改姓に伴い新田氏系統の源氏である事も、朝廷に願い出て公認させた。

松平元康の清和源氏の名乗りには、織田信長との親交を深めていた時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きい。

その朝廷斡旋の根拠として考えられるのは、清和源氏新田氏一族の平手政秀(ひらてまさひで)が影養子として松平元康を迎えて系図上継嗣としていたのであれば筋が通っているのだ。

時の関白・近衞前久(このえさきひさ)が朝廷に斡旋し、それを朝廷に認めさせた訳である。


元康の表向き松平名乗りの実は清和源氏・平手氏養子を前久(さきひさ)が認めて、氏名乗りを新田氏縁の徳川(得川)氏に改める事とし従五位下三河守に叙任させる。

藤氏長者は藤原氏の棟梁の事である。

戦国の世に在ってほぼ織田信長と同世代に生きた公家・藤氏長者は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。

近衞家・第十六代当主が信長の二歳年下で生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)だった。

細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代・安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をした。

近衞前久(このえさきひさ)は、帝の側近公家だった為に動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。

前久(さきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。


平手政秀(ひらてまさひで)は、茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍していた。

政秀(まさひで)は信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。

この政秀(まさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。

織田家の朝廷工作役の政秀(まさひで)が自刃して三年、後任に明智光秀にその役が廻って来た頃と前久(さきひさ)が関白に任じられた頃が、時期的に符合している。

どうやらこの頃から前久(さきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。

藤原氏の嫡流の五摂家の文化人である前久(さきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。

この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対する。

義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し以後は信長との親交を深めている。

信長が攻めあぐみ中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。

近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだった。

前久(さきひさ)は、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。

前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説もあり「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。

一時は織田信孝や羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。



それでは、二人の竹千代は何処で入れ替わったのか?

入れ替わりの絶妙のタイミングは、一度だけ在った。

織田家の人質だった影・竹千代は、今川方に捕えられた織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって、引き換えの形で駿府へ移されている。

しかし、実際に駿府へ行ったのは織田家に居た影・竹千代ではなかった。

三河の家臣団と織田家が密約、信長の「竹馬の友」である影・竹千代は、傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀の遠縁にあたる三河国愛知郷の郷士に匿(かくま)わせている。

平手政秀の三代前にあたる世良田義英は、三河国愛知郡に平天城を構えていた。

それ故愛知郡には平手家縁者の郷士が多数居た。

織田信長の命を受けた平手政秀は、息子の平手久秀を伴わせて、影の竹千代を暫し尾張国よりは遥かに遠江国寄りの三河国愛知郡に預けている。

平手家から三河の平手縁者に預けられた方の影・竹千代は、事を秘していたから誰も松平家の「世継ぎの片割れ」とは思わない。

それを良い事に、血気盛んな若者・平手家康(影・竹千代)はかなり自由奔放な生活を送っていた。

それで、近隣の浜松在や遠出をして駿府城下まで足を伸ばし、投宿した遠江国磐田見附の宿の娘との間に「一蔵」と言う子まで成している。

この時に後の徳川家康となる平手家康(影・竹千代)を三河国愛知郷に住まわせ、彼に浜松近在の磐田目付宿辺りまで遠出させた。

それは、信長の「竹千代に三河・遠近江で良く遊ばせておけ。」と言う命が在ったからである。

それは、信長が平手家康(影・竹千代)を西の備えにする為の深謀に拠る布石だった。

奔放な青春時代を過ごした家康は、これ以後土地勘の在る遠近江に浜松城を本拠地とし、老後も駿河府に隠居するなど現在の静岡県を生涯愛して居た。



駿府で人質として育って行動に制約の在った正・竹千代に、やはり御落胤は似合わないのである。

この一蔵を始め、「元康(家康)落胤」と噂される者が七人も出たのには、正に竹千代が二人いた事で、片方が自由奔放な時間を謳歌し落胤の量産に繋がったのではないだろうか?

そしてこの時、交換に使われ駿府に送られた替え玉が本来嫡男として岡崎城内で育てられていた方の、正・竹千代だった「のではないだろうか?」と思い到るのである。

すると、この大胆な企ての唯一の織田家側の証言者である平手政秀親子は、「徳川系図」の為に謀殺された恐れもある。

戦国時代らしいそれぞれの思惑が重なって、奇妙な構図が出来上がっていた。

今川家は、三河平定後の三河家臣団を懐柔する為に、嫡男の元康(竹千代)を身内にした。

同じ理由で織田家は、三河家臣団合意の上、もう一人の嫡男を平手家の養子・平手(得川)某として育てている。

「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められた。

それには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。

徳川家康が三州・吉良家(四千二百石)や元駿河国・今川家(一千石)を、高家旗本(こうけはたもと)として幕臣に列したのは他にも訳が在る。

彼らの家が足利系流れであり、事の真相はともかく徳川家も出自を足利系得川家と名乗っていたからである。



正直、三河松平家の家臣団も、今川、織田のどちらに着くかは様子見の状態で、正・竹千代と陰・竹千代を天秤に掛けていた。

しかし桶狭間で今川義元が織田信長に敗れて、三河家臣団は雪崩(なだれ)を打って織田方の陰・竹千代に廻った。

二人の世子を使い分けたのだが、三河家臣団にして見れば、今川、織田いずれが勝っても嫡男が生き残る「虫の良い方法」だった。

だが、それも戦国を生き抜く為の弱小大名家の家臣供の知恵だった。

双子の松平竹千代は、弱小大名の悲哀の中で親今川派と親織田派の双方に分かれて育てられる運命だった。

その安全装置が働いたのは、桶狭間の決戦で織田信長が今川義元を破った時である。

正直、三河家臣団は「織田方の方が、幾らかましだ」と思っていたから、桶狭間の信長軍奇襲そのものにも三河家臣団の内応も充分に可能性がある。

その片方、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、今川家の当主・今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で破れるに及んで運命が決まった。

「本多(重次)殿、最早今川は、見限らねば成らぬ。」

「いかにも、鳥居(元忠)殿がお育てした若(もう一人の元康/得川某)を担ぎ出し、盟約を急がねばなるまい。」

つまり、三河松平家に必要なのは、親織田派の方のもう一人の影・竹千代(松平元康=徳川家康)に成った。

そしてもう一人の、親今川派の正・竹千代(松平元康)は三河家臣団の何者かに闇に葬られたのである。


早速三河家臣団は、平手(得川)某として育ていた方の嫡男(影・竹千代)を、松平元康として岡崎城に迎え入れる。

これは、平手(政秀/織田家重臣)と鳥居(忠吉/松平家重臣)の密約の筋書き通りである。

だから、三河松平家の当主元康(得川某)は、早速「清洲同盟」を締結、織田方に付く事に成った。

只、駿府に在った本物の元康の家族には、この双子のもう片方(影・竹千代)が、背格好や顔は似て居ても騙し負うせる訳が無かった。



主君入れ替わりを内密にしたい松平家臣団の本多の働きで、築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)は駿府から岡崎城に呼び寄せられる。

夫婦は互いの無事再会を喜び、新たな日々が始まる筈だった。

元々好き者の元康(家康/影・竹千代)である。

居れ代わったのを幸いに兄弟の嫁・築山殿を寝間に誘い抱いた。

流石の元康(家康/影・竹千代)も、双子の兄弟の嫁を抱く、しかも相手は「夫と思い込んでいる」と成ると興奮は隠せない。

手荒く築山殿に襲い掛かり、弄り責めるがごとく抱いた。

抱かれた築山殿は驚いた。

夫・元康がまるで別人である。

「あれ、殿はまるでお人が変わったような為され様・・・」

「予も、晴れて三河の国主成り、今までのようにそちを抱くに遠慮はせぬ。」

夫はそう応えたが、幾ら国主に成ったとて、人の性癖がそう簡単に変わる訳が無い。

築山御前(関口瀬名)が、久振りに岡崎で会った松平元康は雰囲気がスッカリ変わっていた。

それは最初は「義元が討たれて今川から解き放たれ、三河に独立を為した為だ」と思っていた。

だが、性癖や姓技まで激変する訳は無い。

如何に双子とは言えどうしても個性が出る物で、築山御前(関口瀬名)は松平元康を名乗る男に抱かれながら直ぐにそれを悟った。

連れ添った夫婦には、慣れ親しんだ行為の手順がある。

その片鱗も無い全くの「別人の行為」と成れば、夫では無い事は明白だった。

「作左衛門(本多重次)あの者殿にあらず、何者ぞ?」

築山御前は、血相を変えて本多(作左衛門)重次に食って掛かった。

「はて、お方様(築山御前)は暫らく殿に遠退いて居た故、殿をお忘れか?」

「黙れ作左、わらわは昨夜あの者に抱かれて気付いたわ。」

「お方様、松平家の為ですぞ、口を閉じてご辛抱願います。」

本多重次は、あの男が今川の武将として育った元康の「双子の兄弟だ」と築山御前に告げる。

「作左はわらわに、黙ってあの者に抱かれて居れと申すか?」

「いかにも松平家中の者の総意でござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱の程を・・・」

「作左、ようも酷(むご)い事を・・・」


一度は運命と諦めて見たものの、入れ替わった元康に毎晩呼び寄せられて弄り責められて、他人に肌を許す事が築山御前にはどうにも我慢が成らない。

さりとて、今の元康を「夫の偽者」と言い出せば、この時代に自分(築山御前)や長男・松平信康の命の保証さえない。

「作左、わらわにはこのままあの者と夫婦(めおと)を続けるは無理ぞ・・・」

「信康様の世継ぎの儀もござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱成りませぬか?」

「成らぬ、あの者の異成る事は秘して口にせぬが、わらわは一緒には居れぬ。」

「判り申した。近くの尼寺(惣持寺)にお移り願いまする。」

長男・松平信康を持つ身成れば、築山御前は、岡崎城の外れ菅生川の辺に在る惣持尼寺に別居するのが、この不幸な運命への精一杯の抵抗だった。

「作左衛門、予に抱かれて居れば良かったものを傍(そば)に仕えぬとあらば、不憫じゃが、お築の口は閉じねば成らぬぞ。」

「承知つかまった。」

元康(家康・竹千代)、信康親子の不仲説や築山御前確執の要因は、案外こんな所かも知れない。

その後、家康の命令により築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹している。

この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。


今川義元の軍勢に拠る織田領内進行で、揺れる織田家々中の混乱を他所(よそ)に、信長は、平手政秀を呼んで「或る策謀」を確認していた。

「政秀(平手)、元康を入れ替える策は進んで居るか?」

「ははぁ、既に雑賀殿(孫市)を通して本多殿に・・・・」

「本多からの義元の動きは正確か?」

「雑賀殿(孫市)の知らせと合って居りますれば、間違いないかと心得ます。」

「良し政秀、これで予が勝った。軍儀は、暫らく寝た振りをする。」

この密談を経て、織田信長が桶狭間(田楽狭間)に今川義元を急襲、討ち取って勝利を収める。

間髪を入れず、三河家臣団による元康入れ替えプロジェクトは作動を始めた。

全ては、信長の意向に沿った形で、本多、鳥居、鈴木、などの大半が加担して居た。

信長は、今川撃破後の三河家臣団懐柔策まで取って居た事に成る。

それにしても、運命なんてどっちに転ぶか判らない。

ほんの弾みのようなもので、もう一人の竹千代(元康)の運命は決まった。

その「義元、桶狭間討ち死に」のドサクサに紛れて、元康(家康)は入れ替わったのである。


駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は既にもう一人の方の竹千代だった。

元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。


そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

謀(はかりごと)は「有りそうな事」では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。

謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。

この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など、「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。

この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら幾ら戦国の妻でも、そのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。


徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。

松平元康(徳川家康)の正妻・築山殿(つきやまどの/築山御前・つきやまごぜん)は、今川家一門の瀬名氏の出自で、関口家の養子と成っていた駿河国持船城主・関口親永(せきぐちちかなが/関口義広)の娘で名を関口瀬名(せきぐちせな)と名乗っている。

瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、関口親永(義広)に嫁いで築山殿を為したので、関口瀬名は今川家当主・今川義元の姪にあたる。

夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が瀬名(せな)に在って当然と言える。

所が、夫の松平元康が今川に反旗をひるがえして織田と同盟を結んだ為に、瀬名(せな)は両親を今川に殺され、今川にも松平にも居場所が無くなる戦国期の悲運の女性を代表する生涯を辿るのである。

勘違いして貰っては困るが、松平元信(元康、後の徳川家康)婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから築山殿の名乗りは生涯を通じて関口瀬名(せきぐちせな)である。


関口瀬名(築山殿)は、今川家の人質として駿府に在住していた三河・松平家の当主・松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚して築山殿(つきやまどの)と呼ばれる。

瀬名(築山殿)は二年後に嫡男・松平信康と翌年には亀姫を産む。

所が、この年の桶狭間の戦いで伯父の今川義元が討たれた為に夫の松平元康(元信から改名)は駿府に戻らず本拠地・三河岡崎に帰還して今川家から離反する。

松平元康(元信から改名)は、今川家から独立して尾張・織田家の織田信長と同盟する。

為に築山殿の父・関口親永(義広)は、娘婿の松平家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け今川氏真の怒りを買い、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて正室と共に自害する。

築山殿は、人質交換により駿府城から子供達(嫡男・松平信康と亀姫)を連れて家康の根拠地である岡崎に移った。

今川義元の妹の夫に成る上ノ郷城城主・鵜殿長照の二人の遺児との夫・松平家康(元康から改名)の母・於大(おだい・水野太方/みずのたいほう)の方の二男・後の松平康元(家康・異父弟/下総国関宿藩主)と思われる源三郎との人質交換だった。

ここからが歴史の謎としては問題で、築山殿は岡崎に移ったは良いが何故か城外・惣持尼寺に住まわされている。

定説では、姑の於大の方が今川家の血筋である築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず岡崎城の外れにある菅生川の畔(ほとり)の惣持尼寺で「幽閉同然の生活を強いられた」とされている。

だが、夫である当主・徳川家康と築山殿との間に確執無くして家康の母・於大の言い分だけで嫡男・信康の母に対する仕打ちとしては不自然極まりなく、本当に嫁姑の間だけの問題なのか?

或いは別に秘すべき理由が在ったのではないだろうか?


家康は日本史上長い事、織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。

この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だった。

信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。

所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされる。

信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。

それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?

この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。

その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。

入れ替わった家康(元康)に本当の子供(実子)が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考える。

すると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。

家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。

それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。

幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。
人間、強(したた)かでなければ世の中に遅れを取る。

若き頃の人質生活は、家康をタフに育てていた。

野心と平穏は両立せず、いずれか一方を採るしかないが、自らが平穏を望んでも他人の野心に翻弄されるのが世の中の切無さで、築山・信康親子の処断は家康の野心の決意かも知れない。

つまり現実の世間は、強(したた)かでない為政者など半日も持たないで消えて行く冷たい乱世・戦国の世なのである。



駿河・遠近江の太守・今川氏(いまがわうじ)の本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門・吉良家の分家にあたる日本の武家で、代々駿河守護職を継承した足利一門・別格嫡流ある。

今川氏(いまがわうじ)の地位は斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格だった。

「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われ、吉良家とともに足利将軍家の連枝であり足利宗家の継承権を有していた名門守護職である。

その今川家は、駿河守護職・今川義忠(駿河今川家六代当主)の代に応仁の乱が起こり、将軍・足利義政の下に東軍に加わって知り合った将軍申次を務める伊勢盛定と知り合う。

その伊勢盛定の娘・北川殿が今川義忠に嫁いだ事で伊勢氏と今川氏は縁者となった。

その事で、北川殿の兄または弟にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)が将軍家の代理として今川家の家督相続に介入、北川殿が生んだ龍王丸(今川氏親/駿河今川家七代当主)の相続に成功する。

今川氏親の相続に成功した伊勢新九郎は、駿河守護代の地位を得て沼津・興国寺城主を皮切りに伊豆国を奪取、後に南関東一円を支配する戦国大名・後北条氏のスタートを切る事に成る。

桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。

今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなど、東三河・遠近江・駿河などを領国とする駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。

今川義元が桶狭間の合戦で討ち取られ、嫡男・氏真(うじざね)が家督を継ぐが大名家として弱体は免れず、隣国の武田信玄と徳川家康に侵攻され氏真(うじざね)は逃亡して戦国大名・今川家は滅亡する。



今川氏真(いまがわうじざね)の父は今川氏の最大所領を領する繁栄を築いた今川義元で、母は甲斐国主・武田信虎の娘 定恵院である。

氏真(うじざね)は、桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた父・義元の駿河・遠江・三河の三ヶ国を受け継いだ戦国大名であり 、第十一代の今川家当主である。

但しこの代数には諸説あり初めて駿河守護となった今川範国から数えた代数では第十代、家祖・今川国氏から数えると氏真(うじざね)は第十二代目になる。

千五百三十八年(天文七年)、父・義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれ、幼名は龍王丸(りゅうおうまる)で ある。

千五百五十四年(天文二十三年)氏真(うじざね)十六歳の時、相模の国主・北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。

千五百五十八年(永禄元年)、氏真(うじざね)は父・義元から家督を譲られ駿河や遠江国に文書を発給し始めている。

但しこの時期、三河国への文書発給は義元の名で行われている。

つまり義元は、安定した駿河国と遠江国を二十歳に成った氏真(うじざね)に任せ、三河国の安定及び尾張国・美濃国の領有に専念を画したと見解されている。

ところが、義元は千五百六十年(永禄三年)五月に尾張に侵攻した義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまう。

桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。

三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなった。

西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(千五百六十三年に家康に改名)の勢力下に入った。

松平元康は今川家と断交し、信長と結ぶ事を選ぶ。

東三河でも、国人領主らは氏真(うじざね)が新たな人質を要求した事により不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間で「三州錯乱」と呼ばれる抗争が広がる。

千五百六十二年(永禄五年)旧領三河・岡崎城に入った松平元康は、尾張国主・織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。

氏真(うじざね)は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。

遠江国に於いても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷城主の井伊直親、曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がって行く。

謀反が疑われた井伊谷城主・井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。

ついで千五百六十四年(永禄七年)には曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。

氏真(うじざね)は、重臣・側近・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させる事ができず、逆に正俊が戦死してしまう。

その後、和議に応じて降った飯尾連竜を氏真(うじざね)は千五百六十五年(永禄八年)十二月に謀殺した。


今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、千五百六十一年(永禄四年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。

桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっている。

同千五百六十五年十一月に、嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においての婚姻が解消された。

同時期に武田家では、世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。

これにより甲駿関係は緊迫し、氏真(うじざね)は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行った。

武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗した為、これは決定的なものにはならなかった。

千五百六十八年(永禄十一年)末に甲駿同盟は手切に至り、十二月六日に甲斐国国主・武田信玄は甲府を発して駿河国への侵攻を開始する。

十二月十二日、薩埵(さった)峠で武田軍を迎撃するため氏真(うじざね)も、駿河国・興津の清見寺に出陣した。

だが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人二十一人が信玄に通じた為、十二月十三日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。

氏真(うじざね)は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。

北条氏康の娘・早川殿(氏真正室)の為の乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失すると言う逃亡で在った。

しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた三河国主・徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。

十二月二十七日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、朝比奈泰朝を初めとした今川家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣する。

戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。

徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、甲斐国主・武田信玄が約定を破って遠江への圧迫を強めた為、徳川家康は氏真(うじざね)との和睦を模索する。

千五百六十九年(永禄十二年)五月十七日、氏真(うじざね)は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。

この時に今川氏真(うじざね)・徳川家康・北条氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真(うじざね)を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行される事はなく、氏真(うじざね)及びその子孫が領主の座に戻らなかった。

この朝比奈泰朝の掛川城の開城を以て、後世に戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

掛川城の開城後、氏真(うじざね)は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。

後、氏真(うじざね)は小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。

千五百六十九年(永禄十二年)五月二十三日、氏真(うじざね)は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲る事を約した。

また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。

駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真(うじざね)を後援する北条氏による出兵も行われた。

抗争中の駿河に対して氏真(うじざね)は、多くの安堵状や感状を発給している。

これには、氏真(うじざね)が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。

その後、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、千五百七十一年(元亀二年)頃には大勢が決した。

氏真(うじざね)は駿河の終(つい)に支配を回復する事はできなかった。

同千五百七十一年(元亀二年)十月に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した。

同年十二月に氏真(うじざね)は相模を離れ、家康の庇護下に入った。

掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。

千五百九十一年(天正十九年)九月、山科言経の日記「言経卿記」に氏真(うじざね)は姿を現す。

この頃までに氏真(うじざね)は、京都に移り住んだと推測される。

仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真(うじざね)は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来していた。

冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていた事が記されている。

京都在住時代の氏真(うじざね)は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。

「言経卿記」の氏真(うじざね)記事は、千六百十二年(慶長十七年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。

やがて天下を取った徳川家康に召し出されて、氏真(うじざね)は五百石の旗本に抱えられる。

その後氏真(うじざね)は、五百石を加増されて都合千石の高家旗本(こうけはたもと)に処遇されて家名は残った。

氏真(うじざね)はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、千六百十三年(慶長十八年)に長年連れ添った早川殿と死別した。

千六百十五年(慶長十九年)十二月二八日、今川氏真(いまがわうじざね)は七十七歳の高齢を持って、江戸で死去した。

桶狭間の戦いで今川義元が敗れ、結果、今川家の所領・駿河国は武田家、遠近江国は徳川家が分ける形で領有する。

その後今川氏真は後北条家や京都の旧知・姻戚の公家などを頼って生き延び、やがて天下を取った徳川家康に召し出されて五百石の旗本に抱えられ、その後五百石を加増されて都合千石の高家に処遇されて家名は残った。



いずれにしても徳川家康は今川家の衰退に乗じて三河のみならず遠江国を手に入れ、二ヵ国の太守となって天下人への幸運な一歩を踏み出したのである。

長男・松平信康と正妻・築山御前(つきやまごぜん)の次は次男の話である。

越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、松平(結城)秀康である。

実は徳川家康(とくがわいえやす)二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。

徳川家康の長男・信康もまだ存命の頃の事だが、幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。

家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を嫌う理由は、いったい何だったのだろうか?

家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出される。

さらに秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけである。

しかもこの五人の中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで扱いが軽かった。

結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。

秀康は加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

しかし、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。

長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

或るいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。

後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。


そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。

平手政秀の仲介で若き頃の織田信長から本多重次と鳥居元忠が那古屋城那古屋城で聞かされた謀略話は、大胆極まりないものだった。

「予は平姓を名乗って桓武帝の末裔として帝に納まる。ついては竹千代を政秀(平手)の養子と為し、そなたらの主君を源氏としてわが織田帝家の将軍と為せ。」

幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。

つまり三河松平家嫡男の双子の一人が源氏系新田氏流の平手家に継養子として入ったのであれば、血は松平嫡流で三河家臣団に領主と受け入れられる。

御家(三河松平家)は何しろ平手家に継養子として入っいて新田氏流系図に成る。

だから「得川」にちなんで「徳川」を創設しても朝廷からはスンナリ「源家の出自」と認められる。


さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

織田信長と松平元康(徳川家康)は、「肉体的に情交を結んだ。」と言う特殊な関係に於いて信頼関係を構築していた。

信長と元康(徳川家康)の間には、「固い誓約(うけい)」の絆(きずな)が、この同盟関係の根底に存在した。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。


朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。

同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となった。

千五百七十年(元亀元年)、家康は本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

この頃に、鳥居忠吉の嫡男・鳥居元忠が何時も家康の軍勢の主力の一人として戦っている。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。

さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

ところが、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。

徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりが在ったのではないだろうか?

そう考えると、在る事が浮かんで来る。


井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛される。

この寵愛で、直正は家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。


この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だったのかも知れない。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家、森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後だから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。

元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。


男色(衆道)の繋がりなら、信長と家康の間に深い信頼関係が在っても不思議は無い。

ただし人質として居た竹千代(後の家康)は当時八歳かそこらの童子で、信長がその童子に手を出したとは考えられない。

だから、手を出したと思われる時期には今川家に人質交換で竹千代(後の家康)を奪還されてていて、この男色(衆道)疑惑は本来なら辻褄が合わない。

ところが、人質交換で今川家に行ったのが正・竹千代で、織田家にいた影・竹千代はそのまま織田家中の平手政秀の養子として「信長の手中に在った」と考えれば、この難問は解決する。

そして影・竹千代が平手(源)家の養子であれば、系図上は世良田・得川(源)氏を名乗る事はまんざら捏造の系図とは言い切れない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏の源氏流新田氏系を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人だった。

それで、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。

また、家康二女・督姫の娘婿として徳川家康に可愛がられ、播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした池田輝政(いけだてるまさ)が居る。

その輝政(てるまさ)の父は、織田信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた池田恒興(いけだつねおき)である。

輝政(てるまさ)は恒興(つねおき)の次男であり、家康が織田家人質時代に七歳齢上の恒興(つねおき)と接点が在った事は充分に考えられる。

つまり家康にすると、輝政は「可愛がってくれた兄貴分の子供」と言う気分で可愛がったのかも知れない。


ここで一応、稚児小姓(衆道)の習俗が武門の間で機能していた謎を解いて置く。

実はこの性行為を伴なう男同士の君臣の交わりが機能する事には、脳科学的に立派に説明が着く。

男性の脳が、高凝集性を処理するシングルタスク(一途なシステム)に適していて、つまり関係に対して一途だからである。

男と女の違いが、脳の実際の作りとして男女で大きな差がある事が大阪大学大学院生命機能研究科のVerma博士のMRI装置を使った実験によって明らかにされた。

その結果、女性の脳はハードウェア的にマルチタスク(切り替えて実行できるシステム)となっている。

つまり現状に即応するマルチタスク能力(切り替えて実行できる能力システム)は、女性の脳の方が遥かに保有している。

だから女性は、恋愛心に対する切り替えや生活姿勢の切り替えが早く、こうと決めたら前の事柄を引きずらない。

この事が、終った恋に未練たらしい男性と新しく切り替えたい女性のギャップと成って、ストーカー事件の要因となっている。

端的に言えば、これは脳科学的に男女の思考処理形態の違いである。

勿論環境に対する適応力などは、女性の方が男性よりクレバー(賢い)にフレキシブル(柔軟性)で、解釈の自由性を持ち合わせている。

逆に男性の脳は単独の複雑なタスク(高凝集性)を処理するシングルタスク(一途なシステム)に適している事が判明していて、恋愛にも未練がましい。

しかし、この「未練がましい」は、稚児小姓(衆道)の習俗の「君臣間での誠実性に作用していた」と理解できるのでらる。

つまり男は、一度恋愛関係に在って抱いた女に執着するが、抱かれた女の方はそんな事は直ぐに切り捨てて忘れる。

MRI装置を使った実験の結果、女性の脳は左脳と右脳の接続が男性に比べて格段に強く、男性は脳の個別の領域で激しい活動を見せ、特に小脳の運動技能で顕著だった。

男性の脳は前部と後部の接続がより強く、これによって情報を素早く理解し、即座に使用して複雑なタスク(プロセス)を実行する事ができる。

これは水泳の技術を修得したり、車を上手に駐車するのに役立つとされる。

反対に女性は、「人の顔を覚える」と言った脳の異なった領域を繋げて行うような技能に秀でている。

もちろん個人差は常にあるが、このVerma博士の調査実験で行っているのは、もし千人に対して統計的にデータを分析した時に「男性の脳と女性の脳がどの様に見えるか」と言う事である。

この調査ではもし男女が論理的な思考と直感的な思考の両方を含むタスク(コンピューターが処理する仕事の最小単位)を与えられた場合、女性の方が左右の脳の接続がより強力な為、依り良く対処できる事を示す。

逆説的に、もし瞬時の行動をたった今求められた時は、脳の前後の繋がりが強い為、男性の方がより早く対処でる。

小脳の激しい活動について考えれば、男性の脳はバイクに乗る能力水泳を修得する能力、地図を読む能力に長けていると言える。

逆に女性の脳は例えばパーティ中に大勢の中から誰かを見つけ出す様な、脳の幾つもの部位を繋げなければ出来無い様なタスク(コンピューターが処理する仕事の最小単位)を得意とする。

最後にその顔を見たのはどこだったか、この人の顔を見たか、前から知っている顔だったかのかなど、それらは脳の幾つもの下部ネットワークを必要とするが、女性はそうした能力に長けている。

こうした差異は社会的、文化的な男女の役割であるジェンダー(社会的・文化的な性のありよう)の差によって生じるとされてきたが、Verma博士はこの違いは「男女の脳のハードウェアの差である」としている。

また、この実験は八歳から二十二歳までの被験者に対して行われた。

それは、八歳から十三歳、十三歳四ヶ月から十六歳、十七歳から二十二歳の三つのグループに分けられており、十三歳までのグループではより年上の二つのグループに比べて「男女差は遥かに少なかった」と言う。

結論として男女の脳の差は、これまでの通説に非常に近いものとして明らかにされた事に成る。

お互いの脳の違いをしっかり把握して付き合えばお互いこれまでよりも分かり合って良い関係を築く事が出来るかも知れない。



公式記録では、二代将軍・徳川秀忠は徳川家康の三男として遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局(おおうばのつぼね)によって養育される。

徳川秀忠の母は家康側室の西郷局(お愛の方)、実家の西郷氏は九州の名家・菊池氏一族で三河国へ移住した者の末裔と伝えられる。

西郷氏は、室町初期には三河守護代をつとめた事もある三河の有力な国人武家であった。

長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹して死亡、庶兄(家康次男)の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて後に結城氏を継いだ。

それで、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇され、十四歳で中納言に任官し「江戸中納言」と呼ばれる。

この三河国人・西郷氏の九州本家の末裔が、遥か後世の明治維新で活躍した西郷吉之助隆盛だあるが、その西郷隆盛の話は後ほど第五章に記述する。

秀忠の同母弟とされる家康の四男・松平忠吉が、実は側室の西郷局が産んだ家康の三男で、三男とされたのが明智光忠である。

松平忠吉(まつだいらただよし)は、関が原の初陣に於いて島津豊久を討ち取った功により戦後、尾張国清洲に五十二万石を与えられたが、悪性の腫れ物に冒され享年二十八歳で死去している。

勿論、「母親が三河の名家であるから後を継がせる」は口実で、織田信長の嫡男入れ替え策の結果であるが、いずれにしても豊臣秀吉は、家康の三男・秀忠が明智光忠と入れ替わったなどとはつゆ知らない。

それで秀吉成りの閨閥計画を実行している。

徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。

その後継室として迎えたのが、浅井長政・三女「お江(おごう)もしくは於江与」だったのである。


徳川家康が、今川家の人質時代の松平竹千代(松平元康)とは「別人では無いか」と推測される理由の一つに家康が門徒となった「仏教の宗派が予測と違う」と言う疑問がある。

松平竹千代(松平元康)は今川人質時代に今川家・軍師の臨済寺・雪斉和尚(臨済宗妙心寺派)から手習いなどの勉学指導を受けている。

雪斉和尚(太原雪斉)の本拠・駿府(静岡)の臨済寺は、臨済宗の宗祖臨済義玄(中国唐の僧)の名に由来する今川氏の菩提寺である。

静岡浅間神社の境内から連なる賤機(しずはた)山麓に在って今川館(現在の駿府城)の北西に位置する現在の静岡市葵区大岩にある。

当然ながら、松平竹千代(松平元康)は幼少期に教えを授かった臨済宗妙心寺派の門徒となる筈である。

所が、成人して三河国主になった徳川家康が突然熱心な門徒となったのは、幼少時から慣れ親しんだ臨済宗ではなく法然上人を開祖とする浄土宗で、江戸・芝の増上寺が菩提寺になっている。

確かに三河安祥(安城)以来松平家は浄土宗であるが、松平竹千代(松平元康)は幼少期を臨済宗の中で過ごし、雪斉和尚から教えを受けてている。

松平家は「先祖からの浄土宗門徒だ」と言ってしまえばそれまでだが、三河国愛知郡の地元で浄土宗に親しんだ別の人物の存在もその可能性を否定出来ない。

存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。

これはもしかして、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件ではないだろうか。

家康は、徳川家の隆盛に伴い浄土宗総本山・智恩院(ちおいん)に寄進などする一方、智恩院(ちおいん)を京での政治工作の足場(投宿場所)にした位の関係を築いている。

また、家康が晩年駿府に隠居すると、上清水村(現静岡市清水区)に在った引接院・善然寺を駿府に移転させて手元に置いた。

その善然寺が城の拡張で敷地内になったので現在の静岡市葵区新通に移設、特に徳川家から朱塗りの門を許されて引接院・善然寺は現在でも「赤門の寺」として有名である。


徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。

そして多くの空白が生まれる中、後世「家康別人説」が浮上するのだが、この別人説、家康二人説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

しかし、巷で流れている単なる影武者説では説明が着かないのが今川家から独立後の家康母方・水野氏一族の隆盛である。

家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在る。

だが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

影武者説に関してはこの水野氏重用の視点が欠落しているか、説の提唱者が無理にそこは目を塞いでいるのかも知れない。

比べるに正妻・築山御前(つきやまごぜん)と長男・松平信康親子の処断しかり、清洲同盟の謎しかり、家康庶子・鈴木一蔵の存在しかり、家康双子説の方が遥かに筋が通っているのではないだろうか?

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。


徳川家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏は何故か織田信長に寝返り、於大の方は夫・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁されて刈谷の水野家に戻っている。

於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

この水野氏の突然の織田方への寝返りの動行と、その後の水野家及び於大の方(おだいのかた)に対する今川独立後の松平元康(家康)の奇妙な割り切りも気に成る所である。

或いは双子の片割れの裏・竹千代の存在が在っての密約、水野氏織田方寝返りの可能性を感じる。

で在れば、謀略渦巻く戦国の世である。

松平広忠と今川家の表・竹千代ラインと於大の方と織田家の裏・竹千代ラインが三河をめぐる勢力争いの構図として筋書きが完成していたのかも知れない。

水野氏については、清和源氏満政流を称し、経基王の王子で源満仲の弟で鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

しかし苗字の地とされる尾張春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏の水野氏がある。

また水野氏流には藤原氏を称するものもあり、源氏と断定できず諸説ある状態でなを、この水野郷の苗字の地は京都嵯峨水野の里とする説がある。

水野氏当主・水野信元(於大の方の兄弟)は徳川家康・生母の実家としては、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると家康の今川家からの独立を支援する。

また、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど、身内らしい動きをして居る。

弟・水野忠重(みずのただしげ/於大の方とは姉弟)の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕えた。

猛将として知られた水野勝成は関ヶ原の戦いや大阪の役に参陣して武功を挙げ、大和郡山藩主(六万石)後に備後福山藩(十万石)及び下総結城藩水野家(一万八千石)の二大名家の祖となる。

水野忠清は駿河沼津藩二万石(最終五万石)・水野家及び上総鶴牧藩・水野家(一万五千石)の二大名家の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩五万石・水野家の祖である。

さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家二万石(改易)と紀伊新宮藩・水野家(紀州藩附家老水野家・石高は三万五千石。)の祖である。

つまり水野家は、小なりとは言え五ヵ家に及ぶ大名家を排出し、老中など幕閣に要職を勤める親藩として存続し大半が維新を迎えている。



それにしても、江戸の守りをも考えた隠居地として家康が駿府を選んだ事でこの別人疑惑を見事に打ち消し、家康駿府育ちを印象着ける妙手は誰の手に拠るものだったのか?

この経緯を知っていたのは松平の古くからの重臣・本多家と鳥居家だけで、外部では只一人きり、密約相手の明智光秀だったのである。


徳川家康の天下取りには、最もな理由が存在する。

源氏の長者・征夷大将軍・徳川家康誕生の遠因となった最初の秘密は、三河(松平)家臣団の結束である。

そしてその事が、「後の全てを決した」と言って過言ではない。

負け戦の経験で学び、慎重に成ったのは源頼朝も徳川家康も同じだが、両者には決定的な違いがある。

頼朝は猜疑心の塊だったが、家康は家臣を信頼し「情」が在った。

それは生い立ちの違いで、家康は影・竹千代の時代でも家臣の「情」に囲まれて育っている。

事実、織田・今川共に三河松平を「平定しょう」とは思わなかった。

根底にあったのが三河(松平)家臣団の結束で、織田家、今川家共にその結束が無視できず、嫡男・竹千代を取り込む作戦に出た。

下克上の時代に、ある意味特異とも言うべき三河(松平)家臣団の存在こそ、家康の運命を感じさせるものだったのである。

家康の才能は、類稀な「御輿に担がれ名人」である。

けして、部下を無視して自らが身を乗り出す事はしない。

そして家康は、秘密の養子・秀忠(光忠)を信長から押し付けられてもさして抗わなかった。

それは、家康の生き方そのものである。

彼自身が、影武者同然の数奇な運命に翻弄された半生を送って来たからで、それ故、避けては通れない事は逆らわず受け入れて、ジックリ生き残る事を自身の信条として覚えたのである。

当然ながら父・松平広忠、母・於大(おだい)の具体的な肉親の愛情に触れる機会は少なく、世話に成った家臣への「情」に比べ我が子に固執する心情に家康は疎(うと)かった。


我輩思うに、徳川家康(竹千代)はその出生の秘密の為に、双子の「影」として、織田家の人質として織田家・平手政秀に育てられた。

また、雑賀孫市(鈴木「佐太夫」重意)の庇護を受けたりと、父(松平広忠)の愛を知らずに育っている人物である。

その当時に、家臣を始めとする人の情けを知ったが為に、この時代の棟梁に珍しく常に家臣に気を配って人望を集め天下取りに成功している。


品格を持たない指導者が陥る手法に「競わせる」がある。

企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて部下を「競わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。

この【左脳域】志向である「競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき感性である。

こうした状況に陥ると、結果、内部での足の引っ張り合いが始まり組織としての結束は崩れる。

徳川家康は当時の武将としては珍しく、この「競わせる」の手法を取らなかった。

それで結果的に、家臣の方が勝手に競ってくれた。

家臣を納得させる為には、棟梁は辛抱強く成らなければ成らない。

人生不幸な事に見舞われても、学習すればそれが将来の肥やしに成るもので、若い時の苦労は家康を辛抱強くさせ、家臣の人気を高めて天下取りの原動力に成った。

現代にも通じるが、部下は信頼して伸び伸びとやらせた方が成果を出す。

怒鳴りや小言ばかりで威嚇しては萎縮するばかりで、尚更失敗を重ねたり、隠し事をするように成る。

その点、織田信長型の強烈な棟梁は、余程の才能が無い限り通用はしない。

だが、少しばかりの幸運に恵まれると、自惚れて直ぐに威張り散らす己をしらない者が多く、面従腹背の部下ばかりに成って良い結果は出せない。



何故双子の疑いが有るのかの条件をここで検証すると、その第一がおよそ家臣思いの家康とは思えない三河譜代の家臣への扱いが有るからである。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居た。

天下を取った家康が、その安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

三河阿部氏が日の目を見るのは、正勝継嗣・阿部正次が関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、相模国内に五千石を加増され、父の遺領と併せて鳩ヶ谷藩一万石の大名と成ってからの事である。

その後大坂の役の戦功で三万石を領するなどして徐々に加増され、備後福山藩で十万石を得て落ち着くが、それは子孫の功績で安部正勝(あべまさかつ)の功績が認められた訳では無い。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は関東入国時に小田原城四千石を与えられている。

だが、いずれももっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事である。

考えられる事は、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康が、安部正勝(あべまさかつ)に「大して世話に成っては居なかった」と言う事である。

何しろ双子の別人が入れ替わったのだから・・・。

今川の尾張侵攻で幸い織田方が勝って自分が生き残ったが、松平元康(影・竹千代)には、「今川が勝って居れば、この家臣共は我が命短じめたやも知れぬ」と言う想いが在った。

その想いが、松平元康(影・竹千代)に「最後まで三河家臣団への不信が残った」と推測されるのである。

つまり駿府今川家の人質時代の松平元康が、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康と別人ならば、そこら辺りの説明がつく話である。

実は鉄壁を誇った三河家臣団に、松平元康が徳川家康に名を改めた頃から微妙な動きが始まっていた。

それは三河安城・古参家臣団の一部が、生き残りを賭け必死の戦働(いくさばたら)きに走った事である。

徳川四天王に数えられる酒井忠次(さかいただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将であり、酒井氏は三河・石川氏と並ぶ松平氏(徳川氏)三河安城・最古参の重臣である。

酒井氏は安城譜代と呼ばれ、元々松平家中に於ける最古参の宿老家とされるが、その出自は確定せず不明である。

三河国碧海郡酒井村或いは幡豆郡坂井郷の在地領主で在ったと推測される酒井氏である。

だが、後年作成された酒井氏の系譜に拠ると、鎌倉有力御家人・大江広元(司所別当)を祖とする大江氏の流れを汲み、江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流としている。

絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。

酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、信長に無視されて居る。

桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

だが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功あるも、千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった。

その事に関して、忠次は抗議している。

同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政十二万石、本多忠勝、榊原康政の両者は十万石と厚遇された。

それに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。

駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。



本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族である。

この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩・播磨十五万石などを領し、その後三河岡崎藩五万石に落ち着いたが幕閣の要職には恵まれなかった。


本多忠政(ほんだただまさ)は、千五百七十五年(天正三年)、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の継嗣(第三子)として生まれる。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐に、忠政(ただまさ)は十五歳で初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てる。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、忠政(ただまさ)は徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第二次上田合戦にも従軍する。

千六百九年(慶長十四年)六月に父・忠勝が隠居した為、忠政(ただまさ)は家督を相続して桑名藩の第二代藩主となる。

忠政(ただまさ)は大坂の陣にも参加し、冬の陣では千六百十四年(慶長十九年)十月十一日に徳川軍の先鋒を命じられる。

忠政(ただまさ)は大坂城包囲に於いては北側の天神橋方面に陣取っていた。

なお、冬の陣が終わって家康が帰途に着く際、家康は忠政(ただまさ)の当時の所領・桑名で一泊している。

また、冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、忠政(ただまさ)は埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。

千六百十五年(慶長二十年)の夏の陣では、忠政(ただまさ)は京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して五月七日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った。

忠政(ただまさ)は薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。

この合戦で忠政(ただまさ)は、二百九十二の敵首級を挙げたと伝わっている。

大坂の陣の戦後には、それらの功績を賞された(ただまさ)は西国の押さえとして、千六百十七年(元和三年)七月十四日に姫路城主となって播磨十五万石を領した。

忠政(ただまさ)の正室は、非業の死を遂げた家康の長男・松平信康の次女・熊姫である。

また、忠政(ただまさ)の嫡男・忠刻(ただとき)の妻は、豊臣秀頼の妻だった千姫である。

しかし、千六百二十六年(寛永三年)に忠刻(ただとき)が早世した為、忠政(ただまさ)が千六百三十一年(寛永十六年)八月十日に姫路で五十七歳で死去する。

本多の家督は、忠政(ただまさ)次男の政朝(まさとも)が継いだ。



榊原康政(さかきばらやすまさ)も徳川四天王の一人であるが、父の榊原長政は松平氏三河安城・旧譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣で在った。

三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫を称していた榊原長政の次男として三河国・上野郷に生まれた榊原康政(さかきばらやすまさ)は、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓に任用されてる。

康政(やすまさ)の「康」の字は元康の「康」を与えられたもので、十七歳で元服した康政(やすまさ)は、同年齢の本多忠勝とともに旗本先手役に抜擢され、今川家属将時代の松平元康(徳川家康)側近の旗本部隊の将として活躍している。

桶狭間の合戦の後、松平元康(徳川家康)が駿河の今川氏から独立し尾張の織田信長と同盟を結ぶ。

すると康政(やすまさ)は、姉川、三方ヶ原、長篠など数々の戦いで戦功を立て、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで徳川家臣中第二位の十万石を与えられて居る。

関ヶ原の戦いに於いては、康政(やすまさ)は徳川家の継承者・徳川秀忠軍に軍監として従軍するが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参している。

この康政(やすまさ)、関ヶ原の合戦の後に老中となるが家康から遠ざけられ所領の加増は無く、徳川政権が確立するに従い本多忠勝(ほんだただかつ)と同様に冷遇されている。

徳川主力軍の軍監として中山道を進みながら関ヶ原合戦に遅参した事が原因か、若い頃から正・竹千代(松平元康)の側近を務めていた事が遠因かは判らない。

この徳川四天王の処遇を持って、直臣に厳しくして「外様の不平・不満をかわした」とする解説もある。

だがそれは間違いで、他に家康としては殊更に優遇したくない「公に出来ない何かが在った」と見る方が自然である。

それでなく、「外様の不平・不満をかわした」とするならば、優遇されている井伊家や稲葉家、そして今から紹介する鳥居家の隆盛など存在しない。

三河以来の譜代に冷たかった家康だが、何故か鳥居家にはまったく態度が違った。

鳥居元忠は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣である。

その鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。

桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。

幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状を貰う事は無かった。

家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。

天下人となった豊臣秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはないと断った」と言う逸話も残っている。

しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、家康は元忠に捜索を命じる。

元忠は「娘は見つからない」と報告し、その捜索は打ち切られたのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は「高笑いで許した」と伝えられる。

天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老と成っていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時、元忠は後を任されて伏見城を預けられる。

その家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。

ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。

一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのか。

やはり二人に、幼少時からの深い縁が在ったのではないだろうか?

そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千の軍勢の伏見城入城を拒否した事である。

元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?

関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は後に山形藩二十四万石の大名に昇格しているが、これは三河譜代の他家と比べ、三河譜代の家としては異例の厚遇である。

つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?

尚、元忠の子一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老大石内蔵助良欽に嫁いでいる。

その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。



徳川四天王として名を馳せた井伊直政(いいなおまさ)と、その養母に当たる井伊氏の女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)を紹介する。

井伊氏は藤原北家流・藤原利世の後裔を称すも、継体天皇の後裔・三国姓ともされ、いずれが正しいかは明確ではない。

藤原後裔説の藤原北家の藤原良門(ふじわらのよしかど)は、左大臣・藤原冬嗣の六男で、藤原利世は良門(よしかど)の息子と伝えられている。

継体天皇後裔説の三国姓は、継体天皇の子・椀子皇子の後裔にして 、天武天皇十三年(六百三十四年)に三国真人(みくにのまひと)姓を賜姓(たまわりな)する。

為に 旧説で藤原氏良門流と称する二家の大名・井伊家 は三国真人(みくにのまひと)の末裔とされる系譜が有力とされている。

井伊氏は、中世に約五百年間、遠江国井伊谷の庄を本貫として治めた国人領主とされる。

であれば、井伊氏は平氏や源氏と同等の後胤貴族の末裔に名を連ねる荘園領主が、平安期、鎌倉期、室町期を生き抜いて江戸期に至った事になる。


南朝・後醍醐帝と北朝を旗印とした足利将軍が覇権を争った南北朝時代、井伊谷の豪族であった井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。

道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王の元に参じて南朝方として挙兵、遠江国の居城・井伊城に招いて保護した。

また宗良親王の子・尹良親王(ゆきよししんのう)も井伊城に生まれている。

しかし、北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊城は落城する。

井伊氏は、北朝方・駿河守護・今川氏と対立していたが、やがて今川氏が駿河に加え遠江の守護職を得るとその支配下に置かれる。

しかし、戦国期を通して、守護である今川氏とは微妙な関係在った。

今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に、井伊直盛は今川氏に従い討ち死にしたが、戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。

この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだ。

しかし井伊氏の勢力は大きく衰退し、井伊谷の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。


井伊直虎(いいなおとら)は、戦国時代の女性領主にして女性武将である。

遠江国井伊谷(静岡県浜松市北区(旧・引佐郡)引佐町)の国人井伊氏の当主を務め、井伊谷徳政令など内政手腕に優れ「女地頭」と呼ばれた。

直虎(なおとら)は、父・直盛の従兄弟・井伊直親と婚約したが、運命に翻弄されて生涯を未婚で通した。

直虎(なおとら)は、後に井伊家の中興を果たす井伊直政の「はとこ」であり、養母として直政を育てている。


直虎(なおとら)は、遠江国・井伊谷城主(国人)の井伊直盛を父に、母は新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の妹(祐椿尼/ゆうしゅんに)の娘として誕生する。

父・直盛に男子がいなかった為、直虎(なおとら)は直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。

井伊直親は幼名を亀之丞と言い、千五百四十三年(天文十二年)に後に井伊直虎となる井伊直盛の娘と婚約した時は八歳、許婚(いいなずけ)の相手・井伊直盛の娘(次郎法師=直虎)は六歳の幼女だった。

この婚約、現代の常識で考えたら幼少過ぎる年齢だが、当時の家門を中心とした武家の婚姻話としては普通だった。

例えば、美濃の大名・斉藤道三(さいとうどうさん)の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう/濃姫)が、尾張の新興大名・織田信秀の嫡男・織田信長の下へ嫁いだ時は信長十六歳、斉藤帰蝶(濃姫)は十五歳だった。

勿論十六歳の信長は、当時としては既に元服を済ませた成人として斉藤帰蝶(濃姫)を迎えている。


井伊直盛の娘(後の直虎)も、早ければ三年、遅くても五年後には直親の下へ嫁ぐ筈だった。

ところが、千五百四十四年(天文十三年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言(ざんげん)により、井伊直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられる。

井伊直満は今川義元に自害させられ、婿養子に迎える予定の婚約者・直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡する。

同千五百四十四年(天文十三年)、直親の父・井伊直満が小野道高の讒言により今川義元に自害させられた為に、九歳と幼少の直親は信濃国へ落ち延びそこで密かに成人している。


この逃亡、井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。
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許嫁であった直虎(なおとら)は失意のまま出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)と言う出家名を名乗った。

直親は、後の千五百五十五年(弘治元年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていた為、直虎は婚期を逸する事になったとされる。

その後、井伊氏には不運が続き、千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は千五百六十二年(永禄五年)に小野道好(井伊家家老/道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。

直虎(なおとら)ら一族に累が及びかけたところを母・祐椿尼(ゆうしゅんに)の兄で伯父にあたる新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の擁護により救われた。

千五百六十三年(永禄六年)、直虎(なおとら)・曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死する。

千五百六十三年(永禄七年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、井伊氏家中を支えていた者たちも失った。

そのため、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。

こうした経緯を経て、千五百六十五年(永禄八年)、出家し次郎法師を名乗っていた直虎(なおとら)は、この時名を直虎(なおとら)に変えて井伊氏の当主となった。

井伊直虎(いいなおとら)は女性であるから、現実には女武将と言っても一族の象徴的な当主で在って、兵を引き連れて戦闘に加わった訳では無い。

例え戦に出たとしても、あくまでも周囲に守られて兵の指揮を執った程度の事であるが、それでも武門の棟梁であるから武将である。

もっとも男性の武将でも、やむ負えない場面に遭遇しなければ、豊臣秀吉のように生涯自らは武器を取らなかった武将の方が圧倒的に多かった。

不思議な事に、井伊家の方針に悉(ことごと)く反対していた井伊家家老・小野道好は、何故か次郎法師(直虎)の当主就任には異論を唱えなかった。

家老・小野道好にしてみれば、女当主ならば他の選択肢よりも扱いが容易と判断したのかも知れない。

それだけに、家老・小野道好の専横は続き、千五百六十八年(永禄十一年)には居城・井伊谷城を奪われてしまう。

しかし小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復する。

千五百七十年(元亀元年)には、井伊直虎(いいなおとら)は家康に嘆願し、小野道好の直親への讒言を咎め道好を処刑する。

道好の処刑により、井伊家は安定するかに思えた。

しかし、千五百七十二年(元亀三年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡す。

井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、直虎(なおとら)は徳川氏の浜松城に逃れた。

直虎(なおとら)の許婚者(いいなずけ)である井伊直親は生前、今川氏の今川氏真、武田氏の武田勝頼よりも松平元康(後の徳川家康)の力量を評価していた。

それを知って居た直虎(なおとら)は、一途に思いを寄せた直親を信じて養子・直政と井伊家の将来を松平元康に託したのだ。

その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねた。

しかし武田勢は、当主・武田信玄が病に倒れたため、千五百七十三年(元亀四年)四月にようやく撤退し、直虎(なおとら)は三度井伊谷城を奪還した。

その間、直虎(なおとら)は許嫁(いいなずけ)の直親の遺児・虎松(直政/なおまさ)を養子として育て、千五百七十五年(天正三年)、三百石で徳川氏に出仕させる。

つまり井伊直虎は、昔添えなかった許嫁(いいなずけ)の忘れ形見・虎松(直政)を引き取って後継ぎとして扶養して井伊家の当主に据えた。


近頃、直虎が男性と推測する古文書が発見された為、この当主・直盛の娘・次郎法師と直虎が別人で「直虎(なおとら)は男性だった」と言う説が浮上している。

しかし、この説で在れば幾多の疑問が残る。

例えば、井伊本家当主に男の子が居ないから当主・直盛の娘が直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定の許婚(いいなずけ)だった。

すると男性・直虎(なおとら)は、誰の子でどこから来たのか?

また、井伊家の方針に悉(ことごと)く反対していた井伊家家老・小野道好は、何故か直虎(なおとら)の当主就任には異論を唱えなかった事は「女性当主なら御(ぎょ)し易い」と踏んだからが通説である。

故に直虎(なおとら)が男性なら、井伊家家老・小野道好が井伊家にもっと牙を剥いて居た筈である。

そして直虎(なおとら)が男性であれば、自ら子を為す事をしなかった意味が無く、女性だからこそ一途に許婚(いいなずけ)への想いを通したのではないか?

だからこそ、直虎(なおとら)は、許嫁(いいなずけ)の直親の遺児・虎松(直政)を養子として、井伊家の当主に育てたのではないか?

そもそも戦国時代に、女性が直虎と男名乗りを名乗ったなら、男性的な文面の手紙・古文書が残って居ても不思議では無い。

これはもぅ、卑弥呼が何者かも解明されていないのに「卑弥呼の墓が見つかった騒ぎ。」と同様の笑止レベルである。


徳川氏に出仕させた虎松(直政/なおまさ)は家康に気に入られ、虎松(直政/なおまさ)を万千代と改めて名乗らせ、小姓(稚児小姓)として手元に置き寵愛するようになる。

六月に明智光秀が信長を討ち取った「本能寺の変」が起こった千五百八十二年(天正十年)八月二十六日、直虎(なおとら)は死去する。

井伊氏の家督は、直政が継いだ。


徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。

国人領主として今川氏の家臣である井伊直親(いいなおちか)は、謀反の嫌疑を受けて今川氏真(いまがわうじざね)に誅殺され、長男・虎松(直政/なおまさ)は父・直親(なおちか)の死によって井伊家を継ぐ身となる。

しかし遺児の虎松(直政/なおまさ)は僅か二歳で在った為に新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼(ゆうえんに)が井伊直虎(いいなおとら)と名乗り、中継ぎとして井伊氏の当主となった。


虎松(直政/なおまさ)の父・井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。

為に井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。

直政(なおまさ)は井伊谷の所領を今川氏に取られて失い、一時、生母の再婚相手・松下清景の松下姓を名乗るなどした他、井伊直虎(祐圓尼)を養母として不遇を囲っていた。

それが、千五百七十五年(天正三年)、今川氏から遠近江国を奪取した徳川家康に見出される。

十四歳、元服前の虎松(直政/なおまさ)は見目麗しい美少年で、当時の男児は、年齢的に十四歳くらいまでまだ肉体も中性的で、稚児小姓として愛玩し易い。

徳川家康は三十二歳の男盛り、一目で虎松(直政/なおまさ)を気に入り井伊氏に復する事を許し虎松(直政/なおまさ)を万千代と改めて名乗らせ、手元に置くようになる。

万千代(直政/なおまさ)は家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。


千五百七十五年(天正三年)、直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の一人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、寵愛を得る。

前田利家の出世の切欠として既に紹介したが、一所を構える領主の子息ともなると武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手を附けられる。

そして成長すると、稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされて、男色(衆道)を行う僧侶や神主は多数いた。

現代の風潮からすれば懐疑的な事でも、戦国のパラダイム(ある時代に支配的な物の考え方)として、稚児小姓は有力な出世の手段だった。

もっとも、娘を殿の妾に押し込むのも「武門の慣(なら)わし」だったから、武士道なんて不格好なものだった。

そうした時代の処世術としての史実を、大人の教養として稚児小姓の事実を歴史として記憶しても良いと思う。


神仏習合の修験道(密教)では、御伽稚児は呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムであり、憚(はばか)る事の無い氏族(公家や武士)には公(おおやけ)な習慣であった。

井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人に成っていた。

直政(なおまさ)は、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。

井伊軍団の軍装・甲冑を全軍赤色に統一した「井伊の赤備え」は有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。

関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、井伊直政は石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。


直政の死後、直政の長子・井伊直勝は千六百四年(慶長九年)に近江国彦根に築城したが、千六百十五年(元和元年)幕命により弟の掃部頭(かもんがしら/官名)・井伊直孝(直政二男)に彦根藩主の座を譲った。

井伊直孝(直政二男)は秀忠の近習として仕え、秀忠が二代将軍に就任した千六百五年(慶長十年)の従五位下掃部助(かもんのすけ/官名)を皮切りに出世を重ね、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣では、家康に井伊家の大将に指名されるなどした。

井伊家軍団の大将に指名された直孝(直政二男)は、大阪方として出陣して来た天下の知将・真田信繁(幸村)の同じ「赤備え軍団」と死闘を繰り返している。

大坂冬の陣において武功を挙げた直孝は、千六百三十二年(寛永九年)三代将軍・徳川家光の後見役に任じられて家光からも絶大な信頼を得、井伊氏は直孝の代には三十万石の譜代大名となる。

なお、彦根藩藩主の座を直孝に譲った直勝は、亡父の官名・兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)を世襲、安中藩三万石として藩主となった。

井伊直政(いいなおまさ)は近江国・彦根藩の藩祖と成り、彦根藩井伊三十万石は江戸時代には譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた井伊家は明治維新まで存続している。

この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。


酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)の三人は、井伊直政と伴に「徳川四天王」の一人と呼ばれた。

彼等は徳川幕府成立の功績第一の身でありながら、桶狭間(今川氏から独立)以後側近に成った井伊直政(いいなおまさ)を除き、今川人質時代を知る三人が徐々に遠避けられ揃って冷遇されている事は謎である。



人は一人では何も出来ない。

成功も、周囲の協力が有っての成功である。

現代にも通用する事だが、オーナー経営者の陥り易い悪癖は「全てが自分の力で遣った」と自惚(うぬぼ)れる悪癖で、この意識が強くなると優秀な右腕を失う羽目になる。

徳川家康は、他の有力武将大名と比べ周囲の恩義に報いるタイプで人気が高かった。

現に織田信長には最後まで忠実だったし、関が原合戦の影の功労者・林(稲葉)正成(はやし/いなば/まさなり)も浪々の身をワザワザ呼び出して手厚く処遇している。

所が家康は、そうした暖かい反面、三河以来の古参家臣の扱いは余りにも冷たい。

この余りにも家康の性格とかけ離れた三河以来の古参家臣の扱いを見る時、考えられるのは只一つ、家康は彼等に「何の親近感も恩義も感じなかった」と言う事である。

何しろ双子の別人が入れ替わったのだから・・・。

彼等三河松平の古参家臣は、もう一人の正・竹千代の家臣で有って織田家重臣・平手政秀(源家・徳川を名乗れる)を養父に育った自分の家臣ではない。

つまり天下を取った方の家康にして見れば、松平古参家臣も感覚的には新参者だったのではないだろうか。

それにしても、江戸徳川幕府成立後の徳川四天王の内の三人を始めとする旧・三河松平家臣団の冷遇は特筆に値する。

この辺りの、本来なら幕府成立の永年の功労者である旧・三河松平家臣団の処遇には疑問が残る所である。

その事が、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説と、そして徳川秀忠=明智光忠説、明智光秀=天海僧正説、春日の局(斉藤福)の明智トリオが徳川本家を乗っ取ったとしたら、旧・三河松平家臣団を冷遇した事に説明が着くのである。


本多俊正の子として三河で生まれた本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の側近として活躍し武将と言うよりは吏僚(官僚)として才が在った。

徳川家康の家臣としての本多正信の経歴は特に変わっていて、三河一向一揆が起こると正信は一揆方に与して家康と対立し一度家康とは袂(たもと)を分かっている。

そして一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕え、久秀には重用された様であるが、やがて久秀の下も去って正信は諸国を流浪する。

その流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではないが、有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し織田信長とも戦っていたともされている。

その諸国を流浪した末、正信は旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世の懸命のとりなしに拠って姉川の戦いの頃もしくは本能寺の変の少し前の頃に、無事に徳川氏に帰参が叶っている。

本能寺の変が起こって信長が横死した当時、堺の町を遊覧していた家康は領国・三河に帰る為に伊賀越えを決意するのだが、この時に正信も「伊賀越えに付き従っていた」と言われている。

その後、本多正信は主君・徳川家康に実務能力を認められて、家康が旧・武田領を併合するとその地の奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当している。

本能寺の変から中国大返し、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手(ながくて)の戦いを経て天下が羽柴秀吉でまとまる。

すると、主君・徳川家康が豊臣家に臣従し、小田原征伐後に家康が豊臣秀吉の命令で関東に移る。

そこで漸く、本多正信(ほんだまさのぶ)は相模玉縄で一万石の所領を与えられて大名となる。

千五百九十八年(慶長三年)、豊臣秀吉が死去した頃から本多正信は家康の参謀としてその能力を発揮し大いに活躍する。

主君・徳川家康が豊臣家から覇権奪取を行なう過程で行なわれた千五百九十九年(慶長四年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半はこの正信の献策に拠るものであった。

順風だった正信だが関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って関ヶ原本戦に遅参する失態を犯している。

この時本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、「秀忠に容れられなかった」と伝えられている。

関が原の勝利後、本多正信は主君・徳川家康が将軍職に就任する為に朝廷との交渉で尽力し、二年後に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設する。

それで正信は、家康の側近として幕政を実際に主導する様に成る。

また、前法主教如と法主准如の兄弟が対立していた為、本願寺の分裂を促す事を家康に献策し、本願寺の勢力を弱めさせる事に成功している。

千六百五年(慶長十年)、徳川家康が駿府隠居して大御所となり徳川秀忠が第二代将軍になる。

正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかし余りに本多正信が権勢を得た事は本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買う事と成り、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返す様になる。

それでも家康の信任が変わる事は無く、五年後の千六百五十年(慶長十五年)には年寄衆から更に特別待遇を受けて、正信は大老のような地位にまで昇進し大きな権力を振るった。

本多正信は、大坂の陣でも家康に多くの献策をしているが、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、「歩行も困難であった」とされている。

徳川家康に重用され権力を振るった本多正信だが、領地は最後まで相模玉縄に二万二千石(一説に1万石)しか領していなかった。


余談だが、徳川家の直臣に南北朝時代に世良田氏と共に「南朝方として活動した」という伝承を持つ井伊氏や奥平氏が存在する。

しかし彼らは三河安城・松平家旧譜代の家臣ではなく、井伊氏は遠江国井伊谷に在って今川氏に仕え、奥平氏は遠江国で独立した小領主であった。

それが、一旦武田信玄に臣従の後、信玄没後に徳川(家康)氏に仕えた。

いずれにしても、井伊氏や奥平氏が徳川家臣に納まったのは、家康が世良田庶流を名乗り始めた頃と合致している。

或いは影・竹千代が、正式に平手政秀(源家・徳川を名乗れる)と養子縁組をして、気分は源家の家系だったのかも知れないのである。

その後のこの両家に対する徳川幕府の扱いを見る限り、かなり突出した待遇である所から、少なくとも「南朝方末裔」と言う世良田系図のアリバイ工作的な意味が在ったのかも知れない。

奥平氏は幕府重臣として松平姓を名乗る事を許され、井伊氏は幕府重臣として老中・大老職を務めるなど、厚遇されて維新まで続いた。

その経緯から推測するに、影・竹千代(徳川家康)や二代将軍・秀忠に古参家臣団を敬遠する「何らかの必要が在った」と考えられるのである。

そこが歴史の面白い所だが、竹千代双子説の全ては状況証拠の積み重ねでその場に臨場した訳では無いから確証は無い。

しかし「その場に臨場した訳では無い」となれば、否定する事もまた確証は無いのである。

いずれにしても、双子の存在を背景として公には明かせない歴史が捏造された疑いが存在するのだ。



明智光秀の尽力で、天下を我が物にした徳川家康は、漢方を自ら調合するほど身体に気を使い、史上稀に見る性豪・艶福家としても知られている。

家康は、神(東照神君)に成る為に老いてなお性交に励み、相手をした女性(にょしょう)数知れず、多くの子を為し、親藩、譜代、外様、の別なく婿、嫁に出して、各地の大名と血縁関係を築き、藩幕体制を確立した。

この手法、遠い過去に須佐王(スサノオウ)が八人の子を為し、各地に送って当時支配の中心と成した神社を配置、「神として治めた手法」と酷似している。

「誓約(うけい)」と言う故事を学んだ光秀の助言だったのかも知れないが、表向きの仕事以外、家康の最も大事な天下取りの仕事は、何と「性交に励む事」だったのである。


徳川家康は稀代の艶福家である。

記録に残る正室・築山殿(清池院) 、継室・朝日姫(南明院) 、他に寵愛を受け、子を為して側室に収まった者は十八名を数え、為した子供は十一男・五女、落胤と目される男は七人に及ぶ。

そして亡くなったのは七十三歳強と、当時としては長生きをした。

十一男・徳川頼房(千六百三年生まれ)、 五女・市姫(千六百七年生まれ)は、いずれも家康六十歳代の子供である。

徳川家康は、賀茂流陰陽として伝わる秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)を作り続けて多くの子女を儲けた。

その最後の男児が、十一男・松平鶴千代丸(徳川頼房/とくがわよりふさ)である。

徳川頼房(とくがわよりふさ)は千六百三年(慶長八年)、家康在京の本拠地となっていた伏見城にて側室・万(養珠院/ようじゅいん)との間に生まれる。

同腹の兄に、前年・千六百二年(慶長七年)に生まれた長福丸(後の徳川頼宣/紀州徳川家・初代藩主)が居る。

実母の万は、実父・正木頼忠(上総勝浦城・正木時忠の次男)が後北条家に人質として滞在している時に出来た娘で、頼忠が上総に戻る事になり離婚、万の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚し、万はこの義父の元で育てられる事になる。

母親の再婚相手・義父にあたる蔭山氏広の所領伊豆で成長した万は十六〜七歳の頃、沼津か三島の宿で家康の投宿の為に給仕に出た所を見初められ家康の側室となった。

家康の秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)が功を奏してなのか、万(養珠院/ようじゅいん)は千六百二年(慶長七年)の三月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年・千六百三年(慶長八年)の八月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。

何と六十歳代のヒヒ親父(家康)が、十六〜七歳の小娘を側室にして子供を為したのだから、現在の東京都条例(他県も似たようなものだが)であれば立派な淫行犯である。

その、鶴千代(後の徳川頼房)の兄・長福丸(後の徳川頼宣)は、僅か生誕一年目の千六百三年(慶長八年)に常陸国水戸二十万石が与えられ、鶴千代(後の徳川頼房)には千六百六年に下総国下妻十万石が与えられる。

千六百六(慶長十一年)、三歳にして常陸下妻城十万石を、次いで千六百九年(慶長十四年)、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封(五十万石)によって新たに常陸水戸城二十五万石を領した。

二十五万石の太守となった徳川頼房だったが、幼少だった為に元服するまで家康隠居所となった駿府城で、家康と生母・万(養珠院/ようじゅいん)の許に育った。

徳川頼房(とくがわよりふさ)の封地・常陸国水戸藩入府は、千六百十一年(慶長十六年)に八歳(数え九歳)で元服してからである。


家康は平均寿命が五十歳代と言われた時代に、六十歳代で子を為している。

元気だったから六十歳代で子を為したのか、六十歳代でも側室相手に励んだから元気だったのか?

まぁ人間の脳は、必要性の信号波を受け取ればそのような対処の指令を身体中に出すような構造になっている。

反面的に言えば、必要性を感じなくなれば老いが進むのであれば、この家康の子創りの執念が家康の若さを保ち長生きをさせた原動力かも知れない。


性ホルモン・テストステロンは、男性の性的機能に影響する内生的・性ホルモンである。

当然ながら、生体の体内で自然生成されている。

しかし近頃の研究では、この生体に有効なテストステロンが低濃度に成ると、「身体活動能力や気力の低下が見られる」と言う。

家康は、現代で言えば年甲斐も無いスケベ親父である。

しかし環境が許さなければ、六十歳代で子を為すスケベ親父では通らない。

性的興奮は、テストステロンを活性化し、「性欲増強の働きがある」と言われている。

性ホルモン・テストステロンの生成は自然の要求に拠るものだから、或いは脳が刺激を受けてテストステロンの生成をするには、必要性を要する可能性があり、それであれば色気が元気の源かも知れない。

加齢と伴に減少する固体のテストステロン濃度は、老人の無気力化を促し、「鬱病状態との相関性が見られる」と言う。

当然ながら、テストステロン濃度の減少は、認知症などの疾患の発生に影響がある可能性がある。

性ホルモン・テストステロンは、老人の無気力を「改善する可能性がある事を示唆する」と言うテスト結果を出している。

古来から伝わる経験学的な「若さを保つ秘訣」は、まんざらホラではない。

つまり、加齢に逆らって若さを保つに必要なのは色恋沙汰と性的興奮である。

徳川家康のごとくに元気でいるには、体内のテストステロン濃度を上げる事である。

正に「性は生に通じる」が、脳の働きなのかも知れない。

しかしながら、あらゆる社会的制約は、こうした生理的な事情よりも、「良い年齢をして、見っとも無い」などと言う奇妙な感情が支配している。


いずれにしても、徳川家康はこの量産した子供達や孫、養子・養女を加えて有力大名と親戚・縁戚関係を築き、数代後には、そのDNAが大半の国主(大名)にねずみ算式に広がって行ったのである。

そこから先の広がりは、大名家の御落胤までは追い切れないので、四百年以上が経過した今、もしかしたらこれをお読みの貴方にも、家康の血の「カケラ」くらい入り込んでいるかも知れないのである。


家康の信条は、ギアチェンジ(変速)である。

企業も同じだが、およそ物事を運ぶに「行け行けドンドン」の勢いが必要である。

しかし「それで上手く行ったから」と言って、絶えず勢いだけで行っては、加速し過ぎてコントロールが効かず、思わぬ落とし穴に落ちる事になる。

つまり上手く行った事が、そのまま未来まで上手く行く保証は何もない。

そこで、減速しながら次の加速時期を伺う。

事を成すには確かめる時間が必要なのである。そのしぶとさ(臆病さ)が、家康の武器だった。

天下取りに長寿が必要だった家康は漢方薬の知識に優れ、材料を取り寄せて自ら調合していた。

家康が天下を取るには、歳月が必要だったのである。

ギアチェンジ(変速)のタイミングを決定するのは正確な情報である。

ここで必要なのは、盟主に媚びない信頼の於ける相手で、「イエスマン」ではない。

所が、往々にしてこの相手は、部下として扱い難いから盟主は避けたがる。

家康はそこが決定的に違って、絶えず部下に感謝しながら御輿の上にいた事が、ギアチェンジ(変速)を容易にしたのかも知れない。

この条件にピッタリあって冷静に広範囲に情報を拾い、的確にアドバイスをしたのが天海僧正(明智光秀)だったのである。

この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋であった事を言外に物語っている。

家臣の加納家も加茂郷の出自であるから、恐らく賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。



千六百年(慶長五年)に関が原の戦いで勝利し、豊臣家を六十万石代の大名規模に縮小させてほぼ天下を手中にした徳川家康は、服部半蔵に命じて比叡山に隠遁する南光坊(光秀)に使いを出し、雑賀孫市に預けていた庶長子・鈴木(一蔵)重康を「召し抱えたい」と告げている。

その家康不遇時代の落胤・鈴木(一蔵)重康は雑賀孫市に育てられ、雑賀衆残党の棟梁を継いでいた。

翌千六百六年(慶長六年)に、孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木(一蔵)重康は雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として鈴木孫三郎重朝(しげとも)を名乗り、徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕えた。

その鈴木(一蔵)重康が、後に二代将軍・秀忠の命により家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

この一連の落胤・鈴木孫三郎重朝(しげとも)召抱えは家康の我が子への愛情であるが、水戸藩士・鈴木家は徳川一門に於いて古代史・葛城家に於ける賀茂(勘解由小路)氏のごとき立場に組み込まれて行く物語は、次の「大日本史編纂」の下りで披露する事になる。


家康落胤と言えば、二代将軍・徳川秀忠の懐刀として江戸時代前期の幕府の老中・大老を務めた土井利勝(どいとしかつ)には、鈴木一蔵と同じ落胤説が存在する。

土井家は三河譜代の家臣ではないにも関わらず、利勝(としかつ)が幼少時から家康の鷹狩りに随行する事を許されるなど破格の寵愛を受けていた為に家康の落胤説がある。

元康(家康)には双子説が在り、今川氏の人質(築山の夫)ではないもう一人の竹千代(家康)が相当自由に三河から遠近江を遊び回ったらしく、落胤説が数例を数える。

利勝(としかつ)は、影竹千代(家康)が利昌の娘(後玉等院)に産ませた隠し子で、最初に水野信元の養子となり、信元が暗殺されると利昌の養子にされたとも言われる。

井川春良(西尾藩儒臣)が著した「視聴草」には、家康の隠し子である事が書かれている他、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にも同落胤説が紹介されている。



戦国時代に活躍した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三大巨頭と親子孫ひ孫の四代が関わって三十万石の大々名にまで家運を挙げた堀一族を紹介する。

切欠を創った堀秀政(ほりひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えて大名に出世した人物である。

堀姓については藤原利仁流、清和源流、宇多源流、大神氏流などあるが、美濃堀氏については明確な文献無く不明で、強いて地勢的可能性を挙げれば清和源流が有力である。

秀政(ひでまさ)は千五百五十三年(天文二十二年)、堀秀重(ほりひでしげ)の長男として美濃国で生まれる。

父・堀秀重(ほりひでしげ)は、初め斎藤道三に仕え二千石を領す。

次いで織田信長に仕え、近江坂田郡に三千石、他に二千石の合計五千石を与えられた。

秀政(ひでまさ)は、幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたと言う。

秀政(ひでまさ)は最初、織田信長側近・大津長昌(おおつながまさ)、次いで木下秀吉に仕え、千五百六十五年(永禄八年)に十三歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた。

少年・秀政(ひでまさ)が小姓に上がった時、信長は十九歳年上の三十二歳と男盛りである。

この当時、若くして小姓に昇り「信長の寵愛を受けた」と言うからには、秀政(ひでまさ)は前田利家や森蘭丸と同様に、武門の習いとして稚児小姓として信長の衆道相手を務めた可能性が強い。

聡明な少年を見い出して寝所に召し、衆道関係を持って身も心も奪った上で集中的に教育を施して優秀な側近に育てるのだ。

勿論、稚児小姓あがりの側近は信頼関係が強く、出世も別格で早い。

秀政(ひでまさ)は才能を発揮し、三年後には十六歳で将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど各種の奉行職を務め、信長側近としての地位を確立する。

数年後、少年から青年に成長した秀政(ひでまさ)は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。

越前一向一揆討伐、紀伊雑賀討伐戦、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに指揮官として一隊を率いて戦っている。

千五百八十一年(天正九年)、二十八歳の秀政(ひでまさ)は信長の寵愛を受け、近江国坂田郡に二万五千石を与えられた。

千五百八十二年(天正十年)の甲州征伐(武田攻め)では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠が武田氏を滅ぼした後だった為に戦闘には参加しなかった。

本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外された後、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後に備中の秀吉の下へ向かっている。

同じ年の千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変が起こって信長が死去した時、秀政は秀吉の軍監として備中国にいた。

そしてその後は秀吉の家臣となって山崎の戦いに参陣し、中川清秀・高山右近らと先陣を務める。

秀吉と光秀が雌雄を決した山崎の戦いは秀吉方の勝利に終わり、秀政(ひでまさ)は光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満を坂本城に追い込む。

敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政の家老・直政に譲る旨を告げ、城に火を放ち自害した。


信長没後も、信長の寵愛を受けた秀政(ひでまさ)の優秀さは折り紙付きで、豊臣秀吉も一目置いていた。

戦後処理となった清洲会議により、堀秀政(ほりひでまさ)は丹羽長秀に代わって近江の佐和山城を拝領し、三法師の蔵入領の代官と守役を承る。

千五百八十二年(天正十年)十月二十日付の秀政(ひでまさ)書状には羽柴の名字を使用しており、秀吉の一族以外で初めて羽柴氏(名字)を与えられたと考えられている。

翌千五百八十三年(天正十一年)四月、織田家相続で対立した秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻める。

この戦いで、家康が秀吉に宛てた書状に秀政(ひでまさ)の軍功を褒めるほど目覚しい働きあり、戦後、従五位下・左衛門督に叙任され、また近江佐和山九万石を賜る。

但し別の説では、佐和山九万石は清洲会議で賜ったと言う史料もある。

秀政(ひでまさ)はまた、従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。

千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。

しかし秀政(ひでまさ)は、全体の戦況を把握して家康本隊とは戦わず退却する。

千六百八十五年(天正十三年)、秀吉が関白になると秀政(ひでまさ)は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任される。

同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)や四国平定戦による軍功により秀政(ひでまさ)は丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に十八万石を与えられ、与力に加賀小松の将・村上義明、加賀大聖寺の将・溝口秀勝が付けられた。

豊臣秀吉に重用されて十八万石の中堅大名にまで栄進、父である秀重(ひでしげ)もその下で主に代官的な政務補佐を担当し活躍した。

千五百八十六年(天正十四年)には、同僚の長谷川秀一とともに昇殿を許された。

なお、秀政(ひでまさ)が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも参陣して秀政(ひでまさ)は先鋒部隊を任される。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられ、箱根口を攻め上り、山中城を陥落させる。

秀政(ひでまさ)は小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。
しかし五月下旬に疫病を患い、秀政(ひでまさ)は三十八歳の若さで小田原征伐の陣中にて急死する。

堀家の家督は秀政・長男の堀秀治(ほりひではる)が継いだ。

秀政(ひでまさ)は神奈川県小田原市の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、福井県北之庄(福井市)の居館近くの長慶寺に墓が建てられた。

秀政(ひでまさ)のなきがらは、後に堀家が転封となった際、新潟県上越市春日山城の林泉寺に改葬されている。

福井県福井市の長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年五月に供養祭が行なわれている。


堀秀治(ほりひではる)は、千五百九十年(天正十八年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父・秀政(ひでまさ)がその時に陣中にて病死した為、長男として家督を継ぐ事となった。

千五百九十年(天正十八年)冬、堀秀治(ほりひではる)は小田原攻めの功により父同様に豊臣姓を与えられる。

千五百九十二年(文禄元年)の文禄の役(朝鮮征伐)では肥前名護屋城に参陣し、翌千五百九十三年(文禄二年)には伏見城工事に貢献した。

これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の千五百九十八年(慶長三年)四月、越前北ノ庄十八万石から越後国春日山三十万石へ加増移封される。

ただし秀吉の命令で、与力の付属大名も越後に移った為、堀家の家臣団は複雑な構造となり、秀治(ひではる)の知行裁量権も実質十万石余程度しか及ばなかったとされる。

堀秀治(ほりひではる)が越後春日山三十万石に移封されると、祖父に当たる堀秀重(ほりひでしげ)がその後見役となり、秀吉から一万四百石の所領を与えられた。

越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が領主交代の時は半分を残す事が例とされていたのに年貢米を全て会津に運び出していた為、堀家は財政的に困窮した。

秀治(ひではる)は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、千五百九十八年(慶長三年)八月に秀吉が死去すると家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送る。

千六百年(慶長五年)に秀治(ひではる)が福嶋の地に居城移転の計画を立てた頃、関ヶ原の戦いが起こる。

秀治(ひではる)は東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉景勝旧臣・神官・僧侶の一揆(越後一揆、上杉遺民一揆)を鎮圧した。

一揆の直接原因は、東軍かく乱を目的とした上杉景勝・直江兼続の命令である。

但し堀家は直江に年貢を持ち出されて財政が困窮していた。

財政強化の為に堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行なった事も一揆の原因とする説もある。

戦後、東軍に与した功により、秀治(ひではる)は徳川家康から所領を安堵される。

六年後の千六百六年(慶長十一年)五月、天下分け目の関ヶ原の戦いを乗り切った秀治(ひではる)は、三十一歳の若さで死去し、跡を嫡男の忠俊(ただとし)が継いだ。

堀忠俊(ほりただとし)は家老・堀直政の尽力により、本多忠政の娘・国姫を大御所徳川家康の養女として娶り、また秀忠から諱一字と松平姓を賜わる。

忠俊(ただとし)は急速に徳川氏に接近して家の存続を図るもその努力は空しかった。

家老・直政死後の千六百十年(慶長十五年)、直政・長男で三条五万石の城主・堀家の執政家老・堀直清と直政の次男(または三男)で蔵王堂五万石の城主堀直寄との争乱を発端とする御家騒動が勃発する。

この騒動により、幕府は閏二月に日に忠俊(ただとし)と直清を改易、直寄を一万石減封して四万石に処した。

ここに堀家四代の血と汗で購(あがな)わられた越後福嶋三十万石は夢と消え、改易後の忠俊(ただとし)は磐城平藩主・鳥居忠政へ預けられ、「茶の湯のみを楽しみとした」と、その後が侘(わび)しく伝わっている。



雑賀孫市や明智光秀が活躍していた頃の戦国期の九州で、この物語の趣旨としては我国初まって以来の異変が起こっていた。

異変の経緯をザッと紹介しておく。

中央で室町幕府が成立、懐良(かねなが)親王を奉じた「九州南朝政府」が崩壊し、室町幕府の管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により懐良親王と菊池氏は大宰府を追われる。

貞世の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏と同盟して渋川探題を奉じた大友氏時ら大内氏と対立するが、後の戦国時代に大友氏により菊池氏の主力は滅ぼされ、幾つかの枝が九州各地に残る事と成った。


その後、およそ百八十年の歳月が流れ、戦国末期の九州では、室町幕府の弱体と共に菊池氏を滅ぼした大友氏が頭角を顕していた。

そして、我が国の神話の発祥の地・日向国に、とんでもない事態が生じた。

まったく別の神が、神話の地に降臨したのだ。

その土地の名が、「無鹿(むしか)」と言った。

無鹿(むしか)の地名の命名者は、九州北部の戦国大名・大友(藤原)宗麟である。

この日本の近代史に繰り返し登場する土地の名「無鹿(むしか)」は、名の付く以前は、「何と言ったのか。」名さえ知らない。

大友宗麟は、その覇権拡大能力で最盛期九州六ヵ国を治めた一代の英雄的戦国武将である。

無鹿(むしか)の地を大友宗麟が始めて見た時は、小さな丘に囲まれ川(北川)の流れる穏やかたたずまいの「ススキの原だった」と言う。

音からして、日本では使い慣れない。初めて耳にした時「ムシカ」と聞いて「うーん。」と思い、我輩は「無鹿」と字を確かめた。

無鹿(ム・シ・カ)は、ラテン語(イスパニア語)で「音楽の事だ」と言う。

なるほど大友宗麟は、洗礼名を持つクリスチャンである。本来、宗麟の元の名は義鎮(よししげ)で、入道(出家)して仏の道に入り、宗麟と名乗った筈が、キリシタンとしての洗礼名は「ドン・フランシスコ」である。

大友(藤原)家は、鎌倉時代初期に大友能直が豊後国守護職に任命され着任、南北朝時代は北朝に属し、以後、豊後、筑後に勢力を伸ばして一円の守護大名となり、以後、室町時代を経て戦国大名なり、宗麟の祖父、義長の代には戦国大名として活躍する。

鎌倉幕府の御家人を派遣する「守護・地頭制」によって赴任してきたのは、この豊後・大友(藤原)家だけではなく、日向・工藤(藤原・伊東)家や薩摩・島津(源?)家などで、特に大友家と島津家は、後に有力守護大名を経て戦国大名として生き残って行く。

島津家の祖は忠久(ただひさ)と言い、工藤祐経(くどうすけつね)と同じように源頼朝に命じられて、薩摩の国の地頭職として赴任した。

初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の三国の守護に加え、越前国守護にも任じられている。

島津忠久は、秦氏の子孫で九州の名族「惟宗(これむね)忠安」の子と言う事に成っているが、昔から、「源頼朝の落胤」説が付きまとっている。

いずれにしても島津家は、鎌倉幕府の命で中央から薩摩に赴任して来たのである。

こう書くと薩摩に於いて島津家は「よそ者」の様に見えるが、実は、源氏そのものが隼人の血を引く一族らしい。

大友能直(近藤氏)と島津忠久(惟宗氏/これむね)に共通している事は、共に後の九州を代表する一族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりせず、いずれも「母親が頼朝の妾であった事から、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されている事であるが確証はない。

あの烈女・北条正子を正妻に持つ頼朝が、妾を持てたのだろうか?

しかし、日ノ本国を治めるには信頼出来る者を多く造らねばならない。

案外その辺りの誓約(うけい)の概念で、頼朝が妾を持つ事を正子が許したのかも知れない。

確実なのは、島津忠久の出とされる惟宗(これむね)氏も、大友能直の出とされる近藤氏も、この時代に至っては勢力を失い古いだけでさしたる一族ではなく、頼朝による抜擢がなければ「無名のまま歴史に埋もれていただろう」と言われる点である。

惟任(これとう)惟宗(これむね)なども呉族系九州隼人の血筋で、鎌倉期以前は中央の朝廷に地方役人として出仕しているに過ぎなかったのである。


九州・豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)は、元は相模国に在って近藤氏を名乗っていた。

この近藤姓は、所謂藤原末孫の藤姓一族の証であり、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・近藤氏が大友氏を名乗った事になる。

治承のクーデター・寿永の乱が起こって鎌倉幕府が成立すると、その近藤氏の当主・近藤能成(こんどうよしなり)に、源頼朝の妾を勤めていた相模国足柄上郡大友郷を領する波多野経家(大友四郎経家)の三女・利根局が嫁して来て能直(よしなお)を儲ける。

大友氏初代・大友能直は相模国愛甲郡古庄郷の郷司で在った近藤(古庄)能成の子として生まれ、最初は古庄を名乗るも父・能成(よしなり)が近藤を名乗るに際して同じく能直(よしなお)も近藤を名乗っている。

父・近藤能成が早世した為、近藤能直(初代・大友能直/おおともよしなお)は母・利根局の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承して大友能直(おおともよしなお)と名乗る。

大友能直(おおともよしなお)は十七歳で元服、母・利根局が源頼朝の妾で在った縁で頼朝の寵愛を受け、源頼朝の内々の推挙に拠って官位・左近将監に任じられて頼朝の近習を務め、鎌倉有力御家人の一人として平家方が多かった九州の抑えに豊後国(現大分県)の守護職に任じられる。

大友能直は、豊後守護職拝命後も中央の官僚として鎌倉館に常勤し、「富士の巻き狩り」で勃発した曽我兄弟の仇討ち事件の際、近習として頼朝の傍近く本陣に在って弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)の乱入に頼朝を警護している。

大友能直(おおともよしなお)については、母・利根局が頼朝の妾を勤めていた事から頼朝の落胤説を唱えるものも在るが、その事実に信憑性は無く、むしろ頼朝には能直(よしなお)が恋人の連れ子の様な気分だったのではないだろうか?

もし能直の頼朝落胤が事実なら、頼朝没後に我が子を含む頼朝の血族を根絶やしにし、執権家として鎌倉幕府の実権を握った北条正子が、大友氏を無傷で放って置く訳が無いからである。

能直以降の大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばして鎌倉期から南北朝並立期、室町期を乗り越えて戦国期を迎え、戦国時代には大友義鎮(大友宗麟・二十一代当主)が活躍して豊後・筑前・筑後など北九州を支配した戦国大名に成長している。


大友宗麟は、「二階崩れの変」と呼ばれる自分の家の混乱の折、父・義鑑に対する部下のクーデターに乗じて、大友家の第二十一代当主に納まった。

千五百五十一年(天文二十年)イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの知己を得、領内での布教活動を保護し南蛮貿易を行う。

大友家としては、当初は貿易目的の為にキリシタンを保護して居たのだが、次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、千五百七十八年(天正六年)にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。

大友宗麟は、ある種、織田信長に共通する奔放さと、強引さ、先進性を兼ね備えていたのかも知れないが、成功しても後が続かない所まで、良く似ている。

希代の英雄に、「有り勝なパターン」と言えるのだ。

大友宗麟は、他人の気持ちを考えない性格であり、家臣の妻を略奪したり、キリスト教をめぐり、宇佐八幡宮の別宮・奈多八幡宮の神官・奈多鑑基を父に持つ妻と離婚したり、酒色に耽るなど、キリスト教の洗礼を受けたとは思えない横暴な君主としての記録も残っている。

大友宗麟の再婚相手(正妻)に選ばれたのが、奈多八幡宮の大宮司、奈多鑑基(なたあきもと)氏の娘である。宗麟、二十五歳くらいの時の事だ。

奈多鑑基(なたあきもと)は、宮司ではあるが、武士にも成っていて、娘の奈多を宗麟に嫁がせた事で、大友家の重臣として勢力を為していた。

宇佐神宮には、朝廷からた度々の寄進が有る。

奈多八幡宮は、「宇佐別宮」とも言われる宇佐神宮の摂社(せっしゃ)の別格で、宇佐神宮に「朝廷」から新しく「御神宝」が寄進されると前の御神宝は「奈多八幡宮に納め直される」と言う、ほとんど同格に近い宮である。

その奈多家からの嫁(名も・奈多)が、キリシタンに帰依する夫を認める訳がない。

奈多は三十年宗麟と連れ添い、六人の子を設けるが、宗麟の改宗問題(キリスト教帰依)で離婚している。

勿論、腹心の奈多鑑基との主従の中も壊れてしまった。

それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。

その大友家は、大友宗麟の最盛期には宗麟の指揮下、九州北部、東部の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六ヵ国と日向と伊予のそれぞれ半分に及ぶ大勢力を誇った。

大友家の分家筋に、雷神と呼ばれた猛将・立花道雪(たちばなどうせつ)がいる。

道雪(どうせつ)は、主君・大友宗麟(おおともそうりん)の最も頼りに武将として活躍する。

その道雪(どうせつ)の養子・立花宗茂(たちばなむねしげ)は、さらに名将だった。



安土地桃山時代〜江戸時代に、大友氏の一族で九州の有力大名と成った立花氏が在る。

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州の雄・島津義弘が一目置き、豊臣秀吉や徳川家康にその勇猛振りを認めさせた男である。

そして立花宗茂(たちばなむねしげ)こそ、関ヶ原に西軍として参戦し一度徳川家康に改易されて後旧領復帰を果たした唯一の伝説大名である。


立花宗茂(たちばなむねしげ)は、千五百六十七年(永禄十年)11月18日、大友氏の重臣・吉弘鎮理(よしひろしげまさ/のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる。

宗茂(むねしげ)の幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改めている。

宗茂(むねしげ)は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。

ちょうどこの年には、大友家から毛利家に通じて謀反を起こし、両家の全面対決のきっかけを作ったり、反乱を起こして雷神・立花道雪に打ち倒された高橋鑑種(たかはしあきたね)が討伐される。

吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の子である宗茂(むねしげ)の父・吉弘鎮理(しげまさ)が、高橋の名跡を継いで高橋鎮種(たかはししげまさ)、後に改名して高橋紹運(たかはしじょううん)を名乗る。

紹運(じょううん)の嫡男である彌七郎・・後の統虎(むねとら)=宗茂(むねしげ)もその高橋氏の跡取り(次期当主)として育てられる。

ところが、千五百八十一年(天正九年)、大友氏の庶流にあたる家臣・戸次鑑連(道雪)が男児の無かった立花氏の跡継ぎとして紹運の子・高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養子に入れようと画策する。

紹運(じょううん)は宗茂(むねしげ)の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとした。

だが、共に大友氏の庶流にあたる道雪(どうせつ)が何度も請うて来た為に紹運(じょううん)も拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。

このとき、宗茂(むねしげ)は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・訐藺紊鳩觝Г靴凸写擦箸覆蝓¬召盡夕‥虎と改め、訐藺紊紡紊錣辰篤酸磴ら家督を譲られた。

しかし宗茂(むねしげ)は、訐藺紊箸聾碓な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したと伝えられる。


千五百八十一年(天正九年)七月、立花家の養子と成った宗茂(むねしげ)は養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏との嘉麻・穂波の戦い(石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。

八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。

この合戦で宗茂(むねしげ)は五十騎を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。

左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂(むねしげ)に組みかかって来た。

しかし、相撲を得意とする宗茂(むねしげ)は彼を圧倒し、家臣の萩尾大学が堀江を討ち取って手柄を立てた。

同千五百八十一年の十一月にも同じ戦地で戦闘があった。

立花勢は朽網鑑康(くたみあきやす)の救援に向かう途中で、鑑康(あきやす)が秋月種実(あきづきたねざね)や、問註所統景(もんぢゅうじょすべかげ)の大叔父・問註所鑑景(もんぢゅうじょあきかげ)との原鶴の戦いで戦闘した。

その後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に宗茂(むねしげ)は秋月軍の追撃を受けた。

それからの過程は七月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花三百余、秋月七百六十の合わせて一千を超える死傷者を出し、当地には千人塚の名が残された。

この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。


千五百八十二年(天正十年)四月、宗茂(むねしげ)は秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍二千との岩戸の戦いに五百の伏兵を率い武功を挙げた。

千五百八十四年(天正十二年)八月、養父・立花道雪と実父・高橋紹運は主家・大友氏(大友宗麟)の筑後奪回戦に参陣する。

この戦いでは、宗茂(むねしげ)は養父・道雪出陣後、一千程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。

この時、秋月種実率いる八千の兵が攻め寄せたが、宗茂(むねしげ)はまず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清する。

その後宗茂(むねしげ)は兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせて秋月方を撃破する。

更に宗茂(むねしげ)は、西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃する。

この筑後奪回戦で、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回した。

しかし、千五百八十五年(天正十三年)に養父・立花道雪が病死すると事態は急変し、筑後に於ける大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

そうして士気が低くなった千五百八十六年(天正十四年)、島津忠長・伊集院忠棟が五万を称する島津軍の大軍を率いて筑前国に侵攻する。

この島津氏の侵攻に脅威を感じた大友宗麟(おおともそうりん)は、中央の覇権を握った羽柴秀吉(豊臣賜姓)に救援を求め、秀吉の九州征伐が開始される。

秀吉の九州征伐は、千五百八十六年(天正十四年)七月から千五百八十七年(天正十五年)四月にかけて行われた、羽柴秀吉(豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。


この島津氏侵攻の初戦、宗茂(むねしげ)の実父・高橋紹運は、岩屋城にて島津の大軍と徹底抗戦の末に玉砕する。

この時、宗茂(むねしげ)も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。

更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、原田種実隊二千を撃退し、秋月種長隊二千を奇襲するなど縦横無尽の働きを見せ二千近い首級を挙げている。

島津軍は撤退しを開始するが、この時宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の二城を奪還する武功を挙げている。

これらの宗茂(むねしげ)の働きに、豊臣秀吉は大友宗麟から「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人(直臣)となしたまわりますよう」と要請された。


その後も宗茂(むねしげ)は、秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として四月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とす。

更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲する。

九州征伐の戦後、秀吉は宗茂(むねしげ)の武功を認めて筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立したご家人(直臣)大名に取り立てた。

この時秀吉は、宗茂(むねしげ)を「その忠義も武勇も九州(鎮西)随一で、九州(鎮西)の逸物ある」と高く評価した。

その後も宗茂(むねしげ)は、九州征伐終息後の「肥後国人一揆」の武力制圧にも活躍して武功を挙げている。


宗茂(むねしげ)は千五百八十八年(天正十六年)に上洛し、七月に従五位下・侍従に叙任され、秀吉から羽柴の名字と豊臣姓(本姓)を与えられる。

千五百九十年(天正十八年)宗茂(むねしげ)は秀吉の小田原征伐に従軍する。

この時、秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたと伝えられる。


日本の覇権を握った豊臣秀吉は、その新たな野望を朝鮮半島と大陸に向け、大軍を編成して朝鮮に侵攻を始める。

千五百九十二年(文禄元年)からの「文禄の役」では、宗茂(むねしげ)は小早川隆景を主将とする六番隊に参陣し、秀吉から「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領している。

千五百九十七年(慶長二年)からの「慶長の役」では、侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。

秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下った。

だが宗茂(むねしげ)は、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれている事を知ると、弟の高橋統増・島津義弘・宗義智・寺沢広高らと共に水軍を編成して救援に向かう。

宗茂(むねしげ)は、陳璘(ちんりん)率いる明水軍や李舜臣(りしゅんしん/イ・スンシン)率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、小西行長らの救出を成功させた。


秀吉の死去に伴い徳川家康が天下に実力を影響し始めて豊臣家の番頭格・石田三成と軋轢を生み関ヶ原の戦いに到る。

宗茂(むねしげ)は徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶する。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、宗茂(むねしげ)は石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

九月十五日の関ヶ原本戦には、宗茂(むねしげ)は大津城を攻めていた為に参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。

大坂城に退いた後、宗茂(むねしげ)は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言した。

しかし輝元は、その宗茂(むねしげ)進言を容れずに徳川家康に恭順した為、宗茂は自領の筑後柳川に引き揚げた。

その筑後柳川で、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が東軍方として攻め寄せて来る。

立花勢は柳川城へ篭城する構えを示し、慶長の役で共に苦労した黒田如水、第二次蔚山城の戦いで宗茂に救ってもらった加藤清正が宗茂(むねしげ)を懸命に説得。

宗茂(むねしげ)は投降し、開城後は改易されて浪人となる。


その後宗茂(むねしげ)は加藤清正の食客をしていたが、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。

千六百三年(慶長八年)江戸に下った宗茂(むねしげ)は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送ながら改易の解除を待っていた。

千六百四年(慶長九年)、宗茂(むねしげ)一党は本多忠勝の推挙で江戸城に召し出される。

宗茂(むねしげ)の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として五千石を給され、徳川家直臣として仕える事になる。

まもなく嫡男・徳川秀忠(次期将軍)の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に一万石を与えられて大名として復帰し、同陸奥棚倉で加増され二万五千五百石の知行となった。

千六百十年(慶長十五年)には更に九千五百石の加増を受けて最終的に三万五千石の領地高となり、実はこの頃から漸く宗茂(むねしげ)と名乗っている。


大坂の役の時、大御所・家康は猛将・宗茂(むねしげ)が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったと伝えられる。

そして宗茂(むねしげ)の大坂夏の陣は、二代将軍・徳川秀忠の指揮下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、毛利勝永と交戦している。


千六百二十年(元和六年)、宗茂(むねしげ)は幕府から旧領の筑後柳川十万九千二百石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした唯一の大名となった。

また宗茂(むねしげ)は戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、三代将軍・徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。

千六百四十二年(寛永十九年)、宗茂(むねしげ)は七十六歳を生きて江戸柳原の藩邸で死去した。

宗茂(むねしげ)は生涯を通じて実子に恵まれなかった為、直系の子孫はいない。



キリシタン大名の大友宗麟は、千五百八十一年(天正九年)に「宇佐神宮焼き討ち事件」を起こしている。

戦国の世とは言え、日本古来の最高神がおわす宇佐神宮である。

そして、比売大神(ひめのおおみかみ)は、戦いの神様であるから戦いの神を敵に回して勝てる訳がない。

原因が「宇佐神宮側の裏切り行為だ」と言う歴史家も居るが、異なる宗教に傾いた宗麟に、神社やその氏子がそのまま付いて行くものか。

己の力を過信した宗麟の「おごり」の結果ではないだろうか。

この「おごり」は、現在の権力者にも常に現れる。

政財界のドンの専横である。

「罰当たり」としか、言い様がない。

人間、「慣れる」と言う事は恐ろしいもので、権力を握る者ほど発想が身勝手に成る。

本来、歴史の在る「信仰の象徴」を焼き打つ事は、部下の心や民心を離れさせるので、君主として最も「禁じ手」の筈だ。

つまり、日本の信仰である神仏双方を敵に回した大友宗麟は、信長以上にハチャメチャな人物である。


大友宗麟は、豊後の国(今の大分県)を中心に活躍したキリシタン大名で、晩年息子の義統に家督を譲ってからは、無鹿(むしか・宮崎県延岡市内)にキリシタンの理想郷建設を夢見、その事業に着手したそうだ。

その大事な天孫降臨の神の地に、宗麟はキリスト教という異教の王国を作ろうとして、島津家に敗れたのだ。

「無鹿理想郷」建設の途に着いたばかりの事である。

それも、十倍以上の圧倒的に有利な大軍を率いていたにも関わらず、少数の島津軍に敗れている。

兵力ではない何かの強い力が、人知れず働いていたのかも知れない。


大友宗麟は、信長と同じ間違いをした。

それも因果な事に、神の国・日向に新たな神の国を「打ち立てよう」としたのである。

長い歴史を持つこの国で、宗麟は多くの保守勢力を「力だけでねじ伏せよう」とした。

それで宗麟の敵は、妻や多くの家臣にまで広がった。

そして、大友宗麟が信じた神・キリストは、けして彼の勝利をもたらしはしなかったのである。

大友家は勢力を弱めつつも豊臣秀吉の九州征伐に便乗、秀吉の庇護で生き残ったのだが、キリシタン大名が災いして息子の代で秀吉に改易され、再起を図って関が原で西軍側に参戦したが敗れている。

無鹿(むしか)は、キリシタン大名・大友宗麟の理想郷の名で、実は、大友宗麟が無鹿の地を知ったのは、工藤祐経(くどうすけつね)の子孫、日向・伊東氏の案内であった。

その大友宗麟が理想郷建設に燃えた無鹿の地を踏みにじり、大友宗麟の夢を打ち砕いたのが、紛れもなく薩摩・島津家である。

大友宗麟は、この戦いに敗れた後、急速に勢力を衰えさせて行く。

無鹿(むしか)から海、或いは海岸線を行けば、北浦の地に達する。

北川の地と高千穂の地は、無鹿(むしか)からそれぞれの川ぞいを行けば達する。

つまり無鹿(むしか)の地が、古代からの交通の要衝で在った事は容易に想像できる。

だがつい近世の宗麟の時代まで、大きな集落を形成した事実はなさそうだ。それ故、無鹿(むしか)以前の古い地名はない。

それでも、神の結界(けっかい)の様なものが存在し、人知れず何かの妖気で、争いを呼び寄せているのだろうか。

そんな事から我輩は、無鹿(むしか)を「ある種の神の霊域」ではないかと考えている。

延岡市(県の庄)の中心から北へ三キロ、五ヶ瀬川の三角州を形成する支流の一つ北川のほとり、今だに静かなたたずまいを見せる延岡市無鹿町である。

無鹿(むしか)は永い眠りに付き、明治の御世になって、再び国の転換期の舞台となるのである。

神代の時代から、無鹿(むしか)を通って、或いは無鹿(むしか)から、「歴史が創られている」のかも知れなかった。



今にして思うと、徳川二百六十年は、「信長の侮りから生まれた。」と言っても過言では無いのかも知しれない。

信長が侮ったのは歴史と言う名の怪物なのだ。

その歴史の根幹を成すのが、伊都(いと)国に端を発し、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」に始まる勘解由小路党の存在だったので有る。

この物語に、エントリーする主要登場人物で、本当の意味で出自が源氏とはっきりしているのは、明智氏だけである。

織田も、徳川(松平)も、血統からすると枝の枝であり、豊臣(足軽・百姓の出?)などは、先代以前に歴史が無いので、系図を捏造する事すら出来ない。

ばかげた話だが、戦国の混乱の世を沈める為に、この世に現れた隼人族の末裔は、明智光秀ではなかったのか?

隼人であれば、朝廷に仇なす信長を見過ごす事は出来ない。

しかしまた、難局に陥った日本を一度壊して、新たなる時代の端緒を開けるのもスサノウの化身である筈だった。

光秀が隼人なら、自らの存在を抹殺してまで知略を尽くして太平の世を実現したのもうなずける。

人間、結果を恐れるから一歩が踏み出せない。

それでは、部下が何かにチャレンジなど出来る訳は無い。

停滞は敗北に繋がるから、部下に結果を恐れさせないのがリーダーの資質である。

そこで重要な見極めは、部下に対しての「任せる範囲の設定」で、その能力に長けた者が、結果勝利を得る。

つまり、マネージメントの上での繊細さは必用だが、それは部下に一々小言を言う事ではない。

繊細に部下の能力を判断しながら、大胆に仕事を任せる事である。

その辛抱強さが無ければ、最初からリーダーなどやるものではない。

織田信長は、その才には秀出(ひいで)ていた。

彼の場合致命的だったのは、彼の考え方が当時としては飛び抜け過ぎていて、その一事が当時の氏族社会では突飛過ぎた事である。

織田信長が人間としての思い遣りより覇権を優先した点では、後醍醐天皇と同じだった。

その凄まじい覇権への思いは、時として過酷な決断を下す。

覇権への思いが強くなるほど味方は減り、孤独に成って行くのが権力志向への代償である。

確かに強い意志は最大の武器だがこれは方法論の問題で、人間には個性があり例え腹心の部下でも「ものの価値観が同じ」と思う事は錯覚に過ぎず、明智光秀さえも敵に回してしまった。

織田信長の宿敵、明智光秀(天海僧正)は誰よりも信長の理解者であり、彼は織田信長を全否定したのではなく、氏族社会との妥協点を見出して修正し、徳川家康の幕府成立に結び付けている。

その辺りの事は、明智光秀(天海僧正)ならでの才能で、それを認めていたところが家康の凄さである。

俺が、俺がの感違いリーダーにはけして出来ない芸当で、徳川家康成功の秘訣がこれで、その精神が次代・秀忠を支える譜代の家臣団を形成した。

そして戦国から安土桃山時代を生き残り、徳川家に臣下の礼をとって徳川幕府の「大名・三百諸侯」や幕府旗本に成った者達が、後に名付けられた「幕藩体制」を構成する。

徳川幕府の家臣の内、原則では所領が一万石を越える領地を持つ者を大名と呼び、一万石に満たない小領主を旗本(はたもと)と呼ぶ。

本来、旗本(はたもと)の呼称は、中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味していた。

しかし江戸時代に成ると、徳川幕府の身分制度の呼称に変わって行く。

日本の武門制度では、幕府が成立すると全国各地の領主はその幕府に家臣として帰属しなければならない。

従って徳川幕府の家臣の内、原則では所領が一万石に満たない小領主を旗本(直参)と呼称した。

小領主が幕府に旗本領を認められて旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。

つまり旗本(はたもと)の呼称は、江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団に於ける武士の身分の一つで、儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称である。

中でも「高家旗本(こうけはたもと)」や「交代寄合格(大名待遇格)」などがあり、その格式を持たない者が残りの「寄合格旗本」だった。

全国に散らばる一万石に満たない小領主は、旗本(直参)と呼んで江戸城下に屋敷を構えさせて住まわせ幕府に出仕させる。

旗本が領有する領地及びその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれ、その運営は国許の家臣が行う事に成る。

それで一生に数度しか知行所に行った事が無い者や、一生自分の領有する知行所に行く事無く生涯を江戸で過ごす旗本領主も存在した。

大名については一般に三百諸侯と言うが、徳川幕府二百六十年余りを延べで数えると五百数十家存在し、江戸期を通じて概(おおむ)ね二百七十家くらいが平均で在った。

その間、江戸時代を通じて処罰された大名の総数は二百四十八家で、取り潰された大名の親藩・譜代と外様の割合はほぼ半々だった。

大名家には、規模や格式に拠り国主、城主、無城(陣屋)の別が在り、親藩、譜代、外様の区別がある。

この幕藩体制に於ける領地及び行政機構に於いて徳川将軍宗家自身は大名・藩とは考えられていない。

それに「藩」ついて注釈を入れると、実は「藩」と言う呼称も幕末に一般化したもので、それまでは余り「藩」は文書や会話でも日常的に使われて居らず「何々様御家中、何々様御領分」と言った様な概念だった。

徳川幕府に於ける親藩は、二十二家を数える。

親藩の内訳は、尾張、紀伊、水戸の御三家を筆頭に、御三家の親戚連枝大名が七藩、二代将軍・秀忠の兄・結城秀康に始まる越前松平系の八藩、それに三代将軍・家光の弟・会津松平家、越智松平家、久松松平家の内二家である。

ただし、八代将軍・吉宗が創出した御三卿、一橋、田安、清水家は十万石となっているが、領地は天領の中から散在して与えられ封地が定まっている訳では無い。

更にこの御三卿は、家臣も「幕臣の出向」のみで固有の譜代家臣が存在せず、御三卿は条件不十分で大名家とは言い難い。

譜代とは関ヶ原以前から徳川家の家臣だった大名で、逆の見方をすると豊臣政権時に、豊臣家から見て「徳川家の陪臣だった者」と言う事もできる。

従って豊臣家の直大名だった者が原則徳川幕府に於いて外様となるが、外様で在った者が譜代格を得る場合も在った。

大名家の扱いについて例外はいくつかあり、蝦夷松前(えぞまつまえ/北海道)の松前家は石高は無高だが、一万石格で大名家扱い、下野国・喜連川の喜連川家は五千石だが万石扱いで、同じく大名家として扱った。

また、大々名の家臣(陪臣)には、当然石高一万石を超える者も居るが、陪臣は原則として大名ではない。

ただし、御三家の付け家老五家・尾張家の成瀬家(犬山三万五千石)・竹腰家(今尾三万石)、紀州家の安藤家(田辺三万八千石)・水野家(新宮三万五千石)、水戸家の中山家(松岡二万五千石)については、直参(譜代大名)と扱われて居り参勤交代もしていた。

尚、この御三家の付け家老五家に関しては、維新時に新政府によって独立の藩とされたので、史学上では大名家としてカウントする場合もある

その他、周防岩国の吉川家は歴史的経緯が在り徳川家から認可されている事、参勤交代を行っている事など、実質的には大名家である

しかし毛利宗家が、そのを吉川家を大名と認めず毛利家の家臣=陪臣として居り、複雑な地位だった。

また、一万石に満たない小領主を旗本と呼ぶが、その中でも「高家旗本(こうけはたもと)」や「交代寄合格(大名待遇格)」などがあり、その格式を持たない者が「寄合格旗本」だった。



そもそもこの戦国の大乱は、室町幕府成立に端を発している。

後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、失敗する。

足利尊氏と後醍醐天皇(大覚寺統)が皇統問題で対立し、経過は割愛するが、後醍醐天皇方が敗れて吉野に逃れる。

足利方は、光巌上皇―光明天皇(持明院統)を立てて室町幕府を成立させるが、吉野に逃れた後醍醐天皇方はこれを認めず、南北二つの朝廷が並立して、四十五年に及ぶ武力対立が続いた。

これを、南北朝時代と言う。

この騒乱のなかで、有力部将が力をつけたり失ったりしながら、入れ替わって行き、後の守護大名の成立に辿り着いて行く。

やがて守護大名は、勝手に領地争いを始め、幕府の統制は利かなくなる。

しかしながら、この入れ替えの学習が、その後の「下克上」に形を変え、戦国大名の割拠する時代を作り出してしまったのである。

この戦国時代の幕開けを告げるのが「応仁の乱」であった。

つまり時の権力者が、朝廷に手を入れて、意のままにしょうとする時、或いは、天皇が自らの意思で、直接統治をしようとする時、日本中が混乱に巻き込まれるのだ。

それは、歴史が物語っている。

この事態を知る二人の英雄は、それぞれ異なる選択をした。

信長は根底から取り除こうとし、光秀は温存して象徴化した。

皇室の存続を守り、江戸二百六十年の太平を築いたのは、誰あろう明智光秀だったのである。

しかしながら、光秀には名誉は無い。

彼は影に徹して、目的を遂げた。

この話、今風に簡単に言ってしまえば、「保守抵抗勢力が勝った」と言う事である。

勘解由小路党・所縁(ゆかり)の修験道の拠点、紀伊半島がいかに重要なのかは、徳川幕府成立後の藩の配置政策に見える。

高野山寺領を除く紀伊国全域および伊勢国南部が含まれる広域に、家康の十男徳川頼宣(よりのぶ)が入国し、紀州徳川藩(御三家)五十五万万五千石を領した。

残りの伊勢の国北部は、家康の異父弟、松平(久松)定勝が、桑名藩十一万石で入り、その後松平(奥平)氏、松平(久松)氏と徳川親藩で押さえたのである。


他国に興った各種の宗教同様、わが国の原始宗教及び古代国家のリーダーである呪術者、占術者に取って、音曲(音楽)は「表裏一体の重要なアイテム」だった。

音曲(音楽)は、人の心を安らぎに導いたり興奮させたりの、心地良い心理的効果をもたらす。

つまり脳に好影響の刺激を与え、健康改善の為の音曲(音楽)効果もあるそうで、信仰心と音曲効果が相まって、神の奇蹟をもたらす事例はある。

しかし冷静に考えると、それらの奇蹟は科学的解明が進み「説明できない神の力」とは現在では言い難いものになりつつある。

だが、永い事「理解できない信仰の効果」と人々に解されて、信仰を集める為に効果を発揮した。

そうした音曲(音楽)が雅楽や神楽(舞)となり、神社や陰陽修験に取り入れられ、信仰を具現化する手段となる。

やがてそれらは時代とともに特化発展して、芸能の分野になった。

中でも、芸能と陰陽修験の諜報活動は相乗効果を狙える事から密接な形で始まり、密接なまま発展して江戸初期まで続いた。

観客が涙した義経の美談も、実は原作が勘解由小路党の草の仕事である。

言うなれば歴史の転換期及びその後の民意誘導に、大きく寄与するのが世論をコントロールする事で、今で言うマスコミ操作は芸能を握っていた勘解由小路党の独占だった。

従ってこうした芸能には、必ず或る意図があり、必ずしも正確なものでは無い。

神楽舞に始まる奉納の祭り舞、歌舞伎、能、全てその脚本には、観客に対するメッセージの意図があった。

江戸期に入り、幕府が大衆芸能を統制するまでは、帝の為か勘解由小路党と組する者に有利な演題だったので有る。

それ故、芸能が特化するまでは、武術の達人が芸能の達人でもあった。

芸人に身をやつして情報収集に当たると同時に、情報操作もしていた事になる。

雑賀孫市は、阿国の歌舞技(かぶき)小屋の用心棒をしながら、結局余生を安穏に過ごす日々の選択をした。

もう、誰かの野望や政争に巻き込まれるのはまっぴらだった。

従って、復讐の狼煙(のろし)を上げる事も無く怠惰に生きていた。

用心棒と言っても、酔客を小屋からつまみ出すくらいで、平和なものである。

そこで始めて、日々の愛しさを孫市は知った。

「もう、わしは疲れた。後の事は、頭(かしら)にした孫三郎重朝(しげとも)を使ってくれ。」

雑賀孫三郎(重朝)は、孫市に次期・雑賀衆鉄砲頭を任された男だが、光秀にも彼が孫市の兄弟なのか子なのかも判らない。

孫市に孫三郎重朝(しげとも)を託された天海僧正(明智光秀)は関が原の合戦の後に徳川家康に推挙、その後秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に落ち着き、水戸藩士・鈴木家となって大仕事をするが、その話は次章に譲る事にする。


全国に散らばる穂積姓系鈴木氏は本家筋とみなされ、熊野三山信仰と関係が深い。

穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。

平安末期から江戸初期の歴史に登場する鈴木氏は、穂積姓系鈴木氏の流れを汲む藤白系鈴木氏と言われる。

紀伊国藤白(現在の和歌山県海南市)に移り住んで王子社の神官となった鈴木氏で、源義経に郎党として仕えた鈴木三郎重家・亀井六郎重清の兄弟、雑賀(さいが)鈴木氏も三河(みかわ)鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。

藤白鈴木氏から出た鈴木三郎重家については陸奥国衣川戦死説と、脱出、秋田土着して帰農の鈴木氏(秋田県羽後町)が後裔して残り、北陸加賀国(石川県鳥越)にも三郎重家の子重満の後裔と言う鳥越鈴木家の伝記が存在する。

実は、義経の都落ち(逃亡)後、新たに伊勢で加わった鈴木(三郎)重家を秋田(秋田県羽後町の鈴木氏)に逃がしたのは、伊勢(三郎)義盛である。

与えた使命は、頼朝陣営撹乱の為の「義経生存説」の流布だった。

鈴木重家は、秋田で帰農するまでに強行軍を行い、東北全域から北海道の一部まで落人の義経一行を演じて見せた。

これが見事に嵌まって、後に義経生存「チンギス・ハーン転身説」まで登場する。

安土桃山期の雑賀鈴木氏は、紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸の和歌山市平井)辺りを本拠地としていた土豪で、紀ノ川対岸の雑賀荘を中心に周辺の荘園の土豪達が結集して作っていた雑賀衆の有力な指導者の家系である。

通称雑賀孫市は鈴木孫市が本当の名であったが、複数説があり、「孫一」と言う者も存在し、こちらは雑賀を裏切り「秀吉に従った。」と言われている。

雑賀(鈴木)孫市の子孫(しそん)・鈴木重朝は伊達藩で砲術指南役として一流派を興し、後に水戸徳川藩(御三家)に三千石で召抱えられている。

いよいよ次章で、古代葛城(賀茂)王朝が未来に仕掛けた陰陽師の使命「大王(おおきみ・天皇)の密命」の謎解きをする。

そこで、この章の余談だが、ちなみに全国一位の佐藤姓は平安期に全国に散った藤原氏からきている。

全国二位の鈴木姓は、「穂積姓から分かれた姓」と言われ、修験道の聖地で始まった。

この雑賀鈴木党の枝が、吉野・熊野・伊勢の神社の使いとして、室町末期から江戸期にかけて、全国に散り、主に各地の神社の神官を任じて土地に根付き、広がった。


御輿に担がれる事に長けていた家康は、禁じ手を知っていた。

「お前は仲間に人気が無い。」は、人材を失う事が多い三成型の「上に立つ者」の禁句である。

つまり仲間に人気がある者は同じ位置に群れる者達で、総合的に判断すると、組織に於いて貴重な存在は仲間内で「人気が無い」が、独自の見解を持ち迎合しない人物である。

家康の我慢は、家臣の行動にも及んでいて、独自の思考を容認する能力に長けていた事である。

部下に刹那的な成果ばかり求めると、その部下は確実に小さくまとまってしまう。

部下を育てたければ、さじ加減は必要だがある程度自分で考えさせ判断させる度量と余裕がトップには必要である。


各々の夢のかけ方は、各々の考え方で多様な方法が出現する。

戦国期に登場した雑賀孫市は、限りなく自由人を標榜し、明智光秀は己の夢の為に存在を抹殺した。

面白い事に、表舞台で覇権を争った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人は、全く別の性格を持ち合わせていて、天下取りに「定型が無い事」を示している。

「定型が無い」と言う事は、「データー的な判断が出来ない」と言う事で、姓名判断も生年月日判断も「気休め事」になる。

あえて拘るなら、そうした判断要素の全てが、総合的に「大吉」でなければ、天下人など成れないのである。

現代でもそうだが、こうした夢を標榜する覇権心理の背景には、「自己顕示欲」が存在する。

この「自己顕示欲」が有るからこそ、人は未知に挑戦する。

それに、偶然の未知が重なって、未来が刺激的に始まる。

その偶然の未知に運命を感じるからこそ、人は占術や呪術で「何とかしよう」と試みる。

しかしながら、たとえ占術で「何か一つの要件を満たしたから」と言って、それだけで総合的に要件が満たされる事は無い。

企業の活力や危機管理を担うのは人材である。

所が、現在の企業の大半は「利益優先主義」の身勝手な企業論理が幅を利かせて、正しい人材の育成を成していない。

利益優先主義の人材だけ育成して、本当に企業を「守り発展させて行ける」と思っているのだろうか?ひいては、この方向で国の将来を正しく導けるのだろうか?

所が、そうした正しい人材意識が経営陣に欠落しているから、本当に事(資金意外の経営危機)が起こった時「何だろう?」と、自覚さえないのが現状である。

実はこの部分の本質が取引先や下請け先に対しても同じで、利益に拘って無形の財産を捨てて来たのが最近の日本経済界で、指導しているのが、頭でっかちな経済学者と政府官僚であるから、「何をか言わんや」である。

それ故日本の産業は、磐石さに欠け、厚みのない不安定なものに成っている。

形振(なりふ)り構わない経済界と官僚や政権政党の強引な大企業優遇策・・・学校の教育を言い立てる前に、範となるべき大人達の醜さ、口を拭って居て良いのであろうか?

本質を冷静に見る目は、仲間内に「人気が無い」が、独自の見解を持ち迎合しない人物が、持ち合わせているのである。


織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、一見まったく異なる性格の指導者だが、一つだけ三人に共通した成功の秘訣が在る。

その秘訣はトップが現場で自ら確認する事であり、そして三人ともそれぞれに、当時の社会で「異質な人物達」だった事である。

組織が大きくなると、現場を知らない本部が、机上の計算で末端に指示を出す。

これが今で言う本部マニアルであるが、現場に言わせると無駄が多く「改良点が山積だ」と言うのである。

信じる道をひた走って、漸く奇跡的に天下人に上り詰めながら、子孫の行く末を心配した点で、豊臣秀吉は平清盛に共通している。

恐らく、本人の存在が強烈過ぎて、存在感が発揮出来ずに居る嫡男・世継ぎとの権力の引継ぎが遅れた点では、織田信長を含め「自分を信じ過ぎた為」の失態と言える。

まぁ、世継ぎにしたくても向いていない場合もあるから、子孫の適正も考慮する必要はあるが、実は、世継ぎに帝王学を施し、バトンタッチの支度を早くからしておくのが経営手腕で、怠ると「一代限りに成るのが世の常」と言う事に成る。


信長の、いつでも戦える常設軍の整備や秀吉の水攻め戦法など、戦術面だけを考えるとユニークな発想で「なるほど」と思わされ、評価され得るものである。

人間は、基本的に目先の短絡的感動を欲する思考回路が優先的に働くプログラムに成っているから、彼らの活躍には一定の満足感を得られる事であろう。

しかし、膨らんだ英雄視の思いに水を挿す様で悪いが、これらの戦法は「勝つ為に手段は選ばない」と言う庶民にとっては禁じ手で、知恵としては余り品挌のある方法ではない。

つまり彼らは、他の武将達が持ち合わせていた神の領域(五穀豊穣)を「ぶっ壊した」のである。

庶民は、目先の短絡的感動で満足し、事を「可」と済ませては成らない。

視点を変え、覚めた目で英雄達の手法を検証し見る必要があるのだ。

物事は常に天秤の上で作用するものであるから、良い事が有れば必ず悪い事も付いてくる。

常設軍の整備は、武力行使には有利だが「作付け」と言う食糧生産の機会を潰し収穫時期をも配慮しない。

水攻めで潰された水田は、復興するに相当な労力が必要な筈である。

つまり、安土地・桃山期の英雄達の権力掌握手段は、非権力者(庶民)には非常に迷惑な側面を持っていた事を忘れてはならない。

こうした言わば権力者の論理は、必ずしも非権力者(庶民)の利に適うものではないのだが、どう言う訳か、夢を託すがごとく非権力者(庶民)はこうした権力者の活躍に胸を弾ませ、英雄視する。

日本人が考える英雄像は、粗方(あらかた)そんな短絡的感動を満足させるものである事が実は問題なのである。

現代に於いても、この権力者の論理や非権力者(庶民)の心理は発揮され、結果的に「庶民の生活をぶっ壊した」劇場型人気政治の総理大臣と学者大臣の人気は高い。

その人気の影で権力者の論理は進行し、庶民が気付いた時はあらゆる面で格差が広がり「弱者高負担時代」が着々と形成されつつある。



織田信長は、「神に成ろう」とした男である。

豊臣秀吉は、「神を利用しょう」とした男である。

そこで真打の登場だが、徳川家康は「神にして貰った男」である。

この違いが、実は政治や経営のヒントになる。

要約すると、「神にして貰った男」の生き方は、身内の結束に努め、部下に感謝して大事にし、優秀な補佐役に恵まれるべく生きた事である。

この生き方が、企業経営者の指針に成ってしかるべきである。

その論理で行くと、刺客を送ってまで身内の代議士を締め出し、本物の身内(離婚)を追い出し我が子に会おうとさえせず、日本国の政治に強権独裁を貫いた織田信長を信奉した総理の晩年が、恵まれたものでは理屈に合わない。

信長を信奉する総理は、枠組みを壊そうと言う精神だから、近隣諸国の感情など眼中にない。

つまり、破壊する事を心情としていて彼に崇高な哲学などない。

それ故、彼が本格的に「織田信長を信奉する」と言うのなら、理屈では皇統をも壊す事になる。

しかし本家・信長は、そんなまがい物ではない。

何が信長を「天下布武」に走らせたのか、その答えは簡単である。

信長の天才性の根本にあったのは、既存の物を鵜呑みにはしない「限りなく純粋な心」で、それこそが彼の発想の原点だった。

この時代に、その「純粋な発想」を追ったからこそ、信長は戦国を終わらせる切欠を造り得たのである。

だいぶ小粒にはなるが、明治維新を成し遂げた勤皇の志士達に共通したのも、「純粋な発想」である。

現代の政治家に欠けているのが、この「限りなく純粋な心」ではないだろうか?

織田信長の唯一の失敗は、自らの思考と価値判断が充分に彼ら二人に伝わって、「意を同じくしている」と錯覚して慢心していた所に有る。

多くの権力者に共通する事だが、「相手が言わないから良い」と思っているのが間違いで、相手を知るには問答無用で押し付けずに日頃から相手に言わせるべきである。

これは人を使う権力者に有り勝ちな間違いで、実は我が子と言えども思考や価値感には違いが有る。

信長は迷わない生き方をした。

光秀は何時(いつ)も迷いながら生きて来た。

生き方は同じではないが、それぞれが逃げないで精一杯生きて結末を迎えている。

織田信長は古い秩序の破壊者で明智光秀は古い氏族の血を誇りとし、豊臣秀吉は氏族外の代表だった。

この三人、同じ船に乗りながら別の夢を見る同舟異夢の関係だったのである。

いや信長は、少なくとも明智光秀だけは「意を同じくしている」と信じたかったのかも知れない。


風雲の中に身を置いて命をすり減らして生きた英雄達と平凡だが平穏に暮らした民人達と、果たしてどちらが幸せな生涯を送ったのだろうか?

いずれにしても、双方そんな生き方しか出来なかったのかも知れない。

驚いた事に、過去の様々な出来事がこれから先、まるで吸い寄せられる様にある一点に向かって続々と集中して行くのが我輩には見えていた。

その符合には、戦慄さえ覚えるものが有った。


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(江戸期と大日本史編纂)

◇◆◇◆(江戸期と大日本史編纂)◆◇◆◇◆

歴史の影に埋もれて名も残らない数十万、数百万の民人達に思いを馳せながら、我輩は、此処まで歴史の糸と言葉の糸を紡(つむ)いで来た。

江戸期の安定期には、本末転倒の馬鹿な話しだが武士が武士を忘れ壊れた城は修復せず、軍事訓練をしない藩が「幕府の覚えが目出度い時代に」と突入する。

江戸幕府初期に大名家諸藩が、文化芸術や陶芸・職布染色などの殖産に力を入れたのも、幕府に翻意無きをアピールする為だったが、皮肉にも後世にそれが貴重な文化財となった。

つまり武士の一分は、ひたすらに耐えて扶持米を得る事に変貌していた。


江戸幕府の成立は、氏族の特権を温存しながらも永く続いた氏姓制度の調整的変革をもたらした。

その他、主な出来事として一つ。

徳川幕府の「鎖国政策」の原因と成った信仰に於ける禁令の背景と経緯を簡単に挙げる。

キリスト教(カトリック)が伝来し、宣教師が活動を開始したパターンは、古(いにしえ)の中華文明を駆使した「修験布教」と全く同じである。

つまり、新しい西洋文明の科学や医学を駆使して信頼を勝ち得ながら、併せて布教活動をする。

当然ながら、初めてその西洋文明の奇跡を目の当たりにした者は、畏怖の心を宿してその信仰に傾倒して行く。

やがて有馬、大友、細川などの戦国大名やその家族にも信徒に成る者が現れ、豊臣秀吉や徳川家康など、日本に覇を唱えた者のカトリックへの警戒感を呼ぶ事に成って行く。

カトリック教徒はイエズス会・宣教師の教えにより徒党を組んで神社仏閣を襲撃、弾圧・焼き討ちにする。

愛を奉じて布教をしながら、けして彼らは既存の異教徒を容認する事は無かった。

この指導の現実からして、当時のカトリック・ジエズ教会の宣教師の教えは、植民地化を狙う国策活動である。

イスパニアとポルトガルは改宗と武力蜂起による植民地化を狙ったのは事実で、将軍・徳川家光はそれを懸念、キリスト教禁教令を出すが、結局幕府成立の三十五年後(寛永十四年)に、天草四郎・時貞を担いで「島原の乱」を起こしている。

しかし「島原の乱」は、神の加護もなく試練だけを与えて、立て篭もった原城三万七千の信徒は女子供を含め全滅している。

反乱鎮圧後、カトリック教徒は「隠れキリシタン」として約二百二十年弾圧耐え忍び、明治維新を迎えて禁教は解禁され、教徒達は漸く教会・浦上天主堂を長崎の街に作る。

その八十年後の昭和二十年、敬けんな信徒と浦上天主堂の上に落ちて来たのは、同じキリスト教国・アメリカからの神の試練、「原子爆弾」だったのである。


江戸期の主な史実エピソードは、広く知られているので割愛して、崩れ行く氏姓制度と、どちらかと言うと歴史的事実で在りながら、現代の倫理観に当て嵌めて大きい声で認めたがらず、余り語られる事が少ない江戸期の「風俗」と「大日本史編纂」の謎と「享保の改革」の成功要因を書き記す。

現代でこそ日本が誇る伝統文化と言われる歌舞伎界にも、江戸期にはまだ華やかな表舞台の光に対して陰間(かげま)と言う影の部分が在った。

陰間(かげま)とは江戸期に於ける性風俗の一種で、数え十三〜四から二十歳頃の美少年が茶屋などで客を相手に男色を売った男娼に拠る売色の総称である。

陰間(かげま)は所謂(いわゆる)両刀使いで、男性だけでなく女性も客に取り、特に数え二十五歳を過ぎた陰間は女性を相手にする事がほとんどだった。

語源の由来は、野郎歌舞伎でまだ舞台に出ていない修行中の少年役者の事を「陰の間の役者」と呼んだ事が、彼らが売色を兼業していた為に、陰間(かげま)が「男娼を差す語となった」とされる。

こうした背景には、遡ると歌舞伎の源流である歌舞音曲の発祥が神前巫女舞の音楽と舞いからで、神前巫女が娼婦を兼ねていた事からの伝統として娼婦を兼ねる高級遊女・白拍子が生まれ、やがて出雲阿国に拠る巫女舞を発祥とする旅回りの阿国歌舞伎が始まったが、勿論娼婦は兼業だった。

女歌舞伎が娼婦兼業だった為に、「風紀が乱れる」とした江戸幕府は歌舞伎に女性が出演する事を禁じたが、しかし野郎歌舞伎に成っても伝統の売色は無く成らず、女性の売色が美少年の売色に成っただけだった。

江戸期も時代が下ると、陰間(かげま)の語源を離れて舞台に立たない専業の男娼(陰間)を抱える陰間茶屋が出現し、役者が売色もする芝居小屋とは一線を画す業態も出現するようになって行った。

当然ながら、当時の風俗では氏族階層に於ける稚児小姓の習俗も残っている時代だから「色道の極みは男色と女色の二道を知る事だ」と言われていた為、同性愛者と言うよりは粋と珍奇を求める遊客で陰間茶屋は大いに栄えた。

芸者などが「芸は売っても身は売らぬ」と言うものの、それは現代に成ってからの話しで、つまり我が国の歌舞音曲の遊興には、売色とセットが昭和の始め頃までは永い間の常識だったのである。


湯女(ゆな)の起源については、中世に於いて有馬温泉など温泉宿にその原型が見られ、次第に「諸国の都市部に移入された」とされている。

また文献を紐解くと、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の生母・於由利の方は紀州藩第二代藩主・徳川光貞を湯殿で世話をしてお手が付き、源六(吉宗幼名)を懐妊したとされる。

大名家や大身旗本などでは奥女中が湯殿で世話をするのは一般的だったから、そうした情報も庶民に伝わって湯女(ゆな)誕生に影響したのかも知れない。

湯女(ゆな)と言う名称が一般化したのは、江戸時代初期の都市部に於いてであり、当初は銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性とされ、垢すりや髪すきだけだったが、次第に飲食や音曲に加え性的なサービスを提供するようになって諸国で湯女が流行(はや)った。

つまり現代のソープラントに於けるソープ嬢の走りが、江戸前期の「湯女(ゆな)」と言う事になる。

性的なサービスを提供するようになった為に幕府はしばしば湯女禁止令を発令し、江戸では千六百五十七年(明暦三年)以降吉原遊郭のみに限定された。

禁止後は、三助と呼ばれる男性が垢すりや髪すきのサービスを行うようになり、湯女(ゆな)は「あかかき女」、「風呂屋者(ふろやもの)」などの別称で幕府の禁止令を逃れようとした歴史が在って現代に至る。



江戸期は、単独で取り上げると問題が無かった訳ではないが、総体的に言うと「安定した長期政権」と言える。

この礎を作ったのが、天海僧正の知略である。

官僚合議政治に移行した事で、封建政治の中にも、ある種の断衝材的な機能を持たせたのである。

安定した長期政権の下では文化が花開く。

江戸期に始まった町文化は、豊かで艶やかなものだった。

その一方、年貢米を財政の基礎とする形態の性質上、農村部では過酷な搾取が続いていた。

今でこそ百姓と言うと「農業従事者の事を指す」と理解されている様であるが、その生い立ちは違う。

氏姓制度の変革により、江戸期に入って武士と百姓は大きく身分が分類される様になるが、そもそもの「百姓」は、姓を有し家系がはっきりしている多くの下級氏族の総称から始まっている。

つまり氏族の出自であれば、携わる業務に関わり無く本来は百姓なのである。

当然氏族は、農園の経営のみならず、寺社の神官僧侶から鍛冶師、薬師、商業まで営みを手広く広げていた。

従って江戸期以前は、一つの業種を専業で生業(なりわい)としていても、それが身分を現すものでは無かったのである。

豊臣秀吉の「太閤刀狩り」以後、行政上の都合により兵農分離が始まり、新たな身分制度が確立する。

ここで問題なのが、元々その土地にあって力を有し、家系がはっきりしている下級氏族の「百姓」の新たな身分制度への組み込みである。

武家として取り上げられ、大名家に仕官する者、仕官せず土着・帰農しても刀を捨てずに郷士(半農の武士)と成る者、培った勢力を生かし、名字帯刀を許された特権の豪農・豪商に変身して行くものも現れる。

間違えてはいけないのは、百姓町人の中から頭角を現して「名字帯刀を許された者」も確かに居るには居たが、初期の段階では元々旧体制の下級氏族が、勢力を維持したまま、当初は豪農・豪商に変身して名字帯刀の特権も認められたのである。

従って、ここで言う百姓とは家系がはっきりしていて農業経営を専業で生業とする下級氏族の出自を持つ大庄屋、庄屋、村長、村役、などの特権豪農の事であり、農業経営者は所謂土地無しの農業従事者とは身分も違ったのである。

郷士は、江戸時代にあった階級の一つであり、大名家臣団の秩序の中に組入れられている者で「半農の武士」と言う定義がある武士の一種である。

これは歴史的に言うと「一所懸命時代」の名残であるが、名字帯刀を許されており、家系がはっきりしている者も多い。

かつて武家であり、かっての戦国大名の一族や家臣が敗戦などで主家を失い、仕官せず土着・帰農した者が、兵農分離時に在地を離れず、新たな領主から郷士とされた者で、在地における実力者であり、新たな領主がその懐柔策として取り立てたのが「郷士」と言う下級武士の身分である。

通常、江戸時代に於ける武士は城下に集住する(こちらを城下士という)のに対し、在方(郷)に住む為にこう呼ばれた。

身分は概ね城下に住む武士より下、一般的な百姓(豪農・豪商を含む)より上と言う身分的中間層であるが、地方(各藩・各大名家)によって実態は千差万別で在った。


このように、日本の士農工商の成り立ちの経緯を勘案すると、江戸期以前は神仏の宮司・僧侶を含め、士農工商の全ては武人である氏族の兼業形態が普通だった。

つまり、畿内を中心に堺、浪速、近江等の大店(おおだな)の商家も、安土桃山期頃から武士兼業の商工氏族が商業に特化したものが多かった。

従って、名字帯刀の特権をもって始まった豪商の感覚は、御家大事の「一所懸命」を持ち合わせた氏族感覚を持ち合わせていた。


この豪商と結び付いた信仰に稲荷信仰がある。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。

稲荷神社は「稲成り」の事で「実り」を意味する。

出自(しゅつじ)が仏教系(大元はインド・ヒンドゥー教)なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではある。

実はこの稲荷神社、江戸幕府に拠る「神仏混合政策」の際に生きている間のご利益は「神社(神道)」、死後のご利益は「お寺(仏教)」と共存の為に役割分担を決められたので、「現世利益」を信奉する為に茶吉尼天(だきにてん)信仰は無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。

稲荷神社(おきつねさん/茶吉尼天)は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この富と子孫繁栄の神様・稲荷(大明神)が、日本の江戸期に存在したおかみさん文化の原点になったのかも知れない。

茶吉尼天(だきにてん/おきつねさん)と言う魔女は、所謂SEXシンボル的存在で、この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。

つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。

もっとも明治維新後も戦前まで、貴族や金持には妾(めかけ)は公然の秘密の形で存在したのである。


江戸期、日本の町屋社会(商家社会)には「おかみさん文化」と言うものが在った。

御上(おかみ)さんと書いて、人妻や主人筋の妻や女主人などを指す言葉だが、日本史的に上(かみ)は神(かみ)に通じる言葉である。

そもそも論で言えば、おかみさんは「お神さん」で、古い時代の呪詛巫女の慣習が変化しながら残っていた可能性が有る。

現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など「理解出来ないとんでもない事」である。

しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

こうした日本古来の性交呪詛思想の原点が、賀茂葛城の性交呪詛巫女とアイヌの呪詛巫女・「オイナカムイ」の習合信仰であれば、もしかしたら商家の繁盛を支えた「おかみさん」は、アイヌの呪詛巫女・「オイナカムイ」の思想が変化して江戸期にまで文化として伝わったのかも知れない。


江戸期に入る前は、商工氏族は武士兼業だった。

日本列島に渡来した氏族は、夫々の得意分野で農業、工業(鋳造業)、商業、神主(宮司)、僧侶などを兼業していた。

代表的な例は平安末期の武門貴族・平清盛(たいらのきよもり)の宗貿易で、つまり清盛は大貿易商人でもあり、ついでに彼は僧侶にも成った。

その流れで渡来氏族の一部が武士に成ると、江戸期に商人が純粋に業種として独り立ちする前は、商人の大半は武士と兼業か武士が副業で商いをやっていた。

天皇の京都御所を守る「北面の武士」を出自とする松波峯丸(斉藤道三/さいとうどうさん)が山崎屋庄五郎として油屋を営んで居たのは有名な話である。

そして、もう少し時代が下がる室町時代〜戦国時代には武士兼業の豪商が力を持ち、財力を使って大名と協力関係を結んだり、一部の豪商は茶人として名声をはくす者も出た。


「おかみさん文化」は、武士兼業の商工氏族が多かった上方(関西地区)で始まったものだが、「商家特有の文化」として、江戸期には日本全国に広まった。

征服部族の末裔である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせていて、厄介な事に【左脳域】は、論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言うリアル(現実的)な世界で生まれ育って来ていた。

そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、「お家の為」と言う思考方向は氏族の女性にも確りと染み渡っていた。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為している。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

個人主義が蔓延している現代社会人には、個人の意志を無視する誓約(うけい)の概念を理解する事は難しい。

本音で言えば、自分が可愛いから他人(ひと)の愉快の為に性交を強いられて不愉快な思いをするのは御免(ごめん)である。

しかしそれも自分が可愛いからの気分の問題で、当時の「おかみさん」の思考にしてみれば、もしかしたらその不愉快はネガティブな思い込みに過ぎないのかも知れない。


昔の商家には一生を独身で済ませ、お店(たな)大事を貫く番頭の存在が落語や講談、読み本などで紹介されているが、あれには裏がある。

実はその番頭は、おかみさんの肉体で満足していた。

けして不義密通ではない。

それが商家に嫁いだおかみさんの現実的な役目だった。


昔から、「江戸っ子は女房を貸し借りする」と言う諺(ことわざ)が在る。

つまり江戸時代当時のキリスト教の影響無き庶民社会では、そぅ厳格に女房の貞操観念にこだわっては居なかった。

また、「江戸っ子は女房を質に入れても初カツオを食う」と言う。

庶民に貞操観念自体が薄い時代で不倫は当たり前、初カツオの代金が女房の貞操代金に化けたとは、江戸庶民の粋な話かも知れない。


農村ではお祭りの際に若い男女の乱行的な性交渉を認める地方が多くあり、結果、子供ができれば神事に授かった子供として大切に育てられた。

また、江戸時代当時の旅人(旅行者)は、村長、庄屋と言ったその土地の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、「夜伽(よとぎ)歓待」の習慣のある地方では、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた風習も在った。

これには経験学的な生殖学の経験が存在した。

つまり狭い範囲の村落での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスクが在り、村に訪れる旅人を「マレビト」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

勿論、この「マレビト」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

つまり一つの価値判断が、「全てに渡っては正解では無い」と言う事例の一つである。


大店(おおだな)を内側から守るのがおかみさんの役目で、それには信用できる使用人の育成は欠かせない。

これは単(ひとえ)に考え方の問題である。

愛も情も許し合って初めて生まれるもので、イガミ合って居てはそこからは何も生まれない。

お店(たな)守る最良の方法が、使用人と誓約(うけい)に拠る性交を為す事だった。

肉体的繋がりほど強いものは無いので、丁稚(でっち)の内はともかく目端が利きそうな手代(てだい)辺りから、おかみさんが性欲の面倒を見て手懐ける習慣が、町屋社会(商家社会)では公然の秘密だった。

この関係、小使いは少なくても我慢させて忠誠を尽くすだけでなく、悪い遊びを覚えてお店(たな)の金に手を付けたり、悪い病気を拾って来るのを防ぐ役割も在って、当然お店(たな)の旦那公認の「面倒見の行為」だった。

旦那公認で、使用人の性欲の面倒見の行為が平然と行われていた。

すると不義密通話は何なのか?

あれは、情が通って駆け落ちなどをする場合いで、唯の性欲の面倒を見て、使用人を手懐けるのとは訳が違うのである。

正に肉体的繋がりの信頼関係を、昔の町屋社会(商家社会)のおかみさんが勤めていた事になる。

「情が通わない肉体のみの性行為と言う点では、昔の方が現実的な考え方で、今の上辺だけの考え方を「さも真実だ」とする主張の方が空虚なのである。

勿論、使用人に所帯を持たせて「のれんわけ}をする事も有るが、考えて見れば商売敵の同業者を増やす事になるのだから、理想はお店(たな)に縛り付けるに越した事は無いのである。


それにしても、大店(おおだな)の「おかみさん」も、「それを覚悟の嫁入り」と言う事になる。

当たり前ながら当時はそれが常識で、今の物差しで見るから読み間違う。

何しろ、大店(おおだな)の旦那には妾の二〜三人は居て、その妾にもおかみさんの方が「旦那が世話になる」と盆暮れに付け届けの挨拶をする文化だった。

自分も手代(てだい)や番頭の性欲の面倒を見てから、それで互いのバランスを取って居た訳である。

つまり、繁盛している商家程使用人の数が多く、おかみさんの身体は信用が置ける使用人の育成に忙しかった事になる。

そんなので旦那とおかみさんは、「上手く行っていたのか?」と言うのは、当時の事情を知らず、現代の倫理観に当て嵌めようとするからである。

その辺はお店(たな)の旦那は商いの為と割り切っていたし、おかみさんもそう言うものだと割り切っていた。

商家の奥座敷は奥が深かったらしいが、それにしてもそう言う事であれば内々に於いて公然の秘密でなければ、おかみさんも、とてもそんな事は秘密に出来ないであろうから、皆それと承知していた事になる。

情が通わない性的な奉仕は、「単なる手段」と割り切った所が、現在の世の中の常識より余程現実的な事は、我輩にも理解できる。

つまりは、わが国成立初期の昔から存在した「お家大事主義」の、肉体を使うお役目、閨閥構成社会(誓約・うけい)の正当性を、完全に認めるような話である。

この「おかみさん文化」の習慣は実に良く出来ている。

元々上方(当時の皇居所在地である京都近在の関西地区)で発生した商家の形態は、武家の感性を踏襲して「お店(たな)大事」が何よりも優先していた。

氏姓制度の名残を残す豪商の発想が、手本だったのである。

商売は商(あきない)と言うくらい永く続くのが信条で、後継ぎは絶やせない。

都合の良い事に、「使用人の性欲の面倒を見る」と言う、このおかみさん文化の習慣は、旦那が「種無し(子種が無く)」でも使用人が密かにカバーする。

嫁が「生まず女」なら妾がカバーする。

言わば商家存続の安全弁の役割も担っていて、「実は若旦那の実父は独身の大番頭だった。」などと言う人情話に、当時を伝えているのである。

まぁこの「若旦那の実父は独身の大番頭」を現代風の解釈で個人的な「おかみさんと番頭や手代の色恋沙汰」と解釈するか、その時代の「町屋商家の習俗」と捉えるかで随分当時のおかみさん文化の理解が違うものになる。

この物語ではもう毎度の事に成ってしまったが、この「おかみさん文化」を現代の倫理観や価値観の意識そのままに当て嵌(は)めては、到底信じられない事かも知れない。

現代風に考えれば、それこそ性に対する倫理観も女性個人の尊厳もあった物ではない。

良識派を自認する学者達には「無かった事にしたい過去」だろう。

しかしこの時代は、武家も豪商も、通常「お家の繁栄」が全てに優先する価値観であり、一般的に男も女もその「お家の為」にする犠牲行為は、不謹慎なものではなく「美徳」だった。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔存在した理由は、当時の女性は「お家大事を基本にした考え方が正しい」と考えていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。


江戸期に於ける「おかみさん」のついでに、「商家の娘さん」についても少し書く。

「商家の娘さん」についても、修験道師絡みの、江戸期独特の風俗習慣が存在する。江戸時代から明治中期まで町屋(商家)を中心に流行した「狐つき祓い」が、まさしくこれである。

この時代、まだまだお店(たな)の娘としては自由恋愛とは行かず、親の都合の縁談が当たり前で、お店(たな)の示(しめ)しとしても親に逆らってもらっては困るのだ。

この辺りの厳しさが商家の習慣にあるから、心中事件などと言う手段も在った訳である。

実はこの「狐つき」、商家の娘が、都合の悪い恋愛や恋わずらいをした時に、便宜上付ける厄病で、修験者を呼んで「狐(恋愛感情)」を落としてもらう為の方便だった。

修験者の「お祓い」と称するものの実体が集中的輪姦で、娘を犯し倒す性感の波状攻撃に拠り娘の人生観さえも変えてしまう。

簡単に言えば、既成事実を作って諦めさせるのが目的だが、修験者の「お祓い」ならば神事で、世間も納得する。

つまり、娘から「狐着き」が落ちて親の薦める縁談がまとまり、経験を積んで性的に成熟しているから、嫁に行っても、婿を貰っても相手を飽きさせない。

これは、「性交による矯正」と言う事であり、昔からそう言う手段は在った訳である。

御祈祷の奇跡についてはこんな事例がある。

若い夫婦に中々子宝が授からなかった。

現代のように夫に子種が無いなどと言う科学的な思考の無い時代は、子宝が授からないのは何かの「呪い・因縁の類では無いか」と恐れを抱く。

それで評判高い陰陽修験の修行を修めた行者様に若妻を預け、加持祈祷をして頂く。

神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。

大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地であるヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。

当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。

加持祈祷を済ませた若妻は家に帰り、そのご利益が薄くなる前に早速夫と同衾する。

陰陽修験の行者の祈祷は霊験あらたかで、「アァら不思議」と若妻に子宝が授かってメデタしメデタしとなる。

ただしこの御祈祷は秘伝中の秘伝であり、御祈祷中の行者様の気を乱してはいけないので、どんな御祈祷が為されるのかは行者様と若妻以外誰も知らない。

後はこれを読む方の御想像に任せるが、とにかく奇跡は起こるのである。

そんな馬鹿な事はない。

「真面目に祈祷をしている行者も居る筈だ。」とお叱りを受けるかも知れないが、あなたは祈祷のご利益が本当に信じられるのか?

この現代科学で考えれば、突然子宝が授かるには合理的な理由がある筈である。

こう言う裏話をすると、直ぐに理想論者の反論が湧き起こるが、現実に密教的修験の「お祓い」の常套手段が立ち入り禁止の非公開(呪術が効かなくなると言う理由)であり、酷い話になると、「覗けば目が潰れる」などの予防線が張られていたりする。

現実に、十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなりの側室・お美代の方(専行院)の父親、日啓が引き起こした大奥女中の醜聞、智泉院事件においては、「お祓い・祈祷」が名目だった。

そう言う部分は、現代の建前感覚より当時の現実感覚の方が、返って正直なのかも知れない。


この江戸期の講談話しなどで、生き残った心中の片割れの女性が女郎に売られる話がある。

江戸期に於ける穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分つまり非人の補充は、主として罪を減じた閏刑(じゅんけい)に拠るものである。

町人身分の男は人別改帳から除籍(本籍を除き)し、穢多頭(えたがしら)に下げ渡され非人手下(ひにんてか)としての人生が待っている。

町人身分の女性なら奴刑(しゃつけい)と呼ばれる身分刑で、人別改帳から除籍され穢多頭(えたがしら)に下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取る。

非人手下(ひにんてか)と奴刑(しゃつけい)は犯人の社会的身分に影響を与える身分刑で、言わば良民身分から奴婢(ぬひ/奴隷)身分に落とされる刑である。


江戸期の司法は身分に拠って犯罪の構成や刑の適用が違い、閏刑(じゅんけい)は身分者や弱者に関する刑罰で、身分の高い有位者或いは僧侶・婦女・老幼・廃疾の人に閏刑(じゅんけい/本刑に代えて科せられる寛大な刑罰)として行われる事が多い。

律令制の下では、官吏の免官、僧侶の還俗(げんぞく)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とし、江戸時代には、武士の閉門、婦女の剃髪(ていはつ)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とした。

江戸期の刑罰にも身分刑は存在し、大名・大名・旗本の場合は死刑を免じてその領分・地行所の没収、役儀取上・御家断絶を意味する改易と言う武士に対する閏刑(じゅんけい)が在った。


江戸期当時の町家女性の刑罰には余り死罪などは為されず、大罪でも晒(さら)し刑である罪状書きの高札で罪を示しての市中引き回しの上、穢多(えた)・非人に身分を落とす奴刑(しゃつけい)と言う「身分刑」としての閏刑(じゅんけい)が一般的である。

穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)などと言うと随分古い話しだと思うかも知れないが、江戸期にもまだこの身分制度は存在し、その身分に落とす身分刑も存在した。

つまり町奉行所では女性には刑一等を減ずる慣習があり、よほどの重罪でなければ女性に死刑判決が下る事がなく、見せしめの為に「奴刑(しゃつけい)」とする事が多かった。

奴刑(しゃつけい)とは庶民たる婦女にのみに適用される閏刑(じゅんけい)で、女性の罪囚に対し人別改帳から除籍し、希望者に下付し奴婢(ぬひ/奴隷)として無償で下げ渡される刑罰で、早い話が女郎屋に下し置かれて建前では一生遊郭から出られない身分刑である。


そもそも奴刑(しゃつけい)の名称そのものが、大和王権成立時から鎌倉時代中期まで続いて居た奴婢制度(ぬひせいど)に起因したものであるのは明らかである。

奴婢(ぬひ)は所有権が発生する制度で、この閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)に依り、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡された婦女は、その後遊郭に売られて婢(ひ)の立場に置かれる。

人別改帳から除籍された女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り物になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を暗黙の了解で認められていた。

理論的には、処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に女郎にされても仕方が無い。

そして衒(う)り物にならない女性女性の場合は、そのまま非人手下(ひにんてか)の群れの中に留め置かれて慰め者の日々を過ごす事になる。

つまり「奴刑(しゃつけい)」は、事実上の娼婦刑だったのである。

苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働で半端な気持ちでは女郎は勤まらない。

この遊郭女郎にして客を取らせる現代で在ったら人権問題に成りそうな奴刑(しゃつけい)の刑罰でも、当時のおおらかな性習俗の価値観では死刑よりは随分お情けのある裁きで在った点は、現代の感覚とは大分時代的な相違がある。

それにしても、現代では終身系に相当する非人手下(ひにんてか)や奴刑囚(しゃつけいしゅう)を早々に牢屋敷から穢多頭(えたかしら)に下げ渡して無駄飯を喰わせない辺り、経費の点では現代より遥かに経済的である。

確かに人道人権問題は残るが、犯罪を犯された上にその被害者まで税金で間接的に受刑者を喰わせるのは釈然としない話で、被害者側の人権はどうなっているのか?

被害者側からすれば、死刑に成らないなら「一生酷い目に合って貰いたい」と想うのが普通の感情かも知れない。


只しこうした身分刑は日本だけの事ではない。

隣の国・旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級身分)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人身分)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷身分)で、日本の制度と若干の共通性がある。


何もこの奴刑(しゃつけい)、実は満更日本の昔話とばかり言い切れない。

身分刑とは若干異なるが、台湾(中華民国)にも奴刑(しゃつけい)と似たような事例がある。

台湾(中華民国)は現在でも大陸(中華人民共和国)と国交緊張関係にあり、皆兵政策で徴兵制度が布かれている。

未だ軍票が在る国で、若い連中が徴兵され娯楽も無い金門島を始め馬祖島・澎湖島・蘭嶼島など離島防衛への将兵派遣で困難が生じた。

離島に派遣されると何の楽しみも無く、若者は離島派遣を嫌がって敬遠するし、対大陸防衛で財政負担が多いのに女囚が増えて財政を圧迫していた。

そこで必要に迫られて考え出したのが、女囚の判決刑期減刑(短縮)と引き換えに離島防衛将兵の性的慰安(慰問刑)を務めさせる事である。

この従軍慰安婦もどき、勿論奴隷制度では無く、台湾では臨時措置的なれっきとした国法根拠があり、この交換減刑(短縮)は本人の希望に拠るもので強制では無いが、犯罪行為に対するお仕置き的な意味合いがあるのは当然である。

台湾は売春を禁止されている国だが、徴兵々士の離島赴任慰安欲求と、懲役には違いないが女囚の「お仕置き懲役」を組み合わせた現実的な刑の執行方法は例外刑(慰問刑)として認められて居るのだ。

国情が違えば国策の対応が変わるの当たり前で、この話しは台湾(中華民国)の離島派遣経験がある若者多数から直接聞いた話だから事実である。

現在の日本でこの制度を「合理的だ」と評価すれば、人権だ何だと袋叩きだろうが、考えて見ればそんな良い悪いの判断はいったい何時(いつ)誰がどう言う価値基準で決めたのだろうか。

現にそれを承知で、女囚の交換減刑(短縮)希望者は後を絶たないのである。


日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣った奴婢制度(ぬひせいど)について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。

しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。

奴刑(しゃつけい)の名称と奴婢(ぬひ)についての関連性も無視し、ある時期から奴婢(ぬひ)の名称が使われなくなった事だけを根拠にするのは如何なものだろう?

第一、科学でも歴史でも定説は常に翻されて学問は進むものだから、自分の思考でもない定説をひけらかして証拠のごとき主張は浅学と言える。

吉原以外の「闇娼婦」が摘発されれば、吉原へ三年間無償奉公させるのもこの奴刑(しゃつけい)の一種である。


この奴刑(しゃつけい)に関わる物語としては、天和の大火(てんなのたいか)にまつわる「八百屋お七」のお裁き次第が挙げられる。

天和の大火(てんなのたいか)とは、八百屋お七の火事とも呼ばれた江戸の大火である。

千六百八十三年一月二十五日(旧暦天和二年十二月二十八日)に駒込大円寺から出火したとされ、正午ごろから翌朝五時頃まで延焼し続け、死者は三千から三千五百名余と推定される。

この天和の大火により焼き出された加賀藩御用達の大商人(おおあきんど)・八百屋・八兵衛(太郎兵衛説あり)の一家が吉祥寺(本郷の円乗寺とも言う)に避難して八兵衛の十六歳に成る娘のお七が、寺小姓・生田庄之助(山田左兵衛説あり)と知り合い恋仲になった。

所が、やがて八兵衛の八百屋が再建され、お七は寺の小姓と離れて暮らさねば成らなくなり、寺小姓・生田庄之助へ恋しさが募ったお七は、また家が焼ければ会えると想った。

為にそのお七はまた会いたい想いばかりで、幸い大きな火事にはならなかったが、あちこちに放火してみつかり捕縛されてしまった。

放火は大罪で死罪(火刑)が相当だったが、捉えた奉行所ではお七を哀れに想いなんとか助けようとして、当時の十五歳以下の罪が減一等規定を適用しようと何度も「十五歳であろう」と年齢を尋ねたが、お七は頑として十六歳と正直に申告した。

現代のような戸籍制度がない時代の事で、年齢の確認は本人の申告次第で在った為に、そこで奉行所の意図を汲み「十五歳」と応えればお七の命は助かったのだが、お宮参りの記録まで提出して十六歳で在る事を証明した。

実はこれには訳が在り、当時の死罪相当刑の女性の罪一等を減じれば奴刑(しゃつけい)となり、人別改帳から除籍(本籍を除き)され、非人として穢多頭(えたがしら)に下げ渡された。

奴刑(しゃつけい)を科せられた女の非人は、下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取らされるのが相場だった。

判り易く言えば、十六歳の八百屋お七は命が助かっても下げ渡された穢多頭(えたがしら)に陵辱された後、一生遊郭女郎として客を取らされる運命が待っていたのだ。

こうした奴刑(しゃつけい)が存在した事実を過去の汚点として、体裁の為に触れずに「お七が素直過ぎて嘘が付けなかった」とする解説が目立っている。

まぁ、人情話しの越前守・大岡忠相や遠山金四郎景元が、映画やテレビドラマのお情けの裁きで、死罪を減じて「奴刑(しゃつけい)」と言う訳には行かないので「遠島刑」で誤魔化す事になり、通念として事実が歪められたのかも知れない。

時代ごとの民衆意識と定め(司法)には、時と伴に「ずれ」が生じる事は多い。

元々「奴刑(しゃつけい)」に裁かれるような大罪を犯す女性は、相当の「阿婆擦(あばず)れ」か群れ婚状態の共生村社会の在方から出稼ぎで流れて来たものだから、そう女郎家業には抵抗がない。

死罪を免じるのだからお情けの裁きで在ったが、それがそれが氏族である百姓文化側に育ったお七は大店の娘で、受け取り方が違った。

この奉行所の慈悲とお七との量刑上の価値観に対する認識の違いは、お七が村落部の人間であれば夜這い文化の共生村社会でさほど苦にならない女郎の生業(なりわい)が、既に性の習俗に変化が起こりつつ在った町娘には大きな抵抗に成った為である。

放火の大罪を犯せば火刑か、命が助かっても女郎屋に売り飛ばされて客を取らされる事は当時は周知の事実で、まぁ本人が「死んでも女郎は嫌」と言う事なら火刑も仕方がない。


市中引き廻し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた死刑で、死刑囚を馬に乗せ、罪状を書いた捨札等と共に刑場まで公開で連行して行く制度である。

市中引き回しは死罪相当の重罪に対する見せしめの付加刑で、本刑は打首獄門や極刑である火刑や磔(はりつけ)が該当し、知名度の高い罪人が引き回しに処される時にはさながら物見イベントと化した。

罪人が貧相な風体をしていると江戸市民の反感を買いかねない為、それを嫌った幕府は引き廻しの時に調度を整えさせ、死出の旅と言う事で、罪人には金子(きんす/お金)が渡され、求めに応じて道中酒を買わせたり煙草を買わせたりした。

伝馬町牢屋敷から江戸城の外郭にある日本橋、赤坂御門、四谷御門、筋違橋、両国橋を巡り、当時の刑場である小塚原や鈴ヶ森に至る「五ヶ所引廻」の後打首獄門なら牢屋敷、火刑は鈴ヶ森の刑場、磔(はりつけ・磔刑/たっけい)は小塚原の刑場で執行された。

この市中引き廻し(しちゅうひきまわし)とその後の処刑・火刑や磔(はりつけ)の一切の雑用をするのが同じ穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分の男性・非人手下(ひにんてか)の役目だった。

八百屋お七の火刑場について一部の解説に小塚原刑場説があるが、火刑は鈴ヶ森の刑場と決められていた。

断って置くが、今でこそ死刑を「残酷だ」などと言っている西洋文化では近代化以前の処刑はもっと残酷で、日本の処刑のように罪人を着飾ったり求めに応じて酒食を与えたりせず、男女構わず素裸体で市中引き廻す見せしめをした。

その上、鋸挽き(のこぎりびき)、十字架刑(じゅじかけい)、杭打ち(くいうち)、串刺し(くしざし)、石打ち刑(いしうちけい)などの絶命までに時間を要する処刑を公開でしている。

つまり近代化が図られる前の江戸期の刑罰は、若干「目糞鼻糞を笑う」の感はあるものの当時の処刑水準としては、飛び抜けて残酷とは言い難いものだった。

歴史を見る時、オーパーツ(場違い/時代錯誤)が最大の敵である。

つまり歴史を現代の倫理感や価値観で認識して勝手な判断をする事は、最悪のオーパーツ(場違い/時代錯誤)行為である。

現在では「在り得ない」と感じる事でも、当時は極一般的だった事は幾らでも存在し、それが歴史と言うものである。


死を選んだお七は、ご定法通り八百八町を引き廻しの上、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑(火刑)に処せられ、浄瑠璃や歌舞伎芝居などの題材と成って今に伝えられている。

お七がこの連続放火事件を起こすきっかけになった火災が天和の大火(てんなのたいか)だった事から、天和の大火(てんなのたいか)を人々が「八百屋お七の火事」と呼んだ。


穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者の事である。

非人手下(ひにんてか)とは庶民のみ適用される刑で、罪囚の庶民たる身分を剥奪し庶民の人別改帳より除籍した上で非人頭(えた頭)に交付され非人に身分を落とされ非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に登載し、病死した牛馬の処理や死刑執行の際の警護役などの使役をさせた。

なお、犯罪内容が凶悪な場合は遠国非人手下として遠方に送られた。

エッ、非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に移されて非人手下(ひにんてか)や奴刑(しゃつけい)を受けても、逃亡すれば「逃げられそうだ」ってか?

それが江戸期の人別は結構細かい所まで管理体制が構築されていて、そう生易しいものでは無かった。

人別帳の正式名称は人別改帳(にんべつあらためちょう)で、基本的に流動性のあるものだから常に変動実態の把握調査をしていた。

現代の横着だったのか意図的だったのか、不祥事ばかりの社会保険庁の年金記録より、余程まともに管理されていたようである。


将軍家のお膝元江戸の地は大発展を遂げ、当時でも人口が百万人を超える世界有数の都市と成って行く。

人口は絶えず拡大を続けて江戸を東日本に於ける大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。

江戸の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者や地方から流入する出稼ぎの者など流動的な部分が非常に多く、幕府もその人別(戸籍)管理には苦慮していた。

中でも町方の出居人・出稼人に関しては江戸に居付いて江戸の下層町人となる者が多く、さながら現代の米国に入国して下層階級を形成している移民や密入国者のような状態だった。

またその反面として現在の農業政策問題にも通じる所であるが、諸国人別(在方)が減少して村高と村の機能を維持する事が難しく成っていた。

つまり都市人口集中問題が、当時から政策課題になっていた。

その為に幕府は、千七百八十年(安永年間)頃に村役人へ村高と村の機能を維持するのに必要な人数を見積もり、余剰人員のみを出稼人として出すように命じている。

町方人別制度の改定が行われ、江戸に入り込んで妻子なく裏店を借り受けている者の内には、裏店を一期住まい(いちごすまい、終の棲家の意)とする者もある。

だが、これらの者は早々に帰国を命じるとし、ただし商売をして妻子のある者は、この改定の特例として格別の御仁恵をもって帰国を命じないものとする。

今後江戸に人別(戸籍)を持たない者が新たに在方から「江戸の人別に入る事」は禁止し、特に必要があって在方から江戸に入る場合は出稼ぎの期限を定め、支配の代官・領主地頭に願い出て、これら役人の印と村役人の連印の免許状を持参して出府(江戸へ出る)すると決められていた。

江戸に住居する者(人別を持つ者)は、この免許状によって同居させたり店(たな)を貸したり(借家人に)する場合は、免許状は家主が預かり、当人を人別帳に加えずに出稼ぎの者・仮人別帳に記入して置き、期限が来て帰国する際に免許状を返してやる。

また、武家方中間、町方下男、武家町方下女等奉公出稼人も同様に出稼ぎの期限を定め、支配の代官、領主地頭に願い出てこれら役人の印と村役人の連印の免許状を持って出府する。

江戸に住居する者(人別を持つ者)は、この連印免許状に拠って請人となり奉公をさせ、免許状は奉公先主人が預かり奉公人が暇を取る際に返すものとしていた。

また、江戸市中の内に於ける転居の場合は、出元支配の名主から転出先支配の名主へ転居通知を送達する「人別送りをする事」とした。

いずれにしても人別政策は厳重で、名主が保管していた人別帳は毎年四月に両町奉行所に人別帳を一通ずつ差し出し、名主には控えを預けて置く。

人別改めは家主が、店子その家族、召仕、同居の者まで生国・菩提所・年齢など詳しく記して名主へ差し出し、名主は一人ずつ呼び出して判元を見届けて人別帳に調印させた上で、両町奉行所に差し出す分を町年寄へ提出する。

名主が保管する人別帳には改め後の存亡、結婚による増減はもちろん、同居人の出入まで委細に記入しておき、判形を改める者があればその旨断り書きをして調印させ、不時に奉行所から尋ねられた際に差し支えのないようにしていた。

四月に名主が奉行所へ人別帳を差し出す際には、奉行所で前年の人別帳と付き合わせて取り調べるものとし、毎年九月には四月に差し出した人別帳を名主に下げ渡すから、四月以降の増減を断り書きして書き出す事としている。

尚、町方の者が出家したり頭を剃って道心者や願人坊主になったり、吉田(神道)・白川(伯家神道/はっけしんとう)・陰陽師・神事舞太夫などの門下となるなど身分不相応の許状を得た際は、町役人(町年寄・名主・家守)から町奉行所へ申し出、奉行所は吟味した上で許可するものとする。

この内、吉田神道は亀ト占術(きぼくうらない)を司どるト部(うらべ)氏の後裔吉田兼倶(かねとも)が室町末期に唱えたもので、白川・伯家神道(はっけしんとう)は朝廷の祭式儀礼を継承してきた神祇伯白川家(じんぎはくしらかわけ)の事である。


穢多頭(えたがしら)・矢野弾左衛門(やのだんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の代々世襲頭領で、江戸期を通じて十二代(十三代名があるが、初代と二代は重複)を数える。

戦国期、小田原近在の山王原の太郎左衛門が後北条氏が認めた関東の被差別民の最有力者で在ったが、徳川家康が関東支配を始めると、徳川家康は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者・弾左衛門に被差別民支配権の証文を与えた。

山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に弾左衛門屋敷はあり、屋敷一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であった。

弾左衛門囲内は、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていて、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、穢多頭(えたがしら)差配の三〜四百名の穢多役人(えたやくにん)家族が暮らす住宅も在った。

弾左衛門は、支配地内の配下は勿論の事、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。

弾左衛門(だんざえもん)・矢野家は、幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等一部を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。

「穢多頭(えたかしら)」は幕府側の呼称で、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら)・矢野弾左衛門を名乗り称した。

矢野家は浅草を本拠とした為に、通称として「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。

大きな権力を世襲する弾左衛門(だんざえもん)家であるが、身分はあくまでも非人・穢多頭(えたかしら)であり、名字帯刀を許された訳では無いので矢野と言う名は私称で、公文書に矢野が使用される事はなかった。

弾左衛門(だんざえもん)は、非人・芸能民・一部の職人・傾城屋(けいせいや・遊廓/ゆうかく)などを支配するとされ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)と同じ意味である。

元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。

江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。

また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。

吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。

芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。

そして誤解が多いのだが、吉原遊廓の女郎(遊女)は借金に縛られ女衒(ぜげん)に奉公期間を売られた年季奉公の女性とする解説には欠落がある。

実は吉原遊廓の女郎(遊女)には、重罪を犯して町奉行所で裁かれ、罪一等を減じられて現代で居言う終身刑にあたる奴刑(しゃっけい)に科された者が居た。

つまり吉原の女郎(遊女)には年季奉公の女性と、建前終身非人として遊廓で客を取る奴刑者(しゃっけいもの)二通りが居たのだ。

女郎(遊女)の年季明けの者の平均年齢は二十七歳で、女郎(遊女)に病死が多く寿命が短いは俗説であり、当時の町人の罹病率と極端な差はなく、早期身請けを含む年季明け率は約八割で、実稼動期間は十年から十五年と言われている。

奴刑者(しゃっけいもの)が年齢を重ねて女郎(遊女)としての仕事が難しくなった場合は「やり手(女郎上がりの世話係り)」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

女郎(遊女)にはランクが在り、美貌と機知を兼ね備えて男性の人気を集める事が出来る女性であれば、女郎の中でも高いランクに登る事が出来た。

女郎の最高のランクは、宝暦年間まで「太夫(だゆう)」と呼ばれ、以下「局(つぼね)」「端(はし)」とされていたが、湯屋を吉原に強制移転した際に花魁(おいらん)と呼ばれるようになる。

花魁は気位が高く、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かぶろ)と呼ばれる子供を従えており、気に入らない男性は「中々相手にして貰えなかった」と伝えられている。

まぁ、多分にスター娼婦を演出する商売上の付加価値創造と言う所だが、吉原遊廓は一歩中に踏み入れたら寺社奉行所は勿論、町奉行所も管轄外の別世界で、非ずの場であるから非人差配の穢多頭(えたかしら)が管轄していた。

つまり日常生活の場とは異なり、非ずの場であるから粋に振舞う事が男性のステータスと特殊な世界に考えられ、そうした夢想空間として演出され、男性の下心を上手く使ってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事である。


投げ込み寺(浄閑寺)の事を、女郎(遊女)の末路とする解説が多いが、実際には吉原の掟を破った者に限られている事が、最近の研究で明らかになっている。

浄閑寺に投げ込まれてのは、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った者と奴刑者(しゃっけいもの)に限られている。

この吉原の掟を破って死に到った場合、人間として葬ると後に祟るので、「犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」と言う迷信により亡くなった女郎(遊女)は素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。

吉原遊廓内では町奉行所もその権限が及ばないから、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った場合、これを裁くのは持ち主である遊廓主である。

また、「足抜け(逃亡)」などで遊廓外に抜けた場合は、その探索を穢多頭(えたかしら)とその配下の穢多役人(えたやくにん)が受け持った。

吉原の掟を破った場合、女郎(遊女)は折檻(せっかん)にかけられるが、その折檻にも誤解が在り、そのまま置くにしても他所に売るにしても肉体(からだ)は売り物だから痛め付けると言うよりも苦しめる事を主眼にした見せしめを施した。

例を挙げれば、寝させない、食事(水)を与えない、丸裸にして縄で縛り上げそのまま水に漬けて呼吸を苦しめるなどである。

先を考えない竹木での吊るし叩きなどは、遊廓主が痛め付けて死んでも構わないと判断した特殊な場合だけで、その場合は文字通り「打ち殺す」で在った。


遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。

傾城屋(けいせいや)は女郎屋を意味し、傾城(けいせい)は公娼(公許)の遊女屋の集合設置場所を意味して、江戸及び関八州に限れば町奉行所や寺社奉行所ではなく、幕府公認の穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)が治安を受け持つ特殊例外な一郭の場所だった。

芸能民に関しては、猿飼(さるかい)・大道芸を生業とした乞胸(ごうむね)などが、非人同様に弾左衛門(だんざえもん)の差配下にあった。

また町方の庶民が罪を犯し、町奉行所の裁きで女性の罪人が非人穢多(えた)身分に落される「奴刑(しゃつけい)」や男の罪人が非人穢多(えた)身分に落とされる「非人手下(ひにんてか)」は、弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡され、女性は廓(くるわ)に売られ、男性は市中引き回し刑や処刑場の手下(てか)となる。

つまり穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、今風に言えば、さしずめ「囚人ビジネス」を代々家業として手掛けて居た事になる。

弾左衛門(だんざえもん)は幕府から様々な特権を与えられ、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され多大な資金を擁して権勢を誇り、格式一万石、財力五万石などと伝えられた。


身分刑に関わる女衒(ぜげん)は「女衒(おんなう)り」の意味で、主に若い女性を買い付けて遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業者である。

歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、古くは「女見(じょけん)」と言い「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)る所より、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。

女見(じょけん)は文字通り遊女(娼婦)としての商品価値を見極める品定めの意で、その目利きの良い者をそう呼んだと言う。

江戸時代の女衒(ぜげん)は、身売りの仲介業として生計を立てていた。

女性を苦界(遊郭)に落とす職業など「酷い話だ」とするのは簡単だが、当時の身分事情には違う事情の側面も垣間見える。

江戸期当時の女性の刑罰には余り死罪などは為されず、穢多(えた)・非人に身分を落とす閏刑(じゅんけい)が一般的であり、女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り者になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を認められていた。

基本的に女性に科される見せしめの為の「奴(しゃつ)刑」であり、受刑した非人は既に人ではないから女衒(ぜげん)に売られても文句は言えない。

最も、世間も裁きを言い渡す方も、穢多頭(えたがしら)が女衒(ぜげん)に売り渡すのは承知の上で、言わば苦界(遊郭)で身をひさぐ事が、実質的な刑罰の執行だった。

しかし女郎に成る事は、生まれ付いて先祖末代まで穢多(えた)・非人とされた女性や貧しい家の女性にとっては喰って行ける道だった。

そして、そうした境遇に生まれの女性や、この刑罰に拠って穢多(えた)・非人に落とされた女性にとって、女衒の行いはその境遇から抜け出し、差別を抹消できる唯一の方法でもあった。

女衒(ぜげん)に売られて遊郭を回りに回ればいつしか出自が判らなくなり、年季明けや身請けなどで無事に遊郭を出て来る事が出来れば、町人になる事が出来た。

この女衒(ぜげん)にも仲介ルートがあり、地方の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから十代前半の若い女性を主として買い、それを都会の女衒に売り、都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。

江戸期が終焉を迎えた明治維新、欧米列強の影響で人身売買禁止法が制定され女衒は消えたかと言うと、それは表向きの話で実際はそのような事はなかった。


明治期から大正・昭和期になっても貧しい家では女衒により女性の売買が続行され、当時日本は現在の台湾や南樺太を領有し、大韓帝国(朝鮮)を併合し傀儡国家・満州国を建国して、国の内外に娼婦として売り飛ばされて行った。

強制で在ったのか或いは高額の金を条件に本人や親の承諾が在ったのかは定かでは無いが、内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮や台湾から、現地女性が女衒の仲介を経て「からゆきさん」と呼ばれる娼館の女郎に売ったりしたとされている。

この事実に、朝鮮人が朝鮮人の女性を拉致し売り飛ばしたや日本人が強制的に連行して慰安婦にしたとの証言も存在し、従軍慰安婦問題として現在でも未解決となっている。

この女衒(ぜげん)に相当する職業は、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われている所もある。


これは余談に近いが、江戸期に入って盛んになった雛(ひな)祭り、子供は夢を託して無邪気な喜びの日である。

しかし、良く考えて見ると段飾り雛は、世界でも珍しい「身分制度を表したもの」で、上に上るほど高位の雛の居場所である。

これを平等の現代社会では「おかしい存在」とは誰も思わない所を見ると、およそ氏姓制度が「日本人の中に染み付いている」と言う事だろう。

一応「祭り」と言うからには信仰行事で、子供の健やかな成長を祈りながら、ついでに身分制度も学習させる寸法だったのではないか?

まぁ、目くじらを立てる程のものではないが、多神教の国で外来宗教も比較的安易に受け入れる気質である。

逆説的に言うと、存在するものは深く考えないで容認するのが日本人気質かも知れない。



後に水戸徳川家の支配する地と成る、太平洋に面した関東と東北の境の地・常陸国には平安の昔から佐竹氏と言う土着勢力が在った。

戦国末期、常陸国と上野国の一部を領した有力大名は常陸源氏佐竹氏(さたけうじ)である。

佐竹氏(さたけうじ)は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流で、武田氏に代表される甲斐源氏と同族の日本の武家である。

佐竹氏の初代当主については、新羅三郎義光の子の源義業(常陸源氏祖・進士判官)とする説と、義業の子の源昌義とする説がある。

なかでも、源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗った事から昌義を初代当主とする説が一般的である。

家名の言われについては、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が一つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし「佐竹氏を称した」と言う話が伝わっている。


佐竹氏は平安時代の後期に、既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配を確立していた。

また、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏(だいじょうし)との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。

また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力豪族としての地位を確立していた。


治承の乱及び寿永の乱に於いては、佐竹氏は清和源氏の一族にも関わらず平家方に与した為に源頼朝によって所領を没収される。

所領没収の後、佐竹氏は頼朝が起こした奥州合戦に加わり赦されて臣従、その際に月を描いた扇を白旗の上に付けるよう命じられる。

以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いる事になる。

その鎌倉時代に於いては、佐竹氏の所領だった奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われてしまう。

後に、頼朝の義父として力を持った北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏一族は不遇の時代を過ごす事となる。


南北朝並立の混乱時に佐竹氏は早々と足利氏に呼応した事から、室町時代になると守護職に任ぜられた。

しかし佐竹氏は、鎌倉公方を主君とした事で足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれる事も少なくなかった。

それでもこの室町時代、佐竹氏は鎌倉公方・鎌倉府の重鎮として活躍する。

第三代鎌倉公方の足利満兼より関東の八つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこの一家に列せられる。

以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。

佐竹氏宗家の第十一代当主・佐竹義盛に男子が無く、関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第十二代当主となる。

為に佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く分家・山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻した。

分家・山入氏は室町幕府方と結んで「山入の乱(山入一揆)」を起こし、佐竹宗家の常陸守護職を奪う。

こうした佐竹氏内の内乱もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。


戦国時代になると、佐竹氏第十五代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜(さたけよしきよ)が現れ、宿敵・山入氏を討ち常陸北部の制圧に成功する。

しかし相変わらず、武蔵と常陸で勢力を振るった江戸氏(秀郷流那珂氏)は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻なども在って常陸統一は非常に困難な状況に在った。



佐竹義舜(さたけよしきよ)の曾孫で佐竹氏第十八代当主の義重(よししげ)は、「鬼義重」の異名をとる名将である。

義重(よししげ)の時代に佐竹氏は江戸氏(旧・那珂氏)や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置く事に成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。

滅亡した武田氏の浪人・小山田氏などを仕官させ家臣団を強化させていた事も理由のひとつである。

奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった佐竹義重は、自らの正室の甥にあたる伊達政宗と対立する。

千五百九十五年(天正十三年)、義重(よししげ)は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した。

佐竹方は三万の大軍を率いて伊達方の十倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えた。

だが、佐竹方は一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし義重(よししげ)は戦国時代を通じて領国を拡大し、家督を譲った継嗣の義宣(よしのぶ)の時代に佐竹氏は豊臣秀吉の小田原征伐にも参陣して居る。

千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義重(よししげ)は隠居によって継嗣・義宣(よしのぶ)に家督を相続している。

家督相続以後の義重(よししげ)と義宣(よしのぶ)は、二人三脚で家の隆盛に勤める。

水戸城の江戸重通の所領を没収を命じられも、当主・義宣(よしのぶ)は上洛中であったので水戸城攻略は先代当主・義重(よししげ)が行う。

千五百九十年(天正十八年)十二月二十日、義重(よししげ)は水戸城を攻め落とし、同月二十二日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹(だいじょうきよもと)を攻めて大掾氏(だいじょううじ)を滅亡させている。


小田原征伐後の戦後処理で秀吉の太閤検地の結果、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされるも、常陸五十四万五千八百石の大名として認められた。

水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかった為に所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移して居る。



佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、佐竹氏第十八代当主・佐竹義重(さたけよししげ)の長男で母は伊達晴宗の娘、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。

佐竹(右京大夫)義宣は、佐竹氏としては第十九代当主に当たり、伊達政宗が母方の従兄にあたる戦国時代から江戸時代前期の武将・大名である。


義宣(よしのぶ)は千五百七十年(元亀元年)七月十六日、常陸国・太田城(現・茨城県常陸太田市)に生まれた。

義宣(よしのぶ)が誕生した頃、父・義重(よししげ)は、下野国・那須氏を攻めていたが、千五百七十二年(元亀三年)那須氏と和睦した。

この和睦は、当時三歳の義宣(よしのぶ)に那須氏当主・那須資胤(なすすけたね)の娘を義宣(よしのぶ)の妻に迎える事等が条件となっていた。

この頃の佐竹氏は南方を抑える為、千五百八十四年(天正十二年)に後北条氏と和議を結んでいた。

しかし北方では義重(よししげ)の次男であり義宣(よしのぶ)の弟である蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城を伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。

佐竹氏は伊達氏と対立する傍(かたわ)ら豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。


千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義宣(よしのぶ)は、父・義重(よししげ)の隠居によって家督を相続している。

義宣(よしのぶ)は、千五百八十九年(天正十七年)十一月二十八日に秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受ける。

しかし、義宣(よしのぶ)は南郷に於いて伊達政宗と対峙している最中であった為、直ちに命令に従う事はできなかった。

義宣(よしのぶ)は、秀吉自らが京を出立したと言う知らせを受けて、従兄弟で盟友・宇都宮国綱(下野国戦国大名)に対応を相談した。

千五百九十年(天正十八年)五月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた一万余の軍勢を率いて小田原へ向かう。

義宣(よしのぶ)は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、千五百九十年(天正十八年)五月二十七日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。

秀吉の下に参陣した義宣(よしのぶ)は、千五百九十年(天正十八年)六月、石田三成指揮の下、映画・「のぼうの城」のモデルである「忍城」を攻めた。

この忍城攻めは水攻めで、義宣(よしのぶ)の佐竹勢は堤防構築に従事している。


小田原の役後の義宣(よしのぶ)は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められる。

奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計二十一万貫余(三十五万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。

これにより佐竹氏は、徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれた。

以後、義宣(よしのぶ)は秀吉の権威を背景に江戸氏・大掾氏を討伐するなど領主権力の強化を進める事なる。

義宣(よしのぶ)は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼす事を企図し、まずは居城を太田城から水戸城へ移した。

当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった。


千五百九十一年(天正十九年)二月九日、義宣(よしのぶ)は京から帰国する。

義宣(よしのぶ)は鹿島郡及び行方郡に散在していた大掾氏(だいじょううじ)配下の国人達、所謂(いわゆる)「南方三十三館」の国人衆を謀殺して常陸国全域の支配権確立に成功する。

千五百九十一年(天正十九年)三月二十一日、義宣(よしのぶ)は水戸城に移り、佐竹氏の一門・佐竹義久(さたけよしひさ)に水戸城の整備拡張を命じた。

水戸城に本拠を移した直後の六月、豊臣政権は義宣(よしのぶ)に奥州出兵二万五千人という非常に重い軍役を命じ、この動員は同年十月まで約四ヶ月間続いた。

奥州出兵の最中の九月、今度は秀吉が唐入り(中華侵攻)の為に各国大名に朝鮮出兵を命じ、義宣(よしのぶ)も五千人の出兵を命じられる。

この軍役は、千五百九十二年(文禄元年)一月から翌千五百九十三年(文禄二年)閏九月まで約二十一ヶ月間続く。

当初の佐竹氏への五千人の軍役は途中で三千人に軽んぜられ、「御軍役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された。


義宣(よしのぶ)は、千五百九十二年(文禄元年)一月十日、水戸を出発し、同年四月二十一日、名護屋城に到着する。

翌千五百九十三年(文禄二年)五月二十三日、義宣(よしのぶ)は朝鮮へ渡るよう命じられる。

その翌月には、先陣の佐竹義久が千四百四十人を率いて名護屋を出航する。

本隊が直ぐに追う筈だったが、七月七日、義宣(よしのぶ)に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡る事はなかった。

その為に義宣(よしのぶ)は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、千五百九十四年(文禄三年)、普請は一応の完成を見た。

一方、千五百九十四年(文禄三年)一月十九日、義宣(よしのぶ)は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)六月十九日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定された。

その事を受け、義宣(よしのぶ)は、五十四万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領する。

また、義宣(よしのぶ)は、千五百九十五年(文禄四年)七月十六日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化する。


千五百九十七年(慶長二年)十月、佐竹氏の与力大名であり義宣(よしのぶ)の従兄弟でもある宇都宮国綱が改易される。

これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって処分を免れ、三成に大きな借りができた。

その借りを返す時が、程なく訪れる。

千五百九十九年(慶長四年)閏三月三日、前田利家が死去した事を契機として、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興及び脇坂安治は、石田三成の屋敷を襲撃する。

この知らせを受けた義宣(よしのぶ)は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせている。

この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。

これに対し義宣(よしのぶ)は、「三成は公命に背いた事もないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。この事を家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた。

これを受けて茶の師・古田重然(古田織部)は、細川忠興(ほそかわただおき)に取りなしを依頼した。

家康は細川忠興からこの話を聞き、「義宣(よしのぶ)身命に賭けて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた。


千六百年(慶長五年)五月三日、徳川家康は会津征伐(上杉討伐)の為に東国の諸大名を京都に招集する。

義宣(よしのぶ)もこの招集に応じ、同年五月中旬、京都に上洛した。

同年六月六日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣(よしのぶ)は仙道口を任される事となり、水戸へ帰る。


千六百年(慶長五年)七月二十四日、小山に到着した徳川家康は、水戸に居た義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた際、家康の使者は人質を上洛させるよう要求する。

義宣(よしのぶ)は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断っている。

この時期の佐竹氏の動向は、東軍に付くとも西軍に付くとも言えない微妙なもので、家康は佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣(よしのぶ)の動向を確認した。


千六百年(慶長五年)七月十九日頃、義宣(よしのぶ)は上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようで、自軍の赤館以北への進軍を差し止めている。

六日後の七月二十五日に成って義宣(よしのぶ)は突如として兵を引き、水戸城へ引き上げる。

義宣(よしのぶ)は家康に対し、重臣・小貫頼久(秀郷流小野崎系)を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させる。

また、上田城に篭る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、一族の重鎮・佐竹義久に率いさせた三百騎を送った。

この義宣(よしのぶ)一手は、後に二代将軍・秀忠の信頼を勝ち取る結果に結び付く。


千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いては、佐竹家ではどちらに与するか家中での意見がまとまらず、義宣(よしのぶ)は中立的な態度を取った。

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣(よしのぶ)は徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。

義宣(よしのぶ)は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのを見て、佐竹氏に累が及ぶ事を恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かう。

途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に会って謝罪及び家名存続の懇願をした。


関ヶ原の戦いの翌々年に当たる千六百二年(慶長七年)三月、義宣(よしのぶ)は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見する。

その謁見直後の同年五月、義宣(よしのぶ)は家康から転封先不明転封後の石高も不明の国替えの命令を受けた。

この突然の処置は、関ヶ原の戦いに於いて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいた事が発覚した為と言われている。

従って義宣(よしのぶ)は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与える事はできないであろう事や、五十石〜百石取りの給人については転封先に連れて行かない事などを書き述べている。

数日後転封先が秋田に決定し、常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石(出羽久保田藩)への減封となるも、正式な石高が決定されたのは久保田藩二代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

転封時点で明示されていなかった石高は、千六百六十四年(寛文四年)四月に日付で二十万五千八百石(実高四十万石)と決定された。

うち五千八百石は、千六百五年(慶長十年)十月十七日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地十一ヶ村分だった。


転封処遇の際、細川忠興が「大々名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言した。

しかし、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまう。

こうして佐竹氏は、平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去り、出羽半国の久保田藩と成った。


この半国処置には後日談があり、後に政争に負けた本多正純が「宇都宮城釣天井事件」で失脚した時、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。

佐竹氏に取って仇がある相手である為「恩情をかける事はない」と幕閣首脳が考えたのだろうか。

権勢を誇った本多正純は、「横手城の一角でさびしく生涯を終えた」と伝えられる。


佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説ある。

この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させる事で島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。

また、佐竹氏が減転封された理由としては、佐竹氏は関ヶ原合戦に直接参加していない為に無傷の大兵力を温存していた佐竹氏はその観点での脅威だった。

加えて、徳川氏の本拠地である江戸に近い常陸の佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質八十万石以上の勢力と目され、為に江戸から遠ざける狙いがあったとする説もある。

義宣(よしのぶ)は、出羽秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して新たな政策の実施と人材登用を可能にした。


千六百十四年(慶長十九年)、名実伴に天下人となる為、徳川家康が豊臣家を攻める大坂の陣を起こし、義宣(よしのぶ)は徳川方として参陣する。

義宣(よしのぶ)は参勤の為、千六百十四年(慶長十九年)九月二十五日に久保田城を出立していたが、その途中十月七日に大阪への出陣命令を受ける。

これを受けて佐竹軍は、十月十五日以降に順次久保田城を出発し、江戸に居た義宣(よしのぶ)は軍勢と合流し、同月二十四日に江戸を出発した。

義宣(よしのぶ)が大阪へ到着したのは、同千六百十四年年十一月十七日である。

義宣(よしのぶ)は玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢と戦闘、新規に召抱えた重臣・渋江政光を失っている。

この戦いでの勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府に於ける佐竹軍の評価は高まり、二代将軍・秀忠の義宣(よしのぶ)への信頼は深まった。

大阪の役(冬の陣)に於いて幕府から感状を受けたのは僅か十二名で、内五名を佐竹家中の者が占めた武功だった。


千六百三十三年(寛永十年)一月二十五日、義宣(よしのぶ)は、江戸神田屋敷にて六十四歳で死去した。

佐竹氏は江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続し、明治維新後は侯爵に叙せられている。



江戸時代の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

新井白石が幕臣に編入されたのは千七百九年、徳川光圀が亡くなったのがその八年前の千七百一年であるから、水戸黄門漫遊記で「**藩や**藩々藩主」と言う台詞は公的な制度名でも一般的に使用されてもいなかったから、時代考証的には正しくは無い事になる。

江戸期に於ける「藩(はん)」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称された事は無く、「**家中」のような呼称が用いられ、例えば加賀前田氏は将軍家から松平を賜り名としていたから松平加賀守家中が加賀前田藩の公式呼称である。

通常会話に於いての領主の呼称については、「藩主」とは呼ばず封地名に「侯」を付けて「紀州侯」、「尾張侯」、「仙台侯」、「薩摩侯」、「加賀侯」と言った呼称が一般的だった。

藩士の呼称についても、江戸期於いては「仙台藩士」とはほとんど言わず、公的には仙台藩伊達氏は将軍家より松平姓を賜っていたから仙台藩々士は「松平陸奥守家来」と称されのが通常だった。

但し、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても時代考証的に可である。

つまり通りが良いので本書でも便宜的に使用しているが、幕藩体制(ばくはんたいせい)も「藩(はん)」も明治時代に入り公称と成って一般に広く使用されるようになったもので、江戸期に於いて「藩(はん)」と言う呼称自体が一般的に使用されていた呼称では無いのである。

戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)が使われるに到ったのである。


徳川御三家は、徳川将軍家宗家の後嗣が絶えた時に備え、始祖・徳川家康が宗家存続の為に遺したものとも言われ、宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、実際には老中・大老職が中心となり幕政を合議し運営していた。

従って徳川御三家は制度・役職として定められたものでは無く、あくまでも親藩(一門)の最高位の家格として扱われる存在だった。

この事が竹千代(家康)二人説の根拠にも成っているのだが、家康次男で在る筈の結城秀康(秀忠の兄)を祖とする越前・松平家は、松平の姓に復しても当初から徳川姓を名乗る事も宗家存続の役割と格式も与えられていない。

当初将軍家に後嗣が絶えた時は、家康九男・義直を始祖とする尾張徳川家(尾張藩)か家康十男・頼宣を始祖とする紀州徳川家(紀州家・紀州藩)のニ家から養子を出す事になっており、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識が在った。


尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川家康の九男・徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする徳川氏の支系・徳川御三家の一家である。

尾張藩主の家系で、単に「尾張家」・「尾州家」とも言い、紀州徳川家・水戸徳川家と並ぶ徳川御三家中の筆頭格にして諸大名の中でも最高の家格を有した。

始祖と成った家康の九男・徳川義直は、まだ五郎太を名乗る千六百三年(慶長八年)、三歳の時に家康から甲斐国(二十五万石)を拝領し甲府藩主と成る。

五郎太は甲府藩主に封じられたが、幼少の為に甲斐統治は以前から着任していた甲府城代・平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず家康と伴に駿府城に在城していた。

千六百六年(慶長十一年)に五郎太は六歳で元服し、徳川義直を名乗る。

翌千六百七年(慶長十二年)に、尾張国清洲を領していた兄・松平忠吉(家康の四男)が関ヶ原の戦いの折に負傷した傷が元で江戸で死去、家康は義直を尾張に据える決断をする。

義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清洲(五十二万石)に就封されると家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。


尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがない時は他の御三家とともに後嗣を出す資格を有して居た。

しかし、七代将軍・徳川家継没後、徳川継友と将軍後継を争った末、紀州徳川家出身の徳川吉宗が八代将軍に就任してしまう。

その後には御三卿が創設されて以後吉宗の血統が跡継ぎの主流と成った影響も在って、結局、尾張家からは将軍を出せなかった。

また、虚弱精子劣性遺伝の影響からか短命の藩主が多く、千七百九十九年に尾張川家、その翌々年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶して以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返す事になる。

尾張徳川家は、藩祖・徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えて来た勤皇家だった。

一度も将軍を輩出できなかった事、十一代から十四代まで養子を押し付けられ続けた事、勤皇家だった事などにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、尾張徳川家は戊辰戦争で官軍方に付いている。


徳川頼房は、水戸武田家、異母兄・家康五男・武田信吉(たけだのぶよし/松平信吉)の死去、同じくその後を取った徳川頼将(家康十男/最終は紀州藩藩祖)の移封に伴い水戸に入封した。

家康五男・武田信吉が松平姓ではなく武田姓を名乗った訳から始める。

千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変で信長が自刃する直前、徳川家康と織田の連合軍で甲斐国・武田氏征伐に成功する。

甲斐武田氏の断絶を惜しんだ家康は、当初、甲斐国武田氏の御一門衆・穴山信君(梅雪)・見性院夫妻の嫡男・穴山勝千代(武田信治)に武田氏名跡を継承させる。

所が、その勝千代(武田信治)が僅か十六歳で早世してしまう。

そこで目を着けたのが、家康が所望して側室とした甲斐源氏武田氏の分流・秋山虎泰の娘於都摩(下山殿・妙真院)との間に、出来た自らの五男・福松丸(武田信吉)である。

武田信吉は、千五百八十三年(天正十一年)九月、当時家康が居城としていた遠近江国・浜松城に生まれる。

家康は、武田氏所縁の於都摩が出産した福松丸を万千代丸と名付け、見性院(穴山梅雪正室/武田信玄の次女)を後見人として武田氏の名跡を継承させて穴山氏の領知である河内領のほか江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信義と名乗らせた。

千五百九十一年(天正十九年)、武田氏の名跡を継承した信吉(七郎信義)の母(於都摩)が亡くなった為、見性院が養母となる。

千五百九十三年(文禄二年)、信吉は下総国佐倉城十万石を与えられ、七年後の千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは江戸城西ノ丸に在って留守居役を務めた。

関ヶ原の戦いで佐竹氏が西軍に属した為、武田信吉は千六百二年にその佐竹領・常陸国水戸二十五万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。

所が、生来病弱で在った信吉は、水戸二十五万入封の僅か一年後の千六百三年二十一歳で死去、信吉に子女もいなかったので武田氏は再び断絶した。

水戸藩は異母弟の徳川頼将(家康十男)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の徳川頼房(家康十一男)が入部し、水戸徳川家の祖となり、信吉の遺臣の多くは水戸家に仕えた。


御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・松平忠長を家祖とする駿河松平家(五十五万石)断絶後の千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり本来は別の立藩目的が在った水戸家だが、前後の事情から水戸家は補欠から御三家に繰り上げられた経緯が伺えるのである。

従って他の二家よりも官位・官職の点では扱いが下で、水戸家から将軍が出たのは、御三卿の一橋家から水戸徳川家への養子を経て将軍家を継承した最後の将軍・徳川慶喜(十五代)だけである。

尚、一般に徳川御三家は尾張、紀伊、水戸の三家であると言われているが、駿河松平家の石高五十五万石が水戸家の三十五万石を上回っていた事や、尾張家や紀伊家同様極官が大納言(水戸家は中納言)であった事から当初の御三家は尾張、紀伊、駿河で構成されていたとする説が存在する。

また、実は松平忠長が二代・秀忠の三男では無く家康の実子だった事から秀忠の遠慮と忠長の三代将軍継承に対する不満増長があり、駿河松平家(五十五万石)の僅か一代の断絶に繋がったとする説もある。


江戸期の幕藩体制に於いて「城持ち大名」は格式であり、本来は二十万石以上の国持ち外様大名(国主格)か徳川親藩などで十万石以上の準国持ち大名に城持ち(城主)が許され、石高の少ない領主は陣屋と呼ばれる屋敷を城の代わりにしていた。

本来は一国当たり一城持ち大名格が定めなので、美濃・苗木藩(なえきはん)のように所領(知行地)一万石でも「城持ち(城主)」が許される藩も在ったが例外で、所領(知行地)七万石でも陣屋しか許されない藩も在った。

そして徳川御三家の附家老(つけがろう)には、将軍家より派遣された尾張藩の犬山・成瀬家(三万五千石)や今尾・竹腰家(三万石)、紀伊藩の田辺・安藤家(三万八千石)や新宮・水野家(三万五千石)、水戸藩の松岡・中山家(二万五千石)など陪臣の「城主」ながら大名格の待遇を受けて江戸に屋敷を拝領して居た家も在った。

従って国主・城持ち(城主)も陣屋構えでも大名(藩主)には違い無く、城を所有せず実質的には陣屋を構えて居ても格式として城主の格式とされていた城主格の大名も在る為、城持ち大名格は城の所有の有無に関わらない。

また、大々名の陪臣の中には長州藩の岩国・吉川家(六万石)、熊本藩の八代・松井家(三万石)、広島藩の三原・浅野家(三万石)、仙台藩の白石・片倉家(一万八千石)などのように特例で城持ち(城主)が許される事もあるがあくまでも陪臣で城持ち大名としての格式は無い。

そして、城は在っても城主が居ない幕府直轄の国も在り、大阪城、駿府城・甲府城などの城主は将軍なので、大坂城代は譜代大名、駿府城代は旗本、甲府城は甲府勤番支配が旗本の主要ポストとして常時城代が務めて居た。

その外に、大名家に拠っては例外として鳥取藩の米子城代、津藩の伊賀上野城代、徳島藩の洲本城代など「城代」が置かれた支城も認められて世襲も在ったが、格式上では城持ち(城主)ではない。



人が事を起こす時には、相応の動機が必要である。

「二度と戦乱の世を作ってはならぬ。」

それが、神君・徳川家康公が、自らの血流子孫に託したメッセージである。

いよいよ駿府城本丸にて、大御所・家康、二代将軍秀忠(光忠)、二代目天海(光春)、春日の局(お福)四人だけの密談で決まった先代天海(光秀)の幕府としての諸国監視の奇想天外な「秘策」が明らかに成る。


水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる。

まず異母弟の重臣・鈴木重義を隠居所・西山荘に呼び、全面的協力を要請する。

「この事は、我水戸藩に託された神君(家康)様、二代(秀忠)様、天海殿の期待じゃで、予はいよいよこの事業を始める。」

「お待ちしておりました。いよいよでございますか。」

元より、雑賀(さいが)の鈴木家の名を継ぐ鈴木重義に異論など有る筈が無い。

永い事待ち望んでいたのである。

「万端怠り無く頼み入るぞ。」

「お任せください。承知致しましてござる。」

「宿願を果たす機は熟した。これは神君(家康)様からの我天命じゃ。」

光圀は藩内外に「大日本史編纂」を宣言すると、学問所(現在の研究所)「彰考館」を設置して藩内の優秀な人材を登用する。

そして、その人材の活動を裏面から支えたのが、雑賀衆の棟梁・鈴木重義だったのである。


徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

この水戸家江戸定府と雑賀鈴木家の組み合わせが、只の偶然の筈が無い。

しかしそれが諜報活動の組織なら、意図して事実を隠す為に改めて言うまでも無くそれを公表する訳が無い。

つまりポツリと浮き上がる「偶然の筈が無い組み合わせ」は、史実を追う上で重要な考慮点と成る。

とっぴな話しと想うだろうが、もし大日本史編纂が只の学術的な物であれば、徳川家康がわざわざ雑賀鈴木家を水戸徳川家重役に送り込んだ理由の説明が着かない。

つまり水戸徳川家をCIAに仕立て上げる目論見があったからこそ、雑賀の棟梁・孫市に預けていた庶長子の「一蔵重康(いちぞうしげやす)」を水戸徳川家重役に送り込んだのであれば納得が行くのだ。

滑稽(こっけい)な建前ではあるが、通称水戸黄門(徳川光圀)として庶民に親しまれている諸国漫遊記の物語の「現実の方」には、幾つかの裏事情が隠されているのだ。



「大日本史」は、千六百五十七年に徳川光圀が「尊王の目的」で編纂を始めた事に成っているが、水戸藩は御三家とは言え公称三十五万石、実高は高々二十六万石の、中規模上位の構えである。

そこに藩の財政を逼迫(ひっぱく・非常に苦しく)させる程のこの大事業である。

それでも幕府はその事業を容認し、水戸藩内でも目立った反対もなしに幕末まで継続されている。


いくら建前の奇麗事を言っても、政権の本音には「諜報機関と工作機関は欠かせない」と言う矛盾がある。

江戸幕府に於いても、朝廷や公家、諸藩の動静を監視する事は統治の生命線だった。

幕府の中核を成す立場の武家、水戸藩のする事である。

「大日本史」編纂が唯の文化事業ではなく、他に表ざたには出来ない目的があっても不思議ではない。


水戸藩第二代藩主徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ/光圀養子)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事の無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

水戸黄門慢遊記は、庶民のささやかな不満のはけ口として娯楽作品は出来上がっていて、悪い権力者を、正義の人が「やっけて」くれる。

その夢物語とは違う、生々しい権力の知略が、大日本史編纂には潜んでいるのである。

諸国漫遊記創作のヒントは、水戸公が編纂を始めた歴史書・「大日本史」の現地調査を名目に、全国に調査役(家臣の儒学者ら)を日本各地へ派遣した事にある。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南朝関係の史料を広く収集している。

実は南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

所が、この派遣された調査員(家臣の儒学者ら)が、明らかに雑賀衆の可能性が濃いのである。

この唐突に始まった水戸家の大事業、或いは天海僧正(明智光秀)の知略の実践だったのかも知れない。


「大日本史」編纂目的の目指すもののひとつは、「南朝を正統」とした歴史書で、当時の北朝系図の朝廷をけん制し、徳川幕府を磐石なものにする所に主眼がある。

この尊王思想、その先に存在するのが朝廷から賜った「源氏の長者」の位であり、「征夷大将軍」の位である。

つまり「大日本史」編纂は、将軍家の正当性を証明する目的にも、合致するのである。

そもそも、「大日本史」編纂に徳川本家(幕府)が認め、水戸徳川家が力を尽くすには、多くの歴代権力者が手掛けたように、歴史書の編纂を契機に、いささか後ろめたい徳川家の出自を、改めて磐石にする目的をも重ね持っていた。

賀茂氏庶流の枝の枝である筈の松平家・松平元康が、源家の新田氏支流・世良田流の得川氏の子孫と称して「徳川」を名乗って、三河の守・徳川家康とした。

この時点で、源氏出身でないと叙任の慣習に添わない事を逆手に取り、朝廷より「三河の守・徳川家康」を認められた事により、武門の統領としての源の血流を、形式的資格として手に入れた事になる。


光圀は、多くの武士に共通した認識と同様、天皇による普遍的な統治が続けられた日本こそが「正統な国家形態である」と言う意識を持っていた。

この意識が、明智光秀に「本能寺の変」を起こさせた原点であり、氏族の国家観の原点であるから、徳川政権はその上に立脚して各藩に私兵を置く幕藩体制を引いている。

つまりは皇帝が居て各国王の国々が存在する中華思想を踏襲した「天皇制と藩主(直臣)」の形態を形式上認めながらの幕府政治(幕藩体制)なのである。

この為大日本史は天皇の治世を紀伝体で記してある歴史書であり、全体的に大義名分論の尊皇思想で貫かれていた事から、この思想が、天皇を尊ぶ「尊王思想」の気風を植え付ける「水戸学」として水戸藩に受け継がれ、後に明治維新に大きく影響する事になる。

明治維新の指導原理はこの水戸学で、水戸勤皇党を生み出し、江戸幕末の尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもなったのである。

徳川幕府最期の将軍(十五代・慶喜)が、水戸藩から登用されたのも、「水戸学・尊王思想」と関わりが深い事の意味が理解できる。

つまり、水戸藩出身の将軍なら、尊王派(勤皇の志士)を懐柔できる僅かな可能性を秘めていたので、幕府存続の為、最期の切り札として担ぎ出したのだ。

所が、それが裏目に出て徳川第十五代・慶喜は「大政奉還」をして政権を放り出してしまった。

今ひとつ、「大日本史」の現地調査の名目は、情報活動(諜報)の表向きの隠れ蓑の一面がある。

この情報活動(諜報)、素人では中々出来ない代物で、案の定と言うか、実は雑賀(さいが)の鈴木家が二代将軍・秀忠の命を受け、この企みに主導的に噛んでいる。

幕藩体制が確立してからは、諸大名は幕府の情報活動(諜報)には特に神経を使った。

当然ながら、藩の失態が幕府に知れたら、取り潰しなどの存続の危機に陥る。

如何なる難癖を付けられないとも限らないから、密かに入国する公儀隠密(お庭番)との暗闘は続いていたのだ。

制度上私兵を保有する大名諸侯の動静監視は、徳川幕府の政権維持には欠かせない戦略である。

推測するに、この「大日本史」編纂名目、各藩諸侯(諸大名)には「良く考えられた」厄介な入国の口実である。

公儀隠密(お庭番)などが身分詐称で入国したのであれば、露見次第で闇から闇に葬る事も可能だが、幕府「将軍補佐職」の水戸家から「大日本史」の現地調査として正式に堂々と乗り込んで来られては入国を拒めず、余程の事が証明出来ないと、行動の制約も出来ないのが狙い目である。

つまりは、幕府にとって非常に効果的な各藩諸侯(諸大名)の制御・けん制策だった。

以前序章で述べた様に、古(いにしえ)の昔より犬神は修験であり、犬は由緒正しく官憲を現す俗語である。

従って幕府隠密を、当時「幕府の犬」と呼んだ。

現代人は、簡単に「侮蔑(ぶべつ)した言葉」と誤解している様だが、他の動物と違い、当時の「犬」には畏怖の念があった事を付け加えておく。

水戸藩の「大日本史」編纂の為の現地調査も、各藩諸侯(諸大名)から見れば充分に幕府の犬だったのである。


大日本史編纂には隠された真実があった。

水戸光圀の大日本史編纂には、「影の目的があった」のだが、この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)と雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御・けん制策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸藩は将軍の補佐(副将軍と言う官職は無い)を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)で在った。

しかし実務は老中・大老などが仕切るので水戸徳川家の「将軍補佐」と言うその権限や役割は、何をするものか明確ではない。

「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに) によって編纂された歴史書である。

神武天皇より後小松天皇まで紀伝体によって述べ、本紀・列伝・志・表からなっている。

歴代皇位から神功(じんぐう)皇后を除き、弘文天皇を加えた他、南朝を正統とした点が「大日本史」の特色で、この編纂作業は、実に明治の中頃まで続いて居る。

徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で「皇国史観」を取り上げたには、当時の現天皇家が北朝流であり水戸徳川家が足利尊氏を逆臣として南朝流正統説を唱えるのは天皇家をけん制する事に目的の一つが在ったのではないか?


水戸家に於ける雑賀の立場は、並の家臣ではない。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として孫市の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

但しこの鈴木(一蔵)重康の父・松平元康は双子の隠し子の方で、織田家の人質になった時に織田信長の傅役(お守り役)・平手政秀の手元で信長とは竹馬の友として処遇され、その後、一時元康は平手家の養子と成って河内源氏流新田氏・世良田・得川(徳川)氏系庶流平手家を名乗る家格を得ている。

その隠し長子として生まれた平手(松平)一蔵は、三河鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。

この噂が本当なら、「家康の庶長子と知っての水戸家入り」と言う事になる。


鈴木一蔵の鈴木姓については雑賀孫市の養子説以外に、源義経の奥州落ちに随行した鈴木重家(すずきしげいえ)に三河まで同行し、脚の疾(やまい)に罹(かか)って三河に土着した重家の叔父・鈴木七郎重善の後裔・三河鈴木家が松平家の客将と成って居た為、若き元康(家康)が「非公式に養育を頼んで預けた」と言う説もある。

しかしその三河鈴木家説では、水戸・雑賀鈴木家が御三家と言う家格を有する水戸家の嫡流とも言えそうな特別な立場に成りえる説明が着かない事も申し添えて置く。


水戸藩士・鈴木家は、主家である水戸徳川家から養子を迎えてい居る。

重朝の子の代・重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだったのを契機に、後継ぎとして主君・徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせ、「大日本史」編纂作業の始まる頃には、完全に正式な水戸藩親族系家臣の家と成っている。


ここにもう一つ、水戸徳川家には雑賀鈴木家絡みの疑惑が在る。

正式記録では、松平頼重(まつだいらよりしげ)はご存知二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)の同母兄で、初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」と言う事に成っている。

あくまでも水戸家家臣・三木之次の孫・三木之幹が主に成って千七百一年(元禄十四年)に編纂された「桃源遺事」を信じればであるが、頼重(よりしげ)の母は、家臣・谷重則の娘・久子である。

頼重(よりしげ)出生の経緯は大藩の当主の長子としては妙にややこしい。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた事に成っている。

母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼重(よりしげ)出生の時点でまだ正室を持ってはいなかった徳川頼房が側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)の機嫌を損ねた為に頼房は三木之次夫妻に対して久子の堕胎を命じた。

だが、奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、「主命に背いて密かに自邸で出産させた」としている。

同母弟の二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)についても同様の経緯があり、長男・松平頼重(まつだいらよりしげ)と三男・徳川光圀(とくがわみつくに)は幼少期の数年をそれぞれ三木竹丸(頼重)、三木長丸(光圀)を名乗って水戸城下で隠し育てられた事に成っている。

ここからが、この水戸家物語の如何にも予め筋書きがあるがごとき奇妙な点でもある。

主命に背いて密かに出産させた頼重(よりしげ)と光圀(みつくに)の存在が明らかに成ると、すぐさま水戸城に入城を許し、翌年には頼房の付家老・中山信吉(備前守)が水戸へ下向して世子を光圀(みつくに)と決定、光圀は江戸小石川藩邸に入り世子教育を受け始めている。

世子内定の翌年になると光圀(みつくに)は英勝院に伴われて江戸城で将軍・家光に拝謁、二年後の千六百三十六年(寛永十三年)には元服し、この時に将軍・家光から与えられた偏諱が「光圀(みつくに)」である。

長子の頼重(よりしげ)が水戸藩を継承する事が出来なかった理由は何故だろうか?

思い当たるのが、頼重(よりしげ)の「重(しげ)」の文字である。

「重(しげ)」の文字は、代々雑賀鈴木家が用いて来た文字で、源義経の郎党・鈴木重家(すずきしげいえ)や戦国期〜安土桃山期に活躍した雑賀党・鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)、そして徳川家康の庶長子と噂が高い鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやす)も「重(しげ)」の文字を用いている。

そこで憶測される事だが、庶長子である鈴木重康(すずきしげやす)の継子であり、光圀(みつくに)の頼房世子認定のドサクサに紛れて頼房の子として水戸城に入城させ、その後に「一族として処遇する道を作ったのではないか」と言う疑惑がある。

それならば端的に言うと、知行三千石の鈴木一蔵の子・頼重(よりしげ)の子(一蔵の孫)が、最後は養子交換で水戸藩主を継いだ事になる。

徳川家康にして見れば、若気の至りで為(な)した為に報いて遣れなかった庶子・鈴木(一蔵)重康への愛情であり、つまりこの「松平頼重(まつだいらよりしげ)生い立ちの謎」とされる壮大なペテン(中国語/人を騙す)は、家康の想いを叶える為の徳川家の総力を挙げた知恵の結果ではないのだろうか?

何しろ、それを疑わせるほど水戸徳川家は雑賀鈴木家と余りにも深い縁が在るのだ。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている。

その後ややこしい事に、何故か頼重(よりしげ)実子の徳川綱方と徳川綱條が光圀の養子となり御三家水戸藩の家督を綱條が継ぎ、また高松藩の家督を光圀(みつくに)の実子・松平頼常を養子に迎えて継がせる養子交換をしている。

この養子交換を、光圀(みつくに)が「長子の頼重(よりしげ)を差し置いて家督を継いだ後悔からだ」と言うが、他に隠された理由が在ったのでは無いだろうか?

もし松平頼重(まつだいらよりしげ)が本当に初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」ならば、松平頼重(まつだいらよりしげ)が水戸徳川家を継がず、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている謎は説明が着かないのだ。



水戸藩親族の鈴木家の方は、後に雑賀家を名乗り水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

つまり水戸藩鈴木家(雑賀)は、光圀の「大日本史」編纂事業の裏表に深く関わって不思議は無く、隠密系の武門の家である事から返ってこの符合が納得出来るひとつの方向を暗示していたのである。

水戸藩鈴木家は後に名字を雑賀と改め、代々の当主は「孫市を通称とした」と言う。

徳川家一門の並々ならぬ支援を受け、あの影人の大名跡「雑賀孫市」を晴れて復活させてのだから裏に何か在ったと考えても不思議は無い。

水戸雑賀(鈴木)家は、表向き水戸藩砲術指南役として天下に名声を博し、けして闇の存在ではないが、実は江戸幕府二百五十年の体制維持に大きく貢献した。

つまり水戸雑賀(鈴木)家は、言わば「幕府系隠密」と言う別の顔を密かに持っていたのである。

この水戸徳川家と雑賀鈴木家の重い経緯に加え、御三家とは言え、水戸三十五万石(実質二十六万石とも言われる)の一藩が手掛けるには余りにも大事業の「大日本史」の編纂とくれば、その目的に表向き以外の幕府公認の「何かが隠されている」と考えざるを得ない。

架空(フィクション)の物語「水戸黄門漫遊記」であるが、忍びの術者が暗躍した部分は、案外本当かも知れないのである。

それにしてもこの「大日本史」の尊王思想が、遥か二百数十年後、明治維新の尊王派(勤皇の志士)に少なからぬ影響を与える所が、歴史の面白い所である。

江戸幕府に於いて水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)と言う特殊な立場である。

そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

しかも「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

余談で根拠は無いが、仮に講釈師の作り話の佐々木助(介)三郎のモデルが、鈴木介三郎重義(すけさぶろうしげよし)だとしたら、痛快な話である。

もっとも、モデルとされる人物は他に存在する。

水戸黄門万遊記に登場する「挌さん」は、安積澹泊(あさかたんぱく・通称、覚兵衛)と言う祖父の代から水戸家に仕える「水戸藩の学者がモデル」と言われている。

祖父・正信の時初代藩主徳川頼房に仕え、水戸藩士の家と成る。

父・貞吉は儒学を好み、詩文を得意とした学者の家である。

安積覚兵衛は朱舜水に師事。大番組、小納戸役と進み、彰考館編修、元禄六年には、彰考館総裁に任ぜられ、藩主・徳川光圀を助けて「大日本史の編纂」に主導的役割を果たした。

同じく「助さん」は佐々 宗淳(さっさむねあつ・通称、介三郎)と言う「徳川光圀の側近がモデル」と言われている。

京都の臨済宗妙心寺の僧侶だったが、還俗して水戸藩に仕える。

光圀の下(もと)で彰考館に加わり、「大日本史の編纂」に携わっている。

戦国武将佐々成政の実姉の末裔(曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていた。

双方とも大日本史編纂には重要な役割を果たしたが、光圀側近で「光圀と諸国を旅した」と言う事実は無い。



水戸藩士の調査員(史館員)は主として南北朝期の南朝方にまつわる歴史を収集しているが、当然出向した諸藩で見聞した事も「彰考館」へ持ち帰る事になる。

鈴木一蔵と水戸家の物語は幕府に置ける全国諸侯の調査組織成立と深く関わるもので、現代で言えば公安調査庁みたいなものであるからその実態は未だに闇の中にある。


改易(かいえき)とは江戸時代に於いては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷を没収する事を言う。

以下、江戸時代の改易について一部記述するが、符合する事に千六百七十二年に水戸藩の大日本史編纂事業が本格化し軌道に乗り始めたと思える七年後辺りから大名改易(だいみょうかいえき)が増加している。

千六百七十九年には上総久留里藩二万石・土屋直樹、備中庭瀬藩二万石・戸川安風、常陸玉取藩一万二千石・堀通周の三家、翌千六百八十年には志摩鳥羽藩三万五千石・内藤忠勝、丹後宮津藩七万三千石・永井尚長の二家が改易(かいえき)となる。

そして編纂事業九年目に当たる千六百八十一年には越後高田藩二十六万石・松平光長を筆頭に、駿河田中藩四万石・酒井忠能、上野沼田藩三万石・真田信利、武蔵高坂藩一万三千万石など四家、都合約三十五万石近くが取り潰されている。

以後は千六百八十三年の上野館林藩二十五万石・徳川徳松、千六百八十三年の越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)が目立つ所で、十数年後の千六百九十七年の美作津山藩十八万六千石まで大きな改易は無い。

勿論、継嗣が無いなどの改易理由があるが表向きで、何事も咎めが無ければ養子が認められ、現実には乱心・乱行などの行状を咎められた物も多い。

この諸侯の行状探索に、水戸藩CIAとして編纂調査を名目とした現地調査の暗躍が、「無かった事」とは言い切れない。


越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)の処置は正確には改易(かいえき)とは言い切れない。

松平綱昌(まつだいらつなまさ)は、先代藩主・松平昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内に於いても昌親に対する反発が在った為、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置で昌親の養嗣子となる。

綱昌(つなまさ)は、元服し従四位下侍従に叙任、越前守と名乗った後、千六百七十六年(延宝四年)七月二十一日、昌親から家督を譲られて藩主となる。

四年後の千六百八十年(延宝八年)八月十八日、綱昌(つなまさ)は左近衛少将に任じられるも、翌千六百八十一年(延宝九年)の三月、理由も無く側近を殺害する事件を起こし、次第に奇怪な行動を取り始める。

そんな折に藩内に飢饉が起き、越前福井藩では上手く対応できず藩内に多数の餓死者を出した。

そうした不祥事が重なる中、千六百八十五年(貞享二年)には綱昌(つなまさ)が江戸城登城をも怠った為、翌貞享三年閏(うるう)三月、遂に幕府は綱昌(つなまさ)の狂気を理由に蟄居を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移される。

本来なら大名家改易と言う所だが、徳川家康の二男・結城秀康の子孫である御家門の越前松平家を取り潰す訳にも行かず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(二十五万石)と言うペナルティを与えた上で存続を許している。



松尾芭蕉(まつおばしょう) は、江戸時代前期の 俳諧の連歌を職業とする俳諧師(はいかいし)である。

千六百四十四年(寛永二十一年)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない。

芭蕉(ばしょう)の出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の二説がある。

これは芭蕉(ばしょう)の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。

芭蕉(ばしょう)は、 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる。

松尾忠右衛門・宗房=芭蕉(ばしょう)には、兄・松尾命清の他に姉一人と妹三人がいた。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族で、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった。

千六百五十六年(明暦二年)、十三歳の時に父・松尾与左衛門が死去する。

兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。

異説も多いが、宗房=芭蕉(ばしょう)は千六百六十二年(寛文二年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・上野の城代・藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ/俳号は蝉吟)に仕えた。

その宗房=芭蕉(ばしょう)の仕事は、厨房役か料理人だったらしいと伝わっているが、「稚児小姓として仕えた」とする説も有力である。

当時の武門は、「男色を賛美した習俗が極普通だった」と言われるので充分可能性は在った。


芭蕉(ばしょう)の幼名は金作である。

通称は甚七郎、次いで甚四郎、名は松尾忠右衛門宗房を名乗る。

歌人俳人・北村季吟(きたむらきぎん)門下で、俳号としては初め実名・宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。

宗房=芭蕉(ばしょう)は、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

諸説あるが、千六百七十五年(延宝三年)初頭、宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸へ下った。

宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸では俳号・「桃青」を用い、多くの支援者を得て、神田川の分水工事の人足の帳簿づけなどをしながら生活の基盤を固め、江戸の職業俳諧師としての地位を築いてゆく。

やがて桃青=芭蕉(ばしょう)は、俳諧師の宗匠の証である歳旦帳を持ち、江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。


千六百八十九年五月十六日(元禄二年三月二十七日)、芭蕉(ばしょう)が弟子の河合曾良(かわいそら)を伴い、江戸を立つ。

芭蕉(ばしょう)が東北地方、北陸地方を巡り、中部地方・岐阜県の大垣まで旅した紀行文が「おくのほそ道」である。

下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、芭蕉(ばしょう)にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。


「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」・・岩手県平泉町

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」・・山形県・立石寺

「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」 ・・山形県大石田町

「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」・・新潟県出雲崎町


この旅で芭蕉(ばしょう)は、訪れた各地に多くの門人を獲得する。

特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。

また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。

芭蕉(ばしょう)は五月下旬に中部地方・大垣に着き、約五ヶ月六百里(約2400km)の旅を終えた。

その後芭蕉(ばしょう)は、九月六日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。

十二月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした。


千六百九十四年(元禄七年)五月、芭蕉(ばしょう)は愛人・寿貞尼(じゅていに)の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。

途中大井川の増水で島田に足止めを食らうも、五月二十八日には伊賀上野に到着した。

その後、湖南(滋賀県湖南市)や京都へ行き、七月には伊賀上野へ戻った。

同千六百九十四年(元禄七年)六月二日、江戸深川の芭蕉庵にて愛人・寿貞尼(じゅていに)が死去する。

芭蕉の甥・猪兵衛が、寿貞(じゅてい)の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けた。

九月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。

大坂行きの目的は、門人・大坂蕉門の重鎮の之道(しどう)と近江蕉門の珍碩(ちんせき)の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。

当初は若い珍碩(ちんせき)の家に留まり諭したが、珍碩(ちんせき)は受け入れず失踪してしまう。

この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉(ばしょう)は大坂に向かい之道(しどう)の家に移ったものの十日夜に発熱と頭痛を訴えた。

二十日には回復して俳席にも現れたが、二十九日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。

十月五日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受ける。

八日、「病中吟」と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ。


伊賀と言えば、「幕府御庭番服部家」など伊賀流忍者の里で、その出身地から芭蕉(ばしょう)には異説が在る。

伊賀国土豪一族出身の松尾忠右衛門宗房が俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)の実名であり、諸国を旅した事から「諸国巡検の幕府隠密説」が在る。

まず、芭蕉(ばしょう)の母・ 梅の出身も、伊賀流忍術の祖とされる百地(桃地)氏だった。

また、松尾宗房が十八歳で最初に仕えた藤堂新七郎の息子だが、藤堂新七郎が保田采女(藤堂采女)の一族で、采女が服部半蔵の従兄弟だった為である。

とは言え、俳諧師(はいかいし)・芭蕉(ばしょう)が幕府隠密だった証拠はない。



「気受け(きうけ)」とは、その人物に対して持つ世間に於ける好悪の感情評判の事を指し、この人は「世間の気受けが良い」と言うような用法で用いる。

一般的に人間には「良い人と評価されたい」と言う感情が在り、この「気受け(きうけ)」で悪評が広まると恥をかく事に成る。

だからこそ庶民から為政者に至るまで、人々は「気受け(きうけ)」を気にするところである。


余談だが時の為政者は、この「気受け(きうけ)」を大きなスケールで気にする。

為政者は、自らの権力維持の為に世間からの「気受け(きうけ)」に迎合する。

例えば、本来なら隣国同士で永々と憎しみ合う事は不利益も大きいのに、為政者が国民感情の「気受け(きうけ)」に腐心するばかりにいつまでも憎しみの歴史から抜けられない。

逆に、強い為政者を演出する為には、「ナショナリズムを基本とした強硬な発言」を連発し、国民を煽(あお)る手法が幅を利かす。

つまり、この「気受け(きうけ)」を弁舌巧みに利用し、権力を握って国民をミスリードするヒトラーや東条英機のごとき人物が現れる危険はいつの時代でも存在する。


江戸時代の歴代の将軍の老中・大老などの幕閣官僚も、この「気受け(きうけ)」は大いに気にしていた。

それは、当代将軍の世間の「気受け(きうけ)」は幕閣官僚の働き次第だからで、将軍に恥じをかかせられないからだ。

そして「気受け(きうけ)」の最大要件は、景気対策・経済政策の成否である。

それで、「田沼意次の政治 」、「新井白石と正徳の治」、「享保の改革」、「寛政の改革と天保の改革」等々の経済政策(気受けたいさく)が数えられる。

その経済政策の一つが、貨幣改鋳(かへいかいちゅう)である。


貨幣改鋳(かへいかいちゅう)とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させる事である。

目的の一つは財政政策で、支出の増加により悪化した財政の補填、大火や地震などの災害復興の為の費用、戦費や隊の維持費などを捻出する為に行われた。

改鋳によって貴金属の含有量を減らして以前より貨幣量を増やし、増えた分を益金(シニョリッジ)として得る事を目的として行われるものが多かった。

もう一つの目的は「気受け(きうけ)」に対する施策で、金銀不融通(きんぎんふゆうずう/資金の集中滞留)状況に対する対策である。

つまり大商人の倉に通貨が滞留して市中経済の活発を阻害した場合に、新通貨の貴金属の含有量を減らし価値を落とす事で、商人の手持ち旧通貨が差損を出す方策で強引に商人の消費を促す施策を採用した。


この貨幣改鋳に依る経済政策には、正反対の二つの意見がある。

正徳年間に貨幣改鋳を行なった新井白石は、貨幣数量説に基づいて「貨幣量が増加した事が物価の上昇をもたらした」と主張した。

弘化年間に町奉行に再任した遠山景元は、文政から天保期の物価上昇は「貨幣改鋳が原因の一つ」と主張している。

改鋳によるインフレーションは、貨幣価値の下落=貨幣の購買力の低下=平価切り下げとも言われている。

その一方で、改鋳による貨幣量の増加は貨幣の流通を後押しし、市場経済の活性化や拡大を促すとも言われている。

まぁ、この通貨量を増やす政策、現代の日本銀行がマイナス金利政策まで踏み込んだが、時の総裁がほぼ太平洋戦争と同じ期間の三年八カ月経過して「もう任期中には目標を達成できない」と匙を投げたほど理屈通りには行かないものである。



紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、徳川家康の十男・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)を家祖とし、常陸国々主家(常陸藩)として設立、駿府藩を経て紀伊国へ移封された。

紀伊国へ移封された後は、紀伊徳川家とも称された徳川御三家のひとつとして、紀州藩歴代の藩主だった。

紀州徳川家は、当初常陸国々主家(常陸藩)に封じられて経緯に因み、頼宣(よりのぶ)の子孫は代々常陸介(ひたちのすけ)に叙任された為、「徳川常陸介家」とも称された。

徳川家の歴代将軍の中でも、「暴れん坊将軍」と言うテレビドラマまで出来て、水戸黄門と双璧の人気を誇るのが、徳川八代将軍・徳川吉宗である。

徳川吉宗は、「享保の改革(今で言う政治の構造改革)」を行なった人物で、幕府の構造改革に唯一成功した将軍だった。

吉宗が徳川将軍宗家の後嗣に入り、新たに田安徳川家と一橋徳川家を設立、後に吉宗長男・九代将軍・徳川家重が自ら次男に清水徳川家を加へて御三卿を創始した事に拠って紀州家の血筋は大いに繁栄した

この為、吉宗以降の将軍家・御三卿から更に大名家に養子に出た者の数も非常に多い。


この八代将軍・徳川吉宗が出現する前の六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は在位二年間、第七代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)は在位三年間と短かったので、在位二十九年間と永かった五代将軍・徳川綱吉の世から物語を始める。

五代将軍・徳川綱吉の治世時の天皇は、第百十二代天皇・霊元天皇(れいげんてんのう)で、皇室再興と独自の政策展開を目指した為に幕府と距離をとる事が多く、本来の序列を無視して関白に腹心である右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させる離れ業を行っている。

霊元天皇(れいげんてんのう)は野心家だったが天皇家には武力が無く、時の将軍・徳川綱吉は朝廷尊重を掲げて御料(皇室領)を一万石から三万石に増額し献上し、公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増していた為、霊元天皇(れいげんてんのう)と将軍・徳川綱吉とは当初比較的安定した朝幕関係を構築していた。

所が、霊元天皇(れいげんてんのう)が皇位を譲って院政を始め「仙洞様」と呼ばれるようになる頃、将軍・徳川綱吉はその治世の後半、「生類哀れみの令」など後世に悪政と言われる政治を次々と行うようになって仙洞様の朝廷側も幕府の将来を案ずるようになる。

院(仙洞様)は、譲位した帝(東山天皇)に対して「何か策を講じよ」と命ずる。

国中に不満が溢(あふれ)れていた。

延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)に始まり、元禄大地震(げんろくだいじしん)、宝永大地震(ほうえいだいじしん)、富士山宝永の・大噴火と、度重なる天変地異の恐れをなした将軍・綱吉が、「生類憐れみの令」を始めとする後世に「悪政」と言われる政治を次々と行い、誰の目にも徳川政権が心もとなく成っていた。

有る日の事、政務所と内裏の間に在る隠し部屋で、帝(東山天皇)と幸子皇后父の有栖川宮幸仁親王がこんな会話を交わしていた。

「さて、院(仙洞様)に申し付けられて困っておじゃる。どこぞの方に徳川はんと代わって貰うにしても血がぎょうさん流れますなぁ。」

「お上(東山天皇)の仰せの通りでおじゃります。」

「戦がまずぃなら、たれぞを徳川はんに押し込んでたもれ。」

「ほな、七代生母の月光院(げっこういん)を通じて紀州の里者がお上のおぼしめしに適いましょう。」


紀伊半島の、山深い里で修行を積んでいた由利を、お頭が呼び出した。

由利が数え歳で「十七歳に成ろうか」と言う春先の事で、お頭が、里一番の美形を誇る由利に白羽の矢を立てたのである。

「すると、わたくしに紀州(徳川光貞)様のお子を為せと仰(おっしゃ)るのですか?」

「如何にも。既に手筈は整えておる。」

「我一族は、紀州様に仕官のお望みでもあるのですか?」

「いや、然(さ)るお方のたってのご所望でな、このお役目はお由利を持って他に代え難しじゃ。」

「然(さ)るお方様とは・・・」

「恐れ多くも、お上(後西天皇/ごさいてんのう)の弟君・有栖川宮・幸仁親王さまじゃ。」

有栖川宮・幸仁親王は後西天皇(ごさいてんのう)の弟で、紀州には熊野神社行幸の代参詣を名目に度々訪れ、帝の草として細々と命脈を繋いでいた紀州・賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)との繋ぎをしている。

於由利は、その紀州・賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の端だった。

「お頭の下知なれば、有栖川宮様のご所望に於由利も従いまする。」

「皆思いは同じじゃ。将軍家乱れるは戦乱を招く故、後白河天子様の御世の源義経様の古事に習って然るべき方をお育てしたいと言う目論みじゃで、このお役目心してな。」

「されど、為したるわ子が将軍家を継がれるとは限りませんが・・・・」

「心配無用じゃ。多くの者がこの企てに加担しておる。手筈は全て整っている。」

「判りました。光貞様のお子を為しますが、如何にしてお近くに寄りましょうや?」

 「案ずるな、湯殿でお仕えするように段取りは着いておる。後は於由利のその美形が役に立つわ。何より湯殿なれば、光貞様とも互いに裸の仕儀故、話は早いわ。精々勤めてくれい。」

「そこまで皆様の御手配が・・・承知致しました。」

於由利はお頭に伴われて熊野街道(小栗街道)を京の都へ上り、有栖川宮の居宮で三ヵ月ミッチリと女中行儀見習いをして作法を身に付け、紀州に戻って来た。

その後、帝の草として紀州家の成立以来凡そ百年近く、紀州家の内に張りめぐらされた賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の縁の力で、於由利は紀州家のお端女中に奉職する。

賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の紀州家内の影響力は強く、於由利は一年後には当主・徳川光貞の湯殿番を務める所まで食い込んでいた。

六代将軍・徳川家宣の側室から七代将軍・徳川家継の生母に成った月光院の実父は、元加賀藩士(前田家浪人)で浅草唯念寺の住職・勝田玄哲(かつたげんてつ)と言い、五摂家のひとつ近衛家の関白・近衛基熙(このえもとひろ)の姫から嫁いで来た第六代将軍・正室の天英院とは出自の格が違った。

生まれは天英院の方が上だが、月光院は将軍生母である。

本人達にさほどその気が無くとも、江戸城の内(大奥)も外(表御殿)も「利用しょう」と言う周囲の者が放っては置かない。

天英院と月光院は、「大奥の主導権を握ろう」と確執する。



興味深いのは徳川幕府で始めて「宗家」の伝統が途切れた将軍と言う事で、つまり、それまでは二代将軍で在った秀忠の息子の血統が代々将軍職を勤めてい所、その血筋が途絶え、御三家の中から後釜を据える事になった事である。

しかしこの代変わり、吉宗が並みのお坊ちゃん将軍でない庶民派育ちであった所に、改革成功の秘密がある。


紀州藩主・徳川光貞は、湯殿に控えていた女中(湯殿番)に興味を持った。

上半身裸で乳房は露(あらわ)、下半身は湯文字(腰巻)一枚が湯殿に仕える女中の姿で有るが、見ると飛び抜けて美形だった。

湯殿で、女中(湯殿番)が光貞の身体を清めるのは別に変わった事ではない。

歳の頃十七〜八の、一見純朴そうなその女中(湯殿番)は、恐る恐る光貞に手を伸ばし、背中から垢を落し始めた。

光貞は、「ハッ」とした。

その、背中を擦(こす)る手が意外と力強く、気持ちが良かったのだ。

「そちの名は、何と申す?」

思わず、光貞は女中の名を問うた。本来なら、藩主が湯殿で女中(湯殿番)の名を問うなど先例が無い。

「恐れながら、於由利と申します。」

そそと裸身をにじり、光貞の背中から左腕に清める場所を移動しながら、恥じらいを浮かべてその美形の女中が答えた。

光貞は「於由利か・・・」と、独り言のようにその名を反復すると、そのまま黙り込んだ。

黙って身を委ねていた光貞は、ハッとした。

普段の女中(湯殿番)なら腕から胸と清め進んで、股間も糸瓜(へちま)か布で遠慮勝ちに清めるのだが、そのお由利と名乗る女中は、両手で包み込むように光貞の一物(いちもつ)を握って扱(しご)き始めたのだ。

一瞬、「この娘、作法を知らないのか、思惑有っての仕儀か。」と光貞はいぶかったが、それは刺激に圧し潰されていた。

柔らかい於由利の手で扱(しご)かれた光貞の男の物は、力をみなぎらせて不覚にも臨戦大勢に入っていたのだ。

光貞は於由利の手を掴んで立ち上がらせ、「予の情けを受けよ」と命じ、有無を言わさず湯船の縁(へり)に両手を着かせた。

観念したようにジッとしている於由利の湯文字を捲り下げると、白い尻肉が踊り出て、尚更光貞の欲情を高まらせる。

後ろから於由利に入って行ったが、於由利は光貞に身を任せて、為すがままだった。

光貞としても寝所以外での戯れは刺激的だった。

大いに満足して、光貞は於由利を愛妾に加える事にした。

やがて、於由利と言うその愛妾が目論見通りに男児を身ごもり、千六百八十四年(貞享元年)紀州吹上の若山吹上屋敷(御誕生長屋)にて出産する。

男児は源六(吉宗・幼名)と名付けられ、生まれると直ぐに 刺田比古神社(岡の宮)の神主の手を経て家臣である加納(五郎左衛門)久通の屋敷へ送り届けられ、この屋敷で五歳まで育てられた。

つまり幼年期の源六(吉宗)は家老の元で育てられ、城内では育っていない。

新之助、頼方と名前を変えた「源六(当時は新之助と呼ばれていた)」は、十四歳の時(千六百九十七年・元禄十年)に、将軍・綱吉(五代将軍)に越前国(福井県)丹生三万石を与えられ、和歌山城に引き取られ部屋住みのまま紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主と成って松平頼方を名乗る。

二代藩主父・光貞が隠居し、家督を長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)継いだ頃から、何か、闇の大きな力が働いていた。

千七百五年(宝永二年)長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)が僅か八年の治政で急死する。

次兄の徳川頼職(紀州藩第四代藩主)が急遽後を継ぐのだが、同年(宝永二年)のうちに隠居していた父・光貞、やがて頼職までが半年のうち(百日足らず)に病死した。

その不幸続きの為に、紀州和歌山城に在って部屋住み庶子の四男坊、葛野藩のお情け不在藩主だった松平頼方(吉宗)は二十二歳で紀州藩第五代藩主に就任する。

松平頼方は、藩主就任時に五代将軍・徳川綱吉から一字を貰い、名を吉宗と改めて徳川吉宗を名乗り、朝廷より左近衛権中将に任じられて従三位に叙せられる。

吉宗は翌年(千七百六年・宝永三年)には二品親王・伏見宮貞到親王の王女・理子(真宮理子姫)を正室として迎えている。

それにしても、紀州藩主・徳川綱教(三代藩主)が亡く成ると前藩主・光貞(二代藩主)、頼職(四代藩主)が「相次いで亡く成る」と言うのは如何にも不自然な謎である。

徳川吉宗が紀州藩主に就任すると、今度は徳川本家で代替わりが始まる。

千七百九年(宝永六年)五代将軍・徳川綱吉が六十四歳で亡く成り、六代将軍・家宣が宣下を受ける。

五代・綱吉の後を継いだ六代将軍・家宣が将軍就任僅か三年目の千七百十二年(正徳二年)に死去し、嫡子・家継が七代将軍を継ぐ。

所が、その僅か四年後の千七百十六年(正徳六年)その七代将軍・家継が八歳の幼さで病死する。

吉宗三十三歳の時、徳川将軍家の血筋途絶えたのを期に、吉宗は将軍候補に浮上八代将軍推挙の話が廻って来る。

そしてその頃、ライバル尾張藩では五代藩主・徳川五郎太(幼名)が三歳にして家督を相続したものの、間もなく突然死で亡く成り、毒殺説が囁かれたりした。

尾張藩五代藩主・徳川五郎太の後を、徳川継友(尾張藩・五代藩主)が継いで将軍ライバル候補に浮上していたが、第六代将軍・徳川家宣の正室・天英院(熙子)の最終的な判断で幕閣合議の上、紀州藩主・徳川吉宗が徳川将軍家(本家)を継ぐ事になったのである。

この経緯が「唯の運命だ」とすれば、吉宗は驚異的な強運の持ち主である。

この時代、藩主や将軍が次々に死ぬのは珍しい事では無いのかも知れないが、それにしても吉宗の将軍就任に取って邪魔な存在が余りにも都合良く亡く成っている。

そこで吉宗の改革の成果裏に、「何かあるのではないか?」と推測出来るのである。

吉宗は、紀州藩士の内から名も無い軽輩者をばかり二十数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。

この軽輩紀州藩士とされる側役達が吉宗改革の手足として活躍するのだが、余所者が突然やって来て既得権益でガチガチに固まっていた幕府体制を洗い出して改革するには、軽輩者の側役が実は表面に出ない「相応の諜報能力を備えていた」と言う推測が成り立つのである。

この筋書きを描いたのは、並大抵の者ではない。

相応の地位を持ち、闇の力を動かす人物であるのは想像に硬くない。

この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋である事を物語っている。

恐らく家臣の加納家も加茂郷の出であるから、賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。

吉宗の傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通は、賀茂流・松平氏(徳川氏)の影人ではないだろうか?

そして恐れ多くも、朝廷からの何らかの働きかけで動いていた可能性がある。

吉宗幼年時の「源六」が育てられた加納氏は、三河国加茂郡加納村出身である。

加納久直の時に徳川氏に仕えて代々紀州藩に属し、孫の加納(五郎左衛門)久通の代に「源六(後の徳川吉宗)」の傅役(おもりやく)と成り、主君「源六(後の徳川吉宗)」の出世に伴って久通も出世をする。

加納(五郎左衛門)久通は、紀州藩主・徳川吉宗の将軍就任に従って江戸城に入り、伊勢国内で領地千石の直参旗本、翌年下総国相馬郡内で千石加増され計二千石となる。

千七百二十六年 (享保十一年)に伊勢国内と上野国内で八千石を与えられ、伊勢八田で合計一万石を領する江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世する。

加納(五郎左衛門)久通は、千七百四十五年(延享二年)の吉宗隠居の際に若年寄に任じられている。


見る角度を変えておさらいをする。

吉宗は、徳川御三家の紀州藩第二代藩主・徳川光貞の四男として、側室・於由利の方との間に生まれる。

母は巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)である。母の実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢(こせ)氏の末裔を称する素封家であった。

巨勢(こせ)氏は、大和国高市郡巨勢郷を本拠とした古代豪族・巨勢臣(飛鳥時代の有力氏族)で、許勢、居勢とも書く。

天智天皇御崩御の後起こった「壬申の乱」で大友皇子側に付き、大海人皇子に敗れ、乱後、刑死するまでは朝廷に大きな勢力を持つ名家だった。

しかし、この吉宗の生母・於由利の方は、巨勢(こせ)氏の出自に疑問がある。

何よりも不思議なのは、江戸幕府安定期の将軍生母でありながら、その於由利の方の墓が何処にも存在しないからである。

墓が存在しない事から推測されるのは、「巨勢六左衛門利清の娘」は、世間体の為の「便宜上の親子関係ではなかったのか?」と言う疑問である。

なぜなら、実家の巨勢(こせ)氏は、紀州の大地主で、立派な墓の一つも作れない訳は無い。

ましてや、紀州藩が墓を作らないのはそれこそ罰当たりのはずである。

それが無い所に、将軍生母として「何か秘すべき物があった」と考えざるを得ない。

現実には、紀州藩主の母・側室の実家としては、身分が違い過ぎた(百姓の娘であった。流浪者の連れた娘だった。)とも言われる。

和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、「湯殿に於いて手がついた」と言う伝説は有名である。

母の身分に問題があった為か、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られたが、その後も部屋住みの身分だった。

この境遇が、後の名将軍の「素養を育てた」と庶民が認め、この辺りが、吉宗将軍庶民派育ちの大衆人気の一つではある。


これには最初から大きな影の力が働いている。

加納(五郎左衛門)久通の屋敷から家老に預けられた新之助(吉宗)には、城に引き取られるまでの幼年期の九年間(五歳から十四歳まで)、傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通を初め、まるで一挙手一投足をも見逃さない影の教育係が付き纏(まと)っていた。

新之助(吉宗)が彼らに教えられたのは、正統派の帝王学である。

当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、由利が紀州藩主・徳川光貞の種を宿す所から周到綿密に練られた計画は実行され、着々と邪魔者が消され、吉宗が将軍に上り詰めた後の治世方法まで若き日々より伝授していた。

それで無ければ、部屋住みとは言え将軍家に繋がる若君(新之助)は甘やかされて育つ筈で、若君(新之助)が名君足り得るのは難しい事である。

この部屋住みの四男坊が、「運命の悪戯(いたずら)」とも言うべき強運(幸運?)の連続(本人に幸運だったかは判らないが)で、「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と周囲から次々に上位の立場に押し上げられて行く。


吉宗十四歳の時、徳川綱吉(五代将軍)より越前国(福井県)丹生三万石の藩主(葛野藩主・松平を名乗る)を賜り、そのままでは小藩主で終わる運命だった。

所が、父・光貞と兄二人の死後、紀州本家に呼び戻されて(と言っても現実には紀州在住で、越前には赴任しては居ない)紀州藩主を継いだ。

紀州藩主と成った吉宗は、表には出ない影人の協力の下で既存利権勢力を排除しながら大胆な藩政改革に乗り出す。

この辺り、現在のどこぞの国でも最も必要な事であるが、トップが既存利権勢力側ではいかんともし難い。

吉宗は紀州藩主時代の十一年間を藩財政の再建に努め、苦労の末に大成果を挙げて藩の財政を立て直した。



吉宗をスペアーとして分家温存した徳川綱吉(五代将軍)は、三代将軍家光の四男として生まれたが、分家して上野国館林藩主(所領は二十五万石)として松平姓を名乗っていた。

兄・家綱(五代将軍)に世嗣の子供が無かったので、家綱が四十歳で死去すると、綱吉は将軍宣下を受け五代将軍となる。

綱吉が、吉宗十四歳の時に越前国(福井県)丹生三万石の藩主に据えた理由は、自らのスペアーとしての将軍への経緯経験が有ったからではないだろうか?

少し前の時代に遡るが、この五代将軍・徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の治世の前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられている。

しかし治世の後半は、悪名高い「生類憐みの令」など、迷信深い悪政を次々と敷き、「犬公方(いぬくぼう)」綱吉に対する後世の評判は悪い。

実は、第五代将軍・徳川綱吉は、天変地異に見舞われた不運の将軍である。

千六百七十七年十一月四日(延宝五年)に日本の千葉県の房総半島沖、太平洋の地下を震源として発生した地震を「延宝地震」とも延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)とも呼ばれる。

地震の規模はマグニチュード八と推定され、揺れは顕著でなかったが、千葉県、茨城県、福島県の沿岸部に大津波が襲来し被害は流潰家千八百九十三軒、死者数五百六十九人と伝えられている。

この十一月の延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)から六ヶ月半ほど前の四月半ば、三陸沖地震(さんりくおきじしん)の範疇に在ると想われる「延宝十勝沖(陸中)地震」が発生している。

「延宝十勝沖(陸中)地震」は、現在の青森県東方沖(三陸沖北部)で発生していて、マグニチュード七・五程度と考えられている。

延宝(えんぽう)は日本の元号の一つで、この時代の天皇は霊元天皇、江戸幕府将軍は第四代・徳川家綱(いえつな)、第五代・徳川綱吉(つなよし)の代だった。


千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて大地震に襲われ、甚大な被害を出している。

元禄大地震(げんろくおおじしん)は、五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が在任した千七百三年(元禄十六年十二月三十一日)午前二時頃、関東地方を襲ったマグニチュードは八・一と推定されている大地震である。

震源は千葉県・房総半島南端の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。

元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災とは同型である」と解明されその地震以前の関東地震に該当すると考えられている。

但し、この元禄大地震(げんろくおおじしん)の地殻変動は、大正関東地震(関東大震災)よりも大きいもので在った。

大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は「沖合の小島から地続きの岬に変貌した」と言う。

相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼした。

また、東海道の諸宿場でもこの元禄大地震(げんろくおおじしん)で家屋が多数倒壊した。

上総国を始め、関東全体で十二か所から出火、倒壊家屋約八千戸、死者約二千三百名、被災者約三万七千人と推定される。

この地震で三浦半島突端が約二メートル弱、房総半島突端が約三・五メートル隆起した。

また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録され、京都でも有感であった。

江戸市中よりも相模湾沿岸で家屋の倒壊が著しく、震度七と推定される地域も相模湾岸に集中した。

江戸での被害は比較的軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た。

平塚と品川で液状化現象が起こり、「朝起きたら一面泥水が溜っていた」などの記録が残っている。


甚大な被害を出したこの大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は、陰りを見せ始める。

所が、一度の大地震でも大変な事なのに、徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は、巨大地震が頻発した時期である。

僅か四年後の千七百七年(宝永年間)、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永大地震」に見舞われる。

元禄大地震(げんろくおおじしん)の四年後の千七百七年(宝永四年)にはマグニチュードは八・四〜八・七と推定される宝永地震も発生している。


宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。

そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。

「宝永の大噴火」は、数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。

延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)に始まり、一連の天変地異である元禄大地震(げんろくおおじしん)と宝永大地震・宝永大噴火(ほうえいだいふんか)に見舞われた第五代・綱吉(つなよし)は、すっかり信心深く成って「生類哀れみの令」の悪名を残す。



犬は神の使い(狼=大神)であり、確かに「生類憐みの令」は悪法だが、将軍在位中に次々と天変地異に見舞われれば、「何かの因果か?」と、徳川綱吉が迷信深くなるのも頷ける話しでは在る。

勿論、この時代の日本に「地殻変動」などと言う地勢学上の概念などないから、「神がお怒りに成っている」と、綱吉が不吉がっても無理は無い。

関東・東海・南海・東南海連動型地震は、今でこそ百年〜百五十年周期で連動発生する事で知られているが、元禄・宝永の江戸期に生きた第五代将軍・綱吉には「何かに祟(たた)られている」としか考えられなかったのである。

話を判り易くする為に、将軍・綱吉を襲った治世上の不幸(天災)を考慮せず、理不尽な法律で庶民を苦しめた事だけ後の世に描かれる不幸な将軍でもある。

第五代将軍・徳川綱吉の代に側用人から老中格側用人、大老格(左近衛権少将)側用人として権勢を振るった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれている。

当初、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕え寵愛を受け、藩主・徳川綱吉が第五代将軍となるに随って当時柳沢保明(やなぎさわやすあき)を名乗っていた吉保(よしやす)も幕臣となり小納戸役に任ぜられる。

この綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、当時の慣習に拠る近習(稚児小姓)の男色(衆道)関係も疑える。

綱吉の寵愛により柳沢保明(やなぎさわやすあき)は、頻繁に加増され千六百八十八年、大老に拠る合議制から将軍親政をもくろむ綱吉に引き立てられて、新設された側用人に就任し禄高も一万二千石と加増されて大名に昇る。

二年後に二万石加増して三万二千石、その四年後には四万石加増されて七万二千石・老中格の武蔵国・川越藩主(埼玉県川越市)となる。

その後柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、綱吉の諱の一字を与えられ、それまで名乗っていた柳沢保明(やすあき)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と名乗っている。

俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に柳沢吉保が「母子の身柄を預かった」とも言われている。

事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われている。

染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。

綱吉と吉保(よしやす)が男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。

その側室・染子の閨房(けいぼう/性行為)での睦言が、将軍・綱吉を側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が「操っていた」とされ問題に成る。

その為に将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、「御添い寝」として将軍の寝所に泊まらせて寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを「尽く報告させる事とした」と伝えられている。

この「御添い寝」は、明治維新で「江戸幕府が滅亡するまで続けられた」と言う。



徳川綱吉は、ちょうど徳川光圀とほぼ同時代を生きた将軍で、治世中に有名な忠臣蔵(元禄・赤穂事件)が発生し、「片手落ちの裁可を下した」と批判された。

ご存知赤穂義士の討ち入りの顛末は、毎年の様に十二月十四日前後にテレビ放映されるので経緯及び詳細は割愛する。

大まかに言うと、高家筆頭・三州(三河国)・吉良家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)と播州(播磨国)赤穂・浅野家の浅野長矩(あさのながのり)の間で、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、江戸城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件が発端である。

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔であり、鎌倉幕府の有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら足利将軍家の近臣として仕えて生き延び、戦国期は同門でもある今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄され盛衰を繰り返しながら江戸期を迎える。

千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家筆頭の家格を与えられ、赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。

ただし吉良家には上州白石にも千二百石知行地があり、陣屋を構えていた所から上野介(こうずけのすけ)を賜った。

吉良家は、出自を本姓は源氏(清和源氏)の足利氏に遡る名門で、本拠地の三州は駿河の戦国大名・今川氏の発祥の地であり、今川氏と吉良氏は同族である。

元禄赤穂事件の一方の当事者・吉良義央(きらよしひさ)は、江戸時代前期の高家肝煎(こうけきもいり)格の旗本だった。

従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)の官位・官職などを賜っていた為、吉良上野介(きらこうずけのすけ)と呼ばれる事が多い。

千六百四十一年(寛永十八年)九月、高家旗本四千二百石・吉良義冬(きらよしふゆ)と幕府大老・若狭国小浜藩主・酒井忠勝の姪(旗本寄合・酒井忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれるが、生地については陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれとされる説もある。

また、父・義冬(よしふゆ)の母が高家・今川家出身である為、義央(よしひさ)は今川氏真(いまがわうじざね)の玄孫にあたる。

弟に旗本五百石・東条義叔、旗本切米三百俵・東条義孝・東条冬貞(義叔養子)・東条冬重(義孝養子)・孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の五人がいる。


千六百五十三年(承応二年)、吉良義央(きらよしひさ)は将軍・徳川家綱に拝謁を許され、四年後の千六百五十七年(明暦三年)の暮れには従四位下侍従兼上野介に叙任される。

翌千六百五十八年(万治元年)春、義央(よしひさ)は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚する。

吉良氏が古くからの婚姻関係によって扇谷上杉氏の血を引いており、義央(よしひさ)は上杉富子との間に二男四女(長男吉良三之助、次男吉良三郎、長女鶴姫、次女振姫、三女阿久利姫、四女菊姫)に恵まれる。


高家としての吉良氏に生まれた吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、千六百五十八年(万治二年)の十七歳から父・義冬(よしふゆ)に伴われて出仕を開始する。

二十一歳で初めて幕府のお役目を拝命、千六百六十二年(寛文二年)八月に大内仙洞御所造営の御存問の使として京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜り、以降、生涯を通じて年賀使十五回、幕府の使九回の計二十四回上洛した。

千六百六十三年(寛文三年)正月、義央(よしひさ)は後西上皇の院政の開始に対する賀使としての二度目の上洛に際して従四位上に昇進、若干二十二歳だった。

義央(よしひさ)の高家としての技倆が卓越して、それを認めた将軍・綱吉が寵愛した為か部屋住みの身でありながら使者職を行い、二十四回もの上洛は高家の中でも群を抜いていた。

そうした中、千六百六十四年(寛文四年)の初夏、妻・上杉富子の実家・米沢藩上杉家が存亡の危機を迎える。

米沢藩主・上杉綱勝が嗣子無きまま急死した為に改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、義央(よしひさ)長男・三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、三十万石から半減の十五万石への減知で危機を収束させた。

以後、義央(よしひさ)は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、度々財政支援をさせた他、三人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとする。

長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕(つがるまさたけ)の室、四女菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている。

但し薩摩島津家に嫁した鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も夫・忠平と死別するが、後に公家・大炊御門経音の室となって一男一女をもうけている。

父・義冬が健在だった為に、初出仕の十七歳から十一年間部屋住みだった義央(よしひさ)は、千六百六十八年五月、義冬の死去により二十八歳で漸く高家・吉良氏の家督を相続する。

千六百八十年(延宝八年)、義央(よしひさ)は四十歳で高家の極官(上限)である左近衛権少将に任官し、その三年後の千六百八十三年(天和三年)には大沢基恒、畠山義里とともに新設の格式・高家肝煎(こうけきもいり)に就任している。

さて、高家肝煎(こうけきもいり)・吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、江戸城内大廊下(松の廊下)で起こったとんでもない事件の当事者に成る。

その事件は、千七百一年(元禄十四年)二月四日、播州播磨赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)と伊予吉田藩主・伊達村豊の両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春・霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの饗応役を命じられた事に始まった。

実はその際、義央(よしひさ)は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して二月二十九日まで江戸に戻らなかった。

この間、浅野長矩(あさのながのり)は二度目の饗応役であった為に過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、過ってとは変更になっている事もあって手違いを生じていた。

この吉良義央(きらよしひさ/上野介)不在中の準備に於いて擦れ違いが生じた事が、事件の遠因と見る向きもあり、更に三州吉良、播州赤穂ともに塩田経営が盛んで、言わば両者は「製塩産業のライバルだった」とも指摘されている。

また大名・播州赤穂浅野家の五万三千石と比べれば、高家旗本・三州吉良家は四千二百石で知行は約十三倍、格式は高いが実入りが少ない高家としては儀典の指南料は暗黙の常識ながら、「長矩(ながのり)がこれを拒んだ」と言う説もある。

いずれにしても、浅野長矩(あさのながのり)の刃傷の原因は諸説あり、いずれも決定打には至らない。


一方の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)は、浅野長政を始祖とする安芸広島藩四十二万石・浅野家の傍流の一つで赤穂・浅野家五万石の藩主だった。

播州(播磨国)・浅野家は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の曽祖父・浅野長重(あさのながしげ)は浅野長政の三男でる。

第二代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、家康、秀忠の二代の将軍の信任を得て下野国真岡藩二万石を与えられ、その後父・浅野長政が隠居料として与えられていた常陸真壁藩五万石を相続した後、その嫡男・長直の代に赤穂藩主へ転封されていた。

千七百一年(元禄十四年)三月十四日、午前十時頃、吉良義央(きらよしひさ/上野介)は江戸城内大廊下(松の廊下)にて浅野から額と背中を斬りつけられた。

長矩(ながのり)はその場に遭遇した旗本・梶川頼照らに取り押さえられ、義央(よしひさ)は高家・品川伊氏・畠山義寧らによって蘇鉄の間へ運ばれ、外科医・栗崎道有の治療のおかげで命は助かり額の傷は残らなかった。

その後義央(よしひさ)は、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、吉良は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えていると、長矩(ながのり)を取り調べた目付・多門重共の「多門筆記」に記載がある。

浅野長矩(あさのながのり)は、事態に激怒した将軍・徳川綱吉の命により、即日切腹となる。

この吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷(にんじょう)事件が、ご存知主君仇討ちの美談、赤穂義士四十七名の吉良邸討ち入りに発展したのだ。


年の暮れも押し迫った旧暦の元禄十二月十四日(新暦では翌一月末頃)の雪の降りしきる日、元家老・大石内蔵助良雄以下赤穂義士四十数名(連絡係りなどで討ち入り参加しない者在り)が吉良邸へ討ち入り、吉良上野介義央を討ち果たす。

その吉良の首を泉岳寺の主君・浅野内匠頭長矩の墓前に捧げた後、大目付の下に出頭、口上書を提出し幕府の裁定に委ね、細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の四大名諸侯の屋敷へお預かりとなり、五十日に及ぶ議論の末に幕命により切腹した。


大石蔵之助には「昼行灯(ひるあんどん)」と言うあだ名が在ったが、ボーッとして居る男を見た目だけで甘く見て、相手を舐(な)めては駄目である。

彼は熟慮中で、セコセコと「働いて居る振りだけをする者」よりは余程まともな男かも知れない。

がさつな人間に限って、見た目でボーッとして居る人間を許せないが、言い換えれば「見る目が無い」と言う事に成る。

ここからが肝心だが、将の器の部下を見抜けずにボーッとして居る部下にイライラする男も、大した人物では無い事に成る。


元禄赤穂事件は「義挙」と称えられている。

しかしながら、正直この美談の吉良邸討ち入りは、我輩に言わせば当時の仇討ち作法としては「武士として尋常な勝負」とは言い難い矛盾を感じる。

「それも兵法の内」と言えばそれまでだが、不意討ちの討ち入りの上に一方は頭巾に兜や鎖帷子(くさりかたびら)を着した戦(いくさ)支度の武装に対して、不意討ちされた吉良方は武器を手取るのに精一杯で、それが死傷者に大差がつく結果となって勝負は着いている。


江戸時代の高家は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職であり、また、この職に就く事ができる家格の旗本を指して高家旗本(こうけはたもと)と称す。

役職としての高家を「高家職」と記す事があり、高家旗本と言う家格の内、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。

この高家を江戸幕府に置いたには、徳川家・初期歴代将軍の貴家趣味(きけしゅみ)に起因する所が大きく、特に徳川家康の貴家趣味は有名で、儀式を行う高家として没落した名門武家を数多く登用した。

貴家趣味(きけしゅみ)とは、高貴な家柄の人物と交流したり、また能力・実態以上に重く用いる事を好む事で、歴史学的には日本史に於ける血統至上主義が如実に現れたものであり、没落した貴家の出身者を家臣として迎えて自己の地位を高めようとする狙いもある。

つまり江戸幕府から朝廷や公家との交際指南役として公家に近い扱いを受けたのが、室町幕府で高級官僚を務めた経緯を持つ没落名家などから幕臣に引き立てた家が高家旗本である。

また、徳川家康が三州・吉良家(四千二百石)や元駿河国・今川家(一千石)が、高家旗本(こうけはたもと)として幕臣に列したのは他にも訳が在る。

彼らの家が足利系流れであり、事の真相はともかく徳川家も出自を足利系得川家と名乗っていたからである。

この高家旗本以外に、知行一万石に満たないながら特例で参勤交代の特例を江戸幕府から認められた「交代寄合格(大名待遇格)」の旗本が、只の寄合格旗本よりは格式が高かった。



千六百八十三年(天和三年)、奥高家(有職高家)の中から有職故実や礼儀作法に精通している大沢基恒、畠山義里、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の三名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)としたが、高家肝煎となる家は固定されていた訳ではない。

摂津下野足利流・畠山家(能登)畠山民部大輔(はたけやまみんぶだゆう)五千石、河内源氏足利流・吉良家(三河)吉良左近衛権少将(きらさこんえしょうしょう)四千二百石は元禄赤穂事件に依り廃絶、公家・持明院流・駿河名家・大沢家(遠江)大沢右京大夫(おおさわうきょうだゆう)三千五百五十六石。

そして自称平家織田流・大和織田家(尾張)織田宮内大輔(おだくないだゆう)三千石、清和源氏流美濃石津高木西家・高木弾正(たかぎだんじょう)二千三百四石、清和源氏新田流・由良家(信濃)由良信濃守助(ゆらしなののかみすけ)一千石、宇多源氏佐々木流・京極家(近江)京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)千五百石、河内源氏足利流・今川家(遠江)今川従五位(いまがわじゅごい)一千石、などが、有力高家旗本である。

高家は、公式の場に於ける礼儀作法を諸大名に伝授する事も職分であり、その際、相応の謝礼を受ける事が黙認されていたのだが、それは格式が高い為に収入以上の経費を必要とする少禄の高家にとっては貴重な収入であった。

「元禄赤穂事件(忠臣蔵)」で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、僅か四千二百石取りながらも、従四位上左近衛権少将であった。

その「元禄赤穂事件」は、千七百一年(元禄十四年)高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしひさ)が勅使馳走役の播州赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)に殿中で斬りつけられ事件を起こす。

その事件の成敗が一方的に浅野の非を認めるものとなった事から翌年暮れに浅野の遺臣の一団に自宅を襲撃されて討ち取られ高家・吉良家は改易となった事件である。


高家職に就く事のできる旗本(高家旗本)は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護、著名な戦国大名の子孫など、所謂(いわゆる)「名門」の家柄で占められた。

最初期、初めて高家職を務めた大沢基宿は、公家・持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮と言う皇族の末裔を母とする人物である。

次に将軍家から高家に登用した吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも清和源氏流足利家の一族である。

高家の創設の理由として、徳川家康が過っての名門の子孫を臣下に従える事により、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料され、次いで徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」と言う、政権の正当性及び権力誇示と言う見方が強い。

当初の高家は十家に満たなかったが、その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、千七百八十年(安永九年)には二十六家となって以後、幕末までその数は変わっていない。

尚、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就く事はできないのが原則で、高家以外の職に就く場合は一度高家の列を離れて一般の旗本に列してからとなる。



六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相/徳川家光の三男)の長男である。

伯父である四代将軍・徳川家綱(第三代将軍・徳川家光の長男)の偏諱を受けて「綱豊(つなとよ)」と名乗るが、父・綱重の死去を受け十七歳で甲府藩主の家督を継承していた。

四代将軍・徳川家綱に子供が無かった事から、家綱重体の折に五代将軍継承の有力候補になるも三代・家光に血が近い上野館林藩主・綱吉(三代将軍・家光の四男)が五代将軍に推される。

所が、五代将軍になった綱吉にも世嗣恵まれず、挙句に地震や噴火と天変地異に脅かされ寺社に傾倒して「生類哀れみの令」など悪政に到るも信心の効無く、綱吉娘婿・徳川綱教を後継候補にしていた。

その娘婿・徳川綱教が死去した為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)や「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。


間部詮房(まなべあきふさ)は甲府藩主・徳川綱豊(のちの第六代将軍・家宣)の家臣・西田清貞の子として生まれる。

始め西田詮房(にしだあきふさ)と称し猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、千六百八十四年(貞享元年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)の用人になる。

家系が藤原氏・山蔭流間鍋氏で在った西田詮房(にしだあきふさ)は西田から間鍋に改名し間鍋詮房(まなべあきふさ)を名乗ったが、徳川綱豊の命によって間部氏となる。

先代・五代将軍・綱吉が継嗣に恵まれなかった為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)や「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。

詮房(あきふさ)は側衆になり、千五百石加増を皮切りに累次加増され、千七百六年(宝永三年)には、相模国内で一万石の大名となり、後に加増を重ね高崎藩・五万石を得ている。

大名家に於ける「藩主腹心の部下」を醸成するシステムについては大方二つの形態が在る。

その一つが八代将軍・吉宗に代表する傅役(もりやく)・加納(五郎左衛門)久通の様な存在で、今一つは五代将軍・綱吉に代表する柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の様に夜伽(よとぎ/性的奉仕)の衆道(しゅうどう/男色)相手の稚児小姓を務めて腹心の部下に成る方法だだった。

間部詮房(まなべあきふさ)は六代将軍・家宣の四歳年下と言う事で、明らかに後者の「小姓を務めて無二の信頼を得た」と考えるのが無理が無い。



少し前の時代に遡るが、この五代将軍徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡る新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。

間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、後にに幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。



徳川吉宗は、第七代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の六代将軍家宣の正室である天英院に、思っても見なかった将軍職就任を指名される。

表向きは「最も神君に血統が近い」と言う理由だが、紀州藩の財政建て直しの手腕を買われての事だろう。

それほど幕府の財政は逼迫(ひっぱく)していたのである。

吉宗は江戸幕府八代将軍に就任すると、紀州藩主時代の経験を活かし、自ら質素倹約、新田の開発、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの「享保の改革」を行った。


権力を掌握するには、「権謀術策」つまり手段を選んでいては中々達成出来ないのは事実である。

徳川吉宗は「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と出世を重ねる徳川吉宗に、強運だけが有ったとは到底考えがたい。

紀州藩の妾腹の三男坊・徳川吉宗の生母は何故か謎に満ちた存在で、その出自は「作文」と言われて居る。

ここまで読み進めば、ご存知のように紀伊半島随一の大藩・徳川御三家紀州藩はその支配地領域を、古くからの影人達の里領域を重ねて(雑賀)居るか、近接(伊賀)している。

長期政権化して膿が溜まった徳川幕府を、戦乱を避ける形で浄化する為の陰謀工作を、「影人達が企んだ」とすれば、「見事な成功」と言えるのではないだろうか?

証拠は存在しないが、将軍職就任後の「吉宗の治世の成功」を考えれば、出現すべき将軍が出現したように思えるのである。

「天下を掌握する」と言うこの壮大な陰謀が、吉宗の生母が紀州藩主の「妾に収まる以前から始まった」としたら脅威では有るが、それが有り得るのだ。

吉宗の将軍職就任までの経緯を考えれば、父や二人の兄を始めライバルの尾張藩主など、不可解な連続死に拠って吉宗が浮上してきた事は事実である。

そこに、「彼らの仕事ではないか」と疑う影人達の暗躍の可能性が、ジワリと滲んで来るのである。

それであれば徳川吉宗は、強力な闇の手勢を引き連れて、江戸城に入った事になる。

対外的には、将軍交代時の幕閣の混乱を防ぐ為、吉宗は僅かな軽輩を伴って江戸城に乗り込んで来た。

ここの辺りが目の付け所で、吉宗が身一つで将軍に据えられたのであれば、お飾りにされるのが当然である。

所が、一見無力に見えた吉宗は、幕閣重臣のお飾りには成らなかった。

紀州藩(紀州徳川家)から連れて来た既得権益に縁が無い者を公儀隠密探索方(秘密警察)に活用、幕閣の不正を暴き出し構造改革に成功する図式である。

この吉宗配下の紀州以来の公儀隠密探索方存在説は、推測に拠る状況証拠では有るが、既存勢力で固まった幕閣重臣に対抗する為に、吉宗が何らかの「影の力」を持って臨まなければ「改革など出来ない筈」だからである。

現代に於ける各省庁官僚に対しても、この公儀隠密探索方(秘密警察)構想が有って然るべきで、我輩は国会議員の国政調査権の強化と議員配下の議員国政調査官を議員一人に二人位は国費設置しないと、数千人を抱える省庁の牙城に「国会議員は歯が立たない」と思うが、いかがだろうか?

紀州藩主だった八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州より連れて来て側御用取次に使った紀州藩士・有馬氏倫(ありまうじのり)は、播磨の名門だった赤松流(あかまつりゅう)の有馬氏末孫だったが、栄進して伊勢国三重郡に千三百石を与えられた。

その後、その有馬氏倫(ありまうじのり)は、下野国芳賀郡に千石、千七百二十六年(享保十一年)伊勢・下野・上総国内に七千七百石を加増され、翌年には領地の朱印状を賜って事実上一万石の大名となり、江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世し、伊勢西条藩を立藩した。

吉宗は、奇跡的な経緯で将軍職に就き、破綻しかけていた幕府財政を見事に再建した事から「江戸幕府中興の祖」と呼ばれる。

また米相場の安定に苦心した事から、米将軍(八木将軍とも呼ばれる)とも言われる。


江戸期に於ける政治改革は、徳川幕府の政権維持の為に、何度もリセット改革をしているので列挙しておくが、政権内部からの改革は、「常に失敗が多い」と言う事実がある事も判る。

最初は朱子学者・新井白石の千七百九年〜十六年の「正徳の治」で、新井白石/新井君美(あらいはくせき/あらいきんみ)は、江戸時代中期の知行千石の旗本で、朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学を修めた学者である。

白石の幕閤内での身分は「本丸寄合の無役」で、その進言は一々側用人の間部詮房が取り次いでいた。

朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。

「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた財政食い尽くしの「天下りシステム」のような状況だった。

これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。

何故なら、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。

まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?

新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動する」からで、儒学者としての「学者のべき論」など通用しないのである。

日本人の理念では、政治を司る事を「祭り事(政り事)」と呼び、治世は神に代わって行う神事だった。

世間ではその時代の治世を評して「**治政の光と影」と評するが、日本人の心を映す坪庭の文化では、植栽木々や石組に「間(ま)」を設けて「影を創らない事」が絶妙の匠(たくみ)の技である。

「間(ま)」とは空(くう)を意味し、一見無駄な様だが「間(ま)」が在ってこそ調和が生まれて全体が生きて来る。

元々日本人の優秀な所は、細部まで神経を行き届かせる心配りの「物創りの才能」で、つまり名人の仕事はそうした影を創らず「調和を為す事」でなければならない。

ましてや祭り事(政り事)は尚の事、全体の調和を重んじ影を創っては成らないものである。

所が、片寄った思考の学者や権力者(政治家)が偏重した「祭り事(政り事)」をすれば、その政策仕事は調和に欠け、乱暴に「影ばかり」を創った駄作となる。

こうした「間(ま)」を持たない治世は僅(わず)かな勝ち組には光をあてるが、多くの人々から光を奪った悪政で、言うなれば「間抜けの不始末」と言うのが実態なのである。

勿論、世の中には学問の真髄を追及する学者は大いに必要で、そこから進歩は生まれる。

しかしながら的(まと)を絞って学問を狭義で深く追及して行く学者が、全体のバランスや世間の実態に目もくれず、己の学説だけで政治を行う愚を犯しては政治改革など成功する訳が無いのである。

それでは、「間(ま)」とは何だろうか?

人間の脳の働きは、大別すると左右二つに分かれている。

【左脳】は「意識脳」と呼ばれ、理性や計算を担当して「利」を重んじるのに対して、【右脳】は「無意識脳」と呼ばれて本能や感性に関わる言わば「情」を重んじる活動を担当している。

つまり「間(ま)」とは【右脳・無意識脳域】の本能や感性の領域に存在するもので、理性や計算ばかりで「情」の無い治世は「間抜け」なのである。


「正徳の治」に拠り幕府財政が逼迫(ひっぱく)した為、八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」に移行し、千七百十六年〜四十五年の享保の改革は新田の開発・目安箱・公事方御定書制(幕府の改革新法)などを行い、江戸期で唯一改革が成功する。

八代将軍吉宗による「享保の改革」が唯一成功した訳は、本書で吉宗将軍就任の事の次第の真相を述べている通り、一見内部改革に見える「享保の改革」の改革は、実質的にリーダーとその一派が外部から幕府中枢に乗り込んで来て既得権益を駆逐して初めて成し遂げた革命だった。


尚、八代将軍・徳川吉宗と九代将軍・徳川家重の親子は、自分の次男などから後に御三卿(ごさんきょう)と称される徳川宗家の後嗣を目的とした別格の家を立てている。

御三卿(ごさんきょう)は、八代将軍・徳川吉宗が次男・宗武、四男・宗尹(むねただ)を取り立てて別家させた事に始まり、更に吉宗の長男である九代将軍・徳川家重が、自身の次男・重好を別家させる事で御三卿(ごさんきょう)の三家体制が確立した。

この御三卿(ごさんきょう)の分立意図は、徳川将軍家(宗家)に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う事である。

そして元を正せば、従来から将軍家(徳川宗家)の後嗣を出す役割を担って来た徳川御三家と将軍家との血縁関係がしだいに疎遠に成りつつ在った上に、御三家・紀州藩出身の八代将軍・徳川吉宗と御三家・尾張藩七代藩主・徳川宗春との対立にも悩まされたからである。

徳川幕府に在って、この三家の家格は徳川御三家に次ぎ、当主は公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる通例で在った所から「御三卿(ごさんきょう)」と称した。

御三卿(ごさんきょう)は江戸時代中期に分立した徳川氏の一族であるから姓は徳川であり、田安・一橋・清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。

田安徳川家(田安家)は八代将軍・徳川吉宗の次男・徳川宗武を始祖とし、一橋徳川家(一橋家)も八代将軍・徳川吉宗の四男・徳川宗尹を始祖とし、清水徳川家(清水家)は、九代将軍・徳川家重の次男・徳川重好を始祖とする。

以降、将軍家(徳川宗家)に後嗣が無い時は御三家及び御三卿から適当な者を選定する事とされ、十一代将軍・徳川家斉と十五代将軍・徳川慶喜が一橋徳川家(御三家・水戸家を経由)から相続している。

更に大政奉還後の駿河藩主として、田安徳川家から徳川家達が第十六代・徳川宗家を相続している。


御三卿(ごさんきょう)の三家は、幕府からは各家に十万石が給せられて居たが独自の藩は立てず、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって構成されていた。

また諸国に分散していた領地の実効支配は幕府に委ねられて居り、実態は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内としての扱いで認識されて居た。

そもそも御三卿の場合は徳川宗家の後嗣候補として存在し、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕府からの出向と言う形を採って居た為、御三卿の家の構成員はその家の相続自体を目的とはしていない。

為に幕藩体制下では、大名領主が死亡して家督相続者を欠いた場合にはその家(藩)の組織(領地・城地・家臣団)は改易が定めだが、他の家との大きな違いとして家督相続者を欠いても存続する組織だった。

その為に、庶子に限らず嫡子を養子に出す事で例え御三卿(ごさんきょう)の当主に空きが出来ても、将軍家(徳川宗家)の家族・身内として他の大名家に養子に出すなど自在に扱える存在でも在った。


千七百六十七年〜八十六年の九代将軍・徳川家重政権下の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。

何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政に良く似ている」と思うが、いかがか?

田沼意次はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子に第二に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。

父・田沼意行は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。

田沼意次(たぬまおきつぐ)は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石を領する。

その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。

主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第九代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。

力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。

意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。

この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきもので、幕府の財政は改善に向かい、景気も良く成っだ。

だが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れてしまう。

それは、さながら現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義に成って贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。

田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価している。

だが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。

つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、そう遠くない時期に出そうである。



千七百八十四年(天保四年)に江戸城中で時の老中・田沼意次の子息、若年寄・田沼意知に斬りつけて殺害し、反田沼派が台頭するきっかけを作った旗本・佐野政言は足利氏庶流・佐野氏(さのうじ)の子孫の一人である。

佐野氏(さのうじ)は、足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡の佐野庄(現:栃木県佐野市若松町)に土着した佐野基綱より始まる藤原北家秀郷流足利氏の庶流として平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族である。

本宗である藤姓足利氏当主・足利忠綱が志田義広と手を組んだのに対し、佐野基綱は早くから源頼朝に味方した為、頼朝に拠って藤姓足利氏の嫡流が滅亡した後も、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した。

千二百二十二年(承久三年)に発生した承久の乱での戦功で、佐野氏は淡路国に所領を得るが、千二百四十七年(宝治元年)の宝治合戦では三浦氏に与した為、下野国佐野の本領以外は没収され一時没落した。

鎌倉幕府の滅亡後、佐野氏(さのうじ)は足利氏に属し、室町時代を通して鎌倉公方や古河公方に官司として仕え、主として関東の治世に活躍した。

戦国時代になると、古河公方の足利義氏が後北条氏に軟禁されるなど衰退した為、佐野氏も後北条氏の影響下に置かれるようになり、その為、後北条氏と敵対する関東管領・上杉謙信の侵略に度々晒されるようになった。

それでも佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保っていたが、宗綱の戦死後、後北条氏から養子(北条氏忠)を迎えその傘下となる。

その為に豊臣秀吉の小田原平定(小田原の役)に於いて滅亡の危機を迎えたが、佐野房綱(了伯)が秀吉方に味方し活躍した為に存続を許された。

しかし江戸時代初期の佐野家(所領三万九千石)当主・佐野信吉に不行跡が在った為、江戸幕府を開いた徳川氏により改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉を向かえたが子孫は旗本として存続した。



「田沼政治」が、行き過ぎた市場原理政策を採って数々の格差現象が生じ、幕府官僚の腐敗に非難が集中した反省から、千七百八十七年〜九十三年の松平定信による「寛政の改革」では、「質素倹約」と朱子学以外は禁止の思想統一である「寛政異学の禁止」を押し進めた大変厳しい改革をした。

所が、この政策で消費経済が落ち込んで大不況を招き、庶民は朱子学の思想だけでは食べて行けず庶民の生活が困窮して大失敗する。

これは長期政策ビジョンが無く、もぐら叩き的な安易な目先政策の感が強く、大いに稚拙さを感じる。


千七百四十一年〜四十四年の老中・水野忠邦の「天保の改革」では、田沼時代の不の遺産を改善し、行き過ぎた市場原理主義の修正為に「株仲間の解散」や都会に片寄った労働力の強制的な帰農政策(強引な過疎対策)である「人返し令」を行うが、都会に定着した人々には既に帰農すべき故郷の地盤を失っていて不評を買い失敗している。

そして、一旦動き出した市場原理主義を沈静化させる為の「株仲間の解散」についても、危なげな投機ブームは有ったものの、バブル経済時代の大蔵省銀行局長 から通達された「土地関連融資の抑制について」に拠る「総量規制」と同様だった。

つまり、人為的な急ブレーキが本来自然に起きる筈の景気後退を不適切に加速させ、終(つい)には日本の経済の根幹を支えて来た長期信用全体を崩壊させてしまった事と酷似している。

江戸期に於ける改革は、唯一成功した八代将軍吉宗による「享保の改革」以外は、いずれも庶民に一方的な負担を掛ける改革は結果的に失敗している。

政権維持が唯一の目的だったから、「徴税を強化する策に終始」し、結果的に庶民の力を削いでしまったのだ。


徳川吉宗は大奥のリストラに飛び切りの美女を選ばせ、「美女なら生きる立つ瀬もあるだろう。」と優先的に暇(いとま)を出した逸話が残っている。

この伝で行けば、国家公務員上級試験に合格し国政事務を経験した天下の逸材が「再就職に困るから天下り先を用意する。」は、庶民感覚から言えばとんでもない心得違いの言い分である。


過去に民力を削いで成功した政治改革は無い。

まぁ、他の改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。

家康が松平家の継嗣として扱われなかった方の「双子の片割れ(影竹千代)」だった事を前提とすると、家康と紀州藩三男坊・部屋住みだった吉宗の共通点は、比較的自由に世間と接し得る環境で育った事である。

つまり一時は伊豆の国の流人だった源頼朝も同様だが、本当の勝ち組は逆境から伸し上って来る事が歴史の条件である。

国家経済力の基礎は民衆の経済力で、民が貧しい国は、強権政治以外に成り立たない。

まず庶民の「生活の安定」を心掛けた徳川吉宗の改革だけが、唯一成功した事例である。

つまり、田沼政治や現代の小泉改革のように一部に富が偏る強権政治は、間違いなく恨みだけが残る政治手法である。

日本人は、過去の歴史から学ぶ事を知らない。

近頃の政治の失敗は、江戸期の改革失敗を寄せ集めたような稚拙なものである。

どんな政治体制も政治制度も、四十年〜五十年間で腐ってしまう。

何故なら、五十年〜六十年間もすると世代交代が進み当初の理念は忘れ去られ、権力のみが後継者(二世・三世〜と)に継承されて政治体制も政治制度そのものが腐敗して行く。

厄介な事に、この腐敗した政治体制も政治制度も内部から改革し得た試しがない。

革命程度のエネルギーがないと、金輪際改革は達成出来ないのである。

実は、水戸黄門万遊記や徳川吉宗のドラマの大衆受けについて、我輩には日本人の歪みとずるさを感じる。

他国の名も無い庶民が変身するヒーロー物と違う所は、この日本的ヒーロー、「実は偉い人(身分が高い)だった」と言う所である。

つまり、相手が偉い人(身分が高い)であればヘイヘイし、偉くなければ虫けら扱いする「氏族文化」が浸透し、現代でもこの身分が高い者が根拠も無く威張っても「仕方が無い」と許容する傾向は顕著に表れている。

それでいてずるい事に、自分達の不満や苦しみは自分(民衆)では解決しようとせず、「誰か偉い人が解決して助けてくれる」と言う有りもしない事に夢を掛けて、行動は起こさないのが日本の民衆である。

これぞ我が国の「氏神様の成立の成果」と言うもので、つまり本書の第一巻から読み進めた方には直ぐに理解出来るが、氏上=氏神の経緯から「神頼み」も「お上頼み」も同様な感覚で、何かあったら「お上頼み」で「上の者がやってくれる」と、永い歴史の中で感覚的に滲み付いた性(さが)なのかも知れない。



江戸時代の十代将軍・徳川家治の治世時、旗本に火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が居る。

小説「鬼平犯科帳」の主人公としてテレビドラマ化され、現代に知名度が高い人物である。

しかしこの長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)、火付盗賊改役は四十二歳で拝命し八年間勤め上げた知行四百石の小物旗本である。

確かに大物凶悪犯グループを捕らえて庶民の評判は高かったが、幕閣に在って独断専行が多く、上司同僚の評価はイマイチで、知行の加増も出世は無かった。

ただ、長谷川氏としての知名度では宣以(のぶため/平蔵)が、現代では広く知られた存在に違いない。


ここで氏族・長谷川氏を紹介する。

長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、人口三十七万人強で全国三十四位の日本の氏族姓である。

本姓は中臣藤原流で、中臣姓・中原氏、藤原秀郷流、藤原利仁系など幾つかの流れがある。

藤原姓の源流・中臣姓・中原氏系の長谷川氏は、大和国(奈良県十市郡)十市県主(といちあがたぬし)の裔にあたる。


藤原秀郷流・長谷川氏の家系は下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系であり、美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)の家系が先祖とする流れである。

藤原秀郷系長谷川氏は、中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の二系統がある。

この長谷川氏は、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一家である。

尾藤氏流長谷川氏は、佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。

佐藤公清の庶子・公澄の四世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、二十二代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったと言う。

長谷川宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時「美濃長谷川藩(一万石)」を立てている。

この系統は守知の嫡男・正尚のとき三弟の守勝に三千百十石ほどを分与、分割相続により六千八百九十石取りの旗本となったが本家は無嗣断絶し、守勝の分家が存続した。

尾藤氏流・下河辺氏は、小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族である。

下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。

政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだ為、長谷川氏を名乗ったという。

長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。

この法永長者・長谷川氏の子孫が駿河戦国大名・今川氏に仕えた。

その後長谷川正長の時、君主・今川義元が桶狭間の戦いで討死した為没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

長谷川正長には正成・宣次・正吉の三子があり、正成系は千七百五十1石(のち分割相続により減り千四百五十石)で江戸時代を存続した。

この家系の分家から、火付け盗賊改めを勤めた長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が出ている。

正吉系は四千七十石(一時五百石を加増されたが分割相続により減少)で幕末に至った。

尚、三男・宣次系は四百石で続いた。


長谷川氏には、越中国(富山県)の藤原利仁系の家系の長谷川氏もある。

また、在原姓(平城天皇裔)・長谷川党も長谷川氏を名乗り、大和国式上郡長谷を発祥地とされ、法貴寺荘(現磯城郡田原本町法貴寺)を根拠地としたとみられ、長谷川党・法貴寺党とも言われる。

その他として清和源氏満政流を祖とする、今川義元に仕えた摂津清和源氏系長谷川氏の長谷川長久、その子・長谷川長綱の家系、美濃国(岐阜県)の橘氏系の家系が在る。


江戸幕府第十代将軍・徳川家治の時代、出羽国米沢藩に後々まで名君と賞賛される藩主が出現する。

上杉鷹山(うえすぎようざん) / 上杉治憲(うえすぎはるのり)は、領地返上寸前の米沢藩再生の危機を救う江戸時代屈指の名君・米沢藩上杉家の第九代藩主である。

その上杉治憲(うえすぎはるのり)は藩主隠居後の号である(鷹山ようざん)の方が著名である。

日向高鍋藩第六代藩主・秋月種美の次男、幼名は松三郎/勝興(治憲)で、母は筑前国秋月藩の第四代藩主・黒田長貞の娘・春姫だった。

母方の祖母の豊姫が米沢藩第四代藩主・上杉綱憲の娘で、この事が縁で十歳で米沢藩の第八代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。

米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって江戸桜田の米沢藩邸に移り、松三郎は直松に改名する。

千七百六十三年(宝暦十三年)、上杉直松は尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、十七歳で元服して直丸勝興と称す。

元服に際し、直丸勝興は江戸幕府第十代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。

四年後の千七百六十三年(明和四年)、上杉治憲は二十一歳で家督を継ぐ。

上杉家は、石高が十五万石(実高は約三十万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津百二十万石時代の家臣団六千人を召し放つ事をほぼせずに居た為、借財が二十万両に累積する財政危機に在った。

二十万両は現代の通貨に換算で「百五十億円から二百億円」と言い、経済規模が小さかった当時としては大金で、人件費が藩財政に深刻な負担を与えていた。

名家の誇りを重んずる故に豪奢な生活を改められなかった前藩主・上杉重定は、財政苦に藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどである。

新藩主に就任した治憲(鷹山)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立する。

また、それまでの藩主では千五百両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を二百十両程に減額し、奥女中を五十人から九人に減らすなどの倹約を行った。

ところがその為、千七百六十九年(明和六年)に江戸城西丸の普請役回避の幕臣への運動費が捻出できずに手伝いを命じられ、結果多額の出費が生じて藩財政の再生は遅れた。

治憲(鷹山)は藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせ、改革に反対する藩の重役が起こした七家騒動を退ける。

この治憲(鷹山)の施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。


言って置くが、藩政を画期的方向に導いた上杉治憲(鷹山)の藩政改革は、藩官僚にも相応の負担をさせた事で、最近の政権の官僚手付かず改革とは質が違う。

酷い話だが、官僚の専横を許して国民だけに負担を強いる手法は、悪魔に魂を売った政治家の所業である。



幼少の十一代将軍・徳川家斉の下で白河藩主・松平定信(八代将軍・徳川吉宗の孫)が江戸幕府老中に就任した千七百五十九年(宝暦九年)頃、平賀源内(ひらがげんない)が江戸で頭角を現している。

突然彗星の様に現れたこの男・源内(げんない)の多才は、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家などに及び、その希に見る広範囲な業績から特筆すべき人物である。

源内(げんない)は、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に白石茂左衛門の子として生まれたが、兄弟多数とだけで第何子かも不明である。

源内(げんない)の平賀姓名乗りは彼のルーツに在り、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代・平賀玄信の代に甲斐の武田信虎・晴信(信玄)父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。

その後白石氏として伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り後帰農し、讃岐で讃岐高松藩の足軽身分の家となる。


源内(げんない)は幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で十三歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。

千七百四十八年(寛延元年)、源内(げんない)は父・白石茂左衛門の死により後役として藩の蔵番に登用される。

千七百五十二年(宝暦二年)頃に、源内(げんない)は一年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。

留学から帰藩後に、源内(げんない)は藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて白石家の家督を放棄する。

源内(げんない)は大阪、京都で学び、さらに千七百五十六年(宝暦六年)には江戸に出て本草学者・田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得する為に林家にも入門して聖堂に寄宿する。

この間の千七百五十九年(宝暦九年)には高松藩の家臣として再登用されるが、千七百六十一年(宝暦十一年)に江戸に戻るため再び辞職する。

このとき源内(げんない)は「仕官お構い(奉公構)」となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

おそらくはこの頃、源内(げんない)は本姓である平賀姓を名乗ったと想われる。

江戸に本拠地を移してからの源内(げんない)二回目の長崎遊学では、鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ後の千七百六十一年(宝暦十一年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。

源内(げんない)は江戸にて物産博覧会を度々開催し、この頃には松平定信の前の幕府老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)にも知られる様になっている。

千七百六十二年(宝暦十二年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。

こうした活動を通して、源内(げんない)の江戸に於いての知名度も上がり、「解体新書」を翻訳した杉田玄白(すぎたげんぱく)やその後輩で医学・本草学・蘭学の中川淳庵らと交友する。

源内(げんない)の名声が上がると、各藩から鉱山開発の指導依頼が舞い込むなどをこなしながら荒川通船工事や建物設計、談義本の執筆や蘭画の技法を伝えるなどでも活動する。

千七百七十六年(安永五年)には、源内(げんない)は長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元している。

千七百七十九年(安永八年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた為に修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁二人を殺傷する。

源内(げんない)はその罪で投獄され、年末に破傷風により五十二歳で獄死した。

源内(げんない)の才能に驚嘆した杉田玄白(すぎたげんぱく)らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

源内(げんない)は通称で元内とも書き、諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。

数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)の筆名を用いた。

殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)などと言った別名でも知られていた。



杉田玄白(すぎたげんぱく)は、江戸中期の蘭学医で、「解体新書」を翻訳した事で後世に名を残した人物である。

玄白(げんぱく)の父は若狭国小浜藩医・杉田玄甫(すぎたげんぽ)、母は八尾氏の娘で、玄白(げんぱく)は江戸・牛込の小浜藩・酒井家の下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系で、後北条氏に仕えた真野信安のときに一旦は間宮姓に改め、子の長安の代に杉田姓に復姓した。

医家としては、玄白で三代目にあたり、同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族である。

玄白(げんぱく)は小浜藩・酒井家の下屋敷で育ち、千七百四十年(元文五年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫玄甫(げんぽ)が江戸詰めを命じられる千七百四十五年(延享二年)まで過ごす。

青年期には、玄白(げんぱく)は家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。

玄白(げんぱく)は千七百五十二年(宝暦二年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。

千七百五十四年(宝暦四年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施している。

国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、日本の医学界に波紋を広げると伴に、玄白(げんぱく)が五臓六腑説への疑問を抱くきっかけとなる。

千七百五十七年(宝暦七年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となり、同年七月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内(ひらがげんない)らが物産会を主催する。

出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃に始まっていたと思われる。

千七百六十五年(明和二年)、玄白(げんぱく)は主家・小浜藩・酒井家の奥医師となる。

同千七百六十五年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白(げんぱく)は源内らと一行の滞在する長崎屋を訪問する。

通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白(げんぱく)はオランダ語習得を断念している。

千七百六十九年(明和六年)には父の玄甫(げんぽ)が死去し、玄白(げんぱく)は家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。

千七百七十一年(明和八年)医学の後輩・中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」をもって玄白(げんぱく)の下を訪れる。

玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。

偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。

玄白、良沢、淳庵らは「ターヘル・アナトミア」を和訳し、千七百七十四年(安永三年)に「解体新書」として刊行するに至り、友人・桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上された。

晩年には、玄白(げんぱく)は小浜藩から加増を受けて杉田家の知行は四百石に達している。

千八百七年(文化四年)に家督を子の伯元に譲り隠居するなどの記録が残り、千八百十七年(文化十四年)に八十四歳で没している。

玄白(げんぱく)は通称で、諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁を称している。



その後も幕府は、苦悩しながら政権を維持して来た。

それも今は、終焉を迎えつつ在った。

官僚合議政治に移行した江戸幕府は、様々な施策を通して何度か改革を繰り返し、二百五十年も政権を維持して来た。

しかし既にその威光は色あせ、人々の不満に影を落として、正に滅びの道を辿りつつ在った。

その弱体化は覆い様も無く、誰の目にも幕府は弱って見えていたのである。

それに勢いついた不満分子に、反幕府・尊王派の火が沸々とたぎり始めていたのである。



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作者本名・鈴木峰晴