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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【蒼い危険な賭け・京香 第三部】作者本名鈴木峰晴

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蒼い危険な賭け・京香 第三部



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姉妹シリーズ・】・・・【現代インターネット奇談シリーズ】
【小説参考先リスト】【夜鳴く蝉・葉月*蒼い危険な賭け・京香の参考先御紹介】
【◆】姉妹編・葉月イメージモデル【葉月さん】裏葉月HPトップ頁に飛ぶ。


【非日常の愛・妻達の調教千夜一夜物語】

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

陵 辱 の 貴 婦 人

蒼い危険な賭け・京香

(あおいきけんなかけ・きょうか) 完 全 版 第三部


未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


お断り蒼い危険な賭け・京香はあくまでも文学作品です。

申し訳ありません。第二回作「蒼い危険な賭け・京香」の続きは、順次UPします。
いよいよ最終話(六十六話)を現在執筆中ですので、完成は暫(しばら)くお待ち下さい。


◆本格エロチック調教ファンタジー・サスペンス◆

「蒼い危険な賭け・京香」第三部・二十話〜三十一話を予告公開中(全六十六話)



話の展開

第一部第一話〜十話
    第一話  (事の起こり)
    第二話  (屋根裏)
    第三話  (覗き見たもの)
    第四話  (甘い誘い)
    第五話  (陵辱計画)
    第六話  (生け贄)
    第七話  (そして輪姦)
    第八話  (妻の決意)
    第九話  (第二の処女)
    第十話  (ア*ル調教)
第二部(第十一話〜十九話)
    第十一話 (変貌しつつある妻)
    第十二話 (本格的生け贄)
    第十三話 (完成したア*ル調教)
    第十四話 (生け贄にされたア*ル)
    第十五話 (独立と資金稼ぎ)
    第十六話 (忌み祓い開所式)
    第十七話 (壮絶な輪姦祈願)
    第十八話 (生島夫婦)
    第十九話 (小泉順子の願望)
第三部(第二十話〜三十一話)現在この部です。
    第二十話 (順子の夫小泉武司)
    第二十一話(始まった順子の輪姦)
    第二十二話(順子極楽を味わう)
    第二十三話(父と娘の絆)
    第二十四話(消えたわだかまり)
    第二十五話(仕上がった順子)
    第二十六話(喜美子の開所式)
    第二十七話(増員された女達)
    第二十八話(乱倫同志経営)
    第二十九話(不穏な動き・公安部)
    第三十話(ある日常)
    第三十一話(事業規模拡大)
第四部(第三十二話〜四十一話)
    第三十二話(公開剃毛)
    第三十三話(うなぎ責め)
    第三十四話(新参者佐和子)
    第三十五話(佐和子玩具になる)
    第三十六話(佐和子の輪姦忌み祓い)
    第三十七話(福井様のお相手)
    第三十八話(極秘情報・見せ付けられた妻の痴態)
    第三十九話(調教の成果)
    第四十話 (山崎様のお相手)
    第四十一話(本物に仕上がった妻)
第五部(第四十ニ話〜第四十八話)現在この部です。
    第四十ニ話(佐和子獣姦する)
    第四十三話(宗教法人化)
    第四十四話(村での出来事)
    第四十五話(巫女舞・山狩り)
    第四十六話(最期の接待)
    第四十七話(水揚げ)
    第四十八話(女優妻)
第六部(第四十九話〜五十三話)現在この部です。
    第四十九話(陰謀・女子アナ議員)
    第五十話 (秘密パーティの誘い)
    第五十一話(良子秘密パーティに引き出される)
    第五十二話(雌犬の手本・女優妻)
    第五十三話(良子陵辱・雌犬)
第七部(第五十四話〜六十話)現在この部です。
    第五十四話(卑猥なハッスル囃し)
    第五十五話(その後の良子)
    第五十六話(良子、大森に犯られる)
    第五十七話(陵辱再び)
    第五十八話(気まぐれ・衆道)
    第五十九話(康子の縁談)
    第六十話 (謎の極上の女)
第八部(第六十一話〜六十八話(最終話))
    第六十一話(長官へのお持て成し)
    第六十二話(新たなる遊び仲間・凛子)
    第六十三話(凛子お披露目で奮闘する)
    第六十四話(代議士の娘・響子)
    第六十五話(精神力と経験)
    第六十六話(響子お披露目を犯る)
    第六十七話(良子見本を見せる)
以下執筆中・暫くお待ち下さい
    第六十八話(麻生康子の結婚式)
    第六十九話(事件)
    第七十話 (抗争そして終焉)

ジャンプク・リック
第一部 第一話〜十話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現在この部です。
第二部 第十一話〜十九話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二部に飛ぶ。】
第三部 第二十話〜三十一話・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三部に飛ぶ。】
第四部 第三十二話〜四十一話・・・・・・・・・・・・・・・【第四部に飛ぶ。】
第五部 第四十二話〜五十話・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五部に飛ぶ。】
第六部 第五十一話〜五十七話・・・・・・・・・・・・・・・【第六部に飛ぶ。】
第七部 第五十八話〜第六十話・・・・・・・・・・・・・・・【第七部に戻る。】
第八部 第六十一話七十話(最終話)・・・・・・・・・・・【第八部に飛ぶ。】

登場人物(物語の登場順)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・この物語の証言者・・・・・・・・・・・・(当時30歳)
里美・・・・・・・・・・・・・・・・私の妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時30歳)
岩代・・・・・・・・・・・・・・・・物語の主人公・・・・・・・・・・・・・・・・(当時25歳)
京香・・・・・・・・・・・・・・・・岩代の細君・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時24歳)
寮生(学生)達・・・・・・・・岩代の教え子(体育系)・・・・・・・・(当時19〜22歳)
生島喜美子・・・・・・・・・・里美の友人・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時30歳)
竹中氏・・・・・・・・・・・・・・出資者(元教師・定年)・・・・・・・・・(当時66歳)
小泉順子・・・・・・・・・・・・竹中の娘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時29歳)
だみ声の専務(片山)・・元の勤務先の上司・・・・・・・・・・・・・(当時43歳)
田嶋氏・・・・・・・・・・・・・・出資者(無職の遊び人)・・・・・・・・・(当時48歳)
企業舎弟・坂元・・・・・・・「龍信会」系の企業舎弟・・・・・・・・・(当時35歳)
石上氏・・・・・・・・・・・・・・出資者(伊豆でレストラン経営)・・・(当時52歳)
生島・・・・・・・・・・・・・・・・喜美子の夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時34歳)
小泉武司・・・・・・・・・・・・順子の夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時33歳)
安部、麻生、
福田、谷垣
・・・・・・・・・・女性接待係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時25〜30歳)
吉井警視・・・・・・・・・・・・警視庁公安部・公安総務課長・・・・(当時43歳)
大森警部補・・・・・・・・・・警視庁公安部・公安総務課員・・・・(当時36歳)
**康子巡査部長・・・・警視庁公安部・公安捜査員・・・・・・(当時28歳)
佐和子(片山)・・・・・・・・だみ声の専務の妻・・・・・・・・・・・・・(当時29歳)
福井・・・・・・・・・・・・・・・・大蔵省(現・財務省)銀行局次長・・(当時45歳)
山崎・・・・・・・・・・・・・・・・文教族代議士(文部大臣経験者)・(当時78歳)
老・宮司・・・・・・・・・・・・・妙見犬神宮・宮司(南家当主)・・・・(当時80歳)
筆頭総代・・・・・・・・・・・・東家当主(京香の兄)・・・・・・・・・・・(当時50歳)
伝書鳩の女・・・・・・・・・・元人気美人アナ(参議院議員)・・・・(年齢不詳
女優妻・・・・・・・・・・・・・・超人気美人女優(新婚の代議士夫人)(当時29歳)
吉井良子・・・・・・・・・・・・吉井警視婦人・・・・・・・・・・・・・・・・・(当時29歳)
星野徹・・・・・・・・・・・・・・参議院議員立候補予定者・・・・・・・(当時35歳)
星野凛子・・・・・・・・・・・・星野徹婦人(元五輪選手)・・・・・・・(当時28歳)
古賀響子・・・・・・・・・・・・古賀代議士令嬢(フルート奏者)・・・(当時32歳)




(順子の夫・小泉武司)

蒼い危険な賭け・京香◆
第二十話(順子の夫・小泉武司)


人生を文芸的に生きるか論理的に生きるかは他人夫々(ひとそれぞれ)で、どちらかに軍配を挙げるべきでは無いかも知れない。

しかし少なくとも、「論理的に生きるのみ」の人生では余裕も生まれず、その論理に追い回されて行き詰まる事が多い。

文芸的に生きる事は「感性」を生きる事で、文学は勿論、映像や音楽から絵画、フアッションデザインや着熟(きこ)なしに止まらず食べ物の調理、果ては恋愛や性行為まで、実は文芸センスが在ってこそ人生が愉しめるのだ。

言い換えれば、論理的に食べ物を調理しても論理的に性行為をしても、そんな物で「感性の右脳域」が愉しめる訳がない。


人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。

人間は、その能力に於いて多種のやれる事が増えて始めて、生き方の幅が広がる。

学ばなければ成らない事、行動してみなければわからない事、それらが判っている人間は少ないが、人間は基本的にさほど大きな違いがある訳ではない。

馬鹿な事だが、浮気相手に愛情を感じてコッソリ逢い、他人目(ひとめ)を忍んで性交するなんて事は、実にシュール(発想が越えてる)な冗談である。

既成概念に囚われた挙句の浮気で「禁断の性交」と言う事だが、こうしたシーンで愛情を簡単に使って欲しくない。

それは夫婦愛にしても近隣愛にしても、そして民族愛にしても状況次第で、本音の所では自己愛を優先するのが偽(いつわ)らない人間である。

また、孫子に対しては本能的な愛情が在るかも知れないが、それも近頃では怪しい親も居る。

つまりこうした浮気事の現実は、日常の薬味(スパイス)が無い夫婦生活を前提にした刺激を求めての、思い込みに過ぎない愛情だからである。

料理でも薬味(スパイス)が無ければ味に深みは生まれない。

同様に、性交には卑猥な薬味(スパイス)が無ければ興(きょう)は乗らない。

その薬味(スパイス)が禁断の他人目(ひと)を忍ぶ刺激的性交である拠りも、夫婦仲を壊さない工夫の上で薬味(スパイス)の「味の深み」が必要である。

つまり知的に夫婦が心を通わせるには、夫婦揃っての合意の上で遊ぶ非日常の時間と言う薬味(スパイス)の深みが必要である。

SMプレィやマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)の方が遥かに罪が無い薬味(スパイス)なのだ。

何、「そんな遊びを夫婦で犯らなくても、内の亭主の事は信じている」てか。

そんな御気楽・能天気・無頓着な事だから、貴女本人や御亭主が道ならぬ性交に燃え上がるのではないのか。

夫婦仲は怪しげ不確かな建前にすがる横着ではなく、日頃の日常生活のストレス解消など、夫婦で利口に成って創意工夫しなければならない。

ただ、特に男女の間のセックス・ジェンダー(生物学的性意識差)は顕著なので互いを理解し合うのは難しく、不満が募って行くものである。

だから性交に於いても犯れるか犯れないかで勝負が決まるので、犯れる事を増やす努力をしないで「犯れません。」では生き詰まってしまう。

そして発想が自由でなければ、斬新な思考は創造(う)まれない。

つまり学んだ学問は、新しい発想の原点に過ぎないのであるから「学問を修めたから」と言ってそれを「絶対視」する事自体が危険な思想である。

それでは中世の「天動説(コペルニクス)」と同じレベルで、学問を修めたらその活用こそが個々の課せられた使命である。

個人主義が延している現代人には、誓約(うけい)の概念を理解する事は難しい。

本音で言えば、自分が可愛いから他人(ひと)の愉快の為に性交を犯られて不愉快な思いをするのは御免(ごめん)である。

最初は順子も、セックス・ジェンダー(生物学的性意識差)から京美企画のビジネスモデル(事業の仕組み方法)に疑問を抱いた。

しかし考えて見れば、世の中綺麗事だけほざいていて何か幸運が向こうから遣って来るとは思えない。

その時確かに、憂鬱(ゆううつ)な矛盾の中に「どちらも真理で在る」と言う混沌とした想いが順子には在った。

安っぽいプライド(誇り)を採るのか、クレバー(賢い)にプライド(誇り)依りも豊かな人生を採るのか、結論など出せない情況にいったい何を採り何を棄てれば良いのか。

しかし自分が可愛いなら要は考え方の問題で、小泉順子の様にその不愉快な性交をネガティブに考えず「自分の為」と言うポジティブな意識に置き換えれば、意の無い性交を犯られても快感で、不愉快が愉快になる理屈だ。


論議が理性を司る左脳域の建前論ばかりで右脳域の感性に於ける人間の本質が考慮されなければ、真実のメンタリティ(心的傾向/心理状態/精神構造)には近付けない。

人間は群れ社会の動物であり、女性は元々右脳域の感性に於いて娼婦の素養を持ち合わせている。

従ってスィッチが入ってしまえば、女性の方がむしろ男性より性に大胆である。

女性が相手を選ぶ基本は変わらないものの、原始社会では最も基本的な価値判断基準は「生きる事」で、男性の格好や顔の良し悪しでは無く、つまりは左脳域の「利」を働かせた食料確保に有能かどうかがカップル(つがい)に成る条件だった。

それ故に、「その相手との性交が嫌」とか言う見かけの好き嫌いに於ける右脳域の感性などは、原始社会では存在しなかった。

つまり性に関する規範は女性の考え方次第で変わるもので絶対性のある決まりでは無く、いずれにしても現代の常識で短絡軽薄に「性を解釈しよう」とする事は、無理な相談である。


京美の仲間に成る気であれば、少しハードで甘美な誘惑を思わせる事でも、気心を通じさせるにはまずは犯る事である。

世間では容認されないであろう無茶な環境に、順子は自ら飛び込もうとしている。

小泉順子を「単なるドスケベ女」と言ってしまえばそれまでである。

しかし彼女は、自らの未来を切り開く切欠としてプライドを脱ぎ捨て「新しい世界に飛ぼう」としている。

夫との生活に疲れて「もう終わりだ」と想っていてた順子にして見れば、一筋の希望が見えたのかも知れない。


人間のナチュラル(自然体)な動物的性本能で言えば、女性には選択癖があり男性には事前選択の行動がある。

男性は気に入った物を見つけると古い物も含めてコレクター(収集者)癖が強いが、目新しい流行物(はやりもの)を追いかける習性は男性より女性の方が遥かに強い。

従って女性は、食べ物でも着るものでも流行を追う癖があり、つまり本能が新しい刺激を求めているのだから、代わり映えしない自宅で同じ相手と同じパターンの日常の性交では飽きてしまう。

結婚して三年も経つと、夫が想うよりも妻の方がマンネリ感は強いから、創意工夫をしないと自然に夫婦の営み(性交)から遠ざかる場合が多い。

買い物一つ採っても、男性は事前に決めた物を獲得する為のスッパリした買い方だが、女性は結論に到るプロセスを大事にするから、買い物に行ってから「どれを買おうか」とそこから長い選択のショッピングタイムを始める男女の違いが存在する。

つまり基本的には男女の買い物の仕方と男女の仲の関係は同じ傾向に在り、男性がターゲットの女性を決めて突き進んで求愛するのに対して、「相手を誰にしよううか」と選択するのが本来の女性ナチュラル(自然体)な姿である。

勿論、女性側が男性の事前選択行動を無視して選択を終了し女性側から惚れるケースも存在するが、この場合は男性側がその女性をターゲットにしていない事もあって上手くまとまらなかったりまとまっても噛み合わない感情が残ったりする。

そこで女性が姿の上で広く男性を誘い、ターゲットを決めて行動を起こした男性達の中から女性が選択をするのがナチュラル(自然体)な構図で在る為に、女性の「魅せたがり」と男性の「見たがり」が、男女の仲の本能基本形に成っているのである。

それが夫婦生活の妨(さまた)げになるのであれば、貞淑貞操な生活の「何処が良いのだろう」と言う疑問が順子に湧いて来た。

平凡な人生の夫婦間では、時と伴に刺激が欲しくなり満ち足りない想いが育って行く。

しかもこの現代社会だから、皆、大なり小なり重篤(じゅうとく)なストレスを抱えていて逃げ場を求めて居る。

どうせ本能で、誰にも刺激的な性交願望の性欲はあるのだから、互いに野放しにするよりも会社と言う枠(わく)の中で性欲を満たして発散させる方が右脳的には合理的で、それで稼げれば越した事は無い。

目的がそう言う事なら、非日常の性交ほど脳が興奮し媚薬効果を発揮するのだから、性接待や遊びの性交は卑猥(ひわい)であれば卑猥なほど良い。

乱交やSM行為を「異常(いじょう)行為」だと、頭から勝手に思い込みたがるのは結構な事だが、考えて見れば世間の実態はそんなものではなく、現実にそれは実社会でフォアー・アミューズメント・プレィ(おもしろ半分の慰み行為)として存在する。

何故なら、その「異常(いじょう)」と言う判定は語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であり、その基準そのものは考え方の問題で、個人の感性で幾らでも変遷するものである。

簡単な話し、「常」と「異常」の判断は、乱交だろうがSM行為だろうが輪姦(まわし)であろうが、起こった事象が本人に於いて「何時(いつ)もの事」として常態化しまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。

自然を礼賛しながら欲の為に自然に逆らい、もっとも不自然な結果を出そうとする際(きわ)どさが人間の悪癖である。

その性欲があるのなら、世間では際(きわ)どい事かも知れないが切り替えは大事で、年中淑女では生き詰まってしまう。

だいたいに於いて、性交を「愛し合う事」などと情交に限定して表現をするから愛の無い性交が認められなくなり、実は異質な筈の只の遊びも、つまみ喰いの浮気も分けては考えられず同じ意味を持ってしまう。

遊びとか仕事とかそう言う目的であれば、精神的に夫を裏切る情交形式は避けるべきで、容姿の美醜や年齢の条件に囚われる情を排した不特定多数相手の性交の方が良いのである。

人間は、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五覚(五感とも言う)から情報を得て脳が判断し、肉体(からだ)にその対処すべき動きを伝える。

本来、五覚(五感)も思考も脳が管理しているのだから、先入観で結論を決め着けずに体感で脳が正しい情報を得て、肉体(からだ)に正しい指令を送る訓練が必要である。

その五覚(五感とも言う)の情報で、マルチタスクSEX(同時実行性交)やコレクティブセックスプレィ(集団乱交)等が、犯って見れば高品質の快感を得られる事実に気が着く。

五覚(五感とも言う)は、脳が欲しがる人間の感性を情報として脳に伝え、脳が判断して肉体(からだ)が行動する。

つまり体感が脳に情報を送り「良(快感)」と判断すれば、今までは先入観で敬遠していた非日常の性交スタイルも、敬遠する事無く犯れる心理に到る訳である。

性交の刺激には視覚と触覚が特に有効で、男性のビジュアル(見かけ/視覚)的性感では裸体や女性器の目撃が刺激となって性感を喚起させる。

男性が手っ取り早く性感を得るには、欲棒(男性器)を直接撫(な)でたり舐(な)めたりする触覚が最も有効で、それがおシャブリの行為と言う事になる。

そして男性は、性感を得ると勃起して性交が可能になるが、性感が高まり頂点に達すると射精し性欲が急激に減退する。

女性は視覚より触覚が主で、女性器は勿論の事だが性感帯と呼ばれる肛門、太腿、乳房、耳裏などの肉体の一部を撫でたり舐めたりする事でも性感は引き起される。

そして特に、ア*ル(肛門)は第二の性器と呼ばれるくらいの敏感な性感帯で、これを性行為に利用する事は歴史的に然(さ)して異常ではない。

ただし女性の性感帯は「全身に分布している」と言われ、性感を得ると陰部が濡れるなどの性反応を見せ、イッタからと言って男性の様に性欲が急激に減退しない。

だから女性は、マルチタスクSEX(同時実行性交)やコレクティブセックスプレィ(集団乱交)等の連続性交が可能である。



接待のレクチャーが終わった生島喜美子は、早速岩代が探して来たクライアント(得意先/顧客/依頼人)と接待を始めて居た。

明るい照明の下、生島の目の前で一組の全裸の男女が絡(から)み合って、ユックリとうごめく様に濃厚な性交を此れ見よがしに犯っている。

その濃厚な性交の男女は、男はクライアント(得意先/顧客/依頼人)で、女は生島の妻・喜美子の組み合わせだった。

これは、数億数十億の取引が期待できるクライアント(得意先/顧客/依頼人)に、良い思いをさせる為の接待仕事である。

只の接待では面白みが無いが、夫の前で妻を犯すのは魅力的で、クライアント(得意先/顧客/依頼人)も感激する。

喜美子には、接待でクライアント(得意先/顧客/依頼人)の思いのままに弄(なぶ)られる調教は充分に施(ほどこ)してある。

痴女としてクライアント(得意先/顧客/依頼人)を濃厚な性交で堪能(たんのう)させなければ接待の意味が無いからだ。

つい先ほどまで、喜美子は前戯と言うには余りにも強烈なクライアント(得意先/顧客/依頼人)の指攻めで何度もアクメ(絶頂)状態に追い込まれていた。

指攻めは、クライアント(得意先/顧客/依頼人)に二本指を挿し込まれての激しい抜き挿しで、喜美子の極(きわ)まった善がり声が絶える事無く周囲に鳴り響く。

喜美子は泣き喚く様に善がって腰を浮かし、堪(こら)え切れずに「潮吹き」と呼ばれる愛液をほとばしる醜態姿を曝(さら)け出す。

喜美子の性感度が高まり、何度かアクメ(絶頂)状態に出来上がった所でクライアント(得意先/顧客/依頼人)に欲棒を抽入され、一転して今はジックリとした攻めを始めた。

もぅ、クライアント(得意先/顧客/依頼人)との接待性交は始まって十分を越えている。

生島の妻・喜美子の性感反応を愉しむかの様に、優しく柔らかくねっとりとした腰使いでユックリと生々しく突き入れて喜美子を攻め続けて居る。

それは先ほどから、生島の妻・喜美子の股間にクライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒の抜き挿しが、「何時(いつ)まで犯るのか」と想うほど質濃く永々と続けられている。

無理も無いのだが、本音で言えば犯られている間の喜美子は快感を貪(むさぼ)るに無我夢中で、正直、余計な事は考えられないのが普通である。

性交の佳境に入ってしまえば、もぅ女の性(サガ)でクライアント(得意先/顧客/依頼人)にああされ様がこうされ様が、要求されるままに身を任せて止められない。

喜美子も、明らかに行為に集中して反応しているが、夫・生島が合意してクライアント(得意先/顧客/依頼人)との性交を認めたのだから、愉しんでジックリ犯られても仕方が無い。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒のネチッ濃いお愉しみに喜美子も感じて居て、それに呼吸を合わせて快感を貪(むさぼ)る様に恍惚の表情を浮かべてねっとりと濃厚な受け腰で応じている。

喜美子の粘膜の感触を味合うかの様に、クライアント(得意先/顧客/依頼人)の生々しく愛液に濡れ光る陰茎が、喘(あえ)ぎ声と伴にユックリと見え隠れしている。

喜美子は、羞恥の感性の中で気取(キドリ)を捨て去り、今進行しつつ在る自分の性交プレィにジックリ気分を出して、本能で没頭して居る。

しなやかに軽快に、あられもない裸身をなやましく絡(から)ませて、喜美子は本能のままにクライアント(得意先/顧客/依頼人)との濃厚な性交姿を夫・生島に観せて居る。

互いの目の届く範囲で、性交ショー化してギャラリーに観せながら大胆に犯るオープン・ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)が、夫婦合意の遊びの性交である。

正直、目の前で自分の妻が他の男に抱かれているのは胸が詰まる想いも在るが、その嫉妬と興奮は帰宅してからの夫婦の性交で責め晴らせば癒される。



ある日、竹中氏が「相談があるので会いたい」と言って電話をくれた。

竹中氏が指定したのは小上がりの或るすし屋で、「昼間二人きりで会いたい」と言う。

「そら来た」が私の感想である。

竹中氏が、改まっての相談を外でするのは珍しい。

私は相談事が娘さんの例の話しの事と解釈して、快諾した。

それは図星だったが、予想は少し外れていた。

幾らなんでも、テッキリ竹中氏が娘さんの陵辱(りょうじょく)話に「自分が同席する事に抵抗を感じている」と思っていた。

渋々応諾したにしても、娘の陵辱体験に父親の同席は抵抗が無い筈は無い。

漸(ようや)く、岩代の霊的な力(パワー)の神通力が、通用しない事が起こる筈だった。

所が、その常識的な期待は、待ち合わせに使ったすし屋に出向いてあっさりと崩れ去った。

岩代の奇跡は、まだ続いて居た。

予想できない事が連続して起きれば、それはもう立派な奇蹟で有る。

竹中氏はまったく違う事を企んでいたのだ。


凡(およ)そ父と娘の会話とは思えない娘の提案を、竹中氏は家に帰ってからジックリ考え結論を出した。

娘の決心が固いなら、それを真正面から受け入れよう。

こう言う事は、自分が腰を浮かしていては返って娘の決意を色眼鏡で見るようなものだ。

決意して見ると、これは娘夫婦の「離婚問題解決のチャンスでもある」と、考え付いた。

それで、立ち会う決意をした。

この大型連休、バブル景気の真っ最中時代で、今では考えられないほど地方都市の夜の町も湧きかえっていた。

歓楽街は社用族とニワカ成金が、今では考えられない金使いの荒さを誇っていた。


その日の夕方は竹中氏に会う前に、そんな歓楽街の一角で前の会社のだみ声の専務に依頼されたチョットした野暮用を一つ熟(こ)なした。

退職前に引き継いだ地上げが上手く行かず、説得を頼まれたからだ。

それが、私が顔を出しただけで驚くほどスムースに話がまとまり、霊的な力(パワー)の神通力を少し信じたくなった。

妻の輪姦忌み祓い呪詛のエネルギーが、威力を発揮しているとしか思えない現象だった。

私が慌(あわ)ただしく移動し、少し遅れて待ち合わせのすし屋に行き着いた時、一人きりの筈の小上がりには男が二人いた。

見ると竹中氏の横には、三十歳前後の若い男が座っていた。

その若い男が、小泉順子の夫・小泉武司氏だった。

竹中氏は幼い孫の事も考えて、順子に内緒で相談に来た小泉武司を「説得して連れて来た。」と言う。

竹中と順子の夫小泉武司の、その意外な申し出に私は驚いた。

やり直しをする以上過去は引きずれない。

今までとは全く違う舞台に夫婦で立つ事が必要で、小泉夫婦が出直しするにはそれしかない。

順子の申し出を逆手に取り、この機会を利用して、「夫婦を復縁させよう」と言うウルトラCで、岩代より更に一歩進んだ企みを竹中氏は考えていた。

その協力の要請を、竹中は娘・順子に内緒で私に打診して来たのだ。

この度の、順子の戦力教育計画の経緯は「全て小泉武司に話して同意を得てある。」と言う。

夫の小泉武司も、この尋常で無い妻の陵辱体験計画を「容認している」と言うのだ。

不思議な経緯を辿っているが、言い換えれば竹中の考えには筋が通っている。

夫の小泉武司氏も義父の提案には最初は驚いたが、「考え様に拠っては、それが夫婦再出発の為には必要な事かも知れない。」と彼は思い当たった。

そしてそれは、義父との話しの中で段々に膨らみ、やがて「確信になって行った」と言う。

父親が、娘の輪姦(まわし)を婿に勧める事からして異常である。

それを真剣に言うので、婿も笑って済ませる訳には行かなくなった。

しかし、義父の話を聞いている間に妻(順子)の輪姦(まわし)場面が脳裏に浮かんで離れなくなり、次第に「それを見たい。」と意識する様になった。

それで今は、近頃ご無沙汰の妻(順子)の裸身がチラついて離れない。

もっとも、三十代前後の夫婦が、性的交流が為(な)されない事自体が問題で有る。

夫婦が毎日暮らしている住居で、同じ相手に代わり栄えしない性交に及んでもそれは日常生活の延長で、当然ながら刺激に欠けるマンネリ(独創性や新鮮味が無い)となり、脳の興奮は薄らいで行く。

そこで脳の興奮を再活性する為に独創性や新鮮味を求めると、限りなく日常性を否定した形態にならざるを得ない。

日常性を否定する事は非日常の空間を創る事であり、脳の興奮を再活性するに手っ取り早いのは違う相手と代わり栄えする形態で遊びの性交を心掛ける事である。

女性のヒステリーには性感マッサージ治療や性感バイブレーター治療が有効で、実際に医療行為として医師に施術されている。

つまり女性のストレスの解消の良処置は「性的な刺激」と言う事になり、男性のストレスの解消も同様の「性的な刺激」と言う事になる。

それならば、わざわざ医療行為として施術されなくても、ストレス解消の問題解決の為に夫婦合意で遊べば良い。


岩代は良く、女性に輪姦(まわし)をさせる時に「すす払い」と言う。

キット、溜まっている性的嫌悪感を拭い去る為の行為を、象徴的に言ったのであろう。

スポーツ選手には、誰かがブレーキを掛けなければ無意識に遣り過ぎる位練習をしてしまうケースも多い。

実はキツイ練習をする事に拠って脳内麻薬(快感ホルモン)が発生し、体の痛みを和らげようとする脳のメカニズムが、その快感をもたらす「スポーツ・ハイ状態」に入れるからである。

当然、例え無意識でも一度その「スポーツ・ハイ状態」を体験すると、快感の記憶が癖に成り肉体(からだ)と脳がそれを要求する事になる。

その理屈で言えば、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)に於ける輪姦(まわ)しのヒロインはその最高峰で、肉体の酷使拠る快感と被虐的性交の快感が相乗効果の束に成って襲って来る。

勿論、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)に於ける諸出(もろだ)し諸見(もろみ)せの性交は脳が溶けるほど羞恥心で、密かに女性に内在する露出願望心理もマックス(絶頂)に到達する。

つまり犯って見ないと判らないだろうが、幾重もの快感条件を満たしているのだからそれは想像を超える興奮をもたらすもので、その女性が「癖に成ったから」と言って責められるものではない。

実は輪姦(まわし)を実践した女性には、その性格を変え得る極限の快感をももたらす。

その快感が、ある種の脳波微弱エネルギーを発し、テレパシーとして相手に影響を与えても不思議は無い。

その最も初歩的なものを、そうした状況やそうした場所を「エロチックな雰囲気」と感じる事である。

岩代は、呪詛巫女(じゅそみこ)を務める女性をセックスハイ状態(性感陶酔状態)に追い込んで、そこで発生するエネルギーが「不思議な力を生み出す」と言う。

この輪姦呪詛エネルギーが邪気を払い運気を上昇させる。

「忌み祓い」は、まるで何かの神事のような雰囲気を感じる。

彼が「陰陽道を司どって居る」と言うのか?

義父の話を聞いて、小泉武司には「ピン」と来るものがあった。

順子が言う様に、自分にも妻に対する漠然とした性的不満は有ったが、「夫婦生活はこんなものか」と諦めていた。

そこを、妻は自ら変えようとしている。

妻が本気なのなら、個人的独占欲でその芽を潰す事は出来ない。

潰せば、以前と変わらない夫婦の間柄が続くだけで、やがてまた綻(ほころび)るに違いない。

考えて見れば妻にだけ貞淑(ていしゅく)を求めるのは夫の横暴である。

散々に独りで遊び歩いた小泉にして見れば、その方が「これでおアイコ」で今後気楽だし、順子の願望を適えるのは順子への贖罪(しょくざい)でもある。

本当の真実は、妖し気な「普通」や「常識」の中には無い。

何故なら「普通」や「常識」は多分にフィクションだからである。

それを錯覚するから問題なので、フレーム(枠)に嵌(はま)って生きるのも一つの人生だが、それでもどんな人間にもそれぞれの波乱万丈がある。

どうせ平坦な道などないのだから思い切って生き、結果がどう有れ悔いは残さない事である。

小泉武司自身、今度の出来心は各方面の信用も失って居る。

自宅は残ったものの職を失い、家族も別居状態に有る。

自分も一から出直す必要は強く感じていた所に、義父のこの驚きの提案である。

妻の順子も、自分の性認識に不足を感じて積極的に改善する気になっている今こそ翔(と)ぶべき時である。


目的がそう言う事なら、非日常の性交ほど脳が興奮し媚薬効果を発揮するのだから、性接待や遊びの性交は卑猥(ひわい)であれば卑猥なほど良い。

どうせ本能で、誰にも刺激的な性交願望の性欲はあるのだから、互いに野放しにするよりも会社と言う枠(わく)の中で性欲を満たして発散させる方が右脳的には合理的で、それで稼げれば越した事は無い。


その舞台が用意されたこの際だからと、小泉も妻の変わり行く姿も見届ける気になった。

竹中氏は自分の同席はおろか、娘に内緒で「別居中の夫もその場に同席させ目撃させよう」と言うのだ。

話を聞いていて私は気が付いた。

細君(京香)以外で、岩代の霊的な力(パワー)の最大の理解者が竹中氏なのかも知れない。

上手く行ったら、娘夫婦をハンティング(狩り)して京美企画に押し込もうと言う算段で、社長の私に働きかけて来たのだ。

それで順子の思惑通り、無職の夫も此処(京美企画)に落ち着く筈である。

「小泉さん、奥さんが輪姦(まわし)をされて、黙って見て居られそうですか?」

「お義父さんに聞きましたが、社長はご自分の奥さんの教育をお義父さんに依頼したそうで?」

「え、えぇ、そうです。内の奴は竹中さんに仕込んで貰いました。」

「その結果が良かったと聞きました。私も今では妻の変身を望んでいます。夫婦が互いに抑圧し合う存在では良い人生は送れません。」

「それが結論なら、ご希望に沿いましょう。しかし竹中さん、岩代ではなく何故僕に?」

「あぁ、彼に、決断を下すのは社長だからと言われたのでナ。」

「そうですか。そう仰(おっしゃ)るならお二人を交えて娘さんを犯って見ましょうか?」

「それで宜しいのでお願いします。」

親と夫もそれを望むなら、私に断る理由は無い。


話は判ったが、小泉順子の覚悟は確かめる必要がある。

岩代ほど私には自信が無いから、大人数が集まって、「やはり駄目でした」では格好が付かない。

「所で小泉さん、一度直接会って犯って観て、本人の覚悟を確かめたいのですが。」

「そうですか、本人もその気の様ですから私は構いません。」

「竹中さんもそれで良いですか?」

「コッチから持ち出した話しだ。今日にでも社長に軽く弄(なぶ)ってもらっても良い。後で連れて来る。」


後戻りが出来ない人生の岐路なんてものは思わぬ所から始まる物で、小泉達夫婦の場合は妻の順子が父の竹中氏に連れられて遣って来て、私に素裸にされ、欲棒を受け入れて抜き挿しされた瞬間だった。

一時間ほどして、竹中が小泉順子を連れて来て私に改めて引き合わせた。

先程の小泉武司を含む三者相談は、勿論順子には秘密である。

以前の会社勤めの頃から何度か会っていたから顔馴染みと言えば顔馴染みだが、事情が随分と違う。

「竹中さんが一番ご存知のように、娘さんが一緒に仕事をするなら甘やかす訳には行きませんよ。」

「それは充分承知している。勿論、充分使えるように好きに仕込んで犯ってくれ。」

小泉順子には「本気だね、」と私が念を押した。

「ハイ。大丈夫です。」

勿論輪姦(まわ)される事も「気の持ちようで可能ではないか」と思い始めていた順子は、最初からその気である。

これは妥協では無く工夫である。

気取って自分大事に何も犯らない女性より、這い上がる為には「あほな遊び」をさわやかに犯れる女性の方が男性に取っては遥かに魅力的である。

自分を接待性奉仕の愛奴隷として、素っ裸のガチンコSEXハイターに仕立てて貰うのが小泉順子の目的である。

「判りました。それなら娘さんご夫婦で、内の会社の仕事をして頂きましょう。」

「よろしく頼む。それで良いね順子。」

「はぃ、宜しくお願いします。」

順子は魔法に掛かったようにバカに積極的だったが、この機会に義父・竹中の話に拠って順子の中に潜む「淫」が目覚めたのだろうか?

竹中を問い詰めて、使えるように「好きに仕込む」と言う意味は、順子も承知している。

竹中は、順子の最終意志を確認すると「後は任せる」と、順子を置いて行った。

「予め社長に試してもらう。」と竹中は、順子に言って連れて来ていた。

だから今の小泉順子は、私に素っ裸に剥剥(む)かれて性玩具(おもちゃ)に弄(いじ)られる事に心弾(こころはず)ませて此処に来ている。

小泉順子は一見清楚な容姿や雰囲気と違い、根がスケベだったらしく父の竹中から聞かされた話に妄想を膨らませて子宮を熱くし、始めから期待いっぱいだったらしい。

自尊心を棄てれば生き易く成る事は幾らでも有るが、それを気持ち的に許せるかどうかは、個人の気持ちの問題である。

性行為に対する倫理観の認識は環境に拠って変わるものであるから、それが良い事悪い事の認識も当然ながらその環境に拠る倫理観の認識で判断される。

不思議な親子だが、竹中もそれを許す積もりで私の所へ連れて来ている。

「相手が私で良いのか?」

「奥さんに散々父のお相手をして頂いていますもの、娘の私としては社長に真っ先に犯って頂かないと・・・」


最初から後腐れの無い只の遊びが前提で、代償或いは謝礼として美女に至れり尽くせりの性接待を受けて、こんな美味しい話しに怒る男など世の中に居ない。

性接待も単なる仕事と割り切れば、純粋に真面目に生きると言う事も質と方向が違えばこれは充分に理解出来る事である。

詰まり新しい始めようと言う小泉順子は、「真面目に性接待に励(はげ)む」と言う結論を出し、自らそれを志願して今素っ裸で此処に居る。

そう言う事なら遠慮は要らないから、ご希望通りに可愛がって犯ってやる。

妻と二人で順子に会ったのだが、妻が順子を行き成り裸にした。

「順子さん、肉体(からだ)を見せて見て。」

「肉体(からだ)ですか?」

「えぇ、私達の前で全部脱いで、肉体(からだ)が資本の仕事ですから確かめないと話が進みません。それに他人前(ひとまえ)で脱げなければこの仕事はできません。」

妻にして見れば、順子の父親には散々犯らせている強味があるからお相子(あいこ)で、順子を脱がすにも遠慮がない。

決意の程を確かめる最も早い方法には違いないが、まぁ半分は親のお返しに順子を、私に犯らせる事を愉しんで居たのかも知れない。

「判りました。」

順子は、カーデガンに薄手のスエーター、フンワリとプリーツの入った紺のスカートを着用していた。

順子は立ち上がると、羽織ったカーデガンを脱ぎ、躊躇(ためら)いも見せずに腕をクロスさせてスエーターの端を掴み、そのまま捲り上げるように胸元を通過させる。

胸の膨らみを抑えた白いブラジャーが現れ、一度顎(あご)に引っ掛かりながら顔を通過したスエーターは、髪の毛を勝手に束ねた後すり抜けて腕に残り、それも抜き取られて左手に握られた。

その脱ぎ去られたスエーターとカーデガンを、順子がソファーに置いた。

順子が、白いブラジャーの、それも前開きのフックを両手で外すと、プルンと両の白い乳房が転げ出た。

「あら、綺麗な乳房じゃない。」

乳房が露になると、今度はスカートのジッパーを両手でコントロールし、一気に引き下げると、ハラリとスカートを床に落とした。

見ると、下半身も下着は純白の紐ショーツで、こんもりと膨らみを帯びた丘の辺りに黒い陰りが透けて見えた。

承知で下着を着替えて来たのは間違いない。

「それも取って見せてなさい。仕事に成ったら甘えは赦されません。」

「はぃ。」

順子は、両手をショーツの淵に添えると一気に下げ降ろし、中から黒い繁みを蓄(たくわ)えた柔らかそうな丘が踊り出た。

それから順子は、床に落としたプリーツ・スカートと白いショーツから片足を抜くと、もう片方の足首にスカートとショーツを引っ掛けてそれを手元に引き寄せ、足首から外して握り、これもソファーに置いて、全裸を晒(さら)した。

もぅ、隠す物は何も無い。

野生的な雰囲気の大柄(おおがら)な裸体が、次の指示を待って佇(たたず)んだ。

本人の意志で他人(ひと)前で裸に成る事は、浮世の鎧(よろい)を脱ぎ捨てて無防備に成る事である。

小泉順子は、私の前で如何なる気持ちで浮世の鎧(よろい)を脱ぎ捨てのだろうか?

いずれにしろ、順子の決意の固さは伝わって来た。

後は直接、順子の肉体(からだ)でその決意を私が確かめる事になる。


身長が170センチ近くある長身の順子は、乳房も大き目な女性としては大柄の肉体(からだ)を持ったナイスバデイである。

一重まぶただが目は大きく、精悍な感じがする冷たい顔つきに、スッキリした上下薄い唇の持ち主で、純粋に日本人だが日本人離れした雰囲気がある。

衣服を脱いで比較的ガッチリした体型が私の前に現れた。

白いショーツを脱ぎ落とすと、ビキニラインとも呼ばれるV字型の太腿(ふともも)の付け根と、そこから切り替わって丸く膨らみながら菱型に陰毛を蓄える恥丘、陰毛の隙間から小豆粒大の桃色の花芯ボタンが小さな膨らみを見せる。

その最下段に可憐に開いた短目の恥毛の一部が生々しく絡む二枚の可憐な肉花弁が眩(まぶ)しい。

覚悟の上なのか、順子に恥じらいの素振りは無い。

順子は精悍(せいかん)ながら清純そうな顔付きで、スカッとした野生的なSEXが出来そうな期待を感じさせる。

「良い肉体(からだ)だわ。それじゃあ、感度を主人に確かめてもらいますから。」

「はぃ。」

妻の手元を見ると、何処で覚えたのか麻縄の二本合わせたものを扱(しご)いている。

「縄を掛けますから、両手を後ろに廻して。」

「はぃ。」

順子に近付いた妻が、スルスルと順子を後ろ手亀甲縛りに縛り上げて行く。

「お父さんのお相手は、ズーット私がしていましたから、今度はあなたが内の主人にお返しする番ですよ。」

「はぃ、有難うございます。おかげで父は若返りました。」

「判っているなら、今度は気持ちを込めてお返しをする番ね。」

「はぃ、父からそう申し付けられています。」

縄掛けしながら、順子に因果を含める妻の口調も中々どうに入っている。

経験は人を有能にする。

何時の間にか洗練されて、私が思っていた以上に妻の性遊びに対する意識も知識も先に進んでいたのだ。

縛り上げが終ると、順子をソファーに転がした。

「駄目、必ずこうして脚を広げる。」

妻の叱咤(しった)が飛び、手が内太腿(うちふともも)をバシンと叩いて順子の脚を広げさせる。

剥(む)き出しにM字開脚にされた順子の両の内太腿(うちふともも)の中心に、妖しげなひだに囲まれた花芯ボタン、その下に縦に割れた二枚の肉花弁が生々しくパックリ開いて咲いている。

妻は「順子さん、今度からはけして足は閉じないで。」と命じて、「はぃ。」と返事をさせ、脚を広げさせると、妻は「さぁあなた、犯ってあげて。」と私に言った。

順子の弾力的で張りのあるサラッとした肌触肌触りが少しずつ汗ばんで、指先を通して興奮が伝わって来た。

私は、露(あらわ)に成った順子のクニュクニュした恥毛を絡ませる肉花弁を掻(か)き分けて、柔ら壺に人指し指と中指をグィと挿し込んだ。

遠慮する気は無い。

これは以前、最初の頃の妻に順子の父・竹中が犯った事だ。

「アッ。」と、順子の口から声が漏れたが、柔ら壺の中は充分に潤っていた。

「順子、スンナリ入ったぞ。もぅその気満々だな。」

「アァ・・・・。はぃ。」

その二本の指を、花弁が捩(よ)じれて巻き込むのを構わず抜き挿しして、性感ポイントを刺激して見る。

「アッ、アッ、アッ、アッ、アッ、」

押し寄せる快感を耐えているのか、順子の顔が歪(ゆが)み腰が浮き上がって左右に揺らしている。

「感じて居るようね。あなた、犯っちゃ居ましょうよ。」

「あぁ、それじゃあ、中に入れて見るか。」

「順子さん、お願いします。入れて下さいと内の人に頼みなさい。」

「はぃ。社長さん、お願いします。ワタシの中に入れて下さい。アッ、アァ〜〜。」

順子が頼む頃には、私は順子の柔ら壺の中に抽入を果たしていた。

「順子さん、積極的に腰を使って内の人を喜ばせなさい。」

「はぃ。こうですか?」

順子は、抽入された私の欲棒を下半身に咥(くわ)えて、必死で「クイクイ」と受け腰を使い始めた。

順子の柔ら壺の粘膜質な内壁を、私の欲棒のカリ首がズボズボとリズムを以(もつ)て擦(こす)れながら深く浅く抜き挿しされるのを感じながら、順子はクィクィと受け腰を使って応戦する。

敏感な粘膜質の柔ら壺の内壁を、粘膜質のカリ首でリズム良く擦(こす)られるのだから、もぅ相手が誰か何んかに拘(こだわ)る意味も無く快感に溺れて行く順子だった。

シットリと汗ばみながら全てを私に委(ゆだ)ねた順子の柔肌が、私の肉体(からだ)に密着する感触が心地良い。

「アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜。」

男にして見たら、相手の女に自分で抜き挿しをさせながらヒィヒィ善がり声を上げさせる事が一番本能を刺激し征服欲を満足させる。

「里美、これなら良いだろう。ウッ、イキそうだ。」

「イッたら、後の始末は順子さんに舐め取らせて、綺麗にさせて。」

「あぁ、そうさせる。ウッ。」

イッタ後の欲棒は、順子が命令通りに舌と唇で舐め取って綺麗にした。

ここまで順子の腹が据わって居れば、もぅ迷う事は無い。

後はお望み通りに、会社の総力で犯り倒すだけである。

性癖は誰にでもあるから、どうやら順子は心の奥底でこう成る事を望んで居たかのような感じである。

小泉順子は、永く信じて来たアンカリング効果と一貫性理論を自ら覆(くつがえ)す大決心をした。

人間の思考能力は無限大で、思考方向も無数に存在するにも関わらず、自らを縛ってしまうのがアンカリング効果と一貫性理論の罪の部分である。

自(みずか)らアタック(挑戦)しようと志願したこの三日間の禊(みそぎ)に拠って覆(くつがえ)してしまえば、彼女彼女の心理の中に「新しいアンカリング効果と一貫性理論が生まれる。」と考えたのだ。


夫婦なのですから、「良い事も悪い事も二人で責任を持たなければ夫婦ですと澄まして生活など出来ない」と私(順子)は思ったのです。

その覚悟が無い夫婦が多いから、「相手が勝手な事ばかりする」と離婚申請が多発するのでしょう。

考えて見れば他人同士が一緒に成り二人揃って人生を送るには、選んだ相手を非難してばかりでは夫婦で生活など送れません。

今度の事は、私(順子)が妻として夫の目を覚(さま)さなければならない事態です。

一時は夫のとんでもない失態にあきれ怒り別居をしましたが、私(順子)は子供に惨(みじ)めな思いはさせたく無かったですし、子育ても良い事も悪い事も二人で責任を持たなけれなりません。

何とか夫を立ち直らせ元の鞘(さや)に収まらなければなりませんが、このままただ漠然(ばくぜん)と夫を許して同居を始めるだけでは本当の意味での夫婦の再出発は出来そうには無かったのです。

それで悩んで居たちょうどその時に、父の京美の事を知りました。

京美の事は、世間的には常識では無かったのですが、悩んで居た私(順子)には何故か「これだ」と感じました。

例え間違いを犯しても「相手の勝手」に付き合ってこそが夫婦なのですから、「今度は自分がその覚悟を夫に見せ付けてやろう」と考えました。

それで考えたのが、つまり肝心なのは本人同士の覚悟で、このままではどうやら夫は立ち直れそうも無いのだから、少々刺激の強いショック療法ですが父がお世話に成っている京美の乱交行為を私(順子)が犯って「夫に見せよう」と思い付いたのです。

どうして私(順子)の思考方向が「京美の乱交行為に向ったのか」と素朴に問われるかも知れません。

でも、父の京美での乱交行為を娘として肯定すれば、一方で肯定して一方で否定するのは矛盾ですから、そこが基点と成って自分でも信じられない結論が導き出されたのです。



小泉順子の血液型は喜美子と同じB型で、性格はマイペースで解放的、集中力があって勝負強い。

勿論、順子と喜美子には個体差があるから全てが同じではなく、順子の方が拠り積極的な性格らしく、そのB型女性の順子が、犯って居る事を承知の上で「京美企画に入りたい」と言って来た。

順子の血液型はこのマイペースで解放的、集中力があって勝負強いB型だったから、一瞬で「京美企画入り」に勝負を賭ける気に成ったのかも知れない。

B型の女性は気分屋で常に自分の感覚で物事を判断し行動する為気持ちの切り替えが早く、周囲の目には「一貫性が無い」と取られる。

マイペースで解放的な面が発揮され、根が大胆だから特に好きでもない相手にも簡単に着いて行き、場所も気にせずその場の気分で犯ってしまうのがB型の性格である。

ちなみにB型女性は、性行為に於ける内容も許容範囲は広く研究熱心で積極的に挑戦する傾向はあるが、あくまでも自分本位に積極的で自分主導であるから、小泉順子がこの京美企画の考え方に同調する事は容易だったのだろう。


それにしても小泉順子は、妻とは最初から考えが違っていた。

これは順子が私に語った他人の話しだが、順子には独身時代に乱交に興じていた同僚がいた。

順子が短大を卒業して初めて職に就いたのは大阪に本社がある壁髪やカーテンと言った住宅インテリアを製造する中堅企業の東京支店だった。

支店と言っても本社の製品を売り込む営業が主体で、男性社員が支店長を含め九人ほど女性社員は二年ほど前にまだ男性社員が三人ほどだった頃に採用された三十路過ぎの女性と、支店が拡充されて採用された新人女性社員が順子ともう一人が居た。

支店のトップは支店長と言ってもまだ若く、当時三十二歳だったが、小なりとも言え一つの群れを統括していて、その姿が格好が良いと見えたのか、一緒に採用された同僚が夏頃から猛烈にアタックして何時の間にか不倫関係に成っていた。

入社当時は、器量もスタイルも上だった順子の方に何かと声を掛けていた支店長の態度が秋口からコロリ変わり、露骨にその同僚に声を掛けるようになった。

まぁそこまでは男女の群れが屯(たむろ)う職場で良く在る話しだが、そこから同僚の運命が一変する。

支店長の態度が見え見えだった為に支店中の噂(うわさ)となり、その点は支店長も本社に醜聞が聞こえないかと不安を持ち出していた。

師走(しわす)近くなったある休日、土曜日から日曜にかけて支店の忘年会が伊豆の民宿で模様され、その夜に事件が起こった。

宴会が終わって一風呂浴びた所で、それまで横に成って順子と談笑していたその同僚が「支店長に呼ばれているから」と寝床を抜け出して女子二人の部屋を抜け出した。

寂しく成った順子も寝床を抜け出し、二度目の風呂に入ろうかと廊下に出掛かって支店長の部屋の前に支店の男性社員が列を作っているのが見えた。

宴会が終わったばかりで男どもも酔っているから、「絡まれても困る」と咄嗟(とっさ)に廊下の角に身を隠した順子だったが、酔っ払いの大きな声が聞こえて来た。

話を要約すると、どうやら本社に醜聞が聞こえるのを心配した支店長が「忘年会の後同僚に犯らせるから」と口止めし、同僚に言い聞かせてあの順番待ちの列が出来ていた。

続けて八人も相手にするなど当時の順子には驚愕(きょうがく)の内容だったが、三時間近く経ってその同僚は気だるそうに顔に疲労を浮かべて帰って来た。

順子が寝た振りをして居ると、その同僚は安心したのか冷蔵庫から缶ビールを取り出し「あいつら飢えていてのか二回も輪姦(まわ)しやがって」と呟(つぶや)いて前を肌蹴(はだけ)団扇(うちわ)で股間を煽(あお)りながらビールを飲みだした。

奇妙な事にあの列を成した男性社員を思い出すと、同僚が入れ代わり立ち代り犯されている光景を想像して、卑猥(ひわい)な興奮を覚え眠れない自分が居た。

それも毎日顔を合わせる男女がその卑猥(ひわい)な想像の対象だったから、生々しい想いがある。

そしてこの時、女が一度に何人も相手に出来る肉体(からだ)を持っている事を学んだ。

「二周り犯られた」と言うのも驚いたが、その同僚が「まぁ良いわ。これで明日から職場で遣り易くなる。」と独り言を言ったのには、逞(たくま)しささえ感じた。

順子にして見れば「馬鹿な事」をしたもので、支店全員の男性社員と関係を持てばその同僚は今後「弱みで男達の言い成りに成る」と想っていた。

所がその同僚、次の月曜日から男性社員達への態度が変わって、ベテランの先輩女子社員を差し置いてあれこれ指示を出すようになった。

男性社員達も一変して同僚の指示を聞くようになり、代わりと言っては何だが新年会や職場飲み会では必ず例の順番待ちの列が出来て、その同僚はさながら職場娼婦の様相を態(てい)する様に成っていた。

その同僚はアパート住まいで、順子の様に親元から通勤していた訳では無いので、噂だが男性社員達が冷蔵庫や家具類を買い与えて、それを口実に部屋で遊んで帰る様にも成っていた。

そうこうしている間に、同僚は男性社員を使いこなす有能な女子社員としてベテランの先輩女子社員を差し置いて主任となり、段々女帝の様相を態(てい)して先輩女子社員は居場所を失い退職して行った。

順子にしたところで、同期が主任に昇格し、男達にも雑用を言い付ける以外は無視されて居た堪(たま)れなくなり、同僚の職場娼婦状態を馬鹿にして居られなくなって職場を変えた。

七割方は妻子持ちの男性社員にとって、職場不倫なら修羅場も考えられるが、後腐れがない職場娼婦は都合の良い存在で大事にする。

世間なんてそんな物で、クレバー(賢い)に考えれば性交と言う武器には威力がある。

職場娼婦の「させこ」など女の敵である。

しかし、本当にそれだけで彼女をかたずけて良いものだろうか?

女性は想像だけで「嫌だ」と決め付けているが、本当の事は犯って見ないと判らない。

大人同士が最初から合意の上で、愉しく攻めたり責められたりする分には後腐れも尾を引く事もない。

他人(ひと)がしない事をしてこそチャンスが増える。

順子には、あのほろ酔いで廊下に列を為す男性社員達の光景が強烈な印象として残った。

そして他人(ひと)が犯れ無い事を平然と犯る同僚の根性を「立派だと想った。

実は決意さえすれば簡単に出せる答えなのに、犯って見ないでいて犯っている女性を非難しても只の遠吠(とうぼ)えで、彼女は確実に伸し上った。

何年か経っても、時折順子はあの男性社員の列を思い出し、想像をたくましくしてああ言う事が犯れる同僚がうらやましくも想って居た。

順子の初めての社会人としての船出は、想像以上に大人だった同僚にして犯られた記憶だけが残ったから、順子自身その苦い反省が心の隅に在ったのだ。



小泉順子の禊(みそぎ)の期間を三日間にしたのは、私の所も小泉夫婦の所も子供がいるので時間が夜間しか使えないからである。

それで、毎夜十時から翌二時まで、「毎晩五時間、三日連続でみっちり仕込もう」と考えたのだ。

<岩代も、妻も、竹中も、今回は「真っ先に私が順子を犯って楽しめば良い。」と考えている。

夫の小泉武司もその意向で、それだけ考えると正直楽しみな事には違いない。

だが、抗し切れない力が働き、見えない歯車が廻り始めている不安は有った。

しかし矛盾する事に、一方で自らが岩代に影響され、その思考に傾倒している自分も居たのだ。

私の頭の中では、小泉順子には三日間の集中陵辱体験の間、目隠しをさせ続ける事で、この「課題を実行しよう」と考えていた。

妻に使ったあの十字拘束の吊るしパイプ設備が、又役に立つのだ。

つまり順子には、自分が犯かされている相手も、それを見ている相手も判らない状態を毎晩強いる事になる。

好みで性行為をする訳では無い理屈だから、相手を知る必要など最初から無い。

ただ、肉体が快感を享受し続ければ良いのだ。

気が付くと、私は岩代並に順子の陵辱ストーリーを構成していた。

一度実践しているから様子が判るが、ああして素っ裸にし、足を広げて尻を突き上げる格好で前屈(まえかが)みに固定して吊るされたら、もう赦されるまでは犯られ放題で、順子に意志は無い。

そして、始まったら何があっても止らない。

順子も妻の様に、あのトリップ状態になるのだろうか?

妻の、口をパクつかせて荒い息をし、涎(よだれ)をダラダラと垂らしながら、かすれた善がり声を上げて犯されている顔が浮かんだ。

小泉(竹中)順子にも、妻同様、気を失ってもグチャグチャにされる続ける時が来るのだ。



人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。

そして発想が自由でなければ、斬新な思考は創造(う)まれない。

つまり学んだ学問は、新しい発想の原点に過ぎないのであるから「学問を修めたから」と言ってそれを「絶対視する事」自体が危険な思想である。

それでは中世の「天動説」と同じレベルで、学問を修めたらその活用こそが個々の課せられた使命である。

岩代夫婦の実践する京美企画の営業手法は、「人間の本能」と言う建前の死角を突いた物である。

賄賂(ぞうあい)と言っては身も蓋もないが、金品の受け渡しは証拠が残る。

相手が喜んで証拠が残らない金品以外の物と言えば、「女体(によたい)の提供」と言う訳である。

正直京美企画は、岩代や生島の働きもあり、順調な滑り出しで細君(京香)の担当する接待の方も忙しい。

勿論、妻や喜美子も駆りだされているようなので、私にすれば小泉夫婦の飛び入り参加は心強い出来事である。

ただ、不思議に思ったのは、岩代がこの事あるのを予知していたような素振りだった事である。

まさかとは思うが、小泉夫婦の参加を「予知していた」とすれば、岩代には計り知れない何かが有るような気がする。

彼は否定しているが、岩代の力はどこまで本物だろうか?

幾ら現実主義者の私でも、やはり何らかの力が彼に有るとしか考えられない。


例えゲスト様の卑猥なお相手であっても、日々努力するのが人間なのです。

自我を基に「勝とう」とするから、軋轢(あつれき)が生まれるのです。

私(里美)が「負けよう」と、自我を捨てる事をポジティブに考えた時、新しい未来が始まりました。

すなわち愛奴隷の性奉仕は、「負け続ける事」なのです。

つい最近まで、思っても見なかった気持ちの変化ですが、命じられて裸の愛奴隷姿に成る支度を始めると、「アァ、これから私(里美)は嬲(なぶ)り尽くされる。」と、もう脳の方が被虐的なHモードに切り替わり、その期待が充満して行きます。

未だに、どうしてそう言う心境に私(里美)が成ったのかは、判らない不思議な事です。

こんな事が出来る私(里美)では無い筈なのに、愛奴隷姿の支度を始めると、心の片隅から「犯らなければいけない」と言う魂の叫びのような感覚に突き動かされながら服を脱ぎます。

後にキミチャンや順子さんに聞いても、ほぼ同じ事が帰って来ましたが、背徳感も或る種の密の味で、本音で言うと、見ず知らずのゲスト様に貸し出され身を委(ゆだ)ねる事は、ハラハラ、ドキドキの胸を高鳴らせるスリルなのです。

接待の奉仕も数を重ねると、その緊張感、期待感は癖(くせ)に成る感覚です。

そして、その先に待っているのが充実感と達成感なのですから、経験の無い方に想像であれこれ批判されても、私(里美)は平気です。

遊びと違い、仕事として与えられた使命は、甘いものではありません。

それがルールですから、愛奴隷としてゲスト様に裸で引き渡されている間は、いかようにも好きに扱って、性癖を堪能(たんのう)して頂く為に、裸身を預ける私(里美)に意志は一切有りません。

私の躾(しつけ)を口実に、岩代さん夫婦と竹中さんに、私の肉体(からだ)は散々性的に嫌らしく責めてたてられ、もぅ、その嬲(なぶ)られる快感は、脳の髄まで染み込んでいます。

キット、扱い易い素直な愛奴隷なのでしょう。

ゲスト様は、満足が行くまで私(里美)を無遠慮に嬲(なぶ)り尽くして帰って行きます。

遊びと違い、仕事として与えられた使命は、甘いものではありません。

それがルールですから、愛奴隷としてゲスト様に裸で引き渡されている間は、いかようにも好きに扱って、性癖を堪能(たんのう)して頂く為に、裸身を預ける私(里美)に意志は一切有りません。

私の躾(しつけ)を口実に、岩代さん夫婦と竹中さんに私の肉体は散々性的に嫌らしく責めてたてられ、もぅ、その嬲(なぶ)られる快感は脳の髄まで染み込んでいます。

そこまで犯ってしまえば誰と犯るのも同じ事ですが、その心境に成るには「犯る事が然程(さほど)特別な事ではない」と言う意識がなければ、とても愛奴隷など勤まらない事です。

つまり愛奴隷なら誰とでも犯って当然がルールなので、犯る相手に特別な感情は要らないのです。

そうなれば、キット私(里美)は扱い易い素直な愛奴隷なのでしょう。

ゲスト様は、満足が行くまで私(里美)を無遠慮に嬲(なぶ)り尽くして帰って行きます。

嬲(なぶ)り尽くされる事を、嫌(ネガティブ)がっては愛奴隷の奉仕が勤まりませんから、その奉仕を好き(ポジティブ)に成る努力が必要です。

その気に成れば、そう言う弄(もてあそ)ばれ方も、女は楽しめるものです。

体験した者でなければ判りませんが、繰り返しそう言う体験を重ねた私(里美)は、いつしか、その被虐的な被支配感が、私(里美)の中では脳を溶かす性的好感の習性に育っています。

今では愛奴隷としてゲスト様の性癖に無条件無制限に弄(もてあそ)ばれ尽くす事に、妖しげな喜びを感じています。




小泉(竹中)順子の京美企画参加行事には、生島夫婦と田嶋は出席出来るが、石上は本業のレストランが連休中は「かき入れ」で参加できず残念がっていた。

後は例の学生軍団を呼べば良い。

それで相手が多人数の輪姦(まわし)なら、妻と同じ事を今度は目隠しをして後ろから犯れば、夫が混ざっていても、たとえ相手が父親でも順子には判らない。

それでないと、父親が見ている前での性行為は娘に刺激が多過ぎる。

妻は「竹中さんには散々私が楽しんで頂きましたから、今度はあなたが娘さんで楽しまさせてもらえば。」と言う。

まぁ、妻の立場で考えれば最もな意見である。

竹中氏本人も、娘の輪姦(まわし)にまったく拘(こだわ)る様子は見えない。

何の事は無い、私一人がまだ世間の常識に拘(こだわ)っている様な気がした。

それで、竹中氏の岩代信奉ぶりに、私の加虐心がムラムラと湧き上がって来た。

そう言う積りなら、こちらも遠慮はしない。

「お前の娘を嬲(なぶ)るだけ嬲(なぶ)ってやる。」

場合によっては親子で犯る所まで追い込んでやる。それが、出来なくても順子に父親の欲棒をシャブらせるくらいさせねばこちらの溜飲が下がらない。

「竹中さんどうでしょう、順子さんには目隠しをさせますからお二人には途中から参加して頂いて、無言を通して成り行きを眺めていて頂けますか。」

「うん、その方が犯り易い。それで行こう。なぁ武司君。」

竹中が同意して、小泉に同意を求めた。

「それが、良い出すね見守ってやりたいですから。」

応える小泉の目が、期待に異様に光っていた。

その心境は計り知れないが、恐らく私の時と同様「妻の変身を期待半分、卑猥な感情が半分」と言う所か?

それにしてもこの一連の出来事は、素直に受け取れない。

心理的には、モヤモヤとした疑問が湧き上がって来る。

どう考えて見ても、唯の説得で女達やその亭主が操(あやつ)れる訳が無い。

所が、本来拒(こば)む筈(はず)の性奉仕が仕事にも関わらず、何人もの女とその亭主が、まるで素直に岩代夫婦に操(あやつ)られている。

最初は、摩訶不思議な現象に戸惑いもあったが、冷静に観察する事が「コツ」みたいなもので、全体像の輪郭が見えてくると、段々推測の焦点が絞れてくる。

あの夫婦には、妖しげな力があるに違いない。



興信所から連絡が来たのは、五月の二日だった。

小泉順子の調教三日間が始まる一日前の事だ。

私はこの秘密の依頼の為に、都内池袋まで出かけてその報告を聞く事にした。

当初妻の変身を望んだが、近頃はそれが少し違う意味を持ち始めている。

これからの岩代の動き次第で、今後の私達夫婦の人生が変わって来る。

しかし、今更調べるのは角が立ちそうだ。

それで人目に付かぬように、岩代の正体を確かめたいのだ。

西口の有名な喫茶店で、調査員と待ち合わせた。

「で、どうでした?」

「いぇ、申し訳ありません、調べるに時間が掛かりました。」

「どんな理由で、時間が掛かったのですか?」

私は、岩代が正体不明の人物で、「調査に時間が掛かったのか」と思っていた。

所が、調査員が口にしたのは意外な話だった。

「いぇ、対象がアメフトの実績以外余りにも平凡で、お申し越しの対象者の正体と言われても特段明記するものがありませんので。」

「特筆すべき事が無いのですか?」

「えぇ、のどかな田舎の、まったく平凡な家庭に生まれて育っています。」

「それでは、私が依頼した宗教関係の接点は無かったのか?必ず有る筈だが。」

「そこまで仰(おっしゃ)るなら、引き続き調査してみます。」

「そうしてくれ、何か繋がりがある筈だ。」

手元に渡された調査報告書は、岩代の何の変哲も無い山間の村生まれの今日までが、淡々と綴られていた。

岩代から直接聞いた略歴と大差はない。

いったい、彼は「何処であの能力を、そしてパワーを手に入れた。」と言うのだ。

調べて判ったのは、場所は都合で明らかには出来ないが僅(わず)かに関東地方の名も知らぬ山奥の田舎で生まれ、中学までその地方で育った事だけである。

その後、高校からは出身大学の付属高校に通って、大学に進学していた。

あえて言えば、何しろ田舎の山奥の村里が調査先で一様に口が堅く、細かい調査に難航したとの事だった。

細君(京香)の方も、やはりこれと言ったものは無く、判ったのは細君(京香)が岩代と「同郷だ」と言う事だけである。

調査員が席を立っても、私はまだ喫茶店に居た。

説明で「何の変哲も無い」と言われたので鵜呑みにしていたが、良く見ると細かい部分で見るべき所がある。

落胆交じりに調査報告書を見ていて、フト、目新しい物が一つある事が目に付いた。

小さい記述だが、彼は空手の段位も持っている。

それも三段と中々のもので、どうやら、高校時代から大学まで、彼の別の顔として鍛錬を重ねたらしい。

彼の身体の鍛錬と、あの能力はどこかで繋がっている様な気がする。

道場なり修行場なり、或いは彼を指導した師範なり、彼に何か授けた場所か人物が存在する筈(はず)だった。

それが見当たらない事は私にとって大きな謎だったが、後に成って彼が生まれ育った環境こそが、その謎を解く鍵だと知った。

それは話が長くなるので、この物語の後半で詳しく伝えたい。

細君の方の身上書も目を通したが、父親の欄が空白なだけで出自経歴に特筆すべきはない。

どちらにしろ、細君(京香)は岩代の影に隠れている様で、実は岩代をコントロールしている様にも見える。

或いは、その形ちは世間と少し違っているが、細君(京香)は岩代に向かって、真っ直ぐひたむきに生きているのかも知れない。

私は、溜息混じりに興信所に電話をして新しい調査課題、空手関係を調査する様に指示を告げた。

今度は、何か引き掛かって来る筈だ。

明日から、小泉順子の調教が始まる。

何しろ本人の意思で、順子の肉体(からだ)を何時でも素っ裸に剥(む)いて自由に御使用できる訳である。

「ハァ?」と驚くほど、この世の常識では現実的で無い事が、何の違和感も無く進行していた。

それでもこれは、本人が希望した事だから遠慮する事は何も無い。


(始まった順子の輪姦)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十一話(始まった順子の輪姦)


「まとも」って、何だろう?

私の感性がまともなのか。

時としてこの非日常の時間を選択する彼らの本能現象が正しいのか。

小泉順子は、何事にも興味を抱き前向きに実践に到る性格だから、性と言うテーマでも恥ずかしいも見っとも無いも在ったものでは無く、機会があれば突き進む方の性格である。

だからこそ、今でもあの鮮烈な順子の陵辱輪姦光景は、私の目に浮かんで来る。


今、私の感性の範囲を超える現実が進行している。

一番不思議なのは、今の周りに自分の愛する女性を守る気が無い事である。

この思いが実は問題で、私が「傷つける」と思うノーマルな事を、彼らは「傷つける」と解釈はしていない。

この、理解の違いに根拠はあるのか?

何しろ男女関係の事はタブーとされる事だから乱交など持っての他(ほか)で、世間に噂(うわさ)でも広まれば正義面(せいぎづら)した立前主義者達に間違いなく糾弾されるのが常識と言う奴だろう。

良く世間の女性は娼婦や愛人・二号、浮気する女性を「イケナイ事だ」と軽蔑したり敵意を抱くが、それは全て自分は努力しないで略奪から自らを防衛する為の敵意からである。

その証拠に、映画やドラマを見ても主人公が愛人・二号や浮気女性だったりするとスッカリそちら側に立って思い入れも出来る。

実際本人が愛人・二号に立場が変わったり浮気相手が出来、そしてそれらの全てに性交が伴っていても、「イケナイ事だけど、愛しちゃったのだから仕方が無い」と、ご都合主義で開き直るのも女性である。

しかしながら建前が横行する世間に知られれば、「京美企画」はスキャンダラス(醜聞的)な悪評に名誉や人格を傷つけられるだろう。

それでも信実は表裏一体で、非日常の性行為は外聞を憚(はばか)るような端無(はしたな)い事だからこそ興奮もし、癒(いや)されるのだ。

現実の問題として、性行為の相手に無理やり「メルヘン」を持ち込むのは、人間だけである。

矛盾した事に、「愛が無ければ性行為は出来ない」と言いながら、「愛があれば性行為は無くても良い」と言う。

そこに、人間のずるさに満ちた誤魔化しがある。

本来、愛情と性行為は分離して考えるべきものでなければ、性行為が不能になった連れ合いを、それでも尚の事愛し続ける事は出来ない。

つまり、独占欲が愛情に摩(す)り替わっているのが本音で、性行為の条件に愛情は結び付かないのだ。

こう言う事を「重たい」と感じるか、「軽い」と感じるかは微妙な話である。

キット、「私にはとても出来ない」と、多くの女性が言うだろう。

それは、本当だろうか?

大げさに想いがちだが、実はその差はほんのチョットの事なのかも知れない。

何故なら、「誰の為か、何の為か」の何処に重きを置くかの入り口が違えば、物の考え方は全く違う。

裏を返せば、そこを変えればいか様にも変身出来るのが人間である。

例えば、強姦された女性でも一方はそんな事は屁とも思わず、一方はこの世の終りのごとく深刻に考える。

それだけ人夫々(ひとそれぞれ)な事に、枠(わく)何か始めから無いのだ。

それ故人間は、強情に「メルヘンに生きよう」とすると押し潰される。

大切なのは「リアルに向き合って如何に生きるか」であり、それを知る事である。

まぁ、私に言わせれば、あれだけの接待をすれば取引が上手く行っても無理はない。

それが、「京美企画」の特別な接待性奉仕が交渉の潤滑油に成って、土地転がしは膨大な利益を生んでいた。



小泉順子の輪姦の話をする前に一つ、生島喜美子の不幸な出来事を一つ話して置く。

順子の会社参加の経緯(いきさつ)が進んでいる頃には、生島喜美子への岩代夫婦の愛奴隷調教も進んでいた。

岩代に言わせると喜美子の素質は充分で、喜美子本人が早くに自分の本能的資質を自覚したから手間は差して掛からなかったらしい。

私が様子を問い質(ただ)した頃にはもう、生島喜美子は「実戦の性接待に借り出されていた」と言う早さだった。

こう言う事を否定しないで上手く犯るには、気を入れて気分を卑猥(ひわい)に持って行き、積極的に受け入れて性交を愉しむのが利口な女の処し方である。

喜美子はもう慣れてしまって、夫の生島に「接待が在るから支度しなさい」と陵辱プレィを告げられると胸の鼓動が高まり、もう抑(おさ)え切れない程興奮してしまう。

「何て事は無いさ」と想えれば、日常の倦怠感(けんたいかん)を埋める様におシャブリも腰使いも上手く犯って、犯られ放題も問題とは想えない。

そう仕込んだのだから無理も無い事だが、想わずゾクゾクと癖に成ってしまった被虐の快感を期待し、犯る気満々の性本能のスィッチがオンに成るのだ。

例え性接待でも、性交をする以上は「相手に快感を与えよう」とチ*ポをシャブり、渾身(こんしん)の受け腰使いで這い上がる為に抜き挿しの努力をする。

それが、その時置かれた愛奴隷としての立場の喜美子が、素っ裸で相手に尽くすべき最低限の礼儀で、疎(おろそ)かには犯れないから、笑って奉仕する覚悟は出来ていた。

何しろ熟れ盛りの他人妻(ひとつま)が抱けるのだから涎(よだれ)が出そうな話で、その性接待を断る理由は男達には無い。

喜美子のあの生々しく鮮烈な接待性交の光景は、今でも鳥肌が立つほど色濃く目に浮かんで来る。

大きく開いて欲棒を咥え込んだ股座(またぐら)の隙間から、突き腰と受け腰の抜き挿しで白く濁した下半身の涎(よだれ)を太腿(ふともも)に垂れ流しながら、喜美子は奮戦を続けている。

腰使いも激しく愛液に濡れ光らせた陰茎を股座(またぐら)に見え隠れさせられながら、乳首が立った乳房を揺らして犯られている喜美子の痴態だった。

言っては何だが、その疎(おろそ)かには犯らない喜美子の、笑って性奉仕する直向(ひたむき)な愛奴隷姿は神々(こうごう)しい程である。

奇妙な発想かも知れないが、求められた性行為を真面目に一生懸命犯る事が果たして不真面目な事だろうか?

その男の突き腰に平然とガップリ組んで、赤裸々に生々しく見え隠れする愛液で濡れ光らせた陰茎を、喜美子は快調に受け腰で抜き挿しを快適に熟(こ)なしていた。

正直、喜美子にした所で犯ってる間は無我夢中だから、肉体(からだ)が素直に快感を求めるだけで、けして接待性交は嫌では無い想いである。

そして互いに通じる情が無くても、大人の男女の成熟した性器と性器が正常に抜き挿しされて海綿体が接触すれば、喜美子が得られるのは神の与えた「快感」である。

だからその結果として喜美子が他人の欲棒を股座(またぐら)に咥(くわ)え込んだまま腰を浮かしてヒィヒィと「気持ち良がって」も、何人(なんびと)も非難は出来ない。

それにビジュアル(視覚的効果)としては、喜美子が犯られながら身悶(みもだ)えて、感じ捲くって居る生姿を魅せてこそ、本当の意味での相手が満足する性接待である。


マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの遊びの性交も多人数相手ではかなりの運動量である。

おまけにこの環境では裸体を始終見られる事を意識しているから喜美子の肉体(からだ)が適度に美しく引き締まり、いっそう魅力的になった。

まぁ岩代夫婦の調教の犯り方が、本人が余り余分な事を考えない内に肉体(からだ)に既成事実行為を積み上げて、その肉体的快感を感受させて納得させるのだから、妻同様に一気呵成(いっきかせい)に躾(しつ)けを犯ったに違いない。

愛奴隷の実践教育を他人に施(ほどこ)されるなど、何も知らない人間に取っては理解できない事である。

だが施(ほどこ)される身になれば、それ自体が結構愉しめるものでもある。

一見「論理的でない」と思える精神的な露出プレィの羞恥心も、鞭(むち)打ちや蝋燭(ろうそく)責めなど痛みや熱みを加えられて、矛盾する事に快感を得られる生体の反応は、実は脳の防御機能が作動して固体を守ろうとする体内神経成分の反応である。

その応用行為が「SMプレィ」と言う人間だけが持つ論理的な性行為の一種である。


全く赤の他人の慰(なぐさ)み者に成るのが、性接待愛奴隷の基本です。

私(喜美子)の愛奴隷デビューは結構強烈でした。

会社の開所式祈願に出席して、いきなり里美の旦那さん(社長)に抱かれてしまったのです。

その後はもう、その日に初対面だった会社関係者に「互いの気心を通じる為」と言われ輪姦(まわし)されてしまいました。

窮状を助けて頂いたこれからお世話になる会社ですし、友人の里美も含め周囲の女性が皆そんな状態だったので、勢いで私(喜美子)もそうなってしまったのです。

その最中に竹中さんと言う年配の出資者に犯られながら、接待の仕事が「性接待」だと聞かされました。

社内の関係者だけならこれからお世話になる会社で「信頼を関係を築く」と言われれば仕方が無いけれど、会社が指定する不特定多数が相手となると、もぅ歯止めがありません。

最初は私(喜美子)にも、「そんな真似は絶対に出来ない」と言う思いはあったのですが、その場で四〜五人に抱かれると子宮にズンズン来て善がり声を張り上げ受け越しを使って快感を貪(むさぼ)っていましたから、結局、愛情が無い唯の性交も「出来る」と、認めざるを得なく成りました。

愛情が無い唯の性交も私(喜美子)に「出来る」のですから、会社の職務として性接待愛奴隷を勤め、全く赤の他人の慰み者に成る覚悟が出来ました。

それに何よりも心強いのは、親友の里美も岩代さんの奥さん・京香さんと言う人も「性接待をしている」と言うのです。

この開所式祈願で、里美が縛られたままのノンストップ輪姦(まわし)をされて見せましたから、不思議な事に「私(喜美子)にも犯れる」と対抗心が湧いて来ました。

それで開所式祈願後に私(喜美子)がもう一度里美の旦那さん(社長)と性交をして、夫婦でに意志表示をしたのです。


私(喜美子)の性接待の場には、愛奴隷の調教も兼ねて必ず京香さんが立ち会いを勤めます。

京香さんは役割を心得ていて、いざと成ればS(サド)風の調教者の役目も充分にこなします。

性接待の愛奴隷はフエイク(模造)ではなく本物に成る事が求められる「ゲスト様の慰み者」ですから、ゲスト様に対して「嫌な顔」は絶対に出来ません。

ゲスト様の命令や行為に対して「嫌な顔」をする事は、愛奴隷として「そそう」をする事ですから、途端に京香さんの鞭(むち)がお尻に飛びます。

それで私(喜美子)は、ゲスト様のいかなる命令や行為に対して、感謝の気持ちを持つ事を心掛けました。

不思議な位スンナリと性接待愛奴隷稼業に入れたので、私(喜美子)がその疑問を岩代さんにぶっつけました。

そしたら私(喜美子)に「Mの資質が強いからだ」と、意外な答えが返って来ました。

どちらかかと言うと、自分をS性だと思い込んでいた私(喜美子)には驚きですが、結果から言うとそれが正解なのかも知れません。

つまり、私(喜美子)自身が自分の本性を自覚していなかった事に成ります。

里美も同じでしたが、性接待愛奴隷にMの資質は絶対条件で、一定のレベルまで行ったスポーツ選手は持って来いなのだそうです。

身体強健なスポーツ選手がM性とは、私(喜美子)のイメージが全く違います。

どちらかと言うと豪快な気性で通っていた私(喜美子)にはショックでしたが、詳しく聞くと「ナルホド」と思い当たります。

体育会系の頑張り屋の裏の資質が「M性」と言うのは不思議な気もしないではないのですが、なるほど「命令されたがり」でないと監督やコーチの言う事を素直に聞けないでしょう。

それに、「M性」があるからこそ日頃の激しい練習に耐えられるし、試合当日の頑張りも聞くというものでそれにランナーズ・ハイ(長距離走陶酔状態)現象が絡んでくるスポーツ選手は最高のM(マゾ)性何かも知れません。

岩代さんに言わせると、世間体や既成概念を基準に自分を間違った「有るべき論」に縛ってしまうと、どこかで脳の思考バランスが崩れて精神系の疾患に到ったり凶悪性犯罪や凶悪傷害・殺人に走ったりと、ろくな事がない。

だからその辺りのストレスを「素直に抜く」と言う人間的な幅を持つように言われました。

そう言えば建前の「有るべき論」に縛って何でも簡単にかたずけてしまい、事が起こると「それは特殊だ」と言って本質には踏み込まないで逃げてしまっている事多いですものね。



実は喜美子の愛奴隷調教も進んで、調教と実践の性奉仕を平行で始めていた。

夫婦共に早く仕事をしたがったので、スムースな出足を見せていた。

例え生島の目の前で妻の喜美子が犯され身悶えていても、夫の為に妻の喜美子が何か目的が在っての接待性交や夫婦揃っての合意の遊びであれば、例え妻が目の前で犯され身悶えていても夫婦互いにその性交に嫉妬するのは返って見苦しい。

そして妻の喜美子が演ずる愛奴隷接待の奇妙な緊迫感の陵辱劇を目の当たりにすると、その臨場感に見ているだけで生島の脳にドーパミンを放出されその淫靡な雰囲気に、生島は快感さえ覚える筈である。

実際、喜美子にしても、例えめぐり合わせの遊びのプレィでも性交をする以上は粗相(そそう)が無い様に気を使う。

つまり、「相手に快感を与えよう」とチ*ポをシャブり、渾身(こんしん)の受け腰使いで抜き挿しの快感に努力するのが、置かれた立場の最低限の礼儀である。

そして大人の男女の成熟した性器と性器が正常に抜き挿しされて海綿体が接触すれば、得られるのは神の与えた「快感」である。

だからその結果として、喜美子が夫の目の前で腰を浮かしてヒィヒィと「気持ち良がって」も、何人(なんびと)もそれを非難出来ない。

当日の性接待プレィの場では強がって耐えて居ても、家に帰えれば張っていた心が崩れて泣きながらまだ他人の抜き挿しの感触が残ったまま亭主と性交に及ぶ。

それで喜美子は互いの愛情を確かめて、漸(ようや)く倫理観の負い目を吹っ切る場合も多い。

しかしそれは感情的なもので、喜美子の肉体(からだ)の方は充分にマルチSEX(複数性交)プレィやマルチタスクSEX(同時実行性交)の強烈な快感を記憶してしまっている。

そうなると性癖を植え付けられた喜美子は次の性接待プレィのお誘いを断れないから、まぁ順調に環境が整えば人類は皆快楽性交マニアである事を否定は出来ない。


所が世の中は結構狭いもので、ゲストと愛奴隷の組み合わせが皮肉なものに成る事もある。

それは、たまたま私が喜美子の接待に亭主の生島と立ち会う事に成って、奉仕現場に同席した時の出来事だった。

生島喜美子には、奉仕現場でゲストと顔を合わせて始めて気が付いた不運だったが、そんな皮肉が、喜美子に巡り合わせたのだ。

まだ生島夫妻は京美企画に合流したばかりで、喜美子の肉体(からだ)が会社の接待仕事に、喜美子の意志に全く関わりなく社の自由勝手に扱われる身分に成った事を認識したばかりのタイミングである。

運が悪い時は悪いもので、その日喜美子は滅多に無いダブルヘッター(接待の掛け持ち)をしていて、午前中は亭主の生島の運転で他所に行き、ひと奉仕した挙句(あげく)、午後の接待の為に会社のプレィルームに帰って来る事に成っていた。

どう言う訳か、その日は接待の仕事が立て込んで、妻も岩代に連れられて一日仕事だったから、喜美子が近場を掛け持ちする事に成り、岩代が喜美子の縄掛けをしてから、妻にも縄掛けして出かけて行った。

それで、午前中の接待は縄掛けのまま通して接待奉仕をし、午後のゲストへの接待奉仕の為に会社のプレィルームに帰って来た。

細君(京香)も縄掛けは出来るのだが、掛け持ちで時間が無かったのでそのままにさせてプレィルームに連れて来たのだ。


あのデビューから後の喜美子は、明らかに依り美しくなった。

人間の脳は必要に応じて全身に指令を発して制御するから愛奴隷に成ってからは、他人前で裸身を晒(さら)す機会が増えたのを喜美子の脳が敏感に他人目(ひとめ)を意識して綺麗に成ろうとする。

勿論、良い性交を度々経験すれば、喜美子の性フエロモンが活性化して驚くほど変化を魅せ、魅力的な女性(おんな)醸成される。

それで他人目(ひとめ)に磨かれた喜美子には経験が滲み出る様な「良い女オーラ」が着衣の上からも発散され、周囲は日常生活の中からも喜美子の裸身を想像する様になる。


非日常の時間が生き甲斐と成り、喜美子の縄掛けした裸身は一層美しく成っていた。

ゲストが贅沢に愛奴隷を支配する、日常生活とはまったく違うエロチックな空間がそこ(プレィルーム)に在った。

犯りもしないでそれをとやかく言っても、その価値は判らない。

この脳みそが溶ける様な濃厚な性交遊戯を喜美子が体験出来るかどうかは、本人の心掛け次第である。

勿論素っ裸で引き出された愛奴隷・喜美子の子宮にも、これから起こる陵辱に期待と興奮が湧き上がっている。

ここでは仮初(かりそめ)の支配者が、日常生活の鬱憤(うっぷん)を愛奴隷に吐き出せば良いのだ。


会社のプレィルームに招待した午後のゲストは中沢と言い、岩代も生島も不在なのにタクシーで少し早めに来社したので、つまみとビールを出して私が相手をしていた。

あまり、見かけの良くない貧相な男だが、「主力取引先の担当者」と言う事で、別段変わった所は見当たらない。まぁ、普通の男である。

毎度お馴染みだが、正直本人の覚悟次第でこう言う性接待の場面では男にとって勃起物の修羅場が展開する。

まぁ、喜美子がどんな性接待振りを見せるのか、それも愉しみとして私は今、中沢の話し相手と言う仕事をしている。

二人で注しつ注されつ二本目の大瓶を飲み終わる頃、外でクラウンが止まる音がしたので、ゲストを誘って外に出た。

ほんのチョットの屋外露出プレィも定番で、喜美子の裸体は屋外でゲストに引き渡す事になる。

外の駐車場に出ると、ちょうど細君(京香)が手を貸せて、全裸後ろ手拘束姿の生島喜美子を車から降ろしている所だった。

男の脳中枢を刺激してHモードにさせるのは、まずはビジュアル(視覚)、次にタッチ(触覚)である。

その意味では、降車の時から視覚を楽しませる露出が始まっている。

喜美子は車から降りるに、既に露出調教の晒(さら)し者状態で、薄手のベージュ色のコートを羽織っていたが、前がはだけ縄がかかった胸の乳房が覗いて、両腕は後ろ手にガッチリ組ませて拘束されていた。

両手が使えないから、細君の介添えが無ければ車も降りられないし、屋外で前がはだけ、何処が露出しても本人に隠す手立ては無い。

生島喜美子の格好は、いつも妻がさせられている素っ裸調教済みの美しい愛奴隷姿、全裸後ろ手拘束である。

駐車場に降り立つと、細君(京香)が喜美子に羽織らせていたベージュ色のコートを剥(は)がして素っ裸にし、首に犬首輪を装着して、リードを繋ぎ、そのリードを曳いてゲストに近付いて来る。

ま近まで曳かれて来る喜美子を見ると、喜美子は既に一回戦済ませて来ているから、顔も全裸体も赤味を帯び、上気していて午前の奮闘の余韻が漂っている。

左右に揺れながらの喜美子の乳房は、明らかに乳首が硬くなって、平静を装う顔をしても興奮している事は隠せない。

何しろ喜美子は、愛奴隷家業を始めてまだ間が無かった。

「中沢さん済みません。こちらまでタクシーでご足労願いまして。場所は直ぐに判りましたか?」

中沢は、生島が担当する大手デベロッパーの内でも、一番の取引額の多い生島の上得意会社の担当である。

「こちらが私共の会社の代表の**です。」

「いらっしゃいませ。今日は羽目を外して御ユックリお楽しみ下さい。」

「アッ、宜しくお願いします。」

代表者である私もこの大手デベロッパーの担当者のゲストと挨拶をしたが、相手は遊びに来たのだから、「遠慮は要りませんから、早速お相手の肉体(からだ)を見てやって下さい」と堅苦しい挨拶はソコソコに切り上げ、生島にバトンタッチした。

生島が中島氏に近付いて声を掛け、「これが家内ですので宜しくお使い頂き、英気を養ってください。」と、裸体で立って居る喜美子を、手先で指さして紹介した。

この辺りの生島の営業トークは月並みで、紹介した喜美子が異様な拘束裸体姿でなければ、何の変哲も無い挨拶に聞える。

予め「妻に接待をさせる」と中沢に告げてあれば、それだけの紹介で充分である。

生島も、私のように岩代マジックに幻惑されたのか、すっかり京美企画の乱倫同志経営に嵌(はま)っている。

まぁ、仕事をしながら充実したSEXライフの人生が楽しめるのだから、夫婦で納得してさえすれば、こんな幸運はないだろう。

「妻の痴態を見て興奮する」と言う甘い誘惑は、生島の感性にも有ったらしく、喜美子を伴なっての接待も、大いに活用している。

リードに繋がれた喜美子が、「中沢」と言うこれから性奉仕をする相手に、小さく会釈をした。

大切な、夫の最大の取引先である。

ゲストとして招待したからには、どんな性癖の相手でも応じる積りで、喜美子も相応の覚悟をして来ている。

例のオーデコロンの香りが、喜美子の裸身から立ち昇って来た。

こんな場面で、長々した挨拶は似合わない。

「お待たせしました中沢様、喜美子と言う玩具(オモチヤ)をお渡しします。」

例に拠って細君(京香)が口上を述べながら喜美子を繋いだリードをゲストに手渡す。


シットリと吸い付く様な肌が特徴の素っ裸に、後ろ手拘束の上に犬首輪を着け、リードで曳かれた喜美子の、そのリードを手渡されて喜美子の裸体は、性玩具(おもちゃ)としてゲストの中沢に引き渡された。

引き渡されれば、喜美子の肉体はゲストの中沢が好き勝手に出来る性玩具(オモチャ)である。

その中沢が、シゲシゲと引き渡された性玩具(オモチャ・喜美子)の顔を見た。

「何だ!ヤッパリあの喜美子じゃないか。」

突然ゲストが、素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。

「こりゃあ驚いたが、喜美子が相手とは面白い。ハハ、良い玩具(おもちゃ)を素っ裸で宛がわれたものだ。」

ゲストの中沢は、リードを握ったまま無遠慮に「ジロジロ」と喜美子のガッチリと拘束された裸身を眺め廻している。

「お前、あの喜美子だろう?俺を忘れては居ないな。」

中沢が、縄で亀甲縛りに引き絞られた喜美子の乳房に手を伸ばし、ギュッと左乳房を握りながら、言った。

後ろ手に拘束されている全裸の喜美子に、中沢の手から逃れる術(すべ)は無い。

「はぃ、覚えています。中沢様。」

愛奴隷に求められる行為は一切拒否は出来ないルールで、愛奴隷・喜美子はゲストとの何でも有りの濃厚性交接触を積極的に果たす事である。

「これは愉快だ。それにしても、此処でこんな嫌らしい格好の喜美子を見れるとは思わなかった。あの喜美子が、いつもこんな事を犯る淫乱な雌豚(めすぶた)だったとはな。」

「はぃ、中沢様。淫乱な雌豚(めすぶた)の喜美子です。」

「ハハ、俺が憧れていた喜美子は、余程スケベ女と見えて股座の毛が凄い豪毛だ。」

股間の豪毛を指摘されて喜美子は下を向いてしまったが、次の命令があるまでそのまま立ち尽くすしか無い。

後ろ手拘束の素っ裸姿でリードを手渡されて身柄を引き渡されれば全て後の祭りで、どうもこうも有ったものでは無いのである。

「中沢さんは、内の喜美子とお知り合いだったのですか?」

喜美子の股間の豪毛を指先で摘んで引っ張っている中沢に、生島が声を掛けた。

「あぁ、学生時代から知っているとも。それで生島さん、古い知り合いでも約束通りに喜美子と犯らせるのだろうな。」

「勿論、私共の方はお約束通り一向に構いません。」

「そぅか。俺は喜美子に昔フラレタ恨みがあるから、この際その恨みを晴らさせてもらうよ。」

念を押すまでも無く、ここまで流れが出来た仕事を生島が今更反故(ほご)には出来ない。

「それでしたら、この際お好きに弄(なぶ)って恨みをお晴らし下さい。なぁ、喜美子からも中沢様に言いなさい。」

「はぃ喜んで、中沢様。主人もそう言ってますから、存分にお弄(なぶ)り下さい。」



そのゲストは、中沢と言い、大手デベロッパーの窓口係長をして居るが、選りに選って昔喜美子にフラレタ相手である。

喜美子に取って悪夢のような相手だったが、性奉仕を回避する事は赦されない。

「良ぉし、良い覚悟だ。それを聞いて、俺はもぅおっ立ち始めたぞ。まったく良い所で会ったものだ。」

その中沢の話を聞いて、「喜美子、見苦しい真似は出来ないぞ。」と、生島が念を押した。

「はぃ、承知しています。中沢様、いかようにも御命じて下さい。」

「そうか、そうか、世間は狭いものだ。どれ、喜美子のオマンコの具合はどうだ。」

ゲスト様が性玩具(オモチャ)として私(喜美子)を弄(なぶ)る、それこそネチョネチョ、グチョズチョの奉仕の時が始まります。

中沢の利き腕が喜美子の尻に廻って手の平が尻肉を撫(な)で廻し、指先がモソモソと菊座の穴や二枚の肉花弁の間に潜(もぐ)り込んで弄(なぶ)り廻している。

その弄(なぶ)りに、喜美子は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも身を捩(よじ)って避けもせず、股間を広げてのお愉しみに為すがままに耐えている。

中沢が、いきなり右手の立てた人差し指を喜美子の股間に持って行き、後ろ手に拘束されて不安定に立って居る喜美子の、恥毛の一部が生々しく絡む二枚の肉花弁の間に、「ズブリ」と挿(さ)し込んだ。

「おぅこの雌豚(めすぶた)、俺に犯られる期待でズボズボだ。」

ニヤリと中沢が笑い、「これから使う所だから、使う前に壊したくないから、これくらいにしてやる。」と言い放った。

私の目にも、喜美子の全身に鳥肌が立ったのが判った。

「良ぉし、雌豚(めすぶた)。こっちに来い。」

中沢は、喜美子のリードを「グィ」と引き、そのまま先ほどまでビールを飲んでいたテーブルの所まで曳いて行き、ソファーにどっかと腰を掛ける。

そして自ら欲棒を取り出し、喜美子の髪の毛を掴んで、うつむきに倒して「ほれ、丁寧にシャブれ。」と欲棒を咥(くわ)えさせた。

後ろ手拘束のまま喜美子がソファーに乗り、ソファーに腰掛けた中沢の欲棒を左側からうつむきで咥(くわ)えて唇で「チュポ、チュポ」と愛でると、ちょうど中沢の左手が喜美子の柔らかく膨らむ尻肉に届き、中沢は尻や秘所のお触(さわ)りも楽しめる。

中沢は、右手でグラスに注がれたビールを口に運び、左手は喜美子の尻をまさぐって尻肉を掴(つか)んだりして暫(しば)らく欲棒をシャブらせて居た。

そのうちに気分が変わったのか、グラスのビールを飲み干してテーブルに置き、その空いた右手で欲棒を咥(くわ)えている喜美子の髪の毛を掴(つか)んだままシャブらせて居いる。

「おぃ、歯を立てるなよ。舌を使え、この雌豚(めすぶた)。」

「はぃ喜んで、中沢様。」

ゲスト・中沢のやや膨らんだ腹が、喜美子の鼻を潰す様に腰を使ってクイクイと押し付けられる度に、喜美子も上半身を使って中沢の欲棒をウゴウゴと喉の奥に必死に迎えに行く。

中沢のカリ首を喉の奥まで飲み込めば、流石(さすが)に「オェッ!」と苦しいが、口をすぼめて咥えたゲスト・中沢の欲棒に歯を立てられないので、喜美子は涙を流しながら我慢する。

中沢の欲棒を咥えた喜美子の口元で、唇を擦(こす)りながら唾液に濡れ光る陰茎が生々しく見え隠れしている。

当然ながら、中沢の腰の動きに連れて坊主頭・海綿体のカリ首が喜美子の口中でまで届いて口蓋垂(こうがいすい/喉チンコ)を押し分け、中沢の欲棒根元の恥毛が喜美子の唇に容赦無く押し付けられる。

これは男性が女性に対する征服欲を満たす行為としては一種の服従儀式で、喉の奥まで欲棒を挿し込む行為は中華大陸で一般的なので大陸式フェラチオとも呼ぶ。

だからこの大陸式フェラチオは単なるおシャブリ以上に過激だが、その方に服従するお遊びのSEXのお相手を、これから始める「挨拶代わりの礼儀」と言う事になる。

喜美子の口元で、中沢の陰茎がクイクイと見え隠れしている。

ジュポジュポと、必死のフェラ*オが痛々しい。

「こりゃ良いは。雌豚(めすぶた)、神様は俺の心を傷つけたお前の罪を見逃さ無かったな。」

「はぃ喜んで、中沢様。仰(おっしゃ)る通りです。気が済むまでお弄(なぶ)り下さい。」


アチャー、最悪の接待相手に的中(あた)りました。

高校生の頃、ストーカーもどきに付きまとって、私(喜美子)に交際を言い寄って来たあの中沢君です。

そりゃぁ思春期の頃ですから、そんなロマンスには憧れていましたが、相手が中沢君ではチョット・・・格好が悪くて友達にも自慢が出来ません。

それで友達の手前、嫌がってボロ糞に、「蛇、毛虫、ゴキブリ」と嫌って居ました。

その中沢君に夫が、「家内をお使い頂き、英気を養ってください。」と、素っ裸後ろ手拘束にした私(喜美子)を引き渡してしまったのです。

でも、私(喜美子)の立場では、相手が誰だろうが接待を拒否する事は出来ません。

私(喜美子)は、納得ずくで性奉仕の接待愛奴隷として、夫と伴に京美企画に参加しました。

事実私(喜美子)も、被虐的な性行為を楽しみながら、仕事も順調ですし、夫とも会社の仲間とも最高な状態を維持しています。

互いが「全て曝(さら)け出し会う」と言う信じられる「生き場所」を見つけた思いです。

だからアクシデントで、ゲストが接待愛奴隷として出合いたくない知り合いだったとしても、この最高な状態を維持するには、個人的な感情でのルール破りをする訳には行かないのです。

相手が誰であろうが、どんな変態行為でも受け入れるのが愛奴隷の性奉仕です。

だからゲスト様は、電動玩具責めや危惧責めプレィ、複数プレィ、同時3Pプレィ、拘束SMプレィ、露出プレィ、輪姦プレと、それらを複合的に、私(喜美子)に変態の限りを尽くして日頃のストレスを吐き出し、漸(ようや)く満足して頂けます。

その相手が、今日はあの中沢君なのです。

京美企画においては、仲間は乱倫の信頼関係にあります。

心は夫のものでも、身体は仲間のもので、それで互いが恥ずかしい姿や行為を曝(さら)け出すからこそ、偽り無い信頼関係が構築されるのです。

そうした心理メカニズムが、京美企画に参加して判るように成りました。

その精神が、接待の性奉仕にも生かされていて、つまりどんな理由が有ろうが、愛奴隷のルールは、相手選ばず奉仕の内容を選ばずで、ゲスト様の要望を叶えてスッキリ笑顔で帰ってもらうのが性奉仕の接待なのです。

自惚(うぬぼ)れて相手の心を傷付けた過去の罪は、確り今日の天罰に成ったみたいです。

良く良く考えれば、当時の中沢君の行為は可愛いもので、私(喜美子)の乙女チックなプライドによる過剰反応から、事がもつれて大げさな感情に成ったのです。

その頃は私(喜美子)も若かったのですから仕方が無いかも知れません。

初期の段階から友達に、自分の中沢君に対する酷い評価を言いふらし、狭い街の事で私(喜美子)の嫌悪感に満ちた悪口が、互いの友人経由で瞬く間に広がって、中沢君を意地にさせて追い込んでしまったのです。

素っ裸の愛奴隷として、夫からゲスト様の中沢君に引き渡された私(喜美子)です。他に選択肢はありません。

こう言う巡り合わせですから、今日は中沢君に思い切り犯られるのが得策です。

愛奴隷個人の感情は関係ないのですから、私(喜美子)は覚悟を決めて、中沢君にコッテリ恨みを晴らして貰うしか無かったのです。

この再会が、私(喜美子)には本心「罰が当たった」と思える出来事で、今の自分なら、あれほど熱心な中沢君に「一度くらいは寝て犯ったのに」と反省しました。

過ってフラレタ恨みを、性的に晴らせる事は、中沢君に取っては願っても無い大チャンスです。

私(喜美子)は、かなりの事を中沢君に犯らせなければ、気持ちが治まらないでしょう。

中途半端な事をして「思い残し」はしたくないでしょうから、今日はトコトン犯られるしかありません。

幸い、この所の愛奴隷経験で、私(喜美子)には被虐の喜びも育っていましたから、内心奇妙な期待感も有ったのです。

ですから、私(喜美子)にその中沢君相手の接待から、逃げる気持ちは無かったのです。

もぅ私(喜美子)達夫婦は、身体は幾ら汚されても、心が汚されなければ人間として生きて行けるし、夫とも愛し合って行ける事を知って居ましたから・・・



中沢との事は何しろ若い頃の事で、以前喜美子が中沢を「蛇、毛虫、ゴキブリ」と嫌っていた相手だけに、そこから、修羅場が始まった。

「この雌豚(めすぶた)、毛虫、ゴキブリのチ*ポをシャブる気分はどうだ。」

中沢の欲棒を咥(くわ)えて、必死でフェラ*オをする喜美子の髪を掴み、欲棒を喜美子の喉の奥までグイグイと何度も挿し込んだ。

「ゴホゴホげぇ〜。」

喜美子が苦しみながら、喉に挿し込まれる欲棒の攻撃に耐えている。

喜美子が「蛇、毛虫、ゴキブリ」と友人に言っていた事も、中沢は知っていたのだ。

イキそうに成った中沢が、慌てて咥(くわ)えたまま発射を受け止め様とした喜美子を制して、喜美子の顔に精液を発射した。

中沢の欲棒の先から噴射する白い液体が、ネトッとした感じでジッと受け止める喜美子の顔面にまとわり付いて行く。

中沢は、私や生島の目の前で欲棒のカリ首を、喜美子の顔面がヒシャゲル位に擦(なす)り付けて、最後の残り雫(しずく)を愉快そうに、精液まみれの喜美子の顔に移している。

恨みを込めた顔面陵辱だった。

顔射も口内発射も勿論OKで、これは加虐感のみならず征服感を味わえるが、只、私は顔射を好まない。

しかし妻を始め、喜美子達接待愛奴隷は、何をされてもお構い無しの身だから、全員顔射もゲストの気分で清々犯られている。

「良ぉし雌豚(めすぶた)、入れてやるからケツを向けてテーブルにうつ伏せに成れ。」

欲棒を喜美子の口から引き抜くと、中沢がバックで喜美子を犯すらしく、そう喜美子の告げた。

細君(京香)が手を貸せて、上半身テーブルにうつ伏せ、下半身は足を床に着けて尻を上げる姿勢をとらせた。

「どれ、喜美子のオマ*コを確り見て置くか。」

四つん這いの喜美子は、中沢が、尻の双丘をギュッと握って左右にグィ開くのを感じた。

喜美子が想像するに、喜美子のア*ルの菊座はおろか、肉花弁までパカッと開いて中沢の目の前に曝(さら)け出されているに違いない。

女の全てを曝(さら)け出す相手が因縁(いんねん)の中沢となると、喜美子に取って精神的には究極の辱めなのだが、それだからこそ乳房が勃起し子宮が熱くなるのを感じて居た。

「喜美子、お前スケベな女だな。俺に見られて確り濡れているぞ。」

「はぃ、中沢様。喜美子はスケベな女です。」

「そうか、そんなに俺に犯られたいのか。」

中沢が喜美子の尻から手を放し、欲棒を手で支えて喜美子の尻の辺りに腰を持って行く。

「アウッ。」

喜美子の口から妙な声が漏れて来た。

態勢が整った所で、中沢が後ろから喜美子の柔ら壺にグイと抽入を果たし、「クイクイ」と突き始めたのだ。

実の所、喜美子の方が愛奴隷としてのキャリアを積んでいるから、この程度の事では痛くも痒(かゆ)くもない。

それでも、感度の上がっている喜美子にして見れば、柔ら壺の内壁を擦(こす)り上げる中沢のカリ首の刺激は並みのものではない。


喜美子の股間に中沢の欲棒が挿し込まれて生々しく深く浅く抽送が始まった。

中沢の欲棒を挿し込まれた生々しい股座(またぐら)の恥部を、喜美子は大股開きの丸出しに、突き刺さる様な夫の視線を意識して燃え上がる羞恥心に脳みそが溶けて行く。

見てとると、中沢の欲棒が確りと喜美子の股間に嵌(はま)り込んで、中沢の黒褐色の陰茎が肉花弁を捩(よじ)りながら抜き挿しされ、愛液に濡れ光って見え隠れしている。

喜美子は否応無しに欲棒を挿し込まれた大股開きの恥部を生々しく丸出しに、中沢のクィクィと言う腰使いに善がり声を挙げながら愛液を滴(したた)らせて抜き挿しを続けている。

相手が因縁(いんねん)深い中沢で、喜美子も最初は歯を食い縛って声を抑(おさ)えていても、流石にやがて耐え切れなくなって善がり声を上げ始める。

喜美子の乳首を硬くした乳房が、欲棒を抜き挿しする中沢の抽送に合わせて揺れている。

反応してこそ性交の醍醐味で、抜き挿しをしながら相手の女にヒィヒィ善がり声を上げさせる事が一番男の本能を刺激し征服欲を満足させる。

「アッ、アッ、アァッ、アッ、アッ、アァッ、アッ、アッ、アァッ、アァ〜、アァ〜、アァ〜、」

「この雌豚(めすぶた)め、どうだホレ、ホレ。」

「アァ〜、気持ち良いです中沢様。」

「気持ち良い?雌豚(めすぶた)のくせに俺にばかり腰を使わせて何だ、俺がソファーに寝るから、お前が腰を使え。」

「はぃ喜んで、中沢様。」

寝転んだ中沢を跨いで花弁のスリットに宛がい、喜美子が腰を降ろして「ウグッ」と柔ら壺に抽入を果たす。

「入れたら、俺が気持ち良く成るまで腰を使え。」

「はぃ喜んで、中沢様。」

中沢の欲棒を股間に納めた喜美子が、中腰のまま腰を上下に動かし始めた。

喜美子の膝を使ったスクワット・フアックが始まり、M字に開脚して確りと挿し貫(つらぬ)かれた欲棒を咥(くわ)え込んで結合した己の生々しい女性器を、喜美子は晒(さら)して抽送を続けている。

目の前で、中沢の陰茎をこれ見よがしに股間に見え隠れさせながら、両足を踏ん張っている。

喜美子の裸身に玉の汗が光り始めて居るから、結構な運動量なのだろう。

喜美子が自ら動いて肉花弁の中心に中沢の欲棒がユックリと抜き挿しされ、陰茎が濡れて光ながら見え隠れしている。

交われば性器が接触し、哀しいかな喜美子の肉体は自然に共鳴する。

「アァ、・・・アァ、アァ、アァ。」

手の平を握る事は集中力を高める原始本能で、「本当に感じ始める」と誰でも自然にグー握りに成り力が入る。

喜美子は足の指先まで丸めて、明らかに感じながら腰を使って居る

愛奴隷は晒(さら)し者だから、羞恥心は許されない。

徹して「見せるSEX」が使命で、高速の「受け腰使い」と言い、このスクワット・フアックと言い、愛奴隷の過酷な性奉仕には、見るからに足腰が命である。

妻も同じ経歴だが、幸い喜美子は中学・高校と水泳部だったから、競泳で足腰は鍛(きた)えてある。

その点では、愛奴隷としての過酷な性奉仕にも、お誂(あつら)え向きに耐えられるに違いない。

喜美子の愛奴隷ぶりを見れば、妻の奮闘も「こんなものか」と、凡(おおよそ)その察しが着く。

「何だ、面白くない。おぃ生島の旦那、この雌豚(めすぶた)を動けなくして責め上げるから、M字開脚縛りに縛り上げろ。」

喜美子が中々音を上げないから、暴君の中沢が、苛立(いらだ)ちの声をあげた。

「はぃ、承知しました。」

生島が応えて、「京香さん頼みます」と細君(京香)に縄掛けを頼んでいる。

「喜美子さん、早くここに寝て、右足から縄を掛けます。」

プレィルームに設(しつら)えてあるミニ舞台に、細君(京香)が喜美子を呼び寄せる。

細君(京香)が喜美子を仰向けに寝かし、手早く太腿と脛(すね)に縄を巻いて引き絞り、M字開脚縛りに縛り上げる。

隠す術(すべ)の無い喜美子の剥(む)き出しの内太腿(うちふともも)が現れて、その左右の太腿(ふともも)には、細君(京香)の操る二本束ねの麻縄が、生きているかの様にまとわり付いて行く。

強引に広げて縄掛けされた喜美子の両の太腿(ふともも)の付け根、モジャモジャと恥毛を蓄えた恥丘の下部に、二枚の肉花弁が開き気味にバランス良く可憐に咲いて、見る者を妖しく誘っている。

素っ裸に剥(む)かれ、後ろ手拘束、上半身亀甲縛りに絞った上に、仰向けにして両足の太腿と脛(すね)を片方ずつ足首まで縄を三箇所くらい巻いて束ねる。

夫々(それぞれ)の縄掛けした膝頭(ひざかしら)を縄で左右に引いてMの字に固定すれば、喜美子は股間剥(む)き出しの大股開きに固定される事になる。

これも、愛奴隷定番の据え膳態勢だが、ゲストの性玩具(オモチヤ)に成る為に喜美子は裸で縛り上げられて、ゲストの前に据えられる。

喜美子の、生々しく剥(む)き出しの股間には、陰毛の隙間から小豆粒大の桃色の花芯ボタンが、興奮で丸みを帯びて膨らんでせり出している。

小さ目で左右に開き気味の、厚さは並程度の可憐な二枚の肉花弁が開き加減に露(あらわ)に成って、「どうにでも、好きにお使い下さい」と、僅(わず)かに濡れて光っている。

喜美子をこの姿にさせて、大概の男がまず犯るのは、月並みだがGスポットを狙った指攻めである。

二枚の肉花弁が、やや開き気味に目の前で剥(む)き出しに成っていれば、まずは指を入れて責めて見たくなる発想が、男の性(さが)である。

「さぁて、雌豚(めすぶた)。中沢様に指でオマ*コをかき回していただくから、かき回してくださいとお願いしてみろ。」

「はぃ喜んで、中沢様。オマ*コをかき回して下さい。」

「良ぉし雌豚(めすぶた)、これでどうだ。」

中沢は、身動き出来ないように縛り上げられた喜美子の二枚の肉花弁のスリット中に、人指し指と中指を二本束ねてこじ入れて、ユックリと抜き挿しする。

「アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜、」

「おぅ、感じ始めたな雌豚(めすぶた)。少し早くかき回してやろうか?」

「はぃ喜んで、中沢様。早くかき回してくだ・・・アァッ、アッ、アッ、アァッ、アッ、アッ、アァッ、アッ、アッ、アァッ、アッ、アッ、アァッ、」

指でかき回す中沢が歯を食い縛って激しく攻め、かき回される喜美子も歯を食い縛ってその責めに耐えている。

中沢は喜美子のGスポットを、中に入れた指を激しく出し入れさせて責め上げ、重篤(じゅうとく)な反応を引き出したいのだ。

「ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、アァ〜〜〜。」

身動き出来ない様に開脚固定された喜美子だが、それでも腰が浮き上がって、腰を左右に振り、激しい快感に襲われて居る事を、隠せない。

「おぅ、この雌豚(めすぶた)。気持ちが良いと見えて腰を振りだした。ハハ、毛虫、ゴキブリに犯られても嬉しいか?」

中沢は、話しながら尚も激しく攻め立てる。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア。」

責めが余程きついのか、喜美子は荒い息をして居るが、善がり声ばかりで中沢の話に応える声すら出なく成った。

喜美子は生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインとして、仮面の下の素顔を暴(あば)き出されるように荒い呼吸をしながら壮絶に攻めたてられている。

しかしこれはあくまでも喜美子には非日常の時間で、それが普通だが日常の生活は平凡でこんなスリリングな遊びの時間など無い。

勿論そんな卑猥な時間を喜美子が過ごしているなど、日常生活は到って普通だから世間は知りもしない。

つまりこれは、喜美子の身に時たまに訪れる遊びの時間で、何も大袈裟(おおげさ)に考える必要は無いのだ。


執拗に中沢に攻め立てられる喜美子を見て、私は喜美子の精神が「崩壊しかねない」と、そればかり案じた。

中沢も執念深い性質(たち)らしいが、これは気持ちのボタンの掛け違いみたいなもので、若い時だから仕方が無いが、喜美子が感情を優先して中沢を気嫌(けぎら)いし過ぎた事も、遺恨を残す結果になっているようだ。

指攻めを執拗に繰り返して、喜美子を散々ノタウチ回らせた後、中沢はM字開脚縛りのままの喜美子に欲棒を抽入して、「この雌豚(めすぶた)め、これでどうだ?」と散々に抜き挿しした。

その挙句(あげく)、イキそうに成るといきり立つ欲棒を引き抜いて口に咥(くわ)えさせ、射精を喜美子の口の中にして一息付いた。

中沢は嵌(は)め倒してもまだ気が済まないらしく、自分でグラスにビールを注ぎ一気に飲み干すと、「こうなればトコトン甚振(いたぶ)ってやる。」と宣言した。

M字開脚縛りのまま身動き取れない喜美子に、空いたビール瓶の口先をクィと抽入して抜き挿し、また弄(なぶ)り始めた。

「ア、ア、ア、ア、アァ〜〜〜、ア、ア、ア、ア、アァ〜〜〜。」

朝から二人目のゲストで、責められ放しの喜美子は感度が高まっているから、ビール瓶の抜き挿しでも腰を左右に振り、激しい快感に襲われてノタウチ回っている。

喜美子の善がり声が、長い事プレィルームに響いていた。

「それにしても、変われば変わるものだ。散々気取っていた雌豚(めすぶた・喜美子)が、亭主に言われれば黙って俺の玩具(おもちゃ)に成るのだから。どうだ雌豚(めすぶた)、毛虫、ゴキブリにビール瓶で犯られている気分は?」

「アァ〜〜〜、ア、アァ〜〜〜、ア、気持ちが良いです中沢様。アァ〜〜〜、ア、雌豚(めすぶた)は淫乱に成りましたから、ビール瓶で犯って頂いて、アァ〜〜、イキそうです。アァ〜アッ。」

中沢に容赦なく攻め立てられて、喜美子がガクと失心した。


「やぁ、生島さん実に面白かった。」

中沢は、M字開脚縛りのままの喜美子に抽入したビール瓶を抜かないまま、それを無視するように生島に話し掛け、取引書類に押印したものを書類ケースから取り出す。

そしてビール瓶を挿し込まれたまま失神している喜美子をチラッと眺めて、「まだ虐(いじ)め足りないので、また次の機会を作って下さい。」と言いながら渡した。

「内の奴(喜美子)を弄(なぶ)って、お気が晴れましたか?」

生島の問いかけに、また失心した喜美子をチラリと眺めて、「まぁ、少しはね。」と、中沢は応えた。

まだ、喜美子のM字開脚縛りに開かれた股間には、生々しくビール瓶が挿し込まれたまま晒(さら)し者で放置されている。

「それじゃあ中沢さん、また良い物件を廻して下さい。」

「雌豚(めすぶた)は天国のようですから、気が付くまでそのままソッとして置いてやりましょう。」と言って、喜美子を放置したまま、生島の運転で帰って行った。

中沢を外まで見送って、挨拶をし、漸(ようや)く喜美子に抽入したビール瓶を股間から抜いたのは、私だった。



中沢を帰し、喜美子の拘束を解いて上の階に休ませた後、入れ替わりに妻が接待先から岩代と帰って来た。

妻は近頃、いつも接待先から汗と性液に汚れたまま帰って来て、私に身体(からだ)を点検されてからシャワー使う習慣になって居た。

「接待は上手く行きました。先方も上機嫌でした。」

「それは上々、岩代君も里美もご苦労さん。」

「こちらの接待はどうでした?」

「それなのだが、接待は問題は無いのだが・・・」

「と言いますと?」

「お前、昔、生島喜美子に付きまとっていた中沢と言う男の事を知っているか?」

「えぇ、そんな話が高校生の時にありましたけれど、それが何か?」

「それがな、喜美子の今日の接待の相手だったんだ。」

「えぇ〜、あの中沢が〜・・・またぁ、キミチャンも運が無いわねぇ。あの中沢相手に接待をしたの。」

喜美子と中沢との事は、中沢が競泳会場にもしばしば顔を出したから妻も知っていた。

高校生時代に相当しつこく喜美子に付きまとって、有名だったそうだ。

今はコンタクトをしていて私も気が付かなかったのだが、喜美子は昔メガネ美人で、その手の趣味がある中沢に付きまとわれて居たそうだ。

最後は部活の顧問教師が、中沢の学校の担任と親を呼んで注意する所まで「ゴタツイタ」と言う。

経緯(いきさつ)を聞けば、中沢が帰り際(きわ)に「まだ虐(いじ)め足りない。」と言った心情も理解出来る。

「そうでしたか、そのまま喜美子さんに接待を継続させた生島さんの判断は、客観的に見れば正しかったですね。」

岩代に言わせれば、個人の経緯(いきさつ)より会社の方針を優先した結果で、生島夫婦も、そう言う判断をした事になる。

「それは間違いないけど、この先どうかなぁ。」

どぅも中沢に関しては、普通の接待取引では終わりそうも無かった。

しかしその時は、それ以上思案の仕様も無いので、「少し様子を見よう」と言う結論に成った。


その中沢が、直ぐ後に厄介な存在に成った。

まだ執念深く喜美子を恨んでいて、恥をかいた名誉回復に、「昔の遊び仲間数人に喜美子を抱かせると約束してから、貸してくれ」と生島に言って来た。

大方、遊び仲間で喜美子を輪姦(まわ)して笑いものにし、昔の溜飲を下げる積りは明白である。

生島の方は、相手が主力取引先の「中沢の要望」と言う事で、この際もう一度喜美子を弄(なぶ)らせて中沢の溜飲を下げ、恨みを晴らさせる決心をしていた。

喜美子の方は、夫が受けて来た仕事なら無条件で従う。

日程を組んで、喜美子の身体を空ける調整している所に出くわした私が、それにマッタを掛けた。

「チョット待って下さい。少し筋が違う話しです。」

元々仕事上の付き合い接待だから、ルール以外の相手に喜美子を貸し出す訳が無い。

「どうしたものか?」と、岩代にマッタを掛けた経緯(いきさつ)を話してみた。

「そりゃあ社長、まずいよ。元々信頼関係を築く為の接待だから、その中沢さんには内との窓口を他の人に代わって頂きましょう。」

「しかし、人事は先方の会社の事だしなぁ・・・・」

「それじゃあ、呪いでもかけますか、ハハハ?まぁ、二〜三日時間を下さい。」

岩代が冗談めかして笑いながら言う。

それで私は生島に「その件は時間を稼げ」と指示を出した。

その中沢が、二日後にヘリをチャーターして地形調査に出かけ、横風を受けて墜落して重体に成り、「事故の三ヶ日目に亡くなった」と、生島の所に知らせが届いた。

それを聞いた時は、岩代の呪詛の仕業(しわざ)かと、私は「ゾッ」とした。

単なる偶然かも知れないし、岩代の「気」がヘリを墜落させたのかも知れない。



五月三日の朝が来た。

竹中氏が、打ち合わせ通り順子と子供二人(孫)を連れて、朝早く会社に乗り込んで来ていた。

小泉順子の、スッきりした上下薄い唇の丸顔に似合う髪型は、「ショートレイヤー」と言い、 耳たぶから上の長さで、えり足はえりに付かない長さが基本の、ボーイッシュな感じがする短めの長さの髪型で、彼女らしかった。

この三日間は、順子とその子供達は泊り掛けになる。

昼間は妻と娘が、上の三階で小泉母子の相手をしている。

会社と言ってもここは住居兼用だから、三階の居住スペースに連れて行き、順子の子供二人には私の娘と早くから遊ばせて慣れさせ、順子が夜間寝床を留守にしても騒がなくする為だ。

順子は、毎晩子供達を寝かし付けて、小泉家復活の輪姦呪詛に臨むのである。


私は、竹中の岩代評を聞いてみた。

「竹中さん、岩代を絶対的に信用している様ですが、彼をどう思って居られるのです?」

「社長、彼はオオカミの化身(化神)だよ。」

彼の即答が、これだった。

良く聞くと、岩代の言葉の端々や行動をヒントに、「竹中なりに調べた」と言う。

そう言えば竹中の前職は教師で、それも高校で歴史と地理を教えていた。

それが、調べものの役に立った。

彼の輪姦呪詛の裏付けになる信仰が浮かんで来た。

出した答えが、陰陽師の北辰呪詛だった。

「その北辰呪詛の話は本人から少し聞きましたが、それで、オオカミとはどう言う関係が有りますか?」

「北辰北斗星信仰は所謂(いわゆる)妙見さんだけれど、その使いの神が居る。私は彼がその化身と信じている。」

「使いの神ですか。」

「使いと言っても甘く見ては遺憾。妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。その使い神だから霊力が格段に強い。」

「で、オオカミ神がその使い神だと言う根拠は有るのですか。」

「私の調べた所、明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。つまり種の保存本能を祈りの基本にした信仰だ。その使いが、狼と梟(フクロウ)でな、夜夫座神社と言う意味深な名前が付いている。」

狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」がその名もズバリ妙見山という山の麓にある。

所謂(いわゆる)山犬(やまいぬ/狼)神社である。

この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。

梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命をまつったのがはじまりで、関東でも屈指の古社である。

秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて来たが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。

秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する神である。

「社長、岩代君は空手をやっているだろう。彼は神拳を標榜しているので、ひょっとしたらと考えた。」

竹中の目が、何かに取り付かれたかの様に怪しく光った。

「そうですか、実は私も彼の経歴の中で、空手の事が気になっていました。」

「彼の人生の何処かで、何らかの出来事があった気がする。」

「流石に年の功、博識な竹中さんは目の付け所が違う。」

「それでな、君の奥さんだが、開所式の最中に会社の未来を予知している。」

「えぇ、でかいビルが見えたと言っていました。」

竹中が言うに、あの輪姦呪詛には「ただならぬエネルギーを感じる」と言う。

ここ至って私にも、単なる性的なお遊びとは思えないものは感じられていた。

「君も感じているはずだ。奇蹟とまでは言わないが、彼には人間的魅力だけではない不思議な力を感じる。それで、並みの親子の情は棄てた。」

「そうですか、竹中さんにそう言わせるだけでも、大したものです。」

「どうやら岩代君は、奥さんの開所祈願のオーガズム(絶頂)パワーエネルギーで、このビルに結界を張ったようじゃな。」

「オーガズム(絶頂)パワーエネルギー・・・そんなもの存在するのでしょうか?」

「陰陽道の基本的呪詛の源が、性は生に通ずる命のパワーだ。」

「理屈に合わないものは信じられません。」

「じゃが、現に何かのパワーに守られているように、事業が順調じゃろう。」


竹中は、岩代の引いた路線に無条件で乗るつもりらしい。

彼の力に娘夫婦の将来を託したいのだ。

「えぇ、感じますが、実は不安も感じます。」

「それは、君にも何かあるからだ。」

「私に、ですか?」

竹中が、思わぬ事を言い出した。

私が不安を感じるのは、「やはり何かを背負って居るからだ」と言うのだ。

「わし、はどうして社長を君にしたのか岩代君に聞いて見た。

彼の応えによると邪気を払うのに、君の思念が必要だと言った。」

これは、意外な展開だった。

私は自覚して無いが、岩代が私に何か感じて一連の事を「仕掛けて来た」と言うのか?

そして、迂闊(うかつ)にもその事に「まだ私が気が付いていない」と言うのか。

話が縺(もつ)れて、興味が湧いた。

私はその糸を手繰(たぐ)り寄せ、解いて行かねばならない。

疑問は残るが、今はそれを確かめなければならないもどかしさが在った。

岩代の空手修行の経緯を興信所が何か拾ってくれば、それも判るかも知れない。

しかしこの疑問が解けたのは、結果的にまだ大分先の事である。



夫婦揃っての遊びの性交会に参加すれば、世間では一大事に受け取るかも知れないが、小泉順子には大した事では無い気がした。

それよりも夫の向上心(やる気/モチベーション)を高める努力が、妻としての順子にも必要な事だと考えた。

これは生物学的な基本だが、若い頃の男性は自然の本能として「女性と犯りたい想い」で脳内を充満させている。

正直、基本的に男性の出世欲みたいなものは女性の獲得欲と比例し、為に男性の犯る気と向上心(やる気/モチベーション)は単純に比例している。

逆説的に言えば、犯る気をバネに向上心(やる気)が働くのだから、男性の日々のモチベーション(動機付け)は女性の色気次第である。

しかし「だから」と言って、夫が外で勝手に遊んでいるのはあらゆる意味でリスキー(危険な/危ない)である。

それでいっその事、妻の順子が覚悟を決め一緒に遊ぶ事を選択した。

つまり夫婦揃っての遊びの性交会は日常のストレスから夫を解放し、夫の向上心(やる気/モチベーション)を高める御伽の国(おとぎのくに)ではないだろうか。


夜の八時半頃になると、今夜のメンバーが続々と遣って来た。

勿論この中には竹中と小泉武司の姿は無い。

私の妻、岩代夫婦、生島夫婦、田嶋、学生達には個々に今夜の竹中と小泉の隠密参加は耳打ちし、口封じをした。

「面白いですね。竹中さんは行く所まで、行きますかね?」

岩代は面白がっているが、私は自分も娘を持つ身だから竹中に「近親相姦をさせるのは難しい」と思って居る。

いずれにしても妻の開所式の時とは違い、イベントと言った雰囲気で皆リラックスしている。

早々に、勝手に好きな酒を選んで、がやがやと飲み始めた。

予定時刻を十分程過ぎた頃、「漸(ようや)く子供を寝かし着けた。」と小泉順子が緊張の面持ちで妻と降りて来た。

男女の群れの中に全裸の女性が一人居れば、それだけで異様な非日常の空間が生まれ、群れに怪しい雰囲気の世界が幕開けする。

事が事だけに、父親の竹中が言うようには、「そう簡単には行かない」と思っていたが、竹中の娘・小泉順子は素っ裸に剥(む)かれて麻縄で後ろ手に括(くく)られ、犬首輪を装着されて妻にリード(引き綱)で曳かれて私の目の前にいる。

順子はもぅ女達の興味深々な視線の中、男達が待つ陵辱舞台に上がってしまったのだ。

男にとって良い女は男の性的快感の為に尽くす女で、従ってドMの感性を持つ女が最適である。

そして気が優しいM(マゾ)依り気が強いM(マゾ)ほど、「負けるものか」と何でも犯り熟(こ)なす。

雰囲気を高め盛り上げるには、相応の怪しいSM的なビジュアル(視覚的)効果の演出は欠かせない。

拘束姿の素っ裸で舞台に曳き出されれば、順子は嫌でも今日から愛奴隷である事を一気に思い知らされる事に成るだろう。

小泉順子の、乳首が勃起(ぼっき)した乳房の柔肌が赤く染まって明らかに彼女の脳内にドーパミンが噴出し、妻が施(ほどこ)したのか例のオーデコロンの香りが、亀甲縛りに縄化粧された順子の妖艶(ようえん)裸身から立ち昇っていた。

公式の場のドレスのデザインもある程度の露出は許されているのだから、男女共通の認識として女性をチャーミング(魅力的)に魅せるには肌の露出が一番である。

人間が衣服を着用し始めた事から、やがてそれが高じて裸体を猥褻(わいせつ)と感じるようになった。

しかし衣服を着用しない自然界の動物に、猥褻(わいせつ)と感じる要素など無い。

つまり、隠したものを曝(さら)け出して初めて裸体が猥褻(わいせつ)なものと成った。

それも皮肉を込めて指摘して見れば、一方で裸体を「観たい、魅せたい」と言う相反する欲望が存在する事を前提にしなければ猥褻(わいせつ)とは感じない筈である。

それがどうせ他人(ひと)前で犯られるのが判っている集団性交集団の仲間入りに輪姦(まわ)される場ともなると、奇妙な対抗意識も生まれるから文字通りに自分を曝(さら)け出して公開する事で、依りチャーミング(魅力的)に魅せる意識が生まれる。

普段は肌を出し惜しみする気分でも、女としての自分の魅力をお披露目の場で「他人に鑑定される」と成ると話しは別である。

だから「良く魅せたい」が極(きわ)まれば、露出や拘束を「視覚的に男が喜ぶ」と知っているから全裸に縄掛けにも抵抗なく応じて当たり前なのである。

女性としては大柄でな順子の興奮で乳首が立った張りのある両乳房に、括(くび)れたウエストから曲線を為して広がる腰、露に恥毛を蓄えた股間、剥(む)き出された柔らかそうな太腿(ふともも)、なだらかに丸みを帯びた白い尻肉が競り上がる。

余す所無く全てを晒(さら)した順子の裸体が「早く嬲(なぶ)って」と眩(まぶ)しく男達をそそっている。

話には聞いているが、これから順子の肉体(からだ)に起こる事は未知の領域で有る。

緊張するのが当たり前で、その風情は、男達の狩猟原始本能には絶好の獲物に見える。

この面子では生島喜美子が「一番下っ端」と言う事に成り、飲み始めて直ぐから衣類は勢いで剥(は)がされている。

岩代の細君(京香)の方は衣類こそ身に着けているが、行き成り田嶋の欲棒を咥(くわ)えていた。

細君(京香)の、何時もの人を酔わせる淫靡で乱恥気な雰囲気は、取っ掛かりから充分にかもし出されている。

これは順子の肉体(からだ)のお披露目であるから、まずは肉体(からだ)を隅々まで皆さんに晒(さら)さなければ成らない。

小泉順子は全裸の妻に伴われて降りて来た時、バスローブを纏(まと)っていて、首には妻の皮首輪が装着されチェーンのリードが繋がっていた。

やがて妻が順子を促(うなが)して、纏(まと)っていたバスローブを外(はず)させた。

それが素っ裸に剥(む)かれてプレィルームの中央に引き出された小泉順子の、これから始まる激闘の序章だった。

大胆に覚悟を決めて全裸に剥(む)かれた順子の、生々しく全裸に剥(む)かれた張りの有る柔らかそうな肌の縄掛け姿は、身震いする程美しくしなやかな肢体はそれだけで見る者に甘美な期待を抱かせる。

使い込んだ麻縄(ジュート縄)で後ろ手に拘束され、縄掛けで絞り込まれ乳首が立った剥(む)き出しの両乳房、なだらかに括(くび)れたウエスト、チャームポイントの臍(へそ)は立ての溝を刻んで愛らしい。

小判型の丸を描き、腰から続く内太腿(うちふともも)の間には仄(ほの)かに蔭る恥毛までがこれ見よがしに晒(さら)されている。

岩代の使う緊縛ロープテクニックは、縄目(緊縛跡)が肌に残り難い麻縄(ジュート縄)で、胸の辺(あた)りに六角形を作る亀甲縛りは縄目が裸体に美しいので見栄えがする。

緊縛拘束プレィは、やたら麻縄を用意して「縛れば良い」と言うのではなく、玄人(くろうと)の緊縛(きんばく)には「なめし」と呼ばれる処理または手入れがなされた縄目(緊迫跡)が肌に残り難い麻縄(ジュート縄)を使う。

その縄目(緊迫跡)が肌に残り難い麻縄(ジュート縄)を「なめし」と呼ばれる処理または手入れを為して柔らかくすれば「肌に良く馴染む」と言う。

岩代に言わせると、柔らかい綿ロープも縄目が残り難く入手も簡単かつカラーバリエーションも豊富な為、一般的なSMクラブで縄として使用する場合が多いが麻縄(ジュート縄)の方が気分的に緊縛美は楽しめるのだそうである。

今夜の主役の初お披露目だから妻のリードに操られて順子が後ろ姿を披露すると、なだらかな背中がウエストに向って徐々に絞れ、丸みを帯びた尻の双肉も怪し気に男心を誘う。

それでなくとも男は、こう言う怪しく眩(まぶ)し気な裸体の誘惑には理由など無く弱いものである。

頬(ほほ)を紅潮させた順子は、流石(さすが)に恥ずかし気で在ったが、乳首を勃起させた乳房を揺すり、くびれたウエストから丸みを帯びた腰と尻、その腰の中央には陰(かげ)る様に生えた陰毛と二枚の肉花弁まで舞台の下からは丸見えだった。

学生が、スポットライトを当てて、順子の裸身を浮かび上がらせた。

清純そうで知的な顔立ちの小泉順子が、凡(およ)そ似つかわしくない全裸で、妻にスポットライトに照らされた小舞台の上に引き出されて来たのだ。

京美メンバーに大柄な裸身を晒(さら)した小泉順子のウェストの縊(くび)れも内太腿(うちふともも)の白さも、そして陰毛で黒くかげる股間も、恥ずかし気に眩(まぶ)しく美しい。

顔は知的で清純そうだが自ら望んでこの場に立った順子だから、何よりも、余分な気を使わないで犯れるのだからそれに超した事は無く、これから三日間何を犯らせようが構う事は無い。

比較的ガッチリした体型だが、乳房もウエストの絞りも鑑賞に耐え得る綺麗な裸身で、柔らかそうに膨らんだ恥丘にはやや薄めの細い毛の茂みが絡み合っている。

ビキニラインとも呼ばれるV字型の太腿(ふともも)の付け根と、そこから切り替わって丸く膨らみながら菱型に陰毛を蓄える恥丘、陰毛の隙間から小豆粒大の薄桃色の花芯ボタンが小さな膨らみを見せ、その最下段に可憐に開いた二枚の可憐な肉花弁・・・

順子の肉花弁は、見るからに大き目で厚く大胆なものが二枚、「これでどうか?」と言わんばかりに堂々としている。

その立派な肉花弁の上にある花芯ボタンは、薄いピンク色で小豆(あずき)と大豆の中間くらいと言った所だ。

妻もそうだったが、観らて居る事を意識すると女心とは不思議なもので、素っ裸にされても美しく見られたいらしく、皆それなりにポーズを作る。

もっとも、覚悟の上の晒(さら)し者だから、開き直って堂々とするしか思い付か無いのだろう。

全てを晒(さら)して陵辱を待つ心境は、どんな物なのだろうか?

どうやら、小泉順子にも例のオーデコロンを上で仕込んで来たらしい。

その香りが、興奮で順子の裸身から香り立って居る。

人間は、何かに拘(こだわ)ると真実が見えなくなる生き物で、私に言わせれば建前ばかり言う奴は、独り善がりの格好を付けているだけで、これは単(ひとえ)に考え方の問題である。

その点小泉順子は、自分の性癖を認識して居る分だけ正直な生き方を選んだのかも知れない。

妻の方は「こう言う時は全裸が当然」と考えているのか、こんな時に衣類を身に付ける気は見事に脳裏から失せていた。

順子は首輪を付けられながら、妻から「今夜から夜の三日間、貴女の身体は皆の物で自分の意志はない。好きに使ってもらう覚悟をするように。」と、念を押されていた。

降りて来た妻がカラオケ舞台上で細君(京香)を呼び、そのリードを手渡して本格的調教が始まる。


人は群れ社会の生き物だから、どこかで「安住の群れ」を求めるものである。

その「安住の群れ」に身を置くには、群れに対する相応のロイヤリティ(忠誠)が必要で、これは、群れ(京美企画)に対するロイヤリティ(忠誠)を、順子が肉体(からだ)で証明する事である。

そしてこれは、小泉順子の愛奴隷訓練を兼ねたもので、非日常の空間でゲスト様に贅沢をさせるには、日頃は出来ない禁じられた遊び(プレィ)を熟(こ)なせる事が、性接待の愛奴隷と成る順子にマスター(習得)を求められるからである。

絶対服従を象徴するストリップ・サーチ(全裸検査)やロープ(縄)、スラッシャー(鞭)、ディルド(張形)などのSM的なツール(道具)の使用は、卑猥感漂うビジュアル(視覚的)効果を高めて接待プレィを興奮させる。

エクスポースフィールドワーク(野外露出)、ティードアップ(縛り)、ビリンデス(目隠し)、ハンダードラッシュ(鞭叩き)、ハングアウト(吊るし)は、愛奴隷・順子にマスター(習得)の必要な、ゲスト様に可愛がって頂く為のSMプレィの基本形なのである。

人生をどう生きるのか、自分(順子)が敢えてこの勝負から遠ざかれば、どんな言い分を言おうが中途半端な生き方しか出来ない。

順子は大人の女性で、こう言う状況下でも立場を忘れずに姦淫ムードの心地良い気分を煽(あお)り、周囲との雰囲気に対する対処を忘れない。

順子は無意識にそこを曝(さら)け出す覚悟で、女の性(さが)と言おうか己の生々しい女性器を晒(さら)して大股開きに股間を見せ様と開いた。

順子の恥毛が絡むデルタ地帯の肌の下に、敏感な花芯ボタンが小さなピンク色の実を膨らませて、淡い光を放ちながら弄(なぶ)られるのを待っている。

どちらにしろ、犯られたからと言って被害意識など持たずに、ポジテブに積極的に愉しんで犯れば全ては良い方に解決する。

そう成ると、犯っちゃったら犯っちゃったでもぅ後戻りはできないから、そこでゴチャゴチャして「その場の雰囲気や相手の気分を壊すのは得策ではない」と考えた。

それは誰しも、表向きとは違う格好が悪い一面も持って生きている。

つまり全てを曝(さら)け出して居る人間など居る訳も無く、敢えて言えば皆格好付けて上っ面を生きている。

最も姦淫ムードが在る心地良い気分の性行為が上等で在って、スマート(格好が良い)な性交など在りはしない。

こんな事は、別に「世間に公表すべき」とは想わないだけで、何を犯っても「夫婦が遊び」と認め合えば良い事である。

性行為の一端を称して「嫌らしい」と言うが、元来、性行為に品の良し悪しなど無く、むしろ下品な方が拠り興奮し愉しめる性質の物であるから、犯る事に品が良くては興醒めである。

まぁ口や股座(またぐら)に他人の欲棒を咥(くわ)え込んで、、互いにドロドロの性行為を披露するセックス・セッション(乱交)の場で、スマート(格好が良い)な性交など在る訳も無い。

セックス・セッション(乱交)は下品な方が拠り場が盛り上がり、外聞を憚(はばか)るような端無(はしたな)い非日常の性行為を不恰好に犯るからこそ興奮する。

つまり人間の感性を刺激するなら、依り下品に犯る事こそ性行の醍醐味で、そこを建前で無視ししては人間の本質としての心地良い真実など見えて来ない。


京香が、「さぁ、どーぞ、皆さんでお好きに可愛がって犯って下さい。」と宣言して、次に順子が教えられた台詞の挨拶をする。

「小泉の妻・順子です。皆さんの仲間に成る為に、今日は皆さんで私を嵌(は)め倒して下さい。」

順子の挨拶の台詞は、いかにも細君(京香)の言わせそうな台詞だった。

バスローブが外されると、順子の「子供を二人も為した」とは思えない、たおやかで弾む様な肌の裸身が現れた。

順子は、見るからにムチムチとした弾力のある肌の持ち主で、張りを感じる大き目の二つの乳房、ウエストの下に複雑に波打つ臍、恥毛は、やや薄めの細い毛が菱形に密集している。

丸身を帯びて膨らむ恥丘の端が花芯ボタンに達すると、更にまばらに成りながら、左右二枚の肉の花弁の外側に分かれて生え下がり、後ろに廻って菊座の周りまで確りと生えていた。

高校生まで「ソフトボール部に在籍した」と言う順子は、その女性なりにガッチリした身体はやや太身だが、その分たわわな乳房もふくよかな尻肉も煽情的肉感を見せ、私の男心に期待を抱かせた。

菱形をした順子の恥毛は、遠目に薄そうに見えたが、後にま近で見ると丸みをを帯びて膨らんだ恥丘には、細い毛がそこそこに生え揃っていた。

自ら希望しただけに覚悟は決まっている様子だが、流石(さすが)に恥じらいの表情が伺える。

細君(京香)は順子に目隠しをし、両手を広げさせて十字にパイプに固定を始めた。

岩代が上がって手馴れた手付きで縄を操り、順子の両手の固定をしている。

順子に目隠しが施(ほどこ)されると、私は入り口まで行き、外に待っていた竹中と小泉をそっと招き入れた。

既に全裸で固定され始めていた順子の裸身を目にした時、二人は息を呑んだ。

覚悟はしていても、現実にその姿を見せられると心中は複雑だろうが、その心境は伺い知れない。

だが、小泉順子を仲間に受け入れるからには、順子はゲスト様には求めに応じるままに股を開いて他人(ひと)前で雌の本性を剥(む)き出しにし、ゲスト様の性癖を満たす為に気楽に愛奴隷・順子との性交を愉しませなくてはならない。

どうやら順子には強いM性がありそうだから、話が決まれば後は皆で順子を扱(しご)いてトコトン格好悪く惨(みじ)めに扱い、順子に弄(なぶり)り者にされる被支配の快感を味わせてしまうしかない。


柔らかそうな双丘を描く順子の尻が、「早く責め立ててくれ」と、見る者の欲情を誘っている。

見て感じるのは男性の性(サガ)で、まったく拒否が出来ない状態の尻が差し出されれば、当然ながら見る者に犯る気が満ちて来る。

尻に咲く菊文様の蕾も、パックリと開いて、ピンク色の中が垣間見える二枚の肉花弁も、全ては晒(さら)しものだった。

父・竹中と夫・小泉の二人は、喉が渇くのか席に着く早々しきりにビールを手酌で注ぎグラスを口に運んで落ち着かない。

相当に動揺していて、落ち着かせなければこれではミスを犯す恐れが有る。

「チョット、チョット、里美とキミチャンこっちに来て咥(くわ)えて犯ってくれ。」

私が妻とキミチャンを呼んで、落ち着かせる為に二人の欲棒をそれぞれ咥(くわ)えさせた。

それで彼らは、漸(ようや)く落ち着きを見せて来た。


目の前で、準備作業が進んでいる。

今夜は、基本的に妻と同じ強制バックフリーの体勢で、順子を容赦なく責め上げる積りだ。

プレィの儀式みたいなものだが、夫の小泉には、「愛奴隷・順子を増長させると心理的に行為が横着になり、接待結果が悪くなるので性交マナーを厳しく仕込んで学習させる。」と伝えて「構いません」と了解は取ってある。

これで順子を、いきなり官能の連続の中に「追い込んでしまおう」と言う私の考えである。

順子は細君(京香)の指示で両脚を後ろに下げ、高さ七十センチ程に下げられたパイプを背負う形で前屈(まえかが)みを強いられた。

ちょうど台潰しの台が両手を広げてパイプに固定された形で、少し背骨を反らせて足を広げ、尻を突き上げる様に席に向けて居る。

固定が終わると位置を決める。ギリギリとチエンギアの音がしてゆっくりと向きが九十度変わった。

十文字に縛られて尻を突き出した前屈(かが)み「くの字」の姿勢と順子の顔が横向きに見て取れる様に成った。

この体勢では、順子にあらゆる選択の自由は無い。

たとえ目隠しを外しても、もう犯る相手が父親でも抗う術は無い。

まぁ、そのお愉しみは今夜はしない。

もう恒例になっているが、群れの獲物は、真っ先に群れのボス(支配者)に供されるから最初は全員の合意で私が楽しませてもらう。

舞台に上がって欲棒を取り出し、顔を左手で上げさせ、右手で順子のすっきりした上下薄い唇をした口に捻じ込んだ。

突然の口への欲棒の訪問に、順子は驚きながらも応じざるを得ない。

私の坊主頭のカリ首の割れ目を順子の舌先が押し分けて刺激し、カリ首の粘膜質のエラの淵を舌先が舐(ねぶ)り、首を上下する度に唇がカリ首の淵を擦(こす)る。

舌先で舐(ねぶ)られた私の欲棒は、そのまま擦(こす)れる様に妻の喉(のど)の奥まで飲み込まれて咥(くわ)える順子の喉(のど)の奥まで達していた。

清楚(せいそ)な顔をした順子だったが、亭主の小泉がシャブらせ方は仕込んだと見え犯る事は知っていて流石(さすが)に以前の妻の様にネンネ(性事知らず)ではない。


固さを増したら順子の頭を両手で押さえ、「グイグイ」と腰を使って遠慮なく喉の奥まで抽送する。

順子は横に渡したポールに固定された前屈(まえかが)みの格好だから、おシャブリの方は強制口喉(こういん)性交の形になるが、私は構わず腰を使って突き入れている。

「ウゴ、ウゴ、ウゲ。」と順子の口から声が漏れている。

父親と夫の目の前で、この陵辱感は堪らない。

どんな顔をしているかと目をやると、二人とも目を爛々と輝かして凝視している。

しかもその欲棒は、妻とキミチャンに咥(くわ)えられ、そそり立って口元から陰茎が見え隠れしている。

脳の中で、眼前の順子の陵辱と下半身の刺激がミックスして、異様な感覚に襲われている筈だ。

快感に襲われたが、ここで射精してはもったいない。

私は、ゴムを細君の神業で装着してもらい、順子の背後に廻った。

肉付きの良い、白く二つに割れた尻肉が、脚を肩幅程に大きく広げて目の当たりに据えられている。

その中心にア*ルの蕾とパカッと割れた大き目で厚い肉花弁が怪しげに見て取れた。

緩く柔らかそうに恥丘が膨らみ、そこに薄めの細い毛が茂っている。

薄めの細い毛だが、菱形に密集して陰毛の本数が多く、薄いピンク色の花芯ボタンは、陰毛を掻き分けないと見えなさそうだ。

まぁ女性の性癖は露出で、「卑猥(ひわい)な所を見られている」と思えばそれだけで興奮する。

その順子の、肉体(からだ)の中心のスリットの中は、私が触れて確かめるとグチャグチャに濡れそぼっていた。

雌の発情を思わせる独特な香りが、順子の肉体から匂って来た。

状況を理解すると脳が伝達指示をするのか、こう言う状況になると、期待に興奮して女の肉体(からだ)は受け入れ態勢に入る様に出来ている。

既(すで)に順子は呼吸が荒くなり、ハァハァと荒い息使いが口から洩れ始めている。

順子の花弁の中心にエラの張ったキノコ状の海綿体のカリ首を宛がい、私は殊更ユックリと欲棒を中に沈めて行った。

この、潜り込む感触の抵抗は堪(たま)らない。

私のカリ首が、順子の肉壁をかき分けて、「グーッ」と、中へ入り込む、気持ちが良い感触が伝わって来た。

「アッ、ァァー。」

順子が第一声を上げた。

誰の物かも確かめる術も無く、自らが口で固くさせた私の欲棒が自分の花弁の中に押し入って来たのだ。

妻・順子の奮戦と性反応を確り確認させる為に、ギャラリーの最前列・目の前が夫・小泉と義父・竹中の定位置である。

クィクィと抜き挿しに応じて見え隠れする私の陰茎に、順子の肉花弁が生々しく巻き込まれ捩(よじ)れ震えて見えている。

生挿しの欲棒が をヒィヒィ言わせながら、妻の股間に嵌(はま)って蠢(うごめ)く様に夫としてドッキリさせられ、一瞬後悔の念も浮かぶ。

だが、この情を挟まない遊びの場では、その生挿しの欲棒は妻に与えた「大人の玩具(おもちゃ)」と想うしかない。

後で落ち着いて考えるに、このプレイは自身には自虐的であり妻には加虐的と両方の感性を震(ふる)わす、良質の遊びだった。


承知していた事とは言え、目の前で起こった順子の性交現実は小泉にとっては正に仰天(ぎょうてん)の光景だった。

妻・順子の肉体(からだ)に社長(私)に欲棒を挿し込まれて、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら腰を使う社長(私)と、順子は股間で生々しく繋がっていた。

エゲツ無いと言えばエゲツ無いが、それでも京美に於いて本当の仲間になるには「ここで順子が恥を晒(さら)してこそなのだ」と納得するしかない。

そこは空想でこの情況を期待していた節がある順子の事で、直ぐに「ウフン」と甘い声を漏らして鼻を鳴らし、貪(むさぼ)るように欲棒が嵌(はま)った腰を使い、媚を売るように身悶え始めた。

夫に見られながらも順子は、社長(私)の突き腰にガップリ組んで、欲棒を突き入れられ抜き挿しされている所から愛液を噴出し、太腿(ふともも)に垂らしながら受け腰で快調に熟(こ)なしているのだ。


私が抽入を果たすと、田嶋が上がって来て順子に自分の欲棒を咥(くわ)えさせる。

彼も竹中達の表情に関心が有るのか、口淫性交で喉奥までクィクィ突き入れる腰使いながら、しきりに彼らの表情を観察している。

私が抽送を始めると、順子の篭ごもった善がり声が咥(くわ)えた田嶋の欲棒の隙間から漏れ始めた。

順子は前屈みに吊るされたまま、股間に一本、口に一本、肉杭(にくくい)が射(う)ち込まれていて身動きが取れないまま、二人連動の鮮烈な抜き挿しに耐えねばならない。

「アゥ、アゥ、ウグ、ァァ、アゥァァ。」

目を遣れば、凝視する竹中と小泉の尋常ではない目付き、見下ろせば私の欲棒が順子の肉花弁を押し分けて陰茎が見え隠れするのが見て取れる。

男として、こんな良い思いは、岩代とめぐり合うまでは思いも拠らない出来事だ。

見詰める竹中と小泉の複雑な心理の興奮は、似たような経験のある私には、凡そ見当が着く。

しかし、順子の柔ら壺の中も中々に具合が良い。

私のエラの張った坊主頭の海綿体が、順子の内壁を擦(こす)りながら見え隠れしている様が夫の小泉には丸見えの筈で、それも気分的な刺激に成る。

「おぉ、擦(こす)れる,擦(こす)れる・・・・・」

気持良さに、知らず知らずに抽送は早く激しくなる。

勿論、「アゥ、アゥ、アゥ、アゥ、アア、気持ち良いィー。」と言う順子の首を左右に揺らしながらの善がり声が、リズミカルな伴奏で有る。

上半身を固定され、口に田嶋の欲棒を含んでいる順子には、僅かに腰を振るくらいしか自由は無い。

今は私の腰を、順子の尻肉にバンバンとぶつけて、欲棒が快感を貪(むさぼ)っている。

クイクイと腰を使って喉(のど)の奥まで突き入れられる田嶋の硬く張り詰めた欲棒を咥(くわ)えて必死にシャブる性玩具(おもちや/ジョイトイ)・順子の口元から、涎(よだれ)が垂れ下がって床に落ちて行く。

順子の口中に挿し込んだ私の欲棒が、ヌメヌメと舌先で嬲(ね)ぶられる快感に、私は目を細めてそのおシャブリを愉しんでいた。

つまりこの気持ち良い事は、私のペースで犯り放題だが、誰か何か文句は有るだろうか?

いっそうの加虐感が湧き起こり、渾身の腰使いで攻めたてた。

弾力のある弾む様な肌は大きく波打って、硬く勃起した乳首のたわわな乳房が、私のリズムに、波打ちながら踊っている。

相当堪えていたのか、順子の中がギュウッと収縮して、順子が先にイッてしまった。

「イッたからと言って、ここでは赦されない。」

そう思った途端に、続けていた抽送を止めないまま、ドクンドクンと射精が始まっていた。

肉体(からだ)を離すと、もう次の田嶋が割り込む様に入れ替わり、腰をグィと入れて、順子の肉花弁に欲棒を収めている。

岩代が、自分の欲棒を順子の口に入れて腰を使っている。

目をやると小泉が発射したのか、キミチャンが口を拭(ぬ)ぐっていた。

妻の口撃で、竹中の方も断末魔が聞こえて来そうな感じだった。


私が思うに、人間が性(性行為)に対して素直に成れないのは「哀しいから」である。

そもそも、おこがましい事に人間は「他の動物より高尚(すうこう)な生き物だ」と、勝手に思い込んでいる。

有る面では大きな間違いなのだが、その勝手な思い込みを基準にすると誰でもが極普通に行なう事にも関わらず、確かに性行為は酷く無様(ぶざま)に見えない事も無い。

ずうずうしくもその高尚(すうこう)なイメージと、動物的な性交(性行為)のギャップが哀しいのである。

そして本来、生き物として最も崇高であるべき繁殖行為(*種の保存の為の)が、人間だけは、繁殖期に囚われない擬似繁殖行為の側面を持つ「後ろめたさ」からも、哀しいのである。

だが実の所、やたら純粋にものを考えたり他人にそれを押し付けたりするのは迷惑な話で、周囲を傷付けさえする。

つまり個々の本音の部分では、物事の考え方は千差万別で、誰の思いが正しいなどと、判定は出来るものではない。

所が、純粋過ぎる者は他人に厳しく「自分の意見が正論だ」と思うと、まったく別の思考回路を閉ざし頑(かたく)なに「持論を押し通そう」とする。

本能のままに勝手に生きる事は勿論問題が有り、群れ社会が本質である人間は生きられない。

しかし、社会的な既成概念に生き方を頼り過ぎると本質的に自分を失い、脳は眠り着く。

自己を肯定する事は自信に繋(つな)がり、刺激を受ければ脳は活性化し、前向きになって生きる上でパワーアップする。

生身の人間に、あたかも「神のように生きろ」と言う世間の風潮は百害の元で、むしろ最大公約数的に思考を調整して、活路を見出すべきである。

順子の態度は、私をそう思わせていたのだ。



性交は最も姦淫ムードが在る性行為が上等で在って、スマート(格好が良い)な性交など元々在りはしない。

「見られながら犯られている」と言う羞恥心も凄いが、順子に押し寄せて来るM性(マゾ性)も半端でなく、その状況がに意識されて依り性感を高めている。

生々しく股座にズブリと突き挿さった他人の欲棒の抜き挿しに、順子は善がり声を挙げながら腰を浮かして受け腰で応じているのだから、もう気取っては居られない。

これからこの奇妙な感覚が自分の肉体(からだ)に訪れる事に、順子は期待と恐怖が交互に訪(おとず)れて来ていた。

何と言っても、大勢のギャラリーが焦点を合わせて見詰める視線の先で、順子は別の選択肢が無いままに、恥ずかしい性交姿を素っ裸で披露しているのである。


小泉順子が自ら飛び込む性接待の愛奴隷には、ゲストを愉しませる為に広範囲に対応可能な何でも犯れるユーティリティ(役に立つ・有効な)・プレィヤーが求められる。

女性の肉体は、犯られてしまえば愉しめるように出来ていて、小泉順子本人も犯られ倒されるのは承知で志願したのだから、こう言う事は理屈では無く犯らせて理解させるしかない。

妻の時に「こんな事は少しづつ仕込む手では逆効果」と言ったのは他ならぬ義父(ちちおや)の竹中で、順子にはあらゆる性交テクニックを広範囲に一気に攻め立てて常習性が着くほど肉体(からだ)を慣らしてしまう事に成る。

順子には息を整える程度の時間を断続的に挟んでのオーガズム(絶頂)が継続しているから、もう夫の目もギャラリーの目も気にしている間など無い。

相手が代わる度に大きく開いた股間に生々しく下半身を貫(つらぬ)かれる欲棒の快感に、順子は乳首が立った乳房を揺(ゆ)らし汗ばんだ肌を鈍く光らせながら上体を仰(の)け反らせて上半身をのた打つ。

そして順子は、間を空(あ)けない性交に物凄い大声で善がりながらイキ続けている。

ハァハァと荒い息使いが口から洩れるその恍惚の表情は、小泉が始めて目にする妻・順子の別の女の顔だった。

正直女性の肉体(からだ)は現金なもので、人前と言う非日常のシュチエーションで犯り始めれば快感を貪(むさぼ)り、もう小泉順子には貞操も糞もない。

綺麗事とは行かないが、脳科学的に必要性を真剣に考えればマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)で人間が創った全ての決まりを破壊するからストレスから開放される。

順子の、臍の下からなだらかな丸みを帯びる柔らかそうな丘に草むらが生えて、恥ずかしそうに膨らんでいる。

その中央に花芯ぼたんの実(サネ)を配してその下、二枚の肉花弁の恥部に挿し込まれた欲棒を田嶋がユックリと抜き挿ししている。

欲棒を挿し込まれ、順子は全身を汗でビッショリと濡れ光らせ、快楽なのか苦悶なのか表情を歪(ゆが)めて涎(よだれ)を垂らしながら喘(あえ)ぎ、吠(ほ)えるような善がり声を上げながら肉体(からだ)を震わせて悶(もだ)えている。

股間で生々しく繋がっている陰茎を見え隠れさせながら順子の性交は長々と続く。

脳の中が性交モード一色の順子は、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら歯を食い縛って快感に耐え、男達の突き腰とガップリ組んで、受け腰で快調に熟(こ)なしていた。

その順子は欲棒を突き入れられ抜き挿しされている所から愛液を噴出し、白い太腿(ふともも)に垂れ流しながら連続する陵辱(りょうじょく)に身悶え、媚を売るように甘い声を漏らして鼻を鳴らし身悶えて居る。

股間で生々しく繋がって、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら凄惨とも言える順子の輪姦性交光景は、それでも当然のごとく続いている。

竹中と小泉には、娘であり妻である順子が立て続けに犯されているのである。

確かに修羅場だったが、目の前で順子が犯られているその衝撃の光景に、竹中と小泉の義理の親子はむしろ感動さえ覚えた。

それでもそこまで行ってしまえば順子の女性としての肉体(からだ)は現金なもので、「ウフン」と甘い声を漏らして鼻を鳴らし、媚を売るように身悶えて見せている。

妻の順子への輪姦(まわし)を目の当たりにした小泉も、その刺激的な光景に我を忘れていた。

全てが妖艶なライブショーである乱交の魅力に魅入(みい)られた小泉は、そこから中々抜け出せないだろう。

性に関して女性には本音と建前に微妙なズレが在り、信じられそうも無い夢物語の建前が、「愛が無い相手と性交は出来ない。」である。

世の人々は性交などには興味が無い様に装っているが、まともな性癖の男女なら性交を愉しもうと言う本能が在って当たり前である。

そしてその性交には心地良い気分の姦淫ムードを愉しむだけの関係も新鮮で在り、必ずしも性交に「愛情」が拘(かか)わる訳ではない。

互いを縛り付ける「愛情」などと言う一人善がりの感情の苦悩を捨て去りさえすれば、人はもっと自由に性交を謳歌(おうか)できる。

大袈裟に言えば、人間の欲望には際限が無く、それを安全に満たしてくれる性欲装置があれば「奔放な性交遊びも悪くは無い」と想えるものだ。

だから表向きは性交など興味が無い様に装っていても、秘したる本音ではカップルなり夫婦なりであらゆるパタ−ン(構成)の性交を大いに愉しんで居ても不思議は無い。

そのストレス解消の為の奔放な性交遊びの性欲装置が、お愉しみの為なら何でも在りの「京美企画」だった。


いずれ小泉順子は、極上の性奉仕をゲストに提供する為に「京美企画」のメンバーに実践トレーニングで愛奴隷に仕込まれる。

愛奴隷・順子は、実践経験に慣れさせる為に、乳房も尻も股座(またぐら)さえも丸出しの、一糸纏(まと)わぬ素っ裸でゲストの前に立たされる。

勿論、人前で素っ裸にされて性交をして見せる非日常の情況に、究極の羞恥心で愛奴隷・順の脳にはドッとドーパミンが噴出する。

愛奴隷・順子はゲストに面白がって無遠慮に犯られ、順子はセックスハイ状態に到達して素の女性(おんな)を曝(さら)け出す。

順子への陵辱は、始まったばかりである。

父親の話を聞いて、順子が強い関心を示した、「妻が体験した」あのトリップ状態に、果たして順子も到達するだろうか。

小泉や竹中は、これからどう行動をするのかも、「見物」である。

しかし私も、今日はいささか疲れた。だが、こう言う遊びの疲れは「心地良い」ものである。


(順子極楽を味わう)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十二話(順子極楽を味わう)


つい最近まで、私は小さな営業所を預かるサラリーマン所長だった。

それが突如独立する事に成り、最初の数ヶ月は、朝、目覚めると、「今度こそリアルな夢が終わったか」と、恐れた。

しかし目を開けて三十秒もすると、新しい我が家に居る。

自分達夫婦の人生が一変したのは、やはり現実だった。

それほど、この数ヶ月の全てが私の予想を越えた事態だった。

夢では無いと確認すると、今は本気で、岩代の不可思議な力を信じたくなる。


妻は、開所祈願の輪姦の最中に、「会社の未来を見た」と言う。

どうやら妻を始め、この妖しげな開所祈願の輪姦を受けた女達は、その最中に何か思い浮かぶらしい。

それが、どんなものが彼女達に思い浮かぶのかは私には判らないが、とにかくリアルな映像のようなものらしい。

岩代に言わせると、それがこの開所式で重要な意味を持つ御託宣(ごたくせん)らしい。

何やらにわかには信じがたい事だが、岩代や体験後の彼女達は、神代から伝わる秘法の成果として至極真面目なのである。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

それを実践しているのが、この開所祈願の輪姦性交呪詛(りんかんせいこうじゅそ)だと言うのである。


大和の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展した。

後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

岩代が導く神域の世界は、現代人が忘れかけた精神世界なのだろうか?

聞いて見ると、何やら卑猥な輪姦行為が、厳粛な神事の儀式に思えてくるから不思議である。

チョット以前の妻だったら眉をひそめて激しく嫌悪感を抱き、強烈に反発したであろう輪姦を、迷う事無く自ら受け入れ、親友にさえ勧めている。

理屈で解けないのが信仰である。

今日も妻は、素っ裸でこの場に積極的に参加している。

妻の近頃の大胆な変身自体、或いは、神が降りた神懸(かみがかり)の状態なのかも知れない。



岩代は、私達夫婦に舞い降りた奇跡だった。

京美企画のメンバーには、それぞれの人生が在る。

縁が薄いか濃いかは別にして、それぞれに家族が存在し、今まで歩いて来た道も、人それぞれのけして平坦では人生であり、五分先の事は誰にも保証すら出来無いのでる。

事程左様に、人の人生など確かなものではない。

実は、誰にでも言える建前を言えば、多くの人の共感を得るのは容易で、それと違った事を言うと、酷い抵抗に会うのが世間である。

違った事を言う位ならまだ良いが、違った事をすれば、世間からは袋叩きである。

しかしながら、性的衝動は生き物にとって自然な欲求であるから、人間に有っても仕方が無い。それをどうコントロールするかが問題で、建前論では解決せず、地に潜(もぐ)ってしまうものである。

そのメンバーがそれでも結束出来たのは大げさではなく、何と言っても岩代夫婦の奇跡である。

人生において、性は生に通じる「生態系維持」の大事な脳内シグナルであり、人間も生物で有る以上は法律や倫理観、信仰だけではその影響を避けられない。

性を制御するだけではその影響が避けられない以上、本来なら人間社会は素直に誰にでも「なるべく良いSEX」が出来る環境を、精神思想において慈愛の中で醸成すべきだったのだが、「禁欲」と言う無理な制御を選択して滅びの道を進む事に成った。

シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっているもので、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは勘違いである。

脳が異常に発達して物事がシンプルに処理出来なくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき快楽性交)」を神様に認められている。

性欲を「恥ずかしいもの」とする事が知恵の浅い宗教家の「勘違い」だとすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか独占欲の拘(こだわ)りの問題である。

人間は習慣性がある動物で、始終犯ったり犯られたりしていればそれが普通の事として慣れて来る。

「京美企画」のメンバーは始終犯ったり犯られたりで、それが当然の行為と成って性交には完全に罪の意識など無かった。



小泉順子は身長が170センチ近くある長身で、女性としては大柄の乳房も大き目なナイスバデイで裸体のプロポーションなど涎物(よだれもの)である。

純粋に日本人で一重まぶただが、目は大きくスッキリした上下薄い唇の持ち主で、精悍な感じがする冷たい顔つきに日本人離れした雰囲気がある。

そんな順子が「好き者」と来ているのだから、転がしたりひっくり返すには厄介だが周囲の男性には堪(たま)らない。

この場に於ける陵辱のヒロイン順子は、相当の運動量を要求されるメイン・プレィヤーである。

メイン・プレィヤーの順子には、出席者の環視の下(もと)全力を尽くして、入れ替わる交尾プレィ相手を満足させ続ける使命がある。

私が発射し終わって田嶋が後ろに回ったので、岩代の大柄な身体が生島を手招きして、田嶋の次ぎのおシャブリを彼に譲っている。

順子に考える暇を与えないのがその手法だから、二面同時攻撃の手(棒?)は緩めない。

「田嶋さん、これを順子さんに使って見て。」

細君(京香)が手渡したのは、スキンを被せたイボ付きキュウリだった。

「へへ、これを使うのか?」

田嶋は順子に入れていた欲棒を抜いてキュウリを受け取った。

「えぇ、それで順子を責めてお楽しみください。」

「ハハ、どうやら、こう言うお役目は、俺の仕事に成った様だ。」

田嶋が笑いながらイボ付きのキュウリを受け取り、後ろから順子の花弁の隙間に捻じ込んだ。

田嶋の突き入れたイボ付きのキュウリが、ズブリと順子のピンク色の蕾を持つ柔ら壺に納まって見えている。

そのキュウリの端を握り締めて「俺は動かさないから、自分で気持ち良く成るまで、腰を使え」と、面白がる田嶋が順子に命じた。

順子は命じられた事を直ぐに理解した。

父を始め、大勢の仲間に見守られながら、柔ら壺に咥(くわ)え込んだイボ付きキュウリを、自ら抽送して見せる使命を与えられた順子は、興奮した。

「はぃ。」と素直に応じた順子は、歯を食いしばって田嶋が握り締めたキュウリを見え隠れさせながら、腰を前後にリズムを取り始め、キュウリは見事に見え隠れをして居る。

「ウッ、ウッ、ウッ、アァ〜、ウッ、ウッ、ウッ、アァ〜。」

懸命に腰を使って、自らの中へイボ付きキュウリの抽送を続ける順子の股間から、愛液が滲み出し、順子の太腿(ふともも)を、糸を引いて滴(したた)り始めている。

「へぇ〜、このねぇちゃん、キュウリでも感じるのか・・・。どうだ、気持ち良いか?」

抽送を続けながら問い掛けに応じる順子は、快感に顔を歪(ゆが)めながら、なおもリズムを取りながら応えた。

「ウッ、ウッ、ハィ感じます、アァ〜、ウッ、イ、イィ〜、ウッ、アァ〜。」

そのリズムが、田嶋の掛けた声をきっかけにいっそう早まって、善がり声が狂ったように大きく成った。

「アァ〜、アァ〜、アァ〜、ウッ、ウッ、アァ〜、アァ〜、アァ〜。」

「こりゃ堪(たま)らねぇ、また嵌(は)めたくなった。」

タイミングを見て、田嶋がキュウリを抜き、自らの欲棒を突き立てる。

イボ付きのキュウリはまた田嶋の生身の欲棒に代わった。

「ウッ、ウッ、ウッ、ウッ、ウッ、アァ。」

田嶋は順子の胸を撫でながら、かなりユックリと抽送の感触を楽しんでいるようだ。

「ウッ、ウッ、ウッ、アァ〜、ウッ、ウッ、ウッ、アァ〜。」

「順子何処が気持ち良いか言ってみろ。」

「アァ〜、オマ*コ、アァ〜、ウッ、ウッ、アァ〜、オマ*コ気持ち良い、アァ〜。」

予備の行為も無いまま、行き成りのぶっつけ本番で私に「イカされている」から、順子の方はそれ処では無い。

それを引きずったまま次の男に責められて、善がっているのが判る。

自分で望んだだけに、順子の善がり方は明け透けで、感じている事を「オマ*コ気持ち良いィー」と隠さない

精悍(せいかん)な顔付きの順子は、心を開放されて夫と父の前で田嶋との性交に没頭している。

順子の表情は、突き上げる快感に翻弄(ほんろう)され、もぅ周囲を意識する余裕はない。

玉に成って肌を流れ落ちる汗も忘れて、首を左右に揺らしながら「オマ*コ気持ち良いィー」と順子は連呼する。

愛液に濡れて光る田嶋の陰茎をスローモーションのように、股間に見え隠れさせながら、愛液を花弁の奥から太腿(ふともも)に滴らせて腰をクイクイと使い、善がり声を上げていた。

小泉夫婦も、本当は夫婦だけでチマチマとしたSEXを犯るよりは、気持ち良いマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)を犯った方が愉しいに決まっている。

「夫婦だけの性交関係で止(とど)めていたら、いずれ亀裂が出来るも。」と順子は思っていた。

確かにこのまま平凡な人生を送れば、順子は大勢の男性から懇(ねんご)ろに可愛がって貰う機会など無いまま生涯を過ごしたかも知れない。

当然、性感がマックス(絶頂)に到る極限のディープ(深く嵌り込む様)な興奮(ハィ状態)も知らずに、順子は女盛りを無駄に過ごす勿体無い事に成る所だった。

マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)で一時間も犯られ続けると、大概は善がりの快感も運動量も極限に達っしてSEXハイ状態に到る。

そこからまだ三人ほど続けて善がり声が枯れるほど犯して止めを刺し、五分ほど順子を休ませてシャワータイムを十分ほど挟んでまた性交責めを再開する。

どの道肉体の反応の方は、男達に続けて犯られれば例え他人前(ひとまえ)で在っても「理性(左脳域)」だけでは抑えられない。

だから小泉順子は、男達の激しい抜き挿しに耐え切れず、途中からタガが外れて欲棒に串刺しにされたまま腰を浮かして物凄い反応で喘(あえ)ぎ善がる。

一旦強制輪姦が始まってしまえば、順子の肉体(からだ)は中々開放されないが、中途半端では相手に失礼だからエゲツ無く弄(もてあそ)ばれてもそれはそれで良い。


「凄いですね。」

順子の陵辱から帰ったばかりの私に、夫・小泉が声を掛けた。

「今の順子さんは、心が開放されて只の雌(めす)ですから・・・」

「私にも経験が在るが、あれを観ているだけで小泉さんも勃起するでしょう。」

「仰(おっしゃ)る通りです。」

想いも拠らなかったが、妻・順子は違和感無くおシャブリも腰使いも上手く犯れて次第に大胆(だいたん)に成って行った。

恐らくもう周囲の事など意識に無いのか、日常の倦怠感(けんたいかん)を埋める様に全裸体を躍動させ大胆(だいたん)かつ奔放(ほんぽう)に性交に応じている。

今は唖然(あぜん)と眺める夫・小泉の前で、口と言わずア*ルと言わず女陰に到るまで欲棒を受け入れて、性感に拠る忘我の境地に入っているのだ。

こう言う異常なシチュエーション(境遇状態)では、ほのかに期待を持って望んだ順子も、もう気取る必要も無い。

伝えずに目隠しをさせてあるから、義父の竹中や夫の小泉がこの卑猥(ひわい)な修羅場を観ている事も知らされては居ない。

大柄(おおがら)の肉体(からだ)で清楚な中にも野生的な雰囲気を持つ順子の性交は、今まで抑えていた呪縛から解き放たれたように大胆に激しかった。

「どうやら抑えていた本性を曝(さら)け出した様だな。」

目を爛々と輝かして凝視している小泉に、竹中が小声でそう言った。

「えぇ、凄いです。順子がこんな獣のようなセックスをするなんて、想像もしていませんでした。」

「君等夫婦は本性も出せない仮面夫婦だった事になる。犯る事を犯らずに上手く行く訳なかろう。」

「本当ですね。もっと素直に互いの性癖を出していたら・・・。」

「本人も解放を望んで此処の仲間入りを決意しているから、今後は君等夫婦の不満も解消されるだろう。」

「ハィ、順子の本性を見る切欠を頂いた事を感謝します。」

「どうせ夫婦一組では長くは続かない。喧嘩とセックスの繰り返しのマンネリになる。それなら順子の希望通り情を挟まない接待をさせた方が新鮮だと想うが。」

「ハィ、夫婦で京美企画にお世話になる覚悟は出来ています。」


小泉は妻の全く違う一面を見せられて、現状を否定も肯定もするでなく只々唖然としていた。

順子の理屈では無い本能をまざまざと見えつけられた思いだったが、初めて夫の前で曝(さら)け出した女の性(さが)だった。

「アァー、気持ち良いィー、アァー、アァー、気持ち良いィー、アァー、アァー、アァー。」

少しでも口から欲棒が外れると、ここぞとばかり順子の口から善がり声が響き渡る。

見るからにムチムチとした順子の肌は、薄っすらと汗が滲んで、快感に打ち震えている。

何しろSEXで責め上げて、彼女を極楽の境地まで持って行くのが目的だから遠慮は無用だ。

これから順子は、順次男達を肉体(からだ)に受け入れる。

女性軍一同、細君(さいくん)から、口を使ってゴムを被せる技を教わっていた。

今はシーソー状態に股間と口で、田嶋と生島に責められている。

順子が、同時に田嶋と生島の二人から攻め立てられて居るその光景は強烈だった。

田嶋が中々順子を放さないので、生島が順子の口を使い始める。

自ら性の生け贄を志願した小泉順子は、生島に口に欲棒をズンズンと突き入れられて涎(よだれ)を垂れ流しながら懸命にシャブらされ、田嶋に股間の柔ら壺に欲棒をズンズンと突き入れられ、愛液を垂れ流しながら懸命に受け腰をクィクィと使っている。

小泉順子を欲棒のすす払いで浄化して、その神懸り状態 のオーガズムエネルギーで、小泉(竹中)家の繁栄を祈願する。

まぁ、怪しげでは有るが、理屈は通っている。

つまり発想を変えれば、まったく違う事が正しい事になる。

もつともこの発想は、建前の既成概念に囚われていると、金輪際理解出来ない。

順子の股間から滴(したた)り落ちる愛液が、彼女の太股を生々しく伝わって流れている。

まったく決まり切って、柔軟性の無い秀才が国家のリーダーになるのが、国家公務員の上級試験であり、それを鵜呑みにしているのが日本の善男善女である。

此処にはそれとはまったく違う空間がある。

このビルそのものが、岩代の構築した結界(バーリア)なのかも知れない。

射精した後の私の欲棒は、誰に言われなくても喜美子が寄って来て口で綺麗にした。

何時の間にか、彼女はこの特異な空間に馴染んでいる。

終わった後にシャブられるのは気持ちが良いが、ある種快感過ぎてキツイ位だ。


男性を受け入れるかの決断は本能で在るから、イザと成ると性交に関しては女性の方が余程(よほど)男性より度胸が良い。

小泉順子の喉が枯れるほどの激しい善がり声が、京美企画の接待プレィルームに響き渡っている。

「まるで私では無いみたい」と順子は想いながら、今は貫(つらぬ)かれた誰とも知らない男の欲棒に夢中で受け腰を使って応じていた。

つまり順子は、想った以上にこの卑猥(ひわい)な遊びと、肉体(からだ)が肉欲的に水が合った事に成る。

集団乱交の遊びなど「現実には存在しない噂」だと想っていた順子にはにわかには信じ難い事だっが、その噂だけの世界が現実に存在した。

こんな乱交プレイを愉しみ愉しませる遊びを犯る連中が居る事を、肉体(からだ)で知らされ様としていた。

しかも順子は、進んで京美の生贄(いけにえ)のヒロインに仕立てられる事を望んでこの場に居る。


順子にして見れば、倦怠感いっぱいの自分達夫婦が試して見るべき遊びの性交プレィだった。

こう言う事を上手く犯るには、気を入れて気分を卑猥(ひわい)に持って行き、積極的に受け入れて性交を愉しむのが利口な女の処し方である。

順子は、今からこの「大勢の他人前(ひとまえ)で犯される」と想うと、恐ろしさと恥ずかしさで胸がキュンと成った。

けれど不思議な事に、この観られる快感が癖に成りそうな予感が、順子の心の片隅に複雑に存在した。

現に順子は、大勢の視線を意識して乳房の乳首を硬く立たせ、戸惑いの表情を浮かべて指示に従っている。

自然な男女の性癖を区分けすると、観て感じる男性と見せて感じる女性に分けられる。

頭の思考で露出癖を論理的に否定していても、経験から別の答えを感性的に受け入れる事もある。

タブーの世界だから余り正面切って表明は出来ないが、現実にAV女優の志願者は多く、事務所登録しているだけで数万人は居て、その彼女達が金の為だけで無い。

建前はともかく本音では、彼女達に「他人前(ひとまえ)で犯られて見せる」と言う究極の露出癖をも満足させる目的でも無ければ、そんな仕事は犯っては居られない。

日本でも欧米でも、大ヒットを飛ばす歌姫に露出の多い衣装は定番である。

つまり女性の「見せたい願望」は女性が男性を誘うカップリングの本能で、それで集まって来た中から相手を選ぶ為に、見せて誘う意識が感性的に働くと言って良い。

男性は観たい癖があるから露出の多い衣装は歓迎だし、女性も本音では「見せたい願望」で歌姫の露出に共感している。

だから順子は本能をくすぐられ、こう言う特別の場でしか味わえない女性特有の究極の露出癖に目覚めたのかも知れない。

此処まで来てしまえばまな板の鯉で、順子の顔は、一見すると覚悟の「はにかんだ微笑(ほほえ)み」の表情を含んでいた。

もっともこの快楽の場では今更抵抗は見苦しく、順子は場の雰囲気を壊さない為に悲壮な顔や嫌な顔は出来ない。

結局の所順子は、「どうにでもしろ。」と覚悟を決め、秘部も露(あらわ)に股を開いて相手の犯りたい事の受け入れを待つしか選択枝は無い。

そしてどんなに美人で、どんなにスタイルが良くても、絡み合う恥毛の丘とグロテスクな女性器は、性交の為の肉体の一部として違和感タップリに備わっている。

その場に全てを晒(さら)して素っ裸大股開きにされた順子の顔は、羞恥心を含んだ困惑の表情だった。

その順子の困惑の表情などお構い無しに、少し乱暴に輪姦(まわ)しは始まった。

この連中はこう言う事に慣(な)れて精神的にも図太く、他人前(ひとまえ)でも躓(つまずく)事も無くズブリとインサート(挿入)を確り決めて来る

自分達が日頃犯って居る事だから犯る方も犯られる方も笑顔で、この連中が無遠慮に  に犯って居る事は当たり前で、悪いとも可愛そうとも想わない。

しかし女性は、一度そちら側に飛んでその露出感覚の快感を味わってしまうと感性の快感が優先されて、次からのプレィは意外とそこまでは抵抗がない。

何しろ休みたくても休めない状態で後ろから前からと輪姦性交が続いて、順子の絶頂(アクメ)は途切れなく性感に拠る忘我の境地を彷徨(さまよ)っている。

参加者男女の視線も忘れ、口をパクつかせて喉が枯れるほどの激しい善がり声が、順子の口から垂(た)れ流されている。

バック攻め独特のブシュ、パン、パン、ブシュ、パン、パンと言う順子の尻肉がリズム良く発する連続音が、激しくこの喜美子に響き渡っている。

雄(男性)の本能が子種を撒き散らす事に在る以上、雌(女性)の本能に優秀な子種を求める衝動が在る以上、所謂(いわゆる)性衝動を建前だけで制御するのはむずかしい。

原始回帰すれば、男性が良い母体を探し女性が良い精子を探す「種の保存本能」で相手を代える感性は、ふしだらでは無く当たり前だった。

その性交本能を剥(む)き出しに男女伴に、順子の肉体(からだ)でタップリ愉しむ事が、この場の約束事だった。


目の前で、全裸の妻が竹中の右手に股間を委(ゆだ)ね、小泉の欲棒を咥(くわ)えている。

目隠しをされている順子は知る由も無いが、この体勢で二人は、あろう事か異様な眼差しをして、我が娘の我が妻の陵辱を眺めている。

彼らの心理状態は、どう言う変化を遂げているのか?密かな私の目論みは可能なのか?

細君は身動き取れない順子に、都度都度ミネラル・ウォーターを補給する事を忘れない。

水分がないと、この過酷な輪姦は乗り越えられない。


終わってお湯割りで一服している私に細君(京香)が近寄って来た。岩代の伝言を伝えに来たのだ。

彼は、「後二〜三人代われば順子はトリップ状態になる筈だ。」と言う。

そのタイミングで、「小泉に順子を抱かせよう」と提案して来た。

それには異論は無い。

本来なら、夫婦の交わりは極自然な行為だ、ただ、「衆人看視の場」と言うのが、一般的には正常ではない。

恐らくその辺りを読んで、生島と順番を替えて来たのであろう。

彼が北斗、北辰信仰に使える「オオカミの化身」と言うなら、神掛かった何かが見えているのか?

生島に後ろからグイグイと欲棒で突かれる振動で、下を向いた順子の二つの乳房が前後に波打っている。

休む間もなく連続で訪れる男達の欲棒、そしてその都度積み重さなる快感。

生島の欲棒を受け入れた頃から、順子には明らかな変化が起きていた。

覚悟の上とは言え、当初は理屈より今までの感覚では恥らうのが普通である。増してや行き成り大人数の看視の前での輪姦(まわし)だ。

それで、最初は必死で快感を押さえようとする。

感じている所を見られるのが恥ずかしいのだ。

処が今は善がり声が大きくなり、まるで恥じらいなど感じられない。

明らかに快感の淵を漂っている。

「アッ、アッ、アッ、アッ、アー、気持ち良いィー。」

順子が快感ににのたうち、派手にのけ反(ぞ)る。

つまり、もう周囲の事など忘れるくらい、受ける快感に神経が集中している。

生島が射精を終え、岩代の番が来る頃には丁度順子が出来上がっていた。

岩代の欲棒が確りと順子の股間に生々しく嵌(はま)り込んで、岩代の黒褐色の陰茎が肉花弁を捩(よじ)りながら愛液に濡れ光って抜き挿しされ始める。

岩代が欲棒を使い始めると、順子の善がり声は割れんばかりの大声になった。

「アッ、アー、アッ、気持ち良いィー、アー、アッ、気持ち良いィー、アー、アッ、アー。」

しかし、妻の時もそうだったが、岩代の欲棒には特殊なエネルギーでも存在するのか?

順子の善がり方は強烈で、尋常ではない。

「アー、アー、アー、アー、アー。」

「来た来た。社長来ている。」

岩代の巨体がゆっくりと腰を使い、抽送を続けながら叫んでいる。

見ると、目隠しはしているが順子の表情は明らかにトリップ状態を示して居る。

「アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜、アァ〜。」

善がり声のトーンが下がり、だらしなく半開きの、すっきりした上下薄い唇の口からは涎が糸を引いて流れている。

股間から溢れる愛液も、止め処なく太腿を伝っている。

漸く順子に「極楽」が訪れているのだ。

順子は、この状態を妻の里美から聞いては居た。

何やらその無我の境地に入ると、一切の考え事が吹っ飛び、「唯々突き上げる快感に、意識が漂うだけになる。」と聞いていた。

夫の隆司との行為で、そこまで追い込まれた経験は無い。

やはり、ここまで犯らないと、極上の絶頂は得られないものなのだろう。

今その状態にあって、竹中の父と夫の小泉隆司、そして顔の見えない子供を抱いた自分が、睦(むつ)まじく暮らしているのが見えていた。

「これが、神の啓示だと言うのか?夫は立ち直り、自分との仲も修復される。」

エラの張った坊主頭の海綿体が、次々と自分の中にめり込んで来て、内壁を激しく擦(こす)り始める。

止まる事なく下半身を刺激する快感の中で、未来を見せる脳のトリップは続き、彼女の見えるものは夫の仕事場が京美企画の大ビルだと見えてきた。

それは、順子が決断したこの非日常の選択と挑戦が、正しい事を物語っている。

小泉が知っている清楚(せいそ)な順子とはまったく違う生態の知らない一人の素っ裸の雌が一匹、手の届きそうなそこで、股間に他人の欲棒を咥(くわ)え込んで、快感を貪(むさぼり)り蠢(うごめ)いていた。

人間が刹那を生きる動物なら、その刹那を愉しむ事が悪なのだろうか?

小泉は目の前で妻の痴態を見え付けられ、思い悩んだ末に「受け取り方は個人の感性の問題」と結論を出した。

受け取り方は個人の感性の問題だから唯一の考え方に絶対性を求める事自体に無理が在り、性に関する考え方にも多様性や使い分けが在っても不思議ではないと。


「極楽」に入ったからと言って、ここに居る男達が手加減をする訳ではない。

むしろ此処からの責めに意義がある。

このトリップ状態こそが呪詛の始まりなのだ。

岩代の説明によると、小泉順子の脳波から「特殊なエネルギーが放出し始めた。」と言う事だった。

岩代が「来た。」と叫んだのは、私に「小泉をよこせ」と言う合図である。

私は先ほどから私の妻にシャブられてウオームアップ充分の小泉に合図を送り、順子の下へ行かせた。

先ほどからの刺激で、小泉はやる気満々で有る。

順子の後ろへ廻るが早いか、欲棒をねじ込んで激しく腰を使い始めた。

勿論順子は、今までの継続で誰に犯されているのかはもう判らない。

夫の小泉にズンズンと突き入れられる度に小泉順子の顔が歪(ゆが)み、半開きに開けた口から「アァ、アァ。」と声が洩れ乳房がユサユサと揺れて、玉になって流れ落ちる汗も生々しい。

もう、状況が限界(オーガズム・ハイ)に達したのだから安っぽいプライドなど順子に構っては居られない。

現場の雰囲気に乗って快感の享受に集中すれば、そのうごめく順子の白い尻のクィクィと言う腰使いに渾身の切れがある。

「アーーー、アッ、アッ、アッ、アッ、気持ち良いィー、イッチャウ、イッチャウ、助けて、止らない。」

今まで、善がり声しか発しなかった順子が、初めて言葉を発した。

岩代の導きで、順子は既にイキ続ける状態になっている。

しかし、小泉はお構い無しに続行するのが「ルールだ」と知っている。

彼の腰使いは止らない。

「イク、イク、アァ、イッチャウ、イッチャウ。」

恥じらいは忘れ去れ、感覚だけに意識が集中している。

恐らく、今自分に刺激を与えているのが「夫の欲棒」などと言うのは頭の中に無い。

考えて見れば、何時(いつ)までも特定の相手と工夫(くふう)もしない定食の性交をしていては、新しさが伺えない日常のマンネリ(形式・様式主義)でした。

人間は、現実と向き合って修正しながら生きるもので、未来を見詰めて人生を切り開く為に、生き方を変えても悪くはないのではないでしょうか?
 
私(順子)は「こう言う選択肢も在る」と、貞操観念と言う社会合意の呪縛を解(と)き、思い切ってもう少し自由に羽ばたく道を選びました。

つまり、多様な相手と多様な非日常の性交を犯って見なければ、女性としての「ブラッシュアップ(磨き上げ)は望めない」と知りました。

世間にしたら、女性が貞操観念を棄てるなど大胆な選択肢かも知れないですが、選択肢を狭めれば狭めるほど平凡でささやかな人生を送る事は目に見えていました。

私(順子)本人も自分の気持ちに決定的なケリを着ける為に、「もぅ引き返せない。」と言う非日常の既成事実が必要でした。

それがマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)、露出プレィやSMプレィなど、大胆なプレィだったのです。


「アァ・・皆に見られている。恥ずかしいけど気持ちが良い・・・。」

快感に悶える私(順子)を、皆が見ています。

私(順子)の脳を、非日常の異常な状態に置かれた異様な羞恥心の興奮が刺激します。

どうせこの世は男と女、偉そうな事を言っては居ても、世の中真面目な人間ばかりとは言い切れません。

人生、物足りなさやストレスも多いから、結構スリルや夢を求め、男も女も隠れて浮気遊びはして居ます。

平凡な日々は詰まらないから、背徳の香りがする遊びのSEXは夫の小泉相手の単調なSEXと違って、行為が卑猥(ひわい)で有るほど脳を刺激し、襲いくる快感に悶絶するほどの濃厚な快楽を味合わせてくれました。

心の落とし穴は人間誰しもあるようで、現に娘のPTA仲間でも、そうした火遊びの噂やら揉め事やら、後を絶ちません。

そんな事を隠れてするくらいなら、夫婦合意で遊んだ方が「余程性質が良い」と思います。

私(順子)も人間で、破目を外したくなる事も有ります。

だから、夫の気持ちを判ってやれなかった至らなさの罪の意識も、感じて居ます。

この際、過去を全て洗い流し、生き方を変えて見るのも方法で、その為の儀式を岩代さん達の会社にしてもらう事にしたのです。

これが私達夫婦に嵌(はま)るものなら、その後は夫婦合意で遊べ、もぅ、今度のような事は起きない筈です。

あぁ、私(順子)の内壁を、欲棒のカリ首が、強烈に擦(こす)れます。

「き、気持ちが良い〜。アァ〜アァ〜。」

父に頼んでありますから、必ずこの私(順子)の姿を、夫は見ている筈です。

見て、何かを感じ取って欲しいのです。



「どうだ、気持ち良いか?」

岩代が言葉を発し始めた順子に問いかけた。

「本音をこの場に引き出し、メンバーに晒(さら)そう」と言うのか?

「アァ、イッチャウ、イッチャウ、気持ち良いぃー。」

もう、返事にならない。愛液を花弁の奥から滴らせ イキ続ける順子の本音が聞こえて来る。

これは気分の問題で、夫の目の前で犯される個人の情が絡まない事が前提の性交であれば、それは優しい性交では無く虐(いじ)め犯かされる被虐性交が、夫の小泉武司が納得するに相応(ふさわ)しい。

なまじ優しい性交などして「誓約(うけい)の性交」を勘違いして、愛を育まれても困る。

そうなると選択肢は虐(いじ)め犯される事一つで、虐(いじ)め犯され続けて順子は見るからにセックス・ハイの恍惚(こうこつ)の域に達していた。

呼応する順子の妖しげな腰使いも激しさを益して、私の予想とは違い小泉の行為は長々と続いていた。

「アァ、ダメ、アァ、イク、アッ、またイク。」

順子が気を失い、それでも小泉は行為を続けた。

彼が止めれば、次の男が替わるだけだ。

そのうちに、小泉武司の股間をくぐる様に水しぶきが噴出した。彼の腰の辺りからも噴き散らかす様にしぶきが飛んだ。

完全に緊張から解き放たれて、コントロールが利かなくなったのだろう。

順子が失禁したのだ。

放尿にも拘(かかわ)らず、小泉の腰の動きは止らない。

「アッ、アーーー、出ちゃった。アッ、アッ、アッ、アッ。」

気が付いたので、恥ずかしかったのか、順子が咄嗟(とっさ)に言った。

どうやら失禁は、妻の専売特許でもないらしい。

小泉の欲棒が生々しく出入りしている。

順子の柔らかそうに膨らんだ恥丘に自生する恥毛には、まだ雫(しずく)の小さな粒がまとわり着いて小さく光っている。

これで尚更順子は全てを晒(さら)す事に成って、今後の度胸も付くだろう。

私は竹中に小声で声を掛けた。

「つらくないですか?娘さんが陵辱されている事を正視できますか?」

「いゃ、アレは娘の姿をした菩薩だ。わしは、そう理解している。」

「現実を否定するのですか?」

「君は真実を見ていない。娘は陵辱されているんじゃない、極楽に行っておる。」

この悟り切った竹中の答えが、私の加虐性に火を付けた。

「そう言う積りなら、トコトン犯らせて貰います。」

「それで、構わん。」

竹中の心中を計りかねていたのだ。


目の前で、順子の連続絶頂状態は続いていた。

もう神懸(かみがか)り状態にあって、順子は「邪気を祓うエネルギー」を発して居るのかも知れない。

要領が判って来れば半ば「犯りこなせる」と自身も出来、最初は不安で一杯だった順子の顔も無我夢中の中で何時(いつ)の間にか緊張の表情が消えて居た。

メンバーが輪姦(まわし)に慣れが出来て来たから、流石(さすが)の容赦無い輪姦(まわし)の激しさに、順子は思わず呼応して腰を使う。

襲い来る快感に、口を開け放して凄い悶絶の形相(ぎょうそう)で輪姦(まわ)されている興奮と刺激に善がり声を発し続けて居る。

娘の順子に付いて、竹中が理解を示した訳を聞いた。

彼は、私にも納得が行くように、キチンと胸の内を語ってくれた。

流石(さすが)博識の竹中だけあって、順子のこの意思表示について、父親の感情に流されない論理的な受け止め方をしていたのである。

竹中が言うに、人間と言う動物に「何が大切か」と言うと「発想の転換である」である。

頑(かたく)なに、既存の常識を振りかざしていたのでは、自ら生き方を狭くするばかりで、けして得策ではない。

物事を柔軟に考えると、哀しいかな、動物の一種類としての人間の本能には、犬と同じに「優劣主従の関係」を欲求する心理的遺伝子が残っている。

これは群れを作る動物には必ず存在する自然本能で、後に発達した論理「人間平等精神」とは矛盾がある。

所が、人間界の建前ではその本能を無視し、「人間は平等だ」と奇麗事を言う。

そこで、その本能と建前の乖離(かいり)により、様々な問題が引き起こっている

つまり一部の人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する訳である。

所が、世間の建前は「人間は平等だ」と言う事に成って、深層心理にフラストレーションが溜まる。

このはけ口が、時として学校での虐(いじ)めや家族内虐待にむかったり、絶対権力者を求めて新興宗教の教祖に、無条件で嵌(はま)ったりする。

人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が、深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である群れ社会を、無意識に構成し様とする本能に起因するものだ。

深層心理の世界の現実として、SEXプレィに「SMの様式」が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する擬似行為として、支配欲や被支配欲を満足させる為にSMプレィは成立している。

一般的な表面社会では、このSMプレィは「汚らしい」と口汚く罵(ののし)られる存在である。

しかし、SM双方合意の上での範囲に止める行為であれば、一方的な学校での虐(いじ)めや家族内虐待と比べ、遥かに理性的である。

それにしても、人間て何だろう?

唯一理性を持つ動物であるが、その深層心理において存在する支配欲や被支配欲の本能との矛盾と、絶えず向き合って生きている。

もしかして、「優劣主従の関係」を欲求する心理的遺伝子が残っている事を、日頃の生活の内でフト気が付き、自覚させられるからこそ、逆に強く否定するのかも知れない。


「それなら貴方は、小泉さんの後を引受けて、公然と順子さんと交わる事が出来ますか?」

当初から可能性を模索していた事を、ストレートに聞いた。

「あぁ、するつもりだ。今日ではないが、小泉に抵抗感が無くなれば、わしはその積りだ。拘(こだ)わりは無い。」

竹中はキッパリと言った。

話をしている間に小泉が帰って来た。

その後釜は学生達である。

学生が取り付いて、順子の方は気を失ったままもうメチャクチャに犯られている。

十人も居るから、激しい陵辱は当分終わらない。



帰って来た小泉武司が岩代の細君(京香)と話をしている。

どうやら、不思議な体感をしたらしい。

「あれは、順子じゃない。始めて見たが、あれは観音菩薩だ。」

小泉はあんな順子は「見た事が無い。」と言う。

そこで小泉は、初めて本音を語り始めた。

この二ヶ月、彼は自分の失敗から、死とも向き合ってきた。

しかし妻は一方的に夫を責めず。

自らの非を認めて、女として変わろうとしている。

小泉はその優しさに「泣きながら順子と交わって居た。」と言うのだ。

生島喜美子が口を挟んで来た。

「私も救われました。常識的な固定観念を棄てた事に意義があるのです。」

「それに、私も気が付きました。」

「そうでしょう、棄てて初めて気が付く事も有るのですねぇ。」

「私はそれをお義父さんと順子に教わりました。こだわりって言うのは、棄てられるものですねぇ。」

「私、こだわりを棄てて、素っ裸になりました。もう恐い物無しです。」

自分の妻の言葉に、生島が頷いている。

この夫婦、本当にこれが本音だろうか・・・・?

こんな風に割り切れない処が、私の拘(こだ)わりなのか?



愛情と性交をセットにして考えるから思考や行動の範囲が狭くなるのだが、残念ながら本当の男女の仲はそんな単純なものではない。

性交好きを否定する事は天に唾するようなもので、性欲に於ける男女の仲は本人が認識していない無意識脳に於ける意識では右脳がリード(導く)するのだから、命を繋ぐ生き物としての人間の本性は性交好きで当たり前である。

「決まっている」は進歩を妨げ、脳に刺激が在って初めて脳は活性化するのだから、それを避けて何も考えないではろくな結果は得られない。

小泉順子の様に思考の壁を突き破って考えて見れば、元々元々自然界に於ける性交相手は限定的ものでは無い。

世間は独占欲を愛情だと誤魔化しているようなものだから、利口な大人なら夫婦揃っての堂々の遊びではそこを使い分ける事が大事なのだろう。

性交に対する嫌悪感も罪悪感も言わば本人の気分の問題だから、順子本人の気分が変われば何とも無い。

他人相手の遊びの性交も一度犯ってしまえば吹っ切れて、順子本人が気分良く遊びの性交の数を重ねればいずれ嫌悪感も罪悪感も麻痺して来る。

小泉順子が、望み通りに背徳の官能を身を持って知ってしまえば 、次に「また犯ろう」と声が掛かる頃には それを聞いただけで子宮をジンとさせる変身を遂げている筈である。


まだ、学生達の順子への陵辱は続いている。

意識を失いながらも、順子は時折気付いて善がり声を上げている。

見方によっては壮絶極まりないが、周りの大半は「それが救いだ」と言う。

田嶋の上に乗って腰を使っていた妻の里美が、口を挟んだ。

「一種の悟りなのです。」

「悟り・・・。なるほど。」

妻(里美)の発言に、竹中が感心して言った。

何時から、京美企画は宗教集団に成ったのか?私には疑問が残っている。

いつからか、幸せの合意を客観的に見つめる集団が出現しているのだ。

ただ、この集まりには熱気があった。

私は小泉に聞いた。

「もし、竹中が娘の順子とこの場で交わったらどうする。」

小泉武司の答えが、その本質を如実に現わして居た。

「社長のご指示なら、それは会社の行事で有って親子の問題ではないですよ。」

私は慄然(りつぜん)とした。

全てが「私に託されている」と言うのだ。

これは、理不尽な応えである。

私に覚悟がないまま、「私の判断が全てだ」と下駄を預けられて居るのだ。

これが、岩代の筋書きなのか?

それとも、予測以外の暴走が始まっているのか?

「明日は、竹中さんに犯ってもらいます。」

私は、自分の指示の有効性を確認する為に、そう宣言した。


「順子さんが疲れた様なので、少し時間を取ります。」

両手を開いて左右に縄で固定されたまま、吊るしパイプに身体を預ける様にして荒い息をしている順子を見て、細君(京香)が「そろそろ吊るしパイプから降ろして、順子さんを学生達に任せましょう。」と、声をかけて来た。

見ると、なるほど肩で荒い息をしていて、ここでは中出しはお構いなしだから、トロ〜リと粘性のある白い液体が、順子の花弁の間から滲み出て溢(あふ)れ、糸を引いて垂(た)れて生々しく太腿(ふともも)を伝わっている。


今度は拘束を解き、素っ裸のままの小泉順子を生贄(いけにえ)として輪姦(まわ)しの修羅場が始まる。

ズブリと欲棒を受け入れた自分の女陰への男達の視線を意識すると、順子はカァーと下半身が熱くなる羞恥心を覚えながら受け腰を使い、行為に没頭して行く。

次々と相手の男が変わってその度に、抜き挿しで順子の内壁を擦(こす)るカリ首の刺激が一層興奮が高まって来る。

股間が空(あ)く事の無い男達の猛攻に順子は半ばトリップ(無意識)状態で、欲棒を咥え込んだ腰を相手の抜き指しのリズムに肌から汗の玉が滲(にじ)み出るのも構わず応じている。

制御もまま成らなく開いた順子の口元からは、激しい息使いと伴に悩ましい善がり声が「アァ、アァ、アァ。」と漏(も)れ、その唇の脇からは涎(よだれ)が糸を引いて落ちて行く。

義父の竹中も夫の小泉も、順子が初めて「ヒィ〜、ヒィ〜。」と悶絶(もんぜつ)するほど輪姦(まわ)されたこの光景が、彼等の脳裏に焼き付いて離れない事に成るだろう。

次々と入れ替わる男達の欲棒で無遠慮に犯られてクィクィ抜き挿しに攻めたてられ、順子は昇り詰めさせられる度に腰を浮かし背を反らしてセックスハイ状態に到達して素の女性(おんな)を曝(さら)け出す。

恥毛に覆われた恥丘のデルタゾーン(三角地帯)の上部にポッンと敏感な花芯と縦に二枚の肉花弁、その順子の花弁の真ん中に突き挿さった欲棒の陰茎が、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光るモロに串挿しとなってエゲツ無く見え隠れししている。

順子の下半身の一点で男達と繋がった肉体(からだ)と肉体(からだ)が、抜き挿しの腰の動きに共鳴して股間から太腿(ふともも)に淫液の雫(しずく)を垂れ流しながら京美仲間のギャラリーの前で打ち震えている。

そのズブリと挿し込まれた欲棒で股間を激しく抜き挿しされる度に、順子の二枚の肉花弁が愛液に濡れ光る欲棒に巻き付き捩(よじ)れて、仲間の目に晒(さら)されながら生々しく踊っている。

その極限の快感を彷徨(さまよ)う順子の乱交光景は、強烈な映像として竹中と小泉の脳裏に残る事だろう。


「十分したら、皆で舞台にマットを敷いて順子を転がし、お前らが満足するまで好きにしろ。」と、岩代が、学生達に命じた。

それが、これから起こるノンストップ陵辱劇の助走だった。

「押忍、押忍、押忍、押忍、」

学生達が、一斉に立ち上がった。

「良ぉ〜し、ては抜くなよ」

細君の指示で、「アッ」と言う間にマットが敷かれ、手際良く順子が吊るしパイプから降ろされ、改めて後ろ手に縛り上げられた。

順子は、「後ろ手拘束に目隠しアイマスク」と言う逆らえない姿で、舞台上に転がっている。

細君(京香)が「皆で犯って良いわよ。」と、一言声をかけた。

その直後には、舞台上の学生がパンツを脱ぎ捨て、順子に襲い掛かった。

京香の一声で、順子はマルチSEX(複数性交)からマルチタスクSEX(同時実行性交)へと持ち込まれて、その性交形態を移行されて行く。

マルチSEX(複数性交)は相手を次々に代える性交行為だが、マルチタスクSEX(同時実行性交)は同時に複数が絡む性交行為で、依り刺激的なシチュエーション(状態/情況)を演出できる行為である。

拘束を解かれ学生達の輪姦の生け贄となった順子は、一度に三人の学生に同時に襲われて、手加減など無いメチャクチャな修羅場に成った。

囲う様にソフアーを配置した周りのメンバーには良い見せ物で、一時視線は順子の奮闘に集中した。

何しろ体力が有り余っている体格の良い体育寮の学生達が相手で、順子の目隠し後ろ手拘束の肉体を軽々と操って、好きな体位を強いる。

一人の学生は横たわって騎上位に順子を腹の上に乗せ、花弁を押し広げて欲棒を股間に捻じ込み、乳房も荒々しく揉みしだき、貫抜いた欲棒を下から突き上げる様に腰を上下して、抽送を繰り返している。

「アァー、アァー、アア、アアアアッ、気持ち良いィー 」

順子も善がり声を上げながら腰を上下して応戦し、汗がしぶきに成って飛び散っている。

その善がり声が、直ぐに無理やり隙間から漏れる様な、くぐもった声に変わる。

もう一人の学生が、下から突き上げている学生を仁王立ちに跨ぎ、欲棒を順子の口に咥(くわ)えさせて両手で頭を掴み、腰を前後して激しく抜き挿ししている。

顎(あご)を緩(ゆる)めて欲棒を受け入れた順子の唇は、暴れる欲棒を必死で包み込んで、「チュパ、チュパ」と音を立てている。

その欲棒が、時折喉の奥まで到達すると見えて、「ウゴ」と漏らし、苦しいのか、目隠しの淵から頬に涙が数適こぼれ伝っている。

「ズブ、ズブ」と下半身から突き上げて来る快感と、「アグ、アグ」と苦しく陵辱される口の刺激に翻弄されて、順子の思考回路が解けて行く。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」

残りの学生には、騎上位の背後から小ぶりだが型の良い乳房を、荒々しく揉みしだかれて、その指の間から興奮に硬くなった乳首が指に挟まれて覗いている。

所在無さ気にそれを見ていた別の学生は、思い付いて、下から欲棒に貫かれ抽送を繰り返している順子の股間に手を遣り、指先で花芯ボタンを嬲(なぶ)りだした。

そこから学生達は、様々な体勢の陵辱を試みながら犯し続け、学生達の位置が入れ替わる変遷を経て、今は横たわった学生の欲棒を前屈みに咥(くわ)えながら、膝を揃えて尻を突き上げる格好を取らされている。

後ろから別の学生に尻肉の双丘を掴み広げられ、欲棒を捻じ込まれてパンパンと肉が当たる音が聞こえるほど激しい抽送を受け入れて、周囲に汗が飛び散っている。

外れた学生は横合いから手を伸ばし、乳房を掴んで揉みしだいている。

熱気を帯びた複数の肉体(からだ)が激しく縺(もつ)れ合って、その運動量に、皆一様に肌が玉の汗で光っている。

輪姦(まわし)が始まってしまえば、泣こうが喚(わめ)こうが参加者全員を満足させるまでは順子の肉体(からだ)を離す事は無い。

正直、順子にとっては感情込めた性交では無いから、次々と襲って来る男達は生身の大人の玩具(おとなのおもちゃ)みたいなもので、互いに愛だ恋だの感情の発露などは無い。

順子の気分も、こうなると大きなスポーツ試合に奮闘しているアスリート気分で、性交も一種の勝負である。

まだ連続性交へ若干の抵抗心が残る輪姦プレィの出だしはともかく、犯り出して感じ始めて来れば女性の性体感は現金なものである。

順子も、次々と入れ替わる男達の欲棒を咥(くわ)え込んだ腰を浮かせ、口をパクつかせて善がり声を挙げ、涎(よだれ)を垂(た)らしながらリズム良く尻を振る。

その振られる尻の股間で抜き挿しされる肉花弁と欲棒の隙間から、もう何人分かの溜まった愛液が、押し出されて順子の白い太腿(ふともも)を伝い滴(したた)って床に落ちている。

この輪姦(まわし)で良い様に弄(もてあそ)ばれ、嬲(なぶ)られてメチャメチャに犯られるのを体験すると、その快感に溺れない方が不思議なくらいの威力がある。

その快感体験で順子が、今までとは違う考え方を遊びの性交に対してしても、それは自然な反応かも知れない。

元々このお愉しみのメインイベントを仕掛けたのは順子本人で、夫の小泉は半ばそれ(輪姦)を承諾(しょうだく)した様なものである。

そうなると、どんなに卑猥(ひわい)な姿で性交に応じようが、夫の小泉に嫉妬される謂(いわ)れも無い。

順子の愛液に濡れる二枚の肉花弁の間で、善がり声とリズム良い腰の動きと伴に濡れ光る陰茎が、順子内壁・海綿体の粘膜を刺激的に擦(こす)りながら見え隠れしている。

始まってしまえば順子も生身の女性で、股間を貫いた欲棒が生々しく抜き挿しされれば、相手の如何(いかん)に囚われず終わらない快感がある。

だから、次々と入れ替わる相手に貫かれて受け腰を使い、女性の素(す)も露(あらわ)に性交快感を味わい、貪欲(どんよく)にイキ続けて見せるしかない。

順子の口からは、「アァー、アァー、アア、アァー、アァー、アア、」と、最早(もはや)慎みを忘れた「ギャーギャー」に近い善がり声が、続いている。

「アァー、気持ち良いィー、アァー、アゥ、イク、イク、ヒー、イク、アァー。」

学生達の終わりがない全身陵辱に、順子は止め処も無く「イキ」続けて、善がり汁を滴(したた)らせ、半開きの口から涎(よだれ)さえ流して、快感の中でのた打って居たが、突然「ガクッ」と失神した。

勿論京美流では、気絶したからと言って陵辱は止まらない。

「だらり」と力なく身を横たえた順子の股間には、おかまいなしに太い欲棒が出入りしている

「あぁ、堪らない・・ウッ。」

順子を攻めていた学生が達して、うめき声をもらし、欲棒を引き抜いて身体を外した。

一人が果てると、失神して長々と伸びている順子に次の学生が取り付き、脚を広げて花弁の隙間にカリ首を宛がい、腰を入れて欲棒を貫いた。

欲棒が収まると、再び容赦ない抽送が始まり、学生が突く度に、順子の身体がガツン、ガツンと波打って見える。

その状態が二人ほど続き、失神していた順子が息を吹き返した。

「アァー、アァー、アァー、き、気持ち良いィー、アッ、アッ、アッ、アッ。」

ディープ(深く嵌り込む様)なコレクティブセックスプレィ(集団乱交)を犯ってしまえば、もう後戻りは出来ない。

小泉夫婦は結局一から出直しするのだから、その覚悟を順子は素っ裸に成って体現化してしまう事である。

学生に覆い被(かぶ)さった順子の白い尻が、欲棒を咥(くわ)え込んだままそれを基点軸に恥丘を擦(こす)るように乳首が立った乳房を揺らしながら回転運動をし、女としての素(す)を出て快感を貪(むさぼ)っている。

再び恍惚の表情を浮かべて順子が、顎(あご)を突き上げて善がり声を上げ始め、顔に恍惚の表情を浮かべている。

その犯られる相手が人数を重ねると、順子の裸身もその夢中の激しい腰使いに乳房の辺りから赤味を帯びて興奮と快感で体温が上がっているのが判る。

順子の心に巣食って居た憑(つ)き物が落ちて、目から鱗が取れた思いかも知れない。

高性能SEXマシーンに生まれ変わり、痴女を見事に演じている。

「アゥーウ、アッ、アッ、気持ち良いィー、アゥーウ、アッ、アッ。」

順子は股間から愛液を溢れさせ、涎を垂らしながら岩代の腰の動きに合わせて、うわ言の様に「気持ち良い、気持ち良い。」を連呼し、善がり狂っている。

エンジン全開の学生達の勢いで激しく股間を突っ付き上げられ、順子は襲い来る快感に顔を歪(ゆが)め、吼(ほえ)えるように口を開け放し、硬く勃起した乳首の乳房を波打たせて激しい受け腰使い、その興奮と刺激に善がり声を発し続ける。

どうせ犯るのであれば、確かにこう言う事は相手が特定できない乱交の方が遥かに夫婦に取って嫉妬とは無縁である。

他人の欲棒を無遠慮に挿し込まれて抜き挿しされ、善がり声を上げながら股間から愛液を滴(したた)らせて受け腰を使っている所を見られてしまえば、順子にもうこれ以上何も隠すものは無いし、今の相手が「誰なの?」と構っても居られない。

始まってしまった輪姦(まわし)は止められない。

だから、順子は顔を歪(ゆが)め、快感に凄い形相(ぎょうそう)で口をパク付かせ、涎(よだれ)を垂れ流し、乳房を波打たせて、悶絶しそうな究極の輪姦(まわし)責めに、善がりながら腰を使い続けていたのである。

また一人果て、入れ替わった学生が、順子をマングリ返しにして、顔を跨ぐ様に抽入を果たし、抜き挿しし始めた。

順子の強引に広げられ、モジャモジャと恥毛を蓄えた恥丘の下部、肉感的な両の太腿(ふともも)の付け根に、妖しい二枚の肉花弁がバランス良く開き気味に咲いて、欲棒が突き刺さっている。

そのモロ挿しの欲棒が生々しく出入りする根元に、別の学生が覗き込む様にしゃがんで口を近付けた。

一瞬順子に、困惑の表情が走る。

「どれどれ。」亭主の小泉が、順子の下にしゃがみこんだ。

見ると、マングリ返しに拘束されたの尻肉の双丘は、一人の学生に荒々しく掴み広げられ、舌先を菊座に入れられている。

「へ、変な感じィー、アッ、気持ち良いィー。」

順子が学生達に輪姦(まわ)されるのを見ていて、フト、思った。

これが普通に成れば、世間はどうなるのだろう。

そんな世界は存在しない。

あくまでも、バブル・バーチャルの世界である。

正味、珍しいから、物語にも儲けの種にもなるのである。

つまり、恥じをかいて「なんぼ」、自分を捨てて「なんぼ」がこの浮世で、何も捨てなくて「何とか成る」と思っているのは大いなる幻想に他ならない。

善悪はともかく、この幻想をリアルに捕らえた者だけに、このバブル時代に稼ぐ資格があったのである。

その、当時の条件が合意として存在し、夢物語がリアルなものになるのが、実は世間なのである。

順子への、学生の陵辱は続いていたが、明日は目隠しをして竹中に近親相姦を強いる積りだ。


輪姦(まわし)にしろSMプレィにしろ、「とんでもない事」と想っているのは未経験だからで、一度経験するとその快感体験から味を占める女性は案外多い。

イク状況に昇り詰めたままの性交が続けば、順子にSEXハイ状態が続いて脳内麻薬ベーターエンドロフィンが脳内に発生され、一種の超快感状態に成る。

現に順子は連続する性交で、カリ首のエラの海綿体が感度良く内壁を擦(こす)る抜き挿し攻撃に、脳みそがトロケ出して居た。

肉体の中心を貫かれたまま、順子の股間に生々しく抜き挿しされるリズム良く激しい欲棒のピストン運動に、順子は快感に顔を歪ませながら左右に嫌々をしている。

その順子の反応にも構わず入れ替わり攻め立てる淫茎は、抜き状態では濡れ光り見え挿し状態では根元近くまで中に達しているのが見て取れる。

過酷な状況に在って、順子も既に限界は過ぎて居るかも知れないが、此処はもぅ意地と根性で頑張り、歯を食い縛って快感に耐えながら受け腰応戦をしている。

理屈では「そんな恥ずかしい事を・・良く犯るよ」と想うかも知れないが、現場の空気を感じれば一方的にそれを壊す度胸は順子には無い。

気取って自分大事に何も犯らない女性より、這い上がる為には「あほな遊び」をさわやかに犯れる女性の方が男性に取っては遥かに魅力的で、これは妥協では無く工夫である。

そして避けられない性交遊びであれば、全員を満足させる到達点に到るまでは順子は愉しみながら犯って見せるしかない。

正直言うと、公開性交を犯ってしまった順子はおシャブリも腰使いも上手く犯って相手を満足させたのだから、内心結構満足が行く出来(デキ)だった。

他人前(ひとまえ)素っ裸で此処まで激しく犯らされれば上出来(ジョウデキ)で、禁断の露出公開性交だからこそ順子の脳みそは羞恥心で、心地良く溶けそうだった。


亭主と男達が互いに顔見知りでの輪姦ゲームだからこそ、そのマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)・イベントは面白い。

そして輪姦(まわさ)れる順子の方は、日常生活を忘れさせる非日常の性交を体験し、暫く忘れていた「女」を取り戻す。

順子は、その生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインだから、考えように拠っては男達に傅(かしず)かれた女王様である。

これは小泉順子の希望だが、京美企画のメンバーが順子を寄って集(たか)って犯し、女としての性感ブラッシュアップ(磨き上げ)して犯る事に成る。

つまりこの場でのマルチSEX(複数性交)は、順子が自ら望んだ愛奴隷調教する為のエキシビション(公開実演、模範試合)なのである。

危険な賭けかもしれないが、岩代の思惑など無視してこの暴挙をリードしてみよう。
密かに、先の心積りは考えている。

まだ、小泉順子には二日の日程も残っている。



(父と娘の絆)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十三話(父と娘の絆)


そりゃあ、人間色々な事を考える。

しかし、物は考え様である。

幼い頃からの倫理観で、多少性倫理的には後ろめたさは残っているが、考えてみたら企業のモラルなんて、「バレなきゃ儲けもの」みたいなところが有って、人命に関わる不祥事隠しや違法行為も、案外自分達の保身論理でやっている。

その伝で行けば、岩代の提唱する乱倫同志経営も、肉体奉仕の接待もまだ益しな方で、犯罪にさえ成らなかったら、他人がやらない事で夢をかなえる分には「やったもの勝ち」である。

内の奴(里美)にしたところで、いざ独立話しに成ると、世間の接待など「その程度に倫理観に欠けるものかも知れない」と簡単に理解した。

こうした「乱倫性交」を実践して居れば、世間は色々批判するだろうが、「悔しかったら自分で犯って見ろ」である。

そもそも、性に開放的な女性を「嫌らしい」とか「だらしない」と攻撃する女性の根底に在るのは倫理観よりも防衛本能で、綺麗事を言っている様でも本音は自分がその「平穏な生活を脅かされる」と言う存在の不安が張ったバリャーみたいなものである。

第一「私にはとても出来ない」と言うが、本音は自分が主体で「私は嫌、絶対に犯らない」である。

つまり自分が犯りたくない事を、性に開放的な女性に犯られて比較されるのが迷惑だから、それを「綺麗事で誤魔化す」に過ぎない。

京美企画の乱倫同志経営は、確かに社会合意には到らないだろう。

しかし自分と違う感性を、考慮も無しに攻撃する事は、その人間に巣食う卑しい「独善的な独裁心」と言うものである。

つまり、口を突いて出る「私にはとても出来ない。」ではなく、「私は絶対に犯りたくない。」が本音で、全て自分独自の感性が、「判断基準」と言って良いのである。

この微妙な言い回しの「私にはとても出来ない。」が選択される深層心理には、本当は「その気に成れば出来るんじゃないか」と言う思いが、密かに有るからである。

現実には、我侭(わがまま)の発露である事を本能的に知っていて、「それを隠そう」と言う心理が伺える。

つまり人間の感性は幾通りもあり、答えも一つではない。

状況や条件が違えば、「私は絶対に犯りたくない。」も、本人の「独善的な独裁心」が発揮されて変わるのが人間の感性なのである。

しかし妻は、接待奉仕と引き換えに益々良い女に成って行く。

これは疑いの無い事実で、本人もそれを自覚していて、「もしかしたら、ゲストの皆さんに磨かれているのかしら?」などと、不用意に口に出したりする。

今まで散々私の要求をかわして来て、いざ自分が気持ちを変えたら途端にその言い草は無いだろう。


竹中は、開所祈願のオーガズム(絶頂)パワーエネルギーで、このビルに結界を張った事が「事業々績を伸ばしている」と言うが、私に言わせれば、単に女体を餌に「有利に取引をして居るに過ぎない」とも言える。

いや、まともな人間ならそう分析して当然である。

それを、博識の竹中が信じている所が、腑に落ちない。

だが、娘の順子まで巻き込むからには、本気に違いない。

「夫婦間の貞操」と言う重みから開放されて、随分楽に成ったのは私達夫婦だけではなかった様である。



三時間を経過する頃になると、全体が終焉ムードに包まれ始めた。
開所式ではないので、明日、明後日の事も考えるとこの辺りが、限度なのだろう。

身動きが出来ない拘束状態での輪姦(まわし)で、順子は止まる事のない様な連続アクメ(絶頂感)で脳みそが疲れるくらいの官能感を味わい、心地良い肉体(からだの)の虚脱感を味わって、漸(ようや)く順子は一日目の陵辱の終わりを迎えた。

全てが終わる前に竹中と小泉は帰宅したが、ま、順子にその存在は知らせない。

小泉順子は拘束を解かれ、今は晴れやかな顔をしている。

ある種の達成感と、この所の家庭のゴタゴタから吹っ切れて、気分が楽になったのだろう。

学生達を帰し、順子をソファーに休ませ、私と岩代、田嶋や生島が、妻の里美、京香、喜美子で飲みながらの乱交になった。

先ほど来の呪詛陵辱が余程きつかったのか、順子は少し虚ろな雰囲気で目の前で繰り広げられる乱交に目を遣っていた。

何故かこのメンバーが、確実に増えて行く。

岩代はこの「先何を目指している」と言うのか?このメンバーはこれからも増えるのか?

確かに理屈の上では、他の企業より幹部の結びつきは強い。

しかし、この結びつきは「常識的にはイレギラー」と言える。

それが吸い寄せられるように増えてくるのだ。岩代に言わせると、その増殖じたいが、「気の効力だ」と言うのだ。



小泉順子の志願調教の話と平行して、京美企画では取引がひとつ進行していた。

見つけて来たのは喜美子の夫の生島で、昔湘南に別荘を持っていた老夫婦が、千葉の海岸で、「サーフボード・ショップを経営したい」と言う息子の意見で「手放す気に成った」と言うのだ。

その物件は、新宿東口から五百メートルほど西に行った所で古いビル街のひとつだった。

四階建ての古いビルには、たいした不動産価値はないが、場所と三十坪と言う土地の広さは魅力だった。

どうやら生島は、以前から有ったこの話を、個人経営の時は資金不足で手をこまねいていたらしい。

場所が場所だけに、安くて坪二千万円はするからザット六億円は下らない。

京美企画としても、当時それだけの金額を都合するのは目一杯だったが、幸い購入希望者が現れて、手金の一億円を払い、後は購入希望者の入金を待って支払った。

ほとんど通過しただけの取引だが、「利殖の為に買った」と言う不動産取引には素人の食品会社は、七億円を支払った。

食品会社としては相場より少し高いが、当時は先の値上がりが見込め、多少の割高は容認されていた。

この食品会社相手の取引、「食品会社の開発担当者二人」は、細君(京香)と喜美子の接待で、随分と良い思いをしたらしいが、私は現場に立ち会っていないので、詳細は判らない。

ともかく開発担当者二人は生島の案内で出かけ、接待奉仕を済ませた後、二人とも上機嫌で京美企画に帰って来てプレィルームで細君(京香)と喜美子に欲棒を咥(くわ)えさせながら書類に押印をして帰って行った。

実はこの取引、例の中沢が在籍していた大手デベロッパーが一枚噛んでいたのだが、中沢の後任者には、箱根の竹中の別荘を借りて喜美子がタップリと接待奉仕をした様で、話は順調に推移している。



この取引の頃から、私は誰かに見張られている気がし始めていた。

確証は無い。

「気のせいだ」とすると、妻達に接待をさせて仕事を有利にする手法に後ろ暗さが有ったからかも知れない。

この気配が、ある組織の「現実のものだった」と知るのは、この時点では、まだズーット先の事である。


翌日の昼間、私は竹中と二階の事務所に居た。

後ほど明らかにするが、事情があって父親の愛に薄かった私には今では竹中に父親のような感情が湧いていた。

事業のパートナーとして付き合い始めて以来、何かにつけ、教わる事も多い。

それに、肉体的な行為を共有しての精神的親密度は、唯の信頼関係とは比べ物に成らない。

妻と順子は子供を連れて買い物に出かけている。

デパートの屋上で「子供達を遊ばせる」と出かけた。

生島夫婦は一度自宅に帰るとして、小田原へ出かけた。

何食わぬ顔をして、竹中が遣って来た。

「社長、今日このビルの周り確かめた。このビルは値段で選んだのではない。岩代君は間違いなく結界を張っている。」

「結界ですか?何とまぁ謎めいた・・・・」

「あぁ、理想的な風水の取り入れ方だ。」

「このビルが風水の結界・・・?。」

「風水も陰陽師の呪詛の一つだ。」

本来、風水は中華思想に基づいた皇帝の為の学問で有る。

元を正せば、支配者の住居の選定の為の自然を考慮した環境学、健康学、と言う観点からの立地工学だった。

その心理的安心感が、少しずつ支配を司る為の呪術信仰に近い物に大成して行く。

つまり、風水は皇帝とその都を守る為の壮大な呪詛の仕掛けを構築する事に有る。

支配者の住居であるから、守りの地形が必要で、「三方を高い山並みで囲まれ、前方に広い平野と川で守られる所」と言う事に成る。

その奥深い所が、「気」の集まる「龍穴」である。

風水理論は「気」によって自然界の形は出来上がっている。

気が吉ならば必ず秀潤、卓抜、端正であり、凶ならば、形は必ず粗雑、傾斜、破砕といった姿をとる。

この「気」の流れを整える為に、鬼門を鎮(しず)める。

つまり鬼門に祈りの場を造営する。

「つまり・・・、このビルは気を集める龍穴に当っている。」

「それで、人が集まって来るのかなぁ?」

「人だけじゃない、金も集まる。それより社長、岩代の考えではあんたが皇帝だ。」

「私が、皇帝・・・・とんでもない。私には何の力も無い。」

「力は周りが与える物じゃ。どんな権力者も自分では無力な個人じゃろう。」

「それなら、担ぐ人選を間違えている。」

「それは違う、奥さんが変身した時点で、唯の凡人から強力な呪詛エネルギーを蓄え始めた男になりつつある。」

「そう言えば、色々と自信が湧いてきたけれど。」

「つまり、その女達の呪詛エネルギーがこれからも社長に集中するシステムを岩代は構築した。」

古代都市の宮殿などは、みんな「龍穴」と言うエネルギースポットに建てられている。

このエネルギースポットの場所は三方を山脈に囲まれて風を制御出来、平地には豊かな水に恵まれている。

つまり、風水を当て嵌(は)めなくても、都市を建設するには「うってつけ」の場所なのである。

その立地が、抽象的な「気」と自然環境における「具体的な形態」との関係を示している。

従って、深く真剣に自然の形態を観察しさえすれば、気の吉凶順逆を知る事が出来る。

それによって建築物の禍福を推測し、良地を選び出せるのである。

「すると鬼門に付いても彼は手を打っているのかな。」

「あぁ、この間岩代君たちが引っ越した家、確かめたらきっちり南西の方位・裏鬼門に当っていた。」

「そうなのですか、計算ずくと言う事ですか。」

「多分岩代が捜している次の君達の家が、鬼門の押さえの位置を考えている筈だ。」

「なるほど、それで引っ越したばかりなのにもっと良い家を捜すと言っているのか。」

「一見行き当たりばったりのように見えるが、彼の眼力は確かだし、きちんと筋が通っている。君も、信じて見たらどうだ。」

風水の形法は自然を観察し、自然を理解することを重視する。

この理論自体は、実際の調査考察の結果から生み出されたものが多く、きわめて合理的なものを含んでいる。

江戸の場合は、一般に天海僧正が風水学を用いて「鬼門を寛永寺で押さえ、裏鬼門を増上寺で押さえた」とされている。

江戸は基本的に京都を手本にして風水を設計したはずである。

こうした考え方が、裏御返せば寺社造営の理由や、その建築物に魂を入れる裏付けになって行った。

「基本的には自然教が全ての元に成っている。」

「その意味ではこれだけ科学社会になればこそ、人が自然に生きる事に救いの意義が出て来る。」

「そうそう、だから性行為のエネルギーが全てのパワーになる。」

「どうも岩代は女性の快感脳波エネルギーを呪詛のパワーにしているようですが?」

「密教の基本が菩薩だから、菩薩が導かねば効果が無い。いや、菩薩の脳波エネルギーが必要なのではないか。」

「すると娘さんは、菩薩開眼の呪詛をしている。と言う事ですね。」

「そう言う事だろう。わしはもう浮世の拘(こだわ)りは棄てて、見守っている。武司も同じだろう。」

「世間の常識には囚われない。」

「あぁ、いずれにしろ、愛に定型は無い。と言う事だ。そして、社長の奥さんも同様だがどの夫婦も夫を愛している事には代わりが無い。それとSEX行為を切り離して別に位置付けた。」

「愛とSEXは私も分けて考えられます。そこを分けないから独占欲やら嫉妬が生まれる。」

「もう少し前向きに考えると、SEXは必要に応じてするものだ。」

「必要に応じるですか?」

「あぁ、目的は色々あっても良いでは無いか。種の保存、コミニケーション、ストレス解消、何かの区切りや切欠。生きて行く為必要な行為。」

密会でSEXをすれば不倫である。しかし多数を一度に相手にするのは、愛と言う精神を伴うものではない。

したがって、浮気とは意味合いが違う。

「そうですね、独占欲絡みの愛を混ぜるから、家庭が壊れてややこしくなる。」

「愛とSEXをまったく別物と理解して、必要なら夫婦で共に楽しめば、反って日頃の鬱積(うっぷん)逃(の)がし場所になる。」

「その辺までは、私もチョットした刺激的気分転換みたいなものだったけれど、それが、今じゃあ竹中さんに皇帝だと言われるし。」

「まぁ、そう斜(ハス)に構えないで・・・・京美企画は、でかい事業になりますよ。」

「まだ仲間が集まって来ると言うのですか。」

「人と言うより、事業規模が大きくなりそうですな。」

「実感が湧きませんが、そんなに何時までも上手く続きますか?」

「信じて、信じて。今夜も小泉と二人、ドアの外で待っているから。」

竹中は自分で調べて確信を持っているのだろう、既成概念を棄ててこの事態を前向きに考えている。

目的は判らないが、岩代はこの連休も出歩いて、何らかの画策をしている。

彼の場合は、出来上がってから報告するので、何を動いているのかまるで想像は付かない。

細君を伴う事あるので、それなりの仕事も進めているのかもしれない。

岩代は、「生島と小泉が戦力に成り出したら指揮を執ってくれ」と言う。

私は、小泉夫婦を仲間に入れるこの催しを、今夜と明日でこなす以外に目先の遣る事が無い。


人間とは不思議な生き物です。

女性が「か弱い」のは瞬発的腕力だけで、持久力や精神力はむしろ男性に勝るのです。

神が与えた能力として、本当は女体の方が遥かに快感を得るし、それが永続します。

だからこそ、深層心理はもっと自由であるべきで、ジェラシー(嫉妬)は、生活の味付け位がちょうど良いのです。

本気になっては洒落になりません。

生物学者ダーウィンは、「環境に於いて生物は進化する」と言います。

「KIYOUBI(京美)」に於ける女達は、酷く現実的な極小の宇宙の中で、進化して居るのかも知れません。

経験して見て判るのですが、学ぶべき事は沢山有ります。

人間は「知性・理性」に自惚(うぬぼ)れて、自分が「本能」を持つている事に「理性」で蓋(ふた)をして「誤魔化そう」と、無理をしています。

本来、犯罪に成らなければ、猥褻(わいせつ)だって人間の尊厳の内です。

だから「本能」の存在を認めた上で、それと「どう付き合うか」が、人間の課題だと思います。

「本能」は肉体愛(性欲)です。それは夫婦間において、本当はさして拘(こだわ)る必要のないものです。

愛情と性欲を分けて考えれば全てが上手く行くものを、混同しているのが人間です。

そこを拘(こだわ)れば互いに狭い範囲に束縛され、揉め事になるか、酷く窮屈な人生送る結果に成ります。

人が生きて行くに必要な事は、「考え方の転換」なのです。

人の付き合いの中で愛情と性欲を分けて考える事が出来れば、自他共に通用する思考に成れる筈です。

私達夫婦は、精神的な愛情さえ確りしていれば、肉体愛(独占欲)には拘(こだわ)らない事を学びました。

つまり、肉体愛(独占欲)の拘(こだわ)りから脱して、「精神愛が本質」と定義つけた生き方が、理想の夫婦仲の姿なのです。

精神的な愛情を「独占欲」と混同するから、世の中は複雑になるのです。

私(里美)、肉体の性行為は分けて考えています。

夫への変わらぬ愛情は、私(里美)、ずうっと持ち続けています。

私(里美)は美しい女神(愛奴隷)として、ゲスト様相手にメチャメチャに弄(もてあそ)ばれます。お相手は、自分の欲望を満足させる事のみを考えていますから、淫乱な遊びをする事に容赦はありません。

それでも不思議な心理が働くもので、どうせお相手をするのなら、相手に喜ばれ無ければ詰まりません。

その気持ちから、自分の肉体を駆使して、一生懸命にゲスト様に尽くす事が悪い事でしょうか?

それは、「他人に言えないような事をして居る」と言う意識はあります。何しろ素っ裸でゲスト様に引き渡され、淫逆の限りを尽くして奉仕するのですから、世間の目から見れば、「非常識極まりない考えの女性だ」とは思います。

でも、それを批判する方達は、頭の中で「非常識」と考えているだけで、経験から導き出した答えではないのです。

経験した私(里美)が、「他の答えを出したから」と言って、経験した事も無い方が、非難するのは無責任ではありませんか?

私(里美)は、全身汗まみれの奮闘をして、疲れ果てます。不思議な事に、それが心地良い達成感を感じるのです。

それで、建前で否定し、心の奥底に眠っていた本音、強いM性が、本能として暴き出されたのです。




愛奴隷の立場では、例え素っ裸で他人前に曳き出されても、順子に集まる視線に平然と気品在る好い女に躾(しつ)けられなければならない。

そして愛奴隷の順子は、生贄(いけにえ)として官能的に淫(みだ)らに、遊びの性交で腰が抜けるほど犯られ尽くさなければ成らないのだ。


昨夜同様、九時から九時半には予定のメンバーが集まって、もう勝手に飲み始めている。

私は密かに心に期す処が有る。今日こそ竹中に、目隠しした娘と犯らせる事が出来るかどうかである。

もうこの場のルールにすっかり定着しているのか、岩代の細君と生島夫人は直ぐに身ぐるみを剥(は)がされてしまう。

素っ裸の女二人に遠巻きの学生達を除いても私、岩代、田嶋、生島と、他人も亭主も無い此処ではどうしても女の方が忙しい。

それにしても、岩代の細君(京香)は謎の女性だ。

私に対して、余分な事は未だに言わない。

存在感を示しながら、何時の間にか総体をリードしている。

それでいて見事に調和していて出過ぎない。


妻が三階から順子を伴って降りて来た。

白い肌の小泉順子の全裸体がスポットライトに捉えられ、首に昨日と同じ皮の犬首輪がされてモデル歩きで妻にリードチェンで曳かれて入場して来た。

今日は最初から二人とも全裸だった。

舞台正面まで伴って、「今夜も私をお好きにしてください。」と、正座で挨拶をさせた。

これで、順子には気持ちの上でも逃げ道はなくなる。

この辺りは妻の演出とは思えない。

多分細君のアドバイスだろう。

妻が素っ裸の小泉順子を設(しつら)えてある舞台に曳き出すと、岩代が舞台に上がってもっともSMの基本形の一つである半吊り責めの支度に入り、順子に縄を巻き始める。

順子はやや困惑気味の表情をしながらも、岩代の為すままに動いて素直に拘束されて行く。

全裸拘束プレィは儀式みたいなもので、精神的に性的要求に百パーセント服従を体現するのがこのSMの半吊り格好である。

全裸の順子を、縄で手首を後ろ手に縛(しば)い、その縄を首に一回りさせて縛(しば)いた手首を上にガッチリ引き絞(しぼ)る。

もう一本縄を取り出して縛(しば)いた手首に結び、絞(しぼ)りながら二の腕にめり込む様に乳首が立った柔らかそうな乳房の上下に間を空けて二巻(ふたま)き肉体(からだ)に巻く。

二巻(ふたま)き巻いた後、乳房の周囲を絞(しぼ)って亀甲形に縛(しば)き、順子にやや脚を開かせて踏ん張らせ、そこから半吊りの体制に入る準備をする。

順子に上半身を前に水平に倒させて、尻腰を後ろに突き出した前屈(まえかが)みの形にさせ踏ん張らせ、お椀型の乳房が下を向いている。

天井から垂れ下がった縄で後ろ手に縛(しば)いた順子の腕の結び目を結(ゆ)わえ、脚のつま先が床に届く様に縄丈(なわたけ)を調節し、半吊りに吊る。

脚を開いて踏ん張らせているから、順子の尻の双肉も、その内側の恥ずかしそうな菊蕾も、そして二枚の肉花弁もお弄(なぶ)り自由に開放されている。

岩代は手馴れているから、僅(わず)か二〜三分で順子をこの格好に仕上げてしまう。

順子は、SMの遊び心タップリに全く身動きが取れない半吊り状態で、この形の半吊り縛(しば)きなら床に不安定に、順子の脚のつま先が着いている。

これなら一人が順子の前に立っておシャブリをさせながら、もう一人が後ろから抽入しての三人プレィも可能である。


妻は順子に目隠しをさせると、田嶋を手招きし順子の前に立せて彼の欲棒を咥(くわ)えさせた。

順子はユックリと田嶋の欲棒を口で愛で始めた。

ここまで来れば、人数が増えても目隠しした順子には判らない

私は順子の目隠しを確認すると、ドアに走り寄り、外で待っていた竹中と小泉を招き入れた。

そして彼らに囁(ささや)いた。

「田嶋さんの後には竹中さんが続いて下さい。」

順子は、知らずに父親の欲棒をシャブらされる事になる。
二人は黙って頷いた。

舞台上では、全裸の順子が上半身を前後させて口で必死に田嶋の欲棒を扱(しご)いている。

一方で順子の後ろに廻った岩代の利き腕が、順子の尻に触(ふ)れて手の平が尻肉を撫(な)で廻し、指先がモソモソと菊座の穴や二枚の肉花弁の間に潜(もぐ)り込んで弄(なぶ)り廻している。

その岩代の弄(なぶ)りに、順子は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも身を捩(よじ)って避けもせず、股間を広げてのお愉しみに為すがままに耐えている。


竹中はその足で舞台に上がり、田嶋がシャブらせ終わり岩代が順子を弄(なぶ)り終わるのを待っている。

その顔に躊躇(とまど)いは無い。

「アッ」田嶋が声を上げて終わった事を告げた。

「だめ、飲み込んで。」

細君(京香)の鋭い声が飛んだ。

順子には、次の欲棒が誰の物かは判らない。

もう彼女の唇に「今度はこれだ。」と次の欲棒のカリ首が、生々しく擦(こす)り付けられている。

生け贄志願の順子は、指示された事は、躊躇(ためら)い無く実行する。

漸く「ゴクリ。」と田嶋の発射したものを飲み込むと、口に触れた次の(竹中の)欲棒を躊躇(とまど)いなく咥えて、唇で扱(しご)き出した。

目隠しをして、後ろ手に縛られているから、鼻先に触れて、唇に当った欲棒のカリ首を舌と唇を使って所在を確かめ、「パクリ」と咥(くわ)える作業を必死でするしかない。

従って、相手の事など誰であろうと考えては居ない。

しかし口元に突き出され順子が咥(くわ)えたのは、間違いなく父親のそそり立つ欲棒だった。

順子の口中に挿し込んだ欲棒がヌメヌメと舌先で嬲(ね)ぶられる快感に、竹中は目を細めて上から覗き込み、その娘のおシャブリを愉しんでいた。

竹中の生身の陰茎が順子の唇を擦(こす)り、口中の粘膜を擦(こす)りながら抜き挿しされ、連れて口中から押し出される涎(よだれ)が順子の顎(あご)に垂れ下がって床に落ちて行く。

これは普通では考えられない。

私は小声で呟(つぶや)いた。

「あっ、竹中さん、娘におシャブリを犯らしちゃったよ。良かったのかな?」

小泉がこそっと耳元で囁(ささや)いた。

「あの二人は大丈夫です。気分は(精神的には)完全に親子ですが、実は亡くなった奥さんの連れ子で肉体的には他人です。」

順子は、竹中にとって「連れ子だった」と言うのだ。

「何だ、知らなかったな。それで少し気が楽に成った。俺はどうしょうかと思った。」

「だから私は順子に、竹中の親父に、お礼をさせても良いじゃないか。と言う気に成って居ました。」

「旦那がそう言うなら、犯らしても良いか?」

「えぇ、順子には育ててくれた竹中さんに、いくらしても足りない恩があります。これを機会に、わだかまりなくお礼の出来る環境を作って遣りたいのです。」

「小泉君は、随分(ずいぶん)大人だな。」

「いぇ、この会社に入る話を順子が言い出した意味を考えて遣ったのです。彼女の気持ちの何処かに、それもあるのじゃないかと・・・。」

「なるほど、それなら話が早い。今夜決行しよう。」

元々この会社には安っぽい倫理観などない。

親子でも義理の中であれば御の字である。

「良いですよ。済みませんが、宜しくお願いします。」

なるほど、聞いて見なければ判らないもので、半分は「それもあり」と順子は承知していた事になる。

いや、最初からそのくらいの事は、目的に近いほど予定の内かも知れない。

順子が京美企画で犯って行く積りならなら、親として教え込んで置かねばならない。

順子の口中に捻じ込まれた義理の父親・竹中の欲棒が、順子が上半身を前後して必死にシャブるのも構わず頭を抱え、腰を使って喉元まで突き入れられる。


奇妙な事に小泉武司は、日常生活でも竹中に順子を「拘(こだわ)りなく貸せられれば理想的」と考えている。

たとえ義理でも、通常ありえない話だが、此処は岩代の結界の中だ。

常と違う発想があっても不思議は無い

「それなら、道を作ってやろう。」

「多分犯ってしまえば、その既成事実で解き放たれるでしょう。あっ、次は社長が行きますか?」

終わった田島が、膝立ちで竹中の欲棒を咥(くわ)えている順子の後ろに座り込み、右手を伸ばして卑猥に笑っている。

大方菊の蕾にでも指を入れ手居るのだろう。

タマゴバイブを岩代の細君から手渡された小泉が、順子の前に座り込んで横から妻の花芯ボタンを嬲(なぶ)り始めた。

バイブの振動が、順子の腰を艶かしく振らせ始めた。

前後から刺激を受け、「ウゴ、ウゴ。」と、順子が感じているようだ。

小泉の目の前で、竹中の欲棒が娘の口を出入りしている。

そこに細君(京香)が手を出した。

小泉順子が咥(くわ)えた義父・竹中の欲棒に、細君(京香)が手を添えて陰茎をクィクィと扱(しご)き、竹中氏が発射する白濁した液体を順子に口中で受け止めさせるる構えである。

竹中の欲棒が咥(くわ)えられた順子の唇と陰茎との隙間からは、細君(京香)の扱(しご)きにつられて順子の涎(よだれ)が滴り落ちて行く。

とその時、義父・竹中の欲棒がビクンビクンと脈打ちながら順子の口中で暴れ、青臭い体液がほとばしり出てドロリと順子の喉チンコにまとわり着いた。

竹中が発射して帰って来たが、彼は、何の拘(こだ)わりも見せなかった。

「やぁ、良かった。実はあれをしたいと十年来の夢だった。社長、次、次行って・・。」

小泉が「良かったですね。」と近寄って来た。

どうやらこの義理の親子は、私を外して何か話をしたい様だ。

私は、舞台に上った。

順子に欲棒をシャブらせながら、次なる作戦を練る事にしたのだ。


(消えたわだかまり)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十四話(消えたわだかまり)


これはかなり後に、この物語の展開に関係がある事だが、この頃私の元上司である「だみ声の専務」の家庭で、こんな話が為されていたらしい。

「オィお前、内に何度か遊びに来た**を覚えているか?」

だみ声の専務は、遅い夕食の支度をして居る妻に声を掛けた。

「えぇ、あなたが推薦して出先の所長さんにした**さんと言う人でしょ。お元気なのですか?」

夫が、自分の方から会社の話を持ち出すのは、珍しい事だ。

「それがな、岩代と言う若いのと一緒に会社を辞(や)めて独立した。」

だみ声の専務婦人は、思っても居なかった私の消息を、この時初めて知ったのである。

「まぁ、大変ですね。親が資産家とか、独立資金があったのですか?」

「それが、どうも地上げ先の相手に出資して貰ったらしい。」

「エッ、よほど気に入られたのかしら、凄い信用ですね。」

「あぁ、俺も驚いたが、どうも納得が行かない。」

「でも、あなたも**さんを買ってらしたから、先方に認められたのじゃありませんか。」

「まぁ、それはそこまでは考えられるが、近頃はそれだけでは無いような気がする。」

「他に何かありますの?」

「急に手が足りなくなるので、一部やり掛けの仕事を委託で廻したんだが・・・」

「廻したお仕事で、問題でも起こしたのですか?」

「いゃ、綺麗にかたずけてくれたのだが、以後の新規取引は先方の担当者が奴の所と直接取引きをしたがって困っている。」

「それって、あなたの会社より**さんの会社の方が、取引先として良い事があるって事ですか?」

「その辺りが良く判らないのだ。接待でもされて取り込まれた以外ないのだが、接待はこっちもして居るし・・・しかし、不思議だ。あいつら、何をして居るのだ?」

「あの人達、何か特別な接待でもして居るのでしょうか?」

「俺には判らん。」

だみ声の専務は、頭を抱え込んでいた。

対応策が浮かばないのである。



人間の潜在能力には、さしたる個人差はない。在るのは興味の在るか無しやの差である。

要は基本姿勢の問題で、人間が生きて行く上で「真理」と言う物はたった一つなのか、幾通りもあるものなのかの考え方で、その人間の物事を理解する幅は決まる。

つまり、「イレギラー」と思えた事が、当たり前の事に成るのである。

これは、この先を決定つける要素で、そうした弾力の有る思考が、これからの人間界に必要な資質である。

この理屈が、判って生かし切るかで、人生は決まるのかも知れない。

そうした意味で、小泉順子は見事なまでに挑戦者だった

幾通りもある「真理」の中から、精一杯生きる為の選択として、京美企画参画の為に志願調教を訴えたのである。


父の若返りの秘密は、岩代さん達の「怪しげな性の接待のおかげだ」と知りました。

「京美企画」のSEX遊戯が、世間の倫理意識とかけ離れていたからです。

この現実に向き合った時、娘としての衝撃は大きいものでした。

しかし、冷静にその事態を見詰直すと、違った真実も見えて来ます。

そして、「父を理解しよう」と言う気に成ったのです。



父から京美企画の真相を聞いてフト「これだ!」と閃(ひらめ)きました。

本来なら「嫌らしい」と父達を批難すべきかも知りませんが、話を聞いていて私(順子)の胸がキューンと高鳴りました。

犯られて見ないと判らない事で、正論からすれば輪姦(まわ)されるなど「とんでもないエゲツ無い行為」と思いますが、いざ犯られてしまえば堪(たま)らない良い物だったのです。

考えて見れば、「そんな事は在り得ない」と言う私(順子)の否定の根拠は希望的先入観だけなのです。

私(順子)は世の中ほんの一部を知るだけで、世間には私(順子)の想像を遥かに超えるエゲツ無い行為を閲覧させ闇が潜んで居て、裏側を覗けば気が着かないだけな事が判るのかも知れないのです。


私(順子)が中学に入学した頃から漠然と心の奥底に抱いていて、否定し続けた秘めたる憧(あこが)れが現実に存在した思いだったのです。

心の奥底に私(順子)が抱いてい居た憧(あこが)れは「男の性玩具(おもちゃ)に成る事だ」と、確信しました。
私(順子)、自分にM(マゾ)の願望が在ったのです。

本当の父は私(順子)が小学三年生の時に癌(がん)を発病し、僅(わず)か三ヶ月の闘病生活の後、三十代始めの若さで亡くなりました。

実父の病死から二年ほど経った小学五年生の時、母は私(順子)を連れ子に教員をしていた義父の竹中と再婚しました。

最初私(順子)は義父の竹中心を閉ざして居ましたが、実父の病死で打ちひしがれていた母が再婚して段々元気に成って行くに従い、母の再婚と義父の竹中存在を認めるように成りました。

竹中は私(順子)に優しく、一時期途方に暮れて不安そうだった母の心も安定して幸せそうでした。

やがて私(順子)は、何が母の心に変化をもたらしたのかを知りました。

私(順子)が早く寝た次の朝は、鼻歌なんかを歌って母の機嫌が良いのです。

そんな事が何度か続いて、私(順子)は子供心に「何故だろう?」と気に成りました。

それで或る日、早く寝た振りをして、母を観察する行動に出たのです。

長い事寝た振りをした後、ソーッとお義父さんの部屋に近付くと母の押し殺したような「アァ〜」と言う奇妙な声が聞えて来たのです。

驚いて私(順子)が障子戸の隙間から中を覗いて見ると、母が裸にされてお義父さんに虐(いじ)められていました。

ビックリして部屋に逃げ帰り、蒲団を被って震えていました。

でも次の日、母は機嫌が良く鼻歌を歌って義父とも仲良しなのです。

不思議だったので、それから何度か寝た振りをして同じ覗きをしたのですが、ヤッパリ母が裸にされてお義父さんに虐(いじ)められていましたがヤハリ翌日、母の機嫌が良いのです。

子供心にも「ハッキリと聞いてはイケナイ事だ」と思いましたが、とぼけて「夜、寝ていてお母さんの声が聞えるけど、お義父さんに虐(いじ)められていない?」と聞いたのです。

そしたら母は、「あれはお義父さんにお母さんが可愛がって頂いているの。順子が大人に成ったら判るけど、心配ないから。」と言いました。

それで「あ〜っ、あれはお義父さんが母を可愛がっているのだ。だから母が翌朝機嫌が良いのだ。」と安心し納得もしました。

再婚してまだ間も無い頃、その母と義父の竹中の性交場面を私(順子)は偶然見てしまって居たのです。

そしてその時の母の話で、「大人に成るとあぁ犯って男の人に可愛がってもらうのだ」と、私(順子)の心に刻み込まれたのです。

安心した私(順子)は、暫(しば)らく覗きはしていなかったのですが、中学に入ると周囲からまた色々な性知識が入って来ます。

その頃はもう、「覗き見るのはイケナイ事だ」とハッキリ自覚している私(順子)でしたが、無性に興味が湧いて、また母がお義父さんに可愛がって頂いているの覗き見たのです。

大分大人に成って予備知識もありましたから、今度は何をしているのかハッキリ理解出来ます。

今考えると夫婦の暗黙の了解だったのでしょう、母を可愛がる時は何時(いつ)もお義父さんが母に命令して母がそれに素直に応じていました。

母は裸にされてお義父さんに命令されておチ*チンをお口で舐めたり、お股をお義父さんに触られたり、それはもう恥かしい事や汚(けが)らわしいような事を散々していました。

その挙句、母とお義父さんがお股とおチ*チンで繋がって獣が絡み合う様に動き、母が唸り声を上げるのです。

覗いた限りでは、どう見ても母はヒィヒィとお義父さんに虐(いじ)められている様なのですが、時折母の顔がウットリと気持ちが良さそうなのです。

それを見た時、私(順子)は興奮して思わず自分のお股を触ったら、ビィビィっと感じる気持ち良さが有って、手が自然にお股を擦(こす)り弄(いじ)っていました。

その日以来、私(順子)はオナニーを覚えたのですが、それをする時の妄想の相手は何故かお義父さんだったのです。

勿論(もちろん)それは、母に申し訳ない「イケナイ事だ」と判る年齢でしたから、そうした衝動を押さえて思春期を送り、やがて今の小泉と知り合い結婚したのです。

これで、「母と義父さんの様に、私(順子)はあぁ犯って可愛がって貰える」と胸が膨らみました。

ところが、結婚当初は小泉とのSEXに期待してそれなりに性交もしたのですが、ドーモ平凡な行為で物足りないのです。

夫の小泉の行為はノーマル過ぎて、刺激も何も有りません。

女性だって、「あぁしてみたい、こうしてみたい」と言う性欲は有ります。

思春期から欲望を押さえて居た分、目一杯大きく膨らんだ私(順子)の欲望に小泉との性交は余りにも期待外れだったのです。

それで段々に意欲が薄れて夫との性交がおざなりになり、夫婦関係も状態を悪くして行ったのです。

私(順子)は母とお義父さんの様な、恥かしい事や汚(けが)らわしいような事を散々させられ、虐(いじ)められる可愛がられ方が望みだったのです。

だから父から京美企画の真相を聞いて「私(順子)が求めていたのはこれだ!」と閃(ひらめ)きました。

京美企画メンバーの乱倫状態や拒否無し条件の性接待奉仕、そして大人数の輪姦(まわし)・・・それらが愛情と言う前提無しの性交として夫を裏切らずに楽しめるなんて、思わず子宮が熱くなったのです。

これなら私(順子)の刺激的な人生が切り開かれ、「夫の小泉とも夫婦生活をやり直す事が出来る」のじゃないかと・・・。


私(順子)が離婚危機の渦中に居なければ、或いはこう言う気持ちには成らなかったかも知れません。

確かに子供とすれば、両親の性行為姿など想像もしたくは無いのが心情です。

しかし、両親の性行為が有って初めて子供はこの世に存在します。

それは、父だって男なのです。

男の本能の一面が無ければ、父は男では無いのでしょう。

確かに、私(順子)も子持ちの女として、そんな父を認めてやらなければ大人の女では有りません。

父にも楽しむ権利はあるし、相手をする母はもうこの世に居ないのです。

そう考えれば、相手をして下さる「京美企画」の里美さんや京香さんには感謝すべきでしょう。

私(順子)は、この一連の「京美企画」に拠るSEX遊戯が、一つのポリシーに基着いている事に気が付きました。

精神的な愛を分離し、夫婦合意の遊び心で肉体の快楽を甘受するのです。

この小泉との離婚騒ぎで、父は言いました。

「リアルな現実の上で、追いかける夢は良い。しかし、夢の中で夢に浸るのは、唯の逃避なのだ」と・・・・。

父の話しを聞いた時、私(順子)は自分が母の様に夫に対して「娼婦に成れなかった女だ」と気が付きました。

今思えば、夫にも私に対する性的要求は有った筈で、夫の男性部分を癒(いや)してやれない妻は女性として失格かも知れません。

噛み合わなかっただけで夫にも性欲は有るのですから、マンネリ打開の刺激的な努力が、私(順子)の方に必要だったのです。

夫婦で「京美企画」に参加すれば、愛情と言う前提無しの性交として夫を裏切らずに私(順子)も楽しめ、他の女性も抱けるのだから夫にも満足してもらえる刺激的な生活に激変する筈です。


本音で言えば、「京美企画」に拠る淫靡(いんび)なSEX遊戯は、何故か私(順子)の心をときめかしました。

僅(わずか)でも関心が有ると言う事は、もしかすると私(順子)はとんでもないドスケベかも知れません。

しかし夫の今度の事で、私(順子)が精神的に参っていた事も事実です。

この「夫婦の危機」と言う閉塞感から脱却するには、「並大抵の事では吹っ切れない」と言う思いも有りました。

そう成ると、過去を決別して「幸せに辿り着く道」に踏み込み、新しい生き方を実現する思い切った切り替えの機会が必要です。

そしてそれは、私(順子)一人で生きて行く切り替えでは無く夫婦で生きて行くなら、夫婦揃って強烈な切り替えをしなければ成らないのです。


凡(およ)そ「結婚」と言うものは、他人だった男女が一緒に生活する事なのです。

つまり性行為ひとつ取っても、その性癖に違いがあります。

他人の男女が「一緒に生活する」と言う事は、総べてのボタンが掛け違った洋服を着ているようなもので、凡(およ)着心地が悪いものです。

その掛け違ったボタンを、時間を掛けて「正しく掛け直して行くのが夫婦生活だ」と思います。

所が愚かな事に、本来主張すべきではないはずのプライドを、夫婦の間でも持ち出して、意地を張り、「愛情が無い」とボタンの掛け違を直す努力など忘れてしまう・・・・。

今考えると、母は利巧だから性癖の全てをお義父さんに合わせて、なおかつ自分が楽しむ術(すべ)を心得ていたのでしょう。

つまり、私(順子)は「娼婦に成れなかった」のではなく、「成ろうとしなかった」のです。

考えて見れば、愛情は時間を掛けて育てる物で、「最初から有る」と思うのが間違いの始まりなのです。

ヤッパリ夫の小泉に対して、私(順子)は「詰まらない女」でしかなかったのです。

我侭(わがまま)を「愛情の確認」と勘違いするほど、甘ったれて生きていたのです。

もとを正せば、隠れて犯るから「浮気」で、互いの独占欲からの嫉妬や「寝取られないか」と生活基盤の崩壊を心配するのです。

まかり間違って相手の方が「性的に手慣(だ)れ」なら、夫の心が先方に移ってしまう・・・。

でも、「京美企画」のSEX遊戯には、情が絡まないのですから世間で想定される夫婦間のリスクは無いのです。

少し恥かしかったのですが義父に我侭(わがまま)を言って、京美に参加させてもらうお願いをしました。

それで、禊(みそぎ)の輪姦(まわし)に掛けられたのです。

考えて見て下さい。

一度知ってしまった行為が直ぐ終る夫一人相手の行為とは違い、大人数で休む間も無く輪姦(まわさ)れる犯られっ放しですから、オーガズムが継続して繰り返しイキ続ける濃厚な快楽感なのですよ。

こんな形で、日頃の鬱憤(うっぷん)を発散出来れば、返って夫婦の愛が深まり、相手に鬱憤(うっぷん)をぶつける事も無いでしょう。

だから男女の出会いの場面で、行き成り「愛を感じ」と言うのは、希望的勘違いなのです。

互いに勝手な理想を「愛情の条件」と勘違いし、「それが満たされないから」と不満を募らせて行くから、愛情が「最初から有る」と思う男女は始末が悪いのです。

唯のあこがれや物欲、独占欲、性欲も愛情ではないし、益してや自分の理想を相手に当て嵌めさせようなどと思うのは、掛け違ったボタンを「正しい」と主張するようなものです。

それらの全てを削(そ)ぎ落として、最後に残るのが「愛情で無ければ成らない」と、私(順子)は思います。

結婚して五年、私(順子)にしてみたら骨身に染みる夫婦間のリスクと葛藤(かっとう)だったのです。

今回の事を冷静に考えると、夫も自分も鬱積(うっせき)した葛藤(かっとう)や不満の捌(は)け口もないまま、ぶつかりあって生活していました。

そんな鬱積(うっせき)した物を身体だけの遊びで一度全て吐き出せば、それが、一気に解消出来るかも知れないのです。

既成概念から解放され、生まれ変わるエネルギーは、恐くて個人では中々生み出せないのです。

その可能性を、この怪しげなグループに参加する事で見い出せたのです。

変なプライドや貞操観念など一円の得にもならないし、プライド何んてものは自分の目的を適える為に行動して見せる事こそ本当のプライドだと想います。

これで、肉体的にも精神的にもキッチリ区切りが付き、私(順子)は別人に生まれ変われる筈で、それこそ私(順子)のプライドなのです。

場合に拠っては夫を巻き込んで、伴に新しい人生を踏み出せるかも知れない。

そう信じて、私(順子)は、「京美企画」のSEX遊戯が、「幸せに辿り着く道」と表現したのです。




おシャブリは、言わばウオームアップ見たいなもので、呪詛エネルギーは生まれない。

今夜の予定は、妻が開所式の第二ラウンドでさせられたパイプを使う拘束の体勢を正面向きに順子にさせて、皆で犯る事だ。

つまり幼児にさせるオシッコスタイルの変形、両側から順子の足を片方ずつ抱え上げて広げる「両手十字拘束、変形シーシースタイル」である。

正面に向けてこの体勢をとられるから、順子の秘所は全て丸見えで、所謂(いわゆる)「御開帳」になる。

順子の聖域は全て丸見えで、ひだに囲まれた花芯ボタンや、短い陰毛が絡む二枚の肉花弁と言った女性器は勿論、蕾の周囲にまで短い陰毛がへばり付いている菊座の皺(しわ)や、自然に開く花弁の奥のピンクの肌まで生々しく曝(あば)き出される。

これは、トリップ前の女性にはかなりの恥じらいを強いられるはずだ。

男達は、今度は順子の腰を両足を別々に両側から抱え、浮かせた状態でそのまま無抵抗な順子を犯し続ける。

彼女に淫媚(いんび)な快感エネルギーが宿る為には、それなりの舞台装置が必要だった。

その支度を、岩代の指示と縄賭けで始めた。

学生達の拘束用パイプ設備の操作も手馴れてきた。

パイプの位置を九十度変え、目隠しされた順子の顔が正面に来るようにセットし直した。

パイプが降りて来て、順子の脇の高さで止り、両手を広げさせて十文字に括っている。

両手を十文字に固定するのは昨夜と同じだが、今夜は胴体をパイプの前に持ってきて、背中がパイプに持たれるように寄り掛ける。

妻の、開所式の時の二度目の体勢と同じだった。

目隠しをさせたままだから、順子の方は手取り足取りの格好をたださせられているだけだった。

昨日は背後からで余り相手が判らなかったが、今日は互いに向き合う事になる。

目隠しをしているから良いが、取り払えば相手が誰だか判る事になる。

パイプの高さを少し下げ、順子の両足は一本ずつ両側から学生が持ち上げている。

順子は両手を十字にパイプに縛られたまま、学生に片足ずつ掲げ支えられて、股間を大きく広げた体制になった。

「さぁ、社長から行って下さい。」

股間が大きく開いて順子の秘所は皆に丸見になり、痴毛の絡まる花芯ボタンや開いて濡れそぼる小振りの花弁が半ば開き加減に、私の欲棒の訪問を待っている。

順子の、弾力のある弾む様な肌は、早くも薄っすらと汗ばんで見える。

あの屋根裏の覗き以来、観音様をマジマジと拝む機会が、まるで私の生活の日常茶飯事の事に成った。

「性は生に通ずる。」と言うが、なるほど私の生活意欲も、事業に対する自信も格段に向上している。

何よりも、妻に先立たれた竹中の目覚しい若返り振りは、以前の彼を知る者なら確信をもつ。

細君(京香)が素早く私の欲棒を咥(くわ)えに来た。

舌と唇を使って、懸命に固くしている。

本音で言うと、流石に細君(京香)のおシャブリ・テクニックには妻も喜美子も、とても及ばない。

彼女にかかると、たちまち身ムクムクと精気がみなぎって来るのは、テクニックの為せる技か、それとも岩代同様何かの力を帯びて居るというのだろうか?

準備が出来たら、順子の濡れ具合を確かめて柔ら壺に一番槍を挿し込む。

それが、何時の間にかリーダーに祭り上げられた私の役得と言うものだ。

二人の学生に、広げて抱え上げられた脚の間に立って、利き腕の指で順子の股間に触れた。

順子の口を開いた花弁からは、既に愛液が溢れ出ていた。

視界を奪われた順子は、想像の中だけで今の自分の姿を浮かべ、これから起こる事に思いを馳せる。

どうせ順子はまな板の鯉だから、私は溢れ出た愛液で指先をぬらし、菊座の蕾に指を入れてみた。

順子は、いきなりの菊座攻撃に「ビクッ」と反応するが、「ギュッ」と指を締め付けて来た。

先ほどから田嶋が嬲(なぶ)っていたから、すんなり第二関節まで入った。

それを容赦なく出し入れしてやった。

指の前後に応じて、菊座も捲くれ上がったりメリ込んだりと、激しく形を変えている。

「ウワ、ワァァ。」

刺激が異様なのか、順子も身振るいしながら異様な奇声をあげた。

暫(しばら)くア*ルを嬲(なぶ)って反応を見た。

これで順子のプライドは、また一つ剥(は)がれたはずだ。

今度はカリ首を花弁の入り口に宛がい、二〜三度こすり付けてから、順子に欲棒の抽入を果たした。

「ウッ。」順子が進入を知らせる声を上げた。

私は、順子の尻を持ち上げて手元に寄せたり放したり繰り返しながら、柔ら壺へ深く浅く抽送を始めた。

文字通り、順子の下半身を抱え込んで、欲棒の抜き挿し浅深が調整出来る。

シットリと良く締まって抵抗感がある順子へのカリ首の抽入感と伴に、順子のでん部(尻肉)がクィクィとリズミカルに私の膝に当たっている。

正直こう言う多人数の輪姦(まわし)を一人で受けるとなると相手が順番で続くから、順子が渾身の受け腰使いで早く何本ん抜けるかが勝負になる。

最初に何人か熟(こな)して受け切れないと、順子の方が中々相手を抜けないまま一方的に責められてイキ過ぎ続ける無残な姿を見せる事に成る。

しかしまだ順子にその知識は無く、今は受け身の態勢で攻撃的な意志まで持っては居なかった。

それでも調子が出て来たら、欲棒の抽送を続けながら先ほどほぐした菊座に利き腕の親指を第一関節いっぱいまで差し込んで見た。

菊座が指を締め付け、ついでに欲棒も締め付けられ、指と欲棒の互いの存在が、皮一枚で伝わって来る。

私の欲棒が、順子の花弁の中を出入りしているのが良く見えて刺激的だ。

私の腰が軽快なリズムを刻(きざ)んで、順子の肉体(からだ)の中心を貫抜いた欲棒の陰茎が、愛液に濡れ光って深く浅く見え隠れしている。

これは凄い見世物だが、生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインとして順子の抑圧されて居た本能が剥(む)き出しに成っただけだ。

だから、正直順子が涎(よだれ)を垂(た)らしながら大口を空(あ)けて善がり犯られていても、夫の小泉が随喜の刺激に顔を歪(ゆが)ませる順子から目を背(そむ)ける事はないだろう。

坊主頭のカリ首に肉体(からだ)の中心を貫かれてしまえば一瞬で心境に変化が起こり、警戒心で入った順子の力は抜けて行く。

現実にもう皆の前で犯られちゃったのだから気取っては居られず、覚悟を決めて本気モードのスイッチを入れるしかない。

当たり前の事だが、性行為は観るにしても犯るにしても、勿論、犯られるにしても下品な方が人間は興奮する。

まぁ元々上品な性行為など無いのだから、依り下品を追求しながら順子を犯る愉しみ方が正しいのかも知れない。

「アァー、アァー、アァー、社長さん気持ち良いィー。」

順子は感じ捲くり、愛液を滴らせ、肉体(からだ)をそり返らせて果てた。

それから後は、順子にトリップが訪れるまで、生島、田嶋、小泉、岩代と同じように代わる代わる攻め立てた。

立て続けに五人も、凄まじい勢いで輪姦(まわ)されると、昨日の今日で感度が高まっている順子は、達し過ぎて止らなく成ってくる。

トリップは順調に遣って来た。

「アゥーウ、アッ、アッ、気持ち良いィー、アゥーウ、アッ、アッ、気持ち良いィー。」

正直女性の肉体(からだ)は現金なもので、人前と言う非日常のシュチエーションで犯り始めれば、もう小泉順子には快感を貪(むさぼ)る貞操も糞もない。

欲棒を挿し込まれ、股間で生々しく繋がっている陰茎を見え隠れさせながら順子の性交は長々と続き。

脳の中が性交モード一色の順子は、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら歯を食い縛って快感に耐え、男達の突き腰とガップリ組んで、受け腰で快調に熟(こ)なしていた。

その順子は欲棒を突き入れられ抜き挿しされている所から愛液を噴出し、白い太腿(ふともも)に垂れ流しながら連続する陵辱(りょうじょく)に身悶え、媚を売るように甘い声を漏らして鼻を鳴らし身悶えて居る。


順子は股間から愛液を溢れさせ、涎を垂らしながら岩代の腰の動きに合わせて、善がり狂っている。

そこで小泉武司が動き出す。

彼には、これを待って始めたい目論見があったのだ。

順子が望んで、これから小泉夫婦は揃って京美企画で仕事をする。

そうなれば、どの道安っぽい貞操観念など持っては居られない。

特に順子は「性接待係り」と言う相手を選ばない性交が求められる立場になる。

接待の性交は情交では無いスポーティなSEXであるから、モタモタせずに軽(かろ)やかに攻められ進めるべきで、行為にNGを設けるなど持っての外である。

つまりそれが接待行為で在っても、自らが限界を設(もう)ける事は、考えように拠っては言い訳の幅を広げる卑怯姑息(ひきょうこそく)な手段なのだ。

だから大詰めまで行けば、断固した態度で全てを割り切って受け入れるように順子を屈服させるしかない。

どうせの事なら、育ててもらった義父にも楽しんでもらいたい。

その武司の気持ちは、果たしてまともなのか?それともこのビルに施された岩代の結界のなせる業なのか?

慌(あわ)てて、生島喜美子が竹中の欲棒を咥(くわ)えに走った。

「次が竹中だ」と小泉に耳打ちされたのだ。

岩代の強烈な性交で無我の境地に有る順子に、喜美子が咥(くわ)えて硬く勃起させた竹中の黒光りする坊主頭の欲棒を突き立てた。

男にして見たら反応してこそ性交の醍醐味で、抜き挿しをしながら相手の女にヒィヒィ善がり声を上げさせる事が一番本能を刺激し征服欲を満足させる。

順子の股間に竹中の硬く膨れた欲棒が挿し込まれて、まるでポルノ映画の様にモロ挿しの陰茎が生々しく深く浅く見え隠れする抽送が始まった。

それにしても、大股開きに開いた妻(順子)の女陰に義理の父親の欲棒が挿し込まれて陰茎を愛液で濡れ光らせ、肉花弁を巻き込みながら抜き挿しされている。

義理の父親に遊びで犯られて居るのが妻(順子)だけに、その様は小泉には生々しく鮮烈な胸締め付けられる光景である。

しかしその抜き挿しされる妻(順子)の股の光景を、怪しく目を輝かして小泉が観ていたのも事実である。

フト見ると、小泉が異様な目付きでそれを睨(にら)み付けていたが、彼の股間からは欲棒が確りそそり立っている。

義理とは言え父親の欲棒を股間に咥(くわ)え込んだ順子が、自(みずか)ら興奮でシットリと汗ばんだ肌を鈍く光らせながら受け腰を使って抜き挿しして居る生々しい姿を、まざまざと見る夫の小泉には刺激的で、思わず勃起させていたのである。

欲棒を抜き挿しする竹中の抽送に合わせて、順子の乳首が硬くなった乳房がユサユサと揺れている。

性器が接触すれば、たとえどんな相手でも交わる肉体は自然に共鳴する。

今自分を犯しているのが養父の竹中とは知らない順子が、最初は歯を食い縛って善がり声を抑(おさ)えていても、やがて耐え切れなくなってヒィヒィ善がり声を上げ始める。

順子は生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインとして、仮面の下の素顔を暴(あば)き出されるように荒い呼吸をしながら壮絶に攻めたてられている。

しかしこれはあくまでも順子には非日常の時間で、それが普通だが日常の生活は平凡でこんなスリリングな遊びの時間など無い。

勿論そんな卑猥な時間を順子が過ごしているなど、日常生活は到って普通だから世間は知りもしない。

つまりこれは、順子の身に時たまに訪れる遊びの時間で、何も大袈裟(おおげさ)に考える必要は無いのだ。


「アッ、アーァ、気持ち良いィー、アー、アー、アー。」

血は通ってないとは言え、幼い頃から育てられた父親の竹中に欲棒を突き立てられて、娘の順子が善がっているのだ。

小泉武司がパイプの後方から近付いて、耳元で何か囁きながら順子の目隠しを外している。

性交状態で、順子に「相手が誰か」見せる為である。

武司は、決着をつけようと言うのか?

目隠しを外した武司が、まだ何か囁(ささや)いている。

最悪順子が確認した相手を拒んでも、もう欲棒を受け入れた後でまったく身動きは取れない。

竹中氏が気持ち良さそうにユックリと腰を使って欲棒の抜き挿しを続けている。

その抜き挿しで順子の股間に生々しく竹中氏の陰茎が二枚の肉花弁を捩(よじ)らせながら見え隠れし、少し間延びした順子の善がり声が圧し殺した様に漏れていた。

順子は拘束され、そのまま犯され続けられる体勢に有る。

それに既にその交合状態に有り、今更抵抗しても、もう手遅れなのだ。

順子は相手を確認して一瞬驚いた様だったが、次には「お父さん・・・、良かった有難う。続けて下さい。」と口にした。

そして、そのまま竹中に犯されるに任せている。

良く見ると、順子は泣いていた。

感極まったのか、涙が一筋二筋と流れているが、嫌がっている訳でも、悲しんでいる訳でもない。

或いはこの展開を、自分から口にこそしなかったが、順子は密かに期待していたのかも知れない。

彼女は、正に感激しているのだ。

「アーァ、気持ち良いィー、アー、アー、お父さん気持ち良いィー。」

相手を認識して直ぐに、順子はまた快感の中に沈んで行った。

正しく、「忌み祓い(いみばらい)」の一つが祓い始まった瞬間かも知れない。

順子のかすれた善がり声が始まった。

もう、散々善がって、声も出なく成りつつある。

「順子、気持ち良いか?」

感極まったのか、竹中が涙声で聞いた。

「はぃ、こんなに良いのは初めてです。」

順子の柔ら壺の内壁を擦(こす)っている欲棒のカリ首は、父・竹中のものだった。

順子の気持ちがヒシヒシと伝わってくる。

「社長、順子が凄く良いってよ。こんな思いが出来るとは、わしも思わなかった。正に奇蹟の極楽じゃ。」

順子の花弁の花びらを掻き分けて、竹中の濡れた欲棒がユックリと出入りしている。

「血が繋がってない親子」と聞いてから、私の気は楽に成っていた。

この義理の親子も、一度経験してしまえば、次からはそう精神的な抵抗が無くなる。

順子は、義父・竹中とここまで犯ってしまったから、女として母の代わりに義父を慰める性交も、今後はスンナリと出来る事に成った。

「これでお義父さんに娘らしい事が出来る。」と、順子は想ったそうだ。

もっとも歴史書によると、現在の道徳観の考え方が、そのまま当て嵌まる訳ではない。

遠い昔、歴代天皇の妃を調べてみると、姪(メイ)はおろか実の娘を妃にした事例も散見される。

また、皇子(実の息子)や弟皇子の嫁(妃)や愛人を取り上げたり、天皇の妃と皇子が密通したりの記録も残っている。

民の模範となるべき地位の者がそうだから、地方豪族に到るまで、この事例は有って不思議は無い。

つまり、時代の変遷とともに人の意識は変わるもので、当時の最高の地位に有るものは、全ての事を超越していたのかも知れない。

この辺りが変化して来るのには、仏教系の渡来宗教の影響があった筈だ。

それまでは、それ以前の常識があり、別段おかしな事だとは思われなかった。

しかし現実として、仏教系の渡来宗教の中にも、性のエネルギーを「神秘な物」として、その力に頼ろうとした教義も色々と存在した。

つまり性行為に対する認識も、その相手に対する認識も、その正しさは時代で違いがあり、一定ではない。

まぁ簡単に言えば、義理の親子の性行為など、あながち「不道徳」とは思えない事になる。

小泉武司の二人を見つめる表情も、安堵に満ち溢れている。

そう思うと、この三人の決断と行為が、感動を伴う美しい物に見えてくるから不思議だ。

竹中が終わったのか、武司を手招きしている。

武司の顔を見ると、順子は全てを理解して目を閉じ、襲い掛かる快感に身を委(ゆだ)ねた。

「いゃあ、良かった。感激の一言だよ。」

竹中が感慨深げに帰って来た。

これで一段落と気が楽に成り、ここからはお楽しみバージョンに切り替える事が出来る。

細君(京香)は頬(ほほ)を膨(ふく)らませて田嶋の欲棒を口で愛でている。

皇帝にふさわしい態度として、我が侭を言った。

「キミチャンこっちに来て、里美は竹中さんの相手をして。」

順子を見ながら、竹中と話がしたかったのだ。勿論、シャブらせながら。

「竹中さん、調べた事少し教えて下さい。」

「この呪詛エネルギーの根本的な背景を知りたいのか、それならまだ解明しては居ない。」

「いぇ、判っている事だけで結構です。」

「それなら、妙見信仰の断片を話しておこう。彼がオオカミ(大神)の化身と疑うに価する考察だ。」

「それ、教えて下さい。」


昔、修行僧は山伏として悟(さと)りを得る為に、山深い所で修行をした。

過って、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道士(山伏)は重要だった。

昔、病は祟(たた)りと考えられ、信仰深く素朴な庶民は恐れていた。

つまり、山深い里にまで修験の山伏は、庶民の頼り甲斐ある拠り所だった。

庶民を襲う様々な不幸を呪詛の「忌み祓い力」によってガード或いは「退散」をさせたのである。

その修験道の山伏達は、渡来した様々な宗教を駆使して呪詛を施(ほどこ)し、庶民の平穏を願い、信頼を勝ち得た。

そこで、密教・修験道の「山伏」は、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬われて行った。

従って、その根底に流れている密教の北辰・北斗信仰の使いが狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。

「それで、彼との接点は、何なのですか?」

「今日の、この状態だよ。」

夢を壊して悪いが、各地の山里に語り継がれる「人身御供伝説」の仕掛け人はこの修験道の「山伏」と考えられる。

なぜ、修験道の山伏が村人をだまし、素朴な村娘を「人身御供」にさせたのか、その目的は誰でも思い当たるであろう。

その目的が「密教の呪詛を為す為」なのか、個人的な欲望を癒す為なのかは、今になっては不明である。

しかし、もしかすると村人達も実は「人身御供」の目的を理解していて、それでも「忌み祓い呪詛」の為には人身御供も仕方が無いと結論付けて居たのかもしれない。

定期的に「人身御供」を供給する為に、便宜上、「猛獣の生贄」とする伝説化を村ぐるみで作った可能性も有る。

「すると、人身御供伝説と岩代の呪詛が繋がっていると言うのですか?」

「恐らく、脈々と続いている妙見信仰の裏呪詛「忌み祓い」を継いだ正当の後継者の一人では無いかと推測しておる。」

「長々と秘密裏に受け継がれて来たと言う。」

「その通り、修験者は庶民の間ではある種仙人と解されていたから、呪詛の為の生贄も合意のもとだった場合も有る。」

「今の、ここのメンバーの様にですか?」

このメンバーも、或いは、「無秩序に集まっているのでは無いかもしれない。」と、竹中は言った。

不思議な感想であるが、私も何らかの見えない力が働いているような気はして居る。

洋の東西を問わず、神仏は本来裸形である。

これは女神も菩薩も同じ事で、精神世界に在る神に、羞恥心は存在しないからである。

古代ギリシャのオリンポス競技が、男女ともに全裸で行われたのは、神に捧げる崇高な儀式だったからである。

同様に、日本の神楽に於ける「巫女舞」が、裸形だったからからと言って、恥ずべき事でも否定すべき事でもない。

もっとも神に近付く為の崇高な行為であるから、本来それが正しいのである。

原点に立ち返ると、裸を「猥褻」と言い出したのは文明が進んだからで、未開の裸族は、裸を見ただけでは勿論発情しない。

言い換えれば、米国のポルノ映画産業は、モザイク解禁とともに衰退した。

性行為は「好きで当たり前」なのが人間である。

それが基本に無ければ、子孫は未来に繋げない。

所が、性に関した事を言おうものなら「やれセクハラだ。」と、露骨に嫌な顔をする。

つまり偏見を持って、いたずらに「猥褻」を言い立てている人間こそ、現在の性的倫理感の荒廃に関しての元凶である。

それでも「私はそうは思わない。」と、理屈ではなく、誰かに植え付けられた感情でものを言う方も居られるだろうが、「感情的に、自分の思う事は全て正しい」と言う論理は、それこそ思い上がりである。

竹中の推測は歴史的事実を手繰(たぐ)り寄せて、照合をしている。

まったく、事実無根と否定は出来ない。

岩代が神の使いの化身犬神なのか?

長い年月をかけて磨き上げられた呪詛の極意が、彼の神拳の裏技であり、彼には、未来が見えているのかも知れない。

武司が終わってこちらに帰って来る。

段取り通り、これからは満を持して出番を待っていた学生達の番だ。

竹中が学生達に声をかけた。

「おぃお前ら、遠慮なく犯って来い。お前らが頑ん張れば、キット我が家に良い事がある。」

「押忍、押忍、押忍。」

ここからまた、若者達の遠慮の無い輪姦(まわし)が始まった。

京美ビルの接待室には舞台があり、プレィ用の定位置設備がある。

定位置にマットを敷いて学生が仰向けに寝、順子におシャブりをさせて硬く成った所で後ろ向き騎上位で順子を跨(また)がせて抽入を命じる。

天井からはフックが吊り下げて有り、その先に電車のグリップ付きつり革が肩幅程度で左右に下げてある。

後ろ向き騎上位で欲棒を貫かれた順子に、そのグリップ付きつり革をまるで体操の吊り輪の様に左右の手で握らせ、懸垂様に腰を上下させて犯り始める様に命じた。

その順子の顔面に、学生の脚を跨(また)いで別の学生が欲棒を突き出し、順子にシャブらせれば公開三Pが完成する。

そしてその相手の学生は、クルクルと叙々に回転しながら入れ替わって行く。

例に拠って、順子はグィグィとエンジン全開の学生達から、凄い勢いで激しく突き上げられ、その興奮と刺激に吼(ほえ)えるように口を開け放し、凄い悶絶の形相(ぎょうそう)で共鳴しながらながら腰を使い続けている。

この順子の苦悶の表情も、お馴染みに成って来ていた。

その順子の試練も、今夜はもう終わりに近付いていた。

同じ相手のリピート(繰り返し/再性交)も在ったから、順子は続け様(さま)に、いったい何本の欲棒に肉体(からだ)の中心を貫抜かれ、犯られ責められた事か。

二時間に渡る壮絶な輪姦(まわし)の激戦の官能の時間が過ぎた後は、心地良い疲労感と伴に順子の股間にはまだ何か突き刺さっているような感覚が残っていた。


野心と平穏は両立せず、イザとなればいずれか一方を採るしかないが、自らが平穏を望んでも他人の野心に翻弄(ほんろう)されるのが世の中である。

つまりどんな生き方を選ぶのかの問題で、どうせの事なら人生平穏よりエキサイト(刺激的)な方が良く、消極的より積極的な方が道が大きく開けるチャンスはある。

ただその想いは、夫婦で遊ぶ性欲装置にドップリ嵌(はま)る、そのきっかけに使える心理的な言い訳に過ぎない。

まともな人間なら、男女を問わず性欲が在って当たり前で、普通誰でも性交を犯る。

誰でも性交を犯るのがまともな人間ならば、その行為の何処までが正常で何処からが異常かは、個人の考え方の問題である。

つまり何を犯ろうが、相手と合意の上なら個人の勝手である。

正直、欲情のメンタリティ(知性。知力。 心理状態。心的傾向)は、内心誰にも秘められている。

だから、人間の欲望には際限が無く、それを安全に満たしてくれる性欲装置があれば、新鮮だったのかも知れない。

一度女性が被虐(ひぎゃく)の快感の味を占めて仕舞えば普通の人物が普通に愉しむもので、そう違和感は感じない。

余り他人にアピールする事では無いが、本音で言えば人間の欲望には果てしが無い。

欲望に果てしが無いからこそ、それが人間そのもの資質かも知れない。

勿論、純愛に進むも性愛に進むもそれは同じである。

人間の欲望に果てしが無いのなら性愛に於いても当然で、安全性が確保できるなら何でも犯って見るのも一つの手段かも知れない。

つまり良い性交なら犯って見たいのが本音で、その結果は順子にとって新鮮だったのかも知れない。


厄介な事に、元々世間に秘すべきが性欲や性癖で、情報は上面(うわっら)の間違った疑問を持つべき綺麗事かも知れない。

即ち夫婦合意の上であれば、この非日常が舞台の「奔放な性交遊び」は、夫婦間のマンネリを埋めて余りある知恵の結晶かも知れず、訴えない事は「合意の上の事」と言う選択の問題である。

一般的に貞淑な思想の持ち主なら、頑(かたく)なに赤の他人と犯るなんて「不潔だ」と想像するかも知れない。
何しろ性行為とは、赤の他人の欲棒をシャブったり股間へ受け入れて突かたり、卑猥(ひわい)で動物的行為を性接待として犯るのである。

しかし要は相手を感情的に量る価値観の問題で、その清潔不潔の線引きには確たる根拠が無い。

つまりそんな不潔感や抵抗感は本人が気にするから問題になる事で、大袈裟に言えば志を変え、慣(なれ)れて気にしなければ大した事は無いのである。

勿論、払うべきペイリスク(引き合う対価)も払わないで善い思いの目的を得ようとするのは虫が良い話である。

マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)や露出行為、SMプレィ行為は、大勢で寄って集(たか)って強いる責め行為である。

だから法的には、本人合意の上の行為でなければ「不当な有形力の強制行使」と成り「暴行罪」になる。

但しこの行為は被害者の親告罪だから被害者本人が合意なら、何人にどんな風に犯られようと何も罪には問われない。

順子に植え付けるべき愛奴隷の心意気は、お愉しみのイメージが暗くな成らないように性接待で奔放な性交遊をするその一瞬でも心を通(かよ)わせる明るく「粋(いき)」でなければ成らない事である。

不思議なもので、こう言う性交遊びは気分の問題だから、犯り出して夢中に成ると抵抗感を失い、他人との行為に対する不潔感は超越してしまう。

それよりも現実には、行為に入り込んで盛上がってしまえば好感を持を抱き、不潔感など抱いて居られないのが性行為である。

もっとも恋人や連れ合い相手なら許せる行為も、行為自体は他人相手と似たようなもので清潔とは言い難い。

つまり同じ秘め事を犯るには犯っているのだから、相手が違って不潔に想うのは「只の気分の問題」と割り切る事になる。



この異様な空間は、続いている。

私は浦島太郎の様に、居心地悪くこの中で主役を演じていた。

ここから覚める事はあるのか。

或いは「遥かなるサクセスストーリーが広がる」と言うのか?

まだ、キミチャン(生島喜美子)は、熱心に私の欲棒を咥(くわ)えて、舌と唇で愛でている。

とにかく現在、彼女にはそれをする事以外に成すべき事は無かった。


私は、夢にうなされていた。

竹中氏の妙な歴史解説を聞いた後だったからか、夢の中の岩代は、何と武将の姿で笑って居た。

明らかに夢だった。

夢だとしても脈略のない夢で、何処までがどうなのかさえまるで説明がつかない

奇妙な事に、「夢だ」と言う自覚があるのに、私は覚めない夢を半ば追いかけている。

私の潜在意識がそうさせるのか、まるで結び付かない意識の中で、私は岩代と戦っていた。

一体何なのだ。

念が入った事に、妻も細君も髪型が武家時代沁(じ)みている。

武将の姿の岩代は、やがて細君(京香)を傍らに置き、私の制止も聞かず妻を犯し始めた。

妻は抗うでもなく岩代に抱かれ、善がり声を上げている。

「何とかしょう」と思っても、手も足も出ない。

そこに何の脈略の無い、以前住んでいた家の裏のおばさん(小川さん)が普段着で現れて、「SEXの声が大きい」と傍(かたわ)らで文句を言う。

もぅ、メチャメチャだが、私の潜在意識の一部なのだろうか?

そこに、間違いばかり教える中学時代の社会科教師がパンッ一丁で現れて、「俺にも奥さんを貸せ」と言い出した。

こんな繋がりの無い場面は、夢に決まっている。

その奇妙な場面が、夢と知りながら妙に生々しく、現(うつつ)のごとくに浮かんで来る。

やっぱりこれは幻想だが、夢と判っていながら現実との境目がハッキリとしない。

「ハッ」として目が覚めると、横で妻が寝息を立てていた。



岩代のおかげで私達夫婦は、まるで新しい人生がある事を知った。

サラリーマンから独立人生に踏み出して初めて思いついた事だが、入り口を間違えては、如何なる発想も正しき答えは導き出せない。

違った生き方を選択すれば、いとも簡単に、誰にでも未来が開けるのだ。

コロンブスには、「楕円の卵を立てるのに門(かど)を潰し、発想の大切さを教えた」と言う逸話がある。

世間は、これを「トンチ(頓知)」と取るのだろうが、或る意味「卵を傷付ける」と言う禁じ手を使って目的を達した。

とどの詰まり、京美企画の成功で判った事は、分かれ道での必要な「自らを傷付ける禁じ手」に、踏み切れるかどうかの僅(わずか)な差であったのだ。

こんな話は言い訳染みて聞えるだろうが、それは恐らく「門(かど)を潰し卵を立てる事」をしない者のヒガミである。



< どちらにしろ、先の事を考えないで行動した、愚(おろか)かな考えだったのは私である。

本来、大金の土地取引や大型建築などの受注競争では、担当者に(女を)抱かせる(金を)掴ませるは常套手段である。

冷静に考えて見ると、社長夫人を抱かせる手法は日本でもオンリーワンに違いない。

オンリーワンだからこそ、大いに値打ちが有る。

確かに、同じ接待をするのなら、相手を感動させるくらいにしなければ意味が無い。

その点、調教済みで素っ裸の愛奴隷をゲスト宛がうこの手法は、掟破りだけに相手に与えるインパクトは強い。

しかもその調教済みの愛奴隷が、「素っ裸にされた社長婦人」となると、私も「流石(さすが)岩代の仕掛け」と言わざるを得無い。

私も最初は、愛奴隷としてゲストに貸し出す妻を「可愛そうだ。」と思ったりしたが、それは「心得方」と言うもので、本人からは一向にそうした意思表示はない。

傍(はた)で心配しても仕方が無い。

人間は結構タフなもので、「心得方と健康」でさえあれば、その環境に身も心も「適合する能力は在る」と言うものである。

岩代の言う通り、元スポーツ選手で精神的にも肉体的にもタフだった妻には、この役割が向いていたのかも知れない。

あれから妻は、とみに美しく成った。

どうやら、現状の境遇(接待性奉仕)が妻を美しくしているのだ。

どんな生き物でも、自然は交尾期の雄雌を美しくさせる。

それ故、人間も常時交尾を意識すれば美しくなる。

「恋をすれば美しくなる。」と言うのはそう言う事で、まんざら嘘とは決められない自然の現象ではないだろうか?

その交尾期が、長く続けば若さが続く事に信憑性が出てくる。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

価値観何てものは、別に唯一絶対な訳ではない。

つまり、何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返せば意識を変えてしまえば、今まで「出来ない」と思っている事が、出来る様に成るのだ。

接待経験が豊富に成った妻は、人間的にも豊かに成って魅力を益した。

多くの人と接触する経験は、肉体に止まらないものを修めさせるのである。


恐らくこの物語の話を進めると、生々しい性の話題が氾濫(はんらん)するから「えぇ〜嫌だぁ」や「嘘(うそ)、信じられなぁ〜い」と言った感想が湧き起こるだろう。

妻を始め、この京美企画の女性メンバーも、最初は皆そうだった。

だが、違う世界がある事を体験してしまうと考え方がソックリ変わって来る。

彼女達が、その発想や思考に辿(たど)り着く訳は、その事について考える脳の場所が、普段使っている部位と違うからである。

その脳の別の部位が、新たな体験で目覚めると、活発に動いて今までの観念を変えて行くのである。

「思った。感じた」は、あくまでも個人の主観である。

人それぞれに思惑が違う課題には正解はないのだが、人間には、生きている間に考えて見たり体験するべきものは沢山ある。

所が、ほとんどの人間は考える事に臆病で、それを放棄して現状を容認し、「楽に生きよう」とする。

そこが問題で、どうも世の中の人間は、何か有ると「私は思った」と主張する。

特に女性は論理より感性で、「私は思った」と、思った事はイコール正しいがごとき言い分を言う。

本当に「貴方が思う事は、全て正しいのか?」と問うても、「思ったのだから仕方がない。」と開き直り、まるで話が噛み合わないのである。

これでは、唯の個人感情の発露で、他人を納得させる(説得する)事には成り得無い。

つまり本当の「思い(思想)」は、哲学的だったり論理的だったりするもので、軽率な行動や言動の言い訳が「思い」ではない。

それは「短慮(たんりょ)」であり、他人を納得させる(説得する)事には成らない言い分は、相手の気分を害するだけである。

岩代は、どうやら「彼女達を説得する」と言うよりも、この脳の違った思考の働きを、上手く利用しているのではないだろうか?


確かに、長い事世間の常識的な性倫理観を押し付けられて育って来た私とすると、何やら、性に対してオープン過ぎる昨今の生活に、若干後ろめたい気がしないでもない。

しかし考えて見れば、悠久の時を経て命を繋いで来たのは生きる者の「性交本能」である。

どの道、人間裏がある。

私にした所が、実は世間体を気にするだけで、正直に本能主体で考えれば、拘(こだわ)る方がどうかしている。

その本能を、愚かにも文明人は肯定する事を避け、表向き「嫌らしいもの」として「否定する事が文明」と思い続けている。


(仕上がった順子)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十五話(仕上がった順子)


人の一生なんか、それ程計画的なものではない。

ほんの瞬時の選択で、先が決まる事が多い。順子の場合もそうだった。

時として、「ゾット」するほど人の心理は謎なのだ。

順子は父・竹中の話を聞いていて、脳の中に「ピカリ」と明かりが灯った。

つまり閃(ひらめ)いた。

それで、自分から「忌み祓い」の輪姦(まわし)を望んだ。

だが、廻り始めた歯車は誰も止められない。

順子の女性はハッキリと目覚めているのだ。

順子の場合、完全に拘束固定をされ、自ら止める事を封じられた輪姦(まわし)を二晩経験した。

その刺激はものすごく快感で、一度味合うと世間の安っぽい倫理観など突き抜けてしまう。

つまりそれ以前の考え方は忘れ去られ、新しい価値観が発想を支配するようになる。

そう、「もっと性を楽しんでも良いのだ。」と、気が付くのだ。

そこまで行けば、もう立派な京美企画の戦力で有る。



父の話しに拠ると、この仲間達の集団は、社会通念上反社会的な集団乱交を、平然と楽しんでいるのです。

それが不思議な事に、各自まったく陰質な後ろめたさは無く、あくまでも陽気なのです。内心「羨ましい」と感じ、その事は、私(順子)の脳に強烈な印象が残りました。

社会通念的に解釈すれば、痛烈に非難するに値するとんでもない仲間達の集団だったのですが、皆生き生きとして何故か否定出来ない魅力を感じたのです。

その事が気になって、何日も頭から離れない私(順子)からは、自分が大勢に犯され続ける情景が浮かんで来て頭から離れないのです。

その、気に成る状態は強烈な体験欲求に育って、父親にその事をアプローチしてみました。

思惑通り、上手く行けば夫婦仲の修復も出来そうでした。

嬉しい事に、散々他所の娘で楽しんでいる手前、父親の方も今更自分の娘にだけ「イケナイ」とは言い難い筈です。

それが、思いの他トントンと話が進んで、「三晩も続けて嬲(なぶ)ってくれる」と言うのです。

実は、それを聞いただけで、「子宮がジン」となるくらい、私(順子)の期待が膨らんだのです。

私(順子)の意志には関係なく、色々な坊主頭のカリ首が休む間も無く次から次に私(順子)の中にニュルリと入って来て容赦なく暴れ、極限状態に追い込まれます。

息が詰まるほど犯られてしまえば肉体(からだ)の方は、相手が誰なのかは構いません。

次から次に犯られっ放(ぱ)なしで感度が高まり、腰が自然に浮き上がって妖しくうごめき、私(順子)は明らかに感じて居るのです。

「あぁ、私(順子)は皆に輪姦(まわ)されているのだ・・・」

被虐の快感が私(順子)の本能に湧き上がり、その襲い来る刺激の快感にガクンガクンと上半身を跳ね上げます。

今夜で三日目になりますが、選択に誤りは無かったのです。

素裸に剥(む)かれて容赦なく大勢に弄(なぶ)られる快感は予想以上に気持ちが良く、私(順子)は輪姦(まわ)されて今まで積もった心の垢を洗い流される思いだったのです。



三日目も子供達を寝かし付けてから始まった。

超豪華、四人の美人人妻が、まるで当然の様に全裸で並んだ。

ここは彼女達にとって仕事の修行の場でもある。

彼女達は、己の信じる所に遭ってここに居る。

これはもうある種の信仰に近い。

ここは岩代が構築した結界の中だ。

男も女も、何故か怪しい気分が全開で、誰も不思議とは思わない。

岩代に言わせると、「言い訳の効く理由」さえあれば、女性は容易く変身するそうだ。

信じられないが、現実にその事態が進んでいる。



三日目、五月五日の夜は、順子の「忌み祓い」に拘束パイプは使わなかった。

「岩代君、ソロソロ順子に乱取(らんど)りでもさせて見るか。」

「良い頃合ですね社長。ぶつかり稽古をさせましょう。」

以前に記述したが、乱取(らんど)りは柔道用語で、ぶつかり稽古は相撲用語でいずれも一対多数の廻し対戦練習試合だが、ここでは勿論一対多数の輪姦(まわし)性交対戦を意味している。

その日は男六人、女は順子を入れて四人と比較的小人数のメンバー構成になった。

学生達の試合日と重なって人数の確保が出来ない事も有るが、完全に固定せず、少し本人を女達の一人として動かして見ようか考えたのだ。

それで、三日目とも成ると目隠しはせず、後ろ手に上半身を縄かけして、自分から犯って廻る為に、風俗の花びら回転のごとく歩き回らせる事にした。

男は六人だから、それぞれが座っているソファーの上で、男達を跨いでM字開脚に欲棒を受け入れる体位を取らせる。

躊躇(ためらい)いも見せずに広げた順子の剥(む)き出しの内太腿(うちふともも)が、卑猥に男達のスケベ心を誘っている。

男を誘うようにM字に開脚された両足の真中、順子の太腿(ふともも)の付け根はも丸見えである。

そのビキニラインとも呼ばれるV字型のライン、そこから切り替わって丸く曲線を描いて膨らみながら逆円錐型に陰毛を蓄える恥丘、その最下段に可憐に開いた二枚の妖しい肉花弁・・・・

絶えず前向き跨ぎで、股間を出入りする欲棒を見せながら犯るのがこの場のお約束である。

つまり、ストレートに女達の羞恥心をなくす訓練目的もある。

この場は接待の本番さながらのセッティングだから、男達の方は飲み食いを談笑をしながら、女達の奉仕を受けている。

勿論女達には、男の身勝手で個性的な命令が下り、女達は命令された奉仕を己の肉体を駆使してこなすのである。

何しろこの三日間の目的には、京美企画の接待戦力の養成も兼ねているのだ。

小泉順子は、両手を拘束されているから、他人の手を借りなければ結合出来ない。

抽入の度に、細君(京香)や妻にバランスを取ってもらい、欲棒は花弁の入り口に宛(あて)がってもらう。

そしてサポートされて腰を下ろし、下の口でしっかり咥えて柔ら壺に納まってから腰を上下させる。

それでなければ抽入出来ない。

抽入すれば、出入りする欲棒を見せながら相手がイクまでスクワット・ファックは止められない。

それが、何人も何回も、グルグルと続く。

自分で自分を縛り付ける「忌み祓い」の呪詛フアックを強いられるのだ。

順子は、次から次の果てし無い輪姦性交に応じて悶絶を示す壮絶な善がり声を挙げながらも、愛液に濡れ光る欲棒の生々しい抜き挿しに、クィクィと受け腰で応じる修羅場を見せている。

その抜き挿しが為される度に、結合部の肉花弁の隙間から押し出される白濁した愛液が、順子の太腿をユックリと伝って床に落ちて行く。

順子の犬首輪は相変わらずで、結わえた鎖のリードは細君(京香)が握って順子に指示を飛ばしている。

「はぃ、こっち来て前向きに社長を跨いで、少しずつ腰を下げて。ほら、入れるからもっと深く腰を下ろして。そう、そう。」

「こうですか?アッ、入りました。」

私の欲棒が、順子の肉壁を押し分けてヌルりと中へ入って行く感触を感じた。

もう、順子に神が降りているのだろうか?

「そしたら、腰を少し上げて。はぃ、下げて、あげて。社長がイクまでそのまま続けて。」

「アァー、アァー、アァー、アァー、気持ち良いィー、アァー、アァー。」

当然の事の様に、その相手は社長の私から始まった。

周りに欲棒の出入りを見せながらの性交が、義務付けられて居る。

既に輪姦(まわし)の開始からは一時間ほどが経過し、順子が相手した男は一人当たり五分として延べ十二人を越えていた。

だが、まだズブリと犯られて他人の欲棒を生々しく咥え込んだ順子の卑猥な受け腰使いと、けたたましい善がり声は見事に続いていた。


この三日間、注目は常に順子の股間に集まっている。

それは、嫌でも意識させられる。

おかしな物で、それが何をさせられているかは関係なく、ヒロインの気分が湧く。

それが気持良いのだから、何であれ注目される事は、やはり蜜の味かもしれない。

男達は、残りの三人の女性におシャブリをさせたり身体を触ったりと、楽しみながら、順子が私の欲棒を花陰でイカせるのを眺めている。

これから、順次自分の番が廻って来るまでは他の女達でウオームアップする事になる。
それが、ルールだ。

それまでは酒を飲みながら、私の欲棒が突き刺さって深く浅く出入りする順子の花陰でも眺めている事に成る。

生島喜美子が、大きくM字に開いた股間を小泉に指でいじられながら、溜め息混じりに言った。

「ア〜ァ、私の開所式が早く来ないかな。順番が、一番最後の最後に成っちゃた。」

「今月の中途(なかば)には犯りましょう。」

応えた岩代が、妻を横座りに膝に乗せて、乳をシャブリながら、股間に手をやっている。

「皆が大分慣れて来たから、キミチャンの時はもっと要求がキツくなる筈よ。」

岩代の刺激を受けて感じているのか、妻が横から甘い声で言った。

すっかり流れを掴んでいる。

妻に脅されても、喜美子は動じない。

目の前で二人の「輪姦忌み祓い呪詛」の結果を見ている。

「極楽の境地を得られるなら、何でも良いから早く受けたいワ。」

「お前は業(ごう)が深いからきついお仕置きで忌み祓いをしなけりや。」

夫の生島が、細君(京香)にシャブられながらまぜっかえした。

そして次は義父の竹中だった。

「なさぬ仲の親子」とは良く言ったもので、なさぬ(交わらずに)のに出来るのは、連れ子か貰い子である。

メンバーの暗黙の了解で、私の次は竹中に成っていたのだ。

細君が首輪のリードを操って順子を竹中の前へ誘導した。

「ほれ、お義父さんのをシャブってあげなさい。」

「はぃ。」

順子は膝ま着いて、既に顔を出していた竹中の黒光りする使い込んだ坊主頭をパクリと咥(くわ)え、直ぐに唇で扱(しご)き出した。

竹中の顔には、快感よりも感動の表情が浮かび、目に少しだけ光るものが見えた。

まぁ、このイベントの目玉が、興奮を期待できる竹中と順子の絡みで有る事には間違い無い。

順子は見世物宜しく、今やそれを遣って見せる事が使命みたいなもので、彼女には、自分で自分を縛り付ける「忌み祓い」の呪詛フアックが強いられるのだ。

「さぁ、固くなったら前向きに跨いで、少しずつ腰を下げて皆さんが見える様にフアックして。」

細君の指示が飛ぶ。

小泉順子は、両手を拘束されているから、他人の手を借りなければ結合できない。

「入れるからもっと深く腰を下ろして。」

抽入の度に、細君(京香)や妻にバランスを取ってもらい、海綿体のカリ首は花弁の入り口に宛がってもらう。

そしてサポートされて腰を下ろし、下の口でしっかり黒光りする坊主頭を咥(くわ)えてから腰を上下させる。

硬くなった坊主頭の海綿体が、短目の恥毛の一部が生々しく絡む肉花弁を押し分けてユックリと順子の中にめり込み、やがて内壁を擦(こす)りながら深く浅く見え隠れし始めた。

細君(京香)や妻にバランスを取ってもらわなければ、抽送は出来ない。

抽入すれば、出入りする陰茎(欲棒)を見せながら相手がイクまでスクワット・ファックは止められない。

竹中を跨いで抽入を果たして腰を上下させ始めると、竹中の陰茎(欲棒)が順子の愛液に濡れて光りながら見え隠れし、順子の顔が恍惚の表情に変わった。

もう、順子に神が降りているのだろうか?

「はぃ、下げて、上げて。お父さんがイクまで続けて。」

「アァー、アァー、アァー、アァー、アァー、アァー、気持ち良いィー、気持ち良いィー。」

竹中は、黙って目を閉じ、海綿体を通して伝わって来る順子の、花弁の奥の感触を、欲棒のカリ首で味わっている。

この親子には、神が取り付いて居るとしか考えられない。

皆、その育ての親子の痴態を食い入る様に見ていた。

ここは、快感の幸せを、見る者に分かち合う為の結界の中なのだ。

とにかく、竹中親子の新しい関係が成立した事になる。


順子の、渾身のM字開脚公開スクワット・ファックの最中、竹中が、傍(かたわ)らの私に言い出した。

「順子が輪姦(まわ)されるのを見ていて、ふと、思ったのだが、これは江戸期に在った・狐祓(きつねばら)い・に似ている。」

竹中は順子の感触を楽しみながら、「狐祓い」を言い出したのだ。

愛液に濡れて黒光りする竹中の欲棒は、確りと順子の、短目の恥毛の一部が生々しく絡む二枚の肉花弁の間に嵌(はま)り込んで硬さを誇っている。

その竹中の両手は前に伸び、順子の乳房を掴んで揉みしだいている。

「年寄りは、思いついた時に言わないと、忘れるでな。」

そんな状態でも、竹中は何か言いたいらしい。

彼に拠ると、江戸時代から明治中期まで町屋(商家)を中心に流行した「狐着き祓い」が、まさしくこれだと言う。

実はこの「狐着き」商家の娘が、都合の悪い恋愛や恋わずらいをした時に、便宜上付ける厄病で、修験者を呼んで「狐(恋愛感情)」を落としてもらう。

修験者の「お祓い」と称するものの実体が集中的輪姦で、娘を犯し倒す性感の波状攻撃により、娘の人生観さえも変えてしまう。

つまり、娘から「狐着き」が落ちて、親の薦める縁談がまとまり、経験を積んで性的に成熟しているから、嫁に行っても、婿を貰っても相手を飽きさせない。

「すると、性交による矯正と言う事ですか?」

「そんな所だ。過去を洗い流すお祓いの輪姦(まわし)と言う考えで、順子の考え方に似ているだろう。」

「なるほど、昔からそう言う手段はあった訳ですね。」


自ら希望して輪姦(まわし)に掛けられたら、私(順子)の肉体(からだ)は無条件で皆さんに自由にお使い頂くルールです。

犯られて見たら、全く意志を封じられ肉体を完全支配されて好き勝手に犯られる被虐感は、意外と脳みそをトロケさせる快感で、たまに訪れる非日常の時間だけなら遊びとして私(順子)は素直に楽しめそうです。

上手く出来たものでこれが単独の相手では無く、何しろ多人数が一度に相手で、個別の感情など持つ暇は有りませんから、「案ずるより産むが易し」で、私(順子)がその気に成れば「楽しめる他人相手の遊び」だと割り切れます。

一度輪姦(まわし)が始まってしまえば流れに身を任(まか)すばかりで、次から次と輪姦(まわ)される私(順子)には考える暇はありません。

待った無しに無我夢中で犯られ続けるばかりで、勿論、輪姦(まわ)されている間は、私(順子)の人権や意志などは誰もまったく考慮などしないのです。

目の前に欲棒がぶら下がれば、反射的にそれをパクッと咥(くわ)えてシャブり、抽入されれば受け腰し使いで応じます。

次から次に相手が続き、私(順子)が貫かれたカリ首を、腰をクィクィ使って内壁に擦(こす)り続けます。

男と女が「合体する」と言っても、現実に女性の肉体(からだ)に男性器(欲棒)が接合(ジョイント)出来る所は、口にア*ル、そして女性器の三ヶ所しかありません。

完全支配の輪姦(まわし)ともなると、私(順子)のその三ヶ所が、問答無用で自由にお使い頂いてのフル回転で、使用されます。

今度は「アァ。」義父の竹中が・・・・私(順子)の中に入って来ます。

私(順子)が望んだ事とは言え、刺激的です。

私(順子)の股間の聖域を貫いた竹中の父の陰茎が、愛液に濡れ光って見え隠れしている様を夫の生島が覗き込んで見ています。



京美企画の社内に於いて、普通の付き合いを超えるには普通では無い付き合いが必要で、勿論目的が違うから相手も行為内容も相手任せだが、それは理屈では無く小泉順子が実行する事でこそ初めて証明される。

小泉順子が京美企画に参加し、夫と義父も交えた輪姦儀式も行って一族のわだかまりは消え、順子は性接待を始めて劇的に変わった。

性接待の実践の方はまだ訓練をしながらで、訓練時には夫の小泉と父親の竹中それに私か岩代が加わって、三人同時責めの四Pなど過激な事も仕込んで行く。

股間に私か岩代の肉杭(にくくい)を一本、口に亭主のを一本、そしてア*ルにまで三本目の竹中の肉杭(にくくい)が射(う)ち込まれていて身動きが取れないまま、順子は三連動の抜き挿しに耐えねばならない。

性接待では極限となる三人同時肉杭(にくくい)責めの四P訓練で、それは一見酷い訓練に見える鮮烈な光景だが、順子に採っては辛いと言うよりもその強烈な刺激が快感に変わって脳に突き刺さって来た。

その四P三穴攻めの三本の抜き挿し快感に、順子の尻の穴がギュッと締まり、ア*ルに入った義父・竹中の欲棒を絞め付けた。

一人の女性に、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などを強(しい)いるのであれば、それは酷い事と受け取られるかも知れない。

しかしその女性が本質的にスケベであれば、その酷い事をさせる話は一転御褒美に与えるセックスの話に変わって来る。

つまりその大胆セックスは、考えように拠っては夫との「日常定食セックス」と違って、スケベ女には豪華フルコースの「贅沢セックス」なのである。

予(あらかじ)め需要をレギュラーなものとして予測して置くのが,企業としての原則である。

小泉順子のクールな気の強さが、被虐(マゾ)感性男性相手の性奉仕に「持って来いだ」と見破って、岩代と細君(京香)がSプレィを特訓して仕込み挙げた。



連休が終わると、まるで輪姦呪詛のご利益でもあるかの様に、京美企画には凄く大量の地上げ注文が舞い込んで来た。

マネーゲームが日本列島の隅から隅まで、空前の過熱をしていたのだ。

銀行は「乗り遅れまい」と競って土地投機にジャブジャブと金を貸せた。

しかし、岩代は頑なに自己資金の回転に留め、金融機関からの融資を受けなかった。

その分、女性軍の接待需要は大車輪で、四人がフル回転の働きをする。

呪詛エネルギーのパワーが成果を呼ぶのか、事業は僅かな期間で急成長を続けている。


「忌み祓い」を行う、大神(オオカミ・狼)の巫女は四人になった。

巫女同士の序列は自然に決まって行き、京香、里美、順子、喜美子の順である。

つまり正式な輪姦儀式の早い順番が、彼女達の序列に成ったようだ。



そこへ岩代が、四人ばかり巫女の候補を連れて来た。

四人とも「離婚と死別で子持ちの一人身だ。」と言う。

それぞれの女が、訳ありの過去を生きて来て、人生をリセットする為に京美企画に応募した。

岩代夫婦はそんな女達の中から、彼らの鋭い嗅覚で妊娠の心配が無い四人を選び出していたのだ。

何処で調達して来たのかと思ったら、生保の勧誘をしている女性達からセレクトしたらしい。

なるほど、条件が合う女性の多い職業だ。

この選んだ四人の本性が、「愛奴隷にマッチング(相性/適合)している」と岩代は看破していた。

それを連れて来て、「この会社(京美企画)の戦力になる様に仕込もう」と言う魂胆(こんたん)なのだ。

実は、岩代が焦(あせ)っていた。

彼の構想では大神(オオカミ・狼)の巫女は八人必要だった。

それを、早急に揃(そろ)えたがっていた。

彼が言うに、「この土地バブルは先が無い。あと二〜三年だ。」と言うのだ。

彼の神掛かりな能力からすると、確立は高い。

その事態を予測して、「強固な地盤を今のうちに作る必要がある」と言う。

連れて来た四人は、いずれも岩代のめがねに適った女性達で、「教育係は細君が当たる」と言う。

この上、亭主の居ない新しい女達が四人もメンバーに加われば、私はさながらハーレムの主だ。

まるでその光景が、目に浮かぶようだ。

男として喜ばしいのだろうが、所帯が大きくなれば、社長としては責任が重くなる。

しかし社長に担ぎ上げられた会社は、殆ど私の手を煩(わずら)わせずに異常な営業利益を上げている。

どう考えても、「金と女」の男の夢が、努力も無しに適って行くのである。

つまり、長い夢を見ている様な感覚の中に、私は身を置いて居るのだ。



大神の巫女は八人と岩代の構想で決まっていた。

別に里見八犬伝になぞった訳ではない。

里見八犬伝の方こそ、日本古来の信仰から八を導いている。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

神話の伝承によると、スサノオ(須佐王)には、八人の子がいる事に成っている。

大八島(日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。

性的霊力で、「幸せの連環構築」を強力に推し進め、威圧感の中にも優しさが漂う岩代のオーラには、「天性のもの」と言うべき心に響く独特なものがある。

どうした事か、大方の女性は、そうした彼の魅力の前にひれ伏してしまう。

そして気が付いた時には、「乱倫同志経営」の輪の中で、その一翼を担っているのだ。

いずれにしても、岩代が誰かに啓示を授けられて、それを実践しているとしか考えられない。

この会社に限っては、彼は間違いなく神の使いとして、ここに居る。

だが、まだ謎は多い。

明らかに岩代が主導しているこの一件に、私は「何の役割を担っている。」と言うのだ?


岩代には、唯一師と仰ぐ人物が居るようだが謎の存在で、興信所の調査でも浮かび上がらなかった。

その内驚いた事に、興信所側から調査打ち切りを要望して来た。

丁寧に調査費の一部を返還して来たのだ。

問い質しても真の理由は口にはせず、ただ「これ以上調査の進展が見込めない。」と言うが、生来勘が良い岩代の事である。

うがって憶測すれば、岩代が気付いて圧力をかけた事も考えられた。

色々な事が頭を過(よ)ぎったが、確かめる術(すべ)は無い。

調査員はそれだけ告げ、清算を済ますと慌(あわ)てて待ち合わせた喫茶店を出て行った。

それを呆然と見送った私は、いずれにしても興信所の調査を「諦(あきら)めざるを得ない。」と思った。


この頃から、我々京美企画のメンバーが知らぬ間に、ある影が忍び寄って来ていた。

当の社長である私は、まさか京美企画が妙な所に「目を着けられている」とは想像すら出来なかった。

唯々、想像さえしなかった大金が毎月転がり込んで来る事業成果に、手放しで浮かれていたのである。

有る意味当たってはいるのだが、一般的な常識として、違法行為でもしていなければ急激な業績向上は有り得ない。

既成概念に囚われて、開発精神(フロンティア・スピリッツ)をこうした手段に応用する事は、元々世間では発想の内に存在しない。

正にこの存在しない発想は、企業経営の穴なのかも知れない。

これは違法行為をせずに済み、岩代は、その穴の部分(正に女体の穴の活用だが)に着目し、企業経営の手段とした。

妻の肉体(からだ)はまんまと岩代の計画に嵌(はま)って、正にそのその穴の部分に着目した企業経営の手段として活用されている。

しかしその結論は、妻が自分で出した答えである。

利巧な人間ほど好奇心が強く、何か思い付けば「試そう」と努力する。

そうした人間が進歩するのだが、大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩が無いのである。

それは、どう生きようと個人の勝手で、「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」の範囲で判断した価値観の幸せも、自己満足では在るが本人は幸せを感じる。

しかしこの「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、安全ではあるが別の側面から見れば「平凡で詰まらない人生」と言う淋しいものに成る。

妻はガチガチに既成概念(アンカリング効果)に取り付かれて性に嫌悪感を抱き、「平凡で詰まらない人生」を送る筈(はず)だった。

しかし妻一人の人生ならそれでも良いが、連れ合いの私はそんな詰まらない妻に満足出来なかった。

社会の既成概念に従って平凡無難な人生を送り、「一生真面目に生きた」と思うのも本人がそれで良ければ自己満足の幸せではある。

所が妻の里美は、生来利巧者で本質的には好奇心が強く何か思い付けば「試そう」と努力する能力を内在していた。

それが、この独立計画と妻の愛奴隷化性教育で一気に弾(はじ)けたのである。

この「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、妻のように強烈なインパクトの性体験を切欠(きっかけ)に錨(いかり)を上げてしまえば価値判断の範囲も変わるもので、全く違う発想が持てるのだ。

いずれにしても京美企画の性奉仕の接待は、いささか卑猥(ひわい)ではあるが犯罪性に乏しい手段の筈だった。

所が後で判った事だが、それでも京美企画の驚異的な業績向上に、国家組織は疑問の目を向けていたのである。



「どうだね奥さん(里美)の様子は、愛奴隷は続けられそうかね。」と竹中氏が公開調教の首尾を聞いて来た。

「実の処、内の奴(里美)の様子は、嫌だったと言うよりも、むしろ愉しんでスッキリした様な雰囲気でした。」

「じゃろう、あれ(輪姦プレィ)を経験した女性の大概その後は好感触だよ。」

「はぁ、家に帰った後もまんざら嫌そうでは無い様子でした。」

竹中氏が、「クライアント(得意先/顧客/依頼人)を集めて、里美に輪姦(まわし)を犯らせてみれば、反応感度で調教の出来が判るだろう。」と笑って言い放った。

この頃はもう、京美企画のクライアント(得意先/顧客/依頼人)も数が増えて来て接待も多くなって来ていた。

一度社長婦人に集中接待をさせるのも良いかも知れない。

「えぇ、それを犯らしちゃいましょう。」


要領も判っただろう二度目の輪姦プレィでは、犯らされる妻・里美も淑女の仮面を脱ぎ捨ててプレィをテンポ良く熟(こな)し観せ、モタツキなどは赦されない。

本来のソーシャルセックス(社交的な性交)の目的は、肉体を駆使して仲間内のシエアリング(共同所有)の精神を快適に愉しむ為である。

それにしても、妻・里美に人気が在れば在るほど犯りたい学生達が何度も群がって、嬲(なぶ)り者にする。

多人数の性交相手を熟(こな)すに大変だが、女心の本音で言えば「敬遠される依りは順番待ちの行列が出来る高い人気を得たい」と言う想いも在る。

性接待のソーシャルセックス(社交的な性交)が、当初は納得が行かない事でも、それに一旦応じてしまえば後は自分で納得が行く理由を見つけるしかない。

本来の愛奴隷の目的は、肉体を駆使してクライアント(得意先/顧客/依頼人)を快適に過ごさせる事の一点である。

それにしても、妻・里美に人気が在れば在るほど犯りたい男達が群がって、多人数の性交相手を熟(こな)すに大変だが、女心の本音で言えば「高い人気を得たい」と言う想いも在る。

愛奴隷はクライアント(得意先/顧客/依頼人)に、素っ裸で犯り放題に弄(なぶ)られる事を承知して全裸で引き渡されている。

妻・里美は、岩代夫婦や竹中氏に仕込まれた「愛奴隷として在るべき姿」を生々しく実践していた。

一人十分間から十五分間、五〜六人ごとに十分間のインターバル(休憩時間)を加え、妻・里美は十二人の相手をこなして凡(およ)そ三時間前後の生ライブだった。

取り囲んだギャラリーの男女には、手を伸ばせば絡み合う男と妻・里美の肉体(からだ)に触れられる程の至近距離である。

欲棒を咥え込んだ股倉を意識して開いて見せるこの見世物状態を、西洋ではサーカス(群集が取り巻いて見下ろす見世物)と言う。

夫である私の目の前で、全裸の妻・里美がゲストに乳房を握(にぎ)り掴(つか)まれ、揉みしだかれ、M字開脚をさせられて股座を晒(さら)している。

ストリップ・サーチ(全裸検査)は、愛奴隷の引渡しやSMプレィの基本の様式で、委(ゆだ)ねられる肉体(からだ)の「品定め権の行使」みたいなものである。

晒(さら)した股座の肉花弁を指で広げられてスリットの中を観られたり、笑いながらスリットの中に指を入れられて弄(なぶ)られている。

全裸体の妻・里美を左手で抱きかかえて、ギャラリーに良く観える様にM字開脚で股を開かせ、右手の指二本を妻・里美の大股開きの中心にズブリと挿し込む。

妻・里美の太腿(ふともも)の眩(まぶ)しい大股開きの中心を、二本指をクィクィと抜き挿しをして攻めたてる。

妻・里美は、ギャラリーの注目が集まる股間を少し浮かせ、「アゥ、アゥ」と善がり声を挙げて健気(けなげ)に指の抜き挿しに耐えている。

指攻めに股間からクチャクチャと言う愛液音を発しながら、妻・里美の腰は艶(なまめ)かしくクネリ、時折ビクンビクンと動いて激しく反応して見せている。

抽入された指二本で膣中をディスターブ(掻き回す)され、妻・里美は猛烈な快感に上半身を海老ぞりに反り返り、腰をビクンビクンと痙攣(けいれん)させる。

例え指で攻められても、感じ始めれば「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声も出て来るし、腰もリズムを合わせて使い始める。

妻・里美は、わめく様に善がり声を挙げ、のけ反(ぞり)りながら腰を浮かし、身震いして快感反応を露(あらわ)にして居た。

それが続いて、妻・里美がもう耐えられない風情で腰を引き脚を閉じようと試みるので、クライアント(得意先/顧客/依頼人)が抜き挿しを止める。

漸(ようや)く指を肉体(からだ)から抜かれて、やっと妻・里美はホッとした表情を浮かべた。


次は全裸の妻・里美が這いつくばり、目を怪しく光らせたゲストに双っの尻肉を左右に広げられてア*ルの菊座と肉花弁のスリットを晒(さら)している。

愛奴隷のクライアント(得意先/顧客/依頼人)への快適な「おもてなし」は、おシヤブリから始まる。

全裸で膝間着(ひざまつ)く妻・里美の目の前に、抜き身の名刀(欲棒)がクライアント(得意先/顧客/依頼人)の股間にポロリとぶら下がっていた。

その名刀(欲棒)を、妻・里美が利き手で握って扱(しご)き始め、ムクムクと反応が始まった。

妻・里美が手で扱(しご)いていきり立ったクライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒を、上から被せる様にして親指をカリ首に廻し、軽く握って手の甲を腹に充てる様に欲棒の裏を顔に向ける。

妻・里美は、その欲棒の「裏筋(うらすじ)」を、鼻を擦(こす)り着けながら舌先を使って舐(な)め挙げ、玉袋も舌先で舐(な)め挙げて来る。

頃合を見て、妻・里美はその裏筋(うらすじ)舐(な)めで握って居た手を放し、パクリとカリ首ごと欲棒を咥(くわ)え、クィクィとシャブり始めた。

妻・里美の口技に身を委(ゆだ)ねたクライアント(得意先/顧客/依頼人)の顔は極楽を彷徨(さまよ)っている。

シャブられて欲棒が硬さを益せば、次は妻・里美への抽入と抜き挿しで、クライアント(得意先/顧客/依頼人)は、上にさせたり下にさせたりと思い思いの体位で、妻・里美との性交を愉しむ。

出来るだけ早く人数を消化しなければ身が持たないから、恥女に変身した妻・里美は、クィクィとリズム良い腰使いで咥え込んだ欲棒に快感刺激を与えている。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)の男達は、里美の両膝に手を置いてパカッと脚を左右に開き、遠慮も無く股倉に欲棒を抽入して来る。

欲棒が中に納まるとクライアント(得意先/顧客/依頼人)達は、抽入した欲棒を「此処ぞ」とばかりに気分を高めてピッチ良く攻撃的にグィグィと抜き挿しして里美を攻め愉しんで来る。

パカッと開いた股倉に怪しく欲棒を咥(くわ)え込んだまま、里美が会心の受け腰でクィクィと応戦して観せている。

その攻撃が、里美が被っていた淑女の仮面を脱ぎ捨てさせ、気取を捨て去ってしなやかに軽快にあられもなく裸身を弾(はず)ませいる里美が、そこに居た。

始まってしまえば、相手は代われど妻・里美には二時間や三時間は「犯られっ放し」と言うか「犯りっ放し」と言うか、ともかく絶頂(イク)が継続する過酷な他人前(ひとまえ)性交ショー状態が続く。

セックスショー化してギャラリーにライブ(実況)で観せる事で気分が高まり、脳内に発生するドーパミンの興奮がセックスハイの陶酔を引き起こして、密度が濃いプレィが演出される。

言わば舞台装置みたいなものだが、観られてこその興奮で、このショー化が綺麗事の裏側に存在するもう一人の妻・里美の本性を暴(あば)き出す。

そして妻・里美は、羞恥の感性の中で気取(キドリ)を捨て去り、しなやかに軽快に、あられもなく裸身を弾(はず)まさせてギャラリーの前で性交プレィをする。


シュール(非日常的)で衝撃的なプレィ光景が、固唾を飲む周囲のギャラリーに良く見えていた。

全裸の妻・里美が四つん這いに白い尻を高く掲(かか)げた姿勢をさせられて、後ろから眺めるとア*ルの菊の蕾(つぼみ)が恥ずかしそうに皺(しわ)を見せている。

そのア*ルの下部、柔らかそうな肌の太腿(ふともも)の付け根に、こんもりと二枚の肉の花びらが「触れてくれ」と怪しく男を誘うように左右から閉じ気味に割れ目を見せている。

今妻・里美の肉体使用権を得ている男が、右手を開いて中指で二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて挿し込み、クィクィと抜き挿しして攻め始める。

「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ。」

攻められた妻・里美が善がり声を挙げ、腰を震わせて反応を始める。

指攻めの反応に興奮したのかその男が硬く張り詰めた自分の欲棒を左手で握り締めて四〜五回扱(しご)き、その欲棒のカリ首を妻・里美の割れ目へ二〜三度擦りつけてグィと挿し込んだ。

四つん這いに左右に開いた妻・里美の太腿(ふともも)の中央に、その男の欲棒がズッポリと嵌(はま)った。

後背位で生々しく嵌(はま)った欲棒が、男の腰の動きに応じて愛液で濡(ぬれ)れ光る陰茎を見え隠れさせながら抜き挿しされている。


その後も妻・里美へのクライアント(得意先/顧客/依頼人)達の輪姦は続く。

今、妻・里美は、脚を床に踏ん張った騎乗位で欲棒を咥え込んだ股倉を意識して開いて見せながら、乳首が立った乳房を上下に揺(ゆ)らし、腰から上半身を上下させている。

すると、仰向(あおむ)けに横たわる男の愛液に濡れ光る陰茎が、妻・里美の上半身上下に合わせて見え隠れしている。

ギャラリーの女達から「ハッスル、ハッスル」の囃子立(はやした)てが起こり、その掛け声に合わせる様に妻・里美の腰の上下が激しくなる。

腰の上下が激しくなった妻・里美は、「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声を発しながらリズム良く腰を上下させ、ギャラリーの期待に応える。


妻・里美の肉体(からだ)の中心に、やっと順番が廻って来た男の欲棒が挿し込まれ、クィクィと腰の動きと共に陰茎が見え隠れしている。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)の男の欲棒を咥え込んだ腰も、妻・里美の口から漏れる「ハッハッハッハッハッハッ」の連続音と共に受け腰で応戦している。

妻・里美の左右に開いた太腿(ふともも)の中央に、二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて生々しくズッポリと嵌(はま)った欲棒が、愛液で濡(ぬれ)れ光る陰茎を見え隠れさせながら激しく抜き挿しされている。

妻・里美の快感が強くなったのか、暫(しばら)くの間、「アァー、イクー、アァー、イクー、アッ、アッ、アッ、アッ。」と言うけたたましい妻・里美の絶頂の善がり声が会場中に響いていた。

正直輪姦(まわし)の場合は、攻める順番で言えば「先に二〜三人に犯られてイッ(絶頂)た後」の女性の方が肉体(からだ)の感度が上がっていてヒィヒィもので、犯るのが堪(たま)らなく面白い。

妻・里美の肉体(からだ)は、その感度が上がった状態で次の訪問者(  の男性)を迎えた。

しかしその内、妻・里美の肉体(からだ)から「ガックリ」と力が抜け、「だらり」と動かなく成った。

「奥さん、気を失ったみたいですね。まだ予定の人数の半分も行っていません。このまま続けましょう。続ければ、その内に気が付きます。」

「判っている。構わない、続けさせよう。」

妻・里美がこう成ったのは私のせいで、「気絶したから」と言って赦(ゆる)されないから、そのまま犯らせて見守ってやるしか無い。

目の前で、妻・里美がぐったりと動かなく成ったまま、男達が入れ替わりながら壮絶な陵辱を受け続けている。

何しろ輪姦(まわし)に馴れた男達が相手で、男がパンパンパンと突き入れる度に、妻・里美の乳房が上下し、肉体(からだ)がガツン、ガツンと波打って見える。

その状態が三人ほど続き、再び妻・里美が息を吹き返し、「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ。」と善がり始めた。

再び恍惚の表情を浮かべて、妻・里美が「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声を上げ始め、またクライマックス(絶頂)に達したようだ。

妻・里美のクライマックス(絶頂)の悲鳴も一度で終わらず、この輪姦性交ではもぅ何度と無く聞こえていた。

それにしてもあれだけ善がっている妻・里美を観ると、この輪姦(まわし)を「可哀相(かわいそう)な事をさせた」と同情して良いものかどうかも疑問になる。


それ成りに成熟した女性なら、切欠さえ在れば年齢相応の思考なり肉体なりに自然に進化しているものである。

愛奴隷の性奉仕の場では陰湿な性交は好まれず、ソーシャルセックス(社交的な性交)の性交は、「明るく愉しく」がもっとうで無ければ趣旨とは違う方向に成る。

つまり犯る者も犯られる者も、そして見物する者も、その時間を愉しく過ごさなければ意味がないからである。

大人(おとな)なら恋と性愛の違いくらい承知していて、馬鹿者な女性は利口者振るが利口者は馬鹿なスケベ女性の振りが出来る。

愛奴隷の性奉仕として、アベソルティオベデンス(絶対服従)と言う合意の中で指図(さしず)されれば、それは相手の性癖を満足させる為のエグゼクティブ(高級・贅沢)な愉しみである。

つまり性行為の形態や技法を想像で否定するのでは無く実際に体験して良さを理解すれば、人間は基本的な考え方が変わるものである。

当然この輪姦経験舞台は、妻・里美の心境に「大きな影響が在る」と、私には思える状況だった。

正直、夫の私にして見ればこの出来事を切欠に、これからの新しい妻・里美に逢える期待が高まった。


妻・里美が体験した接待のソーシャルセックス(社交的な性交)は、息も絶え絶え(たえだえ)に成る程に強烈だった。

「もぅ懲り懲(こりご)り」などと格好を付けては居られないほど、後を引く快感体験だった。

最初は仕方なしに犯られるだけの気分でも、次から次に犯られれば感じ始めて当たり前で、自然と受け腰で抜き挿しにクィクィと応じ始める。

肉体(からだ)の中心を欲棒に貫(つらぬ)かれ、妻・里美の顔は完全に身を委(ゆだ)ねるモードの表情に入っていた。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)のクィクィ言うと腰の動きに応じて、「アッアッアッ」と妻・里美の喘(あえ)ぎ声とハァハァと荒い息の呼吸が他人前(ひとまえ)にも抑(おさ)えるでもなく漏れている。

快感を貪(むさぼ)り始めたらもぅ止まらず、そのまま容赦無(ようしゃな)くイカされ続けて男達は二回(ふたまわ)りに入(はい)り、やがて妻・里美は絶叫する。

その妻・里美の肉体反応を、夫の私が見知らぬ女に欲棒をシャブらせながら目をキラつかせて観ている。

この世に生まれた幸福をエンドレスに感じる絶叫悶絶の快感に、偽善社会の罪悪感も吹っ飛ぶ究極の心地良い疲れは理屈を超越していた。

「あの犯され続ける時間がまた遣って来る」と想うと、次の誘いを心待ちにする妻・里美がそこに居た。


本人なり周囲の人間なり、誰が何と言おうと妻・里美は全裸でこの公開性交舞台に「これでもか?」と股を広げて出演した。

本音で言えば、こうした場面で淑女(しゅくじょ)のあられもない究極の姿を観るのは、出席者の偽らない愉しみである。

また、こうした舞台に登ってしまった妻・里美にして見れば、それはもぅアスリートの気分で全力を尽くして、この生々しいエロスを観せるしか無かった。

だからこそ、妻・里美にしてみれば、あれだけ犯って観せたのだから「充分にギャラリーを愉しませた」と言う意識はある。

そして妻・里美には、これを越える曝(さら)け出しは想像出来ないほどに、犯り遂げた想いはある。

「人前で性交する」と言う脳みそが溶ける様な究極の羞恥心は、女性が本来持つ露出嗜好を満足させるものである。

また、このプレィに於けるアベソルティオベデンス(絶対服従)は、女性が持つ究極のM性(マゾ性)を満足させるものである。

そして、同じ類人猿・チンパンジーやオラウータンの群れ婚、発情期に於ける雌に対する雄の連続輪姦の現実は、女性の遠い記憶の中に在る

だから「止む事が無いのでは」と思える連続輪姦の快感は、妻・里美がセックスハイ現象に追い込まれるのに充分だった。

この性接待と言う凄(すさ)まじいセックス・プレィに追い込まれる事態に遭遇するまで、妻・里美はお気楽に生活していた。

しかし生き方に「安易な決まり事」を持ち込むと、楽に生きられるかも知れないが想像力や創造力は育たない。

「何で私が、こんな事を犯らなきゃいけないの?」と想うかも知れないが、何事も妥協しては良い仕事は出来ない。

確かに今までの認識からすればこの事態は異常な状況ではあるが、追い込まれて避けられないのなら今更クヨクヨしても仕方が無い。


元々「変態の素質」はアンソロポロジー(人類学)的な生物学的特性で、唯一ホモサピエンス(知性人)に潜在する性癖だから、他の生物に「変態」は存在しない。

何しろ私の妻・里美は、本来なら世間では「ふしだらな淫乱女」と罵(ののし)られる卑猥(ひわい)でエキサイティング(興奮させる)な遊びを、大勢を相手に犯らせているのだ。

表面的な偽善社会の世論感覚からすれば、性接待行為は大いに羞恥心や罪悪感を感じる行為である。

しかしこれは、犯らせたい相手への仕掛けた相手の拘(こだわ)りの上、私の妻である里美にしか出来ない役回りだった。

それでもぅ、女性(おんな)として覚悟を決めたからこそ、モチベーション(犯る気)を証明する為に、里美は全裸で此処に居る。

相手の男が、パンパンパンと二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて妻・里美に欲棒を突き入れる度に、里美の身体がガツン、ガツンと波打って見える。

マットレスを敷いた性交舞台の上で、里美はライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)の卑猥(ひわい)な視線を集めながら「ハッスル、ハッスル」の囃子声(はやしこえ)に急(せ)かされるように欲棒を咥え込んだ肉体で奉仕をして居る。

里美は、半ばランナーズハイ現象に似たセックスハイの陶酔の中で、男達の輪姦(まわし)に応じて噴出した汗に塗(まみ)れ、精液混じりの愛液を垂(た)れ流しながら奮戦していた。

里美が、妖艶(ようえん)な姿態を露(あらわ)に、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)と凄(すさ)まじい性交を繰り広げている。

多数の男達を相手に、大勢で寄って集(たか)って激しく攻め犯され、乳房を揺(ゆ)らし、腰を使い、裸体を踊らせながら奮闘している。

男達に続けて犯られれば、例え他人前(ひとまえ)で在っても肉体の反応の方は「理性(左脳域)」だけでは快感反応を抑(おさ)えられない。

だから里美は、男達の激しい抜き挿しに耐え切れず、途中からタガが外れて欲棒に串刺しにされたまま腰を浮かして物凄い反応で涎(よだれ)を垂(た)らしながら喘(あえ)ぎ善がる。

続けて性交しているから、アクメ(絶頂)に陶酔してまだ前の男の欲棒の感触が残っている里美の股間に、次の男がまた欲棒をコジ入れて来る。

股間に欲棒を咥え込んだ里美の裸体が、大胆にそしてしなやかに受け腰を使い、男達の激しいプレィに応じて怪しく踊っている。

この輪姦(まわし)は一プレィあたり十分から十五分、五プレィごとに五分ほど休ませて二十プレィほど男相手の取り組みが続き、当然里美は数プレィ消化後から快感反応の連続陶酔状態でプレィを続ける事になる。

里美は、男が変わる度に絶頂に達して歯を食い縛り、腰を小刻みに震わせながら同時に左右に捩(よじ)り、仕舞いには海老ぞりに反り返り絶叫する。

亭主としては、それを眺(なが)めて里美の奮闘振りを褒めているのだから、他者が聞けば冗談みたいな「おかしな話」に聞こえるかも知れない。

しかしその時は、被(かぶ)っていた仮面を夫婦共に脱ぎ捨てて居たから、妻・里美の奮闘振りを「流石(さすが)内の奴だ」と褒めてやれた。

一匹の獣(けもの)の雌(メス)と化した里美の恥さらしな激しい性交姿を、夫の私もライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)に紛(まぎ)れて眩(まぶ)しそうに観ていた。

目の前で妻・里美が犯られている気分は複雑だったが、妻の肉体(からだ)に他人の欲棒が抜き挿しされている光景には、正直私は抑え切れない興奮も感じていた。

妻・里美の性反応が、とても日頃の夫(私)相手では見せないほど激しく大胆だったからである。

もっとも、あれだけ次から次に輪姦(まわ)し犯されてはアクメ(絶頂)が繰り返し続いて、里美がセックスハイの陶酔の中で性交を続けていても不思議は無い。

ライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)は、大きく広げた里美の股間に欲棒が抜き挿しされ、里美の腰がその欲棒の抜き挿しに同調してうごめく様を愉しんでいた。

里美の肉花弁が欲棒の抜き挿しに連れて、よじれたり中に巻き込まれたりと生々しい様子まで、ライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)が目を光らせて確りと観て居るのを里美は感じてた。

肉体(からだ)の中心を男達の欲棒に突かれながら、肢体を躍動させる里美は「セックスハイの陶酔」を感じていた。

里美は、周囲のライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)から丸見えの性交舞台の上で、舞台に上がって来る男達と次から次と性交する。

もぅ興奮がピークに到達して弾(はじ)けたセックスハイ状態の里美は、善がり声を挙げながら裸体を震わせ、受け腰で激しく応じながら陶酔のままに裸体を躍(おど)らせ続ける事になる。

本人には赤面物かも知れないが、正直な肉体(からだ)の反応は隠し様も無く、恥ずかしげも無いソプラノ発声の周囲に良く通る善がり声が、里美の喉を通って唇から漏れて来る。

いささか恥ずかしいが、腹を括(くく)って観られるのを愉しみながら犯られるしか仕方が無い。

性接待行為が、当初は納得が行かない事でも、それに一旦応じてしまえば後は自分で納得が行く理由を見つけるしかない。

里美が体験した性接待行為は、息も絶え絶え(たえだえ)に成る程に強烈だった。

「もぅ懲り懲り(こりごり)」などと格好を付けては居られないほど、後を引く快感体験だった。

最初は仕方なしに犯られるだけの気分でも、次から次に犯られれば感じ始めて当たり前で、自然と受け腰で抜き挿しにクィクィと応じ始める。

快感を貪(むさぼ)り始めたらもぅ止まらず、そのまま容赦無(ようしゃな)くイカされ続けてやがて絶叫する。

その里美の肉体反応を、夫が目をキラつかせて観ている。

この世に生まれた幸福をエンドレスに感じる絶叫悶絶の快感に、偽善社会の罪悪感も吹っ飛ぶ究極の心地良い疲れは理屈を超越していた。

岩代夫婦から「また可愛がっていただけるから来なさい。」とお呼びが掛かると、「もぅ、しょうがないわね〜。」と言いながら、内心これから自分の身に起こる出来事に期待してパンティを脱いで出かける里美が居た。

「あの犯され続ける時間がまた遣って来る」と想うと、次の誘いを心待ちにする里美がそこに居た。


素っ裸の妻・里美は、ライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)男女の好奇な視線に晒されるセックスフアイトのリンクに登った。

正直妻・里美には、これからこれから自分の肉体(からだ)に訪れる遊びの性交に痺(しび)れるほどの期待感が芽生えていた。

「これから何人もの男達に続けて犯される」と想っただけで、その生まれて始めてのインモラル(不道徳/背徳的)な刺激には、妻・里美の脳は厚めに活性化する。

性交している恥ずかしい姿を男女のギャラリー(観客)に披露する事に成るが、元々女性の本質は露出癖で、腹を括(くく)ればその辺りを満足させる。

これだけのギャラリー(観客)の前で始まる性交ショーに、その場に居る全員が、胸をときめかせるインモラル(不道徳/背徳的)な至福の時を愉しく過ごす事は間違いはない。

性接待は、一般的に「女性を蹂躙(じゅうりん)している」とする解釈も在るが、女性本人の性癖如何では至福の時を過ごす官能的な場面かも知れない。

信じられないかも知れないが、このヤンチャ(悪戯)な状況の当事者に追い込まれてしまえば、後で「あそこでもうチョット頑張れば良かった」と悔やみたくは無い想いが妻・里美にはある。

究極のソーシャルセックス(社交的な性交)・プレィは、鑑賞に耐えられるアバンギャルド(前衛芸術)でシュール(非日常・奇抜)な光景かも知れない。


(喜美子の開所式)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十六話(喜美子の開所式)


うっとうしい梅雨時も、例年に無く気分は快適だった。

仲間も増え、妻は色気が溢れ、SEXの相手には申し分ない女に成った。

それに、その気になれば社内の主だった女達は、誰に憚(はばか)る事も無く、公認で抱く事が出来た。

後の会社の連中は相手の亭主に断って借りて居る様だが、群れのボスの自然な権力の象徴が群れ内の雌(メス)には性交自由が当たり前である。

さながら群れ婚状態のボスとしてハーレムの気分だったが、私も当時はまだ若く、勢いだけで生きていたような気がする。

女達の夫は、私が目の前で女達を抱いても笑って見ている。

それを見る妻も気にはしない。

時折仲間で飲めば、各自の妻は男達でシェア(共有)状態だから酒池肉林で、結束はイヨイヨ固く成って行く。

何よりも、会社の事業が順調なので、それが自信に成って全てが現状を容認していた。

開放的と言えば、これ以上開放的な状況はない。

後で冷静に考えればかなり無茶の連続だったが、当時は気持ちが若さに溢れていて、会社の全てが勢いで進んでいた。

当然ながら、土地投機ブームの狂乱地価の世相が、その思考の背景に在った。

とにかく「土地転がし」と言って、買い取った土地を転売すれば面白い様に儲かったのだ。


本来、繁殖本能は生き物の自然な欲求であるから、「スケベでない」と言う人間の方が嘘つきか異常である。

所が人間は、建前それを「恥ずべき事」として認めたがらないで居る「怪しい生き物」である。

全員が勢いで進んでいたから、既成概念を取り払う事で、「SEXは高度なコミュニケーションの手段」と考へ、会社(京美企画)が「乱倫同志経営」と言う極めて特殊な状態にある事も、改まって考える者は私を含め一人として居なかった。

会社の急成長も含め、その中心に居たのが「岩代夫婦」と言う謎めいた若いカップルであるが、その奇妙な存在感に、誰もがひれ伏していた。



開所式を前に喜美子は考えた。

「性的快感も経験無くして、幸せな人生など無い」と・・・・。

「愛が無ければ性交出来ない何て話し」は建前の綺麗事で、人間は愛など無くでも性的興奮だけで充分性交は可能である。

人間と言う生き物は、格好を付けたところで動物の繁殖期と違い「擬似生殖」と言う生殖目的無しの性交を随時に「遊びのプレィ」として行う。

つまり、何を持って正常・異常を問うならば、「擬似生殖」と言う「遊びの性交」を愉しむ時点で、半ば本来の正常な生殖行動とは立派に外(はず)れている。

その「擬似生殖」の相手が恋人だったり夫婦だったりするのだが、どうせ生殖目的無しの「遊びのプレィ」としての性交なのだ。

遊びが前提だから、性交相手の範囲をプレィ仲間に広げて大胆な性交で遊んでも、遊びは遊びである。

大人(おとな)なら、恋と性愛の違いくらい承知していて、馬鹿者は利口者振るが利口者は会心の洒落(しゃれ)か喜劇で馬鹿な振りが出来る。

それで理屈の上では、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)やマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)のソーシャルセックス(社交的な性交)が成立する。

人間の想いなど不思議な物で、同じ事でも悩んでしまえば大変な事で、堂々と「何でもない」と思えば、それは「何でもない事」である。

つまりそれらは特別な事では無く、時と場合、条件が一致すれば、「その遊びのプレィは、誰にでもアクティブ(活動的・積極的)に犯る可能性がある」と言う事である。

そして人間の脳は、一度強烈な快感の味を占めてしまった性癖は、「抑えよう」と想っても中々抑えられない。

何しろその時に得た尋常では無い快感を思い出すと、涎(よだれ)が落ちそうになるほどの執着(しゅうちゃく)を感じるものだった。



この頃、岩代と私の間で妻の扱いに付いて再確認が行われている。

「社長夫婦は、見るからに真面目そうだから、奥さんの接待奉仕がよけい光るのです。」

岩代は、ニコニコしてそう言った。

言うなれば、犯りそうも無い女が過激なパホーマンス(肉体を用いた表現形態/遂行能力や性能)を犯ると言う事で、妻にはそう言う雰囲気的なギャップの魅力があるらしい。


岩代は、会社発展の為の「妻の接待」に付いて、私の管理では私情が挟(はさ)まるので、「権限の一切を、自分に任せて欲しい」と言う。

「女の魅力を最大限引き出した格好で引き合わせ、挨拶代わりに交尾させる。」

それが岩代の、接待における姿勢だった。

その為の訓練を、私に承知させ、「妻に施(ほどこ)そう」と言う事である。

確かに、実務的にはその方が理に適っている。

「任せてください。奥さんは僕の自信作に成るように、念入りに仕上げますから。」

岩代は、自信タップリに言い放った。

勿論、岩代の言う「念入りに仕上げる」の意味は充分理解出来るが、私にそれを止める事は、既に出来なかった。

多分「逃げられないものにとっ捕まった」と言うのは、こう言う気分なのだろう。

「それもそうだな。そうしよう。」

「良いですね。接待と接待教育の為の調教指導についても、任せて頂いて口出しは無用ですよ。」

「判った。判った。任せるから好きにしてくれ。」

「それでは、奥さんには社長からその旨(むね)を、確り言い聞かせて置いて下さい。」

この岩代との約束は、結果的に妻の里美には過酷な体験を定期的にさせる事になるのだが、その時はとてもそこまでは思い至らず単純な仕事の一環程度の認識しかなかった。

そしてかなり後に成って、それが妻を私が知らない「本物の愛奴隷に作り上げる為の合意だった」と、現実を目の当たりにして知らされたのだ。

岩代が、何を企んでいるのか狙いは判らないが、この改めての念押しに、何故か並々ならない決意が潜んでいた事に、私が気付くのはまだ先の事だ。

それは、妻に対する私の接待愛奴隷の認識と岩代の認識に、大きな差があった事に起因していたのである。

実は岩代には、性行為に特別の思い入れが在った。

彼に言わせると、性行為には「術」や「道」がある。

わが国では、精神が伴う事を「道(どう)」と表現する。

「術」から始まったものが「道」にと発展して、剣術が武士道に成った。

後に「道」となる弓術も、氏と武の繋がりが深く、「弓取り」は武士を意味し、神事の破魔矢(はまや)・流鏑馬(やぶさめ)などに弓矢が使用されている。
また、「道」は、人に指針を伝える為にある。

奈良時代を起源とする流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代には宮廷行事として盛んに行なわれたが、武家時代に入ると兵法の修練の一つとして取り入れられ、特に、鎌倉幕府の奨励(しょうれい)により盛んに成った。

破魔矢(はまや)の元は覇磨矢で競技(うでためし)の意味だが、縁起物の神事にに使われ破魔(はま)に成った。

つまり、「道」は、人に指針を伝えと同時に精神的な拠り所の意味合いもある。

だとするなら、性行為には精神が伴い指針が示されて当然でなければ成らない。

しかしながら、そうした概念が性に関しては「臭い物には蓋」式に、全て否定されている。

常人に於いて、「道」の悟りは、中々自力では得られない。

「何が問題か」と言うと、何時(いつ)も嫌な事から逃げて楽をしていた事だ。

この、嫌な事から逃げる事の最たる結果が、女性では「肥満」である。

それを誤魔化しているのが、都合の良い「正常化の偏見心理」で、実は根拠が無い。

根拠が無いのに、自分には起きないと言う「正常化の偏見心理」で心のバランスを取ろうとするのが人間で、それを超えた事態が発生すると、その現実に納得できる理由を探し、「正常化」を図る。

そこで、根拠を構築して本人に納得させるのが「術」の始まりである。

納得すれば、新しい「正常化の偏見心理」が生まれ、多少の性行為には抵抗意識は薄れる。

「術」が効き始めたら、精神が伴う「道」を極める事になる。

めざすものが「道」となれば、精神に於いても肉体に於いても、妥協を赦さず究極を探求する事になる。

日本と言う国には、昔から「閨房術(けいぼうじゅつ)」と言う殿方を喜ばせる性技が女性にとって大事な心得だった。

つまり、徹して性的に辱め、経験実行の修行をさせ精神に於いても肉体に於いてもそれに慣れさせる。

その繰り返し調教が、妻の里美に施された愛奴隷調教である。

その夜私は、妻に接待に関する教育と実行の権限を丸投げで岩代に渡した事を告げた。

「それで、里美も良いね。」

妻もその部分に関して、自分達夫婦が右も左も判らない以上、岩代の指導に頼らざるを得ない事は、承知していた。

「判りました。岩代さんにお任せします。」

翌朝、岩代に了承を伝えると、直ぐに呼び出しが掛り、妻は、何をするのかも知らないまま、岩代夫婦の家に出かけて行った。

この一連の経緯は、実は後追いで私に妻の調教を了解させる為の芝居、「追認」だったのだが、知らない私はテッキリ妻の調教は「この時始まった」と思い込んで居た。

妻は公式に接待の為の調教を、岩代から受ける事に成った。

接待とは、ゲストに楽しい時間を提供する「おもてなし」の事である。

この「おもてなし」に、全ての意義がある。

ゲストに喜ばれる為には、お仕着せの接待ではなく、原則ゲストの嗜好(しこう)や性癖(せいへき)に合わせる事が肝心で、その為には「お好きにどうぞ」と無条件性奉仕の愛奴隷を提供する事である。

従って、役目とすれば、「真剣に奉仕しよう」と言う妻の気持ちは理解出来る。

心当たりは有る。

当初、竹中氏の接待の折りに私から「接待する方が、場の雰囲気を壊してどうする。」と叱責(しっせき)されて以来、雰囲気の維持には気を使っているから、例え要求がSMのお相手でも、ゲストの要求には黙って応じている。

仕事としてゲストを性接待をする為なら「どんな事でもする。」と言う「淫の覚悟」が必要で、この接待ルームは、ゲストの為の正に猥褻(わいせつ)工場である。

岩代に言わせると、「M(マゾ)でないアスリートは居ない」となる。

M(マゾ)でなければキツイ練習に耐えられない。」と言うのだ。

やれやれ、妻のアスリート根性(魂)が、こんな所で発揮し様とは思いも拠らなかったが、結果は負けず嫌いのアスリートの思いが、妻の性接待には色濃く浮き出ている。

肉体(からだ)を提供してゲストの嗜好(しこう)や性癖(せいへき)を満足させるのが愛奴隷の役目でである。

それに耐え得る為の調教を、岩代夫婦は私には無断で、妻にタップリと施していて、妻は、それに忠実に従って居るのである。

妻のひとつひとつの行動には、岩代夫婦の調教が生かされているのだ。

どうやら、それを「酷(むご)い」と、世間並みに思っているのは、私だけらしい。

早速、妻の調教が始まった様だが、口出しは無用の約束だから、私には皆目見当も付かないまま、内容は知らされては居なかった。

只、出かけて行った妻が酷く疲れて帰って来て、少し機嫌が悪いので閉口した覚えがあったが、それも最初だけで、やがて収まった。

この時に、岩代の密かな計画が次の段階に差し掛かり、その周到な計画に、妻は愛奴隷としてキッチリと組み込まれ、形に嵌められたのだ。

後に成って岩代夫婦が、何故妻に過酷な性調教と、性奉仕の接待をさせたのかの納得出来る訳が判明するのだが、この時はまだ、妻ばかりにこれだけの事を平気でさせる事に、私には少なからず不満があった。


或る日、どう言う訳か岩代が会社に残り、他の大半が出かける時が在って私と二人きりに成った。

そこでの会話で、少し謎が解けた。

「変わるものだなぁ、近頃内の奴(里美)と犯ると中が良く締まって使い心地が良い。」

「そうでしょう、奥さんの性感が育ったんですよ。奥さんは社長のお相手もサボっていたから脳も肉体(からだ)も未開発だったんです。」

「内の奴(里美)の性感が育ったのか。」

「責め挙げて絶頂の回数を増やせば、自然に名器に成り使い心地は良くなります。」

「性感は鍛えれば感度が良くなるのか。」

「訓練次第ですね。やっぱり犯ると気持ちが良いと言う快感の記憶を脳と肉体(からだ)に覚え込ませれば条件反射的に締まりは良く成ります。」

「昼間コソコソ内の奴(里美)を呼んで何をして居るのかと想ったが、君に感謝しなきゃならんな。」

「そりゃ、奥さんは愛奴隷に仕込まなきゃなりませんから。竹中さんと毎日コッテリ色々犯らせて頂きました。」

やはり岩代と竹中で内の奴(里美)を内緒で仕込んでいた。

岩代が毎日コッテリ色々犯って、「良く締まるほど感度を上げた」となると内の奴(里美)は相当の絶頂責めを犯らられた事に成る。

「しかし上手く仕込んで奴(里美)の性感を育てたな。」

「投資した時の約束で、奥さんは権利の在る竹中さんの要求には逆らえませんから。それこそ何でもさせる事ができました。脳と肉体(からだ)が覚えればしめたものです。」

「他人に預けた方が仕込み易いと言う事か。」

「そう言うものですよ。社長が仕込もうとしても、奥さんが嫌がるじゃないか嫌われるんじゃないかと遠慮がでますが、我々だったら毎回遠慮無しで責め挙げられますから。」

「調教するってそう言うものだろうなぁ。」

「それが、手を抜くと戻ってしまいますから、定期的に繰り返しが肝心なのですよ。」

「そう言う事か・・・・。脳と肉体(からだ)のテンションの維持が必要なのだ。」

「最近は生島夫婦を竹中さんの別荘に呼んで、亭主に観せながら喜美子に実践教育を犯って居ます。」

「そうか、そう言う事なら喜美子の使い心地も確かめてみるか。」

「今日は先方のゲストが五時に自分の会社に帰る間の接待で、喜美子達の帰社は四時半の予定ですから、帰って来たら呼びましょう。」



七月には、準備中だった湘南支店の開所が控えている。

後で考えると、日本経済は土地の投機ブームが過熱の一途を辿って、日本中が馬鹿騒ぎをしていた。

にわか土地成金が増え、株やゴルフ会員権などの投機熱はヒートアップし、銀座の夜は華やかだった。

そして日本中の人間が、国民的映画俳優の石原裕次郎の病状を心配していた。

戦後の映画界で、彼を人気で凌駕(りょうが)する俳優は居ない。

湘南支店の開所式祈願は、生島喜美子が待ちに待って居た。

日本中捜しても、自分が輪姦(まわ)されるのを心待ちにする、尋常な気持ちで無い女は少ないだろう。

彼女は自分が生まれ代わり、何かを掴(つか)み取れば「大切なものが手に入る」と確信していた。

それが何で有ろうと、行動を起こさないと前には進めない。


湘南支店の開所式は、妻の時と同様に朝の十時から始めた。

最初に来たのは岩代の元居た寮の学生達十人である。

人手が要るので岩代軍団を呼んだのだが、今回は学生の彼らが参加出来る日を選んだ。

彼らは、やはり九時五分前にピタリと来た。

喜美子は幾度か此処で彼らと顔を合わせていたから、気楽に言葉を交わしている。

妻は彼らには肉体(からだ)まで許していたが、その時は二度とも目隠しをして輪姦(まわ)されたから、まともに顔を見たのはこれが初めてだった。

彼らは相変わらず細君(京香)の仕切りで、でかい図体を小さくして「押忍、押忍。」と何でも迅速に動く。

支配しているのは、細君(京香)だった。

続いて、岩代夫婦が最近採用した四人の子持ち女性達を引き連れて来た。

四人を性接待の戦力に組み入れるには、性奴隷として従順に犯られる特訓をさせる事になる。

どうやら四人の性接待愛奴隷候補に仕掛けるのは、岩代持論である「男は妄想(もうそう)の生き物で、女は感性の生き物である」を応用して、卑猥(ひわい)な雰囲気で感性の生き物である女達を怪し気な気分に引き込んで「周囲の雰囲気に入り込ませよう」と言うものである。

論より実践で、喜美子の開所式の輪姦を見せて、「手っ取り早く教育しょう」と言うのだ。

当然愛奴隷には、何でも犯れて広範囲に対応可能なユーティリティ(役に立つ・有効な)・プレィヤー、昔風に言えばマルチ・プレィヤーが求められる。

性接待の愛奴隷は、ゲストのフォアー・アミューズメント(おもしろ半分の慰み)為に供されるものだから、グット・エンターテーメント(良い接待)を目指してコンプリート(完全な状態)に仕込まなければならない。

元々自然界に於ける性交相手は限定的ものでは無く、右脳がリード(導く)するのだから、命を繋ぐ生き物としての人間の本性は性交好きで当たり前であり、対外の女性は一度犯らせて本人がその良さに気付けば後は案外上手く行く。


既に社内の女達の序列も決まっていて、接待長(部長待遇)は細君(京香)で、立場の違う妻の里美は、接待中は細君の特別部下である。

この「特別部下」と言うのが、かなり曲者だったが、その話は後ほどに譲る事にする。

班長に小泉順子と生島喜美子が「次長待遇で二人づつ部下に引受ける」と言う。

内訳は、小泉班(班長・順子と安部、麻生、)、生島班(班長・喜美子と谷垣、福田)で、営業部の小泉と生島が自由に使う編成に成る。

四人の採用選考は、岩代と細君がした。

「固定月給三十万プラス成功報酬」と言う破格の待遇(名目課長待遇)で「女性の営業取引上の接待実務員」を募集した所、千人からの履歴書が集まった。

その内から、履歴書審査で百人ほど選び出し、面接に呼び出した。

選考基準は、第一に二十五歳から三十二歳までの、利口で、性に固定観念を持たない弾力性のある思考の持ち主で、子持ちの独り者である事。

岩代の彼女達の選考基準は変わっていて、全員夫の浮気による「生き別れ」である。

これには、彼女達への教育上の狙いがある。

理屈からしても、普通の世間知らずの人妻が、経験を重ねた老練な女に性行為で勝てる訳が無い。

「他所の女はこんなに良いのか」と心を奪われてしまう。

所が勝手なもので、世間知らずな女こそ、自分の努力の無さには気が付かない。

自分の事は棚上げで、「相手の女性や夫が悪い」と都合の良い言い分を言う。

攻撃は最大の防御であるから、自分が日頃性的に努力をしていれば、万が一浮気されても比較で負けずに「内の奴の方が余程良い」と夫は戻ってくる。

元々他人が一緒に成るのだから、選択が間違っていなかった事を知らしめる為に、日頃の性的努力は必要なのだ。

他所の女に寝取られた事を、「相手の女や夫のせい」とばかり考えず、自分のSEXに対する未熟さにも責任がある事を、反省させる事から、接待教育を始める考えだった。

つまり、相手の方が夫を性的に満足させるから寝取られた。

自分の未熟さを棚上げして、「相手の女や夫のせい」にするのは勘違いで、そこを理解して、SEXに対する考え方を変えさせる。

それが、納得させ易い境遇の女達だ。

第二に、清純で思い遣りに富む心の持ち主で、磨けば気品が漂う女性を選考の対象とした。

岩代の考え方は、いかにも色気が外に出ているより、気品のある清純そうな女性が、思わぬ大胆な事をする「意外性が良い」と考えている。

基本方針がそうでから、岩代は妻や細君を始め、幹部女性を磨く事には力を入れて居て日常生活では皆貴婦人である。

その点、誤解が無い様に理解して欲しいが、普段会社で、始終乱交SEXばかりしている訳ではない。

つまり、女性達が大胆に成るのは夫と二人だけの時と、それが必要と判断される会社行事や接待の時だけである。

むしろ女性達も、平凡な日常があってこそ非日常に威力を発揮するのであり、それは自然な理屈である。

第三には、彼女達の離婚後の生活で、保険外交員(生保レディ)経験者をピックアップしている。

保険外交員(生保レディ)経験者は、色気を武器に勧誘する経験を持つ者が多い。

何しろ影も形も無い、それも死んでからでは自分の懐(ふところ)には入らない。

つまり家族の為の「安心」を、売るのである。

自分個人が楽しめないものに掛け金を払うには、抵抗がある。

親類縁者を別にすれば、他人には他に余禄(サービス)でも付けない事には、そう度々成約を上げるのは困難である。

子供を抱えた未亡人ともなると、奇麗事に貞操を護(まも)ってばかりでは契約成績も上がらない。

手っ取り早く、金も掛らず減らないものと言えば、肉体しかないのである。

岩代夫婦のめがねに適う者を十人ほど選び出し、最後に仕事内容を説明して、改めて採用希望の有無を意思表示させ、最終的に岩代が性行為の実施テストをして採否を決めた。

そうした徹底しての絞込みで、採用したのがその四人である。

その道の達人とも思える岩代が鑑定した女達だから、まずは四人とも間違いは無く性接待の愛奴隷として使い物に成るのだろう。

岩代の不思議なパワーが利いているのか、直ぐに彼女達に変化が現れ、十日もすると彼女達は、確実に良い女に変わって行く。

此処だけの話しだが独り者の田嶋氏に「四人の中から一人結び付けよう」と岩代は画策している様だ。

まぁ、選りすぐりの未亡人だから、田嶋氏も乗るかも知れない。


(増員された女達)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十七話(増員された女達)

女達の総リーダーは、最年少の細君(京香)である。

姉御肌の細君(京香)は、気風(きっぷ)の良さがKIYOUBI(京美)の女達の中でも随一で、最年少ながら女達のリーダーには相応(ふさわ)しい。

日頃の細君(京香)は温和で朗らか、それこそ若さを爆発させる陽気さも持ち合わせている。

この不思議な女性は、言わば日頃からムードメェカーで、女達の普段の社外付き合いは笑いが絶えない。

娘の七五三の祝いなどにも気を使い、日常生活では若夫婦の妻として遜色の無い付き合い振りである。

それでも公に会社の仕事(性接待)が絡むと、別人のごとく態度が一変し、途端に指導力を発揮する。

案外細君(京香)の本質は、「純粋なものではないか」と、私は考えた。

そうでなければ、辻褄(つじつま)が合わない。


妻の変貌は進んでいた。

以前にも思ったが、性に対する偏見から解き放たれて妻の思考回路が変貌を遂げると、彼女の思考的成長は著しかった。

そしてそれは日々進化して行き、肉体(からだ)を張って自信も着いたのか何時の間にかリーダーシップも備えて行く。

思いもよらなかったが、妻は猛烈に社会勉強を始め、世間で言う知的女性にその生活スタンスを変えていた。

妻は接待経験の中で自信をつけ、同時に「井の中の蛙(かわず)」を痛感して学ぶ必要も感じたようだ。

そして何故か自信を身に着け、地域社会に於ける子供のPTA、子供会、婦人会などで頭角を現し、信望を集めていた。

あの地味で大人しかった妻は何処へ行ってしまったのか?

堂々と意見を言う妻は、しかしそれなりに学び、考え、成長していた。

そんな妻を見ていると、細君(京香)のリーダーシップの源が、単なる岩代の「気」に拠るものに止まらず、細君自らが学んだものに違いない事が伺える。

若い女性の概観からは想像出来ないほど、細君(京香)の脳思考は進んでいて、それが、仲間の女性達を圧しているのかも知れない。

妻もそうだが、細君(京香)も私や岩代の前では意見らしいものは言わない。
しかし、彼女達を心服させるだけの教養を身に着けているのだろう。

それなら判る。

たかが二十歳代半ばの小娘が、ただの恐怖だけで年上の女性達を仕切れる訳はない。

私には、それが謎だった。


続いて、今日のヒロイン生島喜美子とその夫、田嶋氏、小泉夫妻と竹中氏、石上氏、と九時半には今日のメンバー全てが揃っていた。

私達夫婦と岩代夫婦を足すと、総勢二十五人の始まって以来の人数になった。

男だけでも、十七人になる。

岩代はこの人数で、事業開運の呪詛エネルギーを使うと言う。

「そろそろ開所式の宣言を社長にお願いします。」と言って来た。
つまり、「生島喜美子の輪姦(まわし)に拠る忌み祓いを始めよう」と言うのだ。

「開所祈願、始め」と号令を掛けるのが、何時もの私の役目である。

男は十七人も居る。

果たして喜美子は持ち堪える事が出来るのだろうか?

喜美子は、「恥ずかしくない態度で、自分の務めを果たすだけ。」と言い切った。

自ら、潔(いさぎよ)く輪姦陵辱を受け入れる覚悟だ。

そして何よりも喜美子は、アスリート・ハイ(肉体的極限陶酔状態)の快感を体験的に知っているのだ。

喜美子は経験してみて判ったが、今まで性的努力もしないで、夫の浮気や遊びを批判していた自分が、恥ずかしく成って居た。

要は唯の甘えで、苦境の原因の全てを「相手になすり付けていただけ」と、喜美子本人が反省するしかない。

こう言うものの考え方を知って、自分が腹を括(くく)って居れば、開ける道が有った事も知った。

要は自分は安全な所で傍観者の一人に成って居たのである。

現にこの会社に加わって以来、夫の関わった取引は順調で、夫婦仲も良い。

喜美子は、性的な状況では、「もう、けして夫には逆らわない。」と、心に決めた。


参加者は、それぞれ適当なソォファーに座って酒を飲み始めた。

ここに居るメンバーの全てが、不思議な意志に支配されていた。

面白い事に、こうした状況は世間から見れば特殊なものだが、中に入ってしまうと以外に普通に思えるのだから不思議である。

この場はもう熱気ムンムンで、世間の価値観など何処かにフッ飛んでいる。

そぅこの場の価値観は、「如何に楽しみ楽しませるか」だけである。

岩代が薦める春先以降晩秋までの接待担当の女性達の、ファッションの基本は、ファスナーかボタンで前開きデザインのノースリーブのワンピースである。

これ以外の着用を認めない理由は、言うまでも無く、「性接待」と言う目的用途に対する「説得力」がある機能性である。

状況次第では、モタモタしていては興醒(きょうざ)めなのが、この手の時の感覚である。

その点彼女達の服装は、前フアスナーかボタンを外せばいきなり乳房がこぼれ出る仕組みで、何しろ手っ取り早い。

ここだけの話、ノーパン・ノーブラに前開きのワンピースなら手間が掛らず脱がせる事が出来、接待奉仕目的の用途には至極手っ取り早い。

夫々(それぞれ)に似合いそうな色デザインの高級品を、会社からそれぞれ各五枚ほど宛(あて)がわれている。

四人の女達はそれぞれ「安部、麻生、福田、谷垣」と言うが、彼女達には「少し色気が強い催しだ」としか聞かされては居ない。

何しろ薄々承知していたとしても、その場に成って決断させないと建前に走るのが女性である。

太腿(ふともも)所かヒップ下の小尻が生々しくはみ出して見えるテニスウエアと見まがうミニスカート丈前ボタンのワンピースは、女達の動き次第ではノーパンティの太腿(ふともも)の付け根、恥毛の丘や肉花弁まで曝(さら)け出す。

採用選考で細君から、仕事が「専属の酒席接待係」と言う話を聞き、岩代に抱かれて身体や意思を試されていて、指定された服装がノーパン・ノーブラに前開きのワンピースだから凡その察しは付き、多少の覚悟は出来ているが、開所式の内容まで詳しくは知らない。

それを、呪詛儀式を見せて、「一気に躾(しつけ)よう」と言う魂胆だ。

採用した女達四人も、一度人前で性交を犯ってしまえば覚悟も決まり、後戻りは出来ないから一気に犯って乱交に慣れさせるのが理に適(かな)っている。


その四人が、一斉に「ワァッ」と声を上げた。

見ると、以前カラオケの舞台になっていた所に、細君(京香)に伴われて生島喜美子が、全裸に皮製の犬首輪だけを装着して歩いていた。

彼女達にすれば喜美子は上司であり、今日の主役である。

それが、全裸に犬首輪を装着されてリードのチェーンに曳かれて現れたのである。

リードのチェーンに曳かれた喜美子の裸身は、堂々と輝いていた。

張りの有りそうな二つの乳房、引き締まったウエストから、なだらかに広がる腰の辺り、両足の太腿(ふともも)の付け根は、V字型のビキニラインへと続いている。

そこから切り替わって丸く膨らみながら黒々と逆三角形の豪毛を蓄える恥丘、その最下段に可憐に開いた無駄毛にも見える短い恥毛が生々しく絡む二枚の肉花弁も丸見えで、これ見よとばかりに堂々と男を誘っている。


妻や女達に様々な格好を要求するのは、気分的に視覚や状況を「味付け」として楽しむ為だ。

彼女達は、それで度肝を抜かれたが、周りに居た社長婦人の里美や上司の小泉順子が、それを合図にスルスルとワンピースを脱ぎだしたのにはもっと驚いた。

しかも、ワンピースの下は自分達と同じで、二人とも下着は身に付けていない。

しかし男達は誰も驚かない。

当然の事の様に、黙って二人が全裸になるのを眺めている。

まだまだ新人の四人には、ここからがこの儀式の凄い所だ。

脱ぎ終わった社長婦人と上司の二人には、早くも数本の男の手が伸びて、無遠慮にまさぐり始めたのだ。

「貴方達、何をしているの。早く脱ぎなさい。」

全裸になった妻が、思いもしない貫禄で女達を叱咤した。

何時の間にか、社長婦人が身に付いている。

「さぁ、仕事のツール(道具)と考えれば割り切れるでしょ。」と妻が四人に叱咤(しった)の追い討ちをする。

不思議な事ではあるが、弾かれる様に彼女達は周りを見渡して立ち上がると、皆男達の餌食になる為に、度胸良くスルスルと衣類を脱ぎ始めた。

一人くらいは「逆らうのか?」と言う私の予測は、流石(さすが)に修羅場を潜(くぐ)った子持ち未亡人達が相手で腹は直ぐに括られ、完全に外れた。

子育てには、金が要る。

子連れの彼女達の意思は大いに固かった。

提示された給料の額と、接待要員と言う言葉と、今日の手当てが一日三万円と言う所から、薄々はこうなる覚悟をしていたのかも知れない。

つまり正社員採用の上に、犯れば犯るほど別建てで収入が転がり込むのは魅力だった。

彼女達にして見れば、どうせ人生には平坦な道など無いし子連れで人生を渡って行くにはパート収入など金額が知れているから、所詮そんな子持ちが必要な金を稼ぐには「子連れの安っぽい風俗嬢」が関の山の境遇である。

行き着く先は同じと想いながら只決心が着かなかっただけで、此処で一気に背中を押されたのだ。

まさかとは思うが、彼女達にすれば別に一人だけ恥ずかしい思いをする訳では無い。

「皆で渡れば恐わく無い」式に、周りがその環境なら彼女達にさして抵抗は無いのかも知れない。

「早くしなさい。それに、こう言う時以外でも、あなた達には出社の時は下着の着用は邪魔です。」
「はぃ。判りました。」

こう成ると、接待要員の予備知識もさして無かったが、妻の勢いに押されて彼女達に逆らう者は居なかった。

これも岩代の眼力のなせる業か?

直ぐに全裸に成った彼女達は、「早く席に着きなさい。」と妻にせかされ改めてソファーに散らばった。

並べて脱がして見ると十人十色で、肌の色も、胸の膨らみやウエストのくびれも、恥毛の生え具合もマチマチである。

それが夫々(それぞれ)、三十路前後の色気ムンムンとした魅力的な裸身であるのには間違いが無い。

妻や順子が、男達に肉体(からだ)を嬲(なぶ)らせて平然と相手をしている。

彼女達が驚いたのは、社長婦人の里美の肉体(からだ)にも部下である男達は全く遠慮が無い。

社長婦人の乳房は揉みしだかれ、股間には指が這い、指先が柔ら壺やア*ルに潜り込んでいる事さえある。

ここは、そう言う場所なのだ。

それを見せられて、四人の新人女性達も仰天したが、今更「私は出来ない」とは言い出せない。

好条件のギャラで接待要員として募集されたのである。

薄々は予想していた事だからもう逆らう意志を失い、脱ぎ始め、後は妻や順子の見よう見まねで応ずるのが「自分達の役目だ」と理解した。

四人の新人女達が覚悟を決め、僅(わず)かばかり身体を覆っていた衣類を全て取り払うと、待ちかねた様に男達の手が伸び、女達は無遠慮に手を出す男達に身を任せている。

ここでの女性の役目は、何よりも自分の身体を使って男達を喜ばせる事だ。

妻や順子はソフアーに四っん這いで、他の男が触り易い姿勢を取りながら、それぞれ石上と田嶋の欲棒を咥(くわ)えて愛でている。

麻生と言う女が思い切って生島の欲棒を咥(くわ)えると、安部が私の欲棒を恐る恐る咥(くわ)える。

残りの小泉には福田が取り付いた。

取り残された谷垣が置いて行かれて不安になり、オロオロして妻に頭を下げ、石上を妻から譲ってもらった。

「新人は跨(またが)ってそれぞれオマ*コの中に入れなさい。それから、犯りながら喜美子の開所式祈願を見る様に、」

妻が次の命令を出す。

すっかり女王様だが、後で聞くと筋書きは細君(京香)が書いていた。

私にすれば、細君(京香)は謎の女性だ。

順子が真っ先に田嶋に跨(またが)って花弁の奥の柔ら壺に抽入を果たすと、皆がそれぞれシャブった相手に跨った。

甘い吐息が全体を包んでいる。

彼女達はここ暫(しば)らくSEXの相手を失ってしばし「ご無沙汰」だった。

奇妙な状況だが、欠けていた肉体(からだ)の寂しさを満たされる予感はあった。

もう、気晴らしくらいの気軽い気持ちで犯れば良い。

愛情など無くても内々の性的遊びを共有すれば、奇妙なもので気を許す感情が芽生え、犯ってしまえば仲間意識が強くなる。


四人の中で、一番印象的なデビューを飾ったのが、「麻生」と言う当時二十六歳の女性だった。

その場の雰囲気に合わせて、真っ先にワンピースを脱ぎ捨て、肉体(からだ)を投げ出して見事に周りに溶け込んだ。

以外に思ったのは岩代だった。

実は、面接の時に一番岩代が警戒したのが「麻生」だったからである。

本人は、幼子を抱えた未亡人で、条件が揃っている。

「お金も必要だから、多少の事は心得て面接に来た」と訴えた。

しかし岩代は、「麻生」を見た時、直感的に何か他の者と違う違和感を覚えた。

それで、わざと「振り落とそう」としてその日一番キツイ面接をした。

「所で、麻生さんは足腰は丈夫ですか?」

「中学・高校、大学と硬式テニスをしていました。高校の時はインターハイに出場していて、体力には自信があります。」

「あれはキツイスポーツですね。今でもまだやっていますか?」

「今は、たまに母校に指導に行く位です。でも並みの女性には負けないと思います。」

「麻生さん、こちらの意図を半ば想像した上でそれだけ採用に意欲的なら、ここで裸に成る事が出来ますか?」

「裸・・・ですか?はぃ、出来ます。」

麻生と言う女性から、思いがけない素直な返事が帰って来た。

「それなら、実際に証明して下さい。」

「麻生」は立ち上がると、躊躇(ためら)いも見せずに腕をクロスさせてTシャツの端を掴み、そのまま捲り上げるように胸元を通過させる。

胸の膨らみを抑えた白いブラジャーが現れ、一度顎(あご)に引っ掛かりながら顔を通過したTシャツは、髪の毛を勝手に束ねた後すり抜けて腕に残り、それも抜き取られて左手に握られた。

その脱ぎ去られたTシャツを、「麻生」はソファーに放り投げる。

白いブラジャーの、それも前開きのフックを両手で外すと、プルンと両の白い乳房が転げ出た。

乳房が露になると、今度はスカートのジッパーを両手でコントロールし、一気に引き下げると、ハラリとスカートを床に落とした。

見ると、下半身も下着は純白の細目のショーツで、丘の辺りに黒い陰りが透けて見えた。

「それも取って見せて下さい。」

「はぃ。」

麻生は両手をショーツの淵に添えると、一気に下げ降ろし、中から黒い繁みを蓄(たくわ)えた柔らかそうな丘が踊り出た。

それから麻生は、床に落としたスカートとショーツから片足を抜くと、もう片方の足首にスカートとショーツを引っ掛けてそれを手元に引き寄せ、足首から外して握り、これもソファーに放り投げ、全裸を晒(さら)した。

「後ろを向いて少し前屈(まえかがみ)に成って観なさい。」

「はいこうですか?」と「麻生」が命じられた姿勢を執る。

勿論全裸でその恰好をすれば、座って命じている岩代の目の前には「麻生」のアナルと秘所が良く見える。

美しい裸身で、この度胸なら接待には申し分ない。

妙齢の女性にそこまでさせては、不採用には出来ない。

岩代は、目の前の女性に感じた違和感をねじ伏せた。

「意欲は判りました。大変結構ですから、麻生さん、もう服を着て構いません。」

「あのぅ、採用して頂けますでしょうか?私(麻生)職探しを急いでいますので・・・。」

麻生は着衣を許されても裸のまま、先に採否を聞いた。

「はぃ、大丈夫ですよ。明日から出社して下さい。仕事の内容は追々指示いたしますので、ご安心下さい。」

そんな経緯(いきさつ)で、麻生と言う女性は採用された。

しかしこの「麻生」と言う女性には、この物語が後ほど大きく膨らむきっかけと成る筋書きが待ち構えていた。


「麻生」が率先してアッケラカンと大胆な行動に移すと、後の者も気取って躊躇(ためら)っては居られない。

われ先に身を投げ出し、こう事が円滑に進むと彼女達の鎧(よろい)も自然に剥がされて行く。

一度出産まで味わった彼女達は、こうなると牝(メス)そのもので、もう、好奇心が先に立つ。

この先の進展は「好奇心」と言う女の感性が際立って開運呪詛の行方を見守る気になるのだ。

学生が数人づつのチームになり、忙しく立ち働いて居る。

喜美子の陵辱舞台の支度が、ユックリと進んで居た。

学生たちも、三度目になると設備の操作も手馴れて来る。

見る間に、「口径十センチはある」と思われるあのステンレスパイプを天井から下げて来た。

学生達が高さ九十センチほどに固定している。

ギリギリとチエーンギアの音がして、ユックリと向きが九十度変わった。

そこにリードを操って喜美子を立たせ、岩代が縄掛けをして手早く両手を十文字縛り上げている。

生島が女達に「支店の開所式の祈願を内の奴がするのだから、安心して見て居ろ。」と説明している。

夫が言うのだから、女達も半信半疑ながら納得するしかない。

全て合意の上で、この怪奇な物事は進んでいる。


全裸の喜美子は、細君(京香)の指示で両脚を後ろに下げ、高さ七十センチ程に下げられたパイプを背負う形で前屈みの姿勢を強いられた。

開所式の恒例になっている体勢で、ちょうど台潰しの台が両手を広げてパイプに固定された形で、足を広げ尻を突き上げる様に席に向けて居る。

妻の開所式で見たお馴染(なじ)みの光景だ。

例によって、スポットが当たる高さ二十センチほどの舞台上と、私の座るソフアーの距離はニメーターくらいの「ガブリ付き」だから、角度が邪魔しない視覚の範囲で、舞台上の喜美子の拘束姿は、浮き上がって良く見えるのである。

あの喜美子独特の、シットリと吸い付く様な肌が、ホンノリと赤く色付いている。

喜美子は身動きの自由を奪われ、十文字に縛られて尻を突き出し、前屈(まえかが)み「くの字」の姿勢と顔が横向きに見て取れる。

この体勢では、喜美子にあらゆる選択の自由は無い。

股間も開放され放しで、犯され始めたら、男達が呪詛の「忌み祓い」など彼女達に理解出来るのか?疑問で有る。

止めるまでは受け入れ続ける事になる。

新しく参加した四人の女達には、流石にこれは異様な光景に映る。

それで無くとも、まだこの場の雰囲気に慣(な)れずに落ち着かない。

呪詛の「忌み祓い(いみばらい)」など彼女達に理解出来るのか?

疑問で有る。

岩代に言わせれば、「柔軟性の有る、素直な心を持った女性達を選んだ。」と言うが、素っ裸にさせられて体中弄(なぶ)られた挙句、目の前で上役の喜美子が縛り上げられている。

素直に現状を受け入れるとは思えないが、この強引な遣り方が岩代流で、何時も結果が良い。

まぁ、喜美子の反応次第では、それもあるのかも知れない。

「オィ、君らも酒を飲め、君らにも何時もの様にタップリと責め上げるのを、頑ん張ってもらうからな。」

「押忍、押忍、押忍。」

岩代が何時(いつ)もの様に学生達に声を掛けている。

彼らは礼儀正しく、許しが出るまで酒にも女にも手を出さない。

運動部の学生らしく、規律の正しさが私には好感である。

気持ち良い返事が、重なって返って来た。

総合司会は岩代がする。

「今から恒例の開所式を行おうと思います。これからする事は忌み祓いと言う意味があります。ここに居る十七人の男全員がもう出来ない、と言うまで喜美子さんの性交を止めない決まりです。まず、旦那様から一言。」

「はぃ、喜美子の亭主です。こう言う場では上品な態度は物笑いで、露骨な方が上等ですので、その点宜しくお願いします。」

生島は決り文句を並べた挨拶の後、「じゃぁ、本日の生け贄である喜美子に挨拶をさせます。」と締めくくった。

喜美子は、「私の挨拶は、夫の生島に言えと言われた通りの文句です。」と前置きをし、「今日は私を、どうぞ皆さんで遠慮なく嵌(ハメ)殺の目に合わせて下さい。」と、覚悟を口にした。

喜美子の挨拶で、「良く言った」と、場がどよめいた。

「それじゃあ社長、開始の一言をお願いします。」

「じゃあ、今から湘南支店の開所式を初めて下さい。」と、私がスタートを宣言する。

早速、細君(京香)から声が掛る。

「竹中さんからどうぞこちらにお上がり下さい。」

開所式の順番は来賓からが決まりで、竹中、田嶋、石上、の三人が出資者で有る。

理想的な事に、三人の出資金が上手く回転しているので、これ以上の出資者は増やさない。

特に年長の竹中は顧問みたいなもので、京美企画には欠かせない重鎮だ。

敬意を払って、彼がトップを飾るのは誰にも依存はない。

細君(京香)が竹中を舞台に呼び上げると、娘の順子が慌てて竹中に下に駆け寄り、彼の欲棒を口で咥(くわ)え硬くさせる作業をしている。

竹中の一番槍をアシストしようと言う娘心かも知れない。

シャブられながら、菊座の蕾もパックリ左右に割れた花弁も丸見えの順子の股間に手を遣に手を遣り、ゴソゴソと潤い具合を確かめた竹中が感心して言った。

「おぉ、良くしたものだ。ここはもう奥さんの時と同じで、期待汁でビショビショだ。」

もう竹中は、短い恥毛が絡む花弁を押し分けて指を二本ほど柔ら壺に挿し入れ、かき廻す様に指を抜き挿しを始めた。

喜美子は、まな板上の鯉の表情で、見て確認出来ない竹中の手を股間に受け入れて居る。

喜美子の不安そうな顔が、妻の開所式の表情と何故か似ていて印象的だ。

「ウッ、ウッ、ウッ、ウッ。」

竹中の腕の動きに応じる様に、喜美子の吐息交じりの桃色な声が、生々しく漏れている。

利き腕は股間に潜り込んでいるが、空いた手は順子のたわわな乳房を掴んで揉みしだいている。

最初の妻の時と違い、竹中にも状況を楽しむ余裕が見受けられ、充分に喜美子を追い込もうとしている。

この過酷な輪姦は、水分がないと、どんな女性でも乗り越えられない。

細君は、身動き取れない喜美子に、ミネラル・ウォーターを補給する事を忘れない。

時間を掛け、充分に指先の感覚を楽しむと、「ソロソロ、お先に使わして貰うか。」と、竹中が言い放った。

竹中が妻の後ろに立つと競り上がった尻の花弁に、硬くなったカリ首を宛がい、「グイ」と、欲棒を入れると、喜美子が「ウッ。」と入った事をギャラり−ィに告げた。

そして竹中は、ユックリと深く浅く腰を使い始めた。

「おぉ、良く締まる。それ、早く無我の境地に入れ。」

「アァー、アァー、アァー。」

早くも、喜美子の顔が快感に歪み、善がり声が部屋中に響き始めた。

これから、新人の女達が驚愕する喜美子のトリップが始まる。

喜美子は、今まで以上にこの難度の高いセックスハイ状態(性感陶酔状態)のトリップに臨んでいるのだ。

どうやら、例のオーデコロンの香りが、興奮した生島喜美子の裸身に香り立って居る。

その顔は、既に菩薩の境地である。

やがて竹中はイクに達して、席に戻ってきた。

エッ、私達のしている事が「常識で信じられない」ってか?

もし、私にそう言う疑問が投げ掛けられたのなら私はこう言うだろう。


それは誰でも格好良く生きて行きたい。

しかし世の中、格好良さに拘(こだわ)ると生き方の選択肢は狭くなる。

そこは明確で、格好ばかりに拘(こだわ)った薄っぺらい人間が世間に増えているが、しかし現実の世間はそんな綺麗事ばかりではないから、理想通りに格好良く生きられ無い。

それ故、案外独り善がりの格好良さは、他人から見れば見っとも無いものだ。

どうせ人間の一生は波乱万丈で、好むと好まざるとに関わり無く、間違い無く不都合も遣って来る。

現実に、傍目(はため)格好良く見える生き方でも影で血ヘドを吐く努力をして居るものである。

現実的な生き方を選択する事はけして奇妙な事では無く、実は不恰好でも良いからたくましく生きる事が本当の格好良さかも知れない。

そう成ると、格好良い或いは不恰好の軽蔑(けいべつ)されるべきはどちらだろうか?

岩代に「そそのかされた」とは言え、私は不恰好ではあるが現実的な生き方を選択した。

性接待は、誉(ほ)められたものではないかも知れないが、目くじら立てて「他人に責められるものではない」と思えたのだ。


私(喜美子)は幸せでした。

突然降り掛かって来た私(喜美子)の身に起こった事は、驚くべき意外な事態でした。

世間の常識からは考えられない集団乱交が、目の前で為されていたのです。

何よりも親友の里美が、目の前で大勢の男に嵌め倒されるのですから、思考が停止し、驚きさえ突き抜けてしまいました。

所が、里美のご主人はまるで当然のように、それを眺めているのです。

そして、既に私(喜美子)も、その集団の中に組み込まれている現実を、身を持って知らされたのです。

私(喜美子)は普通の女性でしたから最初はショックを受け、にわかには受け入れ難い状況でした。

しかし、その時点での私達夫婦の切羽詰まった事情では選択の余地がありません。

それにおかしなもので、周りが何の抵抗も無くそうした雰囲気ですと、その場は同化するのが万事上手く行き、そうする事が良いような気になります。

それが行き成り素っ裸にされ、この集団の乱交を体験してみて考えが変わりました。

この恥ずかしい格好を「皆さんに見られている」と羞恥心(しゅうちしん)を感じると、それだけで私(喜美子)は興奮で脳にアドレナリンやドーパミンがドバッと吹き出るのを感じたのです。

後で岩代さんに聞いた所に拠るとこの現象は、防衛本能から脳が感受性を好転させる為にアドレナリンやドーパミンを噴出させるのらしいのですが、結果的にそれが性交快感をより増幅させて今まで経験しなかった快感を得るのですから堪りません。

羞恥心(しゅうちしん)の興奮が在っての性交は、全てを忘れるほどの快感でした。

「いったい、私(喜美子)は何を拘っていたのでしょうか?」

そんな気になりました。

私(喜美子)、観られながら犯るスリルの興奮が病み付きに成るかも知れません。


何故かこのめっぽうハチャメチャな集団の会社、京美企画に加わって全ての環境が変わったのですが、結論から言うと全てに満たされる感じです。

私(喜美子)は夫を愛していますしこれからも愛し続けますが、女の性(さが)は別なのです。

勿論男の性(さが)も同じように別なのです。

その辺りの心が、京美企画に加わって自由に解放されたのです。

愛情と性衝動は、脳の違う場所で思考する別物なのです。

それを「互いの独占欲」で無理に縛って来たのです。

その垣根が無く成って、拘(こだわ)り無くお互いに性行為を楽しめるので楽に生きられるように成りました。

そこまで考え方が変わると、性行為は仲間意識の究極の交流ですし、ゲストとの性行為のお相手は、信頼関係を構築する為の究極のご挨拶なのです。

京美企画で必要とされる色々な性体験は、ポジティブに考えて楽しめば良いのです。

会社は順調に業績を伸ばし、夫は生き生きと仕事をし、我が家の収入はうなぎ昇りです。

生活は向上し、子供の教育も十分に出来ます。

その夫の仕事に、私(喜美子)が夫の依頼で力添えの性接待をするのですから何も問題はありません。

むしろ夫は、私(喜美子)が卑猥にゲスト様のお相手をする様子を、目を細めて観ていてくれますし、実は接待の仕事から帰ってからの二人は、普段以上に心からの愛情で愛し合えるのです。

それにしても、岩代さん夫婦は不思議な方達です。

私達は、あの夫婦に一睨(ひとにら)みされると、もう逆らえません。

あのオーラは口では表現できませんが、とにかく全て任せる気に成ります。

最初は全て任せる事に少し不安だったのですが、付き合って感じたのは私達に対する十分な誠意でした。

実は今、夫に連れられて以前竹中さんに買ってもらった別荘に行き、夫の了解の下に愛奴隷としての性感修行を受けています。

夫は京香さんにシャブられながら黙って私(喜美子)の調教を観ているだけですが、夫にさえもされた事が無い激しいSM調教を、竹中さんと岩代さん夫婦から受けています。

そう、岩代さん夫婦は、毎月呼び出されて受ける接待修行の場では、妥協の無い性感修行を通して私達に岩代イズムを吹き込んでいたのです。

ゲスト様相手の接待時、私(喜美子)に人格は要りません。

何故なら、愛情を完全に分離した肉体的行為で、男女の独占欲も切り離した単なる生きた性玩具(オモチャ)なのです。

そうした愛奴隷に成る為の訓練が、接待修行場でのSM調教なのです。

最初、「何でこんな事をさせられるのか?」と理解に苦しんだ調教も、肉体が勝手に喜びを覚えて内心楽しみなものに成り、心待ちにするように成りました。

不思議な事に、そうした修行の上で接待に駆り出されて見ると、大胆に成れる自分がそこに居ました。

そして、今まで知らなかった本音の人間の性(サガ)と言うものも、思い知らされました。

岩代さんの欲棒に犯されると、脳みそが溶けるようなジーンと痺(しび)れるような快感が襲ってきます。

当然の事ですが、夫と交わる時の快感とは異質の強烈なものでした。

これを一度経験すると、岩代さんにどんなに厳し調教を受けても、次の調教の呼び出しが待ち遠しく成ります。

その内に私(喜美子)は、どんなお相手でも同じ様な快感を得られる肉体(からだ)に出来上がって居ました。

キット私(喜美子)の肉体自身が、岩代さんの調教で、性感の感度が想像を絶するほど、良く成っているに違いありません。

厳格で妥協を赦さないのが岩代さん夫婦の調教ですから、今では夫から命じられれば、素裸に剥(む)かれて喜んで接待に出向き、どなたのお相手をしても、尽くす気持ちを持ってお相手をし、充分に気持ち良く犯される事が出来ます。

愛奴隷の性奉仕では、私(喜美子)の肉体(からだ)はその全てをゲスト様の「お遊びの為」にお使い頂く事に成ります。

接待の性奉仕は同じ行為をしても浮気などでは有りませんから、「夫の生島相手の性行為」とは別のもので、愛情とは一線を画す「割り切った意識が必要」と岩代さんから教わりました。

愛情が絡む夫の生島相手とのSEXの場合は「抱いてもらう」ですが、愛奴隷の性奉仕の時は愛情が絡みませんから、あくまでも接待の遊びで私(喜美子)の「肉体(からだ)をお使い頂く」と言うシンプルな考え方なのです。

仕事のツール(道具)と割り切って大人同士が愉しく攻めたり責められたりする分には後腐れも尾を引く事もない仕事の性奉仕ですから、相手が堪能(たんのう)するまで手は抜けません。

私(喜美子)の肉体(からだ)はゲスト様にその裸身を預けて日頃は叶えられ難い性癖を堪能(たんのう)して頂く事にあります。

その性癖に拠って露出羞恥プレィ、複数プレィ、SMプレィと、あらゆる行為の要求があり、私(喜美子)はそれらに応じてお使い頂き、犯って楽しんで頂くのです。

欲棒で犯す事が可能な穴は、口とア*ルに秘所と女体に三穴あり、愛情が絡まないゲスト様の「遊びのお相手」で、それら私(喜美子)の三穴にゲスト様の欲棒が嵌(はま)り込んで抜き挿しされても、割り切ってしまえば単に「肉体(からだ)をお使い頂く」と言う意識なのです。



新人の女性達、安部、麻生、福田、谷垣は、それぞれに男の欲棒に股間を貫かれ、抽送を受け入れたまま、自分達の卑猥な格好も忘れて、唖然と喜美子の拘束陵辱を見ていた。

竹中の腰の動きが早くなり、パンパンと喜美子の尻肉が肉のぶつかり合う音で鳴り始めた。

「アッ、アッ、アッ、アー、アッ、アッ、アッ、アー。」

喜美子が最初の「イク」に達した様だ。

「ウッ。」続いて竹中も達した。

「イクに達したから」と言って、今の喜美子に休憩はない。

彼女の「開運祈願」は始まったばかりだ。



ガチ・バトルが続くこの非日常の刺激的マラソン性交プレィを愉しめる痴女の方が、人生は濃いものに成る。

生島喜美子は、股間に欲棒を咥(くわ)えて気持ち良さそうに受け腰を使い、男のリズム好い抜き挿しの腰使いとのやりとりを愉しんでいる。

初めての時は戸惑いも在ったが、喜美子は京美企画のソーシャルセックス(社交的な性交)を一度経験して、今は喜美子自身が犯る事に好感触の自信も確信もした。

自信も確信も「確りとモノにした」から、喜美子の生々しく卑猥(ひわい)な性交ガチ・バトルは裸身を躍(おど)らせながらも安定した乗り切りを観せて次々に熟(こ)なし続けている。


確かに喜美子は、セックスショー化してギャラリーに観せながら犯る過激で破廉恥なソーシャルセックス(社交的な性交)を行っている。

そしてそれが、今までの喜美子の貞操観念の意識からすれば、世間の解釈ではこのソーシャルセックス(社交的な性交)は「充分過度に破廉恥」で在る事は喜美子も承知している。

しかしその「破廉恥」な性交遊びを、喜美子がアクティブ(活動的・積極的)に犯れるには、それなりに確りした理由や納得出来る自然な感情がある。

「破廉恥」な遊びの性交は、元を正せば非繁殖目的の「擬似生殖行為」で在って、他の動物のように繁殖期を持たない「年中発情の人間種独特のもの」である。

つまり、生殖目的では無い「擬似生殖行為」そのものが、人間の本質として単に「快感を愉しむ目的の遊び」に他ならない。

そして「年中発情の人間種の本能」が快感の満足を求めて遊びの性交を要求し、命題が遊びの性交であるからこそ、あらゆる性癖が発生して次第にその内容が過激にエスカレートする。

その性癖を満足させるソーシャルセックス(社交的な性交)を行っている事は、「他人(ひと)に言えない破廉恥な御乱行」と言えばその通りだ。

だが、最も人間らしい本能なのだから、例え「破廉恥な行為」であろうとも「合意の上の遊び」ならば、そんなものは公表しないで個々に愉しめばそれで良い。

そして公表されない「破廉恥な御乱行」は秘すべきものとして隠されが、実は何処にも在るエピソードで、本当は然して珍しくは無い。

しかしこう言う事は、個人の想像だけで「破廉恥」と批判して良い物だろうか、ソーシャルセックス(社交的な性交)の経験を通じて初めて綺麗事の疑惑を感じる。

つまりその「破廉恥」を、然(さ)して遊びを経験しない連中が、善人振って表向きの綺麗事だけで批判する。

どうせそう言う事なら、喜美子は大袈裟(おおげさ)に考えずに痴女に成り切ってソーシャルセックス(社交的な性交)を愉しめば、人生はまんざら悪く無い。


そもそも現代の倫理観では、乱倫(乱交)や輪姦が「非倫理的」だと言う印象が強いが、本来の人類は「群れて生きる」が基本で、婚姻関係も「群れ婚」だった。

そして人類の生殖スタイルの基本は、雌に対して多くの雄が群がる輪姦で、その性交の結果多くの精子から最も優秀な精子が子宮に定着する子孫選別システムだった。

つまり人間の生物学的な婚姻関係の正しくは「群れ婚」で、天が与えた自然本能としての性交の基本は乱倫(乱交)や輪姦だった。

そしてその乱倫(乱交)や輪姦の「群れ婚実践」は、日本の場合、平安期から形を「呼ばう=夜這い」に変えて昭和の大戦終戦まで、村落地域で永く続いた。

即ち人類は、現代の環境条件である「夫婦つがいの子育て条件システム」を思考から除外すれば、性的興奮だけで性交は充分可能で、女性の肉体的構造と性感もそれが可能に出来ている。

だからこそ人類は、日常のストレスを本能的に消化する為の非日常の部分で、遊びの性交は必要かも知れない。

もしかしたらそれは、遠い過去から人類が引き継いで来た本能として喜美子の目の前に広がった新たなる開かれた道かも知れないのだ。


大人(おとな)なら、恋と性愛の違いくらい喜美子も承知している。

性行為と愛情は必ずしも一致しないもので、性行為は性的興奮だけで犯れるものだから、「愛か無ければセックスなど出来ない」などとややっこしい事を言うから世の中が混乱させる。

そうした嫉妬(しっと)は恥ずかしく、婚姻相手以外の他人(ひと)と遊びの性交をしたからと言って、それは愛情の有無として問題にするべきでは無い。

つまり他人との性交プレィは、日々のストレス解消程度の只のシュール(非日常的)な遊びであると容認出来なくは無い。

このシュール(非日常的)で衝撃的な性交プレィの機会を得て喜美子の性生活に於けるバリエーション(変化)が格段に広がり、多くを学習したのは現実だった。



喜美子の痴態を見せ付けられて興奮したのか、安部、麻生、福田、谷垣の新人達も、破れかぶれに各々腰を使って、快感を追い求めている。

それはそうだろう、各々事情は違うが、暫(しばら)く途絶えて無かったSEXの感触が甦っている。

出産の経験も有る位だから、彼女達も上の者がこれだけおおっぴらに皆が犯っていればそれほど嫌悪感も無い。

これは、あくまでも仲間内の親密さを益すもので、個人の感情は抱(いだ)かない。

業務に一環としての行為なので、特定の相手におかしな感情が個人的に湧かないように、次々と相手を変えさせる。

その横では、細君(京香)が田嶋を呼んで彼の欲棒を口でアグアグと咥(くわ)え、硬くさせる作業をしている。

次は、田嶋と言う訳だ。

竹中が肉体(からだ)を外すと、休む間もなく直ぐに田嶋が入れ替わって腰を使い、喜美子を責め始める。

「なるほど、良い具合だ。」

「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ。」

休む間もない喜美子の善がり声が再び響き始めた。

快感に歪(ゆが)んだ喜美子のやや厚めの唇をした顔が、口をパク付かせて善がり声を上げている。

肉体(からだ)を固定されているから、喜美子の快感の逃がし所は声を発するしかない。

傍(かたわ)らで、細君(京香)が石上の欲棒を口で咥(くわ)え、次の準備に怠り無い。

呆然と見守っていた安部に、「何をボーッとしている。良く見て居るか?」

竹中がソファーの隣に安部を引き寄せて、「前を向いて目を閉じるな。」と命令し、身体をまさぐりだした。

攻撃の的を、安部に「ロックオンした」と言う事で、もう逃れられない。

竹中は安部に、刺激を与えながらこの輪姦(まわし)を見物させる積りだ。

実は、同じような事を他の三人にも男達がしている。

「アッ、アー。」

舞台の上では、今日のヒロイン喜美子が再び「イク」に達したが、まだ田嶋は抽送を続けている。

「イッタ後」も抽送続けられて、刺激が強烈なのか喜美子の顔が口をパク付かせて歪(ゆが)んでいる。

連続する絶頂感に「邪気を祓うエネルギーを発する」と言う。

それはもう神懸(かみがか)り状態にさせる事である。

「喜美子、腰を使いながら皆さんに聞こえるようにオマ*コ気持ち良いと言って見ろ。」

「はぃ、アァ〜オマ*コ気持ち良〜い。アァアァ、オマ*コ気持ち良〜い。」

馬鹿でかい喜美子の声が会場中に響いた。

性交中に「オマ*コ気持ち良い」を言わせるのは、それが本人を燃え上がらせる魔法の言葉だからである。

「オマ*コ気持ち良〜い」と叫べば叫ぶほど喜美子の快感はボルテージを上げ、肉体(からだ)体の方は正直で、喜美子の乳首が硬くなって立ち上がり興奮している事を隠せない。

「オッ。」

田嶋が、喜美子の「オマ*コ気持ち良〜い」の連呼で気分を高めて果て、漸(ようや)く身体を喜美子から外した。

直ぐに石上が喜美子の尻に取り付いて、固くなった物を捻じ込んだ。

固定されているから避けようが無い。

再び、深く浅く攻められて、喜美子の善がり声が始る。

男達は、喜美子を休ませずに責め続けるのが、「忌み祓い」の呪詛エネルギーを出す「コツだ」と承知している。

喜美子の股間の潤いは増し、愛液が跡を作って太腿を伝っている。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」

喜美子は犯され続ける為に、今ここに居る。

喜美子から離れた田嶋が帰って来て、また平然と女達に手を出した。

田嶋は、麻生の足首を両手で掴み、脚を大股開き(M字開脚)にソファーの上に乗せ、開いた花弁に指を入れてかき回している。

「ウッ、ウッ、ウッ、ウッ。」

麻生が堪(たま)らず声を漏らした。

別のソファアーでは、仰向けに寝かされた谷垣の上に、私がシックスナインの形でうつ伏せに覆(おおい)い被(かぶ)さり、私の欲棒を谷垣の口に捻じ込みながら、谷垣の股間に顔を埋め、谷垣の尻を抱えて花芯ボタンに舌を這わせている。

互いの性器を舐め合っているのだから、私の舌に花芯ボタンを弄(なぶ)られ舐め上げられて、時折舌先が谷垣の二枚の肉花弁の中まで潜り込んでさえいる。

谷垣は感じて居るのか腰を生々しく振りながら、それでも咥(くわ)えた私の欲棒をチュパチュパと唇で扱(しご)いている。

私の開いている利き腕は、太腿を谷垣の枕に供している安倍の股間をマサグリ、その二本の指は、安倍の恥毛の一部が生々しく絡む二枚の肉花弁の中をかき回している。

竹中は安倍の花芯ボタンをグリグリといじりながら、福田の乳を舐めている。

田嶋が指を入れてかき回している麻生に、小泉が横からチョッカイを出した。

男供に挟まれてお触り攻撃を受け、麻生は身をよじりながらも、喜美子から目が離せない。

他の女性達も相手の男達からキツく言われて、喜美子から目を離せないのは同様だ。

気が付くと、妻の里美は社長夫人然として、女達を取り仕切っている。

特に今回は親友の喜美子が生け贄なので、何時(いつ)に無く前面にシャシャリ出て、張り切っているのが見え見えだった。

ここでは接待の訓練を兼ねているから、羞恥心を忘れる度胸と性技を磨かねばならない。
「うっ。」

喜美子に取り付いていた石上が、達して身体を外した。

石上が欲棒を引き抜くと、喜美子の花弁からは愛液が滴り落ち、そこが妖しく濡れて黒く光っている。


先ほどから、珍しく妻が私の欲棒を咥(くわ)えて愛でている。

ネットリと舌が絡み付き、私のカリ首は殊更に硬さを益して来た。

頃合と見たのか、ヒョイと口を離した妻が、耳元で囁いた。

「ねぇあなた、キミチャンにキツイのをしてあげなさいよ。」

なるほど、妻は喜美子を早く自分と同様にさせて、仲間に仕立て上げたかったのだ。

「あぁ、良し行くか。」

順番に合わせたのか妻に尻を叩かれて、次は私が喜美子と交わった。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」

私が抽送を始めると、喜美子の善がり声が高くなり、シットリと吸い付く様な肌が、私の両手に抱えられて波打っている。

「クチャクチャ」と、欲棒が喜美子の花弁のスリットに出入りする卑猥な音が、聞こえて来そうだ。

それを眺ながら、生島が細君(京香)のおシャブリを受けている。

その細君の股間を、後ろから岩代が手を入れて攻めている。

壷を知り尽くした亭主の攻撃に、気持ち良いのか咥(くわ)えた欲棒の隙間から細君の善がり声も漏れている。

「ウグ、アッ、アア、アッ、ウグ、ウグ」

どうやら次は喜美子の夫の、生島の番らしい。

一瞬男の動きが止まって欲棒が抜き去られ、喜美子は「交代だな」とホッとする気持ちに成る。

だが、一息いれる間を空けずに次の欲棒が喜美子に挿し込まれてまたズンズンと突き入れられ、喜美子の乳房を揺らしながらグイグイと下腹部の中で暴れまわる。

「ウグ、ウグ、アッ、ウグ、アア、アッ、ウグ、ウグ」

そして、生島の番が来た。

実は、先ほどからの妻喜美子の滅っ多に無い善がり方に、夫の生島は十分に興奮していた。

それでなくとも、結婚以来経験の無い、パイプに固定して「身動き出来ない妻」と犯るのは興奮する。

後ろから柔ら壺に捻じ込んで、ゆっくりと味わう様に抽送を始めた。

やがてその抽送が、少しずつ早く力強いものに変わって、喜美子の股間を攻め立てる。

自分の欲望が数倍も勝って、生島には喜美子の身体を労わる気持ちは、遥かに遠退(とうの)いていたのだ。

「アァー、アァー、アァー。」

喜美子の善がり声が始った。

頃合を見て、生島は殊更腰使いを早める。

「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」

喜美子が、簡単に何度目かの「イク」に達した。

しかし夫の生島は「イッ」てはいない。

そのまま抽送を続けると、喜美子はもの凄い声を出して善がっている。

恐らく、生島は今まで自分の妻喜美子と交わって、こんな声を聞いた事など無いだろう。

喜美子のその声を聞いた途端、「ウッ。」と、生島も達した。

その後を、岩代が引き継いだ。

彼は腰使いを、ユックリと早くを巧みに使い分けて、喜美子を攻め立てている。

「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ、アァー、アァー、アァー。」

一時の様子と違って、喜美子が少し元気を取り戻した様子だ。

喜美子に、明らかな変化が現れたのはこの時だった。

顔が恍惚の表情に変わってトリップが始まり、岩代の抽送を噛み締める様に受けている。

「来た、来た来た。」妻の時と同様に岩代が叫んでいる。

やはり、この男しか居ない。

ここまで喜美子を追い詰めるのはやはり岩代だが、しかしここまでくればこっちの物だ。

「アァー、アァー、アァー、オッ、オマ*コ気持ち良いー。」

突然喜美子が卑猥な事を声を張り上げて言う。

絶頂が迫った時に岩代が「ウッ。」と声を漏らし、時間は掛かったが先に果てた。

細君(京香)の命令で順子が細君と入れ替わり、小泉が妻の順子にシャブられている。

次が小泉の番なので、細君(京香)がそのウオームアップをさせる事にしたのだ。

喜美子を犯す夫の小泉の欲棒の準備を、妻の順子にさせる趣向だ。

ここまで来ると、小泉にも戸惑いは無い。

舞台に上り喜美子に取り付いて、深く浅く抽送を始めた。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」

喜美子の恍惚の表情は、まだ続いている。

これは男達が果てるまで続く。

小泉の次は学生達だが、彼らの欲棒を直ぐに使える様に準備しなければならない。

そのお口を使う準備は順子が細君に命じられ、もう咥(くわ)え始めている。

岩代の開運祈願は、喜美子の里美の性感エネルギーを使った「忌み祓いの呪詛だ」と言う。

その性感エネルギーを発する為には、尋常ではない所まで喜美子を追い込まなければならない。

生島が果てると、学生が次々に喜美子に挑(いど)みかかって行く。

もう、場を重ねている居るから、学生達も慣(な)れたものだ。

喜美子もかなり激しく廻されて、もう疲れ切っている筈(は)ずである。

それでも、性器が接触すれば、交わる肉体は自然に共鳴する。

再びオーガズム・ハイの状態が始まり、突き抜けたように激しく受け腰を使い始めた。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」
その姿は、タフを通り越して、まさに神懸(かみか)かりに見えた。

突き入れられる度に喜美子の肉体(からだ)がビクンビクンと反応する様を、四人の新規採用女性がこれまた欲棒を貫(つらぬ)かれたまま眺めている。

ダイナミックに犯され続ける喜美子に、最初引いていた安部、麻生、福田、谷垣は、喜美子の変化に顔付が変わった。

喜美子の極楽を迎えた菩薩の表情に、明らかに羨望の色が見えたのだ。

つまり、彼女達にはあそこまで性的に到達した経験が無い。

「アッ、アッ、アッ、アッ。」

涙もよだれも、愛液も垂れ流しで、喜美子が首を左右に揺らしながら善がっている。

それを見せ付けられた四人の新規採用女性は、思わず自分を貫(つらぬ)いている欲棒を締め付けていた。


麻生を欲棒で貫(つらぬ)きながらそれを観ていた私は、岩代が叫んだ「来た。」の訳を新しい四人の女達に、喜美子の恍惚の訳を話した。

不思議なものを見れば、女達も好奇心が湧く。

まぁ、私の話は岩代の受け売りで有るが、喜美子の変化には女達も興味があるらしくしっかり聴いている。

「あれが呪詛エネルギーを出し始めた証拠だ。まぁ、科学的にはランナーズ・ハイと同じ現象で、知って居る?あのマラソン選手が一定の線を越すと掛かる奴だが。」

勿論女達も、唯眺めるだけに体が空いて居る訳ではない。

ほとんどが、誰かの欲棒を柔ら壺に受け入れながら、講釈を聞いているのだ。

その時たまたま私の欲棒に股間を貫(つらぬ)かれていた谷垣が、目を合わせながら聞いた。

「ランナーズ・ハイは。知っています。でも、SEXであんな風に成ってしまうのですか?」

「あぁ、喜美子さんの運動量と性感の登り詰めがピークに達して、快感が突き抜けたのだ。」

「突き抜けたのが、呪詛エネルギーを出し始めたと言うのですか?」

福田が横から聞いた。彼女は今石上の上に跨って居る。

「真言密教的には無我の境地に入って、極楽を彷徨う(さまよう)状態で、今、喜美子さんから違う脳波が流れ出ている。会社を始める時に妻も経験したが、すばらしい快感で、未来が見えたと言った。」

「奥さん、未来が見えたって本当ですか?」

谷垣が疑わしそうに妻に聞いた。

「あれは経験して見ないと判らないわ。私は機会が有ればまたしてもらいたい。」

思い出しているのか、応える妻の顔が、心無し緩(ゆる)んで見えた。

休む間も無く輪姦(まわさ)れる犯られっ放しで、オーガズムが継続する濃厚な快感でイキ続けて失心する事背で、妻は何か見ているようだが言葉を濁して私には何も言わない。

にわかには信じ難かったが、妻は予知夢を見ているらしい。

それが、かなり鮮明な映像が脳裏に浮かんで来るもので、未来予知としても「正確なものだ」と言う。

気には成るが、妻も強情だから口を割りそうも無い。

いずれにしても信じられない事だが、岩代が見せる幻術なのか妻が神懸(かみが)かりに成ったのか?

妻の見る予知夢は、私にとって怪奇現象と言える。

「私も経験したから、間違いないわ。」

横から、順子が口を出した。

福田、谷垣、安部、麻生、は顔を見合わせて確認し合っていた様だが、その怪奇現象を何処まで理解したかは判らない。

ただ、目の前の喜美子のトリップは続いている。

喜美子にも、その怪奇現象が始まっているのだろうか?

いずれにしても女性器丸出しの全裸女性が八人、そのうち一人は固定されて輪姦(まわ)され状態、あとの七人は会場を彷徨(さまよ)いながら男達に性奉仕をして歩いている。


元来群れ社会動物である人間の本能には「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う感性がある。

それを容認する集団の中での合意の上の「卑猥(ひわい)モードと言う舞台も背景もムードが整った輪姦(まわし)なら、「最高の突き抜け感が得られる」と言う点では魅力的なのは当たり前である。

何時の間にか、福田、谷垣、安部、麻生、も完全に巻き込まれていた。

彼女達四人の心を縛っていたのは恐怖感と倫理観だったのだから、乱交や輪姦(まわし)を犯られてしまえば卑猥(ひわい)だからこそ否定出来ない最高の性感々受だったので、彼女達にして見れば心境の変化は当然である。

この愛奴隷事業は、妻を始め女性軍が見事に岩代イズムに囲い込まれたロックイン効果の結果なのだが、これで女達の淑女時々娼婦の生活も順調に始まった。

もっとも愛奴隷は、「女なら誰でも良い」と言う訳ではない。

女が観るからに擦(す)れっ枯らしではゲストがゲンナリしてしまうから、裸体にさせても気品を感じるくらいの女でないと勤まらない。

個性こそ様々だが、まぁ男好きな美人がズラリと揃った事になる。


相手の学生も、もう五人目を迎えて喜美子にとっては都合十一人目になる。

感じ疲れた喜美子はもう声も発しない、男の動きで身体が波打っているだけだ。

「喜美子さん、どうやら気を失ったみたいですね。」

「構いません、このまま続けましょう。続ければ、その内に内の奴も気が付きます。」

生島が、愛妻の失心姿を眺めながら言った。

心配する事は無い。

気を失っても「犯られ続ければ気が付く」と、予(あらかじ)め岩代に教えられていた。

突然、居る筈(はず)の岩代が私の視界から消えた。

岩代の謎だらけに、関心を持っていた私は、肝心な喜美子クライマックスの時に、「フィ」っと視界から消えた岩代を不審に思って、用心深く探しに行く。

洗面所入り口付近にうずくまっている岩代を見つけた。

ずくまる様に影の方に身を隠して、岩代が何やら呟(つぶや)いて居たのである。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

岩代は、何かを念じている。

その岩代の呟(つぶや)きは、聞いた事の有る文句で、何やら陰陽修験の呪文(陰陽九字)のようだった。

あの呪文が、オーガズム・ハイ状態の喜美子の、「トリップによる幻覚を促している」と言うのか?

少しずつ、岩代に関わる説明の付かない怪奇現象の断片が垣間見える。


目の前で、喜美子がぐったりとパイプに吊られたまま陵辱を受け続けている。

生け贄は「中出しがお構いなし」だから、喜美子の花弁の間から滲み出たトロ〜リと粘性のある白い液体が、次の欲棒の抽入で追い出され、溢(あふ)れて糸を引いて垂(た)れ、太腿(ふともも)を伝わっている。

まだまだこれからで、体力が有り余っている体格の良い体育寮の学生達が、十人も相手である。

激しさは想像以上で、気を失った喜美子にも遠慮は無い。

学生が腰を入れてグイグイ突く度に、喜美子の身体がガツン、ガツンと波打って見える。

その状態が二人ほど続き、喜美子が息を吹き返した。

「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ。」

再び恍惚の表情を浮かべて、喜美子が善がり声を上げ始めた。

肉体(からだ)は正直で、刺激が加われば反応する。

容赦無い学生達の輪姦(まわし)で、抜き挿しされるカリ首が喜美子の内壁を擦(こす)り、流石(さすが)の激しさに、思わず呼応して腰を使い、吼(ほえ)えるように口を開け放し、凄い形相(ぎょうそう)で善がりながら、喜美子は腰を使い続けている。

女達には信じられない光景だが、喜美子は嫌がっては居ない。

見るからに現状が続く事を願っている。

理屈では理解できないが、ここには常識の理屈は無い。

一回りした所で岩代が「今度は別の緊縛責めを犯りましょう。」と言い出して喜美子を吊るしから外し、次の輪姦(まわ)し責めをする事になった。

喜美子を後ろ手に組ませて両手を拘束して上半身を亀甲に縄を掛けた挙句、岩代が喜美子に命じて座禅の形に胡坐(あぐら)をさせて足首を縛り、足首から首に縄を回して足首に戻して大仏の様に固定緊縛した。

固定緊縛した所で、頭を床に着く様に喜美子の肉体(からだ)を前に倒す。

倒された喜美子は、額(ひたい)と両膝先が床に着いて三点で支えたままの腹が宙に浮く尻が突き上がった格好である。

後ろから見ると、開いた肉花弁内側のピンク色の蕾を持つ陰門(いんもん)丸出しで身動きが出来ない「全裸・座禅転(ざせんころ)がし」が完成する。

酷く惨めな格好の喜美子だが、ア*ルも花びらの陰門(いんもん)も丸出しで身動き出来なく緊縛された女は、男心を弾ませる。

喜美子の座禅転(ざせんころ)がしが出来上がれば、後はまた、男衆が寄って集(たか)って身動き出来ない喜美子を輪姦(まわす)だけだ。

輪姦乱交にしてもSM行為にしても単独の性交の数十倍気持ちが良いから、その刹那的な快楽を一度経験してしまうと脳がその快感を覚えて常習性が出て来る。

喜美子は忘れられない快感の記憶を脳に刻み込まれ、その快楽に嵌(はま)って味を占めてしまったのだから、そこから先は意外とスムースだった。

都合二十二人目の田嶋に拠る二回目の陵辱が、座禅転(ざせんころ)がしを施(ほどこ)した喜美子相手に始まっていた。


(乱倫同志経営)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十八話(乱倫同志経営)


場所と「成り合い」は、実は大切な物である。

物事の出発点は、その先を構成する為の要素で有る。

従って、この京美企画の接待スペースは、岩代が構築した特殊な「成り合いの結界」と言う場所で有る。

たった数センチの壁を隔てて、この空間は「酒池肉林の桃源郷」を構築している。

つまり、既に「下界」ではない。

余りにもリアルではあるが、それが極楽の一つの形態と考えられる。

「極楽浄土」とも言うべき理想郷かも知れない。

なぜなら、「極楽」とは人間の創作で、京美企画の接待スペースも、まさしく人間の創作した「極楽」そのものだからだ。

それ故、生島喜美子は先ほどから「極楽」を彷徨(さまよ)っている。

上の口も下の口も、涎(よだ)れと愛液を垂れ流して、次々と下腹部を突き荒らす強烈な刺激に、悶えながら身を委ねている。

この突き抜けた快感は、こうした場所と「成り合い」無くしては得られない。


二廻り、喜美子はタップリと責められた。

股間には絶えず欲棒が出入りして、喜美子の快感を誘っている。

その快感はものすごく、呼吸が困難になるほど強烈だ。

勿論、私もその一員だった。

本人にも夫にも異存は無いから、座禅転(ざせんころ)がしに固定されて犯られ放題だが、相手が多数だから性行為も長時間になる。

その間、菩薩の境地を味わった喜美子は、その打ち続く快感の中で悟りを開いた。

人間で有る以上、「各々(おのおの)考え方は違う。」

従って、正義や正解は多数存在する。

その一つだけを取り上げて「正しい」と主張するのは、余りにも稚拙だ。

その事に気が付くのは、常識を棄てた経験が有って初めて判る。

今、まるで無差別に犯されて、初めてそれを思考のテーブルに乗せる事が出来る。

まるで何の精神的交流の無い学生達が、唯本能に従ってメチャメチャに自分を犯している。

快感は絶えず続いているが、情は何も湧かない。

性本能を満足させるだけで、愛は満足させてはくれないのに何故か古亭主の愛を感じる。

それこそが、この開所式呪詛の狙いかも知れない。

不思議な事に、この開所式の様々な喧騒の向こうに、奇妙な「静寂」が感じられる。

喜美子には、この静寂の意味を理解するのは荷が重い。

静寂の向こうにあるのが、「無」である。

こうした感情は「伏流水」みたいなもので、突如表面に姿を現す。

喜美子は、多くの男の玩具(おもちゃ)に成って、初めて自分の本来の女を知った。

それを逃れて、自分の本質は判らない。

つまり、過去の自分は理想を並び立てているたけで、本質は置き去りにして来た。

自分の本質さえ判らないのに、夫の事など判る訳が無い。

勢い、夫に自分の理想を求め、違うと失望する。

それが夫婦の間で微妙なすれ違いを呼び、仕事も、夫婦仲も、全てを悪化させてきた。

この、自らの意志では降りられない「陵辱輪姦舞台」に上って、犯され続ける事で、それに初めて思い当たった。

「女は子宮で物を考える。」と言うが、その子宮が眠っていて、良い考えが浮かぶ訳は無い。

何の快感も得られない子宮は、「独り良がりの女のたわ事」しか思い付かないのだ。

つまり、知らない(味合わない)内に結論を出す。

性の事を含め、全ての結論が無責任な建前論者の言いなりになる。

建前は、「建前」でしか無い。何事においても、簡単で、楽で、耳障りが良いが、本質ではない。

基本的に、性本能が無くて、「種の保存」は成立たない。

そして、それを妻に知らしめる為には、妻の他人との性行為を黙って見守る男達が居る。

そう、独占欲では縛らず、自分の妻の、本当の人間の自由を理解した男達が・・・・。

彼らの愛はけして偽物ではない。

むしろ、妻の本能を解放して遣れる度量がある。

その意味では、「他の男に抱かれても動じない。」これこそ真の「純愛」かも知れない。

喜美子は、夢現(ゆめうつつ)の輪姦陵辱の最中に、そう閃(ひらめ)いていた。



京美企画恒例の拘束輪姦が、喜美子を生け贄に壮絶に進行している。

さながら輪姦地獄の様相を体(てい)して居るが、天国と地獄の概念は、固定観念で理解しては困る。

人間の性はラビリンス(迷宮)で、正直、他の動物の様にその本性は簡単に解けるものではない。

性交の刺激は正直破廉恥なほど強いもので、まぁ人間の性的嗜好(しこう)など夫々(それぞれ)だから、表面化しないだけで結構ヒッソリと破廉恥を愉しんで居るものである。

行為がエスカレート(激化)すれば、野外露出やSM行為も愉しみの範疇(はんちゅう)に入るし、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)なども巷では密かに行われている。

野外露出やSM行為に於けるティードアップ(縛り)、ビリンデス(目隠し)、ハンダードラッシュ(鞭叩き)、ハングアウト(吊るし)はSMの基本形である。

輪姦(まわし)はスポーティなSEXであり、メンタル・トリートメント(精神的手当て)には持って来いである。

マルチSEX(複数性交)は相手を次々に代える性交行為だが、マルチタスクSEX(同時実行性交)は同時に複数が絡む性交行為で、依り刺激的なシチュエーション(状態/情況)を演出できる行為である。

それらは想像を超える興奮をもたらすものだからこそ幾ら正論で非難されても廃(すた)れないのだが、人間が刹那を生きる動物なら、その刹那の性行為を愉しむ事が悪なのだろうか?

結局の所、良い性行為の答えは「他人がどう想おうが気にしない事」で、そしてそこまで行くと行為を行う者の感性の問題で、「何処までが正常で何処からが異常なのか」と言う線引きは難しい。

例えば、輪姦を天国と見るか地獄と見るかは、気持ちが良いのか辛いかの個性の受け止め方に帰するもので、固定観念は意味が無い。

それを、素直(すなお)に受け止めるか、固定観で受け止めるかで、その人物の幅が窺(うか)がえるのである。

とどの詰まり、何事も天国と見れば人生は薔薇色であるが、地獄と見れば、苦痛の連続である。

従って、勝手に人生を不幸がって居る滑稽(こっけい)な人間も多い事に成る。

人間の「業(ごう/カルマ)」と言うものは、本能(邪悪な)の事ように言われるが、実は、人間が「知性・理性」と言った余分な事を考えるように成った事こそ「業(ごう)」なのである。

何故なら、素朴な生物本能に「業(ごう)」何てものは存在しない。

客観的に見れば、本来、素朴な筈の性行為に、特別な理由をつけたがるのが人間の悪い所である。

幾ら奇麗事を並べても、現実問題として人間の最初の行動きっかけは「もてたい、犯りたい」と言う思いだけである。

こう言うと、良識派を自認する・実は「良識派で有りたがって居る自己満足」の方々に目の敵にされそうだが、現実には性行為に、特別な理由など有る訳が無い。

愛していない相手と「性交」など出来ないし、「そう言う事をする女性が信じられない」と、良く奇麗事を言う女性がいる。

確かに、そう言う建前感情を持つ女性は世の中に多いだろう。

だが、元々男と女の出会いは偶然のもので、「好意(恋)」は持っても、そう簡単に愛情は育たない。

従って、そんな存在しないファンタジーは、ロマンチックな幻想(ファンタジー)に過ぎない。

幻想でなければ自らの性行為を、「愛情の賜物」と偽っているに過ぎない。

愛は生活を共にして、その積み重ねで初めて湧く感情であるから、逢って間もないのに、愛情がある訳がない。

それでも好みの相手となら性行為は行なわれ、結婚もする。

逆説的に考えれば、性行為を行なうのに「愛を条件」にするのは、存在しない幻想(ファンタジー)である。

だいたい、この「愛情性交論」には欠陥がある。

「愛情が無ければ性交は出来ない」と言うが、それでは多数の男性を同時に愛したら「その多数と性交が出来る」と言う事か?

もっと言えば、その女性が固体の男性ではなく、「男性が好き」と言う広義の対象に対して愛情があれば、それで無差別に性交をする事に成る。

この口の男性は世間ではかなり多数で、所謂(いわゆる)「女好き」と言われる者達である。

元々好意を持つのは感情で、性交は本能であるから脳の違う部分で考えている。

そこで愛情と性交を「別のもの」と分離すれば、愛する相手とは別の相手とでも充分に性交が出来る理屈になる。


確かにこうした事は、単(ひとえ)に考え方の問題である。

人間は、何かに拘(こだわ)ると真実が見えなくなる生き物で、私に言わせれば建前ばかり言う奴は、独り善がりの格好を付けているだけである。

只の遊びの積りで、「とんでもない事になった」と思ったが、既に妻の愛奴隷化計画は進んでいた。

しかし物は考え様で、男性は勿論女性だって大勢の相手と性交して普段出来ない快感を得る事は「贅沢」と思えばこれ以上贅沢な事はない。

妻がそれを「良し」として受け入れているなら、夫としてそれを認めてやらねばならない。

今も妻の里美は、生々しくもピンク色の陰門(いんもん)に竹中氏の浅黒い欲棒をズブリと受け入れて腰を使い、陰茎を見え隠れさせながら危(あぶ)な気無い性交パホーマンスを赤裸様(あからさま)に熟(こ)なしている。


愛情なんてものは、永年連れ添って始めて芽生える必然のもので、直感的な「好いた惚れた」は、愛ではなく「犯りたい」に近い直感的偶然の快楽感情(本能)である。

男と女が「好意(恋)」を熟成させて「本物の愛」にするには、連れ添って生活する永い時間が必要で、最初の出会いに有るのは唯の「好意(恋)」である。

「好意(恋)」は、一種の偶然が為せる慰め的な精神遊技で、その遊技も結構楽しめるが愛情ではない。

その「好意(恋)」を愛情と勘違いして、短期間の交際で性交に及ぶくせに、それを「愛だ」と言い張るのが多くの女性である。

人間の精神安定に必要なものは、慰めと快楽である。

これは本能が要求するもので、有って当たり前の衝動であり、身体健全な人間には誰にでもある。

つまり現実は、愛情など無くても、本人が犯りたければ「チョット好き」でも性交に及んで居るのである。

それで「出来ちゃった結婚」をしておいて、「やっぱり愛していた」では、余りにも将来がおぼつかないのである。

それだからこそ、結婚して連れ添ってからでも、「こんな筈ではなかった」が続出する。

性行為も、本能が要求する快楽であるが、ものは考え様で、簡単に言えば、「入れるように出来ている場所(女性器)」へ、「入れるように出来て居るもの(男性器)」を入れて、何の不思議があるのだろうか?

つまり性行為は極自然な行為で、理由は「犯りたかっただけ」か、「犯る必要が有っただけ」の快楽である。

まぁ、この性行為にも精神遊技的な感覚的な要素があり、SだMだと精神的に楽しめる部分も無い訳ではないが、それに、「愛情なの何だと」と言い訳染みた様々な理由を無理やり着けて、納得したがるのが人間のおかしな所である。


「一服しましょうか?」

岩代が休憩を提案した。

責め続けるには少し喜美子を休ませるのが現実的だ。

岩代の提案で、その場に「ホッ」とした空気が流れた。

「それなら、美しいものでも眺めながら一服しますか。」と石上が言い出した。

「美しいものって?」

「今日はめでたい支店の開所式だ。会場に花も飾ってあるが、喜美子さんに花でも生けて皆で眺めれば良いと思うけど。」

「そりゃ良い。」と、田嶋が身を乗り出して来た。

妻が笑いながら「キミチャンにお花を生けるのですか?」と面白そうに言った。

こう言う時の女性は意外と残酷で、女性陣も興味津々(きょうみしんしん)で反対の雰囲気は何処にも無い。

今日の喜美子は生け贄で、出席者の要求は拒めない。

夫の生島は、何時の間にか立ち上がって花束を手にしていた。

細君(京香)はもう、学生達を使って喜美子の態勢を変え、パイプを下げて脚を抑える形のマングリ返しに直して居る。

菊の蕾も、パックリと開いた肉の花弁も、もう花束が分け入って訪れるのを待ちわびる風情である。

花束は生島がゴムを根元に被せたのを二本作り、石上と田嶋に渡したのだが、石上が「生け花は女性の方が、心得がある。」と勝手な事を言い出し、妻に渡した。

「それなら俺も。」と田嶋が順子に渡し、ニヤニヤと笑った。

あえて女性人に犯らせて、喜美子を心理的に弄(なぶ)って楽しもうと言う魂胆である。

細君に言わされたのか、喜美子が突然大きな声で「ご休息中は私に生けた花で暫(しばら)らく和んで頂きます。」と言った。

結局、妻と順子がわざわざ「私が生ける」と喜美子に声を掛けてから、菊座と花弁の真中へそれぞれが捻じ込み、見事な花生けが完成した。

この、生け花を受け入れた状態が、喜美子に赦された呼吸を整える休憩の時間である。

各自、しばしそのエロチックに美しい生け花を眺めながら談笑をして、次の遊びに備えて居る。


最後は岩代の提案で「夫婦に共同作業をさせよう。」と言う事に成り、漸(ようや)く喜美子を拘束パイプから解放した。

夫の生島が喜美子をシーシースタイルに抱え歩いて男達の欲棒を入れてもらい、「生島が喜美子の身体を上下左右に動かす。」と言う荒業をさせた。

喜美子は、夫の首に両手でしがみついて、他の女が固く立たせた欲棒を次々に受け入れ、その度に突き上げられている。

流石(さすが)に先ほど来の拘束輪姦で体力を失って、喜美子の方はしがみつくにやっとだ。

それで夫の方が、受け入れた欲棒に調子を合わせて上下させ、喜美子の代わりに抜き挿しを試みる。

抱えた体重を支えながら、欲棒を咥(くわ)えた妻の股間をコントロールするのは重労働だが、生島は何故か目を輝かして疲れも見せない。

何か、奇妙な心理状態にあるのかも知れない。

これは、他の人間が抱えて回っても大して面白みは無い。

夫がする事に意義がある。

責める方も、「それを思う」と、興奮して欲棒が固く成る。

性行為には、こうしたシュチエーションの舞台立てが結構大事で、気分の問題とは言え人間の不思議な部分だ。

舞台立ての工夫を否定する夫婦は発想が貧しく、良い夫婦生活は送れない。


この会社(京美)独自の制度設計が、会社の成立経緯でこう言う形に成って落ち着いて居るのだから、喜美子の開所式の輪姦儀式も接待係りの四人も入社する以上はそれを承知するしか仕方が無い。

恥ずかしいも見っとも無いも在ったものでは無く、儲かるのなら多少の事に目を瞑(つむ)るのも人情で、満更責められない情状も理解できるので在る。

現在の性的な倫理観は一夫一婦制に拠る制度設計に起因するもで、実は一つの選択肢に過ぎない刹那的な社会合意である。

しかし一夫一婦制に拠る制度設計に於いて、その制度設計に拘束されるが故に現実的或いは本能的な矛盾も存在するからこそ離婚が多発する側面もある。

古(いにしえ)を紐解くと群れ内は乱婚の「群れ婚」や女の下へ男達が通う「通い婚(夜這い婚)」、また現代の他国でも二夫一妻やイスラーム信仰の国々では一夫四妻まで赦される国も在る。

実は性的な倫理観など時代時代で変化する物だから、性的な倫理観を現在に当て嵌めて全てを否定や批判するのは知的では無い。

つまり性の倫理観に於いて、何が常識で何が普通などと言うは元々刹那的な一時代の合意事で絶対性が無く、普遍的な倫理観ではない。

KIYOUBI(京美)の職場にはギスギスした所が無い。

それはそうだ、社内の雰囲気は理想的な肉体コミニケーション(性交)で、互いの妻をシエア(共用)する共犯の穴兄弟だから、互いに同志の意識が働く。

仕事のストレスは、頼めば女性陣全員がエンジョイ・トゥギャザー(ごいっしょに愉しみましょう)で即発散させてくれるから、男性達は女性陣に対しては感謝の思いやりが働く。

下司(げす)な言い方をすれば、タップリと犯らせてくれる相手に優しく対応するのは当たり前で、つまり大人の関係、大人のコミニケーションが肝心である。

つまり深く触れ合うのだから、職場環境としては最高水準の会社では無いだろうか?

会社内はかなりの「乱婚・群れ婚」乱倫状態にあるが、その心理を共感出来ないとすれば、かなり独善的な思考の持ち主と言わざるを得ない。



岩代が構築した京美企画の「乱倫同志経営」とも言うべき会社経営について、その特異性を言及した時、竹中が「歴史的に見れば、そうでもないぞ。」と言い出した。

「歴史的には違うのですか?」

「あぁ、現代の物の考え方で、乱倫同志経営を計るから特異に見えるのだよ。」

「昔は違うのですか?」

「社長は夜這いと言うものが、昔あったのは知っているだろう。あれは、究極の村落経営システムなのだ。今から説明しよう。」

現在は首を傾(かしげ)る輪姦についても、過去に遡れば、さほど騒ぎ立てる事ではない。

こう言うと、感情的な闇雲の反対に会うだろうが、昔の日本は乱交が当たり前だった。

「夜這い」と言う村落文化は、実は「総当り制の乱交文化」である。

その性交習慣の名残が、つい五十〜八十年前まで密かに村里に生きていた。

村人の結び付きの手段で有り団結の象徴だが、価値観の違う為政者(支配階級)は認めない。

それで、建前は「一夫一妻制」を取ったが、現実には「夜這い」は、本音の部分で村内は公認だった。

「夜這い」は男が女の家に侵入して交わって帰る事である。

現実問題として、相手にも家人にも了解がなくては成功(性交?)は難しい。

夜這いだけは、年の上も下もない。

身分、家柄もへったくれも関係ないのが村の掟である。

そして、相手は頻繁に変わっても良い。

つまり、「夜這い」を仕掛ける相手も未婚の娘とは限らない「総当り制」で、婆、後家、嬶、嫁でも夜這いが許される村も多かった。

その場合は、夫もそれを平然と受け入れなければならなかった。

妻や妹、そして娘を「夜這い」されても、夫や親兄弟は文句を言わない。

それが、村を挙げての合意された「掟」だからで有る。

夜這いによって妊娠し、子供が生まれる事があっても、夫はその子供を「自分の子として育てる」のが当たり前だった。

遠い昔の修験山伏、陰陽師勘解由小路党の残した性と子作りの規範が、元になったのは言うまでも無い。

それが、長年の村のルールだからであると同時に、自分達にもその事に参加権がある「集団婚姻的な性規範」であったからだ。

目的は村の団結(全て身内の気分)で有り、人口の維持発展、治安維持である。

本来人間は、「共に生きる事で互いを理解し合うもの」で有る。

簡単に言えば、「村民皆兄弟」であり、これほどの身内意識は、他の方法では育たない。

少人数の村では、男女の比率が平均化されない事態がしばしば発生したので、この手段の「総当り制の夜這い」が問題解決の最高手段だったので有ろう。

一夫一婦制で男女の比率が違うと、当然、あぶれる(相手に恵まれない)事態が起こる。

これを、手をこまねいて居ては村落が少子化に陥るから、救済手段が必要だった。

この考え方、今の日本ではまったく支持されないだろうが、人口バランスに起因する「少子化」に悩む当時の小部落の「有効な対策」だったので有る。

しかしながら、素朴に村の宝、国の宝だった子供を、現代日本では個人の自分の子供でさえ欲しがらない人が増えて、民族絶滅の危機さえ感じる。

村の人数が相対的に多く、若者と娘の員数が均衡している所では、若者仲間にのみ「夜這い」の権限が公認され、対象は「同世代の娘や後家に限られる」と定められていた村の事例もまた多い。

いずれにしても表向きは、一夫一婦制だが、実態的には皆が性的満足を得られる「夜這い」システムで補完されていたのだ。

つまり、おおらかに性を楽しんでいた。

このおおらかさを村々に植え付けたのが、修験山伏である。

「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。人間は、性行為や食事の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。

本来、「神が存在する」と言うなら、人間を創りし天地創造の神は、「人間に性交の快感を与える事」で、種の保存を促していたはずである。

それを認めないで建前を言い始めるから、人間は全ての本質から外れたのではないだろうか?

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。

それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言わば、個人の「癒しの精神状態」である。

そしてこの村落ルールは、現在の様に身体的に婚姻が不利な者や、見てくれで「もてない者」も、見捨てられる事も無く救われ、その手のトラブルを引き起こす事もなかった。

現代の常識に囚われず、視点を変えて見ると別の真理が見えて来るものである。

つまり現代の考え方は徹した個人主義に基づくもので、一事が万事この価値観で終始し性犯罪から親子間の殺人までが日常的に成っている。


「夜這い」を実践していた村には、「修験者(山伏)の指導」と考えられる性に関する様式がある。

勿論、村によりかなり多様な形態があり、アバウトなので、全てがこの様式ではない。

凡(およ)その処を要約すると、村の男は数え年の十三歳で初めてフンドシを締める「フンドシ祝い」、数え年の十五歳で「若い衆入り」と言う通過儀礼があり、年齢が達すると成人と見做され、若い衆と言う成人男子の集団への参加が許される。

この若い衆入りを果たすと、「筆下し」と言って、村の女が性行為を教えてくれる。

その相手は、後家、嬶(かかあ)、娘、尼僧と様々で、くじ引きなどで決められる事が多かった為、場合によっては実の母親や肉親がその相手になる事もあった。

その場合でも、相手の変更は禁じられた。

それは、「筆下し」が宗教的儀礼だったからで、神社や寺院の堂がその舞台と成った。

実は、神前で挙げる結婚の儀の意味合いも、その原点はこの儀礼習慣にある。

この辺りに、妙見信仰(真言密教)による「宗教的呪詛」の一端が垣間見える。

この「筆下し」が済むと、漸(ようや)く公に「夜這い」をする事が許されるのである。

女性の場合は初潮、或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、「おはぐろ祝い、またはコシマキ祝い」が開かれ、暫くすると「水揚げ」となる。

この「水揚げ」、親がその相手を探し、依頼する事が多かった。

「水揚げ」は村の年長者で、性行為の経験が豊富な事には勿論の事、人柄が良く、その後も娘の相談相手になれる後見人として、実力者の男性が選ばれた。

その水揚げを経る事によって、その娘に対する「夜這い」が解禁となる。

これらは、信仰深い人々にとって「神の計らい」だったので有る。

「夜這い」とは、村落共同体を維持する為の有用な慣習だった。

従って、現在の性に対する意識をそのまま当て嵌めて、「野蛮だ」と眉をひそめるほど単純な話ではない。

年齢に達すれば性欲は自然に高まるもので、現実の調査結果で女子高校生の「五割から七割が性交体験がある」と言う公的調査結果がある。

「今は時代が違う」と言うだろうが、元々肉体的には十四〜五歳で大人に成るものを、時代が違う事を理由に「嫌らしい」とただ欲望を抑圧して良いものだろうか?

「内の子に限って」と言う希望的想いの中、性の問題を隠し過ぎて事前教育もままならないでは返って危険を感じる事態に発展しそうだが、如何か?


夜這いは、村にとって重要な物であるから、その規則は住民達によって細かく決められていて、その取り決めは村ごとに異なる。

その差異は、「村の規模や性格によるもの」だとされている。

夜這いが解禁される基準も、村によって異なるが、数え年の十五歳という年齢が一つの目安と成っている。

これは、武士社会の「元服式」にも通じるから、数え年の十五歳の肉体(からだ)は立派に大人なのである。

冷静に考えると、自然に成熟する若い男女に、大人としての自覚(社会的責任)を身体の成長に合わせて回りがきちんと教える「理に適った」習慣である。

女性の価値観の合意はその時々で違い、それがその時代の普通の性に関する考え方だった。

観音(観世音菩薩)様、或いは弁天(弁財天)様の慈悲の心は無償の愛である。

しかしその愛は、固体を愛する愛情ではなく博愛の心である。

村落共同体(村社会)に於ける夜這いや寝宿の制度下に於いては、そこに住む女性達の心が慈悲(博愛)に溢れていなければならない。

無償の愛は美しいが、もし心の片隅にでも「こんなにも愛して遣っている」と言う左脳域の計算の気持ちがある愛は無償ではなく、本物の愛でもない。

相手が「何かしてくれないから私を愛しては居ない」は、わがまま極まりないバカ女の台詞で、親が子に抱く素朴な気持ちが無償の愛の典型である。

しかし近頃、その素朴な気持ちさえも己の「利(左脳域の計算)」に害されて通用しなく成りつつある。

この「夜這いの習慣」、単純に女性が不幸とは言い切れない。

これはあくまでも価値観の問題で、公認で多くの男性と性交(まじあう)事が楽しみな女性であれば、現代より幸福かも知れない。

つまり、女性の権利に於いて、SEXが嫌いな女性の言い分とSEXが好きな女性とでは同じ問題でも正反対の権利を主張する。

SEXを、しない権利とする権利の相違で、個人の感性でどちらか一方を採用すべきものでもないのである。


村落共同体の存続を賭けた「少子化対策」のこうした様式は、広義に解釈すると国家にも通じる。

村民が減っていけば「村の力が落ちて行く」と同様、国民の居ない国家は成立たない。

従って、「夜這い」を現在の固定観念で安易に「低俗」と判断する人は「無知」な人と言わざるを得ない。

現在より余程実践的な性教育システムであり、健全な精神の若者を育てる「民の知恵だった」とも解釈できる。「再開しろ」とは言わないが、先人の知恵に「教えられる所は多多ある」と言う事だ。

それを現在では、「十八歳までは子供」と法律で決め付けている。

この抑圧は、若者の思春期の精神生成に、害はないのだろうか?

無責任な建前主義に陥って、成長期の大事な若者の精神を無理解に捻じ曲げてはいないだろうか?

少なくとも、昭和の始め頃までは「夜這い」はほぼ全国で行われていた。

最後まで残ったのが、昭和二十年の敗戦の頃までで、漁村を中心としてまだこの慣行が残されていたらしい。

しかし、高度経済成長期の集団就職、出稼ぎ、などの影響で村落共同体の崩壊と共に「夜這いは全滅した」とされている。

昭和二十年の初めまで、関東から以西の主に沿海部の漁村に分布する独特の風俗習慣に「寝宿(ねやど)」と言う制度が在った。

北日本、東日本ではその存在が希薄である「寝宿」は、地方により「泊り宿」や「遊び宿」とも言う。

若い衆には「若い衆宿」、娘衆には「娘衆宿」があるのが普通だが、男女別のものばかりではなく、土地によって同宿のものもあった。

集会場や仕事場としてのみ用いられるものは「寝宿」とは呼ばない。

「寝宿」は文字通り寝泊宿で、男子の場合、若い衆へ加入と同時に「寝宿」へ参加するものと、「寝宿」へ加入する事が、逆に若い衆組への加入を意味する「形態」とがある。

娘衆の場合、集会としての娘宿は多いが、寝泊宿の例は比較的少なかった。

たとえ、寝泊宿があったとしても、いずれにせよ、一つの寝宿に兄弟姉妹が同宿する事は避けるものであった。

寝宿の機能は、「婚姻媒介目的」と「漁業目的」の二つに大別され、双方を兼ねる場合もある。

婚姻媒介目的の場合、若い衆は「寝宿」から娘衆の家・娘衆宿・娘の寝宿へ夜這い(よばい)に訪れ、おおらかに相性を確かめた上で将来の伴侶を選んだのであり、そのさい宿親と呼ばれる宿の主人夫婦や宿の若い衆仲間達が、助言や支援を行った。

つまり、明らかに村落共同体としての合意ルールによる「夜這い」である。

いずれにしても、この制度は「夜這いを容易にする手段でもあった」と言える。

従って、結婚すれば寝宿から卒業する地方もあった。

一方、漁業目的の場合は、寝宿から夜間の漁に出るほか、寝宿に宿泊して遭難、災害、紛争(他の村落相手)等の非常時に備える現実的な目的があった。

「寝宿」としては、一般に新婚夫婦のいる家屋の一部屋を利用するものが多いが、漁業に関係した「寝宿」は網元の家が用いられる事もあった。

また寝宿専用の家屋が常設されている地方もあった。

こうした慣習が、関東以西の広範囲に大正末期までは顕著に続けられ、その名残は、地方によっては、村の青年団や消防団などが、こうした習慣を継承して、昭和の二十年代初めまで続いていたのである。

現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。

しかし勘違いしてはこまる。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這い」の意味が理解出来ないのである。

民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。

明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指した。

それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新までは根強く残っていたのは確かである。

実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を変えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為に「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙する。

また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るもので、この事が村社会・地域社会の身内感覚を失わせた。

敗戦後に影響を受けた米国型の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで二千年来の歴史的な意識思想とする所に、大いに妖しさを感じるのである。


「昔は、そんな事が有ったのですか?」

「固有の風俗文化で、歴史的な事実として有った事でも、現在の社会合意に合わない事は抹殺されてしまう。」

「国民の大多数は知らないから、ズット現在の社会合意が続いていると思っています。」

「社会合意は時代と伴に変わるものだから、今は非難されそうな事でも、当時は当たり前だった何て言うのは、幾らでもある。」


近世から近代にかけて、為政者主導の社会制度に、民が「性的なものに対する嫌悪感」を植えつけられ、次第に性に対するおおらかさを失って行く。

しかし、為政者主導の「一夫一婦制」は庶民には押し付けたが、都合の良い事に権力者達は「血脈を途絶えさせない為」と称して、自分達だけは正妻以外に「妾」を多数囲っていた。

この、性への嫌悪感の流布には、「お定め。禁令」と言った法律の施行と伴に、中央政権に迎合した宗教の存在が、大きい力に成って行く。

為政者側からすると、「そんな楽しい事に現(うつつ)を抜かさず、働いて我々に貢げ」と言う事で有る。

つまり、「民を働かせ、その成果を収奪する」為政者有利な論理に元付く「まやかしの制度」で有る。

主として為政者の目が届きやすい平野部が、その制度に染められて行った。

一夫一婦制は、重大な別の効果をもたらせた。

庶民が異性に対する独占欲を、強く意識する第一歩となったのだ。

そして、民間で見事に成立されていた「性教育システム」を崩壊して建前の中に蓋をしてしまった。

つまり、本来脳の別の部分で考えている「精神的愛情」と「性的衝動」を集合させ、「独占欲」と言う私権で括(くく)ってしまった。

その間(ハザマ)の中で、最近多発する「未成年にのみ性の興味が向けられる」歪んだ性を育てた可能性を否定できない。

しかしながら、未成熟な若い身体や同性に興味を抱くのは、生き物として正常ではなく病気で有る。

それらが徐々に進んで「私権(私欲的個人主義)」の意識だけが、性の意識に限らず、金品などあらゆる物に及んで行くのだ。

現実に存在する人間の性衝動を、建前主義の絵空事で覆い隠して・・・・・・現にこのギャップが、多くの事件の元に成っている。

しかし、山間部の民や漁場の民は、昔ながらの「未開」の領域を「その制度の中におおらかに残していた」と言う事だろう。

深く考えれば、「夜這い」こそ、黒人社会のソウルミュージック的な、日本の民の「魂を揺さぶるもの」で有ったのでないのか。

そうした魂の原典がごときものを、切り捨てた時に、日本人の魂は文明の中に消えた。

つまり、米、味噌、醤油を日常的に貸し借りしていた共同生活者の意識は無くなり、遂には夫婦親子に到るまで、共同生活者たり得なく成ってしまった。

良く観察してみると、穏やかで、お人好しで、素朴な人柄の村人が一皮剥けば生き残る為のしたたかな鎧を、しっかり身に着けているである。

歴史ある海や里、山の小さな村落が、お上のお仕着せの定め(一夫一婦制)に逆らい、独力でルールを決める事で今日まで生き延びて来た。

つまり企業生き残りの身勝手な論理と同じように、「夜這い」と言う村の身勝手な論理が、村を支配する光と影に積み重なって営々と築き上がっているのかも知れない。

人間を除く動物は、自然の摂理で「種の保存」をする。

それ故かならずカップリングからあぶれるものが出る。

つまり優れた種を残す為に、そのカップリングに残酷な優劣の選別がなされる事になるのだ。

人間は、往々にして理屈より感情が先に立つ、それ故基本的に利己主義である。

しかし大和の国の民人(たみびと)には、知恵と「観音の慈悲」があった。

あぶれる者を救済する地域社会の合意を構築したのである。果たしてこの民人(たみびと)の知恵、単純に「異常な事」と言いきれるだろうか?

信じられないが、そう言う村落社会の共同体が、日本中の到る所に在ったらしい。

「そうすると、岩代君は昔の村落経営システムを応用したと言うのですか?」

「あぁ、彼が歴史を知っていたのか、独自の感で始めたのかは聞いては居無いが、経営基盤としては強固なものに成る。」

「そういう事ですか、そう言えば戦国大名なども、御手付きの愛玩稚児小姓上がりを腹心に登用していましたね。」

「身体を赦した関係とか閨閥は、信頼のバロメーターとしては根拠が強いものだ。」

「他人とは思えない感情の結び付きですか・・・・・」

「わしも、歴史を知らなければ今時の常識人で、乱倫同志経営などふしだらと言う所だがナ。」

流石(さすが)竹中は、元高校の社会科教師である。

日本古来の庶民文化(夜這い文化)に置いては、異性に対する個人的な独占欲は「恥じるべきモノ」であり、非難されて当然の社会合意と言え、それが普通の村社会だった。

まるで、現在の私の立場が、正にその乱倫同志経営の村長なのである。

「夜這い」に秘められた村人の思い・・・・それは素朴で優しく、隣人愛に富み、美しい。

その心情が失われて行く事を、文明の進歩とは「けして言わない」はずだ。

人は一人では生きては行けない。

しかしその現実は、隣人愛どころか家庭の崩壊さえ進んでいる。

後発で現れた商(あきない・商業)が、やがて大きく広域な経済活動になり、今では拝金主義のマネーゲームに明け暮れている。

日本の文明は、「私権的都会化物質文化」と伴に荒廃して行くのかも知れない。

後に、竹中の一連の推測が悉(ことごと)く当たっている事に成るのだが、私はこの時点で、この重要なアドバイスも単なる竹中の知識としか受け取っては居なかった。


遊びの性交など「不道徳」と指摘されるが、女性の側にだって結婚する気は無いけれど寂しいから性交パートナーにキープ(保持)している場合もある。

つまり性交プレィは人間にとって、「生きて行く為の心の隙間を埋める癒(いや)し作業」と言う本能をくすぐる側面を有している。

従って、そうした現実を全て否定した世間など建前だけで、この世の真の現実にはそんな事実は無いのである。


社会通念とか常識とかには「建前もあれば現実」もあり、要領が良い人間なら例えそうした遊びを影で犯って居ても、既成概念と争わず建前に合わせて触れないで置くかも知れない。

しかし自分が変わらなければ環境は変わらず、社会通念とか常識とかに縛られては、どんな事柄に於いても将来の展望など開けない。

女性の女盛りは精々十五年〜二十年間、年齢にすれば十八歳〜大目に見ても三十八歳と言う所で、その間を身硬く生きるか、多少は羽目を外して性交遊技を愉しむのかは本人の生き方の問題である。

そうなると、一対一の尋常な性交など詰まらぬもので、つまり遊びの性交は価値観の問題で、夫婦合意の上で他人を交えた複数性交を「経験しない人生は勿体無い」と言う考え方も出来る訳である。

肉体(からだ)をシエアリング(共同所有)する「遊びの性交」なんか、完璧に洒落(しゃれ)の乗りで犯るもので、そんなものは「浮気」とは呼べない。

そう考えれば同じ輪姦プレィのお誘いでも、そう言う遊びの機会が在る仲間環境が在るだけでも幸運な人生かも知れないのだ。

確かに「性」は建前ではタブーだが、正直ヒューマン(人間的)として皆が「性」に興味が在って当然で、それで無ければアダルトビデオや裏ビデオが一般家庭まで蔓延する筈が無い。

そしてヒューマン(人間的)として「性」に興味が在るのならば、尋常な性交など詰まらぬものである。

だからこそ、その興味は単純なものに止まらず、本能をくすぐる様に生々しく卑猥であれば卑猥であるほどその興味を満足させるものである。

「嫌らしい」と非難するだろうが、種の保存が目的だから、その前駆段階に在る性交そのものは基本的に愉しんで犯るように予(あらかじ)め脳の中でセットされている。

だから「ああ犯ろう、こう犯ろう」と想像をたくましくして、性交の実行方法を愉しみにしても当然の事で、「嫌らしい」と非難するには当たらない。



いずれにしても今日の既成概念が、必ずしも正しいとは限らない事が判り、物の考え方には柔軟性が必要である。

脳科学者が指摘するに、人間の脳の自然発達は一般的にそのピークが凡(およ)そ三十六歳である。

従って、三十六歳以降の人間が幾ら考え方を変えようとしても思考が固定するアンカリング効果と一貫性行動理論が顕著になる。

本来、触覚も思考も脳が管理しているのだから、先入観で結論を決め付けずに脳が正しい情報を得て正しい指令を送る訓練が必要である。

それ故に柔軟性を持った考え方を習得するのは、多少世間を知った三十歳前後が好ましく、この時期に固定観念を棄てて考え方に柔軟性を持たせる学習をする事が肝心である。

そうした意味で、KIYOUBI(京美)の女性メンバーが三十歳前後で物の考え方の柔軟性について学習の機会を得た事は、幸運だった。


「しかし、京香さんの統率力も、今更ながらたいしたものですね。内の奴を始め、女性は皆心服している。」

常々不思議に思っていた疑問、恐るべき細君(京香)の統率力を竹中にぶつけて見た。

「あれか、あれはわしも只者ではないと思っている。岩代君の影に隠れているが、ヒョットすると、あの娘(こ)も気を操るのじゃないかな?」

「岩代君と同様の力があるのですか?」

「わしには、あの娘(こ)が自分の力を隠しているように見える。実は相当の力かも知れない。」

「やはり、そう思いますか。」

どうやら私だけでなく、竹中も細君(京香)の統率力に、何かを見ている。

最年少ながら、女性群のリーダーに君臨し、逆らう者は皆無である。

それどころか彼女の命令は絶対で、妻の里美も、理不尽とも思えるSM調教や接待命令にも、素裸で素直に応じている。

しかし、細君(京香)は私の前ではその実力をけしてひけらかすような事はしない。

むしろ大人しい雰囲気で、それだけに彼女に対する謎は深まるばかりである。

女達は、何かを恐れているかのように細君(京香)の意向にピリピリしている。

妻を始め女達のリーダーは何故か自然発生的に、最年少の細君(京香)が認められている。

細君(京香)は若干二十五歳ほどで、女達は四〜五歳は年上だった。

皆細君(京香)に対して素直で、小娘に弄(なぶ)られるような如何なる指示にも逆らうのを見た事がない。

イヨイヨ細君(京香)は、明らかに只者では無いのだ。

「キミチャン、君達は京香に随分遠慮しているようだけど、何でなの?」

喜美子も細君(京香)のS(サド)風の指示に従う形で、逆らいもせずに卑猥(ひわい)な性奉仕を身を呈してゲストに重ねている。

「京香さんには誰も頭は上がりません。接待奉仕の時、的確なアドバイスでどう動けば良いのか指示してくれます。」

「若い娘(こ)に卑猥(ひわい)な命令されて、キミチャンは納得しているのかね。」

「私達、絶対服従なんですよ。京香さんには・・・」

「判らないなァ。君らは年下の若い娘(こ)に弄(なぶ)られながらスケベな事をさせられているのに。」

「それだけ、京香さんには教わる事が多いのです。」

細君(京香)は、ゲストの顔色や表情だけで何を要求しているのか的確に判断し、彼女達に指示をしていた。

つまり、細君(京香)の指示命令は、細君(京香)の口から出ていても「ゲストの要求だ」と、思い知らされているのだ。

「たぶん、京香さんの命令がなければ、現場は大混乱。私達、何をして良いのか困ると思うの。」

驚いた事に、ゲストの心理を読むのみならず、細君(京香)は彼女達の心理も「的確に読んでいる」と言う。

以前妻との会話から、細君(京香)のリーダーシップは「尊敬や信頼に裏打ちされた服従」と解釈していたが、これだけ多人数の年上を影で束ねる能力が「何処に在る」と言うのか?

見ると、彼女達は皆一様に細君(京香)のリードに服従し、その事が接待業務を円滑に進めている。

言葉では表し切れない力量が、細君(京香)に在るのだろうか?

岩代京香の気風(きっぷ)の良さは、並大抵のものでは無い。

その京香の並外れた気風(きっぷ)に、周囲の女達が見事に心服していたのかも知れない。

私にはおくびにも出さないが、細君(京香)は差し詰め「現場の鬼軍曹」と言う所で、女達をピリピリさせる所まで把握し、接待的服従を強(し)いて居たのである。

岩代理論で言う祈願巫女を極限状態に追い込む輪姦の目的は、巫女の脳内を「臨界点」ぎりぎりの「超臨界性感覚」にし、休止している別の脳領域を多少回復させる事に拠って、「脳派エネルギーを放出させる」と言うのだ。

それが、実効性を伴なうものであるなら、妻はもとより喜美子や順子も未来を見た事になる。

そうなると、相当永い間その呪詛祈願を実行して来た岩代の細君(京香)は、いったいどれほどの超能力を「持ち合わせている」と言うのか?
内心私は戦慄していた。

愛の無い性交でも、「快感は感じる」と言う信じられない事を散々に経験した喜美子には、生きて行く上での自信が沸々とみなぎって来て居るのを私は感じていた。

血液型がAB型の女性の性格は二面性にあり、センシティブな感情を持ち多趣味多才で多くの事に興味を抱く。

その一方で気持ちを率直に表現出来ないから「何を考えているか判らない」と思われてしまうミステリアスな所が在る。

多方面に興味が在るからセックス観にもそれが反映されてアブノーマルなプレィにも興味が強く、性向も愛情と肉欲が同時進行も有りの二面性で、気分次第では何でも犯って見る性格である。

京美企画のマドンナ的な存在、岩代京香がこの血液型だった。

まぁ、余り血液型に拘っても何だが、各自を照会して見ると結構合致してその傾向は否定出来ない。



梅雨明けと同時に、会社近くの猫の額ほどの公園の「蝉の声」が、やたらと五月蝿(うるさ)く成った。

気象庁の予想は冷夏だったのだが大外れで、例年以上に糞熱い夏に成った。

気分的には開放的に成る時機で、「薄着」と言うより普段下着無しの女達には、糞熱い夏は凌(しの)ぎ易い。

だが、「ゲスト相手の性交奉仕」と成ると汗が邪魔になるほど熱く、体力が要る季節だった。

月捲(つきめく)りのカレンダーも、八月に変わろうとしていた。

あの日以来、「岩代の奇跡」は続いていた。

集まった男女が岩代の「奇妙な経営手法」を、何故かさして抵抗を示さず自然な流れのように応諾する。

許す実践は、必ず相手に通じる。

「肉体(からだ)を許す」と言う事は究極のメッセージの実践であり、誠意の体現である。

京美企画の土地転がしは魔法のように接待性奉仕が効いて業績が順調に推移し、回転する資金は私の想像以上に膨れ上がっていた。

生島喜美子の支店開所祈願を機会に、組織を決める事に成った。

正式に湘南支店が開業するのだから、会社全体を整理する必要がある。

新たに、接待レデーも四人揃えた。

ままごとみたいな小さな会社だが、岩代子飼いの学生から四年の卒業生を二名営業で採用した。

女性事務員も数名採用して、何時(いつ)までも「岩代さん」呼びでは通らない。

命令系統も確立するしかない。

社長以外が肩書きが無しでは世間で通用しないから、岩代を専務、生島が湘南支店長なら、小泉を同格の東京支店長、と決めた。

不動産業と言っても京美企画はバブル不動産屋で借家などの斡旋はしない。

大手の依頼を受けた地上げと自己資金の土地ころがしが主な仕事だが、まるきり順調に廻っている。

細君(京香)を頂点とした接待軍団のお陰で、難しい交渉仕事も難なく進み、私が「あれよあれよ」と言う間に事業は拡大して行く。

接待レデーも四人増えて妻は余り出番は無く成ったが、「これぞ」と言う時は妻の里美も狩出される。

妻を駆り出す権限は実質岩代が握っていて、私にも妻にも拒否権は無い。

そこの所は私として少し引っ掛かる所で、冷静に考えると私が一番岩代の手法に懐疑的だったかも知れない。

岩代の、裸の接待の手法は格好の良いものではない。

岩代とてそれは充分承知している。

しかし建前を話す者は、見栄えは美しいかも知れないが建前には本物の中身はない。

これは選択肢の問題で、格好悪くても本音の誠意が通じれば目指すものは本物になる。

岩代の奇想天外な事業手法に付いて葛藤は在ったが、既に岩代の考え方が社内に浸透していた。

私個人としても、妻を接待に出すのには葛藤が在った。

しかし既に妻の裸の接待が、社の命運を握っていた。

そして妻は、自分が事業に参加し「重要な所で役に立っている」と想うと、こんなにも日々の生活に「張りが出来るものか」と驚いた様だった。

つまり性接待を、「犯り甲斐の在る仕事だ」と妻は納得していた。

勿論、妻の日頃の日常生活は周囲に自然に溶け込んでいて、特殊な仕事に関しては素振りにも出さないから、誰も卑猥(ひわい)な愛奴隷を熟(こ)なすサセ子とは世間は気が着かない。


何らかの確信の上で岩代は妻達に裸の接待をさせ、女性を冷徹に扱う強烈な意志で会社の規模拡大を急いでいた。

岩代は、その人懐っこい性格と律儀な信用で、瞬く間に政官財界に食い込んで居る。

彼が言う「信頼関係」の構築には、どうやら細君(京香)がフルに活躍している様で、挨拶の言葉を交わす要人の半数が「京香さんは元気か?」と、細君の名を親し気に口にする。

一言も聞いた事は無いが、察するに岩代夫婦は細君(京香)が妻以上に激しい頻度で裸の接待を、見えない影の部分で熟(こ)なしている計算になる。

私自身が、当初から細君(京香)の得も言われぬ色香に誘導されていたのだから、恐らくゲストの大半は細君(京香)の禁断の性技(テクニック)に誘われ、その後犯る気満々で妻を弄(なぶ)る所に到っている筈だった。

細君(京香)の屈託ない笑顔とは少し違うが、妻はこの性奉仕を始めてから、優しい笑顔を絶やさなくなった。

そうした岩代夫婦の裏の努力が目に見えるだけに、そこまでして岩代が目指す企ては、とても「単なる金儲け」とは思えない。

そこまで既成事実を積み上げ、信頼関係を築いた上で、メインディッシュとして彼らに供されるのが、妻の肉体(からだ)であり、妻は、その為に岩代に選択され、期待された彼の作品(セックス・マシーン)だった。

大抵が「最後の念押し」と言う大事な接待で、最もキツイ事を要求されるのが、妻の立場である。

上質な接待の為に、妻の肉体のあらゆるパーツは接待相手の快楽の為に供される事に成る。

一切の要求に拒否が出来ないルールだから、接待に出かけて行った妻に何が有ったのか気に成る所である。

それを思う時、脳みそが溶ろけるような「夫としての被虐感と男としての加虐感」と言う複雑な感覚が湧き上がって来るのだ。

私は、傍(そば)で夫が見て居ては「ゲストがお楽しみを遠慮する」と悪いので、原則同席しない事にしている。

その代わり、接待から戻って来た妻を裸にし、全身を点検する愉しみを覚えた。

接待帰りの妻の肌には、生々しい縄の跡や赤い鞭打ちの跡が残っていて、興奮を覚え、仇とばかり細君に命じて男根を咥(くわ)えさせながら、その一部始終を里美に報告させるのが常だった。

その愉しみも、暫(しばら)くすると飽きて来た。

慣れとは恐ろしいもので、次第に妻の接待行に、いちいち拘(こだわ)らなく成っていたのだ。


大体、起こり得た物事を後に引きずるのは男性の方で、女性の方がスッパリと割り切りは早いのですね。

最初はそう簡単には行かなかったのですが、外聞を憚(はばか)るような端無(はしたな)い事でも、いざ犯ってしまうと「生きてる実感」がフツフツと湧き上がって来ます。

その感覚が「今の私には必要な事かも知れない」と思え、犯れば犯る程事業成果が上がって来れば、その意味でも性接待が面白(おもしろ)くなるのです。

接待の性奉仕は、あくまでも大人の節度を保った範囲での遊びで、勿論、ゲスト様の日常生活を壊す事など無い約束を前提とした「非日常」の世界なのです。

「非日常の世界」ですから、露出羞恥プレィ、複数プレィ、SMプレィと、あらゆる行為の要求があり、それに応じて犯って見ると、色々奥が深いので驚かされます。

ゲスト様をお慰めする接待の性奉仕は、卑猥(ひわい)の限りを尽くす行為ですが「ある種修行のようなもの」と、私(里美)は思っていますから、ゲスト様に「無理や嫌」はけして言いません。

でも、気持ちが良いのです。

こう言う背徳の性行為は密の味で、精神的にも肉体的にも、極限の興奮が得られます。

息も出来なくなるくらい責め上げられて、終って開放された時の虚脱感は、経験しないと得られない、堪らない安堵感に包まれます。

最近は時々、岩代さんから夫に、私(里美)を貸し出す依頼が来ます。

散々調教されましたから、夫から命令があれば、もう私(里美)の頭の中は愛奴隷モードです。

判って居るのです。

考えてみれば、岩代さんの言うように何も無い者が世間で伸し上がろうとすれば、かなり無理な事もやらなければ成りません。

そう言い聞かせて、きつい調教に耐えました。

今では何んの躊躇(とまど)いも無く気持ちが変わって、今度はどんな風に辱められ犯されるのか、その期待でワクワクする自分が居ます。

「エッ、何故そんな女に成ったのか?」ですって、その質問は心外です。

キット貴方はその場を経験せず、頭の中で考えているだけでしょう。

考えるのは勝手で、結論も勝手ですが、「経験も無しに、何を判断する」と言うのでしょう。

こんな事を言うと世の女性から、「自分を否定されそう」な話なので反発を買いそうなのですが、想像だけでSEX誤解していたのか、いざ体験してしまうと新鮮な衝撃で、今までの常識は余りにも非現実的だったのです。

刷り込みを繰り返し、私(美里)の体にSM快感依存症を植え付けるのが、岩代夫婦の調教の目的でした。

接待の性奉仕は、「奉仕する者が、性奉仕を好きになって楽しくやれ」と、岩代夫婦に教わりました。

温和で朗らかな京香さんの性格も、いざ調教や接待となると態度が一変するのです。

厳格で妥協を赦さないのが岩代夫婦の調教で、それにドップリ浸かって見ると、所詮世の中ドロドロと「こんなもの」、建前の綺麗綺麗は絵空事と判って来ました。

夫から「私(里美)の調教を岩代さんに任された」と言う追い込まれた中で、現実は進行しました。

それは、私(里美)にも、世間並みに戸惑いも抗う気持ちもあったのです。

所が肉体(からだ)は正直で、犯られれば感じます。

快感があれば脳天をしびれさせます。

現実にその場に直面したその衝撃的な快感の経験がないと、この状態は共有出来ません。

頭の中が真っ白になって、全身が喜びに震えます。

それほど、口では言い表せない、癖になる魅力的な事でした。

経験してしまうと、結論に変化があっても当然なのです。

その前は、只の空想を元に結論を考えていたのですから。

渾身(こんしん)の生々しい遊びの接待プレィが出来ない女性は、KYOUBIでは欠陥品なのです。

夫さえ知らない岩代夫婦の私(里美)への性感調教特訓は、壮絶です。

それはキツくて、最初は泣きました。

でも、私(里美)を優秀な性接待の愛奴隷に仕立て上げるのが目的ですから、誰も赦してはくれません。

有無を言わせない調教を受けながら、私(里美)の立場は、「けして赦されないのだ」と知りました

実は岩代夫婦だけでなく、私(里美)の調教には例の学生軍団が助手に付きます。

彼らは本気で私(里美)を犯し続け、その行為に容赦がありません。

だから性玩具として、接待の本番よりズットキツイ調教が施され、私(里美)の思考は停止してしまいます。

そうする事で、苦痛と快感を同時に味わう特殊な感性が育ち、貪欲に快感を貪るように私(里美)の肉体を慣らして行ったのです。

素裸に剥(む)かれた途端から愛奴隷のスイッチがオンになり、私(里美)の人格は無くなります。

全ては彼らの言うがままで、逆らうと「ピシリ」と尻を叩かれます。

愛奴隷には、自分の気持ちは一切認められないのです。

そして、相手の意に添う事だけを考え行動しなければ成りません。

縛られようが、吊るされようが、自分の二枚の肉花弁のスリットを訪れる物が、性玩具だろうが、指だろうが欲棒だろうが、その全てに受け腰で腰を使う事を義務付けられ、受身で感じる事は禁じられています。

それで、身体と気持ちが、如何なる事にでも従順に従う事が習慣付けられます。

縛られ吊るされ、どんな体勢からでも岩代さんの欲棒が、私の肉花弁のスリットを襲い、貫き犯す事でつらさと快感を同時に体感させるのです。

特訓中は容赦がありません。

とにかく電動性具と欲棒で柔ら壺を犯り倒され、私(里美)を悶絶させるのです。

それも掟があって、受身で快感を貪る事はけして出来ません。

私の肉花弁のスリットや菊の蕾を押し分けて入って来るものは、たとえ指だろうが電動性具だろうが、欲棒と同様に常に受け腰使いでその抜き差しに応じなければなりません。

何しろ愛奴隷の使命は、相手の性癖を適えて喜ばせる事に喜びを感じなければ成らないのですから。

不思議な事ですが、岩代さんの欲棒に柔ら壺が犯されると、何時でも脳みそが溶けるようなジーンと痺(しび)れるような快感が、絶え間なく襲って来ます。

夫には言えませんが、岩代さんに犯されると、口では言い表せない・・・そう、まるでこの世のものとは思えない快感に襲われます。

そんな調教を度々受けさせられると、脳も子宮も身体も、縛られ吊るされて犯される事に疑問は感じなく成り、つらさと快感は一対に結び付いて、私(里美)は性玩具の境遇が心地良いのです。

そのめくるめく快感調教に度々晒(さら)されると、何故か私(里美)の感度が高まって、最近ではどなたのお相手をしても、同じような快感を得られるように成りました。

本当の事を言いますと、相手を選べない私(里美)の立場としては、ゲスト様のどなた様にも失礼なくお相手が出来るので、これはありがたい事です。

キット私(里美)の肉体自身が、性感の感度が想像を絶するほど良く成っているに違いありません。

心も身体も、何時の間にか戸惑いや抗いが消えていました。

それで、夫の知らない私(里美)別の顔が完成し、素裸に剥(む)かれ拘束されて接待に使われ始めたのです。

愛奴隷奉仕は、あくまでも自分の肉体(からだ)を使って、ゲスト様の性癖を満足させる為の禁じ手無しの卑猥な性奉仕ですが、実の所、それ程悲惨な訳では有りません。

勿論私(里美)も、性交そのものを好きに成って快感を感受すれば良いのですが、その気に成れば他にも結構楽しめる要素が沢山あるのです。

こんな事を言うと、「はしたない」と思われるでしょうが、この愛奴隷奉仕、前向きに考え様に拠っては「凄く面白い」のです。

だって相手は色々な立場と地位の人達で、個性も色々、当然表面とは結び付かない別の顔ばかりです。

そんな方々と肌を合わせれば、素っ裸の本性が剥(む)き出しの素顔が見られるのです。

人間、飾り立てた上面(うわつら)でばかり付き合っても、その真実は見えません。

だって愛奴隷奉仕の場では、格好を着けては居られません。

性癖を満足させる為には、格好が悪くても飾らない男の本音、素っ裸の本性が剥(む)き出しに成るのですもの、嫌でも男性に対する新しい認識が生まれます。

今までは、女性の感性を無理やり当て嵌(は)めて、男性の判断基準にしていた私(里美)ですから、それが「全くの間違い」と理解して、「面白い」と思える楽しみ方も有るのです。

それを「面白い」と思う私(里美)は、考え方が大分世間とは飛んでいるのかも知れません。

正直「何が違うか」と言えば、只漠然と生きていた私が、愛奴隷の役目を負う事で「真剣に生きる道を見つけた」と言う事かも知れません。

つまりは人生に置ける「犯り甲斐を見つけた」と言う事で、たまたまそれが性接待の愛奴隷だったのです。

勿論性接待の愛奴隷に成るなど、過去の私だったら絶対に在り得ない事でしたが、あのミステリアス(謎めいている)な岩代夫婦と会ってからは、スーッと言う感じで何時(いつ)の間にかそう言う事に成っていました。



夫は私(里美)の接待の中身を気にして居た様ですが、私(里美)がゲスト様相手にどんな性接待をしようが、知って「どう成る」と言うのでしょう。

もう、お楽しみの為に引き渡された私(里美)の体ですから、皆さん、見て触ってお楽しみに成りますが、私(里美)の感じて硬くなった乳首も、充血して小さく丸く膨らんだ花芯ボタンも、少し開いた二枚の肉花弁も、その中心の潤んだスリットの奥も、ゲスト様の点検から隠す事など出来ません。

そしてどんなに乱暴に扱われても、調教された私(里美)は肉体(からだ)を避ける事も股を閉じる事もありません。

楽しく触れて頂いて、「これからどう料理しょうか」と、責め上げた時の私(里美)の反応を、期待して頂ければ良いのです。

そんな私(里美)の姿を正確に知った所で、夫にはどう成るものでも在りません。

結論から言えば、実際にゲスト様の命令通りに散々弄(なぶ)られて、ゲスト様の勃起した欲棒に、口の中だろうがア*ルだろうが、肉花弁の真中のスリットだろうが、何処もかしこも犯されるのは私(里美)なのです。

それはもう、私(美里)流の美学でもあるのです。


それでも当初は夫も気にして居たらしく、接待から帰って来ると京香さんを同席させ、戻って来た私(里美)を全裸にして異様な目付きで点検します。

仇とばかり京香さんに命じて男根を咥(くわ)えさせながら、その接待の一部始終を私(里美)に報告させるのです。

でも、「詳しく話せ」と言われても、相手のゲスト様はこの時とばかりにとても夫には口では言えない事、表現し切れない事ばかり犯られて居ます。

だから接待の詳細を言うには戸惑いが多過ぎます。

それで、ザット「大まか」な報告をします。

その内夫の方も、出先での事を一々聞かなくなりました。

私(里美)の話が抽象的でつまらなかったのかも知れません。

慣れとは恐ろしいもので、接待も数を重ねると気分的に常態化して行きます。

そう始終、気にしては居られなかったのでしょう、暫くすると飽きてきたのか、次第に夫は、私が接待に出かける事にいちいち拘(こだわ)らなく成ったようで「ホッ」としました。

実は私(里美)、夫の知らない所で、夫の知らない愛奴隷の自分を楽しんで居たのです。

冷静に考えて見ると、岩代さんは何時もそれを「やって当たり前」と言う空間を作ってしまいます。

そして、それが手なのでしょうが、考える暇を与えず、後悔する前に行く所まで行かされてしまい、気が付くともの凄い事をさせられています。

でも不思議なもので、一度経験してしまうと、どんなに嫌らしい行為を求められても「出来ない」とは言えません。

だって、あり地獄みたいなもので、犯ってしまい、快感に善がっている所を、岩代さんに確り見られていますから・・・今更「あれは違う」とは言えません。

それに、はけ口が出来て、精神的なバランスはむしろ今の境遇の方が安定しました。

その積み重ねで、何にでも応じる愛奴隷の私(里美)が居ます。

岩代さんから、私(里美)の愛奴隷としての身分は「最下位」だと申し渡されています。

ですから一番きついお仕事は、完璧に私の役目です。

岩代さんは、私が快感に悶えて放つエネルギーが「会社のパワーに成っている」と言います。

そう言われると、私はそのエネルギーを放ち続けるしかないではありませんか。

いずれにしても、私が犯され続ける事で、会社が目覚しい発展を続けているのは厳然たる事実です。

それにしても、岩代さんのあの神懸かった欲棒の威力は何処から来ているのでしょう。

一度入れられてかき回されれば判りますが、あれではどんな女性でもイカされて、言いなりに成ってしまいます。



性に関して女性には本音と建前に微妙なズレが在り、信じられそうも無い夢物語の建前が、「愛が無い相手と性交は出来ない。」である。

世の人々は性交などには興味が無い様に装っているが、まともな性癖の男女なら性交を愉しもうと言う本能が在って当たり前である。

そしてその性交には心地良い気分の姦淫ムードを愉しむだけの関係も新鮮で在り、必ずしも性交に「愛情」が拘(かか)わる訳ではない。

互いを縛り付ける「愛情」などと言う一人善がりの感情の苦悩を捨て去りさえすれば、人はもっと自由に性交を謳歌(おうか)できる。

大袈裟に言えば、人間の欲望には際限が無く、それを安全に満たしてくれる性欲装置があれば「奔放な性交遊びも悪くは無い」と想えるものだ。

だから表向きは性交など興味が無い様に装っていても、秘したる本音ではカップルなり夫婦なりであらゆるパタ−ン(構成)の性交を大いに愉しんで居ても不思議は無い。

そのストレス解消の為の奔放な性交遊びの性欲装置が、お愉しみの為なら何でも在りの「KIYOUBI(京美)」だった。


日本列島は、未(いま)だバブル経済の真っ只中だった。

土地投機家が、ヘリコプターをチャーターして金融機関と土地あさりをしていた派手な時代である。

札びらが飛び交い、浮き上がった華やかさの時代である。

「時代背景」と言うと大げさだが、仲間内の性行為も性接待の奉仕も、あくまでもプレイの割り切った関係で愛は伴わない。

その前提で、初めて「乱倫同志経営」は成立する。

「乱倫同志経営」は、一種の群れである。

元来、人は群れ社会の生き物だから、まともな人間ならどこかで「安住の群れ」を求めるものである。

本能がさせる技だが、その「安住の群れ」に身を置くには、群れに対する相応のロイヤリティ(忠誠)が必要なのである。

群れに対するロイヤリティ(忠誠)を、肉体(からだ)で払ってでも「安住の群れ」を求める心理を、世間の建前で「葬り去ろう」と言う低俗な思考レベルでは、人間の本質など判らない。

まぁスケベな人間には理想的な環境で、KIYOUBI(京美)メンバーの社内性交はオープンで、隠れて犯る事は無い。

性交は「精神的ケア(心の配慮・ 世話)」と思っている連中だから、男女共に相手を選ばない。

それで誰かが性交を始めてしまえば、「見慣れた事」とは言え、女がヒィヒィ善がり声を上げ、モロ挿しの陰茎を抜き挿しをされている所を見れば、犯り慣れたKIYOUBI(京美)のメンバーでも興奮はする。

だから会社では、誰かが始めてしまえば連鎖的に何人かがそれに続き、性宴が日々繰り広げられる事になる。

いずれにしても、日本中が投機ブームで狂っていた。

そうした世情背景の中で、「乱倫同志経営」は成立していた。

今考えれば、大きな資金が乱れ飛ぶ狂乱時代のあだ花かも知れないが、当時の風潮からすれば、それも有りに思える。

いや、有るべくして在ったのである。

例え性接待でも、性交をする以上は「相手に快感を与えよう」とチ*ポをシャブり、渾身(こんしん)の受け腰使いで這い上がる為に抜き挿しの努力をする。

それが、KIYOUBI(京美)の女達が置かれた愛奴隷としての立場の、素っ裸で相手に尽くすべき最低限の礼儀で、疎(おろそ)かには犯れないから笑って奉仕する覚悟は全員出来ていた。

そして互いに通じる情が無くても、大人の男女の成熟した性器と性器が正常に抜き挿しされて海綿体が接触すれば、KIYOUBI(京美)の女達が得られるのは神の与えた「快感」である。

だからその結果として、KIYOUBI(京美)の女達が他人の欲棒を股座(またぐら)に咥(くわ)え込んだまま腰を浮かしてヒィヒィと「気持ち良がって」も、何人(なんびと)も非難は出来ない。

それにビジュアル(視覚的効果)としては、KIYOUBI(京美)の女達が犯られながら身悶(みもだ)えて、感じ捲くって居る生姿を魅せてこそ、本当の意味での相手が満足する性接待である。


不思議な事だが、接待軍団の評判はかなりの好評もので、色仕掛けとも違う「何か」が通じて、信用もされる。

その「何か」は、未だに私には思い至らないが、とにかく威力があった。

岩代の言う呪詛のパワーなのか、統制の取れた接待軍団の威力なのかは、未だに判別は付かない。

いずれにしても、「卑猥な秘密を共有する」と言う精神的な事で、同志的な共感が芽生えて居るのかも知れない。

そうした中でも細君(京香)は、けして好んで岩代の前に出る事は無いのだが、何故か存在感は充分に在った。

まともに、いゃ、まとも以上に順調に会社が上手く行っていて贅沢(ぜいたく)な話しだが、どうも得心が行かない。


妻・里美の肉体(からだ)は以前より引き締まって、余分な肉も無くなり出遭った頃のアスリート体型に戻っている。

勿論、我侭(わがまま)なゲスト相手の接待性交は激しい運動量を伴うが、何時(いつ)お呼びが掛かって素っ裸に剥(む)かれてゲストの前に立たされるか判らないから肉体的緊張が維持されていて、それが「良い方向に行っているのではないか?」と想われる。

妻・里美は、美乳の美しいボディラインを有する素っ裸のシンデレラである。

その鑑賞に耐える裸体の視覚的魅力で、一瞬の内にお相手のハートを虜(とりこ)にする。

女性は注目される立場で人前に出ると、脳がそれを意識して他人目(ひとめ)に負けまいとドンドン綺麗に成る。

地味な子持ちの主婦だった妻は愛奴隷を始めてから垢抜けて、今はすれ違う人が振り返るほど存在が派手に見える。

それが素っ裸で目の前に立つのだから、ゲストの男は堪らない。

どうやら、妻・里美の柔らかくしなやかな曲線を持つ美しい素っ裸は、ビジュアル(視覚感)としてデスプレイ効果としての価値があるらしい。

岩代はそれに拘(こだわ)って、下着姿やボンデージ姿も、ゲストのプレイ中の「りクエスト以外させた事がない」と言う。

岩代流の計算らしいが、その一事一事が、どこまで効を奏しているのかは、本音のところ私には疑問である。



小泉夫婦と竹中氏の一家も上手く行っているようで、最近は親子三人、スッカリ「京美企画」に安住している。

小泉夫婦は思いの外戦力に成り、小泉の会社での発言権も益して幹部らしくなって来た。

どうやら順子の目論見は功をそうしたようで、悪い話は聞えてこない。


義父の竹中は、何処へ出しても恥かしくない良い人です。

亡くなった母を見るからに愛していたし、連れ子の私(順子)を可愛がって二十年近く育ててくれました。

そんな大事な義父ですから、母が亡く成って急に老け込んだ時は心配しました。

こうして「京美企画」の力で元気に成ってくれましたが、私(順子)の義父に対する感謝の気持ちは変わりません。

何しろ私達母娘を暖かく平穏に暮らさせてくれた義父ですもの、出来るならば私(順子)が「母の代わりを勤めて犯りたい」と言う思いはありました。

幸い夫の小泉も良い人で、「どうせ一度犯ったのだから、お義父さんとも時々犯ってあげなさい。」と、それを認めてくれて居ます。

夫の好意に甘えてばかりではいけませんので、私(順子)としては母の代わりを勤める時は「必ず夫の前で犯る」と決めています。

その方が夫が安心するでしょうし、私(順子)も後ろめたさがありません。

そして母がしていたように、義父の命令を素直に聞いて母の代わりを務めます。

最初は、私(順子)と義父の行為をお酒を飲みながら見ていた夫ですが、今では夫と義父の仲も良くなって、三人で楽しむ事も多くなりました。

そんな時は、「俺がこうするから、お前はこう責めろ」とコンビネーション良く私(順子)を攻め立てます。

私(順子)を知り尽くした二人が組むのですから、攻め立てられる私(順子)も壷に嵌(はま)って快感の連続です。

男って一度飛んでしまえば、意外と気楽で拘らないものですね。

どう言う訳か、夫が私(順子)を性の接待奉仕に連れ出して、一戦ゲストと犯って帰って来た日に限って、夫と義父が結託して始めてしまいます。

まだ先程の接待奉仕の興奮を引きずって感度の良くなっている私(順子)ですから、挟まって攻め立てられれば堪(たま)りません。

犯られて見れば判りますが、義父と夫に弄(なぶ)り倒されて大概私(順子)は良過ぎて気を失ってしまいます。

まぁ、お義父さんが元気なのは良い事なので黙って応じていたら、もうその接待奉仕帰りの三Pパターンが定着しつつあります。

とにかく「京美企画」のおかげで、私(順子)の平凡な人生が突然刺激的なものに成ったのです。




好き者が聞いたら羨(うらや)ましがる様なめくるめく日々の中で、何時(いつ)の間にか虫の声が侘(わび)しい秋が訪れ、それが待った無しのつるべ落としのように深まって行く。

大都会の一郭とは言え、この会社の在る一帯は比較的低層のビルと個人の住居、小さな商店や事業所が混在する街である。

その街が深い秋に包まれて、冬の訪れが迫っていた。


或る日、岩代に何故私と組んだのかを問い正した。

経緯(いきさつ)からしても、或いは妻・里美の肉体(からだ)を利用する事だけが、「彼の目的」と言う疑いも大いに有った。

「あんな事で、仕事が順調だが、俺にはその訳がさっぱり判らん。それに、何故俺達夫婦なのだ。」」

「社長、本当の事を言うと、俺は或るアドバイスを師匠から受けている。」

「アドバイス?」

「実は神の啓示みたいな物ですが、俺は近い将来、戌年生まれの上司とめぐり合い、その上司に天から覗かれると。それが、社長でした。」

「あの覗きか?確かに私は昭和三十三年の戌年生まれだけれど。」

あの日の、天井からの覗きが、私の脳裏によみがえって来る。

あれが正に運命の分れ目だったが、今は岩代夫婦が「蜘蛛のように網を張っていたのではないか?」と少し疑いを感じて居る。

そして妻・里美は、何時(いつ)の間にか柔ら壺に貫かれた欲棒に高速受け腰で応じる高性能SEXマシーンに生まれ変わり、貴婦人と痴女を使い分けている。

妻・里美は、接待の仕事を始めてから「脚力が強く成った」と言う。

どうやら妻・里美は、M字開脚で陰部にゲストの陰茎を咥(くわ)えたまま、その一点を支えに踏ん張って腰を上下させる機会が多く、自然と脚力が鍛錬されたらしい。


「あれが決定的でした。俺が師事した方の教えの最も具体的な予言で、他に該当者は居ません。俺も、これだとその時確信したのです。」

「あの覗き、神に仕組まれたのかなぁ?」

「まぁ、奥さんの里美さんが、他人(ひと)前に出せる見事な美貌とプロポーションだった事も、神が仕組んだのかも知れませんね。あの裸身は男が涎(よだれ)を垂らすほど見事ですから。」

確かに、妻の裸身は鑑賞に耐えられる。

そして、戌年生まれの私が天井から覗いた。

しかも、犬神の使いである岩代の「呪詛の業」を覗いてしまったのだ。

これが、偶然にしては出来過ぎている。

必然とすれば、私に「その資格がある」と言う事だ。

それにしても謎めいた話で、まだ、この状況に得心が行かない。

いずれにしても私達夫婦は、間違いなく岩代に操(あやつ)られて居るのだ。



その夜、私は岩代との会話を頭の中で整理してみた。

確かに、私が生まれたのは昭和三十三年戌(いぬ)年である。

私の出自が、「大神(犬神)と関わりがある」と言うのか?

この年の四月一日「売春防止法」が施行された。

或る意味、日本人の未来を決める年に生まれて来たのかもしれない。

総則第三条で、「何人(なんびと)も、売春をし、又はその相手方に成ってはならない」と定めたのだ。

国の定め(国法)として売春の一切を禁じたのは、歴史上初めての事だが、それによって、遊廓は廃絶し、花街も衰退して赤線の灯が消えた。

この禁止法で街の雰囲気、人の流れが変わって、寂れた街も多い。

そこに生きていた人々はその生きる場所を取り上げられたのだ。

ただ、この法律には売春の勧誘や周旋、売春目的での前貸しや場所貸しなどに対しての処分はあるが、「禁止法」ではなく、売春行為そのものに対する処罰規定が厳格とは言えない。

この「売春防止法」は、建前上誰が見ても反対出来ない。

しかし、世の中「法律で縛る」と良い事ばかりでは無い。

必ず反作用が出て、その悪影響も有る。

当然有るべき本能のはけ口を規制すれば、建前無い事になって売春は闇に潜り、無法の温床となった。

容易なはけ口もないから、性犯罪も多発する。

簡単に考えれば、性的欲求を精神力で制御すれば良いようなものだが、そう簡単に物は運ばない。

何故なら、人間の本能と実社会には「隔たりや矛盾が」ある。

それを全て都合良く「人間性」だけに負いかぶせて、そこから「はみ出ない」と勝手に取り決めた。

そんな単純な話なら、人間は人間では無い。

あらゆる面で複雑だから人間で有る。

この辺りまで勘案すれば、もう少し決めの細かい立法処置があった筈だ。

つまり、「血の通わない立法」を建前だけで安易にするから、後に禍根を残す。

はけ口の機会を失った若者は暴走し、事件は多発している。



つい百年と少し前の江戸時代まで 、政治を執り行う事を「祭り事」と言った。

本来、わが国の長い歴史において「祭り事」は神事である。

つまり、民の為に「神の代わりを執り行う」と言う精神が政治を「祭り事」と言ったのだ。

「祭り事」の基本がお定め(法律)である。

そのお定め(立法)に、「仏作って魂を入れず」、つまり起こるべき予測があり得ながらフォローせずに放置する為政者が多すぎる。

現代の政治家も、一見見てくれの良い「建前の立法」をするだけで「魂を入れては居ない。」のではないか。

「だから」と言って、犬神は私に、いったい「何をさせよう」と言うのか?

せいぜい声なき声を呟(つぶや)くだけで、屁のツッパリにも成らない。

私の何処に「パワーがある」と言うのだ。

自分の中に、そんな大それたものが「潜んでいる」とは、到底信じられない。

その私に、男のロマンである「金と女と力を持たせよう。」と言うのだ。

しかし、まだ誰もが日本の土地神話を信じて、「マネーゲーム」に明け暮れていた時代、岩代はその「崩壊」を予言している。

思えば、犬神が私に「ささやかな反乱を起こせ。」と岩代を差し向けたのか?

岩代に言わせれば、「蒼いジュータンは天空を現す」と言う。
それで、好んで蒼いジュータンを使う。

天空と北斗星と、呪詛、その道具立てが、目に見えぬパワーエネルギーとして、思わぬ力を発揮し、マネーゲームのこの世を、恐い位の勢いで一気に突き進んでいる。

アドバイスを受けた岩代の「師匠」とはいったい何者なのか?

予言めいたそのこと事態、霧の中である。

天空に煌く北斗七星、北辰(北斗星)は、岩代をどう導いて行く積りか?

北斗・北辰はあの八人の女達なのか?

天空に輝く北斗星は、妻の里美なのか、岩代の細君の京香なのか?

師走の街は、クリスチャンでもないのにクリスマスの曲が流れ、好景気の仲で沸いていた。

メンバーに子供達が居るので、「京美企画」でも内々でクリスマスのパーティはおこなったから、他人の事は言えない。

世間もまぁ、そんなものだろう。



久しぶりに、伊豆から出資者・石上氏が上京して来た。

当然、石上氏が拘(こだわ)りの性癖を満足させる至福の時を過ごす為に、妻・里美の定期性奉仕で歓待するのが、出資条件の恒例イベントである。

何を犯っても良い約束だから、石上氏も遠慮なく目一杯愉しむ。

早速(さっそく)素っ裸で石上氏の前に曳き出された妻・里美は、腕を後ろで組むように命じられているから乳首の立った乳房も、股間も手で隠す事は出来ない。

勿論、股間の恥毛の茂みからはみ出す可憐な二枚の肉花弁さえ隠し様も無く、ハニカんだ様なはじらいの表情を妻・里美はして、高揚感を伴う羞恥心で溶けそうな想いに耐えている。

石上氏の前に「全裸で曳き出される」と、状況がそこまで行ってしまえば大抵の女性は意地でも狼狽(ろうばい)した姿は見せられないから、素直(すなお)に犯られる覚悟をする。

嫌、妄想(もうそう)をたくましくして、むしろ日常の倦怠感(けんたいかん)を埋める様に「何でも犯る気分」で愉しんで犯られるしかない想いである。

そうなればどんな体位を要求されても、案外その後の抵抗は無く身を委(ゆだ)ねるから不思議である。

全裸で膝間着(ひざまつ)く妻・里美の目の前に、抜き身の名刀(欲棒)が石上氏の股間にポロリとぶら下がっていた。

その名刀(欲棒)を、妻・里美が利き手で握って扱(しご)き始め、ムクムクと反応が始まった。

妻・里美が手で扱(しご)いていきり立った石上氏の欲棒を、上から被せる様にして親指をカリ首に廻し、軽く握って手の甲を腹に充てる様に欲棒の裏を顔に向ける。

妻・里美は、その欲棒の「裏筋(うらすじ)」を、鼻を擦(こす)り着けながら舌先を使って舐(な)め挙げ、玉袋も舌先で舐(な)め挙げて来る。

妻・里美の口技に身を委(ゆだ)ねた石上氏の顔は極楽を彷徨(さまよ)っている。

頃合を見て、妻・里美はその裏筋(うらすじ)舐(な)めで握って居た手を放し、パクリとカリ首ごと欲棒を咥(くわ)え、クィクィとシャブり始めた。

石上氏の欲棒は、既に妻・里美に手で扱(しご)かれた所からキンキンに硬くなっていた。

妻・里美の眩(まぶ)しく柔らかい肌の裸身に取り付いた石上氏は、早速行為を始めた。

石上氏は、これからドキッとさせられる魅力的な裸身の妻・里美の性奉仕を充分に味合う事になる。

股間に抜き挿しされる欲棒の隙間から愛液を滴(したた)りながら、妻・里美は大きな善がり声で周囲のギャラリーに感度の高まりを露呈している。

「他人前(ひとまえ)で犯っている」と言う強烈な羞恥心も、股間を貫く欲棒の抜き挿しに善がれば、自然に心地良いアバズレ感に変わって、今に至っては嫌も応も無い。

肉体(からだ)の中心を欲棒に貫(つらぬ)かれ、妻・里美の顔は完全に身を委(ゆだ)ねるモードの表情に入っていた。

石上氏のクィクィ言うと腰の動きに応じて、「アッアッアッ」と妻・里美の喘(あえ)ぎ声とハァハァと荒い息の呼吸が他人前(ひとまえ)にも抑(おさ)えるでもなく漏れている。

妻・里美の左右に開いた太腿(ふともも)の中央に、二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて生々しくズッポリと嵌(はま)った欲棒が、愛液で濡(ぬれ)れ光る陰茎を見え隠れさせながら抜き挿しされている。

妻・里美は女体として扱(あつか)われ、この公開性交舞台で性人形として操られ翻弄(ほんろう)されて、今は性交相手と順調に肉体(からだ)が共鳴し合っている。

律儀(りちぎ)に犯って居るように見えるが、実は考える余裕が無いままに勢いに押されての性交遊戯だった。

つい最近まで、単に夫の私が夢想していた妻・里美の卑猥(ひわい)な性交光景が、目の前で確かに繰り広げられていた。

妻・里美の適度に熟れた肉体(からだ)の、柔らかそうな膨らみに硬く興奮した乳首を見せる乳房や肉感的な尻や太腿(ふともも)が、やたらと眩(まぶ)しい。

正直、夫の私にして見れば、その性癖から切望していた性交遊戯に妻・里美が嵌(はま)ったのだから、興奮に眼光を輝かし欲棒を勃起させて観ている。

何しろ私の妻・里美は、本来なら世間では「ふしだらな淫乱女」と罵(ののし)られる卑猥(ひわい)でエキサイティング(興奮させる)な遊びを、石上氏を相手に犯らせているのだ。

しかしこれは、犯らせたい石上氏への仕掛けた岩代の拘(こだわ)りの上、私の妻である里美にしか出来ない役回りだった。

妻・里美の出資者・石上氏への定期性奉仕は、十五分ごとのインターバル(休息時間)を挟(はさ)みながら三時間掛けて犯り終わった。

激しい行為に目一杯イキ続けて、妻・里美が息も絶え絶えに気を失って脚も閉じない全裸のまま転がったシュール(非日常的)で衝撃的な光景だった。

岩代は事務的に、「奥さん(里美)グッジョブ(良い仕事/グットジョブ)」と声を掛けた。

石上氏も高揚感を伴う風情で、「奥さん(里美)は、益々上手く成った。本物を堪能(たんのう)したよ。」と褒めた。


(不穏な動き・公安部)
蒼い危険な賭け・京香◆
第二十九話(不穏な動き・公安部)


ここからは、何をトチ狂ったのか「京美企画」を内定し始めた公安部の話をするのだが、その前に少々、小泉順子夫妻の特殊重要にたいする活躍を紹介する。


人間には様々な性癖が在り、中には被虐(M性/マゾ)感性を持つ男性も結構多く存在する。

乱交やSM行為を「異常(いじょう)行為」だと、頭から勝手に思い込みたがるのは結構な事かも知れない。

だが、考えて見れば世間の実態はそんなものではなく、現実にそれは実社会でフォアー・アミューズメント・プレィ(おもしろ半分の慰み行為)として存在する。

何故なら、その「異常(いじょう)」と言う判定は語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であり、その基準そのものは考え方の問題で、個人の感性で幾らでも変遷するものである。


「京美企画」のクライアント(得意先/顧客/依頼人)にも、夫々(それぞれ)の理想とも言える性癖が在り、被虐(M性/マゾ)感性を持つ男性も居て当然の事である。

こうした被虐(M性/マゾ)感性を持つクライアント(得意先/顧客/依頼人)の性奉仕には、「京美企画」では主に小泉夫婦があたっている。

「京美企画」の女子内では抜きん出て気丈でクールな小泉順子が、この被虐(M性/マゾ)感性男とのプレィは持って来いに似合っていた。

だからこの分野は、愛奴隷・順子の定位置となった。

予(あらかじ)め需要をレギュラーなものとして予測して置くのが、企業としての原則である。

接待愛奴隷は、SM素人と言う訳には行かないから、クールな気の強さの愛奴隷・順子は岩代と細君(京香)が特訓してSプレィを仕込み挙げた。


擬似生殖行為(快楽性交)は、元々非日常に位置する性行為に正常異常の線引きは無いので在って、言わばその瞬間の刺激を愉しむものが性行為かも知れない。

「京美企画」に在っては、それを贅沢(ぜいたく)に満足させないでは小泉順子が愛奴隷としての勤めを果たしたとは言えない。


擬似生殖行為(快楽性交)が目的なら、ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイ的に、口腔(こうくう)もアナル(尻穴)も性器に近い性的使い方がある。

そして特に、ア*ル(肛門)は第二の性器と呼ばれるくらいの敏感な性感帯で、これを性行為に利用する事は稚児小姓は貴族・僧侶・武士のたしなみとされて、歴史的に然(さ)して異常ではない。



愛奴隷・順子は、穴を開けて両の乳房を曝(さら)け出し、股間をパックリと開けた黒色レザーの女王様衣装・ボンデージフアッション(肉体を締めつける衣装)で性奉仕に臨む。

ここで他のSMプレィと大きく違うのは、愛奴隷の夫が「プレィに参加していたぶる」と言う「男性にもいたぶられる被虐(M性/マゾ)オプション(別装備)」が在る事だ。

本来なら、いかに被虐(M性/マゾ)感性が好きでも男性にもいたぶられるのは躊躇(ちゅうちょ)がある。

しかしプレィする愛奴隷がその男性の妻と言う事で、ギリギリそのオプション(別装備)の安心は成立していた。



まずはクライアント(得意先/顧客/依頼人)を全裸四っん這いさせて、挨拶代わりに尻打ち(スパンキング)で軽くいたぶる。

その挨拶が終ったら、全裸のクライアント(得意先/顧客/依頼人)に仰向けに寝るように命じる。

仰向けに寝たクライアント(得意先/顧客/依頼人)の股間上に顔の位置を決めて両手を床に置いた愛奴隷・順子が、クライアント(得意先/顧客/依頼人)の顔の位置に股間を合わせてそのまま四っん這いになる。

その四っん這いの愛奴隷・順子の柔ら壺に、夫の小泉が後背位で欲棒を挿し入れて抜き挿し、その光景はクライアント(得意先/顧客/依頼人)の顔上で観せ付る事に成る。

愛奴隷・順子は、夫に抜き挿しされるのをクライアント(得意先/顧客/依頼人)の顔上で観せ付ながら、彼の股間に顔を近付け欲棒をパクリと咥(くわ)える。

愛奴隷・順子は、ジュボジュボとクライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒をシャブって元気付させ、「実(サネ)をお舐(な)め」と命じる。

夫に抜き挿しされている股間をクライアント(得意先/顧客/依頼人)に舐(な)めさせて変形シックスナイン状態のプレィになる。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)の性感ボルテージ(熱気)が上がってイキ(発射)そうに成ったので愛奴隷・順子はこのプレィを止めクールダウンさせ、次のプレィに移行する。


愛奴隷・順子は、大人しく欲棒を立てて仰向けに寝たままのクライアント(得意先/顧客/依頼人)を、後背向(うしろむ)きに跨(また)いで位置を決めると腰を下げて行く。

愛奴隷・順子は、シャブって元気付た欲棒のカリ首頭を自分のア*ル(尻穴)に宛(あて)がうと、グィと腰を下ろしてア*ル(尻穴)に呑み込ませる。

自分でア*ル(尻穴)に男の欲棒を呑み込ませた愛奴隷・順子は、ユックリと腰を上下させるスクワット様に抜き挿しを始める。

腰を上下させる度に、相手の欲棒が愛奴隷・順子の直腸の内壁を押し広げながら擦(こす)っている。

ライアント(得意先/顧客/依頼人)の性感ボルテージ(熱気)が再び上がってイキ(発射)そうに成るとア*ル(尻穴)の欲棒はスポッと抜いてまたクールダウンさせる。

実は、被虐(M性/マゾ)感性を持つ男性を愉しませるにはイク(発射)寸前で止めてイカせないのもプレィの内である。


愛奴隷・順子が、仰向けに寝ている全裸のクライアント(得意先/顧客/依頼人)の脚をM字開脚にさせ、ア*ル(尻穴)の中に指先でオロナイン軟膏をタップリ抽入する。

そのア*ル(尻穴)に、愛奴隷・順子が中指を挿し込んで馴染むようにいじり倒して菊蕾(きくつぼみ)の緊張を解(ほぐ)す。

ア*ル(尻穴)の筋肉が解(ほぐ)れて来たら、愛奴隷・順子の挿し込む指は中指に人差し指を加えて二本になり、グリグリと弄(なぶ)る。

愛奴隷・順子はシリコンラバー製の電動ディドル(張り形/男根型性玩具)をクライアント(得意先/顧客/依頼人)アナル(尻穴)に挿し込み、抜き挿しを始め。

電動ディドル(張り形/男根型性玩具)と入れ代わりに二本指を抜いた愛奴隷・順子は、その指を「綺麗におし」とクライアント(得意先/顧客/依頼人)に舐めさる。

その最中に、夫の小泉がクライアント(得意先/顧客/依頼人)の鼻先に欲棒をぶら下げて「ていねいにシャブレ」と命じる。

命じられて、被虐(M性/マゾ)感性を持つクライアント(得意先/顧客/依頼人)は、同性であるその小泉の欲棒を「パクリ」と咥えてシャブリ始める。

その刺激で見る見る勃起した小泉の欲棒は、愛奴隷・順子の挿し込む電動ディドル(張り形/男根型性玩具)と入れ代わりにクライアント(得意先/顧客/依頼人)のア*ル(尻穴)に挿し込まれる。

小泉の欲棒がクライアント(得意先/顧客/依頼人)のア*ル(尻穴)に挿し込まれると、小泉が腰を使って抜き挿しを始める。

小泉が抜き挿しを始めると、愛奴隷・順子はクライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒を握って扱(しご)き始める。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)は、ア*ル(尻穴)を小泉にクィクィと抜き挿しされながら欲棒を扱(しご)かれる快感に堪(たま)らず、腰を浮かせてのたうちながら善がり声をあげる。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)が感じ始めたら、小泉は攻めを中断し、四つん這いに体位を変えさせてまたバックでア*ル(尻穴)に抜き挿しする。

その四つん這いのクライアント(得意先/顧客/依頼人)の欲棒を、愛奴隷・順子が横から握って扱(しご)き、追いつめて行く。

プレィルームに、「ウワ〜」と言うクライアント(得意先/顧客/依頼人)の断末魔とも言える声が響き渡った。

クライアント(得意先/顧客/依頼人)はイク(発射)に達し、愛奴隷・順子の性奉仕接待プレィは終った。


正直このクライアント(得意先/顧客/依頼人)は、かなり大きい建設会社の三代目社長で、業界では強面(こわもて)社長で通っている。

恐らく彼の周囲にはイエスマンしか居ないし、本人も強がっていなければ成らない立場にある。

だからこそ、お遊びでは被虐(M性/マゾ)プレィで心の隙間を埋めているのかも知れない。

勿論彼の能力で会社の経営は安定していて、「京美企画」の優良ステーフホルダー(利害関係者)に違いなく、彼の性癖が安心して吐露できる場所だった。

三代目の彼は創業者の孫として初代夫婦に可愛がられ、教育資金にもいとわぬ額がつぎ込まれ国の最高学府と言われる国立大学に合格し卒業した。

つまり彼は高学歴だが、実は被虐M性(マゾ性)は低学歴よりも知的高学歴の方が遥かにウエート(占める割合)が高い。


そして彼の性癖には、それなりのルーツが在る。

彼の母は創業者夫婦の一人娘で、彼の父は二代目として会社を継いだ婿養子(むこようし)だった。

彼が六歳ぐらいに夜に目が覚めて認識したのだが、彼のその両親が夜に時々奇妙な遊びをしていた。

寝室は別だったが、寂しいから時々両親の部屋を覗いていた。

その両親の寝室で、昼間とは全く違う雰囲気の母が裸の父を縛って虐(いじ)めていたのだ。

昼間その事を母に聞くと、「お父さんが好きな遊びだからお母さんも好きになったの、でも秘密のお遊びだから、おじい様おばあ様や皆には内緒にしましょう。」と言われた。

秘密のお遊びは、母と約束したから誰にも黙っていたが、中学生に成る頃には両親の寝室に隠して在ったビデオを盗み見てその遊びの正体を知った。

母は父の快楽の為に、縛った父に跨(またが)って性交をして居たのだ。

それを否定しないで受け入れた彼は、成長して高校生に成る頃には両親と同じ性癖で興奮する事に気が付いた。

彼の成長期は、情景と妄想に彩られていたのだ。



近頃、気力が充実しているのを感じる。

私自身が、この何ヶ月かで明らかに変化しているのだ。

新年の挨拶も無難にこなして、「京美企画」も他所並の会社らしく新しい年のスタートを切った。

不思議なもので、私にも世間並みの社長業が板に付いて、年末年始の区切りをそれらしく乗り切ったのだ。

確かに近頃は、運命が思わぬ方向に転がって、性的には好環境に恵まれている。

そう成ると男など現金なもので、仕事にも意欲が沸き、「気合勝ち」と言うか、接する相手にもこちらの意志が通るので、攻めの姿勢で積極的に充実した日々を送っている。

生島も小泉も似たようなもので、意欲に満ち溢れている。

岩代が言うように、男はその性的な男性本能を発揮する事に拠って「力を充填(じゅうてん)する」と言う事か?


正直私は、岩代に常識を振りかざす格好良い生き方では金儲けなど出来ない事を教わった。

つまり金儲けは、他人(ひと)が犯れない「見っとも無い事」を、格好悪く這いつくばって犯ってこそ稼(かせ)げるのだ。

そこを避けて綺麗事ばかり言っていても、現実には上面(うわっら)な只の遠吼(とうぼ)えで、本音の上ではもっと泥臭い生き方が在っても良い。

只、私は、中小零細企業はともかく企業経営で成功し中堅や大企業に一代でのし上げた人物を原則尊敬しない。

何故なら、そう言う人物に「善良な者は居ない」からである。

表面的に見れば「大した事を成し遂げた」かも知れないが、そう言う人物は概して小さい違法行為やルール違反を積み重ねて、他社より不当に利を上げているから競争に討ち勝ち、成功したのである。

そんな事は、談合や不祥事隠しが平然と行なわれ、摘発されても後を絶たないし、そこまで行かなくても「脱税」などバレ無ければ儲けものくらいに思っている事からして明白である。

手抜きによるコスト削減は、時として死亡事故に結び付く事さえある。

つまり、真っ正直にフェアな条件で競争して、企業経営に成功するのは至難な事である。

企業経営成功の秘訣をあえて言うなら、たまたま事故を起こさなかったり、違法行為やルール違反がバレなかったりの運の良さに恵まれただけの事である。

そう言う輩が、自らの悪行に口を拭って偉そうに物を言っているのを見ると、「やはりそのくらい、面の皮が厚くなければいけないのか?」と、思い知らされるのである。

まぁそれからすると、いささかエロチックではあるが自分達の商売の手法は「まだ可愛いものだ」と自負している。


如何なる業種でも、常識的な事をして居る限り何をやっても平均的な結果で、一定以上成果は上がらない。

簡単な事だが、事業成功の秘訣としては何事も「誰もやれない事」をするから革命的な価値がある。

つまり技術や品質、情報・・・そして他で出来ない「特別な何かを提供出来るか」が問題で、事業手法にオリジナル性が高くなければ上手くは行かず、世間から納得されないのである。

京美企画は、娼婦の様に肉体(からだ)を供して金を稼ぐのは目的ではない。

性交を通して「誓約(うけい)の信用を得る」と言う考え方で、金は結果として付いて来るのだ。

従って、その証拠として誓約(うけい)の性交には、その手の女を連れて来て宛がう一過性のものではなく、相互の信用も一過性のものではない。

だから、原則として私の妻・里美や、岩代の妻・京香、それに生島の妻・喜美子や小泉の妻・順子がその業(ぎょう)に当たる事になる。

まぁ「性接待」は誰でも思い付きそうな手法だが、常識に縛られて誰も出来ない事である。

その意味では、「京美企画の性接待」は型破りではあるが、間違い無く「特別な何かを提供する」と言う用件を満たしていた。

世間体としては「誉められたものではない」かも知れないが、他の問題を排除して、事業感覚だけに特定すると最大の効力を有する手法だった。

それ故、「京美企画」の手法は特異な方法では有るが、自らの悪行に口を拭って、偉そうに物を言っている企業経営の成功者より「余程益しだ」と思っている。

何故なら、皆が好きな事を提供してその信頼関係で事業をして居るからである。

もし「京美企画」を、反社会的な企業と思うなら、大概の企業は反社会的な行為をして居てバレナイだけであるから、それなら命の危険さえ可能性のあるずさんな営利主義の企業の方を責めるべきではないだろうか?


正直な所、私自身が半信半疑で、特に会社経営に自信が有った訳ではないから、「京美企画」が軌道に乗り始めて、事業とは「こんなに簡単なものか」と驚いたくらいである。

それが不思議なもので、会社が軌道に乗ると確信が無いながらも自信を持つようになり、私も社長として、それらしい事も出来る様に成る。

どうやら、「会社経営に自信を持つ」と言う事は、自分を「有能だ」と騙す事が出来るように成れるかどうからしい。

してみると、経営能力の真実など、たまたま経営に成れただけで、たいした事ではないのかも知れない。

私は独力で、どれだけ素晴らしい人生を創って来ただろうか?

ここまでの私の半生を見つめ直して見ると、見えて来るものが在る。

実は私も、子供の頃に目標を持たなかった訳では無いが、大方の人間がそうであるように次々に現実に押し潰されて、刹那刹那(せつなせつな)を生きて来た。

ここまで来て今にして考えるに、その押し潰された最大の要因は私が臆病だったからかも知れない。

悩みを抱えている人間は数多いが、実は自分可愛さに「不幸がって居る」だけである。

何故なら、人間生きていれば抱える不幸など幾らでもやって来る。

幾らでもやって来るものなら誰の所為(せい)にも出来ないのだから、一々とりあわず悩まずに笑い飛ばす強さがないと人間などやっては行けない。

岩代夫婦と出会い、彼等夫婦に背中を押されてここまで来た。

不思議なもので、背中を押されて初めて得た結論が、「自分を可愛がるのも程々にしないと、人生など切り開けない」である。

「京美企画」の犯っている事は社会的に容認されないかも知れないが、心理は突いている。

不思議なもので、非日常の時間が妻を美しくし、その刺激が妻の生き甲斐と成ったようだ。


人間には誰にでも性欲があり、性交の快感は極自然な「神の恵み」である。

国王だろうが奴隷だろうが、性行為はする。

そして最も重要な事だが、性欲を無くせば人類と言う種は滅びてしまう。

こんな簡単な事に気が付かずに「禁欲が尊い」とする綺麗事だけの宗教は、それだけでもう胡散臭い。

およそ男女の間具合(まぐあい/性行為)に貴賎の別がなければ、何を持って性交を「低俗なもの」と言わしめるのだろうか?

信じたく無いかも知れないが、皆んな総論では綺麗事を言い各論では自分だけは「コッソリ性交を犯って居る」と言うのが人間なのである。

それでも性欲を「罪だ」と言う綺麗事の矛盾は、この世の中最大の理解に苦しむ謎である。


「京美企画」のメンバーは結束も堅く、気分は皆身内の気分である。

考えて見れば、契約書の無い世界は、「相手を許す」と言う究極の精神社会である。

つまり、許さなければ「他人同志の垣根」は越えられない。

その象徴が性交で、身内の気分に成れる唯一実体の手段である。

確かな信頼関係を互いに築くには、行動実体が伴う代償は必要だった。

古来から伝わる最善の手段に「誓約(うけい)」があり、「仲間内での性交は拒否は出来ない」と言うルールで互いが共有する秘密行為が、契約書の無い世界の合理的かつ確実な「証明行為」なのである。

会社(京美企画)はさながら性交迷宮(セックスラビリンス)の竜宮城で、ノーパンモロ出しの鯛やヒラメが上の口も下の口もパク付かせて舞い踊っている。

竹中、田島、石上の出資者三人組は、どの相手を犯って遊ぼうが自由だから、会社にフラリと遣って来ては気まぐれ好き勝手にノーパンの鯛やヒラメをプレィルームに連れ込んで遊んで行く。

勿論妻の里美は人気が高いから、出資者三人組が遊びに来て里美が社内に居ればまずは真っ先にお呼びが掛かる。

たまたま彼らの来社がカチ合いでもすると、「片方がシャブらせながら片方が犯る」と里美が複数プレィで相手もする。

どの道出資者三人組は、妻の里美だけでは満足せず、会社(京美企画)に遊びに来れば最低二〜三人を相手に遊んで帰るが、それが彼らの特権だから誰も不服は言わないで言う事を聞く。

どうせ金は墓までは持って行けないから、犯り放題の上に配当まであるのでは田島も石上も、「割の良い出資だった。」と上機嫌である。

まぁ、「投資して失敗した」と悔やまられるよりも、「京美企画の投資に乗って良かった」と喜ばれるに越した事はない。

そんな信頼関係を背景に、「京美企画」は順調な経緯を経て、事業を拡大しつつ在った。

しかし、世の中そう上手くは行かないもので、一市民である私や妻が思いも拠らない所で、順調に発展し過ぎた「京美企画」は怪しまれ始めていた。

後から判るのだが、「京美企画」に潜入して来た者がいたのである。

庶民には無い感覚だが、突出した者は、とにかく疑って掛るのが、国家権力組織らしい。




正月の行事も終わった冬の或る日、警視庁公安部・公安総務課長の吉井警視充てに、国税庁・東京国税局からある会社の奇妙な照会があった。

この夏の暑さの反動か、やたら寒い冬だった。

前年の九月、十月の決算が集計申告が終わった頃の事だが、到って奇妙な存在の会社があるので、「調査をして見ては?」と言うのだ。

九月、十月に年度決算や半期決算の決算期が多いのは、業界的に不動産や建設である。

その会社は新興の不動産会社で、名称を「京美企画」と言った。

一般的に、不可思議な企業業績は犯罪の匂いがする。

当該の企業は地方税務署の管轄で、規模は小さいが、「不可思議な程急激に業績を伸ばしている」と言う。

その業績向上の理由が、これと言って見当たらない為に、東京国税局の方でも細密に税務調査を試みたが、何も怪しいものは出てこない。

しかし、常識的に見て放置する訳にも行かないので、公安部に要警戒のサインを送って来た。

この「京美企画」、突然現れて不動産業界や建設業界の、金額の大きい取引税務処理に頻繁(ひんぱん)に名が挙がり始めた。

大手の子会社とか言うのならともかく、まったくの名も無い経営者が興した名も無い小企業が、次々に取引をまとめ業績を上げて急成長を始めた。

「いやぁ、税務処理的には全く問題は無いのですが・・・・」

「それなら何故こちらに?」

「出現が異常なのです。急激で、どう考えてもおかしい。それで、暴力団とか過激な思想団体、或いは危険宗教団体など、裏に着いているかも知れないと思いまして。」

幾らバブルの最中とは言え、常識的に見て有り得ない現象だった。

それを怪しんでの税務調査だったが、説明がつかないので、調査が専門の警視庁に下駄を預けたのだ。

「判りました。とり敢えず予備捜査をしてみます。」

「お手数ですが万が一と言う事もありますので、宜しくおねがいします。」

「ご協力感謝します。」


警視庁公安部は、警視庁の治安(公安)に関する部局、すなわち東京都を管轄とする公安警察であるが、他の道府県の警察と比べて、東京都の警察(警視庁)のみ公安警察が独立した「部」になっている。

この警視庁公安部、強力な組織と噂されているが、その性質上謎に包まれていて詳細は不明の組織である。

の内の公安総務課は、正体不明の団体を担当管轄する。

公安部は、思想犯や組織犯罪と言った非常に特殊な犯罪を対象を、機密に捜査する組織である。

通常は、監視対象団体の集会の監視や構成員を尾行する行動監視が多い。

構成員を協力者に仕立て上げ、情報を収集する事もある。

対象とする犯罪も特殊なだけに、事件発生後に捜査するのではなく、不審な対象を発見した場合は先行して捜査に入る。

特に怪しいと目をつけた団体などは、公共秩序を乱す行為を行っていなくとも監視対象に置く場合がある。

つまり、「不穏な動き」と認知すれば、具体性が無くても監視対象に置ける唯一の警察組織が警視庁公安部である。


東京国税局が、その警視庁公安部に照会を掛けるのは尋常な事ではない。

国税局側の税務調査では、「思い至らない」と言う事は、もし犯罪性があるとすれば、相当特殊な犯罪の可能性があるのだ。

吉井警視にすれば、忙しい所に余分な情報が入って来て、内心面倒に思ったが、他の省庁の照会では握り潰す訳にも行かない。

部下をやって予備調査をさせて見たが、なるほど、まったく理由が見えて来ないのに、勢い良く異例の発展を続けている。

半ば無駄かとも思いながら、男一人、女一人の捜査員を選抜して専従で内偵させる事にした。

専従捜査の任にあたる男性捜査員は、大森と言い経歴十八年、三十六歳叩(たた)き上げの警部補、女性捜査員は二十八歳、**康子と言う公安部の経歴が十年のベテラン巡査部長である。

当初は、雲を掴むような話で、散々尾行してが、怪しい節は浮かんでは来ない。

しかし、何かカラクリがある筈である。

外部からの調査には、吉井警視を始め大森警部補も**康子巡査部長も限界を感じていた。

そんな時である。

内偵調査を始めて数ヶ月経った頃、内偵先の「京美企画」で、女性の要員募集が有った。

内偵先に潜入する絶好の機会(チャンス)だった。

吉井警視は、潜入調査を画策して**康子に応募を打診する。

公安部だけは、他の部署と違って潜入捜査も日常的だ。

「どうだ、行ってくれるか?」

「はぃ、やって見ましょう。」

**康子巡査部長が潜入を応諾(おうだく)したのだが、これが後に思わぬ展開を見せる端緒(たんちょ)だった。

吉井警視の人生に深く関わる事など、この時は知る由も無かったから「その連中の会社、内部で何が行われているのか?」と、そこに興味を持って本格捜査に入った。

採用面接は順調に行き、幸いにも**康子巡査部長は、採用四人の中の一人に入って、「京美企画」の一員と成った。

それでやっと潜入に成功したのだが、潜入させて見ると**康子巡査部長は、「京美企画」が、特殊な組織構造と営業手段を用いている集団だと判明した。

そして、与えられた仕事は、裸の接待営業だった。

報告を聞いた吉井警視は、事が事だけに潜入続行に難色を示したが、**康子巡査部長が強く続行を進言した。

「京美企画」の潜入続行とも成ると、**康子巡査部長は貞操などかまっては居られない。

それを承知でも「やる」と言うのは職務上の意地で、やりかけた捜査を**康子巡査部長は投げ出したくなかったのである。

潜入している**康子巡査部長の報告でやがて、全貌(ぜんぼう)が明らかになるだろう。

**康子巡査部長の体当たりの潜入で、「京美企画」の実体は徐々に判って来たが、今度は扱いに困った。

内容が、明確に犯罪として認定し難いのだ。

しかし、世間の常識から考えると、「異様」と言えば異様な団体の範疇(はんちゅう)に入らないでもない。

出した結論が、「継続監視・対象組織」だった。


**康子が拝命した巡査部長の上の階級は、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監と続く。

昇り詰めた警視監の定員は僅か三十七名、役職としては、警察庁の次長・官房長・本庁局長・部長・主席監察官・審議官・人事課長・警察大学校長・副校長・管区局長・関東管区総務部長、警視庁の副総監・主要部長、道府指定県警察の本部長にあたる。

また、出向先としては公安調査庁(本庁)の調査第一部長、などがある。

早い者は四十代後半〜通常五十代前半でこの地位に就き、地位は中央省庁の高級官僚または地方支分部局の長に相当する。

その上に居るのが「警視総監」と「警察庁長官」であるが、この立場は、それぞれたった一人が任命される。

ここで、普通の人間には一見判り難い警察組織の全体像(概要)を説明して置く。

警察組織には全国の都道府県警察を指揮監督(管理指導)する日本国の警察行政機関、警察庁があり、その長官、警察庁長官は、国家公安委員会が内閣総理大臣の承認を得て任免する。

警察庁長官は全警察職員の最高位に位置する警察官であるが、警察法第六十二条の規定により唯一階級制度の枠外に置かれ行政機関の長と位置付けられている。

警察庁長官は、国務大臣を委員長とする国家公安委員会の管理に服し、警察庁の庁務を総括、所部の職員を任命し、及びその服務についてこれを統督する。

また、警察庁の所管事務、並びに各都道府県警察(警視庁及び道府県警察本部)について指揮監督する。

各都道府県警察はその地方自治体に所属する組織であるが、警察庁が指揮監督するのである。

つまり各省庁と地方自治体の関係にあたるのが、形式上の警察庁と各都道府県警察の関係だが、その職務の性格上「警察官」と言う身分の者が入り混じって奉職する一体の組織でもある。

警察庁長官は警察官もつて充てるとし、警察庁の次長、官房長、局長(情報通信局長を除く)及び部長、管区警察局長その他政令で定める職は警察官をもつて充て、皇宮警察本部長は皇宮護衛官をもつて充てるとされる。

つまり、特殊な職責であるから、専門官でないと「職責がまっとう出来ない」と位置付けられている。

警察庁長官を補佐する職として警察庁次長(階級は警視監)一人が置かれており、長官が出張等で不在の時はその職務を代行する。

この警察庁の行政組織の事を、現場を預かる各都道府県警察は「事務方」と呼んでいる。

各都道府県警察は、組織的には担当範囲に置いて、警察庁の管理指導を受けながらの独立した組織である。

そしてその中で別格なのが首都を管轄する「警視庁」であり、他の道府県警察と違い「東京都警察本部」ではなく「警視庁」という名称が用いられ、この警視庁の長を務める警察官に与えられる階級が「警視総監」である。

本来なら、他道府県警察本部の長の職名「道府県警察本部長」と呼称するべき所であるが、歴史的経緯などもあ「警視総監」が首都の治安を守る「警視庁トップ」の呼称となっている。

誤解され易いが、警察官としての最上位の階級は「警視総監」であるが、職務はあくまでも「東京都警視庁」のトップである。

何かする為には、知恵を絞って大前提の矛盾をテクニックで埋めるしかない。

警察トップの警視総監は、管轄するのが警視庁だけで、検察庁は法務省管轄だが、警察官僚は、警察庁と地方警察の幹部両方をファジーに任じていてややこしい組織である。

警察実務と警察行政を分離した状態にする為の便宜上の苦肉の策で、実際に、両方の業務とも警察の専門官でなければ出来ないから、こう言う建前を合わせの形態にせざるを得なかったのである。


**康子巡査部長は、潜入して驚いた。

採用されて参加した初日から、まるで酒池肉林の世界である。

驚愕したが、周りがいきなり服を脱いでその中に入って行く以上、康子巡査部長だけが別の行動を取る事は、状況的に無理だった。

周囲がそうだと、恥ずかしがっては居られない。

「エィ、ままよ」と周囲に合わせると、自らの肉体も、男達と交え続ける境遇に置かれてしまった。

いきなり酒池肉林の洗礼を受けると、次は専務婦人の京香に拠る接待愛奴隷としての調教、経営幹部や出資者との信頼関係の確認行為(性交)と、日々相手かまわずの性行為が続く。

とんでもない所に潜入したものだが、「後悔先にたたず」で、ベテラン公安部員としては後には引けない。

勿論、任務であるから、周囲にそれと知れる行為は出来ない。

笑って仲間内に紛れるのが潜入捜査である。

それは意識していたが、肉体(からだ)の方は度重なる性行為の為に慣れ、抵抗感は薄れて行った。

暫(しば)らくそうした状況に置かれると、康子巡査部長もそれに慣れ、結構楽しめるように成った。

今はもう、四人組の接待課長として、相手かまわずの性交の日々を送っている。


私(康子)の接待愛奴隷としての調教が終ると、イヨイヨ接待の本番に駆り出されます。

ルールは決まっていて、どんな変態行為でも受け入れるのが愛奴隷の性奉仕です。

だからゲスト様は、電動玩具責めや危惧責めプレィ、複数プレィ、同時3Pプレィ、拘束SMプレィ、露出プレィ、輪姦プレと、それらを複合的に、私(康子)に変態の限りを尽くして日頃のストレスを吐き出し、漸(ようや)く満足します。

自分でも「良く耐えられる」と思うくらい、それはもうメチャクチャにされてしまいます。

相当キツイ仕事ですが、これが始終犯られ着けると「結構良い」のです。

それこそ、息も出来なく成るくらい責め上げられて、快感にのた打ち回るのですが、その責めが終って開放された時の虚脱感は、経験しないと得られない、堪(たま)らない安堵感で全てが包まれます。

こう言う背徳の性行為は密の味で、精神的にも肉体的にも、極限の興奮が得られます。

癖になるのでしょうか、段々身体が慣らされてやがて平気に成り、遂には次の接待仕事を待ち望むように、私(康子)は成りました。



康子巡査部長が愛奴隷の境遇をまんざら愉しめたのも、まぁ、無理は無い。

実は康子巡査部長も、身の上的に肉体は飢えていた。

彼女は職場結婚で、夫も同じ警察官だったが、ある極左勢力の潜入捜査中に、生後八ヶ月の幼子(おさなご)を残して殉職している。

康子に、淋しい夜も有って当たり前だった。

ちょうど子育て中だった康子巡査部長は、愛児が二歳に成ったのを期に復職し、一年後にこの事案に取り組む事に成ったので、肉体的にはおよそ二年半ほど空家だったのである。

経産婦であるから、性的な意味では成熟していて、精神的な事を除けば、肉体的に性交そのものに支障は無かったのである。


「継続監視組織」に内定した「京美企画」は、ある意味、カルトSEX教団の赴(おもむ)きさえある。

しかしながら、違法行為とも異常思想の組織とも言い切れず、とても摘発には至れない。

そうした職務上の葛藤の中、一方では岩代の性調教に体が馴染んで行く矛盾と、**康子巡査部長は戦っていた。

幾ら捜査官でも生身の女である、性行為をすれば肉体は感じ、歓喜に打ち震える。

警察官としての職務意識を別にすれば、岩代の性論理がまともに思えるほど、度重なる調教と実餞で、自分の女性は感度良く開発されて行ったのである。

今の世間は、他人の事など構っている暇は無い。

「京美企画」の乱倫同志経営は異様と言えば異様だが、夫を失って、親一人子一人の寂しい生活を送っていた康子は、奇妙な温かみを覚えていた。

元来、人は寄り添って生きるもので、この「京美企画」の仲間内では信頼関係が並外れて強く、生きて行く上では力強い味方である。

世間の常識が、段々個々の家族単位に成り、今では個人単位に成りつつある。

本当にその方向が、正しいものかも疑わしい気分だ。

任務でなければ、溶け込んでしまいそうな康子の思いだった。


今の所、直接嫌疑には結び付かないが、何しろ「京美企画」は、経営手法が異様である。

経営幹部、出資者共に混合で、「乱倫同志経営状態」にある。

接待は全て性行為を伴う社会通念を逸脱したもので、その相手は取引先に止まらず、一部政治家や官僚まで手を伸ばしていて、その相手を康子巡査部長もさせられる。

かなり危ない橋なのだが、一切の金品授受の形跡も無く、特段の背任や機密漏洩(きみつろうえい)の事実も浮かび上がらない。

現状では、或る意味何の為に接待をして居るのか目宇多に思えるほど不明なのだ。

大森警部補が、**康子巡査部長のサポートや「京美企画」の幹部の尾行を担当しているが、二人の接触には特に気を使った。

もしも感付かれたら、全てが水の泡になるのである。

康子巡査部長にすれば、口では言えない接待もして居る事に成るのだが、職務上報告しない訳には行かない。

因果な仕事であるが、とどの詰まり、因果でない職業など存在しない。

皆、何らかの因果を抱えながら、人は生きているのである。


潜入捜査員の報告は、身元の発覚を恐れ会うのは本庁ではなく、秘密に設営した公安部のアジトで行なう。

奇妙な話だが、治安を乱す方も治安を護る方も、「アジトが活動拠点」と言う点では共通していて笑える所でもある。

康子巡査部長は、「開所祈願」と称する乱交現場で、周囲の雰囲気に押されるように裸に成り、気が付いた時には他人の欲棒を咥(くわ)え、或いは股間に受け入れて「善がり声を上げながら、あえいでいた」と言うのだ。

傍(はた)から冷静に経過を聞くと、康子巡査部長と同期入社の四人は、上手に料理されたのだが、その点では岩代と言う男の並々ならない人心コントロールの実力を感じた。



内偵を始めてから一年近くに成る。

康子を潜入させて、もう半年近くが経過していた。

吉井警視は、先ほどから違和感を感じていた。

目の前で報告する康子巡査部長の、スカートから覗く膝頭が極端に大きく離れていたからである。

「**君、さっきから気に成っていたが、君のその足を広げた妙に大胆な座り方、目の毒だね。」

「アッ、これですか。潜入中の京美企画の愛奴隷の躾(しつけ/訓練)で癖になってしまって・・・」

「そうか、 責任を感じるな。君にそこまでさせて良かったのかどうか・・・」

「いぇ、気になさらないで下さい。相手は謎の組織ですから、職務としてやりがいがあります。」

それにしても、康子巡査部長の報告を聞く吉井警視も男である。

職務上の事で不謹慎であるが、どうしても康子巡査部長の体当たり捜査の痴態を想像してしまう。

目の前の容姿端麗な二十八歳の女性が、乱倫状態の環境に身を置いて「裸の奮闘している」と言うのだ。

そう言えば、送り出した時より遥かに色っぽい**康子がそこに居る。

バカバカしい話だが、吉井警視は自分の体の一部が、私服のスラックスの中で正直に変化するのを必死で押さえていた。

ここは本庁と違い、下界離れしたアジトの密室である。

吉井警視も上着を外し、ワイシャツ姿で康子と面談していた。

誘惑に駆られて「どうせ、先方で犯って居る事なら、私にもしてくれ。」と、喉から出掛かる言葉を飲み込んで、苦笑いするのが本音だった。

男の精神状態なんて、所詮そんなものである。


「目の毒でしたか。吉井警視、暫(しば)らく動かないで下さい。」

康子巡査部長が、笑いながら言い始めた。

「エッ、何だい。」

吉井警視がそう言った頃には、康子巡査部長は大胆な行動に出て、吉井の前に膝間着いてファスナーを降ろしていた。

「これは、私が何をして居るかの実体報告ですから、動かないで報告を受けていて下さい。」

何か理屈に繋がらない言い訳のようなこじ付けをして、康子はもう、吉井の半ば硬くなった欲棒を外に引き出していた。

外に引き出した吉井の欲棒を、康子はパクリと咥(くわ)え、唇で扱(しご)き出した。

**康子は、吉井の心理状態を充分承知して居たのだ。

半ばKIYOUBI(京美)に取り込まれている微妙な立場の康子にして見れば、思考に於いて仲間内でのコンセンサス(合意/意見の一致)がズレて居ては意味がない。

これはあくまでも誓約(うけい)の性交であるが、交えて性的遊びを共有すれば吉井警視との間で気を許す感情が芽生え仲間意識が強くなる。



吉井は、突然の康子の行動に呆気に取られて、姿勢は硬直した。

しかし自分の欲棒が、暖かいものに包まれたのは感じていた。

気持ちが良い。

しかしこんな事は許されるのだろうか?

迷いが生じても、事実は隠せない事に肉体は正直に反応している。

その内に康子が吉井を跨ぎ、その欲棒に手を添えて自分の股間に宛がい、「ウッ」と捩(ね)じり込んだ。

下着を脱いだ形跡が無いののに行き成りの事で、吉井の欲棒はさほど抵抗感も無く康子の股間に収まっていた。

その間吉井は、康子の為(な)すがままだった。

肉体は正直で、性交状態と成って興奮した康子の肌はもう、ペタペタとした汗まみれの肌触りに変わっていた。

「君までも、報告通りに普段もノーパンなのか・・・・」

「下着の跡が着くと怪しまれますから。」

「私には妻がある。責任は取れない。」

「警視は何もしていないでしょう。動いているのは、具体報告をして居る私(康子)だけです。」

アジトは薄暗い部屋で、昼間の採光は窓からの自然光だけだった。

康子の手際が良い為、吉井警視にすれば「あれよ、あれよ」と言う間だったが、現に康子の柔ら壺の中に自分の欲棒が嵌(はま)り込み、直ぐに内壁を擦(こす)りながら、康子の腰が上下し始めていた。

アァ、具合良く擦(こす)れる・・・、生暖かく湿った肉壁に包まれた吉井の欲棒が、康子の腰の動きに歓喜の刺激を感受している。

「これは私が勝手にする、あくまでも潜入中の行動の具体報告です。」

耳元で囁いた康子の吐息混じりの声が、吉井には甘く感じられる。

恐らく康子巡査部長は、吉井警視の肉体の変化に気が付き、行動に出たのだが、それが出来るほど京美企画の調教が、進んで居た事に成る。

こうなってしまえば、吉井の心境とすればトコトン楽しむしかない。

吉井警視は、座位で交尾を始めた康子の後ろへ手を伸ばして尻の柔らかい感触を確かめると、ローリングする尻の蕾を指先で追いかけ、捕らえるとグィとア*ルにその指先を挿し込んだ。

「アッ、警視もそんな悪戯(いたずら)をするんですね。」

麻生康子が、吐息混じりの息を吹きながら耳元で囁(ささや)いたが、抗議するような否定的な物言いではなくそれを受け入れた。

「後ろが締まると中も締まって具合が良い。」

「奥様(吉井良子)にもこの悪戯(いたずら)を為(な)さるのですか?」

「オィオィ、今は内の奴(良子)の事は思い出さすな。集中出来なくなる。」

「男の人はズルイですからね。」

「そう言うな、こう言う時の標準的男性はそんな所だ。」

「警視、この世の中は外の女性に本性をぶつけて、奥さんには中々本性をぶつけられない可愛そうな男の人が多いですよ。」

「俺もその口かも知れんな、あれこれ犯らせたいが内の奴がどう思うか、心配で中々要求出来ん。」

「それって思い遣りなのかしら?本性を隠して暮らすのは失礼な気もするけど。」

「そこらが夫婦の難しい所で、外の女性に本性をぶつけるのかもな。」

「良いですよ。警視は私(康子)に、ほ・ん・しょ・う・をぶつけて、アァ〜・・・」

康子のア*ルの蕾がキュッキュッと締まり、吉井警視の指を締め付ける。

薄い皮一枚隔てて、硬く張り詰めた自分の欲棒の存在が、吉井警視の指先に伝わった居る。

康子の吐息が激しく成り、腰の上下も激しく成って勢い吉井の指はア*ルから離れた。

「ウッ、ウッ、ウッ、ウッ。」

硬く勃起した康子の乳首が、時折吉井警視のワイシャツ地越しに胸元を擦る。

吉井警視は、康子の中で擦(こす)れる欲棒の快感を堪能(たんのう)しながら、「不適切な関係だが、これも捜査上仕方が無い」と自分に言い聞かせていた。

「しかしこの稼業(かぎょう/警視庁公安部)は、見たく無くても裏側ばかり見るのが仕事だからなぁ。」

「えぇ、見るだけなら良いのですが、私みたいな現場の者は、時にはドップリ浸(つ)からないと仕事に成りませんから。ウッ、ウッ、ウッ、ウッ。」

康子のくぐもって抑(おさ)え気味の、リズミカルな吐息が吉井警視の耳元でして居る。

康子の返事を湧き上がる快感の中で聞きながら、康子のリズミカルに上下する腰の動きに、吉井警視は次第に自分の性的な高まりが耐(た)えられない所に追い込まれて行くのを堪(こら)えていた。

「そうだなぁ、ウッ、どの道潜入捜査は表ざたには出来ないが、ウッ、その点は公安警察の辛い所だな。」

「警視、気持ち・・良いですか?」

「アァ、凄く良いよ。イキそうだ。」

「おかしな物で、ウッ、ウッ、捜査の為と言う理由があればこう言う事も犯れるのですね。ウッ、ウッ、ウッ、ア〜、アァ〜。」

「捜査の為と言う理由か・・?」

「潜入しろと命じたのは警視ですよ。アァ〜、いずれこの責任は取ってもらいますから。アァ〜・・・・。」

吉井警視は、康子に責任と言われて性的高まりに水を注(さ)され、思わず我に返った。


亡くなった**康子巡査部長の夫は、吉井警視とは警視庁同期入庁のキャリアで、研修も一緒に受けた親友だった。

流石(さすが)に康子一人では誘い難いが、康子の夫が健在の頃は、二(ふた)夫婦で飲みに出かけたりもして親密だった。

康子巡査部長が子持ちの一人身に成って、地域課から俸給(給与)の高い公安部・公安総務課に康子巡査部長を引っ張ったのも吉井警視だったし、今度の潜入捜査に貞操の危険を承知で潜入させたのも吉井警視だった。

そんな事で、康子から潜入先で「こう言う性奉仕をして居る」と報告されると、黙って親友のかみさん(康子)の気の済むように、させているしかない。

それも多分言い訳かも知れないが、理由は欲しかった。

とにかく今は、吉井の固くなった欲棒のカリ首が、康子の内壁を康子の動きで擦(こす)っている。

また、吉井警視に性的な高まりが襲って来た。

「ウゥ〜、康子君イキそうだ。」

「アァ〜、そのまま発射して下さって結構です。」



**康子巡査部長の報告を聞いた公安総務課長の吉井警視は悩んでいた。

この性的同志結束の集団は、犯罪性は無いかも知れないが、現在の社会通念では「危険思想」と呼べなくも無い。

しかし、政治的な活動もしていない現状で、解釈上「危険思想」と呼べるのだろうか?

確かに異常と言えば異常な「乱倫同志経営」の組織ではある。

しかし企業の「性モラルが乱れているから」と言って、それだけで法の網を被(かぶ)せる訳には行かない。

違法行為を明確にしなければ、一私企業の唯のスキャンダルを暴くに過ぎず、週刊誌の出版会社が喜ぶ位の事で、公安部の仕事ではない。

現状では、注意深く「京美企画」の動向を監視するより他に、結論が出せなかったのである。

三十路前後の麻生康子は色気ムンムンの熟れ時期で、一瞬妻・良子の顔が浮かんだが先程から卑猥(ひわい)な報告内容を聞いていた吉井警視がその魅力に勝てる訳が無い。

しかしこの事が、後に吉井警視夫妻にとんでもない事が起きる序曲になったのだが、この時はまだそんな予測など吉井に在るわけが無かった。



「あなた、近頃何かに監視されて居るような気配を受けませんか?」

京香が、岩代に抱き合う形で抱かれながら話し掛けていた。

「お前も、やはり感じていたか。どうやらチョロチョロと嗅ぎ回っている者が居る。」

「どうしましょう。」

「まだ相手が判らぬ。放って置けば良い。ただし警戒だけはして置け。」

「判りました。」

岩代の欲棒が京香の股間を貫(つらぬ)き、京香の腰が上下している。

「最初はまた社長が興信所でも使ったのかと思ったが、今度の相手はどうやら違う。」

「やはりそうですか、今度の尾行は素人とは思えませんもの。」

「そうそう、この事は社長夫婦には言うな。いらぬ心配をさせて、事が進まなくなっては厄介だ。」

「判りました。今まで通りにしています。」

「いずれ、尻尾も出て来るだろう。」

「それなら、この件は放置して様子を見ます。アァ〜」

「今は組織を固め、事業を伸ばす時だ。」

岩代が、下から突き上げるように、「グイグイ」と腰を使い始めた。

「アァ〜、アァ〜、里美さんにはフル回転で頑ん張って貰わないといけません。」

「彼女が頑ん張らないと、社長夫婦が稼いだ事にならないからな。」

「私達が稼いだのでは意味が無い所が辛いですね。」

「必要な事だから仕方が無い。それはそうと、社長は帝王で、メンバーは絶対服従にしなければ成らない。」

「アッ、アッ、アッ、承知しています。」

「社長も大分自覚が出て来たが、女達の社長に対する態度をもう少し厳しくした方が良い。」

「どう致しましょうか?」

「言わば女達は社長が好きに出来る持ち物で、オットセイのハーレム状態だ。」

「判りました。アァ〜、私が率先して態度を示します。」

「俺はあの夫婦に賭けるのは危険だと思ったが、お前(京香)が大丈夫だと言うから賭けて見た。」

「で、同でした?」

「結果を見て驚いた。確かにあの夫婦は恐ろしく強運の持ち主だ。」

「そうなんです。あの里美さんが蒼い危険な賭けを続けさえすれば、全てが上手く回ります。」

京香が、張りが有る白い肌の乳房を波打たせて腰を使っている。

街にはクリスマス・ソングが流れるもう年の暮れだった。



厳密に言えば、明日の事など誰にも判らない。

人は、目の前に起こる日々の課題を消化するに精一杯で、視界に入らないものには無防備なものである。

私の知らない所で、様々な事態が進んでは居たのだが、この時点では何も知る由はない。

当時の私の立場は江戸期の殿様のようなもので、「良きに計らえ」状態のお飾りだったから、無責任にも、状況把握は一切出来ては居なかった。

しかし、何もかもが「上手く行っているのだからそれで良い」と、呑気(のんき)に高を括(くく)っていた。

実際には、何もかも上手く行く事など有り得ないのだが、そう希望的に思ってしまうのが、人間である。

その甘さが、後で大きな後悔に成るのだが、それは先になって明らかに成る。



竹中さんとの接待で、最初に夫の見ている前で犯された日、その夜の学生達にされた輪姦の衝撃、あの事が私(里美)に、既成概念に囚われない真理を見詰めさせ、自らの生き方を考え直して見る転換期に成りました。

状況から察して、「夫もそれを望んでいる」としか、考えられません。

一線を越えてしまえば、もう後悔などはしていても仕方ありません。

むしろ積極的に、この状況を「前向きに生きるべきだ」と思い当たったのです。

私(里美)の本能が「良いものは良い」と言うのです。

何が良いかって、大人数で休む間も無く輪姦(まわさ)れる犯られっ放しですからオーガズムが継続して繰り返し「イク」のですよ。

直ぐ終る夫一人相手の行為と違い濃厚な快感で、それは一度体験してしまえば捨て難い快楽感なのです。

私(里美)がしている事を、他人は「淫らな行為、ふしだらな行為」と言うでしょう。

淫らな行為は性交を伴う行為の意味で、ふしだらな行為は男女関係にけじめのない事(その様)を言うそうです。

確かに私(里美)は、そうし指摘される淫らでふしだらな行為をしています。

しかし、その他人の「淫らな、ふしだらな」と言う評価は、「個人の主観に過ぎない」と私(里美)は、経験して気が付きました。

ただ漠然と、「悪いものは悪い」では説得力がありません。

この「悪いものは悪い」と言う主観の物差しは、何処から来ているのでしょうか?

性交を「淫らな行為が性交」と言うなら、普通に誰しもがして居る行為であり、何故それに罪悪感が匂う雰囲気が伴うのか、理解に苦しみます。

夫婦の範囲を逸脱した性交を行なえば、「男女関係にけじめが無い」と言います。

でもそれは、生活の為の都合(多くの支障が出る恐れがある)で合意した結果で、そこに介在するのも「嫉妬や独占欲」と言った個人感情であり、絶対視するほど強い根拠がある訳ではありません。

生き物は、最低限の本能として必死に生きています。

その本能を思考で否定し、都合で自殺をするのは人間だけで、他の生物には在り得ないのです。

益してや、繁殖期に到達していない子供を性の対象にするなどの狂った思考を持つなど、生物の中では人間だけでしょう。

そして、本来在るべき生殖本能を、「淫らな行為」と位置付けて本能を無条件で否定し、挙句の果てに、自由の権利の下に個人の都合で「生まない権利」を言い出します。

岩代さんが仰(おっしゃ)るには、そうした建前に抑圧された社会に対応する為に、人間の脳が進化して、他の動物には存在しない「擬似繁殖行為を獲得した」と言います。

つまり、人間だけには「繁殖期」が無く、いつでも「繁殖目的ではない性交」に及ぶ能力が備わっているのです。

この「擬似繁殖行為」が、複雑化する本能にバランスを取らせる為の快感の獲得が目的であれば、それさえ「淫らな行為」と否定して、抑圧の中で狂って行くのが人間なのでしょうか?

ここまで来れば、岩代さんから教えられた通り「全てを曝(さら)け出して肉交をする事に拠って、誓約の信頼関係は成り立つ」と、私(里美)の思いは気持ち良く接待にあたる事です。

今は、ゲスト様の嬉しそうな顔を見ると、接待でゲスト様に尽くす事が楽しくも有ります。

女性の興奮は、見られて触れられて本格的に感じるものですが、性感を覚える所は多いのです。

それに引き換え男性は、視覚から脳に興奮を覚え、欲棒がその気に成らなければ、性交は可能成りません。

しかも、性感を覚える所は欲棒に集中しています。

その欲棒を心を込めて慈(いつく)しめば、思いは伝わる筈です。

竹中さんから「はみ出し者が明日を創ると諺(ことわざ)が在る」と聞かされました。

最初は信じたくは無かったのですが、想像がつかないほど卑猥(ひわい)な事を平気で犯る私(里美)がそこに居ました。

私(里美)がそれを考えて見ると、確かに優等生には明日を創るような真似など何も出来はしないのでしょう。

それにしても、私(里美)はいったい何処まで行ってしまうのでしょうか?




バブル経済は、深刻化していた。

このまま土地が高騰すれば、庶民にささやかな土地を持たせる事は永久に出来ない。

上手く資金運用したバブル紳士だけがほくそ笑み、真面目に現業で働く庶民は、その恩恵から外れていた。

そうした批判も、世論の遡上(そじょう)に上がり始めていた時期だった。


(ある日常)
蒼い危険な賭け・京香◆
第三十話(ある日常)


ふと気が付くと、独立して二度目の春がやって来ていた。

世の中バブル経済で、株も土地も荒っぽく値上がりを続け、「京美企画」も活況に追われて、急がしい思いをしながら冬を迎え、何となく年を越していた。

昭和六十三年(1988年)は、騒然とした世の中に時を刻みつつ在ったのだ。

僅か一年と数ヶ月の出来事が、私達夫婦の衝撃的な変化の目覚しい「記憶」となって思い出される。

そして、昭和三十三年戌(いぬ)年生まれの事実は、私に強烈な思いを抱かせていた。

秋の物悲しさも、冬の寒さもまるで関わりがないように「京美企画」の日々は、バブル景気に乗って、湧き上がる好景気がこの春先まで続いている。

取引の誓約が為される事に、かなりの大金が会社に転がり込む。

事業は順調だから、誰も現状の「乱倫同志経営」を否定する事は無い。

皆が会社発展のパワーを「それで得ている」と信じている。

女達は、日頃ゲスト相手の接待やもろもろの社内のお相手をして素肌を晒(さら)す機会が多くなり、肌に跡が残る見苦しさを嫌って下着は身に着けない。

見られる緊張感がある為か、皆、肌も体型も以前より美しく華やかになった。

京美企画の女達は健康美人である。

日頃の接待で溜めておくものが無いほど発散するから、ストレスが吹っ飛んで精神的に肉体(からだ)の内外が健康体に成り、内臓も肌も綺麗になる。

ゲストのあらゆる要求に応じれば、結構運動の量も質も濃厚になり、肉体(からだ)たるみが出てくる暇が無い。

勿論全裸を晒(さら)す事を絶えず意識して居るから、脳の意識も全身を美しく見せようと指令を送る。

正直性接待の奉仕と成ると、汗まみれ涎(よだれ)まみれ涙まみれに成る場面もあるから、厚化粧は出来ない。

京美企画の女達は日頃から皆薄化粧美人に成ったが、肌の痛みは少ないし、誤魔化しが効かないから意識するので若く見える。

世の中、何が幸いするかは判ったものではない。

口の周りの口輪筋(こうりんきん)は、日常生活ではあまり使わない筋肉なのだが、使わないと「老け顔に成る」と言われている。

この口輪筋(こうりんきん)を京美企画の女達が、無意識で自然に鍛えているのがフェラチオ(おシャブリ)だった。

付け加えて置くが、勿論、京美の女性達の日頃の日常生活は自然に周囲に溶け込んでいて、世間は彼女達の仕事が性接待と言う卑猥(ひわい)な行為を職業にして居るなど思いも拠らない事だろう。



「乱倫同志経営」の仲間内では岩代イズムが浸透して、遠慮も躊躇(とまど)いもない。

スカート一枚捲れば、覆い隠すものが無い剥(む)き出しの下半身が露に成り、「ハイどうぞ」の世界である。

私は勿論、誰の妻だろうが気が向けば性交を命ずるのであるが、他の小泉や生島も気軽に「妻を借りたい」と声を掛け、妻とも性交をして居る。

それで、身内以上の親近感が「京美企画」の結束に繋がっている。

私は岩代の念力と思われる不思議な「夢」で、事業の独立に導かれた。

メンバーの事も気に成って後でソッと確かめたが、小泉も生島もKIYOUBI(京美)に加わる少し前から「空に上る夢を見た」と言う。

こうなると、もはや偶然は有り得ない。

全ては岩代の不思議な念力で、彼等をKIYOUBI(京美)に引き入れて、仲間に組み込んでしまったに違いない。


投機による土地の購買意欲が旺盛で、売り手市場だったから、売る方の相手には困らない時代で、そちらの仕事に妻を駆り出す事は無かった。

当然私は、売る方の心配は迂闊(うかつ)にもしていなかったのである。

それでも、岩代の物件販売には抜け目ない仕掛けがあった。

正直な所、物を売るには易く売るより高く売るに越した事は無い。

土地取引は単位が大きい取引なので、僅(わずか)数パーセント違っても大変な金額になる。

勢いとは凄いもので、気が付くと「岩代の奇跡」は拡大を重ね、私が驚愕するほどの業績拡大が続いていた。

業績内容が良いので調べてみると、岩代が京美企画として扱った田嶋や石上の物件は相場より一割ほど高く売却したので、私にも容易にその訳は想像出来る。

どうやら、購買相手の担当者の接待は、「細君(京香)が大車輪で活躍していた接待の賜物」と想像がついた。

考えて見れば、どんな仕事でも多少の「後ろめたさ」は感じながらするものだ。

商売の本質は、安く仕入れてそれに利を乗せて売る。

その利のどこまでが正当なもので、何処からが儲け過ぎなのか、線引きは無い。

正当な商売なのか暴利を貪るのか、それを決めるのは相場であって、善意や悪意ではない。

「利潤(りじゅん)を上げる」と言うのはそう言う事で、その駆け引きにおいて必要と在れば、誰でも有利に事が運べるべく手段を講じる。

或る意味商売において、その双方が満足する取引が理想であり、その点、「特別な接待付き」と言うのは良心的ではないか。

まぁ、何事も他所が犯っていなければ、当社の性奉仕は価値有るサービスである。

細君(京香)の、あの激しい接待の肢体が、私の脳裏を通り過ぎて行く。

現に、中堅のデベロッパーが数社取引の常連に成ったが、人間現金なもので、一度良い思いを経験すると幹部が「京美企画」との取引をしたがる。

細君(京香)の接待奉仕に「あやかろう」と言う下心だが、それは並みの男性感覚だから、責められるものではない。

この仕事、資金は豊富な方が良い。

買い叩いて安く買い、右から左に高く売って差益を稼ぐ。

竹中の出資から始まった資金は、岩代夫婦の信じられない商売の遣り方で、想像以上の速さで回転し、京美企画は順調に業績を伸ばしている。


口で何か言っても、何の気持ちも証明出来ない。

素直(すなお)な気持ちの(あかし)として、実体のある行動で合理的かつ現実的なもので証明する事が大事である。

その意味で、性奉仕の愛奴隷として肉体を供し、全てを曝(さら)け出す性交は、素直(すなお)な気持ちの証(あかし)として最も有効な行動手段である。

それだからこそ京美企画の社内では、互いの妻の肉体(からだ)を貸し借りする事は当たり前に成っている。

久しぶりに、「岩代から細君(京香)を借りようかな。」と、想像が抑え切れなく成った。

社内インターホンで、岩代に声をかけた。

「岩代君、犯りたくなったのでチョット京香さんの肉体(からだ)を借りたいのだが。」

「はぃ、今から直ぐに行かせますので、好きに使って下さい。御ユックリ。」

インターホン越しに、岩代の弾んだ声がした。

三分後に、私は細君(京香)に欲棒をシャブらせていた。

京美企画の「乱倫同志経営」には特別ルールが出来上がっていた。

メンバーは、十一人、竹中、田嶋、石上の出資者と私、里美、岩代、岩代京香、小泉、小泉順子、生島、生島喜美子の経営実務者と後は補助的に安部、麻生、福田、谷垣の女達だ。

その名々が、蒼い絨毯のプレイルームでの行為には、互いに妻の貸し借りは「拒めない合意」が出来上がっている。

気が向けば、「チョット貸してくれ。それなら俺も借りる。」と気楽に声を掛け合う。

勿論妻の里美の肉体(からだ)も例外ではなく、仲間内ご利用自由だから、肩書きに関係なく誰でも当然の事として遠慮なしに犯っている。

竹中、田嶋、石上など、フラリと会社に遣って来て、行き当たった女達を堂々と蒼い絨毯のプレイルームに連れ込んで相手をさせる。

仲間内では、日常の風景として溶け込んだ感さえある。

奇跡のようではあるが、こうして見ると、人間は知能がある分結構感化され易い動物なのかも知れない。

彼らにも、妻は人気だった。

それが「乱倫同志経営」の仲間内では、社内の日常風景だから、誰が見て居ようが見てなかろうが、気にする者は居無い。

この傍(はた)から見れば、週刊誌が喜びそうな「スキャンダルの塊」のような会社ではあるが、良くもまぁ世間に露見する事も無くここまで来た。

そう感心していたのだが、実は私の知らない所で既にマークする組織が存在していたのだ。



「あなた、お飲みになります?」

風呂から上がって、居間のソファーに座ってテレビを見ていると、風呂から上がった妻が声をかけて来た。

食事が終わると、妻は娘を寝かしつけて、風呂に入った。

妻の里美は全裸だった。

近頃の何も無い日の、当家の生活はこんなものだ。

毎晩、私をねぎらう時は、晩酌と妻の肉体サービスがセットに成っている。

「あぁ、飲もうか。」

台所に行き、昼間買って置いたのか本マグロの中トロ刺身と焼酎のお湯割を持って来た。

私が何も言わずに飲みだすと、妻は黙言で床にしゃがみ込みソファーに座った私のガウン前を広げ始める。

面倒なので、私もガウンを脱ぎ払った。

勿論下は何も身に着けていない。

妻は足元に割り込んで欲棒を咥(くわ)え、シャブリ始めた。

私の左足が妻の肉体(からだ)の中心に位置しているから膝小僧に妻の乳房が当たり、左足の指先には計算された様に妻の股間の花弁が触れている。

胸にしても、花弁にしても、その柔らかい物は意識してクニュクニュと私に密着して来る。

岩代が教えた密着おシャブリ・テクニックだ。これをしてもらうと酒が進む。

私の欲棒は妻の口に含まれて、生暖かい刺激にの中を漂っている。

天国の様で、ついついグラスを口に運ぶ回数も増えて来る。

暫く熱心に続けていた妻が、「お酒、おいしいですか?」と聞いた。
「あぁ、旨いよ。」

「それなら、よろしいです。肝心のあなたを喜ばせられなければ、妻として仕方ありませんもの。」

グラスが空に成ったのを目聡く見つけた妻が、咥(くわ)えていた欲棒を口から離した。

妻は台所に立ち、お湯割のお代わりを作って来た。

新しい酒を私の前に置くと、向かえ合わせに私を跨いで、欲棒を自分の手で菊門の入り口へ導いた。

今度は「ア*ル・ファックで喜ばそう」と言うのだ。

妻は腰を下ろしてグウッと欲棒を菊座に収め、両足を踏ん張って腰を上下し始めた。

岩代に、「時々使わないと使えなくなる。」と言われているから、妻はそれを守っている。

「気持ち良いですか?私、暫(しばら)くこうしていますから、おいしいお酒を飲んでいて下さい。」

妻はそう言ってユックリと腰を上下し、私の欲棒が彼女の肉ひだを擦り、一層固さを増す。

「あぁ。」と言いながら、私はお湯割りをすすった。」

「私がサービスして、貴方においしいお酒を飲んでいただければ嬉しい。」

妻の深い愛を感じた。彼女はこの処の一連の破廉恥な行為でかなり大胆に変身していた。

しかし、「あれは、あれ。」と分けて考えていて、夫婦の枠組を放棄していなかったのだ。

「俺は気持ちが良いが、お前はどうだ?」

「いぇ、今はあなたが良ければ良いのです。私は、時々大勢の方に目一杯犯って頂きますもの。アァ、あなたがあれを赦してくださるだけで有り難いと感謝しています。」

「そうか、我々が気に入れば新しく自宅を買うと、岩代が家を捜しているが、見付かったら、またお前に祈願呪詛の輪姦をさせてやる。」

「そう言う事に成りますでしょうね。アァ。」

妻は両足を踏ん張って腰を上下している。

入り口辺りの皮を巻き込んで、妻の菊門を出入りする私の欲棒が快感で震えている。

ア*ルファックは、男には格別の感触がある。

そして太古から男の意識に伝わる「征服感」を満足させるものでもある。

「信じられないが、祈願呪詛のご利益は有るみたいだ。」

「そうですか、あなたがしろと仰(おっしゃ)れば、私は何度でも呪詛をして頂いてよろしいのです。」

あの呪詛輪姦は、「一度味合う」と忘れがたい物なのか?

妻のサービスを楽しみながらグラスを口に運んでいて、ふと、恐ろしい事に気が付いた。
私達一家が「全て戌年だ」と言う事実だ。

岩代が言う妙見信仰と山犬信仰を、干支(えと)に「当て嵌(は)めて見たらどうか」と思い当たった。


建前で「性の事を葬り去ろう」と言う低俗なレベルでは、人間の本質など判らないのです。

言うなれば性交は神の領域で、性行為は平和の営みだから、殺し合いや騙し合いよりは遥かに友好的な行為なのです。

性行為そのものは、全てを曝(さら)け出すものですから、確かに格好の好いものではないでしょう。

その点では、男女共に恥ずかしいから「秘すべき行為」では有るのかも知れません。

この「秘すべき行為」が誤解を呼び、性行為そのものを「恥ずべき行為」と取り違えているのでしょう。

しかしぶっちゃけた話、最初は気持ちの上で私(里美)にも抵抗がありましたが、経験して見るとリスクさえなければ知らない男に犯られるのも心地良いものです。

ここまで犯ってしまえば、平凡な人生より遥かにスリリングな飽きない刺激で、夫婦間の倦怠感など全く無いのです。

抑圧された社会に在って、本能を満足させる機会には中々恵まれません。

充実した人生に必要なのは充実したSEXで、本音を吐露すれば「一度経験をする」と今更戻るのも、もったいない気持ちです。



「おぃ、チョット思い出した事がある。調べ物をするからどいて。」

私は妻の菊門から欲棒を引き抜き、暦本を書架から取り出して調べ始めた。

座り直(なお)した私の上に、妻はまた跨(またが)って来た。

恐らく妻は、「どんな事をしても這い上がる。」と思って、ここまで来た。

「もう、意地でも引き返せない。」

妻はそんな心情だったのだろう。


岩代夫婦のカリスマ性は、仲間内では絶対的なものに成りつつある。

妻も例外ではないのだが、誰もが認めるこの夫婦の不思議な魅力は、特に女達全員に浸透していた。

私と妻は同級生である。

つまり、妻も私と同じ「昭和三十三年の戌年生まれ」と言う事だ。

私と妻が生まれた昭和三十三年は干支(えと)によると戊戌(つちのえいぬ)である。

戊戌(つちのえいぬ)に所縁(ゆかり)の或る神は、天一神(てんいちじん、てんいつじん)は方角(ほうがく・方位)の神様で、中神(なかがみ)とも言う十二神将の中央に立つ主将である。
どうやら私達夫婦は、この方角の神様と深く関わりがあるらしい。

天一神は、「天と地との間を往復し、四方を規則的に巡るとされ、天一神のいる方角を犯すと祟りがある。」とされた。

この神様、諸説あるが、北極星の精説、天女説、荒神説、帝釈天の大臣説などが一般的である。

「北極星の精」と言うのなら、北辰北斗信仰との関わりはズバリそのものだし、天女と言うのなら、それはそれで、妻の替わり様からも頷ける。

そして、北辰北斗信仰(妙見信仰)は、性のエネルギーを必要としている。

すると、その呪詛の裏付けが、「干支(えと)による戊戌(つちのえいぬ)生まれの夫婦が執り行う必要でもある」と言うのか?

天一神は、四十四日間天上から降りて下界で四方を巡る。

これを天一神遊行(てんいちじんゆぎょう)と言う。

それぞれの期間に天一神がいる方角を塞(ふたがり)といい、その方角に向って事を起こしたり、その方角に真っ直に進んだりする事を避けた。

これを物忌みと言う。

天一神は特に平安時代に強く信じられ、当時の方違えのほとんどは天一神のいる方角を避けたものであった。

この方位の塞(ふたがり)を「貫き祓う呪詛」を行う事によって、避けるべき物がなくなる「忌み祓い」の効果を得る。

それによって、天下無敵の幸運を呼び込むのだ。

天一神は戊戌(つちのえいぬ)の日の「選日」である。

天一神は癸巳から戊申までの十六日間の間は天上に帰るので、この期間は天一神の祟りはなくなる。

この期間を「天一天上(てんいちてんじょう)」と言い、暦に記載され選日の一つである。

つまり、天一天上が戊戌(つちのえいぬ)の重要な眼目であり、「天一神が天上へ上る」と言う事そのものが、北斗神の強い関わりを現している。

そして岩代は天井を天上と結びつけ、天井から覗いた私をこの奇妙な中心に据えた。

全ては、そこから始まっている。

なお、「天一天上の期間」は天一神の祟りはないが、その代わりに日遊神が地上に降りて家の中に留まるので、この期間は「家の中を清潔にしなければ日遊神の祟りがある」とされている。

この点も、解釈の都合によっては、岩代の言う様に輪姦行為を「浄化」と呼ぶ事の意味合いも見えてくる。

つまり、妻は浄化され「菩薩になった」と言う事なのだ。

これは、生と性、そして精神が絡み合って一個の人間を形成し、それをどう生かすかに長年のテーマがある証拠である。

その年の、最初の天一天上の第一日目を「天一太郎」と言い、「上吉日」とされている。

この「上吉日」、いったい誰に向かっての「上吉日」なのだろうか?

この日に雨が降ると「その後の天候が悪くなる」と言われ、この日の天候でその年の豊作・凶作を占った。

ここで言う雨は「恵みの雨」で、本来なら稲作にとっては吉の兆候でなければならない。

しかし、まったく反対に「上吉日」を雨で水を注すと、「以後の天気は悪くなる」と言う。

これは何事も「始めが肝心」と言う非常に「素朴な考え」と思われる。

そこまでは良い。

もう一つ、私の一家には戦慄すべき事実がある。

私達の一人娘が二十四歳の時の子だから、昭和五十七年の戌年である。

娘の生まれた昭和五十七年の干支は、壬戌(みずのえいぬ)である。

つまり娘もまた、「菩薩になると言う星の元に生まれてきた。」と言うのか?

親子の情を外せば、「虫の良い話。」だが、実際には我が娘を「菩薩」にするのは又別の感情がある。

壬戌の日は八専の間日(まび)である。

八専(はっせん)とは、選日の一つで、日の干支が壬子から癸亥の間の十二日間の事である。

十干と十二支に五行を割り当てると、干支の気(五行)が重なる日が全部で十二日ある。

そのうち八日が壬子から癸亥までの十二日間に集中している事から、この期間は特別な期間であると考えられるように成った。

同気が重なる事を「専一」と言い、それが八日ある事から「八専」と言う。

八専の期間には同気の重ならない日が四日あり、これを「八専の間日(まび)」と言う。

八専のうち、間日を除く八日間は、同気が重なる(比和)事から、「吉はますます吉となり、凶は益々凶とな成る」とされた。

しかし、いつの頃からか、凶の性質のみが強調される様に成った。

現在では、何事もうまく行かない凶日とされている。

間日は、十方暮とは異なり八専の影響は受けないとしている。

この八専の凶を吉に変える呪詛も必要と考えると、或いは娘が呪詛巫女として有資格なのかも知れない。

その辺りが私に予測され、愕然(がくぜん)としたのだ。

私も人の子で、勝手ではあるが、娘が呪詛巫女になるのは到底考えられない。


翌日、岩代に昨夜思い付いた事を問いただした。

「社長、良く調べましたね。おおむね正解です。それに奥さん、以前より若く綺麗に成ったでしょう。」

岩代専務は、あっさりと私が予測した根拠を認めた。

彼によると、彼の師の「予言の通りに全てが進んでいる」と言う。

そして、後数年で訪れる日本経済の壊滅的な場面を、「何とか軽微なものにする手段を講じるだけの力を蓄えたい。」と、大それた事を口にした。

驚いた事に、彼は京美企画をここ数年で「日本を支える企業にしよう」と言うのだ。


「里美さんには、鞭(ムチ)もビシビシ使って入念(にゅうねん)な調教を施(ほどこ)してあります。」

細君(京香)が自信有り気に言った。

「エッ、内の奴に鞭(ムチ)まで使っているのか?」

「ソリャあ遊びのレベルでは無いですよ。接待をすれば当然そう言う縄と鞭(ムチ)を使うゲストも居ますから、相手をするのに里美さんが慣れておかないと。」

「内
の奴が・・・その縄と鞭(ムチ)の調教を君らに施(ほどこ)されたのか・・・」
「えぇ、里美さんは案外素直に受けましたよ。多分M(マゾ)気が強いのでしょう。」

確かに理屈で言えば接待には気持ちが大事で、愛奴隷はただ犯やれば良いのではなくゲストの性癖を含めゲストの希望を百パーセント適(かな)えて満足させなければ性接待の意味が無い。

岩代夫婦は、妻に「念入りな調教を施(ほどこ)した」と言う。

素肌に縄掛けされ、ビシビシ鞭(ムチ)打たれる妻の情景が浮かんで来て、胸にキューンと来た。

妻はその鞭(ムチ)打ちで、柔ら壺から感じ汁を垂れ流したのかもしれない。

妻は辱(はずかし)められ、甚振(いたぶ)られての念入りな調教を施(ほどこ)されている。

私は自分の感性をS(サド)だと認識しているが、複雑な事に妻を通しての被虐感情はM(マゾ)の快感である。

正直私は勃起を覚えたのであるが、それがS(サド)の感情なのかM(マゾ)の感情なのか、確たる判定は難しい。

夫婦なんてそうした一体感があるものだが、これは心理的に癖に成りそうな思わぬ感情経験だった。

「京香さん、その鞭(ムチ)を持って来てくれる。」

「はぃ。」

私の意向を先読みしたのだろう、細君(京香)が鞭(ムチ)を取りに行き戻って来た時は全裸だった。

「どうぞ、お試し下さい。」

細君(京香)はそう言って四つん這いに成り、白い尻を差し出した。

妻が施(ほどこ)されている鞭(ムチ)打ち調教なら遠慮は要らない。

細君(京香)の白い尻にビシビシと振り下ろした。

「アァ〜、アァ〜、アァ〜。」

鞭(ムチ)の音に共鳴するように細君(京香)の悲鳴のような善がり声が上がった。

「社長、シャブらせながら、鞭(ムチ)を使って見たら。京香そうしろ。」

「はぃ。」
返事をするが早いか、細君(京香)は回れ右して私のスラックスのファスナーを降ろし、欲棒を取り出してパクリと咥(くわ)え口で扱(しご)きだした。

「なるほど、鞭(ムチ)打ちとおシャブリの組み合わせは加虐感が盛り上がるな。」

「でしょう、それで鞭(ムチ)を使って見て下さい。」

「こうか?」

細君(京香)の頭越しに鞭(ムチ)をビシビシと振り下ろした。

「ゴァ〜、ゴァ〜、ゴァ〜。」

鞭(ムチ)の衝撃に合わせて、欲棒を咥(くわ)え口で扱(しご)く細君の唇から悲鳴とも善がり声ともつかない声が漏れてくる。

「なるほど、これは興奮度が上がって気持ちが良い。」

「そう言う事ですから、承知して置いて下さい。」

「承知も何も内の奴にはもう、勝手に犯らせているのだろう。」と皮肉を言いたかった。

そうは思ったが口には出さなかった。

不覚にも私は、妻の奉仕姿を想像しながら細君(京香)の口中に発射していたのだ。

あぁ、細君(京香)の口中に快感と伴に体液が欲棒からドクドクと注(そそ)ぎ込まれている・・・

細君(京香)の肌に鞭(ムチ)跡が生々しく付いていた。

謎めいた女性だが、細君(京香)はどんな事を考えて生きているのだろうか?


岩代は「世間の呪詛解釈に、一つ大きな間違いがある。」と言う。

彼が言うに、いい加減な世間の占い師や宗教家が「ご先祖の魂が泣いている」などと言う台詞(せりふ)があるが、「摩耶化(まやか)し」に他ならないらしい。

本来、「霊術」を操る者はその本人が悪霊であり、死者の霊魂が彷徨(さまよ)う「冥府(めいふ)魔道」を、生ある者が簡単に操れるものではない。

生ある者が操れるものは「生術」で、古来修験道や真言密教の一部に伝わる「命を創り出す今生の呪詛・性的興奮のエネルギー」なのである。

人は元来、訳を知りたがる生き物で、これと言った理由が在れば納得する。

所が、運不運を始め、コントロールが利かないものや自分が理解出来ない不可思議なものは納得出来ない。

説明がつかない事を、理解納得するには、悪魔、邪鬼の類か神様の類にその理解納得を求めるものである。つまり、それらは生きて行くのに便利なものであるから、人は「信じたい」のである。

それが人の中に宿る「信仰」と言う精神世界のもので、実体はない。

実体はないが、「信仰」はしたい者が自由にするものである。

京美企画の驚異的な業績向上の秘密はそこにある。

私は余り認めたくないが、メンバーの寄せる岩代への信頼は、ある種信仰に近いものである。

確かに京美企画は急成長をして、現在でも以前勤めていた会社の数倍の規模まで来ている。

まるでマジックの様に、有利に有利に物事が進んでいる。

短期間で、資産が五十億円、百億円とうなぎ上りで、世間とは隔絶した成果がここにはあった。

岩代専務に言わせると、祈願呪詛のお陰で、「気の流れは最高だ。」と言う。

女達は美しく豊かになり、男達には桃源郷のごとき会社がある。

創業メンバーも、最近では事業の拡大に酔って居る。

そんな中で、覚めていたのは私と岩代専務だけかも知れない

「社長はデンと構えて部下の仕事を見ていれば良いのです。」

「私に、その資質が本当にあるのか?自信などまったく無いが?」

「社長が何と言おうが、どう思おうが、神の定めです。」

この神の定め発言には深い意味が在ったのだが、その時点では到底私には思い至らない。

「私は運が良いと言うのか?」

岩代は、首を少しかしげそして言った。

「微妙な違いですが、運が良いのでなく、運命で運を掴(つか)んだと言う事です。」

「妻の変身が無かったら、これは無かったのか?」

「全ては、引かれたレールの上で、奥さんも変身する運命には逆らえません。」

「そんなものか?全てが急速に走っていて、私は自信が無い。」

「それで良いのです。社長が自信を持ったら、会社は終わりです。」

答えは簡単で、実はどんな人間でも、どんな地位にあっても本当に自信がある訳ではない。

自信のなさと、不安を抱えて苦悩しながら答えを出す。

裏を返せば、人間に大差は無い。

かと言って、「侮(あなど)ってはいけない。」その僅(わず)かな差が社会では増幅されて大きく成る。

愚かな事に、それを勘違いして危(あや)うい慢心が生まれる。

政官財の権力者が陥る、一般的な見苦しいパターンである。

岩代は、妻の裸の接待働きが、「私と会社を支えている」と言う。

それは、「気」や「念」の世界であり、理屈だけでは割り切れない「尽くす精神」に拠る精神世界のパワーらしい。

岩代に言わせれば、単に肉体を提供する行為とはどうやら別物らしいのだ。

それにしてもこう言う接待は、何処にでも有るものでは意味は無い。

極上の女が極上の接待をするから意味があるのだ。

幸か不幸か、妻の美貌と見事なプロポーションの裸身は、充分に鑑賞に耐えられ妻を抱く男達を満足させる。

その上、性行為のテクニックは、竹中や岩代夫婦が「充分に仕込んだ」と言うのである。

「奥さんは確り本物に仕上がっていますから、どなたのお相手をなさっても心配は要りません。」

岩代は、にこやかに笑ってそう言った。

この、妻に接待をさせる事に関しては、岩代の態度は「傲慢(ごうまん)」としか思えないほど命令的だった。

つまり現状では、ゲストの相手を妻がさせられるのは当然の事実なのだ。

岩代の言い分には、確かに一理ある。

しかし里美は、私の妻である。

確かに独占欲が馬鹿げたもので、妻の本性にM気があるならそれを満足させる場を設(もう)ける事も理解しょう。

しかし、私の気持ちの上で引っ掛かるのは、そうした妻の肉体そのものを、岩代が自由に支配している現実である。

しかし妻(里美)を含め、KIYOUBI(京美)の女達の肉体(からだ)は接待道具で、その接待道具を「ゲストに使わせたから」と言って、感傷的になるのは考え方の筋が違う話しには違いない。


私は、懸命に岩代の怪物じみた能力の解明を、密かに研究していた。

岩代が発揮する何やら妖しげな人心を操る術(じゅつ)は、恐らく「気」ではなく「念」と思われる。

調べてみると「念」の正体は自然界に存在する電磁波である。

鯨(くじら)やイルカと言った海棲の哺乳類はこの電磁波を使い、脳で直接互いの連絡を取っている。

この自然界に存在する電磁波、同じ哺乳類の陸上進化系である「人間」の誰にでもいくらか残っている脳の通信機能だ。

だが、人間は陸上で生活する間に、他の五感(視覚、聴覚、触覚など)が発達して、この「念」の使い方を忘れてしまった。

しかしこの能力は、退化したのではなく「眠っているだけ」だとしたら、どうだろうか?

陸上生活で忘れてしまった「念」の通信機能だが、中には突然変異のように、特定の人物にその読み取り能力がよみがえる事がある。

それを上手に訓練すれば、「透視能力」などの超能力と称される能力に成るのである。

これは、その「念」の通信機能を失ってしまった通常の人間には、奇跡と映る。

岩代の持つ、相手の考えている事を読み取る能力の読心術や、相手を操る為のメッセージを送る幻覚術などは、この電磁波を使い、相手の脳に直接働きかけているのではあるまいか?

妻を始め女達は、岩代夫婦に心服している。

それは未来予知映像を見るからである。

勤めて平静を装っていたが、実は知らない事象に遭遇するのは誰に取っても恐怖である。

その時の私は、「このミステリアス(謎めいている)な状況を、私は推理しなければなるまい。」と焦(あせ)った。

いずれにしても「未来予知が出来る」など、生まれ持って蓄えて来た私の常識では解決出来ない現象だった。

犯ってセックスハイ状態(性感陶酔状態)になれば未来予知の幻覚が見えると言う。

これは、巧妙に仕組まれている可能性がある。

果たして、妻が見たのは純粋に予知映像だけだろうか?

あれほど妻や女達が岩代にコントロールされているからには、予知映像と思い込まされた幻覚がある筈だ。

危険だが、妻や女達は、岩代の「念」に操られた幻覚映像や、岩代の「念」に増幅されたオーガズム・ハイ(性感陶酔状態)に拠る予知映像を見せられて、少々未来予知と岩代の都合を混同して、思い込まされている嫌いがある。

岩代は「気」の事は口にして肯定しているが、「念」に関しては意図的に口にしない。

つまり彼は、秘めたる能力として、我々を操っている疑いが濃いのである。

だが、それで説明が着いたにしても、その能力を持つ岩代は、敵に廻せば容易成らざる相手である。

常人の私ではとても太刀打ち出来ない。

それにしても、妻の陵辱的な肉体奉仕の役目は、岩代の意のままに続いて、また、妻の肉体奉仕の情景が、私の脳裏に浮かんで来る。

これと言って対応策がないまま、私は、妻を岩代に委(ゆだ)ね続けて良いものだろうか?


妻の愛奴隷としての評判は、ゲストの偏った性癖の身勝手な我侭(わがまま)も、「笑顔で応じてくれる」と評判が良い。

こんな事でも無い限り滅多に味わえない快楽を提供するのが京美企画の愛奴隷接待で、愛奴隷にNGが在っては素っ裸で接待に引き渡した意味が無いのである。

人間の性癖は人それぞれだから、変わった事を求められてもその人を批難は出来ない。

そうした相手の要求に応じるのだから、性奉仕には「思考の柔軟性」を持って臨まなければならない。

明るい性交が求められる性接待に於いては、湿っぽい雰囲気も場違いだしゲストの気分も壊せない。

性接待の奉仕だから気分良く遊ばせる事が優先され、ゲストが「何を求めているのか」まで気を配って性玩具(おもちゃ)に成り切って始めて「良い性奴隷」と言える。

求めに応じて、如何なる辱(はずかし)めを受けたとしても、元々愛情など伴わない事が接待の約束だから、人間性など考慮に入れない扱いをされても文句は言えないのである。


つまり、「何なりとどうぞ」だが、都合の良い事に接待の性奉仕は、あくまでも大人の節度を保った範囲での「非日常」の世界の遊びで、勿論、愛奴隷が万事心得ていて、遊びの全てはそこだけの秘密で、ゲストの日常生活を壊す事など無いのである。

幸せは、物や金ではなく心の問題で、何事も心が好き(ポジティブ)と思えば好結果がもたらされ、嫌(ネガティブ)と思えば、同じ事をしでも良い結果は得られない。

益してや、全て自分が主体で物を考えていて、嫌(ネガティブ)な批判心ばかりで生きている者に、好結果がもたらされる訳が無い。

妻は、相手(ゲスト)に身を委(ゆだ)ね、好きに楽しまさせる究極の他人主体の状況を、嫌(ネガティブ)ではなく、好き(ポジティブ)と思える様に成って、何時の間にかこの会社の主体は、妻の肉体そのものに成っていたのである。


私(里美)、自分が変態性行為の出来る愛奴隷に成るなんて、最初は思いも拠ら無かったのです。

でも、人は変われるものなのです。

変わって初めて、心が救われるのかも知れません。

岩代さんのレクチャーに拠ると、人間は性行為で快感を得れば、ベータ・エンドロフィンが脳内に分泌され放出されます 。

その脳内分泌をうながす方法を岩代さん夫婦は心得ていて、私(里美)の身体を性的に責め慣らしたのです。

それで正直私(里美)は、癖になるほどの、股間から愛液を垂れ流し続ける快感に翻弄(ほんろう)されました。

すると、一時的なものとは思いますが、岩代さんの目論見通りに、私(里美)は変態性行為依存症に仕立て上げられてしまったのです ・・・

この会社の夢を広げるのは、美しい女神(愛奴隷)の働きに掛っています。

その為に、岩代は厳選した女性しか触手を動かさないのです。

ですから女達も、本音の所で容姿に自身が無ければ、美しい女神(愛奴隷)には成らないのです。

その点では、ここに居る女性メンバーは選りすぐりです。

つまり、自らに自信が無い女性程、本能を否定し、建前に逃げ込むのです。

女は皆、本音探しの旅に出ます。

でも切欠がないと、中々到達はしません。

それは、世間に臆病だからに他かなりません。

その殻を破るのが、株式会社「KIYOUBI(京美)」の「乱倫同志経営」だったのです。


快感から導かれる分泌ホルモンの効果「脳内物質ベータ・エンドロフィン」についてお話ししますと、人間が笑ったっり快感を得ると、脳内物質のベータエンドロフィンが分泌されるのです。

その「ベータ・エンドロフィン」というホルモンは、笑う事や、マイナスイオンを浴びる事でも同様に分泌され、食事や性行為の際、脳内で快楽系快感ホルモン物質が分泌放出される事で快感を得られます。

つまりあらゆる快感で分泌されるホルモンですが、当然快感には各々に程度があります。

実はこの快感から導かれる分泌ホルモンの効果は、鍼灸に於ける痛みを和らげる効果に始まり、精神安定(脳内ベータエンドロフィンを活性化させます) 自律神経の調整作用(自律神経の機能回復)を図るなどの治療効果にも生かされます。

ベータ・エンドルフィンと言うホルモンには、痛みをやわらげる作用があり、「脳内麻薬」とも言われていて、その効果は「麻酔に使われるモルヒネの数倍だ」と言われています。

脳内モルヒネなどとも言われ、快楽系ホルモンで満足感・幸福感により脳内に分泌される脳内麻薬の事です。

この痛みを和らげる快感作用を利用しながら、愛奴隷としての調教責めをするので、苦痛と快感が一体化する満足感・幸福感を私(里美)の身体に植え付けて行くのでした。

この物質、ベータ・エンドロフィンは、ガン細胞をもやっつける力を持っています ・・・

近代医学で直る見込みの無い者が、宗教で一定の効果を得る症例は正に、この応用なのです。

音楽や、その音楽を併用した信仰(宗教儀式)のトリップ状態やスポーツに於ける極限状態「ランナーズ・ハイ(長距離走陶酔状態)」の快感で、この作用で分泌される脳内物質ベータ・エンドロフィンが効果を上げているのであり、特定の信仰がそのご利益をもたらした訳ではないのです。

ただし、「信じる者が救われる」は、このメカニズムからすれば、当然で、アフリカなどに於ける原始宗教の音楽や踊りのトリップも理に適っています。

つまり、悪魔(痛みによる苦しみ)を追い払う効果はあるのです。

人間は食事や性行為の際に、このベータ・エンドロフィンと呼ばれるホルモン物質が分泌される 。

特に人間は、性行為の直後に脳内麻薬(ベータ・エンドロフィン)が大量分泌されるとの事ですが、これは自らの種を後世に伝える為に、性行為に魅力を感じさせる「自然の恵みである」と考えるべきです。

当然、生きる基本「性は性に通じる」と言う事になります。

人間は快感を得られると、身体が若返ります。

恋をすると気持ちが人間を若返らせるのも、好ましい気持ちが快感ホルモンであるベータ・エンドロフィンなのですから、パートナーがいる方は、大いに性交をして、ベータ・エンドロフィンを大量分泌されると宜しいでしょう。

ただし、あくまでも「性行為が楽しい」や「相手が好ましい」と言う感情がないと、快感ホルモンは分泌しません。

でも、私(里美)がお相手をするゲストは、私に好ましい快感を与えてくれるのですから、その気持ちに嘘は在りません。

それに、この接待の環境の為に、私は常に裸を人目に晒(さら)す事になり、その緊張した意識に、脳が全身の緊張を指令する事も若さと張りを維持させているのでしょう。

快楽系快感ホルモンを大量に分泌させるのは、何と言っても性行為ですが、大手の宗教が禁欲的な教えをするのは道徳や倫理以外に、その効果のライバルだからと言う「うがった観測」も出来ます。

また、この論理からすると、若者が性への関心をスポーツに向ける指導は「まんざらでは無い」と、私(里美)は思います。

ただし、性欲は生物としての自然本能ですから、全てをスポーツに摩り替えるのは無理があるでしょう。


私(里美)、考えたのです。

密会でSEXをすれば不倫です。

しかし多数を一度に相手にしたり、接待でのゲスト様のお相手をしたりは、愛と言う精神を伴うものではないのです。

従って浮気とは意味合いが違い、分けて考えれば済む事です。

接待は、あくまでもプレイ上の割り切った関係で、愛は伴わないのです。

それは、互いの安全を意味するのですから、そこさえ踏み込まなければこの接待は、安心感の中で成立します。

その裏側に隠れている現実があります。

そもそも結婚は、女性のメルヘンチックな「大いなる幻想」を抱いたまま成立すします。

そのギャップは、直面するリアルな現実を身をもって経験しなければ、その甘いだけの感性への拘りは払拭されず、精神的に納得は出来ないのでしょう。

哀しい事に、人間は理屈だけでは割り切れない何かを、いつも感じながら生きています。

その多くは、自分さえ自覚しては居無い、生き物としての本能と、人間と言う制約された社会環境に晒(さら)されて生きているギャップがあるからです。

そこを開放され、脳内麻薬であるベーターエンドロフィンを体内で生成する事は、精神的開放のみならず、「若さや美しさにも寄与する」と言う事なのでしょう。

結論として、知ってしまった快楽は、否定するより受け入れて楽しむ方が、全てを良い方向に進める事に、私(里美)は気が付いてしまったのです。


会社が順調に発展すると、生活態度に余裕が出て来ます。

一人娘には家庭教師を付け、他にピアノも慣わし始めました。

私(里美)の習い事は、体型と体調維持を目的とするものが多いのですが、それを為すだけの収入はあります。

日々の生活レベルが上がって、周りの扱いが変わり、私(里美)も普段は地域活動や娘の学校関係の付き合いなど、リーダー的な立場を熟(こ)なしています。

会社関係の付き合いで、着飾って夫婦揃ってのパーティにも出かけます。

その場で紹介されるのは社会的に重責に在る人間ばかりで、つい一年ほど前までは考えられないメンバーの集まりでした。

そうした平穏な生活のメリハリに、時折、岩代さんからゲスト様の接待を、私(里美)にさせる為の呼び出しがあります。

私(里美)は愛奴隷ですから、接待のお相手も、ご奉仕の内容も一切拒む事を赦されていません。

裸に剥(む)かれて連れて行かれ、引き合わされて見ると、以前に岩代さんにパーティで引き合わされた立派な肩書きを持つ人達でした。

勿論、愛奴隷としての接待ご奉仕ですから、口に出して言えるような、半端なものではありません。

最初は戸惑ったのですが、要求されるご奉仕は、岩代さん夫婦に予め調教されて居た範囲で、私(里美)にも応じられない事でもありません。

それに、見知らぬ相手と言っても、一度肌を合わせ、全てを曝(さら)け出して抱かれてしまうと、それなりの親近感も湧きます。

考えて見れば、例え夫でも最初は他人からの出会いです。

そう考えれば、どんな出会いでも自然に気持ちが打ち解けて、それなりにその非日常の空間が楽しめます。

今の私の肉体(からだ)は、パーティの場では品定めの対象なのです。

それで段々に、パーティに連れて行かれる事にスリルを感じ、「次のお相手は?」と、楽しめるように成りました。

だって、ものは考え様で、内に篭って居て夫一人を相手にするよりは、遥かに新鮮な気分の出会いですし、愛奴隷としての非日常接待が終わって、帰ってからの夫に対する日常の愛情も、改めて夫の存在の重さを感じて、余程濃厚に湧いて来るものなのです。

SMのお相手は、流石にキツイですが、気付いてい居る事があります。

感慨として思うのは、「残酷だから」と言って、その意見を簡単に容認すべきではないのです。

たとえば、人間の身体をとことんまで追い詰める点では、スポーツも似たように残酷なのです。

選手に対して「ガンバレ」と能力の限界まで要求する点では、実は、スポーツ教会から会社や地方自治体の意識に至るまで、一致したものです。

つまり、スポーツに於いての期待が残酷なのは、国民合意なのです。

その点で言えば、何故「性」が介在すると、「変態性行為は残酷だ」と問題視するのでしょう。

多分、ムキになって否定する裏には、御自分の中にそうした性癖の「後ろめたさが在るから」ではないのでしょうか?

本当は、快楽系ホルモンの分泌に拠り、合意の上の変態性行為は「溢れるばかりの満足感・幸福感」に満ち溢れているのですよ。



性接待の愛奴隷など、娼婦の真似事(まねごと)と言うよりも娼婦以上の卑猥(ひわい)な性奉仕を犯られ居て、妻本人が愉しくなければ長続きはしない。

素っ裸でゲストに引き渡され、相手の意志のままに弄(なぶ)り遊ばれる性玩具(おもちゃ)を務めるのだから、単に「不本意に恥ずかしい行為を犯られる」と言う価値判断ならば、二度と御免で到底何度も続く話ではない。

だが、その性接待行為が抵抗無く続くのであれば、つまり妻も犯られながら愉しんで居る事になる。

此処で私も理解出来たのだが、生はんかな事では返って今までの倫理意識を引きずるが、今までの倫理意識を破壊する衝撃的な事を徹して犯れば、人間意識が百八十度変わるものである。

確かに、知りもしない相手に肉体(からだ)を預けて、無抵抗で弄(なぶ)らせ性交奉仕をするなど頭で考えただけの範囲ではとても説明や納得は付かない話だが、それは脳で考える範囲の事で犯って見れば肉体(からだ)が別の答えを出す。

「馬鹿な事を・・・。」と批判するのは簡単で、「犯る前は嘘みたいな話」と思っていたが、人間の感性は算数ではなく、辻褄が合わない事を犯って初めて息抜きが出来る。

「判らない。分からない。」には、「理解出来ない」の他に「納得出来ない」があり、つまり試して見ない内にあれこれ考えても理解出来ない事を、先入観だけで否定しても「説得力に欠ける」と言う事である。


生き物の身体は、生きる為に或いは同種族を残す為にあらゆる進化を遂げて、その為の備え調整装置を作り出している。

人間も例外ではなく、生物学的な調整装置を作り出してそれを保持している。

しかし人間は悲しい事に、脳が発達し過ぎて「本能」以外の「理性」と言う別の感性も併せ持っている。

だと言うのに、人間が「悲しい生き物だ」と判っていながら素直さがなく、生き行く生物としての「本能」を「理性」のみで否定する所に無理解な問題がある。

人生にとって重要なのは、その時々で日常生活と非日常生活を使い分ける事である。

脳の役割を大別すると、左脳域が司るのが「論理と計算」に拠る現実で、右脳域が司るのが「感性と癒し効果」である。

例えばを挙げると音楽や映像、絵画や風景などが右脳域が司る「感性と癒し」なのだ。

人間にとって趣味とは、その趣味に時間を注ぎ込んでいる間は現実を離れて別人に成れる事で、愉しいからこそ趣味は夢中にさせるものである。

その絶対条件は仕事の合間に趣味を行う事であるから、趣味が高じて本業になればそれは好きな事ではあるが逃げ場を失うので趣味ではない。

どの道神様から生殖目的でない「擬似生殖行為」を認められ、「繁殖期」に制約されない常時性交が可能な唯一の動物が人間である。

そう進化したのは必然性が在っての事で、左脳の計算と論理が異常に発達した為に補完作用として右脳の本能や感性が必要に成って肉体的に常時性交の「擬似生殖行為」が可能になった。

従って里美達の非日常の空間も、平穏な日常があってこそ活きる空間なのだ。


妻の様に、SMのM(マゾ)性の「自ら虐(はずかし)められたいなどの性癖は理解出来ない」と言う方も居られるから説明して置くが、実は人間の性癖において、快感ホルモンのベータ・エンドロフィンの存在は無視出来ない。

妻や「京美企画」の女性メンバー達が、本人が思いも選らないM(マゾ)性癖を開花させ、それに馴染んで行くにはそれ相応の快感を得られたからに他ならない。

基本的に、人間は命を繋ぐ「本能」を有しているから、その義務遂行の褒美として性行為には興奮と快感の「快楽」を神が与えた。


不倫の性行為は、特に相手との情が絡む所から世間では「情事」と呼ぶ。

しかしセックス・セッション(乱交)は不特定多数相手で、この「情事」の定義は当て嵌(はま)らない接待や遊びの性交である。

接待や遊びの性交を京美企画の女達に犯らせるならば、非日常の卑猥(ひわい)さが濃いほど上等な遊びなのは言うまでもない。

それは京美企画の職務だったが、女達にはセックス・セッション(乱交)をミッチリと仕込んで、肉体(からだ)にその快感を植え付けてある。

実は女性が変身する適齢期がこの三十歳前後で、此処で何らかの外部要因を受けるとガラリと違う生き方を選択する事もある。

女達は、裸身を人前に晒(さら)す機会が増えてからはブラジャーやパンティと言った生々しく着衣跡が残る下着を身に着ける習慣が無くなった。

そう成ると正直、誰の欲棒を咥(くわ)えさせられても「これで可愛がってもらえる」と想うと、そのカリ首が愛しく想う様に成っていた。

だから女達は犯りたい時に肉体(からだ)が使え、操り人形の様に素直に応じるから会社も個人も重宝(便利)している。


興奮時に脳内で発生するドーパミンは、人の脳に閃(ひらめ)きを脳に定着させるもので、興奮を引き起こす脳内物質である。

この興奮物質ドーパミンが、実は快感物質ベータエンドロフィン生成の原材料(前駆物質)に成っている。

ベータ・エンドロフィンは脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。

一例を挙げると、スポーツにおけるクライミング・ハイ(登山陶酔状態)やランナーズ・ハイ(長距離走陶酔状態)は、苦しさを緩めるドーパミンの効果から快感をもたらすものである。

つまり、興奮すると苦痛を和らげるドーパミンが脳内で発生し、やがて快感物質ベータエンドロフィンを脳内に生成するのである。

しかし、ドーパミンには不足すると「パーキンソン病に陥る」と言う危険な特性が存在しているのであるから、つまり人間は「平常に生きる為に興奮も必要」と言う事になる。

現代では、こうした脳内環境から痛みを快感に変え、自然治癒の時間的猶予をもたらすきっかけ物質が、「ベータ・エンドロフィンではないか」と、考えられるのである。

ベータ・エンドロフィンは最も身体に安全で「自然な脳内麻薬」と言うだけでなく、体調や精神を整える効果がある良質な脳内麻薬で、老化と伴に訪れる体の痛みを本人がそれと知らずに緩和する鎮痛作用の働きもある。

鍼灸のツボ治療も、刺激によって脳の受け持ち部分を、ピックアップ・ワンポイントでベータ・エンドロフィンを分泌させる為の行為である。

言うなれば、SM行為はクライミング・ハイ(登山陶酔状態)やランナーズ・ハイ(長距離走陶酔状態)の応用編で、SEX・ハイの興奮の探求と言える。

SM行為に拠る究極の虐(はずかし)めで興奮度が高まり、その被虐の苦しさを緩める為により大量に興奮物質ドーパミンを発生させ、このベータ・エンドロフィンが脳内麻薬(快感ホルモン)効果の快感をもたらし、性癖として習慣着けられるものである。

ベータ・エンドロフィンには痛みの緩和に止まらず、細胞の活性効果による自然治癒効果や、精神を安定させる効果もある。

つまり、泣いたり笑ったりの感情の発露は、ベータ・エンドロフィンを生成させる為の「興奮」である。

子供を作りたくても「子育て環境が許さない」と言う理性的な判断をすると、その先にあるのは生殖を伴わない「擬似生殖行為(遊びのSEX)」の要求であり、この本能は他の繁殖期をもつ生物には存在しない。

「擬似生殖行為(快楽性交/遊びのSEX)」であれば、楽しみ方は色々考えられる事に成り、夫婦・カップルの交換プレィから始まり、複数プレィ、輪姦プレィ、SMプレィと何でも有りの興奮快楽を追求するようになるのだ。

しかしあくまでも遊びのプレィの内で、範囲を逸脱してしまえば、それは快楽ではなく犯罪になる。

つまりSMプレィも「擬似SMプレィ」の範疇(はんちゅう)でなければ、本物ではないのである。

体験しなければ理解出来ない脳の作用であるが、妻の場合は、出資以来に岩代夫婦と訪れた竹中邸での乱交とその夜の学生達に拠る輪姦(まわし)で、脳みそが溶けるような恥かしさを味わいながら犯され、直ぐに被虐の快感(マゾ性)の火が灯(とも)ったようだった。

妻のように肉体(からだ)にM(マゾ)の習慣性が定着してしまえば、思考基準が嫌悪感から期待感に変化する。

素っ裸に剥(む)かれて拘束されてしまっただけで、その拒否出来ない状態で嬲(なぶ)られ弄(もてあそ)ばれる予感に興奮を引き起こし、子宮が熱くなって股間から愛液を垂れ流すのである。

まぁ、犯られる楽しみを妻の肉体(からだ)が覚えてしまったのなら、黙ってその楽しみを認めてやるしかないだろう。


(事業規模拡大)
蒼い危険な賭け・京香◆
第三十一話(事業規模拡大)


あの年は、光るGENJIや少年隊の曲が何処に行っても流れていた。

京美企画一階の接待スペースも、音楽有線設備を設置して「パラダイス銀河」が流れていた。

渋い所では、長淵剛の「乾杯」だ。

かたい絆に 想いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々・・・ 乾杯! 今君は人生の 大きな舞台に立ち ・・・・

サクセスストーリーの夢が、届きそうにそこかしこに転がっていた時期である。

この時は誰も、日本の若者が「未来を奪われる様な時代がやって来る」とは考えていなかったのだ。

世の中バブル景気のまっ最中だった。

手がける仕事、手がける仕事が次々に大きな稼ぎになった。

何しろ、超経済大国アメリカの象徴と言われた、エンパイヤ・ステートビルまで、日本企業が買う勢いだった。

妻の平坦な日常生活に「非日常の時間」と言うメリハリが出来た。

人間贅沢なもので、何の変哲も無い日常生活には「退屈」と言う不満が頭をもたげて来る。

何も波風が立たない方が幸せの様に思うのだが、人間の脳は刺激を求めるように出来ているから「退屈」な日常ばかりでは不幸なのである。

後で考えて見れば、岩代夫婦の誘いに拠って夫婦の既成概念を破壊された事は、私達夫婦にとって人生の方向を転換するチャンスだった。
妻の人生は完全に変わった。

正直言うと、夫婦の性生活だけではけして得られない興奮の快感を得られるのが非日常の乱交や輪姦で、妻はそれを犯って見て「こんな良い思い」をしたのは初めてだった。

人間誰しも元々兼ね備えた性本能だから、プレィルームでの吊るしパイプを使った晒(さら)し者状態での公開生ライブ輪姦も、もう周囲の雰囲気も含め全体の気分が卑猥モードに切り替わってしまえば乗り乗りである。

犯る方も犯られる方も走り出した乱交など途中でなんぞ誰にも止められない。

一度経験してしまうと羞恥心や被虐感は性交の脳みそが痺(しびれ)れるような強烈な刺激の味付けで、それが無いと気の抜けたサイダーの様に物足りなくなるものである。

私達がこう言う卑猥な乱交を集団で「犯って居るから」と言って、別に特別な人間達ではない。

人間には本能として性欲があるのだから、切欠さえあれば極普通の人間がこう言う卑猥な乱交の世界に入り込むものだが、それはあくまでも非日常時の遊びで、日常は世間並みの極普通の生活を送っている。

要は環境が可能か不可能かの問題で、つまりこれを読んでいる貴方の周辺にも、こうした非日常の卑猥な乱交遊びを密かに楽しんでいる夫婦のグループは、結構居るだろう。

何、妻を他人に抱かせるなど「異常な夫ではないか?」ですって。

そこまで貴方が綺麗事を仰(おっしゃ)るなら、ここで一度「異常(いじょう)」の定義について考えて置きたい。

この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常ならない」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、こうした基準は情況に於いて変遷(へんせん/変わって行く)するものである。

だいたいに於いて「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が「異常(いじょう)」と下す判定が、私達夫婦にとって必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。

いずれにしても妻はもう今の性環境に馴染んでいて、つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その事象が当人に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は妻に存在しなくなる。

それに、人間界に於ける性交と言う行為は元々日常生活とはある種分離された感覚のものであり、性交そのものが感性に於ける非日常の行為と位置付けられるものなら、その行為の範囲は限定的なものでは無いのではないか?

そしてその性交行為が感性に於ける非日常の行為と位置付けられるものなら、性交に於ける道徳観は言わば社会性との整合性であるから、そこさえクリア(跳び越える)出来れば元々自然界に於ける性交相手や行為内容は限定的なものでは無い。

社会性との整合性を求められる道徳観は理性で支えられているが、理性には左脳域の計算に於ける損得勘定が背景にあり、それが感性の抑制を為している。

従って、左脳域の計算に於ける合理的損得勘定と右脳域の感性を満足させる性行為とが一致してしまえば、それを拒(こば)む理由は個人の感性の問題だけである。

また、無秩序な様を「埒(らち)が明かない」と言い、道理に外れていてけしからぬ事を「不埒(ふらち)」と言う。

つまりこの性接待は、言うまでも無く一般的な評価では「無秩序で不埒(ふらち)な行為」と言う事で、その実行事実を世間的にはとても胸を張って他人様に言えたしろものではない。

しかしそれだからこそ、この「無秩序で不埒(ふらち)な行為」には絶大な価値があるとも言える。

それに性行為に於ける「異常」の定義・線引きは何処に引くべきだろうか?

性行為が元々日常生活とは分離された感覚の非日常の行為であるのなら、夫婦合意の上で広範囲に愉しんでも果たしてそれを「異常」と判定して済まし得るものだろうか?

そうした考え方から、性交行為に右脳域の感性を満足させるフォアー・アミューズメント(おもしろ半分の慰み)の要素が在っても不思議は無く、それを愉しみたい欲望が在っても何の不思議も無い。

事が情を絡(から)めない信頼の証明であるから、つまりこの仲間内に於ける相手不特定の乱倫性交行為と言う一般的には無秩序で不埒(ふらち)な行為が、実はそれが仲間内での共生の絆(きずな)造る最も具体的で有効な手段だった。

そう言う訳で、現在の個人の思想信条や社会合意を基準に、この私達夫婦の性交事象を「信じられない」と否定して単純に終わらせてはならないのだ。



その年の春から初夏にかけて、京美企画は信じられないようなスピードで、駆け上るように業績を積み上げていた。

その躍進振りは、やっている自分達でさえ頬(ほほ)を抓(つね)りたく成るよに順調で、岩代が女達にさせる開所祈願の輪姦(まわし)のお祓いが、本当に効いているのかと信じたくなる。

まぁ考えて見れば、全く犯りたい放題の性接待がバリュー(付加価値)付きの取引では、他社(よそ)が適う訳が無い。

コロンブスの卵のような話ではあるが、内(当社)に犯られるまで「気が付か無かった。」や、犯られてから「そんな事は知っている。」と悔しがっても犯った者勝ちの単純な事である。

「勿論、奥さんにはガチンコ本番をさせる事になりますが・・・普通に仕事をやっていたら負けですよ。但し後ろに手が廻っては困りますから、金品を一切介在させない方法です。」

以前聞いた岩代の声が、ズーッと永く耳に残っている。

それでも性接待は基本的に、恋も愛も情も「無意識脳」的な【右脳系】の感性で、【左脳系】の理性や計算が入るのは本当の意味で恋や愛情ではない。


七月の終わりには、京美企画は取り扱い規模が急速に大きく成って、株式会社に改組、名前も「KIYOUBI(京美)」と英文にする。

それまでの「京美企画」設立の時は有限会社なので、取締役代表社員が私で、取締役が岩代と竹中だった。

今度の改組は株式会社「KIYOUBI(京美)」で役員が七人必要だ。

代表取締役に私、常勤取締役専務に岩代、常勤取締役に生島と小泉が就任し、取締役相談役に竹中、非常勤取締役に田嶋と石上、まるで予め予定していたかのように役目が「スンナリ」と決まった。

まぁいずれにしても役員全員が、それぞれの妻を通して私とは「穴兄弟の関係」である。

妻は、彼らの使用要求には抗う事はない。

全く平常の事に成っていて、要求されれば私の目の前でも喜んで彼らに股を開く。

この「乱倫同志経営」の中では、彼らとは愛情の結び付きはともかく、妻の肉体的な支配権を平等に持っているのだ。

共同で事業をするには、他にこれほど深い結びつきの方法は無い。

「乱倫同志経営」の信頼関係は実体的で、書類などとは意味が違う。

互いに、遠慮も気取りの無い肉交をする事に拠って、個々の性癖まで全てを曝(さら)け出し、誓約(うけい)の信頼関係は成り立つ。

部族(民族)融和の為に、古(いにしえ)の先祖達が為していたのが、誓約(うけい)である。

天岩戸(あま/女・のいわと)は女陰の事であり、それを開いて誓約(うけい/性交)を結ぶ。

誓約(うけい)は、身も心も一体に成る為の究極の部族(民族)和合の手段、つまり性交とその結果として起こる混血の手段である。

現代人の建前主義とは違い、古(いにしえ)の先祖は単純明快で、誓約(うけい/性交)を結べば身内なのだ。



以前の小さなビルは手狭に成り、営業効率から考えて、もう少し交通の便が良い処が必要に成って居た。

そこで、持ちビルの旧本社を売り払い。

新本社を池袋から西武池袋線で五駅、練馬の駅前にあった三階建てのビルを買った。

実は、売り払った筈の旧本社ビルに関して後日談があるのだが、少なくとも私は、それを「売り払った」と解釈していた。

買ったのは元証券会社の練馬支店が在ったビルで、ワンフロアーが百坪以上あり、前のビルとは比べ物にならない。

外見的にも凡そ企業らしくなった。

接待営業の事実を知らない従業員も十五人を超え、幹部その他を入れると総勢は四十人を超える。

今度は、一般に使用するのは二階までで、三階は特別の者だけ入れる作りにして独立性を保つ工夫をし、接待部屋(プレィルーム)を三階に持って来た。

接待部屋(プレィルーム)はこの会社の心臓部であるから幹部秘で、一般社員には幹部専用スペースとして立ち入りは禁じてある。

こんどの接待部屋(プレィルーム)は、内装から設備まで、最初からやったので理想的な空間が出来、舞台は二十センチほど高くして中央に作り、周囲にソフアーと小さなテーブルを配し、脇には大型のバスルームも作った。

この会社の心臓部であるから、力(りき)が入った造りに成った。

そう言えば、子供の頃の秘密基地は夢だった。

例によって、真新しい蒼い絨毯が、フカフカに敷き詰められ、その他の設備も充実した。

つまり妻の、新しい裸の戦場(仕事場)だった。

「何故蒼い絨毯(ジュータン)を使うのか?」と言う私の問いに、岩代は、「いずれ奥さんが愛奴隷として出来上がったらお教えします。」と、笑って答えた。

岩代は、まだ妻への調教の手を緩めない積りだ。

蒼い絨毯(ジュータン)の謎が解けるのには、まだ長い時間がかかりそうである。

岩代の感性はSが強いので、その点では設備に抜かりがない。

同時に、「自宅を買え」と勧められた。

いつの間にか給与が五倍になり、見せられた個人名義の預金通帳に、二世帯ともキャッシュで家が買えるほど蓄財が出来ていた。

それで、私の所も、岩代夫婦も自宅を購入して転居した。

風水の鬼門、裏鬼門の押さえの位置にそれぞれ見つけて来た処から、岩代の計算し尽くされた再構築に違いない。

新居は庭付きの建坪六十坪、敷地百五十坪の和風建築の豪邸で、岩代の勧めで里美の両親を同居させる事にした。

小学生の娘は、家が大きくなり、ジジババと一緒に暮らせて素直に喜んでいる。

妻も最近は外出が多いので、「子供の面倒を見て貰(もら)おう」と言う打算もあるが、両親は喜んだ。

「挑戦するか?」と言われ、それに乗ったのが、この結果だった。

不思議なもので、気心が知れれば互いの信頼は強くなる。

増してや、まるで夜這い公認の村の様に、互いの性行為を、「拘(こだわ)り無く赦し合える仲」ともなれば、身内以上の特別な強い結束の感情も湧く。

私も、この仲間には、掛け値ない、限りなく優しい心が持て、その関係が強固な信頼と団結を生み、集団として成果を共用出来た。

それが、大きな力には違いない。

輪姦呪詛が本当に効果があるかは未だに確証はないが、現実に事業は発展の一途だった。


この所、正体不明の何者かに、監視されて居るような気がしてならない。

後になって、明らかに成るのだが、この「誰かに見られている」と言う私の不安感は、的中していた。

実は、KIYOUBIの驚異的な業績向上に驚いた東京国税局が警視庁公安部に通報、KIYOUBIの業務内容に違法性の有無を確認する為に、男女二人の専従捜査員を裂いていたのだが、そんな話は一市民の私には思いも寄らない事である。

縁の無い世界だけに、聞いただけで驚いてしまう事柄である。

この公安部の内偵が、現実の暗闘と成って表面化するのは、この物語のまだズット先の事だった。


善人の男はつまらなく見えるが、危険な香りの男は女にとって魅力的らしい。

この危険な香りの男に潜在する不倫願望が刺激され、心惹(ひ)かれるのは女の性(さが)だから仕方が無い。

しかも、男も女も「見てくれ」から恋愛に入るのだから世の中はままならない。

その点で、精悍(せいかん)な風情に筋肉質の体躯(たいく)、どこかに秘めたる危険な香りを漂わせる岩代には、女達のハートを掴むのは造作がないらしい。

彼女達は、細君(京香)を中心に不思議な位統制が取れていて、何がそうさせるのか、妻ばかりでなく皆素直に股を開いて、ゲストへの性奉仕に手抜きは無い。
まるで、岩代夫婦に飼い慣らされた雌(めす)犬のように、従順だった。

何故、自らの肉体をすり減らす性奉仕行為に、これほどまでの使命感を彼女達が持てるのか?

まだ心に少し迷いのある私にして見れば、これほど彼女達の統制が奇跡的に上手く行く事が謎だった。


彼女達はそれぞれ性格が違うから、大勢集まると自然と役割が出来る。

同じ愛奴隷として性の奉仕をしていても、各自似たような性格をしていない所が、面白いのだ。

岩代京香の妖艶(ようえん)で過激、そして何よりもミステリアスな魅力は言うまでも無いが、他の女性幹部も中々である。

小泉順子の良い所は、アッケラカンとして居るが、Hモードに入ると清純な少女ぽく成る事で、これは男にとって魅力である。

少女のような清純イメージで、可愛く性奉仕をする。

ソフトボールで鍛えた裸身は余分な肉は削げ落ち、ガッチリしているが彫刻を思わせる美しさがある。

とくに、KIYOUBIのメンバーに入ってからはその傾向が強くなって、人気が出た。

生島喜美子のキャラクターは、根が陽気な性格で傍目(はため)賑やかだ。

体型は小柄だが水泳で鍛えて均整は取れている。

喜美子は場を陽気にさせる反面、喜美子が相手に気を使う性格だから、性奉仕にしても明るく陽気ながらゲストへの気使いもさりげなく性奉仕を惜しまず努力するのでゲストや周囲が遠慮しなくて済む。

性格的に、気使いからの性奉仕に惜しまず努力するから、その場になると明るく卑猥な雰囲気で奉仕をする。

そして肉体(からだ)が柔らかく、どんな体位の性交にも応じられる。

そんな喜美子だけに、ゲストにはおおいに満足されて帰って来る。

それらがゲストの性格や好みに合わせて、岩代にセレクトされ性奉仕に送り出されるのである。


谷垣、福田、安部、麻生の四人組も、磨けば光る原石を岩代が吟味して選んでいた。

最初は「どう成るのか」と危惧も合ったが、今はそれぞれに落着く所に落着いている。

勿論、この四人の中に**康子巡査部長が混ざっていたのだが、知る由も無い私は、この時点ではまったく接待女性のメンバーに付いてはノーマークだった。


四人の中でも特にア*ルの評判が良い谷垣は、小学校二年の女の子と四歳に成る男の子を連れて、今は田嶋と同棲している。

田嶋が気に入って細君(きょうか)を通して話を持ちかけたのだが、谷垣の方は、子供二人を抱えて渡りに船だった。

以前看護師をしていたインテリの谷垣と田嶋では「バランスが取れないのでは」と思ったが、上手く収まった。

何しろ田嶋はKIYOUBIの出資者で、今では資産家である上に、以前から田嶋の遊び相手として御指名が多く、始終肌を合わせて気心も知れている。

谷垣の方は、離婚した元の亭主が鼻持ちなら無い気位の高い奴で、もぅ利巧ぶっている男は懲り懲り(こりごり)だった。

だから、粗野だがバカが付く位お人好しの田嶋に、谷垣は好感を持っていたのである。

田嶋は、谷垣と一緒に成って小学校二年の女の子と四歳に成る男の子を引き取り義理の親子として一所に暮らしている。

その谷垣の女の子は、養父の田島に良く懐(なつ)いて居て、田島も良く可愛がっている。

田嶋に言わせると、竹中氏と小泉順子のような理想的な義理の親子関係の見本が身近にあるから、その娘(こ)を嫁に出すまでに順子のように「義父孝行な娘に育てる」と言う楽しみな夢がある。

その田嶋の楽しみな夢については、KIYOUBIメンバーならではで、母親の谷垣も「大きくなったあの娘(こ)本人の気持ち次第ね」と苦笑いである。

この、田嶋・谷垣のカップルは振るっていて、田嶋のたっての希望で、同棲ながら一緒に住むに当たって「内輪で披露宴をやる」と言い出した。

それが、バカバカしい話だが、KIYOUBIメンバーだけの披露宴で、やる事は決まっている。

プレィルームを特設にして「披露宴を行なった」と言えば凡(おおよ)その事は見当が付くと思うので、詳しく話すのは止めるが、まずは谷垣の衣装がベールとティアラだけだった事で、田嶋も谷垣も後はスッポンポンである。

田嶋が、自分のアイデアで「どうしてもさせたい」と拘(こだわ)った式次第の個所を、少しだけ紹介する。

二人で初めての共同作業・ケーキ入刀は谷垣に田嶋が「欲棒の御抽入」で、御出席御礼のキャンドルサービスは谷垣の「オシャブリサービス」と、ご婦人には田嶋の「御抽入サービス」を、田嶋と谷垣が笑いながらして回った。

その後はお定まりの乱交で、実はハチャメチャ過ぎて整理しての表現は、ここでご紹介し様が無い。

いずれにしても、日頃から互いに性癖を曝(さら)け出し合って居る連中の犯った事とご想像願いたい。



言って置くが、KIYOUBIのメンバーもいつもこんなセックス漬けの生活をして居る訳ではない。

ほとんどに子供もいれば、親戚や友人との付き合いもある。

子供がいれば、PTAや子供会、地域自治活動と社会的な付き合いも生活の内である。

まぁ日常行為と非日常行為のどちらが本物とかではなく、彼らにはそのどちらもが本物で、それらの双方を無難にこなしているからこそメンバーがこの社会で落着いているのだ。

竹中は、歳が歳なので自分の事ではなく一人身の田嶋が心配で、自分が気に入った福田を田嶋に付けようとしたのだが、田嶋が谷垣を選んだ為に、福田を二人の娘と共に家に引き取った。

今は二人の娘に、自分を「おじいちゃん」、実の娘の小泉順子を「お姉ちゃん」と呼ばせている。

福田の方は、歳の差には拘(こだわ)らず、後添え然として甲斐甲斐しく竹中の日常の面倒を見ている。

ほんの短い期間だが元生保レディの経験がある福田には、実は齢の差は苦に成らない経験がある。

真面目な人間は今日しか創れないが、腹を括(くく)ったはみ出し者は明日を創る。

この頃はバブル絶頂期で、中小企業の社長達が羽振りが良く、それを狙った大手生命保険会社の契約獲得に生保レディのコンパニオン作戦が繰り広げられていた。

ベテラン女リーダーを核に七人ほどがチームを組んで、中小企業の社長達が集まる会合に乗り込んではダンスやカラオケ、お酌の相手をして社長達近付く。

近付いた社長に名刺を渡し、次の会合情報を聞き出してまたコンパニオン作戦に乗り込んで繋がりを作って行く。

その会合の場所がお座敷宴会だったりすると占めたもので、本物のコンパニオン処か芸者顔負けのお色気で場を盛り上げる。

何しろ酒が入る宴の席で、酒も勧められて酔わされるから、その場に出席したらチームの新人生保レディもリーダーのお色気指示に嫌も応もない。

正直当時の生保レディは子連れの離婚者や訳あり家庭持ちが多く成り振り構わない稼ぎが必要で、それでも水商売よりは大手生保会社に勤めている方が外聞が良い。

ベテラン女リーダーのリードで余興が始まり、新人は浅い川でスカートを捲くり上げ、お座敷ブリッチ競争でスカートを捲くり上げ、パンティモロ見せは当たり前である。

中堅からベテランの女リーダー位に成ると、野球拳では乳房丸出しのパンティ一枚まで犯って、社長達に契約約束を取り付ける。

雰囲気が怪しく成っているから胸に手を入れられて乳房は揉みしだから、スカートの下に入った手は太腿(ふともも)を撫で、パンティの中に進入して来て肉花弁を摘(つま)む。

気に入られて、「一度遊びがてら営業に来い」と言わせれば占めたもので、当然ながら大口の企業保険を契約させれば、一晩お相手をしたり秘密旅行に同伴したりする。

後はその社長に新規の契約先を紹介させるなどして、付き合いを続ける営業手口である。

そんなきわどい営業を、大手の生命保険会社の生保レディが犯っていたが、勿論会社は建前知らない事に成っていて、ベテラン女リーダーが勝手に指揮をしている事に成っている。

それでも会社は「契約を沢山取れ」の熾烈な競争業界で、正攻法で多額の契約など取れる訳がないから、現場の生保レディは女(肉体)を使うのである。

会社の方も、本音の所では「手段など構わないからとにかく成績を上げろ」なのである。



安倍は伊豆に住んでいる石上の東京妻みたいな形に成って、石上の援助は受けていないが、銀行勤めだった過去を生かし彼のKIYOUBIにおける隠し財産の管理をして居る。

上に男の子、下が女の子だが、伊豆のオジチャンと呼ばせて結構懐(なつ)いている。

石上の伊豆のレストランはこの不況でかんこ鳥の有様だが、KIYOUBIにおける隠し財産の運用で石上は赤字の補填の心配はない。

どうやら形はともあれ、人は寄り添って生きたがる動物らしい。


残る麻生は、子供好きを生かしてKIYOUBIが創ったみんなの子供を預かる託児所の責任者(園長)をして居る。

本人も一人抱えているので、子持ち女の心情も良く判り、部下の保母達も良くまとめている。

勿論、接待仕事の合間の託児所園長だが、若い保母達を使いこなして、両立しているのである。

岩代夫妻以外は子持ちで、私達の娘、喜美子の所の二人の娘や順子の所には三歳の男の子と女子の乳幼児と都合十一人の子供達が居る。

だから、託児所の規模も大きさが必要な上にそれぞれ接待の性奉仕に夜出かける都合もあるので、スタッフも三交代の交代要員を入れて十人で運営している。

もっとも喜美子の上の娘・晴美は、もう中学生に成って皆の良いお姉さんに成っている。

今日もビル一階の一角、社内に設けられた保育施設には、幼児達の歓声が絶えない。

その元気な声が、聞えてこない日は無いのがこの会社である。

岩代夫婦は、未だに自分達の素性を明らかにはしていない。

謎を秘めたままだが、唯の色狂いではない「何か特別な、大きな目論見」が、存在しているように私には感じられる。

また、誰かに見張られている気がした。しかし見渡しても、その影さえ見えない。

ただ、この件は確証を得るまで誰にも言う気は無い。



本店の移転開設に伴って組織も改正された。

扱う金額が大きくなり、経理が岩代の兼業から小泉の専業になった。

もっとも、これと言う勝負所には、小泉班を引き連れて接待営業にも出ている。

営業の総責任者に生島を宛(あ)て、相南支店は営業所に縮小させて機能を本社に集中させた。

宅建資格(宅地建物取引主任)は私と生島が取得している。

岩代は、もっぱら行政と政治の役人や代議士との折衝を専門に担当している。

どうやら妻は、そうした癖のある連中の接待相手に駆り出されている様だ。

妻は、岩代から奉仕させて貰う事に常に感謝してゲストに接し、暖かい言葉を選択して丁寧な態度で性奉仕をする「大人の対応を義務付けられている」と言う。

まぁ、相手の機嫌を損なう事無く接待するには、その位の心得は仕方が無い。


或る日岩代が、「取引規模が大きく成り、今の税理士では会計処理が難しく成った」と公認会計士を連れて来た。

意外な事に、岩代は経理処理に繊細で、「とにかく脱税など、詰まらない事でトラブルは起こしたくないから。」と、会計処理は気を配っていた。

彼の持論では、脱税に気を使うより税金はキチンと納めて、「その分清々稼いだ方が良い」と言うのである。

妻は娘の子供会や小Pでも勿論ノーパン・ノーブラだが、上に着ているのはTシャツにジーンズと日常的である。

密かにその格好で出席していても、妻は気さくに付き合いは欠かさないから結構周囲に人気がある。

人生何が転機になるか判らないもので、乱交と輪姦を経験した妻はあらゆる事に活動的に成って子供会やPTA仲間にも評判が良い。

子供会のバザーや町内婦人会の盆踊りや祭りの出し物まで、これと言って他所の母親と変わらない普段の生活が、妻の日常にはある。

それが日常生活の大半を占めていて、外目変わった所は見受けられないから、「妻に別の顔がある」などと言う事は、誰も想像がつかないだろう。

会社の生島夫婦や小泉夫婦とも子供を交えた普通の付き合いはある。

平凡だが、遊園地、動物園と言ったレジャーランド行きが子供達とのイベントで、接待四人組の子供達も連れて行く。

それは、それなりの生活圏を築いているのだから日常の妻しか知らない知人は沢山居る。

何しろ美人でスタイルが良く、それでいて気取った所が無いから妻は日常の知人仲間には結構人気がある。

子供の学校仲間から、習い事の知り合いまで結構幅が広い。

その沢山居る日常の知人達が、妻の別の姿(愛奴隷の奉仕振り)を見ればそのギャップに驚くに違いない。

彼らには想像すら出来ない妻の別の顔である。

だが、考えて見ればその沢山居る日常の知人達にも、本当の所はどんな別の生活があるのかは互いに何も知らない。

妻はゲスト相手に発散しているから、町内でも子供の学校関係でも温厚な人気者で通っていて付き合いも良い。

温厚な人気者の妻には、禁断の子供会の親同士の不倫騒ぎや職場不倫などの相談事も多く、真面目に聞いてやっては居るのだが、妻はまるで単細胞な意識の中でしか生きていない彼らに内心呆れている。

教えてやりたいが、世間は妻みたいな生き方には無理解だからそうも行かず、口に出せなくてイラ着く事が多いらしい。

「あの人達の狭い人生観には付き合い切れないわ。」

妻に言わせれば、禁断の不倫騒ぎに成るような遊びなら「犯るべきでは無い」と言うのだ。

性の発散は、情の絡(から)まない「非日常のシュチエーションで楽しめば良い」と妻は言う。

つまり日常生活の妻からは、非日常の愛奴隷の妻は窺(うかが)い知れない落差である。

プロ意識と言うものだろうか、妻は普段の私生活は全く普通で、「恥じらい」もけして欠かさないが、素っ裸に剥(む)かれて愛奴隷のスイッチが入れば、ゲスト相手にに「恥じらい」も何も無い。

私生活の付き合い仲間では想像も付かないだろうが、全ての御使用可能な女体三穴の全身を供して欲棒を受け入れ、ゲストの満足の為に全力を傾ける事で、妻はゲスト相手に発散しているのだ。

各々が、それ成りの性癖を抱えながら、何事も無いように暮らしているのが「社会」と言うものである。

そう言う事だから性生活については、程度の差は有っても犯る事は犯っていて、何も無いがごとくに口を拭っている「秘め事」と言う位のものではないだろうか?

氷山の一角とも思える浮気騒ぎの揉(も)め事も、時折聞こえて来る所を見ると、一皮剥(む)けば案外世間の実情もドロドロしていて、そう成ると「目糞鼻糞を笑う」の類(たぐい)で、それらを棚上げにでもしなければ、一概に妻の別の顔を責められないのかも知れない。

正直、この性接待の手法はバレたら世間では通用しない。

恐らく会社も個人も吊るし上げられるから、世間の評判は危ぶまれ、その点は全員慎重の上に慎重を期している。

裸の接待が明るみに出れば社会的偏見は恐怖だが、まともな事をして居て急成長企業はなど有り得ない。

違法と合法の境、塀のスレスレを歩いて運良く成長を遂げ、口を拭って生き残るのが大方の世間の常識である。

大企業に成っても高級官僚であっても倫理観に欠け、企業の論理、役人の論理を優先し、人命さえ蔑(ないがし)ろにするモラルの無さは周知の事実である。

その点で言えばこの裸の接待の手法は、些(いささ)か卑猥では有るが、その他の如何なる犯罪よりは上等で、さしたる被害者が出ない分、「まだましな方」と言える。


会社の規模が大きく成ると、それなりに解決を必要とする問題も発生する。

子供の方も大所帯に成り、私の所の娘を始め、小泉、生島、接待四人組とそれぞれをかき集めると十人からになる。

岩代の仕事に卒は無く、託児所設備を設けて保母を雇い、各自接待仕事に専念出来る様に憂いを取り除いた。

小学校の高学年も居るので、勉強が見れる保母を頼んで気を使った。

車も新しく手配した。

目的が目的だから、機動性の確保と裸同然の移動を可能にする為である。

岩代組(接待長京香、特別所属里美)、小泉班(班長順子、安部、麻生)、生島班(班長喜美子、谷垣、福田)の接待チームに、それぞれトヨペットクラウンの黒のセダンを買い揃えた。

それもこれも、接待の環境作りを最優先した結果だ。



会社が順調に発展して資金的に余裕が出来、敷地内に別の建物を建て妻の両親とは理想的な同居状態を作り出したから、私は妻の両親の、自慢の娘の嫁ぎ先に成った。

私達の娘も、社長令嬢に相応しい生活を送らせ、社会もそれを認めるように成った。

その内妻の両親は、娘が会社関係の付き合いで着飾って出かける事も、まったく「当然の事」と成って、喜んで私達の娘を預かるように成っていた。

仕事が発展すれば、付き合いが増えても仕方が無い。

せめて社長婦人としての娘が安心して出かけられるように、それがどう言う付き合いなのかも知らずに、手助けをする親らしい気使いなのである。

私としては、妻の両親にはいささか心苦しい気もしたが、まさか妻の付き合いが、「裸の愛奴隷だ」とは言えない。

そんな訳で妻の両親は、会社関係の付き合いは「大変だけれど、頑ん張って来なさい」と、妻を快(こころよ)く送り出してくれる。

妻は、中身を知らされていない両親に「頑ん張って」と励(はげ)まされて、接待に出かけるのだ。


セクシーもある種の美の条件で、異性を惹(ひ)きつける魅力に違いない。

肌を晒(さら)す意識を常にして居る為か、近頃の妻の裸身は美しさを益し、益々そのセクシーさに磨きがかかって来た。


妻は変わった。素裸に剥(む)かれ、後ろ手に縄を掛けられ、肉体の全てを曝(さら)け出して従属を表し、引き渡されて、相手の意のままに嬲(なぶ)られる。

その従順さは驚嘆(きょうたん)に値するほどで、岩代の目論見通りの性玩具(おもちゃ)に変身し、淫虐な要求を、二枚の肉花弁の間から愛液をしたたらせながら、何でもこなせる娼婦に成ってしまった。

しかしそんな変化は、普段の生活には微塵も感じられない。良き母であり、良き主婦である。

いったいどちらが仮の姿であり、どちらが本当の里美なのか?

それにしても人間は怖い、妻を始め、全ての人間が猥褻な性行為をしていても、ケロリと何事も無い振りをして生きている。

建前の世界ではそれが必要で、秘すべきは秘していれば、世間的には支障は無い。

そうした矛盾に満ちているのが、人間社会の本質なのかも知れない。

妻はあれほど「破廉恥」と思われる事を開所式で平然と為し、激しい輪姦にもけして傷付かない。

トリップを経験して「気持ちが良かった。」と評し、「またしたい。」と言う。

そして、普段は何事も無きがごとく生活を送っている。

普段の妻の生活に、別段変わった様子は微塵も無い。

良い妻であり良い母なのだ。

つまり非日常のあの行為は、日常とは別の事と割り切って居るのかも知れない。

もっともそれが日常的だったら、興奮させられる所か唯の色気狂いで、興覚(きょうざ)めするのが落ちである。

その事は、細君(京香)を始め、関わる女性達に共通していた。

一度細君にその疑問をぶつけると、「女って、一人であって、その実何人もの女なのですよ。」と、笑った。

その事に気が付かない女も多いが、女は皆娼婦である。

「娼婦で無い女は、実は女では無い」と言う事か?

岩代に言わせれば、「脳の一部が未発達」と言う事になるが・・・、そう言えば、利巧な女の方がスケベではある。

源義経の愛妾・静御前の白拍子を、現代の感覚で単なる娼婦と誤解しては困る。

男性にとっての付加価値観は、「高嶺の花を抱く」であり、性技や芸技の修行は基より、知性と教養をも修めた女性が始めて白拍子に成れた。

白拍子には諜報機関の女性諜報員としての側面も在ったから、時の為政者も納得するほどの知性と教養を兼ね備えて下手な不勉強者よりも「充分に論議のお相手が出来た」と伝えられている。

後の世の花魁(おいらん)も然りだったが、その遊び女としての価値観は美貌と美しい姿態に加えて知性と教養を兼ね備えた女性と遊ぶ事であり、格式が高い点ではまさに高級娼婦だった。


人間、強い性的興奮を感じると、特殊な口臭や体臭を発する事がある。

これはかなり強く興奮した証で、並みのSEXでは必ずしもその現象は起きない。

所が、岩代の欲棒を本格的に抽送されたり、欲棒を抽入したままグラインドされたりすると、まるで手品のように女達は一様に興奮し、臭気を発するようになる。

その岩代と接した回数が増えると、なんと肉体が感じ易くなるのか、だれが相手でも興奮して臭気を発するほど感じるようになり、正しく美しい女神(愛奴隷)が出来上がって行く。


不思議な事に、この「乱倫同志経営の仲間」に加わってからは、女性達も、その夫も何かと運に恵まれる。

「尽くす営みの心が、福を招くパワー」と言う岩代の持論を証明するかの様である。

それに、何よりも女達が美しく華やかに成った。

そうなると、ある種信仰のように女達全員がその「尽くす心」の呪縛からは逃れられなく成るのだが、その呪縛が、「気持ちが良い」のだから仕方が無い。

根本に醸成されたものがそれだから、接待相手にも「尽くす心」で接する。

ドライに割り切ったよこしまな心では、例え身体を投げ出しても相手に通じないのだ。

驚愕に値するが、その岩代イズムは社内の女達に浸透して支持されていた。

冷静に考えて見れば、岩代の誘いに乗ってからは、奇跡の連続だった。

幾ら何でも、偶然とは思えない。周囲の者が、全員岩代の「気」に操られている疑いがある。


岩代イズムに拠る「乱倫同志経営」には「群れそのものを家族とする精神」がある。

日本の歴史の初期、神話時代の「国作りの秘密」は誓約(うけい)にある。

この誓約(うけい)、天照大神(あまてらすおおみかみ)と弟君である素佐之男命(すさのうのみこと)の間で取り交わされた事になっている。

本来、肉親である兄弟の間でわざわざ誓約(うけい)を行う必用などない。

ここで言う誓約(うけい)の概念であるが、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素佐之男命(すさのうのみこと)は、実は誓約(うけい)に拠って「初めて兄弟に成った」と解釈すべきである。

つまり日本民族は、日本列島に流入してきた異民族同士が、現地の先住民も巻き込んで合流し、国家を作った。

その基本的概念が誓約(うけい)に象徴される神話になっている。

この場合の誓約(うけい)の実質的な合意の儀式は何であろうか?

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し、定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

この環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きく成って村落国家が形成された。

直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事をおいて他に無い。

つまり、食料確保の為に縄張り争いによる殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが、誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。

この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、誰も異論は無い筈である。

現在の国家意識、民族意識、つまり所属意識の原点は、この誓約(うけい)の概念である。

この最も原始的な肉体の交合と言う儀式を通して、彼らは共通意識を醸成し、安心と信頼を構築する事で、群れ同士を「仲間」と認める事が出来るのだ。

勿論、この時代から個人と社会性のせげみ合いによる葛藤はあった。

しかしながらこれは、個人と社会性の双方を持ち合わせて生きる人類の永遠のテーマである。

当時の「群れ社会の平和的合流」と言う社会性を優先する誓約(うけい)の行為は、現代の個人思想からは理解出来ない事であろうが、唯一有効な方法として所属意識(社会性)を優先して発揮した。

この精神的な名残が、後に「人柱や人身御供」と言う歪曲した所属意識(社会性)の犠牲的精神にまで行き過ぎてしまい、究極的には「特攻精神」にまで行ってしまったのである。


全接待班八人での接待長・京香の権限は、最年少にも関わらず絶大で、所属の里美も含め、全員命令に逆らう事は無い。

皆時々京香に呼び出されて、肉体のメンテナンスと、学生達を使った厳しい調教を受ける。

組織が存在する以上、所属した者は、こうした規律を、無条件で守らなければなら無い。

妻の里美も、立場上最も厳しく躾(しつけ)られ、ゲスト相手に「何をさせられているか」は、ほとんど知らないが、「相手のゲストには好評だ。」と、細君(京香)から報告を受けた。

女達は、皆大股開きで接待奉仕に臨(のぞ)む。

性接待はお座敷に呼ばれる事が多いから、実年齢に関係なく先輩である妻は接待現場では喜美子や順子、そして四人の接待係から「お姐さん」と呼ばれている。

接待時に於いては、所謂(いわゆる)デスプレイ効果(景色)には気を使い、愛奴隷がソファーに座る時は両足を床には降ろさず、ソファー上にM字に開脚して股間を晒(さら)すのが基本である。

通常のソファー座りに足を降ろして座るにしても、愛奴隷は左右の足のかかとを七十センチは離し続ける開脚座りを、厳しく義務付けられている。

何しろデスプレイ効果(景色)も含(ふく)めて、「接待時の愛奴隷の肉体はゲストのものである」と言う精神で、その象徴である愛奴隷の股間は、常にゲストの為に開放されなければならないのである。

こうしたルールは羞恥プレィみたいなものだが、どうやら、どの女性でも行き着く所まで行ってしまえば、もぅ後は恥ずかしいも何も無いらしい。

女性から羞恥心が無くなり、何も隠すものが無く成れば怖いもの無しで、それは精神的強味になる。

接待の場や社内はある種結界で、一定の約束されたルールの内だから安心なので、押しなべて良い見せっぷりである。


愛奴隷の性奉仕では、私(里美)は露出羞恥プレィ、複数プレィ、SMプレィ、ゲスト様の要求に応じて、奥の深い卑猥(ひわい)の限りを尽くします。

おかしな表現かも知れませんが、人間の考え方は人それぞれですから、慈悲の心でゲスト様をお慰めする接待の性奉仕は、ある種の「修行のようなもの」と、私(里美)は思っています。

現に、この「修行(接待の性奉仕)」を始めて以来、夫とは精神的により親密に成り、始めた事業は、日を追って発展をしています。

私達愛奴隷の本音で言えば、ゲスト様はスケベで大いに結構で、本領を発揮して楽しんでくれれば良いのです。

むしろ我侭(わがまま)を言う分にはまだ判り易くて、お相手の犯り甲斐(犯られ甲斐)が有ります。

一番困るのは、素っ裸に後ろ手拘束と、こちらが本気モードに入っているのに、犬首輪のリードチェーンを受け取っても、気取っていて何が犯りたいのかこちらが判らない奴は、スケベな事を犯りに来たのに、モソモソとハッキリしないのです。

真面目の定義が違うこの場では、「真面目にスケベをするのが礼儀」で、こちらは素っ裸で犯られに来ているのですから、犯りに来たのなら犯りに来たで、遠慮無く本音を曝(さら)け出して命令してくれないと、こちらが立ち往生で精神的に参ります。

そうなれば簡単な事で、迷う事など無いのです。

どうせゲスト様を満足させる為に犯るのなら、無心に成ってトコトン前向きに要求を受け入れ、満足させれば良いのです。

だってその気が無いのなら、初めから愛奴隷など犯らなければ良いのです。

それは、奈落(ならく)の底、いや極楽の極みを掻(か)い潜(くぐ)って初めて得られる悟(さと)りの心境です。

ですから、そんな私達を、何の経験も無い方に、底の浅い想像で評価されたくはありません。

こう言う事はマッチングの問題で、幸い私(里美)は、M性が強かったのでしょう。
愛奴隷の生活環境にドップリと浸かって見ると、私(里美)の場合はその環境が心地良いものでした。

呼び出されて、素っ裸に拘束されてゲスト様に引き合わされる度に、こんどは「どう言う風に辱(はずかし)められるのか」と、期待で胸がいっぱいに成ります。

精神的にも肉体的にも、恥ずかしく、嫌らしく晒(さら)し者にされて、辱(はずかし)められる事、それ自体が私(里美)には快感なのです。

温(ぬ)く温(ぬ)くと暮らして、退屈に生きるのも人生ですが、生ぬるさは否めません。

背徳の香りがする興奮は、退屈な人生に鮮やかなアクセントをもたらせます。

「夫達に追い込まれた」とは言え、思い切って飛んで見て、初めて自分が「天然マゾだ」と思い知りました。

正直SMのお相手は、夫より甘えられない他人様に限ります。

他人様に命令されっ放(ぱな)しの無抵抗で、より惨めに恥ずかしく玩具(おもちゃ)にされるから、燃えるのです。

京香さんは勿論、この会社でのキミチャン(喜美子)や順子さんを見ていると思います。

本当は、そう言う願望の女性は沢山居て、機会と度胸が無いだけなのではないでしょうか?

私(里美)の場合、夫公認でスリリングな生き方が出来る様に成り、自分の性癖が満たされる様に成っただけでも儲けものなのに、会社がグングン発展しています。

勇気を持って股を開いたら・・・そぅ、人生、思い切って掛かれば道は開けるものなのです。



会社での立場が、ナンバーワンの社長である私は、唯(ただ)御輿(みこし)に乗っかって居れば良い。

社長として報告は受けるが、妻に容赦のない接待をさせる事に関して、岩代の「傲慢」な態度は、何時も変わらなかった。

勿論、こうした妻の貸し出し報告は、岩代に見守られて、私の欲棒が細君(京香)の花弁のスリットを出入りしながら行われるのが、岩代流だ。

それにしても、何故、妻はあれほど細君(京香)の言い成りに素裸で愛奴隷を演じているのか?

何しろ細君(京香)は妻より五歳も若い、まだ二十歳代半ばの年齢である。

納得出来る理由が私には見当たらないが、妻は蛇に睨まれた蛙のように、素直に命令に応じている。

最初は、「岩代の意向が反映している」とばかり思っていたが、それにしては見事に妻を操って居るのだ。

それを見る限り、細君(京香)にも何か隠された力があるのかも知れない。

岩代の細君に着いては、いずれ解明しなければならない謎だらけである。



これだけ事業規模が大きくなっても、「KIYOUBI(京美)」の従業員数は、奇蹟と評されるほど極端に少ない。

しかし、奇蹟ではない。

日本中捜しても、こうした発想の企業が無かっただけだ。

人数が少なくて仕事になるのは、お察しの通り性接待で受注が円滑に進むし、一度味を占めた担当者は、性接待目当てで向こうから「KIYOUBI(京美)」を指名して来るからだ。

集まった人々も偶然ではない。

実は「或る神の思惑で、必然的に集まって来た。」と岩代は言う。

その真贋はともかく、運命的なものは感じる。

何か、彼らに「共通する物が無いか」と考えてみたが、今の所発見には至らない。

つまり、私はその中では何もしなくても象徴的な存在で、不思議な事だが、存在そのものに意義があるらしい。

何故、代表が岩代で無く「私」なのかは判らないまま、新取得ビルの開所式に行き着いた。


当然社長婦人として、妻の「忌み祓い」呪詛開所式が必要になる。

あの壮絶な拘束輪姦だが、妻には半ばそれを望んで居るような素振りも伺(うかが)える。

岩代からも、「本社ビルも大きく成りましたから、今回は奥さんに前回以上にがんばって貰います。」と、有無を言わさず言い渡された。

こっちは前回同様、新社屋ビル披露の前日にいつもの同じメンバーで、内輪でやる事になるだろう。

岩代は、また妻を失神させるほど攻め立て、嵌(ハメ)倒すつもりだ。

「ビルを手に入れたのですもの、また祈願の開所式ですね。」

輪姦呪詛のご利益は目に見えていたから、今回は妻も大いに張り切っている。
実際に会社は順風満帆で、「忌み祓い(いみばらい)」祈願の輪姦にケチの付けようも無い。

折角のイベントが、前回と同じ内容では来賓も興が乗らないので、「何か良い企画は無いものか」と妻が言う。

「折角だから、皆さんに楽しんでもらいたい。」と言うのだ。

本音で言えば、彼女は相応に、自分の陵辱を期待していたのだと思う。

開所祈願の「忌み祓い」を、「ご利益がある」と信じているのか、彼女の淫乱症が花開いたのかは判らない。

私と打ち合わせる妻の顔には、ありありと開所祈願に寄せる期待感が滲(にじ)んでいた。

自分が素っ裸で、気を失うまで輪姦される儀式である。

もぅ手がつけられないほどに、妻は「色情狂化している」と言う事か?

所が、妻の関心が違うところにある事を、妻の言で知った。

現在の彼女の感性からすると、輪姦される事などなどはさして問題ではないのである。

「あれをすると、色々と先の事が見えるのです。」

そう言われると、体験の無い私は益々困惑する。

オーガズム・ハイに拠る輪姦未来予知は、女達だけが体験する異様な話である。



岩代に「何か良い企画は」と相談すると、「その件は、京香に任せてみましょう。」と言う。

それで、当日まで企画内容は明かさないが、全面的に細君(京香)に任せる事にした。

いずれにしろ、まったく不思議なくらい、細君(京香)なら何でも心得ている。

あの夫婦は、本当はどちらが舵を取っているのだろうか?似たもの夫婦と言えばそれまでだが、何か神掛りな物を感じる。

「岩代と相談して、京香さんに任せようと言う事になった。」

「そうですか、あなたがお任せになったのなら、私は京香さんに言われた通りにします。」

「あぁ、何を指示されてもな。」

「はぃ。」

「私は、皆様がお愉しみになれば、それで良いと思います。」

「彼女(京香)の事だから、結構きつい事をさせるだろうが、お前の役目だからナ。」

「犯っても減る物じゃないと言いますし、それで会社が間違いなく発展すれば良いじゃァありませんか。」

「そうだな、何もかも順調だ。」

開所式も、回を重ねると、少しずつエスカレートする傾向にある。

妻はそのご本尊様(菩薩様)に祭り上げられているから、半端な事では終らないだろう。



開所式は恒例の時間、朝の十時から始める。

妻は私と八時半には会場に来ていた。

既にこの異空間がある場所は、非日常的な不思議な意志が支配している。

妻の希望は、式に臨む前に風呂に入り、身を清めて開所式に臨むつもりだ。

風呂から出ると、素肌に宝飾を身に着ける。

社長婦人だから、「貴婦人然」と輝かなければ成らない。

勿論全裸で、身に着けるのは宝飾類と中ヒールの靴だけだった。

全て細君の指示により、三階の玄関に立ち、主催として来客を迎える為だ。

人間は、男でも女でも「相手次第で変わる」と言う。

しかしホントの所では、変わる事が出来る人間と出来ない人間が居る。

夫に配慮せず、自分の我を押し通して、女は幸せを掴めない。

妻は、夫に応えて見事に変身し、今はセレブ生活を手に入れている。

変われる人間だけが、幸せになれるのかも知れない。

僅か半年余りで、「独立、急成長」と異常なまでに生活環境が変わった。

一年後になる今日では、株式会社「KIYOUBI(京美)」は業界でも名が売れて、中堅の会社として世間に通用する様に成っている。

出資者の資産は膨れ上がり、配当を別に除いても五割増に成って、皆ホクホクである。

そうした中で、妻は何かに取り付かれたように、接待愛奴隷として磨きがかかって行く。

邸宅、高級車、宝飾と、岩代が妻を念入りに磨いてくれる。

とどの詰まり、社長婦人に相応しい「ハク」を着けたいのだ。

最近ではセレブ生活が身に着き、娘の学校の母親仲間でも、美しさを増した妻は垂涎(すいぜん)の的だ。

その令夫人が肉体(からだ)を張って、「思っても見ない痴態」を晒(さら)すからこそ値打ちがある。

彼の、接待事業戦略のコンセプトである。

それにしても人間は怖い、妻を始め全ての人間が猥褻な性行為をしていても、ケロリと何事も無い振りをして生きている。

建前の世界ではそれが必要で、秘すべきは秘していれば、世間的には支障は無い。

言わば性行為は、世間で建前の世界からは外され、本音の世界にのみ存在する。

従って、本音の付き合いとして本音の接待が威力を発揮する

岩代に言わせると、社長婦人の里美や専務である自分の細君(京香)を素っ裸にして宛がえば、本音が通じて喜ぶばかりで、それを拒む人物は誰も居ない。

勿論、その辺から連れて来た女を宛がう訳ではないから、それは相手に充分通じる。

妻の活躍のおかげで、私達夫婦の個人資産は飛躍的に延びている。

企業も拡大しているから、メンバーは皆潤っている。

ここで問題なのは、現代の倫理観通りに「妻に過酷な性の接待をさせている禄でも無いやり方」と受け取るか、「妻も楽しみながら性の接待をして居る」と受け取るかの、解釈の問題ではないだろうか?

だとしたら、世間の常識は只の上面(うわっら)な社会的制約に過ぎない。

上手く出来たもので、株式会社「KIYOUBI(京美)」は全て自前の接待組織だから、秘匿性も強いので相手に信用され、その上外注より経費も掛らない。

しかも主だった者には「自分の会社」と言う忠誠心の意識があるから、おざなりな接待はしない。

岩代は、多くの女性達の開所祈願オーガズム(絶頂)のパワーエネルギーで、この新ビルに「結界を張った」と言うのか?


社交ダンスのレッスンは、講師を呼んで、幹部全員で習う事に成った。

接待の雰囲気作りには必要な素養だから、出資者と接待四人組も参加した。

岩代夫妻と石上、生島夫妻は既に経験者で、特に岩代夫妻と石上は「出来る」と名乗れる程の上級者だった。

岩代の事だ、いずれ女性パートナーが全員全裸の接待舞踏会が開催されるのは、目に見えていた。

妻は岩代を絶対的に信頼している。

従って、最近は貴婦人然としてはいても、依頼を受ければ衣服を脱いで何処にでも行く。

この二ヶ月間、ここぞと言う時は岩代が「妻の出番」を私に要請してくる。

細君(京香)を筆頭に、接待軍団が環境を作り、総仕上げが妻の出番と言う訳だ。

こちらのゲストルーム(接待室)ばかりでなく、たまには接待支度をして先方へ出かける事もある。

妻の、あの滑らかな触り心地の肌は、誰とも知らない男に撫でられ、蹂躙されるのだ。

恐らく岩代が「良い目玉になる。」と言っていた妻のあのバイブ放尿も、妻はその都度披露している事だろう。

最近では、私も岩崎を信頼しているから、妻が相手に何を奉仕して、何をされているのか、妻にも岩代にも聞きもしない。

ただ、「行って来い。」と命ずるだけだ。

要求には、無条件で応じるのが愛奴隷の心得である。

貸し出され、性処理玩具としてゲストを楽しませるのが、美しい女神(愛奴隷)として岩代に課せられた妻の役目だ。

裸で駆りだされた妻の使命は、様々な格好で相手に視覚や状況を楽しませながら、全てを曝(さら)け出し、 愛液を花弁の奥から滴(したた)らせて奉仕する雌犬である。

私の「手前味噌的自慢」と言えば、確かに自慢だが、妻は股下が長い為、見るからに脚が長く体型のバランスが良い。

当然の事だが、全裸にすれば衣類でごまかせないだけに、ボロ隠しの無いその体型は一層引き立つ。

妻もその事には密かに自信が在ったらしいが、これでその自慢の体型を「余す所無く、人様に披露する機会が増える」と言うものである。

妻は完全に岩代に陶酔しているから、何の疑いも無く、先方の好みに応じて、どうやら「相当の奉仕をしている」と私は憶測している。

しかしそのお陰で、ナント毎月数十億単位の仕事が成立している。

ここだけの話だが、政官財界の要人の相手も多かったらしいが、それは言わないのがルールである。
それに、この関係が、後に思わぬ威力を発揮する。

だから帰宅した妻の肉体(からだ)に、縄や鞭の後が残っていても私も妻もあえてそれを話題にはしない。

妻は私の想像以上に、何でも出来る「魔性の女」に進化しているのかも知れない。

その進化の見せ所が、今回の「開所祈願」と言う訳だ。



岩代さんに付いて私(里美)が言うと、女として感じるのは謎めいた魅力的な存在です。

彼には、何か私(里美)の窺い知れない計画があり、その実現を急いでいるような気がしました。

その為に、私(里美)は、岩代に選択され、期待された彼の作品だったのです。

現在では月に一〜ニ度、岩代の実技研修的な「性行為の実習」を欠かさないのです。

そこには、強烈な意志を感じますがそれも彼の魅力であり、一見ニヒルで女性を冷徹に扱う岩代の、奥底に有る真の優しさの一端を、女性達は本能で敏感に嗅ぎ分けて居るのかも知れません。

私(里美)は変わりました。

岩代の命じるままに連れ出され、さして抵抗も無く肉体の全てを曝(さら)け出し、淫虐な要求を、さわやかな笑顔で何でもこなせる娼婦に成ってしまいました。

こうした接待の場では、恥ずかしい事を見せる見られるに意味があり、男の望み通りにするのが気持ちが良いのです。

羞恥心はあるけれど、だからこそ切ない被虐の快感は付いて来ます。

肉体が加虐に快感を覚え、精神が被虐に快感を覚えて、淫虐な要求には従順に成りました。

この体験をさせる夫を、「有り難い」と感謝するのか、「酷い奴だ」と思うかは、「私(里美)の受け取り方次第だ」と思っています。

今は、月に何度か素裸に剥(む)かれて、選択の余地もなく命じられるがままに相手の欲求を満たす性玩具として引き渡され、貸し出されています。

何らかの確信の上で、岩代さんは私(里美)に裸の接待をさせ、女性を冷徹に扱う強烈な意志で会社の規模拡大を急いでいます。

その為の生け贄に、私(里美)は岩代に選択され、期待された彼の作品だったのです。

接待を、「女が裸に成って股を開けば事足りる」と、簡単に考えているのは女の甘えに基づく間違いで、現実には、ゲスト様に試(ため)して頂き、気に入って貰わなければ見透かされて愛奴隷の使命を果たせません。

本当の所、女はこの辺りに甘えがあるから多くの場合不遇な人生を送る事に成るのですが、それは自業自得と言えるものなのです。

相手の支配欲を限りなく満足させ、愉しませるのが愛奴隷として私(里美)に課せられた役目で、引き渡されている間は、私(里美)の肉体は相手の物だから、私(里美)をどう使って楽しんで頂こうが、何でも有りの相手の勝手なのです。

ゲスト様の全ての要求に従順に嬲られて、私(里美)の心が、正直それを楽しんで居ます。

その、肉体を支配される被虐の快感が、私(里美)の身体に染み付いてしまったのでしょう。

しかしそんな変化は、普段の日常生活には微塵も出す必要は無いのです。

当然の様に、日常に於いては良き母であり、良き主婦を続けています。

それでも、その両者は確実に私(里美)です。

いったいどちらが仮の姿であり、どちらが本当の私(里美)なのか?

本人でも答えは出せないのです。

それにしても人間は怖い、私(里美)を始め、全ての人間が猥褻な性行為をしていても、ケロリと何事も無い振りをして生きています。

建前の世界で生きるにはそれが必要で、秘すべきは秘していれば、世間的には支障は無いはずです。

人間の性(さが)とは、「かくも偽りに満ちている」と言うのでしょうか?



最初に来たのは岩代夫婦で、岩代の元居た寮の学生達八人と卒業して社員になった二人を引き連れて、九時五分前にピタリと来た。

彼らは、相変わらず細君(京香)の仕切りで、でっかい図体を小さくして「押忍、押忍。」と何でも迅速に動く。

暫(しばら)くして、接待の女達が安部、麻生、福田、谷垣の四人が来て設営を手伝う。

流石に女性陣は妻の宝飾に目を付け、溜め息をついた。

少し奇妙なバランスのペアだが、その頃から正装の私と、全裸の妻が並んで来賓を迎える為に待つ。

やがて、田嶋氏が満面の笑みで顔を出し、生島夫妻、小泉夫婦と竹中氏、遠方からの石上氏、と九時半過ぎには今日のメンバー全てが揃っていた。
それに私達夫婦と岩代夫婦を足すと、総勢二十五人になる。

岩代は、全ての企画を細君(京香)に任せ、この人数を使って、「事業開運の呪詛エネルギーを妻にさせる」と言う。

本当の呪詛の、エネルギー脳波の強弱は、実は輪姦される巫女も、輪姦するメンバーも、「限りなく性的興奮を高める事が出来るかどうかで決まる。」と言う。
つまり、アブノーマルな性的興奮が高いほど「威力がある。」と言う事だった。

妻は開所式の開運祈願を一度経験しているから、それこそ「自分が嵌(ハメ)殺しの目に会う事」を知っている。

それでもひるむ事が無いのは、事業成功の絶対的自信と、強烈な輪姦そのものに、ある種性的好みを見出したからに他ならない。

恐らく岩代は、早くから妻のそうした原石的資質を見破って、開眼育成を試みたのであろう。

彼女が希望するなら適えてやるのが亭主と言う者で、妻の容姿や体力が耐え得る間は、「好きにさせてやろう」と思っている。

彼が私に漏らした事が真実なら、今回の輪姦祈願は相当すごい事になるかも知れない。

この所私は、妻が何をしていたのか知らなかったので、彼女の性的進化にも関心が湧いていた。

彼の真の野望は判らないが、彼の秘めたる野望も、妻は強烈な輪姦祈願をする事になる。

実は岩代から、この祈願が終わったら「打ち明けたい事がある」と言う。

心優しい岩代らしくないその手法に、彼の目指すものは他にあるのではないかと、私は思い始めていた。

機が熟して、本音の目的を打ち明けるつもりらしい。


「時間が来たので、そろそろ飲み始めましょう。」と、岩代が、口を切った。

皆思い思いに飲み始めて、熱気ムンムンの雰囲気が漂っている。

女性軍は心得ているから、既にそれぞれ男性軍のサポートを始めている。

男七人、女八人で酒盛りが始った。

学生達は酌をして廻り、「手伝いに来た」と言う立場から酒は遠慮している。

そのうち妻が細君(京香)に連れ出され、二人で支度に消えた。

何が企画されているのかは、全く判らない。

この段階で、女性軍は全員衣類を脱ぎ捨てた。

新設された舞台に姿を現した妻は、何時もの様に皮製の犬首輪をして、ドレス姿の細君(京香)に鎖チエーンリードで引かれて来た。

違ったのは、さわやかな笑顔の妻の手に、洗面器と石鹸箱が持たされていた事だ。

妻の第一声で有る。

「京香さんの命令で、来賓の皆様に痴毛を剃毛していただきます。私は舞台の裾で大股に開きますので、順次T字剃刀をお使い下さい。きっと、皆様に私のオマ*コが良く見えると思います。」

真っ先に立ち上がったのが、日頃大人しい石上だった。

妻の剃毛は、出資者で来賓の竹中、田崎、石上に剃刀を使う権利がある。

「剃って良いのか?こりゃ面白い。」

「はぃ、どうぞお愉しみ下さい。」

「俺一人で、ツルツルに剃っても良いか?」

「それがご希望なら、竹中と田崎さんには他の方のを指名して貰(もら)いますが、お二人は構いませんか。」

「あぁ、希望相手が指名できるなら石上君に譲るワ。」

田崎が言った。彼は最近参加した接待四人組の一人福田を気に入っているらしい。

石上が舞台の裾に取り付いて、早くも妻の股間に石鹸を塗りつけている。

シェービングクリームにせず、石鹸を選択したのは、剃る前に手で塗りつける愉しみを味わってもらう配慮だった。

妻の剃毛は、出資者で来賓の竹中、田崎、石上に剃刀を使う権利がある。

嬉しそうな顔をして、石上が妻の股間を石鹸で泡立てている。

妻は、目を瞑(つむ)って足を広げ、その手の動きを受け入れていた。

「さて、ソロソロ、剃刀を使うか。」

石上が妻の股間にT字剃刀を充て、ジョリジョリと剃り始めた。

花芯ボタンも、クニュクニュした肉花弁も、T字剃刀で傷つけられないから石上が指先で避けながら剃って居る。

それが、今回の呪詛祈願輪姦の始まりだった。




続く

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日本列島の支配者と民はそれを否定することなく同一の神として受け入れた。
その陀羅尼神(だらにしん)、実はエロスの神様だったのです。
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