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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【皇統と鵺の影人 第一巻】作者本名鈴木峰晴

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の小説です。
このWEBサイトに関するすべての著作権は、作家・未来狂冗談に帰属します。
H18/4/28初稿HP掲載開始・H18/12/20加筆開始
・現在第六巻の近代・現代日本(明治から平成へ)を執筆公開中

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【本作品は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の作品です。】
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからです。

This novel is a work of novel writer【novelist 未来狂冗談 (Miracljoudan) of the mystery】.
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☆The origin of pen name 未来狂冗談(Miracljoudan) is a thing that wants to say from feelings that it wants it,
"It is not a joke that the bad future came".

短期間無償で公開しますが、著作権はあくまでも作者にありますので、
作者の了解無く本作を金品収受の対価及び引用例の元として転載等はしないで下さい。
引用例等の転載はご遠慮願いますが、本HPの御紹介は歓迎です。宜しくお願いいたします。
また陰陽師国家諜報機関説伊都国伊豆国説日本語のルーツ翻訳機能説、については、作者独自の新説です。
また、神話に於ける「誓約(うけい)の概念」に対する独自の考察も、着眼点としては「作者のオリジナル」と考えています。
この、【本小説作品】で使用した説の検証部分及びアイデア等を引用した小説、シナリオ、マンガ、映像等の無断使用を禁じます。
もし違法行為を発見した場合は、法的手段に訴えます。
なお本作に登場する組織、団体、人物のキャラクター等は仮説に拠る創作であり、
実在の人物、企業、団体等を正確に描いた物では無い事をお断り申し上げます。
何しろ筆者は、本作品登場人物のどなた様とも「直接は、お会いしていません」ので・・・・

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このまま下にお読みいただけます。

【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第一巻

未来狂 冗談 作

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お断り皇統と鵺の影人は、歴史的事実をモチーフにしていますが、
あくまでも娯楽文学作品で、仮説に拠る創作部分を含んでいます。

序章(大きな時の移ろい)を飛ばして本章から読んでいただいても良いのですが、
背景を理解するには序章からお読みいただくと「より理解し易く」なります。


少ない手掛かりからでも、角度を変え、何を見るかを決める事で、見えて来るものが在る。
未来狂冗談が、歴史的事実をベースに独自の発想に拠る仮説を構築して、
最新作を、第十三弾・「皇統と鵺の影人」として歴史小説に挑みます。


前書き

昔ヨーロッパで、「それでも地球は動く」と言った男が居た。

彼は、長期に培(つちか)われた歴史的宗教常識とそれに誘導された民意に逆らい、「異端者」として妄信者達に酷い迫害を受けた。

善良な市民は、宗教や思想を操る権力者に誘導された歴史認識を、一途に信じてしまう。

至近の事例を挙げれば、「靖国の特攻精神」であり、「戦後の中国国民や韓国国民の日本観」である。


そもそも、物欲・金欲・色欲・権力欲、人間の煩悩(ぼんのう)である「野心」や「欲」が絡まない「綺麗事の日本史程」、嘘っぽくて信用ならない物はない。

そして「欲」絡みの、凄(すさ)まじい権力闘争こそが、歴史そのものである。

つまり現実には「人間の強欲さ・・・こそが歴史的事実を構成している。」と言っても過言ではない。

それを、「外聞が悪い」や「教育に良くない」と建前を重視して、本当の歴史を捻じ曲げ、又は「統治の為の政治的都合」や「信仰上の都合」で歴史を捻じ曲げてしまう。

それらの邪心(よこしま)を目的とした「粉飾された日本史」が、この世には幅を利かせている。

日本史評は、常に多数の国民目線でなければならず、一部の主義主張や信仰などに組してはならない。

いずれにしても問題提起は必要で、夫々(それぞれ)の立場を忖度(そんたく)していては正しい日本史は語れない。

従って、「綺麗事の日本史の半分は疑ってかかる必要がある。」が、この「皇統と鵺の影人」の歴史探求精神である。


物事何でも、存在するには存在する理由がある。

稚拙な事に、大方の人間はその理由を考えないで、手っ取り早く「存在を条件」に物事を考え始める。

すると真実は、例え捏造(ねつぞう)されたもので在っても「存在」の影に隠れてしまう。

厄介だが、謎を追うには「存在する物事」のルーツを探る必要がある。

「存在」の理由を勘定に入れない事は妄信に通じ、最後は頑(かたく)なに真実から目を背ける。

そうなっては御仕舞いだから、目の前にある物の「存在理由」から確かめる。

この小説に、日頃自分が考えていた事と違う事項が存在した場合、貴方は「面白い」と思うか?

それとも「不快」に思うか?


過去が在って今がある。

「象とは蛇のごとき細長い物(動物)なり。」

時代のほんの一部分を切り取って、起こり得たものを考察すると、単純な答えしか得られない。

それは、尻尾(しっぽ)だけを見ている事になる。

人間のDNA遺伝子は螺旋(らせん)状に連(つら)なっているそうだが、その歴史に於いても起こり得た事は螺旋(らせん)状に連(つら)なって今日に到っている。

歴史には連続性があり、二千年の歴史を追えば、見えなかった全体像が鮮明に見えてくる。

それぞれの時代で、それぞれの道徳観があり倫理観がある。

そして歴史は常に、勝者の栄光だけが残って行く。

現在の現実、現在の国民合意は、けして全ての時代には当て嵌まらない。

それを、現在の物差しで強引に推し量る事は、危険な事である。

有りそうな「嘘」、嘘のような「事実」、貴方がこの物語を信じようと、疑おうと、如何(どう)理解しても個人の勝手で有る。


【日本語のルーツ】
【伊豆の国=伊都国(いとこく)説】
【陰陽師=国家諜報機関説】
【卑弥呼=比売(ひめ)大神=天照大神説】
【広域倭の国論】
【天狗(てんぐ)修験道と犬神・人身御供伝説】
【聖徳太子は実在したか?】
【賀茂忠行(勘解由小路家)と安部晴明(土御門家)の謎】
【大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑】
【蝦夷(えみし)と源平の歴史】
【源義経一党・修験黒幕説】
【真言(密教)立川流の謎】
【古典芸能のルーツの謎】
【織田信長の奇策・徳川秀忠】
【明智光秀=天海僧正説】
【豊臣秀吉その出自の疑惑】
【徳川家・世良田系図の謎】
【水戸黄門の真実】
【徳川吉宗誕生秘話】
【隠された明治維新】

他 多数

一度本書を読み通しては、どうだろうか?


【日本語のルーツ】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされ、各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?

【卑弥呼=比売(ひめ)大神=天照大神説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟・宇佐神宮(宇佐八幡宮)は大分県宇佐市(豊後国)に在る。宇佐神宮は、八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社で、応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。
一説には、神功皇后は架空の人物で、「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある。
しかし、応神大王(おおきみ・天皇・第十五代)は、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。中央におわすのは、余り一般には知られては居ない、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」で、その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。
比売大神については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。
この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、少し考えれば「在り得ない事」と判る。何故なら日本で一・二を争う最高の神社で、それでは安易過ぎはしないか?
当然ながら、信仰から神を扱う以上、その並び順には神経を使い、然るべき所に御鎮座願うのが当り前である。

【伊豆の国=伊都国(いとこく)説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。古代、飛鳥時代より遥か昔、倭の国々の東の外れ、黒潮に抱かれた半島に、「伊都(いと)国」はあった。
古代葛城王朝・伊都国は伊豆の国だった。そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)に在った。
田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆の国における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。御門(みかど)地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門(かつらぎ)の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。
二千年を超える影の歴史が始まったのは、この「伊都(いと)国」からだった。
修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、伊豆に起源を発する豪族臣王・葛城氏の枝であり、下級貴族である。
この葛城氏本家が、突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名として、「葛城王」がある。この事の意味するものは何だろう?

【大海人皇子(おおあまのみこ/天武天皇)の疑惑】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して、帝位に付き、天武(てんむ)天皇(第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。
仮に大海人皇子が、皇統に紛れ込んだ新羅王の弟としても、「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子のなかでは長命を得た人物)である事から、大友皇子の立太子の事実及び大海人皇子(天武天皇)の皇位簒奪の経緯についてはいくらでも有利に脚色出来る為、手放しの信用は出来難い。そしてここら辺りが怪しいのだが、修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が現れたのは、この天武大王(おおきみ/天皇)の御世である。大海人皇子が海人族であれば賀茂・葛城族とは同族で、天武大王(おおきみ/天皇)の皇位と権威の確立の為に、天武大王(おおきみ/天皇)直属の修験秘密警察が誕生した事も充分に考えられる。

【広域倭の国論】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。
中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。すなわち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。
この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。この間違った考えから、倭の国=大和の国を導くと、後の説明がまるで付かないのである。

【天狗(てんぐ)修験道と犬神・人身御供伝説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。この国の河童その他の妖怪・お化けの類は、大概の所、山岳信仰を応用した修験行者や、後の僧侶が信仰の布教の手段として流布したもので、ある種教育的メッセージ、または何かの目的達成の為に出現している。人身御供に関わる地方民話の内容については、「唯の民話、御伽噺」と片付けてしまえれば簡単であるが、それは我輩には出来そうも無い。実は、民話に隠された真実には重大な意味がある。何かを伝えたいから、民話は存在する。「現実離れしているから」と言って、造り話とは限らない。神秘的な民話には、実は難解な真実が隠されている。勿論、文字を持たない身分の低い立場の者、ものをはっきり言えない弱い立場の者は、民話に隠して後世に託すしかない。そうした先祖の切ない意思を、読み取ってやるのが、後世に生きる「人の道」である。

【聖徳太子は実在したか?】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を紹介して置く。聖徳太子は、日本史において最も有名な皇太子の一人である。しかしこの聖徳太子には様々な疑惑がある。まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。
正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古天皇(第三十三代・女帝)蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?その理由であるが、遣隋使に託した遣使の国書の文言に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。

【陰陽師=国家諜報機関説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。陰陽師(修験山伏)に国家諜報機関(日本版CIA、KGB)の疑いが・・陰陽道の起源と歴史への関わり・・・「陰陽寮」の存在、そして隠された真実、謎の使命【大王(おおきみ・天皇)の密命】とは何なのか?
この役小角(えんのおずぬ)と修験道組織の出現、実は大和朝廷の「途方も無い政変」と大きな関わりがあるのだが、その話は追々する事に成る。
古代日本の統治制度「律令制」下に於いて、大和朝廷に「陰陽寮」は成立した。
しかしそのずーっと以前、朝廷の密命を帯びた陰陽修験組織が、山里に分け入ってある密命を遂行していたのである。
この修験道が、真言密教の原点から関わって、真言(密教)立川流は、南朝・後醍醐天皇の庇護の下、「建武の親政」で大きく花開いた。しかしその幸運は儚かった。

【賀茂忠行(勘解由小路家)と安部晴明(土御門家)の謎】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。 八世紀(平安初期)の始め、律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。
この陰陽寮が属している中務省は 天皇とその政(まつり)に関する仕事を受け持つところで、言わば天皇直属の機関である。
「寮」の頭(かみ)は、現在の省庁で言えば庁の長官で、高級官僚である。
本来なら陰陽修験組織を祖とする陰陽寮は、賀茂・役小角(えんのおづぬ)の陰陽道継承者である賀茂忠行・賀茂保憲父子がトップ(陰陽頭)に立つべきである。
ところがどうした事か、賀茂忠行・賀茂保憲親子の弟子である安倍清明がトップ(陰陽頭)に廻り、賀茂忠行・賀茂保憲父子はナンバー2(陰陽助)に廻った。
この事実の裏には、いったい何が隠されていたのか?
それは大和朝廷(ヤマト王権)の治世に於いて、安倍清明を重用するに足る相当重要な意味がなければなら無い。
そしてその「相当重要な意味」こそが、安倍御門当主・安倍清明の出自だった。

【真言(密教)立川流の謎】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。真言密教立川流を、現代の倫理観で計る単純な発想で「淫邪教」と言うのは簡単である。しかしそんな事では推し量れない何かが、立川流にはある。
武蔵国・立川に在住した陰陽師の出身の真言宗の僧侶見蓮(もくれん)が、伊豆の大仁に流人として住まいし真言宗の僧侶仁寛(にんかん)に真言密教の秘伝を授けられ、陰陽道と真言密教の教義を混合して真言密教・立川流を興し、「開祖・布教した」とされている。
その後、当時の幕府所在地・鎌倉には、京都から放逐された「天王寺真慶らによって伝えられた」と言われている。
真言立川流は理趣経(りしゅきょう)を主な経典として、人間性を上手く取り込んだ教義の為、多くの信者を集め、真言密教の僧のうち「九割が立川流の信徒となっていた」と言われ、文書「受法用心集」によると、一時期、真言密教の主流として立川流は浸透を続けた。
南北朝並立時代から室町初期にかけては後醍醐天皇の庇護を受、政局にかかわるほどの力を有したのだ。

【源義経・修験黒幕説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。悲劇の武将、源義経に従うのは、修験山伏組織のエリート集団だった。義経の卓越した戦闘術の謎が明らかに・・・・・
源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かったはずである。
源義経を支え、連戦連勝に導いた軍事顧問団の正体は、帝の工作員(修験道師)である。
源義経の生涯は、帝の思いに翻弄された不条理なものだった。それでも、短いが確かな愛の時間にも、義経はめぐり合っていた。

【古典芸能のルーツ】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。その役割を歴史の場面場面で意味を持って登場する影人が、芸能を諜報活動の武器にしている国家情報機関の仕事の一部として世論操作の目的を持ち、官製メディアの役割を担ったのが初期修験道師組織で、神の威光をでっち上げる為の神事としての神楽舞(神話伝説物語)に始まり、中央貴族の白拍子舞や地方の田楽舞などに分化して行き、その後の時代の変遷で国家情報機関の立場を離れ、宗教者は勿論、芸能者や武芸者、農・工業従事者などに細分化した表の顔を持つように成る。
更に時代が下がると、娯楽性が益して大衆芸能化した阿国歌舞伎や高級芸能の能楽舞と分化が進み、やがて男歌舞伎や芝居、猿楽能と成って脚色された英雄が活躍する大衆娯楽に成って行くのだが、少なくとも江戸初期位までは、この芸能部分を表の顔とした隠れ武芸者が居たのである。

【織田信長の奇策・徳川秀忠】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。関ヶ原の戦いに遅参した事で武将としての評価が低い徳川秀忠であるが、天下を手中に収めた偉大なる親に対し比較凡なる二代目多い中、徳川長期政権の礎を地味に築き上げた二代将軍はけして凡庸な二代目ではない。実はこの徳川秀忠には容易ならざる秘密が有った。血統主義は、氏族が自分達有利の為に構築した「建前」である。無論、信長の本音はそんな「建前」など屁とも思っては居なかったが、織田信長程その血統主義を、冷静に利用した男は居ない。そこで、信長が取った二つの手段が、「奇想天外」である。自分が最も信頼する光秀が、親代わりで育てていた「光秀の従弟」を、家康の子として押し込む事である。「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していた。

【明智光秀=天海僧正説】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。明智光秀は謀反人ではなかった。彼こそ「稀代の忠臣」と評価されるべき男だった。葵の紋と桔梗紋の謎を追って、「本能寺の変」光秀決起の謎が明らかに・・・・・・・・・
そのきっかけは、想像を超えた織田信長の「とてつもない野望」だった。
光秀にとって、己の名声など何の意味も無かった。ただ、自身の能力を確認する為に、成し遂げたい事があった。それとて、自身が納得したいだけで、人が知る必要は無かった。彼は、全てをあっさりと捨て去り、隠遁生活に入った。

【豊臣秀吉その出自の疑惑】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。秀吉の顔はけして猿顔では無かったし、信長も、「サル」などとは呼んではいない。生家と言われる中村郷も山深い里ではない。世間から「サル」と呼ばれる由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。秀吉の出自については、山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。

【徳川家・世良田系図の謎】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図があるだけである。
松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。
この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏に、たった一つだけ、心当たりの「接点」が浮かび上がった。
松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五歳の頃)のみぎり、駿河今川家の人質に出されたその旅の途中、戸田康光の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られ、幼少時代の一時を織田家に浚(さら)われて、人質ながらも信長と「竹馬の友」で育っている。
その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。

【水戸黄門の真実】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。水戸光圀の大日本史編纂には、影の目的があった。それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)と雑賀衆の一団だったのである。この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。
江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)である。そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。そして「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

【徳川吉宗誕生秘話】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。この吉宗の生母・於由利の方は、巨勢(こせ)氏の出自に疑問がある。何よりも不思議なのは、江戸幕府安定期の将軍生母でありながら、その於由利の方の墓が何処にも存在しないからである。墓が存在しない事から推測されるのは、「巨勢六左衛門利清の娘」は、世間体の為の「便宜上の親子関係ではなかったのか?」と言う疑問である。なぜなら、実家の巨勢(こせ)氏は、紀州の大地主で、立派な墓の一つも作れない訳は無い。ましてや、紀州藩が墓を作らないのはそれこそ罰当たりのはずである。それが無い所に、将軍生母として「何か秘すべき物があった」と考えざるを得ない。

【隠された明治維新】

これは教科書に載っていない歴史の謎である。明治維新によみがえる南朝・後醍醐天皇の系図、仕掛けたのは、吉田松蔭門下生と尊王派の公家達・・・・その噂は本物か?。北斗妙見信仰に端を発する大内家から毛利・長州藩まで、脈々と守護し続けた皇統の隠し玉、それは歴史の綾だったのか、それとも必然性だったのか。
七卿は逃れた長州の地で、松陰派にある人物と引き合わされている。和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。


人間の脳の容量は一万ギガバイトだそうで、DVD二千百枚強の容量に相当する。
しかし、一般的に人間が使用出来ているのはわずか五パーセント、平均DVD百六枚分相当だそうである。
何故これだけ「未使用分が出るのか?」と言えば、自らを既成概念に縛って、疑問を持たないからである。本当に、貴方の信じている事は真実だろうか?
疑問は持たず、興味は持たず、考え様とはせず、「平凡に生きたい」と言い逃れをして、楽に生き様とする。そんな親に限って、子供には「勉強しろ。」と言う。
日本人だと認識している貴方、自分の国の歴史に挑戦をしてみてはどうだろうか?

本作は、古代国家プロジェクトの謎「大王(おおきみ・天皇)の密命」に隠された真実を追って、読まれる方が、時空を旅する事を願い、作者が書き進めた一文で有る。


「葛城王朝発祥の地・伊豆の国」は、我輩の魂の主張である。「発想こそ我が神である。」未来狂冗談


誤解されると大変困るが、我輩は神仏を否定している訳ではない。それらは「各々の精神世界」であるから、我輩などに立ち入れるべきものではない。
我輩が言いたいのは神仏を「己の利に利用しょう」と言うよこしまな意図を持った輩の事だ。そう言う輩こそ、この様な小説を書かれると、己の利の為に神仏の名に於いて猛反発する。

最後にこの物語は、単なる小説で有り、風説の流布に拠る現体制の崩壊を狙った物では無い事を、強く主張しておく。



◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
  (人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)・(明治維新成る)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)・(皇国史観と集合的無意識)
・(日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




鵺(ぬえ)と血統
陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第一巻・序章の【第一話】

鵺(ぬえ) と 血 統


◇◆◇◆(前置き)◆◇◆◇◆

我輩は、信仰に於いても思想に於いても「無頼の徒」である。

敢えて言えば人間主義で、資本主義や社会主義・共産主義にも傾倒はしない自由人を標榜している。

何かに傾倒すると、物が正確に見えなくなるからである。

従って、そうした類(たぐい)のいかなる思想や信仰にも組さない。

しかしながら、紛れも無き日本男児であり、国を憂うる気持ちに偽りは無い。

と言えば格好が良いが、実は単なるへそ曲がり者かも知れない。

無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。

すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。

まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。


困った事だが、自分の知らない事を提示されて、それを検証する事も無く「間違い」で済ます人物が世の中には多い。

それは多分に、今まで信じて生きて来た自分の人生を否定されたかに想う個人感情に起因するものである。

なまじ学校で成績が良く知識が豊富だと、定説の範疇(はんちゅう)を唯一の武器に「何でも自分が正しい」と勘違いするものである。

だがそう言う人間は、自分の知識を過信する余り自分の知識の範囲で早期に結論を出し「新しい可能性の芽」を潰してしまう恐れが在る。

「自分が知らない」と言う事を「間違いの根拠」とするならば、宗教裁判で迫害され「それでも地球は動く」と言った当時のイタリアの天文学者「ガリレオ・ガリレイの地動説」は安易に「間違い」で済まされた事に成る。


分類すると「歴史好き」には二通りの形ちが在り、一方は「定説・アンカリング型」で、「あれも知っている、これも知っている。」と定説の知識を確認し主張するタイプである。

他方、若干少数派であるが、定説に対して斜(はす)に構えて「それは事実か?」と言う「真相究明型の歴史好き」も存在し、そちらの選択は、探ればかなり面白いのだが立証責任が難しい難点がある。

我輩は「真相究明型」であるから、その形ちの「歴史好き感性」を貫いてこの物語をご紹介して行く。


勿論この歴史物語では、吾輩は有名人の成功話を娯楽的に飾って書く積りは無く、その人物の飾らない生き方を書くべく筆を取った。

何故ならば日本史を飾る有名人も、現実は苦悩と葛藤を抱えた等身大の人間であり、けして超人(スーパーマン)では無いからである。

つまりドラマチックに盛った嘘っぽい波乱万丈の英雄物語は、感性としては読み手に取って胸躍るものだが、そうしたフィクションドラマは史実的に有害な物語かも知れないからである。

時たま、「偉い人が言った」とか「国が言った」とかを根拠に事の是非を論じる方が居られるが、実は歴史学に於いては「偉い人の言」や「国の発表」ほど左脳域の計算が加わった可能性が高く、ある面ではこれほど信じられ無いものは無い。

正直それは「稚拙な論議」と言わざるを得ず、過去の研究者のアンカリングに嵌ってしまえば、新しい発想も新しい発見も見えては来ない。

困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。

その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して安易に解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。

本来、文献・書物の類は著者の独自な意見の提示であって、つまりその提示は証拠では無く論議の出発点に過ぎないものである。

他人の著作に素直過ぎる事は、研究者としては失格で未だ縄文期から弥生期に掛けての言語リレーの欠落部分も解明されていないのに、僅か数人・数冊の他人の書を根拠に絶対性を持って結論を出す事は品がない。

それでも勝負したいのなら他人の書を根拠にせずに、自書を著わしてから、その内容を持って世に問うべきである。

全ての学問がそうだが、手に入れた資料を基に想像力を発揮すれば定説とは違う新しい歴史が見えて来る事もあり、過去の研究者の定義をそのまま主張するのは発展性が見込めない独善的な行為である。



科学にしても文学歴史にしても好奇心が人生勉強の第一歩だから、好奇心を持たない人間は進歩もな無いし凡として詰まらない。

進歩の為には、自分で見つけ自分で学ぶ能動的な学習をする事が大事で、受験の為に定説を丸暗記する事ではない。

つまり、暗記した学問をひけらかすのではなく、暗記した学問をどう使うかが本来のものであり、そこから改めないと学問の本筋を誤まる事になる。

特に歴史を語る方に多い傾向だが、時の統治者や信仰関係者が築き上げた情報操作及び政治工作、或いは小説及び脚本家の手による創作を定説として解している場合も有る。

そして明らかに疑義が存在するのに、その現実から目を瞑(つむ)るのは歴史学者としては妥協出来ない現実である。


定説頼りの発想力無しでは、新たに冴えた研究など出来る訳が無い。

科学にしても文学歴史にしても好奇心が人生勉強の第一歩だから、好奇心を持たない人間は進歩もな無いし凡として詰まらない。

進歩の為には、自分で見つけ自分で学ぶ能動的な学習をする事が大事で、受験の為に定説を丸暗記する事ではない。

つまり、暗記した学問をひけらかすのではなく、暗記した学問をどう使うかが本来のものであり、そこから改めないと学問の本筋を誤まる事になる。

そして明らかに疑問が存在するのに、その現実から目を瞑(つむ)るのは歴史学者としては妥協出来ない現実である。

そこで一事が万事、斜(はす)に構えてものを観る精神が無くては、「定説に頼り過ぎて観る目が曇っている」の必然の感性かも知れない。

つまり「自分が知らないから間違い」と言う主張は、一歩下がって見れば相当に見っとも無いインテリジェンスに欠ける稚拙な言い分である。

せめて新説に対しては、その提示を良く読み、偏見無く内容を吟味する姿勢が肝心である。


警察や検察の犯罪捜査でも、「決め打ち捜査(予め結果を決めて捜査する手法)は冤罪を産む」と言う。

歴史の考察でも同じ事で、実は表面に現れ難い陰謀が歴史の裏側に意図的に仕組まれているかも知れない。

つまり脚色して後世に伝わった歴史は、数多く存在する。

日本史に於いて、定説を基準とした「決め打ち」から歴史の考察を始めても既成概念に囚われて結論を誤まるかも知れない。

政治的意図や娯楽の為の脚色を含まない純粋な歴史は現代社会の合意と矛盾し、面白く脚色した物よりは詰まらないかも知れないが、歴史の事実を捻じ曲げてまで、未来に捏造の綺麗事を伝えて行くべきでは無い。

頭に入れて置いて欲しいが、理科学者であるにも関わらず一般的にベテランの医師ほど「先進医療に批判的な方が多い」と言い、厚生労働省の医療系の役人は先進の薬品には臆病である。

これこそが「アンカリング効果と一貫性行動理論」を発揮した典型的な事象例である。


歴史に於いて「定説」とは違う事を書くと、「間違いを書くな」や「証拠を見せろ」と噛み付いて来る。

日本中の歴史学者を敵に廻しても構わないが、「定説」はあくまでも「説」であって正解の証拠ではない。

歴史を志すと「文献証拠主義」に走り易く、「証拠、証拠」と視野が狭く成り、文献そのものが不確かな事を忘れてしまう。

そんな輩に限って自分は「定説」を主張し、相手にはほとんど不可能な「証拠を見せろ」と迫るのだから既に論旨が瓦解している。

正直、歴史文献は権力者に不都合な事実は創作に拠って覆い隠すのが常套手段である。

内容のほとんどが創作の「古事記」や「日本書紀」の存在で証明されるごとく、最初からその作者や編者の政治目的等が主目で記述や編纂された事は明白である。

歴史を遡(さかのぼ)ると、「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そしてかれらは、「開き直って言い張れば、情報操作は国民を操る事実として通用する。」と考えている。


「古事記・日本書紀」の歴史捏造(れきしねつぞう)が、「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である。

古事記・日本書紀は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された。

桓武大王(かんむおおきみ・第五十代天皇)の御代に、時の大和朝廷(やまとちょうてい)が、統治の為に画策した記紀神話(古事記・日本書紀)と言うフエィクニュース(嘘ニュース)を 、日本全国に拡散させた組織がある。

その組織こそが、十代前の天武大王(てんむおおきみ・第四十代天皇)より密命を帯びた役小角(えんのおずぬ)を始祖とする陰陽修験者組織で、いわゆる説法を持って列島の隅々の民にまで皇統の正統性を神話を持って知らしめる目的を持っていた。

明快に言ってしまえば、記紀神話(古事記・日本書紀)の伝説は「渡来氏族に依る日本列島経営の為の陰謀」なのである。

余談だが、この「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である「古事記・日本書紀」の捏造(ねつぞう)記事を正しい歴史とし、それを根拠にコメントする不勉強なコメンテーターに解説する資格はない。


戦時中の、「国民の士気を落とさない為の嘘」と正当性を言い張る「大本営発表」なども国民を操る情報操作の代表である。

そしてそれに近い嘘は、近現代の政権にも「政府発表」として日常のごとく存在する。

余談だが、この嘘つきの原点である「古事記・日本書紀」の捏造(ねつぞう)記事を正しい歴史とし、それを根拠にコメントする不勉強なコメンテーターに解説する資格はない。

つまり「古文書として残っているから」と言って、その記述内容を「証拠」とする事は誰にも出来ない。

現在の政府機関の書類でさえも、政治的意図で作文された書類(もの)が散見される現状で、誰もその時代を見ていない時代の事を「証拠、証拠」と言うのは正直ナンセンスである。

だからけして「確定的な事ではない」が、周辺の状況から状況証拠を積み上げて推論する事を「証拠が無い」と批判すれば歴史研究に何の進展も無い。

そしてそれは「推論」とは言うものの、一応の関連する「状況証拠」を採った上での「説」である。


例えば、八月六日の広島原爆投下から七十年経った現在でも、米国人の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。

何故なら戦後の米国内教育が、長期に渡り「広島への原爆投下は、戦争終結の為に正しかった」と一貫して居たからだ。

これはもぅ各国の為政者が、自分達の為に創る「お定まりの創作神話」みたいな偽りの歴史例である。

しかしその広島原爆投下の現実は、一瞬にして地方の大都市を破壊し、ほとんどが非戦闘員だった十四万人強の人々を無差別に殺戮している。

広島被爆から三日後、八月九日に再び長崎に原爆が投下され、またも無差別に約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊している。

つまりこう言う「創作神話」は、いつの世にもどこの国でもある事だが、その「為政者の創作神話」が必ずしも正しく無い現実を、人々は知らねば成らない。


歴史を語る上で、時代時代にその時代を語る専門家の方が居る。

その時代の出来事だけ挙げれば、その時代の専門家の方ほど詳しい方は居ないかも知れない。

しかし、その方々に目立(めだ)つ陥(おちい)り易い穴は、その時代だけの狭い範囲の解釈である。

そしてもっとも困るのは、時系列的に変化する思想や倫理観に思考を向けず現在の思想や倫理観を当時の時代に充て嵌めて解釈する事で、当時常態化していた事にも現代の基準で否定的に成ってしまう事である。

歴史には人間が営々と築いた連続性があり、歴史を研究する場合は連続性的検証を心掛ける事が重要である。

所が、「その時代の専門研究」と称して歴史の中の一ヵ所だけを切り取って研究するとその研究者の思い込みから想わぬ誤解を招いてしまう事がある。

例えば良く知られている事に、キリスト教が繁栄したのは王族、元老院、貴族達の堕落から滅亡したローマ帝国を反面教師とした禁欲主義だったからと伝えられている。

つまりそれ以前に起こった現象が反省を招いて、必然的に次の世を作る連続性が観られるのである。

歴史は時系列的に積み重なるもので、欧米人は最初から禁欲主義者ではなかったにも関わらず、そうした歴史的経緯は語られない事が多い。

だからこそ、歴史はその前段階に何が在ったのかが重要なフアクター(要素、要因、因子)となる事を肝に銘ずるべきである。

そこに注目しないまま前時代の出来事を無視し、その時代に起こった事象だけを解説する専門家は、歴史学の基本を呈して居ない事に成る。

歴史的背景なくして次の歴史は生まれない。

人間のDNA遺伝子は螺旋(らせん)状に連(つら)なっているそうだが、歴史に於いても起こり得た事は螺旋(らせん)状に連(つら)なって今日に到っている。

歴史には連続性があり、二千年の歴史を追えば見えなかった歴史の全体像が鮮明に見えて来る。

そして歴史は常に、勝者の栄光だけが正義として残って行く。

それぞれの時代で、それぞれの道徳観があり倫理観があり、現在の現実、現在の国民合意は、けして全ての時代には当て嵌まらない。

それを、その時代を語る専門家の方が現在の物差しで強引に推し量る事は、危険な事である。

そこで我輩は、日本史の一気通貫(いっきつうかん)を著(あらわ)す試みとして本書・「皇統と鵺の影人」の執筆を始めた。

有りそうな「嘘」、嘘のような「事実」、貴方がこの物語を信じようと、疑おうと、如何(どう)理解しても個人の勝手で有る。



この国の歴史を扱うに及んで、問題にしたいのは「現実的な時間軸」を無視した強引な「イデオロギー(観念形態や思想傾向)主体の主張が多過ぎる」と言う事である。

「現実的な時間軸」とは、未だ朝鮮半島と日本列島に国や人種が成立していない両地域が未成熟に混沌とした時代の出来事を捕らえて、「あいつの祖先は半島系だ」や「俺達は純粋な日本人だ」と在りもしない線引きをする事である。

当然ながら、中華(黄河)文明から遠く離れた朝鮮半島と日本列島の両地域は文明の中心から離れて、千年間とも言われるかなりの年月未開辺境の地だった。

当時の日本列島はそうした時代背景だから、当然ながら日本人の成立過程に於いては日本語の成立過程も無視できない必要条件になる。

所が、両地域が国家として成立した後世の朝鮮半島と日本列島の両地域の不幸な対立の歴史から、憎み合う部分がイデオロギー(観念形態や思想傾向)として育つと、全ての思考の始まりにその尺度が使われてしまった。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の帰属意識が高じて「天皇の祖先は朝鮮系」などと言うインテリジェンスのない事を騒ぎ出す始末である。

それでいて矛盾する事に、そう言うイデオロギー(観念形態や思想傾向)主体の主張の方に限って「自分の先祖は氏族系(支配階級)」だと自慢をしたがる。

先祖が支配階級だった事で、出自を自己満足したいのだろうが、「現実的な時間軸」から言えば、平安期以前から明治維新期までの通期を「生粋の庶民」でなければ、純粋日本人ではなく渡来系出自の理屈に成るのだ。

いわゆる大和朝廷成立時点で「氏姓(うじかばね)の身分」を名乗った者の大半は明らかに渡来系征服部族の長一族であるから、他人を攻撃する論点そのものが破綻しているのだ。

この卑劣なイデオロギー(観念形態や思想傾向)主体の姿勢から始まる「現実的な時間軸」に対して間違った考察が、史実とは掛け離れたトンデモナイ歴史を作り挙げる事になる。

まぁ、近頃の世相である至近な例えれば、パソコンについても同じような反応を示し、パソコンを知らない方ほどパソコンに対して敵意に似た感情を抱く。

つまり人間は、如何なる心理的反応かは知らないが、自らが無知な事には「否定しよう」と言う意識が強く働く。

そう言う訳で、我輩が書いたこの物語も「そんな事は聞いていないよ。」と仰(おっしゃ)る方が多い事だろうが、貴方が既に聞いた事ばかりでは、書く方も「書いても意味が無い事」を考慮に入れて欲しい。

つまり貴方が聞いていないからこそ、我輩がこの物語を書く意味が存在するのである。


正直我輩は、自分が書く自説に既存説への遠慮や妥協は考えて居ない。

「だから専門家の支援を得られない」と言われようが、自らが信じる自説を提示し続ける気概を持っている。

何と成れば、日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

つまり指導階層(権力)が結託すれば歴史の捏造(ねつぞう)など造作も無い事だからである。


「感性」と言ってしまえばそれまでだが、「理詰め」や「計算」では何とも説明が成らない幻想的な部分が日本史には存在する。

歴史の社会通念とか常識とかには「建前もあれば現実」もあり、要領が良い人間なら既成概念と争わず建前に合わせて触れないで置くかも知れない。

しかし純真に歴史の真相に対処すれば、創られた歴史の社会通念とか常識に、正しい歴史知識では認める訳には行かない「虚(きよ)」の伝承が定着している事が多々ある。

東日本(関東)以北の蝦夷族(エミシぞく)にしても、九州の熊襲族(クマソぞく)にしても、弥生期以後の渡来部族拠り前に日本列島に住んで居ただけである。

故に、「蛮族を退治する」と言う表現は、あくまでも渡来部族国家群を主体として成立した大和朝廷(ヤマト王権)の一方的な言い分である。

つまり大和朝廷(ヤマト王権)の言うように、蝦夷族(エミシぞく)や熊襲族(クマソぞく)が一方的に「退治されるべき列島の住人だった」とは言い難い。

こうしたどちら側の立場で受け入れるかで、解釈上は正反対の事柄が増えるのが歴史の上での難しい部分ではある。



良く知られているエピソードではなく、真実が別になければ説明が着かない事が日本史には多い。

時の権力者に不都合な事実は創作に拠って覆い隠すのが常套手段で、それは今も昔の変わらない現実である。

多くの代表的な伝説の出所が古事記・日本書紀ならば、その伝説には秘められた別の真実が巧(たく)みに隠されている筈である。

つまりそれは、例え当時の国家組織・大和朝廷(ヤマト王権)が編纂した古事記・日本書記など公の史書で在っても全幅の信頼は置けない事を示唆している。

勿論それは現在も同じで、現に千九百七十年代から千九百八十年代にかけて起こった北朝鮮に於ける「拉致問題」にも、当初、時の政府には消極的な政治的対処が在った。

日本政府は面倒を避ける為に事実を国民に伏せ、「事実確認ができない」と、二〜三十年と言う永い期間、拉致は存在しないかのごとく被害者と家族を放置していた。

また、核兵器を「持たず、造らず、持ち込ませず」の非核三原則にしても、米軍の搭載核兵器に関しては「日本に入港する前に降ろして来たもの」として建前は苦肉の辻褄合わせをしている。

しかしその核兵器を、米軍は日本に入る前に一体何処に降ろして何処で積み込むのかは、「方便」と言うウヤムヤな「謎」である。

もし「政治とはそう言うもの」と言うのであれば、政府発表と言えども公式の影に隠れた非公式の真実が在って当たり前である。


人類は他の動物と著しく違う発達した脳を持つ事で進化を続け、文明を築いて来た。

その発達した脳とは、右脳と左脳が役割を分担して相乗的に進化したものである。

二足歩行を始めた発達初期の頃の人類に於いては、右脳域の感性は「危険察知の為の想像力に始まった」と考えられ、事前に想像する事で「少しでも危険を回避出来れば」と右脳は徐々に発達して行った。

そうした過程の中で、右脳域の感性は五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を発達させ、それらを組み合わせた信仰・空想・絵画・音楽・映像・文学などの感性を社会生活の中に構築した。

つまり歴史的に文化と呼ばれるものは、「右脳域の感性が働いた結果具現化された」と考えれば良い。

同時に、右脳域の感性とはまったく正反対の左脳域の理性と計算が、その空想的想像力の危な気な部分を現実的に処理する為の補完機能として右脳を発達させた。

結論から言うと、右脳と左脳が相乗的に発達して現在の人類が在るのだが、複雑に成り過ぎた部分も在り、一つの物事を右脳で感じ採るか左脳で計算するかで結論が変わって来る。

しかも、もっと困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。

その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。

誤解して貰っては困るが、脳の思考が右脳域の感性と左脳域の理性に役割が分担されていても、現実問題として人間はその両方を一度に働かせて居て、つまり世に言う右脳人間・左脳人間などと言う極端な者は存在しない。

つまり右脳派人間や左脳派人間の括(くく)りは、結論の主体をどちらに置いて主張行動するかの性格的な問題で、脳その物が偏って働いている訳ではない。

解説すると、通常人間の思考は常に右脳域の感性と左脳域の理性のどちらかの思考を主体にするかの選択をして居て、芸術関係の右脳域の感性を主体にした思考の中にも左脳域の理性が混在しているのが通常の事である。

右脳域の感性と左脳域理性は思考の中で混在する物だが、肝心な事は、視点を何処に置いて思考をするかで論点は変わり、人間の主張や行動が実は右脳域の思考で初めてか左脳域の思考で初めてかでまったく違う結論を得るからである。

つまり人間の思考結果は単純に右か左かではないのだが、但し一瞬の行動の中には右脳域の感性のみが働く瞬間が在り、それこそが後先を考えない右脳域の感情の発露と言う事に成る。


群れ社会を形成して生き延びて来た人類には、「シンクロニー(同調行動)」と言う心理的行動がある。

「シンクロニー(同調行動)」は、「理性(左脳域/計算)」よりも「感性(右脳域/感情)」を主体とした心理的行動である。

元々心理学に於いては、「好感」が「シンクロニー(同調行動)」をもたらせて、恋愛に到るとされる「感性(右脳域/感情)」の心理的行動を指す。

「シンクロニー(同調行動)」が顕著に現れるのが、その時々の「好感」を具現化する国政選挙での国民の投票行動である。

このシンクロニー(同調行動)型の国民の投票行動を、政界やメディアでは「風が吹く」と評する。

つまりマスメディアの取り上げ方に拠ってブーム(熱狂的な人気の対象)が起こり、然したる根拠が無くてもシンクロニー(同調行動)の「風が吹く」のである。

最近の事例としては、小泉郵政選挙の自民党大勝だったり、その後の失望に拠る民主党の政権交代、そして首相の嘘吐きに愛想が尽きた結果の安倍自民党の大勝は、国民の「シンクロニー(同調行動)投票行動」と言える。

そうなると政治家は、選挙勝利の要件として大衆の「シンクロニー(同調行動)」を意図的に「好感」を作り出す事になる。

だが、それらの「好感」は勢いだけで、後から大衆が気が付くと「何でシンクロニー(同調行動)したのかも判らない」と言う惨憺たる結果が大半である。


「同じ部族や同じ民族・人種」などの民族的同胞認識からも「シンクロニー(同調行動)」は顕著に現れる。

だからこそ日本列島・大和国の黎明期に、その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させている。

それは樺太から来た原人に始まり、稲作縄文人、渡来系と縄文人が混血した弥生人と幾つもの段階を経て、日本列島で出会った多くの部族が、大和民族(ヤマト民族/日本人)として命を繋ぎながら混血の道を辿った事である。

そして時の二大勢力、渡来系・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)の象徴・天照大神(あまてらすおおみかみ)と渡来系・呉族(ごぞく/海洋民族)の象徴・須佐之男命(スサノウノミコト)に拠る民族和合の宴・天岩戸伝説が生まれる。

つまり多くの部族が大和合して大和国(ヤマトの国)を創るには、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(スサノウノミコト)の「誓約神話」に象徴される平和の為の神事(呪詛)が「民族のシンクロニー(同調行動)」の為に必要だった。

そして古くは、「古事記」・「日本書紀」の編纂、そして当時の官製メディア・修験山伏に拠る「記紀神話の流布」も、日本列島の民が皇統崇拝に「シンクロニー(同調行動)させる事を政治的に目的とした」と考えれば解釈できる。

また、信仰や占術・予言の要素に「シンクロニー(同調行動)」がある。

先祖代々や両親、或いは周囲の大半が同じ信仰であれば「シンクロニー(同調行動)」が発揮されて自動的に信者になる。

つまり人に依っては、積極的に「独自の判断で入信した」とばかりに判断できない微妙な入信の経緯も見えて来る。

「シンクロニー(同調行動)」は群れ社会に基づく心理的行動であるが、他者に利用され易い側面が在る事を承知して居なければ成らない事でもある。


「ロマンチック」と言う感性の概念は、近代になって西洋文明が日本に持ち込んだものである。

現実を離れ情緒的で甘美な空想的様やそのような事柄の夢に浸(ひた)る事を好む様を「ロマンチック」と解説されるが、この形容動詞を一言で言う日本語は無い。

日本語に、英語の「ロマンチック」に相当する一括(くく)りの言葉が無いから、意味を説明するに多くの言葉が必要になる。

つまり西洋文明が入る前の古い日本には、「ロマンチック」と言う言葉に相当する「感性その物」が存在せず、現実を離れた空想的様を形容する概念が無かった。

そして辞書の解説に、「現実離れした甘美で理想的な雰囲気や成り行きである様」と在るからには、その言葉自身が「右脳域の感性」の範疇にある。

しかしその日本には無かった「右脳域の感性」が、困った事に現代の文学や映像ストーリー、そしてリアルな恋愛の駆け引きに大威張りで重きを為しているのである。


この「ロマンチック」と言う言葉に対する英語の形容動詞に「シリアス」がある。

「シリアス」は「極めて深刻で真面目な様や事態」とやや解説がし易いので、「ロマンチック」ほど「シリアス」の方は日本人の古い感性と離れていない。

夢に浸(ひた)るのも良いが、「ロマンチック」は本来現実離れした「空想的感性」なのである。

だから、そんな「ロマンチック」に固執して居ては、本当の「シリアスな人生」など遣っては行けないのである。



この国の歴史を取り上げる場合、厄介な事に「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つが混在している。

そして「文化としての歴史」には、観念を基とする幻想があたかも現実の歴史として思わせる形で後世に伝えられている。

この混在する「現実の歴史」と「文化としての歴史」の正体は判っていて、双方の歴史が存在するのは人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしているからである。

「左脳」は、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」とされ、「右脳」は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、つまり「文化としての歴史」は「無意識脳」としての「右脳域の観念」を満足させる為のものである。

そして後世の人々が、その「文化としての歴史」を具現化する為に墳墓や寺社、多くの文献を残している。

「文化としての歴史」は観念的な物で、史実としては多分に怪しいものである。

「文化としての歴史」は「虚」の歴史であり、その歴史は「心の歴史」とも解釈されて或る面では「間違い」とは言い切れない所もあるが、あくまでも「虚」の歴史で有る事に変わりはない。

だが、信仰や思想信条に於いて現実の歴史としたい勢力が存在するのである。

だから混在しているこの「観念的な歴史」を否定される訳には行かない難しい立場に立つ者も居る。

為に元々日本史には多くの「虚構」が含まれている。

しかしこの「虚構」を暴くと、それを生活の糧(かて)にしていて都合の悪い人々が数多く居る事も事実である。

こうした「虚構」の存在を指摘し出せば都合の悪い人達が猛反発するから、今まで取り上げられないで来た事も多い。

時たま我輩の説に対し「私はそれを認めない」と多分に個人感情的に自説を主張する方が居られるが、当方にはその方に認めて貰わなければ成らない事情は一切無い。

また、人間様々な考え方をするのも勝手だから、「虚構」を信じて「正しい」と主張しても一向に構わない。

それでも都合の悪い真実は存在し、へそ曲がり者の我輩は「虚構」を信じない。

優秀な人間は「本に書いてある」とその混在も構わず指摘するが、更に優秀な人間ならばこの観念的な物を排除して「本を自分で書くのではないだろうか?」と考えた。

我輩はけして優秀ではないが、信仰や思想信条に於いて許容されない部分もこの物語では恐れずに果敢に切り込んで行く積もりで居る。

歴史の難しい所は、例え統治の都合で捏造されたものでも、永く伝承されると「文化の歴史」として存在する様になる事である。

つまり「史実の歴史」とは別に「文化としての歴史」は、信仰や伝説を通じて時の経過と伴に育ち、後世では確実に文化として存在して「全く無い事」と否定出来ないのだ。

只、この「史実の歴史」と「文化の歴史」は、違いを認識しながら扱って行かねば成らない事は言うまでも無い。


歴史を読むに、「そんな事は在り得ない」と言う馬鹿正直な先入観だけでは、歴史を語る資格はない。

優れた発想は、すべからく既成概念に囚われない「別の角度で見直す事」から始まる。

そして解らない疑問を、自分で解こうと立ち向かうか他人に教えを請うかの姿勢の問題で、教祖と信者の関係に良く似ている。

例えて言えば、ユニークな着眼力や発想の転換など既成概念に囚われて次元が違う想像力を使わない人間に、新しい有効な発想はない。

しかし困った事に、【右脳域】の感性で思考したものには必ずと言うほど、「別の角度から見直す」と言う部分がロスト(落とす)されている。

何事につけ、「昔から決まっている」と気楽な主張する貴方、「難しい話は読むのが嫌だ」と仰(おっしゃ)る貴方、知識欲が無い貴方のIQは大丈夫ですかな?


コペルニクスの地動説を禁ずる布告を出したローマ教皇庁は、コペルニクスの地動説を支持するガリレオをローマの異端審問所に呼び出す。

「悪戯(いたずら)に人心を惑わす」が当時ガリレオにかけられた嫌疑で、勿論、ローマ教皇庁が聖書の教えとして採っていた「天動説」と相容れないからである。

確かに、ニュートンの万有引力の法則が世に認められるまで、大地が動いて居れば空飛ぶ鳥が置いて行かれない説明が着かない。

ガリレオは異端審問所に呼び出され、地動説を唱えない事を宣誓させられるも、この時の「それでも地球は動いている」の呟きは、現在に至るまで語り継がれている。

実はこの異端審問、ガリレオ潰しを目的としてその言い掛かりに「地動説を利用した」と言うのが「現在の有力な説」とされている。

ガリレオの呟きは今では昔の笑い話だが、日本の歴史解釈でも凡(およ)そ常識的な範囲に無理やり収めようとする勢力は多数派で存在する。

つまり新説など唱えても、未知の事には良く調べもせず敵意を抱く輩が多いのだから、世間など何時(いつ)の世も同じかも知れない。



歴史との付き合いは、「大胆に入って細密に考察する事」に尽きる。

つまり出来上がっている「虚」の既成概念に囚われると、奇妙な歴史観のままに成ってしまうのだ。

歴史を学ぶ者は、単にその時々の事象の追認に止まらず、そう歴史が動いた背景や動かした者と動いた者、夫々(それぞれの)の裏側にまで思い至って読む姿勢を持ち合わせて居なければ成らない。

貴方が気が着かないだけで、歴史の裏側を覗けば貴方の想像を遥かに超えるトリックが潜んで居るかも知れない。

また、歴史観に個人的心情を持ち出すと、結果、虚像の演出を容認する「無作為の罪」を犯す事になる。

しかしながら、歴史の全てを心情で解決しようとする者は後を絶たない。

いずれにしても、我輩の説が正しいかどうかはこの物語の多くの読者に判断を任せれば良い事である。


庶民がささやかな夢を託す英雄待望論は、裏を返せば他人任せの横着な思想である。

つまり自分は何も努力はしないが、誰かに自分に代わって「その苦労を背負って欲しい」と言う身勝手な話しなのだ。

しかしその身勝手を目当てに作家・脚本家が創り出した英雄物語は、庶民のささやかな夢を乗せて事実以上に大活躍してくれる「虚構」の娯楽と名る。

そうした「虚構」が読み物として、また芝居や映画として繰り返し世に出ると、もうその物語には「虚構」と「事実」の境目を見つけるのが難しくなる。

「虚(きょ/感性)」の現象の原因として江戸期に始まった娯楽、草紙(小説)、芝居の舞台本(脚本)のヒーローは、本人及び身内の自画自賛や後世の人々がかなり膨らましてデッチ挙げた物が多い。

そしてそれらが繰り返し演じられると、あたかもそれが今を生きる一部の人々に「事実としての正史」と誤解されて現代に到っている。

有名な脚色・創作例は、牛若丸(源義経)と弁慶の「京の五条橋に於ける出会い」の下り、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。

此処まで行くと極端だが、もっと酷い創り話しに「水戸黄門漫遊記」や「暴れん坊将軍」などの時代劇が在る。

勿論ここまで極端だと信じる者は少なく、完全に娯楽作と解されてはいる。

テレビ局の安易な番組製作も困ったもので、まだ真贋を論争中の事項にも「文化としての歴史」を定説として「歴史クイズ番組」を成立させ、また「歴史検証番組」にも「文化としての歴史」をそのままに放映している。

そしてそれらが繰り返し演じられると、あたかもそれが今を生きる一部の人々に「事実としての正史」と誤解されて現代に到っている。

有名な脚色・創作例は、牛若丸(源義経)と弁慶の「京の五条橋に於ける出会い」の下り、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。

益してや、公文書である古事記・日本書紀にしても半ば公文書らしき吾妻鏡や義経記、徳川実記(徳川家の諸実記)などなどにしても、専門家をして「かなりの虚構が混ざっている可能性がある」とされている。

それ故に、歴史の真相を掴むには結構一筋縄では行かないのである。

だからこそ、この「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つの混在を、上質の「推理ドラマの物語」にして「読み解きながら歴史の旅を進めたい」と思い付いたのだ。



統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

時たま、「偉い人が言った」とか「国が言った」とかを根拠に事の是非を論じる方が居られるが、実は歴史学に於いては「偉い人の言」や「国の発表」ほど信じられ無いものは無い。

過去も現在も、一国の治世を担う者がこの「日本史に混在する虚と実」の矛盾に気が着かない訳が無い。

つまり気が着いている上で、都合に拠って使い分けているのである。

その為に何度も捻じ曲げられてしまった官製日本史を、貴方はそのまま信じては居ないだろうか?

記紀(古事記・日本書紀)神話に於ける天孫降臨神話や後の皇国史観に合致しない為にロスト(欠落)してしまった縄文期から弥生期に掛けての史実と、その後の縄文人(蝦夷族)のレジスタンス(抵抗)の歴史に対して貴方はどのくらい認識が在るだろうか?

この物語では戦前の「皇国史観政治体制」では誰も書けなかった歴史の闇も書き記すので、戦前の教育を受けた方とは歴史認識には世代間のギャップもあるかも知れないが、「自分と歴史認識が違う」と切り捨てないで批判は最後まで読んでからにして貰いたい。


歴史の真実が「後ろめたいもの」だと、後ろめたさを感じる方がそれと「別の物語り」を創作して何とか隠そうとする。

例えば、北米大陸の西部開拓史に於けるネイティブアメリカン(アメリカンインデアン)の存在を、米国映画では白人を襲う獰猛な野蛮人として西部劇を大量に制作した。

本来は先住ネイティブアメリカンの土地を、欧州から渡り来た白人が銃や大砲と言う強烈な武器でネイティブアメリカンを追い出し、占拠して勝手に町を創って自分達の国を打ち立てた。

先住ネイティブアメリカンは隷属して、理不尽にも狭い居住地の中に囲われて生かされたた。

それと同様の「後ろめたいもの」が、縄文人(ネイティブジャパニーズ)の日本列島へ当時最新の武器を携えて渡り来た渡来人が先住縄文人を「獰猛な野蛮人・鬼」に仕立てた鬼伝説である。

ここまで史実を解明しても、「嘘でも見栄えする日本史が良い」と言う国粋主義者が沢山居るが、そう言う連中は政治信条に於いても平気で嘘を言う連中である。

つまり嘘の史実で、国民をコントロールしようと言う下心が「見え見えの連中」と言っても過言ではない。

それも、「その手法が正義だ」と頑なに言う狂信的確信犯なのだから、困ったものである。

その狂信的確信犯の頑なな根拠が史実では無く「俺はこう思う」で、全く根拠に成らない「個人の希望的主張」なのだから話には成らないのだ。


これは、衣ばかりで中身の無い歴史に飽きた方にお薦めの物語である。

確か太平洋戦争の終戦(敗戦)直後の頃の事らしいが、有名大学の校章を付けた学生服を着た偽者の学生が制服の信用を利用して悪さをして歩いたそうだ。

今では死語に成っているが、その偽学生を評して「天婦羅学生」と言った。

つまり当時は食糧事情が悪い時代だったので、衣ばかりの天婦羅で中身が無い事の表現だったが、歴史に現代の認識合意や性規範(倫理観)を当て嵌めて嘘で固めた作文をする事は、正しく「天婦羅学者」のする事ではないだろうか?

確かに別の意味や目的で差し障りの無い歴史を作り上げれば安全かも知れないが、それは幾ら派手に飾り立てても衣ばかりで中身が無い天婦羅なのである。

我輩に言わせれば、どんな偉大な足跡を残した人物でも歴史の中では一場面の登場人物であり、瞬間を切り取った一片の自然よりも小さな存在に過ぎない。

まぁ衣だけでも見映えのする立派な物語の方が夢があるから、そちらを信じたい方も多いかも知れない。


この物語、我輩がある確証を持った事から始まっている。

断って置くが、この国の二千年を越える歴史はある単純なルールの上に成立って来た。

それに気付き、好奇心で調べれば調べるほど我輩のその確証は益々強くなった。

正直歴史なんて物は、立場の違いが在る中で「どちら側から見るか」や条件に違いが在る中で「どの角度で見るか」で出て来る答えが違う厄介なものである。

その中で、定説とは「違う側」と「違う角度」から歴史を見直す道筋を、誰かがつけても良い筈である。


街道は都に通じ、国々を結ぶものだが、血統は過去と未来を結ぶ人類の歴史街道である。

過去を辿って来た祖先が在るからこそ、我々がここに居る。

普段、その重みに我々は気付いていないが、営々と受け継がれた血統こそが、もう一つの歴史街道・・命の歴史である。

永いスパンの血統で、もう一つの歴史街道を辿るこの物語は、人間の愚かさと生き行く事の「道標(みちしるべ)」を手探りで進む旅路でもありそうだ。


命の歴史にリセットなどは無い。

過去から現在、そして未来への命のリレーが在って初めて歴史の糸が紡(つむ)がれる。

つまり延々と続く血脈こそが、歴史物語の主役だった。

この物語の記述したエピソードの大半に、我輩は歴史の連続性を証明する為の「後日談」を付けて在る。

それは、数年後だったり千年後だったりするが、前のエピソードを御記憶願えれば、貴方に「この物語の意図が理解される」と確信する。

その「後日談」が新たな出発点となって、次の歴史を紡(つむ)いで行くのが、「皇統と鵺の影人」の物語である。

人間のDNA遺伝子は螺旋(らせん)状に連(つら)なっているそうだが、その歴史に於いても起こり得た事は螺旋(らせん)状に連(つら)なって今日に到っている。

この物語於ける我輩の試みは、その悠久の旅に貴方を誘う積もりである。



さあ、「それでは貴方を二千年の歴史の旅にお連れ致しましょう・・・・」と言いたい所である。

だがまずはお願いで、この物語を読むにあたって、決まり切った発想は排除し、既成概念に囚われて停止した貴方の思考回路をクリアオンに繋(つな)ぎ直して読んで欲しい。

何故それを言うかを説明すると、過去の記憶の全てを白紙にして、この物語を先入観無しに一から読んで欲しいからである。


歴史を少し知っている読者で困るのは、知っている事に関しては「そんなの当たり前だ」と言い、知らない事に関しては「そんな事は在り得ない」と成る事で、最初からその調子ではこの物語を読んでもキット貴方の為には成らない。

この物語で我輩は、今までの日本史を覆(くつがえ)す可能性の指摘を多々しているが、その根底に在る姿勢は「古文書に記載されている」ではなく、歴史を「いつ頃何の目的が在って誰が始めたものか?」と言う視点で捉えるからである。

つまり物事の始まりは、信仰にしても習俗にしても最初は何者かの意図が在って始められたものであり、歴史研究者が昔から存在する事を理由に無条件に疑わないのではインテリジェンスが無さ過ぎる。

既成概念に囚われて別の可能性を考える視野を持たない一生を過ごす事は、その方にとって大変不幸な事である。

大概の物語と言う物は、万人向けに書いてある。

だから少し高度な事柄も、書く事を敬遠してしまう。

つまり事前の知識程度は夫々(それぞれ)であるから、貴方一人の為には書いては居ない物語りに向って厳に戒めるべきは、始めから「そんな事は知っている」とか、「そんな事は常識だ」と言う姿勢で臨む事である。

それは明らかに自己顕示欲のみの思考であるから賢者のする事ではない。

そして人の思いは夫々(それぞれ)であるから、読み終わってからならば如何なる感想を持とうが読者である貴方の勝手である。


問題なのは、縄文期から弥生期の初期渡来氏族への歴史的移行過程が日本人の意識から欠落している事である。

縄文人(蝦夷族/えみしぞく)も日本人の祖先であるから、勿論縄文期の遺跡や出来事も我が国の歴史である。

だが、その辺りを古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)の単一民族神話に惑わされて何故か弥生期の初期渡来氏族文化の中に蝦夷文化を混合してしまう悪しき傾向が存在する事である。

人間は、何かに拘(こだわ)ると真実が見えなくなる生き物で、我輩に言わせれば建前ばかり言う奴は、独り善がりの格好を付けているだけである。

しかし大衆は、その建前ばかり言う奴らの方を信用するから困った事になる。

まぁ、何事も最初から決めて掛かっては、新しい物事や発想を受け入れる事が出来ない。

この物語では、今まで培(つちか)った貴方の先入観は邪魔な存在でしかないのである。


歴史が判り難い(理解し難い)のは、「時代考証と意識考証」の難しさである。

つまり、歴史を簡単に判り易く(理解し易く)するには、この「時代考証と意識考証」を無視して娯楽時代劇風に、何でも現代風に扱ってしまえば、読み聞きする方が「あぁ、キットそうだろう。」と納得し易い。

意識や認識の面でも感情の面でも自分と合致するから、反発心も懐疑心も抱かないからである。

それで、現代の意識に迎合した歴史が作られる。

所が本物の歴史では、現代とは全く違う「時代時代の意識や認識」を基本として、正(まさ)に「当時」が存在している。

「時代時代の意識や認識」は、宗教観だったり、道徳観だったり恋愛(結婚)観や性意識だったりする。

それらの「時代の意識や認識」を採ると、多くの人はその内容が理解し難いものになる。

しかし、その「時代時代の意識」を採用しないと本当の歴史は語れないのだが、その意識や認識が現代と違ったりすると、途端に「そんな馬鹿な事は有り得無い」と、理解出来ないどころか否定しに掛る。

「昔はこうだった」と言うと「時代錯誤で現代では通用しない」と非難する方に言いたい。

歴史学の上では現代の倫理感や価値観で認識して勝手な判断をする事は、それこそ最悪のオーパーツ(場違い/時代錯誤)行為である。

時代の基点が違えばリアルな歴史が存在し、そうした「時代錯誤で現代では通用しない」と非難する方に限って、歴史観は滅茶苦茶である。

歴史には人間が営々と築いた連続性があり、歴史を研究する場合は連続性的検証を心掛ける事が重要である。

所が、「その時代の専門研究」と称して歴史の中の一ヵ所だけを切り取って研究するとその研究者の思い込みから想わぬ誤解を招いてしまう事がある。

人間は群れ社会の動物であるから、群れ内の合意や取り上げられる話題に弱く、それ故に何らかの伝播・伝承で繰り返し耳に入る内容や人名には弱い。

特に知っている伝説や名前には、「知っている」と言うだけで既に疑う事を放棄してしまう思考傾向を持っている。

そしてその思考傾向は、この日本列島でも神代の昔から統治に利用されて来た。


この国は、天孫降臨伝説に基いて、二千年の永きに渡り血統至上主義(けっとうしじょうしゅぎ)が「感覚的常識(かんかくてきじょうしき)」として通用して来た国である。

それが二千年を数える「日本に置ける価値観」だったから仕方が無いが、先祖が偉かっただけで子孫が何でも無くてもそれなりの地位を得て気楽に喰えた国だった。

基を正せば、渡来人の部族が原住蝦夷族(縄文人)に対して自分達の統治権の正統性を補完する為に「天から降りた神の子孫」と天孫降臨伝説をでっち上げたからだが、為に天孫族出自・氏族が統治者の条件に成った。

為に血統至上主義(けっとうしじょうしゅぎ)に守られた子孫が、江戸期に到る永い事血統が良いだけで無条件で指導者になれたり就職が容易だったりした。

いや明治維新後も、おおっぴらでこそ無くなったが血統至上主義(けっとうしじょうしゅぎ)は「感覚的常識(かんかくてきじょうしき)」として生き残り、「誰々の子孫」と言う表現が通用したまま現代に到っている。

つまり、その辺りの意識や認識を押さえた上でこの物語を読んでもらいたいのだ。


本物の歴史には、本来余り格好が良い話しは無い。

日本列島に於ける今に伝わる全ての歴史は、その根源を辿ると渡来部族(氏族)が先住民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)を隷属化する事に腐心した痕跡に辿り着く。

その事に言及しない日本史は、既に古事記・日本書紀の術中に嵌って「根本的に間違った出発をしている」と理解して欲しい。

娯楽として痛快な擬似体験ストーリーを望むならそれでも良い。

ドラマチックな武勇伝や恋愛劇は痛快でロマンチックではあるが、しかしそれは脚本家の仕事で在って「歴史的事実」とは言い難い。

確かにその「懸命に生きる(命懸け)」と言う精神的な物には観念的魅力を感じ、歴史ドラマにそれを求める方も多い。

もし派手な歴史上の人物だけ登場する歴史物語なら、それは歴史の一部しか語っては居ない。

「そんな事は充分承知で娯楽として愉しんでいる」と言われるかも知れないが、現実の歴史の多面性を抹殺するものである。

確かに庶民の物語には歴史に残る主役は居ないが、しかしそんな庶民も命を繋いだ歴史の一部で、そんな名も無い庶民達の生活もこの物語には記述してある。

人間には夫々の感性があり、読み味が良い「嘘」の内容を求める方も多いので予め申し上げるが、この物語は出来るだけ深く事実を調べて教科書に書けない事にも淡々迫る積りだから、そう言う「建前の嘘」を好む方にはこの物語を読む事をお薦めしない。

それでも歴史や過去の人物について、現実とはかけ離れた「夢のみの幻想」を求める希望的な心情の人達も多い。

しかし、「自分達の夢が壊れるから」と言って、創られた歴史や過去の人物の創られた英雄像を事実として後世に伝えて良いものだろうか?

娯楽として考えれば仕方が無いかも知れないが、歴史的に有名な人物を、「偉い者は偉い」と言う単純かつ短絡的な発想で英雄視する風潮は、誉められたものではない。

日本史には、その誉められたものではない「奇妙な正義」が存在する。

例えれば、近頃頻繁に報道される「冤罪事件(えんざいじけん)」は、真実を追究するのではなく「組織と権威を守る」と言う共通の利害の為に警察・検察・裁判官が連携する結果である。

歴史解釈に於いても、この「組織と権威を守る」と言う共通の利害は、時として真実を潰す「奇妙な正義」なのである。

その他に理由が在って出した結果を「良し」とする人間に、歴史を語る資格は無い。

つまり「こうあるべき」と言う「べき論」を真っ先に掲げて思考を始め先入観を押し付ける事は、自分の正義感を満足させたいだけの綺麗事論者の姿勢で、それで正しい歴史判断などできる訳がない。

そしてその怪しい気な「べき論者」が闊歩しているのが、日本史の世界でる。

この矛盾に、貴方は内心気が付いている筈であるが、偉い者にも質が有り、大概の英雄はけして民衆の為ではなく覇権思想に基づき「自分に対して偉い」のである。

人間は出遭った瞬間に恋する事は在っても、出遭った瞬間から相手を愛する事など出来ない。

しかし出遭った瞬間の恋でも性交する事が出来るのだから、「愛が無ければ性交など出来ない」は綺麗事である。

「愛」は永い時間をかけて互いが育むものだから、見合いにしろ恋愛にしろ順序からすれば「愛」より性交が先である。

従って「愛」が性交の条件ではない事に成り、男女の仲に「愛」が無くても本能で性交は可能である。


大体に於いて、人間は性欲が強いと「嫌らしい」とか「スケベ」と非難されるが、言わせて貰えば子孫を残すのは本能だから、性欲がなければむしろその方が異常である。

つまり男女伴に、性欲が在って当たり前が正常な本能だからこそ、自然にペアが成立して性交をする。

そして元々初期の人類は、種の保存をヘッジ(リスク回避)する為に適した相手に巡り合う為の「群れ婚」で、その本能が潜(ひそ)んでいる。

勿論、「だから」と言って現代の社会ルールを破りながら「本能だから仕方が無い」と言う言い分は成り立たない。

ロジック(論理)的には「他人の家庭を壊さない」などの、社会性に反しない程度での性欲処理の利口な対処の問題で、「否定すれば解決する」と言う幼稚な問題ではない。

性に関する事だけで無く学校での虐め問題などもそうだが、無い事にしてしまうとそれで終わりで対処を考えない。

だから不都合な事実でも、その存在を認めた上で対策を考えるのが最も人間らしい問題解決の筋である。

つまりその辺りの「機微(微妙な心の動きや物事の趣)」を上手く消化していたのが、長期に存在した村落共同体の「村社会の夜這いや宿制度」だった。

尚、村落共同体の詳しい解説は、本書の第五巻で取り上げている。



日本の歴史は明治維新まで氏族支配の歴史で、主役は氏族だった。

しかしその歴史の影に、「氏姓」を持たない多くの民人が居た。

民人とは村落共同体を構成する平民と言う名の氏姓を持たぬ人々であり、その平民の下には非人(賎民)と言う扱いの被差別部落民が存在した。

特に被差別部落民(非人・賎民)に関しては、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効されるまでは、言われ無き差別を受けていた。

明治以前の庶民感覚と以後の庶民感覚は全く違うのだが、それらはもうスッカリ忘れ去られ、現代の庶民感覚で歴史を見てしまう。

例えば凡そ江戸中期に於ける日本の全人口三千万に於いて、氏族は全体の六%(内・皇族、華族、士族 合わせても人口の四%弱残りは神官、僧侶が二%)、平民その他は八十九%、非人(賎民)と言う扱いの被差別部落民が五%と言う割合だった。

平民の中には氏族から身分落ちした家系(商人・庄屋・廻船問屋など)も存在する事から、すなわち日本の大きな歴史変化は二千年の歴史を通して僅か五%〜十%が引き起こして名を刻んで来た事になる。

そうして見ると、教科書には載っていない多くの民人達にも日々の生活が在った訳で、主役こそ居ないがこの物語ではそうした民人の生活の一部にも触れて行きたい。



困った事に、安易に生きようとする者の共通の台詞は「昔からそう決まっている」と言うものである。

それに対して我輩は、「おぃおぃ、その昔って何時頃からの事だね。」と言いたい。

この物語を最後まで読んでいただければ理解いただけるが、「昔から決まっている事」には仕掛けた奴が居り、尚且その決まり事は経時的に変化している。

政治体制にしても日常思想にしても保守一本槍では進化は望めない。

チャールズ・ダウィンは、その著書進化論で「変化できる種だけが生き残る。」と結論付けているが、なぁに、そんなに永いスパンで考えなくても、「変化できる人間だけが人生の勝者として生き残る。」と言うのも一つの真理かも知れない。


歴史の扱いに宗教観と政治思想が加味されては、リアル(現実)な歴史観は導き出せない。

宗教関係者や占術師には「昔から決まっている」と非常にインテリジェンスが無い強情を張る者が多いが、何事にも始まりはある。

つまり決まり事には必ず「何時頃から何故に」が存在し、その何時頃から何故にを避けては本当の歴史は突き詰められない。

しかしそこを突き詰められると全てが「御仕舞い」になってしまう決まり事も多いから、「昔から決まっている」と強情を張る以外に無いのが宗教や占術なのである。

しかもこの国は、「神の威光で統治する」と言う摩訶不思議な「建前」の国だった。

つまり「統治の都合」と言う事情に於いて、大きな背景の下に捏造(ねつぞう)した歴史は存在する。

歴史には「真実(理性)の歴史」と「文化(感性)の歴史」があり、時の統治者(権力者)は、実はこの「文化(感性)の歴史」を巧みに操って統治の力としている。

勿論、「文化(感性)の歴史」は「虚の歴史」である。

しかしこの「文化(感性)の歴史」=「虚の歴史」を単純に否定できない事が、歴史を扱う者の厄介な所である。

例えば「真実(理性)の歴史」と「文化(感性)の歴史」を「混在する二面性の歴史」と捉えるなら、サンタクロースは正に「文化(感性)の歴史」としての存在である。

そしてサンタクロースが存在するしないの論争になると、事実としては存在しないが子供の数だけ「文化(感性)」のサンタクロースは存在する。


「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、明治維新政府が天皇制を採って育てた「皇国史観」は、正に皇統に拠る統治の正当性を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含んでいる。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。

勿論だが、現代でも「有名人や肩書きが在る人だから」と言って、世の中それだけで信用できるとは限らないではないのか?

正直、この日本国の総理に、選挙前は「政権を取ってもやらない」としながら、自分が総理に成った途端、「嘘吐きと言われようがペテン師と言われようが、不退転の決意で増税する」として実行した最低の男がいた。


歴史解釈を一方的に決め付けるのは簡単だが、いずれにしても現実はそれほど単純ではない。

解釈は、それをする者の思想・信条・信仰などの軸足の置き方で希望的に大きく変わるもので、つまり万人が納得する歴史解釈などは、個人の思考の中には存在しないに等しいのである。

だからこそ、歴史の捏造を肯定する為に反復して懐疑要素を否定する臍(へそ)曲がり者でなければ、縦横無尽の歴史考察など出来ない。

入り口で間違えたものは、最後まで間違いである。

純粋は美しいが「罪」である。

純粋ゆえに否定された不純なものもまた、真実だからである。

凡その所、表現の美しさに誤魔化されて真実を見たがらない者は、本質的に「愚か者」である。

我々の先祖が、生々しく生きていたのは当然の事で、それを歴史の闇の中に「無かった事」として葬る事は、歴史から学ぶ事を放棄し、過ちを繰り返す事になる。


それは日本人の誇りは我輩にも大切なものである。

だからと言って、然したる検証も無しに「日本人は優秀だ、日本人は立派だ」と盲目的に聞き耳の良い言葉ばかり並べている間に、世界中から置いて行かれる懸念を感じるからこそ、一度「この国の歴史を振り返って見たい」と思い着いたのである。

つまり、「政治や宗教などの心情」と言う別の目的や社会迎合で、学術的な嘘をでっち上げる学者は、けしてインテリジェンスが有るとは思えない。

本来、格好が良く見えるのは「上っ面(うわっうら)」だけで、人間の「内面の格好良さ」は、表面には出ない。

しかし男も女も、「見てくれ」で判断するのだから、世の中はままならない。

善人はつまらなく見えるが、危険な香りのする人物は民衆にとって魅力的な存在らしい。

後世に伝えべきものは創られた民族的プライドだけでなく、「皆で渡れば怖くない」式の、ともすれば起こりがちである同一方向に妥協しない為に「冷静にものを見詰める思考能力」を、大衆が持つ必要ではないだろうか?


起承転結は、物事の展開や構成を表すものである。

我輩が意地悪く斜に構えて歴史書を見てみると、その「起承転」からこの「結」は有り得ないだろうと言う事例にしばしば出会う。

歴史結果を良く見てみると、物事の展開や構成を表す起承転結の「結」が、遡(さかのぼ)って「起承転」を炙(あぶ)り出すに充分なヒントを与えてくれる時があるのだ。

歴史の中には、文献こそ残されていないが「史実全体を良く調べて見る」と正史とは違う別のストーリーが滲んで浮かび上がる事も有り、つまり正史は「無難な答え」しか出していないのである。

どこで誰が捻じ曲げてしまったのか、指し示す膨大なデーターと必ずしも一致しない強い意志が働く歴史の捏造がこの国の歴史教科書には存在する。

もう一度確認するが、統治に於ける重要な要件はその権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

古事記・日本書紀は正史では無く、明らかにそうした思想統一を意図したイメージ(心像・形象・印象)を形成する為のツール(道具)だった。

どれほどの道程になるのかは見当が着かないが、困難を跳ね返してその事を解き明かして行くこそ、へそ曲がりな我輩の「賭け替えの無い祖国」への使命かも知れない。

兎角我が国に限らず、現在の倫理観や価値観の物差しに合わない歴史的事実(都合の悪い歴史)は、「内の子に限って在り得ない」式の感情で、存在しても認めたがらないのが人間の心理である。

そこで、「民族の誇りの為」などと言う別の論理が働き、何んとかして歴史を美化する。

特に我が国の表面重視(上っ面/うわっつら)の建前主義では、けして本質に踏み込まず、「都合の悪い事」には、何かと建前の奇麗事を並べてやり過すのが日本流である。


赦せないのは、「常識人」の顔をして、社会的な枠組みに迎合する輩(やから)である。

こうした輩(やから)の、本来なら凡(およ)そ真実とかけ離れた建前論を「正しいもの」としている背景には、「社会的な枠組みの維持」と言う別の事情があるからである。

しかし、心有る者なら「国家の為、或いは保身の為」と言った理由で真実から目を背け、安易に迎合するべきものではない。

つまりは真実を追究するのではなく、別の動機で歴史を「デッチ上げよう」とする輩(やから)が一部に存在するのである。

この国は「建前」に重きを置く国で、日本の過去は、「建前上」美しくなければならない。

そう言う上っ面(うわっつら)の「建前発想」の元で、歴史を残そうとする。

それが現代でも、国民を導く正しい「政治手法だ」と頑(かたく)なに信じている指導者や学者の多い国でもある。

それ故に、世の中さし障りのない表面的な嘘ばっかりだから、敢(あ)えて私は「本音でこの物語を書こう」と思ったのだ。

我輩が、例え国家の公式な書類でも疑って掛かるのは当たり前である。

現に至近の例としては、多数の現地県民の証言があるにも関わらず、集団自決に「軍に強制は無かった」として、戦後永く教科書に記載されていた「沖縄戦での集団自決に軍の強制があった」と言う文言が、「政治的?」に削除された。

小泉・安倍ラインの右傾政府は、先の太平洋戦争(二次大戦)において、沖縄の住民の集団自決に軍が関与強制した歴史的事実を、国民の記憶から抹殺を試みたのである。

本来、真実が見苦しくても未来に真実を伝えるべきで、そこから反省や未来への方針が決まるのだが、そこを隠そうとするのは「何か別の方向へ民意を持って行こう」と言う意図的なものがあるからである。

凡(およ)そ権力者(政治家)の考える事が、そう言う狡猾(こうかつ)なものである事を考えれば、過去の歴史は公式文献に拠って脚色され捻じ曲げられて来たものである可能性を知るだろう。

そこまで行かなくても、都合の悪い事は「先送り」にするか、「無かった事」として存在を認めない。

所が、それで済む訳も無く、「無かった事」としてして居る間は、無い事だから論議もされず、対処方法も考えないのでは対処は出来ないまま放置する。

だから、問題のほとんどの場合は「手遅れ状態」で表面化する。

小中学校で頻発した「虐め問題」は、この「先送り」にするか「無かった事」にする典型だった。

それが日本流の、「建前上の美しさ」である。


凡(およ)人間が考える「常識」と言うものは、粗方(あらかた)思い込みに過ぎない。

常識は時代や環境で変化するものであるから、絶対性はまったく無いのである。

この物語を読み進めると、貴方が従来認識して来た歴史とは違う部分もあろうかと思うが、まずは見方を変えて検証を試みると「こうした歴史の読み方が在る」と言う事を御理解願いたい。

つまり毎日同じ道を歩いていても雨や嵐、強い日差しの日もあるだろうが、道を変えて試(み)なければまったく新しい景色に出会う日は訪れない。

学問や芸術、人生その物も同じ事で、新しい発想を見るには道を変えて試(み)る必要があるのだが、人間楽に生きたいから見なれた道を歩こうとする。

楽に生きたいのならそれも一つの生き方だから非難はしないが、つまり物事の全ての価値観は同じ事象に於いても抑制的か積極的かの個人の軸足の掛け方一つで変わって来るのだ。


世の中には、仕掛けられてから永く永く伝わって、もう誰が仕掛けたのかさえ忘れられた陰謀もある。

つまり、信じられ積み重ねられた伝統や風習、信仰も最初は誰かが仕掛けたもので、それが永く伝わるとまるで疑いも無く信じられる「常識」に成るのが「世間」と言うものである。

例えば「時代の常識」と言う概念で考えれば、戦前と戦後と比較するだけで主権者が天皇から国民に移っている。

そして貴方が真剣に考えれば、自分の過ごして来た短い間を振り返るだけでも、随分と「常識」が変わった事に気が着く筈である。

そんな貴方が、普段「常識だ」と思い込んでいる絶対性が無い事を、「常識だ」と言って間単に処理してしまうから、他人に対して間違った対処をしてしまう事も多いのである。

この「常識」とか「普通」と言う言葉は、概して同じ様な用法で用いられる。

表現を変えれば「既成概念」であるが、両者伴に時代や環境に拠って変化するもので、実は誰かが「意図的に変える」と言うよりも、社会がその必要性において自然に選択するもので、絶えずその変化を認識しながら生きる者が、「知恵のある生き方」と言える。

一見、明治維新や先の大戦(第二次大戦)後の「既成概念」の劇的な変化は人為的に見えるが、これも歴史の上では必然的に社会環境の変化の為せる技で、つまり、「時代の常識」をいち早く読み取って行く事が肝心なのである。

判り易く言えば、戦前の歴史観は、戦前の政治体制と大きく結び付いた目的意識のある歴史解釈の上に構成されていた。

所が、一度染み付いた歴史観は中々払拭されず、戦後の永い間も戦前の歴史観は踏襲されて今日まで来ている。

この戦前の政治体制と大きく結び付いた目的意識のある歴史解釈は一度見直す方が良いのだが、それを見直す為にもこの物語に拠って二千年の歴史の旅を貴方に追って欲しいのである。



歴史解釈に於いて、研究者の常識は「〜〜の文献に記述が有る」である。

研究には証明が必要だから、「〜〜の文献の記述」が決め手になる。

とは言え、現実から目を逸(そ)らしたロマンチックな事を望む勢力の方が圧倒的に多いのが現実である。

しかし怖い事に、それは「偽りの現実」を真実と誤解させる一歩を踏み出す事に成る。

お気付きの事だと思うが、そこで問題なのは聞き耳の良い「偽りの現実」が未来に向けて発信される事実である。

だが、研究の拠り所になる「文献の記述内容」に、為にする目的で書いた者の意図が隠されている事はないのか?

元々歴史に関しては、例え教科書に載っていても信用が成らない。

この物語の根幹となる考え方を指摘したいので良く覚えていて欲しいが、古文書の存在は「不都合な過去を消す為」と言う政治的効用も在り、「必ずしも事実とは受け取れないもの」と心得るべきである。

歴史の古い民族または歴史の古い国は、どの国も大概同じだが、その国の歴史は単なる「統一見解」であり、歴史テストは「統一見解」をもって正解不正解を判断するもので、民族や国家の希望的な感情が盛り込まれている。

小説を書く者の常識(この場合着眼点)は、「〜〜の文献の記述は、本当に事実だろうか?」である。

我輩のようなへそ曲がりに言わせると、後世に残る「文献の記述」には政治や思想の匂いがプンプンして居る。

それ故、「〜〜の文献に記述がある」と言われても、その記述が存在する事を認める事は出来ても、記述内容の事実には、研究者のように「ここに書いてあるから間違いない」」とは明言は出来ないのである。

人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。

そして発想が自由でなければ、斬新な思考は創造(う)まれない。

つまり学んだ学問は、新しい発想の原点に過ぎないのであるから「学問を修めたから」と言ってそれを「絶対視する事自体」が危険な思想である。

それでは中世の「天動説」と同じレベルで、学問を修めたらその活用こそが個々の課せられた使命である。


何事も一方行からしか物を見ない偏った見方では、肝心な事を見落とす。

印象派の巨匠・セザンヌの作品は、描く素材のを個々様々な角度から研究し、上から見たり斜めや真横から見たりとその最良の角度を採用して描いた個々の素材を一枚の作品に集約して配置している。

それ故に、一枚の絵としては視線角度がバラバラで現実にはけして見えない風景だが、個々の素材美を最高に引き出された物が多くを物語ながらその一枚に収まっている。

歴史観に於いても、単純で平面的なものではその本質は描き切れないから、寂しいけれど、妄想の日本史とおさらばしなければ、この国の歴史観はいつまでも御伽話(おとぎばなし)のレベルから抜け出せない。

この国の正史は建前で出来ていてどうせ建前と本音を使い分けるのが人間だから、皮肉を込めた批判精神で世間と対峙する方が「まともな人間ではないか」と思えて来る。

他人(ひと)は「素直じゃない。」と非難するかも知れないが、素直な人間なら「簡単に信者に成る」と言う事で、本当にそれが本人にとって良い事かどうか・・・「素直に成れ。」とは、権力者の術中に嵌る不気味な要求である。


国家の都合で編纂された「古事記・日本書紀」を拠り所とする日本史とその学説について、その入り口は正しいのだろうか?

まぁ歴史観に於いて、古事記・日本書紀も列島民族統一の為の作文として、当時「嘘でも必要だったもので在る」とする統治者側の言い分が在るのは事実であるが、その作文が「現代でも通用する正史」と言うのは消極的共犯に該当し、現実離れして居そうである。

何事も、入り口で間違えたものは最後まで間違いである。

そこでへそ曲がりな我輩は、入り口を変えて歴史を追う事を試みたのである。



本来、歴史の事実を解釈するには、実在する証拠をヒントに積み上げて、文献との整合性を探る所にある。

それが、日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

つまり、如何なる国の歴史書も「時の権力者の統治上の都合」が必ず紛れ込むもので、文献に書いてある事を「盲目的に信じるものではない」と言う事だった。

真実の歴史を紐解くヒントは、伝説の中にある。

確かに伝説や風聞は立証能力に欠けるが、例え文献が残っていても時の権力者の捏造(ねつぞう)も在り得るので、立証能力は五十歩百歩である。

古事記・日本書紀に於ける日本の天孫降臨神話は、天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)の「尻久米(しりくめ)縄」から始まっている。

このエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝が修験道師を使ってまで仕掛け「性におおらかな庶民意識」を創り上げた理由の背景はいったい何んだろうか、それこそが大和民族成立の原点かも知れない。

伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れないのである。


都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図を持ってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、この事が「歴史の謎」を創り出すのである。

留意すべきは、例え実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である。


過って、この国の歴史観には皇統と信仰は触れる事の出来ない物だった。

現在でもその傾向が強い為に誰も書けなかった歴史の疑惑にも言及すると、この国の人々は直(すなお)過ぎるのか、それとも今まで信じていたものを否定されるからなのか、「そんな事は言うものではない。」と論拠も無しに否定して中々新しい事実を受け入れようとはしない。

この国の歴史は天皇(帝)や皇室と分けては論ずる事は出来ない。

確かに天皇(帝)や皇室は日本人にとって精神世界の存在であるから、誰も冒(お)かす事は出来ない存在である。

しかし、天皇(帝)や皇室が「精神世界の存在だから」と言って、歴史的事実を歪曲(わいきょく)する事は別である。

歴史的に見れば、歴代天皇は武力抗争に利用されたり中心に居たりした事も事実である。

だからと言って、今更声高に非難されるべきものではない。

今日でも、世界中であらゆる神々が「間違いの判断を下している」からこそ、武力抗争が絶えないのではないか?


気が付いて見ると、幼少の頃より我輩に刷り込まれた世間の歴史観は違和感だらけである。

違和感を感じると、「何故?」と言う疑問が湧き上がって来る。

この疑問こそ「この物語」の原点で、歴史解釈をするには多面的な作業が必要で、選んだテーマが、「血統と信仰」だった。

このテーマで歴史を解釈して行くと、歴史に於ける必然性に「鮮やかな理由」が浮かび上がって来るのである。

良く在り勝ちだが、「教科書に書いてある」或いは「法の文面に書いてある」は、大して立派な結論ではない。

実は思考の出発点に過ぎないのである。

思考の出発点であるからこそ論議が始まり、裁判が結論を求めるのである。

勿論、誰かが「そう言った」などは、尚更「思考の出発点に過ぎない」のである。

いずれにしても良く調べて見ると、実は何の根拠も無い「常識」と言う悪魔の単語は、自由な発想を妨げる最大の敵である。

人間が納得した思考(意識)を基に行動をする行動形態学上の基点を「アンカリング効果」と言う。

つまり人間は、納得した思考(意識)に錨(いかり/アンカー)を降ろしてしまうと、そこから中々抜け出せない。

同時に、人間には「思考(意識)と行動を一致させよう」と言う行動形態学上の要求がある。

何か新しい考え方を受け入れる事が出来る出来ないは、その思考(意識)と一致していないから「納得出来ない」と言う事で、裏を返せば思考(意識)を変えてしまえば、納得出来ない事が出来る様に成る。

人間の思考能力は無限大で、思考方向も無数に存在する。

にも関わらず、自らを縛ってしまうのがアンカリング効果と一貫性理論の罪の部分である。

これを信仰に当て嵌めると良く判る。

盲信すると、「経典に書いてある」や「教祖様がおっしゃった」が、疑う事の無い絶対的で危険なものに成るのだ。

それを言っては信仰などお仕舞いかも知れないが、元々信仰は仮想現実(バーチャル・リアリティ)の精神世界で、信じうる現実性など無いのである。

ここら辺りの人間の思考(意識)「アンカリング効果」を、上手に操作する為に生まれたのが信仰(宗教)である。

占いや信仰は精神世界のもので、凡そ現実的で無い事象を信じる事も多い。

勿論嘘が全て悪いものではない事を前提に言うのだが、占いや信仰を乱暴に表現すれば「嘘を持って人心を安んじるもの」である。

それだけに、「利」に走ると一部かも知れないが質(タチ)の悪い占いや信仰も存在する。

占いや信仰でご利益が在ったり貴方の未来が手に取るように判るなど正に「在りもしない奇跡」である。

つまり真っ当(全う)な人間なら、「信仰は精神世界のもの」で現実とは矛盾する多くの虚構を含んでいる事は承知の事実で、詰まり「在りもしない奇跡」が存在しなければ人々の救いを求める精神世界は満足させられない。


突然だが、山鯨とは猪(イノシシ)の事である。

この山鯨の名称は、仏教の影響で四足動物の殺生が禁じられた日本に於いて獣肉食が禁忌とされた時代も、山間部などでは便宜上「山鯨(やまくじら)(肉の食感が鯨肉に似ている為)」と称して食されていた名残である。

山鯨(やまくじら)に関しては「薬喰い」の別名からも判るように滋養強壮の食材とされ、白い脂肪に縁どられた赤いイノシシの肉は、切り分けて皿に盛った状態が牡丹(ぼたん)の花のようである事から「牡丹肉」とも言われた。

この山鯨に代表される信仰上「獣肉食が禁忌」とされた日本の食文化は、実は日本人の身体の発達と寿命に大きな影響を与え、つい六十年前の太平洋戦争敗戦以前の日本人は平均的に身体が小さく寿命は短命で在った。

この食生活、明治維新の文明開化から食肉習慣が徐々に育ったが、太平洋戦争敗戦後に漸く食肉文化が花開き昭和末期から平成生まれにかけての日本人の体格は格段に向上した。

対して、唯一日本本土とは違う食文化が育った沖縄(琉球国)では、「沖縄と言えば豚肉料理」」と言われるくらい豚肉を多様に調理して食する文化が定着し、日本有数の美肌と長寿の県として現在を誇っている。

この沖縄(琉球国)の食生活習慣に拠る豚肉食の効用が、コラーゲン (独語: Kollagen、英語: Collagen)の摂取に拠るもので在った。

コラーゲン は、真皮、靱帯、腱、骨、軟骨などを構成するタンパク質のひとつで、多細胞動物の細胞外基質(細胞外マトリクス)の主成分で、人の体内に存在しているコラーゲンの総量は多く全タンパク質のほぼ三十パーセントを占めている。

コラーゲンはゼラチンの原料であり、化粧品、医薬品などにも様々に用いられ、人体はコラーゲンを摂取する事でコラーゲンの新陳代謝が良くなり、「再度コラーゲンとして合成される」と言う事も判って来ている。

近頃では、美容に於いて効果や効能がコラーゲンにある事は良く知られているが、コラーゲンは身体を構成する上でとても重要な働きをしてくれ、臓器などを形成し、支え、結合する働きを持つ。

特に健康維持の点でコラーゲンの働きは重要で、体に必要な物質を補給したり不要なものを運んだりと、生きて行く為に欠かせない全身に張り巡らされた血管はコラーゲンがその維持を担っている。

血管は細かい傷を絶えず生じているもので、コラーゲンが不足するとこの傷口の修復が上手く行かず、傷付いたままだとそこから血液中のコレステロールなどが侵入し易くなり、それが積み重なると血管を圧迫しそこにカルシウムなどが重なって固まり血管はもろく壊れや易くなるのである。

コラーゲンが不足し血管が丈夫で健康でなければ身体に脳出血や脳梗塞、心筋梗塞などの生命に関わる疾患を引き起こす異常が起こり生命まで脅かされる結果になる。

ここで山鯨(やまくじら)を取り上げたのは、生き物の生命を慈愛する信仰上の精神と人間の現世利益が「必ずしも一致しない」と言う事で、仏教の獣肉食禁忌の教えが日本人の身体の発達と寿命に「大きな影響を与えていた時代が在った」と言う事実である。

勿論、生き物の生命を慈愛する精神は間違いではなく、これはどちらに目を向けるかの軸足の問題で、正面では正しい正論にも側面では「その正論に拠る弊害も起こる可能性がある」と言う事で、信仰にも政治思想にもその危険は絶えず孕んでいるから妄信しない事である。

いずれにしても本書では、純粋に歴史的事実の観点から占いや信仰を扱っているので、関係者には容認できない事もあるかも知れない。


実は人間社会に於いて、信仰や占術は個人の精神世界の心情が基本に成るものだけに「或る種の聖域」に成っていて、歴史の真実には絡み難いものである。

つまり余分な争いを避けるには「触れてはならないもの」として信仰や占術が聖域化され、歴史を歪めて来た部分も多い。

この物語は、その「触れてはならないもの」に敢えて踏み込み、歴史の真相に迫って見たいのである。


「何も気持ち良く認められている歴史合意を壊さなくても良いのに」と言う意見もあるが、無難にそして偽りに満ちて創られた奇麗事の歴史は、我輩には要らない。

庶民の視点で歴史を検証する事で、「歴史認識の謎」と「嘘・隠蔽(いんぺい)」に迫りたい。

それが我輩の狙(ねら)いであり、この物語の原点である。

この辺りに、既存の歴史解釈を「どう捉えるのか?」と言う姿勢が必要であった。

我輩のこの取り組みに於いて、建前の破壊こそがどうやら必要な事に成りそうである。


小さなヒントを掴むと、我輩の想像は限りなく膨らむ。

我輩がこの物語で異説を唱えると、保守派は「荒唐無稽で学術的な裏付けは無い」と言うだろうが、これは物語であって論文ではない。

しかし学者達も、そんなにアンカリング効果的な定説に拘っても良いものだろうか?

何しろ、ズーッと下った鎌倉幕府の成立時期でさえ、千百九十二年から千百八十五年に教科書の記載が変わる位、歴史の定説はまだまだ信憑性に欠けるのである。

人間は本質的に、変わる気に成れば変われるもので、「素直に変わったから」と言ってさして不都合がある訳ではない。

大概の所は、意地を張って変えないだけであるから、意地を張って変えない事は運否天賦で、変えないのが良い場合いも有れば、変えなければいけない事もある。

唯言える事は、疑いや迷いが有りながら、それでも意地を張るのは得策ではない。

絶対の自信が有るのなら、大いに意地を張れば良いのである。


実は、誰にでも言える事を言えば、多くの人の共感を得るのは容易で、それと違った事を言うと酷い抵抗に会うのが世間である。

例えば、日本人が「信じたがる物語」と「信じたがらない物語」と、我輩はどちらを書くべきだろうか?

そう、・・単純に判らないからこそ人生は面白く、ときめきは終わらない。

ときめきは、終わらないからこそ、人は未知に挑戦する。

それに、偶然の未知が重なって、未来が刺激的に始まる。

だからと言って、その全てが偶然だけで始まっては居ないから世の中は不可思議である。


不都合な真実には、蓋をするのが建前主義の常套手段である。

それは、歴史が歪められる事を意味している。

そもそも「短く説明し難いから」と言って、皇族、公家、神官・僧侶、武士、百姓、職人、商人、非人などと簡単安易に身分分けをしてしまい、その誤解を前提にさせたままものを理解させるから、歴史の流れが正確さに欠けるのである。

実は江戸期に成立したこの身分分け制度、それ以前は兼業や安易に移動出来る選択肢としての業種だった。


エッ、「我輩は何者か?」ですって、ただの歴史好きの団塊世代の男ですよ。

何に、「素性の知れない男の話しなど信じられない。」ですって。

それですよ、それ。

その判断基準が問題なのです。

あなたが既に「既成概念」の虜に成っている証拠ですよ。

まぁ、この際それは置いといて、結論は読後に出す事で「まぁ、話を進めましょう。」と言うのが、この物語の「礼儀」と理解して欲しいですな。

何と言っても「書き物」は、書いた人間が問題では無く書いた内容が問題なので・・・・


どの分野でも、専門家に言わせると「そんな事は当たり前だ」と言って、相手がある水準まで判っている事を前提に話を始めてしまう。

処が、案外読む方(聞く方)の理解水準はまちまちで、判っている様で判っていない事にも暫々(しばしば)直面するから、それも問題である。

歴史の分野でもその通りなのだが、「そんな事は当たり前だ」が、どうもどこまで当たり前と肯定して良いものかが疑わしかったのである。

第一に、歴史の読み方は一様ではない。

見る角度やテーマの違いで、今まで見えなかったものが見えて来る。

だからこそ、我輩の試みはそれなりに意義のあるものに成る筈である。



それにしてもこの国は、近頃面白くない事件が多過ぎる。

「いったい近頃の日本人と言うものは、どう言う人種なのだろうか?」

ばかげた話だが、一度考えたら起きていても寝ていてもそればかり気に成る。

今、目の前で相手の目も見ないでレジを通しているコンビニのおばさんの先祖は何者だろうか?

本来人間は、共に生きる事で互いを理解し合うもので有る。

それを効率化の名の下に、意図的に意志疎通を遮断した「マニアル化機械人間社会を作ろう」と言う社会風潮が多過ぎる。

近頃ショップ(店)に行くと、やたら「作り笑いか無表情」、決まり切った応対の台詞は気味が悪い。いずれにしても「こいつら何なのだ?」

それで一つ、今日ここに到る日本人の人種的形成の過程に興味を持った。

我輩は、無謀にも困難な疑問に挑戦する気に成り、日本史の謎を追う戦いを始めてしまった。

権力が入れ替わる度に歴史は改ざんされ、新しい秘密が生まれる。

しかし、記述されている言葉の裏に眠っている真実を、我輩は知りたい。


物書きの戦いは孤独で有る。

妻は「こんな難しい話、誰が読むの。」と聞き、子供達は「もっと気楽に読める方が金になる。」と、のたまった。

そう言われると、返って闘志が湧くもので、時代時代の出来事を、我輩より詳しく知っている方は沢山居られても、血統と言う「命の繋がり」をテーマに、二千年の大和民族の考察を描いた読み物は「余り無い」と、この書き物を強引に始めてしまった。

妻子が「金にならない」と評するのは当たり前で、この物語は史実を綺麗事にするのを避けているからドラマ化が難しい。

史実に真正面から臨んでいるので、或いは差し障りの出る職業や立場の存在も予想されるから金には成りそうも無い物語を敢えて書いている。

確かに手っ取り早く金にしたいなら、愉快痛快・・・と大衆が好む単純明快な物語が良いかも知れない。

そして大衆が好む、「武士道」などと言う日本人の怪し気な建前だけ打ち出した虚構の方が、安易に売れるだろう。


正直な所、この物語は理解能力が有る大人が対象の歴史物語で、甘いヒーロー物の歴史ドラマを好む娯楽小説ではない。

第一、人間の一番悪い所は、嫌な事を敬遠し楽をしたがる事で、その典型が「肥満」や「糖尿病」である。

あなたの脳みそは、無駄に楽をしていないだろうか?

つまり、コレステロールの様に無駄な知識で、肥満状態に成ってはいまいか?


思うに、戦後の日本人は「共通の価値観の構築」に失敗して、迷走し続けているのではないだろうか。

民主国家に看板を書き換えた筈の日本国は、再び戦前の財閥政治に近付きつつある。

国民に自活の道を開かずしてギリギリまで大企業だけを優遇し、「どうしても食えなければ助けてやる。」と言うのは、もはや「民主国家の政府に在らず。」と言える。

こう言う時は原点に遡って、どう言う経緯の基にここまで日本人が生きて来たのかを一度検証してみたら、各自が「どう言う答えを導き出すのか、見もので有る。」と考えるが、いかがか?


元々好奇心から始めてしまった調べ物だったが、調べれば調べるほど面白い。

謎を読み解くには鍵が必要で、鍵が合わなければ扉は開かない。

我輩には、その謎解の鍵(キーワード)の正体が判ったような気がしたのである。

当然のように「正しい」と理解していた日本史は、信用するには無理な多くの謎を孕んでいた。

むらむらと、それらに対する好奇心が湧いて来た。

過去があるから、現在が存在する。

過去を無視して今を語るのは得策では無く、そして書き物は納得が行くまで書くのが我輩の性分で有る。

そのうち誰か、奇特な御仁が読んでくれるに違いない。



我輩の愛するこの国は、いったいどうした事だろう?

最近、国際間の意見や意志の対立を、「独自文化だから相手に理解させれば良い」と主張する政治家が居る。

靖国神社の「戦犯合祀問題」の事だが、あれは独自文化の乱用である。

独自文化や、独自思想の形成過程を知っての意見なのだろうか?

まさか、「罪を憎んで人を憎まず」や「罪人も死ねば神仏だから」と言う被害者の感情を無視した「世界的に見ても稀な奇麗事」を、加害者側が感情的に押し付けて主張する無気味さが、「日本の独自文化だ」と言うのか?

一方で輸出大国として世界中から財を稼ぎながら、矛盾する事に日本人は国際感覚の欠如を指摘されている。

どこへ出かけていても、本国の経営者が日本式発想を相手の国に押し付けようとするからである。

人間は理屈より感情が先に立つ、それに占術や宗教が入り込むと、往々にしてヒステリックに自分の主張を変えない事になる。

先人は自分の生きた道(生き方・信じるもの)を否定されたくないから、変化を好まない。実はその積み重ねが、「独自文化」だったり、「宗教観」だったりする。

伝統には良いものもあるが、気を付けないと逃げ道になったり、思想の押し付けになったりする。

本来、思想や宗教は「学問的対応で論ずるべきもの」であり、感情的に論ずべきものでは無い。

所が人間は愚かな事に、「自らを否定される」と感じるから、感情的にしか処理が出来なくなり、最終的に武力まで行ってしまう。

幸せをもたらす為の信仰が、紛争の種になるのは矛盾である。

つまり相違するものを「全て相手が間違いで、相手が悪い」とする所に信仰の危うさがある。

伝統の裏返しは、実は新しい発想を放棄する事である。

即ち、単なる思い込み(既成概念)を基準に、正しいと判断している事も多い。

冷静に考えれば、あの思想文化は被害者側が「寛容の心で加害者の家族を救う場合」のもので、加害者が威張って被害者に主張するべきものでは無い。

「日本の常識は世界の非常識」と極論を言って問題意識の喚起を図った作家が居たが、刷り込まれた意識ほど厄介なものは無い。

世界に通用しない「日本の独自文化」がもう一つある。

日本人が世界の人々から評される事に、「何を考えているのか判らない」と言う見解がある。

それは、表情である。

いつの頃から誤解しているのか知らないが、我が国の人々は表情を表に出さない事が「格好が良い」または「行儀が良い」或いは「有利である」と思い込んでいる。

所が、これを他国の人間が見れば酷く不気味なのである。

本来、他の動物と違って、表情が豊かなのが人間である。理由は簡単で、相手との意志の疎通を図る為に表情が豊かに発達した。

つまり、人と人とのコミニュケーションは言葉だけでは足りないのである。

考えて見れば直ぐに判るが、同じ「ばか!」と告げても、言っている人物の顔が笑っているか怒っているかで、意味が正反対に受け取られる。

つまり、喜怒哀楽を表情に出す事で言葉の意味を相手に「より正確に伝え易く成る」のである。

裏を返せば、無表情では意志が相手に伝わらない。

それを勝手に、「腹の内を見せないのが高等技術」などと思っている。

相手に意志が通じないでは、何を言っても援助資金を出しても共感など得られる筈はない。

つまり、人間らしさが無ければ他人の共感を得るのは難しいのである。

そしてこの「共感を得られない現象」、実は、馬鹿馬鹿しくも現代の日本国内で大きな弊害に成っている。

およそリーダーたる者、部下や国民の共感を得ずして、指導力は発揮できない。

リーダーならば、思いやりを持って他人の為に泣き哀しみ、他人の為に笑い、他人の為に働かねば成らない。

それが無いから、「全てが嘘に見える」のである。

つまり、元々そうした真摯な心情を持ち合わせない人間が、策略だけで政治や企業を動かして居るからではないのだろうか?

正直言って、善人が権力者にのし上がる事など有り得ない。

まぁ権力者の虚像など人為的につくられた幻想で、事実は「生々しいもの」と相場は決まっているのだが、どうも虚飾で飾られた方が大衆受けするらしく、ウッカリ事実を言おうものなら、「夢を壊す」などと批難される。

それで歴史人物は、後世では功績ばかり取り上げられるが、権力者が多くの人権を無視している事に庶民自身が意識的に「気が付きたくない」のだから仕方が無い。


「罪を認めたくない」と言う心理や、「企業や組織を守りたい」と言う思いがあるのだろうが、死人まで出した「おわびの記者会見」で、あの当事者達の無表情は何なのだ?

亡くなった人やその家族、そして守るべき企業や組織の関係者の為に、「申し訳なかった」と後悔の念で心底泣ける人間らしい記者会見が、何故出来ないのか?

中身が有る会見であれば、喜怒哀楽を表情に出しても「見苦しい」と非難する前に共感が起こる。

それならば、いささか格好は悪いが見る者にも共感が生まれ、世論が「企業や組織の息の根まで止めろ」とは成らないのではないだろうか?

心情を露にしないのが「礼儀正しい」などと言うのは、昔の統治者が民に施した不当な戒めである。

それが何時の間にか、「我が国の常識」になった。

政治のリーダーが真に国民の共感を得る積りがあるのなら、心情を素直に伝えるべきである。

国民の為に泣き、国民の為に笑う姿勢を体現すべきで、無表情の演説は、「奥ゆかしい」のではなく「嘘っぽい」だけである。

これからのリーダーは、政治に真摯な「喜怒哀楽」を持ち込んで、政策を訴えるべきである。

この辺りに気が付いた者が、新たなリーダーとして国民の支持も得られるはずである。



日本人のブランド好きは、外国人から見ると「滑稽だ」と言われている。

あのみっともないブランド好きは、何処から来たのか?

その事には、立派な理由がある。

実は、日本の民人(たみびと)は、永い事血統のブランドを価値観として強いられて生きて来た。

我輩に言わせれば、これこそが、良くも悪くも「日本人が信じさせられた日本文化」そのものである。

このまま読み進んでいただければ、この血統のブランドが日本人の価値観を永く支配して来た事に気が付く筈である。

この日本文化とも言える「血統ブランド主義」の弊害は随所に見られ、その変形が「学歴主義」である。

つまり、本人の人間性ではなく、安易に学歴で人物を評価してしまう弊害で有る。

優秀(ゆうしゅう)の優は、優(すぐ)れている事を指すが優(やさ)しいとも読み、優秀の秀は秀(ひい)でているとも読み、つまり秀(ひい)でて優しい人物こそ優秀(ゆうしゅう)なので在って、己の野望の為に他者を殺す者は学歴が在っても優秀とは言わない。

簡単な話し、国家公務員上級職試験(キャリア)に合格すれば、善人だろうが悪人だろうが官僚に成れる。

成った官僚は、小・中・高・大学校で勝ち組みだった輩で、自分が頭が良いから、世間は「言い成りに騙せる」と思い上がった低俗な人種である。

その辺りが、日本の役人汚職の根底にある。

国家を運営する者は、なるべく利巧に越した事は無いが、「利巧」と言うものには性質(タチ)があり、悪賢いのも利巧の一種で有る。

しかし、その辺りは事前には試しようが無い。

本来の値打ちは学歴ではなく「学識であり、社会性をも含めた知性だ」と思うが、いかがか。


例えると人間形成でも同じ事だが、そこに行き着くまでにその方は様々な影響を受けていて、現在在るその人柄の要因は一筋縄では理解できない。

同様に歴史上の出来事でも要因は多種多様だから、多くの環境状況をご紹介しないと単純な簡略史では説明が着かないので、出来るだけ細かい記述をする。

「文章が長い」とのご批判も在ろうが、短く簡略すればするほど要因が単純な物に限定されて正しいご紹介が出来なく成ってしまうので、この物語が長文なのはご容赦願いたい。


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(神の民人)

◇◆◇◆(神の民人)◆◇◆◇◆

前置きが長くなったが、何しろ二千年の物語の前置きなので、どなた様もご容赦願いたい。

それでは、ソロソロ本題に入ろう。

貴方は、「鵺(ぬえ)」と言う不気味な妖怪を御存知か?

鵺(ぬえ)は、邪気を放つ怨念の妖怪で有る。

「平家物語」に拠ると、その姿は、頭が猿、体は狸、尾は蛇で、手足が虎であるとされ、その鳴き声は聞く者の心を蝕み、取り殺し、その「魂を喰らう」とされている。

いやはや「鵺(ぬえ)」は、不気味な妖怪である。

鵺(ぬえ)は想像上の生き物であるが、言わば人間が抱く「恐怖の象徴」と言える。

昔は、都と言えども夜は闇の世界だった。

照明はかがり火や油灯明で、無いに等しい。

闇に紛れて、妖怪が跋扈(ばっこ)するのは恐怖心理的に充分理解できた。

平安末期の千百五十三年(仁平三年)春、夜な夜な都の東三条の森から怪しげな黒雲が湧き起こり、「宮廷内裏(きゅうていだいり)の上空を覆う」と言う怪事に、時の若き天皇・近衛天皇(第七十六代/当時十三歳)は大変悩まれた。

当時の平安の都は、平安群盗(蝦夷ゲリラ)の出没が未だ収まらず、何時(いつ)恐ろしい場面に出食わさないとも限らない恐怖を、人々が深層心理の中に孕(はら)んだ時代だった。

近衛天皇は、当時まだ若く兵庫頭だった源(三位)頼政とその朗等・猪早太の二人に御所(御殿)の警護をさせ、「鵺(ぬえ)を退治させた」と言う。

内裏(だいり・皇居)は、天皇の平常時に於けるお住まいの事で、皇宮(こうぐう)とも言う。

この妖怪、「鵺(ぬえ)の正体こそ民人(たみびと)の怨念」であり、それと戦う密命を帯びた者こそ日本の歴史に見え隠れする影人達の主な仕事だった。

いつの世でも、世間はヒーローを作りたがる。

源(三位)頼政は、この時代に脚光を浴び、都雀(都びと)の人気を得た人物だった。


古代から近世まで、日本列島は「恐怖を支配する者に」支配されていた。

その恐怖を支配する直接的なものは武力で有り、精神的な物は神仏だった。

つまり日本の神々の半分以上が、尊敬からではなく、恐怖(恐れ)から生まれている。

御所の鵺(ぬえ)退治の警備をした源(三位)頼政は、平安時代末期の人物である。

源(三位)頼政は、後に後白河天皇の皇子、以仁王(もちひとおう)の令旨に従い、木曾(源)義仲より早く、伊勢平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵を行い、嫡子の源仲綱や源宗綱らと共に平氏と戦い、宇治(宇治橋の合戦)にて討ち死した人物だった。

そう、源頼政は皇統を守る影人だったのである。



日本の歴史は、実は征服者と被征服者の歴史である。

東シナ海、日本海、対馬海峡、琉球列島伝い、二千年以前と言う悠久の昔から、それは日本列島へ渡る海の道だった。

彼らは征服欲を満たして「王に成る為」に、武装軍団を率いて荒海を渡り来た。

この当時の最新の武器は、青銅製・両刃(もろは)の直剣であるが、金属文化に遅れた列島の先住民相手では充分な威力を発揮した。

古代黎明期の列島の民にとっては、僅か百人の金属武装軍団でも大軍にあたるほど、人口は少なく、広域に分散していた。

その時代、日本列島は渡来人部族にとって「支配地切り取り自由」の新天地だったのである。

当時としては近代兵器の武具を携え集団で渡来して来た征服部族に、元々争いを好まない農耕民族の先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)など一溜まりも無く、瞬く間に隷属化してしまった。

しかしこの争いを好まないネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族/エミシ族)は結構強(したた)かで、この物語の後半で紹介するが体制に組み込まれて隷属化しながらもその体制の中で生き残る為の「村落共生社会」と言う独自文化を形成して行くのである。

征服部族にとって、僅かな数の先住民が豊かに暮らす水と緑が豊富な肥沃の大地は、別天地に映った事であろう。

実の所、諸外国と比べ、この自然の豊かさが、長い事「日本と言う国」を他国より豊に育てるゆり篭だった。

日本民族は「優秀な人種だ」と思うが、優秀に成れたにはそれなりの環境があっての事を忘れてはならない。



日本人の祖先は何処から来たのか?

この命題に答えるならば、「日本人は、何度かの段階を踏んで日本列島で出会った多くの人種(部族)の混血体」と言う答えである。

しかし困った事だが、日本人は未だに単一民族神話を心の片隅で棄て切れていないから、先祖は「何処其処(どこそこから)来た」と単純明快な答えを求め過ぎる。

そしてそうした単純明快な説を唱える輩も多いが、そんな単純明快な説を提唱する輩は非現実的であり、もしその説が信憑性を含んでいてもそれは日本列島に渡来した部族の一部に過ぎず、日本人の根幹を成す祖先では無い。


今から数万年前の氷河期、当時大陸と分厚い氷の層で陸続きだった樺太から原始的な人類の群れが南下移動して来て最初に日本列島に居住した。

この樺太から日本列島へ来た原人の時代を史学上は旧石器時代(きゅうせっきじだい)と呼び、人類が日本列島へ移住して来た時に始まり、一万六千年前の終わりを迎えたと考えられている。

固体として非力な動物である人類は、生きる術(すべ)として道具(或いは武器)を使う事を覚え、群れを為す事で協力して生きる事を覚えた。

従って群れを為す事は、人類にとって最も基本的な本能と成った。

まだ地続きだった凍て付く樺太を経由して日本列島に南下して来た人々の群れは、マンモスを狩る為に追って来たのかそれとも暖かい土地と豊富な獲物を求めて遣って来たのだろうか。

狩猟民族の彼等が、最初の日本列島の住人だった。

最初は良い狩猟場所を求めて群れ同士で争そう事もあっただろうが、移動しながら狩をする群れでは成果は不安定だから狩は人数が多い方が効率を上げられる。

その後日本列島は、凡そ一万年前頃に地球の気候が温暖になると、日本列島は大陸から離れてほぼ現在のような姿形の列島に成り、初期の原始的な列島の住人は大陸と孤立した。

但し、日本列島には、原人や旧人の存在は確認されていない。

何故ならば、出土した原人の骨と推測された明石原人(あかしげんじん)、西八木人骨(にしやぎじんこつ)などが、考古学的に否定されつつある。

列島地域で発掘された骨で学術的に確認されているのは、原ポリネシア系縄文人からである。



原人の結氷期列島渡来説とは違い、確実に列島渡来が認められるのが原ポリネシア系縄文人の存在である。

当時はまだ男女の仲が自然淘汰の類人猿の繁殖形態に近く、元々「群れ婚(群れ内乱婚)」だった彼らは、互いに誓約(うけい)の性交をもって群れを合流し、新しい群れ作っては混血を繰り返し、増え過ぎると分裂しての集合離散を繰り返しながら列島中に群れを拡散させて行く。

元々人類も生き物であるから、自然の本能に導かれて「食欲と性欲」が主たる生活の目的で何んの不思議も無い。

人間の心とは即(すなわ)ち「自己意識」の事で、言わば如何なる性交形態も「不純・不道徳かどうか」は一に本人がそう思うかどうかの問題で、時代時代で変わって行く習俗である。

誓約(うけい)の成果は極シンプルなもので、言わば部族(民族)の枠を取り払って群れを統合して行く事である。

性交を持って誓約(うけい)とするその先にあるのが両者の混血した子供の誕生であり、異部族(異民族)の具体的な統合である。

気候の変化に順応しながら狩猟採取生活を続けて暮らしていた彼等の前に現れたのが、稲作技術を持つ原ポリネシア系縄文人だった。


日本列島の縄文期は今から六千年〜四千年も以前の事で、これ以前に樺太から南下移動して日本列島に渡り来たとされる原始的な人類は、採取狩猟を糧を得るの手段としていて、凡そ文明らしきものは無かったと想われる。

ただ、五千年ほど以前に最初に海の道(黒潮の流れ)を渡って日本列島に来たのが、確認されている列島最初の住人、稲作や土器の文化を持つポリネシア系縄文人である。

渡来して来た原ポリネシア系縄文人に拠って大陸やトカラ列島経由で南部九州へと水稲耕作技術が伝わり、時間を経ながら定住する群れが日本列島に広まっている。

五千年ほど以前に黒潮の流れに乗って渡って来たポリネシア系縄文人に拠って、大陸やトカラ列島経由で先住民にも稲作が伝わって採取狩猟から定住への変化が起こり、各地に縄文人(蝦夷族/エミシ族)の「邑(むら)/屯(たむろ)い」が出来て日本列島は縄文の文化期を迎える。

この先住採取狩猟民とポリネシア系縄文人の混血が、ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族)である。

列島各地で縄文土器が発見され、少なくとも縄文人(蝦夷族)に拠って縄文時代の晩期までには水田農耕が「東北地方にまで定着していた」と思われる。

この縄文期に、古代イスラエルの失われた十支族の一部が列島に移り住んで原住民と民族的に和合し、縄文人を形成した痕跡が存在する。

その縄文人が「ヘブライ文化の一部を定着させた」と言う、未だ解明されない「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」がある。

実はこのヘブライ文化が、六百九十九(文武天皇三年)に役小角(えんのおずぬ)が成立させたの陰陽道に、日本列島の原信仰として取り入れられた形跡があるのだ。


毎年初夏から初秋に掛けて日本列島近海の海水温が上昇する頃に、黒潮本流は日本列島に近付く。

恐らく、日本人の多くの祖先であろう原ポリネシア系縄文人は、その季節に黒潮に乗ってやって来たのだろう。

このポリネシア系の初期渡来人に関して、反対に日本列島から「列島の民がポリネシア・ミクロネシア方面に拡散して行った」と言う説を唱える者も居るが、当時「海流に逆らって太平洋の各地に進出する航海術が在った」とは考え難い。

やはりポリネシア・ミクロネシア方面から黒潮海流に乗って北上して来た」とする方が自然である。

我輩のつたない想像力でも、木々を束ねた筏の群れや大木を刳(く)り貫いた丸木舟の船団が荒波に耐えて次の島次の陸地を目指し、大洋を進む様が浮かんで来る。

波間に彼等の目に映った大きな陸地が・・・日本列島だったのである。

然したる航海術も無しに、「海流の流れの先に新天地が在る」と果敢に挑戦した祖先が居た事は悠久のロマンではないだろうか。


日本列島の歴史は、海(海流)のもたらせた歴史である。

その海流は、南からから北に列島を包むように掠めて流れる日本海流(黒潮暖流)と対馬海流(対馬暖流)である。

日本海流は通称・黒潮(くろしお)と呼ばれ、北太平洋の亜熱帯循環の北西部分に形成される幅が狭く強い流れの海流が、列島を包むように北上して来るのである。

この海流は、暖かい南方の海から暖かい海水を運ぶ為代表的な暖流に分類され、気候変動と連動して広い北太平洋を時代時代で流れを変えながら日本列島に近寄ったり離れたりする。

その通常の流れは、遠くポリネシアの島々から台湾島太平洋沿岸掠めた後、台湾島と石垣島(八重島群島)の間を抜け、琉球列島の西側大陸寄り(東シナ海の陸棚斜面上)を流れ、九州の南西で方向を東向きに転じてトカラ海峡を横切る。

日本列島南岸(北太平洋側)に流れ込み、九州島・鹿児島沖、四国島沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖の太平洋沿岸を掠めながら北上、伊豆諸島の御蔵島と八丈島の間を通過する。

黒潮(くろしお)は、御蔵島と八丈島の間を通過して房総半島沖で南に転じて行くが、気候環境により大蛇行流路と呼ばれる南に大きく蛇行する流路をとる事もある。

日本海側に向かう支流はトカラ列島付近で分流し、東シナ海の沿岸水と混ざり合っ九州島西方沖を掠め、九州島西側を北上して対馬列島に進み対馬海峡を通って、日本列島の日本海側海域に暖流・対馬海流(つしまかいりゅう)となって流入する。

対馬暖流とも呼ばれ、日本列島の日本海側が比較的温暖なのはこの対馬暖流の影響である。

その黒潮(くろしお・日本海流)と対馬海流が、悠久の昔からの海の道で、古代縄文人(ポリネシア系)を運び、後発の征服(進入)部族(氏族・渡来民族の呉族・別名海人族や隼人族/加羅族・別名山人族)を運び、両者の混血を経て「弥生(時代)人」が誕生した。



日本列島には、原人や旧人の存在は確認されていない。

列島地域で発掘された骨で、確認されているのは縄文人からである。

古事記・日本書紀が編纂される少し前の天孫降臨伝説の時代、倭国群が「日本の西半分まで」と言ったが、それではその頃の東半分はどう成っていたかと言うと、蝦夷(エミシ)の領域であった。

つまり、倭国以前から原住する日本列島固有の原住民族が居た。

日本史の中で、意図的に抹殺された蝦夷(エミシ)の存在である。

日本列島の本来の先住民はネイティブジャパニーズ・蝦夷(えみし/縄文人)だった。


日本列島に於ける最初の人類の時代が、今から約一万六千五百年前(紀元前百四十五世紀)から約三千年前(紀元前十世紀)の「縄文時代」である。

つまり相当永い間の期間が日本列島の「縄文時代」であり、その終焉が約三千年前(紀元前十世紀)頃に始まった初期の渡来人の流入で、「弥生時代」への時代の移り変わりとなる。


古代史の時代に遡ると、日本列島には一万年以上前の「縄文文化」の以前からの原住民族が居た。

これも遺伝学的に言うと、単一では無かったらしい。

そこへ、約一万六千五百年前(紀元前百四十五世紀)頃に、大陸や南方の島から別の種族が次々と日本列島に移動して来る。

やがて、原住民と古い渡来人が同化して縄文人が成立し、縄文文化が始まる。


蝦夷(えみし)とは縄文人の事である。

日本列島の本来の先住民はネイティブジャパニーズ・蝦夷(えみし/縄文人)だった。

蝦夷(えみし)は、その後に大陸文化を携えて渡来した侵略部族側が縄文人(先住民族)を呼んだ呼び方で、自らが名乗った訳ではない。

つまり時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで元々「蝦夷(えみし)族/縄文人(先住民族)」の領域だった。

その蝦夷(えみし/縄文人)の領域を、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上して来た倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り支配者になった。

それが邪馬台(やまたい)国や伊都(いと)国、狗奴(くな)国などの「倭の国々」だったのである。

まぁ秦帝国の始皇帝(紀元前二百二十年頃)が中国大陸に君臨して頃は、日本列島が、未開の縄文人が暮らしていたある種「黄河文明」から遠く離れた辺境の島だった事は事実である。


この蝦夷(えみし/縄文人)と呼ばれる先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

後述するが、大和朝廷(ヤマト王権)の中央に陰陽寮なる官庁が在る以上、初期の段階に於ける地方派遣の陰陽師修験者が、情報操作及び政治工作を担った大和朝廷(ヤマト王権)の工作員である事は、順当な解釈である。

そしてその役目は、先住民である蝦夷(エミシ)の抵抗勢力を鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と称して暴力的な蛮人に仕立て上げる事である。

つまり渡来人が日本列島に居座って成立した大和朝廷(ヤマト王権)の正当性を照明する為に、先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)は殊更野蛮な部族でなければ成らなかった。

その工作員・陰陽師修験者の工作が実って、現代の日本に伝わる先住民・蝦夷(エミシ)の抵抗勢力は、見事に言われ無き悪役としてしか地方民話にも残っていない。

その代表的な伝説が、源源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の鬼(おに)退治や土蜘蛛(つちぐも)退治、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の鵺(ぬえ)退治だった。

現在でも、この鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)を悪役とし、源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の活躍伝承は、神楽舞いや田舎歌舞伎、祭りの主人公などで全国に残っている。

それにしても、多少の落人伝説(おちゆうどでんせつ)はあるものの、現実には全国に残る村落の住人の祖先は先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)系が有力である事から、陰陽師修験者の情報操作及び政治工作が相当に上手く行った事に成る。


蝦夷(えみし)は侵略部族側がネイティブジャパニーズ・縄文人(先住民族)を呼んだ呼び方で、自らが名乗った訳ではない。


島国の日本列島では先住していた樺太から南下して来た人々と、この海の道(海流)を運ばれて(航海して)来たポリネシア系の人々との第一段階の誓約(うけい)拠って合流した。

中国大陸南部・雲南省辺りに発祥し朝鮮半島経由でやって来た雲南系・原加羅族人と、そして同じ早い時期に雲南省辺りに発祥した稲作(熱帯ジャポニカ種)が東南アジア経由でポリネシアに伝播していた。

為に、列島に渡って来たポリネシア系の人々が日本列島に稲作の初期技術をもたらして「縄文人」が成立した。

その後時代が下がった紀元前三世紀頃に、第二段階として同じポリネシア系でも一旦中国大陸に渡り大陸系住民と混血した人種や大陸系の多数の人種が、朝鮮半島経由で海峡を渡り来た者達や海流に乗って南洋諸島からの移り住む者達がいた。

彼らは、文明を携えて比較的後発の征服(進入)部族として日本列島にやって来た。

後発の征服(進入)部族は、中華文明や列島に合う別の稲作種(温帯ジャポニカ種)を持って渡来した征服部族は、自らが王に成りたい文明に毒された覇権主義者の群れだったのである。


弥生期は紀元前千五年前からの五百年間で、この頃より日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから一族を率いた渡来移住者が多数、勝手に土地を占拠して定着し始める。

但しこの弥生期の始まりには諸説あり、近年では紀元前二千年前説の可能性が言われ始めている。

中華文明や列島に合う別の稲作種(温帯ジャポニカ種)を持って渡来した彼等文明の利器(金属武器)を持つ征服部族の前で、平和共存主義の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は為す術(すべ)も無くその支配下に置かれて行った。

この「黄河・長江流域文明文明」から遠く離れ、未開の縄文人が暮らしていた辺境の島・日本列島が、新天地を求めて「噂の蓬莱島」に渡り住もうとした征服部族達の「ずうずうしい神々の光臨の地」と成ったからである。

縄文人(蝦夷族)と違い、中国大陸・朝鮮半島からの渡来移住者は大陸文明の価値観をそのままに征服野心満々で新天地を目指して来た。

その征服部族が本格的な小国家「倭の国々」を打ち建て、それが誓約(うけい)で大和合をして国家・大和朝廷が形成されたのである。


日本列島に渡来し乱立した日本列島の小国群は、戦(いくさ)と誓約(うけい)を繰り返して統一の過程を辿る。

例えば渡来した呉族系海洋民族が九州北部で倭の国々の一つ「奴国(なこく)」を造る。

この「奴国(なこく)」の存在は、「後漢書・倭伝(東夷伝)」と志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の符合からその存在が定説化した。

志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。

だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。

中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。

つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。

その奴国(なこく)が、一時期は渡来系ながら部族が違う卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)の邪馬台国(やまたいこく)に一時期は圧迫された。

やがて奴国(なこく)は九州南部で勢力を盛り返して、海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立する。

その狗奴国(くなくに)が勢力を増して九州南部・中国・四国・紀伊半島南部に到る広大な地域を支配し、卑弥呼(比売大神・天照大神)の邪馬台国(やまたいこく)を圧迫する。

この海洋民族の王がスサノオ(須佐之男/須佐王)で、やがて両民族和合の為の誓約(うけい)に到って両者が統一を為し、日本列島の西半分が神武朝・大和朝廷の基礎と成った。

つまり天の岩戸伝説は、構築された誓約(うけい)神話なのである。

勿論その誓約(うけい)神話の中の物語に登場する天照大神(比売大神・卑弥呼)やスサノオ(須佐之男/須佐王)は両部族の神格を持った象徴である。


この一時は卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)の邪馬台国(やまたいこく)と西日本を二分した呉族系海洋民族の狗奴国(くなくに)の名残は、織田信長の正しい出自・忌部氏(いんべうじ)や物部氏、そして賀茂葛城氏などの古代豪族として残った。

神社も呉族系海洋民族の主神・事代主神(ことしろぬしのかみ)の明神社(みょうじんしや)や綿津海神社(わたつうみじんじゃ=渡つ海)が目立っている。


「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

例えば、織田信長・織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は別名を織田明神社とされる明神様で、尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

実は葛城ミステリーの三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説の呉族系神が現れたものである。


一言で言ってしまえば、原住民族(縄文人)の日本列島へ征服部族(氏族・渡来民族)が次々に流れ込み、勝手に縄張りをして小国家(倭の国々)を作り、やがて武力征服や誓約(うけい)その他の経緯を経て混血を繰り返して「弥生人」が生まれた。

尚、この蝦夷(えみし/縄文人)族と渡来部族との異部族間の混血過程は、これから追々紹介する日本語の成立過程にも歴然と現れている。

実の所、この混血期間が経時的に「ダラダラ」と長期間を要しているので明確さに欠け、我輩には縄文人と弥生人の区切りは難しく、我輩は余り「好きな区分け」とは思っていない。

それにしても、この弥生人が誕生した弥生時代(やよいじだい)は、縄文時代に後続して古墳時代に先行する紀元前十世紀中頃(異論在り)から三世紀中頃までにあたる時代の名称とされている。

つまり、後期の渡来系部族が集団でやって来て各地を占拠領有し、先住民族(/縄文人)を制圧同化して行く過程が石器と木製農具の縄文期から、鉄製農具や鉄製武具の弥生期への移行時期であり、同時期に「倭の国々同士の和合」が進んで統一国家「大和朝廷」を成立させたのである。

この「弥生人」誕生の辺りが、序章の第二話「大きな時の移ろい」で詳しく述べる「神話の世界」なのだが、何しろ文献(古事記・日本書紀)としてまとめたのが先進文化を持ち込んだ征服部族(氏族)である。

だから、日本列島渡来以前から征服部族に伝わる「持ち込み伝承」をも「列島の神話」として取り上げている可能性が無きにしも有らずなのだ。

これらの古代史に於いて古事記・日本書紀に於ける記述以前を日本史では「先史」とされているが、つまり「先史」とは弥生期に到る前の「縄文期」と言う事に成る。

しかしこの「先史」の存在については、「古事記・日本書紀」に於ける「天孫降臨伝説」とは明らかに合致せず、歴史としての連続性が絶たれてしまっている。


歴史の真実に辿り着くには、定説に縛られてそこから始めては意味が無い。

それでは、何年経っても「謎は謎」で終わってしまうのである。

魏志倭人伝の読み方だが、記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼の邪馬台国・スサノウの狗奴国・葛城氏の伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

そうなると、有力な外国・中華の魏帝国にも認知された広域・有力王国・伊都国が、既存説の「福岡県の糸島半島と言う狭い地域に在った小国」とは考え難い状況がある。


この後この物語で詳しくご紹介するのだが、弥生時代後期の二世紀後半に日本列島側の倭国で起こった争乱・倭国大乱(わこくたいらん)の経緯を簡単に言ってしまう。

日本列島の西側で成立した小国家群が弥生時代後期に段々に武力吸収や合併を繰り返して大きくなり、列島の西側の東の外れに在った呉族系の大国・伊都国(いとこく)と西で勢力を伸ばして来た呉族系の狗奴国(くなくに)が合併する。

大勢力と成った呉族系海洋民族の国・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)と加羅族系農耕民族の国・卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)の邪馬台国との二大勢力と成り、争いの後には両者が誓約(うけい)を結んで騒乱は収まった。

中華帝国の魏書に在るのみで日本の史書に記載が無い卑弥呼と邪馬台国の事を知らない日本人は、ほぼ居ない。

だが、日本の史書とされる古事記・日本書紀に在るスサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)はかなり知名度が低い。

大和朝廷は邪馬台国を武力吸収した狗奴国(くなくに)が支配権を成立させたが、両者和合の為に国名に邪馬台の音を残した大和国を用いる高等な策を採った。

その和平手打ちの経緯が記紀神話に集約され、天の岩戸伝説となって残った。

勿論、記紀神話に於ける天孫降臨伝説に於いて、スサノウ(須佐王)は呉族、卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)は加羅族の象徴だが、呉族・スサノウ(須佐王)の血流は神武朝を起こす支配者になる。

もう一方の加羅族・卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)は神格化して天照大神(アマテラスオオミカミ)と成って両民族の立場並び立つ誓約(うけい)が成立した。


「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、正に皇統に拠る統治の正当性を補完する為の「虚(きょ/感性)」の部分を多く含んでいる。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。


陰陽道の起源と歴史への関わりの話であるが、果たして創設初期の修験道師は、古文書が伝えるがごとく民間の自然発生的な信仰の布教を目的としたものだったのか?

普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。

また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。

しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。

実は大和朝廷(ヤマト王権)の幕開けの頃、大王(おおきみ/天皇)の意を持って「恐怖の支配」を実践したのは、初期修験道師達である。

一応修験道の起源は「自然発生的な原始信仰」とされているが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えない。

初期修験道師の状況証拠が、大和朝廷(ヤマト王権)の秘密警察兼諜報機関として密かに成立した可能性を示唆しているのだ。


修験道の開祖は、役小角(えんのおずぬ)と伝えられている。

それも、この役小角(えんのおずぬ)と修験道組織の出現、実は天武大王(てんむおおきみ/天皇)に拠る大和朝廷(ヤマト王権)の「途方も無い政変」と大きな関わりがある。


天武大王(てんむおおきみ/天皇)が始めて桓武天皇(かんむてんのう)がほぼ編纂を締め括った壮大な歴史改ざんが文献が古事記・日本書紀である。

その序によれば、 古事記(こじき、ふることふみ)は藤原京から平城京に遷都して二年後の七百十二年(和銅五年)、女帝・元明天皇(第四十三代)の御世に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)・太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書である。

ただし古事記編纂のきっかけとなる「帝皇日継(天皇の系譜)」と「先代旧辞(古い伝承)」をまとめる命を稗田阿礼(ひえだのあれ)に下したのは天武天皇(第四十代)で、それを編纂し直したのが太安万侶(おおのやすまろ)とされている。

また、七百二十年(養老四年)に完成した伝存最古の正史とされる日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、天武天皇(第四十代)の皇子・舎人(とねり)親王を中心に奈良時代に成立した日本の歴史書である。

日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)が完成した七百二十年(養老四年)は、宮廷武官・大野東人(おおののあずまびと)が、東北蝦夷の反乱に征夷将軍として出兵、奥州(東北)統治の拠点として多賀柵(多賀城)を築いた年の事である。


つまりそれ以前の渡来氏族を天孫降臨伝説で原住系のごとく誤魔化したもので、古事記・日本書紀の記述を基にどの天皇が原住系で、どの天皇が渡来系と線引きする歴史学者の考え方自体が、かなり怪しい。

いずれにしても、古事記・日本書紀がリアルタイムの記述ではなく昔話を編纂したもので、例え都合良く脚色された創り事の神話でも国家単位のトリックを内容に構成されれば、後の子孫がそれを解く事はほとんど出来ない。


元々の列島の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は調和の民で、自然と調和し互いに調和して暮らしていた。

そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。

この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・非人(賎民・奴婢)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。

しかしながら、支配者・渡来系部族(氏族)に隷属した「被支配者・調和の民・蝦夷(えみし/縄文人)」は、氏族の争いの歴史とは距離を置きながら伴に助け合って争わない「共生村社会」と言う独特な文化や気質を育てて行く。

この「共生村社会」の文化や気質が、イエス・オア・ノウのハッキリした意思表示を避け、「考えて置く」と言う「実はノウ」を多用し、「出る杭は打たれる式の自制」でなるべく自己主張しない生き方を選ぶ、日本人だけに通用する美徳を生み出した。


日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。

日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際ししてそれを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。

その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。

アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。

「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。


現在の日本人種の基礎が、古い時代の異部族混血である事はABO式血液型の分布状況を見ても良く判り、つまり日本民族の同化過程は日本列島に於いての血液型分布にも現れている。

日本人の血液型は、一般に凡(およ)そ四対三対二対一の比率で有る。

日本人の血液型の割合は、大体A型が38%(AA型が8%、AO型30%)、O型が30%、B型が22%(BB型が3%、B0型が19%)、AB型が9% ただし、血液型は二種類の遺伝子の組み合わせなので、A型でも生粋の AA型と AO型がいる(B型も同じ)。

早い時期に移って来て最初に居た列島の先住部族が占有率二十%のB型で、B型因子は氷河期に海峡が凍って渡れた時代に樺太経由で北方から渡って来た部族(日本史上では蝦夷族)の因子と考えられる。

つまりB型因子は東北・北陸・中部地方に多く西方に向かうに従って減少しており、これが先住部族「蝦夷の基本的血液型」と思われる。

次に入って来たのが占有率三十%のO型で、O型因子は 九州南部・太平洋沿岸の県に多く、太平洋諸島に住んでいた民族(O型の多い太平洋型)が南方から渡来した 。

これが「呉族の基本的血液型(モンゴロイド)」と思われ、北米及び中南米の原住民に極端に多い血液型である。

最後にやって来たのが朝鮮半島を経た部族が渡来したもので、占有率が凡(およ)そ四十%のA型が「主力の部族だった」と思われる。

A型因子は、九州の北部に多く・中国(鳥取)・四国(愛媛)に分布し、漸次東方に進出して来た。

東北に向かうにつれて占有率が減少し、これが「加羅族の基本的血液型」と思われる。

そしてこの三つの民族は、言語の上からも、習俗の上からも南方要素と北方要素とを混在して現在の日本人の祖先を形成するに至った。

つまり日本人のルーツは、この何段階かの混血の経緯を経て始められたものである。

しかしながら、当時朝鮮と言う国も人種も時代考証的に存在しないにも関わらず、現代に存在する困り者はこの列島への渡来過程を取り上げて、千年・二千年も昔の事を「あいつの祖先は朝鮮系だ」などと脳が無い恥ずかしい事を言う事である。

そう言う奴に限って「日本は武士道の国」などと威張っているが、これから解説する通り氏族のルーツが渡来人である以上元々の原日本人(蝦夷族/縄文人)は「武士道」とは最も遠い立場に在ったから、大いなる思い違いの矛盾である。


混血の発端からすると当初の占有比率はB型因子優位だった可能性が高いが、A型因子を多く持った渡来部族がB型因子を持つ先住部族(日本史上では蝦夷族)を隷属化した経緯で優位因子が逆転したのではないかと思われる。

全体の約十%を占めるAB型因子 は混血新型因子である。

日本人の場合の比率はO型30.7%・A型38.1%・B型21.8%・AB型9.4%である。

これを例えば、モンゴル人に当て嵌めるとO型32.5%・A型22.3%・B型36.4%・AB型8.8%、韓国人の場合はO型34.5 %・A型28.0%・B型27.0%・AB型10.5% と各々微妙な差があるが、各々の民族の混血過程には歴史的要因で差異が存在するからであると考えられる。

これを米国人の現在で比較するとO型41.0%・A型44.0%・B型12.0%・AB型3.0%とO型とA型の比率が高まり、南北アメリカ大陸純粋原住民だけを採るとO型100%と言われ、反証的に混血過程を証明している。


わが国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。

明治維新以後に戸籍をつくるまで、山窩(サンカ・サンガ)は、治世の外に存在した自由民であった。

この山窩(サンカ・サンガ)は、九州から東北地方まで分布している所から、比較的後期の渡来系勢力に押されて、同化を拒み、山中に逃げ延びた「内地の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)の一部ではないか」と考えられる。

つまり、先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)の同化から取り残された残存の一部が、山窩(サンカ・サンガ)でないと、存在の理由が見当たらないのである。

勿論、山窩(サンカ・サンガ)にも渡来系勢力との接触はあるから、完全に文明から取り残された訳ではない。

山に篭った群れ、平地に降りて来て一郭に集団で居留したもの、その中間の存在もあった筈である。

戦国期〜安土桃山期に伸し上がった土木工事や築城術、土木戦術、輜重(しちょう/後方支援)運輸術など異能の勢力が在った。

豊臣秀吉を始めとする異能勢力、蜂須賀正勝(小六)、加藤清正、藤堂高虎などの別の素性を出自とする土豪集団が一大勢力を築いた事も、彼らが平地に降りて来た山窩(サンカ・サンガ)集団からの出自を疑わせるが、その話は追々語る事にしよう。

そして彼ら山に篭った群れの純粋な「山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯に造った。

言わば祭らわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として続いたのである。



進入部族の方であるが、彼ら後期渡来系征服部族は母国の王族を頭に部隊を率いて大陸や半島から波荒い海洋を越えた。

ちょうど二〜三百年前の南北アメリカ大陸を、ヨーロッパの数カ国が「原住民を制圧して切り取った」と同じ事が、二千年前の日本列島で起こった事になる。

その後の物語が、「神話から始まる日本の歴史」と言う訳である。

勿論侵略者側の歴史の記述に、殺戮や弾圧の証拠は残ってはいない。


人間は社会性(集団で生活する必要性)から側坐核(そくざかく/脳部位)を機能的に成長させて「善悪の概念」を持つ。

「善悪の概念」を持った人間は、自らを「ヒューマン」と呼び、その意味はつまり性善説で「人間らしい、人間味、人間的」と言う。

しかしながら、現実に「人間て何だろう」と考えた時、本当は「性善説」は綺麗事で、一人の人間が結構善人でもあり結構悪人でもある。

本音で言って、場面場面で善悪併せ持つのが人間ならば、人間何て然程(さほど)上等なものでは無い様な気もする。

そして不信感や罪悪感、未知への恐怖から信仰や占術に走るのも、至極人間らしい行為かも知れない。


人間(ひと)は側坐核(そくざかく/脳部位)に影響されて、勝っ手な相手に「自らの願望を為してくれる」と言う期待を抱(いだ)く事で、「心の安定を得よう」とする心理を持っている。

それが心理学的には「英雄待望論」だったり、信仰上の「カリスマ(超人/教祖)の存在」だったりする。

信仰・占術・予言の本質は、強弱の質こそ在るものの人間が持つ「側坐核(そくざかく/脳部位)」に影響された一種の依存症である。

その延長線上に在るのが、「ジュピター・コンプレックス(被支配の願望)」である。

この信仰・占術・予言に対する依存症は、横着極まりない事に、自分で努力する事を放棄し結果的に幸福を金で買う図式が構成される。

その依存する相手の一人がシャーマン(預言者/巫女)で、過っての集団や国家はこのシャーマニズムを拠り所として成立していた。


超自然的或いは超人間的な力をもつ資質(魅力)を、ドイツ語で「カリスマ」と言う。

元を正すと「カリスマ」は、キリスト教用語のギリシア語で「神の賜物(たまもの)」を意味し、神から与えられた奇跡、呪術(じゅじゅつ)、預言などを行う超自然的・超人間的・非日常的な力の事である。

つまり「カリスマ」の発祥は、「側坐核(そくざかく/脳部位)」の感性を満足させる為の宗教用語だった。

「カリスマ」と言う事なら、所謂(いわゆる)芸能スターはフアンを夢中にする為の魅力が虚像である。

そしてその虚像は、同じく支持者が必要な統治者(政治家)や信者が必要な宗教家(教祖)にも必要な魅力が虚像である。

つまりカリスマは、創られた或いは仕組まれた虚像の可能性が強い。

しかし、そうは言っても「カリスマ」を実像とするか虚像とするかは、個々の受け取り方の違いであるからどちらが正しいとは言い難い。


実は人間の多くは、自分に自信が無い為に他に依存する精神思考の方(かた)が多い。

そしてその依存先として求められる存在が、自分には無い能力の「カリスマ(超人)性を有する人物」と言う事に成る。

カリスマ(超人)性は、本人や周囲の演出に環境と周囲の条件が揃って芽生え、そのカリスマ(超人)性が認められ、一人歩きしながら育って行く。

小さな群れを治める長からカリスマ(超人)性は始まり、やがて大きな群れの統治者と成る資格としてカリスマ(超人)性は求められる。

数千年前の小さな群れの長(おさ)から続いている事だが、統治者にしても宗教家にしても、本来の人間の能力には超常現象的に他人をひれ伏させるほどの大した差が在る訳ではない。

そこで、恐がらせたり尊敬させたりにはそれなりの作為や演出、つまり誇大な表現や奇跡創作に依る大衆に認めさせる為のカリスマ(超人)性の、「でっちあげ」の臭いは否めない。

しかし敢えて言えば、側坐核(そくざかく/脳部位)を満足させ、心の安定を求める為にそのカリスマ(超人)性に依頼心を抱く他力依存症の大衆も数が多いのである。

元々カリスマ(超人)待望者は無責任で、他人任せに依存して気楽に生きたい方であるから、余り深くは考えない。

しかしそのカリスマ(超人)が虚像なのか実像なのかは、かなりの部分が個人の判定の範囲と言う事になる。

つまり「カリスマ(超人)」は、預言者(占術シャーマン)・呪術(じゅじゅつ)者・軍事的英雄などにみられる、天与の非日常的な魅力を指す言葉である。

人々の心を引きつける強い魅力があり、多くの人から支持されて周囲に影響を及ぼす人物をカリスマ(超人)と呼び、この資質を持つ者による支配をカリスマ支配と呼ぶ。

統治の原則的手段は、統治者のカリスマ性を演出する事と共通な思想に統一する事、仮想敵(外敵)を創造して内部結束を高め、内部不満の目を摘む事である。

日本の伝説に姿を現す太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)や伝説のシャーマン(巫女)兼女王である卑弥呼(ひみこ)が、「カリスマ支配」の先駆けではないだろうか?


信仰や占いは、有史以前の群れ社会発生時から政治利用されるべき存在だった。

征服部族の支配者は、やがて民人(たみびと・蝦夷)の畏怖(恐れ)を得る為に神々を名乗る。

つまり、武力に勝る少数部族が大人数の蝦夷(えみし)の支配者となり、その血を維持しながら、被征服者・蝦夷(えみし)の多くの民人(たみびと・村人)から永久に搾取し続けるシステムを構築した。

それが、皇統であり貴族の血統だった。

彼らは天孫族を名乗り、神の子孫を名乗る事で列島の民の統治を試みる。

正直、大王家(おおきみけ/天皇家)を始め、この後に歴史に名を出す藤原氏(中臣氏)や蘇我氏、物部氏、忌部氏(いんべうじ)、賀茂氏など、全ての有力部族は独自の神道祭祀を司る神道家の側面を持っていた。

神の子孫は、以後の混血の歴史の中でも脈々と生きていたが、この血統、枝別れするごとに枝は落とされて下位の身分になる冷酷なシステムだった。

これが、わが国の「血統至上主義」の始まりだったのである。


この時から、破壊混乱の氏族と調和の民・蝦夷(えみし/縄文人)が同居する日本列島が徐々に形作られて行く事に成る。

つまりこの国は永い事、争いの「氏族」と調和の「庶民(良民/常民)身分または賤民・せんみん/奴婢・ぬひ)身分」の二極文化の国で在った。

そうした現実がありながら、歴史的には「氏族文化」のみが日本の歴史がごとく伝えられている「オメデタイ国」である。


歴史とは 犯罪と災難の記録に過ぎず、当然ながら征服部族の到来からその後の統治に到るまでの過程は、被征服者側からすれば犯罪と災難の歴史で、成立した大和朝廷もその経緯を克明に後世に伝える事は、はばかられるものである。

そこで「天孫降(光)臨伝説」をでっち上げて、統治権を正当化せざるを得無かった。

つまり大和朝廷以来昭和の大戦(第二次世界大戦)まで続いた「神国思想」にこの歴史経緯が馴染まなかったので、この経緯は「タブー扱い」と成って居た感が強い。



日本は伝統的に「物造り」を尊ぶ民族である。

それには明確な歴史的背景がある。

この国の指導者階級「氏族」は、征服部族として日本列島に渡り来た時、様々な最新技術を持ち込んだ。

そしてその最新技術は、それぞれの「氏族」の秘伝専有の無形財産だった。

従って、標準化量産工業の従事者として比較的地位が低かった他国の鉱工業技術者と違い、この国の鉱工業(製薬・機織り・鉱山開発・鍛冶製鉄・鋳造・造船・製薬)や稲作術などは全て指導者階級の「氏族」が専有した技術であり、永い事武士や宗教と兼業の誇り高いものだった。

日本の技術力は、自らの力を注いだ勝負の苦しみの中から生まれた物で、けして楽に生み出したものではない。

勝負は職人の心意気で、簡易性と合理性を追求する欧米の技術思想と一手間掛けても技術水準を追求する日本の職人魂は異質な物である。

つまり日本の技術者(科学者)の誇りが技術革新を呼び、現在の高度技術立国がある。

物造りに「高精度・高級」の「誰々作」と言う特別な思い入れの感性と価値観を持つ日本人の、「高度技術立国のルーツ」がこの歴史的な経緯にある。

この日本人気質とでも言うべき資質が、欧米の「マニュアル型・標準化量産工業」とは異なる手造り「高精度・高級」の「誰々作」は、日本の誇るべき熟練技術力の源である。

日本が世界に誇るべき熟練技術力は、日本人の特別な思い入れの感性と価値観に裏打ちされて、町工場に到るまで浸透している。

しかし残念ながら、現在の大企業優先政策により中小零細を取り巻く経済環境の悪化で、この熟練技術力を継承させる土壌を失いつつあるのが現在の日本の現状である。

政府・政治家は、「日本の独自文化は他国にも理解してもらいたい」と奇麗事を言いながら、この国の財産とも言うべき熟練技術力の「物造り」に冷たく、欧米型の下層階級の労働者に拠る大量生産体制の発展ばかりに偏った金融政策をした。

そして、本来資金力に脆弱(ぜいじゃく)ながら熟練技術力を持つ中小零細を見捨てて来た。

特に小泉・竹中政治は、金融機関を立て直す為に無理やり金融機関の体質改善を命じて「貸し渋り貸し剥がし」を引き起こさせ、多くの中小零細企業の息の根を止めてしまった。

この小泉・竹中政治の悪政、直接的には中小零細に関係ない為に「自分達に関わりない」と無関心の人達も多いが、経済は「金回り」であるから、実は消費の沈滞が間接的に被害をこうむる事に成り、それが現在ジワジワと効いて来ている。

益してや、「熟練技術力」と言う財産を背景に国の底力を発揮すべき将来の芽を多数潰して、「高度技術立国」の建て直しには時間が掛かる状況にある。

これは昔、中華人民共和国が「紅衛兵運動」で有識者を弾圧して、「国の発展が三十年遅れた」と言われるに等しい愚挙である。


被征服者(民人・蝦夷)にとって、渡来系征服部族(後の皇統と貴族)は当初「恐怖の大王達」だった。

とにかく突然やって来て武力で土地を作物を強奪し、隷属を要求して支配者に治まる。

それらが土地の豪族(氏上)と成り、やがて勢力を拡大して小国家(王・臣王・国主)を作る。

その小国家群が連立して統一国家を形成、大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。

その経緯を示すものとして律令制度が始まる前、各地に在った部族国家の主を称して県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやっこ・こくぞう)と呼んだ大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態が在る。

黎明期の日本列島は都市国家もどきの倭の国々で、国主(くにぬし/国造・くにのみやっこ)も県主(あがたのぬし)も、大和合する以前は基本的に部族国家の王である。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)は読んで字のごとく国の造り主で、国主(くにぬし)とも呼ぶ。

成立時の大和王権は、その土地の支配者をそのまま県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)に任じている。

つまりその時点の地方権力者を、追認しているに過ぎない。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)或いは国主(くにぬし)のいずれの呼称に於いても、初期の日本列島が多くの部族国家の林立する状態だった事を意味している。


志賀島(しかのしま)の出土とされる金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)について記述して置く。

田沼意次(たぬまおきつぐ)が権勢を振るっていた千七百八十四年(天明四年)、徳川十代将軍・家治の治世に「志賀島(しかのしま)の金印」が発見される。

その金印、一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存し、水田の耕作中に偶然発見したとされる。

三月十六日(天明四年)、筑前国・那珂郡(なかのこおり・なかぐん)役所に志賀島(しかのしま)の甚兵衛と言う百姓が、田んぼの中から「金印を発見した」と届け出た。
志賀島(しかのしま)は、砂州により本土と陸続きになった陸繋島(りくけいとう)で全国的にも非常に珍しい福岡県福岡市東区に所属する島である。

この島は博多湾の北部に位置し陸繋砂州・海の中道と陸続きで、古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。

「先月二十三日(天明四年二月)に、叶の崎と言う所の自分の所有地の水はけが悪かったので、修理していた所、石の間から金の印判の様なものが出て来た」と言うのだ、

鑑定を依頼された福岡藩校「甘棠館(かんとうかん)」の館長で儒学者の亀井南冥(かめいなんめい)は、中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた次の記事に注目する。

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。

倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。


と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。


「漢委奴国王」と彫られてある金印の文面の、その委奴国を「倭の奴国(わのくに)」と読むか、「伊都国(いとこく)」と読むか論争が起こった。

委は倭の略字で、奴は「の」と読むとして、「倭の国だ」と言う説、また音韻論から「伊都国」とする説がある。

つまり「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」と読むのか「かんのなのいとこくおう」と読むのかが問題だった。

光武は後漢を建国した光武帝を指し、亀井南冥(かめいなんめい)は持ち込まれた金印を見てただちにこの後漢書の記事に思い当たった訳で、彼の博識と慧眼には感服する。

この南冥(なんめい)のおかげで、この金印が大変貴重なものである事が日本中に広まり、福岡藩は発見者の甚兵衛に白銀五枚の褒美を与えた。

しかし当時の聖福寺の住職・仙腰a尚は、書幅に「志賀島農民、秀治・喜平、叶崎より掘り出す」と書いて居る。

また、志賀海神社宮司・阿曇家に伝わる古文書にも、「農民・秀治が掘り出した」との一文があり、百姓秀治と喜平が掘り出し地主の甚兵衛を通じて役所に届けたとの説もある。

この金印騒ぎ実は謎も多く、志賀島の甚兵衛の存在は過去帳や田畑名寄帳など古文書の何処にも記載がない。

そして紀元五十七年に中華帝国・後漢の倭伝(東夷伝)を、千七百二十七年後の江戸中期の儒学者・南冥(なんめい)がタイミング良く知っていて素早く引用し、金印の素性を見事解明した。

南冥(なんめい)が福岡藩・黒田家の儒学医に登用され、甘棠館の祭酒(学長)に就任した時期とこの金印が発見された時期が幸運にも一致したと言う出来過ぎた話である。

発見の経緯に不自然な点があり、発見時の記録にあいまいな点が多く、また江戸時代の技術なら十分贋作が作れる事などの条件も挙げ得るとの指摘もある。

そこでこの金印発見騒ぎ、或いは福岡藩校・甘棠館(かんとうかん)の館長・儒学者の亀井南冥(かめいなんめい)の自作自演の売名行為の可能性も浮かんで来る。

ただし糸島市(福岡県/旧前原市)の細石神社には「漢委奴國王の金印が宝物として伝わっていたが、江戸時代に外部に流出した」との伝承がある。

この細石神社の金印流出時期・江戸時代と志賀島(しかのしま)の金印発見時期・江戸時代は見事に符合している。

ならばこの細石神社金印流出が何者かの意図に拠って起こされ、「志賀島に埋められた、または志賀島で発見した」と劇的に登場したのではないだろうか?

いずれにしてもこの金印の存在は未だ真贋両説が論争の最中で、まだまだ真贋確定には時間が掛かりそうである。


ご承知の桃太郎伝説には、誤解と真実が存在する。

何が誤解かと言うと、この古代史・桃太郎伝説解明の最初の一歩に「思い込み」と言う大きな間違いが存在するからである。

後日談は勝者には如何にでも脚色出来る訳で、敗者は討たれて当然の「鬼(悪人)」と表現されるが、これは大和朝廷の「覇権主義を隠す為の創作多」と解するが妥当である。

元々桃太郎伝説は、夫々に国主(くにぬし)を頂いた広域倭国の内の小国家の夫々が、大国主(おおくにぬし・大王/おおきみ)が統治する大和王権へと統一に向かう途中の出来事を伝承されたものである。

鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で、一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われている。

つまり何かを題材に、後から物語りは創造されたものである。

主人公のモデルとしては、古事記にも登場する神話上の人物・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が居る。

但しその桃太郎伝説の大基になるのは中華大陸に於ける桃園伝説に端を発し、日本の出来事と想われる物語がミックスしたものである。

すると、桃太郎のモデルは劉備玄徳と言う事に成る。

所が、他国でも同じ事だがこうした伝説は自国独自の物と想いたいから日本人は桃太郎=劉備玄徳は想いたくもない事である。

三国志に於ける桃園は、劉備・関羽・張飛の三人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする「宣言を行った」と言う逸話がある。

それと天才軍師・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の場合は、劉備玄徳が「三顧の礼」を持って「陣営に迎えた」とされていて、この事から派生して猿・雉(きじ)・犬は、諸葛亮・関羽・張飛でありそうだ。

正直、これを読まれている貴方は、或いは旦那様は、桃太郎の役がお似合いなのか、猿・雉(きじ)・犬の内の一人なのか、自身の評価は難しいかも知れない。

ただ、桃太郎に成りたいのであれば、挑戦意慾が必要最小限の資質である、

日本全国に桃太郎の話の舞台となっている所はある。

そうした中で、吉備地域(岡山県総社市を中心とする地域)と尾張・美濃地域(愛知県犬山市を中心として岐阜県可児市を含む)は特に有名である。

岡山県の「桃太郎・温羅(うら)伝説」などは、百済の王子と称する温羅(うら)と言う鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。

その者・温羅(うら)を、四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が「温羅(うら)を討った」とされる言わば大和朝廷の西日本統一過程を伝えている。


伝承に拠ると、崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇・実存不明)の時代(紀元前五十年前後)、大和朝廷の支配を固める為に日本各地に四道将軍と言う軍勢が送られた。

これは、「わが教えに従わない者は兵をもって討て」と言う大王(おおきみ/天皇)の詔(みことのり/命令)が在ったからで、つまり大王(おおきみ)を祀らわぬ(祭・奉/マツラワヌ)者は、当時まだ各地に居たのである。

大王(おおきみ/天皇)は、北陸道(方面)には大彦命(おおひこのみこと)、東海道(方面)に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、丹波道(方面)に丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、そして西海道(方面)に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)を将軍として送った。

西海道(方面)・吉備地方で当時朝廷に叛(そむ)いていたのは吉備冠者(温羅/うら)である。

吉備高原の南端・眼下に総社平野・瀬戸内海を見下ろす標高四百メートルの要衝に、朝鮮式山城と同じ役割を持つ神籠石(こうごいし)式の古代の城「鬼ノ城(きのぎ・朝廷側の命名と想われる)」を築いていた。

「鬼ノ城縁起」に拠ると、温羅(うら)と言う名前の異国の鬼神が吉備に飛来してきて「新山(にいやま/総社市奥坂)に住み着いた」とあり、その温羅(うら)は朝鮮半島・百済(ペクチョ/くだら)の王子だと伝えられている。

吉備冠者(きびのかんじゃ・温羅/うら)伝承に関しては、瀬戸内海を中心に中国地方・吉備国から四国地方・屋島周辺まで広い範囲に分布しているから、その地域に「一定の勢力を有していた」と推測できる。

征討将軍・彦五十狭芹彦吉命ひこいさせりひこのみこと)はこの吉備冠者(温羅/うら)と戦い、吉備を平定した為に吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗った。

つまり確りした広域法治国家が存在して悪人を討った訳ではなく、吉備冠者(温羅/うら)は反乱軍でも賊軍でも無く言わば大和王権とは別の勢力だったのではないだろうか?

この吉備国・吉備冠者(きびのかんじゃ・温羅/うら)討伐平定が、「桃太郎の鬼退治伝説として語り伝えられた」と考えられるのである。


そしてこの鬼退治伝説(桃太郎伝説)話にも、別の見方をすれば捏造(ねつぞう)疑惑が存在する。

温羅(うら)伝説については、「第十代・崇神天皇(すじんてんのう・紀元前二十九年)〜第十一代・垂仁天皇(すいにんてんのう・九十年代)の頃に起こった」とされる討伐事件である。

それを凡そ八百年から八百五十年も経った九百二十三年(延長元年)に書かれた「備中一品吉備津彦明神縁起」が元である。

九百二十三年(延長元年)頃と言うと、朝廷が坂東(関東)の本格的経営に着手を始め桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)・村岡良文(むらおかよしふみ・平良文)が東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構えた頃の事である。

当然ながら、蝦夷族(エミシ族)の痕跡を消し部族の統合同化を進めたい状況下に在った時代に「備中一品吉備津彦明神縁起」は書かれている。

従って、温羅(うら)が本当に朝鮮半島・百済(ペクチョ/くだら)の王子だったかどうかも定かではない。

本来、当時の鬼は蝦夷族(エミシ族)の抵抗(レジスタンス)勢力を指す事が一般的だったから、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治伝説(桃太郎伝説)は、蝦夷族(エミシ族)勢力の鎮圧だった可能性も否定出来ない。

つまり八百五十年後に、被征服民・蝦夷族(エミシ族)の存在を消去する意図を持って温羅(うら)の百済(ペクチョ/くだら)王子説を都合良くでっち上げる事も出来るのである。


時の権力者に不都合な事実は、いつの世も創作に拠って覆い隠すのが統治の為の常套手段で、それは今も昔の変わらない現実である。

つまりそれは、例え当時の国家組織が編纂した古事記・日本書記など公の史書で在っても全幅の信頼は置けない事を示唆している。

勿論それは現在も同じで、現に千九百七十年代から千九百八十年代にかけて起こった北朝鮮に於ける「拉致問題」にも、当初は消極的な政治的対処は在った。

日本政府は面倒を避ける為に事実を国民に伏せ、「事実確認ができない」と、二〜三十年と言う永い期間、拉致は存在しないかのごとく放置していた。

また、核兵器を「持たず、造らず、持ち込ませず」の非核三原則にしても、米軍の搭載核兵器に関しては「日本に入港する前に降ろして来たもの」として建前は苦肉の辻褄合わせをしている。

しかしその核兵器を、米軍は一体何処に降ろして何処で積み込むのかは、「方便」と言ううやむやな「謎」である。

それで権力を握った者は、反体制派勢力に「悪の組織」のラベルを貼って、大衆の大勢を味方に付けその勢力を抑えようとする。

凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて大和国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした。

「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」などが頻発する。

この被征服部族である蝦夷族の反乱(レジスタンス)を平安群盗(へいあんぐんとう)と呼んだ。

悪党(あくとう)は、現在の解釈では一般に悪人を意味する語であるが、鎌倉期から南北並立朝期にかけての反体制派を呼ぶ名で、平安群盗(へいあんぐんとう)と同様の扱いである。

鎌倉末期、後醍醐天皇にお味方した楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉幕府の御家人帳に記載がない無名の家柄で、河内国を中心に付近一帯で活動する土豪であった。

鎌倉幕府の御家人帳に記載されていた全国の御家人の総数は約四百八十家余り、鎌倉殿直参の御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれたが、この「悪党」の意味は「祭(奉)らわぬ者」と言う意味で、つまり鎌倉幕府に「祭(奉)らわぬ」から悪党なのである。

播磨国苔縄城にて挙兵した赤松円心(則村)も同様の「悪党」と呼ばれる反体制側の武装勢力だった。

同様に水軍を名乗る水上武装勢力も、独立勢力としてかなり自由に活動していた所から海賊(かいぞく)とも呼ばれていた。

山賊(さんぞく)や海賊(かいぞく)、馬賊(ばぞく)に於ける賊(ぞく)とは、人の財産を掠め取る盗賊から、時の政府や国家に反逆する者(謀反人・無法者)まで幅広い意味が在った。

判り易い話しだが、幕末に到って大政奉還・王政復古の官軍が編成されると、それまで政権を担っていた徳川幕府の武装勢力は「賊軍」に貶(おとし)められる事になる。

そしてつい六〜七十年前、当時の軍事政権(東條内閣)に異を唱え逆らう者は、それこそ「国賊・非国民」のレッテル(ラベル)を張られた。

これも一つの例だが、太平洋戦争も各地で連合軍に圧されて敗色が濃くなる千九百四十四年(昭和十九年十二月七日)、紀伊半島熊野灘沖に地殻変動が起こって「昭和東南海地震」が発生する。

現在騒がれている南海トラフ型の大地震だったが、戦時中の報道統制下の為、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けた事を隠す為に報道は規制され、詳細な報道がなされなかった。

当時米国を中心とした連合軍と交戦中の大本営では、「地震情報は敵を利する」として報道を統制し、公な救助活動もしなかった。

つまり国家と言うものは民益よりも国益を優先し、その守るべき国益は、実は特定の権力階層だけのものだったりする。



邪馬台国が何処(どこ)に在ったのか、それはまだ特定されていない。

それも、永い間多くの学者が挑戦しての結果である。

あくまでも推論だが、もしそれが天孫降(光)臨伝説に矛盾する事を塗布する為の「簡単なトリックだ」としたら、歴史学者はそのトリックを基にそれこそ「幻の邪馬台国」を追い続けて居る事になる。

邪馬台国の存在が「簡単なトリックだ」とすると、シンプルなアプローチも出来なくはない。

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

判り易いのに神話の天孫降(光)臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・・

日本の調理方法には「和(あ)える」と言う言葉がある。

「和(あ)える」は「ごま和(あ)え」などと使う食品の調理方法で、調和或いは和合であり、言わば食材のベストミックスの事を言う。

調理方法の「和(あ)える」は調和の事だが、このベストミックスの精神こそ三千年から二千年に到る時期の、人種の坩堝(るつぼ)だった日本が大和合した事と「同じ意味を持ち合わせている」と想われる。

また、気持ちなどがやわらぐの意味で使う「和(なご)む」についても、争(あらそ)うとは対極の意味合いがある言葉である。



山幸彦・海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、「古事記・日本書紀」に記された日本の神話である。

主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、「民話・浦島太郎」の基となっている。

海幸彦・山幸彦の誕生地、生活などの伝説は、天孫降臨伝説の地・日向国(宮崎県)の宮崎平野に集中している。


古事記に於いて「山幸彦」の別名は火遠理命(ほおりのみこと)、日本書紀に於いて「山幸彦」の別名は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である。

神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖父に当たる火遠理命(ほおりのみこと)は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)と九州南部に勢力を持っていた隼人族(先住弥生人)の木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子である。

瓊々杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、神婚説話の誓約(うけい)に拠って結ばれた。

しかし木花開耶姫(このはなさくやひめ)が懐妊した時、瓊々杵尊(ににぎのみこと)に「自分の子ではない」と疑われる。

木花開耶姫(このはなさくやひめ)がその疑いを晴らす為に産屋に火をかけて、その火の中で生んだ三人の子の末(第三子)が火遠理命(ほおりのみこと)である。

その第三子の名の由来は、火が消えかけた時に生まれたので「火遠理命(ほおりのみこと)と名付けた」とする。

また 古事記に於いて「海幸彦」の別名は火照命(ほでりのみこと)、日本書紀に於いて「海幸彦」の別名は火闌降命(ほすせりのみこと)である。

火須勢理命(ほすせりのみこと)は、瓊々杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子で、一夜で身蘢った為に、瓊々杵尊(ににぎのみこと)に国津神(くにつかみ)の子ではないかと疑われる。

木花開耶姫がその疑いを晴らす為に火中で生んだ三人の子の第二子が、火須勢理命(ほすせりのみこと)である。

なお、この「海幸山幸(うみさちやまさち)」には古事記と日本書紀では違う内容の異伝が在り、伝承の内容に於いて明確ではない。

また神々の尊称表記も、同一の神で本文章表記以外にも多種類の表記が存在する。


こうした「古事記・日本書紀」に於ける伝説で、山の猟が得意な山幸彦(弟・火遠理命)と、海の漁が得意な海幸彦(兄・火照命又は火闌降命)の存在を実話に照らすと日本列島に渡来して来た二民族に結び付く。

いずれにしても、「古事記・日本書紀編纂」の目的は皇統の神格化であるから、その目的の為に実史にアレンジを加えて成立させた物語である。

日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、そして先住原縄文人(蝦夷/えみし)の、三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

つまり、山の猟が得意な「山幸彦」が「渡来系・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)」であり、海の漁が得意な「海幸彦」が「渡来系・呉族(ごぞく/海洋民族)」と言う事に成る。



山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)が浦島・竜宮伝説に関わって行くについては、海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)とその娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)の登場がある。

山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)が、ある日猟具を交換し、山幸彦(弟)は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。

困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)又は綿津見の宮(海神の宮殿の意味)」に赴く。

海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうちに三年もの月日が経っていた。

山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰う。

山幸彦(弟)は、豊玉姫に貰ったその玉を使って海幸彦(兄)に忠誠を誓わせた。

このあたりの記述「玉を使って海幸彦(兄)に忠誠を誓わせた」は、天岩戸伝説に通じるところがある。

天岩戸伝説では加羅族(からぞく/農耕山岳民族)王・天照大神(あまてらすおおみかみ)が宴の後に誓約(うけい)の義に依り呉族(ごぞく/海洋民族)王・スサノウを弟としている。


この山幸彦(弟)の恋人・豊玉姫の父である海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)別称が、海神・豊玉彦(とよたまひこ)である。

豊玉彦(とよたまひこ)とは海の神の事で、転じて海・海原そのものを指す場合もある。

海神の事を、「古事記」は綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見大神(おおわたつみのかみ)などと表記している。

その海神の事を、「日本書紀」では、少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記表記される。

また、神社に於ける神道では志賀神(しかのかみ)とも書かれる。

日本神話で最初に登場するワタツミの神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。

神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれた。

オオワタツミ(大綿津見神・大海神)は、神名から海の主宰神と考えられている。

「記紀(古事記・日本書紀)」に於いては、イザナギ(伊弉諾尊)は素戔嗚尊(須佐之男命・須佐王命)に海を治めるよう命じている。


イザナギ(伊弉諾尊)が黄泉(ヨミ/死後の世界)から帰って禊(みそぎ)をした。

その時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見神と呼んでいる。

この三神はオオワタツミ(大綿津見神・大海神)とは別神である。

この時、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。

また、綿津見神の子のウツシヒカナサク(宇都志日金析命)が阿曇連(あずみのむらじ/阿曇氏)の祖神であると記している。



浦島太郎(うらしまたろう)の物語は、日本各地にある龍宮伝説の一つであり、日本の伽話(おとぎばなし)の一つでもあるその主人公の名前が浦島太郎(うらしまたろう)である。

また、竜宮伝説(りゅうぐうでんせつ)は、海幸彦・山幸彦伝説(うみさちひこ・やまさちひこでんせつ)と深い関わりが在ると定説化されている。

何故なら竜宮(りゅうぐう)は、地域や伝承によっては海幸彦・山幸彦伝説に於ける海の神・豊玉彦(ワタツミ/綿津見=海幸彦)や海の龍神の住む所といわれている。

なお、日本各所の昔話や伝説に浦島・竜宮伝説が登場し、この物語の伝承地は必ずしも海辺に限らない。


一番一般的な浦島・竜宮伝説の粗筋(あらすじ)として、漁師の浦島太郎は、子供達が亀を虐(いじめ)ている所に遭遇する。

浦島太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城(蓬莱山/ほうらいさん=とこよのくに)に連れて行く。

竜宮=蓬莱山(とこよのくに)は、古代中国に於いて理想郷とされた感性上の聖域で、日本列島に伝承されたものである。

竜宮城(中文ではロンゴンチャーン)では、一説には東海竜王の娘:竜女とも解される「乙姫」が浦島太郎を歓待する。

これは注釈だが、古代中華帝国に於いて竜宮城の「竜」は皇帝の象徴で、その宮城は「皇帝の居城を意味する」との解釈も出来る。

実はこの竜宮=蓬莱山(とこよのくに)の伝承の根幹を為す内容と秦始皇帝(しんのしこうてい/チンシーホワンディ)が関わる「徐福(じょふく/スィフゥ)伝説」が、微妙にリンクしている。

秦始皇帝(しんのしこうてい)は不老不死を求めて方士を重用し、秦(はた)氏の祖とされる徐福(スィフゥ/じょふく)に対して「東方に在る」と言う蓬莱国(日本を指すと解される)へに向い「仙人を連れて来るように」と命じた。

徐福(スィフゥ/じょふく)は船団を率いて東方に航海を進め、豊かな四季に彩られた列島を発見、その列島の王となる野心を抱いて秦帝国への帰国を反故にする。

この列島の王となる野心については、一度秦帝国へ帰国後、徐福(スィフゥ/じょふく)は再び秦始皇帝を騙し、万全の用意を整えて再度渡航した説も存在する。

徐福に関する伝承は日本各地に残されているが、或いは日本各地を巡った末に、最終上陸地点が紀州熊野かも知れない。

であるなら、竜宮伝説が日本各地に残されていても納得が行く。

只、伊豆諸島・八丈島に上陸して後、名も無かった三宅島に一時本拠地を構えた事から島に宮家島=三宅島の名が残り、伊豆半島に上陸して「賀茂葛城王朝を建てた」とする説がある。

大王家(おおきみけ/大国主/天皇)に対して臣下の礼をとる地方豪族・臣王(おみおう)は初期に国主(くにぬし)または国造(くにのみやっこ)・県主(あがたぬし)とされる地方の「王」で、葛城氏(賀茂氏)も臣王(おみおう)だった。


三宅島の島名の由来は、事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、「付近の島々を治めた」と言う伝説から「宮家島」と言った説がある。

伊豆諸島には「神懸かりになって託宣する巫女の伝統がある」との事で、これもまた託宣の神・事代主神にふさわしい様に思われる。る。

また伊豆諸島の住民が事代主を信奉する「葛城氏族(賀茂氏族)である」と言う事を表しているのである。

この宮家島=三宅島が、竜宮伝説の多くの「竜宮の地」の中の一つに当たるのかも知れない。



伊豆半島に成立した大勢力・賀茂葛城王朝こそが伊豆(いと)=伊都(いと)の伊都国(いとこく)で、神武王朝五代の妻が賀茂葛城王朝から娶られたとされる伝承が在る。

神武朝「狗奴国(くなくに)」と葛城朝「伊都国(いとこく)」は同じ呉族系海洋民族の国で比較的に和合(大和合=大和・やまと)が容易だった。

そして神武王朝の欠史八代(けっしはちだい)に於いて香殖稲(かえしね/根を反す)が敢行され、神武王朝に賀茂葛城王朝が取って代わった。

後の天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の時代に、日本全国に皇統の統治の正当性を喧伝する為に諸国を廻った修験道を、賀茂葛城系下級貴族・役小角(えんのおずぬ)が起こす。

日本全国に修験道が派遣され、当時編纂が開始された「古事記・日本書紀」の内容を陰陽師が脚色口伝して「天孫降臨伝説」が各地に広まった。

そうした陰陽師口伝の中の話しに、「浦島・竜宮伝説も存在して各地に広まった」と推測できる。



竜宮城(蓬莱山)で乙姫に歓待された浦島太郎だったが、数日もすると里心が大きくなって帰宅願望が募って行く。

しばらくして浦島太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。

浦島太郎が亀に連れられ故郷の浜に帰ると、故郷の村には太郎が知っている人は誰もいない。

孤独感の絶望のあまり浦島太郎が、乙姫から手渡され開ける事を禁じられていた玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。

浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では随分長い年月が経っていた事になる。

これこそが、徐福(じょふく/スィフゥ)伝説の「不老不死」と竜宮城(蓬莱山)の伝承が結び付いた末の物語の結末である。

「日本書紀」が完成した七百二十年(養老四年)頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていた。

「日本書紀」は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の皇子・舎人(とねり)親王を中心に奈良時代に成立した日本の歴史書である。

なお、老人と成った浦島太郎のその後については文献や地方によって諸説あり、定説と呼ぶべきものはない。



単一日本民族の成立過程で起こった渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、「古事記・日本書紀」の「天孫降臨伝説」から「皇国史観(こうこくしかん)」に到る国家観と民族観に反する事実だからである。


古墳時代(こふんじだい)とは、日本列島に於いて、「古墳」、特くに前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する考古学上の時期区分である。

一般に弥生時代と飛鳥時代の間の時期区分を指し、古墳時代(こふんじだい)以前の縄文時代、弥生時代と対比して用いられる場合が多い。

但しこの古墳時代(こふんじだい)、古墳の成立とその衰滅を如何に捉えるかによって古墳時代の時期区分にも微妙な差異が生じ、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても現在学者間で議論が大きく揺れ動いている。

大体に於いて、実際の古墳の築造は畿内・西日本では七世紀前半頃、関東では八世紀の初め頃、東北地方では八世紀の末頃と経時的な誤差があり、その何処を採って時期区分とするかは悩ましい所である。

そこで定説合意の結果、古墳時代(こふんじだい)は一般的には今の所三世紀半ば過ぎから七世紀末頃までの約四百年間を指す事が多い。

実はこの時代に、列島側小国家群(倭の国々)の大和合を為した大和朝廷(ヤマト王権)が統一政権として確立して行く所から、その各地の豪族(国主・臣王・国造)とそれを認めた大和朝廷(ヤマト王権)の権威の証明だったのではないだろうか?

つまり前方後円墳は、大王(おおきみ/大国主・おおくにぬし)が統一政権の象徴的最高権力者として確立して行く中で、各地の豪族(国主・臣王・国造)に墳墓の造営を許可した形式であると考えられているからである。

日本国家の成立過程を考察すれば、日本列島の西半分に古代国家・大和朝廷(ヤマト王権)が成立し、王権が強化統一されて行った時代と考えられ、古墳時代終末期に列島側小国家群(倭の国々)から大和朝廷(ヤマト王権)国家へと脱皮し始めた時期である。

中でもこの時代の解釈で違和感を感じるのは、日本列島の西半分に分布していた縄文蝦夷族王や渡来部族王の乱立した小国家群(倭の国々)の大和合の古代国家成立経緯が、後の古事記・日本書紀マジックで欠落している事である。

そしてこの古墳時代(こふんじだい)こそ、誓約(うけい)に拠る民族的和合神話の現実的進行が為された時期だったからこそ、多くの謎が残ったのではないだろうか?

つまり古代国家・大和朝廷(ヤマト王権)成立過程の古墳時代(こふんじだい)に起こり得た争いの歴史を、記紀神話のベールに包んでしまったのである。

尚、古墳時代と大和朝廷(ヤマト王権)時代はほぼ同時期であるが、推古朝以降の古墳時代後期末葉以降から終末期の時期は、広義の飛鳥時代に所属するとされて、次代へ繋がっている。



古墳時代から平安末期に到るまで、皇統と貴族の氏族血統はこの統治システムの上に乗ってはいたが、絶えず民人(たみびと)の呪いと反撃に怯え、あらゆる手段を講じた。

つまり、征服者にとっての最初の鵺(ぬえ)は、被征服者の蝦夷(えみし)の民だった。

それを、「武力と神の教え」を利用して、旨い事乗り切り、それなりに安定させた。

それでも時代ごとに様々な鵺(ぬえ)が現れて皇統を揺るがせ、影人と死闘を繰り広げてきた。

先住の蝦夷(えみし)の村人は「面従腹背」を強いられながらも、支配者の恐怖を、学習のトラウマとして醸成し、二千年の遠い記憶の中に持ち続けていた。

思い出して欲しいが、征服者と被征服者の違いが「明治維新まで」は氏(うじ)と姓(かばね)で直ぐに判る仕組みだった。

古代日本に於いて、中央貴族や地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より地位を表す氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。

五世紀頃から始まったその制度は「氏姓制(ウヂ・カバネせい)」とも言い、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)制」とも言う。

大化の改新後、大和朝廷(ヤマト王権)が律令国家の形成に及ぶと、戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)はかつての部民(べみん/渡来部族)、つまり百姓階層にまで拡大され全ての階層の国家身分を表示するものとなった。

この戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)を有しない者は大王(おおきみ/天皇)を始めとする皇族と被差別階級の賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)階層のみとなった。

但しこの戸籍制に拠って人口の大半が氏姓(ウヂカバネ)を有したと解されるのは誤解で、該当者は実質総人口の一割程度だったと推測される。


氏(うじ)と姓(かばね)は、征服王の神々の子孫しか名乗らせない。

被征服者の農業従事者(使役農民)や漁業従事者(使役漁師)の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で名字(苗字)に当るものは無いので有る。

何故なら、名字(なあざ/苗字)の語源が土地の所有(支配権)を意味していたからである。

氏(うじ)は同じ祖先をもつ家族の集団、つまり血の繋がりによって成り立つ同族の集団である。

問題なのは、この氏(うじ)族、実は天孫族を名乗る征服部族で、好戦的な戦人天孫族(いくさびとてんそんぞく)がその「恐怖の大王達」の正体だった事である。


大化改新以前では、この氏(うじ)による集団が、社会的にも政治的にも基礎となる集団だった。

その統率者を氏上(うじかみ)と呼んだ。

この入植集団の守り神が氏神様となる。姓(かばね)は氏に付いてその職掌・家格や尊卑を表わす呼称である。

氏を基礎単位として、それを姓によって秩序づけたのが、所謂(いわゆる)「氏姓制度」であり、大化以前の大和連合政権の支配形態であった。

この姓(かばね)が曲者で、大王(おおきみ・天皇)から認められた血統の家格を表す制度だが、その家格がそのまま長期に渡り、その一族の身分を保証するシステムだったのである。

この氏姓制度の発想は、現代の「マニアル化機械人間社会乱造」の発想にさも似ている。

言わば権力者に都合の良い発想で、いたずらにありがたがる筋合いのものではない。

何故なら、「決め事に素直に従え」と言う事で、まったく異論が挟めない制度だからである。

イエス・ノーを「はっきり言わないのが利巧」と言う世界でも珍しい日本語用法の原点がこの氏族の建前主義で、現代の指導者もこれを統治に多用し、耳触りが良い言葉で誤魔化して本音は別にある。

それが実は、本来正面から取り組むべき大切な問題に、蓋をさせる事を許す結果に成っている。


本来の「姓(カバネ)」は、古代の氏族を政治的分類・格付けしたものである。

職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)、地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などである。

しかし、時代が下がるに連れて姓(かばね)は本来の意味を失い、別の意味に変わって「氏」の同意語や元の血筋を示す意味と成った。

その元の血筋を示すと言う用法の「姓」が、平安中期頃から始まった「藤原姓の工藤氏」、「藤原姓の佐藤氏」、「平姓の村岡氏」、「平姓の北条氏」、「源姓の足利氏」、「源姓の新田氏」と言う様に「氏」が細分化された結果、古代の「氏」にあたるものを「姓」と呼ぶようになったのである。


稲作文化として歴史を刻んだ日本では、名字に田が着く姓が多い。

氏姓順位十三位の山田姓(やまだせい)に関しては、氏族起源ではないと思われる庶民派または土着した百姓氏族で、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者が山と田を合わせて自称した事が発祥とされる。

その他、氏姓順位七十五位の高田姓(たかだせい)も、山城国葛野郡高田郷発祥の高田首(たかだのおびと)や源平その他の氏系流を名乗る者あるが、平安期から江戸期に掛けて名族は出ていない。

六百三十五位の安倍系・今田(こんた/いまだ)姓に関してはコンタ読みとイマダ読みが在り、まずコンタは平安期に奥州(東北一帯)に住んでいた今一族(こんいちぞく)がルーツとされる。

氏姓順位八百五十八位の今氏・今一族(こんいちぞく)は、奥州気仙郡司・金為時(こんためとき/阿倍為時)の裔が後世に金(こん)から今(こん)を称す奥州阿倍氏の一支族である。

その今氏(こんうじ)が、前九年の役や後三年の役の後奥州に覇を唱えた清原氏(奥州藤原氏)の下で帰農し、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者として田を加えた今田(こんた)を称した。

今田(いまだ)氏に関しては、平安期に備後国御調郡今田邑(いまだむら)発祥の桓武平氏・千葉氏流今田氏が主な所である。


氏ではない非征服部族の民人蝦夷の扱いは、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の集団だった。

非征服部族の民人蝦夷は、氏を持たない事でその身分が土地に固定し、その土地の附帯的な存在に位置する隷属身分だったのである。

実はこの「村里集落が一つの共同体単位」が、それ以後我が国の庶民に永く続く「村落共同体」の「共生社会意識」を育てた最初の出来事だった。

我が国の大衆社会に育ったこの特異な「村落共同体」の「共生社会意識」については、この物語の後半で詳しく記す事にするので、そこまで是非読み進めて欲しい。

公家や神官、武士と違い、彼ら民人は村(居住地)の所属であり、その土地の統治者の所属だった。

村(集落・居住地)の名が、一体化した村人の氏姓(うじかばね)の代わりだった。

つまり氏姓(うじかばね)の代わり、土地の名に支配者の名(苗字)がかざされ、「大田村(太田氏が所有する)のゴンベイ」と言う表記になる。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)は氏姓を持つ土地支配者の名字(なあざ)、つまり土地の名であり村長(むらおさ)の別名「名主(なぬし)」の語源は、ここから来ている。

この名字(なあざ)由来は後ほど詳しく記述するが、平安期に起こった武士の台頭と名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)の成立に拠るものである。

下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となったからである。

その後町が形成されたが、町人も「**河岸のタロ吉、**辻のジロ吉」で、氏(うじ)姓(かばね)は無い。

町家に在って名字(みょうじ)の他に通用したのは、大店(おおだな)商家の屋号が精々である。

この身分の線引き、かなり時代が下がると一部の例外として士分に取り立てられ、「氏を名乗る者もいた」のだが、あくまでもこの原則は明治維新まで変わる事は無かった。


貴方の街や村の鎮守(神)様、最初の成り立ちを考えた事があるだろうか?

総論的に解説すれば、渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成され弥生文化が成立した。

その渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が同化の過程を経て弥生時代と呼ばれる時代が成立するのだが、その同化過程の中で、渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだ。

皇族も神社も「宮」である。

当初、「村の鎮守の神様」は、占領軍の入植地に設けた氏族の氏神(征服者の祖先を祭る)であり、被征服者(隷属した現住民/民人)は氏子ではない。

鎮守様は入植者氏族の氏長(氏上)自身の役職名「鎮守」であり、鎮守神社は、被征服者(蝦夷族)に征服者氏族を畏怖させ、ひれ伏させる為の政治的布教活動の拠点であり、鎮守社は砦でもあった。

氏神は氏上であり神主(かみぬし=かんぬし)なのだ。

例えば「絵馬」は、最初は氏長(氏上=氏神)に「馬」を献上して治世の願い事をした習慣が、時を経て氏神が神社と成って「馬」の奉納が形式化して馬の絵に成り、やがて現在の木製の板に絵を描いたものに成り、そこに願い事を書き入れて奉納する信仰習慣に成った。

こうした経緯一つ取っても氏神の正体は氏上(氏族の長)であり、尊敬はされていたかも知れないが生臭い神だった筈である。

日本の神社の成り立ちを氏神(氏上)に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)と権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。

代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)や東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。

土地の氏神が民を守る事と土地の氏上(うじがみ)が土地と民を守る事は、その到達の意味合いが重なっている。

氏族が先祖を神に祭り上げる事は、子孫である自分達の権力の正統化に繋がる事であるから奇跡現象などの労はいとわなかった筈で、純朴な民がそれを信じても仕方が無い。

神主(かんぬし)と言う呼称の発祥の由来は「氏神主(うじかみぬし)」である。

現在では神職全般に神主(かんぬし)と言う名称を使うが、本来は神社における神職の長を指すのが神主(かんぬし)であり、つまり氏族の氏長が氏上(うじかみ・氏神)で、その氏神主(うじかみぬし)と言う訳である。

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しめくり縄)」である。

つまりその接点は、日本列島他民族乱立時代の部族融合の為の誓約(うけい)や人身御供伝説の神話の世界が形成されるのである。

征服者の神(実は敬うべき先祖)だった証拠は、祭りの掛け声にある。

日本の祭りの掛け声は「ワッショイ」だが、現在の半島(朝鮮半島)の言葉でも掛け声は「ワッソー」で、この「ワッソー」を、御輿を担ぐ勢いで早口で言って見れば、渡来系征服者の祭りだった事が良く判る。

つまり文化の伝来ではなく、征服者として占領入植して来た文化なのである。

この古代征服者が祀る神・征服者が祀られる神を総称して、「地祇系(ちぎけい)神」と学問的に提起されている。

この「地祇系(ちぎけい)神」、狭義の上では祇園神を指す言葉として使用されている。

歴史に民族的帰属意識が混ざると、全てを日本中心で思考を始めてしまうから思考の出発点を間違う。

帰属意識や信仰などの右脳域の感性を優先してしまうと、具体的事実を検討する能力を停止してしまう事に成り、つまり「本来は見るべき事を見ない」と言う事に成る。

つまり日本列島に原日本人が居て、別に縄文人(蝦夷族/エミシ族)が居たような民族意識的錯覚を起こす。

所が、中華大陸や朝鮮半島などから日本列島に伝わって来たのは漢字だけではなく、様々な文化を携えた人間その者が部族単位で大挙して遣って来た。

そこで民族意識的錯覚を貴方が持ち合わせ全てを日本中心で思考を始めてしまうと、様々な事柄を日本独自の物と贔屓目で見るが、大半は基が渡来したものを時間を掛けて日本的に加工したものである。

例えば祇園祭(ぎおんまつり)は、朝鮮半島を発祥とする神様・牛頭天王(ゴヅテンノウ)またの名を祇園神・須佐王(スサノオ)を祀る祭りである。

日本の祭りが朝鮮半島を発祥とする神を祀る証拠として祭りの掛け声は「ワッショイ」だが、現在の半島(朝鮮半島)の言葉でも掛け声は「ワッソー」で、この「ワッソー」を、御輿を担ぐ勢いで「早口で言って見れば判る」と言う事である。

これを、「ワッソー」が十六世紀以後の韓国語であり、その他文献が無いから「でっち上げ」とする意見もあるが、正直、牛頭天王信仰(祇園信仰)が朝鮮半島を経由して渡来した事をまったく採ってはいない。

この「ワッショイ」の語源問題の「ワッソー」否定論は、「卑弥呼の墓(ひみこのはか)問題」と同様に足元が確りしていないままの時系列的証拠採用である。

多分この「でっち上げ説」の御意見の主は、歴史の専門家でも信仰の研究家でも無い「民族的な帰属主義者ではないか?」とは思うが、「否定する事先に在りき」で「ワッショイ」の発祥について、如何に神仏習合期とは言え仏教の「和上(わじょう)説」など神事らしからぬ説を持ち出すなど有力な別の説を持ち合わせていない。

尚、この「ワッショイ」の掛け声を韓国語(朝鮮語)の「ワッソー=(来た)」と訳して「日本列島に渡来した時の言葉」と説明する文章も多い。

だが例え「来た」が正しい訳としても、「ワッソー」は半島現地の祭りでも使われている掛け声であるから、「ワッソー」の「来た」は「神が来た」とかの解釈の方が的を得ては居まいか?

言語としての韓国語(朝鮮語)の「ワッソー=(来た)」に拘っているが、日本語の掛け声「ワッショイ」は意味不明で、それならば古代韓国(朝鮮)に於いて意味不明の掛け声が在っても矛盾はない。

つまり語源の成立過程として珍しくないのだが、祈りの掛け声「ワッソー」が先に在りきで、その「神が来た」と言う意味合いを採って韓国語(朝鮮語)の「ワッソー=(来た)」が後から成立した可能性もある。

いずれにしても、日本列島の地に根付いた祇園信仰は明らかに朝鮮半島からの渡来信仰で、牛頭王(ごずおう)と須佐王(スサノオ)が同一神または習合神である。

ならば、日本の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と誓約(うけい)に拠って弟神と成った須佐王(スサノオ・素戔嗚尊)の経緯がおぼろげながら見えて来る。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

この朝鮮半島由来の守護神・牛頭天王(ゴヅテンノウ)であるが、もう少し深く探ると基は多神教であるインド・ヒンドゥー教で、「牛」は神聖な動物として崇拝されている「ナンディン(聖なる牛)信仰」がその源流の様である。

多神教であるインド・ヒンドゥー教では、シヴァ神の乗る「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成った事で神聖化が進んだ「牛」は、神聖な動物(聖なる牛)として崇拝されている。

そしてこのナンディン(乳白色の牡牛)神、シヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされている。

牛頭天王(ゴヅテンノウ)が、元々シヴァ神が踊りを舞う祭礼音楽の奏者を担う神であれば、祇園祭(ぎおんまつり、ぎおんさい)の祭礼神で在っても不思議は無い。

そう成って来ると、日本神話に於ける天宇受売命(あめのうずめのみこと)の存在も、ヒンドゥー教の「シヴァ神がモデルではないか?」とも思えて来るのである。

祇園祭りは、北は青森から南は九州・熊本まで広範囲に地祇系神(祇園神社系神)として執り行われている祭礼で、京都・牛頭天王(ゴヅテンノウ)の八坂神社(祇園総社)や博多・櫛田神社に祀られる素戔嗚尊(すさのうのみこと)の博多祇園山笠は特に盛大で知られている。


古代豪族の地祇系神に関しては、出雲系を指す神を地祇系神とする説があるが、天孫降臨伝説の天神系も渡来古代豪族であるから、地祇系(ちぎけい)神の定義は渡来部族入植地の鎮守神・氏長(氏上)=氏神が相応しいのではないだろうか?

従って理屈で言えば、本来なら総本社の神職の長が神主(かんぬし)で、分社の神職の長は厳密に言うと神主(かんぬし)の代理・代行者かも知れない。

その点、宮司(ぐうじ)の発祥の由来は少し違い、皇族の住まいを「宮(ぐう)」と言い、本来宮司(ぐうじ)は天武帝から桓武帝の頃に春宮(はるみや・女神・后妃)・中宮(ちゅうぐう・皇后)などの宮に奉仕する官司として中務省に中宮職を設置された。

つまり宮司(ぐうじ)は、宮に仕える「官」の事を指して居たのだが、後に神社の造営や徴税を行う者の事になり、さらに祭祀を行う神職者の事を指すようになった。

こちらの方は「神官主(かみかんぬし)」とややこしいが、皇族に仕える「官」もその出自は氏族の氏長に限られていたから、発祥の由来の経緯と発祥の時期が違うだけで、宮司(ぐうじ)と神主(かんぬし)が同じ意味合いに成ってもさほど問題はなさそうである。

両者(神主・宮司)いずれにしても、氏族の出自(血統)から始まった神職は、永い歴史において貴族・武士・神官は氏族の血統として兼業時代があり、言わば氏族の職務選択(業務選択)の主たるものだったのである。

現在の宮司(ぐうじ)は、神宮(伊勢神宮)を本宗と仰ぎ、日本全国の神社を包括する宗教法人「神社本庁(じんじゃほんちょう)」より庁規され、神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)で、神社の社務や神職・職員の管理者でもある神職の職階(職名・職称)である。

神(かみ)は日本語で「しん・シン」とも発音するが、中国語で姓(日本語で、せい・かばね)は、正しく「しん・シン」と発音する。

中国語で神を「しん・シン」と発音し、これを列島で「かみ・カミ」と発音するのは「アイヌ語のカムイから来ている」と思われる。

ちなみに中国語で下は「シャァ」と発音し、上は「スァン・シャン」と発音し「かみ・カミ」ではない。


この国(日本列島)は、永い歴史に於いて帝(みかど)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。

帝(みかど・日本読み、中国読みはディ・テェィ)の語源であるが、元は御門(みかど)である。

これが、初期の神社の成り立ちと大きい関わりがある。

「御門(みかど)」と言う呼称であるが、門(もん/かど)に特別な意味があるのは、定住した部族が城砦集落(じょうさいしゅうらく)を築き外敵から部族を一括して守った事から、その出入り口に在る門(もん/かど)を「その部族の象徴」としたものを部族のリーダーに結び付け、そのリーダーを「御門(みかど)」と呼んだのではないだろうか。

そしてその城砦集落(じょうさいしゅうらく)の中心にシャーマニズムを統治に活用する部族のリーダー・御門(みかど)の住居としての屋敷が設けられ、時を経てその地が聖域として神格化されて「神社に成った」と推測するのである。

つまり、門構えがある砦状の屋敷を持つ有力者(征服部族長)の象徴が、御門(みかど)と言う「尊称だった」と考えられる。

逆説的に推測するに、「門を持つ屋敷」は、有力者にしか持つ事は許されなかったのでは無いだろうか?。

また、そうした部族長の一部が支配域を広げて国主(くにぬし・王/臣王)に成長し、国主=御門(みかど)と成り、多くの国主(くにぬし)=王(おう)が集まって大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ・後の帝/みかど)を選出した。


御門(みかど)が有力者(征服部族長)の尊称であるから、その屋敷の門が独特の権威を持つ。

そして、その有力者(征服部族長)は、被支配者統治の為に神格化して行く。

つまり御門(みかど)は、当初一人ではなく地域地域で大勢居た。

有力者(征服部族長)の砦状の屋敷も神域化されて、鎮守氏上が鎮守氏神に成って初期の神社の様式が出来上がった。

当初、「社(やしろ)」は神の降臨する為の場所だった。

つまり、神の声(御託宣)を頂く為の祭場だったのである。

所が、何時の頃からか「社(やしろ)」とは建て物であり、神はそこに「常在するもの」と言う解釈に変化して行った。

この辺りに氏神(氏上)様のカラクリがある。

鎮守(ちんじゅ)はその土地の平安を維持する者の役職で在るが、その鎮守(ちんじゅ)が鎮守「上」様(ちんじゅかみさま)となり、神格されて鎮守「神」様(ちんじゅかみさま)に成った。

そして氏神(氏上)様の屋敷が社(やしろ)に成り敷地が御神域に成って、精神的にも冒(おか)す事出来ない権力と成った。

つまり賀茂葛城氏の主神・事代主神を祀る全国の明神社(みょうじんしゃ)が、明神(みょうじん)そのものが「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのである。

だから、賀茂葛城一族の長が「神」で在ってもなんら不思議は無い理屈である。


わが国独特の建造物として、鳥居(とりい)がある。

つまり、御門(みかど)として独特の権威を持つ鎮守氏上の屋敷の門が、神格・神域化して殊更権威ある物としての特別な門「鳥居(とりい)」の様式が、時間を掛けて完成されて行った。

まぁ、判りやすく言えば、氏神(うじがみ・氏上)の屋敷兼砦の門が、権威を得て「鳥居に成った」と言う事である。

しかしこの「鳥居」についての異説が他にある。

鳥居は、その存在について日本人にも意味を説明し難いものだが、古代ヘブライの建物(玄関)とそっくりの構造をしている。

そして「トリイ(鳥居)」は、ヘブライ語アラム方言で「門」と云う意味になると言う指摘がある。

エルサレム神殿の門には、天皇家の紋章と同じ「十六弁の菊花紋」が刻まれてい居て、此の紋章はイスラエル民族の紋章で現在のユダヤ教シナゴーグ(教会堂)には、必ず「菊の紋章」がある。

さらに、語学的酷似点としては、ヘブライ語の「ミコト・ミカド」の意味は「神々・天皇・貴人」の事を指す所から、ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説との類似を指摘している。

また、後ほどご紹介するキリストの生誕を擬した「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」の誕生逸話の酷似も或いはユダヤ文化の伝承を採った結果かも知れない。


神域と俗界(人間が住む)を分ける「結界」の象徴が、特徴ある形式で建造された一種の「門」が鳥居(とりい)で、一般的には神社の神域への入り口を表している。

元を正すと、この征服部族・氏族が日本の歴史を創る事になるのだが、何しろ彼らは好戦的な部族だった。

その根底にあるのが、祖先が征服部族として日本列島に侵入し、切り取り自由に支配地を確保、広げて行った歴史があるからである。

この勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義が、後の「戦は武士の本分」の原点ではないだろうか?

その彼らの好戦的資質が、「日本の歴史そのもの」と言っても過言でない。

まてよ、そうすると現在の好戦的な大国・米国も、祖先が征服部族として「北米大陸を制圧して創った事がその原点」と言う事に成るのだが・・・・確証は無い。


この時代、民人(たみびと/縄文人)の生活は質素な竪穴住居集落(村落)で、住まいは土間に木柱の骨、藁の小屋掛けが主流で、縄、ムシロ、土泥が建材だった。

下手をすれば、自然の岩穴なども利用されていた。

そこに金属武器を携えた一団が現れて支配者に納まり、見事な高床式板囲いに床板張りの神殿造りの鎮守様の屋敷兼砦が出現して、「尊敬しろ」と言う。

この時代の住居はほとんどが掘っ立て小屋で、よほど身分の高い者の家でなければ、高床式の板囲いに床板張りの屋敷には住めない。

この民人(たみびと)達の質素な住宅事情が改善されるには、「江戸期に入ってから」と言う長期の時間を必要とした。


洋の東西を問わず、神仏は本来裸形である。

これは女神も菩薩も同じ事で、精神世界に在る神に羞恥心は存在しないからである。

日本の神だけが神話時代から着衣なのは、氏上(うじかみ)だからで、この点の重要さを理解しないと日本の本当の過去は見えてこない。

氏神が精神世界の存在ではなく、人間界の上(かみ)だからである。

つまり「天孫降(光)臨伝説」の神なんて嘘っぱちだったが、善良で信心深い蝦夷(えみし/縄文人)の民はそれを信じた。

それもこれも、進入(征服)部族が持ち込んだ当時の中華最新文明が、原始的に生活していた列島の蝦夷(えみし/縄文人)の民には、神の仕業としか思えなかったからである。


歴史を学ぶと統治権力に行き着き、統治権力を学ぶとの信仰の関わりを見、信仰を学ぶと深層心理や脳部位の活動にまで入り込んでしまう。

基本的に、信仰と結び付ける事で統治施策が安易に成る効用が在ったからだが、それは信仰が発達した脳部位を満足させる効用として成立した物だからである。

人間の厄介なその脳部位を、「側坐核(そくざかく)」と言う。

脳部位・側坐核(そくざかく)の機能は、孤立への不安感を抱かせる事に拠って群れ(集団)の体制維持に大きく関わる事である。

物事には幸運依りも不運への恐怖が在り、計画には成功よりも失敗への不安が付きまとうから、群れ(集団)る相互扶助でリスク解消をしようとする。

しかし群れ(集団)だけでは力の及ばない事も在り、だから人類は恐怖や不安を和らげ或いはその解消を占いや信仰に託そうとする。

占いや信仰は、人間の脳部位・側坐核(そくざかく)を満足させる為のものだから、それをハッキリと認識していないと嵌ってしまって、それが「習慣認知」されて抜け出せなくなる。

この脳部位・側坐核(そくざかく)は快楽をも感知する部位であるから、感度の良い人は依存症が強くなり、占いや信仰ばかりではなくギャッブルや薬物などの依存傾向も強くなる。


良く言えば、人が群れる事も盟主を仰ぐ事も、「生きる術(すべ)」としては容認出来る。

従って初期の群れ社会のリーダーは、血統を重視した群れの長だった。

所が、脳の発達し過ぎた人間には良心と悪心が混在している。

どうやら、建前の中に「己の利」と言う悪心を隠した人間が現れて、占術、呪術をもって権力を握る構図が出来上がったのではないのだろうか?

困った事に、この「己の利」と言う悪心を持った者ほど、「出世欲が強いから指導者の資質を持っている」と言う事である。

この矛盾に気づいた時、リーダーは偶像に過ぎない事が判って来る。

初期の国家形成に於いて、その偶像に権威を着けたのが、占術、呪術に拠る畏怖心の確立、「信仰」だった。

すると、大半の良心は「生きる術(すべ)」としてその占術、呪術に拠る畏怖心を心の拠り所とした。

その既成事実が何代か後には、素朴な信仰として残り、鎮守神が定着した。

立地条件を考慮して調べてみると、比較的小高い土地に石積みを施し、堀割を切ったさながら砦のごとき神社仏閣が多い事に気が付く。

この意味は二つに解釈出来る。

元々は支配者の「権力と統治の象徴」であるか、それとも「信仰上の砦」と言う事になる。

いずれにしても、外敵を想定している所から神社仏閣が平和の象徴では在り得ない事になる。

信仰(宗教)は、心の拠り所であると同時に心を盗む武器でもある。

素直な民の育成は古今東西の統治者の基本的目標であり、それには屡(しばしば)信仰(宗教)が利用された。

日本国でも、先の大戦までの二千年間の過程を経て、最後は「神国日本の無謀な戦い」に利用された。

こう言う事を言うと、「英霊の純粋な精神に対する冒涜(ぼうとく)だ」と奇麗事を言うが、平和であるべき神を戦に使っておいて何を言うか?

冒涜(ぼうとく)したのは、明らかに神を利用した連中である。

人間の世の中は矛盾に満ちたもので、「戦う正義」もあれば「戦わない正義」もある。

つまり、個々のイメージ(心像・形象・印象)を基にする選択肢の中から何を採るかの問題で「不変的な正義」など存在しない。

同様に、アンカリング効果やロックイン効果に拠る判断などは個々のイメージの最たるもので、新しい発想を阻害するものあるから、そんな不確かなものを根拠に他者の異論に聞く耳を持たない者は愚か者である。


朝鮮半島から来た征服部族達が驚かされたものに、日本列島で頻発する「地震」がある。

「地震」は、半島では皆無に近い。

それ故、征服部族達は恐れ慄(おのの)いた。

この辺りが案外、元々の土着信仰と渡来信仰が習合した一因かも知れないが、いずれにしても土着信仰を上手に取り込む事で、土着民(非征服部族・蝦夷/縄文人)の反発は少なくなる。

ともかく、多神教同士の民族だった事が幸いして、「修験密教」と言う独特の信仰が完成して行ったのである。

起こり得る事象の科学的解明が為されない時代は、日照り災害から台風洪水、地震や火山噴火まで「神の怒り」と解する。

「神の怒り」を鎮める為に、神とコンタクトして自分達が何をすべきか知らねばならない。

お怒りの原因が判らなければ、為す術(すべ)が無いから不安は解消されない。

シャーマンは、その神の声(御託宣)を聞く重要な存在、つまり精神的拠り所だった。



「日本の国技」と言われる「相撲」は、鎮守神への奉納神事から始まっている。

相撲取りは武道家(武闘家)で、けして只の見世物興行ではない。

従って武士並に髷(まげ)を結い、伝統神事(神への奉納)が仕事である。

こうしたものは、時代が下って庶民に降りて来たが、元は氏族の専任事項である。

勿論、神事が祭り(祀り/奉り)であるから、それを見る楽しみは充分に備わってはいたが、当初の神事の意味は土地の支配者である氏上(氏神)様に対してその配下が勇猛さを披露する為の場で在った筈である。

従って村の鎮守様のお祭りには、古事に倣う奉納相撲の行事は欠かせないのである。


お上=氏神の歴史的な経緯から、支配者が神(絶対者)となり、下って役人が「お上」と成ったのだが、現在の民主憲法国家に於いては、役人は国民に奉仕するのが役目であり、現代に於いて官僚が「お上意識」で威張っているのは憲法違反である。

この押し付けられた制度に、血統に関係ない先住の民人(たみびと)が、為政者(支配者)だけに都合の良いこの血の価値観を、長い歴史の中で疑いもなく受け入れて、「尊いもの」として居るのは皮肉な事ではある。

支配者の歴史と支配者の文化だけが、日本の唯一の文化だろうか?


百姓(ひゃくしょう、ひゃくせい、おおみたから)と言う身分であるが、実は初期の大和朝廷国家での身分は低くない。

補助的な餞民・使役農民(せんみん・しえきのうみん)を束ねるのは、氏の子孫、有姓階層全体を指す「百姓(村長/むらおさ・名主/なぬし)」であり、支配者層が在地社会において農耕地直接把握の対象とした社会階層が「百姓」の総称だった。

これを踏まえた上で間違えてはイケナイのは、後の「庄屋、名主、村主」などが当然ながら使役農民ではなく支配階級・氏族の末端に位置する血統の持ち主「百姓」である。

その事で、それ故過去の村落の名が支配者の名である「名主様」や庄(荘園領主制度における庄)の支配者たる「庄屋様」・村の所有を示す「村主様」などと呼ばれている。

この「百姓」は武道の心得も有り読み書きも為し、時には使役農民の側に立ち時々の支配者から村を守ったので、使役農民達の尊敬を集め良好な関係を作る時もあった。

それ故、貴族、武士、神官、僧侶も永い兼業時代があり、他の多様な生業(なりわい)も含め、安土桃山時代の「太閤刀狩」に至るまでの長い期間、武士と百姓は「さしたる差はなかった。」と言うより農商工業も兼業だった。

中世以降次第に「百姓の本分を農とすべき」と言う思想が広がり、明治維新以後は餞民・使役農民(せんみん・しえきのうみん)の身分制度が取り外されて、百姓を「一般的に農民の事を指す」と理解されるように成るに到った。

その事を踏まえて、領地を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)を、それぞれが名乗って氏名(うじな)とする者、養子を迎え藤原に改姓する者、氏の女子を娶(めと)り、母系によって藤原、その他の姓(源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、他の名族の姓)を称した例もある。

こうした例は当時頻繁に行なわれ、例えば熱田大宮司家ら多数が藤原氏から養子を迎えて藤原を名乗った例が残っている。

その後、また旧姓を名乗る身内も出るなど、膨大な姓が誕生する。

しかしそれらの氏姓の末裔達も代を重ね枝分かれして身分は低くなり、中央権力と直結する高位の身分とは大差が付いて行く。

その総称が、「百姓」の語源で、当初「百姓」は身分の低い氏族だったのである。

つまり、村主、庄屋、名主は百姓であり、姓を持たぬ民(餞民/使役農民)とは区分けされていた。

その言い回しが「民と百姓」と言う分け方である。

百姓は氏族、農民は民人が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。

つまり豊臣秀吉の「太閤刀狩」は、専業武士(統治と武力行使を担当)と氏族系百姓の間に明確な線引きをして、氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主を町人、氏族系の地主を百姓と身分を明確に分けた「身分制度改革」だったのである。

豊臣秀吉が「身分制度改革」を断行した理由が、彼の出自に大いに関係する事であるが、その話はこの物語の安土・桃山期の項で詳しく語るとしよう。



実は権力の裏付けに成っているのが「恐れ」であり、恐れを回避する為に民衆は権力を容認する。

つまり「恐れ」が無ければ権力は成立しない。

人間に「恐れ」が在るのは防衛本能だから仕方が無いが、得てして「恐れ」は妄信的な「頼り」に変身する。

「恐れ」の中身は様々で、未開の頃は解明できないものに対する「恐れ」だったから呪詛や信仰が頼りにされ、呪術者が群れや国のリーダーとなり、その権力の一部は今日にまで到っている。

また、民衆は多少の事に目を瞑っても他部族や他国との利害の「恐れ」に団結して対抗する為のリーダーとして権力を託し、他の思想に対する「恐れ」や飢餓(きが)や病、安全への「恐れ」の為にも権力を託した。

所が、残念な事に必ずしも民衆の想いは権力者には届かない。

いつの世も権力者の側は「恐れ」を利用して権力の維持と強化を図る事が目的であり、例え美辞麗句は並べても最初からボタンは掛け違っている。

つまり権力維持の為には殊更に「恐れる敵を作る事」も辞さない狡猾な生き物が権力者である。

そうした如何わしい背景を正当化させる為に、権力者に都合が良い情報操作が為されているのが正史であり、権力抗争には闇の創作部分が存在し、故に正史と掛け離れた推測が浮上してもその可能性を誰も否定出来ない。



当時日本列島に新天地を求めて来た渡来部族には最先端の中華文明の統治思想を携えて来た者達も居て、当然ながら原住縄文人の伝承文化や人種的帰属意識の抹殺を試みる。

非力な動物である人類は生き残る為に知性を持ち、人間個々の理性は知能の発達と伴に右脳・左脳が巨大化して高度化し、比較、判断、推理、計算、発明などの能力を持って、ホモサピエンス(知性人)を名乗っている。

その知恵の発達と同時に、人類は群れて生きる事で外敵を共同で防衛し獲物を協力して採取する群れ社会を形成した。

その集団で仲間として生きる為に発達した脳の部位が、脳の左右に鎮座する「側坐核(そくざかく)」である。

歴史を学ぶと統治権力に行き着き、統治権力を学ぶと信仰の関わりを見、信仰を学ぶと深層心理や脳部位の活動にまで入り込んでしまう。

基本的に、信仰と結び付ける事で統治施策が安易に成る効用が在ったのだが、それは信仰が発達した脳部位を満足させる効用として成立した物だからである。

その人間の、厄介な脳部位を、「側坐核(そくざかく)」と言う。

人類には、巨大地震のような人知が及ばない事象をスピリチュアル(霊的潜在意識)的に納得させる為の脳部位として「側坐核(そくざかく)」が在る。

「側坐核(そくざかく)」は大脳腹側の「線条体(せんじょうたい)」とされ、感性を司どり、人間の資質に存在する報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性に重要な役割を果たす脳部位である。

つまりこの「側坐核(そくざかく)」の存在が一種の習慣性脅迫観念を醸成して原始信仰をもたらし、人間を占い好きにし、信心・信仰心を持たせる影響を持つ。

そして人類は、小さな集団の頃からその維持の為に「側坐核(そくざかく)」の機能を発展させて、集団的なスピリチュアル(霊的潜在意識)合意を形成して行く。

その辺りを、統治の基本として利用したのが「天孫降臨伝説」であり、それを普及させたのが村々を廻って語った「陰陽修験者」の成果だったのではないだろうか?



大和朝廷の幕開けの頃、「恐怖の支配」を実践したのは、初期修験道師達である。

初期修験道師は、果たして民間の自然発生的なものだったのか?

修験道の祖「役小角(えんのおづぬ・賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、賀茂・葛城家に伝わる「呪詛信仰(事代主神/ことしろぬしのかみ)」の呪術、占術、元々列島に存在した八百万(やおよろず)の「原始自然信仰」と、渡来して来た中世の「妙見信仰・北辰信仰」や「道教」を習い合わせて誕生した。

その陰陽修験道は、後に修行から帰国した弘法大師(空海)や伝教大師(最澄)が持ち帰った経典に拠って仏教やヒンドゥー教などの渡来宗教にも影響を受けて行くのだが、どう考えても自然発生的に陰陽修験が成立したとは思えないのである。


日本史には「理性の歴史」と「感性の歴史」が混在している。

これは、初めて我が国の正史書として編纂された「古事記」と「日本書紀」が、皇統の正当性の納得を最優先に、意図的に「感性の歴史=神話」を混在させたからである。

「理性」で考えれば、皇統の正当性を世間に知らしめる「三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」は、それこそ「感性の歴史=神話」を主材にして創り上げた皇室の宝物である。

つまり「古事記・日本書紀」の記述内容に合わせて、「三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」は後追いで天皇が受け継ぐべき宝と創作された。

その経緯から、「古事記・日本書紀」の編纂を始めた時の為政者・天武大王(てんむおおきみ/天皇)や、編纂が終わる時の桓武天皇(かんむてんのう)に都合が良い記述で埋められていても不思議ではない。

つまり、大王(おおきみ/天皇)を始めとする渡来貴族(氏族)の支配層を「神」と主張する為のアリバイ作りが、「古事記・日本書紀」の編纂事業だった。


いずれにしても、日本列島に海を渡り来た渡来人は、「古事記・日本書紀」で天から降りて来た神話の神々に成った。

そしてこの「古事記・日本書紀」の神話を大和朝廷の勢力範囲の隅々まで喧伝した機関こそが、天武大王(てんむおおきみ/天皇)の声掛かりで始まった役小角(えんのおずぬ)率いる陰陽修験組織だった。

即ち「古事記・日本書紀」の編纂とその喧伝係たる陰陽修験組織は、最初から両輪として計画された一つの大プロジェクトだった。


陰陽修験道が成立したのは、天武天皇(第四十代)の御世である。

後ほど詳しく記述するが、大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)には「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて天智天皇の弟に納まり「天皇を継いだ」と言う「大疑惑」がある。

大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)が即位したと時を同じくして小角(おづぬ)が陰陽修験道を始め、その修験道を組織化して行く所からこの陰陽修験組織成立には天武天皇の意向が存在した疑いが濃い。

疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では、余りにも話が綺麗過ぎる。

つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。

それに修験者のあのお馴染の「行者服」の出(い)で立ち、中々凝っていて高価そうである。

あれは常識的に考えて「軍事組織か警察組織の制服にしか見えない」が、如何か?

山中でも一目で識別が可能なしろものであるが、活動費や行者服の資金はいったい何処から出ていたのか?

そしてなによりも、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ・賀茂小角)が活動し始めたのは天武天皇(大海人皇子/おおあまのみこ)が即位した時期に重なっている事である。

昔は武人の装備を「出(い)で立ち」と言った。

これには、機能性以外に相手を威圧したり心服させる為のアピール効果の目的が込められている。

いずれにしても、残念ながら人間の見かけなどそう差が有る訳ではないから、衣装や住居など現代にも通じる「こけおどし」が無ければ相手には中々認めては貰えない。

まぁ、衣装もそうだが、政治経済のリーダーも宗教家も、本質は役者である。

役者で無ければ大衆に信用されないから、力を見せつけたり信じさせる為に衣装や舞台装置(建造物)と演出、そして評判には拘(こだわ)る事になる。

それらは全て指導者としての力を心理的に補完する為のものだから、衣装を脱げば只の人で、評判を壊して支持者や信者が居なければ個人の力など知れたものである。

統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

そんな訳で、修験者の「行者服」の出(い)で立ちの裏に「表沙汰にし難い理由」があり、宗教(信仰)でカモフラージュして民間の体裁を整えた「公的な秘密組織ではないか」と、我輩は疑ってみた。

元々衣装や装飾は、身分を現す為の言わば「分別標識」である。

童話ではないが、王子と乞食が衣装や装飾を取り替えれば、誰も乞食が「本物の王子だ」とは気が付かない。

わが国でも「馬子にも衣装」と言う諺(ことわざ)がある。

裏返すと、元々大差がないものをそれらしく見せる為に衣装や装飾は存在し、時代に拠っては身分の違うものに、その衣装や装飾の使用は制限されていた。



実は日本列島の西半分に大和朝廷が成立後も、蝦夷族(エミシ族/縄文人)の組織的な抵抗(レジスタンス)記録は、平安中期まで坂東(関東)・東北地方で続いていた。

そうした抵抗(レジスタンス)の対応に、下級貴族の平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの一党が夫々(それぞれ)鎮守将軍として派遣されていた。

同時に機内王城の地域や都に於いても源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や源頼政(みなもとよりまさ)の鵺退治(ぬえたいじ)のような小規模な抵抗(レジスタンス)は存在した。

つまり修験道師の主たる役割は、隷属的立場である俘囚に置いた蝦夷族(エミシ族/縄文人)の反抗分子を駆逐し、彼等に天孫降臨伝説(服従心)の啓蒙と民族的同化を促進する役割を負っていて、それ故に天の岩戸伝説・天狗伝説・犬神伝説(しゅけん、しっぺい太郎、鎮平犬)などが全国に広がった。


視点を変えて見ると、一つの可能性が浮かび上がって来た。

「修験密教」と言う独特の信仰・・・・・それは、列島の新支配者達の権力闘争と占領政策だった。

政治的に「評判を立てる。評判を煽(あお)る。」を組織的に工作するのも立派な諜報活動で、その広報活動を信仰を利用して行うのは、歴史的必然だった。


国家を形成する重要要件の一つが帰属意識(きぞくいしき)である。

人間には帰属意識(きぞくいしき)があり、その帰属意識(きぞくいしき)は人種(民族意識)だったり国(国民意識)だったり、同一宗教や勤務先企業だったりするのだが、その根底に在るのは「人間が群れ社会の生き物である」と言う極原始的な本能にある。

また、その帰属意識(きぞくいしき)の形成過程に影響を与えるのが、この「群れ社会の生き物」と言う原始的な帰属本能と「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う心理効果の利用である。

この集団同調性(多数派同調)バイアスに関してだが、多くの場合は宗教指導者や為政者、またはその両者が協力して「信仰心や民話の刷り込み」が作為的に応用され、帰属意識(きぞくいしき)を醸成して行く事になる。

この手法は功罪合い半ばで、仲間の団結や国家形成の為には「悪い」とばかりは言えないが、問題はその帰属意識(きぞくいしき)が高じて敵愾心を煽り争いの基となる事である。

これは軸足の問題で、国際化が進む現在に於いて「結束を採るか、協調を採るか」は、今後のコンセンサスとして大きな課題かも知れない。


我が国に限らず、いくら建前の奇麗事を言っても国家の本音には「諜報工作機関」は欠かせない矛盾として存在する。

これが多くの場合、信仰を利用する所に権力者(為政者)のずうずうしさを感じる。

近世(千五百五十年〜千六百年)に於ける日本の歴史でも、ポルトガル王の要請により、東洋各地に進出して来たイエズス会によるキリスト教(カトリック教会)の布教活動に、時代背景を考えると、当然植民地化を目的とする側面が疑える。

この宣教活動に拠る「民衆の精神的取り込み」と言う側面では、二千年前の「陰陽道師の布教活動」と、さして目的に違いが無かったのではないのか?

統治の原則的手段は、統治者のカリスマ性を演出する事と共通な思想に統一する事、仮想敵(外敵)を創造して内部結束を高め、内部不満の目を摘む事である。

そうした目的の為に古事記・日本書紀の編纂と全国津々浦々に出没した修験道師(山伏)が、天武大王(てんむおおきみ/天皇)や桓武大王(かんむおおきみ/天皇)が仕掛けた「創作と喧伝のセットだった」と考えられる。

人間は群れ社会の動物であるから、群れ内の合意や取り上げられる話題に弱く、それ故に何らかの伝播・伝承で繰り返し耳に入る内容や人名には弱い。

特に知っている伝説や名前には、「知っている」と言うだけで既に疑う事を放棄してしまう思考傾向を持っている。

そしてその思考傾向は、この日本列島でも神代の昔から統治に利用されて来た。


古文書の存在のついては、歴史過程のヒントになるかも知れないが「不都合な過去を消す為」と言う政治的効用も在り、「必ずしも事実とは受け取れないもの」と心得るべきである。

つまり歴史上の事象や書き残された文献に対しては、それを盲目的に受け入れず、客観的視点を持って臨まなくては成らないのである。



先入観は、発想の落とし穴に成る。

倭国の国々の日本列島側が大和合して大和朝廷を成立するにあたり、列島の西日本がその範図である為に「九州から畿内までのいずれかが大和朝廷発祥の地」と思い込んでいて、それ以外の可能性を発想する学者は居なかった。

それが盲点となって、見落とされたのが伊都国の所在地ではなかったのか?

日本列島の西日本は神武大王(じんむおおきみ/天皇初代)の下に漸く統一を見る。

ただしこの統一大王(おおきみ)、有力部族国家の連合体で、大王(おおきみ)は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。

そこで、両者統合の後にその民意を掴んで台頭して来たのが、海洋民族・葛城氏族(賀茂氏族)の奉ずる「事代主の神(ことしろぬしのかみ)と一言主の神(ひとことぬしのかみ)」と言う二神である。

事代主の神(ことしろぬしのかみ)の「神を有利に操ろう」と言う呪術と、一言主の神(ひとことぬしのかみ)の「神の意志を聞こう」と言う御託宣(占術)の神様である。



半島に於いては、百済(くだら・ペクチェ)と新羅(しらぎ・シルラ)も任那(みまな・狗奴国の親の国)とは、「王族の婚姻関係を含む」付き合いが有った。従って、任那の子の狗奴国(くなくに)も親しく交流が有った。

そうした歴史の流れの中で、朝鮮半島では、満州族系の高句麗(こうくり・コグリョ)が朝鮮半島の北方で起こり、次第に南下、朝鮮半島は三国史時代に突入して行った。

この「三国史」、朝鮮側の文献での呼び名であるが、何故か、任那(みまな・加那、加羅とも言う)の存在は、欠落している。

多分、後世の半島側の人々は、感情的に任那の存在を認めたくなかった。

日本側も、「大和民族の団結」と言う国家政策上、抹殺が必要だった。
それで公式文章から消えて無く成った。

或る時期から、どちらの国にとっても、在っては成らない国に、任那は成ったのだ。

高句麗(こうくり・コグリョ)対倭国連合(百済、新羅、任那)の争いに成って、狗奴国(くなくに・もしくは大和朝廷)も、度々援軍の要請を受け、派兵している。何時の頃かは判らないが、任那の「本拠地(王族の大半)自体が日本列島に移って来ていた」のかも知れない。

つまり実際には無かった事だが、たとえて言えば、イギリス政府が、「植民地の方が広いから」とアメリカに本拠地を移した様なものだ。

大和朝廷(西日本統一国家)の成立後は、発祥の地より新たに得た土地の方が広く、大きく成って居たので、半島側の任那(みまな)から頼りにもされていた。

それは任那が、天皇や従う豪族自身の母国、或いは、近い祖先の母国だったからである。

倭国(わこく)の内の朝鮮半島に於ける百済、新羅、そして抹殺された様に歴史からはじかれた任那(加羅)などの国々も、古代の日本列島と同様に、大陸系「農耕民族」と黒潮に乗って来た「海洋民族」の「両民族が同化した民族」の国である。

故に、日本の神話?(もしかしたら倭国群全体の神話)の様に、加羅(から・大陸)系と呉(ご・海洋)系が存在した。


この二つの部族的血の系列は、倭国内のそれぞれの国の歴史の中で顔を出す。

従って、任那(みまな)の地にも加羅(から)系、呉(ご)系は並立存在し、日本列島にも両系が渡来している。

狗奴国(くなくに)王から神武帝として大国主(皇位)の位に就いた任那からの謎の部族王は宇佐岐氏族(神武朝・呉系)だった。

それが、加羅系の有力部族王の和邇氏族(臣王)が一時和邇王朝を並立させ、やがて宇佐岐氏族(神武朝・呉系)を滅ぼし後の大王(おおきみ/天皇)はその行動から「加羅族系に変わった」とするのが有力で有る。

この加羅系の部族が有力部族王の和邇氏族(臣王)であり、宇佐岐氏族(神武朝)を助けたのが伊豆(いと・伊都)の国を打ち立てた葛城(御門)氏族である。

民話として残る「大国主と因幡の白宇佐岐(しろうさぎ)と和邇(わに)」の逸話の基と考えられ、和邇王朝は滅亡し力を着けた葛城氏族が、何らかの出来事で和邇(御門・和邇王朝)氏族から皇位(王権)を簒奪し、少なくとも継体朝(第二十六代)に皇位を譲るまで永く「葛城朝の時代が続いた」と考えないと、この物語は成立しない。

しかし何しろ統治の為に意図的に脚本構成された神話の世界で、確証は見出せない状況である。


修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、大豪族臣王・葛城氏の枝であり下級貴族賀茂氏である。

この葛城氏本家が突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名としての「葛城王」や、天智天皇の皇太子時代・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名に葛城皇子(かつらぎのみこ)などがある。

つまり「葛城」は、皇統の格別重要な名跡として扱われているのだ。

この事の意味するものは何だろう?

葛城氏が消えた理由が、「謀反の挙句討伐された」などの悪い事で有れば、そんな不名誉な名を、後の皇子の別命や臣籍降下に対する「賜姓」に使う訳が無い。

葛城を冠する山だけでも、大和葛城山、和泉葛城山、伊豆葛城山など、未だに全国に存在する。

これとて、本当に「葛城の名」抹殺を意図したものなら山の名称など容易(たやす)く変行出来る筈で、何故かそれは為されていない。

しかし葛城氏本家は、忽然と歴史書から消えているのである。

あくまでも古事記や日本書紀を「信じる」としたらの注釈つきだが、古事記や日本書紀に拠ると、葛城氏(かつらぎし、かずらぎし/賀茂族)は、大和葛城の地(奈良県)に本拠を置いていた「古代豪族」と言う事に成っている。

しかし、葛城氏(かつらぎし)の本拠地が「大和葛城である」と言う説には符合しない多くの興味深い事実が、伊豆半島(伊豆国/静岡県)の「伊豆葛城」や「賀茂郡」に存在する。

この従来の認識とは辻褄の合わない事実の存在が、伊豆半島から出るわ出るわで我輩は驚き暫し立ち往生した。

そう成ると、推測出来る事は一つしかない。

考えるに、皇統(大王/おおきみ即位)の正当性を印象付ける為には、「天孫降(光)臨の地・日向(宮崎県)から、紀伊半島に移った」と、記述する必要があったのではないか?

このミステリーはこの物語で追々解いて行くが、いずれにしても古事記や日本書紀を記述内容通りに受け取っては、誤った歴史街道を辿りそうな気がする。


葛城氏は、大王家(おおきみけ/後の天皇家)の確立後、葛城「臣(おみ)」と成るが、かつては大王家に対抗出来る最大の豪族、あるいはもう一つの「大王(おおきみ)家」、つまり「御門(みかど)」であったと言われている。

古事記や日本書紀(紀・記)の編纂に当たり、過去の事とは言えども葛城氏の真実を明かす事は、すなわち神の威光を持って統治する天皇家が、かつて一豪族から成り上がった事を公(おおやけ)にする危険も意味していた。

そしてまた、王達の連合国家・初期の大和合大国(だいわごうおおくに)において、大王(おおきみ・大国主)の血統が移っている事実も、神の威光を持って統治する精神世界には馴染まない事実で在った。

「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から代々嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようである。

この葛城家、大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王家(おおきみけ/天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。

当然ながら葛城家は、黙っていても大王(おおきみ・大国主)の「外祖父」を排出する事になり、時系列的に言えば、後の大豪族(臣王)蘇我家以前に、大王家(おおきみけ/天皇家)に匹敵する存在が「葛城御門(かつらぎみかど)」で、武力を持たず「神の威光で統治する」大王家(おおきみけ/天皇家)の武力的後援者ではなかったのだろうか?

但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。

出来れば神武帝以来の皇統の正統性を明示したいのであるから、辻褄合わせの最大限妥協して「代々嫁を出す」としているのではとも考えられる。

それほどの力を持った葛城臣王家・大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が、武力を持たない雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に「攻め滅ぼされ葛城臣王家が消滅した」と言うのである。

これは謎である。

大戦(おおいくさ)なら相応の歴史的事件としての扱いがある筈なのだが、戦乱も続かず目立った分家も残らず、簡単に葛城臣王家を跡形も無く根絶やしにする。

そんな事が、現実的な状況として起こり得るのであろうか?

この謎も、この物語で解いて行かねばならない課題だった。


三百年代後半から四百年代始めに掛けて起こった葛城ミステリーのかなり後、七百十二〜七百二十年に掛けて古事記や日本書紀が編纂された。

古事記では、出雲の神々(初期渡来部族)を平定した天孫族から大国主が出現し、日本書紀では未開の野人の日本列島に、天孫族(氏族)が降臨した事に成って居る。

この食い違いを読むと、古事記編纂のグループが出雲の神々(初期渡来部族)の事にシイパシー(共感)を持って記述内容が集中している。

この事から、古事記編纂のグループと日本書紀編纂のグループは、同じ渡来部族で在っても大和朝廷(ヤマト王権)内の新旧の勢力を代表して編纂した史書の香りがした。

つまり我が国初期の正史書と伝える記紀(古事記・日本書紀)自体が、既に別の内容を記述しているのだ。

そして現代の政治的陰謀ですら中々真実は明らかには成り難いのだから、まして「文献・古文書の類が存在するから」と言ってそれが「歴史上の出来事に正解を伝えている」とは考え難い。

そして、文献・古文書そのものが「政治的陰謀である事は大いに存在する」と考えてもおかしくはない。

だとするなら、古事記や日本書紀が、「神の威光を持って統治する」と言う目的に添って捏造(ねつぞう)されていても仕方が無い。

そこで歴史の真実を追うには、あらゆる歴史的事象を時系列的に捉え、歴史を辿り続けて伝えられる歴史の裏に何が在るかを推論しつつ真実を探る事が大事である。


統治の基本は「恐れ(恐怖)」と「敬(うやま)い=(尊敬)」なのだが、恐れだけでは「窮鼠猫を咬む(困ればねずみも猫に反撃する)」事もあるから、統治者は敬(うやま)われなければならない。

そこで手っ取り早く統治者の権威の裏付けに利用されるのが信仰で、統治者が神に成ってしまえばそれ以上の「敬(うやま)い=(尊敬)」は無いのである。

「敬(うやま)い」、たて祀(奉/祭)らせる事で不服をかわすのだが、中には祀(祭)らわぬ者も居る。

そして、「役小角(えんのおづぬ)」の修験道師育成には影の目的が存在した。

占領支配された先住民(蝦夷)も、征服者達に隷属・同化した者ばかりではない。

大半は戦闘を繰り返しながら、東に、そして東北へと住居を移して生き残りを図ったが、中には取り残された者達も居る。

当然見つかり難い処に身を隠し、ゲリラで長期に抗戦した集団も各地にいた。

それは確かに現住縄文人(蝦夷/えみし)も、後から乗り込んで来た征服部族には抵抗をしただろうが、ネイティブアメリカン(アメリカインデェアン)の土地を「白人の移民が武力で取り上げた」と同じ様なものだから、実の事を言うと本当に恐いのは鬼や土蜘蛛ではなく「征服に来た氏族達の方」だったのである。

しかしアメリカの西部劇映画に登場するネイティブアメリカン(アメリカインデェアン)も日本の鬼や土蜘蛛の類も、同様に獰猛(どうもう)な野蛮人に描かれて領土の収奪を正当化している。

古事記、日本書紀、各地の風土記に登場した土蜘蛛(つちぐも)族達は、こうした先住民(蝦夷)の抵抗の事で、支配者も枕を高くして眠れない。

しかし掃討し尽したのか、帰順させ尽したのか、平安期の「寛平・延喜年間東国の乱」を最期にやがてそれらの抵抗は衰えて行く。

その過程については、何しろ侵略部族側が侵略に正当性を持たせる為に、最初から彼らを蛮族(野蛮人)扱いで、人間扱いしていなかったからその経緯(いきさつ)の記録は、まったく定かで無い。

このリアルな事案を解決したのは、いったい誰だろう。

断って置くが、この話は、平安中期に「陰陽寮」が朝廷に設立されるズーット以前を前提としての事での疑問である。

大部隊なら征夷将軍、鎮守府将軍などの出番だろう。

だが、小規模の相手に対して、どんな対策がなされたのか?

源頼光と酒呑童子の物語は有名だが、現実に、小勢力のゲリラを掃討したのは正規の追捕使(ついほし)や検非違使(けびいし)等だったのだろうか?

また初期・陰陽道創始者とされる葛城氏族系・役小角(えんのおずぬ)の登場が、天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にか掛けて皇統の正統性強化の為に強力に推し進めた古事記・日本書紀の編纂時期と重なって居る。

総体を客観的に勘案して見ると、初期・陰陽師の存在は「天孫降臨伝説」の神話を広く啓蒙する為の「宣教師的な役割を負っていた」と考えられる。

今一度言うが、統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

つまり初期・陰陽師は、神の威光で統治する天皇の権威を、隅々まで浸透させる布教工作員の役割を担っていた。

そう言う事なら、陰陽師の活動資金は朝廷から出ていても不思議では無く、日本人の歴史共通認識を醸成させたカラクリが見えて来るのだ。


生活の中で得た歴史知識に思い込みが強いと、重大な検討要因に見向きもせずに見過ごしてしまう愚を犯す事になる。

日本史の曖昧(あいまい)な点は、「真実(理性)の歴史」と「文化(感性)の歴史」が混在している事である。

勿論、「文化(感性)の歴史」は「虚の歴史」であるが、時の統治者(権力者)は、この「文化(感性)の歴史」を巧みに操って統治の力としている。

つまり「文化(感性)の歴史」の「かなりの部分が公認」だからこそ、「日本史の曖昧(あいまい)な点」は、明確に説明し難いのである。

役小角(えんのおずぬ)が編み出した修験道信仰は、その成立目的からして蝦夷族(えみしぞく)の懐柔同化に在った事から、彼等蝦夷族(えみしぞく)の原始的な自然崇拝信仰をも巧みに取り入れて渡来神道と組み合わせ、列島独自の陰陽修験道は成立した。

まぁ我輩にすれば、この陰陽修験=秘密情報工作組織説を認めない者は「嫌らしい建前主義者」以外には考えられない。

こうした秘密情報工作組織の存在は何も珍しい事ではなく、戦後の平和憲法に慣らされて日本人にはピンと来ないかも知れない。

だが、凡そ国家組織やその類の組織には「秘密情報工作組織」が在って当然で、それは現代の各国にも存在していて「存在しない方がおかしい」と言うのが常識である。


山深く移動し、戦闘、説得帰順の為の宗教的知識まで持った古代のレンジャー部隊が山伏(修験道師)の影の役わりで、つまり修験道師は帝の工作機関であり「宣教師兼秘密警察」ではなかったのか?

地方により違うが、代表的な所で、ゲリラ蝦夷の呼び名は鵺(ぬえ)、土蜘蛛(つちぐも)、鬼(おに)、・・・この本拠の一つはどうした訳か、大和の葛城山・大江山などの山々である。

つまり、修験道の「行動守備範囲」と重なっているのである。

そして大和朝廷が最後に平定した東北地方では、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。

つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民が)鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。

この役小角(えんのおずぬ)と修験道組織の出現、実は大和朝廷の「途方も無い政変」と大きな関わりがあるのだが、その話はこの物語で追々する事に成る。


そもそも大和朝廷に拠って日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達(国主/国造)が神格化された。

王達が神格化された事も在って、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」から、大王(おおきみ/大国主)が武力を統治の裏付けとする事は建前上矛盾する。

通常の人間を超越して初めて神に成るのだから、矛盾を解消する為に、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。

そしてその事が、常に有力な武力を持つ大豪族(御門・臣王)勢力の傀儡(かいらい)的な立場に大王(おおきみ/後の天皇)を置く事に成った。

この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」が採用されたのは、当時バラバラだった部族を平和的に一つにまとめるには「精神的な支柱(神の導き)」が必要だったからである。

追々「お判り頂ける」と思うが、日本の歴史は全てこの「神の威光で統治する」から始まって、血統は統治の為の拠り所と成り、思想や宗教は統治の為、或いは統治を覆(くつがえ)す為の道具に成った。


この建前の「特異な制度」、「神の威光で統治する」では、結果的に地方における警察力欠如の環境が成立してしまう。

しかし先住民の山岳ゲリラは続いていた。

進入部族の神など、彼ら先住民には知った事ではないのだ。

それに、征服部族同士の対立も散発的に起こっていた。

その事が、地方(所謂、地域としての国)ごとの統治者の「私兵制度」が成立・維持される要件になったのである。

そこで中央では、大陸文明から持ち込まれた最先端の科学力と信仰理論を修めた人材を結集して秘密警察の修験道師組織が内々(本音の部分)で編成される。

つまり役小角(えんのおずぬ)の呪術は確かに物凄い威力を発揮してはいたが、それは奇跡でも怪奇現象でもなく、もっと「論理的な最先端の科学力で在った」と考えられるのである。

まぁ考えて見れば、現代でも人間の「欲」を適えているのは理科学であるから当時としても同様で、奇跡の根拠が呪術や信仰の類ではけしてない。

それをあたかも奇跡のごとく伝える事に拠って信者を勝ち取るのが布教者の技術なのではないだろうか?


列島に渡来した道教が、日本オリジナルの陰陽道に変形して行った背景には、事代主を祭る賀茂氏(葛城氏)の影響である。

つまり「お上(氏神)には間違いが無い」と言う神話を作る為に、性善説に立った建前を民衆に植え付けたのだ。

現代でもその神話的前提が未だに生きていて、馬鹿気た話だが、民間なら当然責任を取らされる事例と同様な事でも、現在の官僚の扱いに責任追及の仕組みがない。

言い分としては、「お上に失敗や悪事は無い」が前提で有るから、「責任追及の仕組みは必要が無い」と言う真に都合の良い解釈に基づいているのである。

そして、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ・賀茂小角)」が創設した陰陽修験は、情報収集の為の「大規模ネットワークを持っていた」と言われて居る。

当時の国家規模の事業であるから、その莫大な資金源が朝廷から出ていなければ説明が着かない。

しかし初期の修験道師組織には、正式な朝廷の関与は見当たらない。

まぁ、精神論的「善意を前提」とした日本の政治手法の、良い加減な「建前と本音の二重構造」は、この時からの伝統かも知れない。



予め申し添えるが、この時点での役小角(えんのおずぬ)に拠る陰陽修験組織は、八世紀(平安初期)の始めに設置された「陰陽寮」よりも五十年以上前に成立している。

それは天智大王(てんちおおきみ/天皇)の御世から天武大王(てんむおおきみ/天皇)の御世に代わる六百七十年頃の話で、混同して解釈してもらいたくは無い。

そして律令制設置・陰陽寮々頭に安倍清明が任じて活躍たのは、九百六十年代(天徳年代)頃の事である。


大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)には「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり「第四十代天皇を継いだ」と言う「疑惑」がある。

その疑惑の天武天皇(大海人皇子/おおあまのみこ)の即位に合わせて古事記・日本書紀の編纂が始まり、陰陽修験組織が成立している事は偶然だろうか?


まだ混同している方が多いのだが、古事記・日本書紀は編纂目的に「統治に利用する」と言う意図があり、現代では実質正史ではなくあくまでも参考書の位置付けである。

近頃ネット上で氾濫している由々しい事だが、歴史解説で重要な事は、所謂(いわゆる)側坐核(そくざかく/脳部位)に起因する「虚の伝承」を基にして、「アマテラスとスサノオが行った誓約(占い)の事」などと平気で正史とする事は止めて貰いたい。

例えばそれは、「誓約(うけい)解釈」をあくまでも文化としての歴史である神話のままに「アマテラスとスサノオが行った誓約(占い)の事」などと解説する事である。

益してや誓約(うけい)について、姉・アマテラス(天照大神)が、「弟・スサノオ(須佐之男/須佐王)に邪心があるかどうかを占う」なんて解釈は、まったく真実の確信に触れては居ない。

何故なら、スサノオ(須佐之男/須佐王)とアマテラスオオミカミ(天照大神)は姉弟神ではなく、別の出自の渡来部族だからである。

だからこそ両部族は天岩戸の前で宴を開き、誓約(うけい)の性交儀式によって身内に成り、両部族は血流的に混血して一体化する知恵を働かせた。

加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系・「アマテラスオオミカミ(天照大神)」は邪馬台国の卑弥呼であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系・「スサノウ(須佐王)」とは本来異部族なのだが、誓約(うけい)で大和合=「大和国(やまとのくに)」した証である。

それらは、混在している「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つの内、文化として観念を基とする幻想を「正史」として後世に「虚の伝承」を伝える事である。

そもそも古事記・日本書紀には、天皇の統治に正当性を補完する為にカリスマ(超人)性を積み重ねる目的があり、同時に征服氏族が原住縄文人・蝦夷族の土地を取り挙げ隷属化した事への後ろめたさを消す目的が在って、征服氏族は神々に成った。

実は天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)が「天皇」を名乗る以前は、皇統が途絶えた可能性は無数に或る。

しかし明治維新後に隆盛した「皇国史観(こうこくしかん)」に拠って「万世一系」が強調され、それらの研究はタブー視され、結果古事記・日本書紀の記述がそのまま日本史解釈の根幹を為す考え方で一般的に広まり定着している。

現在のネット上でも、「虚」である「文化としての歴史」が歴史関係の解説として並んでいるが、その疑惑を充分承知していて無責任にも、「古事記・日本書紀に拠ると」などと逃げを打って記述している。

これをやってしまうと、虚像である聖徳太子も実在する事に成って「太子がああ言った、こう遣った」として、後の人の知恵を「太子の教え」と言い出す。

古事記・日本書紀もそんな所だが、もっと酷いのは「他国の文書(魏志倭人伝/ぎしわじんでん)に卑弥呼の名前の記載が在るから」と言って、実はまだ国内では誰とも特定もされていない卑弥呼を、無条件で「卑弥呼の墓が見つかった」と言って良いのだろうか?

また、歴史には>連続性が在るにも拘わらず、その検証をせずして突如その時代だけを切り取って勝手に解説するのも間違いの基と心得て欲しい。

つまり「古事記・日本書紀」の「天孫降臨伝説」以前から、日本列島には原住縄文人が居たのである。


ここで、大王(おおきみ)と言う称号を採用した経緯であるが、日本列島の西半分を統治した初期大和政権の長は、夫々の渡来部族が日本列島に創設した国々の「国造(くにのみやっこ)=国主(くにぬし)」が統一する過程で最高権力者を決め「大国主(おおくにぬし)」を置いた事に始まる。

その国主(くにぬし)が中華帝国内各地の王達に習って王を名乗り、その頂点に君臨する最高権力者を大国主(おおくにぬし)を大王(おおきみ)と呼称した。

従って何処までが実在かは不明ながら、初代・神武(じんむ)帝から四十代・天武(てんむ)帝までの正式な名乗りは大王(おおきみ)であり、それまでの帝を史学上「天皇(てんのう)」と呼称するのは皇統の一貫性を持たせる為に便宜上決めた事である。

元々中華大陸での「王」の称号は中国を統治する君主を指したもので、周代には天下を統治する唯一の天子として王の称号が在ったが、周代が終わって戦国時代に入ると王の臣下である筈の諸侯が争って「王」を自称した為に王が乱立した。

紀元前二百二十二年に中国全土を初めて統一した秦の秦王政は、価値を落とした王号に代わって新しい称号「皇帝」を使用し秦始皇帝を名乗った。

その後中華大陸では、紀元前二百六年に漢帝国が成立すると王号は皇帝の臣下(諸侯王)へ与えられる称号として定着した。

日本列島に於いても、小国乱立時代の王号の使用解釈は冊封(さくほう/さくふう)に拠る中華皇帝の臣下(諸侯王)へ与えられる称号であり、そうした小国家群の統一王権として大王(おおきみ)の称号を使用した。

しかしながら日本列島の大王(おおきみ)は、冊封(さくほう/さくふう)に拠る中華皇帝の影響力を排して中華帝国の皇帝と対等の独立した帝国で在る事を内外に主張する名称として、天皇(てんのう)と言う呼称を採るようになる。

大王(おおきみ)から天皇(てんのう)に呼称変更したのは、皇統簒奪の疑惑がある天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)が「初めて天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を採用したのではないか」と推測されている。

つまり飛鳥京(あすかきょう)時代の末期に即位した天武大王(てんむおおきみ)が、何故かそれまで大王(おおきみ/治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていた大和王権の長が、天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになった。


古事記・日本書紀の編纂開始時期と役小角(えんのおずぬ)の陰陽修験組織の成立時期が一致している所から、修験組織は全国津々浦々の集落に出向き、政治的意図を含んだ古事記・日本書紀の内容を民話や伝説として語り広げる「政府の広報活動も担っていた。」と考えられる。

いずれこの物語の中に登場する人身御供伝説なども、古事記・日本書紀の内容に符合したり、それをアレンジされたものと解釈できるのである。

まぁ、乱暴な言い方をすれば、天武天皇(大海人皇子/おおあまのみこ)以前の歴史を大幅に塗り替えて隠蔽し、壮大な創作歴史ドラマを作り上げた事になる。

その大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)が始めた壮大な隠蔽創作ドラマを、偉大なる侵略大王・桓武天皇(第五十代)が受け継いで古事記・日本書紀の編纂の完成を急がせ、「陰陽寮」を設置、皇統の正統性を確立する為に力を入れた。

それで、この皇統の権威が「現代にまで残るその要素の多くが、育ち始めた時代」と言って良い。


古代日本の統治制度「律令制」下に於いて、大和朝廷に「陰陽寮」は成立した。

しかしそのズーッと以前に、朝廷の密命を帯びた陰陽修験組織が、山里に分け入ってある密命を遂行していたのである。



我輩が考えるに、建前の中に埋もれてしまったが役小角(えんのおずぬ)とその配下の陰陽修験者(修験導師)が日本史に与えた影響は、計り知れないほど大きい。

この物語でも、「彼らこそ日本史二千年の原点であり、彼らの残したものが主役」と言っても過言でないかも知れない。

この「日本史二千年の原点」が、この物語のあらゆるシーンに顔を出すのも見物の一つである。

修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が活躍したのは大化の改新の後、天智天皇の御世(六百七十年頃)で、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀よりも古い時代の事である。

役行者(えんのぎょうじゃ)とも称される葛城氏・賀茂小角(かものおずぬ)は、朝廷(大王・おおきみ/天皇)の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の、武装工作諜報組織兼布教組織の「長官」ではないだろうか?

大和朝廷と言う成立途上に在った政権は、山間僻地に到る民衆まで心服させる為には、役小角(えんのおずぬ)とその配下の神格化が必要だった。

しかし、神になっては大王(おおきみ/天皇)の権威と同格になる。

そこで考え出されたのが、「会得(えとく)」と言う手段である。

難行苦行の末に超人的能力を会得した役行者(えんのぎょうじゃ)が誕生する。

それは、民人にとって「神の使いの犬神(狼/おおかみ)」と同じ意味を持つ存在だった。

役小角(えんのおずぬ)やその配下の不思議な術は、当時渡来した仏教を通して中華文明の最先端技術を駆使した事である。

今で言う天文学、気象学、医学・薬学(治療術・治療薬から化学反応)、鉱物学(採掘から錬金術)、建築学、機械工学、など多岐にわたる最先端技術である。


西表島(いりおもてじま)の生物の生態を取り上げるテレビ番組が在った。

日本列島本土とは異なる生態を持つ異なる生物を「神秘」と紹介していたが、本来生物は皆「神秘」であり本土の人間にとって珍しいから神秘ではない。

本土の人間にとって「珍しいから神秘」と言う判断基準はかなり手前味噌だが、そう言う不確かな基準で物事を判断する人間は結構多い。

自然信仰は勿論だが、中でも高い山=神域とする山岳信仰の主因の一つに、「気圧の概念」が無かった事に拠る体調変化の現象が「恐れ」として捉えられ、それが修行(慣れ)で克服できる事から陰陽修験として定着した。

神仏に対する神秘性もその程度の「珍しいから神秘」や「理解でき難い現象」が基準であるから、これが無知な民衆には人間業とは思えない奇跡に見え、陰陽修験は恐れられ尊敬される事になる。

現代の日本では、しばしば政治に対するマスメディアの中立性が話題に成るが、過去の歴史に在っては官製メディアが統治に利用された歴史も存在する。

そうした歴史の一番初めに登場するのが、天孫・大和朝廷正統化の啓蒙を目的とした天孫降(光)臨伝説を題材とする物語で構成された「神楽(神座/かみくら・かぐら)舞」である。

言わば情報操作及び政治工作を担う目的とした官製メディアとして「天孫降(光)臨伝説」を民に周知徹底させるこの物語・神楽舞を、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達の表の顔だった。



陰陽修験の錫杖(しゃくじょう)とは、金属製の頭部に輪形の固定されない輪を鎖風に遊ばせて設(しつら)えた遊環(ゆかん)を特徴とする法会、儀礼用の杖状の法具である。

錫杖(しゃくじょう)はを振ってその遊環(ゆかん)をシャクシャクと打ち鳴らして呪詛法要のリズムを取る他、合図としても使われる修験山伏の象徴的必需具だった。

大和朝廷の「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「統治理念」の為に表向き「陰陽修験の信仰組織」とした「秘密警察組織」と思われる賀茂氏の修験道行者頭・役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達は、武装組織であるから杖術を基本として独特に工夫した山伏兵法を編み出ている。

杖術の基と成った錫杖(しゃくじょう)は、修験修行僧が携帯する道具(比丘十八物)の一つ「杖」である。

呼び名に関しては、有声杖、鳴杖、智杖、徳杖、金錫などとも言う。

銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん/固定されず遊びがある輪)が六個または十二個通してあり、打ち振るとシャクシャクと音が出る仕組みになっていて、この杖を振るとシャクシャク(錫々)と言う音が出る所から「錫杖の名がつけられた」とも言われる。

その音には僧が山野遊行の際、禽獣や毒蛇の害から身を守る効果があり、托鉢の際に門前で来意を告げる事にも使われ、教義的には音が魔を退散させ、場を清め、煩悩を除去し「智慧を得る効果がある」とされる。

錫杖(しゃくじょう)は修験修行僧の護身用の武器でもあり、後に杖術として発展する他時代が下がった鎌倉・室町などでは、中に細身の刀を仕込んだ「刃込錫杖」なども見られ、また仏像に於いては地蔵菩薩などが持物(じもつ)として持つ事がある。

修験修行僧が持つ錫杖の長さは、通常百七十cm前後と当時としては背丈ほどの永い物で、あるが、「手錫杖」と言われ法会、儀礼の場で使われる梵唄(ぼんばい/一種の経読み)作法用の柄の短いものが在る。

この錫杖から発生した杖術が、後に剣術・槍術・柔術・忍術(しのびじゅつ)へと分化発展して、各々の完成された武術に進化して行く事になる。


陰陽修験組織は当時なりの、今で言う「メディア戦略と情報操作」の為の機関だった。

修験者(山伏)の表の顔は、言わば官製メディアとして「天孫降(光)臨伝説」を民に周知徹底させる為に、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。

同時に修験者(山伏)の裏の顔は秘密軍事警察組織兼諜報工作組織であるから武術能力が要求されたが、その組織の性質から西洋式の団体戦拠りも単独または少人数の武術が基本と成って発達した。

槍術、剣術などの古い流派は、いずれも「陰陽師に祖を発する」と言われ、京八流、関東七流などが在る。

また、この「神の威光で統治する」と言う建前を基にしたが為に武力が似合わず警察力欠如の環境が、平安時代以降に京八流や関東七流を必要とする各入植地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促し、各寺社も僧兵を整備させる結果を為した。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

やがて平氏や源氏などの武門が成立して武士と言う身分が定着すると、修験武術から発展した武術がそのまま用いられた為に、織田信長が戦術を切り替えるまで「名乗り合ってから切り合う」と言う個人戦の集積型とも言うべき戦闘がスタンダードな形式として続けられていた。


表向きの山伏(やまぶし)の概念は、山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者の事であり、「修験者」(しゅげんじゃ)とも言い、奥深い山中で、踏破や懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。

山伏は「やまぶせ」とも読め、恐らくは身を隠す仕事(影の仕事)を意味している。

その装束と持ち物だが、髪を伸ばし、頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる一部金属製の杖を持つ。

袈裟(けさ)と、篠懸(すずかけ)と言う麻の法衣を身に纏(まと)い、山中での互いの連絡や合図の為に、ほら貝を加工した楽器や護身用に金剛杖(こんごうづえ)と刀を持つ。

この金剛杖(こんごうづえ)から杖術が生まれ、氏族の武術へと発展して行く事になる。

つまり、武士のルーツ(おお基)が山伏(修験道師)と言う事に成るのである。


役小角(えんのおづぬ)とその配下の山伏達には、「宗教的な要素をもって国家統一の為の活動をする」と言う密命が存在した。

その為に、恐れを祈りで祓う、統一した呪詛信仰の様式、「岩戸神楽(かぐら)伝説」を村々に普及させる。

修験道師(山伏)が山奥の村里にまで潜り込み、広めて行った原始呪詛信仰の神事「里神楽(さとかぐら)」は後に村人の生活に定着し、時を経て昇華洗練され、その修験密教の要素を含みながら神楽舞・巫女舞として形式化する。

この岩戸神楽こそが日本の古典芸能のルーツで、その起源は「記・紀(古事記及び日本書紀)」の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋戸に姿を隠した際、シャーマン天宇受売命(あめのうずめのみこと)が天の岩屋戸の前で「神懸かり」となって舞い踊ったとされる「憑霊現象」の神話がその原型である。

この神話が原型となり、神楽の奉納が神事として日本列島に広がり、巫女舞が生まれた。

陰陽修験の地方活動と巫女舞は、一体の関わりを持っている。

武装組織兼布教組織である陰陽修験の、「布教組織部分」を推進する為のパホーマンスが巫女舞だった。

陰陽修験に於いて、巫女神楽の巫女の身体は、本来神懸かりの為の「依(うつ)りしろ」である。

修験道師(山伏)に拠って普及された巫女神楽・巫女舞は、神楽の原形とも言えるもので、本来「神迎えの依(うつ)りしろ」としての巫女が、神懸かりの状態になる為に勤めるものである。

この「里神楽」の存在こそが、重大な意味を持つ「国家的陰謀・大王(おおきみ)の密命」の証拠であるが、それは追々証明する積りである。

紀元前(弥生時代)に計画されたこの「大王(おおきみ)の密命」は、何世紀にもわたる大プロジェクトだったが、何しろ密命で、それは表面化する事無く密かに進められる謎だった。

この物語でも、「大王(おおきみ)の密命」は、読み進む中で少しずつ明らかに成って行く。


「憑霊現象」とも表現される「神懸かり」のルーツは、「ランナーズハイの陶酔」である。

ランナーズハイの陶酔とは、マラソンなどで長時間走り続けると、脳内神経伝達物質・エンドルフィン (endorphin) が作用して気分が高揚して来る現象を言う。


エンドルフィン (endorphin) は脳内で機能する神経伝達物質のひとつで、内在性オピオイド(モルヒネ受容体/たんぱく質)であり、モルヒネ同様の作用を示す。

エンドルフィン (endorphin) は、特に脳内の「報酬系」に多く分布する。

「報酬系」とは、ヒト・動物の脳に於いて、食欲などの欲求が満たされた時、或いは満たされる事が予測される時に活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系の事である。

つまり欲求が満たされた時に活性化する為、性行為をするとベータ・エンドルフィンが分泌され、多幸感を得る。

また、ベータ・エンドルフィンには鎮痛作用があり、内在性鎮痛系に関わって多幸感をもたらすと考えられている為、脳内麻薬と呼ばれる事もある。


ここでランナーズハイの陶酔であるが、これは「ある種の苦しさからの防衛作用」として脳内麻薬を自然発生させる側面が考えられる。

マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚して来る作用「ランナーズハイ」は、ベータ・エンドルフィンの分泌によるものとの説があり、「二人以上で走ると効果が高い」と言われて居る。

この「苦しさからの防衛作用の陶酔」は、登山中に発生するクライマーズハイや、夜通し踊る盆踊り・ダンシングハイの心地良い疲れなどにも脳内麻薬として作用している。

原始的信仰のダンスから、盆踊り、カーニバルに到るまで、踊り続ける事によって神が降りる(脳内麻薬の発生)のである。

そして、SM行為と言う不合理な趣味のプレィのM側に走る原因も、危機感からベータ・エンドルフィンを発生だせる「苦しさからの防衛作用の陶酔」の陶酔が癖に成るからかも知れない。


我が国では、官憲を称して「犬」と呼ぶ風習があるが、これは本来侮蔑(ぶべつ)した意味ではない。

これを「侮蔑(ぶべつ)」と取るのは歴史認識の欠如である。

実はこの「犬」、非常に由緒正しい犬神の事である。

狗(いぬ=犬)の文字は犬神信仰に通じ、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)・邪馬台国を平定して「神武朝・大和朝廷を起こした」とされる呉族系(ごぞく/海洋民族)・狗奴国(くなくに)の国号にも使われている。


大陸とは海峡を隔てた日本列島に在って、ライオン(獅子/しし)やタイガー(虎/とら)、クロコダイル(鰐/わに)の類は生息せず、肉食の猛獣は山犬(狼/オオカミ=大神)だけだった。

つまり山犬(狼/オオカミ=大神)が、列島の民にとっては襲われたら一溜まりも無い最大の恐れ(畏怖)の対象だった。

その恐れ(畏怖)の対象が、同じく山岳地帯を徘徊する陰陽修験道師と重ね合わされて信仰の対象に成った。

犬はつまり狼(おおかみ)で、狼神社に於いて狼が「神の使いである」と言う思想はどこから来たか?

どうも密教・修験道にその源が有る。

過(か)って医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道師(山伏)は重要な存在だったのである。

昔、病や予期せぬ怪我は「祟(たた)り」と考えられ、素朴で信仰深い庶民は恐れ(畏怖)ていた。

つまり、山深い里にまで分け入る修験の山伏は、降りかかる祟(たた)りを回避する為の、「庶民の頼り甲斐ある拠り所」だった。

その修験道の山伏達は、渡来した様々な知識と宗教を駆使して呪詛を行い、庶民の平穏「祟(たた)り祓い」を願って信頼を勝ち得た。

一例を挙げれば、奇跡である。

この奇跡には、現在は周知の事実となっている、東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療、などが含まれ、当時としては劇的な回復効果を「奇跡」と取る向きも多かった。

中華文明を携えて来た暦学に堪能な者が事前に皆既日食を知っていれば太陽を消せる奇跡も演出できる類の物で、気象学を身に着けていれば雨乞い降雨の奇跡も演出できるのである。

つまり修験(山伏)道師は、映画「ブッシュマン」のごとき無知の衝撃を、奇跡として信仰に結びつける誘導をした。

当然ながら、人間は無知の現象に畏怖を感じる。

事実、こうした治療術は、大陸から密教系仏教と伴にもたらされた修験道師、修験僧(山伏)の独占する漢方医術であり、当初は、「だれだれ様は、体に触れただけで病を治した」と大げさに喧伝され、信仰の対象となった。

それが、何代かの時を経ると、民衆の心の中で一人歩きし、現在では東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療とはその存在を知りつつも、結びつける事は無い。

そこで、密教・修験道の「山伏」は、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬(うやま)われて行った。

従って、その根底に流れている密教の「北辰・北斗信仰の使い」が狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。

当時の修験者は鉱物や薬草の最先端知識を駆使する科学者であり、宗教を通して精神をケアするカウンセラーだった。

同時に、彼ら修験者の正体が武術を修めた「影の官憲」で有る事は、暗黙の合意の上で有った。

征服部族の長が大和朝廷の神々であり、修験者はその使いである。

「敬いと恐れ」は神の原点であるから、狼信仰が成立して犬神=官憲の意味が確立した。


北斗・北辰の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を修した陰陽修験導師は、信仰上が「犬神の使い」で現実は帝の命を受けた「工作機関の官憲」であるなら、後に江戸期の幕府隠密が「幕府の犬」と呼ばれる事もそれなりに由緒がある。

まぁ、官憲には権力の手先と治安維持の二面性があるから仕方が無いが、「官憲の犬」には「犬神」の畏怖尊敬の意味もあり、つまり歴史を良く知らないと警察・検察を侮蔑(ぶべつ)の意味で「犬」と呼んでしまう間違いを犯す。


もう一つ、官憲が犬と呼ばれるに相応しく由緒正しい有力な起源が存在するので併記する。

大化の改新以前(古墳時代)に、犬を飼養・使用する事を「業」とし、その能力を持って中央政権に仕えた「犬養部(いぬかひべ)」と言う部民がいた。

恐らくは犬を武力として良く使う一族が日本列島に渡り来てその犬使いの技術を生かして勢力を拡大、大和朝廷成立時には有力部族となり、その職掌・犬養(いぬかひ)を持って現在で言う軍事・警察の職務を担っていた。

古来より狩猟や守衛を犬の使用目的として、犬養部(いぬかひべ)は存在していたのである。

「日本書紀」によれば、五百三十八年(安閑二年)屯倉(みやけ)の大量設置をうけて同時期に犬養部(いぬかひべ)は国々に設置された。

屯倉(みやけ)と言う呼称は、古墳時代に設けられた朝廷の建造物を指し、元々は「御宅(みやけ)」の意味だったが、やがて大和朝廷の朝廷直轄地(朝廷領)を意味する土地や人民の支配制度の意味と成った。

屯倉(みやけ)は朝廷の地方支配の為の建造物と耕作地、そして兵の駐屯地を指し、当時は朝廷とは間接支配になる有力御門や有力豪族の支配領地も存在した。

だから、そうした有力者の間接支配領地をけん制する形で「地方に屯倉(みやけ)を配置していたのではないか」と考えられ、我輩は「屯は駐屯を現し、倉は徴税を表す」と解釈する。


この屯倉(みやけ)は、継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)に拠る中央集権化の行政組織改革の一環として、地方からの確実な税収確保と環視を兼ねた出先機関であるが、それにしても継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)はこの屯倉(みやけ)制度のアイデアをどう思い付いたのか?

それとも何処からか制度を持ち込んだのだろうか?

この継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)の謎は後ほどこの物語で御紹介する積りである。


「大和政権が直接支配する」と言う事は、中央の出先駐屯機関である。

初期に入植した征服部族の入植地の「間接支配もその役わり」と考えられる。

現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という二つの地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があった事が想定され、現在では、犬養部(いぬかひべ)は犬を用いて「屯倉(みやけ)の守衛をしていた」と言う説が有力になっている。

屯倉(みやけ)と鎮守(ちんじゅ)の関わりは不明だが、鎮守社(神社)を宮(みや)と呼ぶ事と関わりはあるのだろうか?

古文書の記述には、安閑天皇の前後から屯倉(みやけ)の設置記事が多く見られるようになるのだが、屯倉(みやけ)の発展に犬養部(いぬかひべ)の設置が大きく寄与していた事が考えられる。

屯倉(みやけ)が、初期大和朝廷の支配域の全国各地に設けられていた事から、土産(みやげ物)の語源は、この「屯倉(みやけ)からの品物」と言う意味説が有力で、我輩は「屯倉(みやけ)物」だと思っている。

なお、屯倉(みやけ)の広域展開が、後の「国・郡・里制の基礎と成って行った」との指摘もある。

犬養部(いぬかひべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連(こおりのいぬかひのむらじ/あがたのいぬかいむらじ)、海犬養連(あまいぬかひのむらじ)、若犬養連(わかいぬかひのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の四氏が存在した事が伝わっている。

古代豪族・犬養氏は、この伴造(とものみやつこ)であり、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は宮門、屯倉などの守衛に当たる犬養部を統率した伴造(とものみやつこ)四氏族の一つで、大和朝廷(ヤマト王権)の直轄領である屯倉の守衛・管理を職としたため朝廷直轄地を意味する県(あがた)を犬養に冠したと考えられる。

伴造(とものみやつこ)とは、連(むらじ)とも重なり、また、連(むらじ)の下で大和朝廷(ヤマト王権)の各部司を分掌した豪族の尊称である。

造(みやつこ)と言う名称は国又は土地の造り主を意味し、連(むらじ)は連合の主を表す。

つまり、有力征服部族長出身の大和政権の有力構成メンバーで、大王(おおきみ・帝)に対する御門や臣王(おみおう)と同様な意味と考えられる。

伴造(とものみやつこ)には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのふみ)など代表的な帰化氏族があり、他に、弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏があり、これら氏族は、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(かばね)を称した。

県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は、神魂命(かむむすびのみこと)の後裔と称する神別氏族で、姓(かばね)は連(むらじ)であったが六百七十二年の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立て、六百八十四年に行われた「八色の姓」の制定にともなって宿禰姓(すくねのかばね)を改賜された。

尚、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)が名乗る出雲の神々の御祖神・神魂命(かむむすびのみこと)の孫には、賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が居ると言う寸法である。

そして犬養氏(いぬかいうじ)が神魂命(かむむすびのみこと)の後裔で、賀茂氏(賀茂県主/かもあがたぬし)の始祖も神魂命(かむむすびのみこと)であるならば、賀茂(賀茂役君/かもえのきみ)・役小角(えんのおずぬ)の陰陽修験組織が官憲であり、官憲が「犬」と呼ばれても符合するのである。


「続日本紀」に拠ると、県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の妻であり、藤原光明子(光明皇后)・橘諸兄(たちばなのもろえ)の母である。

その県犬養氏(あがたいぬかいうじ)は、贈従一位・県犬養三千代や、聖武天皇夫人で安積親王(あさかしんのう)の母である正三位・県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)などが輩出され、天武天皇〜奈良時代中期にかけて有力な氏族であった事が知られている。

後世、屯倉(みやけ)の守衛に始まった犬養氏・犬養部は、後に犬を手放すとともに、屯倉(みやけ)の「守衛」により培って来た武芸を活かし、「軍事氏族としての色を強めて行った」と思われる。

その事が判るのが、有名な大化の改新の引き金となった蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺のクーデター(乙巳の変)の参加者として、海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)や葛城稚犬養(若犬養)連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)の名が見られる事で有る。

この軍事氏族犬養氏が皇統の血族とは異なった事から、直系の賀茂(葛城)の隠密組織「陰陽寮」が組織され、その後、皇胤(こういん)貴族(皇統の血族)である平氏や源氏に取って代わられる事になる。

いずれにしても、犬養部(いぬかひべ)と陰陽師は、庶民にとっては神(上)の使い=官憲である。

犬神の「神が外れて」ただの「犬」になってしまったのは、正に庶民の呪縛が解け、「敬いと恐れ」の気持ちを失ったからである。

この修験道師の組織、実はもう一つ公には出来ない驚くべき重要な密命、「大王(おおきみ・天皇)の密命」を帯びていた。

つまり犬神について、本書ではその信仰に重大な意味を持っているのだが、その話は読者の謎解きとして最後の章「維新の大業・陰陽呪詛転生」に残して置く。

犬を表現する言葉は、現代中国語(北京語・普通語)で一般的に使われるのは「狗(コウ)」である。

日本語ではこの「狗(コウ)」を「く・いぬ・ケン」と発音したり読んだりするが、主として使うのは「犬」の方で、違いがある。

すると、この「犬」と言う文字の方は、何時頃、何処で出来上がったのか?

実は、「狗(コウ)」と「犬」、同じ中国の文字だが、大陸側の「帝国の覇者」が時代時代で民族的出自が違う為に、日本と中国では時代の流れの中で主力に使う文字が分かれたのである。

大陸では、主として「呉時代」が「ク・ケン」で、「漢時代」が「狗(コウ)」らしい。


奥秩父にある修験の聖地に、犬神神社・三峯神社がある。

三峯神社(みつみねじんじゃ)は、神社本庁の別表神社であり、旧社格は県社(あがたしゃ)であり、秩父神社、宝登山神社と並ぶ秩父三社の一つで、埼玉県秩父市三峰にある神社である。

景行大王(けいこうおおきみ/第十ニ代天皇)の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮の社号を授けた」と伝える。

伊豆国に流罪になった役小角(えんのおずぬ)がその三峰山で修業をし、弘法大師・空海が観音像を安置したと三峯神社縁起には伝えられる。

しかし景行大王(けいこうおおきみ/第十ニ代天皇)は、主に日本武尊(やまとたける)神話の物語に登場するのみで実在を疑問視される天皇でもある。


祀われているのは西日本に最も広く分布する犬霊の犬神である。

それが、朝廷の東日本統治政策の一環として為した陰陽修験の山岳信仰の活動で、西日本以東に広がった。

武蔵国秩父山系、相模国丹沢山系一帯、伊豆国箱根山塊、甲斐国(山梨)や信濃国(長野)の山岳地帯などの地域は、オオカミ(狼)信仰=犬神信仰が盛んである。

このオオカミ(狼)信仰=大神信仰は修験道の山岳信仰であるから、天の犬=天狗(てんぐ)とも関わりがある。

そして天狗(てんぐ)と犬神は呼び方が違うだけの同じ「イヌ」である。

天狗(てんぐ)修験道は猿田彦(サルタヒコ)と天宇受売命(アメノウズメノミコト)の誓約(うけい)の古事に習う「人身御供伝説」を村々に仕掛けた特殊組織だった。


「事のついで」と言っては何だが、犬をケンやコウだけでなく「イヌ」と読ませ発音するについて考えてみた。

大和合の国(大和の国)は、多数の渡来部族が列島各地を武力で切り取り、倭の国々が乱立していた前身から、具体的な統一を必要としていたのだが、多数の民族を統一して単一民族に融合するには、誓約(うけい)に拠る人種的混合と意思疎通の為に「共通語」が必要だった。

日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされている。

各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。

まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。

つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?

そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい・語彙)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの「大和合の国」独自の言葉を成立させた。

例を挙げると、「いっぱい/沢山」の意味の事を、アイヌ語で「オイ」と発音する。

つまり、「多(た/中文=トゥ)」を「おおい」と読ませる語源がアイヌ語の「オイ」である可能性は極めて高い。

つまり、異民族・列島同居の双方が意志を通じ易い様に音読み訓読みを併用する事で、後に日本語として成立する「翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)」を編み出した。

そして自らをアイヌ(人間の意味)と名乗る部族は、渡来征服部族側からは蝦夷族(えみしぞく)と呼ばれた縄文人だった。

列島に住んで居た蝦夷族(えみしぞく/縄文人)の同化過程に、この翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)が大きな役割を持っていた事は間違いない。

同時に、この多重発音する「日本語のルーツ」そのものが、渡来氏族に拠る蝦夷族(えみしぞく/縄文人)の隷属化のツール(道具)だった事も否定出来ない事実である。

この解釈で推測すると、アイヌ語 の犬は「セタ(seta)」で、中国語の犬(ケン)・狗(クゥ/コゥ)とも違う「イヌ」と発音する語源が判らない。

蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で、「アイヌ(aynu)」は「人間」の意味である。

そしてアイヌ語が原ミクロネシア語からのものとすると、「人間以外の動物または小型四足動物、或いはもっと広義の動物」を指し示す言葉として「アイヌ(aynu/人間)」の「ア」を取ったものがアイヌ語の「イヌ(ynu)」ではないのだろうか?

よく調べた訳ではないので、確証はない。

いずれにしても、天孫降臨伝説と皇国史観に影響された歴史観では、「日本語のルーツ」の発想は浮かばない。

何故ならば、「広域倭の国」と同様天孫降臨伝説以前の歴史は建前上は「無い事に成っている」からである。

当然ながら縄文人(蝦夷族/エミシ族)と渡来部族との争いの歴史も、単一日本民族説と皇統万世一系説に隠れて日本の古代史から欠落し、中々取り上げられないでいる。


日本に於いては犬に関する信仰に深いものがあり、その事は、神社に必ず「狛犬(こまいぬ)」が在る事でも、狼神社、犬神社が存在する事でも、否定する事は出来ない。

神社の参道に鎮座する狛犬(こまいぬ)は、その神社の「主神の護り神」である。

狛犬(こまいぬ)の起源はインドと言う説が有力で、元々は獅子の形をしていた物を当時の日本人はそれを知らなかった為に「犬と勘違いした」とされている。

しかしながら、日本の信仰を考察するに、獅子を流用したかも知れないが、「犬(狼=大神)の方が相応しい」と言う信仰上の意志があったのではないだろうか?

古代の日本列島、倭の国小国群から力を着け、「大勢力に発展した」と言われる「狗奴国(くなくに・葦原中国の母体と考えられる)」は海洋渡来の呉族系で、この「狗奴(くな)」と日本の犬神信仰に関係があれば、全国にある神社に狛犬(こまいぬ)がある事の理由も判るような気がする。


ここで、テング(天狗・てんこう)の話をして置く。

天狗は、天の犬(狗・こう)の意味である。

そして、その描かれている衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、修験山伏の衣装(行者服/ぎょうじゃふく)姿である。

賢明なる貴方は直ぐに気が付くであろうが、これは、修験と犬神が一体である事を物語っているものであり、そして天狗は、「人身御供伝説」にも絡む恐れの象徴でもあった。

この物語で追々説明して行くが、日本の庶民文化は、氏族とは別に「妙見・修験信仰」がそのルーツと成って育まれたものである。

妙見・修験信仰は別名・犬神(狼=大神)で、その象徴が天の犬(天狗)だった。

原点を探ると、見えて来るものがある。

アジア遊牧民に取って、狗(クォウ・コウ・犬)は神が使わせた草原の相棒である。

つまり、日本列島で広まった犬に対する信仰、「犬神(狼=大神)信仰」は、渡来した北斗妙見信仰を通じて「アジア遊牧民の信仰が影響している」と考えられる。

ちなみに、遊牧民の族長から中国北部、中央アジア、東ヨーロッパに跨る大帝国を、一代で築き上げたモンゴルの皇帝チンギス・ハーン(テムジン)は「草原の蒼きオオカミ」と呼ばれて恐れ崇められた。

チンギス・ハーン(テムジン)の友人であり、モンゴル軍の四大将軍だったジェルメ、ジェベ、クビライ、スブタイの四人は尊敬と畏怖の念を込めて「四狗(スゥ・クォウ/四匹の犬)」と呼ばれている。


大和朝廷の「途方も無い政変」によって出現した役小角(えんのおずぬ)と修験道組織は、その帝(大王/おおきみ)の壮大な密命を帯びて大和朝廷支配下の国々に散った。

いずれにしても、これから我輩が記述するこの「日本の歴史物語・皇統と鵺の影人」の中では、「犬・狗(クォウ・コウ)の神の存在」は欠かせない。


衣服を中文(中国語)で「イフウ」と発音する。

物余りの現代では忘れ勝ちだが、日本でも、人が生きて行く上で必要なものに衣食住と言う位に衣服は重要な要素である。

この衣服にまつわる歴史的な存在に、機織(はたお)り技術の渡来に関わるとされる秦氏が在る。

賀茂・葛城氏と並んで、それとやや遅れて日本列島に大陸の先進文明を持ち込んだのが秦氏と呼ばれる渡来人部族集団である。

実は秦の始皇帝から派遣された方士・徐福の末裔とも目される秦の始皇帝を始祖と自称する秦氏は、紀元前二百年頃の渡来の徐福の末裔説も在るが、一応六世紀頃に日本列島へ渡来した渡来人部族集団と言われる。

ただし、この秦氏(はたうじ)一族の渡来時期六世紀頃に関しては大和朝廷での活躍時期からの逆算の可能性も在り、或いは紀元前期に渡来して列島のどこかで小国を造っていた古代豪族の秦氏(はたうじ)が大和朝廷に合流した可能性も否定できない。

秦河勝(はたのかわかつ)はその秦氏出身の豪族で、六世紀後半から七世紀半ばにかけて大和朝廷の有力構成臣として活動した。

秦氏(はたうじ)は古代の渡来系有力氏族で、土木や養蚕・機織(ぬのおり)・製鉄精錬などの技術を発揮して「製造業や商業で栄えた」と言う。

河勝は「秦氏の族長的人物で在った」とされ、聖徳太子の相談相手として活躍したとも伝えられ一方、技術力を持つ渡来人集団を率いる経済活動でも成功した富裕な商人の一面も在り、その財力により初期・「大和朝廷の財政を支えていた」とされる。

財力を背景に有力豪族としての地位を得た秦河勝(はたのかわかつ)は、平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったとされ、新羅の使節を迎える導者や駿河国富士川周辺で、「常世神」を崇める大生部多(おおふべのおお)と言う者を中心とする集団を追討したとされるなどの業績が伝承されている。

日本初の多角企業集団秦氏(はたうじ)の族長的人物・秦河勝(はたのかわかつ)には表向きと違う活動の痕跡も多く、神農(しんのう)道の祖とも伝えられ、自らの事業の為や朝廷の為の「情報収集や諜報活動をしていた」とされる。

そこから派生して香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖・川勝氏、そして芸能関係の金春流や猿楽として発生し、同朋衆(どうぼうしゅう)の芸として発展した能楽の観阿弥、世阿弥親子も河勝の子孫を称している。

尚、秦氏・秦河勝(はたのかわかつ)の後裔を称する武家として有名なのは、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏、江戸幕府幕臣・川勝氏も河勝の子孫を称している。



古代史を学ぶと、必ず「まほろば/マホロバ」と言う言葉に出会う。

「まほろば/麻本呂婆(マホロバ)」とは、「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と言う意味の日本の古語と現在に伝えられている。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)が詠んだと伝えられる「夜麻登波久爾能麻本呂婆  多多那豆久阿袁加岐  夜麻碁母禮流  夜麻登志宇流波斯」は、「大和(やまと)は国のまほろば  たたなずく青垣  山隠(やまこも)れる  大和し麗(うるは)し」と読む。

「まほろば(マホロバ)」の「バ」には「場」であろうと言う説があり、「場」の音読みは中文(中国語/漢音)では「チョウ」と発音し、呉音 では「ジョウ」と発音して現在の日本でも「場(じょう)」は音読み表記に使われ、訓読みでは「ば」と発音されてている。

因みに「バ(場)」は、韓国語・朝鮮語では「場(ジャン・チャン)」と発音され、つまり「バ(場)」は中・韓には関わりがなさそうである。

まほろ(素晴らしい)バ(場所)の「まほろ」は「まほら」とも言い「バ(場)」は「ま(間)」とも言い、「まほろバ」を「まほらバ」とも「まほらマ」とも表示しているが、「まほろ・まほら」の語源の由来が何語だったのかなどが不明である。


断って置くが、日本語の現状を見れば判る通り言語は時代と伴に激しく変化する物であり、アイヌ語だけが永く不変などと言う事は在り得ない。

従って日本語のアイヌ語起因説の言葉について「類語が現存しないから」と言って「間違い」と決め付けるアイヌ語研究者が存在するが、態度として如何な者だろうか?

そして驚いた事に、かの研究者は縄文期から弥生期に移る過程を無視し、日本人或いは日本語とアイヌ人或いはアイヌ語をスッパリと切り離して「それは日本語、これはアイヌ語」と断言しているのである。

歴史には連続性があり、以前の時代を知らなくてはその時代を語れない。

もし日本語とアイヌ語が「まったく違う言葉だ」と主張するなら、結局その方は縄文期から弥生期に移る過程の理解を曖昧のままに遣り過ごして居た事に「気が付いて居ない」と言う、とんでもない話しなのである。

つまり日本語の成立過程もあやふやな人物が、アイヌ語と日本語を線引きするなど大局観を持たない素人同然の話しなのだ。


九州の鬼八伝説を始め日本列島各地に鬼・鵺・土蜘蛛の伝説が散見される事から、日本人が列島の西半分に最初から住んで居て、縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が最初から東北・北海道に限定的に住んでいたなどと言う強引な主張は現実的ではない。

そしてこの現代に、「天孫降臨」などと言っても誰も信じないし、それよりも彼等が「船で列島に渡って来た」と言う方が遥かに現実的である。

そして天孫降臨伝説を解釈すると、列島全域に居住していた原住縄文人(蝦夷族・アイヌ族)が、「文明を携えて渡来して来た部族に北に追い遣られた」とする方が遥かに現実的である。

極め付けは、現在の東北地区にアイヌ族(蝦夷族/エミシ族)の痕跡を本人が認めながら「猿(サル)」の話しに成ると突然「猿(サル)は北海道には存在しない」から、アイヌ語に「サルと言う言葉は無い」のだそうだ。

それでは中文(中国語/漢音)では「エン」と発音する「猿(サル)」の「サルと言う発音」は何処から来たのだろうか?

東北地方の地名に、アギタ(秋田)・ヌシロ(能代)を始めとする多くのアイヌ語起因説があるのは、いったい何なのだろうか?


時たま、「偉い人が言った」とか「国が言った」とかを根拠に事の是非を論じる方が居られるが、実は歴史学に於いては「偉い人の言」や「国の発表」ほど左脳域の計算が加わった可能性が高く、ある面ではこれほど信じられ無いものは無い。

全ての学問がそうだが、手に入れた資料を基に想像力を発揮すれば定説とは違う新しい歴史が見えて来る事もあり、過去の研究者の定義をそのまま主張するのは発展性が見込めない独善的な行為である。

正直それは「稚拙な論議」と言わざるを得ず、過去の研究者のアンカリングに嵌ってしまえば、新しい発想も新しい発見も見えては来ない。

困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。

その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して安易に解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。

本来、文献・書物の類は著者の独自な意見の提示であって、つまりその提示は証拠では無く論議の出発点に過ぎないものである。

他人の著作に素直過ぎる事は、研究者としては失格で未だ縄文期から弥生期に掛けての言語リレーの欠落部分も解明されていないのに、僅か数人・数冊の他人の書を根拠に絶対性を持って結論を出す事は品がない。

それでも勝負したいのなら他人の書を根拠にせずに、自書を著わしてから、その内容を持って世に問うべきである。


古事記・日本書紀、神武東遷記(じんむとうせんき)などは、大和朝廷(ヤマト王権)の西日本統一過程を美化している為に何処まで信じられるか判らないが、渡来各部族や原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)が連合過程を経て大和朝廷(ヤマト王権)が成立した事は想像に難くない。

その過程で、原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長を含む渡来各部族長が、大和朝廷(ヤマト王権)体制に於いて県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)と言う称号を得て初期の貴族・御門群(みかどぐん)を形成する。

原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長系の県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)と考えられる主な存在に、誓約(うけい)を持って天宇受売命(あめのうずめのみこと)と夫婦に成ったとされる猿田彦神(さるたひこがみ)の宇治県主(うじあがたのぬし)や越後国造(えちごくにのみやっこ)で後に奥州(東北)蝦夷族の俘囚長を務めた阿部臣(安倍氏)などが有力である。

いずれにしても、恭順した渡来部族長や恭順した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長は臣王、それに従う部族長の身内までは氏姓(ウジカバネ)を授かって支配階級に列し、それ以外の従った原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「良民」、反抗した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「俘囚(ふしゅう)・非人(ひにん)・賤民(せんみん)・奴婢(ぬひ)」などと呼んで隷属させた。

陰陽に於ける方位学では、丑寅(ウシトラ)の方角を鬼門(きもん/忌むべき方角)とされているが、その丑寅(ウシトラ)の方角は北東である。

実は蝦夷(エミシ)を鬼と呼ぶ事と、大和王城の畿内を基とする方位の北東が地図的に蝦夷(エミシ)の本拠地と一致するのだ。

つまり鬼門(きもん)の方位が忌むべき方角で在った為に、大和朝廷が最後まで征服をし残した「蝦夷(エミシ)の勢力範囲」が、政治的に「鬼の居る地」と喧伝された訳である。


渡来氏族が勝手に縄張りをして小国家を打ち立てる前、日本列島全域が縄文・蝦夷族の居住域だった。

その事は、佐伯部民(さえきべみん)の存在や畿内に先住していた蝦夷族の部族長・土公(つちぎみ)=猿田毘古神(サルタヒコ・宇治県主/うじあがたのぬし)、中部地方から北越・東北に支配を及ぼしていた阿倍氏・安倍氏(あべうじ)の存在が証明している。

つまりアイヌと呼ばれる原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は、弥生期の初期の段階では日本列島の隅々に居住し、渡来勢力に追い遣られたのであって、けして最初から居住圏が列島の東部分や東北・北海道に限定していた訳ではない。


大和(やまとの)国は即ち大和合(だいわごう)の国で、単一日本民族の成立過程までには、部族的混血と言語的融合が在った。

渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

しかしその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)の一部は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され、多くは東北・北海道へと圧し遣られて行く。

俘囚(ふしゅう)として隷属化された一部の蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺されたが、言語は音訓二重発音する大和言葉として残った。

渡来部族が日本列島に遣って来た当初、原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)は言語がまったく違う為に「通訳が必要であった」と言うくらい渡来部族に取っては異民族であった。

そして縄文期から弥生期に掛け、渡来部族と原住・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の間で共存の為の意志の疎通と言う必要に駆られて、後に日本語と成る奇跡の言語・大和言葉が編み出された。

日本語のルーツを辿れば、翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)に辿り着く。

この音訓の多重発音こそが、縄文蝦夷と渡来部族の混血の証で、つまり訓読みの「バ(場)」は、まったく確証が無い話で恐縮だが、もしかしたら「縄文後・アイヌ語起因かも知れない」と思ったのだ。


日本古代史の弱点は、縄文期から弥生期に移る過程を古事記・日本書紀で政治的にロスト(欠落)させた事にある。

日本史には、所謂(いわゆる)右脳域の「虚・文化としての歴史」と左脳域の「実・現実の歴史」が混在し、「虚」は精神世界のもので「実」は必ずしも精神世界と合致する物ではない。

日本人は、この弱点と確り向き合わないで来た為に、歴史認識に於いて整理が尽いていないのではないだろうか?

そこで我輩は、理想郷の意味と解釈される「まほろば(マホロバ)の語源由来」を、若干資料不足を承知でアイヌ語起源説を提起したい。


実は、マホロバの「ホロ」に関してはアイヌ語に漢字の「幌」を充てた地名を数多く見かけ、代表的な地名に石狩地方の札幌(サッポロ/サッ・ポロ/乾いた広いところ・サッ・ポロ・ペッ/湿原を流れる大事な川)市が在る。

その他、十勝地方の士幌(シホロ/本当に大事な川)町、留萌地方の羽幌(ハボロ/うばゆりの自生する川)町、網走地方の美幌(ビホロ/水量がある川)町、空知地方の幌加内(ホロカナイ/後戻りする川)町、留萌地方の幌延(ホロノベ/広い原野)町、日高地方の幌満(ホロマン/洞窟から流れ出る)川などが、「幌(ホロ)」を使っている。

アイヌ語に於ける「ホロ」は、どうやら「川のある土地」の意味のようだが、ご承知のように人類は川の畔(ほとり)で生活する事から古語の解釈「素晴らしい場所」或いは「住みやすい場所」と矛盾しない。

充て推量になるので批判を覚悟で可能性を挙げれば、アイヌ語の「マ(ma)」には「泳ぐ」と言う意味があり、「マホロバ」 は「泳げる川のある所」の可能性がある。

また、それだけでは情報不足なので、アイヌ語の「ノ(no)」には「最も・全く・本当に(強意)」などの意味に使われている点で、「ノホロバ」 が「最も(本当に)素晴らしい土地」になる事も併記する。

つまり日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が詠んだとされる「まほろば」の歌の内容は、王城の地と定めた飛鳥川、葛城川、大和川などに代表される大和川水系や淀川水系の加茂川(鴨川)の流域 など畿内・大和(やまと)の地を「国のまほろば(素晴らしい場所)」と称えているのである。

畿内・大和(やまと)の地には、飛鳥京(あすかきょう)・藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)・平城京(へいじょうきょう)・長岡京(ながおかきょう)・平安京(へいあんきょう)が開かれて、古墳時代の末期(五百九十年代)から始まり江戸(東京)遷都(えどせんと)までの千数百年間に渡って王城の都が在った。

まぁ日本神話に於ける日本武尊(ヤマトタケルノミコト・倭建命)の存在その物が、近年では「古事記に於ける架空な創造上の人物である」とされているのだから、この「麻本呂婆」の歌も尊(ミコト)が詠んだと言う確証は無い。

そして、この「まほろば」の原点を大和国以前に辿ると、古代葛城王朝の都・田京(たきょう/伊豆の国市・大仁田京)を擁する伊豆国・狩野川水系に辿り着く。

その伊豆の地こそが後ほどご紹介する加茂・葛城ミステリーの「まほろばの地」だったのではないだろうか?



ここで古代ヤマト王権(大和朝廷)成立以前から倭の国々の一つとして国主(くにぬし)を任じていたと想われる阿蘇氏(あそうじ)を取り上げて現在に到る経緯を御紹介する。

阿蘇氏(あそうじ)は、元は宇治姓を名乗る肥後国一の宮・阿蘇神社大宮司家で司祭的豪族として発祥し、後に大和の大王家(大国主・朝廷)に従属し領地を献上して県主(あがたぬし)となった。

さらに県制(あがたせい)から国造制(くにのみやっこせい)への転換の中で、阿蘇国造(あそくにのみやっこ)と成った古代豪族である。

阿蘇神社は火山信仰と開発神とが結合したと言われる健磐竜命(たけいわたつのみこと)を祭神とする。

阿蘇氏はこの祭神の後裔と伝えられるが、「古事記」には神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)は阿蘇君らの祖とあり、祭神は神八井耳命の子とも伝える。

早くから神主であると同時に、阿蘇国造として祭政一致の国主(小君主)に発展、平安時代に宇治姓を名乗り、阿蘇谷を開拓して私営田領主に成長、延喜年間に宇治友成が阿蘇大宮司となって以来、歴代この職(大宮司)を世襲した。

私営田領主・阿蘇君一族は、肥後だけでなく、讃岐・河内にひろまり、さらに京都に住んだ者は阿蘇宿禰(あそすくね/宇治宿禰)姓を称し、後に朝臣(あそみ)姓にもなったらしくこの阿蘇氏の旧姓・宇治姓については、京都・宇治と言う地名とも関連を伺える。

但し、阿蘇宿禰(あそすくね/宇治宿禰)に付いて、「京都・宇治から肥後・阿蘇に下向した」とされるのは天孫降臨伝説に類する捏造で、時系列的にはそぐわない。

京都・宇治の県(あがた)神社は、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。

その県(あがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで、俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。

また、宇治の語源も諸説あるが、因幡の白兎伝説や宇佐岐氏=宇佐神宮関連説などから、兎が群れて通ったケモノ道ならぬ「ウサギ道」に由来する「菟道(うみち)=宇治」の伝承となれば、阿蘇神社大宮司家で司祭的豪族・阿蘇氏の旧姓が宇治で在って不思議がない。

つまり式内社、旧官幣大社・宇佐神宮・宇佐氏にしても、式内社(名神大)、旧官幣大社・肥後国一宮・阿蘇神社・宇治氏にしても、因幡(いなば)・白兎伝説の宇佐岐氏の分派が司祭的豪族として土着し、県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)として勢力を築いたのではないだろうか?


延喜式(えんぎしき)・「式内社」とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式、弘仁(こうにん)格式、貞観(じょうがん)格式、延喜(えんぎ)格式の内の一つである。

三代格式は律令官制に従い、全五十巻、約三千三百条からなる格式(きゃくしき/律令の補助法令の総称)の取り決めである。

第一巻から十巻までは神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ/祭祀を司る)関係の式、第十一巻から四十巻までは太政官(だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)八省関係の式、第四十一巻から四十九巻はその他の官司関係の式、第五十巻は雑式の順となっている。

なお、弘仁・貞観・延喜とは、それぞれの格式が編纂を開始された年代の元号で、実際の完成には時間がかかっている。

弘仁格式は嵯峨天皇(さがてんのう/第五十二代)が藤原冬嗣に、貞観格式は清和天皇(せいわてんのう/第五十六代)が藤原氏宗に、延喜格式は醍醐天皇(だいごてんのう/第六十代)が藤原時平に、それぞれ命じて編纂させたものである。

但し今日では、三代格式の内ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。

延喜式(えんぎしき)は、平安期の九百五年(延喜五年)、醍醐天皇(だいごてんのう/第六十代)の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、九百二十七年(延長五年)に一応完成し、その後も改訂が加えられ四十年後の九百六十七年(康保四年)より施行された。

現代に伝えられる神祇官関係の式が延喜式(えんぎしき)で、第八巻には祝詞が掲載されている。

第九巻及び十巻は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭奉幣を受けるべき二千八百六十一社の神社が記載されている。

延喜式神名帳に記載のある神社を一般に「式内社」と言って社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社である事を示しているが、消滅したり不明となっている神社も多い。


中世になると、その「式内社・阿蘇大宮」の司家から上島・恵良・坂梨・土田・竹崎・光永などの一族を分出した。

また何度も注釈を付けるが、神官の概念が現代の平和志向とは違い氏族は神官と武士の兼業の為に、阿蘇氏は菊池氏と並んで九州に於ける有力武士団に成長して行く。


阿蘇国造(あそくにのみやっこ)の後裔は、鎌倉時代になると阿蘇神社大宮司兼有力武士・阿蘇氏として一大勢力を築いて行く。

阿蘇氏は、元弘の変では菊池氏と伴に日向国・鞍岡で北条一門の規矩高政(きくたかまさ/北条高政)の軍と戦った事を認められる。

後醍醐天皇の建武中興では阿蘇郡の本社領、甲佐・健軍・郡浦社の支配権が、本家・領家の支配権を含めて与えられた事から、大宮司の権威は強大となった。

千三百三十六年(建武三年)、後醍醐天皇に足利尊氏が反乱を起し敗れて九州に落ちて来ると、阿蘇惟直(あそこれなお)は菊池武敏(きくちたけまさ)とともに香椎多々良浜(かしいたたらはま/福岡市)で尊氏を討伐を試みる。

足利尊氏を討伐を試みた阿蘇惟直(あそこれなお)と菊池武敏(きくちたけまさ)だったが奮戦及ばず敗れ、惟直(これなお)は肥後へ退く途中に佐賀の小城で討っ手に追われ自刃して果て、弟の阿蘇惟成(あそこれなり)も戦死した。

その後、一族の恵良惟澄(えらこれずみ)が菊池氏とともに南朝方として積極的に活動した為、惟澄(これずみ)の声望が上がった事から、当主・阿蘇惟時(あそこれとき)は惟澄(これずみ)に大宮司職を譲る事となる。

しかし、惟澄(これずみ)の跡は北朝方の長子・惟村(これむら)と南朝方に廻った次子・惟武(これたけ)とがそれぞれ大宮司を称して対立、以後、惟村(これむら)の子孫は益城郡、惟武(これたけ)の子孫は阿蘇郡を支配して、室町期を通じて対立関係にあった。

南北朝合一後、千四百五十一年(宝徳三年)惟武系の惟歳(これとし)は惟村系の惟忠(これただ)の養子となる事で合意がなされるも、千四百八十五年(文明十七年)再び争い、惟歳が敗れて惟忠系が大宮司職を独占した。

この勢力を背景に、阿蘇惟憲(あそこれのり)の子・惟長(これなが)は、弟・惟豊(これとよ)に大宮司職を譲って、自らは衰退していた守護・菊池氏の弱みに付け込んで跡を襲封し、菊池武経(きくちたけつね)となった。

しかし、武経(たけつね)の子・惟前(これさき)は、大宮司職を望んで惟豊(これとよ)を阿蘇・益城郡堅志田城に襲い追放したが、惟豊(これとよ)は阿蘇・益城郡御船城主・甲斐親直(かいちかなお/宗運)を頼って益城郡の兵をもって阿蘇大宮司職を回復した。

甲斐親直(かいちかなお/宗運)の甲斐氏の本流・菊池氏(きくちうじ)は、本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。

阿蘇氏家老職・甲斐氏は、鎌倉時代末期、菊池武房の子・武本(武村とも)が一族の内紛から甲斐都留郡(現山梨県)に逃れて住んだ肥後国・菊池氏の支流で、九州に戻って日向国・高千穂に土着し、阿蘇氏重臣となった一族だった。

菊池武本(武村とも)の子孫・重村は南北朝初期、足利尊氏に従って九州に下向し、甲斐氏を称して千三百三十八年(延元三年)、大友氏の援軍とともに肥後へ進出した。

しかし、南朝方の菊池武重に敗れて日向縣(あがた)に土持氏(つちもち)を頼って逃れ、後に高千穂鞍岡(現、五ヶ瀬町内)に土着して同地の国人となった。


千五百十四年頃の戦国時代、藤原菊池流・甲斐親宣(かいちかのぶ)は、日向国高千穂・鞍岡の国人領主だった。

千五百十七年(永正十四年)に前阿蘇大宮司・阿蘇惟豊(あそこれとよ)が菊池武経(きくちたけつね)との争いに敗れ肥後から落ち延びて来ると、親宣(ちかのぶ)はこれを助け、矢部浜の館に復させ領主復権に成功させる。

以後、甲斐親宣(かいちかのぶ)は阿蘇家の筆頭家老として活躍し、その継嗣・甲斐親直(かいちかなお/宗運)も阿蘇家の家老職を継承する。

阿蘇家当主・阿蘇惟豊(あそこれとよ)は豊後・大友氏と盟友関係に在った為に島津氏の肥後征討の目標となり、惟豊の死後阿蘇大宮司に背く内通者が現れる。

阿蘇家々老職・甲斐親直(かいちかなお/宗運)は、島津氏に内通した肥後益城郡・御船房行(みふねふさゆき)を益城郡の御船城に攻め落とす。

甲斐親直(かいちかなお/宗運)は御船城主となり、幼主・惟光(これみつ)を筆頭家老として軍事外交両面に於いて補佐し、僅かに阿蘇家の命脈を維持するも、親直(ちかなお/宗運)亡き後は、千五百八十五年(天正十三年)島津氏に降伏した。

尚、この甲斐氏(かいうじ)の当主の一人に、後ほど御紹介する「鬼八伝説(きはちでんせつ)」に於ける神代の時代からの伝承に基づき生身の乙女を供する事が続けられて居た「人身御供」を戦国時代に止めさせたのが、甲斐宗摂(かいそうせつ/宗運の庶子)の命令である。

以後、甲斐氏姓は肥後、日向、豊後、薩摩の各地に拡大し、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。

豊臣秀吉の九州平定後阿蘇氏は、熊本城主・佐々成政を頼るも、後に国人一揆によって佐々成政は秀吉から切腹を命じられ、肥後の領主は加藤清正に代わったが、清正の朝鮮出兵中に、惟光(これみつ)は謀叛の嫌疑を受け阿弥陀寺で殺害された。

加藤清正は帰国後、惟光(これみつ)の弟・惟善(これよし)に封土(神社領)を与え、大宮司職を復させた以後は代々阿蘇神社社家として存続し、明治に至り男爵を授けられ華族に列した。




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(身分差別)

◇◆◇◆(身分差別)◆◇◆◇◆


貴方は、自分の人生の全てを、つまり生涯を、不当にも「被差別の中で送る悲劇」を考えた事があるだろうか?

ましてや、その不条理が「出自(血統)を理由に何代にも渡って続く」としたら、そんな事を赦せるだろうか?

これは、現在の倫理観の物差しでは到底考えられない人間としての暴挙である。

しかしその差別は、正式な制度として永くこの国に存在した。

征服部族と被征服部族の長達は「氏族」、統治される民は「良民(常民)」、そして被差別された民「非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)」・・・・。

つまり、歴史観に現在の尺度は当て嵌らないのである。


歴史を論ずるにあたり、避けて通る事が出来ないのが、身分差別である。

所が、こうした現実を認識する事は楽しくないから、余り取り上げられないのが実情である。

華やかな上層階級の生活についてはテレビや映画で娯楽的に描かれる事が多いが、下層階級の事はテーマが重い為か後ろ暗さの為に気分的に忘れたいのか、一部演劇や社会派映画を除くと、取り上げられる事が少ない。

しかし日本の歴史は、明らかに「身分差別」の問題に蓋をして語る事は出来ない。

どうもこの身分差別、テーマにするとややこしい事も起こりそうなので、いっその事「無かった事にしよう」と言う考え方が多いらしく、そう言う所は意図的に表現から外した作品が多い。

この辺は、性の表現と同じ様に、「事なかれ」と逃げているのかも知れないが、「存在を認めるからこそ対処が出来る」と言う基本から外れてしまえば、見て見ぬ振りの卑怯な振る舞いである。

都合の悪い過去は「無かった事」にするのが人間で、例え実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である。

歴史を遡(さかのぼ)るにあたって、この事に留意せずに現存する文献に記載されているだけで、「ここにこう乗っているから」と結論は出せない。

益してや、「〜〜さんがこう言っている」や「〜〜さんがこう書いている」は論議の出発点であり、それをもって結論がごとく言うのであれば、それが赦されるのは教祖と信者の関係だけである。

政治的意図や娯楽の為の脚色を含まない純粋な歴史は現代社会の合意と矛盾し、歴史の真実は全て正史の裏面に在る。

つまりリアルタイムでその時歴史の影で起こっていた事実は当事者しか判らず、その当事者が口を噤(つぐ)んでいればその事実は永久に闇の彼方である。

また脚色を含まない純粋な歴史は、作家の脚色娯楽作品よりは遥かに詰まらないかも知れない。

時を駆けた人々は、時代時代で確かに居た。

しかし歴史的人物に関しては後に多くの物語に登場し、脚本の意図に持ち上げられながら、イメージだけが膨らんで行く傾向が在る。

いずれにしてもそれらの要因で、歴史の事実を捻じ曲げてまで未来に捏造の綺麗事を伝えて行くべきでは無い。

この物語も、半分は眉に唾を着けて「盲信しない方が良い」と思うが、少なくとも「無かった事にする裏側を物語にした」と解釈して、この先の物語部分を楽しんで頂きたい。



本来、歴史の根源は凡(およ)そ残酷な物で、何処の国も国家として成立した経緯はけして未来に自慢できる物ではない。

そこでその残酷さを和らげる為に、被征服部族に関しては「征服されても仕方が無い蛮族」として紹介される。

例えば二〜三百年前の北米大陸を例に採ると、欧州大陸の各国(英・仏・蘭・西など)の野望を持った家族や食い詰めた家族が、新天地を求めて北米大陸に渡り、原住民・ネイティブアメリカンを小さな居住地に追い遣って土地を勝手に占拠した。

だから、その開拓史の中心となったアメリカ合衆国など、フロンティア・スピリットと言えば格好は良いが一種居直り強盗的な形で原住民・ネイティブアメリカンから広大な土地を手に入れた経緯が伝統となり、未だに好戦的な国家である。

それでも米国も当初は、開拓民が苦労して未来を切り開いた物語としてフロンティアスピリッツ(開拓精神)を美化し、開拓史を西部劇映画して世界中に発信していた。

しかし米国も戦後四十年も経つと、この西部劇映画の製作が勝手に米大陸に渡って原住民(ネイティブアメリカン)から土地を奪った悪行の自白行為だと気が付いた。

流石(さすが)に過去の汚点意識が芽生えて、近頃ではハリウッドでの西部劇映画の製作は影を潜めてしまった。

そして北米大陸その植民地が、カナダ、アメリカ、メキシコなどに統一された国家として独立を果たして今日があり、そうした歴史は古いか新しいかで何処の国にでも存在する。

その北米大陸と同じような事が、縄文期から弥生期にかけての二千年以上も前に日本列島に起こり、大陸や海流に乗って渡来征服部族(氏族)が日本列島に渡り来て先住縄文人(蝦夷族)を追い遣り、勝手に倭の国々と呼ばれる小国家群を夫々が造る。

つまり当時の日本列島の先住縄文人(蝦夷族)はネイティブ・ジャパニーズで、もし日本人の定義を言えば、「ネイティブ・ジャパニーズと渡来征服部族(氏族)の混血民族である」と言える。

大陸の優れた先進文明を携えて日本に渡来した征服部族(氏族)は、夫々の部族ごとに勝手に地割りをして小国家を造り、先住縄文人(蝦夷族)を隷属化して行った。

その経緯から、日本列島の住民は好戦的な支配階級・渡来征服部族(氏族)と被支配階級の優しく大人しい先住縄文人(蝦夷族)の大きな流れの中で並立して、明治維新まで来た。

それ故に、当時の日本列島への渡来征服部族(氏族)にとって、縄文人(蝦夷族)の自由の地・日本列島を侵略して先住縄文人(蝦夷族)もろとも統治下に置いた事は、後世に残したくない「不都合な事実」である。


前述したように、縄文時代の日本列島には樺太から来た原人とその後に黒潮に乗って北上して来た稲作系(熱帯ジャポニカ種)原ポリネシア人、そして早い時期に中国大陸南部・雲南省辺りに発祥し朝鮮半島経由でやって来た原加羅族系人に拠って「縄文人」が成立した。

その後、紀元前千五年前からの五百年間の頃より日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから一族を率いた渡来移住者が多数、勝手に土地を占拠して定着し始め、小国家を形成する。

この小国家が倭の国々で、この時渡来した移住者一族が「縄文人」を制圧して上位に立ち、「縄文人」を未開人の「蝦夷族(えみしぞく)」と呼んで俘囚化し、自らは「天孫族(てんそんぞく)」と言う支配階級を形成して君臨する。

「縄文人」と後期に渡来した移住者一族との間で混血が進み「弥生人」が形成される中、小国家群である倭の国々の国主(くにぬし・国造/くにのみやっこ)が統一に向かって大国主(おおくにぬし・大王/おおきみ)を頂き、大和朝廷の成立を見て国家の体裁を整えて行く。

やがて、その支配階級を形成する自称・天孫族(てんそんぞく)が支配階級の固定化を図り、「氏姓制度(しせいせいど)」を制定して氏族(うじぞく)となり、氏族(うじぞく)の下に良民と賤民(せんみん・非人/奴婢・俘囚)の階級社会を成立させる。

この氏姓制度(しせいせいど)に拠って、日本列島に血統至上主義が支配する社会体制が成立した。

尚、近年の「共通の祖先を持つ血縁集団」と言う氏族(うじぞく)の解釈は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 法(じんしんこせきほう)発効以後の事である。


この日本列島の国は、天孫降臨伝説の始めから永い事血統至上主義の国で、有力な氏族の系図を持ったり先祖に名を挙げる功績が在っただけで末代の子孫まで良い地位に着いて楽に食べて行ける国だった。

反面、氏族の系図を持たず功績で名を挙げた先祖を持たない者は、何代経っても浮かび上がれない不条理社会の国だった。

その理不尽さにさえ気付かず、血統の良さだけで「格好が良い」と憧れ、尊敬の念さえ抱く善良な庶民の居る国である。

日本列島の歴史は、征服氏族の歴史である。

海岸に佇(たたず)んで波の音を聞いていると、我輩には対馬海峡を渡り荒波を越え来る人々の思いが聞こえるような気がする。

故郷を棄て、新天地を目指す征服部族の決意からすると、つい二百年ほど前に武力でネイティブアメリカン(アメリカインデアン)から北米の大地を奪い取り、未だに武力外交の権化のような米国のフロンティアスピリットと、戦を好む氏族とがダブって思えて来るのである。

確かに出世物語は読む者を爽快にさせる。

しかしそんな生々しい現実を、血湧き肉踊る覇権ドラマとしてだけ捉えて良い物だろうか?

日本列島に於いて、氏族の争う理由は神代の昔からずっと領地の拡大と覇権である。

これは彼らが、勝手に「未開の地」と称した日本列島に、新天地を求めて進入して来た征服部族を先祖に持つ人種だったからである。

彼ら氏族の進入以前、縄文人(先住民族)が住んでいた頃の日本列島は、比較的争いが少なかった。

人口の割に列島が広大で、部族が充分に共存出来たからである。

そこに進入して来た征服部族が、縄文人(先住民族)を武力で隷属同化してその混血が弥生人(進入征服部族と先住民族の混血)に成り、氏族と民人の上下構成が完成して行く。

前述の通り、この国は永い事「争いの氏族」と「調和の庶民(良民/常民)身分または賤民・せんみん/奴婢・ぬひ)身分」の二極文化の国で在った。

そうした現実がありながら、歴史的には「氏族文化」のみが日本の歴史がごとく伝えられている「オメデタイ国」である。


別名を無礼討ち(ぶれいうち)とも言う「切捨て御免」は、苗字帯刀と並ぶ江戸時代の武士(氏族)の特権である。

もっとも、「切捨御免」と言う言葉は江戸時代のリアルタイムのものではなく後の表現として広まった物で、当時の史料に於いては「手討」・「打捨」などと表現されていた。

「手討」・「打捨」などは、無礼な行為に拠って武士(氏族)の名誉が傷つけられる事を制止する為の特権的地位の正当な行為と認識されていた。

これは当時の江戸幕府の法律である「公事方御定書」の七十一条追加条に拠って明記され、武士(氏族)が平民(町人・百姓)及び穢多(エタ)・非人から耐え難い「無礼」を受けた時は、「斬殺しても処罰されない」とされた。

勿論その「手討」・「打捨」が正等だったか審査は在り、実際に切捨御免を行い「正当な権利行使」と認められた事案はそれほど多くはないが、「切捨て御免」は特権階級の地位的象徴とされた。

それにしても、この随分不公平な法制度は何を根拠に成立したのだろうか?

この武士(氏族)の特権思想の原点は遠く弥生時代まで遡り、当時列島に渡来した部族が日本列島に現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を武力制圧して隷属した事に始まる。

つまり征服部族(氏族)の被征服部族・縄文人(蝦夷/エミシ)に対する優位性が、そのまま江戸時代の武士(氏族)の特権として制度に反映したのである。

この「切捨て御免」の制度を見ても、日本人は単一民族に成るのはズット時代が下がってからで、現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を制圧して日本列島を乗っ取った歴史が存在する証拠である。

天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、皇統に拠る統治を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含み、同時にこの後ろ暗い列島乗っ取りの歴史を覆い隠す事に在った。


最近使われ始めたジュピターコンプレックス(被支配の願望)は、理論の左脳域に於ける思考では理解できない感性の右脳域の心理である。

勿論、このジュピターコンプレックス(被支配の願望)は基本的に男女の別なく存在し、その傾向が強い者は恐怖を消化的に受け入れる癖が保有されている。

一説には「幼児からの成長過程でトラウマ(心的外傷)化したのではないか?」とされるが、もしかしたら先祖累代の被支配層(被差別層)の記憶因子を受け継いだ上昇志向が薄い血統かも知れない。

そう言う被支配記憶因子を受け継ぐ人間は、何事も「偉い人がやってくれる」や「神仏が何とかしてくれる」と他所頼みで、一生他人に使われる平凡で野心が無い人生を望む筈である。

また武士道を利用しに掛かっている人間はともかく、本気で武士道の精神などに傾倒している人間は、このジュピターコンプレックス(被支配の願望)の持ち主に違いない。


場面に拠ってはジュピターコンプレックス(被支配の願望)が特に顕著に現れるのが女性で、女性は否定するだろうが心理的に計れば、悲劇のヒロインに憧れる女性の感性の右脳域に於いて、深層心理には或る種の願望として強いM(マゾ)性が潜んでいる。

所が、悲劇のヒロインとM(マゾ)性を何とも都合良く「別もの」と勝手に決め付けるから始末におけない。

即ち女性の感性はメルヘンチックで、事実を御伽噺の中に包み隠してしまう傾向が在るのだ。

それでいて女性のメルヘンチックな感性は、理論の左脳域では想像も着かない事に、危険な香りのする冷たい男に心引かれる。

つまり女性には、感性の右脳域に於いて「ジュピターコンプレックス」と言う被支配の願望(感性)があり、「強くて残酷な者に心引かれる」と言う。


このジュピターはローマ神話に登場する気象現象を司る神・ユピテルの英語名なのだが、太陽系の惑星・木星の名でもある。

コンプレックスは「劣等心的複合体」と言い一種の複雑な深層心理を表現するものだが、木星(ジュピター)は太陽から遠い惑星で太陽の陽光の恵みは少なく、冷たく大きな惑星(太陽系の惑星最大)で、地球から見上げると蒼く冷たく光っている。

本来「蒼色」はクールダウン(冷静になる)する色で、メルヘンチックな「私の蒼い鳥願望」には熱さや明るさは感じられず、或種醒(さ)めて居ながらの深層心理的な願望がジュピター・コンプレックス(被支配の願望)である。

つまり一筋縄では理解できないのが人間の心理で、強くて冷たいジュピターに心引かれる被支配の願望(感性)はイコール「M(マゾ)性」と言う事に成る。



それにしても、現代の日本人が最初からづっと昔から今の日本人で在るかのごとき思い込みは困ったものである。

渡来部族が日本列島にやって来て西日本各地に部族小国家を成立するまでは、列島の原日本人は縄文人である。

その原日本人(縄文人)を、渡来部族側は「蝦夷族(エミシぞく)」と呼び武力で制圧して隷属化(奴婢身分)して行った。

渡来部族は王族・貴族化してその蝦夷族(エミシぞく)を国家の支配下に置き、服属した降伏蝦夷族を俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として労働力として使役した。

日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣(なら)った奴婢制度について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。

しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。

第一、科学でも歴史でも定説は常に翻されて学問は進むものだから、自分の思考でもない定説をひけらかして証拠のごとき主張は浅学と言える。


彼等渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

そしてその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。

代わりに残ったのが、天孫降臨神話と多くの脚色された諸伝説で、それは陰陽道の修験山伏達に拠って全国に広がった。

つまり蝦夷族(エミシぞく)の地・日本列島を乗っ取った事実を覆い隠す目的で、古事記・日本書紀は編纂された。

しかし天孫降臨伝説を建前とする渡来部族(氏族)勢力に武力迫害の事実は似合わないから、その秘密はこの国にとって永い間必要だった事かも知れない。

そしてこの支配被支配の歴史は、鬼退治(おにたいじ)伝説が残るように、血塗られた歴史も存在する。

後に反政府勢力鎮圧や治安維持警察活動をするトップの役名とされる「検非違使(けびいし)」と言う名称も、元々は非人(エミシ族)身分のレジスタンスを取り締まる「非人検(ひにんあらため)に違使(つかわされた)」と言う意味だった。

つまり蝦夷(エミシ)族は、初期の大和朝廷(ヤマト王権)下でまだ組織的なゲリラ局地戦をしていて事に成る。


その後、原日本人(縄文人)の一部は渡来部族と混血同化の道を歩んだが、一部はマツラワヌ者として抵抗し、俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として看視体制下に置かれた。

そしてその俘囚(ふじゅう)と言う存在は、坂東(関東)に於いて平安中期まで、奥州(東北)に於いては平安後期の後三年の役頃まで続いて、一部は奴婢身分(ぬひみぶん/非人)として残った。

坂東(関東)に於いての俘囚(ふじゅう)は、「平安群盗」と呼んだ平安期(寛平・延喜年間東国の乱)の反乱(レジスタンス)が頻発した記録が残っている。

つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人(蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。


古墳時代は勿論、平安時代に入っても坂東(関東)やその先奥州まではまだまだ開拓原野が残る未開の地だった。

まだ開拓原野が残るからこそ、平将門(たいらのまさかど)の新田開墾や源義国(みなもとのよしくに)と長男・源義重(みなもとのよししげ)が上野国に新たに田地を開拓し新田荘と為すなど時代だった。

つまり「平安群盗」の出現には、米国開拓史に於けるインデアンの襲撃と同じような意味と情況が在ったのかも知れない。

この抵抗(レジスタンス)の取り締まりに活躍し、武門の先駆者として名を挙げたのが、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらとしひと)や藤原秀郷(ふじわらひでさと)だった。

また、奥州(東北)に於いての源頼義(みなもとよりよし)と前九年の役(ぜんくねんのえき)の蝦夷俘囚側・俘囚長(ふじゅうちょう)とされる安倍貞任(あべのさだとう)・安倍宗任(あべのむねとう)兄弟の戦乱は有名である。

大和朝廷が最後に平定した東北地方では、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。

つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民)が鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。


青森県弘前市字鬼沢の「鬼神社」の豆まきは、「鬼は内」である。

東北だけではなく群馬県鬼石町でも「福は内、鬼は内」と言い、埼玉県比企郡・武蔵嵐山の「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」の豆まきも「鬼は内」なのだ。

鬼鎮神社(きじんじんじゃ)の祭祀は、陸奥国地頭職・鎌倉有力御家人・畠山重忠の手に拠るもので、東北の鬼とされた「安倍氏」に対する同情心や遠慮とされている。

また、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名・二本松畠山氏(はたけやまし)は、秩父平氏・支族で、武蔵国・畠山庄に在した鎌倉有力御家人・畠山重忠にその名跡を発している。

奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職に任官した畠山重忠は北條時政に謀られ鶴ヶ峯で戦死するも、妻(北条時政の娘)は重忠の死後、源氏系流・足利義兼の子・義純と再婚する。

足利義純は畠山氏の名跡と領地を継承して室町期から戦国初期に戦国大名とし活動、また、その子孫の一部は二本松畠山氏となり伊達氏の興隆に圧されて滅亡した。


凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて頻発した「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の「寛平・延喜年間東国の乱」がある。

平安群盗と呼ばれ文献に残るそれらは、国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が起こした大規模な反乱(レジスタンス)だった。

つまり平安時代中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や、平安末期・源(三位)頼政が生きた時代の妖怪・鵺(ぬえ)の物語は、後の世に先住民族・蝦夷(エミシ)の存在を無い事として覆い隠す同化策の御伽話に伝えられたのではないだろうか?


奈良県五條市・真言宗念仏寺・陀々堂の火の祭典・「鬼走り」は、松油脂をタップリと含んだ松の根を掘り起こして切り取り、皮を剥いで松明(たいまつ)とし、堂内を豪快に走り回る「火祭り神事」である。

鬼追い式は本来鬼を追っ払うと言うのが通常一般だが、此処の祭典は各地でも珍しく「幸せを呼ぶ鬼・悪霊を追っ払う鬼」としている儀式に成っている。

五條市大津の「念仏寺陀々堂」では五百年を越える伝統を誇る火の祭典・「鬼走り」が行われ、燃えさかる松明(たいまつ)を振りかざした父鬼・母鬼・子鬼が堂内を豪快に走り回り住民の災厄を払う。

「念仏寺陀々堂」は、平安末期か鎌倉時代に、この地の領主・坂合部氏(さかいあべうじ)の氏寺として建てられ、坂合部(さかいあべ)は外交に従事する渡来人を管理する部民の長が「坂合(さかいあ/境合いの意)の職掌で氏族化した」と考えられている。

「陀々堂」の意味は、達陀(だったん)の秘法(松明をかざして飛び散る火の粉で身を清め、災いを焼き払う行)を行うお堂と言う意味の達陀(だったん)が訛って「陀々堂に成った」とされる。

「鬼走り」は室町時代中期から続く修正会の儀式で、平成七年には国の重要無形民俗文化財に指定され千四百八十六年(文明十八年)から数えて五百三十年ほどとなる火の祭典である。

古い鬼面の裏に室町時代・千四百八十六年(文明十八年)の墨書があり、鬼が人を守る存在で先祖の霊だった時代の姿を伝え無病息災を願い鬼が振り回す松明(たいまつ)の炎で「その年の吉兆を占う」とされる。

時系列的に言えば、平安群盗と呼ばれる「組織的な蝦夷族・先住縄文人(鵺・鬼・土蜘蛛)の抵抗」は、千百年代頃の平安末期までにほぼ鎮圧された。

鬼面の裏に記された千四百八十六年(文明十八年)の室町時代を思えば、その蝦夷族の抵抗戦の終結からから凡そ三百年後の時を隔てて始まった神事である。

逆説的に考察すれば当時の人々の認識として、そろそろ蝦夷族・先住縄文人(鵺・鬼・土蜘蛛)の名誉を「幸せを呼ぶ鬼走り」として回復させる狙いが込められていたのかも知れない。


どうも現代の日本人は、この辺りの歴史経過をロスト(欠落)して物を考えるから 間違えるのだが、本来の原日本人(縄文人)ならともかく「全ての現代日本人」に幾許(いくばく)かの渡来人の血が流れていて当たり前である。

困った事に現代の日本人は、当たり前なのに二千年から前の事を「天皇の祖先が朝鮮半島から来たと言うのは本当か」と大騒ぎをし、名字を見て「あいつは朝鮮系だ」と愚かに騒ぐ。

そもそも渡来部族が日本列島にやって来た頃はそうした線引きは無く、朝鮮半島と日本列島には朝鮮人も日本人も居なかった。

居たのは朝鮮半島から日本列島の西半分の広域に広がる小国家群・倭の国々だった。


被支配者の集落である共生村社会(きょうせいむらしゃかい)の起源を総論的に解説すれば、渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成された。

その同化過程の中で、渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだが、当然ながら初期の被支配階級の縄文人(蝦夷族)には自分達の習俗を温存しようとする種族としてのプライドがある。

先進文明を携えて来た渡来氏族の文化が如何に優れていても、縄文人(蝦夷族)側にも種族としてのプライドを持って習俗を温存する意識も存在するから全てが支配階級の氏族と同じ習俗にはならない。

被支配階級の縄文人(蝦夷族)の村落として共存精神を軸に置いた独特の共生村社会が構成されて行く。

勿論、支配側の氏族の方でも同化策として山深くまで信仰を主体とした修験道師(山伏)を派遣して氏族への恭順啓蒙活動をするが、何しろ為政者側にして見れば縄文人(蝦夷族)出自の種族は非好戦的で従順な被支配階級にするのが望ましい。

それで修験道師(山伏)は、弱肉強食の氏族とはまったく別の善良教育・共存精神を彼等に施した。

つまりこの共生村社会のルーツは、現在でも有り勝ちな異民族同居状態に於ける弱者民族が、独自の文化社会を温存構築して同化に抵抗する構図である。

そしてそれは二千年に余る永い間、弱肉強食の「氏族社会」と被支配階級の縄文人(蝦夷族)の「共生村社会」と言う異文化が日本列島で共存して行く事になる。


勘違いしては困るが、正直、搾取階級などはどこの世界でも精々全体の五パーセント留まり位の占有比率でないとその社会が成り立たない。

つまり支配階級の氏族と被支配階級の構成比率は経済学的に決まっているから、僅かなウエィトしかない支配階級の氏族の歴史だけが必ずしも日本民族の歴史とは言い切れないのである。


遺伝子学の専門家に言わせると、日本人は他国人と比べ平均的に恐怖や不安に敏感な遺伝子を持つ人種だそうで、そうした遺伝子の醸成が如何なる経緯で為されたのかは歴史を紐解くしか解明の手段は無い。

軽々に結論を出せる話では無いが、当然ながら平和の民・先住縄文人(蝦夷/エミシ族)の地を勝手に乗っ取った渡来征服氏族の所業や、その統治政策としての恐怖神話の流布などが、「遠い記憶として残った」と考えられる所である。

さらに征服部族(氏族)にした所で、本音で言えば居られるものなら大陸で平穏に暮らすのが筋で、大陸で戦に破れて逃れて来た部族や食い詰めて新天地を求めて遣って来た好戦的部族だが、列島に辿り着くまでに大きな恐怖や不安を経験して来た筈である。

この日本列島の地は、多神教の国であると同時に、信心深いと言えばそれまでだが未知のものへの恐怖心が強く、世界でも珍しいくらいに多くの幽霊・霊魂の国でもある。

だがしかし日本の信仰は多神教の国独特の信仰形態で信仰対象が分散し、一神教の国々から見れば好い加減な信仰とも受け取られる。

いずれにしても日本人が、恐怖や不安に敏感な遺伝子を持つ人種であるからこそ、出る杭は打たれる式に没個性を良として横並びで安心しようと言う傾向がある。

しかし我輩は、没個性を良とした横並びには魅力は感じない。

我輩が考えるに、文人・画人・歌人などの文化人で、世間に迎合する横並びの人物など見た事は無い。

常に新しい発想をする人間は「何を思い付き、何を言い出すか判らない」ので、周囲にとっては不気味な存在である。

当然ながら、周囲は「非常識」の落印を押す。

正直、歴史に登場する人物は、ルール無視の大虚(おおうつ)けとされるアウトロー・織田信長に代表される天才である。

実業界でもそんなもので、永い事工場の外に佇(たたず)み、輸入自動織機の音だけを聞いて「国産の自動織機を音だけで作った」と言われるトヨタグループ(自動車・自動織機の創始者・豊田佐吉も、最初周囲は「あの若者、働きもせずあんな所で一日ボーッとして気味が悪い」と見ていた。

ホンダ自動車の本田総一郎は、若い時代、試作の為に昼夜を問わず働き、小さな町工場で真夜中まで構わずガンガンと音を立てる「非常識で近所迷惑な存在だった」と言われている。

しかしそれを非常識と批判した常識者達が、一生涯何も為しえない所に没個性横並び安心社会の世の矛盾がある。



日本の歴史の永い期間、差別・被差別は存在した。

調べてみると、その差別に「正当性」も「確たる理由」も見当たらない。

或る時期に何らかのきっかけ(理由は様々)により不当に差別が開始されたものがそのまま認知され、「強制世襲させられる」と言う「不条理なもの」であった。

勿論、初期の段階では、反抗的な被支配者「鵺、土蜘蛛、鬼、の類」を、征服者の社会で扱う為の身分決定だったのかも知れない。

恐らく、初期の身分を決定したものは、「支配者の意志決定」と考えられる。

その後の支配者の被差別者決定理由は、統治上の反抗や失敗、社会悪事に対し科せられる「償いだった」と考えられる。

それならば、本来、孫子にまでその責めを負わせるものではないのだが、実はこの身分の者が存在する事は、支配者階級の統治に取って都合の良いものだったから、制度存続の為に、その非支配者下層階級(非良民・賤民)の強制世襲制が必要だった。

また、この国の根幹を成す「氏族による血統の統治構造」が、おのずと、非支配者下層階級(非良民・賤民)の強制世襲制をも適用され、容易に「延長線上に成らしめた」と解釈出来るのである。

困った事に、身分差別を容認する被差別者も存在するから人間社会は複雑である。

あえて言うならば、決定的なのは人間が「悲しい生き物だ」と言う事で、人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である「群れ社会」を、無意識に構成し様とする「本能」に起因するものだが、被差別に安心する心理の者も居るから過去に被差別身分が成り立って来た。

現代でも深層心理の世界の現実として、SEXプレィに「SMの様式」が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する「擬似行為」として、支配欲や被支配欲を満足させる為にSMプレィは成立している。

つまり、群れ社会の成立と言う人類の形成の遠い記憶には、「優劣主従の関係」の深層心理が、平等意識の裏に潜んでいる事も事実である。


日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。

その「対極にあるもの」として、氏族の「お血筋」の権威維持の為に、被差別の血筋も維持されたのではないだろうか?


律令制に於ける被差別階級として、賤民(せんみん)がある。

賤民(せんみん)を、姓(かばね)を有しない自由民の下人(げにん)と非人(ひにん)に分け、非人(ひにん)を奴婢(ぬひ)と称して律令制における被差別階級に組み入れ、隷属的に支配していた。

公に大和朝廷政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められていた。

日本列島・大和の国に於ける非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)の身分制度は、中華帝国や朝鮮王国の制度の影響で、こうした階級制度は、草創期の米国の黒人奴隷制度やインドのカースト制など様々な事例がある。

永きに渡り続いた血統に拠る差別の基本だった氏姓制度に於いて、百姓の下に在ったのは下人(げにん)であり、その下に在ったのが非人(ひにん)・奴婢(ぬひ)である。

百姓までは姓(かばね)を有する言わば支配階級の血筋であり、下人(げにん)、非人(ひにん)・奴婢(ぬひ)は被支配階級の血筋だった。

下人(げにん)、非人(ひにん)・奴婢(ぬひ)も農作業はするが、正確に言うと百姓ではなくただの被支配農民である。

百姓が農業従事者の総称に成ったのは江戸期に入ってからで、それまでは支配階級の血筋(姓/かばね)を持つものは商人であれ、工業従事者であれ、有姓氏族の「百姓」だったのである。



大和朝廷は成立後、中華文明の身分制度を模倣採用した。

つまり、「中世」に制定された「律令制」に於いて、同じ下層階級の非支配者層の民は「良民(常民)」と「非良民」に分けられていた。

支配階級の氏姓制度と下層階級の「良民(常民)」と「非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)」の組み合わせで、身分別の居住エリアの分類が始まり、それぞれの居住地区が「本所と散所」に分離され、「散所(さんじょ)」に住む「非良民」と言う不当な身分の既存化・固定化が促進された。

此処で言う「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の十一〜十二世紀の事である。

平安末期から戦国時代末期の十六世紀まで、この身分制度は多少の変遷を伴いながら実質的に続いた。

この時代、戦乱や飢饉が繰り返される中で、所有地または耕作地を失い生活ができない人々を排出した。

その中には荘園の免税地(散所)などに住み、公家や寺社に使われて労役奉仕をする事で生き長らえる道を選択した為に、その居住区が発生して「非良民・賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」の身分が定着した。

その分離した居住区を総称する名称が、そのまま被差別民を指す名称と成ったのが「散所」または「散所者」である。

「非良民」とは支配者に税(年貢・ねんぐ)を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。

その被差別階級は生き方が制限されていて、実は欧米で言う所の国または個人が所有する「奴隷」の身分である。

この被差別階級として賤民(せんみん)があり、奴婢(ぬひ)として行政組織や地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いだった。

行政組織の所有は公奴婢(くぬひ)、個人所有の私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者で、「奴(ぬ)」が男性奴隷、「婢(ひ)」が女性奴隷で、その身分も親子代々受け継がれたものだった。

奴婢(ぬひ)は制度上人間扱いしない所有物であるから、奴(ぬ)は力仕事で酷使し、婢(ひ)は仕事をさせながら持ち主の慰め者として扱われた。

散所と呼ばれた人々の中から「芸能」に従事した者が出現した事から、「河原者」は全て「非良民(賤民・せんみん)の身分出自の者」と解釈される場合が多いが、実は間違いである。

元々、古代から近世にかけて、神事から始まった芸能を長い事管理していたのは支配階層の氏族である。

これは現代にも通じる事だが、衆を操るに必要な才は何にも益して劇的な演技力である。

つまり演技力のない政治家は衆を味方には出来ない。

その辺りを承知しているからこそ氏族(支配階層)は、演技力を要するこの国の神主や仏教座主を独占し、また武芸百般の内で芸能の技量も求められた。

詳しくはこの物語を読み進めて頂くと判るが、その役割を歴史の場面場面で意味を持って登場する影人が、芸能を諜報活動の武器にしている。

しかし時代が下って徳川幕府成立以後の江戸期、政治権力の変化、制度の変化により、「河原者」に身分を落とした「芸能従事」の氏族出自の者も、存在したのである。


日本の芸能の最も原始的なものは、神事である神楽(神座・かみくら)舞から始まっている。

例えて言うならば、米国がハリウッド映画を保護し発展させたのは、国家的な産業にして外貨を稼ぐと同時に映画を通じて米国的自由主義を広く世界に発信する国策が在ったからである。

実は、日本に於ける神楽舞いも「天孫降臨伝説をあまねく日本中の民に知らしめる国策が在った」と言って過言ではない。

つまり神楽舞いを演ずる事は、今風に言えばマスコミニケーションと称する「巧みな広報媒体」なのである。

この神楽舞いと題材の天の岩戸伝説、日本全国に散らばって伝承されているが基は誰かが教えたに違いないのだが・・・「何に!、古くから存在したから多分土地の古老が始めた。」ですと?

そんな事は無いだろう、列島の隅々で共通点が多く分布しているのだから、これは物語と舞いを組織的に指導して歩いた者が居たに違いないのである。

全てに通じるが、存在を「昔から在ったから」と言って、「何故?」を忘れてただ存在のままにして置いてはならない。

真相は帝の意を汲む修験道師(修験山伏)が、記紀神話を各地に根着かせたのである。

神楽舞いから枝分かれしたのが白拍子舞い(男舞い)で、その発展形が阿国歌舞伎(ややこ舞い)や同朋衆(どうぼうしゅう)の能舞いであれば、日本の芸能のルーツは間違いなく修験道師(修験山伏)の広報活動がその基点に在ったのではないだろうか?


国家情報機関の仕事の一部として世論操作の目的を持ち、官製メディアの役割を担ったのが初期修験道師組織で、神の威光をでっち上げる為の神事としての神楽舞(神話伝説物語)に始まり、中央貴族の白拍子舞や地方の田楽舞などに分化して行く。

それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満の頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。

当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。

それが文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化に、また別の側面が見えて来ないとも限らない。

何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。

更に時代が下がると、娯楽性が益して大衆芸能化した阿国歌舞伎や高級芸能の能楽舞と分化が進み、やがて男歌舞伎や芝居、猿楽能と成って脚色された英雄が活躍する大衆娯楽に成って行くのだが、少なくとも江戸初期位までは、この芸能部分を表の顔とした隠れ武芸者が居たのである。


日本列島の統一の過程で、土着信仰と「氏上(氏神・渡来神)」が結び付いた日本独特の神社様式が成立する。

そこに妙見信仰と密教修験信仰が混入した多神教様式・八百万(やおよろず)の神となり、大和朝廷成立前後には、ほぼその統治範囲の神々は「存在として共通の認識のものになっていた」と考えられる。

その神事の様式の一部として、神楽(神座・かみくら)舞が神に供されるようになる。


天照大神が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力男(あめのたじからお)の命」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この「神楽(かぐら)の始まり」と聞く。

その、岩戸に隙間を開けさせる歴史的きっかけになった神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」と言われている。

ストリップダンスを踊、それに釣られるなど、神様にしてはずいぶん人間臭い逸話である。

つまり「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が気に成り、覗き見る程に「観客の神々」を沸かせるには、相応の仕掛けが必要なのだ。

天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(天石屋戸/あまのいわと)に籠った時に、岩戸の前で踊った女神である。

「宇受(うずめ)」は「かんざし」の意で、髪飾りをして神祭り(神楽舞)をする女神、更には「神憑った(かみがかった)女性の神格化を示す」とされている。

つまり巫女の神楽舞は、天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の岩戸(石屋戸)神楽が原形である。

猿女君(さるめのきみ/朝廷の祭祀に携わる氏族の一つ) の祖神とされている天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、猿女君の氏は「神楽の事に供す」として、宮中に奉仕し、主として「神楽に携わった女子」であるとされ、各地に神楽や芸能の神として祀られている。

この時天照大神を騙すのに使われたのが、三種の神器の一つ「八咫(ヤタ)の鏡」で在った。


元々、音楽と踊りは神事だった。

勿論、音楽と踊りには娯楽や芸術の側面もあるが、その発祥は神とのコンタクト、つまり「神迎えの呪詛」が目的である。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

音楽と踊りは神憑(かみがか)りの手段で、脳内で生成するベータ・エンドルフィンと関わりがある。

ベータ・エンドルフィンと言うホルモンには、痛みをやわらげる作用があり、「脳内麻薬」とも言われていて、その効果は「麻酔に使われるモルヒネの数倍だ」と言われている。

脳内モルヒネなどとも言われる快楽系ホルモンで、満足感・幸福感により脳内に分泌される脳内麻薬の事である。

この物質、ベータ・エンドロフィンは、ガン細胞をもやっつける良質な力を持っている。

近代医学で直る見込みの無い者が、宗教で一定の改善効果を得る症例は正に、この応用で、音楽や、その音楽を併用した信仰(宗教儀式)のトリップ状態やスポーツに於ける極限状態「ランナーズ・ハイ」の快感である。

この作用で分泌される脳内物質ベータ・エンドロフィンが効果を上げているのであり、特定の信仰がそのご利益をもたらした訳ではないのである。

ただし、「信じる者が救われる」は、このメカニズムからすれば、当然で、アフリカなどに於ける原始宗教の音楽や踊りのトリップも理に適っている。つまり、悪魔(痛みによる苦しみ)を追い払う効果が、ベータ・エンドロフィンにはある。

信仰(宗教儀式)のトリップ状態に関して補足すると、例えばであるが、信仰の派に拠って行われる一見、「御香を焚く」と言う行為は「安らぎを与える」と解されるか、実は五感の内の臭覚を満足させ、「ベーターエンドルフィンを脳内に発生させる」と言う静かな興奮の快感目的を持っている。

勇壮な大太鼓の音色、笛と金太鼓の澄んだ音色、お囃子、それは神が舞い降りる為のもの・・・。

その神の舞い降りる所が、実は貴方の脳内なのである。

荘厳な賛美歌も、お経の読経も、神楽音楽も、コーラン(クルアーン)の祈りも、全て聴覚を刺激する事で静かな興奮の快感をもたらす効果がある。

つまり、信仰の上で行われる「儀式めいたもの」は、五感を複合的に利用した経験学的な快感に基付くもので、信者の共感を呼び込む科学的トリップ効果を演出しているのである。

「けして騙されている」と言いたいのではなく、その結果として心理的に好結果をもたらすなら、信じている信仰にその個人として間違いは無い。

ここでは、音楽と踊りの発祥と、神事と芸能との因果関係を検証しているのである。

在って当たり前の実在する事を「そんな事は常識」で片づけると、その先の学問的な進展は無い。

歴史的な現象もこれからの未来も、「人は何に影響を受けるのか?」の違う視点で見る事で違う答えも見出せるものである。

そこで、人間の意識に心理的影響を与えるミラーニューロンの暗示効果も記して置く。

実はこのミラーニューロンの暗示効果で、信仰(宗教儀式)のトリップ状態はその場の信者全員に波及するのである。

貴方は観劇やテレビドラマ、映画などを見て、その作品の中に主人公的な自己の思い入れを持てる訳をご存知(ぞんじ)だろうか?

それは視覚を処理する情報伝達の神経細胞(ニューロン)の一種「ミラーニューロン」の働きに拠るものである。

「ミラーニューロン」の働きには一種の学習効果が伴い、その後の行動にも影響を与える。

やくざ映画を見た観客が、劇場から出てくる時に一様に肩を怒らせて出て来る光景を思い出してもらいたい。

脳活動の一種である「ミラーニューロン」と言う脳科学的な神経細胞(ニューロン)情報伝達現象説に拠ると、他者の運動を理解する為に相手の行動をあたかも「自分が行っている」かのように脳の中で鏡のように受け取る事である。

大脳皮質の前頭葉で見つかった神経細胞(ニューロン)の一種が、視覚情報を処理する「ミラーニューロン」で、電気信号を使って情報を伝え、相手の行動をあたかも「自分が行っている」かのように脳の中で鏡のように受け取るのである。

このミラーニューロン現象は、当初は自他のコミニュケーションを容易にする為に人類(霊長類を含む)の脳に機能として発達したのだが、その後宗教儀式や観劇、やがて種々の映像芸術の「仮想主人公」として脳内で「自己意識化出来る能力」となっている。

信仰上の教えである宗教画の紙芝居効果から、最近のテレビショッピングの購買意欲まで、「ミラーニューロンの暗示効果が作用している」と考えられる。

映画に関しては、戦時中の日本の国策映画が戦意を高揚させたり、国を挙げて支援した米国のハリウッド映画が、世界に米国型自由主義を映像であこがれさせる「効果が見込めたからだ」と言うのである。

その根底に在ったのが、ミラーニューロンに拠る脳内での「自己意識化」と言う啓蒙効果ではなかったのか?

だとするなら、ミラーニューロンを知らなくても経験学的に視覚効果が啓蒙に役立つ事は、古くから知られて利用されていたに違いない。


人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らをコントロールする力を持って居る。

これが「信仰の奇跡」に結び付く。

そこら辺りを熟知して利口に応用するか、無知のまま何もしないかで長い人生々活に結構な差が付くかも知れない。

その脳の能力として、ホルモン物質「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生が数えられる。

ベータ・エンドロフィンは、脳と深く関わる脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや、麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。

最も身体に「安全な脳内麻薬(快感ホルモン)」と言うだけでなく、体調や精神を整える効果がある良質な脳内麻薬で、老化と伴に訪れる体の痛みをそれと知らずに緩和する鎮痛作用の働きもある。

鍼灸のツボ治療も、刺激によって脳の受け持ち部分を、ピック・アップ・ワンポイントでベータ・エンドロフィンを分泌させる為の行為である。

ベータ・エンドロフィンには麻薬作用に拠る痛みの緩和に止まらず、その発生に誘発されてセロトニンが送り出され、細胞の活性効果による自然治癒効果や、精神を安定させる効果もある。

セロトニンは、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されて送り出される伝達阻害物質である。

脳内麻薬・ベータエンドロィンや痛みの伝達を阻害するセロトニンが脳で感じる神経性の痛みを抑止している間に、自分の免疫細胞が活躍して半年から一年で自然治癒するケースが存在する。

現に椎間板ヘルニヤの自然治癒症例が、医学界では常識に成って来ている。

この痛み抑止・セロトニンや脳内麻薬・ベータエンドロフェンが脳内に噴出して痛みを抑止する切欠に成る物の一つが「信仰の奇跡」で、「信じる者は救われる」の主因である。

つまりこの場合の信仰効果は、宗派・教義が問題では無く、本人の信心具合でセロトニンやベータエンドロフェンが脳内に活躍する環境を作るのであるから、「信じる信仰は何でも良い」のである。

そして信仰は右脳域の感性に宿るから、脳内麻薬・ベータエンドロフェンの脳内に噴出に応じて「幻影を見せる事」も在る。

そしてこう言う事象に遭遇すると、その信者の信仰は拠り一層深まって行く。

勿論精神の安定を求める方も多いから、その方が信じる信仰を一概に非難や否定は出来ない。

只、「信仰の奇跡」は、脳科学の発達に拠って解明されつつある。



神楽(神座・かみくら)舞の原形は、神話・天岩戸伝説の伝承に拠る「天宇受売(あめのうずめ)命(みこと)」の舞を再現奉納する巫女舞に始まり、白拍子舞などを経て時代と共に様々に類分化する過程を辿る事になる。

この過程で重要な事は、長期に渡り信仰を管理していたのが統治する側(氏族)だった事である。

古代から近世にかけて、統治する事と信仰を管理する事は密接に関わっていて、そこから派生した芸能が、「諜報活動の手段にも成っていた」となると、とても軽はずみに「非良民・賤民(せんみん)」の間から食べる為に起こった芸などとは言い難い。

古代から近世の芸能が、民衆ばかりでなく支配者にも受け入れられていたのは、宗教的な意味を持つもので在ったからで、そこに或る勢力が着目した為にその間違いは起こった。

しかしその目的の性質上、その間違いの指摘は元々「影」に関わる事柄だったから当時大きい声でそれを言う者は居なかったのである。

こう言う考察をする時、後の日本人が陥り易い弊害は「建前による固定観念」である。

つまり、諜報活動のような卑怯な振る舞いは、「氏族は行わない」と言う建前の下、そう言う事を引き受けるのは「身分の低い者の専売に違いない。」と言う固定概念を前提にしてしてしまうからである。

この固定概念を押し付けて、猿楽能や歌舞伎、人形浄瑠璃などの日本の古典芸能は、「非良民(賤民・せんみん)から派生した」とする解説が後を絶たない。


実はこの「身分差別」の歴史、本書の「影人の物語」とは微妙に深くリンクしている。

例えばであるが、香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統を持った露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。

香具師の起源については、古代に遡(さかのぼ)る伝承を持っているが明確ではない。

一説には秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、秦河勝(はたのかわかつ)を祖とする川勝氏が「香具師(かうぐし・神農/しんのう)の祖」とされている。

その伝承から、「行商に身をやつして諜報活動をしていた」と考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。

つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、主として神前での興行や商いをする「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事で、表向きと違う活動をしていた事になる。


秦氏(はたうじ)は古代の渡来系有力氏族で、土木や養蚕・機織(ぬのおり)・製鉄精錬などの技術を発揮して「栄えた」と言う。

この「渡来系」と言う表現になると本来氏族は皆渡来系になってしまうが、秦氏(はたうじ)の来朝が「第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)の御世の頃」と伝えられる所から、何しろ前期渡来部族は天孫降臨伝説を捏造して天から降りて来た事との整合性がなくなる。

どうやら曲がりなりにも日本列島の西半分の国主(くにぬし/御門)達が大和合して大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)が誕生して以後の後期渡来部族を「渡来系」と称するらしい。

秦氏(はたうじ)の本拠地は鬼退治伝説の吉備国(岡山県)とも言われているが、関東以西のかなり広範囲に秦を名乗る者が居住していた痕跡が散見されている。

周知のごとく、織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持って日本列島に渡り来ていたのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

秦氏(はたうじ)は中華帝国・秦の始皇帝の末裔を称するが、その根拠は明確でない。

この秦氏の渡来前の出自について朝鮮半島の百済説や新羅説があるが、名乗っているのが秦始皇帝の末裔ならば朝鮮半島は経由地に過ぎない事に成り、古代の織布・倭文(しずおり)の発祥が「朝鮮半島側の倭国」と言う伝承に符合する。

稲作技術と事代主神(ことしろぬしかみ)の託宣術を操る葛城氏(賀茂氏)同様に、徐福伝説の徐福(じょふく/すぃーふぅ)が日本列島へ住み着いた征服部族の内、機織と土木を得意とした一族こそ「秦(はた)氏」の先祖ではないだろうか?

秦氏の正体だが、秦本宗家の大和朝廷での本拠地が賀茂氏と並び大和国(奈良県)や山背国(京都府/山城国)を本拠地とし同じ域内に勢力を持つ点で、或いは同系族ながら渡来時期と職掌に拠って葛城氏と秦氏に分かれたのかも知れない。


ここで問題に成るのが、「渡来人(とらいじん)」と言う用語(言葉)の用法である。

日本列島に新天地を求めて遣って来た征服部族の一団が都市国家もどきの倭の国々を創り、その国々が大和合して成立したのが大和朝廷(ヤマト王権)であるならば、本来、原日本列島の住民は縄文人(蝦夷族)である。

つまり初期大和朝廷(ヤマト王権)成立の時点を切り取れば、本来は縄文人(蝦夷族)系の臣王族(国造/くにのみやっこ・県主/あがたぬし)である安倍臣や宇治県主(うじあがたのぬし/猿田彦)等を除けば大半が渡来人(とらいじん)の家系と言う事に成る。

所が、古事記・日本書紀などを編纂して天から降臨した神話に拠って現住民・縄文人(蝦夷族)から土地を武力強奪した事実はおろかその現住民・縄文人(蝦夷族)の存在をも消し去り、あたかも征服部族が有史以前から日本列島の住民で在ったがごとく装った為に、事実が錯綜した。

そして天武大王(てんむおおきみ/第三十九代天皇)が始め、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に古事記・日本書紀などの編纂が完成したのは七百年代である。

だから、現在の渡来人の歴史用語定義・「四世紀から七世紀に列島に渡来した者の総称を渡来人とする」は、何処かで四世紀代の歴史経緯(征服部族の渡来)を意識的にロスト(欠落)して居る。

もしこの大和朝廷(ヤマト王権)の成立時を先住の基点とするならば、本来は秦氏(はたし/はたうじ)などは時系列的には先住の部族であるにも関わらず何故か渡来人(とらいじん)の扱いである。

我輩が推測するに、秦氏(はたし/はたうじ)は秦の始皇帝を始祖と自称していた所から大陸系で、倭の国々を創った半島系の自称天孫族とは異なる為、そうした血統を渡来人(とらいじん)扱いにしたのかも知れない。

もっとも我輩が提唱している広域倭国であれば、半島も列島もある時点では倭の国々だったから大陸系の秦氏(はたし/はたうじ)が渡来人(とらいじん)とされたにも合理的な理由が存在した事に成る。

まぁ天孫降臨伝説以降は広域倭国の枠が消滅して、以後半島からの人々も渡来人(とらいじん)の扱いになる経緯を辿ったのではないだろうか?

いずれにしても、近頃の歴史音痴の方が「渡来人(とらいじん)=朝鮮系だ」と個人攻撃の材料にする稚拙さは目に余る。

それで居てそう言う方に限って氏族系出自を主張したがるが、歴史の経緯からすると氏族系の大半は朝鮮半島からの征服部族であるから、大いに矛盾した主張なのである。


この物語の第二巻から第三巻に掛けて記述するが、鎌倉期前後に、賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)身分の一部を、諜報活動の為の芸能従事者(白拍子・遊女)とする目論見が始まり、以後の歴史の形成に重大な役目を果たした。

当然この「諜報活動兼芸能従事者」に関わる氏族出自の者を含め、これが混同され、「河原者」の身分の解釈に繋がったのである。

諜報活動兼芸能従事者に関わる氏族出自の者は、実は修験道から派生した武術忍術の技能集団である。

諜報分野に於いては情報収集、及び広報活動が要求される事から、遊興を通じての情報収集や、民衆に意図的なプロパガンダをする目的手段としての氏族芸能従事者は存在したのだが、詳しくは次巻以降のこの物語の中の記述に譲る事にする。

巫女舞や神楽から始まった祈りの儀式も、南北朝時代や室町時代になると、氏族の諜報活動兼芸能従事者の中から、観阿弥・世阿弥親子のように猿楽を猿楽能として大成させる者も出て来る。

彼らは、明らかに氏族の出自だった。

ほかにも、歌舞伎や人形浄瑠璃と言った日本の古典芸能は、こうした氏族の諜報活動兼芸能従事者の下で育まれた。

だが、これを、被差別民衆が「芸能と関わる側面が大きかったから」と言って、「賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」と言う被差別民衆の間から、「種々の芸能が生まれた」とするのは、明らかに間違いである。

影人として芸能関係を装い、諜報活動をしていた彼らは、「武士道精神」と言う儒教(朱子学)の建前の犠牲になった。

例えて言えば、江戸期の見世物小屋で披露された「軽業師」の技も、元は修験道の術(忍び術)が「基礎に成って居た」と考えられる。

「神の威光で統治する」と言う呪術的な建前の発想から出発したわが国の精神世界に在って、言わば、こうした影の仕事は「汚い仕事」と言う事になる。

とどの詰まりは、そう言う卑怯な仕事をする輩は、例え存在しても「建前」この神の国には「居無い事」に、精神的には成っているのである。

今ひとつ、どうしても庶民受けする演目題材は、必ずしも為政者に都合の良い脚本ではない。

大衆受けするのには、時の権力者への批判を弾圧されない程度に含ませるものであるから、余り真剣に信じられても困るのである。

従って彼らの演目は、低い身分の者のたわごと、つまり芸人に権威が在ってはならないのである。

また演ずる方も弾圧を避ける意味で、権力の贈収賄を扱うにも悪役人や悪商人を懲らしめる役割を、えらい人(例、水戸黄門)に役を振り当て、批判に対する嫌疑を避けている。

それで、江戸幕府の政治が安定すると、芸能の「名門」と、もて囃(はや)されながら、「河原者」として最低の身分ランクに落とされてしまった。

まぁ、芝居は当時の先端メディア的な要素が強く、脚本の内容に拠っては大衆への影響力が有るから、江戸幕府としては統治上あくまでも下賎な連中のたわごと」とする為に、所謂川原者に権威を持たせたくは無かったのだろう。

江戸期の草紙(小説)・舞台本(脚本)・瓦版などは、民衆におもねる反権力的内容を含んでいる。

しかし、これは人気取りばかりで書いている訳ではない。書き手の彼らが、祭らわぬ立場の氏族出に他ならないからである。


戦国期の戦乱・混乱の時代の中で、「中世」から続いていた身分制度は瓦解(がかい)し、社会的に一度その根拠を失う。

この機会に、「賤民(せんみん)・奴婢(ぬひ)」と言う被差別民衆の中から、農民・商工業者や武士となり、実力で身分を向上させる者も多数現れる。

そうした身分変更の自主的チャンスが、戦国期の混乱に乗じて得られた事から、不当・不条理な差別が無くなったかに思えた。

所が、江戸期に入っても賤民(せんみん)思想は、氏族の知識として生きていた。

戦乱・混乱が安定を見た江戸期になると、幕府や藩は、農工商の下に「えた、非人(ひにん)、河原者」の呼称による身分を制定、固定し、この人々を都市・村の外れや荒れ地など、条件が悪い地域に隔離して住まわせ、新たに「身分を強制世襲させられる差別の仕組み」を始めてしまった。

また第四章の後半で詳しく記述するが、死刑に次ぐ罪人の裁きとしての身分刑として、人別帳から除籍され穢多頭(えたがしら)に下げ渡され、奴婢(ぬひ/奴隷)に落とされる刑がある。

男性は非人手下(ひにんてか)として病死した牛馬の処理や死刑執行の際の警護役などの使役をさせ、女性は「奴刑(しゃつけい)」と言う形で遊郭に女郎として売られ客を取らされる刑だった。

そもそも奴刑(しゃつけい)の名称そのものが、大和王権成立時から鎌倉時代中期まで続いて居た奴婢制度(ぬひせいど)に起因したものであるのは明らかである。

奴婢(ぬひ)は所有権が発生する制度で、この閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)に依り、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡された婦女は、その後遊郭に売られる婢(ひ)の立場に置かれる。


為政者が統治を安定する為の手法として、「出世」を目標にさせて忠誠心を醸成させる事が身分制度の目的である。

しかしそれだけでなく、「自分より不幸な存在が在る。」と言う比較感を創出する事で不満を逸らせる狙いが、身分制度の陰に隠されている。

他国の事例でもほとんど同じだが、こうした隷属民の比率は五パーセントから十パーセント以内の少数である。

何故ならば、この賤民(せんみん)の存在が、被統治者の不満をかわす為の物で、「統治の安定」と言う政治的効果を狙ったものだからである。

狙いを明確にすると、惨めな身分の下層階級を作り出して大多数の比重を占める一般民衆の「不満と抵抗をそらす役割」を果たさせるのが目的である。

つまり数パーセントを犠牲者にして、一般民衆を自分達よりも下の身分の者が居る事で納得させ、武士支配を容易にするのが狙いである。

従って、この身分差別制度は「狙いが先に在ったもの」で、その差別を始めた被差別側には、被差別の強制世襲まで負わされる負い目や必然性などまったく無い。


江戸幕府が成立してニ十年が経ち、三代将軍(家光)の頃になると、「芝居(歌舞伎芝居)」の演題は、娯楽性の仲にも芸術的進化を伴いながら、唯一の政治批判の手段として反幕府の色合いが濃くなって行く。

同時に、人気の上昇に反して身分上の「河原者(職業芸人)」の扱いは、最下位の被差別身分に位置付けられて行ったのである。

この事が、幕府のかなり強引な身分処置だったか、そして現実には諜報畑の氏族の出自が多数居た事の証明が出来る。

その証明の目安が、「良民」と呼ばれる一般民衆でさえ、読み書き人口が少ない当時、「演目台本」を書いた戯作者の知的教養レベルである。

定説に成っている被差別身分、「えた、非人(ひにん)、河原者」の生活レベルを考慮すると、学習機会が劣る事が想定される筈であるが、明らかに戯作者の知的レベルは氏族の教養に劣らない高水準である。

つまりここで言いたいのは、「優越感」を欲する民衆心理を利用して、「芸能は生産ではなく娯楽だから」と一段下に置く建前の設定をしたに過ぎない事である。

同様にこの建前を基準として、携わる業務に宗教的要素も含め、貴賎を設定して「えた、非人(ひにん)」の身分を創設して、「強制世襲制」にしてしまった事が、謂われ無き差別の真相である。


人間は残酷な生き物で、自分が安心する為に「見下す相手」を作りたがる。

それは現代の学校でも企業でも同じ事だが、必ず多くの無知な者が虐めたり見下したりする被害者を作りたがる。

根にあるのは、生きる事に対する自信の無さ、「不安感」である。

こうした民衆心理を、巧みに利用したのが卑劣で不当な江戸期の身分制度だった。

子供の社会で起こる「虐(いじ)め問題」も、根にあるのは虐(いじ)める側の「不安感」である。

本来、その「救い」となるべきが「信仰の教え」の筈(はず)であるが、どう言う訳か、信者を増やす為に、宗教指導者は不安心理を煽りたてる。

つまり、この差別願望と信仰は、精神的には究極の所で「同根」であり、いずれも目的は自分を安心させる為のものである。

この不安心理の表面的なものとしては、ブランド志向がある。

我輩に言わせれば、中身に然(さし)したる自信が無いから高級品を身に着ける事で中身を繕(つくろ)い、優越感を満足させる事で安心したいのである。

ブランド志向を「品質が良いから」などと言い訳をするが、良い物なら飽きが来たり、次々に買う必要は無い筈で、本音は自分を虚飾で飾りたいだけである。

人間、都合の悪い事は別にしたがるが、太閤(豊臣)秀吉の、金製の茶釜や茶室の「見っとも無い心理」と言えば判り易い。

人は限りなく優しく成れ、限りなく残酷になれる。

それが、同じ人間なのだから、始末に負えない。

それを「私は絶対に違う」と、簡単に決め付けて済ませようとする所に、「建前主義」のごまかしが存在する。

その辺りに、生きて行く者の対処の仕方が埋もれて居るような気がする。
,br> つまり、認める所から始めないと、反省には行き着けない。建前に拘らず、「人間の欠点を認める所から初めて」、自らの生き方を決める事が、生きる上で肝心である。


被差別身分の多くの者は、生きる為に人が嫌がる仕事を引き受けざるを得ない境遇に置かれた。

江戸期の時代、仏教の影響から生き物に対する慈悲の心が強かった。

そうした背景にあって、「不浄」と思われる仕事の荷い手が、被差別身分の者だった。

実は、この信仰上の「不浄」を引き受ける身分制度の逃げ口・存在理由の為に、被差別身分を特殊な存在にしてしまった。

朝廷や寺社の支配による宗教的対処で、彼らに別格で「ケガレ」を浄化する「キヨメ」の能力(職能)を与えたのである。

本来、社会が存在する以上「嫌でも、誰かが引き受けなければ成らない損な役割の仕事」で、感謝や尊敬されるべきはずが、「ケガレ」だった。

清掃や死体処理、犯罪人の逮捕、処刑死んだ牛馬の処理や皮革業、細工物などの仕事に従事など、世襲して「不浄と殺生」に関わる仕事を引き受けていた事が、その後の永く不当な差別に繋がった。

江戸期、皮革を扱う職業などは差別される者の仕事だった。

この身分差別、江戸期に入って以後、徳川幕府の政策で「神仏混合策」がとられ、神と仏が生死分業になり、仏教が主に死後の世界を担当するようになって初めて、仏の道と殺生を禁じる事が結び付いた為に、汚れ役として被差別者の仕事となったのである。

詳しくは後述するが、元々の信仰はいずれの宗教も「現世利益」が基本で、「祈れば勝利を得られる」と信仰するものであるから、戦(いくさ)で他人を殺生する事に何の矛盾も無いのが、江戸期以前の宗教の実態だった。

つまりこの差別、宗教的に見ても徳川幕府のご都合政策であり、まともに信じる方が素直過ぎるだけで意味はないのである。

この江戸時代の差別制度が永く続いて既成概念化してしまい、どうやら、現代の「同和問題」に代表される、根拠の無い不当な身分差別の根源になったようである。


今日の「被差別部落・同和問題」は、一般的には、近世の被差別身分の人々の居住地が、「差別の元になっている事が多い」と言われている。

つまり明治維新により、「えた、非人(ひにん)、河原者」の制度も、信仰上の「不浄と殺生」の概念も変化し、職業に於ける貴賎の差別も無くなったにも関わらず、「そこに生まれた、そこに住んでいる」と言う理由にもならない事が、被差別の判断基準である。

また、その前提として中世の差別意識や被差別民衆の存在が、後を引いている事も明らかに成っている。

こうした経緯から、被差別部落そのものが何故に差別されるのか、まったく合理的な理由は無いのである。

平民の下に非人(賎民)と言う扱いの被差別部落民が存在した差別は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され、これに拠り被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入された。

この戸籍法に拠る編製戸籍を、明治五年の干支からとって「壬申戸籍」と慣習的に名付けている。

壬申戸籍 (じんしんこせき)と言えば、近頃婚姻による女性側の改姓を「差別ではないか」と、男女平等の意識から「夫婦別姓」を採る夫婦の考え方が一部で始まっている。

この夫婦別姓は別に目新しい物ではなく、我が国では明治維新まで続いていた事で、お隣の中国や韓国では昔から現在まで当たり前に続いている事である。

例えば、徳川二代将軍・秀忠(ひでただ)の正室として世継ぎの三代将軍・家光(いえみつ)を生んだ浅井三姉妹(あざいさんしまい)の三女・浅井江(あざいごう/崇源院・すうげんいん)は、その前に二度結婚していて秀忠の下へは三度目の嫁入りである。

明治維新後の西欧化でロックインして今では夫婦同姓が当たり前に成っているが、東洋の国々は元々夫婦別姓が基本だったから、当時の夫婦は別姓で、生まれた家の姓が正式な名乗だから何度再婚しても浅井江(あざいごう)である。

まぁ正室だけでなく側室も持つ時代だったから、結婚についても夫婦同姓にする事は余分な手間だったのかも知れない。

昔の氏族社会では源頼朝と北条正子の夫婦のように夫婦別姓で、織田信長の正妻・帰蝶(きちょう/濃姫)の場合も斉藤道三の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう)が正しく、豊臣秀吉の晩年の妾・淀殿(淀君)の本姓名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)が正しい名乗りである。

この庶民には姓が無い時代の氏族社会の夫婦別姓は、明治維新後の明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効されるまで続いていた。

つまり今は当然に思える夫婦同姓は、明治維新後の高々百三十年ほどの歴史しかない。

夫婦同姓(ふうふどうせい)は日本の固有文化と言うけれど固有文化と思われているのは先入観だけで、西洋的文明開化の迎合産物に過ぎない。

夫婦別姓(ふうふべっせい)に反対する者は、日本人に典型的な「形から入ろうとする建前主義者」で、根底に在るのは根拠が無い「べき論」で在るから、そう言う意味で言えば確かに日本独自の悪しき文化かも知れないのである。


氏族が子孫繁栄を願い、構造的支配権を確立するには幾つかの施策が必要だった。

一つは血統を特別なもの(神の子孫)にする事であり、一つは氏族による学問の独占、そして民における差別・被差別の貴賎の設定だった。

この過去の歴史が未だに世間の偏見の元になり、差別意識が残って、恋愛や婚姻、近所付き合いの障害となっているのだ。

氏族の構造的支配権の確立に目的が在ったから、職業に貴賎を設定したのではなく貴賎を設定して職業を割り振り、それを固定させて「被差別の強制世襲」を負わせる構造を作り上げた。

従って「身分制度を法律で無くした」と言う発想は元々間違いで、被差別の理由が無いから「間違いを正した」とするべきである。

近代以前の旧社会では、身分制に基づく差別が社会原理となっていたが、近代以後の社会は、身分は「平等」を基本とした為に「社会原理と整合しない部落差別」は、現代的な課題として社会問題化した。

残念な事に、理由は無いにも関わらず、維新以後百四十年経った現在でも、その差別がスッキリしないのでは、もうそう言う認識を持つ「差別側」の人間性を疑わざるを得ない。


それにしても、こうした被差別民(非良民・賤民)や平民(良民・常民)が、歴史の表舞台に現れる事は、極稀(ごくまれ)な事である。

残念な事だが、恐らく物語の大半は有名な氏族出身者に占められてしまう事だろう。

典型的な「臭い物には蓋」の日本文化だが、奴婢(ぬひ)の呼称にしても穢多非人(えたひにん)の呼称にしても、「民族の誇り」として日本史上都合の悪い事は「触れないで置こう」と言う考え方がある。

「わざわざ掘り起こして公表しなくても」と言うのだが、こう言う考え方の延長上に「蓋」をしたが為の混乱が「中々収まらない」と言う現実に都度都度遭遇する。



我輩の好奇心が歴史を追いかける原動力みたいなもので、少しずつ全体像の輪郭が見えて来ると、やがて何を追いかけて見るべきか焦点が絞れて来る。

そこに見えて来たのは、「信じたがる歴史」と言う、素朴で奇妙な欲求の壁(バーリア)である。

誰でも、先祖や民族的指導者は「立派だった」と、無理にも誇りに思いたい。

多くの国民の気持ちはそんなもので、素朴で奇妙な欲求を「価値観」と考えれば、その「信じたがる歴史」迎合し、あえて壊さない方が利巧かも知れない。

だが、我輩は「自ら名乗るへそ曲がり」で、その「信じたがる歴史」が、常識化する事は我慢がならないのである。


日本人のブランド志向の根底にあるのは、「血統至上主義」である。

この、「血統至上主義」が、謂われ無き身分差別の根源になって、永く被差別民の世襲に繋がっている。

この物語は、その「血統至上主義」が歴史といかに関わり、永い時間を費やして形成されたものか、その正体を暴く事で、現在の日本人を見詰直してもらいたい事が、目的である。

いつの時代も、個人が国家と向き合う時、その意見は大勢の中に呑み込まれてしまう。

それ故、国家の作り上げた国家観や歴史観には、「都合の悪いものは改ざんまたは削除する」と言う意図的な作文が紛れ込んでいて当たり前である。

文献・資料の類も、時代がずれて作成したものなど、古話、通説が混じって信頼に欠ける。

その大前提に目を背けて官製の正史を追認するのであれば、それは命を持った説ではない。

歴史認識について、本来は「公平さ」が最も重要な要件であるが、現実には為にする政策的歴史認識の誘導が存在する。

その間違った基準の物差しは、対外的に「過剰な民族意識」だったり、国内的には「統治の思惑」だったりする。

うかうかとそれに乗らない知性が、我々に必要ではないだろうか?


小さな証拠から、物語を大きく膨らますのが小説家である。

我輩も物書きの端暮(はしくれ)であるから、証拠を辿って公式文の影に潜む可能性を読み、起こりうる物語を綴っている。

この物語の本命の時代設定は鎌倉時代から江戸幕府成立までで、その間の「影人達」の活躍である。

そして、その全てが後の出来事に結び付いて、現代に到る事になる。彼ら影人は、時に表に現れ、時に影に隠れながら万世一系の皇統を守ってきた。

歴史には連続性があり以前の出来事から続いて次代が在るから、その時代の一部だけ切り取って解釈すると大きな間違いを犯す事がある。

例えて言えば、既成概念に囚われてユニークな着眼力や発想の転換など、次元が違う想像力を使わない人間に新しい有効な発想はない。

この先、貴方にこの物語を読み進めて頂ければ今まで謎だった多くの事が解明出来るかも知れない。


我輩が特に取り上げたい「皇統最大の危機」は、実は安土桃山時代であるが、そこに到る「大きな時の移ろい」も是非ごらん頂きたい。

その時代時代で、貴方が幾つかの真実を、読み取る筈だからである。



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(国の始まり神話)

◇◆◇◆(国の始まり神話)◆◇◆◇◆

実はこの物語は、我輩が長年温めてきたライフワークである。

しかし、頭で考えていた時点と比べ、いざ書き始めてみたらこの試み、そう生易しいものではない。

或る確証を基に、血統にまつわる謎を追いかけて始まったこの物語は、想像以上に気の遠くなる様な長い道のりだった。

それでも突き動かされているのは、現在の「歴史年表教育」への反骨精神かも知れない。

学校では詳しく教える時間が無いのだろうが、事柄と年号だけ覚えても歴史の面白みは判らない。

何が在ったか知ると歴史は面白く、裏に何が在ったかを知れば尚更面白い。

「過去の事など、何の徳(利益)にも成らない」と言うが、その時々で例え立場は違っても、先祖の人々が懸命に生きてきた事を知らなくて隣人や国を愛する心は生まれない。

しかし我輩は、国家誘導的な戦前の為にする「歪んだ愛国心教育」はゴメンだ。

あらゆる周辺の情況を集積すると正史と事実は何かが違って来ていたからで、だから見破る心構えも必要で有る。

いずれにしても権力抗争には闇の部分が存在し、正史と掛け離れた推測が浮上してもその可能性を否定出来ない。

それでも我輩のこの物語を「難しい」と表現する方の大半は、今までの既成概念に囚われて新たな可能性を認めたくない余り否定も肯定もせずに「難しい」で終わらせてしまう事になる。


貴方は、歴史の何を読んだのだろうか?

日本の正史は、渡来して来た征服部族(氏族)が神になり、その「神の威光で統治する」と言う冗談みたいな建前から「古事記・日本書紀」と言う隠蔽に満ちたもので始まっている。

当然ながら、多民族国家としては当時の国体の維持運営には「神の威光で統治する」と言う手法が最も有効な手段で在った事は否定しない。

だが、それ故に伝えられる古墳・飛鳥・奈良期当時に「いったい何が在ったのか」の真実が極めて特定出来ないものに成っている。

試験問題の答えを読んだだけでは、歴史から何も学べない。

歴史は教訓であり、指針でもある。

そして歴史を他人事に捉えてはいけない。

この物語のどこかの場面で貴方の先祖が命を繋いだからこそ、今、貴方が存在する。

もしこの命のリレーが無ければ、勿論、貴方は存在しない。

歴史書に於いては、真実は嘘であり嘘は真実である。

残念ながら、さほどにラビリンス(迷宮)なのが歴史書に仕掛けられた罠である。

歴史書は、考え様に拠っては見事に心地良い推理小説であり、辿って行くと思いもよらないどんでん返しに驚かされる。

この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

到って不思議な事だが、こうした推理に向いているのは、百戦錬磨の「生活や知識の達人」ではない。

実は、純粋な精神思考の持ち主でないと勤まらないのだから、「何をか言わんや」である。

つまり生活や知識の達人は、定説を気楽に認めて疑問に思わず事を済まそうとするからである。

およそ世界の国々のリーダーは、その発祥の時点で自ら神に成るか神を利用して政治基盤を有している。

神の存在は、権力掌握か統治の手段である。

初期の統治形態が、国を問わずに民の恐れを利用する「信仰と結び付いていた」と言う事は、統治の始まりはおよそ「ペテン染みていた」と言う事である。

もし、この「ペテン染みた手法」が唯一無二の政治真理であるなら、現代の政治手法も、「ペテン染みている」のが普通と考えて、民衆は常に注意の視線を注ぐべきである。


暫(しば)らくは古い話が続き、聞き慣れない名前が出て来るが、本章の一、鎌倉期に入ると物語らしくドラマチックに読みや易くなる。

それまでの序章は、大事な「予備知識」と思って付き合って欲しい。

さて、氏姓制度と陰陽修験は、大和朝廷成立前後の重点的政策だった。

この氏姓制度と陰陽修験のシステムが確りと生き残り、千年の時空を隔てて、まさか明治維新の時点に「鮮やかによみがえる」とは、誰も想像出来ない事に違いないだろう。

しかし、そこに日本史の真実が在った。

つまり現在が在るのは過去が在っての事で、この物語はそれを書き綴る時空の旅である。

そして貴方の現在があるのも、過去に祖先が存在して居たからに他ならない。


謎を解くには確証が必要である。

我輩の抱いた確証、皇統を守る「影人の物語」を披露するには、まず、遥か昔の大和の国(日本)の成り立ちから説明しなければならない。

日本語の漢字読みに音読み訓読みがあるのは、漢字に翻訳機能を持たせた先人の知恵である。

人は、存在する現実には中々疑問を抱かない。

それは「存在するものだから当たり前」と思い込み、当然の存在と認識するからそれ以上深くは考えない。

我輩は、漢字(中華大陸文字)の日本読みに、同じ漢字圏の大陸(中国)や半島(韓国・北朝鮮)の国には無い「音読み訓読み」が有る事に着目した。

「音読み訓読み」が有る事は、他国から「日本語は難しい」と言われる要因の一つに成っているものだが、本来言葉は正確に確実に意志を通じさせたい為のものだから、それを何故複雑にして難しくしてしまったのだろうか?

それには、今から記述する合理的な理由が存在したのである。

大和合の国(大和の国)は、多数の渡来部族が列島各地を武力で切り取り、倭の国々が乱立していた前身から、具体的な統一を必要としていた。

多数の民族を統一して単一民族に融合するには、誓約(うけい)に拠る人種的混合と意思疎通の為に「共通語」が必要だった。

二百年ほど前の米国成立時の事例では、英国人が移民の主体となり先住民も少なかったので、「共通語」が英語で落着いた。
但し、二千年以上前の日本列島はかなり状況が違った。

先住系縄文人(蝦夷/えみし)の数が圧倒的に多く、渡来部族も出身国が一国ズバ抜けては居なかった所から一ヵ国の母国語に統一も成らなかった。

そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの「大和合の国」独自の言葉を成立させた。

つまり、異民族・列島同居の双方が意志を通じ易い様に音読み訓読みを併用する事で、後に日本語として成立する「翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)」を、統治の必要と言う都合で編み出したのではのではないだろうか?

しかし、この「翻訳機能付き文字」の事は、「天孫光臨伝説」の神話を拠り所とし、単一民族国家を謳っていた日本列島の支配者階級(氏族)に取って、「歴史的な身分制度」の成り立ちの根幹に関わる不都合な問題である。

だから意図的に触れずに押し通して、時の流れと伴に歴史の闇に消えて行った。

日本史に於いて単一民族思想を強調した作文を優先した為に、原住蝦夷族と渡来部族との武力抗争の歴史を隠蔽してタブーとした事で、音訓両読みの日本語のルーツが成立した説明が着かないでいる。

しかしその単一民族思想に拘っていては、日本語に於ける音訓両読み成立の説明は永久に着かないだろう。


この解釈で推測し例をあげると、薬(やく)は中文(中国語)で、「ヤオ」と発音するが、アイヌ語ではズバリ「クスリ(kusuri)」で、豆(ず、まめ)も中文(中国語)で、「トゥ」と発音するが、アイヌ語ではズバリ「マメ(mame)」である。

勿論、この翻訳機能日本語が採用されたのは二千五百年以上前の古い時代の事である。

だから、現在残っているアイヌ語と当時の列島先住民・縄文人=蝦夷(えみし)の話し言葉がかなり変化していても不思議は無く、更に経時変化と伴に後から流入したものも定着する。

それ故現代の言葉の全てが一致する訳ではないが、その他にも、酒 (サケsake )、紙(カンピkanpi)、氷(コンルkonr)、遠い(トゥイマtouima)など列島先住民・縄文人=蝦夷(えみし/アイヌ)の話し言葉が、現代日本語の「訓読の部分ではないか?」と推定するに充分な一致や類似する意味合いの言葉が数多く存在する。

また、道(路/ろ)はアイヌ語で「る(ru)」で、〜するといけない、〜しないようにの意味で使う「遺憾」の語源は、アイヌ語の「イカン(ikan)」で、アイヌ語の霊能者は「ピト(pito)」で、中国語ではレンと発音するから日本語の「人(ひと)」の語源はアイヌ語ではないかと考えられる。

アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

良く、富士山の事を「不死の山」と充てて信仰の対象にしているが、富士の語源がアイヌ語の「フジ(huji)」であれば、活火山として「噴出する所」・・即ち富士の山ではないだろうか?

アイヌ語の単純な火は「火(アピapi)」であるが、アイヌ語の「火の神」の火は「火(アピapi)」を使わず「火(フチfuti)」である。

火の神 (カムイフチkamuifuti)の火(フチfuti)が「火山=火の神」の言語生成図式ならば、「噴出する所(フチfuti)=火の神の火(フチfuti)」が成り立つのである。

この調子で考えれば、アイヌ語の「ピリカ(pirka)」は「美しい、可愛い 良い、綺麗だ」であり、中文(ツゥンウエン・中国語)で「メィ」と発音する「美」を日本語で「び」と発音する語源も「ピリカ(pirka)」と解する事ができる。


中文(中国語)では拝拝(パイパイ)と発音する「拝(おが)む」はアイヌ語では「オンカミ(onkami)」で、日本語の「拝(おが)む」の語源と考えられる。

アイヌ語の「神」はカムイ(kamuy)またはクル(kur)と発音するが、日本語で「神」をカミとも発音するのはこのカムイ(kamuy)からで、アイヌ語の犬は「セタ(seta)」で、中国語の犬(ケン)・狗(クゥ/コゥ)とも違う「イヌ」と発音する語源が判らないが、蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で、「アイヌ(aynu)」は「人間」の意味である。

アイヌ語が原ミクロネシア語からのものとすると、「人間以外の動物または小型四足動物、或いはもっと広義の動物」を指し示す言葉として「アイヌ(aynu/人間)」の「ア」を取ったものがアイヌ語の「イヌ(ynu)ではないのだろうか?」などと、発想が広がって行く。

そうそう、当時の統治に重要なアイテムである日本語の「祈(いの)り」の語源は、アイヌ語の「祈り言葉(イノンノイクク )」、「のりと(イノンノイタク)」、「神主 (イノンノイタックル)」などからの言葉とするのが明らかと考えるのである。


国家の成立に欠かせないのは、言語や文字、共通の思想や認識、歴史観などの共有である。

過去、この命題を満足させるに、宗教の利用が最も都合が良かった。

しかも宗教は、或る程度の民意をコントロールできた都合の良い存在だった。

信仰として信じてしまえばその約束事は、権力者の命令より遥かに効果的である。

そうした事から、統治と信仰は表裏一体の性格を持つ。

基本的に、統治を維持するにも、統治をひっくり返すにも信仰は利用される。

信仰の本質は「恐れ」である。

まだ科学的解明が進んでいなかった時期、人間は「恐れ」から逃れる方法を模索していた。

不幸との遭遇、「病や事故による怪我、死、子宝に恵まれない」などは悪霊妖怪の類が招いていた。

それを回避するには、彼らを鎮(しず)める為に、祭り祈らなければならなかった。

従って、恐れを回避できる存在こそリーダーの資格が与えられた。

一千年も一万年も真理はひとつで、信仰は人心を安らぎ苦悩から救うものである。

しかし、一方で人心を操る強力な武器になる。

言うなれば「神の意志を聞こう」と言うのが占術で、「神を有利に操ろう」と言うのが呪術である。

その威力は絶大で、人々はひれ伏す事になる。

これが統治する者を作り出したり、統治に利用するには「持って来いのしろもの」だった。

当然ながら、宗教指導者の地位は高くなる。

一神教(ユダヤ・イスラム・キリスト・など)に於いては、異を唱える者は異端者となり、迫害を受ける事で強力な求心力を維持する。

他方、インドから中国、日本に至る範囲は多神教が主流で、日本には八百万(やおよろず)の神、そして仏がいる。



日照り災害から台風洪水、地震や火山噴火まで、天変地異は「神の怒り」と解する時代である。

「神の怒り」を鎮める為に、神とコンタクトして自分達が何をすべきか知らねばならない。

シャーマンは、その神の声(御託宣)を聞く重要な存在だった。


超自然的或いは超人間的な力をもつ資質(魅力)を、ドイツ語で「カリスマ」と言う。

元を正すと「カリスマ」は、キリスト教用語のギリシア語で「神の賜物(たまもの)」を意味し、神から与えられた奇跡、呪術(じゅじゅつ)、預言などを行う超自然的・超人間的・非日常的な力の事である。

つまり「カリスマ」の発祥は、「側坐核(そくざかく/脳部位)」の感性を満足させる為の宗教用語だった。


「カリスマ」と言う事なら、所謂(いわゆる)芸能スターはフアンを夢中にする為の魅力が虚像である。

そしてその虚像は、同じく支持者が必要な統治者(政治家)や信者が必要な宗教家(教祖)にも必要な魅力が虚像である。

つまりカリスマは、創られた或いは仕組まれた虚像の可能性が強い。

しかし、そうは言っても「カリスマ」を実像とするか虚像とするかは、個々の受け取り方の違いであるからどちらが正しいとは言い難い。

「カリスマ」は、預言者・呪術(じゅじゅつ)者・軍事的英雄などにみられる、天与の非日常的な魅力を指す言葉である。

人々の心を引きつける強い魅力がある事、多くの人から支持される事をカリスマと呼び、この資質を持つ者による支配をカリスマ支配と呼ぶ。

統治の原則的手段は、統治者のカリスマ性を演出する事と共通な思想に統一する事、仮想敵(外敵)を創造して内部結束を高め、内部不満の目を摘む事である。

日本の伝説に姿を現す太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)や伝説のシャーマン(巫女)兼女王である卑弥呼(ひみこ)が、「カリスマ支配」の先駆けではないだろうか?


古代国家のリーダーは、呪術者、占術者と伝承される「卑弥呼」に代表されるシャーマンである。

その神の声「御託宣」が、国家運営の拠り所であり法律だった。

自分達が「神だ」と言うおこがましい事を、良くもまあ「しゃあしゃあ」と言ったものだが、悪知恵を働かせる奴は、概してずうずうしいのであろう。

確かに被征服民にしてみれば、鎮守様を拝んでさえいれば、「目先、厄(わざわい)は来ない。」まぁ、そんな処だろう。

そう考えると、庶民も結構したたかだったのかも知れない。

征服部族の神の神秘性が、如何程であったのかは、我輩は知らない。

実は、ヒトラーもどきの雄弁詐欺師が、旨い事民意をリードしていた様な気がする。



此処からは、言わば日本史に混在する虚と実の「虚」である天孫降臨伝説の世界をご案内する。

この「虚」であるが、これこそ古墳時代(こふんじだい)の「実」を、天武帝と桓武帝が仕掛けた古事記・日本書紀に拠って巧妙に覆い隠した成果だった。

実はこれらの天孫降臨伝説神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。



氏上(うじうえ/うじかみ)の上が神に、つまり氏神(うじかみ)になった訳を判り易く説明する。

氏族が神の名(神の権威)を持って土地を治め、国を治めた証拠は、言葉として永く残っていた。

「恐れ入りタテマツル。」

この意味を、貴方は考えた事が有るだろうか?

昔、と言ってもつい百五十年ほど前の江戸期やそれ以前には「治める事(治政を施す事)」を、「政(マツリゴト)」と言ったが、この意味は言うまでも無く「祭事(マツリゴト)」である。

つまり、成り立ちの語源から、神の名(神の権威)を持って治政を施す事が「政(マツリゴト・祭事)」である。

氏上(氏神)と言う名の治政を施す者は、神として「タテマツラレル(立て祭られる)」のである。

そのもっともらしい道具立てが、占術や呪術で、民の「畏怖と支持」を得る手段だった。

従って初期の部族リーダーや地域国家のリーダーは、卑弥呼に代表されるシャーマン的な術者が任じていた。

そして、その占術や呪術のシャーマン的な威力が最も強力な者を、大王(おおきみ・後の天皇)に祭りあげられるのである。

所が、その氏上(氏神)の治政を「潔しとはしない部族や勢力」が、必ず存在した。
言わば「反政府勢力」である。

そこで、統治する者を「タテマツラヌ(立て祭らぬ)」者達である「反政府勢力」の事を、「マツラワヌ(祭らわぬ)者達」と、呼ぶ事になる。

この一事をもってしても、征服者が「神を名乗ったカラクリが判る」のである。


シャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成る。

オーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

「神懸かる・・」

つまり見る者に、神の存在を納得させ得る平常な状態では無い情況、「神懸かり」を見せる必要が在る。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

異様な情況に恐れを抱けば、それで初めて周囲に神の存在を納得させ得るカラクリ仕掛けなのであり、「神迎え又は神懸かり」に於けるエクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の事である。

宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説され、その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、しばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」と、現代科学に於いてもこのジャンルはその存在を認められている。

この巫女が「神懸かり」になる為の社殿に於ける神前性交が源(もと)と成り、やがて飛鳥期頃に神社と官人(役人)の間で社殿神前に於ける官人接待の習慣が起こり、歌舞・音曲・性交がセットに成った神前娼婦と言う形態が出来上がる。


神社の氏神(うじがみ・氏上)は文字通りの旧領主や旧赴任者が司執(つかさど)っていて、神社の社領を維持拡大しなければ成らない。

勿論神前娼婦(巫女)は簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)である。

何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。

つまり「氏神(うじがみ・氏上)神社」は土着した有力氏族の象徴的な施設で、中央から赴任して来た「官人」との暗闘の場でも在った。

ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)は、安全保障の手段である。

日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。

いずれにしても、権力者を喜ばせる事は金に成ったり権力と結び付いたりの効果的な手段である。

そこで、新たにその土地に赴任して来る官人(高級貴族役人)を取り込む為の接待は欠かせず、一族の存亡に関わるからその接待は疎(おろそ)かには出来ない。

勿論新たに中央のヤマト政権から赴任して来た官人も、地元の有力者(氏上)と揉(も)めては赴任先での任が果たせなくなるから、そこは思惑が一致して上手く接待に乗る。


この神前性交、確かに「現代の精神思想とは掛け離れている」とお考えかも知れないが、簡単に結論を出して「眉唾な話し」とは思わず読み進めて頂きたい。

飛鳥期から平安期に到る時代的に考察すれば、この時代の巫女は神に仕える憧れの花形の職業で、勿論神前性交も神とのコンタクトと言う神聖な儀式で、性交に違和感は無いのである。

官人(高級貴族役人)接待に於いても、何しろ巫女は神と交わり浄化された身であるから、官人としてもその歌舞・音曲・性交接待を大いに喜んで居たに違いない。

それが遊女の原型と成成り、平安末期には白拍子と呼ばれる遊女へと繋がって行くのだが、その詳細はこの物語の後の章で記述する。



日本の独自文化と言えばこの国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

突然こう言う話を持ち出すと面喰らう方も居られるだろうが、真面目な話なので現代の発想は暫らく横に置いて読み進めて欲しい。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

要約すると、巫女は神事としての性交呪詛を担っていたのだ。

猿田彦と天宇受売命(あめのうずめのみこと)の異民族交合に拠る誓約(うけい)の故事(伝承)以来、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)に拠る神とのコンタクト」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

つまり国家統一に最も重要な異民族の和合に拠る平和の確立と、その後の豊穣(混血の子孫)に拠る民族統合が最大の神への願いであり祈願呪詛なのである。

だから、擬似様式的なものにしろ実践的なものにしろ誓約(うけい)の交合は神楽舞、巫女舞の神事には欠かせないものだった。


一つのヒントであるが、争いの興奮を一瞬で鎮めるのは快感である。

アフリカ・コンゴに生息するサル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿・ボノボ、遺伝子が人類に九十九%も一致するほど最も人類に近い事が判っている。

類人猿・ボノボは言葉を理解し、生殖以外の目的の性行動を行うなど、チンパンジーよりもずっと人間に近いとも言われている。

その類人猿・ボノボは、雄(オス)どうしが個体間の争いをすると、仲裁に入った雌(メス)との交尾(性交)でその場の興奮を一瞬で鎮め解決する。

勿論、ボノボ社会が「群れ婚」だと言う事で、争い即・「手近(てじか)な雌(メス)」との交尾(性交)が成立している。

類人猿・ボノボが、争いの解決手段に交尾(性交)や疑似交尾(疑似性交)の快感を有効活用するなど、或る意味見事に合理的な方法を採っている。

或いは、日本神話に於ける「誓約(うけい)の原点」は、そうした発想に近いのかも知れない。

つまり「誓約(うけい)」は、人類の知恵として紛争する部族間の和解の方法が性交に依る部族の和解である。

結果、両部族の次世代は混血による一体化が図れて大きな群れに成って行く。


事の良し・悪しや賛成・不賛成を別にした事実として、「誓約(うけい)」と言う形の性交は神代から存在した。

誓約(うけい)の性交は相手に対する服従を意味し、それを具体的に証明する手段である。

それは神前における巫女の性交が神との「誓約(うけい)」であり、「神の御託宣」を得る為の神聖な行為で、その背景には部族間の平和理な統合の記憶である。

従って「契(ちぎり)」も性交であるが、情を絡ませた同等の愛情によ拠る「契約(けいやく)」とは少し違い、「誓約(うけい)」の性交はあくまでも「服従的な行為」と言う事に成る。

大和の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。


理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。



氏神は地域の守り神で、鎮守様とも言う。

成立したばかりの大和朝廷(ヤマト王権)は地方を掌握する為に細かく鎮守を派遣し、赴任して来た氏一族がその地を管理した。

つまり鎮守神も氏神の別称だが、中央の大和朝廷(ヤマト王権)からその地の鎮守を委任されて赴任して来た氏一族が、紛争の仲裁などして地方を掌握して行く。

赴任して来た氏族が、そうした地方運営に成功してあがめ祀(まつ)られて鎮守様・氏神様と神格化した。

それが鎮守様・氏神様の起源である。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治(鎮守)を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展する。

その陰陽呪術が、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。


定説では、この国の遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

つまり何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。


信仰の始まりは、呪術者・占術者のリードに拠るもので、古代国家のリーダーである呪術者・占術者に取って、音曲(音楽)は重要なアイテムだった。

つまり洋の東西を問わず、元々多くの音曲(音楽)は、呪術や信仰的な効果と表裏一対のもので、大抵の音曲(音楽)の起源が当初は信仰の為の発声やリズムから始まって居るのである。

音曲(音楽)は、人の心を安らぎに導いたり興奮させたりの、心地良い心理的効果をもたらす。

健康改善の為の音曲(音楽)効果もあるそうで、信仰心と音曲効果が相まって、神の奇蹟をもたらす事例はある。

しかし冷静に考えると、それらの奇蹟は科学的解明が進み「説明できない神の力」とは現在では言い難いものになりつつある。

だが、永い事「理解できない信仰の効果」と人々に解されて、信仰を集める為に効果を発揮した。

そうした音曲(音楽)が日本では雅楽や神楽(舞)となり、信仰を具現化する手段となる。

やがてそれらは時代とともに特化発展して、芸能の分野になった。これは、わが国古来の神社信仰に限らず、全ての宗教に音楽は欠かせない。



ご存知の様に、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人は陶酔作用を引き起こす。

為に日本では、大麻草は大麻取締法の規制により、大麻の化学成分(THC、CBDなど)は麻薬及び向精神薬取締法の規制 対象に成って居る。

しかし薬剤について知識が深くない時代の古代信仰に於いて、大麻(マリハナ)の不思議な作用(陶酔作用)を神とのコンタクトに利用する考えを持っても当然ではないだろうか?

そして大麻(おおぬさ)が神前祭祀(しんぜんさいし)に用いられたは、その陶酔作用だけでない効力があったからである。

実は、日本神道に於ける大麻(おおぬさ)の信仰には、経験学的な大麻(おおぬさ)の薬効を奇跡として認知していた。

つまり現在では麻薬として禁止薬物扱いの大麻(おおぬさ)で、当時不治の病と思われた病気が劇的に回復し、その現実で神秘的な信仰を集めたからである。

それが現代医療で見直され、日本では禁止薬物だが末期癌には大麻有効で改善の兆候を示す為、米国の於いては医療用大麻の使用は認められている。


この大麻草(マリファナ)は、陶酔作用・鎮痛作用・食欲増進などの薬理作用がある事などから、日本での古くは「大麻 (おおぬさ/神道)」を神道の神札として活用されて来た。

ご推察の通り、大麻草(マリファナ)の陶酔作用は、神殿に於ける祭祀に感性的な補完作用が在った事から、祭祀の「お払いの草」として採用された。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。


祭祀は、神(かみ/上)をもてなす為の行為と定義つけられている。

それ故に、初期の神事である神前娼婦(巫女)の性交接待に於いては「大麻(おおぬさ)を焼(く)べた陶酔作用は効果的だった」と想像に難くない。

この大麻(たいまそう/おおぬさ)は中国を経由して、大量に自然自生する遥かヒマラヤ高地のチベット、ネパール、ブータンと言った山岳仏教の国々からはるばる「夜這いの風習」や「桜の原木」と伴に伝わったものである。

但し現在の祭祀に使う大麻(おおぬさ)は、白木の棒の先に特殊な断ち方をして折った紙・紙垂(しで)または麻の繊維を原料として作った糸・麻苧(あさお)をつけた祓串(はらえぐし)とも言う「はたき様の道具」である。

祭祀の大麻(おおぬさ)は現代では、お祓いを受け目に見えない罪穢(つみけがれ)を祓い、元の清浄な状態に戻す際に用いられる神道の儀礼様式化した道具で、勿論エロチックなものではない。

「おおぬさ」の本来は「ぬさ」の美称で、「ぬさ」とは神への供え物や、罪を祓う為に使用する物の事である。

主として麻(あさ)や木綿(ゆう)、後には布帛や紙が使われていた事から、神事に使う布帛や紙の事を大麻(おおぬさ)と呼ぶようになった。

只何の裏付けも無く祭祀に採用される訳も無く、その大麻(おおぬさ)採用の本質は、明らかに神懸り的効果を演出する陶酔作用だった。

つまり当時は、学問的よりも純粋に陶酔現象を神懸りと受け止めた所から大麻(おおぬさ)は神をお迎えする神の道具とされた。

宮中の大嘗祭(おおにえのまつり)に於ける祭祀や、昔から夫々(それぞれ)の神社の祭祀でも、大麻(おおぬさ)は使われる。

大嘗祭(おおにえのまつり)は、天皇が即位の礼の後に初めて行う一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚(せんそ)の儀式である。



弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中に在ったヒンドゥー教の教義やチベット仏教(ラマ教)の祭祀を採り入れたものが多かった。

つまりインドのヒンドゥー教やヒマラヤ高地の山岳仏教は、一旦中国で習合し、中国仏教の奥義として日本列島に渡り来た。

そして密教の渡来と同時期に古事記・日本書紀は編纂され、日本創造の記紀神話にも大きな影響を与えた。

元々我が国の原始信仰は自然神だったが、そこに密教が伝わって来て両者は習合し陰陽修験道が成立する。

密教・陰陽修験が成立したのは弘法大師・空海の真言密教開山後であるから、陰陽修験道にとって、祈祷、つまりお祭り(祀り)は性交呪詛だった。

これも単(ひとえ)に考え方の問題で、生活する事に正直な神・インド・ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

ヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性がある。

リンガ(男根)の神・シヴァ神(破壊神)に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う能力が有るので在れば、日本神道の主神でもある賀茂信仰・五穀豊穣神・事代主(ことしろぬし)の神を祀る祭祀に、子宝に恵まれる事と五穀豊穣を祈る事の共通性をもったエロチックな呪詛が存在しても不思議は無い。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽(かぐら)・巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道と人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?


日本の歴史は、古事記・日本書紀の編纂が最初の本格的歴史書として、その内容が今に伝えられている。

「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る「窮屈な先入観」からである。

例えばであるが、古事記・日本書紀編纂の時点ではまだ奥州(東北地方)は同化前の蝦夷(えみし/縄文人)族の土地だった。

そして朝鮮半島の人々の方が、同じ倭人として大和朝廷を構成する人々と血統の上でも近かった。

良く考えて見れば、編纂当時の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。

そう考えればこの国の歴史を考察するのに楽になる。

従って、「記紀神話」を正確な歴史観として採用するには難がある。

難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。


日本人には歪んだ「帰属意識(民族意識)」が既成概念的に植え付けられていて、日本の皇室は高貴だから「朝鮮人を皇族の嫁になどする訳がない」と言う実に感情的な発想で、歴史を考えてしまう。

「日本人は純粋な民族である」と、過剰な民族意識から日本人が「信じたがる物語」である。

しかし、それはとんでもない誤解である。


当初の倭人(わじん)の住域に朝鮮半島も日本列島の西半分も含まれ、皇室の祖先は「朝鮮半島からやって来た」と言うのが正解である。

その後朝鮮半島と日本列島の交流が疎遠になり、歴史を刻んで各々が別の「帰属意識(民族意識)」を育てた事は否定しないが、それは同じ「倭人(わじん)同士」としての交流が途絶えて以降の事である。


「倭人(わじん)同士」としての交流から別の民族・別の国家分かれても、隣国と言う地理的条件は変えられない。

日本語の一(いち)は、韓国語では「一(ハナ)」である。

これが定着した日本語が「しょっパナ(初パナ)」や「ハナから〜だった」で、何故か強烈な韓国嫌いの日本人の方も平気で使って居る。

中国語(中文/ツゥンウェン)で、聞いて判らないは「ティンプトン/聴不懂」、見て判らないは「カンプトン/観不懂」、これが定着した日本語がチンプンカンプン(理解不能)である。

つまり日本人の大半は、民族や国家の「帰属意識」のイメージ優先だけで、相手の事を然(さ)して勉強もして居ない事が、聞いて居て少し恥ずかしくなる。

こう言う半端な国粋主義者の方に限って「もう日本語に成って居る」と強弁するかも知れないが、「ハナ」も「チンプンカンプン」もカタカナ表記が正式の外来語扱いである。

同様に相手国の人々も、隣人である日本から多くの影響を受けているのに民族や国家の帰属意識優先のイメージを膨らませて敵対感情を醸成している。

つまり隣国同士は、影響を受け合って今日に至るのに、とかく歴史的背景からの感情優先に成り勝ちで、互いに「とにかく気に入らない」が先に立って譲らない。

個々に遭う相手国の方々と話してみれば、それほど敵意むき出しでは無いのに、これが民族や国家の「帰属意識」が絡むと豹変してしまう。

「帰属意識」や「国家観(政治思想)」に「信仰」まで加わると、民族や国家の対立はもうどう仕様も無い。

我輩が思うに、他民族乱立の地・日本列島に於いて日本民族を成立させた知恵の様に、本来は知恵を絞って隣国人と互いに共存共栄をはかるに越した事が無い。

だが、国家の統治を安定させる目的で政府当事者が、こうした「帰属意識」や「国家観(政治思想)」を自国民に事更教育し、対立感情を煽って不満の逃げ口にしている。

確かに相手がそう言う状態では片方が努力しても話しに成らず、相応の対抗をして行かなければ成らない。

只、ここで疑問だが、そうした国々の国民が、平和で平穏な生活よりも「帰属意識」や「国家観(政治思想)」、そして「信仰」の為に「本当に死にたい」のだろうか?

特に現在の中東では、指導者の意思のままに「民族と信仰と領土」が血で血を洗う痛ましい殺戮の連鎖を引き起こしている。

そう、「殉教する事が幸せ」と教育されて育つ人々はそれを疑わないかも知れないが、それは「思想教育」の結果であって、本来、生物の一種としては「生存本能」が自然である。

つまり「殉教」など、生物学的には在り得ない事であるが、人間には「理性」と「感性」が共存してい。

いつも心して居ないと、その内の「感性」が「帰属意識」や「国家観(政治思想)」、或いは「信仰」で共鳴すると「理性」が利かない暴走をしてしまう。

隣国故の相反する歴史認識を持ち、中国も韓国も今は問答無用で「帰属意識」や「国家観(政治思想)」を日本に押し付けて来る。

哀しい事に、極東の隣国同士が本当に手を取り合わなければ、互いに良い顔をして暮らせないでは無いか?



日本の歴史物語は、大八州(おおやしま・日本列島)の最も西、九州から始まった。

古書によると、九州、「日向(ひゅうが)の国」は、古来神々のおわす(おられる)国である。

毎年台風に見舞われる以外は、温暖で穏やかな気候の地と言える。

この「日向の国から大和の国の葛城山に降りた」とされる神が、後ほど詳しく著述するが、影人の祖、賀茂社の祭神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)だった。


日向の国は現在の宮崎県である。

宮崎県の東部、大分県よりに延岡市がある。

昔は長い間、「県(あがた)の庄」と言う地名だった。

延岡市の中心部を流れる五ヶ瀬川の州にある「無鹿(むしか)」の町から川沿いの道を遡ると、天孫降臨伝説の地「高千穂」に至る。

現在の無鹿(むしか)は、延岡市の郊外に在る何の変哲も無いひなびた住宅街だが、数奇な運命を持ってこの物語に何度か顔を出す不思議な地名で有る。

しかしこの地が、営々と続いた「天孫降臨伝説」の氏族の発祥とその二千年余り後に、最後の氏族が終焉を迎えた因縁の地なのである。

この無鹿(むしか)の名前は、戦国武将・大友宗麟が名付けたそうだが、その話は後の章に譲る。

高千穂町は、天孫降臨伝説の地で在る。

天孫の血筋は、天の一族(あめのいちぞく)である。

神話の世界では、天っ神(あまっかみ)とも言う。

そこには、「高千穂峡」と言う見事な峡谷があり、観光地としても全国に知られている。

この地に天空から「天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この世に使わされた」と言われ、山間の町には古くから高千穂神社が祭られている。

高千穂神社(たかちほじんじゃ)は宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社で、古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、社格は「村社」に止(とど)まり「延喜式神名帳」への記載はない。

御神体は、この世の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)である。

天岩戸(あまのいわと)伝説もこの高千穂の地にあり、岩戸とされる三つの重なり合う巨石を御神体とする天岩戸神社が祭られている。

高天原(たかまがはら)や黄泉(よみ)の国も、この高千穂の地に縁の深い伝承と言える。

日向(宮崎県)の国には、高天原(たかまがはら)神社もある。

そこに祭られている薬師寺の分院が、金龍山白蛇殿(こんりゅうさん・はくじゃでん)と言う。

白蛇が本尊で、情念(つまり色恋)や財産に「御利益が有る」と言われている。

高天原神社は神社でありながら、薬師寺の分院、つまり寺の拝殿も併せ持つ神仏習合(しんぶつ・ならいあわす)の、民衆信仰に根付いた信仰の場である。

そして高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説の可愛岳(えのだけ)がそびえている。

神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。

征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記・日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。

標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説がある。

古事記に拠ると初代神武天皇の五代前の先祖・天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りて来られた」と記されている。

しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり日本神話の説話では、皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。


天孫降(光)臨伝説の「記紀神話(古事記・日本書紀)」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・天孫ニニギノミコトと九州南部に勢力を持っていた隼人族(先住弥生人)の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、誓約(うけい)に拠って結ばれた事に始まる。

この説話を解釈するに、九州北部を治めた渡来系氏族(天孫族)と九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)が誓約(うけい)に拠って民族的に和合した事を意味する。

九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)のオオヤマツミを父に持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、ニニギの子・ホデリ(もしくはホアカリ)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産む。

この三柱の内、ホオリの孫が初代大王(天皇)の神武大王(じんむおおきみ・天皇/ヤマト・イワレヒコ)である。


日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられた時「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地だったが、その話はこの物語を最後まで読んでいただければ判る。

つまり可愛岳(えのだけ)は、氏族(征服部族)に拠る日本列島統治の始まりの象徴みたいな山だが、驚(おどろ)く事に氏族(征服部族)終焉の地もこの可愛岳(えのだけ)だったのである。

それにしても、この真東から日が昇るこの日向(宮崎県)の国地で天孫降臨伝説が起こり、遥か悠久の時を経て天孫降臨伝説が同じその地で幕を閉じるとは、不思議なめぐり合わせである。


この世の最高神「天照大神」は太陽神であり、宮崎県は昔、日向(ひゅうが)の国(つまり、太陽の地)と言った。

水平線上の真東から日が昇る、絶好のロケーションに位置するから日向(ひゅうが)の国なのである。

そもそもの天岩戸伝説に拠ると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸に籠もった原因は、海を支配する弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の度重なる悪行に拠る」とされている。

平穏な世界に災いをもたらす弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)」は、何を暗示しているのか?

この須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の「度重なる悪行」がこの物語のヒントで、異民族同士の支配地争いであれば大陸山間の稲作系民族と海洋民族の図式が成り立ち、実に判り易い。

つまり、大陸山間の稲作系民族の太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と海洋民族・須佐之男(スサノオ)の命が、「日本列島の覇権を争そっていた」と解釈できるのである。

我国の国歌にも歌われている「さざれ石」が、日向の国・県の庄(延岡)近くの大間海岸に存在する。

日向の国大間海岸(現延岡市北浦町)から高千穂に至る直線は、東から昇り来る太陽の通り道である。

「須佐之男(スサノオ)の命」が、東方の陸と海の境である大間海岸を、通り道(上陸地点)として、「悪行に及んだ」としても不思議はない。

「須佐之男(スサノオ)の命」は、支配権が海しかない事に不満を持って、「神の仕事をサボタージュしていた」と言うが、自らの権力の及ぶ所を、本拠地にしない訳がない。

従って、海からやって来ては悪行に及んだ事になる。

ちなみに、「天照大神」と「須佐之男(スサノオ)の命」の間には「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命」と言う夜(闇)を支配する神がいる。

月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命な悪神ではないが、暗い夜は昔の人々には恐ろしいので敬遠されていた。

須佐之男(スサノオ)は、三番目の神なのだ。

つまり三貴神(ウズノミコ)で割りの良い役回りは、天照大神だけである。

「月読(ツクヨミ)命」は、太陽の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)に対して夜を支配する「月の神」とされている。

しかし文字をそのまま読むと「月を読む」、つまり太陰暦を使っていた当時の暦に於いては、当初は時間や歳月(年月日)を司る神かも知れない。

「日本書紀・古事記」には、余り月読(ツクヨミ)命の活躍が無いので、性別を決定づけるような描写はなく、男性説もあるが比売(ひめ・女性)の方がロマンチックではないだろうか?


この地方一帯「九州、日向(ひゅうが)の国」には、「岩戸神楽」の伝承が今に残っている。

天照大神が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊/天手力男の命)」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この「神楽(かぐら)の始まり」と聞く。

その、岩戸に隙間を開けさせる歴史的きっかけになった神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。

天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(天石屋戸/あまのいわと)に籠った時に、岩戸の前で踊った女神である。

「宇受(うずめ)」は「かんざし」の意で、髪飾りをして神祭り(神楽舞)をする女神、更には「神憑った(かみがかった)女性の神格化を示す」とされている。

この天宇受売命(アメノウズメノミコト)のストリップダンスの伝説に直面すると、「これは子供には教えられない」又は「神聖な日本の歴史に、そんな卑猥(ひわい)な話は似合わない」と建前主義の発想が湧き、次に思う事は「その部分には触れないで置こう」か、「無かった事にしてしまえ」である。

表向きの奇麗事(建前)ばかり言って事の本質に触れずに事を済ませてしまうのが日本人の妖しい所だが、その奇麗事が「歴史の認識にまで及ぶ」と成ると少しおかしな話である。

つまり巫女の神楽舞は、天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の岩戸(石屋戸)神楽が原形である。

記紀(古事記・日本書紀)の記述からは「神懸かって舞った」と読める天宇受売命(アメノウズメノミコト)は、神託の祭事を行なう巫女である。

列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。

神話に於いては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約・性交による群れの一体化の儀)」と言う。


京都府宇治市の地名や宇治川右岸の宇治山田町に鎮座している世界文化遺産の宇治上神社と直ぐ近くに在る宇治神社に謂れを残すのは古代の豪族・宇治県主(うじあがたのぬし)の存在である。

宇治県主(うじあがたのぬし)は、猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)・大田命(サルダヒコノミコト)の末裔とされる宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の事である。

この宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の名から、猿田彦(サルダヒコ)大神・大田(サルダヒコ)命が土公(つちぎみ)=縄文人(蝦夷)、つまりニニギ尊の天孫降臨に際して出迎えた先住神で在る事がはっきり判る。

つまり宇治県主(うじあがたのぬし)=猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)は、畿内に先住していた蝦夷族の部族長・土公(つちぎみ)である。

猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)との誓約(うけい)を介して大和朝廷(ヤマト王権)下で臣従し、宇治県主(うじあがたのぬし)の地位(官職)を得たのではないだろうか?

余談であるが、京都・宇治上神社近くに県(あがた)神社が在り、古くは大和政権下に於ける宇治県主(うじあがたのぬし)に関係する神社と見られている。

その県(あがた)神社の祭礼「県(あがた)祭り」は暗闇祭りで俗に「種貰い祭」とも言われ、祭礼で行き会った多くの男女が性交に及び、妊娠すれば「神から子種をさずけられた」とした祭りだった。

この奇祭の発祥が、猿田彦大神(サルダヒコオオミカミ)と天宇受売命(あめのうずめのみこと)との誓約(うけい)の故事に倣(なら)ったものである事は容易に想像が着く。

尚、現在の宇治土公氏(うじのつちぎみし・うじとこし)の子孫は、三重県伊勢市宇治浦田の地に鎮座する「猿田彦神社」の宮司家として永らえている。

また、その猿田彦神社境内には猿田彦(サルダヒコ)大神の后神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る「佐瑠女神社(さるめ)」が鎮座しており、芸能の神・縁結びの神として崇敬されている。


誓約(うけい)のそもそも論は「対立の解消」にあり、その究極の証明形体が契(ちぎり/性交)に拠るコンプライアンス(要求や命令への服従)の実践である。

つまりこの夫婦(めおと)二神の役割もまた、「新旧民族の融和(誓約)の象徴」と言う訳である。

これは単(ひとえ)に考え方の問題である。

愛も情も許し合って初めて生まれるもので、イガミ合って居てはそこからは何も生まれない。

その最良の方法が、性交を為す誓約(うけい)に拠る部族の統一だった。

この夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)に成り、後世に伝承される各地の祭りの、神楽舞の面(おもて)として残った。


現代の理解では、誓約(うけい)の性交など否定的な風潮にある。

その考え方は近頃の個人尊重の考え方に在り、「愛の無い性交」など建前上否定される事柄だからである。

しかし本来、「愛の無い性交」など特別の事ではない。

人間は何故一目惚れするのか?

「惚(ほ)れる」と言う行為は、「大脳辺縁系」の「情動反応に伴って発生する」とされる「情動性自律反応」になる。

そのメカニズムは、本能をくすぐる脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの効果である。

元々生命科学的に言えば、人類の男女は惚(ほ)れ脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの作用に後押しされ、出会いを持って「性交相手の選択行為」をする生物である。

「惚(ほ)れる」と言う事は「恋する」と言う事で、フェール・エチル・アミンの効果である「惚(ほ)れる」は、気取らないで生物学的に言えば脳内処理的には「性交相手の選択行為」である。

その男性と女性の脳内ホルモン的な「性交相手の選択行為」の「惚れ薬」がフェール・エチル・アミンと言い、これが、本能をくすぐる「恋のトキメ」を促進させる影の立役者の物質である。

また、芸能アイドルに対して憧れや擬似恋愛感情を持つ事も、フェール・エチル・アミンの作用である。

同様に、ペット(愛玩動物)を一目で「可愛い」と惚れ込むのにも勿論何かの脳の働きが在り、つまりその原因はこの脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの効果である。


フェール・エチル・アミンは、異性に対して脳内で分泌されるトキメキホルモンで、この時点では「惚(ほ)れ行為」であるが、その「惚(ほ)れ行為」に集中力や快感を倍増させる作用がある。

簡単に説明すれば、「恋する」や「惚(ほ)れる」と言う行為そのものに快感を感じさせたり、その想いを募(つの)らせる(集中させる)作用がある脳内ホルモンなのだ。

つまりフェール・エチル・アミンは、「人類の種の保存」を脳科学的に促進させる作用があるホルモンである。

そしてその「惚(ほ)れる」が片思いであれ両思いであれ、パターンに関係なくフェール・エチル・アミンの作用であるから、迷惑なストーカー行動の源も「惚(ほ)れる」の範疇にある。

心して自覚が必要だが、フェール・エチル・アミンの作用は「性犯罪」をも誘発する側面を持っている事である。

「惚(ほ)れる」と言う行為から始まって、片思いの想いを相手に伝える踏ん切りを後押しするのがフェール・エチル・アミンの作用である。

しかし「惚(ほ)れちゃったから仕方がない式」の盲目の一方的求愛は、フェール・エチル・アミンに後押しされてストーカーに発展する危険も内包している。

故に、本人が「惚(ほ)れた」と想った事は「フェール・エチル・アミンの作用である」と言う客観的な意識が無いと、自分のコントロールを失う事になる。


「愛情」と言うのは、結局は自分が創り出した大切な物語であるから、その構築された「情」に嘘は無い。

しかし物語であるからには伴に生きる時間が永く在っての事で、少なくとも出会いの時点では、物語のプロローグ(序章)に過ぎない。

だからこそプロローグ(序章)に過ぎない結婚前の異性経験など、原則問わない事が男女間の暗黙のルールである。

従ってプロローグ(序章)の時点での性行為に於いては「恋」は在っても、とても「愛情」にまでは到っていない現実がある。

当然ながら、フェール・エチル・アミンに後押しされて、双方が「惚(ほ)れの合意」に到れば性交に及ぶ事に成るが、「愛」は連れ添ってから時間を掛けて育(はぐく)むもので、この時点での価値観はまだ「恋止まり」である。

昔から「恋の病」と言う様に、ここを勘違いしているから「こんな筈ではなかった。」とカップルの解消や結婚を解消し離婚する事に成る。

つまりフェール・エチル・アミン効果で、良く知らない相手とでも性交が可能で、ならば深い意味での「愛情」なんかなくても別の理由でも性交は可能である。

だから、誓約(うけい)目的だろうが、親の薦める結婚だろうが、地位や財産目的だろうが夢を適える手段で在っても、永く続いて「愛情」が芽生えればカップルとしては最高の結末と言える。

まぁ出会いは様々で、周囲や親の薦める結婚でも、その出会い時点でフェール・エチル・アミンが作用すれば、自由恋愛でなくても理屈は合うのだ。


「歴史」と言う時の経過に伴う出来事は、人間が存在して思考するから存在する。

そして人間は、大別して「理性」と「感性」の二つを複雑に共存させながら生きている。

その「理性」と「感性」の内の「感性」部分を心理学的に考えて見る。


人間の心理的部分に「感性」が影響し、「歴史の動向に大きく影響している」は言い過ぎでは無い。

つまり歴史に置ける「感性部分」を言い換えれば、「文化の歴史」と言う事になる。

あらゆる意味で、人間は「感性」に影響されて生きているから「理性」で割り切れない錯覚の世界を「文化の歴史」として構築して生きて来た。

「感性」の例として「吊橋効果(つりばしこうか)」を挙げる。

「吊橋効果(つりばしこうか)」のキーワードは心理的な「恐怖の興奮」で、誤認心理効果(錯覚)として、女性を口説くなら「吊橋の上が良い」と言う。

「吊橋効果」とは、不安や恐怖、危機感を共有する事で脳部位・側坐核(そくざかく/脳部位)が働いてドキドキ感を「恋」のトキメキ(生理的興奮の認知)と誤認して親近感が湧き、好意的な感情が芽生える心理効果である。

「吊橋効果」について少し広げて考えると、ジェットコースターやバンジージャンプなどの恐怖感も、その「ドキドキ感」が異性を感じるトキメキ感覚(生理的興奮の認知)に似ていて、つまり恐い物体験が娯楽になる。

お化け屋敷や恐怖スポットのデイトも、「吊橋効果が見込める」と考えれば、恋の成就も期待できる訳である。


不倫の魅力原理は典型的な「吊橋効果」で、つまり吊橋の恐怖感のドキドキ感と不倫の背徳感のドキドキ感が「恋」のドキドキ感と誤認混同され脳に生理的興奮として認知される。

つまり、「ドキドキ感」の必要性は「種の保存」の為の「性交相手の選択行為」として「惚れる為に」存在する。

その「惚れる為に発生」し、脳内処理されるホルモン物質、フェール・エチル・アミンの作用である。

一瞬の「惚れる」はドキドキ感と伴に脳内に発生する為、ホルモン、フェール・エチル・アミンの作用で脳に認知される。

フェール・エチル・アミンは、所謂「恋の病」とされる原因の脳内ホルモンで、「好みの相手である」と認識すると、それに集中力や快感を倍増させて強力に後押しする。

また、ペット(愛玩動物)を一目で「可愛い」と惚れ込むのにも何かの脳の働きが在り、それを今までは自然な反応と理解して来た。

しかしその現象には勿論裏付けが在り、つまりその原因こそはこの脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの効果である。

同様に、芸能アイドルに対して憧れや擬似恋愛感情を持つ事も、フェール・エチル・アミンの作用である。

また芸能そのものも、「感性」の発露で有る事に違いは無い。


そして「惚れる」と同様の「ドキドキ感」をもたらす不安や恐怖などでフェール・エチル・アミンの誤認心理効果と深く関わる脳部位が「側坐核(そくざかく/脳部位)」である。

「吊橋上の口説きが極めて有効である」と同様に不倫には不安が伴い、誤認心理効果(錯覚)の「トキメキが付きまとう」と言う理論である。

そしてそれらは、平凡な日常生活に不安や不満を感じれば殊更大きな誘惑に膨らんで行く夫婦間のリスクなのだ。


恐怖で支配された状況に於いて、 犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより協力・信頼・好意で対応する方が生存確率が高くなる為に防衛的に発生する心理的反応を「ストックホルム症候群」と言う。

「ストックホルム症候群」については「吊橋効果とは若干違う誤認心理効果(錯覚)」と言う意見も在る。

だが、恐怖で支配された状況に於ける恐怖のドキドキ感を脳内で処理する時点で、恐怖を善意に転化する機能が人間に在っても不思議ではない。

或いは、露出プレィの強制者(S)やSMプレィの施(ほどこ)し相手に、女性が究極の羞恥心や恐怖、危機感を抱く事も、或る種の「吊橋効果」としてM心理が働くのかも知れない。

同様に一度有無を言わせず、こっ酷くグチャグチャに輪姦(まわ)してしまう工夫(くふう)も、広義の意味で「側坐核(そくざかく/脳部位)」が働くM心理の「吊橋効果」かも知れない。

「文化としての歴史」は、言い換えれば「感性の歴史」であり、感性の歴史ではこの「吊橋効果」が大きく影響している。


実は、「吊橋効果のドキドキ感」を利用したものに、恐怖感を煽(あお)って信仰を深めさせる手段がある。

信仰とは未知の恐怖から発生した架空の物語である。

しかしながら、それを信じて真理的に救われる多くの人々が居る事も事実である。

生き行く為に不安や恐怖感が信仰に結び付くメカニズムは、即ち未知の恐怖には不思議な力を持った存在(神仏)に頼るしかない。

まぁ占いも信仰も、人間としての月日を過ごすには「必要な心理効果」と言う一面も存在する事は事実だ。

それで信仰と言う「誤認心理効果(錯覚)」は、「感性部分」に於いてヒューマン(人間らしい、人間味、人間的)としての魂の拠り所になる。



天狗(てんぐ)は、天の犬(狗・こう)の意味で、描かれている衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、修験山伏の衣装姿で、修験と犬神が一体である事を物語っている。

当時、誓約(うけい)の古事は民族和合の誇るべき神事だった。

だから誓約(うけい)の精神に従って、「戦いを止めてベット・インをしよう」の誇るべき古事の為、神楽舞の面(おもて)、古くは天狗の鼻が男性器を表し、オカメの口は女性器を表していて、神楽舞台上で合体の為にサイズが合わされているのが本式である。

神楽での祭事として「神懸かって舞う」下りは、新旧民族の融和(誓約)の象徴を精神的に祝う神への奉納の舞である。

奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で祭礼をしていた」と言われる。

この誓約(うけい)の精神は、時代が下って行くと、争う敵将を味方につける為の「政略結婚」に変化して行くのである。


隣接して異部族(異民族)の小国が割拠すれば、それぞれが勢力拡大を目論んで紛争が起きる。

「武(ぶ/む)」は戦の為のものであり侵略にも使われるものでありながら、実は「守る為」と言う建前を持つ矛盾(むじゅん)に満ちた言葉である。

武器・武門・武者の「武(ぶ/む)」の意味であるが、本来は積極的に戦う為の言葉でなく守る為の語彙(ごい)のもので、「矛(ほこ)を止める」と書いて武(ぶ/む)と読ませる。

人間と言う生き物の狡猾な所だが、「武(ぶ/む)」の様に微妙に偽りの正義を建前にした怪しげな言葉使いは結構多い。

そう言えば他国への出兵(侵略)の理由に「当該地在住の自国民の保護」と言う名目は良く使われた。

ついでだが「矛盾(むじゅん)」と言う言葉も、攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器の双方を武人が持つ事から発生した。

それと言うのも、人間は他の動物と違い「右脳域の感性と左脳域の理性」と言う相反した思考を同時に為したり、その内の一方を都合良く採ったりするから、言う事と遣る事が違って結果的に騙したりする。

或いは矛盾(むじゅん)に満ちた「武(ぶ/む)」と言う文字を生み出した人間こそ、心中に攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器を秘めている手に負えない生き物かも知れない。

そして人間が手に負えない本性を持つ生き物だからこそ、誓約(うけい)の共生社会イデオロギーが、大和合の国(大和国)成立当時は唯一の異民族平和融合の手段だったのかも知れないのである。


猿女君(さるめのきみ/朝廷の祭祀に携わる氏族の一つ) の祖神とされている天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、猿女君の氏は「神楽の事に供す」として宮中に奉仕し、主として「神楽に携わった女子」であるとされ、各地に神楽や芸能の神として祀られている。


この物語を読まれている貴方は、神事・慶事に使う「しめ縄の由来」をご存知か?

しめ縄とは、天の岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)が天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た。

そこを手力雄命(手力王の尊/たぢからおうのみこと)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話がこの「しめ縄の初めだ」と言われている。

しめ縄は、「尻久米(しりくめ)縄」の略したものと言われ、久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。

神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?

解釈に拠っては天手力雄命は天照大神を岩戸から引きずり出して尻を出す形で縛り上げ「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供した」と受け取れるのである。

こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろう。

だが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できるのである。

つまり「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供されて異民族同士の誓約(うけい)儀式が成立し、「異民族の和合が成立した」と言う生々しい話かも知れないのである。

いずれにしても神代の当時は現在のように性を秘するべきものでは無く、民族和合の誓約(うけい)儀式や五穀豊穣の祈りの証明としての性交儀式は神聖なものとして捉えられていた。

当時は神聖なものだったので、頭から現代風に受け取らず神代の当時の積もりで「尻久米(しりくめ)縄」の伝承を古事を辿りて偲い受け取って貰いたい。

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しめくり縄)」である。

つまりその接点は、日本列島他民族乱立時代の部族融合の為の誓約(うけい)や人身御供伝説の神話の世界が形成されるのである。

また、時代が下がってからのしめ縄とは「注連(しめ)縄」、または「標(しめ)縄」とも書き、一名を「しめ飾り」とも言う。

これは標縄(しめなは)を意味する言葉で、言わば縄張りの語源であり、皇位皇族・高貴の者が一般を排除して地域を占有する事を指して標縄(しめなは)を張る地域」と言う訳である。

つまりしめ縄は、神事の場所と下界の区切りを現す為に張る縄で「区切りを占める縄」の意味を持つ。

これは神社に於いて、内外の境界または出入禁止のしるしに引き渡す縄で、神前や神事を行う場所にこれを張るときは清浄な区域である事を示し、家庭で新年に戸口にこれを張る時には、災いをもたらす神や不浄な物が内に入らないようにとの意味が込められている。


ここで日本神話に登場した神・天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)は腕力の神様である。

信濃国(長野県)の戸隠山は天台密教や真言密教と神道とが習合した古くからの陰陽修験の霊場で、戸隠神社(長野市)には天手力雄命が引き開けた岩戸が「勢い余って飛んで来て戸隠山に成った」と伝承が残っている。

この時、岩戸に隠れ篭った天照大神を騙すのに使われたのが、三種の神器の一つ「八咫(ヤタ)の鏡」で在った。

ストリップダンスを踊るなど、神様にしてはずいぶん人間臭い逸話である。

つまり、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が気になり、覗き見る程に「観客の神々」を沸かせるには、相応の仕掛けが必要なのだ。

この岩戸神楽、実は現実の里神楽に大きな意味を持たせる伝承だったが、それは追々筆を進める。


三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨(てんそんこうりん)の時に、天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。

三種の神器(宝物)とは、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)の事を指す。


勿論この神器(かむだから/じんぎ)には夫々(それぞれ)に神話伝承が在る。

八咫鏡(やたのかがみ)は天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われた。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、同じく岩戸隠れに際して玉造部(たまつくりべ)の祖神・玉祖命(たまのおやのみこと/豊玉神・とよたまのかみとも言う)が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)は、須佐之男命(すさのうのみこと)が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとし、その時の名前は都牟刈の太刀(つむかりのたち/偉大な力を持つ太刀)であった。

剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡された事になっている。

八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居の御所に安置されているとされている。

また皇居には、八咫鏡と天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、天叢雲剣の形代は八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされる。



日向国(宮崎県)・大間辺りのリアス式海岸は天然の良港であるが、津波などに襲われると波の高さは平らな海岸線の数倍から数十倍に達する。

自然の猛威、つまり「須佐之男(スサノオ)の命」を怒らせると、海辺の民には始末に負えない。

それを諌(いさ)められるのは、最高神、「天照大神」だけなのだ。この一連の伝説の裏には、自然の猛威だけでない隠された歴史がある筈だ。

憶測であるが、多分、少し早く土着した部族(先住渡来民族・天の一族(天孫族)と言う加羅系族)と後から海を渡り来た進入部族(海洋民族・隼人族と言う呉系族)の「対立の構図」を表していると考えられる。

つまり、後続の海洋進入部族が、須佐之男(スサノウ)の一族と位置づけられはしないか?

天の一族の事を、天つ神(あまっかみ)とも言うが、それでは天の一族全てが神に成ってしまう。

その時代は、天(あま)は空と陸を意味していた。

従って天の一族(天孫族)は、陸を支配していた。

それに対し、海を支配する民族がいた。

詳しくは後述するが、この海の民(海洋民族)の呼び名が、熊襲(くまそ)であり、別名は隼人(はやと)である。

当初、互いは相容れない他民族で在ったのだ。

だからこそ、須佐之男(スサノオ)に海の支配は認めるが、陸の支配は認めない。

第一、天(あめ)の文字や比売(ひめ)の文字が付く神が多いなか、弟神の須佐之男(スサノオ)には付いていないのが他人みたいではないか。

この須佐之男(スサノオ・須佐王)の正体であるが、祇園神である。

日本の祇園信仰(ぎおんしんこう)は、京都の八坂神社を総本社とし平安時代に成立した御霊信仰を背景に、仏教の神で、祇園精舎の守護神・牛頭天王(ゴヅテンノウ)及び神道の神・須佐王(スサノオ)を祭り、疫病に対する神仏習合の信仰である。

八坂神社(祇園神社)の旧社格は官幣大社で、古くからある神社であるが延喜式神名帳には記されていない。

この牛頭天王(ゴヅテンノウ)及び須佐王(スサノオ)神の神仏習合であるが、元々在来の神々信仰と渡来の仏教信仰とは、物部氏と蘇我氏の対立に見るように武力衝突に及ぶほど相互には大きな隔たりがあった。

しかし列島の民には、多くの民族が誓約(うけい)で同化する知恵を持っていた。

その知恵を使う事で民族同士の誓約(うけい)同様に、信仰上の神々と仏教を習合(しゅうごう)させてしまう事を試みる。

つまり、他国では余り見られない試みだが、「一緒にさせてしまえば争いは起こらない」と言う単純な理屈である。

本格的に神仏習合が為されたのは七世紀後半の天武大王(おおきみ/天皇)の御世に於いて、大王(大王)を中心とする国造りが整備されるに伴い、神武朝の氏神であった天照大神を頂点として、それら国造りに重用された神々が民族神へと高められた。

その神々に対して仏教側からも敬意を表して格付けを上げるようになった事に神仏習合は始まる。

実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する「護法善神の仲間である」と言う解釈により、「神も仏も呼び名が違うだけで同一」と言う解釈により奈良時代の末期から平安時代に渡り、神に仏教の菩薩号(ぼさつごう)を付すまでに至った。

これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言い、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」としたのである。

それで天照大神(あまてらすおおみかみ)は仏教では大日如来となり、民族神の代表格である八幡神(応神神/天皇 )が八幡大菩薩(はちまんだいごさつ)などはその典型的な例である。

妥協と言えばそれまでだが、天武大王(おおきみ/天皇)の民族神重用に仏教側が生き残りの知恵を絞った訳である。

さて須佐王(スサノオ)の事で在るが、牛頭天王(ゴヅテンノウ)を日本列島では、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ともされ、京都祇園や播磨国広峰山に鎮座する祇園神とも呼ばれた。

牛頭天王(ゴヅテンノウ)とは、「日本書紀」の所伝として記されている素戔嗚尊(須佐之男命/スサノオの命・須佐王)は、「新羅(シルラ)の曽尸茂利(ソンモリ)と言う地に居た」とされる。

そのソシモリは、阻止まり(ソシマリ)やソモリとも言う朝鮮(韓国)語で、牛頭(ゴヅ)または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山と言う名の山や牛頭(ゴヅ)の名の付いた島などの地名が存在する。

つまり、須佐王(スサノオ)は、朝鮮半島を経由して渡来した中国福建省辺りからの海洋部族王(海人族・呉族)だった事に成る。


日本三大祭の一つ祇園祭で有名な京都の八坂神社は素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)を祀っている。

京都の八坂神社は全国祇園信仰の総本社であるが、実は本社(元社)が存在する。

その本社(元社)は、備後国・鞆浦(とものうら/現・広島県福山市鞆町)にある沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)で、平安期の法令「延喜式」にも記載されている。

京都の「八坂神社」は、今は明治政府の神仏判然令(いわゆる神仏分離令)により名前に変更させられているいるが、本来は祇園神社と呼ばれていた。

八坂神社の由来は地名からで、その所在地が古代豪族・八坂国造(やさかのみやっこ)一族が居住した土地を由来とする「八坂」だったからである。

京都祇園神社(八坂神社)の元社にあたる社が「鞆(とも)祇園神社」=「神仏判然令(いわゆる神仏分離令)改名・沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)」で、京都の「鞍馬の火祭り」と鞆の浦(とものうら)の「お手火祭り」は良く似ている。

福山沼名前神社(ぬなくまじんじゃ/祇園神社)の「お手火祭りは」素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)の神輿渡御(みこしとぎょ) に先だって行なう祓いの行事として今に伝えられている。

神輿渡御(みこしとぎょ)の原型は、遡るとインド・ヒンドゥー教のシヴァ神が考えられ、シヴァ神は破壊神であるが破壊(川の氾濫)の跡には新たなる肥沃な大地が恵みをもたらす信仰である。

シヴァ神が新たな肥沃をもたらす破壊の踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされるシヴァ神の乗る牛が「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成って神聖化が進んだ「牛(ナンディン)」が朝鮮半島・新羅の牛頭天王(ゴヅテンノウ)とされる。

「牛(ナンディン)」が破壊神シヴァの使いであるなら、記紀神話(古事記・日本書紀)の素盞尊(すさのうのみこと/須佐王)の破壊神話と符合する。

勇壮豪快で荒々しい京都の八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)や、博多祇園祀りの勇壮な山鉾巡行は、シヴァ神の新たな肥沃をもたらす破壊の踊りがその神事の根底に在るからではないだろうか?

インド・ヒンドゥー教でシヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされるシヴァ神の乗る牛が「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成って神聖化が進んだ「牛(ナンディン)」が朝鮮半島・新羅の牛頭天王(ゴヅテンノウ)とされる。

インド・ヒンドゥー教で神聖な動物として崇拝されている「ナンディン(聖なる牛)信仰」が朝鮮半島・新羅の牛頭天王(ゴヅテンノウ)=祇園神・須佐王(スサノオ)とされ、現代では定説化している。

いずれにしても、全国に広がる祇園神社の祇園神・須佐王(スサノオ)が、ヒンドゥー教・ナンディン(乳白色の牡牛)神で、シヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う神」とされている事から、祇園祭(ぎおんまつり、ぎおんさい)の祭礼神で在っても不思議は無い。

祇園祭りは、北は青森から南は九州・熊本まで広範囲に地祇系神(祇園神社系神)として執り行われている祭礼で、京都の八坂神社(祇園総社)や博多・櫛田神社に祀られる素戔嗚尊(すさのうのみこと)の博多祇園山笠は特に盛大で知られている。


博多には代々博多に住む者なら当たり前に、男衆が燃える祭り「博多祇園山笠」がある。

博多の総鎮守として、「お櫛田さん」の愛称で広く市民から親しまれている神社・櫛田神社(くしだじんじゃ)に奉納する山笠は、勇壮を極め、全国から見物客が訪れる。

櫛田神社(くしだじんじゃ)は、博多の総鎮守で旧社格は県社(あがたしゃ)であるが、「延喜式神名帳」への記載はない。

この櫛田神社(くしだじんじゃ)、平清盛が博多を日宋貿易の拠点港とした平安末期に御託宣により鎮祭され、 この櫛田神社は伊勢松坂の櫛田神社を勧進したものだと考えられている。

七百六十余年の伝統を誇り福博の街に夏を告げる博多祇園山笠は、博多の総鎮守・櫛田神社の奉納神事であり、国の重要無形民俗文化財でもある。

奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名で、七月一日の飾り山公開に始まり、十五日のクライマックス「追い山笠」まで、約二週間、博多は祭りムードに包まれる。


追い山笠の当日は九十万人の観客の見守る中、約五キロの工程を幼い頃から流れ(山笠を出す町内)のひとつに入って祇園山笠を親しんで来た締め込み姿(フンドシ姿)の男衆が山笠もろとも勇壮で豪快に疾走する。

舁(か)き手の出立(いでた)ちも、初めは締込みだけの裸に近いものだったが、明治期に西洋的文明開化が始まると、政府はお尻丸出しの山笠が野蛮に映ったのか、あれこれと理由をつけて禁止しようとする。

これに対抗して知恵を絞り、「お尻丸出しが悪いなら法被を着れば良い」と、全員が水法被(みずはっぴ)を着用して政府のお達しを切り抜けた。

印半纏を法被(はっぴ)と呼び、博多祇園山笠の水法被(みずはっぴ)は、その祇園山笠の祭りの期間中は正装と見なされる。

締め込み姿の舁き手の男衆に、威勢よく勢い水がかけられ、重量一トンもの舁き山(かきやま)をオイサッ!オイサッ!と勇ましい掛け声と供に舁き、後方から勢いよく山を押して博多の街を走りぬけ多の街は熱狂のるつぼと化す。

この「追い山笠」の締め込み姿(フンドシ姿)の男衆の尻はそれを見る女衆にとってたまらない色気だが、参加する者も見物する者も祭り好きも踊り好きも、原点は興奮による脳内麻薬・ベーターエンドロフィンのメカニズムが働いているからである。



この天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐王(須佐之男)の誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱である。

倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。

海洋民族(隼人族)が侵入して来れば、先住民(天の一族/天孫族)の集落で暴れまわる。

そこで先住民族は太陽の神「天照大神」の元に団結して、海洋民族の侵入を防いだ。

その戦いは何百年と続き、「ジワリ、ジワリ」と海洋民族の居留地も増えて行く。

やがて、その既成事実の前に両者は共存の妥協を考える様になる。

何時までも、相争ってばかりは居られないのだ。

長い争いの後、やがて両者は和解(誓約/うけい)に至り、海洋民族も神の子孫と認める為の「宴の席」が、岩戸神楽であるのだろう。

その和解(誓約/うけい)こそが、暗い世が終わり、天岩戸が開かれて「平和の陽光が大地に戻った」瞬間である。

この目出たい席に、ストリップダンスが供されたとしても、不思議はない。

海洋民族は弟神・須佐之男(スサノオ)の子孫として認められる事で、先住民の仲間入りしたのではないだろうか?

この時から、「海の文字を(あま・あめ)とも読む様に成った」と考えたら、納得できる。

従って、高千穂及び岩戸の二つの神社は、天の一族と隼人族の和合のシンボルなのではないか。

こうした神話は、血なまぐさい歴史を、復讐を繰り返さない為に、「建前の世界」に閉じ込めた祖先の知恵と言える。

歴史の必然では在ったが、例えエロチックな伝承であろうとも、結果的に国境と人種の壁を誓約(うけい)の精神で打ち破った事が、民族間の不毛な争いを終結させた事は事実である。


これほど「聖母マリアの処女懐胎」と似たような「ご都合主義の解釈はない」と思うのだが、神話に拠ると天照大神と須佐王の姉と弟が誓約(うけい)に拠って子供を創る。

姉と弟が子供を創るのは不自然な事で、本来のメッセージは誓約(うけい)の和合に拠る「異民族(異部族)の合流(群れの一体化)を伝えている」と解釈するのが合理的である。

所が、天孫降臨伝説の「神の領域」に異部族など居てはおかしい。

それでどうやら、誓約(うけい)は「姉と弟の契約」と言う解釈に成り、二人とも神様だから姉と弟が子供を創っても神の領域の話しで「不思議は無い」と玉虫色の誓約解釈(うけいかいしゃく)をさせる。

我が国には古来から政治の事を「政(まつり/祭り)事」と言う表現が在り、隠語として性交をする事を「お祀り(祭り)をする」とも言う。

詳しくはこの物語の第五章で記述するが、政治と性交の両者は我が国では「神事」として真面目に考えられていた多くの痕跡が残っている。

そして民族和合と言う誓約(うけい)の精神こそ最大の「政(祭り)事」であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。


この日向の国大間海岸(現延岡市北浦町)の一角は、豊前の国(大分県)の宇佐神宮(宇佐八幡宮)の御神領地であった。

当時、隣の延岡市(県の庄・あがたのしょう)は、鎌倉幕府から地頭職・工藤氏が来るまで、土持(つちもち)氏の領地である。

伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟・宇佐神宮(宇佐八幡宮)は大分県宇佐市(豊後国)に在る。

宇佐神宮は八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社である。応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。

一説には、神功皇后は架空の人物で「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある

また、八幡神の応神(おうじん)天皇についても、現代の研究成果に於いては存在そのものが不確かなものでしかない。

第十五代天皇とされる応神は実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われる。

だが、応神大王(おおきみ)・仁徳大王(おおきみ・第十六代)同一説、当時の王統の有力者を集合成した虚像説、初期三王朝交代(神武/和邇/葛城)説における征服王朝の神武創始者説、河内王朝の始祖説など諸説が入り乱れて完璧な検証には到っていない。

応神大王(おおきみ)・仁徳大王(おおきみ・第十六代)同一説に付いては事績の一部が父の応神天皇と重複・類似する事から、元来は一人の天皇の事績を二人に分けて記述した」とする見方が学者間に存在するからである。

仁政として知られる仁徳大王(おおきみ/天皇)は、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていない事に気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う記紀の逸話を持つ大王(おおきみ/天皇)だ。

こうした善政の逸話は多分にその人物の神格化の為に記紀(古事記・日本書紀)に於いて架空創作された内容である疑いが濃い。

応神天皇の崩御の後、後の仁徳大王(おおきみ/天皇)である仁徳大雀命(おほさざきのみこと)は最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合い空位が三年間続いたが、「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の死により即位した」と言う。

日本書紀には仁徳大雀命(おほさざきのみこと・仁徳天皇)に皇位を譲る為に「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が自殺した」と伝えられる。

だが、これとて斜に構えて可能性を探れば「皇位の奪い合い」の真実が、「皇位の譲り合い」として大王(おおきみ/天皇)の「徳」と綺麗に記述しただけなのかも知れない。

それにしても、宇佐神宮の主神である筈の応神大王(おおきみ・天皇・第十五代)は歴代天皇のお一人なのだが、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。

中央におわすのは、余り一般には知られては居ない謎の祭神、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」である。

その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。

比売大神については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。

この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、少し考えれば「在り得ない事」と判る。

何故なら日本で一・二を争う最高の神社で、それでは安易過ぎはしないか?

当然ながら、信仰から神を扱う以上その並び順には神経を使い、然るべき所に御鎮座願うのが当り前である。

比売大神(ひめのおおみかみ)の正体が判らないから社殿の造営順などとばかな結論を出す。

この辺りの混乱からか、それとも何かを秘する都合でも有ったのかは判らないが、現在では宇佐神宮自身でも中央の比売大神(ひめのおおみかみ)の社殿を「二の殿」などと呼んでいる。

しかしこの社殿の並び順、社殿に順番を振っただけでは如何(いか)にも不自然な印象は拭えない。

この謎解きは簡単である。

宇佐神宮の主神が八幡神であり、八幡神は武神(戦神)である。

そして八幡神は菩薩(女性神)であり、しかも大が付く大菩薩となると、相当の格を持つ神である。

八幡神は源氏の戦神で、菩薩(ぼさつ/梵名ボーディ・サットヴァ)は仏教信仰の尊格であり、その一尊・観音菩薩の源流はヒンズー教の破壊神・シヴア神との説が強く、我が国に於いて比売(ひめ/女性扱い)である。

つまり比売(ひめ/女性扱い)の菩薩が居ても良い訳で、大菩薩(だいぼさつ)は大神(おおみかみ)、整理すると戦神・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は比売大神(ひめのおおみかみ)=破壊神・シヴア神の図式が成り立つ。

武神(戦神)比売大神(ひめのおおみかみ)が八幡大菩薩と同一と考えると、考えられるのはそれこそ比売大神(ひめのおおみかみ)=破壊神・シヴア神が「天照大神(あまてらすおおみかみ)の戦闘モード」と符合して来るのである。



ここからが肝心な所だが、全国八万社の総神社数の内約四万社が八幡神である。

総神様である天照大神(あまてらすおおみかみ)拠りも八幡神の末社が全国で幅を利かせて居るのは何故だろうか?

八幡神はその土地の鎮守神であるが、戦の神・八幡神の主神が比売大神(ひめのおおみかみ)=天照大神(あまてらすおおみかみ)であれば、八幡神を祀る事は「天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る事と同等な事」と解釈でき、信仰的に矛盾が無いのである。


この比売(ひめ)大神(おおみかみ)が卑弥呼と同一人物の可能性がある。

魏志倭人伝に見える倭国内の国々の一つである邪馬台国の女王は、「卑弥呼」と記されている。

この卑弥呼は日本の歴史上謎の人物だが、卑弥呼は大陸・魏帝国側が列島側の音(オン)を漢字(中国語の音)に充てた表記ではないだろうか?

比売(ひめ)大神(おおみかみ)は比売(ひめ)命(ヒメノミコト)とも呼ばれ、或いは比売皇女(ひめみこ/ヒメミコ)も限りなく音が近い。

詰まる所が、魏書(三国志)に記載が在って和書(古事記・日本書紀)に記載が無い「卑弥呼」と言う固有の名を持つ人物は存在せず、比売皇女(ヒメミコ/比売命・ヒメノミコト)なら存在した事に成る。

魏書(三国志)の記載全てが「音」の充て表記で在るならば、大和合の国(だいわごうのくに)・大和国(やまとのくに)の読み方の語源が、邪馬台国(ヤマタイコク)であっても何の不思議も無い。


最近世間では「卑弥呼の墓が特定出来た」と大騒ぎをしている。

奈良県桜井市に在る「箸墓(はしはか)古墳」が測定の結果、「卑弥呼が居たとされる同年代の建造物だから」と言うのである。

箸墓古墳(はしはかこふん)は、奈良県桜井市に所在する纒向古墳群 (まきむくこふんぐん)の中でもひときは目立つ規模(前方後円墳中最大)を持っている。

箸墓古墳(はしはかこふん)は、最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。

測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていた事が分かる。

奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅十メートルの周壕とさらにその外側に幅十五メートル以上の外堤が存在していた事が確認されている。

巨大な前方後円墳・箸墓古墳(はしはかこふん)が、その最古の時期から周壕を持つ事が分かった。

陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅十メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、箸墓古墳(はしはかこふん)が古墳時代前期初頭の築造である事が確定した。


また年代測定で、箸墓古墳(はしはかこふん)の築造年代が卑弥呼の没年(二百四十八年から遠くない頃)に近い事から、「卑弥呼の墓ではないか」と言う説が浮上している。

その根拠として、魏の使者張政が詔書、黄幢をもって来倭し、 難升米がこれを拝受し魏の告諭を受けたのち、「卑弥呼以って死す」とある。

その魏書に依り、卑弥呼の死亡時期が二百四十七年の年か、翌二百四十八年頃亡くなったのは確実と思われる事が説の根拠である。

しかしながら、「卑弥呼の墓」は、数多くある諸説の一つに過ぎない。

なぜなら、卑弥呼の没年と箸墓古墳築造年代が重なる以外に証明が出来ないからだ。


そもそも論から言わしてもらえば、卑弥呼は古事記・日本書紀は勿論の事、日本の古文書にはまったく記載が無く、他国の正史である魏書(全三十巻)の「東夷伝中の倭人の条(通称・魏志倭人伝)」に記載されているのみの存在である。

卑弥呼の正体さえ明確でないのに、頭から卑弥呼の存在を肯定した上で、「卑弥呼の墓を見つけた」は学者にあるまじき強引な発想である。

いずれにしても魏書で言う所の「卑弥呼(ヒミコ)」が、日本では何者かを明確にしないで「卑弥呼(ヒミコ)の墓」を言い立てるのは、土台も無い砂上に楼閣を築くものではないだろうか?

こうした日本史に対する態度は、その存在を疑われている歴史上の創作人物・聖徳太子の存在を鵜呑みにするのと同等の粗悪な考え方ではないだろうか?

魏書を鵜呑みにしたロマンにばかり走らず、その前にまずは卑弥呼が誰であるかの特定をするべきである。


邪馬台国の国家の運営は、卑弥呼の御託宣(シャーマニズム)を背景に行なわれていた。

そのシャーマニズムの根幹、御託宣を為す存在が火(アピ/火の意)だったのである。

アピ(火/原ポリネシア語)は、先住蝦夷(エミシ)の族長一派が名乗り、縄文期の列島の首領(火を操る指導者)の尊称である。

その娘はアピの娘(アピミコ=火皇女)であり、日女皇子(ヒメコ/火女皇子)とも言う。

つまり邪馬台国の女王「卑弥呼」は尊称で、卑弥呼には別な固有名があった筈である。

女(おんな)は中文(ツンウぇン・中国語)で「ニュョイ」であるが、アイヌ語では巫術女(みじゅつめ/巫女・みこ)の事をオイナ・カムイ(oyna ・kamuy)と言い、このオイナ(oyna)が「女(おんな)の語源ではないか」と考えている。

原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音である。

占術、呪術に於いて火(炎)は重要なアイテムで、日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウェン・中文)では火(フォ)であるから、火を「ヒ」と発音する事も「アピ」が訛って「ピ」に成った可能性が高い。

魏志倭人伝(中国語)が意味よりも音(オン)を優先すれば「卑弥呼(火皇女=ヒミコ/ピミコ)」と充てる事は充分考えられる。

比売(ヒメ)は神代の神格化した女性に対する尊称で、後世の代の姫に通じる。

そこで九州・宇佐神宮(宇佐八幡宮)に鎮座まします「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼」で有っても不思議は無い。


魏志倭人伝は、「三国志」と言う中国の正史中に存在する「魏書(全三十巻)」に書かれている「東夷伝中の倭人の条」の略称である。

日本に於いて一般に知られる通称が「魏志倭人伝」と呼んでいる訳である。

魏志倭人伝に拠ると、邪馬台国の女王・卑弥呼は「倭の国々三十ヵ国が共立した女王」と伝えられ、即ち邪馬台国は大和合の国家である。

邪馬台国が大和合の国家であるから、「大和をヤマトと読む」と言う想像が働く。


所でこの「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼は、本当に日本列島の倭の国々の代表者だったのだろうか?

文献が「他国に残っているから」と言って、歴史を象のシッポの様に一部を切り取ってはならない。

多面的かつ長期的な枠組みから、その真相に迫らなければ成らないものである。

日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。

そして三民族の一系、先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の王族が、「安倍・阿倍一族である」と言う強力な説がある。

それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。

つまり、当時の日本列島が三民族三つ巴の多民族の地だった事から、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)=比売命(ひめのみこ)が、魏志に於ける唯一の日本の女王は、大陸「魏帝国」の「三国志時代の国策的な対処だった」と思えるのだ。


当時の大陸側の情況では、邪馬台国の女王・卑弥呼が「周囲を属国として従えている」と言うのは魏帝国側の「政治的過大評価」と言う事は、充分に考えられる情況だった。

邪馬台国の女王・卑弥呼が魏帝国と外交関係(交流)を持ち、魏皇帝から「親魏倭王に任(認証)じられた」としても、それとは別に蜀帝国や呉帝国が存在した。

だから、この魏書の内容とは別に蜀帝国や呉帝国と外交関係(交流)を持つ別の国が日本列島に存在しても不思議は無い。

中華大陸が魏帝国、蜀帝国、呉帝国の三帝国に分割されていたのでは、各々が別の外交関係(交流)を持ち、別の日本列島に存在する国を「倭王」に任(認証)じて居た可能性は強い。

そこを勝手に列島の代表としていれば、「魏志倭人伝」の記述は魏と外交関係(交流)を持つ邪馬台国・卑弥呼に片寄った記述をしている可能性が在る。

特に当時の日本列島には、大陸山間の稲作系民族(天孫族/加羅族)の邪馬台国とは別に、海人族系(呉族系)の国、例えば「狗奴国」や「伊都国」も存在した。

魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼の邪馬台国・スサノウの狗奴国・葛城氏の伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

つまり、記録に残っていないだけで「親呉倭王」も存在し記述中に見える邪馬台国の女王・卑弥呼と不仲で争いが絶えない狗奴国の男王の存在が、中華大陸三帝国の勢力争いと連動していた可能性もある。

それ故に天岩戸伝説の神話の記述の裏を読まず、魏書を鵜呑みにして周囲の倭国群を邪馬台国の属国と決め付けるのは、「極めて乱暴な説」と考えてしまうのである。

我輩の解釈では、邪馬台国の女王・卑弥呼は比売命(ひめのみこと)の充て字であり、比売命(ひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)である。

そして卑弥呼と不仲の海人族系(呉族系)の国・狗奴国の男王が須佐之男(スサノオ・須佐王)であれば、乱暴な弟王・須佐之男(スサノオ・須佐王)に困った天照大神(あまてらすおおみかみ)が、誓約(うけい)を持って仲の良い姉弟(同族)に納まる神話の世界に筋が通っている。



天照大神を祭る「伊勢の神宮」に次ぐ皇室第二の宗廟・「宇佐神宮(在・大分県宇佐市)」の社格は、延喜式神名帳に記載される「式内社」で旧官幣大社であり八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、「全国の八幡神社四万社の総元の神様」と言う相当格式の高い神社である。

いずれにしても皇室の扱いを見ると、伊勢神宮と、宇佐神宮は、本来、天一族(あめのいちぞく)の最高神達である。

この宇佐神宮には、古代史から続く日本の歴史を舞台に、謎が幾つもある。

恐らくは、統一王朝の成立に至る幾多の出来事に、それ以後の政権運営に、宇佐神宮が「深く関わっていた」からではないだろうか。

たとえば、七百二十年頃の九州隼人(薩摩隼人)の乱が在り、これは南九州の部族「隼人族(はやとぞく)」の反乱である。

南九州の部族は隼人族であるが、別名を熊襲(くまそ)と言う。

今の大隈、薩摩の両半島の辺りで幾度となく起こった反乱であるが、中央政権側の討伐軍(朝廷軍)の大将が、大友旅人(おおとものたびと)である。

朝廷はこの戦にあたり、宇佐神宮に勅使を送り戦勝祈願をしている。

これを「勅使(ちょくし)参拝」と言う。


平安初期、八百年代に起きた称徳大王(おおきみ・天皇)が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとした事件でも、和気清麻呂(わけのきよまろ)は、近くの伊勢神宮ではなく、わざわざ宇佐神宮の御神託を仰ぎに、遠方の九州まで出向いている。

朝廷の一大事に、アドバイス(助言)したのが、他でも無い宇佐神宮なのだ。

「宇佐神宮御神託事件」である。

この「御神託事件」だが、物部(もののべ)氏の一族である弓削氏の一族の一人と云われている弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若年の頃、法相宗の高僧義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り「密教の宿曜秘法を習得した」とも言われる。

道鏡は、七百六十五年に太政大臣禅師、翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。

豊前国(大分県)の宇佐神宮より「天皇の位を道鏡に譲れ」との神託が下る。

しかし、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定し、即位計画は破綻した。

つまり朝廷にとって、「比売(ひめ)大神」は、特別な存在らしいのだ。

しかしどの記述でも、その存在や由来は明かされる事はない。

そこに厳然と鎮座ましますだけである。

そして、宇佐神宮、(八幡神社)は、戦いの神であった。

そして八幡神は武の神様で有り、清和源氏の戦の守護神である。

つまり源氏は皇統の影人である。

それで思い付いたのが、「天照大神変身説」である。

或いは、平和の象徴である天照大神の、戦いの時の「変身したお姿が、比売(ひめ)大神ではなかろうか」と、我輩なりに大胆に推理して見た。

天照大神は太陽信仰の神であり、大地の豊穣を願う農耕民族(天一族/天孫族)の女神である。

この平和の象徴が、乱暴な須佐王(スサノオ)が高天原にやって来た時、天照大神が男装に着替えて武装して威嚇した。

その御姿こそ、宇佐神宮におわす「比売大神」ではないだろうか。


平和の神・天照大神と争いの神・比売大神が、都合により顔を出す仕掛けだ。

民に平和と幸せを提供するのが、朝廷の役目である。

それで、朝廷としては建前上大っぴらに公表出来ないから存在意義を説明できない。

それでなければ、比売大神(ひめのおおみかみ)は永久に謎の存在で、終わってしまう。

皮肉な話しであるが、現代の日本でも「平和憲法の建前」から、軍隊を軍隊と呼べず「自衛隊」と称して居る様に、平和の神に戦闘モードは似合わないからである。

この説の裏付けとして、もう一つエピソードがある。

初代神武大王(おおきみ・天皇)が東征に先立ち、宇佐神宮に寄ったと、「紀記」に記されている点からも、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)が主神では、時代が前後してしまうのだ。

神武大王(じんむおおきみ・天皇)が神とあがめるのは、天照大神を置いて他にない。

それ故、比売大神(ひめのおおみかみ)イコール天照大神(あまてらすおおみかみ)と思えるのだ。

三女神(ミハシラのメガミ)説もあるが、時に応じて、朝廷側に平和の神、天照大神と同格の最高の軍神が存在する必要が有った筈だ。

神話の合理性を思うと、日本の変身の第一に、最高神が在っても良いではないか。


戦国時代、大友宗麟の再婚相手(正妻)に選ばれたのが、奈多八幡宮の大宮司、奈多鑑基(なたあきもと)氏の娘である。

宗麟、二十五歳くらいの時の事だ。

奈多鑑基(なたあきもと)は、宮司ではあるが、武士にも成っていて、娘の奈多を宗麟に嫁がせた事で、大友家の重臣として勢力をなしていた。

奈多八幡宮は、「宇佐別宮」とも言われる宇佐神宮の摂社(せっしゃ)の別格である。

宇佐神宮に新しく朝廷から「御神宝」が寄進されると、前の御神宝は、「奈多八幡宮に納めなおされる」と言う、ほとんど宇佐神宮と同格に近い宮である。

そうした扱いをされている以上、いずれにしても宇佐神宮は朝廷の重要な位置にある。



古来この国では、口先だけの仲は「真の仲間」とは言えない。

この国には、伝統的に「誓約(うけい)」の概念が介在して来た歴史がある。

人間の認識など変えうるものだから本人が「これが正解」と思い込んで居るだけで、本来常識とか普通と言うものは存在しない。

そこを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。


大和朝廷成立前後の古(いにしえ)の日本列島は、民族(部族)の坩堝(るつぼ)だった。

縄文人(エミシ/蝦夷族)を始め、古い時代に住み着いた在来部族(天孫族/加羅系族)と、後期に渡来した進入(流入)部族の生きる為の争い。

覇権争いは天孫族(加羅系族)と海洋民族(隼人族/呉系族)に成り、その手打ち式が天の岩戸の宴席、岩戸神楽だった。

神話に於いては、山の民・天照大神と海の民・須佐王(スサノオ)の命は、誓約(うけい)を持って姉弟神となった。

日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。

世の現実の問題として、唯口先で「信用してくれ」では何も相手には伝わらない。

別々の部族が親密さを増す努力に必要なのは「互いの関わり方の質と量」で、その究極の手段が倫理観や独占欲を超越した誓約の(うけい)の性交である。

日本列島の民は、この誓約の(うけい)の性交を持って「群れの融合拡大」を図り単一民族への道を歩んだ。


異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し双方が滅びないで済む究極の和解であり、民族同化の象徴である。

それが、敗戦故の譲歩なら、「心ならずも」と言える。

異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し双方が滅びないで済む究極の和解であり、民族同化の象徴である。

大抵の解説で、誓約(うけい)を安易に「占いの結論や神に対する祈りの誓(ちか)いの事だ」としているが、実は本質を知っていてその結論を表記する事を避けている向きが多い。

神話や伝説の類を良く読んで見ると、誓約(うけい)は忠誠を示す為のもので、誓約(うけい)の結果として新たなる神や子供が誕生する事が多い。

つまり、性交を伴う現実的な忠誠の証が誓約(うけい)なのである。

性行為は自分が楽しむものであり相手を楽しませるもので、人間誰しも、楽しみを与えてくれる相手には優しく成れ、信じられる。

つまり和解の性交は争いから信頼に変える手段で、それがこの島国に古くから伝わる誓約(うけい)の根本精神である。

この誓約(うけい)の概念が、実はその後の二千年の永きに渡り、日本の民の形成に大きな影響を与えて行く


東アジアの遊牧民は、長旅をする遠来の客を「大事にもてなす習慣」が在った。

驚いた事に、客人に愛妻を「一晩差し出す習慣まで在った」と言う。

「そんな馬鹿な」とは言って欲しくない。

広大な台地を行き来して生活する彼らにとって、出会いに対する選択は二つしかない。

つまり、争うか歓迎するかのどちらかなのである。

それは、いつどんな相手に遭遇しないとも限らない条件下に在って、互いに平和を維持する為の究極の知恵である。


砂漠の旅人(旅行者)は、族長と言ったその部族の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、砂漠の民には「夜伽(よとぎ)歓待」の習慣があり、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた風習も在った。

これには経験学的な生殖学の経験が存在した。

つまり狭い範囲の部族での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスクが在り、訪れる旅人を「マレビト」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

勿論、この「マレビト」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

つまり一つの価値判断が、「全てに渡っては正解では無い」と言う事例の一つである。


この「遠来の客を大事にもてなす習慣」の和合精神、時代の経過と伴に大分変則的に変化しているが、遊牧民の末裔トルコ民族のベリーダンス(回教国なのに、女性ダンサーの露出度が高い)や、中国(漢民族を含む)人の来客もてなし時の「面子(めんつ/恥をかかない接待)」にも、その影響として残っている。

チンギスハーンと孫のフビライ・・・・、大モンゴル帝国(元帝国)の発展は、優秀なら人種や出身国を問わずに登用した事により、「広域な大帝国を築き上げた」と言う。

この「優秀なら人種や出身国を問わずに」の精神には、東アジアの遊牧民の精神「遠来の客を大事にもてなす習慣」が生きていたからに思えて成らない。

大モンゴルは、自分の出身民族に拘っていたら、成されなかったで在ろう偉業なのだ。

この事は、古代日本列島に発生した「誓約(うけい)」と言う民族融合の知恵と、ある種共通する所がある。


誓約(うけい)の概念と、新しい「生命を生み出す」と言う豊穣崇拝からすると、「天岩戸」は、卑弥呼の「女性器を表している。」と言う説もある。

宴の席にストリップダンスが供され、盛り上がれば次は異民族男女の交合である。

民族が同化するのに一番手っ取り早いのがこのシンプルな方法で、誓約(うけい)とはそう言う事であろう。

誓約(うけい)の概念を飾り気なく書くと「性交」と言う事になるが、本来「人間は、共に生きる事で互いを理解し合うもので有る。」と理解してもらいたい。

今ひとつ、宇佐神宮の謎解きが有る。

言うまでもなく、伊勢の国には「伊勢の神宮」がある。

三重県伊勢市にある神社「伊勢の神宮」は、神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は「伊勢」の地名が付かない「神宮(じんぐう)」であるが、他の神宮と区別する場合には「伊勢の神宮」と呼ぶ事もある。

最高位の神社だから「伊勢」の地名が付かない「神宮(じんぐう)」と呼ぶ形式は、皇室に氏姓・苗字が無い事と同様の意味が在るのではないだろうか?

伊勢の神宮は、我が国最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る最高位の神社で、今も昔も大和民族の信仰を集めて居る。

この地に最高神を祀った理由は、この地が機内の王城の地(飛鳥・奈良・京都)に近く尚且つ東から日が昇る土地だったからで、伊勢の国(三重県)と日向の国(宮崎県)は「東から日が昇る」と言う地理的な共通性である。

天孫降(光)臨伝説と神の威光で統治する我が国(大和朝廷)にとって、東から日が昇る地が太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る相応しい土地なのだ。

伊勢神宮は、天武天皇(第四十代)とその妻・持統天皇(第四十一代)が造営した日本最大の神宮(本宮)である。

その天照大神(あまてらすおおみかみ)を主神とする伊勢神宮には二十年に一度の式年遷宮と言う儀典がある。

それは神宮の若さを保つ為に持統天皇が発案した「本宮を二十年ごとに隣の敷地に建て替える」と言う千三百年間受け継がれた儀典である。


伊勢の神宮には大和民族の最高神、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が鎮座している。

推測するに、天の一族の発祥の地もまた「日向の大地」だったのではあるまいか。

真東の海の向こうから太陽の上る地「日向」、この地理的条件を満たす所で畿内の大和朝廷に近い所が紀伊半島伊勢の国である。

初期の朝廷の所在地と思われる筑紫平野と日向の位置関係は、そっくり大和、伊勢に移し変えられるのだ。

伊勢の神宮が伊勢に鎮座ましますのは、けして偶然ではない。

天照大神の鎮座するに最高のロケーションは、故郷の日向に似た所でなければ成らなかったのだ。

こうした解説を踏まえて、方位のしっかりした日本地図を見ると、誰でもすぐにそれと判る。


伊勢神宮には、地元の神々を祀る外宮(げぐう)と天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(ないぐう)がある。

伊勢神宮・外宮(げぐう)には大和の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と伊勢の地元の神々を融合する役割がある。

その外宮(げぐう)と内宮(ないぐう)を総称して伊勢神宮と呼ぶ。

この辺りに、大和の勢力が伊勢を飲み込んで勢力範囲を拡充して行く上での施政術の一端が垣間見える。


そして東にもう一ヵ所、この紀伊半島に良く似た条件を持つ半島、伊豆国(いずのくに)がある。

東に日が昇り、黒潮の流れに乗って須佐王が訪れるに相応しい土地柄で有る。

後ほど詳しく記述するが、伊豆に起源を発する古代の謎の有力豪族、「臣王・葛城氏」の初期の支配エリア(本拠地)が、この伊豆国(いずのくに)である。

朝鮮半島の言葉・朝鮮語(韓国語)で、伊都国の伊都も「イェヅ」と発音する。

「イェヅ」と「伊豆(イズ)」、何か音が似てないだろうか?

伊は「イェー、イェ」と発音し「遠い」と言う意味があり、都は「ヅ」と発音して集落の意味を持ち日本語(列島の言葉)の豆(ズ/まめ)の「ズ」とは音が似通っているのである。

ちなみにこの伊都国(イェヅグゥ)、「遠に位置する集落の国」と言う解釈に成る説がある。

不思議な事に、この半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、枚挙に暇の無いほど古代王城(都)の地(紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯)と所縁(ゆかり)の同じ地名が点在している。

天城山(あまぎさん)と言う連山(天城連峰)の呼び名も、天上の城を意味するものであり、「天の何々命」と書いて「あめの何々みこと」は、神話の呼び名の基本で有る。

そして、「天の葛城が天城の意味」とは考えられないだろうか?

天(あめ)の名が付く山は、本来の約束事は神の光臨する山である。

これらの名前は、誰が何時の時代に付けたものだろうか?

伊豆の名の謂れであるが、古事記の日本神話に登場する神で、伊豆能売(いづのめ・いとのめ)と呼ぶ神が記述されている。

神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「天(あめ)」の文字や、「神」「命(みこと)」などの神号はつけられていない。

勿論、「いず」と読むのか「いと」と読むのかは判らない。

しかしながら、神号が付かない事から、最初は須佐王と同様に「異なる部族だった」と考えられる。

この伊豆能売を、神道系の宗教では伊都能売神(いとのめかみ)と表記する事もある。

豆は、半島の言葉(ハングル)では「ト・トゥ」で、中国語(普通語・プウトンホワ)でも「トゥ」ある。

この事から、伊豆と伊都が同じ意味を持つ可能性がある。

伊豆能売(いづのめ)は日本書紀には登場しないので、古事記系神話の渡来民族の関わりが伺える。

この伊豆の国の話は重要なので、この後の(大化の改新)の記述の中で詳しく掘り下げて説明する。


魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「卑弥呼」と言う女王がいた。
治める国は、邪馬台国(やまたいこく)である。

邪馬台国(やまたいこく)は、わが国の古事記と日本書紀に記述がなく、中国の「魏志倭人伝に記述が在る」と言う謎の国で、その地が何処に在つたか、未だに学者達は論争の最中である。

魏書(魏志倭人伝)の記述に拠ると、邪馬台国・卑弥呼の記述は・・・、

始めて一海を渡る千余里(始度一海千餘里)、対馬(つしま)国に至る(至對馬國)、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、離島の島で(所居絶㠀)、広さ四百里余りの島で(方可四百餘里)。土地平坦で無く森多く道は獣道で(土地山險、多深林、道路如禽鹿徑)。戸数は千戸余り(有千餘戸)。良い田無く海産物を採って生活している(無良田、食海物自活)、乗船南北市糴

と、対馬(つしま)国の事から始まっている。

また南へ一海を渡る千余里(又南渡一海千餘里)、名曰瀚海、一支国に到る(至一大國)とされ。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。広さ三百里余り(方可三百里)。多竹木叢林。戸数は三千戸ほど有る(有三千許家)。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

この一支国を壱岐島(いきのしま)とする説があるが、対馬国が現在の対馬であれば、対馬国から南へ一海を渡る千余里の記述には「長里使用説(400〜500m)」また「短里使用説(75m〜90m)」のいずれでも一致しない。

また一海を渡る事千余里(又渡一海千餘里)、末廬(まつら)國に至る(至末廬國)。四千余戸あり(有四千餘戸)、山海に浜(そ)うて居る(濱山海居)。草木茂盛し、行くに前人を見ず(草木茂盛、行不見前人)。
末廬(まつら)國の所在は、海岸に沿うている陸地続きの国と比定される。

伊都国にの記述ついては、

「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る(東南陸行五百里 至伊都國)。官は爾支(にし)と曰(い)う(官曰爾支)。副は泄謨觚(せつもこ)と柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う(副曰泄謨觚・柄渠觚)。千余戸有り(有千余戸)、世々王有るも(丗有王)、皆女王国が統属す(皆統属女王國)。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり(郡使往来常所駐)。

これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置であるが、「東南へ陸行」の基点が末廬國かも定かではなく、その決め手が記述の順番とするなら別の記述箇所でまた矛盾が発生してしまう。

伊都国については「九州・糸島半島説が有力だ」と言うが、糸島半島は九州博多湾の入り口に位置し、地政学的にはむしろ上陸地点の方が良く似合う。

所が、水行ではなく陸行で東南へ五百里とあり、上陸地点は不明で起点が判らないがこの事には大きな謎が有り、「短里使用説(75m〜90m)」ならば何故陸行なのかの説明が着かず、「長里使用説(400〜500m)」ならば陸路をかなり行く事には違いない。

しかも末廬國は、一旦糸島半島を通り過ぎた所(福岡県或いは佐賀県)にその所在地を比定されていて、既に記述順と矛盾している。

更に魏書(魏志倭人伝)では、

東南百里、奴國に至る(東南至奴國百里)。官曰兜馬觚、副曰卑奴母離。戸数は二萬餘戸有り(有二萬餘戸)。
東行百里、不弥(ふみ/不彌國)に至る(東行至不彌國百里)。官曰多模、副曰卑奴母離。その戸数千家余り(有千餘家)と百里程度の距離が続き、末廬國(まつらくに)も、伊都国も九州北部の国と比定するのであれば、「短里使用説(75m〜90m)」


を採れば九州北部数キロ〜数十キロの範囲に都市国家がひしめき合って居て不自然である。

そして魏書(魏志倭人伝)の行程はここから大移動が始まり、

南へ水行二十曰で大国の投馬国に至り、(南至投馬国、水行二十曰。)官曰彌彌、副曰彌彌那利。その戸数は五萬餘戸に上る(可五萬餘戸)。

更に南へ水行十曰、陸行一月(水行十曰、陸行一月)で、邪馬臺國に至る(南至邪馬臺國)、女王の都する所(女王之所都)。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸(七萬餘戸)。


この邪馬台国所在地を九州北部と比定する説があるが、それでは「南へ水行十曰、陸行一月」をどう解釈すれば良いのだろうか?

水行十曰、陸行一月は大旅行で、とても邪馬台国の所在地を九州北部の地と比定する事は出来ない。

つまり糸島半島を伊都国と比定すると、明らかに前後の国々の記述とが符合しない。

遺跡その他の物証も少なく、魏書(魏志倭人伝)の記述頼りにも関わらず魏書全体の国々の記述が一致しないのであれば糸島半島伊都国説の確証とは言えず、確信は得られない。

つまり伊都国糸島説を採ると、末廬(まつら)国や不弥(ふみ)国など他の国との位置関係が怪しくなり苦肉の策で九州北部を行ったり来たりの行程にさせなければ成らなくなる。

そこで畿内説や、吉備・出雲説などが出て来るのだが、そうなると伊都国や末廬國の所在地が九州北部とする事も決定的な事には成り得ない。

もっとも我輩は元々魏書には懐疑的で、魏書(魏志倭人伝)の記述にどこまで信憑性があるかさえ不明であり、この「魏書」の記述が正しく正確で在れば邪馬台国と卑弥呼はとっくの昔に特定されていた日本史の筈である。


邪馬台国には、他国(中国)の皇帝が倭国と認め倭王と認め金印まで送った事実がある。

そして広域倭国を念頭に考えると、邪馬台国(やまたいこく)の所在が必ずしも日本列島に限定するものではない事も事実である。

しかし邪馬台国(やまたいこく)の所在を日本列島に仮定すると、記紀神話(古事記・日本書紀)に拠る「神武東遷物語」の狗奴国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の「争いと和合」が鮮やかに符合して来るのである。


弥生時代の出土品・銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅製の祭器で、二世紀代に盛んに創られ三世紀になると突然造られなくなるのだが、この時期が「鬼道(神道)」が旧来の信仰に取って代わる時期と重なっている。

弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示すと言われる奈良・纒向(まきむく)遺跡から大量に出土した桃の種から、中華大陸・魏国から伝わったと想われる「き道(神道)の祭祀が行われた」と推測され、その祭祀を司(つかさど)ったのが「卑弥呼ではないか」と期待されている。

ここで問題なのは、日本の考古学者の大半が最初から「鬼道(神道)が列島民に伝えられた」と解釈し、中華大陸・魏国からの「渡来部族が持ち込んで来た」とは発想しないからである。

魏志倭人伝に登場する卑弥呼は、この「鬼道(神道)を用いて衆を惑わした」と記述在り、「鬼道(神道)」は弥生時代から古墳時代への転換期に「新しい信仰」として「旧来の信仰を駆逐する形で列島に受け入れられた」と解されている。

つまり、もしも「鬼道(神道)」が渡来部族が移民と伴に持ち込んで来たのであれば、卑弥呼は大陸の新しい信仰を持ち込んだ「渡来人」と言う事に成る。


弥生時代(やよいじだい)は、紀元前五世紀中頃から三世紀中頃までにあたる時代で、その弥生時代(やよいじだい)後期の三世紀半ばの頃の魏志(東夷伝・倭人伝)に「倭の女王・卑弥呼」の記述が見える。

記述が見えるのは、二百三十九年の倭の女王による使者派遣に始まり、奉献を請けた魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」として「金印、銅鏡などを授けた」とある。

その後二百四十年代に何度か女王・卑弥呼に関わる記述があり、二百四十七年には卑弥呼の国(邪馬台国/やまたいこく)が狗奴国(くなくに)と対立、武力紛争(戦争?)をしている。

二百四十八年に女王・卑弥呼が死に、男王が擁立されるが混乱が続き、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王と成って「漸く国中が治まった」と書き記されている。

壱与比売(いよひめ)については、所謂天孫三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)の三兄妹の一人・月読命であれば、天照大神とスサノウ(須佐王)も誓約(うけい)の姉弟であるから、月読命が他人ながら神話上に於いて姉妹の契りを結んでも不思議は無い。

卑弥呼以後、邪馬台国が安定した理由は、狗奴国(くなくに)の王(スサノウ/須佐王)と誓約(うけい)を結んだからである。

壱与比売(いよひめ)の「政治の手腕」や「生涯」が無いのは、壱与比売(いよひめ)が邪馬台国の女王を引き継いだ時は、既に狗奴国(くなくに)に敗戦していて壱与比売(いよひめ)の名のごとく「初めて与えた(壱与比売)」の誓約(うけい)の結果である。

つまり邪馬台国・壱与の治世時は、既に狗奴国(くなくに)の属国として後の神武朝に吸収されて居たのである。



邪馬台国や卑弥呼が謎なのは、詳しい記述が列島側の文献に見当たらないからである。

古事記・日本書紀に、「わざわざ邪馬台国や卑弥呼を詳しく書く事が無い」と言う意味は、邪馬台国や卑弥呼が実は渡来前の祖国の伝承か、大和の国が邪馬台国であり、比売大神(天照大神)が卑弥呼であれば、わざわざ別に取り上げる必要は無い。

神話は現実に有った事に、後々の為に政治的な重みを着ける目的がある。

だとするなら、卑弥呼は天照大神と同一人物であり、邪馬台国が高天原で有ったなら、話は合理的だ。

日巫女、日御子、日皇女などが「ヒミコ」と読め、「卑弥呼」が魏(ぎ)の国から見て、卑下した未開の野蛮な属国扱いを前提とした表記であれば、唯一の資料「魏志倭人伝」に登場するのは、日の女王又は日の皇女・ヒミコに、卑の文字を当てたのではないだろうか?

それ故、変身後の戦の神、比売神子(大神)=(ひめのみこ・ひめのおおみかみ)の名が、卑弥呼(ひみこ)と音が似ている事も、説明が付く。

畿内に大和朝廷が成立する前、高天原(邪馬台国)は、九州日向の国に存在した。

そして、海洋民族(呉族)・須佐之男(スサノオ)の命に攻め込まれた大陸山間の稲作系民族(天孫族/加羅族)・比売命(ひめのみこと/邪馬台国・女王)は天の岩戸での手打ちを行って民族和合を果たした。

須佐之男(スサノオ/須佐王)は狗奴国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の和合の後、旧邪馬台国側の民族感情を慮(おもんばか)って大和合の国を「大和国(やまと)」と読ませ、筑紫平野に遷都して都と宇佐神宮を造営する。

それらの歴史が神代の時代を形成していて、少しずつ勢力を伸ばし、その後同じ東海に本拠を置く海洋民族(呉族)系の葛城氏(賀茂氏)と合流して畿内遷都へと向って行く。


神話の世界では有るが、辿って行くと案外本音を洩らしている部分もある。

記述によると、天の一族は隼人族と手打ちを行い、天照とスサノオの間で誓約(うけい)がなされ、「天忍穂耳(あまのおしほみ)の命が生まれた。」とある。

この、誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、スサノオの相手は、卑弥呼の宗女・壱与(いよ)が有力である。

つまり、名前には意味がある。

天岩戸に拠る究極の部族和合・・誓約(うけい)の概念を念頭に推測すると、卑弥呼の後継・宗女「壱与」の読み方は、「一に与える」の贈り名であり、卑弥呼・後継霊媒師として誓約(うけい)を実践する以前は「別の名をかざしていた」とも考えられるのである。


卑弥呼の死後、邪馬台国の混乱を沈めたのは、「壱与(または台与)だ」と伝承されている。

この時、女王・壱与(いよ)は、僅か十三歳とされる。

壱与と言う名前からして、ずばり「始めに与えた」と読むのは強引過ぎるかも知れないが、読めなくもない。

また、その名が「台与(いよ)」説であれば、強引に「邪馬台国を与えた」と読めない事も無い。

その誓約(うけい)で生まれた天忍穂耳(あまのおしほみ)の命の子供が、「可愛(えの)岳にご陵墓が在る」と言われるニニギ(当用漢字がないのでカナ書き)の命である。

このニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)から数えて四代目が「神武大王(おおきみ/天皇)にあたる」とされている為、初期神武朝の始まりは狗奴国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の「和合した国ではなかったのか?」と読めるのである。


日本神話に登場する木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は姫と付くから女神で、姫が尊称であれば、コノハナノサクヤ(木花開耶)までが名前である。

このコノハナノサクヤ(木花開耶)の別表記として「古事記」では木花之佐久夜毘売、「日本書紀」では木花開耶姫と表記する。

また、「古事記」では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、「日本書紀」では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。


この木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、天照大神(アマテラス)の孫である天孫ニニギノミコトの妻とされる。

そして長寿の神々と比べ、天孫ニニギノミコトとその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くない理由をこう伝えている。

日向国に降臨した天照大神の孫・天孫ニニギノミコトと、笠沙の岬(鹿児島県川辺郡笠沙町にある野間岬)で出逢い求婚される。

この出会い伝説は、宮崎県、鹿児島県内にも伝説地が存在する。

咲耶(さくや)の父・オオヤマツミはニニギノミコトの求婚を喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出した。

処が、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚する。

オオヤマツミはこれを怒り、

「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけい)を立てたからで、コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」

と告げたとされる。

つまり「記紀神話(天孫降臨)」では、天皇の寿命が人間に近い訳を天孫であるニニギノミコトがイワナガヒメを娶らなかったからと理由付けているのだ。


此処で筆者が指摘したいのは、「天孫降臨伝説」に於ける「誓約(うけい)」の解釈でである。

記紀神話では「誓約(うけい)」を「占い」と記述している事だが、筆者の解釈では「誓約(うけい)」は男女の性交を通じた部族和解の神事と解釈している点である。


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。

咲耶(さくや)は疑いを晴らす為、誓約(うけい)をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。

この三柱の内、ホオリの孫が初代大王(天皇)の神武大王(じんむおおきみ・天皇/ヤマト・イワレヒコ)である。


勿論、弥生期以降の富士山について、日本神話に登場する天照大神(アマテラス)の孫である天孫ニニギノミコトの妻・木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神話が、富士山信仰の主役である。

富士山信仰の主神とされる「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」には「カムアタン」の古事記・別称があり、カムアタンのアイヌ語訳は「今座る神」、つまり現人神(あらひとがみ)である。

現人神(あらひとがみ)・「カムアタン」の出自は、薩摩国阿多郡阿多郷の阿多隼人の出身であり、「その首領の娘」と言うポリネシア系縄文人の意味を持つ。

「アタン」は、ポリネシア系縄文人が薩摩隼人として定着(座)した薩摩国阿多郡阿多郷(現在の鹿児島県南さつま市金峰地区周辺)の事の表現であるとされている。

そして隼人族は、征服渡来部族以前から九州南部に勢力を持ったポリネシア系縄文人の有力部族だった。


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約千三百社の浅間神社に祀られている。

火中出産の説話から、咲耶(さくや)は火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られる。

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は富士山に鎮座して祀られるようになり、東日本一帯を守護する事となった。


ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は水の神であり、噴火を鎮める為に富士山に祀られたとしている。

また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされており、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)にちなんで桜の木をご神木としている。

富士山麓忍野八海の湧池は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)にゆかりの池として、毎年行う木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の祭りで神輿をこの池の水で洗い浄める。

さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田(現在の鹿児島県霧島市)の茂穂をもって、今日の甘酒とされる天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話がある。

この説話から、オオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)はサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされる。

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市など)に、祀られている。

また咲耶(さくや)は、酒解子神として梅宮大社(京都府右京区)に、また、伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石神社にも姉のイワナガヒメと共に祀られている。



やがて、天の一族・隼人族連合は、西日本統一国家としての大和朝廷に至り、西の端九州から、中央の地「畿内」を本拠地と定めた時、初代天皇、神武大王(おおきみ・天皇)が即位する。

記述によると、即位に当って神武大王(おおきみ・天皇)は九州の「筑紫」の地を発ち、「安芸」から「吉備」を経て「大和」に、入ったとある。

「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。

このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、我輩は考えている。

何故なら、通常使用するに大和の文字は、ダイワとしか読めない。

中国式の発音でも大(タァー)和(ホォ)である。

それを、ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて初めて、「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。

初期の統一大和朝(神武朝)は多数の王家の連合体で、その代表が大王(おおきみ・後には天皇)であるが、本書では便宜上その他の有力部族王を臣王(おみおう)と呼ぶ。

「最初の朝廷が開かれた」とされる飛鳥(あすか・明日香)は、現在の奈良県高市郡明日香村辺りを指す地域の名である。

六百年代後半まで、天皇(大王・おおきみ)の宮はこの「飛鳥(あすか・明日香)の地及びその周辺にあった」とされている。

推古天皇の豊浦宮での即位から持統天皇の代の藤原宮への移転までのおよそ百年間、大王(おおきみ・天皇)の宮が置かれる事が多く「日本の政治の中心地であった」とされる。

地名にちなんでこの期間の前後を含んで日本の歴史の時代を飛鳥時代と称する。

現在では明日香村一帯、或いは学者によってはその近隣までも含んで飛鳥と指し示す事もあるが、飛鳥時代当時はより狭い地域を示すものであった様である。



古事記には、大国主の命(オホナムチのミコト・おおくにぬしのみこと)別名大黒様が、「葦原中国(出雲の国・島根県)を中心に治めていた」とあり、大変な善政で「民も喜び、国も栄えた」とあるのだ。


葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、日本神話に於いて、「天津神(天上の神)が住む高天原(たかまがはら)」と「死者の世界・黄泉の国(よみのくに)」の間にあるとされる現世の世界、即(すなわ)ち日本列島の事である。

葦原中国(あしはらのなかつくに)は、「とよあしはらのなかつくに」とも呼ばれ、単に中国(なかくに)、もしくは中津国(中つ国)とも言う。

日本書紀には、「永遠に穀物が豊かに実る国」と言う意味の豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらの・ちいおあきの・みずほのくに)と言う記載がある。

この記載は、神々の住む天上世界である高天原(たかまがはら)と対比して、人間の住む日本の国土を指すと考えられる。

日本神話によれば、スサノオ(須佐之男・須佐王/呉族・ごぞく/海洋民族)の粗暴に心を痛めた姉の天照大神(あまてらすおおみかみ/加羅族・からぞく/農耕山岳民族)は天岩戸に隠れ、世界は闇と成りてしまい世の中が混乱してしまった。

このため、八百万の神々は協議の結果、スサノオ(須佐之男・須佐王)に千位置戸(ちくらのおきと)を課して「財物、または拷問道具」を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて高天原から追放し、葦原中国(あしはらのなかつくに)に放逐した。

このスサノオ(須佐之男・須佐王)放逐の出来事を、「古事記」では神逐(かんやらい)、「日本書紀」では逐降(かんやらひやらひ)と称した。

日本書紀に於いて、スサノオ(須佐之男・須佐王)の息子である大国主(オホナムチ・おおくにぬし)が国作りに着手、折りしも海路渡来した同じ呉族(ごぞく/海洋民族)のスクナビコナ(少名毘古那)と協力して天下を経営する。

大国主(オホナムチ・おおくにぬし)は、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。

その後大国主(オホナムチ・おおくにぬし)は、天照大神に「出来上がった国を譲った。」とある。

平和に「国譲り(くにゆずり)が行われた」と記述にはあるが、事実関係は、判らない。

真実の処、殺されて乗っ取られたのか、或いは納得して譲る事の出来る相手だったのかは謎である。

この「大国主の命」の治める「葦原の中国」は「中津国」とも呼ばれ、中津の意味を天上の「高天原」と、地下の「黄泉(よみ)の国」の間に位置する故に、「中国(なかくに)」或いは「中津国(中つ国)」と成り、所謂「地上界を指す」とされる説がある。

べっの説では、大国主(オホナムチ・おおくにぬし)は後に、国土を天孫・ニニギ(瓊々杵)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となっている。

それであれば、大国主は地上界の覇者で、少なくとも「古代日本列島の半分近くを統一した大王で在った」と言う事に成る。


これは日本列島統一の、象徴的な話の一つである。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は言うまでもなく有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達を束ねる大王(おおきみ・後の天皇〕の事である。

つまり、日本列島の倭の国々の多くの国主(くにぬし・地方の王)を束ねる者の名称が大国主の命(おおくにぬしのみこと=大王/おおきみ)と言う事に成る。

乱立していた倭の国々の小国家の国主(くにぬし/王)の統一の象徴的な存在として大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の尊称が生まれ、武力ではなく精神世界で結束する為に、天と地下の間「中津国(中つ国)」に、日本列島は成ったのである。


出雲神社は、その大国主の命(おおくにぬしのみこと)が祭られている。

現在に至る今日まで、その大国主を祖先とする末裔が神主として祭司を司っている。

この出雲神社の拝礼作法は、他の神社と違い、「二礼、四拍手、一礼」と成っているが、これが、宇佐神宮と同じであり、全国に二ヶ所しかこの作法はない為、大きな「謎」である。


出雲の国(島根県)の西隣、長州(山口県)の日本海側に、ずばり、阿武郡「須佐町」は在り、「須佐王所縁の地」と考えられる。

須佐町から東へ、つまり出雲方向へ戻ると、島根県簸川郡佐田町に出る。

そこには、須佐之男(スサノオ)、或いは須佐王(?)を祭る小社、須佐神社がある。

須佐之男の命の御霊(みたま)を祭る神社は、「他にはない」と言われている。

実は、紀州熊野に格上の大社・須佐の男神社がある。

しかしこれも、宇佐神宮から伊勢神宮の様に、後に佐田から熊野に移し、「格上げ造営された」と考えたい。

須佐、佐田、いずれの町も日本海側(山陰地方)の対馬海流(黒潮)の流れ沿いにある。

この海流のお陰で、この地方は冬も比較的温暖だと言う。

言わば、海洋民族が上陸し住み着くに「不自然さ」はない。

これらの町や神社は、地理的条件からすると、葦原中国(出雲の国)、或いは大国主の命(おおくにぬしのみこと)の伝承と、同じ地域に当たる。

佐田町の直ぐ東隣は出雲市である。

須佐神社は、ほとんど出雲大社とは同じ地域の立地で、須佐王と大国主の関連性に確信がもてる。

大国主の葦原中国が、須佐王(スサノオ)伝承に繋がりが有っても良さそうだ。


須佐信仰発祥と成った須佐神社の神職を世襲したのは、大国主命の子孫と名乗る須佐族の稲田氏で、「氏(うじ)は稲田、姓(かばね)は首(おうと=かしら)を名乗っていた」と伝えられる。

須佐・稲田氏に関わる古文書の記述を要約すると、出雲国神門川中流域・須佐郷(島根県出雲市佐田町須佐)地方を占めた古代小豪族(国造/くにのみやゅこ・こくぞう)の一つであり、当初は須佐国造と称して「出雲大社の国造家に比した」とも言われている。

しかしながら国造本紀その他に須佐国造は見当たらず、稲田(須佐)氏の系図の真偽に関しては、今の所解明が為されて居ない為に誠に頼りない伝承である。

出雲国・須佐郷は四周を山に囲まれた箱庭のような小盆地で、須佐神社はその中央部を流れる須佐川のほとりに鎮座し、須佐郷の大神というべき須佐能袁命(すさのおのみこと)を祀っていて、風土記の「須佐社」、延喜式の「須佐神社」である。

「出雲風土記」に於いて、

須佐郷、郡家の真西十九里である。神須佐能袁命(かむすさのおのみこと). が詔(みことの)りして、「この国は小さい国だが住むに良い土地である。だから私の名は木や石につけるべきではない」と仰せられて、自らの御魂を鎮め置かれた。そしてただちに御名代として大須佐田・小須佐田を定められたから須佐と言う、ここには正倉(しょうそう)がある。

と記されている。


八岐大蛇(やまたのおろち)伝説は、古事記・日本書紀に記述が残る須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に関わる伝承で、その伝説の舞台となったのが、須佐之男(スサノオ)縁(ゆかり)の地・出雲国を中心にした山陰地方一帯である。

高天原を追放された須佐之男(スサノオ)が降り立ったとされる地が鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)とされる天孫降臨伝説を、日本列島への渡来と解釈し、降り立ったが上陸したであれば高天原は出立の地である。

須佐之男(スサノオ)降臨の地が島根県東部および鳥取県西部を流れる一級水系・斐伊川(肥河/ひのかわ)上流の鳥髪(とりかみ、現・奥出雲町鳥上)の地で、阿武郡・須佐町と出雲国(現・島根県簸川郡)佐田町・須佐(須佐神社)に近いのだ。

その辿り着いた鳥髪(とりかみ)の地で、斐伊川(肥河/ひのかわ)の川上から箸が流れて来た事から須佐之男(スサノオ)が川を遡ると、美しい娘を間にして老夫婦が泣いているのに出食わす。

夫婦の名はオオヤマツミの子・アシナヅチとテナヅチであり、娘は櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)と言った。

元々は夫婦に八人の娘がいたが、毎年、古志から八岐大蛇(ヤマタノオロチ/八俣遠呂智、八俣遠呂知)がやって来て娘を食べてしまう。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の住む「古志」については、越国(こしのくに)説、出雲国古志郷説、吉備地方を古志としていた説などが考えられる。

今年もオロチのやって来る時期が近付き、最後に残った末娘の櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)も「このままでは食べられてしまう」と泣いていた。

須佐之男(スサノオ)は櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)が美しかったので、比売(ヒメ)を妻として貰い受ける事を条件に、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を請け負う。

櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)を隠す為、須佐之男(スサノオ)は比売(ヒメ)を櫛に変えて自分の髪に挿し、アシナヅチ・テナヅチの両親に強い酒(八塩折之酒)を醸し、垣を作って八つの門を作り、それぞれに醸した酒を満たした酒桶を置くように言う。

準備を終えて待っていると八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が遣って来て、八つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。

やがて大蛇(オロチ)が酔ってその場で寝てしまうと、須佐之男(スサノオ)は十拳剣を抜いてオロチを切り刻んだ。

須佐之男(スサノオ)が大蛇(オロチ)の尾を切り刻んだ時、ガチンと剣の刃が欠ける。

剣で尾を裂いてみると大刀が出て来たので「これは不思議なものだ」と思い、天照大神(アマテラスオオミカミ)にこの大刀を献上した。

この時大蛇(オロチ)の体内から出て来た大刀が、三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

見事、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した須佐之男(スサノオ)は、櫛として髪に挿していた櫛名田比売(クシナダヒメ/奇稲田姫)を娘の姿に戻し妻に娶る。

須佐之男(スサノオ)は、比売(ヒメ)と暮らす場所を求めて出雲の須賀の地へ行き、そこで「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠んだと伝えられる。


櫛名田(クシナダ)の櫛(クシ)は髪飾りで、天宇受売(アメノウズメ)の宇受売(ウズメ)も髪飾りを意味し、この頃の神話女性には象徴的に髪飾りが登場する。

また、須佐氏(すさうじ)=稲田氏(いなだうじ)に拠れば、櫛名田比売(クシナダヒメ)の別名・奇稲田姫(クシ・イナダヒメ)が見事に符合して来るのである。


国造(くにのみやつこ・こくぞう)は、律令制が導入される以前の初期大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態の一つで、訓読みの「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)は読んで字のごとく国の造り主で、国主(くにぬし)とも呼ぶ。

国造(くにのみやっこ・こくぞう)或いは国主(くにぬし)のいずれの呼称に於いても、初期の日本列島が多くの部族国家の林立する状態だった事を意味している。

しかし、大和(やまと)朝廷王権成立以前の日本列島は、渡来部族の武力に拠る支配地切り取りから始まった地方豪族国家の小国群が乱立していた為、国造(くにのみやつこ)制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていない。

国造(くにのみやつこ・こくぞう)は、大和(やまと)朝廷王権(大王/おおきみ=大国主)の行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国が示す範囲は律令国が整備される前の地方豪族国家(国主)の行政区分である為、はっきりと判明していない。

元来、その地域の豪族(国主)が支配していた領域が「そのまま国として扱われていた」と考えられている。

そうした地域豪族(国主)支配の経緯から、律令国制整備の時点で国造(くにのみやっこ)の定員も一人とは限らず、須佐氏=稲田氏国造と出雲の国造の様の様に一つの国に複数の国造がいる場合も在った様である。

大和(やまと)朝廷王権への忠誠度が高い県主(あがたぬし)とは違い、元々は国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族が大和(やまと)朝廷王権に服した時に、そのまま国造(くにのみやっこ)に任命された。

その国造(くにのみやっこ)に任命された地方の有力豪族に臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていて、その為軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。

国造には、東国の国造のように部民や屯倉(みやけ)の管理なども行っていたり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、紀国造などのように外交に従事したりした事などが分かる。

また、筑紫の国造(筑紫王)のように北九州を勢力下に入れ、大和(やまと)朝廷王権に反抗する者もいた。

この地方有力豪族国造(くにのみやっこ)も、大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。

また国造が治めていた国は、時の経過とともに整理・統合、あるいは分割されて行き、律令国に置き換えられて行った。

ただし学者によっては、この国造(くにのみやっこ)の下に県(あがた)があり、「かなり整備された国県(くにあがた)制があった」とする見解もある。

また県主(あがたのぬし)は、古い時期に大和朝廷(ヤマト王権)に合流した豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。


律令制が導入される以前の大和朝廷(ヤマト王権)の職種・姓(かばね)の一つに県主(あがたのぬし)がある。

県(あがた)は大和朝廷(ヤマト王権)が直轄する地方行政区分の一つで、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われているが、古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。

しかしながら、県(あがた)の詳細は律令国が整備される前の行政区分である為、明確とはしていない部分が多い。


県主(あがたのぬし)の「ヌシ」の称号は、国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古く、在地首長の子弟が勤める一種の朝廷出仕・「名代(なしろ)・子代(こしろ)の制」よりも古めかしい奉仕形態をとる事から、「古墳時代初期(三〜四世紀)頃に成立した」と考えられている。

地方の豪族がそのまま任じられたと言われている国造(くにのみやつこ)とは違い、県主(あがたのぬし)は大和朝廷(ヤマト王権)への忠誠度が高い事から、大和朝廷(ヤマト王権)支配体制の代権者として「その地方を治める体裁に在った」との考えも見られる。

県主(あがたのぬし)は西日本に集中し東日本には少なく、大和朝廷(ヤマト王権)の支配が確立する時期が遅かった東日本では、ヤマト王権に帰属した豪族達にその支配地域をそのまま治めさせ、ほぼ全権を委任する国造(くにのみやつこ)として据え置かれたと見られている。

その東日本に対し、朝廷(王権)の確立が早かった西日本では豪族の支配地域を大和朝廷(ヤマト王権)が掌握する支配体制の整備が早くから行われた為、「県主(あがたのぬし)が西日本に多かった」と考えられる。

ただしそれは、姓(かばね)・県主(あがたのぬし)がいつの時点で大和朝廷(ヤマト王権)・大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の臣下となったかで、県主(あがたのぬし)の地位はまったく違う見方に成る。

異説として、小国家群・倭の国々の内で特に有力な国主(くにぬし/臣王)の中から大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)が選出される。

その西日本に大和朝廷(ヤマト王権)が成立した時点で、西日本と政治の中心となる機内周辺に県(あがた)を設け、一部が国替えまたは賜領して県主(あがたのぬし)に成った事も考えられる。

八色の姓(やくさのかばね)の導入や律令制度が導入された後も姓(かばね)自体は存続していた。

近代に到っても県主(あがたのぬし)の姓(かばね)が使われている例があり、京都・賀茂神社の鴨県主(かもあがたのぬし)家などが主要な例である。


古くは須佐神社の社地は「北の宮尾山に在った」と伝えられ、鎮座の年代は明かではないが既に中世には現社地に降りていたらしく、「十三所神社」「十三所大明神」、近世には「須佐大宮」と称していたが、明治維新後の「延喜式」にもとづいて「須佐神社」とされている。

主祭神は高天原神話(たかまがはらしんわ)と出雲神話(いずもしんわ)とを結ぶ神としての性格をもたされている須佐之男命で、スサノオは古事記では「須佐之男命」、日本書紀では「素戔鳴尊」、風土記では「須佐乃乎命・須佐能烏命・須佐能袁命」と書かれている。

記紀神話によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子神えあり、天照大神の弟神としては天神系、大穴持命(おおなもちのみこと)の父祖としては地祇系(ちぎけい/征服者が祀る神・征服者が祀られる神)の性格を持つ。


葦原中国(出雲の国)の最大の勢力範囲は、「山陰、北陸、越、信濃に及んだ」とある。

正に、古代の大国である。

その日本海沿岸を主力地盤とする大国は、黒潮海流の流れと符合する。

つまり、出雲の国に須佐族(隼人族)が居た事に成る。

もしかすると、大国主と、須佐王の両者は同族か?

それであれば、辻褄が合う。

一説には、須佐王の六代目が、大国主の命と言う記述もある。

隠された神話の歴史の中に、「国譲り」の真実があるのかも知しれない。

この大国主の国譲りで、九州から畿内までの西日本は、ほぼ統一された。

大胆に推測すると、大国主が平和裏に国を譲ったのが本当なら、須佐王または須佐王の血族関係が、大きな役わりを果たしたのではないだろうか。


出雲大社(いずもおおやしろ・いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。

正式名称の読み方は「いずもおおやしろ」であるが、一般には主に「いずもたいしゃ」と読まれる。

出雲大社(いずもおおやしろ)の社格は、式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社である。

現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠(祖廟)である。


古代より江戸時代まで杵築大社(きづきのおおやしろ・きづきたいしゃ)と呼ばれていたが、明治維新後の千八百七十一年(明治四年)に出雲大社(いずもおおやしろ)と改称した。

杵築大社(きづきたいしゃ・きづきのおおやしろ)は、「古事記」、「日本書紀」。「出雲国風土記」などにその存在が記載されている。

杵築大社(きづきたいしゃ)の祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)で、千百四十二年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。

千八百七十一年(明治四年)に明治政府により官幣大社に列格の後、大正時代に天皇により勅使が遣わされる勅祭社(ちょくさいしゃ)となった。

神無月(旧暦十月の異称)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われ、為に神はその各地に居なくなり「神無月(かんなづき)」となるのだが、出雲だけは神在月(かみありつき)である。

出雲大社(いずもおおやしろ)の伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言える事は、天津神(大王/天皇)の命によって、国津神である「大国主神の宮が建てられた」と言う事である。

その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代に於ける国家的な事業として行われたものである事が伺(うかが)える。

また、杵築大社(出雲大社)の社伝に於いては、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)の時が第一回、斉明大王(さいめいおおきみ/重祚して第三十七代天皇)の時が第二回の造営とされている。


二拝四拍手一拝の作法で拝礼するが、これは出雲大社(いずもおおやしろ)の他には天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮(いせじんぐう)に次ぐ社格の宇佐神宮(うさじんぐう)だけである。

出雲大社(いずもおおやしろ)は、明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家(いずものくにのみやっこけ)が祭祀を担って来た。

現在の宮司は八十四代国造(くにのみやっこ)・千家尊祐(せんげたかまさ)で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格する。

千家尊祐(せんげたかまさ)は、二千二年(平成十四年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。

また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。

現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。

約六十年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開される事がある。


後の大和朝廷の有力氏族(臣王家)に、和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)、安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)と言った名が連なっている。

この頃は、和邇(わに)氏が最有力の氏族で、この和邇氏を指す様な伝説がある。

遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい真実がそっと隠されている事が多い。

ワニ(クロコダイル)は本来日本に馴染まない為、伝説に成るのが不思議だが、有名な伝承が存在する。

葦原中国時代の出雲伝説には、ワニ(和邇)を「ずる賢く」騙した白兎(しろうさぎ・宇佐岐)が、ワニに逆襲され、大怪我をした事から、「大国主の命が、白兎を助ける物語」を描くものがある。

和邇(わに)氏とのこの一致は、氏族間の争いを描いた「独特な歴史の表現」なのか、それとも何らかの「政治的狙い」が有ったのか?

この伝承、ワニでは不自然なのでサメに姿を変えて現在に伝わっている。

和邇臣王は「奴国王の後裔」と言われているが、本宗家の和邇(珥)臣王家は、五百七年継体大王(けいたいおおきみ・第二十六代天皇)・(継体新朝)の頃までに絶えている。

これが因幡(いなば)の白兎(宇佐岐)伝説と関わりが在りそうだ。

或いは継体新朝には組さない旧体制の臣(豪族)王だったのか?

この因幡(いなば)の白兎伝説のうさぎ・・「宇佐岐(うさぎ)」と言う名の「百済系弱小氏族」に行き当たる。

宇佐島の神の名も「宇佐岐(うさぎ)」であり、前述した宇佐神宮と出雲神社の礼拝様式の共通性は、ここら辺りに有るかも知れない。

宇佐神宮が、限りなく神社の最高位に近い神社である事の意味に、関わりが在りそうで有る。

これは余談だが、当時の月を基本とした暦(こよみ)、太陰暦と関わりを持ち十二支の一に数えられる兎(ウサギ)と、月の神・月読命(つくよみのみこと)や宇佐岐氏などの存在に影響されてか、「因幡の白兎伝説」は生まれた。

その「因幡の白兎伝説」をベースにした信仰が広がり、狛犬(こまいぬ)像代わりに兎(ウサギ)像を社殿前に設置するなど兎(ウサギ)を神の使いとする神社は日本中にかなりの数に登る。


この日本史上有名な人物である「大国主の命」は、実は単数の人名でなく「職名(地位名)だ」とする歴史家の意見も存在する。

つまり王の中の王を意味し、葦原中国(出雲の国)統一大王を呼ぶ名であれば、地上界を中国(なかくに)または中津国(なかつくに)とするのも頷ける。

大国主が、倭の国々の統一途中の大王(おおきみ)だったのではないだろうか?


「古事記」によると、四世紀・古墳時代の前期の頃、大国小国の「国造(くにのみやつこ)を定めたまい」、また国々の堺、及び、大県(おおあがた)小県(おあがた)の「県主(あがたぬし)を定めたまう。」とある。

大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ)=帝(みかど)、国造(くにのみやつこ)=国主(くにぬし・こくしゅ)=国守(こくしゅ・くにかみ)、県造(あがたのみやっこ)=県主(あがたぬし)、郡造(こおりのみやっこ)=郡領(こおりのみやっこ)などが上げられる。

だが、造(みやつこ)と言う名称から、ただの行政府(庁)ではなく、開発庁の役目も負っていた事が窺える。

この古墳時代の前期と言う初期の王朝が、それほど広範囲に支配が及んでいたとは考え難いので、服属させた大和王朝周辺の豪族を県主(あがたぬし)として任命把握し、県主(あがたぬし)によって支配される領域を県(あがた)と呼んだのではないだろうか。

それが国主(くにぬし)達の合意に拠る「倭の並立五王達」の合併で弾みが付き、西日本統一王朝(大和朝廷)へと膨らんだのではないだろうか?

そうなると、大国主は何人居ても不思議ではない。

宇佐岐(ウサギ)氏が、実は大国主に出世し、宇佐神宮を造営する事もあるだろうし、須佐族の王が大国主を名乗っても良い事になる。

こうした発想を基に、断片的な状況を判断して行くと、古文書・伝承の中に、解き明かす手掛かりが、浮かんで来るのである。

宇佐神宮の宮司を勤める宇佐氏は、その地の土豪として永く栄えた家柄だが、宇佐岐(ウサギ)氏との関わりが濃厚である。

ここで浮かぶ疑問は、宇佐と須佐である。

この二つ、もしかすると「同一ではないのか」と言う疑問である。

或いは宇佐王が、神話の世界で三番目の神になる時、実際の宇佐では都合が悪いので「須佐王とした。」とも考えられ、中国(呉の国)式に、「是宇佐(うさです)」を発音すると「シーウサ」であるが、中国独特の巻き舌音では「スゥウサ」に聞こえ、それが呉国系の発音に成ると特に激しいのだ。

須佐王が中国福建省辺りからの呉族系渡来部族の長であれば、「是宇佐これ(うさ)なり」が福建語中国発音で「シゥウサ・スーウサ」となり、スサノウが是宇佐王(これはうさおうなり・須佐王/須佐之男)と発音されても違和感がない。

そして大国主(大王/おおきみ)が宇佐氏自身であれば、宇佐氏が有力国主(王)の和邇(わに)氏を従え大国主(大王/おおきみ)に成った経緯が「ワニ(鮫?)と因幡の白兎」の伝承であり、それであれば出雲大社と宇佐神宮だけに共通する特異な「二礼、四拍手、一礼」の参拝作法(様式)が残っている理由が説明出来るのである。


須佐王にも、宇佐神宮にも、宇佐岐氏にも共通するのが、須佐の「佐」である。

この「佐」に、我輩は注目した。
人の左と書く。

官位に、武士が衛府に任官(督・佐・尉の三官)する官位、佐衛門之尉(さえもんのじょう)佐兵衛佐(さひょうえさ)などと言うのが有る。

旧日本軍では、佐官、尉官が有る。

これも元々は大和朝廷の官位・督(とく)・佐(すけ)・尉(じょう)から来ている。

昔(明治の末まで)、人が横に並ぶ時「左側が、上席」と定められていた。

皇室でも、大正天皇の即位の礼の祭に、西洋式に合わせる以前は、両陛下が並ばれた時の、天皇の立ち位置は、皇后の左であった。

昔の官位に置ける大臣でも、左大臣、右大臣では左大臣の方が上席である。

左を上席とする証拠で最有力なものは、神話にある三貴神(うずのみこ)の生まれ方の事ある。

イザナギの神がみそぎをして、その左目より「天照大神」右目より「月読命」、鼻より「須佐之男命」の順と言う事に成っている。

この場合も、最高位の「天照大神」は、正しく「左」目からである。

須佐王の「佐」は、当時相当な位を意味していたのかも知しれない。

何しろ、人間より左なのだから。

或いは反対に、須佐之男(須佐王)に佐の字が付いていたから「左が上席」と成ったのか、しかしこれは考え難い。

誓約(うけい)には、建前と本音があった。

本来の目的は、民族、部族の同化である。故に、純粋血脈の存在は認め難い。

須佐王が壱与比売(いよひめ)を狙わなければ、須佐王と卑弥呼は睦まじき夫婦でいられた。

しかし、須佐王には壱与の貞操を狙う必要が有った。

我輩の推測では、壱与比売は月読の命(ツクヨミ・つきよみのみこと)である。

同一人物だが、その運命「始めに与えた」により、「壱与比売(いよひめ)」と呼ばれた。

一族の祖は大陸より来たりて朝鮮の任那(みまな)を経て、壱岐島に渡り、日向に国を興す。

月読神社は壱岐島に有る。

隼人と天(あめ)一族の王の血が混じ合わねば、後に禍根を残す事になる。

放って置いて、壱与比売(いよひめ)に「紛れなき天の血筋」の皇子(みこ)生まれるは、争いの元となる。天一族の全ての王族の血に、隼人の血を注ぐのが須佐之男(スサノオ)の謀り事だったのだ。

この誓約(うけい)の概念こそ、この物語の本質かも知れない。

この誓約(うけい)の概念が、実はその後の二千年の永きに渡り、日本の民の形成に大きな影響を与えて行くのだが、それはこの物語で追々記述する事になる。


卑弥呼亡き後、邪馬台国に立った謎の男王とは須佐王の事だった。

須佐之男(須佐王)は王位を壱与に譲り、自分は芦原中国(あしはらなかつくに)を興し、後に、その子「大国主(おおくにぬし)」が、須佐王と壱与との皇子に葦原中国を譲り、国がひとつになる。

神話の伝承によると、須佐之男(スサノオ)には、八人の子が居る事に成っている。

男神は五人で、八尺勾玉(やさかのまがたま)から生まれ出でた。

女神は三人で、十拳剣(とつかのつるぎ)から生まれ出た。

男神のうち、天忍穂耳(あめのおしほみ)の命は、どうやら比売の命の皇子(みこ)の様である。

あとは、壱与比売との子なのか。

為政者を神格化する為に神話が作られ、何処までが真実で、どこまでが創作なのか謎だらけである。

その須佐之男(スサノオ)の子供達は、それぞれに神社を設けられ鎮座している。

いわく、男神は天之忍穂耳神(あめのおしほみのかみ)、熊野大神(くまのおおみかみ)、天穂日神(あめのほひほのかみ)などその他二人であり、女神は、三人を総称して宗像之神(むなかたのかみ)と言う。

須佐之男(須佐王)の皇子の神々の神社が、広範囲に渡っているのは、それぞれの土地を治める為の布石と思われる。

須佐之男にこれだけ子がいるのに、天照大神の子とされる記述は、古事記にも日本書紀にも無い。

これは古代王(朝廷)の血の系統が、須佐王の方に移ってしまった事を意味しているのではないのか?

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

大八州(おおやしま・日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八股(やまた)又は八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。

統一、或いは民族和合の為、誓約(うけい)をなしたる後、天一族の民心安んじる為にも、名誉は卑弥呼(天照大神)と壱与(月読命)に与え、「自らは三番目に成った」としたら、隼人族の須佐王は、中々の政治家である。

卑弥呼の抹殺に伴い、男系男子の天皇制を須佐王が成立させるに対し、卑弥呼は天照大神に祭り上げられたのである。


加羅族(からぞく)は、朝鮮半島から日本列島に渡って来た渡来部族であるが、元は中国雲南省辺りの発祥と考えられる農耕山岳民族である。

列島の民のルーツの内、農耕山岳民族(天一族・加羅系)の発祥の地は、遠く「中国大陸南部、雲南省」と言われている。

雲南省の人々の稲作文化、それにまつわる風習、伝承等、数え上げれば限がないほど、日本のそれぞれに共通するものが多い。

その農耕山岳民族(天一族・加羅系)が長い歳月をかけて北上し、中国各地に足跡を残しながら朝鮮半島を南下、任那(みまな/加羅族)国を造り、更に対馬を経て日本列島の山陰地方と九州北部に上陸して集落を築き、やがて邪馬台国を形ち造って行った。

雲南省の家族体系は昔から女系であり、家は女性が継ぎ、男性の夫は生家から通って来る「通い婚」だった。

この「通い婚」の風習は、日本列島に於いて平安初期の貴族社会で見られるものである。

つまり家の主は女性だったから、天一族が農耕山岳民族(加羅系)ならば女系女王(卑弥呼)を頭にいただくのが当たり前ではないだろうか。

その天一族も、朝鮮半島に至るまでに農耕山岳民族(加羅族)として呉の国(今の中国福建省などを中心とした国)などで大陸文明を蓄えてから、陸路や海路を列島に渡って来た様だ。


それに対して、海洋民族(隼人族・呉族系)の発祥は、特定がむずかしい。

呉族(ごぞく)は、中国福建省辺りの発祥と考えられる海洋民族であるが、大元は「ポリネシア群島辺りから中国大陸に沿岸部に移り住んだ人々ではないか?」と考えられる。

インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどの南方の島々の原住民族が、「黒潮に乗って島伝いに北上してきた」とする説が有力で、それが九州南部に早い時期に上陸したのだろうか。

但し勿論、任那(みまな)を部族に拠っては農耕山岳民族系の加羅(カラ)や加那(カナ)とも呼ぶ訳でもあるが一旦朝鮮半島に上陸してかの地に勢力を築き、その一部が部族単位で日本列島に移り来た呉族(ごぞく/海洋民族)も存在したに違いない。

つまり、任那(みまな)の国そのものの国内も農耕山岳民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕民族(加羅族)と百済(ペクチュ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。

一方で、隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達もいる。

今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。

この農耕山岳民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。

この争いの期間が、神代の時代だったのだ。


日本列島に渡来した呉族系海洋民族が九州北部で奴国(なこく)を造る。

その奴国(なこく)が、渡来系ながら部族が違う卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)の邪馬台国(やまたいこく)に一時期は圧迫された。

やがて奴国(なこく)は九州南部で勢力を盛り返して、海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立する。

その狗奴国(くなくに)が勢力を増して九州南部・中国・四国・紀伊半島南部に到る広大な地域を支配し、卑弥呼(比売大神・天照大神)の邪馬台国(やまたいこく)を圧迫する。

この天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐王(須佐之男)の誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱である。

倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。

この海洋民族の王がスサノオ(須佐之男/須佐王)で、やがて両民族和合の為の誓約(うけい)に到って両者が統一を為し、日本列島の西半分が神武朝・大和朝廷の基礎と成った。

つまり天の岩戸伝説は、構築された誓約(うけい)神話なのである。

勿論その誓約(うけい)神話の中の物語に登場する天照大神(比売大神・卑弥呼)やスサノオ(須佐之男/須佐王)は両部族の神格を持った象徴である。

そしてこの呉族系海洋民族国家・狗奴国(くなくに)と言う国名を良く見てもらえば一目瞭然で、大和朝廷が進めた修験道と狗奴国(くなくに)は大きく関わりがある。

伊豆七島から伊豆半島に起こった同じ呉族系海洋民族国家・伊都国(いとこく)が合流し、その指導者・賀茂葛城一族が大和朝廷の重席を担いながら、修験道の指導者となる。

修験道のイメージシンボルは天狗=(てんのいぬ)であり、統治者の都合が良い伝承を振りまいた修験者の目的だった天狗修験道が別名を「犬神様(いぬがみさま)」と言う。

我輩が指摘する「記紀(古事記・日本書紀)神話」など、為政者の権威の為になる情報操作は、ちょうど現代の「インターネットに拠る権威の崩壊」と真逆の位置に在ると理解して欲しい。

つまり現代のインターネット社会が、権威の為の情報操作を困難にして独裁が難しく成るだけに、当時の修験者に拠る「天孫降臨伝説」を紛れ込ませた「記紀神話」の流布は効果的だったに違いない。


日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。

例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?

それなら海彦・山彦の民話伝承も、符合して来るのである。


この時代に、現代では存在さえ定かではない謎の言語「ホマツ・ツタエ」が有ったらしいが、それが呉(ゴ)族の言語なのか、加羅(カラ)族の言語なのか、はたまた先住民・蝦夷(エミシ/原ポリネシア系)族の言語だったかは、定かでない。


日本の神話時代は、日向(宮崎県)の国から始まっている。

侵略部族(王家)の集合体、大和朝廷の創作である。

勿論、神話の創生時代でも日本列島の西半分は、既にその勢力圏に在ったが、東に日が上る日向海岸が、国の始まりにふさわしいからである。



と、まぁ、ここまでの古事記や日本書紀(記・紀)の物語は、国の成り立ち(神代)を史実と虚構をない交ぜにファンタジックに描いている。

しかし、後世の大和朝廷が編纂した古文書群には、その時代の権力者や宗教指導者の意図が反映されており、額面のまま素直に受け取るには難が有るのだ。

天孫降(光)臨伝説は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された「記紀神話(古事記・日本書紀)」から始まっている。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。

つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。

また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。

しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。

ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那加羅の勢力範囲の事である。

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。

どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。

この「記紀神話(古事記・日本書紀)」の天孫降(光)臨伝説を列島の隅々まで遍(あまね)く喧伝した組織が、天武(てんむ)天皇(第四十代)の命を受けて役小角(えんのおずぬ)が組織した陰陽修験組織を、桓武(かんむ)天皇(第五十代)が陰陽寮として正式に朝廷組織に組み入れて天孫降(光)臨伝説の喧伝に活用したのである。


とにかく宗教観と政治思想が加味されると、リアル(現実)な歴史観は導き出せない。

統治に都合の良い「集団幻想」を、意図的に起こすのが国家のプロパガンダである。

統治のみならず信仰(宗教)に於いても、この「集団幻想」は活用されるもので統治目的として信仰(宗教)が併用される事も多い。

この「集団幻想」は危険な要素を含んでいて。

一つ間違えると集団ヒステリーになる。

つまり日本神話は統治の正当性を意図的に作り上げるものであり、その現実を踏まえれば古事記・日本書紀を「正史」とするには難がある。

但し、人間は群れる事で生活して来た。

つまり群れ社会の動物だから、その本能の基点が生きる為の「帰属意識」である。

この「帰属本能」が、哀しいかな時として争いの元凶になる。

地域単位、部族単位、国民単位に対する帰属本能への忠誠心が働き、他地域、他部族、他国民を排除する行動に出る。

未だ征服部族が渡来し続けた古代に於いて、この「帰属本能」を整理するには「神話」と言う「集団幻想」を作り出し、「誓約(うけい)」と言う人種的和合も、信仰(宗教)を活用した「集団幻想」も必要だった現実は認めるべきではある。


壬申(じんしん)の乱のクーデターで皇位についた天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が古事記・日本書紀の編纂を始め、編纂作業と同時期の天智天皇〜桓武天皇の御世にその神話を日本全国に広めた者こそ修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」とその配下の修験者である。

この事実の一致には必然性以外の答えは無い。



元々物書きは、斜(はす)に構えて物を見る。

統治する者に「知られたくない事情」があれば、公式文章の記述から削除するのが当たり前で、「自明の理」と言うものである。

人間が「まさか?」と簡単に考えつかない事だからこそ、謀(はかりごと)は成功する。

ましてや時の政府の公文書は、黒い物でも白いで通る。

古事記・日本書紀は、時の権力者が企てた未来に向かってのトリックではないだろうか?

つまり「記・紀(古事記・日本書紀)神話」は、日本人が「信じさせられた物語」ではないだろうか?

例えば、伝説上の英雄とされる日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)は、幼名を小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)とも呼ばれる。

古事記・日本書紀に拠ると、九州を制覇した景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)の皇子とされ、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)の父とされる人物で、「二世紀頃に存在した」と記されている。

草薙神社(静岡市清水区草薙)は、延喜式神名帳には「駿河国有度郡・草薙神社」と記載され、日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)を祀る神社である。

草薙の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)東征の折、草に火を放たれた尊が、三種の神器の一つ「天叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)」=「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」で草を薙払い難を逃れた地と伝えられている。

しかし実際には、日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)は聖徳太子同様に記紀神話の創作で、四世紀から七世紀頃の数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物とする見方も多く、近年定説化しつつある。

父の景行大王(けいこうおおきみ)に疎まれて遠征を命じられ、九州の熊襲(クマソ)を討ち、東国の蝦夷(エミシ)を平定するなど縦横無尽の活躍をするが、時として大王(おおきみ/天皇)から独立した存在や反抗的な存在にも描かれていて人格が定まらないからである。

つまり日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)は、大和朝廷(ヤマト王権)勢力を伸張して行く過程を象徴的に描いた創作である方が納得出来るのだ。

所が、大阪府藤井寺市の古市古墳群には宮内庁により「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことはくちょうぼ)」に治定される陵墓が存在する。

羽曳野丘陵から東側に延びる低い舌状の尾根に築造された前方後円墳で、墳丘長は百九十メートルを測り周囲には幅約三十五メートルの濠と上面幅二十一メートルの堤をめぐらせている。

つまり定説で創作される人物・日本武尊(やまとたけるのみこと)の「陵墓が存在する」と言う何んともミステリアスな現象は、日本史全体を覆う性質の謎なのである。


「神の威光で統治する」と言う呪術的な建前の発想から出発したわが国の精神世界にあって、陰陽修験が請け負った言わば、統治の為の影の仕事は「汚い仕事」と言う事になる。

しかし、正式に存在させる事が出来ない以上、あくまでも影の存在である。

すると、歴史の陰に隠れて、使命感にうごめく影人が居るのは、当たり前なのかも知れない。

今も昔も同じ真理が働くのだが、都合の悪い存在はこれを認めず、また都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に作文も既成事実化してしまうもので、留意すべきは、たとえ実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や「所謂(いわゆる)常識派」と言われる人々の常套手段なのである。


例えば、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀は、かなり後世に編纂された物である。

これらの歴史書は、反面に於いて、都合の悪い事を抹殺する目的を持っていた。

明らかに、葛城氏、物部氏、出雲系、吉備系、蝦夷(えみし)族は、万世一系の辻褄合わせの為に記録から抹殺されたのである。

そうした「疑わしき古文書」の何を取り上げるかが、これからの研究者に掛かって来るのだ。しかし大和朝廷は、現実の神社などを、その神話の裏付けに成る様に、見事に作り上げている。

そして、侵略部族の長(王及び王族)は、それぞれが神社の神々になった。

神に成った以上、辻褄は合わせねばならない。

それ故、創作を現実のものとして建物に立体化するほど、熱心に作り上げた。
そこには、民をまとめ操る権力者の意図が在ったからに違いない。

突き詰めて言うと、古文書の先入観に拘っては、柔軟な発想が出来なく成る。
大切なのは、周辺をも取り込んだ大胆な発想に拠る考察で有る。

周りの環境におもねる解釈や最初から妖しい文献を鵜呑みにするのは簡単である。

しかし「文献の記述内容が妖しい」と成れば、もう歴史解釈は「状況証拠」を積み上げる推測方法しか「方策が残ってはいない」と、我輩は考えたのである。

所で、我輩と名乗る事に「えらそうだ」と受け取る方が居られるかも知れないが、我輩は「我(われ・私)と言う輩(やから)」の事であり、謙遜なので悪しからず。



神田姓の語源は神社維持に当てられた田=御田(おみた=神田)を由来とし、地名としても全国に多い。

神田姓には、神田宿禰、大伴氏、嵯峨源氏松浦氏流、桓武平氏将門流など諸流多く存在する。

挙げられる第一が神田宿禰(かんだのすくね)である。

神田宿禰(かんだのすくね)の宿禰(すくね)は、八色の姓で制定された真人(まひと)、朝臣(あそん)についで順位三番目に位置する姓(カバネ)の一つである。

宿禰(すくね)は、大和朝廷初期に名前として使われていたり貴人を表す尊称としてもちいられて、つまり神田宿禰(かんだのすくね)は人名であり神田姓(カバネ)の祖である。

神田宿禰(かんだのすくね)は、出雲系氏族が武蔵国豊島郡芝崎村に大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)を祖神として祀った事からはじまる一族である。

武蔵国豊島郡芝崎村の御田(おみた=神田)は伊勢神宮の御神領田地として開かれ、神田明神は神田ノ宮と称した。

この神田ノ宮が、江戸時代の江戸城増築に伴い千六百三年(慶長八年)に神田台へ、さらに千六百十六年(元和二年)に現在地(千代田区外神田二丁目)へ遷座し今日に到る。

神田明神の「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

明神系神社は田の神・事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)を祀る神社である。

日本の元神様は大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)である。

事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)は田の神様(稲作の神)で、大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)の子である。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

織田信長が戦国統一の有力大名の列に加わったのは桶狭間の合戦で今川義元を破ったからで、その時戦勝祈願したのが熱田神宮(熱田明神)である。

熱田神宮(あつたじんぐう)は愛知県名古屋市熱田区にある神社で、旧官幣大社、「式内社(名神大)」である。

織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は別名を織田明神社とされる明神様で、尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は越前国二宮とされる「式内社」で別名を織田明神(おたみょうじん)と呼ぶ。

実は葛城ミステリーの三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説の呉族系神が現れたものである。



さて、この後この物語は飛鳥期に入るが、その前に渡来部族との融合に拠る弥生人の成立過程の証拠として佐伯部民(さえきべみん)を上げる。

佐伯部(さえきべ)は古代日本に於ける支配制度「品部」の一つである。

渡来人部族の集合体・大和朝廷(ヤマト王権)の拡大過程に於いて、中部地方以東の東日本を侵攻する際に捕虜とされた原住民を佐伯部民(さえきべみん)と言い、大和朝廷(ヤマト王権)側からは「蝦夷/えみし・毛人」と呼ばれていた。

その「蝦夷/えみし・毛人」を、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五ヶ国に送り近畿地方以西の西日本に移住させて編成したものが、佐伯部(さえきべ)の発祥とされる。

つまり佐伯部(さえきべ)は、畿内に先住していた蝦夷族の部族長・土公(つちぎみ)=猿田毘古神(サルタヒコ・宇治県主/うじあがたのぬし)依りも遅く、阿倍氏・安倍氏(あべうじ)依りも早くに大和朝廷(ヤマト王権)に降伏編入された縄文蝦夷系の部族の一つかも知れない。


佐伯部民(さえきべみん)については、今の北摂地方に住み着いていた縄文系(蝦夷・毛人)の小国家が、一時大和朝廷(ヤマト王権)から猪名県(いなのあがた)として支配体制に編入された事に始まる。

猪名県(いなのあがた)は古墳時代の大和朝廷(ヤマト王権)の時代に現在の吹田市から尼崎市までの北摂地方に置かれた県(アガタ)の一つで、この猪名県(いなのあがた)が日本の歴史文献「日本書紀」に登場するので、猪名県は奈良時代に成立したとみられている。

日本書紀には、仁徳天皇の頃に「佐伯部(さえきべ)」と言われる猪名県で形成され、近畿に属した大和朝廷(ヤマト王権)の軍隊が仁徳天皇へ馬を召し上げた」と書かれており、古来から猪名県は大和朝廷(ヤマト王権)と密接な関係に在ったとみられている。

この猪名県を支配していたのが、現在の大阪府箕面市石丸に存在する為那都比古神社の豪族であった「為那都比古(いなつひこ)一族」である。

飛鳥時代に起こった中大兄皇子・中臣鎌子らが蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、それに伴う改革である「大化の改新」以前に現在の北摂を支配していた小国家が成立していたとみられ、「為那都比古(いなつひこ)一族」もその一族だった。

その後、それらの小国家が大和合して大和朝廷(ヤマト王権)となった以後の三世紀から五世紀にかけての古墳時代、県(あがた)が成立したとみられている。

猪名県(いなあがた)を支配した為那都比古(いなつひこ)一族は猪名県成立以後も支配を続け、末裔が「猪名県主」として県主となっていた。

猪名県の県主は一切資料が現存しておらず詳細は謎のままであるが、西日本の瀬戸内海一帯に勢力を持った「佐伯部(さえきべ)」が、縄文系(蝦夷/えみし・毛人)の小国家「為那都比古(いなつひこ)一族」の末裔は間違いが無さそうである。


尚、佐伯部(さえきべ)の部民(べみん)の中には、朝鮮から日本へ渡来して来た「高度な文明を持つ者も居た」とも伝えられている。

そして詳しくは別にご紹介するが、平安期に活躍した真言宗開祖・弘法大師・空海は、俗名を佐伯真魚(さえきのまお)と言う。

讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)の間に誕生した子である。



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作者本名・鈴木峰晴