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samurai 【皇統と鵺の影人 第一巻・二話】作者本名鈴木峰晴

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第一巻・二話


未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】

第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那)
・(桓武帝と平安京) ・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
(明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役)
・(皇国史観と集合的無意識) ・(日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第六巻に飛ぶ。】




鵺(ぬえ)と血統
陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第一巻・序章の【第二話】

大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)


(飛鳥)

◇◆◇◆(飛鳥)◆◇◆◇◆

前章で取り上げた神話時代を一般的には「古墳時代」と言い、古墳時代の終末期の五百九十二年、(崇峻天皇五年)から七百十年(和銅三年)の百十八年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指して「飛鳥時代」とする。

これは草創期の十六年間(古墳時代末期)を重ねている為、五百九十三年(推古天皇元年)に聖徳太子が摂政になってから、六百九十四年(持統天皇八年)の藤原京への移転までの、約百二年間を飛鳥時代と称する場合もある。

藤原京(ふじわらきょう)の名称は近代に作られた学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、七百十年(和銅三年)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した十六年間は日本の首都であったが、飛鳥時代(あすかじだい)に含まれている。

その後の平城京の時代を「奈良時代」、平安京の時代を「平安時代」と言う。


飛鳥時代は、現在の奈良県高市郡明日香村一帯に在った大王(おおきみ)の御座所群、つまり多くの期間はこの地域に大王(おおきみ/天皇)の宮が置かれており、「王宮が所在した」と言う意味で飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) と呼称される。

しかし飛鳥京(あすかきょう)は、後の律令国家成立期以後の新益京(藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは違い、京と呼ぶほどの宮都の体裁を成しては居なかった。

つまり「飛鳥京跡」は、飛鳥地域に散在するこれら時期の異なる宮や邸宅、寺院などの建造物、市や広場、道路など都市関連遺跡の便宜上の総称に過ぎない。

ちなみに、飛鳥古京宮群と大王(おおきみ)の御座の関係は下記の通りである。

豊浦宮(推古大王/第三十三代朝)、小墾田宮(推古大王朝、皇極大王/第三十五代朝)、岡本宮(前飛鳥岡本宮、舒明大王/第三十四代朝)、板蓋宮(皇極大王朝、斉明大王/重祚して第三十七代朝)、川原宮(斉明大王朝)、岡本宮(後飛鳥岡本宮、斉明大王朝)、 飛鳥浄御原宮(天武大王/第四十代朝、持統大王/第四十一代朝)とされている。

その存在さえ危ぶまれる「聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのみこ)が居た」とされる時代もこの飛鳥時代だった。

この飛鳥京(あすかきょう)時代に大きな力を持っていたのが最有力豪族と成っていた蘇我氏の、蘇我稲目(そがのいなめ)、蘇我馬子(そがのうまこ)、蘇我蝦夷(そがのえみし)、蘇我入鹿(そがのいるか)と続いた所謂(いわゆる)蘇我御門一門だった。

そして、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らに 蘇我入鹿(そがのいるか)が宮中で襲われた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事もこの飛鳥京(あすかきょう)時代の出来事だった。

飛鳥京(あすかきょう)の末期に即位した天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)には、この章で後述するが、皇統簒奪の疑惑があり、何故かそれまで大王(おおきみ/治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていた大和王権の長が、天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになった。

天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになったのは、この飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を御座所とした疑惑の大王(おおきみ)・天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)が採用したのではないかと推測されている事と、皇統簒奪疑惑が一致しているのだ。

そしてこの飛鳥期、大王(おおきみ)の威光が現実どの程度の力をどの程度の範囲まで届いていたかさえ、まだまだ確定はしていない。



さて、この章の物語は古墳期から始まる。

古墳時代は古事記・日本書紀に代表される神代であり、神話が入り混じって史実の半分も解明されてはいない。

辞書を引くと「倭国(倭の国)は日本国だ」と書いてある。

確かにある一定の時期より以後は「倭国(日本国)」と解される経緯がある。

しかしながらこの件には、納得出来ない異論が我輩にある。

「倭(ワァ)」の文字が、「日本を指している」と定説化されているが、果たして本当だろうか?

結論から言うと、日本列島に渡来人が来て国造りを始めた当初を考察する限り、倭の国=大和の国の結論は元々とんでもない間違いである。

この「倭国解釈」の違いは、同じように後の人々がタイムラグ(時間的ずれ)を考慮に入れないで最終解釈だけを理解している「百姓の意味の変遷」と同じである。


ここで入り口を間違えては先の話が全て不都合なものに成りそうである。

日本列島が最初から「倭の国」と言うこの国の歴史的な誤解も、永い民族的歴史である誓約(うけい)の真実も、所詮帰属意識と建前を優先して綺麗事の強情を張るばかりの「嘘付きの建前主義者」には真実は語れない。

幾ら中華帝国の「公古文書に記載が在るから」と言って、「日本列島=倭の国」は先入観が強過ぎはしまいか?

同じ中華帝国の公古文書にポツリと浮き上がる「日本列島以外の倭と呼ぶ地の存在」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

つまり「日本列島以外の倭と呼ぶ地の存在」と言う隠された事実が在りながら、永く「定説としていたから」と言って安易に広域倭の国論を否定してしまって良いものだろうか?


元々中華王朝側の「倭(ワァ)」は、辺境の地に在る「蛮族の国々」と言う認識だった。

日本語の外(そと)は中国語では「ワィ」と発音し、日本語の倭(わ)は中国語では倭(ワァ)と発音していたが「ワィ」とも発音する。

つまり中華帝国の外(ワィ)に位置し、人に委せる意味の倭(ワィ)は中華帝国側からすれば「未開の地」を指す言葉である。

その未開の地と言う意味の倭(ワィ)を、中華大陸から或いは朝鮮半島から遣って来た渡来人を中心とした大和朝廷(ヤマト王権)が国名に採用する訳も無く、一貫して大和合の国・大和国を自称している。

中文(中国語)で外国をワイゴウと発音する。

日本列島に於ける「大和合」と「誓約(うけい)」は符合するが、中華帝国が言う「倭国(ワィゴウ)」は意味合い上は例え呼ばれても当時の日本列島側が受け入れる訳が無い。

それを、「中華帝国の文献に記載があるから」と言って、倭国(ワィゴウ)を安易に「日本を指す言葉」とする舶来に弱い日本人の感性は如何なものであろうか?


少なくとも、七世紀の始めに 日本列島・大和朝廷の国名を「倭(ワァ)」と呼称するまでは、中華王朝側に「倭(ワァ)」が日本列島・大和朝廷固有の国名として扱った記録はない。


倭人について記した古い紀元初期の中華王朝の文献には【班固の漢書】や【王充の論衡】がある。

だが、 いずれも 一世紀頃に書かれたもので、【漢書】は前漢の事について記し、【論衡】で「倭(ワァ)」が出て来るのは「周の時代」の話になっていて、 いずれも本が書かれた当時の知識を「過去に反映したも」と考えられている。

尚、他 に【山海経】にも「倭」記載があるが、【山海経】は文献そのものに問題が多く、「倭(ワァ)」について記した箇所が書かれた時期が何時(いつ)頃か良く判らず、【漢書】や【論衡】が書かれた時代より後かも知れない。

要するに、紀元前の中国人(中華王朝)が日本列島を特定して「倭(ワァ)」と呼んでいた形跡はない。

即ち倭国論に於いて重要なのは、前期に於ける倭の国々の広域倭国論と後期の統一日本列島倭国論の二つに分類しなければならない事である。


「倭(ワァ)」は、中華王朝・後漢時代(紀元五十七年)に倭奴国王の使いが後漢を訪れた事から、始めて中国人(中華王朝)は「日本列島に関する知識を得た」と考えられる。

この時点で、中華王朝・後漢が記した「倭奴国王」の使いが名乗ったのは、大和合の国「和の国王」だったのであるが、【袁宏・後漢紀(四世紀)】や【范曄・後漢書(五世紀)】には醜いなどの意味を持つ「倭(ワァ)」の文字を充てて記されている。

大和合の「和」は中文では「フゥ、フウヮ、フヮ」と発音する。

実はこの倭人(ワィ)、発音としては中文(ツゥンウエン/中国語)の外(ワイ)にも通じ、如何(いか)にもの感がある。

中華王朝にしてみれば、未開の倭人(ワィ)が挨拶に来たのだから、その「倭人(ワィ)の奴国(なこく)王の使いが訪れた」と記載した訳だ。

要するに中華王朝から見れば、「倭奴国(和の国)」は辺境の地に在る「蛮族」の国だったのである。



中国の史書に倭国が現れたのは、紀元百七年(永初元年)後漢・安帝時代の「後漢書・倭伝(東夷伝)」の下記の記術が初出である。

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

訳すと、後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜ふに印綬を以てす。


尚、この「光武帝賜ふ印綬」が、志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)ではないかと推定されている。

「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」

訳すと、会稽(ホイチー/かいけい/中国・浙江省中部辺り)の海外に東鯷(とうてい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する。


会稽(かいけい/今の蘇州・上海辺り)郡の海の彼方に、二十余国に分かれて、「東鯷(とうてい)の人が居て、朝献していた」と言う記事である。

この「東鯷(とうてい)の人」が、中国・蘇州から東方を指していると解釈すれば、台湾島を指す事になり、北東を指すのであれば朝鮮半島から日本列島を指す事になる。

この文面から、前漢時代に蘇州・会稽(かいけい)の海の先に「東鯷(とうてい)の人の国」が二十余国在った事に成る。

この一文を持って、強引に「この東鯷(とうてい)の人が中国から日本を指していると解釈すれば」とする学者も居るが、「日本を指している」と言う解釈に足りる文面ではない。

つまりこの東鯷(とうてい)の二十余国が、朝鮮半島から日本列島に在った倭の国々の事ではないだろうか?

志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。

だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。

中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。

つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。



中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。

この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。

中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。

前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。

また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。

これは自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。

だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。

この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。

つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。

中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。

そして秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として航海術に巧みな倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。

すなわち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。

中華王朝(帝国)は、近隣国と朝貢(ちょうこう/ちょうけん)で他国と交流し、冊封(さくほう)と言う形で相手国を国際的に認証していた。

朝貢(ちょうこう/ちょうけん)は、「中国の皇帝に対して周辺国の君主(国王)が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与える」と言う中華思想の形式を持って成立する。

形式を踏んではいるが、朝貢(ちょうこう/ちょうけん)は、言わば中華王朝(帝国)の面子を立てた形の実質は国家間貿易の形態である。

また、冊封(さくほう/さくふう)とは、中国王朝(帝国)の皇帝がその周辺諸国の君主とさして実効性の無い「名目的」な君臣関係を結ぶ事である。

だが、これによって作られる国際秩序を「冊封体制」と呼び、後漢の代より日本列島からの朝貢が記録に残り、「倭の五王が冊封(さくほう/さくふう)されていた」と言われる。

しかし倭国(わのくに)は中華王朝側の呼び方で、都市国家もどきの「小国の集合体」である日本列島の倭の国々は、各々が国名を名乗って自らを倭国(わのくに)とは積極的には名乗っては居ない。


天孫降臨伝説と皇国史観に影響された歴史観では、「広域倭の国」の発想は浮かばない。

何故ならば、「日本語のルーツ」と同様に天孫降臨伝説以前の歴史は建前上は「無い事に成っている」からである。

当然ながら縄文人(蝦夷族/エミシ族)と渡来部族との争いの歴史も、単一日本民族説と皇統万世一系説に隠れて日本の古代史から欠落し、中々取り上げられないでいる。


天皇家を含む日本民族は、永い歳月と様々な歴史的経緯を辿って日本列島に形成されたもので、当然ながら最初から単一民族として存在して居た訳では無く、それは朝鮮半島に於ける韓民族(朝鮮族)も同様である。

そうした認識を、帰属意識や信仰などの右脳域の感性を優先してしまうと、具体的事実を検討する能力を停止してしまう事に成り、つまり本来は見るべき事を「意図的に見ない」と言う事に成る。


倭の国は、朝鮮半島と日本列島を含んだ広域の倭人の住む地域の事である。

この「広域倭の国論」、何故か頑なに同族系と認めたがらない半島側と列島側双方の頭の固い学者が、あくまでも「倭の国列島説」を主張している。

どうしても半島と列島の間の海峡に線を引きたがる勢力は、半島にも列島にもまともな国家など無い時代に於いても、頭から「国境が在った」と決めて掛かろうとする。

勿論、右脳域の感性に於いては理解できない訳では無いのであるが、左脳域の理性に於いては、そうした感情論は凡(おおよ)そ現実的ではない。

つまりそうした強引な言い分は、何とも感情的で幻想的なインテリジェンスが無い右脳域の感性だけの話しなのである。


そうした事から、高句麗第十九・代好太王(こうたいおう・広開土王・クァンゲトワン/在位三百九十一年〜四百十二年)の「好太王顕彰碑」に於ける「墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん/拓本)」の内容について、史実を反映していない疑いが強い。

その疑いの為に、旧日本軍による碑文すり替え説や事実を隠蔽する為の「石灰塗布作戦」と言った論争が繰り広げられている。

好太王顕彰碑に拠ると、当時高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の列島側(大和朝廷)からの「派遣軍」と言う事に成っている。

つまり、当時の倭(列島側/大和朝廷)は強い勢力を持ち、百済と新羅を武力制圧して配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦った「酷い侵略者」と言う事に成っているのである。

所が、この時期に列島側(大和朝廷)が「朝鮮半島に軍を派遣した」と言う事実はなく、碑文の解釈、さらには碑の文字に「何んらかの問題がある」とする説が提起されている。

碑文の解釈が「倭の国列島説」に符合しないから強引に「陰謀説」で辻褄合わせをするのだが、「広域倭の国論」であれば、充分に符合するのである。

何故なら、「広域倭の国論」であれば百済も新羅も「半島側の倭の国」だったからである。

広域倭の国論が正しい」とするなら、当然ながら朝鮮半島側にも倭の国々の痕跡は残る。

その半島側の倭の国々の痕跡でも、盲目的に「倭国=日本列島」と思い込んで思考を始めてしまうと、「倭国が半島に勢力を築いていた」と全く正反対の結論を出してしまう。

また韓国の学者が、韓国南部の前方後円墳を持ち出して「倭人の墓か?」と言い出す。

勿論「倭人の墓」ではあるが日本列島から進出して来た倭人ではなく、朝鮮半島側に住んでいた「倭人の墓」なのである。


この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。

多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。

歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。

この間違った考えから、「倭の国=大和の国(日本列島)限定」を導くと、後の説明がまるで付かないのである。



そもそも中華思想とは、中国大陸の覇者、歴代「中華皇帝(ツォンファ、ファンディ)」が統治する中華帝国(ツォンファティゴウ)を世界の中心とし、周辺の国々は「国王(グォワン)」が統治する属国だった。

その帝国周辺の小国家群の内、朝鮮半島から日本列島の西半分に掛けてが倭人達の住む「倭の国々」だった。

しかし半島と列島は、その海峡を隔てた地域特性から、次第に互いの間に統治上の組織分離が進んで行く。

元々「小国群」と言う緩(ゆる)い結びつきだったから、それは容易に進んだ。

やがて朝鮮半島から日本列島の西側にかけて広く広がっていた倭人の国々の内、朝鮮半島側の倭人(倭の国々)は百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)の鼎立割拠する三国(サムグ)時代を経て新羅(シルラ)に統一される。

その頃には、日本列島側の倭人(倭の国々)が武力制圧や合併(誓約/うけい)の道程を経て、大王(おおきみ)を中心とした有力御門(みかど)達の共同統治の国「大和(やまと)朝廷」が形成して行き、統一大和(やまと)の国は成立した。

大陸や朝鮮半島から、新天地を求めて日本列島へ部族ごとに渡り来た征服部族は、元々中華(大陸)文明の現体制から落ちこぼれた「はぐれ者」である。

所が、新天地の日本列島に新しい国(倭の国々)を造っても、形式上は中華(大陸)文明の属国扱いに組み込まれて面白くない。

当初は小さな倭の国々も、侵略や誓約(うけい)により次第に統合が進んで、大きく成った列島側の倭の国々は、「もう、俺達は独立する力を持ったのだ。」と、意志表示する事で合意する。

そこで、中華(大陸)文明の王達の大王(ターワン)=皇帝(ファンディ)に対抗する為、大王(ターワン/おおきみ)=天皇(ティンティ/てんのう)を立て、日本列島の中華文明・皇帝(ツォンファウェンミン・ファンディ)臣従の属国扱いの構図から、対等の大王(おおきみ)を頂く「別の帝国」の構図への体裁を整えたのである。

この大王(おおきみ)には、その即位の経緯から武力統一王ではない特殊な特徴がある。

地域統合が進んだ倭の国々の有力な王達は、中華(大陸)文明風の国家統合の象徴である大王(おおきみ/ターワン)を選び出すにあたって、自分達の勢力を維持する保身の為の基本的条件を出した。

即ち、自分達の武力は維持しながら、大王(おおきみ/ターワン)を即位させるには大王(おおきみ)を、神の威光で統治する武力を保持しない精神的象徴の存在にする事だった。

この大王(おおきみ/治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を天皇(てんのう/すめらみこと)の称号に変え始めたのが、天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)、完全に定着させたのが桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)だったのである。



中華帝国・宋代の朝廷文書「宋書(420〜502頃編纂)」の「倭国伝」に見える倭王(讃・珍・済・興・武)についても、倭の五王と「記・紀(古事記や日本書紀)」に登場する古代天皇との比定の努力が古くからなされているが、まだ確定した説はない。

倭国の五人の王「讃、珍、済、興、武」は、歴代の大王(おおきみ/古代天皇)とも並立していた大王(おおきみ)とも言われて、その「記・紀」の系譜自体に疑問がもたれている。

このそれぞれに使節を派遣して朝貢し、官位を授かった事を「宋書」に記している讃、珍、済、興、武の五王についても、その思考の最初から「倭国=列島の国」と限定して歴代の大王(おおきみ/古代天皇)と比定を試みているが、我輩が提唱する「広域倭の国論」であれば、倭の五王が列島の大王(おおきみ)とは限らない事になる。


半島側に於いても、古代朝鮮に於いて檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、辰国などの伝説的な国の言い伝えは存在するが、それらは日本の古事記・日本書紀の類の記述と同様な後世の創作部分が多いと推論される程度のものである。

実は朝鮮半島も日本列島もまだ中華帝国周辺の小国家群の内で、朝鮮半島から日本列島の西半分に掛けてが倭人達の住む「倭の国々」だった。

史上その存在を確認できる王朝は七世紀中盤の三国(サムグ)時代からで、半島南東部の新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の三か国が鼎立していた。

新羅(シルラ)は、古代の朝鮮半島南東部に紀元前五十七年頃に成立した国で、三国史記の新羅本紀によれば王統が金(キム)氏、昔(ソク)氏、朴(パク)氏とされ、建国神話に於いてこの王系三姓がそれぞれに始祖説話を持っている。

特に昔(ソク)氏に於いては、その始祖説話で「倭人」とされる事から「新羅王は、日本人だった!」と唱える者も居るが、それは大きな間違いである。

これは経時的な視点を無視したもので、広域倭国論では乱立した倭人の小国群が朝鮮半島から日本列島の西半分まで広がっていた時代で現在の人種的な線引きは、半島にも列島にも存在しない。

高句麗(コグリョ)は朝鮮半島北部紀元前三十七年頃に扶餘系民族に拠り成立した国で、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とし、王統は高(コ)氏だった。

日本語で「こま」と称した高句麗(コグリョ)は、中華帝国の隋・煬帝(ヤンディ)、唐・太宗(タイソン)に拠る遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。

百済(ペクチェ)は紀元前十八年頃に成立した国で、百済(ペクチェ)辰王家である扶餘(プヨ)氏は呉人で、中華帝国史上に於ける亡国の民が「半島に逃れて来て建国した」とされる。

百済八姓はいずれも中国亡国の民で百済王家の姓は余氏、百済扶餘氏とも言い呉王家の姫氏、百済の木氏、倭の紀氏はいずれも同族とされる呉人である。

七世紀中頃に新羅は朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。


朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国(サムグ時代)に成り、やがて統一国家「新羅(シルラ)統一王朝」の成立と伴に、中華帝国に於ける倭の国の呼称が日本列島側だけに残ったからである。

その日本列島側の小国群の統一により自らが称した総称は「大和(やまと)朝廷」であり、「倭国(わのくに)」ではない。

当時の中華帝国の側の認識では、統一された半島側の新羅(シルラ)は「属国としての王国」と認めていたが、列島側はまだ倭人(倭の国々)が残っている状態と認識し、「倭」と呼び続け文書(もんじよ)にもそう記した。

朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。

その中華帝国の側の認識を、倭人である筈(はず)の朝鮮半島側の新羅(シルラ)王朝をも採用し、列島側だけが、隣国から「倭人(倭の国)」と呼ばれるように成って行く。

この時点で、中華帝国(ツォンファティゴウ)側が列島の民を倭人(倭の国々)と呼び続けた裏には、「倭人は蛮族」と言う中華思想が根底にあり、征服部族として列島に渡って来た倭人が、列島原住部族を「蝦夷(エミシ)」と呼んだと同じ意識が存在する。

そして本来倭人だった半島側の新羅(シルラ)は、任那・百済を滅ぼして統一国家を成立した事を期に、自分達が列島側の人々に優越する為に、あえて列島側の呼称を「倭」と残した。

朝鮮半島側の人々の立場からすると、早く中華皇帝の国から文明国人と認められたい。

裏返すと、日本列島の民を「倭奴(ウエーノム・韓国語/ハングル)」と一段挌下に位置付ける事で、自らが「倭人」からの脱却を目指したことになる。

この事が、列島側の意識の中に「中華帝国からの脱却意識」を芽生えさせ、大和朝廷は独自の皇帝(大王・おおきみ/後に天皇)をその中心に据え、中華王朝との対等国家を標榜した。

唯一同様の立場に置かれていた琉球王朝(沖縄)だけはこの経緯を認識していたから、倭人とは呼ばず大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。

だとするなら、「倭国は日本国の古代名である。」は間違いである。

正確には、在る一定の時期から主として他国が日本列島・大和国を「勝手にそう呼ぶように成った。」が正しい事に成る。

広域倭の国論が正解であれば、当然ながら初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ)の故郷が朝鮮半島で在っても不思議は無いので、これを否定する輩は「皇国史観」と呼ばれる創られた歴史(天孫降臨伝説)を未だに引きずっている事に成る。

この大いなる間違いは、恐らく政治的理由で多民族混合国家の過去を消して単一民族国家として国民の民族意識と愛国心を喚起する為に、思惑として肯定しざるを得無かったからである。

そこから先は互いの感情の問題で、「感情的で何が悪い」と言われればそれまでだが、物は民族解釈上の問題である。

日韓双方に夫々(それぞれ)永い内戦の歴史が在っても同民族意識があるから遺恨は薄れる、他方日韓両民族はかなり近い人種的経緯を持ちながら異民族意識が強過ぎて遺恨がそのまま残ってしまった。



やがて日本列島・大和朝廷では統治上の象徴化(神格化)もあり、歳月とともに大王(おおきみ)の力が集中して、有力御門(みかど)達は臣下に位置付けられる序列に明確化して行く。

そこで大陸の中華思想から独立対抗する為に、中華帝国の仕組みが後の「大和朝廷(ヤマト王権)」に類似した思想形態として取り入れられた。

七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(第五十代)が平城京(へいじょうきょう)にて即位した頃には、天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)が採用した天皇(てんのう/すめらみこと)の称号が定着していた。

一つの支配形態に於けるエンペラー(皇帝)は、標準的な君主号である「キング(王)」よりも上位のものとして観念される。

東洋に於けるモデルとして、中華帝国の場合はキング(王/ワン)の集合体の長がエンペラー(皇帝/ホワンディ)である。

そして日本の大和朝廷(ヤマト王権)に於いてはキング(国主・国造/くにのみやっこ)の集合体の長がエンペラー(大国主・大王/おおきみ・天皇・帝/みかど)と言う事に成る。

大王(おおきみ・ターワン)が中華帝国と同等の帝(みかど・ティ/ディ)、その中に「小国家群の臣王(おみおう・後の国主・国造・国守)の国々が在る」と言う新帝国の体裁を、「大和朝廷(ヤマト王権)」は整えたのである。

この大和国(ヤマト王権)の集合体の国造りの経緯が、後の日本六十余州の基礎になるのだが、それはこの物語で追々記述する事になる。

わが国に於いて、国の概念が国家ではなく、地方(地域)を指す使い方をしていたのは、この経緯からである。



日本の歴史の端緒は、実は征服者と被征服者の歴史である。

つまり、日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし)だった。

時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、蝦夷(えみし)族の領域だった。

列島西側の蝦夷(えみし)族については、歴史が抹殺されたのか文字を持たなかった為か、文献は残っていない。

その蝦夷(えみし)族の領域を、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側(九州・中国・四国地方)から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、国々の支配者になった。

それが邪馬台国や伊都国、那国などの「倭の国々」だった。

彼ら征服部族は、母国の王族を頭に、部隊を率いて大陸や半島から海洋を越えた。

ちょうど二〜三百年前の南北アメリカ大陸を、ヨーロッパの数カ国が原住民を制圧して切り取ったと同じ事が、二千年前の日本列島で起こった事になる。

その後の物語が、「神話から始まる日本の歴史」と言う訳である。

時代的には、まだ統一国家のできる以前の神話の時代で、「日本書紀や古事記、神武東遷物語」に出て来る様な小国が、多数並立していた。

その範図も、今の常識を覆す範囲で、ある時期は朝鮮半島のほぼ全域に及び、「朝鮮半島から現在の日本の西半分」に掛けて、多くの小国が存在していた。

中国側の記録によると、この小国群のうち三十ヵ国余りの国が「遣使」を送り、所謂「貢物」を献上している事に成っている。

「遣使」については、貢物(みつぎもの)以外に定期貿易の側面もあった。

その小国群の総称が、「倭(わ)国」である。

中国の「中華思想」には、それなりの歴史的事実がある。

四千年に及ぶ歴史の重みで、亜細亜で是にかなう国は、日本を含めて無い。

極東亜細亜特有の歴史の事実で、単純な民族感情ではないがしろには出来ない歴史的事実である。

神代それは、多分に建前の部分(形式的)ではあるが、或る種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、当時無くてはなら無いものだった。

それが、冊封(さくほう/さくふう)朝貢(ちょうこう/ちようけん)の制度である。

すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国)をとる事で、或る種の形式が成立していたのだ。

つまり、その小国を認定する役目を、中国(中華帝国)は負っていたのである。

冊封(さくほう/さくふう)は、近隣の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、「権力の裏付け」とする利便性があった。

所謂「肩書」きで、「漢の那の国王」の金印は、その証である。朝貢(ちょうこう/ちようけん)は、臣下の礼(属国の王)としての貢物(みつぎもの)の献上を意味するが、実態は帰りの土産(下げ渡し品)の方が多い「形式的なもの」だった。

それでも、「多数の属国を従える中華思想」は中国の民を、充分満足し得たのである。

朝鮮半島の付け根に、鴨緑江(韓国読みアムノッカン・中国読みヤァルウジャン・日本読みオウリョクコウ)と言う河が有り、現在も中・朝の国境と成っている。

中国側から見ると、河の対岸は「倭の国」である。

従って、中国古書で言う所の倭人(わじん)は、現在の形に落ち着いた日本人の事ではない。

当時の朝鮮半島の大部分の住民も、「ひと括(くく)り」の仲間なのだ。

しかし、当時の中国でも倭(わ)国は「小さな国家の集合体」である事は充分に認識していた。

この「広域倭の国論」に付いて、日本国内で様々な異論・抵抗があるが、ほとんどが心情的な動機で、半島の人々との「人種的切り放し」を欲しているのが実情である。

しかしながら、「広域倭の国論を翻す証拠」は見当たらない。

彼らの心情では、何としても「倭の国=大和の国」としたいのだろうが、それであればこれから検証する飛鳥時代の様々な出来事について、説明が出来ない。


江戸時代後期に、九州の博多湾にある志賀島から出土した金印には、「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)印」と掘り込まれている。

漢が認める、倭(わ)の奴国(なこく)王の印なのだ。

これは、奴国(なこく)が倭(わ)の中の国である事を指している。

「魏志倭人伝」の中で、邪馬台国が女王「卑弥呼」の治める国とする記述がある。

邪馬台国が「倭人の国の一部」であるから、倭人伝なのである。

なるほど此処までは、半島の事は関わらない。

日本列島側に小国が点在しただけの証明である。

しかし、この事はどうだろう。

伊豆の国(静岡県)修善寺の大野辺りに小さな神社がある。

名を「倭文神社」と言い、読み方は倭文と書いて「シズオリ」と読むのが正らしい。

それが、日本全国に分布する機織(はたおり)の神様に成り、その後、土地に依り夫々(それぞれ)になまって、しずり神社、しどり神社、しとり神社、などと読ませる。

別命を倭文織(しずお)り、綾布(あやぬの)、倭文布(しずぬの)などと呼び、カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(イラクサ染め)であるが、朝鮮半島を経由して来た異国の文様に対する意で、「倭文(しず)の字を当てた」と言う。

この倭文(しずおり)の意味は、「延喜式内社」として我が国の神社に加えられた「朝鮮半島系渡来文化」の織り布(イラクサ染め)の呼び名を「倭文」と呼び、それを祭っている。

これは、海洋系民族(呉族)の技法による新羅、任那辺りからの職布が、「倭文(しずおり)」であり、日本列島固有の物では無い。


また言語的にも、最近の研究で、倭人の言語は倭国内の多くの小国の共通語で、その源は朝鮮半島の付け根、「鴨緑江流域周辺にあった」とされている。

織物もその後の変遷で変化するが、初期の「イラクサ染め」こそが、倭文(シズオリ)の原型なのだ。

つまり、日本列島の住民が、半島から来た物を「倭文(しずおり)」と呼んだ。

これこそ、朝鮮半島全体が「倭の国」だった事を表わしている。

尚、「頭から倭=日本の古い呼び名」と思い込んでいる方が朝鮮半島の織物を「文」とし、「倭文(しどり)」を「倭」を付けた「列島の織物を呼ぶ」と解釈しているが、当時は半島も倭国群の内であり「倭文(しどり)」は間違いなく半島側の織物の呼び名だった。


これは、卑弥呼(天照大神)についての可能性の話である。

卑弥呼が支配した邪馬台国は、何処に在ったのか?

日本史の大きな謎である。

日本の歴史学者や作家は、様々な説を発表している。

しかしながら、それらは窮屈に、いずれも日本列島内の何処かを比定(示唆)している。

ただ、古代中国の史書と古代日本の史書の双方に、実は明確に同一と判断できる卑弥呼らしき人物や事件が記載されては居ない。

つまり卑弥呼は、日本列島における「国造りの歴史」の始まる以前の伝承の可能性があるのだ。

卑弥呼に該当する人物が明確な形で日本の史書に残っては居ず、日本列島の人物である事を証明するものは発見されていない。

魏志倭人伝が伝える倭国・邪馬台国の各事件が、日本の史書に全く見られない事により、卑弥呼を継承する政権は、「三世紀中期〜後期頃に断絶した」とする説がある。

しかし我輩の説ように、広域倭の国が「朝鮮半島部を含んでいる」と成ると、話は随分違ってくる。

つまり高天原(邪馬台国)は、日本列島にやって来た征服部族王達の過っての故郷、朝鮮半島部の「どこか」であり、卑弥呼(天照大神)は、彼らの敬愛する母王または王妃である可能性が浮上する。

この疑いを要約すると、何らかの事情で故郷を追われた半島で有力だった卑弥呼の部族、天(あま)一族(農耕民族・加羅族)が、ちょうど国共内戦(蒋介石国民党と毛沢東共産党)に敗れて大陸から台湾に政府を移設した蒋介石国民党のごときに、未開の日本列島に征服移設して来て、新たに国(亡命政府?プチ大和朝廷・)を開いた。

そして、当時多民族乱立だった日本列島は、誓約(うけい)と戦闘で少しずつ統一の道を歩み、それぞれの民族の故郷を思う気持ちを込めて、神の国を造った。

その、唯一の多民族統合の為の合意が、性善説による「神の国に邪悪なものは居ない」と言う、精神的信頼関係の建前の構築ではなかったのか?

親から子、仲間内での昔話が語り継がれて神話になる。

当然ながら、様々な教訓や部族的な誇りを、聞くものを楽しませながら語り継ぐ目的の元に、話は、「上手く出来すぎた話」として作られる事になる。

それ故神話の世界は、深い所で生き着いているその民族の合意心理である。

我輩が違和感を感じるのは、その微妙な「機微」だった。

「記紀(古事記と日本書紀)」には、そうしたものがギッシリ詰まっているからこそ、面白いのかも知れない。

つまり「日本書紀・古事記」の内容には、進入征服部族それぞれの過去の伝承が、政治的配慮を加味しながら歴史書としてまとめられ、正史のごとく扱われている恐れが「多分にある」と言う事である。

その上、古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。

「記紀(古事記と日本書紀)」を正史として扱うかどうかはそれをする方の姿勢で、我輩はまともな研究者ではないからその辺たりを「正しい。正しくない。」と論議する気は元々ない。


征服部族の鎮守氏上による地方統治の歴史的経緯から、日本の軍事組織は、言わば「氏族」と言う名の血縁を構成する私兵(軍閥)が単位に成り、日本列島における特殊な軍事組織の歴史が始まって、それがほぼ明治維新に至るまでの永きに渡って基本となっている。

つまり、倭の国々の時代から、「征服部族の長」を中心とした軍事組織(氏族)が、そのままピラミッドを構成して小国を構成していた。

そして、その小国が一定の自治権を保有しながら最終的に五ヶ国位(五王並立)に統合し、その長(大御門・おおみかど・後の臣王)達が集合して大和朝廷を構成し、大王(おおきみ・後の帝・天皇)を置いた。

この経緯から、シャーマン(呪述)的に神を持って国家運営を司る大王(おおきみ・後の帝・天皇)は、独自の軍事組織を持たず、直属の「秘密警察」兼「諜報工作組織」である陰陽修験組織以外は、氏族の私兵(軍閥)を必要に応じて徴集する形態を取って居た。

大王(おおきみ・後の帝・天皇)は、平和を祈り、豊穣を願って国を治める立場であるから、独自の軍事組織を保有する事は、その存在理念に於いて馴染まない。

つまり、武力を持たない建前の大王(おおきみ)の役目は、国家統一の為に祈る事であり、現在も皇室に相伝され、朝廷により行なわれる「神道儀式」の基礎は、この「占術、呪詛の集大成」と言えるものである。

従って、時代時代で国境こそ変遷しながらも、旧来の小国、倭の国々の観念がそのまま存続して、地域の呼称をそのまま「**の国」と呼び、その長を「国造り主・国主・**の守(かみ)」などと呼んで、その地を治める長が私兵(軍閥)を保有したままの形態が、明治維新まで名残を留めていたのである。


倭国が「日本の西半分まで」と言ったが、それではその頃の東半分はどう成っていたかと言うと、蝦夷(エミシ)の領域であった。

つまり、倭国以前から原住する日本列島固有の原住民族がいた。

日本史の中で、意図的に抹殺された蝦夷(エミシ)の存在である。

関東以西では悪役の鬼が、東北地方へ行くと「福をもたらす」として祀られている。

そうした土地では「鬼ワ〜内」なのである。

鬼が蝦夷(えみし)であり、東北地方が蝦夷(えみし)の本州最後の領域だった名残だろうか?



古代史の時代に遡ると、日本列島には一万年以上前の「縄文文化」の以前からの原住民族が居た。

これも遺伝学的に言うと、単一では無かったらしい。

そこへ、大陸から別の種族が移動して来て、やがて原住民と古い渡来人が同化をして縄文文化が始まる。

大陸からの列島渡来は恒常的に続いていて、徐々に進歩した文化がその都度もたらされていた。

倭人が侵入してくる頃には、同化してひと括(くく)りに蝦夷(エミシ)族と成っていた。

そして、何時の頃からか稲作も始まっていた。

蝦夷は、恐らくは古い時期の大陸からの「稲作・渡来民族と縄文人の同化民族」であったと推測できる。

縄文の遺跡物の出土に穀物や籾が多い事から、原住民族はその歴史の中で、稲作文化を中心に独特の文明を築いて来た筈だ。

発掘すると、「そこら中」から、その痕跡は見つかる。

日本列島の相当広い範囲に、縄文人の末裔(蝦夷)は、営みを続けて来たのだ。

しかし大和朝廷の記述には、蝦夷(エミシ)は文化が遅れた農耕を知らない「狩猟民族」と、事実以上に「原始的」に記述されている。

つまり倭人が先住民族を押しのけ列島を占拠する為には、蝦夷は限りなく原始的未開人である必要が在った。

それで稲作は「弥生時代に入ってからだ」と、無理な事を長い事言われ続けて来た。

長い歳月をかけて伝わった文化・文明を、簡単な線引きで時代の区分けが出来る筈がない。

それでは農耕文化の縄文人は、日本列島に居なかった事になる。

もっともこれを認めては、神の創りし国の「天孫降臨の伝説」は成立たない。

だから、都合よく捻じ曲げられた。

先住民族・蝦夷(エミシ)族の生活圏は、恐らく部族集落単位で、北アメリカの大陸のインデアンの様に国の体は成さなかったかも知れないが、集落分布的なその支配地が何処から何処の範囲に及んだかは不明である。

或る時期(およそ三千年前)から、後発で渡来した「文化の進んだ、文字と加工し易い銅器や鉄を持つ農耕民族」が朝鮮半島経由で島伝いに日本列島に侵入して来る。

銅器や鉄は、文明の「利器」であり、征服の「武器」で在った。

それら進入部族の総称が、倭人(わじん)である。

海側からも、中国福建省の海岸辺りから黒潮に乗って丸木舟や筏(いかだ)の様なもので海洋民族が侵入して来る。

それら進入部族は日本列島の思い思いの地に幾つもの集落を作り、小さな国に発展させ、それが合従連合や武力吸収で一緒の国に成って、少しずつ大きな国に成って行った。

その両者の勢いに押されて、少しずつ日本列島の東部(関東)・東北部(奥州)側に追い詰められたのが、蝦夷(エミシ)と呼ばれた先住民族である。

西部側(西日本)に蝦夷(エミシ)の痕跡が少ないのは、或いは早い時期に後発の進入農耕民族と同化し、「痕跡が残らなかった」のかも知れない。

処が、時代が進むと日本列島の西側で後発農耕民族と海洋民族が同化してしまい大和朝廷なる「強力な国家」を成立させてしまう。

その過程が、「天孫降臨の神話の世界」である。

言い換えれば、少しロマンは失うが「任那(みまな・加羅とも言う)の地こそ天孫の住む高天原」と言う事に成る。

誓約(うけい)の儀から始まる古事記・日本書紀の壮大な物語は、大和朝廷が侵略部族として先住民族・蝦夷(えみし)から武力で土地を取り上げた歴史を、都合良く「天孫降臨伝説」として創造した飛(と)んでも無いフィクションである。

何と、この蝦夷(えみし)系先住民族・アイヌ民族を日本の国会(参議院・衆議院本会議決議採択)が「先住民族」と認定したのは、二千八年(平成二十年)の六月になってからの事である。


一方的に大和朝廷側から見ると、まだ朝廷に服従してはいない東側の野蛮な「民族」が蝦夷(エミシ)と言う事に成る。

この蝦(夷)を武力で屈服させ、朝廷に服従させる為の軍の総司令官が、征(夷)大将軍である。

これは当時の現実としては、「他民族」に仕掛けた「侵略軍」以外の何物でも無い。

この後出てくる鎮守府将軍なる役名も、当初は、今で言えば「占領地区、軍司令官」で在ったのだ。

大和朝廷は隼人族(海洋民族)と大陸からの渡来民族(農耕民族)との混血が進んだ同化部族の支配者である。

初期の大和朝廷の有力氏族に、和邇(わに)葛城(かつらぎ)大伴(おおとも)物部(もののべ)安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)蘇我(そが)と言った名が連なっている。

その最も東に国を開いたのが、どうやら伊豆(いと・伊都)の国を開いた葛城氏だったのである。

この有力王(氏族)には、それぞれに祖国があった。

朝鮮半島の国々、百済、新羅、任那、高句麗などである。

この、後発の進入侵略部族は、やがて一つに組織をまとめ、新天地で同化して行く。

有力氏族が結んで大和朝廷が成立、初代・神武大王(おおきみ・天皇)が即位する。

九州、四国、中国、畿内、北陸、中部の各地を手中に収めると、都を大和の国に定め、いよいよ関東・東北地方の平定に乗り出す。

当初蝦夷(エミシ)は、言語がまったく違う為「通訳が必要であった」と言うくらい異民族であった。

まだ日本列島の東側半分が、支配地外だった大和朝廷は、やがて蝦夷(エミシ)の住む土地の侵略を始める。

時系列的に言うと、この関東、東北の蝦夷討伐と同時期に、中央の大和朝廷でも王朝の交代劇が演じられたらしい。

「神武朝(宇佐岐朝)から和邇朝に変わった」と見られるが、また直ぐに「葛城朝」に変わっている。

この交代劇、初期の話として、倭の国々の五王連合体政権に拠る「大王(おおきみ)輪番制説」や「大王(おおきみ)並立・(並立王朝)説」もあり、「武力による皇位簒奪」とばかりは言い切れない。

奈良時代の末期、初代征夷大将軍に任じられたのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)で在った。

この最初の討伐先は、海岸部を除く東海道地域(今の静岡・神奈川・山梨など)で、後に大伴の後を継ぎ征夷大将軍になる坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が副史として同行している。

この二人の働きで蝦夷(エミシ)は、少しずつ北に追いやられ、最後には東北の地で支配下に置かれる。
つまり、隷属したのだ。

当初彼らは、「俘囚(ふしゅう)」なる言葉で、後の「米国のインデアン居留地よろしく」、管理されていた。

人間やる事は、似た様なものである。

一部は蝦夷(えぞ・字は同じ)、今の北海道に逃れ、アイヌと名乗る人達に成った。

平安時代初期、この一連の武力行動及び占領地運営の成果で、軍を掌握した坂上田村麻呂は、中央で出世を重ねて行く。

世の中は、戦いに勝ったやつが、「えらい」のだ。

坂上田村麻呂は、亡くなる頃には従二位大納言、右近衛大将、征夷大将軍などの官位を得、娘の春子を桓武天皇(第五十代)の后(きさき)として入内(にゅうだい・朝廷に輿入れする)させている。

坂上田村麻呂は、亡くなると追記で、桓武天皇から正二位を贈られる出世を果たし、征夷大将軍が、軍と政治を「一人」で握る、後世のモデルケースに成っていく。


日本史の各時代に顔を出す「安倍」を冠する地名が、静岡県の中部に存在した。

安倍郡(あべぐん)は、駿河国(するがのくに・珠流河・須流加・静岡県)にあった郡である。

古代の駿河は珠流河(又は須流加)と表記し、珠流河国造(富士・沼津・伊豆)が統治していた。

その後、七世紀になって、廬原国造(旧清水・庵原)の領域と併せて中世・駿河国を建てた。

この時の領域は広大で、現在の静岡県の中部と東部に、伊豆半島や伊豆諸島を含んでいた。

なお、「駿河」の地名の由来は、富士川の「急流に由来する」とも言われている。

駿河国(郡郷 全七郡五十九郷・人口 七万五千五百人)の国府は、当初駿河郡に所在したが、後には安倍郡に所在を移している。

つまり、七世紀後半に初めて令制国(りょうせいこく)が施行されるそのズット以前から、駿河国安倍郡は存在した。

その後、天武天皇の御世(天武九年・六百八十年)に、歴史的に特別な経緯が在った伊豆の地(東部の二郡)を分離して伊豆国を設置した。

それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市)に在った国府を安倍郡(現在の静岡市葵区と駿河区あたり)に移している。

それだけ古くから在るのだから、「安倍」と言う地名は、由緒があるに違いない。

しかし、この地が何ゆえ「安倍」と呼ばれるかの由来は不明である。

安倍郡(あべのこおり)は令制国・駿河国(駿州)の郡で、平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている中津神社(住吉神社)が、「安倍郡に所在する」などの記載は存在するが、安倍郡(あべのこおり)の名の由来は、見当たらない。

これは、信憑性を証明出来ないものでは有るが、僅かに「安倍川」命名の源と思われる説がある。

文献に拠ると、神武大王(おおきみ/初代天皇)の東征に反乱した人物とされる「長髓彦」(ながすねひこ)とその兄「安日彦」(あびひこ)を始祖とする一族が存在した。

その「安日彦(あびひこ)」の子孫である「安東(あんどう)」と言う人物(将軍)が、崇神大王(おおきみ/第十代天皇)の御世に「安倍川別命」(あべかわ、わけのみこと)に降服し、以来安倍姓を賜り「以後、安倍将軍を称した」と言う説がある。

この「安倍将軍」の子孫が、東北の雄・俘囚長の「安倍宗任(あべのむねとう)、貞任(あべのさだとう)兄弟だ」と言うのである。

この説の前提が、民族和合の為の「後世の辻褄合わせの作文」と仮定した場合、「長髓彦」(ながすねひこ)と「安日彦」(あびひこ)の反乱は、実は反乱ではなく「縄文人系の部族(えみし・蝦夷)」に拠る神武大王(おおきみ/初代天皇)東征への「抵抗戦」とも考えられる。

それであれば、東海から東や東北に追われる縄文人系の部族(えみし・蝦夷)と渡来系征服部族の勢力境界線が一時安倍川に在り、その辺りから「安倍川別命」(あべかわ、わけのみこと)と言う名が登場した。

登場した「別命(わけのみこと)」とは、読んでそれらしき名前(境界の意味)で、頷けるのでは無いだろうか?


安倍郡(あべのこおり)は、奈良時代から明治維新以後まで続き、その後近代から現代にかけて合併、編入を繰り返し、千九百六十九年一月に安倍郡は消滅、二千三年四月以降旧安倍郡の全域が静岡市に含まれる。

一級水系・安倍川は、静岡・山梨県境の安倍峠付近(山梨県早川町との境にある大谷嶺)に発し、太平洋側に南流して 静岡市で駿河湾に注ぐ幹川流路延長 五十一キロメートルの河川である。

現在、安倍の地名は静岡市を流れる河川「安倍川」と、上流の砂金と徳川家康の逸話に由来する「安倍川餅」に名残を残すのみである。


駿河国安倍郡(現静岡市)には「草薙(くさなぎ)」と言う地名がある。

日本武尊(ヤマトタケル)の東征(蛮族討伐)にあたり、この地で包囲され火炎攻めに合い、三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇・ヤマタノオロチ・の尾から出てきた太刀)で「草をなぎ倒して難を逃れた」と神話が伝えている。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも称され熱田神宮の神体であるとともに、三種の神器として天皇の持つ武力の象徴である。

この物語から察するに、大和朝廷創生期の頃はこの安倍の地が「蛮族の勢力範囲だった」と考えられない事もない。

この安倍(あべ)の名称だが、どうやら海洋民族系の名称に漢字を充てた様な気がする。

一説によると、「原ポリネシア語が日本語の基盤の一つである」と言われて居る。

その原ポリネシア語は、アイヌ民族の言語と共通するものが多いとも言われて居る。

原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音であるが、その音に中国語系の文字「安倍(アンペイ、アペイ)」を充てたのではないかと考えている。

ちなみに「アイヌ(aynu)」と言う言葉は蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で「人間」の意味である。
先住系縄文人(蝦夷/えみし)、大陸系渡来部族、海洋系渡来部族と複雑に人種の坩堝(るつぼ)だった日本列島では、意思疎通の為に「共通語」が必要である。

但し先住系縄文人(蝦夷/えみし)の数が圧倒的に多く、渡来部族も出身国が一国ずば抜けては居なかった所から一ヵ国の母国語に統一も成らなかった。

そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの日本独自の言葉を成立させた。

つまり当時人種の坩堝(るつぼ)だった列島に於いて、中国文字(中文/ツンウェン)に音読み訓読みを併用する事で、翻訳機能をもった「一文字について多重発音語(大和言葉)を編み出したのではのでは」と考えられる。


ここから先は完全に仮説だが、可能性があるので記述して置く。

大和朝廷における貴族土御門・安倍氏が、恭順した蛮族(あくまでも朝廷側の言い分・エミシ族)の指導者である。

珠流河国造の少し前、シャーマン的指導力を持つエミシ族の長「火(アピェ・ape)」が、駿河国安倍郡辺りに「勢力を有していたのではないか」と考えないと、安倍を冠する地名が、静岡県の中部に存在した理由は思い当たらないのである。

安倍川が極古い時代の「蝦夷(えみし)族と渡来氏族の勢力境界線であった」とすれば、富士山の名の由来も理解出来る。

前述したが、アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

良く、富士山の事を「不死の山」と充てて信仰の対象にしているが、富士の語源がアイヌ語の「フジ(huji)」であれば、活火山として「噴出する所」・・即ち富士の山ではないだろうか?

渡来氏族の「あれを何んと呼ぶ?」と言う問い掛けへの蝦夷(えみし)族の答えが、「フジ(huji・噴出する所)」であった可能性は極めて高くなり、アピェ(ape・火の意)のカムイ(kamuy・神)が、フジ(huji・噴出する所)・・・「活火山富士山」と解する事ができるのである。
 
そして、恭順合流した先住蝦夷(エミシ)の族長一派が「火(アピェ・ape)」を名乗るからこそ、後の俘囚長、東北の「安倍氏」が存在するのではないのだろうか?

この辺りの経緯については、政治的配慮からか、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀にはまったく記述はない。

占術、呪術に於いて、火(炎)は重要なアイテムである。

日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウエン・中文)では火(フォ)であるから、この火(ひ)の語源は日本語の基盤の一つである原ポリネシア系原語である「アピ(火の意)ではないか?」と考えても不思議ではない。

そう考えると、先住民族・蝦夷(エミシ)族の陰陽修験道・陰陽寮頭の安倍「アピ(火の意)」御門一族は、占術、呪術の一族としての立場を確立しても不思議ではない。

この原日本列島の民(先住民族)、蝦夷(エミシ)族の占術、呪術と後発の渡来民族・葛城御門(賀茂氏)の御託宣神である事代主神(ことしろぬしのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)が合体したのが「陰陽修験道」と言う訳である。



図式としては、文明の遅れた未開の地に、異民族が侵入して成立した国が、大和朝廷と言う事に成る。

言うなれば、まるで二百年前の米国西部劇にも似た状況が、二千年以上前に日本列島で起こっていたのである。

そこで問題なのは、「任那(みまな・加羅・加那とも言う)」、或いは「任那日本府」なる日本領が、かつて朝鮮半島に「存在した、しない」の論争である。

我輩の結論は簡単である。

朝鮮半島には「日本領」は無かった。

正し、今の日本と言う「括(くく)り」ではない倭人(わじん)の国々は、朝鮮半島から日本列島西部にかけて存在した。

つまり、任那(みまな・加羅・加那)は半島側の倭の小国だった。

勿論、朝鮮人(韓国人)やその国家も、その時はまだ存在はしない。

「倭(わ)の人々」が居たのである。

倭人の小国同士は互いに王を頂き、領土や利権を賭けて争いもしたが、倭人同士、広い意味で同胞の意識もあった。

だから、文化的交流や物資、人々の交流は盛んに行われていた。

倭(わ)の国が今で言う「同一民族による連邦国家の要素があった」としないと、その後の「日本の大和朝廷にまつわる歴史的出来事」に、説明が出来難いのだ。

つまり倭(わ)国内は、人々の意識の中では同胞で在ったから、婚姻関係や役人登用などの交流に抵抗が無かった。

その上で、神話時代から飛鳥時代の日本史は成立っている。

日本列島側の倭の国々、奴国(狗奴国)、不弥国、投馬国、伊都国、末廬国、一支国、対馬国、壱岐国などがあり、その集合体を邪馬台国とする説が有力で有る。

一説には大陸系加羅族の国と海洋系加那族の二系列が「日本列島の覇を争そっていた痕跡が誓約(うけい)神話の物語ではないか」とする見方もある。

大和朝廷成立後、朝廷の重臣、或いは大豪族、天皇家自身の身内に朝鮮半島出身者や、半島出身の王族の存在が或る事の「不自然さ」は、倭(わ)国の「存在形態が今の常識とは違う、特殊なものであった」事が認められれば、全て納得できるのだ。

任那(みまな・加羅とも加那とも言う)と言う小国は、朝鮮半島の南端に確かに存在した。

その任那(みまな)の中も、色々な部族がそれぞれに並立して一定の領地を確保、同族グループの単位を作っていた。

その頃、倭(わ)の国々で、任那以外に朝鮮半島に在ったのは比較的大きな「百済(くだら)」と「新羅(しらぎ)」である。

実は任那(みまな)国内も大陸農耕系加羅族と海洋系加那族(呉族)に分かれていて任那王と百済は同じ「加那族系の国」で、太い絆が在った。

そして、新羅は「大陸農耕系加羅族の国」である。

それに、満州の地で興った「高句麗(こうくり・コグリョ)が南下して来て、半島の北の国に成った。

韓国の済州(チュジュ・さいしゅう)島や、今は日本領内に成っている対馬、壱岐島なども倭(わ)国の一部の国々と成っていた。

伊都国(いとこく)と言うのも有名だが、その位置については諸説ある。

筑前の国(福岡県)の糸島半島説、伊勢の国(三重県)の志摩説が脚光を浴びているが、国としては規模が小さすぎる為、我輩は、伊都国(いとこく)の存在すなわち伊豆国(伊豆半島)説を取っている。

豆と言う字は「とぅ」と読むのが元々で、伊豆国は「いとぅこく」と読むのである。

そしてこの伊都国(いとこく)こそ、狗奴国(くなくに)の神武王朝に取って代わった葛城王朝の発祥の地だったのである。

魏志倭人伝の「魏の国」は三国志時代「呉の国」の北側にあったが、倭の国を書く時、途中まで朝鮮半島を経由する「陸路」を書くと決め付けてはいけない。

当時は陸路より「海路」の方が食料や交易品を運ぶには、遥かに多い量を運べる事実がある。

大量の物資をかかえて未開の遠距離を移動するのに、陸路では困難が伴う。

当時の魏の首都は洛陽(中国読みルゥヲヤン・日本読みらくよう)であり、大陸深くに在る。

洛陽から黄河を下り、渤海(ぼっかい)湾に至り、海岸線沿いに海路朝鮮半島または九州に至る。

または陸路徐州(シィジュウ・じょしゅう)に向かいその港から、海路「黄海」に出て、「倭の国を目指す」と読み始めないと、その旅の行程や「国々の位置」が違うものになる。

倭の国が「現在の国境そのままである」と言う発想をかたくなに、倭人伝を読み解こうとするのは「出発点」が最初から違っているかも知れない。

倭の国は魏志倭人伝に拠ると、その数百余り、「使い(朝見)のやり取りが出来ている国が三十余りに上る」と記載が在って数が多い。

そうした国々は、国同士の争いがあると、どちらかに付いて共同で(連合して)争いに立ち向かった。

その過程の中で、援軍を派遣したり駐留したりで、それぞれの国の中に他国の軍事勢力が居ついてしまい、そのリーダーが、やがてその国の要職に付く様に成る。

また、連合が統一国家に成ったり争いの相手国を併合したりで、小国家は次第に大きな単位に成って行った。

この小国家の並立の痕跡が後の日本列島の地域呼称として、国家でもないのに「**の国」と呼ぶ習慣に残って維新の廃藩置県で呼称が県(けん)に変わるまで続いた。


九州の北側、比較的朝鮮半島に近い国は、任那(みまな)の王族が渡来して打ち立てた「奴国(なこく)」で在った。

この奴国(なこく)が、九州南部や四国などで海洋渡来民族の隼人(はやと)族と結び「狗奴国(くなくに)」を建てた。

卑弥呼・邪馬台国の時代、九州南部から四国にかけて、狗奴国(くなくに)と言う一大勢力が存在したのは、確かである。

隣の大国、中国の書「魏志倭人伝」に拠ると、狗奴国(くなくに)は「男王の国だった」と言う。

わざわざ、「女王国に属さない」と、記述してある。

この狗奴国(くなくに)こそ、その地理的条件から隼人族の国だったのではないのだろうか。

神武東遷(じんむとうせん)物語によると、当初「奴(な)国」であった人々が、邪馬台国に追われて南に逃れ、狗奴国(くなくに)を創った。

奴(な)国は、当初「筑紫の国(筑前・福岡県)から広域に北九州に在った」と思われる。

更に南に逃れた奴国(なこく)の人々が、狗奴国(くなくに)を興し、やがて勢力を取り戻して邪馬台国を凌(しの)ぎ、「是に変わって大和朝廷をなす。」とある。

その、狗奴国(くなくに)と邪馬台国の勢力の境界が、九州に於いては日向の国(宮崎県)南部から肥後(ひご)の国(熊本県)、豊後の国(大分県)にかけて在った様だ。

その東の境界線が、県の庄(延岡市)の五ヶ瀬川の中州に在る、無鹿(むしか)と言う奇妙な名の土地である。

狗奴国(くなくに)はやがて力を着け、近隣を従えて行った。

従って、狗奴国(くなくに)の王こそが、当初の大和朝廷の起源と考えられる。

邪馬台国は女王、狗奴国(くなくに)の王は男なのだから、この狗奴国(くなくに)の王が須佐王(スサノウ)または大国主(宇佐岐?)と考えられる神武朝の男王である。

物語の中の記述には、「狗奴国(くなくに)は海人族(あまびとぞく)と結んだ」とある。

この辺りの話は、真実と虚構が入り混じって、神話の中に隠れ潜んでいるらしい。

海人族(あまびとぞく)が隼人族(はやとぞく)であれば、奴(な)国が天(あめ)の国(天照の国)とも考えられるが、それであれば、本来論争の激しい女王の国「邪馬台国」は何処に在ったか、簡単に見つかる筈だ。

それが「発見出来ない」と言う事は、神話と現実が「二重帳簿の様に判り難く成る」、それなりの必要性が在ったに違いない。

他に考えられるのが、狗奴国(くなくに)と東海地区に居た海人族(あまびとぞく)が元々同族で手を結んだと成ると、この海人族(あまびとぞく・隼人族/はやとぞく)こそが「葛城氏」と言う事になる。



多分に怪しい記述ではあるが、日本列島の東半分を最初に統一した大王(おおきみ)は神武大王(じんむおおきみ)と言う事に成っている。

神武大王(じんむおおきみ・天皇)は、日本列島の東半分を平定して大和朝廷を成立させた初代天皇(大王)と言われる伝説上の人物(神?)である。

神武大王(かんむおおきみ・初代天皇)が、筑紫の国(筑前・福岡県)から山陽道を瀬戸内海ぞいに東に進み、「途中戦いながら畿内に達する」この神武東遷(じんむとうせん)物語では、神武大王(おおきみ・天皇)は、狗奴国(くなくに)の人物の様に記述されている。

この神武東遷(じんむとうせん)物語を、「元々大和に朝廷が在った」とする学者が、東遷そのものが不自然な内容で「後の創作である」と断じているが、畿内に在ったのは狗奴国(くなくに)の「飛び地支配の地域、または葛城氏の支配地(伊都国)だった」と考えたい。

何故なら、卑弥呼(ひみこ)率いる邪馬台国(やまたいこく)は、相応の力を持って、狗奴国(くなくに)と、覇権を争っていた。

神武大王(おおきみ・天皇)が、「畿内の遷都(きないのせんと)に向けて移動する」と言う事は、既に二つの国は基本的に統一され、残存勢力の「掃討作戦」程度の行軍ではなかったのか。

討伐を重ねながら、辿り着いた所にいきなり遷都は考え難い。

しかしながら、この皇統初代とする神武大王(じんむおおきみ・天皇)は、本当に存在したのかどうかも、学者間で意見が分かれている。

何としたならば、古事記や日本書紀は、余りにも後世に皇統の正当性を目的として神話伝承混じりに編纂された物だからである。

我輩はこの神武朝の正体を宇佐岐氏ではないかと推測し、それをバックアップしたのが葛城氏と考えれば、「大国主の命と因幡(いなば)の白兎の伝承」と符合し、神武朝三代の大王(おおきみ)の后妃に葛城氏の娘が嫁して居る事の必然性も頷(うな)ずけるのである。


人間の脳は、大別すると左右二つに分かれている。

【右脳】は本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われる。

本能的能力から発達した脳で「見たまま聞いたまま感じたまま」にイメージ、五感((視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚))、直感で 瞬間的に記憶したり、情報を取り込む「無意識脳(潜在意識脳)」で、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。

基本的に、恋も愛も情も「無意識脳」的な【右脳系】の感性で、【左脳系】の理性や計算が入るのは本当の意味で恋や愛情ではない。

【右脳】は瞬間的に大量の情報をイメージとして記憶したり超高速で計算してしまい、無限な許容量を潜在意識に記憶するので、必要時に閃(ひらめ)きとして「瞬時に直感的にアウトプットできる」とされる。

霊感や予知などの現象はこの右脳の本能的能力に影響される幻覚であるが、「DNA的な記憶が存在する」と想定すれば仮定の域ではあるが一概に否定出来ないものも存在する。

それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、記憶したり計算する意識脳(顕在意識脳)であり、コツコツ努力し積み上げる直列型の許容量の小さい脳である為、どんどん忘れないと次の情報を記憶できないので短期記憶脳とされている。

運動行為や闘争行為はやはりこの【左脳】部分の働きによるものだが、肉体脳であるため緊張した意識集中によりイライラのベータ波脳波状態であり疲れ易く 持続力が無くストレスがたまる。

つまり運動行為や闘争行為、記憶行為に計算行為は【左脳域】のストレス性・理性的意識で、【右脳域】のリラックス本能とは正反対に位置している。

また、【左脳】は肉体脳である為、緊張した意識集中によりイライラのベータ波脳波状態であり疲れ易く 持続力が無くストレスが溜まる。

現在の学校教育は、特にこの左脳一辺倒の言語と論理的思考の左脳記憶学習に著しく偏っていて問題が大きく、受験効率一辺倒の教育手段が採用されている為の歪みから、若年層の暴発が頻発している。

人類は食べ物を調理(料理)する事を覚えて他の動物と比べ【左脳域(理屈と計算)】を格段に進歩させて来た。

それまでの【左脳域(理屈と計算)】は、獲物を前にして「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の決断が主な【左脳】の仕事だった。

そして衣服で気候(寒暖の差)や外敵から身を守るようになると、【左脳域(理屈と計算)】で裸身に羞恥心を抱くように成った。

しかし人類は、【左脳域(理屈と計算)】の能力進歩と伴に【左脳域(理屈と計算)】ばかりに価値観を偏重し過ぎて、滅びの道を歩んでいる気がしてならない。

人間の怖い所は、【左脳域】の論理的思考に拠る欲望と嫉妬である。

世の災いの元凶は、もっぱらこの欲望と嫉妬にある。

実はこの【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるか)」の部分を受け持っている。

その【左脳域】の思考方向に現代人がドンドン偏重して行って、思考が残酷化している可能性を感じるのである。

近頃の「地球温暖化」も「少子高齢化問題」も、そして「教育問題」も【左脳域(理屈と計算)】ばかりの価値観で論じていては解決しないであろう。


征服部族である氏族の基本的な感性は、戦闘的な【左脳域】思考である。

実はこの【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

この感性、千八百年後に似たような経緯を辿った北米大陸の大国・アメリカ合衆国の開拓史時代から現在の軍事大国々家の現状を見れば理解出来る。

米大陸の開拓者は、【左脳域】の思考方向が活発だからこそ新天地に活路を求め、力ずくで土地を確保した歴史そのままの思考方向で、過激な競争経済社会と軍事大国路線を突き進んでいる。


しかし日本列島に部族を率いて渡来した部族王達は、米大陸を侵略した欧州人達と違い、【右脳域的】な感性による統合手段として、武力よりも誓約(うけい)に拠る現実的融和と神格化に拠る統治を試みたのである。

我輩は記述の中に「数々の工作により邪馬台国を分裂させた」と有る事から、戦闘ではなく、「威嚇と策略による統一国家の成立だった」と考えた。

統一はしたものの、その後の足元を固めなければならない。

当時の事に思いを馳せると、血縁で成立つ部族の垣根をなくすもっとも有効な手段は、混血である。

つまり同族に成ってしまえば良いのだ。

その頃の「プチ大和朝廷(狗奴国)」の本拠地は、九州北部の筑紫平野に在った。

そして神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の時代に東征を開始して、畿内(近畿地方)に至り、「大和朝廷成立」と成るのだ。

この事は、「神武東遷物語」に書いてあるストーリーで耳新し物では無い。

これは、スケールこそ違うが、アメリカ大陸開拓初期の母国イギリスと自治政府を持つ植民地アメリカの様なもの、と考えれば良い。

従って当時の日本列島は多民族、多宗教の国家群が、ひしめいていた事になる。

比較モデルである。

当時としては、未開地の開拓、未開人への侵略的な要素が強い。

北米新大陸と日本列島の開拓史の大きな違いは、奴隷を輸入したのではなく、「列島の先住民でまかなった事」である。

ただ突然遣って来て勝手に土地を取り合いし、原住民を隷属させた点は同じ侵略だった。

この侵略、南米大陸も同じような経過」と言える。

それが、もっと千八百年も古い時代に日本列島で起こったのである。

この頃の武器は、輸入されたり携えて持ち込まれたりした諸刃の銅剣や鉄剣である。

これが最新鋭の武器で、列島内では威力を発揮した。

そしてこの侵入部族達が始めて持ち込んだ軍需用の馬は、原住民にとって「脅威の的だった」と考えられるのである。

列島で鉄剣の生産が始まるのは、まだ少し先の話しである。

そしてもう一つの精神的武器が、呪術に用いられる鏡(銅鏡)だった。

代表する銅鏡が、「神器・八咫(ヤタ)」の鏡である。

その後の畿内大和朝廷に何が在ったのかは定かでないが、大王(おおきみ)を補佐し、後ろ盾として最大の力を持っていた和邇(わに)臣王の氏族が、その後ろ盾を大伴(おおとも)臣王・氏族に取って替わられている。

この事と皇位が「呉族から加羅族、そしてまた呉族に替わった」らしき謎と、何か関わりがあるのだろうか?

また、この時になって、もう一つの臣王族・葛城氏が痕跡もなく消えている。

大王(おおきみ・天皇)及び直属の皇族、つまり天皇家には現代で言う所の姓がない。

名前だけである。

この事が、「葛城の姓」が突然歴史上から無くなった事と関わりがありそうな気がする。

これは仮説の話しだが、呉族系(狗奴国・宇佐岐氏)大王(おおきみ・天皇)を和邇氏臣王(わにしおみおう)が攻め、一時加羅系和邇天皇が誕生する。

その後、葛城氏臣王と大伴氏臣王の連合が和邇天皇を滅ぼし、呉族系(葛城)大王(おおきみ・天皇)が即位、葛城朝が密かに成立して、葛城氏が「臣の痕跡を消した」とも考えられる。

神武大王(おおきみ・天皇)の神は、宇佐神宮の戦いの神「八幡神」である。

それが、機内遷都の後、何時の間にか呪術に拠る平和と豊穣の神、「事代主(ことしろぬし・豊穣の神)と一言主(ひとことぬし・御託宣の神)」の両神に替わっている。

そして紀伊半島には、神武大王(おおきみ)が賀茂族(賀茂健角身命・かもたけつのみこと)に助けられた伝承「八咫鳥(ヤタガラス)道案内伝説」が残っている。

この神の交替劇こそ、神武朝から葛城(賀茂)朝に「大王(おおきみ・天皇)が替わった事を意味している」と、我輩は考えて居る。

スサノウ(須佐王)は、阿修羅のように攻め入った後発征服部族の象徴であり、比売大神(ひめのおおみかみ)は、平和の神(天照大神)が武神に変身する事で後発征服部族に対抗する先住民の「シャーマンの統治者」と考えられる。

当時、先住民の民が統治者と認め、心服するには、「呪術的能力(魅力)」が必要だった。

そして、その呪術的能力の要求は誓約(うけい)に拠って両者が統合しても、民の精神の中に脈々と生きていた。

年月が経ち、日本列島の西日本は神武大王(じんむおおきみ/天皇初代)の下に漸く統一を見る。

ただしこの統一大王(おおきみ)、有力部族国家の連合体で、大王(おおきみ)は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。

そこで両者統合の後にその民意を掴んで台頭して来たのが、海洋民族・葛城氏族(賀茂氏族)の奉ずる「事代主の神(ことしろぬしのかみ)と一言主の神(ひとことぬしのかみ)」と言う二神である。

事代主の神(ことしろぬしのかみ)の「神を有利に操ろう」と言う呪術と、一言主の神(ひとことぬしのかみ)の「神の意志を聞こう」と言う御託宣(占術)の神様である。



任那(みまな)は「朝鮮半島に存在した」と言われる倭の国々の一つで、まぼろしの地である。

半島に於いては、百済(くだら・ペクチェ)と新羅(しらぎ・シルラ)も任那(みまな・狗奴国の親の国)とは、「王族の婚姻関係を含む」付き合いが有った。

従って、任那の子の狗奴国(くなくに)も親しく交流が有った。

そうした歴史の流れの中で、朝鮮半島では、満州族系の高句麗(こうくり・コグリョ)が朝鮮半島の北方で起こり、次第に南下、朝鮮半島は三国史時代に突入して行った。

この「三国史」、朝鮮側の文献での呼び名であるが、何故か、任那(みまな・加羅や加那とも言う)の存在は、欠落している。

多分、後世の半島側の人々は、感情的に任那の存在を認めたくなかった。

日本側も、「大和民族の団結」と言う国家政策上、抹殺が必要だった。

それで公式文章から消えて無く成った。

或る時期から、どちらの国にとっても在っては成らない国に、任那は成ったのだ。

高句麗(こうくり・コグリョ)対倭国連合(百済、新羅、任那)の争いに成って、狗奴国(くなくに・もしくは大和朝廷)も、度々援軍の要請を受け、派兵している。

何時の頃かは判らないが、任那の「本拠地(王族の大半)自体が日本列島に移って来ていた」のかも知れない。

つまり実際には無かった事だが、例えて言えばイギリス政府が、「植民地の方が広いから」とアメリカに本拠地を移した様なものだ。

大和朝廷(西日本統一国家)の成立後は、発祥の地より新たに得た土地の方が広く大きく成って居たので、半島側の任那(みまな)から頼りにもされていた。

それは任那が、天皇や従う豪族自身の母国、或いは近い祖先の母国だったからである。

倭(わこく)国の内の朝鮮半島側における百済、新羅、そして抹殺された様に歴史からはじかれた任那(加那・加羅)などの国々も、古代の日本列島と同様に、大陸系「農耕民族」と黒潮に乗って来た「海洋民族」の「両民族が同化した民族」の国である。

故に、日本の神話?(もしかしたら倭国全体の神話)の様に、加羅(から・大陸)系と呉族(ごぞく・海洋)・加那(カナ)系が存在した。

この二つの部族的血の系列は、倭国内のそれぞれの国の歴史の中で顔を出す。

従って、任那(みまな)の地にも加羅(カラ)族系と呉(ご)族・加那(カナ)系は並立存在し、日本列島にも両系が渡来している。

最初に皇位に就いた任那からの謎の部族王は呉系だったが、後の天皇はその行動から「加羅族系に変わった」とするのが有力で有る。

そしてその政変の背後に居たのが、初期の加羅族系大部族・和邇(御門)氏族ではなかったのか?

この加羅系の部族・和邇(御門)氏族が、何らかの出来事で呉族(ごぞく)・加那(カナ)系・狗奴国(くなくに)の神武王朝から皇位(王権)を簒奪し、それを更に呉(ご)系の部族・伊豆(いと・伊都)の国を打ち立てたもう一方の有力氏族葛城(御門)氏族が奪回した。

この辺りが、或いは「因幡の白兎伝説」の出所なのではないだろうか?

とにかく葛城氏族が、一度は和邇(御門)氏族簒奪された神武王朝の皇位(王権)を奪回し、少なくとも継体朝(第二十六代)に皇位を譲るまで永く「葛城朝の時代が続いた」と考えないと有力氏族・和邇(御門)氏族の滅亡要因も含めこの物語は成立しない。

中国大陸に在った呉(ご)の国が、何で海洋民族国家なのかを説明しておく。

おなじみのサツマイモを例に取ろう。

日本国内でサツマイモと言うのは薩摩(鹿児島県)から国内に広がったからであるが、薩摩に行くと琉球(沖縄県)イモに成り、琉球に行くと唐(とう)イモに成る。

サツマイモは、黒潮に乗って少しずつ北上し、渡来したのだ。

今は和服と言われる着物も、未だに「呉服」とも呼ばれている。

呉の国は、中国の福健省の辺りで起こった大国だが、これが南方系の海洋民族である。

ミクロネシア、ポリネシアなどの海洋民族が海流に乗って北上、福建省の海岸沿いや、台湾島に上陸して、国を作った。

つまり、呉の国は隼人(スサノウ)の身内なのだ。

今でも「福建語」と言われる地元の言葉は、ほとんど、「台湾語」と同じで、共通している。

この台湾語では、中国の共通語(普通語・プートンファ・北京語)と違い日本語に近い発音も多い。

例えば、漢数字の五を普通語では「うー」と発音するが、台湾語ではずばり「ご」である。

ついでながら、普通語(北京語)で日本を「りーべん」と発音するのが、福建・台湾語では「じっぷん」で、恐らくジャパンの語源と思われる。

余談だが、後の安土時代登場する、明智光秀が朝廷から賜った惟任(これとう)日向の守の任(とう)は、古くからの九州名族の名であり、恐らくは、任那(みまな)にその発祥を見るものであろう。

まず日本の初代、神武大王(おおきみ・天皇)は呉族系である。

呉(ご)族は須佐王(スサノウ)の血筋であり、隼人(はやと)は呉(ご)族そのもので在った。

従って、呉(ご)族系の大国・「狗奴国(くなくに)」が南九州で成立した時、隼人族は合流した。

そして、四国や紀伊半島南部に狗奴国(くなくに)の範図が凄い勢いで広がったのも、元々同族の隼人の居住地だったからではないか。

その後、勢いを持った狗奴国(くなくに)は、当時九州北部(日向、豊後、豊前)に在った加羅(から)系の国「卑弥呼の邪馬台国」を攻める。

争いは長く続くが、やがて停戦合意が成り、誓約(うけい)がなされ、王家同士が婚姻を結び、両国は併合された。

そこで、それぞれの有力な豪族が、新国家の重要な位置に配されるのだ。

この誓約(うけい)の概念が、その後の日本列島に重大な意味を持つ事になるが、それは追々明らかになる。

大国主命(おおくにぬし)の国譲りの神話、大国主は葦原中国(あしはらなかくに・出雲の国・島根県)を治めていたが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)に譲った」とある。

これは、「同族同士の合併で、抵抗が無かった」から、と思われる。

つまり、「大国主(おおくにぬし)は、呉(ご)系の豪族の王だった」と思われる。

そうした間にも、朝鮮半島からの部族ごとの渡来は続いていた。

その中からも、有力な者(部族)は大和朝廷に参加を許されて行った。

ちょうど、二百年余り前のアメリカ新大陸の様に列島にはまだまだ土地に余裕があり、広範囲に国を治める人材も兵隊も不足していたのだ。

続々と、移民が続いていた。

その過程で、どうやら皇位が須佐王の呉族系から任那(みまな)系加羅族に移り、大和朝廷の「母国」は任那(みまな)とされたようだ。

この経緯は不明だが、当時加羅族系大伴氏(臣王)が権勢を持っていた事と何らかの関わりがありそうである。


仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の即位には、流浪と復権と言うドラマチックな物語が伝えられている。

仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)は、古墳時代の大王(天皇)で履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子・億計王(おけのおう)である。

父の市辺押磐皇子が、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一第天皇)に殺されると、弟の弘計王(こうけいのおう/後の顕宗大王/けんぞう・天皇)と共に逃亡して身を隠した。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇二年に、弟王・弘計が宴の席で王族の身分を明かした。

それを伝え聞いた清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れ、四月に兄王・億計王(おけのおう)が皇太子となった。

清寧天皇五年に清寧大王(天皇)が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇として即位する。

引き続き億計王(おけのおう)が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

その後、即位した弟王・弘計の顕宗大王(けんぞうおおきみ)が、わずか在位三年で崩御した為、億計王が仁賢天皇元年一月に大王(おおきみ/天皇)に即位した。

仁賢大王(にんけんおおきみ)は、父を殺した雄略大王(おおきみ/天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え入れる。

理由として、仁賢大王(にんけんおおきみ)自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。


一方朝鮮半島に於いても、統一国家への覇権争いは続いていた。

呉族系・大和朝廷の「母国・任那(みまな)」は、「西暦六百年頃(日本の飛鳥時代)に滅亡した」と言われている。

つまり、同じ様な事が朝鮮半島の任那(みまな・加羅・から)の地でも起こっている。

新羅(しらぎ)に併合された任那(みまな・加羅・から)の部分は、戦に破れ投降しての合併である。

しかし、百済(くだら)の部分は扱いが違う。

五百年代、継体大王(けいたいおおきみ・天皇第二十六代)の御世に、朝廷の大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)に寄って、任那(みまな・加羅・から)の一部を割譲、「百済(くだら)に賜(たま)う」として、任那の四箇所の県(あがた)は百済に合併しているのだ。

この割譲こそが、継体帝と大伴大連(おおともおおむらじ)の出自を物語っているのではないだろうか?

継体大王(けいたいおおきみ)は五百二十六年に「大倭(だいわ/後の大和国)に都を定める」とあるが、その御座所(宮)が何処に在ったかはまだ判然とはしていない。

古墳時代は古事記・日本書紀に代表される神代であり、神話が巧みに入り混じって史実の半分も解明されてはいないのである。



飛鳥時代を代表する大豪族(臣王)に大伴氏が在る。

大伴(おおとも)氏は、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(アヤメノオシヒノミコト)の子孫とされ、古代日本の有力氏のひとつである。

大伴の意味は、「多くの氏族を束ねて居る」と言う「大きな伴造(ともつくり)」と思われ、所謂氏族連合の長(御門・臣王)である。

この時代、兵を持たず神の威光で統治する大王(おおきみ・天皇)は、時々の大豪族達に支えられて君臨して居て、その最有力豪族が大伴氏で、大王(おおきみ・天皇)の親衛隊的な役目を任じていた。

雄略大王(おおきみ・天皇)の時代の五世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈大王(おおきみ・天皇)の代に室屋(むろや)の孫の大伴金村(かなむら)が武烈大王(おおきみ・天皇)を推して即位させ、大連(おおむらじ)になった時が全盛期であった。

大伴金村(かなむら)は、欽明天皇の時代に百済へ任那(みまな)の四県を割譲した事の責任を問われ失脚するが、その後も大伴氏は物部氏や蘇我氏が台頭する中、勢力を狭めて生き残り、飛鳥時代の大化の改新の後、六四九年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっている。

また、六七二年の壬申の乱の時は長徳(ながとこ)の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言・中納言・参議等が輩出している。

大伴氏は、その後も幾多の政争に翻弄されながらも生き残り、平安時代初期の桓武朝に於いても、大伴弟麻呂は東征将軍として副将の坂上田村麻呂(後に初代征夷大将軍)と共に東北蝦夷族・阿弖流為(アテルイ)等を討ちに出兵している。


大伴金村(おおとものかなむら)は、飛鳥時代の五世紀(四百年代)から六世紀(五百年代)にかけての大豪族(臣王・御門)・大伴氏の長である。

仁賢大王(おおきみ・天皇)の死後の四百九十八年、武烈大王(おおきみ・天皇)を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。

その武烈大王(おおきみ・天皇)の死(五百六年)により皇統は途絶えたが、応神大王(おおきみ・天皇)の玄孫である彦主人王の子「男大迹王(おおどのきみ)」を越前から迎え継体大王(おおきみ・天皇)とし、以後安閑・宣化・欽明の歴代天皇に仕えたと伝わっている。

その間に、百済から朝鮮半島の領地・任那四県(みまなよんあがた)の割譲要請があり、大伴金村は大連(おおむらじ)としてこれに深く関わり、任那四県(みまなよんあがた)の割譲を承認している。

余談ながら、この朝廷の大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかなむら)の位を示す連(むらじ)・大連(おおむらじ)の意味だが、連(むらじ)が「つらなる(繋がる)」を意味する事から、この国の血統主義・部族主義の色合いを物語っているのではないだろうか。

つまり我輩は、連(むらじ)が族長一族の尊称として通用し、それが「身分を表す官位と成った」と考えたのである。



継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)は、大豪族・大伴金村(御門・臣王)の後押しに寄って皇位に付いた経緯があり、当時の大伴金村の権勢は、大王(おおきみ・天皇)をもしのぐ勢いであった。

この時代の大豪族王、大伴氏(御門・臣王)や物部(もののべ)氏(御門・臣王)の祖先は、神話における「**の命(**のミコト)を基にする」と創作され、半島からの渡来の事実を消して、天皇家と同様「祖先に神をいただく」と言う事に成っていた。

例えば、大伴氏・臣王は高皇産霊(タカミムスビ)の命神を祖とし、物部氏・臣王は饒速日(ミギハヤヒ)の命神の子孫としている。

中臣氏・臣王(藤原氏)の祖、天児屋根(アメノコヤネ)の命神は祭祀を預かり、神と人の中を取り持つ意味があった。

いずれにしても、神と言う理解し難い存在をもって、被征服民に畏怖(恐れ)を抱かせる為の演出である。

彼らが、任那(みまな)時代からの王の枝分かれの血筋を引く王族なのか、別の大部族集団の長なのかは判らない。

継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)の前の天皇、武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇第二十五代・葛城朝)に子供が無い為、皇統を繋ぐ必要から、越前(福井県)にいた応神大王(おうじんおおきみ・天皇第十五代)の五代(五世)孫に当たる男大迹王(おおどのきみ)に擁立のお鉢が回って来て、継体おおきみ・天皇)は河内国の 樟葉宮(くすばのみや)に即位したのである。

この継体大王(けいたいおおきみ・天皇)の即位だが、ある疑いが囁かれている。

学者の説によっては、国内(越前)王族説を採らず、即位の為に加那系・任那(みまな)からやって来た加那系(呉族系)の王族で、妻子が在りながら、先々代の大王(天皇)、仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇第二十四代)の娘・手白髪姫(たしらがひめ)を皇后に迎える「政略結婚をした。」と成っている。

つまり、継体大王(けいたいおおきみ)が百済系任那から即位の為に招かれたのであれば、その後の継体大王(けいたいおおきみ)の対半島政策の非常に思い入れがあると思われる行動に納得が行くのである。


継体大王(けいたいおおきみ)の生きた古墳時代には、まだ地方有力豪族の国主(国造/くにのみやっこ)と地域国家間の大王位をめぐる混乱が在って、大王位(おおきみのくらい)はかなり不安定なものだった。

継体大王(けいたいおおきみ・天皇第二十六代)は、即位後二十年の歳月を掛け漸く大倭(後の大和国)の地に都を置く。

この王権確立に二十年を費やす背景に、継体大王(おおきみ)の出自・応神大王(おうじんおうきみ)の五世孫の不確かさが見え隠れしていて、継体大王(けいたいおおきみ・天皇)が大倭(後の大和国)に都を置いた事で、漸くその地位が「不動のものに成った」と見えるのだ。

そして大倭(後の大和国)に都を置いた直後に継体大王(おおきみ)は半島の国・新羅に攻められた百済の救援に軍を送った。

王権がやっと確立したばかりの時期に「他国に救援に軍を送る」と言うこの行動、継体大王(けいたいおおきみ)が故郷救済に動いたのなら仮説を裏付けるものとして話は早いので在る。

古墳時代末の五百二十七年(継体二十一年)、継体大王(けいたいおおきみ)の命を受けた近江毛野(おうみのけな)率いる大和朝廷政権軍は、朝鮮半島南部へ出兵しようとした。

所が、新羅と結んだ筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)により九州北部で「磐井の乱(いわいのらん)」が勃発し、大和朝廷政権軍の半島進行を阻(はば)み、その平定に苦心して百済への救援軍派遣にも苦労している。

翌年になって筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)は、物部麁鹿火(もののべあらかい・大連/おおむらじ)軍によって討たれ「乱は鎮圧された」とされる。

但しこの磐井の乱(いわいのらん)は、記述が「日本書紀」に限られ、「古事記」には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていない。

日本書紀では筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を反乱軍の扱いだが、実は大王(おおきみ)の権威が日本書紀の記述ほど当時は無かった可能性が考えられる。

つまり、反乱だったのか王権間の戦争だったのかが、特定出来ていないのである。

この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る呉族系と加羅系の民族的な主導権争いがあったと見られる。

当時半島に於いて新羅は、任那の加那系と百済に取って共通の敵・侵略国家だった。

そして列島に移植した任那と百済の王族達とその部族は、当然ながら故国の盛衰に一喜一憂していた筈である。

思い出して欲しいが、初代大王(おおきみ/後の天皇)の神武帝が九州の筑紫を発つて畿内に入る神武東遷(じんむとうせん)物語の出発点が九州筑紫である。

これはあくまでも仮説だが、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が神武朝の九州に定住した分家であれば、継体大王(おおきみ・天皇第二十六代)に「本家を乗っ取られた事への抵抗」とも考えられる。

またそれ以前に皇統が神武朝から葛城朝に変わっていれば、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)は正統性を掲げて「大王(おおきみ)即位の名乗りを挙げた」とも解釈できる。

当時の日本列島側では、その豪族達(臣王・御門)の出自を背景に半島側・新羅・任那(加羅系)と任那(加那系)・百済の「列島側の延長代理戦争をしていた」と見るべきだろう。

いずれにしても、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が新羅系豪族(王・御門)の「九州王だった」とする学者は多い。



継体大王(けいたいおおきみ/天皇第二十六代)が即位して、屯倉(みやけ)制度を始めとして様々な中央集権化の制度改革をした裏に、或いは少し進んだ半島の政権体制、「母国の制度を真似た」と言う疑惑が湧くのである。

一般論的にはそうした王位・皇位継承のトリックはありそうな話で、そもそも継体(けいたい)は字のごとく「継ぐ体」で、本来の「嗣(つぐ)」の字を用いず、わざわざ謚号(おくりな)にそうした意味合いの違う文字を付けたこと事態が、皇統の一貫性を疑問視されている。

その疑惑が本当なら、この後は「女系の皇統」である。

とにかく「何か」が起きたのだが、本当の所は全て憶測に過ぎない。

だが、少なくともこの神代はまだ、蝦夷(エミシ/先住民)と渡来・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系部族、そして同じ渡来・呉族(ごぞく/海洋民族)系部族のトライアングル(三角状態)の中で紛争が繰り返されながら民族的同化が進んでいたのではないだろうか?

となると、継体帝の即位で大和朝廷は加那(呉族)系・葛城朝から加那(呉族)系・継体朝に代わった事に成るのか?

そして裏を返せば、それほど任那(みまな・加羅・加那)の地と大和(やまと・大伴氏臣王)は一体の物(同族王家の血)だった事に成る。


大伴金村、継体大王(おおきみ・天皇)、共に加那族系の血筋で、「親百済派・任那系」である。

そして、任那(みまな・加羅・加那)の一部割譲・・・

この時点で任那(みまな・加羅・加那)の地は、まだ大和朝廷(呉族系・葛城朝から加那系・継体朝に)の支配地だったのである。

支配地だからこそ、任那四県(みまなよんあがた)を「割譲出来た」と言える。

しかしそれ以後、新羅の武力の前に任那は崩壊し、百済も新羅に圧倒されていた。

加那系任那の相次ぐ勢力減少に伴って、任那出身者の日本列島への流入も多かった筈である。


日本の安土桃山時代、太閤・豊臣秀吉が「朝鮮征伐」なる侵略戦争を起こしている。

明治維新の少し後、維新の英雄「西郷隆盛」が「征韓論」で大久保利通らと対立、「西南戦争」を起こした。

これはまったくの憶測だが、豊臣と言い西郷と言い、天下を取り皇室に出入りする様に成ってすぐに彼らの目が半島に向いている。

これは偶然だろうか。

うがった考えを持てば、大和朝廷は祖国を取り戻す悲願を持ち、時々の覇者にそれを要請していたのかも知れない。

その後の日韓併合を含めて、或いは朝廷に代々伝わる申し送りとしての悲願、「任那再建」又は、「倭の国統一」があり、密かに時の実力者に「下命が有った。」としたら、いや無いとは思うが・・・・・。

いささか相手国には不謹慎ではあるが、二千年のミステリーロマンである。

しかし、これは「歴史の一コマ」と捉えたい。

そんな、何千年も昔の事を蒸し返して領土問題を主張すると、「ユダヤ・イスラエル」と「アラブ・パレスチナ」の様なむずかしい問題に成るのは目に見えている。

この辺りで面白いのは、倭国(わこく)全体で対高句麗(こうくり・コグリョ)共同戦線を展開しながら、互いに相手国の領土も「狙っていた」事であろう。

それで大和朝廷も、文献上何度も「半島への軍勢の派遣」をしている。

百済防衛が、任那(加羅)の防衛に繋がるからだ。

それさえも、現代の半島側の歴史研究者の間では、古い時期の日本の「侵略行為だ」としている。

この任那(みまな・加羅・加那)の存在を認めると、日本の近代の韓国併合に小さいながらも正当性を与えるからだ。

しかし、「日本書紀」に記載されている事が「古事記」には無いなど、「紀・記」も朝廷内の勢力に拠って、何らかの情報操作、或いは隠蔽や誇張も考えうる状態に、謎が有る。

その、「次期天皇が半島から来た」と言う話、証拠が在る訳ではない。

どうも日本書紀を編纂したグループと、古事記を編纂したグループは、それぞれ加羅族、呉族が編纂したらしく、意図的なものが見られる。

それでも、「紀・記」の共通点だけを拾っても、任那系倭国としての大和朝廷が当時の実体だった可能性が浮かんで来る。

さあ、現在で知り得る断片的な条件は提示した。

この継体帝の皇位継承を現時点で断定する学者が存在すれば、それは限りなく妖しい事に成る。

この証明出来ない謎をどう解釈するかは、「貴方の考え方次第」と言うのが当時朝鮮半島側王族と深く関わる日本側の王族、この継体帝の皇位継承ミステリーである。

但しこの疑惑は、例え事実で在ったとしても皇統にとって満更悪い事ばかりではない。

建前に於いて、皇統は神の系図であるから観念的余人に替え難いもので、それが男系男子の皇位継承に拘る理由である。

所が、「種を残す」と言う生殖生命学の上では、男系男子の血統に拘るほど「虚弱精子劣性遺伝」と言う難問が控えている。

男系の精子はXY染色体に於いて傷が付き易く、その傷付いた精子の交配が何代も続くと「虚弱精子劣性遺伝」が加速して男系男子を懐妊させる能力を失う。

つまり皇統に於ける万世一系は観念的ものであるから、生殖生命学上は数代に一度は女系にして婿を迎え健康で野生的な男系精子を取り入れる必要がある。


さて、大伴氏と拮抗する勢力を持つ豪族に、物部(もののべ)氏が居た。

物部(もののべ)氏は、加羅(から)系の祖をもつ大連(おおむらじ)の家系で、同じ半島の倭国出身ではあるが、新羅(しらぎ)の方に影で味方していた。継体(けいたい)天皇は、即位した時既に五十八歳であった。

この頃から、正式ではない民間レベルで、仏教が列島に伝来し始めている。

諸説あるので、「五世紀の前半頃に仏教がもたらされた」として置く。


継体大王(けいたいおおきみ/天皇)が崩御すると、連れ子の安閑大王(あんかんおおきみ・天皇第二十七代)が即位する。

安閑天皇が崩御すると、弟の宣化大王(せんかおおきみ・天皇第二十八代)が即位する。

その後、この宣化大王(天皇)の娘と、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)と手白髪(てしらが)皇后との間に出来た欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇・つまり、宣化帝の異母弟・第二十九代)が結婚して、元の武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇第二十五代)の血統に回復が成されたのだ。

ただし、この皇統譲位の経緯はあくまでも後の官製史書に拠るものである。

継体大王(けいたいおおきみ)は、五百三十一年に皇子の勾大兄(まかりのおおえ/安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)するも、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)はその即位と同日に崩御している。

「日本書紀」では「百済本記」を引用して、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)及び太子(勾大兄/まかりのおおえ)と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体帝以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆しているのだ。


この時代、天皇の入れ替わりが激しいが、その理由の第一は、「血族結婚による劣勢遺伝だ」と思われる。

後ほどこの物語の第五章で詳しく記述するが、「種を残す」と言う生殖生命学の上では男系男子の血統に拘るほど「虚弱精子劣性遺」と言う「XY染色体遺伝子」に於ける障害が発生する。

それで、実際に一・二年しか在位していない大王(天皇)も多かった。

ともかく、大王(天皇)、皇子の「早世(早く亡くなる)」は、おびただしかったのだ。

従って、半島から血を入れる事は、あながち悪い訳ではない。

遺伝の問題だけ考えれば、むしろその方が良かったのかも知しれない。

また入れ替わりが激しい理由の第二は、これも、「神の権威で統治する」と言う大王(おおきみ)家の特殊な立場が災いしている。

神の威光を持って統治する大王(おおきみ)家には財力や武力的な裏付けが無く、有力豪族(臣王・国主)達の領地の直接統治に大和朝廷が緩(ゆる)い間接統治の形で関わっているに過ぎないから、後継争いの暗殺の類も多かったのが事実である。

つまり時の有力豪族(臣王・国主)の支持が在って初めて「大王(おおきみ)の権威は保証される」と言う状態であるから、有力豪族(臣王・国主)の意向で大王(おおきみ)が挿げ替えられる事態が多々在った訳である。


欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から分かれた皇統傍系出自の父・継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の子である。

継体大王(けいたいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との子である。

欽明大王(きんめいおおきみ)は、母に仁賢大王(にんけんおおきみ)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を持つ血筋として父・継体大王の皇統の歪みを解消した。

大王(天皇)が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化大王、安閑大王でも、それぞれ手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。

さらに欽明自身も、宣化大王の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に迎えており、何重にも皇統が維持されている。

仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。


この欽明大王(きんめいおおきみ)の御世、大伴金村(おおとものかなむら)と物部尾輿(もののべのおこし)を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)を大臣(おおおみ)とした。

大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任し執政を行った。

しかし大伴金村は、大連(おおむらじ)就任直後の五百四十年(欽明天皇元年)に失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。

その翌年、五百四十一年(欽明天皇二年)に、欽明大王は大連(おおむらじ)・蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)を妃とする。

この蘇我氏の娘達が生んだ三人の弟・妹(用明・推古・崇峻)が、計四十年間も大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれた。


物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の物部氏の歴代棟梁は、屈指の大豪族(御門/みかど)の一人だったが、六世紀半ばの安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)・欽明両大王(きんめいおおきみ/天皇)の頃の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)は、大連(おおむらじ)の官位を授かって朝廷で力を発揮していた。

欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)が欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)と組み、それまで最大の勢力を誇っていた大伴朝臣(おおともあそみ/大伴御門)・大伴氏の何十年も前の「任那四県(みまな四あがた)割譲」を咎め、大連(おおむらじ)・大伴金村を朝廷から失脚させている。

大伴(おおとも)氏失脚に伴い、百済系物部氏・臣王と共に力をつけて来たのが、高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王である。

当初は物部氏・物部尾輿(もののべおこし)の勢力が圧倒的に強く、大和の対半島政策は、百済(くだら)支援から新羅(しらぎ)支援へと、対応を変えて行くのだ。

所が、欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)十三年の頃百済の聖明王から仏像や経典などが献上され(仏教公伝)た時、物部神道の継承者である物部尾輿(もののべおこし)は、中臣朝臣(なかとみのあそみ)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)と組んで廃仏を主張し、崇仏派の新興勢力・蘇我稲目(そがのいなめ)と対立した。

ちなみに大化の改新以降に中大兄皇子(天智大王/天皇)の腹心として活躍した藤原(中臣)鎌足(ふじわらのかまたり)も若い頃は中臣鎌子(なかとみのかまこ)を名乗っているが、物部尾輿(もののべおこし)と組んだ中臣鎌子(なかとみのかまこ)とは別人である。



さて、大和合の国・大和朝廷の有力臣王(御門)達の勢力図に変化が現れる。

急激に力を着けて物部氏と対立を始めた蘇我(宗賀、宗我)氏(そがのうじ)は、古墳時代から飛鳥時代(六世紀 から七世紀前半)に勢力を持っていた高句麗系の氏族である。

蘇我一族の氏名である「蘇(so)」はチーズの一種であり、蘇我一族の母国とされる朝鮮半島の付け根に栄えた高句麗国は、大陸の蒙古・満州の牧畜地帯から半島に来た部族と伝えられている。

蘇我氏の姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた古代の有力豪族である。

百済国の高官・木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が「同一人物である」と言う説があり、蘇我氏百済説も在る。

だが、蘇我稲目(そがのいなめ)の父が蘇我高麗(そがのこま)を名乗る点と、蘇我氏と高句麗の交流やその後蘇我氏が最有力氏族になった時点での高句麗系の隆盛から、我輩は蘇我氏・高句麗系説を採っている。

蘇我氏は言わば少し遅れて来た高句麗系の新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏の棟梁・蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

蘇我高麗(そがのこま)の子、蘇我稲目(そがのいなめ)は飛鳥時代の大臣で、物部氏・物部尾輿(もののべおこし)と仏教の扱いで対立するが、当時は物部氏の力が強く中々決着が着かない。

しかし、五百三十六年(宣化元年)に宣化大王(せんかおおきみ・天皇)の大臣(おおおみ)と成り、大王(おおきみ)の命を受けて尾張国の屯倉の籾を都に運び、凶作に備えた。

五百四十年(欽明元年)には大王(おおきみ・天皇)が欽明に代わり即位する。

蘇我稲目(そがのいなめ)は引き続き大臣(おおおみ)に止まり、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇)の寵愛を得て娘の堅塩媛都(きたしひめ)小姉君(おあねのきみ)他、娘三人を全てを欽明大王(おおきみ・天皇)の妃として外祖父となり、最有力氏族と成る。

稲目の妻は葛城氏の出自と推測され、この宮廷内の閨閥にはその力も影響しているかも知れない。

欽明大王(きんめいおおきみ・天皇)に嫁した堅塩媛(きたしひめ)は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(おおえのみこ・用明天皇)と炊屋姫(かしきやひめ・推古天皇)が即位している。

小姉君(おあねのきみ)は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(はつせべのひめみこ・崇峻天皇)が即位している。


この頃に成ると、まず百済が高句麗を討ち、一時的に衰退させると、半島の南側の覇権をかけ百済と新羅が全面対決する様に成る。

その過程で任那は両方から狙われるが、最終的に「任那の現地の人々」が新羅側に付き、吸収された形と成って任那(みまな・加羅)は消滅した。

この吸収合併は、大和の加羅族系にとっては母国を失った事を意味し、盛んに任那復興を運動するが、呉系の物部氏や高句麗系の蘇我氏が天下を取っていて、みすみす任那を新羅に渡してしまうのだ。

大和朝廷を構成する勢力の、この加羅系と呉系、高句麗系の争いが、やがて大事件に繋がって行く。

日本列島には、この五世紀から六世紀頃に成ると、朝鮮半島を経由して仏教や儒教の各宗派が、帰化人達とともに民間レベルで頻繁に伝わっていた。


武士を「もののふ」と呼ぶ語源が、もののぶ=物部(もののべ)で、物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すものである。

つまり物部氏(もののべし)は、大和朝廷に於いて武器を扱い管理する部民だった。

武器を扱う氏族として物部氏が大和朝廷でその地位を固めた理由であるが、物部氏は当時最先端の青銅鋳造技術をもつ鍛冶氏族であった事からである。

当然ながら、大和朝廷初期の段階に於いて諜報工作組織である陰陽修験への武器の供給は物部(もののべ)氏であるから、役小角(えんのおずぬ)の修験道成立当初から物部(もののべ)氏と陰陽修験組織との接点は想像に難くない。

両者の接点は、当初武器を供給する部門と使用する部門から始まっているのである。

また物部氏は、青銅鋳造術を持って銅鐸祭祀(物部神道)をする「新羅系の渡来人であった」とされ、仏教とは相容れない立場にあった事が、後に伝来した仏教を取り入れて勢力を伸ばそうとする蘇我氏との軋轢を生んだのではないか」と言われている。

前述のごとく役小角(えんのおずぬ)は、日本列島に存在した原始信仰と渡来信仰を組み合わせて陰陽修験道を成立させている。

この銅鐸祭祀(物部神道)が、当然ながら陰陽修験の成立に少なからぬ影響を与えている筈で、その関係は「良好だったと」推測されるのである。


古事記・日本書紀に拠ると、物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(タケルガミネもしくはイカルガミネ/現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命/邇藝速日命)を祖先と伝えられる氏族である。

元々は兵器の管理を主に行なっていたが自然と大伴氏とならぶ武器を扱う「軍事氏族へと成長して行った」とされている。

言わば物部(もののべ)氏は武門を売り物にする古代の有力豪族(部族王・臣王・国主)で、連(むらじ)の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓(あそみ/あそんせい)を賜っている。

欽明大王(きんめいおおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部尾輿(もののべおこし)が欽明天皇と組み、当時最有力豪族(臣王・国主)だった大伴(おおとも)氏(臣王・国主)の大連(おおむらじ)大伴金村を失脚させている。

大伴(おおとも)氏の失脚で最有力豪族になった物部(もののべ)氏であるが、大伴(おおとも)氏衰退の間隙を縫って高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王が頭角を顕わして来る。


五世紀も終わりに近づくと、物部氏と蘇我氏が伝来した仏教の扱いで対立する。

仏教が伝来した時、有力臣王(御門)達の集合体・大和合の国・大和朝廷は大混乱に陥ったのである。

当時の物部氏は古くからの歴史ある名門で、青銅鋳造術を神格化する銅鐸祭祀(物部神道)を擁する物部一族は当然ながら神道擁護排仏派だった。

反対に蘇我氏は言わば少し遅れて来た新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

その争いの時点で、大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の力は拮抗していたが、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇・第二十九代)が仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。

この大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の勢力争いは陰陽修験組織も翻弄を余儀なくされるのだが、実は中立を守っている。

当然ながら、陰陽修験の理念は物部尾興(もののべおこし・臣王)側に近かった。

しかし一方で陰陽修験道の真髄が、あらゆる信仰を取り込んで大王(おおきみ・天皇)の統治に利用する為の組織だった。

この陰陽修験道の真髄、「あらゆる信仰を取り込む」が、いずれこの物語で記述する、実は現代に到るまでの「信仰受け入れに寛大な」日本人の「良い加減」な信仰精神の基本と成り得たのである。

この古墳時代、まだ日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。

背景の争いがそんなだから、大王(おおきみ/天皇)後継者を巡る争いが繰り広げられる。

物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・蘇我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。



物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、古墳時代に起きた蘇我と物部の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。



敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子として生まれた。

父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神天皇から分かれた傍系の出自であった。

このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ・天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。

つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。

欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。

そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。


五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。

敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。

翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。

ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。


この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。

敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。


五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。

敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(おおきみ/第三十一代天皇)として即位した。

この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。



五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は軍を立て直して進軍させた。


迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。 寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。



物部守屋(もののべのもりや)に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。

用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)は、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇第二十九代)の第四皇子で、母は大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)である。

都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)と伝えられ、その所在地は現在の奈良県桜井市阿部、或いは同市池之内などの説が在った。

しかし二千十一年に成って奈良県桜井市池尻町で、所在地が不明だった磐余池(いわれのいけ)と見られる池の堤跡が見つかり、その堤跡上で発見された大型建物跡が磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)で在った可能性も出て来ている。

用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は、敏達大王(おおきみ・天皇第三十代)の崩御を受け即位する。

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)は、物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)がそのまま引き継いで、物部氏と蘇我氏は二大勢力を築いていた。

この二大勢力の内、物部氏は物部神道を擁する廃仏派であり、蘇我氏は崇仏派として仏教を擁護、物部氏に対抗していた。

蘇我稲目の孫でもある用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は、廃仏派の敏達大王(おおきみ・天皇第三十代)とは違って崇仏派であり仏法を重んじた。

一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明大王(きんめいおおきみ/天皇第二十九代)の皇子の一人・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と通じていた。

しかしながら、用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は疱瘡の為に在位二年足らずの五百八十七年(用明天皇二年)四月に崩御した。


用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。

この敗戦で、物部氏(新羅派)は衰退して行く。

物部守屋が蘇我側の遠距離からの弓矢攻撃により射殺され、この戦争の勝利の結果、蘇我軍に参加した泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)が天皇に就任する事になり、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)として即位する。

崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)の頃から大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が妃だったが、即位して後に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)が入内(にゅだい)して内裏(だいり)に納まっていた。

しかし四年後、蘇我馬子に部下の東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)と言う者を刺客として崇峻宮に送り込まれ、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は暗殺される。

そして真贋の程は定かでないが、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)暗殺の実行者・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻宮を襲った時に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)を陵辱した或いは河上娘(かわかみのいらつめ)と密通したとの理由で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が蘇我馬子に討ち取られてしまう。

これほど明確に記録されている天皇暗殺は類を見ないもので、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と河上娘(かわかみのいらつめ)との事は、口封じの口実とも考えられる。

この崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇第三十二代)暗殺話は五百九十二年の事件だから、百二十〜百三十年も経た桓武天皇の御世に成って余りにも克明に記述されている所に注目する。

だから、その後の「大化の改新(蘇我入鹿/そがのいるか・暗殺と蘇我氏滅亡)」に対し、いかに歴代蘇我氏が「横暴なふるまいをしていた」と言う事を印象着ける為の複線として書かれている疑いもある。

同時にこの事件を記する事で、皇統の正統性をもアピールして居るのかも知れない。

衰退した加羅系・物部氏(新羅派)とは反対に、大連(おおむらじ)・物部守屋を破った高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。

蘇我馬子の擁立したのが、崇峻(すいしゅん)大王(おおきみ・天皇第三十二代)であった。

この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。

厩戸(うまやど)の皇子(後に聖徳太子と呼ばれる人物)である。

本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。


飛鳥京(あすかきょう)は、後の律令国家成立期以後の新益京(藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは違い、京と呼ぶほどの宮都の体裁を成しては居なかった。

つまり「飛鳥京跡」は、飛鳥地域に散在するこれら時期の異なる宮や邸宅、寺院などの建造物、市や広場、道路など都市関連遺跡の便宜上の総称に過ぎない。

この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。

狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。

つまり地方を領する有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。

明治以後の大日本帝国で、天皇家の神格化教育が行き届き、天皇が絶対君主と教わって、当然と思っていた天皇の立場とは、当時の真実の事情とは相当感じが違うのだ。

その時々の有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達に翻弄され、利用されながら、それでも皇室は脈々と続いて来た。

この時代だけ切り取ると、まるで大和の国は各々に祖国を持つ民族が勢力争いを繰り返す多民族国家である。

この頃の日本列島は、まさに現在のアメリカの様な「人種のるつぼ」である。

この伝で行けば、アメリカも混血が進んで後二千年もしたら、同化した民族が出来上がるかも知れ無い。

この国で「有史以来の単一民族」、「万世一系の天皇」と、一度刷り込まれた先入観を払拭するのは、結構大変なのだ。

蘇我馬子に擁立された崇峻大王(おおきみ/天皇)であるが、その後何故か大臣・蘇我馬子の指図によって暗殺されれしまう。

この暗殺劇、この後の記述で厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の異説として取り上げるが、蘇我馬子に容易ならぬ陰謀が有ったらしい。



聖徳太子は、仏教の祖とされるシャーキャ族の王(ラージャ/豪族)・ガウタマ・シュッドーダナの王子・ガウタマ・シッダールタ=釈迦(シャーキャ)のブッダ(仏陀)として悟りを開く前を模した事から誕生した「架空の人物」である。

或る意味に於いて聖徳太子の出現は、皇室の正統性と仏教布教の目的が一致した事で伝説化されたものである。

従って伝えられる王子・ガウタマ・シッダールタ=釈迦(シャーキャ)の逸話と聖徳太子の逸話は、信仰対象として相似形を為している。

しかしこの聖徳太子の存在は、仏教的要素が強い為に仏教関係者は頑として「架空の人物」とは認めず、その態度は歴史学的解明には枷(かせ)となっている。


ここで大和朝廷の全体像を、考えて見よう。

大和朝廷は、倭(わ)国の縮図と言える。

つまり、狗奴(くな・呉系)・任那(みまな・加羅系)両国系誓約合体の神聖・天皇家とは別に、倭の国各地(各国)出身の豪族(部族王・御門・臣王・族長)の和邇(呉系・百済派)、葛城(呉系・任那派)、大伴(加羅系・百済派)、物部(呉系・新羅派)、蘇我(高句麗系)、中臣(加羅系・百済派・後の藤原氏)などの「王」が、それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家で在った。

そしてまだ、大王(おおきみ・大国主・天皇)の権力は完全統一的なものでは無かった。

そう考えた方が、判り易すい。

大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・大豪族)は、少なくともの和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)の五家、それに続く安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)など更に三家以上は「臣王(おみおう)が存在した」と思われる。

従って、「大王(おおきみ・大国主・天皇)」は、大連(おおむらじ)大臣(王臣・おおおみ)などと同じ様な「官位、官職の最高位」とも言える立場で有ったのかも知しれない。

そうした背景の中、推古大王(すいこおおきみ・天皇第三十三代・女帝)が即位し、太子には厩戸(うまやど)皇子が「聖徳」と改めて執政に就任した。

その推古大王(すいこおおきみ)の御座が、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)に在った豊浦宮である。

聖徳太子の言と伝えられる有名な、「和を持って貴しと為す」の背景には、部族の王達間に於ける誓約(うけい)の和合、多部族(多民族)意識がまだ残っていたからこその、民族統合の施策だった。

つまり後の創作ではあるが、「大和合の国=大和の国」の精神を示しているのである。

百年後に記述された日本書紀の聖徳太子が現実に存在する人物であれば、聖徳太子の功績は太子一人の功績とは考え難い。

この頃の朝廷では、大臣(おおおみ)は蘇我馬子の独占で在ったから、三人の「共同国家運営ではないか」と思われる。

そしてこの頃になり、大和の国では漸く鉄剣の国産化が始まっている。

この三人、推古大王(すいこおおきみ/天皇)、聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)の共同作業が、後の聖徳太子の善政評価である。

当時、いかに聖徳太子が有能であれ、当時勢力絶大な蘇我馬子(そがのうまこ)の協力無しに、「冠位十二階」や「十七条の憲法」の「制定が成った」とは考え難い。

何故なら、用命大王(おおきみ・天皇第三十一代)の母と聖徳太子の母は姉妹で、蘇我稲目の娘、つまり「馬子の兄妹」で在った。

つまり馬子は聖徳太子の叔父であり、更に娘を嫁にして居たから義理の父でも在ったのである。

そこで聖徳太子の存在に疑問が生じる。

もし聖徳太子が、「冠位十二階を制定した」とするならば、当時の最高権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)が、何故に官位を授与された記録がなかったのかが説明できない。

しかし蘇我馬子(そがのうまこ)が「冠位十二階」を制定したならば、自分で自分に官位を与える愚は行う筈が無いのである。


その「制度改革」と言う国家的プロジェクトの成功を、後世の明治政府の皇統を礼賛する民意誘導の都合で馬子を並の臣下扱いにし、聖徳太子一人の手柄にしてしまった。

こうした過去の朝廷の歴史を、歴史学者に掘り起こさせ、学校教育の一環として取り上げ、天皇直接統治の為に、創り上げたのは明治政府に成ってからである。

皇室の元に、国民の民意の統合的合意を目指したのだ。


聖徳太子は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子=天智大王/てんちおおきみ・天皇第三十八代)が、大化の改新(たいかのかいしん)と言うクーデターで「蘇我御門一門」を抹殺した事実を塗布隠ぺいする為に出現させた創作人物である。

なぜなら、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定は、実は当時絶大な権力を挙握していた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の手に拠るものではないかとの説がある。

その理由として、絶大な権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)に冠位がない事が挙げられ、馬子(うまこ)は「冠位を授ける側の立場に在ったのではないか」と言う推測が成り立つのだ。

天智大王/てんちおおきみ・天皇第三十八代)が武力で滅亡させた「蘇我御門一門」が、功績を残していては都合が悪い。

つまり蘇我氏の政治的功績、冠位十二階や十七条の憲法の制定を蘇我氏でない純潔の皇統の人物の手柄に、無理やり置き換える必要が在った。

聖徳太子が陰謀で創作された「実在しない人物」であるからこそ、生前に太子は多くの奇跡を生み、太子一族は後裔も残さず痕跡も無く簡単に滅んで行った。



この聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が残っているので紹介する。

実は大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているからである。

ただしこれは、聖徳太子の伝承に乗っかって各団体に後付けされた伝承の疑いが強いので、その分は割り引いて読み進めて欲しい。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群、同じく有力部族・秦氏族への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・神農行商の祖)、そして伊賀の国人・秦氏流服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀流忍術の祖)の三団体の事である。

忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖とされる川勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。

日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成った服部氏は、後世余りにも有名な伊賀郷の忍術者の家系として江戸幕府・徳川家に雇われている。

また、「伊賀・服部流と双璧を為す」と評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群である。

川勝氏の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。

その名の通り香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。

香具師の起源については、古代に遡(さかのぼ)る伝承をもっているが、明確ではなく、一説には秦氏の川勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし)の祖」とされている。

そうした所から推測して、「行商に身をやつして諜報活動をもしていた」と考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。

つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、主として神前での興行や商いをする「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事になる。

どうやらその最初の成り立ちとして、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れの陰陽修験は村落部、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れ服部氏と川勝氏は町場の氏族相手と守備範囲の役割を分けて居たのかも知れない。

しかしながら武術の発祥は陰陽修験道からであるから、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れである服部氏と川勝氏も修験武術の習得を通して両者に接点は在った筈である。

この「聖徳太子が情報収集に使った」とされる太子にまつわる忍者系の逸話自体が、切り口を変えれば、さも「諜報活動の仕掛け」と想える話ではないだろうか?


秦の始皇帝を始祖と自称する秦氏は、六世紀頃に日本列島へ渡来した渡来人部族集団と言われる。

ハタオリは秦織(たおり)で、服部(はとりべ/機織り部)と言う職掌がその「氏名(うじな)の語源と成っている」と伝わる服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。

そして伝承では、秦河勝は猿楽の祖とも伝えられ能楽の観阿弥・世阿弥親子も「秦河勝の子孫を称した」とする所から、秦氏と服部氏とはまったく同系の部族と考えられるのである。

また、賀茂・葛城も秦氏とは同系の部族で在りながらこちらは占術と神職と言う職掌違い、物部氏も武器の製造管理言う職掌違いで氏名乗(うじなの)りは違う。

だが、秦氏が信仰から機織り技術・金属技術まで持ち込んだ渡来人集団であれば、各得意分野ごとに分かれて氏名乗(うじなの)りをしても不思議は無い。

その秦氏・同系の部族説を検証すると、秦氏系・服部氏と物部氏系・鈴木氏には賀茂・葛城と重複する神職や修験道、そしてそれらから派生した武道である忍術、神事から派生した芸能などのルーツが遡って秦氏に辿り着くのである。

つまり葛城氏を含む秦氏系渡来部族こそが、日本列島各地に当時の最先端大陸文化を持ち込んだ有力部族集団ではないだろうか。


厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を紹介して置く。

日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

その一つが聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのみこ)の実在疑惑である。

指導階層(権力)が結託すれば、歴史の捏造など造作も無い。


元々この聖徳太子の登場には「或る目的」が見え隠れする。

聖徳太子が文献上登場した頃から遡る事百五十年以上前、当時絶大な勢力を誇った大豪族蘇我氏・蘇我入鹿を討った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子=天智(てんち)大王(おおきみ・天皇第三十八代と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)を起こす。

そして蘇我氏(そがうじ)に「一族ことごとく討ち取られた」とされる「聖徳太子とその一族」が、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料に「初出」と言う形で出現する。

つまり聖徳太子の出現は、蘇我氏(そがうじ)を殊更悪しき存在としてその後に起こった乙巳の変(いっしのへん)の変事を正当化するものである。

あらゆる周辺の情況を集積すると、「謎の聖徳太子を出現させ最後に蘇我氏が太子一族を攻め滅ぼす」と言うストーリーの裏側に垣間見えるのは、皇統の神秘的な優秀性を主張する目論見とともに「蘇我氏一族の功績」をも葬り去る意図を持っての「百五十年後の創作ではなかった」とは言い切れない。

そしてこの聖徳太子、仏教の祖とされる釈迦(シャーキャ)の逸話に加え、厩戸(うまやど)にて生誕したとされるキリスト生誕の逸話をも採用し、若き日の太子は「厩戸皇子(うまやどのみこ) 」である。

まるで偉人とされる人物の逸話を寄せ集めて「人格を創り出した」と思うのは筆者だけだろうか?

つまりサスペンス風に言うと、天武天皇の命を受けて日本書紀の編纂を仕掛けた舎人親王(とねりしんのう/天武天皇の皇子で淳仁天皇の父)は「聖徳太子捏造事件の重要参考人」と言う事に成る。

「その陰謀の証拠を挙げよ」と誰に迫られようと、簡単に証拠が挙がらないからこそ陰謀なので、その命題の経緯と結果から陰謀の可能性を導き出すのが、古文書の記述だけに頼らないまともな歴史考である。


聖徳太子は、日本史に於いて最も有名な皇太子の一人である。

しかしこの聖徳太子には様々な疑惑があり、現代では歴史上の人物から「伝説上の人物」とされる傾向が強まっている。

まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。

聖徳太子と目される厩戸皇子(うまやどのみこ)の没後百年以上を経て成立した「日本書紀が聖徳太子の初出」と言う事は、作文した内容は天武天皇から桓武天皇にかけての編纂で、「和を持って尊し」を言ったのは桓武天皇の側近辺りの進言が採用されたのかも知れない。

そして聖徳太子は、治世に功績を残しながら何故か太子(世継ぎ)のまま没している。

正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?

簡単な話し、立太子した者は次期の大王(おおきみ/天皇)であり、もし聖徳太子が実在の人物ならば聖徳太子が理由も無しに皇位に就いた事実が無い事は説明が着かないのである。


推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、欽明大王(おおきみ/天皇・第二十九代)の皇女にして母は大臣蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)、用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)は同母兄、崇峻天皇(第三十二代)は異母弟にあたる。

推古大王(すいこおおきみ)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言い、十八歳の時に当時皇子(後に敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)だった異母兄の渟中倉太珠敷皇子(ぬなくらのふとたましきのみこと)の妃となる。

敏達天皇・皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)三十四歳の時に敏達大王(天皇)が没し、同母兄の用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)異母弟崇峻大王(おおきみ/天皇・第三十二代)と大王(おおきみ)が続く。

だが、崇峻大王(天皇)が大臣・蘇我馬子の指図に拠って暗殺され、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は大臣・蘇我馬子の要請に応じて三十九歳の時に推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)として即位する。

夫亡き後、推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)を実力で支えた大臣・蘇我馬子は母方の叔父(母の弟)であるが、異母兄の敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)の妃に成るくらいだから、夫亡き後に頼りに成る叔父の蘇我馬子と男女の仲に成っても、当時の習慣上は何んの不思議もない。

むしろ、敢えて無理やりに女帝・推古大王(おおきみ/天皇)を据えた大臣・蘇我馬子のその意図に、我輩にしてみれば男女の仲を疑うに足りるものがある。

推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。

この「皇太子として万機を摂行させた」と言う事は「全てを任せた」と言う事で、それだけの信頼を置ける相手とは男女の関係が想像されても不思議は無い。

大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・御門/みかど)蘇我氏は、歴代の大王(おおきみ)に妃(皇后)を送り込む有力氏族で、歴代大王(おおきみ)とは叔父甥などの血縁関係も多く、逆に女帝の愛人であっても何の不思議も無い。

おまけに大王(おおきみ)は武力を持たないから、女帝が頼り甲斐がある臣王(おみおう)の蘇我馬子と愛人関係に有った方が、治世が上手く行くのである

聖徳太子の生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、そもそもこの厩戸皇子(うまやどのみこ)生誕の下りがイエス・キリストの生誕伝承と余りにも似ている所から、「日本書紀」が西洋からの伝聞を借用して「創造された人物」との指摘が体勢を占めている。

こうした伝聞借用の疑惑に関しての事例は、古事記・日本書紀には沢山ある。

例えば古事記によると、神武(じんむ)天皇に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。

これをもって、高千穂への天孫降臨とする解釈も多い。

しかしこの「高千穂のくしふる峰」の記述が、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。

つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。



実は、失われた十支族の日本列島渡来と言う「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」が存在する。

キリストの生誕を擬した「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」の誕生逸話の酷似も、或いは古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説を立証するもので、古(いにしえ)の人々が「ユダヤ文化の伝承」を採った結果かも知れない。

恐らく皇統の善政を示して神格化を狙った「聖徳太子(厩戸皇子)の捏造」と思われる。


古代ヘブライ(ユダヤ)に関わる伝説は厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子の誕生逸話に止まらず、各地に在るが、代表的なものに諏訪・守屋氏(もりやうじ)の伝承がある。

守屋氏(もりやうじ)は、清和源氏、藤原氏、物部氏などでも称されるが、主として信濃国諏訪郡守屋山発祥の諏訪神家である。

「もりや姓」に関しては、守谷、守矢、守家などと通じ信濃、武蔵、摂津、阿波などに在し、守矢は、信濃国諏訪郡発祥にて洩矢神の子孫と伝え、現在長野県諏訪地域に多い。

他に森谷、森矢、杜屋と互用し現在、山形県にも多く、森屋は、大和国式下郡森屋荘発祥、十市姓森屋党他にほか武蔵などに存す。

この守屋姓(漢字別表記の場合も多い)に関して、その言われは縄文人と渡来部族の合流の課程とリンクしていて非情に興味深い。

そしてこの守屋氏(もりやうじ)が、古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説と関わって伝承されている。

諏訪神家・守屋氏・・・諏訪大社と言うと御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)と思われるが、謎の神様も祀られて居る。

ミシャグチ神と云う建御名方命より古い土着神であり、ミシャグチの正体や言れが良く解らない。

ミシャグチはユダヤ(イスラム〜ヘブライ)と関係がある・・・などとも言われ、ミシャグチをヘブライ語にすると、「イサクの犠牲」と訳せると言う。

旧約聖書「創世記」では、アブラハムが自分の子イサクを「モリヤの山」で神に捧げたとあり、神はアブラハムの深い信仰心を理解したとされている。

諏訪地方はミシャグチ神を奉じる洩矢(モリヤ)族が暮らして居、その地に、建御名方命(タケミナカタノミコト)率いる渡来族が遣って来た。

天竜川の河口で渡来族と洩矢(モリヤ)族とで争いが起こり、洩矢(モリヤ)族は建御名方命(タケミナカタノミコト)の渡来族に征服され、建御名方命は諏訪湖を渡って対岸に上陸し、そこが諏訪神社の上社となる。

出雲・葦原中国(あしはらのなかつくに・天界に対する地上の国)から来て当地を征服した渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は諏訪大明神となり諏訪大社の開祖となった。

しかし諏訪の地を治むるに、「ミシャグチ神」を信奉する被征服族の諏訪大社神長官・守矢家の力は侮れなかった。

渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は、洩矢(モリヤ)族の古来土着神「ミシャグチ神」を祀らせ、此の地を統治し、御神体は本宮の後ろの守屋(洩矢〜モリヤ)山とされる。

この諏訪伝説が、旧約聖書「創世記」に出て来る「イサク」「モリヤ山」が共通しているのだ。

そして「御頭祭」として、明治まで動物献上・人身御供が行われていた。


この物語で度々使うフレーズだが、統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

聖徳太子はその最たるもので、明らかに皇統の優秀性を喧伝する創作上の人物だが、我輩が幾ら「聖徳太子は存在しない」と言った所で寺まで存在すると誰でも信じてしまう。

そしてその創作事実を知る者まで、「あれは信仰上の存在だから触れないで置こう」と言うのだから、イメージ(心像・形象・印象)が合意されてしまえば、虚像も実像になるのだ。


聖徳宗の総本山・法隆寺(ほうりゅうじ)が奈良県・生駒郡斑鳩町(いこまぐんいかるがちょう)に在り、創建は六百七年(推古十五年)とされている。

通説によれば、六百一年(推古天皇九年)、聖徳太子(しょうとくたいし)は斑鳩の地に斑鳩宮(いかるがのみや)を建て、この近くに建てられたのが「法隆寺である」とされ今に伝わっている。

とは言え、法隆寺(ほうりゅうじ)について「日本書紀」には、創建とされる年からおよそ七十年後に当たる六百七十年の火災の記事はあるが、創建そのものについては何も書かれていない。

その存在に疑惑が在る聖徳太子(しょうとくたいし)とゆかりが在るとされる法隆寺(ほうりゅうじ)が、太子がリアルタイムで創建に拘(かか)わったかどうかで、実在は証明される所だが今の所確たる物は無い。

ならば可能性としてだが、後世の聖徳太子(しょうとくたいし)捏造者が法隆寺(ほうりゅうじ)に目を着けて、または法隆寺(ほうりゅうじ)その物が太子創建を名乗り出た可能性も否定出来ない。

勿論、千四百年から経た世界最古の木造建築とされる西院伽藍を含むなど、法隆寺(ほうりゅうじ)は聖徳太子(しょうとくたいし)存在の真贋に関わり無く、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された文化遺産である。


「辻褄(つじつま)が合わない事を信じるのが信仰だ」と言ってしまえばそれまでだが、信仰の対象に成って居る「聖徳太子(しょうとくたいし)の超人的カリスマ性」は、後世の知恵である可能性が強い。

「超人的能力が在った」とカリスマ性が伝えられ信仰の対象となっている「聖徳太子は架空の存在だ」としながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸皇子(うまやどのみこ)と言う人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てた事は史実と主張する歴史学者も居る。

但し厩戸皇子(うまやどのみこ)としては、当時「目立った働きが在った」と言う伝承も無く、推古天皇を太子として補佐した痕跡も無い。

益してや、厩戸皇子(うまやどのみこ)誕生の経緯が、イエスキリストの誕生シーンに如何にも酷似している所から、厩戸皇子(うまやどのみこ)の存在その物が後世の捏造である疑いもある。


「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、国家として中央政権化を進める為に「聖徳太子に拠って制定された」と定説化されていた。

日本書紀の記述を事実とすると、官僚制の基礎となる「冠位十二階」は太子二十九歳の六百三年、国を治める為の法律「十七条憲法」は太子三十歳の六百四年、に制定された事に成っている。

但し近年に成って聖徳太子の存在自身さえも疑問視される事態に、従来から定説とされている「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定事実さえも、その事実関係の見直しに入る学者も居る。

「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、永年定説とされて義務教育の場で学習されて来た日本史だけにシビアな問題ではある。

疑問視される聖徳太子の存在と切り離した説として、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定は、実は当時絶大な権力を挙握していた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の手に拠るものではないかとの説も出始めた。

「冠位十二階」は、朝廷に仕える豪族・臣王達に十二階の位を定めて位に応じて色分けした冠を与えたもので、冠をさずける基準は一代限りとした個人の才能や功績とした。

色分けは、紫を頂点に青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目で判るようにし、これにより門閥(家柄による結びつき)をなくした人材の登用をめざしました。

しかしこの「冠位十二階」は畿内や周辺地域の豪族に限定され、しかも冠位の授与から蘇我氏が除かれていた為、「蘇我氏は冠位を授ける立場に在ったのではないか?」との見方も根強い。

「十七条の憲法」に関しては、大王(おおきみ)を中心とする集権的な国家体制を作り出そうとする基本理念を表示した教訓的な性質のものだった。

いずれにしてもこの「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、特に当時の中華大陸の帝国・「隋」との付き合で国家と認めさせる事に腐心して、国家の体裁を内外に示した始めての制度と言えるものだった。


日本の歴史学者には、「天孫降臨伝説」または「皇国史観」に於ける「虚」のアンカリング効果が浸透していて、それと合わない意見には「論外意識」が強過ぎ、聞く耳持たずで切り捨てて来た部分が多く在る。

だが、「天孫降臨伝説」または「皇国史観」には合致しない、聞く耳持たずで切り捨てて来たその歴史的事実は、ふんだんに存在する。


歴史学者の間では、日本列島各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説が「まさかエルサレムから東の端の列島まで来る筈が無い」と、既成概念の意表を突く為に整合性を見出せないまま、否定要素だけを熱心に探していた。

しかしながら、遥かアフリカの台地から世界に分布して行った人類の足跡を想えば、ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族の一部が、年月を経て日本列島に辿り着いていても不思議は無い。

そしてそうした考え方の対極に、各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説に於いて、日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つと言う少し単純な発想で「日ユ同祖論」を展開する方も居られるが、それには少し無理がある。

「日ユ同祖論」は、「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」や「広域倭の国論」の問題と同じくらい、物事を単純解釈したがる悪癖ではないだろうか?

例え古代ヘブライ(ユダヤ)の「失われた十支族の渡来説」が有力説でも、縄文人が多数居た所に渡来した筈で、誓約(うけい)の混血が進んだ上での同化にヘブライ(ユダヤ)文化が伝承されたのであれば納得である。

図式としては、そのヘブライ(ユダヤ)文化が、日本列島の原信仰として陰陽修験道の中に採り入れられて修験者に拠って全国に広まって行く。

平安期・大和朝廷に於いて、陰陽修験道を統括管理した陰陽寮首座・安倍清明の五芒星(ごぼうせい)であり、ユダヤ-キリスト教が用いた「ペンタクル、ペンタグラム」と同じマークである。


過っては我が国の最高額紙幣に使われたお馴染みの聖徳太子も、今や歴史上の人物から伝説上の人物へとその立場を変えつつある。

そうなると、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古大王(おおきみ/天皇・第三十三代・女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?

その理由であるが、厩戸皇子(聖徳太子)創作説を唱える者の中には、「厩舎で出産された」とする経緯が明らかにイエス・キリスト生誕の逸話と合致している所から、その物語を引用して「皇統天孫説に彩りを添えたかったのではないか?」とか推察している点である。

また、インド神話の財宝神クベーラを前身とするインド・ヒンドゥー教の神様に梵名・ヴァイシュラヴァナと呼ぶ神が居て、和名は毘沙門天(びしゃもんてん)である。

ヴァイシュラヴァナと言う称号は本来「ヴィシュラヴァス 神の息子」と言う意味で、彼の父親の名に由来するが、「良く聞く所の者」と言う意味にも解釈できる為、多聞天(たもんてん)とも訳される。

この多聞天(たもんてん)、どこか聖徳太子の「一度に多くの者の発言を聞き分ける」と言う超能力と似ては居まいか?

厩戸皇子(うまやどのみこ)は、別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)と呼ばれるが、つまりは「聞いた事を聡明に理解する神」と言う立場を表す別名である。

我輩は、多聞天(たもんてん/ヴァイシュラヴァナ神)をモデルにし、また経典に在る他の神々も取り入れて「聖徳太子と言う神格を創り挙げた」と睨んでいるが間違いだろうか?

また、「聖徳太子が遣隋使に託した」とされる遣使の国書の文言に

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」

とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。

厩戸皇子(聖徳太子)は、明らかに中華帝国との対等外交を繰り広げる積りでこの文面の書を送っている。

つまり、蘇我馬子またの名を厩戸皇子(うまやどのみこ)が大王(おおきみ・天皇)と対等だった。

しかし後世に伝えるにあたり、皇統以外の人物が主役では都合が悪い。

厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)が実在の人物を脚色したのではなく人物その者を創作したと成れば、益々この時代の実力者・蘇我馬子の功績を「皇統の功績に歪曲する為に登場させたのではないか」と言う疑惑である。

時代を錯誤する方が居られるので念押しをして置くが、この推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)の御世ではまだ坂東(関東)が開拓され始めたばかりで、大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威は関東以北の東北地方にまで到っていない。

その頃の東北地方は、朝廷側言う所の蝦夷(えみし・縄文先住民)の国である。

遥か時代が下がった桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の御世に征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)や坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を送って隷属化するまで異国の地だった。

つまり推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)の御世は、まだまだ大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威が混沌としていて不思議が無い。

その上での厩戸皇子(聖徳太子)に「虚像」の疑惑が浮上する。

古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。


日本書紀その他の文献に拠ると、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺は聖徳太子に拠って創建されたが、太子亡き後に政争に巻き込まれて太子一族は「六百三十余年頃に滅び」、法隆寺の伽藍は太子一族滅亡後に「火災で焼け落ちた」と伝えられ、子孫も含め太子の痕跡は跡形も無く消えている。

つまり現在の太子に関わる寺物・書物の類が、全て日本書紀編纂後の物ばかりに成る辻褄と符合する物語が出来上がっているのだ。

実際に火災で焼け落ちたとされる最初の法隆寺の遺構らしきものが発見されているので、法隆寺の存在は確かかも知れない。

だが、問題は聖徳太子とその太子一族の事である。

不思議なのは、焼け落ちて「再建された」とする現在の法隆寺の金堂に、「再建される前から在った」と見られる年代の「太子を模した」とされる本尊・釈迦三尊像そして夢殿に安置されている秘宝・救世観音(くせかんのん)が存在する。

厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の出現は、日本に於ける釈迦の出現とも言われている。

つまり神格化した存在である。

聖徳太子一族を攻め滅ぼしたのは蘇我氏と言われ、法隆寺が再建されたのは乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)が「天智大王に即位してから」と言うのだ。

それ故に天智天皇にすれば、自らの権力奪取の正当性の為にも、皇統に厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の神格化は必要だったのかも知れない。

そして何よりも、厩戸皇子(うまやどのみこ)を聖徳太子と初出したのは百年以上を経ってからの後の事で、辻褄合わせと言うか都合良くと言おうか太子一族が全て滅亡して跡形も無くなる事も謎である。

実は百五十年後に朝廷主導で編纂されたこの「厩戸皇子の物語」を、事実か創作か、現在知り得る断片的な条件では誰にも証明出来ない謎である。

この謎の結論を明記する学者が居るとすれば、それは別の妖しげな意志の基に書かれたものである。

蘇我氏(そがうじ)は、蘇我入鹿(そがのいるか)の代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らに宮中で襲われた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って討ち取られた。

そして蘇我氏(そがうじ)に「一族ことごとく討ち取られた」とされる「聖徳太子とその一族」が、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料に「初出」と言う形で出現する。

つまり聖徳太子の出現は、蘇我氏(そがうじ)を殊更悪しき存在としてその後に起こった乙巳の変(いっしのへん)の変事を正当化するものである。

そうしたあらゆる周辺の情況を集積すると、「謎の聖徳太子を出現させ最後に蘇我氏が太子一族を攻め滅ぼす」と言うストーリーの裏側に垣間見える。

これは、皇統の神秘的な優秀性を主張する目論見とともに「蘇我氏一族の功績」をも葬り去る意図を持っての「百五十年後の創作ではなかった」とは言い切れない。

「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、そう言う意味では、聖徳太子の存在も「虚(きょ/感性)の範疇に在る」と言える。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。


聖徳太子は皇位に就けなかったのではなく、存在しなかった。

存在しないからこそ当時の政治の中心・飛鳥に居住せず、斑鳩(いかるが)の里に住む謎の太子として日本史上に伝説として登場したのではないだろうか?

そうなれば、聖徳太子一族が「蘇我氏に滅ぼされた」と言う記述も「辻褄合わせ」と見る事ができ、合わせて元々存在しなかった太子一族について日本書紀編纂時に太子一族の末裔が一人も居ない事の「言い訳をした」と見る事ができるのである。

つまり「統治の都合」と言う事情に於いて、大きな背景の下に捏造した歴史は存在する。

推測での結論は貴方の考え方次第だが、その不確かな存在を後世の政治が、皇子のかなり誇大な能力と業績を家伝し、シンボリックに利用していた事は事実である。

歴史の難しい所は、例え統治の都合で捏造されたものでも、永く伝承されると「文化の歴史」として存在する様になる事である。

つまり「史実の歴史」とは別に「文化としての歴史」は、信仰や伝説を通じて時の経過と伴に育ち、後世では確実に文化として存在して「全く無い事」と否定出来ないのだ。

例え聖徳太子が創造上の架空の人物で在っても、「文化としての歴史」では存在する事に成る。

只、この「史実の歴史」と「文化の歴史」は、違いを認識しながら扱って行かねば成らない事は言うまでも無い。



あくまでも伝承であるが、聖徳太子(摂政 ・せっしょう)は秦氏族系の河勝(香具師の祖)伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴氏族の大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した」と伝えられる。

彼らは、修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して「聖徳太子の手足になった」と考えられ、伊賀・甲賀の発生に欠かせないのが修験道の「存在の歴史」である。

この秦氏族と大伴氏族が、その後の大王(おおきみ・天皇)の交替の歴史の中で臣王一族としては衰退して行き、その一族の一部が土着、土豪化して「伊賀者、甲賀者となって行く」と言う推測である。

つまり、国家の維持運営には「秘密警察」兼「諜報工作組織」が欠かせない事は、今も昔も共通していた。

そこで時の帝(天武天皇)に拠って役小角(えんのおずぬ)と修験道組織が創設される。

修験道組織は曲折を経た後年の桓武帝が没した頃、陰陽寮次官の「陰陽助」勘解由小路(かでのこうじ)の一部は、朝廷組織とは独立した大王(おおきみ・天皇)直属の裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党が密かに組織化される。

秦氏族系の伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・伊賀服部)と大伴氏族の大伴(おおとも・甲賀大伴)も、勘解由小路党、陰陽特殊武士団に組込まれたのである。

そして土着したのが、いずれも陰陽修験の所縁(ゆかり)の地、紀伊半島の里だったのである。


聖徳太子に関わりがある遣隋使(けんずいし)とは、日本史に於いて大和朝廷(ヤマト王権)の飛鳥期・推古朝(推古大王/すいこおおきみ)の頃、大陸・隋帝国との正式交流として派遣した朝貢使の事を指す史学上の名称である。

つまり朝貢使を派遣したとされる六百年(推古八年)から六百十八年に掛けて五回の派遣については、遣隋使(けんずいし)と言う呼称を大和朝廷(ヤマト王権)が使用して居た訳ではない。

そしてこの遣隋使(けんずいし)と言う史学上の朝貢使について、まだ解明されていない部分が多く、果たしてどれほどの精度がある事か怪しいのである。

まず、第一回目の朝貢使とされる派遣については大和朝廷(ヤマト王権)側の日本書紀などにその記述は見られず、「隋書・東夷傳俀國傳」に在る俀國(倭国?)の朝貢使を「第一回ではないか?」としている。

そこで問題が幾つかある。

まず「隋書・東夷傳俀國傳」に記載された「倭国の朝貢使」であるが、当時の大陸・隋帝国に於ける倭国の認識は、辺境の蛮国を指し必ずしも大和朝廷(ヤマト王権)を指すとは限らないからである。

大和朝廷(ヤマト王権)側に記録が無いにも拘らず、この「隋書・東夷傳俀國傳」の記載を持って第一回の遣隋使(けんずいし)としてしまうには、かなり後に成って確定した倭国=日本の定説を遡って適用してしまうからではないだろうか?

そしてもう一つ、日本史に於いて第一回目の朝貢使は推古大王(すいこおおきみ)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)が発案、派遣を命じたとされるが、その聖徳太子その者の存在も疑われていて遣隋使(けんずいし)の存在と整合性が採れていないのである。


第二回とされる六百七年(推古十五年)の朝貢使については「日本書紀」に記載があり、小野妹子(おののいもこ)が大唐国に「国書を持って派遣された」と記されているので実在と考えられる。

しかし大陸・隋帝国に朝貢使を送るも「大唐国に国書を持って派遣された」と記載あるを、かなり後(七百年代)に編纂された「日本書紀」の誤りなのか、大唐國は加羅國の宗主国の意味だったのかは定かではない。

小野妹子(おののいもこ)は、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で春日氏の一族・小野氏の出身とされる朝臣で小野臣、大徳冠の冠位を賜ったとされている。

但し、「隋書・東夷傳俀國傳」には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ倭国の「使者」とあるのみで、小野妹子の存在は虚構が多いとされる「日本書紀」に見えるだけである。

「隋書・東夷傳俀國傳」に拠ると、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出されていた書を見た煬帝は、書に天子在るに「帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)」と立腹したと書き記されている。

此処で注目して欲しいのは「倭国の使者」はあくまでも「隋書」の記述で在って、大和朝廷(ヤマト王権)側は「日出ずる処の天子」を名乗り、倭王ではない。

「隋書」では大和の国に当たる国名は記されて居らず、「都於邪靡堆(都はやまたいにある)」と記されて在る事から「東夷傳俀國」が大和朝廷(ヤマト王権)を指すと解釈されている。

小野妹子はその後返書を持たされて返されるが、帰途に於いて返書を百済に盗まれて無くしてしまったとし、煬帝の返書は大和朝廷(ヤマト王権)が受け取っていない事になっている。

煬帝の返書の内容がとても大和朝廷(ヤマト王権)に容認できない為に、受け取らなかった事にしたのではないかと言う推測が定説である。


「日本書紀」の編纂を総裁した事で知られる舎人親王(とねりしんのう)は、舎人皇子(とねりのみこ)とも記される天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の皇子で、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族である。

舎人親王(とねりしんのう)は、淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)の父でもあり、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)を号す。

舎人親王(とねりしんのう)は長寿で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。


舎人親王(とねりしんのう)・子孫の清原氏は、高市皇子(たかいちのみこ)系列の高階氏(たかしなうじ)と共に天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。

七百十八年(養老二年)、舎人親王(とねりしんのう)四十二歳の時、一品に昇叙され、翌年には元正天皇より異母弟・新田部親王と共に皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられた。

七百二十年(養老四年)、舎人親王(とねりしんのう)四十四歳の時には舎人親王(とねりしんのう)自らが編纂を総裁した「日本書紀」の編纂を終え奏上している。

この年(七百二十年)舎人親王(とねりしんのう)に転機が訪れる。

当時の朝廷の実力者であった右大臣・藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、右大臣(のち左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する。

七百二十四年(神亀元年)の聖武天皇即位に際し、舎人親王(とねりしんのう)は封五百戸を加えられている。

この頃から舎人親王(とねりしんのう)は、次第に藤原氏寄りに傾斜し、七百二十九年(天平元年)に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害せしめている。

さらに同年、舎人親王(とねりしんのう)は藤原不比等の娘・光明子の立后を宣言するなど、藤原四兄弟政権の成立に協力した。

舎人親王(とねりしんのう)は、天然痘が蔓延する七百三十五年(天平七年)平城京で六十年の生涯を閉じる。

没後二十四年の七百五十九年(天平宝字三年)、息子の大炊王(おおいのおおきみ/淳仁天皇)が即位するに及び、舎人親王(とねりしんのう)は天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号された。



伊豆の国市(旧田方郡大仁)の大仁(おおひと)名称は、六百三年(推古十一年)の冠位十二階の大仁(だいにん)に関係がありそうである。

冠位十二階とは、大和朝廷に勤める人の上下関係をはっきりさせる制度で、氏や家柄だけにとらわれずに、能力や功績に応じて徳・仁・礼・信・義・智の六つの冠をそれぞれ大小に分け、十二階とし、冠の色を使い分け、可視的な身分秩序の冠位を与える事を制定した。

薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い服の色は皆それぞれの冠の色と同じで冠にかんざしを挿して正装して参加した。

伊豆の国市大仁(おおひと)は、大仁(だいにん)に序せられた「朝廷の大物の本拠地」と言う事も考えられる。

ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿(さ)していた。

大仁(だいにん)は序列三位で、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していた。

そして、この朝廷序列三位の高位・大仁(だいにん)と伊豆の国市大仁(おおひと)を結び付けられる存在は、臣王・葛城氏(賀茂氏)を置いて他に想いあたる事は無いのである。

「日本書紀」に拠ると、遡る六百四十六年、孝徳天皇の大化二年三月、甲申(こうしん)の条に長文の詔「大化薄葬令」がある。

王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室つくる事は認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。

この事から、伊豆の国田方地区の古墳群は少なくとも「大化薄葬令」以前の埋葬または王以上、上臣、下臣の古墳と言う事になる。



一方の倭国である朝鮮半島では、日本列島・大和朝廷が飛鳥時代になる頃に百済(くだら・ペクチェ)が新羅(しらぎ・シルラ)と中華帝国「唐」の連合軍に敗れ、滅んでいる。

大和朝廷は百済再興の為、大軍を送ったが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまう。

この敗戦のダメージは、相当大きかったに違いない。

この頃、戦勝国「新羅」から、「多くの王族、豪族が渡来して来た」と言われている。

百済(くだら・ペクチェ)滅亡から八年、高句麗(こうくり・コグリョ)も新羅(しらぎ・シルラ)・「唐」の連合軍に滅ぼされ、新羅が始めて朝鮮半島を統一するのだ。

この新羅による朝鮮半島統一が、将来の日韓関係にとって不幸の始まりであった。

何しろ新羅は「唐」の力を借りて、統一をした。

その為に顔が「唐」の方ばかり向いて、同じ倭の国、「大和の国」の事を、敵視する様に成ったからだ。

もっとも、現代のどこかの経済大国も東の大国の方ばかり向いて、近隣諸国をないがしろにしている様で、とても「太古の他人事」と批判は言えない。


仏教が伝来する以前、大和の国は神々の国である。

為政者達は、その統治権の正当性を神の子孫に求めた。

そして大法螺(おおぼら)とも言うべきストーリーをでっち上げた。

一度始めた大法螺(おおぼら)は、法螺(ほら)の上に法螺(ほら)を重ねる事になる。

それがやがて古事記、日本書紀に編纂されたのである。


繰り返すが、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る先入観からである。

「記・紀編纂当時(七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀)」の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。
そう考えれば、検証が楽になる。

過去の歴史家の手法は、「記・紀」に現存する事実を当て嵌めようしていた事で、問題なのは、「政府の編纂は正しい筈」と言う前提が、心の何処かにあっての手法で、そこには最初から拭い去れない先入観が在ったのである。

従って、この現代に正確な歴史観として採用するには難がある。

難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。
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(大化の改新)

◇◆◇◆(大化の改新)◆◇◆◇◆

人間の思考能力は無限大で、脳の思考は本人が思っている程平面的ではなく、必要と在れば多面的な展開を見い出す。

一見氏族の男達だけが歴史の主役に見えるかも知れないが、古文書の主役にこそ成らなくても氏族の女達も相当強(そうとうしたた)かに生きていたし、被征服民の民人達も氏族の勢力争いを他所に驚くほど強(したた)かに生きていた。

感じる、考える、信じるは【脳】の役目である。

要は「生き行く為に物事をどう考えるか」で、その部分を現代の己の感性に強引に当て嵌めてしまうから、歴史解釈に「嘘や矛盾」が生じてしまう。


国家の統治には法秩序が必要である。

古代中国に於いては、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)が在った。

律令制(りつりょうせい)は、中国・隋帝国で成立した制度で、「律令制(りつりょうせい)」と言う「律(りつ/刑法)」と「冷(りょう/行政法と民法)」による中央集権国家には都合の良い非常に優れた政治体制を採用しており、基本思想は、儒家と法家の思想で儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。

儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじ、刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範で在ったものが次第に重要性が増して律から独立した行政法的なものになって律令(りつりょう)と成った。

また律令制は儒家と法家の思想から発展した制度だが、古代中国ではそれをを補完するべく国家宗教としての「仏教」も採用していた。

日本の律令律令(りつりょう)制度は、蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)が大和朝廷の実権を握っていた大和朝廷・用明大王(ようめいおおきみ/天皇・第三十一代)の御世当時、中国・唐帝国のものを参考に日本の律令制度は作られた。

しかし当初は唐の律令をそのまま受け入れて制定したので日本の国情に則さないものが多く、徐々に修正を加えて日本の国情に合う様な律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。

初期の段階は六百四十五年の乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)に始まる大化の改新後に、改新政権にが中央集権を目指して律令制の導入が始められ、約五十五年後の七百一年(大宝元年)の大宝律令に拠って漸く大枠が出来た。

中国法のを手本として、初の左右大臣の並置や人民の政治への不満を訴える事を認めた鐘櫃制(かねひつせい)の採用、正月に大和大王(やまとおおきみ)を拝賀する賀正礼の開始、喪葬秩序を規律するいわゆる大化薄葬令の制定、祥瑞(しょうずい)による大赦改元などの諸策が採用され、その後も不足を補いながら制定措置が執られて行った。


律令制に於ける位階(いかい)とは官吏に於ける個人の地位を表す序列・等級を表す制度で、位階を授与する事を「位階に叙する」または叙位(じょい)と言う。

位階制度は位階と官職を関連づける事により(官位制)、血縁や勢力にとらわれず適材適所を配置し、職の世襲を防ぐと共に天皇が位階を授与する事で全ての権威と権力を天皇に集中し、天皇を頂点とした国家体制の確立を目的とした。

大宝令・養老令のうち官位について定めた官位令によれば皇族の親王は一品(いっぽん)から四品(しほん)までの四階、諸王は正一位(しょういちい)から従五位下(じゅごいげ)まで十四階、臣下は正一位から少初位下(しょうそいげ)まで三十階の位階がある。

正一位、従一位、正二位、従二位、従二位下、正三位、従三位、正四位上、正四位下、従四位上 、従四位下 、正五位上 、正五位下 、従五位上 、従五位下 と続く位階(いかい)の場合は、正○位の「正」は「しょう」、従○位の「従」は「じゅ」と読み、三位は「さんみ」、四位は「しい」、七位は「しちい」と読む事が正しい。

位階に拠って就く事のできる官職が定まり、位階に応じて衣類などにも制限が加えられ、五位以上の者には位田(支給田地/品田・ほんでん)が支給される規定となっていた。

なお律令制に於ける「貴族」とは五位以上の昇殿などの特権が与えられた者を指し、その「貴族」に対し、六位以下無位までの者を「地下(ぢげ)」もしくは「地下人(じげにん/しもびと)」と呼ぶ。

七百一年(飛鳥時代)の大宝律令の撰定から幕末に到る朝廷及び明治新政府では、故人に対して生前の功績を称え位階または官職を追贈がなされる事があり、位階を贈る事を贈位、官職を贈る事を贈官と言った。

律令制に於ける位階の制定目的は、任官の門戸を広げ、能力に拠って位階を位置付け、本来は有能な者にその位階と能力に見合った官職に就ける事で官職の世襲を妨げる事を大きな目的とした。

だが「蔭位(おんい)の制(高位者の子孫をお蔭叙位する制度)」を設けるなど世襲制を許す条件を当初から含んでいた。

何時の時代も権力者の悪知恵は働くもので、まるで現代の役人が画策する「既得権の温存画策」と良く似た建前と本音の隙間を突いた抜け道の創り方である。

その為、平安朝の初期には形骸化して官職の独占を一部の上流貴族に世襲的に許すに到って後の摂関政治の芽を創った。


律令制の官職に於いては政務を統括する太政官が置かれ、太政大臣(一位相当/非常設空位あり)、左大臣・右大臣(二位相当)、大納言(正三位相当)までが太政官で、その合議制で政策決定がなされ実行される仕組みである。

この太政官に、神々の祭祀を司る神祗官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)を加えて「二官」と呼ぶ並立の最高位を形成していた。

太政官の下に中納言と参議を加え議政官とし、議政官(大臣・大納言・中納言・参議)の下で太政官の実務を担う枢要の部署が左右の弁官局で、左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)各一名の合計六名の弁官職が置かれた。

太政官の下で左弁官局が「中務・式部・治部・民部」、右弁官局が「兵部・刑部・大蔵・宮内」と四省ずつ分掌する計八省があり、八省の下に職・寮・司と言う多数の官庁が所属する。

左右の弁官局に加え、定員六名(例外あり)の少納言(しょうなごん)を配する少納言局(しょうなごんきょく)を合わせて太政官三局が設置されていた。

その律令制に於ける中央の文官職は、部署ごとに「省」に於いては卿(かみ)、輔(すけ)、丞(じょう)、録(さかん)、「寮」に於いては頭(かみ)、助(すけ)、允(じょう)、属(さかん)がある。

また武官職は、左衛門府・右衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府の六衛府があり、「近衛府」に於いては大将(かみ)、中将・少将(すけ)、将監(じょう)、将曹(さかん)、「兵衛府」に於いては督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)となる。

そして地方の官職は、「国司」於いて守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)であるが、守(かみ)は皇族の親王や王、そして高位の貴族が就任する為に赴任せず 介(すけ)に代行させる事も多々在った。

この地方赴任した介(すけ)が赴任地で勢力を伸ばし、平安末期から鎌倉初期の在地土豪勢力として平家方・源氏方双方に組して戦う事になる。

余談だが、こうした官職名の内、「輔(すけ)」や「助(すけ)」に「介(すけ)」、「佐(すけ)」、「丞(じょう)」や「允(じょう)」などが好んで武人の名前に採用され、時代が下がるとその官職名が庶民にまで広がって、一部は現代まで続いている。

尚、律令制に於ける例外の官・別当(べっとう)は名字、蔵人(くろうど/くらんど)は名前に使われている。


古代の税制・租庸調(そようちょう)は、日本の律令制下での租税制度である。

この租税制度・租庸調(そようちょう)は中国の唐帝国で発祥し、中国及び朝鮮で永く採用されていた。

但し唐帝国の律令では、丁(一区画)の人数を基準とした丁租(ちょうそ)であるのに対して、日本の律令では田の面積を基準とした田租(たそ)となっている。

この為、日本に於ける租(そ)は律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

この田租(たそ)制度は、永く日本の税制の基本となり多少の変化を見ながらも明治維新まで続いた。


日本では、六百四十六年の大化の改新に於いて、新たな施政方針を示した改新の詔(みことのり)のひとつに「罷旧賦役而行田之調」とあり、これが租税の改定を示す条文とされる。

ここに示された田之調は田地面積に応じて賦課される租税であり、後の田租(たそ)の前身に当たるものと見られている。

日本の租庸調制度は、中国・唐帝国の制度を元としているが、日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入したものだった。


租(そ)は各地の国衙(こくが/地方政治役所)の正倉に蓄えられて地方の財源にあてられ、庸調(ようちょう)は都に運ばれ中央政府の財源となった。

庸(よう)と調(ちょう)を都に運ぶのは生産した農民自身で、運脚夫といい、国司(官人・役人)に引率されて運んだ。


現物を納める税は、八月から徴収作業を始め、郡家さらに国庁の倉庫に集められ、木簡が付けられ、十一月末までに都の大蔵省に納められた。

奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。

往復の運搬の度の食料は自弁で在った為に餓死する者も出たほど酷い徴税制度だった。

運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ日本の古代民衆交通路・官道(駅路)七道であった。


地震や土砂災害などの天変地異が発生した場合には地域的に免除される事があって、実際に災害の記述とともに免除の記録がある。


租(そ)は、収穫量の三%〜十%に当たる田一段につき二束二把とされた。

原則として九月中旬から十一月三十日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。

しかし、歳入としては極めて不安定であった為、律令施行よりまもなく、これを種籾(たねもみ)として生産農民に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。

一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、一月から八月三十日までの間に、年料舂米として京へ運上(うんじょう)された。


生産農戸ごとに五分以上の減収があった場合には租(そ)が全免される規定・賦役令水旱虫霜条があった。

そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあり、当時の農業技術では全免・比例免を避ける事は困難であった。

そこで、一つの令制国内に於いて定められた租の総額に対し七割の租収入を確保する事を目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入された。

しかし、これを達成する事も困難であった為、八百六年(大同元年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。


庸(よう)は、衛士(えいし/宮中護衛兵士)や采女(うねめ/宮廷雑事女官)の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

庸(よう)は、二十一歳〜六十歳の男性を「正丁(しょうてい)」とし、六十一歳以上の男性を「次丁(じちょう)」として年齢を分けて賦課された。

元来は「歳役(さいえき)」といい、京へ上って労役が課せられるとされていたが、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸(よう)といった。

庸(よう)を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。

改新の詔(みことのり)では、一戸あたり庸布一丈二尺あるいは庸米五斗を徴収する規定があり、それが律令制下でも引き継がれたと考えられている。

京や畿内・飛騨国に対して庸(よう)は賦課されなかった。

この制度、現代の租税制度になぞらえれば、納税能力に関係なく全ての国民一人につき一定額を課す人頭税の一種といえる。


調(ちょう)は、中男(十七歳〜二十歳の男性)・正丁(二十一歳〜六十歳の男性)・次丁(六十一歳以上の男性)へ賦課された。

調(ちょう)は京へ納入され、中央政府の主要財源として官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。

繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品三十四品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。

これは、中国の制度との大きな違いである。

調(ちょう)も、京や畿内では軽減、飛騨では免除された。


飛騨国についての庸調(ようちょう)免除には、別枠の使役割り当てが在る。

飛騨の民は、庸調(ようちょう)を免除される替わりに匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)を里ごと十人一年交替で徴発され、平安時代には総勢百名とされた。

いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。

匠丁(しょうてい)は、木工寮や修理職に所属して工事を行った。



藤原京(ふじわらきょう)の名称は近代に作られた学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、飛鳥京(あすかきょう)の西北部、現・奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。

つまり藤原京(ふじわらきょう)の京域は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、大王(おおきみ)の御座所(宮)が「藤原宮(ふじわらのみや)」と呼び分けられていた。

また、新益京(あらましのみやこ/藤原京・ふじわらきょう)は日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城でもある。

この都城は、中華・周王朝の理想的な制度について周公旦(しゅうこうたん)が書き残した思想書「周礼(しゅらい)」が説く思想制度を表現しているとされている。

持統大王(じとうおおきみ/天皇・第四十一代持統朝)の御世、六百九十年(持統四年)に藤原京(ふじわらきょう)は公式着工され、四年の歳月を経て六百九十四年(持統八年)に遷都した。

この藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)に首都が在った百年間の時代区分は飛鳥京(あすかきょう)の時代に続き飛鳥時代(あすかじだい)である。

しかし新益京(あらましのみやこ/藤原京・ふじわらきょう)の実際の着工は、天武大王(てんむおおきみ・天皇/第四十代天武朝)の五年(六百七十六年)には始まっていて、完成は遷都後十年経過の七百四年(景雲元年)と言うのだから、二十八年の歳月を要した事に成る。

そしてこの新益京(あらましのみやこ)への遷都計画の頃から、天武大王(てんむおおきみ)の意を受けて修験道の祖と言われる「役小角(えんのおづぬ)」が活動を始め、古事記と日本書紀の編纂が始まっているのである。

新益京(あらましのみやこ)のその規模は、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む十里(5.3キロ)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)を凌ぎ古代最大の都で在った。

大王(おおきみ)の御座所(宮)・藤原宮(ふじわらのみや)は、周囲を凡そ五mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ三ヵ所、全部で十二ヵ所に門が設置されほぼ一キロ四方の広さだった。

新益京(あらましのみやこ)は、七百十年(和銅三年)に平城京(へいじょうきょう)に遷都されるまで持統・文武・元明の三大王(天皇)が居住し、十六年間の間日本の首都で在った。


七世紀(七百十年から奈良時代)の始め、「壬申の乱」で天智大王(おおきみ・天皇第三十九代)の息子である大友皇子(弘文天皇を明治時代追認)を滅ぼして即位した天智大王(おおきみ・天皇)の弟、天武(てんむ)天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)の時代に、正式に「天皇」を名乗るようになり、古事記と日本書紀の編纂が開始されている。

こうなると、我輩の確証は、益々強まるばかりだった。

この、遡って編纂された「古事記・日本書紀」の内容については、どの程度信頼が置けるかは定かではない。

当然ながら、時の為政者の都合が盛り込まれている。

憶測で有るが、大和朝廷の根幹を為すのが血のブランド(血統)である為、その秩序を改めて確認、皇統の権力集中と律令制度の裏付けが目的では無いだろうか?

「古事記」上巻には、

「天地(てんち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、この三柱(みはしら)の神は、並独身神(みなひとりがみ)と成り坐(ましま)して、身を隠したまひき」

と、在る。

この、「身を隠したまいひ」を簡単に言うと「中々目に出来ない」、つまりは「見えない神」と言う事である。

天上の最高神は「唯一一体」でなければならない。

しかし、日本の大和朝廷が古事記と日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。

そして日本列島の支配者と先住の民は、それを否定する事無く同一の神として受け入れた。

実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する「護法善神の仲間である」と言う解釈により、「神も仏も呼び名が違うだけで同一」と言う解釈により奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に仏教の菩薩号(ぼさつごう)を付すまでに至った。

これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言い、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」としたのである。

それで 天照大神は仏教では大日如来となり、民族神の代表格である八幡神(応神神/天皇 )が八幡大菩薩(はちまんだいごさつ)などはその典型的な例である。

妥協と言えばそれまでだが、天武大王(おおきみ/天皇)の民族神重用に仏教側が生き残りの知恵を絞った訳である。


天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と古代の妙見(みょうけん)信仰の合体神「一対の同化神」北斗神拳の北斗は北極星及び北斗七星を指し、陀羅尼神(妙見神)はその化身で有る。

天之御中主神の系譜は造化三神(ぞうかのさんしん)の一柱で、別天神(ことあまつかみ)五神の第一神が天之御中主神と言い神格は宇宙の根源神、高天原の最高司令神である。

日本の神々の中心となる神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原に最初に現れた神様で、「天は宇宙、御中は真ん中、主は支配者」と、言う意味である。

天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は天地開開(てんちかいびゃく)神話で、宇宙に最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。

その名が示す通り宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置付けられている。

大国主命(おおくにぬしのみこと)など、仕事振りを見張られていた事になっている。

そう言う偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のべ―ルに包まれていると言って良い。

これを推測するに、中華思想にぶち当たる。

つまり、日出国(ひいずるくに)から日没国(ひぼっするくに)の原点が見えて来る。

大和朝廷は、朝鮮半島から日本列島にかけて存在した「倭の国内」の一部が半島から列島に移り住んだ王族・豪族達の集合体であり、大陸の中華思想からの離脱が、建国以来の命題だった。

それで、有力豪族達を神格化し、その代表が大王(おおきみ・天皇)家となった。

事実、征服部族達の高度な文明は、遅れていた被征服の列島の民を驚かせ、神と騙すには充分の理解の差があった。

しかし新しい神話を創造するには進んだ中華文明と時々の中華帝国を列島の民の目から逸らし、閉じ込めねばならない。

当然の事ながら中華文明を認めてしまうと天孫降臨伝説は陳腐な物になってしまう。

それを覆い隠して被征服部族である多数の蝦夷族を畏怖の念で心服させねばならない。

だから、存在を見えないものにした。

それが、天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)である。

何故なら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」目に付かない神だからである。

顔も姿も現さなければ、語る事もなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。

本来が「その姿を知らしめない(神が現れるのは神武天皇即位から)」と言う日本の神様の典型が誕生する。

まさか、「神が軍隊を率いて半島から南下して来た」とは書けないから、「姿が見えない事にした」とも推測できる。

仏像の様な偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすれば、何とも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそう言うものなのである。

そんな風に人間界と隔絶した神様であるが、宇宙の真ん中に位置する全知全能の神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。

要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、その後に登場して来る多くの神々による「一切の創造的な作業を司令する事がその役割だった」と言える。

つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。

この天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の性別はどちらだろうか?
簡単である。

無から有を生み出すのは母、つまり母性である。

天照大神も月読(つきよみ・つくよみ)の命も女で、三番目の須佐王(スサノウ命)がやっと男神である。

そして日本の民衆は、長い事女神を奉じ身近な神としては観音菩薩様(千手や十一面など)や弁天様(弁財天・弁天菩薩)などを慕い敬った。

だから日本の男性は、時として身体を赦してくれる身近な女性さえ、「慈悲深い観音菩薩や弁天様」と呼んで有り難がった。



朝鮮半島と日本列島の間には、海峡が在る。

確かに航海術などの要因は往来を困難にしてはいたが、日本列島の人々にとって前述した様に現在の様な人種や国境の意識は無く、天皇を始め、有力豪族達の故郷と言う意識が強かった。

半島と列島の間は、ある意味に於いては現在よりよほど自由に行き出来たのである。


中国地方、周防国(山口県)下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

琳聖太子は、 大内氏(豪族〜大名)の「伝説的始祖」とされている。

推古大王(おおきみ・天皇第三十三代女帝)の十九年(六世紀の始め)百済国聖明(さいめい)王の第三王子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。

琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に拝謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大々名になる「大内氏の祖先になった 。」とされている。

多々良姓は、この地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。

中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手として有名なのは周防・長門の二ヵ国(山口県)の武将・大内氏が西国では有名で、妙見信仰の最大の庇護者だった。

大内氏は、戦国期に配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられた。


この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では妙見信仰は長く庇護され人々に根付いていた。

つまり琳聖太子の事例は、当時の為政者の国家観に、半島の王族に対し、「同族意識が強くあった」と考える根拠になりはしないか?


六世紀(飛鳥時代)の中ごろ、「大化の改新」の序章と成った「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」が起こっている。

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は飛鳥時代に中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)、中臣鎌子(鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした政変である。

この頃、蘇我馬子の子、蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が、代々大臣(おお・おみ)として、大和朝廷にあったが、その実、「蘇我御門(そがみかど・天皇)として新朝廷を創った。」或いは、「蘇我大王」とする学者も多い。

これはひとえに物部氏の弱体化により、蘇我氏が抜きん出て強力に成った為だ。バランスが壊れて、天皇家がコントロールして蘇我氏を押さえる事が出来る「もう片方の有力豪族」を失っていたからである。

飛鳥時代、蘇我御門(そがみかど)家が天皇家を凌ぐ権勢を誇っていた例を挙げる。

五百九十二年、渡来人、東漢氏の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害し、蘇我氏に対抗する豪族達を次々に暗殺してその勢力基盤を拡大した。

まさにやりたい放題だが、押さえる勢力が無い。

この月に、馬子の娘である河上娘(かわかみのいらつめ・崇峻天皇の嬪)と東漢直駒との密通(強姦とも言われる)が露見し、東漢直駒は馬子によって処刑された。

使い捨てにされたのかも知れない。

歴代天皇の皇后は、全て蘇我氏の女性が当てられ、蘇我家の子供は、親王(皇子)と同じ扱いを受け、蘇我の当主は天皇と同列の扱いに成って行ったのだ。

そこで、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)、中臣(なかとみ)鎌子(後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)らが、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。

「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」には、切羽詰った事情が有った。

中大兄皇子の母、皇極(こうぎょく)天皇(第三十五代・女帝・第三十七代・斉明天皇とも名乗る)の存在である。皇極天皇が、蘇我入鹿(そがのいるか)の愛人で有ったからだ。

女帝だって女性である。愛人の男の一人くらい居ても良い。

しかし相手が悪い。

皇極天皇と蘇我入鹿の間に皇子が出来ると、中大兄皇子の天皇即位の目が消え、天皇の皇統が、そちらに流れる危険があった。

そうなれば、正しく蘇我帝国である。

中大兄皇子は、舒明(じょめい・第三十四代)天皇と、後の女帝・皇極天皇との間に出来た子で、本来なら争う相手のいない世継ぎだった。

しかし、舒明天皇が急逝した時のバランスから、適当な後継者が居なかったので母が父の代の「次の天皇」として即位し、時の権力者、蘇我入鹿と愛人関係が出来てしまっていた。

それで、宮中しかも母帝・皇極天皇の目の前で愛人(入鹿)を息子(中大兄)が切り殺す場面と成ったのだ。

従って、ドラマの様に大衆受けする「格好の良い」ものではない。

本来は、只の権力争いである。

女帝を「愛人にする」とは、現代の感覚でゆけば恐れ多いが、当時の感覚では権力掌握の有力手段であった。

学者によっては蘇我家が最高権力者で、「天皇家の後援者(パトロン)だった」とも言われている。

いずれにしても、天皇家は大和の国の象徴に成っていたから、後の世同様に、」外すのではなく取り込む形を取った。

たとえは悪いが天皇家は、或る種絶対のブランドとして、周りを納得させる為の存在だった。

中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)を起こし宮中で蘇我入鹿を暗殺する。

このクーデター、後に考徳大王(こうとくおおきみ/天皇第三十六代)に収まる皇極大王(こうごくおおきみ/女帝)の弟皇子「軽皇子」が裏で糸を引いて、中大兄皇子達に「殺(や)らせた」とする説もあるが、まだ確たる証拠はない。


此処からは、天皇交代のミステリーの話をする。

誤解の無い様に予め言っておくが、今の「天皇が正当でない」などと言う気は一切無い。

そう解説している「学者もいる」と言う御案内であり、私がその説を全面的に支持している訳ではない。

どちらかと言うと、半島との繋がりの証明にしたいだけである。

入鹿暗殺後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、蘇我氏一族の掃討に成功し、大臣(おおおみ)家・蘇我氏は衰退する。

この暗殺をきっかけに、皇極(こうぎょく)大王(おおきみ・天皇)は退位し、その後には、皇極天皇の兄弟「軽皇子」を孝徳(こうとく)大王(おおきみ・天皇第三十六代)として即位させ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇太子となる。

この時代、呉系の皇太子と呉系の中臣氏が実権を握ったので、任那復興、百済復興を画策するが、果たせなかった。

孝徳大王(こうとくおおきみ・天皇)が亡くなると、退位していた母の皇極天皇を再び担ぎ出し、名を斉明大王(さいめいおおきみ・天皇第三十七代)と改めて再び即位させ、皇太子を続ける。

同じ人物が、名前を変えて二度天皇?

中大兄皇子はよほど天皇にはならず、皇太子のままで統治の実務を続けたかったのである。

斉明天皇が崩御すると、中大兄皇子は母の死後、代理を長く続け、八年後にようやく即位し、天智大王(てんちおおきみ・天皇第三十八代)を名乗る。


中臣氏(なかとみうじ・臣王)は天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点とする古代の日本に於いて忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で姓(かばね)は連(むらじ)である。

仏教伝播の折には物部氏と同様に神事・祭祀を司取る立場から、物部氏ともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。

乙巳の変(いっしのへん)と言われる政変では、中臣氏の系流・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中大兄皇子(天智大王・天皇)を助けて活躍し、「大化の改新」と言う政治改革を行う中大兄皇子(天智大王・天皇)にも中臣鎌足(なかとみのかまたり)が助力し功績を上げている。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、六百六十九年の死に臨んで天智天皇より藤原姓を賜り、以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣(なかとみ)を称し、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲した。

中臣氏(なかとみうじ・臣王)から分かれた鎌足(かまたり)系流は蘇我御門家を滅ぼした事で、天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族となり、源・平・藤・橘の所謂(いわゆる)四姓の一つに数えられる。

藤原氏はその筆頭名門氏族と成ってその後は朝廷の権力を一族に集める大豪族一門になり上がったのである。

その後本系・中臣氏を率いた右大臣・中臣金(なかとみのかね)が「壬申の乱」で処刑された事もあって、乱とは無関係の藤原鎌足系流も連座され一時衰亡の危機を迎える。

やがて天武大王(てんむおおきみ/天皇)の時代に八色の姓(やくさのかばね)が定められた折に同系流の中臣朝臣と藤原朝臣の範囲を整理して定めた。

だが、その際鎌足系流の藤原不比等(ふじわらのふひと)がまだ若かった事も在って鎌足の従兄弟で娘婿でも在った本系・中臣意美麻呂が藤原不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に氏上となったらしい。

そして、それ以外の本系成員にも不比等(ふひと)が成長するまで暫定的に藤原朝臣が与えられた。

その臨時処置の為、後に不比等(ふひと)が成長し頭角を現すと、藤原氏が太政官を中臣氏が神祇官を領掌する体制とする為に、鎌足嫡男の不比等以外は元の中臣姓に戻された。

不比等が成長して意美麻呂が中臣姓に復帰、後に中臣意美麻呂は藤原不比等(ふじわらのふひと)の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った為、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。


そう言う訳で、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、六世紀(飛鳥時代)に藤原家を興した人物である。

中臣(なかとみ)鎌子(中臣鎌足)を名乗っていた藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)が蘇我入鹿を宮中で暗殺した乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)に与力し、蘇我御門(そがみかど)家を滅ぼしてこれに取って代わる。

その後中臣(なかとみ)鎌子(中臣鎌足)は藤原姓を名乗り、藤原家は平安末期に後胤貴族で武門の平氏と源氏が台頭するまでは、列島中に一族の枝を派遣して統治を独占、並ぶ者無き有力貴族として君臨し藤原家は名門として栄えた。


通説では、「藤原朝臣(ふじわらのあそみ)」の姓は、死を目前にした中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、天智大王(てんちおおきみ・天皇)から与えられたもので、鎌足の子である不比等(ふひと)がその姓を引き継ぎ、以後、藤原不比等(ふじわらのふひと)の流が「藤原朝臣と認められた」とされる。

しかし、この時に天智大王(てんちおおきみ・天皇)から与えられた藤原の姓は鎌足(かまたり)一代のものであり、後に改めて「鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられた」とする説もある。

この説の根拠は、鎌足(かまたり)の死後、疑惑の皇子・大海人皇子(おおあまのみこ)が挙兵して天智大王(てんちおおきみ・天皇)の継嗣・大友皇子(おおとものみこ)と天下を分ける内乱・壬申の乱と成ったのである。

その時、中臣氏(なかとみうじ)を率いた右大臣・中臣金(なかとみのかね)が、壬申の乱で敗北した大友皇子方について処刑された為に、乱とは無関係の不比等(ふひと)ら鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた事を挙げている。

天武大王(てんむおおきみ・天皇)に拠る壬申の乱平定の後、六百八十四年(天武帝十三年)に八色の姓(やくさのかばね)が定められた。

その際に、朝臣(あそみ)を与えられた五十二氏の中にまだ「藤原」は登場せず、鎌足(かまたり)の嫡男である不比等(ふひと)を含めた鎌足(かまたり)の一族は「中臣連(なかとみのむらじ/後に朝臣・あそみ)」と名乗っていた。

その翌年(天武十四年)になって、鎌足の遺族に対して改めて「藤原朝臣(ふじわらのあそみ)」が与えられ、「日本書紀」に鎌足(かまたり)没後最初に「藤原」が登場する。



前述のごとく、修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が活躍したのはこの大化の改新の後、天智大王(てんちおうきみ/天皇)の御世(六百七十年頃)以後で、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀よりも四〜五十年は古い時代の事である。

つまり、古事記・日本書紀編纂の時代には、既に朝廷(大王・おおきみ/天皇)の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の、陰陽修験者(修験導師)の民衆に対する啓蒙工作が進んで居た事になる。

そうなると、その後に編纂された記・紀(古事記・日本書紀)が、その影響を受けた事は容易に考えられる。

また、記・紀(古事記・日本書紀)編纂の出典が、公式文章ではなく、伝承民話を採っているものであれば、当然ながら渡来部族に伝承されていた半島や大陸の伝承民話が混ざっていて当たり前で、そこから定説日本史を導くのは無謀な考え方である。


中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)と、その変の後に行われた政治改革を総称して「大化の改新(たいかのかいしん)」と言う。

飛鳥時代の六百四十六年、孝徳天皇二年に改新の詔(かいしんのみことのり)が発布された事を称するもので、それまでの有力大豪族の影響を排して豪族中心の政治から天皇中心に戻した政治的改革である。

孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「暴逆(蘇我氏)は誅した」と宣言、帝道は唯一であるに拠り「この後は君に二政なし、臣に二朝なし」と元号を大化元年と定め、以下四ヵ条を定める。

一、それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする「公地公民制」の実施。

二、国(くに)、郡(こおり)、県(あがた/こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡(こおり)に整備し直した「国郡制度」の実施。

三、戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える「班田収授の法」の実施。

四、公民に税や労役を負担させる制度の改革「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」の実施。

この四ヵ条を定めた政治的改革を、我が国では歴史的な重大事として扱われ、学習されて来た。

またこの四ヵ条以外にも多くの改革を行い、その総称を「大化の改新(たいかのかいしん)」としている。

しかし近年では、この「大化の改新(たいかのかいしん)」と言われる一連の改革は、日本書紀編者による創作ないしは後世の過大評価であるとその存在が疑われている。



弘文天皇(こうぶん/第三十九代天皇)は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の第一皇子・大友皇子(おおとものみこ)である。

大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)は、父・天智大王(てんちおおきみ)の下で六百七十一年(天智十年)に太政大臣となり、その政務を補佐するも、後に皇位を継いだかどうかが確かではない。

大友皇子(おおとものみこ)は、天智大王(たんちおおきみ)の崩御(ほうぎょ/亡く成る)後、天智後継者として統治した。

だが、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、壬申の乱(じんしんのらん)を起こした。

この「呉族系豪族を味方にした」との日本書紀の記述や大海人(おおあま)の名から大海人皇子(おおあまのみこ)は百済系・呉族と解される。

だが、実は大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅系・加羅族の出自では天智大王(てんちおおきみ)のあとは血統として継げないので、「呉族系を装った」と言う疑惑を感じる。

異説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。


壬申の乱(じんしんのらん)に於いて、大友皇子(おおとものみこ)は叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。

先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)は即位に関連する儀式を行う事は出来なかった。

その為弘文天皇(こうぶんてんのう)は、歴代天皇とみなされてはいなかった。

そして長い事、弘文天皇(こうぶん天皇)は天皇としては公文書から除外されて来たが、千八百七十年(明治三年)に諡号を贈られ、ようやく第三十九代天皇として追認皇位を認められた。

そうした経緯から、大友皇子(おおとものみこ)と表記される事も多い。


「日本書紀」には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。

ただし漢詩集「懐風藻」や「万葉集」には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。

また、皇位には天智大王(てんちおおきみ)の皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。


乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん/大化の改新)から二十六年、天智天皇が崩御する。

しかし一年後、天智天皇の皇子・大友皇子(おおとものみこ)が弘文大王(こうぶんおおきみ・天皇第三十九代)として即位(?・正式の即位では無い/明治三年追認)または即位寸前に天智天皇・皇弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きている。

両勢力は合戦となり、大海人皇子(おおあまのみこ)方の勝利、甥にあたる弘文天皇(後世追認天皇)の自害で、壬申(じんしん)の乱は幕を閉じる。

壬申の乱(じんしんのらん)は、六百七十二年に起きた「日本古代最大の内乱?」である。

天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し、天智天皇の皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。

太子・大友皇子(おおとものみこ)の即位を阻んだ反乱者である伯父・大海人皇子(おおあまのみこ)が勝利すると言う、史上例の少ない内乱で在った。

天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたる為、これを壬申の乱(じんしんのらん)と呼んでいる。

大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して帝位に付き、天武(てんむ)天皇(第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇には様々な異説があり、最たるものはここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。

その説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子・おおあまのみこ)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて天智天皇の弟に納まり「第四十代天皇を継いだ」と言う「疑惑」である。

この異説を裏付けるに充分とも思える根拠を挙げて置く。

まず、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の出生年が、皇子である舎人親王(とねりしんのう)の編纂にも関わらず日本書紀に記載が無い。

他に記載が無いのは崇峻大王(第三十二代天皇)のみであり、これは異例の事である。

まず、天智天皇、天武天皇の兄弟、弘文天皇との叔父甥の年齢の絡みが一致せず、計算によって天武天皇(大海人皇子)は、天智天皇の四歳年上の「弟」に成るそうだ。

この年上の「弟」、幼い頃の事がどこにも書いて無い大海人皇子(おおあまのみこ)が、もろもろの文献に突然登場する事も不自然で、疑問を投げかけられている。

公私の別なく、皇子の幼い頃の事が、古文書のどこにも書いて無いのだ。

また、どこかで皇統を表す慣例になっている皇子としての皇統の名に「大海人(おおあま)」の使用例が、この一例を除いて他にまったく無いのである。

そして極端な事だが、天智天皇とその皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は兄弟にも関わらず天武天皇が皇子時代に天智天皇の娘を、四人までも妃として娶っている。

これは近親婚の多い朝廷にあって、兄の娘を娶る事も一人くらいは考えられるが、大概はどちらか一方が違う親の、異父または異母兄弟である。

同じ父、同じ母を持つ「兄の娘四人」は当時としても異常で、まるで血縁の薄い有力豪族を抑える為の「政略婚」の様である。


そして、額田王(ぬかだのおおきみ)の存在がある。

額田王(ぬかたのおうきみ)は、大和国平群郡額田郷に本拠を置く「額田部(ぬかたべ)に育てられた」と伝えられる貴人で、斉明朝から持統朝に活躍した日本の代表的な女流万葉歌人であり、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の妃(一説に采女とされる)とも言われている。

推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)の皇女時代の名が額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で在る事から、額田王(ぬかたのおうきみ)は相応の身分で在った事は否定出来ない。

額田王については残された文献が少なく「万葉歌人」で有名な他は余り判っていないが、一説には中臣鎌足の妻・鏡王(かがみのおおきみ)の「子であるとか妹であるとか」言われている。

「日本書紀」の記述に、額田王(ぬかたのおうきみ)は鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(おおあまのみこ/天武大王・天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。

鏡王(かがみのおおきみ)は、王(おうきみ)の尊称から皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫、或いは近江国野洲郡鏡里の皇胤豪族で「壬申の乱の際に戦死した」とも言われている。

「万葉集」に収められた歌のみであるが、額田王(ぬかたのおうきみ)は十市皇女の出生後、天武大王(第四十代天皇)の兄である「中大兄皇子(天智大王・第三十八代天皇)に寵愛された」と言う説も根強く伝わっている。

また、歌の解釈から額田王(ぬかたのおうきみ)が大海人皇子(おおあまのみこ/天武大王・天皇)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/天智大王・天皇)の両者と「同時期に情を通じている」とされるのは、その歌が「単なる宴席での座興」とする説も在る。

しかしながら、大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑に信憑性が在るのであれば、性におおらかな当時の事では額田王(ぬかたのおうきみ)は単に権力者の間を行き来しただけなのかも知れない。

額田王(ぬかだのおおきみ)は最初、大海人皇子(おおあまのみこ・天武大王・天皇)の妻で、後に弘文天皇の妃に嫁ぐ事になり子まで為している。

その額田王を、兄の天智大王(天皇/中大兄皇子)が自分の妃に奪っているのだ。

しかし歴史学者によっては、額田王は、天智大王(第三十八代天皇)の元に嫁いでも大海人皇子との関係も「続いていた」とする者もいる。


いずれにしても、あらゆる事が兄弟の関わり方ではないのだが、それとも宮廷内が、ローマ帝国末期の様によほど乱れた「愛欲の世界だった」と言うのか。

こうした不自然な関わりから、当時、ほぼ朝鮮半島統一が成されつつあった(金春秋<キム・チュンチュ>王=武烈王・太宗第二十九代)の弟が、「大海人皇子の正体ではないか」と言うのである。


わが国には、「血統至上主義」の為に封印された歴史の数が多い。

これも、「天孫降臨伝説」を統治の根拠とした皇統の「血統至上主義」の為に「封印された歴史の一つではなかったのか?」と言う疑問である。

つまり文献から抹殺されてしまったが、白村江の戦に破れた大和朝廷が戦後処理に「新羅の進駐軍派兵、ないしは国土の一部割譲を受け入れていたのではないか」と言う疑惑である。

大海人皇子(おおあまのみこ)の正体は、「新羅の進駐軍の王または、獲得した割譲地の王だ」と言うのである。

大友皇子が弘文大王(こうぶんおおきみ)として即位寸前に大海人皇子(おおあまのみこ・天武大王・てんむおおきみ/天皇)が「壬申(じんしん)の乱」を起こした時、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)に加勢、「勝利を得た」と言われて居る。

それは海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)と同族だったからに他ならない事になるのだが、この日本書紀の記述は、違和感を感じる。

日本書紀に拠ると、大海人皇子(おおあまのみこ)は、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方にし、弘文大王(こうぶんおおきみ/大友皇子)側を圧倒して行く。

この「呉族系豪族を味方にした」との日本書紀の記述や大海人(おおあま)の名から大海人皇子(おおあまのみこ)は百済系・呉族と解される。

だが、実は大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅系・加羅族の出自では天智大王(てんちおおきみ)のあとは血統として継げないので、「呉族系を装った」と言う疑惑を感じる。


天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)は、天智大王(天皇)の死後、六百七十二年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に正式に即位した。

飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位前の一年を加えその治世は十四年間、即位からは十三年間に渡る。

「日本書紀」の編纂を総裁した事で知られる舎人親王(とねりしんのう)は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の皇子である。

天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)は、新たに日本書紀の編纂を開始させるなど改革者で、その御世に日本で始めて造られた通用銭が、富本銭(ふほんせん)である。


近年に成って、日本で始めて造られたと推定される銭貨が、銭貨・和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)から銭貨・富本銭(ふほんせん)へ定説が変わった。

六百八十三年頃、天武大王(第四十代/天皇)の御世に日本で始めて造られたと推定される銭貨が富本銭(ふほんせん)である。

その日本最古の富本銭(ふほんせん)の立て書き富本の左右に、五角形様に配置された七つの丸い突起は星と解釈されて「富本七星銭」とも呼ばれ、「陰陽五行の五亡星を示している」とされている。

後の中務省・陰陽寮の設置にしろ、この富本銭(ふほんせん)の七星五亡星にしろ、いかに当時の統治手段に占術が活用されていたかが証明されている。

つまり天武大王(第四十代/天皇)の御世に於いて陰陽五行占術が信じられ、統治と占術が一体化していた事が理解される根拠である。

既に朝廷(大王・おおきみ/天皇)の権威をあまねく列島の隅々まで知らしめる為の、陰陽修験者(修験導師)の民衆に対する啓蒙工作が進んで居たのだ。



実はこの「壬申(じんしん)の乱」を遡る事百六十五年前の五百七年、継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)が即位している。

この継体大王(けいたいおおきみ・天皇)が、即位の為に任那からやって来た人物で、大王(おおきみ)の位が呉族系から任那(みまな)系加羅族に移って居たが故の海人族(かいじん)族の加勢であれば、全て話の筋が通るのである。

大王(おおきみ/皇統)の座をめぐる加羅族系と呉族系の暗闘が、旧本国の支援も絡んで「まだ続いていた」と言う事だが、この半島からの微妙な絡み方は、米国独立戦争当時に宗主国争いの形で介入した英国と仏国のようなものである。

明治維新のおりにも、薩長側に英国、幕府側に仏国がついて軍事指導をした歴史経緯があるので、こうした介入は勢力争いの常套手段なのだろう。

こうした事は、歴史の必然かも知れない。

知られたくない事情があれば、公式文章の記述から削除するのが当たり前で、「記述に無いから在り得ない」とは言えないのだ。

仮に大海人皇子が、皇統に紛れ込んだ新羅王の弟としても、「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王(とねりしんのう/天武天皇の皇子のなかでは長命を得た人物)である。

その事から、大友皇子の立太子の事実及び大海人皇子(天武天皇)の皇位簒奪の経緯についてはいくらでも有利に脚色出来る為、手放しの信用は出来難い。

そしてここら辺りが怪しいのだが、何よりも秘密警察兼工作機関と目される修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が現れたのは、この天武大王(おおきみ/天皇)の御世である。

何しろ大海人皇子は、名前からして大海人(おおあま)と海人族の長たる名前である。

大海人皇子が海人族であれば賀茂・葛城族とは同族で、天武大王(おおきみ/天皇)の皇位と権威の確立の為に、天武大王(おおきみ/天皇)直属の修験秘密警察が誕生した事も充分に考えられるのである。

であれば、大海人皇子が「新羅系加羅族」と言う推論は成り立たないが、これも大豪族・賀茂・葛城氏一族が「権力に擦り寄った」と解釈すれば、証明は出来ないが筋は通る。

海人族(呉族)である賀茂県主出自である賀茂修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が加羅族・天武大王(おおきみ/天皇)の密命を受けて修験を組織した。

つまりその時点では天武大王(おおきみ/天皇)の皇位は確定し、既に臣従する事で賀茂氏族の生き残りが掛かっていたのかも知れない。

つまり日本列島に於ける呉族と加羅族は、勢力争いと和合を繰り返して居た事になる。

どうやらこの頃から、日本列島に於ける渡来系の二系統・呉族系と加羅族系は氏族として共存の道を選び、大和朝廷(ヤマト王権)を強化して行く。

そして大和朝廷(ヤマト王権)は体制側として、未(いま)だマツラワヌもう一の系部族である関東・東北部の蝦夷(エミシ)を隷属させる準備に掛かったのではないだろうか?



六百八十四年(天武十三年十一月二十九日)、「白鳳地震(東海 東南海 南海連動?)」が発生する。

推定マグニチュード八〜八・四の大地震が起こり、山崩れや家屋・社寺の倒壊多数が記録されている。

土佐国に於ける地盤沈下や津波などの「日本書紀」の記録は南海地震を示唆するが、「諸国の郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社が多数倒壊した」とも記録される。

この白鳳地震は、天武大王(てんむおおきみ・天皇/大海人皇子)が即位し、大和朝廷が「八色の姓(やくさのかばね)」を定めた頃の事で、詳細は正確に残っては居ない。

しかし地質調査に拠ると、「東海 東南海地震も同時期に発生した」と考えられ、調査の結果、静岡市川合遺跡の七世紀後半の砂脈痕が「東海地震震源域に相当する」とされている。


疑惑との関わりで、六百三十年(奈良時代)頃の白村江(はくすきのえ)の戦いについても触れておきたい。

この頃大和朝廷は、呉族・百済系有力豪族王達の擁立の元、女帝の斉明天皇が即位し中大兄皇子が実務を担当していた。

処が、当時血縁の深かった半島の国、百済王国が、大陸の唐と半島の新羅に攻められ滅亡状態で在った。

この白村江(はくすきのえ)の戦いに顔を出すのが、古代日本の氏族で海神(海人族)である綿津見命(わたつみのみこと)を祖とする阿曇氏(あづみし/安曇族)・安曇比羅夫(あずみのひらふ)である。

海部(あまべ)の民長・安曇連(あづみのむらじ)は古事記では綿津見(わたつみ/渡っ海)神の子・宇都志日金柝命の子孫とされ、海積(あまづみ)より生じ連(むらじ)を名乗るが後に宿禰(すくね/安曇宿禰)を賜る。

後世は安住(あずみ)氏、安積(あずみ)氏、阿曇(あずみ)氏、阿積氏(あずみ)、また、厚見(あつみ)氏、厚海(あつみ)氏、渥美(あつみ)氏、英積(あつみ)氏など多様の表記の氏が起こって夫々に分かれている。


阿曇氏(あづみし/安曇族)は、筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)を発祥地とする海人族として知られ、阿曇(安曇/あずみ)を古くは海人津見(あまつみ)と書き、その海人津見(あまつみ)が訛って阿曇(安曇/あずみ)になった。

阿曇氏(あづみし/安曇族)は古代日本を代表する神格化された有力氏族として「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。

北九州の志賀島一帯から全国に移住し、安曇(海人津見/あまつみ)が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達した。

更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達し、さらに内陸部の信濃国安曇郡(長野県安曇野市)にも名を残している。

安曇比羅夫(あずみのひらふ)は七世紀中頃の外交官兼武将で、山城国(やましろのくに/大阪府南河内郡)を本拠地として姓(かばね)を山背連(やましろむらじ)と名乗る。

比羅夫(ひらふ)は百済に使者として派遣されていた縁で百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎え、高句麗が唐と新羅の連合軍の攻撃を受けると百済を救援する為の将軍となって百済に渡り援軍として戦っている。

百済が唐と新羅の連合軍に追い詰められ、百済の王子豊璋が救済を求めて日本へ渡来すると、王子を王位に就けようと水軍百七十隻を率いて百済に渡り、白村江(はくすきのえ)の戦いで戦死した。

まだ阿曇氏(あづみし/安曇族)には多くの謎があるが、この辺りの安曇比羅夫(あずみのひらふ)の行動から、阿曇氏(あづみし/安曇族)の列島渡来以前の祖国が百済であっても不思議はない。

信濃国安曇郡(長野県安曇野市)は阿曇氏(あづみし/安曇族)の有力な本拠地の一つで、安曇比羅夫(あずみのひらふ)は安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)として祀られている。

安曇比羅夫(あずみのひらふ)が山背国(山城国)ではなく信濃国安曇郡(長野県安曇野市)に祀られて居る訳は、我輩の推測によると白村江(はくすきのえ)の戦いの敗戦処理でやって来た占領軍に山背国(山城国)を追われた為、本拠地を信濃国に移さざるを得なかったのではないかと考えている。

つまり正史に書き残されていない占領軍の存在が、阿曇氏(あづみし/安曇族)を一族諸共に山背国(山城国)から追ったのであれば判り易いのである。


中大兄皇子は、前述のように天智(てんち)大王(おおきみ・天皇第三十八代)を名乗り、滅亡状態であった百済復興の為に、時の朝廷(呉族・百済系)は半島に百済救済の大軍を送り、白村江(はくすきのえ)で、大敗を喫している。

新羅王国が唐帝国の力を借りて六百六十年に百済王国が滅亡、半島(朝鮮)側の倭国群は加羅族系の新羅王国に統一される。

六百六十三年には、滅亡状態だった呉族系・百済王国の残党が朝鮮半島側で決起する。

日本列島側・大和朝廷はその「呉族系・百済」の復興に支援を始め、唐・新羅との対立関係が悪化する。

天智大王(てんちおおきみ)と時の朝廷(呉族・百済系)は、滅亡状態に在った祖先の地・朝鮮半島・百済国(くだらのくに)の復興の為に、朝鮮半島に百済救済の大船団・大軍を送る。

しかし大和からの援軍は、白村江(はくすきのえ)の海戦で帰り討ちに遭い、唐帝国と新羅王国の連合軍に大敗を喫している。

大和朝廷はこの「白村江の戦い」の敗北に拠り、決定的に朝鮮半島側への友好関係を失う事になる。

六百六十三年に新羅王国(しらぎおうこく)が中華・唐帝国の力を借りて、呉族系・百済と日本列島・大和朝廷の連合軍を打ち破る。

呉族系・百済王国は完全に滅亡、半島(朝鮮)側の倭国群は加羅族系の新羅王国に統一される。


ここで問題なのは、この「白村江の戦い」の敗戦で「列島(日本)側・大和朝廷政権は無傷だったのだろうか?」と言う疑問である。

この百済救援の出兵、百済と天智帝の血縁関係を抜きにしては正しい判断が出来ない。

まことしやかに噂される天智帝が「百済を故郷に持つ王族と血縁の人物ではないか?」と言う疑問である。

この白村江の戦いで、「唐・新羅連合」百七十隻に対し「大和・百済連合」四百隻が破れている。

圧倒的に数に勝りながら、列島の民は大海戦で敗れ去ったのである。

結果、列島(日本)側・大和朝廷の国はこの当時敗戦国である。

この白村江(はくすきのえ)戦いの敗戦後、九ヶ月ほどして戦勝国・唐の使者(副将)郭務悰(kakumusou/カクムソウ)が、四十七隻の軍艦と二千人の兵を率いて進駐して来る。

中華帝国・唐の郭務悰(kakumusou/カクムソウ)と占領軍二千人が来て、何故か一ヶ月足らずで、大和朝廷・天智帝は突然謎の崩御をして居る。

七ヶ月間の唐軍の進駐期間に、大和国で何が起こり、何が齎(もたら)されたのか?

白村江(はくすきのえ)の大敗から僅か一年後、唐の占領軍二千人が来て一ヶ月足らずで天智帝の崩御があり、天智天皇の皇子・大友皇子が弘文(こうぶん)大王(おおきみ・天皇第三十九代)として即位(?・正式の即位では無い)した。

そのタイミングで突如大海人皇子(おおあまのみこ)が現れ、「壬申(じんしん)の乱」が起きているのである。

この乱の符合は偶然だろうか?

そして、この唐軍の進駐期間には奇妙な欠落部分がある。

白村江(はくすきのえ)の戦いの戦勝国は、唐帝国と新羅国で、当然ある筈のもう一方の勝者、「新羅との敗戦処理」が日本史には痕跡も無い事が返って怪しいのだ。

戦勝国・新羅の進駐軍、或いは割譲地の統治者として乗り込んで来た新羅の者の存在が、記録に全く無いのである。

その戦勝国・新羅の動向が記録に全く無い事が、大海人皇子(おおあまのみこ)が「新羅王の弟説」と言う「疑惑」の根拠である。

戦勝国・新羅王の弟が占領軍または一部国土を割譲した為の渡来であれば、天智大王(てんちおおきみ/天皇)が誓約(うけい)の証として娘四人を大海人皇子(おおあまのみこ)に奉じて「互いの融和を図った」とする事も考えられる。

ならば、大海人皇子(おおあまのみこ)が兄・天智天皇の娘四人をたて続けに娶った疑問がスッキリ解決出来るのである。

天武大王(おおきみ/天皇・大海人皇子)が壬申(じんしん)の乱を経て政権を奪取したこの時機と、列島(日本)側・大和朝廷に新制度「律令制」が導入された時機が重なっている。

これは偶然だろうか?

天武大王(おおきみ/天皇)には隠された事情があり、制度を改革して今までの統治の構図を一新させざるを得無い権力強化の必要があったのではないだろうか?

天武大王(おおきみ/天皇)の生前に律令は完成しなかったが、持統天皇(女帝/天武天皇后妃・天智大王の娘)の時代(六百八十九年)に律令が完成・施行され、七百一年の大宝律令の制定・施行へと続いて行くのである。

仮に大海人皇子が、皇統に紛れ込んだ新羅王の弟としても、「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王(とねりのしんのう)である事から、大友皇子の立太子の事実及び大海人皇子(天武天皇)の皇位簒奪の経緯についてはいくらでも有利に脚色出来る為、手放しの信用は出来難い。

そして何よりも、秘密警察兼工作機関と目される修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が現れたのは、この天武大王(おおきみ/天皇)の御世である。

大海人皇子が海人族であれば賀茂・葛城族とは同族で、天武大王(おおきみ/天皇)の皇位と権威の確立の為に、天武大王(おおきみ/天皇)直属の修験秘密警察が誕生した事も充分に考えられる。

しかし仮にそれが事実としても、まだその頃は朝鮮半島を含めて日本列島も倭(わ)の国々だったので、倭(わ)人同士後の日本の戦国時代の国の取り合いの様に、あまり他国意識は無い為に「違和感なく付き合えた」のではなかったのか。

日本の天皇を始め豪族もその配下も、血筋的には広域に居住していた倭人である。

朝鮮半島の人々も、先祖は「倭人である」それ以外の何者でも無く、この頃にはまだ充分にその意識が残っていたのだ。

現代の人種意識の「物差し(ものさし)」で、この事を理解しようとすると、また違った物語が出来てしまうのである。

いずれにしても、この「壬申(じんしん)の乱」の後は、天智大王(てんちおおきみ/天皇)系の皇統と天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)系の皇統が約百二十年間、女帝も交えて複雑に絡み合う幾つもの物語が幕を挙げる時代となるのだ。



大陸の中華皇帝(つんふぁふぁんでぃ)に対抗して、列島に於ける「天皇」の称号を最初に名乗った大王(おおきみ)は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇/大海人皇子)だった。

その経緯であるが、大和朝廷(ヤマト王権)が日本列島の西半分を統一した頃は、日本列島には多くの国主(くにぬし)や県主(あがたぬし)が居て、その統一王が大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ)だった。

統一前の日本列島に於いて、小国乱立時代の「王号」の使用解釈は冊封(さくほう/さくふう)に拠る中華皇帝の臣下(諸侯王)へ与えられる称号である。

そうした渡来部族が、勝手に切り取った部族国家乱立の小国家群の統一王権として大王(おおきみ)の称号を使用した。

しかしながら日本列島の大王(おおきみ)は、冊封(さくほう/さくふう)に拠る中華皇帝の影響力を排して中華帝国の皇帝と対等の独立した帝国で在る事を内外に主張する名称として、天皇(てんのう)と言う呼称を採るようになる。


「天皇」という称号の由来には複数の説があり、一つは古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝(てんおうだいてい)」或いは「扶桑大帝東皇父(ふそうたいていとうこうふ)」から採ったと言う説がある。

また別の説として、中華帝国・唐の「高宗」は皇帝ではなく道教由来の「天皇」と称した事が在り、「これが日本列島大和朝廷(ヤマト王権)に移入された」と言う説もある。

元々「天皇」はその読みを「てんおう」と読んでいた事から、五世紀頃の対外的には「可畏天王」、「貴國天王」或いは単に「天王(てんおう)」等と称していたものが天武朝に「天皇(てんおう)」とされた等の説がある。

伝統的に「てんおう」と訓じられていた「天皇」は、後世の明治期に成って連声により「てんのう」に変化したとされる。


大王(おおきみ)から天皇(てんのう)に呼称変更したのは、皇統簒奪の疑惑がある天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)が「初めて天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を採用したのではないか」と推測されている。

つまり飛鳥京(あすかきょう)時代の末期に即位した天武大王(てんむおおきみ)が、何故かそれまで大王(おおきみ/治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていた大和王権の長が、天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになって天武天皇を名乗った。

天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)には、当時、ほぼ朝鮮半島統一が成されつつあった(金春秋<キム・チュンチュ>王=武烈王・太宗第二十九代)の弟が、「大海人皇子(おおあまのみこ)の正体ではないか」と言う「皇位簒奪疑惑」が存在する。

そこで、大友皇子との内乱を征した天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)の出現が、この「天皇」と言う称号採用とも「深く関連しているのではないか」とも考えられるのである。

尚、持統大王(じとうおおきみ/天皇・第四十一代持統朝)は、天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)に妃として嫁いだ天智大王(てんちおおきみ/天皇)の四人娘の内の次女・鸕野讚良(うののさらら)が、夫・天武天皇(てんむてんのう)亡き後を継いで女帝として即位したものである。

そしてこの「持統(じとう)」の名乗りこそ、女系ながら「天智大王(てんちおおきみ/天皇)の血統を維持した事を表している」と解釈するに充分な示唆を感じるのである。



六百八十四年(天武十三年)の八色の姓(やくさのかばね)の制度の頃からか、大王(おおきみ)の地位の確立を進める為、臣王(おみおう・御門・みかど)達が朝臣(あそみ・あそん)に成り、大王(おおきみ)が帝(みかど)に成った。

帝(ティ・ディ)を「みかど」と読むのは日本だけで、元は数が多かった御門(みかど)が一人の大王(おおきみ)の事に絞られてそう読まれる事になったのではないだろうか。

一番上の姓(かばね)である真人(まひと)は、主に皇族に与えられ、次に朝臣(あそみ、あそん)、臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などが、八色の姓(やくさのかばね)の身分をも表す姓(かばね)制度で、天皇家への権力掌握をはかったのである。

そして、実質「新しい朝廷が成立した」のかも知れない。

か、と言って天皇家の血筋が途絶えた訳ではない。

大海人皇子(天武天皇)の跡を継いだ持統大王(じとうおおきみ/天皇)の母皇后は、天智天皇の第二皇女(鸕野讚良/うののさらら・うののささら)である。

天武天皇が亡くなると皇后は息子の草壁皇子(くさかべのみこ)を即位させようとするが、即位前のもろもろの対処に手間取り、その間に草壁の皇子を病死で失ってしまう。

そこで、孫の軽皇子(かるのみこ)が成長するまでの中継ぎに、自分が即位して持統天皇(じとう・女帝・第四十一代)を名乗る。

持統大王(じとうおおきみ/天皇)は、天智大王(てんちおおきみ/天皇)から天武大王(てんむおおきみ)に代わった男系の血統を天智の女系で補(おぎな)った女帝である。

第一皇子・大友皇子(明治期の追認天皇・弘文天皇/こうぶんてんのう)に皇位を継がせたかった天智大王(てんちおおきみ/天皇)だったが、その死後に起きた壬申の乱に於いて同母弟・大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位し、皇統が代わっていた。

天智大王(てんちおおきみ/天皇・中大兄皇子)を父に持つ鸕野讚良(うののさらら・うののささら/後の第四十一代持統朝)は、「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて天智大王(てんちおおきみ/天皇)の弟に納まり「第四十代天皇を継いだ」と言う「大疑惑」の大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)と結婚する。

斉明大王(さいめいおおきみ/天皇)三年、鸕野讚良(うののさらら)十三歳の時に正史上は叔父とされる大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し、その四年後には夫・大海人皇子とともに斉明大王(さいめいおおきみ/天皇)に随行し、九州まで行ってその地で草壁皇子を産む。

夫・天武大王(てんむおおきみ/天皇)が即位して五〜六年頃、同じく天智に嫁して大津皇子を産ん居た姉の大田皇女が亡くなって鸕野讚良(うののさらら)は、妃としての序列が最高位になる。

大王后妃・鸕野讚良(うののさらら)は、夫・天武大王(てんむおおきみ/天皇)が死別すると、皇位継承に息子・草壁皇子の強力なライバルである姉の皇子・大津皇子を謀反の容疑発覚で自殺に追い込み、草壁皇子を皇位継承者として準備するも、草壁皇子が病死してしまう。

草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)は当時七歳と幼く、鸕野讚良(うののさらら)は軽皇子の成長を待つ為に自ら即位し持統大王(じとうおおきみ/天皇)となる。

持統大王(じとうおおきみ/天皇)は、十五歳になった軽皇子(文武大王)に皇位を譲位し、自らは初の太上天皇(上皇)になって七百二年(大宝二年)に没するまで孫の文武大王(もんむおおきみ/天皇・第四十二代)の政務を助けている。

女系ではあるが、元の皇統に復して後に繋がって行くのだ。

この様に、細々と皇統が繋って行くのが良く判る。


草壁皇子(くさかべのみこ)は飛鳥時代の皇族で、天武大王(てんむおおきみ/天皇)と皇后・?野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子である。

天武大王(てんむおおきみ/天皇)と皇后・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ/後の持統天皇)の皇子である。


草壁皇子の妃は天智大王(てんちおおきみ/天皇)の皇女で、持統大王(じとうおおきみ/天皇)の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)である。

草壁皇子は、元正天皇・吉備内親王・文武大王(もんむおおきみ/天皇)の父である。


草壁は、六百六十二年(天智天皇元年)に誕生、六百七十二年(天武天皇元年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。

六百七十三年(天武天皇二年)二月二十七日に飛鳥浄御原宮で天武大王(てんむおおきみ/天皇)が即位する。

六百七十九年(天武天皇八年)には、草壁皇子は吉野の盟約で事実上の後継者となり、六百八十一年(天武天皇十年)二月に立太子する。

おそらく、母の?野讃良(うののさららのひめみこ)皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大田皇女の息子である大津皇子を押さえ皇太子になったものと推測される。


六百八十六年(朱鳥元年)七月には重態に陥った天武大王(てんむおおきみ/天皇)から母と共に大権を委任され、九月には天武帝が崩御する。

翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。

だが、鸕野讃良皇后(うののさららのひめみこ)は草壁皇子を直ちに即位させる事はしなかった。

草壁皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。


なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを文武大王(もんむおおきみ/天皇・軽皇子)の即位を正当化する為に後世作為されたものとする説在り。

鸕野讃良(うののさららのひめみこ)皇后が、草壁皇子に天武大王(てんむおおきみ/天皇)の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある。

草壁皇子は、皇位に就くことなく六百八十九年(持統天皇三年)四月十三日薨去する。

七百五十八年(天平宝字二年)、淳仁天皇即位後のに草壁皇子は、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の称号が贈られた。



この文武大王(もんむおおきみ)の頃から、飛鳥から平安時代にまたがり永く勢力を誇った藤原(中臣)氏が、朝廷を庇護る大豪族として、隆盛を極めて行く。

そして天武大王(てんむおおきみ・天皇)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の引きで不比等(ふひと)は右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成った。

平安時代には、鎌足系流藤原氏は本姓の藤原を称するが、その後の鎌倉時代以降なると姓の藤原ではなく家名(苗字に相当)である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名乗る公家と成り、公式文書以外では藤原姓は名乗らない形で家名をつなげて行くのである。


藤原不比等(ふじわらのふひと)は、伴に乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち取った功績で、天智大王(天皇)から藤原の姓を賜った藤原鎌足(中臣鎌足)の次男とされる。

但し不比等(ふひと)は、「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智大王(てんちおおきみ/天皇)の「御落胤」と書かれていて、その出自の真相に付いては謎である。

実は中臣家(なかとみけ)に於いて、次男の不比等(ふひと)以外の鎌足の子は鎌足の元の姓である中臣姓とされ、「神祇官として祭祀のみを担当する」と分けられて居る事から、或いは不比等(ふひと)が天智大王(てんちおおきみ/天皇)の「御落胤」は本当かも知れない。

不比等(ふひと)と言う名前は「他に比べる事ができる者がいない程優れている」と言う意味とされる。

大そうな名前をつけたものだが、不比等(ふひと)が中臣氏の中でも一線を隔す立場の人物だったならば、或いはそれを暗示して居るのかも知れない。

つまり藤原氏の実質的な家祖は、藤原不比等(ふじわらのふひと)ではないだろうか?


文武大王(もんむおおきみ/天皇)は、皇太子のまま亡くなった草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男である。

文武(もんむ)の母は、天智天皇の皇女にして持統天皇の異母妹で、後に元明天皇となる阿陪皇女である。

文武大王(もんむおおきみ/天皇)の幼少期は、父・草壁が皇太子のまま亡くなり即位していない為、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられる筈だった。

しかし祖母である持統天皇の後見もあってか、文武(もんむ)は、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。

父・草壁が六百八十五年五月七日(持統天皇三年年四月十三日)に亡くなり、六百九十六年(持統天皇十年七月十日)には伯父にあたる高市皇子も薨じた。


ために、六百九十七年三月十三日(持統天皇十一年三月十三日)に、文武(もんむ)は立太子する。

立太子から五カ月余り、六百九十七年八月一日(文武天皇元年八月一日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、六百九十七年九月七日(九月十七日)即位の詔(みことのり)を宣した。

文武帝は、当時十五歳という先例のない若さだった為、先帝・持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。

文武帝がこの若さで即位した理由を説明するには皇太子になった経緯がある。

現存日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。

その際に弘文天皇(大友皇子)の第一皇子・葛野王(かどののおう)が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。

ここで天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)が何か発言をしようとしたが、葛野王(かどののおう)が叱り付けた為、そのまま口をつぐんでしまったとされる。

持統天皇は、この葛野王(かどののおう)の一言が国を決めたと大変喜んだとされる。


これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかった事があるとされる。

このような論争が起こった事には、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てた。

その軽皇子(文武帝)の成長を待つ間は、時間を稼ぐ為に持統帝が自ら皇位についた。


ただ、天武天皇には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子が他に居た。

彼らは、草壁皇子の死後皇位につく事を期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。

この事から考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。

これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方の二通りがある為とされる。


藤原宮子(ふじわらのみやこ)は、文武大王(もんむおおきみ/天皇)の夫人である。

宮子(みやこ)は、藤原不比等の長女として藤原を名乗るも異説が在る。

文武大王(もんむおおきみ/天皇)が紀州御坊へ療養の旅をしていた時、美しい海女を見初め、手元に置くことを欲したが、身分の問題が在る。

その対処として権力者・藤原不比等の養女に一旦し、藤原の貴種として嫁入りさせたと言う説が存在する。

その異説を黙殺し不比等の実娘とすれば、母は賀茂比売(かものひめ)である。

異母妹で聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の皇后・光明皇后とは義理の親子関係にも当たる。


六百九十七年(文武天皇元年)八月、持統大王(じとうおおきみ/天皇)の譲位により即位直後の文武大王(もんむおおきみ/天皇)の夫人となる。

なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘二人も嬪(ひん/寝所に侍する女官)となっている。

宮子(みやこ)が文武帝夫人となった背景には、阿閉皇女(あへのひめみこ/女帝・元明天皇)付き女官の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が在った。

県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、持統帝の末頃に藤原不比等と婚姻関係になったと考えられ、その後押しで宮子(みやこ)が内裏に入ったと推測されている。

それまで少壮官僚であった藤原不比等は、草壁皇子の第一皇子で母は元明天皇の文武帝(もんむてんのう/)が即位するに伴い中央政界に台頭している。

ただし、夫人や嬪(ひん/寝所に侍する女官)の制度化は大宝令であったとする説では、宮子(みやこ)の夫人号は後世の脚色だったとされる説が存在する。

つまり藤原氏(宮子)・紀氏・石川氏は当初は「妃」で令制導入に基づいて嬪(ひん/寝所に侍する女官)とされ、後に皇子を生んだ宮子(みやこ)が夫人とされたと解する見方もある。


七百一年(大宝元年)、宮子(みやこ)は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。

文武帝や父・藤原不比等等肉親の死を経て、七百二十三年に従二位に叙される。

首皇子(おびとのみこ)が即位した翌年(七百二十四年)に宮子(みやこ)は正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、七百三十七年にやっと平癒する。

なお、宮子(みやこ)の病気回復の時に関わった僧侶が玄ムであり、橘諸兄のもとで玄ムが権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。


宮子(みやこ)は、息子・文武帝と三十六年ぶりに対面した。

そして、孫・阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した七百四十九年には、宮子(みやこ)は太皇太后の称号を受け、七百五十四年に推定七十歳前後で崩御した。

宮子(みやこ)は、長期の病気にかかりながらも跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした。

しかし跡継ぎの聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)には、第二皇子安積親王(あさかしんのう)薨去後はついに男子の跡継ぎに恵まれなかった。

一族である藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、宮子(みやこ)崩御後二十年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。


大化の改新から二十五年、父・藤原鎌足(中臣鎌足)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が十一歳の時に死去し、翌年には天智天皇も崩御する。

天智大王(てんちおおきみ/天皇)が崩御して一年後、天智天皇の皇子・大友皇子が弘文大王(こうぶんおおきみ・天皇第三十九代)として即位(?・明治三年追認)または即位寸前に、天智天皇・弟(?)の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子(おおあまのみこ)の勝利、弘文天皇(後世追認天皇)の自害で乱は幕を閉じる。

不比等(ふひと)が任官前の数え十三歳の時にこの「壬申の乱」が起きたが、まだ若かった為にいずれの陣営にも与す事無くその変事を過ごしている。

しかしこの時に、同族とされる中臣氏の有力者・中臣金(なかとみのかね/鎌足の従兄弟)を始めとする一族の大半は天智天皇の継嗣・大友皇子方に付いて大海皇子と戦った為、弘文(こうぶん)派として処罰され、中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された。

後ろ盾を持たない不比等(ふひと)は「下級官人からの立身を余儀なくされた」と見られるが、天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)の崩御後、妻で在った天智大王(てんちおおきみ/天皇)の娘・持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の御世に成って表舞台へ引き上げられる。

ここで藤原不比等(ふじわらのふひと)が持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)に重用されたには、天智大王(てんちおおきみ/天皇)の「御落胤説」が事実なら不比等(ふひと)は持統女帝とは異腹の姉弟になり、その格別な信頼に辻褄が合う。

藤原不比等(ふじわらのふひと)は、持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の念願である孫・軽皇子(草壁皇子の息子/後の文武天皇)の擁立に動きその後見として政治の表舞台に出て来る。

また、不比等(ふひと)が後室(後添え)にした橘三千代(たちばなのみちよ)は、始めは美努王(みぬおう・みのおう)に嫁して葛城王(後の橘諸兄/たちばなのもろえ)・佐為王・牟漏女王を生み、美努王が大宰帥として筑紫に赴任した後、藤原不比等(ふじわらのふひと)の後妻となり藤原光明子(光明皇后)を為した女性である。

宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めた橘三千代(たちばなのみちよ)を後室(後添え)に迎えた不比等(ふひと)は、皇室との関係を深めて文武大王(もんむおおきみ/天皇)に娘・宮子を嫁がせ首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)を産ませている。

尚、橘三千代(たちばなのみちよ)と不比等(ふひと)の間の娘である光明子を聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)に嫁がせたが、光明子は不比等(ふひと)の死後に息子達・藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后を世に送り出した。


光明皇后(こうみょうこうごう)は、奈良時代の聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の皇后として、他に類を見ない程の大きな足跡を残している。

藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたいぬかいのみちよ)の女子で、光明子は聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の母である文武天皇の夫人の藤原宮子とは異母妹である。

つまり聖武大王(しょうむおおきみ)の母親の妹である光明子が、異母姉の子と結婚した事に成る。

諱は安宿媛(あすかべひめ)とされた。

通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)である。

光明皇后(こうみょうこうごう)は、皇族以外から立后する先例を開いた后妃である。


光明皇后(こうみょうこうごう)は、聖武大王(しょうむおおきみ/首皇子/おびとのみこ)の皇太子時代に結婚し、七百十八年(養老二年)、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産する。

七百二十四年(神亀元年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。

七百二十七年(神亀四年)、皇子・基王(もといおう)を生んだ。


七百二十八年(神亀五年)、皇太子に立てられた基王(もといおう)又は基皇子(もといのみこ)が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。

長屋王の変後、七百二十九年(天平元年)に皇后にするとの詔(みことのり)が発せられた。

この詔(みことのり)は、王族以外から立后された初例で、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。


光明皇后は、仏教を篤く信じ、貧しい人に施しをするための施設・悲田院と 医療施設である施薬院を設け、慈善を行った。

聖武天皇の遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。

さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わり、東大寺大仏、国分寺、国分尼寺の造立に深いつながりをもつ。


娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。

七百五十六年(天平勝宝八年)、夫の聖武太上天皇が崩御する。

その二年後に、光明皇后は皇太后号が贈られた。

七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后は崩御し、佐保山東陵に葬られた。



藤原氏が創建した興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。

六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。

壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。

つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。

不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。


興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。

平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。

その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。

寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。


鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。

よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。

安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。


興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。

中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。

結果、平氏が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。

消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。

現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。

なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。

興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。


千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。

江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。

子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。

興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。

一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。

興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。

ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。


興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。

行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。

千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。


興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。

現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。



六百年代(奈良時代)、どうも渡来部族では無いらしい阿倍氏が歴史書に現れる。

左大臣・阿倍倉橋麿と越国守・阿倍比羅夫(あべのひらふ)と言った顔ぶれである。

越国・阿倍氏は、独立した有力部族説があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。

藤原氏の台頭に時を合わせるように力を失って行く古代の有力豪族、大和朝廷黎明期の阿倍氏、阿倍倉橋麿や阿倍比羅夫について、その出自が所謂(いわゆる)土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば色々と説明がつく。

そして越後守(越後国主)は、まさに臣王(おみおう/御門)であり、中央の大和朝廷が任命派遣したのではなく、都市国家もどきの小国群の残滓(ざんし)、既存の越国(えつのくに)の部族王・御門(みかど/臣王)の阿倍比羅夫を「越国守と追認した」と考えるのである。


安倍清明は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。

この阿倍氏と安倍氏は古代の系図上同じとされ、阿倍氏は大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)を祖先とする皇別氏族とされるが確たる証拠は無い。

歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)の大夫(だいふ)であった阿倍大麻呂(あべのおまろ)が初見であるが、大と火の書文字が似ている事から阿倍火麻呂(あべのほまろ)とする説もある。

つまり阿倍氏として始めて中央に登場する阿倍大麻呂(あべのおまろ)なる人物が、この物語で述べる阿倍氏蝦夷王説の「安倍=アピエ(火)説」と別説名・火麻呂(ほまろ)の名の一致点は偶然だろうか?

そして阿倍氏は、まだ大和朝廷(ヤマト王権)の統治が落ち着かない東国支配の強化に朝命を持って活躍し、その子孫が蝦夷俘囚長の奥州安倍氏(引田系阿倍氏)・安倍貞任(あべのさだとう)、安倍宗任(あべのむねとう)兄弟に繋がると言うのだ。

貞任(さだとう)、安倍宗任(むねとう)兄弟の父・安倍頼時(あべのよりとき)は平安中期の陸奥(むつ)の豪族で、千五十年代に前九年の役で源頼義・義家父子と戦っている。

一方、中央に在った阿倍朝臣(あべあそみ)阿倍氏は、大化の改新の新政権で左大臣・阿倍倉梯麿(あべのくらはしまろ・六百八十年代活躍)、遣唐留学生から唐帝国高官・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ・七百五十年代活躍)などを経て、九百年代中期に陰陽師・安倍清明を輩出、以後土御門家として陰陽頭を任ずる貴族となる。

この阿倍氏は、一説に拠ると欠史八代(実在しないとみられている天皇)とされる第八代・孝元天皇の皇子・大彦命の末裔で、大和朝廷(ヤマト王権)では北陸・東国経営に大きく関った為に、「アベの一族」は現在でも東日本に多いとされている。

孝元天皇の皇子・大彦命については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にその名が刻まれた事から「実在する」との説もあるが、何しろ実在を疑われている聖徳太子にしてもその名をかざす寺が建立されるなど、出土品が事実を示すかどうかの検証は難しい。

孝元天皇の末裔説については、「アベの一族」が北陸・東国経営に大きく関ったされる事も、逆説的考えれば古代の独立した部族王が大和朝廷(ヤマト王権)に合流するに際し、皇統のすきまを繕い、有力王族(部族王)の符系を政治的にまとめた疑いが強く感じられる。

いずれにしても安倍氏は、六百年代(奈良時代)に成って突然古代豪族・阿倍氏として登場し、その本拠地とした所が奈良県桜井市に「安倍」や「阿部」と言う地名となって残っている。


阿部氏・安倍氏の蝦夷族長説に付いての裏付けとしては、我輩は我が国古代の装身具である翡翠の勾玉(ひすいのまがたま)に注目した。

玉器に拠る宝飾品は歴代中華帝国にも在ったが、勾玉(まがたま)は無かった。

つまり勾玉(まがたま)は、日本列島に存在した固有の装身具である。

前述の様に、阿部氏・安倍氏が土着の部族王・御門(みかど/臣王)であれば、越後守(越後国主)は正に臣王(おみおう/御門)であり、我が国古代に於いて固有の装身具・翡翠勾玉(ひすいまがたま)の翡翠(ひすい)は、その越後国(新潟)糸魚川が唯一の産出地である。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、日本史では「先史」とされている古事記・日本書紀に於ける記述以前の古代史に於いて日本に於ける装身具の一つであり、「祭祀にも用いられていた」と言われるが、「先史」は大和朝廷(ヤマト王権)に於いて意図的に葬られたので詳細は分からない。

しかし勾玉(まがたま)が、列島固有の装身具として「先史(縄文)時代」から存在した物であれば、三種の神器(みくさのかむだから)の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は何を意味しているのだろうか?

古墳時代前期の古墳から硬玉翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が出土する事が多く、大阪府和泉市黄金塚古墳では、大小の勾玉が三十四個も見つかり、この内には翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が二十六個が含まれている。

そしてこの古墳時代前期が、越後国の蝦夷族部族王・阿部氏・安倍氏が大和朝廷(ヤマト王権)に合流しつつある時期だったのではないだろうか?


日本の神道は氏族の氏神(氏上)であり、渡来部族の支配を確立する為に神格化させ、縄文人(蝦夷族)の土着信仰と融合させた物だ。

そして勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、縄文期から古墳期にかけての「先史」と言われる時代、つまり「古事記・日本書紀」で日本史が天孫降臨伝説に捏造される以前の時代に存在した祭祀的意味合いを持った装身具で、平安期には姿を消した物だった。

当然ながら、勾玉(まがたま)が縄文人(蝦夷族)の土着信仰に関係があるのであれば、渡来部族と縄文人(蝦夷族)が混在した縄文期から古墳期にかけての融合期にのみ集中していた訳である。

つまり土偶(どぐう)や勾玉(まがたま)と言った縄文文化は、「古事記・日本書紀」の天孫降臨伝説とその伝説喧伝工作を担った陰陽修験の活躍にかき消されてしまったのだ。


「まがたま」の言葉(語)の初出は「記紀」にあり、「古事記」には「曲玉(まがたま)」、「日本書紀」には「勾玉(まがたま)」の表記が見られ、語源は「曲っている玉」から来ていると言う説が有力である。

多くは、アルベットの「C」の字形またはカタカナの「コ」の字形に湾曲した玉から尾が出たような形をして居り、丸く膨らんだ一端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。

孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼び、多くは翡翠、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀、鼈甲で作られ、土器製のものもある。

その勾玉(まがたま)の形状は、「元が動物の牙であった」とする説や、母親の胎内にいる「初期の胎児の形を表す」とする説などがあるが列島固有の装身具で、古代の日本列島が文化的な影響を受けたとされる中華大陸側には勾玉(まがたま)に相当するものは無い。

現在では縄文時代極初期の玦状耳飾(けつじょうくびかざ)りが勾玉(まがたま)の原型であると考えられており、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。

この勾玉(まがたま)の装飾文化は朝鮮半島へも伝播し、紀元前六世紀から七世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉(まがたま)が見られる。

縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期には「C」字形の勾玉(まがたま)が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化している。

「先史」とされている縄文時代を通じて勾玉(まがたま)の大きさは、比較的小さかったが、大和朝廷(ヤマト王権)が列島の西側に成立した弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉(まがたま)が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。

三種の神器(みくさのかむだから)の一つに、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が存在する事から、大和朝廷(ヤマト王権)が渡来部族と原住縄文系民族(蝦夷族)との和合に力を入れた結果ではなかったのか?

六世紀初めには、製作される数が少なくなり、その後、奈良時代には寺院の芯礎に納められたり、仏像の装飾に使用されることはあったが、あくまでも古来の伝世品で、新規に製作されたものではない。

謎が多過ぎる氏族とされるこの安倍氏・安倍氏の謎については、日本人単一民族説や大和朝廷(ヤマト王権)の貴族が全て渡来氏族と錯誤していては永久に解決しないのではないだろうか?


七世紀(奈良時代末期)の中頃には、大和朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いで、北陸の越国まで達しており、この頃の阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、大和朝廷の将軍で、越国守を任じ、北陸の越国(えつのくに)の国司をしていた。

つまり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は大和朝廷の勢力範囲の最前線に居て、阿倍氏一族の内、「引田臣」と呼ばれる集団を率いていた。

また一説に拠ると越国(えつのくに)・阿倍氏は、独立した有力部族長説(国主=倭国王の一人)があり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)や阿倍氏一族が、どの時点で大和朝廷に参加(一体化)したのか、現時点では定説はない。

安倍清明は、阿倍倉橋麿から数えて九代目の子孫にあたり、阿倍倉橋麿と阿倍比羅夫(あべのひらふ)は「従弟にあたる」と言う説もある。

この説では阿倍比羅夫(あべのひらふ)は後の「前九年の役」の源氏の敵役、俘囚長と言われた安倍貞任の七代先祖である。

すると、阿倍氏・安倍氏には蝦夷王(えみしおう)の立場と大和朝廷(ヤマト王権)下での臣王(国造/くにのみやっこ)の立場が並立する。

民族的抵抗派を抑えるのは同族の恭順派を使うのが古今の常識だから、或いは早い時期に恭順した蝦夷王(えみしおう)・阿倍氏・安倍氏が、マツラワヌ蝦夷族(えみしぞく)を大和朝廷(ヤマト王権)に恭順させる役目を負って居たのではないだろうか?


阿倍氏が「早い時期に大和朝廷に帰属した蝦夷族長の血筋で有る」と疑うには、源氏の東征で奥州の安倍一族が「浮囚長」と蛮族扱いにされ、討たれている点だけではない。

阿倍比羅夫(あべのひらふ)の活躍の内容に、疑いが感じられるからだ。


日本書紀によれば、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は六百五十八年に水軍百八十隻を率いて日本列島東北部の蝦夷を討ち、さらに「粛慎(ミセハシ)」を平らげた。

粛慎(ミセハシ)は本来満州東部に住むツングース系民族(後の満州族)を指すが、日本書紀がどの様な意味でこの語を使用しているのか不明である。

実は北東アジア大陸の諸族をツングース系民族と言うのだが、ツングース系民族は(後の満州族)地形上ロシア人との交易も盛んで、民族事情を良く知らない第三者にはロシア人をツングース系民族と混同する可能性も在る。

日本書紀の中の粛慎(ミセハシ)の記述が、中国文献中の粛慎(しゅくしん/後の満州族)と同じものであるとは言い切れない。

それにしても、この阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北進攻は六百三十年(奈良時代)頃の白村江(はくすきのえ)の戦いと時期が一致していて、時期としては大いに違和感を感じる。

半島で百済と新羅とが戦火を交え、大和朝廷(ヤマト王権)も百済に援軍を送っている時にしては、よくも大軍を「奥州に派遣できた」と、若干の疑問も残る。

東北蝦夷統一王の安倍氏の歴史を大和朝廷の成果として後世に伝える為に、時代をずらして日本書紀に組み込んだ可能性もある。

または、阿倍比羅夫(越国・えつのくに)はまだまったく別の勢力(部族国家)として独立していて、別行動を取っていたのだが、後に大和朝廷に合流して「朝廷の歴史として後で組み込まれた」と、考え得るのかも知れない。

阿倍比羅夫(越国・えつのくに)が大和朝廷(ヤマト王権)とは別の勢力(部族国家)であれば、後の桓武天皇が命じて行なわれた七百八十年代後半の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)の東北派兵やその後七百九十年代始めの征夷大使・大伴弟麻呂、征夷副使・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の蝦夷征伐が符合する。

また相当時代が下がった千五十年代に起こる奥州(東北)鎮守府将軍・源頼義(みなもとよりよし)と蝦夷(えみし)俘囚長・安倍氏・安倍貞任(あべのさだとう)らとの前九年の役(ぜんくねんのえき)とも出来事に符合して来るのである。


現在の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(いまの秋田市) に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順した。

阿倍比羅夫はこの恩荷に「小乙上(しょうおつじょう)」と言う、六百四十九年(大化五年・奈良時代)施行の「冠位十九階」中十七位の官位を与えている。

しかしこの辺りの日本書紀の記述は、阿倍比羅夫(越国・えつのくに)独立説とは矛盾するが、日本書紀が編纂されたのは比羅夫が活躍した時代から百五十年も後の事で、この「官位を与えた」は辻褄合わせの可能性が高い。

その後、阿倍比羅夫は更に北ヘ行き、ヌシロ(能代) ツガル(津軽)の蝦夷の頭領を郡領(コオリノミヤッコ)に任命している。

そして、有間浜(岩木川の河口?)に渡島(今の北海道?)の蝦夷を集めて懐柔の饗応をしている。

更に、肉入籠(シシリコ)に至って 後方羊蹄(シリベシ)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いた。

同年七月には、二百余人の蝦夷が飛鳥の朝廷に朝貢(ちょうこう)に来ている。

その後、六百六十年(斉明六年)三月には、阿倍比羅夫は二百艘の大船団を引き連れて第二次遠征に出発している。

阿倍比羅夫がある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ・北海道)の蝦夷が千人ほど集まっており、この中から二人の蝦夷が走り出して来て、「ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲って来たので助けて欲しい」と安倍比羅夫に懇願した。

そうこうする内に粛慎(ミセハシ)が比羅夫を攻撃して来たので、両軍は矛を交える事になった。

これには征服をしに来た比羅夫に助けを求めるなど、記述内容に矛盾がある。

だとすると、推測するに比羅夫本人が蝦夷の王だからこそ比羅夫に助けを求めたのではないのか?

比羅夫は戦闘の末、粛慎(ミセハシ)の内四十九名を捕足したが、比羅夫の側にも能登臣・馬身竜が戦死している。

面白い事に、メラニン色素の割合で言っても「秋田美人」に喩えられる秋田の人の白人のような肌の白さは東北の中でも群を抜く結果となっていて、秋田県を中心とする東北の一部に明らかに白人との混血種日本人が多く存在してる事も知られている。

或いはそれらが、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ実は欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。

この粛慎(ミセハシ)と言う部族は少なくともこの地方・奥州や渡島(現・北海道)に住んでいる蝦夷とは違った種族だった。

彼ら捕虜は生きた熊二頭と熊の皮七十枚と一緒に朝廷に戦利品として献上されている。


秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎に関わり、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。

その事を前提にすると、先入観では消化し切れない埋没した歴史がまだ存在するのかも知れない。

実は粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族は白人種ではあるが「ヘブライ(ユダヤ)人の血流が濃い人種で在ったのではないか」と推測される痕跡が、奥州(東北地区)各地に存在する。

その指摘をされたのが岩手県出身の神学者・川守田英二博士で、長期に渡ってサンフランシスコで邦人キリスト教会の牧師をしながら「古代ヘブライ(ユダヤ)語を研究した」と伝えられている。

川守田英二氏が着目したのは青森県下北から南部地方に伝わる民謡「ナニャドヤラ」で、「ナニャドヤラは古代ヘブライ(ユダヤ)語である」と言うのだ。


青森県の新郷村と言う所には、伝・「キリストの墓」がある。

新郷村は古くは「戸来村」と言われていて、ヘブライに漢字を当てると‘戸無来’となり、無は無いから取ると戸来村となる。

新郷村に入ると「ようこそキリスト村へ」と言うアーケードが迎え、案内に沿って山を登ると十字架が二つ立っている。

その十字架はキリストと、キリストの双子の弟の墓だと伝えられている。

案内板には「ゴルゴダで処刑されたのはキリストの双子の弟イスキリの方で、兄は生きてこの地まで逃げ、この地で生涯を全うしたそうだ。

まぁ信仰絡みの伝説には、信者の希望を未来に伝える傾向もある事からキリスト本人が渡来して来たのか、信者が「キリストは我等と伴にあり」と信じての創作なのかは定かではない。

この新郷村の民は、「キリストの墓」の周りに円を描いて「ナニャドヤラ」の盆踊りを歌い踊る。

つまり新郷村にはイスラエルの風習と思われるものが残っており、その代表的なものが「ナニャドラヤ盆踊り」と言われている。

地元の年寄りでも意味は分からないかったが、氏は「ナニャドヤラ」の歌詞を古代ヘブライ語の進軍歌と訳した。

「ナーニャード・ヤラヨウ(御前に聖名をほめ讃えん)、ナーナャード・ナアサアレ・ダハアデ・サーエ(御前に毛人を討伐して)、ナーニャード・ヤラヨ(御前に聖名をほめ讃えん)」と言う意味であると発表したのだ。


川守田英二氏の説に拠ると青森県から岩手県にかけて散在する地名の一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)、そして十和田は、失われた渡来ユダヤ十(十字)支族に関係あるとしている。

「ナニャドヤラ」の歌詞は全部の歌詞が意味不明のまま伝えられており、神学学者・川守田英二博士はその意味をヘブライ語とすれば解読出来るとしている。

つまり、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)、ナニャドナサレノ(お前に毛人を掃討し)、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)と訳せるそうだ。


紀元前六百八十六年頃に流浪の民となって世界に散らばったヘブライ(ユダヤ)人が、「古代にこの地に来た」と言う事は否定できない。

日本列島から遠く離れたヘブライ(ユダヤ)発祥の地(現イスライル)を思えば、この話しはにわかに信じ難いかも知れない。

だが、流浪の民がユーラシア大陸を東方へ伝い彷徨(さまよ)い、渡海して日本列島に渡って来ても不思議は無い。

何故ならその痕跡はこの新郷村に止まらないからで、事実「ナニャドヤラ」の踊りは下北半島でも踊られている。

またねぶた祭りで有名な青森市で、ねぶたを囲んで踊るハネトの掛け声「ラッセラー・ラッセラー・ラッセ・ラッセ・ラッセラー」も又、ヘブライ語なら理解できる。

川守田英二博士の訳では、その掛け声を「動かせ・動かせ・高きへ進め」と訳せると言うのだ。

弘前のねぷたの「ヤーヤードゥ」は「エハボを讃えよ」となり、全国の祭りで山車を引く時「エンヤラヤー」と言う掛け声を発する。

この掛け声もヘブライ語「エァニ・アハレ・ヤー」に訳すと「私はヤハウェを賛美する」となると言う。

また氏は、日本各地に伝わる民謡の囃子言葉のほとんどが同じように「古代ヘブライ(ユダヤ)語ではなかろうか」と言う。

その指摘で、佐渡おけさでは「アーリャ・サ」、ソーラン節の「ヤーレン・ソーラン」、よさこい節の「ヨサー・コイ」などの意味不明とされる囃子言葉を挙げている。

正直、川守田英二博士の説は現在ではまだ異説の範疇にあるが、秋田美人に代表される白人種の痕跡や「ナニャドヤラ」の習慣は現に奥州(各地)に存在する謎である。

となると、日本列島側の倭の国々の中には想わぬ部族の古代国も在った訳で、益々人種の坩堝(るつぼ)だった他部族(他民族)小国家時代が存在した事に成る。

そして粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族がロシア側に近い朝鮮半島から小船を漕ぎ出すと、対馬海流に乗って漂着するのは青森県辺りだそうで、辻褄が合う話なのだ。

青森県十和田湖外輪山の一つである戸来岳(大駒ヶ岳、三ッ岳)に面し、十和田湖の東側に位置し西を秋田県との境に位置する三戸郡の村が新郷村(しんごうむら)である。

新郷村(しんごうむら)にはユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家(旧家沢口家)があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書く風習がある。

このユダヤの紋章(ダビデの星)と伊勢神宮・伊雑宮の御食地の海女が身に着ける魔除けに、セーマンドーマンまたはドーマンセーマンと呼ばれるデザインが酷似している。

この呼び名のはっきりとした謂われは伝わっていないが、陰陽道の占いで使用する星形のマークは安倍晴明の判紋(五芒星)、格子状のマークは九字紋と同じ形状である。

奥州(東北)と切っても切れないのが東北蝦夷(エミシ)の安倍氏(安倍御門)である。

その安倍氏族・安倍晴明が使う判紋(五芒星)がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似しているとなると、これはもう偶然とは言い難い。

九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法に拠ってできる図形)をしていて、意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰って来る」と言う意味でもある。

キリスト信仰には「復活」があり、この陰陽道五芒星がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似してなお意味まで一致している。

となると、紀元前の日本古代史の中に渡来ヘブライ(ユダヤ)人の失われた歴史が在り、日本の古代信仰にその影響を残したのではないだろうか?


阿倍比羅夫の大遠征の三年後、六百六十三年天智二年八月半島白村江(はくすえの)での戦いで、唐・新羅連合軍の水軍(劉仁軌指揮)に日本水軍が敗れ、四百艘が焼かれている。

この白村江(はくすえの)敗戦後、大海人皇子(おおあまのみこ)に拠る「壬申(じんしん)の乱」が起きて天武天皇が即位、六百九十年には藤原京(ふじわらきょう)に、本格的な都城を造営して遷都する。

藤原京(ふじわらきょう)の名称は近代に作られた学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、飛鳥京(あすかきょう)の西北部、現・奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。

つまり藤原京(ふじわらきょう)の京域は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、大王(おおきみ)の御座所(宮)が「藤原宮(ふじわらのみや)」と呼び分けられていた。

新益京(あらましのみやこ)は、七百十年(和銅三年)に平城京(へいじょうきょう)に遷都されるまで持統・文武・元明の三大王(天皇)が居住し、十六年間の間日本の首都で在った。



六百十九年、中華大陸の隋帝国が滅び唐帝国が建った為、派遣していた朝貢使の名称も遣唐使(けんとうし)に代わる。

留意して欲しいのは、日本側ではこの唐代の朝貢使に於ける名乗りは「日本国(ひのもとのくに)」であり、けして「倭国」と言う名称は使ってはいない。

「倭国」は、あくまでも六百十八年の唐の成立から九百七年の滅亡までについて書かれている中華大陸側の中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書「旧唐書」記されている名称である。

中華大陸側の「旧唐書」には「倭国日本伝」、宋代になって編纂された正史書「唐書(新唐書)」に於いては「日本伝」としての記載がある。

日本側の朝貢使派遣の目的は、海外情勢や当時の先進国で在った中華大陸・唐帝国の文化や制度の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされ、六百三十年の第一次朝貢大使・犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)一行の派遣によって始まり、八百九十四年に菅原道真の建議により停止されまで約二百六十年間続いている。

「約二百六十年間続いた」と言っても不定期で、「唐書」の記述が示すように遠国である倭国の朝貢は「毎年でなくて良い」とする措置がとられた。

「旧唐書・倭国日本伝」には「太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。」と記述され、「唐書(新唐書)日本伝」には「帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。」とある。

以来遣唐使(けんとうし)は、「二十年一来(二十年に一度)」の朝貢が八世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で朝貢使の派遣が行われた。

遣唐使船 (けんとうしせん)には大使・ 副使 (ふくし) の他、官僚養成大学が無かったので 留学生 (りゅうがくせい)や 留学僧 (りゅうがくそう)が四艘の船で一艘当たり百人、計四百人ほどが乗り込み渡海 (とかい)に臨んだ。

遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用い横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いもので在った為、遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海だった。

遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたが、朝貢の使いであると言う性格上、唐帝国の元日朝賀に出席するには十二月までに唐の都へ入京する必要が在り、気象条件の悪い六月から七月頃に日本を出航すると言う最悪の条件だった。

勿論国家を挙げての派遣事業であるから経費の面でも情報の迅速化の面でも遅滞は許されず、朝貢後の帰り船も気象条件の良くない冬の季節に帰国せざるを得なかった為、渡海中の水没・遭難が頻発した。

八世紀の遣唐使の内遣唐使船が四隻全ての船が往復出来たは、「たった一回だけ」と言う危険な渡航だったので遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する者もいた。


この遣唐使の歴史に於いて日本史上に大きな足跡を残したのは、多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐大使とする一行に遣唐留学生・吉備真備(きびのまきび)や阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、遣唐留学僧・玄ム(げんぼう)が居た事である。

大使・多治比県守(たじひのあがたもり)には真人(まひと)の姓(かばね)が見られ、天皇・皇子の子孫に当たる「高級官吏級が大使を任じた」と思われる。

右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた吉備真備(きびのまきび)は、七百十六年、二十二歳の時に遣唐使の遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。

その帰朝後、学識を買われて真備(まきび)は登用され、従四位上・右京大夫と言う高級官吏に昇った真備(まきび)は、は聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)や光明皇后(藤原光明子)の寵愛を得て大王(おおきみ/天皇)の娘・阿倍内親王(あべのないしんのう)に東宮学士として「漢書」や「礼記」を教授した。

七百五十一年、五十七歳の時に真備(まきび)は遣唐副使となり翌年には再び入唐し、帰朝後出世を重ねて右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた遣唐使の優等生だった。

真備(まきび)と伴に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は十九歳で遣唐留学生に選ばれた秀才で、日本人でありながら超難関の科挙の試験に合格して登用され、玄宗皇帝に重く用いられた人物である。

吉備真備(きびのまきび)の二度目の入唐の折には、仲麻呂(なかまろ)は「相当の便宜をはかり支援した」とされている。

また遣唐留学僧・玄ム(げんぼう)は、帰朝後当時流行した病に最高実力者・藤原氏一族の主だった四人(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで逝去するに付け入って聖武天皇生母である皇后宮・藤原宮子(藤原不比等の娘)の「病状を回復させた」として「僧正」称号を得る。

玄ム僧正(げんぼうそうじょう)は奈良時代の法相宗の僧で、俗姓は宿祢(すくね)と連(むらじ)の阿刀氏(安斗氏)と伝えられ、安斗阿加布の子、僧・善珠の父とする史書もある。

法相宗の僧義淵に師事し、七百十七年(養老元年)に多治比県守(たじひあがたのかみ)を遣唐大使とする第九次遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ。

玄ム(げんぼう)の在唐は十八年に及び、その間に当時の唐皇帝で在った玄宗に才能を認められ三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けている。

約二十年後の、次に唐に遣って来た七百三十五年(天平七年)の遣唐使に玄ム(げんぼう)は随い、経論五千巻の一切経を携えて吉備真備(きびのまきび)等と伴に帰国する。

帰朝した七百三十六年(天平八年)、玄ム(げんぼう)は封戸(住まい)を与えられ、翌七百三十七年(天平九年)僧正に任じられて内裏に於いて仏像を安置し仏教行事を行う「内道場(建物)」に入る。
内道場に入った玄ム(げんぼう)僧正は、そこで聖武大王(しょうむおおきみ/第四十三代天皇)の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物を受けて出世の糸口を掴んだ。

病気回復の成功に拠り、母思いの聖武大王(しょうむおおきみ)の玄ム僧正への信頼も篤く、玄ムは吉備真備とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の担い手として出世したが、出世欲の野心が強過ぎて人格に対して人々の批判も強かった。

皇后宮・藤原宮子は玄ム(げんぼう)僧正を寵愛し、為に真備(まきび)と玄ム僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。


七百四十年(天平十二年)には、旧勢力の藤原広嗣が新たな実力者である吉備真備と玄ム僧正に不満を持ち二人を排除しようと九州で「藤原広嗣の乱」と呼ばれる兵を起こした。

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代の廷臣で右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子達・藤原四家(ふじわらしけ)藤原四兄弟の三男、藤原式家・藤原宇合(ふじわらのうまかい)と石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女との長男である。

七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって父の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を含む藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡する。

朝廷に於いて圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなったこの年、広嗣(ひろつぐ)は従六位上から従五位下に昇叙し式部少輔に任官、翌年の四月には大養徳(大和)守を兼任する。

しかし時の権力者に橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭し、広嗣(ひろつぐ)の昇進は順当とは行かず遣唐使帰りの吉備真備と僧・玄ム(げんびぼう)が重用をされる。

朝廷内にこうした反藤原氏勢力が台頭した背景の下、広嗣(ひろつぐ)は親族への誹謗を理由に大宰少弐(大宰府の次官)として九州に左遷される。

広嗣(ひろつぐ)は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である吉備真備と僧の玄ムに起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)はこれを謀反と受け取った。

真備と玄ムの起用を進めたのは諸兄(もろえ)であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄(もろえ)その人への批判と捉えられる事は明白で在った。

聖武天皇は、この広嗣(ひろつぐ)の所業に対して広嗣の都召喚の勅(ちょく/命令)を出す。

広嗣は聖武帝の勅(ちょく)に従わず、七百四十年(天平十二年)、弟の綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた一万余を率いて世に「藤原広嗣の乱」と伝えられる反乱を起こした。

しかし広嗣(ひろつぐ)は、武官(武人)として実績を挙げていた大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ同国唐津にて処刑された。

大野東人(おおののあずまびと)は、当時の武官(武人)で、養老七百二十年(養老四年)に発生した東北蝦夷の反乱に征夷将軍として出兵、奥州(東北)統治の拠点として多賀柵(多賀城)を築き、七百二十年(天平元年)には陸奥鎮守将軍に任じられている。

この「藤原広嗣の乱」に拠って多くの藤原式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの後世に於ける藤原式家の不振を招く要因の一つになった。


藤原広嗣の乱は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧されたが、吉備真備と玄ム僧正も朝廷での力を失いつつ在って玄ム(げんぼう)は翌七百四十一年(天平十三年)に千手経千巻を書写供養し失地回復を図る。

しかし藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、玄ム僧正は七百四十五年(天平十七年)筑紫国・観世音寺別当に左遷、封物も没収されて翌年任地で没した。


尚、この遣唐使、八百年代初頭・桓武天皇の御世、八百四年派遣の朝貢使・藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ/藤原北家・正三位中納言)を遣唐大使、橘逸勢(たちばなのはやなり)を遣唐副使とする一行の中には、遣唐留学僧・最澄、同・空海が居た。

遣唐留学僧・最澄(伝教大師)、同・空海(弘法大師)は僅か一年の唐滞在だったが、新しい仏教の教義と多くの書物を日本にもたらせ、その後の日本史に大きな影響を与え続けた。

九百七年(延喜七年)には中華・唐帝国が滅亡し、遣唐使は再開されないままその朝貢使の歴史に幕を下ろしている。



平城京(へいぜいきょう、へいじょうきょう)は、七百十年(和銅三年)に元明大王(げんめいおおきみ/天皇・第四十三代元明朝)の五年(六百七十六年)には始まっていて、完成は遷都後十年経過の七百四年(景雲元年)と言う。

奈良の地にこの都・平城京(へいじょうきょう)を置いた日本の時代を「奈良時代」と呼ぶ。

つまり平城京(へいじょうきょう)は、二十八年の歳月をかけて藤原京(ふじわらきょう)から遷都された奈良時代の通算百四年間の間大和朝廷の都である。

この都、中華帝国・唐の都「長安」や北魏の洛陽城などを「模倣して建造された」とされ、現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた「奈良の都」である。

藤原京から平城京への遷都は七百七年(慶雲四年)に審議が始まり、翌・七百八年(和銅元)には元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代)により遷都の詔(みことのり)に

「都と言うものは百官の府であり四海の人々が集まる所である。平城の地は三方が山に囲まれ南が開け占いにも適っている。」

が出された。

しかし、七百十年(和銅三年)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられ、平城京の寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでに段階的に造営されて行った。

平城京遷都から三十年、七百四十年(天平十二年)には聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)に拠る恭仁京(くにきょう)への遷都によって平城京は一時的に放棄される。

その平城京放棄の原因となったのが藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)で、広嗣(ひろつぐ)は政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが官軍によって鎮圧された。

しかし乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇(しょうむてんのう)は突如「坂東(関東)に下る」と言い出し都を出てしまい、伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った後、難波京へ移りまた平城京へ還ってと遷都を繰り返すようになる。

聖武天皇(しょうむてんのう)に拠って平城京から遷都された恭仁京(くにきょう、くにのみや)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の現在の京都府木津川市に位置する地である。

しかし僅か五年後、七百四十五年(天平十七年)に再び恭仁京(くにきょう)から平城京に遷都され、その後七百八十四年(延暦三年)、長岡京に遷都されるまで七十四年間に渡り都が置かれ政治の中心地で在った。

ちなみに、奈良期に遷都を繰り返した臆病な聖武天皇(しょうむてんのう)は天武天皇(てんむてんのう/第四十代・大海人皇子)の系図で、五代後に現れる日本史上最強の桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は、天智天皇(てんちてんのう/第三十八代・中大兄皇子)の系図である。

何しろ少し遡った時代が、皇統に疑惑が重なった時代だった。

或いは歴史に現れない皇統の継承問題が、聖武天皇(しょうむてんのう)の不安を膨らませたのかも知れない。

山城国に遷都した後、平城京(へいじょうきょう)は南都(なんと)とも呼ばれた。


七百年代(奈良時代)の皇統は、その血流の継続に腐心した時代である。

要因は幾つかあるが、最大の原因は虚弱精子劣性遺伝に拠る男系継嗣に恵まれ難かったからである。

そうした大王(おおきみ)継承の事情の上に、天智大王(中大兄皇子・なかのおおえのおうじ/葛城皇子)の皇統と皇位簒奪疑惑を持つ天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)の皇統が複雑に絡み合う中、最大の実力者藤原氏一族が介入する形で皇位は不安定のまま推移する。

持統大王(じとうおおきみ/女帝)の後を継いで皇位に就いたのは軽(珂瑠)皇子(かるのみこ)で、文武大王(もんむおおきみ/第四十二代・天皇)を名乗る。

軽(珂瑠)皇子(かるのみこ)の母は阿陪皇女(あべのみこ/元明天皇)で、父・草壁皇子は皇太子位のまま亡くなり即位していないが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。

しかし文武大王(もんむおおきみ/天皇)は病弱で、父・草壁皇子(天武大王・おおきみ第二皇子)同様に若くして無くなった。

その文武大王(もんむおおきみ/天皇)の第一皇子として首皇子(おびとのみこ)が生まれた。

首皇子(おびとのみこ)は、草壁皇子(天武大王・おおきみ第二皇子)、母は持統大王(じとうおおきみ/女帝)の長男・文武大王(もんむおおきみ/天皇)の第一皇子にあたる。

首皇子(おびとのみこ)は、父・文武大王(もんむおおきみ/天皇)を七歳で失い、母の藤原宮子(藤原不比等の娘)も心的障害の療養から寂しい成長期を過ごした。

その為、首皇子(おびとのみこ)の祖母に当たる父・文武大王(もんむおおきみ/天皇)の母・元明大王(げんめいおおきみ/女帝・天智大王の第四皇女)が中継ぎの天皇として即位する。

元明大王(げんめいおおきみ)は、首皇子(おびとのみこ)の元服を待ち十三歳で正式に立太子するも太子が病弱で在った事と皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり即位は先延ばしにされる。

そこで平城京遷都から五年後、文武天皇の姉・氷高皇女(ひたかのひめみこ/草壁皇子と元明天皇の皇女)を立て元正大王(げんしょうおおきみ/女帝)とした。

首太子(おびとのたいし)は二十四歳に成って漸く元正大王(げんしょうおおきみ)から皇位を譲られて即位し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を名乗る。


長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)とその一族の悲劇を伝えて置かねばならない。

悲劇は聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の御世に起こった。

即位した聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の政務を支えたのが、天武天皇の第一皇子・高市皇子(たけちのみこ/草壁皇子の異母兄)の継嗣・長屋王(ながやのおおきみ/皇族)だった。

首太子(おびとのたいし)は二十四歳に成って漸く元正大王(げんしょうおおきみ)から皇位を譲られて即位し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を名乗る。

即位した聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の政務を支えたのが、天武大王(てんむおおきみ/天皇)の第一皇子・高市皇子(たけちのみこ/草壁皇子の異母兄)の継嗣・長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)だった。


長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)は平城京(へいじょうきょ)遷都後益々力を着けて来た藤原氏一族との政争に巻き込まれた悲劇の皇族である。

聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の下で政務を司った長屋王(ながやのおう・おおきみ)は、父は天武天皇の第一皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇族として嫡流に非常に近い存在で在った。

しかし平城京遷都後は長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)の義父で右大臣・藤原不比等(ふじわらふひと/藤原鎌足の次男)ら藤原一族が政界の実権を握り、舎人親王(とねりしんのう)や長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)ら皇親勢力がこれに対する形で皇統と藤原一族のせげみ合いが続いていた。

七百十七年(霊亀三年)、左大臣・石上麻呂が死去すると翌年長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)に次ぐ地位を占める。

その三年後に藤原不比等が没すると、不比等の子・藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位に在った藤原房前(ふじわらのふささき)のみで在った為、長屋王(ながやのおう/皇族)は皇親の代表として政界の主導者となる。

藤原不比等(ふじわらふひと)の没後一年、長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)は従二位右大臣に昇任、更に三年後(七百二十四年)には聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正大王(げんしょうおおきみ/女帝)も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていた。

面白くないのは長屋王(ながやのおう)に政権を奪われた形の藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)である。


そして事件・「長屋王の変」は起こった。

七百二十九年(神亀六年)、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣・宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それを受けて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)はその妃・吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺させ服毒し自害した。

長屋王の変は、「讒言に拠る冤罪だった」とする説が有力である。

聖武天皇は病弱で、事件当時は非藤原氏系の安積親王しか男子が居ず天皇と安積親王に何かが在った場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ長屋王の息子達(膳夫王ら三王)が男系皇族での皇位継承の最有力者となる事から、排除に動いたとする説である。

この当時、藤原氏は自家出身の光明(こうみょう)子の立后を願っていた。

しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であった事から、長屋王(ながやのおおきみ/皇族)は光明子の立后に反対していた。

ところが、七百二十九年(天平元年)に長屋王の変が起きて長屋王は自害し、反対勢力が排除されて光明(こうみょう)子は非皇族として初めて立后された。

長屋王の変は長屋王を取り除き光明(こうみょう)子を皇后にする為に不比等の息子で光明(こうみょう)子の兄弟である「藤原四兄弟が仕組んだもの」と言われている。


藤原不比等の死後に不比等(ふひと)の娘で聖武天皇の生母・藤原宮子の称号を巡って長屋王(ながやのおう・おおきみ/皇族)と藤原四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になって来る。

その藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

藤原氏にとっては「目出度し目出度し。」となる所だったが、「長屋王の変」から八年後の七三七年(天平九年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡する。

この惨事に、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えるが、三年後の七百四十年(天平十二年)には九州の地で藤原広嗣の乱が起こっている。

この他にも天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発し、怯えた聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)は平城京から居住地(宮廷所在地)を転々と代えた挙句に独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執って娘の皇女・阿倍内親王(あべないしんのう/孝謙天皇)を即位させている。

尚、この七百年代、藤原四兄弟の隆盛期に夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成って、鎌倉期以後に活躍する芽が育って行った物語は、次の二巻あたりから追々御紹介する。



七世紀後半(奈良時代末期)に、朝鮮半島では「新羅(シルラ)」が統一を果たし、新王朝が成立して、大和朝廷と半島の絆は途切れ始めている。

大和の神々(王族達)はその故郷を失ったのである。

坂上田村麻呂の祖・阿智王は、後漢から一族を率いて日本列島に渡来した。

従って、坂上(さかのうえ)一族はこの阿智王の子孫である。

阿智王の出自は、前漢の高祖に遡る。

応神天皇二十六年の御代、一族百人を率いて大和に渡って来た。

勅命により、大和国檜前の地に居を構える事になる。

つまり、少し遅れて列島に来た進入部族王のひとりだった。

その十三代子孫が大納言坂上田村麻呂であり、二十八代前は後漢の光武帝、十九代前は考霊帝にあたる。

父の坂上刈田丸が、七百七十年(宝亀元年)、陸奥鎮守将軍となって陸奥の多賀城に赴任、大納言・勳二等を贈られた。

七百八十年(宝亀十一年)、田村麻呂は右近府の将監に任じられるが、四年後父の刈田麻呂は死亡している。



聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の御世、吉備真備(きびのまきび)と言う学者官僚が登場する。

右大臣にまで昇った吉備真備(きびのまきび)は、地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真(すがわらみちざね)のみである。

真備(まきび)は、吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族として備中国・下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)に下道氏を名乗る右衛士少尉(うえじふしょうい)・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)の子として生まれ下道真備(しもつみちのまきび)を名乗る。

七百十六年、下道真備(しもつみちのまきび)は二十二歳の時に遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。

唐では儒学の他、天文学や音楽、兵学などを学び、下道真備(しもつみちのまきび)の在唐は十八年に及び、約二十年後の次に遣って来た七三五年(天平七年)の遣唐使に随い帰国する。

帰路で下道真備(しもつみちのまきび)は種子島に漂着するが、七百三十五年(天平七年)の帰朝時に多くの典籍を携えて帰国した。

帰朝後、真備(まきび)は聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)や光明皇后(藤原光明子)の寵愛を得て七百三十七年(天平九年)に従五位に列せられ、翌七百三十八年(天平十年)に橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧・玄ム(げんぼう)とともに重用され、真備(まきび)は右衛士督(うえじとく)の役職を兼ねた。

七百四十年には、真備(まきび)と玄ム僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。

下道真備(しもつみちのまきび)は、七百四十一年に東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙大王・称徳大王)に「漢書」や「礼記」を教授した。

真備(まきび)が、初入唐した翌年の七百十八年(養老二年)に誕生した阿倍内親王(後の孝謙大王・称徳大王)とは二十一歳の年齢差があり、この阿倍内親王への教授の時既に下道真備(しもつみちのまきび)は四十七歳に成っていた。

その二年後の七百四十三年(天平十五年)には、真備(まきび)は従四位下・春宮大夫兼皇太子学士、七百四十六年(天平十八年)には吉備朝臣(きびのあそみ)の姓を賜り、翌七百四十七年に右京大夫に転じて、吉備真備(きびのまきび)は七百四十九年(天平勝宝元年)には従四位上に昇った時には五十五歳になっていた。


聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)と光明皇后(藤原光明)の間には終(つい)に男子が育たず、娘・阿倍内親王(あべのないしんのう)を立太子させ、内親王は史上初の女性皇太子となる。

阿倍内親王(あべのないしんのう)は、七百四十九年(天平勝宝元年)に父・聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)の譲位により天武系からの最後の大王(おおきみ)となる孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)として即位した。

しかし母・皇太后の光明(藤原光明子)の為に紫微中台を新設され、長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大する。


藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/後に恵美押勝・えみのおしかつ/に改名)は、奈良時代の公卿で藤原不比等の孫にあたり、不比等の長男で藤原四兄弟の一人・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が父である。

七百三十七年(天平九年)、天然痘の流行により父の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を含む藤原四兄弟が相次いで死去した為に藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭して国政を担うようになった。

橘が姓として正式に登場するのは、県犬養宿禰(あがたのいぬかいのすくね)三千代が元明大王(てんむおおきみ/第四十三代天皇)即位の大嘗祭(だいじょうさい/おおにえのまつり)後の祝宴で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)から橘姓を賜った

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)と称し、敏達大王(びたつおおきみ/天皇)の後裔で大宰帥・美努王(みぬのおう/皇族)の子であった。

その葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)が、弟の佐為王(さいのおう)と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰(たちばなのすくね・宿禰は八色の姓で制定された姓(かばね)の一つ)を継ぐ事を願い許可され、それ以後は臣籍降下(しんせきこうか)をして橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗る。


橘宿禰(たちばなのすくね)の由来は、古代氏族・犬養氏の一つ県犬養(宿禰)東人(あがたのいぬかいの(すくね)あずまびと)の娘・県犬養宿禰三千代が元明大王(めいげんおおきみ/奈良朝初代・第四十三代天皇)即位の大嘗祭(だいじょうさい/おおにえのまつり)後の祝宴で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)から「橘を氏とせよ。」と橘姓を賜る。

その橘三千代は奈良朝に於いて最も注目すべき女性で、長じて敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の曾孫・美努王(みぬおう/みぬおおきみ)に嫁ぎ、葛城王(かつらぎのおう・橘諸兄/たちばなのもろえ)と牟漏女王を産み、その後藤原不比等と結婚して光明皇后を産む。

橘三千代が嫁いだ美努王(みぬおう/みぬおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の第一子・難波皇子の子・栗隅王(くりくまのおう/くりくまのおおきみ)の子で皇族である。

美努王(みぬおう/みぬおおきみ)と橘三千代の間に出来た葛城王(かつらぎのおう)は参議まで上り、当時皇族が臣席に下るには眞人姓を賜るのが常であったが、母三千代の死後三年、橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜り、橘諸兄(たちばなのもろえ)を名乗る。


帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子を称して次の帝となる事に備えるが、そこから外れた者は帝の代が代われば王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かないから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。

王族(皇族)としての賜姓(しせい/たまわりせい)で有名なのは葛城王(かつらぎおう)、賜姓降下(しせいこうか)で有名なのは桓武帝・高望王(たかもちおう)流れの「平氏流」、歴代天皇が皇子に賜姓(しせい)した「源氏流」がある。

源氏流に関しては、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏などがある。

中でも嵯峨源氏流には、現代に於いて人口百十五万を数え五位にランクインする渡辺氏(わたなべうじ)の摂津・渡辺綱(わたなべのつな/源頼光四天王)、肥前・松浦氏(まつらうじ)、筑後・蒲池氏(かまちうじ)、常陸・源護(みなもとのまもる/将門の乱鎮圧)などの有名どころを排出している。

武門として名を成した清和源氏流は、初代・経基(つねもと)流を始めとして清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏など清和源氏だけで二十一流がある。


その清和源氏よりも格が高いのが村上源氏・師房(もろふさ)流で、村上帝・第七皇子の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)に発し、鎌倉期の源通親(みなもとのみちちか/土御門通親)や南北朝期の北畠親房(きたばたけちかふさ)、幕末の幕末の討幕派公家・岩倉具視(いわくらともみ)も村上源氏の支流である。

尚、播磨国赤松を名字の地とする赤松氏もまた村上源氏季房流と自称し、名和長年も村上源氏雅兼流と自称している。

更に村上源氏と自称する赤松満則流を、奥三河の作手城主(奥平氏)の奥平貞能・奥平信昌父子も称している。

瀬戸内海で活動した村上水軍は、河内源氏の庶流・信濃村上氏を起源とする説、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国説、そして村上源氏説がある。


初代橘長者(たちばなのちょうじゃ)と成った橘諸兄(たちばなのもろえ)に権力を握る出来事が起こった。

七百三十七年(天平九年)疫病の流行によって藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位左大弁の諸兄(もろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。

そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。

翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)を補佐する事になる。

その頃、旧勢力である藤原氏の一人藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、諸兄(もろえ)が登用した吉備真備(きびのまきび)や玄ム僧正(げんぼうそうじょう)の罷免を名目に九州大宰府で反乱を起こしている。

これを諸兄(もろえ)は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧させ、この時は実力者の地位を保っている。

しかし聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が阿倍内親王に譲位して孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の時代に入ると、光明皇后の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。

三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。

七百四十九年(天平勝宝元年)聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)が譲位して阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。

次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。

お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。

諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。

つまりこの政権抗争は大きな武力行使には到らず、「乱」と言うよりは変事であるが、政治が混乱した点で「橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱」と呼ばれたのかも知れない。


聖武上皇(太上天皇)が崩御しこの頃、遺言により天武大王(てんむおおきみ)の孫・道祖王(ふなどおう)が立太子されたが、道祖王(ふなどおう)は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子される。

道祖王(ふなどおう)に代わって、藤原仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王(おおいおう・後の淳仁天皇/じゅんにんてんのう)が立太子され、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。

橘諸兄(たちばなのもろえ)の死後、同年に息子・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄(たちばなのもろえ)の子・奈良麻呂(ならまろ)であった。

奈良麻呂(ならまろ)は、大伴古麻呂(おおとものこまろ)らとともに藤原仲麻呂を殺害し長屋王(ながやおう)の子・黄文王(きぶみおう)らを擁立する反乱を企てるが、上道斐太都(かみつみちのひたつ)らの密告により露見する。

奈良麻呂の一味は捕らえられ、奈良麻呂(ならまろ)、道祖王(ふなどおう)、大伴古麻呂(おおとものこまろ)らは拷問で獄死、また事件に関与したとして藤原仲麻呂の兄・右大臣・藤原豊成も左遷されるなど四百四十三人が処罰される大事件となった。

藤原仲麻呂に反抗した橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は討たれ、また天武大王(てんむおおきみ/天皇)の孫である何人かの王(おう・おおきみ/皇族)が皇位を狙って挙兵したが、いずれも失敗に終わっている。


孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)は、阿倍内親王(あべのないしんのう)時代に立太子した為に結婚はできず、子もなかった。

七百五十八年(天平宝字二年)に、第三十六代・孝謙大王(こうけんおおきみ/天皇・女帝)は在位九年間で退位し、藤原仲麻呂が後見する大炊王(おおいのおう・おおいのおうきみ/皇族)が即位して淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第三十七代天皇)となる。

上皇になった孝謙上皇は、代替わりの改元(代始改元)を拒み舎人親王(淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するが、最終的には光明皇太后の強い要請により実現するなど淳仁淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)との軋轢を繰り返した。

淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)の後見として権力を握った藤原仲麻呂は、中華帝国・唐の制度様式を真似た制度を導入し、半島の国・新羅の討伐を目論むなど横暴な権力を行使する。

その後の吉備真備(きびのまきび)であるが、教え子の阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/女帝)として即位後の七百五十年には、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が専権し、孝謙大王(こうけんおおきみ/女帝)派の真備(まきび)は、筑前守、肥前守に左遷される。

だが七百五十一年、五十七歳の時に遣唐副使となり翌年には再び入唐し、その唐の地で留学中の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ/唐で科挙に合格・唐朝諸官を歴任して高官に登った)と再会する。

再入唐から一年後の七百五十三年には、吉備真備(きびのまきび)は帰路で屋久島に漂着するが、鑑真(がんじん/鑑真和上)を伴って無事に帰国している。


阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、朝臣(あそみ)・阿部臣とする中務大輔・阿倍船守の子である。

既に前述しているが、阿倍氏は、孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)を祖先とする皇別氏族とされるが確たる証拠は無く、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)の大夫(だいふ)であった阿倍大麻呂(おまろ)が初見で、阿倍火麻呂(あべのほまろ)とする説もある。

つまり阿倍氏として始めて中央に登場する阿倍大麻呂(あべのおまろ)なる人物が、この物語で述べる阿倍氏蝦夷王説の「安倍=アピエ(火)説」と別説名・火麻呂(ほまろ)の名の一致点はぐうぜんだろうか?

そして阿倍氏は、まだ大和朝廷(ヤマト王権)の統治が落ち着かない東国支配の強化に朝命を持って活躍している。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、若くして学才を謳われ七百十七年(霊亀二年)多治比県守(たじひのあがたもり)が率いる第九次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。

同期遣唐使一行には留学生・下道真備(吉備真備/きびのまきび)や留学僧・玄ム(げんぼう)がいた。

仲麻呂(なかまろ)は唐の太学で学び、唐現地の学生でも中々合格しない科挙に合格し唐の皇帝・玄宗に仕え、七百二十五年の洛陽司経局校書として任官したのを皮切りに、七百二十八年に左拾遺、七百三十一年に左補闕と官位を重ねている。

仲麻呂(なかまろ)は唐の朝廷に於いて主に文学畑の役職を務めた事から、彼に関する唐詩人の作品が現存し、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたと推測されている。

七百三十三年(天平五年)に平群広成(へぐりのひろなり/多治比県守の弟)が率いる第十次遣唐使が来唐し、下道真備(吉備真備/きびのまきび)や留学僧・玄ム(げんぼう)は翌年帰国の途に着くが、仲麻呂(なかまろ)はさらに唐での官途を追求する為に帰国しなかった。

帰国の途に就いた第十次遣唐使の帰路一行はかろうじて第一船のみが種子島に漂着、真備と玄ムは幸運にも第一船に乗船していて帰国を果たしている。

残りの三艘は難破し、内、副使・中臣名代(なかとみのなしろ)が乗船していた第二船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った為、名代一行を何とか帰国の航行に就かせる。

所が、その帰国船が今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、唐帝国に脱出して来た遣唐使判官・平群広成一行四人が長安に戻って来た。

遣唐使判官・平群広成らは、唐帝国の高官に成っていた仲麻呂(なかまろ)の奔走が実り、漸く渤海経由で日本に帰国する事ができた。

七百三十四年に儀王友、七百五十二年に衛尉少卿に仲麻呂が昇進した年、藤原清河(ふじわらのきよかわ)率いる第十二次遣唐使一行が来唐し、既に在唐三十五年を経過していた仲麻呂は帰国を図り、翌七百五十三年の第十二次遣唐使帰路に秘書監・衛尉卿を授けられた上で乗り込む。

所が、仲麻呂や清河(きよかわ)の乗船した第一船は暴風雨に遭って南方へ流され、船は以前に平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートを辿り、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。

結局、仲麻呂一行は二年後の七百五十五年に長安に帰着するが、清河(きよかわ)の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は安禄山の乱を理由に行路が危険であるとして清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、七百六十年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。

仲麻呂(なかまろ)は六年間もハノイの安南都護府に在任し、帰任するに当たって安南節度使を授けられ、日本への帰国は叶えられる事なく最後は潞州大都督(従二品)を贈られ、七百七十年に七十三歳の生涯を閉じいる。


七百五十四年(天平勝宝六年)に、真備(まきび)は大宰少弐に昇任、七百五十六年に新羅(しらぎ/シルラ)に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、七百五十八年に大宰府で唐帝国での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌七百五十九年(天平宝字三年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。

その後、七百六十四年(天平宝字八年)に吉備真備(きびのまきび)は造東大寺長官に任ぜられ東大寺造営に取り掛かるが、大宰府拠り帰京した時には七十歳になっていた。

孝謙上皇と淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)との軋轢が続く中、七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后が死去した為、孝謙上皇の権力が再浮上する。

七百六十二年(天平宝字五年)孝謙上皇は病に伏せ、近江保良宮で看病に当たった弓削氏の僧・道鏡(どうきょう)は上皇の病を癒して寵を受け、孝謙上皇は道鏡(どうきょう)を寵愛するようになり、それを批判した淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)と対立する。

弓削氏(ゆげうじ)は、古代の日本で弓を製作する弓削部(ゆげべ)を統率した氏族で、武器を扱う事を職掌とする物部氏(もののべうじ)と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。

但し弓削氏(ゆげうじ)には、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統があり、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の弓削氏(ゆげうじ)は、物部尾輿(もののべおこし)の子・物部守屋(もののべのもりや)の母姓「弓削」に因み後裔は弓削を称して河内国若江郡弓削郷を本貫とする。

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若年の頃、法相宗の高僧義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り「密教の宿曜秘法を習得した」とも言われる。


大王(おおきみ/天皇)や上皇(太上天皇)と実力者の重臣の間は、互いに必要とする時だけ成り立つ危うい関係である。

この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、出家して尼になる。

孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。

孝謙上皇(こうけんじょうこう)・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)組と淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)組との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は七百六十四年(天平宝字八年)に都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、更成る軍事力の掌握を企てる。

だが、藤原仲麻呂謀反との密告もあり淳仁大王(/天皇)の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、打つ手を失った仲麻呂(なかまろ)は平城京を脱出する。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、子・藤原辛加知(ふじわらのしかち)が国司を勤める越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗し敗走する。

敗走した仲麻呂(なかまろ)は、近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北、敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟を出して逃れようとするが官兵・石村石楯(いわむらのいわたて)に捕らえられて斬首された。


この年、藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こした際には、吉備真備(きびのまきび)は従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ、翌七百六十五年には勲二等を授けられた。


後ろ盾の光明皇太后を失い、淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)の権限を狭められた藤原仲麻呂は軍事力により孝謙上皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対抗しようと挙兵(藤原仲麻呂の乱)を企てるも敗れたのを期に孝謙上皇は淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)を追放する。

この孝謙上皇の、強気の振る舞いの裏で後押しをしていたのが野望を抱いた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)で在った事は想像に難くない。


孝謙上皇は重祚(ちょうそ/再即位)し、称徳天皇(しょうとくてんのう・第三十八代女帝)となって再即位し、即位後は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を太政大臣禅師とするなど重用し、天皇位の譲位を目論む「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)御神託事件」を起こす。

大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡神社の託宣を報じる。

この御神託事件は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が共謀して「でっち上げた」と見られ和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅使として宇佐八幡に送られたが、「この託宣は虚偽である」と御神託が下り復命された。

これに怒った太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は和気清麻呂(わけのきよまろ)を因幡員外介(いなばのいんがいのげ)として左遷し、さらに称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は清麻呂(きよまろ)を除名し大隅国(鹿児島県)へ配流する。

しかしこの宇佐八幡神社御神託事件の翌年、称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は病につき僅か百日余りで崩御する。

女帝の為に生涯独身を通した称徳天皇(しょうとくてんのう)に子は無く、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かった為、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位し、太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は失脚して下野国に配流された。

女帝に成る定めを負って生まれた称徳天皇(しょうとくてんのう)は、孤独の中で権力闘争の生涯を送り、只一度の心許す男が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だったのかも知れない。

この称徳天皇(しょうとくてんのう)以降は、江戸時代の明正天皇(めいしょうてんのう・女帝)に至るまで、実に八百五十余年間女帝が立てられる事はなかった。


和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身で、当初の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)を名乗る。

のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。

清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。


七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。

宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、天皇が寵愛を与えていた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳大王(しょうとくおおきみ/第四十八代)へ奏上する。

道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。

称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。

だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。

清麻呂(きよまろ)は称徳大王(しょうとくおおきみ/天皇)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。

その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。

すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。

清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳大王(しょうとくおおきみ)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。

その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。


七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳大王(しょうとくおおきみ)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁大王(こうにんおおきみ/第四十九代)により従五位下に復位した。

その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。

この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。

その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。

清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。

もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳大王(しょうとくおおきみ)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。


吉備真備(きびのまきび)は、淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)を追放した称徳大王(しょうとくおおきみ/女帝)の引きで中央に返り咲く。

七百六十六年(天平神護二年)、称徳大王(しょうとくおおきみ/孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の下で真備(まきび)は中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手(ふじわらの ながて・藤原房前の次男)とともに政治を執った。

七百七十年(宝亀元年)、称徳大王(しょうとくおおきみ/女帝)が崩じた際には女官・吉備由利(真備とは兄妹)を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(光仁大王/天皇)の立太子を実現した。

光仁大王(こうにんおおきみ/天皇)の即位後、吉備真備(きびのまきび)は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁大王(こうにんおおきみ/天皇)は兼職の中衛大将のみの解任を許し右大臣の職は慰留した。

七百七十一年に、真備(まきび)は再び辞職を願い出て許されたが以後の生活については何も伝わっておらず、七百七十五年(宝亀六年)に八十一歳の長寿を全うした。



東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

東大寺(とうだいじ)は、金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(八世紀頃)に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が国力を尽くして建立した寺である。

「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当/住職)は僧正・良弁(ろうべん)である。


創建当初の奈良時代には、東大寺(とうだいじ)は中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。

創建当初からの大仏で、現存するのは台座(蓮華座)などの一部に創建当初の部分を残すのみである。

現在の大仏殿は江戸時代・元禄期の十八世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が三分の二に縮小されている。

「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の六十余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。


東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身の寺院が建てられていた。

七百三十三年(天平五年)若草山麓に創建された金鐘寺(こんしょうじ)または金鍾寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。

正史「続日本紀」によれば、七百二十八年(神亀五年)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、九人の僧を住まわせた事が知られ、これが金鐘寺(こんしょうじ)の前身と見られる。

記録によれば、八世紀半ばの金鐘寺(こんしょうじ)には、羂索堂、千手堂が存在した事がから知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。


七百四十一年(天平十三年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌七百四十二年(天平十四年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは七百四十七年(天平十九年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられる様になったと思われる。

また、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは七百四十八年(天平二十年)が最初である。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の七百四十三年(天平十五年)である。

当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は短期間に遷都を繰り返したが、二年後の七百四十五年(天平十七年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われる事になった。

この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であった為、朝廷から弾圧されていた大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、協力を得た。


難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは七百五十二年(天平勝宝四年)の事であった。

大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは七百五十八年(天平宝字二年)の事である。

東大寺では大仏創建に力のあった華厳宗僧・良弁(ろうべん)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。


大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させたという、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の思惑とは程遠い事実を突き付ける。

貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。


七百五十六年(天平勝宝八年五月二日)、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)に攘位して太上天皇(上皇)になっていた聖武太上天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が崩御する。

この崩御の年の七月に起こったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)の乱である。

七月四日に逮捕された橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)は、藤原永手(ふじわらのながて)の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。

ここで永手(ながて)は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父・橘諸兄(たちばなのもろえ)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論した為、奈良麻呂(ならはしまろ)は返答に詰まったという。


奈良時代の東大寺(とうだいじ)の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並ぶ。

講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)がある。

南大門と中門の間の左右には高さ約七十メートル以上と推定される東西二基の七重塔が回廊に囲まれて建っていた。

東大寺(とうだいじ)は、七百四十五年(天平十七年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには四十年近い時間を要している。


奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後の事である。

その為、寺院では複数の宗派を兼学する事が普通であった。

東大寺(とうだいじ)の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。


平安時代には空海(くうかい/弘法大師)によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄(さいちょう/伝教大師)が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。


平安時代に入ると、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受ける。

東大寺(とうだいじ)は講堂と三面僧房が失火で、七重塔・西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こる。

そうした背景から、東大寺(とうだいじ)は多数の僧兵を抱え、隣接する興福寺(こうふくじ)などと度々強訴を行っている。

興福寺(こうふくじ)は、六百六十九年創建の法相宗大本山で、藤原氏の祖・ 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とその子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)ゆかりの氏寺である。


東大寺(とうだいじ)は、近隣の興福寺(こうふくじ)と共に千百八十一年一月十五日(治承四年十二月二十八日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職(浄財の寄付を集める)に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時六十一歳の僧・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であった。

平安末期、重源(ちょうげん)の精力的な活動により、千百八十五年(文治元年)には後白河法皇(ごしらかわほうおう/第七十七代天皇)らの列席の下、大仏開眼法要が、そして千百九十年(建久元年)には上棟式が行われた。

千百九十五年(建久六年)には再建大仏殿が完成、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代初期の千五百六十七年十一月十日(永禄十年十月十日)、三好・松永の東大寺(とうだいじ)大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺(とうだいじ)の主要堂塔はまたも焼失した。


千五百七十三年(天正元年九月)東大寺(とうだいじ)を戦乱に巻き込む事と乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。

大仏殿の仮堂が建てられたが、千六百十九年(慶長十五年)の暴風で倒壊し、大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は千六百九十一年(元禄四年)に完成する。

大仏殿の再建は、全国行脚の勧進で修理代を集めた僧・公慶(こうけい)の尽力や、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)や母の桂昌院(けいしょういん)を初め多くの人々による寄進が行われた結果千七百九年(宝永六年)に完成した。

この三代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の十一間からおよそ三分の二の七間に縮小されている。

講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建される事はなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。


千九百九十八年、東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)は古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された。



行基(ぎょうき/ぎょうぎ)は奈良時代の日本の僧で、六百六十八年河内国大鳥郡、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)の生年については六百六十八年説と、異説の六百七十七年説が在る。

六百八十二年(天武天皇十一年)に十五歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗(ほっそうしゅう)などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。


僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、行基(ぎょうき)は禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。

また、行基(ぎょうき)は道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者の為の布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。

朝廷が僧侶を国家機関と朝廷が定めたのは、仏教を統治に利用する目的が在ったからである。

行基(ぎょうき)は、民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われた事、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされた事から、七百十七年(養老元年四月二十三日)詔(みことのり)をもって糾弾されて弾圧を受ける。

だが、行基(ぎょうき)の指導により墾田開発や社会事業が進展した事、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかった事、行基(ぎょうき)の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断した。

この事から、七百三十一年(天平三年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基(ぎょうき)の技術力や農民動員の力量を利用した。


行基(ぎょうき)は朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。

その後、行基(ぎょうき)は日本で最初の最高位・大僧正として聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘(しょうへい/礼を尽くして招く)された。

この大仏造立の功績により、行基(ぎょうき)は東大寺の「四聖(ししょう)」の一人に数えられている。

東大寺の「四聖(ししょう)」とは、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、華厳宗僧・良弁(ろうべん)、を指す。


七百四年(大宝四年)に、行基(ぎょうき)は生家を家原寺(えばらじ)としてそこに居住した。

行基(ぎょうき)の師とされる道昭(どうしょう)は、入唐して玄奘(げんじょう/三蔵法師)の教えを受けた事で有名である。


七百三十六年(天平八年)に、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)がチャンパ王国(ベトナム)出身の僧・仏哲、唐の僧・道セン(どうせん)とともに来日した。

彼らは九州の大宰府に赴き、行基(ぎょうき)に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。

七百三十八年(天平十年)に、日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されて朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。


民衆の為に活躍していた行基(ぎょうき)は七百四十年(天平十二年)から大仏建立に協力する。

この為、民衆の為活動した行基(ぎょうき)が「朝廷側の僧侶になった」とする説・「行基転向論」がある。

だが、一般的には権力側が行基(ぎょうき)の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基(ぎょうき)が権力者の側についたのではないと考えられている。

七百四十一年(天平十三年)三月に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が恭仁京(くにきょう)郊外の泉橋院で行基(ぎょうき)と会見し、七百四十三年(天平十五年)東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。

勧進の効果は大きく、続日本紀に依ると七百四十五年(天平十七年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。

行基(ぎょうき)の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代に於いて具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。

その為、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。


行基(ぎょうき)は日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基(ぎょうき)が開基したとされる寺院なども多く存在する。

三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。

行基(ぎょうき)はまた、朝廷より菩薩の諡号(しごう)を授けられ「行基菩薩」と言われる。

その時代から行基(ぎょうき)は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

なお、行基(ぎょうき)が迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は七百五十二年、聖武太上天皇(七比約四十九年に退位し上皇・太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。


この他、行基(ぎょうき)は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。

大仏造営中の七百四十九年(天平二十一年)、行基(ぎょうき)は喜光寺(菅原寺)で八十一歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。

また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基(ぎょうき)の弟子が彼の輿(こし)をかついで運搬した事から、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山(こしやま)とも呼ばれている。



鑑真(がんじん)は六百八十八年、唐の国(中国)・揚州江陽県に生まれ、奈良時代の日本に渡来して帰化した僧である。

鑑真(がんじん)は七百一年、十四歳で中国仏教の僧・智満について得度し大雲寺に住む後、十八歳で僧・道岸から菩薩戒を受け、二十歳で長安に入る。

七百七年、鑑真(がんじん)は中国仏教の僧・弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学ぶ。

律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派である。

鑑真(がんじん)は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒を行ったとされている。


一方日本では、六百年〜七百四十年当時、奈良一帯には無資格で勝手に僧を宣言する私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。

その為、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させよう聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は適当な僧侶を捜していた。

本来仏教では、新たに僧尼となる者は戒律を遵守する事を誓う儀式を必要とする。

戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。

戒を誓う為に、十人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。


日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。

しかし、奈良・平城京(へいじょうきょう)時代に入ると自誓授戒を蔑(ないがし)ろにする者たちが徐々に幅を利かる。

この無秩序を制する為に、十人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の意向を受け授戒の制度化の為に唐(中国)へ向かう使者として、興福寺の僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう) の二人が選ばれる。

二人は、貴族・右大臣・多治比嶋(たじひのしま)の五男・多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする遣唐使に加わって渡海する。

僧・栄叡(ようえい)と普照普照(ふしょう)は、授戒できる僧十人を招請する為に中国へ渡海し、戒律の僧として高名だった鑑真(がんじん)の下を訪れた。


この先の名僧・鑑真(がんじん)渡日への経緯記述は、「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」及び「続日本紀」を根拠とする。

名僧・鑑真(がんじん)が中国(唐)揚州の大明寺の住職であった七百四十二年、日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らから戒律を日本へ伝えるよう懇請される。

僧・栄叡と普照の要請を受けた鑑真(がんじん)は、「渡日したい者はいないか」と弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。

そこで鑑真(がんじん)自ら渡日する事を決意し、それを聞いた弟子二十一人も随行する事となった。

つまり鑑真(がんじん)が、弟子の僧を十人以上引き連れて来日すれば、授戒の制度化の要件を満たす事に成る。

その後、自ら渡日を決意した鑑真(がんじん)は、日本への渡海を五回にわたり試みたがことごとく失敗する。


最初の渡海企図は、七百四十三年夏の事である。

この時は、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をした為、日本僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らは追放された。

鑑真(がんじん)は港へ留め置かれ、大明寺に帰った。


二回目の試みは七百四十四年一月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚(よよう)へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真(がんじん)の渡日を惜しむ者の密告により僧・栄叡(ようえい)が逮捕・投獄をされ、三回目も失敗に終わる。


その後、栄叡(ようえい)は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真(がんじん)一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。

しかし、この時も鑑真弟子・霊佑(れいゆう)が鑑真(がんじん)の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。

その為、官吏に出航を差し止めされ、四回目の渡日も失敗する。


七百四十八年、日本僧・栄叡(ようえい)が再び大明寺の鑑真(がんじん)を訪れた。

栄叡(ようえい)が懇願すると、鑑真(がんじん)は五回目の渡日を決意する。

鑑真(がんじん)は七百四十八年六月に出航し、舟山諸島(東シナ海海上に浮かぶ群島)で数ヶ月風待ちした後、十一月に日本へ向かい出航した。

たが、鑑真(がんじん)一行は激しい暴風に遭い、十四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着する。

鑑真(がんじん)は当地・海南島の大雲寺に一年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。

そのため海南島には、現代でも鑑真(がんじん)を顕彰する遺跡が残されている。


七百五十一年、鑑真(がんじん)は揚州に戻るため海南島を離れるも、その途上に、端州の地で日本僧・栄叡(ようえい)が死去する。

動揺した鑑真(がんじん)は広州から天竺(てんじく/インド)へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。

この揚州までの帰上の間、鑑真(がんじん)は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。


七百五十三年、廷臣・藤原房前 (ふじわらのふささき) の四男・遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らが鑑真(がんじん)の下に訪れ、鑑真(がんじん)は渡日を約束した。

しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)は鑑真(がんじん)の同乗を拒否する。

それを聞いた遣唐副使の貴族・大伴古麻呂(おおとものこまろ)は清河に内密に第二船に鑑真(がんじん)一行を乗船させた。


七百五十三年十二月十五日(日本歴・天平勝宝五年十一月十六日)に四艘(舟)が同時にが出航する。

その帰還船団の、第一船と第二船は十二月二十一日に阿児奈波嶋(あこなはじま/沖縄)到着、第三船はすでに前日二十日に到着していた。

その内の第三船は約半月間、沖縄に滞在する。

七百五十四年一月三日に、南風を得て、第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰国(たねのくに/多禰嶋)、現在の種子島・屋久島に向けて就航する。

出港直後に大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁する。

それでも、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。

後に、座礁した大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)等の第一船はベトナム北部に漂着し、その一行は唐に戻る事となる。


第二船・第三船は、七日後の七百五十四年一月九日に多禰国(たねのくに)の益救嶋(現在の屋久島)に到着する。

一行は、朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つ事六日後の十二月十八日に大宰府を目指し出港する。

翌十九日に遭難するも古麻呂(こまろ)と鑑真(がんじん)の乗った第二船は七百五十四年一月十七日に秋目(秋妻屋浦・鹿児島県坊津)に漂着する。

その後、七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)に、大安寺の僧・延慶(えんけい)に迎えられながら大宰府に到着する。


鑑真(がんじん)一行は七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)大宰府に到着、鑑真(がんじん)は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

七百五十四年三月二日(天平勝宝六年二月四日)、鑑真(がんじん)一行は奈良平城京の朝廷への到着する。

鑑真(がんじん)一行は、譲位(じょうい)して上皇となった聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)の勅(みことのり)により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する事となった。

聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん/鑑真和上)から戒を 授かり、翌年、日本初の正式な授戒(戒名を授かる)の場として戒壇院を建立した。

七百五十四年四月、鑑真(がんじん)は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇から僧尼まで四百名に菩薩戒を授けた。

これが日本の登壇授戒の嚆矢(こうし/はじまり)である。

併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字五年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺及び下野国薬師寺に戒壇が設置される。

これを機に、仏教界に於ける戒律制度が急速に整備されて行った。

ここに戒壇院制度が成立して、後の名僧・空海(くうかい/弘法大師)や最澄(さいちょう/伝教大師)も東大寺・戒壇堂(かいだんどう)で、正式に僧侶として認定され資格を得た。


七百五十八年(天平宝字二年)、鑑真(がんじん)は淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の勅(みことのり)により大和上(だいわじょう/大和尚)に任じられる。

勅(みことのり)により、大和上・鑑真(がんじん)を政治にとらわれる労苦から解放する為、僧官の職・僧綱(そうごう)の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。


七百五十九年(天平宝字三年)、鑑真(がんじん)は天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の第十皇子・新田部親王(にいたべしんのう )の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、戒壇を設置した。


大和上・鑑真(がんじん)は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、これらの知識も日本に伝えた。

また、鑑真(がんじん)は悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

七百六十三年(天平宝字七年)、大和上・鑑真(がんじん)は唐招提寺に於いて七十六歳で死去(遷化)した。



称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)の後を継いだ白壁王(しらかべのおう・光仁天皇/こうにんてんのう)は、天智大王(てんちおおきみ/天皇)の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子である。

白壁王(しらかべのおう)が八歳の時に父・施基親王(志貴皇子)が死亡し、後ろ盾を失った為に叙任が遅く、初叙(従四位下)は二十九歳に成ってからだった。

しかしその叙任から七年後、聖武天皇の皇女・井上内親王を妃とした事から昇進を速め、結婚十五年後に従三位に叙せられ、その三年後の七百六十二年(天平宝字六年)に中納言に任ぜられる。

その後起こった藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)の信任を得、七百六十六年(天平神護二年)に大納言に昇進する。

この飛鳥時代、朝廷では皇位をめぐって陰謀が渦巻いていた。

僅かでも皇位に色気を見せれば、命を狙われるか野望を抱く豪族に祭り上げられる。

度重なる政変で多くの親王・王が粛清されて行く中、白壁王(しらかべのおう)は専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装い、陰謀に巻き込まれず難を逃れ生き残った。

そんな寝たふりをしていた白壁王(しらかべのおう)に転機が訪れる。

七百七十年(神護景雲四年)、先帝・称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)が崩御すると、天武天皇の嫡流にあたる皇族がいなかった為、称徳天皇の遺宣(遺言)に基づいて白壁王(しらかべのおう)の立太子が行われた。

白壁王(しらかべのおう)は光仁天皇(こうにんてんのう/第三十九代)として即位、即位後は井上内親王(天武系・聖武天皇の第一皇女)を皇后とし、皇后との長男・他戸親王(おさべしんのう/聖武天皇の外孫)を皇太子とするが、二年後の七百七十二年(宝亀三年)井上内親王を呪詛による大逆を図ったとして罪し皇后を廃し皇太子の他戸親王も廃した。

その翌年、またも井上内親王が光仁天皇(こうにんてんのう)の同母姉難波内親王を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて二人とも変死する。

この変事に拠り天武天皇の皇統は完全に絶え、光仁天皇(こうにんてんのう)は翌七百七十三年(宝亀四年)に側室・高野新笠(たかののにいがさ)から生まれた山部親王(やまべしんのう)を立てて皇太子とした。

この変事の背景には山部親王(やまべしんのう)とそれを擁立する「太政大臣・藤原百川(ふじわらのももかわ)らの陰謀が在った」と目され、その山部親王(やまべしんのう)こそが後の歴代最強天皇となる桓武天皇(かんむてんのう)である。



我が国には、即位以来千二百年を超える現在まで、この国の歴史に影響を及ぼし続ける偉大な天皇が居た。

永い日本史の場面場面を切り取ると、そこにはたった一人の恐るべき天皇の意志が働いていたのだ。

この国の行方を決定付けるほどの始まりを為し、今なお多くの歴史的事象に影響を及ぼし続ける偉大な天皇の名は、第五十代天皇・桓武(かんむ)である。

七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(第五十代)が平城京(へいじょうきょう)にて即位する。

桓武天皇(かんむてんのう)は、天智天皇の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子・白壁王(後の光仁天皇)の第一王子として七百三十七年(天平九年)に産まれ、山部親王(やまべしんのう)と称された。

生母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる和氏(やまとうじ)出身の高野新笠とされ、山部王(後の桓武天皇)は生母の出自が身分の低い帰化系氏族で在った為に、当初は官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた。

父・白壁王の光仁天皇即位後は、山部親王(やまべしんのう/後の桓武天皇)も親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かった為に立太子は予想されていなかった。

しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、突如異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后井上内親王と他戸親王が相次いで廃された為に、山部親王(やまべしんのう/後の桓武天皇)は皇太子とされた。

山部王(後の桓武天皇)は、七百八十一年(天応元年)に父・光仁天皇から譲位されて天皇位に就き、翌日には早くも同母弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子とした。

桓武天皇(かんむてんのう)は、平城京(へいじょうきょう)時代の旧勢力や勢力を持って治世に影響力を為す寺社を引き剥がす為に、即位三年後に早くも長岡京(ながおかきょう)の遷都を実行する。

聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)、その娘・孝謙大王(こうけんおおきみ/第四十六代/女帝)が仏教に熱心に帰依して仏教を国家統治の中心に置いていた。

聖武・孝謙の二代の大王(おおきみ/天皇)は、僧正・良弁(ろうべん)に東大寺(とうだいじ)と大仏殿(だいぶつでん) を創建させ、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎える。

更に中国から鑑真(がんじん/鑑真和上)を招いて唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、戒壇を設置した。

この奈良・平城京(へいじょうきょう)時代の仏教勢力が、強い勢力を持って治世に影響力を為すに成長していた。

その旧仏教勢力を治世から引き剥がす為に、桓武大王(かんむおおきみ/第五十代天皇)は即位三年後に長岡京(ながおかきょう)の遷都を実行する。

更に桓武大王(かんむおおきみ/第五十代天皇)は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)やその後の聖武・孝謙の二代の大王(おおきみ/天皇)以来の従来の仏教勢力を弱める為に腐心する。

ちょうど中国修行から帰国した弘法大師(こうぼうだいし/空海)と伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)支援して自らが関与する仏教組織である真言宗と天台宗を創設した。


桓武天皇(かんむてんのう)の命により造営された長岡京(ながおかきょう)は、七百八十四年(延暦三年)から七百九十四年(延暦十三年)までの十年間、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)に存在した日本の首都だった。

しかし長岡京(ながおかきょう)は近年まで「未完成で放棄された」と定説され、永い事その存在が確認されず「幻の都」とされていた。

漸くその長岡京(ながおかきょう)の存在が現実のものと確認されたのは、千九百五十四年(昭和二十九年)から発掘が開始され、翌千九百五十五年(昭和三十年)に大内裏朝堂院の門跡が発見されて調査が進んだ事にあった。

発掘の結果、長岡京(ながおかきょう)は未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、平城京、平安京と並ぶ京域を持つかなり完成した姿で在った。

為に長岡京(ながおかきょう)は、その期間の短さから本来の目的は山背国の平安京で、「方違え」の為の「形だけの遷都では無かったのか」と言う説を採る学者も居る。

長岡京(ながおかきょう)に首都が在った十年間の時代区分は、平城京(へいじょうきょう)の時代に続き奈良時代(ならじだい)である。

長岡京(ながおかきょう)は、平城京から北へ四十kmの長岡の地に遷都して造営され、苦しんでいた上下水道や陸路での大量輸送などに平城京(へいじょうきょう)の地理的弱点を巧みに克服しようとして淀川三水系(桂川、宇治川、木津川)の合流を利用した利水都市であった。

しかし長岡京(ながおかきょう)遷都後、桓武帝の側近で長岡京造営の責任者・藤原種継が遷都に反対する勢力に暗殺され、桓武天皇の異腹の弟で皇太弟(次の天皇)に指名していた早良親王(さわらしんのう)もこの反逆に組していた事が明らかになり、早良親王が配流される事件が起こる。

廃太子の上配流された早良親王(さわらしんのう)は、配流中に抗議の絶食をして命を断って居る。

この処置の後に、日照りによる飢饉、疫病の大流行や大雨が襲い都の中を流れる川が氾濫被害、皇后や皇太子の発病と次々に災害と身内の不幸が続き、神の威光を持って統治する桓武天皇はその徳を民衆に疑われる事を恐れて長岡京(ながおかきょう)遷都の僅か十年後に再び平安京へ遷都を決断する。



桓武天皇は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で有る。

後にも先にも、これほど強力な天皇はいなかった。

桓武天皇はその即位後、長岡京 (ながおかきょう)へ遷都(七百八十四年)するが、既にその後の十年で成し遂げる大計画を立てていた。

時代は正に一人の強烈な個性を持つ大王(おおきみ)・桓武を得て、大きく動こうとしていた。

桓武天皇はその治政に二つの国家大目標をたてるが、ひとつは七百八十九年に始まる千年の都平安京の造営で、もう一つは朝廷にまつろわぬ民・東北蝦夷征伐である。


七百八十四年(延暦三年)、桓武天皇(かんむてんのう)は強力な天皇親政政権を目指し脱天武天皇系の貴族や寺院の勢力が集まる大和国の平城京から長岡京を造営して遷都した。

これは天智天皇(てんちてんのう)系の桓武天皇(かんむてんのう)が、天武天皇(てんむてんのう)系の貴族や寺院の勢力を脱して自らの独自政権の確立を意図した為である。

しかし長岡京遷都後は都と朝廷が不幸続きで僅か九年後の七百九十三年(延暦十二年)、桓武天皇(かんむてんのう)は臣下を集め、長岡京の北東十kmに位置する山背(やましろ)国北部の葛野に再遷都を宣言する。

平安京(へいあんきょう)は現在の京都府京都市中心部にあたる山背(やましろ)国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。

桓武天皇(かんむてんのう)は、平安京(へいあんきょう)の造営にあたり長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めるが、ここにも政治的意図が在った。

既存の寺社勢力をけん制する為に、桓武天皇(かんむてんのう)は大陸修行から帰国したばかりの空海(くうかい/弘法大師・こうぼうだいし)と最澄(さいちょう/伝教大師・でんぎょうだいし)に目を着け、新たなる寺社勢力の育成を目指した。

つまり空海(くうかい/弘法大師・こうぼうだいし)と最澄(さいちょう/伝教大師・でんぎょうだいし)は、「中央の政治事情に恵まれて重用される」と言う幸運にもめぐり合った訳である。

そしてこの二人の大師は桓武帝以後も時の帝の庇護を受け、空海(弘法大師)の真言宗と最澄(伝教大師)の宗門は急速に信仰を広め勢力を拡大する。
まぁ、この二人の大師の幸運も「御仏の加護」と言えない事も無い。

空海の真言宗と最澄の天台宗は、時の桓武天皇の意向を受けて天武大王(てんむおおきみ/天皇)が仕掛けた陰陽修験の取り込みを図り、真言宗当山派(東密)と天台宗本山派(台密)を創設して神仏習合の修験山伏組織を持つ。

いずれにしても桓武天皇(かんむてんのう)は、仏教の知識と能力に優れて既存の政治権力とは無縁の僧である空海や最澄を迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から新都を守ろうと考え、中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣(なら)うものとした。


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(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))

◇◆◇◆(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))◆◇◆◇◆

処に在ったかはまだ判然とはしていない。

古墳時代は古事記・日本書紀に代表される神代であり、神話が巧みに入り混じって史実の半分も解明されてはいないのである。



飛鳥時代を代表する大豪族(臣王)に大伴氏が在る。

大伴(おおとも)氏は、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(アヤメノオシヒノミコト)の子孫とされ、古代日本の有力氏のひとつである。

大伴の意味は、「多くの氏族を束ねて居る」と言う「大きな伴造(ともつくり)」と思われ、所謂氏族連合の長(御門・臣王)である。

この時代、兵を持たず神の威光で統治する大王(おおきみ・天皇)は、時々の大豪族達に支えられて君臨して居て、その最有力豪族が大伴氏で、大王(おおきみ・天皇)の親衛隊的な役目を任じていた。

雄略大王(おおきみ・天皇)の時代の五世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈大王(おおきみ・天皇)の代に室屋(むろや)の孫の大伴金村(かなむら)が武烈大王(おおきみ・天皇)を推して即位させ、大連(おおむらじ)になった時が全盛期であった。

大伴金村(かなむら)は、欽明天皇の時代に百済へ任那(みまな)の四県を割譲した事の責任を問われ失脚するが、その後も大伴氏は物部氏や蘇我氏が台頭する中、勢力を狭めて生き残り、飛鳥時代の大化の改新の後、六四九年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっている。

また、六七二年の壬申の乱の時は長徳(ながとこ)の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言・中納言・参議等が輩出している。

大伴氏は、その後も幾多の政争に翻弄されながらも生き残り、平安時代初期の桓武朝に於いても、大伴弟麻呂は東征将軍として副将の坂上田村麻呂(後に初代征夷大将軍)と共に東北蝦夷族・阿弖流為(アテルイ)等を討ちに出兵している。


大伴金村(おおとものかなむら)は、飛鳥時代の五世紀(四百年代)から六世紀(五百年代)にかけての大豪族(臣王・御門)・大伴氏の長である。

仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇)死後の四百九十八年、大伴金村(おおとものかなむら)は武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇)を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。

五百六年、その武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇)の死により皇統は途絶えたが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)の玄孫である彦主人王(ひこうしおう)の子「男大迹王(おおどのきみ)」を越前から迎え継体大王(おおきみ・天皇)として即位させる。

以後、大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかなむら)は安閑・宣化・欽明の歴代天皇に仕えたと伝わり、その間に、百済から朝鮮半島の領地・任那四県(みまなよんあがた)の割譲要請があり、大伴金村は大連(おおむらじ)としてこれに深く関わり、任那四県(みまなよんあがた)の割譲を承認している。


余談ながら、この朝廷の大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかなむら)の位を示す連(むらじ)・大連(おおむらじ)の意味だが、連(むらじ)が「つらなる(繋がる)」を意味する事から、この国の血統主義・部族主義の色合いを物語っているのではないだろうか。

つまり我輩は、連(むらじ)が族長一族の尊称として通用し、それが「身分を表す官位と成った」と考えたのである。



継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)は、大豪族・大伴金村(御門・臣王)の後押しに寄って皇位に付いた経緯があり、当時の大伴金村の権勢は、大王(おおきみ・天皇)をもしのぐ勢いであった。

この時代の大豪族王、大伴氏(御門・臣王)や物部(もののべ)氏(御門・臣王)の祖先は、神話における「**の命(**のミコト)を基にする」と創作され、半島からの渡来の事実を消して、天皇家と同様「祖先に神をいただく」と言う事に成っていた。

例えば、大伴氏・臣王は高皇産霊(タカミムスビ)の命神を祖とし、物部氏・臣王は饒速日(ミギハヤヒ)の命神の子孫としている。

中臣氏・臣王(藤原氏)の祖、天児屋根(アメノコヤネ)の命神は祭祀を預かり、神と人の中を取り持つ意味があった。

いずれにしても、神と言う理解し難い存在をもって、被征服民に畏怖(恐れ)を抱かせる為の演出である。

彼らが、任那(みまな)時代からの王の枝分かれの血筋を引く王族なのか、別の大部族集団の長なのかは判らない。

継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)の前の天皇、武烈(ぶれつ)大王(おおきみ・天皇第二十五代・葛城朝)に子供が無い為、皇統を繋ぐ必要から、越前(福井県)にいた応神大王(おおきみ・天皇第十五代)の五代(五世)孫に当たる男大迹王(おおどのきみ)に擁立のお鉢が回って来て、継体おおきみ・天皇)は即位したのである。

この継体(けいたい)大王
(おおきみ・天皇)の即位だが、ある疑いが囁かれている。

学者の説によっては、国内(越前)王族説を採らず、即位の為に加那系・任那(みまな)からやって来た加那系(呉族系)の王族で、妻子が在りながら、先々代の大王(天皇)、仁賢(にんけん)大王(おおきみ・天皇第二十四代)の娘・手白髪姫(たしらがひめ)を皇后に迎える「政略結婚をした。」と成っている。

つまり、継体大王(けいたいおおきみ)が百済系任那から即位の為に招かれたのであれば、その後の継体大王(けいたいおおきみ)の対半島政策の非常に思い入れがあると思われる行動に納得が行くのである。


継体大王(けいたいおおきみ)の生きた古墳時代には、まだ地方有力豪族の国主(国造/くにのみやっこ)と地域国家間の大王位をめぐる混乱が在って、大王位(おおきみのくらい)はかなり不安定なものだった。

継体大王(おおきみ・天皇第二十六代)は、即位後二十年の歳月を掛け漸く大倭(後の大和国)の地に都を置く。

この大倭(後の大和国)の地に都を置くまでに二十年を費やす背景に、継体大王(おおきみ)の出自の不確かさが見え隠れしている。

つまり日本書紀に於ける継体大王(おおきみ)即位関する経緯の記述は、皇統の正当性を表す為の辻褄合わせの可能性を感じる。

都を置いた事で、漸くその地位が「不動のものに成った」と見え、その直後に継体大王(おおきみ)は半島の国・新羅に攻められた百済の救援に軍を送った

そして大倭(後の大和国)に都を置いた直後に継体大王(おおきみ)は半島の国・新羅に攻められた百済の救援に軍を送った。

王権がやっと確立したばかりの時期に「他国に救援に軍を送る」と言うこの行動、継体大王(けいたいおおきみ)が故郷救済に動いたのなら仮説を裏付けるものとして話は早いので在る。

古墳時代末の五百二十七年(継体二十一年)、継体大王(けいたいおおきみ)の命を受けた近江毛野(おうみのけな)率いる大和朝廷政権軍は、朝鮮半島南部へ出兵しようとした。

所が、新羅と結んだ筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)により九州北部で「磐井の乱(いわいのらん)」が勃発し、大和朝廷政権軍の半島進行を阻(はば)み、その平定に苦心して百済への救援軍派遣にも苦労している。

翌年になって筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)は、物部麁鹿火(もののべあらかい・大連/おおむらじ)軍によって討たれ「乱は鎮圧された」とされる。

但しこの磐井の乱(いわいのらん)は、記述が「日本書紀」に限られ、「古事記」には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていない。

日本書紀では筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を反乱軍の扱いだが、実は大王(おおきみ)の権威が日本書紀の記述ほど当時は無かった可能性が考えられる。

つまり、反乱だったのか王権間の戦争だったのかが、特定出来ていないのである。

この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る呉族系と加羅系の民族的な主導権争いがあったと見られる。

当時半島に於いて新羅は、任那の加那系と百済に取って共通の敵・侵略国家だった。

そして列島に移植した任那と百済の王族達とその部族は、当然ながら故国の盛衰に一喜一憂していた筈である。

思い出して欲しいが、初代大王(おおきみ/後の天皇)の神武帝が九州の筑紫を発つて畿内に入る神武東遷(じんむとうせん)物語の出発点が九州筑紫である。

これはあくまでも仮説だが、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が神武朝の九州に定住した分家であれば、継体大王(おおきみ・天皇第二十六代)に「本家を乗っ取られた事への抵抗」ともとも考えられる。

またそれ以前に皇統が神武朝から葛城朝に変わっていれば、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)は正統性を掲げて「大王(おおきみ)即位の名乗りを挙げた」とも解釈できる。

当時の日本列島側では、その豪族達(臣王・御門)の出自を背景に半島側・新羅・任那(加羅系)と任那(加那系)・百済の「列島側の延長代理戦争をしていた」と見るべきだろう。

いずれにしても、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が新羅系豪族(王・御門)の「九州王だった」とする学者は多い。


継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)が即位して、屯倉(みやけ)制度を始めとして様々な中央集権化の制度改革をした裏に、或いは少し進んだ半島の政権体制、「母国の制度を真似た」と言う疑惑が湧くのである。

一般論的にはそうした王位・皇位継承のトリックはありそうな話で、そもそも継体(けいたい)は字のごとく「継ぐ体」で、本来の「嗣(つぐ)」の字を用いず、わざわざ謚号(おくりな)にそうした意味合いの違う文字を付けたこと事態が、皇統の一貫性を疑問視されている。

その疑惑が本当なら、この後は「女系の皇統」である。

とにかく「何か」が起きたのだが、本当の所は全て憶測に過ぎない。

だが、少なくともこの神代はまだ、蝦夷(エミシ/先住民)と渡来・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系部族、そして同じ渡来・呉族(ごぞく/海洋民族)系部族のトライアングル(三角状態)の中で紛争が繰り返されながら民族的同化が進んでいたのではないだろうか?

となると、継体帝の即位で大和朝廷は加那(呉族)系・葛城朝から加那(呉族)系・継体朝に代わった事に成るのか?

そして裏を返せば、それほど任那(みまな・加羅・加那)の地と大和(やまと・大伴氏臣王)は一体の物(同族王家の血)だった事に成る。


大伴金村、継体大王(おおきみ・天皇)、共に加那族系の血筋で、「親百済派・任那系」である。

そして、任那(みまな・加羅・加那)の一部割譲・・・

この時点で任那(みまな・加羅・加那)の地は、まだ大和朝廷(呉族系・葛城朝から加那系・継体朝に)の支配地だったのである。

支配地だからこそ、任那四県(みまなよんあがた)を「割譲出来た」と言える。

しかしそれ以後、新羅の武力の前に任那は崩壊し、百済も新羅に圧倒されていた。

加那系任那の相次ぐ勢力減少に伴って、任那出身者の日本列島への流入も多かった筈である。


日本の安土桃山時代、太閤・豊臣秀吉が「朝鮮征伐」なる侵略戦争を起こしている。

明治維新の少し後、維新の英雄「西郷隆盛」が「征韓論」で大久保利通らと対立、「西南戦争」を起こした。

これはまったくの憶測だが、豊臣と言い西郷と言い、天下を取り皇室に出入りする様に成ってすぐに彼らの目が半島に向いている。

これは偶然だろうか。

うがった考えを持てば、大和朝廷は祖国を取り戻す悲願を持ち、時々の覇者にそれを要請していたのかも知れない。

その後の日韓併合を含めて、或いは朝廷に代々伝わる申し送りとしての悲願、「任那再建」又は、「倭の国統一」があり、密かに時の実力者に「下命が有った。」としたら、いや無いとは思うが・・・・・。

いささか相手国には不謹慎ではあるが、二千年のミステリーロマンである。

しかし、これは「歴史の一コマ」と捉えたい。

そんな、何千年も昔の事を蒸し返して領土問題を主張すると、「ユダヤ・イスラエル」と「アラブ・パレスチナ」の様なむずかしい問題に成るのは目に見えている。

この辺りで面白いのは、倭国(わこく)全体で対高句麗(こうくり・コグリョ)共同戦線を展開しながら、互いに相手国の領土も「狙っていた」事であろう。

それで大和朝廷も、文献上何度も「半島への軍勢の派遣」をしている。

百済防衛が、任那(加羅)の防衛に繋がるからだ。

それさえも、現代の半島側の歴史研究者の間では、古い時期の日本の「侵略行為だ」としている。

この任那(みまな・加羅・加那)の存在を認めると、日本の近代の韓国併合に小さいながらも正当性を与えるからだ。

しかし、「日本書紀」に記載されている事が「古事記」には無いなど、「紀・記」も朝廷内の勢力に拠って、何らかの情報操作、或いは隠蔽や誇張も考えうる状態に、謎が有る。

その、「次期天皇が半島から来た」と言う話、証拠が在る訳ではない。

どうも日本書紀を編纂したグループと、古事記を編纂したグループは、それぞれ加羅族、呉族が編纂したらしく、意図的なものが見られる。

それでも、「紀・記」の共通点だけを拾っても、任那系倭国としての大和朝廷が当時の実体だった可能性が浮かんで来る。

さあ、現在で知り得る断片的な条件は提示した。

この継体帝の皇位継承を現時点で断定する学者が存在すれば、それは限りなく妖しい事に成る。

この証明出来ない謎をどう解釈するかは、「貴方の考え方次第」と言うのが当時朝鮮半島側王族と深く関わる日本側の王族、この継体帝の皇位継承ミステリーである。

但しこの疑惑は、例え事実で在ったとしても皇統にとって満更悪い事ばかりではない。

建前に於いて、皇統は神の系図であるから観念的余人に替え難いもので、それが男系男子の皇位継承に拘る理由である。

所が、「種を残す」と言う生殖生命学の上では、男系男子の血統に拘るほど「虚弱精子劣性遺伝」と言う難問が控えている。

男系の精子はXY染色体に於いて傷が付き易く、その傷付いた精子の交配が何代も続くと「虚弱精子劣性遺伝」が加速して男系男子を懐妊させる能力を失う。

つまり皇統に於ける万世一系は観念的ものであるから、生殖生命学上は数代に一度は女系にして婿を迎え健康で野生的な男系精子を取り入れる必要がある。


さて、大伴氏と拮抗する勢力を持つ豪族に、物部(もののべ)氏が居た。

物部(もののべ)氏は、加羅(から)系の祖をもつ大連(おおむらじ)の家系で、同じ半島の倭国出身ではあるが、新羅(しらぎ)の方に影で味方していた。継体(けいたい)天皇は、即位した時既に五十八歳であった。

この頃から、正式ではない民間レベルで、仏教が列島に伝来し始めている。

諸説あるので、「五世紀の前半頃に仏教がもたらされた」として置く。


継体大王(天皇)が崩御すると、連れ子の安閑(あんかん)大王(おおきみ・天皇第二十七代)が即位する。

安閑天皇が崩御すると、弟の宣化(せんか)大王(おおきみ・天皇第二十八代)が即位する。

その後、この宣化大王(天皇)の娘と、継体大王(天皇)と手白髪(てしらが)皇后との間に出来た欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇・つまり、宣化帝の異母弟・第二十九代)が結婚して、元の武烈(ぶれつ)大王(おおきみ・天皇第二十五代)の血統に回復が成されたのだ。

ただし、この皇統譲位の経緯はあくまでも後の官製史書に拠るものである。

継体大王(けいたいおおきみ)は、五百三十一年に皇子の勾大兄(まかりのおおえ/安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)するも、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)はその即位と同日に崩御している。

「日本書紀」では「百済本記」を引用して、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)及び太子(勾大兄/まかりのおおえ)と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体帝以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆しているのだ。


この時代、天皇の入れ替わりが激しいが、その理由の第一は、「血族結婚による劣勢遺伝だ」と思われる。

後ほどこの物語の第五章で詳しく記述するが、「種を残す」と言う生殖生命学の上では男系男子の血統に拘るほど「虚弱精子劣性遺」と言う「XY染色体遺伝子」に於ける障害が発生する。

それで、実際に一・二年しか在位していない大王(天皇)も多かった。

ともかく、大王(天皇)、皇子の「早世(早く亡くなる)」は、おびただしかったのだ。

従って、半島から血を入れる事は、あながち悪い訳ではない。

遺伝の問題だけ考えれば、むしろその方が良かったのかも知しれない。

また入れ替わりが激しい理由の第二は、これも、「神の権威で統治する」と言う大王(おおきみ)家の特殊な立場が災いしている。

神の威光を持って統治する大王(おおきみ)家には財力や武力的な裏付けが無く、有力豪族(臣王・国主)達の領地の直接統治に大和朝廷が緩(ゆる)い間接統治の形で関わっているに過ぎないから、後継争いの暗殺の類も多かったのが事実である。

つまり時の有力豪族(臣王・国主)の支持が在って初めて「大王(おおきみ)の権威は保証される」と言う状態であるから、有力豪族(臣王・国主)の意向で大王(おおきみ)が挿げ替えられる事態が多々在った訳である。


物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の物部氏の歴代棟梁は、屈指の大豪族(御門/みかど)の一人だったが、六世紀半ばの安閑・欽明両大王(おおきみ/天皇)の頃の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)は、大連(おおむらじ)の官位を授かって朝廷で力を発揮していた。

欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部朝臣(もののべあそみ/物部御門)の棟梁・物部尾輿(もののべおこし)が欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)と組み、それまで最大の勢力を誇っていた大伴朝臣(おおともあそみ/大伴御門)・大伴氏の何十年も前の「任那四県(みまな四あがた)割譲」を咎め、大連(おおむらじ)・大伴金村を朝廷から失脚させている。

大伴(おおとも)氏失脚に伴い、百済系物部氏・臣王と共に力をつけて来たのが、高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王である。

当初は物部氏・物部尾輿(もののべおこし)の勢力が圧倒的に強く、大和の対半島政策は、百済(くだら)支援から新羅(しらぎ)支援へと、対応を変えて行くのだ。

所が、欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)十三年の頃百済の聖明王から仏像や経典などが献上され(仏教公伝)た時、物部神道の継承者である物部尾輿(もののべおこし)は、中臣朝臣(なかとみのあそみ)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)と組んで廃仏を主張し、崇仏派の新興勢力・蘇我稲目(そがのいなめ)と対立した。

ちなみに大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した藤原(中臣)鎌足(ふじわらのかまたり)も若い頃は中臣鎌子(なかとみのかまこ)を名乗っているが、物部尾輿(もののべおこし)と組んだ中臣鎌子(なかとみのかまこ)とは別人である。


さて、大和合の国・大和朝廷の有力臣王(御門)達の勢力図に変化が現れる。

急激に力を着けて物部氏と対立を始めた蘇我(宗賀、宗我)氏(そがのうじ)は、古墳時代から飛鳥時代(六世紀 から七世紀前半)に勢力を持っていた高句麗系の氏族である。

蘇我一族の氏名である「蘇(so)」はチーズの一種であり、蘇我一族の母国とされる朝鮮半島の付け根に栄えた高句麗国は、大陸の蒙古・満州の牧畜地帯から半島に来た部族と伝えられている。

蘇我氏の姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた古代の有力豪族である。

百済国の高官・木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が「同一人物である」と言う説があり、蘇我氏百済説も在る。

だが、蘇我稲目(そがのいなめ)の父が蘇我高麗(そがのこま)を名乗る点と、蘇我氏と高句麗の交流やその後蘇我氏が最有力氏族になった時点での高句麗系の隆盛から、我輩は蘇我氏・高句麗系説を採っている。

蘇我氏は言わば少し遅れて来た高句麗系の新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏の棟梁・蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

蘇我高麗(そがのこま)の子、蘇我稲目(そがのいなめ)は飛鳥時代の大臣で、物部氏・物部尾輿(もののべおこし)と仏教の扱いで対立するが、当時は物部氏の力が強く中々決着が着かない。

しかし、五百三十六年(宣化元年)に宣化大王(おおきみ・天皇)の大臣(おおおみ)と成り、大王(おおきみ)の命を受けて尾張国の屯倉の籾を都に運び、凶作に備えた。

五百四十年(欽明元年)には大王(おおきみ・天皇)が欽明に代わり即位する。

蘇我稲目(そがのいなめ)は引き続き大臣(おおおみ)に止まり、欽明大王(おおきみ・天皇)の寵愛を得て娘の堅塩媛都(きたしひめ)小姉君(おあねのきみ)他、娘三人を全てを欽明大王(おおきみ・天皇)の妃として外祖父となり、最有力氏族と成る。

稲目の妻は葛城氏の出自と推測され、この宮廷内の閨閥にはその力も影響しているかも知れない。

欽明大王(おおきみ・天皇)に嫁した堅塩媛(きたしひめ)は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(おおえのみこ・用明天皇)と炊屋姫(かしきやひめ・推古天皇)が即位している。

小姉君(おあねのきみ)は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(はつせべのひめみこ・崇峻天皇)が即位している。


この頃に成ると、まず百済が高句麗を討ち、一時的に衰退させると、半島の南側の覇権をかけ百済と新羅が全面対決する様に成る。

その過程で任那は両方から狙われるが、最終的に「任那の現地の人々」が新羅側に付き、吸収された形と成って任那(みまな・加羅)は消滅した。

この吸収合併は、大和の加羅族系にとっては母国を失った事を意味し、盛んに任那復興を運動するが、呉系の物部氏や高句麗系の蘇我氏が天下を取っていて、みすみす任那を新羅に渡してしまうのだ。

大和朝廷の、この加羅系と呉系、高句麗系の争いが、やがて大事件に繋がって行く。

日本列島には、この五世紀から六世紀頃に成ると、朝鮮半島を経由して仏教や儒教の各宗派が、帰化人達とともに民間レベルで頻繁に伝わっていた。


武士を「もののふ」と呼ぶ語源が、もののぶ=物部(もののべ)で、物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すものである。

つまり物部氏(もののべし)は、大和朝廷に於いて武器を扱い管理する部民だった。

武器を扱う氏族として物部氏が大和朝廷でその地位を固めた理由であるが、物部氏は当時最先端の青銅鋳造技術をもつ鍛冶氏族であった事からである。

当然ながら、大和朝廷初期の段階に於いて諜報工作組織である陰陽修験への武器の供給は物部(もののべ)氏であるから、役小角(えんのおずぬ)の修験道成立当初から物部(もののべ)氏と陰陽修験組織との接点は想像に難くない。

両者の接点は、当初武器を供給する部門と使用する部門から始まっているのである。

また物部氏は、青銅鋳造術を持って銅鐸祭祀(物部神道)をする「新羅系の渡来人であった」とされ、仏教とは相容れない立場にあった事が、後に伝来した仏教を取り入れて勢力を伸ばそうとする蘇我氏との軋轢を生んだのではないか」と言われている。

前述のごとく役小角(えんのおずぬ)は、日本列島に存在した原始信仰と渡来信仰を組み合わせて陰陽修験道を成立させている。

この銅鐸祭祀(物部神道)が、当然ながら陰陽修験の成立に少なからぬ影響を与えている筈で、その関係は「良好だったと」推測されるのである。


古事記・日本書紀に拠ると、物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(タケルガミネもしくはイカルガミネ/現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命/邇藝速日命)を祖先と伝えられる氏族で、元々は兵器の管理を主に行なっていたが自然と大伴氏とならぶ武器を扱う「軍事氏族へと成長して行った」とされている。

言わば物部(もののべ)氏は武門を売り物にする古代の有力豪族(部族王・臣王・国主)で、連(むらじ)の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓(あそみ/あそんせい)を賜っている。

欽明(きんめい)大王(おおきみ・天皇第二十九代)の御世になると、物部尾輿(もののべおこし)が欽明天皇と組み、当時最有力豪族(臣王・国主)だった大伴(おおとも)氏(臣王・国主)の大連(おおむらじ)大伴金村を失脚させている。

大伴(おおとも)氏の失脚で最有力豪族になった物部(もののべ)氏であるが、大伴(おおとも)氏衰退の間隙を縫って高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王が頭角を顕わして来る。


五世紀も終わりに近づくと、物部氏と蘇我氏が伝来した仏教の扱いで対立する。

仏教が伝来した時、有力臣王(御門)達の集合体・大和合の国・大和朝廷は大混乱に陥ったのである。

当時の物部氏は古くからの歴史ある名門で、青銅鋳造術を神格化する銅鐸祭祀(物部神道)を擁する物部一族は当然ながら神道擁護排仏派だった。

反対に蘇我氏は言わば少し遅れて来た新興勢力で、宗教的基盤のない蘇我氏は仏教を大和朝廷に導入、統治に利用する事を考える。

つまり当初の蘇我氏による仏教支持はその教義に傾倒した訳ではなく、有り勝ちな事だがあくまでも勢力争いの具である。

その争いの時点で、大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の力は拮抗していたが、欽明大王(きんめいおおきみ・天皇・第二十九代)が仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。

この大連(おおむらじ)・物部尾興(もののべおこし・臣王)と大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ・臣王)の勢力争いは陰陽修験組織も翻弄を余儀なくされるのだが、実は中立を守っている。

当然ながら、陰陽修験の理念は物部尾興(もののべおこし・臣王)側に近かった。

しかし一方で陰陽修験道の真髄が、あらゆる信仰を取り込んで大王(おおきみ・天皇)の統治に利用する為の組織だった。

この陰陽修験道の真髄、「あらゆる信仰を取り込む」が、いずれこの物語で記述する、実は現代に到るまでの「信仰受け入れに寛大な」日本人の「良い加減」な信仰精神の基本と成り得たのである。

この時代まだ、日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。

背景の争いがそんなだから、大王(おおきみ/天皇)後継者を巡る争いが繰り広げられる。

物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・曽我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。

物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。

用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。

この敗戦で、物部氏(新羅派)は衰退して行く。

物部守屋が蘇我側の遠距離からの弓矢攻撃により射殺され、この戦争の勝利の結果、蘇我軍に参加した泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)が天皇に就任する事になり、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)として即位する。

崇峻大王(すしゅんおうきみ/第三十二代天皇)は、倉梯柴垣宮 (くらはししばがきのみや/現・桜井市倉橋) を造営してその宮居に住まう。

崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)の頃から大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が妃だったが、即位して後に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)が入内(にゅだい)して内裏(だいり)に納まっていた。

しかし四年後、蘇我馬子に部下の東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)と言う者を刺客として崇峻宮に送り込まれ、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は暗殺される。

そして真贋の程は定かでないが、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)暗殺の実行者・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻宮を襲った時に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)を陵辱した或いは河上娘(かわかみのいらつめ)と密通したとの理由で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が蘇我馬子に討ち取られてしまう。

これほど明確に記録されている天皇暗殺は類を見ないもので、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と河上娘(かわかみのいらつめ)との事は、口封じの口実とも考えられる。

この崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇第三十二代)暗殺話は五百九十二年の事件だから、百二十〜百三十年も経た桓武天皇の御世に成って余りにも克明に記述されている所から、その後の「大化の改新(蘇我入鹿/そがのいるか・暗殺と蘇我氏滅亡)」に対し、いかに歴代蘇我氏が「横暴なふるまいをしていた」と言う事を印象着ける為の複線として書かれている疑いもある。

同時にこの事件を記する事で、皇統の正統性をもアピールして居るのかも知れない。

衰退した加羅系・物部氏(新羅派)とは反対に、大連(おおむらじ)・物部守屋を破った高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。

蘇我馬子の擁立したのが、崇峻(すいしゅん)大王(おおきみ・天皇第三十二代)であった。

この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。

厩戸(うまやど)の皇子(後に聖徳太子と呼ばれる人物)である。

本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。


飛鳥京(あすかきょう)は、後の律令国家成立期以後の新益京(藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは違い、京と呼ぶほどの宮都の体裁を成しては居なかった。

つまり「飛鳥京跡」は、飛鳥地域に散在するこれら時期の異なる宮や邸宅、寺院などの建造物、市や広場、道路など都市関連遺跡の便宜上の総称に過ぎない。

この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。

狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。

つまり地方を領する有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。

明治以後の大日本帝国で、天皇家の神格化教育が行き届き、天皇が絶対君主と教わって、当然と思っていた天皇の立場とは、当時の真実の事情とは相当感じが違うのだ。

その時々の有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達に翻弄され、利用されながら、それでも皇室は脈々と続いて来た。

この時代だけ切り取ると、まるで大和の国は各々に祖国を持つ民族が勢力争いを繰り返す多民族国家である。

この頃の日本列島は、まさに現在のアメリカの様な「人種のるつぼ」である。

この伝で行けば、アメリカも混血が進んで後二千年もしたら、同化した民族が出来上がるかも知れ無い。

この国で「有史以来の単一民族」、「万世一系の天皇」と、一度刷り込まれた先入観を払拭するのは、結構大変なのだ。

蘇我馬子に擁立された崇峻大王(おおきみ/天皇)であるが、その後何故か大臣・蘇我馬子の指図によって暗殺されれしまう。

この暗殺劇、この後の記述で厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の異説として取り上げるが、蘇我馬子に容易ならぬ陰謀が有ったらしい。


ここで大和朝廷の全体像を、考えて見よう。

大和朝廷は、倭(わ)国の縮図と言える。

つまり、狗奴(くな・呉系)・任那(みまな・加羅系)両国系誓約合体の神聖・天皇家とは別に、倭の国各地(各国)出身の豪族(部族王・御門・臣王・族長)の和邇(呉系・百済派)、葛城(呉系・任那派)、大伴(加羅系・百済派)、物部(呉系・新羅派)、蘇我(高句麗系)、中臣(加羅系・百済派・後の藤原氏)などの「王」が、それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家で在った。

そしてまだ、大王(おおきみ・大国主・天皇)の権力は完全統一的なものでは無かった。

そう考えた方が、判り易すい。

大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・大豪族)は、少なくともの和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)の五家、それに続く安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)など更に三家以上は「臣王(おみおう)が存在した」と思われる。

従って、「大王(おおきみ・大国主・天皇)」は、大連(おおむらじ)大臣(王臣・おおおみ)などと同じ様な「官位、官職の最高位」とも言える立場で有ったのかも知しれない。

そうした背景の中、推古大王(すいこおおきみ・天皇第三十三代・女帝)が即位し、太子には厩戸(うまやど)皇子が「聖徳」と改めて執政に就任した。

その推古大王(すいこおおきみ)の御座が、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)に在った豊浦宮である。

聖徳太子の言と伝えられる有名な、「和を持って貴しと為す」の背景には、部族の王達間に於ける誓約(うけい)の和合、多部族(多民族)意識がまだ残っていたからこその、民族統合の施策だった。

つまり後の創作ではあるが、「大和合の国=大和の国」の精神を示しているのである。

百年後に記述された日本書紀の聖徳太子が現実に存在する人物であれば、聖徳太子の功績は太子一人の功績とは考え難い。

この頃の朝廷では、大臣(おおおみ)は蘇我馬子の独占で在ったから、三人の「共同国家運営ではないか」と思われる。

そしてこの頃になり、大和の国では漸く鉄剣の国産化が始まっている。

この三人、推古大王、聖徳太子、蘇我馬子の共同作業が、後の聖徳太子の善政である。

当時、いかに聖徳太子が有能であれ、当時勢力絶大な蘇我馬子の協力無しに、冠位十二階や、十七条の憲法の「制定が成った」とは考え難い。

何故なら、用命大王(おおきみ・天皇第三十一代)の母と聖徳太子の母は姉妹で、蘇我稲目の娘、つまり「馬子の兄妹」で在った。

つまり馬子は聖徳太子の叔父であり、更に娘を嫁にして居たから義理の父でも在ったのである。

その「制度改革」と言う国家的プロジェクトの成功を、後世の明治政府の皇統を礼賛する民意誘導の都合で馬子を並の臣下扱いにし、聖徳太子一人の手柄にしてしまったのである。

こうした過去の朝廷の歴史を、歴史学者に掘り起こさせ、学校教育の一環として取り上げ、天皇直接統治の為に、創り上げたのは明治政府に成ってからである。

皇室の元に、国民の民意の統合的合意を目指したのだ。


この聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が残っているので紹介する。

実は大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているからである。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群、同じく有力部族・秦氏族への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・神農行商の祖)と伊賀の国人・秦氏流服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀流忍術の祖)の三団体の事である。

忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖とされる川勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。

日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成った服部氏は、後世余りにも有名な伊賀郷の忍術者の家系として江戸幕府・徳川家に雇われている。

また、「伊賀・服部流と双璧を為す」と評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群である。

川勝氏の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。

その名の通り香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。

香具師の起源については、古代に遡(さかのぼ)る伝承をもっているが、明確ではなく、一説には秦氏の川勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし)の祖」とされている。

そうした所から推測して、「行商に身をやつして諜報活動をもしていた」と考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。

つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、主として神前での興行や商いをする「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事になる。

どうやらその最初の成り立ちとして、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れの陰陽修験は村落部、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れ服部氏と川勝氏は町場の氏族相手と守備範囲の役割を分けて居たのかも知れない。

しかしながら武術の発祥は陰陽修験道からであるから、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れである服部氏と川勝氏も修験武術の習得を通して両者に接点は在った筈である。


秦の始皇帝を始祖と自称する秦氏は、六世紀頃に日本列島へ渡来した渡来人部族集団と言われる。

ハタオリは秦織(たおり)で、服部(はとりべ/機織り部)と言う職掌がその「氏名(うじな)の語源と成っている」と伝わる服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。

そして伝承では、秦河勝は猿楽の祖とも伝えられ能楽の観阿弥・世阿弥親子も「秦河勝の子孫を称した」とする所から、秦氏と服部氏とはまったく同系の部族と考えられるのである。

また、賀茂・葛城も秦氏とは同系の部族で在りながらこちらは占術と神職と言う職掌違い、物部氏も武器の製造管理言う職掌違いで氏名乗(うじなの)りは違うが、秦氏が信仰から機織り技術・金属技術まで持ち込んだ渡来人集団であれば、各得意分野ごとに分かれて氏名乗(うじなの)りをしても不思議は無い。

その秦氏・同系の部族説を検証すると、秦氏系・服部氏と物部氏系・鈴木氏には賀茂・葛城と重複する神職や修験道、そしてそれらから派生した武道である忍術、神事から派生した芸能などのルーツが遡って秦氏に辿り着くのである。

つまり葛城氏を含む秦氏系渡来部族こそが、日本列島各地に当時の最先端大陸文化を持ち込んだ有力部族集団ではないだろうか。


厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を紹介して置く。

聖徳太子は、日本史に於いて最も有名な皇太子の一人である。

しかしこの聖徳太子には様々な疑惑があり、歴史上の人物から「伝説上の人物」とされる傾向が強まっている。

まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。

聖徳太子と目される厩戸皇子(うまやどのみこ)の没後百年以上を経て成立した「日本書紀が聖徳太子の初出」と言う事は、作文した内容は天武天皇から桓武天皇にかけての編纂で、「和を持って尊し」を言ったのは桓武天皇の側近辺りの進言が採用されたのかも知れない。

そして聖徳太子は、治世に功績を残しながら何故か太子(世継ぎ)のまま没している。

正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?

推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、欽明大王(おおきみ/天皇・第二十九代)の皇女にして母は大臣蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)、用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)は同母兄、崇峻天皇(第三十二代)は異母弟にあたる。

推古大王(すいこおおきみ)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言い、十八歳の時に当時皇子(後に敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)だった異母兄の渟中倉太珠敷皇子(ぬなくらのふとたましきのみこと)の妃となる。

敏達天皇・皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)三十四歳の時に敏達天皇が没し、同母兄の用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)異母弟崇峻大王(おおきみ/天皇・第三十二代)と大王(おおきみ)が続く。

だが、崇峻天皇が大臣・蘇我馬子の指図に拠って暗殺され、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は大臣・蘇我馬子の要請に応じて三十九歳の時に推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)として即位する。

夫亡き後、推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)を実力で支えた大臣・蘇我馬子は母方の叔父(母の弟)であるが、異母兄の敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)の妃に成るくらいだから、夫亡き後に頼りに成る叔父の蘇我馬子と男女の仲に成っても、当時の習慣上は何んの不思議もない。

むしろ、敢えて無理やりに女帝・推古大王(おおきみ/天皇)を据えた大臣・蘇我馬子のその意図に、我輩にしてみれば男女の仲を疑うに足りるものがある。

推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。

この「皇太子として万機を摂行させた」と言う事は「全てを任せた」と言う事で、それだけの信頼を置ける相手とは男女の関係が想像されても不思議は無い。

大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・御門/みかど)蘇我氏は、歴代の大王(おおきみ)に妃(皇后)を送り込む有力氏族で、歴代大王(おおきみ)とは叔父甥などの血縁関係も多く、逆に女帝の愛人であっても何の不思議も無い。

おまけに大王(おおきみ)は武力を持たないから、女帝が頼り甲斐がある臣王(おみおう)の蘇我馬子と愛人関係に有った方が、治世が上手く行くのである

聖徳太子の生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、そもそもこの厩戸皇子(うまやどのみこ)生誕の下りがイエス・キリストの生誕伝承と余りにも似ている所から、「日本書紀」が西洋からの伝聞を借用して「創造された人物」との指摘が体勢を占めている。

恐らく皇統の善政を示して神格化を狙った「聖徳太子(厩戸皇子)の捏造」と思われる。


聖徳太子の伝承に深く関わる存在として秦氏(はたうじ)が在る。

古代豪族・秦氏(はたうじ)には、ヘブライ(ユダヤ人)の景教徒(ユダヤ的キリスト教徒)説がある。

京都の西に太秦(うずまさ)と言う地名の所があり、その太秦には伊佐良井(イサライ)と言う地名がある。

渡来人系の豪族・秦氏(はたうじ)の氏寺は広隆寺(こうりゅうじ/京都市右京区太秦)であり、建立は秦河勝(はたのかわかつ)である。

広隆寺だが、別名を太秦寺(うずまさでら)と言うのだが、これが中国に伝来したネストリウス派キリスト教=景教(ユダヤ的キリスト教)の寺院の一般名称・大秦寺(だいしんじ/大秦塔)である。

そして太秦(うずまさ)は、古代ヘブライ語の意味では、「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)で、「光の賜物を指す」と言う解釈があるそうだ。


この物語で度々使うフレーズだが、統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。

聖徳太子はその最たるもので、明らかに皇統の優秀性を喧伝する創作上の人物だが、我輩が幾ら「聖徳太子は存在しない」と言った所で寺まで存在すると誰でも信じてしまう。

そしてその創作事実を知る者まで、「あれは信仰上の存在だから触れないで置こう」と言うのだから、イメージ(心像・形象・印象)が合意されてしまえば、虚像も実像になるのだ。


「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、国家として中央政権化を進める為に「聖徳太子に拠って制定された」と定説化されている。

日本書紀の記述を事実とすると、官僚制の基礎となる「冠位十二階」は太子二十九歳の六百三年、国を治める為の法律「十七条憲法」は太子三十歳の六百四年、に制定された事に成っている。

但し近年に成って聖徳太子の存在自身さえも疑問視される事態に、従来から定説とされている「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定事実さえも、その事実関係の見直しに入る学者も居る。

「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、永年定説とされて義務教育の場で学習されて来た日本史だけにシビアな問題ではある。

疑問視される聖徳太子の存在と切り離した説として、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定は、実は当時絶大な権力を挙握していた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の手に拠るものではないかとの説も出始めた。

「冠位十二階」は、朝廷に仕える豪族・臣王達に十二階の位を定めて位に応じて色分けした冠を与えたもので、冠をさずける基準は一代限りとした個人の才能や功績とした。

色分けは、紫を頂点に青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目で判るようにし、これにより門閥(家柄による結びつき)をなくした人材の登用をめざしました。

しかしこの「冠位十二階」は畿内や周辺地域の豪族に限定され、しかも冠位の授与から蘇我氏が除かれていた為、「蘇我氏は冠位を授ける立場に在ったぼではないか?」との見方も根強い。

「十七条の憲法」に関しては、皇室を中心とする集権的な国家体制を作り出そうとする基本理念を表示した教訓的な性質のものだった。

いずれにしてもこの「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、特に当時の中華大陸の帝国・「隋」との付き合で国家と認めさせる事に腐心して、国家の体裁を内外に示した始めての制度と言えるものだった。


過っては我が国の最高額紙幣に使われたお馴染みの聖徳太子も、今や歴史上の人物から伝説上の人物へとその立場を変えつつある。

そうなると、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古大王(おおきみ/天皇・第三十三代・女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?

その理由であるが、厩戸皇子(聖徳太子)創作説を唱える者の中には、「厩舎で出産された」とする経緯が明らかにイエス・キリスト生誕の逸話と合致している所から、その物語を引用して「皇統天孫説に彩りを添えたかったのではないか?」とか推察している点である。

また、インド神話の財宝神クベーラを前身とするインド・ヒンドゥー教の神様に梵名・ヴァイシュラヴァナと呼ぶ神が居て、和名は毘沙門天(びしゃもんてん)である。

ヴァイシュラヴァナと言う称号は本来「ヴィシュラヴァス 神の息子」と言う意味で、彼の父親の名に由来するが、「良く聞く所の者」と言う意味にも解釈できる為、多聞天(たもんてん)とも訳される。

この多聞天(たもんてん)、どこか聖徳太子の「一度に多くの者の発言を聞き分ける」と言う超能力と似ては居まいか?

我輩は、多聞天(たもんてん/ヴァイシュラヴァナ神)をモデルにし、また経典に在る他の神々も取り入れて「聖徳太子と言う神格を創り挙げた」と睨んでいるが間違いだろうか?

また、「聖徳太子が遣隋使に託した」とされる遣使の国書の文言に

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」

とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。

厩戸皇子(聖徳太子)は、明らかに中華帝国との対等外交を繰り広げる積りでこの文面の書を送っている。

つまり、蘇我馬子またの名を厩戸皇子(うまやどのみこ)が大王(おおきみ・天皇)と対等だった。

しかし後世に伝えるにあたり、皇統以外の人物が主役では都合が悪い。

厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)が実在の人物を脚色したのではなく人物その者を創作したと成れば、益々この時代の実力者・蘇我馬子の功績を「皇統の功績に歪曲する為に登場させたのではないか」と言う疑惑である。

時代を錯誤する方が居られるので念押しをして置くが、この推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)の御世ではまだ坂東(関東)が開拓され始めたばかりで、大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威は関東以北の東北地方にまで到っていない。

その頃の東北地方は朝廷側言う所の蝦夷(えみし・縄文先住民)の国で、遥か時代が下がった桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の御世に征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)や坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を送って隷属化するまで異国の地だった。

つまり推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)の御世は、まだまだ大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威が混沌としていて不思議が無い。

その上での厩戸皇子(聖徳太子)に「虚像」の疑惑が浮上する。

古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。


日本書紀その他の文献に拠ると、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺は聖徳太子に拠って創建されたが、太子亡き後に政争に巻き込まれて太子一族は「六百三十余年頃に滅び」、法隆寺の伽藍は太子一族滅亡後に「火災で焼け落ちた」と伝えられ、子孫も含め太子の痕跡は跡形も無く消えている。

つまり現在の太子に関わる寺物・書物の類が、全て日本書紀編纂後の物ばかりに成る辻褄と符合する物語が出来上がっているのだ。

実際に火災で焼け落ちたとされる最初の法隆寺の遺構らしきものが発見されているので、法隆寺の存在は確かかも知れない。
だが、問題は聖徳太子とその太子一族の事である。

不思議なのは、焼け落ちて「再建された」とする現在の法隆寺の金堂に、「再建される前から在った」と見られる年代の「太子を模した」とされる本尊・釈迦三尊像そして夢殿に安置されている秘宝・救世観音(くせかんのん)が存在する。

厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の出現は、日本に於ける釈迦の出現とも言われている。
つまり神格化した存在である。

聖徳太子一族を攻め滅ぼしたのは蘇我氏と言われ、法隆寺が再建されたのは乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)が「天智大王に即位してから」と言うのだ。

それ故に天智天皇にすれば、自らの権力奪取の正当性の為にも、皇統に厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の神格化は必要だったのかも知れない。

そして何よりも、厩戸皇子(うまやどのみこ)を聖徳太子と初出したのは百年以上を経ってからの後の事で、辻褄合わせと言うか都合良くと言おうか太子一族が全て滅亡して跡形も無くなる事も謎である。

実は百五十年後に朝廷主導で編纂されたこの「厩戸皇子の物語」を、事実か創作か、現在知り得る断片的な条件では誰にも証明出来ない謎である。

確かに、聖徳太子を記述した古文書は多数存在する。

しかし公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「巧妙に構築した嘘」の感触は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

つまり「巧妙に構築した嘘」と言う隠された事実が在りながら、架空とも思える「聖徳太子の存在」を安易に肯定してしまって良いものだろうか?

この謎の結論を明記する学者が居るとすれば、それは別の妖しげな意志の基に書かれたものである。

蘇我氏(そがうじ)は、蘇我入鹿(そがのいるか)の代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らに宮中で襲われた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って討ち取られた。

そして蘇我氏(そがうじ)に「一族ことごとく討ち取られた」とされる「聖徳太子とその一族」が、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料に「初出」と言う形で出現する。

つまり聖徳太子の出現は、蘇我氏(そがうじ)を殊更悪しき存在としてその後に起こった乙巳の変(いっしのへん)の変事を正当化するものである。

そうしたあらゆる周辺の情況を集積すると、「謎の聖徳太子を出現させ最後に蘇我氏が太子一族を攻め滅ぼす」と言うストーリーの裏側に垣間見えるのは、皇統の神秘的な優秀性を主張する目論見とともに「蘇我氏一族の功績」をも葬り去る意図を持っての「百五十年後の創作ではなかった」とは言い切れない。

聖徳太子は皇位に就けなかったのではなく、存在しなかった。

存在しないからこそ当時の政治の中心・飛鳥に居住せず、斑鳩(いかるが)の里に住む謎の太子として日本史上に伝説として登場したのではないだろうか?

そうなれば、聖徳太子一族が「蘇我氏に滅ぼされた」と言う記述も「辻褄合わせ」と見る事ができるのである。

つまり「統治の都合」と言う事情に於いて、大きな背景の下に捏造した歴史は存在する。

推測での結論は貴方の考え方次第だが、その不確かな存在を後世の政治が、皇子のかなり誇大な能力と業績を家伝し、シンボリックに利用していた事は事実である。


あくまでも伝承であるが、聖徳太子(摂政 ・せっしょう)は秦氏族系の河勝(香具師の祖)伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴氏族の大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した」と伝えられる。

彼らは、修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して「聖徳太子の手足になった」と考えられ、伊賀・甲賀の発生に欠かせないのが修験道の「存在の歴史」である。

この秦氏族と大伴氏族が、その後の大王(おおきみ・天皇)の交替の歴史の中で臣王一族としては衰退して行き、その一族の一部が土着、土豪化して「伊賀者、甲賀者となって行く」と言う推測である。

つまり、国家の維持運営には「秘密警察」兼「諜報工作組織」が欠かせない事は、今も昔も共通していた。

そこで時の帝(天武天皇)に拠って役小角(えんのおずぬ)と修験道組織が創設される。

修験道組織は曲折を経た後年の桓武帝が没した頃、陰陽寮次官の「陰陽助」勘解由小路(かでのこうじ)の一部は、朝廷組織とは独立した大王(おおきみ・天皇)直属の裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党が密かに組織化される。

秦氏族系の伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・伊賀服部)と大伴氏族の大伴(おおとも・甲賀大伴)も、勘解由小路党、陰陽特殊武士団に組込まれたのである。

そして土着したのが、いずれも陰陽修験の所縁(ゆかり)の地、紀伊半島の里だったのである。


聖徳太子に関わりがある遣隋使(けんずいし)とは、日本史に於いて大和朝廷(ヤマト王権)の飛鳥期・推古朝(推古大王/すいこおおきみ)の頃、大陸・隋帝国との正式交流として派遣した朝貢使の事を指す史学上の名称である。

つまり朝貢使を派遣したとされる六百年(推古八年)から六百十八年に掛けて五回の派遣については、遣隋使(けんずいし)と言う呼称を大和朝廷(ヤマト王権)が使用して居た訳ではない。

そしてこの遣隋使(けんずいし)と言う史学上の朝貢使について、まだ解明されていない部分が多く、果たしてどれほどの精度がある事か怪しいのである。

まず、第一回目の朝貢使とされる派遣については大和朝廷(ヤマト王権)側の日本書紀などにその記述は見られず、「隋書・東夷傳俀國傳」に在る俀國(倭国?)の朝貢使を「第一回ではないか?」としている。

そこで問題が幾つかある。

まず「隋書・東夷傳俀國傳」に記載された「倭国の朝貢使」であるが、当時の大陸・隋帝国に於ける倭国の認識は、辺境の蛮国を指し必ずしも大和朝廷(ヤマト王権)を指すとは限らないからである。

大和朝廷(ヤマト王権)側に記録が無いにも拘らず、この「隋書・東夷傳俀國傳」の記載を持って第一回の遣隋使(けんずいし)としてしまうには、かなり後に成って確定した倭国=日本の定説を遡って適用してしまうからではないだろうか?

そしてもう一つ、日本史に於いて第一回目の朝貢使は推古大王(すいこおおきみ)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)が発案、派遣を命じたとされるが、その聖徳太子その者の存在も疑われていて遣隋使(けんずいし)の存在と整合性が採れていないのである。


第二回とされる六百七年(推古十五年)の朝貢使については「日本書紀」に記載があり、小野妹子(おののいもこ)が大唐国に「国書を持って派遣された」と記されているので実在と考えられる。

しかし大陸・隋帝国に朝貢使を送るも「大唐国に国書を持って派遣された」と記載あるを、かなり後(七百年代)に編纂された「日本書紀」の誤りなのか、大唐國は加羅國の宗主国の意味だったのかは定かではない。

小野妹子(おののいもこ)は、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で春日氏の一族・小野氏の出身とされる朝臣で小野臣、大徳冠の冠位を賜ったとされている。

但し、「隋書・東夷傳俀國傳」には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ倭国の「使者」とあるのみで、小野妹子の存在は虚構が多いとされる「日本書紀」に見えるだけである。

「隋書・東夷傳俀國傳」に拠ると、

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出されていた書を見た煬帝は、書に天子在るに「帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)」と立腹した
と書き記されている。

此処で注目して欲しいのは「倭国の使者」はあくまでも「隋書」の記述で在って、大和朝廷(ヤマト王権)側は「日出ずる処の天子」を名乗り、倭王ではない。

「隋書」では大和の国に当たる国名は記されて居らず、「都於邪靡堆(都はやまたいにある)」と記されて在る事から「東夷傳俀國」が大和朝廷(ヤマト王権)を指すと解釈されている。

小野妹子はその後返書を持たされて返されるが、帰途に於いて返書を百済に盗まれて無くしてしまったとし、煬帝の返書は大和朝廷(ヤマト王権)が受け取っていない事になっている。

煬帝の返書の内容がとても大和朝廷(ヤマト王権)に容認できない為に、受け取らなかった事にしたのではないかと言う推測が定説である。



伊豆の国市(旧田方郡大仁)の大仁(おおひと)名称は、六百三年(推古十一年)の冠位十二階の大仁(だいにん)に関係がありそうである。

冠位十二階とは、大和朝廷に勤める人の上下関係をはっきりさせる制度で、氏や家柄だけにとらわれずに、能力や功績に応じて徳・仁・礼・信・義・智の六つの冠をそれぞれ大小に分け、十二階とし、冠の色を使い分け、可視的な身分秩序の冠位を与える事を制定した。

薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い服の色は皆それぞれの冠の色と同じで冠にかんざしを挿して正装して参加した。

伊豆の国市大仁(おおひと)は、大仁(だいにん)に序せられた「朝廷の大物の本拠地」と言う事も考えられる。

ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿(さ)していた。

大仁(だいにん)は序列三位で、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していた。

そして、この朝廷序列三位の高位・大仁(だいにん)と伊豆の国市大仁(おおひと)を結び付けられる存在は、臣王・葛城氏(賀茂氏)を置いて他に想いあたる事は無いのである。

「日本書紀」に拠ると、遡る六百四十六年、孝徳天皇の大化二年三月、甲申(こうしん)の条に長文の詔「大化薄葬令」がある。

王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室つくる事は認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。

この事から、伊豆の国田方地区の古墳群は少なくとも「大化薄葬令」以前の埋葬または王以上、上臣、下臣の古墳と言う事になる。



一方の倭国である朝鮮半島では、日本列島・大和朝廷が飛鳥時代になる頃に百済(くだら・ペクチェ)が新羅(しらぎ・シルラ)と中華帝国「唐」の連合軍に敗れ、滅んでいる。

大和朝廷は百済再興の為、大軍を送ったが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまう。

この敗戦のダメージは、相当大きかったに違いない。

この頃、戦勝国「新羅」から、「多くの王族、豪族が渡来して来た」と言われている。

百済(くだら・ペクチェ)滅亡から八年、高句麗(こうくり・コグリョ)も新羅(しらぎ・シルラ)・「唐」の連合軍に滅ぼされ、新羅が始めて朝鮮半島を統一するのだ。

この新羅による朝鮮半島統一が、将来の日韓関係にとって不幸の始まりであった。

何しろ新羅は「唐」の力を借りて、統一をした。

その為に顔が「唐」の方ばかり向いて、同じ倭の国、「大和の国」の事を、敵視する様に成ったからだ。

もっとも、現代のどこかの経済大国も東の大国の方ばかり向いて、近隣諸国をないがしろにしている様で、とても「太古の他人事」と批判は言えない。


仏教が伝来する以前、大和の国は神々の国である。

為政者達は、その統治権の正当性を神の子孫に求めた。

そして大法螺(おおぼら)とも言うべきストーリーをでっち上げた。

一度始めた大法螺(おおぼら)は、法螺(ほら)の上に法螺(ほら)を重ねる事になる。

それがやがて古事記、日本書紀に編纂されたのである。


繰り返すが、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る先入観からである。

「記・紀編纂当時(七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀)」の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。
そう考えれば、検証が楽になる。

過去の歴史家の手法は、「記・紀」に現存する事実を当て嵌めようしていた事で、問題なのは、「政府の編纂は正しい筈」と言う前提が、心の何処かにあっての手法で、そこには最初から拭い去れない先入観が在ったのである。

従って、この現代に正確な歴史観として採用するには難がある。

難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。


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(桓武帝と平安京)

◇◆◇◆(桓武帝と平安京)◆◇◆◇◆

平安期とは、桓武天皇が長岡京から平安京に都を遷都した七百九十四年から鎌倉幕府が成立した千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)までの間を指す。

つまり、凡そ千年に及び天皇の住まいし都・平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て千八百六十八年(慶応四年/明治元年)に、江戸(東京)の地に遷都(えどせんと)され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となるが、時代としての「平安時代」の呼び名は千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)の鎌倉幕府成立の時点で「鎌倉時代」と代わっている。

平安期には、清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)などの女流作家が生まれ貴族文化を象徴する七世紀後半から八世紀後半にかけて編纂された「万葉集」が在る。

平安期の貴族文化は、恋歌の恋愛遊戯をする歌掛けの習俗文化である。

第五巻で詳しく記述するが、平安初期から平安中期に掛けて、万葉歌にも記載される歌垣(うたがき)に代表される性風習が列島の国・大和(日本)に広く永く存在した。

この平安中期(七百五十年代)の頃、万葉集選者とみなされている大伴家持(おおとものやかもち)が権力闘争に翻弄されながらも生きていた。

中納言・大伴家持(おおとものやかもち)は、言わずと知れた古代豪族・大伴氏出自の高級貴族である。

家持(やかもち)は、三十六歌仙の一人と並び称される奈良時代の貴族・歌人で、大納言・大伴旅人(おおとものたびと)の子であるが、万葉集作品の凡そ一割が家持(やかもち)作である事から万葉集選者とみなされている。

当初「万葉集」は公的なものではなく、家持(やかもち)が寄せ集めた私的な編集収蔵物だったものが、「没後二十年以上経って世に出た」もので平安中期より前の文献に無く、中期の頃から史料に見えるようになった経緯が在る。

編纂された歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。

歌集「万葉集」は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしているが歌は日本語の語順で書かれていて、編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法「万葉仮名」を用いた。

つまり「万葉仮名」は、漢字の意味とは関係なく漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたもので、その意味では漢字を用いながらも、日本人が日本人の為に使った最初の文字と言える。

その「万葉集」以後の百五十年間をまとめる為、醍醐天皇の勅命によって編纂され九百五年(延喜五年)に出来た古今和歌集などの存在から、この平安期について単純に「平安文化が息づく良い時代」と考えている方が多い。

しかも現代に到っては、「平安」と言うネーミングそのものがその時代に対して「平和な良い時代」と言うイメージの先入観を持たせるに充分足りる名称である。

しかしそうした平安文化は、都の一部の氏族・貴族生活に於ける文献を基にした表面的な物を解釈したに過ぎない事に留意しなければならない。

桓武帝が平安遷都をした頃は、まだその大和朝廷(ヤマト王権)の権威が確立していたのは日本列島の半分・西日本に過ぎず、坂東(関東)以東から奥州(東北)に到る地域は、大和朝廷に取っては未だ混沌とした辺境の地だった。

確かに、華やかな平安貴族の文学に色採られた優雅な生活を生活に想いを馳せば、平安期を平和で文化的な「良い時代」と思い込んでしまうのも無理はない。

実はこの平安期、大和朝廷(ヤマト王権)が西日本から日本列島の全域に広がる過程の時代で、けして優雅に明け暮れる平坦な平和の時代では無かった。

むしろこうした平安文化を象徴する読み物や歌集に大和朝廷(ヤマト王権)が力を入れた背景は、地方の陰惨な現実を文化面で覆い隠す狙いでも在り、平安期の蝦夷支配の実態から目を逸らして後の世に伝え難くする政治的狙いが在ったのではないか?

つまり都の貴族生活だけが文献として後世に残り伝えられた物だから、影に隠れた庶民(良民)や奴婢(ぬひ)・俘囚(ふしゅう)の生活は認識から欠落し、また地方で起こった地方貴族の反乱や俘囚(ふしゅう)に拠る平安群盗など多くの騒乱の類も都の貴族生活に隠れてしまっていたのだ。


七百九十四年(延暦十三年)秋の十月に桓武天皇は新都に遷(うつ)り、翌月に平らかで安らかな都を願い「この都を平安京(たいらのみやこ)と名付ける」と詔(みことのり)を下す。

この桓武天皇に拠る平安京(へいあんきょう)への遷都には、方位学を始めとする「陰陽寮」の占術呪詛知識の結集が力を発揮している。

また、この時代まで下がると朝廷が管理する蝦夷のエリアも広範囲に渡り、鎮守を中心とした朝廷側の入植地や鎮守府の政治拠点を置いてはいたが、被征服者側の抵抗は時折発生していた。

そして東北には、未だ大和朝廷方の手が入らない「まつろわぬ土地」も存在した。


七百八十六年(延暦五年)桓武天皇は、野望を適えるべく「蝦夷征伐」の動員令を発令し、二年間で東海・東山・板東の残存蝦夷勢力を平定、東北平定の準備を始める。


桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではない。

征服王として桓武天皇はこの国の歴史に偉大な足跡を残したが、征服される側にとっては恐ろしい阿修羅のごとき相手である。

皇統史の中で一際強烈な存在感を持つのが類まれな発想の持ち主、桓武天皇(第五十代)である。

そして桓武天皇は強力な武力を持っていたが、それだけでは統治が難しい事を知っていた。

桓武天皇は、天武天皇(てんむてんのう)の始めた古事記・日本書紀の編纂事業にも手を着け始めている。

古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。

いずれにしても、皇統の正当性を記述した古事記・日本書紀の編纂と同時進行でその神話伝説を現実のものとしなければ、桓武天皇の野望は達せられない。

そこで宮廷に仕えていた呪術者(シャーマン)・役(えん)の行者(小角/おづぬ)」)の後継者・賀茂氏の賀茂忠行・賀茂保憲父子に命じて、呪術を持って民に「天孫降臨」の信仰を広め、同時に監視・工作する直属の闇の情報工作組織・裏陰陽修験組織を立ち上げる。

同時に朝廷内の中務省に「陰陽寮」を設置して、表の顔としては賀茂忠行の弟子にして蝦夷系豪族の血筋・安倍清明を陰陽首座(長官)に任用する。

絶大な力を持って君臨した桓武天皇だが、千年に一度の天才が皇統と言う恵まれた舞台に生まれ出た奇跡が、多くの事を一気に進めた歴史的切れ目だった。

桓武天皇には実はもうひとつだけ、現代人でも中々思い付かない発想での壮大な計画が在ったが、それは発表して推し進める性質のものではなく密かに遂行するべき国家大目標だった。

いずれ明らかになるのだが、この桓武天皇の仰天すべき発想こそがその後のこの国の「全てに関わる重要な事の発端」と言って過言ではない。

そしてこの桓武天皇の強烈に好戦的な指導者の末裔が、この国の歴史の節目節目に現れて歴史の彩を織り成す事になるので、桓武帝の存在は忘れないで読み進めて欲しい。


遷都事業に手をつけた桓武天皇は、次は東北の蝦夷征伐と、七百八十八年(延暦七年)七月紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍に任命、七百八十九年(延暦八年)兵員、五万三千人 を集めて、東海・東山・板東から奥州に大軍を送り、東北に進行を開始する。

蝦夷が反乱を起こしたからその征伐に出掛けるのではなく、侵攻の最終目標は日高見国征服で、何年間も兵たんの準備をして何万もの軍勢でもっての侵攻作戦を立てている国家意志による侵略戦争である。

まず、このヒタカミ(日高見国)蝦夷の役、官軍と賊軍と表現する歴史学者も居るが、その表現は正しくない。

アテルイ(阿弖流為)は賊軍ではなく、祖国防衛軍である。

独立している祖国を、これから征服しようとする相手に、何で「賊軍」と呼ばれなければ成らないのか?

大和朝廷側の文献を鵜呑みに読む歴史学者の、余りにも大和朝廷寄りに偏った発想である。

ヒタカミ(日高見国)は 、七百二十四年に大和朝廷側の蝦夷開拓使・陸奥鎮守将軍・大野東人(おおののあずまびと)が、多賀柵(宮城県)を築いてからは北の方へ支配地を狭められて、主な支配地域は宮城県北を含む岩手県と秋田県内陸になっていた。

周囲は同じ蝦夷族の居住地だが、既に大和朝廷の支配下に置かれてヒタカミ(日高見国)は孤立していた。

ヒタカミ(日高見国)は度重なる大和朝廷(大和王権)の侵略にも耐えてきたが、 ここに大きく強力な敵、桓武天皇が現れる。

ヒタカミ(日高見国)蝦夷の首領にアテルイ(阿弖流為)と呼ばれる指導者がいた。

この名前、個人名なのか、地位の名称なのかまだ結論が出ていない。

アテルイ(阿弖流為)を人名と決め付けたのが現在の事情で有るが、悪路帝(王)説によると、「悪路」と言うのはアイヌ語の「アコロ」と同じ意味で、「われわれの」と言う意味ではないか、と言う事である。

つまり、平泉周辺の人々は、アテルイの事を「アクロオウ」と呼ぶ事で、ひそかに、昔の自分達の言葉で「我々の王」と呼んでいたのではないかと言う説もある。

弱小の村落を平定するのは容易であるが、いかに朝廷軍と言えども組織的に抵抗されるとそう簡単には決着がつかない。

征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、蝦夷の首領アテルイに大敗を喫する。

征討軍は北上川にそって北上を始めた。

余談だが、この北上川(きたかみがわ)の呼び名、本当はヒタカミカワ(日高見川)である。

対する蝦夷軍の将軍はアテルイ(阿弖流為)、朝廷軍は隊を二つに分けて進軍した。

アテルイ軍はその館から三百人ほどが出て抵抗を試みるが、適わず退却し、紀軍は村々を焼き払って追撃する。

日高見川(北上川)を渡った朝廷の戦闘部隊、四千人ほどの当時としては大軍が水沢の巣伏村に来た頃に、アテルイは急遽反撃に出る。

一部は後方に回ってこの渡河部隊を挟み撃ちにし激戦となるが、ここで朝廷軍は壊滅的な大敗北を喫する。

紀軍(朝廷側)の被害は戦死者二十五人・矢にあたった者二百四十五人・河で溺死した者千三十六人・河を泳ぎ 逃げて来た者千二百十七人と言う敗北で有る。

紀(朝廷)軍はここに来るまでに十四村・住居八百戸 を焼き討ちにして、アテルイ軍の戦死者は八十九人だった。

この住居焼き討ち戦果の記述、紀(朝廷)軍がまったくの侵略軍だった事を物語っている。



大和朝廷(ヤマト王権)の勢力図は、七百十年代頃の多賀城の鎮守府設営(宮城県)から百年かけて北上を続け、今の青森県の手前に到達している。

この百年間は、大和朝廷(ヤマト王権)勢力の奥州(東北地方)侵略の歴史で、エミシ(蝦夷)側にすれば、アテルイ(阿弖流為)やモレィ(母礼)は民族の英雄だった。

千九百九十年以降、漸(ようやく)くアテルイ(阿弖流為)と言う人名が教科書の歴史に記載される。

千九百九十七年度、中学校歴史教科書七社のうち三社がアテルイを取り上げ、二千二年度までに、八社中七社がアテルイ(阿弖流為)を記述するようになった。

二千年度前後で漸(ようやく)く中学校歴史教育に取り上げられたアテルイ(阿弖流為)の存在は、北海道の先住民族・アイヌに比較し東北の先住民族・エミシの復権が遅れた事を物語って居る。


蝦夷征伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての武人公家である。

古佐美(こさみ)の紀氏(きし/きのうじ)は、武内宿禰(たけのうちすくね)系の古代豪族の一つで、宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造(きいくにのみやっこ)家の出であった事から母方の紀姓を息子に名乗らせたとされる。

紀氏(きし/きのうじ)は、古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていた。

しかしヒタカミ(日高見国)蝦夷の役で桓武天皇に命じられて征夷将軍として出撃した紀古佐美(きのこさみ)は、アテルイ(阿弖流為)の反撃に合い敗退して九月十九日に帰京したが、敗北の責任を喚問されて征夷将軍の位を剥奪された。

その敗戦後を受けてヒタカミ(日高見国)攻略に成功し、初代・征夷大将軍に出世したのが坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。

しかしこんな事で諦める桓武天皇ではなかった。

七百九十一年(延暦十年)蝦夷征伐準備のため、 征夷使・坂上田村麻呂と滅亡した朝鮮百済王族の後裔・征夷副使・百済俊哲(くだらのしゅんてつ)を東海道諸国に派遣している。

この記述、「征伐準備の為」となっているが、建前大和朝廷が統治権を確立している事に成っている為で、「実は東海道諸国の平定だった」とも言われている。

蝦夷征伐準備が整い、七月に大伴弟麻呂を征夷大使に任命して坂上田村麻呂は四人の征夷副使の一人となる。

この間にも七百九十二年には紫波村の首長の胆沢公阿奴志己(アヌ シユ)が朝廷に恭順を示すなど、蝦夷の方でもまとまり(団結)が欠けて行く。

同じ年(延暦十年)の七月、いよいよ討伐軍十万が派遣され、延暦十三年四月にこの大軍が北進を開始した。

七百九十四年、六月には副将軍坂上田村麻呂以下蝦夷を征すとの報告をしている。

延暦十三年に首級四百五十七個を挙げると言う大勝利を収める。

十一月二十八日、大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上した。

この戦で坂上田村麻呂の活躍がめざましく、大いに面目を施した。

渡来氏族に、鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた蝦夷(エミシ)族にしてみれば、ヤマト王権の桓武天皇こそ鬼そのものだった。

そしてその手先が、征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)だった。


紀古佐美(きのこさみ)以後の紀氏(きし/きのうじ)であるが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めて来るに連れて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降の紀氏(きし/きのうじ)は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無く成った。

紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

氏族・紀氏(きし/きのうじ)の長は紀伊国造(きいくにのみやっこ)を称し、現在に至るまで日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。

紀氏(きし/きのうじ)では、平安期・九百五年(延喜五年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した歌人の紀貫之(きのつらゆき)が有名である。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。


国を統治する上で、交通網の整備は欠かせない。

昔の街道は、制定されると土地土地の責任でそれなりに手入れがされ、整備はされていたが、今では考えられない程細い「土埃の街道だった。」と思われている。

我輩の理解もそんな処で、そう思うのが自然で在ったが、意外な事に、この街道に対する認識は江戸期以後の認識らしい。

調べてみると、そもそも道の成立ちは二種類ある。

つまり、道が出来て町が出来るのか。

町が出来て道ができるのか。

当初開かれた日本の街道は、開拓地に相応しい米国型の道路だった。

七世紀の天智天皇以降に全国に張り巡らされた古代の幹線道路は、有事の際、軍隊や馬をいち早く移動させる必要から、ほとんどが要所に関所と駅屋(うまや・厩駅舎)を配置した「幅の広い直線道路」だった。

つまり、開拓と地方の治安維持が目的の街道だったのである。

その古代の広く真っ直ぐな街道が、やがて使われなくなる。

分国単位の封建統治がその所領ごとの防衛の必要性を生み出して、広い一本道は敬遠されたのである。

また、生活上の地形に合わせて発生した無秩序な集落を繋ぐ為に、「細く曲がりくねった街道になった」と言われ、十二世紀ごろまでには国策の幹線道路が使われなくなっている。

その幅広い道は今の様に海岸線ではなく、主として山の中腹に切り開かれていた。

現在の様に山腹にトンネルをうがつ近代土木技術と違うから、地形の高低さを克服するには、山の中腹と低い山の峠を繋いで行く峠道が有効だった。

その街道を疾走したのが、坂上田村麻呂と征夷軍だったのである。

十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、七百八十七年に近衛少将に、七百八十八年に越後守に昇進している。

七百九十五年、(延暦十四年)には抵抗した俘囚大伴部・阿テ良(アテラ)等 六十六人を日向国に流配し、陸奥国俘囚・吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)父子を斬首している。

阿テ良(アテラ)は阿弖流為(アテルイ)の別称か、親族かは不明である。


七百九十六年、(延暦十五年)田村麻呂は陸奥出按察使・陸奥守、に任命され、 翌、延暦十六年にはついに征夷大将軍に任じられる。

八百一年(延暦二十年)二月十四日、坂上田村麻呂は兵員 四万人を動員して、第三次征夷蝦夷攻撃に出発した。 田村麻呂の戦果は目覚しく、秋には従三位を授けられ、九月二十七日には「夷賊討伐せり」と報告として作戦を終了している。

度重なる攻撃で、蝦夷(エミシ)のアテルイと同盟軍モレィ(母礼)も力の衰えが見えていた。

翌八百二年(延暦二一年)には、長い間朝廷の征夷作戦に抵抗して来た蝦夷の首領・アテルイも・モレィ(母礼)等、「種類(配下)五百余 人を率いて降参する」としてアテルイは田村麻呂の軍門に下った。

田村麻呂は、日高見国の中心だった所に胆沢城(岩手県水沢市の近く)を作り、そこに関東から流浪人(囚人)を四千人ほど入れて永久 占領の構えを見せ始める。 朝廷軍は敵の本拠地を占領して城を作り始めた事になる。


祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、東北地方の祭らわぬ(マツラワヌ)山の民「またぎ」が、今日ではこの「日高見(北上)国の阿弖流為達の子孫達ではないか?」と言われて居る。

勝利成って、征夷大将軍・田村麻呂はアテルイとモレィ(母礼)を連れて帰京、凱旋している。

七月二十五日朝廷は大喜びして、「朝廷の役人総動員で蝦夷平定を祝賀する」と言う状態だったのである。

何やら、明治、大正、昭和期の戦勝賛賀、「ちょうちん行列」を思い起こさせるしろものである。

八百二年(延暦二十一年)八月十三日アテルイとモレィ(母礼)は河内国の杜山で斬刑に 処せられた。

その後の田村麻呂は八百十年(弘仁元年・平安時代初期)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられた。

そして八百十一年(弘仁二年)五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で田村麻呂は死去する。


坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が任じた征夷大将軍は朝廷の令外官の一つで、桓武天皇(第五十代)がまだ祭(まつ)らわなかった奥州の東北蝦夷(とうほくエミシ)の平定を目論んで任命した征夷大将軍の前身である征夷将軍・巨勢麻呂(こせのまろ)や征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)などの役職が存在した。

征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の敗戦後、天皇の考えを「逐一聞かなくても良い」と言う軍人全ての世俗的な最高司令官としての力が備わった職権を有する征夷大将軍が制定される。

初代征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、二代征夷大将軍に坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を任じた事に始まっている。


九百四十年(天慶三年)に藤原忠文(ふじわらのただぶみ)が平将門を追討する為に右衛門督・征東大将軍任じられ、千百八十四年(元暦元年)に源義仲(木曽義仲)が、征東(大)将軍に任じられているが、いずれも蝦夷征討を目的としたものではない。

また、千八十三年(永保三年)の後三年の役(ごさんねんのえき)の折に、源義家(八幡太郎義家)が奥州鎮守府将軍として東北の兵乱を平定しながら朝廷から評価されず止む負えず部下に自費で恩賞を配った。

その事から、「武家の棟梁には源氏」と言う風潮が出来て後の征夷大将軍には源氏の血流が必要となって行き、鎌倉・室町・江戸と一応源氏の血流と言う事に成って居る。

その後、征夷大将軍は征夷(蝦夷征伐/エミシ征伐)と言う目的から離れて天皇が任命する軍の最高司令官の役職名と成り、天皇によって任命される事から天皇の持つ神聖さも持ち合わせる事ができると解される。

征夷大将軍は、鎌倉中期から江戸幕末まで約六百七十五年間に渡って軍人である侍が行政全てを行っていた事から、国王に近い権力を持つ事ができた。

千百八十五年(千百九十二年/建久三年説あり)源頼朝が征夷大将軍の位を得て源・鎌倉幕府を開いて後、但し三代将軍・以降は北条得宗家による専制政治の約百五十年間の鎌倉期がある。

その鎌倉幕府を倒した後醍醐帝の建武政権から離反した足利尊氏が千三百三十六年(建武三年)に成立させた室町幕府十五代・約二百四十年間が室町期となる。

足利・室町幕府が衰退して統治能力が無く成り、戦国期から安土桃山期を経て徳川家康が千六百三年(慶長八年)に征夷大将軍に任官し創設した武家政権の徳川・江戸幕府十五代・約二百六十年間と、征夷大将軍を長とする武家政権が続いた。

征夷大将軍による武家政権の終焉は、千八百六十七年(慶応三年)、江戸幕府最後の将軍と成る徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。


歴史的に見れば、時代時代で恋愛事情や性習俗の社会的合意に違いがある。

それでも、当時の人々の気持ちや習慣が理解出来ないから、何か現代感覚とは不一致の事柄を記述すると「信じられない」と否定し、「今風に判り易くしてくれ」と言う。

「今風に判り易く」は、恋愛一つ採っても時代考証的に当時の社会環境を無視しなければ今風には成らない。

娯楽テレビドラマの様に今風に判り易く書く事は、我輩には読者を馬鹿にするような気がするが、例え嘘でもそれを望む方も結構いる。

婚姻形式一つ採っても平安期の貴族社会では「呼ばう(夜這い)」の通い婚が当たり前で、男性が女性の家に通って来る。

「呼ばう(夜這い)」に応じるかどうかは女性に選択権があり、そこで女性は好ましい殿方が居れば「呼ばう(夜這い)」に応じて寝所に招き入れたから、つかぬ間の恋や複数の恋人を持つ事も多分にあった。

また上流社会に於いては、夫婦やカップルで野外へ出かけて行き、歌詠みの場を設けて作歌を取り交わして即席の求愛をする乱交ゲーム「歌垣(うたがき)」などの遊びも存在した。

そうした貴族社会の婚姻形式や恋愛事情、性習俗には当時としては社会的合意が成されていたのだが、現代風に解釈すれば酷く乱れた性習俗で「信じられない」や「とんでもない」と言う事になる。

一方、歴史ドラマでは登場する機会が無い「民人」、つまり被征服民族である縄文人系の村落社会に於ける性習俗では「群れ婚状態」の共生主義村社会が主流で、永い事村落(群れ)の男女は相手を定める事無く全て婚姻関係にあった。

つまり当時と言う時代考証を念頭に物語は綴るべきものだが、この辺りの性習俗の事情は本書の第四章に詳しく記述するので、ここはサラリと読み進めて欲しい。



八世紀に入り、ちょうど桓武天皇の第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)した頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

同じ頃、伴に帰国を果たした最澄が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺(京都府と滋賀県の県境)を創建する。

この頃の都は、長岡京 (ながおかきょう)から遷都(七百九十四年)されたばかりの平安京(へいあんきょう)だった。

佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五〜六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部の国造(くにのみやっこ)である。

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に、俗名を佐伯真魚(さえきのまお)・弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯は部民(べみん)としての称号であり小領として治めた地名、直(あたい)が姓、田公(たきみ)が名、善通(よしみち)は別称で、直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。


七百九十二年(延暦十一年)、佐伯真魚(さえきのまお)は十八歳で京の大学寮に入り、翌七百九十三年(延暦十二年)頃から山林での修行に入った。

約十年間山林修行を重ねた八百四年(延暦二十三年年)、空海は突然遣唐使(けんとうし)の遣唐留学僧として浮上、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)の資格を得て唐に渡る。

弘法大師・空海は多くの知識と経典を得、唐での二十年の留学予定期間を僅か二年で切り上げ、八百六年(大同元年)十月に多数の経典を携えて無事帰国した。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。

金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を朝廷に期待させる事に成功する。

当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。

その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、「潅頂(かんじょう)」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶(さんまや)と呼んでいる。

空海が唐から伝えた経典の一部に、密教がある。

同時期に帰国した天台宗の最澄も空海の密教理念を自派の教えに取り入れる。


役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させてから百三十年余り後、ここで陰陽修験道は新たな時代を迎える。

弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、大和国(日本)にもたらした密教の、強力な「現世利益の秘法」は、「深遠な秘密の教え」の意味である。

この真言宗の教えの中の密教と陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)などが結びついて、新しい形式の修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏・台密)、真言宗の当山派(真言山伏・東密)などが、結び付いて発展している。

八世紀(平安初期)の始め、ちょうど弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)が仏教修行に行っていた唐(中国)から帰って来た頃、時を同じくして陰陽寮が設置される。

この事は、偶然だろうか?
いや、明らかに大和朝廷はこれを「統治に利用しよう」と考えたのである。

律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。

この陰陽寮が属している中務省は 天皇とその政に関する仕事を受け持つ所で、言わば天皇直属の機関である。

当然ながら、それに付する「陰陽寮」も例外ではない。

つまり、密教と陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)が結びついたのは、「自然の流れ」と言うよりも、「統治者の意図に由来するもの」と考えられるのである。

修験者とは、修験道を修行する者で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、「現世利益をもたらす呪術(呪詛・まじないの力)を体得しよう」とする宗教である。

新たに密教を得た修験者や修行僧のあらゆる模索の後、やがて修験道が成立し、それが皇統の思惑と結び付いて、陰陽寮が生まれ、政府機関に取り込まれて行ったのである。


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(伊豆の国=伊都国)

◇◆◇◆(伊豆の国=伊都国)◆◇◆◇◆

伊豆半島は学説によると昔は太平洋上の島だったのだが、人類誕生以前の大昔に日本列島にぶつかり、その地殻の動きが火山活動を刺激して富士火山帯が誕生、名峰「富士山」や箱根連山を生み出したと言われている。

黒潮の流れ沿いに位置し、間違いなく隼人(はやと)の子孫たちが辿り着くべき、ロマンを持ち合わせる半島である。

伊豆国は、葛城・賀茂家(勘解由小路)にも縁があるが、空海(弘法大師)の真言宗にも早い時期から縁が深い。

その理由を考えると、伊豆半島が「重大な意味を持つ土地柄」と言う解釈が成りたつ。

日本の古代史に、多くの謎を放っているのがこの伊豆半島であり、多くの歴史的舞台に成ってもいる。

平安初期の八百六年(大同一年)、空海(弘法大師)は唐から帰国し、帰国して十年後に高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山した。

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある空海(弘法大師)が開山した高野山・真言宗・総本山の寺院である。

高野山は、和歌山県北部、周囲を千メートル級の山々に囲まれた標高約八百メートルの平坦地に位置し、百ヶ寺以上の寺院が密集する他に例を見ない宗教都市の姿を持っている。

空海(弘法大師)が若い時に修行した事のある山に真言密教の道場を設立する事を嵯峨天皇に願い出て、高野山の地を賜ったのは八百十六年(弘仁七年)の事だった。

その空海(弘法大師)は高野山・総本山の開山より早く、帰国翌年の八百七年(大同二年)に早くも伊豆半島中心の桂谷に桂谷山寺(けいこくさんじ)を開基する。

桂谷山寺(けいこくさんじ)は、伊豆の修善寺温泉発祥の寺で、温泉郷の中心にある。

この温泉、伝承に拠ると空海(弘法大師)が「独鈷(とっこ)の湯を発見した事から始まった」となっているが、恐らく山岳資源調査に長けた修験導師の活躍に拠るのであろう。

冷静に見ると、高僧の奇蹟は信仰を集める為の陰陽修験の仕事で、演出された風説の流布である。

勿論、湯治と言う治療効果のあるものと、信仰上の奇跡を結び付ける手段である。


修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で山号を福地山とする為、正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」である。

その修禅寺(しゅぜんじ)の寺領の地を、修善寺(注・寺の方はゼンの字が禅の修禅寺が正)と呼び、現在は静岡県伊豆市修善寺である。

現在は曹洞宗の寺院・修禅寺(しゅぜんじ)であるが、開山したのは真言宗・空海(弘法大師)で、当時は地名が桂谷と呼ばれていた処から、真言宗の桂谷山寺(けいこくさんじ)と言われる格式の高い寺だった。

そしてこの修善寺には、空海(弘法大師)が開いたと伝えられる独鈷の湯(とっこのゆ)が、現在でも有名な温泉地として栄えている。

真言宗・桂谷山寺(けいこくさんじ/修善寺)は、「延喜式」に於いて、「伊豆国禅院一千束と記された」としている。

空海(弘法大師)に拠る桂谷山寺(けいこくさんじ/修善寺)の開山は、中国から帰国して高野山に金剛峰寺を開山して僅か一年と経たない事業だった。

何故、空海(弘法大師)が高野山に金剛峰寺を開山した直後に、伊豆半島中心の地「桂谷」に桂谷山寺の開基を急いだのか?

その伊豆の地が、「田京」と言う謎の都を有する日本史上特別の重要な土地だったからである。

その後、源頼朝が鎌倉の地に幕府を開府した鎌倉時代初期に、有力御家人を排出した事から修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。

また、源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府二代将軍・源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害された地としても知られている。

千二百四十九年〜千二百五十五年の建長年間に、大陸元帝国の密偵と疑われていた南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が避難の為に修禅寺に来住し、それに伴って一時「臨済宗」に改宗された。
その後、千三百六十一年(康安元年)の畠山国清(伊豆国守護大名)と足利基氏(鎌倉公方の祖)の戦乱の被害を受け、更に千四百九年(応永九年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃した。

その後、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させ、以後曹洞宗の寺と成って今日に到る。


修善寺温泉は、空海(弘法大師)の発見した温泉」と伝えられている。

温泉やそれに伴って採れる鉱物を捜すのは政府広報活動を目的とした修験行脚(あんぎゃ)の為の科学知識で、修験鉱山師の技でもある。

その修験行脚(あんぎゃ)から妙見、薬師、呪術、芸能などが全国に広まった。

民間伝承の多くはこうした修験者、鉱山師たちの喧伝により民間に浸透したのだが、どうした訳か、全国に弘法大師(空海)が発見したとされる温泉が無数にある。

これは在り得ない。

何故ならこれ(温泉発見)が異常に数が多いので、弘法大師(空海)がその為に時間を割ける訳も無く、大師の名声を高める為の修験組織の「策略的喧伝」と考えられ、また温泉発見伝承は修験組織に拠る金鉱探査事業の隠れ蓑だった可能性が高い。

これは余談だが、この独鈷(とっこ)は仏法の法具である。

正式には、独鈷杵(とっこしょ)と言う。

本来、独鈷杵(とっこしょ)は金剛杵(ヴァジュラ・・こんごうしょ)とも呼ばれ、守護神の金剛神(ヘラクレス)が手にしていた。

人間の心の中の悪しき煩悩を撃ち砕き、本来の人間性を引き出す為の法具である。

元の形状は細い鉄アレーの様な物で、アレーの球形にあたる部分の両側が杵(きね)の形を成し、真ん中を握る形状をしていた。

その鉄アレーの杵(きね)状の両側部分の杵(きね)を、インドに在った武器、「槍の鉾先」につけ替えたのが独鈷杵(とっこしょ)である。

追々説明して行くが、この独鈷杵(とっこしょ)と言う仏法の法具(密教法具)の存在こそ、日本の密教がインド・ヒンドゥー教の聖典に大きく影響を受けている証(あかし)で在った。

そしてその渡り来たヒンドゥー教の教義が、日本中に浸透して行く事になる。

その独鈷杵(とっこしょ)がインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的意味合いをもち、修験密教僧を現す為の法具となった。

弘法大師も布教と護身を兼ねて、独鈷杵(とっこしょ)を携えていた。

弘法大師が、この法具・独鈷杵(とっこしょ)を岩に振り下した処に「温泉が湧いた。」と言う伝承が残って「独鈷(とっこ)の湯」と呼ばれる。
,br> この独鈷杵(とっこしょ)、両側部分が槍の穂先状である事から、法具ではあるが使い様に拠っては充分に武器となる。

当然修験山伏の護身用にはもってこいで、平安期以後の真言宗(東密)、天台宗(台密)の山伏修験僧から、独鈷杵(とっこしょ)武術の名手が出てきても不思議はない。

また、根来修験などではクナイ(手裏剣と独鈷杵の融合した武器)などの修験独特な武器に転用して行ったのかも知れない。

空海(弘法大師)と同じ頃、伴に帰国を果たした最澄(さいちょう/伝教大師)が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺(京都府と滋賀県の県境)を創建する。

最澄(伝教大師)は、空海(弘法大師)と共に信仰(仏教)のみならずあらゆる最先端の大陸文明を持ち帰り、日本列島(大和の国)の新時代の扉を開くきっかけをもたらせた。

二人の帰国は、ちょうど桓武天皇(かんむてんのう)のダイナミックな治世が行われた頃で、この頃の都は長岡京 (ながおかきょう)から遷都(七百九十四年)されたばかりの平安京(へいあんきょう)だった。

その天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて伊豆国を成立させている。

そして空海(弘法大師)は、帰朝して間もない時期に都から遠い伊豆国、修善寺の地におお慌てで「桂谷寺」と言う寺を開山し、伊豆国に橋頭堡を築いている。

この伊豆国に固執する桓武天皇(かんむてんのう)と空海(弘法大師)の時を同じくする一連の動きには、何か隠された伊豆国の謎があるのではないだろうか?


古い「伊豆の国の国府」が沼津宿では無く三島宿に設置された原因は地形にある。

沼津宿(古くは黄瀬川宿)は文字通り海抜数メートルの沼地を埋めたもので、度々津波に襲われた低地であり、比べて三島宿の海抜は二十メートルほど在って津波の心配が無かった。

それで三島大社も地形に利在る地に設けられ、「伊豆の国の国府」が置かれた。

三島に「伊豆国の国府」が置かれたのは「平安時代・桓武天皇の御世だ」と言われている。

それまでは駿河の国と一体になっていて、広域駿河の国を形成していた。

奈良時代(七百十年〜七百九十四年)、「平城京」と言う都が現在の奈良県に在ったころ、地方行政区分「令制国」が全国に施かれる。

当時、駿河国の一部に成っていたのが、古代伊豆国の領域である。

平安時代に成って、その地域(駿河国の東部の二郡)を分離して、六百八十年(天武九年)伊豆国を設置した。

これに伴い、沼津に置かれていた広域駿河国の「国府」は、安倍郡(現在の静岡市)と田方郡(現在の三島市)の二つに分離して設置される。

六百八十年(天武天皇九年)に駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して、令制国の一つ伊豆の国は設けられた。

この頃の伊豆国(いずのくに)の領域は、伊豆半島部と伊豆七島(三島)部の範囲であったが、七百一年(大宝元年) から七百十年(和銅三年) までの間に、仲郡(後の那賀郡)が成立し、田方・那賀・賀茂の三郡となり、その後大きく下って江戸時代に君沢郡が分けられ、四郡となった。



ここからは少しの間、伊豆の国・伊都国説の話を神武東遷以前に遡って、そこから話始めて見る。

実は、駿河国から伊豆の国を分離する以前(飛鳥時代の初期)に、伊豆の土地に半独立状態の「謎の豪族王(臣王)/国主」の王国が存在した可能性がある。

その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。

田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。

我輩がこの「田京」を始めて訪れたのは「昭和四十八年の初夏の頃だった」と記憶を辿って思い出されるのだが、最初の印象は本当に何の変哲も無い田舎の私鉄(伊豆箱根鉄道駿豆線)の駅所在地で、古くから田京(たきょう)駅(1899年7月に開業)が設けられていた。

田京(たきょう)駅は、静岡県伊豆の国市田京にあり、伊豆長岡駅 と 大仁駅 の間に位置していたが、僅か数分歩くと田園が広がっていて近隣の長岡や 大仁と比べ駅前と名乗るにしては寂(さび)れている印象が当時は強かった。

そしてかれこれ四十年からの歳月を経ても、田京のその趣(おもむき)は今もさして変わらない。

その田京が日本の歴史に大きな意味がある土地で、その名・田京が「重要な意味を持った名前だ」と我輩が気が付いたのは、初めてその地を訪れてから凡そ二十年も経てからの事である。

我輩が本格的に歴史を調べていて、この「田京」と言う地味な集落の名にしては「随分上品な名」と気に止めたからだった。

稲作文化を中心に国家体制を構築して来た日本人にとって、田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。

田京の隣には御門(みかど)の地名もある。

御門(みかど)は統一倭の国々の王(臣王/おみおう・大国主)の表記に使われていた。

田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。

葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ奈良・葛城山がそびえている。

奈良・葛城山が見下ろす平野には、大和国広瀬郡・広瀬神社(廣瀬大社・奈良県北葛城郡河合町川合)が在り、旧神職家は曽根連(そねむらじ)姓で、河合町のこの付近は「川合」と言う地名が付いている。

文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所である。

広瀬神社(廣瀬大社)の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたのも、この地域は曽根連が根強い力を持っていた事を窺(うかが)わせる。

曽根連(そねのむらじ)は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た姓(六世孫の子孫)とされる広瀬大社の古い神家であり、曽根姓や中曽根姓の発祥とされる古代の豪族である。

広瀬神社(廣瀬大社)の祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀るとされるが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説もある。

長髄彦(ながすねひこ)は、磐余彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が南九州から東征して来た頃、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族である。

長髄彦(ながすねひこ)は、物部氏の祖神とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を「主君として仕えていた」とされて、賀茂葛城・物部同族説であれば符合するのだ。


奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆国・伊豆葛城山が見下ろす平野の大仁田京にもある。

田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所で在った。

葛城の主神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供である。


過って日本の地方行政区分だった国制で、伊豆半島から箱根にかけて伊豆国と呼ばれた地方の国府は三島の地に在った。

その国府に在る伊豆国一宮が三島大社(みしまたいしゃ)である。

伊豆国一宮・三島大社(みしまたいしゃ)は式内社(名神大)・総社で旧社格は官幣大社、主祭神は事代主神(ことしろぬしかみ)と大山祇神(おおやまつみかみ)の二神とし、「三島大明神」と総称する。

明神は権現と同じ意味を為し、「明らかな姿をもって現れた神」を指す神道の神の称号で、大王(おおきみ/天皇)も「明神/あきつみかみ」と読む明神で、豊国大明神(豊臣秀吉の称号)と言うように功績を残した実在する人物に使われる。

主祭神の事代主神(ことしろぬしかみ)は抽象的な神であるが、事代主神が葛城臣王(御門)・賀茂氏の神で、修験道神道と強く結び着いている事から、葛城臣王・賀茂氏を「明らかな姿をもって現れた」して三島大明神と号されたと解釈できる。

賀茂葛城氏の主神・事代主神を祀る三島大社が別名・三島明神とされ、明神(みょうじん)そのものが「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、賀茂葛城一族の長が「神」で在っても不思議は無い理屈である。

ちなみに京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から上賀茂神社も上賀茂明神なのだ。

つまり事代主神(ことしろぬしのかみ)は、別名を明神様(みょうじんさま)と呼び全国に分布して鎮座している。

賀茂葛城氏の主神・事代主神を祀る三島大社が別名・三島明神とされ、明神(みょうじん)そのものが「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、賀茂葛城一族の長が「神」で在っても不思議は無い理屈である。

ちなみに京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのだ。

延喜式神名帳には「伊豆国賀茂郡・伊豆三島神社」として記載されていて、延喜式が書かれた平安時代初期には賀茂郡の下田・白浜海岸に事代主神と后妃神・伊古奈比当スを祀る神社と並んで建っていた。

極めて古くから在る神社で、創建時期に関しては不明であるが、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る最古の本宮神社は、旧御鎮座地・三宅島富賀神社、下田白浜神社(伊豆国最古の宮)、田方広瀬神社と順次移動して来て、伊豆国の旧国府に鎮座する伊豆国一ノ宮・三島大社である。

また遷宮途中の地である下田・白浜には、現在伊古奈比当ス(いこなひめのみこと)を主祭神とする白浜神社(伊古奈比当ス神社)が残されて在る。


全国に点在する伊豆神社の総社が伊豆国に存在しないが、全国の伊豆神社が事代主神(ことしろぬしかみ)を主祭神としている所から、伊豆国賀茂郡・伊豆三島神社(三島大社)が伊豆神社の総社で有る事に間違いはない。

事代主神(ことしろぬしのかみ)は賀茂一族の信仰の中心をなす神で、元々呪詛信仰であり、葛城王朝を支えた重要人物(神)として日本書紀に書かれている。また「えびす様」としての信仰もある。


田京の地は、狩野川流域に育まれた肥沃な平野に存在する。

稲作文化を基に、田の神・事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭神とする民族にとって「川」の存在はおろそかにするものではない。

珍しい事にこの狩野川、太平洋側に在りながら南から北に向かって、伊豆半島の中央部の谷底平野を流れる全長四十六キロメートルの一級河川で、今まで余り着目されなかったが、「日ノ本の国」にあって、伊豆半島を流れる狩野川は重要な意味を持つ「神の川」である。

似たような条件の川を捜すと、真っ先に上がる川の名が、紀伊半島金剛山の麓の広い谷底平野を南から北上して流れ行く葛城川(一級河川大和川水系)と言う事になる。偶然の一致だろうか?

つまり伊豆半島の「田京(田方京・たがたのみやこ)」は、紀伊半島の飛鳥の都(奈良の都)と相似形的に開かれた東の都だった。

何故か、大仁田京の北隣の地名は長岡で、畿内の長岡京と位置関係が同じで有る。

長岡の田京寄りにある「古奈」は「古奈良」と考えられない事も無い。
いずれも、伊豆・白浜神社(静岡県下田市)に始まる伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)に関わる地名「古奈」、「奈良」と想像できる。

学術的な検証をした訳ではないので少々乱暴だが、伊豆大仁・田京が飛鳥京の原点であれば、伊豆大仁・御門は新益京(あらましのみやこ/藤原京)、その北に位置する伊豆長岡は正に長岡京の原点、伊豆長岡・古奈は平城京(奈良の都)の原点の可能性が出て来る。

まぁこの伊豆半島の田京一帯の地名は、いずれにしても我輩のような素人でさえ「何で?」と思わせるに充分な符合を持ち合わせているのである。


謎の倭の国々の小国家群に「伊都(いと)国」と言う何処に在ったのか未だに所在が確定しない国の存在もある。

伊豆の「豆」は豆腐の「トゥ」の発音で、韓語(ハングル)では豆「ドゥ・トゥ」と発音する。

前述しているが、朝鮮半島の言葉・朝鮮語(韓国語)で、伊都国の伊都も「イェヅ」と発音する。「イェヅ」と「伊豆(イズ)」、何か音が似てないだろうか?

伊は「イェー、イェ」と発音し「遠い」と言う意味があり、都は「ヅ」と発音して集落の意味を持ち日本語(列島の言葉)の豆(ズ/まめ)の「ズ」とは音が似通っているのである。

伊豆と伊都(いと)国は、微妙に絡み合った意味がありそうなのだ。

それでは伊豆の田京は、「紀伊半島・飛鳥葛城のコピー」、つまり模倣ミニチュアで有ったのか?

通常、模倣ミニチュアを遠隔地にわざわざ作る理由は考えられない。

しかし、「ふるさとを模したもの」を後年大きく立派に作る心情ならば、その心情は誰しも理解出来るであろう。

つまり、田京(田方京・たがたのみやこ)の方が先に存在した。心情的に考えると、そう考えるのが普通である。


「日本書紀・古事記」を手掛かりとする現在の正史を素直に考えれば、歴史学者には「田京」の存在は無視されるであろう。

しかし、伊豆の国の地名を「出ず(いず)の国」と読めば、有力臣王(おみおう)葛城氏の最初の国(出身国)とも読めなくは無い。

そして、そこには天城連山がそびえている。

天城連山は伊豆半島の最高峰であるから、伊豆国(伊都国)の天の城、天の葛城(あめのかつらぎ)であれば、葛城氏の光臨の地かも知れないのだ。

滋賀県大津に伊豆神社、長野県阿南町に伊豆神社が、伊豆の国でもないのに存在するので調べてみると、各地に伊豆神社が多数散見される。

それぞれに謂れはあるが、いずれも伝承の域を出ず、一言主や伊豆権現、瀬織津姫などが祭神とされている。

久伊豆神社(ひさいづじんじゃ、きゅういづじんじゃ)は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。

祭神は大己貴命(大国主)であり、蓮田市には七つの久伊豆神社がある。

久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。

それにしてもこの伊豆神社、不思議な事に全国に散見されながら、普通存在する本宮社(総社)がないのだ。

この意味するものは何なのだろうか?



この葛城氏(賀茂族)については、「古事記」・「日本書紀」に於いての記述に拠ると、紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯に神武大王(おおきみ/初代天皇)の神武東遷以前から住んでいた事に成っている。

そこにイワレビコ=神武大王(おおきみ/初代天皇)神武東遷でやって来て、葛城氏(賀茂族)は恭順する。

恐らく、葛城氏(賀茂族)が伊豆半島から西に進出して本拠を紀伊半島・奈良盆地一帯に西遷(移した)以後に神武東遷を迎えた事になる。

実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承において、賀茂家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。

須佐王(スサノウ)は牛頭天皇(スサノオ)とも表記するのだが、すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としている。

その熊野権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。

葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実である。

すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。

藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武大王(おおきみ・初代天皇)に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。

そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。

賀茂氏の牛頭天皇(スサノオ)を神として祀る神職が、物部氏(もののべし)流の藤白・鈴木家と言う状況が、血統を重んじるこの国では謎である。

ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。

つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。

しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?

熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。

「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようである。

そして大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王家(天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。

但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。

「古事記・日本書紀」の編纂以前にこの葛城氏族(賀茂氏)ついての詳細が無く、どの程度皇統の正統性を脚色しているかは定かではなく、手放しで鵜呑みには出来ない。

有力王(国主)が乱立しての合議統治の時代で、未だ大王(おおきみ/大国主)の世襲が固まらない大和朝廷創生期の頃の事である。

大王家(おおきみ/天皇家)と大臣(おおおみ)・葛城家の「連合政権」の記述や「神武朝に葛城氏族から嫁を出す」などの記述が微妙に表現されている所を見ると、両者の力関係が同等もしくは葛城氏族(賀茂氏)が上回って居る事も考えられる。

そこを疑って考えれば、神武朝から内実が葛城朝に代わっていた事も充分に考えられるのである。

情況からして王朝が入れ替わっても不思議は無いのだが、その資格において継続性が重視されたのは天孫光臨の天子として神の力で統治する建前であったから、皇統の交代を高らかに宣言する訳には行かなかったのではないだろうか?

つまり天孫光臨の建前で皇統の交代が宣言出来ないなら、「皇統を乗っ取るしかない」とは考えられないだろうか?


鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、神魂命(かみむすびのみこと)の孫として日本神話に登場する神である。

賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)とも呼ばれ、山城国の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏(やたがらす、やたのからす)神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

鴨県主(かものあがたぬし)は、大化年間以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

日本全国でよく呼称される「氏神神社」の由来は、初期の神社がその土地の支配者(氏/うじ)の神格化を狙った政治的なものだからである。

県主(あがたぬし)は、古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。

賀茂神社の上社(上賀茂神社)の祠官の流れは賀茂氏を名乗り、岡本氏・松下氏・林氏・座田氏・梅辻氏・鳥居氏・小路氏・森氏の諸家を分出した。

賀茂神社の下社(下賀茂神社)の祠官の流れは鴨氏を称し、泉亭氏・梨木氏・鴨脚氏・滋岡氏・下田氏・南大路氏の諸家を出している。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍・「方杖記」を著わした鴨長明もこの鴨氏の氏人だ。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

従って、伊豆半島を発祥とし、大和葛城に本拠を移した葛城氏と大和の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が同族で在った方が説明が着き易い。


面白い事に古事記・日本書紀に拠ると、この賀茂・葛城の主神・事代主神が 初代・神武(じんむ)天皇を始めとして四代の天皇と濃いに親戚になるのである。

初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の后妃・五十鈴媛命(いすずひめのみこと) の皇后父は事代主神である。

二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神にあたり、后妃・五十鈴依媛命(いすずイ姫のみこと)の皇后父も事代主神で、二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)は続柄からすると、母の妹を娶った事になる。

そして三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神、后妃は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)で皇后父が 鴨王と成っている。

神武大王家も神であるから、神である事代主神の娘を娶っても不思議は無い。

しかしながら、神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)も人間なら賀茂・葛城氏=事代主神であるから、三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の后妃・渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)の皇后父・ 鴨王も=賀茂王となる。

従って、四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)の外祖父・ 鴨王も、賀茂・葛城氏=事代主神と言う事に成る。

つまり神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)と賀茂・葛城氏は表裏一体そのものである。

賀茂神社(かもじんじゃ)とは、京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の二つの神社の総称である。

二つの神社伴に「延喜式神名帳」では名神大社に列し、社格は官幣大社である。

この賀茂・葛城氏が表裏一体である事を裏付けるように、京都・上賀茂神社に継承(伝わる)「葵祭り」には斎王代(さいおうだい)が登場する。

これは天皇家が娘を神様に捧げる様式を、儀典的に現している。

斎王代(さいおうだい)は、本来の斎王(さいおう)の代わりを務める形式的な神事の様式であり、元は皇室と賀茂・葛城氏の古事に習う儀典と解される。

つまり葵祭りの斎王代(さいおうだい)は、天皇でさえ賀茂神社の主神・事代主(ことしろぬし)の神には娘を捧げる儀典形式を踏んでいるのである。

本来の斎王(さいおう)は、未婚の内親王または女王(親王の娘)が勤め、厳密には内親王なら「斎内親王」、女王の場合は「斎王」「斎女王」と称した。

伊勢神宮の斎王を「斎宮(さいぐう)」、賀茂神社の斎王を「斎院(さいいん)」とも称し、この古事に習う儀典は斎宮の儀典が古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院の儀典は平安時代から鎌倉時代まで継続した。

この事が、神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)の経緯を表しているのであれば、「賀茂・葛城一族」は古事記や日本書紀が伝えるごとくに単なる機内の豪族ではなく、神武王朝に匹敵する相当の実力を擁した御門(みかど)だった事は間違いない。

尚、藤姓・斎藤氏の斎の文字は、この斎王代(さいおうだい)や斎宮(さいぐう)の儀典頭・斎王頭(さいおうのかみ)や斎宮頭(さいぐうのかみ)を世襲した藤原氏出自の官人から発生した。


事代主(ことしろぬし)神が「田の神様」であり、田の都が「田京」であれば、田京は事代主(ことしろぬし)神の都である。

そして事代主(ことしろぬし)神の実体が神武朝四代と深い血縁で結ばれた賀茂・葛城氏御門(葛城臣王)であれば、その本拠地は伊豆半島の「田京」を置いて他には考え難いのである。

皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。

この欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。



謎の始まりは、「古事記・日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。

この大王(おおきみ)実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える研究家の見方が一般的である。

「古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。

これらの天皇は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが下記「欠史八代」である。

第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇) = 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト)


これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の名称にある。

崇神大王(すじんおおきみ)の別名である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。

つまり崇神大王(すじんおおきみ)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇と言う評価がある。

「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。

第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)及び第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは明らかに和風諡号(わふうしごう)と考えられる。

所が、記紀(古事記/日本書紀)のより確実な史料による限り、和風諡号(わふうしごう)の制度が出来たのは六世紀半ば頃で、時代が符合しない。

しかもこの間の大王(おおきみ/天皇)位相続に関し、当然都合で発生すべき兄弟相続が一切無く、総て父子相続と成って居る所など後世に作為的に創造された神話の証拠ではないだろうか?

つまり初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の東遷当時はまだ西日本列島の統一半ばであり、或いは「崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代に統一王(大国主)で在った」と考えられる。

そして「欠史八代」が伝えるべき史実の核が無いままの「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の捏造あれば、欠史八代の天皇群陵墓に矛盾が在り古墳出土品に系譜が刻まれて居ない説明が着く。

それでは「欠史八代」の謎をどう捉えれば良いのだろうか?

そこで登場するのが伊豆・伊都国に誕生し、勢力を拡大して紀伊半島奈良の地に新たに葛城の都を創った賀茂・葛城朝の存在である。

初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(不確実な推定)する説である。

この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力であるが、神武東遷(じんむとうせん)後に九州を含む西日本一帯を支配した「九州の豪族で在った」とされる「第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)に踏襲された」とこの説は結論付けている。

この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、「邪馬台国は畿内に在った」として葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を「狗奴国」にそれぞれ比定する説もある。

或いは「邪馬台国は九州に在った」として崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、或るいは「邪馬台国を滅した後の狗奴国である」とする説などがある。

しかし我輩は、神武朝「狗奴国(くなくに)」と葛城朝「伊都国(いとこく)」は同じ呉族系海洋民族の国であり、葛城王朝・邪馬台国(やまたいこく)説はとても肯定できない。

それで、加羅系農耕民族の比売命(ひめのみこと/卑弥呼)の「邪馬台国(やまたいこく)」が、「狗奴国(くなくに)」と「伊都国(いとこく)」の連合勢力に圧されて「天の岩戸伝説の誓約(うけい)に到った」と考えたのである。


当時、古事記・日本書紀の編纂に携わった人間が、国家の正史を編纂するにあたって後世へのメッセージを暗号化して謎解きを残す事は充分に考えられる。

その、大きなメッセージが「香殖稲(かえしね/根を反す)」ではなかったのか?

「古事記」によると、
御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。この後は、比売(ひめ)を娶り、二人の御子をもうける。その内の一人が「大王(おおきみ・天皇)の位についた。」
と記されている。

「日本書紀」では観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)と記されているこの孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)、何と在位は八十三年、崩御された時の年齢は日本書紀に百十四歳、古事記には九十三歳とあり、当時としてはとんでもない長寿で、大きな謎である。

この数字が、二人分の生涯なら話は早い。

欠史と言う事で、実在も疑われているこの辻褄が合わない大王(おおきみ)が、なぜか命(みこと)の時「葛城の掖上(わきがみ)宮」に坐(ま)しましていた。

ここらに、若き葛城臣王(葛城御門)が在任中の大王(おおきみ)の年号、在位年数をそのまま引継ぎ、「入れ替わった」ので生涯年齢の数字が延びたのなら、説明が付くのだ。

これも、「血統至上主義」の為に封印された歴史の一つではではないのだろうか?

名前の中にある「かえしね」の意味は何だろう、「返し根(根を返した)」すなわち「血統をヒックリ返した」の暗号ではないのだろうか?

この「根(ね)」の話を取り上げると、孝霊大王(こうれいおおきみ/第七代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子賦斗邇命が初出である。

孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子国玖琉命が見られ第九代開化大王(開化天皇)と続く。

つまり日本書紀に於ける大日本根子(ヤマトネコ)・古事記に於ける大倭根子(ヤマトネコ)の称号・根子(ネコ)は、「記・紀編纂」の七世紀末から八世紀初めの段階で、大王(おおきみ)は大和朝廷の大元(おおもと)=「根(ね)」なのである。

であれば、孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の「観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)」の香殖稲(かえしね)の意味が、「根(ね)を返したに通じる」と言う解釈が成り立つ。

黎明期の大和朝廷組織がまだ固まって居ず権力が流動的で、「かえしね」の名が神武朝大王(じんむちょうおおきみ)から大王(おおきみ)の位を簒奪(皇位簒奪)した意味であれば筋が通っている。

つまり、本当の「葛城の掖上(わきがみ)宮」は、伊豆葛城山の掖(わき)にある「田京」に存在した。

大王(おおきみ)が「入れ替わった」痕跡を消す為に、元の伊豆国(伊都国)より立派なものを大和国に「葛城の地」として瓜ふたつに「カモフラージュ創造した」と考えられるのである。


現代の辞書に於いて葛藤(かっとう)の意味は、葛(かずら)がつる草の総称であり、藤もつるを有する花木である事から、もつれ合う葛(かずら)や藤の意で人と人とが譲る事なく対立する事や争いを言うと解説している。

葛藤(かっとう)を「もつれ」と読み、心の中に相反する欲求が同時に起こり、そのどちらを選ぶか迷う心的なもつれの事も言うとも解説している。

しかしその解説は、本当の歴史を知らない言語学者や歴史学者の多くが、定説に対する辻褄合わせの為に作為的に事実を見落とす愚を犯している表面的な解説に過ぎない。

我輩は、葛藤(かっとう)の意味を、大和朝廷(ヤマト王権)内部に於ける統治上の葛城氏と藤原氏の激しいもつれが「葛藤(かっとう)の語源の成立要因ではないか」と考える。

大和朝廷(ヤマト王権)成立初期当時とされる特筆すべきミステリーは、有力豪族(臣王・御門)の葛城氏が、忽然と中央政界から姿を消した事こそ神武王朝から葛城王朝に「かえしね」=「返し根(根を返した)」が行われた証拠ではないだろうか?

大王家(おおきみけ/天皇家)には氏姓が無い。

何故なら、この世に唯一無二の氏姓を授ける側だからである。

葛城氏が大王家(おおきみけ/天皇家)を継いだ事で、中央からこの氏姓(葛城)が消えた事は、この氏姓を授ける側に成った事が理由であれば納得が行くのである。

当時の大王(おおきみ/帝)は神武系から皇統を受け継いだ葛城氏系であり、最有力の豪族には中臣姓から藤姓に替わった藤原氏が居た。

そうなればお定まりの勢力争いが、朝廷内部に噴出しても不思議はない。

葛城氏(かつらぎ/かずらぎ)の葛(かずら/クズ)はマメ科属のつる性の多年草であり、根を用いて食品の葛粉や漢方薬が作られる漢方・葛根湯(かっこんとう)に調剤する方剤の一種類である。

その葛(かずら/クズ)の生長は凄まじいものがあり、チョットした低木林ならばその上を覆い尽くし、木から新しい枝が上に伸びるとそれに巻き付いてねじ曲げてしまう事もある。

まるで神武朝に巻き付いてねじ曲げ、秘密裏に葛城朝を起こした事を暗示させるネーミングの様ではないか?

勿論、同じつる性マメ科属の一つでフジ属・藤がライバル藤原氏であれば、両者が絡み合って政府の舵取りに「葛藤(かっとう)していた」は、講釈師並の符合である。


伊都と伊豆では文字が違う為に見落とされ勝ちだが、葛城と伊都の関係は証明できる。

この葛城と伊都の関係は、伊豆ばかりではない。

紀州(和歌山県)の丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の所在地にその葛城と伊都の関わりを示す痕跡が、如実に残っている。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の所在地は、何と和歌山県・伊都郡(いとぐん)かつらぎ町(かつらぎちょう)なのである。

この伊都郡(いとぐん)には、かつらぎ町(かつらぎちょう)の他に、戦国武将・真田家所縁(ゆかり)の九度山町(くどやまちょう) や高野町(こうやちょう)がある。

つまり、葛城と伊都は発祥の地である伊豆国以来、ワンセットで世間に認識されていたのである。


田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆の国における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。

また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。

それ故、御門地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門(かつらぎみかど)の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。

事代主(ことしろぬし)神の、現在の紀伊半島の本拠地は葛城(奈良県御所市)の下鴨神社(鴨都味波八重事代主命神社)である。

ここでの事代主神は最初、葛城川の岸辺に季節毎に祭られる「田の神」で、それがやがて、同じ葛城にいる叔父の「一言主神(ひとことぬしのかみ)」の神格の一部を引き継いだのか、「託宣の神としての性格」も持つ様になる。

くどいようだが神代の時代、この「御託宣」は国家の掌握に強い威力を発揮する。

旧王朝(神武大王朝)から、伊豆に興った葛城王朝が、現実的に大王(天皇)の位を引き継いだ可能性があるのだ。

永い間、伊豆国の国府が置かれた三島の地、三島大社の「三島」の名の由来、元々伊豆の島々(伊豆諸島)を指す三島明神(事代主命)から来ている。

記述した様に、事代主命(ことしろぬしのみこと)は葛城氏(賀茂氏)の神である。

三宅島に残る「三宅記」にはこの事代主命神社が最初は「三宅島に鎮座していた」としている。

この神社が、現在の三宅島・富賀神社である。

伊豆国一ノ宮は創建が古く、古代史に記録が無い為何時頃から存在した物かもハッキリしない歴史を持つ三嶋大社(みしまたいしゃ)である。

三嶋大社(みしまたいしゃ)は、静岡県三島市にある伊豆国一ノ宮・総社で「式内社(名神大)」、旧社格は官幣大社である。

三島大社の主祀神は「事代主神」であるから、三島大社は古代賀茂信仰の「重要な位置を占めていた」のではないだろうか?

ちなみに駿河国一ノ宮は富士山に在る富士山本宮浅間大社(主祀神・木花開耶姫命/静岡県富士宮市)で、駿府(静岡市)に在る浅間神社の社格は中社である。

また隣接する相模国一ノ宮・寒川神社の社格は確たる証拠が無く推定・大社である。


縄文後期〜弥生時代(紀元前五世紀中頃から三世紀中頃まで)に掛けて「伊韓(唐)島の周辺と五島列島、壱岐・対馬を含んだ地域で発達した」と言われる太平洋・インド洋を繋げた大航海の伝承と航海技術の伝承がある。

大航海の伝承として秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。

徐福伝説に於いて始皇帝は、不老不死を求めて方士の徐福に「東にある」と言う蓬莱の国(日本列島の事と推測されている)へ行き、「仙人を連れて来るように命じた」とされている。

この徐福の航海を可能にしたのが、中国沿岸部に居住していた倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)が持つ大航海技術だったのである。

また、この徐福伝説の徐福(じょふく/すぃーふぅ)が日本列島へ住み着いた征服部族、「秦(はた)」氏の先祖と言われて居る。

徐福は、始皇帝の命で一度日本列島を訪れてその豊かな未開の地に魅了され、新天地で王に成る野望をいだいた。

密かに永住を決意して帰国、始皇帝の不老不死願望に期待を抱かせる事に成功すると大船団を編成、大勢の技術者や若い男女ら三千人を伴って渡航、まんまと新天地に移住した。

現代では、中国・江蘇省に於いて「徐福が住んでいた」と伝わる徐阜村(徐福村)が存在している。


秦始皇帝(しんのしこうてい)は、中国語(中文・ツゥンウェン)では始皇帝(シーホワンディ)または秦始皇(チンシーホワン)と称され、紀元前二百五十九年に中国全土に七ヶ国在った国の一つ秦と言う国の王家に生まれる。

十三歳の秦始皇帝(チンシーホワンディ)が、紀元前二百四十六年に秦国の王・秦王(チンワン)として即位した時は七ヶ国が覇を争う戦国期だった。

秦王(チンワン)即位八年後の二十一歳で始皇帝は実権を握って親政を始め、二十五年後の紀元前二百二十一年、三十六歳の始皇帝は史上初めて中国全土を統一して中国史上初の皇帝(ホワンディ)を称した。

始皇帝は先見性に優れた有能な皇帝で在った事は広く認められているが、一方で幼少より虚弱な体質で在った為に不老不死を求めて方士を重用し、徐福(じょふく/スィフゥ)に対して「東方に在る」と言う蓬莱国(日本を指すと解される)へに向い「仙人を連れて来るように」と命じた。

中国前漢の武帝の時代に司馬遷(しばせん/スーマーチエン)に拠って編纂された中国の歴史書「史記」に在る始皇帝の容貌や性格について始皇帝は「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されていて、日本の武将・織田信長のイメージがダブルる。

紀元前二百十一年に四十六歳の始皇帝が崩御すると、翌年には陳勝・呉広の乱が発生して秦は一気に滅亡へと向かい、始皇帝以後の秦帝国の皇帝は二世皇帝・三世皇帝と三代で滅びるが、権力を持って皇帝自らが秦帝国を治めたのはほぼ始皇帝の御世だけで在った。

いずれにしても、この秦帝国の話しは日本では天孫降臨神話の神代にあたり、まだ主に縄文人が暮らす未開の地だった。

つまり、七百八十一年に即位した桓武天皇が奥羽(東北)蝦夷(えみし)を討伐して北海道を除く日本列島をほぼ統一する千年以上も前の事である。


古代中華大陸の黄河・長江流域文明では、神仙道とは仙伝の気功、符呪、占術を通じ「神仙の域に導く」とされていた。

中華大陸初の統一覇王・始皇帝に拠って保護登用された方士とは方術の士の事であり。「史記」に於いては方術とは方遷道つまり神仙道の原始的なもの或いは医術を指している。

だが、封禅書に見えるような「斉や燕で、方士が勃海の海中に蓬莱、方丈、瀛州の三神山が在って、神仙(仙人)が住み不死の薬が在ると宣伝していた」、と言う記事に表れる方士は、前者の方遷道に関係した方士である。

方術は神仙道や医方術ばかりでなく、黄老・天文・五行・巫術・呪術・讖緯(しい)など多くの要素を包含するようになり、方術はまた道術とも呼ばれるように成る。

そしてこれらの術を行うものは道士と呼ばれ、次第にこの道士と言う言葉が普及して方士に代わるように成って行く。

つまり日本の修験導師の初期のモデルがこの方士であれば、方士・徐福が初期修験道の「元祖的な存在だった」と考えても符合する。

この辺りが、「徐福と原始的修験道の賀茂・葛城氏に繋脈が在る」と我輩は睨んだ。

また、方士・徐福の末裔と目される始皇帝の子孫を名乗る秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)が、香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖・川勝氏の神農(しんのう)道の祖とも伝えられる。

歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き神農道は「薬の行商から始まった」とされて方士起源説と符合している。

そして始皇帝に派遣された方士・徐福が東方の島(日本列島)で目にしたのは、神仙(仙人)ではなく僅かな原住民と水と緑に囲まれた肥沃な大地だった。

つまり方士・徐福が始皇帝を騙して二度目の蓬莱遠征を行い、東方の島(日本列島)で王位に就こうとしても不思議は無かったのである。


方士・徐福の大船団に乗って列島に辿り付いた大勢の技術者は、造船技術者、製鉄技術者、製紙職人、機織り(はたおり)職人、農耕技術者、漁業の専門家、木工技術者などで、正に当時とすれば最先端の「黄河・長江流域の文明」を未開の地に持ち込んだ事になる。

徐福(じょふく)の子孫・秦氏の秦(はた)は、機織り物(はたおりもの)に通じ、秦氏は「織物を司どっていた」とも伝承され、秦(はた・ハタオリ)=服部(はとりべ/はっとり)氏に通じている。

その機織り(はたおり)の古い織機(しょっき/おりき)様式が、伊豆七島の一つ八丈島に残っていた原始的な織り方「カッペタ織り」だと言うのである。


倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)は、その大航海技術を駆使して黒潮の海流に乗り、朝鮮半島や日本列島に進出、各地に移住して行く。

伊豆七島の一つ三宅(宮家)島の北部には、伊豆地区と神着地区がある。

この三宅島・伊豆地区の名称と伊豆半島(伊豆国)の名称がどう関わっているのかは謎であるが、三宅島・伊豆地区の方が伊豆半島(伊豆国)よりも「早い時期に命名された」と言う事は充分に考えられる。

神着地区は読んで字の事しで「神着(かみつき/カヌチャ)」、つまり事代主(ことしろぬし)の神が「御着きに成った場所」と言う事である。

この黒潮ハイウェーとも称される日本の太平洋岸を北上する流れの終着点近く、三宅(宮家)島の伊豆地区に三島明神(神社)が、神着(かみつき/カヌチャ)地区に走湯神社が配されている。

三宅島の三島明神(神社)が伊豆半島・三島大社であり、伊豆国の国府・三島(現・三島市)の名称、そして熱海市にも走湯神社があり、いずれも三宅島にそのルーツを見るのではないだろうか?

この伊豆半島と伊豆諸島には、古代に到達したより独特な海人族文化(倭人文化)や先進な船舶航法が有った。

それらが伊豆半島に伊都国を成立させたのでは無いだろうか?


三宅島の島名の由来は、事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、「付近の島々を治めた」と言う伝説から「宮家島」と言った説があり、伊豆諸島には「神懸かりになって託宣する巫女の伝統がある」との事で、これもまた託宣の神・事代主神にふさわしい様に思われる。

また伊豆諸島の住民が事代主を信奉する「葛城氏族(賀茂氏族)である」と言う事を表しているのである。

皇族も神社も「宮」であると言う原点が、この賀茂・氏(かも・うじ)葛城・臣・姓(かつらぎ・おみ・かばね)の発祥の地「三宅(みやけ・宮家)島から来ている」と考えれば、葛城王朝が成立して、氏姓の無い大王(おおきみ)の位に着き「葛城姓(かつらぎかばね)がこの世から消えた」としても不思議が無い。

黒潮(くろしお)は、日本列島の北太平洋側、鹿児島沖、四国沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖を掠めて北上する幅が狭く強い流れの暖かい海流である。

この黒潮(くろしお)の流れ、気候変動と連動して広い北太平洋を時代時代で流れを変えながら日本列島に近寄ったり離れたりする。

魏帝国(三国志時代)の「魏志倭人伝」にみえる倭国内の国々の一つである「伊都国」が、伊豆半島に成立する少し前の黒潮(くろしお)は、比較的日本列島からは離れて流れていた時代である。

同じく三国志時代に呉帝国から新天地を求めて船出した海の旅人(賀茂・葛城の前身となる呉族系氏族の一群)は九州島・鹿児島沖、四国島沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖の陸から遥か遠い位置を航行、辿り着いたのは伊豆半島沖・伊豆諸島の三宅(宮家)島だった。

伊都国(伊豆国)の大元(おおもと)が「伊豆諸島である」と言う裏付けの一つに、現在も八丈島に残っている「カッペタ織り」と言う原始的な織り方がある。

このカッペタ織りの織り方に使う織具は 中国雲南省晋寧石寨山(シンネイセキサイザン)遺跡から出土した滇(てん)族のものとそっくりで、「紀元前三百年から百年くらいに渡って来た」と可能性が推測され、それが日本列島に渡来した絹織り技術としては、列島最古の範疇に入るのである。

滇(てん)国は、現在の中国雲南省昆明市の近辺を本拠とした滇(てん)族の国で、母権制の王国である。

その滇(てん)国で開発された絹織り技術が、中国浙江省(せっこうしょう) 辺りの呉族(海人・隼人族)に伝わり、伊豆諸島にもたらされたのである。

実は、この「カッペタ織り」と言う原始的な絹の織り布が、賀茂族の信仰と合いまって、「神とのコンタクト」を勤めとする巫女の衣装になる。

また、この織り布その物が、対外的に賀茂の信仰を信じさせるに足りる「貴重な絹織り物」だったのでは、無いだろうか?


伊豆の国(静岡県)東伊豆町・稲取は、伊豆半島先端部に近い東海岸に在る港と温泉の町である。

この地「稲取」には「奇祭」と呼ばれる「どんつく祭」が在る。

伝承に拠ると、二千年前の「弥生時代中期から伝わる」と言われる「どんつく祭」は稲取の高台にある「どんつく神社」の大祭典である。

「どんつく祭」は、夫婦和合、子孫繁栄、無病息災を神に祈願するもので、神社に奉納された大きな陽物(男性のシンボル)を模したご神体を「陰の神社」に和合するまでの催しである。

神社に奉納された賜物を模したご神体(男性のシンボル)が「陰の神社」に「ドン!」と突いて和合するまでの催しが行われる明らかに原・陰陽道(妙見信仰)にその源を見る陰陽呪詛の奇祭である。

奇祭「どんつく祭」の地、東伊豆町・稲取は、古くは河津庄稲取郷と呼ばれていたらしく、千四百四十四年(文安元年)の上野国(上州(じょうしゅう/群馬県)の吾妻神社の懸仏にその名が「伊豆国・河津庄稲取郷来堂別当」と見え、少なくともその時代に稲取郷として存在していたのである。

この「稲取」と言う地名が、事代主神信仰の稲作文化そのものである事に着目すれば、伊豆の国(伊都国)に相応しい地名ではないだろうか?

温暖な気候に恵まれたこの地に古くから縄文文化が存在した事は、約一万二〜三千年前の先土器時代の人々が狩猟などに使用したものと推測される細石器が稲取ゴルフ場遺跡から出土された事でも証明されている。

その後縄文人が、九千五百年〜六千五百年前にこの稲取地区に定住、集落を形成した事をて確認される峠遺跡と穴ノ沢遺跡(奈良本地区)、宮後峠遺跡(白田地区)が発掘されている。

竪穴状遺構や土坑、石器製作などが発見されており、その種類、量などから「この時代の人が定住して居た貴重な遺跡を持つ」と言える土地である。

稲作農耕文化が稲取の地に伝えられたのは、縄文時代の後期から弥生時代初期と推測されるが、何しろ伊豆七島は黒潮海流の到達地点で、この頃に三宅(宮家)島から賀茂(葛城)族が稲作の技法と稲作の神・事代主神を携(たずさ)えて伊豆半島に進出して来たのではないだろうか?

稲取港の存在から、天然の良港と成る入り江があれば下田港同様に海洋民族・賀茂(葛城)族の上陸地点である事は間違いない。

細野遺跡や崎町遺跡(稲取地区)から弥生式土器が出土されて居り、この地(東伊豆町・稲取)でもこの時期から稲作が行なわれていた事が明らかである。


伊豆国(静岡県)・土肥は、伊豆半島の西海岸に在る温泉と金山跡、漁港などが売り物の風光明媚な観光地である。

現在は合併で伊豆市に成ったその土肥の由来であるが、天孫降臨伝説の為に多くの先住民(縄文人/蝦夷族)の痕跡は失われてしまったが、まだ渡来部族と縄文人が混血して弥生人が生まれる前の古い伊豆半島は、「豊かな縄文文化の地で在った」と推測される。

土肥(どい/とい)の旧発音表記は「どひ」で、土匪(どひ)や奴婢(どひ/ぬひ)にも通じる。

族(渡来民族)の事で、土匪(どひ)や奴婢(どひ)は支配階級を得た征服氏族(渡来民族)が野蛮と決め付けて、先住民(縄文人)に対して勝手に文字を当て嵌めたものである。

実は、伊豆の地名には縄文人(蝦夷族)の言葉に符合するものが多であり、伊豆半島に「縄文人(蝦夷族/アイヌ族)が住んでいた」と言う推測が成り立つ。

アイヌ語で「トピ=素晴らしい土地」と言う言葉があり、土肥の先住民が縄文人(蝦夷族/アイヌ族)であれば、肥沃な土地を「トピ」と称し「トピ」と言う言葉が転じて「土肥(とひ)」に成った」と言う説に符合する。

土肥にある「土肥神社(といじんじゃ)」の祭神は豊玉姫(とよたまひめ)で、「古事記」では豊玉毘売・豊玉毘売命(とよたまびめ)と明記され、日本書紀では豊玉姫・豊玉姫命(とよたまひめ)と明記されている。

豊玉姫は海神・豊玉彦(綿津見神=渡つ海)の娘であり、山幸彦(火遠理命)と結婚して子供をもうけ、夫・山幸彦に富と地上の王として君臨する資格を授ける女神として伝えられている。

これは典型的な異部族誓約伝説であり、豊玉姫命は異郷から訪れて来る神と結婚してその神の子を生む女性で、山幸彦から見れば豊玉姫命が他界の住人であり、そう言う特殊な女性と結婚する事に拠って子供や宝物を授かった事になる。

ちなみに、この海神・豊玉彦(海彦/海日子)の娘・豊玉姫命と山幸彦(火遠理命)の為した御子が鵜葺草葺不合神(ウガヤフキアエズノカミ/神武天皇の父)で、初めて日本の西半分を統一する神武朝大王(おおきみ)の近い先祖と位置付けられ、豊玉姫は神武朝君臨の正当性を証明する為の神である。


田京は初期の伊都国(伊豆国)に在って「田の方の都」、つまり田方京である。

それでは「海の方の都は何処か」と言うと、田方・広瀬神社に移る前の事代主神(ことしろぬしのかみ)の旧御鎮座地・下田・賀茂郡の地が海の方の都だった。

下田は三島大社の旧御鎮座地のひとつで、「伊豆国最古の宮」と言われる伊古奈比盗_社(いかなひめのみことじんじゃ)の祭祀の地である。

通称は白浜神社と呼ばれている伊古奈比盗_社(いかなひめじんじゃ)の御祭神は、伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)であり、紛れも無く葛城氏族(賀茂氏族)の神である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)は事を行うに当り「御託宣(決定)」を行う神であり、その神主(かみぬし=かんぬし)、つまり葛城王(賀茂氏上)は、伊豆(伊都)国民に強力な指針を示していた事になる。

下田が伊古奈比当ス(いかなひめのみこと/白浜神社)の祭祀の地であればその一帯、伊豆・賀茂郡(かものこおり)は伊豆七島に在った事代主神(ことしろぬしのかみ)の由緒正しい本土上陸の地である。

事代主神(ことしろぬしのかみ)が大仁町の田方・広瀬神社に移る前は、この下田・白浜神社(伊古奈比盗_社)に合祀されていた。

つまり、伊豆国最古の宮・白浜神社を有する下田・賀茂地区は、日本古代史における重要な史跡を二千年を経た今なお祭祀し守っている事になる。

従って、平成の大合併に拠る下田・賀茂郡の新しき名称は賀茂を冠した「本賀茂市などが望ましい」と考えられるのである。


大仁町の田方・広瀬神社の社伝には、三島大社が白浜から三島市に移動する途中、一時期この「広瀬神社の地にあった」と伝わっている。

これらの説を信用すると、三島大社は、三宅島・富賀神社から白浜海岸・白浜神社、田方・広瀬神社、三島・三島大社と移動して来た事になる。

つまり伊豆の国の始まりは、黒潮に乗って北上して来た海洋民族の葛城氏族(賀茂氏族)が、伊豆諸島に辿り着き、次に伊豆の白浜に上陸して序々にその範囲を拡大して行った事になる。

葛城氏族(賀茂氏族)は、やがて田方平野に辿り着き、田京を中心に王国「伊都国」を成立発展させて行く。

この伊豆の国(伊都国)が、「後に大和朝廷を掌握した」と我輩が考察した材料の一つが、九百二十七年(延長五年)の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に拠る神社の格式、「式内社」の数で、伊豆の地に式内社が「九十二座もある」と言う異様さである。

その内伊豆諸島を含む賀茂郡地区に半数の四十六座が集中している。

これを近隣諸国と比較すると、隣の駿河国は二十二座、甲斐国二十座、相模国十三座で抜きん出ている。

長期に都だった山城国(京都府)でさえ、百二十二座しかない。

ただの都に遠い一地方であれば、異例としか言い様が無い数である。

つまり、「歴史上重要な経緯がこの土地にあった筈」と考える。

伊豆と伊都の関連性については、伊豆の国より「賀茂(加茂)族が移り住んだ」と言われ、その一端が残る土佐国の伊豆田神社の例を挙げる。

伊豆田神社の謂れを調べると、ズバリ「伊豆と伊都」は同様な扱い(混合)で使われているので紹介する。

土佐国の古記によると、「千五百年〜二千年ほど前に、伊豆の国より賀茂(加茂)族が渡り来た」とされ、伊豆田神社は、氏神の伊豆国賀茂郡白浜村(静岡県下田市)鎮座の式内大社・伊古奈比売命(いこなひめのみこと)神社を勧請され、伊豆の国より現在の「下の加江地方」に移ったものである。

伊豆田神社は、土佐の国では二十一座の一に列し、幡多郡三座すなわち宿毛市平田の高知座神社(八重事代主命・やえことしろぬし)、大方町入野の加茂神社(祭神・あじすたかひこねのみこと)とともに幡多三古社の一つである。

谷重遠(秦山)の「土佐国式社考」に拠ると、

「伊都多神社は 伊豆多坂の西鳴川谷高知山にあり、玉石二枚を以って神体となる。里人伝える伊豆田神社は古くは坂本川の高知山にあり、ここに何れの代に移すかは知らず。重遠請う、高知の字姑らく里人の語に従う、河内と相近し、正説いまだ知らず。渡会氏(伊勢神宮神官)いわく伊豆国伊古奈比売命神社、出雲国飯石神社、出雲国風土記に言う、飯石郷伊毘志郡幣命天降り座す、けだし稲霊大御食都姫命、万物の始め人これ天とする所なり」

と、記述がある。

南国市前ヶ浜に、「下の加江・伊豆田神社より勧請した」と言う郷中一の大社で、もと県社の伊都多神社がある。

幡多郡の「下の加江」と南国市「前ヶ浜」とは随分距離はあるが、室町時代「下茅の伊豆田神社」を前ヶ浜に勧請し、「前ヶ浜の伊都多神社」としたのは、現在南国市一円に居住する藤原系の田村氏である。

下の加江(下茅)で郷土や庄屋を務めた田村氏の祖先は、慶長年間長岡郡大踊、田村(今の南国市)から移住したものである。

伊豆田神社が伊都多神社となっているが、祭神が伊豆那姫命でり、音読が伊豆田と伊都多と相通ずる。

土佐の伊豆田(いとた)神社は文献により伊都多神社となっているが、伊豆田神社は神名帳も伊豆多、土佐州郡志に伊津多、南路志に「伊都多」とある。

祭神が伊豆那姫命であり「音読が伊豆田と伊都多は相通ずる」としているが、多分に古事記・日本書紀の記述に整合性を合わせた「苦しい解釈」と捉える事も出来る。

しかしこれは、単純に音読が相通ずるからの理由だけだろうか?それよりも、当時「伊豆と伊都を同じと意識していた」と考える方が自然で、無視出来ない事実である。

伊豆田(いとた)神社・摂社の土佐・三島神社は 伊豆田神社の左隣りに鎮座し、祭神は口碑によると伊豆田大神の母神(三島・溝杭比売命/みしま・みぞくいひめ)である。

土佐・三島神社の創立年代はくわしくないが、元は三島大明神(神体玉石二個)と言い、鳥居の所の脇に鎮座していたものを大正五年八月に県の役人が来て、「本社の母神を門番の居るような社頭に祭るのは道徳上よくない」と言う事で、大正五年八月廿六日現在の地に宮を移したものである。

つまり、この四国に実存する「伊豆・伊都同系」の神社群を検証すれば決定的な物証で、伊豆半島説の「伊豆(イズ)=伊都(イェズ/いと)」の関係は明白となり、九州説の「糸島半島=伊都」ではない。

そしてこれは決定的な事だが、桓武天皇の第八皇女に阿保親王(あぼしんのう/平城天皇の第一皇子)の妃で、在原業平(ありわらのなりひら/右近衛権中将)の母・「伊都内親王」が居るが、読みは「いずないしんのう」で、伊都は正しく「いず」と読ませ、時に「伊豆」とも表記している。

平安時代初期の段階で伊都は「いず」と読み、「伊豆」とも表記しているにも関わらず遥か後世の学者が糸半島を読みが「イト」だけで「伊都国所在地」とするのは少々強引ではないだろうか?


最有力とされる伊都国・糸島説については、正直「発音が似ている」と言う安易な発想以外然したる証拠は無い。

確かに、現地・糸島には三雲南小路遺跡が存在するが、その遺跡が伊都国・糸島説を証明するものではないから、糸島は現在でも有力説としか扱われては居ない。

音だけで伊都国と結び付けた糸島半島には確かに多くの遺跡が点在するが、それが伊都国と結び付く証拠は何一つ浮かんでは来ない。

敢えて言えば、糸島半島と博多湾を挟んだ対岸の志賀島(しかのしま)から出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を、漢委奴国王印(かんのいとこくおういん)と読ませる異説がある。

ただしこの説を採ると委奴国(イトコクと読ませる)=伊都国にはなるのだが、狗奴国(くなくに)の前身と言われる奴国(なこく)の存在が歴史から消えてしまう。

糸島半島は糸の音が「伊都」に通じるとして「伊都国の地」として観光地化し、引っ込みが着かない状態にある。

また、倭人伝の距離の記述を「伊都国の地」の比定の根拠としている試みも為されているが、倭人伝の他の記述が日本側で合致しない物も多く、何処まで信憑性を置けるのかも問題である。

そこで、伊豆半島に関わる皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在の方が史実を追う上で遥かに重要な考慮点と成る。

「伊都国=糸島説」は、七百八十年代・桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に在った皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在よりも、「伊都国=糸島説」を唱えた近代の学者の方を信用する事になるのではないだろうか?

つまり伊豆半島・伊豆の国の方が、遥かに伊都国の可能性が高い多くの材料が散見されるのである。


「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ).柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」

これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置である。

水行ではなく陸行で東南へ五百里とある。

上陸地点は不明で起点が判らないが、陸路をかなり行く事には違いない。

これをまともに読むと、該当の地が「九州・糸島半島説」はかなり苦しい。

陸行と言うからには少なくともかなり遠方の陸路でなくては成らず、また、

「世々王有るも」と代々の王が存在し、郡使が必ず寄る所としている。
「皆女王国が統属す。」とある所から、邪馬台国と形式的冊封(さくほう/さくふう)関係にあり、「世々王有るも」


と言うからには「独立国であった国」とも考えられる。

この陸行五百里、旅の行程一ヶ月について研究者の一部は、九州糸島説では苦しい(整合性がない)ので、旅の苦労を中国人特有の「白髪三千丈」的な大げさな表現(誇張癖)による「本国への誇大報告だ」としている。

しかし上陸後「行程一ヶ月」はかなりの距離で、「誇張癖」だとしても後日別の者が行けば直ぐ判るような報告をするだろうか?

これはまた辻褄合せの「都合の良い解釈方法だ」と思うのは我輩だけだろうか?

いずれにしても、神武大王(おおきみ・天皇)が、筑紫の国(筑前・福岡県)から出発する神武東遷(じんむとうせん)物語に拠ると神武朝の前身は狗奴国(くなくに)であるから、同じ筑紫の国(筑前・福岡県)糸島半島が「伊都国」と言うのは疑問符が付く。


すると、倭の国々の東の外れに伊都国があり、郡使の終着点だった。

その都「田京」が「千戸余りの都市だった」とも考えられる。

当時とすれば、千戸は人口にして三千から六千人と考えられ、かなりの大都市である。

国の総戸数と捉える説もあるが、この時代、他国に見せる「詳しい統計がある」とは思えず、目視した概要と考えるのが妥当ではないだろうか?

また、「魏志倭人伝」に拠る「皆女王国に属す」も、どの程度の意味があるのかは解釈が分かれる所である。

卑弥呼の称号は「親魏倭王」である。

倭の国々に在っても、中国の帝国が分裂し三国志時代を迎えるとその影響が出て親呉政権(呉族/海洋民族系)や親魏政権(加羅族/天一族)に色分けをされて行く。

「魏志倭人伝」に拠ると伊都国を「女王国に属す」記述しているが、これはあくまでも「魏の言い分」の可能性がある。

中国の帝国が分裂した三国志時代に在って、伊都国(呉族/海洋民族系)は、当然「親呉」であり、漢の金印を持って列島では隠然たる力を有していたのである。

「親呉」の伊都国は呉と同盟を結んで魏と対抗していた為、「魏」は「親魏倭王」として卑弥呼と組んだのではないだろうか?

文武天皇の第一皇子の聖武天皇(しょうむてんのう・第四十五代)の御世、七百五十年頃の天平年間でさえも、当時の日本列島の総人口は約五百五十万人程度である。

それより遥かに遡るこの当時の日本列島の総人口は多く見積もっても数十万人で、数千人の都市は大規模である。

また、「皆女王国が統属す。」の皆は、「倭の国々を指す」と考えられ、列島の倭の国々は、あくまでも魏の言い分だが、一時「邪馬台国・卑弥呼」が掌握した可能性が強い。

氏上=氏神の発想からすると、その最高位・大王(おおきみ)に事代主(ことしろぬし)神その他の神々を操る葛城・賀茂氏が着き、上と神は同意になった。

実はこの、神(かみ)=上(かみ)=かも(賀茂)についての関連性も、我輩は疑っている。

中国の普通語(プートンフォワ)では、上(うえ)を「シャン・スゥワン」と発音する。

その上(うえ)を、最大の尊敬を込める神(かみ)と同じ発音をするのは「何故だ」と考えた時、近い音の賀茂(かも)が浮かんで来た。

勿論、アイヌ語のカムイが語源であるのは承知の上だが、賀茂(かも)が、実は神(かみ・上)の正体ではなかったのかとも疑える。

事代主(ことしろぬし)の神と一言主(ひとことぬし)の神の謂れは難しくは無い。

読んで字の如しである。

事代主(ことしろぬし)の神の事代(ことしろ)とは、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神の事である。

一言主(ひとことぬし)の神の一言(ひとこと)とは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向を告げる「御神託(助言)」の最高神の事である。

事代主(ことしろぬし)の神に、神后(妻)の伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神)がいる事が、余りにも人間臭いので、最初は賀茂族の氏上(氏神)・葛城氏の始祖夫婦から始まったのかも知れない。

この説の裏付けとなる確かな記述は、古書には無い。

従って「荒唐無稽」と言われればそれまでだが、皇統の正当性を主張する為に、作為的に証拠を隠滅する必要があれば、記述は残らない。

何しろ日本書紀や古事記を編纂されたのが持統天皇の御世以後で、皇統も四十一代を数えて以後の話で数百年も経っているから、以前の正式文章なり伝承なりが、「意図的では無い」と言う保証はない。

その葛城氏族(賀茂氏族)の国・伊豆国(伊都国)が拡大して駿河の国も飲み込み、「広域駿河の国の領域を造った」と考えられる。

賀茂・葛城朝は古代史上に謎の多い大豪族で、我輩は葛城ミステリーと名付けている。


我輩が葛城朝発祥の国と比定する伊豆の国=伊都国説に関わる墳墓が今まで発見されなかった事を不思議に思っていた。

そこに、大型古墳・辻畑古墳(前方後方墳)の発掘報道が届いた。

高尾山・辻畑古墳(前方後方墳)の所在地は伊豆国と国境を接する駿河国・沼津の東熊堂(高尾山穂見神社・熊野神社旧境内地)で、南北六十二メートル、西側四分の一は道路で削り取られた為、東西は三十五メートルと推定される。

二つの墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ四・五メートルで墳頂の一メートル下に副葬品を伴う木棺跡があった。

この辻畑(つじばたけ)古墳から出土した高坏(たかつき)から、二百二十年前後(三世紀)頃の卑弥呼とほぼ同じ時代の築造で、纒向(まきむく)石塚古墳(奈良県桜井市)と同じ「古墳初現期に分類される」との指摘があり日本最古級の古墳となる可能性が出て来ている。

高坏(たかつき)の他に築造年代を示す鉄鏃(てつぞく・鉄製の/やじり)や銅鏡などの副葬品も出土しており、鏡を割って被葬者と埋める「破鏡」という風習が用いられたほか、出土した壺(つぼ)の中には軽石を含む材質の「大廓(おおくるわ)式土器」に分類できるものがあった。

これらの出土品は三世紀代の特徴で、辻畑古墳も「同時期の築造」と言えるが、古事記・日本書紀を始めとする文献上のこの時代この地域に、それと該当する国主(くにぬし)、国造(くにのみやっこ)は存在していない。

推定するに、卑弥呼が生きていたとされる時代に古墳を造るだけの有力者が「この地に居た」とすれば、賀茂・葛城朝を置いて他には思い到らず、当時の日本の支配構造の空白部分を踏まえ、古代史上に賀茂・葛城朝の大国・伊豆の国=伊都国が存在した事を物語っているのではないだろうか?

この東日本一の大型古墳・高尾山古墳(辻畑古墳)が単独の古墳で、古墳群でない所に、実は「東国に大きな謎の国が在り、やがて大和・神武朝と合流した」と言う説が、現実味を帯びて来る。

つまり「欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)説」や「葛城ミステリーと 伊豆の国=伊都国(いとこく)説」と符合するのだ。



細かい事を言い出して恐縮だが、古代における国力つまり経済力はその国にとって中央政界で重要な発言力になる。

そこで持ち出したいのが「わが国の自然」である。

古代から現在まで気候が温暖で、一年中農作物の栽培に最も優れている土地を挙げると、実は静岡県(伊豆、駿河、遠近江国)と宮崎県(日向国)である。

古代伊都国(伊豆・駿河国)が気候的に稲作に有利で、国力が「安定して強かった」としても、立地的に不思議は無い。

そうした経済実績を背景に、事代主神(ことしろぬしのかみ)が中央政界で幅を利かし、「呪術(神道)王朝・葛城が成立した」としても、納得出来そうである。

その辺りをもう少し検証すると、何故、伊都国(伊豆国)の賀茂・葛城朝が神武朝を凌(しの)いで大王(おおきみ)の位に就けたのか?

賀茂・葛城は呉族(海神族)であり、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神・事代主の祭神を司る一族で、その強力な呪詛的威力は並ぶ者が無かった。


そしてこれも、「呪詛的威力」と解されたのだろうが、伊都国(伊豆国)は非常に豊かだった。

田方平野は、肥沃な河川平野の上に温暖な気候で稲作に適していた為、収穫が良かった事も有るが、もう一つ、富としての地の利を得ていた。

それは金鉱の存在で、或いはこの事が秘すべき事として、賀茂・葛城朝の大王(おおきみ)就任と伊都国(伊豆国)の存在を隠した本当の理由かも知れない。

黄金の国ジパングの謎の原点は、伊豆の国の隠し金山である。

伊豆国(伊都国)は、往古より黄金の産出する土地だった。

伊豆の金山が歴史に現れるのは、ズット下った平安末期くらいからだが、伊豆半島が他に類を見ない金の国だった事は、多くの金山が存在し昭和の中頃まで採掘されていた事でも想像がつく。

伊豆金山について判るものだけでも挙げてみる。

大仁金山(静岡県田方郡修善寺町)、天正金鉱(静岡県田方郡土肥町)、土肥金山(静岡県田方郡土肥町/過去・佐渡の相川金山に次ぐ国内第二位だった)、 伊豆天城鉱山(静岡県加茂郡西伊豆町)、縄地金山(静岡県賀茂郡河津町)、蓮台寺金山(静岡県下田市)、 伊豆猪戸金山(静岡県下田市)、 清越金山(静岡県田方郡土肥町)、持越鉱山(静岡県田方郡天城湯ヶ島町)などである。

そしてご存知の通り、こうした鉱山探索の仕事は朝廷から各地に派遣された影人集団・陰陽修験者の仕事でもあった。


実は、この伊豆の金山が紀伊半島「吉野」と非常に関わりがある。

学者・研究者の説では、「吉野には隠し金山が有ったのではないか」と言われている。

つまり、大和朝廷が豊富に使用した金の出所に関心を持ったのである。

しかし、「吉野」の金山はまったく採掘の記録がないまま「手をつけては成らぬ」と言う伝承が有るだけで、表面化した歴史は無い。

「吉野に金山があった」と言う伝承はあるが、未だにその痕跡すら発見はされていない。

そこで我輩は、この伊豆半島と紀伊半島の関わりについて、別の推理をした。

紀伊半島「吉野」周辺では、丹(辰砂・水銀)が採れた。

当時、水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ次いで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、日本の古くからの「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。

次に大きな注目点としては、安土・桃山期にキリスト教伝来と合い前後してもたらされた西洋の金の精製法が使われる前は、この丹(辰砂・水銀)が金の精製に使われる貴重なものであったのである。

従って、当時「辰砂(しんしゃ/神砂)」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事であった。

手に入れた力は維持しなければならない。

そうなると本当の産金地を隠し、精製に必要な丹(辰砂・水銀)を手に入れるには、紀伊半島にその本拠地を移す必要がある。

賀茂・葛城の一族は、伊豆半島に信頼の置ける同族を配置し、「特別な土地」とするとともに、紀伊半島に、故郷伊都国(伊豆国)と同じ様な地形(奈良飛鳥の地)を選び、故郷と同じ名称の地名をつけて都に仕立て上げた。

つまり二つの懸案を解決する為に、伊豆の地の賀茂・葛城の痕跡を消しながら、神武東遷(じんむとうせん)物語のヤタガラス道案内神話(賀茂・葛城の協力)をでっち上げまんまと伊豆半島から目を逸らせたのである。


賀茂神社の元となった古代の豪族・賀茂氏(かもうじ)の起源は謎である。
そこで大胆な仮説を立てて見た。

カーマ・スートラは古代インドの性愛の経典で「四世紀頃から存在した」とされ、葛城・賀茂氏は「五〜六世紀に日本列島に渡来した」とされるから渡来部族・賀茂氏が古代インドの思想を持ち込んだとしても時代的に符合する。

梵語(ぼんご/サンスクリット語)の「カーマ」は「業(ごう)」と訳されるが、この「カーマ」の最大の意味は「愛欲(慾/むさぼるよく)」なのである。

また、田の神様(稲作の神)とされる事代主神(ことしろぬしのかみ)には、呪詛巫女が神の御託宣を伝える様式が存在し、賀茂一族の信仰の中心をなす神は葛城の主神であり、シャーマンマニズム(呪述)的に神を持って国家運営を司って居た。

つまり豊穣の神(命を生み出す)とされる賀茂氏の祭神・事代主の神と一言主の神の「御託宣(決定)」と「御神託(助言)」の古代原形には巫術に拠る呪術要素が鮮明である。

そして桓武帝期に、中国修行から帰国した弘法大師・空海がその信仰思想を多くの経典とともに改めて日本列島に持ち込んで、在来の古代賀茂信仰と融合させて修験道を発展させた。

これは推測の域を出ないが、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)のカーマと原初日本神道・賀茂氏(カモうじ)の音についての類似性は発音してみると相当に疑い得るので、貴方が「カーマ」と発音してどう聞こえるかお試しあれ。

このカーマ=賀茂が正解だとするなら、伊豆国発祥の葛城氏の一部が古代賀茂信仰の祭祀を司る賀茂氏(カモうじ)を名乗る経緯が、解けた訳である。


六百七十二年に天智天皇の皇子・大友皇子が弘文(こうぶん)大王(おおきみ)として即位寸前、大海人皇子(おおあまのみこ・天武(てんむ)天皇)が「壬申(じんしん)の乱」を起こした時、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)に加勢、「勝利を得た」と言われて居る。

それは海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)と同族だったからに他ならない。

そしてまた、賀茂・葛城族(隼人・呉族)も同族だったのであれば、朝鮮半島と日本列島は血筋として同じ流れを持っていた事になる。


渡来氏族が日本列島に遣って来た時、蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)との意志疎通は通訳を介しなければ成らないほど言語的には別のものだった。

そこで大和朝廷(ヤマト王権)は、両者の言葉を組み入れ翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)を統治の為の両者共通の言語を創り出す。

その創出した言語を、蝦夷族(えみしぞく)に浸透させる為に、当時その蝦夷族との境界線・伊豆の地に地盤を持って蝦夷族(えみしぞく)に詳しかった賀茂氏族の役小角(えんのおずぬ)を頭(かしら)として起用する。

好都合な事に、賀茂氏族は事代主神(ことしろぬしかみ)を信奉する呪詛に長けた氏族である。

賀茂氏族は修験道山伏組織を編成し、天孫降臨伝説などの物語を通して翻訳多重発音言語を広く蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)に学習させた。


渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。

そして蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の存在が、渡来氏族との同化過程で日本史から抹殺されたが為に、日本語の起源論議から蝦夷族(えみしぞく)の存在を欠落させてしまった。

つまり、蝦夷族(えみしぞく)と渡来氏族との同化過程を経て日本民族が成立した事を念頭に置かないと、日本語の起源がトンデモナイ方向に行ってしまうのである。


あらゆる痕跡から、賀茂社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、現実に降臨(光臨)した場所は、伊豆七島の三島(三宅「宮家」島)である。

しかし、皇統の一貫性を重んじる呪術的な思想からか、古事記や日本書紀(記・紀)の物語は天孫降臨の地を「日向の国から大和の国の葛城山に降りた」としている。

少なくとも伊豆の地に、これらの古い地名が現実に存在する事実は、誰も否定できない。

そして、符合する事柄の意味は、とてつもなく重い。

そぅ、「誰が否定できる」と言うのか?

伊豆国は、古くから存在する意味深い地名が何事かを物語る「謎」を、確かに持ち合わせているのだ。



八世紀(平安時代)の中頃に成ると、大和朝廷も安定し国力も付いたので、いよいよ、日本列島の「東側」の征服にかかる。

一方的に大和朝廷側から見ると、まだ朝廷に服従してはいない列島東側の野蛮な「民族」が蝦夷(エミシ)と言う事に成る。

この蝦(夷)を武力で屈服させ、朝廷に服従させる為の軍の総司令官が、征(夷)大将軍である。これは当時の現実としては、「他民族」に仕掛けた「侵略軍」以外の何物でも無い。

鎮守府将軍なる役名も、当初は、今で言えば「占領地区、軍司令官」で在ったのだ。

奈良時代の末期、初代征夷大将軍に任じられたのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)であった。

この最初の討伐先は東海道地区(今の静岡・神奈川・山梨など)で、後に大伴の後を継ぎ、第二代征夷大将軍になる坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が副史として同行している。

まさにアメリカ大陸を、西に西にと白人が侵略して行った様なものだ。

攻められ、追い払われる方にしてみたら、堪ったものではない。

激しい戦闘が繰り返されるが、最初から当時としては近代装備の朝廷側が、全てに於いて有利で、勝ち進んだ。

この二人の働きで蝦夷(エミシ)は、少しずつ北に追いやられ、最後には東北の地で降伏、大和朝廷の支配下に置かれる。

つまり、隷属したのだ。

当初は、「俘囚(ふしゅう)」なる言葉で生活に制限を受け、後の「アメリカのインデアン居留地よろしく」、管理されていた。

鎮守府将軍は、その占領地の駐留軍の司令官である。

西部開拓時の騎兵守備隊の様なものか。

人間やる事は、似た様なものである。

初期アメリカの、酷いインデアン政策を、非難できたものではない。

それから、長い歳月をかけて双方の混血が進み、同じ民族として同化して行き、今日に至っている。

従って、「日本(大和)の国始まって以来、大和民族は単一民族である」などと言うのは、余りにも傲慢な考え方で、気恥ずかしくさえある。

一部は蝦夷地(えぞち・字は同じ/今の北海道)に逃れ、同じ蝦夷族のアイヌと名乗る人達と一緒に成った。

こうした様々な出来事を刻みながら、やがて大和の国は独自の文化、独自の言語に形作られて、一つの民族へと成立って行くのだ。



歴史認識において、二国間の歴史は両側から見るべきで、民族意識に拘ると広い歴史観は得られない。

国際間の歴史は、多角的に見て行かないとその本質を見誤る。

その上で堂々と事実を検証すべきで、感情論を言い合うようでは子供の喧嘩である。

勿論、歴史観まで感情論で歪めるようでは、文明人でさえないのである。

新羅統一王朝が成立して、大和朝廷との交流が途絶えて行った過っての「倭の国の仲間」、朝鮮半島のその後の千数百年にわたる変遷を、簡単に紹介しておく。

七世紀後半に、朝鮮半島は「新羅(しらぎ・シルラ)」が統一を果たし以後約二百四十年にわたり一国支配が続いた。

唐(とう・中国の帝国)の援助を受けて、初めて朝鮮半島(ちょうせん・チョソンバンド)を統一した新羅(シルラ)王朝は、三百五十六年から半島の一部を領有する国に始まり約六百年続いたが、その内の約二百四十年が統一新羅(シルラ)である。

七百八十年に、統一新羅(シルラ)の太祖・武烈王(金春秋=キム・チュンチュ)の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位纂奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。

また骨品制(血統)により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり、新羅(シルラ)の官僚制度は行き詰まりを見せていた。

この時代には、地方の村主や王位継承に破れ、王都から地方に飛び出した王族や官僚らが、私的軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興(ぼっこう)した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。

豪族の独立が頻発し、その中でも有力な私的軍事勢力であった農民出身の甄萱(キョンフォン)が、八百九十二年に半島南西部に後百済を、新羅(シルラ)王族の弓裔(クンイェ)が九百一年、北部に後高句麗を建て、新羅・後百済・後高句麗の三国が鼎立する後三国時代に入る。

その中で後高句麗の武将であった王建(ワンゴン)が、九百十八年に弓裔(クンイェ)を追放して建てた高麗(こうらい・コリョ)が勢力を伸ばし、九百三十五年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した事により新羅(シルラ)王朝は崩壊、滅亡した。

その後「新羅(シルラ)」は、十世紀に入って起こった「高麗(こうらい・コリョ)」に取って代わられたが、この頃には日韓互いに完全に独立した文化・言語が育ち、日本列島からも、朝鮮半島からも、倭(わ)人、倭の国々の意識は、失われて行った・・・・。


高麗王朝(コリョワンジョ)を開いた松岳(開城)の豪族・王(ワン)氏、高麗朝(コリョワンチョウ)の王建(ワンゴン・太祖<テジョ>)は、新羅末期の群雄の一人で後高句麗を建国した弓裔(クンイェ)の部下であったが、弓裔(クンイェ)の暴政にあきれた仲間に推されるようにして弓蕎(クンイェ・泰封国王)を倒した。

その後、九百三十四年に後百済、九三五年に新羅敬順王が降伏、統一高麗王朝(コリョワンジョ)が成立する。

千二百五十九年になるとチンギスハン率いるモンゴル(蒙古・後の元)が台頭し、高麗王朝(コリョワンジョ)は元(げん・ユエン)帝国の属国化するに至る。

その後起こった朝鮮半島と日本列島の間の出来事は、もう「倭の国同士のうちわ(内戦)」の感覚ではなく、他国、他人種の侵略と受け取られるほど、互いに違いが出来てしまっていた。

朝鮮半島は、「元(げん・ユエン)」の属国と成りながらも、「高麗(コリョ)」が四百七十年ほど続いた。

その間、日本の鎌倉時代、「元」の手先として、数次に亘る元寇の侵略軍の大半は、動員された「高麗((コリョ)」の人々であった。

鎌倉後期、執権北条時宗(第八代)の時代「元寇」として日本に襲来したのは、実は「元」に命じられた半島(当時・高麗王朝・コリョワンジョ)の民だった。

この時は、二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風(台風)」が吹いた。

海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島・高麗王朝・コリョワンジョの海軍)は大打撃を受けて撤退した。

内陸の国「元(げん・ユエン・モンコル)」には、本来海軍はない。

動員されたのは高麗王朝(コリョワンジョ)の海軍と兵である。

厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍だが、これが到着した時には対馬海峡(玄海灘)の海はもう荒れ狂っていた。

南宋の船団は、戦う事なく被害を出し、撤退している。


千三百八十年代、朝鮮半島に在って四百七十年続いた高麗王朝(コリョワンジョ)が、衰え行く「元(げん・ユエン)帝国派」と元を滅ぼそうと言う「明(みん・ミン)帝国派」に分かれて揺れていた。

その後、元が衰退すると、「明」と結んだ「李氏朝鮮王朝」が成立し、明の属国、或いは、同盟国として五百年続く。

日韓双方とも相手とは滅多に関わらない歴史を歩み、倭(わ)の国は遥かな記憶の中に失われて行った。


千三百八十八年、高麗朝末期の 親帝国明派の武将・李成桂(イ・ソンゲ)がクーデターを起こし事実上の実権者になる。

千三百九十二年になると、その李成桂(イ・ソンゲ)が高麗朝の恭譲(コンヤン)王から王位を簒奪して高麗王に冊封(さくふう・明国に申請して王と認められる)されて即位、翌年には明の皇帝に国号を選ばせ、「朝鮮(チョソン)」に変更する。

これにより、終(つ)いにこの後五百年続いた李氏朝鮮(朝鮮王朝・チョソンワンジョ)が成立し、創始者の李成桂(イ・ソンゲ)は太祖<テジョ> 康献王となる。

「李氏朝鮮王朝」は通算五百年続き、大陸の歴代覇権帝国に属国扱いされながらも生き延びたが、この間に日本の太閤・豊臣秀吉が「朝鮮征伐(文禄・慶長の役)」なる侵略戦争を起こして半島に攻め入り、戦勝を果たせず引き上げている。

秀吉の朝鮮征伐(文禄の役)の折には、「李氏・朝鮮王朝(チョソンワンジョ)」側に朝鮮民族の英雄「李舜臣(イ・スンシン)海軍提督」が現れ、日本側の水軍(海軍)は壊滅的打撃を受けた。

やがて宗主国・明が滅ぶと、次に大陸の覇権を握った清国の属国を経て千八百九十七年(明治三十年)、李氏朝鮮王朝は「国号を大韓、国王を皇帝」と改め完全独立を達成する。

明治維新の少し後、維新の英雄「西郷隆盛」が「征韓論」で大久保利通らと対立、「西南戦争を起こした」と言われている。

この説にも異論があり、「西郷は征韓論者ではなかった」と言う論陣を張る学者も多い。

そして千九百十年、日本との間で「日韓併合」を行い李氏朝鮮王朝は滅亡した。


時代が進んで百年ほど前、李氏朝鮮王朝は、日本同様に欧米諸国の圧力を受け、近代化を急ぎ「大韓帝国」と体制を改める。

しかし、そうした抵抗の甲斐なく、十四年後には武力を背景とする日本に「併合」されてしまう。

当時日本は、「日清、日露の戦い」に勝利し、列強諸国の仲間入りをしていたのだ。

或る意味、過っての「倭の国が統一した」とも取れるのだが、長い時間の隔たりの為に併合した方も、された方の人々も、そうした感情ではけして収まらない。

特に併合された方は、他国の「横暴な侵略」としか思えないのだ。

それもまた真実である。


それでは、明治四十三年の「日韓併合」の時の背景を紹介しておく。

当時、大韓帝国は経済的に疲弊し、「このままでは国が潰れる」と言う危機感が在った。

日本は、言わば火中の栗を拾ったのである。

現在の韓国の状況を見ても、万一「統一によって北朝鮮を受け入れる事の、韓国の経済的打撃は計り知れない。」と、早期統一には消極的である。

同じ状態に、当時の大韓帝国は在った。

「赤字会社を引受ける」・・・そんな、「旨味の無い合併」など、利潤を追求する営利会社同士ならけして在り得ない。

現に当時の朝鮮総監・伊藤博文は、経済面の理由で併合慎重論者であった。

伊藤博文をハルピン駅頭で銃撃、暗殺した半島の英雄「安重根(アン・ジュング)」のテロ行為は、結果的には併合を早めただけである。

今でこそ反日の英雄だが、当初は半島内でも彼は日本政府の併合促進派に「雇われたのではないか」と言う、疑惑さえ囁かれていた。

つまり朝鮮併合は日本国内でも、リスクの懸念が大いに在ったのだ。

それでも、日本政府はあえてこの経済的負担を負う選択をした。

事実、半島運営の為に日本政府は、相当無理な財政収支を行い、半島経済を立て直している。

欧米の植民地拡大政策に、新興国・大日本帝国が対抗して行くには、国力の拡大が最大の方策で、他に選択肢は無かったのだ。

当時の大韓帝国は、対露国、対清国などの近隣の大国の圧力に翻弄され、西欧諸国も虎視眈々と朝鮮半島の植民地化を狙っていた。

この環境下で、合併双方(日・韓)の政治家の一部から「救済合併論」が台頭し、日韓合併が実現したのが、真実の歴史である。

世の常として、一部の心無い日本人が合併後の半島で優位に立ち、無法な行いをしたのは事実で、認めざるを得ない。

しかし戦後の混乱時に、「戦勝国民」と称して優位に立ち、在日中国人、韓国人の一部が敗戦国の警察権が彼らに及ばないのを良い事に無法を尽くしたのも事実である。

その影で、戦前、戦中を通して台湾、満州、朝鮮半島、いや日本国内でも、個人ベースの友情は育くまれ、互いに信頼し合い、助け合って生活していた心の交流が有ったのも、また真実である。

本来権力者は、最も信頼する故郷の神を、守護神として信仰する。

朝廷の守護神として何故か平安期まで宮内省に祀られていた神の大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神を「韓神(からのかみ・朝鮮から渡来した神)」と言い、平安時代には、韓神(からのかみ)の祭が盛大に行なわれた。

この元々朝鮮半島の神、韓神(からのかみ)の大己貴(おおむなち)神が大和の国で変身、大物主(おおものぬし)の神となった。

ただの渡来神としては扱いが並ではない事に、相応の隠された理由がある筈である。

しかし、歳月の経過とともに半島と朝廷との離反が反映して、韓神(からのかみ)祭は衰退した。

犯罪者が、「あいつもやっている」式の話に取られても困るが、過去の歴史の中で、大陸側からの侵略も多々有ったのに、日本からの侵略に感情が強く成るのは、遥か昔から、身体の奥に眠っている「倭人の血」のせいかもしれない。

すなわち意識にはないが、D・N・A的身内故の無意識での「愛憎入り混じり」の深い憎しみを感じる。
そう言う物かも知れない。

日本の敗戦と伴に、朝鮮半島は解放され独立するが、混乱の中、政治思想の違う南北に分かれて今日に至っている。

ここで不幸な事に、韓国には日本の天皇にあたる国民の求心力が存在しなかった。

半島は幾度か王朝が変わり、王統が途切れているのだ。

そこで残念なのは、その国民を一つにまとめる為に、歴代の韓国政府に拠って殊更「反共、反日」が強調された事である。

その反日感情教育を受けた世代がもう孫を持つ世代と成り、息子も孫もと六十年に亘って固定された歴史観に成っている。

これを拭い去るには、また長い時を要する筈である。


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(妙見信仰)

◇◆◇◆(妙見信仰)◆◇◆◇◆

初期の渡来信仰として、妙見信仰の果たした影響は、計り知れない。

さて、渡来前の妙見信仰で有るが、妙見様の系譜は七仏八菩薩・諸説の一で菩薩、十一面観音菩薩が陀羅尼神(ダラニシン・妙見信仰)で、神格は天一星神(北斗・北極星神)である。

凡そ二百年前までの人間界では、羅針盤(磁石)が無かった時代が続いていた。

アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味した。

砂漠を旅する民にとって、方角の分かる北極星はなくてならないものであるが、気象学的に北極星は見える日ばかりではない。

北極星を待ち望む気持ちが「神」としての信仰の形を取ったのであろう。

これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれた。

最初は呪術を中心とする現世利益的なものに基を発し、インドの真言密教においても教理は大乗佛教に基づいてはいたものの、どちらかと言うと、教理よりもむしろ実修呪詛(呪術)を主としていた。

これが古代中国に伝えられてから「大日経」は龍樹菩薩の無相大乗教により、中国での道教・儒教・陰陽道などと、星(座)信仰とが習合し、また「金剛頂経」は無著世親論士等の唯識の教義によって解されて行った。

そうした実修呪詛(呪術)の教義が、帰化人の来邦と伴に日本に伝わった。


天体の中で動かない様に見える北極星は、方向を指し示す事から世界中で神格化されて来た。

北極星の化身としての妙見信仰(妙見神呪経)が日本に渡来したのは紀元後五百〜六百年代である。

つまり仏教伝来の初期の段階で、妙見信仰は伝来したのだ。

代表的な伝承を一つ上げておく。

実はこの話、後のこの物語に大きく関わる重要な出来事で有るが、ここではその触りだけにする。

中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手として有名なのは周防・長門の二ヵ国(山口県)の武将・大内氏が西国では有名で、妙見信仰の最大の庇護者だった。

多々良姓は、この地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。

大内氏は配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられたが、大内氏の血脈が、神主などの武門以外の立場で多々良姓や大内姓を名乗り、家名の脈を永らえていたとしても不思議は無い。

下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら/ペクチョ)国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

その琳聖太子は、周防国一帯に勢力をふるった守護大名・大内氏の伝説的始祖とされている。


六百十一年(推古天皇十九年)百済国・聖明王(さいめいおう)第三子・琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。

琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に拝謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる大内氏の祖先になった 。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。

琳聖太子が妙見大菩薩を祀る社を「桂木山に建立した」とあるが、この桂木山が、同名で後二山、「葛城山」と違う字で全国に三山あり、「臣籍降下した」と言う皇統に葛城王と言う親王の血統を持つ貴族が存在しているが、関わりはあるのだろうか?

明治維新以後、この地方の小さな町々から、光市出身の伊藤博文を始めとして、三人もの総理大臣を輩出している。

総理大臣が田布施町出身の岸信介と佐藤栄作氏で、政治家に縁のある土地柄である。

維新の「長州閥」と言ってしまえばそれまでだが、この土地の隠された謎も、後ほどの章で解明してみたい。


妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。

しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。

表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキヨウ・妙見神呪経)は、本来日本に渡来した時には仏教の経典の一部として真言宗の密教部に属している事にその原点があった。

空海(真言宗)や最澄(天台宗)が唐から伝えた経典の一部に、「密教」がある。

「密教」とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗の円仁、円珍(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

この真言宗や天台宗の密教の教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

修験者とは修験道を修行する人で、「山伏」とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

つまり元々呪詛託宣の神、事代主命(ことしろぬしのみこと)を信仰する賀茂氏族と渡来宗教の密教が上手い事合体した。

その呪術の中に、生命エネルギーを引き出し、強力な「呪詛パワーに変えよう」と言う男女交合の密教秘術「歓喜法」が含まれていた。

「歓喜法」により、菩薩の慈悲により「極楽浄土の境地」に達する事で、様々な奇蹟を生み出す秘法だった。

役小角(えんのおずぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも言われ、父は高加茂朝臣(たかかものあそん)加茂役君(かものえだちのきみ)加茂間賀介麻(かものまかげまろ)と言い、又の名を役大角(えんのおおづぬ)と言われる。

母は渡都岐比売(とときひめ)、又の名を白専女(しらとうめ)、刀自女(とらめ)と言われている。

この父親を小角(おずぬ)に当てはめると、高加茂朝臣加茂役君(たかかものあそん・かもえのきみだち)と言う「神官の出自」と言う事に成る。「朝臣(あそん)」が付くから、上位の貴族血筋である。

さて、支配階級(氏族)と非支配階級(民人)の接点が修験原始信仰である。

修験道が山奥の村里にまで潜り込み、広めて行った原始呪詛信仰の「里神楽(さとかぐら)」は村人の生活に定着し、時を経て昇華洗練され、その修験密教の要素を含みながら、神楽舞・巫女舞として形式化する。

陰陽祈願呪詛は、神とのコンタクトにより悪霊を祓い、物事に好結果を導き出し、願いを叶える術である。

その為にはそれなりの道具立てが居る。

人間は、人間のままでは神のお告げは告げられない。

神に憑依(ひようい)して初めてお告げは信憑性を持ち、人々に受け入れられる。

その憑依(ひようい)は、尋常ならざる環境と神懸状態(かみがかりじょうたい)が必要だった。

この神懸り現象、実は、本人の自覚に関わらない潜在意識に対し、自動又は他動の情報刺激で洗脳的に植え付ける事が出来るのだが、懸かり易いのは現在に至るまで女性の特質である。
それ故、シャーマン(巫女)には女性が多かった。

そして神のお告げには、生身の人間は適わない。

絶対的な威力として、統治に利用されたのが、神のお告げだったのである。

「神楽人(かぐらびと)」とは、巫女舞の楽器演奏を担当する人達で、地方(ぢかた)とも言う。

勿論、地方(ぢかた)は下級の神職がこれにあたっていたので、言わば陰陽修験導師クラスの者の仕事である。

その楽器演奏に乗って舞うのが「立方(たちかた)」で、巫女が担当する。

陰陽修験に於いて、巫女神楽の巫女の身体は、本来「依(うつ)りしろ」である。

巫女神楽・巫女舞は、神楽の原形とも言えるもので、本来「神迎えの依(うつ)りしろ」としての巫女が、神懸かりの状態になる為に勤めるもので在った。

天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンスが原型であり、その神懸かりの状態が初めて呪詛の祈願に威力を発揮する理屈だった。

里神楽では直接神々の降臨を迎える意味を述べたものがしばしば歌われ、舞いの所作に関しても本来の原始的(素朴)なものは、神態(かみわざ)、つまり恐れの神(恐怖神)の憑依(ひょうい)した姿そのもので在ったから相当に激しかった。

原始的(素朴)な形式では、巫女がトランス状態になる様な「激しい旋回運動が行なわれた」と考えられ、つまりトランス状態に陥り易い状況を演出する事が要求されていた。

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態とされている。

この現象を宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説され、その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。

その最大限のものが、巫女舞の延長上に在った呪詛性交により快感を得て神懸かりの状態となる呪詛行である。

宮中の神楽として洗練された神楽の楽器に関しては笛、太鼓、琴と言うのが主なものであるが、本来は、「杓拍子(杓杖を打ち鳴らして拍子を取る)程度の簡単なもので在った」と考えられる。


呪詛巫女は仏教の観音菩薩と結び付き、やがて便宜上の神仏習合政策で一体化する。

陀羅尼の尼は女性を現し、観音菩薩も女性で有る。

仏教関係者は否定するだろうが、この観音菩薩は別名十二面観音菩薩と言う。

世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面が密教として隠されている。

この十二面の意味は「一度に十二人相手に出来る」と言う意味だが何の相手が出来るのであろうか?

千手観音や十一面観音の原型は、インドの性典、カーマ・スートラの壁画がモデルであり、多くの男性を一度に受け入れる皇女(姫)の姿が仏法の慈悲深い菩薩になった。

中国から持ち帰った多くの経典はヒンドゥー教の訳書であり、密教の教えにはその教義が採用されていた。

この密教の教えが、時の大和朝廷には認め難いもので、「風紀の乱れ」として禁止された。

実はこの禁止には裏がある。

建前上禁止したのは征服部族である貴族達に対してである。

その裏で、朝廷が画策したのは陰陽師に拠る民人への蜜教の布教だった。
そこで、大王(おおきみ・天皇)から、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」に、国の将来を左右する或る重大な密命が下命される。

一方で禁止し、一方で布教に腐心する。

二重構造的なこの秘密の布教プロジエクトは、後の日本を決定着けるに必要かつ重大な、征服部族の千年二千年の国家の大計であったのだ。

それ故、事は秘匿され、かつ大胆に進められた。

奈良時代の密教は表向き「雨乞いの祈願」などの陀羅尼信仰であり、現世利益の思想と重なって、学問的な諸宗に対し「異質的な呪詛(呪術)佛教の一面」として諸宗の僧尼の間や一般庶民の間に実修呪詛(呪術)を歓迎され受容されて行ったのである。

古来日本には三貴神(うずのみこ)の二、に「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命(天照大神の妹)」と言う闇を支配する神が居るが、この陀羅尼神(妙見様)は夜を支配する神(星の神で夜しか現れないから又全ての星はこの星を中心に動いて見えるから)だった。

そして当初は現世利益の神であり、性交による陀羅尼神呪経(妙見神呪経)によりご利益を願うエロチックな教えの仏教で、「北辰祭(妙見祭)」は乱交を伴う呪経行事だったのだ。

公には大衆とともに多くの官吏が信仰していた為、「色々と政務に乱れを生じた為である」としているが、これは北辰祭の存在を隠蔽する為の後日解釈である。

平安時代末期から南北朝並立時代末期に掛けてこの現世利益信仰が一つの潮流を為す。

今でこそ、こうした性的な事は「世間がこぞって破廉恥で低俗な事」としているが、実はそうでも無い時代があった。

遠く鎌倉室町時代にかけて勢力を有していた真言密教が、渡来初期の「オリジナル仏教」の教えを取り入れて、教義としていたからで有る。

鎌倉時代より少し前、真言宗の密教で、「真言立川流」を始めた人物が居た。

その教義は、遠く印度の仏教に遡る。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社(稲成り・おきつねさん)に成る。

つまり稲荷(稲成り)は、読んで字のごとく実りの神様で有る。

実りには神秘のパワーが必要で有る。

神秘のパワーが茶吉尼(だきに)天と言う性的魔女の妖力である。

出自(しゅつじ)が仏教なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではあるが、後述する理由で、「現世利益」の為に無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。

稲荷(稲成り)神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この場合の大商家や上級武家、豪農では、資産的利益も然る事ながら、跡継(血筋)確保も含めて艶福である事が、家名繁栄の条件で在ったのは言うまでも無い。

それ故、側室・妾の類には、世間はおおらかだった。

つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。

稲荷(稲成り)神社が、油揚げ(豆腐)を好物としているのが、仏教の出自(しゅつじ)を物語っている。

仏教の教義では動物を食する事を嫌い、たんぱく質を摂取するに豆腐や胡麻を用いた。

油で上げた豆腐は、体力維持に欠かせない食べ物だったのだ。

此処で言う動物の大半が、実は仏教で言う所の「仏法諸天」であり、仏天である四足動物は、明治維新の文明開化(西洋文明を積極的に取り入れた。)に到るまで、庶民でさえ宗教上の理由で食する事を忌み嫌う者が多かった。

いささか蛇足であるが、三蔵法師の旅を守った西遊記の孫悟空、猪八戒、沙悟浄は人間ではないが「仏法諸天」であるから法力が使えるのであって、妖怪ではない。

つまり、真言密教は生きている人々を幸せにしてくれる仏様(神様?)で、その茶吉尼(だきに)天が、真言立川流の御本尊である。

その、茶吉尼(だきに)天の法力を高める秘法が、密教の男女和合の儀式と、経典にある。

茶吉尼(だきに)天の法力を高めるには、日常を超えた激しい男女和合のエネルギーがいる。

この激しい男女和合の教義を取り入れた事が、この宗教の基となり、当時原始性本能の煩悩に悩む人々の支持を得、密かに信者を集め増やしている。

真言とは呼んで字のごとく「真理を言ずる」と言う事である。

およそ理性と性欲では司る脳の部分が違う。

だからこそ人間は、理性で理解しながらも、一方で原始性本能の煩悩に悩まされる。

従って全ての人類がこの葛藤に悩まされ、中には犯罪さえ引起す。

その性欲を肯定し実践する所に、信者が解放される真の救いがある。

日本では室町時代以後、呪いの強い隠避(淫乱)な邪教とされ、江戸末期までに弾圧されて完全消滅しているが、ヒンズー教のカーマ・スートラに影響された印度仏教や、ネパール、チベットなどのラマ教では、こうした性的教えは仏法と矛盾しない。

性(SEX)は「生きる活力の源・・・生命力」と解釈されている。

古(いにしえ)の奇跡は、命を紡(つむ)ぐ事であり、新たな命の誕生は神の成せる業(わざ)だった。

その移り代が、神の使いである「巫女」なのは、疑う余地は無い。


人間は群れ社会の生き物で帰属意識が高く、どこか心の隅に民族的な意識を持っていて文化文明や信仰に独自性を求めるから目を曇らせる。

しかし黎明期の日本列島は文化文明の後進国だったから、早くから進んだ古代黄河文明や古代インダス文明を採り入れて国家を築くのは当然の事である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教と神仏習合の神道に影響を与えている。

弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開闢(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

インド・ヒンドゥー教は生活する事に正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

ヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性がある。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽(かぐら)・巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道と人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?

リンガ(男根)の神・シヴァ神(破壊神)に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う能力が有るのであれば、日本神道の主神でもある賀茂信仰・五穀豊穣神・事代主(ことしろぬし)の神を祀る祭祀に、子宝に恵まれる事と五穀豊穣を祈る事の共通性をもったエロチックな呪詛が存在しても不思議は無い。

その初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。

日本では祇園神とされている朝鮮半島由来の守護神・牛頭天王(ゴヅテンノウ)=スサノウ(須佐王)であるが、もう少し深く探ると基は多神教であるインド・ヒンドゥー教で、「牛」は神聖な動物として崇拝されている「ナンディン(聖なる牛)信仰」がその源流の様である。

多神教であるインド・ヒンドゥー教では生き物も神であり、シヴァ神の乗る「ナンディン(乳白色の牡牛)神」と成った事で神聖化が進んだ「牛」は、神聖な動物(聖なる牛)として崇拝されている。

そしてこのナンディン(乳白色の牡牛)神、シヴァ神が踊りを舞う時「その為の音楽を奏でる役を担う」とされている。

牛頭天王(ゴヅテンノウ)が、元々シヴァ神が踊りを舞う祭礼音楽の奏者を担う神であれば、祇園祭(ぎおんまつり、ぎおんさい)の祭礼神で在っても不思議は無い。

そう成って来ると、日本神話に於ける天宇受売命(あめのうずめのみこと)の存在も、ヒンドゥー教の「シヴァ神がモデルではないか?」とも思えて来るのである。



同じくインド・ヒンドゥー教由来の毘沙門天は、仏教に於ける天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。

密教に於いて毘沙門天(びしゃもんてん)は、十二天の一尊で北方を守護するとされている。

武神ではあるが「毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)」は、インド神話の財宝神・クベーラを前身とする為、財運信仰の象徴として七福神の一神に数えられる。

インドの財宝神・クベーラはシヴァ神と親しく、ヤクシャ族(薬叉、夜叉)の王とされ、ラークシャサ族の王であるラーヴァナとは異母兄弟に当たる。

尚、毘沙門(びしゃもん)と言う表記は、ヴァイシュラヴァナを中国語(中文)で音写したものである。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った多くの経典はヒンドゥー教の訳書であり、密教の教えにはその教義が採用されていた。

ヴァイシュラヴァナと言う称号は本来「ヴィシュラヴァス (神の息子)」と言う意味で、彼の父親の名に由来するが、「良く聞く所の者」と言う意味にも解釈できる為、多聞天(たもんてん)とも訳された。

日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。

そしてこの「良く聞く所の者」と言う意味のヴァイシュラヴァナのインド神話の伝承が、「一度に多くの者の発言を聞き分ける」と言う超能力、聖徳太子の多聞伝承に組み込まれて、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも称号され、太子の神格化に使われた。


弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を、帰国後東寺を基盤として布教したので「東密」と呼ばれた。

その大師(だいし/空海)が日本にもたらした「東密」に、福をもたらす神達の「七福神信仰」の元となる神々が伝えられている。

「七福神信仰」は室町時代後期に成立し、神仏習合に拠って日本中の神社・仏閣に御神体として祀られている。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)は、真言密教に日本の恵比寿信仰から取り上げた外は、これらの神々を大師が中国から持ち帰ったものだが、その由来は中国に止まらずインドのヒンドゥー教の神をも合習したいる。

そうして弘法大師(こうぼうだいし/空海)が日本に伝えた神仏を、庶民が自然発生的に「福を授かる縁起が良い神仏」として集合させたのが、「七福神信仰」だった。


その一、「恵比寿(恵比寿尊/真言・おんいんだらやそわか) 」は、唯一日本由来の神様で、古くは「大漁追福」の漁業の神であり時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。

その二、「大黒天(真言・おんまかきゃらやそわか)」は、 インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神と日本古来の大国主命が習合し、大黒柱と現される様に食物・財福を司る神となった。

その三、「毘沙門天(真言・おんべいしらまんだやそわか)」は、 元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、これが仏教に取り入れられ日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

その四、「弁才天 (弁財天/真言・おんそらそばていえいそわか)」は、 七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神で、七福神の一柱としては「弁財天」と表記される事が多い。

その五、「福禄寿(真言・うんぬんしきそわか)」は、寿老人と同一神ともされ、道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人を言う。

その六、「寿老人(寿老尊 /真言・うんぬんしきそわか) 」は、道教の神で南極星の化身の南極老人(なんきょくろうじん/カノープス・りゅうこつ座α星)を言う。

その七、「布袋(布袋尊 /真言・ おんまいたれいやそわか)」は、唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在し、常に袋を背負っていた事から「布袋」と言う俗称が付いた仏教の僧・釈契此(しゃくかいし)を神格化した伝えられている。


弘法大師(空海)、伝教(でんぎょう)大師達が、我が国にもたらした密教は、当初強力な「現世利益の秘法」であった。

つまり、初期の仏教は信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、社会合意の道徳的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

本来の仏教は祈り(呪術)による「現世利益」で、まずは手っ取り早く「長命や裕福の願い」と言った幸せを願う物だった。

この「現世利益」については、現在の中国式寺院にその面影を見る。

お金(札)に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様先祖に祈るのだ。

仏教で言う所の「極楽往生」は、言うまでもなく死んでから先の事ではない。

あくまでも「楽しい人生を送り、悔いなく死んで行きたい。」と言う庶民の素朴な「現世利益」の願いで有る。

庶民の願いなどささやかな物で、ストレートに言ってしまえば、その中に気持ち良い性行為をする楽しみも極楽として含まれる。

そうした庶民の生きがいを取り入れた教えが、真言宗の密教として伝えられ、男女和合に拠る「現世利益招来の秘法」、真言密教・立川流が成立した。

「罰当たり」と言われそうだが、それを捻じ曲げて、禁欲とお布施を強いるから、今では坊主は信用されなくなった。

だいたい、その辺の寺の僧侶自身がどう見ても「現世利益」を追い求めていて、今の日本式仏教には説得力が無い。

理屈はともかく、本質がぶれているから現代の若者達には肌に馴染まず、さながら葬祭・墓地管理業者的価値観に擬され通じない宗教になりつつある。

そもそも、弘法大師(空海)が日本にもたらした真言密教の教えでは、男女の性的和合は現実的に肯定されていた。

初期修験道の呪術に於いても、性交により新しい命を創造する事は即ち「神の領域の呪詛の範疇」だった。

この時点では、その部分で神と仏は一致していたので有る。

理趣経(りしゅきょう)に拠ると、男女の愛欲、性の快楽は「菩薩の境地」とある。

つまり性を否定する事がいかに非現実的な事か、空海は充分に知っていた。

この理趣経は、正式には「般若波羅蜜多理趣本(ハンニャハラミタリシュ品・ぼん)」と言う経典で、いかがわしいものでは無い。

真言立川流はこれを主な経典として多くの信者を集め、南北朝並立時代から室町初期にかけては後醍醐天皇の庇護を受、政局にかかわるほどの力を有したのだ。


南朝・後醍醐天皇の軍師と言われた京都醍醐寺の僧正・文観(もんかん)は真言密教の提唱者であった。

北朝・持明院統派と南朝・醍醐寺統派は同じ真言宗の宗門派閥で覇権を争い、それぞれが並立していた南北両朝に組した。

しかし足利尊氏の支援を受けた北朝・持明院統派が後醍醐天皇を吉野の山中に追いやり、南朝の衰退と供に醍醐寺統派も衰退、勝利した戒律の厳しい持明院統派の教義(現在の真言宗)が全国的に広がって「女犯」なる戒律の教えが広がって行った。

それでも、徳川政権成立までは、神社に対抗する「現世利益」が主たる教えだった。


「菩薩の慈悲」を何時の間にか本質から変えてしまったのも後世徳川幕府と結びついた禁欲主義仏教界で「求められれば与える」と言う優しい「菩薩の慈悲」は、ただのふしだら女と定義付けられてしまった。

昔は春をひさいで居ても心優しい女性(菩薩様)は居た。

今は自分の主張だけで、そんな気使いは大方の女性には無い。

貧しさ故、或いは観掛けが悪い故、「相手に恵まれない」などの不幸な者は菩薩に見捨てられて、性的欲求のはけ口がおかしな方向に変わらざるを得ない。

本来、男女の交合は尊い物だった。

男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が男女交合であり、密教の理念としていた。

絶頂(イク瞬間)感が密教で言う「無我の境地」で、法力のパワーの「源」と考えられている。

つまり現世利益の一つとして、素直に「性感の幸福も有難い事」とされていたのだ。

その理念は、けして浮ついた邪教ではない。

勿論仏の教えはこれだけではけしてない。

その点を指摘されるのは当然で、反論はしない。

しかし至極まじめで、日本に入って来た「初期の頃の真言宗の教えの一部」として、間違いなく存在した。

平和と愛、五穀豊穣の実り、その全てを激しい男女和合の秘法、つまり「未来に繋ぐ生命力で呼び寄せよう」と言うのだ。

考えて見れば、何千、何億と言う精子が、分速二〜三ミリの速さで一時間半の長旅の末、僅かに数百個が卵管膨大部の卵子に漸く辿り付く。

その内の一個が漸く卵子に受け入れられて受精、細胞質と核が融合して新生命が発生する事からして、「神秘の現象」以外の何ものでもない。

つまり、神の成せる業である。

命を繋ぐべき神聖な行為を、不浄なものとする事自体に無理がある。

つまり密教に於いて、現世の色欲の煩悩は信仰により浄化され、救われるべきものだった。

それが、何時の間にか禁欲的なものになって、江戸・徳川幕府の分業政策(宗教の住み分け)もあり、基本的に性交に通ずる出産や結婚は仏教の下を離れ、神社の領分とし、仏教は死後の心の拠り所を担当する様になる。

人間は不完全な神である。我輩は今日まで、否応なしにその不条理と向き合うしか、術(すべ)がなかった。

大概の所、人間は「触れられたくない核心」に触れられると、それを必死になって「取り繕おう」とする。

本来の理屈から言えば、神を人間が作り出すのであるから、貴方も我輩も神である。

そこで問題なのが、我々が「神として恥ずかしくない人生を続けているかどうか」である。

それは取りも直さず、神を私利私欲に利用しているのか、いないのかに懸かっている。

信仰の怖い所は、いかに知性の備わった人間でも、信仰上の問題について「思考」が停止する事である。

これは、熱心な信者であればあるほど著明な事実である。

第三者が見れば明白な事実さえ、彼らは見ようとも聞こうともしない。

それは、「自らを全否定される恐怖」が心理の前提にあるからで、理論で適わなかったり痛い所を突かれると、問答無用に暴力で解決する方向に走る。

そういう場面になると、何故か「平和や思い遣り、愛情」を説く立派な教義が変身し、相手は「悪魔」だから「殺しても構わない」と成る。

それは、「自らが悪魔になるのと等しい」と思うのだが、いかがか?


歴史とは、すべからく命の繋がりの連続で成り立っている

我輩が「懸命に書こう」と言う気になったのは、命の大切さを思うからである。

命のつなぎ目に存在するのは、気取っていても仕方がない性行為と言う現実である。

この現実を抜きにして、いや、正しく見詰る事なくむしろ取り上げる事を避けて来た。

しかし次の命は、神からの授かり物である。

その行為を、世間が不道徳がごとく扱う事に、いささか拭い切れない違和感を感じる。

つまり何事も上辺だけで、本音を隠すから世の中が上辺だけで回り、上辺が真実と誤解したり、上辺社会だと馬鹿にして暴走ぎみの本音に走る。

歴史の定説には、時の政権の意図が明らかに働く。

時が経つとその政治的背景は失われて、定説だけが生き残る。

そこが肝心で、ある程度割り引いて定説を捕らえなければならない。

我輩は疑り深いから安易に世間に迎合するのが苦手で、生きて来る上で大切なのは冷静に物事を見詰る事だった。

歴史を扱うに、同じ方向や同じ角度ばかりに頼ると、「大きなものを見落とす恐れ」がある。日本人の悪い事は、皆が「同じ方向に行きたがる事」である。

それ故手法を変えてみて、初めて考え方が決まる事もある。


神楽舞(かぐらまい)、神輿(みこし)、屋台の音曲、興奮に包まれた祭りの宵闇(よいやみ)は出会いの場で、古(いにしえ)の神社境内の闇は「にわかカップル」の性交の場だった。

五百年代から六百年代の六世紀(ろくせいき)にかけての古墳時代、渡来人と伴に日本列島・大和合の国に渡来し、永く妙見宮(みょうけんぐう)として信仰を広めた事が影響している。

妙見宮(みょうけんぐう)は、北辰妙見神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を主神とし、最大の神事は「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」だった。

さて帰化人と伴に入って来た妙見信仰(妙見神呪経)が禁止された事実は、帰化人のいた南河内・京・畿内である事が、北辰祭の禁止令(七百九十六年)が朝廷から出された事で判る。

それから天智天皇以降に渡来した帰化人を、関東に強制的に移住させた事から妙見信仰が関東地方に入って来た様である。

北斗・北辰信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化された北極星をまつる祭りである。

古代バビロニア地方など西アジア砂漠地帯の遊牧民族の間でに起こった方位を示す神「北斗・北辰(北極星)」への信仰が、インドと中国を経て仏教と共に我が国に伝来した。

妙見信仰(妙見神呪経)は当初、九世紀以前は北極星との関係は余りなく、豊穣や御霊などに対する信仰であったが、院政が始まった頃に変化が起きることになる。

九百四十五年(天慶八年)に天台宗の義海(ぎかい)が始めて「尊星王法(そんじょうおうほう)」をとなえ、「守護国土」を目的する信仰が強調され、朝廷・院政などにも取り入れられて、公式に認められる信仰となった。

やがて時代が進み、「みちしるべ」の北斗・北辰信仰が、「優れた目を持つ」の意味の妙見信仰と習合して一つの神になる。

五百年代から六百年代にかけての平安期以前より渡来人と伴に日本列島・大和合の国に広がり、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が、妙見信仰と習合し庶民的な神に変貌を遂げ、永く妙見宮として北辰妙見神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を主神としている。

姿を顕わさ無かった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)が、一般になじみのある姿を表しているのが「妙見さん」である。

神話では「古事記」の冒頭と「日本書紀」一書第四にしかこの神の名は登場しない。

それだけでなく、平安時代初期の全国の主な神社が載っている「延喜式(えんぎしき)」と言う当時の神名台帳などにも、この神を祀る神社が見当たらない。

そんな風に、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つ様になる。

そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがべースになって成立したものと考えられている。


妙見の「優れた目を持つ」の意味が、「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ/賀茂小角)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の根幹を為す信仰として活用された。

この北辰妙見信仰は、初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっている。

陰陽修験道は、大王(おおきみ)の統治を広める為の在る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。

この陰陽修験道の全国的な活動の広がりとともに、何故か全国に人身御供伝説と、「北斗・妙見信仰祭事・北辰祭」が広がって行った。

平安時代に北辰夜祭が、男神と女神との年に一度の逢瀬を献灯をもって祝う北辰祭として都の朝廷・民間で盛んに流行する。

信仰が大衆に広まるには、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。

現代では織姫と彦星が年に一度の逢瀬を愉しむ「七夕伝承の祭り」として無難な形の庶民行事として残っているこの北辰祭、「男神と女神との年に一度の逢瀬」に因(ちな)む事を口実に、神にあやかる神事としての乱交夜祭だった。

実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。

つまり「北辰祭」が後に全国に広がって、庶民の間で俗に性交の事を「お祭りをする」と言われるくらい当時としては一般的な習俗で、その後明治維新政府が取り締まるまで信仰行事として続いた「暗闇乱交祭り」の原型だったからである。

大和朝廷は、七百九十六年(延暦十五年)に「風紀の乱れ」を理由に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止する。

所が禁止から僅か十年余りで、八百六年に空海(弘法大師)が唐から帰国して高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山すると、北辰妙見信仰を取り込んで「妙見大菩薩」と言う真言密教の仏様に迎え入れる。

実は空海(くうかい/弘法大師・こうぼうだいし)と最澄(さいちょう/伝教大師・でんぎょうだいし)は帰国した時期に恵まれていた。

詳しくは、この章の「桓武帝と平安京」の記述で既に紹介して居るが、両大師が帰国した頃、ちょうど天智天皇(てんちてんのう)系の桓武天皇(かんむてんのう)が即位して、天武天皇(てんむてんのう)系の貴族や寺院の勢力を脱して自らの独自政権の確立を意図して居た。

為に桓武天皇(かんむてんのう)は、平安京の造営とともに天武天皇(てんむてんのう)系の寺院に対抗する意図を持って目を着けた帰国したばかりの空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)の両大師に庇護を与えた。

つまりそうした政治情勢がなければ、空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)の真言宗と天台宗の教義布教は遥かに苦戦したかも知れない。

そして禁止されたばかりの「北辰祭(妙見祭)」が、僅か十年余りでなし崩しに成った事もそうした政治情勢が背景に在ったからである。


日本の真言宗は、真言陀羅尼(マントラダーラニー/しんごんだらに)を唱え、大日如来(本尊)を念じる教義である。

実は空海(弘法大師)が中国大陸から持ち帰った教義を総合的に整理して教義とした為、空海(弘法大師)が持ち帰った教義の中に北辰妙見信仰と仏教が中国大陸で結び付いた「妙見大菩薩信仰/陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」が含まれていたからである。

この北辰妙見信仰は、百三十年余り以前に初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていた。

その為、真言密教と修験道は一体化して行き東密修験道は総本山金剛峰寺(真言宗)を本拠地に、そして同時期に帰国した最澄(伝教大師)が天台宗を創建すると同じく台密修験道として比叡山延暦寺(天台宗)を本拠地として融合する。

初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。


北辰北斗信仰は、遊牧民からインドに伝わり、ヒンズー教の影響を受けた仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキョウ・妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれ、中国では道教(どうきょう)に取り入れられ、唐代の密教(みっきょう)に強く影響を与えた。

その後、真言宗や天台宗と共に日本に伝わり、北辰を真言宗では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、天台宗では尊星王(そんせいおう)と呼ばれた。

そこから室町時代以降、日蓮宗に於いて盛んに信仰される様になった妙見信仰と習合したのである。

妙見信仰は、北辰妙見信仰ともいい北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は、北極星の神格化されたものである。

天の遥か高みに隠れていた天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は、妙見菩薩と同一視されるように成った事に拠って庶民の信仰レべルに降りて来た訳である。

その妙見信仰で知られる神社のひとつに秩父神社(埼玉県秩父市)がある。

主祭神はチチブヒコ神(地方郷土開拓の祖神(おやがみ))であるが、その祖神が天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)とされている。

この神社は、鎌倉時代初期に妙見菩薩が合祀されて以来、秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称されたと言う経緯がある。

旧妙見宮(仏教系神社)で、明治に成って祭神を妙見菩薩から天御中主神 に変更した所は結構ある。

天皇が名目から実質の最高権力者に返咲き、仏教系神社よりも古来の神にする方が良いと言う処世術が働いたと見るべきである。

それはともかく、「妙見さん」の御利益は安産、長寿、息災、招福、とされている。

また、眼病の神としても信仰が厚い。


倭族が海峡を渡り、古代日本列島にもたらした技術に踏鞴(たたら)がある。

言わずと知れた砂鉄の製鉄技術で、中国地方には今もその伝統が細々と継承されている。

千五百年から二千年前、製鉄の技術は「神の業」だった。

そして、日本列島を征服する倭族侵略部隊の新兵器だった。

妙見信仰と修験者(山伏)の関わりの背景に、この踏鞴(たたら)がある。

修験道の護摩などの火を用いていた業は、この踏鞴(たたら)文化そのものと言える。

そして山からは当時道教で不老不死の妙薬として金と同じ価値があった「辰砂(水銀)」等の鉱物資源や薬草等々様々な産物があった。

つまり修験者(山伏)の別の顔は、山師(鉱脈師)である。

修験者山伏は狩猟民だけでなく、産鉄民系の踏鞴(たたら)師・鍛冶師と関わり、鉱山経営に当たり、採掘者・金属加工者や精錬する為の木材調達者とも関わりがあったとされている。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗の円仁、円珍(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

この真言宗や天台宗の密教教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」は修験道系密教の祖と言われる人物で、後に神格化されてしまっているが、間違いなく現実に居た人物で、文献にも残っている。

「続日本紀」では、六百九十九(文武天皇三年)に、「役君小角」は初め葛木山(かつらぎさん)に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に、ざん訴され、伊豆島に流された」とある。

伊豆半島には「賀茂郡」と言う土地の名称が、伊豆の国の旧郡として、未だに存在している。

役小角(えんのおづぬ・役行者/えんのぎょうじゃ・賀茂の行者)をざん訴し、「伊豆に流罪せしめた」とされる韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は、外従五位下に叙せられる物部韓国連(もののべのからくにのむらじ)とも言い、役小角(えんのおづぬ・役行者/えんのぎょうじゃ)の弟子だった。

物部(もののべ)と名乗るからには韓国連は物部氏の同族なのだが、韓国(からくに)とあるから、物部氏が半島からの渡来人である事を物語っている。

ちなみに連(むらじ)は身分を示し官位叙任の有資格者を表している。

この韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に拠る役小角(えんのおづぬ)ざん訴劇に、後に役行者(えんのぎょうじゃ)が復権する事で、古来から「伊豆流罪八百長説」が付きまとっていて、実は朝廷の依頼による役行者(えんのぎょうじゃ)の「伊豆下向の口実だった」と言うのである。

その疑惑があるのはもっともで、役小角(えんのおづぬ)の流罪先「伊豆」が賀茂・葛城族である小角(おづぬ)の元々の本拠地で居心地は良く、罰には成らない話しだったからである。

この事から役小角(えんのおづぬ)の伊豆流罪は、陰陽修験・秘密警察組織の長官、役小角(えんのおづぬ)が何らかの表ざたに出来ない事を隠滅する為にでっち上げられ「公式文章化して残された」と疑うのである。

うがって考えれば、非公式非公然の本格活動の為に、「中央からフリーに成った」のかも知れない。

余談だが、この物部氏系の韓国(からくに)姓には韓国連源 (からくにのむらじみなもと・後に高原姓)と言う人物も居て、遣唐使として唐帝国に渡航している。


小角の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。

この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する臣王家・葛城氏の子孫の事で、臣に下った後、「一部が賀茂氏を名乗った」と言われている。

「役(えん)」は、特定の職掌(しょくしょう)をもって宗家賀茂氏に使えた賀茂氏の分家の氏の名を意味する。

「君(み)」は古代豪族が身分や家柄・職能に応じて用いた姓(かばね)である。

従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事になる。

上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。

賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記される。

賀茂氏には、神武天皇の東征に際し熊野路を先導して功績を挙げた」と言う八咫烏(ヤタガラス)の伝説がある。

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は日本神話で、神武東征の際、最高の皇祖神タカミムスビ神によって神武天皇の元に遣わされ、「熊野から大和への道案内をした」とされる三本足の鴉である。

この伝承、先住して畿内を支配していた古代豪族の「王家葛城氏(賀茂氏)」が支配権を譲り、「抵抗無く神武天皇を支配者として迎え入れた。」と言う経緯が読み取れる。

つまり敗者の顔を立て、臣下として共存する為の知恵である。

後の皇統葛城王は、この葛城氏の氏姓を襲名したのだろうか?

この譲った国が、紀伊半島ではなく、伊豆の国(伊都国)で有ったなら、大和朝廷(神武朝)の支配権が、東に大きく広がった事になる。

八咫は当時尺度を示すが、意味としては「大きい」を表現している。

八咫烏はカミムスビの孫である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後「鴨県主(かものあがたぬし)の遠祖となった」とする。

鴨県(かものあがた)は、国家運営に参加する為に伊都国王「葛城氏族が、王城近くに譲渡された土地だった」のではないだろうか?


近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れた最澄(さいちょう)は、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)と言われて居るが、実は陰陽師賀茂家の当主(名は不明)、の女(娘)の嫁ぎ先、三津(みつの)家の次男だった。

征服部族として神の国(神のご託宣・神の威光を持って統治する)を成立させていた大和朝廷としては、中国の進んだ文明を取り入れて国家を発展させるには、中華文明に根を下ろした「仏教」を容認する必要が在った。

そして、渡来信仰として当時無秩序に広がっていた「妙見信仰」を、空海や最澄を大師として遇する事で朝廷の影響下に置く計画だったのかも知れない。

仏教を国家でコントロールしながら取り入れる為に、当時の国家運営戦略の根幹を成したのが、「神仏習い合わす」の融合政策である。

賀茂家が、その国家戦略を担う家だった。

その戦略に乗っ取って、本来神社系の賀茂家が、特に利発だった首広野(おびとひろの)に目を付け、仏教界に送り込む為に、全力を投入して育成した人物である。

首広野(おびとひろの)は十二歳の時近江国分寺に入り、行表(ぎょうひょう)の弟子となり、十四歳の時に国分寺僧補欠として得度し名を最澄(さいちょう)と改めた。

七百八十五年(延暦四年)、最澄(さいちょう)は十九歳の時に東大寺で具足戒を受ける。

同年七月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破し、七百九十七年、内供奉(ないぐぶ)十禅師となる。

この山林修行と言う手法こそ、後の天台密教に生きてくる賀茂家の戦略とも言えた。

八百二年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師になる。

そして入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。

最澄(さいちょう)と名を改めた首広野(おびとひろの)は、賀茂家の期待を一身に担って、八百四年、遣唐使(けんとうし)の遣唐留学僧として通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発する。

中国に到着すると、天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学び、更に道邃に大乗菩薩戒を受け、(しゅくねん・漢字表記不明)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。

現在の中国・浙江省(せっこうしょう)天台県に在る国清寺が、最澄(伝教大師)が学んだ中国・天台宗の総本山である。

最澄の帰国当時、桓武天皇は病床にあり、最澄は招かれて宮中で天皇の病気平癒を祈ってる。

八百六年(大同元年)、最澄の上表により、天台業二人(内訳は、止観(しかん)業一人、遮那(しゃな)業一人)が年分度者となる。

これで最澄(天台宗)は、先行していた宗門の南都六宗に準じる格式を認められ、国に認定された宗派になった。

これが日本における天台宗の開宗である。


この頃、最澄(さいちょう)は、天台宗の密教に必要性を感じて、空海から、真言、悉曇(しったん)(梵字)、華厳(けごん)の典籍を借り、研究する。

八百十二年(弘仁3年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂(かんぢょう)を受けるが、灌頂とは頭に水滴を受ける儀式で、この場合いは密教に帰依し、空海に弟子入りした事をしめす。

八百十三年、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる。」との見解を示して拒絶した。

空海は、中国密教の奥義を取り上げられるのが不満ではなく、実践修行にこそ悟りが有る事を知っていたのだ。

しかし、以後の相互交流は相入れなかった。

この両宗門は、最澄、空海の両雄が並び立たずに別々に発展したが、根っ子の所ではその教えの共通点が多く、特に後の山岳修験者、台密(天台宗)と東密(真言宗)は、政治及び思想に於いて共通の行動を取り度々協力し合う事になる。

八百十八年、最澄(さいちょう)は自から具足戒を破棄し、「山家学生式」(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山に於いて大乗戒を受けて菩薩僧となり、いよいよ賀茂家の血筋の本領を発揮、十二年間山中で修行する事を義務づける。

これが台密修験山伏(台密修験者)の思想的始まりである。

この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。

元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。

だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。


天台宗はその一方で皇統と深く結び付き、皇統の皇子や皇統に繋がる高級貴族を座主に迎え入れて、深く日本の歴史に関わって行くのである。

こうした経緯を経て、国家戦略の拠点で有る「陰陽寮」が、大和朝廷内に賀茂家の主導で成立する。

「神仏習い合わす」の国家利用と言う目的が集約されたものが「陰陽寮」であり、その成立以前から中心になったのが賀茂氏(勘解由小路家・かでのこうじけ)だった。

後に紀伊半島に花開く伊賀、甲賀、雑賀などの修験在地郷士群、勘解由小路党の面々が、賀茂氏の流れとその郎党であるから、実は伊賀茂、甲賀茂、雑賀茂、であったのではないだろうか?

伊勢賀茂氏が伊賀氏(党)であれば、山岳武術に富、科学原理を応用した術を使う事も頷ける。


空海と最澄によって全密(真言宗)・顕密(天台宗)がそれぞれ高野山金剛峰寺・比叡山延暦寺に開かれると、近畿圏の山伏達は二派に分かれて両山を守護、同時期に現れた陰陽道の祖・賀茂氏・安部氏の陰陽諸術を取り入れて修験者(山伏)兵法をますます強化して行った。


奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

山城(代)の国(つまり王城の地・都)の「一の宮(最上位)」は京都市の上下賀茂神社(北区の上賀茂神社(賀茂別雷神社)及び左京区の下鴨神社(賀茂御祖神社)が、この祭神である。

鴨県主(かものあがたぬし)は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

この記述からも、日向の国が日本の神話の歴史発祥である。

五世紀から六世紀頃、陰陽五行説が朝鮮半島を経由して仏教や儒教とともに日本に伝わった時、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易と言いった自然の観察に関わる学問、占術と合わさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。

この様な技術は、当初は主に漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から、征服部族の子孫が行う事となり、七世紀後半(奈良時代末期)頃から陰陽師が現われ始めた。

この背景に在ったのが、神の国(大和の国)に仏教が伝来し、民衆の関心が少しややこしくなった事だった。

仏教の伝来により、「恐れ」に拠る畏怖の心から、「現世利益」への願いに移って行き、神の御威光が効かなくなる危機感を抱いたのだ。

それで、「七百十二年に古事記や七百二十年日本書紀が編纂」され、神の子孫である皇統、王統の「存在意義を追認」させ、現体制の統治権を確立した。

七世紀後半から八世紀始めに律令制が布かれると、国家体制の確立を目的として、陰陽の技術は中務省の下に設置された「陰陽寮」へと組織化される。

すなわち、「恐れ」の国家体制を再構築し、民意を誘導して再び国家管理の下に置く目論見が在ったのである。

平たく言うと、天子降(光)臨伝説(天孫降臨伝説・・征服部族が空から舞い降りた神)の「デマを流布する」目的である。

元来、為政者の情報操作が、民意誘導の基本的テクニックで有る事は、「原始村落社会の成立」と言う小社会の昔から普遍的なものである。

現在では映像がその主役になっているが、当初は占術託宣、呪術的なものであり原始宗教で在った。

その利用目的を、より為政者有利に誘導する為の組織として、「陰陽寮」は中務省の下に設置され、更に諜報機関としての裏面も備えていたので有る。


最澄が入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう・短期留学生)の折、唐(中国)から持ち帰った物の中に、青銅で作られた年代物の六輪の錫杖(しゃくじょう)が在った。

かれ最澄は、見るからに風格のあるその錫杖(しゃくじょう)を「統治者の持ち物に相応しい」と桓武帝に献上する。

その錫杖(しゃくじょう)を、葛城氏族系賀茂家の役(賀茂)小角(えんの・かも・おずぬ)から下る事百年余り、小角の継承者である賀茂家に桓武帝は自らの統治の代行者の証として与え、陰陽寮の「影の実行組織」を再編成する。

以後六輪の錫杖(しゃくじょう)は修験山伏の象徴的必需具となったのである。


八世紀(平安初期)の始め、律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。

この陰陽寮が属している中務省は 天皇とその政に関する仕事を受け持つところで、言わば天皇直属の機関である。

当然ながら、それに付する「陰陽寮」も例外ではない。

陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。

また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説く事を禁じ、陰陽師の国家管理への独占が謀られた。

つまり僧侶が各自の解釈で説く事の混乱を避け、恐れに対する対策の呪術を陰陽師に一本化したのだ。

当然、当時の国家プロジエクト的建造物の設計や財政出費などの「有無を言わせない裏付け」として、吉凶の御託宣は利用された。

当初利用すべきものだった「陰陽寮」は、時を経るごとに次第に神格化が進み、朝廷は彼らの御託宣を頼る様になって行く。

平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭に連れて、宮廷政治の形式化が進んで、貴族達の占術依存化が流行する。

宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える迷信となった。

これに伴って陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師や陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めて行った。

日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わって来た道教の方位術に由来する「方違え、物忌、反閇(へんばい)」などの呪術や、「泰山府君祭」などの道教的な神に対する祭礼、更に土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった「呪禁道」なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受け合いながら独自の発展を遂げた。

八世紀末からは密教の呪法や密教と伴に新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を、陰陽道は受ける事に成る。

陰陽道師は、「式神(識神、しきがみ、しきじん=使役)を使っていた」と言われる。

伝承に拠ると、和紙札の状態(式札と呼ばれる)で陰陽術師が携帯している「式神」は、使用時には術師の意志で鳥や獣などへ自在に姿を変え様々な「不思議な現象を起こす」とされる霊的存在である一方で陰陽術師は、忍術者の起源に「密接な関係があった」と言われている

この二つの伝承を統合すると、「式神=使役」の意味が見えて来る。

式神=使役=忍術者であれば、様々な不思議な現象を起こす裏方が陰陽術師に「神秘性をもたらせた」と理解出来る。



十世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。

賀茂忠行・賀茂保憲父子は賀茂・葛城の血を引く賀茂・役小角(えんのおづぬ)の陰陽道継承者である。

忠行・保憲は「晴明」に天文道、保憲の子「光栄」に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は、天文道・暦道を完全に取り込み、朝廷での影響力を強めると伴に昇進を果たして地位を不動のものとし、天文道の安倍氏(土御門家・つちみかどけ)と暦道の賀茂氏(勘解由小路家・かでのこうじけ)が陰陽二大宗家として独占的に支配する様に成った。

陰陽師として有名な安倍晴明は、歴史に忽然と姿を現している。

陰陽道を創設したのが賀茂氏であり、神武朝から葛城朝に大和朝廷が変わっていたから、本来なら中務省・陰陽寮の首座(陰陽頭/おんみょうのかみ)は賀茂氏でなければならない。

それなのに賀茂氏(賀茂忠行・賀茂保憲)は、わざわざ安倍晴明を弟子にして天文学を教え陰陽寮の首座(陰陽頭/おんみょうのかみ)に据え、自らは副首座(陰陽助/おんみょうのすけ)に下った。

そこに重大な、何か隠された意味が在って当然ではないだろうか?


実は先住民族(蝦夷/エミシ)の王族から大和朝廷に合流して豪族と成ったアピエが、当初の当て字「安倍(アピエ=あべ)」を名乗ったのが安倍氏の始まりと言う説が有力である。

「安倍氏」から、一部が「阿倍氏」となり、遥か後に大阪地域に組み込まれて一部となる阿倍野は、大和朝廷主力豪族の「阿倍氏」の本拠地(支配地)だった。

他に「安倍氏」の一部は、部民名の安部・阿部を用いる者も出現した為、安倍・阿倍・安部・阿部は全て同系統と考えられる。

従って京都・晴明神社や名古屋・晴明神社は安倍晴明表記だが、晴明生誕の地と言われる大阪市阿倍野区の安倍晴明神社の表記は安部晴明神社とある。


調べてみると、賀茂忠行・賀茂保憲父子が実子の賀茂光栄でなく、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明に、天文道を伝えたにはそれなりの訳がある。

実は朝廷の強い要請に拠るのである。

元を正せば勘解由小路(賀茂)家は、代々鵺(ぬえ)・土蜘蛛・鬼を管理監督する初期陰陽修験道創始者・役小角(えんのおずぬ)の子孫の家柄で有る。

処が、当時はまだ列島中に中々根強い抵抗勢力(鵺(ぬえ)・土蜘蛛・鬼)の蝦夷(えみし)ゲリラが残っている。

つまり、先住部族蝦夷(えみし)を国家体制に取り込むには、その有力部族長・安倍氏を取り込み、蝦夷(えみし)の原始信仰をも取り込まねばならない。

実は、安部清明の「安倍」は東北最大の蝦夷族長(俘囚長)と同じ血統の出自で有る。

言うなれば、元々進入征服部族の寄り合い所帯だった朝廷は、「天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった」と言う神話に於いて象徴される新旧民族の融和(誓約)の夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)として登場する。

猿田毘古神(サルタヒコ)側の蝦夷族長・安倍氏を貴族として取り込む事によって同化政策を進め、国家体制を固める思惑があった。

それで、自分達が神々の子孫と言う神話を作ったように、土蜘蛛(蝦夷/えみし)を治め導く陰陽師の頭「陰陽寮首座(陰陽頭/おんみょうのかみ)の貴族」に安倍家を据える必要があったのである。


「突拍子もない」と否定するかも知れないが、安倍家の朝廷からの賜姓(しせい)を良く読んで欲しい。

貴族「土御門家」である。

これを素直に読むと土蜘蛛、或いは土族(つちぞく)の帝(みかど)・・・「つちみかど」なのである。

そして、宮中で、天文学を操って都の平穏を呪詛すると同時に、蝦夷の「統括及び民意誘導」を執り行う陰陽寮の長官・陰陽頭(おんみょうのかみ)を任じたのである。


この「御門(みかど)」と言う使い方、蘇我氏などの臣王の文献にも使用され、「蘇我御門」などの表記もある事から、「部族王を表わす」基準としての表記なのかも知れない。

その後「平家一門」などのグループ表記に「門」が使用される元になったと考えられる。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は、「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行く。

その後、主として九百年代後期に活躍した道教系・陰陽師の安部清明は宮中秘祭・「泰山府君祭祀(北辰大祭)」を司り、宮中に大きな勢力を持って北辰妙見信仰は完全復活を遂げる。

「泰山府君」とは陰陽道の主神、冥府(めいふ)の神である。

冥府(めいふ)とは霊界(地獄・天国)に続く三途の川の場所で、成仏できない魂の彷徨(さまよう)場所を言う。

つまり、北斗・北辰(北極星)の方位を示す「みちしるべ」の妙見信仰と冥府を彷徨(さまよう)成仏できない魂のマッチングが、安部清明が提唱した泰山府君祭祀(北辰大祭)なのである。

当然ながら、冥府は「死の側」で有る。

これに対抗するには「生の側」のパワーが必要である。

生は性に通じる。

輪廻転生の考え方と相まって、陰陽道の呪詛の中に、生命誕生の神聖な行為、性交を持ってそのエネルギーパワーを駆使する必然性が在った。

生命の躍動感こそが、不吉な諸事を祓う本来の呪詛である。

いずれにしても、蝦夷俘囚長の安倍氏には、貴族の名誉(御門)を与えてはいるが、賀茂氏の様に武力に関わる仕事は一切させては居ない。

つまり賀茂氏は、皇統の同族でなければならず、そうなると伊都国の王「葛城氏が皇統に繋がる者である」と言う論法が成立つのである。

この点は藤原氏に付いても同じで、武門は平家、源氏と皇統から武力勢力を出し、当時の有力貴族藤原氏の文官貴族の専横傾倒に、歴代天皇は腐心している。

不思議な事に、この賀茂氏の血統が時々の歴史をつむぎながら二千年の永きに渡って生き続け、時折ヒヨッコリ表舞台に顔を出してはその時代を作る活躍をするのである。

つまり、日本文化・歴史のキーワードは、陰陽師だった。

この物語はその証明でもある。


伊勢神宮、伊雑宮の御食地の海女が身に着ける魔除けに、セーマンドーマンまたはドーマンセーマンと呼ばれる物がある。

この呼び名のはっきりとした謂われは伝わっていない。

磯手ぬぐいに、星形のマーク(セーマン)と格子状のマーク(ドーマン)を貝紫で描いていたり、黒糸で記したりして、海での安全を祈願するのは一種の呪術で、「陰陽道と関係するのではないか」とも言われる。

星形のマークは安倍晴明判紋、格子状のマークは九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法に拠ってできる図形)をしている。

このセーマンは(安部)晴明、ドーマンは(芦屋)道満の名に由来するとも言われる。

安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。

五芒星(九字護身法によってできる図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。
安倍一族が蝦夷(エミシ・縄文人)系王族であり、陰陽寮首座・安部清明が安倍一族の末裔貴族である。

そして最後まで大和朝廷(ヤマト王権)に奉らはない蝦夷(エミシ・縄文人)の地東北には、ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説が残っている。

ならば、陰陽師が使用する五芒星がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似してなお、意味まで一致している事が東北の地で一つに繋がる事になる。


安倍晴明は「吉凶を占う」陰陽師であり、その晴明が桔梗の判紋を用いている。

桔梗は「吉を更に」を願う植物として「木へんを付けて名付けた」とも考えられる。

桔梗花弁は、蕾の状態では花びら同士が風船の様にピタリと繋がっている。

その形を真上から見ると、見事に土御門家(安倍家)の五亡星・晴明桔梗の文様で有る。



中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。

戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退して行った。

一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。

陰陽道(おんようどう)は、古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系で、「いんようどう」とも読む。

陰陽道に携わる者を陰陽師と言い、陰陽師集団の事も陰陽道と呼ぶ。

陰陽道独自の星辰信仰の上に立脚した修験道や密教の呪法として九字がある。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と唱えるのだ。

道教の歩行呪術に端を発している「禹歩(うほ)」が有名でこれに拠って「道中の安全や悪鬼・猛獣などを避ける事が出来る」とされている。

日本では「禹歩(うほ)」を「反閇(へんばい)」と呼ぶ。

歩行法は、先に出た足にあとの足を引き寄せて左右に歩みを運ぶ歩行方法である。

非常に単純だが、これによって「悪星を踏み破って吉意を呼び込もう」と言うのだ。

かつては「陰陽家の思想が日本に伝わったものが陰陽道である」、と説明されて来た。

しかし近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容された。

その後、神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って「日本特異の発展を遂げた結果、誕生したもの」と考えられている。


陀羅尼の「尼」は女性を現し、観音菩薩も女性で有る。

この観音菩薩は別名十二面観音菩薩と言う。

世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面、性に関する密教として隠されている。

これが陰陽道の真髄、生命エネルギーをパワーに代える呪術「歓喜法」である。

この密教の教えが、時の大和朝廷には認め難いもので、「風紀の乱れ」として禁止された。

当然ながら、厳しい戒律のある宗教より、楽しい教えで救われる宗教の方が支持されて当たり前で有る。

密教は現世利益の神であり、性交による陀羅尼神呪経(妙見神呪経)によりご利益を願うエロチックな教えの仏教で、「北辰祭(妙見祭)」は乱交を伴う呪経行事だったのだ。

奈良時代の密教は表向き「雨乞いの祈願」などの陀羅尼信仰であり、現世利益の思想と重なって、学問的な諸宗に対し「異質的な呪詛(呪術)佛教の一面」として諸宗の僧尼の間や一般庶民の間に実修呪詛(呪術)を歓迎され受容されて行った。

その裏には、朝廷の密命を帯びた賀茂氏・修験道師達の暗脚が在ったのである。

神聖な儀式も、大概はそれだけでは終わらない。

布教上の維持拡大の目的があるから必ず楽しみを儀式内に含ませるか、儀式後に楽しみを設定するかで、信仰儀式のコースは成り立っている。

庶民の楽しいイベントを、年中行事にするのが「信者との結び付き」と言うものである。

平安時代末期から南北朝並立時代末期に掛けてこの現世利益信仰が一つの潮流を為す。

今でこそ、こうした性的な事は「世間がこぞって破廉恥で低俗な事」としているが、実はそうでも無い時代があった。

それは遠く古代から平安にかけて朝廷が施した修験道布教の施策が遠因であるが、当然ながら時を経て進化が進んでいた。

鎌倉室町時代にかけて勢力を有していた真言密教が、渡来初期の「オリジナル仏教」の現世的教えを取り入れて、教義としていたからで有る。

鎌倉時代を堺に、陰陽師の立場は衰えて行く。

幕府による「武士」の支配する時代に入った為で、宗教呪詛による精神的恐怖支配から、直接的な武力支配に変わった為でもある。

陰陽寮は京都の朝廷(天皇家)に属するものだったので、幕府政治には余り関与しなかった。

しかしそれでも陰陽寮による占いの結果はかなり気にされていた様であり、朝廷内は勿論、幕府にも影響力を持ち続けていた。

また、悪霊や妖怪騒ぎは、当時頻繁にあったから、そう言った時には陰陽師や巫女、僧などが活発に動いていた。

鎌倉時代の後期に在った「元寇(モンゴル・中国の日本侵攻)」の際にも、日本の窮地を救おうと「多数の陰陽師が祈祷・呪術を大々的に行った」と言う記録がある。

少なくともこの時点で、陰陽寮や陰陽道は確かに大きな力を持っていた様だ。

ただ、時代の流れと共に様々な妖怪や迷信が理論的に解明され、武士や幕府の力が強くなり続ける事で、陰陽師の立場はどんどん落ちて行った。


平安の都は、正面が南を向いている。

正面から見ると、正面左に西寺、右に東寺、中央に朱雀(すざく)大路が真っ直ぐに伸びて、およそ四キロ半ほどで平安宮の正面に至る。

平安京の裏手、北辺が一条大路である。

土御門大路と言う名の通りは、一条大路から南に二本南寄りの平安宮の裏手を東西に貫いている。

その土御門大路を更に三本南に寄った小路が、勘解由小路と言う名の通りである。

勘解由小路は東西を貫いてはいない。

東の勘解由小路も、西の勘解由小路も、一直線上に有るが、いずれも平安宮の内裏(だいり)の真横から左右に伸びている。

つまり、縦横七十二本の都の道のいずれも王宮近くに、この二系統の陰陽師貴族の名をかざした道が有るのだ。

当時大きな力を持っていた陰陽家は、安部晴明の直系である「土御門(つちみかど)家」と、賀茂氏の流れである「勘解由小路(かでのこうじ)家」だったが、勘解由小路家が途中で途絶えてしまい一家独裁状態になったのも、「陰陽道の衰退に繋がった」と言われている。

処がどっこい、この「勘解由小路家」は、形を変えて生き延びていた。

彼らこそ、歴史の創造者だったのである。


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作者本名・鈴木峰晴