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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【皇統と鵺の影人 第六巻】作者本名鈴木峰晴

第六巻は現在書き掛けですが、一部を公開しています。


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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第六巻


未来狂 冗談 作

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◇◆◇◆話の展開◆◇◆◇◆

話の展開】◇明緑色の表示はジャンプ・クリックです。

第一巻序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)・(国の始まり神話)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻・第一話に飛ぶ。】
第一巻序章の【第二話】大きな時の移ろい(飛鳥〜平安へ)
(飛鳥)・(大化の改新)・(大伴氏と任那(みまな・加羅・加那))
・(桓武帝と平安京)・(伊豆の国=伊都国)・(妙見信仰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)
・(北条政子と執権)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第一話に飛ぶ。】

第二巻本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)・(南朝の衰退と室町幕府)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻・第二話に飛ぶ。】

第三巻本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(信長上洛す)・(本能寺)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】

第四巻本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
・(江戸期と大日本史編纂)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】

第五巻本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(陰陽占術)・(維新の胎動)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】

第六巻本章の【第六話】近代・現代日本(明治から平成へ)
明治維新成る)・(軍国主義の芽)・(氏族の消滅と西南の役
・(皇国史観と集合的無意識)・(日清日露戦争)・(日韓併合と満州国成立)
・(太平洋戦争と戦後

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です




陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第六巻・本章の【第六話】

近代・現代日本(明治から平成へ)

(明治維新成る)


◇◆◇◆(明治維新成る)◆◇◆◇◆

不思議な事に、血の記憶が呼び寄せるのか後醍醐帝の怨念が呼び寄せるのか、倒幕に集った志士はいずれも南朝所縁(ゆかり)のものだった。

何故かDNA的な潜在意識が、彼らを揺り動かしているような気が、我輩には感じられた。

維新の裏側を追っていた呪詛など信じない筈の我輩は、この現実の前に戦慄した。

調べてみると、維新に参加した主な者が全て南朝方の出自で有る。

あたかも後醍醐帝の呪詛の前に操られるかのように、この因縁じみた歴史の大業が実現した。

その因縁は、謎で有る。

孝明天皇(こうめいてんのう)と同じ頑なな攘夷論者だった皇太子・睦仁親王(むつひとしんのう)は、明治帝として天皇即位後に突如攘夷思想を撤回する謎がある。

前述したが、長州藩にとんでもない「隠し玉」が用意されていた。

その隠し玉が、かねて用意の南朝・良光(ながみつ)親王の末裔で、維新のドサクサに紛れて睦仁親王と入れ替わり、「皇統が南朝に戻った」と言う噂で有る。

維新の大業の前と、後では、睦仁親王がまったくの別人に比較される事柄が、「多い」と言う。

それを裏付ける様な資料を、提示する研究者も数多い。

その「誰か」は古くから長州に住み、「南朝の系図を保持していた者であった」と、真しやかに言われている。

この話、地元・田布施の古老達の間では、未だに語り継がれていて、「公然の秘密」と言っても過言ではない。

薩長を中心した討幕派が、その存在を維新に利用するには確かに都合の良い話だった。

長州に流されていた七卿の筆頭は、三条実美(さんじょうさねとみ)であり、公家一番の過激派であった。

南朝方良光(ながみつ)親王の系図を有する「大室・某」を天皇に擁立する計画は、長州討幕派と公家の討幕派の共同謀議として長州の一角・田布施でなされた事になる。


いずれにしても、倒幕・新政府の樹立と言う大きな背景の下にその歴史が捏造された可能性は浮上する。

あくまでも伝聞に過ぎないが、この伝聞、言わば倒幕派の意のままに成らない玉(ぎよく/天皇)を、意のままに成る皇統の有資格者(系図保持者)に密かに入れ替えた陰謀の疑いが強い。

この話、現在の皇室環境を元にした先入観で判断してはいけない。

江戸末期当時は、元々天皇への拝謁(はいえつ)には、将軍でも簾(すだれ)越しだったくらいで、一般の人間はまともに天皇の御尊顔を拝する機会は少ない。

それに当時は、帝のお写真や肖像画の類(たぐい)も一般に公開されて居る訳ではない。

帝は天子様であるから朝廷内で傍(そば)近くに仕える者も、恐れ多くて正面からジックリ顔を見る機会が無いのだから、ほんの一部の公家衆と女官を除いて、天皇が入れ替わっても、真贋が判らなくて不思議は無いのが実情だった。

その一部の、天皇陛下傍(そば)近くに仕える公家衆が、岩倉卿や三条卿と結託しては、誰も「天皇入れ替わり」など指摘出来るものではなかったのだ。


後醍醐天皇ほど、不利をも省みず「親政(直接統治)」に信念を燃やした帝は史上類を見ない。

何が帝を駆り立てたのか?

その凄まじい怨念と執念は、挫折を繰り返しながらも信念を捨てる事は最後まで無く、吉野にあっても衰える事は無かった。

或いはこの後醍醐帝の怨念と執念がよみがえって、皇統の影人の末裔を中心とした尊皇攘夷(勤皇倒幕)派を動かしているのかも知れない。

やれやれ、後醍醐天皇(第九十六代)が、花園天皇(第九十五代)から皇位を譲位されたのが千三百十七年、建武親政が千三百三十三年である。

千八百六十四年(元治元年)七月に長州藩追討、千八百六十六年(慶応二年)が第二次長州征伐だから、「南朝の系図を保持していた者」は、この建武親政後五百〜五百五十年に及ぶ時代の変遷の中を生き長らえ、皇統の血脈を守った事になる。



山口県(周防)南東部瀬戸内海沿いに熊毛郡・田布施町はある。

現在でも人口一万七千人ほどの小さな町だが、此処から日本の近代化は密かに始まった。

実はこの町の高松八幡宮が、七卿が逗留し松陰派の長州若手指導者達と皇政復古の産声を上げた所である。

この高松八幡宮の僅か北東に浄土宗の西円寺と言う寺があり、その傍らにこの大室家はあった。

七卿が逗留した高松八幡宮と、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まいが至近距離にあった事実に、偶然はありえない。

七卿落ちの公家達が長州の地で滞在した高松八幡宮は、田布施町大字麻郷に在る。

いずれの歴史の区切りにも顔を出すのは賀茂神社である。

三井(みい)賀茂神社は、田布施町に隣接する光市の三井に在る。

賀茂の祭神・八咫烏(ヤタガラス)は太陽の表面に現れる神である。

だから、神武東遷記における「八咫烏神話(賀茂・葛城)」に、神武大王(じんむおおきみ)の先導役として登場する八咫烏(ヤタガラス・賀茂・葛城)の伝承が、この三井(みい)賀茂神社にも存在する所から、賀茂・葛城が太陽(神武大王)の東遷随行者として「大和朝廷成立に貢献した有力一族」と考えられる。

熊毛郡田布施町大字宿井に、天然記念物の「宿井はぜの木」の大木がある。

この宿井(宿居)の字名の意味する所は、仮の居場所(仮御所)の事ではないだろうか?


明治政府が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行なって、根強く信仰されていた全国の妙見系の神社を抹殺した事は、単に神仏混合策を改め、天皇神格化を狙ったものだろうか?

日本史に於ける廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味である。

仏教寺院・仏像・経巻を破毀(はき)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する事を指す。

しかし、なぜか妙見系の神社までその影響を強く受けている。


古代日本に於いては、日本の初期信仰は神道だった。

そこに仏教が伝来し、日本書紀の欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の各天皇記を基にすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われた。

しかし日本の大和朝廷は、先進の中華文明を取り入れる為に「神仏習合」をもってこれを受け入れる方向にシフトした。<br>
やがて、仏教が浸透していく事によってこのような動きは見られなくなった。


戦国時代及び安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した一部地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期に於いては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まる。

この影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内に於いて仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

なかでも、徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなった。

水戸藩主・徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

幕末期に新政府を形成する事になった勤皇派の志士達は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

言うまでも無いが、皇室は日本神道の最上位である天照大御神の祭司であり、その新体制を強化しうる動きの一環と言える。

また同時期に勃興した国学に於いても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

中でも平田派(平田篤胤/ひらたあつたね・復古神道)は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与する事になった。

この経緯を経て、大政奉還後に成立した新政府によって「神仏習合を廃して神仏分離を押し進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が明治維新後に発生した。

千八百六十八年四月十五日(慶応四年三月十三日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、及び千八百七十年二月三日(明治三年一月三日)に出された詔書「大教宣布」などの神仏習合の廃止政策が図られた。

「神仏分離令」や「大教宣布」は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかった。

しかし、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

明治期の神仏分離政策後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。

神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は地域・事例ごとに様々である。

廃仏思想を背景とするものの他、近世までの寺檀制度下に於ける寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙っての事など、社会的・政治的理由も窺える。

政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ事」と、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。


長州が妙見信仰の聖地であり、同時に皇統の或る疑惑の地でもある事から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に絡め、何らかの証拠隠滅を図った疑いも浮上して来るのである。

明治天皇は孝明天皇の第二皇子である。

父・孝明天皇から親王宣下を受け立太子を宣明し、幕末の動乱期に皇太子・睦仁親王を名乗り、後に若くして皇位について居る。

所がこの明治帝(睦仁親王)、明治維新の前後では「全くの別人だった」と言う証言が存在する。


日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

その中の一つが、この明治帝(睦仁親王)別人疑惑である。

指導階層(権力)が結託すれば、歴史の捏造など造作も無い。

つまりサスペンス風に言うと三条実美(さんじょうさねとみ)は、「皇太子・睦仁親王(明治天皇)入れ替わり事件」の重要参考人と言う事に成る。

「その陰謀の証拠を挙げよ」と誰に迫られようと、簡単に証拠が挙がらないからこそ陰謀なので、その命題の経緯と結果から陰謀の可能性を導き出すのが歴史考である。

この親王入れ替わりの疑惑に、現在の当局としては「相手にするに値しない」と言う判断なのか、徹底的に無視した状態で、否定も勿論肯定もしていない。

現在の位置付けでは、この疑惑は単に巷の噂に過ぎないが、睦仁親王(京都明治天皇)には無かった「あばた」が、明治天皇には「あばた」が有り、右利きだった睦仁親王(京都明治天皇)に対し、明治天皇は左利きであるとその違いが指摘されている。

こうした話は事実ではないかも知れないが、その噂話が存在する事は事実である。

また、このとんでもない噂が本当なら、七卿筆頭の三条実美と長州藩の描いた陰謀に、同じく過激派公家の岩倉具視(いわくらともみ)が参画、朝廷での「迎え入れ工作を担当した」ものと思える。

そして、後に明治の元勲と言われる維新の立役者は、大方この事実を知っていた事になる。
そして、彼らにはそれが正義だった。


江戸徳川幕府の倒幕に到る要因は安政大地震に拠る政情不安や米国ペリーの来航に象徴される外圧など複合的なものだが、隠れた大きな要因の一つは、虚弱精子劣性遺伝に拠って氏族の血統至上主義が根底から揺らぎ、その現実性が薄らいで来た事にある。

例えば幕末に功績を残した勝海舟の例を見ると、曽祖父・銀一は高利貸し(盲人に許されていた)で成功してその子(祖父)が御家人株を買い、男谷家を興した。

海舟の父・男谷平蔵の三男・小吉が、小普請組と言う小身無役の旗本・勝家に養子に出され、勝麟太郎(海舟)の父・勝小吉が誕生する経緯である。

この侍株の売買の背景には、明らかに虚弱精子劣性遺伝に拠る男系継嗣の断絶が在り、氏族の血統至上主義が困難に成っていた事で、土佐の坂本龍馬の家も武市瑞山(半平太)の家も金で士分を買っているから半分はコンプレックスだが半分は氏族の血統至上主義に懐疑的だった。

この虚弱精子劣性遺伝、大名家で言えば幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)の一人宇和島伊達藩八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)の例を採れば、宇和島藩五代藩主・伊達村候の次男(宗城祖父)が旗本・山口家に養嗣子で入り、孫の宗城が血縁に拠る救済措置として便宜上仮養子とした。

その後当代藩主・宗紀に中々男系継嗣が恵まれなかった事から、宇和島伊達藩存続の為に伊達宗城(だてむねなり)が藩主の地位を得ている。

同じ四賢候の一人と並び称される土佐藩十五代藩主・山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)にした所で、土佐藩連枝(分家)の山内南家(知行千五百石)当主・山内豊著(十二代藩主・山内豊資の弟)の長男から山内宗家の断絶危機を回避する為に藩主に着いている。

そもそも安政の大獄に発展したその四賢候が推す一橋慶喜と井伊直弼が推す紀州藩主・徳川慶福(十四代将軍・家茂)の跡継ぎ争いも、十三代将軍・家定が男系継嗣に恵まれなかった事が原因であり、血統至上主義そのものが「誤魔化しの継ぎ接ぎ状態(つぎはぎじょうたい)」と言う惨状だった。

そうなると体制としての上下関係は仕方なく認めても、先祖伝来の君臣の恩義など双方に無いのだから君臣の武士道精神など、根底に在るべきものを失っていて当然だった。

つまり上から下まで血統の権威そのものが便宜上の建前に成りつつあり、血統の権威に対する忠誠心は希薄と成って氏族社会は転機を迎えていた。

その歴史的転換期に台頭した連中が下士上がりで、何しろ血統至上主義そのものが「誤魔化しの継ぎ接ぎ状態(つぎはぎじょうたい)」である事を充分に承知している連中である。

故にその血統至上主義に懐疑的な連中が、密かに正統南朝の血筋を掘り起こして「建前だけを採った朝廷革命」を仕掛けたのではないだろうか?



吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者、佐藤栄作氏の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)氏との接点が有望である。

信寛(のぶひろ)は、江戸時代後期の長州藩士で佐藤家第十代当主で、子孫には首相を務めた岸信介・佐藤栄作兄弟(曾孫)及び安倍晋三がいる。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

信寛(のぶひろ)の師・清水赤城は吉田松陰に兵要禄を授けて居る為、学問的には松蔭の恩師筋の先輩にあたり深い親交が在った。

明治の初め、信寛(のぶひろ)は長州閥の一人として新政府に任官し、浜田県権知事、島根県令等を務め、県令として萩の乱の首謀者・前原一誠(まえばらいっせい)らを逮捕する活躍をしている。

千八百七十六年(明治九年)十一月、前原一誠・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)ら萩の乱幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕された。

千八百七十八年(明治十一年)頃に信寛(のぶひろ)は官を退き、熊毛郡麻郷村戎ヶ下(えびすがした/現・田布施町戎ヶ下)に居を定め、余生を風月と共に送った。

信寛(のぶひろ)は官職を退任後、戎ヶ下(えびすがした)の別荘に起居し、蝦洲(えびす)と号した。

信寛(のぶひろ)の別荘には和宮親子内親王と婚約していた事で知られる有栖川宮(ありすがわのみや)・熾仁親王(たるひとしんのう)や明治の元勲・伊藤博文(いとうひろぶみ)らが立ち寄ったと伝えられる。

尚、熾仁親王(たるひとしんのう)は、明治新政府の成立に至るまで、公家社会に於いて三条実美(さんじょうさねとみ)とならぶ長州系過激攘夷派の急先鋒として認識されていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢されて新政府の要職に就き、後に「伊藤・佐藤・岸・安倍と、何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇の入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。


この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博、文井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

同じく松平春嶽は、その事を知るが故に、維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。

その長州の倒幕資金に、「南朝の隠し軍資金が使われた」と言う噂もある。

もしこの南朝の隠し軍資金話、後醍醐天皇と醍醐寺文観僧正の怨念が、「時を越えて為したる業」と考えると、真言密教恐るべしである。

八咫烏(ヤタガラス)の化身「かもたけつのみの命」は、それさえ見抜いて、落ち延びる親王に「軍資金のありかを書いた書状を託した」と言うのか。

この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

歴史と言うものは都合良く脚色されるもので、もし明治新政府の勤皇の志士達が国家単位でトリックを構成されれば、例え創り事でもそれを解く事はほとんど出来ない。

事の真贋は定かではないが、明治維新以後急に南朝の正当性も認められ、楠正成や新田義貞が天皇を助けた英雄として祭られたのは、動かす事の出来無い事実である。

この二人は神社になり、戦前、戦中は忠義の臣として、学校で「歌」も歌われていた。

楠木正成(湊川神社・明治五年)、新田義貞(藤島神社・明治九年)、北畠顕家(阿倍野神社・明治十五年)・・・・・・後醍醐天皇(吉野神宮)を始め護良親王(鎌倉宮)、尊良親王(金崎宮)など後醍醐天皇皇子の神社は四社を数える。

つまり、維新以後南朝方の神社は急激に建立され十四社に及ぶ。

室町期から江戸期を通じて、皇統は北朝・光明天皇系である。

もし、南朝・大室氏の入れ替わりが無いならば、この明治初期に於ける南朝方旧臣の名誉回復は到底説明が着かない事に留意しなければ成らない。

この維新の陰謀説、皇統に陰謀など「有っては成らない事」と思う心情も判らないではないが、大きな政変に皇統が少しだけ揺らぐのは良く有る事である。

室町期の北朝の皇統に「足利の血が入れ替わった」と囁かれても、足利氏自身が源氏の皇胤貴族の出自であるから、あながち「偽者」とは言い難い。

明治維新に於ける大室某も、系図通りの南朝の末裔であれば、やはり「偽者」とは言い難い。

実は周囲の多くが、この難局を前にすれば「この際、止む負えない」と思った節(ふし)が有る。
それ故この政変、思った以上にスムースに事が運んだ。

つまりは周囲が、この政変ストーリーを「容認または積極的に賛同した」と考えられる話で、それで無ければここまで隠し果せる話では無いのである。

明治天皇にはこうした疑惑が囁かれていた。

しかし、この「明治天皇挿(す)げ替え説」に確たる証拠は無く、状況証拠を積み重ねるのみであり、既に解明される事無く歴史の闇に消えつつある。



誤解してもらっては困るので明言するが、けして現天皇の正当性を問う積りは無い。

世界の歴史を見ても、凡(おおよ)そ国家元首を決める原理原則は、シンプルに考察すれば国家を統合する人物を選任する必要性が生じた時に、その周囲の推薦を得て任ずるものである。

そう言う意味では、当時の今後新生国家の政権運営を担う人物を「明治維新の関係者に推された」と言う厳然たる事実だけでも、充分に資格要件を満たしているのである。

要は視点の置き方が肝心で、余りにも固定した概念でその資格を問うものではないのである。


それにしても、政権を守ろうとして「鎖国」をした徳川政権は二百六拾年後に、見事「開国の決断と、ともに倒れた。」これは因果か、たたりか、・・・・。

その倒幕劇に、遠く二千年前の葛城朝の仕掛けが機能するとは、真言立川の呪詛、今に及ぶと言うのか?

面白いもので、この南朝末裔の「皇統復帰説」だが、少なくとも安土時代に織田信長が新王朝を確立していれば他国の王朝の度重なる変遷と同様になり、どうなっていたかは判らない。

そう言う意味からすると、明智光秀の「本能寺の変」は、重い意味を持つものかも知れないのだ。


坂本龍馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。

優し過ぎて姉の乙女(おとめ)などは龍馬を弱虫呼ばわりして、剣術を教え込んだ逸話が残っている。

坂本龍馬に関しては千葉道場の免許を得ている所から剣術の達人と描かれる事が多いが、実は「さほど剣の腕は立た無かった」と言われている。

剣は江戸で北辰一刀流を修めたが龍馬だが小千葉道場の「一番低い目録」でたいして腕は立たず、短銃を常に携帯して「斬り合いは避けていた」と伝えられている。

しかし交渉能力は高く、政情が落ち着いたらその能力を生かして通商で国を支える積りだった。

だが、そんな龍馬の気持ちは周囲には受け入れられないほど、龍馬の影響力は膨らんでいた。

とかく英雄伝には虚像が付きまとう。

贔屓の引き倒しで「剣の達人」にされては、流石(さすが)の坂本龍馬(さかもとりょうま)も天国で「こそばゆい想い」をしてはいまいか?

横着な者は、「言わなくても判る筈だ」とその努力をせずに敵を造る。

面白いもので、剣の腕は一向に上達せずとも坂本龍馬には千葉重太郎に妹・さな子を娶らせようとするくらい気に入られる程に持って生まれたネゴシェーター(交渉人)の才能が在ったらしく、龍馬は源頼朝や徳川家康同様に手紙魔で見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

その才能が裏目に出て、龍馬は維新を主導した志士の一人に目されてしまって居た。

もっとも、維新の中心人物の大半が筆マメだった事は事実で、つまり信頼の獲得にはいかに「コミニケーションが大事」と言う事である。

坂本龍馬(さかもとりょうま)の才能は、武士魂よりも先祖の故郷・泉州の商都「堺」の「世界相手の交易魂ではなかったか」と思えて来る。

実は、同じ思想同じ価値観では新しい道は開けない。

つまり武士の固定観念を砕いて新鮮な物の考え方を主張したからこそ、聡明な幕末の志士達が龍馬(りょうま)の言に耳を傾けたのではないだろうか?


坂本龍馬は土佐の貧乏郷士だが、その出自は秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐のおりに土佐に逃れた「根来衆の末裔」と伝えられている。

人懐こさが信条の坂本竜馬には、持ち前の斡旋交渉能力があり、その能力は勘解由小路(賀茂)の血を彷彿させるものだった。

堺の根来・雑賀衆の自由自主独立精神が、龍馬の血には流れていたから、事が成就しても新政府に参加する意志はなかった。

新政府の援助で貿易船団を仕立てて、商業活動で国力をサポートする積りでいた。

しかしながら龍馬には、功績を背景とした彼の新政権構想に徳川家の参加案があった為に、守旧派(親幕府派)ばかりでなく革新派(倒幕派)にも存在を疎む勢力が在った。

強烈な個性は諸刃の剣で、龍馬にはいかなる相手でも説得が通じない事くらい、志士達は先刻承知だった。

倒幕の成功をロマンとだけ捉えると動機は見えて来ない。

まぁこの時代、勤皇派も佐幕派も動乱に乗ったのは現状では浮かび上がれない者達で、野心満々の立身出世が根底に在っての主義主張であり、要はいずれの側に付いた者も大儀は方便だった。

そして厳密に言うと、長州の桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)達吉田松陰 (よしだしょういん)一派は最初から尊皇攘夷だったが、薩州の小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)等は途中まで公武合体派だった。

それが翻(ひるがえ)った早い話が、倒幕に向かう彼等の動機は権力欲である。

現実的に坂本龍馬暗殺の可能性を探ると、純粋に日本を改革しようとした坂本龍馬と、功名心に始まり巧みな扇動と駆け引きで競合する者を蹴落として上り詰めて来た薩長の志士達とは根本の所で違っていた。

その権力への想いが最も強く、坂本龍馬の純粋な存在が疎(うと)ましかったのが、大久保利通(おおくぼとしみち)で在った事は否定出来ない。

薩摩の大久保利通(おおくぼとしみち)と言う男は、「誠忠組」と名つけた薩摩改革派グループの指導的立場に在り、土佐で言ったら「土佐勤皇党」を率いた武市瑞山(たけちずいざん/半平太)の立ち位置に近い所に居た。

幸い維新の達成に列する事が出来たが、岡田以蔵(おかだいぞう)を暗殺者に使った武市瑞山(たけちずいざん/半平太)と同様に大久保利通(おおくぼとしみち)も田中新兵衛(たなかしんべい)を使うなど頭角を現すに或いは目的の為には手段を選ばない非情さを兼ね備えていた。

そうした思考の持ち主である利通(としみち)からすれば、権力志向が無い強力なネゴシェーター(交渉人)・坂本龍馬(さかもとりょうま)の存在は脅威であり、存在さえも許せなかったのかも知れない。



千八百六十七年(慶応三年)には、中岡慎太郎は盟友の坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免され、薩土同盟についても奔走して土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で倒幕の薩土密約締結に成功する。

更に慎太郎は土佐藩取り込みに奮闘し、京都三本木料亭・吉田屋に於いて、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村左膳・後藤象二郎・乾退助・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との会合にこぎつけ、双方の間で倒幕・王政復古実現の薩土盟約が締結される。

土佐藩に復帰した中岡慎太郎は、長州の奇兵隊を参考に自ら隊長となり陸援隊を本格的に組織し、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。

まさに獅子奮迅の働きを見せた中岡慎太郎だったが、その終焉は突然遣って来た。

京都近江屋に坂本龍馬を訪問中に何者かに襲撃され瀕死の重傷を負い、同席した龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが慎太郎は二日間生き延び暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語り後死去している。

三条実美ら七卿の衛士として田布施に在った中岡慎太郎は、当然長州の隠し玉・良光親王(ながみつしんのう)の末裔を知っていた。

或いは薩長倒幕派にして見れば、慶応元年に土佐勤皇党の武市瑞山(半平太)を切腹させるなど倒幕の腰の定まらない前土佐藩主・山内 容堂(やまうちようどう)など土佐藩に 不安を抱いて居た結果の陰謀かも知れない。


千八百六十七年(慶応三年)の年末、坂本龍馬は京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。

この暗殺、一応佐幕派の犯人とされる者の自白も取れているが、その暗殺犯人がさしたる罪を問われて居ない為、実は「倒幕側(新政府勢力)の暗殺陰謀ではないか?」と、維新の謎とされている。

暗殺犯は「京都見廻組」と言う説が一般的であるが、近頃では別の説も浮上している。

実は現代とは程遠い幕末期の情報環境に在って、坂本龍馬の存在は「知る人ぞ知る」の情況にあり、その活躍を知る者は薩長土肥の勤皇の志士に限られていた。

この時代の坂本龍馬に関する情況をまとめると、藩(土佐)の代表として活動した事が無い脱藩下士の龍馬に佐幕派の注目度は低く、龍馬の存在が本当に維新の英雄と認知され全国区に成ったのは、維新後その存在を桂小五郎(木戸孝允)や西郷隆盛などの新政府参議に公に明らかにされてからである。

現在の坂本と中岡の名声で考えると無いものを有ると思わせ、佐幕派の暗殺説はミスリードのまま素直に受け入れてしまうが、そこには時系列的に「如何にも」と思わせる認識トリックが存在する。

つまり落日近くの幕府を支える佐幕派が、大した高名には成らない坂本と中岡の暗殺をこの時期にピンポイントで襲うのは、情況的に得心が行かない出来事である。

それでは「何者が何故に」と成るのだが、簡単に表現してしまうと坂本龍馬の考え方は徳川家を残す有力大名の合議制で、公卿の三条実美、岩倉具視、薩長を代表する西郷隆盛・大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)らの完全倒幕派には相容れない所が在った。

そこで、薩長同盟(薩長盟約)締結の功労者の龍馬では在ったが、その後の状況変化では龍馬の考え方(龍馬案・大政奉還建白書)は完全倒幕派の邪魔になる為、龍馬の暗殺は「完全倒幕派の手に拠るもの」との見方も有力である。

龍馬の目当ては、伸び伸びとした自由貿易だった。

坂本龍馬の魅力は、権力奪取に固執しない自由な生き方を標榜する透明感であり、それは安土桃山期に活躍した雑賀孫市の生き方に共通している。

その精神は、先祖の血のなせる堺商人(氏族・根来衆・雑賀衆出自の堺豪商)の独立自由思想そのもので、けして奇をてらったものではない。

だが龍馬の彼なりの存在は、彼の意思とは別に、重いもの成っていた。

龍馬もまた、他の多くの志士達同様に志半ばで倒れてしまった。

世に言う近江屋事件(おうみやじけん)は、幕末・慶応三年の末に海援隊隊長・坂本龍馬と陸援隊隊長・中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸に於いて暗殺された事件の事を言い、京都見廻組の仕業であるとされる。

しかしこの説は大いに疑う所これ在り、この時点で類稀なネゴシェーター坂本龍馬(さかもとりょうま)の死を本当に望んでいたのは幕府方とは思えない。

国外事情に詳しい龍馬が内戦の混乱に乗じて欧米列強国が介入して来るを恐れ、徳川慶喜を新政府に参加させる事に拠り徳川家の懐柔と温存を自説として大久保・西郷達急進派と意見対立していたからである。

慶応三年十一月三日、龍馬はそれまで宿舎としていた寺田屋が幕府方に目をつけられたので、近江屋に移った。

十日後、伊東甲子太郎が尋ねて来て、「お主は新撰組に狙われているので三条の土佐藩邸に移ったらどうか」と勧めたが龍馬は近江屋に留まった。

伊東訪問の二日後の夕刻に盟友の中岡慎太郎が近江屋を訪れ、当時京都の治安維持を行っていた新撰組が三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士八名を襲撃、捕縛した「三条制札事件」について話し合う。

夜に成り、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出る客が近江屋を訪れ、応対した元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようと二階に案内するが、背後から行き成り切りつけられ重傷を負って倒れる。

藤吉は切りつけられて「ぎゃあ!!」と大声を上げ、その声を聞いた龍馬は咄嗟に「ほたえな!」と土佐弁で「騒ぐな」の意で声を挙げた為にその刺客に自分達の居場所を教えてしまう。

土佐弁を聞き付けた刺客は階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入し龍馬と中岡に切りかかる。

不意打ちを食らった龍馬は初太刀で切られ、意識が朦朧(もうろう)とする中、中岡の正体がばれないように中岡の事を庇い「石川、太刀はないか」と変名で呼んだと伝えられる。

定説はそんなものだが、近年新たに発見された資料として土佐藩の下級役人で徒目付(かちめつけ)・樋口真吉が当時在京していて龍馬暗殺の詳細を日記に付けていた。

樋口家の元々の格式は組外だったが、樋口真吉は千人を越える弟子を抱える私熟を経営して志士らの代表格のような存在だった。

才能を評価され嘉永年間に徒士格となり、藩主・山内豊範の参勤交代に徒士目付として随行するなどして下役ながら土佐藩々士として活躍していた。

樋口真吉は龍馬よりも二十歳も年上だが、剣豪としても知られた真吉は龍馬が十六歳の少年期から可愛がっていたと故郷土佐で伝えられている人物で、龍馬暗殺の時には京都で情勢の内定活動をしていた為、その日記には信憑性が在る。

樋口日記に拠ると、京都の近江屋に於いて、龍馬は「才谷梅太郎」、中岡新太郎は「横山勘蔵」の変名を使っていた。

刺客は三人で、襲われた時に龍馬は刀を手にする間も無く一太刀浴びせられ、中岡は隣の部屋に太刀を於いて来た為、小太刀で応戦するも切り伏せられている。


それにしても奇妙な事に、近江屋とは河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)に在った土佐藩邸からは、龍馬の身を寄せる近江屋で騒動在るも暗殺当夜に何の救援の手も差し伸べられなかった。

この襲撃で龍馬は、胸など数カ所を斬られ終(つい)に絶命するも中岡はまだ生きており助けを求めるが、二日後に吐き気を催した後に死亡した。

龍馬暗殺は新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされたが、この事件に関しては不可解な事が多く、現在では新撰組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜(第十五代)の処遇をめぐっては、西郷と龍馬では意見の相違が在った事は明らかになっていて、武力倒幕派に拠る大政奉還派の龍馬暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中達の証言などの資料をもとにしている。

大政奉還以降、龍馬は確かに幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていた。

確証は無いが、武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府方に「龍馬の所在を漏らした」とする説もある。


龍馬の望みは、遥か昔の先祖が活躍した自由都市「堺」の、自由交易精神の再現だった。

坂本龍馬の「世界を相手に貿易をする」と言う並外れた大望は、周囲に理解されないまま結局の所「今、目の前の政変」と言う直近の現実の前に抹殺されてしまったのである。

坂本龍馬は朝廷の復権・倒幕運動に奔走するが、徳川慶喜の大政奉還を受けて内戦回避を主張する坂本と薩摩・長州の武力倒幕論が意見対立し、京都・近江屋で坂本が陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺される。

日本初の株式会社とも言われる海援隊(かいえんたい)は龍馬暗殺を持って求心力を失い、結成三年余りで分裂して長岡謙吉らの一派、菅野覚兵衛らの一派などが夫々戊辰戦争の局地戦に参加、長岡謙吉が土佐藩より海援隊長に任命されたが、翌年には藩命により海援隊は解散される。

その後土佐藩士の後藤象二郎が海援隊を土佐商会として、土佐国地下浪人・岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させている。


三菱財閥の創業者で初代総帥の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐屋善兵衛とも称する明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

その岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう)と美和の長男として生まれた。

地下浪人とは郷士の株を売ってしまって浪人をしている者の事で、ちょうど坂本龍馬(さかもとりょうま)の実家・「才谷屋」が土佐の豪商に繁栄して郷士の株を買って下士に名を連ねたのとは反対に没落した訳で、下士の身分にも成らない中途半端な立場である。

岩崎家は、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に「郷士の株を売った」と言われている。

弥太郎(やたろう)は幼い頃から文才を発揮し、十四歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められたと伝えられている。

弥太郎(やたろう)二十一歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、千八百五十五年(安政二年)、父親が酒席での喧嘩により獄に繋がれた事を知り、急遽土佐に帰国する。

父の冤罪を訴えた事により弥太郎(やたろう)も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだ事が、後に商業に手を染める機縁とされる。

出獄後、弥太郎(やたろう)は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの知遇を得る。

その後、運良く師である吉田東洋が参政となって土佐藩山内家の政治を指揮するようになると、弥太郎(やたろう)はこれに仕える。

この頃、弥太郎(やたろう)は二十七歳で長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女・喜勢を娶(めと)って居る。

土佐藩参政・吉田東洋に仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎(やたろう)は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。

しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ「弥太郎(やたろう)は帰国した」とされるが、一説には尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから「任務を放棄し、無断帰国した」とも言われて居る。

この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎(やたろう)は九死に一生を得ている。

弥太郎(やたろう)は藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩した事から半年後に帰国させられ、帰国後長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。


千八百六十七年(慶応三年)、吉田東洋・少林塾で同門だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に、弥太郎(やたろう)は藩の商務組織(藩営)・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され藩の貿易に従事する。

同年、坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。

記録上確認出来る弥太郎(やたろう)と龍馬の最初の接点はこの時で、弥太郎(やたろう)と龍馬は不仲で在ったとも伝えられるが、弥太郎(やたろう)は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。

翌千八百六十八年(明治元年)に長崎の土佐商会(藩営)が閉鎖されると、弥太郎(やたろう)は開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。

千八百六十九年(明治二年)、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎(やたろう)は海運業に従事し、この頃に土佐屋善兵衛を称している。


千八百六十八年(明治元年)一月、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった。
戊辰戦争の開始である。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、十五代将軍・徳川慶喜に拠る大政奉還後に三百六十年続いた江戸幕府の幕藩体制を天皇親政の明治新政府に体制を変える為の一連の内戦を呼ぶ総称である。

明治新政府が王政復古で成立した大政奉還後も、旧体制の親江戸幕府勢力(佐幕派)は残っていて新政府に抵抗する構えを見せる者も多く、その一掃を目指して新政府が薩長土肥の軍事力を用い主に甲信越・関東・東北・北海道で交戦した掃討戦だった。

この掃討戦の期間が慶応四年〜明治元年で干支(えと)が戊辰(ぼしん)だった事から戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼ばれ、明治新政府側が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅した事により、以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められた。

戊辰戦争は大きく分けて三段階に分けられ、最初の衝突は「鳥羽・伏見の戦い」で、この時点では旧幕府勢力も新政府に参加する構想も在り薩長と幕府の主導権争いに起因すると思われるが、戦闘の最中に錦旗(きんき)が薩長に下賜され徳川慶喜が大阪から海路江戸に向かった時点で主導権は完全に薩長の手に落ちた。

その後、江戸に攻め下る官軍(新政府軍)を前に西郷隆盛と勝海舟の交渉で江戸城の無血開城は為されたが、幕府方は近藤勇(こんどういさみ)と土方歳三が指揮した甲州勝沼戦や市川・船橋戦、そして幕臣約四千名が集合した上野彰義隊戦(上野戦争)などの局地戦が起き、いずれも装備に勝る官軍(新政府軍)が勝利している。

第二段階は会津藩・庄内藩の処分問題に起因するもので、合津戦争を含む「東北戦争」の段階で、東北列藩同盟は「会津藩・庄内藩への同情論が結束を促した」とされている。

第三段階の千八百六十八年(慶応四年/明治元年)から翌千八百六十九年 (明治二年)に起こった「箱館戦争(はこだてせんそう)」は旧幕府勢力の最後の抵抗である。

榎本武揚ら一部の旧幕臣が旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かい、松前藩の箱館五稜郭などを占領し蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。

新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、要となる開陽を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍 は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、主戦派の土方歳三が戦死し榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。



戊辰戦争の中盤、一つの大きな戦局の山が江戸城無血開城と言う大偉業である。

西郷隆盛は伏見の戦線、八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認する。

徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して軍艦開陽に搭乗して江戸へ退去する。

新政府は「慶喜追討令」を出し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。

整然と隊列を組んだ官軍は、錦旗を翻し威風堂々とピーヒャラと鼓笛を鳴り響かせながら東海道を江戸に向かって進軍して行く。


官軍の東征に列した軍勢の主力は世に薩長土肥と言う、薩摩勢(島津藩)、長州勢(毛利藩)、土佐勢(山内藩)、肥前勢(鍋島藩)だった。

鍋島藩も、藩の国学者・枝吉神陽(えだよししんよう)の尊皇思想に影響を受けた江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくましげのぶ)、副島種臣(そえじまたねおみ)、山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らが他藩の尊攘勢力や一部の倒幕派公家と接触して活動していた。

只、藩公・鍋島直正が官軍に加わる決断に動いたのは十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅した千八百五十七年(慶応三年)の十二月に成ってからである為、肥前のご紹介は第六巻の冒頭から始める事にする。



十五代将軍・徳川慶喜は、千八百六十七年(慶応三年)十月大政奉還により政権を朝廷へ返上する。

政権を返上した慶喜は新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使する事を想定していた。

所が、討幕派の公家・岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した十二月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって慶喜自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。

この処置に旧幕府軍は、慶応四年正月三日、鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いと呼ぶ戦闘となった。

鳥羽・伏見の戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。

その為淀藩・津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は六日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走し、鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。


千八百六十八年(慶応四年)正月十一日、海路品川に到着した慶喜は、翌十二日江戸城西の丸に入り今後の対策を練り、徳川家人事の変更が行われる。

若年寄 ・平山敬忠、同・川勝広運、 陸軍総裁・ 勝義邦(海舟)、同副総裁 ・藤沢次謙 、海軍総裁 ・矢田堀鴻、同副総裁 ・榎本武揚、会計総裁 ・大久保忠寛(一翁)、同副総裁 ・成島柳北、 外国事務総裁・ 山口直毅、同副総裁・河津祐邦と言う新体制の顔ぶれだった。


慶喜が海路江戸へ逃走した頃、既(すで)に新政府は正月五日には橋本実梁(はしもとさねやな/公家・羽林家)を東海道鎮撫総督に出撃させる。

同九日には東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、岩倉具定(いわくらともさだ/公家)を東山道鎮撫総督に、高倉永祜(たかくらながさち/公家)を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていた。

そして二月六日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。

二月九日には新政府総裁の有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。

先の鎮撫使は全(すべ)て大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。

大総督府参謀には正親町公董(おおぎまちきんただ/公家)・西四辻公業(にしよつつじきみなり・きんなり/公家)が、下参謀には広沢真臣(ひろさわさねおみ/長州)が任じられた。

所が、寛大な処置を主張する広沢真臣(ひろさわさねおみ/長州)は十二日に下参謀を辞退し、代わって強硬派の西郷隆永(さいごうたかなが・隆盛/薩摩)と林通顕(はやしみちあき/宇和島)が十四日に補任された。

二月十五日、熾仁親王(たるひとしんのう)以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、三月五日に駿府に到着する。

翌六日には大総督府の軍議に於いて江戸城進撃の日付が三月十五日と決定されたが、同時に、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。

この頃には既(すで)に西郷隆永(さいごうたかなが・隆盛/薩摩)や大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)らの間にも、慶喜(よしのぶ)の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。

実際、これらの条件も前月に大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。


鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を投げ出して、伊勢から水路逃げ帰った十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の江戸帰還後、江戸城に重臣が集まり、一月十二日から官軍の東征にどう対処するかの評定が開かれた。

評定に於いて勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)は、海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)、歩兵奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)、奉行職歴任後謹慎中・水野忠徳(みずのただのり)等と徹底抗戦を主張する。

しかし十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、この徹底抗戦策を採用せず陸軍総裁・勝海舟(かつかいしゅう)らの恭順論を受け入れ、勝(かつ)に後事を託して上野寛永寺大慈院に謹慎する。

勝海舟(かつかいしゅう)は、千八百六十八年(慶応四年)戊辰戦争時には陸軍総裁、後に軍事総裁として旧幕府方軍事面の責任者となり、前十五代将軍・慶喜にもはや戦意は無かった事から旧幕府の恭順派代表となる。

西郷は二月に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍)を率いて先発し、二月には東海道の要衝・箱根を占領した。

陸軍総裁・勝海舟(かつかいしゅう)は、参謀格である精鋭隊歩兵頭格・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を徳川慶喜の使者として東征大総督府・下参謀・西郷隆盛(さいごうたかもり)の下に送る。

箱根占領後、三島を本陣とした後に静岡に引き返し、三月、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案七ヶ条を示した。

その後、大総督府からの江戸総攻撃の命令を受け取ると静岡を発し、江戸に着き池上本門寺の本陣に入った。

西郷隆盛は、高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談し、江戸城無血開城についての交渉をした。

「勝先生、おはん、この錫杖の謂れば知っチョるでごわか?」

「西郷さん、そりゃ、噂の賀茂の錫杖と見たが・・・」

「流石、勝先生でごわす。おいどん、勝先生の博識バ、敬服もぅす。なら、これもしっちょり申そう。」

隆盛が袱紗(ふくさ)を開いて見せたのは青銅製の独鈷杵(とっこしょ)だった。

「賀茂の錫杖が在る所を見ると、おいら、そりゃ空海の独鈷杵(とっこしょ)と見た。」

「勝先生、そう言う訳でごわす。」

「コリャ幕府は勝てんわな。」

弘法大師・空海が日本にもたらした仏法の法具(密教法具)独鈷(とっこ)は、日本の密教がインド・ヒンドゥー教の聖典に大きく影響を受けている証(あかし)であり、正式には独鈷杵(とっこしょ)と言う。


幕府にとって不幸な事は、差し迫った外圧に対処する知恵を持った進歩派の登用が不可欠だった。

しかし進歩派の登用は諸刃の剣で、国外事情を知る進歩派は必ずしも旧態前とした幕藩体制を支持しては居なかった。

蘭学を学び遣米使節の補充員として「教授方取り扱い」と言う立場で咸臨丸に乗船した勝海舟は、言わば幕閣側の進歩派だった。

それ故矛盾する事に、徳川幕府の幕藩体制が固執すべき体制では無い事を海舟は知って居て当たり前だった。

「ところで勝先生、徳川を残すなら江戸城ば開けもし、ひたすら恭順ばして徳川の家ば残すが良か。後のこっバ、おいが引き受けもす。」

「良ぃんですかい西郷さん?なら判ったよ、おいらの命棄ててでも、そうするぜ。」

「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)タィ勝先生。」と、西郷の口癖が出た。

三月に官軍が江戸に迫ると、徹底抗戦を主張する小栗忠順(おぐり ただまさ)に対し、勝海舟(かつかいしゅう)は西郷の提案する早期停戦と江戸城の無血開城を主張する。

勝海舟は江戸市中を戦火から救う為に、官軍の本陣が置かれていた池上本門寺の庭園(松涛園)内の四阿にて、西郷隆盛との交渉に挑む。

交渉は難航ししたが、橋本屋での二回目の会談で勝が西郷を説得に成功、西郷隆盛は、勝から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に向かう。

西郷は静岡に出赴き、大総督・有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に謁見して勝案を示し、更に静岡を発して京都に赴き、朝議にかけて江戸城の無血開城の了承を得た。

四月になって急ぎ江戸へ立ち帰った西郷は、勅使・橋本実梁(はしもとさねやな/西園寺流・閑院家の公家)鎮撫将軍らと江戸城に乗り込み、田安慶頼(たやすよしより/徳川御三卿)に勅書を伝え、ここに漸く江戸城開城が成った。

勝海舟と西郷隆盛の会談に拠り江戸城が開城され、征討大将軍・仁和寺宮彰仁親王(にんなじのみやあきひとしんのう)、東征大都督・有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が率いる官軍が入城したのは、桜田門外の変から僅か八年後の事で在った。


実は江戸城無血開城について話しが着いたのは、当時の欧米列強の植民地化の初期段階に於いて、その国の政情不安に「居留民保護」と言う名目で軍事介入を始める手口を、国際情勢に通じた西郷隆盛(隆永)と勝海舟(安芳/やすよし)に共通な認識が在ったからである。

当時の薩長を主体とした新政府軍は、長州が英・仏・蘭・米の列強四ヵ国と下関戦争を起こして敗戦を経験し、薩摩が英国相手に薩英戦争を起こして和平した経緯を経験し、その列強軍事力の実力は承知していた。

勝海舟(安芳/やすよし)に到っては、幕府遣米使節の補充員として咸臨丸に乗った渡米経験があり、欧米列強の軍事介入は恐れる所だった。

現に先(千八百五十九年/安政六年)に開港した横浜には、新政府軍と幕府軍の戦乱に対する「居留民保護」を名目に英国軍が上陸を開始していた。

この事実が、西郷に拠る京都宮方(新政府軍)主戦派への江戸城無血開城説得の大きな材料と成ったのである。

隠れた国際状況と言う事情も在ったが、勝海舟の早期停戦と江戸城の無血開城案が江戸市中を戦火から救い、これは幕臣・勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと後の世に賞されている。


勝海舟(かつかいしゅう)が江戸城無血開城を為し得たには、幕臣・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)の後押しが在っての事である。

千八百十七年(文化十四年)十一月二十九日、一翁(いちおう)は旗本(五百石取り)の大久保忠尚の子として生まれる。

大久保一翁(おおくぼいちおう)は千八百六十五年(慶応元年)に剃髪して隠居した後の名で、隠居前は大久保忠寛(おおくぼただひろ)を名乗って居た。

大久保忠寛(おおくぼただひろ)は第十一代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、千八百四十二年(天保十三年)の父・忠尚の死去に伴いその年の年末に家督を相続して当主となる。

忠寛(ただひろ)は老中の阿部正弘に早くから見出されて千八百五十四年(安政元年)に目付・海防掛に任じられた。

その後も忠寛(ただひろ)は、幕府に意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。

千八百五十六年(安政三年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。

この頃、幕閣では第十三代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で、一橋派と南紀派の壮絶な対立が在った。

千八百五十七年(安政三年)、一橋派の老中・阿部正弘が没し南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老となる。

大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が始めた一橋派への弾圧である安政の大獄で、忠寛(ただひろ)は直弼から京都における志士の逮捕を命じられる。

しかし忠寛(ただひろ)は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼(なおすけ)の厳しすぎる処分に反対した為、直弼に疎まれる様に成って行く。

そして忠寛(ただひろ)の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛(ただひろ)は、この部下を厳重に処罰する。

これを直弼(なおすけ)に、「忠寛(ただひろ)が志士の逮捕を怠っている」と言う理由にされて、奉行職を罷免させられる。

千八百六十年(安政七年)、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で直弼(なおすけ)が没すると、翌千八百六十一年(文久元年)忠寛(ただひろ)は幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。

復帰した忠寛(ただひろ)は、外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任する。

そして忠寛(ただひろ)は、政事総裁職となった福井藩主の松平慶永(春嶽)らとも交友し、第十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)にも仕える。

この時忠寛(ただひろ)は幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還する事を提案している。

千八百六十五年(慶応元年)、大久保忠寛(おおくぼただひろ)は隠居して一翁(いちおう)を名乗るも幕府要職に止まる。

千八百六十六年(慶応二年・年末)第十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が病没する。

家茂(いえもち)の病没後、第十五代将軍となった徳川慶喜にも、一翁(いちおう)は大政奉還と雄藩を中心とした諸大名議会政治や公武合体を進言している。

つまり後の坂本龍馬の「大政奉還や船中八策」は、「一翁(いちおう)の教えを実践した」と言う有力な説が在るのだ。

千八百六十八年(慶応四年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川家の若年寄・会計総裁に選出された。

その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、一翁(いちおう)は勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力する。

一翁(いちおう)は、駿河に移封となった徳川家第十六代当主・家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当する。

廃藩置県後は新政府に出仕、明治政府では東京府の第五代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力している。



賀茂の錫杖は西郷隆盛に携えられ、勅使・先鋒総督・橋本実梁(はしもとさねなや・閑院家・和宮の伯父さん)東海道鎮撫将軍とともに開城された江戸城に入城する。

これにより徳川幕府は名実ともに倒れたのである。

それでも、江戸城開城の後に起こった上野山(寛永寺)の彰義隊の上野戦争、及び奥州諸藩(奥羽列藩同盟)の抵抗、幕軍五稜郭の最後の戦いは賀茂の錫杖が乱を呼び寄せたものかも知れない。


西郷隆盛は、五月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の奥羽白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとした。

だが、それは大村益次郎の猛反対に合い、上野攻撃を優先する事にした。

五月中旬上野戦争が始まり、西郷は正面の黒門口攻撃を指揮しこれを破った。



彰義隊(しょうぎたい)は、江戸幕府の前征夷大将軍で在った徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって千八百六十八年に結成された部隊の名称である。

鳥羽・伏見の戦いの後、大政奉還を為した前将軍・徳川慶喜は江戸城へと移っていたが、千八百六十八年二月十一日に新政府に対する恭順の意を表し、翌十二日に上野寛永寺へ蟄居した。

これに不満をもった幕臣の本多敏三郎と陸軍調役の伴門五郎が十一日に檄文を発し、有志へ会合をもちかける。

翌十二日、集会場所に指定した雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」には、一橋家所縁(ゆかり)の者ら十七名が集まる。

彼らは寛永寺に謹慎した徳川慶喜の復権や助命について話し合、二月十七日には円応寺に場所を移し三十名ほどで会合を行っている。

その四日後の二十一日に開かれた会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めた為、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加している。

その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国」と伴に「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成される。

二十三日に浅草の東本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」と言う意味の「彰義隊」と命名し、改めて血誓状を作成した。

頭取には渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう/一橋家以来の慶喜の臣)、副頭取には天野八郎(あまのはちろう/自称幕臣?)が投票によって選出され、きっかけと成った檄文の発起者・本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いた。

この動きに対する旧幕府の対処は、彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られる事を恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じた。

彰義隊結成の噂を聞きつけた旧幕府に所縁(ゆかり)の者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模となり、四月三日に拠点を本願寺から寛永寺へ移動している。

四月十一日に江戸城が勝海舟(かつかいしゅう)の手で無血開城し、前将軍・徳川慶喜が水戸へと退去すると、彰義隊は千住から下総松戸までの護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。

前将軍・慶喜が水戸へ移った後も彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡・公現入道親王(こうげんほっしんのう/北白川宮能久親王)を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。

勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍(官軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には三〜四千人規模に膨れ上がる。

そうした中、頭取・渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)と副頭取・天野八郎(あまのはちろう)が隊の方針をめぐって対立する。

渋沢成一郎は主君・慶喜が江戸を退去した為、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張し、両者は分裂する。

渋沢は彰義隊を離脱、同志と伴に飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺で「振武軍」を結成し、渋沢の離脱に伴い彰義隊は隊を再編成したが、天野は頭並の地位に止まっている。


上野戦争(うえのせんそう)は、旧幕臣等で構成する彰義隊と新政府軍の間で東叡山寛永寺を中心に起こった一連の戊辰戦争の一部を構成する戦闘行為である。

江戸開城以降、自暴自棄になった幕臣・旧幕府陸軍兵士等の放火や強盗が関東各地で起こり治安が悪化する。

事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく徳川慶喜の警護役をしていた旧幕府陸軍の幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮(公現入道親王)の側近・覚王院義観(かくおういんぎかん)と会談させ彰義隊への解散勧告を行った。

しかし東叡山寛永寺の執当職・覚王院義観(かくおういんぎかん)は、対面に訪れた山岡鉄舟を「裏切り者」と呼び説得に応じなかった。


東叡山寛永寺に立て篭もりの姿勢を見せる彰義隊に、京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考える。

新政府は彰義隊を討伐する方針を決定し、新たに京都から西郷隆盛に代わる統率者として大村益次郎が着任した。

大村益次郎は新政府の意向として、彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げる。

新政府側は、千八百六十八年五月一日に彰義隊の江戸市中取締の任を解く事を通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。

この布告により、新政府軍と彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発する。

軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同十四日に彰義隊討伐の布告が出され上野戦争(うえのせんそう)に到る。


上野戦争(うえのせんそう)時の新政府軍の指揮は、長州藩出身の新政府軍務局判事・大村益次郎がした。

大村益次郎は海江田信義ら慎重派を制して彰義隊の武力殲滅を主張し、上野を封鎖する為各所に兵を配備する。

さらに益次郎は、彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。

大村益次郎は上野の三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。

作戦会議では、西郷隆盛は益次郎の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、益次郎は「そうです」とにべもなく答えたと伝えられる。

五月十五日、新政府軍側から彰義隊へ宣戦布告がされ、午前七時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。

戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。

新政府軍は加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。

対する彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(現・西郷隆盛銅像付近)から応射した。

西郷隆盛が指揮していた黒門口からの攻撃隊が彰義隊の防備を破ると、彰義隊は逃げる様に寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防御線を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。

新政府軍側にも新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、彰義隊の抵抗は弱く、午後五時には戦闘が終結する。

彰義隊は戦闘意欲が低く、僅(わず)か一日の戦闘でほぼ全滅し崩壊、彰義隊の残党は根岸方面に敗走した。

戦闘中に江戸城内にいた大村益次郎が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も益次郎の予測通りであった。


逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。

彰義隊の生き残りは厳しく詮議された為、上野で戦死した事にして、故郷にも帰れず明治の時代を戸籍なしで送った者も居たと言う。

頭並の首魁の天野八郎は、投獄後数ヶ月で肺炎で死亡したが、江戸時代の牢獄は劣悪で生存率が極めて低く、改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降の事である。

新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊の中で最も厳しいものだったが、反面、謹慎後に明治政府へと登用され、官吏や重役に就いた者も少なくない。


彰義隊は、幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で新政府軍に敗れ解散した。

捕縛後の天野八郎の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり後ろを見たら誰も居なかったと言うものがある。

彰義隊は江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し新政府兵士へ集団暴行殺傷を繰り返した存在としては、覚悟が足りなかった。

イザ実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かった事が、一日の戦闘で彰義隊の崩壊となったとする説がある。

元々「武士道の精神」など怪しい綺麗事だが、この彰義隊の戦意やその覚悟の無さこそ、「武士道の精神」が幻想である事の証明では無いだろうか?

幕末当時、武士は列島に生ある者の僅か五パーセントを占める比率のみで、その内の多くがこの体たらくでは、とても「日本は武士道の国」とは言い難い。



この明治維新、最初の京でのイザコザはかなり皮肉な現象で幕を上げた。

勤皇(当初は攘夷派)倒幕派は、曲りなりにも氏族だった。

彼らは正式な影人の血統と言えない事も無い。

勿論、幕府側も氏族の出自である。

しかし幕府に付いて勤皇浪士と戦ったのは、どちらかと言うと下士身分から這い上がりたい連中の見廻り隊と武士(氏族)になりたい百姓上がりの浪士に拠る壬生浪士組(みぶろうしぐみ)(後の新撰組)などだった。

本職の幕臣達は、元を正せば正式な影人の血統だから、帝の軍隊「錦の御旗」には精神意識に於いて弱かった。

それで、賊軍になった途端に腰が折れている。

つまり、常に最前に在って幕府を守ろうとしたのは、皮肉な事に幕府の統治に武士道を啓蒙された百姓・町人、民人(たみびと)の血統だったのである。



「サリトテ恐ロシキ年ウチワスレテ、神ノオカゲデ踊リ、エエジャナイカ、日本ノヨナオリハ、エエジャナイカ、豊年踊リハオメデタイ、日本国ヘハ神ガ降ル、唐人ヤシキニャ石ガ降ル、エエジャナイカ、エエジャナイカ」

阿波踊りの原型は、「ええじゃないか騒動にある。」と言われている。

この騒動は、或る目的を持った者達の、神仏を利用した典型的な「大衆誘導」と言える。

ええじゃないか騒動は、日本の江戸時代の後期の千八百六十七年七月から翌年四月にかけて江戸より西の東海、近畿、四国に広がった「打ち壊し(うちこわし)」を含む大衆狂乱現象である。

仮装して囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら町々を巡った「ええじゃないか」騒動は都市に生活をしはじめている民衆に動揺が大きく波紋を描き、外国貿易の物価の高騰、 米価高騰など様々な生活不安から、「世直しへの期待とともに広がったのではないか」と思われる。

この騒ぎの発端を見ると、江戸幕府が滅亡した千八百六十七年(慶応三年)の夏、東海道三河国吉田宿(現在の豊橋市)で 伊勢神宮の神符が降った。

これが発端で、諸国に次々と神符降臨が巻き起こった。

降下物は寺社のお札に限らず、仏像、貨幣 など多様で、折からの政情不安も重なって「生首、手、足も降った」と噂され、「ええじゃないか」の熱狂が始まった「一種の終末思想」と考えられる。

また、最初の札の降下は、千八百六十七年八月四日(七月十四日説あり)東海道の三河国「御油宿」に秋葉神社の「火防の札が 降下したのが始まりだ」とも言われている。

神符の降下は人為的なものであり、その影には「討幕派が居たのではないか」と言われるが証拠がない。

ただ、徳川家発祥の地、三河国からこの騒動が始まった事実は、否定できない。

そこに倒幕目的の「陽動作戦」と言う作為を感じるのは当然の事ではある。

お札は伊勢だけでなく、八幡、天神、住吉、稲荷、淡島、水天宮、春日、秋葉大権現、牛頭天王、大黒天などの様々な神仏のお札が舞った。

そのお札に「懐疑的態度をとった人の家族が急死する」と村人は非常に恐れ、お札を三河国牟呂八幡宮(豊橋市)に奉納、この事件は近隣の村々にも波及した。

この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。

特に東海地方では ペリー来航の黒船騒ぎ以来、大地震、津波、大雨が相次いで起き、唯念行者の除災儀礼が各地で 行われ安政五年にはコレラが流行し、人々は恐慌状態に陥っていた。

そうした中で民衆は敏感に世の変革の兆しを感じ、重く延しかかり社会不安に耐え切れず、新しい世への世直しに熱狂した。

農村に在った御蔭参り(伊勢皇大神宮の神恩即ち御蔭を感謝する参宮)を基盤として、「ええじゃないか」のはやしをもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。

いわゆる大衆的終末思想の狂乱である。

以後、東海道や畿内を主力に、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、尾張、美濃、信濃、伊勢、近江、大和、山城、丹後、但馬、因幡、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨、備中、備後、美作、安芸、淡路、阿波、土佐、讃岐、伊予の 三十ヵ国での事例があり、大衆の終末思想への影響は大きかった。

勿論ええじゃないか騒動で、幕府の威信が低下し、騒動が幕藩体制を弱体化するのに大きく寄与している。

この騒ぎの終焉は、翌年千八百六十八年四月二十二日「丹後国加佐郡野村、寺村を最後になくなった」と言われる。

この年の十一月九日に徳川慶喜(十五代将軍)の大政奉還、これにより江戸幕府は事実上滅亡、翌年千八百六十八年一月三日王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。

言わば大衆の信仰心を「革命に利用した事例」と言えないだろうか?

幕藩体制の崩壊は、徳川政権の経済政策の失敗に、所謂外圧(開国の要求)が加わった結果である。

千八百六十七年(慶応三年)に始まり翌年まで約十ヶ月続いた「ええじゃないか騒動」は、打ち毀し(うちこわし/打毀)の延長上に発生した貧民の反撃騒動で、当然「ええじゃないか騒動」にも打ち毀し(うちこわし/打毀)は在った。

都市に於ける最初の打ち壊しは、千七百三年(元禄十六年)に長崎で発生し、千七百三十三年(享保十八年)には江戸でも初めて発生した。

打ち毀し(うちこわし/打毀)は、主に都市部に於いて「買占め」などによる物価高騰の原因とされた者に対して貧民が集合して行われる事が多い。

また、百姓一揆に伴って領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われる事も在った。

打ち毀し(うちこわし/打毀)は、多勢での暴動だから確かに無法状態ではあるが、抜け目無く違法脱法を行い暴利を貪る者に対する「生存権の行使」と言う側面を持つ故に、まぁ近頃多発する八つ当たり的な無差別殺傷事件を個人的に起こす輩よりも、原因を特定してのその行為を単純に評価はできない。

つまり政治権力と癒着した商人が相場の上昇を期待して売り惜しみをし、暴利を貪る所に大勢の貧民の怒りから打ち毀し(うちこわし)は発生した。

打ち毀し(うちこわし/打毀)とは、江戸時代の民衆運動の形態の内、不正を働いたと見做(みな)された者の家屋などに狙いを絞って破壊する貧民の反撃行為の事で、一見無秩序に思えるが到って秩序の取れた行動である。

家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為である事を主張する為に家屋の破壊だけにとどめ略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。

それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、とくに物価が急に上がった幕末にかけて増加し、倒幕運動に拍車が掛かったのも事実だった。

世直しは貧民の反撃であり、過去には「打ち壊し」と言う名称で暫し自然発生的に起こり、実は太平洋戦争終戦直後の混乱期まで、「米よこせ騒動」として資産家ターゲットに続いた事実がある。

打ち毀し(うちこわし)は違法行為であるが生存権を賭けての貧民層の民衆の蜂起であり、歴史的事実として格差社会が進行すれば現代でも充分にその可能性を秘めている。

芝居の台詞に「世に盗人の種は尽きまじ。」と言うのがあるが「悪徳商人の種は尽きまじ。」も同じ事である。

昔なら打ち毀し(うちこわし)もある買占め不正を米国式の「資本競争原理主義」と言う名の下で「マネーゲーム」を容認し、善良な生産活動をも阻害するような現代の手法を果たして正統な経済活動と言えるのだろうか?


そう言えば、日本近代史の、ターニングポイントにはかならず米国が絡んでくる。

黒船から明治維新、敗戦から戦後復興、そして、今度は「軍事鎖国」から、自衛隊の海外派遣と言う名の「開国」・・・、そこに奇妙な一致を見る。

だからこそ、「大きな歴史の変わり目が、今始まった」と思えて来るのだ。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやってくる。

その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

結果的には日本の近代化を促す事になるが、この時の武力を背景とした「相手の国法をも無視した交渉方法」は、正しく「こちらの言う通りに成らないと武力を使う」と言う、イラクにとった同じ手法だった。

この時点で、日本の存在は米国の脅威でもなければ、他国を侵略する国家でもなかった。

つまり、富の収奪が米国の目的だったのである。

石油利権を狙った今回のイラクも、正しく同じで有る。

イラクも石油がなければ、米国の態度は北朝鮮と同じで武力行使は極力避けたのではないか?

つまり今の所、北朝鮮には「富の収奪について何の旨味も無い」のだ。

ただ米国の軍事産業の為に、「みなし敵国」の存在は必要で有る。

百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為で在った。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出させる事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされたのである。

所が、米国はその後国力を増した日本に対し、一転して批判を始め、国際的に孤立させて行く。

富の収奪どころか、ライバルに成長したからである。

最近、政治家や評論家などの口から良く「国益」と言う言葉を耳にする、つまり米国との親密な国際共同歩調は、日本国の利益になると言うのだ。

しかし、経済と同じで利益を追えば必ずリスクもついてくる、その辺りの事を故意に論議を避けてはならない。

そして、中東の国の「復興支援」の美名の影に、国の損得が見え隠れしているのが「自衛隊の海外派遣」と言う事になる。

「国益」は日本国民在っての事ではないのか?

それならば、今は正に日本を再生する為の大きな決断の時であり、それが今最優先すべき「国益」ではないだろうか。



慶応三年に徳川慶喜より大政奉還された時、新しく下士の身分から中央政治の実権を握った維新の志士達の間で都(新しい政治の中心地)を「そのまま京都に置くのかどうか」が論議になる。

意見としては大久保利通の浪速(大阪)、前島密の江戸(東京)、江藤新平の京都(西京)江戸(東京)東西二京論などが在ったが、彼等の一致する所は京都以外に遷都案である。

京都から遷都する事の意味は、古い政治体質を引きずる公卿達の「新政治に対する妨害を嫌った為」だと言われているが、本当にそれだけだろうか?

明治帝が睦仁親王で在ったなら京都は千有余年の帝城であり生まれ育った土地で、果たしてその明治帝(睦仁親王)が如何に「周囲から口説かれた」と言え京都から江戸(東京)への遷都に易々と同意するだろうか?

憶測の域を出ない話だが、もし明治帝が京都帝城に何の未練も無い人物だったら、この謎解きは簡単である。

三条実美ら七公卿落ちのメンバーや岩倉具視はともかく、明治帝を早期に京都の公家衆から引き離すのっぴきならない事情が隠されていた可能性もあるのだ。



薩長土肥の維新四藩以外の肥後藩から、唯一維新の十傑に数えられた横井小楠(よこいしょうなん)と言う人物が居る。

小楠(しょうなん)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。


熊本藩士の儒学者、横井小楠(よこいしょうなん)の本姓は北条流平氏で、正式な名のりは平時存(たいらのときひろ/ときあり)である。

横井家は桓武平氏北条嫡流得宗家・北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行四世孫にあたる横江時利の子が横井に改めたを始まりとする。


小楠(しょうなん)は千八百九年(文化六年)、肥後熊本(現在の熊本県)城下の坪内町に、熊本藩中堅藩士(百五十石)・横井時直の次男として生まれる。

千八百十八年(文政一年)、九歳で藩校・時習館に入校、講堂世話役を経て千八百三十七年(天保八年)に十九歳で居寮長(塾長)となる。

二年後、二十一歳で藩命により江戸に遊学、幕府朱子学者林家の当主・林大学頭(はやしだいがくのかみ)の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。

また、小楠(しょうなん)は江戸滞在中に、幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。

二年後の千八百四十一年(天保十二年)に、小楠(しょうなん)は熊本藩に帰藩するも、筆頭家老の松井父子を頭目とする「学校党」と対立する。

帰藩から二年後、小楠(しょうなん)は二十五歳で私塾を開き、その六年後に福井藩士・三寺三作が小楠(しょうなん)の私塾・小楠堂に学だ事から福井藩に出仕する。

農村の熊本沼山津に転居し、自宅を「四時軒(しじけん)」と名づけて住まうも、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くがここを訪問している。

千八百六十二年(文久二年)、小楠(しょうなん)は松平慶永(春嶽)の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革に尽力する。

さらに小楠(しょうなん)は、江戸幕府三要職の一つ「政事総裁職」で在った松平慶永(春嶽)の助言者として幕政改革にかかわる。

千八百六十八年(明治元年)、鎖国体制・幕藩体制を批判していた小楠(しょうなん)は親交が在った倒幕派の要請で新政府に木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通らと同格の参与として出仕する。

漸く小楠(しょうなん)持論の幕府・藩を越えた統一国家を目指したやさきであり、まだ京都御所が新政府の議事の場だった。

千八百六十九年(明治二年)、小楠(しょうなん)は参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺された。

横井小楠(よこいしょうなん)は暗殺に倒れたが、その国家観は新政府に受け継がれて新国家体制に反映された。



千八百六十九年(明治二年)六月、大村益次郎(おおむらますじろう)は戊辰戦争での功績により永世禄千五百石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。

同月、益次郎(ますじろう)は政府の兵制会議で大久保利通らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。

益次郎(ますじろう)と木戸孝允(桂小五郎)は、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る。

しかし意見を異にし、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保利通らとの間で激論が闘わされた。

益次郎(ますじろう)は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。

所が大久保利通は、戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していた為、「返って士族の反発を招く」と政治的に考えていた。

また、岩倉具視らは農民の武装化は「そのまま一揆につながる可能性排除できない」として慎重な態度をとっていた。

この兵制論争中、六月下旬段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。

益次郎(ますじろう)を支持する木戸孝允(桂小五郎)も、論争に加わり援護意見を述べた。

しかし大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下する事が決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。

また会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕とも言える吉井友実も議論に加わり今後の兵卒素材についての議論も始まった。

大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と益次郎(ますじろう)や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、益次郎(ますじろう)の建軍構想はことごとく退けられる。

大久保が益次郎(ますじろう)の更迭を主張し始め、益次郎(ますじろう)は辞表を提出したが、木戸孝允(桂小五郎)の説得に応じて新たに設置される兵部省に出仕する。

兵部省に出仕した益次郎(ますじろう)は、兵部大輔(今の次官)に就任する。

当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であり、益次郎(ますじろう)が事実上近代日本の軍制建設を指導して行く。

益次郎(ますじろう)は戊辰戦争で参謀として活躍した門弟・山田顕義(やまだあきよし)を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。

千八百六十九年(明治二年)、着々と軍制建設を構築していた益次郎(ますじろう)は軍事施設視察と建設予定地の下見の為、京阪方面に出張する。

京阪方面が不穏な情勢となっていた為、木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、益次郎(ますじろう)はそれを振り切って中山道から京へ向かう。

九月四日、益次郎(ますじろう)は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎(ますじろう)の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食する。

その会食中、益次郎(ますじろう)一行は元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら八人の刺客に襲われる。

静間と安達は死亡、益次郎(ますじろう)は重傷を負った。

その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負い、特に右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。

兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎(ますじろう)襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった事が示されている。

益次郎(ますじろう)は一命をとりとめたが重傷で、九月七日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。

同月二十日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。

十月一日、益次郎(ますじろう)は河東操練所生徒・寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれる。

高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、翌十月二日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町に入院する。

その大阪仮病院で、楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受ける事となる。

だが手術は東京との調整に手間取って手遅れとなり、敗血症による高熱を発して容態が悪化し、十一月五日の夜に益次郎(ますじろう)は死去した。

益次郎(ますじろう)は学者・軍人としては超一級の逸材だったが、政治家としての度量には欠けていた。

為に益次郎(ますじろう)は、学者として理想の軍制改革を早急に具現化しようとして凶賊に倒れてしまう。

維新の十傑の一人に数えられながら、大政奉還後をわずか二年余り、戊辰戦争の終結からはわずか数ヶ月間生きただけで、益次郎(ますじろう)は命を落としている。

益次郎(ますじろう)の軍制構想・「農兵論」は、兵部大丞・山田顕義(やまだあきよし)らに拠って進められる。

千八百七十一年(明治四年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって軍制構想は実行に移されるが、同年内には事実上廃棄されている。

その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田顕義から山縣有朋に移った後の千八百七十三年(明治六年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定される事となる。



千八百六十八年(慶応四年/明治元年)、維新中心人物達の奏上(そうじょう)により江戸(東京)遷都の意志を示す天皇の詔書がなされる。

「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」

千八百六十八年(明治元年)の八月、明治帝は政治的混乱で遅れていた即位の礼を執り行なう。

その後明治帝は、維新中心公卿の岩倉具視、議定職の中山忠能、外国官知事を任じていた伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の四藩の兵隊など総数三千数百を持って同年九月に京都を出発して江戸(東京)に初めての行幸(東幸)をする。

旧東海道を東に進み、駿河国の東の国境を流れる木瀬川を越えると伊豆国に入る。

その国境を守る社が、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王に所縁の智方(地方)神社である。

その智方(地方)神社の傍らに広がっていたのが、窪地(くぼち)に設えて在った窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田だった。

窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田の先には、源頼朝が腹違いの弟・九郎(源)義経と「初めて対面した」とされる八幡神社がある。

この智方(地方)神社と八幡神社の正面に面して旧東海道が設けられているのだが、明治帝の一行が江戸(東京)遷都の為に東幸したのがこの道だった。

明治帝の一行は、木瀬川を越え駿河国境を越え伊豆国に入った所で休息を取る予定を決め、先触れが当地の世話役達に届いていた。

先触れを受けた当地の世話役は、ちょうど智方(地方)神社と八幡神社の中間地点にあたる広々とした窪田(くぼんだ)の水田に板囲いの仮御所を急遽造営して明治帝の一行を迎え御休息頂いた。

行程二十日間を余す帝の行幸では道中も帝の威信を高めながらの大変大仰な旅で、その仮御所は恐れ多い物だから直ぐに取り壊され、元の水田の戻されて今は遊技場の建物が建っている。

この東幸は旧幕勢力に対するけん制のデモンストレーションの意味合いが強く、また東京と京都(西京)の両京の間で天皇御座(都名乗り)の綱引きもあり、一旦先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を理由に、同年十二月には再び京都へ還幸を実地している。

その三っ月後の千八百六十九年三月、明治帝は三条実美らを従えて再び東幸を慣行、行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とし、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。

この江戸(東京)遷都の背景に、帝を京都御所から引き離したい「何か特殊な事情が在った」とは考えられないだろうか?

当初の発表では、あくまでも京都と東京は二元首都だった。

そして睦仁親王(明治帝)のご尊顔を拝していた女官の大多数は、京都御所に置き去りに成っている。

ついで同年十月には皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せ、着々と既成事実を積み上げる形で完全に天皇御座が東京に移って、これ以降明治帝は東京を拠点に活動する事になり、遷都が完成するのである。


凡そ千年に及び天皇の住まいし都だった平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て江戸の地に遷都され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となる。

この江戸(東京)遷都(えどせんと)に依り、千年の怨念から解き放たれた京都は戦時中の空襲から守られ、新たな都に成った東京は首都の怨念を背負って大戦中に灰塵と化している。

つまり都とは、多くの矛盾(むじゅん)に満ちた亡者達が陰謀と怨念を生み出す為にうごめく、生々しく呪われた場所かも知れない。



明治維新が成功し、明治新政府が成立して江戸に明治帝が入城して遷都は成った。

その為の倒幕だったから、ここからは近代的な日本を創造すべく新しい政治をしなければならない。

後醍醐天皇の「建武の親政」以来の天皇親政に拠る政治形態を明治維新政府は採って、新生日本国は大日本帝国として出発する。

明治維新政府の形としては、後醍醐天皇が目指した天皇親政である。

しかし現実は、倒幕に功績のあった「薩長土肥と倒幕派公家」の連合政権である。

そして徳川二百六十年の後始末は、江戸城開城後も内乱の形で北陸、東北、北海道と続いていた。

それでも急速に改革は進んで近代化を目指す明治政府は、まず身分制度が改める。


氏族(皇族や有姓身分の公家や武士)や平民、その下に非人(賎民)と言う扱いの差別が存在した江戸幕府の身分制度は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され、これに拠り被差別部落民は賎民解放令に基づき平民として編入された。

この戸籍法に拠る編製戸籍を、明治五年の干支からとって「壬申戸籍」と慣習的に名付けている。

その五年後、明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。

この発布された二つは帯刀・禄の支給(知行地召し上げ)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

簡単に言えば、各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。

即ち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものなのである。

そしてもう一つの目的は、皇族、貴族、士族、平民と言う身分制度が成立して一連の身分制度の改正と共に武士の専業だった「武(兵役)」を男子国民全てに負わせる徴兵制度の確立だった。

何よりも維新の新体制で、藩制が廃され、「武士」と言う身分が無くなった。

この「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。

この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。



千八百六十九年(明治二年)三月、明治帝は明治元年の江戸行幸に続き三条実美(さんじょうさねとみ)らを従えて再び東幸を慣行する。

行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在する為に東京城を「皇城」と称する事とする。

建前はあくまでも東京への一時的な行幸だったが、明治帝はそのまま皇城・東京城(旧江戸城)に住み続ける形で千年の都・京都から江戸へ遷都し、東京と為す。


明治維新を成し遂げた英雄達は、日本を欧米列強と伍して行く近代国家にする為に国家の制度そのものを大改定する事にした。

即(すなわ)ち将軍家や大名家、そして下級武家と言った今までの分散軍事支配体制を全て廃止して天皇直轄の軍隊に改め、天皇親政の支配体制にする事を選択する。

旧公家、旧大名家、維新の功績者家などは「華族(かぞく)」、旧下級武家は「士族(しぞく)」とする新たな身分制度に移行する事にした。


華族(かぞく)とは、千八百六十九年(明治二年)から千九百四十七年(昭和二十二年)まで存在した近代日本の貴族階級の事である。

公家に由来する華族を「公家華族」、江戸時代の藩主に由来する華族を「大名華族(諸侯華族)」、国家への勲功により華族に加えられたものを「新華族(勲功華族)」、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」と区別する。


千八百六十九年(明治二年)七月二十五日、「版籍奉還」と同日に出された行政官布達五十四号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となる事が定められた。

公家百三十七家・諸侯二百七十家・明治維新後に公家となった五家・維新後に諸侯となった家十六家の合計四百二十七家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。

なお、維新後に公家となった五家の内訳は松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家の五家である。

維新後に諸侯となった家十六家は、徳川御三卿(一橋徳川家・清水徳川家・田安徳川家)の三家、徳川御三家の各附家老家(尾張徳川家附家老・成瀬家・竹腰家)、(紀伊徳川家附家老・安藤家・水野家)、(水戸徳川家附家老・中山家)の五家、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩主・吉川家、一万石以上の所領を持つ交代寄合格六家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、一万石以上の所領を持つ高家・大沢家の十六家である。

当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族が在った。

またこの後も、新たな華族が加えられる。

奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった二十六家は奈良華族と総称された。

また、大久保利通(おおくぼとしみち)の功により大久保家が、木戸孝允(きどたかよし)の功により木戸家が、広沢真臣(ひろさわさねおみ)の功により広沢家が、それぞれ明治帝の特旨によって華族になった。

華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの三家のみである。

他に西郷隆盛(さいごうたかもり)の功により西郷家も華族(侯爵)になっているが、西南戦争の影響で大幅に遅れた。

さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫・南北朝時代の南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家が、名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家が、明治帝の特旨によりこの明治時代に華族復権となっている。

この南朝忠臣の華族復権は、北朝系である筈の明治帝の特旨としては唐突処置の為に「維新の謎」とも言われている。


華族と言う名称が採用された経緯ははっきりとしない。

華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣、大久保利通、副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていたとされる。

総裁・議定・参与の三職による討議(小御所会議)の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。

明治以前までの「華族」と言えば公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格である清華家の別称だった。

つまり維新前の家格は「完全に新しいものと置き換えられた」と言える。


実は華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。

千八百六十九年(明治二年)五月には、華族を「公」「卿」「太夫」「士」の四つに分け、公と卿は上下の二段階、太夫と士は上中下の三段階という計九等級に分ける案が三職会議から提出された。

千八百七十一年(明治四年)九月には正院から左院に「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の五等級に分ける案が下問された。

これを受けた左院は十月に「公」「卿」「士」の三等級に分ける案を提出した。

千八百七十六年(明治九年)には法制局が「公」「伯」「士」の三等級案を提出し、西南戦争以前は三等級案が主流となっていた。

千八百七十八年(明治十一年)二月四日、法制局大書記官・尾崎三良と少書記官・桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の五等級案が提出された。

これは五経の一つである「礼記」の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。


千八百六十九年(明治二年)十一月二十日、旧諸侯の華族は原則東京に住居する事が定められるも、地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。

また同月には旧公家の華族の禄制が定められ、また華族は全て地方官の貫属とする旨が布告された。

千八百七十一年(明治四年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民(士農工商)の上に立ってその模範となる事が求められた。

また諸侯華族(旧大名家)は、千八百七十一年(明治四年)二月二十日に全て東京府の貫属となる。

為に諸侯華族(旧大名家)は旧領の支配権を失い、七月十四日には廃藩置県が行われ、諸侯華族は知藩事としての地位も失った。

千八百七十四年(明治七年)には華族の団結と交友の為、華族会館が創立された。

千八百七十六年(明治九年)全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別無く系図上の血縁ごとに七十六の「類」として分類された。

同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになり、千八百七十八年(明治十一年)にはこれをまとめた「華族類別録」が刊行されている。

千八百七十七年(明治十年)には華族の子弟教育の為に学習院が開校され、同年華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行も設立された。

これら華族制度の整備を主導したのは、自らも公家華族である右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)だった。


岩倉具視は伊藤博文(いとうひろぶみ)と政治的に協力関係に在った。

だが、伊藤博文や木戸孝允(きどたかよし)が構想した将来の議会上院形成の為に華族を増員する事、具体的には維新の功労者を華族に加える事には強い拒否反応を示した。

岩倉具視は、そもそも華族が政治に参加する事に反対だった。

しかし千八百八十一年(明治十四年)に国会開設の詔(みことのり)が出されると岩倉具視もようやく伊藤博文の上院形成方針に同意した。

千八百八十三年(明治十六年)、岩倉具視は喉頭癌(こうとうがん)を発症、同年七月二十日、具視は死去する。

岩倉具視の死後、伊藤博文を中心に設置された制度取調局で華族制度の「爵制整備案」が進められた。


千八百八十四年(明治十七年)七月七日、華族令が制定され、これにより華族は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。

この基準は、二ヶ月前の五月七日に賞勲局総裁・柳原前光から太政大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。

同時に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家二十九家が華族に列せられ、爵位を受けている。

叙爵は七月中に三度行われ、五百九人の有爵者が生まれた。


その華族令制定から六十三年の時が過ぎ、元号は大正、昭和と移り行く。

千九百四十七年(昭和二十二年)五月三日、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法十四条一項)を定めた日本国憲法の施行とともに華族制度は廃止された。

当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たる事により、いかなる政治的権力も有しない。(補則第九十七条)」と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。

自ら男爵でもあった幣原喜重郎もこの条項に強いこだわりを見せたものの、衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。

なお、歴史学者・小田部雄次(静岡福祉大学教授)の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は千十一家である。


士族(しぞく)とは、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として録を受け取るも華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。

士族階級に属する者には、「壬申戸籍(じんしんこせき)」に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後千九百四十七年(昭和二十二年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。


千八百五十九年(明治二年)の「版籍奉還」の直後の千八百六十九年(明治二年)八月二日、行政官達第五百七十六号により明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、藩一門から平藩士までを士族と呼ぶ事を定める。

士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分で在った足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた。

一方で、中間などの武家奉公人は卒族に編入された。

政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした。

さらに千八百七十年(明治二年)一月三日、太政官布第千四号によりかつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された。

千八百七十一年(明治三年)一月三十日には、華族とみなされなかった多くの地下家、公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。

その後、寺社の寺侍(じざむらい/てらさむらい)なども段階的に士卒族へ統合された。

その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。

また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。

千八百七十二年(明治五年)に編製された戸籍「壬申戸籍(じんしんこせき)」に於いては族籍の項目が設けられた。

当時の全国集計による士族人口は全国民の三.九%を占め、また卒族人口は全国民の二.0%を占め、士族・卒族・地士の人口は全国民の約六%を占めた。


千八百七十二年(明治五年)三月八日、太政官布第二十九号で卒族の称が廃止される。

卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入される事となった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍する事となる。

千八百七十二年(明治五年)初頭の時点で卒族だった者の九割近くは、士族に移行している。

千八百七十五年(明治八年)までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。

千八百七十六年(明治九年)の時点で、士族は全国民の五.五%を占める事となった。


明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、四代程度に渡って兄弟姉妹、配偶者、それぞれの子供、子孫ら家族すべてが記されていた。

男子は結婚しても兄弟すべての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍する事はなかった。

士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた為、分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。

大正時代の平民宰相・原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受ける為、二十歳の時に分籍して戸主となり「平民」に編入された。



松方正義(まつかたまさよし)は、薩摩藩士として激動の時代に出世を遂げ、維新後は官僚、政治家として日本の近代化に関わった。

正義(まさよし)は、明治期の日本に於いて内閣総理大臣を二度(第四代・第六代)務め、また大蔵卿、大蔵大臣を長期間務めている。

正義(まさよし)は日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。

そして正義(まさよし)は、晩年を元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。


薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)に松方正恭、袈裟子の四男として正義(まさよし)は生まれる。

正義(まさよし)は、わずか十三歳にして両親を亡くす。


千八百四十七年(弘化四年)、正義(まさよし)は薩摩藩士の子弟が通う藩校「造士館」に入る。

千八百五十年(嘉永三年)、正義(まさよし)十六歳の時、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米四石を得る。

この後、大番頭座書役となり、七年間勤めたが、この間幾度か藩主・島津候に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金百三十両を下賜された。


正義(まさよし)は、島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係している。


二十九歳の時、議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。

低い身分から異例の出世を遂げた正義(まさよし)は、に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいた。


千八百六十六年(慶応二年)、正義(まさよし)は軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。

千八百六十七年(慶応三年)、正義(まさよし)は軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。



維新が為されると、正義(まさよし)は明治政府で長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。

県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。

日田で正義(まさよし)は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。

この調査により、旧福岡藩士が犯した偽札製造の事実を明らかにした事で大久保利通の評価を得、その功績、推挙で正義(まさよし)は民部大丞・租税権領に就任する。


以降正義(まさよし)は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。

だが、正義(まさよし)は財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。

当時は千八百七十七年(明治十年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなった事などから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。

正義(まさよし)は大隈重信が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。

その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。


正義(まさよし)は、千八百七十七年(明治十年)に渡欧する。

千八百七十八年(明治十一年)三月から十二月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から三つの助言を得る。

第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべき事、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならない事、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査する事、を勧められた。


その後、帰国した正義(まさよし)は、千八百八十一年(明治十四年)七月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出する。

政変によって大隈重信が失脚すると、正義(まさよし)は参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。

後の千八百八十三年(明治十六年)に、正義(まさよし)は明治天皇に働きかけて、レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。


正義(まさよし)は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。

ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いた為に「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買う事になった。


千八百八十五年(明治十八年)に内閣制度が確立されると、第一次伊藤内閣に於いて正義(まさよし)は初代大蔵大臣に就任する。

千八百九十一年(明治二十四年)に第一次山縣内閣が倒れると、正義(まさよし)は大命降下を受けて総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。

しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、千八百九十二年(明治二十五年)八月八日に正義(まさよし)は辞任に追い込まれた。

同日付けで正義(まさよし)は、特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。

その後第二次伊藤内閣を挟んで千八百九十六年(明治二十九年)に再び正義(まさよし)に組閣(総理大臣兼大蔵大臣)の大命が下る。

正義(まさよし)は千八百九十七年(明治三十年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、一年数か月で辞任を余儀なくされた。

この時に正義(まさよし)は、衆議院を解散した直後に内閣総辞職しているが、日本憲政史上このような例は第二次松方内閣だけである。


日露戦争前の千九百一年(明治三十四年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議に於いては、正義(まさよし)は対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案どおりに、山縣有朋、西郷従道らともに日英同盟締結に賛成している。

元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。

千九百二年(明治三十五年)一月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備の為にアメリカを経由して欧州七ヵ国へ赴き、正義(まさよし)は戴冠前のイギリス国王エドワード七世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。

オックスフォード大学からは、正義(まさよし)は法学名誉博士号(後には国家元首にのみ与えられる)を授与されている。

アメリカでは大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム二世、ロシアでは皇帝ニコライ二世と会見している。

同千九百二年(明治三十五年)十二月二十九日に、正義(まさよし)は日本赤十字社社長に任命される。

帰国後の千九百三年(明治三十六年)に正義(まさよし)は、戴冠式を終えたエドワード七世からナイトの最高勲章を贈られている。


また、正義(まさよし)は栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場し、後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。

千九百三年(明治三十六年)から正義(まさよし)は枢密顧問官、千九百十七年(大正六年)から内大臣を務めた。

内大臣時代は、宮中某重大事件・大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。


正義(まさよし)は、伊藤博文や山縣有朋らの死後、元老を主導する立場となり、加藤友三郎内閣の成立などに関与した。

千九百二十四年(大正十三年)七月二日、正義(まさよし)は呼吸不全により八十九歳で死去した。



陸奥宗光(むつむねみつ)は、紀州藩々士から勤皇志士として行動し、維新後は外交官、政治家として日本の近代化に関わった。

宗光(むねみつ)は官僚として、明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正など国策に大きな影響を与えた。

また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。


宗光(むねみつ)は、千八百四十四年(天保十五年)八月二十日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。

宗光(むねみつ)の幼名は牛麿(うしまろ)と名付けられ、後、伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。

宗光(むねみつ)の生家は、奥州伊達家・伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられる。

だが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家(後に紀州伊達氏)の子孫である。

国学者・歴史家としても知られていた父・宗広の影響で、宗光(むねみつ)は尊王攘夷思想を持つようになる。

父・宗広は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であった。

だが、千八百五十二年、宗光(むねみつ)が八歳の時に藩内の政争に敗れて失脚した為、一家には困苦と窮乏の時を過ごした。


千八百五十八年(安政五年)、宗光(むねみつ)は江戸に出て儒学者・安井息軒(やすいそっけん)に師事するも、遊郭・吉原通いが露見し破門されてしまう。

その後は儒学者・水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。


千八百六十三年(文久三年)、宗光(むねみつ)は坂本龍馬(さかもとりょうま)と伴に勝海舟(かつかいしゅう)の幕府・神戸海軍操練所に入る。

千八百六十七年(慶応三年)には坂本龍馬(さかもとりょうま)の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど龍馬(りょうま)と行動を伴にした。

勝海舟(かつかいしゅう)と龍馬(りょうま)の知遇を得た宗光(むねみつ)は、その才幹を発揮する。

龍馬(りょうま)をして「(刀を)二本差さなくても食って行けるのは、俺と陸奥宗光(むつむねみつ)だけだ」と言わしめるほどだった。

宗光(むねみつ)もまた龍馬(りょうま)を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
明治維新後、宗光(むねみつ)は岩倉具視(いわくらともみ)の推挙により、千八百六十八年に外国事務局御用係に採用される。

戊辰戦争に際し、宗光(むねみつ)は局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功する。

その際、ストーンウォール号の引き渡しに関し未払金十万両が在ったがまだ財政基盤の脆弱だった新政府には払えなかった。

この資金を、宗光(むねみつ)が大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受ける事に成功する。

宗光(むねみつ)は、千八百六十九年・兵庫県知事、千八百七十一年・神奈川県令、千八百七十二年・大蔵省・地租改正・租税頭(局長/そぜいのかみ)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、故郷・和歌山に帰った。

千八百七十二年(明治五年)に蓮子夫人が亡くなり、宗光(むねみつ)は翌千八百七十三年(明治六年)に亮子と結婚している。

千八百七十五年(明治八年)、宗光(むねみつ)は大阪会議で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。


千八百七十七年(明治十年)、西郷隆盛を首魁に担ぎ出しての西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀った。

宗光(むねみつ)は、その土佐派と連絡を取り合っていた。

翌千八百七十八年(明治十一年)にこの土佐派との事が発覚し、宗光(むねみつ)は除族のうえ禁錮五年の刑を受け、投獄された。


山形監獄に収容された宗光(むねみつ)は、せっせと妻・亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。

山形監獄が火災に会った時、宗光(むねみつ)焼死の誤報が流れたが、誤報である事が解かる。

千八百七十八年(明治十一年)に伊藤博文(いとうひろぶみ)が手を尽くして宗光(むねみつ)を当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。

出獄の後の千八百八十三年(明治十六年)にベンサムの「Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)」は「利学正宗」の名で刊行されている。


千八百八十三年(明治十六年)一月、宗光(むねみつ)は特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。

千八百八十四年(明治十七年)にロンドンに到着した宗光(むねみつ)は、西洋近代社会の仕組みを知る為に猛勉強した。

ロンドンで陸奥が書いたノートが今も七冊残されている。

内閣制度の仕組み、議会運営など、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を、宗光(むねみつ)は盛んに吸収した跡が観られる。

また、宗光(むねみつ)はウィーンではシュタインの国家学を学んだ。


その後、宗光(むねみつ)は第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任する。

千八百九十四年(明治二十七年)、宗光(むねみつ)はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。

以後、宗光(むねみつ)はアメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。

宗光(むねみつ)はが外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた十五ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

同千八百九十四年(明治二十七年)八月、陸奥宗光(むつむねみつ)は子爵を叙爵する。


一方、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)は同千八百九十四年(明治二十七年)五月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵する。

七月二十三日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、二十五日には豊島沖海戦により日清戦争を開始する。

イギリス、ロシアの中立化にも成功した。

この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と宗光(むねみつ)が気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。


戦勝後、宗光(むねみつ)は伊藤博文とともに全権として千八百九十五年(明治二十八年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。

しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を「清」に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。

宗光(むねみつ)は日清戦争の功により、伯爵に陞爵(しょうしゃく/ランクアップ)する。


宗光(むねみつ)はこれ以前より肺結核を患っていた。

三国干渉の外圧が到来した時、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた宗光(むねみつ)の病床においてで在った。

千八百九十六年(明治二十九年)、宗光(むねみつ)は外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。

この間に宗光(むねみつ)は、雑誌・「世界之日本」を発刊している。

千八百九十七年(明治三十年)八月二十四日、宗光(むねみつ)は肺結核の為、西ヶ原の陸奥邸で、五十三歳で死去した。



地租改正(ちそかいせい)とは、千八百七十三年(明治六年)に明治政府が行った租税制度改革である。

地租の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調(そようちょう)」のうちの「租」に遡(さかのぼ)る。

ここで言う「租」とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。

明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。


豊臣秀吉(とよとみのひでよし)の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課す事とされた。

また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。

地租は収穫量を今日で言う課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって物納徴収され、この納入は村請により村単位で一括して行われた。


江戸時代までの貢租(こうそ)は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者で在った。

また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。

このような制度を陸奥宗光(むつむねみつ)は、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。

この千八百七十三年(明治六年)の租税制度改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した。


倒幕派に依る明治維新が達成された初期から、大蔵省や民部省では全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。

千八百六十九年(明治二年)二月、兵庫県知事・陸奥宗光が、租税制度改革の建白書を中央に提出する。

宗光は、土地等級制の確立、税制の統一、地租金納を主張し、「古来検地ノ通弊ヲ改正」すべしとした。

また、一等訳官・神田孝平(洋学者/官僚)も、千八百七十年(明治三年)に「田租(たそ)改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にする為の貢租改革が提案されていた。

しかし当時、土地の賦課の是非は大名などの領主の権限と考えられていた。

そして、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性がある事から、政府内でも賛否両論が在ってまとまらなかった。

その一年後の千八百七十一年(明治四年)、国家体制そのものの大改革で廃藩置県が行われる。

この廃藩置県で日本からは領主身分が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。

同千八百七十一年九月、「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成される。

田畑永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。

千八百七十二年(明治五年)四月、陸奥宗光は「田租改革建議」を太政官に上申した。

同千八百七十二年(明治五年)六月十八日、陸奥宗光は大蔵大輔井上馨によって、神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢され、権頭松方正義とともに、地租改正法案の策定にあたる事になった。

千八百七十三年(明治六年)大蔵省地方官会同で陸奥宗光は、租税頭に就任した。

この地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めた事から、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。

地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた恩賞や寺社領などに対する免税を否認した。

これに先立って施行された解放令によって穢地の指定を外されていたかつての穢多非人の所有地も同様であった。

また、入会地なども同様に否定して国有地に編入した。


明治初期から大蔵省や民部省では、全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。

千八百六十九年(明治二年二月)、陸奥宗光(むつむねみつ)が、租税制度改革の建白書を中央に提出する。

陸奥宗光(むつむねみつ)は、土地等級制の確立、税制の統一、地租金納を主張し、「古来検地ノ通弊ヲ改正」すべしとした。

兵庫県令・神田孝平(かんだたかひら)も、千八百七十年(明治三年)に「田租改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にする為の貢租改革が提案されていた。

しかし土地の賦課の是非は従来、大名などの領主の権限と考えられていた事、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性がある事から、政府内でも賛否両論が在ってまとまらなかった。

だが、千八百七十一年(明治四年)に廃藩置県が行われると、日本からは領主身分が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。

同千八百七十一年(明治四年)九月「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成される。

田畑永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。

千八百七十二年(明治五年四月)陸奥宗光は「田租改革建議」を太政官に上申した。

同千八百七十二年(明治五年六月十八日)陸奥宗光(むつむねみつ)は大蔵大輔(おおくらのしゅゆう/大蔵次官)・井上馨(いのうえかおる)によって、神奈川県令から大蔵省・租税頭(局長/そぜいのかみ)に抜擢される。

宗光(むねみつ)は権頭(ごんのかみ/長官)・松方正義(まつかたまさよし)とともに、地租改正法案の策定にあたる事になった。

千八百七十三年(明治六年)大蔵省地方官会同で陸奥宗光(むつむねみつ)は、租税頭に就任する。

地租改正に先立って、政府は、千八百七十二年(明治六年)に田畑永代売買禁止令を解除して既に禁止が形骸化していた土地の売買(永代売)の合法化を行う。

千八百七十三年(明治六年)には地所質入書入規則及び動産不動産書入金穀貸借規則を定めて土地を担保とした貸借も合法化した。


地券の発行により、個人に対する土地の私的所有が認められる事となった。

この結果、土地は天皇のものであり、臣民は天皇または領主からその使用を許されているに過ぎないと考える公地公民思想(王土王民説)や封建領主による領主権や村などの地域共同体による共同保有といった封建制度的な土地保有形態が完全に崩壊する。

土地にも保有者個人の所有権が存在する事が初めて法的に認められる事になり、土地が個人の財産として流通や担保の対象として扱われるようになった。

その意味で、地租改正は日本に於ける資本主義体制の確立を基礎づける重要な一歩であると言える。



江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。

こうした旧来の封建制的な社会制度は明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。

千八百六十九年(明治二年)の版籍奉還で武士身分の大半が士族として政府に属する事になる。

それが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設に於いても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

士族の特権は段階的に剥奪され、千八百七十三年(明治六年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、千八百七十六年(明治九年)には廃刀令が実施された。

秩禄制度は千八百七十二年(明治五年)に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、千八百七十三年(明治六年)には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。
そして、千八百七十六年(明治九年)に金禄公債を発行し、兌換(だかん)を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。

また、苗字の名乗りは千八百七十年(明治三年)に平民にも許可され、千八百七十五年(明治八年)には義務化(国民皆姓)された。

この他、千八百七十一年(明治四年)年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。

一時、士族に対して「華族と別立ての爵位を授与しよう」と言う議論が岩倉具視(いわくらともみ)らにより模索されていた。

だが、明治新政府の元勲であった伊藤博文が維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択される。

そのことにより、士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、たんに戸籍における族称のみが士族に許されただけであった。

四民平等へと移行される過程で、士族身分は解体され、大量の失業者が発生した。

秩禄を失った士族は政府や諸官庁に勤めたり、軍人・教員などになることもあった。

だが、職に就けずに没落する者も多く、慣れない商売に手を出して失敗し「士族の商法」と揶揄されることもあった。

代表例としては「有平糖(ありへいとう/不平党)」、「お芋の頑固り不平おこし(薩摩士族)」などがある。

政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産が行われたが、北海道への屯田兵移住などを除き、失敗する例が多かった。

こうした状況から新政府の政策に不平を唱える士族(不平士族)による反乱(士族反乱)が各地で発生した。

「佐賀の乱(さがのらん)」、「神風連の乱(しんぷうれんのらん)」、「秋月の乱(あきずきのらん)」、「萩の乱(はぎのらん)」、「西南戦争(せいなんせんそう)」などがそれである。

西郷隆盛(さいごうたかもり)が唱えた「征韓論」にも士族の救済と言う側面が在ったが、西郷が西南政争に敗れ実現しなかった。

また、初期の自由民権運動は「士族民権」とも言われ、不平士族が中心になっていた。



アジア地域の植民地化が進んでいる中、欧米列強と伍して国家を存続させる為には、近代化を急がなければならない。

しかし旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。

その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県氏族の萩の乱が立て続けに起こっている。

各地で反乱が頻発したが、「西南戦争がその総決算」と言って良い。

とにかく士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱が「西南戦争」と言う訳だが、陰陽師(修験山伏)から始まった武術を継承した武士が、その役目を閉じる時が来たのだ。

熊本城や薩摩(鹿児島)の城山での激戦は有名だが、修験武術が歴史的に最後の敗北を確認したのはあの神話の世界、日向(ひゅうが)の国・県(あがた)の庄(延岡市)「無鹿(むしか)」だった。

つまり、天孫に繋がる神の末裔(征服部族)が、民の兵に敗れた瞬間で有る。

そして、民はすべからく「臣民に代わって」戦いの当事者として靖国への道を歩み始めたのである。

欧米列強との差をまざまざと見せ付けられた勤皇思想の若き志士達は、攘夷論を取り下げ新たな国家運営を模索していた。

この国に二千年近い永きに渡って続いて来た氏族の終焉が、ま近に迫っていた。



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(軍国主義の芽)

◆◇◆◇◆(軍国主義の芽)◆◇◆◇◆◇

明治維新に成功し、旧幕府側の残存勢力を駆逐すろ戊辰戦争に勝利した新政府は、日本からアメリカ合衆国、そしてヨーロッパ諸国に到る使節派遣を、岩倉具視を正使として敢行する。

千八百七十一年十二月二十三日(明治四年十一月十二日)から千八百七十三年(明治六年九月十三日)まで、政府首脳陣(大納言・参議)や留学生を含む総勢百七名で構成された二年間近くに及ぶ大使節団である。

元々、大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定であったが、政治的思惑などから大規模な岩倉使節団(いわくらしせつだん)となった。

横浜港を船で出発して太平洋を渡り、サンフランシスコに上陸、アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約八ヶ月もの長期滞在となってしまう。

その後、使節団は大西洋を渡り八ヵ月ほど費やして意欲的にヨーロッパ各国を訪問、ヨーロッパでの訪問先は十二ヵ国に及んだ。

帰途は地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各国に入港しつつ短期歴訪しながら日本に向かった。

大納言・岩倉具視、そして木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら参議クラスの政府のトップが長期間政府を離れ外遊すると言うのは異例である。

だが、新リーダー達が「直に西洋文明や思想に触れた」と言う経験が彼らに与えた影響は新国家の指針に反映されたと評価される。

使節団に帯同した留学生も、帰国後に政治、経済、教育、文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。

しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとした事による留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こしてもいる。

帰国については当初予定から大幅に遅れ、出発から一年十ヶ月後の千八百七十三年(明治六年九月十三日(明治六年九月十三日)、出発時と同じ横浜港に帰着した。

留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が進められていて、使節団帰国後に欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論の使節団組と留守政府組とで参議の意見が割れる。

岩倉具視らの慎重論に敗れた留守政府組は納まらず、西郷隆盛を始め板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣など参議五人が下野するなど「明治六年の政変」となった。



明治維新政府の要職(参議)を務めた江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくま重信)、副島種臣(そえじまたねおみ)、山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らを輩出した佐賀藩(さがはん)は、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つ「肥前」である。

肥前国佐賀郡にあった外様・佐賀藩(さがはん)は、肥前藩(ひぜんはん)とも言い鍋島氏が藩主で在った事から鍋島藩(なべしまはん)と言う俗称もある。

佐賀藩(さがはん)には、言わば君主と臣下の精神契約とも言える武士道の心得として「葉隠」と言う「武士道とは死ぬ事と見つけたりの哲学が在った藩」だが、その佐賀藩(さがはん)でさえ尊王倒幕機運の時流の前では無力だった。


下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)と薩英戦争(さつえいせんそう)で欧米列強の戦闘能力を知った尊皇攘夷派は、アッサリと倒幕一辺倒に切り替え攘夷の看板を下ろしている。

だが、「藩命に殉じる」とする「武士としての思想信条」は何処へ行ったのだろうか?

「世界の現実を学んだ」と言えばそれまでだが、本音は「どうにかして下士身分から這い上がりたい」と言う野心満々の現体制破壊が在ったのではないだろうか?

つまり仕えていた藩主の意向も、孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷勅命(じょういちょくめい)も無視した権力奪取が明治維新の実態かも知れない。


彼ら維新の英雄に名を連ねて居る連中は押し並べて聡明で、しかも「従来の定説」に囚われ無い「先進を模索する」感性を持っていた。

「従来の定説」を否定する事は既存のルール「君主と臣下の精神契約」をも無視する事であるが、だからこそ明治維新は成立した。

誰でも判っている事だが、新しい事を創造するには、まずは既得権益の構造破壊から始めなければ成功は在り得ない。

明治新政府は、「財源の捻出」の為に既得権益の構造破壊を始め廃藩置県及び帯刀禁止・禄の支給(知行地召し上げ)を強力に推し進める。

維新時の武士は官僚・役人だが軍人を兼務していたから官僚・役人としては無役でもいざと言う時の兵力として無駄に多少の俸禄を食(は)んでいる。

つまり平常業務には過剰の人員を抱えている事になる。

その奉公する藩が廃されるのだから、彼らはリストラ(浪人)される事に成る。

所が既得権益を持つ連中は、武士の特権を取り上げられては死活問題だから、当時でも現代の様に例え国が滅ぼうともその権益を手放さないように抵抗する。

実質世襲で受け継がれて来た旧武士階級の、現在で言う官僚や地方公務員的仕事だったほとんどは、版籍奉還と秩禄処分(ちつろくしょぶん)でリストラ(浪人)された訳である。


秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が千八百七十六年(明治九年)に実施した旧幕藩体制での秩禄給与の全廃政策である。

秩禄(ちつろく)とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称である。


江戸時代の幕藩体制に於いて、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、その秩禄(ちつろく)を維持していた。

江戸時代後期の千八百六十七年(慶応二年)に十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。

明治政府は、抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争に於ける戦費などで発足直後から財政難で全国総石高・三千万石の内、僅か八百万石を確保できているのみだった。

また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかった為、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持され、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。

新政府の歳出の三割以上を、維新功労者に対する賞典禄の支給(約七十五万石)と華士族に対する家禄支給(二十万三千余両)が占める状態だった。

明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。

また、四民平等に於いては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革に於いて弊害となっていた。

政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。

千八百六十九年(明治元年)には、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄する事となる。

更に千八百七十年(明治二年)には、公家に対する禄制改革が実施される。

千八百七十一年(明治三年)四月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握する。

同年十月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府に於いて禄制改革は行われた。

大蔵卿・大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。

井上の改革案は大蔵少輔・吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。

一方で千八百七十一年(明治三年)、留守政府に於いて禄高人別帳が作成されるなど、多元的で在った家禄の支給体系の一律化が進む。

禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては反対意見も存在し、農民一揆なども勃発していた。

留守政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。

しかし千八百七十三年(明治六年)一月には、中将・陸軍大輔・山縣有朋(やまがたありとも)が軍人勅諭の制定し、徴兵制の施行により家禄支給の根拠が消失した。


秩禄処分や廃刀令など、旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。

その既得権益の構造破壊に憤慨した佐賀県士族の佐賀の乱(明治七年二月四日)、熊本県士族の神風連の乱(明治九年十月二十四日)、福岡県士族の秋月の乱(明治九年十月二十七日)、山口県士族の萩の乱(明治九年十月二十八日)が立て続けに起こっている。

千八百七十四年(明治七年)の「佐賀の乱」、そして千八百七十六年(明治九年)の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、や千八百七十七年(明治十年)の「西南戦争/西南の役」は、武士と言う既得権益を失いつつ在った士族の断末魔に似た抵抗だった。


神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、千八百七十六年(明治九)に熊本市で明治政府に対するこの年起こった一連の士族反乱の口火を切った反乱である。

千八百七十六年十月二十四日に旧肥後藩の士族・太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約百七十名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して起こされた反乱である。

この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、この反乱を「神風連の乱」と呼ばれている。

千八百七十六年十月二十四日の深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官・種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人四名及び夫々の使用人を殺害した。

その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内に居た兵士らを次々と殺害し砲兵営を制圧する。

しかし翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始する。

この反撃に加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。

指導者を失った事で敬神党側の敗色濃厚と成り、他の者も退却し多くが自刃し死者は百二十四名を数え、捕縛は五十名近く居た内数名は斬首に処された。

この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の最初となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる事と成る。


秋月の乱(あきずきのらん)は、千八百七十六年(明治九年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する一連の士族反乱の一つである。

熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、三日後の十月二十七日、旧秋月藩の士族・宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約四百名によって起こされた反乱だった。


今村百八郎を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官・穂波半太郎を殺害する。

旧秋月藩の反乱士族は、あらかじめ旧豊津藩の士族・杉生十郎らと同時決起を約していた為、穂波殺害の後に豊津へと向かい二日後の二十九日に到着する。

しかし秋月の反乱士族が到着した時、旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、意を通じていた杉生らは監禁されて居た。

談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる歩兵第十四連隊第一大隊二個中隊、同第三大隊二個中隊の凡(およ)そ六百名余りの小倉鎮台兵が秋月党を攻撃する。

秋月側は死者十七名を出し(政府軍の死者二名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、二日後の三十一日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七名は自刃した。

抗戦派の今村は他二十六名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃する。

この襲撃で県高官二名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払った後、各自分かれて逃亡するも翌十一月二十四日までに全員逮捕された。

なお反乱士族の一人益田は、挙兵前の十月二十六日に旧佐賀藩士族の同時決起を求める為佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。

首謀者とされた今村と益田は十二月三日に開かれた福岡臨時裁判所の判決で即日斬首され、約百五十名に懲役、除族などの懲罰が下されている。

萩の乱(はぎのらん)は、千八百七十六年(明治九年)に山口県萩で起こった明治政府に対する一連の士族反乱の一つである。

千八百七十六年十月二十四日に熊本県で起こった「神風連の乱」と、同年十月二十七日に起こった「秋月の乱」に呼応し、山口県士族の元参議・前原一誠、奥平謙輔ら約二百名によって起こされた反乱である。


前参議・前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同士を集める。

十月二十六日には前原は、県庁を挟撃する為に徳山の同士に決起を促す使者を派遣した。

十月二十八日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知された為、方針を転換して天皇に直訴する為に山陰道を東上する。

しかし悪天候で出発が遅れ、一旦萩に戻った為そのまま市街戦となり、県令・関口隆吉を敗走させた。

その後、前原らは軍勢を小倉信一にまかせ別行動をとったが、小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、十一月六日までに政府軍により鎮圧された。

また、前原・奥平ら幹部七名も東京へ向かうべく船舶に乗船し萩港を出港するも、悪天候の為宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月五日に島根県令・佐藤信寛らに逮捕された。

なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は十月二十九日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

萩の乱(はぎのらん)鎮圧後の十二月三日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。


千八百七十四年(明治七年)二月四日の「佐賀の乱」の首謀者に成ってしまった江藤新平(えとうしんぺい)は、そもそもは改革派で、維新後の不平士族とは想いを異にしていた。

新平(しんぺい)は肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)に佐賀藩士・江藤胤光(えとうたねみつ)と妻・浅子の長男として生まれる。

父は「手明鑓(てあきやり)と言う身分の下級武士で在った」とされ、江藤家は鎌倉初期に肥前小城郡晴気保の地頭を務めた鎌倉御家人・千葉常胤の末裔を称する。

新平(しんぺい)は、千八百四十八年(嘉永元年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給された。

所が、父・胤光(たねみつ)が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となった為に生活が困窮し外生課程に進学できずに学問は止まってしまった。

この頃、新平(しんぺい)は窮乏生活を強がって「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたと言う。

それでも新平(しんぺい)は志だけは強く持ち続け、苦境を学問で乗り越えようとしていた。
新平(しんぺい)は弘道館教授で儒学・国学者で在った枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。

尚、大隈重信(おおくましげのぶ)も、枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学んで新平(しんぺい)とは同門である。

千八百五十年(嘉永三年)に枝吉神陽(えだよししんよう)が義祭同盟を結成すると、新平(しんぺい)は大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らと伴に参加した。


枝吉神陽(えだよししんよう)は「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。

神陽(しんよう)の門下からは、明治維新に大きな影響を与えた佐賀藩出身の人材・実弟の副島種臣の他、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら多数輩出している。

つまり肥前・佐賀藩が、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つとして一郭を占める勢力を築いたには神陽(しんよう)の存在が大きかったのである。

また神陽(しんよう)は、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された江戸時代後期から幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者である。

神陽(しんよう)は佐賀藩の藩校・弘道館の教授で在った佐賀藩下士(三十石)・枝吉南濠(えだよしなんごう)の長男として生まれ、幼児期より神童と賞される。

神陽(しんよう)二十歳の時には江戸幕府直轄の学問所・昌平黌(しょうへいこう/昌平坂学問所)に学び、ほどなく実力を認められて舎長に推されている。

学問所・昌平黌(しょうへいこう)に在って、神陽(しんよう)は漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶ事を認めさせた。

また早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である「葉隠をも否定した」といわれる。

二十六歳で佐賀も帰郷してからは、弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父・南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。

千八百五十年に、神陽(しんよう)は「義祭同盟」を結成、天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど活動を活発にする。

神陽(しんよう)は「義祭同盟」をもって、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが、藩主・鍋島直正を動かす事は出来ず失敗している。

「義祭同盟」の結成から十三年後の千八百六十三年、幕府が日米修好通商条約に拠る開港地選定で騒がしい頃、神陽(しんよう)は妻と伴にコレラに罹って四十一歳と言う若さで亡くなった。

神陽(しんよう)が亡くなったのは、徳川慶喜が天皇に大政奉還を為した千八百六十七年(慶応三年)の四年前の事だった。

只、「義祭同盟」に名を連ねた大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇、副島種臣らの秀才群れは、枝吉神陽(えだよししんよう)の学者としての実力を証明している。



副島種臣(そえじまたねおみ)は、維新時に肥前・佐賀藩が排出した官僚、政治家である。

種臣(たねおみ)は千八百二十六年(文政十一年)、三十石取りの佐賀藩下士・枝吉南濠(えだよしなんごう)の二男に生まれる。

父・枝吉南濠(えだよしなんごう)は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者で、後に「佐賀の吉田松陰」と称えられる枝吉神陽(えだよししんよう)である。

千八百五十九年(安政六年)には父の南濠が死去し、兄・神陽(しんよう)が家督を継いだ為、同年に種臣(たねおみ)は同藩士の副島利忠(そえじまとしただ)の養子となる。

種臣(たねおみ)は父・南濠(なんごう)や兄・神陽(しんよう)の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚め弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わる。

千八百五十年(嘉永三年)、種臣(たねおみ)は兄・神陽(しんよう)が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。

種臣(たねおみ)は千八百五十ニ年(嘉永五年)京都に遊学、漢学・国学などを学ぶが、義祭同盟員として都に於ける情勢を収拾する目的も在った。

この間に種臣(たねおみ)は、後の明治三年に東京に召され、大学中博士となる矢野玄道(やのはるみち/国学者・神道学者)らと交わる。

さらに、兄・神陽(しんよう)の命を受け大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出する。

この意見書を期に、青蓮院宮朝彦親王(久邇宮朝彦親王/くにのみやあさひこしんのう・中川宮)から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

千八百六十四年(元治元年)、種臣(たねおみ)は長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。

千八百六十七年(慶応三年)、種臣(たねおみ)は盟友・大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

その後、薩長勢力が幕府軍を圧倒、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を為すと土佐藩は、種臣(たねおみ)を始め江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくま重信)、山口尚芳(やまぐちますか)らを指揮官に登用して東征軍に参加する。

東征軍参加の功により、土佐藩軍勢の指揮官達は明治維新後、新政府の要職に席を得ている。



江戸幕府後期のこの時期、多くの外国船が日本近海へ出没する。

アメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を江藤新平(えとうしんぺい)はモロに受ける。

新平(しんぺい)は、千八百五十六年(安政三年)に意見書である「図海策」を執筆、また千八百五十七年(安政四年)には藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務め、結婚もしている。

千八百六十二年(文久ニ年)新平(しんぺい)は脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。

その時はニヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、新平(しんぺい)の見識を高く評価した藩主・鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。

蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主・直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。



佐賀藩から新政府の要職に登った山口尚芳(やまぐちますか)は、佐賀藩の本家では無く武雄領と呼ばれる佐賀藩内の自治領に生まれた。

佐賀藩武雄領は旧領主・龍造寺氏系が佐賀藩内で佐賀藩鍋島本家の親類として存続、武雄鍋島家(肥前武雄領・公称ニ万一千六百石・物成/実高八千六百四十石)と呼ばれる。

尚芳(ますか)は幼少の頃から佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれていた為、その推挙に拠り佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう/直正)に紹介される。

その佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう/直正)の命により、尚芳(ますか)は他の藩士子弟らと伴に長崎に遊学し、オランダ語や蘭学を学んだ。

また、尚芳(ますか)は同藩の大隈重信・副島種臣らと共に、当時ちょうど来日していたグイド・フルベッキに長崎英語伝習所で英語を学んでいる。

蘭学や英語を学んだ尚芳(ますか)は、佐賀藩帰藩後に翻訳方兼練兵掛として勤務する。

当時としては新鋭の洋学を学んだ尚芳(ますか)は、幕末の政治状況の中で薩摩藩や長州藩の武士と交流し、薩長連合の成立にも尽力した。

また岩倉卿(具視)ら公家にも接近し、この時、岩倉具視との知故を得た事が、尚芳(ますか)の将来を決定着ける事になる。

大政奉還に拠る王政復古後、尚芳(ますか)は佐賀藩が仕立てた東征軍に従軍し、江戸開城に伴い薩摩藩の小松帯刀らとともに江戸へ赴いた。



広沢真臣(ひろさわさねおみ)は明治帝の信頼が厚く、復古功臣として木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通らと同格の維新の十傑に数えられた人物である。

そんな真臣(さねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。


真臣(さねおみ)の幼名は柏村季之進で、千八百三十四年(天保四年) に長州藩士・柏村安利の四男として萩・土原村(ひじわらむら/現・萩市)に誕生する。

千八百四十四年(弘化元年)十二月、柏村季之進は十歳で同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾(はたのきんご)と称した。

金吾(きんご)は長州藩士として藩校・明倫館に学び、千八百五十三年(嘉永六年の黒船来航時には十九歳で大森台場警衛の為に江戸に出張している。

千八百五十九年(安政六年)藩の軍政改革に参画するなど、金吾(きんご)は尊攘派として活躍した。

以後、藩世子・毛利定広と共に入洛し、桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(玄瑞)の下、京都詰の事務方として尽力した。

千八百六十四年(元治元年)長州藩は禁門の変、下関戦争、第一次征長と厄続きで藩論も主戦派(主に正義派)と恭順派(主に俗論派)で混乱していた。

藩内の政権闘争で主戦派が恭順派に敗れた結果、金吾(きんご)も投獄されたものの、正義派でなく中間派だった為に処刑を免れた。

翌千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作や俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握する。

このクーデターで、中間派であった波多野金吾(はたのきんご)が政務役として藩政に参加する事となる。

同千八百六十五年(慶応元年)四月四日、藩命によって波多野金吾(はたのきんご)は広沢藤右衛門と改名し、更に翌月の五月六日には広沢兵助と改名した。

因(ちなみ)に改名した広沢(廣沢)姓の由来は、佐伯流・波多野氏の祖が相模国秦野(波多野荘)の地に住して「広沢郷を領した」に依るとされる。


広沢兵助(へいすけ/真臣)は千八百六十六年(慶応二年)八月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉する。

その講和交渉の傍ら、兵助(へいすけ)は坂本龍馬や薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸孝允の代理人かつ同僚として奔走する。

千八百六十七年(慶応三年)十月には、兵助(へいすけ/真臣)は大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。


維新政府の発足後、兵助(へいすけ/真臣)は参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任する。

戊辰戦争では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸孝允と同様に寛典論者であった。

千八百六十九年(明治二年)、兵助(へいすけ/真臣)は復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄千八百石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

千八百七十一年(明治四年)正月、東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、兵助(へいすけ/真臣)は刺客の襲撃によって暗殺された。

その暗殺犯は、木戸孝允らの懸命の捜査にも拘わらず未だ謎の未解決事件である。



板垣退助(いたがきたいすけ)は千八百三十七年五月二十一日(天保八年四月十七日)、土佐藩上士・乾正成(いぬいまさしげ/三百石・馬廻格)の嫡男として、高知城下中島町(高知市中島町)に生まれた。

乾退助(いぬいたいすけ)は、同じ土佐藩士の後藤象二郎とは幼な馴染み、坂本龍馬等の郷士よりも身分が上で恵まれた扱いを受けていたが、後に板垣家と坂本家は親戚関係となっている。

少年期の退助(たいすけ)は素行が悪くて藩からニ度処罰を受けており、一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄二百二十石に減ぜられて家督相続を許される。

その後、退助(たいすけ)は江戸で西洋式兵学を学び、免奉行や側用役、大監察、参政など藩の要職を歴任、傍ら尊王攘夷論に傾斜して武力倒幕を主張している。

戊辰戦争では迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀の肩書きで従軍する。


乾(いぬい)氏を名乗って居た退助(たいすけ)が、板垣氏を名乗ったには「岩倉具視らの助言に拠る」と伝えられて居る。

東山道先鋒総督府参謀である退助(たいすけ)が、天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した。

この時甲斐を守って居たのは大久保大和(近藤勇)の率いる新撰組だった。

ちょうど千八百六十八年(慶応四年)二月十四日が甲斐にゆかりが在る板垣信方の没後三百二十年にあたる。

岩倉具視らは、甲斐国民衆の支持を得る為に「乾(いぬい)氏が甲斐源氏流・板垣氏の後裔である」と家伝が在るを採り、退助(たいすけ)は板垣氏を名乗った。

この策が講じて、甲州勝沼の戦いで東山道先鋒の官軍は新撰組を撃破している。

戊辰戦争の一部・東北戦争では、三春藩や二本松藩・仙台藩・会津藩を攻略するなどの軍功に拠って退助(たいすけ)は賞典禄・一千石を賜っている。

板垣退助(いたがきたいすけ)は、千八百六十八年(明治元年)十二月に土佐藩・陸軍総督となり、家老格に進んで家禄六百石に加増される。

翌千八百六十九年(明治二年)、退助(たいすけ)は木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。

千八百七十年(明治三年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発し、千八百七十一年(明治四年)に参議となる。

退助(たいすけ)は千八百七十三年(明治六年)に征韓論を主張するが欧米視察(岩倉使節団)から帰国した岩倉具視らの欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論に敗れる。

新政府は真っ二つに分裂えい、退助(たいすけ)は西郷隆盛、後藤象二郎、副島種臣らと伴に下野(明治六年政変)した。



大隈重信(おおくましげのぶ)は佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれ、幼名は八太郎である。

大隈家は、知行三百石を食み石火矢頭人(いしびやとうにん/砲術長) を務める上士の家柄で在った。

重信(しげのぶ)は七歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である「葉隠」に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、千八百五十四年(安政元年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。

千八百五十五年(安政二年)南北騒動をきっかけに重信(しげのぶ)は弘道館を退学、後に復学を許されるも戻らず枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。

千八百五十六年(安政三年)、重信(しげのぶ)は佐賀藩蘭学寮に転じている。


五年後の千八百六十一年(文久元年)には、重信(しげのぶ)は時の藩主・鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

重信(しげのぶ)は長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。

そして千八百六十五年(慶応元年)、佐賀藩が宣教師グイド・フルベッキを校長に招いて佐賀藩校・英学塾「致遠館」を開校する。

長崎の五島町に在った諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学塾「致遠館」にて、重信(しげのぶ)は英語を学びながら副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。

この時、重信(しげのぶ)は新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けると伴に京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

千八百六十七年(慶応三年)、重信(しげのぶ)は副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧める事を計画し、脱藩して京都へ赴(おもむ)いた。

しかし事は露見に及び、捕縛の上、佐賀に送還されて一ヵ月の謹慎処分を受けた。


千八百六十八年(明治元年)、明治維新に際して重信(しげのぶ)は薩摩藩・小松帯刀の推挙により徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられる。

重信(しげのぶ)は、グイド・フルベッキから学んだ英語を駆使し、キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮する。

千八百六十九年(明治二年)に成ると、重信(しげのぶ)は会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。

翌千八百七十年(明治三年)に参議に補され、三年後の千八百七十三年(明治六年)には大蔵省事務総裁、五ヶ月後には参議兼大蔵卿になった。

新政府で力を持った重信(しげのぶ)の下には、彼の私邸を「築地梁山泊」と称し、伊藤博文や井上馨と言った若手官僚が集まり政治談義にふけった。

重信(しげのぶ)は木戸孝允と結んで近代国家の早期建設を謳い、大久保利通らを牽制した。

殖産興業政策を推進し征韓論には反対し、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

その後の千八百八十一年(明治十四年)、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立、重信(しげのぶ)自身の財政上の失政もあり、十月十二日、参議を免官となった。

この「明治十四年の政変」で、重信(しげのぶ)は辞表を提出し野に下った。



十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅した千八百五十七年(慶応三年)の十二月に江藤新平(えとうしんぺい)は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。

薩摩藩、長州藩は公家の岩倉具視と結び、千八百六十八年(明治元年)に王政復古の大号令を行う。

新政府が誕生すると佐賀藩もこれに参加し、新平(しんぺい)は副島種臣とともに京都に派遣される。

戊辰戦争で新平(しんぺい)は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。

薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定するや、新平(しんぺい)は城内の文書類を接収する。

さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべき事(東京遷都)を献言する。

旧幕臣らを中心とする彰義隊が抵抗活動をしていた問題では、新平(しんぺい)は大村益次郎らとともに討伐を主張している。

新平(しんぺい)は官軍の軍監として戊辰戦争の一部・上野戦争で戦い彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。


千八百五十九年(明治二年)、新平(しんぺい)は維新の功により賞典禄百石を賜っている。

戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台に於いて新平(しんぺい)は長官の下の六人の判事の一人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。

七月には新平(しんぺい)の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。

千八百七十年(明治三年)一月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、同年十一月に太政官中弁となる。

その十二月、新平(しんぺい)は虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。

千八百七十一年(明治四年)ニ月に、新平(しんぺい)は制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して三十項目の答申書を提出する。

近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると、新平(しんぺい)は千八百七十二年(明治五年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任する。

新平(しんぺい)は学制の基礎固め、四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進し、特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及する。

予算を巡る対立も絡み、新平(しんぺい)は山縣有朋と井上馨の二人を一時的に辞職に追い込んだ。

その一方で欧米的な三権分立の導入を進める新平(しんぺい)に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ政府内の保守派からは激しく非難された。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、新平(しんぺい)は大蔵省との確執を招いた。

千八百七十三年(明治六年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変(明治六年の政変)で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に十月に下野する。

千八百七十四年(明治七年)一月十日に愛国公党を結成し十二日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは新平(しんぺい)が帰郷する事は大久保利通の術策に嵌るものである事を看破し、慰留の説得を試みる。

しかし新平(しんぺい)は、この慰留には全く耳を貸さず翌十三日に船便で九州へ向かう。

新平(しんぺい)は直ぐには佐賀へ入らず、ニ月二日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見る事となる。

一方、大久保は新平(しんぺい)の離京の知らせを知った一月十三日には佐賀討伐の為の総帥として宮中に参内し、二月五日には佐賀に対する追討令を受けている。

勿論この時点では、佐賀側では蜂起の決起さえ、いやそれ処か新平(しんぺい)は佐賀に入国さえしていなかった事に留意する必要がある。

この事から新平(しんぺい)は、「完全に大久保の掌中に在った」と言えるだろう。

二月十一日、新平(しんぺい)は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い十二日、佐賀征韓党首領として擁立された。

そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する事態になる。

千八百七十四年(明治七年)二月十六日夜、憂国党が武装蜂起し、不平士族による初の大規模反乱である「佐賀の乱」が勃発する。

佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊(元 土佐藩・陪臣/宿毛邑主・安東氏家臣)の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。


乱を率いた江藤新平(征韓党)と島義勇(しまよしたけ/憂国党)は、そもそも不平士族をなだめる為に佐賀へ向かったのだが、政府の強硬な対応もあり決起する事となった。

しかしこの乱の勢力は、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党は元々国家観や文明観の異なる党派だった。

両党は主義主張で共闘すべき理由を共有しては居ず「到底一枚岩とは言えない烏合の衆」と言う側面を有する危うい関係で司令部も別、両党は協力して行動する事は少なかった。

また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力した。

更に武雄領主・鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続く筈」と言う期待は、佐賀藩内ですら実現しなかった。


やがて大久保利通が指揮直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着するも、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。

政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。

朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、佐賀軍の士気は高く三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。

しかし政府軍の装備が遥かに新しい上に、司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。

この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に、装備に劣る佐賀軍は敗走する。

新平(しんぺい)は征韓党を解散して脱出し、三月一日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。

続いて三月二十五日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった為、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。

しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。

手配写真が出回っていた為に速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は新平(しんぺい)自身が千八百七十二年(明治五年)に確立したものだった。

皮肉にも、手配制度の制定者・新平(しんぺい)本人が被適用者第一号となったのである。

新平(しんぺい)は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、「除族の上梟首の刑」を申し渡されて嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首処刑された。

江藤新平(えとうしんぺい)の朝臣としての正式な名のりは、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)流・千葉常胤の末裔として平胤雄(たいらのたねお)である。



板垣退助(いたがきたいすけ)は千八百七十四年(明治七年)、高知に立志社を設立、同時に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下された。

翌千八百七十五年(明治八年)に退助(たいすけ)は参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。

千八百八十一年(明治十四年)、十年後に帝国議会を開設すると言う国会開設の詔が出されたのを機に、退助(たいすけ)は自由党を結成して党総理(党首)となった。

自由党の党勢拡大に努めて全国を遊説していた退助(たいすけ)は、千八百八十ニ年(明治十五年)四月岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷したする。

その際、板垣が起き上がり、出血しながら述べた「吾死スルトモ自由ハ死セン」は、広く人々に、そして後世に「板垣死すとも自由は死せず」と伝わる事になった。

尚、この岐阜事件の時、退助(たいすけ)を診察した医者が、後に政治家となった後藤新平だった。

退助(たいすけ)は後藤の才を見抜き、「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったが、後に後藤新平は退助(たいすけ)の希望通り政治家となった。

同じ千八百八十ニ年(明治十五年)十一月、退助(たいすけ)は後藤象二郎と洋行し、翌年の六月に帰国した。

洋行から帰国した翌千八百八十四年、(明治十七年)十月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党する。

退助(たいすけ)は、自由民権運動家の立場から華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていた。

所が退助(たいすけ)は、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたると言う故事)を周囲から諭され、千八百八十七年(明治二十年)三度目にしてやむなく伯爵位を授爵舌。

その結果、退助(たいすけ)は衆議院議員となる事はなく、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退した為、帝国議会に議席を持つ事はなかった。

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた退助(たいすけ)は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第一回衆議院議員総選挙に対応した。

千八百九十年(明治二十三年)、帝国議会開設後に退助(たいすけ)は河野広中や大井憲太郎らと伴に旧自由党各派を統合して立憲自由党を再興し、翌年には自由党に改称して自由党総理に就任した。

千八百九十六年(明治二十九年)、退助(たいすけ)は第二次伊藤内閣で内務大臣、次の第二次松方内閣でも内務大臣を留任したがすぐに辞任した。

千八百九十八年(明治三十一年)、退助(たいすけ)は対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣する。

この為、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせ:この内閣の通称を隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれる。

しかし、隈板内閣(わいはんないかく)は内紛が激しく、僅か四ヶ月で総辞職せざるをえなくなる。

退助(たいすけ)は千九百年(明治三十三年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

板垣退助(いたがきたいすけ)は自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。

没後も民主政治の草分けとして人気が高く、退助(たいすけ)は第二次世界大戦後は五十銭政府紙幣、日本銀行券B百円券に肖像が用いられた。


自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本に於いて行われた政治運動・社会運動である。

従来の通説では、この運動は千八百七十四年(明治七年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされ、千八百九十年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。

いわゆる自由民権運動は、明治維新後に政府の専制政治に反対して国会開設や立憲政治の確立など民主的な改革を求める大規模な運動として起こる。

薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げていた。


発端は千八百七十三年(明治六年)に起こった「明治六年の政変」で征韓論を主張する板垣退助が、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れた事である。

新政府が分裂し板垣は西郷隆盛らと伴に下野し、翌千八百七十四年(明治七年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成する。

板垣退助は有司専制を批判すると伴に、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立する。

この民撰議院設立建白書が新聞に載せられた事で、自由民権運動が広く世間に知られるようになる。

翌千八百七十五年(明治八年)には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により消滅する。

また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。

千八百七十四年の建白書の直後に、江藤新平が士族反乱の佐賀の乱を起こし死刑と成るなど、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。

武力を用いる士族反乱の動きは千八百七十七年(明治十年)の西南戦争まで続くが、士族民権(自由民権)は武力闘争と紙一重であった。


西南戦争後の千八百七十八年(明治十一年)に愛国社が再興し、千八百八十年(明治十三年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。

千八百八十一年(明治十四年)、参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、起こった明治十四年の政変で参議・伊藤博文らによって罷免された。

一方、政府は国会開設の必要性を認めると伴に当面の政府批判をかわす為、十年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。

この十年後の国会開設、政府は十年も経(た)てばこの運動も収まるだろうと「甘く思っていた」と言う。

しかし、ともかくこの「国会開設の勅諭」によって国会開設のスケジュールが公に具体的となった。

その後、国会期成同盟第三回大会で自由党が結成され、一方明治十四年の政変により下野した大隈重信は千八百八十二年(明治十五年)に立憲改進党の党首となった。

自由民権運動に好意的と見られて来た大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功する。

千八百八十二年(明治十五年)には板垣が保守主義者の暴漢に襲われた「岐阜事件」が発生するも命はとりとめ、傷も回復する。

伊藤博文らは、後藤象二郎を通じて自由党総理・板垣退助に洋行を勧め、民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。

伊藤の目論みが功を奏し、板垣がこの洋行に応じると民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出する。

また、千八百八十四年(明治十七年)に自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど民権運動は打撃を受けている。


千八百八十六年(明治十九年)に成ると、星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られる。

翌千八百八十七年(明治二十年)には更に、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増す。

これに対し政府が保安条例の制定や改進党・大隈の外相入閣を行う事で運動は沈静化し、千八百八十九年(明治二十二年)の大日本帝国憲法制定を迎える。

翌千八百九十年(明治二十三年)に第一回総選挙が行われ帝国議会が開かれ、以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれて行った。



その後の佐賀出身・山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)だが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)を制して旧幕府勢力を瓦解させた官軍が確立した明治新政府に於いてその地位を上げて行く。

千八百六十八年(明治元年)三月に外国事務局御用掛、四月に外国官、五月に大阪府判事試補、六月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、十一月には外国官判事になると伴に箱館府在勤を命ぜられ、従五位下に叙せられる。

千八百六十九年(明治二年)一月、尚芳(ますか)は長崎に出向きフルベッキに対し東京に新たに大学を作る為招聘する旨伝え、フルベッキはこれを受諾する。

四月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられ、五月、会計官判事を命ぜられ、六月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。

七月、尚芳(ますか)は大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、大蔵大丞兼民部大丞となる。

千八百七十年(明治三年)五月、北海道開拓御用掛を命ぜられ、千八百七十一年(明治四年)八月には外務少輔に転じた。

同年(明治三年)十月、従四位に叙された上で、米欧の視察および条約改正の下準備として岩倉具視を全権大使とした岩倉遣欧使節団が派遣される。

尚芳(ますか)は岩倉遣欧使節団の団員となり、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文と並ぶ副使に任命されて、千八百七十三年(明治六年)九月まで、各国を歴訪した。

留守居政府が進めていた征韓論に対し、帰国後に起きた論争に於いては大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。

この為尚芳(ますか)は、千八百七十四年(明治七年)ニ月に征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱に於いては、政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。

まず、故郷・武雄の元領主・鍋島茂昌(しげはる)やその家臣で在った士族を説諭し、反乱への呼応を抑止した。

また、自らは、二月十二日、長崎に入り、海軍警備兵を率いて大村、武雄を経て三月一日に佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。

なお、佐賀の乱の際、武雄鍋島の茂昌は反乱軍の脅迫に屈し六十四人の兵士をやむなく乱に派遣していた為問題となった。

だが、尚芳(ますか)は、旧主筋にあたる鍋島茂昌が新政府軍に提出する予定の謝罪文を添削するなど武雄鍋島の罪を免ずる為に努力している。

尚芳(ますか)は、新政府に於いて元老院議官、元老院幹事、会社並組合条例審査総裁、会計検査院の初代院長などを歴任する。

しかしながら、大隈重信が新政府から追放された千八百八十一年の「明治十四年の政変」の影響で、尚芳(ますか)は同年十月に会計検査院長の職を辞し、参事院(内閣法制局の前身)の議官となり外務部長兼軍事部長に任ぜられる。

千八百八十二年(明治十五年)以降に参事院が廃された結果、尚芳(ますか)は元老院議官に復帰する。

尚芳(ますか)は高等法院陪席裁判官、貴族院議員を歴任、千八百九十四年(明治二十七年)病床に在って正三位に叙され、翌月六月十二日死去した。



維新後の副島種臣(そえじまたねおみ)は、千八百六十四年(慶応四年)新政府の参与・制度取調局判事となり、土佐藩士だった徴士参与・福岡孝悌(ふくおかたかちか)と「政体書」の起草に携わる。

種臣(たねおみ)は千八百六十九年(明治二年)に参議、千八百七十一年(明治四年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に於いて活躍する。

千八百七十三年(明治六年)二月、維新後初の海外出兵となった千八百七十一年(明治四年)に起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣される。

種臣(たねおみ)は清朝相手に日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈及び交渉にあたった。

この交渉の間、清朝高官との詩文交換で種臣(たねおみ)はその博学ぶりを評価をされている。

しかし対清朝の同年(明治六年)十月、種臣(たねおみ)は征韓論争に敗れて下野し、千八百七十四年(明治七年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加する。

同年(明治七年)には民撰議院設立建白書を提出したものの、種臣(たねおみ)は自由民権運動には参加しなかった。

西郷隆盛らが起こした西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。

その後種臣(たねおみ)は官僚に復帰、宮中顧問官や枢密顧問官、政治家として枢密院副議長、翌年の千八百九十二年(明治二十五年)には第一次松方内閣に於いて内務大臣を務めている。



大隈重信(おおくましげのぶ)は千八百八十二年(明治十五年)三月、十年後に予定されていた国会開設に備え、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らを結集して小野梓とともに立憲改進党を結成する。

同じ年の十月、重信(しげのぶ)は小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、東京郊外(当時)の早稲田に開設する。

立憲改進党を結成した重信(しげのぶ)だったが、二年後の千八百八十四年(明治十七年)、立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。


千八百八十五年(明治十八年)十二月、内閣制度移行に際し初代内閣総理大臣に伊藤博文(いとうひろぶみ)が就任する。

その二年後の千八百八十七年(明治二十年)、重信(しげのぶ)は伯爵に叙された。

自ら同様英語力を重視する内閣総理大臣・伊藤博文は、重信(しげのぶ)の外交手腕を評価して不平等条約改正の為、政敵である重信(しげのぶ)を外務大臣として選ぶ。

伊藤博文の要請に拠り、千八百八十八年(明治二十一年)ニ月より重信(しげのぶ)は外務大臣に就任した。

同年、黒田清隆が組閣すると重信(しげのぶ)は外務大臣を留任するが、外国人判事を導入すると言う条約案が反対派の抵抗に遭う。

翌千八百八十九年(明治二十ニ年)、重信(しげのぶ)は国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断する負傷を負い外務大臣を辞職した。

七年後の千八百九十六年(明治二十九年)「松隈内閣(しょうわいないかく)」と呼ばれる第二次松方内閣で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して千八百九十七年(明治三十年)に辞職した。


千八百九十八年(明治三十一年)六月に重信(しげのぶ)は板垣退助らと憲政党を結成する。

同年六月三十日に重信(しげのぶ)は、「隈板内閣(わいはんないかく)」と俗に言う薩長藩閥以外で初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。

しかし憲政党内の旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。

後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いた事に不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。

結局、組閣から僅か四ヵ月後の十一月八日、内閣は総辞職する羽目となり、重信(しげのぶ)は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いる事となる。

千九百七年(明治四十年)、重信(しげのぶ)は一旦政界を引退し、自らが設立していた早稲田大学の総長へ就任する。

しかし重信(しげのぶ)は、第一次護憲運動が興ると政界に復帰する。

そして千九百十四年(大正三年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、二度目の内閣(第二次大隈内閣)を立憲同志会、公友倶楽部、及び中正会で組織する。

同年(大正三年)七月、第一次世界大戦が起こり、第二次大隈内閣は中国大陸での権益確保を求めて、八月二十三日に対独宣戦布告をおこなう。

翌千九百十五年(大正四年)一月には、重信(しげのぶ)は外相・加藤高明と共に対華二十一ヶ条要求を提出した。

内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、八月には重信(しげのぶ)自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るも政権は次第に国民の支持を失って行く。

更に政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、千九百十六年(大正五年)十月、終(つ)いに内閣は総辞職、事後重信(しげのぶ)も政界から完全に引退した。



欧米諸国に追い付こうとする明治新政府は兵器と軍事組織の近代化を図り、富国強兵を目標に軍国主義の色に染まって行く。

そうした環境下で頭角を現して来たのが政商・大倉喜八郎(おおくらきはちろう)である。

大倉喜八郎(おおくらきはちろう)は、武器商人から財を為した為に「死の商人」とも「死の政商」とも呼ばれた男である。

喜八郎(きはちろう)は中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者で男爵を爵受し、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。

千八百三十七年(天保八年)越後国新発田(現・新潟県新発田市)に名主・大倉千之助の三男・喜八として生まれる。

この年はちょうど、徳川家慶(とくがわよしのぶ)が征夷大将軍に就任した攘夷運動真っ盛りの年である。

喜八(きはち)は、千八百五十四年(嘉永四年)十七歳の時に江戸に出て鰹節店に奉公奉公する。

三年で鰹節店の仕事を覚えた喜八(きはち)は、実家が名主と言う資金力に恵まれて千八百五十七年(安政四年)に乾物屋・大倉屋を二十一歳で独立する。

その十年後に貿易で一旗挙げようと考え、横浜の外国人居留地を観察して鉄砲に目を着け、乾物店を廃業し、知り合いに口を利いてもらい、八丁堀に財った鉄砲商・小泉屋で五ヶ月間修行し、千八百六十七年(慶応三年)に大倉銃砲店を開業、名も喜八から喜八郎(きはちろう)と改める。

この大倉銃砲店開業の年、千八百六十七年(慶応三年)の年末に将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に大政奉還を行うが、戊辰戦争の端緒となる鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)が京都で起こり官軍が江戸へ攻め上って来る。

翌年千八百六十八年(慶応四年)、折からの戊辰戦争に大倉銃砲店は軍需品の供給を行い大繁盛して富を築く。

戊辰戦争後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興すも、明治政府要人と太いパイプを得た喜八郎(きはちろう)は、台湾出兵、日清・日露と戦争軍需に拠って大儲けした事から死の商人、死の政商と呼ばれた。

軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど「大倉組が独占した」と言う凄まじい軍事財閥だった。

そんな喜八郎(きはちろう)だったが、流石(さすが)に晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じ、渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した事でも有名である。


維新が成り、それでも内戦・戊辰戦争は千八百六十八年(明治元年)の明治改元から一年以上続いた。

その戊辰戦争の最中から維新後の最後の内戦・西南戦争を経て近代化を歩み始めた日本にいったい何が在ったのだろうか?

維新騒動の初期に活躍した志士達の後を追うように、その戊辰戦争の戦を実績として勤皇第二世代が台頭して来て居た。

その第二世代が、長州の伊藤博文や井上馨、乃木希典、山縣有朋などであり、薩摩では西郷従道や大山巌、さらに山本権兵衛、東郷平八郎、児玉源太郎などが新生日本の未来を担う事になった。

欧米列強の外圧と言う国家的危機に在って多くの有意の士が立ち上がり歴史を回転させたが、政権の転換期には必ず「歴史の皮肉」が現れる。

それは、政権転覆に着手した者が無理をせざるを得ないからで、土佐の武市瑞山(たけちずいざん/半平太)や長州の吉田松陰(よしだしょういん)・久坂玄瑞(くさかげんずい)などの夢半ばに散った生涯である。

そして倒幕から新政府の地盤固めに到る歴史的経緯の中で、高杉晋作、坂本龍馬や西郷隆盛まで、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが「世の習い」と言う残酷な事実である。

結局明治新政府の舵取りは、多くの「歴史の皮肉」と伴に勤皇第二世代の伊藤博文・井上馨・大山巌・東郷平八郎らに移って行ったのである。



山縣有朋(やまがたありとも)は長州藩領内の蔵元仲間・山縣三郎有稔(やまがたさぶろうありとし)の子として萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に生まれた。

実は有朋(ありとも)を称したのは明治維新後で、幼名は辰之助、通称は小助のち小輔、さらに山縣狂介と改名している。

家格の蔵元仲間(くらもとちゅうげん)とは、足軽以下の非武士身分の中間や小者を指す武家奉公人(ぶけほうこうにん)の事で、一部には山縣家の家格は無給通(むきゅうどおり)とする記述もあるが事実ではない。

萩毛利家の家臣は、一門を筆頭に永代家老・寄組・手廻組・物頭組・大組・船手組・遠近付(えんきんづき)・無給通(むきゅうどおり)・徒士(かち)、三十人通、(さんじゅうにんどおり)、士雇(さむらいやとい)、細工人(さいくにん)、足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)等々、全部で七十の「階級」に編成され、この「階級」と禄高・俸給とによって格付けされ、序列化されていた。

つまり有朋(ありとも)は、非武士身分の藩奉公人と言う微妙な立場の家に生まれ、そこから這い上がる為に少年時代から槍術師範となる事を夢見て努力する少年だった。

その努力が認められたのか、友人・杉山松助の口添えが在ったのかは定かではないが、千八百五十八年(安政五年)、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した六人のうちの一人として、杉山松助、伊藤俊輔らとともに上京する。

その都の地で長州藩尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らに有朋(ありとも)は感化を受け月に九月に帰藩後、久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した。

有朋(ありとも)は、二十一歳で吉田松陰・松下村塾の門下生になり、松陰亡き後高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、その後幕府との戦いに於いて高杉晋作の下で指揮をとる。

千八百六十三年(文久三年)、有朋(ありとも)は高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現し後に奇兵隊の軍監となる。

高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用した為、松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤博文や有朋(ありとも)のように足軽以下の身分の志士が多く出て、低い身分で在った者が世に出るきっかけを与えた。

松蔭門下となった事は、出自の低い有朋(ありとも)が世に出る一助となったと考えられ、入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下った為有朋(ありとも)の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。

同千八百六十三年(文久三年)年十二月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には、有朋(ありとも)は三代目総管・赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、その赤根が出奔した後は事実上実権を握った。

有朋(ありとも)は、千八百六十六年(慶応元年)に奇兵隊四代目総管に就任し、長州征討で復帰した高杉晋作と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。

明治維新後の千八百六十九年(明治二年)、有朋(ありとも)は維新の功によって賞典禄六百石を賜り、に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。

翌年アメリカ経由で帰国した後は暗殺された大村益次郎の後継として、西郷隆盛の協力を得て軍制改革(徴兵令)を行い、徴兵制を取り入れた。


山県有朋(やまがたありとも)は、維新の十傑と言われた元勲達が岩倉卿を除きほとんど亡き後、日本国軍を整備し「国軍の父」・「日本軍閥の祖」とも称された人物である。

山県有朋は千八百六十九年(明治二年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察し、翌明治三年アメリカ経由で帰国する。

山県有朋が、そのヨーロッパ視察でフランスの「民権」に恐れを感じて帰朝していた為、その後、伊藤博文とともに政府の実権を握るようになって「民権」の制御を思考する。

そこで山県を中心に考え出されたのが「天皇の神格化」であり、その為につくられたのが「軍人勅諭」や「教育勅語」である。

軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)は、正式には「陸海軍軍人に賜(たま)はりたる敕諭」と言い、明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭(訓示)とされる。

「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」は、啓蒙思想家・西周(にしあまね)が起草、有識者・福地源一郎・官僚政治家、官僚政治家・井上毅(いのうえこわし)、軍人政治家・山縣有朋?によって加筆修正され、千八百八十二年年(明治十五年)一月四日に発効される。
この「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」は、千八百七十八年(明治十一年)十月に陸軍卿・山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した「軍人訓誡」が元になっている。

当時、多発した士族の反乱と自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていた為に、これを抑(おさ)え精神的支柱を確立する意図で起草されたものである。

千九百四十一年(昭和十六年)一月八日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)が「戦陣訓(せんじんくん)」で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書である。

現在ではこの「戦陣訓(せんじんくん)」の中の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と言う一節が有名であり、軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。
その後の千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦により、日本軍そのものが解体後廃止される。

千九百四十八年(昭和二十三年)六月十九日、教育勅語(きょういくちょくご)などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。


勅語(ちょくご)とは、天皇が口頭により発する公務上の意思表示(おことば)である。

一般的に「教育勅語(きょういくちょくご)」と呼ぶが、正式な名称・「教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)」は、明治維新以後の大日本帝国で、政府の教育方針を明記した勅語である。

「教育勅語(きょういくちょくご)」は、千八百九十年(明治二十三年)十月三十日に、明治天皇の名で発表された勅語である。

明治天皇が国民に語りかける形式をとる「教育勅語」の趣旨は、明治維新以後の大日本帝国では、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。

歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。

続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くす事など十二の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。

以上を歴代天皇の遺した教えと「教育勅語(きょういくちょくご)」を位置づけ、国民とともに「明治天皇自らこれを守る為に努力したい」と誓って締め括(くく)。


四大節と呼ばれた祝祭日、紀元節(二月十一日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(十一月三日)及び一月一日(元日、四方節)には学校で儀式が行われる。

その儀式に於いて全校生徒に向けて校長が「教育勅語」を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇の肖像/御写真)とともに奉安殿に納められて丁重に扱われた。

また、外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治四十四年・勅令第二二九号)、台湾教育令(大正八年・勅令第一号)では、教育全般の規範ともされた。

千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦に至り、千八百九十年(明治二十三年)十月三十日渙発の「教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)」は、その役割を終える。

法的には、千九百四十八年(昭和二十三年)六月十九日衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)と共にその失効が確認され廃止される。



千八百七十二年(明治五年)二月、有朋(ありとも)は中将・陸軍大輔に就任して軍の頂点に立つ。

その年有朋(ありとも)は、いわゆる山城屋事件で陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。

山城屋の証拠隠滅工作により有朋(ありとも)に司法の追及は及ばなかったが、千八百七十三年(明治六年)四月に責任を取る形で陸軍大輔を辞任する。

しかし他に有朋(ありとも)に代わり得る人材がなく、二ヵ月後の六月に有朋(ありとも)は陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に関わっている。

明治新政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて有朋(ありとも)は「国軍の父」とも称されるようになった。

千八百七十七年(明治十年)の西南戦争では、有朋(ありとも)は参軍として官軍の事実上の総指揮を執り、錬度や士気で優る薩軍に対し物量で対抗して鎮圧した。

有朋(ありとも)は官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用される事の無いように文官試験制度を創設し後進を育成したが、この辺りは自らの出自と松陰先生門下生の看板を後進に与える思い入れを感じる。

山縣有朋(やまがたありとも)が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称され、晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。

有朋(ありとも)は、伊藤博文と並び明治維新の変動期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物で、内務大臣、司法大臣、内閣総理大臣、枢密院議長、陸軍参謀総長などを歴任し元老となったが最晩年には権威は大きく失墜し悪評に包まれた最後だった。


前原一誠(まえばらいっせい)は、千八百三十四年(天保五年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組四十七石)の長男として生まれ、後に前原氏を相続する。

相続先の前原家の遠祖は、尼子氏重臣・戦国武将・米原綱寛(よねばらつなひろ/尼子十勇士の一人)である。

本姓の生家・佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で出雲源氏の諸流に属し、遠祖は尼子氏・毛利氏の重臣である佐世清宗(させきよむね)である。

一誠(いっせい)は倒幕の志士として活躍し維新の十傑の一人と並び称されたが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。


千八百三十九年(天保十年)、郡吏となった父・佐世彦七とともに一誠(いっせい)は厚狭郡船木村に移住する。

後に藩都・萩にて修学するが、千八百五十一年(嘉永四年)、一誠(いっせい)は再び船木村に帰り陶器製造など農漁業に従事する。

千八百五十七年(安政四年)、一誠(いっせい)は久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。

松陰の処刑後、一誠(いっせい)は長崎で洋学を修め、のちに長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。

千八百六十二年(文久二年)に一誠(いっせい)は脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽(ながいうた/時庸・ときつね)の暗殺を計画するも成就に到らず。

翌千八百六十三年(文久三年)、一誠(いっせい)は藩に復帰して右筆役、更に八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・「七卿方御用掛」となる。

想うに、明治維新の全ては 熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に繋がる「不思議な何か?」のパワー魔力である。

一誠(いっせい)に与えられた「七卿方御用掛」の縁が、その後彼が「維新の十傑の一人」とまで数えられる出世のチャンスに成ったのではないだろうか?

つまり一誠(いっせい)も、伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる/井上聞多)・佐藤信寛(さとうのぶひろ)等と同様に、大室某の謀議に加わって出世の糸口を掴んだと考えられる。


その後一誠(いっせい)は、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。

幕府軍と交戦した長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、千八百六十八年(明治元年)の戊辰戦争で、一誠(いっせい)は北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

千八百七十年(明治三年)戊辰戦争も終結し明治維新成る後、一誠(いっせい)は維新の戦功を賞されて賞典禄六百石を賜る。

維新後、新政府に任官した一誠(いっせい)は、越後府判事や新政府参議を勤める。

大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、一誠(いっせい)は出仕する事が少なかった為、船越衛は省務停滞を嘆いている。

また、一誠(いっせい)は前任・大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋(やまがたありとも)に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

新政府の方針に不満をもった一誠(いっせい)は、千八百七十六年(明治九年)、奥平謙輔(おくだいらけんすけ)とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こす。

しかし、即座に鎮圧されて幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕され、萩にて処刑された。


西郷従道(さいごうじゅうどう)は、千八百四十三年(天保十四年)薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名)の第二子として生まれ、幼名は竜助と名を付けられた。

父は薩摩藩御勘定方小頭(禄四十七石余)・西郷吉兵衛(注・隆盛)、母は政子、兄は維新の英雄・西郷隆盛(隆永)、従兄弟には大山巌(おおやまいわお/弥助)などが居る。

西郷氏は藤原氏流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。

従道(じゅうどう)の名は維新後太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとした所、訛(なま)っていた為に役人に「ジュウドウ」と聞き取られ「従道」となってしまったのだが本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通したと伝えられている。

どうやら名に拘らない家系だったのか、ちなみに兄・西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父(吉兵衛)の名前であり、同志の吉井友実が西郷隆永が公務で出かけている間に「親の名前を勘違いして登録してしまった」と言う次第である。

西郷兄弟の隆盛、従道と言うのは諱(いみな)であり、日常使用するのは通称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。


従道(じゅうどう)は薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ後、有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。

千八百六十一年(文久元年)九月末頃、従道(じゅうどう)は還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名、島津斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。

従道(じゅうどう)は翌千八百六十二年(文久二年)、勤王倒幕の為京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に従兄弟の大山巌(おおやまいわお)と伴に参加するも寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道(じゅうどう)は年少の為帰藩謹慎処分となる。

千八百六十三年(文久三年)、薩英戦争が起こると従道(じゅうどう)や大山巌(おおやまいわお)達寺田屋事件の謹慎組みも謹慎が解け、従道(じゅうどう)は西瓜売りを装った決死隊に志願している。

大政奉還と王政復古に始まった戊辰戦争では、従道(じゅうどう)は鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも各地を転戦し、官軍(新政府軍)の指揮官として活躍した。

千八百六十九年(明治二年)から翌千八百七十年(明治三年)に掛けて山縣有朋と共に渡欧して軍制を調査し、横浜に帰着一ヵ月後には兵部権大丞に任じられ、翌年のちょうど帰着一年後には陸軍少将となる。



太平洋戦争の終結に到って、国際圧力論やアジア開放論など色々な論陣を張り正当性を主張する意見は在るが、日清戦争から太平洋戦争の敗戦終結に到るこの期間の日本の指導者に、「覇権主義の野望が無かった」と言い切れるのだろうか?

人間は、良い事拠りも悪い事を覚える方が遥かに早い。

どうも日本人は過っての大陸伝来文化の経緯以来舶来に弱く、明治維新前後の衝撃的なカルチャーショックからは欧米思想への無条件追随気分が高まっていたから、植民地主義(覇権主義)を良き目標として富国強兵に取り組んだ。

しかし歴史に疎い近頃の経済学者が、またぞろ舶来コンプレックスに嵌って悪い事を覚え、米国の市場経済至上主義に追随する政策をするのには困ったものである。

まぁ、明治政府の建前は近隣国との友好な関係を結ぼうと言う事だが、明治新政府の手口は結果的に米国ペリー艦隊の砲艦外交をソックリ真似た「言い掛かり」から始まっている。

つまり当時の日本には、欧米を手本にした覇権主義の野望が明確に在ったのではないだろうか?


その覇権主義は、既に西南戦争を遡る事九年前・千八百六十八年(明治二年)の朝鮮・李氏王朝との国交々渉を切欠として既に始まってた。

李氏朝鮮(朝鮮王朝・チョソンワンジョ)は通算五百年続き、大陸の歴代覇権帝国に属国扱いされながらも生き延び、その間に太閤・豊臣秀吉が朝鮮半島に送り出した侵略戦争「朝鮮征伐(文禄・慶長の役)」も経験していた。

その朝鮮征伐(文禄・慶長の役)の時も宗主国・明帝国の支援を得て秀吉軍を迎撃した経緯を持っていた。


薩長土肥の倒幕の志士と倒幕派公家を中心とした明治政府は、千八百六十八年(慶応四年/明治元年)から翌千八百六十九年 (明治二年)戊辰戦争の最後の局面として旧幕臣を主力として函館五稜郭に立て篭もった反政府勢力との箱館戦争(はこだてせんそう)に勝利した。

その国内騒然とする千八百六十八年(明治二年)の頃に、明治新政府が王政復古を伝える書契を朝鮮・李氏王朝に渡そうとした事に国交々渉は始まった。

所が、この書契を朝鮮・李氏王朝は文章上の解釈からその受け取りを拒否、その後数年間交渉が進展しない事は国際間に於いて最近隣国が明治新政府を認めない事を意味していた。

当時は日本に於ける王政復古(明治維新)の切欠にも成った西欧列強が東アジアに触手を伸ばして来た時代で、日本側の書契文中に中国皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の語があった事で、朝鮮側はそれらの文章形式を日本に拠る対朝鮮圧力と捉えていた。

急速に近代化を進める日本に対する警戒感とも相まって、日本を「仮洋夷(仮の西欧覇権主義)」とする意識が朝鮮・李氏王朝側に在ったのである。

当時の朝鮮・李氏王朝は宗主国に清帝国を仰ぎ、幼い李朝国王・李高宗(イーコジョン/李氏朝第二十六代)が王位に在り、実権は実父・興宣大院君(フンソンデウォングン)が握って外戚・安東金氏(アンドンギムシ)の専横と古い体制を打破しつつある情況に在った。

王政復古(明治維新)の二年前、千八百六十六年に李氏朝鮮では、米国武装商船ジェネラル・シャーマン号事件とフランス人宣教師九名の処刑事件(丙寅教獄)を起こし、報復として江華島へ侵攻した仏国艦隊との戦闘(丙寅洋擾)も在った。

朝鮮・李氏王朝は、西欧列強の外圧に対し宗主国・清帝国の影響下で、華夷思想による強固な鎖国・攘夷政策を実行し西欧諸国との間に重大な軋轢を引き起こしていたのだ。

そこにまったく対欧米諸国に対する対応が違い、開国近代化を推し進める日本の新政府から宗主国並の文面の書契を届けられたのだから、応ずべきもなかったのだ。


明治政府は、千八百六十八年(明治二年)に始まった難航する朝鮮・李氏王朝との国交問題解決の為にも、まず朝鮮の宗主国である清帝国と対等の国交条約を結び、その冊封関係を利用して朝鮮と交渉する方針を立てる。

清帝国の直隷総督・李鴻章との間で交渉を開始し、使節の交換と領事駐在および限定的な領事裁判権、最恵国待遇および関税協定権を相互に認めると言う平等条約・清修好条規を千八百七十一年(明治四年)に締結した。

清修好条規中には、当時両国が置かれていた欧米列強による脅威を前提に相互扶助を誓約する「第二条・両国好みを通ぜし上は---若し他国より不公及び軽藐する事有る時、其の知らせを為さば、何れも互いに相助け」との条文も約されていた。


しかし領土問題での懸案、琉球王国の日清両属と言う解決すべき問題が在った。

琉球王国は明帝国(千六百四十四年滅亡)の冊封を受け東アジア諸国との交易により繁栄していたが、千六百九年に薩摩藩の島津氏による侵攻を受け、奄美諸島を薩摩藩の領土として割譲のうえ琉球は事実上薩摩藩の属国と成った。

しかし琉球王国は、朝貢貿易の利益の為に形式上は明帝国とその後を継ぐ清帝国との間の冊封は継続され、結果、日本(江戸幕府)と中華帝国への両属とする変則体制が幕末まで続いて居た。

千八百七十一年(明治四年)の廃藩置県により琉球王国を鹿児島県に一応編入し、翌千八百七十二年(明治五年)には所謂(いわゆる)「琉球処分」として琉球藩を設置し元琉球国王を藩王として華族に列する冊封詔書が授けられも、琉球の日清両属の状態はその後も続いていた。


千八百六十八年(明治二年)に始まった朝鮮・李氏王朝との国交々渉が進展しない事に業を煮やした明治政府内で、武力による開国を迫る所謂(いわゆる)征韓論が台頭する。

元々尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与えた吉田松陰は、幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への武力侵略統治論を展開していた。

ちょうど明治政府は、右大臣兼外務卿岩倉具視を正使とし、副使に木戸孝允(桂小五郎)・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら総勢百七名に及ぶ岩倉使節団(いわくらしせつだん)を明治四年から明治六年まで、欧米諸国に派遣していた時期とこの征韓論が重なっていた。

その政府主力の多くを欠く千八百七十三年(明治六年)、岩倉使節団(いわくらしせつだん)の帰国前の留守政府閣議に於いて、参議・板垣退助が交渉の行きづまりを打開するため陸軍一大隊の朝鮮への派遣を主張する。

板垣退助の陸軍派遣案に対し、西郷隆盛は使節の派遣案と自らその職への任命を主張するもその後、岩倉具視が帰国し内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をして明治天皇の裁可により派遣延期となる。

正直、大久保利通(おおくぼとしみち)の本音を言うと、西郷隆盛が砲艦外交ではな無く「穏やかに交渉する」と言っても軍を統括する元帥(後に廃止した為大将)である西郷が交渉して李氏・朝鮮に突っぱねられれば面子が無くなる。

そうなれば国論が板垣の言う「開戦は止むを得ない事になる」と言う「危惧」が、「西郷自らの使節派遣案には在る」と大久保は結論着けたのである。

この決定に、西郷隆盛が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、既に宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷の朝鮮国派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。

この時、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されず、岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しない事で、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図がある事を示したとされる。

この明治天皇の裁可を切欠に、参議・西郷隆盛、板垣退助らが辞職する世に言う「明治六年の政変」と呼ばれる事態となり、大久保達使節帰国派は、これ以降政府の実権を握る事になった。

所謂(いわゆる)「征韓論」に対しては、大久保らも交渉決裂に際する朝鮮半島での武力行使の方針自体には「反対ではなかった」とされ、欧米諸国の先進発展の現実を知るが故の内治優先主張と解されている。

この征韓論には、千八百七十一年(明治四年)の廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景にある。

廃藩置県以後、千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を「海外に逸らす思惑も在った」と見られる。


維新成功後の木戸孝允(桂小五郎)は、新政権副総裁の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ唯ひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。

太政官制度の改革後は参議に昇り、外国事務掛、参与、文部卿などを兼務して五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し実施させた。

新政府内で西郷隆盛を凌ぐ力を着けた木戸孝允(桂小五郎)は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結の為に岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧する。

岩倉使節団では、条約の撤廃予備交渉と欧米視察を進め欧米の進んだ文化だけでなく民主々義の不完全性や危険性をも洞察して帰って来る。

しかし帰朝後は、使節団での無理が祟ったのか原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始め、その持病の為か以後の孝允(小五郎)は本格的に明治政府を取り仕切れなくなって行く。

木戸孝允(桂小五郎)が見聞した欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。

それ故に孝允(小五郎)は、過っての征韓論などは引っ込めて内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組み、後に文部卿に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したもので在った。

使節団留守組の西郷隆盛らが主張する征韓論や大隈や西郷従道らが主張する台湾出兵には、孝允(小五郎)は一貫して反対している。

また、孝允(小五郎)は農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させる為の手段として構想された秩禄処分が実行された時にはこれに激しく反発した。

そして孝允(小五郎)は、台湾出兵が決定された千八百七十四年(明治七年)五月には、これに抗議して参議を辞職している。

西南戦争が勃発すると、孝允(小五郎)は鹿児島征討の任にあたりたいと希望も反対に遭い明治天皇とともに京都へ出張するもかねてから重病化していた病気が悪化し、明治政府行く末と西郷隆盛の双方を案じつつ四十五歳でこの世を去った。



千八百七十一年(明治四年)に琉球船が難破し台湾南部へ漂着した際、先住民による琉球島民殺害事件(牡丹社事件/ぼたんしゃじけん)が発生していたが、明治政府はそれを解決できないまま数年が経過していた。

この琉球島民殺害事件に対して旧薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派下野の後、政府は内務卿・大久保利通の主導の下、派兵を決定する。

千八百七十四年(明治七年)、台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将・西郷従道を任命して出兵準備をさせた。

従道(じゅうどう)の軍人人生は順調にキャリアのステップアップを続けていたが、千八百七十三年(明治六年)に兄の隆盛が征韓論をめぐり下野してしまい、薩摩藩出身者の多くが兄の隆盛に従うが、何故か従道は政府に留まっている。

千八百七十四年(明治七年)、西郷従道(さいごうじゅうどう)は陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮している。

兵力は二個大隊(三千名)であり、内鎮台兵(正規兵)は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたもので、言わば失業士族の雇用対策の面も在った。

しかし英国や米国の反対圧力と局外中立の表明及び征韓論にも反対していた参議・木戸孝允が征韓論を否定して置きながら、同じ海外である台湾に出兵するのは「矛盾している」と反対、参議の辞表を提出して下野してしまう。

千八百七十四年(明治七年)二月、閣議で台湾征討が決定した。

この征討には木戸が反対して参議を辞めたが、西郷も反対していた。

しかし、隆盛三弟・台湾征討軍の都督・西郷従道の要請を入れ、止む無く鹿児島から徴募して、兵約八百名を長崎に送った。


この台湾出兵、台湾南部の事件発生地域を占領するも清帝国が賠償金を支払う事で政治決着し、従道(じゅうどう)が指揮する植民兵は撤兵した。

兄・隆盛が千八百七十七年(明治十年)に西南戦争で反乱を起こした際、従道は兄・隆盛に加担せず、陸軍卿代行に就任し政府の留守を守った。

西南戦争終結以後は、従道(じゅうどう)は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨する。

西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、千八百七十七年(明治十一年)の大久保利通暗殺直後には参議となり、同年末には陸軍卿になった。

千八百八十二年(明治十五年)の年頭、黒田清隆が開拓長官を辞すると参議・農商務卿兼務のまま開拓長官に任じられ開拓使が廃止されるまで、一ヵ月にも満たない短期間ながら開拓使長官を務めた。

その後の従道(じゅうどう)は伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任、千八百九十二年(明治二十五年)には元老として枢密顧問官に任じられる。

千八百九十四年(明治二十七年)海軍大将、千八百九十八年(明治三十一年)海軍軍人として初めて元帥の称号を受け日本史に名を残して居る。



「明治六年の政変」で下野した西郷隆盛は、故郷鹿児島で大半を武村の自宅で過ごし、猟に行き、山川の鰻温泉で休養していたこの明治七年三月、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し一泊、翌日指宿まで見送ったが、その後江藤は土佐で捕まっている。


その時西郷隆盛が何を感じているのかは、誰にも判らなかった。

しかし度重なる辛抱の中に、隆盛らしい読みが在ったのかも知れない。

全ては、隆盛の腹の中にしまわれて居た周到な閃(ひらめ)きだった。

西郷隆盛の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治六年末以来、鹿児島県下は無職の血気盛んな壮年者が多数のさばり、それに影響された若者が溢れる状態になった。

これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令・大山綱良の協力を得て、同千八百七十四年(明治七年)の中頃に旧厩跡に私学校がつくられた。

私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。

翌千八百七十五年(明治八年)、この他に西郷と県令・大山綱良との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)も創るられた。

西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山県令もこの力を借りる事なしには県政が潤滑に運営できなくなる。

大山県令は私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、千八百七十五年(明治八年)度や翌年度には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。

このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は西郷の私学校党の支配下に於いて「半ば独立状態にある」と見為すようになった。

しかも千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族最後の特権をも奪われた事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、萩の乱と続き、世相は西南戦争前夜の様相を呈していたのだ。


大山と言えばもうひとり、鹿児島初代県令・大山綱良(おおやまつなよし)とは兄弟と言う誤解も在った政府要人に、大山巌(おおやまいわお)が居る。

大山巌(おおやまいわお)は、千八百四十二年(天保十三年)薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれ、幼名は岩次郎だった。

父・大山綱昌は薩摩藩士・西郷隆充の次男、薩摩藩士・大山綱毅の養子にして砲術専門家で、下級城下士で家格は御小姓与の家である。

薩摩藩から維新の英雄となった西郷隆盛・西郷従道兄弟は、巌(いわお)とは従兄弟にあたる。

青年期、藩の過激尊攘派・有馬新七等に影響されて彼等の同志に従兄弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)と伴に属したが、千八百六十二年(文久二年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、巌(いわお)は帰国謹慎処分となる。

その後起こった薩英戦争では、巌(いわお)は西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾にて砲術を学び、結果戊辰戦争では新式銃隊を率いて鳥羽伏見や会津・落城戦などの各地を転戦して戦果をあげる。

大山巌(おおやまいわお)は十二ドイム(オランダ固有の長さの単位)臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら巌(いわお)の設計した砲は通称の弥助から「弥助砲」と称された。

維新後の千八百六十九年(明治二年)に巌(いわお)は渡欧して普仏戦争などを視察し、翌千八百七十年(明治三年)から千八百七十三年(明治六年)の間はジュネーヴに留学した。

新政府の陸軍では巌(いわお)は順調に栄達し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。

日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に、日露戦争に於いては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任し、ともに日本の勝利に大きく貢献して同郷・同藩(薩摩藩)出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

この日露戦争時の第三軍司令官が、乃木希典(のぎまれすけ)大将だった。

巌(いわお)は、戦争ばかりではなく政争にも強く、明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期に渡って勤め、また参謀総長や内務大臣なども歴任する。

元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられる事を終始避け続けた。

千九百十六年(大正五年)、巌(いわお)は内大臣として大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発して療養中の十二月投下日に大臣在任のまま七十五歳で死去した。


木戸孝允の反対と辞任により政府は一旦台湾出兵の中止を決めるが、西郷従道が征討軍を長崎から出航させると大久保利通もこれを追認し、日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領する事となった。

日本軍は台湾先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は十二名で在ったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が五百名を超える大事態となった。

この台湾出兵は近代日本初の海外出兵で在ったが、清帝国側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。

明治政府は撤兵交渉決裂の場合の清帝国との開戦も決し、「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末英国の仲介もあり清帝国は日本の出兵を「義挙」と認め、五十万両(テール)の賠償をする事で政治決着、植民兵は撤兵した。

この台湾出兵は琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌千八百七十五年(明治八年)琉球に対し清帝国との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清帝国との関係存続を嘆願、清帝国が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着は着かなかった。

また清帝国は以後日本の清帝国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなっている。


千八百七十三年の末になると朝鮮・李氏王朝の興宣大院君(フンソンデウォングン)は失脚し、王妃の一族・閔(ミン)氏が政権を握り、朝鮮国内でも通商開化を説く意見が登場し始める。

明治政府は千八百七十四年(明治七年)の年中から交渉を再開するがやはり紛糾した為、軍艦数隻を朝鮮国沿岸に派遣し海路を測量させて示威を行い交渉を有利に進める事とし、千八百七十五年(明治八年)軍艦・雲揚、第二丁卯の二艦を派遣した。

この軍艦・雲揚が同千八百七十五年九月、朝鮮国首都・漢城に近い要塞地帯であった江華島に接近し、発砲されたとの理由で三日間にわたり戦闘し永宗島の砲台を攻撃・占領する事件が起きた。

明治政府は同年の末に黒田清隆を特命全権大使に任命し軍艦三隻などの艦隊をともなって朝鮮国に派遣して砲艦外交に入り、その結果翌年の千八百七十六年春朝修好条規が調印された。

これは首都への公使駐在と釜山の他二港の開港と日本人の居留通商などを認めさせたが、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」としながらも第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約で在った。

さらに第七条では、日本が朝鮮国沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にする事となっていた。

なお「自主の邦」と規定したとは言え、清帝国は冊封関係に於いて従来から「属国自主」として内政・外交については関与しない立場を採っており、解釈上清帝国の宗主権を否定し尽くすものでもなかった。

ちなみに千八百八十二年の朝清商民水陸貿易章程では清帝国の宗主権が明文化されている。

江華島事件後の朝鮮国では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。

それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清帝国との対立も表面化して来る。


明治政府は千八百七十二年(明治五年)所謂(いわゆる)「琉球処分」を行い琉球藩を沖縄県とし、琉球王・尚泰の東京移住を命じるが、琉球内ではそれを不服とし明治政府に様々な嘆願を行い、また清に救援を求める人々も在った。

千八百七十九年(明治十二年)、清帝国は琉球との冊封関係の回復にむけ積極的になり、日清両国の関係は悪化する。

おりしも世界巡遊中の前合衆国大統領ユリシーズ・グラントが明治天皇との会見で西欧列強の介入を防ぐ為の日清両国の譲歩を助言した事もあり、千八百八十年(明治十三年)北京で日清の交渉が行われた。

この時日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とし、日清修好条規に中国内での日本人の通商権を追加する案(分島改約案)を提示し一旦はまとまる。

しかし清帝国は元来二島の領有を望まず、冊封関係維持の為に二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島に対する琉球人の反対もあり清帝国は調印に至らなかった。

この琉球問題の決裂と日本の台湾への野心の疑いから清帝国側ではこの後対日強硬論が唱えられるに至る。

この結果、領有権問題の解決は千八百八十四年(明治十八年)の日清戦争後まで持ち込まれる事になった。



その後の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)であるが、四年後の千八百七十三年(明治六年)、廃藩置県後に後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船二隻を入手し海運業を始める。

現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、この三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。

この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った事はつとに有名で、三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した。

結果的に坂本龍馬の「世界との交易」の夢はこの岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に引き継がれ、その交易力の国家的必要性から、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)がかなり強引な政治力を行使した。

最初に弥太郎(やたろう)が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時の事である。

新政府が通貨統一の為、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げる事を事前にキャッチした弥太郎は十万両の資金を都合してその藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であり、この行為は今で言うインサイダー取引であり、弥太郎は最初から政商として暗躍した。

弥太郎(やたろう)の三菱商会は、千八百七十四年(明治七年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得、千八百七十七年(明治十年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。

政府の仕事を受注する事で大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」と言う表現を良く使ったが、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。

農商務卿・西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎(やたろう)は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払っても良いが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

千八百七十八年(明治十一年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、千八百八十一年(明治十四年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎(やたろう)が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。

千八百八十二年(明治十五年)には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。

三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは二年間も続き、運賃が競争開始以前の「十分の一にまで引き下げられる」と言う凄まじさだった。

また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(三菱銀行に発展した事業)を考案し弥太郎(やたろう)は勝利した。

千八百八十五年(明治十八年)、こうしたライバルとの競争の最中、弥太郎(やたろう)は五十一歳で病死した。

弥太郎(やたろう)の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、この経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。



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(氏族の消滅と西南の役)

◆◇◆◇◆(氏族の消滅と西南の役)◆◇◆◇◆◇

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、日本の明治政府により行われた中央集権化事業の一つである。

江戸時代の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸幕府下の制度と思われがちだが、江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

江戸期の大半に於いて、厳密には「藩(はん)」は一部の学者などが書などで使用するのみで、江戸幕府下の体制で公式に「藩」という呼称はなかったが、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても可である。


千八百六十八年(慶応四年)、江戸幕府の解体により成立した明治新政府拠り初めて「藩(はん)」と言う呼称が公式に使用され、政体書に於いて地方制度では領主・大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治の形ちを残す府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)を確立する。

藩(はん)と言う俗称を継続させ、従来どおり大名が支配した事で一瞬俸禄(知行)安泰を錯覚させたこの「府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)」の巧みな施策、廃藩論者の伊藤博文や木戸孝允の意見を三条卿、岩倉卿、大久保利通、西郷隆盛ら新政府有力参議が知恵を絞った過渡期的な手段だった。

同年(明治元年)、藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設けて政府による藩統制が実施され、千八百七十一年(明治四年)には薩長土を主体とする御親兵とする軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制を確立している。

この「藩(はん)」と言う呼称に関しては、維新政府が領主・大名に拠る支配体制を切り替える為に旧家臣勢力の抵抗を逸らす為の便宜的な制度だった事は否めない。

つまり、明治維新後のに成って初めて「藩(はん)」と言う呼称が公式に使用されたが、実は廃藩置県で藩が消失するまでの僅か二年程度の行政区名称だった。



一連の維新政策の中には、「琉球処分」と言う特殊な事案も在った。

「琉球・沖縄史」としては、大分県に伝わる古文書・「上記(ウエツフミ)」には、弥生時代に本土から渡った日本人が沖縄を開拓し、「フタナギの国」と名付けたと言う記述がある。

この日本人は「葦原神(あしはらがみ)」と呼ばれ、南風原(はえはら)の鶴野(つるの)に祀られたと書かれている。

その後、漢の時代になって中国が「琉球」という名前に変えたとあるも、真偽のほどは証明されていない。

十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。

十四世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。

千三百三十六年には、大陸の明帝国・福建出身の客家から琉球へ渡来した久米三十六姓が琉球に渡っている。


琉球國(ルーチュークク)の正史・「中山世鑑」や「おもろさうし」などでは、千百五十六年、保元の乱で崇徳上皇方に属し奮戦して敗れた源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖・舜天(しゅんてん)になったとされる。

舜天(しゅんてん)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王とされている。

沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が二十五代続いた。

この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司(あじ)であった舜天(しゅんてん)とされている。

真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭(滝沢)馬琴の「椿説弓張月」を産んだ。

この曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

なお、千八百七年(文化四年)から千八百十一年(文化八年)にかけて、全五篇・二十九冊シリーズで発行された「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の挿絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の画作である。


琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、千四百二十九年から千八百七十九年の四百五十年間、沖縄本島を中心に存在した尚氏(しょうし)王統の王国である。

千四百二十九年に、南山の佐敷按司(さしきあじ)を出自とする第一尚氏王統の尚巴志(しょうはし)王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。

按司(あじ)の称号は、琉球王国の称号および位階の一つで国王家の分家にあたり、古くは地方の支配の王号の代わりだった。


三山統一によって成立した第一尚氏王統は、大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。

しかし、統一後も依然として地方の諸按司(しょあじ)の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施する事はなかった。

その為、王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては六十三年間で瓦解した。


千四百六十二年、尚泰久王(第六代)の重臣であった金丸(尚円王)が、尚泰久王(第六代)世子・尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。

第二尚氏王統初代国王・尚円(しょうえん)は、元々の名を金丸(かなまる)と言い、伊是名島の百姓の出自である。


尚円(しょうえん)の王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司(しょあじ)を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功する。

彼の治世において、対外的には千五百年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに千五百二十二年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。

第二尚氏王統は、千五百七十一年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。

琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となる事を強いられた。

だが、一方で国内では時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せたとされる。


当時の琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

琉球國(ルーチュークク)は、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。

この統治範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。

王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。

琉球國(ルーチュークク)は小さな離島の集合が勢力圏で、総人口十七万に満たない小さな王国ではあった。

だが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家・マラッカ王国との深い結び付きが知られる。


琉球國(ルーチュークク)は、外交的に貿易上の理由から、明国及びその領土を継承した清国の冊封を受けたりしていたが、千六百九年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入る。

ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


十六世紀後半(千五百九十年代)、豊臣秀吉が明国とその進路にある李氏朝鮮国を征服しようとして琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国で在った為に琉球国王は一旦拒否する。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正、福島正則、小西行長、黒田長政、浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出す。

一旦拒否した琉球王国は、文禄・慶長の役で日本が実際に朝鮮半島に攻め込んだ時には、日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。

その後豊臣秀吉の死去により、関ヶ原合戦を経て日本の支配者は徳川家康に移る過程を辿る。

千六百二年、仙台藩伊達氏領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、千六百三年に琉球に送還される。

以後、薩摩藩島津氏を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

この背景には、戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求していた。

しかし琉球側が、これを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつ在ったからである。

こうした両者の、元々在った緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられている。

千六百八年九月には、家康と徳川秀忠が舟師(しゅうし/水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて僧・大慈寺龍雲らを遣わす。

僧・大慈寺龍雲は、琉球王国・尚寧王(しょうねいおう)及び三司官(宰相)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭した。

三司官(宰相)の 一人で久米三十六姓の末裔の政治家・謝名利山(じゃなりざん)は聴従せず、かえって侮罵(ぶば/あなどりののしる)に至り、大いに使僧を辱めた。

こうして遂に、徳川家が江戸幕府開府した千六百三年(慶長八年)から六年後、徳川幕府から琉球征伐の御朱印が、薩摩藩島津氏に下る事となった。


千六百九年(琉球暦万暦三十七年・和暦慶長十四年)薩摩藩島津氏は三千の兵を率いて三月四日に薩摩を出発し、三月八日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍する。

三月二十六日には沖縄本島に上陸し、四月一日には首里城にまで進軍する。

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い四千の兵士を集めて対抗したが四月五日には敗れ、薩摩藩軍が首里城を陥し、和睦を申し入れた琉球国王・尚寧を捕らえ首里城は開城した。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、また徳川幕府に使節を派遣し江戸へ上った。

その後琉球王国は、明国に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清国にも朝貢を続ける。

つまり琉球王国は、薩摩藩と清国への両属という体制をとりながらも、独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離された。

だが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。


千八百五十三年(琉球暦:咸豊三年、和暦:嘉永六年)五月、薩摩藩の付庸国・琉球へ黒船が来航する。

アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。

黒船は翌千八百五十四年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。


千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。


千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に「陞爵(しょうしゃく/昇格)」して華族に列した。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

その為千八百七十九年三月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて約六百人を従えて来琉、武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達する。

武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達、処分官・松田道之は首里城明け渡しを命じ、四月四日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされる。

沖縄県令として前肥鹿島藩(佐賀藩の支藩)前主の鍋島直彬が赴任するに至り、第二尚氏王統の琉球支配は終わった。

旧琉球國(ルーチュークク)の王族は、日本の華族とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。

外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展した。

だが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。


なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の人物も存在している。

しかし、過去の冊封関係を持って領有権主張の根拠とするなら、朝鮮半島も、現在独立している周辺国もその冊封関係国の範疇にはいる。

つまり、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も明らかではない。



明治新政府が行った制度改革で、廃藩置県及び帯刀禁止・禄の支給(知行地召し上げ/秩禄処分・ちつろくしょぶん)と双璧を為すのが官吏制度(かんりせいど)と言う役人の登用方法である。

維新政府を成立為し得た下級武士達の真っ先に臨んだ改革対象が役人の登用方法で、維新前の上級役人の登用は江戸幕府成立時点での氏族の家格が連綿と続く家柄と言う理不尽な制度だったからである。

我が国の「国家公務員上級職試験」は、明治維新政府が永く続いた氏族の血統支配体制を変え新しく公務職員を広く人材を登用する為、官吏制度(かんりせいど)を制定した事に始まっている。

維新政府で権力を握った勤皇の志士が氏族の血統支配体制に辛酸を舐めて来た下級武士だった事から「在野に優秀な人材が居る」と言う思いが強かった。

明治維新後に成立した戦前の公務員制度は「官吏制度(かんりせいど)」と呼ばれ、官吏(かんり)は武官と文官に分類される。

武官の大半は旧倒幕軍の中心だった薩長土肥の四藩出身者が多く、文官は帝国大学令を定めて東京大学を帝国大学とし、官吏養成機関(主として文官の養成機関)とした。

その後「文官試験試補及見習規則」を定め、これに基づく試補試験を実施して各省は試補として採用するべく、一応この試験は専門学校(後の私立大学)出身者にも受験資格を付与した。

専門学校(後の私立大学)出身者にも受験資格を付与したのだが、帝国大学の法科大学・文科大学の卒業者はこの試験を経(へ)ずに各省の試補として採用されこちらの方が採用人数は多かった。

それらも在って、入省後は学士試補(帝国大学卒業者)が主流で試験試補(私学出身者)は傍流と言う実質的な差別待遇も行われ、後の官学・私学による待遇格差の遠因となる。

まぁ帝国大学(後の国立一期校)は最初から官吏(かんり)養成学校だった訳で、その流れが現在まで続いて居て、教える教官(教授)も採用する省庁担当者も採用される方も東京大学卒業者が圧倒的に多いのである。

ここで言って置きたいのだが、それでも旧帝国の入学試験及び入学後の教育には哲学思想を含む言わば人間としての資質に重点を置いていたのだが、戦後から現在の日本の「国家公務員上級職試験」は、どうも学力に偏重している感がある。

また、焼け跡から立ち上がった戦後の親は「勉強すれば金持ちになれる」と育てて来た。

とにかく明治新政府の在野の優秀な人材登用は、この官吏制度(かんりせいど)に依って確かに血統支配体制を破壊させ新しい時代の担い手を育成登用する事には成功した。

だが、一方で「帝大学閥(現東京大学)」と言う新たな利権と既得権益を独占する継承行為が歴然と続いていて、歴代国民の常識とは懸け離れた考え方を醸成しているから内部からの自浄能力に欠如している。

世の中には「官僚にも良い人は居る」と仰(おっしゃ)る方も居られ、確かに人間のひとりひとりは会えば皆良い人の側面は持っている。

しかしそれは綺麗事で、官僚と言う職責に関しては組織としての自浄能力が欠如している以上は全員同罪で、国民への行政サービスや無駄な予算削減よりも既得権益の確保が最優先の東大閥(旧帝大学閥)のDNAを受け継ぎ続けている官僚に良い人間など一人も居ない。

ところが困った事に「お上のする事に失敗は無い」と言う明治政府以来の建前の考え方が公務員制度には存在し、例え人命に関わる公務上の失敗でも直接的な違法行為で無い限り罪には問われない。

民間会社ではクビの失敗でも減給処分程度で済ませてしまう。

つまり公務員は、クビにも降格にも出来ない「身分保障制度」が制定されて守られているのである。

勿論彼らは、自らの襟は正す事無く民間での失敗に関しては省庁の職務権限で厳しく取り締まり厳しく処分する。



通常の理屈ではどうしても理解出来ないのが、西郷隆盛の薩摩挙兵(西南戦争)である。

まさか薩摩私学校の軍勢が、東京に攻め上れるとは西郷も最初から考えている訳が無い。

何故、西郷隆盛ほどの男が負け戦を承知で維新政府と事を構えたのだろうか?

結論は一つ、西郷隆盛は自分が魂を吹き込んだ新政府の為ならどんな事でもやる男だったのだ。

鎌倉・室町と言う旧来の幕府政権の慣例として、徳川将軍家は朝廷軍の最高位・征夷大将軍を任じて「徳川幕府」と言う政権を担った。

維新新政府の組織は確かに過去と違うが、西郷隆盛は新政府唯一の大将位で軍を統括する立場にあり、本来なら新政権で最有力の権力に在って不思議は無い。

それがアッサリと軍を辞任した事で、敢えて過去とは違う「天皇親政」を強力にアピールする効果を意図して狙ったのではないだろうか?

理性では割り切れない事も、感性の思い入れが強ければ理解できる。

つまり西郷にとって明治維新は、自分が生み出した身を棄てても(自らを犠牲にしても)惜しくは無い心境の、歴史そのものだったかも知れない。


無鹿(むしか)は百年ほど前、日本最後の内戦(西南戦争)の主戦場だった。

天孫降(光)臨の伝説の地であり、あの大友宗麟が異教(キリスト教)の「理想郷にしよう」とした地が無鹿(むしか)である。

この無鹿(むしか)の地、今訪れると川に沿った水田に囲まれる静かな住宅街で、激しい戦乱の地と成った歴史の舞台とは思えないのどかな佇(たたず)まいである。

明治時代初期に起こった「征韓論」では、竹馬の友(異説有り)であり同志で在った西郷隆盛と大久保利通が対立し、内乱(西南の役)に発展、維新の英雄「西郷隆盛」は、城山で非業の死を迎えている。

或いはスサノウが「大久保利通」に宿り、無二の親友を殺させても、「倭人相打つ」を阻止したのかも知れない。


千八百七十一年(明治四年)条約改正の為に、明治新政府の要人(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)から成る「外交使節」を欧米各国へ派遣する。

その留守の間は留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)が新政府の運営を担い政策を実地していた。

主なものとしては府県の統廃合(三府七十二県)、陸軍省・海軍省の設置 、学制の制定 、国立銀行条例公布 、太陽暦の採用 、徴兵令の布告 、キリスト教禁制の高札の撤廃 、地租改正条例の布告 などの政策が施行されている。


実はこの頃、南朝方(後醍醐帝方)に与力した楠木正成、新田義貞、北畠顕家らが忠臣として復権され、明治五年の楠木正成(湊川神社)、明治九年新田義貞(藤島神社)、明治十五年北畠顕家(阿倍野神社)と次々に神社が建てられて祀られている。

更に明治天皇の特旨により新田家(新田義貞の子孫、男爵)、名和家(名和長年の子孫、男爵)、菊池家(菊池武光の子孫、男爵)など、南北朝時代に南朝方忠臣であった子孫が、特別の計らいで華族に叙せられている。


維新政府成立直後の未だ新政府の足元も固まらない時に、この力の入れようは何だったのか?

つまり明治維新政府は、南朝方(後醍醐帝方)の復権をかなりの優先事項として取り組んでいた。
この謎は大きい・・・・。

明治維新成立と同時に突然浮上した、江戸期の北朝系天皇の下では賊軍だった南北朝期の南朝方忠義の臣達の物語に、いったい何が込められていたのか?

この事は、明治帝入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。


千八百七十三年(明治六年)、大久保利通ら外交使節団組(外に岩倉具視、木戸孝允・伊藤博文ら)が帰国すると、世に言う「征韓論」で留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)と意見対立、陸軍大将・参議・西郷隆盛は下野して故郷の薩摩(鹿児島)に帰省してしまう。

「征韓論」の端緒と成った対朝鮮問題は、千八百六十八年(明治元年)に当時の李氏・朝鮮王朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶した事に端を発している。

明治新政府としては最隣国の李氏・朝鮮王朝が「国書の受け取りを拒絶した」と成ると、当然ながら放置しておく訳には行かない。

李氏・朝鮮王朝に新政府が侮辱された訳だが、西郷隆盛の真意が行き成りの「征韓」に在ったかどうかは学者の意見が分かれ、現在では「征韓」では無く「国交樹立使節派遣の意志だった」と言う説が有力である。

但しこの李氏・朝鮮王朝に対する「国交樹立使節派遣」は、相手の出方に拠っては交戦の事態を招く危険が大きかったのは事実で、見聞を広めて帰国したばかりの外交使節団組の危惧も当然の意見だった。

下野した西郷隆盛は四年後の明治十年、青年氏族に押されて薩摩にて挙兵する。


ご存知の通り、大久保利通は西郷隆盛と同じ薩摩藩士で、明治維新の立役者の一人である。

定説では西郷の盟友としてともに維新に尽力したが、維新政府設立後はその国家運営(征韓論/異説あり)で西郷と対立し、袂(たもと)を分けた事に成っている。

明治新政府に叛旗をひるがえした薩摩西郷軍が熊本で敗れた後、官軍との勝敗の行方を決める「最後の決戦」をして、無残に破れた所が「無鹿(むしか)の地」だった。

そんな昔の話は、その無鹿(むしか)に住む若い人達にも、もう知らない歴史になってしまった。

無鹿(むしか)の地に沿って流れている川がある。

川の名を「北川」と言う。

この北川沿いの山道を遡って行くと、延岡市を外れ北川町に入る。

遠藤周作先生の「無鹿」では、俵野、長井、可愛(えの)などの、北川町の「大字、小字の名」が登場する。

山間の町北川は、「無鹿(むしか)、和田越え」の戦で破れた西郷隆盛が、大将の軍服を焼き自軍の将兵に解散を布告した地である。

思えば西郷隆盛は、何に引き寄せられてこの無鹿(むしか)の地に至ったのか。

出来過ぎた話しと言えばそれまでだが、ある意味無鹿(むしか)は特別な因縁の地かも知れない。

この無鹿(むしか)の決戦に敗れたのを境に西郷軍は敗走を始め、天孫降臨伝説の地を転戦しながら、追われるように可愛(えの)岳を越え、苦難のすえに薩摩(鹿児島県)に押し戻され、残兵四百足らずで城山の地に篭(こ)もる。


風にザワザワとざわめく原生林の下を、西郷隊の敗走行軍がトボトボと続いている。

「百姓町人の軍隊などに負ける訳がない」と意気込んでいた薩摩・熊本・日向の武士達が、気力も失せる手酷い憔悴感に襲われて、時折漏れる穏やかな陽光とは裏腹の絶望に満ちた空気が彼等を覆っていた。

参たる情況の行軍の夢にうなされていた西郷は、砲声で目を覚ました。

ここは、城山だった。

強行軍で疲れ果て、不覚にも寝入って夢を見ていたのだ。

忘れられるものではない。

西郷が夢に見るのは、あの屈託無い坂本竜馬だった。

不思議な事に、夢の中の竜馬はいつも上機嫌で笑っていた。

過ぎし時の、見る夢は熱く愛しい日々だった。

夢の中で自分は、竜馬の奇想天外な申し出に、「またで、ごわすか?」と、苦く笑っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい埋め合わす事の出来ない現実が、西郷の胸を過(よ)ぎる。

西郷は竜馬の死を、心底惜しんでいた。

西郷には、自分が生き方を変え違う世界に生きる事は卑怯に思え、赦される選択ではなかった。

「維新の大望の為」とは言え、西郷が生き方を変えるには、余りにも多くの死と引き換えに此処まで来ていたのだ。

「坂本竜馬・・・あげな良か男ば死なせ申した。まっこと惜しかでごわす。」

西郷は死を賭(と)して、夢の続きに幕を閉じる決意をしていたのである。


鹿児島市中央部に在る城山は鹿児島城(鶴丸城)の裏手の山で、元々万が一の時には後詰めの城域として使う為に軍事整備された城郭部を持つ「上之山城」で在った。

田原坂の攻防に敗れた薩軍は、人吉、小林、宮崎と敗走を重ね、難路・可愛岳(えのだけ)越えを敢行して出陣から七ヶ月後に故郷鹿児島の城山に辿り着き立て篭もった。

一時三万人まで膨れ上がった薩軍兵力は、城山に辿り着いた時には僅か四百名にまで減少し装備も百五十挺の先込め小銃と数門の砲、一方、城山を包囲する政府軍は五万の大軍だった。

城山を包囲した政府軍は、千八百七十七年九月二十四日午前四時の号砲を合図に総攻撃を開始、西郷軍も徹底抗戦するが次々と陣地を破られ、包囲網は縮まって西郷自身も大腿部を銃撃され歩行困難となるなど惨憺たる戦況となる。

自分の役目が終わったと感じた西郷は自らも数箇所傷つきながら、心静かな安らぎの中に最期を迎えようとしていた。

死を目の前に、西郷隆盛が心穏やかな気分に成ったのは久しぶりだった。

「わー」と言う辺りを威圧する時の声。

時折響く「ど〜ん」と言う不気味な砲声。

「どし〜ん」着弾の音、舞い上がる砂埃。

「だぁ〜ん」銃声の先で「バタッ」と倒れる兵の姿。

乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響きが、遠く近く聞こえながら迫って来ていた。

西郷隆盛は傍らの別府晋介に声をかけ、「晋どん(別府晋介)、もうここいらで良かでごわはんか。」と介錯を頼み、自刃する。

西郷が自軍の将兵に解散を布告した北川の地から可愛岳(えのだけ)越えを敢行して終焉の地城山まで従った四百名の中には薩軍幹部・村田新八(むらたしんぱち)、篠原国幹(しのはらくにもと)、桐野利秋(きりのとしあき)、池上四郎(いけのうえしろう)等が居て最後は四十数名が残って居た。

その残っていた四十数名が、城山陥落時は西郷隆盛の自決を見守った後に岩崎口の塁をめざして進撃、途中、弾雨の中で自刃、刺し違え、或いは戦死した。

西郷隆盛はこの城山の自刃で、自らが生み出した維新政府と言う作品に、密かに魂を入れたのかも知れない。

理性では割り切れない事も、感性の思い入れが強ければ理解できる。

今一度言うが明治維新は隆盛にとって、自分が生み出した身を棄てても(自らを犠牲にしても)惜しくは無い心境の、歴史そのものだったかも知れない。


この西南戦争、巷に溢れる諸説は本当なのか、「この戦役は、西郷隆盛の死を覚悟した計画的出来レースで有った。」と言ったら、貴方は信じるか。

実は、そう読めない事も無いのだ。

西郷隆盛は、象皮病(フィラリア症)と言う難病を患っていた。

そしてもしも隆盛が、新政府の政務に自分の身の置き所が見出せず「引き際を考えて居た」としたら・・・・。

また、明治維新の大業を為したとは言え、多くの血を流した将として燃え尽き、死を望んで居たとしても、心情的には無い訳では無い。

西郷は、自らの役目が「終わった」と感じていたのだ。


明治新政府が新たな政治体制を確立する為には産みの苦しみが必要で、武士を中心とした旧体制は早急に葬る必要が在った。

そして如何なる政策変化にも百パーセントの合格政策は無い。

何故なら、政策の変更には必ず損する者と得する者が在るからで、そこを恐れては政治改革など出来ない相談である。

しかしながら、政策の変更で損する者はそれでは収まらない。

それがこの時は、武士と言う特権階級を失う者達だった。

確かに、もし西郷隆盛が単に政府に不満が在るだけならば、先見を持つ隆盛が、敗けると予測が立つ「西南の役蜂起」はまるで説明が着かない。

だからこそ西郷隆盛は、己の死をもってその責めを負う覚悟を決断した。

現に武力に拠る組織的な反抗は、封建武士の不満を一身に請負った西郷隆盛の死に拠って収まっている。


何時の時代でもそうだが、政権交代は武力の素養に勝る者で成されても、混乱が収まると次は官僚の素養に長ける者の出番である。

つまり、必ずしも同じ者に継続してこの二つの役割を勤める資質が有る訳ではない。

この両者の軋轢は、その節目の過渡期には必ず現れるものだった。

その時点で、身の置き所を失う名将を、歴史は「嫌」と言うほど見詰て来て居た。

その内の一つが、まさに西郷の始末の付け方だったのである。


近代化を進める明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。

この発布された二つは帯刀・秩禄処分(ちつろくしょぶん/禄の支給と知行地召し上げ)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が千八百七十六年(明治九年)に実施した旧幕藩体制での秩禄給与の全廃政策である。

秩禄(ちつろく)とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称である。


簡単に言えば、この政策は各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。

「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。

その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県氏族の萩の乱が立て続けに起こっている。

その士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱が「西南戦争」と言う訳だが、この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。

即ち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものなのである。


実は西郷自身が四民平等・廃藩置県に反発する旧薩摩藩士族の中に、禁門の変から戊辰戦争まで西郷指揮下で戦った心情的に心痛める部下が数多く居た。

「あん無骨者等は根からの武士で、新かごたる事バ言うても通じ無か。」

村田新八(むらたしんぱち/元宮内大丞)、篠原国幹(しのはらくにもと/元帝国陸軍少将)、桐野利秋(きりのとしあき/元帝国陸軍少将)、別府晋介(べっぷしんすけ/元帝国陸軍少佐)、池上四郎(いけのうえしろう/元帝国陸軍少佐)等である。

「おいどんが一緒にあの世に付き合うが、一等良かたい。」

もう充分に生き、本懐は遂げて新政府の樹立まで漕ぎ着けたのだから西郷に死は恐ろしくはない。

西郷は密かに、生きる場を失った彼等と共に死ぬ事を考えていた。

西郷の手に握られていたのは、あの「賀茂の錫杖と空海の独鈷杵」だった。

「こげな物騒なもんば、もう良か。おいどんが冥土ばお連れするでごわしょう。」

乱世に咲く花は、乱世にしか咲く場所がない。

西郷は、確信をもって自らの運命を決した。

西郷は、賀茂の錫杖と空海の独鈷杵を自分が道連れにして武士の時代の終焉を図る事にした。

そして明治政府の権威確立の為に、特権と俸禄を取り上げられた「不平士族」を納得させる為に命を賭けた大芝居を打った。


西郷隆盛には、薩摩藩以来の盟友・大久保利通が居る。

大久保家の家格は、御小姓与と呼ばれる下級藩士の身分で在った。

利通は千八百三十年(文政十三)に薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれた後、幼少期に「西郷が住む加治屋町に引っ越した」として「幼少期に西郷隆盛と共に学問を学び親友となる」と言う記述が多いが、幼馴染説の辻褄合わせでその事実はない。

加治屋町郷中時代の西郷の記録には大久保に関する記述はなく、また大久保側にも加治屋町郷中時代の記録も幼少期に西郷と接触した記録もないのである。

例え引っ越しが事実としても、文政十年生まれの西郷隆盛と文政十三年生まれの大久保利通では、ほぼ三歳の年の差(二年十ヶ月)があり、事実西郷は十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

凡そ十四歳位で元服する時代に幼馴染みとしての接点は互いの幼少期の時期的に見出せない。

生まれた場所も育った環境も大きく違い、大久保と西郷は青年期に成るまで「ろくな面識は無かった」と言う地元の研究者の成果が事実である。

大久保利通は千八百四十六年(弘化三年)から藩の記録所書役助として十六歳で出仕、薩摩藩内の出世に注力して藩内での力を着け、千八百六十二年(文久二年)利通が三十二歳に成って初めて島津久光を擁立して岩倉具視らと京都の政局に関わりを持ち始めている。

つまり大久保と西郷の間柄は、たまたま激動の時期に薩摩藩に二人の秀才が同時に現れ、途中から倒幕の志を同じくして協力し合うように成っただけの事だった。

大久保と西郷は幕末の動乱期に同じ藩に在して同じ志であったから、倒幕の為に活躍する様になって力を合わせた盟友には違いないが、幼い頃からの「竹馬の友」は酷い誤報である。

大久保利通は、元服時に通称を正助、「諱」は利済(としさだ)と名乗るが、後に藩主の父・島津久光から異例の抜擢を享け、一蔵の名を賜りこれを通称する。

その後時期は不明だが「諱」を利済(としさだ)から利通(としみち)に改名する。

この大久保利通、人情派の西郷隆盛とは正反対の秀才肌・理論派のキツイ性格で余り周囲の人気は無かったが、とにかく「権力欲と実行力は強かった」と評されている。

思うに「秀才肌・理論派」と言う大久保利通は、タイプとしては石田三成型かも知れない。

我輩はその大久保利通の性格から、噂される坂本龍馬暗殺の薩摩黒幕説の張本人が、案外「利通ではなかったのか?」と疑っている。


実は、西郷隆盛の「征韓論」の頑なな主張と参議を辞しての下野、薩摩(鹿児島)への帰省そして挙兵には、真相が他に有った。

とにかく西郷は「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)」が口癖である。

維新後、明治政府の担当官が西郷吉之助・隆永の名を父親の名・隆盛(たかもり)と間違えて政府参議の登記したのを後で知った時も「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)」と寛容だった。

鹿児島私学校の職員・生徒が負けると判っている西南戦争(西南の役)を起こした時も「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)」と、名前にも生死にも拘らなかった。

その西郷隆盛が他に何か別の目論見が無くて、「征韓論にだけ拘った」とは、とても思えない。


西郷隆盛の屋敷に、外交使節から帰国したばかりの大久保利通が、内密に尋ねて来た。

「一どん(一蔵)、異国で骨バ折っての無事なお帰り良かでごわす。」

西郷は利通の事を、通称の一蔵を略して「一どん」と呼んでいた。

西郷は、決意を秘めて大久保と対峙していた。

西郷のねぎらいに、大久保は開口一番悩みを口にした。

「西郷ドン、朝鮮国の相手どころではナカぞ、日本中のさむらいば、不平不満が出ちょるバイ。」

不平士族の不満や反乱が全国各地で騒動を引き起こしていた。

これは大久保から留守を預かっていた西郷達留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)の責任である。

「面目無か、良〜知っちょるでごわす。」

「欧米は実に進んじょるけに、こんままでは立ち遅れて飲み込まれるでごわ。国内バ早うまとめにゃならんバイ。」

「朝鮮国のコツは後回しでごわっか?」

「今、朝鮮国と事を構える余裕は無かバッテン、西郷サーもおたの申すバイ。」

眼前のこの男、何しろ理論家のクールな交渉役が得意で、事を冷静に処理するから、こちらの真意を告げても取り乱す事はない。

「そげんならば、一どん(一蔵)、知恵ば使い申して武士の葬式ごたるもんば、出さんと遺憾バイ。」

「そん武士の葬式ば、おはんはどげんしたら、良かとか?」

「一どん(一蔵)が帰ったバッテン安心じゃけ、以前から考えちょった事を実行バするけに。」

「しっかし、そいは難題でごわすぞ。」

「良か、良か、おいがそん葬式ば出しちょるけん、おんしらには新政府ばしっかとおたの申すバイ。」

「何か、策が有りもうすか?」

「容易(たやす)か、おいが薩摩ば帰って賊徒に成りもっそう。」

「西郷サー、賊徒バ言い出しちょって、それはいったいどげんこつでごわっか?」

「謀事じゃけに、こん事は一どん(一蔵)だけの腹に仕舞ってたもせ。」

西郷から「賊徒に成る」と聞いて、流石の大久保もたじろいだ。

「おいが西郷サーにそげんこつばさせられんでごわ。」

「一どん(一蔵)、オィが捨石に成りもはん。囲碁バ打つんでも捨石バせんと良か上がりには成りもさん。」

「バッテン西郷どん。オィはオハンを捨石バできもさん。」

「なぁ〜が一どん(一蔵)、承知のごたるおいが持病、どうもかんばしゅうは無かでごわ、天子様ばご奉公はこれが最後でごわ。」

話を聞いて、利通は全てを悟った。

「聞かんお人でごわ、どうやら、止めても無駄なごたる・・・」

「ソゲンでヨカゴワス(それで良いです)タィ。おいは、遠(とお)に命バ捨てて居り申す、この上は・・・お上への最後のご奉公に、ガス抜きばして行きもうさんと思うごわす。おいどんが指揮バする士族相手に、新政府の〜民兵の強かごタルを天下に知らしめるが良かですたい。」

世間を欺(あざむ)かねば、事は成らない。

参議・西郷隆盛は一計を案じて一芝居打ち、「征韓論」を強行に主張して下野して見せた。


西郷は欧米列強に伍する国家体制を確立する為に、血統のみを頼りにした旧来からの特権階級・武士の特権を、「無し」と改める必要を強く感じていた。

その為には、古い「武士」と言う階級の存在が、「不要なもの(役に立たない)」として終わった事を示さなければ成らない。

当時最強と謳われた「薩摩藩兵」が、明治政府の民兵に敗れなければ各藩の不平士族は納まりそうも無かったのである。

すなわち西郷は、改革に伴なう痛みとして西南戦争を引き起こした。

しかし最近の小泉総理とは違い、痛みを伴なったのは庶民ではなく既得権にしがみ付く特権階級の方だった所が西郷の英雄たる由縁である。


逃げるを「恥」とするのが武士たる者の本分である。

誇り高き武士(さむらい)西郷隆盛は、その現実から逃げなかった。

西郷の想いでは、少なくとも「武士の俸給を取り上げる」と言う改革の責任を誰かが取らねば成らなかったのだ。

しかしそんな品格を兼ね備えた武士(さむらい)など、現代に何人いるだろうか?

いや、当時としても西郷隆盛は、数少ない武士(さむらい)だった。

西郷が、私心を捨てられる人物だったからこその、リーダー足り得た維新の偉業である。

元々西郷の心に在ったのは、純真に「西欧列強から国を守る為の思い」であり、自らの出世欲ではない。

その私欲の無さが認められていたからこそ、西郷は維新の中心人物足りえた。

政権の中心に座っても、その西郷の気持ちにブレはない。

新政府の目先の難題は、失業し特権も取り上げられた不満士族(氏族)だった。

今、不満氏族に圧されて振り子が旧来の封建社会の世に振れ戻ったら、維新は文字どうり水泡に帰す。

「彼らを黙らせなければ成らない。」


西郷は新しい考え方が出来る人間だったが、自らの生き方の基本には武士の思想をも大事にしていて、自分は武士として死ぬ事を望んでいた。

日頃、「新か国バ成し申したが、武士としてのおいドンは、主家の島津ば潰してしもうた。公にはお詫びせねバならんでごわす。」と言っていた西郷の鬼気迫る決意に、周りは押し留める事も出来ない。

西郷隆盛は、始めから「勝てない」と判っていて不満不平の鹿児島士族に依る武装蜂起の頭目を引き受けた。

隆盛の西南戦争於ける「敗戦覚悟の蜂起」の裏には、成し遂げた維新大業の名声と陰嚢(睾丸)が肥大化する奇病との板ばさみが在った。

隆盛は流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫と言う寄生虫に感染し、この感染の後遺症で、象皮病(フィラリア症)を患っていた。

象皮症(フィラリア症)とは、寄生虫によって引き起こされる足や陰嚢(睾丸)に巨大な腫瘍を生じ、肥大化する奇病である。

晩年は、隆盛の陰嚢(睾丸)が人の頭大に腫れ上がっていた為に晩年の隆盛は馬に乗る事が出来ず、移動手段はもっぱら駕籠だった。

病とは言え、笑えない八畳敷き(たぬきのナントカ)、鼻付きの象(エレハントマン)で、隆盛のプライドは穏やかでは無かった筈である。

今と成っては本人の心情を推測する他(ほか)無いのだが、その陰嚢(睾丸)肥大と言う外聞が悪い症状は、内心武士として潔(いさぎよし)しとは出来なかったのかも知れない。

西南戦争に於いて城山で自害し、何者かが介錯して首を持ち去った首のない死体を、隆盛本人のものと特定させたのはこの巨大に膨れ上がった陰嚢(睾丸)であった。

つまりかなり不自由な生活を強いられて生きるに疲れていた隆盛が、「命を賭して維新の仕上げをした」とは考えられないだろうか?


どんな人物の人生でも、得る物が有れば失う物もある。

英雄と言われた男の得た物の大きさだけ、西郷の失った物も大きかったのかも知れない。

西郷隆盛が栄光の果てに見た物は、いったい何んだったのか?

いつの世でも、権力者は知略謀略に長(た)け強(したた)かな者でなければ成れない。

それにしても西郷隆盛は純粋過ぎ、その純粋故に隆盛の人望は本物だったのかも知れない。


実弟の西郷従道は、兄・西郷隆盛下野後も維新政府に留まり、近衛都督として政府軍の要職に在った。

「諸国の不平士族がごたる輩ば、おいどんの体一つと交換で済めば安いモンでごわす。」

西郷隆盛が、薩摩藩の盟友・大久保利通、実弟の西郷従道らに、「事前に指示していた」とすれば、見事な本物の武士である。
,br> 肝の据わった西郷の高笑いが、聞こえて来るようである。


千八百七十七年(明治十年)鹿児島を発した薩軍(西郷軍)三万は北上し熊本鎮台司令長官陸軍少将・谷干城(たにたてき)が篭る熊本城を包囲して攻めたのだが、平民主体の軍と侮った薩軍(西郷軍)は、加藤清正の築城した名城の攻略に思わぬ苦戦を強いられる。

薩軍の総司令を兼ねる指揮官として熊本鎮台を包囲攻撃した桐野利秋(きりのとしあき/元帝国陸軍少将)は池上四郎(いけのうえしろう/元帝国陸軍少佐)と共に正面軍を指揮したが、熊本城は堅城でとてもすぐには陥ちそうもなかった。

熊本城を包囲して攻め、手間取っている間に官軍が南下、官軍小倉連隊の援軍がやって来た為、薩軍はこれを阻止せんと植木町・田原坂に陣を張り迎え撃つ事にした。

熊本城の包囲戦にそれを迎え撃つ田原坂の戦い他で敗れた薩軍が熊本城の囲みを解いて木山に退却した時、桐野利秋は殿(しんが)りとなり二本木で退却軍を指揮した。


この熊本篭城戦に、後の名将・児玉源太郎(こだまげんたろう)が陸軍少佐・熊本鎮台参謀副長として参加している。

東郷平八郎、乃木希典、大山巌らと共に日露戦争の英雄として有名な児玉源太郎(こだまげんたろう)は、千八百五十二年(嘉永五年)、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩「徳山藩」の百石取り中級武士・児玉半九郎の長男として生まれる。

父・半九郎とは五歳で死別し、姉である久子の婿で家督を継いだ児玉次郎彦に養育されて居たが、源太郎が十三歳の時にこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され家禄を失った一家は困窮した。

千八百六十八年(明治元年)、児玉源太郎(こだまげんたろう)は長州藩官軍の下士官として函館戦争に初陣参加した後、新政府陸軍に入隊する。

千八百七十四年(明治七年)の佐賀の乱には、源太郎(げんたろう)は大尉として従軍したが戦傷を受けている。

熊本鎮台准参謀時の千八百七十六年(明治九年)には神風連の乱鎮圧、陸軍少佐・熊本鎮台参謀副長時の千八百七十七年(明治十年)には西南戦争・熊本篭城戦に参加する。

西南戦争・熊本篭城戦では鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護り切る。

この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。



官軍と薩軍が田原坂に対峙した時、田原坂は激しい雨に見舞われていた。

「晋どん、雨でごわんな。」

西郷は傍らの別府晋介(べっぷしんすけ/元帝国陸軍少佐)に声を掛けた。

「運が無か、先込め銃が使えんでごわ。」

田原坂は標高差六十mのゆるやかな坂で、一の坂、二の坂、三の坂と頂まで長さ一.五kmの曲がりくねった道が続く。

この道だけが唯一大砲をひいて通れる二間(三〜四m)ほどの道路幅であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は薩軍(西郷軍)に包囲された熊本城まで進めなかった。

明治十年三月四日、薩軍(西郷軍)に取っては進軍の、官軍にとっては熊本城篭城軍の生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地でこの在ったが為に南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍(西郷軍)がこの平凡な坂道を激戦の舞台とした。

この田原坂の攻防が、三月四日〜二十日までの十七昼夜に及び、一進一退の攻防を繰り返し両軍合わせて一万人余の戦死者を出した西南の役最大の激戦地と成った。

三月二十日に到って官軍は総攻撃をかけ薩軍の防衛陣はついに陥落、薩軍は田原坂の激戦に敗れて熊本城の包囲を解き、矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て五ヶ月、八月二日、薩軍(西郷軍)は宮崎県延岡に転戦する。

西南戦争最後の激戦は延岡・無鹿近くの「和田越の決戦」で、その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、西郷は解軍の令を出す。

その後薩軍(西郷軍)は官軍包囲を可愛岳(えのだけ)越えで突破、九州山地を敗走して山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで半月近く続く。


西南戦争時の熊本鎮台司令長官として西郷軍から熊本城を死守した名将・谷干城(たにたてき)は、土佐の国人領主で神官の名流・谷氏の末裔である土佐藩士だった。

谷氏は、土佐の国人領主から戦国大名に成った長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)が「元は土佐国の神官で在ったが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる。

そうした所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測され、谷干城(たにたてき)本人もその血流を名乗っている。

谷干城(たにたてき)は、千八百三十七年(天保八年)土佐藩士・谷万七(たにまんしち)の第四子として高知城下に生まれた。

干城(たてき)二十二歳の千八百五十九年(安政六年)江戸に出て安井息軒の弟子となって学んだ後、土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となる。

干城(たてき)は土佐勤皇党の武市半平太と知り合って友人となり尊王攘夷運動に傾倒するも、千八百六十六年(慶応二年)藩命で長崎を視察した時、そこで後藤象二郎や坂本龍馬と交わって攘夷拠りも次第に倒幕へ傾いて行った。

千八百六十七年(慶応三年)には、盟友の坂本龍馬や中岡中岡慎太郎がともども土佐藩から脱藩罪を赦免された為、谷干城(たにたてき)は再び江戸に出て西郷隆盛と会い、奔走して土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指した。

この年、京都近江屋に滞在中の盟友・坂本龍馬が何者かに襲われて斬殺され、同席していた陸援隊・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)も重傷を負った時、干城(たてき)は駆けつけて落命前の中岡から襲撃時の情況を聞き取っている。

その後谷干城(たにたてき)は、翌年(明治元年)の戊辰戦争で官軍の大軍監として北関東・会津戦線で活躍し、明治三年には土佐藩に戻って藩少参事と成り藩政改革に尽力するも翌明治四年の廃藩後、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として新政府に出仕、陸軍少将・熊本鎮台司令長官となる。

谷干城(たにたてき)は一時熊本鎮台司令長官を退くが神風連の乱後、薩摩に戻った西郷隆盛周辺の不穏な動きを考慮した新政府が再び干城(たてき)を熊本鎮台司令長官に起用、その西郷隆盛決起の西南戦争の際には、干城(たてき)は五十二日間に渡って西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献している。

西南戦争の功績により干城(たてき)は陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長と成るも台湾出兵時の政府・陸軍首脳部不手際を抗議して辞任をする。

谷干城(たにたてき)はその後、学習院院長から政治家に転身、千八百八十五年(明治十八年)の第一次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するなど、晩年は貴族院議員・土佐派の重鎮として活躍し、明治四十四年に七十五歳で没した。


千八百七十七年(明治十年)に西南戦争が起きると、酖沈粁粥覆ろだきよたか)は二月に海路で鹿児島に到って出払っていた西郷軍の本拠地を確保し、いったん長崎に引き上げた。

西郷軍に熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた三月十四日に、清隆(きよたか)は征討参軍に任命された。

清隆(きよたか)は敵の背後を突く為に八代付近に上陸し、三月三十日から交戦を始め、前進を続けて四月十五日に熊本城に入った。

千八百七十七年(明治十年)四月十六日に山縣と合流した当日、清隆(きよたか)は自らの辞任を請い、二十三日に辞令を受け取ったが、入れ替わりに戦線に到着した開拓使で清隆(きよたか)が育てた屯田兵は、以後の城山の戦闘まで活躍した。

西郷隆盛が城山に自刃し、翌千八百七十八年(明治十一年)にもう一人の大物・大久保利通が暗殺されると、清隆(きよたか)は薩摩閥の重鎮となった。

しかし酖沈粁粥覆ろだきよたか)はアル中・酒乱とも評され、酒の上での醜聞には事欠かない人物で、千八百七十八年(明治十一年)に妻の清が死んだ時も、「酔った清隆(きよたか)が殺した」と噂が流れ、大警視・川路利良が清の墓を開け、病死である事を公に確認した。

その後も酒の上の醜聞と開拓使の官営事業の継続に関わる疑獄事件(開拓使官有物払下げ事件)の指弾が絶えない中で、薩摩閥の重鎮・清隆(きよたか)は第一次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて千八百八十八年(明治二十一年)四月に二人目の内閣総理大臣となった。

清隆(きよたか)の内閣総理大臣在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉に失敗して翌年辞任した。

第二次伊藤内閣の逓信大臣に就任、この伊藤内閣のもとで日清戦争が起こったが、清隆(きよたか)は特に活躍する事なく、千八百九十五年(明治二十八年)に枢密院議長となり、千九百年(明治三十三年)八月二十三日、脳出血で死去した。



いずれにしても西郷隆盛は、最初からこの「西南の役」で薩軍が勝てるなど思ってはいなかった。

つい先程まで、「西洋の列強国に負けじ」と、日本の軍に最新式の装備を急いでいた、その張本人が他ならぬ西郷隆盛その人で有る。

つまり、帝国軍全軍の総指揮を執るべき立場に在ったのが、只一人の軍最高位、陸軍大将・西郷隆盛である。

薩摩軍の装備の大幅な見劣りなどは、先刻承知の事で在った。

政府軍と薩摩軍では、使用した銃一丁取っても格段の差が在った。

政府軍で使用したのは最新鋭のスナイドル銃で元込め式である。

対する薩摩軍は旧式の先込め銃のエンペール銃で、発射後、筒先に玉を込めなければならず、次の発射準備の手間にロスが大きい。

大砲などの重火器も政府軍とは数や性能に大差が有った。

この戦、戦場では薩軍が決定的に不利で有ったのだ。

田原坂と言う歌の「雨は降る〜降る〜人馬は濡れる」の一節「人馬」は実は間違いで、「陣場」が正解であり、「先込め銃が濡れて役に立たない薩摩軍の悲哀を歌っている。」と言う説が有る。

この「西南の役」薩摩軍の敗北を境に、不平士族は武力抗争をあきらめ、言論による民権運動の方向に、不平を転換して行ったのだ。

新生政府軍は、この「西南の役」の経験で新式兵器の「使用要領」も格段の進歩をした事を考えれば、西郷隆盛の最後のご奉公も、真実味を帯びて来る。

あの思慮深い西郷で有るからこその、「捨て身の謀略で有った」と言う疑惑で有る。


この西郷隆盛の家は、薩摩島津家に使える小禄(四十七石余)の下士ではあるが、藤原則隆を祖とする九州の菊池氏の分家で、肥後国・熊本菊池郡の増水城に在した西郷氏に枝に繋がる処に、運命的なものを感じる。

そぅ、西郷家は、あの鎌倉末期から南北朝期に活躍した「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の南朝方の武将、菊池武重の末裔と言う事だ。

不思議な事だが、菊池の血がよみがえり「南朝復興の維新に繋がった」と思うと、西郷隆盛に課せられた何か運命的なものを、我輩は殊更に感じるのである。

正に、後醍醐天皇や文観弘真僧正の高笑いが、聞こえてきそうな縁ではある。

源平の以前から、日本中の海岸線の到る所に隼人族は分布していた。

特に伊豆、紀伊などの入り組んだ地形、つまり豊後半島と似た地形の場所は、好んで隼人族の棲み家となった。

薩摩の郷士(下級武士)西郷隆盛は、隼人族の末裔である。

徳川家を倒す為に、スサノオの命(隼人族)はよみがえり、維新を成し遂げたのか知れない。

惜しくも維新前に暗殺されたが、土佐の郷士坂本竜馬も隼人族だからこそ海と船に最後までこだわり、海洋貿易に、自分の未来を夢見て居たのかも知れない。

その翌年、同じく隼人族の末裔で新政府の高官、過つての西郷隆盛の盟友・大久保利通(おおくぼとしみち)も、西郷軍を鎮圧して権力を掌握したにもかかわらず暗殺されている。

これは、反隼人(反スサノオ)の巻き返しか・・・・。


氏族の終焉は、西郷隆盛率いる明治新政府への最後の氏族の抵抗・「西南戦争」の敗戦である。

その西郷軍が、北川から薩摩に向けて落ち延びたルートが、古代史に名高い、可愛岳(えのだけ)越えの獣道だった。

この可愛岳(えのだけ)だが、神代の時代からの伝説の山である。

宮崎県東臼杵郡北川町もまた、北浦町と同じ、高千穂町、北浦町のスサノオの通り道のライン上、つまり高千穂の真東に在る。

北浦町より直線で真西に一里(四キロメートル)ほど高千穂町に近い所に、北川町がある。

実際には山塊が北浦、北川両町の間に在るので、人間達にはそう近くは感じないが、神々にとってはこの山塊は行き来の障害には成らない。

その北川町に、標高七百二十七メートルの可愛岳(えのだけ)がある。

この山が、神話の山なのだ。

まず不思議な事に、高い岩山ならともかく、この高さの土に覆われた山ではけして説明が付かない多くの巨石がこの山の頂(いただき)には在る。

山頂の鉾岩や三本岩などは、考古学者によると弥生時代に建造された人工的立石で、他にも石組と考えられる多くの巨石が点在している。

人間の手が加わっているとしか考えられない可愛岳(えのだけ)は、神秘的で謎の多い山である。

そして記・紀(古事記や日本書紀)の記述に符合しそうな、伝説がある。

古事記によると、神武(じんむ)天皇に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。

これをもって、高千穂の天孫降臨とする解釈も多い。

すると、それ以前は神ばかりいて、人はこの世に居なかった事になる。

我輩は、この地に降(光)臨したのが天照大神なら、「判り易い」と思っている。

日本書紀によると、ニニギの命が亡くなられた時「日向の可愛(えの)の山陵に葬り祭る」と記されている。

学術的証明(確証)までは至らないとの事だが、ニニギノ命の御陵墓伝説は、地元で数百年も続く「御陵墓祭り」と伴に受け継がれて居て、これは「重みの有る伝承」と言える。

そして因果な事に、この天孫族所縁の愛岳(えのだけ)を、最後の氏族軍「西郷敗残軍」が越えた時、七百年の侍の歴史も千五百年とも二千年とも言われる氏族の歴史も終わった。

つまり、「氏と民の時代」が終わった。

同時に、中華皇帝と対等な存在に成る為に多くの国々を支配する天皇(大王/おおきみ)の統一国家としてとして倭の国々時代からの習慣として表記、呼び続けられた地方の国名が県の表記呼称に変わった。


豊臣政権成立時に、秀吉本人も含め従来の氏族ではない身分の者が戦国期の動乱の中から勢力を得て新たに氏族(武士)の列に加わり、一国一城の主・領主階級となった。

同様に明治維新の際も、旧藩主以外に維新に貢献した下級武士が爵位を授かって貴族に列している。

その上で、千五百八十八年八月(天正十六年七月)・豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、そして反乱の抵抗に合いながら明治政府の「廃刀令」も実行された。

詰まりの豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、明治政府の「廃刀令」も、本音は新体制確立の為に出回っている武器を取り上げて政権の安定を狙ったものである。


新政権が樹立すると、西郷の周りの同志が急速に変化を始める。

彼らは政権を手中にして欲も出、各々の考え方に微妙な変化が生じて新たな合意が形成されつつあった。

早急に中央政権化を図り、欧米列強に伍せる国家体勢を整えねばならない。

西郷にも、そうした状況の変化は理屈で充分に理解できる。

しかし、西郷は根っからの武士だった。

主君・島津公に対しても、多くの武士(士族)に対しても、時の要請とは言え裏切る結果になった。

西郷は、結果的に武士のまま死ぬ事を選択した。

大西郷と薩摩氏族が、政府の民兵軍に敗れる事こそが、新政権の確立を確かなものにしたのである。

西郷隆盛のリーダーとしての素養は、徳川家康に近いのではないだろうか?

実は、変革後や急成長後の政財界に於いて、「最も求められるリーダー」がこのタイプである。

ふたりに共通するのは、強烈に他人を引っ張って行く個性ではなく周りを受け入れる調整能力を持ち、そして、「手に入れた権力を子孫に残そう」などと言う未練がましい野心が無かったからこその、有能な人達から御輿に担ぎ上げられる才能である。


過去の歴史に於いて、真の英雄は権力者にのし上がった男ではない。

本当の英雄は、新しい時代の道筋をつけて、消えて行った確率が遥かに高い。

西郷隆盛は、死に場所を得て、壮絶な死を遂げた。

人は、思いを持ってその時代を駆け抜け、思いを残して死んで行くものかも知れない。

民族意識の高揚の為に英雄礼賛も良いが、大方の所、その英雄に酷い目に合わされた方こそが、貴方の祖先である確率は遥かに高い。

格好の良い一面だけを捉えて、「民族の誇り」とするのは簡単だが、それでは英雄に踏みつけにされた大多数の人々の真実は、忘れ去られてしまう。

そう言うお人好しが、権力者にとって「一番扱い易い庶民」である事を肝に念じるべきである。


何か企んでも、中々思う様には行かないのが人間で有る。

しかしながら、己の権力の為には、過去の歴史さえ嘘をつくのが人間で有る。

我輩に言わせれば、権力者ほど、どう言う訳か共通して面の皮が厚く「罪の大きい嘘」を付く。

矛盾する事に、庶民の小さな嘘を咎めるのが権力者で有る。

恥ずかし気も無く後ろめたさも感じないから、権力者に成れるのかも知れない。

生き残るのはそんな輩(やから)で有る。

大久保利通や三条公、岩倉公の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常である。

多少強引だったが突破口を開いた武市瑞山(たけちずいざん/半平太)や坂本龍馬、西郷隆盛まで本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。

元々庶民の理屈や感情と為政者の考え方は違い、彼らの基本は統治で在って庶民の事など考えてはいない。

つまり、国家が大事であって国民が大事なのではない。

従って個人の事など、思いやる気持ちなどない。

統治の都合では、平気で犠牲を出し続ける。

その為政者に期待をする所に、「庶民の幻想」が存在する。

いかに崇高な理想に燃えた人物でも、統治権を手に入れた途端、「鵺(ぬえ)」に変身するのが、人間で有る。

維新後の経緯を見る限り、薩長維新政府は極端な天皇親政政策を隠れ蓑に、強引な神国政策を強行し、「日本を駄目にした」と考えられる。

明治新政府は、王政復古によって神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

つまり、強引に皇統の神格化を図ったのである。

まぁ現代でも同じだが、権力を握ると今までの純粋な理総論から途端に「人間が変わって私欲に走る」と言う見っとも無い行動をするのが人間である。

明治政府の行き過ぎた天皇の神格化は、握った権力を離したくない欲心が成せるもので有った筈で有る。


長州に落ち延びた七卿の内、錦小路頼徳は病没したが、三条実美は維新後に太政大臣や内大臣、澤宣嘉は外務卿、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長に成るなど、皆、明治政府の要職に就いている。

三条家は、太政大臣まで昇任できる藤原北家閑院流の嫡流の名門で、江戸期の扶持米は四百五十石の公家としては中の上の公卿だった。

その家に生まれた三条 実美(さんじょうさねとみ)は、尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であった。

三条実美(さんじょうさねとみ)は、明治政府成立後にはその温和な性格から、千八百六十九年(明治二年)には右大臣、千八百七十一年(同四年)に太政大臣、内大臣として生涯、政権の中枢にあり続け、個性派が多い政府内の対立を調停する役割も果たした。

しかしそこは尊攘派公家、相応に「したたか」で在った事には変わりは無い。

実美(さねとみ)は、押し寄せる欧米勢力の植民地化を阻止する為に長州・毛利藩討幕派(吉田松陰派)の陰謀に乗って明治維新にこぎつける重要な役目を果たしている。

実美(さねとみ)の母は、土佐藩山内家の出である。

土佐藩が倒幕四藩連合の一郭で在り得たには、三条実美(さんじょうさねとみ)の血縁もその要素だったのではないだろうか?

優秀な公家は、武力を持たず知恵だけで朝廷を護持して来ただけあって、流石に老獪である。

特に岩倉具視(いわくらともみ)は、鎌倉初期に鎌倉幕府相手に知力で活躍した老獪な土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔で、その辺りは十分心得て居た筈である。

新政府樹立と共にほとんどの公卿が序々に閑職に追いやられて行った事実の中、二人の公家の出世だけが際立っていた。

つまり、岩倉具視(いわくらともみ)卿が天皇入れ替わりの実行犯として関わった可能性と三条実美(さんじょうさねとみ)卿が七卿落ちの最上級位の公家として周防国熊毛郷田布施の八幡神社で南朝の末裔と会った事が、この革命(明治維新)の発端だった。

二人の旧体制の公家が異例とも言える地位を得て新政府に生き残って行く事と、その経緯が関連付けられて成らないのである。

この時代、岩倉具視(いわくらともみ)にしても三条(実美・さねとみ)にしても、彼らなりの公家の論理でこの激動期に存在感を示す働きをした。

彼らの心中に、南朝復帰の思いが生きていたのかも知れない。


下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの小さな町々から、伊藤博文を始めとして三人もの総理大臣を輩出している。

この熊毛郡・田布施町に隣接する現在の光市の前身に古い地名として光井村や室積村が在ったのだが、これが良光(ながみつ)親王や大室家と関わりが在る地名の可能性がある。

また、田布施町を根元として瀬戸内海に突出した半島・熊毛(くまげ)半島は、古くは室津半島とも言う。

これらの地名、やはり偶然の一致と言うには出来過ぎの感が在るのだ。

不思議な事に、岩徳線と言うJR線は直線的近道を走っているのに対し、山陽本線は遠回りに海岸沿いに大きく迂回、複線電化のメインルートになって人口の少ない田布施町を停車駅にしている。

この田布施町、文献によると、南朝の系図を有する「大室家」が、数百年に渡って、大内家とその後の毛利家から庇護され居住していた土地である。

公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「南朝系図」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

室町期に「乗っ取り足利義満朝」の噂あるものの、明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)は北朝系の天皇である。

それが維新で大権を握った途端に「南朝正統」を言い出し、南朝方忠臣・明治復権を為している。

つまり「南朝系図」の大室某と言う隠された事実が在りながら、「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまって良いものだろうか?


この小さな田布施町から、戦後ふたりの総理大臣が輩出されている。

岸信介氏と佐藤栄作氏で、今に繋がる後裔が、言わずと知れた山口県の名門世襲代議士家の安倍家である。

橋本竜太郎氏も「二代遡ると大室家と縁がある」と言われている。

つまり、玉(ぎょく)を握っていた長州が、他の維新三藩を大きく引き離し、維新以後の政治に大きな勢力を持ち、政権担当者(総理大臣)を多数排出する事になる。

巷に流れる噂話が真実なら、南朝こそ正統な皇統であり、今の皇室も「密か」に正統と言える。

それらの縺(もつ)れた糸の全てが、熊毛郡・田布施町(たぶせちょう) で一つに繋がっていたのだ。


岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた毛利藩毛利(長州)藩士の名家で、その支配領域に田布施があり、佐藤家も、毛利(長州)藩士として、七卿落ちの滞在地・田布施に在地している。

その両家が、同じ田布施の大室家と永い歳月の間に婚姻関係を含む「接点が無い」とは考えられない。

隣接する光市(熊毛郡束荷村字野尻・現山口県光市束荷字野尻)出身の、総理大臣を四回も勤めた伊藤博文元首相を含め、少なくとも「縁戚関係の可能性がある」と考えられる。


伊藤博文(いとうひろぶみ)は、農家・林十蔵の長男として周防国・熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれて、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

つまり元は農家の家で士分では無く、家は貧乏だったのだが父・十蔵が萩藩の中間・水井武兵衛の養子と成った事がきっかけで、父・十蔵の道が開ける。

父・十蔵は余程運が良かったのか、養子と成った養父の中間・水井武兵衛がさらに周防国佐波郡相畑の武士伊藤氏の養子となって伊藤直右衛門と名乗ったので、父・十蔵も幼き頃の利助(伊藤博文)も士分・伊藤氏を名乗り長州・萩藩下級武士に列する道が開けたのである。

熊毛郡束荷(つかり)村に農民の子として生まれた利助(伊藤博文)は、十七歳の時に吉田松陰の友人で萩藩士・来原良蔵(くりはらりょうぞう)に認められて、その紹介で松下村塾に入塾した。

利助(伊藤博文)は吉田松陰の松下村塾に学び、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)を名乗り高杉晋作や井上聞多らと倒幕運動に加わるようになる。

伊藤達の長州藩倒幕派は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用され、長州藩の藩政に参画して指導的役割を果たした。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、仲間と共に公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、塙次郎・加藤甲次郎を暗殺し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。

伊藤俊輔は、千八百六十三年(文久三年)井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人として英国(イギリス)に渡航するが、留学中に余りにも圧倒的な英国(イギリス)との差を目の当たりにして開国論に転じている。

この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度は明治維新直後から官費教育制度として形を変え、多くの渡航留学生を派遣して専門知識を習得させ、多くの指導者を輩出させた。

つまり特権身分に多くの学習機会を与える官費教育制度は、実は官僚の特権として形を変え、現代にまで続いている。

その英国(イギリス)留学中に四国連合艦隊による長州藩攻撃の機運を知り、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は急遽井上聞多と帰国し四国連合艦隊との戦争回避に奔走するも藩論をまとめ切れず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。

朝廷をめぐる主導権争いから長州藩と幕府の間は不穏な状態となり、幕府軍に拠る第一次長州征伐(幕長戦争)が始まり、長州藩の藩論が幕府に恭順の姿勢を見せると、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵する。

力士隊は勢いを得て奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、高杉や伊藤達の正義派(革新派)が藩政を握った。

維新後、この伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は伊藤博文(いとうひろぶみ)と改名する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、長州閥の有力者として明治政府参与、岩倉使節団参加、西南戦争に於ける西郷隆盛の敗死を経て、大久保利通が暗殺された後の内務卿、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定、初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣を歴任している明治期の元勲である。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、拡大主義を取る政府内に在って数少ない国際協調重視派で、日露戦争では日露協商論・満韓交換論を主張してロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対している。

第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)に拠って大韓帝国が日本の保護国となり、日本が実質的な朝鮮の支配権を掌握すると、伊藤博文(いとうひろぶみ)は設置され韓国統監府の初代統監に就任する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。

韓国統監府統監を辞任し、枢密院議長に復帰した千九百九年(明治四十二年)、伊藤博文(いとうひろぶみ)はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(あんじゅんこん)によって狙撃され死亡し、日比谷公園で国葬が営まれた。

この暗殺事件がきっかけとなり、また日韓合邦推進派の口実とされ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が意図しなかった日本による韓国併合は急速に進んだのである。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?

そう考えれば、合点が行く事が在るのだ。

伊藤博文は国家の重鎮として四度も内閣総理大臣を勤めた。

ただ、宮中側近の元田永孚や佐々木高行等は保守的で、それを信任した天皇に立憲君主制に対する理解を深め、日本の政治体制の近代化を進めて貰うに伊藤は苦慮した。

そうした環境下に在って、伊藤が政党(立憲政友会)を結成出来たのは、明治天皇と伊藤博文の強い信頼関係に特別なものが在ったのではないだろうか?

つまり他の者にあらず、明治天皇と伊藤博文の強く特別な信頼関係無くして日本の政党政治は幕をあげる事はできなかった。


伊藤博文と行動を共にする事が多かった井上馨(いのうえかおる/井上聞多)は、理想主義が先行していた尊王攘夷派の若者達の中に在って、根は現実主義者である。

生家の井上家は清和源氏系の河内源氏の流れを汲む土着の安芸国人として毛利氏家臣であった。

勿論この井上家も、清和源氏系の河内源氏流となれば立派な影人の家系である。

井上聞多(馨)は、毛利長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・百石)の次男、幼名・勇吉として、周防国湯田村に生まれる。

聞多は長州藩主毛利敬親から拝受した通称で、一旦は同じ長州藩士・志道家(大組・二百五十石)の養嗣子となり志道姓を名乗るも、後に井上家に復籍して小姓役などを勤めた。

藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事して蘭学を学び、当時蘭学を学ぶ者たちの間で次第に勃興した尊皇攘夷運動に共鳴、江戸遊学中の千八百六十二年(文久二年)には高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。

翌文久三年には、井上聞多(馨)は長州藩執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、受け入れられて伊藤博文・山尾庸三・井上勝らとともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航する。

井上聞多(馨)は、そのイギリス留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じていたが、その最中に長州藩の下関に於ける外国船砲撃事件を聞き伊藤博文とともに急遽帰国して事態収拾の和平交渉に尽力した。

第一次長州征伐では武備恭順を主張した為に、井上聞多(馨)は「袖解橋の変」と呼ばれる襲撃事件で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受け一命を取り留めている。

その後井上聞多(馨)は、藩論を開国攘夷に統一する為に高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起、藩論統一に成功する。

千八百六十五年(慶応元年)、幕府の第二次長州征討機運が高まる中、坂本龍馬の仲介で薩摩藩との同盟(薩長同盟)にこぎつけ、幕府軍に勝利する。

この「薩長同盟」が倒幕の引き金となり、徳川慶喜の大政奉還へと到るのである。

伊藤博文と聞多(馨)は盟友で、維新後の太政官制時代に外務卿、参議、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣では内務大臣など数々の要職を歴任した元老だが、現実主義者であった為に事業欲もおおせいで、財閥との癒着や汚職の醜聞も多く聞かれた人物だった。


戦後政治に大きな足跡を残した元首相の岸信介氏は旧姓佐藤で、同じく元首相の佐藤栄作氏の兄である。

岸信介・佐藤栄作両元首相を輩出したのがこの山口県熊毛郡田布施町で、父・秀助、母・茂世の次男として生まれた。

佐藤家は士族であり、維新後は酒造業を家業としていた名家だった。

曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県・県令等を務め、祖父・信彦は漢学者で在った。

父・秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入り、その次の代に次男信介を岸家に養子として戻した事になる。

佐藤氏(さとううじ)は日本に於いて一位〜二位を争う大姓の一つで、斉藤氏・工藤氏・加藤氏らと並ぶ藤姓由来の姓である。

その由来は諸説在り、官職・左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官)の藤原氏の略だったり、佐野の藤原氏や佐渡の藤原氏などの地名と組み合わせた略だったりと他の藤姓由来と共通している。

佐藤氏(さとううじ)は藤原氏系流として原初の武門(武士)と成った藤原北家魚名流の下級貴族・藤原秀郷(ふじわらひでさと)をその源流に見る。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)の五男・藤原千常(ふじわらのちづね)従四位下・鎮守府将軍を始祖とする系図に信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)が在る。

信夫佐藤流(しのぶさとうりゅう)とは、他の佐藤氏と区別する際、信夫地方(現・福島県福島市)を出自・本拠地とした事に由来する歴史研究上の一般呼称で、自ら「信夫佐藤と称していた」と言う事実は無い。

その信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の長者・藤原公清(ふじわらのきみきよ)は祖先の藤原千常以来代々左衛門府の判官・左衛門尉の官職に就いているからとする説が存在する。

その公清(きみきよ)が佐渡守にも任官されているので「佐渡」の「藤原」とする説、本宗家・藤原氏の補佐の意味する「佐・(すけ)」で佐藤とも言う説もあり、どちらから取ったかは断定しがたい。

治承・寿永の乱で、源義経(みなもとよしつね)の郎党として活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟もこの佐藤氏の出身で、その父・佐藤基治(元治)は信夫(福島県福島市)飯坂温泉付近に荘園を所領し「信夫荘司・湯荘司と称した」と伝えられている。

信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族は、源頼朝(みなもとよりとも)の奥州討伐の際には石那坂に陣を敷き防戦し、奥州藤原氏滅亡後佐藤氏は赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていた。

その一族が南北朝期に伊勢へ移住する一方、一部が故地・信夫周辺に残り、相馬氏、佐竹氏に仕えて永らえ、幕末には陸奥白河藩の代官となっている。

信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の子孫は全国に存在し、元内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟を輩出した長州藩士・佐藤家もその信夫佐藤氏の子孫を自称して、それぞれの諸家に古系図が現存する。

尚、各地に土着した武門の内藤氏・武藤氏・近藤氏・首藤氏なども信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の系流とされる他、藤姓に関しては明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方豪族にあやかって創氏した者も多くいた。


佐藤家から岸信介氏が養子に行った岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた名家である 。

元首相の佐藤栄作氏は実弟、兄の佐藤市郎氏は海軍中将である。

長男の岸信和氏の妻仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物田辺護の次女で、まさに政界一家である。

岸信介氏娘婿の安倍晋太郎氏は岸氏と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三氏も、現在有力な首相候補である。

ちなみに安倍晋三氏の弟岸信夫氏(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家の方を継いでいる。

この安倍氏の出自がこの物語の面白い処で、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で破れ、「降伏して四国配流、後に九州に配流された安倍宗任(あべのむねとう)の子孫」と言われてる。

安倍宗任(あべのむねとう)は奥州・鳥海柵(とりみのさく)の主で、鳥海三郎とも呼ばれていた。

宗任(むねとう)は娘をひとり奥州藤原氏二代・藤原(清原)基衡の妻に嫁して居たが、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・貞任(さだとう)と共に戦って破れ、難攻不落を誇っていた鳥海柵(とりみのさく)も源氏・清原連合軍に攻められ落柵、降服し一命を取り留め、源義家に都へ連行された。

降伏して四国配流、後に九州に配流された安倍宗任は、そこに生活の基盤を築き定住している。

その安倍宗任の三男に安倍季任がいて、季任は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となり松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗る。

その松浦実任(まつらさねとう)の子孫は、北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

つまり、平安時代に陸奥国(陸奥六郡)の「俘囚の長」とされる豪族の「安倍宗任(蝦夷系棟梁安倍貞任の弟)の末裔」と言う不思議なめぐり合わせである。

その松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。

その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に「安倍姓に戻して名乗った」と言うのである。

土御門安倍家を十四代、東北(陸奥)安倍家を七代遡ると先祖は兄弟になる。

古代東北の覇者・東北(陸奥)安倍家を更に七代下がると、十四代目が安倍貞任で、藤原(清原)秀衡の父基衡には貞任の兄弟・宗任の娘が嫁いでいる。

松浦(まつら・安倍)高俊は、三代遡ると安倍宗任であり、長州(山口県)・安倍家はその末孫にあたる。

この安倍系図、基は、孝元大王(おおきみ・第八代天皇)に繋がっているが、何しろ欠史八代の一人であり、孝元大王(おおきみ)の記載されている「日本書紀」の編纂よりはるか昔の事で、真贋の程に於いてはいかんともしがたい。

皇統の隙間を繕い、有力王族(部族王)の符系を政治的にまとめた疑いが強い。

我輩の、安倍氏・先住民族々長説がまんざらでもないと思うが、いかがか?


この東北(陸奥)安倍氏と関わりが深い平戸(長崎県)松浦 (まつら)水軍は、平安時代後期の千六十九年(延久元年)、源氏(嵯峨源氏)の流れを汲む源久(みなもとのひさし)が松浦郡宇野御厨の検校となる。

源久(みなもとのひさし)は、現在の市域にあたる梶谷に住み松浦久と名乗り、太夫判官と称して松浦(まつら)郡・彼杵郡の一部及び壱岐郡を治めた。

この松浦久のもとで松浦党と呼ばれる武士団が結成され、中世初頭には松浦地方に一応の海上勢力が成立していたと考えられている。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。

壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の海上勢力は、つとに知られている所である。

その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」で、日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に、水軍としての松浦党の出番は終了した。


長州(山口県)安倍家は、山口県大津郡日置村(現長門市)で代々大地主であり、醤油醸造業を営んでいた名家である。

当然ながら、祖先は日本史のそこかしこに登場する言わば安倍御門(あべみかど)一族の子孫で、長い事その氏素性だけでもリーダーとしての地位を得る大看板の一族だったのが、名家の所以(ゆえん)である。

だからと言って、それだけで批判する気は無い。

要はその血筋より人柄で、安倍晋三氏の父方の祖父になる安倍 寛(あべ かん)氏(母方は岸信介氏)は、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人物として知られ、大変に人気が高かった。

安倍寛(あべかん)氏は、「大津聖人、今松陰、昭和の吉田松陰、今高杉(高杉晋作)と呼ばれて、地元や政界から尊敬されいた」と言う。

寛氏はいわゆる“ハト派”であり、第二次世界大戦中(千九百四十二年)の翼賛選挙に際しても、自身の政治信条から翼賛会の非推薦で出馬し、当選した清廉反骨の政治家である。

安倍晋三氏に祖父の安倍 寛(あべ かん)氏のDNAが少しでも残っているなら、選挙対策の為に郵政民営化造反組を復帰させるなどのパワーゲームに執着した愚を犯さず、小泉純一郎氏の国民不在政策を改め、堂々と国民の信を問うべきである。


明治維新で勤皇派(尊王派)が最初に倒幕の運動を始めた時、各藩の重役連中は「とんでもない事を言い出した」と言った。

しかし、その後の結果はともかく当時の現実は、あの時点ではその「とんでもない事」が最良の選択だった。

そして勤皇派(尊王派)が維新に成功すると、廃仏毀釈で信仰まで変えようとした。

つまり、既成概念を持つと「進歩が無い」と言う事なのだが、現在のかなりの既成概念には明治維新の勤皇派(尊王派)が制定したものを「盲目的に引き摺っている」傾向にある。



維新の十傑に数えられる人物は、公家の岩倉具視、長州藩は大村益次郎・木戸孝允・前原一誠・広沢真臣の四名、薩摩藩は西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。

薩長土肥の四藩プラス肥後藩にの藩閥に在りながら、十傑から洩れているのは旧土佐藩士出身の後藤象二郎と板垣退助がいる。

また維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。

十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文や山県有朋、井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。



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(皇国史観と集合的無意識)

◇◆◇◆(皇国史観と集合的無意識)◆◇◆◇◆

維新の英雄達は、いかに評価したら良いのだろうか?

賀茂の錫杖の妖力か、確かに欧米列強の植民地拡大主義から、維新がギリギリ間に合って国を守った。

しかし或る一面では、ただの権力者交代の側面も見え隠れする。

下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)と薩英戦争(さつえいせんそう)で欧米列強の戦闘能力を知った尊皇攘夷派は、アッサリと倒幕一辺倒に切り替え攘夷の看板を下ろしているが、「武士としての思想信条は何処へ行った」のだろうか?

「世界の現実を学んだ」と言えばそれまでだが、本音は「どうにかして下士身分から這い上がりたい」と言う野心満々の現体制破壊が在ったのではないだろうか?

つまり仕えていた藩主の意向も、孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷勅命(じょういちょくめい)も無視した権力奪取が明治維新の実態かも知れない。


明治維新は「革命」だったから、新しい理念が必要だった。

彼らの最大の罪は、天皇の神格化と、靖国神社の創設で有る。

この行為は、「二千年前の征服部族の発想」とたいした変わりはない。

つまり、文明開化も近代化も対外的なもので、「本質的国家運営の手法」は、何も変わらなかった事に成る。

この新・南朝政権、明治新政府が目指したのは「天皇集権」であり、正に後醍醐帝の「建武の親政」だった。

人間の多くは権力を握った途端に善人では居られなく成り、その人格は自己保身と欲の権化に変身する。

何故なら権力者への道は功名心に始まり、巧みな扇動と駆け引きで競合する者を蹴落として上り詰めるもので、結局、守りたいのは自らの利権である。

同一人物が、右脳と左脳のバランス次第で限りなく優しくも限りなく残酷にも成れる事が人間の恐ろしい所で、つまりそれらの優しさも残酷さもその人物の一面に過ぎない。

従って善人も悪人も根っからではないだけに、「あの人に限って信じられない」と言う証言が空しいものになる。

権力者などは根本的に善人には出来ない芸当が必要だから主義主張を超越して信用も尊敬も出来ないし、統治者の所業には法則的に「人間味」が無く、現実の彼等の善意は充てにも成らない存在なのである。


近代日本軍創設の父とされる山県有朋(やまがたありとも)は、軍制改革の整備の為に出向いたヨーロッパ視察に於いて見聞したフランスの「民権運動」に恐れを感じて帰朝していた。

帰朝後、有朋(ありとも)は伊藤博文とともに政府の実権を握るようになって「民権運動」の制御を思考する。

「民権運動」の制御を有朋(ありとも)を中心に考え出されたのが「天皇の神格化」と「徴兵制」であり、為に軍制改革(徴兵令)を行い徴兵制を取り入れる。

また、有朋(ありとも)が「天皇の神格化」を考案してその為につくられたのが「軍人勅諭」や「教育勅語」である。

その後「天皇の神格化」は「皇国史観」として神国化され、日本国統一の主柱として昭和二十年八月の太平洋戦争の敗戦まで続く。


結局の所、明治維新も民衆を置き去りにした氏族のパワーゲーム(権力抗争)である。

軍事力を背景に恐怖政治に拠る政権維持は天皇の存在を利用する独裁者の常套手段で、そしてそれを支えるのは独裁者と共通の利害を持つほんの一部の者達なのだ。


まず明治政府が目指したのは、国内の民族的団結を高めて欧米列強に対抗できる国家を作り上げる事である。

そこで持ち出したのが「皇国史観」と言われる国家観と民族観である。

統治者の勝手な論理では目的の為にする嘘や無茶は正義で、つまり明治政府は遠く天武帝や桓武帝が為した陰陽修験の伝説を「皇国史観」として再生させ、政治利用した。


嘘も三〜四十回も言えば本物になる。

益してや、国家包(こっかぐる)みの嘘は真実に成り易い。

明治維新後の近代日本の歴史は、まさにこの「皇国史観」の歴史だった。

皇国史観(こうこくしかん)に関しては、現実の歴史とはかい離した或る種信仰的な要素を含む精神思想である事を前提にしなければ成らない。

また歴史観ではなく、民族の誇りとしての道徳的見地から皇国史観を復活させたい勢力が現在も存在するが、勿論戦後の日本国は自由の国で、皇国史観の精神思想に個人的に誇りを持つのも自由である。

皇国史観の精神思想とは、万世一系の天皇家が日本に君臨する事が「神勅に基づく永遠の正義」として日本の歴史を天皇中心に捉える考え方である。

「天皇に忠義を尽くす事が臣民たる日本人の至上価値である」とする価値判断を伴った歴史観で、皇国史観の先駆は南北朝期に南朝の北畠親房が著した「神皇正統記」がある。

この物語「皇統と鵺の影人」を最初から読んで頂いている方にはお判りと思うが、天孫降(光)臨伝説はあくまでも天武帝が始めて桓武帝が集大成をさせた皇統を正当化する為の古事記・日本書紀の神話伝承記録が基に成ったものである。

江戸期になると、徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から、足利尊氏を逆臣とする水戸学や国学で皇国史観の基礎が作られ、幕末になると尊王攘夷運動の過程でその史観は強化された。

水戸・徳川家が「皇国史観」を取り上げたには、当時の現天皇家が北朝流であり水戸・徳川家が足利尊氏を逆臣として南朝流正統説を唱えるのは「天皇家をけん制する事に目的の一つが在ったのではないか?」と言う見方もある。

明治維新の尊王攘夷運動は、あくまでも江戸・徳川幕府に拠る幕藩体制に不満を持つ薩摩藩・長州藩などの下級武士を中心とした勢力が天皇の権威を利用して倒幕の旗印とし、新政府を確立に漕ぎ着けたのが明治維新である。

折りしも欧米列強がアジアの植民地化を進める中、明治新政府は「文明開化」と「富国強兵」を推進する為の「要の精神思想」として「神国日本」を掲げ、万世一系の皇国史観を正統な歴史観として確立して行く。

千八百八十九年(明治二十二年)、野に下った板垣退助らの自由民権運動への対抗もあり、祭政一致をかかげ国家神道を国教とするのを基本政策とし万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治する事を明記した大日本帝国憲法が制定される。

維新後も、千八百八十年代までは記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われ、考古学も発展して教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。

ところが、千八百九十一年に帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」と言う論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。

帝国憲法制定の翌年(千八百八十九年/明治二十二年)に成ると「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布され、国民教育の思想的基礎を創り上げる方向を明確にして行く。

こうした万世一系の皇国史観と教育勅語を基にした戦前の国定歴史教科書は、神武大王の建国につながる日本神話から始まり、天皇を中心に出来事を叙述し、なおかつ歴史上の人物や民衆を天皇に対する忠臣逆臣の順逆で評価し、天皇の気分や天皇の死で変わる元号で時代を区分し教育した。

この戦前の学校教育では、国民の思想教育として宮城遥拝や御真影(天皇の写真)への敬礼も行われ、言わば国民に対して「皇国史観」の思想をアンカリング効果と一貫性行動理論として植えつけたのである。

この風潮は千九百三十年(昭和五年)のロンドン海軍軍縮会議に拠る米英日の三ヵ国で軍備制限条約締結 するなど対外圧力の増加と伴に強まり、第二次世界大戦で極限に達した。


この皇国史観教育には、「集合的無意識(しゅうごうてきむいしき)」が働いていた。

民族意識・帰属意識に潜在的な行動や思考判断に影響を及ぼすのが「集合的無意識(しゅうごうてきむいしき)」である。

これを簡単に言ってしまえば、民族の血或いは民族の遺伝子としての記憶かも知れない。

現実の行動に影響力をもつ抑圧された無意識を「コンプレックス」と言う。

人間の行動や思考・判断は、自我と外的世界との相互作用で決まって来る面があるが、他方「集合的無意識に存在する」とされる諸元型の力動作用「集合的無意識」にも影響される面がある。

言語連想試験の研究に拠ってコンプレックスの概念を見出したカール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学に於ける中心概念が集合的無意識(しゅうごうてきむいしき)である。

人種や民族に共通する深層心理の無意識を、個人のコンプレックスより更に深い集合的無意識(しゅうごうてきむいしき)の領域に「個人を越えた集団や民族、人類の心に普遍的に存在する」と考えられる。

その先天的な元型の作用力動として、個人的無意識の対語・普遍的無意識(ふへんてきむいしき)とも呼ぶジークムント・フロイトの精神分析学では説明の付かない深層心理の諸元型力動が存在するのだ。

集合的無意識(しゅうごうてきむいしき)は、民族や人類に共通する「古態的(アルカイク)な無意識」と考えられる。

元型の作用とその結果として個人の夢や空想に現れるある種の典型的なイメージは様々な時代や民族の神話や信仰の教義にも共通して存在し、この為に多彩な諸元型の「先天的元型が存在する」と仮定される領域である。

カール・グスタフ・ユングは、集合的無意識に様々な元型の存在を認めたが、それらは最終的に「自己の元型に帰着する」と考え、自己の元型は心(魂)全体の中心にあると考えられる。

外的世界との交渉の主体である自我は自己元型との心的エネルギーを介しての力動的な運動で変容・成長し、理想概念としての「完全な人間を目指す」とした。

このように、自我が自己との相互作用で成長し球的完全性へと向かう過程を、ユング心理学(分析心理学)では「個性化の過程」或いは「自己実現の過程」と呼ぶ。

個性化の過程に於いて、その自己元型は、「影」の元型や「男性の無意識の中にある女性的な面(アニマ)・女性の無意識の中にある男性的な面(アニムス)」の元型、或いは「太母(祖母の事だが祖先の意)」や「老賢者(智者)」の元型としてその行動や思考判断に「力動的に作用する」と考えられている。

つまりこの集合的無意識に拠る潜在的な行動や思考判断の民族意識・帰属意識は誰にでもあり、当然貴方にも存在し現実の行動に影響力をもつ抑圧された無意識を保持している事になる。

それが問題で要らぬ民族主義や愛国心を生み、日本列島が最初から「倭の国だった」と言うこの国の歴史的な誤解も、永い民族的歴史である誓約(うけい)の真実も、所詮帰属意識と建前を優先して綺麗事の強情を張るばかりの「嘘付きの建前主義者」には真実は語れない。

同様に、信仰の対象は別にして古事記・日本書紀で捏造された聖徳太子を実在と決めて掛かる怪しげな歴史家などは、とても本物の歴史家とは信じられない無責任な輩である。

歴史の難しい所は、例え統治の都合で捏造されたものでも、永く伝承されると「文化の歴史」として存在する様になる事である。

つまり「史実の歴史」とは別に「文化としての歴史」は、信仰や伝説を通じて時の経過と伴に育ち、後世では確実に文化として存在して「全く無い事」と否定出来ないのだ。

勿論、天皇や皇室の存在については、日本国民にとって最も重要な「文化の歴史」として存在するものであるから、これは否定されるものでは無い。

只、この「史実の歴史」と「文化の歴史」は、違いを認識しながら扱って行かねば成らない事は言うまでも無い。


一度この物語の冒頭で記述しているが、困った事に安易に生きようとする者の共通の台詞は「昔からそう決まっている」と言うものである。

それに対して我輩は、「おぃおぃ、その昔って何時頃からの事だね。」と言いたい。

この物語をここまで読み進んで頂いている方にはご理解頂ける筈だが、「昔から決まっている事」には仕掛けた奴が居り、尚且その決まり事は経時的に変化している。

政治体制にしても日常思想にしても、保守一本槍では進化は望めない。

現代への慣れや常識は想像力を奪い創造性に対する努力を避ける言い訳となり、そしてその悪習があたかも正義であるがごとく主張される。

しかし歴史に対しては、現代への慣れや常識は「逆進的時代錯誤」を生み出す危険が存在する。

つまり歴史を現代の倫理感や価値観で「そんな事は在り得ない」と認識して勝手な判断をする事は、最悪のオーパーツ(場違い/時代錯誤)行為である。

チャールズ・ダウィンは、その著書進化論で「変化できる種だけが生き残る。」と結論付けているが、なぁに、そんなに永いスパンで考えなくても、「変化できる人間だけが人生の勝者として生き残る。」と言うのも一つの真理かも知れない。



明治の元勲として名を連ねる桂太郎(かつらたろう)は、長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(現・山口県萩市平安古)にて、長州藩上士・百二十五石馬廻役・桂與一右衛門の嫡男として生まれ、幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移る。

桂家の遠祖は毛利家の庶流で戦国時代の毛利氏家臣(宿老武将)・桜尾城主・桂元澄(かつらもとずみ)と伝えられ、姓は安芸国高田郡桂村に由来するとされ、同姓の木戸孝允(旧名は桂小五郎)も所謂(いわゆる)藤原流大江広元・桂元澄流と言う事には成る。

桂氏の居城となった桜尾城(さくらおじょう)は、厳島神社で有名な宮島の対岸、安芸国佐伯郡廿日市の瀬戸内海に面した海城(うみしろ)である。

太郎(たろう)の母・喜代子は長州藩上士・百八十石中谷家の娘、叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。

太郎(たろう)は松下村塾に入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死した時、数え年でまだ十三歳だったからで、それでも新政府に松下村塾関係者が多かった事から、中谷の甥で在った太郎(たろう)がどれほど恵まれたかは計り知れない。

千八百六十年(万延元年)の初出仕当初、家柄の良い太郎(たろう)は藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入され、正規軍である「選鋒隊」に編入された。

しかし、千八百六十四年(元治元年)七月、禁門の変(蛤御門の変)などにより藩が存亡の窮地に立たされるなか、同七月に世子・毛利元徳の小姓役となる。

薩長同盟の密約が為された後に幕府軍が起こし、長州に敗れて敗走した第二次長州征伐では、十七歳に成っていた太郎(たろう)は志願して石州方面(石見国/現・島根県西部)で戦う。

三年後の千八百六十八年に始まった戊辰戦争では、二十歳から二十一歳の太郎(たろう)は敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し奥羽各地を転戦した。

官軍は奥羽鎮撫総督・左大臣・九条道孝を、副総督に三位の公卿・沢為量(さわためかず)、 参謀に公卿・醍醐忠敬(だいごただゆき)、下参謀に 大山格之助(大山巌/薩摩藩)と世良修蔵(大野修蔵/長州藩)と言った布陣だった。

太郎(たろう)は参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、戦後その軍功を評されて賞典禄二百五十石を受けた。

戊辰戦争当時、仙台藩を盟主とし新政府軍に対応する奥羽越列藩同盟が成立し官軍は苦戦を強いられ、太郎(たろう)の部下は約二百名だった。

だが、庄内藩に負け続けていて戦死者が四十一名、負傷者が五十三名と非常に高い死傷率にも関わらず、隊長の太郎(たろう)は「かすり傷一つ負わなかった」と伝えられる。


明治維新後、桂太郎(かつらたろう)は横浜語学学校で学び、千八百七十年(明治三年)年八月ドイツへ留学した。

但し太郎(たろう)のドイツへ留学は、賞典禄・二百五十石を元手にした私費留学であった事から現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団としてドイツへ来訪した木戸孝允(桂小五郎)を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。

木戸は、太郎(たろう)の叔父・中谷正亮とは親しくしていた為、中谷の甥である太郎(たろう)にも目をかけていて、帰国した千八百七十三年(明治六年)年七月、政争の合い間に太郎(たろう)の為に切り替え手続きを行ったものの、太郎(たろう)は十月半ばに留学を打ち切って帰国した。

木戸は陸軍卿の山縣有朋に依頼し、太郎(たろう)を陸軍に入れて大尉に任命した。

戊辰戦争の賞典禄二百五十石を受けた官軍の軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣が「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしない事になった。暫く辛抱してくれ」と慰める。

太郎(たろう)は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍の為には良かったと思います」と返答し、さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何とも言えませんが、徴兵制が実現した事は欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答をした。

実は大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣有朋は、士族出身者から白眼視されていた為、この太郎(たろう)の返答を聞いた山縣は大喜びだった。

太郎(たろう)は山縣の派閥に組み入れられたが、太郎(たろう)の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に一度は「木戸尊大人様閣下」とする宛名の手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。

この仰々しい敬称には返って木戸の方で驚いたに違いないが、太郎(たろう)にはそれを平然とやって退け、力有る者に取り入る図太さが在った。

以後は山縣の引き立てもあり、太郎(たろう)は順調に昇進を重ねた。

日清戦争には名古屋の第三師団長として出征し、その後第二代台湾総督を経て、第三次伊藤内閣で陸軍大臣になり、第一次大隈・第二次山県・第四次伊藤内閣の途中までその陸軍大臣の任を務め、義和団事件が一段落した千九百年(明治三十三年)十二月に児玉源太郎と交代した。

この年、千九百年(明治三十三年)九月、台湾総督の経歴を持つ桂太郎(かつらたろう)は拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。

勿論、この時期の最大の案件は「ロシアと戦う事になるのか否か、戦うとすれば誰に首相の大任を委ねるか」で、この陸軍大臣人事は全て山縣有朋の意向である。

大国ロシアとの対決の決断が迫る時、首相の大任を誰が負うのか駆け引きが続いていた。

伊藤博文は既に四回、山県有朋と松方正義は各二回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道と井上馨の二人で、西郷従道は例によって兄・隆盛の西南戦争責任を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣に取り掛かった。

戦時内閣を年頭にした井上馨は、財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか、優れた作戦家だが軍政には適していない児玉源太郎陸相を変えるかどうか閣僚の人選に悩み、井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂太郎(かつらたろう)の再任を求めたが両者に拒否されてあっさり組閣を断念する。

ここに到って元老会議は桂太郎(かつらたろう)を内閣首班に推し、明治天皇は太郎(たろう)に組閣を命じた。

千九百一年(明治三十四年)六月、山本権兵衛海軍大臣、児玉源太郎陸軍大臣の留任を除いて、小粒な第一次桂内閣が発足した。

蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になると言う官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった為、世人は「第二流内閣」と揶揄した。

太郎(たろう)は首相就任と同時に予備役陸軍大将となる筈であったが、天皇の意向により現役であり続け、九月に小村寿太郎を外相に起用した。

この外相起用は日英同盟締結を推進する為で、太郎(たろう)は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っているが、この自伝について山縣は本人に面と向かって「都合のいい作文みたいなものだ」と酷評している。

現実に小村寿太郎を使って為した日英同盟は、日露戦争に於いて日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の乃木希典をアシストした児玉源太郎の働きで勝利した。

ポーツマスでのロシアとの和平交渉は陰でセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領を動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。

桂太郎(かつらたろう)は、参謀総長で在った山縣有朋の頭越しに明治天皇から戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めて行った。

以後、太郎(たろう)は「桂園時代」と呼ばれて西園寺公望(さいおんじきんもち)と交代で首相を務め、三度総理大臣を務めた合計首相在職日数二千八百八十六日は歴代一位である。

長期政権と言うと佐藤栄作が良く取り上げられるが、これは連続した在任期間二千七百九十八日で一位だからである。

太郎(たろう)は日露戦争時の総理大臣で、対露戦争を勝利に導いた「桂内閣」だったが、にも拘らず世間の評価は二流だった。

理由は、尊い犠牲を払ってロシアに戦勝したにも関わらず樺太の南半分を得ただけを不満として、戦後処理に於ける「桂内閣」の外交的失敗と国民が捉えていたからであるが、実は日本に戦争を継続する余力は既に無かったのだ。




維新の志士達は下級氏族の出自多しとは言え、彼らの血の遺伝子は征服部族のもので、「戦って勝ち取る」のが、氏族の本能的なものだった。

それらが、国家の膨張政策となって軍部の暴走を招き、強引なアジア進行を許す事になった。

つまり明治維新の元勲達は、藩主達から藩を取り上げて(廃藩置県)棚上げにしながら自分達が信じて居なかった「武士道精神」を「徴兵制と強兵政策」利用しに掛かった。

そして新生日本は、七十五年間の軍国主義の道を辿って「大和魂」が叫ばれる戦火の渦中へと突き進んで行く。


確かにこの軍国主義が辿った道は不幸な歴史である。

結果、戦後の個人主義に徹した私権社会のこれだけ殺伐とした現状を見るにつけ、維新前と比べ果たしてどちらの社会が良かったのか考えさせられるものである。

どうやら有名無名に関わらず、定説の影になった事実の具現者こそ、「皇統の影人」なのかも知れない。


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(日清日露戦争)

◇◆◇◆(日清日露戦争)◆◇◆◇◆

千八百七十一年(明治四年)従兄弟の御堀耕助を介して知遇を得た黒田清隆の推挙に依り、乃木希典(のぎまれすけ)は新政府に出仕、陸軍へ入隊するにあたり異例の陸軍少佐に任官する。

千八百七十二年(明治五年)二月、東京鎮台第三分営大弐(だいに・司令官)心得を拝命、翌千八百七十二年(明治六年)四月、名古屋鎮台大弐心得、翌千八百七十三年(明治七年)九月、陸軍卿伝令使(陸軍大臣の秘書兼副官)を歴任、千八百七十四年(明治八年)十二月熊本鎮台小倉第十四連隊長心得に昇格する。

僅か二十七歳の陸軍少佐・乃木希典(のぎまれすけ)が第十四連隊長心得として小倉に赴任すると、旧秋月藩の士族約四百名が千八百七十六年(明治九年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ「秋月の乱」が勃発するも、希典(まれすけ)はこれを鎮圧する。

翌千八百七十七年(明治十年)、西郷隆盛・鹿児島私学校の若者達が下野していた隆盛を盟主に担ぎ出して西南戦争が勃発する。

希典(まれすけ)は小倉第十四連隊長心得として西南戦争に従軍するも、初戦時の退却の際に連隊旗を保持していた兵が討たれ、連隊旗を薩摩軍に奪われてしまう失態を犯す。

まだ「官軍・錦の御旗」の意識が強い時代に、お上(天皇陛下)から給わった軍旗(連隊旗)の紛失は希典(まれすけ)の意識では「死んで詫びねばならないもの」だった。

希典(まれすけ)は自責の念から、戦死を望むかのような蛮戦を繰り返し、負傷して野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとした。

退院後、希典(まれすけ)の行動に自殺願望をみた山縣有朋や児玉源太郎など周囲が謀って第一線指揮から離して熊本鎮台の参謀としている。

希典(まれすけ)は、官軍の実質的な総指揮官であった山縣有朋に待罪書を送り連隊旗紛失に対する厳しい処分を求めるも、連隊旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた行動は潔いと好意的に受け止められ罪は不問とされた。

所が、ある日希典(まれすけ)が割腹自決を図り児玉に取り押さえられると言う「事件があった」とされ、希典(まれすけ)は不問の処分を納得して居なかったようである。

それにしても、連隊旗を失うと言う恥辱もさる事ながら、一連の士族争乱は乃木希典(のぎまれすけ)にとって実に辛い戦争であった。

萩の乱では実弟・玉木正誼が敵対する士族軍について戦死している。

正誼(まさよし)は、萩の乱首謀者・前原一誠の密命密命を帯びて兄・希典を訪ねて来て士族軍に付くよう何度も説得していた。

さらには、師であり、正誼の養父でも在った松下村塾の創設者・玉木文之進が、萩の乱に正誼と弟子らが参加した責任を感じて切腹した。


西南戦争後、希典(まれすけ)は中佐に昇任されるが自分を責め、精神的に不安定な状態となり放蕩の日々を送るようになる。

この後、希典(まれすけ)の放蕩が尋常でなくなり、度々暴力まで振るうようになった事から、西南戦争が希典(まれすけ)の精神に与えた傷がいかに深かったかが伺い知れる。

九年の陸軍生活に於いて順調に少将に昇任した希典(まれすけ)だったが、度を超した放蕩は九年後の千八百八十六年(明治十九年)に川上操六らとともに渡ったドイツ留学まで続いた。

三十六歳に成っていた乃木希典(のぎまれすけ)少将に下った渡欧命令の目的は、明治三年の普仏戦争でフランスがドイツに負けた為、フランス式の軍隊制度を取り入れていた日本陸軍をドイツ式に変えようと言う意見が強まった結果、ドイツ陸軍の実情を研究視察してそれを日本陸軍に反映させようと言うものだった。

明治維新政府の人材育成熱は強く、国家の資金援助で軍幹部と官僚を欧米に官費留学させている。

この国家の資金援助で軍幹部と官僚を育てる俸給を得ながらの官費教育制度は、この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度に習い明治維新直後から始まっている。

そして実は、官僚の特権として多くの学習機会を与える官費教育制度は、形を変えて現代にまで続いている。

ドイツ帝国留学に於いて、希典(まれすけ)は質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とする様に成って居た。


西南戦争後の千八百八十年(明治十三年)、児玉源太郎(こだまげんたろう)は陸軍歩兵中佐に昇任し、熊本鎮台参謀副長から東京鎮台歩兵第二連隊長兼佐倉営所司令官に異動する。

三年後の千八百八十三年(明治十六年)に陸軍歩兵大佐に昇任、千八百八十五年(明治十八年)に参謀本部管東局長、二ヵ月後には参謀本部第一局長、千八百八十六年(明治二十年)には監事部参謀長に異動し同じ年に陸軍大学校長を兼任した。

源太郎(げんたろう)が陸軍大学校長を兼任する前年、日本は日本軍の参謀育成の為にドイツに兵学教官派遣を要請し、ドイツが応諾して同千八百八十五年(明治十九年)陸軍大学校の兵学教官のメッケル少佐が来日していた。

教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから源太郎(げんたろう)は才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べた伝えられている。

千八百八十九年(明治二十二年)、源太郎(げんたろう)は陸軍少将に昇任し、朝鮮半島をめぐる清帝国と大日本帝国の駆け引きの最中は陸軍次官兼陸軍省軍務局長、陸軍省法官部長を歴任して官僚を務めていた。

千八百九十四年(明治二十七年)七月から翌千八百九十五年(明治二十八年)四月に行われた日清戦争(にっしんせんそう)には源太郎(げんたろう)は参陣せず大総督府派遣中大本営陸軍参謀などを務めている。

千八百九十五年(明治二十八年)六月、日清戦争(にっしんせんそう)終結後の台湾経営の一端を担う臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動となり男爵を受爵する。

翌千八百九十六年(明治二十九年)十月、源太郎(げんたろう)は陸軍中将に昇任、千八百九十八年(明治二十一年)一月第三師団長(名古屋方面師団)に異動、翌二月には乃木希典台湾総督の辞任を受けて台湾総督に異動する。

台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した為、台湾総督と内地の要職兼務が可能となった。

後藤新平は台湾人を統治に服せしめる為、植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えると言う政策を採り、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑える事に成功し、日本は台湾を完全に掌握した。

千九百年(明治三十三年)、児玉源太郎(こだまげんたろう)台湾総督は第四次伊藤内閣の陸軍大臣を兼任、千九百二年(明治三十五年)に陸軍大臣辞任を辞任、その後も台湾総督を兼務のまま第一次桂内閣の内務大臣・文部大臣を兼任する。

千九百三年(明治三十六年)、児玉源太郎台湾総督は参謀本部次長を兼任、千九百四年(明治三十七年)には陸軍大将に昇任、満州軍総参謀長や参謀次長事務取兼帯を務めている。



陸軍の乃木希典(のぎまれすけ)と並び称される日露戦争の英雄、海軍の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、希典(まれすけ)よりは一歳年上である。

千八百四十八年(弘化四年)の年押し迫る年末(旧暦では正月の末)頃、薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現鹿児島県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友(とうごうさねとも)と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。

東郷氏の本姓は桓武平氏・良文秩父氏流渋谷氏で、平八郎(へいはちろう)の幼名は仲五郎、十四歳の時元服して平八郎実良と名乗る。

渋谷氏は桓武平氏・良文秩父氏流の一族で、秩父重綱の弟・基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、その河崎冠者相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫・重国の代に渋谷庄の司を称したのに始まる。

ここが歴史の面白い所であるが、日露戦争の二大英雄とされた乃木希典(のぎまれすけ)の先祖・佐々木氏と東郷平八郎の先祖・良文秩父氏流渋谷氏に歴史的な接点がある。

渋谷重国は、平治の乱の源義朝方に味方して所領を没収された近江源氏・佐々木秀義が、奥州めざして落ちのびて来たのを引き止めて自分の手元に置き二十年に渡って保護している。

渋谷氏が二十年間に渡って保護した佐々木秀義の息子達・佐々木太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱らは、青年武士に成長し源頼朝の旗揚げに最初から馳せ参じて各地に転戦、功を挙げた。

渋谷重国は、初戦の石橋山の合戦に於いては頼朝征伐軍中に在ったが後に頼朝に服属している。

鎌倉幕府成立後、幕府御家人となった渋谷氏は、重国の二男・高重が和田合戦で義盛方について戦死したが、長男・光重は渋谷上庄、美作河合郷などを相伝した。

もう渋谷の名でお気付きの方も居られると思うが、一族の内で武蔵に移住した渋谷氏の住地が、今日の東京の繁華街の一つ渋谷の発祥をなしている。

重国長男・光重が宝治元年の合戦(北条氏が三浦氏を破った)の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得て、光重長男・重直を本領の相模国にとどめ、地頭として他の兄弟をそれぞれの地に下向させる。

この北薩摩に下向させ渋谷光重の息子達が、赴任先の地名を名字として守護職・島津氏につぐ薩摩の雄力豪族となり、戦国時代に至るまで渋谷五家(祁答院家・東郷家・鶴田家・入来院家・高城家)としての活動が確認できる。

なかでも国衆として成長した入来院氏は、清色城を本拠として渋谷五家一族では最有力な存在であった。

渋谷一族は、寺尾・岡本・河内・山口などの諸氏家も分出し、守護職・島津氏に対して勢力を保ち、南北朝内乱以降も向背し続けるも、永禄十二年に薩摩・大隅国衆はほぼ平定される。

入来院重嗣は東郷重尚らと領地を島津義久(第十六代当主)に差し出して降った。

その後の渋谷一族は島津氏の国衆政策の一貫として徐々に所領を取り上げられ、知行を与えられる藩士として出仕する事に成り、東郷平八郎の東郷氏もそんな家だった。


千八百六十七年(慶応三年)六月、平八郎(へいはちろう)十九歳の時に分家して一家を興す。

平八郎(へいはちろう)は薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、その後薩摩藩・小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛が長州藩・桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)と薩長同盟が結ばれて倒幕・薩摩軍に加わっている。

戊辰戦争では、平八郎(へいはちろう)は官軍の海軍将校として新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦い、新政府の海軍士官として経歴を積んだ。


東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は戊辰戦争の終結後、千八百七十一年(明治四年)から七年間、千八百七十八年(明治十一年)まで新政府の海軍士官として英国のポーツマスに官費留学する。

当初鉄道技師になる事を希望していた平八郎(へいはちろう)は、英国に官費留学する際、最初は大久保利通に留学の希望を伝え頼み込んだが色良い返事はもらえなかった。

この大久保利通の平八郎(へいはちろう)への対応に対して大久保の真意を伝え聞いた所に拠ると「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」と評しているの事で、自省してその後は努めて寡黙を通しそれが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。

その後平八郎(へいはちろう)は大久保をあきらめ、官費留学の件を西郷隆盛に頼み込んだ所、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。

クールで他人に厳しい大久保利通と面倒見が良い西郷隆盛の人柄の違いが目立ったエピソードだが、隆盛が東郷の軍人としての才能を見込んだのかまでは判らない。

ただ、この西郷隆盛の骨折りが、危うく大久保利通が潰し掛けた世界的に有名な海軍提督・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を生み出した事には変わりは無い。

英国渡航後の平八郎(へいはちろう)は、希望したダートマス王立海軍兵学校への留学を許されず、商船学校のウースター協会で学ぶ事になるなど順風とは行かず、また留学生としての周囲の環境も歓迎されているとは言えず、慣れない当初は苦労している。

それでも七年間も留学している間に平八郎(へいはちろう)は多くの事を学び、特に国際法を学んだ事によって、日清戦争時に停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する合法判断を為し得ている。

平八郎(へいはちろう)は、停船の警告に応じない船舶の撃沈が国際法に違反しない行為であると正しく判断し、この沈着な判断力が連合艦隊司令長官に人選される要素となっている。

留学を終えて帰国途上、恩人・西郷隆盛が「西南戦争を起こして自害した」と現地で知った平八郎(へいはちろう)は、「もし私が日本に残って居たら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。

実際、平八郎(へいはちろう)の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。

帰国した平八郎(へいはちろう)は、千八百九十四年(明治二十七年)の日清戦争では海軍大佐として緒戦より防護巡洋艦・「浪速」の艦長を務め豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。

平八郎(へいはちろう)は、威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成の為実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加している。



修好条規締約後の朝鮮国では日本の支援による兵制改革で軍人が失職し、残った旧式軍隊にも給与が遅配、開国後の貿易で日本への米輸出による米価高騰と食糧危機が民衆を圧迫していた。

そうした千八百八十二年、失脚していた興宣大院君(フンソンデウォングン)らの煽動を受けて、旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起し朝鮮国で壬午事変(じんごじへん)が起こる。

旧式軍の兵士と市民が漢城で蜂起して新編成の「別技軍」の日本人教官らを殺害し日本公使館を包囲、翌日には政府と王宮を襲い領議政(ヨンイジョン/首相)と李高宗(イーコジョン/李氏朝第二十六代)王妃・閔(ミン)妃の一族・閔(ミン)氏系高官らを殺害、公使館が焼失し(公使自ら火を放つ)、日本人十数人が殺害される事態となった。

この壬午事変(じんごじへん)に日清両国が出兵、日本から軍を率いた花房義質公使が派遣され、朝鮮国と済物浦(チェムルポ/仁川の旧称)条約を調印し、日本人被害者への補償五万円、公使館の損害と日本の出兵への補填金五十万円と公使館警護の為に若干の軍隊の漢城駐留などを取り決めた。

壬午事変(じんごじへん)後、清帝国は河南省陳州府項城県の名家出身の軍人・袁世凱(ヤンシカイ)らが指揮する軍隊を朝鮮国に駐留させ、軍隊訓練や政府顧問を置くなど朝鮮の軍事や内政に積極的に関与した。

袁世凱(ヤンシカイ)は、興宣大院君(フンソンデウォングン)を天津へ連れ出し幽閉するなど早くも能力を発揮して清帝国軍部で力を着け、北洋軍閥を指揮して清帝国にも発言権を持つ様に成って行く。

千八百八十四年、ベトナムをめぐる清帝国とフランスとの対立で朝鮮駐留清軍の半数が帰還し、事変後政治的に後退していた日本は竹添進一郎公使を漢城に帰任させ、済物浦(チェムルポ/さいもっぽ)条約の未払い分四十万円の返上を申し出させた。

開化派(開化党)は日本公使・竹添進一郎の支援を利用して事大派政権打倒を計画して甲申政変(こうしんせいへん)を起こし、日本公使・竹添は警護兵百数十名を連れて朝鮮王宮に国王保護の名目で参内して開化派を支援しており、重大な内政干渉だった。

朝鮮国近代化を急ぐ一環で在った郵政局の開局祝賀宴に際し事大派要人を襲撃、その後王宮内で六人の大臣を殺害するなどして新しい政権を発足させたが、翌日に清帝国・袁世凱(ヤンシカイ)の武力介入により失敗する。

また、日本公使・竹添が率いる警護兵百数十名が清帝国軍との間に王宮で戦闘をし双方に死者を出したが、これは近代に於ける日中間の最初の武力衝突となる。

この時またも公使館が全焼し日本人に三十数名の犠牲者を出し、日本国内では翌年に福沢諭吉が「脱亜論」を時事新報に執筆するなど、日本の国内世論に於いても朝鮮、清両国への反感が高まって行った。


千八百八十五年、全権大使・伊藤博文と清帝国全権・李鴻章(リホンチャン)により天津条約が結ばれ、四ヶ月以内の日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後出兵時の事前通告及び事態の沈静化後すみやかに撤収すべき事が定められ、その後十年間は外国軍隊の朝鮮国駐留はなくなった。

こうした日清の軋轢の中、千八百八十六年に清の北洋艦隊のうち定遠など四隻の軍艦が長崎港に入港した際、上陸した水兵が日本の警官隊と衝突し双方に死傷者を出す長崎事件が起きている。

何度か起こった朝鮮国内の事変後、明治政府は軍備拡大を進めていて千八百八十二年、山県有朋は煙草税増税分による軍備拡張を、岩倉具視は清帝国を仮想的国とする海軍軍拡と増税を建議し、陸軍は三年後からの兵力倍増を、海軍は翌年からの八ヵ年で四十八隻の建艦計画を立てた。

そうした軍備拡大の為、歳出に占める軍事費の割合は千八百八十二年度には17.4%だったが、八年後の千八百九十年年度には30%を超えるまでに増大する。

この軍備拡大の間、千八百八十三年に政府は徴兵令を改正し免役規定中の代人料を廃止して兵員増を図り、千八百八十八年には従来の内乱鎮圧型の鎮台を改編し六師団と近衛師団を創設して海外での戦闘能力を高め、千八百八十九年には徴兵令の免除規定を全廃している。

この徴兵令の免除規定全廃と時を同じくして千八百八十九年(明治二十二年)二月十一日に大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、翌千八百八十九年(明治二十三年)十一月二十九日にこの憲法が施行されるにあたり「大日本帝国」と言う国名を称した。

初め、枢密院議長・伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では国号案は「日本帝国」で在ったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に「大日本」と在るので文体を統一する為に憲法も大日本に改める事を提案する。

これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対するも結局、枢密院議長・伊藤博文の裁定により「大日本帝国」に決められた。

大日本帝国憲法(帝国憲法)の発布と国号としての「大日本帝国」の呼称制定は、まさに日清戦争の開戦前夜にあたる緊迫した世相の時期だった。

国号としての大日本帝国は通称では帝国また皇国とも称し、大日本帝国憲法発布時から千九百四十七年(昭和二十二年)の日本国憲法施行時までの約五十八年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本の国号として使用された。


壬午事変(じんごじへん)と甲申政変(こうしんせいへん)の事変後、朝鮮国に於いて日本は経済的に進出し、千八百九十年代の朝鮮国貿易に於いて日本は輸出の90%以上、輸入の50%を占め、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させる。

千八百九十四年六月、朝鮮国に於いて東学教団構成員の全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者として暴政を行う役人に対する憤りから民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう/東学党の乱)が起き、全羅道首都・全州を占領する。

この甲午農民戦争(東学党の乱)の内乱により朝鮮政府は清帝国の派兵を要請する一方、農民軍への宣撫にあたり、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結び、清帝国および日本の武力介入を避けるべく農民軍は撤退した。

清帝国は日本に派兵を通告して九百名の軍隊が朝鮮国・牙山に上陸、折りしも日本の伊藤博文内閣は議会との激しい対立(内閣弾劾上奏案可決)しており、政治的に行き詰まった伊藤内閣は対外的に強硬に出て事態打開を図ろうとした。

甲午農民戦争(東学党の乱)を内政混乱打破の好機と捉えた閣議は、衆議院解散と公使館、居留民保護の名目で朝鮮への混成一個旅団八千名の派兵を決定し史上初の大本営を設置した。

海軍陸戦隊四百名と大鳥圭介公使が漢城に入り、後続部隊を合わせて四千名の混成旅団が首都周辺に駐留する事となったが、既に農民軍は撤収しており天津条約上でも日本軍の派兵理由は無くなった。

清帝国も軍を増派したが首都に入る事は控えて、上陸地点の牙山を動かなかった。


甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請するも両軍ともに受け入れず、伊藤内閣は停戦後の六月半ば朝鮮国の内政改革を日清共同で進める案を提唱する。

清帝国が拒否すれば日本単独で指導すると言う方針を閣議決定し清帝国に通告、清がこれを拒否すると条約改正交渉の結果、領事裁判権を廃止する日英通商航海条約調印を経て五日後、大鳥公使は朝鮮政府に清軍の撤退と朝清間の条約廃棄を三日間の期限で回答するよう通告する。

これに対して朝鮮政府は日清両軍の撤兵要求を回答した為、七月下旬未明に陸軍第五師団の二個大隊が漢城の電信線を切断して朝鮮王宮を三時間にわたり攻撃・占領し、その後豊島沖海戦、牙山攻撃が行われる。

これは開戦の名義を立てる目的で朝鮮政府の閔(ミン)氏一族を追放し、興宣大院君(フンソンデウォングン)を再び担ぎだして政権を樹立して日本に清軍の朝鮮からの撃退を要請させる為で在った。

この日本政府の強引な日清開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していたと伝えられる。

日本軍の王宮占領後、朝鮮国では軍用電線の切断、兵站部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など民衆の「義兵」反日抵抗が続いたが、千八百九十四年十月に全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者とする東学農民軍が侵入した日本軍を秀吉軍の再来と受け止め再蜂起する。

農民軍参加者は延べ十三万人を超えると推定されている。

興宣大院君(フンソンデウォングン)は農民軍鎮圧の為の派兵をしないよう大鳥公使に要請したが、日本は部隊(歩兵独立第十九大隊)を十一月初めに派兵し、下旬からの公州攻防戦で勝利して農民軍を南方へ退ける。

更にロシアの軍事介入を極度に警戒した日本は、農民軍の北進を恐れ朝鮮最西南端の海南さらに珍島まで追いつめて徹底的に殲滅した。


対清宣戦布告は八月一日で、日本政府が国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は下記のごとくものである。

そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。

それにも関わらず清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。

日本は済物浦(チェムルポ/さいもっぽ)条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久に無くし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清帝国に協同して事に従おうと提案したが清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。

日本は朝鮮の独立を保つ為朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。

しかし、清国はそれを妨害し朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖(豊島沖)で日本の軍艦を攻撃した。

日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。

清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。

事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。

戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。


と言った意味の文面だった。

宣戦布告など大概は一方的な正義を振りかざしたものだが、これを正論と採るか言い掛かりと採るかは「夫々(それぞれ)の考え方」と言う事になる。



日清戦争開戦・豊島沖海戦の後、七月の末、日本軍は陸上でも成歓で清国軍を破り、九月の平壌の陸戦、続く黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。

尚、豊島沖海戦は、猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れてまだ互いに宣戦布告はなされていない早朝、両国海軍の開戦準備途中の第一遊撃隊(司令官 坪井航三少将)旗艦・吉野(よしの)、秋津洲(あきつしま)、浪速(なにわ、艦長 東郷平八郎大佐)の三艦が航行時に防護巡洋艦 ・済遠(ツアィエン/さいえん)、巡洋艦・ 広乙の二艦と遭遇し砲撃を交わした。

その海戦中に、清国側は砲艦・操江及び商船「高陞」(船長 トーマス・ライダー・ゴールズワージー)の二艦が合流するも、済遠が大破、広乙と高陞は撃沈、操江は鹵獲(ろかく=接収/せっしゅう)された。

黄海海戦(こうかいかいせん)は千八百九十四年(明治二十七年)九月中旬に日本海軍連合艦隊と清国北洋艦隊の間で戦われた海戦で、初めて近代的な装甲艦が実戦に投入された戦いとしても知られ鴨緑江海戦とも呼ばれる。

この海戦では艦の速度が重要な決め手と成り、速度に勝る日本海軍が終始有利な戦いを進め、結果、清国北洋艦隊は経遠、致遠、揚威、超勇、広甲の五隻の巡洋艦を沈没で失う大損害を受けて無力化し制海権を失った。

日本海軍側の艦船に沈没艦はなかったが、但し旗艦の巡洋艦・松島、巡洋艦・比叡、仮装巡洋艦・西京丸、砲艦・赤城の四隻が大破している。

十月に入り、日本軍の第一軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡河して清帝国の領土に入った頃、第二軍も清帝国の領土・遼東半島に上陸を開始しする。

大本営の命令の下、糧食不足と耐寒軽装備での冬の行軍に苦しみながらも、約一万二千の清軍の内九千人が新募兵と士気などが低い事もあり、十一月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。

思えばこの日清戦争勝利経験が、その後の大本営の現場実状を無視した無茶な作戦立案の基に成ったのかも知れない。

旅順攻略戦に於ける日本側の損害は戦死四十名、戦傷二百四十一名、行方不明七名に対して、清国は四千五百名の戦死、捕虜六百名を出して敗退する。

この一連の陸戦に於いて、終始日本軍が優位に立ったには国産化小銃・田村銃の存在がある。

欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていたが、日本の場合は旧藩がそれぞれの基準に拠ってバラバラに輸入を行った為に統一性を欠く装備で弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。

慌てて軍の近代化を進めた新帝国も銃装備は同様にバラバラで在ったが、日本では千八百八十年(明治十三年)に日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。

日本陸軍はこれを村田銃と命名し改良を進めながら全軍の小銃の切り替えを進め、同銃が全軍に支給されて行く過程で日清戦争に突入した。

日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていた訳ではなかった。

だが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていた為、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能と成っていたのに対し清国陸軍では小銃の混在状態が続いて居て、部品の補給などに手間取るなどの混乱が生じて劣勢に終始したのである。


千八百九十二年(明治二十五年)二月、乃木希典(のぎまれすけ)歩兵第五旅団長を辞任して休職となるもこの年の末十二月に歩兵第一旅団長の就任為復職する。

日清戦争が始まり、日本陸海軍の快進撃が続く中、乃木少将の第一旅団にも当時東洋一といわれた「旅順口を占領せよ」と出撃命令が下る。

一万四千の清国兵が百余門の火砲を備えて守っていた旅順口に、希典(まれすけ)の第一旅団が向かって突撃を開始し、第一の堅牢である椅子山を正面攻撃、続いて松樹山、二龍山、鶏冠山を次々に攻め落とし、東洋一の要塞を僅か一日で陥落させた。

日清戦争は大勝利に終り、翌千八百九十五年(明治二十八年)四月の下関条約によって、遼東半島と台湾を譲り受けたが、三国干渉により遼東半島を清国に返環した。

歩兵第一旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征し旅順要塞を包囲して一日で陥落させた作戦に加わった乃木希典(のぎまれすけ)少将は少将から中将へと昇任した。

陸軍中将に昇格した希典(まれすけ)は、千八百九十五年(明治二十八年)第二師団長として台湾征討に参加している。



翌千八百九十五年二月、清帝国の北洋艦隊の基地である威海衛(ウェイハイウエ)を日本軍が攻略し、三月には遼東半島(リャオトンバンタオ)全域を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。

台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領する。

司令長官・伊東祐亨中将率いる南方派遣艦隊の旗艦・吉野が座礁し予定より到着が遅れ、派遣約六千二百名中の約千二百六十名もの病死者を出すコレラ発生に苦しんだものの、三月下旬混成支隊が澎湖列島に上陸を果たす。

この段階に至り、千八百九十五年(明治二十八年)三月中旬、劣勢の清帝国は漸く休戦・講和に動き、李鴻章(リホンチャン)全権大使が門司に到着した。

下関での交渉の席上、李は、日本側の台湾割譲要求に対し、「日本軍は台湾本土に入っておらず筋が通らない」と大いに反論するも交渉中の李全権大使が五日後に日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、慌てた日本側が早期決着に動いた。

その為、台湾と澎湖列島を除く一時的な休戦に合意し、翌四月中旬日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(二億両/約三・一億円)、日本に最恵国待遇を与える等が決まり五月初旬に清帝国の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。


日清戦争(にっしんせんそう)は、日本での正式名称は明治二十七〜八年戦役(めいじにじゅうしちはちねんせんえき)と呼び、戦争期間が十ヵ月、日本の戦費総額は日本円で三億円、死者一万三千人を費やした戦役である。

千八百九十四年(明治二十七年)七月から翌千八百九十五年(明治二十八年)四月にかけて行われた主に朝鮮・李氏王朝の利権をめぐる日本と清帝国の戦役で、一部の朝鮮王朝の権力者が己の権力の為に日清両国の後押しを利用したに過ぎず、朝鮮国民の望むものではなかった。



千八百九十六年(明治二十九年)、乃木希典(のぎまれすけ)は台湾総督(第三代)に就任する。

初代台湾総督は樺山資紀(かばやますけのり/薩摩藩士)、第二代台湾総督は桂太郎(かつらたろう/長州藩士)、希典(まれすけ)の後は児玉源太郎(こだまげんたろう/長州藩支藩徳山藩士)とそうそうたる顔ぶれである。

台湾総督時代の希典(まれすけ)は抵抗運動鎮圧に苦労し、母・壽子も台湾に来るが総督官舎で病から自刃して亡くなるなど心労も重なり、実直で清廉な希典(まれすけ)は自ら総督としての職務失敗を理由に赴任一年四ヶ月後の千八百九十八年(明治三十一年)辞職する。

元々乃木家は侍医の家とされ、父の乃木希次(のぎまれつぐ)は諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤め「故実家(実用史家)」として知られる存在で、言わば学者肌の家だった。

その上希典(まれすけ)は愚直に純粋清廉な人柄だった事から、左脳域の利の計算や謀(はかりごと)などまったく無縁な人物故に明治帝に愛され国民に愛されて乃木神社に祀られた。

希典(まれすけ)には名将愚将の両評価があるが、愚直に純粋清廉な人柄だった希典(まれすけ)に戦術など求める方がおかしい話で、明らかに前進あるのみの愚将だったが、その愚直に純粋成るが故に最も神に近かったのかも知れない。

希典(まれすけ)には、後任の児玉源太郎や明石元二郎(あかしもとじろう/黒田藩士)のような積極的な内政整備は出来なかったと評されるが、児玉源太郎や明石元二郎は作戦謀議や諜報工作活動などに超一流の評価がある人物で、実直で清廉な希典(まれすけ)には台湾統治は無理だった。


東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、千九百一年(明治三十四年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。

これは後の対米戦備での位置付けから閑職だったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。

但し、平八郎(へいはちろう)自身は中央への異動を希望していたようである。

しかしながら日露開戦前の緊迫時期に平八郎(へいはちろう)は海軍首脳の山本権兵衛海軍大臣に呼び戻され、千九百三年(明治三十六年)十二月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。

本来なら常備艦隊司令長官である日高壮之丞(ひだかそうのじょう)がそのまま就任するのが筋であるが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な平八郎(へいはちろう)を据えたとも言われる。

しかし実際には、日高常備艦隊司令長官は健康問題を抱えて指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な平八郎(へいはちろう)が至極順当に選ばれたと言うのが真相らしい。

またこの時、明治天皇に平八郎(へいはちろう)の任用理由を聞かれた山本は「東郷は運の良い男ですから」と奏したと言われている。


東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を第一艦隊兼連合艦隊司令長官に抜擢した山本權兵衛(やまもとごんべえ)は、同じ旧薩摩藩士である。

山本權兵衛(やまもとごんべえ)は、千八百五十二年(嘉永五年)薩摩藩士で藩右筆を勤めていた山本五百助盛Α覆笋泙發箸いすけ・もりたか)の六男として薩摩国鹿児島城下の鹿児島郡加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に生まれ、幼名も権兵衛(ごんべえ)であるが、權兵衛には(ごんのひょうえ)と言う官職の読み方も存在する。

平安時代に成立した大隅国禰寝院(現在の鹿児島県肝属郡錦江町及び南大隅町)を支配したのは、鎌倉期、室町期、戦国期を通して建部氏(たけべし)を名乗る領主だった。

山本家は鎌倉時代からの大隅国穪寝(おおすみのくにねじめ)の地頭で、はじめ禰寝氏(ねじめし)、次いで日本の古代氏族の一つ建部氏(たけべし)、やがて山本と姓を改めて島津氏に仕えた土豪一族とされる。

また、幕末に出た小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)も禰寝氏(ねじめし)流建部氏(たけべし)の本流が小松姓を名乗ったとされるから、山本権兵衛(やまもとごんべい)の山本氏とは同根である。

權兵衛(ごんべえ)は薩摩藩士の子弟として薩英戦争及び戊辰戦争に従軍し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)後の千八百六十九年(明治二年)に当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所(かいせいじょ/洋学教育研究機関 )、海軍操練所そして海軍兵学寮と 海軍への道を歩む事になった。

海軍兵学寮では実戦を体験した權兵衛(ごんべえ)らの学生には、実戦を体験していない近藤真琴などの教官に素直に従わないこともあった。

西郷隆盛が明治政府から下野した時は、權兵衛(ごんべえ)は西郷を追って鹿児島へ千八百七十四年(明治七年)一時的に帰省するも、西郷自らの説得により川村純義海軍大輔に詫びを入れ学寮に戻った。

權兵衛(ごんべえ)は同千八百七十四年(明治七年)に海兵(海軍兵学寮)二期を卒業、 席次は十七人中十六席だった。

千八百七十七年(明治十年)、權兵衛(ごんべえ)は派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で初めて西郷隆盛が西南戦争を起こした事を知った。

同千八百七十七年(明治十年)、山本権兵衛(やまもとごんべい)は海軍少尉として任官し、翌千八百七十八年(明治十一年)新潟県の漁師・津沢鹿助の三女・登喜子と結婚した。

出身が薩摩閥のエリートである權兵衛(ごんべえ)言動は問題を起こす事もあり、海軍中尉時代には、海軍卿・榎本武揚によって非職となるなどあったが、順調に海軍士官としての経験を積んで行った。

千八百八十四年(明治十七年)五月、權兵衛(ごんべえ)は「天城」艦長 に就任、三年後の千八百八十七年(明治二十年)に海軍大臣伝令使となり、海軍次官樺山資紀の欧米視察旅行に一年以上も随行した。

千八百八十九年(明治二十二年)、權兵衛(ごんべえ)は大佐に昇進し高雄艦長や高千穂艦長を歴任し、千八百九十一年(明治二十四年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争には海軍大臣副官となる。

海軍大臣副官時代の權兵衛(ごんべえ)は「海上権」と言う新しい概念を陸軍首脳へレクチャーし、それ以後日清戦争に於ける陸海軍の作戦が比較的スムーズに進んだ。

当時の海軍軍令部は陸軍参謀本部の中に含まれており独立しておらず、權兵衛(ごんべえ)は軍令部の独立を主張し、その独立までには十年の歳月を費やしている。

日清戦争後の三国干渉から将来のロシアの脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。

当時は海軍省軍務局長その後に海軍省次官であったが、新聞各社で「権兵衛大臣(大臣は強健への皮肉)」の独断専行という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山県有朋や井上馨からも説明を求められた。

だが、海軍大臣の西郷従道は、全てを山本権兵衛(やまもとごんべい)に任せて自分が責任を取ると改革を進めさせた。

特に将官八人、尉佐官八十九人に及ぶ士官のリストラには、權兵衛(ごんべえ)に全てを任せた西郷従道さえも一時は疑問を呈したが、緊急の場合には予備役を現役復帰させれば良いとの説明に最終的には同意した。


千九百四年(明治三十一年)、山本權兵衛(やまもとごんべえ)は前任の海軍大臣・西郷従道の推薦に依り四十七歳の若さで、第二次山縣内閣の海相に就任し、その後日露戦争が終結するまでの約八年と言う長きに渡って事実上の海軍トップとして君臨した。

海軍大臣・山本權兵衛は、日露開戦直前に連合艦隊司令長官を東郷平八郎に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、「人事権は海軍大臣にある」と断行して東郷平八郎の活躍を生んだ。

權兵衛(ごんべえ)は国際情勢の観点から日英同盟を積極的に支持し、海軍条項を早期に同意するなど外務省に協力した。

日英同盟を有効利用し、当時世界の主要港を支配していた英国に中立を守らせ、日本海までの長期航海に於いてその補給・修理・休養を出来る限り妨害して日露戦争下の大日本帝国海軍を支え、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦前に疲労させた。

權兵衛(ごんべえ)は海軍大臣就任を切欠に陸軍との調整などで政治力を認められ、西郷従道亡き跡の海軍の重鎮の一人として存在感を強め、総理大臣の候補に名前が挙がるようになって行った。

藩閥に属するも政党および国会を尊重し、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取っていた權兵衛(ごんべえ)は同じ薩摩の元老・大山巌の支持で組閣が命じられ晩年の千九百十三年(大正二年)立憲政友会を与党として内閣総理大臣に就任し、第十六(第一次山本内閣)・第二十二代(第二次山本内閣)の総理大臣を務めた。

第二次山本内閣の組閣は、関東大震災の被害もまだ明けぬ千九百二十三年(大正十二年)九月二日で、帝都復興の為に權兵衛(ごんべえ)の政治力が期待されたのだろう。


明治期屈指の文豪兼最高位まで昇った軍医に、森鴎外(もりおうがい)=森林太郎(もりりんたろう)が居る。

主に明治期に小説家、評論家、翻訳家、劇作家として活躍した森鴎外(もりおうがい)は、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)でもある。

森鴎外(もりおうがい)は筆名(ペンネーム)で、本名を森林太郎(もりりんたろう)と言う医学博士・文学博士である。

森林太郎(もりりんたろう)は、千八百六十二年二月十七日(文久二年一月十九日)、石見国鹿足郡津和野町町田村(現島根県)で生まれた。

代々津和野藩主・亀井家の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えている為、久々の跡継ぎ誕生であった。

林太郎(りんたろう)は藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読する。

当時の記録から、林太郎(りんたろう)は九歳で十五歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待される事になった。

千八百七十二年(明治五年)、林太郎(りんたろう)は廃藩置県等をきっかけに十歳で父と上京する。

東京では、林太郎(りんたろう)は官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得する為、同年十月に私塾の進文学社に入った。

その際に通学の便から、政府高官の親族・西周(にしあまね)の邸宅に一時期寄食した。

翌年、津和野に残る森家の家族も住居などを売却して故郷を離れた。


千八百七十三年(明治六年)十一月、林太郎(りんたろう)は第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より二歳多く偽り入校試問を受け合格する。

林太郎(りんたろう)は、新入生七十一名と伴に十二歳で第一大学区医学校に入学(後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)する。

定員三十人の本科に進むと、ドイツ人教官達の講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。

語学に堪能な林太郎(りんたろう)は、後年、執筆に当たってドイツ語など西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。

さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記している。

千八百八十一年(明治十四年)七月四日、林太郎(りんたろう)は十九歳で第一大学区医学校本科を卒業する。

林太郎(りんたろう)の卒業席次は八番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。

その進路未定の林太郎(りんたろう)の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に採用するよう長文の熱い推薦状を出している。

また小池正直と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこつると)は、林太郎(りんたろう)に陸軍省入りを勧めていた。

結局のところ林太郎(りんたろう)は、千八百八十一年(明治十四年)十二月十六日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。

妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の?外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたりしていたという。


入省して半年後の千八百八十二年(明治十五年)五月、林太郎(りんたろう)は東京大学医学部卒業の同期八名の中で最初の軍医本部付となる。

林太郎(りんたろう)はプロイセンの陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年三月には「医政全書稿本・全十二巻」を役所に納めた。

千八百八十四年(明治十七年)六月、林太郎(りんたろう)は衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べる為、ドイツ留学を命じられる。

七月二十八日、林太郎(りんたろう)はドイツ留学の為に明治天皇に拝謁し、賢所に参拝する。

八月二十四日、林太郎(りんたろう)は陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、十月七日にフランスのマルセイユ港に到着し同月十一日に首都ベルリンに入った。


千八百八十四年(明治十七年)十月にドイツ入りした林太郎(りんたろう)は、ライプツィヒ大学で一年、首都ドレスデンに五ヶ月、ミュンヘン大学に一年、ベルリンに一年三ヶ月と医学の研鑽を続けた。

この間に林太郎(りんたろう)は、ライプツィヒ大学ホフマン教授、ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロート、同僚軍医のキルケ、原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息、北里柴三郎、衛生試験所のコッホ教授などの教えを受けたり親交する。

千八百八十六年九月下旬、カールスルーエで開催される第四回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に、林太郎(りんたろう)は随行し、通訳官として同会議に出席する。

赤十字国際会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加し、十一日間の滞在中、林太郎(りんたろう)は恩師や知人と再会した。


千八百八十八年(明治二十一年)一月、林太郎(りんたろう)は大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞され、十八日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの「戦争論」を講じた。

林太郎(りんたろう)は、留学が一年延長された代わりに地味な隊付勤務を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。

ただ、この林太郎(りんたろう)のベルリン生活は、「舞姫」のモデルとされるドイツ人女性(諸説在り)と出会った都市でもあった。


千八百八十八年(明治二十一年)七月五日、林太郎(りんたろう)は日本代表・石黒忠悳と伴にベルリンを発ち、帰国の途に着いた。

林太郎(りんたろう)はロンドン立ち寄り保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を四首贈り、パリに立ち寄りながら七月二十九日マルセイユ港を後にした。

千八百八十八年(明治二十一年)九月八日、林太郎(りんたろう)一行は横浜港に着き午後に帰京する。

林太郎(りんたろう)は、同日付けで陸軍軍医学舎の教官に補され、十一月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。

帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。

後年、文通をするなど、林太郎(りんたろう)はその女性を生涯忘れる事は無かったとされる。


森林太郎(もりりんたろう)=森鴎外(もりおうがい)は、千八百八十九年(明治二十二年)一月三日の読売新聞の付録に「小説論」を発表する。

さらに同日の読売新聞から、鴎外(おうがい)は弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。

その鴎外(おうがい)の翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰(とくとみそほう)だった。

同年八月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌・「国民之友・夏期文芸付録」に、鴎外(おうがい)は訳詩集・「於母影」を発表する。


その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。

また、鴎外(おうがい)は「於母影」の原稿料五十円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌・「しがらみ草紙」を創刊する。

「しがらみ草紙」は、日清戦争の勃発により五十九号で廃刊となっている。


鴎外(おうがい)は欧州ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作を相次いで発表する。

なかでも、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせた。

この千八百八十九年(明治二十二年)に、鴎外(おうがい)は東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を委嘱される。

また、鴎外(おうがい)は千八百九十二年(明治二十五年)九月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された。

この二校の美術講師は、いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱と成って居る。


千八百九十四年(明治二十七年)夏、鴎外(おうがい)は日清戦争勃発により、八月二十九日に東京を離れ、九月二日に広島の宇品港を発った。

翌年の日清講和条約の調印後、五月に近衛師団付の従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第二軍兵站部軍医部長の鴎外(おうがい)を訪ねた。

清との戦争が終わったものの、鴎外(おうがい)は日本に割譲された台湾での勤務を命じられていた。

この台湾勤務は、朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる。

鴎外(おうがい)は五月二十二日に宇品港に着き、心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会、その二日後には初代台湾総督の樺山資紀等と伴に台湾に向かった。

鴎外(おうがい)は四か月ほどの台湾勤務を終え、十月四日には帰京している。

千八百九十六年(明治二十九年)一月、「しがらみ草紙」の後を受けて幸田露伴・斎藤緑雨と伴に「めさまし草」を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立つ。


千八百九十九年(明治三十二年)六月に、鴎外(おうがい)は軍医監(少将相当)に昇進しする。

東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第十二師団軍医部長に「左遷」されるも、前任者の辞任による穴埋め後任人事とも言われる。

十九世紀末から二十世紀の初頭をすごした鴎外(おうがい)の小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。

千九百年(明治三十三年)一月に、鴎外(おうがい)の先妻・旧姓・赤松登志子が結核で死亡する。
その後母の勧めるまま千九百二年(明治三十五年)一月、四十一歳の鴎外(おうがい)は十八歳年下・二十三歳の荒木志げと再婚同士の見合い結婚をした。

千九百二年(明治三十五年)三月、鴎外(おうがい)は第一師団軍医部長の辞令を受け、新妻・志げとともに東京に赴任した。

上京した鴎外(おうがい)は六月、廃刊になっていた「めざまし草」と上田敏の主宰する「芸苑」とを合併し、「芸文」を創刊する。

しかしその後、出版社とのトラブルで「芸文」を廃刊とし、十月に後身の「万年艸(まんねんぐさ)」を創刊する。

当時は、十二月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる鴎外(おうがい)の活動が目立っていた。

千九百四年(明治三十七年)二月から千九百六年(明治三十九年)一月まで、鴎外(おうがい)は日露戦争に第二軍軍医部長として出征する。

千九百七年(明治四十年)九月、鴎外(おうがい)は美術審査員に任じられ、第一回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた。

千九百七年(明治四十年)十月、鴎外(おうがい)は陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。

千九百九年(明治四十二年)に「スバル」が創刊されると、鴎外(おうがい)は同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した。

鴎外(おうがい)は「スバル」紙に「半日」、「ヰタ・セクスアリス」、「鶏」、「青年」などを載せ、「仮面」、「静」などの戯曲を発表する。

「スバル」創刊年の七月、鴎外(おうがい)は東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。

しかし、学位授与の直後に「ヰタ・セクスアリス」(スバル誌七月号)が発売禁止処分を受ける。

しかも、内務省の警保局長が陸軍省を訪れた八月、鴎外(おうがい)は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)される。

千九百九年(明治四十二年)十二月、鴎外(おうがい)は「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

慶應義塾大学の文学科顧問に鴎外(おうがい)が就任(教授職に永井荷風を推薦)した千九百十年(明治四十三年)は、五月に大逆事件の検挙がはじまりる。

鴎外(おうがい)は九月に東京朝日新聞が連載「危険なる洋書」を開始して六回目に鴎外(おうがい)と妻・志げの名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。

そうした閉塞感がただよう年に、鴎外(おうがい)は「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義や無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表。

千九百十一年(明治四十四年)にも、鴎外(おうがい)は「カズイスチカ」、「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始する。

千九百十一年(明治四十四年)四月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義と言うものは本来ないと思う。」とした。

その上で、「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義と言う漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家の為に惜むべき事である。」とし、「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」と鴎外(おうがい)は結んだ。

また、鴎外(おうがい)は陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本と激しく対立した。

挙句、終(つい)に医務局長の鴎外(おうがい)は石本に辞意を告げる事態になる。

この対立、結局のところ陸軍では医学優先の人事が継続され、鴎外(おうがい)が勝つ。

階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鴎外(おうがい)の主張が通った背景の一つに、「山縣有朋(やまがたありとも)の存在が在った」と考えられている。

千九百十二年(明治四十五年/大正元年)から翌年にかけて、鴎外(おうがい)は五条秀麿を主人公にした「かのやうに」、「吃逆」、「藤棚」、「鎚一下」の連作を発表する。

また、司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。

当時鴎外(おうがい)は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。

また、公務のかたわら、鴎外(おうがい)は「ファウスト」などゲーテの三作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。

千九百十二年(大正元年)八月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外(おうがい)独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表する。

翌千九百十三年(大正二年)九月十三日、鴎外(おうがい)は乃木希典(のぎまれすけ)の殉死に影響を受けて五日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。

「興津弥五右衛門の遺書」の執筆を機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」、「高瀬舟」などの後、史伝「渋江抽斎」に結実した。

それでも鴎外(おうがい)は、千九百十五年(大正四年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。

千九百十六年(大正五年)、鴎外(おうがい)は随筆「空車(むなぐるま)」を、千九百十八年(大正七年)一月には随筆「礼儀小言」を著した。

千九百十六年(大正五年)四月、鴎外(おうがい)は任官時の年齢が低い事もあり、トップの陸軍省医務局長を八年半つとめて退き、予備役に編入された。

その後鴎外(おうがい)は、千九百十八年(大正七年)九月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任する。

さらに千九百十八年(大正七年)十二月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に、翌年一月に帝室制度審議会御用掛に就任した。

鴎外(おうがい)は元号の「明治」と「大正」に否定的であった為、宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。

しかし「帝諡考」は刊行したものの、鴎外(おうがい)は病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の「元号考」の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。

千九百二十二年(大正十一年)七月九日午前七時過ぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核の為に鴎外(おうがい)は満六十歳で死去した。


明治期の初期文壇で、文豪・森鴎外(もりおうがい)と双璧を成すのが文豪・夏目漱石(なつめそうせき)である。

小説家、評論家、英文学者として知られる筆名(ペンネーム)夏目漱石(なつめそうせき)の本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。

金之助(きんのすけ)は、千八百六十七年(慶応三年)二月九日、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、母・千枝の末子(五男)として出生する。

父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。

母・千枝は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、金之助(きんのすけ)は望まれない子として生まれた。


夏目金之助(なつめきんのすけ)の祖父・直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。

しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得る事ができた。

金之助(きんのすけ)という名前は、生まれた日がこの日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった「庚申の日」だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。


また三歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残る事となった。

当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、金之助(きんのすけ)は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出される。

所が、この赤子(金之助)が、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。

その後の千八百六十八年(明治元年)十一月、金之助(きんのすけ)は塩原昌之助のところへ養子に出された。

塩原は父・直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人のやすと言う女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。

しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、金之助(きんのすけ)七歳の時、養母・やすと伴に一時生家に戻る。

一時期金之助(きんのすけ)は実父母の事を祖父母と思い込んでいた。

養父母の離婚により、金之助(きんのすけ)九歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により二十一歳まで夏目家への復籍が遅れた。

このように、金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)の幼少時は波乱に満ちていた。

この養父・塩原には、漱石(そうせき)が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。

養父母との関係は、後の自伝的小説・「道草」の題材にもなっている。

家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。

金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)十二歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)に入学する。

しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学した事と、また漢学・文学を志す為、金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は二年ほどで中退した。

中退の後も金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は、長兄・大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。

後に金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学する。

この二松學舍で、後の小説で見られる漱石(そうせき)の儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。

しかし、長兄・大助が文学を志す事に反対した為、はこの二松學舍も数か月で中退する。

長兄・大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていた。

そこで出来の良かった末弟の金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)を見込み、大学を出て立身出世をさせる事で夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

二年後の千八百八十三年(明治十六年)、金之助(きんのすけ)は英語を学ぶ為、神田駿河台の英学塾・成立学舎に入学し、頭角を現した。

千八百八十四年(明治十七年)、大学予備門の受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていた事も幸いし、金之助(きんのすけ)は無事に大学予備門予科に入学。

ちなみにその隣席の友人は不合格であった。

大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。

千八百八十六年(明治十九年)、大学予備門は第一高等中学校に改称する。

その年、金之助(きんのすけ)は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず中村是公と共に落第する。

その後金之助(きんのすけ)は、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活し、以後は学業に励み、ほとんどの教科に於いて首席であった。

金之助(きんのすけ)は、特に英語が頭抜けて優れていた。

千八百八十九年(明治二十二年)、同窓生として漱石(そうせき)に多大な文学的・人間的影響を与える事になる俳人・正岡子規(まさおかしき)と初めて出会う。

正岡子規(まさおかしき)が手がけた漢詩や俳句などの文集・「七草集」が学友らの間で回覧された時、金之助(きんのすけ)がその批評を巻末に漢文で書いた事から、本格的な友情が始まる。

この時金之助(きんのすけ)は、初めて漱石(そうせき)と言うう号を使う。


漱石(そうせき)の名は、唐代の「晋書」にある故事「漱石枕流(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)」から取ったもので、負け惜しみの強い事、変わり者の例えである。

「漱石(そうせき)」は子規の数多いペンネームの内の一つであったが、後に漱石(そうせき)は子規(しき)からこれを譲り受けている。

千八百八十九年(明治二十二年)九月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漱石(そうせき)が漢文でしたためた紀行・「木屑録(ぼくせつろく)」の批評を、子規(しき)に求めるなど、徐々に交流が深まって行く。

漱石(そうせき)の優れた漢文、漢詩を見て子規(しき)は驚いたと言う。

以後、子規(しき)との交流は、漱石(そうせき)がイギリス留学中の千九百二年年(明治三十五年)に子規(しき)が没するまで続く。


千八百八十七年(明治二十年)三月、漱石(そうせき)は長兄・大助と死別、同年六月に次兄・栄之助と死別する。

千八百九十年(明治二十三年)、漱石(そうせき)は創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学する。

帝国大学入学直後の千八百九十一年(明治二十四年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした。

長兄、次兄を続けて亡くした事も影響して、この頃から漱石(そうせき)は、厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。

漱石(そうせき)は三兄・和三郎の妻・登世に「恋心を抱いていた」とも言われ、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌千八百九十二年(明治二十五年)、漱石(そうせき)は特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記」の英訳などする。

その年の千八百九十二年(明治二十五年)、漱石(そうせき)は兵役逃れの為に分家し、貸費生で在った為北海道に籍を移す。

漱石(そうせき)は同年五月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。

漱石(そうせき)と子規(しき)は早稲田の辺を一緒に散歩する事もままあった。

その様を子規(しき)は自らの随筆・「墨汁一滴」で「この時余が驚いた事は漱石(そうせき)は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。

千八百九十二年(明治二十五年)七月七日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規(しき)と共に、漱石(そうせき)は初めての関西方面の旅に出る。

夜行列車で新橋を経ち、八日に京都に到着して二泊し、十日神戸で子規と別れて十一日に岡山に到着する。

岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に一か月あまり逗留する。

この間、七月十九日、松山の子規(しき)から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。

漱石(そうせき)は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。

その後漱石(そうせき)は、八月十日、岡山を立ち、松山の子規(しき)の元に向かう。

子規(しき)の家で、後に漱石(そうせき)を職業作家の道へ誘う事になる当時十五歳の高浜虚子(たかはまきょし)と出会う。

子規(しき)は千八百九十三年(明治二十六年)三月、帝国大学を中退する。


千八百九十三年(明治二十六年)、漱石(そうせき)は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶ事に違和感を覚え始める。

二年前の、登世との失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

その後、漱石(そうせき)は鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。

千八百九十五年(明治二十八年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。

ちなみに、松山は子規(しき)の故郷であり、漱石(そうせき)は二ヵ月あまり静養していた。

この頃、子規(しき)とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。


千八百九十六年(明治二十九年)、漱石(そうせき)は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をする

しかし鏡子は、慣れない環境と流産の為ヒステリー症が激しくなり、三年目には白川井川淵に投身を図るなど、漱石(そうせき)には順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。

この頃の漱石(そうせき)は俳壇でも活躍し、家庭面以外では順調に名声をあげて行く。

千九百年(明治三十三年)五月、漱石(そうせき)は文部省より英語研究の為(英文学の研究ではない)英国留学を命ぜられる。

千九百年最初の漱石(そうせき)の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。

漱石(そうせき)はメレディスやディケンズをよく読み漁った。

大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講を止めてしまう。

漱石(そうせき)は「永日小品」にも出て来るシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また「文学論」の研究に勤しんだりする。

しかし漱石(そうせき)は、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。

漱石(そうせき)は「夜下宿ノ三階ニテ、ツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。

それでもこのロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆・「倫敦塔」が書かれている。

千九百一年(明治三十四年)、化学者の池田菊苗と二か月間同居する事で新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。


その結果、今まで付き合いの在った留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送る。

土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。

漱石(そうせき)英国留学中千九百二年(明治三十五年)九月、正岡子規(まさおかしき)が三十五歳の若過ぎる死を迎えた。

千九百二年(明治三十五年)九月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出る。

その為、「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。

漱石(そうせき)は急遽帰国を命じられ、千九百二年(明治三十五年)十二月五日にロンドンを発つ事になった。

帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石(そうせき)の親族は、これを漱石(そうせき)が精神病を患っている為であろうと、いよいよ心配した。


当時の漱石(そうせき)最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって千九百八十四年(昭和五十九年)に設立された。

漱石(そうせき)の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを記念館に展示し一般公開されている。


漱石(そうせき)は英国留学から帰国後の千九百三年(明治三十六年)三月三日に、本郷区駒込千駄木町五十七番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入する。

千九百三年(明治三十六年)四月、漱石(そうせき)は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。

当時の第一高等学校長は、親友の狩野亨吉であった。

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。

また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石(そうせき)に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。

こうした中、漱石(そうせき)は神経衰弱になり、妻・鏡子とも約二か月別居する。

千九百四年(明治三十七年)には、漱石(そうせき)は明治大学の講師も務める。

その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげる為処女作になる「吾輩は猫である」を執筆し初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。

千九百五年(明治三十八年)一月、「ホトトギス」に一回の読み切りとして掲載されたが、好評の為続編を執筆する。

この時から漱石(そうせき)は、作家として生きて行く事を熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。

漱石(そうせき)の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

千九百六年(明治三十九年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。

これが後の「木曜会」の起こりと成る。

その「木曜会・夏目門下」には内田百痢μ郛緻鐇源辧△気蕕妨紊凌兄彡派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。

千九百七年(明治四十年)二月、漱石(そうせき)は一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社する。

当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。

千九百七年(明治四十年)六月、漱石(そうせき)は職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始するが、執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。

千九百九年(明治四十二年)親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。

この旅行の記録は、「朝日新聞」に「満韓ところどころ」として連載される。

千九百十年(明治四十三年)六月、「三四郎」、「それから」に続く前期三部作の三作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院する。

同千九百十年(明治四十三年)八月、療養の為門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。

しかしそこで胃疾になり、八百グラムにも及ぶ「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血事件を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。

この時の一時的な「死」を体験した事は、その後の作品に影響を与える事に成る。

漱石(そうせき)自身も「思い出すことなど」で、この時の事に触れている。

最晩年の漱石(そうせき)は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。

「硝子戸の中」では、本音に近い真情の吐露が見られる。


千九百十年(明治四十三年)十一月、漱石(そうせき)の容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。

千九百十一年(明治四十四年)八月関西での講演直後に胃潰瘍が再発し、漱石(そうせき)は大阪の大阪胃腸病院に入院する。

退院して東京に戻った後は、痔にかかり通院する。


大正期に入った後の漱石(そうせき)は、それこそ闘病との連続で、千九百十二年(大正元年)九月に痔の再手術をする。

千九百十二年(大正元年)十二月には、「行人」も病気の為に初めて漱石(そうせき)は執筆を中絶する。

千九百十三年(大正二年)、漱石(そうせき)は、神経衰弱、胃潰瘍で六月頃まで悩まされる。

千九百十四年(大正三年)九月、漱石(そうせき)は四度目の胃潰瘍で病臥する。

この年の漱石(そうせき)作品は人間のエゴイズムを追い求めて行き、後期三部作と呼ばれる「彼岸過迄」、「行人」、「こゝろ」へと繋がって行く。

千九百十五年(大正四年)三月、漱石(そうせき)は京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。

この年の六月より、漱石(そうせき)は「吾輩は猫である」の執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始する。

千九百十六年(大正五年)には、漱石(そうせき)は糖尿病にも悩まされる。

この千九百十六年(大正五年)、辰野隆の結婚式に出席して後の十二月九日、漱石(そうせき)は大内出血を起こし、「明暗」執筆途中に四十九歳十ヶ月で死去した。


近代日本黎明期の日本陸海軍に奉職し、歴史的勝利を果たした日露戦争で兄弟の夫々が陸と海で大活躍した兄弟が居た。
それが伊予国の下級武士に生まれた秋山兄弟である。

日本陸軍の、特に騎兵隊の父と呼ばれた勲一等陸軍大将・秋山好古(あきやまよしふる)は、千八百五十九年(安政六年)に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に於いて松山藩の下級武士・徒士目付筆頭・秋山久敬(あきやまひさたか)の三男として生まれた。

伊予松山・久松松平氏十五万石は、幕府親藩・御家門の大名で、好古(よしふる)の秋山氏は安土桃山期まで遡れば伊予の名流・河野氏に繋がるとされている。

実弟の一人に、海軍軍人として日清・日露の海戦に従軍し、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した後、海軍中将に昇った九歳年下の久敬(ひさたか)五男・秋山真之(あきやまさねゆき)が居る。


千八百七十五年(明治八年)、好古(よしふる)は大阪師範学校受験し翌年には名古屋師範学校附属小学校に勤務するも僅か一年後(明治十年)には陸軍士官学校(旧制三期生)に入学し、軍人としての一歩を始めた。

二年後の千八百七十九年(明治十二年)、好古(よしふる)は陸軍士官学校卒業し、陸軍騎兵少尉に任用されて東京鎮台に配属される。

翌千八百八十年(明治十三年)、病に在った兄・則久の代替として好古(よしふる)が秋山家の家督相続する。

千八百八十三年(明治十六年)、好古(よしふる)は陸軍騎兵中尉に任じられて陸軍士官学校騎兵科教官に異動の後、翌月に陸軍大学校(第一期)入学する。

二年後の千八百八十五年(明治十八年)、好古(よしふる)は陸軍大学校卒業し参謀本部に勤務した後、翌明治十九年には東京鎮台参謀に異動となり陸軍騎兵大尉に任用される。

千八百八十七年(明治二十年)、好古(よしふる)は秋山家の旧主君家である旧伊予松山藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)のサン・シール陸軍士官学校に留学に補導役として就き、フランスへ渡り騎兵戦術の習得に努める。

四年後の千八百九十一年(明治二十四年)、帰国した好古(よしふる)は騎兵の戦術専門家として騎兵第一大隊中隊長に異動、翌年には陸軍士官学校馬術教官に異動し陸軍騎兵少佐に任用される。


千八百九十三年(明治二十六年)、好古(よしふる)は騎兵第一大隊長に異動、翌年起こった日清戦争に従軍し、戦勝後の千八百九十五年(明治二十八年)には陸軍騎兵中佐に昇任した。

千八百九十七年(明治三十年)に陸軍騎兵大佐となり騎兵関係の軍教育畑を歴任した好古(よしふる)は、清国駐屯軍守備司令官などを経て千九百二年(明治三十五年)に陸軍少将に昇任する。

日露戦争の機運が高まる中、大陸に於ける作戦に好古(よしふる)の騎兵戦術は大いに期待され、千九百三年(明治三十六年)に騎兵第一旅団(習志野騎兵旅団)に異動する。

翌千九百四年(明治三十七年)の日露戦争の折には、秋山好古旅団長の指揮下で騎兵第一旅団は当時最強と言われたロシア帝国のコサック騎兵部隊を撃破するなど大いに活躍した。

九歳年下で学費を援助するなどして可愛がった弟の真之(さねゆき)には、千九百十八年(大正七年)に先立たれていた。

日露戦争後、好古(よしふる)は陸軍中将、近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、陸軍大将、陸軍教育総監などを経て、晩年は本人の強い希望で故郷の北予中学校(現在の松山北高校)校長就任、千九百三十年(昭和五年)に亡くなる半年ほど前まで約七年教育現場で過ごしている。



秋山真之(あきやまさねゆき)は、海軍軍人として日清・日露の海戦に従軍し、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案しバルチック艦隊を撃滅させる。

バルチック艦隊を撃滅した後、海軍中将に昇った秋山真之(あきやまさねゆき)は、千八百六十八年に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に於いて松山藩の下級武士・徒士目付筆頭・秋山久敬(あきやまひさたか)の五男として生まれた。

伊予松山・久松松平氏十五万石は、幕府親藩・御家門の大名で、真之(さねゆき)の秋山氏は安土桃山期まで遡れば伊予の名流・河野氏に繋がるとされている。

日本陸軍の、特に騎兵隊の父と呼ばれた勲一等陸軍大将・秋山好古(あきやまよしふる)は、真之(さねゆき)の九歳年上の実兄の一人である。


正岡子規(まさおかしき)は、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治時代を代表する文学者の一人で、国語学研究家である。

千八百六十七年(慶応三年)十月十四日に伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚と八重の間に長男・常規(つねのり)として生まれた。

母・八重は、松山藩の儒者・大原観山の長女である。

千八百七十二年(明治五年)、幼くして父・常尚が没した為に常規(つねのり)は家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。

常規(つねのり)=子規(しき)は、外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。

少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。

正岡常規(まさおかつねのり)=子規(しき)は、千八百八十年(明治十三年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学する。

千八百八十三年(明治十五年)、同旧制愛媛一中を中退して上京し、受験勉強の為に共立学校(現・開成高)に入学。

翌年、旧藩主・松平家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。

千八百九十年(明治二十三年)、常規(つねのり)は帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。

この頃から常規(つねのり)は「子規(しき)」と号して句作を行い、正岡子規(まさおかしき)が誕生する。

愛媛一中、共立学校で同級だった後の海軍中将・秋山真之(あきやまさねゆき)とは、松山在住時からの友人である。

また、子規(しき)と秋山真之(あきやまさねゆき)の共通の、同郷の友人として大蔵官僚から政治家・勝田主計(しょうだ かずえ)がいた。

東大予備門では、子規(しき)は夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓だった。

大学中退後、子規(しき)は叔父・加藤拓川の紹介で千八百九十二年(明治二十五年)に日刊新聞・「日本」の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。

千八百九十三年(明治二十六年)に、子規(しき)は日刊新聞・「日本」に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。

千八百九十四年(明治二十七年)夏に日清戦争が勃発すると、子規(しき)は翌千八百九十五年(明治二十八年)四月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡った。

しかし、子規(しき)が上陸した二日後に下関条約が調印された為、同年五月、第二軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。

その帰国の船中で子規(しき)は喀血して重態に陥り、入港即神戸病院に入院する。

千八百九十五年1(明治二十八年)七月、須磨保養院で療養した後、子規(しき)は松山に帰郷した。

千八百九十七年1(明治三十年)に子規(しき)は俳句雑誌・「ホトトギス(ほとゝぎす)」を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献する。

この次期の子規(しき)は夏目漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

短歌に於いても、子規(しき)は「歌よみに与ふる書」を日刊新聞・「日本」に連載する。

子規(しき)は古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。

子規(しき)が興した根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社・「アララギ」へと発展して行く。

やがて病いに臥せつつ「病牀六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。

同時期に病床で書かれた子規(しき)の日記・「仰臥漫録」の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。

千九百二年(明治三十五年)九月、三十五歳の若過ぎる子規(しき)の死去だった。


秋山真之(あきやまさねゆき)は親友の正岡子規(まさおかしき)の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中学五年にて中退する。

千八百八十三年(明治十六年)、真之(さねゆき)は将来の太政大臣を目指すために東京へ行き、受験準備の為に高橋是清(たかはしこれきよ)が校長を務めていた共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学する。

大学予備門では東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之(さねゆき)は兄の好古(よしふる)に学費を頼っていた為、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む親友の子規(しき)らとは道を異にし、千八百八十六年(明治十九年)に海軍兵学校に十七期生として進学している。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍騎兵大尉に昇任して東京鎮台参謀を務めている。

千八百九十年(明治二十三年)に、真之(さねゆき)は海軍兵学校を首席で卒業し、卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したオスマン帝国(現トルコ)軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。

オスマン帝国(現トルコ)から帰還後の千八百九十二年(明治二十五年)真之(さねゆき)は海軍少尉に任官、千八百九十四年(明治二十七年)の日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参戦従事している。

子供の頃から戦争ごっこが好きな真之(さねゆき)だったが実戦で現実を知り、国を守る為に戦う事が止むを得ないのなら、せめて「なるべく兵を失わない戦をしよう」と考え、作戦参謀を志して作戦の立案を学ぶ道を進む。

日清戦争後には「和泉」分隊士、千八百九十六年(明治二十九年)には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第二水雷隊付になる。

横須賀水雷団第二水雷隊付の後、真之(さねゆき)は海軍大尉となり報知艦「八重山」に乗艦し、同年十一月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。


千八百九十八年(明治三十一年)に海軍の留学生派遣が再開され、真之(さねゆき)は派遣留学生に選ばれるが公費留学の枠には入れずに始めは私費留学だった。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍騎兵大佐に昇進していたから、その援助も在っての私費留学だったのかも知れない。

米国へ留学した真之(さねゆき)は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。

この米国留学の時、真之(さねゆき)は米西戦争を観戦武官として視察し報告書「サンチャゴ・デ・クーパの役」を提出する。

米国海軍がキューバの港を閉塞する作戦を見学しており、この時の経験が日露戦争に於ける「旅順港閉塞作戦の礎となった」とも指摘されている。

翌千八百九十九年(明治三十二年)一月、真之(さねゆき)は英国駐在武官となり約七ヶ月視察を行い八月に帰国する。

英国視察後の千九百年(明治三十三年)には、真之(さねゆき)は海軍省軍務局第一課員・常備艦隊参謀になり、翌千九百一年(明治三十四年)には海軍少佐に昇任している。


秋山真之(あきやまさねゆき)、千九百二年(明治三十五年)に海軍大学校の教官となり、千九百四年(明治三十七年)に海軍中佐に昇任して第一艦隊参謀(後に先任参謀)を拝命する。

この頃、兄の好古(よしふる)は陸軍少将に昇任、騎兵第一旅団(習志野騎兵旅団)を指揮する立場に立っていた。

真之(さねゆき)が第一艦隊参謀(後に先任参謀)を拝命したこの年、朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では真之(さねゆき)は連合艦隊司令長官・東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第一艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。

旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅の為の旅順港閉塞作戦に於いては、真之(さねゆき)は先任参謀を務め機雷敷設などを行い、ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案して日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争に於ける日本の政略上の勝利を決定付けた。

日露戦争戦勝後の千九百五年(明治三十八年)に連合艦隊は解散、真之(さねゆき)は巡洋艦の艦長を歴任し、千九百八年(明治四十一年)海軍大佐、第一艦隊の参謀長を経て千九百十二年(大正元年)の末からは軍令部第一班長(後の軍令部第一部長)に任ぜられ、翌千九百十三年(大正二年)に海軍少将に昇進している。

その後海軍中将まで昇って軍務局長を務めた真之(さねゆき)だったが、晩年は病に苦しんで活躍の場面は少なく、千九百十八年(大正七年)に五十歳で没する二年程前からは闘病が仕事だった。



日露戦争(にちろせんそう)は、大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争で、言わば両国の満洲及び朝鮮に於ける自国権益の維持・拡大を目的とした戦争である。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利に拠ってバルカン半島に於ける大きな地歩を獲得した。

しかしロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催する。

ビスマルクはベルリン会議で露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功し、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向ける事になった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。

朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉に拠って、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。

日本の国内世論に於いては「ロシアとの戦争も辞さず」と言う強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。

日本の立場とすれば、日清戦争後に下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するように、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国が日本に対する勧告「三国干渉」をして来た対抗処置の一環であり、主として満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下を防ぎ、日本の安全保障と半島での権益の確保が目的だった。

所がロシアは千八百九十八年に露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めて行った。

ロシアは千九百年に清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を口実に満洲へ侵攻し、満洲全土を占領下に置いた。

ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束するが、ロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。

ロシアの南下が自国の権益と衝突するとボーア戦争を終了させるのに戦費を調達した為国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況で在った英国は危機感を募らせ、千九百二年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った。

朝鮮半島・大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手掛かりに南下政策を取りつつ在った。

ロシアは李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃・閔妃(ミン)を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

当初、大国ロシアの国力を承知する日本側は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増して行った。

日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

千九百三年四月二十一日に京都に在った山縣有朋の別荘・無鄰庵で、小村寿太郎・桂太郎・山縣有朋・伊藤博文による「無鄰菴会議」が行われる。

その席上で桂太郎は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する事、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」と言う対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。

桂太郎は後に、「この会談で日露開戦の覚悟が定まった」と書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤博文の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映される事になる。


千九百三年八月から始まった日露交渉に於いて、日本側はロシア側へ朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くと言う妥協案、所謂(いわゆる)「満韓交換論」を提案した。

しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。

更に常識的に考えれば強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無く、ニコライ二世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。

唯一セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争に拠って負ける事はないにせよロシアが疲弊する事を恐れ戦争回避論を展開したが、これは皇帝達主戦派に拠って退けられた。

ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯三十九度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずると言う提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。

またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。

千九百四年二月六日、終(つい)に日本の外務大臣・小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。

千九百四年二月、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国に於ける日本の軍事行動を可能にする為に日韓議定書を締結し、開戦後の八月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をする事とした。

大韓帝国内でも李氏朝鮮王朝による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに五万人とも言われる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

農民階級(東学党→進歩会)と支配階級出身で朝鮮の近代化をめざす改革派知識人グループ(維新会)が意見が合い、進歩会を吸収して親日団体「一進会(イルチンフェ)」

一方、李氏朝鮮王・高宗(コジュン)や両班(ヤンバン/特権貴族)などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中に於いてロシアに密書を送るなどの外交を展開して行った。

つまり大韓帝国内も新勢力は日本側、旧勢力はロシア側に接近して権力攻守の後ろ盾としていたのである。


日露戦争の戦闘は、千九百四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まり、この攻撃ではロシアの戦艦に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。

同じ千九百四年二月八日、日本陸軍先遣部隊の第十二師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸した。

瓜生外吉少将率いる日本海軍第三艦隊の巡洋艦群は同旅団の護衛を終えた後、二月九日、「仁川沖海戦」と呼ばれる仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し損傷を与えた。

千九百四年二月十日には日本政府からロシア政府への正式な宣戦布告がなされた。

ロシア旅順艦隊は日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機し、援軍・バルチック艦隊を待つ構えを見せ、もしロシアのバルチック艦隊が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば戦力は圧倒的となり、制海権はロシアに奪われる事になる。

バルチック艦隊との合流を避けたい連合艦隊は「旅順港閉塞作戦」を慣行、二月から五月にかけて旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった。


人間は群れ社会の動物であるから、群れ内の合意や取り上げられる話題に弱く、それ故に何らかの伝播・伝承で繰り返し耳に入る内容や人名には弱い。

特に知っている伝説や名前には、「知っている」と言うだけで既に疑う事を放棄してしまう思考傾向を持っている。

そしてその思考傾向は、この日本列島でも神代の昔から統治に利用されて来た。

明治の大日本帝国海軍軍人である広瀬武夫(ひろせたけお/廣瀬武夫)は、日露戦争でのエピソードを広く取り上げられ、戦前は半ば国策的に「軍神」として神格化されていた。


広瀬武夫(ひろせたけお)は、豊後岡藩士・広瀬友之允(広瀬重武)の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。

幼少時に母親と死別し祖母に育てられるも激動の時代で、薩摩西郷軍が起こした西南戦争により豊後・竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。

武夫(たけお)は、飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務めるも千八百八十五年(明治十八年)に十七歳で退職、蘭学者・近藤真琴(こんどうまこと)が文久三年に興した攻玉社を経て海軍兵学校へ入学、講道館で柔道も学んだ。

なお、明治初期に兵部省に出仕した近藤真琴(こんどうまこと)は、築地海軍操練所(のちの海軍兵学校)内に塾を営むなど当初から海軍の要人を兼ねていた為、武夫(たけお)の海軍は攻玉社に入学した時点で既定路線だった。

千八百八十九年(明治二十二年)に二十一歳で海軍兵学校を卒業した武夫(たけお)は海軍に任官、千八百九十四年(明治二十七年)の日清戦争に従軍し、翌千八百九十五年(明治二十八年)には大尉に昇進している。

大尉昇進から二年後の千八百九十七年(明治三十年)、二十九歳の武夫(たけお)はロシアへ留学してロシア語などを学び、若き日本の将校としてロシア貴族社会と交友する一方、旅順港などの軍事施設も見学している。

ロシア駐在中に、社交界で武夫(たけお)はロシア海軍省海事技術委員会・コワリスキー大佐(後に少将)の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い、文通などを通じた交友が在った事も知られているが、アリアズナの父親は別の人物で在った事が明らかとなっている。

武夫(たけお)は、同じ千八百九十七年(明治三十年)にロシアへ留学のままロシア駐在武官となり、千九百年(明治三十三年)に少佐昇進、二年後の千九百二年(明治三十五年)に帰国する。

武夫(たけお)の帰国二年後、千九百四年(明治三十七年)日露戦争が勃発し、武夫は旅順港閉塞作戦に従事する。

その二回目の閉塞作戦に於いて閉塞船・福井丸を指揮し、撤退時に行方不明となった部下・杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助ける為船内を三度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死する。

武夫(たけお)は即日中佐に昇進し、流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。

広瀬武夫(ひろせたけお)は日本初の「軍神」となり文部省唱歌の題材になり、縁の各地に銅像、出身地の大分県竹田市に軍神・広瀬武夫を祀る広瀬神社が創建された。

尚、交友が在った彼女・アリアズナは、武夫(たけお)の戦死を聞いて「喪に服した」と伝えられている。



四月十三日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させると言う戦果を上げたが、五月十五日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開し、四月二十五日には日本軍の輸送艦金州丸を撃沈するなど、日本近海を縦横無尽に行き来し、これを追う日本の上村中将率いる第二艦隊を右往左往させ、船舶による補給に頼る日本軍を悩ませた。

対するロシア陸軍は黄海の制海権確保の前提に基づき、日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定、鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させ、迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる計画だった。


日本陸軍の戦略は、第一軍(黒木為和臂)で朝鮮半島へ上陸、鴨緑江を渡河しつつ、在朝鮮のロシア軍と第一会戦を交えた後に満洲へ進撃、第二軍(奥保鞏大将)をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させ、その後、満洲平野にて第三軍(乃木希典大将)、第四軍(野津道貫大将)を加えた四個軍でもって、ロシア軍主力を早めに殲滅する。

日本陸軍は、ロシア軍主力を殲滅した後にウラジオストックの攻略まで想定して沿海州へ進撃し、海軍は旅順及びウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊を黄海上にて殲滅した後に、ヨーロッパより回航して来るを想定されるバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)と決戦し殲滅する戦略だった。

黒木為和臂率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、四月三十日-五月一日に掛けて、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破り、続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、五月二十六日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した。

南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、奥保鞏大将率いる第二軍は死傷者四千の損害を受け、東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったと伝えられている。


この頃ロシアのウラジオストク艦隊は、六月十五日に輸送船常陸丸を撃沈する事件を起こすなど活発な通商破壊戦を続けていた。

遼東半島の大連を占領した第二軍は、占領後第一師団を残し遼陽を目指して北上、六月十四日、旅順援護の為南下して来たロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、七月二十三日には大石橋の戦いで勝利する。

海軍陸戦重砲隊が旅順要塞への砲撃を開始し、これを受けて旅順艦隊は旅順から出撃、八月十日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊との間で黄海海戦となった。

この海戦で連合艦隊は旅順艦隊の巡洋艦三隻他を撃沈したが、主力艦を撃沈する事は適わず、取り逃がしている。

八月十四日、上村彦之丞中将率いる日本海軍第二艦隊は蔚山沖でようやくウラジオストク艦隊を捕捉し、海戦と成って大損害を与えその後の活動を阻止した。

他方陸軍は七月の大本営通達を受けて、乃木希典大将率いる第三軍は旅順攻囲戦の第一回総攻撃を八月十九日に開始したがロシアの近代的要塞の前に死傷者一万五千という大損害を受け失敗に終わる。

八月末、日本陸軍の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽(りょうよう)へ迫った。

八月二十四日-九月四日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃するもロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。

十月九日-十月二十日にロシア軍は攻勢に出るが日本軍の防御の前に失敗、その後両軍は遼陽(りょうよう)と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。


一方、遼陽(りょうよう)と奉天(現・瀋陽)の中間付近、沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、千九百五年一月二十五日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。

一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱し、二月には旅順攻略を完遂した第三軍がこの戦線に到着した。

日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始、まず二月二十一日に日本軍右翼が攻撃を開始、続いて三月一日から左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。

ロシア軍は予備を投入し、左翼の第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続け、三月九日になるとロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示、日本軍は翌十日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

一連の戦いで両軍とも大きな損害を受け作戦継続が困難となった為、その後は終戦まで奉天・四平街付近での対峙が続いた。


第三軍を指揮して旅順攻略を完遂し、沙河対陣に駆け付けた乃木希典(のぎまれすけ)は、対ロシアの陸戦で最も過酷な戦闘をした司令官である。

台湾から帰任後の千八百九十九年(明治三十二年)、乃木希典(のぎまれすけ)は第十一師団(四国四県が徴兵区)の初代師団長(中将)に親補せられる。

その後希典(まれすけ)は願い出て休職していたが、千九百四年(明治三十七年)日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として戦役に着く。

六月六日、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸したが、陸軍の旅順攻略参戦を拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進(ユックリ進軍)を余儀なくさせられる。

第三軍は旅順要塞攻略の為に新たに編成されたもので、第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ希典(まれすけ)は多くの犠牲者を出した。


二百三高地は、遼東半島・軍港旅順港を見下ろす標高二百三メートルの高台に築かれたロシア軍の要塞である。

旅順港は日清戦争の後、ロシア帝国が中国から租借して軍港と要塞を建設した東アジアに於ける軍事上の重要な要で、日露戦争の時にも旅順を母港としていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)とういう強力な海上兵力が在った。

ロシア帝国の東アジア進出の最重要地・旅順港は背後の丘陵地帯に堅固な要塞群を築いていて、その強固な陣地の一つが旅順港を見下ろす高台・二百三高地だった。

高い丘・二百三高地の上にロシア軍が死守する陣地があり、攻め落とそうにも丘の途中には身を隠す所もなく、丘の上からロシア軍の機関銃に大砲を撃ちかけられ、突撃を繰り返す日本兵は一方的に犠牲者を出す。

その為旅順陥落を為さしめる作戦に於いて二百三高地の攻防は戦略的に重要で、結果、この高地の支配を掛けて大規模な軍事的衝突となる。

日本軍は要塞と港への攻撃を敢行、ロシア軍は強固な陣地に大砲や機関銃を配備して迎え撃ち、日本兵にも露兵にも空前の死傷者を出す。


乃木希典大将率いる第三軍は旅順攻囲戦を続行中で在ったが、旅順要塞に対する十月二十六日からの第二回総攻撃は失敗し、十一月二十六日からの第三回総攻撃も苦戦に陥る。

第三軍の戦況を懸念した満州軍総参謀長・児玉源太郎大将は、大山巌元帥の指示を受け旅順方面へ着任し、大本営と海軍の主張を受け入れ、攻撃目標を要塞北西の二百三高地に絞り込む。

この戦闘で日本兵約六万人が倒れ、時の第三軍司令官(大将)・乃木希典は無能と糾弾されるが、これは事実であり、陸軍大将満州軍総参謀長・児玉源太郎(こだまげんたろう)が希典を側面支援し漸く二百三高地を陥落させている。


乃木希典(のぎまれすけ)は頑固な直者(じきもの)で、つまり正直者(しょうじきもの)・剛直者(ごうちょくもの)で判り易かったから、周囲の人気が高かった。

このタイプは、戦国期の織田家猛将・柴田勝家(しばたかついえ)が同タイプで正攻法一本槍で奇策など用いないが、周囲の人気は勝家(かついえ)も高かった。

だが、戦の結果は二人とも凡将だった。

それで希典(まれすけ)は、日本将兵約六万人を失う突撃を繰り返している。

秀才ではあるが根が善良な関が原合戦敗軍の将・石田三成(いしだみつなり)の様に「正論の徒」の意見が、通らないのがドロドロとした世間の本質かも知れない。


引き換えて、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康などは奇策を用いて勝つ方だったから、直者(じきもの)にあらず曲者(くせもの)だった事に成る。

同様に、希典(まれすけ)と同時期の軍人・児玉源太郎(こだまげんたろう)は曲者(くせもの)だったから二百三高地の陥落に手を貸す事ができたのだ。


多大な犠牲者を出した日本軍は、満州軍総参謀長・児玉源太郎(こだまげんたろう)が状況を好転すべく重砲を投入し、十五センチ榴弾砲、そして二十八センチの巨大榴弾砲で攻略して散兵壕を破壊、ロシア軍は五千名近くの戦死者を出して撤退し、漸く二百三高地を奪取する。

千九百四年(三十七)十二月、児玉源太郎(こだまげんたろう)は乃木希典が攻めあぐねていた二百三高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行う為、元々海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な二十八センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで一日で配置転換を行うと言う奇抜な作戦を取った結果である。

児玉源太郎(こだまげんたろう)は日頃から豪快で、度胸が据わった上に融通も機転も効く秀才だった。

しかしその融通も機転も、「武人としてはいささか小ズルイ」と内心引け目に思う気持ちから真っ直ぐに純真な乃木希典の存在が眩しかった。

戦は真っ直ぐに純真では勝てないし、勝利にはズルさも必要な事は承知していたが、源太郎(げんたろう)は自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続け、無二の親友として接していた。

源太郎(げんたろう)は、希典の性格を知る故に二百三高地に無謀な突撃を繰り返す希典を側面支援し、そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、二百三高地を半日で陥落させた。

さらに二百三高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して二百三高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に二十八センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。

日露両軍ともに戦死五千、戦傷者一万以上を出す激戦の末、第三軍は十二月四日に二百三高地を占領し、ロシア軍は戦力を決定的に消耗した。

乃木家の男児は二人居たが、長男・勝典(かつすけ/戦死特進中尉)は先に行われた南山の戦いで戦死、次男・保典(やすすけ/戦死特進中尉)は希典(まれすけ)指揮の二百三高地に於ける白昼突撃の戦闘で戦死している。

第三軍の司令官・希典(まれすけ)は、この失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させたとされるが、特に台湾総督時代や旅順攻略戦に対する希典(まれすけ)の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれている。

その後第三軍は、満洲軍総司令部の当初からの攻撃目標であった要塞東北正面の堡塁群を攻略し、これによりロシア太平洋第二・三艦隊(所謂バルチック艦隊)は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。

旅順要塞のロシア軍は二百三高地陥落を境に弱体化しこの一ヶ月後に降伏、要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(またはステッセル)と乃木希典の水師営の会見(旅順開城交渉)が行われる。

千九百五年一月一日にロシア軍旅順要塞司令官のステッセリ(ステッセル)中将は降伏した。


ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の会見(旅順開城交渉)が行われ、希典(まれすけ)は水師営の会見で紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にも関わらず会見写真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。

水師営の会見(旅順開城交渉)で敵将・アナトーリイ・ステッセリに対する希典(まれすけ)の態度は、軍人の見本とすべき崇高な態度として評価され、乃木希典(のぎまれすけ)神格化の第一歩となった。

戦時中は一般国民にまで兵を消耗する戦下手と罵られた希典(まれすけ)で在ったが、勝てば評価は変わるもので、旅順攻略戦が極めて困難であった事や二人の子息を戦死で亡くした事から希典(まれすけ)の凱旋には多くの国民が押し寄せた。


日露戦争の決着をつけたのは、東郷平八郎が指揮した海戦の大勝利で在った。

千九百四年(明治三十七年)から始まった日露戦争では、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は連合艦隊旗艦・三笠の艦橋で指揮を取り、推薦した山本権兵衛の期待に沿う働きをする。

作戦参謀として着任した秋山真之(あきやまさねゆき)中佐の進言を採り上げ、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦を始めとする海軍の作戦全般を指揮する。

ロシア東洋艦隊相手に圧倒的戦績をあげた平八郎(へいはちろう)は海軍大将に昇進する。

バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順へ向けてリエパヤ港を出発し、旅順陥落の後はウラジオストクへ向かい、地球を半周する航海を続け千九百五年五月二十七日-翌二十八日に日本軍連合艦隊と遭遇した日本海海戦に於いて激突した。

千九百五年(明治三十八年)五月二十七日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による作戦、上村彦之丞提督率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅した。

この大勝利の海戦当日、日本軍連合艦隊には四名の英国観戦武官が同船しており、英国の戦法にもある丁字戦法に関しての補佐・指導を行っている。

バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど連合艦隊の一方的な圧勝で、この結果日本側の制海権が確定し、世界のマスコミの予想に反する結果に列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。

この一大海戦は大日本帝国の命運を掛けたもので、平八郎(へいはちろう)はこの日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。

また平八郎(へいはちろう)は、指揮下の艦隊に対しては「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。

日本海海戦に於いて平八郎(へいはちろう)は、丁字戦法・・その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に大勝利を納めた。

三日間に渡った東郷平八郎率いる日本の連合艦隊とロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊との日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。

当時世界屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破ったこの海戦の勝利は世界各国を驚愕させ、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は名海軍提督として伝説となった。


日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領したこの占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらす事となる。

ロシアでは、相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、千九百五年一月九日には「血の日曜日事件」が発生し、ロシア革命(千九百十七年)の炎がチョロチョロと燃え始め、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけていた。

日露戦争に勝利はしたものの、日本も当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。

両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、千九百五年九月五日に締結されたポーツマス条約により講和した。



乃木希典(のぎまれすけ)は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過ごした。

この事からしても、希典(まれすけ)には「政治的素養は無かった」と考えられるべきである。

千九百七年(明治四十年)、希典(まれすけ)は学習院院長として皇族子弟の教育に従事、後に昭和天皇として即位する迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王も厳しく躾(しつ)けられたと伝えられている。

希典(まれすけ)は、千九百十二年(大正元年)九月十三日、明治天皇大葬の夕に、妻・静子とともに自刃して亡くなった。

まず静子が希典(まれすけ)の介添えで胸を突き、続いて希典(まれすけ)が割腹し、再び衣服を整えた上で、自ら頸動脈と気管を切断して絶命した。

明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。

遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われた事を償う為の死である旨が記されていた。

しかし、明治帝に私心無く仕え、皇臣として揺ぎ無い乃木希典(のぎまれすけ)の生き方は、皇民教育にはうってつけの存在だった。

愚直に純粋清廉な人柄だった希典(まれすけ)には、世間の余りにも高い自らへの名声に違和感を抱いて、「そんな立派な男では無い」と辛く生きていたのかも知れない。

とかく歴史に名を残す人間は、「戦に強かった」とか「権力闘争に強かった」と言う他人を踏み付けにして名声を得るもので、今日現代でも、権力者のほとんどがその類である。

乃木希典(のぎまれすけ)大将の場合は「戦に強かった」とか「権力闘争に強かった」と言う英雄の定番では無く、数少ない人格的評価が為された「特殊な例」と評すべきかも知れない。

いずれにしても出世に対して、いや、生きる事にさえ希典(まれすけ)は不器用だった。

それでも、そんな希典(まれすけ)が順調に出世を重ねたのは、長州出身ながらもその特異な生き方故に出世主義者からもライバル視される事無く愛されたからである。

つまり希典(まれすけ)は、薩長出身者の出世競争に於いて誰からも異論が出ないバランサー(均衡取り)であり、調和を図る人事に於いて安全パイだった。

厄介な事に、神格化された乃木希典(のぎまれすけ)には「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つが混在している。

そして希典(まれすけ)に関わる「文化としての歴史」には、観念を基とする幻想があたかも現実の歴史として思わせる形で後世に伝えられている。

この混在する「現実の歴史」と「文化としての歴史」の正体は判っていて、人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしているからである。

戦にカラッキシ弱い軍神など冗談か皮肉みたいなものだが、この「現実の歴史」と「文化としての歴史」の双方が人間の思考である点では、乃木希典(のぎまれすけ)に対しての評価のどちらが正しいかは個人に任せるしか無いだろう。


児玉源太郎(こだまげんたろう)国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てる事の出来る広い視野の持ち主で、日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作などあらゆる局面で彼が登場する。

当時のロシアは常備兵力で日本の約十五倍、国家予算規模で日本の約八倍という当時世界一の超大国であり、日本側にとって圧倒的不利な状況であったが、それを覆して日本を勝利に導いた功績は高く評価されている。

また、児玉ケーブルと言われる海底ケーブルを日本周辺に張り巡らした事で、現代戦で最も重要と言われる情報のやり取りを迅速に行える様にし、この事で日本連合艦隊は大本営と電信通信が可能となって大本営が自在に移動命令を出せる為、日本海海戦の為だけに全軍が集結する事が可能になった。

源太郎(げんたろう)は百年以上も前に、最新の軍事ドクトリンの一つとしてアメリカ国防総省を中心に唱えられているネットワーク中心の戦い(Network-centric warfare,NCW)を実現させ、日本海海戦の大勝利をもたらした。

世紀の名将・児玉源太郎(こだまげんたろう)は、日露戦争勝利の為に心血を注ぎ込んだとも言うわれ、戦争終結八ヶ月後、脳溢血で急逝した。



明治期の外交官を代表し、外務大臣、貴族院議員などを務めた政治家に侯爵・小村寿太郎がいる。

千八百五十五年(安政二年)九月十六日、小村寿太郎(こむらじゅたろう)は日向国・飫肥藩(おびはん/現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。

飫肥藩(おびはん)は家格・外様大名で藩主・伊東氏は藤原南家流・伊東(伊藤)系の鎌倉御家人で、鎌倉期に日向国の地頭に任じられ、室町期の千三百三十五年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡三百町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。

父・小村寛平が出仕していたのは、江戸期に現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部に在って日向国那珂郡のある南部を支配した藩が飫肥藩(おびはん)で、知行は五万一千石、藩庁は飫肥城(おびじょう)に在った。


千八百三十年(明治三年)、寿太郎(じゅたろう)は大学南校(東京大学の前身)に入学、千八百七十五年(明治八年)第一回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学ぶ。

千八百七十八年(明治十年)ハーバード大学卒業後、ニューヨークの弁護士事務所で研修の後の千八百八十年(明治十三)寿太郎(じゅたろう)二十五歳の時に帰国する。

帰国後、寿太郎(じゅたろう)は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出し、陸奥宗光に認められて清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使や外務次官、駐米・駐露公使を歴任する。

司法省に入省から二十年、四十五歳に成っていた寿太郎(じゅたろう)は、千九百年(明治三十三年)の義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたり、翌千九百一年(明治三十四年)には第一次桂内閣の外務大臣に就任して千九百二年(明治三十五年)の日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込み、功により男爵を授けられる。

寿太郎(じゅたろう)は日露戦争後の千九百五年(明治三十八年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印する。


小村寿太郎(こむらじゅたろう)に関しては一貫して外交畑を歩き、千九百八年の第二次桂内閣でも外務大臣に再任され日露講和条約締結、幕末以来の不平等条約を解消する為の条約改正の交渉を行い、日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たす。

また寿太郎(じゅたろう)は、日露協約の締結やこの後ご紹介する韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進め韓国併合の功により侯爵授けられた。

満洲権益に関連してアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲に於ける鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否するなど独自の意見も持っていて、その後の日本外交の大陸政策の流れを追うと軍事膨張主義の道筋をつけた一人で、その評価は分かれる所である。




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(日韓併合と満州国成立)

◇◆◇◆(日韓併合と満州国成立)◆◇◆◇◆

千八百九十七年(明治三十年)、李氏朝鮮王朝は「国号を大韓、国王を皇帝」と改め完全独立を達成する。

時代が進んで百年ほど前、李氏朝鮮王朝は日本同様に欧米諸国の圧力を受け、近代化を急ぎ「大韓帝国」と体制を改める。

しかし、そうした抵抗の甲斐なく、十四年後、武力を背景とする日本に「併合」されてしまう。

千九百十年、朝鮮半島の国は日本との間で「日韓併合」を行い李氏朝鮮王朝は滅亡した。


日韓併合については、単純に侵略とは言い切れない事実が存在する。

しかしながら、軍事力を背景に他国の領土を分離独立させ、傀儡国家・満州国を作ったのは、相手国からすれば侵略以外の何ものでもない。

満州移民団(屯墾軍)は、現地人の耕作地をただ同然に取り上げて、入植させた。

当然、現地人の恨みを買う。

この辺りが問題で、害した方は忘れても害された方は中々忘れられるもではない。

本来なら、こうした小さな事の積み重ねにも、応分の配慮が必要だった。

所が戦後の日本は、官僚的「お上意識の発想」を持って対処した為、その辺りのフォローを蔑(ないがし)ろにして来たのである。

対朝鮮併合政策に於いても、我が国独特な歴史には過去の知恵として五分五分対等の誓約(うけい)混血精神の民族融合の実績が在った。

欧米の植民地意識ではなく我が国独特の誓約(うけい)混血精神で接し両民族間の婚姻を、つまり日本女性は韓国男性と日本男性は韓国女性との婚姻を国策で奨励していれば、四十五年間もあればかなり民族的に一体化したかも知れない。

所が、絶対的有利に立って舞い上がり、元々限りなく近い両民族なのに隷属させようと言う欧米の覇権主義にかぶれた結果、恨みが残る強制ばかりして共生の努力をしなかった。



基本的に景気が良い時代は、多少大衆の倫理観が荒廃して生活規範が緩むものである。

江戸期のバブル景気とされる「元禄時代」も、この「大正ロマン時代」も、そして「昭和末期のバブル景気の時代」も、自由恋愛の生活規範はおおらかに存在した。


千九百十二年(大正元年)から千九百二十六年(大正十五年・昭和元年)の僅か十五年間が大正時代である。

その十五年間、日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた日本は、大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中だった。

大正ロマンは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉で、しばしば「大正浪漫」とも表記される。

明治時代の経済の自由化とともに商人の立場が向上、大正時代に入って商業が大きく開花する。

欧米から学んだ会社制度が発達し、制度上は個人商店で在った私企業が財閥に発展、世界に向けて大規模化して行く絵に描いたような好景気だった。

また投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民に於いても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられる時代背景だった。

好景気を得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。

大正ロマンの語源は、十九世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受けて呼ばれた名称である。

個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正時代の風潮にかぶせて、「大正ロマン・大正浪漫」と呼ばれるようになった。

大正デモクラシー(民本主義)とは、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にあり、政策決定は民意に基づくべき」と言う民権思想である。

西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。

芸術作品にはアール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多く誕生する。

文芸に於ける耽美主義や同時代のダダイズム(芸術思想・芸術運動)、或るいは政治思想であるアナキズム(無政府主義)などの影響もあった。

元々当時の芸術家や思想家は知性や学歴が良く、為に思考に対する柔軟性や自由度は社会常識には囚われず、一般大衆の生き方とは一線を画していた。


不倫愛を貫いた松井須磨子(まついすまこ)は日本の新劇女優で本名は小林正子(こばやしまさこ)、松井須磨子(まついすまこ)は芸名である。

千九百二年(明治三十五年)、磨子(すまこ)は数えの十七歳で戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する。

翌千九百三年(明治三十六年)磨子(すまこ)は親戚の世話で最初の結婚をするが、病気がちを理由に舅に疎まれ翌年離婚している。

磨子(すまこ)はこの頃から平凡な日常から脱却したいと志し、女優を目指す。

千九百八年(明治四十一年)、二十三歳に成っていた磨子(すまこ)は、同郷(長野県)の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。

東京高師地歴科を卒業した夫の前沢誠助は、その年の十一月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。

磨子(すまこ)は結婚の翌千九百九年(明治四十二年)、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第一期生となる。

文芸協会演劇研究所第一期生となった磨子(すまこ)は家事がおろそかになる事も多く、千九百十年(明治四十三年)二年間の結婚生活の後に前沢と離婚する。

千九百十一年(明治四十四年)、磨子(すまこ)は「人形の家」の主人公ノラを演じて認められるも、創設者の一人で妻帯者の島村抱月(しまむらほうげつ)と不倫関係になる。

その不倫関係が醜聞となった事で坪内と抱月(ほうげつ)の関係が悪化、抱月(ほうげつ)は文芸協会を辞める事となり、演劇研究所を退所処分となった。


島村抱月(しまむらほうげつ)は、文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人で、新劇運動の先駆けの一人としても知られる。

抱月(ほうげつ)に後追い自殺した歌う人気女優・松井須磨子(まついすまこ)とは濃密な不倫関係に在った。

抱月(ほうげつ)は東京専門学校(現・早稲田大学)卒業し、「早稲田文学」誌の記者を経て、千八百九十八年(明治三十一年)に二十七歳で読売新聞社会部主任となる。

その後抱月(ほうげつ)は母校文学部講師となり、千九百二年(明治三十五年)から三年間、早稲田の海外留学生としてイギリスとドイツに留学する。

帰国後、抱月(ほうげつ)は早稲田大学文学部教授となり、以前手掛けて廃止になっていた「早稲田文学」誌を復刊して主宰し、自然主義文学運動の旗手の一人となる。

一年後の千九百六年(明治三十九年)に抱月(ほうげつ)は坪内逍遥とともに文芸協会を設立、三年後に協会附属の演劇研究所に於いて本格的に新劇運動をはじめる。

所が、妻帯者である抱月(ほうげつ)と研究所の看板女優の松井須磨子との不倫が醜聞となった事で坪内との関係が悪化する。

これに寄り、抱月(ほうげつ)は文芸協会を辞める事となり、演劇研究所を退所処分となった。

抱月(ほうげつ)の演劇研究所退所を期に磨子(すまこ)も演劇研究所を退所、千九百十三年(大正二年)、抱月(ほうげつ)と芸術座を旗揚げする。

翌年にはトルストイの小説を基に抱月(ほうげつ)が脚色した「復活」が大ヒット、磨子(すまこ)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となる。

磨子(すまこ)が劇中で歌った主題歌・「カチューシャの唄(復活唱歌)」はレコードにも吹き込まれ、当時二万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

日本初の歌う女優・松井須磨子(まついすまこ)の誕生だった。

しかしその抱月(ほうげつ)の芸術座成功も束の間、僅か四年後の千九百十八年(大正七年)、愛人の島村抱月(しまむらほうげつ)がスペイン風邪で急死する。

抱月(ほうげつ)の死後も、磨子(すまこ)は芸術座で公演活動を続けていたが、二ヵ月後の千九百十九年(大正八年)芸術座の道具部屋に於いて後追い自殺(縊死)をした。

磨子(すまこ)が抱月(ほうげつ)の後を追って自殺した為、芸術座も解散になった。

島村抱月と松井須磨子の劇団事件は、政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激し芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む影響を世に与えた。


大杉栄(おおすぎさかえ)は、思想家、作家、社会運動家、アナキストとして活動するも、甘粕事件で殺害される。

栄(さかえ)は家族でも聞き取れない程の重度の吃音障害(言葉が円滑に話せない疾病)に生涯悩まされ続けるハンデを抱えていた。

特に「か行」の発音にさしかかると目を瞬きさせて、「金魚が麸を飲みこむような口つきになった」と言う。


栄(さかえ)は名古屋陸軍地方幼年学校に十四歳で入学、学校内で奔放な生活を送る。

幼年学校に於ける栄(さかえ)の成績は極端なもので、実科では首席、学科では次席にもかかわらず、操行は最下位だった。

生徒を指導する下士官どもの「追窮が残酷」になり修学旅行での下級生への性的な戯れに対して禁足三十日の処分を受ける。

禁足処分を受けた栄(さかえ)はそれまでの生活を反省するが、「尊敬も親愛も感じない上官への服従を盲従」と思うようになる。

憂鬱な気分が続き、軍医から「脳神経症」と診断され、休暇で幼年学校の外に出ると快活な少年になれたが学校に戻ると凶暴な気分になったと言う。

千九百一年(明治三十四年)、栄(さかえ)は同期生との喧嘩で相手にナイフで刺される騒動を起こし学校に発覚、退学処分を受ける。


翌千九百二年(明治三十五年)、栄(さかえ)は語学を学ぶ為東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科に入学する。

その下宿先で、栄(さかえ)は谷中村の鉱毒事件への追及運動に触れ「万朝報」を購読し軍隊外の社会を知り、幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に共鳴する。

栄(さかえ)は幸徳秋水、堺利彦らの平民社の結成を知り、講演会を聞いたり「社会主義研究会」に出席する。

電車値上反対の市民大会に参加し、兇徒聚集罪により逮捕されたり、屋上演説事件で治安警察法違反となり逮捕され、錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘で逮捕される。

それまでの量刑も含み、栄(さかえ)は二年半近くの刑務所生活を送るも、 獄中でさらに語学を学びアナキズムの本も多読した。


千九百十年(明治四十三年)九月、幸徳秋水らの「大逆事件」が起こり、獄中の栄(さかえ)も取調べを受けるが検挙は免れ、十一月に出所する。

翌千九百十一年(明治四十四年)九月、幸徳たちは処刑され社会主義運動は一時的に後退する。


伊藤野枝(いとうのえ)は、日本の婦人解放運動家、作家、甘粕事件で愛人・大杉栄(おおすぎさかえ)と伴に殺害される。

野枝(のえ)は周船寺高等小学校を卒業して約九ヵ月間、家計を助けるため地元の郵便局に勤務しながら雑誌に詩や短歌を投稿する生活を送る。

そんな折、叔母(母の妹・代キチ)一家が東京から帰省して刺激を受け、野枝(のえ)は東京への憧れがつのり叔父・代準介に懇願、熱意に負け叔母一家は暮れに野枝を東京に迎えた。

上京の翌年、野枝(のえ)は猛勉強のすえ上野高等女学校(上野高女、現・上野学園)に一年飛び級で四年編入試験に合格する。

在学中、英語教師の辻潤と知り合うが、千九百十二年(明治三十五年)上野高女を卒業して帰郷すると親の決めた相手と野枝(のえ)の婚約が決まっていた。

隣村の末松家と、野枝(のえ)本人に相談もなく仮祝言まで済んでいた。

野枝(のえ)はしぶしぶ末松家に入って八日目に出奔、再び上京して在学中に思いを寄せていた辻潤と同棲する。

この野枝(のえ)との同棲に非難を浴びた辻は、千九百十二年(明治三十五年)四月末にあっさり教師の職を捨てて結婚生活に入った。

その年の十月頃から野枝(のえ)は平塚らいてう(らいちょう)らの女性文学集団・青鞜社に通い始める。

社内外から集まった当時のそうそうたる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子らと親交を深めて、野枝(のえ)は強い刺激を受けた。

野枝(のえ)は「機関誌・青鞜」に詩「東の渚」などの作品を次々発表、女流文筆家として頭角を現した。

この時期、米国のアナキスト、エマ・ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」の翻訳をし、野枝(のえ)は足尾鉱毒事件に関心を深めた。

千九百十六年(大正五年)には、野枝(のえ)は大杉栄と恋愛を始める。

大杉栄は、妻・堀保子との結婚も続く状況下で、以前からの恋愛相手で在った神近市子から刺されるという「日陰茶屋事件」が発生、栄(さかえ)は同志から孤立する。

栄(さかえ)は野枝(のえ)との共同生活を始めるが、常に生活資金にも事欠いていた。

その一方で栄(さかえ)は、社会運動・労働運動の指導者・アナキスト(無政府主義)として官憲にマークされる。


有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった思想家・大杉栄と女性開放活動家・伊藤野枝を取り巻く動きについては、逐一新聞などで報道される加熱振りだった。

伊藤野枝(いとうのえ)は不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤(つじじゅん/翻訳家、思想家)を捨てて大杉栄の妻・堀保子(ほりやすこ/俳人)、愛人・神近市子(かみちかいちこ)と四角関係を演じた。

東京日日新聞の記者・神近市子(かみちかいちこ)は、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移した事から、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷させる「日蔭茶屋事件」を起こし二年間服役する。

市子(いちこ)は出獄後文筆活動を始め、女性運動に参加して衆議院議員総選挙に当選、左派社会党議員として当選六回を重ねる政治家として戦後も活躍した。


野枝(のえ)は人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、そして小説や翻訳を発表している。

同時代の人々に野枝(のえ)は、自らを主張するその自由獲得への情熱に対する憧れや賛美がドラマチックな感動を与えた。

知識人に於いては個人主義・理想主義が強く意識され、自由恋愛の流行による事件も数少なくはなく、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安にも脅かされる時代だった。


与謝野晶子(よさのあきこ)は、日本の歌人、作家、思想家で、夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)である。

与謝野鉄幹(与謝野寛)と結婚する前の旧姓は鳳(ほう)、名は志よう(しょう)で晶子(あきこ)の「晶」は音の(しょう)で選んだ。

鳳志よう(ほうしょう)=晶子(あきこ)は堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると「源氏物語」などを読み始め古典に親しんだ。

兄の影響を受け、「柵草紙」や「文学界」、紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみだったと自称している。

鳳志よう(ほうしょう)=晶子(あきこ)は二十歳頃より、店番をしつつ和歌を投稿するようになる。

鳳志よう(ほうしょう)は浪華青年文学会に参加の後、千九百年(明治三十三年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になる。

鳳志よう(ほうしょう)は鉄幹が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表する

翌年、鳳志よう(ほうしょう)は家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集「みだれ髪」を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。

鳳志よう(ほうしょう)は、与謝野鉄幹と結婚、与謝野晶子(よさのあきこ)として子供を十二人出産している。


与謝野晶子は、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に歌集「みだれ髪」で女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立する。

晶子は伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼす事となる。

夫・与謝野鉄幹の編集で作られた歌集の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と言う短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。

晶子と知り合った時、夫・鉄幹には妻子が在ったが、鉄幹は晶子の為に妻と離婚し、二人は個人主義・理想主義の大正ロマンの自由恋愛のはしりを実践している。


千九百四年(明治三十七年)九月、晶子(あきこ)は「明星」に「君死にたまふことなかれ」を発表する。

千九百十一年(明治四十四年)史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿する。

翌千九百十二年(大正元年)、晶子(あきこ)は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行く事になり、渡航費用の工面は森鴎外が手助けをする。

同千九百十二年(大正元年)五月、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌六日には晶子の出発の様子を報じた,

この出発には、平塚らいてう(らいちょう)など総勢五百余名が晶子(あきこ)を見送り、翌六月の「中央公論」では、晶子(あきこ)の特集が組まれている。

晶子(あきこ)は、九月にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの四か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れている。

晶子(あきこ)は、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。

千九百二十一年(大正十年)、晶子(あきこ)は建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、夫の鉄幹らとお茶の水駿河台に文化学院を創設、男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させている。


与謝野鉄幹(よさのてっかん)は歌人で本名は与謝野寛(よさのひろし)、鉄幹は号で与謝野晶子(よさのあきこ)の夫である。

千八百八十三年(明治十六年)、与謝野寛(よさのひろし)は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、千八百九十一年まで安藤姓を名乗る。

千八百八十九年(明治二十二年)、寛(ひろし)は西本願寺で得度の式をあげた後、山口県徳山(現在の周南市)の徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙「山口県積善会雑誌」を編集する。

そして翌千八百九十年(明治二十三年)鉄幹の号をはじめて用い、さらに千八百九十一年に養家を離れ与謝野姓に復した。

鉄幹(てっかん)は徳山女学校で国語の教師を四年間勤めるも、千八百九十二年(明治二十五年)女子生徒・浅田信子との間に問題を起こし退職する。

この時女の子が生まれたが、その子は間もなく死亡し、次いで別の女子生徒・林滝野と同棲(後に結婚)して一子、萃(あつむ)を儲けた。

鉄幹(てっかん)は京都へ帰り、千八百九十二年(明治二十五年)十一月頃二十歳で上京し、落合直文の門に入る。

千八百九十五年(明治二十九年)、鉄幹(てっかん)は出版社明治書院の編集長となるかたわら跡見女学校に教えた。

千八百九十九年(明治三十二年)、東京新詩社を創立する。

同年秋、最初の夫人・浅田信子と離別し二度目の夫人・林滝野と同棲、麹町区に住む。

千九百年(明治三十三年)、鉄幹(てっかん)は「明星」を創刊する。

この「明星」の出版で、鉄幹(てっかん)は北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たす。

そんな折、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(ほうあきこ/のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、「文壇照魔鏡」なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられる。

だが、晶子(あきこ)の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集「みだれ髪」の作成をプロデュースし、妻・滝野と離別する。

翌千九百一年(明治三十四年)、鉄幹(てっかん)は晶子(あきこ)と再婚し六男六女の子宝に恵まれる。

この千九百一年(明治三十四年)に鉄幹と離婚した滝野は、後に詩人、歌人の正富汪洋(まさとみおうよう)と再婚している。

「明星」に刊行した晶子(あきこ)の「みだれ髪」の名声は高く、「明星」隆盛のきっかけとなった。

結婚後の鉄幹(てっかん)は極度の不振に陥入り、千九百八年(明治四十一年)に「明星」は第百号をもって廃刊となる。

千九百十一年(明治四十四年)、鉄幹(てっかん)は晶子の計らいでパリへ行き、晶子(あきこ)も追いかけて渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。

この奥州旅行で創作活動が盛んとなったのは晶子(あきこ)の方で、鉄幹(てっかん)は依然不振を極めていた。

鉄幹(てっかん)が再起を賭けた労作、「訳詞集・リラの花」も失敗するなど、栄光に包まれる妻・晶子(あきこ)の影で鉄幹(てっかん)は苦悩に喘いだ。

千九百十五年1(大正四年)の第十二回総選挙に、鉄幹(てっかん)は故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが落選する。

千九百十九年1(大正八年)に、鉄幹(てっかん)は慶應義塾大学文学部教授に就任する。

その後千九百三十二年まで慶應義塾大学に在任し、水上滝太郎、佐藤春夫、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育てた。

千九百二十二年(大正十一年)に、鉄幹(てっかん)にとって有力な庇護者・森鴎外を腎萎縮、肺結核の為に失う。


千九百二十一年(大正十年)、鉄幹(てっかん)は建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、妻の晶子(あきこ)らとお茶の水駿河台に文化学院を創設、男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させている。

鉄幹(てっかん)は気管支カタルがもとで死去する。

晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」と言う悲痛な追悼の歌を捧げている。


平塚らいてう(ひらつからいちょう)は大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走した事で知られる女性解放運動・婦人運動の指導者である。

平塚らいてう(ひらつからいちょう)はペンネームで、本名は奥村明(おくむらはる)と言う。

らいてう(らいちょう)の氏名表記は一定せず、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もある。

塩原で、森田草平との心中未遂事件(塩原事件)でその名が知られると本名の「平塚 明」を使用したり、或いは「平塚明子」で評論の俎上に上がる事もある。
らいてう(らいちょう)は、思想家・評論家・作家・フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動・婦人運動の指導者である。


奥村明(おくむらはる)=平塚らいてう(ひらつからいちょう)は父の意思で、千八百九十八年(明治三十一年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学させられる。

入学した東京女子高等師範学校附属高等女学校は国粋主義教育のモデル校だった為、本人に依ると「苦痛」の五年間を過ごす結果となる。

明(はる)は千九百三年(明治三十六年)、「女子には女学校以上の学問は必要ない」と言う父を説得して日本女子大学校家政学部に入学する。

千九百六年(明治三十九年)、明(はる)は日本女子大学校を卒業する。

卒業した明(はる)は禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学び、千九百七年(明治四十年)にはさらに成美女子英語学校に通う様になった。

成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの・「若きウェルテルの悩み」で初めて文学に触れ、明(はる)は文学に目覚める。

明(はる)は東京帝大出の新任教師・生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。

生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送った事がきっかけで、二人は恋仲になった。

奥村明(おくむらはる)=らいてう(らいちょう)は妻子を郷里に置いて上京した森田草平(もりたそうへい)と関係を持ち、栃木県塩原で心中未遂事件を起こし、一夜にしてスキャンダラスな存在となる。

らいてう(らいちょう)は、自らが創刊した「青鞜社」に集まる個人主義・理想主義の大正ロマンの女性達の活躍の場を「青鞜」の誌上に与えた。

らいてう(らいちょう)は五歳年下の画家志望の青年・奥村博史と茅ヶ崎で出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動の後に事実婚を始めている。

その事実婚の顛末を、らいてう(らいちょう)は「青鞜」の編集後記上で読者に公表、両親にも「青鞜」の誌上で報告している。

その後のらいてう(らいちょう)は、伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ったり、与謝野晶子と「母性保護論争」を展開したり、「新婦人協会」を設立したりと活発に活動している。

伊藤野枝、与謝野晶子、平塚らいてうなど彼女達の衝動的で奔放(ほんぽう)な男女の行動は、まさに心理学で言う「シンクロニー(同調行動)」であり、「好きになったから仕方が無い」の言い分である。

正直、彼女達女性思想家が奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方を体現した背景には、当時の男性が愛人・妾、アバンチュール(性愛の冒険)を自由に謳歌していた事への対抗心が在ったからである。

それでも兎に角、ドロドロとした性愛劇をあんに想像させる文人男女の争奪愛の経緯をモデルとして書いた作品の発表を、大衆は興味津々で待っていた。

世間ではモラル(道徳)として批判的かも知れないが、男女の「俗欲」こそ感性豊かな作家の創作意欲の源である。

それにしても世間のシガラミに縛られた大衆は、文人男女の自由奔放淫乱(じゆうほんぽういんらん)な性愛劇に、批判的だったのだろうか?

それとも本音は、羨(うらや)ましくて人気を集めたのだろうか?


なお、大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(七歳)の三名は、甘粕憲兵大尉に強制連行されて取り調べで殺に至らしめられる「甘粕事件」の被害者となる。

千九百二十三年(大正十二年)九月十六日、栄(さかえ)は柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害される。

「甘粕事件」は東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕大尉が、関東大震災の混乱に乗じて、震災から半月後の九月十六日にアナキスト(無政府主義者)の抹殺を目論んで起した事件である。

殺害の実行容疑者として憲兵大尉の甘粕正彦と彼の部下が軍法会議にかけられ、甘粕と森は有罪判決となるも極刑は免れて居る。


甘粕正彦(あまかすまさひこ)は、日本の陸軍軍人で憲兵大尉である。

正彦(まさひこ)は名古屋陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て、千九百十二年(明治四十五年)五月に陸軍士官学校を卒業する。

正彦(まさひこ)は陸軍憲兵大尉時代に、無政府主義者・大杉栄らの殺害した「甘粕事件」を起こした事で有名である。

正彦(まさひこ)は有罪判決となるも短期の服役後、千九百二十六年(大正十五年)十月に出獄し予備役となり、千九百二十七年(昭和二年)七月から陸軍の予算でフランスに留学する。

千九百三十年(昭和五年)、フランスから帰国後の正彦(まさひこ)は、すぐに日本を離れて満州に渡り、奉天の関東軍特務機関長・土肥原賢二大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。


千九百三十一年(昭和六年)九月の柳条湖事件より始まる満州事変の際、正彦(まさひこ)はハルピン出兵の口実作りの為に奉天に潜入する。

正彦(まさひこ)は奉天で、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。

その後正彦(まさひこ)は、清朝の第十二代皇帝・宣統帝の愛新覚羅溥儀擁立の為、満州国建設に一役買う工作を行う。

溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に連行した。

その他、満州事変に関する様々な謀略に、正彦(まさひこ)は荷担した。

働きを認められ千九百三十二年1(昭和七年)の満州国建国後、正彦(まさひこ)は民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。

千九百三十九年(昭和十四年)、満州国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力で正彦(まさひこ)は満洲映画協会(満映)の理事長となる。

満映理事長時代の正彦(まさひこ)は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたが、千九百四十五年(昭和二十年)八月の終戦直後、青酸カリで服毒自殺した。


谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は、文豪と評される小説家である。

潤一郎(じゅんいちろう)は谷崎倉五郎、関の長男として東京府東京市日本橋区に生まれたが、祖父・谷崎久右衛門の死後事業がうまくいかず、家の身代が傾いて行った。

その為潤一郎(じゅんいちろう)は、上級学校への進学も危ぶまれるも、教師らの助言により住込みの家庭教師をしながら府立一中に入学する。

千九百二年(明治三十五年)九月、潤一郎(じゅんいちろう)十六歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし第二学年から第三学年への編入試験を受けるように勧められる。

それに潤一郎(じゅんいちろう)は合格し、さらに学年トップの成績をとった。

本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた。

卒業後、潤一郎(じゅんいちろう)は旧制一高に合格し、一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。

千九百八年(明治四十一年)、一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退となる。

在学中の千九百九年に、潤一郎(じゅんいちろう)は和辻哲郎らと「第二次・新思潮」を創刊し、処女作の戯曲「誕生」や小説「刺青」を発表する。


早くから永井荷風によって「三田文学」誌上で激賞され、潤一郎(じゅんいちろう)は文壇に於いて新進作家としての地歩を固めた。


小説家・永井荷風(ながいかふう)は筆名(ペンネーム)で、本名は永井壮吉(ながいそうきち)と言う・

千八百七十九年(明治十二年)十二月三日 、永井壮吉(ながいそうきち)=永井荷風(ながいかふう)は永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)に生まれた。

壮吉(そうきち)の父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官僚で、内務省衛生局に勤務した後に日本郵船に天下った。

壮吉(そうきち)の母・恒は久一郎の師で、儒者の鷲津毅堂の二女と言うエリート家系だった。

千八百九十一年(明治二十四年)に、壮吉(そうきち)神田錦町に在った高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)二年に編入学した。

千八百九十四年(明治二十七年)に病気になり荷風(かふう)は一時休学、病気による長期療養が元で一年留年している。

千八百九十七年(明治三十年)三月に、荷風(かふう)は漸く中学を卒業する。

同千八百九十七年七月、荷風(かふう)は第一高等学校入試に失敗、九月には家族と上海に旅行し、帰国後の千八百九十八(明治三十一年)、旅行記・「上海紀行」を発表する。

この「上海紀行」が現存する荷風(かふう)の処女作と言われている。

同時期に神田区一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学・東京外国語大学)附属外国語学校清語科に臨時入学したが欠席が過ぎて二年後に除籍になる。

千九百八年(明治四十一年)、荷風(かふう)二十九歳で「あめりか物語」を発表する。

翌千九百九年(明治四十二年)の「ふらんす物語」と「歓楽」は退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようで風俗壞亂(ふうぞくかいらん)として発売禁止の憂き目にあう。

夏目漱石からの依頼により東京朝日新聞に「冷笑」が連載され、その他「新帰朝者日記」「深川の唄」などの傑作を発表するなど荷風(かふう)は新進作家として注目される。

注目を受け、荷風(かふう)は森鴎外、夏目漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。

千九百十年(明治四十三年)、森鴎外と上田敏の推薦で、荷風(かふう)は慶應義塾大学文学部の主任教授となる。

教育者としての荷風(かふう)はハイカラーにボヘミアンネクタイと言う洒脱(しゃれ)な服装で講義に望んだ。

講義内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。

しかし荷風(かふう)教授ととの雑談は「講義以上に面白かった」と佐藤春夫(さとうはるお)が評したように好評だった。

この講義から、佐藤春夫(さとうはるお)の他に水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。

この頃の荷風(かふう)は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)を見出す。

荷風(かふう)は訳詩集・「珊瑚集」の発表、雑誌・「三田文学」を創刊し、谷崎潤一郎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。

荷風(かふう)は、華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けた為、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。

為に、千九百十二年(明治四十五年/大正元年)、父・久一郎に本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女・ヨネと結婚させられる。

所が、翌千九百十三年(大正二年)に父・久一郎が没し、荷風(かふう)が家督を継いで間もなく離縁している。

次の年、千九百十四年(大正三年)には新橋の芸妓・八重次(後の藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。

しかも八重次との生活も翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現中央区築地)の借家へ移った。

千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)四十七歳の頃から、荷風(かふう)は銀座のカフェーに出入りする。

荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、千九百三十一年(昭和六年)「つゆのあとさき」、千九百三十四年(昭和九年)「ひかげの花」など新境地の作品を作り出す。

この頃各出版社から荷風の全集本が発売された事により多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。

旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、荷風(かふう)は友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩む。

そんな成果が実り、千九百三十七年(昭和十二年)には「濹東綺譚」を朝日新聞に連載、この小説は後に映画化されている。

随筆では、下町の散策を主題とした「深川の散歩」、「寺じまの記」、「放水路」などの佳作を発表している。

永井荷風(ながいかふう)の日常も、大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な風俗が反乱する時代の作家に相応しく、艶聞に色どられたものだった。

永井荷風(ながいかふう)もまた、谷崎潤一郎と同様に女性との艶聞遍歴が創作意欲であり、体験的な「作品の種」だったのだろう。

荷風(かふう)が関係した女性達については、自らの日記・「断腸亭日乗」の千九百三十六年(昭和十一年)一月三十日付けの記事に列記している。


以後、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は「少年」、「秘密」などの諸作を書きつぎ、自然主義全盛時代に在って物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫いた。

大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、江戸川乱歩にも影響を与えたといわれる探偵小説の分野にも新境地を見出した。


江戸川乱歩(えどがわらんぽ)は、大正から昭和に掛けて活躍した推理小説を得意とした小説家・推理作家である。

江戸川乱歩(えどがわらんぽ)の筆名(ペンネーム)は敬愛するアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもので、本名は平井太郎(ひらいたろう)である。

中学での平井太郎(ひらいたろう)は、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読し、旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後早稲田大学政治経済学部に入学した。

千九百二十三年(大正十二年)、「新青年」に掲載された短編推理小説・「二銭銅貨」で作家デビュー、森下雨村、小酒井不木に激賞される。

今日の乱歩(らんぽ)の作品では、明智小五郎と小林少年を始めとする少年探偵団が活躍する少年向け作品・「怪人二十面相」などが多数知られる。

しかし、乱歩(らんぽ)が活躍したリアルタイムの世情は、大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な風俗が反乱する時代で、大衆読者に好まれたのは幻想・怪奇小説、あるいは犯罪小説だった。

乱歩(らんぽ)は、文豪・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の耽美主義作品に「少なからぬ影響を受けた」とされる。

それで乱歩(らんぽ)も、次第に「赤い部屋」「人間椅子」「鏡地獄」等に代表される「変格もの」を多く書くようになって行った。

乱歩作品の「変格もの」とは、本来は秘すべき歪んだ嗜好やドロドロとした性癖をテーマにして人間の裏面を暴き出したもので、大正ロマンの一郭を占めていた言える。

幸い乱歩(らんぽ)は、衆道の少年愛や少女愛、女装・男装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク・残虐趣味などの嗜好も強く、これを活かした通俗探偵小説は昭和初年以降当時の一般大衆に歓迎された。

千九百二十八年(昭和三年)八月、一年二ヶ月の休筆の後、乱歩は自己の総決算的中篇「陰獣」を発表する。

変態性欲を基調としたこの作品「陰獣」を不健康な作とみなす者もいる。

一方、当時の探偵小説のメッカとでも称すべき雑誌「新青年」の編集者・横溝正史が「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛するなど戦前の本格探偵小説のエポックを築く事になった。


谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は映画に深い関心を示し、自身の表現に於いて新しい試みに積極的な意欲を見せた。

関東大震災の後、潤一郎(じゅんいちろう)は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。

長編「痴人の愛」では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。

続けて潤一郎(じゅんいちろう)は、「卍」、「蓼喰ふ虫」、「春琴抄」、「武州公秘話」などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けて行く。

こうした美意識の達者としての潤一郎(じゅんいちろう)の思想は「文章読本」と「陰翳禮讚」の評論によって知られる。

この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚を経て、千九百三十五年(昭和十年)に森田松子と3度目の結婚して私生活も充実する。

戦争中、潤一郎(じゅんいちろう)は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作「細雪」に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する。

同作・「細雪」の登場人物である二女「幸子」は、松子夫人がモデルとなっている。


戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ「源氏物語」の現代語訳も中断を強いられた。

しかし、晩年の潤一郎(じゅんいちろう)は迫りくる老いと闘いながら、執筆活動を再開する。

「過酸化マンガン水の夢」を皮切りに、「鍵」、「瘋癲老人日記」と言った傑作を発表する。

ノーベル文学賞の候補には、千九百五十八年、千九百六十年、千九百六十一年、千九百六十二年と四回にわたって選ばれ、特に千九百六十年には最終候補の五人の中に残った。

潤一郎(じゅんいちろう)最晩年の千九百六十四年(昭和三十九年)には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出され、執筆活動を再開する。


作家・谷崎潤一郎は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズム(被虐性愛)などのスキャンダラスな文脈で語られる事も少なくない。

潤一郎はその作品で情痴や時代風俗などのテーマを扱うも、その芸術性は世評高く、「文豪」と評価される。

潤一郎(じゅんいちろう)を「完全なる変態」と評する似非(エセ)常識人も居るが、芸術とはそう言うもので、潤一郎(じゅんいちろう)の変態的感性そのものが、彼の作品を高めている。


千九百十五年(大正四年)、気鋭の作家・谷崎潤一郎は石川千代と結婚する。

結婚後潤一郎は、妻・千代に横恋慕した友人である佐藤春夫(さとうはるお/詩人・作家)に千代を譲る約束をする。

情痴や時代風俗などをテーマとして扱う潤一郎の作品には、「必ずモデルに成る事象が存在する」とされる。

つまり佐藤春夫(さとうはるお)が千代に惚れたのも、潤一郎が意図して「二人に関係を持たせた」と言う噂も在る。

潤一郎(じゅんいちろう)との非日常的な性生活で、すっかりマゾ性(被虐)に目覚めた千代だったから、命じられた事には素直に従う。

もしかしたらの推測だが、自分の妻・千代を目の前で友人・春夫(はるお)に抱かせて、その様子を見て愉しみたい夫・潤一郎(じゅんいちろう)と、友人の妻を目の前で抱いて観せたい男の性癖が一致した。

作家のアバンギャルド(前衛芸術)な気分では、三人同室での観賞プレィも作家の洒落(しゃれ)として充分可能だったが、それを証明する明確な資料は無い。

最初は潤一郎の個性的な趣味・嗜好が面白勝って、千代に「色仕掛けで春夫(はるお)を誘って情交に持ち込め」と命じたが、それが想いの他に胸をトキメかせたので度々その機会を創らせて二人は深まった。

いずれにしても潤一郎は、妻・千代と春夫(はるお)との耽美プレィの情景を思い浮かべたり盗み見たりして愉しんでいたに違いない。

それにしても本来なら人妻として「嫌」と抵抗する所で、あれだけのエキサイティングな遊びが犯れたのだから、千代の器の大きさは際立っていた。

しかしそれは、千代の器を見切ってその卑猥(ひわい)な遊びを嫉妬もせずに犯らせた潤一郎(じゅんいちろう)の器の大きさとお互い様かもしれない


実はこの潤一郎の企てには、潤一郎が千代の妹・せい子に惚れ、妻・千代を春夫(はるお)に押し付けて自分は新たにせい子と婚姻を謀る積りが在った。

しかしこの企ては、せい子に拒絶されて頓挫した。

潤一郎の画策で春夫(はるお)の愛を受け入れた千代は、段々と以前に無い妖しげな魅力が出て来て妖艶になり、潤一郎は春夫(はるお)に千代を手放すのが惜しくなる。

千九百二十一年(大正十年)、潤一郎は妻・千代を佐藤春夫(詩人・作家)に譲ると言う前言を翻した為、春夫(はるお)と絶交する「小田原事件」を起こす。


千九百二十七年(昭和二年)、潤一郎は後に三度目の結婚相手となる根津松子と知り合う。

二人の仲を惜しむ共通の知人が居て間に入り、佐藤春夫(さとうはるお)は潤一郎と和解する。

しかし潤一郎は、またも妻・千代を内弟子・和田六郎(後の大坪砂男/探偵作家)に譲る話を起こし、春夫(はるお)の猛反対でこの譲渡話は壊れている。

この内弟子・和田六郎と潤一郎の妻・千代には肉体関係が出来ていたのだが、それは「潤一郎が仕向けたものだ」と言われている。

佐藤春夫(はるお)と千代との耽美プレィに、嗜好的な味を占めていた潤一郎は、千代に「内弟子・和田六郎と犯れ」と命じた。

潤一郎は千代に六郎との関係を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させ、千代は「六郎の子を妊娠・堕胎した事も在った」と言う。

小説の著作には作家自身や家族の体験を加工したものが多く、「潤一郎の作品にはモデルが在る」と言われている。

だから潤一郎をとりまく男女の出来事は格好の題材であり、マスメディアに取り上げられれば出版の前宣伝にもなる。

勿論、千代と佐藤春夫(さとうはるお)との情交も潤一郎が画策したシュール(非日常)なシュチエーションを狙った物で、逐一その顛末を千代に報告させていた。

本来は秘すべき婚外情交を夫が妻に実践させ、その性愛の衝撃を小説創作のヒントに取り入れる破廉恥と思える事象が、新聞・雑誌を通じて劇場型として漏れ来る。

つまり有名人の醜聞には需要があるから、計算づくのスキャンダラスな話題を創り、その過熱報道で作品の前宣伝をする。

こうした作家男女の裏面を大衆読者は想像して、新聞・雑誌のリアルタイムな報道をポルノチック(性愛情景的)な気分で熱狂していた。

夫婦の間の事など他人には到底理解出来ない事で、千代は潤一郎作品の題材創りと話題作りに協力していたのかも知れない。

因(ちな)みに、夫に勧められて他人と性交する妻は貞淑なのか淫乱なのか、判断が分かれるところではないか?

この一件で具体的に恩恵が在るのは、潤一郎(じゅんいちろう)の「創作の種(モデル)」である。

だから、妻・千代が好んで婚外情交をするのは考え難く、それは「潤一郎(じゅんいちろう)の依頼に依るもの」と解釈するのが順当である。


千九百三十年(昭和五年)に潤一郎と千代の離婚成立後、千代の佐藤春夫(さとうはるお)との再嫁の旨の挨拶状を三人連名で知人に送る。

この挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。

夫からその友人に譲られた「千代夫人も幸せだった」と言う、なんとも言えない作家達の愛の形である。

知性香る上流社会の醜聞が、雑誌報道や新聞報道でインモラル(不道徳/背徳的)な文人達の赤裸々な生活を暴きだす。

民衆にとって見れば、剥(む)き出しの欲望と魂の叫びが炙(あぶ)り出される体験的小説のモデルを目の当たりにする劇場型の情報は何時(いつ)の日も待ち望んでいた。


それは夫婦の性癖だって、相性が良い方が理想である。

性豪として、その道に研究熱心な潤一郎に仕込まれたからなのか、千代は従順の上に必死で奉仕する性癖の、言わば男性が抱いて愉しめるタイプの女性だった。

そして内弟子・和田六郎との経緯(いきさつ)を知りながら、それでも春夫(はるお)が千代に惚れ、「自分の嫁に」と望んだのには、「自分が千代の性を育てた」と言う拘(こだわ)りが在った。

潤一郎が仕掛けた事ではあるが、春夫(はるお)が千代を抱く都度に段々と妖しげな魅力が益し、床での行為につつましさを捨てた千代は妖艶に育って行ったからだ。

つまりこの「細君譲渡事件」、抱いて詰まらない女性であれば、春夫(はるお)もそこまで千代を我が物にする事に執心はしなかった筈である。


「細君譲渡事件」の翌年、千九百三十一年(昭和六年)に潤一郎は文藝春秋の記者・古川丁未子(ふるかわとみこ)と再婚する。

しかし潤一郎は、以前知り合った根津松子との関係が深くなり、直ぐに丁未子(とみこ)を邪魔にし始める。

昼間、外での性交を望んだが断られたなど潤一郎の奔放な性に丁未子(とみこ)がなじまなかったから、潤一郎は直ぐに丁未子(とみこ)に失望した。

この件に関しては、潤一郎の関心が根津松子に移っていた事もあるが、丁未子(とみこ)が千代の様に潤一郎の意志に沿って作品のモデルになる気が無かったからでもある。

編集記者だった丁未子(とみこ)が、結婚前に潤一郎の乱れた私生活や個性的な趣味・嗜好を知らない訳は無く、嫁ぐ時にそれなりの覚悟が必要だった筈である。

丁未子(とみこ)が潤一郎と添い遂げたかったのなら、例え他人の前での性交を晒(さら)してでも潤一郎(じゅんいちろう)の要請に応えるべきだった。

それで潤一郎(じゅんいちろう)の個性的な趣味・嗜好に応じられない丁未子(とみこ)は、もぅ彼にとっては無用な存在になったのだ。

「男性の身勝って」と言ってしまえばそれまでだが、佐藤春夫が千代を選んだのも潤一郎が松子を選んだのも同じ理由である。

最終的に男性は、我侭(わがまま)な性癖に大胆に応じてくれる女性の方を選ぶに決まっている。


松子はあまり道徳に縛られない女性で、夫・清太郎が在りながら潤一郎と情交を結び、谷崎の色々な要求に答えてやり、それが谷崎作品に結びついている。

松子の夫・根津清太郎は根津商店と言う大阪の大会社の御曹司で大富豪、松子も藤永田造船所専務・森田安松の四人姉妹の次女と言うお金持ちだった。

この根津清太郎がかなりの女好きの遊び人の上、芸術家のパトロンをする事を好んで、潤一郎もそのあたりの関わりで知り合った。

松子に惚れまくった潤一郎は、なんと松子の家の隣にいきなり引越し、お互い結婚している身もおかまいなしに関係を続ける。


千九百三十五年(昭和十年)、松子が根津清太郎と離婚し戸籍を旧姓に戻して森田松子となった。

松子の離婚を期に潤一郎は二度目の妻・丁未子(とみこ)と離婚し、森田松子と三度目の結婚をする。

潤一郎の私生活は、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚、その間に永く関係が在った松子と三度度目の結婚をするなど、自由恋愛は賑(にぎ)やかなものである。

そしてその賑(にぎ)やかさは、作家としての潤一郎の創作活動に資する実験だったのではないだろうか?


作家にとって、著作アイデアは「飯の種」・「金の成る木」で、世間体など気にしていては貧乏のままである。

事実多くの妻を娶(めと)り、その多様な家庭にも触れて潤一郎(じゅんいちろう)の著作アイデアは、永く枯れる事がなかった。

社会規範から言えば非難されるべきアブノーマル(異常)な性愛でも、この大正ロマンの文士仲間の内では自由恋愛の思想の下に「許容されるべきノーマル(正常)な事」だったのかも知れない。

その大正ロマン時代に流行ったモガ(モダンガール)・モボ(モダンボーイ)とは、戦前の若者文化である。

千九百二十年代の大正末期から昭和初期頃に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた外見的な特徴を指してこう呼んだ。

こうした情報が氾濫した大正ロマンの時代、庶民の生活規範もかなり緩んで自由恋愛の風潮に様々なドラマが在った時代だった。

潤一郎と千代の生き方を一般社会通念で評価すれば、「堕落したもの」かも知れないが、一方でその作品は大反響・大人気であり、文学としての評価は高い。

谷崎潤一郎と石川千代(佐藤千代)の奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方は、大正ロマンの個人主義・理想主義の申し子だったのかも知れない。

勿論他人が、その個人的価値観でこの二人を評価する権利など在りはしない。

こうした大正ロマンの事象を現代の社会規範に沿って無責任に「品格が無い」などと批評するのは、知的ではない間違いである。

「その時代の真実」と言う時代考証の考え方があり、その時代がそう言うポルノチック(性愛情景的)な気分の世相だった事を認めなければ成らない。


潤一郎は欲望のままに生き、同居した女中(お手伝いさん)や妻の妹など軒並み手を付ける性豪振りで多くの作品を書き続けた。

潤一郎(じゅんいちろう)は最後まで彼らしく生き、現実の情交の有無に関わらず最後の性的な対象女性は妻・松子の連れ子で長男・清冶の妻・千萬子(ちまこ)とされる。

千萬子(ちまこ)と潤一郎(じゅんいちろう)の関係だが、松子の前夫・根津清太郎の子供・清治を妹・重子の養子した事から、千萬子からみると戸籍上の潤一郎(じゅんいちろう)は伯父に当たるが 事実上は義父である。

つまり潤一郎(じゅんいちろう)は、義理の息子の嫁に人生最後の恋をした事で晩年の代表作・「瘋癲老人日記(ふうてんろうじんにっき)」をものにした事に成る。


脳科学分野では、人間の脳は非日常の刺激に厚めに活性し、日常生活からはさして脳の活性は得られない。

従って作家や芸術家は、非日常の刺激を変人的に追い求める事が創作上の命である。

世間が言う「天才に変人が多い」と言うのは、脳のリミッター(制御)が外れているからである。

そして社会性に対する脳のリミッター(制御)が外れているから、作家はある種の狂気を含む変人的天才にシフトしている。

只、こうした変人的天才の社会性を、如何にも正義感振って単純にモラル(道徳)批判するのは、才能に恵まれない凡人の所業かも知れない。


谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の作品は、そのリアリティ(真実性)溢れる作風で世界から絶賛された。

事実ノーベル文学賞の候補に、千九百五十八年、千九百六十年、千九百六十一年、千九百六十二年と四回にわたって選ばれ、特に千九百六十年には最終候補の五人の中に残った。

潤一郎(じゅんいちろう)最晩年の千九百六十四年(昭和三十九年)には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出されている。


佐藤春夫(さとうはるお)は近代日本の詩人で作家である。

千八百九十二年(明治二十五年)四月九日、和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。

春夫(はるお)の実家、佐藤家の家系は代々紀州の下里町で医を業とし、父・豊太郎に至って九代を数え、母・政代は旧紀州藩士で御庭奉行を務めた竹田氏の娘である。


春夫(はるお)は、艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。

和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)在学中、佐藤潮鳴の筆名で校友会誌に「おらば籠」を発表する。

千九百八年(明治四十一年)には、「熊野実業新聞」に短歌六首掲載される。

「明星」に「風」の題で投稿した春夫(はるお)の短歌が石川啄木の選に入り、和貝彦太郎主宰の「はまふゆ」の同人となり、「馬車・食堂(短歌・詩)」を発表する。

この頃に父は病院を一時閉鎖し、北海道十勝国中川郡で農場を経営する。

春夫(はるお)は、「趣味」、「文庫」、「新声」、「熊野新報」の各紙に短歌や歌論を次々と発表し、千九百九年(明治四十二年)「すばる・創刊号」に短歌を発表する。

春夫(はるお)は、「すばる」で生田長江、与謝野寛(鉄幹)、石井柏亭を知り、また同盟休校事件の首謀者とみなされて無期停学を命じられた。

千九百十年(明治四十三年)、新宮中学校卒業後、春夫(はるお)は上京して生田長江に師事、与謝野寛(鉄幹)の新詩社に入る。

ここで同人の堀口大學を知り、堀口と共に旧制第一高等学校の入試に臨んだが試験を中途で放棄し、慶應義塾大学文学部予科に入学。

慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学び、また生方克三を知る。

兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった「断腸亭日乗」に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていた為、和解する。


春夫(はるお)は元芸術座の女優・川路歌子(遠藤幸子)と同棲し、本郷区追分町に新居を構えた。

千九百十七年(大正六年)に春夫(はるお)は神奈川県都筑郡中里村(現・横浜市)に移り、田園生活を始める。

ここで大杉栄(おおすぎさかえ)を知り親交を結び、この頃から散文詩に向かう一方、絵筆を執るようになり、「第二回・二科展」に「自画像」と「静物」の二点が入選する。

春夫(はるお)は「病める薔薇」の執筆を始め、翌年「黒潮」に発表、「第三回・二科展」に「猫と女の画」、「夏の風景」の二点が入選する。

春夫(はるお)は江口渙、久保勘三郎らと共に同人誌創刊の準備を行い「星座」を創刊、また江口を通して芥川龍之介を知り、六月には谷崎潤一郎を知る。

芥川の出版記念会「羅生門の会」に出席して開会の辞を述べ、「第四回・二科展」に「上野停車場附近」、「静物」の二点が入選する。

千九百二十一年(大正十年)に「殉情詩集」を発表し、春夫(はるお)は小説家、詩人として広く認められる。

この年、春夫(はるお)は友人である谷崎潤一郎から彼の妻・千代を譲り受ける約束をするが反故にされ、潤一郎との交友を断つ。

千九百二十六年(大正十五年)に長谷川幸雄が門人として同居し、春夫(はるお)は谷崎潤一郎と交友関係を復活させる。

同年、三年間に長篇を二作ずつ書く約束で、菊池寛、宇野浩二、里見?と共に報知新聞社客員記者となり、中国へ旅行する。

その後の千九百三十年(昭和五年)に潤一郎と千代の離婚成立し、春夫(はるお)は千代との再嫁の旨の挨拶状を、元夫の谷崎潤一郎と三人連名で知人に送る。

この挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。

千九百三十五年(昭和十年)、春夫(はるお)は芥川賞が制定されると銓衡委員となり、及び日本文学振興会理事の一人となった。


芥川賞で知られる小説家、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は千八百九十二年(明治二十五年)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。

新原龍之介生後七ヵ月後頃に、母・フクが精神に異常をきたした為、東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。

新原龍之介十一歳の時に母・フクが亡くなり、翌年に龍之介は叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗る事になった。

母の実家・芥川家は旧家の士族で、江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家柄だった。

その家柄の為、芥川家では芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が、家庭環境として残っていた。

龍之介(りゅうのすけ)は、府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、千九百十年(明治四十三年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行された為、第一高等学校第一部乙類に入学する。

同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。

千九百十三年(大正二年)、龍之介(りゅうのすけ)は当時一学年に数人のみしか合格者を出さない難関の東京帝国大学文科大学英文学科へ進学する。


東京帝大在学中の千九百十四年(大正三年)二月に、龍之介(りゅうのすけ)は一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌・「新思潮(第三次)」を再刊行する。

この頃の筆名(ペンネーム)は「柳川隆之助」または「柳川隆之介」で洋書の和訳を寄稿し、その後同誌上に処女小説「老年」を発表し作家活動の始りとなる。

千九百十五年(大正四年)十月、龍之介(りゅうのすけ)は代表作の1つとなる「羅生門」を「芥川龍之介」名で「帝国文学」に発表する。

また、この年に級友・鈴木三重吉の紹介で作家・夏目漱石門下に入る。

千九百十六年(大正五年)に、第三次とほぼ同じメンバーで「新思潮(第四次)」を再刊行し、その創刊号に掲載した「鼻」が師である夏目漱石に絶賛される。

この千九百十六年(大正五年)に龍之介(りゅうのすけ)は、東京帝国大学文科大学英文学科を二十人中二番の成績で卒業する。

夏目漱石の口添えもあり、畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として龍之介(りゅうのすけ)を推薦、教鞭を執る事になる。

龍之介(りゅうのすけ)は海軍機関学校の教官のかたわら創作に励み、翌年五月には初の短編集・「羅生門」を刊行する。

その後も短編作品を次々に発表し、十一月には早くも第二短編集・「煙草と悪魔」を発刊している。

千九百十八年(大正七年)の秋、懇意にしていた「三田文学」の同人・小島政二郎の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが実現しなかった。

千九百十九年(大正八年)三月、龍之介(りゅうのすけ)は友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚の為海軍機関学校の教職を辞す。

この結婚で龍之介(りゅうのすけ)は、寄稿が仕事で出社の義務はない条件(客外社員)で菊池寛とともに大阪毎日新聞社に入社し創作に専念する事になる。


千八百二十一年(大正十年)には、龍之介(りゅうのすけ)は次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病み、千九百二十三年(大正十二年)には湯河原町へ湯治に赴いている。

千九百二十五年(大正十四年)頃から、龍之介(りゅうのすけ)は文化学院文学部講師に就任するも、翌年には胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養する。

千九百二十七年(昭和二年)四月頃、龍之介(りゅうのすけ)は、秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。

同千九百二十七年(昭和二年)七月二十四日未明、龍之介(りゅうのすけ)は、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。

死の八年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛(きくちかん)が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。

芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。


菊池寛(きくちかん)は、江戸時代讃岐国半国東讃地域(香川県香川郡高松)を領した高松藩の儒学者の家柄だった菊池家に、千八百八十八年(明治二十一年)十二月二十六日に生まれた。

本名は菊池寛(きくちひろし)で、筆名(ペンネー)・菊池寛(きくちかん)として小説家、劇作家、そして文藝春秋社を創設した実業家でもある。

寛(かん)は、高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受ける。

それでも寛(かん)は、地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学する。

法律を学んで一時は法律家を目指した事もあった寛(かん)だが、一高入学を志して中退する。

その後寛(かん)は、徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読する。

千九百十年(明治四十三年)、寛(かん)は早稲田大学を中退して漸く念願だった第一高等学校第一部乙類へ入学する。

第一高等学校の同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介らと出会う。

しかし寛(かん)は、卒業直前に友人・佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学(マント事件)に成る。

その後、寛(かん)は友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学する。

京都帝国大学にしたものの、寛(かん)に旧制高校卒業の資格がなかった為、当初は本科に学ぶ事ができず、選科に学ぶ事を余儀なくされた。

当時の失意の日々については「無名作家の日記」に詳しい。

この選科問題は、後に寛(かん)が本科への転学に成功し解決する。

千九百十四年(大正三年)二月に、京大生だった寛(かん)は第一高等学校第一部乙類当時同期だった芥川龍之介・久米正雄らと共に同人誌・「新思潮(第三次)」を再刊行する。

京大では、文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。

千九百十六年(大正五年)京大卒業後、寛(かん)は時事新報社会部記者を経て、小説家となる。

千九百二十三年(大正十二年)、寛(かん)は私費で雑誌・「文藝春秋」を創刊し大成功を収め、富豪となる。

千九百二十六年(大正十五年)に劇作家協会と小説家協会が合併して日本文藝家協会が初代会長・菊池寛で発足、寛(かん)は芥川賞、直木賞の設立者でもある。

その他寛(かん)は、大映初代社長や報知新聞客員を務め、これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなう。


寛(かん)には両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から四級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。

この少年との関係は、寛(かん)の大学時代まで続いた。

まぁ、文人の感性は常人の感性と違うからこそ文人なのかも知れない。

一高卒業を目前にして、友人・佐野の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからといわれる。

また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人人に映画評論家でタレントの小森和子(小森のおばちゃま)がいる。

小森和子はあまりに易々と寛(かん)に体を許した為、寛(かん)から「女性的な慎みがないと非難された」と言うエピソードが残っている。

太平洋戦争中、寛(かん)は文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担った為に戦後は公職追放の憂き目にあい、千九百四十八年(昭和二十三年)失意の内に没した。


川端康成(かわばたやすなり)は、日本人初のノーベル文学賞受賞作家である。

康成(やすなり)は千八百九十九年(明治三十二年)、済生学舎卒の医師・栄吉を父に、ゲンを母に大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れる。

まだ康成(やすなり)が二歳の千九百一年(明治三十四年)に父が死去、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌千九百二年に(明治三十五年)に母も死亡する。

祖父の三八郎、祖母のカネと一緒に摂津・三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。

千九百六年に(明治三十九年)九月に祖母が死に、千九百六年に(明治三十九年)には別居していた姉・芳子も死亡した。

千九百十二年(明治四十五年/大正元年)、康成(やすなり)は大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学する。

しかし二年後、最後の身内である祖父・三八郎が死去した為、康成(やすなり)を豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入りそこで生活を始めた。

茨木中学校の下級生には、ジャーナリストでノンフィクション作家の大宅壮一が在学していた。

康成(やすなり)が作家を志したのは中学二年の時で、千九百十六年(大正五年)から「京阪新報」に小作品を、「文章世界」に短歌を投稿するようになる。

康成(やすなり)は千九百十七年(大正六年)に茨木中学校を卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始める。

その成果で、康成(やすなり)は第一高等学校の一部乙、英文科に入った。

後年「伊豆の踊子」で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌千九百十八年(大正七年)の秋に伊豆へ旅行した時のものである。

その後十年間、康成(やすなり)は伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになっている。

千九百二十年(大正九年)、康成(やすなり)は第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学する。

東京帝国大同期には北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作らがいた。同期に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作らがいた。

同千九百二十年(大正九年)、康成(やすなり)は今東光、鈴木彦次郎、石濱、酒井真人と共に同人誌・「新思潮(第六次)」の発刊を企画し、英文学科から国文学科へ移った。

翌千九百二十一年(大正十年)、「新思潮(第六次)」を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛(きくちかん)らに評価される。

康成(やすなり)は、千九百二十三年(大正十二年)に菊池寛(きくちかん)に拠って創刊された「文藝春秋」の同人となった。

国文科に転じた事もあり、東京帝国大学に一年長く在籍したが、千九百二十四年(大正十三年)に「日本小説史小論」を卒論に卒業した。

同千九百二十四年(大正十三年)、康成(やすなり)は横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら十四人と伴に同人雑誌「文藝時代」を創刊する。

「文藝時代」には、「伊豆の踊子」などを発表した。

千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)、康成(やすなり)は処女短篇集・「感情装飾」を刊行する。

この年、千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)、康成(やすなり)は青森県八戸市の松林慶蔵の三女・秀子と結婚する。

千九百二十七年(昭和二年)、康成(やすなり)は秀子夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転する。

移転先の杉並町で、同人雑誌・「手帖」を創刊し、のちに「近代生活」、「文学」、「文学界」の同人となった。

その後康成(やすなり)は、「雪国」、「禽獣」などの作品を発表し、千九百三十七年(昭和十二年)に「雪国」で文芸懇話会賞を受賞する。

千九百四十四年(昭和十九年)、「故園」、「夕日」などにより菊池寛賞を受賞し、この頃三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。

康成(やすなり)は、三島由紀夫を文壇デビューさせたその師的存在である。


千九百四十五年(昭和二十年)、康成(やすなり)は作家仲間の志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、山岡荘八と鹿屋へ趣き、神風特別攻撃隊神雷部隊を取材する。

この取材で、同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け、康成(やすなり)はは「生命の樹」を執筆している。

千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦を経て、康成(やすなり)は「千羽鶴」、「山の音」などを断続発表しながら千九百四十八年(昭和二十三年)に日本ペンクラブ第四代会長に就任する。

千九百五十八年(昭和三十三年)、康成(やすなり)は国際ペンクラブ副会長に就任し、以後国際的文壇で活躍する。

千九百六十八年(昭和四十三年)十一月、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さ」を評価し康成(やすなり)に対してノーベル文学賞受賞が決定した。

受賞から三年半、千九百七十二年(昭和四十七年)四月十八日、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で、康成(やすなり)が死亡しているのが発見された。

康成(やすなり)七十二歳、ガス管を咥え絶命しているところを発見され、自殺と報じられた。



芥川賞に憧れた作家・太宰治(だざいおさむ)は、本名を津島修治(つしましゅうじ)、筆名(ペンネーム)を太宰治(だざいおさむ)とする小説家である。

修治(しゅうじ)は、千九百九年(明治四十二年)六月十三日、青森県北津軽郡金木村(のちの北津軽郡金木町、現青森県五所川原市)に、県下有数の大地主である津島源右衛門、タ子(たね)の六男として生まれた。

両親には子女が十一人居て、修治(しゅうじ)はその十番目の生まれで、修治(しゅうじ)が生まれた時には、既に長兄・次兄は他界していた。

修治(しゅうじ)の父・源右衛門は、木造村の豪農・松木家からの婿養子で、松木家も県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士だった。

津島家の富豪振りは半端な物では無く、津軽地方では「金木の殿様」とも呼ばれていた。

父・津島源右衛門は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、修治(しゅうじ)自身は乳母らによって育てられた。

千九百二十三年(大正十二年)、修治(しゅうじ)が青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)へ入学直前の三月、父・津島源右衛門が死去する。

修治(しゅうじ)が十七歳の頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行して作家を志望するようになる。

官立弘前高等学校文科甲類時代の修治(しゅうじ)は、泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動ににも傾倒する。

千九百二十九年(昭和四年)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌・「細胞文芸」を発行すると辻島衆二の名義で作品を発表する。

この頃は他に小菅銀吉または本名・津島修治・名義でも文章を書いていたが、自らの富裕階級の身に悩み、十二月にカルモチン自殺を図っている。

翌・千九百三十年(昭和五年)、修治(しゅうじ)は弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業する。

フランス語を知らぬまま、修治(しゅうじ)はフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学する。

しかし修治(しゅうじ)は、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、実家からの仕送りで有る豪奢(ごうしゃ)な生活を意味するデカダンスを送る。

一方修治(しゅうじ)は、それに対する自己嫌悪・六男坊という修治(しゅうじ)自身の立ち位置もあいまって、マルキシズムに傾倒して行く。

修治(しゅうじ)は、思想自体に本気でのめり込んでいた訳ではないものの当時治安維持法にて取り締まられた共産主義活動に没頭し、講義には殆ど出席しなかった。
同じ頃、修治(しゅうじ)は小説家を目指して作家・井伏鱒二に弟子入りし、この頃から本名・津島修治に変わって太宰治(だざいおさむ)を名乗るようになる。

在籍した東京帝国大学文学部仏文学科の籍は、留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍される。

治(おさむ)は、卒業口頭試問を受けた時、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われた。

しかし、講義に全く出席していなかった治(おさむ)は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。

治(おさむ)は、在学中にカフェの女給で人妻である田部シメ子と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図るも、シメ子だけ死亡し治(おさむ)だけは生き残る事件を起こす。

千九百三十三年(昭和八年)、治(おさむ)は芥川龍之介を敬愛しつつ短編・「列車」を「サンデー東奥」に発表する。

同・千九百三十三年(昭和八年)同人誌・「海豹」に参加し、「魚服記」を発表する。

千九百三十五年(昭和十年)に治(おさむ)は、「逆行」を「文藝」に発表する。

初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第一回芥川賞候補となったが作家・石川達三の「蒼氓」が受賞し、治(おさむ)の「逆行」は落選した。

この時選考委員である後のノーベル賞作家・川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、治(おさむ)は「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。

その後、治(おさむ)は都新聞社に職を求めるも入社できず、またも自殺未遂事件を起こす。

第一回芥川賞の選考時に治(おさむ)の「逆行」を高く評価していた選考委員の作家・佐藤春夫(さとうはるお)を知り師事する。

第二回芥川賞の受賞を治(おさむ)は期待し、佐藤春夫も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となる。

第三回芥川賞の選考では、治(おさむ)は仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っている。

しかし、過去に候補作となった作家は選考対象から外すと言う規定が設けられ、治(おさむ)は候補にすら成らなかった。

千九百三十六年(昭和十一年)、治(おさむ)は前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集「晩年」を刊行する。

翌千九百三十七年(昭和十二年)、治(おさむ)は内縁の妻・小山初代とカルモチン自殺未遂を起こし一年間筆を絶つ。

千九百三十八年(昭和十三年)、師事する作家・井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ三ヵ月間逗留している。


その井伏鱒二の仲人で甲府市出身の石原美知子と結婚した。

治(おさむ)は甲府市御崎町(現・朝日)に棲家を得て精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表する。

戦中も、治(おさむ)は甲府に在って創作活動を継続、「津軽」、「お伽草紙」などを書き上げ、戦後の千九百四十七年(昭和二十二年年)に没落華族を描いた長編小説「斜陽」が評判を呼び、流行作家となる。

太宰治(だざいおさむ)は、「人間失格」、「桜桃」などを書きあげた後、千九百四十八年(昭和二十三年)六月十三日に玉川上水で、愛人・山崎富栄と入水自殺を遂げた。

大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な世相の中に在って、治(おさむ)は退廃的な生真面目過ぎ、左傾思想などに向き合うも、心の隙間を埋める為か女性関係だけは賑やかだった。



千九百三十七年(昭和十二年)五月、佐藤春夫(さとうはるお)は文藝春秋社特派員として華北方面に出発し、九月に文学者従軍海軍班の一員として中国に赴く。

千九百四十一年(昭和十六年)五月、春夫(はるお)は太平洋戦争の文士部隊として中支戦線に従軍し、マレー及びジャワの南方方面へ視察旅行に出る。

終戦を迎えた翌年、春夫(はるお)は千九百四十六年(昭和二十一年)から文芸誌「方寸」、「風流」、「群像、「傳記」、「至上律」の創刊に助力し、翌年から毎年全国各地に旅行に出る。

千九百四十八年(昭和二十三年)から春夫(はるお)は日本芸術院会員となり、水上瀧太郎賞が設定されると銓衡委員となる。

春夫(はるお)は、芥川賞の復活に伴い銓衡委員となる。

千九百四十九年(昭和二十四年)、春夫(はるお)は慶應義塾大学で「近代日本文学の展望」を開講する。

千九百五十年(昭和二十五年)、春夫(はるお)は宮中歌会始に列席、千九百五十九年(昭和三十四年)の宮中歌会始には召人として選任され列席する

千九百六十一年(昭和三十六年)五月に、春夫(はるお)は東宮御所(皇太子御所)に招かれ文学を談義した。

千九百六十四年(昭和三十九年)、春夫(はるお)は慶應義塾大学で「詩学」を開講し、五月六日夕方頃に心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。



日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地を大正関東地震・関東大震災(かんとうだいしんさい)が見舞う。

関東大震災(かんとうだいしんさい)とは、千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード七・九の大正関東地震による地震災害を言う。

震源域の真上に位置していた「横浜市の震度は七と推定され、希に見る強震だった」と言う。

この時折悪しく、内閣総理大臣・加藤友三郎が、震災発生八日前の八月二十四日に急逝していた為、地震発生時及びその後は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。

大正関東地震は、神奈川県を中心に東京府東京市・千葉県・茨城県から静岡県東部までの一府四県の内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

この大震災については資料の洗い直しが為され、二千六年(平成十八年)版から修正され、現在では数字を丸めて「百九十万人が被災、死者・行方不明十万五千余人」としている。

死者・行方不明者については、地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、多くは強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なった事から百三十六件の火災が発生し、大学や研究所で「化学薬品棚の倒壊による発火も見られた」とされる。

また、この大震災の建物被害に於いては全壊が十万九千余棟、全焼が二十一万万二千余棟である。

津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ十メートル以上の津波が記録された。

尚、この震災の混乱の中、「朝鮮人が暴徒となって放火している」とデマが広がり、その流言の数々から大衆の多くが「暴徒と化した朝鮮人」を恐れて自警団との衝突も発生し、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。

震災の復興計画は、山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動き始める。

第二次山本内閣の内務大臣に就任した後藤新平は帝都復興院を設立し、大阪市の港湾計画や都市計画に従事した直木倫太郎を技監に据えて、自らは総裁を兼務した。

江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進み、この震災後に日本で初めてラジオ放送が開始される。

その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下に在った日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じて居た。

結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入って行く。


関東大震災(かんとうだいしんさい)から首都東京を復興させた功績者が「後藤新平(ごとうしんぺい)だ」と言われている。

新平(しんぺい)の生家である後藤家は、陸奥仙台藩(水沢藩)・留守氏(るすうじ)の家臣である。

陸奥仙台藩(水沢藩)・留守氏(るすうじ)は源頼朝の奥州征伐後、陸奥国の留守職を務めた伊沢家景の末裔、伊沢家景の子・家元以降留守氏(るすうじ)を称していたが、伊達姓を与えられ一門の家格に列し、同氏は水沢伊達氏と呼ばれる。

後藤新平(ごとうしんぺい)は、その水沢・留守氏(るすうじ)家臣・後藤実崇の長男として陸奥国胆沢郡塩釜村(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれている。

江戸時代後期の蘭学者・高野長英は新平(しんぺい)の大叔父に当たり、甥に昭和に活躍した政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩を持つ。

新平(しんぺい)は、維新後に設置された胆沢県(陸前国北部・陸中国南部)大参事であった安場保和(やすばやすかず)に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに十三歳で書生として引き立てられ県庁に勤務する。

その後、新平(しんぺい)は十五歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三(しょうむら しょうぞう)の下で門番兼雑用役になる。

安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平(しんぺい)は安場を頼り、十六歳で福島洋学校に入った。

千八百七十四年(明治十四年)、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めも在って、新平(しんぺい)は十七歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学する。

同校を成績優秀で卒業した新平(しんぺい)には、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場保和(やすばやすかず)が愛知県令を務める事になり、新平(しんぺい)はそれに付いて行く事にして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

愛知県医学校で医者と成った新平(しんぺい)はめざましく昇進し、千八百八十一年(明治十四年)二十四歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。

この愛知県医学校長時代に、新平(しんぺい)は岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助(いたがきたいすけ)を診察し、この時期に安場の次女・和子を妻にもらっている。

千八百八十二年(明治十五年)二月、二十五歳に成った新平(しんぺい)は愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事する事と成る。

千八百九十年(明治二十三年)三十三歳に成った新平(しんぺい)は、ドイツに留学するが、西洋文明の優れた部分を強く認める一方で「同時にコンプレックスを抱た」と言う。

帰国後、留学中の研究の成果を認められて新平(しんぺい)は医学博士号を与えられ、千八百九十二年(明治二十五年)には長与専斎の推薦で三十五歳で内務省衛生局長に就任した。

しかし翌千八百九十三年(明治二十六年)、新平(しんぺい)は相馬事件に巻き込まれて五ヶ月間に渡って収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

相馬事件の二年後の千八百九十五年(明治二十八年)、三十八歳の新平(しんぺい)は友人の推薦で衛生局に復帰、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事する。

その陸軍検疫部事務長官としての行政手腕の巧みさから、この件の上司だった陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎の目に止まる。

その児玉が、千八百九十八年(明治三十一年)に台湾総督となると後藤新平(ごとうしんぺい)を抜擢し、自らの女房役である民政局長とした。

台湾総督府民政長官と成った新平(しんぺい)は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。

千九百六年(明治三十九年)、インフラ建設などの手腕を買われた新平(しんぺい)は台湾から満州に転身、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。

新平(しんぺい)は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用し、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていた袁世凱を中心とする北洋軍閥と交渉し、日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていた。


千九百十九年(大正八年)、後藤新平(ごとうしんぺい)は桂太郎(かつらたろう)が創立した元・台湾協会学校の「拓殖大学」の第三代学長に就任する。

拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者として度々入学式や卒業式で講演をし物心両面に於いて支援していた。

学長と成った新平(しんぺい)は、拓殖大学を大学令に基づく旧制大学に昇格を成し遂げるなど亡くなる千九百二十九年(昭和四年)までの十年間で大学の礎を築いた。

その前後から第二次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁、寺内内閣で内務大臣・外務大臣、しばし国政から離れて東京市長を歴任する。

拓殖大学長兼務のまま、新平(しんぺい)は関東大震災(かんとうだいしんさい)直後の第二次山本内閣で、再び内務大臣等に就任した。

千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地に甚大な被害を蒙る。

後藤新平(ごとうしんぺい)は、関東大震災の直後に組閣された第二次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都の震災復興計画を立案し成果を為した。

千九百二十九年(昭和四年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で新平(しんぺい)は脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。

三島通陽に新平(しんぺい)が倒れる日に残した言葉は「良く聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。良く覚えて置け」で在った。

新平(しんぺい)は、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった。

その原因として、第三次桂内閣の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていた事が大きいと徳富蘇峰が語っている。



日本の伝説的な近代金融政策の神様が、高橋是清(たかはしこれきよ)である。

明治維新頃の日本の政治家・高橋是清(たかはしこれきよ)は、千八百五十四年、幕府御用絵師・川村庄右衛門と奉公娘・きんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。

きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎と言う人で、家は豊かであったが、三治郎が妻と離別していた為、きんは中門前町のおばの所へ預けられ行儀見習いの為に川村家へ奉公に出された。

つまり四十七歳にも成る川村庄右衛門が、十六歳の奉公娘・きんに手を出し身重にさせてしまった。

庄右衛門の妻は、身重に成ったきんに同情し、こっそり中門前町・きんのおばの家へ帰して静養させ、時々見舞って世話をした 。

きんの男児は和喜次と名付けられ、庄右衛門は和喜次を息子として認知した。

しかし川村家は既に六人の子持ちの為に、和喜次は里子に出される事になり、生後三〜四日にして仙台藩の足軽武士・高橋覚治是忠の家に預けられる事と成った。

その後和喜次=是清(これきよ)は、二歳まで里子に出された川村家で義理の祖母の喜代子(きよこ)に大変かわいがられて育つも、某菓子屋に養子に出される寸前で喜代子(きよこ)に実子として届けられ、正式に高橋覚治是忠の養子に成る。

是清(これきよ)の名も、養父・高橋是忠の一字を貰って名乗ったものである。

その後、藩足軽武士・是清(これきよ)は仙台藩の藩命により、十一歳で横浜のアメリカ人医師・ヘボンの私塾(現・明治学院)にて学ぶ。

ヘボンの私塾で二年間英語を学んだ是清(これきよ)は、千八百六十七年(慶応三年)に藩命により、幕臣・勝海舟の息子・小鹿(ころく)と伴に米国へ留学した。

しかし留学の最初の段階で、横浜に滞在していた米国人の貿易商・ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服される。

更にホームステイ先と決めていた貿易商・ユージン・ヴァン・リードの両親に騙されて年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に三年間の奴隷労働をすると言う内容で売られる。

ブラウン家では、牧童としてや葡萄園の作業で奴隷同然の生活を強いられ、その先は幾つかの家を転々と渡り、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。

契約上その境遇から抜けられない事を悟った是清(これきよ)は、一年後にサンフランシスコ名誉領事嘱託・ブルークスに泣きついて交渉させ自由を得て帰国の途に着く。

千八百六十八年(明治元年)、高橋是清(たかはしこれきよ)は帰国する。

帰国五年後の千八百七十三年(明治六年)、是清(これきよ)はサンフランシスコで知遇を得た初代文部大臣・森有礼(もりありのり)に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。

合わせて英語の教師も熟(こ)なし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、その内廃校寸前に在った共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。

共立学校の教え子には、俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之(あきやまさねゆき)がいる。

その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍する。

千八百八十四年(明治十七年)、是清(これきよ)三十歳の時には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

そこに上手い話が舞い込み、千八百八十九年、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでにその鉱山が廃坑の為失敗の憂き目に遭う。

三年後の千八百九十二年(明治二十五年)に是清(これきよ)は再び帰国した後に、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行する。


千九百四年〜五年の日露戦争当時、五十歳・日銀副総裁と成っていた是清(これきよ)は戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かう。

だが、投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念等、多くの困難があった。

是清(これきよ)はこの懸念払拭に努め、交渉の結果、ジェイコブ・シフやロンドン留学時代の人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し戦費調達の成果を挙げた。

日露戦争終結直後の千九百五年(明治三十八年)、是清(これきよ)は貴族院議員に勅選され、六年後千九百十一年(明治四十四年年)に日銀総裁となる。

千九百十三年(大正二年)、是清(これきよ)は第一次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。

是清(これきよ)は政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第二十代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第四代総裁となった。

しかしこの総理大臣就任は、是清(これきよ)自身が思わぬ総裁就任だった為、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾(きようらけいご)の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。

これに対し是清(これきよ)率いる政友会は、憲政会及び革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。

これにより護憲三派は、清浦内閣打倒に成功する。

清浦内閣打倒に成功し、新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明(かとうたかあき)は、是清(これきよ)を農商務相に任じる。

その後、加藤内閣は政友会との連立を解いて憲政会単独となった為、是清(これきよ)は政友会総裁を田中義一(たなかぎいち)に譲り政界を引退する。

所が、千九百二十七年(昭和二年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第一次若槻内閣に代わって田中組閣した田中義一(たなかぎいち)に請われ自身三度目の蔵相に就任する。

是清(これきよ)は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の二百円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌の沈静化に成功する。

金融恐慌から四年後、千九百三十一年(昭和六年)、政友会総裁・犬養毅(いぬかいつよし)が組閣した際も、是清(これきよ)は犬養に請われ四度目の蔵相に就任する。

蔵相に就任した是清(これきよ)は、「リフレーション政策」と呼ばれる金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

又、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件五・一五事件で犬養首相が暗殺された際には、是清(これきよ)が総理大臣を臨時兼任している。

続いて親友である斎藤実(さいとうみのる)が組閣した際も、是清(これきよ)は五度目の蔵相を留任している。

また千九百三十四年(昭和九年)に、共立学校での教え子にあたる海軍大将・岡田啓介(おかだけいすけ)首班の内閣に、是清(これきよ)は六度目の大蔵大臣に就任する。
岡田内閣では、伴に滞米経験がある高橋是清(大蔵大臣)と斎藤実(内大臣)は、個人的に親しい友人でもあった。

当時、「リフレーション政策」はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見された。

この為、予見されたインフレーションを抑えるべく軍事予算の縮小を図った所、岡田内閣は軍部の恨みを買う。

千九百三十六年(昭和十一年)二・二六事件に於いて是清(これきよ)は赤坂の自宅二階で中橋基明中尉以下の青年将校らに襲撃され暗殺された。

是清(これきよ)の友人・予備役海軍大将・斎藤実内大臣もまた、この二・二六事件で坂井直中尉以下の襲撃部隊に暗殺された。

高橋是清(たかはしこれきよ)は、総理大臣経験者ながら総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い稀有な存在だった。



日本は日露戦争後に、中華民国からのロシア帝国の租借地を日本の租借地として獲得した。

その租借地・関東州(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として大日本帝国陸軍の総軍の一つ関東軍(かんとうぐん)は誕生する。

当初の編制は独立守備隊六個大隊を隷属し、また日本内地から二年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ)一個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍で在った。

千九百十九年(大正八年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。

関東軍(かんとうぐん)が帝国陸軍の総軍の一つに昇格したのは千九百四十二年(昭和十七年)十月一日で、それ以前は軍の一つだった。

司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京(現・吉林省長春)に移転する。

「関東軍」の名称は万里の長城の東端とされた「山海関の東」を意味し、元々の警備地の関東州に由来する。

千九百二十八年には、北伐による余波が満州に及ぶ事を恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。

しかし、張作霖の跡を継いだ息子・張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。

張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行した事は、千九百二十年代からの国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させた事を意味する。

そして、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく左右する契機となった。

これら関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策からも逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者は出世した。

つまり関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀・石原莞爾中佐は、自らの発想を基点に行動をしていて、武士道で言う処の「君(天皇陛下)の意向」など、最初から無視していた。



千九百三十一年、石原莞爾中佐・作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌千九百三十二年、満州国を建国する。

犬養毅首相は、当初満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。


五・一五事件(ご・いち・ごじけん)は、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に日本で起きた反乱事件である。

武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。


この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、第一次上海事変に出征して戦死した藤井斉(ふじいひとし)とは同志的な関係を持っていた。

事件は、千九百三十二年(昭和七年)二月から三月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺事件)・血盟団事件に続く昭和維新の第二弾として決行された。

古賀中尉は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、著名な思想家・大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。

農本主義者で「愛郷塾」主宰・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉・西田税を繰りかえし説得して、後藤映範(ごとうえいはん)ら十一名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

三月三十一日、古賀中尉と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。


決行日の五月十五日は日曜日で、犬養首相は終日官邸にいた。

第一組九人は、海軍中尉・三上卓以下五人を表門組、海軍中尉・山岸宏以下四人を裏門組として二台の車に分乗して首相官邸に向かう。

彼らは午後五時に二十七分頃に官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせ、内一名が五月二十六日に死亡している。

三上中尉は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかった為に発射されず、犬養首相に制止された。

そして犬養毅首相自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩勇予備役海軍少尉が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上中尉が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。

襲撃者らは、銃撃後すぐに去った。

それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって絶命した。

首相官邸以外にも別の襲撃組に、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、いずれも被害は軽微であった。

千九百三十二年(昭和七年)六月十五日、資金と拳銃を提供したとして思想家・大川周明が検挙された。

同年七月二十四日、「愛郷塾」主宰・橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。

同年九月十八日、拳銃を提供したとして「柴山塾」主宰・本間憲一郎が検挙され、十一月五日には 玄洋社社員・頭山秀三(頭山満の三男)が検挙された。



その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任すると伴に、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たる。

一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。

関東軍司令部は、千九百三十四年に満州国の首都・新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。


一方で、千九百十七年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、千九百三十年代中盤頃までに第一次及び第二次五ヵ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。

当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。

千九百三十八年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第十九師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたい事を知る。

さらに千九百三十九年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった。

なお戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていたのだ。

歴史的な事例を見れば、百人の包囲軍に千人が降伏する事もあるのだから、現地も本国も「敗戦」と考えた戦闘を、後で調べたら「相手の損害の方が大きいので勝だった」など、もはや笑止噴飯ものの飽きれた論理である。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識された事や第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、千九百三十六年には、関東軍の編制は四個師団及び独立守備隊五個大隊となっていた。

そして、翌千九百三十七年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、千九百四十一年には十四個師団にまで増強された。

加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦に合わせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力七十四万人以上に達した。

「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われたて居たのは、この時期である。

なお、同千九百四十一年四月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

千九百四十二年十月一日には、関東軍の部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格する。

関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した千九百四十三年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用される。

また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘の可能性が少なかった為、関東軍も進んで戦力を提供する。

その埋め合わせに千九百四十五年になると、在留邦人を対象に所謂(いわゆる)「根こそぎ動員(二十五万人)」を行う。

数の上では関東軍は七十八万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期より遥かに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には到っていなかった。



張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐によって「橋梁に爆弾が仕掛けられ実行された」が定説である。

河本大作は、千八百八十三年(明治十六年)一月二十四日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に、地主の子として生まれた。

大作は高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、千九百三年明治三十六年)十一月に陸軍士官学校(第十五期、卒業順位九十七番、歩兵科)を卒業。

翌千九百四年、大作は日露戦争に出征、重傷を負う。

千九百十四年(大正三年)に、大作は陸軍大学校(第二十六期、修了順位二十四番)を卒業し、軍人として順調に出世を重ねた。

千九百二十八年(昭和三年六月)、大作は階級が大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件を起し、停職、待命、予備役編入となる。

勝手に軍事行動を起こしたこの暴挙は、天皇の軍統帥権を犯す大罪の筈だった。

当時首相の田中義一は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇裕仁陛下(しょうわてんのうひろひとへいか)に報告した。

しかし後の報告では関与の隠蔽を図った為、昭和天皇の怒りを買い、田中内閣の総辞職につなかった。


予備役編入後、大作は関東軍時代の伝手を用いて、千九百三十二年(昭和七年)に南満州鉄道の理事、千九百三十四年(昭和九年)には満州炭坑の理事長となった。

大作への関東軍の支援は続き、千九百四十二年(昭和十七年)、第一軍参謀長・陸軍少将の花谷正の斡旋により国策会社山西産業株式会社の社長に就任、満州国内の有力財界人となる。

大作は、ソ連軍の満州侵入後、山西産業は中華民国政府に接収されるも中華民国政府の指示により西北実業建設公司(旧・山西産業)の最高顧問に就任し中国で生活を続けた。

大作は中国国民党の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、千九百四十九年(昭和二十四年)には中国共産党軍は太原を制圧する。

大作は共産党軍の捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。

六年後の千九百五十五年(昭和三十年)八月二十五日、元陸軍大佐・河本大作は収容所にて七十二歳で病死した。

なお、陸軍士官学校第十五期の大作は、陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)の次男・保典(やすすけ/歩兵少尉、日露戦争で戦死)と同期である。


張作霖(ちょうさくりん)は、中華大陸が日・欧・米・露の利権争いの中で治世権力が混沌とした時代に頭角を現し、中華大陸を我が物にしよう(中華民国の主権者に成る)と野望を抱いた人物である。

しかし張作霖(ちょうさくりん)の野望は、暗殺に拠って潰(つい)えてしまった。


正直、張作霖(ちょうさくりん)の暗殺から満州国建国までの軌跡を辿ると、とても卑怯な事はしない筈の武士道の国の皇軍・関東軍は手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。

明治維新から千九百四十五年(昭和二十年)の終戦までは、「国益」と言えば、何でも通る様な風潮の時代だった。

その「国益」と言う怪しい言葉で、「満州(東三省/中国の北東地方)の侵略」と言う関東軍の謀略は始まった。

この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?

幾ら綺麗事の大儀名分を並べても人間には金・地位・名誉などの欲があり、何らかの得るものがなければ熱心に行動はしない。

現在の官僚達のシロアリぶりでも判る通り、頭の良い人間ほど知恵を使って自らの得を得る事を考える。

或いは自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。


張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、千九百二十八年(昭和三年)六月四日、関東軍に拠って奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件である。

「奉天事件」、「皇姑屯事件」とも言われる張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、終戦まで事件の犯人が公表される事はなく、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

元々張作霖(ちょうさくりん)はロシアから日本に転向したスパイで、日本の支援を得て勢力を拡大した。

その経緯(いきさつ)だが、千九百四年(明治三十七年)に日露戦争が勃発し、東三省(中国の北東地方)は戦場となった。

馬賊・張作霖(ちょうさくりん)はロシア側のスパイとして活動し、大日本帝国陸軍に捕縛される。

しかし張作霖(ちょうさくりん)に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。

この時、児玉の指示を受けて張作霖の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わる事となる田中義一(当時は少佐)である。

その後、馬賊・張作霖は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。

馬賊出身で軍閥に成長した張作霖は、日露戦争で協力した事から日本(大日本帝国)の庇護を受け軍閥に成長している。


日本の関東軍による支援の下、袁世凱北京政府・安徽派の督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)・段芝貴(だんしき)を失脚させて満洲に於ける実効支配を確立し、当時最も有力な軍閥指導者の一人になっていた。

張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、千九百十八年年(大正七年)三月、段祺瑞(だんしき)内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。

千九百二十年八月の安直戦争の際には、張作霖は直隷派を支援して勝利する。

しかしまもなく直隷派と対立し、千九百二十ニ年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張作霖は東三省(中国の北東地方)の独立を宣言し、日本との関係改善に留意する事を声明した。

張作霖は、鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備える為の方便に過ぎなかった。

千九百二十四年に成ると、孫文らの中国国民党と毛沢東(もうたくとう)らの中国共産党の間に結ばれた協力関係の第一次国共合作が成立する。

第一次国共合作当時の諸外国の支援方針は、奉天軍(張作霖)を日本が、直隷派を欧米が、中国国民党内共産党をソ連が支持と色分けられる。

千九百二十四年(大正十三年)の第二次奉直戦争で張作霖は馮玉祥(ふうぎょくしょう)の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。

千九百二十五年(大正十四年)年十一月二十二日、最も信頼していた部下の郭松齢(かくしょうれい)が叛旗を翻し、張作霖は窮地に陥った。

関東軍の支援で窮地を脱する事ができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。

郭松齢(かくしょうれい)の叛乱は、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の使嗾(しそう/仕向ける・そそのかす)に拠るもので、馮の背後にはソ連がいた。

その為、張作霖は呉佩孚(ごはいふ)と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした。

千九百二十七年四月に張作霖は北京のソビエト連邦大使館を襲撃し、中華民国とソ連の国交は断絶した。

広東に成立した国民政府(国民党)の北伐で直隷派が壊滅(千九百二十六年)する。

後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得る為、日本から欧米寄りの姿勢に転換する。

これに対して中国大陸に於ける権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖に行なう。

同時期、中国国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、千九百二十七年四月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石(しょうかいせき)が中国共産党員ならびにそのシンパの一部労働者を粛清し(上海クーデター)、国共合作が崩壊する。

北伐の継続は不可能となったが、このクーデター事件以降、蒋介石(しょうかいせき)は欧米勢力との連合に成功した。

千九百二十六年十二月、ライバル達が続々と倒れて行った為、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。


大元帥就任後の張作霖は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。

張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとしており、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。

この当時の各国の支援方針は奉天軍(張作霖)は欧米・日本、国民党と中国共産党 はソ連と言う図式だった。


千九百二十八年四月、蒋介石(しょうかいせき)は欧米の支援を得て再度の北伐を行なう。

当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発するようになった。

関東軍は蒋介石(しょうかいせき)から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。

この当時の各国の支援方針は、奉天軍(張作霖)は無し、国民党には欧米、共産党にはソ連に変化していた。

また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。

しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止される。

千九百二十八年六月四日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)での再起を目論んで列車で移動する。

この列車で移動を察知した時、張作霖に対する日本側の対応として意見が分かれる。

田中義一首相は陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省(中国の北東地方)に戻して再起させる」という方針を打ち出す。

しかし現地の関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

為に「張作霖の東三省(中国の北東地方)復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針(暗殺)を打ち出した。


千九百二十八年(昭和三年)六月四日の早朝、張作霖は蒋介石(しょうかいせき)が率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた。

関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官・村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。

河本大佐からの指示に基づき、六月四日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉、同第二大隊付の神田泰之助中尉、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉らが協力して行った。

現場指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。

二人は張作霖が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に点火した。

その為、爆風で上から鉄橋(南満洲鉄道所有)が崩落して客車が押しつぶされた上に炎上したものである。


張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速十km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬三百キロが爆発する。

列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落し、張作霖は両手両足を吹き飛ばされ、警備、側近ら十七名が死亡した。

張作霖は、現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺(のこ)す。

奉天城内の統帥府にかつぎこまれた時には絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと十七日後の六月二十一日にその死は発表された。

同列車には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也(ぎがせいや)少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。

しかし儀我誠也(ぎがせいや)少佐が、事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている。


張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬(まちのたけま)は張作霖に要請されて同道したが天津で下車した。

また、山東省督軍の張宗昌(ちょうそうしょう)将軍も天津で下車し、常蔭槐(じょう いんかい)は先行列車に乗り換えた。

車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。

同乗していた儀我少佐が事件直後に語った処に拠ると列車は全部で二十輌、張作霖の乗っていたのは八輌目であった。

爆破によりその八輌目の前側車輌が大破し、先頭部の六輌は二百メートル程走行して転覆し、列車の後半部は火災を起こした。

八輌目では張作霖の隣に呉俊陞(ごしゅんしょう)、その次に儀我少佐が座って会談していた。

呉が張と儀我少佐に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ爆発物が頭上から降って来る。

為に儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。

近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我少佐は張作霖にそこで休む事を勧めたがこの時にはまだ「何、大丈夫だ」と答えていた。

やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着して現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張作霖は自動車でその場を離れ、大師府に入った。


なお張作霖乗車の車両は貴賓車であり、過(か)つては清朝末期に権勢を振るっていた西太后がお召し列車として使用していたものだった。

河本大佐らは、予め買収して置いた中国人アヘン中毒患者三名を現場近くに連れ出して銃剣で刺し、偽装工作を行う。

その死体を放置し「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と、この事件が国民党の工作隊によるものであると発表する予定でいた。

しかし三名の内一名が死んだふりをして命を永らえ、現場から逃亡して程なく張作霖の息子・張学良の下に駆け込んで事情を話した為に真相が中国側に伝わった。

奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換している。

張学良は、事件の約一年前の千九百二十七年七月に国民党に極秘入党していた事が、蒋介石の日記から明らかになっている。

なお、張作霖の側近として同列車に同乗して事件で負傷した張景恵は後に満洲国国務総理大臣に就任している。



千九百五年(明治三十八年)、日本(大日本帝国)は日露戦争で勝利し、ロシアとの間でポーツマス条約(日露講和条約)を締結した。

この条約には、ロシア政府が清国政府の承諾をもって、旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を日本政府に移転譲渡する事が定められた。

この規定に基づいて同年には日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結された。

これにより、日本政府は「南満州鉄道」(満鉄)を千九百六年(明治三十九年)六月七日の勅令第百四十二号をもって創設し、同年七月三十一日の勅令百九十六号をもって関東都督府を設置した。


柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日、現在の中国東北部(満州)の現在の瀋陽市(奉天)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件である。

この南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件は関東軍の自作自演(偽旗作戦)で、関東軍の謀略によって起こった満州事変の発端となる事件である。

当時、関東軍の兵力は凡(およ)そ一万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と二年交代で駐箚(ちゅうさつ/派遣滞在)する内地の一師団(当時は第二師団、原駐屯地は宮城県仙台市)によって構成されていた。

八月二十日日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、遼東半島南端の旅順(当時、日本租借地)に置かれていた。

幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。

独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官・森連中将、参謀・樋口敬七郎少佐で在った。

第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、第三旅団に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した。


当日(九月十八日)午後十時二十分頃、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)北方約7.5キロメートルの柳条湖付近で南満州鉄道(満鉄)の線路上で爆発が起き、線路の一部が破壊される。

まもなく、関東軍より「爆破事件が中国軍の犯行」によるものである事が発表される。

日本では一般的にこの事件は、太平洋戦争終結に至るまで爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていたが、実際には関東軍の部隊によって実行された謀略だった。

事件の首謀者は伴に陸軍中央の研究団体である一夕会の会員で、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀・石原莞爾中佐である。

両名とも張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任して居た。

この計画に参加したのは前述の立案者・石原中佐と板垣大佐、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官・花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官・今田新太郎大尉であった。

爆破の為の火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本中尉は密接に連携をとり合った。

直接の爆破実行は、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備隊第二大隊(大隊長は島本正一中佐)・第三中隊(中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名によって行なわれた。

この他に謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名とされている。

河本中尉が伝令二名を伴なって現場におもむき、斥候中の小杉喜一軍曹とともに線路に火薬を装填した。


川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、奉天の北約十一キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くやただちに軍事演習を中止した。

中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、奉天の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。

参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している。

板垣参謀は事件を「中国側からの軍事行動である」として特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮する。

板垣参謀は独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、更に北大営および奉天城への攻撃命令を下す。

北大営は奉天市(瀋陽市)の北郊外にあり、約七千名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。

また、市街地中心部の奉天城内には張学良・東北辺防軍司令の執務官舎が在った。

ただし事件当時、東北辺防軍司令・張学良は麾下(きか/指揮下)の精鋭十一万五千を率いて北平(現在の北京)に滞在していた。

本庄繁・関東軍司令官と石原中佐・作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、奉天、遼陽などの視察に出かけて居り、事件の在った九月十八日の午後十時頃、旅順に帰着した。

しかしこの時、板垣高級参謀(大佐)だけは、関東軍の陰謀を抑える為に陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えると言う名目で奉天に残っていた。

午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、「中国軍によって満鉄本線が破壊された為、目下交戦中である」と言う奉天特務機関からの電報が届けられる。

しかし、これは既に板垣中佐が攻撃命令を下した後に発信したものだった。

この事件について第二次世界大戦後に発表された奉天特務機関補佐官・花谷正少佐の手記に依れば、関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑十郎中将、参謀本部第一部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班・長橋本欣五郎中佐らも「この謀略を知って賛意を示していた」とされる記述がある。


この柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を発端に、関東軍はこれを満州事変(まんしゅうじへん)に発展させて行く。

満州事変(まんしゅうじへん・中国側の呼称は九一八事変)は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。

関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。


満州事変(まんしゅうじへん)・中国側の呼称は九一八事変は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。

関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。


柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)の報せをうけた本庄繁(ほんじょうしげる/関東軍司令官)は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。

所が、参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐、ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきと言う強硬な意見を上申、それに押される形ちで本格的な軍事行動を決意、十九日午前一時半頃より石原中佐の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。

また、それと伴に石原中佐らは、予(か)ねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。

本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だった筈だが、その規定は無視された。

攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地に及よんだ。

深夜の午前三時半ころ、本庄司令官や石原中佐らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。

これは、事件勃発にともない関東軍司令部を奉天に移す為であった。

列車は十九日正午頃に奉天に到着し、司令部は奉天市街の東洋拓殖会社ビルに置かれる事となった。


一方、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれる形ちで多少の反撃を行なったが、本格的に抵抗する事なく撤退した。

これは、張学良が予(か)ねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからで在った。

北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、九月十九日午前六時三十分には完全に北大営を制圧した。

この戦闘による日本側の戦死者は二名、負傷者は二十二名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約三百体と記録されている。


奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。

ここでは、密かに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた二十四センチ榴弾砲(りゅうだんほう)ニ門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。

それで、午前四時三十分までの間に奉天城西側及び北側が占領された。

奉天占領の為の戦闘では、日本側の戦死者ニ名、負傷者二十五名に対し、中国側の遺棄死体は約五百にのぼった。

また、この戦闘で関東軍は中国側の飛行機六十機、戦車十二台を獲得している。

安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った。

しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約六千の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。

日本軍は、六十六名の戦死者と七十九名の負傷者を出して漸(ようや)く中国軍を駆逐した。

こうして関東軍は、九月十九日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した。

九月十九日午後六時、本庄繁・関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三・参謀総長に宛てた電信で、「北満も含めた全満州の治安維持を担うべきである」との意見を上申した。

これは事実上、全満州への軍事展開への主張である。

本庄司令官は、その為の三個師団の増援を要請し、更にその為の経費は満州に於いて調達できる旨を伝えた。

こうして、満州事変の幕が切って落とされる。

翌九月二十日、奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった。

九月二十一日、林銑十郎・朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後一時二十分、同部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。


千九百二十八年(昭和三年)の張作霖爆殺事件の後、息子の張学良は反日に転じていた。

張学良政権は南京の国民党政権と合流し、満州では排日事件が多発する。

千九百三十年(昭和五年)四月、張学良は満鉄への対抗策として満鉄並行線を建設、その為南満州鉄道会社は創業以来初めて赤字に陥り、深刻な経営危機に陥っている。

また、蒋介石の国民党政権は千九百三十年五月に新鉱業法を制定して日本人の土地と鉱業権取得を制限した為、日本人による企業経営の多くは不振を余儀なくされた。

加えて千九百三十年から翌三十一年にかけての日本経済は世界恐慌の影響によって危機的な状況に陥り(昭和恐慌)、企業倒産、失業者の大量発生、農村の疲弊など深刻な不景気にみまわれた。

当時の日本国民にとって満州における権益は、日露戦争で父祖や先人が血を流して獲得したものであり、「満蒙は日本の生命線である」と言う意識が共有されていた。

結局の処、国内の経済不況に対して中堅参謀が、軍事行動を含む策謀を持って「他人の国に財源を求めた」のが満州の侵略である。

確かに関東軍の中堅参謀が謀った事ではあるが、その基本的な侵略政策に多くの国民が国内不況の「リアルな解決策」として支持していたのは事実である。

そしてその中華大陸は、日本の他に米・露・欧の支援を受けた各勢力が内戦を繰り広げる代理権益争奪戦の舞台と成っていた。

それ故、満蒙の支配が揺らぐ事は日本の危機であると捉える国民が多かった。


帝国議会で、前満鉄副総裁で野党立憲政友会選出の衆議院議員・松岡洋右が「満蒙はわが国の生命線である」と述べ、立憲民政党内閣の「軟弱外交」を批判して武力による強硬な解決を主張したのも千九百三十一年一月の事であった。

千九百三十一年(昭和六年)六月、参謀本部から対ソ作戦の為に興安嶺方面の軍用地誌を初めとする情報収集を命じられた中村震太郎大尉が、洮南と索倫の間で現地屯墾軍の中国兵に怪しまれて射殺される中村大尉事件が起こった。

昴昴渓(現在の黒竜江省チチハル市昂昂渓区)に於いて旅館を経営している井杉延太郎・予備役曹長も同時に殺害された。

七月末になって関東軍がその殺害の事実をつかみ外交交渉に入ったが交渉の進展ははかばかしくなく、関東軍はいらだちを強めた。

中国当局は表面的にはこの事件を穏便に処理しようとしていたが、本心では身分を偽っての偵察行為はスパイ活動であり、処分は当然ではないかと言う憤懣(ふんまん)があった。

一方、日本では、この事件は八月に公表されたが、中村大尉が諜報活動に従事していた事は伏せられて報道された事も在って、参謀本部現役将校の殺害に国内世論が沸騰した。

中国側報道の中に「中村大尉殺害は事実無根」などと言う者があり、それが日本で報じられた事も在って中国側の非道を糾弾し、対中強硬論が一挙に強まって日中関係が緊迫した。


千九百三十一年(昭和六年)七月、万宝山事件が起こっている。

万宝山事件は、長春の北、三姓堡万宝山集落の農業用水をめぐる朝鮮人農民と中国人農民との対立に端を発しており、ここに水路を造ろうとした朝鮮人と、それに反対する中国人が衝突した事に起因する。

韓国併合後、困窮化した朝鮮半島の農民は、多く日本や満州に流入したが、朝鮮総督府は朝鮮人の日本への渡航を厳重に取り締まった一方で、満州への移住は従来通りとした為、在満朝鮮人が急増し、在満朝鮮人と中国人の関係は紛争の火種となった。

中国人農民に中国側の警察官、朝鮮人には日本領事館がそれぞれ支援にまわったが、中国人農民が実力で水路を破壊、日本人警官隊と衝突する事態へと発展した。

発砲事件も起こったが、幸い双方どちらも死傷者は出なかった。

しかし事件の詳細が誤って伝えられると、朝鮮半島各地で中国人への報復(朝鮮排華事件)が多数発生し、百人以上の中国人が殺害されて日中間の緊張を高めた。

このニつの事件は、日本国民に「満蒙の危機」を強く意識させた。

そして、満蒙に於ける日本と中国との対立は一触即発の状態になっていた。


国民は、軍部とそれに迎合したメディアに見事に操られていた。

まぁ、メディアも楽に取材できるから当局とは癒着し、結果当局に都合が良い報道が為される事になる。

貧しい民としては、植民地が増えれば、「やがて豊かに成る」と海外の富の収奪に望みを託し、「国益」と言えば何でも通る様な風潮の時代だった。

この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?

或いは自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。

更に、第二次若槻内閣の幣原喜重郎外相による国際協調路線に立つ外交(幣原外交)は「軟弱外交」と形容され、国民の間では、こうした手法では満蒙問題を十分に解決できないと言う不満が強まっていた。


柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明が在ったにも関わらず関東軍はこれを無視して戦線を拡大する。

関東軍は千九百三十一年(昭和六年)十一月から翌千九百三十二年(昭和七年)二月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領した。

一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。

列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。

千九百三十二年一月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

国際連盟は、千九百三十一年(昭和六年)十二月十日の連盟理事会決議によって、千九百三十二年三月、満州問題調査の為にイギリスのリットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)を現地に派遣した。

リットン調査団の調査は三ヵ月に及んで同年六月に完了、同年九月には調査の結果をリットン報告書として提出した。

その間、若槻内閣は閣内不一致で千九百三十一年十二月に退陣、替わって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。

関東軍は満州より張学良政権を排除し、千九百三十二年(昭和七年)三月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。

犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、千九百三十二年五月の五・一五事件では犬養首相が暗殺される。

海軍軍人の斉藤実に首相の大命が下ると斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜する。

しかし軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、千九百三十二年九月には日満議定書を結んで満州国を承認した。


関東軍は僅(わず)か五ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。

満洲国の建国により、中国市場に関心を持つ米国ら他の列強との対立も深刻化した。

所謂(いわゆる)十五年戦争(中国での名称は、十四年抗日戦争)の発端は、この満州事変を基点としている。



ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう/ABCD encirclement)とは、事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。

千九百三十三年(昭和八)三月、日本はリットン報告書の採択に反対して、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退する。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

日本に対して行ったこの貿易制限の総体に、当時の日本の新聞が付けた名称がABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)であるが、正確な初出については良く分かっていない。

ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれるこの対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては研究者間でも一定していない。


よく、日本軍が先の大戦で太平洋や東南アジアに進行した事実を、「他国が仕掛けた事」として正当化しようと試みる連中がいる。

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)で、日本が一方的に経済的窮地に立たされたから「やむおえなく開戦した」と、都合が良い解釈を主張するノー天気な歴史観を持つ者だ。

その彼らが、現代のロシアや中国の強引な領土拡大主義には「とんでもない悪行」と批判的で、日本政府は欧米の対抗処置に理解を示している。

だが、戦前引き起こした「満州事変」こそ当時の日本の領土拡大主義で、それを強制手段「ABCD包囲網」で抑制しようとした結果の、破れかぶれの対米開戦が真珠湾攻撃である。

つまり戦前日本の領土拡大主義と、現代のロシアや中国の領土拡大主義と「どこが違う」と言うのか?

簡単に言ってしまえば、日本の中国侵略行為に歯止めを掛けようと欧米が介入して包囲網を引かれたのに、「理不尽に包囲された」と言う一方的な言い分で国民を扇動し対米開戦をした。

欧米列強のアジア侵略意志も在る中での日本の中国侵攻で、「欧米諸国の策略にハメられた」とかの説を述べる輩もいる。

勿論、深く国際情勢を掘り下げれば、日本だけが悪い訳では無いかも知れない。

だが、侵攻先の相手国(中国)の了解を得ずして「大東亜共栄圏を形成する目的だった」と言っても言い訳で、説得も説明も着かない。

外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

例えば、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)の考え方からすると、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は、正に勝算を度外視した「尊皇攘夷論と言う右脳域の観念」のみで開戦してしまった長州勤皇派の愚行だった。

結果長州勤皇派は敗北を喫し、「列強と戦をしてみて初めて攘夷など無謀な事」と言う「左脳域の計算」が働くようになり、尊皇攘夷論者から「攘夷」が消えて「倒幕」のみに変わる。

この貴重な経験者が新政府の要職に就いたのだが、五十年も経て代が変ると、またぞろ「感性(右脳域/感情)」でものを考える者が現れて威勢が良い事を言い、太平洋戦争を開戦してしまった。

理性(左脳域/計算)を度外視した開戦でまた歴史的大敗を喫するのだが、太平洋戦争から七十年、「感性(右脳域/感情)」でものを考えれば、イキがった愚行も「感性(右脳域/感情)」的には正義の主張である。

しかしそんなものは、「理性(左脳域/計算)」を無視した「感性(右脳域/感情)」の自己満足を求めて他人を巻き込んで居るだけである。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。


反戦を信念とする事は「人命の尊重」であり、先の大戦でユダヤ人の人命を救った外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)の「まともな人間性」である。

この、世界から称賛される「杉原千畝(すぎはらちうね)の、まともな人間性」が無い方こそ、イキがったナショナリズム(民族主義)に陥(おちいれ)りかねない。

何故(なぜ)ならば、「自分達のナショナリズム(民族主義)に合わない人種は排斥(はいせき)されるべき」と主張するからである。

この論から言えば、「金儲けの為に武器を輸出する」発想など、「まともな人間性」の持ち主だとは思えない。

しかし安倍晋三氏の政権は、これとは正反対の「金儲けの為に、殺人の道具である武器を輸出する事」を合法化した。


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)の誘発は、日本の国際連盟脱退が契機であり、脱退の引き金になったのは、日本軍の中国侵攻に対するリットン報告書が中国側の言い分を支持した事からである。

間違ったナショナリズム(民族主義)は、間違った歴史認識を創りだし、国際紛争の種に成る。

それは、歴史的日本領(歯舞諸島、 色丹島、択捉島、国後島の北方四島や尖閣諸島に竹島)を「自国領」と主張する近隣諸国の間違ったナショナリズム(民族主義)も同様である。



満州国建国後日本は、千九百三十三年三月二十七日に国際連盟脱退し、中満の国境を越えて中国領内に支那駐屯軍を置いていた。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、千九百三十七年(昭和十二年)七月七日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍(司令官・宋哲元/そうてつげん)との衝突事件である。

中国では一般的に七七事変と呼ばれるこの事件は、支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。

事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づくもので、以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたが俗称である。

また、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きる前年(千九百三十六年/昭和十一年)、青年将校が反乱を企てた二・二六事件が起こっている。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。


千九百三十七年(昭和十二年)七月七日、日本軍支那駐屯軍所属の豊台に駐屯していた第三大隊(第七、八、九中隊、第三機関銃中隊)及び歩兵砲隊は、北平の西南端から十余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。

この演習については日本軍は七月四日夜、中国側に通知済みであった。

第三大隊第八中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後十時四十分頃 永定河堤防の中国兵が第八中隊に対して実弾を発射する。

しかもその実弾発射の前後には永定河堤防の中国兵は宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。

実は、盧溝橋事件より二カ月あまり前の千九百三十七年(昭和十二年)四月、第二十九軍は対日抗戦の具体案を作成し、五月から六月にかけて、盧溝橋、長辛店方面に於いて兵力を増強する。

それと伴に軍事施設を強化し、七月六日、七日には既に対日抗戦の態勢に入っていた。

当時日本軍北支那駐屯軍は、中国北部に於ける日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負っていた。

日本軍は天津に主力を、更に北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲の為連日演習を続けていた。

その為清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告すると伴に、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し七月八日午前一時頃到着した。

七月八日午前十時頃に急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。

牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、及び夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉及び冀察外交委員会専員・林耕雨等も中佐と同行した。

これに先立って豊台部隊長は直 ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求した.

だが、その交渉中の八日午前四時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近 の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃して来た。

この為、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍 に対し武装解除を要求した。

この戦闘に於いて日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者二十数名、負傷者は六十名以上で在った。

午前九時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は八日午後零時二十分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後八時には戒厳令を施行する。

憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は八日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。

九日午前二時になると中国側は遂に午前五時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前六時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しない。

そればかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対し度々銃撃を行った為、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行った。

中国側はやむを得ず九日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させる。

その督促の結果、中国側は午後零時十分、同地の部隊を一小隊を残して永定河右岸に撒退を完了し、残った一小隊は保安隊到著後交代させる事になった

一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。

この日午後四時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉の為天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは十日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があった。

同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から 南進した中国兵が九日午前二時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃する。

この為牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後九時頃龍王廟を占領する。

この戦闘に於いて日本側は戦死六名、重軽傷十名を出した。

十一日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約二kmの五里店付近に集結した。

この時点で、当時砲を有する七〜八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にいた。

長辛店及び蘆溝橋の兵力を増加し、永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥った。

日本軍参謀長は交渉決裂の為、十一日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。

同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のある事を察知すると急遽態度を翻して午後八時に北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議を受け入れる。

中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各 種団体取締を行うなどを、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

この事件後に、日中間で幾つかの和平交渉が行われている。

千九百三十七年(昭和十二年)七月、盧溝橋事件が勃発した後、二十九軍司令官・宋哲元(そうてつげん)は日本軍側との人脈を生かして、一旦は停戦に持ち込んだ。

七月十八日に宋哲元は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度の事については軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐ事にしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」と言う丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行う。

翌十九日に宋哲元(そうてつげん)は、日本軍との停戦協定を樹立している。

しかし結局、宋哲元(そうてつげん)の第二十九軍は部下の反日感情により何度も発砲を繰り返した為に日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。

日華事変(にっかじへん)=支那事変(日中戦争)の本格的な軍事衝突は、この「盧溝橋事件」が発端だったのである。



日華事変(にっかじへん)=支那事変(しなじへん)とは、千九百三十七年(昭和十二年)七月から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である。

ただし当初は、両国とも宣戦布告を行わなかった為に「事変」と称していた。

「支那事変」と言う呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は「日中戦争」と呼ばれている。

支那事変は、千九百三十七年(昭和十二年)七月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。

八月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈して行った。

この情勢にソ連は空軍志願隊を送り、中華民国側を援護する動きに出た。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月までは日中双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争と言う体裁を望まなかった。

戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となる為である。

国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても「戦争と認めては不利」とされたのである。

特に中国にとっては、千九百三十五年に制定されたアメリカの国内法である中立法の適用を避けたかった事も大きい。

中立法は外国間が戦争状態にある時、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器及び軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。
当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事も在って発動は見送られた。

事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援を始める。

日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘(おうちょうめい)を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。


千九百四十一年(昭和十六年)十二月八日の日米開戦と伴に蒋介石政権は九日には日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。

同十二日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。

当初の武力衝突を日中双方が「事変」としていた為、日本では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた。

新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。

日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。

戦後の学校教育では当初「日華事変」に統一されていたが、昭和五十年代以降は徐々に「日中戦争」と言う呼称が広まった。

これは「事実上の戦争である」との歴史学界による学説に拠り「事変」から「戦争」に表現を変更した。

更に主として日本教職員組合など教育現場やマスコミが、「支那」と言う言葉が「中国を侮蔑するニュアンスを含む」と指摘する。

加えて、占領軍(GHQ)や中華民国・中華人民共和国(建国前)両政府の政治的圧力を受け、「支那」と言う言葉の使用を避けた為、「日中戦争」と呼称する事に成った。

なお本来「支那」と言う呼称に「差別的意味は無い」とする研究もあり、我輩もそれを採りたい。



満州国(まんしゅうこく)は、千九百三十二年から千九百四十五年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家である。

大日本帝国および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。


帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」或いは「満州帝国」などとも呼ばれていた。

柳条湖事件発生から四日後の千九百三十一年九月二十二日、関東軍の満州国領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。

参謀本部は、参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原中佐は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねる事を条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。

現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、九月二十四日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織される。

二十六日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、二十七日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。

翌千九百三十二年二月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。

二月十六日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。

二月十八日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。

千九百三十二年三月一日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した。

元号を「大同」とし、首都には長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。

その後、千九百三十四年三月一日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行して元号を康徳に改元した。

国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。


元々満州(中国東北部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域で、満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

千九百十二年の清朝(清帝国)滅亡後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。

千九百三十一年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。

関東軍の主導の下、同地域は中華民国からの独立を宣言し、千九百三十二年三月、満洲国の建国に至った。

元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。


満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとした。

また建国理念として、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。


国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)とは、千九百三十三年(昭和八)三月二十七日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退を通告した事を言う。

国際連盟創立以来の原加盟国、常任理事国として重きを占めてきた日本は、満州事変を契機にその地位が一転し、事件が中国によって連盟に提訴された。


当時の日本とっては「ソ連の南下脅威論」が主流であり、ソ連の南下を封じるには日本の防衛線を朝鮮半島から満州まで拡大するする事が急務と論じられていた。

つまり「ソ連の南下脅威論」を正当な理由に、軍事力を背景にして無理やり満州国の成立を図った。

しかし国際間常識では、満州国は日本の侵略行為にしか見えず、「ソ連の南下脅威論」は正当な理由にはならなかった。

結果、列国から、満州事変に関する日本の行動を問責非難される立場に立たされる。

きっかけとなったリットン調査団報告は、満州(当時)での日本の権益にも一定の理解を示したが、満州国を不承認とした事に日本は反発する。


千九百三十一年(昭和六)の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は翌三十二年十月公表された。

内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家である事を事実上認めるものであった。

そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論が興(おこ)り、財界の一部もこれに同調した。


同千九百三十二年十二月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。

同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、千九百三十三年(昭和八)二月二十四日の連盟総会は四十四ヵ国中四十二ヵ国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択した。

日本全権・松岡洋右(ようすけ)はこれに抗議して直後に議場を退場、翌月、連盟脱退を通告する。

連盟脱退により日本は、孤立の道を歩む事になった。


この連盟脱退を解説するなら、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ=シャム)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行っていた。



ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、千九百三十九年(昭和十四年)五月から同年九月にかけて起こった満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件である。

この国境紛争事件には、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。

当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は「一国境紛争に過ぎない」と言うものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。

そしてノモンハン事件を「戦争」と表現するほどの大規模な武力衝突とするなら、日本政府は国民にひた隠しにしていたが、実は明治維新以降の戦闘として日本軍が始めて大敗を喫した一戦だった。


ノモンハンの呼称だが、清朝が千七百三十四年に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。

このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。

清朝が定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの千九百十三年の独立宣言以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されて来た。

しかし千九百三十二年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から十〜二十キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。

千九百三十九年(昭和十四年)にこの係争地で起きた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。


ノモンハン事件には五月の第一次ノモンハン事件と七月から八月の第二次ノモンハン事件に分かれ、第二次でさらに局面の変転がある。

第一次ノモンハン事件は両軍合わせて三千五百人程度規模の戦闘で、日本軍が敗北した。

第二次ノモンハン事件では、日本とソ連の両国それぞれが紛争にしては規模が大きい数万の軍隊を投入した。

七月一日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退される。

この後、日本軍は十二日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、良い結果を得られず断念する。

七月二十三日に到って、日本軍が再興した総攻撃は三日間で挫折した。

その後戦線は膠着したが、八月二十日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、三十一日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。


一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が八月末から攻撃に出て、九月八日と九月九日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。

九月十六日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地の内ノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。

停戦交渉はソ連軍の八月攻勢の最中に行われ、九月十六日に停戦協定が結ばれた。

いずれにしても対ソ連軍との戦闘は救い様が無い大敗で、植田謙吉・関東軍司令官は責任を問われ辞職した。

また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となった。

戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていた。

いずれにしても軍部も政府も敗戦と認識して居ながら、都合の悪い事は国民に隠す隠蔽体質(いんぺいたいしつ)は、変わらないのが為政者体質である。



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(太平洋戦争と戦後)

◇◆◇◆(太平洋戦争と戦後)◆◇◆◇◆

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に在ったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。

真珠湾への雷撃攻撃は、日本時間千九百四十一年十二月八日未明、ハワイ時間十二月七日に実行された。

この攻撃を、「奇襲攻撃」と言えるかどうかで日米の認識には現在でも主張に異論がある。


千九百三十九年から千九百四十一年々頭に至る頃、日本政府及び日本海軍はABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)を実力で打破すべく検討を繰り返していた。

当初の日本海軍は、対米戦争の基本戦略として漸減邀撃(迎え撃ってしだいに減らせる)作戦を有していた。

これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて迎え撃ち、しだいに減らさせた上で日本近海に於いて艦隊決戦を行うというものであった。

その戦略が変ったのは、千九百三十九年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将が異なる構想を持っていたからである。

アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本長官は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。

為に山本長官は、遥かに若かった十一年前の千九百二十八年(昭和三年)の時点で、既にハワイ攻撃を提唱していた。


千九百四十一年一月十四日頃、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎中将 に「会いたい」と手紙が在った。

大西航空艦隊参謀長は、一月二十六日ないし二十七日頃、連合艦隊旗艦・長門(戦艦)を訪ね、山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。

山本長官は、日米開戦の已(やむ)むなきに至った場合、「わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ対米戦に勝ちを制する事はできない」と大西航空艦隊参謀長に切り出す。

その「余程思い切った戦法」の目標は、太平洋に配備された米国戦艦群である。

攻撃は雷撃隊による片道攻撃とし、開戦劈頭(へきとう/開戦冒頭)にハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し痛撃を与え、「当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す」と続けた。

山本長官は、第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもってこの目標を達成する為の作戦研究を大西航空艦隊参謀長に依頼したのだ。


鹿児島・鹿屋(かのや)司令部に戻った大西参謀長は、幕僚である前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談する。

前田大佐からの回答は、真珠湾は水深が浅い為に技術的に「雷撃攻撃は不可能」と言うものだった。

大西参謀長は二月初旬、今度は第一航空戦隊参謀・源田実中佐を呼びつけ、二月中旬に訪れた源田参謀に大西参謀長は同様の質問をした。

源田参謀からは、「雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではない」と言う回答が在った。

大西参謀長は源田参謀に「作戦計画案を早急に作るように」と依頼する。

源田参謀は二週間ほどで計画案を仕上げて大西参謀長に提出、それに大西参謀長が手を加えて作案し、三月初旬頃、山本長官に提出した。

山本長官は、真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ期待する所期効果を得ないので空襲作戦は断念するつもりであった。

しかし大西参謀長、源田参謀案で「不可能ではない」と判断された為、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。


攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機とした。

敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪う為には、水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えた。

戦力を二分しては、敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わる事を懸念しての方針立案だった。

水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断して居たのである。


第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎中将と第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介大佐は、ハワイ奇襲作戦に反対した。

大西中将と草鹿大佐の意見は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得の為に、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしていたのだ。

だが、山本長官の意見は頑(かたく)なだった。

大西と草鹿の両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだと言う積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べる。

さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからと言って、そう投機的だ、投機的だと言うなよ。君達の言う事も一理あるが、僕の言う事も良く研究してくれ」と話して説得した。

十月十九日、連合艦隊参謀・黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰(おっしゃ)っている」と軍令部次長・伊藤整一中将に伝える。

この山本長官の意向を伊藤中将から伝え聞いて驚いた軍令部総長・永野修身大将は作戦実施を認めた。


軍人の本分は戦に勝つ事で、いつの時もその事ばかり考えている。

高級軍人の功名心の炎が、チロチロと燃え盛った集大成がこの真珠湾攻撃作戦計画だった。

つまり真珠湾攻撃作戦は、直前に「宣戦布告をする予定」とは言え、勝つ為に何ヵ月も前から「先制攻撃」が計画されていた。

そしてこれがフィクション(架空の創作)ならば、血沸き肉躍る男のアクションドラマかも知れない。

しかしリアルな戦争であれば、手段を選ばない破壊や殺戮(さつりく)の非人道的な行為そのもので、これをワクワク楽しむ感性を持つ人は危険である。

男性の闘争本能を「自らの感性」と主張する自己陶酔に、人間としての欠陥を理解すべきではないのか?


第一航空戦隊参謀・源田中佐の真珠湾攻撃案は、出発基地を小笠原父島か北海道厚岸(あっけし)とし、空母を真珠湾二百海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。

一つ目の父島案では、雷撃可能な時は艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案である。

二つ目の厚岸(あっけし)案は、雷撃不可能な時には艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。

航路は機密保持の為に北方から進攻して急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。

本来の軍事作戦では、水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になる為に計算に入れなかった。

これに対して大西参謀長は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行う事、出発を単冠湾(択捉島)として作案した。

九月頃、大西参謀長から源田参謀が「これで行く様に」と厳命が手渡された。

手渡された厳命には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、「戦艦に致命傷がなくても行動できなくする事」になっていた。


真珠湾航空奇襲の訓練は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。

従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていた。

しかし真珠湾航空奇襲を目的とする第一航空艦隊の航空訓練は、機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。

また、この作戦の為に空中指揮官・淵田美津雄中佐と雷撃専門家・村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。

この作戦では、海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とする為、空母の集中配備が採用された。


攻撃案は当初、真珠湾の北二百海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ三百海里圏外に脱出する案だった。

だが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田参謀から反対が在った。

それでフォード北二百三十海里で一次攻撃、南下して二百海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。

技術的な課題は、水深十二mと言う浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、次に戦艦の装甲をどうやって貫通させるかの二点であった。

水深十二mと言う浅瀬に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑える事に成功した。

また、鴨池航空隊(鹿児島鴨池航空基地所属)による超低空飛行訓練により、最低六十mの水深が必要だったものを十m以下に引き下げる事に成功した。

事実、実際の攻撃では投下された魚雷四十本のうち、射点沈下が認められたのは一本のみの大成果で在った。

戦艦の装甲をどうやって貫通させるかに対しては、戦艦の装甲を貫徹する為に水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。

模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通する為の運動量の計測などが行われた。


作戦使用航空母艦は、当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していた。

だが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となる。

連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にする事、山本長官の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成する事が重要課題である。

その課題達成の為には、「搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したい」と考えた。

山本長官は、かねがね日露戦争劈頭(へきとう/冒頭)の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。

しかし、軍令部総長・永野修身大将は四隻案で考えていた。

千九百四十一年十月九日〜十三日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。

軍令部航空部員・三代辰吉中佐はこの研究会出席の為出張して来たが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。


航空攻撃と併用して、五隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。

この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであった。

これは、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想が在った事を示している。

魚雷二本を艦首に装備した「甲標的(こうひょうてき/特殊 潜航艇)」は千九百四十年九月に正式採用され、三十四基の建造が命令された。

千九百四十一年一月中旬から訓練が開始され、八月二十日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。

訓練により戦力化に目処が立つと伴に日米関係が益々悪化する。

そうした状況に、搭乗員から開戦時に「甲標的(こうひょうてき)を使って港湾奇襲を行うべきである」との意見が盛り上がった。

先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。

この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員・有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束する。

九月初旬に、甲標的(特殊潜航艇)母艦・千代田の原田覚艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しい事から却下された。

司令部を納得させる為、甲標的(特殊潜航艇)から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行った。

だが、「搭乗員の収容に確実性がない」との山本長官の判断で再度却下された。

部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、十月初旬に三度の具申を行った。

この具申の結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、終(つ)いに計画が採用された。

十月十一〜十三日に長門で行われた図上演習には甲標的(特殊潜航艇)を搭載した潜水艦五隻による特別攻撃隊が使用された。

特別攻撃隊の甲標的(特殊潜航艇)五隻には、岩佐大尉ら十名の搭乗員が選抜される。

作戦に使う潜水艦として甲標的(特殊潜航艇)を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。


千九百四十一年十一月一日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は十一月五日の昭和天皇の御前会議で承認された。

以降陸海軍は十二月八日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

十一月十三日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。

山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。

この「日米交渉の妥結時帰投命令」に二、三の指揮官が不服を唱えた。

だが、山本長官は「百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったと伝えられる。


十一月十七日、山本長官は佐伯湾に在った空母赤城を訪れる。

機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。

十一月二十二日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。

出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げた。

赤城艦長・長谷川喜一大佐は、山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。


艦隊航路の選定には、奇襲成立のため隠密行動が必要であった。

連合艦隊参謀の雀部利三郎(ささべりさぶろう)中佐が過去十年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べる。

その結果十一月から十二月にかけては北緯四十度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。

なお、当時第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。

ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったと伝えられている。

十一月二十六日八時、旗艦「赤城」以下の南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾(択捉島)を出港した。


十二月一日、昭和天皇の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の三十分以上前に行うべき事が決定された。

勿論、「攻撃三十分以上前宣戦布告」は、相手に応戦準備をさせない奇襲をギリギリのアリバイとして主張できる「違法ではないが限りなく不適切」な戦法である。

十二月二日十七時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された。

ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰ある。

一二〇八とは十二月八日の事で、「X日(エックス・ディ)を十二月八日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。

ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

重責を背負った空母機動部隊・南雲中将は航海中、「えらい事を引き受けてしまった。断ればよかった。上手く行くかしら?」と草鹿大佐に語りかけたと言う。


鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、十一月十八日に択捉島の単冠湾へと向かった。

真珠湾攻撃は、周到精密な計画と多大な成果を得るべく攻撃訓練を繰り返した航空隊と水雷隊の精鋭兵をもって敢行された作戦である。

なお、ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。


十二月七日、伊号潜水艦隊から甲標的(特殊潜航艇)が発進した。

十二月八日午前一時三十分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦四十三機、艦爆五十一機、艦攻八十九機、計百八十三機が発進。

第一航空艦隊参謀長・草鹿大佐は百八十三機が発進したとしているが、爆装の艦攻五十機が戦艦を、雷装の四十機が戦艦および空母を目標とした。

艦爆五十四機は航空基地を、艦戦四十五機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという。


午前二時四十五分、第二波空中攻撃隊として艦戦三十六機、艦爆八十一機、艦攻五十四機、計百七十一機が発進した。

草鹿大佐によれば、五十四機の艦攻は航空基地を、八十一機の艦爆は空母および巡洋艦を、三十六機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた。

なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた。

また、攻撃隊を二派に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限だった。

当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させる事はできなかった。

なお、この攻撃に先立ち陸軍は、イギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。

真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちにイギリスからアメリカに伝えられる事となり、他方の奇襲が成り立たなくなる。

しかし源田中佐の案により、暗闇での発艦を回避する為、攻撃隊の発進は当初の予定より二時間遅れとなった。

この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかった為、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しない事にした。

これにより真珠湾攻撃は、コタバル奇襲上陸作戦の二時間遅れとなった。

しかし、結果的にマレー上陸の報がアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響する事はなかった。


ハワイは、現地時間十二月七日日曜日の朝だった。

七時十分(日本時間八日午前二時四十分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の小型潜水艦を発見する。

駆逐艦「ワード(ウォード)」の砲撃により、国籍不明の小型潜水艦は撃沈された。

この小型潜水艦が、日本軍の甲標的(特殊潜航艇)で在った。

ワード号は直後に「未識別の小型潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電した。

しかし、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしば在り、その重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。


七時三十五分(日本時間三時五分)に、海軍航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見する。

そして七時四十分(同三時十分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。

この際、奇襲の場合には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられる事ない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させる。

強襲の場合には、合図が信号弾二発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていた。

だが、信号弾一発で雷撃専門家・村田重治少佐率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て空中指揮官・淵田美津雄中佐は、村田少佐が「合図を見逃した」と誤解する。

それでもう一発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長・高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾二発と誤解し先行した。

間もなく「重巡筑摩」の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告がある。

それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った。

草鹿大佐によれば、「重巡筑摩」より、三時十分に入った報告とされている。

七時四十分(同三時十九分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。

七時五十二分(同三時二十二分)、淵田中佐は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した。

これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である。

この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した。

七時五十三分(同三時二十三分)に旗艦・空母赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった。

奇襲に成功した事を知った草鹿大佐は、南雲機動部隊司令・南雲忠一中将の手を固く握り落涙したと伝えられる。


航空機による攻撃は、八時零分(同三時三十分)に雷撃により開始される予定だった。

だが、これより五分早い七時五十五分(同三時二十五分)に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ二百五十kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった。

続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった。

雷撃隊を率いていた村田重治少佐は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていた。

だが村田少佐は、ヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、七時五十七分(同三時二十七分)に雷撃を開始した。

つまり淵田中佐は、飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した。

七時五十五分頃に戦艦「アリゾナ」で空襲警報が発令される。

七時五十八分(同三時二十八分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。

八時零分(同三時三十分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、八時五分(同三時三十五分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。

八時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した八百kg爆弾が戦艦「アリゾナ」の四番砲塔側面に命中。

次いで八時六分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。

八時十分、戦艦「アリゾナ」の前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は千百七十七名の将兵とともに大破沈没した。

戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。

オクラホマは転覆沈没し将兵四百十五名が死亡または行方不明となった。

なお第一波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されて来たボーイングB-17が五機ヒッカム基地に着陸しようとした。

だが、地上からの連絡を受けて一機は日本軍機の攻撃をよける為にベローズ基地に向かい、残りの四機は無事着陸したものの、瞬く間に攻撃を受けて一機が大破炎上した。


アメリカ東部時間午後二時二十分(ハワイ時間午前八時五十分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手渡す。

日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、先に戦線が開かれていたイギリスと並びアメリカに宣戦を布告した。

この文書は、本来なら攻撃開始の三十分前であるアメリカ東部時間の午後一時に面会し、その際にハル国務長官へ手渡す予定であった。

この「宣戦ノ詔書」を手渡す面会、一旦は「昼食の予定がある」としてハル国務長官に断られていた。

だが、駐ワシントンD.C.日本大使館員の不手際によって結果的には攻撃開始の約一時間後となってしまった。

その為「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。

この原因について、駐アメリカ日本大使館の井口貞夫事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取った事が要因と言う説明が極東軍事裁判でなされた。

この戦後の極東国際軍事裁判における弁護側のこの弁明以降、日本側の「駐アメリカ大使館の不手際」と言う説明が通説とされて来た。

重要な内容で在った事は、翻訳時に解っていた事である。

ならば、面会に遅延する事を避けるべく、タイピングが終わった部分だけでも予定通りの面会時間に届けると言う判断をしなかった野村や来栖の責任を問う意見も在った。

ハル国務長官も、「そのようにすべきであった」と指摘している。

これに対して、井口貞夫事官の子息で元外交官の井口武夫は、日本側「駐アメリカ大使館の不手際説」に反論している。

まず、「対米覚書」全十四部の中で第十三部ならびに最後の十四部までの訂正電がそれ以前の部よりも十五時間も遅く発信された

また、規定の「至急」と言う指定を公電の冒頭に入れていなかった事を指摘し、軍(陸軍参謀本部)による工作(意図的な遅延)の可能性を示唆している。


ハワイ時間午前八時五十四分(日本時間四時二十四分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。

第二波攻撃隊は、アメリカ軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いこれを成功させた。

また、戦艦「ペンシルバニア」が収容されていた乾ドッグへの攻撃を行った。

これに対して、一息ついて反撃の余裕ができたアメリカ軍は各陣地から対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした。

しかしこの時点でフォード島のアメリカ海軍機は全滅し、飛行可能な飛行機は一機もなくなっているなど甚大な被害を受けていた。

そのため、百七十機の急降下爆撃機や戦闘機を抱える圧倒的な数量の日本軍に効果的な損害を与える事は不可能であった。

この頃、ようやくワイキキのラジオ局のKGMBが真珠湾への日本軍の攻撃を伝え始めた。

しかし、オアフ島内は情報が混乱し、真珠湾上空を飛び回る飛行機による爆音や、爆弾の爆発音を、日本軍による攻撃ではなく演習によるものと誤認するものも多かった。

なお、ハワイ庁のジョゼフ・ポインデクスター庁長ですらこの時点で真珠湾への日本軍の攻撃を知らないままで居た。

上記のラジオ局からの電話による問い合わせで、ジョゼフ・ポインデクスター庁長が「初めて攻撃を知る」と言う有様であった。


第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きかったが、「加賀」攻撃隊(零戦九機、艦爆二十六機)において零戦二機、艦爆六機を失い、十九機が被弾したのみであった。

また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)はニイハウ島に不時着、十二月十三日のニイハウ島事件で死亡した。

なお第二波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されてきたボーイングB-17の第二陣六機がヒッカム基地に着陸しようとした。

しかし、日本軍機による強行着陸と誤認した地上兵に対空砲火を受けた為、三機は無事着陸したものの、二機はハレイワ基地に向かい、残りの一機はカフクにあるゴルフコースに不時着した。

なお、これらの攻撃隊に対して、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。

実際に日本軍機とオアフ島上空で遭遇した小型機は、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けないでいた。

しかし基地が攻撃を受けた結果、基地内に勤務する軍属や基地内に居住する軍人の家族、基地周辺の在住する民間人など合計五十七人が死亡している。


機動部隊とは別に甲標的(特殊潜航艇)を搭載した伊号潜水艦五隻は下記の編成で十一月十八〜十九日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃する。

十二月七日オアフ島沖五・三〜十二・六海里まで接近した。

甲標的(特殊潜航艇)はハワイ時間午前零時四十二分(日本時間二十時十二分)から約三十分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。

湾入り口の対潜水艦防御門が空いていた事もあり、攻撃は五隻全艇が湾内に潜入する事に成功し、三隻が魚雷攻撃を行った。

しかし四隻が撃沈、出航時からジャイロコンパスが不具合を起こしていたものの、艦長の判断で出港した1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった。

その後、行方不明であった甲標的(特殊潜航艇)が発見され、魚雷は未発射であった事から魚雷攻撃を行ったのは二隻とされている。


近年までは、軍事史家・中村秀樹(元海上自衛官二等海佐)氏のように「成果なし」と評価する者が在った。

甲標的(特殊潜航艇)によって戦艦・ウェストバージニアと戦艦・オクラホマへの雷撃が行われている。

このうち戦艦・オクラホマは甲標的(特殊潜航艇)による雷撃が「転覆をもたらした」とするアメリカ側からの評価がなされている。

日本では、撃沈された四隻(雷撃に成功した一隻は自沈)の乗組員八名と、座礁した艇から脱出して水死した一名を加えた九名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された。

座礁した甲標的(特殊潜航艇)から、艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。

また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、作戦参加の一隻は撃沈ではなく自沈だったが、空中攻撃隊の八百kg爆弾で撃沈された戦艦・アリゾナは甲標的(特殊潜航艇)による撃沈と言う発表が大本営から行われた。


南雲中将の空母機動部隊は、出動した攻撃隊の収容に備え真珠湾北方百九十裡にまで南下していた。

攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官・三川軍一少将から再攻撃の意見具申があったが、一航艦長官・南雲忠一は参謀長・草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した。

山口多聞少将は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった。

連合艦隊司令部では連合艦隊長官・山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言した。

だが、山本長官は「南雲はやらんだろう。機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった。


日本時間午前八時三十分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。

午前九時頃、南雲中将率いる日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。


軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的として居た。

その為、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。

一方、連合艦隊長官・山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても「戦争を終わらせるダメージを与えたい」と言う考えだった。

だが、草鹿大佐によれば南雲中将には「その真意が知らされていなかった」と言う。

また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。

当初、スティムソンは「ハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろう」と考えていた。

それが間違いで、「日本が戦略的には馬鹿気た行為で在ったが戦術的には大成功をおさめた事を私が知った」のは、その日の夕方になってからであった。

つまり、「日本軍部は唯一の終局の結果しかない馬鹿気た戦争を始めたのであるが、日本のすべり出しは明らかに素晴らしい立派なものであった。」と評された。


十二月八日、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊空母瑞鳳、空母鳳翔、駆逐艦三日月、駆逐艦夕風と護衛駆逐艦若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨等を率いて瀬戸内海を出撃した。

その際、司令部付・長官専属従兵だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。

なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦・大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、第三航空戦隊主力は豊後水道で戦艦長門らとすれ違っている。

南雲機動部隊収容の為と言う名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。

十二月十日、空母鳳翔は哨戒機収容の為戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦三隻と共にそのまま行方不明となった。

翌日になっても空母鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は「そんな馬鹿げた事があるものか」と呆れている。

この時の空母鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から五百浬)の地点まで離れており、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた。

十二月十三日、空母鳳翔は豊後水道を通過。

ところが、空母鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する。

呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長・梅谷薫大佐は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたと言う。


十二月十六日、第二航空戦隊司令・山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に転戦する。

十二月二十三日、南雲機動部隊本隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

十二月二十六日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われる。

第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。

続く海軍大臣官邸での祝賀会では、海軍軍事参議官が参集したり、翌二十七日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。


日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦八隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。

アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。

真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリスおよびイギリス連邦諸国との戦争が開始された事に続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。

真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。

当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であった。

連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。

さらに、駐アメリカ日本大使館員の不手際により、日本政府の意思に反して日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まる不手際がアメリカ世論に影響した。

真珠湾攻撃が真実とは反して「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝される事となり、アメリカおよび連合国の世論に影響した。

イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。



真珠湾攻撃おけるアメリカ側の死者は約二千四百名で、その内「四十八名〜五十七名は民間人だ」とされている。

この死者の約半数は、撃沈された「戦艦アリゾナの乗組員だ」とされている。

また、日本側の戦死者は、飛行機搭乗員の五十五名、 特殊潜航艇搭乗員九名、合計六十四名、捕虜が一名だった。

アメリカ側を死者、日本側を戦死者としたのは、この攻撃で死んだアメリカ側の兵士が「戦闘行為の末になくなった」とは言い切れないからである。


この真珠湾攻撃(日米開戦)の異説として、アメリカ政府は日本軍の真珠湾攻撃察知していたが、他民族集合国家の人心を開戦に傾倒させる為に「わざと攻撃を許した」と言う説もあるが闇の中である。

この異説の根拠だが、当時アメリカが全ての空母を真珠湾から移動させていた事がその憶測を呼んでいる。

そして偶然か計画かは不明ながら、アメリカ海軍の空母が温存された事で、後のミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)における日本海軍機動部隊の大敗に結びつき、この戦争における主導権を失った。

それにしても、例え米国首脳部が真珠湾攻撃を察知していてわざと攻撃させたとしても、日本側が奇襲すれすれの戦術を計画・実行した事は事実である。


いずれにしても、この真珠湾攻撃(日米開戦)が、戦場に赴いた兵士の九割が戦闘によらない餓死と病死と言う無残な戦いを強いられる端緒だった。

そして、日本中の都市部が空襲爆撃で死者多数の焼け野原にされると言う「無謀な戦争」の端緒だったのである。



ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の千九百四十二年(昭和十七年)六月五日(アメリカ標準時では六月四日)から七日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦である。

ミッドウェイ島は、北太平洋のハワイ諸島北西にある火山島に珊瑚礁が発達した数個の環礁からなり、ミッドウェー諸島とも言う。


日本海軍は当初から、ミッドウェー島を「占領してからの維持は、極めて困難である」と考えていた。

あくまでこの作戦は、米空母群を誘い出して撃滅する事を作戦目的としていた。

さらに占領後には他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ十月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていた。

ミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略する事により、アメリカ艦隊、特にエンタープライズとホーネットを主力とする空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅する事に主眼が置かれた。

日本軍がアメリカ軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとする事は明白だった。

現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。


千九百四十二年(昭和十七年)五月二十七日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。


この海戦、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍の侵攻を、アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。

フランク・J・フレッチャー少将の第十七任務部隊と、レイモンド・スプルーアンス少将の第十六任務部隊がミッドウェー島の北東で合流してフレッチャー機動部隊が編制される。

南雲中将率いる機動艦隊は、ミッドウェー島の航空機部隊の集中雷撃とアメリカ軍艦載機の集中雷撃を浴びる。

アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母二隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から飛龍の沈没を知り、計三隻の撃沈を確信していた。

赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

六月十三日、第十六任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。


日本海軍の南雲機動部隊とアメリカのフレッチャー機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果は決定的だった。

日本海軍は、機動部隊の空母加賀 空母蒼龍、空母赤城、空母飛龍と言う航空母艦四隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

日本軍は、ミッドウェー島基地部隊を「飛行艇二十四機、戦闘機十一、爆撃機十二、海兵隊七百五十名、砲台二十前後」または「哨戒飛行艇二個中隊、陸軍爆撃機一乃至二中隊、戦闘機二個中隊」と過小評価評価していた。

海兵隊三千名、航空機百五十機と言うミッドウェー島の本当の戦力を日本軍が知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。

この時すでに、日本の軍令部も山本五十六連合艦隊司令長官も、アメリカの強大な軍備生産力が軌道に乗りつつある事を想像して居なかった。

日本とアメリカの軍備の差は現実の国力の差で、幼児が大人と戦うほど開いていたのだ。


軍令部はミッドウェー作戦と並行して同時にアリューシャン攻略作戦(AL作戦)を行う案を加えた。

AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。

ミッドウェー海戦はミッドウェー作戦(MI作戦)の前哨戦であり、この敗北で同作戦は中止された。



ミッドウェー海戦は、日本にとって大敗北だったが、「国民の士気を落とさない為の嘘」と正当性を言い張る「大本営発表」を採って、国民を騙し始める。

本来の大本営(だいほんえい)は、軍部の連合大演習及び特別大演習に於いて、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。

但しここで言う大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関を指す名称である。

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、大日本帝国の大本営が行った戦況などに関する公式発表を言う。

当初は、おおよそ現実に即していた発表を行っていた。

所が、ミッドウェー海戦の頃から海軍による損害矮小化・戦果過大化の発表が目立ちはじめ、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行った。

「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そうした事から、現在では「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている。



実は、日本軍の真珠湾攻撃と時を同じくして、千九百二十五年に制定・施行された「治安維持法」が全部改訂され、言論統制による戦時体制を確立させた歴史がある。

戦前・戦中の言論弾圧とは、戦前の日本に於ける左翼勢力・自由主義者・宗教団体に対する言論弾圧・粛清を治安当局(特別高等警察)が行った事件の事を指す。

この中で弾圧立法として大きな役割を果たしたのが、千九百二十五年制定・施行され、千九百四十一年に全部改訂された「治安維持法」である。

「治安維持法」は、幾度かの改正を経て本来の立法意図をすら逸脱し、広い意味での体制批判者を取り締まる法へと拡大解釈されて行った。

その「特別高等警察」のターケット(標的)にされたのが、非合法的左翼勢力(すなわち日本共産党・共産主義者)およびその関連団体(大衆運動組織)などである。

それに加え、合法的左翼勢力(すなわち一部の急進的社会民主主義者)および自由主義的知識人、体制内の非主流派・批判的グループや一部の宗教団体などの政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となって行った。

千九百四十五年(昭和二十年)の太平洋戦争敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処する為、被占領下の日本政府は断固適用する方針を取り続けた。

しかし敗戦から凡(およ)そ三ヵ月後の十月初旬、GHQの政策・人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法体制は一転して解体に向かった。



第二次世界大戦末期の千九百四十五年(昭和二十年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、八月十八日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する。

満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。

その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。

また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北地区」と呼称している。

日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」と言う修飾と共に呼称する。



千九百四十五年八月九日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦する。

満州に侵攻して来たソ連軍に対し関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化に従って防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。

この作戦に拠って関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難される事と成る。

一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた九個師団を基幹とする第三方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていた。

しかし関東軍は、反撃に移るまでに八月十五日の玉音放送を迎えた。

正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは十六日夕方で在った。

「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜十時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。

ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、八月末まで戦闘行動を継続した部隊も在った。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出す事となる。

総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は十一年間の長期に渡って抑留されて居る。

近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死した為、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠が継ぐ事となる。

また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第四練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いている。



大正時代に成ると、近代化しつつある日本は海洋進出もすすめていた。

北洋漁業の先駆者として知られる平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、千八百八十一年(明治十四年)北海道函館に生まれる。

平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、安土桃山時代の武将・平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔とされる。

平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、札幌露清語学校でロシア語を学んだ。

常次郎(つねじろう)は北洋の漁場開発を志し、ロシア領カムチャツカ半島に渡ってサケ・マスの漁場調査をおこなう。

千九百五年(明治三十八)、日本はポーツマス条約によってロシア領沿岸での漁業権を獲得する。

常次郎(つねじろう)は堤清六(現・株式会社ニチロの創業者)とともに新潟市に堤商会を設立し、ロシア領海内で操業を開始する。

常次郎(つねじろう)達は、カムチャツカ半島沿岸に工場を建設し、サケ・マス缶詰の輸出にも成功した。

千九百二十一年(大正十年)、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の常務となり、同社及び太平洋漁業、千島水産などで社長を歴任、北洋漁業の覇権を手中に収める。

しかしその常次郎(つねじろう)の業績も、第二次世界大戦の敗戦により、日魯漁業(現ニチロ)は海外資産(施設・漁場)の全てを失った。

千九百四十六年(昭和二十一年)、常次郎(つねじろう)は第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から衆議院議員に初当選する。

常次郎(つねじろう)は名門・河野氏出自の河野一郎(こうのいちろう)と行動を共にする。

政界に身を置いた常次郎(つねじろう)は、第一次吉田内閣で運輸大臣を務め(北海道出身者として初の入閣)たが、翌千九百四十七年(昭和二十二年)、GHQにより公職追放処分を受ける。

千九百五十一年(昭和二十六年)追放解除後、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の社長に再度就任する。

千九百五十五年の第二十七回衆議院議員総選挙に、常次郎(つねじろう)は北海道三区から日本民主党公認で立候補し当選、政界にも復帰した。

千九百五十八年(昭和三十三年)には、常次郎(つねじろう)は大日本水産会会長として日ソ漁業交渉代表団団長を務め、日中漁業交渉にも携わった。

千九百七十四年(昭和四十九年)、常次郎(つねじろう)は長寿を全うし九十三歳で没した。



屯墾軍(とんこんぐん)は、満蒙開拓の為にロシア帝国のコザック兵(武装農民軍事組織)を参考に作られた言わば防人(さきもり)である。

屯墾軍移民(とんこんぐんいみん)=満蒙開拓団は、未開拓地を切り開いて耕地とするの建前で入植した。

しかし宛がわれた入植地の六割は、既に現地の満蒙農民が耕地として使用していた所を取り上げた土地で、つまり日本の開拓団の入植手法は現地満蒙農民の恨みを買ったものだったのだ。

当時の軍事国家・大日本帝国は、傀儡国家・満州国に、家族もろともの二十七万人の移民(満蒙開拓団)を行い、昭和二十年八月九日、ロシア参戦とともに本来守るべき関東軍は、まともな交戦をせず真っ先に後退し、その移民(満蒙開拓団)は国家に見捨てられた。


太平洋戦争末期、日ソ不可侵条約を破って満州に攻め込んだソ連兵は、日本内地へ逃避行中の満州開拓民の子女を武器で脅し暴行強姦している。

極限の逃避行に在って、同行の年寄り子供を守る為に若い日本の母親達がソ連兵の要求に応じている。

そして敗戦後満州方面から帰国した日本人婦女が、父親も判らないロシア兵の子を妊娠していた事実も多く、密かに始末したり肌の白い子を出産して途方に暮れた史実も存在した。

また、終戦後に従軍看護婦(師)が密かに集められ、彼女達は帰国子女に或る処置をする手助けをさせられた。

それはロシア兵に、通りすがりに蹂躙されて妊娠した、望まぬ子の堕胎始末だった。

そうした事実を無視して、建前だけで被害が抑止できるとは到底想わないのだが、日本軍の唯一の良心だった娼婦館業者の帯同が国際非難の元に成って居る。

つまり「強姦は行けません」の上っ面で、物事が解決すると言う幻想が、世界中に蔓延している。



この荒廃した平成の世に在って、近頃、妖しげな回帰主義者が台頭し、表面的な愛国心或いは家族愛の犠牲的精神美を謳っている。

しかしその愛国心或いは家族愛の犠牲的精神美が悲惨な歴史に利用された過去を忘れる事は、日本人として在っては成らない大事な事である。

中央の意向を無視して、石原莞爾(いしはらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐が動かした関東軍が、傀儡国家・満州国の建国に到る行為は、太平洋戦争に続く滅びの道だった。


石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)は伴に「上士格の家格を持つ家柄だった」が、維新時に旧幕府方に付いた奥州(東北)列藩の出自である。

薩長土肥の藩閥政治から置いて行かれた両名には、何処かで殊勲を上げる家名再興の気持ちが強かったのかも知れない。

石原莞爾(いしはらかんじ)の父・石原啓介は元山形県庄内藩士で、莞爾の祖父は酒田奉行の要職を勤む結構な家柄だった。

その石原啓介の長男として鶴岡に生まれた莞爾(かんじ)は、仙台の幼年学校から士官学校(二十一期)を経て、明治四十二年、少尉に任官して山形の第三十二連隊に就任する。

莞爾(かんじ)は会津若松連隊の新設にともなって転勤、才能を認められた上司に勧められて入学した陸軍大学校を優等で卒業している。


板垣征四郎(いたがきせいしろう)は旧盛岡藩士族で、父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を務める地元の名士だった。

征四郎(いたがきせいしろう)は、盛岡中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(十八期)で学び、陸軍大学校(二十八期)を卒業している。

その二人が、満州の地・関東軍に赴任してある目的で意見が一致した。

その一致した目的が、満蒙領有計画だったのである。


石原莞爾(いしはらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐は、関東軍に拠る満蒙領有計画を立案する。

千九百三十一年(昭和六年)板垣征四郎大佐は、石原莞爾(いしはらかんじ)らと満州事変を実行、二十三万の張学良軍を相手に僅(わず)か一万数千の関東軍で、日本本土の三倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

只、この満州国の建国は、要は理性をスッ飛ばした感性で国民を高揚させ、民族意識を満足させるものだった事は確かである。

その点では、当時の国民が都合の良い情報だけを流されて理性が働かず、感性だけの甘い夢に踊らされて居た事になる。

ただしこの関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は、参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策から逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者達は出世した。

くどいようだが、卑怯な事はせず君命には逆らわない筈の「武士道の国の皇軍・関東軍」は、一皮剥(む)いた本音ば手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。

板垣征四郎は後に陸軍大臣(第一次近衛内閣及び平沼内閣)を務めなど中央で出世、大将に、石原莞爾(いしはらかんじ)は中将まで昇っている。

そして征四郎は、盟友の石原莞爾(いしはらかんじ)の才能を認めて、東条英機(とうじょうひでき)と対立する莞爾(かんじ)を擁護して居た。

為に征四郎は、時の権力者・東条英機(とうじょうひでき)に中央から外されてシンガポール方面軍に飛ばされた。

最終階級は陸軍大将・第七方面軍(シンガポール方面軍)司令官、敗戦時にシンガポールで英国軍に身柄を拘束され連合国によりA級戦犯に指定される。

征四郎は極東国際軍事裁判で死刑判決、千九百四十八年(昭和二十三年)十二月二十三日、シンガポールで絞首刑に処せられた。

一方、石原莞爾(いしはらかんじ)は左遷されて終戦当時予備役だった為に戦犯指定を免れている。

板垣征四郎と石原莞爾(いしはらかんじ)が運命を分けたのは、莞爾(かんじ)と東条英機(とうじょうひでき)との対立からである。

石原莞爾(いしはらかんじ)の様な天才児の発想は常識外れだから、暫(しば)しその発信は変人扱いに成る。

まさしく莞爾(かんじ)は典型的な天才児で、演説巧者だけの口先男の東条英機(とうじょうひでき)の無能振りを見破っていていた。

当時、飛ぶ鳥落とす勢いの東条英機を正面切って批判したのは莞爾(かんじ)だけで、東條英機にして見れば莞爾(かんじ)の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

東條英機は、莞爾(かんじ)の口を塞ぐ為に現役を退かせ予備役へ編入する。

結果、莞爾(かんじ)は、東條英機との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判に於いては戦犯の指名から外された。


「国益」と言えば、何でも通る様な風潮の時代だった。

まぁ戦後も七十年近くなっても、「国益」は未だに政治家や官僚が国民を騙す魔法の言葉ではある。

国益(こくえき)は、国の利益を指す言葉で、この用語が登場したのは江戸中期(宝暦〜天明期)である。

当時の国益(こくえき)と言う用語於ける「国の概念」は、三百諸侯と表現した諸藩領国の事で、その領国ごとの産品生産の向上なり経済自立化などの概念として使用された。

この用語が、幕末から明治維新以後に於いては対外国政策などの思想概念にも使用されるように成った。

政治家は簡単に「国益」と言うけれど、「国益は民益とは正反対に位置するもの」と言う矛盾が在る。

太平洋戦争も各地で連合軍に圧されて敗色が濃くなる千九百四十四年(昭和十九年十二月七日)、紀伊半島熊野灘沖に地殻変動が起こって「昭和東南海地震」が発生する。

現在騒がれている南海トラフ型の大地震だったが、戦時中の報道統制下の為、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けた事を隠す為に報道は規制され、詳細な報道がなされなかった。

当時米国を中心とした連合軍と交戦中の大本営では、「地震情報は敵を利する」として報道を統制し、公な救助活動もしなかった。

つまり国家と言うものは民益よりも国益を優先し、その守るべき国益は、実は特定の権力階層だけのものだったりする。

つまり「国益」は、国家の為の国民か国民の為の国家なのかを巧みに混同させた言葉である。

この本質は、為政者(政治家)と国民の立場の違いである。

「国益」の統治的効用は、元々人間が群れ社会の動物で帰属意識が高い事を利用した為政者が、自信満々で言う言葉の美名なので国民は騙され易い。

昔の武士道に「お家の為」と言う言葉が在ったが、実際に「お家の為」の武士の行動は報われるものではなく犠牲を強いられるもので、唯一「お家の」を守ったと言う満足感だけが残るものだった。

つまり国益保持が国民の犠牲と引き換えに成る事は歴史が証明しているので、「国益」を口にする政治家には本音於いて国民を想う気持ちなど無い。

そして官僚の守るべき「国益」は、国民から如何に搾り取りそれを自分等で如何に使うかで、国の責任はなるべく認めずに国民に対する保障を如何に出し渋るかが彼等の「国益」に適う仕事である。

過去の悲惨な戦争も、「国益」の美名の下に報われない戦に駆りだされ、想いは家族を守る積もりで戦った留守にその家族も戦火に晒(さら)されている。

「国益」の掛け声の下、大きな犠牲を強いられた戦争の記憶も体験者が減って行くと伴に悲惨さは風化して、良く事実を見ないで格好良さばかりに憧れる上辺の綺麗事だけが語り残される事になる。


まぁ人間の考える事など、戦前も現在も余り変わりは無い。

現在の防衛省幹部も官僚だが戦前の軍部幹部も官僚で、つまり現在の官僚が省益を守り育てると同様の風潮があり、それが局地戦から大戦に拡大する土壌だった。

結局の所、「国益、国益」と言いながら、軍幹部が財閥と組んで己達の利権拡大の為に軍事行動を拡大した側面は否めない。

歴史の難しい所は、例え統治の都合で捏造されたものでも、永く伝承されると「文化の歴史」として存在する様になる事である。

つまり「史実の歴史」とは別に「文化としての歴史」は、信仰や伝説を通じて時の経過と伴に育ち、後世では確実に文化として存在し、「全く無い事」とは否定出来ないのだ。

そして意図的に創り上げたのは、蒙古襲来(元寇/げんこう)時の「神頼み(暴風)」を都合良い解釈に仕立てて採った「神風伝説(かみかぜでんせつ)」だった。


只、この「史実の歴史」と「文化の歴史」は、違いを認識しながら扱って行かねば成らない事は言うまでも無い。

確かに鎌倉期の千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗国(コリョグオ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。

これを「文永(ぶんえい)の役(えき)」と呼ぶ蒙古襲来(元寇/げんこう)が在ったのだが、到着した時には海峡の海はもう暴風に荒れ狂っていた為に大被害を出して元軍は撤退した。

七年後の千二百八十一年(弘安四年)に、「弘安(こうあん)の役(えき)」と呼ぶ二度目の蒙古襲来(元寇/げんこう)が在り、幸運な事にこの時も元軍(げんぐん)は暴風に会い大被害を出して撤退している。

この時の故事に倣(なら)って、「神風」成る伝説神話を編み出し民衆に広めた。

しかし「神風」など、日本本土が焦土と化しても吹きはしなかった。

鎌倉期二度の蒙古襲来(元寇/げんこう)時は偶然の暴風に重なって救われたが、それはあくまでも気象現象で、そう都合良く近代戦に「神頼み」など通用する訳がないのだ。

尚、戦前にこの神風伝説(かみかぜでんせつ)にあやかって大日本帝国海軍が量産した駆逐艦の艦級に、多数の神風型駆逐艦(かみかぜかたくちくかん)がある。


純粋に生きる若者は美しい。

「表面的な格好良さ、美しさ」は、大衆受けするだろう。

しかし、それを殊更「美」と捉える所にこそ本質を失う危険がある。

先の大戦時、異論を唱えた多くの知識人は、実質軍政を敷いた政府の酷い弾圧に晒され、「非国民」のレッテルを貼られて沈黙を余儀なくされた。

利己的な個人主義と知識に裏付けされた少数意見を混同し、国家の進むべき方向を違(たが)えた悪しき事例である。

入り口で間違えたものは、最後まで間違いである。

純粋は美しいが「罪」である。

純粋ゆえに否定された不純なものも、また真実だからである。

凡その所、表現の美しさに誤魔化されて真実を見たがらない者は、本質的に「愚か者」である。

戦地に駆りだされた者の死を「家族を護る為に」などと純粋美化して、「魂が救われる」などと思うのは、生き残った者が納得する為の傲慢な自我である。

彼らは「恨みを残して死んで行った」と思えば全く違う扉が開かれるのだ。

そうした背景を背負って、多くの善良な民が戦場に駆り出されて行った。

彼らが純粋に「肉親を護ろう」と戦ったのか、強制的に戦わされる事を「納得する」為に、自らの死を「家族や国の為」と思い込もうとしたのかは、永遠に不明である。

戦死を「無駄死に」と言うのは、亡くなった方に対して「余りにも忍びない」と言う論議もあるが、それを主張してしまうと当時の戦争遂行者の責任もあやふやに成ってしまう。

これは単(ひとえ)に考え方の問題で、人間は何かに拘(こだわ)るとそれ以外の物が見えなくなる生き物である。

個人の生き方に格好をつけて夢を見るのは勝手だが、凡(およ)そ現実的でない建前ばかり言われても「はぃ、そうですか」とは行かないのである。

いずれにしても、本来、格好が良く見えるのは「上面(うわっうら)」だけで、人間の「内面の格好良さ」は、表面には出ない。

しかし、美しく死んで行ったのは名も無く立場の弱い兵士達であり、最高責任者の東條は何故か生き残って処刑された。

つまり軍神と言う神様を乱発して、戦争の具としたのは事実である。

それを言うと、亡くなった人が犬死になるから「余りにも可愛そうだ」と、本質ではない感情論を持ち出して、本質への追求を潰してしまう。

現在中東で頻発している自爆テロも、当事者はジハード(聖戦)と呼び、宗教上の教えと、国と家族を守る「美しい行為」としている。

これをお読みのあなたは、自らを犠牲にして神に殉じるこの主張を「異様なもの」と受け止める方が多いと思う。


皇国史観(こうこくしかん)のその後の変遷であるが、そもそもは尊王攘夷運動の根幹を為すのが、徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で基礎が作られた「皇国史観」である。

しかし現実の天皇家は北朝の流れであり、「北朝の天皇の祭祀も行っていた」とされるが、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていたからまさに南朝・良光親王の末裔は新生日本にうってつけの帝のお血筋だった。

しかし皇統の万世一系の建前は守らなければならない。

つまり南北朝入れ替わりの事実は闇に葬られたまま、南朝正統論に拠る北朝・現天皇家の資格論争がある。

その南朝正統論を踏まえ、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者・頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり「南朝正統論と現皇室の間に矛盾はない」と論じた。

千九百十一年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされる南北朝正閏論が噴出、文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。

これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになり、南北朝正閏論争以降、宮内省も「南朝が正統である」と言う見解を取った。


千九百二十年年代には大正デモクラシーの高まりを受けて、歴史学にも再び自由な言論が活発になりマルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版された。

大正浪漫(大正ロマン)は、時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉であり、その根本は「自我の目覚め」である。

自我の目覚めをデモクラシー(民主的原理)と言い、これは景気が良い時でないと萎縮してしまう繊細な感性で、生活に目一杯では育たないのである。

逆説的に言えば、一昔前の共産主義や社会主義の理性に元ずく規制で、本当に人間の感性を制御出来たかどうかである。

大いなる矛盾ではあるが、規制規制で感性を解き放つ社会でなければ景気など永遠に回復はしない。

確かにデモクラシー(民主的原理)は、言論・集会・結社の自由などの政治運動や人間活動の側面を持つては居るが、本質は正統な人間主義である。

しかし、社会主義運動の高まりと共に思想統制も強化された。


世界恐慌を経て軍国主義が台頭すると、千九百三十五年には憲法学者・美濃部達吉の天皇機関説が、それまで学界では主流であったにも拘らず問題視されて美濃部が不敬罪の疑いで取調べを受け、著書が発禁処分となった事件がある。

千九百四十年には歴史学者・津田左右吉の記紀神話への批判が問題となって著作が発禁処分となり、一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。

そして、第二次世界大戦が勃発すると、「世界に一つの神の国」と記載した国定教科書が小学校に配布された。

我輩が考えるに、或いは「日本人特有だった性文化」と「日本人特有の宗教観」と言うこの二つの「好い加減」な「貞操観念の希薄」が、世界平和と人類共生に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れない。

部族や民族、或いは信仰などで排他的に結束する事は一見正義(正しい事)と誤解し勝ちだが、実はそれが「一番の争いの基」で、そう言う争いの愚は千年・二千年経っても解けない性質のものである。

信仰は好い加減な方がちょうど良いし、部族間で混血融合が進めば一つの民族になる。

本来、信仰は人々に平穏と幸せをもたらすべきもので、我が日本列島では、古くは「誓約(うけい)の性交」が神事(部族融合の呪詛)だった。

この「誓約(うけい)に拠る部族融合」の話し、「個人主義の人権」を言い出したら話には成らないが、つい百年ほど昔までは親が決めた結婚相手と新婚初夜に初めて顔を合わせ、それでも立派に家庭を築いた。

「それは親の横暴で、愛がなければSEX何か出来ない」などと、ややっこしい事を言って居られる様に成ったのは、実は西欧個人主義文化の影響を受けたつい最近の事である。

この二十一世紀と言う現代文明の世に在って、未だ排他的な結束に拠って民族間対立に拠る騒乱内乱で多くの犠牲者が出る現状を垣間見る時、考えるに二千年も前の我が日本列島の民が生み出した「誓約(うけい)の知恵」は、或る種世界に誇るべきものではないだろうか?

そしてその日本固有の優れた二つの「好い加減文化」を否定したものこそ皇国史観そのものだったのではないだろうか?



国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、日中戦争の拡大が発展し第二次世界大戦中に行われた軍事国家としての要(かなめ)となる網羅的動員統制法である。

千九百三十八年 (昭和十三年)に制定された国家総動員法(こっかそうどういんほう)は戦時法規で、四月一日公布、五月五日施行となる。


第二次世界大戦期の日本の総力戦体制の根幹となった戦時法規で、千九百三十八年(昭和十三年)に第一次近衛文麿内閣の下(もと)で制定された。

この法律は、戦時に際し「国防目的達成」の為にあらゆる「人的」及び「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えたもので、一種の白紙委任状にも等しい授権法である。

その各条は、戦争遂行(せんそうすいこう)のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。

日中戦争中に、同法に基づく勅令として、国民徴用令、国民職業能力申告令、価格等統制令、生活必需物資統制令、新聞紙等掲載制限令その他の統制法規がつくられる。

千九百四十一年(昭和十六年)三月、日中戦争が拡大すると国家総動員法(こっかそうどういんほう)は大幅な改正が行われて罰則なども強化された。

戦時国家総動員は、すなわち「戦時(戦争に準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とされる広範な権限を政府に与えた。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争に突入すると、その戦時法規の適用は拡大され、誰も異を唱えられない効力で国民生活を全面的に拘束した。

つまり、「戦争遂行(せんそうすいこう)の為が全てに優先する国家体制」が、この国家総動員法(こっかそうどういんほう)の大幅な改正に依って成立して非常に悲惨な戦争への道程を、国民は歩んでいた。



太平洋戦争も各地で連合軍におされて敗色が濃くなる千九百四十四年(昭和十九年十二月七日)、「昭和東南海地震」が発生する。

この地震の推定マグニチュード七・九、震源地は志摩半島南南東約 二十キロメートル沖の海底だった。

愛知県を中心として、駿河湾から紀伊半島に渡る地方に甚大な被害をもたらした「昭和東南海地震」は大震災で在ったが、戦時中の報道統制下の為、詳細な報道がなされなかった。

つまり米国を中心とした連合軍と交戦中の大本営では、「地震情報は敵を利する」として報道を統制し、公な救助活動もしなかった。

この地震では駿河湾付近の断層は破壊されていないが、静岡、愛知、三重で甚大被害、死者行方不明千二百二十余人、倒壊家屋一万七千五百余戸、流失家屋三千百余戸、津波発生、地盤沈下も見られた。

また、昭和東南海地震の二年後、戦後復興中の千九百四十六年(昭和二十一年十二月二十一日)に、「昭和南海地震」、推定マグニチュード八が発生している。



それでは、靖国神社の問題を考えて欲しい。

国の為に戦った尊い戦争犠牲者を「大切に祭って何が悪い」と言う論調で、事の本質、つまり「権力者の邪(よこしま)な欲望の犠牲者に成った」と言う事を摩り替えていまいか?

皆、自爆テロと戦争犠牲者を「別のもの」と勘違いさせられているようだが、「本質が同じ」と思われるのである。

確かに角度を変えて見れば、国と家族を守る為の立派な犠牲行為であるが、そこばかりを強調して「美談に摩り替える」のはいかがなものであろうか?

ここで問題なのは、戦争犠牲者を「立派な行為」と祭り上げる事が、自爆テロのジハード(聖戦)を奨励する宗教指導者と同じ影響をもたらす事であると気付くかどうかである。

つまり、この手の美談は「権力者に利用され易い」と言う事で、靖国神社は歴史的に元々その為の施設である。

申し添えて置くが、庶民の戦争犠牲者を弔い祭る方法は別に幾らでもある。

それを敢えて靖国神社に祭り、「神に成った」と言う事に「権力者の政治的意図がある」と解釈すると、ジハード(聖戦)と「どれだけの差がある」と言うのであろうか?


人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)のどちらかが基で、戦犯合祀した靖国社へ総理大臣が参拝する問題に於いても、「何んの為に戦い、命を失ったのか」を想い遣る時、無駄死に扱いは「余りにも可愛そう」と言う言い分である。

だが、それこそ「左脳域と右脳域」の論理で言えば、「左脳域の計算」などまったく無い「右脳域の観念」であり、「感情」だけに拠る偏向した主張である。

尊い御霊であればこそ、何故その尊い命を失ったのかを検証すべきで、この英霊に対する「右脳域の観念」は、「左脳と右脳の論理」で言えば「感情」だけの片側思考のバランスの悪いものであり、こう言う綺麗事の主張をする者にその自覚がない。


この国民合意が葛城朝の陰謀、陰陽寮の密命、「民人の民族同化政策」に拠る血の単一民族意識の発露とすれば、たとえ意図的に作られたものでも、間違いなく大和民族の単一民族論が証明された事になる。

現在の日本人は、確かに単一民族である。

しかし過去に他民族国家だった時期が存在し、それを誓約(うけい)の概念と修験山伏の活躍に拠って単一民族にまとめあげた事実が在った事を、中途半端に隠蔽してはならない。


縄文時代の日本列島には樺太から来た原人とその後に黒潮に乗って北上して来た稲作系(熱帯ジャポニカ種)原ポリネシア人、そして早い時期に中国大陸南部・雲南省辺りに発祥し、朝鮮半島経由でやって来た原加羅族系人に拠って先住民族「縄文人(蝦夷/えみし)」が成立した。

その後、紀元前千五年前からの五百年間の頃より日本列島に中国大陸・朝鮮半島などから一族を率いた渡来移住者が多数、勝手に土地を占拠して定着し始め、小国家を形成する。

この小国家が倭の国々で、この時渡来した移住者一族が「縄文人」を制圧して上位に立ち、「縄文人」を未開人の「蝦夷族(えみしぞく)」と呼んで俘囚化し、自らは「天孫族(てんそんぞく)」と言う支配階級(搾取階級)を形成して君臨する。

渡来部族には主に二つの民族系統、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)があり、一時日本列島は縄文人(蝦夷/えみし)を含め三つ巴の多民族の地だった。

日本列島はその後、渡来部族・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と渡来部族・呉族(ごぞく/海洋民族)が、神話の時代として今に伝わる覇権争いと誓約(うけい)の儀を経て西日本で大和朝廷(ヤマト王権)を成立させる。

蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺され,、加羅・呉の両族は日本列島に於ける支配権を確立し氏姓制度を制定して血統至上主義の氏族として永く支配階級の独占をする事に成る。

その後の多民族同化過程が、日本民族の誕生と単一化の歴史であるが、一方で天皇家を始めとする皇族・貴族(公家)・武士・高級神官・高級僧侶などの氏族は、血統至上主義に拠る虚弱精子劣性遺伝に悩まされ人口は抑制される。

もう一方の庶民は共生村社会の夜這い文化で優勢精子の選択機会に恵まれて人口増加する構図の中で、支配階級の氏族人口と被支配階級の庶民の比率は、ほぼ五パーセント対九十五パーセント(非人約五パーセントを含む)を永く保って来た。

つまり見事な人口比率制御のメカニズムが働いていたのだが、これは偶然な事だろうか?

それとも桓武帝の祀り事(政/まつりごと)、或いは陰陽修験道の呪詛なのだろうか?

いずれにしても支配階級(搾取階級)は全体の五パーセントくらいが理想的な比率であるから、多少氏族(搾取階級)の血が混ざっているにせよ、残念ながらいつの時代でも国民のほとんどが被支配階級(被搾取階級)身分だった筈である。

それにしても現代日本では中央役人も地方役人も膨張し、挙句に天下りと称して擬似公務員もどきが大量発生して正常な支配階級(搾取階級)と被支配階級(被搾取階級)の比率を壊してしまった。

搾取階級の比率が増えれば国が遣って行けなくなるのは自明の理で、現代日本の最大の病根である。


それにしても、靖国神社は利用され、多くの戦死者が祭られている。

官僚化した維新の英雄達の、民意誘導の陰謀で有る。

まったく、頭の良い官僚は自分だけは特別だと思っているから、他人の痛みに心が無い。

この発想、英霊には申し訳ないが、腹の中はそんな純粋なものでは無い輩が靖国を利用している気がして成らない。

A級戦犯の合祀に疑問を挟まず、「国の為に亡くなった尊い御霊」と美化する輩は多いが、そう言う人間に限って、自分は安全圏に居て、今後も「国の為に」と、国民に犠牲を強いる目論見が、発想の中に在る指導者である。

敗戦の折、切腹にて自決した阿南陸軍大臣の潔さに比べ、逮捕にやって来た進駐軍の目前で短銃自殺に失敗し女々しく法廷に立った東条英機氏に、靖国合祀の資格ありや?

切腹も出来ず、拳銃で死に切れない。

彼、東条英機はまさしく陸軍の官僚だった。

そんな情けない者が、他人には「国の為に死んで来い。」なんて平気で演説していた。


近頃「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか?

昔の主従関係には思想的に家族主義が在り、鎌倉期の御家人呼称で判るように棟梁には一家内一族の生活を支える責任の側面が在った。

江戸期の中期頃までは徳川家の直参家臣は御家人で、各大名諸侯の家臣は藩士では無く家中の家来と呼んでいた。

つまり武士道は、一家内一族の生活を支える棟梁側の責任を前提とするもので、その一方が欠けた精神論だけにしてしまったのは明治政府の皆兵政策からである。

我輩の解釈では、武士道の真髄は「自らを律し、時に責任に対して潔(いさぎよ)い事だ」と解釈しているがそれは権力者が下位の者に要求する幻想的な綺麗事である。

そしてつい最近の政治家を含め、過去の歴史上で権力者が自ら潔(いさぎよ)かった事など過って全く思い当たらない。

貴方は武士道の国らしく潔(いさぎよ)かった人物を、この二千年を越える歴史の上で何人知っているのか?

詰まり我輩に言わせれば、「武士道とは、権力者に踊らされる事と見つけたり」と言う事である。

上位者が金輪際律しない「武士道の国の綺麗事」を「混乱する現代社会を律しよう」とする試みを声高に言う連中は、格好は良いかも知れないが歴史的現実を無視した理想主義者の建前に終始した「たわ言」である。


「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。

その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、そう言う意味では、日本人の武士道精神も広い意味で「虚(きょ/感性)の範疇に在る」と言える。

つまり憂うべきは、日本史の一般常識とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。


残念ながら、「捕虜になるくらいなら自決せよ」と教えた「武士道の国・日本人」と、敵国の遺児を周囲の批判を受けながらも育てた「仁の国・中国人」と、どちらが人間らしいだろう?

日本には昔から「井の中の蛙大海を知らず」と言う諺(ことわざ)が在りながら、困った事に「海外に行った事が無い或いは団体旅行だけ」と言う方に限って外国人に理解を示さない。

愛国心も必要だが、盲目的な愛国に成らず客観的視点も持たないと日本人は世界から孤立してしまうだろう。


例え米国に追い込まれた結果の開戦とは言え、戦陣訓を想起し、「生きて俘虜の辱めを・・・」と退路を断ち、九割が戦闘ではなく「病死、餓死、自刃、特攻」と言う過酷な死を兵に課した責任を、そして敗戦責任を、何故「靖国A級戦犯合祀問題」の論議から外す?

確かに、東京裁判を法的根拠から見れば「適法で無い事は明らか」で、それを言ったらA級戦犯は無罪である。

しかし戦争遂行者は、自国民と相手国民の命を多数消耗した事実に対して真摯に責任を負うべきである。

即ち、戦争遂行者が「法的根拠で無罪」だからと言って、戦争遂行に力を持たなかった純粋な英霊達と同じ靖国社合祀は、戦争遂行者の責任をウヤムヤにする行為である。

圧倒的に劣る軍装備、補給体勢、前線に届くのは「精神論ばかり」で、戦わされたのが英霊達の過酷な前線だった。

それを今更、奇麗事で、「靖国が戦死者の魂の拠り所だ」と言う。

死者は語らないが、その靖国に、A級戦犯たる戦争指導者と、「合祀されるのは無念」と思う英霊は多い筈である。

果たして英霊が、この事実を美談の影に隠されて本当にA級戦犯合祀の状態で安らかに眠れるのだろうか?

単純な話だが、A級戦犯を靖国神社に合祀する事は、日本の侵略戦争を美化する事であり、侵略された側ではそれは容認できないのは当然である。

そしてさらにA級戦犯の指導で戦わされた庶民も、A級戦犯が靖国神社に合祀されて美化される事を、快く思っているとは思えないのだ。

つまり合祀問題は、外圧論議や条約論議などと言う次元の話ではなく、純粋に日本国内問題である。


現在、靖国神社のA級戦犯合祀問題で、合祀当時の第六代靖国社宮司・松平永芳氏は元福井藩主・松平春嶽の子、宮内大臣松平慶民子爵の長男で終戦時海軍少佐だった。

戦後は陸上自衛隊に入隊し、昭和四十三年、一等陸佐で定年退官、福井市立郷土歴史博物館長を務めた後、昭和五十三年に第六代靖国社宮司に就任、同年十月、A級戦犯十四柱を合祀する。

松平永芳氏が、元福井藩主松平春嶽(明治維新時の幕府側主役の一人)の孫にあたる所から、遡れば福井藩々主・結城(ゆうき)秀康の子孫にあたり徳川家康の子孫でもある。

何故、神職の経験のない元軍人の松平永芳氏が、社格の高い靖国社宮司に成れたのか、それは靖国社が神社本庁に属していない特別な存在で、戦前は軍の管轄に在った別格の神社だったからである。

この松平永芳氏がいきなり靖国社の宮司に就任できた事こそ、我輩が本書で記述している通り神社の歴史的本質が信仰では無く、「氏の支配」の発想である事が如実に反映されたものの照明だった。

つまり血統が良ければ、「神職の経験(僧の修行)が無くても高位の神官、高位の僧侶に成れる」と言う日本の古来からの独自の氏文化、「氏と信仰の関わり」が、未だに続いているのである。

信仰の奥深い所を知らなくても、血統が良ければ人を導く事が出来るのは、過去、信仰が統治の具、馬鹿げた虚構で在った間違いない証拠である。

靖国社は、その成り立ちからして特殊な運命を背負っており、当然ながら、今後も軍や当時の指導者の立場を代弁し続けるであろう。

しかしながら、お国の為に散って行った「尊い英霊の御霊(みたま)」をやすんじる為の宮司が、「神職末経験の素人」とは、英霊遺族の思いをも踏みにじる「笑止噴飯物」と思うのは我輩だけだろうか?


日米開戦について、米国の強行な経済封鎖の為に開戦に追い込まれた「自衛の為の止む負えないものだった」と言う論議があり、その部分は我輩も事実として同意する。

しかし、その事をもって時の戦争指導者(A級戦犯)を擁護する意見もあるが、ならば、日米開戦以前に事実上属国として中国から強引に独立させ、大量の開拓民を送り込んだ満州国の建国は、「日本が食えなかったから止む負えないものだった」とでも言う積りか?

満州国独立後も、中国々内に進軍して戦闘占領を拡大して行ったのは、「相手が交戦抵抗するから、止むを得無いものだった」と、まるで言い掛かりみたいな事を言い張るつもりなのか?

それらの事実を無視して「自衛の為の止む負えないものだった」と強情を張るのは、「泥棒にも三分の利」のごときもので、生きていく為ならばどこかの半島の赤い国のごとく、一方的な言い分で相手に被害を与えて良い事になる。

つまり同質の主張をするのであれば、半島の赤い国の悪行を批難出来なくなるから、恥かし気も無く、この矛盾に満ちた言い分を言い張るのは、見っとも無いので「もうそろそろ止めて欲しい」と我輩は切に願っている。


A級戦犯合祀に反対しているのは中国なのに、日米開戦の責任論に争点をもって行って、別に米国が強く抗議をしている訳でもないのに、戦争責任の全てがそれであるかのごとく、もっともらしく言うのは意図を持ったごまかしである。

また、A級戦犯に対する裁判の正当性についての論議は確かにあり、個々の評価についても東京裁判が必ずしも正しいとは限らないが、それをもって靖国合祀の正当性を関連付けて論じるのは、矛盾に満ちた「こじつけ」である。

つまり、一方では個々の評価を要求しながら、一方ではひと括りに「お国の為に亡くなったのは皆同じだ」と都合の良い事を言う。

この合祀問題を他国の圧力として物を言う方も居るが、他国に言われるからではなく、その本質に於いてA級戦犯は分祀すべきである。

何故なら、例え言い分は有っても、国民をミスリードした戦争指導者の罪は消えるものではない。


戦時下の軍人宰相・東条英機(とうじょうひでき)氏は、後の平成の世に現れた民主党の第三代総理大臣・野田佳彦(のだよしひこ)氏と良く似た強情ぱりの良い子坊ちゃんである。

両氏に共通するのは、立場が総理に変わった時点の「人として恥も外聞も無い強情ぱりへの豹変」である。

東条英機(とうじょうひでき)氏は、首相就任前は軍首脳として相対的な戦力判断から戦争の継続に消極的だった。

それが英機(ひでき)氏は、首相に就任した途端に世論に迎合した良い子坊ちゃんになり、強情ぱりに戦争の継続に積極的になって自らの権力維持に心血を注いだ。

勿論、八月十五日の無条件降伏に到る過程で、何度も敗戦を認めるタイミングは在ったが、英機(ひでき)氏は己の責任を回避する為に景気の良い演説を繰り返している。

国民の生命財産を犠牲にして継続した戦争の意味は、東条英機(とうじょうひでき)氏にとって何だったのだろうか?

つまり自分だけが可愛い強情ぱりの良い子坊ちゃんが、己の事だけを最優先した結果である。

もっとも野田佳彦(のだよしひこ)氏の良い子坊ちゃんは、世論に迎合したのでは無く、官僚に迎合した低俗な強情ぱりの良い子坊ちゃんである。

戦後の日本で、官僚と敵対した政権は長続きがしない。

野田佳彦(のだよしひこ)氏の二代前(鳩山)、一代前(管)は官僚のサボタージュで国家運営が上手く行かず短命内閣だった。

その経験から野田佳彦(のだよしひこ)氏は、官僚に魂を売り渡しても首相の座を永らえようとした。

幾ら綺麗事の大儀名分を並べても人間には金・地位・名誉などの欲があり、何らかの得るものがなければ熱心に行動はしない。

東条英機(とうじょうひでき)氏と野田佳彦(のだよしひこ)氏、両氏の様相は若干異(じゃっかんこと)なるが、いずれにしても国を危うくさせる「本人大事」のご都合主義的危険な強情ぱりで有る事には違いが無い。


戦犯合祀問題は、民間の失敗責任や結果責任は徹底的に追及しても、官僚や役人の失敗責任や結果責任には甘い「わが国特有の体質」を象徴しているのではないか?

例え国の為を思って成した事でも結果責任を取らすべきで、その点この問題は「加害者と被害者を一緒に祭る」と言う、恐らく一般の英霊には納得の行かない状態にある。

公務の失敗は「その罪を問わない」と言う馬鹿げた考え方は世界広しと言えど、「お上(神)意識・(氏族優位)」で固まった歴史観を持つ日本だけで、その延長戦上に、官僚の特権意識、役人の責任のなさ、戦争指導者(A級戦犯)の失敗責任論への甘さがある。

旧南部盛岡藩士から陸軍大学校首席卒業の陸軍中将・東條英教(ひでのり)の三男として生まれた東條英機は、父親と同じく陸軍大学校を卒業した秀才で、親子二代に渡る軍人である。

因果な事で有るが、この東條家は勘解由小路党の末裔である。

東條家は、武士と言っても江戸時代、能楽をもって南部盛岡藩に仕えた家でありその家系は観阿弥の長兄宝生大夫の末裔を称し、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、「伊賀・服部の血筋」と言う訳である。

もっとも東條家は、諜報機関としての武門が化け世を忍ぶ為の表芸から芸能門に特化したのが日本の古典芸能であるから特化して軟弱化し、武人と言うより文化人の家系で、武士の心を忘れていたのかも知れない。

事の是非を超越して、多くの善良なる庶民を自身が指揮して死に行かせながら、自分や家族の安全を謀るなど、戦場で散った英霊に対し申し開きが有る筈が無い。

しかし、それが「権力者の正体」と言うものである。

表向きの建前は、常に権力者の利の為であり、権力者は本音でとんでもない事を考えている。

維新以後の歴代政府は、儒教を道徳の柱にして国家の統制を図った。

当然ながら「嘘はいけない事。」と散々教えた。

その政府が、「国民に不安を与えたくない」の理由で、負け戦を「勝った勝った」と発表した。

東条英機氏が首相を勤めた戦時中の「大本営発表」である。

すると、「嘘はいけない事。」と言うのは国民限定の戒め、道徳的教えらしい。

それが証拠に、戦後六十年間を経た現在でも政治に嘘が蔓延している。

「武士道の国・日本」と「大本営発表」、この矛盾を解消しない限り、日本の政治家の言う事は建前以外の何物でもない。

維新政府が採用した儒教の悪しき面は、精神論の極端な傾倒にある。

勿論節度を持つ事は良い事で、儒教が悪い訳ではなく、それを曲解した形で権力が極端な精神論として利用する事が問題である。


実は歴史的に見て、洋の東西に関わらず巻き込みこそすれ軍事組織が民・国民を守った歴史は無い。

何故ならば、幾ら綺麗事を言っても軍事組織が守るのは政治指導者達の利権権益で在って、国民の命ではないからである。

そして下級兵士はその為に使い捨てにされるのが常だった。

それ故に、二次大戦中の満州関東軍は「作戦」と称して攻め込んで来たロシア軍から在満邦人(日本人入植者)を守る事無く撤退している。

「市民・国民を守る戦い」などと建前を並べ立てても上辺だけで、沖縄戦に於いても市民と伴に立て篭もったガマ(洞穴)から日本兵は「戦闘の邪魔」を理由に市民を追い出したか自決を促したのが事実である。

勿論個々の兵士には「市民・国民を守る」と言う気持ちは在ったかも知れないが、組織としての軍隊にはそんな良心は通用しない。

つまり戦略戦術が軍事組織の命であるから、それを度外視して民・国民を守る事など元々許されては居ないのである。

益してや米国の思想は利益最優先の市場原理主義で、如何に日米安全保障条約があろうとも他国の軍隊である米軍が、利権権益目的でもない限り他国の国民の為に命を賭けて戦う訳がない。

米国は軍事産業大国であるから、屡(しばしば)戦争が景気回復のツール(道具)だった事も事実で、大儀名分が立てば戦うかも知れないが、けっしてその国の民・国民の為では無い。

その証拠に、日本に大きな財政負担をさせながら米国の利権権益の軍事行動に終始し、同盟国と言いながら北朝鮮の拉致問題など利権権益に結び付かない事例では同盟・日本国民の不幸に、米国は知らん顔である。

それに他国の軍事的脅威は側面で政権維持に貢献するもので、或る種共通の利害があるから適当に緊張していてくれた方が「政治指導者達には利する」と言う矛盾を内在している。

いずれにしても他国の駐留軍・米軍が、本音は利権権益目的で民・国民を守ってくれないのであれば、在留米軍基地の要不要は空しい抑止力論議である。

政治指導者は、敵国に敗れれば「大変な事になる」と国民に恐怖を煽るが、特殊な例を除けば相手国の国民を根絶やしにする事など論理的に在り得ない。

何故なら、背景に在るのが政治指導者達の利権権益であるなら搾取相手である民・国民を根絶やしにするする訳が無い。

つまり例え敗れても山河は残り、民族が居れば粘り強く自立を図れば良いのである。

そうなると、綺麗事に騙されて政治指導者達の利権権益の為に国民の命そのものを賭ける事が得策なのかは自明の利である。


戦(いくさ)は、引き際(撤退時期)が大切である。

第二次世界大戦(太平洋戦争)では、負け戦(いくさ)を止めなかったのは国家国民の為ではなく、理不尽な事に指導者階級の「己の保身の為」で、その為に将兵の犠牲は膨らんで行った。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の各方面作戦でも、この「己の保身の弊害」が現地部隊将兵に悲惨な現実を押し付けたのである。

検証を進めると東条英機氏を始め赦すべきでない人間が多数居た。

織田信長が越前朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りに合い窮地に陥った時、或いは信長が古いタイプの武将だったら、「撤退は武門の恥じだ」と意地を張って全滅したかも知れない。

この辺りから武門を中心に儒教の悪しき面、精神論の極端な傾倒が見みられ始めているのだ。

信長は即断で撤退を決め、美濃国・岐阜の居城に逃げ帰り、態勢を立て直して反撃に出ている。

味方に利有らずなら、躊躇(ちゅちょ)無く撤退するのが織田信長の才である。

引き際(撤退時期)の良さと言えば本能寺の変の後、その後の主導権を取る為の羽柴秀吉(豊臣)と柴田勝家の決断の違いが、この引き際(撤退時期)の見極めだった。

毛利勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)しなかった羽柴秀吉(豊臣)と上杉勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)した柴田勝家との両者の結果は誰でも承知している。

本能寺の変の後に羽柴秀吉(豊臣)に遅れを取り織田家臣団の主導権を失った柴田勝家は、肝心な時に上杉謙信と対峙して北陸路に釘着(くぎづ)けだったのである。

柴田勝家は古いタイプの武将だけに、撤退に際し「武士の体面(面子)・武門の恥じ」などのべき論に拘ったのかも知れない。

何しろ勝家は、「やぁやぁ我こそは〜」の古い既成概念の塊(かたまり)のような律儀な男だった。

その点、羽柴秀吉(豊臣)の方は生まれからして氏族の生まれではなく、古いタイプの武将には最も遠い男だった。

鎌倉期から始まった儒教の極端な精神論の傾倒「氏族の古い既成概念」など、その出自からして羽柴秀吉(豊臣)には最初から無かったのである。

この「引く事(撤退)の勇気」は現代の官僚政治でも企業経営でも必要なものであるが、不祥事を起こす省庁や企業は、大抵の場合「縄張り意識や己の保身」の為に自己の誤りや不正を認めず、引き際(撤退時期)を誤って放置され、最後は抜き挿し成らない事態に陥ってしまう。

つまり口では偉そうな「建前」を言い、裏で自己の誤りや不正に蓋をし続けるのが日本の官僚政治や企業経営なのである。


他人に人を殺させれば「殺人教唆」、人を一人〜二人と殺せば「殺人者」、しかし人を大量に殺させたり自ら大量に殺せば歴史的英雄に成れる。

覇権本能は男の性(さが)であるから一概(いちがい)に「悪」とは言い切れないが、それが大量殺戮や一般市民を巻き込む悲劇を生む所に、良識ある者には違和感を感じる。

所が、当の覇権主義者(統治者)は、「目的の為の手段」と言う思考がその延長線上にあるから、「統治者の論理」で押し通し庶民の苦しみなど意に介しない。


群れ社会から始まった人間の感性には、「リーダーに成った者が偉い」と言う一種の依存性とも言える「想いたい願望」が存在する。

このタイプの「リーダー依存性人間」は、原始感性を引きずって生きて来た未成熟で純粋な、そして権力者に「利用され易い善人」である。

しかし歴史研究者として時代時代のリーダーを評価すると、その業績には功罪相半ばする「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」が排除できない。

そして学識者の本音では「そんな事は当たり前だ」と想いながらも、「リーダーに成った者が偉い」と言う庶民の幻想を、建前として支持している。


人間は、とてつもなく優しくも、とてつもなく非情にもなれる。

この二面性の裏には宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)が存在し、「目的の為の手段」と言う魔法の言葉で、「非情な悪」も正義に成るからである。

現代社会では、金や権力を持たないと中々他人に何かしてやれない。

だが、他人に何かしてやれるように成るには、「多少の無理をしても、のし上がろう」と言う矛盾(むじゅん)に眼を瞑(つむ)らなければ、金も権力も容易(たやすく)く手に入らない。

つまり金や権力をもたらせる「目的の為の手段」と言う理屈が己を納得させつつ、「多少の無理」を行使する事が、人間が腐る始まりである。


我輩の歴史研究者としてのスタンスでは、「政治家も官僚も、そして労働組合の幹部も、権力を握れば人間性が腐って善人で居られない。」が正に持論である。

実は、「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」と言う理論が、「目的の為の手段」と言う魔法の言葉で、「権力を握れば、人間性が腐って善人で居られない。」を生み出している。

つまり、「従業員の為」と「会社の為」は、ある部分では「利」が一致するが、当然ながら「利」が相反する場合も多く、そこに「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」が在る。

会社維持の為に人権費の圧縮は当たり前だし、同様に節税(脱税?)もするし安全設備の出費も圧縮する。

だから「従業員の為」と言いながら「会社の為」に腐心する経営者は、何処かでその矛盾に「目的の為の手段」と言う魔法を使う。


「何が宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)か」と言うと、政治権力を握らないと理想的政治を実施できないが、しかし政治権力を握るには「清廉潔白」とばかりでは居られない矛盾(むじゅん)がつきまとう。

財界首脳と言う権力を握るには、熾烈な社内抗争からライバル企業との競争に打ち勝ち、そのポストを手にしたら企業と業界の発展の発展には「清廉潔白」とばかりでは居られない矛盾(むじゅん)がつきまとう。


例えば地方政治家の仕事は条例の制定、中央政治家(代議士)の仕事は立法である。

この条例や立法の内容を、少しでも有利にする為の団体が、財界経済団体や業界団体、そして労働団体で、合法の寄付行為から裏金まで「役に立つ議員だから出す金」で、目的も無しに出す金など何処の団体にも無い。

合法の寄付行為も、政治家達が抵抗して残した抜け道だけで、支援団体が政治家を利用する構図は昔の「お主しも悪よの〜」とたいして違いは無い。

つまり族議員を支援する財界経済団体や業界団体、そして労働団体の目的は、「国民全体の利益」など眼中に無く、すべからく自分達の業界の発展(おのれの利)だけに特化して尽力している訳である。

当然ながら集票支援から寄付金まで、受け取る方の政治家も支援団体とは持ちつ持たれつで、減税立法から血税投入政策まで、そうした支援団体の意向は無視でき無い。

官僚は官僚で、政府系外郭団体から財界のシンクタンクまで天下り先の確保に血眼になって手心を加えている。

政治家・官僚・各支援団体の首脳まで、権力を手にしたリーダー達は「目的の為の手段」と言う発想で己を納得させつつ「自己の利益の為」に日夜奮闘している。

こうした権力者は、「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」の中で「目的の為の手段」を行使して勝ち上がっている。

そして一度その立場に立った権力者は、「権力のさらなる向上」と言う論理優先の為に、人間的に更らに品格が腐って行くものである。

つまり善人には、金も権力も「金輪際手に入らない」と言う事である。


器量のある者には、黙っていても人が付いて来る。

しかしこの場合、都合が悪くなると離れて行く者が多いのも世の中で有る。

古今東西、人が付いて来ない奴に限って恐怖政治をする。

処が、その人間性を突き破った奴ほど大きく成功するから、世の中矛盾だらけである。

恐怖が神になる図式は「二千年変わらない」と言うのか?

「人間的愚かさ」と言えばその通りだが、村落共同体(村社会)とその性規範の記述部分でも取り上げた集団環境に影響される群れ社会の「集団同調性バイアス」が、明治中期(明治二十七年)頃から国民総意のごとき行動現象を引き起こす。

此処で言うバイアスとは脳のメカニズムの問題だが、バイアスとは「特殊な、或いは特定の意見等で偏っている事」を意味する人間の行動学上の習性の一つで、こうした集団心理状態は宗教現場や閉鎖された村落部の掟(おきて)などに顕著に現れる。

特に顕著に「集団同調性バイアス」現象が現れるのは災害時や戦争時などの状況下で、周りの人々がどう対応しているかも個人の行動に影響し、つまりは本来向かうべき思考とは違う方向に偏る事である。

「集団心理」と言ってしまえばそれまでだが、一人でいる時には咄嗟に緊急事態に対応できても、集団で居ると「皆の総意だから」という安心感で「緊急行動や独自判断が遅れがちになる」と言う。

これが「集団同調性バイアス」で、それは人数が多ければ多いほど他の人と違う行動を取り難くくなり、他の人が逃げていないのに自分一人が逃げる事は難しい心理状態になるのだ。

つまりは、その判断が正しいか正しくないかを周囲に求め、個人の判断を封じてしまうのが「集団同調性バイアス」と言う行動現象なのである。

日清戦争から昭和二十年八月の太平洋戦争敗戦まで、全ての日本人は極端な皇民教育の中「神風の不敗」を信じて「集団同調性バイアス」の中に在った。

つまり戦争をしでかしたのは当時の指導者だが、「国が富めば生活が向上する」と熱に浮かれた様に戦争に同調性した一般市民が日本国民の大半だった。

元を正せば明治政府が、民族統一の為に皇室を神格化したからこそ「神風の不敗」がまかり通り、敗戦を前提にする議論に踏み込めずに決定的な所まで戦い続ける愚を犯したのである。



枢軸国(すうじくこく)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉である。

ドイツ、日本、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイなどソビエトを脅威と捉えていた反共主義国家が多い。

また、連合国が承認していない国家としては、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満洲国、中華民国南京政府などがある。

そして枢軸国(すうじくこく)は、ドイツのアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権がその中心を為していた。

ヒトラー率いるナチ党政権下のドイツと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世国王の元、ベニート・ムッソリーニ率いるファシズム体制下のイタリア王国はどちらも類似した権威主義的体制で、思想的に近いものがあった。

しかし両国の関係は当初必ずしも良好ではなく、千九百三十四年にヒトラーとムッソリーニの初会談が行われた時も特に会談の成果は生まれなかった。

第二次世界大戦に於ける枢軸国は連合国と戦闘した国々であるが、枢軸国全体で統合された戦争指導は最後まで行われなかった。

このためドイツの対ソ開戦や日本の対米開戦は事前に通知されておらず、交戦相手も統一されていないなど、枢軸国の足並みは揃わなかった。

その為、千九百三十九年に勃発したポーランド侵攻に参加した枢軸国は、ドイツとその影響下で独立したスロバキア共和国のみであった。


千九百四十年五月に行われたドイツによるフランス進攻が、枢軸軍電撃戦として成功し、フランスはドイツの占領下で親ドイツ政権が成立する。

千九百四十年五月に行われたドイツによるフランス進攻が、枢軸軍電撃戦として成功する。

この成功に依り、イタリアと、前年にイタリアの侵攻を受けて同君連合を形成していたアルバニア王国も枢軸国に加わり、連合国に宣戦布告した。

八月十六日に行われた第二次ウィーン裁定によって、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、ルーマニアを枢軸国の影響下においた。

千九百四十年九月には「日独伊三国条約(三国同盟)」が結ばれ、以降、「枢軸条約」と表記される。

ただしこの時点では、この条約に日本が加入する事は枢軸国として参戦する事ではなかった。

この年の十一月にはハンガリー王国、ルーマニアが「枢軸条約」に加入する。

千九百四十一年三月一日ドイツ軍はブルガリア王国に進駐して「枢軸条約」に参加させる。

同年三月二十五日、ユーゴスラビア王国も「枢軸条約」に参加したが、二日後の三月二十七日にはクーデターが発生している。

クーデター後のユーゴスラビア新政府はドイツとの協調関係を維持すると声明したが、ヒトラーは許さずユーゴスラビア侵攻に踏み切った。

戦後、ユーゴスラビアはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、そして独立したクロアチア独立国とセルビア救国政府、モンテネグロ王国によって占領される。

同千九百四十一年六月二十二日、ヒトラーの号令で独ソ戦が始まった。

ハンガリー、ルーマニア、クロアチアも独ソ戦に参戦し、さらに「冬戦争」でソ連の侵略を受けていたフィンランドも継続戦争状態のまま七月十日に参戦した。

独ソ戦開始の際にヒトラーはフィンランドを同盟国と呼んだが、実際にはフィンランドはドイツと同盟を結んでおらず、あくまで共同参戦国(英語版)であるという主張を行っている。

しかしフィンランド領内にはドイツ軍が駐屯しており、同年十一月二十五日に防共協定に参加している。

フィンランドがソ連側からの講和交渉を拒絶した為、イギリスによる宣戦を受けている。

千九百四十年十一月二十一日、北アフリカの植民地を失ったフランス・ヴィシー政権(ドイツ占領下の傀儡政権)に業を煮やしたドイツはアントン作戦を敢行、フランス全土を占領した。


千九百四十一年十二月八日、日本はコタバル上陸及び真珠湾攻撃を行い、アメリカ合衆国とイギリスに宣戦布告した。

オランダ政府は同年十二月十日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した。

同年十二月十一日ドイツは条約上の参戦義務は無かったがアメリカに宣戦布告し、他の条約参加国も追随する。

この時点で、日本はソ連との間に日ソ中立条約を結んでいた為、日本はソ連に宣戦することはなかった。

しかし、日中戦争で日本と交戦中であった中華民国は日本とドイツ、イタリアに対して正式に宣戦布告を行い、連合国に加入する。

この十二月十一日には日独伊単独不講和協定が結ばれ、枢軸国陣営が成立した。

また同日、日本とタイ王国の間で日泰攻守同盟条約が結ばれ、翌千九百四十二年一月八日、条約締結に反応したイギリス軍とアメリカ軍がタイに対して攻撃を行った。

この為、一月二十五日にタイ王国はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。


千九百四十二年六月二十六日からのスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、枢軸国にとって戦局は悪化の一途をたどるようになった。

戦局利あらずと観たフィンランドはこの時期からアメリカを仲介としてソ連と休戦交渉を行っている。

千九百四十三年七月二十四日、イタリア王国でクーデターが発生し、ムッソリーニは逮捕・監禁されたがドイツによって救出された。

九月八日イタリア王国は連合国に降伏したが、九月二十三日にはドイツによってムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国がイタリア北部に成立し、枢軸国として戦闘を続けた。

またアルバニアはドイツの占領下に置かれ、ドイツ主導による傀儡政権の統治下に置かれた。

千九百四十三年十月三日、ムッソリーニのイタリア社会共和国と別に存在したイタリア王国はドイツに宣戦布告した。

同千九百四十三年十月二十一日、日本の支援の下自由インド仮政府が成立する。

自由インド仮政府軍はインドの宗主国であるイギリスに対して戦闘を行った。

同十一月十六日、大東亜会議において大東亜共同宣言が宣言された。

この宣言は「大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ」とあるように、日本と同盟しアメリカ・イギリスと戦うという内容であった。

この際、日本は会議参加国に対して米英への宣戦布告を要求した。

ビルマはイギリス・アメリカに宣戦布告したものの、フィリピン第二共和国は宣戦を拒絶した。


同千九百四十三年の後半になると、欧州に於ける東部戦線は崩壊し始める。

八月二十四日、ルーマニアはクーデターによって連合国側につき、ドイツに対して宣戦布告を行った。

同九月九日にはブルガリアでもクーデターが発生し、連合国側について枢軸国に宣戦した。

その十日後の九月十九日、継続戦争を戦っていたフィンランドはソ連と休戦条約を結んだ。

その後フィンランドは駐留ドイツ軍とラップランド戦争と称される交戦を行う。

同十月十五日にはハンガリーも対ソ休戦を発表しようとしたが、ドイツ軍のクーデターによって親独派の矢十字党政権のハンガリー国が成立し、枢軸国側に留まった。

西部戦線でも八月二十六日にパリが連合軍によって奪回されるなど、ヴィシー政権とドイツのフランス支配は終焉した。


千九百四十五年三月、日本は支配下に置いていた仏領インドシナからベトナム帝国、ラオス王国、カンボジア王国を独立させ、傀儡政権を樹立する。

そんな中、ヨーロッパは完全に連合国側の手に落ち、欧州の枢軸国は次々と脱落・消滅していった。

同年四月二十五日にはイタリア社会共和国が降伏、五月八日にはドイツが降伏した。
最後に残った日本も、広島・長崎への原爆投下の甚大な被爆被害を受け、八月十五日に降伏受け入れを表明し、九月二日には正式な降伏文書調印を行った。



第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の千九百四十五年(昭和二十年年)八月六日午前八時十五分に、米軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾に関する記述を広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)とする。

この広島原爆投下(ひろしまげんばくとうか)が、実戦で使われた世界最初の核兵器である。

第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造の為に、科学者、技術者を総動員した計画が、マンハッタン計画(マンハッタンけいかく)である。

計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていた為、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。


計画は成功し、原子爆弾が製造され、千九百四十五年七月十六日世界で初めてニューメキシコでの原爆実験を実施した。

大規模な計画を効率的に運営する為に管理工学が使用され、科学部門のリーダーはユダヤ系アメリカ人の物理学者ロバート・オッペンハイマーがあたった。


千九百四十五年七月二十五日、米大統領・トルーマンが原爆投下の指令を承認する。

ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)に原爆投下が指令された。

八月二日、グアム島の米軍・第二十航空軍司令部からテニアン島の第五百九混成群団に、次のような野戦命令十三号が発令される。

八月四日、原子爆弾を搭載するB-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。

翌八月五日二十一時二十分、第五百九混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。

同五日、五百九混成群団司令部から作戦命令三十五号が発令される。

ブリーフィング(簡単な報告・指令)で、ポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイの搭乗員に出撃命令を伝えた。

エノラ・ゲイと言う爆撃機のニックネームは、出撃命令を伝えたポール・ティベッツ陸軍大佐の母親の名前に由来すると言う。


八月六日零時三十七分、まず気象観測機のB-29が三機、候補都市三ヵ所の天候状態を観測しに離陸した。

ストレートフラッシュ号は広島市へ、ジャビット3世号は小倉市へ、フルハウス号は長崎市だった。

零時五十一分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。

続いて一時二十七分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、一時四十五分にA滑走路の端から離陸する。

エノラ・ゲイ離陸二分後の一時四十七分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が離陸する。

さらに二分後の一時四十九分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。


この八月六日、六機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内四機が広島上空へ向かっていた。B-29が、テニアン島から広島市までは約七時間の飛行で到達できる距離である。

八月六日六時三十分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モーリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らがエノラ・ゲイの爆弾倉に入る。

彼らが、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。

作業を終えたパーソンズ大佐はポール・ティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。

機長・ポール・ティベッツ大佐は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。

この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見する。

通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。

エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度二千m前後の低空飛行から急上昇し、七時三十分に八千七百mまで高度を上げた。

さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが被弾はなかった。

この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、高高度飛行に対応できず射撃位置の占有に失敗した。


エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開する。

七時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の一機、クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号が広島上空に到達した。

七時十五分頃、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第三百十三航空団に気象報告を「Y3、Q3、B2、C1」と送信する。

「Y3、Q3、B2、C1」の意味は「低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第一目標(広島)を爆撃せよ」だった。

この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であり、投下目標が広島に決定される。


ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から七時九分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱した為、七時三十一分に解除された。

その後の八時過ぎ、B-29少数機(報告では二機であったが、実際には三機)が日本側によって捕捉される。

八時九分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。

その八時九分、中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。

八時十三分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。

エノラ・ゲイ号の高度は、三万一千六百フィート(役九千六百三十メートル)に在り、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。

青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。

この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を、目撃した市民が原爆と誤認した為、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。

この誤りの為、一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲(ろかく/接収)した。

広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。

また一部の市民は、このラジオゾンデ投下を「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

八時十二分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP=第一目標=広島)に到達した事を、航法士カーク陸軍大尉は確認した。

エノラ・ゲイ機は自動操縦に切り替えられ、爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。

相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋であり、特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できる為、目標に選ばれていた。

八時五十一分十七秒、原爆リトルボーイが自動投下された。

副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2km)離れた地点の上空であると推察される。

三機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避ける為にバンクして進路を155度急旋回した。

再び手動操縦に切り替えたポール・ティベッツ大佐はB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。

リトルボーイは、爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。

落下したリトルボーイは間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約四十三秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約六百メートルの上空で核分裂爆発を起こした。


この一発の兵器により当時の広島市の推定人口三十五万人のうち九万〜十六万六千人が被爆から二〜四ヶ月以内に死亡したとされる。

この広島での核爆発被害の詳細は余りにも残酷なので、ここでは記述を控えさせてもらう。



長崎原爆投下(ながさきげんばくとうか)とは、第二次世界大戦末期の千九百四十五年年(昭和二十年)八月九日午前十一時二分に、米軍が日本の長崎市に対して投下した原子爆弾の事を言う。

この投下は、広島原爆投下(ひろしまげんばくとうか)に次いで実戦で使われた人類史上二発目の核兵器である。


八月六日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した。

その夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われる為にその指揮を執る事を命じられる。

その目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市である事を告げられた。

その時に指示された戦術は、一機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで三機のB-29が目標都市上空に侵入すると言うものであった。

そして出撃機は、合計六機であった。

この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストで在ったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。

これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すと言う手間を省く為、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーと言うニックネームの機となった。

ボックスカーには、スウィーニー少佐をはじめとする乗務員十名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の三名が搭乗した。


先行していた気象観測機・エノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できると報告が来る。

ラッギン・ドラゴンからは、長崎市は朝靄が掛かっており曇っているが、雲量は十分の二であるとの報告があった。

硫黄島上空を経て、午前七時四十五分に屋久島上空の合流地点に達し、ボックスカーは計測機のグレート・アーティストとは合流できた。

だが、誤って高度一万二千mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは合流できなかった。

ボックスカーは四十分間合流を試みたが、時間経過後、スウィーニー少佐はやむなく二機編隊で作戦を続行する決断をした。

午前九時四十分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、九時四十四分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達する。

しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙の為に、目視による投下目標確認に失敗する。

この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、「八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ七km)の残煙と靄だ」と言われる。

米軍の報告書にも、小倉市上空の状況について「雲」ではなく「煙」との記述が見られ、「煙」には信ぴょう性がある。

この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している。

その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度三度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗し、この間およそ四十五分間もロスしていた。

この小倉上空での三回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。

その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第五十九戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第二百三航空隊の零式艦上戦闘機十機が緊急発進してきた事も確認された。

こうした状況下で、機長・スウィーニー少佐は、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前十時三十分頃、小倉市上空を離脱した。


ボックスカーが長崎に向かう途中、トラブルが発生した。

計測機・グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。

直後、「チャック! どこにいる?」と言う、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。

結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミスし、危うく空中衝突をするところであった。

長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していた。

だが、その報告からかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。

ボックスカーは小倉を離れて約二十分後、長崎県上空へ侵入、午前十時五十分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度千八百mから二千四百mの間が、八十〜九十%の積雲で覆われていた。

ボックスカーは補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。

スウィーニー機長は、目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニー機長に促(うなが)してきた。

命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。

爆撃手カーミット・ビーハン大尉は「街が見える!」・・「Tally ho!雲の切れ間に第二目標発見!」と大声で叫んだ。

スウィーニー機長は、直ちに自動操縦に切り替えてビーハン大尉に操縦を渡した。

ビーハン大尉は、工業地帯を臨機目標として、高度九千mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。

ファットマンは放物線を描きながら落下、約一分後の午前十一時二分、長崎市街中心部から約三kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度五百mプラスマイナス十mで炸裂した。

ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避ける為北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。

爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温などを計測する三個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。

これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村(12.5km)、江の浦村(13.3km)に落下した。

ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。


この一発の兵器により当時の長崎市の人口二十四万人(推定)のうち約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

この長崎での核爆発被害の詳細は余りにも残酷なので、ここでは記述を控えさせてもらう。


そこで、この核爆弾投下に対する米国民の解釈が問題なのである。

例えば、八月六日の広島原爆投下から七十年経った現在でも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。

何故なら戦後の米国内教育が、長期に渡り「広島への原爆投下は、戦争終結の為に正しかった」と一貫して居たからだ。

これはもぅ各国の為政者が、自分達の為に創る「お定まりの創作神話」みたいな偽りの歴史例である。

しかしその広島原爆投下の現実は、一瞬にして地方の大都市を破壊し、ほとんどが非戦闘員だった十四万人強の人々を無差別に殺戮している。

広島被爆から三日後、八月九日に再び長崎に原爆が投下され、またも無差別に約七万四千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊している。

また、この二発の原爆から生き延びた被爆者は、永い事悲惨な原爆症に苦しめられる生涯を送る事に成った。

それでも、米国民の半数を超す人達が「広島への原爆投下は正しかった」と理解している。

つまりこう言う為政者を正当化する「創作神話」は、いつの世にもどこの国でもある事だが、その「為政者の創作神話」が必ずしも正しく無い現実を、人々は知らねば成らない。



千九百四十五年(昭和二十年)七月二十六日に発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全十三ヵ条から成る宣言が、ポツダム宣言(ポツダムせんげん)である。

ポツダム宣言(ポツダムせんげん)の、正式名称は「日本への降伏要求の最終宣言」と言う。

ナチス・ドイツ降伏後の千九百四十五年(昭和二十年)七月十七日から八月二日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の三ヵ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた。

三ヵ国の首脳は、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンだった。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石(しょうかいせき)国民政府主席の共同声明として発表されたものである。

このポツダム宣言は、宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。

英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかった為、トルーマンが自身を含めた三人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得た)。

宣言を発した各国の名をとって、「米英中三国共同宣言」とも言う。

ソビエト連邦は後から加わり追認した。


ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、太平洋戦争末期にソビエト連邦軍が日ソ中立条約(千九百四十一年/昭和十六年締結)を一方的に破棄して満州に攻め込んで来た一連の奇襲攻撃の作戦・戦闘を指す。

このソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、千九百四十五年八月九日未明に開始された。

日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島に於ける一連の作戦・戦闘である。

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。


ロシア革命後のソ連は、世界を共産主義化する事を至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。

極東に於いては、朝鮮半島から満州地方に勢力を延ばしつつ在った日本との日ソの軍拡競争は千九百三十三年(昭和八年)からすでに始まっていた。

当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進した。

しかし千九百三十六年(昭和十一年)頃には、日ソ間に戦備に決定的な開きが現れていた。

師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站に渡って極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを「大きく凌いでいた」と言われる。

張鼓峰事件やノモンハン事件に於いて日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識した。

しかしながら、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争(大東亜戦争)勃発で南方へと移行し、対ソへの備えに手が回らない事となる。

千九百四十三年後半以降の南方に於ける戦局の悪化は、関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらせ弱体化が進んだ。

満洲に於ける日本の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、終(つい)に千九百四十五年五月に敗北した。

この日ソ中立条約、元々国家間に誠意が在っての条約ではない。

ただ単に、米英中と言った相手と戦争する日本に、「背後からソ連に攻められない為」とドイツと戦うソ連が、「背後から日本に攻められない為」と言う互いの利が一致したからである。

つまりどちらの国も、前面の敵が無く成れば条約を破棄して開戦に到る可能性は充分に在った。

ドイツ軍が敗北した事でソ連側に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。


クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じ頃対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。

千九百四十三年十月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。

この時ソ連は「ドイツを破ったのちに参戦する方針」と回答する。


第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった千九百四十五年(昭和二十年)二月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。

ここでルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の三ヵ月後に日ソ中立条約を侵犯して対日参戦するよう要請する。

ルーズベルトはその対日参戦の見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わす。

その中には、日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益も含まれていた。

日本には認めないとあれほど言い張ってきたアメリカが、満洲の権益を共産主義のソ連には認めた訳である。

アメリカの提唱してきた「門戸開放」なるものは、これで単なるまやかしにすぎなかった事が露呈される。

ルーズベルトは、日本に対するアメリカの勝利をさらに確実にするためにはいかなる事をしてでもソ連に参戦してもらいたかったのである。

ソ連はこの密約を根拠に、千九百四十五年(昭和二十年)八月の終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島、樺太に侵攻を開始する。

これが、ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)の開戦経緯である。

そしてこのヤルタ密約こそが、その後の日本とソ連(ロシア)の間の「北方領土問題」の原因となっている。

このヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理について、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の四ヵ国はヤルタ協定を結ぶ。

ドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。


千九百四十五年二月のヤルタ会談では対日参戦要請を具体化し、ドイツ降伏後三ヶ月での対日参戦を約束する。

ソ連は千九百四十五年四月には、千九百四十一年に締結された五年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めない事を、日本政府に通告する。

ドイツ降伏後のソ連は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。

日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとする。

しかし日本政府では、ソ連が中立条約の不延長を宣言した事やソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議に於いて総合的な国際情勢について議論がなされる。

ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(千九百四十五年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。


この頃の関東軍首脳部は、日本政府よりもソ連参戦事態の可能性を重大な警戒感に見ていなかった。

総司令官は千九百四十五年(昭和二十年)八月八日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していた事からもそれが観てとれる。

時の山田総司令官は戦後に、「ソ軍の侵攻はまだ先の事であろうとの気持ちであった」と語っている。

関東軍第一課(作戦課)に於いては、関東軍参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。

この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時に於いては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。

当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていた。

それでもソ連軍の侵攻が「冬まで持ち越してもらいたい」と言う願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり関東軍作戦課に於いて、千九百四十五年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも九月以降、さらには翌年に持ち越す事もありうると判断していたのだ。

この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。


関東軍の前線部隊に於いては、ソ連軍の動きについて情報を得ていた。

第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面に於いて兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われている事を察知している。

特に東方面に於いては火砲少なくとも二百門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。

そのため八月三日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長・草地貞吾参謀に情勢判断を求めた。

しかし草地貞吾参謀からは、「関東軍に於いてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は九月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。

その旨は関東軍全体に明示されたが、八月九日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。


さらに第四軍司令官・上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月頃から絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究した。

上村幹男中将の判断では、八月三日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。

また上村幹男中将は、八月四日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えた。

しかし、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。

そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。


ソ連からの宣戦布告は、千九百四十五年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

八月九日午前一時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第五軍司令部からの緊急電話により、「敵が攻撃を開始した」との報告を受けた。

さらに「牡丹江市街が敵の空爆を受けている」と報告を受け、その後午前一時時三十分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

関東軍総司令部は急遽対応に追われる。

当時出張中であった総司令官・山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり」と伝える。

さらに「各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。

また、中央部の命令を待たず、午前六時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなる。

前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つ事となったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。

つまり関東軍の実情も、敗退し続けている南方戦線同様に、御多分に漏れずソ連軍を迎撃できる能力など無かった。

総司令官・山田乙三朗大将は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官・山田乙三朗大将は、宮内府に赴いて満州国・溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都する事を勧めた。

皇帝溥儀は、満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

この満州国政府を臨江に遷都する事は、つまり関東軍が後退戦術を採る事を意味し、「開拓団の居留民(老幼婦女)を避難させずに置き去りにする無情な決断」だった。

軍が関与して最初に避難した三万八千人は、軍人関係家族、大使館関係家族、満鉄関係者などとなり、列車も飛行機も動員されて日本本土への帰国を果たしている。

比べるに、残り十一万二千人の一般居留民(老幼婦女)は暗黙として置き去りにされ、悲惨な逃避行を強いられた。

この一般居留民(老幼婦女)を守れなかった関東軍は、満蒙開拓団にとっていったい何だったのだろうか?


他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大した事から、同地域に於ける対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。

千九百四十五年五月九日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、第五方面軍は再び対ソ作戦に転換する。

このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識される。

しかし、兵力が限られていた事から、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しない事とした。

上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。


千島に於いては既に制海権が危機に瀕している事から、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太に於いて陸軍の部隊の主力となっていたのは第八十八師団であった。

同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から八月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、「現体勢に変化なし」という方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは八月六〜七日、豊原での会議に於いてった。

千島に於いては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。


他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、ソ連参戦と米国の原爆投下でポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。


千九百四十五年(昭和二十年)八月十四日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告する。

翌八月十五日に、「玉音放送」をもって国民に発表された。

正式な降伏調印は九月二日で、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で行われた。

日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。

これにより、宣言は始めて外交文書として固定された。


「戦中戦後の四大地震」と言われている千九百四十三年の鳥取地震、千九百四十四年の東南海地震、千九百四十五年の三河地震、千九百四十六年の南海地震は、四年連続で千名を超える死者を出した昭和の四大地震と称せれている。

これらの地震は戦火と戦後の混乱に埋もれ、震災そのものが十分に伝えられているとは言いがたい。

特に千九百四十四年十二月七日の太平洋戦争末期に起こった「昭和東南海地震」は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生した広域巨大地震だった。

その被災記録は戦時中の報道管制でほとんど残っておらず、被害詳細ははっきりしていない。

その「昭和東南海地震」からわずか三十七日後の千九百四十五年一月十三日の内陸直下型最大震度七の局地的な大被害をもたらした大規模な深溝断層型の「三河地震」が発生する。

その「三河地震」も、戦時中の報道管制で被災記録が残らず歴史の闇に埋もれた地震だった。



昭和天皇の御世に、大東亜戦争(太平洋戦争)と名付けた大戦争が起こった。

昭和天皇は、望まぬままに当時の軍事政権から現人神(あらひとかみ)と祀り上げられた人物であるが、その国民を愛する精神は正に神そのものだった。

しかし残念ながら、欺瞞に満ちた臣下達の思惑は、単純ではない陰謀が煮えたぎッた後の話で、昭和天皇はその臣下の思惑に翻弄された。

正義と言うものは、各自の信じるところに拠って「矛盾」を生じるもので、歴史は常に残酷な殺戮(さつりく)と伴に在った。

従って、その正解は「勝ち残った者(連合国側)の主張」と言う事に成る。

つまり昭和天皇陛下の望まない大戦が、欺瞞に満ちた臣下達の思惑で進んでいても、それに苦悩為されながらも、昭和天皇陛下の心は国民と伴に在った。

広島や長崎に、都市を一瞬で破壊する特殊爆弾を投下されるなど戦局不利に成る中、昭和天皇陛下はこれ以上の国民の受害を抑えるべく、終戦の国策決定などに深く関与する。

昭和天皇陛下が自ら国民に語りかけた「玉音放送」など終戦の手続きを辿り、日本は進駐軍を受け入れる。


そして今また、終戦時の「玉音放送」の音声が、時を超えて鮮やかによみがえる。

「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ 收拾セムト欲(ほっ)シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク・・・」

あの時(昭和二十年八月十五日)、昭和天皇の玉音が流れなかったら、日本人は、あの戦いを「ピタリ」と止める事が出来たのか、大いに疑問ではないか。

玉音がなかったら、本土決戦という泥沼に嵌まっていたかも知しれない。


それこそ葛城朝が二千年前に画策した血の民族同化の目論みは見事成功して、「大和単一民族」が完成していた証拠だ。

皇室は日本の守り神として、間違いなく機能したのである。



戦後の日本国憲法下で天皇陛下の地位は日本国の象徴とされ、陛下の戦争責任は不問とされた。

国民感情に於いて、日本国民が混乱なく団結して戦後復興に当たる為には天皇陛下に代わる存在はなかったからである。

もし天皇陛下が戦争責任を追及され、日本から天皇が不在となっていたら敗戦の混乱が長引き、あの目覚ましい戦後復興は出来なかったに違いない。

天皇陛下は、その役割を果たす為に日本国中を巡行して行く先々の民衆を励ましす努力を見事に成し遂げている。


余談ながら、敗戦後「熊沢天皇」なる人物が現れた。

彼は、自分こそ、「正統な南朝の後継者」と占領軍や国民にアピールした。

それが返って、「日本の占領軍統治には皇室が必要である」と判断される材料になり、戦争責任を問われない形で皇室の存続は決まった。

つまり皇統が危ない時、南朝は現れる。

或る種、皇室の存続を助けている結果が、何を意味するのか・・・・、神の意志かも知れない。


吉野宮陥落後も南朝は吉野山中にあって、四十五年、一旦和解の後、更に五十有余年と言う長い歳月をかけ、抵抗が続けられ、室町時代末期まで生き残って来たのには、「神の意志が働いていた」としか考えられない。

その間に吉野を離れ、全国各地に影宮家を起こし、事有る時にそなえた皇子の存在が、在ったとしても違和感は無い。

あれからもう、六百七十有余年になる。

そして、未だに南朝の子孫を名乗る者も数多い。

天界(高天原)の神々は、この大仕事の為にあらゆる準備をした。

その時代の人々はまだ信心深く、神様は何処にでも居た。

経典が信じられ、呪法が信じられる時代だからこそ茶吉尼(だきに)天や八咫烏(ヤタガラス)、巳(みい)様たちが現れ活躍した。

何時の頃からか神も仏も忘れられ、現代と言う暗黒の時代に、人々は生きている。

村祭りもイベント化し、神事よりも人々の楽しみの場としての性格が強い。

国が乱れし時、絶えず英雄が現れ、見事な働きをする。

源頼朝・源義経、後醍醐天皇・大塔宮護良親王・足利尊氏、織田信長・明智光秀、明治天皇・西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作悲運の男達である。

彼らが隼人族の末裔、スサノオの化身達と思うのは無理な事だろうか。

しかし、彼らは新しい歴史の幕開けとともに、表舞台から消えていく。

新しい時代に、居場所が無いのだ。
そして何時の時代でも、生き残るのは野望に溢れる鵺(ぬえ)だけである。

明智光秀が皇統を救ったにも関わらず、後の世まで「裏切り者」で居る訳は、彼が救った皇統が北朝で有り、維新後の皇統が南朝に変わっていたからに他ならない。

従って、南朝方の諸将の様に歌や教科書に載るような賛美は、今日までない。


政府に拠る皇国史観教育は、太平洋戦争の敗戦とともに終わった。

戦後の歴史学では日本国憲法が施行されて思想・信条の自由が保障される時代に入る。

戦前に弾圧されたマルクス主義の唯物史観が復活して興隆し、皇国史観ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展し、「古代」「中世」「近代」「現代」と言う名称も用いられるようになった。

これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれる。

こうした戦後民主主義の流れが発達する中で、皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出された言わば国定の虚偽観念の体系」と批判されて影を潜めた。

しかし戦後民主主義教育に批判的な「新しい歴史教科書を作る会」の活動(自由主義史観)などの立場からは皇国史観が評価される事もある。


今から凡そ七十年ほど前、天皇は神だった。

苦い想い出だからもう忘れてしまったのか、戦後生まれの若い方は知らないが、戦前の国家体制では確かに天皇は現人神(あらひとがみ)だった。

敗戦後「人間宣言」をして神から人間になった。

民主国家の今では触れたくない、尊王派の維新政府が画策した過去の事柄で有る。

個人的に、いかなる信心をするのも勝手だが、或る意図をもってそれを強制する所に信仰の危(あやうさ)がある。

祭り上げられた天皇も被害者であろう。

あんな不自由なお立場を本人が願うとは思えない。

しかし身近に、未だ「神のごとく」を要求する取り巻きがいるらしく、民間から入内した現皇后、現皇太子妃が二代に渡り体調を崩して居られる。

皇室の常識を強要する愚を犯し、「人間性を否定している」と推察する。

側室システムも、男子禁制の内裏(だいり)の定めや男子禁制の大奥、御三家・御三卿も、その成立要件は、言わば「血統至上主義」の産物である。

口に出しては言い難い現実論だが、矛盾する事に、事の賛否はともかく、現代の皇室に於いてはこの「血統至上主義」が求められながら、それに対応する妾腹システムの合意は、現代の社会通念では認められない。

現代の皇室における皇位継承問題も、正に建前だけを押し付けた「矛盾の迷路」とも思え、その無理を押し付けているのが、「周囲の無責任な輩である」と言えるのではないか?



神の杜には、桜の古木が良く似合う。

花見の春祭りが終ると、満開の桜が散り始め、舞い落ちた境内に花びらのジュータンが優しく足跡を包み込む。

古(いにしえ)の男達の生き様を、見つめ続けた葉桜交じりの境内は、静寂(しじま)を取り戻し、社(やしろ)がひっそりと佇(たたず)んでいる。

この神の領域は、「今、何を末裔達に告げようと言うのか?」

世の中、どうやら遅れて来た者が良い思いをする事になっているらしい。

思い起こして欲しい。

どの時代でも、最初に歴史の扉を開いた者が成し遂げた事例はない。

不条理な事に、大概の所、知恵と勇気で困難を切り開いた者よりも、三番手くらいで追いかけていた奴が、「棚ボタ式」に天下を取る。

何故なら、目の前でケーススタディを学習するからで、傍目で見ればずるい話だ。しかし、事を起こす者が居ないと、新たな扉は開くきっかけがない。この事を貴方は如何(どう)理解するであろうか?


明治維新から百四十年、今日本経済の春は、先が見えない。

景気回復の報道をよそに、小、零細企業の閉店、倒産は続いている。

少子高齢化が進み、貧困にあえぎ、路頭に迷う人が増え続けている。

彼らは、政治に見捨てられたのか?

この少子化時代に、国を見捨て海外移住する若者は男女とも確実に増え続けている。

国民の居ない国家は成立たない。

人口が減り、総合力が落ちれば国は衰退する。

氏と民の血が混じり合い、この国の民は一斉に同じ方向を向く民族に仕上がった。

それが民族の力とも言えるので、「悪い」とばかりは言えないが、現代の日本人は、猫も杓子(しゃくし)も「ブランド品好き」で、横並びの安心感を求めている。

この横並びの安心感、永い混血の歴史を持つ日本人の血統的な要因の成せるものである。

大王(おおきみ)の密命は、この誓約(うけい)の概念を持って「新たなる大部族を成す事」に有った。

しかし国際化時代の今日、一歩他国と対峙した時には、国内の常識が通じない事を肝に命ずべきである。


本当の影人は、余り歴史に現れない女性である。

古来より女性は、命を繋ぐ実りの大地だった。

その大地の心が痩せ、命の実りを遠ざける様に成ったのは、「男と女の役わりの壁を取り除こう」と言うばかげた発想のおかげだ。

いったい何十億年かけて、人間は「自然のどれだけをコントロールできる様になった」と言うのだ。

うぬぼれて、最もシンプルな自然の摂理さえ忘れてしまっている。

命の誕生は奇蹟である。

命を繋がなければ、歴史は紡げない。

真言密教の奥義では、「命を繋ぐ事」そのものが繁栄をもたらす呪術だったのかも知れない。

女性がその呪縛から解き放たれ、子を産まぬと言う「選択の権利」を主張し始め、男性はパワーを失って、神の国は根底から崩れ、確実に滅びの道を歩み始めている。

人間の命の巡環は大切なもので、過っては「それを拒否する」など考えられなかった。

そこから、人間の「人間らしさが失われた」と、考えらざるを得ない。

人間は自分の子供の「親になる為に生まれて来た。」それが、自然の摂理である。

処が、その真理を無視し始めたから、全ての歯車が狂い始めた。

時代に拠って、必要な精神は必ずしも同じではない。

確かに、それが必要な時期が在ったかも知れないが、今が同じ精神で通るものでも無い。

しかしながら、行過ぎた反省で次の精神を構築するのは正に病的なもので、「危険」としか言えない。

日本の建前主義の悪い所は、「建前を決める」と「もう通達したのだから」とそれで「終った気に成る事」である。

この建前主義の弊害を、先の第二次大戦を「例に取る」と良く判る。

当時のリーダーは、一旦、建前上有っては成らない事を決め、それの履行を前提として「起こり得る問題」を、建前で簡単に切り捨ててしまった。

その建前が「戦陣訓(せんじんくん)」であり、「戦陣訓(せんじんくん)」は太平洋戦争(第二次世界大戦)中の軍人規律の規範を示して士気を維持する目的の訓令だった。

千九百四十一年(昭和十六年)一月八日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)が「戦陣訓(せんじんくん)」で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書である。

現在ではこの「戦陣訓(せんじんくん)」の中の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と言う一節が有名であり、軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。

その後の千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦により、日本軍そのものが解体後廃止される。

千九百四十八年(昭和二十三年)六月十九日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。

兵に教育したのは、「生きて虜囚(捕虜)の辱めは受けるな(捕虜に成るなら死ね)」だったから、建前、降伏して捕虜に成る者はいない。

捕虜に成る者が居ないのだから、降伏兵から「敵に情報が流れる事はない。」と言う論法で、本来危惧すべき事項(情報管理)を放置した。

こんな建前主義で、戦争に勝てる訳が無い。

せめて、「あれは建前だから」と言う「本音」が有れば良いのだが、「官僚主義(軍指導部も官僚である)」は前提を動かさないから、米国の尋問所に連れて行かれた日本軍の降伏兵から、あらゆる情報が尋問を通して相手国に伝わった。

暗号から装備兵器、軍艦や飛行機の見取り図、軍需工場の所在地など、あらゆる情報が流れる危惧を「無いものは無い」と建前に固執して放置し、なんら対策を取らなかった。

現在、行政の指導不足で起こる数々の不祥事の根底にあるのが、この終った気に成る「日本の建前主義」である。

日本の行政に於いて、「在ってはならない事」と言う建前表現をした途端、以後その事は「無い事」として対策も採らずに処理してしまうのが無責任な日本式行政処理である。

つまり公務員の失敗や犯罪については、建前上在っては成らないから「想定すら」していない。

この「建前主義」は、官僚が手抜き(仕事をしない)をする為の「絶好の言い分」に使われている。


日本人の悪い癖だが、何か問題が発生すると「これからはこうしましょう。」と建前の精神的決め事をするだけで、環境整備や条件整備はしない。

孤独死問題一つ、親の児童虐待問題一つ採っても、解決策は「隣近所の見守り運動」だと言う。

建前としてはご立派だが、この個人主義が蔓延した無縁社会化の現代に、そんな綺麗事だけで実効が挙がるとは到底思えない。

つまり精神だけで国民に対処を求め、「それに反する者が悪い」、或いは「そう言う人間は例外である」式の言わば役人流の無責任な処置でお茶を濁す。

しかし「決め事」だけで世の中が上手く回るなら官僚も要らないし警察も要らず、立法府(つまり代議士)だけで決め事をすれば良い理屈だ。

それが出来ないからこそ夫々に役目があるのだから、確りと環境整備や条件整備を遣るべき立場の連中が、建前の精神的決め事だけを綺麗事にして国民におっ被せ、遣るべき仕事をしていない。

学習機会が過去に数多く在ったにも関わらず、この国は未だに「建前主義の官僚の国」で、一旦決めた建前を前提に、強引に事を進め、「起こり得る危惧」は、「有ってはならない事だから検討をしない」と、為すべき義務を放置して押し通すのである。


「建前と本音のかい離」は、庶民に取って「相当」に胡散臭い。

しかし、そんなばかげた事を押し通しているのが、未だに神のごとき「高みに身を置いている」官僚と政権政党の責任である。

歴史や性の事を都合に拠って蓋をし、奇麗事に誤魔化して隠してしまうやり方は、後に混乱をもたらす。

これらは、言わば触れられたくない過去、触れて欲しくない事柄の類だろう。

はっきり言うと、最近事件が多発する「性の事」一つとっても建前ばかりを連呼するばかりで、本音とのすり合わせが出来ていない。

近頃起こっている事件は、正面で向き合わず、奇麗事で蓋をし「建前に終始した弊害が噴出している」と捉えるべきである。

ただ「蓋をして隠せば良い」と言う安易な発想は、基本的に間違いで有る。

物事の本質を真剣に考えれば、奇麗事の建前は矛盾に満ちており、内心そんな者を信用する人間はいない。

取り組むべきは闇雲に蓋をする事ではなく、正面から向き合って「何を成すべきか」の答えを出す事である。

しかし彼らは、無能なのではない。

有能な詐欺師なのだ。

面倒な事は建前に逃げ、自らの利のみに走っている。


明治政府は、西洋式に民兵を招集する事には参議一同賛成していた。

しかし発想は氏族の発想だった。

その発想の元に明治政府の官が形成されて、官の立場が「お上の命令」になり、その亡霊が官僚の意識となって今日に及んでいる。

官僚が「民僚」に変わらなければ、百年経っても変わるものではない。

民主国家なら、意識変革ばかり言わないで文字(肩書き)も帰るべきである。


近頃のこの国は、上辺だけの調子の良い精神論の意見が持て囃(はや)される様で残念で成らない。

人類ほど矛盾した生き物は居ない。

その中でも日本人ほど矛盾が多い人種は少ない方で、勘違いしているかも知れないが品格が在ったら指導者など成れない。

現実の所、競争相手を権謀術策で退(しりぞ)け、勝ち組みとして伸し上がるには品格も何もあったものではないのである。

それを奇麗事にしてしまい、ウッカリすると神社に祭られて神様に成る。

多神教の国・日本人の「良い加減(イイカゲン)」を妥協と見るかバランス感覚と見るか、難しい所である。

これは一神教を信ずる人種には信じ難い事だが、少なくとも、正月に宮参りをし盆には寺に参りクリスマスも大して意義を知らなくても祝う人種で、宗教的な対立感情は薄い。

良い悪いを別にして、いずれにしても極限まで強情を張らず「良い加減(イイカゲン)」で妥協を模索する人種である。



武士道の始まり始まりについて、「武士道が自覚されたのは封建制の時代で、封建制の始まりと武士道の始まりは一致する」と言う考え方がある。

元々「封建」の語は中国・周代の国家体制を指すもので、日本での「封建制」の語は、土地を媒介とした国王・領主・家臣の間の緩やかな主従関係に拠る支配形態を指す。

鎌倉幕府、室町幕府を含めて封建制の時代とされる方も居られるが、江戸期の幕藩体制以前の二幕府に厳密な支配地争いに対する中央の統制能力は無かった。

歴史的に観て、江戸期以前の武士は今日に考えられる精神思想などとは全く違う「武を持って支配地を広げるだけの争いの組織」だった。

武士の社会は、支配地の拡大を求めて主従関係の「合従連衡(がっしょうれんこう/結びついたり離れたりする)」や「下克上(げこくじょう/上下関係の身分秩序を侵す)」の世界だった。

つまり鎌倉幕府、室町幕府は、地方の支配地争いの結果を実行支配として認証する機関的な役割に過ぎない時期が多かった。


歴史的に観て、封建制とは近世の幕藩体制(江戸幕府)を指して用いられた歴史用語で、武士の思想が「道」と言う極みにまで達したのは、江戸期に入ってからである。

平安中期から江戸期開幕に到るまで、氏族武士の本質は領地利権の為に親兄弟でも戦で争う人種で、主君に対する下克上も当たり前だった。

そこに在った武士道は「強い者が勝つ」で、「主君に滅私奉公する」何て事は江戸期に入ってからの「幕府の統治政策」と永く続き在った「戦乱の反省」とが為した合意に過ぎない。


「国家の品格」に武士道を持ち出すのは大間違いで、まるで歴史的事実を知らない性もない精神論者である。

長い歴史の中で、血統(産まれ)だけを根拠に「搾取を生業(なりわい)」としていた武士道に「品格」などある訳が無い。

そうした事実を建前に隠して憧れ沁みた格好が良い事を言うから、日本人は逆上(のぼ)せ上がる。

日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。

当然ながら、武士道は国民の数パーセントを占めるだけの特権階級、武士(サムライ)の精神的な思想だった。

我輩に言わせれば、「武士(サムライ)」と言う名の世襲特権階級の、実に滑稽な主君に対する忠勤思想が武士道である。

その滑稽な忠勤思想は自虐的であり、滅びの美学を含んでいたから見た目感動を呼ぶのだろうが、現実にはそんな思想を建前でなく本音で守った武士(サムライ)は、もっと少ないウエイトだった事で在ろう。

歴史的に見ると江戸期の一般の大衆はむしろ平和主義者で、武士道などは他人事だった。

つまり、大概の国民にはフィクションに近いのが、建前論の「武士道の国日本」である。

それを、明治政府は「国民皆兵政策(徴兵制)」の為に利用して、「日本は武士道の国だ。」と言い出した。

勿論、右脳域の感性に於いて「武士道の精神」は理解できない訳では無いが、左脳域の理性に於いては、武士道精神は凡(おおよ)そ現実的ではない幻想の世界である。

正々堂々と卑怯な振る舞いをしない「日本人の武士道精神」など、絵空事に過ぎ無い事は歴史上も現在の政治家や官僚の様を見ても明らかである。

敢えて武士道の精神で生きる高尚な人間が居るとすれば、権力闘争には向かない人物であるから出世はしない。

そしてもし、武士道の精神を振りかざしながら出世する者が居るとしたら、それは大嘘つき以外の何者でもない。

武士道の精神は、武器・弾薬・兵糧の劣勢を無茶な精神力で、何の手も打たない軍部中枢に多くの召集兵士の命で補(おぎな)わせる事に利用された。

そしてこの事に疑問を呈する者の言論を「非国民」の一言で封じてしまった。

正直、古今東西の権力者ほど「自分は特別」と約束を守る習慣が無く、恥も知らない。

その証拠に、武士道の精神を喧伝した東条英機は屁理屈を捏(こ)ね回して処刑されるまで自決はしなかった。

日本軍部は傘下の日本兵について、「武士道精神教育が行き届いて成果を発揮している」と考えていたが、それは事実とは違い本音は守るべき者が他に在った。

日清戦争から太平洋戦争に到るまで、日本兵が勇敢に戦ったベースが共生村社会の郷土愛や家族愛だった。

その共生村社会の郷土愛や家族愛が希薄に成って個人主義が蔓延した現代、例え徴兵制を復活しても身を賭(と)して防衛意識が在るか疑問である。



日本人は自己責任を真っ先に考える風潮がある。

この根底にあるのが「武士道精神」で、つまりは責任の自己完結=切腹の精神の建前である。

日本的武士道の感性では一度失敗したら切腹物で、事業家が事業を潰したら二度と浮かび上がれないから、もはや手遅れ状態でも最後まで踏ん張って、手の施しようが無い酷い状態にまで引きずってしまう。

しかしその責任の自己完結=切腹の精神は、裏を返せばジョージ・ワシントンの桜木の逸話・「正直」とは正反対の、実は中々責任を認めない卑怯者を増産する事に繋がっている。

役人も、そして裁判官・検事・警察官も一緒で、「失敗は腹切り物」の風潮が世間で強いから、一度方針を決めると間違いは絶対に認めない。

つまり間違いの責任を認めた時点で世論の建前上は再起不能が相場だから、一般的に不都合が生じると誤魔化したり隠したりを先にして情況を悪化させる。

そこで結論を先送りする事で責任の所在をうやむやにし、同時に戦艦大和症候群なる病を多発させている。
「武士道精神」と言う今時流行(いまどきはよら)ない男の美学など覚悟の無い者には只の妄想で、実状は「早期に対処すべき事柄を先送りする」と言う弊害の方が遥かに多いのである。

この「武士道精神(責任の自己完結=切腹)」を前提にすると、急な結論を出したい時にこそ間違いに慎重に成って結論が出せない会議を延々とし、前例の無い事には誰も責任を引き受けない。

面白い事に、建前が潔(いさぎよ)さを求めるほど本音の部分でそう簡単にお仕舞いは嫌だから、益々潔(いさぎよ)い者は減って行く事になる。

日本の恥じの文化は、当初は「生き方や行動に恥じない事」と解されていたが、武士道精神の「責任の取り方」から失敗は致命傷になる為、現実は「恥に蓋をする文化」になってしまった。

これら全ては、美徳とされる武士道の国の「建前」の弊害そのものである。

「武士道を格好が良い」と想っている方と「戦艦大和が格好が良い」と想っている方が共通しているのは、表面的な格好良さだけを見ている事である。

武士道精神には建前の格好良さとは違う本音が存在し、戦艦大和にはその見かけの美しさにはそぐわない哀しい歴史が存在し、「戦艦大和症候群」なる言葉まで残った。



それにしても、国がこの「自己責任(じこせきにん)」を言うのは大いに問題があり、国が決めた法律・法令で必ず割を喰う国民が出るが、基本的には自己責任(じこせきにん)である。

例えば、バブル経済を崩壊させたのは大蔵省銀行局が金融機関宛に出した「土地関連融資の抑制について」による人為的な急ブレーキである。

だが、本来なら慎重に対処して軟着陸も可能だった処理を誤まっても、それで蒙る個々の損失は「自己責任(じこせきにん)」である。


剣の必勝の極意に「逃げる」がある。

「武士道の国の侍に、逃げるなど有る訳が無い」と建前を言って貰いたくはない。

何故なら、勤皇の志士の大半は無用な争いから逃げる事が大得意だった。

当たり前の事だが、一々武士の意地で切り合いに応じていては肝心な時まで命は持たない。

志有る者が、意地の切り合いに軽々に命を懸けていては「真の大事」など為し得る筈がないのだから、それを卑怯とは言わせない。

つまり綺麗事の武士道など、維新当時は何処を探しても存在しない「理想の建前」なのである。

国民は「格好の良い事」に騙され易いが、つまりは、国家体制の為に利用した精神で、今日またぞろ「武士道の国」が言い出される環境は、実は危険性を孕んでいる。

耳障りの良い言葉やムードに酔わないで、真実を考察して欲しいものである。


我輩は生粋の日本人であるから、日本人の良さは充分承知の上で敢えて金にまつわる日本人の気質に苦言を呈したい。

日本人の感性として金持ちが「如何わしく思える」のは、金持ちが金の生かし方を知らず貯め込むばかりだからである。

簡単な話し、金持ちは金を遣わないから金持ちで、貧乏人は金も無いのに金を遣うから貧乏なのである。

金が世の中に出廻ってこそ経済なのに、金の無い善人の日本人には遣う金が廻って来ず、その金を遣わない金持ちに優遇政策で更に金を持たせてどうする?

国民性と言えば国民性だが、日本人は手持ちの金を貯める人種で余り中国人の様に「投資をする」と言う考え方はない。

信用されるまでは大変だが「仁の国」の中国人は、一旦信用するとその相手に「投資」をする人種で、余剰の金が有ればその金が事業資金として世に出廻る国である。

それが中国人として華商(華僑・ファージャオ/かきょう)と言う形で成功して行くのだが、経済活動が盛んな台湾や盛んに成って来た大陸に於いてもこの「投資をする」と言う考え方が今後効果的に働き、金を抱え込んでしまう日本を置いて発展して行くだろう。

日本人は「投資」と言う概念が薄く「他人に金を貸せるな」が先祖伝来の教えで、それは建前の武士道の国が、実は利害で動いている現実に「義」が無い事を知っているからである。

最近は少し学習して成功例も出て来たが、初期の頃の海外投資に失敗した多くはこの「日本人気質」に在った部分が大きいのである。

現代日本人は現実の利害で動いているから、善人の下層階級を別にすると政治家・官僚・大企業経営者は充分に腹黒いからこそ出世するのである。

つまり現実は、「義」が無い所に金は集まるように成っている。

そんな体たらくの建前の国だからこそ、日本に於ける「仁義」はやくざ映画の世界の事に成ってしまった。


かと言って欧米人の様に、日本人の金持ちには余り「成功の代償として寄付をする」と言う習慣も無い。

つまり日本人は「寄付をする」と言う意識に薄く、金持ちが只々貯め込むばかりだから海外で成功した日本人の評判が現地ですこぶる悪い。

善人の貴方、金持ちが金持ちほど身内に対してさえ金にシビアな事に想い当たる筈である。

勿論例外の日本人も存在するが、一般論的日本人気質はそんなものだから格差社会が始まれば、交通事故死が万単位から数千例に減少しても「孤独死/無縁死」は年間三万例を越える。

武士道の国は、裏を返せば「失敗すれば切腹をする自己責任」の冷たい国で、「孤独死/無縁死」は金を貯めない本人の責任と言う国である。

武士道の精神は裏面に「個人を律せよ」と言う残酷性が顕著で、これが日本の老人福祉行政に対する理解度のネックに成っている。

格好良さばかりの浅い論議ではなくその影に隠れた要因を探る事が大事で、つまり日本の武士道精神は「失敗に対する再起」を念頭に入れていないから日本人に「投資の概念」は薄く、金持ちは金を貯め込む一方と言う事になるのである。

そんな日本人的なアンカリング効果で、果たして日本人はこの国際社会を遣って行けるのだろうか?

上っ面(うわっら)の浅い論議ではなくその影に隠れた要因を探る事が大事で、近頃日本の国際競争力が弱いには、そもそも論として金に対する日本人独特の気質と言う側面があり、この気質が減税資金流失の笊(ざる)状態を造る一因とも成っている。

尚、この日本史上を通して僅か五パーセントくらいのウエートだった武士の精神と対極に在ったのが、庶民の共生村社会(きょうせいむらしゃかい)精神だった事を付け加えて置く。


「国家の品格」と言うと非常に聞き耳良く聞えるが、良く考えて欲しいのは「国家」と「国民」が必ずしも一致しない事である。

政治家と官僚はふた言目には「国家の為」と言うが、それは時に国家の為に「国民」を犠牲にする事を含んでいる。

その覚悟と理解が、「現在の日本国民に在る」とは思えない。

「家」の概念は時代と伴に変わる。

氏族は、古(いにしえ)より血統を基本とした「家」を大事にした。

それが江戸幕府(徳川政権)の忠勤思想(儒教・儒学/朱子学の精神思想)武士道に拠って「仕えるお家の為」に成り、維新後の明治政府に拠って「国家の為」へと変貌して行く。

その「国家の為」と言う掛け声の奇麗事で、多くの民に犠牲を強いたのが先の世界大戦(太平洋戦争)だったのである。



だが、やがて新しい制度の中で新たな権力が育って富が一部に集中し、その財力が日本を戦争への道へ進ませ、悲惨な歴史を刻み始めるのに五十年とは要さなかったのである。

「財閥と軍部の台頭」がそれで、つまり、近、現代における政治・経済の構造は、漏れ無く「四、五十年」で体制疲労してしまうのだ。

明治維新に拠って士族社会と言う特権枠が取り除かれ、庶民も学問次第で「為し得る地位の権利」を平等に保有するように成ったが、それは永く続いた村社会(共生社会)の崩壊の序章であり、それと同時に新しい形の格差が始まった時代でも在る。

この希望に燃えた夢の時代は、はかなくも「軍閥と財閥」と言うモンスター(怪物)を生み出し、やがて「軍閥と財閥」の利の為に政治が動かされて国家国民が戦争へと駆りだされて行くのである。


先の大戦に至る日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、満州国建国、など近隣国を巻き込む「不幸な歴史」も、その背景には「日本国内の不況」と言う事情が在った。

昭和初期、日本は金融を主体とした経済恐慌に見舞われる。

昭和に入った頃、日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。

一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。

千九百二十七年(昭和二年)三月十四日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化する。

中小銀行を中心として取り付け騒ぎ(預金・貯金・掛け金等を取戻そうとして預金者が一時に金融機関の店頭に殺到して混乱をきたす事。)が発生し、昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)と言う事態と成った。

昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、日本で千九百二十七年(昭和二年)三月から発生した経済恐慌である。

単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もあり、金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本に於いて特に断らない場合は千九百二十七年(昭和二年)の経済恐慌を指す事が通例である。

この経済恐慌の兆候は、一旦は収束するものの四月に財閥の一郭・鈴木商店(現在の双日のルーツの一つ)が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれた事から金融不安が再燃した。

これに対して高橋是清蔵相は、戦争・恐慌・天災などの非常時に、社会的混乱を避けるため法令により金銭債務の支払いを一定期間猶予するモラトリアム(返済猶予制度)を実地する。

一方、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くして現金の流通を増やし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努めて金融不安は収まった。

昭和金融恐慌は、二年後に起きた昭和農業恐慌(千九百二十九年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて「昭和恐慌」と言われる事もある。


千九百三十六年(昭和十一年)、民間人を含む皇道の派の二十歳代の隊付の青年将校のリーダー達十七名(大尉から少尉が中心)とその指揮下にある兵約千五百名に拠る「昭和維新・尊皇討奸」を目指す二・二六事件が勃発する。

斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監その他警備の警察官などを殺害したこの動乱も、皇道の派と統制派の権力争いの側面を持ちながらも、不況の中、陸軍士官学校出の青年将校が立ち上がった改革クーデターである。

維新の制度改革に拠って初めて氏族ではない将校が誕生するに至り、見捨てられた農村部の苦境が実感として判る様になったからである。

一部の金持ちと、多くの貧乏人と言う構図が出来上がっていた。

その背景には、財閥と軍の結び付きによる「富の集中」があり、暴力を肯定するものではないが、彼らの心情は察する所余りある。

二・二六事件当時、大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ)が主導した「リフレーション政策」はほぼ初期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見された。

この為、予見されたインフレーションを抑えるべく軍事予算の縮小を図った所、岡田内閣は軍部の恨みを買う。

千九百三十六年(昭和十一年)二・二六事件に於いて是清(これきよ)は赤坂の自宅二階で中橋基明中尉以下の青年将校らに襲撃され暗殺される。

是清(これきよ)の友人・予備役海軍大将・斎藤実内大臣もまた、この二・二六事件で坂井直中尉以下の襲撃部隊に暗殺された。

しかしこの帝都を揺るがす暗殺事件は、時の帝・昭和天皇の勘気を蒙りクーデターは鎮圧される。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。

当時、農村部の小作農家の娘達の多くは、都会の娼婦館に身売りして行かざるを得ない程、経済的に追い詰められていた。

「野麦峠」などの作品で知られる劣悪な労働条件下の奉公も、農家に米の収穫以外に現金収入を得る手段が無かったからで、その環境下で凶作に合うと、農村部はひとたまりも無い。

そこで、軍閥と財閥が狙ったのが満州であり、中国である。

つまり、次の四、五十年の原資を闇雲(やみくも)に「外地に求めた」のだ。

そして、その無理は通らなかった。

他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。

他国・異民族ともなると民族意識が強く、侵略されても容易に屈服はしない。

従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。

豊臣秀吉政権(朝鮮征伐/文禄・慶長の役)の無謀な外地獲得行為の教訓は忘れられていた。

長期的に見ると、富が一部に集中するやり方は資金の回転を鈍らせ、内需は慢性不況に陥る事になる。

一番単純な話し、痩せた土地からは思うような収穫は得られない。

国民を富ませなければ国税は得られない。

一部を富ませるやり方は、やがてその一部に国の方向まで握られ、彼らの利益のみに国家の方針が進む事になる。

経済運営とは、一歩間違うと国の進むべき方向を狂わしたり、国を滅したりする魔物なのだ。

つまり、国民を豊かにする事こそ国家の暴走を止める唯一の手段である。


日本が対米戦争に踏み切ったのは、当時の日本の領土拡張主義に米国が歯止めを掛け様とした石油の禁輸措置による経済的圧迫である。

その開戦に到る状況を見ると、内政に於いても外交に於いても当時の指導者が、開戦に到ってもとても米国の国力に及ばない事を知りながら、日本式独り善がりな発想が結果的に抜き差しなら無い状況に突き進んでしまった。

その日本式独り善がりこそが、中国や韓国、欧米の「イエス・オア・ノー」の意思表示とは違う日本国内でしか通用しない「なあなあの曖昧な収拾手段」だった。

くい違う陸軍の主張も海軍の主張も外務省の主張も、その「曖昧」な収拾手段で解決を先送りをして居る間に、禁輸措置で日本の石油備蓄が二年持たない所まで追い詰められる。

それでもノーテンキに、日本の首脳は日本でしか通用しない「曖昧」な腹芸の以心伝心を米国に期待する独り善がり外交をして、仕舞いに「あいつ等何も解っていない」と自分達の失策を相手のせいにしている。

日本式曖昧さが国際的には通用しないなどとは考えず、「自分達の常識が正しい」とだけ横暴に一途に思い込んだのは、無条件で「日本人は優秀だ」と間違えたプライド教育を刷り込んだ維新の二代目、三代目が当時の指導者の主力に成っていたからである。


戦前戦中の負の遺産に「従軍慰安婦問題」が在る。

従軍慰安婦?

この名称「従軍慰安婦」は、戦時中に娼婦として軍に同行していた女性が補償を求めて訴えを起こした事から、戦後に後追いで名付けられたものである。

歴史的背景を考えない歴史認識>とは何だろうか?

戦前から太平洋戦争当時まで、【娼婦(館)・女郎(屋)】と言う物が存在した。

古来多神教自然主義の日本列島の民(大和族)は性におおらかで、性行為は神との共同作業であり新しい命の恵みを授かる「お祭り」と言う神事の文化を持つ国だった。

そうした庶民性文化の歴史的流れがあり、この頃の日本では「公娼」が認められていて、事の善悪は別にして「合法の存在」だった。

所謂、公に許可された売春宿である。

合法だった当時の女衒システムとして、当時の記録に女性連れ去りの異議申し立て記録が無い。

当然ながら「根拠が無い女性の強制連行」は、当時の朝鮮半島の統治にしても立派な違法犯罪行為である。

「異議申し立てが無い」と言う事は、「親が売った」や現地人の土地の有力者が、「借金のカタに売った」の権利関係が業者側に存在する事である。

買った方が、当時合法だった権利を強い態度で行使して商売先まで連れて行ったのは、業者として当たり前ではないのか?

しかし、売られた本人には「強制的に連れて行かれた感」は在るかも知れない。

それを今になって本人が、「強制的に連れて行かれた」と証言したから「それに間違いない」と、日本軍の犯罪行為にしてしまうのは、強引過ぎる論法ではないか?


戦前の「公娼制度」は、良くも悪くも社会的安全弁に成って居て、性犯罪の防止効果は勿論、経済困窮に対する一つの救済制度の側面も持っていた。

日本政府は、建前とは別に本音の「必要悪」と考えて「公娼制度」を温存する現実的な方策を採っていた。

当時の「日本の現状は」と言えば、予算の多くが軍事費に回される軍事大国を標榜し、為に【軍部と結託した財閥】に富が集中して地方経済は貧困にあえいでいた。

蛇足ながら、これは最近の国際競争力のお題目に拠り【政府・官僚と結託した大企業】の富の集中化に酷似していて将来的に恐い話しで有る。

いずれにしても当時の庶民は貧しく、特に農家に現金収入を得る道が無かった。

それで当座の金に困ると「生きる為に、身内を喰わす為に、」田畑を質(しち)に借金をしたり、娘の身を売らざるを得ない境遇の農家が数多く居た。

今でこそ「公娼」と言うと単純に「下劣な職業」と思われ勝だが、果たしてそんなに単純な受け取り方で良いのだろうか?

当時の社会情勢で、米作以外に収入が無かった地方の農村にとって、不作や米価下落に見舞われれば生きては行けない。

そこで娘が「公娼」に身を落として親兄弟の窮状を救った。

これは受け取り様の問題だが、「公娼に身を落として親兄弟を救う」と言う行為は「下劣」ではなく「高尚(こうしょう)」である。

つまり業として行う娼婦行為と「親族を救おう」と言う心情精神とでは、心情精神の方が遥かに重いのである。

それを、「下劣な職業」と見下してかたずけてしまう所に、現在の極端な個人主義社会の病根を見る思いがする。

「時代が違う」と言われる事を承知で言うが、現在の私権主義に害され「自分が大事で親兄弟は二の次」と言う精神よりも、例え身を汚す職業でも親兄弟の為に「公娼」に身を落とす娘の方が「心が高尚(こうしょう)だ」と思うが如何か?

この身を落とす娘の受け入れ先が、【娼婦(館)・女郎(屋)】だったのである。


列強国と言われた日本の内地でも当時の社会環境がその状態だったから、半島や大陸の人々の現実はモット経済的に困窮して居た筈である。

それで仕方なくとは言え、娼婦や女郎の成り手は多かった。

つまり、半島の女性は【応募した】と言う説がまともであるが、「親に売られた」と言う現実を認めたくない心情は理解できる。

また、帰国後に取り巻く社会環境においても、「強制された犠牲者」で居続けなければ身の置き場が無いのも理解できる。


慰安婦被害者を名乗る韓国女性の言い分だと、悪逆非道な日本人警察官や駐在軍人が平和な村に突然遣って来て若い娘が強制的に拉致連行され、外地で「娼婦にされた」と言う。

幾ら併合先(朝鮮)と言えど、当時の日本国内でこんな無法が起こっていたなどは到底考えられず、被害者が同情を増幅する目的の虚構証言に違いない。


日韓合併により朝鮮半島も大日本帝国の一部であり、当時の日本も法治国家であるから、少女を違法に誘拐して娼婦として働かせるなど犯罪である。

ただ、一方で公娼制度は合法だったから、日本の内地でも朝鮮半島や台湾に於いても娼館業者が前借金を親に渡して娼婦として働かせる制度はあった。

朝鮮半島出身の従軍慰安婦と称する娼婦も、その親か債権者が娼館業者に売らなければ日本国内法でも犯罪で、そんな危険を業者が冒す訳が無い。

事実、日韓合同調査の結果では従軍娼婦(慰安婦)は存在したが、日本軍が強制連行した証拠は何一つ存在しなかった。

当時の状況を解釈すれば、それが日韓合併に至った理由の一つだが、日韓合併前の大韓帝国は酷い経済不況に喘(あえ)いで居た。

つまり娘を身売りする日本の地方の貧困より、当然朝鮮半島の方が貧困が酷く、娘を身売りする程生活が苦しい状況に在った筈だ。

ただ結果として、金を払った娼館業者・女郎屋が当然の権利を執行するに、少女本人が「強引に連れて行かれた」と感じた事だけが思いとして残った。



これらの娼婦館・女郎屋の類は「民営」で有って公営ではない。

その業者が、戦線の拡大と伴に商売として外地へ進出して行った。

勿論【従軍慰安婦】なる言葉は無かったし、軍が直接管理運営していた訳ではない。

しかしながら、軍が業者に要請していたのは事実で有る。

そう言う意味で、【実質従軍】と取られても仕方が無いが、これが【強制連行による】とされるのは少々疑問で有る。


日韓両国の間で、「日本が慰安婦の強制連行を認めた」と問題に成って居るのは1993年(平成5年)8月に河野洋平官房長官が発表した「慰安婦関係調査結果発表」に関する「河野談話」である。

所謂「河野談話」は、慰安所設置に「旧日本軍が関与した」との調査結果報告の発表である。

だが、この「慰安所設置に旧日本軍が関与した」は占領地の女性保護を念頭に、旧日本軍がわざわざ娼婦館業者と娼婦を連れて行った事の軍の関与を認めたのである。

従って、韓国側が「軍の関与を認めた」と一括りに主張しているが、分けて検討すべき「強制連行」と言う犯罪行為の関与を認めたものでは無い。


これは蔓延している「気持ちの良い嘘話・武士道精神」の裏返しだが、日本は曖昧文化の国である。

何故なら「武士道精神」に於いては、決定的な事を言うと「武士に二言は無い」と責任を執らねば成らないから、物事を曖昧にする。

近隣国の中・韓や欧米の文化は「イェス オア ノー」でハッキリ応える文化だが、日本では断る積りでも「ノー」と応えるべきを「検討する」や「調べてみる」と曖昧に応えて相手に期待させる。

これを日本人は外交から商談まで、曖昧習慣の無い国に対して「独自文化だ」として押し通す。

日本人はやんわりと曖昧に応える事で相手に奥ゆかしい気使いをして居る積りだが、他国人相手でこの曖昧を使うと相手は「ずるい」としか受け取らない。

所が日本人は、ドライに「イェス オア ノー」で対峙する他国人を、「奥ゆかしさと言う礼儀を知らない無礼な連中」と噛み合わず、勝手に怒っている。

この曖昧文化の典型的な悪しき事例が、韓国側言う所の「従軍慰安婦強制連行問題」に対する「河野談話」の存在である。

実は当時の日本政府は、韓国側言う所の「従軍慰安婦強制連行問題」に対して争いを長引かせない為に「河野談話」で妥協して決着を図った。

つまり日本政府としては、事実検証は曖昧なまま政治決着目的で出した「河野談話」を、韓国側は、「日本政府が従軍慰安婦の強制連行を認めた」と、以後日本攻撃の格好の証拠としている。


日本人の発想は「島国に閉じ篭った善悪評価」であるから、それを「日本の独自文化」だと開き直って「国際社会でそのまま通用する」と誤解している所に、「独善的な呆(ほう)け」を感じる。

勿論日本人が民族として誇りを持つ事は大事だが、相手国の民族の誇りとも同様に、誇りを強く出せば互いに国際化(グローバル化)とは「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」に陥(おちい)るのである。


実際には【日本人娼婦が大半】で有り、将兵の好みから軍の要請も出来るだけ日本女性を同行するように慰安婦業者に要請していた現実がある。

軍が要請していた事は、大きく分けて二つの意味(見方)を持つ。

ひとつは【国家絡み】と言う事で、国がその全ての責任を負うべき事である。

その対極にある見方が、今ひとつの、【戦地と言う特殊環境の中で】、見落とされ勝ちだがこの娼館・女郎屋を占領地に帯同したのは、「日本軍の良心」とも取れるべき事である。

世界で唯一本音の性に関する治安対策を考えたのが日本軍であり、他国軍は性に関する治安対策をしていなかっのだ。

残念ながら、人間の性は一筋縄ではいかない。

何しろ武器を持った若い野獣が、うろつくのが戦争である。

建前では無い現実としても、明日をも知れぬ命の前線の軍人が性的行動を戦地で起こさない方が不思議で、表面化しないが兵による個人の性犯罪は何処の軍隊にも存在する。

そうした意味では、占領現地の女性を守る為に軍が要請した【娼婦(館)・女郎(屋)の画期的制度】の事が問題で、野放しの【他国軍の個人の犯罪】は問題視されないとしたら大いに矛盾ではないだろうか?


この問題、【性の問題】だけに綺麗ごとの建前でものを考え易い。

建前だけで言うと「そんな悪い兵隊(人間)は世界中に居ない事」になり、軍の慰安婦業者同行要請は【そのものが不埒】と判断され易い。

だが、現地での日本軍の不幸な出来事は、慰安婦業者同行で相当に抑止された。

つまり、【日本軍は基本的に紳士だった】ので有るが、この事実も、娼婦・女郎の【犠牲】の下に成立っているのでおおっぴらには威張れず、現に、戦後の日本復興と伴に【娼婦館・女郎屋】はその存在を問われ始めるのだ。

後の昭和33年4月・赤線廃止令は執行される。

戦後の社会情勢の中で売春防止法(昭和三十三年施行)が成立し、確かに表向き「公娼と言う下劣とされる職業」は無くなった。

結果、その後の日本社会は本能の逃し所を失って売春組織は非合法化して闇に潜り、その手の女性は存在しているに関わらず非合法化で蓋をされた為に保護が得られず、返って危険な状態に身を置く結果に成った。

表向き安全な性的捌(はけ)け口が無くなって本能の行き場を失った為に性に関する治安が悪化し、折からの携帯電話やインターネットに拠る性犯罪が急増し殺人事件に至るケースさえ有る。

戦後は占領政策で欧米化教育が成されて個人の私権が強くなると同時に、環境的にも【農地開放政策】で農家が【土地持ちの資産家】に変身し、【身売り】の最大の供給源は無くなった。

欧米化教育が成されて私権が強くなると、世間の様変わりで女性にそう言う犠牲を強いる事は【社会合意】から外れ、現在では過去のその「公娼制度」が存在した事実だけでも相当に後ろめたい。

軍の要請で、占領地に進出した【娼婦館・女郎屋】であるが、基本的に戦争と言う【異常心理の中での可能性】と言う前提があっての性的治安対策である。

建前だけ「レイプはするな」と命令した他国の軍隊より余程現実的で実効が在ったのだが、この行為は相手国には評価されない。

つまり、【戦争そのものが犯罪】で有り、他国への【軍の進攻そのものがレイプ】なのである。

そう言う意味では、何を言われても仕方が無い。

だが、【世界でも稀な良心的軍隊】の一面が在った事を証明できるのが、【従軍慰安婦問題】の側面でも有る。

この性に関する対策問題、【忘れ勝ち】だが、実は戦後の早い時期にも政府の対策として施行した実績がある。

敗戦後の米進駐軍占領時代に、臨時日本政府は性的治安に危惧を抱き【性の防波堤】として、「やまとなでしこ」を募集した。

どちらにしても、こうした起こり得る「性の本音」に、現実的な政府が対処をしている所を見ると、建前は民衆に押し付けていても本音が別にある事は充分に承知していて、それを使い分けるのが「二枚舌の国家権力」と言う事に成る。

募集され女性たちが、無理解な一般の人たちから【パンパン、オンリー】等と卑下されながらも、【尊い犠牲】の上での占領米軍人の暴走対策とした生々しい事実は、遠い記憶になりつつある。

戦中の【軍の慰安婦業者同行】や戦後すぐの【性の防波堤「やまとなでしこ」】を募集した背景に、当時の政府がまだ日本国家が成立した頃からの「誓約(うけい)の概念」や「夜這(よば)いの文化」と言った我が国独自の性におおらかな文化が在ったからである。

つまり在って当然の現実に、建前の綺麗事を採らず具体的かつ現実的な有効手段を講じたのである。


今一度紹介するが、「ロマンチック」と言う感性の概念は、近代になって西洋文明が日本に持ち込んだものである。

現実を離れ情緒的で甘美な空想的様やそのような事柄の夢に浸(ひた)る事を好む様を「ロマンチック」と解説されるが、この形容動詞を一言で言う日本語は無い。

日本語に、英語の「ロマンチック」に相当する一括(くく)りの言葉が無いから、意味を説明するに多くの言葉が必要になる。

つまり西洋文明が入る前の古い日本には、「ロマンチック」と言う言葉に相当する「感性その物」が存在せず、現実を離れた空想的様を形容する概念が無かった。

そして辞書の解説に、「現実離れした甘美で理想的な雰囲気や成り行きである様」と在るからには、その言葉自身が「右脳域の感性」の範疇にある。

しかしその日本には無かった「右脳域の感性」が、困った事に現代の文学や映像ストーリー、そしてリアルな恋愛の駆け引きに大威張りで重きを為しているのである。


この「ロマンチック」と言う言葉に対する英語の形容動詞に「シリアス」がある。

「シリアス」は「極めて深刻で真面目な様や事態」とやや解説がし易いので、「ロマンチック」ほど「シリアス」の方は日本人の古い感性と離れていない。

夢に浸(ひた)るのも良いが、「ロマンチック」は本来現実離れした「空想的感性」なのである。

だから、そんな「ロマンチック」に固執して居ては、本当の「シリアスな人生」など遣っては行けないのである。


【強制連行】と【従軍慰安婦】は、事実関係が限りなく怪しい。

あえて「強制的だった」としたら、これは国内の日本女性の身にも有った事だが、考えられる事は「借金の肩に」と言う当時の日本の清算習慣に拠る貸し金業者や公娼業者の強引さだったかも知れない。

しかしそれは、良くも悪くも当時の日本の社会慣習である。

米国議会がこの当時の日本国の社会慣習を考慮に入れないで現在の物差しで安易に非難するのであれば、米国に於ける先住民(ネイティブアメリカン/アメリカンインデアン)の処遇や奴隷貿易に拠る黒人奴隷の歴史を今更蒸し返されても仕方がない。

でもね、これは時代の置き土産だから強制連行だったかどうかは別にして彼女達に「国家賠償はするべきだ」と考えている。

結果的に軍票や戦前の紙幣は敗戦で屑同然になって、彼女達にまともな金を払ってはいないからである。

従軍慰安が例え合意の上で在っても労働対価は払うべきで、敗戦は国家責任で「雇い主の責に負わすべきでは無い」と考えれば、当時日本の法律では売春が合法だったのだから彼女達にまともな労働対価を「国家が賠償するべきである」と考えても良いのではないだろうか?

これは、戦争の【負の遺産】であるから、どちらかと言うと問題を先送りにして来た過去の官僚、政治家に責任がある。

本来、その【リアルタイムに至近で有るほど】実際に近い検証ができ、【世間の物差しのメモリ】も互いに近いと言える。

六十年も経つと、「身売り」等と言う当時の感覚はなくなり、先方の言い分も「現在の物差し」が基準になる。

これは、【歴史認識問題】も同じで有る。

日本の政治家、官僚は、【日本式に蓋をし続けて】こじらせてしまった。

他国政府から言われ続けている原因が、自分達の先送りにある事に、日本政府は気が付いていない。


戦前は財閥、軍閥と言う新たな貴族(氏族)が跋扈(ばっこ)していた。

敗戦でご破算になって六十年、「格差があって何が悪い。」と言う政府が氏族の発想で、また新しい資産家貴族を生み出しつつある。

米国は低賃金労働力を移民に頼ったが、現政府は国民に低賃金労働力を求め、財政建て直しを図っている。

これは、時代に逆行する政策である。

一度廻り始めた歯車は、行き着く所まで行かないと止まらない。

日清・日露の戦いも支那事変も、その後の世界大戦も、財閥と軍閥の圧力の成せるものである。

当初批判的だった昭和天皇陛下も、東條英機氏も、廻り始めた歯車を止める事は出来なかった。

見える世界に、実は見えない世界が潜んでいる。

それを、額面通りに見える世界で判断する所に、「安易さ」は生まれる。

見える世界で判断する青臭さは、それこそ日本人が「信じたがる物語」で、その先の事は、結果が出てからでないと考えない。

現在の日本は、国民の厳しい監視の下にあるべきである。


「富国強兵」の名の下に、財閥を育てた過去の日本がどう言う結果になったのかは誰でも知っている。

結局の所、益々財閥に都合の良い政治が行なわれて軍事国家色が強くなり、破滅の道を選ぶ結果になった。

それが敗戦でご破算に成り、戦後の中小企業に活力があった時代は、日本経済全体が活況だった。

それを稚拙な金融政策で見捨てて来た。

多くの人々の受け皿(働き口)は中小零細企業で、採用の選別を前提とする大企業ではない。

国際競争力の確保は、地に足の付いた長期的な国力の維持発展の為にも、底辺の中小零細企業の重点育成を強化する道が在った筈で、それなら未来の若者に等しくチャンスと夢の場所を与えられた筈である。


実は、「美味しいから」と、翌年の「種」まで食べ尽くしてしまったような形振り構わないやり方が、この五年間の金融機関優遇、大企業優遇の金融政策だった。

残念ながら、団塊世代の築きあげた中小零細の事業基盤は、金融機関と大企業に食い尽くされ、今更取り返しが付かないまま老後を迎え、国家の負担世代に成りつつある。

定年の世代になって「再チャレンジ」と言われても、金融環境を含め、強大化しつつある資本に対抗する術は無い。

極端な事をすれば必ず咎めは出るもので、中小零細企業が生きていれば、団塊世代や若者達の受け皿(働き口)は残っていて、まだまだ国家の負担世代には成らない現役が多数居た筈である。

従って、教育問題を教育方針だけに分けてあれこれ言うのは筋違いである。

頑張れば中小零細企業の親方や社長に成れた時代の若者と比べ、チャンスと夢の場を失い、長い事経営に苦しむ親達を見せられて、教育方針を是正しただけで、未来が見えない若者が「まっとうに育つ」などと言うのは、政権政党のいい加減な誤魔化しである。



現代の日本は、政財界が一致して、「国際競争力」の名の下に新たな「階級社会」を形成しつつある。

明らかに、戦前の「地主と小作の立場」そして「軍と財閥の富の独占」が、形を変えてよみがえりつつあり、恐ろしい事に、この階級社会は教育機会(教育費用)の点で固定化を招き、挽回の可能性を難しくしそうである。

つまり国民は、政府に「ひた隠し」にされながら、国際競争力の名の下に新たな「階級社会に誘導されよう」としているのである。

「馬鹿げている」と否定できれば良いのだが、庶民が甘く見ていると、一部の者に富が集中する二千年前の氏姓制度に、形を変えて昔帰りしそうである。


日本の軍国主義、領土拡張主義、これらは日本人にとって言わば触れられたくない過去、触れて欲しくない事柄の類だろう。

だが、根拠に乏しい精神主義を強引に押し付ける政権指導者の余裕のなさが、先の敗戦に繋がった処を反省すると、現政府の「痛みに耐えて」は、正に稚拙な精神主義をお題目にしたまやかしに違いない。

それに、ころりと乗ってしまうのがこの国の国民性で、他国の民では中々見受けられない事で有る。

維新後の日本の体制が大きく変わったのは昭和二十年の「敗戦」である。

この敗戦は、国民にとって大きな不幸ではあったが、結果的にはその後を見て、新生日本を作る上では「あながち、悪い事ばかりでは無い。」とも言える。

只、ここに至るまで、「余りにも犠牲が多かった」事は、確かである。コーンパイプにサングラスのアメリカ男が、横田基地に降りて来て、日本を、「民主化」と言う名の元に大改革をしたのである。

コーンパイプの男(ダグラス・マッカーサー)には、日本を早急に自立させる使命が在った。

おりしも、「東西冷戦」の中、長くはお荷物として、日本を抱えては居られない。

彼・マッカーサーの改革は多岐に渡っているが、ここではあえて経済改革に関わる大きな柱を二つ程上げて見たい。

一つは「新円切り替」という名のデノミの実行である。

通貨の単位を百分の一にし、銭単位の通貨を無くし、一円を最小通貨とするとともに、個人の資金量の平均化を謀って、新生日本で国民が平等にスタートできるように、「払い戻し限度額を設けて制限を一人百円まで」とする。

新たに発行された新札または、横一・五cm、縦二・五センチ程の「証紙を張った旧札のどちらかのみ有効」として、富の実力以上にだぶついた通貨(インフレ)の整理をした。

終戦後直ぐの日本は、半年で物価がニ倍になる急激なインフレに見舞われ、政府はそれを抑える為、千円札を市場発行した半年後の昭和二十一年ニ月二十五日、強引な「新円切り替」を実施する。

これはその時点で流通している「五円札以上の全ての紙幣を無効にしてしまう」と言うものだった。

その為五円札以上の所有者は十一日間の移行期間の内にそれを全て銀行に一旦預金して「限度額一人百円」の範囲で新円を払い戻してもらわなければならなくなった。

インフレ抑制の為に預金封鎖を断行し、新円と旧円の切り替えが急がれ、その間「旧紙幣に証紙(しょうし)を張って使用する」と言う時期もあった。

戦前、戦中に、甘い汁を吸って肥えていた一部の人々の偏った蓄財は、この新円交換限度額で「使用不能」と成り、「紙屑」と消えて行き、「軍と財閥は組織を解体された。」のである。


今一つは、「農地解放」である。

彼・マッカーサーは、戦後日本の復興に、「障害に成る」であろう制度を知っていた。

「地主、小作制度」である。

当時の作地は少数の大地主の所有で、多くの百姓はそれを借りて生産していた。

これは、農産における富を少数の地主に独占され、土地の所有も固定される制度で在った。

経済活動の活性化に、「消費力の増大や土地の流動化」は不可欠である。

その原資となるものが、この制度の中にあった。

千九百四十五(昭和二十年)年末の「農地解放」まで存在した「地主と小作の関係」も、実は村里共同体の成せるものである。

簡単に言うと、当時の税である年貢未納者を互助するシステムが村を媒介とした村里共同体として機能し、年貢を立て替える事に拠って土地の所有権が移り、「地主小作関係」を作る結果になった。

そうした事情で自然発生的に「地主小作関係」が成立したが、それに拠っても村里共同体としての村里規模の自主的維持をはかっていた。

その大地主の所有する小作農地を、小作人の所有に移す事が、すなわち「農地解放」で在った。

平常時にはけしてやり得ない改革だが、なにせ敗戦国である。

占領軍に対し、地主も嫌も応も無かった。

結果、貧しい小作農家は、「降ってわいた幸運」で収入も増え、彼らを主力に消費は増加する。

暫くすると、土地を売って現金を掴む者、アパートやマンションの経営に乗り出す者、経済活動の一郭に占める「開放農地」の役わりは、大きく、効果的に波及していった。

これを境に、日本は、経済的繁栄を謳歌し、やがて「世界有数の経済大国」への道を歩み続けた。

勿論、少し遅れて発展した優秀な製品を作り出す「工業技術」なども、その要因では大いにあるが、土地の効率的活用なくしては、それも望めなかったのではないか。

つまり、中小企業の工場用地一つとっても取得が楽になったのである。

しかしこの繁栄の歯車も、四十年間も回り続けると加熱して来る。

「バブル経済」の始まりである。

その後の出来事は、記憶に新しい。

コーンパイプの男(ダグラス・マッカーサー)の置き土産は、長い、長い導火線を辿り続けた後に、見事、はじけた。」のである。

この導火線に赤々と火を灯したのは、皮肉にも東西冷戦が熱をもって表面化した朝鮮半島の「不幸」な出来事だった。

北を支援するソ連と中国を主力とする「共産主義」対、南を支援する米国を中心とする「資本主義」との代理戦争に、近隣の朝鮮半島が舞台とされてしまった事が、日本に「特需景気」をもたらし、戦後復興の第一歩を踏み出す力となった事は事実である。

他国の不幸が結果的に日本経済の恵みとなった事は「手離しでは喜べない」事実であるが、少なくともこれは日本が引き起こした事ではない。

バブル経済が起こり、やがて導火線は燃え尽き、見事はじけて、日本は一つの転機を迎えた。

「土地神話」が、終わりを告げたのである。

それが、今日まで十五・六年にも及ぶ長い不況の始まりでもある。

バブル経済が崩壊して、「資産価値」と言う富が、日本中から消えて行った。

地価や株価が半分に成り、やがて三分の一に成り、日本経済の「活力」は失われた。

これが、経済大国から借金大国と呼ばれる変身の始まりだった。


政策には良い面と悪い面が必ず伴うもので、別の見方をすれば農地解放は良い事ばかりではない。

一方でこの農地解放が農地の所有権の細分化に結び付き、小規模耕作地の農家が多数出現した事に拠る農作の非効率化を指摘する意見もある。

現実に他国と比べ、一戸辺りの耕作面積の小ささは農作の効率化の枷と成って輸入農作物と比べ生産コストが高コストと成って居て、農地解放の負の部分である。

しかしながら、この負の部分だけを今になって挙げ連ねて農地解放を悪政と結論付けるのは余りにも単純である。

戦後の経済史に於ける農地解放に拠る確かな経済発展の起爆剤的役割を、全否定してしまって良いのだろうか?



人は本来「群れる動物(群れ社会の生き物)」である。

つまり群れは「その人間が生きて行く上での寄り所」になる。

人類にとって、「群れ」は「生存本能」とほんど同じ意味を持つ記憶である。

遠い昔から群れで生活した記憶は、永く生存に直結していたから人間の本能に深く染み込んでいても不思議は無い。

人種が違っても、付き合って見れば個人個人の時は結構仲良く出きるのだが、これが部族単位、民族単位と成ると途端に群れの論理に成って憎しみ合う。

その根底に在るのが、本能的に守ろうとする遠い昔の「群れの記憶」なのではないだろうか?


欧米の個人主義を取り入れた明治維新の文明開化まで、日本の津々浦々は「村社会」と言う「村落共生の群れ社会」だった。

その「村落共生の群れ社会」の意識が、戦後の混乱の復興期に本能的に顔を出す。

戦後の日本の目覚しい経済発展の要素の一部として、焼け野が原から立ち上がった戦後直ぐの日本人は遠い昔から群れで生活した記憶をよみがえらせる。

大企業はともかく中小零細や個人事業主は立ち上げた企業や事業の中に「擬似の群れ」を構築して労使協調して「うちの会社、うちの会社。」と忠誠を注ぎ込み、チームワーク良く企業も経済も発展させた。

所が、日本経済の発展に連れて「少し儲かり始める」と欲の深い経営者が現れて富を独占し始め、上手く機能していた「擬似の群れ関係」を破壊してまで「労使関係」と言う味気ない立場を中小零細企業や個人事業にまで持ち込んで、労使協調の日本型「擬似の群れ企業」は消滅させてしまった。

少なくとも、バブル崩壊以前の企業はその規模に関わらずある種の忠誠心を持った「擬似の群れ」だった。

つまり、「生き行く為の群れとしての寄り所」であるから、個人と企業が一蓮托生の意識で企業への忠誠心も今よりは遥かに在ったのである。

実はこの「群れ社会意識」は、強力な「社会安全の要素」でもある側面を持っていた。

考えて欲しいが、群れの最小単位は家庭であり近頃蔓延する「私権意識」よりも「家庭と言う群れを優先する意識」が強ければ、何か事件を起こして「家族や親戚に迷惑を掛けられない」と、自重する抑止効果を得られる。

所が、現代の余りのも強い「私権意識」は、家族や親戚への迷惑は思い到らないで、只々短絡的に個人の感情で行動する愚を犯す事になる。

米国型競争経済は、儲けるには何でも有りの殺伐とした「私権意識社会」を生み出した。

果たして、現代の余りのも強い「欧米型の私権意識」を安易な時代意識で「今はそう言う時代だ」と、判ったように「かたずけ」て良いものだろうか?

行き過ぎた「私権意識」が、衝撃的な事件を生む背景にある事を、人々はもっと考えるべきである。

ここでキツく言って置きたいが、政治は経済だけではない。

社会と言うもの全般の治世を司る事が政治であり、我が国では、古来政治をする事は「まつりごと(祭事)」と言い、治世を司る事は神の代行をする神事だった。



ほんの少し昔、日本は「外国に負けない為に」と「富国強兵」の名の下に国策を推し進め、その結果領土は広がり、富は財閥と軍閥が独占し、一部の財閥と軍部は確かに良い思いをした。

その結果、国民は国が富めば「いずれ豊かに成る」と希望だけを持たされて、実情は、長年「娘を遊郭に売る生活」を強いられて、一度も良い思いをする事無く昭和二十年八月の敗戦を迎えた。

つまり、「富国強兵」は「富民強兵」では無いのである。

にも関わらず、最近、またゾロ「国際競争力」の名の下に、一部大企業の優遇策を実行し、格差社会が進行している。

戦後も六十年間以上を経過して、過去を知らない若い人が増えている。

間違えてもらっては困るが、国が富む事と国民が富む事はかならずしも一致しない。

政府は、段々に「末端まで景気が廻る」と言うが、大企業の「国際競争力」を維持するには、「低賃金の効率的労働が半永久的に続く」と言う絶対条件が必要である。

つまり、現在の政権政党・自民党の政策は、過去の「富国強兵政策」を「国際競争力政策」に置き換えただけである。

民主国家・日本国の民衆は、明治維新以後のおよそ八十年間弱、民衆が騙された手法に、再び「騙され様」としてはいまいか?

「富国強兵」の名の下に、財閥を育てた過去の日本がどう言う結果になったのかは、誰でも知っている。

結局の所、益々財閥に都合の良い政治が行なわれて軍事国家色が強くなり、破滅の道を選ぶ結果になった。

それが敗戦でご破算に成り、戦後の中小企業に活力があった時代は日本経済全体が活況だった。

それを稚拙な金融政策で見捨てて来た。

多くの人々の受け皿(働き口)は中小零細企業で、採用の選別を前提とする大企業ではない。

国際競争力の確保は、地に足の付いた長期的な国力の維持発展の為にも、底辺の中小零細企業の重点育成を強化する道が在った筈で、それなら未来の若者に等しくチャンスと夢の場所を与えられた筈である。


古来、血統のブランドはそれだけで世間に通用した。

日本は長い事血統を基準に世の中が廻わり、そこからはみ出た者は幾ら有能でもほとんどの場合排除されて来た。

一歩譲って、立派な祖先と言えども、それが子孫の現実評価と「何の関わりがある」と言うのか?

あくまでも、征服氏族側の支配の理屈だった事は、間違いない。

それが二千年に及び、染み付いた意識となって傍目みっともない事が、今日でも疑問を挟まず繰り広げられている。


繰り返される様々な人生を繋いで今日に至り、貴方は今を生きている。

我輩も、正しく同じ人生を全うする筈で有る。

そこには偶然も必然も無い、在るのは「いかに生きるか」と言う壮大なテーマだけで有る。

心すべきは、自らが生きた事に拠って「何を残したか」と言う事である。

しかしながら、その一生は大皇帝と言えどもわずか五十年〜百年の事で、目先の利を追っ者は必ず後の評価にその事実は隠せない。

それどころか、権力を持ったものほど、犯した罪は大きい。

現在の官庁組織の最悪な事は、正義より組織防衛を優先する事である。

その為には、嘘の上に嘘を重ねても、けして失敗は認めない。

この裏側に存在するのが、「お上(神)の論理」であり、「お上に間違いはない」と言う原則論を押し通す有史以来の「神話の論理」で有る。

この為に失敗は隠され、従って反省は成されない。

この繰り返しが、「失敗したら隠せばよい」と言う無責任な施策を生み出す。

つまり彼らと庶民とは、最初から価値観が違うのである。

そこを庶民が心して掛からねば、後悔する事になる。

人間、先入観が出来ると、中々「それが間違いではないか?」と、疑う事が出来なくなる。

バカバカしい事に、この国では永い事、血統が良いだけで「偉い人」とされて来た。

二千年前の亡霊が未だに出没している訳だが、この国ほど血統に価値があり、その血統を利用され易い国は中々無い。

全く能力に不足が有っても、その人間の血統が良ければ手放しで価値を認めたがるのが日本人である。

従って、この歴史物語に登場しない無能な指導者は、ごまんと存在する。

いゃ、そちらの方が「数千数万」と遥かに多い筈である。

この二千年に余る血統至上主義、冷静に見ている我輩にすれば喜劇にしか見えない。

酷い話になると、地域住民の自治組織である自治会の区長・自治会長まで、親子何代にも世襲みたいに続いて居る。

こう言っては何んだが、我輩が見る限り、この二千年に余る血統至上主義の歴史の当事者は、持ち上げる方も持ち上げられる方も至極真面目にその時代を生きて居る事であろうが、その実それは「滑稽極まりない喜劇」である。

確かに秩序を維持する効果はあるが、産まれに拠って有無を言わさず「その人間の一生が決まる」と言うのは不条理な話である。

しかしその不条理に当事者が全く気が付かず、到って真面目に「守ろう」とする姿は現代人の我輩の感覚では滑稽でさえあるが、その事に疑いを挟まないのは、もう或る種の「血統信仰」とさえ思えてくる。

そう成ると、例えそれが血統故の悲劇であろうとも、現代人の感覚では喜劇にしか見えない筈であるが、そうでもない所に日本人の哀しさを感じる。

それでも、その血統至上主義が、当時の守るべき常識だったのである。

明治維新以後だけを数えても、三代四代と続く政治家貴族・官僚貴族、と言う新たな血のブランドが固定しつつある。

現総理大臣の小泉純一郎氏も政治家の家系三代目で、 逓信大臣を務めた小泉又次郎氏(刺青又次郎)を祖父にもち、小泉家に婿養子に入った代議士・小泉(旧姓・鮫島氏)純也氏の息子で有る。

そして小泉(旧姓・鮫島氏)純也氏は、あの「北朝鮮帰還事業」を積極的に進めた日本側の最高責任者だった。

地盤も看板も受け継いだ上で、口先はともかく真面目に働いて僅かな収入を得る庶民生活とは遠い所で、生まれも育ちも支配者で有る。

演説巧者の点で、ヒトラーも小泉純一郎氏も演説で国民の同調性を煽(あお)る術(すべ)に長けていた。

しかしそれは、世間で言う「口が上手い」と言う事で、演説で国民の同調性を煽(あお)る術(すべ)に長けていても、それだけで人柄が誠実とは限らない。

国家を運営する者は、なるべく利巧に越した事は無いが、利巧と言う表現には性質(タチ)があり、悪賢いのも利巧の一種で有る。

学歴や血筋だけは資質は推し量れない。

しかしその辺りは、残念ながら遣らして観るしか試しようが無い。

繰り返すが、「何もそこまでして・・」と思うのが、健全な人間で有る。

それを思わないで、どんな手を使っても目的を遂げようとするのが鵺(ぬえ)である。

愚民は読解力に欠けるせいか、単語演説を「判り易い」と言う。

ヒトラーも小泉純一郎氏も「判り易い演説」の名手だったが、見事に国民の救世期待を裏切った。

愚民は救世主を待望し、裏切り続けられても「今度こそは」と夢を棄てないが、熾烈な権力抗争を生き抜いて来た者に善良な救世主は似合わない。

もう好い加減に救世主を待望するのは止めた方が良い。

つまり非情に徹した権力の権化だからこそ闘争に打ち勝ち、その権力の座に就いたのだから己の権力の為にその才を発揮する。

そしてその野心の為に犠牲になるのは、そのまがい物の救世主を待望した愚民である。

妖怪には人の心は無い。

もし、そんな不健全な心で、「痛みに堪えろ」と言い、例え目的を達してもそれを手柄と評価するのはいかがな物か?

それともわが国の民衆は、もう他人を思いやる心が無くなってしまったのか?


こうやって日本の歴史を見て来ると、日本人が如何に「建前」にばかりに拘って居るかが判る。

余りにも一民族丸々の人間が、その「建前」を普通の事のように受け入れて、不思議に思わない所が問題なのである。

つまり、「建前」でものを言いながら本音で違う行動をするから、そこが外国人に理解されない点である。

日本は神代の昔から、武力ではなく「大王(おおきみ・天皇)の威光(信仰的な精神世界)で国を治める」と言う、理想主義的な信仰を利用したところから国の形態が成立した経緯があり、「建前」に重きを置く民族である。

それは「建前」で物を言うから、内容は立派である。

例えば米国の銃社会を批判するに、その前提は「建前の精神世界」である。

乱射事件が起きると、銃の規制より護身用所持に走る米国民を安易に「建前」で批判する。

しかし、これは諸外国と比較すると、ある面日本人の独り善がり的なところである。

勿論「建前」だから日本人の言い分の内容は立派だが、国際社会では、もっとリアル(現実)な考えかを持つ民族の方が遥かに多いのである。

何故なら、「建前の精神世界」でも毎日のように無差別通り魔殺人は起き、暴力団は容易に拳銃を所持している。

そこまで行かなくても、大企業の営利主義によるトラブル隠しは、例え「間接殺人になろうか」と言う危険なものでも、平気で隠そうとする。

国民の「範」足るべき代議士から高級官僚、警察官から教師まで、犯罪またはルール違反をする度に、イレギラー(特殊)だと「建前の精神世界」に逃げ込んで、物事の本質を見ようとしない。

そうしたイレギラー(特殊)の当事者は何も特殊な人間では無い。むしろ何処にでも居る普通の人間である。

日本人は、何か事あるごとに、それは「有るべきでない事」だから、自分達は立派な民族で、そんな悪い奴は「日本人としてイレギラー(特殊)である」と言い続け、その「建前の精神世界」を持たない国は「おかしな国だ」と主張し続けている。

所が外国が外から見ると、その日本や日本人の現状に「建前」と乖離(かいり・かけ離れている)している行動の事実が、日常的にあるから、公式発言はとても信じられないのである。

そして、その文化を「独自文化だから理解しろ」と言うのは、日本人の傲慢(ごうまん)である。

基本的に日本人は腹芸や以心伝心が高等と考える人種で、旗色やイエス・ノーを明言せず「様子見曖昧(ようすみあいまい)が徳」と考える文化を持つ人種である。

日本人にとって、「検討します(考えて置きます)」のほとんどは、実質「ノー」の意味である。

従って次に遭った時には「その課題への回答の用意」は無い。


日本には島国日本人気質である「謙譲の美徳(控え目の美)」と言う独特な考え方がある。

辞書を引いて見ると、「謙譲(けんじょう)」とは、「へりくだり譲る事、また、控えめである様。」と書いてあり、つまりは良いも悪いも争いを避ける為に、主張に控え目の奥ゆかしさを出す日本独特の「まぁまぁ体質」である。

そうした感性がまったく無い外国人に「あいつ等、謙譲の美徳(控えめの美)と言うものを知らないのか?」と言った所で、その日本人気質が正しくて相手国人が悪いなどと言っても、他国に通用しない感性(気質)など主張しても一人善がりである。

他国では「良くぞ言った」と褒められる事を、独特な考え方「謙譲の美徳(控え目の美)」が強いから、たまに外交で強い主張をして相手を怒らせると、その主張をした者が「相手に対する配慮が足りない」と悪者にされる。

こんな日本国内意外は何処にも通用しない一人善がりを「最善の態度である」と考えているから相手にして見れば「余り主張しない大人しい奴等」で、他国から一方的に言われっ放しになる。

本来、外交交渉に於ける日本の態度は、他国同様の「言うべき事はハッキリ言う」とする「国際標準」であるべきだが、日本式の「謙譲の美徳(控え目の美)」を、稚拙にも「そんな文化が無い相手」にまで発揮しようとする。

その根底に流れているのが、単一日本民族の成立過程で起こった三つ巴の多民族の地だった事に拠る対立回避の知恵だったからであるが、それ故に誓約(うけい)文化やそこから派生した氏族社会の稚児小姓(ちごこしょう)風習などで信頼関係の担保を構築する術(すべ)を考案した。

しかしお隣の中国では、対・不対(トェ・プトェ/はい・いいえ)や好・不好(ハオ・プハオ/良い・悪い)、米国ではイエス・オア・ノウが意志疎通の基本であるから、次回遭った時に日本の「検討します(考えて置きます)」の回答を請求する。

正に日本の常識は世界の非常識であるが、それを「相手国が理解している」と勝手に思い込んで日本外交は押し通そうとし、他国の信用を失いし続ける愚を犯している。

にも関わらず、仕舞いには「その位の事が何で判らないのだ」と逆に怒り出すのが日本人の世界的評価で、つまり日本人の国際化は、腹芸や以心伝心の意識を持ち続けている間は期待薄である。

まぁ、何処の民族、何処の国家も独善的ではあるから、互いにそれを言い立てても永久に話は噛み合わない。

もし日本と言う我が国が大人の民族・大人の国家なら、まずは己(おのれ)から改めるべきではないだろうか?

それとも今まで通り「日本の固有文化なのだから何が悪い」と、妖しげな建前を振りかざし続ける民族・国家なのだろうか?


この国は「建前」に重きを置く国で、日本の過去は、「建前」の上では美しくなければならない。

そう言う「建前」発想の元で、歴史を残そうとする。

それが現代でも、「国民を導く正しい政治手法だ」と、頑(かたく)なに信じている指導者や学者の多い国でもある。

これは、戦時中の大本営発表である「いたずらに不安を与えたくない」と言う誠意のすり替え論理と、差して変わらない。

至近の例としては、多数の現地県民の証言があるにも関わらず、集団自決に「軍に強制は無かった」として、戦後永く教科書に記載されていた「沖縄戦での集団自決に軍の強制があった」とする文言が「削除」された。

そこまで行かなくても、都合の悪い事は先送りにするか、「無かった事」として存在を認めない。

無責任な事に、無い事には論議は起きないし、その事を解決する労力も要らない。

所が、それで済む訳も無く、「無かった事」としてして居る間は、無い事だから追求も対処も出来ないし対処方法も論議されないから、ほとんどの場合は「手遅れ状態」で表面化する。

言わば、誰かさんが言っている「美しい国」は、厚化粧と補正下着、整形手術と履歴詐称の塊ではないだろうか?


近頃「無縁社会」と言う情況が社会問題に成っている。

哀しい事に、この無縁社会(むえんしゃかい)が「孤独死」とセットに成っている。

無縁とは「親身になる身内が居ない」と言う事で、これは「共生社会」だった日本人の心が欧米の刹那的な個人思想に変わってしまった事に他ならない。

事の本質に迫れば、実(じつ)の無い善意だけでの「親身」は綺麗事で、戦後の集団就職で地方の若者が減少し「群れ婚状態の村落共生社会」を失った時から「無縁社会」の足音がヒタヒタと迫って来た。

日本の農漁村部に永く続いていた村落共生社会は、「親身(しんみ)の群れ」である。

誓約(うけい)の本質は性交に拠る異部族の群れの一体化で、「親身(しんみ)」の基本的な意味合いを辞書で引くと近親(近い身内)血筋や結婚などで近しく繋(つな)がっている人となる。

身内の次には、肉親であるかのように細(こま)やかな心使いをする事、または「その様を親身と言う」とあり、「親身(しんみ)」には結婚に準ずる意味合いがあり、「その様=親身」を具体的に具現化すれば「親身=性交」の意味が見えて来る。

つまり村落共生社会に於ける誓約(うけい)に拠る群れの一体化は一村身内感覚の「夜這いの合意」で成立していて、今でこそ「親身=他人の好意」と簡単に意味つけているが、本来の「親身(しんみ)に成る」と言うのは具体的な「その様」を言うのである。

その誓約(うけい)に拠る群れ社会が消滅して「親身に成る要素」を失えば「隣は何をする者ぞ?」の只の他人で、綺麗事は言っても実質的に互いの間に縁など無い。

つまり人間は欲の深い生き物で、昔の群れ社会ならともかく只の隣人同士の間柄なんてものは、いざ蓋を開けて見ると残念ながら「嘘で固めた間柄」なんて事が多いのである。

一方を得れば他方を失うのが世の常で、無縁社会(むえんしゃかい)と言う社会傾向を認識すると、村落共生社会はまんざら非難されるばかりの社会では無かったような気がする。


戦後の刹那的な個人思想が「家族」と言う単位を軽く見る傾向を生み、目先の自由を謳歌したいが為に単身生活を選択する者が急増している。

戦後の一時期はまだ、隣近所付き合いや企業に団体と言った縁が存在した。

しかし隣近所付き合いは希薄な社会となり、企業や団体の縁は在職している間だけの関係で退職すれば一気に社会との縁も失う。

そして欧米の刹那的な個人思想が社会の主流になると、職場や労働団体の縁も非正規雇用の増加の中で希薄なものになり、合わせて近隣との関わりを嫌い「隣は何をする者ぞ?」の無縁社会(むえんしゃかい)が一般的に成って行く。

非正規雇用の拡大で、正規雇用機会を失った男性が増加して家庭を持てなく成った事もあり、近い将来男性の三人に一人、女性の四人に一人が「生涯独身」と言う予測もある。

問題解決には社会構造の抜本見直しが必要で、実体の無い綺麗事の精神論の善意を幾ら叫んでも、この国に於ける「孤独死」は、年々増加しているのだ。


日本人は、明治維新と敗戦の二度のトラウマから「新しい物のみが正義」と言う風潮が浸透している。

しかし果たして、本当に新しい物だけが「正義」と言えるのだろうか?

自ら思考範囲を狭(せば)めたアンカリング効果は、周囲を正しく見渡す事を阻害するのである。

我輩は、安保闘争末期の学生時代をノンポリで過ごした。

むしろ彼らの偏った思考による闘争には批判的だった。

その我輩が、確信を持って言う。

洋の東西を問わず、わが国を含め、政府が正義だった事実は過去に一度も無い。

それを巧妙に演出して、あたかもある様に見せかけるのが唯一政府の仕事である。

その幻想に過ぎない事を前提に、庶民は物を考えてはいけない。

本来、ここはせめぎ合いの部分である。

始末が悪い事に、権力者の誤解による自惚れは身勝手な判断となって言動に反映される。

つまりそれは、或る種の思考を基に「正しい事」と思い込まれて確信的に成される権力者の悪事で有る。

従って罪の意識など彼らに無い。


一言だけ、強く言って置きたい。

我輩はこの物語で、多くの英雄を書き記(しる)して来た。

しかし彼らのほとんどが、大儀の為に妻子や父母すら守れずに死んで行った。

後の世の世間は、彼らの「名声のみ」を評価するが、妻子や父母すら守れずに生きた事と、貧しく平凡だが、確り妻子を養い父母に孝行し、生きた者と、いずれが真の英雄なりしか?その事を、正面から「問うて観たい」気がするのである。


悲しい事に、維新の時の浪士隊(新撰組)にしても、大戦時の兵士にしても、「侍でありたい。軍人だありたい。」に忠実だったのは身分が低い、または階級の低い、素朴な人々だった。

それに引き換え上の方は、結構ずる賢く立ち回って、世渡りをしていた。

所詮、権力者の考える事はその程度に厚顔である。

我輩が本当に真相に辿り着いたかどうかは、永遠に謎で有る。

あくまでも全て文献に拠る推論で有って、現実にその場には居た訳ではなく、残された文献そのものも多分に脚色されていて、確実とは言えない。歴史とはそう言うものである。

これはいささか難しい要素を含んでいるが、この物語の主役・勘解由小路(賀茂)の存在に幾らか関わりがあるので、問題意識として提起して置く。

現在の日本は、またまた平和憲法の建前に嵌って、諜報戦略的には「丸裸だ」と言われている。それが「良いか悪いか」は意見が分かれる所であろうが、「丸裸」とは遺憾とも頼りない。


天皇・公家も、将軍・大名家も、血統を秩序基準に成立して来た。

つまり、日本の国家秩序は、執念とも言うべきこの「血統至上主義」に拠って二千年も維持されて来た。

それでその意識が日本民族に染み付き、血統のブランドに特に拘る特異な人種に成った。

しかしこの「血統至上主義」、現代民主国家に於いては合理性がない。

いや、むしろ弊害でさえある。

今や代議士の子息・孫と言う「血統」の理由だけで判断基準にする、新しい「政治氏族制度」が成立しつつあるのだ。

結局の所、欲に駆られて鵺(ぬえ)や鬼になるのは人間の本性かも知れない。

嫌、そんな結論は、正直この物語には「相応しくない」と想うのだが・・・・。

戦後も六十年を過ぎ、新たな政治家世襲王朝と官僚貴族に拠る専横政治が跋扈(ばっこ)し、格差社会が出現しつつある。

まさに彼らは、現代の鵺(ぬえ)である。

そろそろこの現代にも、二千年の時を隔てて隼人の英雄がよみがえり、岩戸を開けて日本の未来を明るくしてもらいたいものだ。





・・・・【第一巻】に戻る。



参考資料
日本民族の同化過程は、日本列島の「血液型分布にも現れている」と言う。日本人の血液型は、一般におよそ四対三対二対一の比率で有る。

日本人の血液型の割合は、大体A型が38%(AA型が8%、AO型30%)、O型が30%、B型が22%(BB型が3%、B0型が19%)、AB型が9% ただし、血液型は二種類の遺伝子の組み合わせなので、A型でも生粋の AA型と AO型がいる。(B型も同じ)

早い時期に移って来て、最初にいた列島の先住民族が占有率二十%のB型で、B型因子は北方から朝鮮半島を経て民族が渡来した物で、東北・北陸・中部地方に多く、西方に向かうに従って減少しており、 これが先住民族「蝦夷の基本的血液型」と思われる。

次に入って来たのが、占有率四十%のA型で、A型因子 は、九州の北部に多く・中国(鳥取)・四国(愛媛)に分布し、漸次東方に進出してきた。東北に向かうにつれて占有率が減少 これが、「加羅族の 基本的血液型」と思われる。

最後にやって来たのが占有率三十%のO型で、O型因子は 九州南部・太平洋沿岸の県に多く、太平洋諸島に住んでいた民族(O型の多い太平洋型)が南方から渡来した 。これが「呉族の基本的血液型(モンゴロイド)」と思われ、北米及び中南米の原住民に極端に多い血液型である。

そしてこの三つの民族は、言語の上からも、習俗の上からも南方要素と北方要素とを混在して現在の日本人の祖先を形成するに至った。全体の十%を占めるAB型因子 は混血新型因子である。

日 本 人】 【モンゴル人】 【韓 国 人】 【アメリカ人】 【南北アメリカ大陸純粋原住民】
O型 30.7%  O型 32.5%  O型 34.5 %  O型 41.0%  O型 100%と言われている
A型 38.1%  A型 22.3%  A型 28.0%   A型 44.0%
B型 21.8%  B型 36.4%  B型 27.0%   B型 12.0%
AB型 9.4% AB型 8.8%  AB型 10.5%  AB型  3.0%


あとがき

信仰も思想も、個人の自由である。それで「救われる方に」とやかく言うつもりはない。 筆者は、信仰に於いても思想に於いても「無頼の徒」である。従って、そうした類のいかなる物にも組さない。 しかしながら、紛れも無き日本男児であり、国を憂う気持ちに偽りは無い。
信仰も思想も、利用する側とされる側の為に存在する物で、およそ、純粋で美しい心の持ち主ほど、哀しいかな「利用する側の真の目的」を見抜けない。
胸に手を当てて考えて欲しい。本来、神も悪魔も貴方自身で有る事を・・・・。それを、他人の作った神に万能のごとく頼るから、「自分の生き方に責任がもてなくなる事に」、思い到って欲しい。

筆者は皇室を軽んじているのではない。むしろ国家の象徴として、制約の中で日々努力される皇室の方々の、真摯な努力には頭が下がる思いである。願わくば、「幸せにお過ごし頂きたい。」と願っている。


話が変わる。企業経営者も同じ事だが、為政者は強いリーダーを装い「自らを伝説化する事」で強力な権限を有する。大概の所、その強力な存在を喜ぶ者が多いからで、正に永い間に植えつけられた「庶民感覚」だからだ。「英雄待望論」と言えば格好が良いが、二千年に及ぶ血の支配が骨身に染みているのだ。

哀れな事に、見下す者を好んで作りたがる習性が出来てしまっている。 その染み付いた好みで為政者を選び、そしてその相手が、「酷い奴だ」と中々気が付かない御人好しでもある。

最近民放のテレビ討論の場で、「恐ろしい物」を見た。
格差社会の現状についての討論の中で、小泉(首相)政治の五年間が「格差社会を生み出した」との発言に対する、与党議員の発言と司会者の同意である。

いわく「あれは小泉政治の責任ではない。たまたま少子高齢化が重なっただけだ。」と発言、つまり高齢化に拠る負担が増えたのは「政府の責任では無い」がごとき言い分である。

対して司会者は、「その一面も確かにある。」と同意した。
これは、ばかげた討論で、彼らの「正体見たり。」で有る。

何故なら、「起こるべき予測にあらかじめ対応して舵取りをする」のが、責任ある政治家と官僚の役目では無いか。
予測される事の対処を五年間放置し、「時期的に巡り合わせた物だから仕方が無い。」と居直っている。


通常、工事を始める時はあらかじめ安全ネットを用意する。確率が低くても万全を期して工事に入るのが、定められた約束事で、社会的に至極当然な事である。処が、現政権の五年間は安全を無視して「規制緩和型自由経済」と言う工事を始めてしまった。

あるテレビ番組で、学者大臣が「格差社会が悪い事とは思わない。」と言い放った。彼の言い分だと、「努力した者が報われるのが正しい社会だ」と言うのである。

チョット待って欲しい。彼の言い分だと、戦後の焼け跡復興から高度成長経済まで、走り続けた人々が「努力をしていなかった事に」なる。現在、この走り続けた世代の処遇が「報われない方向に進んでいる」から問題なのではないのか?

学者大臣は、取って付けた様に「それでもどうしても生活出来ない人のセーフティネットは必要で、考えて行かねばなりませんが。」と言い足した。この発言、大学教授までした人間として恥ずかしくないだろうか?

セーフティネットは、事を起こす前にあらかじめ手当てしておくのが当り前で、政府の失政が原因で、毎年数万人が亡くなってから検討する性質の物ではないだろう。それを、恥ずかしげも無く「今から構築してゆく課題だ」と言う。やっちゃって、結果が出てから対策を講じる「泥縄式」が、日頃えらそうな事を言っている男の稚拙な弁明で有る。

国民は自分達の未来を、彼らに託すべきではない。
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作者本名・鈴木峰晴