過去が在って今がある。
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【伊豆の国=伊都国(いとこく)説】これは教科書に載っていない歴史の謎である。古代、飛鳥時代より遥か昔、倭の国々の東の外れ、黒潮に抱かれた半島に、「伊都(いと)国」はあった。古代葛城王朝・伊都国は伊豆の国だった。そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)に在った。 田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆の国における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。御門(みかど)地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門(かつらぎ)の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。 二千年を超える影の歴史が始まったのは、この「伊都(いと)国」からだった。 修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、伊豆に起源を発する豪族臣王・葛城氏の枝であり、下級貴族である。 この葛城氏本家が、突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名として、「葛城王」がある。この事の意味するものは何だろう? 【大海人皇子(おおあまのみこ/天武天皇)の疑惑】これは教科書に載っていない歴史の謎である。大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して、帝位に付き、天武(てんむ)天皇(第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。仮に大海人皇子が、皇統に紛れ込んだ新羅王の弟としても、「日本書紀」編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子のなかでは長命を得た人物)である事から、大友皇子の立太子の事実及び大海人皇子(天武天皇)の皇位簒奪の経緯についてはいくらでも有利に脚色出来る為、手放しの信用は出来難い。そしてここら辺りが怪しいのだが、修験者の開祖「役小角(えんのおずぬ)」が現れたのは、この天武大王(おおきみ/天皇)の御世である。大海人皇子が海人族であれば賀茂・葛城族とは同族で、天武大王(おおきみ/天皇)の皇位と権威の確立の為に、天武大王(おおきみ/天皇)直属の修験秘密警察が誕生した事も充分に考えられる。 【広域倭の国論】これは教科書に載っていない歴史の謎である。中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。すなわち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。 この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。この間違った考えから、倭の国=大和の国を導くと、後の説明がまるで付かないのである。 【天狗(てんぐ)修験道と犬神・人身御供伝説】これは教科書に載っていない歴史の謎である。この国の河童その他の妖怪・お化けの類は、大概の所、山岳信仰を応用した修験行者や、後の僧侶が信仰の布教の手段として流布したもので、ある種教育的メッセージ、または何かの目的達成の為に出現している。人身御供に関わる地方民話の内容については、「唯の民話、御伽噺」と片付けてしまえれば簡単であるが、それは我輩には出来そうも無い。実は、民話に隠された真実には重大な意味がある。何かを伝えたいから、民話は存在する。「現実離れしているから」と言って、造り話とは限らない。神秘的な民話には、実は難解な真実が隠されている。勿論、文字を持たない身分の低い立場の者、ものをはっきり言えない弱い立場の者は、民話に隠して後世に託すしかない。そうした先祖の切ない意思を、読み取ってやるのが、後世に生きる「人の道」である。【聖徳太子は実在したか?】これは教科書に載っていない歴史の謎である。厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を紹介して置く。聖徳太子は、日本史において最も有名な皇太子の一人である。しかしこの聖徳太子には様々な疑惑がある。まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古天皇(第三十三代・女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?その理由であるが、遣隋使に託した遣使の国書の文言に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。 【陰陽師=国家諜報機関説】これは教科書に載っていない歴史の謎である。陰陽師(修験山伏)に国家諜報機関(日本版CIA、KGB)の疑いが・・陰陽道の起源と歴史への関わり・・・「陰陽寮」の存在、そして隠された真実、謎の使命【大王(おおきみ・天皇)の密命】とは何なのか?この役小角(えんのおずぬ)と修験道組織の出現、実は大和朝廷の「途方も無い政変」と大きな関わりがあるのだが、その話は追々する事に成る。 古代日本の統治制度「律令制」下に於いて、大和朝廷に「陰陽寮」は成立した。 しかしそのずーっと以前、朝廷の密命を帯びた陰陽修験組織が、山里に分け入ってある密命を遂行していたのである。 この修験道が、真言密教の原点から関わって、真言(密教)立川流は、南朝・後醍醐天皇の庇護の下、「建武の親政」で大きく花開いた。しかしその幸運は儚かった。 【真言(密教)立川流の謎】これは教科書に載っていない歴史の謎である。真言密教立川流を、現代の倫理観で計る単純な発想で「淫邪教」と言うのは簡単である。しかしそんな事では推し量れない何かが、立川流にはある。武蔵国・立川に在住した陰陽師の出身の真言宗の僧侶見蓮(もくれん)が、伊豆の大仁に流人として住まいし真言宗の僧侶仁寛(にんかん)に真言密教の秘伝を授けられ、陰陽道と真言密教の教義を混合して真言密教・立川流を興し、「開祖・布教した」とされている。 その後、当時の幕府所在地・鎌倉には、京都から放逐された「天王寺真慶らによって伝えられた」と言われている。 真言立川流は理趣経(りしゅきょう)を主な経典として、人間性を上手く取り込んだ教義の為、多くの信者を集め、真言密教の僧のうち「九割が立川流の信徒となっていた」と言われ、文書「受法用心集」によると、一時期、真言密教の主流として立川流は浸透を続けた。 南北朝並立時代から室町初期にかけては後醍醐天皇の庇護を受、政局にかかわるほどの力を有したのだ。 【源義経・修験黒幕説】これは教科書に載っていない歴史の謎である。悲劇の武将、源義経に従うのは、修験山伏組織のエリート集団だった。義経の卓越した戦闘術の謎が明らかに・・・・・源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。 源義経を支え、連戦連勝に導いた軍事顧問団の正体は、帝の工作員(修験道師)である。 源義経の生涯は、帝の思いに翻弄された不条理なものだった。それでも、短いが確かな愛の時間にも、義経はめぐり合っていた。 【古典芸能のルーツ】これは教科書に載っていない歴史の謎である。その役割を歴史の場面場面で意味を持って登場する影人が、芸能を諜報活動の武器にしている国家情報機関の仕事の一部として世論操作の目的を持ち、官製メディアの役割を担ったのが初期修験道師組織で、神の威光をでっち上げる為の神事としての神楽舞(神話伝説物語)に始まり、中央貴族の白拍子舞や地方の田楽舞などに分化して行き、その後の時代の変遷で国家情報機関の立場を離れ、宗教者は勿論、芸能者や武芸者、農・工業従事者などに細分化した表の顔を持つように成る。更に時代が下がると、娯楽性が益して大衆芸能化した阿国歌舞伎や高級芸能の能楽舞と分化が進み、やがて男歌舞伎や芝居、猿楽能と成って脚色された英雄が活躍する大衆娯楽に成って行くのだが、少なくとも江戸初期位までは、この芸能部分を表の顔とした隠れ武芸者が居たのである。 【織田信長の奇策・徳川秀忠】これは教科書に載っていない歴史の謎である。関ヶ原の戦いに遅参した事で武将としての評価が低い徳川秀忠であるが、天下を手中に収めた偉大なる親に対し比較凡なる二代目多い中、徳川長期政権の礎を地味に築き上げた二代将軍はけして凡庸な二代目ではない。実はこの徳川秀忠には容易ならざる秘密が有った。血統主義は、氏族が自分達有利の為に構築した「建前」である。無論、信長の本音はそんな「建前」など屁とも思っては居なかったが、織田信長程その血統主義を、冷静に利用した男は居ない。そこで、信長が取った二つの手段が、「奇想天外」である。自分が最も信頼する光秀が、親代わりで育てていた「光秀の従弟」を、家康の子として押し込む事である。「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していた。【明智光秀=天海僧正説】これは教科書に載っていない歴史の謎である。明智光秀は謀反人ではなかった。彼こそ「稀代の忠臣」と評価されるべき男だった。葵の紋と桔梗紋の謎を追って、「本能寺の変」光秀決起の謎が明らかに・・・・・・・・・そのきっかけは、想像を超えた織田信長の「とてつもない野望」だった。 光秀にとって、己の名声など何の意味も無かった。ただ、自身の能力を確認する為に、成し遂げたい事があった。それとて、自身が納得したいだけで、人が知る必要は無かった。彼は、全てをあっさりと捨て去り、隠遁生活に入った。 【豊臣秀吉その出自の疑惑】これは教科書に載っていない歴史の謎である。秀吉の顔はけして猿顔では無かったし、信長も、「サル」などとは呼んではいない。生家と言われる中村郷も山深い里ではない。世間から「サル」と呼ばれる由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。秀吉の出自については、山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。【徳川家・世良田系図の謎】これは教科書に載っていない歴史の謎である。徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図があるだけである。松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。 この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏に、たった一つだけ、心当たりの「接点」が浮かび上がった。 松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五歳の頃)のみぎり、駿河今川家の人質に出されたその旅の途中、戸田康光の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られ、幼少時代の一時を織田家に浚(さら)われて、人質ながらも信長と「竹馬の友」で育っている。 その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。 【水戸黄門の真実】これは教科書に載っていない歴史の謎である。水戸光圀の大日本史編纂には、影の目的があった。それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)と雑賀衆の一団だったのである。この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)である。そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。そして「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。 【徳川吉宗誕生秘話】これは教科書に載っていない歴史の謎である。この吉宗の生母・於由利の方は、巨勢(こせ)氏の出自に疑問がある。何よりも不思議なのは、江戸幕府安定期の将軍生母でありながら、その於由利の方の墓が何処にも存在しないからである。墓が存在しない事から推測されるのは、「巨勢六左衛門利清の娘」は、世間体の為の「便宜上の親子関係ではなかったのか?」と言う疑問である。なぜなら、実家の巨勢(こせ)氏は、紀州の大地主で、立派な墓の一つも作れない訳は無い。ましてや、紀州藩が墓を作らないのはそれこそ罰当たりのはずである。それが無い所に、将軍生母として「何か秘すべき物があった」と考えざるを得ない。【隠された明治維新】これは教科書に載っていない歴史の謎である。明治維新によみがえる南朝・後醍醐天皇の系図、仕掛けたのは、吉田松蔭門下生と尊王派の公家達・・・・その噂は本物か?。北斗妙見信仰に端を発する大内家から毛利・長州藩まで、脈々と守護し続けた皇統の隠し玉、それは歴史の綾だったのか、それとも必然性だったのか。七卿は逃れた長州の地で、松陰派にある人物と引き合わされている。和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。 歴史や過去の人物について、現実とはかけ離れた「夢のみの幻想」を求める希望的な心情の人達も多い。 しかし、「自分達の夢が壊れるから」と言って、創られた歴史や、過去の人物の創られた英雄像を、事実として後世に伝えて良いものだろうか? 歴史的に有名な人物を、「偉い者は偉い」と言う単純かつ短絡的な発想で英雄視する風潮は、誉められたものではない。 偉い者にも質が有り、大概の英雄は覇権思想に基付き「自分に対して偉い」のであり、けして民衆の為ではない。 入り口で間違えたものは、最後まで間違いである。 純粋は美しいが「罪」である。純粋ゆえに否定された不純なものも、また、真実だからである。 凡その所、表現の美しさに誤魔化されて、真実を見たがらない者は、本質的に「愚か者」である。 我々の先祖が、生々しく生きていたのは当然の事で、それを歴史の闇の中に「無かった事」として葬る事は、歴史から学ぶ事を放棄し、過ちを繰り返す事になる。 つまり、政治や宗教などの心情と言う別の目的や社会迎合で、学術的な嘘をでっち上げる学者は、けしてインテリジェンスが有るとは思えない。 本来、格好が良く見えるのは「上面(うわっうら)」だけである。人間の「内面の格好良さ」は、表面には出ない。 しかし男も女も、「見てくれ」で判断するのだから、世の中はままならない。 善人はつまらなく見えるが、危険な香りのする人物は民衆にとって魅力的な存在らしい。 後世に伝えべきものは、創られた民族的プライドだけでなく、「皆で渡れば怖くない」式の、ともすれば起こりがちである同一方向に妥協しない為に、「冷静にものを見詰める思考能力」を、大衆がも持つ必要ではないだろうか? 皇統と鵺の影人は歴史の謎を追って、別の観点から掘り起こした物語である。 |
(アイウエ順、乱・小説登場順)
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【皇統と鵺の影人・話の展開】
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