織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。
この任官の時と征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。
いずれにしても源氏の後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。
しかし徳川家が天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。
江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。
大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?
家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?
勿論、三河物語や徳川実記などには記載出来ない多くのミステリーの解明が、この物語の目的でもある。
松平竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。
徳川家康の母として有名な於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその正室・於富の間に居城・緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。
この於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。
於大の父・水野忠政は、所領の緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせる。
それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に娘の於大を嫁がせた。
於富は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたるが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。
於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。
水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。
しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。
その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。
広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。
勘違いして貰っては困るが、久松俊勝婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり生涯に於いて水野太方(みずのたいほう)である。
於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。
於大は、久松俊勝との間には三男三女をもうけている。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。
於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。
於大の方は、子の徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられる。
だが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。
実はこの松平広忠の嫡男・竹千代出産、三河・松平家にとって「密かに大事件だった」のである。
難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、在ろう事か半刻に満たず今一人男子が生まれてしまった。
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立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。
松平広忠は直ぐに決断した。
永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。
片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。
「作左(本多)と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」
「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」
呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。
「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」
「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」
「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」
「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」
「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」
「合い判り申した。しからばもう一人のお方は、この鳥居元忠にお任せを・・」
「それで良いか?」
「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」
「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」
「合い判った。嫡男の傅役(ふやく/お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀は両名以外他言無用ぞ。」
「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」
唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事が在った。
これが当時としては信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそ世継ぎが一度に二人に成ってはお家騒動の火種になる。
双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。
ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。
それで松平家では片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(ふやく/お守り役)とし内密に育てさせている。
その傅役(ふやく/お守り役)こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られた、あの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。
この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(ふやく/お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。
時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ棟梁家の嫡男である。
御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。
それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその実子として預けるのが一般的だった。
嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。
何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。
つまりもう一人の家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされた松平竹千代の影の片割れは、後に名を挙げる鳥居元忠とは一時期兄弟の様に育った可能性もある。
そしてその影預けされた竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。
最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。
この戦乱を収める賀茂族の末裔として、エースを育てる為に畿内、東海の帝の影人達が一斉に、密かに動き出していた。
日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。
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