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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【徳川秀忠・天海僧正・春日局】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(初期徳川政権トリオ達の謎)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の小説です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

【徳川秀忠・天海僧正・春日局】

(初期徳川政権トリオ達の謎)

◆ 未来狂冗談の小説

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諸般の事情に拠り「小説仕立て」とさせて頂きます。

徳川秀忠・天海僧正・春日局

(初期徳川政権トリオ達の謎)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約一ヵ月間お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔〕  【あらすじ・お薦めポイント
〔一章〕【(初代・家康の双子疑惑)
〔〕  【於大(おだい)の方
〔〕  【新田郡世良田郷
〔〕  【竹馬の密約
〔〕  【平手と近衛
〔〕  【築山殿と松平信康
〔〕  【足利流・今川氏
〔〕  【結城秀康
〔〕  【稚児小姓(衆道)
〔〕  【徳川四天王
〔〕  【本多正信
〔〕  【水野氏織田方寝返り
〔〕  【三方原ヶ合戦
〔二章〕【明智一族と徳川家
〔〕  【光秀の織田家仕官
〔〕  【光秀の血脈
〔〕  【山崎の某略
〔〕  【明智光春
〔〕  【江戸開府と天海
〔〕  【江戸城再会
〔〕  【斉藤利三娘・福
〔〕  【越前福井藩(越前松平氏)
〔〕  【春日局・お福
〔〕  【天海僧正
〔〕  【稲葉正成
〔〕  【三代将軍・家光
〔〕  【沼田土岐家(ぬまたときけ)
〔〕  【徳川忠長
〔〕  【雑賀鈴木家と家康の気力
〔〕  【遺伝子と自然淘汰

あらすじ・お薦めポイント

◇◆◇◆あらすじ・お薦めポイント◆◇◆◇◆

未来狂冗談の歴史・時代小説です。

歴史の真実は、全て正史の裏面に在る。

これは、主人公・徳川政権トリオを英雄(ヒーロー)仕立てにした娯楽小説では無く、多くの資料を駆使して推理構築した考察的歴史小説である。

天孫降臨伝説にしろ皇国史観にしろ、時として日本史は統治の為に捏造されて来た。

建前の綺麗事で語られる、手前味噌な伝記や興行の為の脚色も多い。

それ故に、日本史を志すものにとっては「真逆の発想」を持って事を推理する必要を感じた。


江戸徳川幕府開府前後、初代・家康の偉業の影で余り目立たないが、二代将軍・秀忠、天台宗僧正・天海、大奥総締・春日局の三人が徳川長期政権の確立に大きく貢献する。

この秀忠・天海・春日チームワークの良さに創作者はある大胆な仮説を立て、その仮説に添って物語を構成して見た。

物語はあくまでも仮説であるが、三人の関係が仮説通りでなければ史実と整合性が取れない多くの謎解きを含んでいるのでそれをお愉しみに読み進める事を願いたい。


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初代・家康の双子疑惑

◇◆◇◆〔第一章(初代・家康の双子疑惑)◆◇◆◇◆

この物語は、あくまでも二代将軍・秀忠、天台宗僧正・天海、大奥総締・春日局の三人が主役であるが、この三人に欠かせない存在が徳川家康である。

そこでまずは、徳川家康の出自と彼が徳川家を称した経緯、そしてに双子疑惑ついて少し触れる。

徳川家の基と成った三河松平家そのものにはたいした物は無いと言うか、正式に大きく歴史に関わった先祖は居ない。

徳川家が三河の一土着豪族だった頃に名乗っていたのは松平姓で、本来は枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。

つまり三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族で、発祥の地名が三河国・加茂郡で、家紋は賀茂神社と同じ葵紋では賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。

ただ、徳川家初代・徳川家康の前半生と、その家康が突然清和源氏流を名乗った事には謎が多い。

徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家と源氏の脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図が存在するだけである。

この系図が怪しく、つまり松平・氏(まつだいら・うじ)賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)が本来の氏姓(うじかばね)であるが、当時の慣例で賀茂朝臣(かも・あそん)では武門の棟梁にはなれない。

松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。


それでも、賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)松平・氏(まつだいら・うじ)は、三河では古くからの豪族の血筋で、棟梁に値する旗頭である。

そしてそれなりの血筋に産まれたばかりに、源頼朝同様に多感な時期を人質の身として過ごした松平元康(徳川家康)は、周囲に味方無く孤独の中で心傷付き育った筈である。


その松平元康(徳川家康)に、織田信長は彼特有の閃(ひらめ・感)きで「何か」を見ていた。

その信長の感は、不幸な結末では在ったが、浅井長政を見出した時も同じだった。


正史に残るように三河・松平家は、けして新田源氏・世良田系などではない。

徳川家康がひたすら漢方を頼って、執念で豊臣秀吉より永く生き延びたのは、正しく賀茂家の修験秘伝を受け継ぐ者だったからに、違いない。

三河・松平氏(まつだいらし)は初代・家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。

この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、賀茂氏の出自と見る方が妥当である。

本来、陰陽修験の賀茂神道と隠密組織系の賀茂氏は、平安時代には陰陽寮の助を務める貴族であり、室町時代頃までは勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、総本家は「戦国時代に断絶した」とされる。

しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。

松平氏が土着居住した三河国は、室町幕府時代末期は細川氏が守護職だったが、守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた為に三河には守護代・東条国氏(とうじょうくにうじ)を置いていた。

しかし千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護は不明となり、三河の支配権は混沌とする。

記録によると松平氏は応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われ、額田郡国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見え、伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。

三河松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の「伊勢貞親に仕えた」と言われる。


この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国今川氏、西は尾張国(おわりのくに)の織田氏に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

そこで広忠は、織田氏に対抗する為に今川氏を味方につける事を策して継子・松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ人質に出す事を決した所から、松平竹千代の波乱の生涯が始まるのである。


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於大(おだい)の方

◇◆◇◆◇◆◇◆◇於大(おだい)の方◆◇◆◇◆◇◆◇◆

織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。

この任官の時と征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。

いずれにしても源氏の後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。

しかし徳川家が天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。


江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。

大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?

家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?

勿論、三河物語や徳川実記などには記載出来ない多くのミステリーの解明が、この物語の目的でもある。

松平竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。

徳川家康の母として有名な於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその正室・於富の間に居城・緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。

この於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。


於大の父・水野忠政は、所領の緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせる。

それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に娘の於大を嫁がせた。

於富は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたるが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。

於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。

水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。

しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。

その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。

広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

勘違いして貰っては困るが、久松俊勝婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり生涯に於いて水野太方(みずのたいほう)である。

於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。

於大は、久松俊勝との間には三男三女をもうけている。

桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。

於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。


於大の方は、子の徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられる。

だが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。

実はこの松平広忠の嫡男・竹千代出産、三河・松平家にとって「密かに大事件だった」のである。

難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、在ろう事か半刻に満たず今一人男子が生まれてしまった。
,br> 立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。

松平広忠は直ぐに決断した。

永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。

片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。

「作左(本多)と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」

「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」

呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。

「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」

「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」

「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」

「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」

「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」

「合い判り申した。しからばもう一人のお方は、この鳥居元忠にお任せを・・」

「それで良いか?」

「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」

「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」

「合い判った。嫡男の傅役(ふやく/お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀は両名以外他言無用ぞ。」

「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」


唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事が在った。

これが当時としては信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそ世継ぎが一度に二人に成ってはお家騒動の火種になる。

双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。

ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。

それで松平家では片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(ふやく/お守り役)とし内密に育てさせている。

その傅役(ふやく/お守り役)こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られた、あの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。

この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(ふやく/お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。

時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ棟梁家の嫡男である。

御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。

それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその実子として預けるのが一般的だった。

嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。

何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。

つまりもう一人の家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされた松平竹千代の影の片割れは、後に名を挙げる鳥居元忠とは一時期兄弟の様に育った可能性もある。

そしてその影預けされた竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。

最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。

この戦乱を収める賀茂族の末裔として、エースを育てる為に畿内、東海の帝の影人達が一斉に、密かに動き出していた。

日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。


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新田郡世良田郷

◇◆◇◆◇◆◇◆◇新田郡世良田郷◆◇◆◇◆◇◆◇◆

群馬県太田市に「徳川町」と言う地名がある。

長く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。

「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田源氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏「発祥の地」と成っている。

新田義重(源義重)の四男・義季(よしすえ)が、得川郷(えがわごう)の領主となって新田次郎と称し、父・義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られ、その嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏称した。

その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。

因(ちな)みに徳川家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。

得川頼有(えがわよりあり)は、娘の子である岩松政経に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は女系の岩松氏に代わった為に父子二代で消滅していたのだが、それが突然三河国で復活した事になる。

この系図のカラクリをどう読み通したら、合理的な説明が着くのだろうか?

この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏にたった一つだけ心当たりの「接点」が浮かび上がった。

松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五〜六歳の頃)のみぎり、松平家の勢力が衰えた事から今川家の勢力に圧迫された父・松平広忠は尾張国の織田信秀に対抗する為に駿河の今川義元に帰属し、竹千代は忠誠の証として今川義元の下へ人質として駿河国府中へ送られる。

所が、その旅の途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の謀略により浚(さら)われ、今川家の反勢力である尾張の織田信秀の元へ送られる。


戸田康光(とだやすみつ)は、戦国時代に田原城を根拠に渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった三河国の武将であるが、松平氏の勢力拡大に屈服して松平氏に従い娘の田原御前・戸田真喜(姫)を松平広忠に嫁がせる。

康光(やすみつ)は松平広忠の依頼を受け、渥美半島の老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅付近)から舟で広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を駿府まで送り届ける予定であった。

所が、竹千代一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名、織田信秀の下に到着する。

戸田康光(とだやすみつ)が織田家に通じて今川氏から離反したもので、これに怒った今川義元は、田原に兵を差し向ける。

康光は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男・戸田尭光とも共討死し、田原・戸田氏は滅亡した。

送られた尾張で当時十四歳の信長と知り合い、竹千代(たけちよ)は八歳までの幼少時代の一時(二年間)を織田家に在って弟分として過ごし人質ながらも信長と「竹馬の友」で育った事に、表向き成っている。

その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。

この人質が、種を明かせばそもそもスペアーとして密かに鳥居家にて育てられて居たもう一人の影・竹千代だったのである。

この平手家が、名門・新田(にった)源氏・世良田系だった。

その事から察するに、松平家が、「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓し、三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まったには、どうやら平手政秀の存在が、「その企てに在ったのであろう」と、我輩は推察する。

「お館様、お申し付け通り、家康殿(竹千代・徳川家康)の得川の系図を作らせましてござる。」

信長の傅役(ふやく/お守り役・教育係)で在った重臣・平手政秀が報告に来た。

織田家で密かに育てられたもう一人の松平影・竹千代は、今川家に在る松平竹千代が元服して松平元康を名乗る頃には、平手家養子として平手家康を名乗っていた。

「出来たか爺(平手政秀)、重上じゃ。これで三河衆も味方に付く、長い事爺(平手)の家に預けて居った事が生きるわ。」

「これで役目が片付いた」と安堵した平手政秀は、ここで傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長から、容易成らない陰謀を聞いた。

「しかしながらお館様、何故平手家康殿(竹千代・徳川家康)に世良田・得川を名乗らせまいる?」

「知れた事よ爺(平手政秀)、家康(徳川家康)には源氏を名乗らせ征夷大将軍にするわ。」

家康(徳川家康)に源氏を名乗らせ、「征夷大将軍にする」となれば織田信長の椅子が無い。

「はて・・・面妖な。してお館様はいかがなされます?」

「わしか、わしは帝(みかど)じゃ。」

信長に「わしは帝(みかど)じゃ」と聞かされて平手政秀は顔色を失った。

「何と、お館様は天子様をいかが致しますか?」

「爺(平手政秀)、天朝も公家共も新しき世には不要じゃ。」

「恐れ多き事を・・・天朝様を・・・それは成りませんぞ。」

驚いた政秀は、即座に信長を諌(いさ)めに掛かった。

恐ろしい事に、自分が傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長が、思わぬモンスターに育っている。

「爺(平手政秀)は不服か?良いか爺(平手政秀)、良く聞け。元康(徳川家康)はわしの外様臣下として征夷大将軍を名乗らせる。お主達内々の者は、左大臣、右大臣はもとより新しき公家になるのじゃ。」

「それはいけませぬお館様。この国は天子の国ですぞ。」

「爺、何を古き事を愚だ愚だと。わしに逆らうとあれば、爺とて容赦はしないぞ。」
「お館様、この爺が皺腹かき切ってお諌(いさ)め申しても聞けませぬか?」

「黙れ爺、腹かき切れるものなら、かき切って見よ。」

口論の勢いで言った信長の言は、育ての親を自認しているからこそ、重臣・平手政秀を本気にさせていた。

傅役(ふやく/お守り役・教育係)から後見人を任じていた重臣・平手政秀にすれば、「天朝に弓引く」など到底認められる事ではなかったが、誰よりも信長の気性を知るだけに戯言(ざれごと)と捨てては置けなかったのである。

「承知仕った。腹かき切ます故、天朝様に弓引くはお止まりくだされい。」

「爺(平手政秀)はまだ左様にわしを縛るか、勝手にせい。」

口論の末、平手政秀は所領の志賀城(現在の名古屋市北区平手町)へ立ち帰り、見事腹かき切って果ててしまう。

これには流石の信長も、政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。

この日本(ひのもと)の国は、余りにも永く血統主義が続いて居て、その価値観が氏族の全てだった。

同じ板ばさみの事態が、後に歴史的大変事として「本能寺の変」が起こるのだが、まさしくこの平手政秀の切腹はその予兆であった。

平手政秀は、新田源氏に連なる「後胤貴族の末裔と言う武士の誇り」と自らが育てた破壊モンスター(怪物)・織田信長との板ばさみに苦慮し、自らの命を絶ったのである。


その後の経緯だが、松平家の「双子の嫡男」の片割れ松平元康(竹千代)が、人質に出した駿府・今川家で育ち、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・(築山殿)・を娶(めと)っている。

一方この同じ時期に、今川家の支配下で育った三河領主・松平元康(竹千代)は、遠江国磐田見附宿の宿の娘・某と愛人関係にあり「初の庶子と言われる男児(一蔵)まで設けた」と言われている。

さて、ここで問題なのが、今川家の血族(関口親永)の娘(築山殿)と夫婦(めおと)に成った属将とは言え、当時の松平元康(竹千代)に「それほど奔放な事が出来たのか?」と言う疑問である。

当時今川家の本拠地・駿府(静岡)に在った松平元康(竹千代)は、属国扱いで人質上がりの三河領主なのだから、当然今川家臣団の目が光って居るのである。

駿府近郊ならいざ知らず、領国三河に近い遠江国磐田見附宿までの遠出が易々と出来る環境に、松平元康(竹千代)は無かった筈である。

それでは、三河、駿河を股に掛けて、奔放な生活をしていた若者は誰だったのか?

この条件で考えられる事は少なく、この事は松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件である。

つまり同時進行で、織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そう、今一人の影・竹千代が「密かに平手家の手で育てられていた平手家康」としなければ、辻褄が合わないのである。

つまり今川義元の討ち死直後に早々と岡崎城に入城し、迷わず独立を宣言する家康の人物像が、今川家で育った松平元康(竹千代)以外の双子の片割れでなければ「納得」として見えて来ないのである。

そして、筋書きが出来て居たような余りにもスムースな織田、松平両家の提携(清洲同盟)が、誂(あつら)えた様に待っていた。

或いは三河国在地の徳川家臣団と織田信長との間に密約が在っての事であれば、「桶狭間決戦での奇跡」も、もう少し違う見え方をするかも知れない。

松平元康(家康)は、その後躊躇いも無く幼少よりの知人ばかりの筈の今川氏と戦って三河東部に進出し、三河国を統一している。

世良田を名乗ったのは、この三河統一の時だった。


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竹馬の密約

◇◆◇◆◇◆◇◆◇竹馬の密約◆◇◆◇◆◇◆◇◆

信長とは「竹馬の友」かも知れないが、温厚な知識人と言われる今川義元も松平元康(竹千代)にとっては育ての親のごとき存在である。

自分の姪(瀬名姫)を家康に嫁がせ、自分の名から「元」の文字一字を与えて「元康」とし、教育係として護国禅師の太原雪斎をつけるなど、竹千代個人に対して、それほど酷い人質扱いなどはしていない。

むしろ新しい親族として可愛がり期待していた事を考えると、それが「コロッ」と変わって独立を宣言、岡崎城に入城した松平家嫡男が、正当な「嫡男の資格を有する別人ではなかったのか?」と疑って見たのである。


この竹千代(たけちよ)が尾張人質時代に、父・広忠は死去し三河松平家(岡崎城)は義元の派遣した城代により支配されていた。

その後、今川方に捕えられた信秀の長男・織田信広との人質交換によって竹千代は駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗った事になっている。


千五百六十年(永禄三年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、松平元康は一番割りの悪い先鋒別働隊として今川本隊とは別働で尾張攻略最前線の大高城(尾張国)にあった。

元康は大高城で「桶狭間にて義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。


三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止めて説得した為に岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は、既にもう一人の方の竹千代だった。

今川義元の討ち死にを期に三河松平独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。

ミステリーとして、双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中で在った大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?

もう一人の元康が平手家の養子に入ったと言う仮説だが、徳川家康(とくがわいえやす)と源氏の接点を敢えて言えば、家康(いえやす)の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏が、清和源氏満政流を称している。

水野氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子経基王(つねもとおう/賜名・源経基)の王子・源満仲の弟にあたる鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って「水野氏を名乗った」とされる。

しかし家康(いえやす)が名乗ったのは、本来手近い母方・源満政流ではなく河内源氏・新田流で、あきらかに平手政秀(ひらてまさひで)が称する新田源氏・世良田系図だった。

元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではなく、人生これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。

この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのだ。

計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。

つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。

如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて「攻め立てられる可能性」と言う危険な賭けに出た事に成る。


これは織田信長の立場にして見れば、三河一ヵ国を手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。

しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を、元康はまったく配慮の他で行動し、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?

現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っていてこれは謎である。


二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。


松平元康(徳川家康)は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、西三河の諸城を攻略して今川家から自立する。

二年後の千五百六十二年(永禄五年)、義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

その後家康は、苦心の末に三河一向一揆の鎮圧に成功して西三河を平定し、岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。

東三河の戸田氏や西郷氏と言った諸豪を抱き込みながらも軍勢を東へ進め、千五百六十六年(永禄九年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。
この年、家康は三河国主として朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。

この改姓に伴い新田氏系統の源氏である事も、朝廷に願い出て公認させた。

松平元康の清和源氏の名乗りには、織田信長との親交を深めていた時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きい。

その朝廷斡旋の根拠として考えられるのは、清和源氏新田氏一族の平手政秀(ひらてまさひで)が影養子として松平元康を迎えて系図上継嗣としていたのであれば筋が通っているのだ。


時の関白・近衞前久(このえさきひさ)が、元康の表向き松平名乗りの実は清和源氏・平手氏養子を認めて、氏名乗りを新田氏縁の徳川(得川)氏に改める事と家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し、それを朝廷に認めさせた訳である。

藤氏長者は藤原氏の棟梁の事である。

戦国の世に在ってほぼ織田信長と同世代に生きた公家・藤氏長者は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。

近衞家・第十六代当主が信長の二歳年下で生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)で、細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代・安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をした。

近衞前久は、帝の側近公家だった為に動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。

近衞前久(このえさきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。


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平手と近衛

◇◆◇◆◇◆◇◆◇平手と近衛◆◇◆◇◆◇◆◇◆

信長の傅役(ふやく/お守り役)から織田家重臣となった平手政秀(ひらてまさひで)が茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。

この平手政秀(ひらてまさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。

織田家の朝廷工作役の平手政秀(ひらてまさひで)が自刃して三年、後任に明智光秀にその役が廻って来た頃と近衞前久(このえさきひさ)が関白に任じられた頃が時期的に符合している。

どうやらこの頃から近衞前久(このえさきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。


藤原氏の嫡流の五摂家の文化人である近衞前久(このえさきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。

この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対するが義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し以後は信長との親交を深めている。

信長が攻めあぐみ中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。

近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだった。

だから、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。

前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説もあり「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。

一時は織田信孝や羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。


それでは、二人の竹千代は何処で入れ替わったのか?

入れ替わりの絶妙のタイミングは、一度だけ在った。

織田家の人質だった影・竹千代は、今川方に捕えられた織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって、引き換えの形で駿府へ移されている。

しかし、実際に駿府へ行ったのは織田家に居た影・竹千代ではなかった。

三河の家臣団と織田家が密約、信長の「竹馬の友」である影・竹千代は、傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀の遠縁にあたる三河国愛知郷の郷士に匿(かくま)わせている。

平手政秀の三代前にあたる世良田義英は、三河国愛知郡に平天城を構えていた。

それ故愛知郡には平手家縁者の郷士がいた。

織田信長の命を受けた平手政秀は、息子の平手久秀を伴わせて、影の竹千代を暫し尾張国よりは遥かに遠江国寄りの三河国愛知郡に預けている。


平手家から三河の平手縁者に預けられた方の影・竹千代は、事を秘していたから誰も松平家の「世継ぎの片割れ」とは思わない。

それを良い事に、血気盛んな若者・平手家康(影・竹千代)はかなり自由奔放な生活を送っていた。

それで、近隣の浜松在や遠出をして駿府城下まで足を伸ばし、投宿した遠江国磐田見附の宿の娘との間に「一蔵」と言う子まで成している。

この時に後の徳川家康となる平手家康(影・竹千代)を三河国愛知郷に住まわせ、彼に浜松近在の磐田目付宿辺りまで遠出させたのは、信長の「竹千代に三河・遠近江で良く遊ばせておけ。」と言う命が在ったからである。

それは、信長が平手家康(影・竹千代)を西の備えにする為の深謀に拠る布石だったのだが、奔放な青春時代を過ごした家康は、これ以後土地勘の在る遠近江に浜松城を本拠地とし、老後も駿河府に隠居するなど現在の静岡県を生涯愛して居た。


駿府で人質として育って行動に制約の在った正・竹千代に、御落胤は似合わないのである。

この一蔵を始め、「元康(家康)落胤」と噂される者が七人も出たのには、正に竹千代が二人いた事で、片方が自由な時間を謳歌し落胤の量産に繋がったのではないだろうか?

そしてこの時、交換に使われ駿府に送られた「替え玉」が本来嫡男として岡崎城内で育てられていた方の、「正・竹千代だったのではないだろうか?」と、思い到るのである。
すると、この大胆な企ての唯一の織田家側の証言者である平手政秀親子は、「徳川系図」の為に謀殺された恐れもある。

戦国時代らしいそれぞれの思惑が重なって、奇妙な構図が出来上がっていた。

今川家は、三河平定後の三河家臣団を懐柔する為に、嫡男の元康(竹千代)を身内にした。

同じ理由で織田家は、三河家臣団合意の上、もう一人の嫡男を平手家の養子・平手(得川)某として育てている。

「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。


この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。

三河家臣団にして見れば、今川、織田いずれが勝っても嫡男が生き残る「虫の良い方法」だったが、それも戦国を生き抜く為の弱小大名家の家臣供の知恵だった。

双子の松平竹千代は、弱小大名の悲哀の中で親今川派と親織田派の双方に分かれて育てられる運命だった。

その安全装置が働いたのは、桶狭間の決戦で織田信長が今川義元を破った時である。

正直、三河家臣団は「織田方の方が、幾らかましだ」と思っていたから、桶狭間の信長軍奇襲、三河家臣団の内応も充分に可能性がある。

その片方、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、今川家の当主今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で破れるに及んで運命が決まった。

「本多(重次)殿、もはや今川は、見限らねば成らぬ。」

「いかにも、鳥居(元忠)殿がお育てした若(もう一人の元康/得川某)を担ぎ出し、盟約を急がねばなるまい。」

つまり、三河松平家に必要なのは、親織田派の方のもう一人の影・竹千代(松平元康=徳川家康)に成って、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、三河家臣団の何者かに闇に葬られたのである。

早速三河家臣団は、平手(得川)某として育ていた方の嫡男(影・竹千代)を、松平元康として岡崎城に迎え入れる。

これは、平手(政秀/織田家重臣)と鳥居(忠吉/松平家重臣)の密約の筋書き通りであるから、三河松平家の当主元康(得川某)は、早速「清洲同盟」を締結、織田方に付く事に成ったのである。


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築山殿と松平信康

◇◆◇◆◇◆◇◆◇築山殿と松平信康◆◇◆◇◆◇◆◇◆

只、駿府に在った本物の元康の家族には、この双子のもう片方(影・竹千代)が、背格好や顔は似て居ても騙し負うせる訳が無かった。

主君入れ替わりを世間に内密にしたい松平家臣団の本多の働きで、築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)は駿府から岡崎城に呼び寄せられる。

松平元康夫婦は互いの無事再会を喜び、新たな日々が始まる筈だった。

元々好き者の元康(家康/影・竹千代)で、居れ代わったのを幸いに兄弟の嫁・築山殿を寝間に誘い抱いた。

流石の元康(家康/影・竹千代)も、双子の兄弟の嫁を抱く、しかも相手は「夫と思い込んでいる」と成ると興奮は隠せない。
,br> 手荒く築山殿に襲い掛かり、弄り責めるがごとく抱いた。

抱かれた築山殿は驚いた。

夫・元康がまるで別人である。

「あれ、殿はまるでお人が変わったような為され様・・・」

「予も、晴れて三河の国主成り、今までのようにそちを抱くに遠慮はせぬ。」

夫はそう応えたが、幾ら国主に成ったとて人の性癖がそう簡単に変わる訳が無い。

築山御前(関口瀬名)が、久振りに岡崎で会った松平元康は雰囲気がスッカリ変わっていたが、最初は「義元が討たれて今川から解き放たれ、三河に独立を為した為だ」と思っていた。

だが、性癖や姓技まで激変する訳は無い。

如何に双子とは言えどうしても個性が出る物で、築山御前(関口瀬名)は松平元康を名乗る男に抱かれながら直ぐにそれを悟った。

連れ添った夫婦には、慣れ親しんだ行為の手順があり、その片鱗も無い全くの「別人の行為」と成れば、夫では無い事は明白だった。

「作左衛門(本多重次)あの者殿にあらず、何者ぞ?」

築山御前は、血相を変えて本多(作左衛門)重次に食って掛かった。

「はて、お方様(築山御前)は暫らく殿に遠退いて居た故、殿をお忘れか?」

「黙れ作左、わらわは昨夜あの者に抱かれて気付いたわ。」

「お方様、松平家の為ですぞ、口を閉じてご辛抱願います。」

本多重次は、あの男が今川の武将として育った元康の「双子の兄弟だ」と築山御前に告げる。

「作左はわらわに、黙ってあの者に抱かれて居れと申すか?」

「いかにも松平家中の者の総意でござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱の程を・・・」

「作左、ようも酷(むご)い事を・・・」

一度は運命と諦めて見たものの、入れ替わった元康に毎晩呼び寄せられて弄り責められて、他人に肌を許す事が築山御前にはどうにも我慢が成らない。

さりとて、今の元康を「夫の偽者」と言い出せば、この時代に自分(築山御前)や長男・松平信康の命の保証さえない。

「作左、わらわにはこのままあの者と夫婦(めおと)を続けるは無理ぞ・・・」

「信康様の世継ぎの儀もござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱成りませぬか?」
「成らぬ、あの者の異成る事は秘して口にせぬが、わらわは一緒には居れぬ。」

「判り申した。近くの尼寺(惣持寺)にお移り願いまする。」

長男・松平信康を持つ身成れば、築山御前は、岡崎城の外れ菅生川の辺に在る惣持尼寺に別居するのが、この不幸な運命への精一杯の抵抗だった。

「作左衛門、予に抱かれて居れば良かったものを傍(そば)に仕えぬとあらば、不憫じゃが、お築の口は閉じねば成らぬぞ。」
「承知つかまった。」

元康(家康・竹千代)、信康親子の不仲説や築山御前確執の要因は、案外こんな所かも知れない。

その後、家康の命令により築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹している。


この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。


話しは桶狭間合戦に遡り再現するが、今川義元の軍勢に拠る織田領内進行で、揺れる織田家々中の混乱を他所(よそ)に、信長は、平手政秀を呼んで「或る策謀」を確認していた。

「政秀(平手)、元康を入れ替える策は進んで居るか?」

「ははぁ、既に雑賀殿(孫市)を通して本多殿に・・・・」

「本多からの義元の動きは正確か?」

「雑賀殿(孫市)の知らせと合って居りますれば、間違いないかと心得ます。」

「良し政秀、これで予が勝った。軍儀は、暫らく寝た振りをする。」

この密談を経て、織田信長が桶狭間(田楽狭間)に今川義元を急襲、討ち取って勝利を収める。

間髪を入れず、三河家臣団による元康入れ替えプロジェクトは作動を始めた。

全ては、信長の意向に沿った形で、本多、鳥居、鈴木、などの大半が加担して居た。
信長は、今川撃破後の三河家臣団懐柔策まで取って居た事に成る。


それにしても、運命なんてどっちに転ぶか判らない。

ほんの弾みのようなもので、もう一人の竹千代(元康)の運命は決まった。

その「義元、桶狭間討ち死に」のドサクサに紛れて、元康(家康)は入れ替わったのである。


駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は既にもう一人の方の竹千代だった。

元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。

そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

謀(はかりごと)は「有りそうな事」では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。

この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など、「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。

この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら幾ら戦国の妻でも、そのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。


徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。

松平元康(徳川家康)の正妻・築山殿(つきやまどの/築山御前・つきやまごぜん)は、今川家一門の瀬名家の出自で関口家の養子と成っていた駿河国持船城主・関口親永(せきぐちちかなが/関口義広)の娘で名を関口瀬名(せきぐちせな)と名乗っている。

瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、関口親永(義広)に嫁いで築山殿を為したので、関口瀬名は今川家当主・今川義元の姪にあたるので、夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が瀬名(せな)に在って当然と言える。

所が、夫の松平元康が今川に反旗をひるがえして織田と同盟を結んだ為に、瀬名(せな)は両親を今川に殺され、今川にも松平にも居場所が無くなる戦国期の悲運の女性を代表する生涯を辿るのである。

勘違いして貰っては困るが、松平元信(元康、後の徳川家康)婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから築山殿の名乗りは生涯を通じて関口瀬名(せきぐちせな)である。

関口瀬名(築山殿)は、今川家の人質として駿府に在住していた三河・松平家の当主・松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚して築山殿(つきやまどの)と呼ばれ、二年後に嫡男・松平信康と翌年には亀姫を産む。

所が、この年の桶狭間の戦いで伯父の今川義元が討たれた為に夫の松平元康(元信から改名)は駿府に戻らず本拠地・三河岡崎に帰還して今川家から離反し、今川家から独立して尾張・織田家の織田信長と同盟する。

為に築山殿の父・関口親永(義広)は、娘婿の松平家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け今川氏真の怒りを買い、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて正室と共に自害する。

築山殿は、今川義元の妹の夫に成る上ノ郷城城主・鵜殿長照の二人の遺児との夫・松平家康(元康から改名)の母・於大(おだい・水野太方/みずのたいほう)の方の二男・後の松平康元(家康・異父弟/下総国関宿藩主)と思われる源三郎との人質交換により、駿府城から子供達(嫡男・松平信康と亀姫)を連れて家康の根拠地である岡崎に移った。

ここからが歴史の謎としては問題で、築山殿は岡崎に移ったは良いが何故か城外に住まわされている。

定説では、姑の於大の方が今川家の血筋である築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず岡崎城の外れにある菅生川の畔(ほとり)の惣持尼寺で「幽閉同然の生活を強いられた」とされている。

だが、夫である当主・徳川家康と築山殿との間に確執無くして家康の母・於大の言い分だけで嫡男・信康の母に対する仕打ちとしては不自然極まりなく、本当に嫁姑の間だけの問題なのか?

或いは別に秘すべき理由が在ったのではないだろうか?


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足利流・今川氏

◇◆◇◆◇◆◇◆◇足利流・今川氏◆◇◆◇◆◇◆◇◆

日本史上、家康は長い事織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。

この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だったが、信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。

所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされ、信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。

まぁ後に天下人、嫌、東照大権現と言う現人神に成った男が自分の意思で妻子を殺しては困るから、納得し易い事情説明が欲しい。

それで当時の強者・織田信長の圧力に「止むを得ず」と言う筋書きが脚色されたとしても不思議が無い。


それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?

この事を解明すれば、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。

その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。

入れ替わった家康(元康)に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。

家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。


それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。

幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。


駿河・遠近江の太守・今川氏(いまがわうじ)の本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門・吉良家の分家にあたる日本の武家で、代々駿河守護職を継承した足利一門・別格嫡流ある。

今川氏(いまがわうじ)の地位は斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格で「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われ、吉良家とともに足利将軍家の連枝であり足利宗家の継承権を有していた名門守護職である。

その今川家は、駿河守護職・今川義忠(駿河今川家六代当主)の代に応仁の乱が起こり、将軍・足利義政の下に東軍に加わって知り合った将軍申次を務める伊勢盛定と知り合い、その盛定の娘・北川殿と今川義忠に嫁いだ事で伊勢氏と今川氏は縁者となった。

その事で、北川殿の兄または弟にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)が将軍家の代理として今川家の家督相続に介入、北川殿が生んだ龍王丸(今川氏親/駿河今川家七代当主)の相続に成功する。

今川氏親の相続に成功した伊勢新九郎は駿河守護代の地位を得て沼津・興国寺城主を皮切りに伊豆国を奪取、後に南関東一円を支配する戦国大名・後北条氏のスタートを切る事に成る。

桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。

今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなど、東三河・遠近江・駿河などを領国とするなど、駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。

今川義元が桶狭間の合戦で討ち取られ、嫡男・氏真(うじざね)が家督を継ぐが大名家として弱体は免れず、隣国の武田信玄と徳川家康に侵攻され氏真(うじざね)は逃亡して戦国大名・今川家は滅亡する。

結果、今川家の所領・駿河国は武田家、遠近江国は徳川家が分ける形で領有する。

その後今川氏真は後北条家や京都の旧知・姻戚の公家などを頼って生き延び、やがて天下を取った徳川家康に召し出されて五百石の旗本に抱えられ、その後五百石を加増されて都合千石の高家に処遇されて家名は残った。

いずれにしても徳川家康は今川家の衰退に乗じて遠近江国を手に入れ、二ヵ国の太守となって天下人への幸運な一歩を踏み出したのである。


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結城秀康

◇◆◇◆◇◆◇◆◇結城秀康◆◇◆◇◆◇◆◇◆

長男・松平信康と正妻・築山御前(つきやまごぜん)の次は次男の話である。

越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、松平(結城)秀康である。

実は徳川家康(とくがわいえやす)二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。

徳川家康の長男・信康もまだ存命の頃の事だが、幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。

家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を嫌う理由は、いったい何だったのだろうか?


家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出される。

その後秀康は、養子先の秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。


江戸時代、松平を名乗った大名は多数い。

家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけである。

家康の実子とされる中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで、「制外の家」として身内とは認められながら扱いが軽かった。

結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。

秀康は加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

しかし、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には或る秘密が在り、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。


長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

或いは後ほど本格的に話題に上げるが、二代将軍・秀忠が光秀の従兄弟・明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないかとも読めるのである?

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。

後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。


平手政秀の仲介で若き頃の織田信長から本多重次と鳥居元忠が那古屋城那古屋城で聞かされた謀略話は、大胆極まりないものだった。

「予は平姓を名乗って桓武帝の末裔として帝に納まる。ついては竹千代を政秀(平手)の養子と為し、そなたらの主君を源氏としてわが織田帝家の将軍と為せ。」

幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。

つまり三河松平家嫡男の双子の一人が源氏系新田氏流の平手家に継養子として入ったのであれば、血は松平嫡流で三河家臣団に領主と受け入れられる。

しかも御家は何しろ平手家に継養子として入っいて新田氏流系図に成るのだから「得川」にちなんで「徳川」を創設しても朝廷からはスンナリ「源家の出自」と認められる。

さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。


桶狭間合戦で今川義元が討ち死にしたのをきっかけに松平元康は今川氏の下を離れ、織田信長と清洲同盟を結んで今川属国からの独立を果たし、先祖は新田源氏世良田系得川氏と朝廷に申請し、徳川を名乗る事を正式に許される。

朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び、同年末からは今川領で在った遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となって千五百七十年(元亀元年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

この頃に、鳥居忠吉の嫡男・鳥居元忠が何時も家康の軍勢の主力の一人として戦っている。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。


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稚児小姓(衆道)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇稚児小姓(衆道)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

所、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。

徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりがあったのではないだろうか?

そう考えると、在る事が浮かんで来る。

その在る事を疑う根拠になるのが、家康が寵愛して大名に取り立て、江戸期二百五十年を徳川親藩として存続した井伊氏・井伊直政の存在がある。

近江国彦根藩の初代藩主井伊直政は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。

この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

歴史を現在の状況に宛て嵌めて考えてしまうから整合性が取れず、「そんな事は在り得ない」と言う話しになるのだが、実は氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だった。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家、森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後だから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。
,br> 元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。

男色(衆道)の繋がりなら、信長と家康の間に深い信頼関係が在っても不思議は無い。

但し人質として居た竹千代(後の家康)は当時八歳かそこらの童子で、信長がその童子に手を出したとは考えられないから、手を出したと思われる時期には今川家に人質交換で竹千代(後の家康)を奪還されてていて、この男色(衆道)疑惑は本来なら微妙に辻褄が合わない。

所が、人質交換で今川家に行ったのが正・竹千代で、織田家にいた影・竹千代はそのまま織田家中の平手政秀の養子として「信長の手中に在った」と、家康双子説で考えればこの難問は解決する。

そして影・竹千代が平手(源)家の養子であれば、系図上は世良田・得川(源)氏を名乗る事はまんざら捏造の系図とは言い切れない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏の源氏流新田氏系を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人で、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。

また、家康二女・督姫の娘婿として徳川家康に可愛がられ、播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした池田輝政(いけだてるまさ)の父は、織田信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた池田恒興(いけだつねおき)の次男である。

家康が織田家人質時代に七歳齢上の池田恒興と接点が在った事は充分に考えられる。
つまり家康にすると、輝政は「可愛がってくれた兄貴分の子供」と言う気分だったのかも知れない。


徳川家康寵愛された徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。

国人領主として今川氏の家臣である井伊直親(いいなおちか)は、謀反の嫌疑を受けて今川氏真(いまがわうじざね)に誅殺され、長男・虎松(直政/なおまさ)は父・直親(なおちか)の死によって井伊家を継ぐ身となる。

しかし遺児の虎松(直政/なおまさ)は僅か二歳で在った為に新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼(ゆうえんに)が中継ぎとして井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。

父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺され井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。

直政(なおまさ)は井伊谷の所領を今川氏に取られて失い、一時、生母の再婚相手松下清景の松下姓を名乗るなどした他、井伊直虎を養母として不遇を囲っていたが、千五百七十五年(天正三年)、今川氏から遠近江国を奪取した徳川家康に見出される。

十四歳、元服前の直政(なおまさ)は見目麗しい美少年で、当時の男児は、年齢的に十四歳くらいまでまだ肉体も中性的で、稚児小姓として愛玩し易い。

徳川家康は三十二歳の男盛り、一目で虎松を気に入り井伊氏に復する事を許し虎松を万千代と改めて名乗らせ、手元に置くようになる。

直政(なおまさ)は家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。


前田利家の出世の切欠として既に紹介したが、一所を構える領主の子息ともなると武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手を附けられる。

そして成長すると、稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされていた。

神仏習合の修験道(密教)では、御伽稚児は呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムであり、憚(はばか)る事の無い氏族(公家や武士)には公(おおやけ)な習慣であった。

井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。

井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。

関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、井伊直政は石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り、井伊家は明治維新まで存続している。


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徳川四天王

◇◆◇◆◇◆◇◆◇徳川四天王◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家臣団の中でも、中心的役割を果たした家臣がいる。

徳川家康に寵愛された井伊直政(いいなおまさ)に、酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)<、本多忠勝(ほんだただかつ)の三人を加えて「徳川四天王」と呼ばれた。

彼等は徳川幕府成立の功績第一の身でありながら、桶狭間(今川氏から独立)以後側近に成った井伊直政(いいなおまさ)を除き、今川人質時代を知る三人が徐々に遠避けられ揃って冷遇されている事は謎である。


何故徳川家康に双子の疑いが有るのかの条件をここで検証すると、その第一がおよそ家臣思いの家康とは思えない三河譜代の家臣への扱いが有るからである。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居て、天下を取った家康が、その安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられているが、いずれももっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事である。

考えられる事は、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康が、安部正勝(あべまさかつ)に「大して世話に成っては居なかった」と言う事ではないか?

つまり駿府今川家の人質時代の松平元康が、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康と別人ならば、そこら辺りの説明がつく話である。

実は鉄壁を誇った三河家臣団に、松平元康が徳川家康に名を改めた頃から微妙な動きが始まっていた。

それは三河安城・古参家臣団の一部が、生き残りを賭け必死の戦働(いくさばたら)きに走った事である。

徳川四天王に数えられる酒井忠次(さかいただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将であり、酒井氏は、三河・石川氏と並ぶ松平氏(徳川氏)三河安城・最古参の重臣である。


酒井氏は安城譜代と呼ばれ、元々松平家中に於ける最古参の宿老家とされるが、その出自は確定せず不明である。

三河国碧海郡酒井村或いは幡豆郡坂井郷の在地領主で在ったと推測される酒井氏であるが、後年作成された酒井氏の系譜に拠ると、鎌倉有力御家人・大江広元(司所別当)を祖とする大江氏の流れを汲み、江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流としている。

絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。

酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、信長に無視されて居る。

桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だったが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功ある。

しかし千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった事に関して無念の抗議している。

同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政十二万石、本多忠勝、榊原康政の両者は十万石と厚遇されたに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。

駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。


本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族で、この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

本多忠勝(ほんだただかつ)は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩などを経由し、三河岡崎藩五万石に落ち着いたが、幕閣の要職には恵まれなかった。


榊原康政(さかきばらやすまさ)も徳川四天王の一人であるが、父の榊原長政は松平氏三河安城・旧譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣で在った。

三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫を称していた榊原長政の次男として三河国・上野郷に生まれた榊原康政(さかきばらやすまさ)は、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓に任用されてる。

康政(やすまさ)の「康」の字は元康の「康」を与えられたもので、十七歳で元服した康政(やすまさ)は、同年齢の本多忠勝とともに旗本先手役に抜擢され、今川家属将時代の松平元康(徳川家康)側近の旗本部隊の将として活躍している。

桶狭間の合戦の後、松平元康(徳川家康)が駿河の今川氏から独立し尾張の織田信長と同盟を結ぶと、姉川、三方ヶ原、長篠など数々の戦いで戦功を立て、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで徳川家臣中第二位の十万石を与えられて居る。

関ヶ原の戦いに於いては、徳川家の継承者・徳川秀忠軍に軍監として従軍するが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参している。

この榊原康政(さかきばらやすまさ)、関ヶ原の合戦の後に老中となるが家康から遠ざけられ所領の加増は無く、徳川政権が確立するに従い本多忠勝(ほんだただかつ)と同様に冷遇されている。

徳川主力軍の軍監として中山道を進みながら関ヶ原合戦に遅参した事が原因か、若い頃から正・竹千代(松平元康)の側近を務めていた事が遠因かは判らない。

この徳川四天王の処遇を持って、直臣に厳しくして「外様の不平・不満をかわした」とする解説もあるがそれは間違いで、他に家康としては殊更に優遇したくない「何かが在った」と見る方が自然である。


それでなければ優遇されている井伊家や稲葉家、そして今から紹介する鳥居家など存在しない。

こうして三河以来の譜代に冷たかった家康だが、何故か鳥居家にはまったく態度が違った。

鳥居元忠は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣である。

その鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。

桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。

幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状を貰う事は無かった。

家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。

天下人となった豊臣秀吉からの元忠へ官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはないと断った」と言う逸話も残っている。

しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。

元忠は娘は見つからないと報告し、その捜索は打ち切られるのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は「高笑いで許した」と伝えられる。

天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老と成っていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時、元忠は後を任されて伏見城を預けられる。

その家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。

ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。

一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのか。

鳥居元忠には、傅役(ふやく/お守り役)として「幼い影竹千代を預かり育てた」と言う特別な感情があり、やはり二人の間に、家康幼少時からの深い縁が在ったのではないだろうか?

そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千の軍勢の伏見城入城を拒否した事である。

元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?

関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は後に山形藩二十四万石の大名に昇格しているが、これは三河譜代の他家と比べ、三河譜代の家としては異例の厚遇である。

つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?

尚、元忠の子の一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老・大石内蔵助良欽に嫁いでいる。

その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。


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本多正信

◇◆◇◆◇◆◇◆◇本多正信◆◇◆◇◆◇◆◇◆

人は一人では何も出来ない。

成功も、周囲の協力が有っての成功である。

現代にも通用する事だが、オーナー経営者の陥り易い悪癖は「全てが自分の力で遣った」と自惚(うぬぼ)れる悪癖で、この意識が強くなると優秀な右腕を失う羽目になる。

徳川家康は、他の有力武将大名と比べ周囲の恩義に報いるタイプで人気が高かった。

現に織田信長には最後まで忠実だったし、関が原合戦の影の功労者・林(稲葉)正成(はやし/いなば/まさなり〕も浪々の身をワザワザ呼び出して手厚く処遇している。

所が、三河以来の古参家臣の扱いは余りにも冷たい。

この余りにも家康の性格とかけ離れた三河以来の古参家臣の扱いを見る時、考えられるのは只一つ、家康は彼等に「何の親近感も恩義も感じなかった」と言う事である。

彼等三河松平の古参家臣は、もう一人の正・竹千代の家臣で有って織田家重臣・平手政秀(源家・徳川を名乗れる)を養父に育った自分の家臣ではない。

つまり天下を取った方の家康にして見れば、松平古参家臣も感覚的には新参者だったのではないだろうか。

それにしても、江戸徳川幕府成立後の徳川四天王の内の三人を始めとする旧・三河松平家臣団の冷遇は特筆に値する。

この辺りの、本来なら幕府成立の永年の功労者である旧・三河松平家臣団の処遇には疑問が残る所である。

だが、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説と、そして徳川秀忠=明智光忠説、明智光秀=天海僧正説、春日の局(斉藤福)の明智トリオが徳川本家を乗っ取ったとしたら、旧・三河松平家臣団を冷遇した事に説明が着くのである。


本多俊正の子として三河で生まれた本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の側近として活躍し武将と言うよりは吏僚(官僚)として才が在った。

徳川家康の家臣としての本多正信の経歴は特に変わっていて、三河一向一揆が起こると正信は一揆方に与して家康と対立し一度家康とは袂(たもと)を分かっている。

そして一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕え、久秀には重用された様であるが、やがて久秀の下も去って正信は諸国を流浪する。

その流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではないが、有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し織田信長とも戦っていたともされている。

その諸国を流浪した末、正信は旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世の懸命のとりなしに拠って姉川の戦いの頃もしくは本能寺の変の少し前の頃に、無事に徳川氏に帰参が叶っている。

本能寺の変が起こって信長が横死した当時、堺の町を遊覧していた家康は領国・三河に帰る為に伊賀越えを決意するのだが、この時に正信も「伊賀越えに付き従っていた」と言われている。

その後、本多正信は主君・徳川家康に実務能力を認められて、家康が旧・武田領を併合するとその地の奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当している。

本能寺の変から中国大返し、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手(ながくて)の戦いを経て天下が羽柴秀吉でまとまると、主君・徳川家康が豊臣家に臣従し、小田原征伐後に家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、本多正信は相模玉縄で一万石の所領を与えられて大名となる。

千五百九十八年(慶長三年)、豊臣秀吉が死去した頃から本多正信は家康の参謀としてその能力を発揮し大いに活躍する。

主君・徳川家康が豊臣家から覇権奪取を行なう過程で行なわれた千五百九十九年(慶長四年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半はこの正信の献策に拠るものであった。

順風だった正信だが関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って関ヶ原本戦に遅参する失態を犯している。

この時本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、「秀忠に容れられなかった」と伝えられている。

関が原の勝利後、本多正信は主君・徳川家康が将軍職に就任する為に朝廷との交渉で尽力し、二年後に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、正信は家康の側近として幕政を実際に主導する様に成る。

また、前法主教如と法主准如の兄弟が対立していた為、本願寺の分裂を促す事を家康に献策し、本願寺の勢力を弱めさせる事に成功している。

千六百五年(慶長十年)、徳川家康が駿府隠居して大御所となり徳川秀忠が第二代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかし余りに本多正信が権勢を得た事は本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買う事と成り、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返す様になる。

それでも家康の信任が変わる事は無く、五年後の千六百五十年(慶長十五年)には年寄衆から更に特別待遇を受けて、正信は大老のような地位にまで昇進し大きな権力を振るった。

本多正信は、大坂の陣でも家康に多くの献策をしているが、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、「歩行も困難であった」とされている。

徳川家康に重用され権力を振るった本多正信だが、領地は最後まで相模玉縄に二万二千石(一説に1万石)しか領していなかった。


余談だが、徳川家の直臣に南北朝時代に世良田氏と共に「南朝方として活動した」と言う伝承を持つ井伊氏や奥平氏が存在する。

しかし彼らは三河安城・松平家旧譜代の家臣ではなく、井伊氏は遠江国井伊谷に在って今川氏に仕え、奥平氏は遠江国で独立した小領主であったが、一旦武田信玄に臣従の後、信玄没後に徳川(家康)氏に仕えた。

いずれにしても、井伊氏や奥平氏が徳川家臣に納まったのは、家康が世良田庶流を名乗り始めた頃と合致している。

或いは影・竹千代が、正式に平手政秀(源家・徳川を名乗れる)と養子縁組をして、気分は源家の家系だったのかも知れないのである。

その後のこの両家に対する徳川幕府の扱いを見る限り、かなり突出した待遇である所から、少なくとも「南朝方末裔」と言う世良田系図のアリバイ工作的な意味が在ったのかも知れない。

奥平氏は幕府重臣として松平姓を名乗る事を許され、井伊氏は幕府重臣として老中・大老職を務めるなど、厚遇されて維新まで続いた。

その経緯から推測するに、影・竹千代(徳川家康)や二代将軍・秀忠に三河古参家臣団を敬遠する「何らかの必要が在った」と考えられるのである。

そこが歴史の面白い所だが、竹千代双子説の全ては状況証拠の積み重ねでその場に臨場した訳では無いから確証は無い。

しかし「その場に臨場した訳では無い」となれば、否定する事もまた確証は無いのである。

いずれにしても、双子の存在を背景として公には明かせない歴史が捏造された疑いが存在するのだ。


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水野氏織田方寝返り

◇◆◇◆◇◆◇◆◇水野氏織田方寝返り◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家康が、今川家の人質時代の松平竹千代(松平元康)とは「別人では無いか」と推測される理由の一つに家康が門徒となった「仏教の宗派が予測と違う」と言う疑問がある。

松平竹千代(松平元康)は今川人質時代に今川家・軍師の臨済寺・雪斉和尚(臨済宗妙心寺派)から手習いなどの勉学指導を受けている。


雪斉和尚(太原雪斉)の本拠・駿府(静岡)の臨済寺は、臨済宗の宗祖臨済義玄(中国唐の僧)の名に由来する今川氏の菩提寺で、静岡浅間神社の境内から連なる賤機(しずはた)山麓に在って今川館(現在の駿府城)の北西に位置する現在の静岡市葵区大岩にある。

当然ながら、松平竹千代(松平元康)は幼少期に教えを授かった臨済宗妙心寺派の門徒となる筈である。

所が、成人して三河国主になった徳川家康が突然熱心な門徒となったのは、幼少時から慣れ親しんだ臨済宗ではなく法然上人を開祖とする浄土宗で、江戸・芝の増上寺が菩提寺になっている。

確かに三河安祥(安城)以来松平家は浄土宗であるが、松平竹千代(松平元康)は幼少期を臨済宗の中で過ごし、雪斉和尚から教えを受けてている。

松平家は「先祖からの浄土宗門徒だ」と言ってしまえばそれまでだが、三河国愛知郡の地元で浄土宗に親しんだ別の人物の存在もその可能性を否定出来ない。

存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。

これはもしかして、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件ではないだろうか。

家康は、徳川家の隆盛に伴い浄土宗総本山・智恩院(ちおいん)に寄進などする一方、智恩院(ちおいん)を京での政治工作の足場(投宿場所)にした位の関係を築いている。

また、家康が晩年駿府に隠居すると上清水村(現静岡市清水区)に在った引接院・善然寺を駿府に移転させて手元に置き、そこが城の拡張で敷地内になったので現在の静岡市葵区新通に移設、特に徳川家から朱塗りの門を許されて引接院・善然寺は現在でも「赤門の寺」として有名である。


徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。

そして多くの空白が生まれる中、後世「家康別人説」が浮上するのだが、この別人説、家康二人説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

しかし、巷で流れている単なる影武者説では説明が着かないのが今川家から独立後の家康母方・水野氏一族の隆盛である。


家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在るが、血統が繋がらないまったくの他人であれば説明できない大きな事実がある。

それは家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の事だが、他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた)の実家・水野氏を、家督を相続した家康が重用する筈が無い。

影武者説に関してはこの水野氏重用の視点が欠落しているか、説の提唱者が無理にそこは目を塞いでいるのかも知れない。

比べるに正妻・築山御前(つきやまごぜん)と長男・松平信康親子の処断しかり、清洲同盟の謎しかり、家康庶子・鈴木一蔵の存在しかり、家康双子説の方が遥かに筋が通っているのではないだろうか?

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。


徳川家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏は何故か織田信長に寝返り、於大の方は夫・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁されて刈谷の水野家に戻っている。

於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

この水野氏の突然の織田方寝返りの動行と、その後の水野家及び於大の方(おだいのかた)に対する今川独立後の松平元康(家康)の奇妙な割り切りも気に成る所で、或いは双子の片割れの裏・竹千代の存在が在っての水野氏織田方寝返りの可能性を感じる。

で在れば、謀略渦巻く戦国の世である。

松平広忠と今川家の表・竹千代ラインと於大の方と織田家の裏・竹千代ラインが三河をめぐる勢力争いの構図として筋書きが完成していたのかも知れない。


水野氏については、清和源氏満政流を称し、経基王の王子で源満仲の弟で鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

しかし苗字の地とされる尾張春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏の水野氏があり、また藤原氏を称するものもあり、源氏と断定できず諸説ある状態で、なおこの水野郷の苗字の地は京都嵯峨水野の里とする説がある。

水野氏当主・水野信元(於大の方の兄弟)は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると徳川家康・生母の実家としては家康の今川家からの独立を支援し、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど、身内らしい動きをして居る。

弟・水野忠重(みずのただしげ/於大の方とは姉弟)の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕えた。

猛将として知られた水野勝成は関ヶ原の戦いや大阪の役に参陣して武功を挙げ、大和郡山藩主(六万石)後に備後福山藩(十万石)・下総結城藩水野家(一万八千石)の祖となり、忠清は駿河沼津藩二万石(最終五万石)・水野家および上総鶴牧藩・水野家(一万五千石)の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩五万石・水野家の祖であり、さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家二万石(改易)と紀伊新宮藩・水野家(紀州藩附家老水野家・石高は三万五千石。)の祖である。

つまり水野家は、小なりとは言え五ヵ家に及ぶ大名家を出し、老中など幕閣に要職を勤める親藩として存続し大半が維新を迎えている。

確かに大いに疑われて居る家康別人説ではあるが、こうした事実が在る以上は単なる影武者との入れ替わり説では水野一族の繁栄と整合性が取れないではないか?

最も説明が着くのが、別人の家康も於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の子、つまり双子である。


それにしても、江戸の守りをも考えた隠居地として家康が駿府を選んだ事でこの別人疑惑を見事に打ち消し、家康駿府育ちを印象着ける妙手は誰の手に拠るものだったのか?
この経緯を知っていたのは松平の古くからの重臣・本多家と鳥居家だけで、外部では只一人きり、密約相手の明智光秀だったのである。


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三方原ヶ合戦

◇◆◇◆◇◆◇◆◇三方原ヶ合戦◆◇◆◇◆◇◆◇◆

織田信長の同盟者・徳川家康にも、源頼朝の「石橋山合戦」に良く似た命からがらの敗戦経験がある。

千五百七十二年(元亀三年)の甲斐源氏・武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」である。

命広いしたその後の二人の生き方に共通するのは、自らの力押しは控え、慎重に事を進める所だ。

この任せた相手が、それぞれに義経や範頼だったり、兄貴分の織田信長に付いて行く事だった訳だ。


武田信玄は、河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流・甲斐武田家第十九代当主である。

信玄の先祖、甲斐源氏・武田氏は、後に鎌倉幕府執権となる北条時政(ほうじょうときまさ)の説得に応じて源頼朝の鎌倉幕府成立にも援軍を送った名流である。

その武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光)と位置づけられる。

但し甲斐源氏・武田氏の本祖は、義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)に於いて武田姓を名乗ったとする説が有力である。

その武田冠者・源義清の嫡男・清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、「甲斐国へ配流された」と伝えられ、配流先は「巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)である」とされているが、説に拠っては現在の昭和町西条とも考えられている。

やがて義清・清光父子は八ヶ岳山麓の逸見荘(へみそう)へ進出し、清光は逸見(へみ)姓・逸見冠者(へみのかじゃ)を名乗る。

その後、義清の孫にあたる信義は元服の際に武田八幡宮に於いて祖父義清の武田姓に復した事から、その後に続く甲斐・武田氏の初代とされる。

甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の本流であり、四代武田信義(源信義)は以仁王から令旨を受け取り甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。

当初は独立的立場を取っていたが、富士川の合戦を期に北条時政の説得に応じ、源頼朝に協力して戦功をあげ駿河守護を任ぜられる。

信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命され、その子の信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築いた。

しかしその後その甲斐武田氏の勢力拡大を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し弟や息子達の多くが死に追いやられた。

それでも信義の五男・信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となり、信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。


鎌倉時代後期には、確認される唯一の鎌倉期甲斐守護として石和流武田氏の武田政義がいる。

武田政義は後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱に於いて幕軍に従い笠置山を攻めているが、後に倒幕側に加わり幕府滅亡後は建武の新政に参加している。

千三百三十五年(建武二年)に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝期には安芸守護で在った武田信武が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、南朝方の武田政義を排して甲斐国守護となった。

室町期には千四百十六年(応永二十三年)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻、「上杉禅秀の乱」に於いて武田信満は、女婿にあたる上杉禅秀に味方したが京都の幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受け自害する。

後継の甲斐守護職は、石和流武田氏(いさわりゅうたけだうじ)と同系の逸見氏(へみうじ)との甲斐源氏同士の内紛の末、幕府の追及を恐れて高野山で出家した信満の弟である武田信元が任じられる。

その後は鎌倉府と幕府の対立から鎌倉府に服したが、六代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、十六代・信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。

十八代信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。

信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉氏と衝突(川中島の戦い)を繰り替えし、隣国・駿河今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。

武田氏(たけだし)は本姓は源氏であり、家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家で、平安時代末から戦国時代の武家である。

河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し、勝頼の代には上洛して中央を抑えていた織田信長・ 徳川家康の勢力に対抗するが、領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には僅かに庶家が残った。

安芸国・若狭国に分家(分派)が存在し、夫々に甲斐武田氏五代・武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられた事から始まる「安芸武田氏」、安芸武田氏四代武田信繁の長男である武田信栄が起こした「若狭武田氏」、上総国には庶流・真里谷武田氏「真理谷氏」が在った。

また、支流としては武田信玄五男・盛信が名門・仁科の名跡を継ぐ「仁科氏」、武田信玄の異母弟・武田信実(たけだのぶさね)の子・武田信俊が甲斐国川窪を領して川窪を名乗った「川窪氏」などがある。


父・武田信虎の代にほぼ甲斐統一が達成されて居り、信玄はその後を継いで戦国大名として領土を拡張して行く。

信州に侵攻して諏訪氏を傘下に収め、上杉謙信とは何度も死闘を繰り広げていた。

千五百七十二年 、武田信玄は将軍・足利義昭の命を受け大軍を率いて京都への上洛(京都への進軍)の準備に取り掛かる。

北条氏との同盟締結により背後を衝かれる心配のなくなった信玄は、手始めに、予(か)ねてよりの念願だった遠江を手中にすべく千五百七十二年(元亀三年)十月、甲府を出発した。

この時武田信玄が率いた軍勢は二万五千騎と言われる。

この大軍が信濃国の高遠から飯田、さらに青崩峠および兵越峠を越えて遠江国に侵入した。

武田信玄が、遠州(遠江国)と信州(信濃国)の国境を、二万五千騎の軍勢を率いて越境を開始した。

行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。
今度は、明らかに上洛を狙っていた。

今川家亡き後、甲斐源氏・武田家は、征夷大将軍に最も近い男の筈だった。

何としても、それを掴み取らねばならない。

彼・武田信玄が動いたのは、患っている持病が悪化しつつあり時間が無かったからである。

行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。

対峙する徳川家康は、武田信玄にとって見れば上杉や北条と比べ、打ち破るに造作もない相手の筈である。

三河、遠江二ヵ国の太守に成ったとは言え、長い事今川家の人質上がりの属国の将だった男である。

今また徳川家康は、織田信長の属国の将もどきに従って、三河、遠江二ヵ国の太守に成りあがっただけで、百戦錬磨の信玄に取っては戦国を生き抜いてきたキャリアが違う。

前々年の千五百七十年(元亀元年)に漸く浜松引馬城を居城とした徳川家康の勢力は、最大動員してもせいぜいが八千騎であった。

家康は信玄の出陣を知るとすぐに同盟者の織田信長より援兵を派遣してもらったが、その兵も三千騎ほどで、徳川・織田両軍の兵をもってしても武田方の半分にも満たない兵力であった。

信長の方でもあちこちに出兵しており、その状況下では三千騎を捻出するのが精一杯だったのである。

しかし、そこは天下の天才・織田信長である。

ある秘策の元に、兵二千騎に匹敵するある者供を内密で送り置いていた。

この事は、後に成果となって現れる。


浜松引馬城に在った徳川勢は五〜六千騎、信長の援軍三千騎を入れても、一万騎にはとても満たなかった。

三河、遠江の徳川領内には二俣城や高天神城など、武田勢との接点と成っている城もかなりあり、総勢の一万一千騎全てを浜松城に集結させる訳には行かなかったのである。

家康は、始めから浜松引馬城に籠城するつもりだった。

籠城が長引けば、そのうちに信長が後詰として出馬し、「信玄を挟撃出切る」と考えていたのである。

さらに、年が明けて雪が解ければ越後の上杉謙信も「甲斐国を窺うであろう」と言う期待も持っていた。

十月中旬、徳川方の支城・只来城が攻め落とされ、とうとう両軍の戦いとなった。

信玄は馬場信房らに兵をつけて天竜川左岸より浜松方面を押さえさせた上で、自らは二俣城攻めに向かい城攻めを始めた。

所が「鎧袖一触(簡単に攻め落とせる)」と思われていたこの二俣城が容易に落ちず、終(つい)に信玄は天竜川の上流から筏を流し、城の水の手を断ち、ようやく開城に追い込んでいる。

城将・中根正照らが降参して来たのは一週間後の事で在った。

その後一旦二俣城に集結した武田軍は、浜松引馬城に向けて進撃を開始した。

三日後、信玄の本隊は合代島のすぐ南の神増辺りで天竜川を渡り、浜松引馬城へと向かう気配を見せた。

所が有玉辺りで急に進路を変えると西に向かい始め、そのまま三方ヶ原の台地に上がってしまったのである。

始めから信玄の方は浜松引馬城を攻める意思はなかった様である。

病魔に侵され始めていた信玄にとって、時間を要する城攻めは得策ではなかった。

そこで家康の軍勢を誘(おび)き出し、野戦で「一気に方をつけよう」と考えたのである。

「家康は若造じゃ、無視すれば必ず打って出る。」

守勢の徳川家は、浜松引馬城に在り籠城の態勢を取っていた。

所が拍子抜けな事に、武田軍は家康の引馬城を、「無視して通り過ぎよう」とした。

武田の大軍が、しゅくしゅくと遠下かって行く。

天守から様子を見ていた家康は、武田軍が浜松引馬城に見向きもしないで素通りしていった事で焦った。

相手にされなかったと言う事は、武士としての面目を潰されたも同じ事である。

それに、みすみす無抵抗に素通りさせたとあっては、盟友の織田に顔向けが出来ない。

それが「信玄の策略である」と言う事を考える余裕もなく、すぐ追撃に転じたのである。

「このまま遠江を通しては武門の名折れ、予は打って出るぞ。」

「皆の者、殿のおおせじゃ、信玄を追え。」

家康にしてみれば、敵は二万五千騎で味方は一万一千で騎あるが、三方ヶ原を過ぎればその先には祝田という坂が在るので、そこを過ぎてから襲い掛かれば坂の上から攻め落とせる形になるので「勝機有り」と見込んだ。

武田軍は、坂から転げ落ちて総崩れになる筈だった。

「家康の奴め、掛りおった。祝田の坂の手前まで良く引き付けてから討て。」

所が、家康が城から出て来ると、信玄は祝田の坂にかかる手前で全軍を停止、突然そのまま向きを後ろに変えたのである。

「しまった、誘(おび)き出されたか。」

最初からの作戦だった。

つまり、家康は浜松引馬城からまんまと引っ張り出されてしまったのである。

武田軍の先陣は小山田信茂と山県昌景、第二陣は武田勝頼と馬場信房、三陣が信玄率いる本隊で、後陣が穴山信君と言う布陣であった。

戦いは午後五時頃から始められた。

小山田信茂の三千騎の兵と石川数正率いる一千二百騎の兵との戦いが口火となり、すぐさま全面展開となった。

旧暦の十二月二十二日の午後五時と言うと、既に薄暗さが近づいている時間である。

「ワー」と、夕暮れの三方ヶ原に両軍の時の声が上がった。

戦いの開始は夕方であっても、合戦そのものは夜戦であった。

武田軍は密集突撃型の魚鱗の陣形を組み、それに対する徳川軍は展開包囲型の鶴翼の陣形で攻めた。

しかし兵数の差があり過ぎた為、武田軍を「押し包む事が出来なかった」と言う。

両軍対峙すればまず鉄砲が放たれ、次に矢が放たれて槍隊による槍武須磨の攻撃、切り結ぶか、行き成り馬で突入して、敵陣に攻め込むのが野平戦である。

武田には、勇猛果敢で音に聞く騎馬戦の軍団、赤備えと呼ばれる赤い武具で揃えた武田家自慢の武田騎馬軍団が在る。

その武田騎馬軍団が、二百騎〜三百騎と群れをなし、風林火山の旗指物を翻して縦横無尽に駆け周り、劣勢の場所をカバーしてしまう。

相手がほころびを見せぬでは、徳川方は為す術が無い。

合戦は信玄の思惑通りに展開し、二倍以上の兵力を持つ武田軍が押し気味に戦いを進め、終(つい)に徳川方は浜松引馬城を目指して敗走を始めた。

この合戦では武田軍の武田軍の強さが際立ち、徳川方は随所で負けを重ね、信長からの援兵の将・平手汎秀は戦死、徳川方の犠牲者は一千人を超えた。

本来なら、この三方ヶ原で家康の命運が尽きても不思議ではなかった。

その恐怖に家康自身が晒された戦だった。

しかし幸運な事に、家康はこの敗走を辛くも逃げ切って浜松引馬城に逃げ帰った。

壮絶な乱戦だった為に、武田方でも徳川軍を追撃して浜松引馬城近くまで迫った時に「犀ヶ崖」と言う断崖から落ちる者が多数在った程である。

この戦いが、実は三河(松平)家臣団の特異性を如実に著している。

この合戦の最中、敗走する途中に家康の身代わりと成って死んで行った武将の名前が伝えられているのだ。

一人は夏目次郎左衛門吉信で、「我こそは・・」と家康の名を自ら名乗る事で囮となり武田勢を引き付けて置き、その間に「家康を逃がした」と言う。

また、家康の着ていた朱色の鎧が敵に目立つからと言って、自分の鎧と着せ替え家康を逃がした松井忠次、敗走途中に家康の采配(軍配)を強引に奪って、家康の身代わりを勤めた鈴木三郎と言う武将も居た。

この時登場する鈴木三郎と言う武将は、後のこの章の物語の一つのポイントであるので、記憶願いたい。

これら三河武士の固い忠誠心によって、家康は九死に一生を得たのである。

昔の主従関係には思想的に家族主義が在り、鎌倉期の御家人呼称で判るように棟梁には一家内一族の生活を支える責任の側面が在った。

江戸期の中期頃までは徳川家の直参家臣は御家人で、各大名諸侯の家臣は藩士では無く家中の家来と呼んでいた。

つまり武士道は、一家内一族の生活を支える棟梁側の責任を前提とするもので、その一方が欠けた精神論だけにしてしまったのは明治政府の皆兵政策からである。


「三方ヶ原合戦」は徳川方の完敗で在った。

この時家康は、緊張と恐怖の余りに「馬上で脱糞した」事にも気付かないままに浜松城に逃げ帰り、以後、事に当たって用心深く、慎重な天下取りの為、「戒めの為にその姿を絵にして残した」と言う逸話とその絵が残っている。

命からがら逃げ帰り、切羽詰まった家康は心理の裏を書き浜松引馬城の城門を開け放ち明々と篝火(かがりび)を焚かせた。

本音の所は、城門を閉じてしまえば徒歩(かち)で遅れて逃げ込んで来る後続の味方の兵を城に収容出来なく成ってしまうからだが、武田方ではこの所作を「何か計略があっての事」と疑いを持つ。

「お館様、引馬城の城門が開いて居ります。一気に攻め落としましょうぞ。」

「面妖な、罠やも知れぬ。待て攻め込むでない。皆の者共にも、深追い無用のふれを出せ。」

奇跡は起こった。

武田方の追撃は、ピタリと止んだのだ。

敗戦に追われて逃げ込みながら城門を閉めないとは余りに常識外だったからで、武田信玄は深読みで警戒し、終(つい)に城門を開け放った浜松引馬城を攻めなかったのである。

「殿、城門をお閉め下され。」

「ならぬ。虚(うつ)け者め、門を閉めれば遅参する者が入れぬ。」

「しかし殿、これでは武田方にどうぞ攻め落とせと申して居るようなものですぞ。」

「何を言うか、家臣有って家康なるぞ、予に大事な家臣を見捨てよともうすか。」

「殿、殿が居らねば、家の再起は出来ませぬ。」

閉める閉めないの問答の間も、散っていた味方、手傷を負った者達が徒歩(かち)で三々五々辿り着いて来て居た。

「黙れ、予だけ生き残って何の家ぞ、門を閉める事はならぬ。篝火(かがりび)を焚いて一人でも多く城に入れい。」

「者共、殿は我らを見捨てぬと言われる。かく成る上は殿と諸共じゃ。城門を開け放ち、篝火(かがりび)を焚き、敵襲に備えよ。」

「おぉ、我らが殿は我らの誇りぞ、共に死に申そう。」

この徳川家康、良く言えば慎重、悪く言えば臆病な性格で、勇猛な武門の将とはイメージが少し違う。

だが、勇猛なだけでは天下は取れない事を、源頼朝が証明している。

幾ら勇敢でも、死んでしまえば勝利には成らない。

「臆病」と言われるほど慎重に事を運ぶ者が、決着は遅くても勝利に結び付く事が多いのである。

関が原の戦いでもそうだったが、戦いの勝利と共にその前後の対処が彼の天下を握る過程を有利にして居る。

その臆病な家康が城門を開けて居たのには、彼の運命をも決定つける「彼の性格があった」のである。

天下を取るには、時代に乗り遅れない先進性と地の利、部下に忠実で勇猛なのが沢山居ればそれで良い。

まぁ、「しぶといのと長生きも才能の内」と言う訳である。

家康には、その条件が全て揃っていた。

とにかく部下に恩義を感じ、戦国の将としては珍しく家臣を大事にした点では、右に出るものは少ない。

彼の性格に臆病さが感じられたり部下を大事にするのは、彼の出生に秘密があり、その為に数奇な育ち方をした事が大いに関係していそうだが、その話は後の機会にとって置く。

ここで家康の心情であるが、浜松引馬城に逃げ帰るまでに身を捨てて自分を守った部下達を見捨てられなかったのだ。

それ故、戦場から落ちてくる部下を、ギリギリまで救おうとして城門を開け続け、結果その事が自分を救う事になったのである。

当然ながら、家康の家臣思いの心情は戦場(いくさば)において掟破りであるが、家臣には「信頼するに足りる棟梁」と、思いが通じる。

戦国期に合ってこそ互いの信頼がいかに大切なのかを、家康はこの一事に教えられる。

この経験は家康生涯の宝となり、家臣や盟友織田信長を信じてチャンスが有っても裏切る事は無かった。

また、後の盟友を信じる生き方と時々の決断の糧として、大いに生かされ、盟友に導かれて、天下取りに進んで行く事になる。


この徳川家康と三河家臣団の結び付きが、後の徳川幕府成立後に武士のあり方の手本となり、江戸期の「べき論」として「武士道の精神(さむらい魂)」が、成立する。

つまり「武士道の精神」は、僅(わず)か江戸期の約二百五十年間に、それも国民の十パーセントにも満たない武士と言う名の「奉職役人・官僚」身分の者の間だけに在った精神である。

徳川家康と三河家臣団の結び付きは、首領(武家の棟梁)である家康の家臣に対する気配り思い遣りが前提に在っての新しい信頼関係で、徳川幕府成立以前の武士には江戸期における「武士道の精神」などはなく、下克上(げこくじょう)の世界だった。

それ故、この「武士道の精神」もって「日本人の心」と言い張るのは、いささか格好の付け過ぎであり、この幻想を利用して国民を戦地に送った大戦が、ほんの一世代前に在った事を忘れてはならない。


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二章

◇◆◇◆◇◆◇二章(明智一族と徳川家)◆◇◆◇◆

明智光秀の出自(しゅつじ)を紹介して置こう。

明智家も源氏の出で、言うまでも無いが源氏は後胤貴族の末にして皇統守護の血筋、光秀の方が同じ源氏や藤原、平次を名乗っても血筋的には信長より確かで少し上だ。

美濃の国(今の岐阜県の南部)に土岐と言う町(市)があり、土岐と言う名は清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名と成っている。

あの鬼退治伝説で有名な源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の長男・源頼国が美濃守として赴任し、居住した土地の名、「土岐」を取って名乗った源氏が、守護大名土岐氏の始まりである。

この土岐一族の本流の別れが、美濃国・明智郡に居を構え、小城を築いて明智姓を名乗った。

つまり光秀の方が、信長よりはるかに源氏の本流に近いのである。

言わば明智家は、バリバリの後胤血統書付きだった。

しかし名家の出ではあるが、光秀は不遇だった。

明智光秀が元服を迎える頃には、美濃一国を支配していた明智本家の守護大名土岐氏は、配下の斉藤道三の下克上に合い、支配する領地・美濃の国を乗っ取られていた。

明智一族も、本家土岐氏没落後は斉藤道三に従い、実を言うと明智家は、斉藤道三に大事にされていた。

土岐氏を排除したものの、道三が美濃の国の郷士を束ねての運営には土岐の血筋は都合が良い。

しかし斉藤道三は、嫡男の「斉藤義龍」に討たれてしまった。

斉藤道三が、嫡男・義龍よりも他の子供を可愛がった事から、「危機感を抱いての親殺し」と言われている。

但しこの嫡男、「道三の子ではない」と言う疑惑もある。

斉藤道三は、織田信長の舅(しゅうと)で義父に当たる。

信長は、道三・娘「濃姫(斉藤帰蝶/さいとうきちょう)」を嫁にもらっているのだ。

義父に当たる斉藤道三から、「息子の義龍に攻められている」と信長の下に知らせが届く。

急を聞いて、信長が援軍を率いたのだが、道三は既に討たれてしまっていた。

その騒乱の中、明智氏の当主・光安は、一族の小勢で明智城に立て籠もり義龍に抵抗して落城、討ち死にしている。

この時明智光秀は、明智家一族再興の為に従弟の「光春、光忠」など、一族の若手を連れて城を抜け出している。

光秀は、幼い従弟二人(光春、光忠)を預かり、斉藤利三と言う明智一族とは同じ血筋の武将の支援を得て御家再興を念じて旅に出る。

帰る地を失った光秀一行は長い事諸国を巡り、あちらこちらに身を寄せる流浪の身にあったのだ。


斉藤利三は、美濃守護職・土岐家の守護代であった斉藤家の庶流を継いで居た。

嫡流家は乗っ取りの斉藤道三利政(山崎屋庄五郎・西村勘九朗・長井新九朗利政)に継がれて、斉藤利三は本家を失い美濃三人衆と呼ばれる強力な豪族の一人・稲葉一鉄に臣従していた。


その後、経緯は定かではないが、落ち延びた明智光秀たち明智一族は越前(福井県)の「穴馬」の地に辿り着いて、そこに落ち着く。

 若手の中で年長者の為、一族のリーダーとなった光秀は、勉強の為に更に諸国を回り、地形や大名達の情勢などの見聞を広めていた。

流浪していた光秀は、越前朝倉家に仕官の誘いを受け、応諾して一族で越前に居を構える事になる。

漸(ようや)く光秀は仕官が叶い、一応の俸禄を得て世に出る足がかりを掴んだかに見えた。

光秀が仕官した朝倉家も、織田家同様に元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であった。

守護代だった朝倉家も、他家と同じような下克上の経過を辿り、比較的早くから戦国大名として、力を持っていた。

当初、光秀の出自と見識は上流社会好みの当主・朝倉義景に大いに喜ばれ、重用されていた。


越前の大名・朝倉義景に仕官した光秀は、多方面に才覚を発揮する。

しかし、「一族の仇敵」斉藤義龍の子・龍興が信長に敗れ、朝倉家を頼って逃げて来た頃光秀は朝倉家に有って不遇だった。

聡明過ぎる光秀は、他の家臣からすると嫌味な存在に映る。

他の歴代家臣の、嫉妬交じりの甘言により、主君・義景からも徐々に疎まれていたのだ。

そうなると、新参者だけに意見も無視されて居場所が無い。

その上、龍興が朝倉家に頼って逃げ込んで来た。

一族の「憎き敵」なのに、主君の客では手が出せない。忸怩(じくじ)たる思いで在ったろう。

そこへ、誂(あつら)えた様に、美濃の斉藤龍興を越前に追い二ヵ国を有する太守になっていた織田信長の招き状が送られて来た。

倍の所領、尾張・美濃を治めるには織田家も人材が要る。

特に美濃は信長にとって新たな領土で、地元の人心を押さえるには正統な旧領主に通じる土岐の一族の血筋が欲しい。

明智光秀こそが、その美濃国郷士団との政治的工作にもって来いの人物だった。


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光秀の織田家仕官

◇◆◇◆◇◆◇◆◇光秀の織田家仕官◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この仕官話に、光秀は乗った。

勿論光秀には、この戦国時代に「信長は有望株」と映っていた。

光秀は世間の評判と、為し得た見事な戦略から、信長の天才性を見抜いていたのだ。

光秀にすれば、朝倉に居ても累代の家臣が利権がらみの厚い壁を作っている。

家中で一人浮き上がり、微妙な立場だった光秀は願い出て、朝倉家に「暇請い(いとまごい)」を許され、信長の下に向かったのである。

朝倉側でも、家中諸般の事情で知将・「光秀」の存在は手に余っていたのだ。

此処から、「運命の道程が始まった」と言って良い。

織田信長も、引き抜きとは言え明智光秀の値踏みは、光秀に会うまではせいぜい五千石も与え侍大将の端にでも加えれば「破格の扱い」と高を括っていた。

何しろ、戦に破れて流浪の末、朝倉家でくすぶっていた男で、「お濃(斉藤帰蝶)の口添えもあるから」と恩を着せ、少し優遇してやれば尾を振る筈だった。

しかしその信長の胸算用が、光秀に会ってあっけなく変わる。


初めて光秀が目通りした時、信長は何時もの様に「光秀の力量を量ろう」と常人が返答に困る様な意地の悪い質問を試みた。

信長は性格が性格だから、相手を試す質問は押して知るべしで、信長の質問は鋭く、普通なら言葉に窮する者が多い。

処が、光秀から返って来る返答が、子飼いの諸将より一枚も二枚も上手だった。

それどころか、信長の真意を見透かしたような返答が返って来る。

「この男尋常にあらず。」

信長は内心そう思ったが、頭(ず)に乗られないように、感動を押し殺して居た。

実は、信長が思い描いていた上洛のビジョンを、光秀は寸分狂う事無く言い当てていた。

この場合の上洛とは、首都を制圧、天下を掌握するする事を意味する。

分相応と言うか、並の男達にはこう言う大胆な発想は無い。
,br> まぁ、大胆な発想が無いから並の男達と言えるのだが・・・・。

驚いた事に、細部に渡ると光秀案は信長案を補足してさえいた。

光秀の軍略の発想が、信長の気に入るものだったのである。

興奮して、予定を遥かに過ぎるまで光秀と問答を繰り返し、信長はある確信に達していた。

「捜していたのは、こ奴だ。」
決めれば、行動が早いのが信長である。

信長にして見ると、光秀は思いの他の拾い物で、自分の言う事が、楽に通じるのだ。
「あ奴、予の言う事を即座に飲み込む、思いの他に利口者よ。」

武門の経営者として孤独な信長は感動を覚え、嬉しくさえあった。

まず血統が良く、美濃で土豪達を扱うには明智姓は大いに通用する。

その上、明智光秀の妻は煕子(ひろこ)と言い、美濃国の「妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女」と言われている。

まぁ正確には当時の夫婦は別姓であるから、妻木煕子(つまきひろこ)が光秀正妻の正しい名乗りである。

あの有名な細川ガラシャなど、光秀の子は全て煕子(ひろこ)との子である。
彼は「生涯妾を持たなかった」と言われる愛妻家だった。

明智光秀には、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)を娶る前にもう一人妻が居たらしいのだが、詳細は判らない。

妻・煕子(ひろこ)の旧姓を聞いて歴史好きならピンと来る筈で、そう明智光秀の妻の旧姓名は妻木(勘解由)煕子(ひろこ)である。

あの勘解由(かでの)党の直流にあたる妻木家だった。


現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。
妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。

天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。

だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。

この妻木家、源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、実は本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。

すなわち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。

どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。

ここが肝心のところで、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解していなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。

明智光秀は、妻・煕子(ひろこ)ともに、勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。

その妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原合戦で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。


婚儀がまとまり、光秀が婚礼の打ち合わせで妻木家に挨拶に伺うと、当主の妻木(勘解由)範煕(のりひろ)が、目出度い席に似あわぬ浮かぬ顔で応待した。

明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。

「いゃ、明智殿には良くお来し頂いた。」

範煕(のりひろ)の挨拶の声も心なし沈んでいて、どうした事かと、光秀が問い質した。

「妻木殿、何か当方にご不審の点でもお在りでござるか?」

妻木範煕(のりひろ)は、恐縮して話を切り出した。

「あ、いゃ貴殿方の事ではない。実は・・・明智殿、娘・煕子(ひろこ)との婚儀の儀でござるが、娘・煕子(ひろこ)が病を患い致しましていささか顔が見苦しゅう成り申した。かく成る上は娶られるのは妹の方では如何か?」

「何んの妻木殿、男が一旦娶ると決めた娘子なれば娶った後に病を患いしを捨てるも同然、そんな浅き絆では永く添い遂げるは叶わぬが道理、一向に移り気は致して居り申さず。」

「流石に才の誉れ高き明智殿、道理を通されるに拙者感服いたした。良き婿殿に成るは。ワッハハ。」

縁談がまとまった後、煕子(ひろこ)は疱瘡(ほうそう)の病に患り、婚礼前に顔にアバタが出来たのであるが、「それでも光秀は嫁にした」と伝えられている。

当然の事ながら、煕子(ひろこ)の実家・妻木家の婿・光秀への評価は高いものになり、光秀の男気に惚れて、一族を挙げ光秀を支援しても不思議はない。

事実、明智熙子(ひろこ)の実父・妻木範熈の長子(継子)・妻木範賢、次子・妻木範武、三子・妻木範之などの熙子(ひろこ)の実弟達は一族を率いて義兄・明智光秀に合力、光秀の出世と伴に次第に臣従して光秀の戦略や合戦に参加し役目を果たしている。

表立っての戦闘はそう多くは無いが、妻木家が勘解由(かでの)小路党であれば、得意の諜報工作では大いに力を発揮した筈である。

名前の通り妻木家の本姓は「勘解由(かでの)」で、名門・勘解由党の、それもかなり正当な枝である。

言わば草の世界の人脈は計り知れない。

この辺りに、愛妻家・明智光秀の秘密があるのかも知れない。

妻木(勘解由)家の発祥は、岐阜県土岐市妻木町である。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄で、妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

明治維新まで、美濃妻木七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃明知六千五百石余)と共に永らえ、維新後も新政府の官僚に納まっている。


この妻木(勘解由)家、実は徳川家の本当(江戸幕府開府以前)の旗本ではない。

名門の外様領主ではあるが所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為、親戚の遠山家も同様だが、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合格」として旗本格内に置かれていた。

明智光秀の正妻・妻木(明智)煕子(ひろこ)の実家・妻木家は、関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残る。

妻木家は、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれ、明治維新まで美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として永らえている。


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光秀の血脈

◇◆◇◆◇◆◇◆◇光秀の血脈◆◇◆◇◆◇◆◇◆

織田信長の正妻「濃姫」は斉藤道三の娘で、明智氏とは母方の縁戚にもなる。

それに、明智光秀の表裏に跨る豊富な人脈は尋常ではなく、異例な事だが明智光秀に信長は、いきなり美濃の国の安八郡一帯を所領として与えている。

郷ではない、与えたのは群で、これは五〜六万石に相当し、幾ら信長が美濃・尾張百万石の太守と言へども、二十分の一は破格である。

光秀が、最初に朝倉家に仕官した時のおよそ十倍の条件で、それは古参の家老並みの待遇だった。

留意して欲しいが、戦国大名が武将を召抱えるに行き成り何千・何万石と、とてつもない俸給条件を提示する事があるが現代に比して驚かないで欲しい。

これは一族郎党を一括召抱えるようなもので、現代の個人採用とはその趣(おもむき)がかなり違い、それなりの郎党(兵力)を持って臣下と成り傘下に入るのである。

単身で召抱えられても、然(さし)したる働きが出来ないのが戦国の世だった。


正直明智光秀は、自分を即座に認めた織田信長の評価を喜ぶより「恐い」と思った。
朝倉は光秀の人脈の重さに気が付いては居なかった、光秀には「心して掛からない」と、信長には「全て見通される」様な気がしたのだ。

だが、信長は上機嫌である。

「光秀、光秀」と、何かにつけて声を掛けた。使える(役に立つ)者に、信長は気前が良い、見る目も確かだ。

以後、信長天下取り戦略の重要な場面に、光秀は常に傍(かたわら)にいた。


織田家に仕官したその後の明智光秀の出世は目覚しく、伊勢、近江、丹波攻めなどの戦の武功により、四十歳代半ばにして、めでたく近江志賀郡に十万石を与えられ、千五百七十一年(元亀元年)に大津城に入城、後、近江・坂本城城主となる。

この三年後の天正二年、光秀は従五位下日向守、翌天正三年には惟任の姓を与えられ、丹波国領主に任じられ、これより独力で丹波制圧戦を開始する。

その傍ら、信長の多忙な戦略の応援で、長篠合戦、安土城築城、石山本願寺攻略、松永久秀征伐などにも参加している。


実は、明智光秀が従兄弟でお福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)を明智家の家老職に迎えたのは漸く国持ち大名に成ったこの頃である。

つまり斉藤利三は従兄弟では在ったが、明智家が隆盛に成って初めて家老に成ったので在って、光秀の出世を永くサポートした訳では無い。

お福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)は、斉藤惣領家・斎藤利永(さいとうとしなが)の弟・長井利安(ながいとしやす)の息子・斎藤利賢(さいとうとしかた)の次男だった。

斉藤利三(さいとうとしみつ)は斉藤道三の息子・斉藤義龍(元・美濃国主・土岐頼芸の子とも言われる)に臣従していたが、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返るとそれに従い、一時は稲葉氏の家臣となったのだがその一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになった。


一時期斉藤利三(さいとうとしみつ)の主となった稲葉(一鉄)良通は、余り知られていないが明智光秀や徳川家康と並ぶ「この物語の主な脇役」と言って過言ではない。

稲葉(一鉄)良通は、始め美濃国主・土岐氏に仕え、それを乗っ取って継承した斉藤道三の斉藤氏三代に仕えて、三人衆として最も有力な家臣団だった為、一鉄が信長の美濃攻略で斉藤龍興を見限って信長に寝返った事は、道三の斉藤氏の滅亡を決定的にし、その功績で稲葉一族は織田家に仕えた。

実は、稲葉(一鉄)良通が美濃国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)を見限り信長方に寝返ったには、帰蝶(濃姫)付きのお端(おはし・端女)として織田信長の傍近くに使えさせていた娘・稲葉安(あん)からの報告に拠る所が大きい判断材料だった。

お安(あん)からの報告を見る限り、我侭放題で凡庸な主君・斉藤龍興(さいとうたつおき)に比べて尾張国主・織田信長は駿河の太守・今川義元を桶狭間奇襲で破るなど容易ならざる逸材である。

それに道三の娘・帰蝶(濃姫)は信長に嫁し、美濃明智党一族は明智光秀と共に信長に臣従している。


明智一族発祥の地、美濃国・明智城の落城にともない明智光秀が若手の一族の代表として城から落ち延びた時、二人のまだ幼い従兄弟を伴って居た。

明智光忠(あけちみつただ)と明智光春(あけちみつはる)である。

そしてこの後、光秀一行の路銀を工面したのも、他所(美濃有力郷士・稲葉一鉄)に仕官していた光秀の従兄弟・斉藤利三(としみつ)だった。


明智光忠(あけちみつただ)は織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たる「明智光久又は明智光安の子である」とされるがどちらの子か定かではない。

明智光忠(あけちみつただ)は丹波国八上城主とされる戦国時代の武将で、明智光春と同様に妻は光秀の娘を娶っている。

光忠は、織田信長の陪臣時代に丹波過部城攻めの功績で織田信長より感書を下される手柄を立てている。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変では、信長の息子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃し、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで主君・光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると「自害して果てた」と伝えられている。

明智光忠にも次郎四郎、次右衛門、などの名前がある。

この明智光忠(あけちみつただ)は実在していたのは事実であるが、しかし「自害して果てた」と伝承されているだけで墓も残っておらず、光忠の事自体公式記録や一級資料にも残っていない。

最後は、丹波八上城(周山城)主であったが、これも早い時期からの身代わりとも考えられる。

彼にも光秀との続柄に於いて従弟説と娘婿説が存在し、結論がでない。

それどころか光忠は、明智光久(又は明智光安)の子では無く「美濃の百姓の出自」と言う異説まで存在する。

そこで考えられるのが、明智光忠は途中で入れ替わっており、その入れ替わりの事実が出自を錯綜させているかも知らない。

つまり美濃の百姓が、「光忠の替え玉に据えられた」とも取れるのだ。

前期の光忠は確かに明智光久(又は明智光安)の子で光秀とは従兄弟だったが、後期の光忠は「美濃の百姓の出自」と言う可能性も出て来る訳で、それなら本物の明智光忠が徳川秀忠に化ける筋書きに信憑性が出て来るのである。

かりに、江戸初期の天海僧正が明智の者であれば、伝記は、「如何様(いかよう)にも書ける」と考えられ、そこに秘匿すべき物があれば然るべく書き表されてのである。


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山崎の某略

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智光秀は本能寺の変の後、中国大返しの離れ業で三万の大軍を率いて畿内に戻って来た羽柴秀吉と山崎の合戦を前に、自軍に助勢する武将の無さに敗戦を予想した。

むしろ秀吉方に組する武将が続いて、兵力は三万八千まで増えていた。

明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。

最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。

「光秀残念だが、お主に従う諸将は少なかろう。」

「孫市も左様に思うか?」

「お主は利口過ぎて、日頃から同僚を鼻先で笑うのが顔に出る。わしも友なら良いが主君には御免じゃ。」

「人気が無いのは承知している。。己(おのれ)で切った堰だが、流れ始めた勢いは己(おのれ)で止められぬわ。」

「ならば光秀、無用な意地は棄てて生き延びろよ。」

「判って居(お)る。案ずるな頭に立たん方が良かろう。わしには最初から恥じや外聞など気にする思いは無いわ。」

「お主、明智の名に拘らぬのだな。」

「孫市、人間、棄てるを恐れるから何時までも地位にしがみ付く。棄ててしまえば恐るるものなど無いわ。」

「如何(いか)にも、身を棄ててこそ浮かぶ瀬も見えるものじゃ。なまじ面目だの面子だのと拘(こだわ)っては生き難いのぅ。」

「わしは、生き延びて新しき世を創る。これも今生めぐり合わせでわしにめぐって来た役回りじゃと思っておる。」

「で、お主は如何(いか)に致す?」

「今のままでは、わしは秀吉には勝てぬであろう。お主もいたずらに手勢を損なうは我意にあらず、折角じゃが引いてくれ。」

「では影を立てて、今後に備えるが良かろう。」

「承知した。光秀、お主の退路も俺に任せろ。」

「天台の寺にでも隠遁するか。一度高野の山で無に帰して、出直そうぞ。わしは帝の臣としてのお役目を果たす為に、主(あるじ)であるお館様(信長)を殺(あや)め申した。孫市殿が申すようにもはや惟任日向守・明智光秀は棄て、天台の坊主にでも成るわ。」
「それが良い、光秀殿は天台の衆に好かれておる。それに、天台なら家康とも縁が深い。お主は、家康殿が天下を取るまでは死んではならぬお人故、心してな。」

「合い判った。」

孫市の使いが、天台宗の総本山・比叡山・延暦寺と家康に走る。

事前の体制造りは、瞬く間に決まった。

無駄な戦はしたくないが、羽柴方は光秀の存在を認めない。

光秀は影武者を用意、その身代わりが農民の竹槍に打たれてこの世から存在が消えた。

大きな背景の下に、或る意図をもってその歴史は捏造されたのである。


秀才光秀が達観した結論が、野望を持たない野望だった。

権力を握り、人がうらやむ立場になっても、その立場は苦労が絶えない。

何故ならば、明智光秀は徳川家康の生き方に学んでいた。

人生これ「塞翁が馬(人生の禍福は転々として予測できない事)」で、流れに強引に逆らっても逃げ口を塞ぐだけである。

それならば影人に徹して、自らの力だけを発揮してみたい。

その選択が、僧籍に在っての徳川家軍師だった。

男同士の友人は、ある種のライバルでもある。

同じ物を目指すと難しいが、明智光秀と雑賀孫市、徳川家康の生き方と役割はたまたま三者三様に違って居たから、結果最後まで付き合えたのだ。

この後明智光秀は、南光坊天海を名乗って雑賀孫市や服部半蔵の影働きの下、徳川家康に策を送り続けている。

顔を合わす事は無かったが一度だけ、流石の光秀も関が原の合戦の折だけは我慢が成らず、僧形のまま南光坊を名乗って家康本陣に詰め、勝利した後は静かに比叡山延暦寺の別院に去っている。


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明智光春

◇◆◇◆◇◆◇◆◇明智光春◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智光春(あけちみつはる)は、明智光忠同様に織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たるとされ、こちらの方は確り記録があり「明智光安の子である。」とされるが、明智光春には現在二つの説が有る。

一つは明智光安の子で、光秀の従弟、一つは三宅弥平次と言う名で、光秀の娘婿となり、明智の姓を名乗ったとする説である。

この二つの説から選ぶのが通常なのだろうが、何しろ戦国の世で、これが始めから二人居て謀略の為にそれぞれ入れ替わり、しかるべきに収まったのなら辻褄が合うのだ。

つまり、この明智光春も謎の多い人物で、「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物であり誰かをモデルに作られた可能性はあって実在の人物かは確証がない。

しかし、明智光春(あけちみつはる)についての詳細が伝承されていない事自体に、何か歴史から隠匿すべき大きな秘密が在ったとも考えられる。

伝えられる所に拠ると、明智嫡流だった光秀の父・が早世した為、光春の父・明智光安が後見として明智・長山城主を務めていたのだが、斎藤道三と道三の息子とされる斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。

光安は自害するが、光春は光秀や光忠らとともに城を脱出して浪人し、年長・明智嫡流の光秀を盟主として一族で行動する。

盟主・光秀が織田信長に仕えると光春は光秀に従って各地を転戦し、武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。

光春の妻は光秀の次女で、荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが村重謀反の際に離縁され、光春と再嫁した。

光秀が織田信長を討った本能寺の変では、光春は先鋒となって京都の本能寺を襲撃し、変事の後は安土城に回って守備につくが、羽柴秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死すると「坂本城に移って自害した」とされるが、替え玉が容易な時代でこれも確たる自害の証拠は無い。


巷に流れる光秀生存説を採れば、密かに野に下った光秀に光春が最後まで従った可能性も否定出来ない。

いずれにしても、明智光忠(あけちみつただ)と明智光春(あけちみつはる)と言う光秀の二人の年の離れた従兄弟、そして年齢が近い従兄弟・の斉藤利三(としみつ)の末娘・お福(後の春日局)が、この奇想端外な物語の主人公である。

例えば二代将軍・秀忠を視点を変えて考察すれば。

天下人なのだから後からでも宣言だけすれば改名は出来る筈なのに、歴代将軍の中で二代将軍・秀忠だけが「家や康」の字を名前に付けていない事のその訳を・・・。

代が後になると「綱」も使うが、この頃は「康か家の文字」の筈である。

そして二代将軍・徳川秀忠に関しては名前だけでは無く、三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記す所謂(いわゆる)東照権現・家康の血筋として数えられない大きな謎が在る。

つまり三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、三代将軍・家光が二世と数えるのであれば二代将軍・徳川秀忠の存在は飛ばされている事になり、秀忠養子説に信憑性が出て来るのである。

秀忠の秀は、一般的には「秀吉の秀をもらった」と言われている。

確かに幼名(それまでは長松、竹千代、長丸、長麿)を名乗っていた秀忠が元服して名を「徳川秀忠」と改めたのは豊臣秀吉の存命中であるが、元服時に名乗る名が秀忠に無いのは何故だろう?

そこに、この突拍子も無い説のミソがあるのだ。

ちなみにこの信長の考え方、その後徳川家康が各大名家に自らの子沢山を利用して養子を入れ、嫁を入れて血縁大名を増やし、徳川幕藩体制を強固なものにしている。


さて、此処に秀吉さえ知らない事実がある。

この事は後の日本史に影で大きな影響を及ぼす事柄だが、それは光秀の従弟・光忠の事である。

光忠・・、秀忠、何か感じないだろうか?

「秀」は、明智(光秀)一族一統の秀だとしたら・・・。

この密約が為された時期は定かではないが、おおむね千五百六十九年(永禄十二年)頃の事である。

秀忠は、家康の三男とされている。

生まれたのは、「長兄・信康が切腹した年」とされている。

信長は家康の三男・長松と年恰好の近い光忠を入れ替える様に命じ、五歳ほど若くさばを読んで徳川家に押し込んだ。

知っていたのは、信長、光秀、家康と本人だけである。

実は、室町期頃から公家や後胤貴族系武士を主体に、血統を重んじる余り「虚弱精子劣性遺伝」が醸成されて系図断絶の危機が起こり系図存続の為の婿養子が増えて一般的となり、その内にその養子縁組が政略的な目的を持つ「政略養子の事例」も増えて戦国期にはさほど珍しい事では無かった。


この件は織田信長と徳川家康が、使いの者を介した書状のやりとりで決まった。

相手は互いに同盟の盟主である。

家康はこの提案の受諾を即断している。

そしてその使いに来たのが、他ならぬ明智光秀だった。

戦国を生き抜くには、即時の決断が必要だ。

「織田公が望まれるなら即刻承知故、良しなにとお伝え下されぃ。」

「かしこまり申した。拙者からも光忠の事、重ねて良しなにお願い申し上げます。」

この決断こそ徳川家康の生き方そのものだが、流れに強引に逆らっても逃げ口を塞ぐだけで、「人生これ塞翁が馬(人生の禍福は転々として予測できない事)である。」と、家康は光秀に告げた。

家康の快諾に、光秀は個人的にも従弟の光忠の事をくれぐれも頼んだ。

この時から、家康、光秀二人の間に既に絆が生まれていたのだ。

松平家と同じ賀茂氏の末とされる美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)の娘・妻木煕子(つまきひろこ)は織田家重臣・明智光秀の正妻であり、この婚儀に依り光秀が賀茂系影人達の盟主となった経緯がある。

つまり賀茂氏の血流を基とした家康と光秀の影の同盟は、最初から天下取りに向かって早くから出来上がっていたのかも知れない。


この織田信長の徳川家康への押し付け養子の謀略を現代人は奇異に思うのだろうが、当時の武家社会は血統と共に「氏の名跡(**家)」を重んじる社会で、名跡維持の為には実子に拘らない風潮が在った。

武家社会に於いては、養子に入って「氏の名跡(**家)」を継げば、その者はもう「自他共にその家の者」と言う約束事も確り守られていた。

この養子話し、現代感覚に慣れ親しんだ方には理解し難いだろうが、虚弱精子劣性遺伝を知っている方には理解出来る筈である。

つまり名家ほど虚弱精子劣性遺伝の問題が在り、当時の元々貴族社会や武家社会では実子が存在しても政治的配慮から養子を迎えて継嗣とする事に然したる違和感は無かった。

その継嗣感覚の大元に成ったのが他でもない皇統の継承で、天皇の皇位継承(践祚/せんそ)では実子が存在しても、様々な政治的配慮から他の皇族の内依り践祚(せんそ/皇位継承)の相手を選ぶ事はそう珍しい事では無かった。

皇統の践祚(せんそ/皇位継承)からしてそうだったのだから、武家である家康が現代人ほど養子に拘りが無くて当たり前で、当時の常識からすれば一度貰った子はもう自分の子だった。

そこが理解出来ずに、現代感覚の先入観で「そんな筈は無い」と決め付けてしまうから歴史認識が初期の段階で固定してしまう。

応仁の乱の最中にも、その後の細川・三好の戦乱に於いても都度都度登場するが、鎌倉期から室町期、戦国期のどの時代を切り取っても有力者同士での養子のやり取りは特別な事ではなく、そしてその養子が「氏の名跡(**家)」を継承する事が普通に行われていた。


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江戸開府と天海

◇◆◇◆◇◆◇◆◇江戸開府と天海◆◇◆◇◆◇◆◇◆

現在世間で判り得る天海僧正は、徳川家康が江戸に幕府を開く時期に突如歴史の表舞台に登場し、瞬く間に徳川家の「知のブレーン」となってしまう。

そして不思議な事に、天海僧正と徳川家康の過去には、ほとんど接点が無いのである。
いったい如何なる経緯で、徳川家の知恵袋・天海僧正は徳川家康に見出されたのであろうか?

そこで天海が、「家康とは旧知の間柄ではなかったのか」と疑いを持たれるのである。

徳川家康は天海僧正の助言で関東に所領を移し、秀吉を安心させて着々と力を蓄え、その後大阪の陣で豊臣家を滅ぼすと鎌倉幕府に習って朝廷と距離をおく関東の地に幕府を開いた。

室町幕府の衰えから応仁の乱が起こり、群雄割拠の乱世から天下統一(天下布武)までもう一歩の所まで漕ぎ着けた織田信長だったが、努力して漸く時代を変える道筋をつけた者が、必ずしもその新しい時代に輝いて生き残れないのが残酷な事実である。

言わば「信長がつき、秀吉がこねし天下餅、喰らうは家康」の事で、最終的に天下を握って江戸幕府を開いたのは二〜三番手に当たる徳川家康だった事は、「歴史の皮肉」と言うべきなのか?

そして徳川家の行く末を睨んで家康は、千六百五年(慶長十年)に将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲して行く事」を天下に示した。

徳川家康が幕府を開いた土地、「江戸」と言う地名の由来であるが、江戸氏と言う氏(うじ)名から来ている。

この江戸氏、桓武平氏の平良文(村岡五郎良文)の「ひ孫」にあたる平重継(江戸重継)が始祖である。

江戸と言う地名の発祥は、村岡五郎良文(平良文)の孫・平将常が武蔵守となり秩父に住んで秩父氏を称して居た。

その孫・平重継が分家をして江戸(入り江の入り口(戸)と言う意味)の荒川河口の高台・日比谷入り江の小高い丘・江戸に館を構え「江戸氏を称した事に拠る」と伝えられ、広域に通用する江戸の地名が出来た。

つまり坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ、桓武平氏流・秩父氏から出た江戸氏の本拠地は、「武蔵国豊島郡江戸郷之内前島村」と言う土地である。

江戸の呼称については江戸城を築いた室町期の武将・武蔵国守護代・太田(源)道灌(関東管領上杉氏系流)が、一般的には祖としては余りにも有名だ。

だが、江戸氏を名乗り江戸館を築いた江戸重継、重長、親子こそ江戸の祖とも言うべきで、平(江戸)氏の 江戸館の跡に大田道灌が江戸城を造り、その跡に家康が江戸城を築いて幕府の本拠地と為し、その二百六十年後の遷都に拠り帝の宮城になったのである。

この平(江戸)重継の継子・平重長は、当時絶大な権力を持っていた平家の平清盛に臣従していたが、石橋山合戦の後に源頼朝の味方に加わり、後に鎌倉幕府の御家人となっている。

江戸重継の嫡男・江戸重長は、源頼朝が伊豆で旗揚げした時点で、平家(清盛平氏)に信頼された関東の最有力武将だった。

石橋山の合戦に破れた源頼朝は、海路、房総半島に逃れ、その安房の地で豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤などの助力を得、再び勢力を盛り返して武蔵国へ入ろうとするが、それを江戸重長が関東武士を招集して一旦は頼朝の進軍を阻止する。

しかし秩父氏一党は、元々頼朝の父・源義朝の勢力下に在って恩を受けた過去がある為、その後、江戸重長をはじめ畠山重忠・河越重頼ら秩父平氏一族は、長井渡まで出掛けて源頼朝に一時平家(清盛平氏)に加担した事を詫び、服従を誓って源頼朝勢に加わって平家(清盛平氏)打倒に貢献すると、後に鎌倉幕府の御家人と成った。

その後鎌倉幕府の滅亡、南北朝の戦乱、戦国期を経て江戸氏は勢力を衰退させ、江戸期を迎える頃には後北条に属して喜多見に五百石を領する小土豪と成る。

徳川(江戸)幕府が成立すると、江戸氏は所領の喜多見氏に改姓し、徳川氏の旗本となる。

五代将軍綱吉の側小姓と成った喜多見重政は側用人となり、千六百八十五年(貞享二年)に出された「生類憐みの令」の積極的な推進者となり、出世して二万石の大名となる。

出世した喜多見(江戸)重政は御犬様総支配に任じられ、世田谷にも「お犬様御用屋敷」が立てられて江戸氏も一応の再起を見るが、その後身内の不倫沙汰から発生した刃傷事件により改易に遭い、江戸氏の末裔は没落している。


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江戸城再会

◇◆◇◆◇◆◇◆◇江戸城再会◆◇◆◇◆◇◆◇◆

家康にして見れば、仏(幕府)は造ったが魂を入れるのはこれからだった。

天下を取った後、家康は盟友の光秀に会うべく千六百十二年(慶長十七年)に比叡山に使いを出す。

だが、性急に会うのは避けていた。

関東に呼び寄せては見たが、大阪の豊臣家の始末もあり、いたずらに日を送って、気がつくと、関東天台の総禄司に天海僧正を据えてからでも早三年余りの月日が経っていた。

ほとぼりも充分に冷めた頃である。


晩秋の江戸だった。

「光秀殿は息災だろうか?」

比叡山の山肌も、赤く色付いている事だろう。

光秀(天海)殿とは、関が原合戦以来の再会に成る。

天守からは、埋め立てさせた掘割(八丁堀)の先に海が臨める。

遥か武蔵野台地を掠めて富士を望む天守に立てば、茅原が茂る低湿地帯に平川の流れがあり、その河口は湾の入り江にいたって海に注いでいる。

江戸城近くまで海の入り江が迫って直ぐ眼下に見え、天守には潮の香りも漂っている。
家康は江戸川の湿地帯を埋め立て、陸地を作って城下とした。

これからは江戸の町も繁盛させなければならない。光秀の助言を心待ちにしていた。

今日は朝から落着かない家康で、時折気が付いて何度か苦笑をしていた。

想いを寄せる女子(おなご)に会う様な素振りで、とても家臣には見せられない図だ。

公にはしないものの、光秀を呼び寄せても遠慮する相手は既に何処にも居ない。

永く待たせたが、豊臣家を滅ぼして漸(ようや)く光秀殿を傍(そば)に寄せる時が来ていた。

家康は、まず川越中院の「豪海僧正」に命じて比叡山から天海僧正(光秀)を江戸近くの星野山喜多院の二十七代住職として入山させる。

その上で、天台宗の総禄司として格を上げ、「将軍目通り」をさせる事にした。

面倒だが、格付け次第で目通りを許すなど幕府の権威付けの形式も整いつつ在ったのだ。


天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイ創りで、言わば経歴詐称である。

実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台の本山としている。

その後は急ピッチに家康の信任をえて、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。

  千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し、十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。

豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海で在ったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。

しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。

天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。


六十九歳に成っていた徳川家康は、江戸城に「目通り」に来た光秀を見て、家康は驚いた。

光秀殿にしては「いかにも若い」

その若い光秀は、平伏して言った。

「家康様が驚くも無理なし。実は先代の光秀は関ヶ原の少し後に身まかり(亡くなり)申した。」

「真(まこと)か・・・・。」

絶句する家康に、若き僧侶は平伏したまま口上を続けた。

「先代の指示とは言え、永く成りすまして家康様を謀り居りました事を、おわび申し上げます。」

光秀は一度面(おもて)を上げ、また平伏した。

聞いていた家康は、目頭が熱くなった。

「何の、主は光秀殿に間違いは無い。二度に渡る大阪城攻めの、あの見事な知略は、正しく光秀殿じゃった。」

家康の声は、震えていた。止めようにも、熱いものが胸の内から湧き上がって来る。

感極まりながら、先代光秀との思い出が湧き上がる。

「そこ元、光春であろう、今日より秀忠の良き知恵袋に成ってくれ。」

「基より、先代光秀より左様に言い付かって居ります。」

「迂闊じゃった。光秀殿より便りの文があるので息災とばかり思って居ったが、そう言えば光秀殿はわしより十五歳も年上じゃった。」

「如何にも大御所様、叔父が生きて居ればとおに八十歳を越えまする。」

「そうよなぁ、わしも齢(よわい)七十に手が届く年じゃで、無理も無い話じゃ。しかし光秀殿が若返ったのなら、めでたい事じゃ。これで徳川の幕府も安泰じゃわ。」

「恐れ入ります。」

「そう申せば、半蔵が天海の声が若返ったと申していたが、すると大阪の役での進言は全て光春殿じゃったのか。何の疑念も無いほどに見事な進言じゃったぞ。」

「ハァハァ〜、恐れ入りました。」

この僅かな会話で、家康は、二代目光秀に全幅の信頼を置いた。

二代目光秀は僧籍に在って「天海」と法号を名乗る天台宗の僧侶となっていた。

そして天海(二代目光秀)は、二代将軍・秀忠の従兄弟だった。

そして継嗣と目される家光の側には、乳母・斉藤福(春日局)が居た。


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斉藤利三娘・福

◇◆◇◆◇◆◇◆◇斉藤利三娘・福◆◇◆◇◆◇◆◇◆

いきなりこう言う事を書くと「眉唾物」と思われそうだが、実は徳川家初期にまつわる未解決の謎、天海僧正、春日局、福井松平藩、水戸藩大日本史編纂は、遡って全ての始まりが二代将軍・徳川秀忠に辿り着くのである。

この突拍子もない徳川秀忠の説に、確証はない。

確証は無いが、この仮説に従えば全ての謎が符合して来る。

その未解決の謎については、これからこの物語で充分に解説して行く事になる。


この養子入れ替えを画策した織田信長の使いで光秀が家康を訪ねた時、一人の女性(にょしょう)を伴っていた。

「いかがでござろう。実はこの女性(にょしょう)を徳川殿に献じ様と帯同いたしてござるが。」

「はて、女性(にょしょう)でござるか?」

「ぁいや、怪しい者ではござらん。それがしの縁に繋がる故この度のお礼の印に徳川殿に献じて可愛がって頂こうかと。」

光忠を預けるに際して、この女性を「家康殿に仕えさせたい」と言う。

「そこな娘、名は何と申す?」

「お久し振りでございます。お会いするのは岐阜のお城以来で、家康様はお福をお忘れに成られましたか?」

応えられて家康がその女性(にょしょう)をマジマジ見ると、およそ十四〜五の年頃で、名を「お福」と名乗って確かに見覚えが在る。

面(おもて)、容姿共に中々の美形である。

「はて、岐阜でそなたに逢っているのか。」

「ほれ、濃姫(帰蝶)様のお端(おはし)を勤めていたお安(あん)の娘子でござるよ。」

と光秀は、お福が斉藤利三娘で母は稲葉一徹の娘「お安/あん」である事を家康に告げた。


そう言えば昔、濃姫(帰蝶)の傍近く、お端にこの娘に良く似た利発な娘が居たのを家康はうろ覚えに思い出した。

「おぉ、あのお安(あん)殿の娘子か、ならば母御とはわしが信長殿の所に居った頃に何度も逢って居る。母御は確か、わしと同じ齢頃じゃッた。」

「はぃ、父の斉藤利三は光秀様の従兄弟で、父は暫く、母の実家稲葉家(稲葉一徹)に仕えておりましたが、今は光秀様の家老を務めて居ります。」

月日が経つのは早いもので、濃姫(帰蝶)付きのお端(おはし・端女)「お安/あん」の娘が妙齢の女性(にょしょう)「お福」に成長していたのだ。

光秀は「家康殿のお側にお預けするからには、良しなに御寵愛の程を・・」と意味深な事を言う。

お福自身も「これよりはお側に仕えます故、何なりとお申し付けくださりませ」と、殊勝に挨拶をした。

それにしても男の性(さが)だから仕方が無いが、誰だってこう言う誘惑には弱いものである。

元々好色な家康である。これは、「結構な贈り物」と解釈した。

その夜、早速お福を「寝屋(ねや・寝所)」に招き入れると、これがどうして、家康を歓喜させるほどの床上手である。

お福は「歓喜法」を会得していたのだ。

暫くの間、家康の寵愛はお福に注がれる事になった。

「お福、そちのこの技何処(いずこ)で学んだ。」

 家康がお福に問うと、お福は「母様より伝授された」と答え、その言われを寝物語に話し始めた。

お福の母・お安(あん)は濃姫(斉藤帰蝶)の端女(はしため)として、七〜八歳の頃美濃より尾張に付けられて来た。

信長はお安(あん)が「帰蝶」の従妹に繋がると聞くと、面白がって毎夜「夫婦(めおと)の寝屋」の殿居(とのい)をさせた。

自分達の痴態を、幼いお安(あん)に見せ付ける為である。

「お安(あん)、よ〜ぉ見て置け夫婦の交わりとはこの様にするものぞ」

幼いお安(あん)は、「帰蝶」が道三に貰った護身用の短刀一振りをしっかりと握り締め、それを見ていた。

これは、寝屋(寝所)の道具立てとしては中々の趣向で、若い夫婦は燃え上がった。
基より既成概念に囚われない信長の真骨頂で、「帰蝶」にあらゆる試みをさせるから、見守る幼いお安(あん)も自然に多くの技を知る事になった。
しかも「帰蝶」は「修験歓喜法」の名手だった。

信長は日頃からお安(あん)の事を「帰蝶」の妹代わりに可愛いがり、教養の為に習い事をさせるにも熱心だった。

寝屋の殿居は、常々「いずれお安(あん)の為に役立つ」と言っていたが、今それが娘のお福で役に立っていた。

今は小姓の「森乱丸」が、お安(あん)の後の「そのお役目を務めている」と言う。

その後稲葉一徹の娘お安(あん)は斉藤利三の下に嫁してお福を儲け、お福は信長のお端に上って信長に姪同然の扱いの下で育った。

つまり信長は、幼い頃から手塩にかけて育てた大事な女性(にょしょう)の娘を、こ度の家康の誠意に対する答礼に贈ったのである。


暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福だったが、やがて転機が訪れる。

家康が関ヶ原の戦いに勝利し、天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃には、お福の運命が変わる事になる。

家康の勧めで嫁ぐ事に成ったのだ。

相手は、林正成(はやしまさなり)と言う武将で、実は浪人していたのだが家康がある事で恩義を感じ、その身の振り方を心に止めていた男だった。

この話の続きは、「関ヶ原の戦い」の後に段々にして行く事にする。


流石、信長が同盟相手に見込んだ家康で、頭の回転も人を見る目もある。

明智光忠を三男・徳川秀忠として迎え入れた家康は感心した。

無理に押し込まれはしたが、我が子と比べ、聡明な秀忠(光忠)に惚れ込んでしまった。

それに、秀忠(光忠)が徳川家の世継ぎである限り、内密に明智家の協力も得られる。

「おぅおぅ、中々の若者じゃ。」と、家康は目を細めた。

息子として手元に置けば、情も湧く。

その子が利発な上に、いじらしいほど家康思いに接して来る。

何よりも、秀忠の心構えが違っていて、光秀に諭されての姿勢だったのだろうが彼は徳川の家大事を全てに優先した。

そうとなれば、家康に選択の余地はない。

何かにつけ、「秀忠、秀忠。」と可愛がった。

家康は信長の死後もこの秘密の養子を可愛がり、秀忠を名乗らせ、公称十四才で元服させて徳川家の世継ぎとした。本物の長松は、松平忠吉である。

次ぎに信長が目論だのは、家康二男・秀康(後の結城秀康・越前藩松平家の祖)を、秀吉の養子にする事である。

これは信長の生前は実現しなかった。

しかし信長亡き後、信長の意志を聞いていた秀吉が、その深い目的は知らぬままに、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い後の対徳川家との講和に「信長の遺命」として実現した。

この時点では秀吉に実子はなく、豊臣家も養子取りで秀吉の後継者に徳川の血が入る。

秀吉も、天下を掌握しつつあったが、実力者の徳川家の処遇には気を使った。

それで、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、徳川家の二男・秀康を身内に引き入れる算段を信長の発案に求めたのだ。

家康の跡取りは「光秀親代わりの従弟」、秀吉には「家康の子」、光秀には、何れかの時に「自分の孫」辺りを、跡取りに押し込む腹積もりで、いたのかもしれない。

つまり、信長は有力な配下の血筋をそれぞれ入れ替える事で血統の継続を断ち、古来の常識である「血筋主義そのものを破壊しょう」としていたのだ。

これも、「皇統の万世一系への挑戦」と言う側面を持っていたのだが、そこまでの事は秀吉の知る由もない。


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越前福井藩(越前松平氏)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇越前福井藩(越前松平氏)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

日本人は、「突出する者を認めない」と言う長年培われた「横並びの感覚の慣習」の暗黙の結束の中で生きて来た。

そう、織田信長が破壊神となって生涯を掛けて挑戦した戦いの原動力が、幼少時から憎み続けた「暗黙の結束」と言うこの国独特の「横並び感覚」である。

天才織田信長は、その「出る杭は打たれる」式の暗黙の結束を憎むと同時に、常人では思いつかない「正体」を知っていて破壊を試みたので有る。

徳川家康(とくがわいえやす)二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出され、関東八家として鎌倉以来の名門・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この謎解きは家康出自「双子竹千代」の章で解き明かしている。

ちなみに、秀吉の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は家康二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽(徳川御三卿・田安家からの養子ではあるが、藩の血統としては秀康の子孫)へと続いて行くのである。

結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光忠であれば判り易い松平と徳川の家名の使い分けの読み方がある。
家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に行った。

それが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き、その後、徳川家康が征夷大将軍として天下の実験を握ると、加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平氏)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だから、それなりの処遇は当然で、「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

所が、秀康の嫡男で二代藩主・松平忠直の代になると、大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで忠直は不満を募らせる。

家康二男の大名家、将軍・秀忠の兄を祖とする親藩が余り大きくなるのは幕府にとっては不安要因で好ましくない。

しかし、そうした幕府の事情など、忠直は知った事ではなかった。

やがて忠直は乱行問題行動を起こし、千六百二十三年(元和九)年、豊後(大分県)に配流になってしまう。

越前福井藩(越前松平氏)の知行も五十万石に減らされ、秀康の子で忠直の弟「忠昌」が越後高田から転封して越前福井藩主(越前松平藩)を名乗る。

以後減らされ続けて一時は二十五万石と三分の一近くまで減り、結局最後は三十二万石と盛時の半分以下のままで終わった。

厳密に言うと、松平春嶽はこの「秀康の子で忠直の弟・忠昌」の末裔にあたる越前福井藩主(越前松平藩)である。

加賀藩(前田百十九万石)、薩摩藩(島津七十五万石)、仙台藩(伊達六十二万石)や、後に誕生する御三家・御三卿が江戸期を通して安泰なのに比べると、不思議に奇妙な扱いである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけだった。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまり、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に松平(結城)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。

或るいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

公式記録では、二代将軍・徳川秀忠は徳川家康の三男として遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局(おおばのつぼね)によって養育された事に成っている。

二代将軍・徳川秀忠の母は家康側室の西郷局(お愛の方)、実家の西郷氏は九州の名家・菊池氏一族で三河国へ移住した者の末裔と伝えられ、室町初期には三河守護代をつとめた事もある三河の有力な国人武家であった。

秀忠は長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹して死亡、庶兄(家康次男)の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇され、十四歳で中納言に任官し「江戸中納言」と呼ばれる。

この三河国人・西郷氏の九州本家の末裔が、遥か後世の明治維新で活躍した西郷吉之助隆盛である。

秀忠の同母弟とされる家康の四男・松平忠吉が、実は側室の西郷局が産んだ家康の三男で、三男とされたのが入れ替わった明智光忠と言う図式である。

家康四男とされる松平忠吉(まつだいらただよし)は、関が原の初陣に於いて島津豊久を討ち取った功により戦後、尾張国清洲に五十二万石を与えられたが、悪性の腫れ物に冒され享年二十八歳で死去している。

勿論、「母親が三河の名家であるから後を継がせる」は口実で、織田信長の嫡男入れ替え策の結果であるが、いずれにしても豊臣秀吉は、家康の三男・秀忠が明智光忠と入れ替わったなどとはつゆ知らない。

それで秀吉成りの閨閥計画を実行している。

徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。

その後継室として迎えたのが、浅井長政・三女「お江(おごう)もしくは於江与」だった。


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春日局・お福

◇◆◇◆◇◆◇◆◇春日局・お福◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて、家康の側女に上がった「お福」のその後であるが、家康が関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃に、暫(しば)らく家康の寵愛を得ていた。

そのお福にやがて転機が訪れ、家康の勧めで林正成(はやしまさなり)と言う武将に嫁ぐ事に成った。

この婚儀で、お福の運命が大きく変わる事になる。

相手の林正成(はやしまさなり)と言う武将は、実は浪人していたのだが家康がある事で恩義を感じ心に止めていた男だった。

そのある事とは、林正成(はやしまさなり)が、関ヶ原の戦いの折に平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に影で大きく貢献した男である。

その功労者・林正成(はやしまさなり)が、小早川氏が幕府に処分され主家が断絶すると、浪人となって不遇を囲っていた。

義に厚い家康は、その林正成の身の振り方を考えていたのだ。

織田信長の直臣だった美濃国・国人領主・稲葉一鉄と徳川家康には、姉川の合戦以来の親交があり、家康の意向もあって「お福」は叔父にあたる美濃国の稲葉重通の養女となる。

このお福の稲葉家養女は林正成(はやしまさなり)を引き立てる手の込んだ複線で、養女と成ったお福が正成(まさなり)を稲葉家の婿に迎える。

お福の実家・斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁があり、斎藤利三の後室は稲葉一鉄の娘・お安(あん)で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘のお福(春日局)らを産んだ。

お福(春日局)は斉藤利三とその後室・稲葉安(あん)との間に出来た娘である。

明智光秀の従兄弟で家老・斉藤利三は一時稲葉家の家臣に成っていた事が在り、稲葉(一鉄)良通と父・斉藤利三の代で喧嘩別れしていたのだが、稲葉家の当主・稲葉貞通は家康の依頼を受け入れて林正成(はやしまさなり)の大名家を稲葉姓で起こす手助けをした事になる。

勿論、時の最高権力者・徳川家康のお声掛かりで、林正成(はやしまさなり)が従姉妹の「斉藤お福」と結婚して稲葉の「分家を起こす」と言う手順を踏んだからである。

林正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ小とは言え大名に列した。


天下の秀才・明智光秀の有力な家老格に、従兄弟とも異腹の兄弟とも伝えられる斉藤利三と言う男が居た。

斉藤利三が腹違いの兄弟なら、その利三の娘「お福」は光秀の姪に当たる。

そう、光秀が信長の命をうけて家康に献上したあの「お福」である。

その「お福/(斉藤福)」が、何時の間にか将軍家お世継ぎである「家光」の乳母に納まっていた。

何の脈略も無い者が、将軍家お世継ぎの乳母に偶然はありえない。

「隠された強力な縁故が、有ったに違いない。」と、そう勘繰られても、仕方がない歴史的事実である。

このお福が、後に大奥で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)である。


春日局の呼び名の謂れで有るが、明智光秀は織田信長の命で丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・後の春日・現丹波市春日町)の黒井城を落城させ、一時守城役に懐刀といわれた斉藤利三を配した。

お福の父親が「初めて城持ちとなった謂れのある土地」と言う訳で、出自を少しでも良く見せる為に、朝廷に「丹波国春日・黒井城主娘」と 届け出た事から、「従三位春日局」を朝廷から授かった。

その、「丹波国春日黒井城主・斉藤利三の娘」が、お福(後の春日局)生誕の地と曲解された様である。


こうした筋書きからすると、二代将軍・秀忠(光忠)、天海(光春)僧正、春日局(お福)は、従弟(従妹)または股従兄弟関係同士と言う事になり、上手く行くのは当たり前である。

お福は、家康の命により美濃の稲葉重通の養女と成り、林正成(はやしまさなり)を稲葉家の婿に迎え二人の男子を設けていたが、一族再興と子供の出世を願って、夫の稲葉正成と離婚までして家光の乳母「春日の局」になった。


二代将軍・徳川秀忠は、当初長男・徳川家光ではなく二男・徳川忠長を三代将軍に据えようとしたが、春日局(お福)と天海僧正の尽力により、駿河に隠居していた大御所・初代徳川家康に春日局(お福)が直訴、家康は早速二代将軍・徳川秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。

家光を「将軍」に押し立てたとして、春日局は大奥にあって絶大な権勢を誇るようになる。

息子の稲葉正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

それだけではない。

この春日の局(つぼね)の実の息子・稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。

言わばこの淀藩・稲葉家は、「山城国(現在の京都府南部にあたる)」と言う日本の政治的に最も重要な地域の幕府の押さえである。

そうした稲葉家の封領配置からして、単に春日の局(つぼね)の息子と言うだけではなく、非公式ながら「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられ、これこそ、実は徳川政権内部が「明智の血縁に乗っ取られた」と言う一連の証拠である。


そして大きな謎なのだが、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、故に徳川家光が「家康と春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

そこで問題なのは、三代将軍・家光が二世と数えるのであれば二代将軍・徳川秀忠の存在は飛ばされている事になり、つまり秀忠が養子で正体が「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

そしてこの事が事実であれば、春日局が駿府まで出向いて家康に家光を将軍に推させた事に納得が行き、徳川家光と徳川忠長(とくがわただなが)は将軍世襲で微妙な状態にあり、保科正之(ほしなまさゆき)だけが二代将軍・秀忠の実子と言う事かも知れない。


安土桃山時代から江戸時代初期に跨るミステリーの一つに明智光秀=天海僧正説が在る。

天海、光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり、また正解でない。

天海僧正には謎が多く、徳川家康が天下を取り息子の徳川秀忠が二代将軍に任じた頃、突然の家康の引きで歴史の表舞台に躍り出た。

そして天海は、幕府に対する大きな影響力を持ちながら三代将軍・徳川家光の代まで、なんと百八歳とも百三十五歳とも言われる生涯を生きた。

それにしても、明智光秀=天海僧正説では百歳を遥かに越える長寿はとても説明出来ない。

もし光秀が天海で在ったなら、家康より十歳も年上の光秀が徳川家三代に渡って仕え、「百八歳とも百三十五歳とも生きた」とされるカラクリが必ず在る筈である。

そこで将軍家の相談役を任じた大僧正・天海の素性が何者だったのかを検証すると、確かに明智光秀と光秀の年下の従兄弟・明智光春と言う二人の人物に行き当たる多くの事実が存在した。

天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話があり、千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。

天海僧正の別名「慈目大師(じがんだいし)」の由来ともなったのが、この千里眼である。

天海は、ほとんど川越大師・喜多院(埼玉県川越市にある天台宗の寺院)に寺領四万八千坪及び五百石を徳川家から拝領して住んでいたが、江戸城中で起こった事や徳川家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。

時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。

読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、光秀の専門分野である諜報手足として伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下や妻木勘解由(つまきかでの)の諜報組織を操れるからこその能力では無いだろうか?

天海僧正が明智光秀ならば、光秀は妻・妻木(勘解由/かでの)煕子(ひろこ)の縁もあり、織田信長家の諜報組織の全てを受け持っていた今で言う情報局長官みたいな立場だった経歴の持ち主で、天海僧正の「千里眼」は容易に納得でき、不思議な事ではない。

その光秀の諜報組織を、光春(二代目・光秀)が「ソックリ受け継いで居た」とすれば千里眼など造作もない。

伝わる奇跡の正体は大方そんなものであるが、正体を知らなければ恐ろしい能力を持つ「大師・大僧正」と畏怖され信仰されるようになる。

そしてこれも明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件なのだが、光秀が「匿まわれていた」とされる比叡山松禅寺には、光秀没後三十三年目の年に「願主・光秀」つまり「光秀が寄進した」と彫りこんである石灯籠が存在する。

また、大阪岸和田に「本徳寺」がある。

この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて肖像画も残されているのである。


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天海僧正

◇◆◇◆◇◆◇◆◇天海僧正◆◇◆◇◆◇◆◇◆

江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。

門の瓦に、江戸城の最初の設置者とされる太田道灌(おおたどいかん)の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。

御存知のごとく、桔梗の家紋こそ明智家の紋であり、桔梗門は、江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され、幕府の要職者が登下城する門だった。

つまり天海僧正は登城下城にこの桔梗門を利用していた事になり、門の前には桔梗門橋が架かっていて門前の掘割は桔梗濠(ききようぼり)と呼ばれている。

天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。


天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。

それらは、おびただしい光秀の亡霊の一つだが、今となっては生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは特定できない。

しかしながら、天才・織田信長に挑み続けた、天下の秀才がいた事は事実である。

これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが、浮かんで来る。

大逆転である。
天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事になるのかも知れ無い。

徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば、至極判り易い話なのである。

天海僧正=明智光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。

 天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。

天海は、家康、秀忠、家光の徳川家の将軍三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。

いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。

しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。

我輩が思うに、二人分の生涯が「ダブって計算された」と見るのが妥当である。

そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。

この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。

徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。

天海僧正が明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。

それを、親代わりの天下の秀才・明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。

この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。


天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイつくりで、言わば経歴詐称である。

実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺・北院の再建に着手し寺号を喜多院と改めて関東天台宗の本山としている。

その後は急ピッチに家康の信任を得て、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。

  千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し 十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。


豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海であったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。

しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。

天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。

徳川家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目天海に、天台宗・喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

二代目天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名するのだが、天海が明智に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の伊賀超えの家康逃避行が「茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など徳川家が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に栃木県・日光の地に残っている。

そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山したもので、その後源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。

千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗・天海僧正によって日光に改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も風水上の江戸の要であると同時に、その建設にはいざ徳川家江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

東照宮は、徳川幕府にとって誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の木造り像の武士の紋は、明智家の家紋「桔梗紋」であり、近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。

この事は、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない。


天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。

その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神であるり、それに準じる様に東を照らすと来て「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)であり、つまり日光東照廟が正しい。

それは、他の実在する人物の神社も同様である。

独自文化と言えばそれまでだが、都合により核心部分を曖昧にするのは日本列島の専売特許みたいなものである。


江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠は、相談相手として天海僧正を江戸に置く為に、上野山に寺を造営する。

東の比叡山の意味で、「天台宗関東総本山・東叡山(とうえいざん)寛永寺」と言う。

寛永寺の開基(創立者)は第三代将軍・徳川家光、開山(初代住職)は天海僧正、徳川将軍家の菩提寺でもあり徳川歴代将軍十五代の内六人が眠っている。

風水学に長じた天海の助言で、徳川と江戸の守りの位置に、「寛永寺」は在る。

また、日光東照宮の造営に先駆けてテスト造営され、「家康が寄進した」とされる秩父神社の社殿と言うのが今に残されている。

この秩父神社・本殿の、東照宮に負けない豪華な極彩色の彫刻の中に、何故か「桔梗紋」を着けた僧侶の姿が掘り込まれている。

秩父神社の創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命(県主)が先祖の八意思兼命を祭った。

秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて、実は関東妙見信仰の中心的役わりを担っていた。

その格式高い秩父神社に、天海僧正が東照宮建造の予行演習的社殿を家康の為に造営している処からも、家康と天海の宗教的DNAが密かに山岳(山伏)信仰にある事が推測される。

家康が漢方に通じていた所も、陰陽師(修験山伏)の出自(子孫)らしいではないか。
秩父神社の近くにも、慈目寺や明智寺が存在する。

これは多くの謎である。

「明智平」の命名と言い、天海が明智に関わりがあり、しかも秀忠が日光陽明門の「桔梗紋」を容認している所が、明智光秀=天海僧正説の重要な要件として一つの検証になるのかも知れない」と、今日の歴史好き達の想像意欲を掻き立てるのだ。

あくまでも推論に過ぎないが、天海僧正の登場にしても春日局の登場にしても、徳川幕府成立後に為された諸般の繋がりが、どう見ても二代将軍・秀忠の本当の出自を疑える情況だった。

それとも世間は、これらの明智に繋がる色濃い疑惑を「ただの偶然だ」と言うのだろうか?

こう言う歴史の謎は、例え突拍子も無いものでも可能性が出て来た以上それを否定する確実な証拠が出て来なければその謎は現に存在し、それを常識と言う名の想像だけで否定する事は出来ない。


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稲葉正成

◇◆◇◆◇◆◇◆◇稲葉正成◆◇◆◇◆◇◆◇◆

お福が江戸城大奥総取締り・春日局(かすがのつぼね)に収まる過程を整理するには稲葉正成(いなばまさなり/林正成)との結婚がひとつの鍵になる。

林政秀(美濃十七条城主)の子、林正成(はやしまさなり)は、戦国時代〜江戸時代の武将で、はじめ豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣となり、秀秋を補佐した。

千六百年の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した。

しかし、千六百二年、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると、林正成(はやしまさなり)は浪人となって不遇を囲っていた。

その林正成(はやしまさなり)の境遇に心を痛めていた徳川家康は、関が原で大勝し徳川の天下が固まると、斎藤利三の娘お福は家康の勧めで林正成(はやしまさなり)の下に嫁に行く事になる。

それも手の込んだ事で、お福は、彼女の母の実家・美濃の稲葉重通の養女となって、正成を稲葉家の婿に迎える。

美濃国の稲葉氏と林氏は元々同族で、伊予国(愛媛県)の河野水軍の一族である。

 河野水軍は源平合戦に於いては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。

鎌倉幕府の御家人に列するも、承久の乱の時反幕府側の後鳥羽上皇に味方した為に一時的に衰退し、その後の南北朝時代には九州の南朝勢力であった懐良親王(かねなが)に従い南朝に属したが、幕府に帰服している。

林正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、後に家康に召し出されて以後は徳川氏の家臣として仕える。

稲葉正成(いなばまさなり)は、家康の命により、千六百七年に旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名に列した。

稲葉家が大名に列した手順を踏み、お福の方は、一万石の小領主の妻の立場で推されて三代将軍家光の乳母となり、「春日の局」と呼ばれて大奥はおろか、幕政にも影響を与え得る立場に昇格する。

余りにも出来過ぎた話で、これは間違い無く家康に引かれたレールの上を乗って行った結果としか考えられず、正成とお福に対する家康流の処遇だった。

さらにこの一連の動きは、当然のごとく二代将軍・秀忠、天海僧正の言わば明智閥(あけちばつ)形成への画策の要素も多分に在った。

お福(春日局)には稲葉正成との間に正勝、正利の二男が在ったが、彼女(春日局)が正成と離婚した形を取り、三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

この時の小田原藩領は相模の足柄上、足柄下、淘綾(ゆるぎ)、大住、三浦郡で、約五万石、駿河の駿東郡一万三千石、伊豆の賀茂郡三千石、下野芳賀郡に二万一千石、常陸新治郡五千石、武蔵豊島郡、新座郡に二千石、などであった。

しかし、翌年に三十八歳で死去した時嫡子の正則はわずか十一歳だったが、春日局の計らいで、特例の斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。

稲葉家を相続した正則は四歳で、生母に死別した為にお福(春日局)に育てられたので、孫と言うよりは実子も同然で、家光にも可愛がられ四代将軍家綱には老中として仕え、千六百八十年には十一万石の増石を見、都合十九万五千石まで膨れ上がった。

三代将軍家光の乳母、大奥総取り締まり「春日局」の子であるから、子供の稲葉正勝が家光の小姓に登用され、三代将軍・家光の代に老中に登用されても不思議ではない。

しかし、一時期家康の寵愛を受けたお福(春日局)である。

穿(うが)った考えだが、林(稲葉)正成と婚儀を結びし時、既に「お福(春日局)の胎が膨らんでいた」と言う事なら、稲葉正勝は徳川家康のご落胤である。

親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されてもそれこそ違和感が無い。

三代続いた稲葉小田原藩は、稲葉正通(まさみち・正往)の代も京都所司代の幕職を務めた。

正通(まさみち)は、その後政争に敗れて越後高田領に移されが、後に復活して下総佐倉を領し父の正則同様に老中職を勤めている。

この末裔が淀藩稲葉家で、幕府内では代々京都所司代や老中職と言った要職を歴任している。

遥か後の事だが、幕末時の藩主・稲葉正邦(いなばまさくに)は、山城国に移封された淀藩稲葉家十二代目当主であり、最後の藩主であるが、稲葉正誼の元へ養子入りした。

正邦(まさくに)は、二本松藩主丹羽長富の次男で、幕府内では京都所司代・老中職も務めたが、譜代の城代家老田辺家などの藩重役首脳部とはうまく行かず、京都朝廷と譜代重臣達との「賀茂の錫杖密約」の成立により勝手に朝廷に恭順されてしまう。

この時、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた稲葉正邦は、自らの藩が「自らの決定無くして幕府に反旗を翻す」と言う事態に遭遇、結局淀へ退去する事となる。

稲葉家はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦は子爵に叙任され、千八百八十五年には神道本局(神道大教・しんとうたいきょう)初代管長となっている。

注意して置きたいが、本書でも便宜的に使用している「藩(はん)」と言う呼称は実は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。


稲葉家の事もそうだが、細かく調べて行くと「明智光秀、そして光春が天海僧正ではないか」と言う前提がないと、説明し難い事例はまだ有る。

記述した光秀所縁(みつひでゆかり)の豪族・妻木家や遠山家に対する徳川家の処置も不可思議で、この事も、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない事実である。


漸く天下を手中にした徳川家にして見れば、唯でさえ強固な幕藩体制を固めたい時である。

家康に従って天下取りに貢献した直参旗本でさえ数千石の知行がやっとなのに、徳川家・直臣でもない直ぐにひねり潰せそうな地方郷士の妻木家や遠山家が、何故か大名格領主として生き残った。

明智光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。

この妻木家は明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。

「交代寄合」格・旗本扱いの優遇を得た背景理由が、秀忠(光忠)・天海・春日局トリオの身内ならではの計らいに拠るもので、光秀・天海説の密かな符合なのではないだろうか?

徳川幕府成立後の処置として普通に考えれば、両家共に名門ではあるが幕閣に在って潰すに惜しいほどの大名跡家(大名門)でも、この先大いに役に立つ家でもない。

その程度の小領主が、大名並と言う破格の扱いを受けている。

徳川家の幕府開府に大きく手柄が在ったなら大名に成っていた訳で、それも無い一万石以下の小領主が大身の外様旗本並待遇それ自体が特例であり、その特例の上に大名の格式を与えている。

そうなると、「何か血縁並の縁が密かに存在した」と考えないとまったく説明が着かないのだ。

この例外の「交代寄合格(大名格)」、他にもあるが全国で僅(わずか)二十家に満たず、二〜三千石程度が多数である。

つまりこの光秀所縁(みつひでゆかり)の両家に対する徳川家の配慮の裏に「何かある」と考えるのは疑い過ぎだろうか?


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三代将軍・家光

◇◆◇◆◇◆◇◆◇三代将軍・家光◆◇◆◇◆◇◆◇◆

いずれにしても、秀忠と天海僧正、春日の局は、仲良し従兄弟妹トリオだった。

唯一度、この三人が思惑の違いから三代将軍の世継(よつぎ)問題で意見が分かれる。


基より、家康に恩義を感じ徳川に血筋を戻すつもりの秀忠は、家康の実子・忠長を三代目にする積りでいた。

そして秀忠は、日頃から何かとそのそぶりを見せていた。

それに危機感を抱いたお福が、天海に相談を持ちかける。

「天海殿、どうやら秀忠様は忠長殿に将軍職をお譲りの意志と見えまする。」

「それはまずい手本になる。それを成せば筋違いで、昔の親兄弟の争いの時代に戻ってしまう。」

天海の意見は、血筋論では無く政権を維持担当する為の「筋論」で、公式の嫡男が廃嫡になれば、悪しき事例が出来、世が乱れる基である。

天下を治める徳川家は、あくまでも世に「規範」を見せねば成らない。

そこで、当時既に駿府(静岡市)に隠居していた大御所「家康」に、天海の書状を持参した春日の局が、出向いて直訴に及ぶ。

家康は秀忠を隠れ養子に受け入れた時から、とっくに血筋に拘(こだわる)ってはいない。

書状を読んだ家康は「天海の言い分もっともである。秀忠の予を思う心情は察するが、此度は天海の言い分を取ろうぞ。」と、結論は直ぐに出た。

 「お福(春日局)殿は何もかも承知じゃでな、仰(おお)せの通りに言う事を聞かんと恐ろしゅうわ。」

家康は上機嫌で、冗談を言った。

「まぁ、何を仰(おっしゃ)ります大御所様。」

「何の!何の!所で、正勝(稲葉)は元気か?」

「正勝(稲葉)殿は御聡明で、心身健(すこ)やかに育ちましてござりまする。」

「頂上至極じゃ。秀忠に申し付けて、いずれは正勝(稲葉)殿も城持ちにするでな。」
「それは有難うございまする。秀忠様もお喜びに成ります。」

「正勝(稲葉)は、家光の良い相談相手に成ろうぞ。」

「流石に大御所様、先の読みは相変わらずでございます。」

「明智(初代・天海)殿の仕込みじゃでな。しかし、お福(春日局)とも永い年月じゃ・・・」

「大御所様とのお引き合わせも、光秀様でした。」

「お福(春日局)、結局天下を取ったのは明智殿かも知れぬのぅ。信長殿の血筋の破壊の目論見、ものの見事に利用しおった。」


家康は、しみじみとした口調で在りし日の光秀の顔を思い浮かべた。

「ほんに、光秀様らしい知略でございますね。」

春日局も、同様の思いに駆られていた。

将軍家は、嫡男世襲の範を示さねばならない。

「平手の爺、鳥居の爺、数多(あまた)の者の命と引き換えに平定した天下じゃ、血筋に溺れるは乱を招く。」

家康は、来し方を懐かしんで感慨に胸を熱くしていた。

二代将軍・徳川秀忠は、密かに信長様の置き土産だった。

信長在っての今日の自分で、信長様が「血統に拘るな」と言うのならその意志を守らねば成らない。

「どれ、秀忠には予が直接言い渡すとしょうぞ。誰かあるか、江戸に文をしたためる故支度をせい。」

女中が一人フッ飛んで来て、慌だしく支度を始めた。


家康は早速秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。

秀忠は、感激の涙ながらに平伏した。

言葉こそ少ないが、義父の心情に感極まったのである。

家康が、秀忠(光忠)に耳打ちしたには、「我が志、叶えしは光秀なり、我が志、継ぐはそなたの子・家光なり。」だった。

家康はその人物を見抜き、家光に将来を託したのだ。

この時家康にはふたつの判断材料があった。

単純な話、流れに逆らうと大混乱する「既成事実」が、体制として既に成立していた。
この体制は、徳川幕府成立に腐心した光秀の十重二十重の知略によって構築されたもので、大御所・家康と言へどもこれを犯す事は出来なかった。

秀吉が亡き信長の意思に逆らい結城秀康を跡取りにせず、跡継ぎを実子の秀頼に固執した事で豊臣家が滅ぶのを目の当たりに学習した。

もし、結城秀康(家康次男)を跡継ぎにしたら、少なくとも豊臣の家名が残ったかも知れない。

信長の知略は、深く根付いて居たのだ。

この一件を経て、三代将軍・家光が誕生する。

大御所・家康に直談判し、「三代将軍・家光を決定付けた」として家光乳母から大奥総取締と成った春日局の権勢は絶大なものとなった。

この、世継ぎに血統を拘らない家康の考え方には、双子の影として家臣の家の養子として育った自分の出生に関わる秘密が在ったからだった。

江戸幕府・二代将軍・徳川秀忠は、当初長男・徳川家光ではなく・二男・徳川忠長を三代将軍に据えようとしたが、春日局(お福)と天海僧正の尽力により、駿河に隠居していた大御所・初代徳川家康に春日局(お福)が直訴、家康は早速二代将軍・徳川秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。

家光を「将軍」に押し立てたとして、春日局は大奥にあって絶大な権勢を誇るようになるのだが、こうした隠れた事情が、家康が他界し名実伴に三代将軍・家光の代になると噴出して来る。


二代将軍・徳川秀忠(光忠)の息子三兄弟のうち将軍職についた家光以外の二人兄弟の明暗である。

まず「保科正之」であるが、秀忠(光忠)の庶子と言う事になっている。

確かに正妻の子ではないが、紛れも無く三代将軍を継ぐ家光の兄弟である。

それを二代将軍・秀忠(光忠)は、家康と二男・徳川忠長に遠慮して信州高遠の保科家に養子に出す。

本来ならその「保科正之」は信州高遠で、小大名で終わる筈だった。

それが家康死後、そして秀忠(光忠)没後、三代将軍・家光(保科の異腹兄弟)の引き立で徐々に出世を始め、最上山形城主を経て合津松平藩の初代に落ち着く。

落ち着いたのが合津四群、二十四万石の太守で、どう見ても、兄弟愛が見て取れる。
保科正之は、家光没後四代将軍家綱の叔父としてこれを補佐し徳川政権の安定に尽くした。

余談だが、明治維新前の動乱の京都守護が養子では在るがこの保科正之の子孫、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)である。

世間では「幕末の新撰組の雇い主」と言う方が、判り易い。

保科正之の徳川本家大事の存在が、遠く二百数十年後の会津、飯盛山の白虎隊の悲劇に通じているのだ。
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沼田土岐家(ぬまたときけ)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇沼田土岐家(ぬまたときけ)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智氏(あけちし)は、清和源氏流・摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族で、南北朝時代の美濃国守護・土岐頼貞(土岐氏としての美濃国守護初代)の九男・土岐九郎頼基の子・明地彦九郎頼重の後裔とされる。

発祥地は現在の恵那郡明智町だが土岐宗家五代・土岐頼遠の岐阜長森移転に伴い、明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。

室町時代、明智氏は足利幕府に直接仕える奉公衆を務め、代々可児郡長山の明智城に拠ったとされており、戦国時代には明智光秀(あけちみつひで)が出た事で著名となる。


本能寺の変で主家・織田信長を死に至らしめ、羽柴秀吉との山崎の戦いで滅んだ明智氏だが、江戸時代に沼田藩主となった土岐家は自称・明智氏の流れである。

上野国(群馬県)沼田藩主土岐家の祖・土岐定政(ときさだまさ)は、安土桃山時代の武将だった。

父は土岐頼芸の臣・土岐明智定明、母は三河国・菅沼氏の娘と伝えられる。


定政(さだまさ)は美濃多芸郡に住したが、千五百五十二年(天文二十一年)土岐氏主流滅亡の際、父・明智定明が戦死した。

為に二歳で母方の実家を頼って三河に移り外祖父・菅沼定仙(すがぬまさだのり)に養われて成長した後、駿河から戻った徳川家康に仕えた。

この仕官にあたり、明智光秀と同族である事を憚(はばか)って、養家の菅沼を名乗り菅沼藤蔵と称したとされる。

以後、菅沼藤蔵は徳川軍に在り、小牧・長久手の戦いや小田原征伐でも軍功を挙げ、後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に一万石を与えられた。

菅沼藤蔵(菅沼定仙)は歴戦の勇士として名を成したが「性質は粗暴で在った」と伝えられている。


千五百九十年(天正十八年)、豊臣秀吉の裁量で家康の関東入部が決まり、徳川家の石高が大きく増える。

その際に菅沼藤蔵は下総相馬郡に一万石を給され、三年後の千五百九十三年(文禄二年)に家康の命で本姓である土岐氏に復し土岐定政(ときさだまさ)とした。

その沼田藩主・土岐家(ときけ)は、明智氏の流れで在りながらお家安泰で、徳川親藩として各地の藩主や大坂城代などを歴任している。


土岐頼殷(ときよりたか)は、出羽・上山藩(かみのやまはん/二万五千石)の第二代藩主で、後に越前野岡藩を経て、駿河田中藩(三万五千石)の初代藩主となった。

老中であった土岐頼稔(ときよりとし)の代に、駿河国田中藩から上野国沼田に三万五千石で入部、幕末まで定着して明治維新を迎えている。

そして徳川幕府成立以来、沼田土岐家(ときけ)は、移封される領国の所在地はともかく江戸に詰めて幕府官僚としての役職を歴任している。

この明智流土岐家への徳川親藩扱いに、初期徳川幕府の体制を固めた「徳川秀忠、天海僧正、春日局(斉藤福)トリオの意向が働いた」と推測するのは無理筋だろうか?

そしてその沼田土岐家(ときけ)の処遇を、「大御所・徳川家康も容認した」とすれば、それ相応の隠れた意味があるのかも知れない。


確かに沼田・土岐家(ときけ)は三河以来の家臣であるが、それを言うなら土岐家(ときけ)以上に貢献し家臣と比較しても最初から一万石は厚遇である。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居た。

天下を取った家康がその安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられている。

いずれも、本来ならもっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事との比較である。


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徳川忠長

◇◆◇◆◇◆◇◆◇徳川忠長◆◇◆◇◆◇◆◇◆

一方三代将軍になり損ねた徳川忠長は、実は秀忠の子ではない。

秀忠とお江(おごう)の二男と言う事に成っているが、秀忠が血筋を戻そうと、家康から貰い受けた子だ。

当初秀忠は、家康の恩義に報いる為に甲斐の国甲府に二十三万石、ついで二万石加増して二十五万石、駿河・府中藩を加えて五十五万石の太守にするが、本人は満足しない。

「本来なら、予が将軍である。おのれ、家光め。」

荒れて駿府の居城で刀を振り回し腰元を殺傷に及ぶなど粗暴な振る舞いも多々あり、二代将軍・秀忠もかばい切れず終(つ)いに忠長に甲府蟄居を申し渡す。

翌年秀忠が没すると、三代・家光は忠長に上州高崎藩の安藤重長にお預けを命じた。

忠長は幽閉された後、高崎で自刃している。

忠長には、自分が将軍に成れなかった事に、不満と、「それなりの言い分があった。」とは考えられないか。


天海僧正(明智光秀)の尽力で、天下を我が物にした徳川家康は、漢方を自ら調合するほど身体に気を使い、史上稀に見る性豪・艶福家としても知られている。

家康は、神(東照神君)に成る為に老いてなお性交に励み、相手をした女性(にょしょう)数知れず、多くの子を為し、親藩、譜代、外様、の別なく婿、嫁に出して、各地の大名と血縁関係を築き、藩幕体制を確立した。

この手法、遠い過去に須佐王(スサノオウ)が八人の子を為し、各地に送って当時支配の中心と成した神社を配置、「神として治めた手法」と酷似している。

「誓約(うけい)」と言う故事を学んだ光秀の助言だったのかも知れないが、表向きの仕事以外、家康の最も大事な天下取りの仕事は、何と「性交に励む事」だったのである。


徳川家康は稀代の艶福家である。

記録に残る正室・築山殿(清池院) 、継室・朝日姫(南明院) 、他に寵愛を受け、子を為して側室に収まった者は十八名を数え、為した子供は十一男・五女、落胤と目される男は七人に及ぶ。

そして亡くなったのは七十三歳強と、当時としては長生きをした。

十一男・徳川頼房(千六百三年生まれ)、 五女・市姫(千六百七年生まれ)は、いずれも家康六十歳代の子供である。

徳川家康は、賀茂流陰陽として伝わる秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)を作り続けて多くの子女を儲けた。

その最後の男児が、十一男・松平鶴千代丸(徳川頼房/とくがわよりふさ)である。

徳川頼房(とくがわよりふさ)は千六百三年(慶長八年)、家康在京の本拠地となっていた伏見城にて側室・万(養珠院/ようじゅいん)との間に生まれる。

同腹の兄に、前年・千六百二年(慶長七年)に生まれた長福丸(後の徳川頼宣/紀州徳川家・初代藩主)が居る。


実母の万は、実父・正木頼忠(上総勝浦城・正木時忠の次男)が後北条家に人質として滞在している時に出来た娘で、頼忠が上総に戻る事になり離婚、万の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚し、万はこの義父の元で育てられる事になる。

母親の再婚相手・義父にあたる蔭山氏広の所領伊豆で成長した万は十六〜七歳の頃、沼津か三島の宿で家康の投宿の為に給仕に出た所を見初められ家康の側室となった。

家康の秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)が功を奏してなのか、万(養珠院/ようじゅいん)は千六百二年(慶長七年)の三月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年・千六百三年(慶長八年)の八月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。

何と六十歳代のヒヒ親父(家康)が、十六〜七歳の小娘を側室にして子供を為したのだから、現在の東京都条例(他県も似たようなものだが)であれば立派な淫行犯である。

その鶴千代(後の徳川頼房)の兄・長福丸(後の徳川頼宣)は、僅か生誕一年目の千六百三年(慶長八年)に常陸国水戸二十万石が与えられ、鶴千代(後の徳川頼房)には千六百六年に下総国下妻十万石が与えられる。

千六百六(慶長十一年)、三歳にして常陸下妻城十万石を、次いで千六百九年(慶長十四年)、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封(五十万石)によって新たに常陸水戸城二十五万石を領した。

二十五万石の太守となった徳川頼房だったが、幼少だった為に元服するまで家康隠居所となった駿府城で、家康と生母・万(養珠院/ようじゅいん)の許に育った。

徳川頼房(とくがわよりふさ)の封地・常陸国水戸藩入府は、千六百十一年(慶長十六年)に八歳(数え九歳)で元服してからである。


千六百年(慶長五年)に関が原の戦いで勝利し、豊臣家を六十万石代の大名規模に縮小させてほぼ天下を手中にした徳川家康は、服部半蔵に命じて比叡山に隠遁する南光坊(光秀)に使いを出し、雑賀孫市に預けていた庶長子・鈴木(一蔵)重康を「召し抱えたい」と告げている。


その家康不遇時代の落胤・鈴木(一蔵)重康は雑賀孫市に育てられ、雑賀衆残党の棟梁を継いでいた。

翌千六百六年(慶長六年)に、孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木(一蔵)重康は雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として鈴木孫三郎重朝(しげとも)を名乗り、徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕えた。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は後に、二代将軍・秀忠の命により家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

この一連の落胤・鈴木孫三郎重朝(しげとも)召抱えは家康の我が子への愛情であるが、水戸藩士・鈴木家は徳川一門に於いて古代史・葛城家に於ける賀茂(勘解由小路)氏のごとき立場に組み込まれて行く物語は、「大日本史編纂」の下りに続く事になる。


徳川家康と明智光秀の接点であるが、家康を輩出した三河松平氏の本当の出自は松平氏が京都の賀茂神社と同じ葵紋を使用している所から賀茂氏説が有力である。

つまり三河松平氏について、はっきりと他の出自を示す物は家康以前には無く、勘解由小路党(かでのこうじとう)の草(土着郷士)ではないだろうか?

また一方の明智光秀は源氏流だが、光秀の妻・妻木煕子(つまきひろこ)は美濃国の妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女で、こちらも「勘解由/かでの」を名乗る所から勘解由小路党(かでのこうじとう)の草(土着郷士)と考えられる。

雑賀党棟梁の鈴木(佐太夫)重意(しげおき)は影に日向に明智光秀に従っていた。
その訳は重意(しげおき)の生き方そのものの信条であり、光秀の妻・明智煕子(あけちひろこ)の存在だった。

そして家康と雑賀孫市の接点であるが、三河松平氏の家臣には、三河国鈴木氏が在った。

勘解由(かでの)の草として紀州熊野に土着した郷士集団・熊野雑賀・鈴木総領家の三男、(三郎)重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い、奥州まで同行して、平泉・高館(たかだち)衣川館で源義経と共に討ち死にした。

この鈴木(三郎)重家に同行した叔父の鈴木(七郎)重善は途中三河に至って足を患い、義経主従との同行を断念し、(七郎)重善の一族郎党と三河国・賀茂郡の高橋庄に留まらざるを得なかった。

その鈴木(七郎)重善一族が、三河国足助に新たな家・三河鈴木氏を興こしている。

鈴木(七郎)重善のその後の子孫・三河国鈴木氏は、鎌倉期、建武の親政、南北朝並立、室町期、戦国期、安土桃山期を生き抜いて、三河松平家の家臣として歴史の表舞台に現れる。

勿論三河鈴木氏も熊野雑賀・鈴木総領家との交流は続いており、この家臣・三河鈴木氏を通じて家康と雑賀衆棟梁・雑賀孫市(鈴木孫市)は繋がっていた。

帝の権力護持をその使命として誕生した勘解由小路党の草(土着郷士)達も、鎌倉・南北朝・室町・戦国と時が流れ、もはや帝への忠誠心を希薄化していた。

雑賀(さいが)衆もその中の草(土着郷士)の一つで、紀州国・雑賀(さいが)郷七万石を集団で領していた。

雑賀郷士はおよそ三千余り、大名では無く幾つかの集団に分かれている地着きの傭兵集団で、大名にも仕えてもいないが、併せた所領は七万石、兵力にすれば十万石程度の力はあり、郷の若い娘にも手練(てだれ)の者は居た。

所謂(いわゆる)地着きの武装氏郷士である。

雑賀衆(さいがしゅう)は、十五世紀頃に歴史上の文献に現れ、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市)の諸荘園(雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷の鈴木氏など)に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した土豪集団である。

応仁の乱(おうにんのらん)の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長して行った。

雑賀衆(さいがしゅう)は紀ノ川河口付近を抑える事から、「海運や貿易にも携わっていた」と考えられ、水軍も擁していたようである。

種子島に鉄砲(種子島)の製造法が伝来すると、鉄砲の製造に関わった根来衆に続いて雑賀衆もいち早く武器として鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた傭兵軍事集団へと成長する。

雑賀(さいが)郷は自由都市・堺や紀州・根来寺(ねごろじ)の僧兵集団で鉄砲(種子島)製造の根来衆にも近く、早くから鉄砲を操る業を身に着け、傭兵集団として名を轟かせていた。

彼らは地侍の傭兵集団で、戦闘を請け負う事を生業(なりわい)にしていたが、時の移ろいの中で勘解由小路党の修験密教から外れて、熱狂的な一向宗徒になっている。

合戦が有る度に諸国の大名に買われて戦さをし、念仏を唱(とな)えながら人を殺してその謝礼をもって衣食の道を立てていた。


それだけなら戦国乱世には、他にも似た傭兵集団はあった。

だがこの地侍集団は、突出して強力な戦闘能力を持った戦国期は、雑賀孫市を党主(棟梁)とするこの地侍集団を、引く手数多(あまた)にしていた。

彼らが新兵器の鉄砲(種子島)技術集団であったからだ。
雑賀衆(さいがしゅう)は、十六世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。

  室町時代、堺(港)は南蛮貿易(日明勘合貿易の中継地)の基地として発達した。

当時の堺は、室町幕府の衰える中、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営し、だれからも束縛されない自由勝手な貿易で財力を蓄えて下手な領主など及ばないほど栄えていた。

それと結びついていたのが、同じ自由思想を持つ武士集団、「雑賀衆(さいがしゅう)」だったのである。


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雑賀鈴木家と家康の気力

◇◆◇◆◇◆◇◆◇雑賀鈴木家と家康の気力◆◇◆◇◆◇◆◇◆

紀州雑賀郷の郷士集団・雑賀衆(さいがしゅう)を束ねる有力棟梁の一人が、雑賀孫市を名乗っている。

雑賀衆の棟梁は、雑賀(佐大夫)孫市と名乗る不思議な男であったが、その孫市が率いる雑賀(さいが)衆達も、実に奇妙な地侍集団であった。

雑賀孫市は、豪放豪胆な男だった。

我輩が魅力を感じるのは、権力の野望に固執せず、純粋な信念の美学を生き甲斐にする男達で、この時代に我輩にとって魅力的 生き方をしたのがこの男、雑賀(佐大夫)孫市である。

明智光秀も捨て難いが、「自由に生きよう」と言う生き方の魅力では孫市には勝てず、次点である。

雑賀(佐大夫)孫市は、七万石相当の独立領地「紀州・雑賀(さいが)郷・五ヶ荘」を保有する勢力、雑賀衆七万人の郷士集団に認められた統領の一人だった。

雑賀孫市(さいがまごいち)は鈴木重意(しげおき)が本名で、雑賀(さいが)衆の棟梁である。

「雑賀孫市」と言う名は雑賀の頭領が世襲して名乗る名で本姓は穂積系の白藤・鈴木氏(すずきうじ)である。

雑賀孫市は鈴木(佐太夫)重意(しげおき)と言い、随分昔に源義経に合力した鈴木三郎家重の次男が継いだ本家で、百何十年か前の分家には三河徳川(松平)家に仕官している鈴木家も居た。

紀州雑賀郷の郷士集団・雑賀衆(さいがしゅう)を束ねる有力棟梁の一人が、雑賀孫市を名乗っている。

勿論「武門」であるから諸芸に通じ、武術にも怠り無いのが勘解由小路党の草である。


雑賀孫市は有力な棟梁で手の者は千三百余り、手が足りない時は郷の仲間内から助っ人を借りる。

雑賀郷は丸々一向宗の門徒で、熱心な信仰をする人々ではある。

所が、矛盾する事に彼らは殺戮(さつりく)請負の傭兵集団で、雑賀の軍勢は、「念仏を唱えながら襲い掛かる」と言われて、敵対する相手からは恐れられている。

実は、信仰の原点は「自己に対する現世利益」で他人の生死は問題ではなく、あくまでも「自らの武運を願うだけ」の当時の信仰と殺戮請負の傭兵集団は矛盾しないのである。

この雑賀孫市(さいがまごいち)と雑賀衆(さいがしゅう)は、徳川家康が信長二男・織田信雄に請われて羽柴秀吉陣営と戦った小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いに根来衆らと伴に参戦する。

所が、肝心の織田信雄がろくに戦もしない内に単独で講和を受諾して戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康はついに兵を引く。

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いは終わったが、秀吉と家康の勝敗は着いた訳ではなく、両勢力は互いに休戦状態のまま別働隊の小競り合いや戦が続いていた。

家康は力ずくで雌雄を決するには侮れない相手で、羽柴秀吉は「いかに徳川家康を抑えようか」と思案していた。

「そうだ、以前お館様(織田信長)がわしに薦めていた家康の次男・於義丸(結城秀康)を養子に迎えて縁を深める策がある。」

羽柴秀吉は早速、滝川雄利を使者として浜松城に送り講和を取り付けようと試み、家康に「両家の縁を深める為に於義丸(結城秀康)殿を養子に申し受けたい」と和議を提案する。

家康としても、膠着状態のにらみ合いを続ける訳には行かず、また後に明かすが次男・於義丸(結城秀康)についてはいささかの事情も有ったので、講和の返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にする為に大坂に送り、小牧の役は幕を閉じた。

残されたのは、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らで、信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまった為に孤立し、それぞれ秀吉の紀州攻め・四国攻めにより制圧される事になる。


雑賀衆の生き残りは、後に家康が江戸に幕府を開いた頃に幕府旗本として迎え入れられ、その後、家康の十一男・徳川頼房の水戸藩独立に合わせて水戸家の重臣に収まっている。

家康は平均寿命が五十歳代と言われた時代に、六十歳代で子を為している。

元気だったから六十歳代で子を為したのか、六十歳代でも側室相手に励んだから元気だったのか?

まぁ人間の脳は、必要性の信号波を受け取ればそのような対処の指令を身体中に出すような構造になっている。

反面的に言えば、必要性を感じなくなれば老いが進むのであれば、この家康の子創りの執念が家康の若さを保ち長生きをさせた原動力かも知れない。


性ホルモン・テストステロンは、男性の性的機能に影響する内生的・性ホルモンである。

当然ながら、生体の体内で自然生成されている。

しかし近頃の研究では、この生体に有効なテストステロンが低濃度に成ると、「身体活動能力や気力の低下が見られる」と言う。

家康は、現代で言えば年甲斐も無いスケベ親父であるが、しかし環境が許さなければ六十歳代で子を為すスケベ親父は世間に通らない。

性的興奮は、テストステロンを活性化し、「性欲増強の働きがある」と言われている。

性ホルモン・テストステロンの生成は自然の要求に拠るものだから、或いは脳が刺激を受けてテストステロンの生成をするには、必要性を要する可能性があり、それであれば色気が元気の源かも知れない。

加齢と伴に減少する固体のテストステロン濃度は、老人の無気力化を促し、「鬱病状態との相関性が見られる」と言う。

当然ながら、テストステロン濃度の減少は、認知症などの疾患の発生に影響がある可能性がある。

性ホルモン・テストステロンは、老人の無気力を「改善する可能性がある事を示唆する」と言うテスト結果を出している。


古来から伝わる経験学的な「若さを保つ秘訣」はまんざらホラではなく、つまり加齢に逆らって若さを保つに必要なのは色恋沙汰と性的興奮である。

徳川家康のごとくに元気でいるには、体内のテストステロン濃度を上げる事である。
正に「性は生に通じる」が、脳の働きなのかも知れない。

しかしながら、あらゆる社会的制約は、こうした生理的な事情よりも、「良い年齢をして、見っとも無い」などと言う奇妙な感情が支配している。

いずれにしても、徳川家康はこの量産した子供達や孫、養子・養女を加えて有力大名と親戚・縁戚関係を築き、数代後には、そのDNAが大半の国主(大名)にねずみ算式に広がって行ったのである。

そこから先の広がりは、大名家の御落胤までは追い切れないので、四百年以上が経過した今、もしかしたらこれをお読みの貴方にも、家康の血の「カケラ」くらい入り込んでいるかも知れないのである。


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遺伝子と自然淘汰

◇◆◇◆◇◆◇◆◇遺伝子と自然淘汰◆◇◆◇◆◇◆◇◆

家康の信条は、ギアチェンジ(変速)である。

企業も同じだが、およそ物事を運ぶに「行け行けドンドン」の勢いが必要である。

しかし「それで上手く行ったから」と言って、絶えず勢いだけで行っては、加速し過ぎてコントロールが効かず、思わぬ落とし穴に落ちる事になる。

つまりその時は上手く行った事が、そのままその方法で未来まで上手く行く保証は何もない。

そこで、減速しながら次の加速時期を伺う。

事を成すには確かめる時間が必要なのである。そのしぶとさ(臆病さ)が、家康の武器だった。

天下取りに長寿が必要だった家康は漢方薬の知識に優れ、材料を取り寄せて自ら調合していた。

家康が天下を取るには、歳月が必要だったのである。

ギアチェンジ(変速)のタイミングを決定するのは正確な情報である。

ここで必要なのは、盟主に媚びない信頼の於ける相手で、「イエスマン」ではない。
所が、往々にしてこの相手は、部下として扱い難いから盟主は避けたがる。

家康はそこが決定的に違って、絶えず部下に感謝しながら御輿の上にいた事が、ギアチェンジ(変速)を容易にしたのかも知れない。

この条件にピッタリあって冷静に広範囲に情報を拾い、的確にアドバイスをしたのが天海僧正(明智光秀)だったのである。


加齢と伴に減少する固体のテストステロン濃度は、老人の無気力化を促し、「鬱病状態との相関性が見られる」と言う。

当然ながら、テストステロン濃度の減少は、認知症などの疾患の発生に影響がある可能性がある。

性ホルモン・テストステロンは、老人の無気力を「改善する可能性がある事を示唆する」と言うテスト結果を出している。


この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋であった事を言外に物語っている。

家臣の加納家も加茂郷の出自であるから、恐らく賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。

その家康が精魂込めて子を為した為、二代将軍・秀忠の直径子孫は五代将軍・徳川綱吉(三代将軍・家光四男)を最後に途絶え、家康が為した子が起こした御三家などから将軍家が継承されて、徳川・明智の血はうやむやになった。

徳川家康の子作りは或る種の執念とも言えるものだが、その健康的な子沢山を考えれば三河松平家が然して名家では無い事を物語っている。

つまり将軍家と成った徳川将軍家が名家の血筋故に「虚弱精子劣性遺伝」に悩むのは五代ほど下がって以後の事である。

元々人間は「群れ社会」の生き物で、種の保存システムから考えれば群れ内コレクティブセックスプレィ(集団乱交)が常態であり、自然は一夫一婦制のご都合主義的な社会論理など求めていない。

初期の人類にとって「群れ」は一つの家庭で在って、他の動物の群れ社会と同様に妊娠に対して強い精子・強い遺伝子を受け入れる機会を増やす為に「群れ婚」が本来の姿で、「群れ婚」こそが強い精子・強い遺伝子の伝達システムだった。

所が人間は、知能の発達に伴って相反する「理・利」を思考する左脳域と「感性・本能」を思考する右脳域が分離する形で発達し、文化・文明を築いた。

自然界の基本では強い精子・強い遺伝子の伝達こそが種の保存であるから、人間のように性交の対象がイケメンや地位、財産などを条件に本来の自然に全て逆らい「利」を優先した性交相手を選ぶ生き物は人間だけである。

おかげで、人間界だけ妊娠に対する強い精子・強い遺伝子を選択する基準がイケメンや地位、財産に変わって「虚弱精子劣性遺伝」が続き、中々子が為せなかったり(不妊症)、虚弱な子が現れたりする。

虚弱精子劣性遺伝を論理的に言えば、人間の遺伝情報を伝える染色体にはXとYがあり、女性のX染色体は二本在って片側一本のX染色体でも障害に対するスペアー機能が利き、新しい卵子に拠って生まれ変われる。

所が、男性を形成する染色体はX染色体とY染色体の各一本で構成される為にY染色体は一本限りで、生殖の過程でY染色体に遺伝情報的な欠陥が生じても修復される事なく男性に限り延々と子孫に受け継がれる。

つまり本来の自然環境では強者の論理で受け継がれるべき妊娠に対する選択的種の保存システム「コレクティブセックスプレィ(集団乱交)」が、人間の独占欲的エゴで捻じ曲げられてしまった。

現在の社会基盤である「一夫一婦制」に拠り、自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が出来なくなって、殊更に劣化した精子に拠るY染色体が延々と引き継がれる事になる。

こう言う事を書くと現代の貞操観念で「大勢の男を性交相手に持つなどとんでもない」と言うだろうが、卑弥呼の女王国(邪馬台国)では多くの男性が取り巻く女王蜂状態だった。

卑弥呼の時代からだいぶ下がった平安期までは「妻間婚(呼ばう婚)」で、言わば女性がその気に成れば何人でも男性を寝屋に引き入れた。

つまり自然の名残がある時代では、Y染色体が「正常再生が不可能」なものである事が本能的に理解されて女性中心の母系が基本で強い精子・強い遺伝子を選択的に受け入れる社会合意が為されていた。

Y染色体が「正常再生が不可能」なものなら、せめて自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が可能となる群れ婚(乱交)状態が子孫の継承には理想的だが、人間は「生活基盤の安定」と言う社会性(男性のエゴかも知れない)を採って、女性にそうした機会を与えてはいない。

そしてご都合主義的な左脳域の倫理感が自然に逆らって構成されたのだが、右脳域の本能部分には当然「群れ婚」当時の感性も引き継がれている。

つまり人間の自然な欲求としてコレクティブセックスプレィ(集団乱交)願望が存在する訳だが、その真実を建前の中に押し込めて左脳域の「理・利」を優先するのが現代社会である。


徳川政権下でも、家康の血筋が徳川家世継ぎの一番の条件だから、天皇の女官は原則、皆天皇の妻と同様にいつでも寝所に召される立場「内裏(だいり/住居部分)」のシステムを模して「大奥」なるものを春日局が作り上げた。

つまり天皇家(後宮)でも徳川家(大奥)でも男子禁制の場所に女性のスペアーを多く取り揃えて血筋を守ろうとした。

しかし本質は男系のX染色体とY染色体の各一本で構成の問題であるから、それほど女性を多く取り揃えてハーレムにしても、肝心の男系の血筋が虚弱精子劣性遺伝では絶えず継嗣に苦労する事になるのだ。

              



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民主党・内閣の延命だけが今の仕事
尖閣・竹島・オスプレイ、野田政権の外交は穴だらけ
祝・「日本維新の会」の結党
野田内閣不信任案・野田佳彦問責決議と衆院解散
暴走する野田政権を阻止せよ。
民主党議員・消費増税の良い子坊ちゃんと心中
虐(いじ)め自殺事件の隠蔽(いんぺい)
民主党・野田政権は最低の政権である
民主党・野田政権は最低の政権〔U〕
企業経営に於ける「共生理念」を提案する
小泉改革の正体
議員定数削減案に物申す
国際競争力と法人税率再軽減論の怪
地方分権・道州制案の怪しさ
自民党大政奉還論
政権の疑惑を追求せよ随時更新中
日本の針路は大丈夫か?パートT
日本の針路は大丈夫か?パートU内閣府特命大臣の美名?
日本の現状と小泉内閣への私見
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【◆】浜岡原発は無防備ではないのか?
【◆】福島第一原発の危機は去ったのか?
【◆】大飯原発再開はおおいなる矛盾
【◆】南海トラフ巨大地震・「東海地震と三連動の記録史」
【◆】首都直下型巨大地震の記録史
【◆】巨大地震記録・年表
【◆】巨大地震と浜岡原発インディアン嘘つかない・・・偽(いつわ)り
【◆】東電福島原発事故リアルタイムのブログ
【◆】未曾有の大震災・日本政府は「今、何を為すべきか?」
【◆】今こその東北復興と政治力
【◆】東北大震災後の称賛される日本人
【◆】インターネットの脅威と知り過ぎた反乱の時代
【◆】パソコン遠隔操作事件
【◆】ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」
アンカリング効果と一貫性行動理論

ロックイン効果の心理理論
ネットワーク外部性の理論
またも鮮明になる建前上の「筈だ切捨て論」の絶望
常識(じょうしき)と言う奇妙な言語
単純な主張・俺が思った論最新版
シンクロニー(同調行動)の解説
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吊橋効果(つりばしこうか)の心理を検証する
オレオレ詐欺占術霊感商法
金(かね)と日本人
教育問題の要点を考える
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人間 の性と精神の考察
子育てと母乳の解説
絶滅危惧品種・日本人
少子化問題と性への嫌悪感
ヒマラヤ桜と染井吉野桜と毛虫
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宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)の考察最新版
自転車走行レーンの整備拡充
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規制緩和
逆説の食品偽装(内部告発)
バブル崩壊とその後の不況
単語選挙読解力
ワーキングプア(働く貧困層)
「長寿医療制度」後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)
物造り大国日本の矛盾
限界集落問題
国民に負担を掛けない赤字国債の処理方法
ブランド神話への警鐘
外国との税率比較論のまやかし
木を見て森を見ず
ヒトラーの台頭した環境と現在の日本の類似点
隠し赤字の実体
官僚(役人)のアマーイ立場
官僚大国・日本から脱出する方法
官僚出身議員二世・三世議員への危惧
何度もあったリセット
少子高齢化問題の具体策
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若者の未来(ニート急増の影に)
ドキュメント中小企業倒産
一夫十一妻疑惑騒動?の考察


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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

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小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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作者本名・鈴木峰晴