戦前の日本社会は子沢山が一般的で、親が余り一人の子に愛情を注げなかったが、それでも子供達は「まとも」に育った。
それに引き換え、戦後の日本社会は少子化で親はタップリ愛情を注げる筈なのに、子供達が「まとも」に育たない。
我輩に言わせれば、その「まとも」に育たない原因は、戦後日本が採用した米国型自由主義化に拠って「群れ社会」から「孤独社会」に悪変してしまったからに違いないのである。
欧米の個人を主にする文化と日本の集団を主にする文化の違いが、悪い方に出たのが戦前戦中の「全体主義戦時体制」だった。
しかしその批判の為に、日本の集団を主にする文化の良さが失われて個人の権利主張に走り、基本的な家族単位の思い遣りまで失ってしまった。
つまり、集団を主にするか個人を主にするは、「どちらに偏(かたよ)り過ぎても良い事は無い」のである。
資本自由主義社会に於いては、呪文のように「受益者負担」と言うけれど、国の責任と国民の責任の区分けに於いて考えるべき事は多い。
例えば子供の成長と教育は一義的には親の責任かも知しれないが、その子が成長して社会や国家を背負う事の受益者は広義の意味では国家国民共有の受益ではないのか?
当然ながら、母子・父子家庭への社会な支援は厚くすべきで、自己責任論を持ち出す輩は広義の意味での国家国民共有の受益を無視した「他人の為には負担はしたくない」と言う欲の皮の突っ張った者達である。
何となれば、「国民が健康で文化的な生活を営む最低限の権利を有する」と言う憲法の条文(第二十五条)に照らして見ると、幼児から義務教育期間中の教科書や給食費、健康保険料負担(社会保障)などは、論議の余地無く実行されるべきものである。
そして富裕層も貧困層も平等に文化的生活で在る為に放送料金(NHK)などは、本来みなし税もどきの別立て「一律料金の受益者負担方式」では無く、税支出に拠る日本社会全体で負担すべきものでは無いだろうか?
こう言う提言をすると、私には子供が居ないので、「他人の子の分の育児や教育の負担をするのは一方的に出すばかりで損だ」と言うが、そう言っていた人が年金や社会施設(介護施設)などで、ずうずうしく他人が苦労して育てた人達の厄介になっている。
子供より仕事のアラフォー(アラウンドフォーティ)の女性が「格好が良い」と流行語大賞に成った。
実は政治の責任でもあるのだが、アラフォー(アラウンドフォーティ)世代とは、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たした事から、仕事と結婚を比較的自由に選択するような社会環境で育った世代を言う。
確かに独身生活を謳歌して格好は良いかも知れないが、こうした社会現象に苦言を呈すれば子供を産み育てない女性は社会的に身勝手な存在ではないのか?
「今が良ければ」と言う刹那的な格好の良さはけして本物ではないのである。
女性運動家議員の「単純な思考の発露」で、男女の平等社会を旗印に「男女共同参画」と言うが、実態を見れば大半の女性は女性運動家にも役人(キャリア官僚)にも、大企業のオーナーにも成れない。
実態は精々時給八百円〜千円の社会進出が大半の女性の姿で、雇用機会均等などさも女性の為の権利運動の様に見えるが、実質ほんの一握りの「エリート女性」の為だけの綺麗事の論理だったのである。
これから先十年もすると、大量の団塊世代に後期高齢と言う老後が訪れる。
本来なら、アラフォー(アラウンドフォーティ)世代の女性達が産み育てた子供達が、団塊世代の老後を支える順番だった。
そんな事は「私達の人生に直接関係が無い」と思うかも知れないが、社会のバランスが壊れて何の影響も無いほど世の中は甘くは無い。
その差し迫った事態(団塊世代の老後)に対して国家的な思想合意を目指さなければ、日本は崩壊するだろう。
今、日本のイデオロギーも地球上のイデオロギーも、劇的な変革を早急に必要とする時代に直面している。
人類が望む望まないに関わらず、今や不可欠に成ってしまった地球規模の温暖化対策には、現状とはまったく異なるイデオロギーが必要に成る筈である。
同時に、3・11の東日本大震災に於ける福島第一原発事故で、原発の危険性もまざまざと知らされた。
日本列島は地震の巣で、永いスパンで見れば大烈震も大津波も想定の範囲内である。
原発事故は、多少のリスクに目を瞑(つぶ)って利便性を求めたギャンブルの結果であるが、原発に絶対的な安全性は無い以上、脱原発運動は当然の帰結である。
そしてこの「脱原発」には、生きて行く為と言う目先の問題も含んでいる。
つまり原発には多くの人々の生活が賭かっていて、確かに現状維持で平和に暮らしたいのが人情であるが、明らかにずっと続けられるギャンブルではない。
そこで必要なのが「意識改革」で、只、現状維持の生活を目指して代替エネルギーを模索するのではなく、これから人間にはどう言う生き方が必要なのか考えなくては成らない時期に来ている。
千九百年代は資本自由主義と共産主義の争いの時代だった。
二千年代に入って共産主義は衰退し、資本自由主義も行く所まで行き着いて生き詰まりを見せている。
資本主義の悪い所は、始めてしまうと企業も国家もどこまでも「走り続け」て拡大して行かなければならない所である。
物事なんでも限界が有り、企業も国家も「拡大し続ける」と言う事は無理を重ねる事で、やがて行き詰まる滅びの道を歩む事になる。
何事にも許容範囲が在るから、これだけ時間距離が短く近くなった(グローバル化)現在は、企業の拡大も国家経済拡大もそして地球の環境も、全ての「のりしろ(許容範囲)」が残り僅かに成っている。
企業や国家の経済は、まだバースト(爆発または破裂)を繰り返せば不幸な人々は出るがやり直しは利く。
しかし、地球環境がバーストしたら金輪際やり直しは聞かない。
それでも拡大の為にひたすら「走り続け」なければならないのが、資本主義の悪い所である。
左脳域の「利の論理ばかり」を優先する連中は、この「掛け替えの無い地球に、人類に、」今何が起こっているかを知ろうとしない。
いや、知っていてもなお「国益だ、日本人の利益だ」と「目先の利」ばかりに固執している。
言って見れば、国家や民族への帰属意識は「紛争の種」であり、それを解消する為の手段が誓約(うけい)の知恵である。
現在の政権政党・自由民主党は「孫や子の為に国の借金は残せない」と綺麗ごとを言い、本来最優先すべき社会福祉に対する支出まで絞っているが、一方で地球環境問題は「お題目」の掛け声だけである。
孫や子の為に「環境破壊の進んだ地球を残そう」と言うのか?
ここに到っては、自由民主党の資本自由主義はもはや時代遅れの主義(イデオロギー)である。
つまり、資本自由主義の発展構造は「地球環境破壊」とは同時進行であるから、「利」を優先する資本自由主義では「地球環境破壊」は止められないのである。
米国型の資本自由主義は、根本に「左脳域の利優先」がある時代遅れなイデオロギーであるから、この地球環境破壊を解決など出来得ない。
このまま資本自由主義の暴走を止めないでは、「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の中に「リアルの生産」が翻弄(ほんろう)され埋没して、人類の糧(かて)となるべきリアル生産力が劣化消耗してしまう事だろう。
昔の日本の考え方であれば、「買占めに拠る暴利」は悪だった。
資本自由主義の「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の暴走は、「買占め」ではないのか?
その「買占め」を、米国型の資本自由主義を標榜して来た自由民主党は当然の事として受け止め、それに拠る農林漁業商工業者のダメージ対策も予め予測されたにも関わらず「苦情が増えてやっと腰を上げる」と言う後手後手で、つまり弱い者を見捨てるのが米国型の資本自由主義なのである。
また、現在の地球環境の悪化(温暖化)は正しく「利の為に何でも有り」の資本自由主義の為せるものである。
つまり現状のイデオロギーの枠を取り外してまったく新しいイデオロギーの基に新しい政治手法を採らなければ、手遅れになるのである。
実は過去の歴史が証明しているのだが、人間の浅はかな欲望が地球上を砂漠化して来た。
エジプト文明、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス)文明、インダス文明、黄河(中華中国)文明はいずれも緑と水の豊かな大河のほとりで発生して自然を食い尽(つく)し、砂漠化と共に衰退した歴史を持っている。
近世から現代にかけては、緑豊かな熱帯林を持つインドシナ半島やインドネシア、ブラジル・アマゾン流域を焼畑や森林伐採して開墾を進め、貴重な森林の砂漠化の道を歩んでいる。
世界中の国家と大企業が為している事は、まるで「焼き畑農業」である。
焼き畑農業は原生林を焼き払い、その灰を肥料に作物を植え育て、その土壌がやせて作物が取れなく成ったら次の原生林を焼き払って畑を作る。
しかしその原生林には限りが在るから、やがて焼き尽くして砂漠だけが残る。
アマゾン流域やインドシナ半島、インドネシアなどの住人がこうした農業を続け、年々森が砂漠化している。
哀しいかな人は飢えると毒入りの饅頭でも食べる生き物である。
恐らく当事者達を諭(さと)しても「生きて行くには仕方が無い」と反論するだろう。
それを「悪い」とは言えないが、地球単位で共有の受益を考えれば打つ手は在る筈である。
綺麗事では済まされない事に、欲望こそが消費の原動力であり経済の要である事が、皮肉な事である。
そしてそれのみならず、その一方に貪欲に食べ物を漁り「目先の利」を追いかける醜い文明人が居て、大手企業が森林を伐採させて金に換えている。
世界中の国家と大企業が血眼と成り、国内は勿論、他国まで進出して行って焼畑農業のように資源と富を根こそぎ取り付くし、しかも「美味しいから」と言って翌年の種苗まで食べ尽くし、砂漠に成ったらそこを棄てて次にドンドン移って行く。
もう待った無しなのに、米国はハリケーンで、中国やインドは大洪水で大被害を出しながらまだ自然現象として地球温暖化と無理やり引き離して「自国の利」を主張している。
膨大な災害被害と主張する「自国の利」は、結果的に差し引きすればたいした得には成らないのに、「相手だけに排出ガス規制を負わせよう」と言う「さもしく身勝手な主張」を恥ずかしげも無く主張して収拾が付かない。
しかしながら、日本も含め、自国の「利」を主張する国だけ被害があるならまだしも、困った事に地球環境破壊に国境はない。
嘆かわしいが、これでは相当骨身に染みる大災害が多発した後でないと、愚かな人間どもは「利巧に成ら無い」と言う事である。
今の資本自由主義と言うイデオロギーの枠では解決しないこれらは、地球規模で考えなければならない問題で、つまり「目先の個々の利、国家の利」を追えば、永いスタンスで見た地球は衰えて行く事になる。
にも関わらず、資本自由主義のイデオロギーの基本ベースを変えないまま地球環境の悪化(温暖化)対策を世界中が模索しているが、これでは各自・各国の「資本自由主義の利」が主張しあうだけで一向に埒(らち)が開かないであろう。
突沸現象(突然沸騰現象)は一種の爆発状態に成る。
現在の地球環境は危険域に向いつつあり、刻々と近付く沸点みたいなもので何時(いつ)突沸現象(突然沸騰現象)が起こり爆発状態的な気象被害が続発しないとも限らない。
その予兆は、既に顕著に地球上の各地で災害として起こりつつある。
確かに自分の代は地球も持ち堪えるのかも知れないが、愛する子や孫の代はどうなる?
つまり貴方は、周辺環境が変わっても旧来のイデオロギーを後生大事に守って行くのか?
アナログ型は新型デジタルに対して従来型の為、転じて従来型思考の人間を「アナログ人間」と言う。
従来型のイデオロギーが地球環境悪化を救えないものなら、電波の利用域としてのアナログ全ての許容量が無くなってのデジタル化を、「地球の許容量」と置き換えて考えれば、地球の許容量に準じたまったく新しいイデオロギーの確立を急がねば成らない。
言わば旧来のイデオロギー規範を「正しい」と信じて疑わない事自体、貴方は「アナログ人間」かも知れない。
このまま資本自由主義の暴走が止まらなければ地球環境の悪化(温暖化)は更に進み、やがて人類の多くが住めないであろう地球に成る事は必至である。
つまり小手先の対策ではなく地球上のイデオロギーも劇的な変革を統一で行う時期に来ているのである。
恐らく皆さんは、この先読み進むと現在の規範に照らしてこの提案(文章)を奇異に感じるかも知れない。
此処から先は突拍子も無い夢物語かも知れないが、古代から続いた素朴な生き方は自然の法則に基つくものであるから、或いは今後の人類が辿るべき思想主義の「ヒントとして参考になる」と考えている。
色眼鏡無しに考えて見て欲しい。
この数千年で培(つちか)われて来た「現代文明」と言う名の現在のイデオロギー規範が「本当に正しいものだったのか?」が、問題なのである。
つまり永い歴史は、「信仰」の争いと「民族」の争い、「主義主張」の争いで埋め尽くされていたではないか。
哲学とは「人間が生きる為の道しるべ」である。
そして本来、人間も自然の賜物(生物)として存在するのだから、哲学は自然と共生する事にこそ、その真髄が存在する。
企業の「利」、個人の「利」を優先する「物欲」の米国型自由主義は、哲学とは最も遠い位置にあり、自然とは共存できない。
日本人の様に多神教・自然神の存在もを採って来た人々と、擬似人格を持つ一神教の人々とは、自然に対する感情が違う。
つまり一神教の人々は、「神が自然をもコントロールする」と言う絶対神の考え方があり、それに添った生き方で自然に対峙している。
勿論信仰は自由だから、中身の違いを確認しているだけで批判では無い。
つまり幸せの感じ方は人夫々(ひとそれぞれ)だから、それを他人が自分の尺度で推し量るものでは無い。
しかし「物欲」は不自然に自然のコントロールを挑み、自然と対立して破壊し、人類の住環境を奪ってしまうだろう。
この閉塞感の中、幸せの感じ方を「物欲」から意識転換をしないと、人類は生き残れ無いかも知れない。
米国型自由主義の「物欲」の為に多くのものを失って漸く望みが適(かな)う時、それでも「幸せ」と感じるなら、その方はもう人の心を失って居る事に成る。
例えば政界にしろ財界にしろ官僚や学者の世界だって、その世界のトップに立つには代わりに失うものも多い。
多くのものを失って望みが適(かな)う時、それでも「幸せ」と感じるなら、その方はもう人の心を失って居る事に成る。
一般の方なら「可哀相な方」で済むのだが、「その界」のトップに立った方は影響が大きいから、可哀相では済まされない。
共産主義は結果的に一部の権力者の為と言わざるを得ず、米国型自由主義は理論上ほんの一部の成功者を生み出すものである。
しかも米国型自由主義は、今や人間の生存に必要な自然環境(地球温暖化)まで、一部の「利」を優先して破壊している。
つまり近頃の主な「主義主張」は、現実的評価として大きく行き詰って今日を迎えている。
確かに日本は、米国型自由主義で一定の経済繁栄はして来たが、この行き詰を打破するには変化を望まない政治形態では明らかに経済構造の改革は為し得ない。
それでは、その劇的な変革を可能にするイデオロギーはいったい何だろうか?
その課題は、日本の歴史が立派に解いてくれる。
日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。
これは縄文期から弥生期に移行する当時の、他部族(他民族)混在時代に成るべく平和裏に共存を図った日本人の祖先の知恵である。
隣接して異部族(異民族)の小国が割拠すれば、それぞれが勢力拡大を目論んで紛争が起きる。
「武(ぶ/む)」は戦の為のものであり侵略にも使われるものでありながら、実は「守る為」と言う建前を持つ矛盾(むじゅん)に満ちた言葉である。
武器・武門・武者の「武(ぶ/む)」の意味であるが、本来は積極的に戦う為の言葉でく守る為の語彙(ごい)のもので、「矛(ほこ)を止める」と書いて武(ぶ/む)と読ませる。
人間と言う生き物の狡猾な所だが、「武(ぶ/む)」の様に微妙に偽りの正義を建前にした怪しげな言葉使いは結構多い。
そう言えば他国への出兵(侵略)の理由に「当該地在住の自国民の保護」と言う名目正義は良く使われた。
或いはテロとの戦いもテロを行う者も名目正義を押し立てて対立相手を殺し、あまつさえ多くの罪無き人々を巻き込む愚を犯す。
ついでだが「矛盾(むじゅん)」と言う言葉も、攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器の双方を武人が持つ事から発生した。
或いは矛盾(むじゅん)に満ちた「武(ぶ/む)」と言う文字を生み出した人間こそ、心中に攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器を秘めている手に負えない生き物かも知れない。
言って見れば、国家や民族への帰属意識は「紛争の種」であり、それを解消する為の手段が誓約(うけい)の知恵である。
そして人間が手に負えない本性を持つ生き物だからこそ、誓約(うけい)の共生社会イデオロギーが、大和合の国(大和国)成立当時は唯一の異民族平和融合の手段だったのかも知れないのである。
誓約(うけい)の成果は極シンプルなもので、言わば部族(民族)の枠を取り払って統合して行く事である。
性交を持って誓約(うけい)とするその先にあるのが両者の混血した子供の誕生であり、異部族(異民族)の具体的な統合である。
共生社会イデオロギーのひとつは、この今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】であり、今ひとつは【日本人の宗教観】である。
地球を救うイデオロギーのヒントは、この二つを基本として組み合わせた日本の特異な文化【共生社会(村社会)】のイデオロギーの中にこそ隠されているのである。
日本人は、一般論的に他国人と違う宗教観の側面も持ち合わせている。
一般的に日本人の宗教に対する姿勢は、良く言えば「寛容」、悪く言えば「好い加減」である。
何故なら他国から見れば信じられない事だが、日本人は異宗教の神社とお寺を同時に信仰し、キリスト教徒でもないのに教会で挙式を執り行い、キリスト教徒の祭りであるクリスマスを楽しみ、最近ではラテン・カーニバルの模倣も町単位で始めてしまった。
判り易く言えば、クリスマスを楽しみ初詣に神社に行き寺もお参りもして一人の人間が異なった宗教の祭りを同時に違和感無く楽しむ。
それ故外国人に言わせると、日本人の宗教観は「えらく好い加減な信仰だ」と言われている。
これは、古(いにしえ)より長い歴史に培われた多神教社会の民族的感性で、一神教の国々では理解し難い事である。
こんな信仰の混在生活は他国では赦されない行為で、一神教のキリスト教国、イスラム教国、ユダヤ教国のみならず、同じ多神教の隣国・中国でもそれぞれの信仰はそれを信じる人は一筋で、国や地域で混在していても一人の人間の中での混在生活は在り得ない。
つまり日本人は、信仰に対する「貞操観念が希薄」と映るらしい。
しかし、この日本人的寛容の感性、悪い意味で「好い加減」とばかりは言い切れない。
長い間多神教社会であったからこその「受け入れの良さ」もある。
日本人の精神は「調和」なのである。
それが証拠に、ユダヤ教徒だろうが、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒に対峙しても、日本人は原則敵意を抱かない。
互いの宗教感を曖昧ながらも容認して一緒に楽しむ感性は、正に言葉通り「好い加減」な社会性かも知れない。
この事は「日本」と言う国家の成り立ちにその特異な宗教観の源が在る。
日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。
黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服氏族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがてその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させるのだが、その過程で和合の為に宗教観に拠る紛争を排除する知恵を働かせた。
元々の先住蝦夷族(せんじゅうえみしぞく/縄文人)は自然神崇拝で万物が神だった。
そこに宗教が異なる各渡来部族(征服部族)が各々の神を持ち込んだのだが、大和朝廷は統合統治の為にそれらを争う事無く全て容認する八百万(やおよろず)の神の国を成立させ、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)と渡来部族(征服氏族)各部族が誓約(うけい)の混血を進めて弥生人を生み出したのである。
何しろ、一軒の家に神棚と仏壇を同居させる世界でも珍しい国である。
確かに一つの宗教に一筋の信心深い人にして見れば、日本人の宗教観は「貞操観念が希薄」と批判されるかも知れないが、一つの宗教に一筋の信心深い人達がその宗教観で相手を否定し紛争や戦争まで起こすと成ると、日本人の「えらく好い加減」な宗教観は、世界平和な良い物ではないだろうか?
実はこの宗教に対する日本人の「貞操観念が希薄」と同じように、今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】に於いても同様に大和合の国(大和国/やまとのくに)の成立の為に誓約(うけい)の混血を進める知恵を働かせ、性に於いても「貞操観念が希薄」な「特異な性文化」を結実させた。
日本人の宗教観から日本人の伝統的性意識の影響を欠落させたものは事実とは違い、本物の日本人の宗教観ではない。
何故なら、日本人の宗教観は「命を生み出す事」に対する考え方と深くリンクしているからである。
その「特異な性文化」は、明治維新の文明開化まで村社会の中で「夜這(よば)い」や「寝屋子宿(ねやこやど)・寝宿(ねやど)」、「暗闇祭り」として生き続け、欧米の個人競争資本主義とはまったく違うイデオロギーの「共生社会」を成立させていた。
人間は何故一目惚れするのか?
そのメカニズムは、本能をくすぐる脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの効果である。
元々生命科学的に言えば、人類の男女は惚(ほ)れ脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの作用に後押しされ、出会いを持って「性交相手の選択行為」をする生物である。
「惚(ほ)れる」と言う事は「恋する」と言う事で、フェール・エチル・アミンの効果である「惚(ほ)れる」は、気取らないで生物学的に言えば脳内処理的には「性交相手の選択行為」である。
その男性と女性の脳内ホルモン的な「性交相手の選択行為」の「惚れ薬」がフェール・エチル・アミンと言い、これが本能をくすぐる「恋のトキメ」を促進させる影の立役者の物質である。
フェール・エチル・アミンは、異性に対して脳内で分泌されるトキメキホルモンで、この時点では「惚(ほ)れ行為」であるが、その「惚(ほ)れ行為」に集中力や快感を倍増させる作用がある。
簡単に説明すれば、「恋する」や「惚(ほ)れる」と言う行為そのものに快感を感じさせたり、その想いを募(つの)らせる(集中させる)作用がある脳内ホルモンなのだ。
つまりフェール・エチル・アミンは、「人類の種の保存」を脳科学的に促進させる作用があるホルモンである。
そしてその「惚(ほ)れる」が片思いであれ両思いであれ、パターンに関係なくフェール・エチル・アミンの作用であるから、迷惑なストーカー行動の源も「惚(ほ)れる」の範疇にある。
心して自覚が必要だが、フェール・エチル・アミンの作用は「性犯罪」をも誘発する側面を持っている事である。
現代の理解では、誓約(うけい)の性交など否定的な風潮にある。
その考え方は近頃の個人尊重の考え方に在り、「愛の無い性交」など建前上否定される事柄だからである。
しかし本来、「愛の無い性交」など古来から特別の事ではない。
社会通念とか常識とかには「建前もあれば現実」もあり、言ってみれば人間は「性」に対して興味や性癖が在るのは密かに現実と認められる社会通念とか常識とかに合致している。
つまり口に出さないだけで、建前とは別の観点から観た密かな社会通念とか常識が存在するくらい誰でも知っている認識である。
当然ながら、フェール・エチル・アミンに後押しされて、双方が「惚(ほ)れの合意」に到れば性交に及ぶ事に成る。
だが、「愛」は連れ添ってから時間を掛けて育(はぐく)むもので、この時点での価値観はまだ「恋止まり」である。
「好きに成った相手と性交に及んで何が悪い」と開き直られれば、仰(おっしゃ)る通りであるが、その時点で「好き(恋)」を短絡的に「愛」と勘違いしているのだ。
昔から「恋の病」と言う様に、ここを勘違いしているから「こんな筈ではなかった。」とカップルの解消や結婚を解消し離婚する事に成る。
つまりフェール・エチル・アミン効果で、良く知らない相手とでもフィーリング(感覚)で性交が可能で、ならば深い意味での「愛情」なんかなくても別の理由でも性交は可能である。
まぁ出会いも惚(ほ)れ方も様々で、周囲や親の薦める結婚でもその出会い時点でフェール・エチル・アミンが作用すれば、自由恋愛でなくても性交が可能な理屈は合う。
女性の女盛りは精々十五年〜二十年間、年齢にすれば十八歳〜大目に見ても三十八歳と言う所で、その間を硬く生きるか、多少は羽目を外して愉しむのかは本人の生き方の問題である。
だから誓約(うけい)目的だろうが親の薦める結婚だろうが、地位や財産目的だろうが、夢を適える手段で在っても、永く続いて「愛情」が芽生えればカップルとしては最高の結末と言える。
考えて見れば、世界的なミュージシャンであるジョンレノンとその妻ヨーコレノンは、ベットインパホーマンスで、世界平和をアピールしていた。
我輩が考えるに、或いは「日本人特有だった性文化」と「日本人特有の宗教観」と言うこの二つの「好い加減」な「貞操観念の希薄」が、世界平和と人類共生に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れない。
部族や民族、或いは信仰などで排他的に結束する事は一見正義(正しい事)と誤解し勝ちだが、実はそれが「一番の争いの基」で、そう言う争いの愚は千年・二千年経っても解けない性質のものである。
信仰は好い加減な方がちょうど良いし、部族間で混血融合が進めば一つの民族になる。
本来、信仰は人々に平穏と幸せをもたらすべきもので、我が日本列島では、古くは「誓約(うけい)の性交」が神事(部族融合の呪詛)だった。
この「誓約(うけい)に拠る部族融合」の話し、「個人主義の人権」を言い出したら話には成らないが、つい百年ほど昔までは親が決めた結婚相手と新婚初夜に初めて顔を合わせ、それでも立派に家庭を築いた。
「それは親の横暴で、愛がなければSEX何か出来ない」などと、ややっこしい事を言って居られる様に成ったのは、実は西欧個人主義文化の影響を受けたつい最近の事である。
この二十一世紀と言う現代文明の世に在って、未だ排他的な結束に拠って民族間対立に拠る騒乱内乱で多くの犠牲者が出る現状を垣間見る時、考えるに二千年も前の我が日本列島の民が生み出した「誓約(うけい)の知恵」は、或る種世界に誇るべきものではないだろうか?
こう言う事を書くと、欧米の私権主義に害された人達からそんな昔の事を持ち出して「時代錯誤」と非難されるだろう。
だが、もはや投機マネーが非生産の暴利を貪(むさぼ)る自由資本主義が行き着く所まで行き、私権主義が行過ぎて親子で殺し合い、イラ付くから誰でも殺し、地球の環境悪化より国や個人の「利」を優先する世の中に彼ら私権主義に害された人達こそ時代錯誤なのである。
本来の日本人が誇るべき「性と信仰の好い加減」さは、江戸末期に黒船がもたらした欧米の禁欲主義思想に拠って否定させられた。
その後、維新後の日本政府が誤まって手本にした欧米式の覇権植民地化の膨張主義が、日本人が誇るべき「共生思想」を否定して帝国主義を推し進めた一時期が在ったのだ。
明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本の宗教政策は大和朝廷以来江戸末期まで、信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)政策」だった。
つまり誓約(うけい)同様に、信仰も一体化を図って国内の安定を図って来たのである。
所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。
同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。
ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。
明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。
つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。
従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは「共生主義」の一形態として民衆の間に根強く残っていたのは確かである。
間違えて貰っては困るのは、「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく共同体としての「積極的な協調精神」である。
つまり、現在の欧米文化の影響を受けた私権的価値観では理解し難いだろうが、当時の村落共同体内での「夜這いや寝宿」などの制度に拠る「良い加減な性生活観」も、誓約(うけい)と言う考え方も、「積極的な協調精神として存在した」と考えれば、解釈が違って来る。
また、その「積極的な協調精神」を踏まえて「神は唯一無比の一体」と解釈すれば、釈迦もアッラーもキリストも同一の神と協調解釈出来るのである。
歴史的変遷の中で多少捻じ曲げられる時期は在ったにせよ、それらこそが、大半の日本民族をして争い拠りも「積極的な強調の手段」を採って来た「良い加減な性生活観」であり「良い加減の宗教観」である。
この国(日本列島)は、永い歴史に於いて帝(みかど/天皇)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。
この大和(やまと)の名称であるが、通常の読みでは大和は「ダイワ」と読み「ヤマト」は読み難い。
それを「ヤマト」と読ませるのは充て読みで、大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。
判り易いのに国家神話の天孫降(光)臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。
いずれにしても「ヤマト」は、国の成り立ちからして大和合を意味したものである。
黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服部族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがてその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させる。
この事は、「日本語のルーツ」を調べて見るとその成り立ちからも証明されている。
つまり小国家群「倭の国々」が大和合(連立して統一国家を形成)して統一中央政府「大和朝廷」を成立し、大国家の大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。
ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・・
人類は生意気にも神になった。
そして自らの生物学的生態系まで「左脳域の論理」で壊してしまった。
戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。
益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。
しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。
最初に言って置くが、「良いSEX」をして居る人間に「絶望」は無い。
これを言い代えれば、貴方が「良いSEX」をして居なければ、貴方には明るい未来が無い理屈である。
着眼点を変えて良く考えて見ると、収入が無い男は女性とは付き合えず結婚も出来ない。
現代に於いて、誰にでも性交の機会を与える村落共生主義のおおらかな性規範よりも、建前にしろ、結婚相手かそれに準ずる相手以外の性交を「ふしだら」として、性欲を抱えて悶々とする若者に対する現代の性規範の方が余程残酷なように感じるのは我輩だけだろうか。
人類は基本的な本能として他の生物同様に「生存本能」を備えている。
この生存本能の発露が「食欲」であり「性欲(種の保存本能)」であり、二次的なものとして危険を避けたり危険に立ち向かう為の「恐怖心」や「闘争心」なども無視出来ない右脳的な生存本能である。
そうした右脳的な生存本能の一つとして、人類はその種としての生い立ちから、「恐怖心」や「闘争心」を共有する事で生存率を上げる為に「共に生きる(共生意識)」と言う強い「帰属本能(群れ意識)」を持ち合わせて生まれて来る。
つまり人類は、「帰属本能(群れ意識)」を満足させないと、精神的安定を得られない。
そしてその「帰属本能(群れ意識)」は価値判断や心(精神)の安定に影響を与え、良きに付け悪きに付け「人生」と言う固体の一生に影響する。
実は、「帰属本能(群れ意識)」を裏打ちして保障していたのが、同じく「生存本能」に関わる「性欲(種の保存本能)」の結果とも言うべき「性交」と言う行為だった。
「性交」と言う行為は、「恐怖心」や「闘争心」とは好対照に位置付けられる「癒し」や「信頼の」共有に繋がるからである。
人生において、性は生に通じる大事な脳内シグナルであり、人間も生物で有る以上は法律や信仰だけではその影響を避けられない。
誰に教わらなくても生き物には、「生きるに必要な術(すべ)」と「子孫を残す(種の保存)術(すべ)」を遺伝子的な記憶として生まれ持ってその術(すべ)を知る右脳域感性の「本能」が備わっている。
従って子孫を残す(種の保存)術(すべ)である「性交の性欲本能」は誰にでも生まれ持って備わった本能で、「私はそんなスケベな女ではない。」は不可思議な嘘であり、それが事実であれば「性欲が無い方が異常」であから、医師の診察をお勧めする。
つまり本来は、男女の性別は問わずにスケベな「犯りたい本能」を持ち合わせていて普通なのである。
まぁ女性が本能的に性に警戒感を持つとすれば、「より優秀な子種を得る為の雌としての選別本能」である。
だが、人間の場合は「左脳域の計算部位の発達」と共に選別の基準が優秀な子種よりも「贅沢が出来る」や「生活の安定」と言った金銭的損得勘定が基準になったりするのであるから、もっと直接的な損得が性交の理由になっても不思議は無い。
つまり人類の歴史が始まって以来「手段としての性交」が存在し、その手段としての性交が日本の歴史では「誓約(うけい)」と呼ばれて存在した。
パートナーシップとは共同・協力・提携などの関係を言うが、誓約(うけい)の性交はそのパートナーシップの信頼の証(あかし)を証明する究極の具現形態ではないだろうか。
現在の世の中では、性交は愛情とワンセットのように捉えられているが、しかし本当に愛情だけが性交理由となりうるのだろうか?
尊敬や信頼・共生の手段が、その性交の理由であっては何故いけないのか?
つまり性を制御するだけではその影響が避けられない以上、本来なら人間社会は素直に誰にでも「なるべく良いSEX」が出来る環境を、精神思想において慈愛の中で醸成すべきだった。
にも関わらず性本能が避けられないもので有るからこそ、言わば「禁欲」を信仰上のもったいを付ける為の手段として主に知恵の浅い宗教家の陰謀で、禁欲的な性に対する考え方が広がった。
性欲が人間にとって大問題だったから哲学や宗教の中で処理しようとするのだが、元々本能に起因する事を理論でねじ伏せようとするのは無理があり、制御できないから性欲を問答無用で「恥ずかしいもの」にしてしまった。
男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。
つまり人間は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。
ここに一つのヒントがある。
争いの興奮を一瞬で鎮めるのは快感である。
アフリカ・コンゴに生息するサル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿・ボノボは、個体間の争いをする雄(オス)が仲裁に入った雌(メス)との交尾(性交)でその場を解決する。
勿論、ボノボ社会が「群れ婚」だと言う事で、争い即・「手近(てじか)な雌(メス)」との交尾(性交)が成立している。
近くに雌(メス)が居ない場合は、雄(オス)同士が睾丸をぶつけ合う疑似交尾(疑似性交)で争いを解消する。
それで類人猿・ボノボの事を、「愛の類人猿」などと表現する。
この類人猿・ボノボ、遺伝子が人類に九十九%も一致するほど最も人類に近い事が判っている。
以前は「ピグミーチンパンジー」と呼ばれた類人猿・ボノボは、チンパンジーに比べて上半身が小さく、それに比例して脳容量も小さい。
類人猿・ボノボの知性はチンパンジーよりも高いと考えられるが、ただし野生での道具使用は報告されていない。
しかし脳容量が小さいにも関わらず、この類人猿・ボノボは言葉を理解し、生殖以外の目的の性行動を行うなど、チンパンジーよりもずっと人間に近いとも言われている。
類人猿・ボノボの赤ん坊はか細く、成長に時間が掛かる為に頼りない状態が長く続くなど人類に近い成長過程を要する。
また類人猿・ボノボは、成長するとチンパンジーよりよく直立二足歩行するなど人類に近い特徴を備えている。
そして類人猿・ボノボは、大人のメス同士 が頻繁に果実を分け合う行動を取るなど共生生活を送っている。
その類人猿・ボノボが、争いの解決手段に交尾(性交)や疑似交尾(疑似性交)の快感を有効活用するなど、或る意味見事に合理的な方法を採っている。
戦後も六十年を経て、そろそろ私権ばかりに偏った考え方を、「見直す必要が有る」と考えても良いのではないか?
女性が「産まない権利」を主張する事は「生態系上不自然な事」と言わざるを得ず、日本人は滅びの道を進む事になる。
どこぞの女性運動家が、女性の権利を声高に言い立てて大学教授や代議士に成っているが、子供も創らずそうした個人の選択の権利を主張して飯の種にして居られるのも、世間が「珍しい生き物」、つまり「少数のわがまま女」としか見ていないからである。
彼女達の言い分がいかに矛盾に満ちているかは簡単に論破出来る。
貴方が、そのどこぞの女性運動家と同じ生き方の女性ばかりに日本中の女性が成った事を想像してみれば、直ぐにその運動家の主張が「国家を崩壊させる身勝手な主張である事」と直ぐに判るのである。
そしてその言い分に載せられた結果が、多くの「女性ワーキングプワ」を生んだのである。
つまり「正論だから」と言って、建前や理想だけを上げ面って居られるのは「一部の人間だけ」と言う現実を知らないか知らないを振りしていては、政治家や評論家は本来勤まらないのではないか?
シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。
従って、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは勘違いである。
脳が異常に発達して物事がシンプルに処理できなくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。
人間には誰にでも性欲があり、性交の快感は極自然な「神の恵み」である。
こんな簡単な事に気が付かずに「禁欲が尊い」とする綺麗事だけの宗教は、それだけもうで胡散臭い。
性欲を「恥ずかしいもの」とする事が知恵の浅い宗教家の「勘違い」だとすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか独占欲の拘(こだわ)りの問題である。
尚、性がおおらかだった時代の日本と欧米キリスト文化が流入して後からの日本では、明らか「性の歪(ゆが)みが方」が違う。
これが時代の経過による今日的なものでは無い証拠に、この現象は明らかに欧米キリスト文化では昔から存在した「性の歪(ゆが)みが方」なのである。
言って見れば、「良くも悪くも欧米化した」と言う事で、鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。
日本の庶民社会が性に対しておおらかな「共生社会」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?
米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。
それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせた。
この日本に於いて、平安時代から昭和初期まで農漁村の村落部に存在した「夜這い制度」のルーツは何処から来たのだろうか?
勿論「夜這い制度」は自然発生的な制度で、原始的婚姻制度としては繁殖相手を選択する極自然で素朴なものである。
そしてそれを理論的に裏付けたのが、「北斗・北辰信仰(妙見信仰/みょうけんしんこう)」であり、その後に弘法大師(こうぼうだいし/空海)が多くの経典と伴に中国から持ち込んだ密教(真言密教)だった。
チベット仏教(ラマ教)の国であるチベット、同じくブータン、そしてネパールと言う言わば中国・日本への仏教伝来ルートの国々は、現在でも一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)や一夫多妻(群れ婚)の国である。
「夜這い制度」を守る村落共同体内での「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく、共同体としての素朴な「積極的協調精神」である。
つまり「共生主義」は、女性側に選択権がある「夜這い」と言う極自然発生的な制度や「一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)」の制度である。
また、家族単位の「群れ婚状態」も在り、その家の長男が嫁をとり財産を引き継ぐと、男兄弟が何人居ようとその家に同居し長男の嫁をセックスの対象として共有させてもらう一妻多夫婚が普通である。
逆のケースとして、娘だけ何人も居る家庭では長女にだけ婿をもらい、他の娘はその婿をセックスの対象として共有する一夫多妻も存在する。
これらの国々の婚姻制度に関しては現在進行形と言う指摘や、極近年まで存在したが文明化で「無くなりつつ在る」と言う微妙に不確かな紹介もある。
近頃苦悩している日本経済の再生は「過去の歴史から学ぶべきもの」で、「米国型経済化」と言う猿でもしない強引な猿真似で解決できる筈がないのである。
現に現在の日本にはびこっているのは、「利の為には手段を選ばない」と言う「米国型経済化」の浅ましい風潮である。
明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。
敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。
実は儒教的「忠義」の価値観は氏族(武士)の一部にしか通用せず、庶民には無縁のものだった。
この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と戦後始まった欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。
現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。
しかし勘違いしてはこまる。
言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。
氏族(渡来征服者)ではない庶民(賤民/せんみん)奴婢/ぬひ))には縄文人(被征服者)としての独自文化・「集団婚(群れ婚)」の名残が残っていた。
つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這(よば)い制度」・「寝屋子親・寝宿(ねやど)親 制度」の意味が理解出来ないのである。
庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。
明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく国家の近代化を目指した。
一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。
同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。
ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。
明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。
つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。
従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも明治維新までは根強く残っていたのは確かである。
実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を代えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為に「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙した事に拠るのである。
また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るもので、この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。
宗教上(信仰上)の本来不変である筈の正しい教えが、権力者の都合や宗教指導者の都合、歴史の変遷の中で変化して行く所に、宗教(信仰)の妖しさを感じるのは我輩だけだろうか?
近頃、日本の社会の治安悪化が懸念されている。
そもそも日本の社会では、家制度を基本とする恥文化として家単位としての「世間様に恥ずかしく無い様に」が、日本人の一つの規制的な行動制約に成っていた。
つまり親兄弟にまで恥が及ぶ家制度が、一種の犯罪抑止力と成っていた。
その家単位としての考え方が、村や地域の社会単位が希薄になった事で「隣は何をする人ぞ?」と成って人間関係を築け無く成って社会的孤立が進み、生活の基準が個人の単位に代わって家単位としての行動制約は無くなって行った。
為に家単位としての行動制約は無くなって、現代日本社会は「自分さえ良ければの価値観」の中で身勝手な行動をする日本人が増える悪い状態にある。
そこで問題なのが日本人の単純化したがる悪い癖で、こうした不都合を総体的環境とは考えようとはせず、個別の事として取り上げ考える事である。
我輩は、日本人が過って持っていた家制度恥文化の規制的な行動制約の原点を「群れ社会」と見ている。
つまり象のシッポ部分だけ取り上げて、「家制度が壊れて行動制約を失った」と言うのは良いが、その家制度が村や地域の中で成立していたにはそれなりの魅力的な群れ社会構造である「村落社会(共生社会)」が在った事をロスト(欠落)してしまう訳である。
もし、総体的環境と捉えないで「家制度と世間と言う行動制約の崩壊」を問題視するとその解決策は綺麗事の精神論を持ち出すしか無いが、そんな具体性が無い事を社会の柱にしても現代人が傾倒するだろうか?
一応その綺麗事の精神論で建前は建てられるかも知れないがあくまでも建前で、本音が無いから誰も具体的な方向性を得られる訳では無い。
いずれにしても日本人は、「総体的環境」と言う条件の中で矛盾が生じると、不都合な具体的な事には目を瞑り解決の逃げ口に必ず「精神論」を持ち出して、結果、成果の得られない不毛な主張を延々とする人種である。
戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。
益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。
しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。
戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。
益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。
しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。
そしてそれに更なる後押しをしたのが、小泉・竹中の薄っぺらな「米国型競争経済化」と言う構造改革の正体である。
誓約(うけい)に拠る身内感覚の村落共同体意識が在ったからこそ「田植え」には村人総出の相互協力体制があった。
村八分に威力があったのは、この相互協力体制から外されるからである。
その相互協力体制が崩壊したのは、戦後の教育方針が集団から個に重点教育が為されて誓約(うけい)に拠る身内感覚の根幹である「群れ婚状態(寝宿制度や夜這い制度)」は消滅し、集団から個に意識が変わった事に拠るもので、村落内でさえも個の主張が幅を利かせている。
戦後、村人総出の「田植え」相互協力体制は壊滅に向っている。
この事は、単に「農業が機械化された事」とするのではなく、「身内感覚の村落共同体意識の喪失」と言う精神的な共生イデオロギーの崩壊を意味し、その事が他人を思い遣る事の無い「現代」と言う名の不毛な社会を醸成し続けている。
勝手に他家に上がり込んで飯びつの飯を家人の断り無く喰らっても、村内の者なら咎められる事のない「過って知ったる他人の家」は、この村落共同体社会の全村身内の気分が連携抑止力を生み、鍵を掛けない平穏な村落風土を育んだ土壌である。
つまり戦後の日本社会が私権を強調し過ぎて「隣りは何をする人ぞ」と、隣人との連携を失ってしまった。
犯罪抑止力の観点からすれば、隣家・隣室で幼児虐待や家庭内暴力、殺人強盗事件が起きても「そう言えば三日ほど前に異常な物音と叫び声が有った。」と言う他人事の証言になって、児童の通学まで危険に成ってしまった。
村落共生社会が崩壊した直接の原因は集団就職(しゅうだんしゅうしょく)である。
定義される集団就職(しゅうだんしゅうしょく)とは、未就業者(新卒者)が集団で特定の地域へ就職する事を言う。
第二次世界大戦前にも、高等小学校を卒業した人が集団就職する例も多少在ったが、昭和三十年代〜四十年代を中心とした高度経済成長期の大規模な集団就職が、特に代表的なものである。
土地(農耕地)を分け与える余裕が無い農村部の次男以降の子が、新しい生活の場を都会に求めて中学校や高校を卒業した直後に主要都市の工場や商店などに就職する為に臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。
集団就職列車は千八百五十四年(昭和二十九年)四月五日の青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始された。
つまり集団就職とは、日本の高度経済成長期に盛んに行われた農村から都市部への大規模な就職運動の事をさす場合が多い。
この集団就職列車は、千九百七十五年(昭和五十年年)に運行終了されるまでの二十一年間に渡って就職者を送り続けている。
集団就職の影響としては、都市部の人口の増加と村落部の人口減少、それに伴って各種の影響が在った。
特に現在では、村落部に高齢者ばかりの「限界集落」が急増し、生活圏としての体(てい)を為さない地域が多数問題に成っている。
都会に大量の若年層の人口流入が見られ様になると、その若者達に依る若者文化も発生し都会の生活に影響を与えた。
また、就職者の待遇の悪さや学歴の低さから、その子弟の教育水準の低下が起き、「学校教育関係に影響を及ぼした」と言う人もいる。
只、集団就職に依って大企業に止まらず中小零細企業に到るまで安い労働力を大量に供給し、「日本の高度経済成長が下支えられた」と言える。
また、昭和三十年代〜四十年代の集団就職で村落共生社会の若者男女が都会に取られて事で崩壊し、「夜這い制度」や「寝宿制度」などの性文化が消滅した。
この村落共生社会に於ける「シェア(分かち合い)の精神」を基にした性文化の消滅が、後の昭和六十年代から始まる「少子化の遠因の一つ」と成った。
つまり供給源としての人口維持装置だった村落共生社会の性文化の崩壊が、二世代を経て国家経済と福祉制度の根幹を揺るがす「少子化問題」を招いた。
勿論その性文化の崩壊だけでな無く、戦後の欧米化教育に依る「個人主義」で親類や親兄弟への心配りが希薄になった面で、「結婚しない自由」や「産まない自由」が公然と主張されている。
この親類や親兄弟への心配りが希薄になった事も、基を正せば集団就職に依って「居住の距離が遠く、互いに疎遠になった為」と言う考え方の変化に対する影響もある。
人は一人では生きては行けない。
しかしその現実は極端な私権意識の中、隣人愛どころか家庭の崩壊さえ進んでいる。
後発で現れた商(あきない・商業)が、やがて大きく広域な経済活動になり、今では拝金主義のマネーゲームに明け暮れている。
日本の文明は、「私権的都会化物質文化」と伴に荒廃して行くのかも知れない。
鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会(共生社会)」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。
この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。
幕末の日本を訪れた全ての外国人が日本人を見て驚いた事は、日本人がおしなべて「愉快そうに暮らして居た事だ」と言う。
づまり外国人が驚いたのは、屈託無い笑顔がこぼれる日本人の暮らし方だった。
この外国人が驚いた「愉快そうに暮らす日本人」の根底に在ったものは、町場の町役人を頂点とする運命共同体的近所付き合いの町人生活と村落部の夜這い村落共同体村人生活が、結構生活し易いものだったからに他ならない。
そして、その愉快そうに暮らしていた日本人から笑顔を取り上げ表情を暗くして行ったのが、皮肉にも西欧文化を取り入れた文明開化だったのである。
おおきなお世話だが、ぺりー提督の黒船の後に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結させたタウンゼント・ハリスが民衆の生活を見聞し、 日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う。
これを持って明治維新政府は、「野蛮批判」を恐れて自国の性規範の欧米化に躍起になる。
「黄色い猿真似」と揶揄(やゆ)された鹿鳴館外交もそのひとつで、まずは形から入って欧米化を進めたのである。
勿論当時の世界情勢を見れば「植民地化」を恐れての事で、理解は出来るのだが・・。
ヨーロッパで起こった大帝国が、様々なローマ神を奉る万神殿・パンテオンに代表される多神教のローマ帝国で、それが快楽と堕落に溺れて滅亡した反省から生み出されたのがキリスト教であるから、キリストの教義が禁欲的で在っても仕方が無い。
しかしローマ帝国が世界的な大帝国で在り得たのも、様々な人種と信仰を受け入れた多神教国家だったからであるし、後に東アジアから起こった世界的な大帝国・モンゴル帝国も、あらゆる人種を政治や軍の高官に登用し、様々な信仰を受け入れた多神教国家だった。
つまり、人種的帰属意識や単一神信仰を前面に出せば、それは「世界規模の共存」とは相反する行為であり、その事が日本の黎明期に起こった誓約神話に拠る異民族(異部族)融合に通じるものがあるのだ。
まぁ、キリスト教はローマ帝国の腐敗や堕落の反省から生まれた信仰だから、禁欲的教えでも仕方が無いが、それは建前の範疇での事に過ぎない。
言わせてもらえば、キリスト教徒の中にでもフーリングが合えば「神の思(おぼ)し召し」で浮気不倫をする者も居る。
そしてそれが間違いなら、「懺悔(ざんげ)」をすれば赦される仕組みになっている。
キリスト教徒と言えども人間だから、時には悪魔に惑わされる事も有る訳である。
浮気不倫は存在し、勿論、合法非合法の別は国に拠って様々だが、現実に「売春・買春」もキリスト社会に存在する。
何だ「性に対する柔軟性は一緒じゃないか」と思うだろうが、実は大きな違いがある。
ここでキリスト教徒が日本の性規範(性意識)を批判したかった決定的な違いは、キリスト教徒の場合は「フーリングが合えば」と言う「個の感性」が基本と言う点である。
その「個の感性」を基本とする欧米個人主義に比べ、一方日本の明治維新当時のおおらかな性習俗は、「寝屋子宿(ねやこやど)・寝宿(ねやど)制度」、「夜這(よば)い制度」、「暗闇祭り」と、言わば群れ社会の性規範が在った。
「集団婚(群れ婚)」の名残である集団的性規範を、「民族性の違い」にも関わらず自分たちの感覚と比べ「信じられない」と批判したのである。
一方、全体の五パーセントを占めていた氏族以外、日本人の大半は全てに渡って集団共生社会(村社会)だった。
日本全国で村々で完成されていた共生社会(村社会)は、誓約(うけい)の信頼の下での「共【性】・群れ社会」でもあった訳である。
この物語の第一巻でも述べたが、総論的に解説すれば、渡来氏族と縄文人(蝦夷族)が日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成された。
その同化過程の中で、渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだが、当然ながら初期の被支配階級の縄文人(蝦夷族)には自分達の習俗を温存しようとする種族としてのプライドがある。
先進文明を携えて来た渡来氏族の文化が如何に優れていても、縄文人(蝦夷族)側にも種族としてのプライドを持って習俗を温存する意識も存在するから全てが支配階級の氏族と同じ習俗にはならない。
被支配階級の縄文人(蝦夷族)の村落として共存精神を軸に置いた独特の共生村社会が構成されて行く。
勿論、支配側の氏族の方でも同化策として山深くまで信仰を主体とした修験道師(山伏)を派遣して氏族への恭順啓蒙活動をするが、何しろ為政者側にして見れば縄文人(蝦夷族)出自の種族は非好戦的で従順な被支配階級にするのが望ましい。
それで修験道師(山伏)は、弱肉強食の氏族とはまったく別の善良教育・共存精神を彼等に施した。
つまりこの共生村社会のルーツは、現在でも有り勝ちな異民族同居状態に於ける弱者民族が、独自の文化社会を構成して同化に抵抗する構図である。
そしてそれは二千年に余る永い間、弱肉強食の「氏族社会」と被支配階級の縄文人(蝦夷族)の「共生村社会」と言う異文化が日本列島で共存して行く事になる。
誓約(うけい)の信頼の下で、群れ社会に生きようとするならば、それは虚飾を剥(は)ぎ取ったものでなければならない。
虚飾に色採られた綺麗事からは仲間の信頼は得られないからこそ、自然体(ナチュラル)に身も心も曝(さら)け出しての和合の付き合いが、純粋(ピア)に生きる村社会の掟だった。
つまり村社会は長い事「群れ婚状態」で、「水揚げ」や「筆おろし」に始まり、「夜這い」や「寝屋子宿」と言った言わば村の存続と団結維持の為のボランテイア・セックス(機会の均等)の側面も有していた。
それでも村落に於ける夫婦間の愛情は成り立っていたが、それには「大信不約(たいしんふやく/五経の一つ礼記の中の一則)」と言う考え方が在り、「大信は約せず」と読み、ひとえに夫婦間の愛情に対する信頼の重みを大事にしていたからである。
つまり大きな信用に「ルール(約)は必要が無い」と言う事で、本当の理想の人間関係には個人の独占欲などを斟酌(しんしゃく)した改めての夫婦間の約束(ルール)は不要なのである。
この「個」と「集団」の違いは民族性の違いで、実は基本的カップルの相手以外と性交する点では余り変わりは無い。
それを欧米諸国は、自分達の感性と違うから明治維新当時の日本は「性に乱れている」と批判し、その批判に文明開化を急いでいた明治政府がバカバカしい事に慌てて、「寝屋子宿(ねやこやど)・寝宿(ねやど)制度」、「夜這(よば)い制度」、「暗闇祭り」に禁令を出したのである。
この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。
日本の大和朝廷が古事記と日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。
本来なら、この世の最高神は一体でなければ成らないから国家指導者はこれには困った。
しかし、そこは誓約(うけい)の知恵で倭の国々(征服部族国家)を統一した大和朝廷とその民ならではの柔軟な知恵が浮かぶ。
世の最高神が一体ならば天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と陀羅尼神(だらにしん)は「呼び方が違うだけで同じ神様である。」と、日本列島の支配者と民はそれを否定することなく同一の神として受け入れた。
本当に知的に生きるとはそう言う事で、いたずらに他宗を排斥するのは宗教指導者の欲心以外のなにものでもない。
もはや残された時間に限りが見えている。
この目的に向って、人種の色も宗教の壁も素直に取り払わなければならない。
地球環境が危機に直面する現在、現在の規範に照らして奇異に感じるこの提案であっても、これからの人間は「共生社会の精神」を持って生きなければ人間たり得ないのである。
再び言うが、宗教に対する日本人の「貞操観念が希薄」と、今は失われたおおらかだった【日本人の性文化(誓約/うけい)】と言う日本古来からのこの二つの「貞操観念の希薄」が【世界平和と人類共生】に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れない。
現に日本列島の民人(平民・非人)は、永い間そうした精神世界で生きて来た。
地球を救うイデオロギーのヒントは、この二つを基本として組み合わせた日本の特異な文化【共生社会(村社会)】のイデオロギーの中にこそ隠されている。
既成概念に囚われた貴方は「貞操観念に希薄な共【性】規範などとんでもない」と言うかも知れないが、真面目な話、現実はどうだろうか?
既に「待った無し」に成りつつある地球環境の悪化は、人類滅亡の危機である。
人類滅亡の危機を回避するには、「人類が共生イデオロギーの成立をさせる」事を無くして地球規模の環境対策合意は為されない。
所が、この理想に立ちはだかるのは宗教観と民族意識であり、個の利であり国家の利である。
それらが、普段トコトン優しくなれる心を持ち合わせている人間にも関わらず、反面で抱えている残念な邪悪である。
宗教観や民族意識で敵対意識を抱えたり目先の「利」を求めては、この地球危機にとても間に合わない。
その垣根を取り払った知恵が、何でも受け入れる八百万の神(やおよろずのかみ)の信仰であり誓約(うけい)の大和合であり、集団婚(群れ婚)婚的な村落共【性】規範だったのである。
日本の村落農業に於いて「肥(こ)え」と呼んだ村落社会の人糞堆肥(たいひ)肥料など、世界に類を見ない無駄の無い循環型農業も「自然との共生」の象徴である。
自然との共生を見事に具現化した村落共生社会の共有生活財産としての「里山」の長年の維持管理は「時代遅れ」と「利益効率」の名の下に放置され、欧米化のケミカル(科学肥料)農業に切り替わって村落の「自然との共生」は失われて行った。
ここで問いたいのは、「自然との共生」は国家として不要な事だったのだろうか?
日本の政治が目を向けていたのは、「開発」と言う名の自然破壊ばかりだった。
つまり国家として税金を投入してでも維持すべき国の宝物を、個人や最小の行政組織(山間の小自治体)に押し付けて放置し、諸氏承知のごとく税金の無駄使いである大型開発・土木建設事業に、金になるのか票になるのか国が借金してまで血道を上げていた。
個人の「私権と利」ばかりが突出した現代に在って、個人や最小の行政組織(山間の小自治体)に「里山」や「村落共生社会」は生き残れはしない。
しかし地球が悲鳴を上げつつある現在、「時代遅れ」と言われて来た古来日本の知恵が、現代の地球規模の天候不順で、もう「待った無し」に考え直される局面を迎えているような気がする。
現代人には奇妙に思える「水揚げ制度」や「筆おろし制度」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習、「夜這い制度」や「寝宿制度」など、現代では否定される性文化でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思えた歴史がある。
現代では否定される事でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思える場合がある。
これこそ誓約(うけい)精神の原点なのだが、群れを強く意識した村落共生社会では「囚人のジレンマ」と呼ばれる個人性と社会性のせめぎ合いの中から共に生きる為に生まれた協調性が、村の掟(ルール)として採られたのではないだろうか?
囚人のジレンマとは、群れ合意(社会性)と個人の意志が必ずしも一致しない為に、個人の意志を優先すると群れとしての利益を失い、結局個人も大局的には「利」を失う事を言う。
それ自体は応用範囲の広い人類永遠のテーマであるが、二人の隔離した囚人の自白ゲームがモデルとなっている為に「囚人のジレンマ」と呼ばれている。
自らを有利にする自白は、同時に友人を陥(おとしい)れて失う事である為、合理的な各個人が自分にとって「最適な選択(裏切り)」をする事と、全体として「最適な選択」をする事が同時に達成できない事が、ジレンマ(板挟み)なのである。
つまり個々の最適な選択が全体として最適な選択とは成らない状況が存在する事を指して「囚人のジレンマ」と言う。
しかしながら人間は独りでは生きられない動物であるから、結局個人は「群れ」と言う社会性に囚われているので、個人が確実に「利を得る方法」を選ぶなら群れに対する協調性が必要に成るのである。
但し余り極端に走ると国家全体主義に走る恐れがあるので、あくまでも国境と人種の壁を取り除く事を含めての「共生主義」へのイデオロギーの転換が必要なのである。
荒唐無稽であろうとも夢物語であろうとも、今日の一歩を明日に繋(つな)げて行かなければ理想社会は永久に来ない。
それを「今食べて行くに精一杯で難しい事は考えては居られない」と逃げたり、「単なる理想論だ」と潰してしまう中途半端な知識人が多過ぎるのである。
人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。
そして発想が自由でなければ、斬新な思考は創造(う)まれない。
つまり学んだ学問は、新しい発想の原点に過ぎないのであるから「学問を修めたから」と言ってそれを絶対視する事自体が危険な思想である。
最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。
これも日本社会が欧米化されて増加した少子化の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性の精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。
つまり「群れ婚」や「真言密教立川流」を、安易に現在の性規範だけで判断する事は出来ないほろ苦い現実も存在している。
実はこの不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。
この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。
そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。
そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。
人類の男性精子と同じ霊長類のゴリラやオラウータンの雄の精子を顕微鏡に拠る目視で比較すると両者には「量も活動性も極端に違いがある」と言う研究結果が出ている。
顕微鏡目視で明らかに量が多く活発なのはゴリラやオラウータンの雄の精子で、人類の男性精子は明らかに劣っているのだ。
詳細を研究して得た成果に拠ると、男性精子は虚弱化してしまい女性の体内を競争して子宮に辿り着き卵子と結び付くには量も活動性も極端に見劣りしているのである。
これを比較研究して出した結論が、男性精子と同じ霊長類の子孫繁殖に関しての比較結果、人間は「一夫一婦制」が弊害となって子宮側に精子選択の機会が無い為に自然淘汰が機能していない情況にある。
それが何世代も続いて本来は自然淘汰で振るい落とされるべき虚弱精子の持ち主が子を為して子孫に受け継がれているのである。
対して、ゴリラやオラウータンなどの霊長類は「群れ婚」の為に、実際に生き残る精子は量も活動性も強い精子を持つ親の遺伝子の精子が選択されながら次代に受け継がれて行く。
この先端の研究を大胆に歴史にリンクすると判り易いのだが、例えば歴代の皇統や、江戸幕府・徳川家の場合は男性精子に自然淘汰に拠る繁殖力を求めない独占的環境にあるから、代を重ねると当主の持つ精子は結果的に虚弱化してお世継ぎに困る事例は数多い。
同じ研究理由から永く続いた共生村落社会(村社会)では、永い事「夜這い制度」や「寝宿制度」、「暗闇祭り」などの「群れ婚状態」が続いて、そちらの方の男性精子は強者生き残りの競争が自然淘汰に拠る繁殖力を維持して来た。
その量も活動性も強力な村落部の男性精子の繁殖力は終戦後まで続いて、村落部では八人、十人と子沢山の家庭が普通だった。
これが、「貧乏人の子沢山」の正体だったのである。
つまり本来の自然側から言えば、一夫多妻ではなく卑弥呼のような女王蜂状態の一妻多夫が初めて強い精子の生き残り競争原理が働くのである。
だから、春日局(かすがのつぼね)の構築した大奥のシステム「多くの女性に将軍一人」と言う血統の保存継続は、あくまでも氏族の血統重視論理で在って人類の「種の保存」と言う自然の法則とは真逆であり合致しないものである。
近頃の不妊治療技術の発達で、子の為せない夫婦に医学的に子をもたらす技術が成果を挙げているが、その繁殖力の弱い男性精子が次代に引き継がれて、「虚弱精子劣性遺伝加速して行く」と言う一次凌ぎのジレンマを抱えたものなのだ。
何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。
精子が女性の体内で過酷な生き残り競争の挙句卵子に辿り着く試練を与える自然淘汰原理は、子孫に強い精子のみの生き残りを図り、次代に優性な精子を選別して伝える為である。
現状を肯定すれば、一夫一婦制の家族単位は社会生活の安定として正しいかも知れないが、角度を変えて人類の未来を見据えると、この「虚弱精子劣性遺伝」の婚姻関係を続ける事は賢明とは言えない。
この人類の危機を回避する為には自然淘汰原理からすれば、強い精子を女体が受け入れる機会は多いほど良い。
つまり、この虚弱精子劣性遺伝を回避するには「群れ婚乱交状態」が理想で、初めて種の優性遺伝が為される事になる。
日本の村落に於ける共生社会(村社会)に於いては、元々「夜這い」や「寝宿制度」の群れ婚習俗であり、子供は「授(さず)かり物」だからその家の女性から生まれた子はその家の子で「誰の種(父親は誰)」などとは詮索しないで育てるルールだった。
統治の安定の為に「家族単位の維持」と言うある一面だけの都合で決めた事に絶対は無いのであるから、本来なら欠陥が見つかれば決め事に妄信せず「間違いは正し、足らざるは補う」が懸命な選択である。
つまり自然の法則から言えば、強い男性精子を選択的に継承して行くには女性の方に性交相手の選択権が有る群れ婚状態が合理的で、群れ婚に拠る乱交が、優秀な男性精子を競争の中で選択させる環境が守られていた。
所が男性リーダーが群れの中でその種の保存の自然の法則に反する男系の血統が重用される権力環境が成立して人類は破滅の道を歩んでいる。
これはあくまでも生物としての自然の法則だけで捉えた見解であるが、如何なる社会性を鑑みても「滅亡してから気が付いた」では遅いのではないか?
自然界に於ける繁殖行為は生物としての最小限の命題だから、遡(さかのぼ)って辿って行くと色気こそが人類の文化や芸術の源である事に気が付いた。
いや、この事は「気が付いた」と言うより軸足の問題で、多くの人間が承知の上で「色気(性欲)を否定して居たかった」のかも知れない。
もっとも左脳域の感性は五感から発する物であるから、信仰を含めその原点が色気(性欲)で在っても何の不思議も無い。
その事が、「社会制約」と言う別の次元の要件の為に、次第に抹殺されて行ったのが現代社会ではないだろうか?
誤魔化しの合意には説得力は無く、元々自然の前では人間の思惑など一溜まりもない。
そして人間は、そこからいったい何を学べば良いのだろうか?
現在の社会体制を中々変えられないのが人間だが、もう既に人類滅亡の足音がヒタヒタと聞こえて来る情況にある。
今の結婚相手の条件は感性的に「好ましい相手」などと勝手な事を言っているが、やがてこの虚弱精子劣性遺伝問題が進めば結婚相手の条件は「強い精子を持つ男性」と言う事に成るかも知れない。
つまり目的に対する価値判断だから、或いは昔の共生村社会のように好ましい相手との婚姻関係と強い精子を得る為の行動は分離して考える社会合意の時代がやって来るかも知れない。
そう言う社会体制を「異常(いじょう)」と勝手に思い込みたがるのは結構な事だが、強い子孫を残す為の実態はそんなものではない。
この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、基準は歴史と伴に変遷するものである。
「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。
元々日本と言う国は、下々(しもじも)に於いては共生村社会で、実質的に群れ婚(集団婚)状態だったから強い精子が自然選別的に生き残ったし、血統至上主義の貴族や武家社会では、その制度の欠陥を補完する為に養子が常態化して一般的に普及している国だった。
つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。
人間の遺伝情報を伝える染色体にはXとYがあり、女性のX染色体は二本在って片側一本のX染色体でも障害に対するスペアー機能が利き、新しい卵子に拠って生まれ変われる。
だが、男性を形成する染色体はX染色体とY染色体の各一本で構成される為にY染色体は一本限りで、生殖の過程でY染色体に遺伝情報的な欠陥が生じても修復される事なく男性に限り延々と子孫に受け継がれるものである。
人間の性染色体の形式はXY型であり、これ以外の性別決定機構もない為にY染色体の有無に拠って男女の性別が決定する。
つまり男性の場合は「X染色体とY染色体の二本」で構成され、女性は通常「X染色体のみが二本」で構成されるのだが、遺伝子異常などで一本になっても(ターナー症候群)女性として生まれる。
同様に、X染色体とY染色体を一つずつ持つ筈の男性がX染色体二本とY染色体を一本持っていても(クラインフェルター症候群)男性として生まれる事が判っている。
ここで問題なのが、男性に限り延々として子孫に受け継がれるY染色体である。
女性の場合はX染色体のみが二本受け継がれるので、染色体の内一本に損傷が出ても他の一本が正常に機能して正常な遺伝が子孫に受け継がれて行く。
所が、延々として男系子孫に受け継がれるY染色体は、何らかの欠陥が生まれても代替の染色体を持たないから欠陥を抱えたままのY染色体を持つ精子が延々と子孫に引き継がれる為、基本的にY染色体は劣化の道を歩んでいる。
Y染色体を持つ男性でなければ精子は造れない。
そこに現在の社会基盤である「一夫一婦制」に拠り、自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が出来なくなって、殊更に劣化した精子に拠るY染色体が延々と引き継がれる事になる。
こう言う事を書くと現代の貞操観念で「大勢の男を性交相手に持つなどとんでもない」と言うだろうが、卑弥呼の女王国(邪馬台国)では多くの男性が取り巻く女王蜂状態だった。
やはり古代に遡って行くほど自然の摂理に近い社会だったのだろう。
時代が下がった平安期までは「妻間婚(呼ばう婚)」で、言わば女性がその気に成れば何人でも寝屋に引き入れた。
Y染色体が正常再生が不可能なものなら、せめて自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が可能となる群れ婚(乱交)状態が子孫の継承には理想的だが、人間は「生活基盤の安定」と言う社会性(男性のエゴかも知れない)を採って、女性にそうした機会を与えてはいない。
また近親婚に拠る劣勢遺伝も、或いは同一染色体の欠陥が増幅されて劣勢遺伝の確立が高まる事も一因かも知れない。
実は、生物は全て遺伝子を持っているが、遺伝資源(いでんしげん)は新たなる「現代の鉱脈」で、これは野生生物に限らず、農作物や家畜等の品種や系統も重要な遺伝資源である。
遺伝資源(いでんしげん)とは、現在或いは潜在的に利用価値のある遺伝素材で、ここで言う遺伝素材とは遺伝の機能的な単位を持つ生物その他に由来するものを言う。
つまり人類にとって遺伝資源(いでんしげん)は、農作物や家畜の育種、医薬品開発、バイオテクノロジーの素材や材料として考えた場合、 全ての生物は、将来役に立つ可能性がある。
また生態系の維持には様々な生物種が必要である事は明らかで、生物及び生物を生物たらしめている遺伝子は、これらの観点から重要であり一度失われると二度と完全には復元できないから保存は急務である。
遺伝資源としては生物多様性が重要で、これら資源を保全保護する為に日本ではジーンバンク等の機関があるが、 遺伝子プールの豊かさを考慮すると生息地ごとの保全が理想的である。
只、矛盾する事に現在の人類がそこまで科学を先鋭化しているにも関わらず人類そのものの遺伝資源(いでんしげん)については、深刻な「虚弱精子劣性遺伝」の問題などに正面から向き合う事を避け、感情論や倫理観の「べき論」が優先して着実に滅びの道を辿っている。
自然界では、子孫に強い遺伝子が伝わりそうな相手を雌が選ぶ事が一般的で、地位・金・好みの風貌などの「他の条件」を優先するのは人間だけである。
これほどの難問など無いかも知れないが、良くも悪くも永い人類の歴史於ける自然淘汰との戦いは「虚弱精子劣性遺伝」の問題をより深刻なものにし続けている現実を、立ち止って考えて見る必要が在りそうだ。
いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。
この虚弱精子劣性遺伝、現代の「一夫一婦制」での解消は理論的に難しいが、せめて精子に活力を与える食品の可能性はある。
それは、亜鉛パワーの事である。
天然亜鉛は現代の栄養学の中で、注目されている微量健康ミネラル(必須微量元素)である。
この天然亜鉛が「現代日本人が最も不足している微量健康ミネラル」だと言われて居る。
亜鉛(ジンク)は、たんぱく質の合成や骨の発育などに欠かす事の出来ない必須ミネラルで、新陳代謝を良くし、免疫力を高め、タンパク質やDNA、RNAの合成に関係し、マグネシウムと同様に百種類近くもの酵素に関与している。
亜鉛が体内で不足すると、「味覚障害や発育不全、機能性障害などを引き起こす」と言われれ、また有害物質を捕まえて毒性を抑え、排泄させるタンパク質の誘導役でもある。
天然亜鉛の一日の必要量は十五mgで、微量健康ミネラル(必須微量元素)であるこの重要な天然亜鉛が、近年の食生活様式では不足している可能性がある。
厄介な事に、この天然亜鉛は体内で合成する事が出来ず吸収され難い微量健康ミネラル(必須微量元素)で、体内の亜鉛が不足してしまうと、細胞分裂などがスムーズに進まなくなって新陳代謝が活発な器官ほど亜鉛不足の影響を受けてしまう。
人間の身体の中では筋肉や骨、肝臓、精巣や前立腺などの性腺にもかなりの量の天然亜鉛が含まれているのだが、これが加齢と伴に減少して肉体的な衰えを見せるのである。
天然亜鉛を摂取する食事のメインとしてのお勧めは特に鰻(うなぎ)料理と生カキやカキフライなどのカキ料理である。
他に、その他に牛肉(もも肉)、チーズ、レバー(豚・鶏)、卵黄、大豆、納豆、きな粉、豆腐、そば、ゴマ、緑茶、抹茶、カシューナッツ、アーモンドなどが限定的に出て来る。
このメニューの狙いは強壮剤(若さの維持)として亜鉛の摂取である。
天然亜鉛は「性のミネラル」とも呼ばれており、前立腺で性ホルモンの合成に関わり、精子の生産を活発にする。
前立腺で合成された性ホルモンは男性器の勃起力を高め、精子の生産は性欲を増す為、体内の亜鉛が不足して来ると生殖能力(勃起能力)が衰えて子作りが出来難くなってしまう。
そればかりでなく、「生殖能力が衰えて子作りが出来難くなる」と言う事は男性機能の衰えに止まらず、性は生に通じる為にその男性の生活意慾(活力)や精神力まで奪ってしまうのである。
その辺りが日本の男性から男らしさを奪ったり、社会問題に成っている「直ぐ切れ易い人間」を出現させて、また自殺の多発を招いている「原因の一つ」である可能性が想定される。
当然ながら、肉体的衰えは生きる気力にも反映する。
年とともに減退していく精力は男性共通する大きな悩みのひとつで、この様な年とともに衰えて行く肉体的な特徴は避けられないものであるが、様々なミネラルが関係している精力減退要因の中でも天然亜鉛は深く関与しているのである。
一つ言って置きたい事がある。
日本と言う国の事を、武士道の精神の国などと言う輩は、余程の歴史音痴か腹に一物持っている相当片寄った思想の持ち主である。
殺戮に明け暮れた氏族の社会が格好が良い英雄の正史で、優しい夜這いの共生村社会が外聞も憚(はばか)られる消したい歴史とは、日本人の感性はどこに行ってしまったのだろうか?
本来のこの国の大半の人々は、永い事「共生主義」の思想を持って命を繋いで来た優しい人々なのである。
ここに、日本列島の歴史と比較するに好対照の歴史が存在するので紹介する。
三千年前まで日本列島と同じ経緯を歩みながら、列島が明治期に入る頃までおおむね中華文明から置き忘れた大きな島・台湾島の存在である。
台湾島は、十八世紀から十九世紀頃に到って漢民族が移住して来るまで日本列島と同く黒潮に乗って移り住んだ原ポリネシア系の原住民の暮らす島だった。
中華文明から置き忘れた理由は、朝鮮半島から遠く離れ倭の国々に属さなかったからで、文明的進歩は二千年以上止まったままだった。
この中華文明から忘れ去られた台湾島は、日本列島の歴史のように「誓約(うけい)の概念による混血」と言う平和的な民族合流の手段を持たなかった。
その為に、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って他を排斥して三千年間からの対立の歴史を繰り返し、統一される事無く小民族乱立の中、言語の通じない人間の首を狩る出草(しゅっそう)と言う風習が根付いていた。
つまり、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族がそれぞれ全く交流する事無く、首狩りそのものが「一人前の成人男子の通過儀礼」とされ、信仰的な意味合いも在って狩った首の数は同族社会集団内で誇示される風習が存在した為、異なる部族への警戒感が強かったのである。
台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に十七世紀頃に漢民族が移民して来る以前から居住していた先住民族の呼称である。
日本が植民地支配を始めた明治期の頃の台湾には、平地に住み台湾原住民族と漢民族が混血同化した平埔族(へいほぞく)と高地(山岳地帯)に住み独自の言語・文化・習俗を守って暮らしている高砂族(たかさごぞく)が存在した。
多くの民族集団に分かれて並存し、十四民族(部族)を数える台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の内二民族が平埔族(へいほぞく)、十二民族が高砂族(たかさごぞく)とされた。
台湾原住民の中で一番多い人口規模(総人口の37.5%)を持つ平地民族集団・アミ族と台湾原住民のなかで唯一台湾本島の南西沖の孤島・蘭嶼に居住する民族集団・タオ族を除くと、大半が好戦的民族だった。
そんな台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の中に在って、アミ族の家長は女性で優先順位は女性側にあり、家業・財産は長女が受け継ぎまた姓も母方の姓が引き継がれる母系社会である。
母系社会のアミ族は、アミ語で「シカワサイ」と呼ばれる女シャーマンが主催する二ヶ月に及ぶ秋祭りがおこなわれ、童女が集められて盛んに踊り、激しい踊りの中でトランス状態に陥った童女が次代のシャーマンに任命される。
台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)十四民族(部族)に在って「強い母系社会はアミ族だけ」と言って良いアミ族は祭り好きで、豊年祭、播種祭、捕魚祭、海祭などがあり、毎年夏の七月から八月のいずれかに二週間ほど催される豊年祭は最も重要な祭祀儀式である。
歌や踊りを好み、平和で陽気な平地民族集団・アミ族が台湾原住民の中で一番多い人口規模を有し、後発で移民して来た漢民族とも平和に共存している事は偶然だろうか?
日本列島の歴史と重ね合わせる時、母系社会のアミ族は比較的「性におおらか」で、最も日本の先住民族・蝦夷族(えみしぞく)に近い平和的な村社会文化・習俗を持っていたような気がする。
つまり、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って好戦的では外部民族との交流も生まれず、人口も増えずに文明的進歩も止まってしまうのである。
ただ、台湾島に於ける最大勢力のアミ族が非好戦的な平和主義だった事と、日本列島のように中華文明の先進的な武器を携えた侵略部族(うじぞく)の襲来が無かった事で、台湾島に統一国家化が為されなかった事に繋がったのも事実である。
人は本来「群れる動物(群れ社会の生き物)」である。
つまり群れは「その人間が生きて行く上での寄り所」になる。
人類は基本的な本能として他の生物同様に「生存本能」を備えている。
この生存本能の発露が「食欲」であり「性欲(種の保存本能)」であり、二次的なものとして危険を避けたり危険に立ち向かう為の「恐怖心」や「闘争心」なども無視出来ない右脳的な生存本能である。
そうした右脳的な生存本能の一つとして、人類はその種としての生い立ちから、「恐怖心」や「闘争心」を共有する事で生存率を上げる為に「共に生きる(共生意識)」と言う強い「帰属本能(群れ意識)」を持ち合わせて生まれて来る。
つまり人類は、「帰属本能(群れ意識)」を満足させないと、精神的安定を得られない。
そしてその「帰属本能(群れ意識)」は価値判断や心(精神)の安定に影響を与え、良きに付け悪きに付け「人生」と言う固体の一生に影響する。
実は、「帰属本能(群れ意識)」を裏打ちして保障していたのが、同じく「生存本能」に関わる「性欲(種の保存本能)」の結果とも言うべき「性交」と言う行為だった。
「性交」と言う行為は、「恐怖心」や「闘争心」とは好対照に位置付けられる「癒し」や「信頼の」共有に繋がるからである。
つまり日本に於ける村社会の性規範は、「帰属本能(群れ意識)」に起因する共生主義の磨き上げられた珠玉の結晶だったのではないだろうか?
人類にとって、「群れ」は「生存本能」とほんど同じ意味を持つ記憶である。
遠い昔から群れで生活した記憶は、永く生存に直結していたから人間の本能に深く染み込んでいても不思議は無い。
人種が違っても、付き合って見れば個人個人の時は結構仲良く出きるのだが、これが部族単位、民族単位と成ると途端に群れの論理に成って憎しみ合う。
その根底に在るのが、本能的に守ろうとする遠い昔の「群れの記憶」なのではないだろうか?
群れ社会に於ける基本的な合意は「シェア(分かち合い)の精神」である。
村落共生社会では食べ物や労力、性欲処理まで「シェア(分かち合い)の精神」を浸透させる事でその生活の場を存続させて来た。
「村落共生社会」とは「群れの仲間」を確認する所だから、性交相手をシェア(分配)する事に拠って、群れ社会に於ける「共生の絆」が強まる。
「夜這い(よばい)」や「寝宿(ねやど)」・「若衆宿(わかしゅうやど)」・「娘衆宿(むすめしゅうやど)」などの制度は、実は村落存続の為に性交相手をシェア(分配)する為の装置だった。
この性交相手をシェア(分配)する為の装置が機能して「一村身内気分」の「共生の絆」が村落に形成され、食べ物や労力のシェア(分配)に対する根拠に成っていた。
所が、この「分かち合い」が食べ物や労力であれば意外と多く「分かち合」がなされるのに、それが現金に成ってしまうとその拠出比率が小さくなり独占意志が強く成ると言う。どうやら現金に対する「分かち合いの精神」の人間心理は別らしく、つまり出す事は出すが現金の分かち合いはチョットだけの気分らしい。
欧米の個人主義の影響を受け、性交相手をシェア(分配)する「共生の絆」が消滅した現在、日本の「村落共生社会」は山間農村部や漁村部を残して徐々に消えつつある。
欧米の個人主義を取り入れた明治維新の文明開化まで、日本の津々浦々は「村社会」と言う「村落共生の群れ社会」だった。
その「村落共生の群れ社会」の意識が、戦後の混乱の復興期に本能的に顔を出す。
戦後の日本の目覚しい経済発展の要素の一部として、焼け野が原から立ち上がった戦後直ぐの日本人は遠い昔から群れで生活した記憶を経済活動としてよみがえらせる。
大企業はともかく中小零細や個人事業主は立ち上げた企業や事業の中に「擬似の群れ」を構築して労使協調して「うちの会社、うちの会社。」と忠誠を注ぎ込み、チームワーク良く企業も経済も発展させた。
所が、日本経済の発展に連れて「少し儲かり始める」と欲の深い経営者が現れて富を独占し始め、上手く機能していた「擬似の群れ関係」を破壊してまで「労使関係」と言う味気ない立場を中小零細企業や個人事業にまで持ち込んで、労使協調の日本型「擬似の群れ企業」は消滅させてしまった。
少なくとも、バブル崩壊以前の企業はその規模に関わらずある種の忠誠心を持った「擬似の群れ」だった。
つまり、「生き行く為の群れとしての寄り所」であるから、個人と企業が一蓮托生の意識で企業への忠誠心も今よりは遥かに在ったのである。
実はこの「群れ社会意識」は、強力な「社会安全の要素」でもある側面を持っていた。
考えて欲しいが、群れの最小単位は家庭であり近頃蔓延する「私権意識」よりも「家庭と言う群れを優先する意識」が強ければ、何か事件を起こして「家族や親戚に迷惑を掛けられない」と、自重する抑止効果を得られる。
所が、現代の余りのも強い「私権意識」は、家族や親戚への迷惑は思い到らないで、只々短絡的に個人の感情で行動する愚を犯す事になる。
この「私権意識」の蔓延は、小泉・竹中内閣の強引な「米国型競争経済政策」と無縁ではない。
米国型競争経済は、儲けるには何でも有りの殺伐とした「私権意識社会」を生み出した。
果たして、現代の余りにも強い「欧米型の私権意識」を安易な時代意識で「今はそう言う時代だ」と、判ったように「かたずけ」て良いものだろうか?
行き過ぎた「私権意識」が、衝撃的な事件を生む背景にある事を、人々はもっと考えるべきである。
近頃、誰にも見取られないであの世へ旅立つ孤独死が増えて社会問題化している。
多くの人には自分がその境遇に無いから他人事かも知れないが、孤独死の三割は「二週間以上発見されない」と言う哀しい現実がある。
しかもその孤独死が、高齢者に止まらずに四十歳代〜六十歳代が「全体の二割〜三割を占めている」と言う驚くべきデーターも存在する。
勿論ご高齢の方にも在ってはならない事だが、中年層で孤独死が増えて居る現実は現代日本社会の根本的な病根ではないか。
近頃「無縁社会」と言う情況が社会問題に成っている。
哀しい事に、この無縁社会(むえんしゃかい)が「孤独死」とセットに成っている。
無縁とは「親身になる身内が居ない」と言う事で、これは「共生社会」だった日本人の心が欧米の刹那的な個人思想に変わってしまった事に他ならない。
事の本質に迫れば、実(じつ)の無い善意だけでの「親身」は綺麗事で、戦後の集団就職で地方の若者が減少し「群れ婚状態の村落共生社会」を失った時から「無縁社会」の足音がヒタヒタと迫って来た。
日本の農漁村部に永く続いていた村落共生社会は、「親身の群れ」である。
誓約(うけい)の本質は性交に拠る異部族の群れの一体化で、「親身」の基本的な意味合いを辞書で引くと近親(近い身内)血筋や結婚などで近しく繋(つな)がっている人となる。
身内の次には、肉親であるかのように細(こま)やかな心使いをする事、または「その様を親身と言う」とあり、「親身」には結婚に準ずる意味合いがあり、「その様=親身」を具体的に具現化すれば「親身=性交」の意味が見えて来る。
つまり村落共生社会に於ける誓約(うけい)に拠る群れの一体化は一村身内感覚の「夜這いの合意」で成立していて、今でこそ「親身=他人の好意」と簡単に意味つけているが、本来の「親身に成る」と言うのは具体的な「その様」を言うのである。
その誓約(うけい)に拠る群れ社会が消滅して「親身に成る要素」を失えば「隣は何をする者ぞ?」の只の他人で、綺麗事は言っても実質的に互いの間に縁など無い。
つまり人間は欲の深い生き物で、昔の群れ社会ならともかく只の隣人同士の間柄なんてものは、いざ蓋を開けて見ると残念ながら「嘘で固めた間柄」なんて事が多いのである。
一方を得れば他方を失うのが世の常で、無縁社会(むえんしゃかい)と言う社会傾向を認識すると、村落共生社会はまんざら非難されるばかりの社会では無かったような気がする。
戦後の刹那的な個人思想が「家族」と言う単位を軽く見る傾向を生み、目先の自由を謳歌したいが為に単身生活を選択する者が急増している。
戦後の一時期はまだ、隣近所付き合いや企業に団体と言った縁が存在した。
しかし隣近所付き合いは希薄な社会となり、企業や団体の縁は在職している間だけの関係で退職すれば一気に社会との縁も失う。
そして欧米の刹那的な個人思想が社会の主流になると、職場や労働団体の縁も非正規雇用の増加の中で希薄なものになり、合わせて近隣との関わりを嫌い「隣は何をする者ぞ?」の無縁社会(むえんしゃかい)が一般的に成って行く。
非正規雇用の拡大で、正規雇用機会を失った男性が増加して家庭を持てなく成った事もあり、近い将来男性の三人に一人、女性の四人に一人が「生涯独身」と言う予測もある。
問題解決には社会構造の抜本見直しが必要で、実体の無い綺麗事の精神論の善意を幾ら叫んでも、この国に於ける「孤独死」は、年々増加しているのだ。
人間は本来「群れ社会」の動物で、基本的に群れなければ不安で生きては行けない。
しかし日本の群れ社会は戦後見事に崩壊し、孤独死が後を絶たない。
地域も職場も、そして家族さえ「群れの概念」を棄て、本来国民を守るべき「国家と言う群れ」の責任者・総理大臣も、己の「利」を優先して国民を顧みない。
いくら綺麗事を並べても、この本質「群れの概念」から人々の考え方を再構築しない限りは解決しない問題である。
人間にとって、「群れ」は生きて行く上での心の拠り所で、安定した社会を構築する為の基本である。
だからこそ群れのリーダー(指導者)は群れの構成員の事を一番に考えるべきで、己の「利」にばかり走るのではそのリーダー(指導者)たる資格は無い。
本来、群れのリーダー(指導者)は群れの構成員を守るのが最優先の勤めであるにも関わらず、その最低限の事さえ眼中に無かったリーダー(指導者)は、「痛みに耐えろ」と国民生活を切り捨てた。
そしてこの国では、孤独死ばかりか毎年三万人を越える自殺者を出して居るのだが、これも「群れの概念」が正しく構築して居ればその多くが防げる筈である。
ここでキツく言って置きたいが、政治は経済だけではない。
社会と言うもの全般の治世を司る事が政治であり、我が国では、古来政治をする事は「まつりごと(祭事)」と言い、治世を司る事は神の代行をする神事だった。
新しいイデオロギーへの移行には、まずは政権交代が必要である。
小泉・竹中政権が米国型資本主義自由経済を推進し非正規雇用(パートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣社員)を経済浮揚の手段にした事は、根本的な人間性を無視した片手落ちの未熟な手法を形振(なりふ)り構わずに実行した事である。
アメリカ型の勝った者勝ちの大企業優遇策の一環として、派遣労働などの非正規社員の規制を緩くしたのも小泉・竹中政権で、結果若者の就業条件は極端に悪化して大きな社会問題に成っている。
非正規子用が増えるまでは、職場が擬似の群れだった。
人間は「群れ社会の生き者」であるから、「孤独」は人格さえも変える。
孤独は、自殺や自暴自棄となって社会に跳ね返って来る。
人間は「群れて生きる動物」であるからこそ、孤独自殺死や無差別殺傷の暴挙に出る。
つまり世間から「共生意識がなくなった社会が、人間の心にいかに殺伐とした思いを抱かせるのか、小泉改革は無関心だった。
こうした事件が続発しても、小泉氏や竹中氏は「それは一部の例外」と受け止めるだろうが、大きく傷ついて潜在する自暴自棄予備軍は想像以上に多いのである。
ワーキングプア(働く貧困層)の出現は小泉内閣に拠る人為的なもので、到底赦し得るものではない。
また、小泉政権が光を与えたのは大企業とその経営陣だけで、幸いにして大企業に席がある従業員までも、実質賃金は上がらないまま暗黙の圧力(派遣社員に変えられる恐怖)の中でサービス残業をさせられる小泉政権の「影」を味わっている。
まぁ、自民党が大商人(大企業)と結託した悪代官だった事を露呈した形だが、小泉・竹中政権が経済理論と言う一部の理論を振りかざし、人間性を無視して「利」のみに走ったインテリジェンスの無さにはあきれるばかりである。
そして何よりも、この小泉政権が元凶の「規制緩和」が、労働法の派遣労働者の適用範囲の緩和分野をドンドン広げた事により、大企業の製造分野は企業側の都合で直ぐに就労契約を停止させる事が出来る期間工や派遣労働者のウエイトを増やして行った。
これは、ワーキングプア(働く貧困層)を大量に出現させたに留まらず、いざとなれば人間を人間とも思わない企業の論理「一方的解雇」がまかり通る事を意味している。
自由民主党は、二言目には「財源、財源」と言うが、歴史を見ていない証拠である。
政権交代は革命で、明治維新政府を見て見れば判るが、維新政府は「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」から財源をひねり出し、第二次大戦後の民主国家の財源は「農地解放と新円切り替」からひねり出した。
常識的に生きれば楽な人生を送れるかも知れないが、アンカリング効果的な常識に囚われた発想からは何も生まれず、型破りな発想からこそ未来が開ける。
時代が創った常識は、次の時代では不要に成るのが当たり前で、明治維新の主役と成った者に誰一人常識に囚われた者は居なかった。
つまり、もっともらしい今日的常識を振りかざす者に、大物など居ない。
すなわち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、新しい発想から「財源」はひねり出せるものである。
当然ながら、これを書いている我輩には「財源」をひねり出す「三方両得」の名案はある。
つまり発想を変えれば、国民に負担をかけないでも中小零細の農林水産商工業を活性化させ、国の借金(赤字国債)を減少させて国の活力を取り戻す事は出来るのである。
【後書き】
この小論を、単に評論的に受け取っては欲しくない。
我輩は無責任に課題を投げかけるだけで逃げる気は無いから、勿論、この提案に我輩は幾つかの有効な「ユニークな具体策」を保持している。
この「具体策」のアイデアが我輩個人の発案である事を担保してくれる出版社や政党、大学などがあれば、提供する事にやぶさかではない。
小生が大学の学生だった四十年位前、ある学者が、ヒトラーの功績をあえて言うなら「アウトバーンと人口調制だ」と言った事がある。
昭和の始めから十年代にかけて、ヨーロッパでは、第一次世界大戦で敗れたドイツが、莫大な戦後賠償金の捻出と海外植民地を失った事による本国帰還民の急増、平行して世界恐慌に見舞われるまさに「三重苦」から、国家社会主義労働党(ナチス)を産みだした。
反対にフランスでは、短命内閣が続き、政情は安定せず、戦勝国で海外植民地が広がり、人口の流出、「少子化」が続いて、日本の教科書でも取り上げられた。
ドイツ国民は、追い詰められていたのだ。
そして、ヒットラーの野望を阻止すべき隣国フランスの国力は低下していた。
人口バランスが壊れて、ナチス・ヒトラーとドイツ国民の「狂気」が始まったのだ。
今、この人口のアンバランス現象が、極東の地で起きている。
日本の極端な「少子化」、主力工場の海外流出、隣の北朝鮮の「飢餓」、その隣で中華人民共和国の「人口爆発的」な人口の増加がある。
国民を食わせるために、満州を狙った日本、ヨーロッパを狙ったドイツ・・・・
近年では、日本近海の油田、ガス田、に魅力が・・・・
こうして理性的に分析すると、ありえない事でも生物学的に「増えすぎた種」が、本能的に死の強行軍で「生き残り淘汰」を謀る本能が、「生き物」である人間の「狂気」をさそうとしたら・・・・・
人間の本能のメカニズムは、解明がなされてはいない筈である。
民衆の不満が高まる時、「狂気は国を走らせ、国を滅ぼす」のだ。
この手の狂気は、人が入れ替わり、人の記憶が失われる五〜六十年ごとに顔を出す。
こうした近隣とのバランスの為にも、日本の現状を早急に立て直す時期に来ているのだ。
最近、極東アジアは「きな臭く」なり、昭和十年代のヨーロッパにあまりにも似て来た。
杞憂であれば、良いのだが。
最近極東、いや世界中で局地的に日を追って「きな臭く」なって来ている。
紛争の火種が、次から次と沸きあがって来る。
しかしそれを、独立国家として看過出来ない。
象徴的なのは歴史認識と領土問題で、此れは周辺各国と、それぞれに問題を含んでいる。
小生のHP◆【<歴史認識問題・領土問題と反日運動を考察する>】に、小生なりの考察を記載してあるので、紹介させていただく。
最近は中、韓、朝、台、と騒がしいので、忘れ勝だが、ロシアも国境を接する周辺国で、北方領土問題も、シベリア不法抑留の歴史認識問題もある。
しかし現在ではそれ以上に深刻で、被侵略行為に相当しそうな状況に日本は在る。
こうなると、「あらゆる事を想定する必要」があるのではないか?
したがって、かなり天邪鬼(あまのじゃく)に、日本の置かれた現状を考えてみる。
正直、大陸の隣国・中華人民共和国は人口が増え過ぎ、それを食わして行く為に膨張主義に走り近隣諸国との間で領土摩擦を起こしている。
大陸の中華人民共和国は領土と資源問題で、対日強行姿勢を強めている。
此れでは台湾海峡どころか、東シナ海も太平洋さえも危ない。
半島の朝鮮人民共和国は、拉致問題を認めながら開き直り核開発を進めている。
ノドンとやらは、「日本に向いている」と言う。
地球温暖化が人類の欲心から急速に進んでいる。
世界各地で異常気象が恒常化して居る現在、信仰や思想主義で角突き合わせる余裕など地球には無い。
生物が地球環境の変化から生き残るには、自らが環境変化に適応して行く事である。
自然に成立した習俗や性規範には論理ではないそれなりの重みが在り、昔の村落部に於ける共生社会には筆おろし、水揚げ、夜這い、寝宿と言った実質的な行為の裏付けが在って一村皆兄弟の縁戚気分で自然に団結していた。
それを破壊してしまった現在の日本では、「近隣愛」と言う建前の精神面だけの苦し紛れの論理でカバーしようとしているが、それは実の無い表面的な綺麗事に過ぎず、本音では私権主義社会の国である日本に於いて永久に成立はしない。
論理の「近隣愛」は絵空事に過ぎず、現に建前の「近隣愛」であればキリスト教の主な教えでもあるが、何しろ「汝の敵を愛せよ」と言いながら異宗派を含む異教徒と戦争を繰り返している信仰である。
つまり「近隣愛」はあくまでも建前の精神面だけで、個人の権利を重んずるキリスト教国の私権主義では「近隣愛」は表面的なものに過ぎないではないか。
生物が地球環境の変化から生き残るには、自らが環境変化に適応して行く事である。
そして地球環境の急激な変化に対する適応に人類の肉体的変化が望めないものなら、せめて現代の個人的欲望生活優先の環境を変えて地球環境の変化を止めるしかない。
紛争解決の方法は「放棄と融合」で、一々頑(いちいちかたく)なに自分達の信仰や思想主義だけを主張していては争いの基だから、残された時間が僅(わず)かと感じる今、出来る事は知力を結集して人間が変わる事ではないだろうか?
知恵を持って誓約(うけい)に拠る血の融合と信仰の融合を成し遂げ、人類は平和裏に一つの人種に成らなければ成らない。
つまり地球規模の災害をもたらす環境変化に対応するに、国や人種の損得を念頭に置いては話がまとまる訳が無いのではないか?。
了
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