小生は今、摩訶不思議な物を見ている。
本来、冷酷な指導者からは「民心は離れる」ものである。
それが、永い事高い支持率を保っている。
彼の冷酷さに、国民が気が付いていないのか、それとも国民自体が冷酷になってしまい。
周りを思いやる心を失ってしまったのか?
どうやら、気が付いた時には後の祭りになりそうだ。
小泉総理の政権運営は乱暴の一言に尽きる。
日本を改革するとして、国民の期待を「一身に背負った」筈の、我が国の小泉総理は、自民党を「ぶっ壊す」処か、「国民生活」をぶっ壊し続けた。
それのみならず、間接的ではあるが、多くの国民の精神も「ぶっ壊し続けている。」
今に成って見ると、国民も見切り時が遅過ぎた。
日本を本当に変えたいなら、既存の官僚や政治家では、今までの失政を認める様な政策は出来ないだろう。
新しい政権でないと、官僚が抵抗し過去の清算が出来ず、このままズルズルと時を浪費し、けして日本経済も、日本社会も良くは成らない。
小生は「右、左、宗教」共に無縁だが、このまま行くと、国家の存亡に関わる筈である。
歴史的に見て、国家が無くなっても民族は生き残る。
しかし、国が滅びるとその民族は国家と言う後ろ盾をなくし、生き残った者達も、今以上に塗炭の苦しみを味合う。
「聖域無き改革」と言うけれど、全ては弱者におっかぶせるだけの政治ではないか?
このまま、貧富の差が広がるのは、昭和十五年前後の「軍部と財閥」の構図が、今日「大企業と政治家官僚」の構図に置き換わっただけで、或る意味国家的に危険水域に近付きつつある。
それを叫んでいるのだが、呑気な方が多過ぎて平和日本を信じ過ぎている。
自分だけは大丈夫の延長で、日本だけは大丈夫と思いたいのだろうが、実はかなり逼迫している。
もっとも、自分と家族の生活を守るのが精一杯で、国家など考えて居られないと言う人々も多いが、果たしてそれで良いのだろうか?
赤字国債問題ひとつにしても、何の解決策を見出せない政府の怪し気な大本営発表を、「景気が良く成なった」と喜んでいる経済コメンテーターやマスコミは、何処を見て居るのであろうか?
此処まで来ると、日本に居るのが「ばか」かも知れ無い。
確かに、経済的には東京が少しは「まし」かもしれないが、大阪もだめ、地方は東京から離れるほど悲惨で、どうにもなら無い。
地方経済の悲惨さを訴えても、小泉内閣は沈黙を守るに等しい。
官僚の稚拙なプランにおまかせで、天下り先の外郭団体を増やす事ばかりしている。
しかし、何時までも国民を騙せる筈は無い。
そこで、国家は国民から見捨てられる。
既に、高学歴の女性達が、カナダ、オオストラリア、などに、国際結婚で逃げ出している。
荒唐無稽と思われるかもしれないが、小生の小説◆ 【たったひとりのクーデター】の中では、少子高齢化の負担に絶えかねて、若者達の間で「北朝鮮」のように大量の難民が発生するシュミレーションを取り上げたものもある。
この難民の話し、今後の展開では、数十年後には笑い事では無くなるかも知れない。
それでなくとも、現状のスライド計算で、四千五百万人から六千万人の人口減が予測され、黙って居ても、日本の人口は半減する。
その少子高齢化が、若者の日本脱出を誘発しない保障はない。
日本の政治家と官僚が見つめる先は、・・・その方向は、正しいのか?
一体何処を向いて居るのだろうか?
最近愛知県に中部国際空港セントレアがオープンした。
関空(関西滑走路)も、滑走路を増やす計画が進んでいる。
羽田の東京国際空港も滑走路を大増設し、「成田国際空港の混雑を解消する。」としている。
それなのに、需要見込みが少なく「赤字必至」と言われる静岡空港の工事が進んでいる。
静岡県は東西に長く、空港は県の中央部に建設される為、西部の住民は愛知県下の国際空港、東部の住人は関東エリアの国際空港を利用しても、時間的に変わらない為、発着便数や、他の交通機関とのアクセスなどの便利さが決め手になる。
地方の静岡空港の苦戦は誰が見ても明らかである。
維持管理費は、まんまる県の負担で有る。
此れを押し通したのは、知事と建設業界である。
初期投資は国の補助が付く、此れは国家予算からの補助金である。
稼動後の赤字負担は将来県民に降りかかる。
この構図の計画空港は、後を絶たない。
例外として、採算度外視で必要な空港過疎地域は、防災上やむ応得無い事も或る。
しかし、近くに立派な代替がある場合は、一体誰の為に、何の為に作って居るのか?
一方、お隣の韓国では、ハブ空港の建設が最終段階に入っている。
ハブ空港・仁川(インチョン)空港は極東アジア最大で、既に、極東アジアの物流、及び乗客の中継拠点は日本から移りつつある。
国際貿易港も、日本の港(横浜や神戸)は敬遠され、整備された、釜山港(プサンハン)に取って代わられた。
横浜、神戸も、世界のベスト三十位にさえ入っていない。
そこには、韓国の大胆な国際戦略が見て取れる。
日本の国家計画には、こうした世界戦略は無く、国内のこまごました地方の要望に振り回されて、国家予算で、使い道の少ない小さな空港を作り続けている。
建設の時点から国際感覚を無視している為、コスト高で利用料が高く、外国から敬遠され、港も空港も国際競争力は無い。
国際感覚に疎く、あらゆる分野で「日本式感覚」を押し通そうとするが、それは国際的に通るはずも無い。
そうした「無駄な国家予算の使途」は、?(ハテナ)ではないのか。
こうした感覚的なズレが在るにもかかわらず、ライブドア堀江氏の件でも、ポンコツの政治家が、「日本には、なじまない」などと、自らの国際無知をさらけ出して恥じない。
掘江氏については、小生のHPに、◆ 【<堀エモンと日本の転換期の考察>】を記述している。
いずれにしても守旧感覚の政治家は、日本の未来にとって老害である。
念の為断っておくが、年を取っているのと感覚が古いのは別で、小生の批判したいのは日本的常識なるものを、通用しない国際の舞台でも言い張る勘違い政治家を、見るに忍びないからである。
次の選挙は棄権しないで、多くの人に投票して欲しいものだ。
最近小生のHPに、◆ 【<ドキュメント中小企業倒産>】を記述した。
それで、或る方に読後の感想を寄せて頂いたのだが、それを読んで居て気が付いた。
近頃政治家の間から漏れてくるおかしな論議である。
それは、「税率の外国との比較」である。
彼らの言い分は、先進諸国と比べ日本の税金の率は安いと言う。
なるほど、それだけを取り上げて聞くとまだ増税の余地が有る様に聞こえる。
小生には詐欺師の手口に聞こえる。
彼らはその「ヨタ話」を意図的に流している。
誰と誰が流しているかは、あえて言わない。
経済学者で尻馬に乗っているのも居るが、単純な数値だけ取り上げて、「比較論無し」では学者の発言と言えるのか?。
今度、これを読んだ貴方が、テレビ、ラジオでこの論議を耳にした時、それを言った人物が、詐欺師なのである。
マスコミもその論議を、疑問符無しに流している。
だがこの話し、限り無く詐欺に近い。
余りにも、課税する側に都合の良い部分だけの取り上げ方だからだ。
なぜなら、課税される税だけの比較で、けして「国民生活全般の比較では無い」からである。
日本の場合、土地価格が比較出来ないほど高く、したがって住宅費の負担は重い。
住宅ローン、家賃、不動産税などである。
また物価も外国と比べて飛び抜けて高い。
それでも、消費税率は与野党ともに上げようとしている。
こうした「もろもろ」の比較は都合よく外して、外国の税率と比較するのは国民に対しての『騙し』ではないのか?
国民生活を真剣に取り上げるなら、外国との総合的比較をするべきであり、今の手法は明らかに別の意図が有ると言わざるをえない。
官僚の無駄使いのシステムを先に徹底究明するべきなのに、安易に税率のみの対外国比較論で、事を進め「役人天国を続ける」のはいかがなものか?
何しろ、どの省も裏情報を人質にしている。
社会保険庁の「議員未納問題リーク」の例のように恐い為、国会議員先生のどなたも、手が出せないのか?
国歌、国旗論争に、肝心な所が抜けて居はしないか?
卒業、入学のシーズンがら、小生の尊敬する大学教授「中島先生」のHP◆ 【明日への意志HP】で、国歌、国旗論争が盛んだ。
日本の国旗、国歌論争は不思議な話しだ。
米国などの多民族国家では、唯一の帰属意識の象徴であり、他に国民をまとめるものは無い。
奇妙な事に、日本では式典で強制する事に論争している。
国民在っての国家であるが、国民が帰属意識を持たない国は「国とは言えない。」と思うが、いかがか。
個人の自由を理由に、その帰属意識と言う基本的な事柄を「ないがしろ」にすれば、「社会における自己の責任を学ぶ事」さえ意識の他と成りはしないか?
つまり、最低の社会合意をも否定するようなもので、あれにも束縛されなければ此れも自由で良いとなり、教育は体を為さなくなる。
此れは基礎教育の範疇であって、主義主張に置き換えるのは教育の放棄と言う一面がある。
その事がもたらす若者の社会性の欠如は、大いに予測されるもので、それを考えずに主義主張だけに固執するのは、教育者の姿とは言えない。
確かに軍国主義を思い出させる歴史も存在するが、それより遥か以前から存在したもので、当時利用されたに過ぎない。
ここまで行くと冷静な考えではなく、多分に感情の問題で有る。
つまり、国旗や国歌そのものが、悪い物ではない。
あんなに見事に、シンプルな歌詞とデザインを持つ国を、大いに誇りたいものである
小生の発想の原点は、活人(かつじん)にある。
活人に相対するのは、殺人である。
つまり考える事の基本に、己の欲望(殺人)から思考に入るのか、相手を思いやる(活人)事から入るのか。
つまり、相手を活かす教育をするのが、まわりの大人の心構えでなければならない。
残念ながら、人の発想は殺人(欲望)から入るため、主義主張の争いになる。
見当はずれの思想の元に、国歌、国旗の扱いを論ずるべきではない。
それでは良い世の中など、やっては来ない。
「活人の発想こそ、教育の原点に据えるべきだ」と思う。
最近、靖国問題を外圧と捉える風潮が強い。
だが、果たして本当にそうだろうか?
たしかに、「他国に言われたから」では、弱腰外交と言われかねない。
その影に隠れてしまったが、本来違う論議があってしかるべきではないか?
少し、掘り下げて見ようと思った。
靖国問題を中国等近隣の外国との外交問題としてみると、明らかに内政干渉であり、しかも外交交渉の道具として政治利用するのは、「けしからん」としか言いようがない。
それが、靖国問題の本質だろうか?
忘れ勝だが「内政問題」と捉えると、靖国には、二つの大きな問題がある。
日本国民として、これを論議する必要はある。
ひとつは、戦犯合祀の問題で、此れは広く知る所である。
此処では詳しく書かないが、敗戦の折、切腹にて自決した阿南陸軍大臣の潔さに比べ、進駐軍の逮捕目前で、短銃自殺に失敗、女々しく法廷に立った東条英機に、合祀の資格ありや?
事の是非を超越して、多くの善良なる庶民を自身が指揮して死に行かせながら、自分や家族の安全を謀るなど、戦場で散った英霊に対し申し開きが有るはずが無い。
今ひとつ。
靖国は、明らかに戦争遂行の為に利用されたのである。
神は「大衆の心のより処」になってこそ神であり、権力者の道具にさせてはならない。
神社は、長い事庶民のものではなかった。
なぜなら神社は皇室に貢献した人物しか入れない、「何々神社」は皆この類いで、古くは、
楠木神社(楠木正成)や太宰府天満宮(菅原道真)で、近くは東郷神社(東郷平八郎)や乃木神社(乃木希輔)などで、名もない庶民には、神を信じていても死後の魂のより処は造ってはくれない。
つまり、日本国民にとって、神に成る事はこの上ない名誉な事だった。
先の世界大戦では、科学的には吹く筈のない「神風」を大衆に信じ込ませようとしてまで、負け戦を推し進めた。
「軍神」などと、神を利用してしまつた。
神は「大衆の心のより処」に成ってこそ神であり、権力者の道具にさせてはならない。
私は言いたい、「日本の神様が、神にしてやるから死ね、などと言う筈がない。」と。
軍神に成った人の多くは、その時の世相もあり純真に国を思い、国や家族を守る為に散っていったのであり、それらの英霊を冒涜するものではない.
だが、時の権力が「戦死者だけが神に成れるありがたみ」を使って、一般の人々を、戦争に巻き込むのは許せない。
此れは、単純に他人を「戦争」に利用する側の理屈であり、される側の悲劇の話だ。
本来、多くの人が悲惨な戦場へ行きたくて行った訳では無い。
嫌だと言えない状況で駆り出され戦死した多くの名も無き英霊が、東条達「戦時指導者」と合祀されている事を、喜ぶはずが無い。
だからこそ、国家の政権代表者が公人として参拝する事に、外国が不快感を抱くのであり、その事を踏まえた誠意ある対処が必要ではないのか。
それを、現総理は「なんで、問題にされるか解らない」と、言う。
彼にも、「神社を利用したい」後ろ暗い何かがあるのか、もしも、「自衛隊の海外派遣と繋がるなら、恐ろしい事だ。
つまり、「万一の時の隊員の魂のより処を考えているかもしれない」と、思うのは、考えすぎか・・・。
最近始った改憲論議のゆくえによっては、靖国がその受け皿になる不気味さがある。
近頃の改憲問題と、この辺りの危険な感性が結びつくのを、海外は危惧している。
国内問題としても、将来、日本の方向を間違えかねない危惧を感じる話である。
平成十六年十二月七日付けの夕刊で、日本の高校一年の学力が最上位から転落したと報じている。
此れは、パリに本部のある経済協力開発機構(OECD)が世界四十カ国の十五歳を対象に「学習到達度調査」の結果を踏まえたものである。
四分野の調査結果は以下の通り。
*読解力が、八位から十四位に低下
*数学応用が、一位から六位に低下
*科学的応用力は前回と同じ二位
*問題解決能力は四位(今回初調査)
結論としては、「日本の学力は国際的には上位だが、最上位とは言えない。」と、文部科学省は認めた。
最近「教員の組合」でも、此れを問題視して、全国の総会で活発な討論をしていた。
基本的に「読解力」がないと他の分野の問題も質問の意味を取り違える。
日本人から読書の習慣が薄れている。
親が本を読まないから、子供が読まない。
それで、いくら「学習塾」に通わせても、基礎の語学力(読解力)がなければ、授業料の無駄使いに成るのが、関の山だ。
小中学校の時代は、まず読書が良い。
良質の本には、あらゆる情報が無理なく詰まっている。
それを、楽しみながら読めば、丸暗記より遥かに「系統立て」て、必要な知識を覚えられる。
授業での吸収力も良くなるのだ。
「勉強をしなさい。」より、「本を読みなさい。」と言う育て方をお勧めする。
小生のインターネットHP◆ 【<古代日本史の考察>】の冒頭にも記述してあるが、主な出来事と年号を覚えるだけで「良し」とする教育で、学ぶ側が年表を歴史と勘違いすると、勉強はつまらないものになる。
何が起こったのか、その物語に面白みがあるのだ。
昔は、野口英世氏の偉人伝を読んで医学を志す子供が、沢山いた。
少なくとも、そこから優しい心は育った。
中には立派な方も居られるが、今の志望動機は、「稼ぎが良いからと親に言われた」が、大半らしい。
仁術の心は失われ、利に走っている。
そんな医師や歯科医師が多いから、政党に献金し圧力団体にも成っている。
「次いで」と言っては何だが、人を導く筈の宗教家は、どう見ても自分の「現世利益」を追い求めていて、お布施が多ければ極楽浄土や天国に行けるらしい。
活字は映像と違い、足りない部分は個々の想像力で補う。
この想像力は、豊かな感性を育てる。
「優しさ」も育む。
受験の為の即席教育は子供にとって「つまらなく」応用が利かない。
今の非人間的な官僚達を見れば、良く判る。
あれが、血の通わない勉強で得た公務員上級試験合格者の成れの果てだ。
やっている事は、ドラマ水戸黄門のお代官やお役人様と何処が違う、権力にものを言わせて私腹を肥やすなど、正にそのままではないか?
いくら頭が良くても、能力の大半を自分の利の為に使う奴らを雇うのでは、税金を払う国民は溜まったものではない。
勘違いした母親は、子供が本を読んでいると、「そんなもの読んでいないで、勉強しろ。」と言う。
塾に行くと隣の席の子はライバルで、蹴落としても勝てとなる。
その方法で育った子が、今子育てをしている。
最近、日本語に若者の新造語が氾濫している。
この新造語、時には若者の間でしか通用しない、弊害が出る。
言葉は時代と伴に変化して行くものだが、そこに連続性がないと新旧の円滑な意思疎通が出来ない。
断絶しては広義の知識や文化、技術の継承に支障をきたす。
故に言葉は、文化や技術の継承と伴に、保存をはかりつつ、世代を超えて継承してゆく・・・・
言葉も文字も「伝達の道具」であるが、単なる道具と違い、その機能は量りしれない。
日本語は特に難しく、まるで、推理ドラマである。
こんなに、あやふやな使い方をする言語は世界各国でも、余り事例はない。
例えば、「はい、はいはい、はーい」を例に取ろう。
その場の状況、相手の表情やイントネーションなどで、同じ音の意味を時として正反対に解釈する難解な言語である。
「はい」は「イエス」にも、「考えておく」にも、「不服である」の意味にでさえ、使われる場合がある。
「はーい」など、「何ですか?」と言う意味に使われたりする。
日本人特有の、曖昧(あいまい)文化と言えばそれまでだが、長い間鎖国にあった島国の狭い社交術で、国際的には「ずるい物言い」としか受け取られない。
イエス、ノーがはっきり意思表示されない言語は、国際交流的には通用し難い。
日本式のつつましい「対人非摩擦文化」とは言えるのだが、国内でのみ通用し、国際的には誤解も多い。
この言語を含む日本式独自文化が、堀江貴文(ライブドア社長)氏の言動が、「日本になじまない」と切り捨てているものなら、国際化に向けて、言語の活用方法の修正や文化の修正も視野に入れねば、摩擦は益々激しくなるであろう。
ある意味島国根性丸出しで、およそ国家の将来を見据えているとは思えない、国会議員や有識者の言動である。
その影に、個人の損得利害が見え隠れして見えるのは小生だけだろうか?
そこで、連続性と共通性が重要になり、国語教育の意義が生まれる。
是からの国語教育には、日本文化の良さも継承しつつ、国際化をにらんだ言語教育の対応部分も大いに検討すべき点と言える。
相手を活かす教育をするのが、まわりの大人の心構えでなければならない。
既に、国際化対応の言語教育は必要に成って久しい。
遅きに失したくらいである。
蛇足ながら、中韓の国々も敵対心を育てるのが未来に連続する「良き教えにはならない」と思うが、いかがか・・・?
残念ながら、人の発想は欲望から入る為、主義主張の争いになる。
見当はずれの思想の元に、日本の独自文化の扱いを論ずるべきではない。
それでは良い世の中など、やっては来ない。
活人の発想こそ、「教育の原点に据えるべきだ」と思う。
現在の日本の社会不安は誰のせいでもない、責任者は小泉さん貴方だ。
現在の日本政府は、国民の安全と生活向上に、本質的には何も有効な手は打ててはいない。
消極的現状維持で、物事を根本から見直す事をしないからだ。
それでも政府は山積する諸問題に終われて、「一生懸命仕事をしている」と思っている。
小手先の事でも、「やらないよりましだ・」位に思っている。
言わせてもらえば、役人の暴走一つ止められない。
その程度では、「子供の使い」ではないのか、
それさえ気付かないでいる。
しかし、政権は他のなによりも結果責任であるはずだ。
そしてそれは、主権者である国民に対してである。
実は、彼ら政府の困難も、大半は与党自民党内や政府役人の「利権の抵抗」である。
言わば「内々の事で無駄に必要だった努力」を、国民に一生懸命頑張ったと言われるのも不思議な話だ。
そうした「茶番」に、国民は長く付き合わされて来た。
総理は、「抵抗勢力」などと言って、そうした政権政党として恥ずべき事を、認めてはばからない。
どう見ても現政府の顔は、国民にも、野党にも向いてはいない。
露骨に米国と与党内に向いている。
さしたるアィデアもなく、国民不在の、或るいは国民に多くの負担をかける内閣は、失格と言われても仕方ない。
感情を持った人間とは、とても思えない変人、奇人が中心の内閣が、熱く沸きあがる情熱で、「人々の暮らしを良くしよう。」と、血の通った政治をするとは思えない。
彼らの本音は何処にあるのか。
一説に拠ると、現政権は、「就任一期目は本気で景気の回復を望んでいなかった。」と言うのである。
実は、「見せかけの成果で、程々に国民を満足させる事に拠って、政権の延命を謀って、二期目を手中にした。」と言うのである。
派閥の長でもない男が、突然、総理となった経緯にその秘密はある。
前政権が倒れた時、現在の不況は、既に、誰がやっても、当分回復しそうに無い所まで来ていた。
貧しい、硬直した発想の彼らからすれば、年金も、国債も、解決の目途はなかった。
本来なら、「我も、我も。」と名乗りを上げるはずの党内実力者達も、今回は逃げ腰だった。
「あえて火中の栗を拾って、何も出来ず、政治生命を断たれては、何も成らない。」と踏んだのだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、現総理の小泉純一郎氏、彼だったのである。
彼は派閥を持たず、言わば部屋住みの幹部(派閥の番頭)だった。
派閥を持たなかった為に、金集めの必要が少なく、政治的にクリーンに見える。
しかし、総理になるには遠い立場にあった。
党内実力者達は、今、リリーフ登板させるには、「もってこい。」だと思った。
党内基盤が弱いので、容易にコントロールできるはずだった。
僅か数名の実力者達の密談で、ほとんど対抗者もいないまま、総理就任は、ほぼ決まったのである。
だが、高を括(くく)って小泉氏を総理にした実力者達の思惑は外れた。
小泉総理は彼ら以上に、「したたか。」だったのである。
党員による総裁指名選挙では、人気女性議員の応援と「自民党をぶっ壊す」と、自分の党を批判する事であたかも日本政治の行き詰まりを解消するがごとく思わせて、当選を果たした。
その後、内閣及び党幹部を親派でかため、見事なパフォーマンスで民心をつかみ、「何かやってくれそうな総理。」として、支持率を上げ、自身の立場を強化して行ったのである。
そして、ぶっ壊したのは、自民党ではなく、国民生活であった。
次の衆院選では、既に彼以外に自民党の顔はなくなっていた。
そこには、「他を受け入れない独裁の色が滲んでいた。」のだが。
メディア操作の上手なのは、独裁者の共通する処で、過去に幾多の例がある。
郵政民営化が小泉首相の改革の本丸と、自他ともに言われている。
他に優先課題が山積しているのに、彼の意地だけで、無理に進めるのは「いかがか?」とは思うが、少し述べる。
何点か目的があるのだが、まず悪い事から書く。
郵政省は国の省庁であるから、累積する郵政赤字二百兆円は国のものである。
ここで、錯誤してもらっては困るが、国民から預かった郵貯・簡保は、約三百五十兆円と言う多額の金が貸付先公共機関(自治体、公社、公団など)にある。
それとは別に、抱えている赤字の事だ。
その赤字を、民営化すれば、郵政会社の「国からの借入金」に化け、国の赤字のうち約五分の一相当の、二百兆円が貸付金となる。
つまり、赤字国債の借金に数えなくて良くなる。
結果的に、郵政省時代の国の赤字が新会社への貸付金に化けるまやかしである。
良い方は、郵貯(郵便貯金)の運用の問題である。
郵政省時代は、社会保険庁や道路公団と言った省庁の外郭団体や公団公社の外郭団体な「貸付金」として、返す当てもなく、無駄金として湯水のように使われてきた。
つまり役人の裁量権で、打ち出の小槌として、悪用されてきた。
この流れを断ち切るのには、民営化で、資金の運用先を変えなければ成らない。
それで、今までのように郵貯の資金が使えなくなりそうな官僚どもと族議員が抵抗勢力になっている。
まったく自分達の「甘い汁」と言う次元低い話しを、さも国民の利便の為に抵抗しているがごとく、している。
小生は小泉総理を大嫌いだが、郵政民営化は総論賛成である。
だが昨今の評判では、この民営化、相当の骨抜きと言う批判も多い。
本来の目的からすると、弊害部分は「形を変えて温存されている」と言われている。
それでは小泉内閣は何もやらず、見かけの形を作っただけで有る。
また小泉民営化は、弱い派閥にいてその恩恵に浴せ無かった政治家小泉の「仇(かたき)潰し」の側面もある。
此れで、ライバルの力が弱まると、ますます「独裁者」になるかもしれない。
民営化以外に「やるべき事」が沢山あるのに、固執している訳はそう言う事である。
民営化賛成論者も、反対論者も、最初から国民の利便性など、双方考えては居ない。
国民は騙されて蚊帳の外である。
先日の日曜日、或るテレビ番組で政治家や有識者が「少子高齢化」の問題を論議していた。
その中で、或る議員さんが「この非常事態を切り抜ける為に、女性の労働力にもう少し期待して、その為の保育園や幼稚園の整備に力を入れたい。」と言っていた。
少子化による若い労働力不足を、女性の社会進出で補おうと言うのだ。
一見正論の様だが、本末転倒である。
そもそも、少子化問題の根本的原因の一つが、紛れもなく女性の社会進出だからである。
この三十年間、日本は二つの大きな矛盾する事を同時に問題として取り上げ、あたかも両立できるかのごとく立法化して来た。
それは、「社会保険(年金を含む)制度の整備」と、方や「男女平等論」の事だ。
「男女雇用均等法」なる法律が出来た。
その根底に在るのは、過去において女性が永い事「不利益な扱いを受けてきた歴史が在るから」だと言われている。
勿論女性には忍従の歴史が在った事に、異論はない。
改善を訴えて当たり前だ。
しかしあえて聞きたい。
それらの平等論の中に、男女の特性を勘案(または考慮)する必要はないのか。
どうも女性は感情の動物と言う表現があるが、平等論に関しては一部の女性運動家のヒステリックな主張が、余りにも際立って、本質を見誤ってしまっているのではないか。
此れは子供の教育問題も同じだが、人間は生物の一種類であり、生物である以上、もって生まれた自然の特性に役割分担の違いがある。
それを無視して本当に良いのか。
無理やり同じにさせようとしても、特性的にも、社会的にも無理がある。
女を捨てて女性の人権問題に取り組む運動家は、それが信念だから良いかも知れない。
勿論そう言う人も、世の中には居てくれた方が良い。
だが、女性全員が運動家では、社会は成り立たないし、生活も出来ない。
女性も皆、様々な立場で生活しているのだ。
それを一握りの意見で、決めてしまって良いものか。
私には、母性を捨てた女性がカッコ良いとは思えないが、個人の行き方の自由であり、それを批判する気はない。
しかし、彼女達の努力が実を結び、「男女雇用機会均等法」が施行されると、それにより不利益をこうむる女性達が現れた。
本音では、女性運動家ほど先鋭な考えの女性は少ない。
結構「結婚して子供を産んで育てたい」と言う、シンプルな希望の女性が多いのだ。
むしろ、安心して子育てに専念させる社会環境を作り、子育ての終わった女性の積極的社会進出を期待し、それをサポートする制度の立法が望ましい。
そうした希望に対する社会環境は、逆に壊されてしまった。
「共稼ぎが当たり前」と言う、社会設計が確立してしまったのだ。
それで、育児、教育における母性の手抜きが、指摘されている。
一部には、子供が、事件を引起すのは、「母性に飢えているからだ」という指摘もある。
単純な話だが、基本的に男女の特性は違っていて、女が男の変わりは出来ないし男が女の変わりは出来ない。
母性は原則として、女性にしかない。
過去においては、自然発生的に男女の役割分担は、合意されていた。
それをいきなり「出世の機会を平等にしろ」と要求すれば、それでは、「要求される仕事の義務も平等にしましょう」とくるのは当たり前だ。
この時点で、「母性」は放棄せざるを得ない。
確かに、此れで女性の社会進出は進み、女性の社会的地位は上がる。
しかし、表面化していないが、様々な問題は、派生している。
たとえば、女性の総合職はスタートから男性社員と同じ出世の機会を保有する。
それで同じ仕事内容を要求されると、色々と無理が生じる。
単純に表現すると、過去に専業主婦が「夫の帰りがいつも午前様でこまる。」と嘆いていた事を、彼女達も背負うと言う事だ。
今、大手企業は、あまり表面化していないが、過度のサービス残業が定着していて、それが当たり前の風潮にある。
人員を削減し、残りの人員で効率(労働負担を上げる)を上げて、埋め合わせている。
どうもこの件では、労使が暗黙の合意をしている節があるが。
このサービス残業を、女性総合職だけが例外では社内心情的に通らない。
それで女性を過度の労働から守っていた旧の労働法の時よりも、格段に実質就労時間は増えている。
此れは、過去に女性保護で規制されていた事業分野にも及んでいる。
当たり前だが、そう言う時だけ「か弱い女性」は、通らない。
女性と言う事で、分けてはならないのが、この法の精神である。
おかげで男性社員と平等に長時間のサービス残業を、させてもらえる様になった。
以前は女性保護の観点から、夜間の残業から女性を守っていた。
この結果を見ると、この男女雇用均等法、実は女性運動家の成果ではなく、経済・産業界が、労働の効率化の為に政治を動かしたのかとさえ思えてくる。
社員間の意志疎通や、チームワークの為の飲み会もある。
此れを昔の事務職主力時代の女性の様に、「親がうるさいから」などと言い訳して、参加を敬遠していたら、キャリアとして遅れを取る。
飲み会の趣旨には、日頃の憂さ晴らしの側面もある。
下もネタ、色気のあるゲームなど飛び交う。
酒の席で、「セクハラ」などと言っていては、場が盛り上がらない。
女性総合職が、こうした場所では少しくらい「砕けてやって」こそ、盛り上がって、次の日からの成果が上がる。
それが女性の特性を生かした「社内処世術」なのだ。
しかしながら、近頃は女性の権利を誤解して、見事にツンツンしている女性も多い。
女性が女性らしくある事が、女性の権利のような気がするのだが、気のせいか。
総合職の営業部門(分野)では、「接待」と言う風習もある。
ゴルフ、マージャン、酒席、等がある。
ゴルフ、マージャンはある程度技術をマスターしないと、相手に失礼である。
しかも競技時間は、休日等に、長時間に及ぶ。
以前は、此れは男の仕事で、確かに遊び半分だが、接待する方は気が休まらない休日なのだが、これも平等に休めなくなった。
付け加えると、ゴルフには反省会なる、酒席が伴うのが一般的である。
最初からの酒席は、必要条件として、色気が伴う。
取引先担当者との良好な関係を保つ為には、「必要悪」かも知しれない。
此れも女性総合職だけが敬遠すれば、男性と同じ様には、相手から仕事が取れない。
か、と言って、女性の接客婦のいる「くつろぎの場所」に、取引先のキャリア女性が付いてきて、キッチリとされて横にいては、接待される相手は見張られて居る様なもので、到底くつろげない。
これをカバーするには、女性総合職は自分が接客婦に成るしか、方法がない。
しかし此れは危険である。
それだけの覚悟がないと、相手は仕事をくれる強い立場だ。
あえて言えば、此れを躊躇すればかえって仕事の関係を悪化する恐れさえある。
諸刃の剣だ。
女性営業職の「危い立場」と言える。
勿論割り切って、此れを逆手にとって仕事をドンドン取る女性もいない訳ではない。
それは、女性本人の選択の問題だ。
間違っても、会社は表向き、それを奨励はしない。
しかし実績が上がれば、手段など問わずに評価はする。
最初それに抗って居ても、周りと差がつけば、いやでも覚悟を決めねばならなくなる。
上司に対しての、キャッリア女性による出世の為の社内接客婦の存在も、半ば公然と囁かれている。
こうした事実での家庭崩壊の急増を、建前の中に閉じ込めて、「一部の問題」と片つけているのが現状で有る。
「しょせん。」と言ってしまえば、怒られるかも知れないが、世の中、男女の特性の違いは避けては通れないのだ。
言い換えれば、男女の特性を抜きにした関係は、育ちにくい。
つまり出世するには、女性の特性(女そのもの)が武器になる。
或いは、不埒な事ながら、その武器の使用を先方から要求されるかも知れない。
此れが現実である。
女性は「建前の理由」さえあれば、自分を簡単に納得させる事が出来るのだ。
「出世の為」此れは立派な理由である。
時には、「自分はそんな人間ではないが、やむ応得無い事情だから。」と、自分に言い聞かせる為の道具になる。
その最たる理由が、「だんな様より好きな人が現れた」と言うものであるが、聞いた事の有る話ではないか。
自分を納得させさえすれば、娼婦にもAX女優にもなれるのが、女性である。
此れでは結果的に、女性は昔より自分を、安売りして仕舞いそうである。
まあ、自分の意思による選択だから、「虐げられてはいない。」と言えば、それまでだが。
もっと深く考えれば、今まで男性の専売だった「性の火遊び」が、こう言う形で女性が「性の火遊び」に参入する事こそ、女性運動家の言う男女平等なのかもしれない。
だが相手が既婚者の場合、此れは一歩間違えれば、修羅場に発展する。
近頃のそうした風潮の高まりは、一体誰のせいだ。
独身女性ならまだ良いが、亭主や子供が居るとなると、悪くすると、紛争の種や、不幸な子供を作る事になる。
日本の離婚実績が米国に近づいているのだ。
そうなると、キャリアを守る為には、中々結婚は出来なくなる。
結婚が出来なければ、基本的には子供は成せない。
「少子化」の元凶である。
もっとも近頃は、シングル・マザーなる言葉もある様だが・・・・・。
女性の社会進出は、女性に新しいタイプの、言わば「アメリカ的ストレス」を押し付けただけなのかもしれない。
それが証拠に、米国の企業を舞台にしたTXドラマでは「くっついたり、離れたり」がめまぐるしい。
それも出世の計算が、絡み合うのが多い。
たぶんあれが、キャリア・ウーマンの生き方だろう。
米国の自立した女性の格好よさを表現すると、貞操(死語?)など眼中にない。
こう言う映像は、世相を反映するもので、その逆はありえない。
「ドラマだけの作り物の世界」などと思っていると、世相を読み違える。
だが現実には、まだうわべだけの(建前としての)男女平等を信じている人々のいかに多い事か、嘆かわしい限りだ。
しかしそこまで女性運動家が想定して「女権運動をしていた」とは思えない。
もっとヒステリックな、感情的なもので、結果を予測すらせずに、声高に叫んでいたのではないのか。
そんな訳で、仕事をするには、過去においても、職場における性別の弊害は必ずしも、「女性にだけ不利益だった」とは、言えなかったのだ。
キャリア・ウーマンと呼ばれる一見かっこいい女性達が闊歩して、日本のTXドラマでも、若い女性達に憧れをもたれていた。
シングル・マザーなる流行語も生まれた。
しかし、親兄弟の助けなくして、シングル・マザーなど成立たない。
それで「自立している」とは、お笑い種で、TXドラマだからこそ、逃げ場を用意しているのだ。
現実には、シングルで子育てなど出来ないことを、彼女達は知っている。
暴論と言われるかもしれないが、此れが少子化の一翼を荷っているのは明らかある。
今の社会体制で、男に伍して行くには、出産など邪魔である。
妊娠期間のおよそ半分、五ヶ月は産休を取らねばならない。
色々な制度で「カバーしている」と言うが、実態は必ずしも机上の計算の様には行かない。
まして、子育てなどもっての他だ。
育児休暇も取りにくいし、「退社時間、即の退社」も現実にはままならない。
その間に「男ども」との出世競争に遅れを撮るのは明らかだからだ。
子育ては、「男性パートナー(夫)と半々の平等でやれば良い」と、言うかも知れないが、現実には、一部の職業を除いて、不可能に近い希望的、夢想と言える。
男性パートナーのキャリアを無視すれば可能かも知れないが、それでは生活の原資が共同で稼げない。
つまり、女性がキャリアアップするには、性の分野でも、出産育児の分野でも、「フリーな立場」でなければならないし、時として女性の武器も使う覚悟が必要なのだ。
それで結婚は遠退き、或いは、結婚しても出産はしない。
彼女達が母性に目覚める頃には年が行ってしまい、多くの出産には母体が適さなくなって来るのだ。
此れでは少子化も、止む応得無い。
それでは、国家は成立たない。
将来「日本の人口は半減する」と言われている。
いくら米国式に「あこがれている」とは言え、日本国の法律も矛盾に満ちている。
少子化対策とは対極に位置するのが、男女雇用機会均等法なのだ。
第一、米国とは国情が違う。
この五十年、日本は米国の民主主義の「建前部分」を盲目的に標榜してきた。
この傾向は、建前好きな女性運動家に特に多い。
彼女たちは、米国の、「彼女達にとって都合の悪い本音の部分」には、耳も目もふさいで、今に至っている。
そろそろ日本と米国は違うと言う事に、気付いても良さそうではないか。
たとえば、日本国民「総中流意識」と言うが、米国では、移民と不法入国者が絶えず供給する形で下層階級を形成していて、産業の下支えの役目をしている。
元々移民で始まった多民族国家であり、国土も広いので、今でも移民などに懐が深い。
だからこそキャリア・ウーマンの居場所が、米国にはある。
アメリカン・ドリームもある。
下層階級から這い上がるパワーもある。
だが、移民の米国での生活は、下積みの仕事から始まる。
この豊富な下層階級の下支えを、日本は「理想だけ追って」計算には入れて来なかった。
したがって、高学歴の「汚れ仕事はいやだ」と言うプライドしかない若者ばかりになった。
それなのに、米国のまねをした。
三Kなどと、汚れ仕事は敬遠された。
それで、「背に腹は替えられず」大企業は、海外に工場を求め、国内の産業は空洞化して行った。
ただし、こうした移民などで下層階級の供給を行えば、日本の治安は今以上に悪くなる。
米国が実証しているように、貧しき者の、富める者への力の攻撃である。
此れは出来れば避けたい。
しかしながら、現状のままで何の手も打たなかったら、人口の減少が続く。
やがて政府は、多少の治安の悪化を覚悟で移民を受け入れる「選択肢」に、至るかも知れない。
今の日本のように、下層階級の供給無しにキャリア・ウーマンを作ったら、人口は減るばかりだ。
自明の理である。
そう言う結果予測なしの立法が、ピンポイントの問題解決の為になされ、それによって起こった新たな問題に、また繕い(つくろい)の立法をして来た。
この章で述べているキャリア・ウーマンの実際に置かれた本音の立場に関して、建前主義の日本では米国ほど、社会が合意しているとも思えない。
何か表面化すれば、彼女達は建前の元に、袋叩きに会うだろう。
建前だけの合意で、何かことが起きると、また個人だけの責任に押し付けるのか。
少子化問題にしても、私が関わらなくても「誰かがやってくれる」と、思っている女性ばかりでは先が思いやられる。
自分の欲望ばかりで、社会とのバランスなど考えない。
残念ながら、この問題の特効薬はない。
あえて言えば、違う生き方の女性が増えるように国が努力して啓発していく、地道な努力が必要だと言う他はない。
後は子育て専業主婦の、社会的評価の向上を、政府が率先して努力するくらいか。
女性の社会進出は大いに結構だが、「自分達の幸せ以外は考慮に価しない」などと思っていると、必ずしっぺ返しはくる。
何事にも、得るものあれば、失うものは必ずある。
今のまま走ってしまうと、自分が老齢に達した時に、悔やんでも手遅れの社会になっている事を、承知おき願いたい。
日本最高の高学歴を有するキャリア官僚のお役人様、あなた方の「学識」は本物ですか。
役所で、自分達の為に予算を浪費する事に腐心していては、エリートの呼称が泣きます。
政権政党の代議士様、あなた方は日本を何処に持って行くのですか?
公約は二枚舌ですか。
此れは、日本のあらゆる矛盾に共通している建前主義の悪しき結果だ。
小生の「キャリア亡国論」の主役は、キャリア官僚とキャリアウーマンの存在で有る。
近頃、健康について気にする方は数が多い。
それで、各自色々と対策を練る。
簡単に言ってしまうと、「自分が大事」だからだ。
しかし、専門知識をもって詳しく調べて見ると、各自の健康管理に、結構「見落し」が多い。
つまり、意外と知らない事もあるのだ。
その見落としを知ると、直ぐにでも何とかしようとする。
それが、心情と言うものである。
こうした健康への感心を、貴方の生活環境にも広げて欲しい。
貴方の「経済的生活環境」が、知らないうちに「病気に成っている」からだ。
つまり、見落としている間に、「経済的生活環境」の病気は進んでいる。
現在実感として感じていない貴方も、本当の日本経済の実態はかなりひどい事に成っている。
癌にたとえると「少しおかしいのかな?」程度で、自覚症状がほとんど無い間に病状が進み、「痛みを感じた時には手遅れ」と成りそうなのが、現在の貴方の「経済的生活環境」なのである。
中には、日本の経済環境について「そんな事は言われなくとも知っている」と、言う方も沢山居るだろう。
確かに、知ってはいる。
それなのに他人任せで、健康ほど感心がない。
健康問題なら、「医者」に行く、或いは、「食事」に気を使う、更に必要な「運動」をする。
つまり、貴方は行動する。
「経済的生活環境」は他人任せ(官僚や政治家)であきらめて良いのだろうか?
今回は病気にたとえて、日本の経済を考えてもらいたい。
日本経済の病原(因)の大きな一つは「赤字国債」である。
そもそも、国に「金が無い(支出に見合う税収がない)」から社会保険年金が、危なくなった。
勿論、社会保険庁のずさんな無駄使い運用にも問題があるが、根低にあるのは「少子高齢化」と、「国の赤字」である。
消費税は与野党とも「率を上げる」と言い、もう時間の問題である。
此れらは、国民生活を直撃する。
昨年の事である。
テレビのニュース番組で、来年度の政府予算を報道していた。
私は、まるで「タコの足だ」と思った。
タコは飢えると「自分の足を喰う」と言う。
税収は予算の半分しかない。
残りの半分は国債を発行して「借金」をすると言う。
この借金は国会が承認して政府がするが、本当は「国民の借金」なのだ。
この年の予算の足りない分の内の約六割強は、なんの事はない、「今までに発行した国債の為の支出」だと言う。
つまり借金の返済の為にまた借金をして、それはどんどん膨らんでいるのだ。
この状態は、個人や会社ならとっくに「行き詰っている」筈だ。
国だから誤魔化しが通用する。
それが現在では、赤子から老人まで入れて国民一人当たり七百万円に相当すると言う。
今年国会を通過した来年度予算も、額をすこし押さえたとは言え、赤字国債の発行は続いている。
「返す当てのない借金」は、いずれ重税として、国民にかかって来る。
日本経済は重病なのだ。
これが自分の「体が病気」の宣告なら、大慌てである。
それが「国の経済が病気」となってしまうと、不思議な事に、まったくの他人事である。
理屈では解り切っているのに、国民に危機感はない。
悲しむべき事だ。
今、日本にある不況は、物余りの豊かさの中にある。
その特種な状態から、「中々不況の実感が涌かない。」
しかし、一皮むけば、政府予算の半分を借金(国債)に頼る「恐ろしい虚構」の上で、危なげに成り立っているのだが、国民のほとんどはその事に目をそむけて、虚栄の豊かさを続けている。
良い話しで無いから、知っていても、本音では嫌な事は「考えたくない」のだ。
一旦こうした型に入り込むと、この病は、簡単には抜け出せない。
一旦獲得した生活レベルは、誰も落としたくは無い。
だから、国も国民も借金(赤字国債の発行)をしてでも美食(贅沢)に走る。
その影で、どんどん、「病状の悪化」は進んで行く。
まるで、糖尿病のように、やっかいな病気なのだ。
つまり、国債発行の甘い誘惑を抑えない限り、そして、今までの国債を減らさない限り、この病は治癒しない(なおらない)事になる。
しかし国家予算の縮小に、一番抵抗するのが役人で有る。
無駄使いや天下りを含め、甘い汁から遠ざかるからだ。
その解決策が現政府にはない。
国内の多額の(七百兆円とも千兆円とも言われる)赤字国債で、日本の独自の力での景気回復の要因は無い。
頼みの綱は、他国の経済の向上と、自国の民間の自助努力だけでは、役人も政治家も、何の為に存在するのか。
まさかと思うが、「自分達の利益の為に存在する。」のでは、「無い」と、思いたい。
他国の経済力頼みとはこう言う事だ。
もし、日本の経済が、小泉内閣の元で景気が回復して来たとしても、けして国内政策の成果ではない。
それは米国や中国の経済が好調な時だ。
つまり、日本経済は米国や中国の経済の状態に「影響を強く受ける形勢」にあり、現在は米国や中国の好景気が下支えとなり、或いは少しは上向きにさせてくれるかも知れない。
だが、これは「追い風、向い風」の類で、日本の実力ではない。
今、一部の大企業が大黒字でも、それは「砂上の楼閣」で、長くは続かない筈である。
大企業はリストラで人件費の負担を減らし、サービス残業で収益を向上させた。
その上、国内の「下請け」を見殺しにして海外工場に生産拠点を移し、更なるコストダウンをした。
此れは明らかに目先の利益で、結果国内需要を益々悪化させ、いずれ大企業に跳ね返る。
つまり、しっかりした土台が無い繁栄で、国際環境には非常にもろい。
小泉・竹中内閣の極端な米国型市場原理経済容認のシフトにより、日本の潜在的な国際競争力である筈の中小零細企業が体力を失って行く中、もしここで米国や中国の経済が崩壊したら、そのダメージは計り知れない。
現に、米国の景気は十七、八年前の日本のようなバブル気味な状況にあり、米国民は土地や株の「マネーゲーム」の最中にあり、ある意味綱渡りである。
もはや米国経済も、危険水域にある。
こう言う状態は永く続かないから、米国景気頼みではいずれ手酷いシッペ返しを受けるかも知れないのである。
中国では、都市部と田舎の経済格差が深刻になりつつあり、その内政不安定要因は増大している。
更に中国や韓国では、反日の機運が盛り上がり不買運動や日系に対する治安が悪化、「海外工場撤退」などと成っても、国内の下請けは崩壊して、帰る所に「生産環境の再構築」はむずかしい。
多くのベテラン技術者が職場を失い、霧散してしまった後である。
また、現在の日本経済はその独立性を保てない程に米国経済に取り込まれており、実は、日本も「米国の債務赤字」をいやおうなく買い支えている状態である。
それらを考えると、日本は実質的に政治、経済、防衛、共に米国の「隷属化にある」と言える。
その日本経済は現在重病なのだ。
現在は点滴(赤字国債)で栄養を補給し、やっと生きている。
このまま「投薬程度の政策で先送り」を続ければ、体力が弱まるばかりだ。
そんな状況下で、米国経済の悪化などの余病に、現実として見舞われたらひとたまりもない。
その起こる可能性への対処を政府はしていない。
まるで、「運まかせ」ではないか。
つまり、日本経済は早急に手を打つ必要があるのだ。
そこで手術が必要なのだが、実際の病気でもたまに起こる事で、「専門医の既成概念」がじゃまして失敗する事がある。
かえって異分野の医師の方が正解だったりする事もある。
つまり、自分達が学び、自分達が施術して来た方法以外に、中々良い発想が涌かないのだ。
その点、素人は大胆に物を考える。
めったにない事だが、此れがヒットする。
私の小説◆ 【たったひとりのクーデター】の記載内容にある「経済政策私案」を実行すれば、国民に痛み無く、赤字国債も中小企業対策も解決する。
念を押すが、「赤字国債の発行」は「麻薬」
と同じで中々止められない、今の日本は重症の赤字国債中毒患者だ。
しかし、急に止めれば日本経済はショック死してしまう。
唯一残された道は、最良の方法で日本経済の建て直しと、赤字国債の残高減少を、「同時に進める離れ業」と言う事になる。
国債の発行が行き過ぎると、日本発の世界恐慌に成るって言う事も、現実味を帯びる。
日本の経済力が信用されなくなるのだ。
国債と言うのは国がする借金だから、「過去に返せなくなった国も幾つかあった」と言う点では、「可能性は有る」と言うべきである。
状況は異なってはいるが、日本でも戦前の国債は敗戦で「紙クズ」に成った事がある。
この事態になると、単純な話し、国債の引き受け先が損をする事になる。
引受け先は国の内外の個人から金融機関等までに渡っているが、中でも国内の金融機関が最も危ないと言える。
貸出し金利の低迷や、貸付先の不足が原因で、金融機関は利回りの良い国債にかなりのウェイトをシフトしている。
つまり中小零細に貸すより、「国債の方が、利回りが良い」のだ。
反面、国債に事ある時のリスクは大きく、生き残る所は皆無と言って良い、言い換えれば、国債の市場が下落しただけで、金融機関はバタバタと破綻する危険を孕んでいるので、綱渡りをしている事になる。
国の赤字国債以外にも、問題点は沢山ある。
たとえば、地方自治体のかかえるバブル時代の先送り遺産がそれだ。
役人のやった総量規制でバブルが崩壊し、経営が悪化したのは、実は民間だけではない。
地方自治体がかかわる土地開発公社や住宅供給公社、第三セクターによる観光事業なども、手持ちの土地が資産価値を失い、巨大な赤字を先送りしているが、最近は次々とパンクを始めている。
此れも、何とかしないと地方自治体の財政は破綻してしまう。
早期の景気回復を望むのは、けして民間だけではない。
この問題も、今になって「経営がずさんだった」と指摘するだけで、当事者のみに押し付けるごまかしの手法は、民間に対してと同じだ。
こうした公社やセクターの事は、実は国(政府や自治省)が音頭を取って始めさせたもので、当然バブルの土地高騰時代も彼らは仕事を続けざるを得なかったのであり、市町村民にその付けを回すべきものではない。
「元凶は政府に有り」である。
国のやっている地方自治体の不良債権対策は、気の遠くなるような事である。
市町村に財政的自助努力を求める事と、合併で体力を付けさせ、公社、セクターの破綻を吸収させる事である。
地方自治の活性などと言っているが、補助金を貸せてまで合併を勧める本音はここにある。
私は、国を始め、県市町村の地方の公団公社などで、「一体どの位の借金があるのだろうか。」と恐ろしくなった。
中央でも郵政省が公社化して、国(郵政省)の借金二百兆円が横滑りで消えた。
公社の借金で、国の借金ではないと言う。
郵政省の二百兆円の赤字は公社に変わったから、国の赤字ではなくなったので、累積する国家の赤字国債が、表面上すこし減った。
近々民営化すれば、その会社の「唯の借金になる」としている。
あきれた、話しである。
道路公団の四十兆円も民営化の時点で分社化して、それぞれの借金にし、国家の帳簿の上から抹殺しようとしている。
此れは、まやかしなのだ。
このまやかしをしながら表面上の累積を減らし、翌年の国家予算の赤字国債発行のアリバイにしている。
そんな姑息な手段より、重ねて言うが、少子化対策と中小企業対策とは、表裏一体のもので、切り離して考える方がおかしい。
同時進行でないと意味がない。
他人事ではない。
国の借金は、いずれ国民に跳ね返る。
消費税は上がり、医療負担は重くなり、年金負担は重く、支払い年金額は軽くなる。
その時が来て慌てても手遅れである。
つまり潜伏している病気が、一気に表面化する。
その時は、既に手遅れである。
今、さして痛みが無くても、確実に病状は悪化している。
赤字国債と言う癌は、日本の全身に回っている。
国民の住みにくい国家、国民のいない国家は、成立たない。
しかし、今の政治家や官僚は予算が足りなくなると、借金(赤字国債)をするか、国民から搾り取るばかりで、何の手立てもしない。
これだけ民衆が知らない内に改悪法を次々に立法化してしまったら、将来酷い事になるだろう。
基本的に変化は望まないし、その方がてっとり早い。
あとは、税金を使いながら「自己の利益か権力の保身」に奔走している。
もしかすると、彼ら政治家や官僚こそ「病原菌」かもしれない。
「いや、きっとそうだ。」
貴方の将来得るべき財産は、シロアリに食い荒らされるように、目に見えない所で、食い潰されて居るのだ。
国民は、自分の健康に関心を持つと同じように、自己防衛の為に「政治に関心を持ち」、必要な行動はしなければならない。
しかし、世界的に見ても教育水準が高い国民なのに、あきれるくらい政治には関心が無い。
今だに百年以上前の,江戸(藩幕・鎖国)体制時代の「古いお上意識」が、色濃く国民の中に残っているのだろうか?
石原慎太郎氏の「ノーと言える日本人」は、なにも外国相手だけに当てはまるものではない。
政府官僚に対して「ノー」の国民の気構えにも必要なのである。
「島国日本独特の和の精神」であるはっきりしない「奥ゆかしさ」は、この「経済的病」や「対外問題」の益々の悪化を助長させるだけである。
日本の文化は誇るべきものであるが、盲目的にならず、冷静に評価改善するのが、後世に残す為の勤めではないのか・・・・。
この処日本は、「ドイツなど」と伴に国連の常任理事国入りを運動している。
是に対しての国連改革に関するハイレベル委員会のスコウクロフト元大統領補佐官の話を伝えている。
結論から言うと、「むずかしい」と、否定的な見解の話しであるが、別に米国の国益だけで、言っている訳では無い。
その中で、「遠う回し」ではあるが、注目するコメントがあった。
それは、「三十年後にどこが大国になっているか判らない。」と言う部分である。
此れは、スコウクロフト氏が赤裸様に日本を名指しで言えないから、こうした表現で言ったのである。
つまり彼らは、日本の未来をまったく「信じていない」のである。
それは、そうだろう。
少子高齢化で労働人口が激減し、大企業の海外工場移転で、中小企業を殺し続けている国に、未来の展望などあるはずがない。
経済大国は、既に過去のものになりつつある。
国内の永続的発展の為の、きちんとした政策を成し遂げてから、「出直して来い」が、スコウクロフト氏の本音としたら、「常任理事国入り」と言う目的達成の可能性は低い。
それをやろうとするのは、総理を始め取り巻き連中の、国内の失政を隠し、国民を騙す「サプライズ狙い」としか考えられないではないか。
もしこのスコウクロフト氏の認識なくして、目先だけで常任理事国入りを狙っているのが、わが国の総理であったら、恐い話である。
つまり、国外の日本に対する評価とそれに気が付かないのか、それとも、「何としても点数を稼ぎたいのか?」と言う時限の話で、これは真面目な国策論議以前の裏話である。
ただし、国際化の観点で論ずれば、企業の海外進出も移民の受け入れ論も常任理事国入りも一理ある。
しかし、日本の現状の社会世情の状態は、「見過ごす訳に行かない」処に来ている。
評論家の「一般論的な論評」で終わる程の時間的余裕は無い。
すなわち、少子高齢化、中小企業対策は「表裏一体」の事で、多くの若者や高齢者の受け皿(働き口)は中小企業である。
それがどんどんなくなり、大手企業しか生き残っては行かない。
一部の優秀な若者は大企業や官僚で良いだろうが、後の若者は将来の夢もいだけない。
現に、六大学クラスの就職浪人が溢れている。
お年寄りは、働けても場所がない。
「定年を延長する」などと言っているが、長年勤めた中小企業は定年延長以前に会社自体が無くなっているのだ。
五年間も三万人以上の自殺者を生み出し、去年は三万六千人と増え続けている。
この修復を国民の自助努力に期待している余裕などない。
移民の受け入れにしても、受け皿がいる。
恐らく、大会社の大工場が受け入れ、中小は蚊帳の外になるだろう。
へたをすれば、日本人労働者の働き口は益々減るかもしれない。
少子化対策にしても、移民受け入れのルール作りにしても、時間がかかるだろう。
そして、効果が出て来るとしても、十年、十五年先の事であろう。
対策は一刻を争うのだ。
つい百年と少し前の江戸時代まで 、政治を執り行う事を「祭り事」と言った。
本来、わが国の長い歴史において「祭り事」は神事である。
つまり、民の為に「神の代わりを執り行う」と言う精神が政治を「祭り事」と言ったのだ。
「祭り事」の基本がお定め(法律)である。
そのお定め(立法)に、「仏作って魂を入れず」、つまり起こるべき予測があり得ながらフォローせずに放置する為政者が多過ぎる。
これだけ民衆が知らない内に改悪法を次々に立法化してしまったら、将来酷い事になるだろう。
現代の政治家も、一見見てくれの良い「建前の立法」をするだけで「魂を入れては居ない。」のではないか。
団塊の世代六百万人が高齢者の仲間入りするのが、五年後にやって来る。
今のニートは二百万人(統計外服務推定)でこの影響である。
今のようにもたついていては、手遅れになる。
政府は国民の生活に責任がある筈で、「振り落とされた人は仕方が無いですね」では、済まされる筈は無い。
それなのに、最重要課題は郵政民営化である。
同じ改革をするなら、省庁役人の天下り問題やら既得権益やら、もっと他にやるべき事は沢山在るだろう。
小泉内閣は、一体何を考えているのだ。
将来に夢が無いから、先が見えないからの、自暴自棄の犯罪や集団自殺・・・・個人の問題とかた付けるけるほど、小生の面の皮は厚くはない。
「そうは言っても解決策が無い」とお嘆きの方が多いが、方策はあるのだ。
小生の◆ 【冗談 日本に提言する】は、少し荒療治だが、少子高齢化、赤字国債の解消、中小企業の再生、を一気になしえる方策が書いてある。
現状維持を前提にしない信長的発想なら、「なしえる」のである。
そして、歴史的検証も含めて、そう言う事が手遅れになら無いうちに、その兆候は起こってきた。
今回はバブルの崩壊だった。
あの時点で、抜本的改革をすべきだったのだ。
今は変化を恐れて、無理やりそれを止めて、先送りしているのである。
◆ 【冗談 日本に提言する】を読んだ方は、此れが唯一の方法だが、今の官僚と政府は、自己保身で過ちを認められない為に、この方策には踏み切れないだろうと、一定の評価と、政府への失望を合わせてコメントする方が大多数なのである。
平和憲法と「いかに付き合うか」は、矛盾をどう克服するかにある。
わたしは、不戦主義者であるが、それを単純な建前でかたづけられない。
その訳を、記述してみた。
近頃日本社会では、若年層(小・中学生)の犯罪が増えている。
それも、凶悪な犯罪に及んでいる。
女性や、少女を狙う性犯罪や徒党を組んでの親父狩り、ホームレスいじめ、それも死に至らしめる事さえある。
「弱者ねらい」は、誰が教えた。
社会か、両親か、教員か、政治家か、今の世では、全てに否定は出来ない。
「中学生が悪くなった。」と、言われているが、なるほど大人を恐がらない。
今の子供は、中学生くらいになると知恵も付き、大人を侮るようになる。
侮られても仕方ないほど、大人もだらしなくなった。
胸を張って、「大人を信用しろ、尊敬しろ」と言えない現実がある。
政治家も、役人も、大企業も、教員も、ぼろぼろと、「悪い事」がばれる。
彼らは、若者の手本にはなり得ない。
彼らは、「ばれないようにやれば良い。」とでも、教えるつもりか。
同時に、今の教育の指導スタイルにも問題がある。
世間で言う「しつけ」の部分である。
父兄が子供可愛さの余り、軽度の体罰でも「暴力だ」と騒ぎ立てるので、教師は恐い存在では無くなった。
教師が手でも上げようものならあらゆる方向から袋田叩きに会う。
教師は、話で説得するしか手段がない。
その話を、子供たちは最初から聞かない。
暴力を肯定するものではないが、教師が恐くなければ、大人も恐くない。
子供たちは、大人をなめて育つ。
それでチョットした悪事が、だんだんにエスカレートして行く。
そんな父兄に限って、親の責任から逃れられない事件が起きると、「教師が悪い。」となすりつける。
教師に丸投げする前の「親の教育責任」はどこに行った。
此れは、警察官の立場も同じだ。
交番に逃げ込んでくる市民を、警察官が救えないのも、やくざになめられているからだ。
拳銃をもってはいても、何重にも使用が制限されている。
やくざは「最初から非合法」なので、すぐに拳銃を使える。
市民どころか、自分も守れないのが、今の警察官の立場なのだ。
それで、逃げ込んだ交番から引きずり出されてまで、暴行される被害者がでる。
警察の抑止力が衰えれば、犯罪は多発する。
領海を侵犯されても、武器使用が出来なかった海上保安庁も、海上自衛隊も、なめられて、拉致事件が起きた。
国際間の武力紛争は、憲法で禁止されているからだ。
時の政治家や官僚は、国家間の面倒を恐れて見て見ぬふりをし、言わば「守るべき国民である拉致被害者」を見捨ててきた。
こうした類の矛盾が、平和憲法に内在している。
こう言い換えよう。
自衛隊の存在を否定する平和憲法論者でも、警察の存在は否定しない。
理想から言えば、警察官が居ない世の中が理想である。
理屈で言えば、警察官が居なくなれば、犯罪も起きないと言う事ではないのか?
しかし、誰もそうは言わない。
それは、どんな社会にも「ならず者」が居るからである。
それなら、それが国家間でも有り得るではないか?
現に拉致はする、麻薬は扱う、偽札も作る、武器は密売する。
スケールが違うだけで、国内の「警察に厄介になるような方々」と同じ事をしている。
そんな「ならず者」国家が、隣国「北朝鮮」であるなら、国家的警察権、つまり自衛権は必要である。
近頃、「核兵器」と「ミサイル」の事が脅威となっているが、平和ボケした日本の人々は何か忘れていまいか?
そんな、大掛かりな事をしなくても、細菌兵器だって、有るのだ。
国際条約では禁止されているが、なにしろ「ならず者」国家で何でもありの国である。
細菌テロや毒ガステロなど防ぎようも、相手の特定も困難が伴うのだ。
現在の小泉首相は、私は大キライだが、感情に任せず慎重に対応せざるを得ない点では、一理ある。
子供の教育、警察の抑止力、自衛権、許容範囲を定めないで、「ヒステリックに全てだめ」では、弊害も多い。
理想論だけの話では解決しない。「理想論を掲げる」共産主義の崩壊が、まさにそれだ。
得るものが有ると、必ず失うものもある事を肝に銘じなければ成らないのだ。
余りにも、建前主義で事を進めた結果と言える。
矛盾が出て来たら、見直すのが当たり前である。
「何か変だ。」と誰も疑問に思わない。
単純に当事者の責任だけを責めるのが、今の日本国民だ。
他人事なので、「職務だから体を張って死ね」と言うのか。
平和を守る為に、多少の犠牲には目をつぶって、たまたまの当事者は運が悪いと 見捨てれば良いのか?
此れも、弱い所だけ攻めている。
本来、現場で担当する当事者に、「力を発揮させる工夫」をしてやるのが、政治家や、官僚の仕事ではないのか。
また、それに対する国民の理解と合意は必要である。
そして、その許容範囲を逸脱しないように運営しないと、「裁量権」と言う化け物が、いつ鎌首をもたげないとも、限らない。
だからこそ、前提になるのは「不戦の誓い」であり、自国民や相手国民を不幸にしてはならないのが、平和憲法の精神である。
今年(平成十七年)の八月で、戦後もおよそ六十年を数えるようになる。
長い時間にきざまれて、戦争体験は益々遠ざかって行く。
かく言う小生も、戦後の生まれであるから何も体験してはいない。
しかし、近年極東アジアの地は、とみに「きな臭く」なって来た。
平和ボケした日本人は、戦争を勘違いしている。
計算づくの理性だけで、戦争が起ってたまるものか!!
戦争には、狂気が介在するのだ。
小生の頭の中は雑学だけで、まとまったものは何も無い。
専門家でないから、「斜(はす)に構えて」ものを見る。
それは、人類の脳細胞の中にある「狂気」の部分である。
人間には悠久の時の中で培った「知恵や理性」がある。
しかし、過去におろかなことを繰り返してきた。
その因果関係を、「原始的な生物本能」に求めて見た。
小生が大学の学生だった四十年位前、ある学者が、ヒトラーの功績をあえて言うなら「アウトバーンと人口調制だ」と言った事がある。
昭和の始めから十年代にかけて、ヨーロッパでは、第一次世界大戦で敗れたドイツが、莫大な戦後賠償金の捻出と海外植民地を失った事による本国帰還民の急増、平行して世界恐慌に見舞われるまさに「三重苦」から、国家社会主義労働党(ナチス)を産みだした。
反対にフランスでは、短命内閣が続き、政情は安定せず、戦勝国で海外植民地が広がり、人口の流出、「少子化」が続いて、日本の教科書でも取り上げられた。
ドイツ国民は、追い詰められていたのだ。
そして、阻止すべき隣国フランスの国力は低下していた。
バランスが壊れて、ナチス・ヒトラーとドイツ国民の「狂気」が始まったのだ。
今、この人口のアンバランス現象が、極東の地で起きている。
日本の極端な「少子化」、主力工場の海外流出、隣の北朝鮮の「飢餓」、その隣で中華人民共和国の「人口爆発」的な人口の増加がある。
国民を食わせるために、満州を狙った日本、ヨーロッパを狙ったドイツ・・・・
近年では、日本近海の油田、ガス田、に魅力が・・・・
こうして、理性的に分析すると、ありえない事でも、生物学的に「増えすぎた種」が、本能的に死の強行軍で「生き残り淘汰」を謀る本能が、「生き物」である人間の「狂気」をさそうとしたら・・・・・
人間の本能のメカニズムは、解明がなされてはいない筈である。
民衆の不満が高まる時、「狂気は国を走らせ、国を滅ぼす」のだ。
この狂気は、人が入れ替わり、人の記憶が失われる五〜六十年ごとに、顔を出す。
こうした近隣とのバランスの為にも、日本の現状を早急に立て直す時期に来ているのだ。
最近、極東アジアは「きな臭く」なり、昭和十年代のヨーロッパにあまりにも似て来た。
杞憂であれば、良いのだが。
最近、極東は日を追って「きな臭く」なって来ている。
紛争の火種が、次から次と沸きあがってくる。
しかしそれを、独立国家として看過出来ない。
象徴的なのは歴史認識と領土問題で、此れは周辺各国と、それぞれに問題を含んでいる。
小生のHP◆【<歴史認識問題・領土問題と反日運動を考察する>】に、小生なりの考察を記載してあるので、紹介させていただく。
最近は中、韓、朝、台、と騒がしいので、忘れ勝だが、ロシアも国境を接する周辺国で、北方領土問題も、シベリア不法抑留の歴史認識問題もある。
しかし現在ではそれ以上に深刻で、被侵略行為に相当しそうな状況に日本はある。
こうなると、「あらゆる事を想定する必要」があるのではないか?
したがって、かなり天邪鬼(あまのじゃく)に、日本の置かれた現状を考えてみる。
大陸の中華人民共和国は領土と資源問題で、対日強行姿勢を強めている。
此れでは台湾海峡どころか、東シナ海も太平洋さえも危ない。
半島の朝鮮人民共和国は、拉致問題を認めながら開き直り、核開発を進めている。
ノドンとやらは、日本に向いていると言う。
それでは、同盟国の米国は日本の味方か?
此れが建前通りなら良いが、見ようによっては限りなく怪しい。
米国民にとって、所詮日本の安全保障は「他人事」で、関心は無いに等しい。
しかし、日本の安全を米国が守ってくれると言う幻想を、日本人の大半が持っている所に、危機感を感じる。
現ブッシュ政権にとって、大事なのは米国民の合意である。
その範疇に、日本は無い。
つまり、先制攻撃を日本が受ける前に行動を起こすとは限らない。
世論の高まりを待つには、先制攻撃を許してからかも知れないのだ。
米国が日本の安全保障をどう捉えているかは、ブッシュ政権の背景に在るものから見てみないと、正確には判らない。
選挙戦を支えているのは、米国の基幹産業「軍事兵器製造産業」、である。
ここが暇だと、米国は不景気になる。
つまり、産業構造から変えないと、米国は十年サイクル位で悪事を繰り返す。
ブッシュ家は代々戦争屋である。
もう一つの背景は、「米国民」・・・彼らは今「狂気」の中に居る。
テロの恐怖に怯えながら、同時に「唯一の超大国」と言う誇りを失いたくない為に、色々な事に目をつむっている。
その心理を、利用しているのが、ブッシュ政権である。
米国民の本音は、「今現在自分達さえ豊かなら、他はどうでも良い。」
なぜなら、前大統領のクリントンが署名した京都議定書(地球環境合意)から、「国内の景気が悪くなる」と言う理由で脱退したブッシュを再選させた。
彼ら米国人は、自分達に既に不幸が訪れているのに気付いていない。
昨年、カルホルニア州で、歴史的集中豪雨が起き、大被害にあっている。
例年二個程度のハリケーンが、昨年は異常に多く、しかも例年以上に大型なのが五個も来て、フロリダとテキサス州が、メチャメチャになった。
明らかに、地球温暖化の影響である。
それでも、「現在を豊かに暮らしたい」から、因果関係を考えたくない。
単なる「気象被害」と切り離して、知らん顔で有る。
そんな米国民だから、ブッシュは人気が有る。
でも、手放しで米国民を非難出来ない。
この点で、日本国民にどれだけ違いがあるのか?
人間に本来と言う定義は無い。
千人万人の哲学者をもってしても、人間の本質を定義付ける事など出来ない。
定義付ける事が出来ないからこそ、人間である。
清純でスケベ、優しくて残酷、正直で嘘つき、上げたらきりの無い多面性・・・
それに固有の個性が属いては、米国政府や米国民の心を生善的に期待するのは、愚かと言える。
人は、どんな形の容器にも収まらない。
それを、日本の味方と言う型に嵌めようとするのは、愚かである。
したがって米国の正義は、米国の安全と利益にのみ起因すると見るべきである。
此れはうがった見方で物議をかもすかもしれないが、あえて逆説的に言えば、果たして日本の安全が、現ブッシュ政権に利益であろうか?
単純な話、朝鮮人民共和国(北鮮)が日本を攻撃してくれた方が良いのかもしれない。
つまり、戦争好きの誰かさんに「此れ以上ない口実」が出来る。
米国民の支持も、世界的合意も得られ、米国の軍事産業は潤う。
少し良心を悪魔に売れば、そう言う選択肢もある。
歴史を思い起こして欲しい。
過去を見る限り米国の正義は、伝統的に相手に少しやらしておいて、国民の合意を得てやり返すものだ。
それも、疑えば米国側の意図で、謀略的に引き起す事も可能である。
考えてみれば、一時的に多少の経済的損失があっても、米国の自動車産業、電気産業を始めとする産業が、日本のライバル会社のダメージで生き返る。
ついでに、目の上のたんこぶ(北鮮)の始末も付く両徳な話である。
イスラエル、ユダヤ系国民と違い、日系国民は米国では少数派東洋人で有る。
米国にとって、捨て駒にしてもさして惜しくないのが、日本である。
「ありえない。」と思うが、理論的には成立する話しで有る。
つまり、日本を守るのは日本だけである。
したがって、「自衛権」は必要で有る。
そして、誰から、何処から守るのかの想定の対象は、近隣の共産国家とばかりは限らないので有る。
そうした意志を明確にしないと、対等な国家間の関係など成立たない。
「平和憲法」を放棄してはいけないが、自衛権は、はっきり「憲法に明記」すべきである。
軍隊の保持を「良し」としない方々も、警察の存在は否定しまい。
警察のやっかいに成るような「ならずもの?」が、国家単位である以上、残念ながら他国の善意だけに安全をゆだねる事は出来ない。
現に領海侵犯、拉致、偽ドル作り、麻薬密売、武力領有、資源盗掘、等、あらゆる不法行為を、野放しにしてきた。
だが、自衛権以外の交戦権を保持してはならない。
つまり、自衛中立を目指すべきである。
また、集団的自衛権は既に交戦権であり、そこまで踏み込むのは「歯止めがなくなる」と言う事である。
自衛権を確立すると同時に、米軍の在日基地にもお引取り願いたい。
本来、平和憲法を標榜しながら、攻撃を実行している他国の軍隊と基地の存在は「現実的に馴染まない」のではないか?
素朴な話として、「承知して場所は貸せるが、他国のやった事」と言うのは、相手国が納得するものではない。
少なくとも「黙認」、或いは「幇助(てだすけ)」と見られ、日本の意志に反する紛争に日本が巻き込まれ、結果的に「集団自衛権の行使」と成る恐れが想定されるからだ。
そもそも、米国依存体質を再検討する時期である。
それとも同盟を堅持し、米国の敵は我が敵とする覚悟が日本国民と日本政府に在ると言うのか?
そして同じ事を問うた時、米国民と米国政府にその覚悟が在るとは思えないが、如何か?
へたをすると、手先として使い潰されるような気がするのは、私だけだろうか。
少なくとも「憲法改正問題」の論議において、米軍駐留問題を棚上げにするのでは、またまやかしの先送りかもしれない。
【稚拙な長文を最後までお読みいただきありがとうございました。】
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