◆◇◆◇欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)◆◇◆これは、それらの神話が原則的に中華大陸の漢字圏から渡海して来た渡来部族が現住民族(蝦夷族)を統治する為に為した自らを神に捏造流布の神話だからである。 出雲の大国主神話、九州の阿蘇・高千穂神話、九州の天岩戸神話、伊豆半島葛城ミステリーなど渡来部族が日本に上陸した足跡が記されて行く・・・。 その後渡来部族の日本統一を目指して、神武天皇の神武東遷により神話の舞台は畿内地方に移り大和朝廷が成立して神話の舞台は皇居のある場所になった。 欠史八代(けっしはちだい)とは、第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までの八人の大王(おおきみ/天皇)の実在が疑われている事を言う。 欠史八代(けっしはちだい)とは系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞/成し遂げた仕事)が記されない為、皇室の「起源の古さと権威を示す為」の偽作とされる。 欠史八代(けっしはちだい)は古事記・日本書紀に「お名前」が在り、例えば二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、古事記では「神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)」と言い、日本書紀では「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)」とも言うのが「お名前・和風諡号(わふうしごう)」である。 綏靖(すいぜい)と言う呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の和風諡号(わふうしごう)を一括撰進した時に付されたが、その古事記・日本書紀での「お名前・和風諡号(わふうしごう)」に秘密が隠されていると読めるのだ。 つまり初代・神武天皇(じんむおおきみ/天皇)から九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは、架空の人物もしくは倭国群の内の一国から採って「記・紀神話(古事記/日本書紀)」などの古文書に記載した疑いもある。 また、五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)の「お名前・和風諡号(わふうしごう)」=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)の名の中に在る「香殖稲(かえしね)」に、後世へのメッセージが疑われている。 香殖稲(かえしね/根を反す)とは、皇統が入れ替わった事を暗示させると疑いで、「欠史」にしても「香殖稲」にしても初期皇統にまつわる疑惑である。 この初期皇統の疑惑を、以下この文章で少し詳しくお伝えする。 皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。 この欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。 謎の始まりは、「古事記・日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。この大王(おおきみ)実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える研究家の見方が一般的である。 「古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。 これらの天皇は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが下記「欠史八代」である。 第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇) = 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと) 第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと) 第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと) 第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと) 第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと) 第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと) 第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと) 第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト) これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の「お名前・漢風諡号(かんふうしごう)」にあり、崇神大王(すじんおおきみ)の「お名前」である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。 つまり崇神大王(すじんおおきみ/天皇第十代)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇と言う評価がある。 「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。 比べるに、第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)及び第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは明らかに和風諡号(わふうしごう)と考えられる。 所が、記紀(古事記/日本書紀)のより確実な史料による限り、和風諡号(わふうしごう)の制度が出来たのは六世紀半ば頃で、それ以前は漢風諡号(かんふうしごう)でないと時代が符合しない。 しかもこの間の大王(おおきみ/天皇)位相続に関し、当然都合で発生すべき兄弟相続が一切無く、総て父子相続と成って居る所など後世に作為的に創造された神話の証拠ではないだろうか? つまり初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の東遷当時はまだ西日本列島の統一半ばであり、或いは「崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代に統一王(大国主)で在った」と考えられる。 そして「欠史八代」が伝えるべき史実の核(成し遂げた仕事)が無いままの「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の捏造あれば、欠史八代の天皇群陵墓に矛盾が在り古墳出土品に系譜が刻まれて居ない説明が着く。 何度も念を押すが、日本書紀・古事記で、二代目から九代目までは系譜・山陵の所在・都のみ記載されていて、事跡(成し遂げた仕事)などの記載が無い。 それだけでなく、二代目から九代目が通常では考えられ無いほどあまり統治期間が長い為、流石(さすが)天孫(神の血統)の大王(おおきみ/天皇)である。 つまり古事記・日本書紀の遍者達が、皇統の神格化を目論んでカリスマ化した捏造大王(ねつぞうおおきみ)ではなかったかと疑いを持つのだ。 それでは「欠史八代」の謎をどう捉えれば良いのだろうか? そこで登場するのが伊豆・伊都国に誕生し、勢力を拡大して紀伊半島奈良の地に新たに葛城の都を創った賀茂・葛城朝の存在である。 初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(不確実な推定)する説である。 この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力であるが、神武東遷(じんむとうせん)後に九州を含む西日本一帯を支配した「九州の豪族で在った」とされる「第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)に踏襲された」とこの説は結論付けている。 この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、「邪馬台国は畿内に在った」として葛城王朝を「邪馬台国」に、崇神天皇の王朝を「狗奴国」にそれぞれ比定する説もある。 或いは「邪馬台国は九州に在った」として崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、或るいは「邪馬台国を滅した後の狗奴国である」とする説などがある。 しかし我輩は、神武朝「狗奴国(くなくに)」と葛城朝「伊都国(いとこく)」は同じ呉族系海洋民族の国であり、葛城王朝・邪馬台国(やまたいこく)説はとても肯定できない。 それで、加羅系農耕民族の比売命(ひめのみこと/卑弥呼)の「邪馬台国(やまたいこく)」が、「狗奴国(くなくに)」と「伊都国(いとこく)」の連合勢力に圧されて「天の岩戸伝説の誓約(うけい)に到った」と考えたのである。 当時、古事記・日本書紀の編纂に携わった人間が、国家の正史を編纂するにあたって後世へのメッセージを暗号化して謎解きを残す事は充分に考えられる。 その、大きなメッセージが「香殖稲(かえしね/根を反す)」ではなかったのか? 「古事記」によると、 御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。この後は、比売(ひめ)を娶り、二人の御子をもうける。その内の一人が「大王(おおきみ・天皇)の位についた。」 と記されている。 「日本書紀」では観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)と記されているこの孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)、何と在位期間が八十三年、崩御された時の年齢は日本書紀に百十四歳、古事記には九十三歳とあり、当時としてはとんでもない長寿で、大きな謎である。 この数字が、二人分の生涯なら話は早い。 欠史と言う事で、実在も疑われているこの辻褄が合わない大王(おおきみ)が、なぜか命(みこと)の時「葛城の掖上(わきがみ)宮」に坐(ま)しましていた。 ここらに、若き葛城臣王(葛城御門)が在任中の神武朝大王(おおきみ)の年号、在位年数をそのまま引継ぎ、「入れ替わった」ので生涯年齢の数字が延びたのなら説明が付くのだ。 これも、神の降臨から続く「血統至上主義」の為に封印された歴史の一つではではないのだろうか? 名前の中にある「かえしね」の意味は何だろう、「返し根(根を返した)」すなわち「血統をヒックリ返した」の暗号ではないのだろうか? この「根(ね)」の話を取り上げると、孝霊大王(こうれいおおきみ/第七代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子賦斗邇命が初出である。 孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子国玖琉命が見られ第九代開化大王(開化天皇)と続く。 つまり日本書紀に於ける大日本根子(ヤマトネコ)・古事記に於ける大倭根子(ヤマトネコ)の称号・根子(ネコ)は、「記・紀編纂」の七世紀末から八世紀初めの段階で、大王(おおきみ)は大和朝廷の大元(おおもと)=「根(ね)」なのである。 であれば、孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の「観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)」の香殖稲(かえしね)の意味が、「根(ね)を返したに通じる」と言う解釈が成り立つ。 黎明期の大和朝廷組織がまだ固まって居ず権力が流動的で、「かえしね」の名が神武朝大王(じんむちょうおおきみ)から大王(おおきみ)の位を簒奪(皇位簒奪)した意味であれば筋が通っている。 つまり、本当の「葛城の掖上(わきがみ)宮」は、伊豆葛城山の掖(わき)にある「田京」に存在した。 そして、大王(おおきみ)が「入れ替わった」痕跡を消す為に、元の伊豆国(伊都国)より立派なものを大和国に「葛城の地」として瓜ふたつに「カモフラージュ創造した」と考えられるのである。 古文書には、大王家(おおきみ/天皇家)と大臣(おおおみ)・葛城家の「連合政権」の記述や「神武朝に葛城氏族から嫁を出す」などの記述が微妙に表現されている所を見ると、両者の力関係が同等もしくは葛城氏族(賀茂氏)が上回って居る事も考えられ、疑って考えれば神武朝から内実が葛城朝に代わっていた事も充分に考えられるのである。 有力王(国主)が乱立しての合議統治の時代で、未だ大王(おおきみ/大国主)の世襲が固まらない大和朝廷創生期の頃の事である。 入れ替わっても不思議は無いのだが、その資格において継続性が重視されたのは天孫光臨(降臨)の天子として神の力で統治する建前であったから、皇統の交代を高らかに宣言する訳には行かなかったのではないだろうか? 天孫光臨(降臨)の建前で皇統の交代が宣言出来ないなら、「皇統を乗っ取るしかない」とは考えられないだろうか? 面白い事に古事記・日本書紀に拠ると、この賀茂・葛城の主神・事代主神が 初代・神武(じんむ)天皇を始めとして四代の天皇と濃いに親戚になるのである。 事代主神=葛城氏は、大王家(おおきみけ/後の天皇家)家確立後、葛城「臣(おみ)」と成るが、かつては大王家に対抗出来る最大の豪族、あるいはもう一つの「大王(おおきみ)家」、つまり「御門(みかど)であった」と言われている。 初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の后妃・五十鈴媛命(いすずひめのみこと) の皇后父は事代主神である。 二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神にあたり、后妃・五十鈴依媛命(いすずイ姫のみこと)の皇后父も事代主神で、二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)は続柄からすると、母の妹を娶った事になる。 そして三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神、后妃は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)で皇后父が 鴨王と成っている。 神武大王家も神であるから、神である事代主神の娘を娶っても不思議は無い。 しかしながら、神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)も人間なら賀茂・葛城氏=事代主神であるから、三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の后妃・渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)の皇后父・ 鴨王も=賀茂王と名る。 また、四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)の外祖父・ 鴨王も賀茂・葛城氏=事代主神と言う事になり、神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)と賀茂・葛城氏は表裏一体そのものである。 この事を裏付けるように、京都・上賀茂神社に継承(伝わる)「葵祭り」には斎王代(さいおうだい)が登場する。 これは天皇家が娘を神様に捧げる斎王様式を、儀典的に現している。 つまり葵祭りの斎王代(さいおうだい)は、天皇でさえ賀茂神社の主神・事代主(ことしろぬし)の神には娘を捧げる儀典形式を踏んでいるのである。 斎王代(さいおうだい)は、本来の斎王(さいおう)の代わりを務める形式的な神事の様式であり、元は皇室と賀茂・葛城氏の古事に習う儀典と解される。 本来の斎王(さいおう)は、未婚の内親王または女王(親王の娘)が勤め、厳密には内親王なら「斎内親王」、女王の場合は「斎王」「斎女王」と称した。 伊勢神宮の斎王を「斎宮」、賀茂神社の斎王を「斎院」とも称し、この古事に習う儀典は斎宮の儀典が古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院の儀典は平安時代から鎌倉時代まで継続した。 この事が、神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)の経緯を表しているのであれば、「賀茂・葛城一族」は古事記や日本書紀が伝えるごとくに単なる機内の豪族ではなく、神武王朝に匹敵する相当の実力を擁した御門(みかど)だった事は間違いない。 四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)の次の大王(おおきみ/天皇)が、香殖稲(かえしね/根を反す)の和風諡号(わふうしごう)を持つ第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)と成って、神武大王家と葛城御門本家の婚姻は終わった。 そしてこれを堺に、突然葛城御門本家は日本史上から消える謎がある。 次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名としての「葛城王」や、天智天皇の皇太子時代・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名に葛城皇子(かつらぎのみこ)などがある。 つまり「葛城」は、皇統の「格別重要な名跡」として扱われ始めたのだ。 この事の意味するものは何だろう? 葛城氏が消えた理由が、「謀反の挙句討伐された」などの悪い事で有れば、そんな不名誉な名を、後の皇子の別命や臣籍降下に対する「賜姓」に使う訳が無い。 葛城を冠する山だけでも、大和葛城山、和泉葛城山、伊豆葛城山など、未だに全国に存在する。 これとて、本当に「葛城の名」抹殺を意図したものなら山の名称など容易(たやす)く変行出来る筈で、何故かそれは為されていない。 しかし葛城氏本家は、忽然と歴史書から消えているのである。 葛城の本家が突然消えて無くなった理由は二つ考えられるのだが、一つは滅亡したで、今一つが「大王(おおきみ/天皇)に成った」と言う皇位簒奪の場合が在る。 実は、ここが肝心な所だが、大王(おおきみ/天皇)に成ると氏(うじ)・姓(かばね)の名乗りが無くなる。 氏族の氏姓制度に於いて、氏(うじ)・姓(かばね)後の名字(苗字)は天皇から授かる形式を採っていた。 つまり、蘇我氏も物部氏も形式上は天皇が付けた氏(うじ)・姓(かばね)と言う事になり、唯一氏(うじ)・姓(かばね)を授ける側の天皇には氏(うじ)・姓(かばね)は無く名だけである。 この忽然と消えた葛城の本家こそが、「香殖稲(かえしね/根を反す)の暗号だった」と推理してみた。 ここからは、伊豆の国・伊都国説の話を神武東遷以前に遡って、そこから話始めて見る。 実は、駿河国から伊豆の国を分離する以前(飛鳥時代の初期)に、伊豆の土地に半独立状態の「謎の豪族王(臣王)/国主」の王国が存在した可能性がある。 その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。 「田京」は、何の変哲も無い田舎の私鉄(伊豆箱根鉄道駿豆線)の駅所在地で、古くから田京(たきょう)駅(1899年7月に開業)が設けられていた。 田京(たきょう)駅は、静岡県伊豆の国市田京にあり、伊豆長岡駅 と 大仁駅 の間に位置していた。 それが、僅か数分歩くと田園が広がっていて近隣の長岡や 大仁と比べ駅前と名乗るにしては寂(さび)れている印象が当時は強かった。 そしてかれこれ四十年からの歳月を経ても、田京のその趣(おもむき)は今もさして変わらない。 その田京が日本の歴史に大きな意味がある土地で、その名・田京が「重要な意味を持った名前だ」と我輩が気が付いたのは、初めてその地を訪れてから凡そ二十年も経てからの事である。 我輩が本格的に歴史を調べていて、この地味な集落の名にしては「随分上品な名」と「田京」と言う地名を気に止めたからだった。 日本史の上では忘れ去られた田京だが、稲作文化を中心に国家体制を構築して来た日本人にとって、田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。 実はこの伊豆・田京の隣には御門(みかど)の地名もある。 御門(みかど)は統一倭の国々の王(臣王/おみおう・大国主)の表記に使われていた。 田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。 葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ奈良・葛城山がそびえている。 奈良・葛城山が見下ろす平野には、大和国広瀬郡・広瀬神社(奈良県北葛城郡河合町川合)が在り、旧神職家は曽根連(そねむらじ)姓で、河合町のこの付近は「川合」と言う地名が付いている。 文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所である。 広瀬神社の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたのも、この地域は曽根連が根強い力を持っていた事を窺(うかが)わせる。 曽根連は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た姓(六世孫の子孫)とされ、広瀬大社の古い神家であり、曽根姓や中曽根姓の発祥とされる古代の豪族である。 広瀬神社の祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀るとされるが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説もある。 長髄彦(ながすねひこ)は、磐余彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が南九州から東征して来た頃、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族である。 長髄彦(ながすねひこ)は、物部氏の祖神とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を主君として仕えていたとされていて、賀茂葛城・物部同族説であれば符合するのだ。 奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆国・伊豆葛城山が見下ろす平野の大仁田京にもある。 田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所であった。 葛城の主神は、事代主神(ことしろぬしのかみ)で、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供である。 事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る最古の本宮神社は、旧御鎮座地・三宅島富賀神社、下田白浜神社(伊豆国最古の宮)、田方広瀬神社と移動して来て伊豆国の旧国府に鎮座する伊豆国一ノ宮・三島大社で、三島明神とも呼ばれる。 賀茂葛城氏の主神・事代主神を祀る三島大社が別名・三島明神とされ、明神(みょうじん)そのものが「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、賀茂葛城一族の長が「神」で在っても不思議は無い理屈である。 この世に明らかな姿をもって現れる神、「明神」は賀茂・葛城一族の主神であり、明神社はそれを祀る神道の神社である。 賀茂・葛城一族の信仰として三島明神(大社/伊豆の国・三島)に発祥を見、賀茂・葛城一族の機内大和朝進出に伴って京都・賀茂神社となり、その後全国各地に分社された。 ちなみに京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から上賀茂神社も上賀茂明神なのだ。 つまり事代主神(ことしろぬしのかみ)は、別名を明神様(みょうじんさま)と呼び全国に分布して鎮座している。 事代主神(ことしろぬしのかみ)は賀茂一族の信仰の中心をなす神で、元々呪詛信仰であり、葛城王朝を支えた重要人物(神)として日本書紀に書かれている。また「えびす様」としての信仰もある。 田京の地は、狩野川流域に育まれた肥沃な平野に存在する。 事代主(ことしろぬし)神が「田の神様」であり、田の都が「田京」であれば、田京は事代主(ことしろぬし)神の都である。 そして事代主(ことしろぬし)神の実体が神武朝四代と深い血縁で結ばれた賀茂・葛城氏御門(葛城臣王)であれば、その本拠地は伊豆半島の「田京」を置いて他には考え難いのである。 稲作文化を基に、田の神・事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭神とする民族にとって「川」の存在はおろそかにするものではない。 珍しい事にこの狩野川、太平洋側に在りながら南から北に向かって、伊豆半島の中央部の谷底平野を流れる全長四十六キロメートルの一級河川で、今まで余り着目されなかったが、日ノ本の国にあって、伊豆半島を流れる狩野川は重要な意味を持つ「神の川」である。 似たような条件の川を捜すと、真っ先に上がる川の名が、紀伊半島金剛山の麓の広い谷底平野を南から北上して流れ行く葛城川(一級河川大和川水系)と言う事になる。偶然の一致だろうか? つまり伊豆半島の「田京(田方京・たがたのみやこ)」は、紀伊半島の飛鳥の都(奈良の都)と相似形的に開かれた東の都だった。 何故か、伊豆大仁・田京の北隣の地名は長岡で、畿内の長岡京と位置関係が同じで有る。 長岡の田京寄りにある「古奈」は「古奈良」と考えられない事も無い。 いずれも、伊豆・白浜神社(静岡県下田市)に始まる伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)に関わる地名「古奈」、「奈良」と想像できる。 学術的な検証をした訳ではないので少々乱暴だが、伊豆大仁・田京が飛鳥京のモデル原点であれば、伊豆大仁・御門は新益京(あらましのみやこ/藤原京)、その北に位置する伊豆長岡は正に長岡京の原点、伊豆長岡・古奈は平城京(奈良の都)のモデル原点の可能性が出て来る。 まぁこの伊豆半島の田京一帯の地名は、いずれにしても我輩のような素人でさえ「何で?」と思わせるに充分な符合を持ち合わせているのである。 この伊都国・葛城御門(葛城朝)の存在を証明するのが、卑弥呼が居たとされる時代の東日本最大の古墳が、高尾山古墳(辻畑古墳)である。 高尾山古墳(たかおさんこふん)は、卑弥呼の墓と一説される「箸墓古墳(はしはかこふん)」よりさらに古く、しかも東日本最大級の貴重な古墳で、「東国に大きな謎の国が在った」と言う説が浮上している。 つまり葛城ミステリー伊都国と、今、沼津市の道路計画に依って消滅されようとしている貴重な東日本最大の古墳・高尾山古墳(たかおさんこふん/辻畑古墳)との関連が浮かび上がるのだ。 謎の倭の国々の小国家群に「伊都(いと)国」と言う何処に在ったのか未だに所在が確定しない国の存在もある。 伊豆の「豆」は豆腐の「トゥ」の発音で、韓語(ハングル)では豆「ドゥ・トゥ」と発音する。 そして前述したように、朝鮮半島の言葉・朝鮮語(韓国語)で、伊都国の伊都も「イェヅ」と発音する。 伊豆と伊都(いと)国は、微妙に絡み合った意味がありそうなのだ。 それでは伊豆の田京は、「紀伊半島・飛鳥葛城のコピー」、つまり模倣ミニチュアで有ったのか? 通常、模倣ミニチュアを遠隔地にわざわざ作る理由は考えられない。 しかし、「ふるさとを模したもの」を後年大きく立派に作る心情ならば、その心情は誰しも理解出来るであろう。 つまり、田京(田方京・たがたのみやこ)の方が先に存在した。 心情的に考えると、そう考えるのが普通である。 「日本書紀・古事記」を手掛かりとする現在の正史を素直に考えれば、歴史学者には「田京」の存在は無視されるであろう。 しかし、伊豆の国の地名を「出ず(いず)の国」と読めば、有力臣王(おみおう)葛城氏の最初の国(出身国)とも読めなくは無い。 そして、そこには天城連山がそびえている。天城連山は伊豆半島の最高峰であるから、伊豆国(伊都国)の天の城、天の葛城(あめのかつらぎ)であれば、葛城氏の光臨の地かも知れないのだ。 この葛城氏(賀茂族)については、「古事記」・「日本書紀」に於いての記述によると、紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯に神武大王(おおきみ/初代天皇)の神武東遷以前から住んでいた事に成っている。 そこに神武大王(おおきみ/初代天皇)が神武東遷でやって来て、葛城氏(賀茂族)は恭順する。 恐らく、葛城氏(賀茂族)が伊豆半島から西に進出して本拠を紀伊半島・奈良盆地一帯に西遷(移した)以後に神武東遷を迎えた事になる。 実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承に於いて、賀茂家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。 須佐王(スサノウ)は牛頭天皇(スサノオ)とも表記するのだが、すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としている。 その熊野権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。 葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実である。 すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。 藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武大王(おおきみ・初代天皇)に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。 そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。 賀茂氏の牛頭天皇(スサノオ)を神として祀る神職が、物部氏(もののべし)流の藤白・鈴木家と言う状況が、血統を重んじるこの国では謎である。 ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。 つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。 しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか? 熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。 「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようである。 大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王(おおきみ)家(天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。 但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。 「古事記・日本書紀」の編纂以前にこの葛城氏族(賀茂氏)ついての詳細が無く、どの程度皇統の正統性を脚色しているかは定かではなく、手放しで鵜呑みには出来ない。 これは決定的な事だが、桓武天皇の第八皇女に阿保親王(あぼしんのう/平城天皇の第一皇子)の妃で、在原業平(ありわらのなりひら/右近衛権中将)の母・「伊都内親王」が居るが、読みは「いずないしんのう」で、伊都は正しく「いず」と読ませ、時に「伊豆」とも表記している。 つまり平安時代初期の段階で伊都は「いず」と読み、「伊豆」とも表記しているにも関わらず遥か後世の学者が糸半島を読みが「イト」だけで「伊都国所在地」とするのは少々強引ではないだろうか? 正直、最有力とされる伊都国・糸島説については、「発音が似ている」と言う安易な発想以外然したる証拠は無い。 確かに、現地・糸島には三雲南小路遺跡が存在するが、その遺跡が伊都国・糸島説を証明するものではないから、糸島は現在でも有力説としか扱われては居ない。 音だけで伊都国と結び付けた糸島半島には確かに多くの遺跡が点在するが、それが伊都国と結び付く証拠は何一つ浮かんでは来ない。 敢えて言えば、糸島半島と博多湾を挟んだ対岸の志賀島(しかのしま)から出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を、漢委奴国王印(かんのいとこくおういん)と読ませる異説がある。 ただしこの説を採ると委奴国(イトコクと読ませる)=伊都国にはなるのだが、狗奴国(くなくに)の前身と言われる奴国(なこく)の存在が歴史から消えてしまう。 糸島半島は糸の音が「伊都」に通じるとして「伊都国の地」として観光地化し、引っ込みが着かない状態にある。 また、倭人伝の距離の記述を「伊都国の地」の比定の根拠としている試みも為されているが、倭人伝の他の記述が日本側で合致しない物も多く、何処まで信憑性を置けるのかも問題である。 そこで、伊豆半島に関わる皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在の方が史実を追う上で遥かに重要な考慮点と成る。 「伊都国=糸島説」は、七百八十年代・桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に在った皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在よりも、「伊都国=糸島説」を唱えた近代の学者の方を信用する事になるのではないだろうか? つまり伊豆半島・伊豆の国の方が、遥かに伊都国の可能性が高い多くの材料が散見されるのである。 日本の歴史は、古事記・日本書紀の編纂が最初の本格的歴史書として、その内容が今に伝えられている。 「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る「窮屈な先入観」からである。 例えばであるが、古事記・日本書紀編纂の時点ではまだ奥州(東北地方)は同化前の蝦夷(えみし/縄文人)族の土地だった。 そして朝鮮半島の人々の方が、同じ倭人として大和朝廷を構成する人々と血統の上でも近かった。 天孫降(光)臨伝説は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された「記紀神話(古事記・日本書紀)」から始まっている。 天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。 つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。 また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。 しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。 つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。 ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那加羅の勢力範囲の事で、伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。 どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。 この「記紀神話(古事記・日本書紀)」の天孫降(光)臨伝説を列島の隅々まで遍(あまね)く喧伝した組織が、天武(てんむ)天皇(第四十代)の命を受けて役小角(えんのおずぬ)が組織した陰陽修験組織を、桓武(かんむ)天皇(第五十代)が陰陽寮として正式に朝廷組織に組み入れて天孫降(光)臨伝説の喧伝に活用したのである。 良く考えて見れば、編纂当時の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。 そう考えれば、考察するのに楽になる。 従って、「記紀神話」を正確な歴史観として採用するには難がある。 難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。 了 |
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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇
誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・
====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説
非道の権力者・頼朝の妻◆鬼嫁・尼将軍◆
未来狂 冗談 作
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今は昔の鎌倉時代、
鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)4>◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。
====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ◆倭(わ)の国は遥かなり◆
未来狂 冗談 作
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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇
韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血
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なお本作に登場する組織、団体、人物キャラクター等は創作であり、
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作 品 一 覧
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この文章は修了です。
貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。
性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。
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作者本名・鈴木峰晴