昔、日本列島に統一中央政権・大和政権が成立する以前に伊都国(いとこく)と言う地方国家が存在した。
その、伊都国(いとこく)の都は伊豆半島にあった。
無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。
すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。
普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。
また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。
しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。
日本史には虚と実が混在している。
故に、先入観は発想の落とし穴に成る。
倭国の国々の日本列島側が大和合して大和朝廷を成立するにあたり、列島の西日本がその範図である為に「九州から畿内までのいずれかが大和朝廷発祥の地」と思い込んでいて、それ以外の可能性を発想する学者は居なかった。
それが盲点となって、見落とされたのが伊都国の所在地ではなかったのか?
日本の神話の始まりは中華大陸に近い九州(対馬海峡寄り)・山陰地方(中国地方日本海側)、太平洋伊豆七島及び伊豆半島地方に集中している。
これは、それらの神話が原則的に中華大陸の漢字圏から渡海して来た渡来部族が現住民族(蝦夷族)を統治する為に為した自らを神に捏造流布の神話だからである。
出雲の大国主神話、九州の阿蘇・高千穂神話、九州の天岩戸神話、伊豆半島葛城ミステリーなど渡来部族が日本に上陸した足跡が記されて行く・・・。
その後渡来部族の日本統一を目指して、神武天皇の神武東遷により神話の舞台は畿内地方に移り大和朝廷が成立して神話の舞台は皇居のある場所になった。
魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、「卑弥呼の邪馬台国」・「スサノウの狗奴国」・「葛城氏の伊都国」の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。
日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。
三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。
そして三民族の一系、先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の王族が、「安倍・阿倍一族である」と言う強力な説がある。
それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。
つまり、当時の日本列島が三民族三つ巴の多民族の地だった事から、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)=比売命(ひめのみこ)が、魏志に於ける唯一の日本の女王は、大陸「魏帝国」の「三国志時代の国策的な対処だった」と思えるのだ。
そうなると、有力な外国・中華の魏帝国にも認知された広域・有力王国・伊都国が、「福岡県の糸島半島と言う狭い地域に在った小国」とは考え難い状況がある。
それでは伊都国は何処に在ったのか?
その命題を、この小論で解き明かす事にした。
日本列島の西日本は神武大王(じんむおおきみ/天皇初代)の下に漸く統一を見る。
ただしこの統一大王(おおきみ)、有力部族国家の連合体で、大王(おおきみ)は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。
そこで、両者統合の後にその民意を掴んで台頭して来たのが、海洋民族・葛城氏族(賀茂氏族=鴨氏族)の奉ずる「事代主の神(ことしろぬしのかみ)と一言主の神(ひとことぬしのかみ)」と言う二神であり、事代主の神(ことしろぬしのかみ)の「神を有利に操ろう」と言う呪術と、一言主の神(ひとことぬしのかみ)の「神の意志を聞こう」と言う御託宣(占術)の神様である。
朝鮮半島に於いては、百済(くだら・ペクチェ)と新羅(しらぎ・シルラ)も任那(みまな・狗奴国の親の国)とは、「王族の婚姻関係を含む」付き合いが有った。
従って、任那の子の狗奴国(くなくに)も親しく交流が有った。
そうした歴史の流れの中で、朝鮮半島では、満州族系の高句麗(こうくり・コグリョ)が朝鮮半島の北方で起こり、次第に南下、朝鮮半島は三国史時代に突入して行った。
この「三国史」、朝鮮側の文献での呼び名であるが、何故か、任那(みまな・加那、加羅とも言う)の存在は、欠落している。
多分、後世の半島側の人々は、感情的に任那(みまな)の存在を認めたくなかった。
日本側も、「大和民族の団結」と言う国家政策上、抹殺が必要だった。
それで公式文章から消えて、記載文献が無く成った。
或る時期から、どちらの国にとっても、在っては成らない国に、任那は成ったのだ。
高句麗(こうくり・コグリョ)対倭国連合(百済、新羅、任那)の争いに成って、狗奴国(くなくに・もしくは大和朝廷)も、度々援軍の要請を受け、派兵している。
何時の頃かは判らないが、任那の「本拠地(王族の大半)自体が日本列島に移って来ていた」のかも知れない。
つまり実際には無かった事だが、例えて言えば、イギリス政府が、「植民地の方が広いから」とアメリカに本拠地を移した様なものだ。
大和朝廷(西日本統一国家)の成立後は、発祥の地より新たに得た土地の方が広く、大きく成って居たので、半島側の任那(みまな)から頼りにもされていた。
それは任那が、天皇や従う豪族自身の母国、或いは、近い祖先の母国だったからである。
倭(わこく)国の内の朝鮮半島における百済、新羅、そして抹殺された様に歴史からはじかれた任那(加那・加羅)などの国々も、古代の日本列島と同様に、大陸系「農耕民族」と黒潮に乗ってきた「海洋民族」の「両民族が同化した民族」の国である。
故に、日本の神話?(もしかしたら倭国の国々全体の神話)の様に、加羅(から・大陸)系と呉(ご・海洋)系が存在した。
この二つの部族的血の系列は、倭国内のそれぞれの国の歴史の中で顔を出す。
従って、任那(みまな)の地にも加羅(から)系、加那(呉/ご)系は並立存在し、日本列島にも両系が渡来している。
狗奴国(くなくに)王から神武帝として大国主(皇位)の位に就いた任那からの謎の部族王は宇佐岐氏族(神武朝・呉系)だったが、加羅系の有力部族王の和邇氏族(臣王)が一時和邇王朝を並立させ、やがて宇佐岐氏族(神武朝・呉系)を滅ぼし後の天皇はその行動から「加羅族系に変わった」とするのが有力で有る。
この加羅系の部族が有力部族王の和邇氏族(臣王)であり、宇佐岐氏族(神武朝)を助けたのが伊豆(いと・伊都)の国を打ち立てた葛城(御門)氏族である。
民話として残る「大国主と因幡の白宇佐岐(しろうさぎ)と和邇(わに)」の逸話の基と考えられ、和邇王朝は滅亡し力を着けた葛城氏族が、何らかの出来事で和邇(御門・和邇王朝)氏族から皇位(王権)を簒奪し、少なくとも継体朝(第二十六代)に皇位を譲るまで永く「葛城朝の時代が続いた」と考えないと、この物語は成立しない。
しかし何しろ統治の為に意図的に脚本構成された神話の世界で、確証は見出せない状況である。
修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、大豪族臣王(国主/くにぬし)・葛城氏の枝であり下級貴族賀茂氏であるが、この葛城氏本家が突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名としての「葛城王」や、天智天皇の皇太子時代・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名に葛城皇子(かつらぎのみこ)などがある。
つまり「葛城=鴨氏族」は、皇統の「格別重要な名跡」として扱われているのだ。
この事の意味するものは何だろう?
葛城氏が消えた理由が、「謀反の挙句討伐された」などの悪い事で有れば、そんな不名誉な名を、後の皇子の別命や臣籍降下に対する「賜姓」に使う訳が無い。
葛城を冠する山だけでも、大和葛城山、和泉葛城山、伊豆葛城山など、未だに全国に存在する。
これとて、本当に「葛城の名」抹殺を意図したものなら山の名称など容易(たやす)く変行出来る筈で、何故かそれは為されていない。
しかし葛城氏本家は、忽然と歴史書から消えているのである。
あくまでも古事記や日本書紀を「信じる」としたらの注釈つきだが、古事記や日本書紀に拠ると、葛城氏(かつらぎし、かずらぎし/賀茂族)は、大和葛城の地(奈良県)に本拠を置いていた「古代豪族」と言う事に成っている。
しかし、葛城氏(かつらぎし)の本拠地が「大和葛城である」と言う説には符合しない多くの興味深い事実が、伊豆半島(伊豆国/静岡県)の「伊豆葛城」や「賀茂郡」に存在する。
この従来の認識とは辻褄の合わない事実の存在が、伊豆半島から出るわ出るわで我輩は驚き暫し立ち往生した。
そう成ると、推測出来る事は一つしかない。
考えるに、皇統(大王/おおきみ即位)の正当性を印象付ける為には、「天孫光臨(降臨)の地・日向(宮崎県)から、紀伊半島に移った」と、記述する必要があったのではないか?
このミステリーはこの物語で追々解いて行くが、いずれにしても古事記や日本書紀を記述通りに受け取っては、誤った歴史街道を辿りそうな気がする。
葛城氏は、大王家(おおきみけ/後の天皇家)家確立後、葛城「臣(おみ)」と成るが、かつては大王家に対抗出来る最大の豪族、あるいはもう一つの「大王(おおきみ)家」、つまり「御門(みかど)であった」と言われている。
古事記や日本書紀(紀・記)の編纂に当たり、過去の事とは言えども葛城氏の真実を明かす事は、すなわち神の威光を持って統治する天皇家が、かつて一豪族から成り上がった事を公(おおやけ)にする危険も意味していた。
そしてまた、王達(国主/くにぬし)の連合国家・初期の大和合大国(だいわごうおおくに)において、大王(おおきみ・大国主)の血統が移っている事実も、神の威光を持って統治する精神世界には馴染まない事実で在った。
「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王・国主/くにぬし)で、神武朝に葛城族から代々嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようであり、大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王家(おおきみけ/天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。
当然ながら葛城家は、黙っていても大王(おおきみ・大国主)の「外祖父」を排出する事になり、時系列的に言えば、後の大豪族(臣王)蘇我家以前に、大王家(おおきみけ/天皇家)に匹敵する存在が「葛城御門(かつらぎみかど)」で、武力を持たず「神の威光で統治する」大王家(おおきみけ/天皇家)の武力的後援者ではなかったのだろうか?
但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。
出来れば神武帝以来の皇統の正統性を明示したいのであるから、辻褄合わせの最大限妥協して「代々嫁を出す」としているのではとも考えられる。
それほどの力を持った葛城臣王家・大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が、武力を持たない雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に攻め滅ぼされ「葛城臣王家が消滅した」と言うのである。
これは謎である。
大戦(おおいくさ)なら相応の歴史的事件としての扱いがある筈なのだが、戦乱も続かず目立った分家も残らず、簡単に葛城臣王家を跡形も無く根絶やしにする。
そんな事が、現実的な状況として起こり得るのであろうか?
三百年代後半から四百年代始めに掛けて起こった葛城ミステリーのかなり後、七百十二〜七百二十年に掛けて古事記や日本書紀が編纂された。
だとするなら、古事記や日本書紀が、「神の威光を持って統治する」と言う目的に添って捏造されていても仕方が無い。
◆ 中 略
今ひとつ、宇佐神宮の謎解きが有る。
伊勢の国(三重県)と日向の国(宮崎県)の地理的な共通性である。
言うまでもなく、伊勢の国には「伊勢神宮」がある。
伊勢神宮には大和民族の最高神、「天照大神」が鎮座している。
推測するに、天の一族の発祥の地もまた「日向の大地」だったのではあるまいか。
真東の海の向こうから太陽の上る地「日向」、この地理的条件を満たす所で、畿内の大和朝廷に近い所が、紀伊半島伊勢の国である。
初期の朝廷の所在地と思われる筑紫平野と、日向の位置関係は、そっくり大和、伊勢に移し変えられるのだ。
伊勢神宮が伊勢に鎮座ましますのは、けして偶然ではない。
天照大神の鎮座するに最高のロケーションは、故郷の日向に似た所でなければ成らなかったのだ。
こうした解説を踏まえて、方位のしっかりした日本地図を見ると、誰でもすぐ判る。
そして東にもう一ヵ所、この紀伊半島に良く似た条件を持つ半島、伊豆国(いずのくに)がある。
東に日が昇り、黒潮の流れに乗って須佐王が訪れるに相応しい土地柄で有る。
後ほど詳しく記述するが、伊豆に起源を発する古代の謎の有力豪族、「臣王・葛城氏」の初期の支配エリア(本拠地)が、この伊豆国(いずのくに)である。
朝鮮半島の言葉・朝鮮語(韓国語)で、伊都国の伊都も「イェヅ」と発音する。
「イェヅ」と「伊豆(イズ)」、何か音が似てないだろうか?
伊は「イェー、イェ」と発音し「遠い」と言う意味があり、都は「ヅ」と発音して集落の意味を持ち日本語(列島の言葉)の豆(ズ/まめ)の「ズ」とは音が似通っているのである。
ちなみにこの伊都国(イェヅグゥ)、「遠に位置する集落の国」と言う解釈に成る説がある。
不思議な事に、この伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、枚挙に暇の無いほど古代王城(都)の地(紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯)と所縁(ゆかり)の同じ地名が点在している。
天城山(あまぎさん)と言う連山(天城連峰)の呼び名も、天上の城を意味するものであり、「天の何々命」と書いて「あめの何々みこと」は、神話の呼び名の基本で有る。
そして、「天の葛城が天城の意味」とは考えられないだろうか?
天(あめ)の名が付く山は、本来の約束事は神の光臨する山である。
これらの名前は、誰が何時の時代に付けたものだろうか?
伊豆の名の謂れであるが、古事記の日本神話に登場する神で、伊豆能売(いづのめ・いとのめ)と呼ぶ神が記述されている。
神話中では「伊豆能売(いづのめ・いとのめ)」とだけ書かれていて、「天(あめ)」の文字や、「神」「命(みこと)」などの神号はつけられていない。
勿論、「いず」と読むのか「いと」と読むのかは判らない。
しかしながら、神号が付かない事から最初は須佐王(すさのう)と同様に「異なる部族だった」と考えられる。
この伊豆能売を、神道系の宗教では伊都能売神(いとのめかみ)と表記する事もある。
豆は、半島の言葉(ハングル)では「ト・トゥ」で、中国語(普通語・プウトンホワ)でも「トゥ」ある。
この事から、伊豆と伊都が同じ意味を持つ可能性がある。
伊豆能売(いづのめ)は、日本書紀には登場しないので、古事記系神話の渡来民族の関わりが伺える。
この伊豆の国の話は重要なので、この後の(大化の改新)の記述の中で詳しく掘り下げて説明する。
◆ 中 略
伊豆の国市(旧田方郡大仁)の大仁(おおひと)名称は、六百三年(推古十一年)の冠位十二階の大仁(だいにん)に関係がありそうである。
冠位十二階とは、大和朝廷に勤める人の上下関係をはっきりさせる制度である。
氏や家柄だけにとらわれずに、能力や功績に応じて徳・仁・礼・信・義・智の六つの冠をそれぞれ大小に分け、十二階とし、冠の色を使い分け、可視的な身分秩序の冠位を与える事を制定した。
薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色は皆それぞれの冠の色と同じで、冠にかんざしを挿して正装して参加した。
伊豆の国市大仁(おおひと)は、大仁(だいにん)に序せられた「朝廷の大物の本拠地」と言う事も考えられる。
ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿(さ)していた。
大仁(だいにん)は序列三位で、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していた。
「日本書紀」に拠ると、遡る六百四十六年、孝徳天皇の大化二年三月、甲申(こうしん)の条に長文の詔「大化薄葬令」がある。
王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室つくる事は認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。
この事から、伊豆の国田方地区の古墳群は少なくとも「大化薄葬令」以前の埋葬または王以上、上臣、下臣の古墳と言う事になる。
◆ 中 略
伊豆国は、葛城・賀茂家(勘解由小路)にも縁があるが、空海(弘法大師)の真言宗にも早い時期から縁が深い。
その理由を考えると、伊豆半島が「重大な意味を持つ土地柄」と言う解釈がなりたつ。
日本の古代史に、多くの謎を放っているのがこの伊豆半島であり、多くの歴史的舞台に成ってもいる。
平安初期の八百六年(大同一年)、空海(弘法大師)は唐から帰国し、帰国して十年後に高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山した。
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある空海(弘法大師)が開山した高野山・真言宗・総本山の寺院である。
空海(弘法大師)が若い時に修行した事のある山に真言密教の道場を設立する事を嵯峨天皇に願い出て、高野山の地を賜ったのは八百十六年(弘仁七年)の事である。
その空海(弘法大師)は高野山・総本山の開山より早く、帰国翌年の八百七年(大同二年)に早くも伊豆半島中心の桂谷に桂谷山寺を開基する。
桂谷山寺は、伊豆の修善寺温泉発祥の寺で、温泉郷の中心にある。
この温泉、伝承に拠ると空海(弘法大師)が「独鈷(とっこ)の湯を発見した事から始まった」となっているが、恐らく山岳資源調査に長けた修験導師の活躍に拠るのであろう。
冷静に見ると、高僧の奇蹟は信仰を集める為の陰陽修験の仕事で、演出された風説の流布である。
勿論、湯治と言う治療効果のあるものと、信仰上の奇跡を結び付ける手段である。
後に修善寺(注・寺の方はゼンの字が禅の修禅寺が正)と呼ばれるこの地は、当時は地名が桂谷と呼ばれていた処から、真言宗の桂谷山寺といわれる格式の高い寺だった。
「延喜式」に於いて、「伊豆国禅院一千束と記された」としている。何故、空海(弘法大師)が高野山に金剛峰寺を開山した直後に、伊豆半島中心の地「桂谷」に桂谷山寺の開基を急いだのか?
そこが、特別の土地だったからである。
温泉やそれに伴って採れる鉱物を捜すのは、修験鉱山師の技で有る。
修験行脚(あんぎゃ)の為の科学知識でもある。
そこから妙見、薬師、呪術、芸能などが全国に広まった。
民間伝承の多くはこうした修験者、鉱山師たちの喧伝により民間に浸透したのだが、どうした訳か、全国に弘法大師(空海)が発見したとされる温泉が無数にある。
これは在り得ない。
何故ならこれが異常に数が多いので、弘法大師(空海)の名声を高める為の修験組織の「策略的喧伝」と考えられ、また温泉発見伝承は修験組織に拠る金鉱探査事業の隠れ蓑だった可能性が高い。
これは余談だが、この独鈷(とっこ)は仏法の法具である。
正式には、独鈷杵(とっこしょ)と言う。
本来、独鈷杵(とっこしょ)は金剛杵(ヴァジュラ・・こんごうしょ)とも呼ばれ、守護神の金剛神(ヘラクレス)が手にしていた。
人間の心の中の悪しき煩悩を撃ち砕き、本来の人間性を引き出す為の法具で、元の形状は鉄アレーの様な物で、球形にあたる部分の両側が杵(きね)の形を成し、真ん中を握る形状をしていた。
その鉄アレーの杵(きね)状の両側部分の、杵(きね)を、インドにあった武器、「槍の鉾先」につけ替えたのが独鈷杵(とっこしょ)である。
それがインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的意味合いをもち、修験密教僧を現す為の法具となった。
弘法大師も布教と護身を兼ねて、独鈷杵(とっこしょ)を携えていた。
弘法大師が、この法具・独鈷杵(とっこしょ)を岩に振り下した処に「温泉が湧いた。」と言う伝承が残って「独鈷(とっこ)の湯」と呼ばれる。
この独鈷杵(とっこしょ)、両側部分が槍の穂先状である事から、法具ではあるが使い様に拠っては充分に武器となる。
当然修験山伏の護身用にはもってこいで、平安期以後の真言宗(東密)、天台宗(台密)の山伏修験僧から、独鈷杵(とっこしょ)武術の名手が出てきても不思議はない。
また、根来修験などではクナイ(手裏剣と独鈷杵の融合した武器)などの修験独特な武器に転用して行ったのかも知れない。
空海(弘法大師)と同じ頃、伴に帰国を果たした最澄(さいちょう/伝教大師)が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺(京都府と滋賀県の県境)を創建する。
最澄(伝教大師)は、空海(弘法大師)と共に信仰(仏教)のみならずあらゆる最先端の大陸文明を持ち帰り、日本列島(大和の国)の新時代の扉を開くきっかけをもたらせた。
二人の帰国は、ちょうど桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)のダイナミックな治世が行われた頃で、この頃の都は長岡京 (ながおかきょう)から遷都(七百九十四年)されたばかりの平安京(へいあんきょう)だった。
それ以前の天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて伊豆国を成立させている。
まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せば、わざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。
そして空海(弘法大師)は、帰朝して間もない時期に都から遠い伊豆国、修善寺の地におお慌てで「桂谷寺」と言う寺を開山し、伊豆国に橋頭堡を築いている。
この伊豆国に固執する桓武天皇(かんむてんのう)と空海(弘法大師)の時を同じくする一連の動きには、何か隠された伊豆国の謎があるのではないだろうか?
古い「伊豆の国の国府」が沼津宿では無く三島宿に設置された原因は地形にある。
沼津宿(古くは黄瀬川宿)は文字通り海抜数メートルの沼地を埋めたもので、度々津波に襲われた低地であり、比べて三島宿の海抜は二十メートルほど在って津波の心配が無かった。
それで三島大社も地形に利在る地に設けられ、「伊豆の国の国府」が置かれた。
三島に「伊豆国の国府」が置かれたのは「平安時代、桓武天皇(かんむてんのう)の御世だ」と言われている。
それまでは駿河の国と一体になっていて、広域駿河の国を形成していた。
奈良時代(七百十年〜七百九十四年)、「平城京」と言う都が現在の奈良県に在った頃、地方行政区分「令制国」が全国に施かれる。
当時、駿河国の一部に成っていたのが、古代伊豆国の領域である。
平安時代に成って、その地域(駿河国の東部の二郡)を分離して、六百八十年(天武九年)伊豆国を設置した。
これに伴い、沼津に置かれていた広域駿河国の「国府」は、安倍郡(現在の静岡市)と田方郡(現在の三島市)の二つに分離して設置される。
六百八十年、天武天皇九年 に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して、令制国の一つ、伊豆の国は設けられた。
この頃の伊豆国(いずのくに)の領域は、伊豆半島部と伊豆七島(三島)部の範囲であったが、七百一年(大宝元年) から七百十年(和銅三年) までの間に、仲郡(後の那賀郡)が成立し、田方・那賀・賀茂の三郡となり、その後大きく下って江戸時代に君沢郡が分けられ、四郡となった。
ここからは少しの間、伊豆の国・伊都国説の話を神武東遷以前に遡って、そこから話始めて見る。
実は、駿河国から伊豆の国を分離する以前(飛鳥時代の初期)に、伊豆の土地に半独立状態の「謎の豪族王(臣王)/国主」の王国が存在した可能性がある。
その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。
我輩がこの「田京」を始めて訪れたのは「昭和四十八年の初夏の頃だった」と記憶を辿って思い出されるのだが、最初の印象は本当に何の変哲も無い田舎の私鉄(伊豆箱根鉄道駿豆線)の駅所在地で、古くから田京(たきょう)駅(1899年7月に開業)が設けられていた。
田京(たきょう)駅は、静岡県伊豆の国市田京にあり、伊豆長岡駅 と 大仁駅 の間に位置していたが、僅か数分歩くと田園が広がっていて近隣の長岡や 大仁と比べ駅前と名乗るにしては寂(さび)れている印象が当時は強かった。
そしてかれこれ四十年からの歳月を経ても、田京のその趣(おもむき)は今もさして変わらない。
その田京が日本の歴史に大きな意味がある土地で、その名・田京が「重要な意味を持った名前だ」と我輩が気が付いたのは、初めてその地を訪れてから凡そ二十年も経てからの事である。
我輩が本格的に歴史を調べていて、この「田京」と言う地味な集落の名にしては「随分上品な名」と気に止めたからだった。
日本史の上では忘れ去られた田京だが、稲作文化を中心に国家体制を構築して来た日本人にとって、田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。
田京の隣には御門(みかど)の地名もある。
御門(みかど)は統一倭の国々の王(臣王/おみおう・大国主)の表記に使われていた。
田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。
葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ奈良・葛城山がそびえている。
奈良・葛城山が見下ろす平野には、大和国広瀬郡・広瀬神社(奈良県北葛城郡河合町川合)が在り、旧神職家は曽根連(そねむらじ)姓で、河合町のこの付近は「川合」と言う地名が付いている。
文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所である。
広瀬神社の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたのも、この地域は曽根連が根強い力を持っていた事を窺(うかが)わせる。
曽根連は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た姓(六世孫の子孫)とされ、広瀬大社の古い神家であり、曽根姓や中曽根姓の発祥とされる古代の豪族である。
広瀬神社の祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀るとされるが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説もある。
長髄彦(ながすねひこ)は、磐余彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が南九州から東征して来た頃、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族である。
長髄彦(ながすねひこ)は、物部氏の祖神とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を主君として仕えていたとされていて、賀茂葛城・物部同族説であれば符合するのだ。
奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆国・伊豆葛城山が見下ろす平野の大仁田京にもある。
田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所であった。
葛城の主神は、事代主神(ことしろぬしのかみ)で、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供である。
事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る最古の本宮神社は、旧御鎮座地・三宅島富賀神社、下田白浜神社(伊豆国最古の宮)、田方広瀬神社と移動して来て伊豆国の旧国府に鎮座する伊豆国一ノ宮・三島大社で、三島明神とも呼ばれる。
賀茂葛城氏の主神・事代主神を祀る三島大社が別名・三島明神とされ、明神(みょうじん)そのものが「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、賀茂葛城一族の長が「神」で在っても不思議は無い理屈である。
この世に明らかな姿をもって現れる神、「明神」は賀茂・葛城一族の主神であり、明神社はそれを祀る神道の神社である。
賀茂・葛城一族の信仰として三島明神(大社/伊豆の国・三島)に発祥を見、賀茂・葛城一族の機内大和朝進出に伴って京都・賀茂神社となり、その後全国各地に分社された。
ちなみに京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から上賀茂神社も上賀茂明神なのだ。
つまり事代主神(ことしろぬしのかみ)は、別名を明神様(みょうじんさま)と呼び全国に分布して鎮座している。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は賀茂一族の信仰の中心をなす神で、元々呪詛信仰であり、葛城王朝を支えた重要人物(神)として日本書紀に書かれている。
また「えびす様」としての信仰もある。
田京の地は、狩野川流域に育まれた肥沃な平野に存在する。
稲作文化を基に、田の神・事代主神(ことしろぬしのかみ)を祭神とする民族にとって「川」の存在はおろそかにするものではない。
珍しい事にこの狩野川、太平洋側に在りながら南から北に向かって、伊豆半島の中央部の谷底平野を流れる全長四十六キロメートルの一級河川で、今まで余り着目されなかったが、日ノ本の国にあって、伊豆半島を流れる狩野川は重要な意味を持つ「神の川」である。
似たような条件の川を捜すと、真っ先に上がる川の名が、紀伊半島金剛山の麓の広い谷底平野を南から北上して流れ行く葛城川(一級河川大和川水系)と言う事になる。偶然の一致だろうか?
つまり伊豆半島の「田京(田方京・たがたのみやこ)」は、紀伊半島の飛鳥の都(奈良の都)と相似形的に開かれた東の都だった。
何故か、大仁田京の北隣の地名は長岡で、畿内の長岡京と位置関係が同じで有る。
長岡の田京寄りにある「古奈」は「古奈良」と考えられない事も無い。
いずれも、伊豆・白浜神社(静岡県下田市)に始まる伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)に関わる地名「古奈」、「奈良」と想像できる。
学術的な検証をした訳ではないので少々乱暴だが、伊豆大仁・田京が飛鳥京のモデル原点であれば、伊豆大仁・御門は新益京(あらましのみやこ/藤原京)、その北に位置する伊豆長岡は正に長岡京の原点、伊豆長岡・古奈は平城京(奈良の都)のモデル原点の可能性が出て来る。
まぁこの伊豆半島の田京一帯の地名は、いずれにしても我輩のような素人でさえ「何で?」と思わせるに充分な符合を持ち合わせているのである。
謎の倭の国々の小国家群に「伊都(いと)国」と言う何処に在ったのか未だに所在が確定しない国の存在もある。
伊豆の「豆」は豆腐の「トゥ」の発音で、韓語(ハングル)では豆「ドゥ・トゥ」と発音する。
そして前述したように、朝鮮半島の言葉・朝鮮語(韓国語)で、伊都国の伊都も「イェヅ」と発音する。
伊豆と伊都(いと)国は、微妙に絡み合った意味がありそうなのだ。
それでは伊豆の田京は、「紀伊半島・飛鳥葛城のコピー」、つまり模倣ミニチュアで有ったのか?
通常、模倣ミニチュアを遠隔地にわざわざ作る理由は考えられない。
しかし、「ふるさとを模したもの」を後年大きく立派に作る心情ならば、その心情は誰しも理解出来るであろう。
つまり、田京(田方京・たがたのみやこ)の方が先に存在した。
心情的に考えると、そう考えるのが普通である。
「日本書紀・古事記」を手掛かりとする現在の正史を素直に考えれば、歴史学者には「田京」の存在は無視されるであろう。
しかし、伊豆の国の地名を「出ず(いず)の国」と読めば、有力臣王(おみおう)葛城氏の最初の国(出身国)とも読めなくは無い。
そして、そこには天城連山がそびえている。
天城連山は伊豆半島の最高峰であるから、伊豆国(伊都国)の天の城、天の葛城(あめのかつらぎ)であれば、葛城氏の光臨の地かも知れないのだ。
滋賀県大津に伊豆神社、長野県阿南町に伊豆神社が、伊豆の国でもないのに存在するので調べてみると、各地に伊豆神社が多数散見される。
それぞれに謂れはあるが、いずれも伝承の域を出ず、一言主や伊豆権現、瀬織津姫などが祭神とされている。
久伊豆神社(ひさいづじんじゃ、きゅういづじんじゃ)は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。
祭神は大己貴命(大国主)であり、蓮田市には七つの久伊豆神社がある。
久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
それにしてもこの伊豆神社、不思議な事に全国に散見されながら普通存在する本宮社(総社)がないのだ。
この意味するものは何なのだろうか?
鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、神魂命(かみむすびのみこと)の孫として日本神話に登場する神である。
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)とも呼ばれ、山城国の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
奈良県宇陀市榛原区の八咫烏(やたがらす、やたのからす)神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。
鴨県主(かものあがたぬし)は大化年間以前から京都の賀茂神社の祠官であった。
日本全国でよく呼称される「氏神神社」の由来は、初期の神社がその土地の支配者(氏/うじ)の神格化を狙った政治的なものだからである。
県主(あがたぬし)は,古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。
つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。
賀茂神社の上社(上賀茂神社)の祠官の流れは賀茂氏を名乗り、岡本氏・松下氏・林氏・座田氏・梅辻氏・鳥居氏・小路氏・森氏の諸家を分出した。
賀茂神社の下社(下賀茂神社)の祠官の流れは=鴨氏を称し、泉亭氏・梨木氏・鴨脚氏・滋岡氏・下田氏・南大路氏の諸家を出している。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍・「方杖記」を著わした鴨長明(かものちょうめい)もこの鴨氏の氏人(うじびと)だ。
賀茂社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。
従って、伊豆半島を発祥とし大和葛城に本拠を移した葛城氏と大和の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が同族で在った方が説明が着き易い。
この葛城氏(賀茂族)については、「古事記」・「日本書紀」に於いての記述によると、紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯に神武大王(おおきみ/初代天皇)の神武東遷以前から住んでいた事に成っている。
そこに神武大王(おおきみ/初代天皇)が神武東遷でやって来て、葛城氏(賀茂族=鴨族)は恭順する。
恐らく、葛城氏(賀茂族)が伊豆半島から西に進出して本拠を紀伊半島・奈良盆地一帯に西遷(移した)以後に神武東遷を迎えた事になる。
実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承に於いて、賀茂家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。
須佐王(スサノウ)は牛頭天皇(スサノオ)とも表記するのだが、すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としている。
その熊野権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。
葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実で、すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。
藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武大王(おおきみ・初代天皇)に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。
そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。
賀茂氏の牛頭天皇(スサノオ)を神として祀る神職が、物部氏(もののべし)流の藤白・鈴木家と言う状況が、血統を重んじるこの国では謎である。
ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。
つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。
しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?
熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。
「古事記・日本書紀」の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようである。
大臣・葛城円(かつらぎつぶら)が雄略大王(おおきみ/天皇第二十一代)に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王(おおきみ)家(天皇家)と葛城家の連合政権であった」とされている。
但しこの話、あくまでも百五十年ほど後に天武天皇(第四十代)から桓武天皇(第五十代)の時代にかけて、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂された「古事記・日本書紀」の記述内容である。
「古事記・日本書紀」の編纂以前にこの葛城氏族(賀茂氏)ついての詳細が無く、どの程度皇統の正統性を脚色しているかは定かではなく、手放しで鵜呑みには出来ない。
日本の歴史は、古事記・日本書紀の編纂が最初の本格的歴史書として、その内容が今に伝えられている。
「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る「窮屈な先入観」からである。
例えばであるが、古事記・日本書紀編纂の時点ではまだ奥州(東北地方)は同化前の蝦夷(えみし/縄文人)族の土地だった。
そして朝鮮半島の人々の方が、同じ倭人として大和朝廷を構成する人々と血統の上でも近かった。
天孫降(光)臨伝説は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された「記紀神話(古事記・日本書紀)」から始まっている。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。
つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。
また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。
しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。
ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那加羅の勢力範囲の事で、伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。
どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。
この「記紀神話(古事記・日本書紀)」の天孫降(光)臨伝説を列島の隅々まで遍(あまね)く喧伝した組織が、天武(てんむ)天皇(第四十代)の命を受けて役小角(えんのおずぬ)が組織した陰陽修験組織を、桓武(かんむ)天皇(第五十代)が陰陽寮として正式に朝廷組織に組み入れて天孫降(光)臨伝説の喧伝に活用したのである。
良く考えて見れば、編纂当時の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。
そう考えれば、考察するのに楽になる。
従って、「記紀神話」を正確な歴史観として採用するには難がある。
難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。
古文書には、大王家(おおきみ/天皇家)と大臣(おおおみ)・葛城家の「連合政権」の記述や「神武朝に葛城氏族から嫁を出す」などの記述が微妙に表現されている所を見ると、両者の力関係が同等もしくは葛城氏族(賀茂氏)が上回って居る事も考えられ、疑って考えれば神武朝から内実が葛城朝に代わっていた事も充分に考えられるのである。
有力王(国主)が乱立しての合議統治の時代で、未だ大王(おおきみ/大国主)の世襲が固まらない大和朝廷創生期の頃の事である。
入れ替わっても不思議は無いのだが、その資格において継続性が重視されたのは天孫光臨(降臨)の天子として神の力で統治する建前であったから、皇統の交代を高らかに宣言する訳には行かなかったのではないだろうか?
天孫光臨(降臨)の建前で皇統の交代が宣言出来ないなら、「皇統を乗っ取るしかない」とは考えられないだろうか?
面白い事に古事記・日本書紀に拠ると、この賀茂・葛城の主神・事代主神が 初代・神武(じんむ)天皇を始めとして四代の天皇と濃いに親戚になるのである。
初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の后妃・五十鈴媛命(いすずひめのみこと) の皇后父は事代主神である。
二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神にあたり、后妃・五十鈴依媛命(いすずイ姫のみこと)の皇后父も事代主神で、二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)は続柄からすると、母の妹を娶った事になる。
そして三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の外祖父は事代主神、后妃は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)で皇后父が 鴨王(賀茂王)と成っている。
神武大王家も神であるから、神である事代主神の娘を娶っても不思議は無い。
しかしながら、神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)も人間なら賀茂・葛城氏=事代主神であるから、三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)の后妃・渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)の皇后父・ 鴨王も=賀茂王となり、四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)の外祖父・ 鴨王も賀茂・葛城氏=事代主神と言う事になり、神武大王家(じんむおおきみけ/神武朝)と賀茂・葛城氏は表裏一体そのものである。
この事を裏付けるように、京都・上賀茂神社に継承(伝わる)「葵祭り」には斎王代(さいおうだい)が登場する。
これは天皇家が娘を神様(賀茂・葛城氏)に捧げる斎王様式を、儀典的に現している。
つまり葵祭りの斎王代(さいおうだい)は、天皇でさえ賀茂神社の主神・事代主(ことしろぬし)の神には娘を捧げる儀典形式を踏んでいるのである。
斎王代(さいおうだい)は、本来の斎王(さいおう)の代わりを務める形式的な神事の様式であり、元は皇室と賀茂・葛城氏の古事に習う儀典と解される。
本来の斎王(さいおう)は、未婚の内親王または女王(親王の娘)が勤め、厳密には内親王なら「斎内親王」、女王の場合は「斎王」「斎女王」と称した。
伊勢神宮の斎王を「斎宮」、賀茂神社の斎王を「斎院」とも称し、この古事に習う儀典は斎宮の儀典が古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院の儀典は平安時代から鎌倉時代まで継続した。
この事が、神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)の経緯を表しているのであれば、「賀茂・葛城一族」は古事記や日本書紀が伝えるごとくに単なる機内の豪族ではなく、神武王朝に匹敵する相当の実力を擁した御門(みかど)だった事は間違いない。
事代主(ことしろぬし)神が「田の神様」であり、田の都が「田京」であれば、田京は事代主(ことしろぬし)神の都である。
そして事代主(ことしろぬし)神の実体が神武朝四代と深い血縁で結ばれた賀茂・葛城氏御門(葛城臣王)であれば、その本拠地は伊豆半島の「田京」を置いて他には考え難いのである。
皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。
この欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。
謎の始まりは、「古事記・日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。この大王(おおきみ)実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える研究家の見方が一般的である。
「古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。
これらの天皇は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが下記「欠史八代」である。
第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇) = 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト)
これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の名称にあり、崇神大王(おおきみ)の別名である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。
つまり崇神大王(おおきみ)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇と言う評価がある。
「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。
第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)及び第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは明らかに和風諡号(わふうしごう)と考えられる。
所が、記紀(古事記/日本書紀)のより確実な史料による限り、和風諡号(わふうしごう)の制度が出来たのは六世紀半ば頃で、時代が符合しない。
しかもこの間の大王(おおきみ/天皇)位相続に関し、当然都合で発生すべき兄弟相続が一切無く、総て父子相続と成って居る所など後世に作為的に創造された神話の証拠ではないだろうか?
つまり初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の東遷当時はまだ西日本列島の統一半ばであり、或いは「崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代に統一王(大国主)で在った」と考えられる。
そして「欠史八代」が伝えるべき史実の核が無いままの「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の捏造あれば、欠史八代の天皇群陵墓に矛盾が在り古墳出土品に系譜が刻まれて居ない説明が着く。
それでは「欠史八代」の謎をどう捉えれば良いのだろうか?
そこで登場するのが伊豆・伊都国に誕生し、勢力を拡大して紀伊半島奈良の地に新たに葛城の都を創った賀茂・葛城朝の存在である。
初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(不確実な推定)する説である。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力であるが、神武東遷(じんむとうせん)後に九州を含む西日本一帯を支配した「九州の豪族で在った」とされる「第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)に踏襲された」とこの説は結論付けている。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、「邪馬台国は畿内に在った」として葛城王朝を「邪馬台国」に、崇神天皇の王朝を「狗奴国」にそれぞれ比定する説もある。
或いは「邪馬台国は九州に在った」として崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、或るいは「邪馬台国を滅した後の狗奴国である」とする説などがある。
しかし我輩は、神武朝「狗奴国(くなくに)」と葛城朝「伊都国(いとこく)」は同じ呉族系海洋民族の国であり、葛城王朝・邪馬台国(やまたいこく)説はとても肯定できない。
それで、加羅系農耕民族の比売命(ひめのみこと/卑弥呼)の「邪馬台国(やまたいこく)」が、「狗奴国(くなくに)」と「伊都国(いとこく)」の連合勢力に圧されて「天の岩戸伝説の誓約(うけい)に到った」と考えたのである。
当時、古事記・日本書紀の編纂に携わった人間が、国家の正史を編纂するにあたって後世へのメッセージを暗号化して謎解きを残す事は充分に考えられる。
その、大きなメッセージが「香殖稲(かえしね/根を反す)」ではなかったのか?
「古事記」によると、
御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。この後は、比売(ひめ)を娶り、二人の御子をもうける。その内の一人が「大王(おおきみ・天皇)の位についた。」
と記されている。
「日本書紀」では観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)と記されているこの孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)、何と在位期間が八十三年、崩御された時の年齢は日本書紀に百十四歳、古事記には九十三歳とあり、当時としてはとんでもない長寿で、大きな謎である。
この数字が、二人分の生涯なら話は早い。
欠史と言う事で、実在も疑われているこの辻褄が合わない大王(おおきみ)が、なぜか命(みこと)の時「葛城の掖上(わきがみ)宮」に坐(ま)しましていた。
ここらに、若き葛城臣王(葛城御門)が在任中の大王(おおきみ)の年号、在位年数をそのまま引継ぎ、「入れ替わった」ので生涯年齢の数字が延びたのなら、説明が付くのだ。
これも、「血統至上主義」の為に封印された歴史の一つではではないのだろうか?
名前の中にある「かえしね」の意味は何だろう、「返し根(根を返した)」すなわち「血統をヒックリ返した」の暗号ではないのだろうか?
この「根(ね)」の話を取り上げると、孝霊大王(こうれいおおきみ/第七代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子賦斗邇命が初出である。
孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)は、日本書紀に於いて大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・古事記に於いては大倭根子日子国玖琉命が見られ第九代開化大王(開化天皇)と続く。
つまり日本書紀に於ける大日本根子(ヤマトネコ)・古事記に於ける大倭根子(ヤマトネコ)の称号・根子(ネコ)は、「記・紀編纂」の七世紀末から八世紀初めの段階で、大王(おおきみ)は大和朝廷の大元(おおもと)=「根(ね)」なのである。
であれば、孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の「観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)」の香殖稲(かえしね)の意味が、「根(ね)を返したに通じる」と言う解釈が成り立つ。
黎明期の大和朝廷組織がまだ固まって居ず権力が流動的で、「かえしね」の名が神武朝大王(じんむちょうおおきみ)から大王(おおきみ)の位を簒奪(皇位簒奪)した意味であれば筋が通っている。
つまり、本当の「葛城の掖上(わきがみ)宮」は、伊豆葛城山の掖(わき)にある「田京」に存在した。大王(おおきみ)が「入れ替わった」痕跡を消す為に、元の伊豆国(伊都国)より立派なものを大和国に「葛城の地」として瓜ふたつに「カモフラージュ創造した」と考えられるのである。
現代の辞書に於いて葛藤(かっとう)の意味は、葛(かずら)がつる草の総称であり、藤もつるを有する花木である事から、もつれ合う葛(かずら)や藤の意で人と人とが譲る事なく対立する事や争いを言うと解説している。
葛藤(かっとう)を「もつれ」と読み、心の中に相反する欲求が同時に起こり、そのどちらを選ぶか迷う心的なもつれの事も言うとも解説している。
しかしその解説は、本当の歴史を知らない言語学者や歴史学者の多くが、定説に対する辻褄合わせの為に作為的に事実を見落とす愚を犯している表面的な解説に過ぎない。
小生は、葛藤(かっとう)の意味を、大和朝廷(ヤマト王権)内部に於ける統治上の葛城氏と藤原氏の激しいもつれが「葛藤(かっとう)の語源の成立要因ではないか」と考える。
大和朝廷(ヤマト王権)成立初期当時とされる特筆すべきミステリーは、有力豪族(臣王・御門)の葛城氏が、忽然と中央政界から姿を消した事こそ神武王朝から葛城王朝に「かえしね」=「返し根(根を返した)」が行われた証拠ではないだろうか?
大王家(おおきみけ/天皇家)には氏姓が無い。
何故なら、この世に唯一無二の氏姓を授ける側だからである。
葛城氏が大王家(おおきみけ/天皇家)を継いだ事で、中央からこの氏姓(葛城)が消えた事は、この氏姓を授ける側に成った事が理由であれば納得が行くのである。
当時の大王(おおきみ/帝)は神武系から皇統を受け継いだ葛城氏系であり、最有力の豪族には中臣姓から藤原姓に替わった藤原氏が居た。
そうなればお定まりの勢力争いが、朝廷(ヤマト王権)内部に噴出しても不思議はない。
葛城氏(かつらぎ/かずらぎ)の葛(かずら/クズ)はマメ科属のつる性の多年草であり、根を用いて食品の葛粉や漢方薬が作られる漢方・葛根湯(かっこんとう)に調剤する方剤の一種類である。
その葛(かずら/クズ)の生長は凄まじいものがあり、チョットした低木林ならばその上を覆い尽くし、木から新しい枝が上に伸びるとそれに巻き付いてねじ曲げてしまう事もある。
まるで神武朝に巻き付いてねじ曲げ、秘密裏に葛城朝を起こした事を暗示させるネーミングの様ではないか?
勿論、同じつる性マメ科属の一つでフジ属・藤がライバル藤原氏であれば、両者が絡み合って政府の舵取りに「葛藤(かっとう)していた」は、講釈師並の符合である。
伊都と伊豆では文字が違う為に見落とされ勝ちだが、葛城と伊都の関係は証明できる。
この葛城と伊都の関係は、伊豆ばかりではない。紀州(和歌山県)の丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の所在地にその葛城と伊都の関わりを示す痕跡が、如実に残っている。
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の所在地は、何と和歌山県・伊都郡(いとぐん)かつらぎ町(かつらぎちょう)なのである。
この伊都郡(いとぐん)には、かつらぎ町(かつらぎちょう)の他に、戦国武将・真田家所縁(ゆかり)の九度山町(くどやまちょう) や高野町(こうやちょう)がある。
つまり、葛城と伊都は発祥の地である伊豆国以来、ワンセットで世間に認識されていたのである。
田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆の国における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。
また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。
それ故、御門地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。
事代主(ことしろぬし)神の、現在の紀伊半島の本拠地は葛城(奈良県御所市)の下鴨神社(鴨都味波八重事代主命神社)である。
ここでの事代主神は最初、葛城川の岸辺に季節毎に祭られる「田の神」で、それがやがて、同じ葛城にいる叔父の「一言主神(ひとことぬしのかみ)」の神格の一部を引き継いだのか、「託宣の神としての性格」も持つ様になる。
くどいようだが神代の時代、この「御託宣」は国家の掌握に強い威力を発揮する。旧王朝(神武大王朝)から、伊豆に興った葛城王朝が、現実的に大王(天皇)の位を引き継いだ可能性があるのだ。
永い間、伊豆国の国府が置くかれた三島の地、三島大社の「三島」の名の由来、元々伊豆の島々(伊豆諸島)を指す三島明神(事代主命)から来ている。
記述した様に、事代主命(ことしろぬしのみこと)は葛城氏(賀茂氏)の神である。三宅島に残る「三宅記」にはこの事代主命神社が最初は「三宅島に鎮座していた」としている。この神社が、現在の三宅島・富賀神社である。
伊豆国一ノ宮は、創建が古く古代史に記録が無い為何時頃から存在した物かもハッキリしない三島神社で社格は大社である。
三島大社の主祀神は「事代主神」であるから、三島大社は古代賀茂信仰の「重要な位置を占めていた」のではないだろうか?
ちなみに駿河国一ノ宮は富士山に在る富士山本宮浅間大社(主祀神・木花開耶姫命/静岡県富士宮市)で、駿府(静岡市)に在る浅間神社の社格は中社である。
また隣接する相模国一ノ宮・寒川神社の社格は確たる証拠が無く推定・大社である。
縄文後期〜弥生時代(紀元前五世紀中頃から三世紀中頃まで)に掛けて「伊韓(唐)島の周辺と五島列島、壱岐・対馬を含んだ地域で発達した」と言われる。
太平洋・インド洋を繋げた大航海の伝承と航海技術の伝承が有り、秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。
徐福伝説に於いて始皇帝は、不老不死を求めて方士の徐福に「東にある」と言う蓬莱の国(日本列島の事と推測されている)へ行き、「仙人を連れて来るように命じた」とされている。
この徐福の航海を可能にしたのが、中国沿岸部に居住していた倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)が持つ大航海技術だったのである。
この徐福伝説の徐福(じょふく/すぃーふぅ)が日本列島へ住み着いた征服部族、「秦(はた)」氏の先祖と言われて居る。
徐福は、始皇帝の命で一度日本列島を訪れてその豊かな未開の地に魅了され、新天地で王に成る野望をいだいた。
密かに永住を決意して帰国、始皇帝の不老不死願望に期待を抱かせる事に成功すると大船団を編成、大勢の技術者や若い男女ら三千人を伴って渡航、まんまと新天地に移住した。
徐福に関する伝承は日本各地に残されているが、或いは日本各地を巡った末に、最終上陸地点が紀州熊野かも知れない。
であるなら、竜宮伝説が日本各地に残されていても納得が行く。
只、伊豆諸島・八丈島に上陸して後、名も無かった三宅島に一時本拠地を構えた事から島に宮家島=三宅島の名が残り、伊豆半島に上陸して「賀茂葛城王朝を建てた」とする説がある。
この宮家島=三宅島が、竜宮伝説の多くの「竜宮の地」の中の一つに当たるのかも知れない。
山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説(うらしま・りゅうぐうでんせつ)に関しては、秦始皇帝(しんのしこうてい)と徐福(スィフゥ/じょふく)の「不老不死・蓬莱山(ほうらいさん)探索と深く関わっている」と考えられている。
現代では、中国・江蘇省において「徐福が住んでいた」と伝わる徐阜村(徐福村)が存在している。
秦始皇帝(しんのしこうてい)は、中国語(中文・ツゥンウェン)では始皇帝(シーホワンディ)または秦始皇(チンシーホワン)と称され、紀元前二百五十九年に中国全土に七ヶ国在った国の一つ秦と言う国の王家に生まれる。
十三歳の秦始皇帝(チンシーホワンディ)が、紀元前二百四十六年に秦国の王・秦王(チンワン)として即位した時は七ヶ国が覇を争う戦国期だった。
秦王(チンワン)即位八年後の二十一歳で始皇帝は実権を握って親政を始め、二十五年後の紀元前二百二十一年、三十六歳の始皇帝は史上初めて中国全土を統一して中国史上初の皇帝(ホワンディ)を称した。
始皇帝は先見性に優れた有能な皇帝で在った事は広く認められているが、一方で幼少より虚弱な体質で在った為に不老不死を求めて方士を重用し、徐福(じょふく/スィフゥ)に対して「東方に在る」と言う蓬莱国(日本を指すと解される)へに向い「仙人を連れて来るように」と命じた。
中国前漢の武帝の時代に司馬遷(しばせん/スーマーチエン)に拠って編纂された中国の歴史書「史記」に在る始皇帝の容貌や性格について始皇帝は「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されていて、日本の武将・織田信長のイメージがダブルる。
紀元前二百十一年に四十六歳の始皇帝が崩御すると、翌年には陳勝・呉広の乱が発生して秦は一気に滅亡へと向かい、始皇帝以後の秦帝国の皇帝は二世皇帝・三世皇帝と三代で滅びるが、権力を持って皇帝自らが秦帝国を治めたのはほぼ始皇帝の御世だけで在った。
いずれにしても、この秦帝国の話しは日本では天孫降臨神話の神代にあたり、まだ主に縄文人が暮らす未開の地だった。
つまり、七百八十一年に即位した桓武天皇が奥羽(東北)蝦夷(えみし)を討伐して北海道を除く日本列島をほぼ統一する千年以上も前の事である。
古代中華大陸の黄河・長江流域文明では、神仙道とは仙伝の気功、符呪、占術を通じ「神仙の域に導く」とされていた。
中華大陸初の統一覇王・始皇帝に拠って保護登用された方士とは方術の士の事であり、「史記」に於いては方術とは方遷道つまり神仙道の原始的なもの或いは医術を指している。
だが、封禅書に見えるような「斉や燕で、方士が勃海の海中に蓬莱、方丈、瀛州の三神山が在って、神仙(仙人)が住み不死の薬が在ると宣伝していた」、と言う記事に表れる方士は、前者の方遷道に関係した方士である。
方術は神仙道や医方術ばかりでなく、黄老・天文・五行・巫術・呪術・讖緯(しい)など多くの要素を包含するようになり、方術はまた道術とも呼ばれるように成る。
そしてこれらの術を行うものは道士と呼ばれ、次第にこの道士と言う言葉が普及して方士に代わるように成って行く。
つまり日本の修験導師の初期のモデルがこの方士であれば、方士・徐福が初期修験道の「元祖的な存在だった」と考えても符合する。
この辺りが、「徐福と原始的修験道の賀茂・葛城氏に繋脈が在る」と我輩は睨んだ。
また、方士・徐福の末裔と目される始皇帝の子孫を名乗る秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)が、香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖・川勝氏の神農(しんのう)道の祖とも伝えられ、歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き神農道は「薬の行商から始まった」とされて方士起源説と符合している。
そして始皇帝に派遣された方士・徐福が東方の島(日本列島)で目にしたのは、神仙(仙人)ではなく僅かな原住民と水と緑に囲まれた肥沃な大地だった。
つまり方士・徐福が始皇帝を騙して二度目の蓬莱遠征を行い、東方の島(日本列島)で王位に就こうとしても不思議は無かったのである。
方士・徐福の大船団に乗って列島に辿り付いた大勢の技術者は、造船技術者、製鉄技術者、製紙職人、機織り(はたおり)職人、農耕技術者、漁業の専門家、木工技術者などで、正に当時とすれば最先端の「黄河・長江流域の文明」を未開の地に持ち込んだ事になる。
徐福(じょふく)の子孫・秦氏の秦(はた)は、機織り物(はたおりもの)に通じ、秦氏は「織物を司どっていた」とも伝承され、秦(はた・ハタオリ)=服部(はとりべ/はっとり)氏に通じている。
その機織り(はたおり)の古い織機(しょっき/おりき)様式が、伊豆七島の一つ八丈島に残っていた原始的な織り方「カッペタ織り」だと言うのである。
倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)は、その大航海技術を駆使して黒潮の海流に乗り、朝鮮半島や日本列島に進出、各地に移住して行く。
伊豆七島の一つ三宅(宮家)島の北部には、伊豆地区と神着地区がある。
この三宅島・伊豆地区の名称と伊豆半島(伊豆国)の名称がどう関わっているのかは謎であるが、三宅島・伊豆地区の方が伊豆半島(伊豆国)よりも「早い時期に命名された」と言う事は充分に考えられる。
神着地区は読んで字の事しで「神着(かみつき/カヌチャ)」、つまり事代主(ことしろぬし)の神が「御着きに成った場所」と言う事である。
この黒潮ハイウェーとも称される日本の太平洋岸を北上する流れの終着点近く、三宅(宮家)島の伊豆地区に三島明神(神社)が、神着(かみつき/カヌチャ)地区に走湯神社が配されて居り、三宅島の三島明神(神社)が伊豆半島・三島大社であり、伊豆国の国府・三島(現・三島市)の名称、そして熱海市にも走湯神社があり、いずれも三宅島にそのルーツを見るのではないだろうか?
この伊豆半島と伊豆諸島には、古代に到達したより独特な海人族文化(倭人文化)や先進な船舶航法が有った。
それらの人々が伊豆半島に伊都国を成立させたのでは無いだろうか?
三宅島の島名の由来は、事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、「付近の島々を治めた」と言う伝説から「宮家島」と言った説があり、伊豆諸島には「神懸かりになって託宣する巫女の伝統がある」との事で、これもまた託宣の神・事代主神にふさわしい様に思われる。また伊豆諸島の住民が事代主を信奉する「葛城氏族(賀茂氏族)である」と言う事を表しているのである。
皇族も神社も「宮」であると言う原点が、この賀茂・氏(かも・うじ)葛城・臣・姓(かつらぎ・おみ・かばね)の発祥の地「三宅(みやけ・宮家)島から来ている」と考えれば、葛城王朝が成立して、氏姓の無い大王(おおきみ)の位に着き「葛城姓(かつらぎかばね)がこの世から消えた」としても不思議が無い。
黒潮(くろしお)は、日本列島の北太平洋側、鹿児島沖、四国沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖を掠めて北上する幅が狭く強い流れの暖かい海流である。
この黒潮(くろしお)の流れ、気候変動と連動して広い北太平洋を時代時代で流れを変えながら日本列島に近寄ったり離れたりする。
魏帝国(三国志時代)の「魏志倭人伝」にみえる倭国内の国々の一つである「伊都国」が、伊豆半島に成立する少し前の黒潮(くろしお)は、比較的日本列島からは離れて流れていた時代だった。
同じく三国志時代に呉帝国から新天地を求めて船出した海の旅人(賀茂・葛城の前身となる呉族系氏族の一群)は九州島・鹿児島沖、四国島沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖の陸から遥か遠い位置を航行、辿り着いたのは伊豆半島沖・伊豆諸島の三宅(宮家)島だった。
伊都国(伊豆国)の大元(おおもと)が「伊豆諸島である」と言う裏付けの一つに、現在も八丈島に残っている「カッペタ織り」と言う原始的な織り方がある。
このカッペタ織りの織り方に使う織具は 中国雲南省晋寧石寨山(シンネイセキサイザン)遺跡から出土した滇(てん)族のものとそっくりで、「紀元前三百年から百年くらいに渡って来た」と可能性が推測され、それが日本列島に渡来した絹織り技術としては、列島最古の範疇に入るのである。
滇(てん)国は、現在の中国雲南省昆明市の近辺を本拠とした滇(てん)族の国で、母権制の王国である。
その滇(てん)国で開発された絹織り技術が、中国浙江省(せっこうしょう) 辺りの呉族(海人・隼人族)に伝わり、伊豆諸島にもたらされたのである。
実は、この「カッペタ織り」と言う原始的な絹の織り布が、賀茂族の信仰と合いまって、「神とのコンタクト」を勤めとする巫女の衣装になる。
また、この織り布その物が、対外的に賀茂の信仰を信じさせるに足りる「貴重な絹織り物」だったのでは、無いだろうか?
伊豆の国(静岡県)東伊豆町・稲取は、伊豆半島先端部に近い東海岸に在る港と温泉の町である。
この地「稲取」には「奇祭」と呼ばれる「どんつく祭」が在る。
伝承に拠ると、二千年前の「弥生時代中期から伝わる」と言われる「どんつく祭」は稲取の高台にある「どんつく神社」の大祭典である。
「どんつく祭」は、夫婦和合、子孫繁栄、無病息災を神に祈願するもので、神社に奉納された大きな陽物(男性のシンボル)を模したご神体を「陰の神社」に和合するまでの催しである。
神社に奉納された賜物を模したご神体(男性のシンボル)が「陰の神社」に「ドン!」と突いて和合するまでの催しが行われる明らかに原・陰陽道(妙見信仰)にその源を見る陰陽呪詛の奇祭である。
奇祭「どんつく祭」の地、東伊豆町・稲取は、古くは河津庄稲取郷と呼ばれていたらしく、千四百四十四年(文安元年)の上野国(上州(じょうしゅう/群馬県)の吾妻神社の懸仏にその名が「伊豆国・河津庄稲取郷来堂別当」と見え、少なくともその時代に稲取郷として存在していたのである。
この「稲取」と言う地名が、事代主神信仰の稲作文化そのものである事に着目すれば、伊豆の国(伊都国)に相応しい地名ではないだろうか?
温暖な気候に恵まれたこの地に古くから縄文文化が存在した事は、約一万二〜三千年前の先土器時代の人々が狩猟などに使用したものと推測される細石器が稲取ゴルフ場遺跡から出土された事でも証明されている。
その後縄文人が、九千五百年〜六千五百年前にこの稲取地区に定住、集落を形成した事をて確認される峠遺跡と穴ノ沢遺跡(奈良本地区)、宮後峠遺跡(白田地区)が発掘されている。
竪穴状遺構や土坑、石器製作などが発見されており、その種類、量などから「この時代の人が定住して居た貴重な遺跡を持つ」と言える土地である。
稲作農耕文化が稲取の地に伝えられたのは、縄文時代の後期から弥生時代初期と推測されるが、何しろ伊豆七島は黒潮海流の到達地点で、この頃に三宅(宮家)島から賀茂(葛城)族が稲作の技法と稲作の神・事代主神を携(たずさ)えて伊豆半島に進出して来たのではないだろうか?
稲取港の存在から、天然の良港と成る入り江があれば下田港同様に海洋民族・賀茂(葛城)族の上陸地点である事は間違いない。
細野遺跡や崎町遺跡(稲取地区)から弥生式土器が出土されて居り、この地(東伊豆町・稲取)でもこの時期から稲作が行なわれていた事が明らかである。
伊豆国(静岡県)・土肥は、伊豆半島の西海岸に在る温泉と金山跡、漁港などが売り物の風光明媚な観光地である。
現在は合併で伊豆市に成ったその土肥の由来であるが、天孫降臨伝説の為に多くの先住民(縄文人/蝦夷族)の痕跡は失われてしまったが、まだ渡来部族と縄文人が混血して弥生人が生まれる前の古い伊豆半島は、「豊かな縄文文化の地で在った」と推測される。
土肥(どい/とい)の旧発音表記は「どひ」で、土匪(どひ)や奴婢(どひ/ぬひ)にも通じる。
勿論ではあるが、何しろ先住民を「土蜘蛛」と呼んだ征服氏族(渡来民族)の事で、土匪(どひ)や奴婢(どひ)は支配階級を得た征服氏族(渡来民族)が野蛮と決め付けて、先住民(縄文人)に対して勝手に文字を当て嵌めたものである。
実は、伊豆の地名には縄文人(蝦夷族)の言葉に符合するものが多であり、伊豆半島に「縄文人(蝦夷族/アイヌ族)が住んでいた」と言う推測が成り立つ。
アイヌ語で「トピ=素晴らしい土地」と言う言葉があり、土肥の先住民が縄文人(蝦夷族/アイヌ族)であれば、肥沃な土地を「トピ」と称し「トピ」と言う言葉が転じて「土肥(とひ)」に成った」と言う説に符合する。
土肥にある「土肥神社(といじんじゃ)」の祭神は豊玉姫(とよたまひめ)で、「古事記」では豊玉毘売・豊玉毘売命(とよたまびめ)と明記され、日本書紀では豊玉姫・豊玉姫命(とよたまひめ)と明記されている。
豊玉姫は海神・豊玉彦(綿津見神=渡つ海)の娘であり、山幸彦(火遠理命)と結婚して子供をもうけ、夫・山幸彦に富と地上の王として君臨する資格を授ける女神として伝えられている。
これは典型的な異部族誓約伝説であり、豊玉姫命は異郷から訪れて来る神と結婚してその神の子を生む女性で、山幸彦から見れば豊玉姫命が他界の住人であり、そう言う特殊な女性と結婚する事に拠って子供や宝物を授かった事になる。
ちなみに、この海神・豊玉彦(海彦/海日子)の娘・豊玉姫命と山幸彦(火遠理命)の為した御子が鵜葺草葺不合神(ウガヤフキアエズノカミ/神武天皇の父)で、初めて日本の西半分を統一する神武朝大王(おおきみ)の近い先祖と位置付けられ、豊玉姫は神武朝君臨の正当性を証明する為の神である。
田京は初期の伊都国(伊豆国)に在って「田の方の都」、つまり田方京である。
それでは「海の方の都は何処か」と言うと、田方・広瀬神社に移る前の事代主神(ことしろぬしのかみ)の旧御鎮座地・下田・賀茂郡の地が海の方の都だった。
下田は三島大社の旧御鎮座地のひとつで、「伊豆国最古の宮」と言われる伊古奈比盗_社(いかなひめのみことじんじゃ)の祭祀の地である。
通称は白浜神社と呼ばれている伊古奈比盗_社(いかなひめじんじゃ)の御祭神は、伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)であり、紛れも無く葛城氏族(賀茂氏族)の神である。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は事を行うに当り「御託宣(決定)」を行う神であり、その神主(かみぬし=かんぬし)、つまり葛城王(賀茂氏上)は、伊豆(伊都)国民に強力な指針を示していた事になる。
下田が伊古奈比当ス(いかなひめのみこと/白浜神社)の祭祀の地であればその一帯、伊豆・賀茂郡(かものこおり)は伊豆七島に在った事代主神(ことしろぬしのかみ)の由緒正しい本土上陸の地である。
事代主神(ことしろぬしのかみ)が大仁町の田方・広瀬神社に移る前は、この下田・白浜神社(伊古奈比盗_社)に合祀されていた。
つまり、伊豆国最古の宮・白浜神社を有する下田・賀茂地区は、日本古代史における重要な史跡を二千年を経た今なお祭祀し守っている事になる。
従って、平成の大合併に拠る下田・賀茂郡の新しき名称は賀茂を冠した「本賀茂市などが望ましい」と考えられるのである。
大仁町の田方・広瀬神社の社伝には、三島大社が白浜から三島市に移動する途中、一時期この「広瀬神社の地に在った」と伝わっている。
これらの説を信用すると、三島大社は、三宅島・富賀神社から白浜海岸・白浜神社、田方・広瀬神社、三島・三島大社と移動してきた事になる。
つまり伊豆の国の始まりは、黒潮に乗って北上してきた海洋民族の葛城氏族(賀茂氏族)が、伊豆諸島に辿り着き、次に伊豆の白浜に上陸して序々にその範囲を拡大して行った事になる。
葛城氏族(賀茂氏族)は、やがて田方平野に辿り着き、田京を中心に王国「伊都国」を成立発展させて行く。
この伊豆の国(伊都国)が、「後に大和朝廷を掌握した」と我輩が考察した材料の一つが、九百二十七年(延長五年)の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に拠る神社の格式、「式内社」の数で、伊豆の地に式内社が「九十二座もある」と言う異様さである。
その内伊豆諸島を含む賀茂郡地区に半数の四十六座が集中している。
これを近隣諸国と比較すると、隣の駿河国は二十二座、甲斐国二十座、相模国十三座で抜きん出ている。
長期に都だった山城国(京都府)でさえ、百二十二座しかない。
ただの都に遠い一地方であれば、異例としか言い様が無い数である。
つまり、「歴史上重要な経緯がこの土地にあったはず」と考える。
伊豆と伊都の関連性については、伊豆の国より「賀茂(加茂)族が移り住んだ」と言われ、その一端が残る土佐国の伊豆田神社の例を挙げる。
伊豆田神社の謂れを調べると、ズバリ「伊豆と伊都」は同様な扱い(混合)で使われているので紹介する。
土佐の国の古記によると、「千五百年〜二千年ほど前に、伊豆の国より賀茂(加茂)族が渡り来た」とされ、伊豆田神社は、氏神の伊豆国賀茂郡白浜村(静岡県下田市)鎮座の式内大社・伊古奈比売命(いこなひめのみこと)神社を勧請され、伊豆の国より現在の「下の加江地方」に移ったものである。
伊豆田神社は、土佐の国では二十一座の一に列し、幡多郡三座すなわち宿毛市平田の高知座神社(八重事代主命・やえことしろぬし)、大方町入野の加茂神社(祭神・あじすたかひこねのみこと)とともに幡多三古社の一つである。
谷重遠(秦山)の「土佐国式社考」に拠ると、
「伊都多神社は 伊豆多坂の西鳴川谷高知山にあり、玉石二枚を以って神体となる。里人伝える伊豆田神社は古くは坂本川の高知山にあり、ここに何れの代に移すかは知らず。重遠請う、高知の字姑らく里人の語に従う、河内と相近し、正説いまだ知らず。渡会氏(伊勢神宮神官)いわく伊豆国伊古奈比売命神社、出雲国飯石神社、出雲国風土記に言う、飯石郷伊毘志郡幣命天降り座す、けだし稲霊大御食都姫命、万物の始め人これ天とする所なり」
と、記述がある。
「土佐国式社考」で伊豆田神社の伝承を著した谷重遠(秦山)は岡豊八幡の神職の三男として生まれたが、土佐・岡豊は戦国期に四国の大半を制した長宗我部氏の本拠地であ
る。
長宗我部元親の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)は「元は土佐国の神官であったが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測される。
南国市前ヶ浜に、「下の加江・伊豆田神社より勧請した」と言う郷中一の大社で、もと県社の伊都多神社がある。
幡多郡の「下の加江」と南国市「前ヶ浜」とは随分距離はあるが、室町時代「下茅の伊豆田神社」を前ヶ浜に勧請し、「前ヶ浜の伊都多神社」としたのは、現在南国市一円に居住する藤原系の田村氏である。
下の加江(下茅)で郷土や庄屋を務めた田村氏の祖先は、慶長年間長岡郡大踊、田村(今の南国市)から移住したものである。伊豆田神社が伊都多神社となっているが、祭神が伊豆那姫命でり、音読が伊豆田と伊都多と相通ずる。
土佐の伊豆田(いとた)神社は文献により伊都多神社となっているが、伊豆田神社は神名帳も伊豆多、土佐州郡志に伊津多、南路志に「伊都多」とある。
祭神が伊豆那姫命であり「音読が伊豆田と伊都多は相通ずる」としているが、多分に古事記・日本書紀の記述に整合性を合わせた「苦しい解釈」と捉える事も出来る。
しかしこれは、単純に音読が相通ずるからの理由だけだろうか?
それよりも、当時「伊豆と伊都を同じと意識していた」と考える方が自然で、無視出来ない事実である。
伊豆田(いとた)神社・摂社の土佐・三島神社は 伊豆田神社の左隣りに鎮座し、祭神は口碑によると伊豆田大神の母神(三島・溝杭比売命/みしま・みぞくいひめ)である。
土佐・三島神社の創立年代はくわしくないが、もと三島大明神(神体玉石二個)と言い、鳥居の所の脇に鎮座していたものを大正五年八月県の役人がきて、「本社の母神を門番の居るような社頭に祭るのは道徳上よくない」と言う事で、大正五年八月廿六日現在の地に宮を移したものである。
つまり、この四国に実存する「伊豆・伊都同系」の神社群を検証すれば決定的な物証で、伊豆半島説の「伊豆(イズ)=伊都(イェズ/いと)」の関係は明白となり、九州説の「糸島半島=伊都」ではない。
そしてこれは決定的な事だが、桓武天皇の第八皇女に阿保親王(あぼしんのう/平城天皇の第一皇子)の妃で、在原業平(ありわらのなりひら/右近衛権中将)の母・「伊都内親王」が居るが、読みは「いずないしんのう」で、伊都は正しく「いず」と読ませ、時に「伊豆」とも表記している。
つまり平安時代初期の段階で伊都は「いず」と読み、「伊豆」とも表記しているにも関わらず遥か後世の学者が糸半島を読みが「イト」だけで「伊都国所在地」とするのは少々強引ではないだろうか?
正直、最有力とされる伊都国・糸島説については、「発音が似ている」と言う安易な発想以外然したる証拠は無い。
確かに、現地・糸島には三雲南小路遺跡が存在するが、その遺跡が伊都国・糸島説を証明するものではないから、糸島は現在でも有力説としか扱われては居ない。
音だけで伊都国と結び付けた糸島半島には確かに多くの遺跡が点在するが、それが伊都国と結び付く証拠は何一つ浮かんでは来ない。
敢えて言えば、糸島半島と博多湾を挟んだ対岸の志賀島(しかのしま)から出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を、漢委奴国王印(かんのいとこくおういん)と読ませる異説がある。
ただしこの説を採ると委奴国(イトコクと読ませる)=伊都国にはなるのだが、狗奴国(くなくに)の前身と言われる奴国(なこく)の存在が歴史から消えてしまう。
糸島半島は糸の音が「伊都」に通じるとして「伊都国の地」として観光地化し、引っ込みが着かない状態にある。
また、倭人伝の距離の記述を「伊都国の地」の比定の根拠としている試みも為されているが、倭人伝の他の記述が日本側で合致しない物も多く、何処まで信憑性を置けるのかも問題である。
そこで、伊豆半島に関わる皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在の方が史実を追う上で遥かに重要な考慮点と成る。
「伊都国=糸島説」は、七百八十年代・桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の御世に在った皇女・伊都内親王(いずないしんのう)の存在よりも、「伊都国=糸島説」を唱えた近代の学者の方を信用する事になるのではないだろうか?
つまり伊豆半島・伊豆の国の方が、遥かに伊都国の可能性が高い多くの材料が散見されるのである。
「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ).柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」
これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置である。
水行ではなく陸行で東南へ五百里とある。
上陸地点は不明で起点が判らないが、陸路をかなり行く事には違いない。
これをまともに読むと、該当の地が「九州・糸島半島説」はかなり苦しい。
陸行と言うからには少なくともかなり遠方の陸路でなくては成らず、また、「世々王有るも」と代々の王が存在し、郡使が必ず寄る所としている。
「皆女王国が統属す。」とある所から、邪馬台国と形式的冊封(さくほう/さくふう)関係にあり、「世々王有るも」と言うからには「独立国であった国」とも考えられる。
この陸行五百里、旅の行程一ヶ月について研究者の一部は、九州糸島説では苦しい(整合性がない)ので、旅の苦労を中国人特有の「白髪三千丈」的な大げさな表現(誇張癖)による「本国への誇大報告だ」としている。
しかし上陸後「行程一ヶ月」はかなりの距離で、「誇張癖」だとしても後日別の者が行けば直ぐ判るような報告をするだろうか?
これはまた辻褄合せの「都合の良い解釈方法だ」と思うのは我輩だけだろうか?
いずれにしても、神武大王(おおきみ・天皇)が、筑紫の国(筑前・福岡県)から出発する神武東遷(じんむとうせん)物語に拠ると神武朝の前身は狗奴国(くなくに)であるから、同じ筑紫の国(筑前・福岡県)糸島半島が「伊都国」と言うのは疑問符が付く。
すると、倭の国々の東の外れに伊都国があり、郡使の終着点だった。
その都「田京」が「千戸余りの都市だった」とも考えられる。
当時とすれば、千戸は人口にして三千から六千人と考えられ、かなりの大都市である。
国の総戸数と捉える説もあるが、この時代、他国に見せる「詳しい統計がある」とは思えず、目視した概要と考えるのが、妥当ではないだろうか?
また、「魏志倭人伝」に拠る「皆女王国に属す」も、どの程度の意味があるのかは解釈が分かれる所である。
魏帝国から贈られた卑弥呼の称号は「親魏倭王」である。
倭の国々に在っても、中国の帝国が分裂し三国志時代を迎えると、その影響が出て親呉政権(呉族/海洋民族系)や親魏政権(加羅族/天一族)に色分けをされて行く。
「魏志倭人伝」に拠ると伊都国を「女王国に属す」記述しているが、これはあくまでも「魏の言い分」の可能性がある。
中国の帝国が分裂した三国志時代に在って、伊都国(呉族/海洋民族系)は、当然「親呉」であり、漢の金印を持って列島では隠然たる力を有していたのである。
「親呉」の伊都国は呉と同盟を結んで魏と対抗していた為、「魏」は「親魏倭王」として卑弥呼と組んだのではないだろうか?
文武天皇の第一皇子の聖武天皇(しょうむてんのう・第四十五代)の御世、七百五十年頃の天平年間でさえも、当時の日本列島の総人口は約五百五十万人程度である。
それより遥かに遡るこの当時の日本列島の総人口は多く見積もっても数十万人で、数千人の都市は大規模である。
また、「皆女王国が統属す。」の皆は、「倭の国々を指す」と考えられ、列島の倭の国々は、あくまでも魏の言い分だが、一時「邪馬台国・卑弥呼」が掌握した可能性が強い。
氏上=氏神の発想からすると、その最高位・大王(おおきみ)に、事代主(ことしろぬし)神その他の神々を操る賀茂氏が着き、上と神は同意になった。
実はこの、神(かみ)=上(かみ)=かも(賀茂)についての関連性も、我輩は疑っている。
中国の普通語(プートンフォワ)では、上(うえ)を「シャン・スゥワン」と発音する。
その上(うえ)を、最大の尊敬を込める神(かみ)と同じ発音をするのは「何故だ」と考えた時、近い音の賀茂(かも)が浮かんで来た。
賀茂(かも)が、実は神(かみ・上)の正体ではなかったのか?
事代主(ことしろぬし)の神と一言主(ひとことぬし)の神の謂れは難しくは無い。読んで字の如しである。
事代主(ことしろぬし)の神の事代(ことしろ)とは、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神の事であり、一言主(ひとことぬし)の神の一言(ひとこと)とは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向を告げる「御神託(助言)」の最高神の事である。
事代主(ことしろぬし)の神に、神后(妻)の伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神)がいる事が、余りにも人間臭いので、最初は賀茂族の氏上(氏神)・葛城氏の始祖夫婦から始まったのかも知れない。
この説の裏付けとなる確かな記述は、古書には無い。
従って「荒唐無稽」と言われればそれまでだが、皇統の正当性を主張する為に、作為的に証拠を隠滅する必要があれば、記述は残らない。
何しろ日本書紀や古事記を編纂されたのが天武天皇やその妻から皇位に就いた持統天皇(女帝)の御世以後で、皇統も四十一代を数えて以後の話で数百年も経っているから、以前の正式文章なり伝承なりが、「意図的では無い」と言う保証はない。
その葛城氏族(賀茂氏族)の国・伊豆国(伊都国)が拡大して駿河の国も飲み込み、「広域駿河の国の領域を造った」と考えられる。
賀茂・葛城朝は古代史上に謎の多い大豪族で、我輩は葛城ミステリーと名付けている。
我輩が葛城朝発祥の国と比定する伊豆の国=伊都国説に関わる墳墓が今まで発見されなかった事を不思議に思っていた。
そこに、大型古墳・辻畑古墳(前方後方墳)の発掘報道が届いた。
卑弥呼が居たとされる時代の東日本最大の古墳が、高尾山古墳(辻畑古墳)である。
当初は辻畑古墳と呼ばれていたようだが、なぜだか最近は高尾山古墳と改称されている 。
卑弥呼の墓と一説される「箸墓古墳(はしはかこふん)」よりさらに古く、しかも東日本最大級の貴重な古墳が高尾山古墳(たかおさんこふん)=辻畑古墳(つじばたけこふん/前方後方墳)で、「東国に大きな謎の国が在った」と言う説が浮上している。
この東日本一の大型古墳・高尾山古墳(辻畑古墳)が単独の古墳で、古墳群でない所に、実は「東国に大きな謎の国が在り、やがて大和・神武朝と合流した」と言う説が、現実味を帯びて来る。
つまり「欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)説」や「葛城ミステリーと 伊豆の国=伊都国(いとこく)説」と符合するのだ。
それが大変な事に現在沼津市の道路計画で、住民の利便の為に同古墳を保存するかどうか意見がもめている。
つまり葛城ミステリー伊都国と、今、沼津市の道路計画に依って消滅されようとしている貴重な東日本最大の古墳・高尾山古墳(たかおさんこふん/辻畑古墳)との関連が浮かび上がるのだ。
高尾山・高尾古墳(辻畑古墳/前方後方墳)の所在地は伊豆国と国境を接する駿河国・沼津の東熊堂(高尾山穂見神社・熊野神社旧境内地)で、南北六十二メートル、西側四分の一は道路で削り取られた為、東西は三十五メートルと推定される。
二つの墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ四・五メートルで墳頂の一メートル下に副葬品を伴う木棺跡があった。
出土した木棺(もっかん)は船形をしていて、埋葬者が海人族系(海洋部族)の出自を思わせるに充分である。
この辻畑(つじばたけ)古墳から出土した高坏(たかつき)から、二百二十年前後(三世紀)頃の卑弥呼とほぼ同じ時代の築造で、纒向(まきむく)石塚古墳(奈良県桜井市)と同じ「古墳初現期に分類される」との指摘があり日本最古級の古墳となる可能性が出て来ている。
高坏(たかつき)の他に築造年代を示す鉄鏃(てつぞく・鉄製の/やじり)や銅鏡などの副葬品も出土しており、鏡を割って被葬者と埋める「破鏡」と言う風習が用いられたほか、出土した壺(つぼ)の中には軽石を含む材質の「大廓(おおくるわ)式土器」に分類できるものがあった。
これらの出土品は三世紀代の特徴で、辻畑古墳も「同時期の築造」と言えるが、古事記・日本書紀を始めとする文献上のこの時代この地域に、それと該当する国主(くにぬし)、国造(くにのみやっこ)は存在していない。
推定するに、卑弥呼が生きていた時代に古墳を造るだけの有力者が「この地に居た」とすれば、賀茂・葛城朝を置いて他には思い到らず、当時の日本の支配構造の空白部分を踏まえ、古代史上に賀茂・葛城朝の大国・伊豆の国=伊都国が存在した事を物語っているのではないだろうか?
律令制度が始まる前、各地に在った部族国家の主を称して国造(くにのみやっこ・こくぞう)と呼んだ大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態が在るが、国造(くにのみやっこ・こくぞう)は読んで字のごとく国の造り主で、国主(くにぬし)とも呼ぶ。
国造(くにのみやっこ・こくぞう)或いは国主(くにぬし)のいずれの呼称に於いても、初期の日本列島が多くの部族国家の林立する状態だった事を意味しているのである。
細かい事を言い出して恐縮だが、古代における国力、つまり経済力は、その国にとって中央政界で重要な発言力になる。
そこで持ち出したいのが「わが国の自然」である。
古代から現在まで気候が温暖で、一年中農作物の栽培に最も優れている土地を挙げると、実は静岡県(伊豆、駿河、遠近江国)と宮崎県(日向国)である。
古代伊都国(伊豆・駿河国)が気候的に稲作に有利で、国力が「安定して強かった」としても、立地的に不思議は無い。
そうした経済実績を背景に、事代主神(ことしろぬしのかみ)が中央政界で幅を利かし、「呪術(神道)王朝・葛城が成立した」としても、納得出来そうである。
その辺りをもう少し検証すると、何故、伊都国(伊豆国)の賀茂・葛城朝が神武朝を凌(しの)いで大王(おおきみ)の位に就けたのか?
賀茂・葛城は呉族(海神族)であり、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神・事代主の祭神を司る一族で、その強力な呪詛的威力は並ぶ者が無かった。
そしてこれも、「呪詛的威力」と解されたのだろうが、伊都国(伊豆国)は非常に豊かだった。
田方平野は、肥沃な河川平野の上に温暖な気候で稲作に適していた為、収穫が良かった事も有るが、もう一つ、地の利を得ていた。
それは金鉱の存在で、或いはこの事が秘すべき事として、賀茂・葛城朝の大王(おおきみ)就任と伊都国(伊豆国)の存在を隠した理由かも知れない。
黄金の国ジパングの謎の原点は、伊豆の国の隠し金山である。
伊豆国(伊都国)は、往古より黄金の産出する土地だった。
伊豆の金山が歴史に現れるのは、ズット下った平安末期くらいからだが、伊豆半島が他に類を見ない金の国だった事は、多くの金山が存在し、昭和の中頃まで採掘されていた事でも想像がつく。
判るものだけでも挙げると、大仁金山(静岡県田方郡修善寺町)、天正金鉱(静岡県田方郡土肥町)、土肥金山(静岡県田方郡土肥町/過去・佐渡の相川金山に次ぐ国内第二位だった)、伊豆天城鉱山(静岡県加茂郡西伊豆町)、縄地金山(静岡県賀茂郡河津町)、蓮台寺金山(静岡県下田市)、 伊豆猪戸金山(静岡県下田市)、 清越金山(静岡県田方郡土肥町)、持越鉱山(静岡県田方郡天城湯ヶ島町)などである。
そしてご存知の通り、こうした鉱山探索の仕事は朝廷から各地に派遣された影人集団・陰陽修験者の仕事でもあった。
実は、この伊豆の金山が紀伊半島「吉野」と非常に関わりがある。
学者・研究者の説では、「吉野には隠し金山が有ったのではないか」と言われている。
つまり、大和朝廷が豊富に使用した金の出所に関心を持ったのである。
しかし、「吉野」の金山はまったく採掘の記録がないまま「手をつけては成らぬ」と言う伝承が有るだけで、表面化した歴史は無い。
「吉野に金山があった」と言う伝承はあるが、未だにその痕跡すら発見はされていない。
そこで我輩は、この伊豆半島と紀伊半島の関わりについて、別の推理をした。
紀伊半島「吉野」周辺では、丹(辰砂・水銀)が採れた。
当時、水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ次いで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、日本の古くからの「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。
次に大きな注目点としては、安土・桃山期にキリスト教伝来と合い前後してもたらされた西洋の金の精製法が使われる前は、この丹(辰砂・水銀)が金の精製に使われる貴重なものであったのである。
従って、当時「辰砂(しんしゃ/神砂)」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事であった。
手に入れた力は維持しなければならない。
そうなると本当の産金地を隠し、精製に必要な丹(辰砂・水銀)を手に入れるには、紀伊半島にその本拠地を移す必要がある。
賀茂・葛城の一族は、伊豆半島に信頼の置ける同族を配置し、「特別な土地」とするとともに、紀伊半島に、故郷伊都国(伊豆国)と同じ様な地形(奈良飛鳥の地)を選び、故郷と同じ名称の地名をつけて都に仕立て上げた。
つまり二つの懸案を解決する為に、伊豆の地の賀茂・葛城の痕跡を消しながら、神武東遷(じんむとうせん)物語のヤタガラス道案内神話(賀茂・葛城の協力)をでっち上げまんまと伊豆半島から目を逸らせたのである。
賀茂神社の元となった古代の豪族・賀茂氏(かもうじ)の起源は謎である。
そこで大胆な仮説を立てて見た。
カーマ・スートラは古代インドの性愛の経典で「四世紀頃から存在した」とされ、葛城・賀茂氏は「五〜六世紀に日本列島に渡来した」とされるから渡来部族・賀茂氏が古代インドの思想を持ち込んだとしても時代的に符合する。
梵語(ぼんご/サンスクリット語)の「カーマ」は「業(ごう)」と訳されるが、この「カーマ」の最大の意味は「愛欲(慾/むさぼるよく)」なのである。
また、田の神様(稲作の神)とされる事代主神(ことしろぬしのかみ)には、呪詛巫女が神の御託宣を伝える様式が存在し、賀茂一族の信仰の中心をなす神は葛城の主神であり、シャーマン(呪述)的に神を持って国家運営を司って居た。
つまり豊穣の神(命を生み出す)とされる賀茂氏の祭神・事代主の神と一言主の神の「御託宣(決定)」と「御神託(助言)」の古代原形には巫術に拠る呪術要素が鮮明である。
そして桓武帝期に、中国修行から帰国した弘法大師・空海がその信仰思想を多くの経典とともに改めて日本列島に持ち込んで、在来の古代賀茂信仰と融合させて修験道を発展させた。
これは推測の域を出ないが、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)のカーマと原初日本神道・賀茂氏(カモうじ)の音についての類似性は発音してみると相当に疑い得るので、貴方が「カーマ」と発音してどう聞こえるかお試しあれ。
このカーマ=賀茂が正解だとするなら、伊豆国発祥の葛城氏の一部が古代賀茂信仰の祭祀を司る賀茂氏(カモうじ)を名乗る経緯が、解けた訳である。
六百七十二年に天智天皇の皇子・大友皇子が弘文(こうぶん)大王(おおきみ)として即位寸前、大海人皇子(おおあまのみこ・天武(てんむ)天皇)が「壬申(じんしん)の乱」を起こした時、紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)に加勢、「勝利を得た」と言われて居るが、それは海人族(かいじん/隼人・呉族)達が大海人皇子(おおあまのみこ)と同族だったからに他ならない。
そしてまた、賀茂・葛城族(隼人・呉族)も同族だったのであれば、朝鮮半島と日本列島は血筋として同じ流れを持っていた事になる。
渡来氏族が日本列島に遣って来た時、蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)との意志疎通は通訳を介しなければ成らないほど言語的には別のものだった。
そこで大和朝廷(ヤマト王権)は、両者の言葉を組み入れ翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)を統治の為の両者共通の言語を創り出す。
その創出した言語を、蝦夷族(えみしぞく)に浸透させる為に、当時その蝦夷族との境界線・伊豆の地に地盤を持って蝦夷族(えみしぞく)に詳しかった賀茂氏族の役小角(えんのおずぬ)を頭(かしら)として起用する。
好都合な事に、賀茂氏族は事代主神(ことしろぬしかみ)を信奉する呪詛に長けた氏族である。
賀茂氏族は修験道山伏組織を編成し、天孫降臨伝説などの物語を通して翻訳多重発音言語を広く蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)に学習させた。
渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。
渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。
そして蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の存在が、渡来氏族との同化過程で日本史から抹殺されたが為に、日本語の起源論議から蝦夷族(えみしぞく)の存在を欠落させてしまった。
つまり、蝦夷族(えみしぞく)と渡来氏族との同化過程を経て日本民族が成立した事を念頭に置かないと、日本語の起源がトンデモナイ方向に行ってしまうのである。
あらゆる痕跡から、賀茂社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、現実に降(光)臨した場所は、伊豆七島の三島(三宅「宮家」島)である。
しかし、皇統の一貫性を重んじる呪術的な思想からか、古事記や日本書紀(記・紀)の物語は天孫降(光)臨の地を「日向の国から大和の国の葛城山に降りた」としている。
それでも・・・少なくとも伊豆の地に、これらの古い地名が現実に存在する事実は、誰も否定できない。
そして、符合する事柄の意味は、とてつもなく重い。
そぅ、「誰が否定できる」と言うのか?
伊豆国は、古くから存在する意味深い地名が何事かを物語る「謎」を、確かに持ち合わせているのだ。
【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に続く。
了
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