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samurai 【平清盛(たいらのきよもり)の謎に迫る】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(平清盛・白河天皇御落胤説)

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***【歴史のミステリー】*************

【平清盛(たいらのきよもり)の謎に迫る】

(平清盛・白河天皇御落胤説)
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***【歴史のミステリー】*********

◆◇◆◇◆◇◆【平清盛(たいらのきよもり)の謎に迫る】◆◇◆◇◆◇◆

(平清盛・白河天皇御落胤説)

無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。

すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。

まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。


平氏一族の中から伊勢平氏(平家)が誕生するには、平将門(たいらのまさかど)の乱にまで遡らなければならない。

この平将門(たいらのまさかど/相馬の小次郎)の敵役が、平清盛の先祖・平国香(たいらのくにか/将門の伯父)である。

最終的に、相馬の小次郎・平将門は、平国香(たいらのくにか)の子・平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)ら討伐軍を「猿島郡の北山」で迎え撃つも、流れ矢に当たって絶命する。

結果、平貞盛(たいらのさだもり)は平将門(たいらのまさかど)の乱を収めたのだが、その後も地元の将門人気は強く、関東には居辛く成って朝廷に願い出て伊勢の国に移住し伊勢平氏とする。

この伊勢の国でも、貞盛流(さだもりりゅう)の一族は相当強引に所領を獲得した様で、争いの記録は残っている。


伊勢平氏の祖・平貞盛は、平将門の所領を横領して将門を追い詰めた平国香の息子である。

平国香、平貞盛父子は、所領横領の悪事を隠蔽する為に平将門を討ち取るべく兵を出すが、平将門の返り討ちに合い父・国香を討ち取られ、その後には子の平貞盛も平将門との戦いで破れるが命を落とす危うい所で逃げ延びている。

平将門は平国香、平貞盛父子との戦いに勝利して力を盛り返した。

だが、近隣の揉め事などの仲裁や朝廷との交渉を引き受けている間に、その指導力欠如の朝廷とのいざこざ腹を立て坂東武士を結集、関八州に代官を配置し、「新皇」を名乗った為に平貞盛に平将門を討ち取る機会が巡って来た。

朝廷から、関東武士に将門追討の院宣が飛び、平貞盛(後の伊勢平氏)は押領使・藤原秀郷ら討伐軍と共に「猿島郡の北山」で平将門と対峙、その合戦で平将門は流れ矢に当たってあっけなく敗死、平貞盛は勝利を収めている。

伊勢平氏と言うと、言うまでも無く地盤は伊勢の国である。

それが何故、紀伊半島が本拠地の勘解由小路党とそりが合わないのか、理由は簡単である。

伊勢平氏・平貞盛が関東から移り住み、強引に領地を拡大した相手が、勘解由小路党の草でもある在地の小豪族達の所領だった。

元々関東で起きた平将門の新皇事件の発端でも、平国香、貞盛親子が平将門の所領を乗っ取ったからで、伊勢平氏・平貞盛の領地と勢力拡大の執着心は並大抵のものではない。

どうやらこの伊勢平氏一族、歴代並外れた野心の持ち主だったようである。


伊勢平氏(平家)側では、関東を捨てて伊勢に来た。

この時代の豪族としては、新たな土地で形振(なりふ)り構わずに勢力を拡大しなければならない。

しかし、在地の小豪族達にして見れば、勝手に赴任して来て強引に領地を拡大されては堪った物ではない。

その小豪族達が、勘解由小路党の草や所縁(ゆかり)の者だったから自然に天下の色分けが出来るもので、平家、土御門(安倍)連合対源氏、勘解由小路(賀茂)連合の構図が出来上がって先祖以来の天敵となって行く。

伊勢平氏(平家)は、貞盛の子・維衛(ただひら)の代には、所領を相当広げ、伊勢守に任じられる。

その後伊勢平氏(平家)は、正度(まさのり)正衛(まさひら)忠盛(ただもり)と続き、忠盛の代には主に現在で言う警察、鎮圧部隊的な仕事で成功した。

忠盛(ただもり)は、上位の官位を得、貴族並みの扱いを受ける様に成る。

しかしこの頃には、平氏は面目を失う失態を起こしている。

当時の検非違使・平直方(たいらのなおかた)は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、関東で発生した「鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の孫の乱」の鎮圧に追討使として失敗してしまい、役を解かれて伊豆の国に在住する。

この直方の流れが伊豆に小さな所領を得て、後に鎌倉幕府執権北条家となる。

直方の父は平時方(たいらのときかた)と言った。

但し平時家(たいらのときいえ)が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在するので書き添えて置く。


「村岡良文の孫の乱」と一部文献にある乱は、実際には良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の事で、この「長元の乱」が関東における源氏の台頭のきっかけとなる。

平直方が大敗を喫して乱の制圧に失敗し、京都に召還され朝廷から検非違使の任を解かれた関東での「長元の乱」の乱鎮圧に、清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)が成功する。

結果、関東では源氏の勢力が強まり、鎮守府将軍などの現地武門トップの地位は平氏から源氏へと移ってしまうのである。

この後、平氏が受け持っていた坂東(関東)と奥州の警備は源氏が取って代わり、「前九年の役後三年の役」の奥州大乱に源氏が関与して行く事になる。

この時点で朝廷では、源氏ほど伊勢平氏は同じ武門でもたいして重要な仕事をしていた訳ではない。

伊勢平氏が平清盛の代に「平家」として台頭するのはまだ少し先の事である。


元を正せばこの院政話の発端は、後三条天皇(第七十一代)の御世に中央で平安時代全般に渡り、長く続いた藤原氏一族の政治力の衰えから始まっている。

政治力が衰え、求心力を失っては国家運営は出来ない。

後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族とは直接の血縁関係が無い。

それ故に藤原氏を遠ざけ、村上天皇の具平親王(ともひらしんのう/村上天皇・第七皇子)の子・師房(もろふさ/村上天皇・孫)が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓し、始まった村上源氏の皇胤(こういん)貴族の血を引く兄弟、左大臣・源俊房(みなもとのとしふさ)、右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)を就任させた。

村上源氏を取り立てる事で、藤原氏に対抗する皇統の権力独占を図り、天皇親政へと向かった。

そこで、藤原氏から政治権力を朝廷に戻す為に、後三条天皇は、自分の次の天皇として第一皇子の貞仁親王(白河天皇)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子「輔仁(すけひと)親王」を据える様に遺言する。

後三条天皇の皇子・白河天皇(第七十二代)が即位したのだが、この天皇、余りにも野心的過ぎた。

色々と理由を付けて十歳にも満たない「子供」の堀河天皇(第七十三代)に帝位を譲り、早々と上皇となって政治の実権を握り、「院政」を敷いた事に端を発する騒動が起きるのである。

言わば「幼い天皇は、上皇の傀儡」と言うやつだ。

この院政を影で支えたのが、勘解由小路党の諜報工作組織だったのは言うまでも無い。

その傀儡・堀河天皇が亡くなると更に五歳にも満たない「孫」、鳥羽天皇(第七十四代)に即位させ白河上皇は院政を続けた。

その鳥羽天皇が成人すると無理やり退位させ、またも「ひ孫」の幼児・崇徳天皇(第七十五代)を即位させて院政を続けた。

よほど、お飾りを立てての院政が都合が良かったらしい。

処がこの白河天皇は、父帝・後三条天皇の遺言でもある「堀河天皇の次には輔仁(すけひと)親王を天皇位に就ける」との約束を反故(ほご)にしたのだ。

この頃、何代も後の鎌倉末期に政局を左右する宗教上の芽が密かに芽吹いていた。

高僧・仁寛(にんかん)の伊豆配流である。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた高僧・仁寛(にんかん)の伊豆配流が行われたのは、八幡太郎・源義家が奥州攻めに失敗して没してから数年後の事だった。

調べて見ると、大和朝廷に於けるこの半島(伊豆国)の扱いは謎に満ちていた。

確かに、長い事「貴族配流の指定地」として、伊豆国は活用されていた。

しかしこの地が、凡そ配流の地に相応しくない明るい陽光が降り注ぐ温暖な地である事が、尚更「何故に?」と疑問を強く意識される。

思うに、伊豆が貴族配流の不可思議な指定地となっていたのは、「完全に朝廷が掌握管理できる場所」、つまり政治的地盤を有する安定した地域の内で最東端の場所だったからである。

それが「王朝の発祥地(地元)故に」とリンクしていれば、流人管理上合理的な説明が付く。

高僧・仁寛は、村上源氏の血を引く有力貴族の出自である。

父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。

また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇の皇后で堀河天皇の母にあたる。

高僧・仁寛は、まさに権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。

しかも仁寛の兄の勝覚は、真言宗の重要な高僧(醍醐寺座主)で、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖である。

高僧・仁寛はこの兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。

そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた「輔仁親王(すけひとしんのう)の護持僧」となるのである。


人間考える事は、五百年や八百年経っても同じで有る。

この時代、名家には拝領地、神社には御神領、寺には寺領が在った。

それを分割して分家を創設するか、世継ぎのいない他家への婿入り、そして宮司・神官や寺の門籍を継ぐのは高位氏族の世継ぎ以外の次男三男達の行き所だった。

つまり一休禅師(トンチの一休さんのモデル・分裂皇統北朝最後の第六代・後小松天皇の御落胤)の例の様に、寺社は氏族の天下り先だった。

ちなみに彼(一休禅師)が庶民に人気が在るのは、「女犯・飲酒・肉食」と言った破壊坊主であったからで、とりもなおさず庶民の共感を得る本音で生きていたからである。

簡単に言えば、寺社は当時の「天下り先」と言う事になる。

それが現代では形を変え、省庁の「外郭団体」と言う事に成るのかも知れない。


伊勢平氏の武将で御所に北面武士(御所の警護をする職務)として出仕していた平正盛(たいらのまさもり)は、白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用される。

平正盛(たいらのまさもり)の子・平忠盛(たいらのただもり)は十三歳で左衛門少尉となり、千百十一年(天永二年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。

千百十八年(元永元年)生まれの平清盛(たいらのきよもり)は「忠盛(ただもり)二十二歳の時の子供」と言う事に成る。


清盛(きよもり)の父・忠盛(ただもり)は伊勢平氏で初めて昇殿を許され、北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たす。

白河上皇の信任厚い忠盛(ただもり)は「諸国の受領を歴任した」と伝えられるが、代理を立て京に常駐していたので受領国に在地した事は無い。

また、忠盛(ただもり)は日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、それが「清盛(きよもり)の勢力増大の元に成った」と解されているが、勿論この日宋貿易は白河上皇と組んでの事業だった。


白河上皇は、息子の第七十三代・堀河天皇の次には「輔仁親王(すけひとしんのう)に次は天皇位につけてやる」と約束していた。

しかし堀河天皇が夭折すると、「次は輔仁親王(すけひとしんのう)を帝に立てる」との約束を破り、わずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言の時と弟との約束の時と二度も約束を反故(ほご)にした訳である。

この時、村上源氏の一族はこの輔仁親王即位を支持していたので、当然、不満と反発が起こり白河上皇(第七十二代)は孤立する。

そこに事件が起こる。

鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。

白河天皇の内親王・令子の御所に匿名の「輔仁親王(すけひとしんのう)と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言う落書が投げ込まれた。

白河上皇の密命で、勘解由小路党が動いたので有る。

更にこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童子の名が書かれていて、この千手丸は醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた[稚児」だった。

村上一族連座を狙った、所謂「千手丸事件」である。

たかが童子(わらべ)の千手丸が何故に捕らえられ、それが歴史的事件にまで発展したのだろうか?

それには説明すべき訳がある。

千手丸が醍醐寺三宝院で高僧・仁寛の「兄の勝覚に仕えていた稚児」と言う事は、当時の常識では勝覚と千手丸が特別な関係、「衆道(男色)に有った」と言う事である。

衆道(男色)は男性が男性を性行為の相手とする生殖には関わり無い行為で、言わば邪道である。

但し平安期の貴族や武士の間で広まった衆道(男色)には、現代の所謂ゲイのホモセクシャルとはまったく違う意味合いが在った。

男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行く。

特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

この衆道(男色)が、権力抗争に明け暮れる氏族社会の風土に溶け込んでその目的は忠誠心と信頼関係の証明手段に成り、つまり衆道(男色)は権力構築と深く関わった誓約(うけい)の進化形だった。

それ故当時の衆道(男色寵愛/稚児小姓)を時代背景的に捉え、現在の倫理観で邪道と簡単に決め付けないで欲しい。

当時の貴族や武士階級では衆道は嗜(たしな)みとも言われるほど一般的であり、主君の寵童出身である事は出世への近道でもあったのだ。

元々日本の衆道(男色寵愛/稚児小姓)は、所謂ゲイのホモセクシャルではなくバイ・セクシャル(両刀使い)であり、平安期に「僧籍の者の間から始まった」と言われるくらいで宗教的な戒めの考え方は無い。

だから身分の高い者が行っていても常識の範疇で在って、当時はそう異常には思われなかった。

織田信長と若い頃の前田利家徳川家康に於ける井伊直政との間柄も有名な衆道(男色)関係である。

また、豊臣秀吉が信頼し一際寵愛した石田三成との衆道(男色)関係や、織田信長と徳川家康の間でも清洲同盟の結束の固さから衆道(男色)は疑われている。

綺麗事の英雄伝ばかり見せられている時代劇好きの諸氏にとっては、英雄の別の顔を見せられるのは夢を壊す事に成るかも知れないが、現代とはまったく違う当時の倫理観の中で実在した抹殺出来ない事実なので、これからの物語でも追々記述して行く事になる。

千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。

仁寛も捕らえられ、尋問を受け当初彼は否認したが六日目には自白させられている。

仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪(配流)となった。

勿論、輔仁親王(すけひとしんのう)と村上源氏の力を削ぐ為の白河上皇が「仕組んだ」、院政継続の陰謀である。

後述するが、この仁寛の伊豆流罪、後の世の南北朝時代に影響が出るから、世の中は面白い。

まさか仁寛の「執念の呪詛」何て事は、無いと思うが。

この時代、いずれにしても天皇、上皇が、「直接自分で政治権力を持とう」として権力闘争を始め朝廷に混乱を招いていた。

そして所謂(いわゆる)帝の家臣団にも様々な対立の構図が出来上がって行く。

後の後白河院政の時代に、この村上源氏から正二位源氏長者と言う天皇の外祖父が現れるが、それはまだ少し先の話になる。



この時代、幾つかの権力闘争の力が複雑に絡み合って政情に影響を与えている。

先ず蝦夷族内部の指導権争いで有るが、土御門(安倍)家一本だった体制が清原(藤原)家の台頭で分裂する。

この清原家が八幡太郎・源義家に付き、奥州安倍家を滅ぼして東北(奥州)全域を手中にして藤原家から藤原姓を貰った言わば藤原、源氏、清原(奥州藤原)ラインである。

当然対抗するのが、平氏、土御門(安倍)ラインと言う構図が成立って来る。

つまり伊勢平氏の台頭は偶発的なものでは無く、明らかに藤原氏の力を抑えたい白河天皇の思惑から始まっていた。

白河天皇は、強力な藤原、源氏、清原(奥州藤原)ラインに対抗させて自らの力を発揮する為の駒に、それまで下級役人だった落ち目の平氏の育成を意志を持って狙ったのだ。

こうした背景の上で、平安末期から鎌倉初期の歴史絵巻が展開して行くのである。


世間は平家を「武門」と紹介するが、平清盛(たいらのきよもり)の父・忠盛(ただもり)が没した時には「正四位上・行部卿(法務大臣)」と言う昇殿可能な高官に出世していて、その子・清盛(きよもり)は幼少より貴族生活をして居る。

勿論政府高官の嫡子が、ぼろ布をまとって洛中を徘徊するなどは、現実として許されない事である。

脚本的には、下級武士・清盛(きよもり)が伸し上って行く方が大衆受けするドラマチックな物語だが、そんなに簡単に上に身分が昇る訳も無く、この出世にはカラクリが在る。

清盛(きよもり)を「奔放な武士の子として育った」と描くのは、只の作者イメージか物語を愉しませる為の脚色である。

誤解しては困るが、平清盛(たいらのきよもり)は時代を変えようと武門を代表して貴族体制に挑戦した男ではない。

何故ならば、平清盛(たいらのきよもり)は娘・徳子を高倉天皇に入内させ、孫・安徳を天皇継嗣としてする外祖父に納まった。

武門の武力を権力奪取に利用したのは確かだが、清盛(きよもり)が貴族体制の中で成功する手段を用いた事は事実で、本当の武家政治の始まりは源頼朝(みなもとよりとも)鎌倉幕府である。



白河天皇の登場で、藤原氏の摂関政治から天皇の直接統治が試みられた。

これは、或種(あるしゅ)の「革命」と言って良い。

何故なら、大和朝廷成立当初からの天皇としての立場が神秘的象徴としての重みを基に君臨するもので、余り細かく意見や指示を出す習慣が無かった。

つまり天皇は、長期に渡り神格化させ、下世話な立場で在っては成らない程に尊い存在で在ったのだ。

言い換えれば、和邇(わに)葛城(かつらぎ)大伴(おおとも)物部(もののべ)曽我(そが)藤原(ふじわら)、と言った大豪族(臣王?)達の時々の影響下で実質的には象徴的要素が確立して直接天皇が意見や指示を出す習慣が失われ、天皇の直接統治は馴染まない風土が育って居たからかも知れない。

処が白河天皇は勘解由小路党を手足に諜報活動をさせ、有力氏族の力を弱めて次々に幼帝を立て院政を始めてしまう。

白河上皇(第七十二代天皇)が亡くなると、先に退位させられた鳥羽上皇(第七十四代)が権力を握り、崇徳天皇(第七十五代)を退位させ僅か二歳の近衛天皇(第七十六代)を即位させて同じ様に院政を引く。

しかしその近衛天皇が、予定外の十六歳で亡くなって話がおかしくなった。

崇徳上皇にしてみれば、今度は自分の子「重仁親王が帝位に付く」と思ったのに、後白河天皇(第七十七代)に浚(さらわれ)てしまう。

鳥羽上皇(第七十四代)が亡なると、若くして引退させられた崇徳上皇(第七十五代)と後白河天皇(第七十七代)の権力争いが始まる。

ここで皇統の影人として活躍するのが皇室直属の秘密諜報組織・勘解由小路党である。

この時、陰陽師影総差配、勘解由小路吉次を握っていたのが後白河上皇(第七十二代天皇)だった。

ただ、建前「神の名に於いて統治する帝や院」にとって、それはあくまでも影の諜報組織であり続けなければならない宿命を帯びていた。

後白河法王が院政を敷くに当たり、勿論その権威だけではその院政の維持運営は適わない。

院(後白河法王)の傍近くに居て、歴史的に表面には出せない実行組織(秘密諜報組織)が存在しなければ、あまたの公家貴族や武士などの勢力を操れる訳が無いのだ。

その勘解由小路党は、後白河天皇から内々で「影領」を賜っていた。

名目は後白河天皇の持ち物(御領地)と言う事に成っている「伊豆の荘園・狩野荘」である。

白河上皇(院)以来、賀茂家に所縁の地である狩野荘を介して、影働きの関係が成立していたのだ。


第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。


平清盛(たいらのきよもり)二十九歳の頃、祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなる。

この闘乱事件で、清盛(きよもり)の郎等の放った矢が宝殿に当たると言う信仰上の不敬事件が発生した。

祇園社を末社とする延暦寺は、忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の処置(罪)を贖銅三十斤と言う罰金刑に留めた。

それから九年後、清盛(きよもり)三十九歳の頃に「保元の乱」が起こっている。


千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると「保元の乱」が発生する。


「上皇(法皇)と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。

崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛、源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして崇徳方の動きを封じた。

崇徳上皇(法皇)方は大敗をきっして源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇(法皇)は「讃岐」に流配刑と成った。

勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。

この争いの中に源姓、平姓が双方に出て来るが、実は親・子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いで在った。

この時の動乱を「保元の乱」と「平治の乱」と言うが、この争乱をきっかけに武力が政権維持に欠かせない事が証明され、武家が勢力を伸ばして政治の実権を握る様に成って行った。

同時に、官僚(公家)の藤原氏は衰えを見せる事に成る。

一旦は手を握った平清盛と源義朝であるが、此処から平清盛が政治力を発揮して中央の権力を独占掌握してしまう。

この政治力、朝廷運営の吉凶を占う助言者としての土御門(安倍)家の奏上が、ものを言っているかも知れない。



支配者の血統身分である氏族(武門)の間では支配権が価値観だったから、親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が続く。

所が、その一方で庶民(民人)は生きる為に一村落皆身内気分の「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて、統一的な精神性など無かった。

この辺りは第五章で詳しく後述するが、庶民(民人)はその被支配者としての平和的な生き方の上で、当時としては知恵を絞って最良の選択をしていたのである。

「保元の乱」と「平治の乱」で中心的役割を担った武将の一人源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝(みなもとよりとも)源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男・源義経(みなもとよしつね)達の父親である。

平安の都(京)に生まれた源義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。

千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶ。

しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。

乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられるが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持つ。

それが動機となって、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。

只この話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

実際には、平治の乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は信西と対立していた藤原信頼と手を結び、謀反を起こして後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。

しかし「源義朝立つ」の急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

この平清盛の熊野(和歌山)参り、実は源義朝方の不穏な動きを察した清盛が用意周到の上に画した「誘い出しの罠だった」とも思える手際の良さで、義朝方の完敗だった。

破れた源義朝は清盛の武力に抗し切れず畿内の地に留まる事をあきらめ、鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・源義平(長男では在るが妾腹で、嫡男はあくまでも三男の源頼朝)と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが義朝嫡男・源頼朝だった。

池の禅尼(いけのぜんに)の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。


現代の日本では親子の関係が希薄なものになり、親殺し子殺しが多発している。

栄養価の高い育児ミルクが普及し、日本の母親が、自らの赤子に母乳を与えなくなって久しい。

栄養は確かに育児ミルクで充分だろう。

しかし、愛情はどうなのだろうか?

我輩はこの親子関係の希薄化の遠因一つに、授乳に対する「母親の態度があるのでは無いか」と思われて成らない。

母乳で育てる事を嫌う母親の言い分の大半は「体型が崩れる」と言う、言わば自分本位なもので、我が子に対する心構えが最初から希薄に成っているのではないだろうか?

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。

その大事な授乳期間に、母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?


乳首を吸われて気持ちが良いのは、何も彼氏や旦那様だけの為にあるからではない。

当然ながら、授乳をさせる母親への恵みを考えて、「快感の感じ易いものに出来上がっている」と考えるべきである。

戦後の個人主義偏重の自由思想が、子育ての責任感をも希薄にする事が自由であるかのごとく曲解されている。

これを、単なる時代の変化で済ませて良いものだろうか?

時代の変化はわが国でも幾つもある。

たとえば戦後十年、昭和三十年位まで日本の母親はバスや電車の中、公園のベンチなど人前で堂々と我が子に授乳させて居て、それが極普通の日本の風景で周りもまったく違和感が無かった。

それが、以後の母親は乳房を人前で晒す事が恥ずかしくなったのか何時の間にかそんな風景は見かけなくなり、時代考証的には有ってしかるべきドラマからもそうした風景は無く成った。

そうした風潮から、我が子に母乳を与える母親は減り、親子の「直接肌に触れる」と言う基本的で大切なコミニケーションの機会は失われて行った。

これは、本来あるべき潜在的な親子の絆を育む機会を放棄したようなもので、実は多機能である人間の脳の一部に発育上での弊害が在り得るのではないだろうか?

男女ともに、母親の役目、父親の役目、性への理解の「と場口(最初の一歩)」で、「正しい情報を得られていないのではないか」と疑っている。

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。

その大事な授乳期間に母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?

人間皆等しく、自分に都合の悪い原因は考え着か無い。
いや、考えたがらない。

本来、他の動物では在り得ない未成熟な異性(未成年)を狙う性癖、正常な異性愛ではない極端な性癖など、子供の頃母親の肌に触れる初歩の快感や安心感を得られず育った事との因果関係を考えて見てはどうだろうか?

また、近頃の若者が直ぐに切れる性格の一因にも、この事が影響しているやに感じるのだ。


この時代から戦国期まで、親兄弟が殺し合う時代が続いた。

これは子育てと教育の問題で、ある意味今に共通する。

この章で、源氏や平氏の親子がそれぞれ上皇側と天皇側について殺し合って居るが、彼らには庶民ほどの身内の親近感がない。

本来人間は、共に生きる事で互いを理解し合うもので有る。

所が、たまに出てくる「乳母の存在」から判るように、或る程度の家柄の家庭だと母親が直接育てない。

いや、育てさせない。

父親も、子供が大きく成るまで接触が少ない仕組みだった。

それで親子の情は湧き難く、絆が生まれないのだ。

これは一種の英才教育である。

どちらかと言うと、「子供は何時の間にか大きく成った」と言う処だ。

権力者には、「血も涙も不要」そうした英才教育の考え方が、根底にある。

それ位冷酷で無いと、権力者足り得ないのだ。

その親子の接触の無さが、互いの愛を育まず、幾らでも残酷になれる。

本来、乳幼児から三歳くらいまでに母親の温もりは大事だ。

その後、十歳位までは両親の愛情を感じさせながら「育てて」やらないと互いの心の繋がりは育たないし、他人に対する優しさなど殊更に育たない。

その子が、優しさを欠落したまま、次の親になる。

人間として、悪い連鎖だ。

それで、親子が殺し合うのが、当時の時代のすう勢だった。

しかし現代でも、二世三世議員の両親は、父親が「中央」、母親が「選挙区」と忙しく、育児に手抜きで育った情の無い人間が、政権の中枢に座っている。

歴史は繰り返されるのか、それともこの事実が真理なのか?

断って置くが、この殺し合いは当時としても庶民には無縁の権力者の世界の事である。

しかし現代では、多くの家庭で親が共稼ぎをしなければ家計を維持できない環境になりつつある。

つまり、共に生きる事で互いを理解し合う事が不足する世の中になってしまったのではないだろうか?


乳母(うば)と言えば、日本史上最強の乳母(うば)は、鎌倉幕府を成立させた源頼朝(みなもとよりとも)の乳母(うば)・比企尼(ひきのあま)をその第一に数えてもけして間違いではない。

千百四十七年(久安三年)、清和天皇(せいわてんのう/五十六代)を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信(みなもとよりのぶ)、源頼義(みなもとよりよし)、源義家(みなもとよしいえ)らが河内源氏として東国に勢力を築いた。

その河内源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)には、公家で熱田神宮大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)との間に三男が生まれ、幼名を鬼武者(おにむしゃ)と名付けられる。

鬼武者(おにむしゃ)は、武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻・比企尼(ひきのあま)が乳母(うば)として育てていた。

比企尼(ひきのあま)が鬼武者(おにむしゃ)の乳母(うば)と成った経緯は不明だが、夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が藤原秀郷流の下級貴族だった事から、北家と南家の違いはあるが熱田神宮大宮司・藤原家からの依頼だったのかも知れない。

清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は保元の乱で平清盛と共に後白河天皇に従って勝利し、乱後は左馬頭(さまのかみ/馬寮の武官長)に任じられる。

保元の乱当時、鬼武者(おにむしゃ)と名付けられた源義朝(みなもとよしとも)と由良御前との子・頼朝(よりとも)は九歳だった。

やがて鬼武者(おにむしゃ)は元服して源頼朝(みなもとよりとも)を名乗り、三男で在りながら清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)の継嗣として官に登用され、宮廷武官の道を歩み始める。


千百五十八年(保元三年)、頼朝十一歳の時には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王(むねこないしんのう)に仕え皇后宮権少進(こうごうごんしょうじょう)、翌年(平治元年)には統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらんど)に補される。

所が、その年(千百五十九年)に平治の乱(へいじのらん)が勃発し、後白河院政派の主将として平治の乱に参戦した父・源義朝が敗死し、初陣で参戦して居た嫡男・頼朝は死罪に処せられる所を池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願で救われ、伊豆国に流罪となる。

「吾妻鏡」に拠ると、頼朝の乳母で在った比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允(かもんのじょう)と共に京から領地へ下り、千百八十年(治承四年)の秋まで二十年間の永きに渡り伊豆国流人・頼朝に仕送りを続けた。

比企掃部允(ひきかもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)の間には男子は無く娘が三人居た。

嫡女・丹後内侍(たんごのないし)は惟宗広言(これむねのひろこと)と密かに通じて「島津忠久(しまづ ただひさ)を産んだ(異説あり)」とされ、その後坂東(関東)へ下って安達盛長(あだちもりなが)に再嫁し、盛長は頼朝の流人時代からの側近となる。

次女・河越尼は武蔵国の有力豪族・河越重頼(かわごえよりしげ)の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清(いとうすけきよ)に嫁ぎ、死別した後・源氏門葉である平賀義信(ひらがよしのぶ)の室となっている。

比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の所領から頼朝に米を送り続け、三人の娘婿に頼朝への奉仕を命じていて長女・丹後内侍(たんごのないし)と次女・河越尼の娘はそれぞれ頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)、異母弟・源義経(みなもとよしつね)に嫁いでいる。

夫の掃部允(かもんのじょう)は頼朝の旗揚げ前に死去したが男子に恵まれなかった為、比企氏の家督は甥の比企能員(ひきよしかず)を尼の猶子(養子)として迎える事で跡を継がせ、後に能員が頼朝の嫡男・頼家(よりいえ/二代将軍)の乳母父となって権勢を握ったのは、この比企尼(ひきのあま)の存在に於けるが大である。

比企尼(ひきのあま)の動向や死没年は不明だが、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて納涼や観菊の宴会を催すなど、頼朝の尼への思慕は最後まで厚く、比企尼(ひきのあま)の存在は「鎌倉幕府成立過程に於いて大きく影響した」と考えられるのである。

尚、掃部允(かもんのじょう)は、律令制に於ける宮内省に属する令外官の官職名で、比企掃部允(ひきかもんのじょう)の本名は比企尼(ひきのあま)同様に不明である。



勘解由小路(賀茂)吉次は、イラクサ染めの倭文(しずおり)の布に包まれた青銅製・金輪六輪の手錫杖(てしゃくじょう/短錫杖)空海独鈷杵(とっこしょ)を父・吉晴から受け取っていた。

その手錫杖と独鈷杵は、まさしくあの勘解由小路の棟梁の印(しるし)だった。

山伏の定番所持品、「修験錫杖」の原型(モデル)になった錫杖がこれである。

この手錫杖と独鈷杵ある所いつも大乱がある。

錫杖が乱を呼び寄せるのか独鈷杵が乱を呼び寄せるのか、賀茂の血が乱を呼び寄せるのかは定かではない。

勘解由小路党の棟梁は代々吉晴を名乗って来た。

しかし今の棟梁は、吉次を名乗って居た。

勘解由小路(賀茂)吉次は勘解由小路家の次男だったが、兄と十五歳も歳が離れていたので、病死した兄に代わり二十二歳の時に、引退して余生を送る父の指名で勘解由小路党の棟梁に成って、世間では金売りの商人に化けて活動していた。

彼が吉次のままだったのは、表の貴族籍は兄の忘れ形見に継がせ自らは影の棟梁に徹する為だった。

ちょうど後白河天皇(第七十七代)が退位し上皇(法王)になり、「保元の乱」が終わって三年ばかりの清盛平家全盛時代の頃である。

尚、金売吉次(かなうりよしつぐ)については、京の都三条通りに商人としてお店(たな)を出していた所から、「三条吉次と呼ばれていた」とする言い伝えもある。

吉次が源家の事で最初に命じられたのは、後白河上皇(法王)腹心の藤原通憲(信西)からで、「平治の乱」で源義朝が平家に負けて討たれた為に武門の均衡が壊れ、平家の力が突出して強くなる。

その平家の力を削ぐ為に、「源義朝の遺児の中から数人選んで育てよ」との天命だった。

それなら幼少の者の方が想い通りに教育し易い。

鞍馬山に、文武に優れた荒法師と息子の一人、他数名を送った。

選んだ遺児は遮那(しゃな)王、送った荒法師(総軍師)は武蔵坊弁慶、吉次の息子の名を伊勢(三郎)義盛と言う。


ここに一つキーワードがある。

保元の乱で功績の在った源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に、隠された何かが有るのだろうか?

勿論、平清盛の白河天皇御落胤説が本当なら、然(しか)るべきだが、藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?

勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?

或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。

つまり武士として力は有ったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。

それに比べ、桓武天皇の孫系・「高望王(平姓)」の直系、平清盛とその一族は厚遇され、しばらくの間は、後白河上皇と平清盛の蜜月が続いた。

妻・平時子の姉妹である平滋子(建春門院)を上皇に娶せ、その間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子とした。


「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位、自らは法皇と成って院政を敷こうとする。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも院近臣・藤原信西(しんぜい)と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。



平安後期になると、陰陽貴族安倍家とは関わりない公家の号としての土御門(つちみかど)の使われ方が現れる。

日本史上稀にみる激動の時代、平安時代末期から鎌倉時代初期にわたる十二世紀後半に、皇統の影人として登場した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)である。

或いはこの頃、勘解由小路吉次が兄の忘れ形見に名跡を譲った貴族・勘解由小路家が断絶して、勘解由小路の名跡が宙に浮いていたのかも知れない。

源通親は土御門を名乗る公家で在ったが、安倍氏の血筋ではない。

通親は村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していたようである。


源(土御門)通親は村上源氏嫡流に生まれたが、源氏と言っても武家(ぶけ)ではなく後胤貴族・村上源氏は公家(くげ)の名流である。

公家(くげ)とは、武家(ぶけ)に対する言葉として京都の朝廷を構成する貴族・官人の総称で、元来は天皇または朝廷を指して「こうけ」または「おおやけ」と呼んでいた。

だが、鎌倉時代以降武力で帝(みかど/天皇)に奉仕する幕府を「武家(ぶけ)」と称するようになると、それに対比して朝廷において政務一般をもって帝(みかど/天皇)に奉仕する文官一般を「公家(くげ)」と呼ぶようになった。

殿上人(てんじょうびと/うえびと)は、日本の官制に於いて五位以上の者の内、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇る事を許された者の事を指し、この清涼殿の殿上の間(ま)に昇る事を昇殿(しょうでん)と言う。

公家(くげ)とは、昇殿を許された「堂上家」と「地下家」から広義に構成されるが、一般的には堂上家を指して公家(くげ)としている。

つまり殿上人(てんじょうびと/うえびと)と昇殿を許された「堂上家」と公家(くげ)は、言い方は違うが意味は一緒である。

官職としては、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議に就く血統の家柄で、家格としては、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区別があり、古くからある家を旧家、文禄慶長以降創立の家は新家と呼ばれ、幕末には百三十七家の多くを数えるに至っている。

平安時代末期ごろから貴族社会に於いて公卿に昇る家柄が限定されるようになり、藤原北家による摂家の確立に伴って家格が固定化し、鎌倉時代前期ごろまでに公家社会の基礎が形成された。

摂政関白をはじめ、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・近衛大将・大弁以下〜の官職名を家柄により世襲した為、この公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。

但しこの官職を公家(くげ)に限定されず、朝廷より有力武家(ゆうりょくぶけ)にも与える事によって、朝廷の権威を維持すると同時に武家(ぶけ)の権威を認める事で双方の存在を担保し合う形式が採られていた。

鎌倉に幕府が成立しても、実はまだ公家(くげ)の出番は在った。

鎌倉時代を通じ、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権(鎌倉幕府)に相対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権(朝廷)が共存して存在しており、両政権がおおむね協調連携しながら政務にあたっていた。

しかし鎌倉幕府ができて以降大政は武家に移り、「後醍醐天皇建武の親政」や南北朝並立などの動乱を経ながら公家(くげ)の職権は序々に空虚と化して室町時代には幕府および守護によって公家政権の権限が侵食されて次第に有名無実化の道を辿って行く。

江戸時代に入ると、公家社会は幕府から保護を受ける事となったが、反面、天皇と公家を規制する「禁中並公家諸法度」が定められ、これにより江戸時代の公武関係が規定された。

公家社会は幕末まで温存されたが、明治維新期に解体され公家のほとんどは華族身分へ移行した。

平安時代末期に官庁街である大内裏が消滅して以降、庁舎内で会議や事務が行われる事はなくなったが、太政官や各省のポスト(役職名・肩書き)だけは明治維新を迎えるまで残った。


実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。

権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的で在ったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。

つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は、頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。

十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように日本史上稀にみる激動の時代であった。

だが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。


源(土御門)通親は村上源氏嫡流の公家であるが、この殿上人(てんじょうびと/うえびと)の多くは藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の枝で、源(土御門)通親は少数派である。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)とは、右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする家系で、藤原房前(ふじわらのふささき)の邸宅が兄の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の邸宅よりも北に位置した事がこの名の由来である。

従って藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を祖とする家系は、藤原南家(ふじわらなんけ)と言う事に成る。

天武大王(てんむおおきみ・天皇)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)の引きで不比等(ふひと)は右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成った。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は藤原四家の中では最も遅い時期に興隆したが、その結果として政争の矢面に立つ事から逃れ藤原四家の中では最も根を拡げる事になる。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の祖・藤原房前(ふじわらのふささき)は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正大王(けんしょうおおきみ/天皇)の側近として長屋王(ながやのおう)と政権を争った。

聖武帝朝になると、七百二十九年(神亀六年)の長屋王の変(ながやのおうのへん)により南家・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が政権を掌握し、藤原四子政権で北家・藤原房前(ふじわらのふささき)も中心人物として政権を主導したが、七百三十七年(天平九年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに四人とも病没してしまう。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は、奈良時代後期〜平安時代初期にかけて光仁帝朝で房前(ふささき)の子である藤原永手(ふじわらのながて)と藤原魚名(ふじわらのうおな)が左大臣となるが、永手(ながて)の嫡男・家依(いえより)は早逝し、魚名(おな)は氷上川継の乱に連座して失脚した事もあり、南家と式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城帝朝以後、八百七年(大同ニ年)の伊予親王の変で南家が、さらに八百十年(弘仁元年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が急速に台頭し他家を圧倒するようになる。

さらに、冬嗣(ふゆつぐ)が文徳天皇(もんとくてんのう)、そして冬嗣(ふゆつぐ)の子・良房(よしふさ)が清和天皇(せいわてんのう/清和源氏の始祖)、そしてその養子(甥)・基経(もとつね)が朱雀天皇(すざくてんのう)と村上天皇(むらかみてんのう)の、それぞれの外祖父と成って北家嫡流が皇統三代に渡り外戚の地位を保ち続けた事が、同家の優位を確固たるものにした。

この経緯が以後の、「北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白」と言う図式を決定づける事になり、この藤原北家系による「摂関政治」が後の藤原道長・頼通父子の時代に全盛を極める事となる。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格は引き続きこの五家が独占した為、他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。

尚、この堂上家(とうしょうけ・どうじょうけ)と言う格式であるが、天皇の御殿である清涼殿(平安京の内裏における殿舎)の南廂・殿上間に昇殿出来る資格が世襲された公家の家格の事で、殿上人(てんじょうびと/うえびと)とも呼ばれる。

また、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族(武家)が藤原北家の末裔と称した。


平安時代中期以降、公家社会に圧倒的な勢力を誇った藤原氏に対し、ほとんど唯一、それに対峙して永くその最上層に地歩を占めたのが、皇胤(こういん・天皇の種の意味)貴族の誇りをもつ村上源氏であり、その地位を確立したのが源通親(みなもとのみちちか)である。

村上源氏嫡流に生まれた通親(みちちか)は、後白河上皇の院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。

通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。

高倉天皇は、後白河天皇の第四皇子で、母である皇太后平滋子は清盛の妻平時子の妹、皇后は平清盛女平徳子(後の建礼門院)安徳天皇と、その異母弟、後鳥羽天皇らの父である。


平安宮の内裏の真横から左に伸びている西(左京)の勘解由小路の一番平安宮よりに、勘解由小路家の屋敷が有る。

その屋敷から、誰にも見られずに内裏(だいり)の帝の傍近くに行けるのは、何故か勘解由小路党の棟梁だけである。

後白河上皇は、有力者共のコントロールには心を痛め、勘解由小路吉次を始終召して策を練っていた。

吉次にも皇胤氏族の血が騒ぐのか、燃える思いが湧き上がって来た。

最早(もはや)、一歩も引けなかった。

御所から見る月が奇妙に大きく手が届きそうに僅かばかり欠けて、辺りが恐ろしく明るく、月を眺めに庭近くまで歩み出た後白河上皇を見下ろしていた。

院(上皇)は、月を見上げて「清盛めが月、欠けておじゃる、のう吉次。」と吉次に言った。

「委細承知。」と応じた時はもう、吉次の気配は内裏から消えていた。


現存する古文書によると、天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて成立した伊豆国は、天城連山をはじめ多くの山に囲まれた山国である。

まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せばわざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。

つまり、昔の国(伊都国)を、文字を変えて「復活させたのでは?」とも取れるのだ。

伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇(院)期に成立し、十二世紀の「鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げた」とされる。

当時の「伊豆狩野荘」は後白河上皇(院)の御領地である。

つまり、後の江戸徳川幕府の幕府直轄領韮山代官所に至るまで、何故か伊豆国は象徴的に重要な場所だった。

特筆すべきは後白河上皇と勘解由小路党が、「伊豆狩野荘で結び付く」と考えられる点である。

つまり「伊豆狩野荘」は、賀茂氏流れで、伊豆の国に縁のある勘解由小路党の「秘密受領地(活動資金源)であった」とも解釈出来るのだ。

こうした影の拝領地は、後に後白河上皇から紀伊半島にも数箇所賜っている。



千百六十七年に、清盛は太政大臣に上り詰め、武士として初めて位人臣(くらいじんしん)を極めた。

武を持たない公家の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が、出世の糸口を掴むには平家の力が要る。

彼は官僚として出世の後ろ盾に平家を選んだ。

清盛の弟である平教盛の婿になった通親(みちちか)は千百七十九年(治承三年)に蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。

これが、平家・土御門連合が成立する一つの要因となっている。

翌年の清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放の影響を受けて土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、親平家の公家として摂関家の九条兼実やその周辺(代表格が藤原定家)と対立している。


この時期の平家は、まさしく並ぶ者なき実力者である。

しかし清盛は、太政大臣就任三ヶ月ほどで原因不明の腹痛(重病)に倒れ、一時は死の境をさまよった。

勘解由小路党の仕業で有るが、清盛は奇跡的に乗り切っている。

これを機に、平清盛は太政大臣を辞めて隠棲して入道となり、相国入道と呼ばれる。

しかし実権は手放さず、絶大な権力を維持したままだった。

平家は一族で主要官位を独占し全国に五百余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にした。

この扱いの差を不満とした源義朝は、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。

しかし平清盛に破れ敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で部下に殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが後に鎌倉に幕府を開く源頼朝だった。


平家に逆らう勢力が無く成ると、清盛は後白河上皇(法皇)と対立、院政を止めさせて朝廷を抑える方策に出る。

いよいよ土御門(安倍)家の野望と清盛平家が牙を剥いたのである。


清盛は高倉天皇(第八十代)に、自らの娘である平徳子(建礼門院)を嫁がせ(入内・にゅうだい)、天皇の外戚となった。

更に清盛は娘の平盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせたのを始め、多くの子女を有力公家衆と娶わせるなど、婚姻政策を駆使して巧みに権力を拡大して行った。

処が、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河上皇(出家して法皇)を始めとする院の政勢力は、次第に清盛と対立を深めて行く。

清盛平家が、公然と「鵺」に変貌し、土御門(安倍)家と組んで朝廷と皇統の簒奪(さんだつ)を始めたのである。

「近頃の相国入道(清盛)のなせるは、目に余る。」

「源氏をお使いあそぶべし。」

対抗する組織は、賀茂氏の流れを汲む勘解由小路家を於いて他に無い。

当然勘解由小路と土御門との間に暗闘が起こるが、公家化した土御門と違い、「在地の草」と呼ばれる郷士、陰陽修験行者などの実践部隊の大半は勘解由小路のみが掌握していた。

或る日の夕刻、吉次は九條大路を歩いていた。

齢(よわい)五十を過ぎてもなお矍鑠(かくしゃく)としていて、若い者には劣らない吉次だった。

歩くと、知恵が湧く。

それで先ほどから、あてどもなく洛中を彷徨っていた。

戦略は万全だった。

その為に、遮那(しゃな)王(牛若丸)に、三男の伊勢(三郎)義盛を付けて奥州へ出した。

「清盛が、何の役に立つと言うのだ。」

奴は、己の利だけに血道を上げている。

雨足が急に早く成った。

吉次は、先ほどから雨の雫を両手で受け止めていた。

瞬く間に降水は手のひらを埋め、隙間から零れ落ちた。

この恵みが、この国を豊かなものにしている。

武門の誰もが、雨の恵みをもたらす訳ではない。

恵みをもたらすのは帝の徳で有り、我々の呪詛の筈である。

勘解由党の全力を挙げて、清盛の追い落としは始まっていた。


この頃から後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。

しかし人間の考える事は何百年何千年と進歩は無いらしく、この白拍子の存在は李王朝時代の妓生(キーセン)、現在の朝鮮半島北側の国・北朝鮮の「よろこび組」も基本は歌舞音曲の芸能と性交接待が役目と言う点でまったく一致している。

その「白拍子遊び」の流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。

世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。

遊び女として、相手の懐に飛び込み、生の情報を拾ってくる白拍子の元締め、勘解由小路党総差配・吉次に勝る組織的諜報力は無い。

もたらされた情報が、後の政局を左右する貴重なものが得られたのである。

近頃やたらと「品格」が問題になる。

しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」にする権力者の不正は跡を絶たないのである。

どうやら「貴人(特権階級)」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。

もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。


勘解由小路党総差配、吉次が後白河法皇に進言、高級娼婦「白拍子」を育成して諜報機関に組み入れた。

「白拍子」、実は急造の組織ではない。

密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。

それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。

男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。

一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。

「白拍子」にとって、性行為は課せられた仕事で有り、殿方を満足させるのは性技術である。

従って、予めの修練には相応の教育が課せられ、充分な実践教育を受けて、世に出る事になる。

心構えが違うから、いかなる行為にも躊躇(とまど)いなど無い「性人形」と化す。


この白拍子を、現代の感覚で単なる娼婦と誤解しては困る。

男性にとっての付加価値観は、「高嶺の花を抱く」であり、性技や芸技の修行は基より知性と教養をも修めた女性が始めて白拍子に成れた。

白拍子には諜報機関の女性諜報員としての側面も在ったから、時の為政者も納得するほどの知性と教養を兼ね備えて下手な不勉強者よりも「充分に論議のお相手が出来た」と伝えられている。

後の世の花魁(おいらん)も然りだったが、その遊び女としての価値観は美貌と美しい姿態に加えて知性と教養を兼ね備えた女性と遊ぶ事であり、格式が高い点ではまさに高級娼婦だった。


この章の冒頭で記述したが、平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。

そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階層として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。

その律令制に於ける被差別階層の賤民(せんみん)を、奴婢(ぬひ)と称して地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、遊び女(め)として育て上げる。

更に殿上人に伍す学問を身に着けさせて、呪詛巫女に仕立て上げた。

その巫女の身分も親子代々受け継がれ、それを統括するのも勘解由小路党の役目だった。

その延長上に「白拍子」の組織は出来上がった。

律令制に於いて、民は良民と非良民に分けられていた。

「非良民」とは支配者に税を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。

その被差別階級は生き方が制限されていて、「白拍子」の身分は、奴婢(ぬひ)としての生活の中ではより益しな方だった。

目的が女性(によしょう)の立場を生かした高度な情報収集であるから、相手の懐(ふところ)へ入らなければ仕事にならない。

それ故舞の衣装は、本来裸身が透ける様な白の薄絹で、淫秘な雰囲気をかもし出し、殿方の誘惑には余念がない。

男達の五感に訴え、彼らの気持ちを良好にさせるにはそれなりの演出が必要で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激、誘惑する業が今様を踊る「白拍子」の役目であるから、その音曲なり、姿なりは相応にエロチックで、魅力的なものでなければならない。


駿河国三保(静岡県静岡市清水区)清水港の南東に位置する凡そ七キロの砂浜が、日本新三景の一つ「三保の松原」である。

ここに、「羽衣の松伝説」が残っている。

三保の松原浜には、その昔天女が舞い降り、浜で遊ぶ為にその羽衣をかけたとされる樹齢六百五十年ほどの老松が立っている。

海での遊びに夢中になり、漁師に羽衣を取られてしまい、天に帰る事が出来ない天女に羽衣を返す条件が、「天女の舞だった」と言われて居る。

「三保の松原」は、五万本を越える松が生い茂り、松林越しに富士山が広がって、晴れた日には絶景である。

この「天女の舞」は神楽舞で、天女は神巫女であり、神巫女は神に仕え神の声を聞くのが仕事の「天女」と言う事に成る。

娯楽に欠ける古(いにしえ)に在って、人心を惹(ひ)きつける信仰や統治の手段に、神事としての神楽舞様式が「娯楽芸能の役割も担っていた」と考えたい。

従って神楽舞は、信仰や統治に利(り)する伝承神話が題材であり人心啓蒙(けいもう)目的を主題にしていた。

天女は空を飛ぶ為に、羽の変わりに羽衣を纏(まと)う。

羽衣とは、蝉やトンボの羽のように薄く軽く透明に出来た薄絹で出来ている。

つまり、北辰伝説に拠る浜に舞い降りた天女は建前が神の使いで、観音様や中東・西欧の女神同様に限りなく裸身だった。

現在の服飾に於ける流行傾向にも通じるが、薄絹の衣は女性を最高に引き立たせるアイテムである。

そして当時、薄絹は宝飾類以上に非常に高価な物だった。

絹の製法は古代中華帝国で始まり、「紀元前三千年以上前から歴史がある」と言われる。

日本には、早くも紀元前の弥生時代に絹の製法(養蚕と織布技術)は伝わっており、律令制下では絹織物で納税が出来た。

薄絹は「紗(さ)」と呼ばれる高級品で、織り目を詰めずに格子状に織り込む特殊技法で、透ける絹地を作り、身分の高い者に珍重された。

平安期から鎌倉期にかけて流行した上流社会の「白拍子遊び」は、この天女・羽衣の巫女舞神楽をベースに、上流社会の「慰め遊び」として成立したもので、薄絹が採用されたのは、目的に添う極自然な要求からである。

余談だがこの天女光臨の話は全国に散在する。

中でも琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地長門国(山口県)は有名である。

長門国(山口県)に於ける下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と、朝鮮半島・百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

その浜と太子上陸の関係が、三保の「羽衣天女伝説」に良く似ているのだ。

この三保羽衣天女伝説、長門国(山口県)の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承ばかりでは無く、実は似たような話が全国に散見される。

鳥取県倉吉市仲ノ町 に在る小高い山「打吹山(うつぶきやま)」に、「打吹天女伝説(うつぶきてんにょでんせつ)」と言う三保羽衣天女伝説にほとんど同じ内容の伝説が在る。

その伝説に拠ると、昔、一人の男が東郷池の浅瀬で美しい天女が一人水浴びをしているのを発見し、男はこの世の者とは思えない美しい裸身の天女に恋をして近くに脱いであった衣(羽衣)を隠してしまう。

羽衣を失って天に帰れない天女は、仕方なく男の女房になり二人の子を授かった。

授かった子もスクスクと成長し、親子四人が幸せに暮らして居たある日、天女は夫が隠していた羽衣を見つけてしまう。

天女が自分の体に羽衣を羽織って見ると、今まで在った親子の愛情はたちまち薄れ、子ども達を地上に残したまま天界に飛んで行った。

残された二人の子ども達は大いに悲しみ、近くの小高い山に登り、必死で笛を吹き太鼓を打ち鳴らし母親に呼び掛けるも、母親の天女は二度と地上には帰って来ない。

しかしその二人の子供の、笛を吹き太鼓を打ち鳴らしての母親への哀れな呼び掛けから、近くの小高い山は何時しか「打吹山(うつぶきやま) 」と呼ばれ伝説となった。

現在は北朝鮮に在る朝鮮半島の聖地・金剛山(クムガンサン)、その「九龍の滝」の上流に八つの淵があり「八人の天女が沐浴した」と言う天女伝説がある。

つまり日本列島の全国各地に存在する羽衣天女伝説も、基は朝鮮半島経由で伝わった外来伝説であり、琉球王朝の羽衣伝説にも二種類の同様の伝説がある事から、琉球島と朝鮮半島はいずれも中華大陸からの渡来伝承と推測できるのである。


鎌倉の頼朝館に、「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」と弟の範頼が参上した。

「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」

「目の保養と申しますと?」

「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」

「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」

「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか、者供に見せねば成らぬ。」

言い出したら、聞かない性格の頼朝が言い出した事である。

これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。

静には酷だが、舞せる他に収まりそうも無かった。

「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」

「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」

流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。

異腹弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で白拍子舞の披露を命じられた。


この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。

後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。

状況的に条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。

このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが現実を描写する。

永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。

そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。

静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。

今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。

そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。

それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。

従って今様(当世風)神楽にはそうしたエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。

本来、白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。

後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱を受けた」事になる。

これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人(高級貴族役人)を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。

古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。

そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。


原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。

欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽から発生して発達し、娯楽の側面を持つに到った。

日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る神事から発生して発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め踊り手は巫女が勤めた。

神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが神官の出自は渡来系氏族で、巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。

そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。

遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。

この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。


そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。

目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。

記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。

身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を舞い踊る所に、その真髄がある。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの鎌倉前期に衣の重ね着は在っても下着は無い。

それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、後の案土桃山期に歌舞伎踊りで出雲の阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。

この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った必然的真実の所以(ゆえん)である。

これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。

その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。

しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。

最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りにはドラマで再現し難い事情がある。

それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。

もっとも映像化出来ないものは沢山在り、日本の既婚女性の化粧習慣だった「お歯黒」は、「映像化には不気味だ」として時代考証の段階で外され再現はしない。

しかしそれが長く続くと後世に残る映像には「お歯黒」を施粧した女性の登場場面は無くなり、やがて記憶から忘れ去られる事だろう。


神楽の原型は、「天宇受売命(あめの埋めのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」と言われている。

「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。

それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。

この「白拍子」、法皇の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に、諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。同時に吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っている。

ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾・静御前(しずかごぜん)とよしみを通じている。

この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。

「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。


千百七十七年には、院(後白河)と平家(清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。

これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。

藤原師光(ふじわらのもろみつ/西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。

この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

治承三年(千百七十九年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。

まず、娘の盛子が死去する。

法皇は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。

更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。

これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は重盛の死去と同時に重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。

驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。

ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。

そして、この不幸に追い打つような立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。

清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房(ふじわらのもとふさ)を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。

勘解由小路党は諜報機関であり、軍ではないからこの清盛の専横を阻止する正面切った力はない。

せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、終(つ)いにこの年末近くに、鳥羽殿に幽閉してしまう。

幽閉されても、勘解由小路党の連絡は生きていた。

しかし後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平氏政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ勢力と成った。


権力を握った者は他人(ひと)を支配し、その全能感に酔いしれて神に成った気がする。

そして同時に、権力を失う事を恐れて統治を言い訳に人の心を失う。

正直や正義感だけでは生きて行けないのが浮世(現世)の現実だが、例え動機が正義でも、権力志向の者ほど正直や正義感ではやって行けなくなり、やがてそう言うものに麻痺して来る。

それは麻薬と同じように繰り返される間違いだが、こうした傾向は人が生身の人間である限り終わらない弱点である。

平清盛も、握った権力に酔いしれて知らぬ間に多くの敵を創ってしまった様である。



平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でも在った。

公家と武家の狭間とは言え武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられる。

「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行くのである。



勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、鳥羽殿で院(上皇)に拝謁した帰りの夜道を急いでいた。

院の仰(おお)せは、何時も難題である。

節くれだった古木を撫でる様に風が渡り、サワサワと葉音を立てている。

雲が切れて、月が顔を出した。

半月だった。

「そろそろ、始めるか。」吉次が呟いた。

吉次自らが作・演出の壮大なドラマが、始まる時を迎えていた。

徳子が高倉天皇(第八十代)の子を産むと、清盛は治承四年(千百八十年)娘婿の高倉天皇を退位させて、自分の孫にあたる安徳天皇(第八十一代)を即位させ、無理やり高倉天皇を退位させてしまう。

娘徳子の産んだ「幼い赤子」を天皇(安徳天皇・第八十一代)にする事で、天皇の外祖父として、絶頂期を迎え、絶大な権勢を振るったのだ。

この頃から、「平家であらずんば、人にあらじ」の専横が始まり、地方での不満は重なり増えて行ったのである。


勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、土御門(源)通親に呼び出され、後白河上皇(法王)の意志を告げられた。

「吉次、院(後白河法王)は清盛めの専横をお怒りじゃ。あやつ、嫡男の重盛や娘の盛子の死にも動ぜぬ。」

「清盛は天罰を、天罰と恐れぬ鵺(ぬえ)にござりますれば・・・。」

「早よう清盛に病に落ちるよう、院(後白河法王)は祈っておいでじゃ。」

「院(後白河法王)の祈り、必ずや天に通じまする。」

「判った。院(後白河法王)にはお伝えして置く。」


後白河法皇の怒りも通じず、清盛の力は一向に衰えなかった。

だが、頼朝が伊豆で挙兵した二年後、清盛は高熱を発して、病死してしまう。

病名は判らないが、焼き討ちした興福寺(藤原氏系)の、「坊主の祟り」と言う噂が流れている。

現代では、この清盛の病名は異国船が持ち込んだマラリア病説が有力説である。

ただしこの病死、後白河法皇の蜜命を受けた勘解由党の白拍子が、「関係しては居ない」と言う証拠も無い。


清盛は、高熱と幻覚に苛まれて、病と闘っていた。

「生きたい。」

清盛はまだ、野望の仕上げをしていなかった。

孫の安徳帝は余りにも幼い。

朝廷における院(上皇)方の勢力や源氏をことごとく潰し、安徳帝の行く末を見守らねばならない。

しかし、願いは叶わなかった。


現代の権力志向の人間にも通じる所だが、氏族は「愚かな生き物」であるから、領地に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。

当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。

しかし、世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。

現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。

上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に一生心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。


平清盛の人物像だが、どうも源氏が主役の物語の敵役に描かれて、非道な人物と誤解され易い。

現実の清盛は、どうも優しい一面を持ち合わせていたようで、結果を見ると、継母・池禅師の嘆願を容れ助命された源義朝の子供達(頼朝や義経など)に彼の死後平家を滅ぼされている。

清盛の優しい一面を伝えるエピソードで、平安末期から鎌倉期に到る激動の物語に絡む人物が居る。
その人物を、大庭景親(平景親)と言う。

大庭景親(平景親)は、鎌倉(平)景政(かまくら/たいら/ かげまさ)の曾孫にあたり、桓武平氏の流れをくむ平氏の血筋であるが、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の父の代から相模国(神奈川県)鎌倉を領して鎌倉氏を称していた。

鎌倉氏は、後三年の役の折に源義家に属して従軍、鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、この後三年の役で右目を射られながらも奮闘した逸話が残されている。

大庭景親(平景親)が鎌倉氏ではなく大庭氏を称したのは、鎌倉氏が相模国高座郡(藤沢市周辺)に大庭御厨(おおばみくりや)と呼ぶ新田を開発した事に由来する。

大庭景親(平景親)も鎌倉氏流れの武将だったから、当然鎌倉景政(かまくらかげまさ)の時代から源氏に従っていた。

平清盛と源義朝が同盟した「保元の乱」が起こると、源義朝に従い白河殿を攻撃、武勲を上げている。

しかし、平清盛と源義朝が対立して「平治の乱」が起こり、大庭景親(平景親)も源義朝方に加わったが敗れ、平家方の囚人となった。

大庭景親(平景親)は敵方の主力武将である。

本来なら打ち首にされても仕方ない所だが、平清盛が名門が滅びるのを惜しんで助命した為、大庭景親(平景親)は以後平氏の忠実な家人となり、以仁王の乱でも平家方として参加している。

この大庭景親(平景親)が、治承四年源頼朝の挙兵に際して「石橋山合戦」で弟の俣野景久と共に参戦、源頼朝を破った追討軍の大将である。

最もこの戦い、頼朝の兵は僅(わず)か三百、景親の追討軍は三千で、勝負は最初から見えていた。

頼朝側にすれば、三浦半島の豪族、三浦氏の援軍を待っていたのだが、前夜の豪雨で三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れず、後方から迫る伊東祐親(すけちか)の追っ手に退路を絶たれた形で大庭景親の追討軍に大敗、散々に敗走する。

敗れた頼朝は山中を逃げ回り、僅(わず)か六人に護られて洞窟(土肥・椙山のしとどの窟)に隠れている所を、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が見逃して助けている。

九死に一生を得た源頼朝は、神社・箱根権現の勢力に助けられ、船で相模湾を横切り安房国(千葉県)に向かう。

安房国で三浦一族と義父・北条時政と合流、その後大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らを派遣し、説得して味方につけると元々中央の平家に不満だった坂東(関東)武士は、こぞって源頼朝の下に結集して行った。

源頼朝、三島大社での旗揚げから僅(わず)か二ヶ月、やがて五万の大軍に膨れ上がった軍勢を従えて頼朝は鎌倉に入り、軍事組織の「侍所」を手始めに武家の臨時政府を設立、武家の棟梁と御家人の主従関係確立したのである。

このなだれ現象的な頼朝再挙の過程に在って大庭景親(平景親)は坂東(関東)勢の中で孤立、投降したが赦されずに猜疑心の強い源頼朝は、忠誠心を確かめる為に頼朝方に付いていた兄の大庭景能に固瀬川辺りで斬首させている。

大庭景親(平景親)の物語は、平清盛と源頼朝の人物像の違いを示すエピソードでもある。


千百八十一年(治承五年)正月、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は従三位となって公卿に列した。

しかし、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親(みちちか)は上皇の喪中を表向きの理由に、次第に平家との距離を取る様になって行った。

通親(みちちか)は平家の落日を、予測したので有る。

平清盛の死をきっかけに、後白河法皇と取り巻きの朝廷公家が動き出す。勘解由小路党の動きも活発になり、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に届けて旗揚げを要請している。

幼い安徳天皇(第八十一代)は、最大の後ろ盾を失ったのだ。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。

平清盛は、後継者の育成に失敗したのかも知れない。

後日談であるが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

清盛没後、四年目の事で有った。

異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは、明らかに安徳天皇である。

しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。

いよいよ平安期は、末期の様相を呈して来た。



奥州(東北)では、つい数十年前の現代まで一家族が素っ裸で肌を寄せ合って寝ていた。

当然ながら父も母も素っ裸で、夜になると父の傍に男の子、母の傍に女の子と、七〜八人の子供が素っ裸になり父と母に素肌をつけ寄せ合って眠る。

極寒の地で、「何故素肌になるのか」と現代の人々は訝(いぶか)しがるだろうが、犬や猫が子供を抱き寄せて眠る姿と同じで、人が肌を寄せ合い抱き合って眠ると温かいのである。

そしてこの地方独特の就寝風習は、蝦夷族(えみしぞく)伝来の風習の名残かも知れない。


奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

清和源氏流河内源氏二代・源頼義(みなもとよりよし)は、河内源氏初代の父・源頼信に従って平忠常の「長元の乱」を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得て相模守・常陸守などの坂東での要職を歴任して居る。

その間に源頼信は東国の掌握を進め、多くの東国武士を家人として武門の棟梁としての地位を固めた。

その源頼義(みなもとよりよし)が奥州に乗り込んで来る。

源頼朝の五代前に遡る村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任したのだ。


源頼義は、野心から前九年の役(ぜんくねんのえき)を聞き起こした奥州(東北)鎮守府将軍である。

息子に、源家を武門の棟梁としての名声を定着させ、源氏の長者が将軍職に任ずる慣例の基と成る八幡(はちまん)太郎・源義家がいる。

この鎮守府将軍、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。

それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説など色々有るが、たとえ後者としても安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。

蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、阿部氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。

朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。

安倍頼時の息子貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と源頼義が言い出したのだ。

明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せ頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。

源頼義が兵を率いて奥州に居座り、戦を継続させる。

この奥州の混乱で、頼義の鎮守府将軍・後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き戦闘は続く。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。

一時は安倍側が戦況有利に成って、源頼義は窮地に立った。

だが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。


清原氏は、東北蝦夷(とうほくえみし)の流れを汲む俘囚長出自の豪族と言われ、同じ俘囚長出自と言われる安倍氏とともに出羽の有力な豪族だった。

つまり奥州・清原氏は、奥州・安倍氏と同じ蝦夷(エミシ)族長説がある俘囚長の家柄である。

安倍氏相手に前九年の役を始めた源頼義は苦戦を強いられ、活路を見出す為にその安倍氏と並ぶ強大な勢力を持つ清原氏を味方につける策略をめぐらす。

前九年の役当時の奥州・清原氏の総領は清原光頼(きよはらみつより)だったが、源頼義の再三の援軍懇請についに挙兵を決意、弟の清原武則(きよはらたけのり)を総大将とする援軍を派遣する。

しかし、分家の当主・清原武則には奥州で強大な力を誇る安倍氏に取って変わる野心が在った。

それで実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱に於いて、清原家総大将として源頼義方に付き、形勢不利だった戦局を一変させて頼義に勝利させている。


この安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は朝廷の実力者藤原氏の助力で戦功を認められ正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。

この叙任に於いて朝廷に味方した事に成った清原家の当主・清原武則(実際には総領の弟)は、破格ながら従五位下・鎮守府将軍に任じられ、中央での扱いは兄の清原光頼(きよはらみつより)ではなく弟・清原武則(きよはらたけのり)を奥州鎮守府将軍として任用した。

この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家分家・清原武則(きよはらたけのり)家(後の奥州藤原家)に代わった。

これが、千五十年代に実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる奥州(東北)の戦乱である。


この奥州の地は、冬の戦には不向きな土地だった。

この辺り、旧暦の正月に入るひと月ほど前には、白いものが「ハラハラ」と舞降りて来る。

やがてその雪が吹雪と成り、その先の月日は数ヶ月間も長い間この奥州地方は雪に埋もれて風の音以外は静まり返る。

この雪が味方して、地の利を持つ安倍頼時と嫡男・貞任(さだとう)方を有利に導く。

それだけではない。

源頼義(みなもとよりよし)が初めて奥州の地に足を踏み入れた時、奥羽の地は季節が夏に成らんとするのに凍えるほどの寒風が吹き荒れていた。

「やませ(山背)」は、主として日本列島の北海道・東北(奥州)地方に発生する歓迎されざる気象現象である。

初夏から夏の時期にかけて、北海道・東北(奥州)地方の太平洋側にオホーツク海気団より吹く北東風または東風の冷たく湿った強い風が吹く事が在る。

特に梅雨明け後に吹くこの季節外れに冷たい強風の事を人は「やませ」と呼び、「やませ」の風が吹くと沿岸部を中心に気温が下がり、海に面した平野に濃霧が発生し易くなる。

この気象現象は通常三日ほどで収まるが、「やませ」が長引くと低温と日照不足に拠って水稲などの農作物に被害を及ぼし、長期化は東北地方全域に凶作を引き起こす。

「やませ」の影響で、太平洋側では日照時間は少なく気温も低くなる為、長く吹くと冷害の原因となり、凶作風、飢餓風とも呼ばれて、知られるものだけでも江戸四大飢饉、昭和東北大飢饉などの大飢饉の記録が残されている。

この「やませ」の季節外れの寒風には、源頼義(みなもとよりよし)が率いる坂東武者もてこずり苦しんでいる。

蝦夷族(えみしぞく)が追いやられた北海道・東北(奥州)地方は、列島の西側を統一した大和朝廷の進出を阻むほどに、冬季の厳しさだけでなく「やませ」の存在も北海道・東北(奥州)地方が厳しい風土に在ったのだ。

十二年間もの永い間、前九年の役の決着がつかなかったには、この地方独特の気候が源頼義(みなもとよりよし)ら関東方を苦しめた事も大きかったのである。

奥州はまだ未開の、凍えそうな秘境だった。


この奥州安倍家壊滅の時から、貴族陰陽寮首座・土御門(安倍)家の怨念は、河内源氏家と、損得づくの計算で蝦夷仲間を裏切った清原氏に向けられて朝廷内を暗躍、対抗勢力の平氏と結んで、失地回復を画策するに到る。


後の記述で明らかになるが、この平安時代に陸奥国の俘囚の長とされた奥州の豪族・安倍氏の末裔が実は現代によみがえっている。

蝦夷系棟梁安倍貞任の弟・安倍宗任が厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で、源頼義、源義家の率いる軍勢に破れ、降伏して最初四国配流、後に九州に配流された。

その安倍一族の末裔が維新後の日本に頭角を現し、昭和から平成に掛けて政界の有力者一族に踊り出るのは、凡そ千年(九百五十年)近い歳月を要する事になる。


それから二十年後、源頼義に助勢して安部氏を討った功績に拠り鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。

この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。

源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。

以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。

源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。

処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で養子取りの祝い事の際のいざこざから、弟(いずれも藤原庶流からの養子縁組に拠る義弟)の清衝と家衝が敵に回り兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。

これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは殺し合いに発展する。

この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源の義家に、清衛と家衛が投降した。

源義家は投降した二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。

しかし家衛がその仕置きに不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。

それでまた二人が戦乱を引き起こし、奥州は再び戦乱に成ってしまった。

清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。

その後、源義家(八幡太郎義家)は苦労の末、弟の源義光(新羅三郎義光)の助けも借りて、家衛を討ち取る。

これを千八十年代に起こった、「後三年の役」と言う。


この源義家(八幡太郎義家)に助力した清和河内源氏・源義光は新羅三郎義光と別名乗りを言い、近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服した事から新羅三郎(しんらさぶろう)と称し河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男である。

新羅三郎義光の母は平直方の女で、同腹の兄には、源氏の棟梁として最も著名な将軍・八幡太郎義家(石清水八幡宮で元服)や加茂二郎義綱(京都の賀茂神社で元服)がいる。

左兵衛尉の時、後三年の役に兄の源義家が清原武衡・家衡に兄弟に苦戦していると知るや、朝廷に完奏(願い出て)して東下を乞うたが許されず、千六十七年(寛治元年)に官を辞して陸奥に向かい、兄に助力して奥州(東北)平定に貢献する。

しかし長兄・源義家の死去後、源氏の棟梁奪取を企み次兄の源義綱を源義忠暗殺事件の冤罪で佐渡に配流、その配流先の佐渡で再び源為義の追討を受け義綱は自害するも真相が発覚し、義光は自らの勢力が強い常陸国に逃亡せざるを得なくなる。

河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。

甲斐源氏は、「新羅三郎」こと源頼光の三男・「源義光」の次男であった武田冠者・源義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、継子・源清光(みなもとのきよみつ)も武田郷で生まれる。


清原家衛を討ち取って漸く奥州の騒乱を平定した源義家だったのだが、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損で在った。

この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。

義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。

それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。


しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。

朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分にに従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。

源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。

その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。

つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権)での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。


この変則的な朝廷の処置の結果、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。

この清衡には元々奥州清原家の安泰を願って藤原氏の系流から養子に来た経緯があり、領有した奥州全域の富を背景に、時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。

後三年の役の後に清原氏が藤原氏に代わった経緯であるが、前の戦・前九年の役が終わった後、清原武則(きよはらのたけのり)の息子・清原武貞(きよはらのたけさだ)は安倍氏一門の有力豪族で前九年役敗戦後に処刑された藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を自らの妻として再婚していた。

この清原武貞(きよはらのたけさだ)の妻となった藤原経清(ふじわらのつねきよ)の元妻は、前九年の役で戦死した安倍氏の当主・安倍頼時の娘であり、平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷の子孫・藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)・藤原経清(ふじわらのつねきよ)との間に生まれた息子が居た。

その連れ子は清原武貞(きよはらのたけさだ)の養子となり、清原清衡(きよはらきよひら)を名乗り清原家の継嗣に納まった。

その後、安倍氏と清原氏の惣領家の血を引いたの異父弟・家衡(いえひら)も生まれている。

後三年の役後、中央で摂政関白を任じていた藤原師実(ふじわらもろざね)が同じ藤原北家流である事から目をかけられて戦後処理が有利となり、「後三年の役」の後の源義家(みなもとよしいえ/八幡太郎)に対する処置とは対照的に清原清衡(きよはらきよひら)は清原氏一門の旧領すべてを手に入れる事となる。

清原清衡(きよはらきよひら)は摂政関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に願い出て許され、実父・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の姓・藤原に復し、清原氏は奥州藤原氏と成った。

尚、時の白河天皇に深く信任された摂政関白・藤原師実(ふじわらもろざね)は藤原頼通(ふじわらよりみち/太政大臣)の長男で藤原道長(ふじわらみちなが)の孫にあたる。

奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家が誕生して、奥州の蝦夷族は過渡期的に自治政府もどきの統治を受ける事になったのである。


平将門や村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)が反乱を起こす影に、実は土御門(つちみかど・安倍)家の存在がある。

平氏は源氏より早くに武門化して、関東や東北の入り口まで赴任している。

軍事警察部門(武門)を担当していたから、当然蝦夷運営には気を使い、戦略的に土御門家とは「太い付き合い」となる。

つまり建前ではない「精神的連合関係」が構築され、平氏の動きに現れていた。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行くのだが、この立場の上昇が平氏の反乱や前九年・後三年の役、そして清盛平家の台頭と関わりがない訳が無い。


もう、かなり以前から兆候は在った。

いつの世も、政権末期には大乱が訪れる。

この源平に於ける平氏の優劣が、再び逆転するのは白河上皇(法皇)の登場がきっかけである。

白河上皇(法皇)は、藤原氏による摂政・関白政治を改め、自らが政治権力を掌握する野心を持っていた。

長く太政大臣を独占していた藤原一族の勢力が漸く衰えを見せて、地方の政治運営が乱れていた。

そこで、藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党)は邪魔である。

対抗するもう一方の武門の旗頭、平氏の力の育成に密かに腐心していた。

白河上皇(法皇)は藤原氏を退け、源氏の力を削いで院政を引く。

院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治で、特に、千八十六年の白河上皇の時代から平家滅亡の千百八十五年頃までを「院政時代」と呼ぶ事があり、院政を布く上皇は「治天の君」とも呼ばれた。

但し、この院政と言う表現は後の世の命名で、天皇が余力ある内に引退し「若き子(孫)の帝を後見する」と言う意味では院政へのめばえは持統天皇・元正天皇・聖武天皇などから見られる。

当初は大兄制(同母兄弟中の長男)であり皇位継承が安定していなかった為、譲位と言う意思表示に拠って意中の皇子に皇位継承させる為にとられた方法と考えられている。

この太上天皇(上皇)が天皇に代わって政務を直接行う形態は、平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や円融天皇などにも見られ、これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。

その後、「神の意向で統治する」と言う精神的統合の象徴である天皇家の存在から、当時はまだ強い王権の状態を常に維持する為の政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分で在った。

また平安時代中期には、血統至上主義に在る皇統として虚弱精子劣性遺伝の影響を受け、幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮する為の若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかった為に、父系によるこの仕組みは衰退して行く。

そして代わりに、母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家流が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治(せっかんせいじ)が隆盛して行く事になる。

その藤原北家流の摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

即位四年後、後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。

十四年後の千八十六年、白河天皇は当時八歳の善仁皇子(たるひとのみこ/七十二代・堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となって堀河幼帝の後見を理由に白川院と称して引き続き政務に当り、これが「院政の始まりである」とされている。

千百七年(嘉承二年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が四歳で即位し、またも白河上皇は院政を続け白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨する政治体制が成立した。



千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇(すとくじょうこう)方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶのだが、この「保元の乱」の主役が悲劇の帝・崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)と権謀術策の帝・後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に法皇)だった。


鳥羽天皇(七十四代)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ・待賢門院)の第一皇子として顕仁親王(あきひとしんのう・後の崇徳天皇/すとくてんのう)は生まれるが、顕仁(あきひと)は父帝・鳥羽には疎んぜられた。

疎んぜられた理由だが、これは「古事談」のみの記述であり真偽は不明ではあるが、崇徳天皇は白河法皇(七十二代)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は顕仁(あきひと)を「叔父子と呼んで忌み嫌っていた」と言う逸話が記されている。

藤原璋子(ふじわらのしょうし)が十六歳で鳥羽天皇(七十四代)の下に入内(結婚)した時、二歳年下の鳥羽天皇はまだ十四歳、院政を敷いた白河法皇は当時六十四歳の最高権力者で、その可能性が無い訳ではない。

この白河法皇、中宮・賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持つなど女性関係が乱れ、加えて関係を持った女性を次々と寵臣等に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時広く流布され信じられる原因ともなっている。

その疑惑の皇子・顕仁親王(あきひとしんのう)は千百十九年(元永二年)五月下旬に生まれ、翌六月中旬に親王宣下を受けるも波乱の人生が待っていた。

千百二十三年(保安四年)正月二十八日に白河法皇(七十二代)の推しも在って顕仁親王(あきひとしんのう)は五歳で皇太子となり、同日に鳥羽天皇(七十四代)の譲位により践祚(せんそ)、同年二月十九日に第七十五代・崇徳天皇(すとくてんのう)として即位した。


即位から六年後の千百二十九年(大治四年)、崇徳天皇(すとくてんのう)十一歳の時に関白・藤原忠通(ふじわらただみち)の長女である藤原聖子(ふじわらのきよこ/皇嘉門院)が七歳で入内(結婚)する。

藤原聖子(ふじわらのきよこ)入内の同年七月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)の擁護者・白河法皇が亡くなり、崇徳とは合わない鳥羽上皇が院政を開始、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立する。

院政開始後の鳥羽上皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛して得子所生の体仁親王(なりひとしんのう)の即位を目論み、千百四十一年(永治元年)十二月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫りこれを承知させると、体仁親王(なりひとしんのう)を近衛天皇(七十六代)として即位させる。

体仁親王(なりひとしんのう)は崇徳天皇(すとくてんのう)の中宮・藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子であり「皇太子」の筈だったが、鳥羽上皇の画策で譲位の宣命(みことのり)には「皇太弟」と記されていて、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。


崇徳天皇(すとくてんのう)は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになる。

新院・崇徳は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、「久安百首」をまとめ「詞花和歌集」を撰集し、鳥羽法皇が和歌に熱心でなかった事から、当時の歌壇は崇徳を中心に展開している。

鳥羽法皇も表向きは崇徳に対して鷹揚な態度で接し、病弱な近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合に備え、崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう/母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。


千百五十五年(久寿二年)七月二十四日、予てより病弱だった近衛天皇が十七歳で崩御し、改めて後継天皇を決める王者議定が開かれる。

順当なら美福門院の養子に治まった崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)が候補として最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(まさひとしんのう)が立太子しないまま二十九歳で、後白河天皇(七十七代)として即位する事になった。

背景には崇徳(すとく)の院政によって自身が掣肘される事を危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳(すとく)の寵愛が聖子から兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)に移った事を恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀が推測される。

この後白河天皇(七十七代)の即位により崇徳(すとく)の院政の望みは粉々に打ち砕かれる。

後白河天皇即位の翌千百五十六年(保元元年)五月、鳥羽法皇が病に倒れ、崇徳(すとく)は臨終の直前に見舞いに訪れたが対面は適わず七月二日申の刻(午後四時頃)に崩御した。

鳥羽法皇は臨終の床で崇徳(すとく)との対面を拒否、側近の藤原惟方に自身の遺体を「崇徳に見せないように」と言い残した為、崇徳(すとく)は憤慨して鳥羽田中殿に引き返すも、後白河天皇と崇徳上皇(すとくじょうこう)の間は誰が見ても険悪な状態に成っていた。


鳥羽法皇が崩御して程なく、二月後に事態は急変する。

千百五十六年(保元元年)七月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集める事を停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる崇徳上皇(すとくじょうこう)方への先制攻撃と考えられる。


千百五十六年(保元元年)七月九日の夜中、崇徳上皇(すとくじょうこう)は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある鳥羽天皇・第二皇女、統子内親王(むねこないしんのう/母は中宮藤原璋子)の御所に押し入る。

「兵範記」の同日の条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、自らの第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。

崇徳(すとく)に対する直接的な攻撃は未だ無かったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まって居れば拘束される危険もあった為に脱出を決行したと思われる。

翌十日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳(すとく)の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。

崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳(すとく)は今は亡き平忠盛が重仁親王(しげひとしんのう)の後見だった事から、忠盛の子・清盛が味方になる事に一縷の望みを賭けていた。

所が、「愚管抄」に拠ると重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力する事を命じた。

天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり(「兵範記」の七月十日の条)」として武士を動員し、十一日未明、白河北殿へ夜襲を掛けた為に白河北殿は炎上し、崇徳(すとく)は御所を脱出して行方をくらます。

十三日になって、逃亡していた崇徳(すとく)は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも、しかし覚性が申し出を断った為、崇徳(すとく)は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。

十日ほどして讃岐配流処置が決まり、二十三日に成って崇徳(すとく)は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。

天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来に成る凡そ四百年ぶりの出来事で、崇徳上皇(すとくじょうこう)に同行したのは寵妃の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女房だけだった。

その後崇徳上皇(すとくじょうこう)は、配流先の讃岐での軟禁生活の八年後、四十六歳で二度と京の地を踏む事はなく、千百六十四年(長寛二年)八月下旬に崩御した。



この頃、坂東(関東)から移り住んだ伊勢平氏は、平正盛(たいらのまさもり)の代に成って居た。

この平正盛(たいらのまさもり)、自分の所領を寄進するなどして白河上皇(法皇)に取り入り、出世の糸口を掴んだ。

その後上皇の護衛などして信頼を得、平正盛(たいらのまさもり)は昇進を果たして行く。

平正盛(たいらのまさもり)の子・忠盛(ただもり)の代に成ると、盗賊の捕縛、寺社強訴の合戦鎮圧、海賊の鎮圧と活躍、朝廷での権威は源氏を上回る様に成る。

忠盛(ただもり)は、没した時には「正四位上行部卿」と言う高官に出世していた。

その忠盛(ただもり)の嫡男が、平清盛(たいらのきよもり)であるが、この清盛(きよもり)には白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が付きまとっている。

ここからの平清盛(たいらのきよもり)一党を他の平氏と区別して平家とする。

平清盛、「皇統の出自」と言っても桓武天皇(第五十代)から数えて十三代目になる枝で、最初の身分は低い。

平清盛は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として本拠地・伊勢の産品(うぶしな/現在の三重県津市)で産まれた事に成っているが生母は不明で、一応生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれる女性の「妹ではないか」と通説されている。

伊勢平氏の棟梁・平清盛は伊勢平氏棟梁・忠盛の嫡子として生まれ、白河法皇の晩年の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)に仕えて出世の糸口を掴んでいる。

しかし怪しいのは、白河院政下の追討使として院近臣を務めた平忠盛の嫡子とは言いながら、平清盛が祇園女御(ぎおんのにょうご)の下で育てられた経緯である。

一説には、幼少の平清盛を庇護していたのは白河天皇(しらかわてんのう)の妾(正式ではない)とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれた謎の女性で有る事や清盛が十二歳で異例の従五位下左兵衛佐に叙任された事から清盛の実父は「白河天皇である」とのご落胤説もある。

どうやら平正盛(たいらのまさもり)は、妻(祇園女御/ぎおんのにょご・の妹)を一夜白河天皇に献上(お召し上げ)したか、それとも白河天皇の隠し子を我が子として引き受けた可能性がある。

それがつまり、平清盛(たいらのきよもり)・・・らしいのだ。


武士が「潔(いさぎよ)い」などと言うのは綺麗事で、ご承知のように歴史の真実には綺麗事ばかりが在る訳ではない。

何しろ稚児小姓(ちごこしょう)との衆道(しゅうどう/男色)関係も一般的に在った時代で、何も無い主従の信頼関係は脆(もろ)いもので、氏族社会では夫の栄達の為に女房(正室)の召し上げや献上は指して珍しくない事だった。

「お家」が大事な時代だったから召し上げや献上は情とは別の次元の話しで、「お家が権力者の後援を得る」と言う「利」がある事は立派な価値観だった。

誓約(うけい)の国・日本に古くからある連語の「一肌脱ぐ」は、今は「人を助ける」と言う広い意味に使われるが、元来相手に誠意を見せる為のこう言うナチュラル(自然体)な誓約(うけい)対応の時に使うのが正しい。

それだからこそ、「一肌脱ぐ」は効果的な手段と成って「助けたい相手の力に成る」と言うものである。

まぁ、もしかしたらこの時代の女性の方が余程「潔(いさぎよ)かった」のかも知れない。

召し上げも、中には召し上げられる方の女房(正史室)籍のままの事も在ったから、今と成っては闇の中だが平清盛が帝の種である可能性が在っても不思議はない。

武士の任官は三等官の「尉」から始まるのが通常で、清盛(きよもり)が二等官の「佐」に初任用で任じられるのは極めて異例な事である。

この清盛(きよもり)の異例の初任用はまるで高級貴族の出仕始めで、血統至上主義の時代背景においては本来なら世間への説明が着かない。

そこが落胤説の強力な指摘点に成って居る。

いずれにしても落胤説にしろ祇園女御(ぎおんのにょうご)の口利きにしろ、清盛が相当朝廷(帝)に対するコネ(縁故関係)が強かった事に成るのである。


石橋山の合戦に破れ、房総半島(安房国)に逃れた源頼朝は、安房国で大勢を建て直し、僅か二ヶ月弱で関東武士十万余を味方にして相模国鎌倉に陣を構える。

朝廷を力で抑えていた平家政権にとってはこの源頼朝の所業は反乱である。

これを知った平清盛は、頼朝追討の宣旨を願い出て総大将(追討大将軍)に平維盛(たいらのこれもり)を据え、反乱鎮圧の兵を編成する。

頼朝追討の宣旨を受けた平維盛(たいらのこれもり)率いる数万騎が駿河国へと達すると、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で甲斐の武田源氏・武田信義、舅の北条時政らが率いる二万騎と合流する。


平清盛が没する約四ヶ月ほど前に起こった平家に拠る追討軍と源頼朝軍の「富士川の戦い」は、言わば臆病者同士の戦いである。

源頼朝は富士川の戦いで平維盛(たいらのこれもり)軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛(これもり)軍を破る。

敗走する平家軍を追撃して殲滅するチャンスだったにも関わらず、臆病者の頼朝は深追いする事無く兵を引いている。

富士川の戦い(ふじがわのたたかい・「浮島ケ原」と呼ばれる湿地帯)とは、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河国(静岡県)富士川で、行われた合戦である。

源頼朝の兵(関東武者)と追討の為に派遣された総大将・平維盛(たいらのこれもり・弱冠二十三歳・平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)ら平氏方(関西武者)の兵が戦った合戦であり、源平合戦と呼ばれる一連の戦役の一つだった。


平清盛の嫡孫・平維盛(たいらのこれもり)は源頼朝の挙兵に際し追討大将軍と成り、軍勢を引きいて東へ進み富士川に達した。

所が、富士川畔の富士沼(浮島原)から飛び立った数千羽の水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走する。

ただし、羽音に拠って源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとした所、不意の命令に混乱して壊走したと言う説もある。

いずれにしても、平家軍は散り散りに都へ逃げ帰り祖父・清盛の怒りを買う。

この平家方頼朝追討軍、永年の都暮らしで「公家化して軟弱に成って居た」と言われて居る。


平清盛には「出生に疑惑がある」とされている。

平清盛の血流・平氏は、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。

平氏流(へいしりゅう)は、桓武天皇(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、源氏流(げんじりゅう)に対抗する一方の旗頭であった。

しかしそれは武家としての平氏流であり、平氏として既に代を重ねた武家・平家は、かなり格が落ちていた。

つまり第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王の子・高望王(たかもちおう)が宇多天皇の勅命により「平朝臣」を賜与され臣籍降下して居る事から、皇統としては枝の枝である。

まぁ遠縁と言えば「そうかも知れない」と言うほど皇統と離れている平清盛が、目覚しい出世をするのである。


父・忠盛の死後、平清盛は平氏棟梁となり「保元の乱」で後白河天皇の味方をして信頼を得、「平治の乱」で源頼朝の父・源義朝を破って最終的な勝利者となる。



平清盛には、類稀(たぐいまれ)な政治力があった。

その政治力を発揮し、平清盛は武士では初めて太政大臣に任ぜられる。

出世街道を駆け上り強大な権力を握ると、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築いた。

しかし平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、木曽(源)義仲や源頼朝ら各地の源氏に拠る平氏打倒の兵が挙がる中、平清盛は原因不明の熱病で没した。


後白河法皇の怒りも通じず、清盛の力は一向に衰えなかった。

だが、頼朝が伊豆で挙兵した二年後、清盛は高熱を発して、病死してしまう。

病名は判らないが、焼き討ちした興福寺(藤原氏系)の、「坊主の祟り」と言う噂が流れている。

現代では、この清盛の病名は異国船が持ち込んだマラリア病説が有力説である。

ただしこの病死、後白河法皇の蜜命を受けた勘解由党の白拍子が、「関係しては居ない」と言う証拠も無い。


清盛は、高熱と幻覚に苛まれて、病と闘っていた。

「生きたい。」

清盛はまだ、野望の仕上げをしていなかった。

安徳帝は余りにも幼い。

朝廷における院(上皇)方の勢力や源氏をことごとく潰し、安徳帝の行く末を見守らねばならない。

しかし、願いは叶わなかった。


現代の権力志向の人間にも通じる所だが、氏族は「愚かな生き物」であるから、領地に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。

当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。

しかし、世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。

現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。

上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に一生心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。


平清盛の人物像だが、どうも物語の敵役に描かれて、非道な人物と誤解され易い。

現実の清盛は、どうも優しい一面を持ち合わせていたようで、結果を見ると、継母・池禅師の嘆願を容れ助命された源義朝の子供達(頼朝や義経など)に彼の死後平家を滅ぼされている。

清盛の優しい一面を伝えるエピソードで、平安末期から鎌倉期に到る激動の物語に絡む人物が居る。

その人物を、大庭景親(平景親)と言う。

大庭景親(平景親)は、鎌倉(平)景政(かまくら/たいら/ かげまさ)の曾孫にあたり、桓武平氏の流れをくむ平氏の血筋であるが、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の父の代から相模国(神奈川県)鎌倉を領して鎌倉氏を称していた。

鎌倉氏は、後三年の役の折に源義家に属して従軍、鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、この後三年の役で右目を射られながらも奮闘した逸話が残されている。

大庭景親(平景親)が鎌倉氏ではなく大庭氏を称したのは、鎌倉氏が相模国高座郡(藤沢市周辺)に大庭御厨(おおばみくりや)と呼ぶ新田を開発した事に由来する。

大庭景親(平景親)も鎌倉氏流れの武将だったから、当然、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の時代から源氏に従っていた。

平清盛と源義朝が同盟した「保元の乱」が起こると、源義朝に従い白河殿を攻撃、武勲を上げている。

しかし、平清盛と源義朝が対立して「平治の乱」が起こり、大庭景親(平景親)も源義朝方に加わったが敗れ、平家方の囚人となった。

敵方の主力武将である。

本来なら打ち首にされても仕方ない所だが、平清盛が名門が滅びるのを惜しんで助命した為、大庭景親(平景親)は以後平氏の忠実な家人となり、以仁王の乱でも平家方として参加している。

この大庭景親(平景親)が、治承四年源頼朝の挙兵に際して「石橋山合戦」で弟の俣野景久と共に参戦、源頼朝を破った追討軍の大将である。
最もこの戦い、頼朝の兵は僅(わず)か三百、景親の追討軍は三千で、勝負は最初から見えていた。

頼朝側にすれば、三浦半島の豪族、三浦氏の援軍を待っていたのだが、前夜の豪雨で三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れず、後方から迫る伊東祐親(すけちか)の追っ手に退路を絶たれた形で大庭景親の追討軍に大敗、散々に敗走する。

敗れた頼朝は山中を逃げ回り、僅(わず)か六人に護られて洞窟(土肥・椙山のしとどの窟)に隠れている所を、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が見逃して助けている。

九死に一生を得た源頼朝は、神社・箱根権現の勢力に助けられ、船で相模湾を横切り安房国(千葉県)に向かう。

安房国で三浦一族と義父・北条時政と合流、その後大豪族・総介広常(かずさのすけひろつね)千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らを派遣し、説得して味方につけると元々中央の平家に不満だった坂東(関東)武士は、こぞって源頼朝の下に結集して行った。

源頼朝、三島大社での旗揚げから僅(わず)か二ヶ月、やがて五万の大軍に膨れ上がった軍勢を従えて頼朝は鎌倉に入り、軍事組織の「侍所」を手始めに武家の臨時政府を設立、武家の棟梁と御家人の主従関係確立したのである。

このなだれ現象的な頼朝再挙の過程に在って大庭景親(平景親)は坂東(関東)勢の中で孤立、投降したが赦されずに猜疑心の強い源頼朝は、忠誠心を確かめる為に頼朝方に付いていた兄の大庭景能に固瀬川辺りで斬首させている。

大庭景親(平景親)の物語は、平清盛と源頼朝の人物像の違いを示すエピソードでもある。


千百八十一年(治承五年)正月、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は従三位となって公卿に列した。

しかし、それから一月も経たない内に高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親(みちちか)は上皇の喪中を表向きの理由に、次第に平家との距離を取る様になって行った。

通親(みちちか)は平家の落日を、予測したので有る。


平清盛の死をきっかけに、後白河法皇と取り巻きの朝廷公家が動き出す。

勘解由小路党の動きも活発になり、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に届けて旗揚げを要請している。

幼い安徳天皇(第八十一代)は、最大の後ろ盾を失ったのだ。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。


平家一族を西に追い詰めて行った源義経は「戦闘」の天才であった。

それは直感的なもので、あまり理論的ではない。

しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は、後にも先にも彼一人である。

この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、武蔵坊弁慶達比叡山延暦寺の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので、若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて、自らも先頭に立ち、戦闘を為し得たのは義経の才である。

つまり、状況判断と決断である。

どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。

どちらかと言うと「即応自在型」で、戦略ではなく戦闘の天才だった。

だが、現代の目で分析して見ると、平家の方が「世間知らず過ぎた」様である。

一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、平家方には大胆な奇襲である。

しかしこの奇襲、源義経と平家方には温度差がある。

つまり都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害であった。

しかし、その考え方は公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いである。

考えてみると、普通人間でも急斜面では四足になる。

四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定している。

義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育った。

奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。

関西の馬に比べ、蝦夷馬(えみしうま)は体格も良く、力も強かったから、前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。

この馬は奥州の特産で有ったから、到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。

奥州藤原家に身を寄せていた若き義経も、それを見る機会には恵まれていたはずで、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたはずである。

元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。

従って、今日の日本人が思うほど、義経の決断はそれ程大したものではない。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。

同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。

つまり一ノ谷(城戸の戦い)における平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。

それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは、誰しもが認める所である。


平清盛は、武門としての後継者の育成に失敗したのかも知れない。

つまり平清盛は、けして武門を標榜したのではなく貴族(公家)に上り詰める努力をして結果兵力を弱体させてしまったのだ。

後日談であるが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

源義経の軍勢に追われた平家一門が、瀬戸内海を主戦場に西国をめざして落ちて行ったのは、安芸の国(芸州/広島の呉)を中心とした瀬戸内海航路を整備し、資力を蓄えたのが一門の盟主・平清盛だったからである。

つまり平家一門にとって、盟主・平清盛が財源として育て挙げた瀬戸内海は、本来最も頼れる「縄張りの内」の筈だった。

今では日本有数の観光地の一つと成っている厳島神社(いつくしまじんじゃ)・宮島(みやじま)も平家一門と縁(ゆかり)が深い瀬戸内海の信仰の拠点である。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、千百六十八年(仁安三年)頃に平清盛が社殿を造営したが、千二百七年(建永二年)と千二百二十三年(貞応二年)の二度の火災で全てを焼失した。

厳島神社は平家の守り神で、平家一門の隆盛とともに当社も盛え、平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。

俗に「安芸の宮島」と呼ばれる厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、日本全国に約五百社ある厳島神社の総本社とされ、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社である。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、式内社(名神大社)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されていて「平家納経」でも有名である。

厳島神社のある厳島(宮島)は「日本三景」の一となっていて、高さ十六メートルの大鳥居(重要文化財)も春日大社(奈良県)と気比神宮(福井県)の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一とされ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。

厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一である。

祭神は、朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)である。

三柱(みはしら)の女神「宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)」は、大和朝廷によって古くから重視され祀られていた。

その厳島神社(いつくしまじんじゃ)三柱の女神の一神・市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合し大願寺として、大願寺は・江島神社(神奈川県江の島)・都久夫須麻神社(滋賀県竹生島)と共に「日本三弁天の一」ともされている。

厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。

五百九十三年(推古天皇元年)、土地の有力豪族で在った佐伯氏・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

文献での初出は八百十一年(弘仁二年)で、「延喜式神名帳」では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。

現在残る神社の社殿は、千二百四十年〜千二百四十三年の仁治年間(鎌倉幕府・北条執権時代)以降に造営されたものである。

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が千五百五十五年(弘治元年)の「厳島の戦い」で勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。

中国地方の覇者となった毛利元就は大掛かりな社殿修復を行い、また日本全国を制覇した豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。

江戸時代には、庶民の娯楽の一つとして厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治維新が落ち着いた千八百七十一年(明治四年)に厳島神社は国幣中社に列格し、千九百十一年(明治四十四年)に官幣中社に昇格した。


瀬戸内海を西に下りながら戦った源平最後の決戦は、壇ノ浦の戦いだった。

この戦いに参戦した西国方(平家方)水軍の中に、北部九州の水軍、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 「松浦(まつら)党」が居た。

その松浦(まつら)党の中に、平清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、松浦(まつら)水軍一族こぞって平家方に着いていた。

この壇ノ浦の戦い、勝敗の帰趨(きすう)を決めたのが実は松浦(まつら)水軍主力の寝返りだった。

松浦(まつら)水軍のルーツは、嵯峨源氏の渡辺綱を始祖とする渡辺氏流の分派とされ、摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した。

渡辺綱(源綱)の子・奈古屋授(渡辺授、源授)の子が松浦(まつら)党の祖・松浦久(渡辺久、源久)で、肥前国松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持って松浦の苗字を名のる。

本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、治承・寿永の乱(源平合戦)においては当初は平家方の水軍であった。

この経緯だが、松浦水軍は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦(まつら)氏系のものが大半だが、一部に前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・安倍貞任(さだとう)と共に戦って破れ、奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の三男に安倍季任がいた。

安倍季任は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となり松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

その松浦実任(安倍季任)の子孫・松浦高俊は、平清盛の側近に取り立てられ西国方(平家方)の水軍として活躍し、瀬戸内海を転戦している。

何故九州の地方豪族・松浦高俊(まつらたかとし)が、平清盛の側近足り得るのか?

つまりは、敵の敵は見方で、「前九年の役」での勢力構図の縁(えにし)である。

その縁(えにし)で、松浦水軍は何時の頃からか平家の家人を任じていた。

これぞ、藤原摂関家、清和源氏(河内流)、解由小路家(葛城・賀茂氏流)、奥州藤原家(清原家)対、桓武平氏(伊勢流平家)、土御門(安倍氏流)の二大勢力の暗闘が、糸を引いてそっくり平家の登用に影響されていた事になる。

奥州藤原家(清原家)の遮那王(しゃなおう・源義経)庇護も、そうした勢力構図が背景に在ったのである。


さて松浦水軍主力の寝返りだが、松浦水軍は中心となる氏の強い統制によるものではなく一族の結合体と言う形態の同盟的なもので、一族は夫々(それぞれ)の拠点地の地名を苗字としその中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となっていた。

その緩い結合の為、当初は高俊に合して平家方の水軍であった松浦党の主流は、平家方不利と見て松浦高俊一族を除いて源氏方に寝返りを謀り、壇ノ浦の戦いに於いて源家方に付いて源家方の勝利に大きく貢献した。

海戦だった壇ノ浦の戦いに、松浦水軍主力の寝返りに合った平家方は圧倒的不利に総崩れとなり、御座船を包囲されて退路を絶たれる。

「もはやこれまで。」と平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、哀れ二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

敗れた平家方の総大将の平宗盛・清宗父子は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

源義経主従の活躍ばかりが喧伝されて有名だが、壇ノ浦の戦いの勝敗はあくまでも松浦(まつら)水軍主力の寝返りだったのである。

鎌倉幕府が成立して守護・地頭制が敷かれ、松浦党はその壇ノ浦の戦いの功を認められて鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられた。

だが、鎌倉初代将軍・源頼朝が東国から九州に送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの「下り衆」と呼ばれる東国御家人の下に置かれ、その「両者の確執は絶えなかった」と言う。

一方の松浦水軍・松浦高俊は、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により平家方が源範頼・ 源義経軍に敗れたが、高俊(たかとし)は生き残り、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。

後に高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害を恐れて先祖・安倍宗任以来の旧姓・安倍姓に戻して名乗り、以後長門国油谷(山口県)に安倍家は存続する事になる。

この長州・安倍家(松浦高俊・娘)の子孫が土地の名家として八百年以上続いて現在に至り、後の現代の世に政治家一族として名を馳せる事になるが、賢明なる読者の貴方はもう誰の事か見当が着いている筈である。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。

壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の松浦(まつら)党(佐志氏や山代氏)などの海上勢力は、つとに知られている所である。

松浦水軍は、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)でも水軍として駆り出され、転戦した記録があり、その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」だった。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に水軍としての松浦党の出番は終了する。

僅かに松浦氏傍流の平戸松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降に旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として存続した。


平家の全軍が瀬戸内海に沈んだのは清盛没後、四年目の事で有った。

平家(伊勢平氏の平清盛一族)の栄耀栄華は僅か二十五年、平清盛一代限りの事であり、この点は後の織田家や豊臣家に似ている。

敗れた平家方の安徳天皇は入水死し、総大将・平宗盛は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

育ちが良い平清盛(たいらのきよもり)は、継母・池禅尼の助命嘆願で源頼朝(みなもとよりとも)、源範頼(みなもとのりより)の兄弟や常盤御前(ときわごぜん)の身を投げ出した助命嘆願に、今若丸、乙若丸、牛若丸(後の義経)などの命を赦している。

しかし流人生活を十九年もした源頼朝(みなもとよりとも)にはそうした情が無く、清盛(きよもり)の子・宗盛と孫・清宗を容赦なく死罪にして居る。


異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは、明らかに安徳天皇である。

しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。
いよいよ平安期は、末期の様相を呈して来た。







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「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。


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作者本名・鈴木峰晴