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samurai 明智光秀=天海僧正説を検証する】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。

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***【歴史のミステリー】**********

明智光秀=天海僧正説を検証する】

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明智光秀=天海僧正説を検証する

記載項目次ジャンプクリック
明智・天海説前置き
明智光秀
細川藤孝(ほそかわふじたか)
家康・神君伊賀越えの怪
武将と髭(ひげ)と影武者と・・山崎合戦
明智光忠(あけちみつただ)
明智光春(あけちみつはる)
春日局(かすがのつぼね)
春日局(かすがのつぼね)と三代将軍・家光誕生
徳川秀忠(とくがわひでただ)の謎
天海僧正の千里眼(天海=光秀説の一)
桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説の二)
二人の天海僧正(天海=光秀説の三)
明智平と桔梗紋(天海=光秀説その四)
東叡山(とうえいざん)寛永寺と秩父神社(天海=光秀説の五)
沼田・土岐氏(ときうじ)
このまま下にも読み進めます。


明智・天海説前置き

◆◇◆◇◆◇◆◇◆【前置き】◆◇◆◇◆◇◆◇◆

無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。

すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。

まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。


安土桃山時代から江戸時代初期に跨るミステリーの一つに明智光秀=天海僧正説が在る。

現代の推理小説風に言うと、「天海僧正」の身元は不明である。
つまり、天海がどう言う生い立ちをして育ち僧正にまで昇り詰めたのか、一切の信じられる記録が無いのである。

天海、光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。

天海僧正には謎が多く、徳川家康が天下を取り息子の徳川秀忠が二代将軍に任じた頃、突然の家康の引きで歴史の表舞台に躍り出た。

そして天海は、幕府に対する大きな影響力を持ちながら三代将軍・徳川家光の代まで、なんと百八歳とも百三十五歳とも言われる生涯を生きた。

それにしても、明智光秀=天海僧正説では百歳を遥かに越える長寿はとても説明出来ない。

もし光秀が天海で在ったなら、家康より十歳も年上の光秀が徳川家三代に渡って仕え、「百八歳とも百三十五歳とも生きた」とされるカラクリが必ず在る筈である。

そこで将軍家の相談役を任じた大僧正・天海の素性が何者だったのかを検証すると、確かに明智光秀と光秀の年下の従兄弟明智光忠明智光春と言う二人の人物に行き当たる多くの事実が存在した。

以下は断片的な史実と小生の推測を繋いだ検証である。

用語人名解説・日本史検索・クリックリスト



明智光秀

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇【明智光秀】◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百二十八年(享禄元年)、父は明智光隆、母はお牧の方の間に幼名を桃丸(明智光秀)と言う運命の男がこの世に生を授かる。

主役は、その桃丸(惟任日向守光秀/これとうひゅがのかみみつひで)である。

若い頃は、明智十兵衛光秀と名乗った。

明智光秀の人生最大の決断は、「本能寺」に織田信長を討った事である。

天下の秀才・明智光秀(惟任光秀)が何故謀反を抱き、何故あの時期に「本能寺」に攻め入ったのか、疑問は多い。

諸説あるが、いずれも決め手に欠ける。

何故なら、光秀ほどの秀才に「全体の状況把握が出来ていない」とは思えないからだ。

しかし、光秀の血統と歴史の必然を考えれば、それはおのずと納得できる事である。

惟任日向守光秀(これとうひゅがのかみみつひで)が本能寺に攻め入ったのは、天下奪取の野望なのではけしてないのだ。

問題なのは、例え光秀が信長を本能寺で殺害しても信長軍団は幾つかのユニットで、それぞれ大軍が健在な事だ。

つまり、家臣の柴田勝家羽柴筑前守(当時の秀吉)丹羽長秀織田信長の実子織田信忠(美濃国主)・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・伊勢国主)や、織田信孝(おだのぶたか)の各大名達も健在でいる事である。

同盟軍の徳川家康も居る。

徳川家康も、どちら側に回るか判らない。

もっとも家康は、光秀軍の追撃をかわし、「伊賀越え」で取り逃がした事になっている。

だが良く調べて見ると、表向き、まだ伊賀や伊勢まで光秀の通達が行っていなかった事になって明智方の郷士の所領も難なくすり抜けている。


いずれにしても、信長を本能寺で葬っても四方に信長の軍団が健在で、光秀はそれらの大軍を相手に何度も戦をしなければ成らない。

そのリスクを負っても成し得るべき、意外な理由があるに違いない。

僅かな供回りを連れて、本能寺に泊まった「信長だけ」を討つのには、確かにチャンスだが、その後の天下の行方に確信は掴めなかった筈である。

本来、光秀はそんな安易な賭けに出るほど、愚かではない。

「損得ずくではない何か、・・・。」

そう、緊急性のある「或る事」が裏に在った筈だ。

いずれにしても天下の秀才・光秀にしては余りにも無計画な本能寺討ち入りで、少なくともその時点では、「光秀は、天下を望んだ訳ではない」と考える方が自然である。

そうなると、あの時点での彼・光秀の目的は、「信長暗殺」この一点に在ったとしか考えられないのだ。

その後の事は、不本意でも成行きで良かった。

光秀をもってしても、後の事を考える余裕が無かったのである。

事実、「三日天下」(実際には十三日間)と言われるくらい、あっけない結末だった。

「用意周到に事を起こした」とは思えない光秀の行動と、「希代の秀才」との評価のギャップに、後の人は「逆上による発作的行動ではなかったか?」と、およそクールな光秀には似合わない事さえ言う。

光秀は、或る事が証明できないまま、ただの謀反人とされてしまった。

それほど、「計算度外視」で光秀が動いたのは、何の為か?

もし、計算度外視の「重要な大義」だけで光秀が動いたのなら、それはそれで立派なものだ。


明智光秀の出自(しゅつじ)を紹介して置こう。

明智家も源氏の出である。光秀の方が、同じ源氏や藤原でも血筋的には信長より確かで、少し上だ。

美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名土岐氏の名である。

言うまでも無いが、源氏は皇統守護の血筋で有る。

源頼国が美濃守として赴任し、居住した土地の名、「土岐」を取って名乗った源氏が、守護大名土岐氏の始まりである。

この土岐一族の本流の別れが、美濃国・明智郡に居を構え、小城を築いて明智姓を名乗った。

つまり光秀の方が、信長よりはるかに源氏の本流に近いのである。

言わば明智家は、バリバリの血統書付きだった。

しかし名家の出ではあるが、光秀は不遇だった。

明智光秀が元服を迎える頃には、美濃一国を支配していた明智本家の守護大名土岐氏は、配下の斉藤道三の下克上に合い、支配する領地・美濃の国を乗っ取られていた。

明智一族も、本家土岐氏没落後は斉藤道三に従っていた。

実を言うと明智家は、斉藤道三に大事にされていた。

土岐氏を排除したものの、美濃の国の郷士を束ねての運営には土岐の血筋は都合が良い。

しかし斉藤道三は、嫡男の「斉藤義龍」に討たれてしまった。

斉藤道三が、嫡男・義龍よりも他の子供を可愛がった事から、「危機感を抱いての親殺し」と言われている。

但しこの嫡男・義龍、「道三の子ではない」と言う疑惑もある。

斉藤道三は、織田信長の舅(しゅうと)で義父に当たる。

信長は、道三・娘「濃姫(斉藤帰蝶/さいとうきちょう)」を嫁にもらっているのだ。

急を聞いて、信長が援軍を率いたのだが、道三は既に討たれてしまっていた。

その騒乱の中、明智の当主光安は、一族の小勢で明智城に立て籠もり、義龍に抵抗して落城、討ち死にしている。

その時光秀は、明智家再興の為に、従弟の「光春、光忠」など、一族の若手を連れて城を抜け出している。

光秀は、幼い従弟二人(光春光忠を預かり、斉藤利三と言う明智家血筋の武将を伴い、御家再興を念じて旅に出る。

斉藤利三は、美濃守護職・土岐家の守護代であった斉藤家の庶流を継いで居た。

嫡流家は乗っ取りの斉藤道三利政(山崎屋庄五郎・西村勘九朗・長井新九朗利政)に継がれて、斉藤利三は本家を失っている。

帰る地を失った光秀一行は長い事諸国を巡り、あちらこちらに身を寄せる流浪の身にあったのだ。

その後、経緯は定かではないが、落ち延びた明智光秀たち明智一族は越前(福井県)の「穴馬」の地に辿り着いて、そこに落ち着く。

若手の中で年長者の為、一族のリーダーとなった光秀は、勉強の為に更に諸国を回り、地形や大名達の情勢などの見聞を広めていた。

流浪していた光秀は、越前朝倉家に仕官の誘いを受け、応諾して一族で越前に居を構える事になる。

ようやく光秀は仕官が叶い、一応の俸禄を得て世に出る足がかりを掴んだかに見えた。


この朝倉家も織田家同様に、元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であった。

守護代だった朝倉家も、他家と同じような経過を辿り、比較的早くから戦国大名として、力を持っていた。

当初、光秀の出自と見識は上流社会好みの当主・朝倉義景に大いに喜ばれ、重用されていた。

越前の大名・朝倉義景に仕官した光秀は、多方面に才覚を発揮する。

しかし、「一族の仇敵」斉藤義龍の子・龍興が信長に敗れ、朝倉家を頼って逃げて来た頃、光秀は朝倉家に有って不遇だった。

聡明過ぎる光秀は、他の家臣からすると嫌味な存在に映る。

他の歴代家臣の、嫉妬交じりの甘言により、主君・義景からも徐々に疎まれていたのだ。

そうなると、新参者だけに意見も無視されて居場所が無い。

その上、龍興が朝倉家に頼って逃げ込んで来た。

一族の「憎き敵」なのに、主君の客では手が出せない。忸怩(じくじ)たる思いであったろう。

そこへ、あつらえた様に信長の招き状が送られて来た。

信長は美濃の斉藤龍興を越前に追い、二ヵ国を有する太守になっていた。

尾張、美濃を治めるには人材が要る。

特に美濃は信長にとって新たな領土で、地元の人心を押さえるには、正統な土岐の一族の血筋が欲しい。

光秀こそが、もってこいだった。

この話に、光秀は乗った。

戦国時代、「信長は有望株」と光秀には映っていた。

光秀は世間の評判と、なしえた見事な戦略から、信長の天才性を見抜いていたのだ。

光秀にすれば、朝倉に居ても累代の家臣が利権がらみの厚い壁を作っている。

家中で一人浮き上がり、微妙な立場だった光秀は願い出て、朝倉家に「暇請い(いとまごい)」を許され、信長の下に向かったのである。

朝倉側でも、諸般の事情で知将「光秀」の存在は手に余っていたのだ。

此処から、「運命の道程が始まった」と言って良い。

信長も、引き抜きとは言え光秀の値踏みは、光秀に会うまではせいぜい五千石も与え、侍大将の端にでも加えれば「破格の扱い」と高を括っていた。

何しろ、戦に破れて流浪の末、朝倉家でくすぶっていた男である。

お濃(斉藤帰蝶)の口添えもあるから、少し優遇してやれば尾を振る筈だった。

しかし、その信長の胸算用があっけなく変わる。

初めて光秀が目通りした時、信長は何時もの様に「光秀の力量を量ろう」と常人が返答に困る様な意地の悪い質問を試みた。

信長は性格が性格だから、相手を試す質問は押して知るべしである。

信長の質問は鋭く、普通なら言葉に窮する者が多い。

処が返ってくる返答が、子飼いの諸将より一枚も二枚も上手だった。

それどころか、信長の真意を見透かしたような返答が返って来る。

「この男尋常にあらず。」

内心そう思ったが、頭(ず)に乗られないように、信長は感動を押し殺して居た。

実は、信長が思い描いていた上洛のビジョンを、光秀は寸分狂う事無く言い当てていた。

この場合の上洛とは、首都を制圧、天下を掌握するする事を意味する。

驚いた事に、細部に渡ると光秀案は信長案を補足してさえいた。

軍略の発想が、信長の気に入るものだったのである。

興奮して、予定を遥かに過ぎるまで光秀と問答を繰り返し、信長はある確信に達していた。

「捜していたのは、こ奴だ。」

決めれば、早いのが信長である。

信長にして見ると、光秀は思いの他の拾い物である。

自分の言う事が、楽に通じるのだ。

「あ奴、予の言う事を即座に飲み込む、思いの他に利口者よ。」

孤独な信長は感動を覚え、嬉しくさえあった。

まず血統が良く、美濃で明智は大いに通用する。

その上、明智光秀の妻は煕子(ひろこ)と言い、美濃国の「妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女」と言われている。

正確には当時の夫婦は別姓であるから、妻木煕子(つまきひろこ)が正しい名乗りである。

あの有名な細川ガラシャなど、光秀の子は全て煕子(ひろこ)との子である。

彼は「生涯妾を持たなかった」と言われる愛妻家だった。

明智光秀には、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)を娶る前にもう一人妻が居たらしいのだが、詳細は判らない。

この物語の読者なら、妻・煕子(ひろこ)の旧姓を聞いてピンと来る筈である。

そう、明智光秀の妻の旧姓名は、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)である。

あの勘解由(かでの)党の直流にあたる妻木家だった。


現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。

妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。

天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。

だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。

この妻木家、源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、実は本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。

すなわち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。

どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。

ここが肝心のところで、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解しているかこの物語を最初から読んでいなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。

明智光秀は、妻・煕子(ひろこ)ともに、勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。

その妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原合戦で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。


婚儀がまとまり、光秀が婚礼の打ち合わせで妻木家に挨拶に伺うと、当主の妻木(勘解由)範煕(のりひろ)が、目出度い席に似あわぬ浮かぬ顔で応待した。

明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。

「いゃ、明智殿には良くお来し頂いた。」

範煕(のりひろ)の挨拶の声も、心なし沈んでいる。

どうした事かと、光秀が問い質した。

「妻木殿、何か当方にご不審の点でもお在りでござるか?」

妻木範煕(のりひろ)は、恐縮して話を切り出した。

「あ、いゃ貴殿方の事ではない。実は・・・明智殿、娘・煕子(ひろこ)との婚儀の儀でござるが、娘・煕子(ひろこ)が病を患い致しましていささか顔が見苦しゅう成り申した。かく成る上は娶られるのは妹の方では如何か?」

「何んの妻木殿、男が一旦娶ると決めた娘子なれば娶った後に病を患いしを捨てるも同然、そんな浅き絆では永く添い遂げるは叶わぬが道理、一向に移り気は致して居り申さず。」

「流石に才の誉れ高き明智殿、道理を通されるに拙者感服いたした。良き婿殿に成るは。ワッハハ。」

縁談がまとまった後、煕子(ひろこ)は疱瘡(ほうそう)の病に患り、婚礼前に顔にアバタが出来たのであるが、「それでも光秀は嫁にした」と伝えられている。

当然の事ながら、煕子(ひろこ)の実家・妻木家の婿・光秀への評価は高いものになる。

光秀の男気に惚れて、一族を挙げ光秀を支援しても不思議はない。

事実、明智熙子(ひろこ)の実父・妻木範熈の長子(継子)・妻木範賢、次子・妻木範武、三子・妻木範之などの熙子(ひろこ)の実弟達は一族を率いて義兄・明智光秀に合力、光秀の出世と伴に次第に臣従して光秀の戦略や合戦に参加し役目を果たしている。

表立っての戦闘はそう多くは無いが、妻木家が勘解由(かでの)小路党であれば、得意の諜報工作では大いに力を発揮した筈である。

名前の通り妻木家の本姓は「勘解由(かでの)」で、名門・勘解由党の、それもかなり正当な枝である。言わば草の世界の人脈は計り知れない。

この辺りに、愛妻家・明智光秀の秘密があるのかも知れない。

妻木(勘解由)家の発祥は、岐阜県土岐市妻木町である。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄で、妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

明治維新まで、美濃妻木七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃明知六千五百石余)と共に永らえ、維新後も新政府の官僚に納まっている。

この妻木(勘解由)家、実は徳川家の本当の旗本ではない。

名門の外様領主ではあるが所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為、親戚の遠山家も同様だが、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合格」として旗本格内に置かれていた。

明智光秀の正妻・妻木(明智)煕子(ひろこ)の実家・妻木家は、関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残る。

妻木家は、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれ、明治維新まで美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として永らえている。


織田信長の正妻「濃姫」は斉藤道三の娘で、明智氏とは母方の縁戚にもなる。

それに、明智光秀の表裏に跨る豊富な人脈は、尋常ではない。

異例な事だが、いきなり美濃の国の安八郡一帯を所領として与えている。

郷ではない、与えたのは群で、これは五〜六万石に相当し、いくら信長が美濃・尾張百万石の太守と言へども、二十分の一は破格である。

光秀が、最初に朝倉家に仕官した時のおよそ十倍の条件で、それは古参の家老並みの待遇だった。

留意して欲しいが、戦国大名が武将を召抱えるに行き成り何千・何万石と、とてつもない俸給条件を提示する事があるが現代に比して驚かないで欲しい。

これは一族郎党を一括召抱えるようなもので、現代の個人採用とはその趣(おもむき)がかなり違い、それなりの郎党(兵力)を持って臣下と成り傘下に入るのである。

単身で召抱えられても、然(さし)したる働きが出来ないのが戦国の世だった。


明智光秀は、自分を即座に認めた信長を喜ぶより「恐い」と思った。

朝倉は光秀の人脈の重さに気が付いては居なかったのだ。

光秀には「心して掛からない」と、信長には「全て見通される」様な気がしたのだ。


だが、信長は上機嫌である。

「光秀、光秀」と、何かにつけて声を掛けた。使える(役に立つ)者に、信長は気前が良い、見る目も確かだ。

以後、信長天下取り戦略の重要な場面に、光秀は常に傍(かたわら)にいた。

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盟友・細川藤孝(ほそかわふじたか)

◆◇◆◇◆【盟友・細川藤孝(ほそかわふじたか)】◆◇

十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える幕臣に、和泉国・上半国の守護家とする細川藤孝(ほそかわふじたか)が居た。

主君・足利義輝(あしかがよしてる)の死後、細川藤孝(ほそかわふじたか)は、足利義昭(あしかがよしあき)の十五代将軍擁立に尽力する。

藤孝(ふじたか)は、明智光秀を通じて美濃・尾張国の織田信長に助力を求め、織田信長の武力を背景に入京して義昭の将軍任官に成功する。


十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)織田信長の力を利用したが、将軍に成ってしまえば信長は将軍の権威を認めない邪魔な存在である。

それで足利義昭(あしかがよしあき)は、せっせと有力大名に手紙を書いて信長包囲網を画策していた。

実はこの頃、信長は足利義昭(あしかがよしあき)の側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の信長への背信行為を手に取る様に知っていた。


細川藤孝(ほそかわふじたか)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流に当たる血流の家柄である。

細川藤孝(ほそかわふじたか)は十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える幕臣で、和泉国・上半国の守護家としていた。

主君・足利義輝(あしかがよしてる)の死後は、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の擁立に尽力する。

藤孝(ふじたか)は、明智光秀を通じて美濃・尾張国の織田信長に助力を求め、織田信長の武力を背景に入京して義昭の将軍任官に成功する。

しかしこの十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)、将軍の座が手に入ると信長を排除しょうと画策して密かに各地の有力大名に助勢を要請する。

側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義明(あしかがよしあき)の信長への背信を、信長は手に取る様に知っていた。


義昭と信長の対立が表面化すると、千五百七十三年(元亀四年)三月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。

山城桂川の西、長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡藤孝(ながおかふじたか)と名乗った。

千五百七十八年(天正八年)、信長の薦めによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(明智玉/ガラシャ)の婚儀がなる。

藤孝(ふじたか)は織田信長の命に従い、丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され丹後進攻に失敗する。

その後光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とし、丹後国・宮津十一万石の大名となる。
千五百八十二年(天正十年)に、親友で親戚でもある明智光秀が主君・信長を攻める本能寺の変を起こす。

藤孝(ふじたか)は、親友・光秀の再三の加勢要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に宮津十一万石の家督を譲った。

同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いに敗ている。


能寺の変のおり、細川藤孝(ほそかわふじたか)・細川忠興(ほそかわただおき)親子は、藤孝(ふじたか)の盟友で忠興(ただおき)の義父でもある明智光秀方参軍に動かなかった。

もし細川親子が光秀方に参軍していたら他にも勝ち馬に乗る武将が現れた筈で、この件で秀吉は大いに細川親子に感謝した。

確かに細川親子は光秀に加勢せず、表向き光秀を捨てた。

しかしこの細川親子の行動が、家康・光秀・孫市の陰謀により「細川家は生き残ってくれ」と言う密約による可能性を捨て切れない。

それも光秀が名を変えて、密かに生き残る大陰謀が前提だった。

であれば、秀吉亡き後の細川親子が徳川家康に急接近した事も、既存計画の通りだったのかも知れない。


幽斎(藤孝)は、光秀に呼応しなかった功績を認められて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、千五百八十六年(天正十四年)に在京料として山城西ヶ岡に三千石を与えられた。

幽斎(藤孝)は千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されも、徳川家康とも親交があり、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去すると家康に接近する。

千六百年(慶長五年)六月、幽斎(藤孝)の長子・忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加する。

翌同年(慶長五年)七月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャ(明智光秀娘)は包囲された屋敷に火を放って自害した。

幽斎(藤孝)の田辺城は小野木重勝・前田茂勝らが率いる一万五千人の大軍に包囲される。

幽斎(藤孝)が指揮するわずか五百に満たない手勢だが籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかった事もあり、長期戦となる。

幽斎(藤孝)の弟子の一人だった八条宮智仁親王が後陽成天皇に奏請し、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれた。

幽斎(藤孝)の長子・忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得る。

この後、一時使用した長岡氏を細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。

その後の幽斎(藤孝)は京都吉田で悠々自適な晩年を送り、千六百十年(慶長十五年)八月、七十七歳で京都三条車屋町の自邸で死去した。

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家康・神君伊賀越えの怪

◆◇◆◇◆◇【家康・神君伊賀越えの怪】◆◇◆◇◆◇

徳川家康の伊賀越えは、その「本能寺の変」の直後の出来事である。

徳川家の歴史書には、便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。

それは家康の生家・松平家が、実は賀茂臣(かもあそみ)であり、松平家には家臣に雑賀鈴木家の分家筋が存在し、領内に伊賀神社も奉っていて、紀州雑賀家(鈴木家)や伊賀服部家とは古い縁が在った事である。

また、密約で影に廻った明智光秀の存在をその後の歴史から抹殺する必要があったからでは無いだろうか?

家康は、織田信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。

旧暦六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、蝉時雨(せみしぐれ)の伊賀越え街道をひた走って、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻り、これを後に「神君伊賀越え」と称される。

これが、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機と呼ばれたものだが、光秀方の息が掛かった伊賀超えの山中を選択し、小人数の供回りで突破した事は、その選択自体が怪しい。

このエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったので、危険であれば堺より海路を取るのが常識的で安全である。

チョットした謎だが、その後の羽柴秀吉との「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆がこぞって家康に加担した事から、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。


堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。

書状を受け取った家康は、瞬時に事態を把握する。

織田信長の死は局面が大変(おおか)わりをする事態で、家康も本拠地に戻ってあらゆる事態に備えねばならない筈だが、ここで一つの謎が生じる。

知らせを聞いたのは港町・堺で、そして泉州・紀州・伊賀・甲賀辺りは最も明智光秀の息が掛かった土豪の多い土地であるから本来なら最も安全な領国三河・遠近江への帰途は船旅の筈である。

所が家康は、危険な伊賀越えを躊躇無く選択している。

「これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」と家康が発すれば、本多忠勝が色めいたって「殿、何(いず)れの道を戻りまするか?」と申すに、それを井伊直政が制して「殿、堺より船を仕立てては如何がか?」と進言する。

「直政、案ずるな。明智殿が手配の伊賀超えじゃ。手抜かり無く、半蔵とやらも遣わして寄越したわ。」

身代わりの影武者まで立てて隠遁を選んだ光秀にとって、家康の生死は重大な意味を持つ。

本能寺急襲の決意を固めた時から直ぐに手を打ち、服部半蔵に文と退路の案内を託していた。

家康の安全は最初から確保されていた確信で、この時、家康の「苦難の伊賀越え」に助力したのが、光秀の命を受けた伊賀衆である。

この神君伊賀超えには、後に「徳川四天王」の一人と呼ばれる側近の井伊直政(いいなおまさ)本多忠勝、帰参が成った本多正信などが同行している。

伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、家康伝説を脚色した大げさな手柄自慢では無いだろうか?

いずれにしても、この辺りの如何にも出来レース臭い伊賀越えの辻褄合わせが、徳川家康の本能寺の変黒幕説の立ち上る煙かも知れない。
この折道案内をした伊賀の棟梁・服部半蔵正成は、その伊賀山中突破の功で江戸城に「半蔵門」が作られ、公儀お庭番として登用されている。

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武将と髭(ひげ)と影武者と・・山崎合戦

◇◆◇◆【武将と髭(ひげ)と影武者と・・山崎合戦】◆◇◆

山崎合戦は天王山の戦いとも呼ばれ、中国大返しの奇跡で引き返して来た羽柴秀吉が、京都へ向かう途中の摂津国(おおむね大阪府)と山城国(京都府南部)の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町・山崎、京都府乙訓郡・大山崎町)の地で、明智軍と激突した戦いである。

明智光秀が味方と頼んだ娘婿・細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。

摂津衆は中川清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になった為、明智光秀羽柴秀吉の山崎決戦に於いて、事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。

この時点で、織田信長が策した徳川秀忠の存在は、光秀にとって唯一秀吉への「隠し弾」となっていた。

光秀の結論はすぐに出た。

家康殿と組んで、かならずや秀忠(明智光忠に天下を取らせようぞ。」

この時点で光秀には、目先の合戦の勝敗など既に眼中にない。

家康には親書を送り、傍観を決め込むように念を押した。

こうした背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。

実は、羽柴秀吉は長年の間明智光秀に嫉妬していた。

自分が越えられない血統と才能、そして、人脈の大きな壁であった。

光秀がいる間、秀吉が戦でどんなに成果を上げても織田家家中でいつも二番手に甘んじていた。

その邪魔者を、目の前から取り除くチャンスである。

明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。

最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。

「惟任光秀、わしを乗り越えて見よ。」

信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。


明智光秀がそんなだから、山崎の合戦の勝敗は戦う前に目に見えていた。

予期した山崎の合戦の敗戦である。

土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。

この時身代わりの影武者を買って出たのがお福(後の春日局)の父親で、光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。

彼は、自らそれを買って出た。

元々近い身内で良く似ていたから光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから、見事な最後だった。

後になってお福はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。


影武者を容易にしたのは口髭(くちひげ)である。

口髭(くちひげ)は、長い事氏族(武士)の象徴だった。

この章に登場する男性の人物達が一様に口髭(くちひげ)を生やしていたのは、自分を強くたくましみせ、相手を威嚇(いかく)して武士・武将(氏族)の威厳(いげん)を保つのが目的だった。

つまり、征服部族の目的精神に合うのが、髭(ひげ)である。

従って戦国末期まで、武士は手入れの行き届いた髭(ひげ)を生やすのが常識で、髭(ひげ)の無い武士など存在しない時代で在った。

口髭(くちひげ)の相手に与える視覚的印象は強烈で、この髭(ひげ)の形状が人相の一部として武家社会と言う世間に受け入れられていた事が、実は情報戦の細工に利用される事になる。
家長制度の時代では、弟であっても家臣である。

従兄弟などは尚更で、主家繁栄の為に家長に尽くす。

普段身分の高い者とその顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて周囲が見分けられるように配慮がなされていた。

これを裏返せば、影武者の創造は、「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だったのである。

この時代、影武者は常道である。

明智光秀の影は斉藤利三が勤め、利三の影にはまた身内の従弟が勤める。

従って山崎の合戦後の斉藤利三の消息には、数通りの微妙な伝承が残されているのである。

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明智光忠(あけちみつただ)

◇◆◇◆◇◆【明智光忠(あけちみつただ)】◆◇◆◇◆

明智光忠(あけちみつただ)織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たる「明智光久又は明智光安の子である」とされるがどちらの子か定かではない。

明智光忠(あけちみつただ)は丹波国八上城主とされる戦国時代の武将で、明智光春と同様に妻は光秀の娘を娶っている。

光忠は、織田信長の陪臣時代に丹波過部城攻めの功績で織田信長より感書を下される手柄を立てている。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変では、信長の息子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃し、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで主君・光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると「自害して果てた」と伝えられている。

明智光忠にも次郎四郎、次右衛門、などの名前がある。

この明智光忠(あけちみつただ)は実在していたのは事実であるが、しかし「自害して果てた」と伝承されているだけで墓も残っておらず、光忠の事自体公式記録や一級資料にも残っていない。

最後は、丹波八上城(周山城)主であったが、これも早い時期からの身代わりとも考えられる。

彼にも従弟説と娘婿説が存在し、結論がでないのだ。

それどころか光忠は、明智光久(又は明智光安)の子では無く「美濃の百姓の出自」と言う異説まで存在する。

そこで考えられるのが、明智光忠は途中で入れ替わっており、前期の光忠は確かに明智光久(又は明智光安)の子で光秀とは従兄弟だったが、後期の光忠は「美濃の百姓の出自」と言う可能性も出て来る訳で、それなら本物の明智光忠徳川秀忠に化ける筋書きに信憑性が出て来るのである。

かりに、江戸初期の天海僧正が明智の者であれば、伝記は、「いかようにも書ける」と考えられ、そこに秘匿すべき物があれば然るべく書き表されてのである。

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明智光春(あけちみつはる)

◇◆◇◆◇◆【明智光春(あけちみつはる)】◆◇◆◇◆

明智光春(あけちみつはる)は、明智光忠同様に織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たるとされ、こちらの方は確り記録があり「明智光安の子である。」とされるが、明智光春には現在二つの説が有る。


一つは明智光安の子で、光秀の従弟、一つは三宅弥平次と言う名で、光秀の娘婿となり、明智の姓を名乗ったとする説である。

この二つの説から選ぶのが通常なのだろうが、何しろ戦国の世で、これが始めから二人居て謀略の為にそれぞれ入れ替わり、しかるべきに収まったのなら辻褄が合うのだ。


つまり、この明智光春も謎の多い人物で、「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物であり誰かをモデルに作られた可能性はあって実在の人物かは確証がない。

伝えられる所に拠ると、明智嫡流だった光秀の父・が早世した為、光春の父・明智光安が後見として明智・長山城主を務めていたのだが、斎藤道三と道三の息子とされる斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。

光安は自害するが、光春は光秀や光忠らとともに城を脱出して浪人し、年長・明智嫡流の光秀を盟主として一族で行動する。

盟主・光秀が織田信長に仕えると光春は光秀に従って各地を転戦し、武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。

光春の妻は光秀の次女で、荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが村重謀反の際に離縁され、光春と再嫁した。

光秀が織田信長を討った本能寺の変では、光春は先鋒となって京都の本能寺を襲撃し、変事の後は安土城に回って守備につくが、羽柴秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死すると「坂本城に移って自害した」とされるが、替え玉が容易な時代でこれも確たる自害の証拠は無い。

巷に流れる光秀生存説を採れば、野に下った光秀に光春が最後まで従った可能性も否定出来ない。

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春日局(かすがのつぼね)

◇◆◇◆◇◆【春日局(かすがのつぼね)】◆◇◆◇◆◇

織田信長の使いで明智光秀徳川家康を訪ねた時、一人の女性(にょしょう)を伴っていた。

光忠を預けるに際して、この女性を「家康殿に付けたい」と言う。

家康が見ると、およそ十七〜八の年頃で、名を「お福」と言った。

濃姫付きのお端(おはし・端女)、お安(あん)の娘・「お福」が成長していたのだ。

家康はその女性(にょしょう)を見た。

面(おもて)、容姿共に中々の美形である。

そう言えば昔、濃姫(帰蝶)の傍近く、お端にこの娘に良く似た利発な娘が居たのをうろ覚えに思い出した。

さて、お福のその後であるが、家康が関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃に、暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福にやがて転機が訪れ、家康の勧めで林正成(はやしまさなり)と言う武将に嫁ぐ事に成った。

この婚儀で、お福の運命が大きく変わる事になるのだ。

相手の林正成(はやしまさなり)と言う武将は、実は浪人していたのだが家康がある事で恩義を感じ心に止めていた男だった。

そのある事とは、林正成(はやしまさなり)が、関ヶ原の戦いの折に平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した男である。

その功労者・林正成(はやしまさなり)が、小早川氏が幕府に処分され、家が断絶すると、浪人となって不遇を囲っていた。

義に厚い家康は、その林正成の身の振り方を考えていたのだった。

織田信長の直臣だった美濃国・国人領主・稲葉一徹と徳川家康には、姉川の合戦以来の親交がある。

家康の意向もあり、お福は美濃国の稲葉重通の養女となる。

このお福の稲葉家養女は林正成(はやしまさなり)を引き立てる手の込んだ複線で、養女と成ったお福が正成(まさなり)を稲葉家の婿に迎える。

お福の実家斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁があり、斎藤利三の後室は稲葉一鉄の娘・お安(あん)で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘のお福(春日局)らを産んだ。

お福(春日局)斉藤利三とその後室・稲葉安(あん)との間に出来た娘である。

斉藤利三は一時稲葉家の家臣に成っていた事が在り、稲葉(一鉄)良通と父・斉藤利三の代で喧嘩別れしていたのだが、稲葉家の当主・稲葉貞通は家康の依頼を受け入れて林正成(はやしまさなり)の大名家を稲葉姓で起こす手助けをした事になる。

林正成稲葉正成を名乗り、家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ小とは言え大名に列した。

明智光秀の有力な家老格に、異腹の兄弟とも伝えられる斉藤利三と言う男が居た。

斉藤利三が腹違いの兄弟なら、その利三の娘「お福」は光秀の姪に当たる。

そう、光秀が信長の命をうけて家康に献上したあの「お福」である。


春日局の呼び名の謂れで有るが、明智光秀織田信長の命で丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・後の春日・現丹波市春日町)の黒井城を落城させ、一時守城役に懐刀といわれた斉藤利三を配した。

お福の父親が「初めて城持ちとなった謂れのある土地」と言う訳で、出自を少しでも良く見せる為に、朝廷に「丹波国春日・黒井城主娘」と 届け出た事から、「従三位春日局」を朝廷から授かった。

その、「丹波国春日黒井城主・斉藤利三の娘」が、お福(後の春日局)生誕の地と曲解された様である。

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春日局(かすがのつぼね)と三代将軍・家光誕生

◇◆【春日局(かすがのつぼね)と三代将軍・家光誕生】◆

明智家の家老職・斉藤利三の娘に「お福」と言う名の者が居た。

利三が明智光秀と腹違いの兄弟なら、「お福」は明智光秀の姪に当たる。

そう、光秀が信長の命をうけて家康に献上したあの「お福」である。

この「お福/(斉藤福)」が、何時の間にか将軍家お世継ぎである「家光」の乳母に納まっていた。

偶然はありえない。

隠された強力な縁故が、有ったに違いない。

そう勘繰られても、仕方がない歴史的事実である。

このお福が、後に大奥で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)である。

こうした筋書きからすると、二代将軍・秀忠(光忠)天海(光春)僧正春日局(お福)は、従弟(従妹)関係同士と言う事になる。

うまく行くのは当たり前である。

お福は、家康の命により美濃の稲葉重通の養女と成り、林正成(はやしまさなり)を稲葉家の婿に迎え二人の男子を設けていたが、一族再興と子供の出世を願って、夫の稲葉正成と離婚までして家光の乳母「春日の局」になった。

二代将軍・徳川秀忠は、当初長男・徳川家光ではなく二男・徳川忠長を三代将軍に据えようとしたが、春日局(お福)天海僧正の尽力により、駿河に隠居していた大御所・初代徳川家康春日局(お福)が直訴、家康は早速二代将軍・徳川秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。

家光を「将軍」に押し立てたとして、春日局は大奥にあって絶大な権勢を誇るようになる。

息子の稲葉正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

それだけではない。

本章の【第五話】「維新の大業」で詳しく記述するが、この春日の局(つぼね)の実の息子稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。

言わばこの淀藩・稲葉家は、「山城国(現在の京都府南部にあたる)」と言う日本の政治的に最も重要な地域の幕府の押さえである。

そうした稲葉家の封領配置からして、単に春日の局(つぼね)の息子と言うだけではなく、非公式ながら「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられ、これこそ、実は徳川政権内部が「明智の血縁に乗っ取られた」と言う一連の証拠である。

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徳川秀忠(とくがわひでただ)の謎

◇◆◇◆◇【徳川秀忠(とくがわひでただ)の謎】◆◇◆◇

関が原の合戦の折に中仙道を進軍し、信州・上田で真田勢を討ち損ねて関ヶ原の戦いに遅参した事で武将としての評価が低い徳川秀忠である。

しかしながら、天下を手中に収めた偉大なる親に対し比較凡なる二代目多い中、徳川長期政権の礎を地味に築き上げた二代将軍はけして凡庸な二代目ではない。

実はこの徳川秀忠には、「天海僧正=明智光秀説」と並ぶ容易ならざる秘密が有った。


二代将軍・徳川秀忠が、実は明智光忠とするトンデモナイ説の根拠に、三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の呼称・二世権現の謎がある。

つまり、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在する。

問題なのは三代を二世と称する奇妙な事で、何しろこれは天下の将軍家の血筋に関わる記述である。

もしそれが事実と異なる事なら、これは本来、書いた者が厳しいお咎めを受けても不思議は無い大変な記述である。

三代を二世とするからには、二代将軍・秀忠がイレギラーの存在で在る事を暗示させ、故に徳川家光が「家康春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

三代将軍・家光を二世と数えるのであれば、権現としての二代将軍・徳川秀忠の存在は一つ飛ばされている事になる。

つまりこの事は、二代・秀忠の正体が養子であり「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

そしてこの事が事実であれば、春日局(かすがのつぼね)が駿府まで出向いて家康に家光を将軍に推させた事に納得が行く。

徳川家光と徳川忠長(とくがわただなが)は将軍世襲で微妙な状態にあり、実は保科正之(ほしなまさゆき)だけが二代将軍・秀忠の実子と言う事かも知れない。

つまり家光が二世権現や二世様と表記されるのは、家光が家康の「孫では無く子だからだ」と言うのだ。

だが、家光の二世権現や二世様の数え方について、もし家光の父・秀忠が家康の実子でなければ秀忠を初代、家光を二代と数える古文書の存在に説明が着く。

だが、家光の二世権現や二世様の数え方について、もし家光の父・秀忠が家康の実子でなければ秀忠を初代、家光を二代と数える古文書の存在に別の筋で説明が着く。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?


この疑惑を企て、奇策を仕掛けたのは織田信長だった。

血統主義は、氏族が自分達有利の為に構築した「建前」である。

無論、信長の本音はそんな「建前」など屁とも思っては居なかったが、織田信長程その血統主義を、冷静に利用した男は居ない。

そこで、信長が取った二つの手段が、「奇想天外」である。

自分が最も信頼する光秀が、親代わりで育てていた「光秀の従弟(光忠)」を、家康の子として押し込む事である。

「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していた。

さて、ここに秀吉さえ知らない事実がある。
光秀の従弟、光忠の事である。

光忠・・、秀忠、何か感じないだろうか?

「秀」は、明智(光秀)一統の秀だとしたら・・・。

秀忠は、家康の三男とされている。

生まれたのは、「長兄・信康が切腹した年」とされている。

信長は家康の三男長松と年恰好の近い光忠を入れ替える様に命じ、五歳ほど若くさばを読んで押し込んだ。

知っていたのは、信長、光秀、家康と本人だけである。

実は、室町期頃から公家後胤貴族系武士を主体に、血統を重んじる余り「虚弱精子劣性遺伝」が醸成されて系図断絶の危機が起こり系図存続の為の婿養子が増えて一般的となる。

その内にその養子縁組が政略的な目的を持つ「政略養子の事例」も増えて戦国期にはさほど珍しい事では無かった。

この件は、使いの者を介した書状のやりとりで決まった。

相手の信長は同盟の盟主である。

家康はこの提案の受諾を即断している。

使いに来たのが、明智光秀だった。

「織田公が望まれるなら即刻承知故、良しなにとお伝えくだされ。」

戦国を生き抜くには、即時の決断が必要だ。

「かしこまり申した。拙者からも光忠の事、重ねてお願い申し上げます。」

光秀は個人的にも、従弟の光忠の事をくれぐれも頼んだ。

この時から、家康、光秀二人の間に既に絆が生まれていたのだ。

次ぎに信長が目論だのは、家康二男・秀康(後の結城秀康・越前藩松平家の祖)を、羽柴(豊臣)秀吉の養子にする事である。

これは信長の生前は実現しなかった。

しかし信長亡き後、信長の意志を聞いていた秀吉が、その深い目的は知らぬままに、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い後の対徳川家との講和に「信長の遺命」として実現した。

この時点では秀吉に実子はなく、豊臣家も養子取りで、秀吉の後継者に徳川の血が入る。

秀吉も、天下を掌握しつつあったが、実力者の徳川家の処遇には気を使った。

それで、身内に引き入れる算段を信長の発案に求めたのだ。

家康の跡取りは「光秀親代わりの従弟」、秀吉には「家康の子」、光秀には、何れかの時に「自分の孫」辺りを跡取りに押し込む腹積もりでいたのかも知れない。

つまり、信長は有力な配下の血筋をそれぞれ入れ替える事で血統の継続を断ち、古来の常識である「血筋主義そのものを破壊しょう」としていたのだ。

これも、信長が意図した「皇統の万世一系への挑戦」と言う側面を持っていたのだが、そこまでの事は秀吉の知る由もない。

秀吉の養子となった結城秀康(ゆうきひでやす)は、本来は家康二男で、長男切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

しかし秀康(ひでやす)は、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興る。

明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽(徳川御三卿・田安家からの養子ではあるが、藩の血統としては秀康の子孫)へと続いて行くのである。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光忠であれば判り易い松平と徳川の家名の使い分けの読み方がある。

家康・二男の結城秀康(ゆうきひでやす)は豊臣家に養子に行った。

それが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父・家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働く。

その後秀康は、父・徳川家康が征夷大将軍として天下の実験を握ると、加賀藩(百十九万石)薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だから、それなりの処遇は当然で、「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

所が、秀康の嫡男二代藩主・松平忠直の代になると、大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで忠直は不満を募らせる。

家康二男の大名家、将軍・秀忠の兄を祖とする親藩が余り大きくなるのは幕府にとっては不安要因で好ましくない。

しかし、そうした幕府の事情など忠直には知った事ではなかった。

やがて忠直は乱行問題行動を起こし、千六百二十三年(元和九)年、豊後(大分県)に配流になってしまう。

越前福井藩(越前松平藩)の知行も五十万石に減らされ、秀康の子で忠直の弟「忠昌」が越後高田から転封して越前福井藩主(越前松平藩)を名乗る。

以後減らされ続けて一時は二十五万石と三分の一近くまで減り、結局最後は三十二万石と盛時の半分以下のままで終わった。

厳密に言うと、松平春嶽はこの「秀康の子で忠直の弟・忠昌」の末裔にあたる越前福井藩主(越前松平藩)である。

前田利家を藩祖とする加賀藩(前田百十九万石)薩摩藩(島津七十五万石)、仙台藩(伊達六十二万石)や、後に誕生する御三家・御三卿が江戸期を通して安泰なのに比べると、不思議に奇妙な扱いである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子の内、後の世にまで子孫を残す者は、公式には結城秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけだった。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまり、秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

後世になると、徳川本宗家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

この養子話し、現代感覚に慣れ親しんだ方には理解し難いだろうが、この物語を最初から読み始めてここまで来た方には理解出来る筈である。

つまり虚弱精子劣性遺伝の問題も在り、当時の元々貴族社会や武家社会では実子が存在しても政治的配慮から養子を迎えて継嗣とする事に然したる違和感は無かった。

その継嗣感覚の大元に成ったのが他でもない皇統の継承で、天皇の皇位継承(践祚/せんそ)では実子が存在しても、様々な政治的配慮から他の皇族の内依り践祚(せんそ/皇位継承)の相手を選ぶ事はそう珍しい事では無かった。

皇統の践祚(せんそ/皇位継承)からしてそうだったのだから、武家である家康が現代人ほど養子に拘りが無くて当たり前で、当時の常識からすれば一度貰った子はもう自分の子だった。

そこが理解出来ずに、現代感覚の先入観で「そんな筈は無い」と決め付けてしまうから歴史認識が初期の段階で固定してしまう。

いきなりこう言う事を書くと「眉唾物」と思われそうだが、実は徳川家初期にまつわる未解決の謎、天海僧正春日局福井松平藩水戸藩大日本史編纂は、遡って全ての始まりがこの二代将軍・徳川秀忠に辿り着くのである。

そしてこの突拍子もない徳川秀忠の異説に、確証は無い。

確証は無いが、この仮説に従えば全ての謎が符合して謎が解けて来る。

その未解決の謎については、これからこの物語で充分に解説して行く事になる。

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天海僧正の千里眼(天海=光秀説の一)

◆◇◆【天海僧正の千里眼(天海=光秀説の一)】◆◇◆

天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話がある。

千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。

天海の別名「慈目大師」の由来ともなったのが、この千里眼である。

天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こった事や徳川家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。

時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。

読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、光秀の専門分野である諜報手足として伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下を操れるからこその能力では無いだろうか?

天海僧正明智光秀ならば、光秀は妻・妻木(勘解由/かでの)煕子(ひろこ)の縁もあり、織田信長家の諜報組織の全てを受け持っていた今で言う情報局長官みたいな立場だった経歴の持ち主で、天海僧正の「千里眼」は容易に納得でき、不思議な事ではない。

その光秀の諜報組織を、光春(二代目・光秀)が「ソックリ受け継いで居た」とすれば千里眼など造作もない。

伝わる奇跡の正体は大方そんなものであるが、正体を知らなければ恐ろしい能力を持つ「大師・大僧正」と畏怖され信仰されるようになる。

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桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説の二)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺(天海=光秀説の二)

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そしてこれも明智光秀天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件なのだが、光秀が「匿まわれていた」とされる比叡山松禅寺には、光秀没後三十三年目の年に「願主・光秀」つまり「光秀が寄進した」と彫りこんである石灯籠が存在する。

また、大阪岸和田に「本徳寺」がある。

この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて肖像画も残されているのである。

江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。

門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。

桔梗門は、江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され、幕府の要職者が登下城する門だった。

つまり天海僧正は、この桔梗門を利用していた事になる。

門の前には桔梗門橋が架かっていて、門前の掘割は桔梗濠と呼ばれている。

天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。

天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。

それらは、おびただしい光秀の亡霊だが、今となっては生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは特定できない。

しかしながら、天才・織田信長に挑み続けた、天下の秀才がいた事は事実である。

これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが、浮かんで来る。

大逆転である。

天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事になるのかも知れ無い。

徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば、至極判り易い話なのである。

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二人の天海僧正(天海=光秀説の三)

◆◇◆【二人の天海僧正(天海=光秀説の三)】◆◇◆

天海僧正=明智光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。
天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。

天海は、家康秀忠家光の徳川家の将軍三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。

いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。

しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。

我輩が思うに、二人分の生涯が「ダブって計算された」と見るのが妥当である。

そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。

この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。

徳川秀忠明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。

天海僧正明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。

それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。

この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。

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明智平と桔梗紋(天海=光秀説その四)

◆◇◆【明智平と桔梗紋(天海=光秀説その四)】◆◇◆

天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイつくりで、言わば経歴詐称である。

実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺・北院の再建に着手し寺号を喜多院と改めて関東天台宗の本山としている。

その後は急ピッチに家康の信任を得て、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。
 
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し 十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。

豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海であったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。

しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。

天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。

徳川家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目天海に、天台宗・喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。

二代目天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名するのだが、天海が明智に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。

増してや、本能寺の変当時の伊賀超えの家康逃避行が「茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など徳川家が許す訳がない。

この明智平の地名は、今に栃木県・日光の地に残っている。

そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の前身は、平安期の八百七十二年(天応二年)に勝道上人(しょうどうじょうにん)が下野国(しもつけのくに)・男体山頂上(現・栃木県日光市山内)に四本龍寺を開山したもので、その後源氏の棟梁・源頼朝の鎌倉幕府開府後は永く坂東(関東)武士の信仰を集めていた。

千六百十六年(元和二年)に駿河(静岡)・久能山(久能山東照宮)から天台宗・天海僧正によって日光に改葬され、千六百十七年(元和三年)徳川二代将軍・秀忠が、東照社(とうしょうしゃ)として創建した。

前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を日光山に移している。

日光の位置も風水上の江戸の要であると同時に、その建設にはいざ徳川家江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。

東照宮は、徳川幕府にとって誰も否定出来ない極めて重要な施設である。

その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の木造り像の武士の紋は、明智家の家紋「桔梗紋」であり、近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。

徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。

この事は、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない。

天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。

その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神であるり、それに準じる様に東を照らすと来て「現れになった神」と来た。

家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。

この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。

本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。

本場中国では神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)であり、つまり日光東照廟が正しい。

それは、他の実在する人物の神社も同様である。

独自文化と言えばそれまでだが、都合により核心部分を曖昧にするのは日本列島の専売特許みたいなものである。

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東叡山(とうえいざん)寛永寺と秩父神社(天海=光秀説の五)

東叡山(とうえいざん)寛永寺と秩父神社(天海=光秀説の五)

江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠は、相談相手として天海僧正を江戸に置く為に、上野山に寺を造営する。

東の比叡山の意味で、「天台宗関東総本山・東叡山(とうえいざん)寛永寺」と言う。

寛永寺の開基(創立者)は第三代将軍・徳川家光、開山(初代住職)は天海僧正、徳川将軍家の菩提寺でもあり徳川歴代将軍十五代の内六人が眠っている。

風水学に長じた天海の助言で、徳川と江戸の守りの位置に、「寛永寺」は在る。

また、日光東照宮の造営に先駆けてテスト造営され、「家康が寄進した」とされる秩父神社の社殿と言うのが今に残されている。

この秩父神社・本殿の、東照宮に負けない豪華な極彩色の彫刻の中に、何故か「桔梗紋」を着けた僧侶の姿が掘り込まれている。

秩父神社の創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命(県主)が先祖の八意思兼命を祭った。

秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて、実は関東妙見信仰の中心的役わりを担っていた。

その秩父神社に、天海僧正が東照宮建造の予行演習的社殿を家康の為に造営している処からも、家康と天海の宗教的DNAが密かに山岳(山伏)信仰にある事が推測される。

家康が漢方に通じていた所も、陰陽師修験山伏)の出自(子孫)らしいではないか。

秩父神社の近くにも、慈目寺や明智寺が存在する。

これは多くの謎である。

「明智平」の命名と言い、天海が明智に関わりがあり、しかも秀忠が日光陽明門の「桔梗紋」を容認している所が、明智光秀=天海僧正説の重要な要件として一つの検証になるのかも知れない」と、今日の歴史好き達の想像意欲を掻き立てるのだ。


あくまでも推論に過ぎないが、天海僧正の登場にしても春日局の登場にしても、徳川幕府成立後に為された諸般の繋がりが、どう見ても二代将軍・秀忠の本当の出自を疑える情況だった。

それとも世間は、これらの明智に繋がる色濃い疑惑を「ただの偶然だ」と言うのだろうか?

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沼田・土岐氏(ときうじ)

◆◇◆◇◆◇◆【沼田・土岐氏(ときうじ)】◆◇◆◇◆◇

美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐(とき)と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。

美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。

頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。


平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。

土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となる。


土岐氏庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。

この土岐一族の本流の別れが、美濃の国明智郡に居を構え、小城を築いて、明智姓を名乗った。


明智氏(あけちし)は、清和源氏流・摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族で、南北朝時代の美濃国守護・土岐頼貞(土岐氏としての美濃国守護初代)の九男・土岐九郎頼基の子・明地彦九郎頼重の後裔とされる。

発祥地は現在の恵那郡明智町だが土岐宗家五代・土岐頼遠の岐阜長森移転に伴い、明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。

室町時代、明智氏は足利幕府に直接仕える奉公衆を務め、代々可児郡長山の明智城に拠ったとされており、戦国時代には明智光秀(あけちみつひで)が出た事で著名となる。

つまり明智光秀の方が、織田信長の平家より遥かに源氏の本流に近く、言わばバリバリの血統書付きだった。


本能寺の変で主家・織田信長を死に至らしめ、羽柴秀吉との山崎の戦いで滅んだ明智氏だが、江戸時代に沼田藩主となった土岐家は自称・明智氏の流れである。

上野国(群馬県)沼田藩主土岐家の祖・土岐定政(ときさだまさ)は、安土桃山時代の武将だった。

父は土岐頼芸の臣・土岐明智定明、母は三河国・菅沼氏の娘と伝えられる。


定政(さだまさ)は美濃多芸郡に住したが、千五百五十二年(天文二十一年)土岐氏主流滅亡の際、父・明智定明が戦死した。

為に二歳で母方の実家を頼って三河に移り外祖父・菅沼定仙(すがぬまさだのり)に養われて成長した後、駿河から戻った徳川家康に仕えた。

この仕官にあたり、明智光秀と同族である事を憚(はばか)って、養家の菅沼を名乗り菅沼藤蔵と称したとされる。

以後、菅沼藤蔵は徳川軍に在り、小牧・長久手の戦いや小田原征伐でも軍功を挙げ、後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に一万石を与えられた。

菅沼藤蔵(菅沼定仙)は歴戦の勇士として名を成したが「性質は粗暴で在った」と伝えられている。


千五百九十年(天正十八年)、豊臣秀吉の裁量で家康の関東入部が決まり、徳川家の石高が大きく増える。

その際に菅沼藤蔵は下総相馬郡に一万石を給され、三年後の千五百九十三年(文禄二年)に家康の命で本姓である土岐氏に復し土岐定政(ときさだまさ)とした。

その沼田藩主・土岐家(ときけ)は、明智氏の流れで在りながらお家安泰で、徳川親藩として各地の藩主や大坂城代などを歴任している。


土岐頼殷(ときよりたか)は、出羽・上山藩(かみのやまはん/二万五千石)の第二代藩主で、後に越前野岡藩を経て駿河田中藩(三万五千石)の初代藩主となった。

老中であった土岐頼稔(ときよりとし)の代に、駿河国田中藩から上野国沼田に三万五千石で入部、幕末まで定着して明治維新を迎えている。


そして徳川幕府成立以来、沼田土岐家(ときけ)は、移封される領国の所在地はともかく江戸に詰めて幕府官僚としての役職を歴任している。

この明智流土岐家への徳川親藩扱いに、初期徳川幕府の体制を固めた「徳川秀忠天海僧正春日局(斉藤福)トリオの意向が働いた」と推測するのは無理筋だろうか?

そしてその沼田土岐家(ときけ)の処遇を、「大御所・徳川家康も容認した」とすれば、それ相応の隠れた意味があるのかも知れない。


確かに沼田・土岐家(ときけ)は三河以来の家臣であるが、それを言うなら土岐家(ときけ)以上に貢献し家臣と比較しても最初から一万石は厚遇である。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居た。

天下を取った家康がその安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられている。

いずれも、本来ならもっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事との比較である。


それらの縺(もつ)れた糸の全てが、明智の名で一つに繋がっていた。

こう言う歴史の謎は、例え突拍子も無いものでも可能性が出て来た以上それを否定する確実な証拠が出て来なければその謎は現に存在し、それを常識と言う名の想像だけで否定する事は出来ない。



関連記事【「水戸黄門万遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞】を参照。




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日本人の祖先は何処から来たのか?
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族
世界文化遺産・富士山名称の謂(いわ)れ
天照大神天の岩戸伝説は只の神話か?
天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)
仮説・宇佐岐(うさぎ)氏=須佐王(スサノウ)説
神武東遷物語・神話顛末記最新版
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する
大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程
広域倭の国論(定説・日本倭国論の疑惑)
欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)
古代国家・邪馬台国卑弥呼は何者か?
葛城ミステリー伊豆の国=伊都国(いとこく)説
日本語のルーツと安倍氏
大和(やまと)のまほろば(マホロバ)
天狗修験道犬神人身御供伝説
日本の伝説リスト
秋田美人ナニャドヤラ
名字のルーツ氏姓(うじかばね)の歴史
人が創りし神と仏の間に
政府の犬(官憲)表現は由緒正しい
日本史・歴史のミステリー
暗闇祭りの歴史認識

誓約(うけい)
性文化史関係一覧リスト

私の愛した日本の性文化
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー
日本人・その気質のルーツ
筆おろし(ふでおろし)と水揚げ(みずあげ)
古代日本史の考察
日本史時代区分大略・一覧表
夫婦睦の木(めおとむつみのき)
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】【陰陽師=国家諜報機関説
】【賀茂忠行(勘解由小路家)と安倍晴明(土御門家)の謎
】【仁徳天皇(にんとくてんのう)と天皇陵(てんのうりょう)最新版
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】【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。
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】【「本能寺の変」の謎・光秀の本能寺
】【本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。
】【明智光秀天海僧正説を検証する
】【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)最新版
】【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓最新版
】【徳川家康二人説の謎を追う
】【豊臣秀吉・山窩(サンカ・サンガ)の王族説
】【軍師・黒田官兵衛孝高と長政
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】【豊臣家滅亡の要因・秀頼の実父別人説疑惑
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】【「水戸黄門漫遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞
】【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機最新版
】【松下村塾々生・維新顛末記最新版
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】【西郷隆盛・命を賭した西南戦争(西南の役)
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】【チャングムの誓い「徐 長今 ソ・ジャングム のメモ」

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舛添東京都知事と沖縄米軍軍属の蛮行・・最新版
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破綻危機に在るアベノミクス
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民主党・野田政権は最低の政権〔U〕
企業経営に於ける「共生理念」を提案する
小泉改革の正体
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国際競争力と法人税率再軽減論の怪
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自民党大政奉還論
政権の疑惑を追求せよ随時更新中
日本の針路は大丈夫か?パートT
日本の針路は大丈夫か?パートU内閣府特命大臣の美名?
日本の現状と小泉内閣への私見
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【◆】浜岡原発は無防備ではないのか?
【◆】福島第一原発の危機は去ったのか?
【◆】大飯原発再開はおおいなる矛盾
【◆】南海トラフ巨大地震・「東海地震と三連動の記録史」
【◆】首都直下型巨大地震の記録史
【◆】巨大地震記録・年表
【◆】巨大地震と浜岡原発インディアン嘘つかない・・・偽(いつわ)り
【◆】東電福島原発事故リアルタイムのブログ
【◆】未曾有の大震災・日本政府は「今、何を為すべきか?」
【◆】今こその東北復興と政治力
【◆】東北大震災後の称賛される日本人
【◆】インターネットの脅威と知り過ぎた反乱の時代
【◆】パソコン遠隔操作事件
【◆】ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」
アンカリング効果と一貫性行動理論

ロックイン効果の心理理論
ネットワーク外部性の理論
またも鮮明になる建前上の「筈だ切捨て論」の絶望
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単純な主張・俺が思った論最新版
シンクロニー(同調行動)の解説
なぜ男はストーカーに成るのか?
吊橋効果(つりばしこうか)の心理を検証する
オレオレ詐欺占術霊感商法
金(かね)と日本人
教育問題の要点を考える
美しくなれる興奮の解説
人間 の性と精神の考察
子育てと母乳の解説
絶滅危惧品種・日本人
少子化問題と性への嫌悪感
ヒマラヤ桜と染井吉野桜と毛虫
幸せの国・ブータン王国・・・日本人は幸せですか?
堀エモンと日本の転換期の考察
美しい国・日本への危惧
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宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)の考察最新版
自転車走行レーンの整備拡充
サブプライムローン
規制緩和
逆説の食品偽装(内部告発)
バブル崩壊とその後の不況
単語選挙読解力
ワーキングプア(働く貧困層)
「長寿医療制度」後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)
物造り大国日本の矛盾
限界集落問題
国民に負担を掛けない赤字国債の処理方法
ブランド神話への警鐘
外国との税率比較論のまやかし
木を見て森を見ず
ヒトラーの台頭した環境と現在の日本の類似点
隠し赤字の実体
官僚(役人)のアマーイ立場
官僚大国・日本から脱出する方法
官僚出身議員二世・三世議員への危惧
何度もあったリセット
少子高齢化問題の具体策
NHK問題の考察
男女共同参画少子化担当大臣のまやかし
若者の未来(ニート急増の影に)
ドキュメント中小企業倒産
一夫十一妻疑惑騒動?の考察


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未来狂冗談の作品リスト


【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

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とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の

冗 談 小 書 店

【この作品群は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の著作品です。】

公開はしていますが、
著作権はあくまでも作者にありますので、作者の了解無く
本作を引用等しないで下さい。
もし違法行為を発見した場合いは、法的手段に訴えます。
なお本作に登場する組織、団体、人物キャラクター等は創作であり、
実在の人物を描いた物では無い事をお断り申し上げます。

作 品 一 覧

作品( 無償公開中無償公開中購入
(18禁)夜鳴く蝉・葉月 作品をを見る

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(18禁)蒼い危険な賭け・京香 作品を見る

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作者本名鈴木峰晴