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samurai 【源義経と二人の女性(にょしょう)】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。

【悲劇の武将は生涯に二人の女性(にょしょう)に愛されて居た


【悲劇の武将は生涯に二人の女性(にょしょう)に愛されて居た****【悲劇の武将は生涯に二人の女性(にょしょう)に愛されて居た****【悲劇の武将は生涯に二人の女性(にょしょう)に愛されて居た****

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の小説です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

【源義経と二人の女性(にょしょう)】

◆ 未来狂冗談の小説

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御注意)本作品・【源義経と二人の女性(にょしょう)】は史実を基に構成しておりますが、
諸般の事情に拠り「小説仕立て」とさせて頂きます。


源義経と二人の女性(にょしょう)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約一ヵ月間と一週間程お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔第一話〕  【あらすじ・お薦めポイント
〔第二話〕  【平将門の乱
〔第三話〕  【伊勢平氏
〔第四話〕  【高級遊女・白拍子
〔第五話〕  【保元の乱
〔第六話〕  【平治の乱
〔第七話〕  【平清盛の死
〔第八話〕  【源頼朝(みなもとのよりとも)
〔第九話〕  【遮那王(しゃなおう)
〔第十話〕  【義経奥州行
〔第十一話〕 【北条政子の野心
〔第十二話〕 【政子の婚礼
〔第十三話〕 【以仁王(もちひとおう)
〔第十四話〕 【平家打倒の旗挙げ
〔第十五話〕 【義経、兄・頼朝と対面す
〔第十六話〕 【戦闘の天才
〔第十七話〕 【木曽義仲(きそよしなか)
〔第十八話〕 【源範頼(みなもとのりより)
〔第十九話〕 【松浦(まつら)水軍
〔第二十話〕 【義経、都に凱旋す
〔第二十一話〕【義経の正妻
〔第二十二話〕【異母弟・義経
〔第二十三話〕【義経、逃避行
〔第二十四話〕【鎌倉殿御家人
〔第二十五話〕【静御前(しずかごぜん)
〔第二十六話〕【実家・河越氏の悲劇
〔第二十七話〕【奥州平泉衣川館
〔第二十八話〕【奥州討伐・藤原氏滅亡
〔第二十九話〕【頼朝と朝廷の暗闘
〔第三十話〕 【範頼逆心の疑い
〔第三十一話〕【頼朝の死。疑惑の空白
〔第三十二話〕【阿野全成(あのぜんじょう)
〔第三十三話〕【北条時政(ほうじょうときまさ)
〔第三十四話〕【二代将軍・源頼家
〔第三十五話〕【御家人・サバイバル
〔第三十六話〕【畠山重忠の乱
〔第三十七話〕【北条時政の政権追放
〔第三十八話〕【三代実朝(さねとも)
〔第三十九話〕【承久の乱(じょうきゅうのらん)



あらすじ・お薦めポイント

【悲劇の武将は生涯に二人の女性(にょしょう)に愛されて居た


◇◆◇◆◇◆◇◆◇あらすじ・お薦めポイント◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 未来狂冗談の歴史・時代小説です。

歴史の真実は、全て正史の裏面に在る。

これは、主人公・源義経を英雄(ヒーロー)仕立てにした娯楽小説では無く、多くの資料を駆使して推理構築した考察的歴史小説である。

天孫降臨伝説にしろ皇国史観にしろ、時として日本史は統治の為に捏造されて来た。
建前の綺麗事で語られる、手前味噌な伝記や興行の為の脚色も多く、それ故に日本史を志すものにとっては「真逆の発想」を持って事を推理する必要を感じた。


主人公・清和源氏流・源義経(みなもとよしつね)は、悲劇の武将としてイメージが定着している。

まぁ、異腹の長兄・源頼朝(みなもとよりとも)の天下取り(鎌倉幕府開府)に助力して転戦、漸く平家を滅ぼした挙句、その兄・頼朝(よりとも)に謀反の嫌疑を掛けられて追われ、奥州の地で匿われていた奥州・藤原家に襲撃されて妻子と伴に落命する悲劇の主人公だからである。

だが、この源義経(みなもとよしつね)の人生を検証すれば、その影に在った「権力闘争に翻弄されたもので在った」と解釈されるのである。

実は、悲劇の武将、源義経に従うのは、修験山伏組織のエリート集団だった。

源義経が平家の目を逃れて奥州・藤原秀衡(ふじわらひでひら)の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきである。

少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、裏陰陽組織・勘解由小路の仕事に確たる証拠は残らない。

尚、この物語では現代風に処置したが、源義経の名前の読み方は正式には「みなもと の よしつね」なので一応御紹介しておく。

勿論、平清盛(たいらきよもり)も「たいら の きよもり」である。


用語人名解説・日本史検索・クリックリスト


平将門の乱

◇◆◇◆◇◆◇◆◇平将門の乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この源義経と二人の女性(にょしょう)の話を、源氏台頭以前の時代背景、平安中期に遡って平氏・平家の話しから始めよう。

平安中期は、平氏が台頭して来た時代だった。

平氏は桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の皇子「勝原(かつはら)親王」に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、一方の旗頭であった。

平氏もまた、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。

平氏の大基(おおもと)にあたる桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではないのだが、良くも悪くもその個性を血筋として受け継いだ事が、その後の桓武平氏を名乗る指導者達の厄介で強烈な生き方として現れるのである。


源氏が武門としてデビューする前、平氏は当初、朝廷へ出仕する正規軍として期待されていた。

その大半は中国・四国、九州、或いは関東の守りの要として赴任、所領を得て土着する者も多かった。

平安中期当時の地方の統治体制について、政治は藤原氏一門、警察・防衛は平氏一門が、主に担当していた。

特に関東以北には、先住民族の蝦夷(えみし)と呼ばれる他民族(当時)が独立して存在し、これの抑えが必要で平氏が多数配置されたのだった。

この関東系の平氏については、昔から中央の役人と「一線を画していた」事も事実で、つまり中央に遠く目が届き難い為、発想が朝廷政府の意向に囚(とらわれ)ない自由なものだった。

当時の気分としては、高貴な筈の自分達が、都から遠い辺境の警備に追いやられ、「苦労をさせられている」と言う、ひがみと恨みが根底にあったのである。

そして、応分の裁量権も暗黙のうちに存在した。

「応分の裁量権」と言えば綺麗だが、つまりは私的武力を背景にしたかなり勝っ手放題だったようである。

地方豪族、地方国主(臣王)の集合体をまとめていた朝廷(帝)の権威は、ご託宣(神の助言による統治)である。

そして地方統治は、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を持って行なっていた。


神の権威を持って任ずる帝に、武力は不要の筈だった。

その帝の代わりに、中央から派遣されて朝廷の地方行政業務を代行したのが、強力な武力(私兵)を背景にした藤原氏の一党である。

所が、藤原氏の勢力が衰え始めた平安中期頃になると、中央から派遣された地方行政官としての藤原氏は無力化し、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を拡大して勝手な領地争いを始め出した。

その地方での混乱を、「神の力で統治する朝廷(帝)の権威」と言う建前から、直属の武力を持たない帝が押さえられる訳も無い。

そこで考えたのが、皇統に拠る変則的な帝の私兵、親王臣籍降下によ拠る軍事力の創立である。

桓武帝(第五十代)の皇子「勝原(かつはら)親王」に端を発する皇胤(こういん)貴族の血統賜姓の「平(氏)」を賜った高貴な血筋の武家の一門が、朝廷の正規軍として期待されていたのである。

その平氏が独自に実力を強め、帝のコントロールから変わり始めると、次に送り出したのが同じ皇胤(こういん)貴族の「源(氏)」と言う訳である。

そして官僚部門を受け持つ藤原氏は、武力に勝る平氏に、全国各地で次第に権限を抑えられて弱体化して行った。

藤原氏の弱体化で頭を押さえる者が居なくなると、行政官の長(受領/ずりょう・国司)として赴任して来た平氏系の下級貴族及びその部下として赴任した下級官司は武装を強め、赴任した地方で勝手に所領を取り合う私闘を始める。


平安中期・関東一帯で平将門(たいらのまさかど)が、瀬戸内地方一帯で藤原純友(ふじわらのすみとも)が乱を起こす「血統の権威が綻(ほころ)びを見せ始めた」とも言える承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の大乱を迎える。

この平将門(たいらのまさかど)が起こした大乱の原因が、義父・平良将(たいらのよしまさ)から受け継いだ将門(まさかど)の所領を、将門(まさかど)が都に出仕している間に伯父の鎮守府将軍・平国香(たいらのくにか)が奪った事に端を発したものだった。

その後平将門(たいらのまさかど)は平国香(たいらのよしまさ)の子「平貞盛(たいらのさだもり)」を戦いで破るが、討ち取るに到らず取り逃がし、やがて反乱を起こして中央派遣の朝廷役人を捕縛または追放し、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、関東の地を一時中央政権から独立させた。


相馬の小次郎・平将門は、平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)ら討伐軍とは「猿島郡の北山」で迎え撃ち、流れ矢に当たってあっけなく敗れた。

この平将門の乱時の敵役・平貞盛(たいらのさだもり)が関東に居辛くなって伊勢に移住し、伊勢平氏となる。


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伊勢平氏

◇◆◇◆◇◆◇◆◇伊勢平氏◆◇◆◇◆◇◆◇◆

平安末期、朝廷では白河上皇(法皇)が藤原氏を退け、源氏の力を削いで自らが深く統治に関わる院政を引く。

この頃、伊勢平氏の棟梁家では、初代・貞盛、二代・維衡(これひら)、三代・正度(まさのり)、四代・正衡(まさひら)と続き、五代・正盛(まさもり)の代に成って居た。


この平正盛(たいらのまさもり)、自分の所領を寄進するなどして、白河上皇(法皇)に取り入って出世の糸口を掴み、その後上皇の護衛などして信頼を得、昇進を果たして行く。

その子・六代・忠盛(ただもり)の代に成ると、盗賊の捕縛、寺社強訴の合戦鎮圧、海賊の鎮圧と活躍、朝廷での権威は源氏を上回る様に成る。

忠盛(ただもり)は、没した時には「正四位上・行部卿」と言う高官に出世していた。


その伊勢平氏の子孫・平忠盛(ただもり)の嫡男として七代・平清盛(たいらのきよもり)が出て平家(へいけ)となり、平清盛(たいらのきよもり)は天皇の外祖父にまでなって権勢を振るった。

平家は平氏の一門ではあるが、この物語では平清盛の一族を他の平氏と分離する為に平家とした。

平清盛、「皇統の出自」と言っても桓武天皇(第五十代)から数えて十三代目になる枝で、本来なら最初の身分は低い。

平清盛は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として本拠地・伊勢の産品(うぶしな/現在の三重県津市)で産まれた事に成っているが生母は不明で、一応生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれる女性の「妹ではないか」と通説されている。

伊勢平氏の棟梁・平清盛は伊勢平氏棟梁・忠盛の嫡子として生まれ、白河法皇の晩年の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)に仕えて出世の糸口を掴んでいる。

一説には、幼少の平清盛を庇護していたのは、白河天皇(しらかわてんのう)の妾妻(正式ではない)とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれた謎の女性で有る事や、清盛が十二歳で異例の従五位下左兵衛佐に叙任された事から清盛の実父は「白河天皇である」とのご落胤説もある。


これが事実なら、平清盛(たいらきよもり)が朝廷で勢力を発揮するのも理解できるし、平氏の一部・清盛(きよもり)の一族がが敢えて「平家」と分けて呼ばれるように成った理由も説明が着く。

武士が「潔(いさぎよ)い」などと言うのは綺麗事で、ご承知のように歴史の真実には綺麗事ばかりが在る訳ではない。

何しろ稚児小姓(ちごこしょう)との衆道(しゅうどう/男色)関係も一般的に在った時代で、何も無い主従の信頼関係は脆(もろ)いもので、氏族社会では夫の栄達の為に女房(正室)の召し上げや献上は指して珍しくない事だった。

「お家」が大事な時代だったから召し上げや献上は情とは別の次元の話しで、「お家が権力者の後援を得る」と言う「利」がある事は立派な価値観だった。

誓約(うけい)の国・日本(ひのもと)に古くからある連語の「一肌脱ぐ」は、今は「人を助ける」と言う広い意味に使われるが、元来相手に誠意を見せる為のこう言うナチュラル(自然体)な誓約(うけい)対応の時に使うのが正しい。

それだからこそ、「一肌脱ぐ」は効果的な手段と成って「助けたい相手の力に成る」と言うものである。

まぁお家の為に帝のお召しに応じるなど、もしかしたらこの時代の女性の方が、武士や貴族より余程「潔(いさぎよ)かった」のかも知れない。

召し上げも、中には召し上げられる方の女房(正史室)籍のままの事も在ったから、平忠盛(ただもり)の正妻または妾妻が摘み食いでお上(帝または上皇)に召されて懐妊に及んだ。

今と成っては闇の中だが、お家が大事の環境だから伊勢平氏棟梁家の妻腹に天皇家の御落胤を迎えた。

つまり平清盛が帝の種である可能性が在っても不思議はない。


特筆すべきは、武士の任官は三等官の「尉」から始まるのが通常で、二等官の「佐」に任じられるのは極めて異例な事で、落胤説にしろ祇園女御(ぎおんのにょうご)の口利きにしろ、いずれにしても平清盛(たいらのきよもり)は相当朝廷(帝)に対するコネ(縁故関係)が強かった事に成るのである。


そこで「平清盛(たいらのきよもり)の父親ではないか?」とされる白河上皇だが、これがまた権力欲の権化のような上皇だった。


藤原北家流の摂関政治(せっかんせいじ)は、千六十八年(治暦四年)の皇統を一条天皇系へ統一すると言う流れの中で行われた後三条天皇(七十一代)の即位に拠って揺らぎ始める事となる。

後三条天皇(七十一代)は、宇多天皇(五十九代)以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない百七十年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた藤原北家流摂関政治が成立しない事態を迎えた。

そんな政治状況下で、即位四年後に後三条天皇は第一皇子・貞仁親王(さだひとしんのう/七十二代・白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没してしまう。

後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子だった白河天皇(後に上皇・法皇)(第七十二代)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言したのである。

しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据えた。

所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。

白河上皇は、堀河天皇即位の時周りを納得させる為に、「次には輔仁(すけひと)親王を天皇位につけてやる。」と約束していた。

しかし、この白河上皇(法皇)が結構に曲者で、公家と勘解由小路党(かでのこうじとう)を使って自らの院政を画して源氏と平家の間を暗躍する。

白河上皇が立てた堀河天皇が夭折すると、白河上皇(法皇)は次には輔仁(すけひと)親王との約束を破り、わずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言時の約束とその後の弟との約束を、二度も反故にしたのである。

後三条天皇の後を受けた白河天皇の母も、摂関家ではない閑院流出身で中納言・藤原公成の娘、春宮大夫・藤原能信の養女である女御藤原茂子で在った為、白河天皇は、関白こそ置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。

そうした白河統治ビジョンに、平清盛(たいらのきよもり)は組み込まれて行く。


白河上皇(法皇)は、藤原氏による摂政・関白政治を改め、自らが政治権力を掌握する野心を持っていた。

長く太政大臣を独占していた藤原一族の勢力が漸(ようや)く衰えを見せて、地方の政治運営が乱れていた時期で、そこで藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党)は邪魔である。


藤原氏の勢力を裂く事と河内源氏(源義家一党)の勢力を裂く事が同じだった情勢で、対抗するもう一方の武門の旗頭、平家の力の育成に密かに腐心していた。

白河天皇の登場で、藤原氏の摂関政治から天皇の直接統治が試みられた。

これは、或種の「革命」と言って良い。

何故なら、大和朝廷成立当初からの天皇としての立場が神秘的象徴としての重みを基に君臨するもので、余り細かく意見や指示を出す習慣が無かった。

つまり天皇は、長期に渡り神格化させ、下世話な立場で在っては成らない程に尊い存在で在ったのだ。

言い換えれば、和邇(わに)、葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、曽我(そが)、藤原(ふじわら)と言った大豪族(臣王?)達の時々の影響下で実質的には象徴的要素が確立して直接天皇が意見や指示を出す習慣が失われ、天皇の直接統治は馴染まない風土が育って居たからかも知れない。

処が白河天皇は勘解由小路党を手足に諜報活動をさせ、有力氏族の力を弱めて次々に幼帝を立て院政を始めてしまう。


白河上皇(第七十二代)が亡くなると、先に退位させられた鳥羽上皇(第七十四代)が権力を握り、崇徳天皇(第七十五代)を退位させ僅か二歳の近衛天皇(第七十六代)を即位させて同じ様に院政を引く。

しかしその近衛天皇が、予定外の十六歳で亡くなって話がおかしくなった。

崇徳上皇にしてみれば、今度は自分の子「重仁親王が帝位に付く」と思ったのに、後白河天皇(第七十七代)に浚(さらわれ)てしまう。

鳥羽上皇(第七十四代)が亡なると、若くして引退させられた崇徳上皇(第七十五代)と後白河天皇(第七十七代)の権力争いが始まる。

ここで皇統の影人として活躍するのが皇室直属の秘密諜報組織・勘解由小路党である。
この時、陰陽師影総差配、勘解由小路吉次を握っていたのが後白河天皇だった。

ただ、建前「神の名に於いて統治する帝や院」にとって、それはあくまでも影の諜報組織であり続けなければならない宿命を帯びていた。

後白河法王が院政を敷くに当たり、勿論その権威だけではその院政の維持運営は適わない。

院(後白河法王)の傍近くに居て、歴史的に表面には出せない実行組織(秘密諜報組織)が存在しなければ、あまたの公家貴族や武士などの勢力を操れる訳が無いのだ。


その勘解由小路党は、後白河天皇から内々で「影領」を賜っていた。

名目は後白河天皇の持ち物(御領地)と言う事に成っている「伊豆の荘園・狩野荘」である。

伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇(院)期に成立し、十二世紀の「鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げた」とされる。

当時の「伊豆狩野荘」は後白河上皇(院)の御領地である。

つまり、後の江戸徳川幕府の幕府直轄領韮山代官所に至るまで、何故か伊豆国は象徴的に重要な場所だった。

特筆すべきは後白河上皇と勘解由小路党が、「伊豆狩野荘で結び付く」と考えられる点である。

つまり「伊豆狩野荘」は、賀茂氏流れで、伊豆の国に縁のある勘解由小路党の「秘密受領地(活動資金源)であった」とも解釈出来るのだ。

こうした影の拝領地は、後に後白河上皇から紀伊半島にも数箇所賜っている。

白河上皇(院)以来、賀茂家に所縁の地である狩野荘を介して、影働きの関係が成立していたのだ。


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高級遊女・白拍子

◇◆◇◆◇◆◇◆◇高級遊女・白拍子◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この頃から後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。

しかし人間の考える事は何百年何千年と進歩は無いらしく、この白拍子の存在は李王朝時代の妓生(キーセン)、現在の朝鮮半島北側の国・北朝鮮の「よろこび組」も基本は歌舞音曲の芸能と性交接待が役目と言う点でまったく一致している。

その「白拍子遊び」の流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。

そしてこの物語の主役・源義経のもっとも有名な妾妻・静御前も、当代きっての白拍子だった。

世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。

遊び女として、相手の懐に飛び込み、生の情報を拾ってくる白拍子の元締め、勘解由小路党総差配・吉次に勝る組織的諜報力は無い。

もたらされた情報が、後の政局を左右する貴重なものが得られたのである。


近頃やたらと「品格」が問題になる。

しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」にする権力者の不正は跡を絶たないのである。

どうやら「貴人(特権階級)」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。

もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。

勘解由小路党総差配、吉次が後白河法皇に進言、高級娼婦「白拍子」を育成して諜報機関に組み入れた。

「白拍子」、実は急造の組織ではない。

密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。

それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。

男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。

一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。

「白拍子」にとって、性行為は課せられた仕事で有り、殿方を満足させるのは性技術である。

従って、予めの修練には相応の教育が課せられ、充分な実践教育を受けて、世に出る事になる。

心構えが違うから、いかなる行為にも躊躇(とまど)いなど無い「性人形」と化す。


この白拍子を、現代の感覚で単なる娼婦と誤解しては困る。

男性にとっての付加価値観は、「高嶺の花を抱く」であり、性技や芸技の修行は基より知性と教養をも修めた女性が始めて白拍子に成れた。

白拍子には諜報機関の女性諜報員としての側面も在ったから、時の為政者も納得するほどの知性と教養を兼ね備えて下手な不勉強者よりも「充分に論議のお相手が出来た」と伝えられている。

後の世の花魁(おいらん)も然りだったが、その遊び女としての価値観は美貌と美しい姿態に加えて知性と教養を兼ね備えた女性と遊ぶ事であり、格式が高い点ではまさに高級娼婦だった。


平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。

そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階層として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。


その律令制に於ける被差別階層の賤民(せんみん)を、奴婢(ぬひ)と称して地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、遊び女(め)として育て上げる。

更に勘解由小路党は、「白拍子」に殿上人に伍す学問を身に着けさせて、呪詛巫女に仕立て上げた。

その巫女の身分も親子代々受け継がれ、それを統括するのも勘解由小路党の役目だった。

その延長上に「白拍子」の組織は出来上がった。

律令制に於いて、民は良民と非良民に分けられていた。

「非良民」とは支配者に税を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。

その被差別階級は生き方が制限されていて、「白拍子」の身分は、奴婢(ぬひ)としての生活の中ではより益しな方だった。

「白拍子」は、目的が女性(によしょう)の立場を生かした高度な情報収集であるから、相手の懐(ふところ)へ入らなければ仕事にならない。

それ歌舞の衣装は、本来裸身が透ける様な白の薄絹で淫秘な雰囲気をかもし出し、殿方の誘惑には余念がない。

男達の五感に訴え、彼らの気持ちを良好にさせるにはそれなりの演出が必要で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激、誘惑する業が今様を踊る「白拍子」の役目であるから、その音曲なり、姿なりは相応にエロチックで、魅力的なものでなければならない。


とにかく「白拍子」は、表の顔と裏の顔を同時に背負わされてこの世に生まれた存在だった。


さて、源平の経緯からすると、平家の方が臣籍降下してからの世代が古く、つまり皇統とは世代が代わり過ぎて縁遠くなっていて、後から臣籍降下した源家の方が現皇統に近くて有利に官職に着いていた。

その為に、以前は摂関政治の藤原氏と組んでいた清和源氏流が桓武平氏流を凌いでいたのだが、奥州の大乱・後三年の役(源義家と清原真衛、清原清衛、清原家衛が絡んで争った戦い)の処理を白河天皇の意向で「私闘」とされて源義家は勢力を弱められ、その挽回を図っている最中だった。

この後三年の役の処置で、清原清衛(きよはらのきよひら/藤原清衛)には奥州六ヵ国の支配権が転がり込み、「私闘」とされ戦い損と成った源義家(八幡太郎)は私財を投げ打って部下に恩賞を配った事で、その心意気に武士達から信用されて「武門の長」と言う称号を付けられ、以後「征夷大将軍は源氏の長者が勤める」と慣例化して行った。

源氏流は、皇統の血流・皇胤(こういん)貴族であるから、和邇、大伴、中臣、蘇我、と言った諸王族の出自よりも遥かに皇統には思い入れが強い。

源氏流にも諸派があり、村上源氏、清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏、など清和源氏だけで二十一流が在り、源頼朝は清和(陽成)系河内源氏が正確である。

源義経(みなもとよしつね)の源家も、皇統から臣籍降下で、賜姓の「源氏」を賜った血統で、武門として朝廷の統治を補佐する家柄である。

彼らは武門と言う事で特に天台、真言の両密教との交流も激しく、帝の影働き・勘解由小路党とも近い関係だった。


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保元の乱

◇◆◇◆◇◆◇◆◇保元の乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆

第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。



千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると、崇徳上皇(法皇)と後白河天皇が実質主導権をめぐって「保元の乱」が発生する。

「上皇(法皇)と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。

この上皇(法皇)と天皇の争いで、崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛、源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして崇徳方の動きを封じた。

崇徳上皇(法皇)方は大敗をきっして源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇(法皇)は「讃岐」に流配刑と成った。

勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。

この争いの中に、源姓、平姓が双方に出て来るが、実は親・子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いで在った。


この時の動乱を「保元の乱」と「平治の乱」と言うが、この争乱をきっかけに武力が政権維持に欠かせない事が証明され、武家が勢力を伸ばして政治の実権を握る様に成って行った。
同時に、官僚(公家)の藤原氏は衰えを見せる事に成る。

一旦は手を握った平清盛と源義朝であるが、此処から平清盛が政治力を発揮して中央の権力を独占掌握してしまう。

この政治力、朝廷運営の吉凶を占う助言者としての土御門(安倍)家の奏上が、ものを言っているかも知れない。


支配者の血統身分である氏族(武門)の間では支配権が価値観だったから、親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が続くが、その一方で庶民(民人)は生きる為に一村落皆身内気分の「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて、統一的な精神性など無かった。

庶民(民人)はその被支配者としての平和的な生き方の上で、当時としては知恵を絞って最良の選択をしていたのである。

「保元の乱」と「平治の乱」で中心的役割を担った武将の一人源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝や源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男/源義経・達の父親である。

平安の都(京)に生まれた源義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。

千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶ。
しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。


乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられるが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。


ここに一つキーワードがある。

保元の乱で功績の在った源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に、隠された何かが有るのだろうか?

勿論、平清盛の白河天皇御落胤説が本当なら、然(しか)るべきだが、藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?

勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?

或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。

つまり武士として力は有ったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。

それに比べ、桓武天皇の子「高望王(平姓)」の直系、平清盛とその一族は厚遇され、しばらくの間は、後白河上皇と平清盛の蜜月が続いた。

平清盛は、妻・平時子の姉妹である平滋子(建春門院)を上皇に娶せ、その間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子とした。


「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位、自らは法皇と成って院政を敷こうとする。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも院近臣・藤原信西(しんぜい)と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。

ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。


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平治の乱

◇◆◇◆◇◆◇◆◇平治の乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆

実際には、平治の乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は信西と対立していた藤原信頼と手を結び、謀反を起こして後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。

しかし「源義朝立つ」の急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

この平清盛の熊野(和歌山)参り、実は源義朝方の不穏な動きを察した清盛が用意周到の上に画した「誘い出しの罠だった」とも思える手際の良さで、義朝の完敗だった。

破れた源義朝は清盛の武力に抗し切れず畿内の地に留まる事をあきらめ、鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・源義平(長男では在るが妾腹で、嫡男はあくまでも三男の源頼朝)と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、義朝嫡男・源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

父・忠盛の死後、平清盛(たいらのきよもり)は平氏棟梁となり「保元の乱」で後白河天皇の味方をして信頼を得、「平治(へいじ)の乱」で源頼朝の父・源義朝(みなもとよしとも)を破って、平清盛は最終的な勝利者となる。

平清盛(たいらのきよもり)には、類稀(たぐいまれ)な政治力があった。

その政治力を発揮し、平清盛は武士では初めて太政大臣に任ぜられる。

公家と武家の狭間とは言え、武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

平清盛は強大な権力を握ると、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築いた。

しかし平清盛は、平家の権勢に反発した後白河法皇と対立を始める。


千百七十七年には、院(後白河)と平家(清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。

これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。

藤原師光(ふじわらのもろみつ/西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。

この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

治承三年(千百七十九年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。

まず、娘の盛子が死去する。

法皇は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。

更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。

これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は重盛の死去と同時に重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。

驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。

ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。

そして、この不幸に追い打つような立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。

清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房(ふじわらのもとふさ)を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。



勘解由小路党は諜報機関であり、軍ではないから影働きが主で、この清盛の専横を阻止する正面切った力はない。

せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、終(つ)いにこの年末近くに、鳥羽殿に幽閉してしまう。


後白河法皇が幽閉されても、後白河法皇と勘解由小路党の連絡は生きていた。

しかし後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平家政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ勢力と成った。


権力を握った者は他人(ひと)を支配し、その全能感に酔いしれて神に成った気がする。

そして同時に、権力を失う事を恐れて統治を言い訳に人の心を失う。

正直や正義感だけでは生きて行けないのが浮世(現世)の現実だが、例え動機が正義でも、権力志向の者ほど正直や正義感ではやって行けなくなり、やがてそう言うものに麻痺して来る。

それは麻薬と同じように繰り返される間違いだが、こうした傾向は人が生身の人間である限り終わらない弱点である。

平清盛も、握った権力に酔いしれて知らぬ間に多くの敵を創ってしまった様である。


平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でも在った。

公家と武家の狭間とは言え武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられる。

「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行くのである。


勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、鳥羽殿で院(上皇)に拝謁した帰りの夜道を急いでいた。

院の仰(おお)せは、何時も難題である。

節くれだった古木を撫でる様に風が渡り、サワサワと葉音を立てている。

雲が切れて、月が顔を出した。半月だった。

「そろそろ、始めるか。」吉次が呟いた。

吉次自らが作・演出の壮大なドラマが、始まる時を迎えていた。

徳子が高倉天皇(第八十代)の子を産むと、清盛は治承四年(千百八十年)娘婿の高倉天皇を退位させて、自分の孫にあたる安徳天皇(第八十一代)を即位させ、無理やり高倉天皇を退位させてしまう。

娘徳子の産んだ「幼い赤子」を天皇(安徳天皇・第八十一代)にする事で、天皇の外祖父として、絶頂期を迎え、絶大な権勢を振るったのだ。

この頃から、「平家であらずんば、人にあらじ」の専横が始まり、地方での不満は重なり増えて行ったのである。


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平清盛の死

◇◆◇◆◇◆◇◆◇平清盛の死◆◇◆◇◆◇◆◇◆

勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、土御門(源)通親に呼び出され、後白河上皇(法王)の意志を告げられた。

「吉次、院(後白河法王)は清盛めの専横をお怒りじゃ。あやつ、嫡男の重盛や娘の盛子の死にも動ぜぬ。」

「清盛は天罰を、天罰と恐れぬ鵺(ぬえ)にござりますれば・・・。」

「早よう清盛が病に落ちるよう、院(後白河法王)は祈っておいでじゃ。」

「院(後白河法王)の祈り、必ずや天に通じまする。」

「判った。院(後白河法王)にはお伝えして置く。」

後白河法皇の怒りも通じず、清盛の力は一向に衰えなかった。

だが、頼朝が伊豆で挙兵した二年後、清盛は高熱を発して、病死してしまう。

病名は判らないが、焼き討ちした興福寺(藤原氏系)の、「坊主の祟り」と言う噂が流れている。

現代では、この清盛の病名は異国船が持ち込んだマラリア病説が有力説である。

ただしこの病死、後白河法皇の密命を受けた勘解由党の白拍子が、「関係しては居ない」と言う証拠も無い。

清盛は、高熱と幻覚に苛まれて、病と闘っていた。

「生きたい。」

清盛はまだ、野望の仕上げをしていなかった。

安徳帝は余りにも幼い。

朝廷における院(上皇)方の勢力や源氏をことごとく潰し、安徳帝の行く末を見守らねばならない。

しかし、願いは叶わなかった。

治承三年の政変で法皇を幽閉して娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、木曽(源)義仲や源頼朝ら各地の源氏に拠る平氏打倒の兵が挙がる中、平清盛は原因不明の熱病で没した。


千百八十一年(治承五年)正月、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は従三位となって公卿に列した。

しかし、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親(みちちか)は上皇の喪中を表向きの理由に、次第に平家との距離を取る様になって行った。 通親(みちちか)は平家の落日を予測したので有る。

平清盛の死をきっかけに、後白河法皇と取り巻きの朝廷公家が動き出す。勘解由小路党の動きも活発になり、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に届けて旗揚げを要請している。

幼い安徳天皇(第八十一代)は、最大の後ろ盾を失ったのだ。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。

平清盛は手に入れた権力を過信して、後継者の育成に失敗したのかも知れない。

後日談であるが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

清盛没後、四年目の事で有った。

異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは明らかに安徳天皇である。

しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。

いよいよ平安期は、末期の様相を呈して来た。


平清盛の人物像だが、どうも各種物語の敵役に描かれて、非道な人物と誤解され易い。

現実の清盛は、どうも優しい一面を持ち合わせていたようで、結果を見ると、継母・池禅師の嘆願を容れ助命された源義朝の子供達(頼朝や義経など)に彼の死後平家を滅ぼされている。


現代の権力志向の人間にも通じる所だが、氏族は「愚かな生き物」であるから、領地に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。

当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。

しかし、世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。

現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。

上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に一生心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。


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源頼朝(みなもとのよりとも)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇源頼朝(みなもとのよりとも)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

イヨイヨ義経の異腹の兄・源頼朝(みなもとのよりとも)が登場するが、正直、我輩が頼朝(よりとも)を評すれば天下の悪人である。

頼朝(よりとも)が天下人として幕府を開府したからには、御他聞に漏れず本質的に権力を掌握した者に善人など居る訳がない。

現代経営や政界でも同じだが、大概の所は非情に弱者を食い物にして伸し上るのが世の常で、これをお読みの貴方の様にお人好しでは出世などする訳が無い。

何に、「人が好い経営もいる」ってか、そんな経営者が会社を大きく出来る訳が無い。

合法経営では滅多に儲からないから会社が大きく成る訳も無く、歴史的には昔も今も「バレ無い違法行為と弱者を食い物にして」が政・財・官の出世の基本で、これは生き方の問題だが、出世した人間を「英雄視するも良し、軽蔑視するも良し」である。


源頼朝(みなもとよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)夫婦の事から話を始める。

源頼朝(みなもとよりとも)の清和(せいわ)源氏は、清和天皇(第六十四代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。

この「源氏の棟梁」の血筋を狙って、何が何でも「源頼朝」の嫁になったのが「北条政子(ほうじょうまさこ)」である。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。

源氏の頭領「源頼朝」は源義朝の三男で在ったが、母が正室(藤原季範の娘由良・御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられ、幼名を、「鬼武者」と言った。

こうした歴史物語に登場する人物達は、大方の所、数奇な運命に翻弄される事になる。
源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。

所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。


源義朝は保元の乱の折りに父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにも関わらず、「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝や同腹の弟・源範頼(みなもとのりより)は助命され頼朝は伊豆の蛭が小島へ流され、義朝の愛妾・常盤御前(ときわごぜん)の子・義経は、母・常盤が肉体(からだ)を張って清盛の側女(妾)に上がり命請いをして京の鞍馬寺へ預けられた。

この時代、その血統に生まれた事は生まれながらに権力者となる幸運でもあるが、生まれながらに生き方を決められる「不自由」と言う不幸も背負って生まれて来る。

そして源義朝の子供達は、一瞬足りととも心安らげぬその血統に生まれた宿命とも言える過酷な人生を辿る事になる。


源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に清盛の継母・池禅尼(平清盛の父・平忠盛の継室/後妻)の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国「蛭ヶ小島」に流される。

伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。

源頼朝の父・義朝には、平治の乱の折に義朝に従い、共に討ち死にした長男と次男が居たが側室の腹だった。

この妾腹の子を「庶子」と言い、この場合頼朝には庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき血統の出自から釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って正室の腹である頼朝が、源氏の棟梁・義朝の三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

勿論庶兄に当たる者は、正室に世継ぎ(家長)があればその家臣、無ければ世継ぎと言う事になり、庶子ばかりの場合は、御家騒動に発展する事もあった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国韮山の地で過ごしている。

この流人・源頼朝の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族北条家で、当主は北条時政と言った。

北条政子は、その北条時政の娘である。


弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。
傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。

待てよ、それこそ個人の人物像など十人十色で、源頼朝を「武士らしくない」などと「べき論」で責める方が単細胞かも知れない。

確かに頼朝は、切った張ったに相応しくない繊細な思考の男だったのかも知れないが、それがどうした。

そんな人間は山ほど居て当たり前で、世の中氏族に生まれたからと言って単純に武士らしく勇ましい人間ばかりが居る訳が無いではないか。

頼朝は、まさに頼朝らしい方法で天下を取ったのだが、それでも世間の目は派手な英雄を望む物で、地味で陰湿な手段は好まれる物ではない。


武士として始めて幕府を開いた名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?

見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。


歴史の多面性を、その時代の単なる英雄伝にしてはならない。

それは痛快で判り易いかも知れないが、歴史のほんの一部に過ぎないからである。

それでも武士に生まれた彼等は、怖気付(おじけつ)いては居られない。

権力志向と新たな所領獲得の執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。

九郎義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり人気は上々である。

これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。

日本人の琴線に触れる感情、源頼朝と源義経の故事に由来する判官贔屓(はんがんびいき)の原点は、大衆のほとんどが氏族に抑圧されて生きて来た弱い立場の蝦夷族の末裔だったからである。
源九郎判官・義経(みなもと・くろう、ほうがん・よしつね)と人は呼ぶ。


平安末期から鎌倉初期にかけての花形スターは何と言っても源義経である。

この源義経が幼少の牛若丸(源義経)の頃から、「後白河院(上皇)の手の中に在った」と言う事を貴方は信じるか?

いや、それ以前の義経・母の常盤御前(ときわごぜん)の代から後白河天皇の命に拠る「皇統を守る裏陰陽寮・勘解由小路党の関与が在った」とは思わないか。

源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子であり、源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。

頼朝・範頼(のりより)の兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。

鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。

本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。

しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。

義経の母常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。


つまり出自が定かでないこの美女が、裏陰陽寮・勘解由小路党の「女諜報員では無い」と言う確証も無いのである。

その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。

所が、「平治の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。

この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。

そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。

平清盛にすれば、常盤御前は命を取り合った敵将の愛妾だった評判の絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。

それで、助命を聞き入れ、常盤御前に触手を伸ばしてしまった。

その清盛の煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。

その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に戦利品として母を抱いた男が平清盛だったのである。

一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事では在った。

その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。

領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば正確な武門に生きる者の生活の正しい表現だった。

この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は、一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え、何年もかかる事が多かった。

だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。

その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。


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遮那王(しゃなおう)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇遮那王(しゃなおう)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

伊勢(三郎)義盛は、父・勘解由小路吉次にある事を命じられていた。

「三郎、此度は鞍馬山の遮那王(しゃなおう・義経)を帝の為に武将としてお育てせよ。」

「まだ幼い遮那王(しゃなおう)様ですか?」

「頼朝様や範頼様ではもうご自分の意見が出来上がっている。それに遮那王なれば我らとの縁(えにし)も深い。」

「縁(えにし)とは?」

「遮那王の母御である常盤(ときわ)は、元々我らが手の白拍子じゃが、中宮九条院様の雑仕女(ぞうしめ)に参内させておった。」

「なるほど、それ故常盤様は身体を張った御助命を・・・」

得心したように、伊勢義盛が頷いた。

勘解由小路党の女人・白拍子ならさほどの事は造作もなくやり応せるが道理である。

「われら、選り優(すぐ)りの白拍子を帝のお傍にも平家にも源家にも潜ませて居るわ。」

父・勘解由小路吉次は、自らが構築した白拍子の女体ネットワークに自信を持ち、不適に笑っていた。

「父上、常盤様との縁(えにし)の経緯(いきさつ)が判り申した。ならば、仰せの通りに成して見せまする。」

「武蔵坊(弁慶)を付ける故、遮那王(しゃなおう/義経)を素直に、真っ直ぐに・・・な。」
「委細承知。」

伊勢(三郎)義盛は源義経が鞍馬山で剣の修行をしていた牛若丸・遮那王の頃から武蔵坊弁慶と共に義経に臣従し、最初から最後まで行動を共にしている。


戦いに敗れた総大将の子が生き残る手段の一つに仏門に入ると言う慣わしが在った。
幼い牛若丸(義経)は、父親が誰か知らぬまま鞍馬寺に預けられたのである。

しかし僧侶に成るべく準備をしていた牛若丸(義経)は、鞍馬寺で何者かに自分の身の上(身分)を教えられ、平家打倒を誓って剣の修行を始める。

何者かが勘解由小路の手の者で有ったのは言うまでも無い。

この修行した剣の流儀は「京八流の剣」と言われ、いずれも修験道の武術より興っている。


この頃、弁慶(武蔵坊)など数人の部下を得ているが、五条大橋の「牛若、弁慶」の話は、興行的には面白いが「眉唾ではないか」と思われる。

源氏の血筋に、「魅力を感じて集まって来た」と言うのが、現実的である。


実は、この源義経(牛若丸)をサポートして世に送りだした修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方」の御意志が働いていた。

「平治の乱」で平家に対抗する源氏と言う抑止力を失った後白河上皇(法皇)が、源氏復興を画策していたのだ。

源義経(牛若丸)の少年期は、後白河上皇(法皇)と平清盛とのせめぎ合いの中で「治承のクーデター」が起こり、朝廷は飾り物に棚上げされ、権力は完全に平家が手中にしてしまっていた時代だった。

源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。

その担ぎ出した男達の素性が、或る「やんごとなき方」の命を帯びた修験山伏・剣術熟達の一団だったのである。

京八流は、盾を使わない剣法として修験者から生まれ、様々に考案されて発展した。
これが日本の剣術の原点に成った。
日本の剣術は、歴史的に世界でも珍しい剣法(術)と言われ、「相打ち確率が高い」と言われるが、その発祥の経緯でたまたま相手が未開で有った為に、「相手が剣を持たない所から始まった」と言う環境から盾を使わない剣法が始まっている。
それが精神的におかしな発展を遂げ、卑怯な振る舞いはしない剣術の精神になったが、初期蝦夷(えみし)討伐の時点では相手に「まともな剣は無かった」と考えるとやはり充分に卑怯だった筈だ。


傍目には凄い事でも、当事者にとっては「日常の事」と言う事は常に存在する。

つまり、人の能力はかなりの可能性を秘めていて、その発揮の仕方がそれぞれ個別に違うから、自分が成せぬ事に人々は驚嘆する。

そうした超人的技が、修練に拠ってある程度は成し得るから、術者が生まれて来たのだ。

その練達の各分野の術者は、全てわが国では陰陽修験の術に端を発しているのである。

わが国では、精神が伴う事を「道(どう)」と表現する。

「術」から始まったものが「道」にと発展して、剣術が武士道になった。

だとするなら性行為には精神が伴い、指針が示されて当然でなければならない。

しかしながら、そうした概念が性に関しては「臭い物には蓋」式に、全て否定されている。


後に「道」となる弓術も、氏と武の繋がりが深く、「弓取り」は武士を意味し、神事の破魔矢(はまや)・流鏑馬(やぶさめ)などに弓矢が使用されている。
また、「道」は、人に指針を伝える為にある。

奈良時代を起源とする流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代には宮廷行事として盛んに行なわれたが、武家時代に入ると兵法の修練の一つとして取り入れられ、特に、鎌倉幕府の奨励により盛んに成った。

破魔矢(はまや)の元は覇磨矢で競技(うでためし)の意味だが、縁起物の神事にに使われ破魔(はま)なった。

つまり、「道」は、人に指針を伝えと同時に精神的な拠り所の意味合いもある。


武蔵坊弁慶は、源義経に付き従う怪力無双の僧兵として広く知られている。

兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

この牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いが京・五条橋と言うのは後の藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の「矢作橋の出会い」と同様に後の作家の創作で、高貴な方の謀略に拠る出遭いの方が遥かに信憑性が高いのである。

武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問説」も浮かんでいる。

つまり当時の状況を分析すると、武蔵坊弁慶は最澄が興した天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「隠密修験者(山伏)だ」と言われている。

これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を彼らが影で支えていたのではないだろうか。

義経主従の主たる人物の半分、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢(三郎)義盛、駿河(次郎)清重、熊野喜三太、鷲尾(三郎)経春らの正体は、妥当な線で「修験山伏関係」と考えて不思議は無い。

強力有能な軍事顧問団であるから、恐らく勘解由小路・吉次の主力の一部だったのではないだろうか。

智謀と怪力で「主君・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山したが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。


牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いの場とされる京・五条橋は、当時まだ存在しなかった。

従って、出会いシーン「京・五条橋の下り」は後世の創作である。


弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなど凡(およ)そ創作劇的である。

また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については、都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。

本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。


同様に、伊勢(三郎)義盛の出自が明らかでないのは、ひとえにその出自を秘す陰陽修験の諜報組織に伊勢義盛が関わって居たからである。

いずれにしても伊勢義盛は謎の多い人物で「義経記」では、義盛は伊勢国二見郷(浦)の人で「伊勢の度会義連(わたらいよしつら)」と言う「伊勢神宮の神主の子である」とされ、また三重郡司川島二郎俊盛の子として「三重郡福村(現菰野町福村)で生まれた」とも伝えられて居る。

三重郡司(みえ・こおりつかさ)の川島家と言い、伊勢神宮の神主・度会家(わたらいけ)と言い、実は借り物の系図と言う事も伊勢三郎義盛の場合は大いに有る。

伊勢(三郎)義盛は、幼少時に伊賀の中井・某の下で養育されていた。

その後、若い頃に度会郡二見郷に流落し、江村に在住して伊勢江三郎を名乗り、武芸全般の修行をしている。

しかし、何しろ修験の草(影人)の事である。

修行時代の若い頃から、居所も名前もその都度身元を気取られないように転々と変え鈴鹿山に潜伏して一時、焼下小六を称していた。

その後焼下小六は上野国荒蒔郷に潜居して居たが、父・吉次の依頼(命令)で源義経の鞍馬から奥州下向に際し家人として加わり、伊勢(三郎)義盛を名乗っている。

これは余談だが、後の南北朝並立時代にこの伊勢の度会(わたらい)郡所縁の伊勢大神宮の神主・渡会氏が南朝方後醍醐帝にお味方する場面が存在する。

或いはこの度会氏が伊勢(三郎)義盛と関わりがある「勘解由小路所縁の家柄」と考える事に無理が無いかも知れない。


伊勢(三郎)義盛は、勘解由小路(賀茂)吉次の三男である。

そしてこうした歴史物語に登場する人物は、決まって数奇な運命に翻弄される事になる。

源義経を支えて、脇役ながら大儀に生きた伊勢(三郎)義盛もその一人だった。

伊勢(三郎)義盛の父・勘解由小路吉次は帝の命を受け、遮那王(しゃなおう・義経)を平家打倒の旗印にする事を画策していた。

それで充てになる三男の義盛を遮那王(しゃなおう・義経)の相談相手に付けて、逐一義経身辺の動静の報告も受けていた。

義経がどこに在っても、勘解由小路の修験山伏のネットワークは確実に吉次に報告をもたらす。

伝えられる伊勢(三郎)義盛の出自は、「伊勢神宮と関わりのある豪族の家柄だ」と言われる伊勢大神宮の神主だった。

伊勢大神宮は皇統を守る御神域で祭神は天照大神、代々皇統に繋がる者が神主を勤めている。

すると、勘解由小路吉次の表向きの顔は、「伊勢大神宮の神主を兼業する豪族」と言う事である。

これは先祖代々勘解由小路家の次男三男の天下り先に伊勢大神宮の神主職が確保されていたからで、兄が病死する前に吉次は此処で修行をしていた。

伊勢(三郎)義盛は人懐こく、誰にも好かれる天性の輝きを持ち合わせていて、義経主従の中では元気印のムードメーカーを引受けていた。

しかしその明るさとは裏腹に、武術は表裏に関わらず達人だった。

彼の活躍が「義経記」など後の扱いが地味なのは、(三郎)義盛が生まれ持っての「裏影人・勘解由小路」の血筋だからで、活躍の伝承が地味なのは仕方が無い。

派手好みの世間は、どうしても義経と弁慶の話しに終始してしまう。

弁慶は比叡山延暦寺の修験山伏だが、「熊野の別当(熊野大社の神宮寺の総監督者)の息子」と言われている。

常陸坊海尊は、「近江の国の園城寺(三井寺)の僧だった」と言われている。

いずれにしても義経には、密かに修験山伏の幹部が付いていた事になる。

彼らの狙いは、義経に武将としての素養を身に着けさせ、成長を待つ事だった。

我輩がワクワクする魅力を感じるのは、権力の野望に固執せず純粋な信念の美学を生き甲斐に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的な生き方をしたのがこの男達、伊勢(三郎)義盛、源義経、武蔵坊弁慶の鞍馬山トリオである。


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義経奥州行

◇◆◇◆◇◆◇◆◇義経奥州行◆◇◆◇◆◇◆◇◆

私欲を持たない「滅びの美学」を持つ男は魅力的だ。

まぁ、利己的な世間に在って希少価値だからで、その危な気な香りに心惑わされる女性も結構多い。


義経は五年後に鞍馬山を降り、平家の監視の目を逃れて京を脱出、東北の大豪族・奥州藤原氏の頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら)を頼る。
義経十六歳の時であった。


十六歳に成っていた源義経は一見女子と見紛う優男ではあったが、度胸もあり剣の腕も立つ魅力的な若者に育っていた。

ちょうど平清盛が太政大臣に成って平氏全盛の時代であるが、幸い奥羽六ヵ国の雄・奥州藤原家(昔の清原家)は別格で、平氏としても影響が及び難かった。

藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきでである。

少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、勘解由小路の仕事に、確たる証拠は残らない。

それにしてもこの時代、金と言う鉱産物を扱うのは「修験系の山師」と考えるのが、まともではないだろうか。

藤原秀衛(ふじわらひでひら)は、一目で義経の才を見抜き、喜んで奥州に迎え入れた。


源家は、八幡太郎源義家以来奥州藤原家とは縁が深い。

秀衛が義経に見たのは、瞬時に状況を判断し即応する常人に無い才であった。

そして表には出せないが、内々でやんごとない高位の人物の「蜜命書」が添えられている。

それでなくとも、中央の「土御門(安倍)」と奥州の「藤原(清原)」とは蝦夷族長の主導権で対立している。

つまり利害関係の延長線上に少年義経(遮那王)の奥州行きは有ったのである。


当時奥州藤原家は、奥州六ヵ国(東北地方一帯)を勢力下に置いて支配し、清衡、基衡、秀衡の三代に渡りさながら独立国家の様に絶大な勢力を誇っていた。

奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地で、その名残が、平泉の中尊寺にある。

その平泉に在る奥州藤原氏三代ゆかりの菩提寺・中尊寺は天台宗東北大本山で、台密修験の奥州(東北)の本拠地としての側面も存在した。


奥州平泉・中尊寺(ちゅそんじ)は奥州藤原三代の菩提寺で、八百五十年(嘉承三年)に慈覚大師によって開かれし後、「藤原氏初代・清衡が再興させた」と伝えられている天台宗の寺で、本堂には開祖・伝教大師(最澄)が比叡山で点火した「不滅の法灯」を分け移した火が燃え続けている。


藤原家で六年間、義経は秀衛に息子の様に可愛がられたが、兄頼朝の挙兵を聞き時節到来と伊豆に駆けつける。

藤原秀衛が軍事顧問的に、配下の佐藤兄弟を義経の手勢として付けてよこした所を見ると、義経の挙兵は「秀衛、予定の範疇だった」のかも知しれない。

藤原秀衛(ふじわらのひでひら)が義経(よしつね)に付けて寄越した佐藤継信・佐藤忠信の兄弟の出自は奥州藤原家と同じ藤原北家流で、後に歴史研究上の一般呼称で信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族とされる佐藤氏である。

兄弟の父は佐藤基治(元治とも)と言い、信夫(しのぶ)の飯坂温泉付近(現・福島県福島市)の地に「信夫荘司・湯荘司」と称した荘園を所領する土豪だった。


源氏の棟梁・源頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の棟梁」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因で在った。

勿論この坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝への加勢、純粋な動機では無く氏族特有の権力志向と所領獲得の執念を実らせる「絶好の機会」と捉えての行動だった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。
真っ先に上げられるのが、北条一族である。

そして、緒戦の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。

千葉氏、上総氏などの安房の豪族平氏達も「しかり」である。


攻める方に、憎しみなどは別に無い。

獲物を前に勝手に戦人(いくさびと)の血が騒ぐだけだ。

武士は、もう長い事権力と領地を得る為に戦をするのが仕事だった。

守る方も、攻められれば座して攻めさせる訳には行かない。

あわ良くば返り討ちにして、利を得る。

武門に於いてそこに在るのは、損得の打算に裏づけされた出世の為の「ギャンブルへの参加」だけではないのか?

けして、「一門の為」などと言う、美しい話ではない。

これが、現代の政治家の派閥や政党の集合離散と、ダブって見えるのは、色眼鏡に過ぎる事だろうか?彼らは、本当に「政治理念」で行動しているのだろうか?

それを象徴するのが、例の関東一円の独立を宣言した「平将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事に成る。

頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。

この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。

頼朝挙兵時の彼らは、平氏では在ったが清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。


平将門(たいらのまさかど)を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後は郷士として関東に土着した平氏の武士達は源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役や後三年の役で源氏の棟梁源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。

従って平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が絆が強かったのだ。

関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

もっとも平清盛(たいらのきよもり)の白河天皇御落胤説が本当なら、他の平氏は平家とは一線を画しても不思議はない。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。

その関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。

つまり、源平合戦と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。
従って、運良く時代と地の利を得たのが頼朝であった。


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北条政子の野心

◇◆◇◆◇◆◇◆◇北条政子の野心◆◇◆◇◆◇◆◇◆

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。

初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かにうまい。

しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


一方、北条(平)政子は、野心に満ちて居た。

田舎の地方豪族のままで終わるなど我慢が成らない。

そこに頼朝が流されて来た。

名高い清和源氏の直系で、義朝の三男とは言へ、正妻に生まれて扱いは嫡男であり、父・義朝とともに妾腹の兄二人を平治の乱で失い今や系図の筆頭を名実伴に引き継ぐ身である。

桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。

北条正子の実家・平直方流は、正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。

野心に満ちた北条(平)政子が、名家の棟梁「頼朝」を放って置く訳が無い。

武門で、「平清盛一族に対抗出来る」これ以上の高級血統ブランドはないのだ。

何としても、「ものにしよう。」と思った事だろう。

そもそも「愛と性行為を合致させよう」などと思うのは、現代の幻想に過ぎない。

現代の女性には「認め難い事実」かも知れないが、歴史的に女性が置かれた立場からすると、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永い事女子に出来る大事な生きる為の常識的な武器(能力)だった。

北条(平)政子は頼朝より九歳ほど歳下である。

しかし、生来のしたたかさを持ち合わせてこの世に産まれて来ていた。

流人で伊豆に来ている心細い頼朝青年を、うら若き政子が身体を張って誘惑するのは、「容易(たやす)い事だった」に違いない。

正子は頼朝の側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)を介して接近を試み、盛長(もりなが)も北条氏を味方に引き入れるには得策と解して積極的に助力している。


安達盛長(あだちもりなが/安達)は、源頼朝の流人時代からの側近で、当初は足立を称していたが盛長晩年の頃から安達の名字を称した。

同じ鎌倉幕府の御家人・足立遠元(あだちとおもと)は年上の甥にあたる。

盛長(もりなが)の出自に関しては「尊卑分脈」に於いて小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図に拠って異なり、その正確な出自は不明である。

足立盛長(あだちもりなが)は頼朝と北条政子の間を「取り持った」とされ、源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕える。

また、盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が過って宮中で二条院(二条天皇)の女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、頼朝に「京都の情勢を伝えていた」と言われている。

側近として頼朝に仕えていた盛長(もりなが)は、頼朝配流先・蛭ヶ小島の地に近く、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た天野郷の天野遠景(あまのとおかげ)とも親しい間柄だった。

また、平家に拠って伊勢の所領を放棄し、伊豆に流れて来て密かに平家打倒に燃え機会を伺っていた加藤景廉(かとうかげかど)の一族とも密かに気脈を通じていた。


千百八十年(治承四年)の頼朝挙兵に従い、盛長(もりなが)は使者として各地の関東武士の糾合に当たり石橋山の戦いに敗れた後は源頼朝とともに安房国に逃れ、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方に着ける使者を務めた。

頼朝が安房での再挙に成功して坂東(関東)を制圧し、鎌倉に本拠を置き坂東(関東)を治めると、鎌倉幕府の御家人として千八百八十四年(元暦元年)の頃から北関東を固める為に上野国の奉行人とり、後に起こった奥州藤原家討伐の奥州合戦にも従軍している。


足立を安達に改姓した安達盛長(あだちもりなが)は鎌倉殿(将軍)・頼朝の信頼が厚く頼朝が私用(息抜き)で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。

この頼朝の私用(息抜き)については、妻・正子の目を盗んだ愛妾との密会の場を盛長(もりなが)が提供していたとも盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が目当てだったとの風聞もある。
その後鎌倉殿(将軍)・頼朝が千百九十九年(正治元年)に落馬死(?)をすると、盛長(もりなが)は出家して蓮西と名乗り二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画、三河の守護にもなっている。

盛長(もりなが)は同年(正治元年)の秋に起こった有力御家人・梶原景時の変では幕府内の強硬派の一人となり景時を追い詰めている。

頼朝落馬死(?)翌年の四月に安達盛長(あだちもりなが)は死去したが、安達氏は盛長の子・景盛景盛の娘・松下禅尼が三代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏に嫁ぎ、四代執権・北条経時、五代執権・北条時頼を産むなど鎌倉時代を通じて繁栄する。



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政子の婚礼

◇◆◇◆◇◆◇◆◇政子の婚礼◆◇◆◇◆◇◆◇◆

北条正子が頼朝に強烈なアプローチをして、二人は首尾良く恋仲になる。
実の所、恋仲と言うより「政子に垂らし込まれた」と言う方が正確だった。

政子の性格は攻撃的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れる。

多分に加虐的性交を好み、何時も頼朝を上位で責めたて快感をむさぼった。

彼女が最も得意とするのは騎上位で、頼朝の上で激しく上下する事であったが、それが気弱な性格の頼朝の性癖に合っていたから、世の中上手く出来ている。

頼朝は、流人と言う拘束感の苛立ちを、政子との強烈な睦事に逃げ込む事で日常から救われていた。

頼朝は政子に「愛されている」と確信し、彼女を愛した。

つまり頼朝は政子に嵌まってしまったのである。

そうした二人の間の関係が、そのままこの夫婦の人生に現れる。

男女が睦み会えばその結果が出る。

やがて頼朝と政子の間に娘が誕生する。

それを知った父親の北条時政は、平家の矛先が自分に向かう事を恐れて、平家の伊豆国代官・山木(平)兼隆(伊豆の国目代・判官)に政子を「嫁がせよう」と画策する。

田舎小領主の時政にすれば、源氏の流人と自分の娘が縁を結ぶなどとんでもない。

それだけで、清盛の「敵に廻った」と見なされる。

時政は「我が家門大事」で、飛ぶ鳥落とす勢いの平家(清盛一族)に逆らうなど、危険極まりないのである。

時政は、慌てて娘・正子を無難な相手に嫁がせる事にする。

目を着けたのが伊豆目代・山木(平)判官兼隆だった。

父・時政の思惑もあり、熱心に縁組運動をした為に政子に山木(平)判官兼隆から縁談が来たが、政子の方は不満だった。


平家の伊豆目代・山木(平)判官兼隆は、都に常駐して中央政府を仕切る平家(平清盛一族)の遠隔地の所領管理を代行する傍ら、伊豆国を取り仕切る地方政府の長(代官=検非違使)だった。

地方郷士の父・時政にすれば、平家の危険人物・流人の源頼朝と出来てしまった娘を山木(平)判官兼隆に押し付けて北条家の安泰を図ったのである。

しかし政子にして見れば、元はと言えば一度都で失敗して伊豆国に流されて流人身分だった兼隆が、赦免されて伊豆目代に登用された経緯があり、先の出世は知れている。

山木判官は平家の伊豆目代としてこの地にあり、伊勢平氏の祖・平維衡末裔の平ブランドで清盛平家とは血統も近かったが正統・清盛平家ではなく、精々伊豆の国で威張る程度の身分で終る事は目に見えていた。

北条(平)政子が当時特異な存在の女性(にょしょう)だったのは、その行動からも明らかである。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していた。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

その禁を破ってでも肉体(からだ)を餌に、流人とは言え源氏の棟梁・源頼朝と折角懇(ねんご)ろになり、姫まで為したのに父の北条時政が清盛平家の威光を恐れて山木(平)判官兼隆と婚儀を結んでしまった。

このままでは自分は伊豆の田舎で、目代(出先の役人)の女房で終ってしまう。

所が、北条(平)政子はその並外れた野心故に、親の薦めた政略婚相手を親に攻め滅ぼさせてでも源氏の棟梁・源頼朝の押しかけ女房に納まる決意をする。

野心旺盛な北条政子は、一計を案じて祝言の日取りを三島大社の大祭の日に合わせ、源頼朝に囁いた。

「わらわは、祝言の夜に必ず山木館より抜け帰る故、必ず兼隆を討ち取っておくれ。」

祝言の夜に政子が逃げ帰れば言い訳が利かないから、流石に優柔不断の頼朝も、慎重な父・時政も腹を括るより他は無い。

婚礼当日に逃げ出した恋人の下に逃げ戻る・・・源頼朝と北条正子の物語を、今風に描けば大恋愛になるかも知れない。


時代考証を無視して現代風にアレンジして物語を作る作者が多いが、それは現代的なものの考え方の方が読者には受け入れ易いからである。

そうした作家が世間の好みを勘案して書けば、源頼朝と北条正子は流人と監視役と言う「敵対境遇を乗り越えた大恋愛」と言う事に成る。

しかし北条正子が恋したのは、明らかに源頼朝にではなく「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

それが証拠に、天下の権力を奪取した後の北条正子は鵺(ぬえ)と成り源氏の血を喰らい尽くして北条得宗家を確立させている。

当時の女性の価値観は実家や先方の血筋と言った現実が大事で、現在とはかなり違うものだから男女の恋愛の形も違って当然である。

それでも今風の解釈でロマンチックな夢を見て「明るく楽しく生きたい」と言うのは、逆説的に言うと現実逃避の一面がある。

それは、現実から逃避して夢を見ている方が人生は遥かに楽しい。

所がここが一番難しい所で、「人生楽しければ良い」と言いながら夢を見たいのが人間であり、欲が深い事にそれでも真相を知りたいのも同じ人間である。


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以仁王(もちひとおう)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇以仁王(もちひとおう)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

その頃「都」では、異変が起こっていた。

平安群盗(蝦夷ゲリラ)の出没が未だ収まらず、何時(いつ)恐ろしい場面に出食わさないとも限らない恐怖を都人の深層心理の中に孕(はら)んで居たのが当時の平安の都だった。

その異変とは、日本中に飛んだ以仁王(もちひとおう)の令旨と、鵺(ぬえ)退治で名声高い源頼政一党の蜂起である。

摂津源氏の嫡流である源頼政は、保元の乱では後白河天皇(第七十八代)方に属して平清盛、源義朝(頼朝の父)らと共に崇徳上皇方と戦った。

源氏嫡流の摂津源氏の武将だった源頼政が、三位頼政(さんいのよりまさ)と呼ばれたには経緯が在る。

平治の乱の折りに御所の大内(内裏/だいり・御所)守護としての立場から、幼帝・六条天皇(ろくじょうてんのう・第七十九代)と後白河法皇を奉じていた平清盛方の陣営に助勢、その功績でそれまで源氏の最高位が正四位下が定番だった叙任慣習を破り従三位に叙せられたからである。


後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、兄の守覚法親王が仏門に入った為に繰り上げ第二皇子と成った平安時代末期の皇族で、幼少の頃から書や学問、詩歌や笛の才能に優れていた。

以仁王(もちひとおう)は、当然親王になる資格があった天皇の皇子であるが、平家政権の圧力があり「親王宣下を得られなかった」とも言われている不運な皇子だった。
その以仁王(もちひとおう)の准母が女院・「八条院」である。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族、鳥羽天皇の皇女・ワ子内親王(あきこないしんのう)は、后位を経ずに女院となり「八条院」と号し終生未婚であった。

八条院は、父母の莫大な遺産や荘園のほとんどを相続し、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群二百数十箇所に及ぶ荘園が女院の管領下に在って八条院領と呼ばれ甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王(もちひとおう)とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。

つまり後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、その八条院の猶子(養子)である。

以仁王(もちひとおう)は若くして英才の誉れが高く、天台座主最雲の弟子となったが師の没後還俗(げんぞく)して元服、皇位継承の有力候補と目されていた。

しかし、異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により親王宣下も受けられぬ不遇をかこって居た所、平家のクーデターが起こり父・後白河法皇が幽閉され、以仁王(もちひとおう)自身も知行地・常興寺(領)を没収される。

その邸宅が三条高倉に在った事から、以仁王(もちひとおう)は高倉宮または三条宮とも称されていた。

しかし「父・後白河とも疎遠の上に、父・後白河が譲位後に妃とした滋子(平清盛の妻・二位尼時子の妹)とも不仲であった」と言われ、平清盛の妻・時子は高倉天皇生母であるから、実権を平家一門に握られた以仁王(もちひとおう)の不満は当然の事だった。


千百八十年(治承四年)実権を平家一門に握られた不満から、ここに到って以仁王は終(つい)に平家討伐を決意し、源頼政と共謀して密かに平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に向けて発し、平家打倒の挙兵をうながしたのである。

しかしこの事はすぐに露見して平氏の知る処と成り、「宇治橋の戦い」に敗れて奈良に逃れようとする途中、光明山鳥居の前(京都府山城町)で以仁王(もちひとおう)と源頼政は討ち取られて早期に鎮圧されてしまう。

この「以仁王の乱」、「源頼政の挙兵」とも呼ばれた蜂起そのものは、以仁王(もちひとおう)自身は準備不足の為に計画が露見して平家一門の追討を受け殺害された。

だが、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。

清盛一族(平家)の専横に怒った後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる。

するとこの時、平家全盛の折に源氏の武士でありながら宮中に大内(だいり・御所)守護として使えていた源(三位)頼政は、京に在って源頼朝や木曾(源)義仲より早く、大内(だいり・御所)守護として立ち上がる。

村上源氏流れ・鵺(ぬえ)退治の源頼政は、嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱、養子の源兼綱らと共に清盛一族(平家)打倒の最初の挙兵を行い、宇治橋の合戦にて無念の討ち死を果たしている。

源頼政の行動は源氏や平家ではなく、最期まで大内(だいり・御所)守護としての立場を貫いた皇統護持だったのである。


伊豆の国長岡の「古奈」に美しい娘がいた。

この「古奈」であるが、伊豆の国が伊都国と考えると、「古奈良」の可能性がある。

そもそも「古奈」の地名は、事代主命の后神である伊古奈比当ス(いかなひめのみこと)から「名を貰っている」と考えられ、辻褄が合うのである。

伊豆の国「古奈」の美しい娘は、長じて京に上り近衛の院(近衛天皇)に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。

この朝廷内裏(ちょうていだいり)への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。

つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。


やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。

処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八九年の生涯を閉じたのである。

源(三位)頼政が伊豆国長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。

あやめ御前の父親は、一時伊豆に配流になった「貴族の藤原為明」とも言われているが、確たる証拠はない。


以仁王(もちひとおう)の平家討伐の令旨(りょうじ)は、その不運な討ち死によりも少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って行く。

「平清盛以下平家一門を追討せよ。」

この以仁王の令旨(りょうじ)、全国に運んだのは誰であろう?

平家の権力が絶頂の時で、勿論朝廷の影の組織なくしてそれは成し得ない。

つまり勘解由小路吉次の手の者が、目立たないように彼らしか知らない獣道(けものみち)を走り継いで、全国に令旨(りょうじ)を運んだので有る。

歌舞伎の勧進帳・安宅関で、義経、弁慶一行が山伏姿に身をやつして居るが、当時比較的フリーパスの合意が形成されていた修験者に対する扱いが、治外法権的に「余程大きな後ろ盾、または権限の習慣があった」とも推測される。

寺社造営の勧進も含め、修験者(山伏)は、「公務で動いている」と言う解釈だったのである。


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平家打倒の旗挙げ

◇◆◇◆◇◆◇◆◇平家打倒の旗挙げ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この動きとタイミングが合う様に、代官山木(判官)兼隆と政子の婚礼話が進んだが、婚礼の当日の夜、政子は陣屋を抜け出して頼朝の下へ逃げ戻る。

頼朝も、時政も、そこに至っては「もはやこれまで。」で、後戻りが出来ない。

つまり北条正子は、意図的に差し迫った情況を作って父・北条時政を頼朝の旗揚げに巻き込んだ。

源頼朝と北条時政は、その夜の内になけ無しの僅かな兵をかき集め、山木(平)兼隆の陣屋に夜襲を掛けて討ち取ってしまう。

この山木判官邸討ち入りに頼朝が指揮したのは、北条時政の一族郎党、頼朝側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)、頼朝の友人・天野遠景(あまのとおかげ)の一族、所領を棄る羽目となって伊勢以来の平家に恨みを持つ加藤景廉(かとうかげかど)一族らが加わった軍勢だが、さして大軍ではない。

しかし、当日が三島大社の祭礼の日で、山木の家人(郎党)が出払っていて「守り切れなかった」と言うから、婚礼で油断させた最初からの「陰謀説」も考えられる。

此処に頼朝は、平家打倒の旗揚げを三島大社でする事に成るのだが、どう見ても政子の行動が「きっかけ」と見えて来る。

偶発的なものなら、以仁王の令旨(りょうじ)は、タイミングが良かっただけで、頼朝にとっては或る意味「女を取り合う揉め事」が先だったようでも在る。

頼朝と政子の経緯も良く知らされず、婚礼の日に夜襲で討たれてしまった山木判官(平)兼隆こそ、哀れである。

もっとも、この一連の出来事が、「政子の描いた謀り事ではない」と言う、確たる証拠も無い。


運良く頼朝には、以仁王の令旨(りょうじ)と言う「大義名分」が出来た。

それで、頼朝は生き残りを賭け、近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を味方に集め始める。


伊豆で旗揚げした頼朝は、急遽近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を集めて、まず、父・義朝の地盤だった相模の国(神奈川県)の平定に乗り出す。

地縁があるから頼朝に有利な筈だった。

しかし、急場の旗揚げは隠しようも無く、ろくに根回しをしてない頼朝には僅かな兵しか集まらなかった。

頼朝の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」は、あっけなく敗れている。


千百八十年(治承四年)八月の二十二日、源頼朝のその後の人生観を変える石橋山合戦が箱根山中を舞台に起っている。

山の天候は変わり易い。

この時期の箱根山中は暫(しば)し大雨や濃霧に見舞われる為、薄暗く見通し悪い日々が続く。

伊豆で山木判官(平)兼隆を討ち、平家打倒の旗を挙げた源頼朝は、同月、関東進出をめざし三百余騎を率いて東国に向かって行軍を開始した。

一方、源頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、追討軍三千余騎を率いて西に向かった。


三百余騎の源頼朝軍は、平家方・大庭景親の軍勢が討伐に来たのを迎え撃つ為に相模の国・小田原の西方箱根の山塊が相模湾になだれ落ちる断崖のある石橋山に布陣する。

平家方は、大庭景親とその弟・俣野景久ら三千余騎で対峙し、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣する。

また、源頼朝軍の後方には平家方・伊東祐親(いとうすけちか)が伊東庄から軍勢を率いて相模石橋山に至り挟み撃ちで布陣しする。

しかしこの対峙した勢力、平家方は三千余騎、源頼朝の軍勢は僅(わずか)三百騎で圧倒的に平家方が有利だった。

翌二十三日、大雨と濃霧の中で本格的戦闘が始まり、石橋山で敵味方が入り混じって勇壮に良く戦ったが多勢に無勢で平家軍に包囲されて敗れ、散り散りに湯河原方面に敗走する。

その後も頼朝軍は敗走しながら追撃する大庭軍と現在の湯河原町鍛冶屋の堀口あたりで戦い、頼朝軍は或る者は討たれ或る者は自害し壊滅した。

敗れた頼朝・北条時政ら主従は、周囲に岡崎義実、土肥実平など総勢七騎が残るのみとなって絶対絶命の危機に陥る。

湯河原の郷士・土肥次郎実平の案内で今の城山から箱根湯河原の山中を霧を味方に逃げ回り、石橋山の背後にある山中のに逃げ込み、桜郷の谷奥に在る洞窟に隠れて大庭軍をやり過そうとする。

その時、平氏家・大庭軍に属する武将・梶原景時(かじわらかげとき)に洞窟に身を隠している所を発見され、絶体絶命のピンチを迎えるが、どうした事か梶原は見て見ぬふりをしてその場を離れ、頼朝を見逃し助けてしまう。


石橋山で包囲されて散り散りに敗走以来、常に討ち死にの恐怖に晒されながら九死に一生を得た頼朝主従は、山を下る途中の小道の峠でまたも大庭軍に出くわし、小道地蔵堂の純海上人にかくまわれ危機を脱している。

危機を脱し一命を得た頼朝主従は、八月二十六日土肥実平と共に相模の国・真鶴岬(まなずるみさき)から脱出、小船で海路安房の国(千葉県)に向かい、八月二十九日安房の国・猟島(かがりじま)に上陸しする。


さて安房に逃れたその後の頼朝主従は、安房(あわ)・上総(かずさ)の豪族・上総広常(かずさひろつね)や千葉常胤(ちばつねたね)の支援を得て再起を図り、再び反平家の旗を挙げ精鋭三百騎を従え上総から鎌倉に向い、途中関東の有力な豪族を味方につけて頼朝は大軍を率いている。


平治の乱から二十一年後、源義朝の継子・源頼朝が伊豆国で挙兵し、石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに千葉常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送った。

千葉常胤(ちばつねたね)と源頼朝との最初の会見は上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたとされ、常胤(つねたね)は加勢に応じたが、その交渉過程は「吾妻鏡」、「源平盛衰記」の夫々に相異が見られ、本当の所は定かではない。

いずれにしても常胤の参陣の背景には、国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と頼朝の父・源義朝との間に昔の関係が在ったからである。

千葉常胤(ちばつねたね)は、頼朝挙兵時既に高齢で、胤頼(千葉常胤の庶子)と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府(現在の市川市)に襲撃してこれを討っている。

所が、匝瑳郡に根拠を置き平家政権に拠って下総守に任じられていた判官代・藤原親正(親政)が、頼朝討伐に向かう途中でこの知らせを聞いて急遽千葉荘を攻撃した。

急遽引き返した成胤と親正は戦いに及んで判官代・藤原親正を捕縛する事に成功している。

常胤は一族三百騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣した。

源頼朝が安房国・千葉常胤(ちばつねたね)の与力を得て再挙を図ると、上総広常(かずさひろつね)は上総国内の平家方を掃討し、二万騎の大軍を率いて頼朝の下へ参陣する。

上総広常(かずさひろつね)参陣後の関東武士は鎌倉を目指す頼朝方にこぞって参陣、坂東最大の勢力で在った広常の加担が源頼朝挙兵の成否を決定付けたとも言える。

源頼朝の軍勢は、千葉常胤や上総広常(かずさひろつね)の与力を得て源家の本拠地・相模国鎌倉を目指す間に、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)などの大半が与力に加わって軍勢は五万騎に膨れ上がったと伝えられる。


憶測するに、頼朝は余り武将には向かない臆病者で、緒戦の「石橋山の合戦」の敗北でよほど恐い思いをしたのか以後の戦は全て弟達に任せて最後まで自ら戦には出なかった。

京都に上洛したのも、完全に安全を確保した後である。

頼朝が後の世まで人気が出ないのは、この武将にあるまじき臆病さを「嫌われていた」からではないか?


勿論、武力だけが力ではない。

古来より、知力に基ついた交渉力も立派な力だった。

それを先の大戦では、「武士道の国」と胸を張り、武力に頼って滅びの道を突き進んだ。

考えて見れば昭和の大戦は、古(いにしえ)の奇跡、誓約(うけい)の知恵を持った祖先にも劣る、独り善がりの判断だったのである。

世の中不思議なもので、気弱で臆病な者が最後に笑うケースが目立つ。

臆病は慎重に通じ、源頼朝などの戦はその典型で、弟二人に指揮を取らせて、自分は戦場に出て来なかった。

平清盛流平家全盛の世である。

戦場に出ない源頼朝だったが、その劣勢を頼朝は調伏と言う政治力で平家討伐の見方を集め見事に引っくり返した。

実はこの源頼朝は手紙魔で、味方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

つまり信頼の獲得には、いかに「コミニケーションが大事」と言う事で、努力を惜しんで見方は増えないのである。

後の徳川家康もこれに近く、長い事、織田信長の属将みたいに従属して、最後に天下を取ったが、戦に於いてはとても勇猛な武将とは言い難く、配下の武将に助けられた口である。

現在に於いても、実は「行け行けドンドン」の強引な手法は長続きせず、最後に笑うのは向上心を兼ね備えた慎重派である。


後白河法皇にすれば頼朝が武勇に優れないのは好都合で、ともかく平家の力を削ぎさえすれば良い。

元々、相模から安房に掛けての関東(坂東・東)と言う土地は、以前は父・義朝の地盤で、源平を問わず所縁の豪族が多かった。

しかし、頼朝に呼応して旗揚げに参加した安房の豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤は、紛れも無き桓武平氏の一門である。

彼らは、後に鎌倉幕府の有力御家人として政権中枢に座る事になる。

その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。

つまり、時代と血筋と地の利を得たのが頼朝であった。

それに引き換え、むしろ常陸の国の河内源氏の佐竹氏など、八幡太郎(源)義家の弟、義光の流なれど頼朝に加勢せず、頼朝上洛の枷になったくらいだ。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。

初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かに上手い。

しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


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義経、兄・頼朝と対面す

◇◆◇◆◇◆◇◆◇義経、兄・頼朝と対面す◆◇◆◇◆◇◆◇◆

藤原家で六年間、義経は秀衛に息子の様に可愛がられたが、兄頼朝の挙兵を聞き時節到来と伊豆に駆けつける。

藤原秀衛が軍事顧問的に、配下の佐藤兄弟を義経の手勢として付けてよこした所を見ると、義経の挙兵は「秀衛、予定の範疇だった」のかも知しれない。

藤原秀衛(ふじわらのひでひら)が義経(よしつね)に付けて寄越した佐藤継信・佐藤忠信の兄弟の出自は奥州藤原家と同じ藤原北家流で、後に歴史研究上の一般呼称で信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族とされる佐藤氏である。

兄弟の父は佐藤基治(元治とも)と言い、信夫(しのぶ)の飯坂温泉付近(現・福島県福島市)の地に「信夫荘司・湯荘司」と称した荘園を所領する土豪だった。


富士川の戦いは、言わば臆病者同士の戦いである。

石橋山の合戦に破れ、房総半島(安房国)に逃れた源頼朝は、安房国で大勢を建て直し、僅か二ヶ月弱で関東武士十万余を味方にして相模国鎌倉に陣を構える。

朝廷を力で抑えていた平家政権にとってはこの源頼朝の所業は反乱である。

これを知った平清盛は、頼朝追討の宣旨を願い出て総大将(追討大将軍)に平維盛(たいらのこれもり)を据え、反乱鎮圧の兵を編成する。

頼朝追討の宣旨を受けた平維盛(たいらのこれもり)率いる数万騎が駿河国へと達すると、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し翌々日に黄瀬川で甲斐の武田源氏・武田信義、舅の北条時政らが率いる二万騎と合流する。

源頼朝に助力し、平家を滅亡に追い込む勢力の中でも有力だった一つが武田信義(源信義)率いる甲斐武田氏だった。

頼朝は富士川の戦いで維盛(これもり)軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛(これもり)軍を破る。

敗走する平家軍を追撃して殲滅(せんめつ)するチャンスだったにも関わらず、臆病者の頼朝は深追いする事無く兵を引いている。

富士川の戦い(ふじがわのたたかい・「浮島ケ原」と呼ばれる湿地帯)とは、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河国(静岡県)富士川で、行われた合戦である。

源頼朝の兵(関東武者)と追討の為に派遣された総大将・平維盛(たいらのこれもり・弱冠二十三歳・平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)ら平氏方(関西武者)の兵が戦った合戦であり、源平合戦と呼ばれる一連の戦役の一つだった。


平清盛の嫡孫・平維盛(たいらのこれもり)は源頼朝の挙兵に際し追討大将軍と成り、軍勢を引きいて東へ進み富士川に達した。

所が、富士川畔の富士沼(浮島原)から飛び立った数千羽の水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走する。

ただし、羽音に拠って源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとした所、不意の命令に混乱して壊走したと言う説もある。

いずれにしても、平家軍は散り散りに都へ逃げ帰り祖父・清盛の怒りを買う。

この平家方頼朝追討軍、永年の都暮らしで平家一族が「公家化して軟弱に成って居た」と言われて居る。


関東武士十万余を率いて富士川までやって来ていた源頼朝が、平家との富士川の合戦に大勝した帰途、弟を名乗る若武者が垢抜けない供廻りの武将を十騎、列する南部馬は凡そ三十騎、その内二十騎は荷駄を負い軽輩を凡そ二〜三百ほど従えて訪ねて来た。

取次ぎの者は、その若武者が「腹違いの弟・九郎義経を名乗っている」と頼朝に告げた。

弟を名乗られては会わぬ訳にも行かず、頼朝はその一団を遠望した後急こしらえの座所を決めて招き入れる。

源義経は奥州の王とも言える藤原秀衛の支援を得て、兄・頼朝も得心する戦支度を整えていた。

義経は設(しつら)えの良い立派な大鎧を身に着け、供廻りも相応の身支度はしていたのだが、どうも頼朝にはこの一団が胡散臭く映る。

義経が身に着ける鎧兜(よろいかぶと)は、敵の攻撃から身を守る防具として七百九十四年に桓武帝が平安京(京都)に都を移した平安期の頃に上級の武士の間で始まり、源平の鎌倉期を経て後醍醐帝の南北朝期頃まで用いられ発達した武具である。

山河を修験山伏として移動する修験武術を発祥として発展した日本の武術には西洋や中国のように盾と剣を組み合わせるのではなく、盾を用いずに切り合う形式だった為に主として鎧兜(よろいかぶと)で防御する形式と成った。

山岳活動を得意とした陰陽修験者が盾など持って移動できないからだが、盾を使わない日本独特の剣法として修験者から生まれた京八流(流儀が八流在る)は、様々に考案されて発展し、これが日本の剣術の原点に成った。

今も昔も技術の発達には、戦の存在がその切欠に成る事実が悩ましいが、桓武帝が本格的に東国(坂東)支配に乗り出し征夷を唱えて東北(奥州)蝦夷の征伐を始めた事が必要に迫られて武具の発達を促したのである。


鎧(よろい)は甲冑具足とも呼ばれて本格的な物は平安期に始まり、南北朝期頃まで用いられた物を大鎧と言い大鎧は頭を覆う兜と肩、腕、手、胴を防御の為に覆う甲冑具足を総称する呼び名である。

まず、兜の上に立つ飾りは「脇立」、横に出ているものが「吹き返し」、頭の横後ろを守る蛇腹が「しころ」、顔を守るものが「面頬 (めんぽう)」、その下に付いている首を守る蛇腹が「垂れ」、兜の紐は「忍紐」と称する。

次に肩を被うものが「袖」、腕に被せるものが「篭手」、手の部分は「手甲」と呼び、胴の前板は「胸板」、胴の下の何枚かの蛇腹部分は「草摺(くさずり)」、その「草摺」の上に付けて股から腿を被うものを「はい楯」、脚を被うものを「脛当」と言う。

大鎧一式を身に着けると相当に重量があり身動きに負担を伴い実戦には不向きだが、基本的に修験武術から発達した日本の武術には盾を使う概念が無く個人戦の集積型だった当時の戦ではこの重量がある防具で戦っても条件が同じだった。

この大鎧は上級の武士が使用するもので、大鎧とは別に同時代に簡便な防具として雑兵や修験山伏が着用し、元は腹巻と呼ばれた胴丸と呼ぶ防具がある。

胴丸には始め袖は無かったが、鎌倉末期より大袖を付けて武将も着用するようになり大鎧は衰退する。

室町後期から戦国期には防禦率良く活動的なものを求めて当世具足と呼ばれる防具が開発され大鎧や胴丸は使われなくなるのだが、この兄弟対面時はまだ大鎧の時代だった。


弟とは言え異腹になる初対面の義経を、頼朝は黄瀬川の辺(ほとり)で謁見した。

その「弟」と名乗る見知らぬ若武者は、「僅かではありますが手勢を引き連れて兄上に御助勢仕りたく負かり越した故、なにとぞ御味方に加えて頂きたい。」と口上を述べる。

頼朝にすれば、予期せぬ腹違いの弟・義経の来訪だった。

義経を正面から見据えた頼朝を見返す義経の瞳は、吸い込まれそうに眩しく澄んでいて、内心頼朝はうろたえた。

頼朝が、後方に控えるその「義経が手勢」と言う武士団見ると、数は少ない供回りだがいずれも役に立ちそうな強兵(つわも)の面構えの面々である。

ふと、頼朝に疑心が湧いた。

「面妖な供回り・・・この者達は何者じゃ?」

その風体(ふうてい)怪しき義経他の十騎余りの武将に、徒歩(かち)で従う軽輩が凡そ二〜三百余り。

戦支度の身成りこそまともだが、この一団はどこか違う匂いがする。

頼朝は奇異に思い猜疑心が浮かんだが、出掛かった言葉を飲み込んだ。


今は味方が多いほど良い。
今や頼朝の下には十万余り、義経の供の者ははたいした兵力ではないが、「平家」と言う大敵と対峙する今は一騎でも多く味方は欲しい。

正直兄弟の実感の湧かない頼朝だったが、その弟に会うと相手の義経は兄に会った感動を表情一杯に浮かべていた。

頼朝は、その表情を見て一応手元に置く事にした。

体格は小柄で身軽そうだったが、義経は陰陽武士団に守られてスクスクと育ち、気楽に近付ける雰囲気を持ち爽(さわ)やかな顔付きが出来る好男子に育っていたのだ。

当時は家長制度が強い時代だから、身内と言えども庶弟は制度的に臣下(部下)である。

この時点で、頼朝にすれば都合の良い手駒が増えた程度で兄を慕う義経に比べあまり兄弟対面の感慨は無い。

本音で言えば、戦の先陣を任せて消耗させても惜しくない程度の手駒が増えた思いだった。

その兄弟愛の温度差は、その後の逆らえない運命を義経にもたらす事になる。


源義経は伊豆の国と駿河の国の国境(くにざかい)黄瀬川の畔(ほとり)、木瀬川宿在長沢で兄頼朝と対面を果たしている。

義経の方は純真な若者で、余り苦労して育ってはいないから兄との合流は感激で、兄に助力できる事を喜んでいた。

この体面の場、現在では八幡神社があり対面に使った一対の石(対面石)が片隅に残されている。


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戦闘の天才

◇◆◇◆◇◆◇◆◇戦闘の天才◆◇◆◇◆◇◆◇◆

義経は「戦闘」の天才で在った。

それは直感的なもので、あまり理論的ではない。

しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は後にも先にも彼一人である。

この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、弁慶達比叡山延の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて自らも先頭に立ち戦闘を為し得たのは義経の才である。

つまり、状況判断と決断である。

どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。


どちらかと言うと義経は「即応自在型」で、戦略ではなく戦闘の天才だった。

だが現代の目で分析して見ると、義経に敗れた平家の方が世間を知らず過ぎた様である。

一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、裏山から雪崩を打って攻め込んで来た義経の戦法は、平家方には大胆な奇襲である。

しかしこの奇襲、義経と平家方には温度差がある。

つまりその平家の考え方は、公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いで、都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害で在った。

考えてみると、四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定していて、普通人間でも急斜面では手を地に着けて四足になる。


義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育ち、奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。

関西の馬に比べ、蝦夷馬は体格も良く力も強かったから前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。

この馬は奥州の特産で在ったから到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。

奥州藤原家に身を寄せていた若き義経もそれを見る機会には恵まれていた筈で、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたのである。

元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。

従って、今日の日本人が思うほど義経の決断はそれ程大したものではない。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。

同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。

つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。

だから一ノ谷(城戸の戦い)に於ける平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。

それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは誰しもが認める所である。

信長も天才であるが、タイプが違う。

信長の才能は「知略」であり、「戦略」である。

ただ義経はまだ若く、奥州藤原氏に可愛がられた為に兄・頼朝の様に二十年間も田舎で流人生活を送った苦労の経験が無かった。

それで、素直にまっすぐ育った。


源義経は或る意味「やんちゃ坊主」で開けっ広げ、けして謀事などする男ではない。

義経が殊更に政治センスの無い若者に育ったには、取り巻きの弁慶達の影響が「多分にある」と推測されるが、義経の育て方について、裏に義経に政治に興味を持って欲しくない「或る方の意向が働いていた」とは考えられないか。

この辺りは、木曽で暖かく育てられた木曽義仲と似ている。

木曽義仲の事はこの後記述するのが、一言で言えば「乳母の里に匿われて、のびのびと育った」と言う事である。

幼くして身近な身内に恵まれず一人ぼっちで育った義経は、肉親恋しさで純真に兄・頼朝を慕い兄の為に戦闘の矢面に立った。

従って、天下の権力には欲心も邪心も無い。

義経は、純粋に父・義朝の無念を晴らし、兄・頼朝の源氏再興の為と信じて一途に戦ったのである。

義経の、兄の旗揚げ参加から奥州落ちまでの行動を見れば、すぐに判る。

そこには、兄・頼朝が問題視すべき部分はまったく無い。

義経の一番の不幸は、天才故に、そして部下に恵まれた為に余りにも戦闘に勝ち過ぎた事だ。

そして、嫉妬深く疑り深い兄夫婦がいた事で兄夫婦の、「弟殺し」が始まるのだ。


源頼朝が「石橋山の合戦」の敗北、関東での再起などでもたついている間に、木曾で旗揚げした源義仲が平家追討を掲げて京の都に進撃する。

頼朝に先んじて、河内源氏の傍流・「木曽義仲」が、以仁王の令旨(りょうじ)に応じて旗揚げし、平家を追い落として京への上洛に成功する。平清盛病没の、約二年後の事である。

清盛の死で平家軍団の求心力が落ち、しかも平家の公家化が進んで軟弱に成っていたのだ。

その軟弱さは、富士川の合戦で証明できる。

頼朝を追討する為に東へ行軍して、富士川に対峙した時、飛び立つ水鳥の羽音を大群と勘違い、驚いて逃げ帰る失態を演じている。

木曽(源)義仲についても、倒した頼朝側の後の情報操作で、田舎者の粗野な男にされているが、正しい評価をして欲しい。

そして義仲は文武に厚く、肉親の情や回りの者への情けもあった。


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木曽義仲(きそよしなか)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇木曽義仲(きそよしなか)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

木曽次郎・源義仲は、頼朝の従弟(いとこ)に当たる。

この時代にしては大柄な体格で見るからに無骨者で強そうだったが、心は純朴な田舎育ちの好青年だった。

木曽義仲は、源為義の孫にあたる源義賢(みなもとのよしかた)の子で、幼名を「駒王丸」と言った。

武蔵(むさし・今の埼玉県)の国で生まれたが、父の死で落ち延び、木曽(長野県)で育ったので、「木曽(源)義仲」と言う。

義仲が信州(信濃の国)木曽で旗揚げしたのも、勝手にした訳ではない。

以仁王(もちひとおう)の平家追討の命令書、令旨(りょうじ)が届いたからである。



源義経・家臣団に関して、帝(後白河天皇)の手に拠る・勘解由小路党修験黒幕説に付いては多くの状況証拠が存在するが、源義経同様に同じ源氏流の木曽(源)義仲にも、勿論そうした情況証拠が存在する。

源頼朝の命で源範頼・源義経らが京に攻め上るまでにいち早く行動を起こし、平家を都から追い落として都を制圧した木曽(源)義仲にも、実は後白河天皇の手が伸びて、勘解由小路党の仁科大助(戸隠大助)と言う信州(長野県)の戸隠修験武者が軍師として付いていた。

木曽義仲に仕えた仁科大助、通称戸隠大助は修験武術の達人で、平安時代末期に信州(長野県)戸隠山で修験道を学び後に戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術と呼ばれるの修験武術の始祖(異説もある)と伝えられる人物である。

戸隠は、「天岩戸が空を飛び、信州のこの地に落ちた」と言う御多聞に漏れない伝説から付けられた名で、修験信仰は盛んだった。
つまり信州(長野県)は戸隠修験道の本拠地である。

真贋は定かでないが、その仁科大助(戸隠大助)が、主(あるじ)とした木曽義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、「伊賀流忍術をも取り入れて完成させた」とされる戸隠修験武術が、「戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術」と呼ばれる「修験武術の流派のひとつに成った」と伝承されているのである。

この事からして、世間で使われている「忍術」なる名称は、修験者が編み出し磨きを掛けた「修験武術の事である」と判る。


木曽義仲の旗揚げの直接的切欠は、皇子・以仁王の令旨が届いたからであるが、こう言う木曽義仲と戸隠大助との経緯を辿ると、義仲の成育時点から勘解由小路党を介して帝(後白河天皇)の手が廻って居た事は容易に想像が着く。


挙兵した以仁王(もちひとおう)が平家に討たれ、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護した義仲が、木曽で旗揚げする。

木曽義仲が旗揚げすると、平家は、清盛の息子平維盛(たいらのこれもり)と甥の平通盛(たいらのみちもり)を大将に、追討軍十万の大軍勢を編成、越前で両軍は激突する。


しかし、山間部の戦いに慣れた義仲軍に、贅沢な都生活で軟弱公家化していた平氏軍は全く歯が立たず、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗退する。

この山岳戦、後白河上皇の命を受けた勘解由小路吉次の手の者が支援していれば、彼らは山になれた修験山伏で、結果は最初から見えていた。

その勢いで義仲軍は平氏の大軍を破って押し進み二ヵ月後には京に到達、上洛する。
義仲もまた、義経張りの戦上手(いくさじょうず)で、平家は持ち堪える事が出来ず京の都を明け渡してしまう。

この時平家は、都落ちに際して安徳天皇は勿論、後白河上皇など、朝廷諸共を奉じてあくまでも「正規の政権の体裁を整えよう」と謀った。

しかし、勘解由小路党の手の者により、この「平氏の都落ち」から身を隠して逃れた後白河上皇は、「平氏を賊軍」と宣言してしまう。

馴染みの、天皇側と上皇側の二手に分かれての争いの構図が、建前上またも出来上がったのだ。

この後白河上皇(法王)が、平家の都落ちから逃れられたのには、皇統直属の影の組織、勘解由小路党が活躍した。

彼ら勘解由小路党は、平家を嫌っていた。

平家の後白河上皇(法王)に対する考え方が赦せなかったのだ。

千百八十三年(寿永二年)夏、平家が木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。


その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母で在った藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)で在った藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎え、伊子(いし)は通親の子・曹洞宗開祖・道元を為している。

これに拠って土御門(源)通親は、新帝・後鳥羽天皇の後見人の地位を手に入れる一方で法皇の近臣としての立場を確立し、新元号「元暦」選定などで、平家や義仲に拠って失墜させられた後白河院政の再建を担う事になった。

後鳥羽天皇は後白河法皇の孫で高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘七条院殖子で、安徳天皇とは異母弟になる。


逃れた後白河上皇(法王)は進攻して来た木曾義仲に保護される。

木曽義仲は、京の町で、朝日将軍と呼ばれ、一時後白河上皇から「征夷大将軍」の位も授かっている。

しかし悲劇はすぐにやって来る。

遠く関東に在って義仲の都制圧成功にあせったのが、頼朝と政子の野望カップルである。

このままでは従弟の義仲に、良い所を持って行かれてしまう。

処が、真に都合良く頼朝に絶好の機会が訪れる。

後白河上皇の存在である。

「院政復活」をもくろむ後白河上皇は、平清盛の孫である安徳天皇を廃し、自分の意思で次期天皇を決めようとして擁立する次期天皇の人選で義仲と意見が対立する。

義仲は純真な発想で、令旨を発して自分にこのチャンスを作ってくれた、「亡き以仁王(もちひとおう)の遺児北陸宮(ほくりくのみや)こそ、次期天皇にふさわしい」と思ったのだ。

しかし、後白河上皇は権力の集中を危ぶみ、義仲将軍主導の天皇選びを嫌って「ウン」とは言わない。

結局、義仲が折れるのだが、この一件で後白河上皇は義仲を嫌ってしまう。

勘解由小路党の機能が発揮され、後白河上皇の意向が鎌倉に伝えられ、出遅れた頼朝は「しめた。」と小躍りをする。

ここで後白河上皇と鎌倉の源頼朝、両者の利害が一致、一つの「謀略的筋書き」が出来上がった。


そして義仲が後白河上皇の平家打倒の命を受け京を離れた隙に、源範頼、義経の頼朝軍に京を占拠され、見事「逆賊」にされてしまった。

計算された陰謀である。

義仲は、源氏の同士討ちを嫌い、何度も頼朝軍に恭順の意を表しているが、頼朝は聞き入れなかった。

それで、頼朝夫婦の「従弟殺し」が始まるのだ。


巴御前(ともえごぜん)は、最初に平家一門を都から追い落として朝日将軍と呼ばれれた木曾(源)義仲の愛妾である。

木曾(源)義仲は、幼名を駒王丸と言い、乳母の嫁ぎ先である木曽の中原兼遠(かねとう)の処で、平家討伐の旗揚げまで育った。

兼遠の三人の男の子と一人の娘と、義仲は兄弟の様に育っている。

娘の「巴(ともえ)」とは成長して恋仲になり、子供(長男義高)も設けるが、巴の父「中原兼遠」は大変な律儀者で、娘「巴」の義仲正妻の座を遠慮、あくまでも娘を義仲の妾(側室)とし、義仲の正妻には源氏の血を引く娘を据えている。

現代の婚姻制度と勘違いして貰っては困るが、例え正式に木曽(源)義仲の婦人と成ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから巴御前(ともえごぜん)の名乗りは中原巴(なかはらともえ)である。

中原兼遠は、野望みなぎる政子の父・北条時政とは対照的な人物かも知れない。

妾の立場では在ったが、義仲を慕う「巴」は、女性の身で武具に身を包み、父や男兄弟と伴に義仲の旗揚げに参戦した。

巴の参戦はけして形式的なものではなく、戦闘で「立派に戦果を上げる働きをした」と言われている。

但しこの巴御前(ともえごぜん)の女武者としての働きは「後の創作だ」と言う意見が強く、精々武者姿で義仲に同行したくらいの事ではないか。

「巴」は山育ちでがさつだったが、義仲への愛は本物で有る。

純粋に愛に生きた女武者「巴御前」は、今も世の語り草になっている。

義仲挙兵から、僅か一年後の事だった。

宇治川の合戦で源義経軍に敗れた義仲は、北陸方面に敗走するが、嫌がるのを説得して「巴」を逃がし、琵琶湖畔の粟津で哀れ討ち死にする。

現在と比べて選択肢は狭いが、男女の事は当事者の問題で、例え妾であろうとも、「巴御前」の「夢見る白馬の騎士」は、正しく幼馴染の木曽次郎・源義仲だったのである。
「巴御前」は命を永らえ、義仲の菩提を弔う生涯を送った。


木曽義仲については、後の後白河上皇の名誉や鎌倉幕府の情報操作で、「上洛後、京で乱暴狼藉を働いた」等と意図的に悪い噂を流し、討たれて当然のように天下に流布された。

しかし純粋な好青年が、本当の義仲の実像で有る。

その後も芝居などの台本で、興行的に悲劇の名将「源義経」を事更美化する為に悪役に仕立てられ、真実が歪められて来た。

それらを、素直にそのまま、「本当はこうだった」と、義仲像を改めて記述する文章も近頃は数多い。


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源範頼(みなもとのりより)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇源範頼(みなもとのりより)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼朝の代官(総大将)として鎌倉方の軍勢を率いて源頼朝のライバル・木曽義仲や西に下向した平家を追討したたのは、頼朝の同腹の実弟・源範頼(みなもとのりより)である。
異腹の末弟・九郎義経は範頼傘下の一軍の将だった。

源頼朝の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常で、源義経主従の様に平家を滅ぼした本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。

源範頼(みなもとのりより)の運命もそんな所で、頼朝の将軍叙任後、頼朝夫婦はもう一人の弟・範頼に難癖を付けて殺し、有力な御家人にも同様な嫌疑を掛けて反逆の憂いを次々と取り除いて行く。

源範頼(みなもとのりより)は、頼朝の同腹の兄弟で、腹違いの弟・義経の兄である。

幼少の頃の名を、蒲冠者(かばのかんじや)と言う。

源氏の棟梁としてトップに在った頼朝と、腹違いながら末っ子で派手な戦(いくさ)ぶりの義経の陰に隠れて、世間では存在が薄いが、実は、中々の人物である。

蒲冠者(範頼)は、父・義朝の平治の乱敗戦のおり幼かった為に兄・頼朝同様に平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願で助命される。

蒲冠者は身の置き所を求めて監視の目を盗み、遠州(今の静岡県西部)から源家の昔からの地盤である関東に脱出し、武蔵の国石戸(今の埼玉県・北本市付近)辿り着き、秘密裏に源氏に味方する人々に出会ってそこに安住する。

この時に集って来た範頼の家臣郎党の中に、義経と同様に勘解由小路党の手の者が密かに紛れ込んでいた。

彼らの目的は義経とほとんど変わらなかったが、何故か義経ほど大物は派遣されなかった。

二十年の歳月が流れ兄頼朝が挙兵、範頼は呼応して頼朝軍に鎌倉の地で合流する。

頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。

範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。


頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。

範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。

その手腕は、義経のはなばなしい戦闘の影に隠れてはいるが、けして弟には引けは取らない。

それ処か、大軍の統率力は義経より遥かに秀でている。

当然だが、範頼にも勘解由小路党の軍事顧問団が機能していたのだ。

その信頼が置ける筈の実弟すら、小心者の頼朝は信じられない。

範頼の周囲にも勘解由小路党の影が、油断ならぬ相手として見え隠れしていたからで有る。

源頼朝が弟の範頼(のりより)に猜疑心を募らせていたのは、不幸にして武将としての資質が範頼(のりより)の方が遥かに勝っていた事である。

戦にまったく自信が無い武門の棟梁・頼朝にとって、諸将の信頼を集めるもっとも武将らしい弟・範頼は危険な存在になりつつ在った。

時の権力者の都合で、情報操作はいつの時代にも存在する。

情報戦略は、勘解由小路吉次が率いる、「影」の最も得意とする処である。



兄・頼朝の為に、恨みも無い従弟の木曽義仲を討ったのも、連戦連勝のあげく壇ノ浦で平家を殲滅したのも義経の成果だった。

だが、いかに強くとも素顔は若武者である。

それで京に凱旋すると、すっかり当代きっての英雄ともてはやされる自分の人気に酔ってしまった。

白拍子遊びに、熱を上げたのだ。

しかしこの頃には、既に「義経切り捨て」の陰謀は、鎌倉で進んでいた。

頼朝にとって源氏の血筋は諸刃の剣で、味方ではあるが「源氏の棟梁座を自分と取って代わられる恐れがある」脅威の存在だった。

そして、義経は戦上手で陽気な人気者だった。

義経を誰かに担がれては、「明らかに不人気な自分に分が悪くなる」と頼朝の猜疑心が頭をもたげても無理からぬ所だった。

源頼朝は、武士としても軟弱だったが、夫としても妻の北条政子の尻に引かれていた。


政子は強烈に勝気な姉さん女房で、どちらかと言うと策略に富む官僚タイプの武人らしくは無い頼朝は、女性の感性を兼ね備える姉さん女房の言い成りだった。


当時の女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。

大胆かつ濃厚な技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めである。

その政子の感性は冷酷で、自らの権力維持の為に「邪魔者を消し去る事」である。

「我殿、九郎様(義経)の都での評判、我殿にとっては善からぬもの、殿を凌ぐ者をこの世に置いてはなりませぬ。」

寝屋で裸身を絡めながら、政子は義経の追い落としに掛る。

義仲(木曾)の次は、九郎様(義経)か・・・?

基より頼朝もその気だったから、「承知しておる」と応じて政子の裸身を攻めに掛る。
「ならば、宜しゅうございます。」

頼朝の攻勢を政子が受けてたち、鎌倉・頼朝屋敷の奥の寝所は、さながら二匹の獣が交わるような雄たけびを洩らし始めた。

つまり、源義経(牛若丸・遮那王)は、腹違いの兄(源頼朝)に愛されなかった人物である。

純粋だったが故に、一途に兄(源頼朝)の権力奪取に尽くしながら、その思いは通じる事が無かったのである。


義経人気が兄(源頼朝)に危険視された事と、傍(そば)に仕える者達が、「或る組織の者」だったが為に、疑り深い兄(源頼朝)とその嫁(北条政子)の猜疑心の的に成ったのである。


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松浦(まつら)水軍

◇◆◇◆◇◆◇◆◇松浦(まつら)水軍◆◇◆◇◆◇◆◇◆

東国は清和源氏の地盤であり、将門以来の反平家(反伊勢平氏・清盛一族)方の平氏(将門子孫を自称する三浦氏、上総氏、千葉氏、等)の地盤だった。

それに引き換え、西国は平家方(伊勢平氏・清盛一族)につく平氏と土着した藤原氏の枝が多かった。

東国軍(源頼朝軍)に京の都を追われた平家は西国で体制を整え、再び京に攻め上る事を画策していた。

その平家追討をしたのが、源範頼(みなもとののりより・頼朝実弟)を総大将とする東国軍(源頼朝軍)で、その先頭に常に立ち、奇策を用いて連戦して行ったのが源義経(頼朝腹違いの義弟)とその一党だった。

西国諸国で行われた平家追討戦は、総大将・源範頼(みなもとのりより)と源義経とその一党の目覚ましい働きで、一ノ谷(摂津国福原)、屋島(讃岐国屋島)、壇ノ浦(長門国赤間関壇ノ浦)の合戦と転戦し、平家は西へ西へと追われて行った。


瀬戸内海を西に下りながら戦った源平最後の決戦は、壇ノ浦の戦いだった。

この戦いに参戦した西国方(平家方)水軍の中に、北部九州の水軍、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 「松浦(まつら)党」が居た。

その松浦(まつら)党の中に、清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、松浦(まつら)水軍一族こぞって平家方に着いていた。

この壇ノ浦の戦い、勝敗の帰趨(きすう)を決めたのが実は松浦(まつら)水軍主力の寝返りだった。

困った事に、歴史的事実では他の者の手柄でも、物語になると主人公をヒーローにする為に何でも主人公の手柄にでっち上げてしまう。

だから壇ノ浦の戦いも、義経が八艘飛びで大活躍した事になる。

その戦い振りは事実かも知れないが、勝敗の要因は「松浦水軍の寝返り」だった。

松浦(まつら)水軍のルーツは、嵯峨源氏の渡辺綱を始祖とする渡辺氏流の分派とされ、摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した。

渡辺綱(源綱)の子・奈古屋授(渡辺授、源授)の子が松浦(まつら)党の祖・松浦久(渡辺久、源久)で、肥前国松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持って松浦の苗字を名のる。

本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下に在ったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、治承・寿永の乱(源平合戦)に於いては当初は平家方の水軍で在った。

この経緯だが、松浦水軍は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦(まつら)氏系のものが大半だが、一部に前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・貞任(さだとう)と共に戦って破れ、奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の三男に安倍季任が居た。

安倍季任は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となる。

松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。
その松浦実任(安倍季任)の子孫・松浦高俊は、平清盛の側近に取り立てられ西国方(平家方)の水軍として活躍し、瀬戸内海を転戦している。

何故九州の地方豪族・松浦高俊(まつらたかとし)が、平清盛の側近足り得るのか?
つまりは、敵の敵は見方で、「前九年の役」での勢力構図の縁(えにし)である。
その縁(えにし)で、松浦水軍は何時の頃からか平家の家人を任じていた。

これぞ、藤原摂関家、清和源氏(河内流)、解由小路家(葛城・賀茂氏流)、奥州藤原家(清原家)対、桓武平氏(伊勢流平家)、土御門(安倍氏流)の二大勢力の暗闘が、糸を引いてそっくり平家の登用に影響されていた事になる。

奥州藤原家(清原家)の遮那王(しゃなおう・源義経)庇護も、そうした勢力構図が背景に在ったのである。


さて松浦水軍主力の寝返りだが、松浦水軍は中心となる氏の強い統制によるものではなく一族の結合体と言う形態の同盟的なもので、一族は夫々(それぞれ)の拠点地の地名を苗字としその中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となっていた。

その緩い結合の為、当初は高俊に合して平家方の水軍であった松浦党の主流は、壇ノ浦で平家方不利と見て松浦高俊一族を除いて源氏方に寝返りを謀り、壇ノ浦の戦いに於いて源家方に付いて源家方の勝利に大きく貢献した。

海戦だった壇ノ浦の戦いに、松浦水軍主力の寝返りに合った平家方は圧倒的不利に総崩れとなり、御座船を包囲されて退路を絶たれ「もはや是まで。」と平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、哀れ二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

敗れた平家方の総大将の平宗盛・清宗父子は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

源義経主従の活躍ばかりが喧伝されて有名だが、壇ノ浦の戦いの勝敗はあくまでも松浦(まつら)水軍主力の寝返りだったのである。

鎌倉幕府が成立して守護・地頭制が敷かれ、松浦党はその壇ノ浦の戦いの功を認められて鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられたのだが、鎌倉初代将軍・源頼朝が東国から九州に送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの「下り衆」と呼ばれる東国御家人の下に置かれ、その「両者の確執は絶えなかった」と言う。


一方の松浦水軍・松浦高俊は、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により平家方が源範頼・源義経軍に敗れたが、高俊(たかとし)は生き残った。

生き残った高俊(たかとし)は、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった後に高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害を恐れて先祖・安倍宗任以来の旧姓・安倍姓に戻して名乗り、以後長門国油谷(山口県)に安倍家は存続する事になる。

この長州・安倍家(松浦高俊・娘)の子孫が土地の名家として八百年以上続いて現在に至り、後の現代の世に政治家一族として名を馳せる事になるが、賢明なる読者の貴方はもう誰の事か見当が着いている筈である。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。

壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の松浦(まつら)党(佐志氏や山代氏)などの海上勢力は、つとに知られている所である。

松浦水軍は、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)でも水軍として駆り出され、転戦した記録があり、その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」だった。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に水軍としての松浦党の出番は終了する。

僅かに松浦氏傍流の平戸・松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降に旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として存続した。


壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したのは、平清盛が病没して、僅か四年目の事である。

平家(伊勢平氏の平清盛一族)の栄耀栄華は僅か二十五年、平清盛一代限りの事であり、この点は後の織田家や豊臣家に似ている。

敗れた平家方の安徳天皇は入水死し、総大将、平宗盛は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。


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義経、都に凱旋す

◇◆◇◆◇◆◇◆◇義経、都に凱旋す◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「評判を立てる。評判を煽(あお)る。」を組織的に工作し、予め強敵の印象を相手に与えて恐れさせる事も立派な軍略である。

そしてその平家討伐の軍略に、当初は九朗・義経一党が担ぎ挙げられて喧伝された。

義経主従は、この西国追討戦にめざましい戦果を上げて、都に凱旋して民衆の熱狂的人気を博して居る。

面白いもので、周りが持ち上げると人間その気になる。

この時が義経絶頂の時で派手に立ち回っていたが、義経はまだ若かったのかも知れない。

所がその年も変わらない内に義経は、後白河上皇と頼朝のそれぞれの思惑による陰謀に嵌まり、逃亡生活を余儀なくされる。

武将としての義経の絶頂期は、この僅かな時期だったのである。

千百八十五年(文治元年)五月、平家が源義経の活躍に拠って滅ぼされると、義経は鎌倉にいる兄の源頼朝と対立を余儀なくされる。

後白河法皇は土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の上奏(勧め)もあり、義経に対して「頼朝追討」の院宣を出したものの、義経にその気がない。

その内に義経討伐として上洛した頼朝軍が入京して、兄と戦いたくない義経は逃亡してしまった。

源義経には、人を引き付けるに充分な魅力があった。

それは、ほとばしる様に純粋な心情で、都社会の女達も熱を上げていた。

人は自分を信じてくれるリーダーに集まるもので、それ故に都落ちしても欠ける事がない「損得ずくでない郎党が」多く集まった。


元々修験山伏に端を発する武術をもって生まれた軍事組織が、平氏であり源氏である。
そして、組織の中核をなすのは同族集団の結束である。

従って有力な他人を仲間に入れても、娘など与え婚姻関係を介して取り込む事が多い。

それ故その棟梁には子沢山が要求された。

それが叶わぬ時は、一旦養女養子を儲ける方法がなされて、同族関係を成立させていた。

そうした婚姻の関わりが無い場合は、下(従)が「棟梁(主)に惚れて付いて行くか、損得ずくの上」と言う事に成る。

義経主従は、人間的な信頼関係の集団で、下(従)が棟梁(主)を放っておけない感情が介在していた。

これは一般的な「武士道とは違う主従関係」と言って良い。

江戸期以前の武士に滅私奉公の武士道を求めるのは時代考証を無視したナンセンスな事であり、江戸期に於いても幕藩体制の維持の為に武士道を求められていたのは下級武士だけである。

江戸期の町民農民に、武士道の精神などある訳が無い。

そんな訳で、日本を「武士道の国」と言って国民の思想教育に利用したのは、明治維新後の国家体制と軍部である。


源頼朝には、「源氏の血筋」と言うブランド以外に何もない。

それでも、その金看板を「利用しよう」と周囲に人が集まって来る。

そうした環境下で、戦に自信が無い源頼朝には謀略を楽しむ癖が在った。

打つ手が次々と功をそうすると、謀略こそが頼朝の天下取りに頼れる武器だった。

それにしてもここは一番、人気者の腹違いの弟・義経の手綱は確り握っておかねばならない。

「政子、伝え聞くに都の義経はチト舞い上がって居る様じゃ。」

「それなら、身を固めさせては、アァ・・・・。」

睦み合い、身を絡ませて繋がり合っての夫婦の会話である。

男女の事は、決まった睦相手が居れば収まるものである。

「そう思うか、ワシもそう思うていた。」

「こちらの手の内で、心当たりはございますか?」

「うむ、重頼(河越)の姫が良かろう。」

「ならば早速、河越殿を呼び出して、申し付けなさりませ。アァ・・・。」

「良かろう正子。明日にでも河越に申し付けるぞ。」

意を決した頼朝の正子を攻める動きが早くなり、正子が応じて二人だけの世界に入って行った。


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義経の正妻

◇◆◇◆◇◆◇◆◇義経の正妻◆◇◆◇◆◇◆◇◆

義経の女と言うと白拍子の「静御前」が余りにも有名で、ほとんど国民的に知られているので、静御前とのエピソードは後ほど御紹介する。

もう一人の、「静」の影に隠れた「正妻」の方を先に取り上げたい。

正妻の方は、「河越氏の娘」とされ兄頼朝の命令で義経と結婚していて、郷姫・郷御前、京姫・京御前など色々言われていて名の方は判然としない。

当時は、よほどの事がないと女性の記述は「誰々の娘、誰々の妻」と言う書き方が主流で実名が判らない。

従って正妻の名は仮に埼玉から摂って勝手に「玉御前」とするが、あくまでも「仮」であるので、この名を現実と信じない様に願う。


河越重頼(かわごえしげより)の娘に関しては「源平盛衰記」に「郷御前」とある為、現在の解説では「郷御前」と記述する物も多いが研究者の間では依然として河越重頼(かわごえしげより)の娘であり、「郷御前」は疑問視されている。

父親の方は、しっかりした記述があり、武蔵の国、比企(ひき)一族の「河越重頼」で有る。

河越重頼は秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた比企氏(比企能員)や同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。

河越氏も関東豪族の名家であり、今の埼玉県川越市は、そこから来ている。

河越重頼(かわごえしげより)の養母は、比企尼(ひきのあま)と呼ばれ、頼朝の乳母であった。

頼朝にすれば、血は繋がらないが比企と河越は身内の気分の一族である。

また、比企尼(ひきのあま)は、後に「比企能員(ひきよしかず)の変を起こした」と言われる鎌倉二代将軍・源頼家の妾妻「若狭の局(わかさのつぼね)」の父・比企能員(ひきよしかず)の養母でもある。


当然ながら、頼朝の方には義経取り込みの思惑が在った。

しかし義経には、頼朝には油断なら無い者共、弁慶達修験者(山伏)の影の力が付いていた。

この辺りは綱引きになる。


「静」は、都で評判の美人白拍子で、現代風に言えばトップ・アイドル的存在だった。

方や、そのトップ・アイドルの相手が平家追討に成功し、源氏の総大将・頼朝を凌ぐ人気の若武者・源義経となれば、都雀達に評判のカップルである。

だが、このカップルの誕生には周囲の思惑も有りそうだ。

源頼朝は、この腹違いの弟・義経を取り込もうと身内気分の河越重頼(乳母の子)の女(姫)を正妻に据えた。

義経は純真だから、この兄・頼朝の行為を純粋に喜んだのだが周囲の側近達は慌てた。
義経を取り込まれては元も子も無い。

「弁慶殿、さて困ったものじゃが、わが殿は頼朝様から使わされた玉姫様に夢中じゃ。」

「三郎(義盛)殿、わしも気にして居った。如何にすれば?」

「殿に我らの手の女性(にょしょう)を宛がっては?」

「ならば、静が良かろう。美人の上に床技も手慣れ故、殿も夢中になる。」

「うむ、静ならば殿の都での評判も益々あがる。三郎(義盛)殿、早速手配されい。」

実は、都での義経の評判を煽ったのは勘解由小路修験の策謀で、源頼朝の権力が集中するのを阻止するのが使命だった。

煽るだけ煽ったから、都での義経の評判は天井知らずで上がって行った。

勘解由小路修験の伊勢義盛や弁慶は、白河上皇の命を受けての義経側近で、義経が兄・頼朝に取り込まれては、対抗上都合が悪い。

表立って対抗は出来ないが、対抗する為に傘下の白拍子の中から飛び抜けて美人の「静」を宛がった。


義経が、「色を好む英雄だった」と言う逸話話しは、枚挙に暇がなかった。

元々純真で優しく、女性を愛する事にてらいが無い。

そして、彼の魅力はそれだけではない。

源義経は、出自が良い上にイケメンと来ている。

それで、女性にもてない訳が無い。

玉御前の方も、「兄から押し付けられた相手」とは言え、二十代後半になって男盛りの義経に、十七才の美少女の嫁である。

義経の心が動かない訳はない。

実際の処両手に花で、八艘飛びの義経は、静御前と玉御前の間を、「飛び歩いた」と、言われている。

その辺りも人間臭くて、後の庶民人気の元に成っているがしかし、義経の京での絶頂期の生活はそう長くは続かなかった。

源頼朝には、都(京)での九郎(義経)の人気が気に掛かって成らなかった。

このまま放置すれば、後白河院(上皇)と西国の武将どもに祭り上げられて鎌倉に攻めよせないとも限らない。

そこに、後白河院(上皇)の巧みな陰謀が有ったのだ。

せっかく力が強く成り過ぎた平氏を以仁王の令旨をきっかけに取り除いても、源氏が取って代わっては朝廷の院政の為には何も成ら無い。

後白河上皇が目標とするのは、あくまでも天皇の権力を強め院政を取る事で、このままでは平家が源氏に代わっただけで平家打倒を画策した意味が無かった。


後白河上皇は焦っていた。

源氏の勢力が固まる前に、源氏を強力にしない手を打たねばならない。

老獪な後白河上皇は、次の画策を謀る。

大きく成った源氏の力を削ぐには、源氏を分裂させて互いに争わせる事だ。

後白河上皇は、実力、人気の高い義経に目を付けた。

と言うよりも、義経には幼少の頃から勘解由小路の影の手の者達を配してある。

用意周到な後白河上皇にしてみれば、いよいよこの謀(はかりごと)を、利用する時が来たのだ。

後白河上皇は確信犯的に頼朝を無視し、直接、義経に検非違使(けびいし)の官位を与える。

検非違使は令外の官で治安維持を任務とし、警察権、裁判権を有した。

検非違使(けびいし、けんびいし)は律令制下の令外官の一つで、「非違(びい/非法・違法の意)を検察する」の意味し、云わば現在の警察と裁判所を兼務した検非違使庁が設けられ、京都の治安維持と民政を所管した官職である。

凡そ八百二十年代頃に設置され、当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務し、官位相当は無いがこの職が五位から昇殿が許され殿上人に出世となる目安となっていた。

四等官の長官(頭/カミ)に相当する「別当(べっとう)」、四等官の次官(助/スケ)に相当する「佐(スケ)」、四等官の判官(允/ジョウ)に相当する「大尉(ダイジョウ)」、四等官の判官(ジョウ)に相当する「少尉(ショウジョウ)」、四等官の主典(属/サカン)に相当する大志、少志などの官職からなる組織が編成される。

令外官ながら徐々に権限が強くなり、司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安・ 司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使(けびいし)は大きな権力を振るうようになる。

平安時代後期には平安群盗などの出没もあり、検非違使(けびいし)が令制国にも置かれ、刑事事件に関する職権行使の為に律令とはちがった性質の「庁例(使庁の流例ともいわれた慣習法)」を適用するようになった。

また、この頃から検非違使庁に於ける事務は別当の自宅で行われるようになった。

しかし平安時代末期になると摂関政治(せっかんせいじ)が弱体化し、法皇・上皇の院政(いんせい)に移行した為に御所の軍事組織である北面武士に取って代わられる。

更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると検非違使庁は次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ侍所(さむらいどころ)に権限を掌握される事になった。
それでもこの叙任は、形として朝廷の命で京の王城の地は義経が守る事になる。

この検非違使(けびいし)叙任は、本来は頼朝の推挙を得るべき筋で有るが、後白河上皇はあえて頼朝を無視、兄弟の離反を謀ったのである。

頼朝が怒り義経討伐を決意すると、後白河上皇が義経に対し頼朝追討の院宣(いんぜん)を発し、兄弟の仲は決定的なものに成る。

この院宣、義経が後白河上皇を「脅して書かせた」とする説もあるが、それは、日頃の義経の行動にはまるで似合わない。

やはり老獪な後白河上皇の策謀と、弁慶達「影の暗黙の拝命」と取るのが正解であろう。

弁慶達ブレーンが、義経にとってリスクのある「上皇直接の叙任」を反対しなかった事こそ、彼らの本質が帝の影だった事を示している。

こう書くと後白河上皇だけが悪い様に見えるが、頼朝は苦労を重ねて大人の見方が出来る。

政治センスのある頼朝に、ある意図が無ければ易々とは上皇の策略に乗らない筈で、つまり兄・頼朝には予め後白河上皇の動きを予測し、それに乗った節が有る。

それに反して義経には、「兄を出し抜こう」と言う気はまったく無い。

検非違使(けびいし)も、「上皇に褒められて、兄も喜ぶ」と軽く考えていた。

「兄が怒っている」と判ると鎌倉近くの腰越まで出向き、鎌倉入りを認められず面会を断られても諦め切れずに、言い訳状(弁疎状・腰越状)も提出して誤解を解こうとしている。


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異母弟・義経

◇◆◇◆◇◆◇◆◇異母弟・義経◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼朝が弟・義経の忠誠心を疑ったのは、武蔵坊弁慶や伊勢(三郎)義盛等の修験武士団が義経の周りを固めていた事である。

彼等修験武士団は、義経にとっては兄・頼朝の為に戦功を上げるには頼るに足る家臣だったが、同時に兄・頼朝には「後白河上皇(出家して法王)が後ろに付いている」と思われる最後まで気を赦せない一団を率いていた事になる。

源頼朝は、多感な青年期を伊豆国・蛭ヶ小島で流人として周囲を敵に囲まれて育った。
それ故に猜疑心が人一倍強く、唯一の頼りは「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

血筋以外に頼りどころがなかった頼朝に取って、同じ源家の血筋を持つ腹違いの弟・義経は、内心唯一の財産を侵食する腫れ物のように不快な存在だった。

腫れ物の始末は、平家が滅んだ今が好都合である。


平家の時代までは公家と武士の境は曖昧で、同じ氏族(支配階級)の出自だから公家も武力を有していたし武士も公家生活をする者も居た。

しかし天下を掌握した源頼朝は、平家の公家化(貴族化)が「軟弱さに結び付いた」と見て武士の公家化を嫌って都から遠く離れた鎌倉に幕府を開き、武門と公家の間に明確な線を引いた。

頼朝が後に幕府を開いた鎌倉は、全面を海、三方を山に囲まれた要害の地である。

この時代はまだ城を築く習慣が無く、武門の棟梁と言えど堅固ではあったが屋敷住まいだった。

この地鎌倉は源家と関わりが強く、源頼信、頼義、義家、そして頼朝の祖父・源為義の代まで四代に渡って相模守を務めていた。

頼朝の父・源義朝は寿福寺の周辺に屋敷を所有した。

そうした地縁があるから、京からやって来た平家の追討軍を富士川の戦いで迎え撃ち、それを破った頼朝はその足で後に鎌倉幕府の置かれる大蔵(雪ノ下)に屋敷を造り入って居る。

頼朝は鎌倉に入ると、まず先祖が造営し守って来た元八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の地に移し、行政機構を整え始めている。

世の常で、陽気な男には人望が集まる。

その人望が陰気な同僚に妬まれ、猜疑心の強い上司には危険な存在と映る。

生来陽気な義経には、人望が在り過ぎたのである。


千百八十年(治承四年)の事だった。

兄・頼朝の猜疑心など思っても見なかった義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、洋々と鎌倉の兄・頼朝の下へ向かった。

所が頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経を留め置いている。

天真爛漫に兄を思っていた義経は、この仕置きに困惑する。

満福寺に留め置かれた義経は、この時初めて兄・頼朝の自分への不信を実感、兄頼朝に対し自分が叛意のない事を示す言い訳状(弁疎状・腰越状)を頼朝の側近・大江広元に託している。


「兄上、義経が目通りを願って沙汰を待ち詫びて居ります。会って遣ってはいかがか?」

頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)が、異母弟・義経との仲を取り持とうとする。

伴に平家を追い詰めた仲で、義経の事は範頼(のりより)が一番知っていた。

兄・頼朝に異心を抱くなど、想いも寄らない弟・義経だった。

「会うは成らぬ、今と成っては義経は疎(うと)ましい存在よ。」

「それでは、兄者の為に戦った義経が不憫(ふびん)です。」

「成らぬ、くどいぞ範頼。政子も会うては成らぬと申している。」

「しかし、姉上も会うてやれば良いにと・・・」

「政子も表向きと本心は違うわ。義経には裏に陰陽修験と帝が付いて居る。わしには信じられん。」

「・・・・。」


義経は、「説明すれば解かってくれる」と、兄を信じていた。

しかしそんな斟酌(しんしゃく)は頼朝には無い。

青春の大半を流人生活で育った頼朝には、肉親の情よりも、強い者への猜疑心の方が強かった。

平家追討に際して目覚ましい働きをした源義経(異母弟)は、源頼朝に取って源氏の棟梁としての自らの立場を脅かす存在に成長していて、頼朝がそれを怖れた事も事実である。
しかも義経の裏には、影がしっかり付いていた。


影の正体は、頼朝に凡(おおよ)そ見当が着く。

弁慶達、比叡山延暦寺の修験者(山伏)は、時に「頼朝のただならぬ敵」となる。

それで平家の始末が終れば、義経は頼朝にとって「脅威の存在」にしかならない。

つまり頼朝は上皇の策略に乗った振りをして義経を取り除き、返す刀で上皇の動きを封ずる積りだったのだ。

兄・頼朝が差し向けて来たのは、問答無用の追っ手だった。

「兄上、何故に我心通ぜぬ。」

兄に信じてはもらえぬ源義経は、哀しい運命に天を仰ぎ心中で悲痛な叫びを上げていた。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出て来るのが通例である。


後白河上皇(法王)は激怒していた。

義経が牛若丸・遮那王(しゃなおう)の頃から密かに人(伊勢義盛や弁慶など)をやり育てて来た。

長じて都に戻れば白拍子の「静(御前)」まで与えている。

それが苛立つ事に送り込んだ連中がことごとく義経側に着き、何とした事か上皇(法王)たる自分の意に沿わず義経を思う様には操れない。

義経が「頼りに成らない」と判ると後白河上皇も変わり身が早く、僅か一ヵ月で今度は義経追討の院宣を頼朝に与えている。

平氏からの乗り換えと言いこの乗り換えと言い、後白河上皇は見え見えの調子の良い男である。

さしずめ、こうした信念のない動きを現代の若者に教えれば、「ゴシラカワル(変わり身の早いやつ)」なる造語が、出来るかも知れない。

しかし、現代でもこう言う「処世術」に長けた者は居るので、あながち後白河上皇を責められない。

武力を持たない権力者の「唯一の武器」と言えるものであろう。

勿論、影で助言していたのは土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)を於いて他に無い。

義経に西国武士が味方しなかった事を、「恩賞を与える権利」が、「義経に無かったから」とする説がある。

これも清盛や義仲、そして頼朝にこりた後白河上皇が、その後に力を持たせない様にわざと与えなかったのではないか?

しかし院宣だけでは、義経と縁故の薄い武士までは動かない。

恩賞があるからこそ命を賭けられるのだから、新たに義経に呼応する者は少なかったのである。

まぁ坂東(ばんどう/関東)武士も只のお人良しや「義」のものでは無く、氏族に生まれ育った命賭けの権力志向と所領獲得の執念だった。

出世とは世に出る事である。

世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。

氏族の栄光と破滅は常に決断の中に生まれる。

命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。

つまり所領を得るのは成功報酬で、その打算無くして命など懸けられない。

上皇の方針転換で、天台(台蜜山伏)、真言(真言山伏)などの影の勢力も、これを機に積極支援は出来なくなった。

平家の凋落の過程も木曽義仲の場合もそうだったが、例え日の出の勢いであろうとも、一旦坂を転げ始めると我が身大事で身を呈して転落を止めるものなど居ない。


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義経、逃避行

◇◆◇◆◇◆◇◆◇義経、逃避行◆◇◆◇◆◇◆◇◆

兆(きざ)しは在った。

兄・頼朝の態度は、初対面の木瀬川宿でも妙に他所他所(よそよそ)しかった。

それも義経にすれば、急の弟の出現に「兄・頼朝が戸惑っている」と解していた。

しかしこの仕打ちからすると、最初から頼朝は我身を「信頼する弟」とは思っていなかったのでは無いのだろうか?

義経は天を仰いだ。


都の盆地には優しい雨が降っていたが、伊勢(三郎)義盛は手酷い憔悴感に襲われていた。

「もはや義経公は、院(後白河法皇)にも見捨てられ申した。」

伊勢(三郎)義盛は、「これは正しい選択だろうか?」と自問自答していた。

父・吉次からは、引き上げの指示が届いている。

しかし例え父の命があろうとも、このいたわしい源家の若武者を見捨てる事など出来ない自分がそこに居た。

伊勢(三郎)義盛は、義経に親近感を抱いていた。

言わば名門の非嫡子(跡継ぎ以外)に生まれ、どう頑張っても世間が認める嫡子には適わない。

そこにある種の無情さを感じて心底義経に傾倒していた。

哀しい事に源義経は、違う世界を知らずに育っていた。

従う伊勢(三郎)義盛も、その氏素性から実は自分の生き方を信じて疑う事はなかった。


「我が殿・義経様は善人過ぎる。この気質はもう直るまい。」

これは、義経に従う者達の共通した思いだった。

「義盛(伊勢)殿、最早(もはや)我らは義経様に付いて行くしかあるまい。」

流石の弁慶が、半ば諦めて義盛に言った。

「いかにも、あの真っ直ぐさにお育てしたは我らじゃ、義経様は生き甲斐じゃで。」

例えその気質が災いで在っても、義経の一本気さは人をワクワクさせる大きな魅力である。

損得勘定も、忠義でもない。

唯、二人とも義経と言う人間が好きなのである。

伊勢(三郎)義盛は、弁慶と共に義経を素直に育て過ぎた事を悔やんでいた。

義経に政治向きの関心を持たせないようにしたのは、父・勘解由小路吉次(かでのこうじよしつぐ)の命である。

自らが野心を持たず、「天皇の親政を武力で一途補佐する将軍を育てよう」としたのだ。

しかしそれが仇になって兄を一途に信じ、疑う事も駆け引きも知らない。

彼はこの「真っ白な青年の為に死のう」と覚悟を決めていた。

もとより、弁慶も同じだった。

ここに至っては、そのくらいの事しか彼らに策は残ってはいなかった。


やがて、義経追討の兵を頼朝が上げる。

流石に、兄思いの義経が頼朝の本心を知り、対決の腹を決めた時は既に手遅れの状態であった。

義経に取ってはとんでもない兄夫婦で、そこまで陥(おとしい)れる事は不条理な事だが、まぁそこまで行かなくても強欲な身内との諍(いさか)いは世間に良くある事かも知れない。

その追討軍が駿河国黄瀬川に達する頃、義経は三百騎余りを率いて京を落ち、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出する。

義経は西国九州の緒方氏を頼って西国武将を集め、兄・頼朝に対抗する計画だった。

所が、落ち目に成ると全てが悪い方に転がって行く。

率いた船団が暴風の為に難破し、義経主従は「乗っていた軍船の沈没」と言う不運も見舞われて兵の大半を失い、摂津に押し戻されてしまった。


この「軍船の沈没」により義経の九州落ちは不可能と成り、諸国を逃げ回る事しか出来なかった。

義経主従は一時吉野の修験道の寺を頼って潜んだが、そこも永くは匿ってくれない。
この時、義経付きの影達は、上皇の保身の為に修験仲間にも見捨てられたのだ。


しかし兄・頼朝の追っ手に追われて逃げ回るこの時期でも義経に与力するものも現れる。

勘解由(かでの)の草として紀州熊野に土着した郷士集団・熊野雑賀党(鈴木氏)である。

熊野雑賀党・鈴木氏(すずきうじ)の血筋は、日本に於いて一位〜二位を争う大姓の一つで現在では約二百万人程が名乗り、物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自で神主であり武士である。

熊野別当(くまのべっとう)または熊野三山別当(くまのさんざんべっとう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたった役職で、諸大寺や神宮寺、門跡寺院に於いて、別当・門跡などの責任者に近侍した坊官の中に於ける最高の地位である。

その熊野別当庶流の雑賀衆鈴木党総領家の三男・(三郎)重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い、奥州まで同行して平泉・高館(たかだち)衣川館で源義経と共に討ち死にした事になっている。

まぁ、この鈴木三郎重家の行動も突然と言うのでは無く伏線は在った。

鈴木三郎重家の弟・亀井六郎重清は早くから源義経に臣従して一の谷、屋島、壇ノ浦と処々の戦に軍功建て武名を顕していた。

義経奥州に落っるに及び、弟の「亀井重清が隋行する」と、兄の藤白・総頭領三郎重家に報じた。

それを聞き、鈴木三郎重家は叔父・七郎重善と共に源義経に随行を決意し、逃避行の難に赴いたのである。

所が、同行した叔父の七郎重善は三河矢矧駅にて脚の疾(やまい)に罹(かか)り、そこにて休養中に義経主従の高館戦死を聞き、三河の里人の請うままに「挙母の里」の奥なる猿投山に熊野権現を勧請して仕へ、挙母の里に住み着いたその子孫を三河・鈴木(挙母・鈴木氏)と言う。

もう誰が見ても落ち目の源義経を、それでも支えようとするほど熊野・雑賀党は自由な郷士集団だった。

そしてこの鈴木三郎重家は平泉・高館(たかだち)衣川館で討ち死にせず、義経の命で生き残り、奥州から蝦夷(えぞ・北海道)の地まで、「義経生存伝説を残し続けた」と噂される人物である。


また、この時鈴木(三郎)重家に同行した叔父の鈴木(七郎)重善は途中三河に至って足を患い義経主従との同行を断念し、(七郎)重善の一族郎党と三河国・賀茂郡の高橋庄に留まらざるを得なかった。

その鈴木(七郎)重善一族が、三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こしている。

三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こした(七郎)重善のその後の子孫・三河国鈴木家は、鎌倉期、建武の親政、南北朝並立、室町期、戦国期、安土桃山期を生き抜いて、三河松平家(徳川家)の家臣として歴史の表舞台に現れる。

この三河鈴木家、三河松平家の臣下武将として家康に臣従し、徳川政権(江戸幕府)誕生に参加して江戸徳川家の譜代旗本として生き残る。

それから二百数十年後の幕末には、数馬家(相模・伊豆・上総・上野に二千四百石)、正左衛門家(摂津・常陸に千二百石)、万次郎家(三河・上総 に千石)の旗本三鈴木家が残り、明治維新を迎えている。

また義経に奥州まで同行した鈴木(三郎)家重の実家、熊野の雑賀衆鈴木党宗家は、鈴木(次郎)重治が継いでいる。

その「鈴木宗家」の子孫・雑賀孫市(鈴木重意/しげおき)が、後の安土桃山時代に大活躍する物語があるのだ。


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鎌倉殿御家人

◇◆◇◆◇◆◇◆◇鎌倉殿御家人◆◇◆◇◆◇◆◇◆

鎌倉に入った源頼朝は、武士の棟梁として組織化を図り、従うを家人(臣下)とし、従わぬを攻め滅ぼして全国の武士を武力統一する。

平安時代に於いては、貴族や武家の棟梁に仕える出仕武士を「家人」と呼んでいた。

征夷大将軍の家人を特に「御家人」と称するが、鎌倉殿・御家人の成立は、源頼朝に拠る鎌倉幕府の樹立経緯と密接に関連する。

源氏の棟梁を継いだ源頼朝が平家を倒して天下の実権を握り征夷大将軍の官位を得て鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿(将軍・源頼朝)と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人(鎌倉殿御家人)と呼ぶようになった。

つまり平家と覇を争う初期の頃から、頼朝は自分に従う「家人」を必死で集めていた事に成る。


尚、鎌倉殿・源頼朝が守護地頭職(しゅごじとうしょく)の任命権を朝廷から得た千百八十五年を持って鎌倉幕府の成立とする説が、千百九十二年(例のイイクニ)の頼朝征夷大将軍任命時説から修正されつつある。

守護(しゅご)と地頭(じとう)の役割の違いを簡単に説明すると、守護(しゅご)は地頭(じとう)の管理と言う現在の公安部警察権に近い治安維持権限を持ち、地頭(じとう)は現在の税務徴収権や地方警察権に近い権限を持っていた。


千百八十年(治承四年)の源頼朝が伊豆で挙兵の際には、元々平清盛に拠って伊豆へ流人とされた頼朝の家人は極僅かで、大半は妻・北条正子の父・北条時政の手勢と流人の地伊豆で知り合った加勢だけであった。

その為父・源義朝の旧家人だった南関東の武士達を「累代の御家人」として誘引したが、当時の観念では累代の認識は無く主従関係は個々に結ぶ習慣であり頼朝に従属しない武士も多く、石橋山の合戦は惨敗だった。

その後頼朝が安房の国で再挙挙兵に成功し、鎌倉に平家に対抗する東国臨時政権を樹立すると、各地の武士が続々と頼朝支配下へと入って行く。

そこで後白河天皇(ごしらかわてんのう)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨が利用され、急速に増加した支配下の武士を秩序だって組織化する為に令旨に従って頼朝の支配に入った武士は一律に「御家人」として組織された。

御家人には、東国に在住し早い時期から頼朝に臣従していた者が鎌倉殿から直接所領安堵を受ける御家人と、荘園領主たる本所や国司の地位権限を追認した本宅安堵を受ける御家人に分けられる。

鎌倉殿から直接所領安堵を受けた御家人は、地頭職に補任されるなどの厚い保護を受ける見返りに有事には緊急に鎌倉に参集する義務を負っていた。

鎌倉幕府成立に武功が在って直接所領安堵を受けた有力御家人は広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる者も在ったが、零細な御家人も含め御家人相互の主従関係・支配関係は厳しく禁じられ、鎌倉殿に等しく従属する家人として身分上は同格として扱われた。

本宅安堵の御家人は、国を単位に編成されて「国御家人」と呼ばれ、大番役(鎌倉警護)への催促を通じて各地武士の国御家人化が進められ、西国武士の多くがこれにより国御家人へ編成された。

この国御家人を統括するのは守護の任務であり、大番役(鎌倉警護)を催促するとともに大番役勤仕の御家人名簿を幕府へ提出していた。

この御家人の名簿に載っているのが幕府認定の武士であり、乗っていない武士は未登録の言わば「まつらわぬ者」で、反政府勢力或いは悪党・野武士の類と言う事に成る。

御家人の名簿に乗っていない武士団はかなり多く、後の元弘の乱(げんこうのらん)で活躍した河内悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)や播磨悪党・赤松則村(のりむら/円心)がそうした未登録の武士である。


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静御前(しずかごぜん)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇静御前(しずかごぜん)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源義経の愛妾に、白拍子の静御前が居る。

十一世紀頃、神仏の由来や縁起を白拍子が新鮮な当世風に歌う、歌謡として登場して来た「今様」と名付けられた楽曲がある。

白拍子は古く遡ると、巫女による「巫女舞が原点にあった」とも言われて、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

巫女が布教の行脚(あんぎゃ)中に於いて直垂(ひたたれ)姿の舞を披露して行く中で次第に芸能を主とした遊女へと転化して行く。

その内に、巫以来の伝統の影響を受けつつ白い薄絹の直垂(ひたたれ)を着て遊女が舞う「男装の男舞」に長けた者を指して言う様になった。

白拍子は院政期(平安時代の後期から鎌倉初期)に最も活躍していた遊び女で、その「今様」を歌いながら、そして白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)と言う男装で、男舞と呼ばれる舞を舞っていた。

勿論、殿方を誘惑する事が仕事であるから、形は男装だが、そこは遊興の酒席、相応の色気が必要で衣装は裸身が透ける当時としては相当高価な薄絹が用いられていた。

白拍子は、遊び女と言っても基本的に上流社会の男性を相手にしていたから、当時としては相当高度な知識を持っていた。

同時に、床技(性技)にも長けて居なければならないこの白拍子を「誰が育てたのか」と、考えた事があるだろうか?

殿方に心地良い存在として、心身ともに育てられた女性である。

そこに存在するからそれを認めれば良いのではなく、裏に何があるのかを見極めなければならない。

白拍子が何故育成され、何がターゲットに成ったのかを考えると、背後に影人の存在が見え隠れする。

そう、諜報機関としての影の存在が、「特殊任務を帯びた女性を育てた」とも考えられるのだ。

その白拍子で、義経に愛されたのが静(御前)だった。

義経は、戦勝凱旋の華やかな見た目とは裏腹に、苛立ちを抱えていた。

そんな時に出会えたのが静御前である。

実の所、白拍子・静(しずか)には高位の権力者の相手が出来るだけの教養と芸妓術、性技術が備わっていた。

若い義経には、今まで出会った事の無い新鮮な女性に見え、彼はそれにコロリと参ってしまった。

静御前の性格は優しく何事も受動的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れていた。
白拍子として余程仕込まれているのか、多分に被虐的性交を好み、何時も義経の好みに攻め立てられる事で快感をむさぼった。

彼女が最も好みとするのは、後背位で後ろから激しく攻め立てられる事であったが、それが受身な性格の彼女の性癖に合っていた。

男女の中とは上手く出来ているもので、義経は老獪な帝と兄の板ばさみ感の苛立ちを静御前との強烈な睦事に逃げ込む事で、日常から救われていた。

静にしてみれば、義経は客の域を超えて好いた始めての相手だった。

義経は「静御前に愛されている」と確信し、彼女を愛した。

そうした二人の間の関係が、互いに快適だったのである。

静御前の母は礒禅師(磯野禅尼)と言い讃岐出身説があるが、白拍子が陰陽師の諜報機関となれば、大和国(奈良県大和高田市磯野)出身が正しいと思われる。

一説には、静御前の母は礒禅師が「白拍子の祖」と言われているが、初期の育成メンバーの一人だったのが、義経に付随して娘の静御前に脚光があたり、評価が上がったのであろう。

妾妻の静御前は当初逃亡に同行して四国などにも行ったが、紀州の吉野辺りで捕まって母の礒禅師とともに鎌倉に囚われの身と成り、鶴岡八幡宮の回廊舞台で頼朝の前で舞を舞わされる有名な話が有る。


鎌倉の頼朝館に、弟の範頼が参上した。

「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」

「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」

「目の保養と申しますと?」

「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」

「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」

「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか者供に見せねば成らぬ。」

言い出したら聞かない性格の頼朝が、義経の愛妾を辱める目的で言い出した事である。
これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。
,br> 静には酷だが、舞せる他に収まりそうも無かった。

「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」

「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」

流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。

異腹弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で白拍子舞の披露を命じられた。

この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。

後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。

状況的に「義経の愛妾を辱める」と言う条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。

このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが現実を描写する。

永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。

そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。

静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。

今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。

そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。
それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。

従って今様(当世風)神楽にはそうした究極のチラヂズムと言うエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。

本来、白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。

後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱」を、静御前は受けた事になる。

これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。


定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人(高級貴族役人)を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。

古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。

そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。


原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。

欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽から発生して発達し、娯楽の側面を持つに到った。

日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る神事から発生して発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め踊り手は巫女が勤めた。

神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが神官の出自は渡来系氏族で、巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。

そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。


遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。

神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。

この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。

そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。

目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。

記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。
身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を舞い踊る所に、その真髄がある。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの鎌倉前期に衣の重ね着は在っても下着は無い。

それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、後の案土桃山期に歌舞伎踊りで出雲の阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。
この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った必然的真実の所以(ゆえん)である。


これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。

その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。

しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。

最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りには映画やドラマで再現し難い事情がある。
それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。

もっとも映像化出来ないものは沢山在り、日本の既婚女性の化粧習慣だった「お歯黒」は、「映像化には不気味だ」として時代考証の段階で外され再現はしない。

しかしそれが長く続くと後世に残る映像には「お歯黒」を施粧した女性の登場場面は無くなり、やがて記憶から忘れ去られる事だろう。


神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰も露わなストリップダンス」と言われている。

「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。

それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。

この「白拍子」、法皇の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に、諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。

同時に吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っている。

ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾静御前とよしみを通じている。

この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。

「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。

源義経の愛妾・白拍子の静御前は、鎌倉幕府御家人とその婦人が詰め掛ける鎌倉八幡宮の舞台で裸舞(ストリップダンス)を舞わされる辱めを受け、挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。


話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。

工藤祐経(くどうすけつね)は若い頃に都で平重盛に仕え、歌舞音曲に通じて鼓(つづみ)を打ち、白拍子舞の今様を歌う名手である。

頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。

後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。

元々武士の素養とされる言葉に「武芸百般」がある。

この「武芸百般」の意味に於いて、武芸を武術と同じ意味に取り違えているから、思考に始めから錯誤が生じる。

後の世に於いて、芸を「軟弱なもの」と決め付ける先入観がこの錯誤を作ってしまった。

本来、「武芸」の「芸」はあくまでも「芸」で、およそ武士たる者は歌いの一声、舞の一指し、鼓(つづみ)の一打ちも「たしなむ」のが素養とされていた。

その素養意識が、武士のルーツである垣根の無かった神官・神事に通じる神楽舞から「連綿と続くもの」だからである。

すなわち、無骨者では「神の支援が得られない」と言う既成概念が残っていて、無芸の者は「リーダー足り得る要素に欠ける」と言う評価が残っていた。

文武両道、武芸百般の超人が、この国では氏上(氏神)から続くリーダーの理想像なのである。

従って教養豊かな武人こそ尊敬され、武人の「芸」は、磨くべきものだった。

この鶴岡八幡宮の「静御前の舞のエピソード」は、義経逃亡の翌年の事である。


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実家・河越氏の悲劇

◇◆◇◆◇◆◇◆◇実家・河越氏の悲劇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼朝が腹違いの弟・義経を取り込もうと正妻に据えたのは身内気分の河越重頼(乳母の子)の女(姫)・(仮名・玉御前)は、桓武平氏流の家柄である。

村岡五郎・平良文の孫に、秩父平氏の祖である秩父(平)政恒が居り、その秩父平氏の一党に河越氏がある。

つまり、源義経の正妻「玉御前(仮名)」の父は、坂東平氏流(秩父平氏)・河越氏で、河越(平)重頼を名乗り家紋は九曜紋である。


この河越氏一族、頼朝の命令で娘(仮名・玉御前)を義経と結婚させたのだが、親や領主などに決められた政略結婚でも、ともに生活すれば愛情は育つ。

最初から「嫌だ嫌だ」と思い込んでいない限りは、「情」は結婚後の生活の中で充分に育つ。

それは愛の育たない結婚も有ったのだろうが、それは現代の自由恋愛でも同じ事で、きっかけがその先の人生を支配するものではないのである。

その後頼朝と義経が対立し頼朝が義経追討令を発した時、不幸な事にこの時頼朝の脳裏を掠めたのは自らの経験である。

妻方の北条(平)家の後押しで再起を果たした頼朝にとって、義経の妻(正妻)が河越重頼の女(むすめ)であるからには河越氏一族が義経方に寝返り、何時自分の寝首を欠かないとも限らない。

頼朝は重頼に娘の離婚を命じて河越一族の忠誠を試そうとするが、肝心の娘は鎌倉に戻らない。

正妻「玉御前(仮名・河越重頼の女・むすめ)」は、義経を「憎からず」と思ったらしく、後に義経が頼朝から終われる身に成っても父親の命に逆らい親元には帰らなかった。

それで河越重頼(かわごえしげより)を始め河越一族が頼朝の勘気にふれ、一族は処刑されている。

猜疑心の塊(かたまり)のように育った頼朝にすれば、「禍根は断つべき」だったのである。

当時の娘は、一般的に生家の方(親の在所)を大事にする時代だから、河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)は余程義経を愛したのであろう。


何時の間にか晩秋は過ぎ、初冬の吹き降ろしが始まって白いものが「ハラハラ」と舞降りて来た。

降る雪は、追っ手から身を隠してくれる。

義経は僅かな手勢を連れて豪雪の奥州路を前屈みに進み、育ての親とも慕う藤原秀衛(ひでひら)の下を目指した。

吹雪の中、みの傘を飛ばされないように凍える左手で押さえながらの行軍である。

しかし、まだ希望は有った。義経は、秀衛(ひでひら)とは「育ての親同然の気持ちが互いにある」と確信していたのだ。


男女の中など、想っているほどそう難しいものではない。

元々男女の中など知り合うまでは他人であるから、その知り合い方が例え今と違って他人から強制されたものでも、いざ夫婦(めおと)になって一緒に暮らしてしまえば「情が湧く」と言うもので、深く、愛し合う者達が現れても、何の不思議もない。

玉御前は潜行して奥州に落ち延びる義経に途中で追いつき、奥州藤原家の元まで同行した。

本来、男女の仲は「共に生きる事」で絆が深くなるものである。

若い娘にとって、連れ合いには「白馬の騎士を夢見る」と言う気持ちに、今も昔も変わりは無い。

元々義経とは十歳ほど歳が違うが、男女の事は当事者が決める事で、その男女の感情に玉御前が行き付いたのである。


先ほどから褥(しとね)の傍らに身を横たえて、微かに寝息を立てている玉(御前)が義経は愛しかった。

この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

それ故男女の営みは激しいものになる。

玉(御前)との嵐の様なひと時など、既に夜のしじまの中に掻き消えている。

玉(御前)は、親兄弟の説得も身の危険も何もかも振り切って草深い陸奥(みちのく)まで夫(義経)を追って来た。

見かけより遥かに芯の強い女子(おなご)だった。

肉親を見捨てても、愛する夫とともに生きる道を玉御前は選んだ。

それはこの時代の女性としては珍しい純真な覚悟で有り、愛の形かも知れない。

やがて河越の一族が頼朝の怒りに触れ、「討ち取られた」と知らせがもたらされても、玉(御前)は気丈に振る舞い、弱みを見せ号泣したのは二人きりに成ってからだった。
玉(御前)は泣きながら義経にすがり付いて、そのまま二人は睦事に縺れ込んで行った。


獅子奮迅の働きから、急に開放された。

気持ち良く戦っていたのに、その先の情景が、突然無くなった。

義経は、続きを知りたい欲望に駆られたが、夢の続きは無かった。

この期(ご)に及んでも、忘れられるものではない。

義経が夢に見るのは兄・頼朝だった。

不思議な事に、夢の中の頼朝はいつも上機嫌で笑っていた。

見る夢は、過ぎし時の熱く胸躍る愛しい日々だった。

夢の中で自分は、兄・頼朝の敵と必死に戦っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい埋め合わす事の出来ない現実が、義経の胸を過(よ)ぎる。

何故か、まだ兄を愛している自分がいた。

「兄者(あにじゃ)、何故にこの義経を信じ申さず?」


陸奥(みちのく)での平和な日々は二年ほど続いて、しばらくは玉御前なりに幸せな日々を送っていた。

玉御前はやがて義経の子を産み、最後は義経と伴に衣川館で藤原泰衡の奇襲に合い、自刃前の義経の手にかかって母子伴に義経と運命を伴にしている。

玉御前は僅か五年間の結婚生活を、けなげに生きたのだ。


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奥州平泉衣川館

◇◆◇◆◇◆◇◆◇奥州平泉衣川館◆◇◆◇◆◇◆◇◆

義経逃亡から四年の歳月が過ぎていた。

奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地で、藤原泰衡は、その四代目に成る筈だった。

それが老獪な頼朝夫婦に上手く騙され、罠に嵌められて滅ぼされてしまった。

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

源頼義が源氏の棟梁として、東北・奥州の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任し、清原氏(後の藤原氏)と組んで安倍氏を滅ぼした事に始まり、奥州藤原家の成立に河内源氏は深く関わっていた。

言わば生みの親に等しかった。

「後三年の役」の後、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。

この清衡が、領有した奥州全域の富を背景に時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。

奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家の誕生である。

その後藤原家は、基衛(もとひら)、秀衛(ひでひら)と続き、秀衛は「鎮守府将軍」に任官する。

その奥州藤原家最盛期の頃、鞍馬山を抜け出した源義経が、平家の目を忍んで秀衛を頼って来たのだ。

そして、息子同然に扱われて頼朝旗揚げの日まで過ごした。

時が移り、平家討伐の後、義経が兄頼朝に追われて、育ての親である奥州藤原家の秀衛(ひでひら)の元に逃げ込んで来た。

当時奥州藤原家は三代目・秀衛の代で、長く安定した奥州の統治を続けた為、地方の豪族と言ってもまるで独立国家の様に勢力が強く、いかに源頼朝としても容易く手は出せない。

莫大な資力と兵力を蓄えた奥州藤原家と、戦闘の天才・義経が結び付いたのである。
秀衛にとって義経は我が子同然に可愛い、「優秀な息子が戻って来た」と言う思いにかられ、自分の後の奥州運営を義経に任そうと思った。


惜しむらくは、秀衛の息子、世継の泰衛(やすひら)と妾腹の庶兄、国衛(くにひら)には頼朝に対抗する技量が無かったのである。

それで秀衛は義経を主君とし、二人の息子に義経に仕える様に遺言を申し付ける。

藤原秀衛が病で亡くなったのは、義経が奥州に逃げ込んで一年後の事である。

最初は、泰衡(やすひら)も父の言い付けを守っていた。

しかし、秀衛が亡なって二年間も上皇の義経追討の院宣を盾に、頼朝に脅かされ続けると、泰衛は頼朝の圧力に抗せず、頼朝の命令を守れば、「奥州藤原家を存続させてくれるだろう」と信じた。

藤原泰衡は、遂に配下の長崎太郎に義経主従を闇討ちで衣川館に襲撃させ、義経を自害させる。


高館(たかだち)は北上川の支流・衣川の辺(ほとり)、中尊寺の東南にある丘陵の呼び名であるが、そこの屋敷も高館或いは衣川館と呼ばれ義経主従の住まいに成って居た。

「義経記」や「吾妻鏡」を総合すると、千百八十九年(文治五年)源義経主従が平泉衣川の高館(たかだち・衣川館)に於いて藤原泰衡の家臣・長崎太郎の軍勢五百騎に囲まれた。

僅か五百騎だったが、衣川館の義経党はそれで足りる小勢だった。

その時義経に従うは百戦錬磨の兵(つわもの)で在ったが、戦えるのは武蔵坊弁慶、伊勢義盛(いせよしもり)、片岡八郎、鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟、鷲尾義久(わしおよしひさ)、増尾(ますお)十郎、備前平四郎(びぜんへいしろう)の八人だった。

それに正室(仮・玉御前)の老傳役(ろうもりやく・六十三歳)の増尾十郎権頭兼房(ますおじゅうろうごんのかみかねふさ)と、従者・喜三太(きさんた)の二人を加えても僅か十人の総勢で、如何に義経党と言えど、五百騎相手に十騎ばかりで勝ち目など最初から無かった。

夕暮れ時の、突然の事だった。
まだ暗くなるには一刻程はあるその日の衣川館は、長崎太郎の藤原勢五百騎に蟻の子一匹通さないように十重二十重(とえはたえ)と包囲されていた。

「ワァー」と時の声が上がり、寄せ手は一時に襲い掛かって来た。

不意を喰らった義経主従は、僅(わず)かな手勢ながら歴戦の兵(つわもの)で、追っ取り刀で防戦する。

備えがないから義経一党は防戦一方で、先が知れていた。

この場面、義経方が防具(鎧の類)を身に着けていたろもうデタラメな映像である。

「おのれ、泰衡(藤原/やすひら)め裏切りおって。」

弁慶の叫びにも似た、無念そうな声が聞えて来た。

寄せ手が「味方の筈の藤原勢」と知って、義経は覚悟を決めていた。

ここを逃れても、最早(もはや)兄・頼朝の追ってから逃れて身を寄せる所はこの大八州(おおやしま)には無い。


「殿、此処は我らが防ぎます。どこぞに落ちられよ。」

「おぉ義盛(伊勢)か、最早(もはや)これまでじゃ、逃げも隠れもせぬ。世話になった。礼を言うぞ。」

「何んの、拙者も地獄までお供いたす。」

哀しいかな源家の九男坊に産まれた事で、遮那王(しゃなおう・源義経)は、幼い頃から運命(さだめ)に立ち向かう気力を持たされて育っていた。

一瞬の分れ目が、運命を決する。

義経は、この期(ご)に及んで美を取った。

藤原泰衡の裏切りを知った義経は、寄せ手と何度か切り結んで「弁慶世話になった。これで幕引きじゃ。」と叫んだ。

武蔵坊弁慶以下八人の兵(つわもの)が藤原勢と斬り結び皆義経を守って次々に討ち死にして行く。

「此処は通しませぬ。殿は館内(やかたうち)で御最後を・・・」

弁慶が寄せ手を防いでいる間に義経は館の奥に戻り、正室(仮・玉御前)と子供は義経の手に掛かって果て、義経も自刃して波乱の生涯の終焉を迎えた。

館に火が放たれ、紅蓮の炎が上がっていた。

源義経の生涯は帝の思いに仕組まれ、翻弄された不条理なものだった。

それでも義経は、短いが確かな愛の時間にもめぐり合っていた。

その時確かに、純粋過ぎた義経の人生の一時は花火の様に一瞬美しく輝き、そして儚(はかな)く散って消えた。

その消え行く花火の残像を求めたのが、東北から蝦夷(えぞ)までの義経逃避行伝説、果ては大陸渡航にまで到る義経ジンギスカン伝説かも知れない。

源義経が栄光と挫折の試練を越えて、その先に見た物はいったい何んだったのか?


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奥州討伐・藤原氏滅亡

◇◆◇◆◇◆◇◆◇奥州討伐・藤原氏滅亡◆◇◆◇◆◇◆◇◆

胸騒ぎがした。

何者か知らぬが、恐ろしく強力な鵺(ぬえ)がこの世にいる。

藤原秀衛が亡く成った事で、吉次は既にあきらめてはいたが、義経に付けた三男の伊勢(三郎)義盛の身が案じられた。

空に浮かんだ月は三ケ月と言う奴で、細く頼りなげで物悲しく何かを失いそうな恐怖が勘解由小路・吉次を身震いさせた。

伊勢(三郎)義盛は、父・吉次の命で伊勢から鞍馬山に遣って来た。

まだ子供ながら、豪胆で俊敏な若者、「遮那王(しゃなおう)」がそこにいた。

間違いなく初めて会った相手なのに、伊勢(三郎)義盛はこの若き貴公子・遮那王(しゃなおう・源義経)と以前から長い事一緒にいた様な気がして何故か血が騒いだ。

その思いは、伊勢(三郎)義盛が衣川館で討ち死にするまで終始途絶える事無く続いていた。

源義経の日常が安らぎの中に在ったのは、玉御前との奥州での僅かな日々のような気がする。

義経は、自分の役目が終わった事を承知して心穏やかな気分に成っていたのだ。


源義経は時代に翻弄された自らの短い人生を正面から受け止めて、それについて不服は最後まで言わなかった。

例えそれが不条理でも「現実」と受け止めて、余分な事を考えない。

底抜けに純真だった。

その潔さが、「伊勢(三郎)義盛に命を賭けさした」と言って過言で無い。

結局の所、鞍馬山で僧侶に成り安穏と静かな日々を送る筈だった義朝の九男・遮那王(しゃなおう/源義経)に目を付け「利用し様」と画策して教育係りまで着け、世間に連れ出した「政治勢力が在った」と言う無情な政争が切欠である。

生き方が変わった遮那王(しゃなおう/源義経)に取って、権力の狭間で翻弄されたそれが、幸せだったかどうかは今となっては判らない。

義経の首は鎌倉に届き、これで泰衛が「奥州藤原家は安泰」と思ったのは、つかの間の事だった。

勘解由小路吉次は、奥州に放っている手の者からの知らせで、息子の伊勢(三郎)義盛が衣川館で主君の義経と伴に討ち死にした事を知った。


「これで、頼朝を抑える手立ては失った。」

帝の為に源家・頼朝の力を削ぐ事に付いては万策尽きたのだ。

しかし息子の伊勢(三郎)義盛が密かに鈴木(三郎)重家に密名を与え、逃がした事を知った。

吉次は、込み上げて来る無念の思いをそっと抑えた。

吉次は実直豪胆な男で、部下思いだった。

しかし帝の命令は絶対であったから、数多い犠牲にも目を瞑っていた。

また、そう言う生き方しか出来ない悲しい集団を率いていた。

「時が来れば、皆をこの境遇から外して自由に暮らさせたい。」

吉次は呟いていた。


頼朝にしてみれば、十倍の敵でも倒し得る「戦闘の天才義経」がいたからこそ躊躇していた奥州攻めが可能に成ったのだ。

何しろ名高い義経が相手に居ては、頼朝の軍勢が最初から腰が引けてしまう。

しかし奥州の治外法権的勢力を認めていては、頼朝の天下は完成しない。

その奥州藤原家の命綱(義経)を、「頼朝に騙されて」泰衛は殺してしまった。

最初から頼朝が奥州を狙っている事を知っていた秀衛と、ぼんぼん育ちの泰衛の甘い読みの違いだった。

「しめた」とばかり頼朝は、朝廷に奥州討伐の院宣(いんぜん)を願い出て、それが届くのを待たずに大軍を率いて奥州に攻め込み藤原軍を撃破、泰衛は部下の裏切りで殺され、奥州藤原家は滅亡する。

尚、この源頼朝(みなもとよりとも)の奥州討伐の際、源義経(みなもとよしつね)の郎党として活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟の父・佐藤基治(元治)は、信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族を率いて石那坂に陣を敷き防戦するも敗れて所領の信夫(しのぶ)逃げ帰る。

その後、信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族は、頼朝に赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが、南北朝期に惣領家が伊勢へ移住する一方、分家や庶流の一部が故地・信夫(しのぶ)周辺に残り、相馬氏、佐竹氏に仕えて永らえ、幕末には陸奥白河藩の代官となっている。


奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地である。

その平泉に在る奥州藤原氏三代ゆかりの菩提寺・中尊寺は天台宗東北大本山で、台密修験の奥州(東北)の本拠地としての側面も存在した。

中尊寺は八百五十年(嘉承三年)に慈覚大師に拠って開かれし後、「藤原氏初代・清衡が再興させた」と伝えられている天台宗の寺で、本堂には開祖・伝教大師(最澄)が比叡山で点火した「不滅の法灯」を分け移した火が燃え続けている。

源頼朝は藤原泰衡を脅して腹違いの弟・義経を討たせ、その後大軍を送って奥州藤原氏を滅ぼした。

藤原泰衡を攻め滅ぼすと、奥州藤原氏の栄華を極めた平泉の金ぴか中尊寺(金色堂)の噂を聞いていた頼朝は早速奥州藤原氏の隠し金山を探させるが、幾ら探しても見つからない。

奥州には、「さぞかし立派な金鉱が在る」と思っていた頼朝は空振りを喰ってガッカリした。

奥州に藤原氏の隠し金山は無く、奥州藤原氏は金を買っていたのだ。

中尊寺は天台宗、つまり台密修験の奥州(東北)の本拠地でもある。

そして金色堂など、ユネスコの世界文化遺産に指定された日本屈指の名勝旧跡建造物である。

そもそも、金鉱であろうが銀・銅・鉄であろうが元々鉱山の探索や開発従事は修験道の守備範囲で、修験道の流れは賀茂・勘解由小路が帝の手足となる裏・陰陽寮の守備範囲とくれば、源義経を奥州藤原家に逃れさせた「金売り吉次」が陰陽修験と関わりが在っても不思議ではない。

推測するに、「金売り吉次」こと勘解由小路・吉次の売っていた金の出所は伊豆の「帝の隠し金山」に違いない。

つまり、帝の軍資金調達に「帝の隠し金山」の産金を預かって奥州藤原氏に売っていたのが勘解由小路・吉次だったのである。

現に平安期から現代に到るまで、奥州からはめぼしい金山の存在は確認されては居ず、中尊寺金色堂の金の出所は謎である。

源義経が青年期を藤原秀衡の庇護の下に育ち、長じて兄・源頼朝の追っ手から逃れて奥州平泉に逃げ込んだ経緯の裏に在ったのが、勘解由小路・吉次の奥州藤原氏との縁(えにし)無くしては「辻褄が合わない話し」なのである。

「前九年の役」で源頼義に滅ぼされた安倍氏で有るが、枝の一部が生き残って国人領主にまで復活、鎌倉時代から室町時代まで、領地のいざこざを起こして戦った記録がある。

奥州(東北地方)の虐げられた長い歴史に於いて、僅(わず)かに光の見えたのが、藤原三代の百年間である。

その後はまた、外からの権力者がやって来ては、蝦夷(エミシ)の子孫達を七百年間虐げ続けて明治維新を迎えるのだ。

時の変遷を受けての「日本人単一民族」は認めるが、天孫降(光)臨伝説の昔から、「大和単一民族」と言うのには無理が有り過ぎる。

政治はともかく、東北地方の「経済的劣勢」は、今に於いても続いている。

日本の戦後の「高度成長期」を下から支えた多くの集団就職組を、東北地方が排出した事を、忘れてはならないのだ。


武士として軟弱だった源頼朝を弁護するが、彼の経験と育ち方からすると、それも止むを得ない。

源頼朝は父・義朝に従い、十四才で初陣した平治の乱で平家に敗れて捕らえられている。

命は助けられたが囚われ人として監視下に置かれ、周囲に修験の兵法武術指南が居た弟・源範頼(みなもとのりより・蒲冠者/かばのかんじや)や弟・源義経(牛若丸・遮那王)と比べて源頼朝は流人の生活が長く、武門の棟梁としての兵法武術(剣術修行や戦術習得)の類を学ぶ機会は奪われて育った。

ちなみに、弟・範頼は武蔵の国石戸の反平家系の関東平氏に匿われ、異母弟・義経には強力有能な修験山伏の軍事顧問団が付いて武術戦術を教えていた。

初陣の「平治の乱」で破れた上に、清盛打倒の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」でもあっけなく敗れている源頼朝が戦に自信が無くても仕方が無い。

頼朝の実戦の思い出は惨憺たるものである。

彼が経験したのは「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し破れて伊豆に流人に成った事と、「石橋山の合戦に敗れた」と言う二つの負け戦で、これでは頼朝が戦にはからきし自信が無くて当然である。

そう成ると頼朝の戦は、知恵を絞った陰湿な諜略(ちょうりゃく)・謀略(ぼうりゃく)の類に成る。

猜疑心の強い男だからその戦、極めて繊細・周到なものに成りそれが思いの外天下取りに有効だった。

弟・範頼と異母弟・義経を使い平家を壇ノ浦で滅ぼし、人気の高い弟義経を逃げ込んだ奥州藤原家に殺させ、その奥州藤原家を滅ぼすと頼朝の最初の挙兵から十年の歳月が過ぎていた。

負け戦ばかりの体験で怖い思いばかりした源頼朝だったが、怖いからこそ慎重に知恵を絞り天下に辿り着いたのかも知れない。

怖い経験は学習の基で、勇猛果敢は見掛けは良いが慎重さに欠ければそれだけリスクが伴う。

実は、後に室町幕府を開く足利尊氏も江戸幕府を開く徳川家康も、怖い思いの負け戦を経験しているのだが、その話しは追々その時代に詳しく紹介する。

ただ今言える事は、現代の再起劇にも通用する事だが命さえ永らえれば挫折経験も幸運の内である。

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の各創始者・源頼朝、足利尊氏、徳川家康には共通する負け戦の経験がある。

つまり負け戦の経験が慎重さを身に着けさせ、その経験が生かされて彼等は「天下人に成れた」と言えるのである。


鎌倉幕府を開いた源頼朝は父・源義朝に従った「平治(へいじ)の乱」で平清盛に破れ、伊豆韮山に流されて不遇の青年期を過ごした。

その後頼朝は伊豆の国・三島大社で旗揚げをするが、「石橋山合戦」で大庭景親(おおばかげちか)に破れ、命からがら逃げ隠れている所を平家方の武将・梶原景時(かじわらかげとき)に助けられて一時海路で安房国・下総国に逃げ延び、以後は何時も後方に在って戦には出陣していない。


後世に室町幕府を開いた足利尊氏の場合も、そこで意地を張っていたら命を落としていた負け戦の経験がある。

後醍醐帝の建武政権に叛旗を翻す事を決意した尊氏は、新田義貞軍を「箱根・竹ノ下の戦い」で破り京の都へ進軍を始めると同時に京都進軍の正統性を得る為に後醍醐帝に対立するもう一方の皇統・持明院統の光厳上皇へ連絡を取り大儀としてして軍を率いて入京、後醍醐帝は比叡山へ退いて尊氏は都を制圧する。

だが、ほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の連合軍との「京での戦い」は劣勢で、これに敗退して赤松円心の進言を容れて九州に下っている。

江戸幕府を開いた徳川家康の場合は、武田信玄を迎え撃った「三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)」の大敗若さを露呈した経験で、それこそ敗走する馬上で脱糞する恐怖を味合っているのである。

家康は「三方ヶ原合戦大敗の経験」を生かして以後の戦は周到な用意をした上で戦いに臨んでいる。

敢えて言えば、天才武将・織田信長にはそれほどの負け戦体験が無かった所に慢心が生まれ、彼は天下に手が届か無かったのかも知れない。

そんな訳で源頼朝の「武将にあるまじき臆病」が、案外彼の天下取りの秘訣かも知れない。

つまり後の大衆がヤンヤの喝采をする様な武勇伝は、見かけは痛快かも知れないが所詮は娯楽の世界だけの物語である。

どうも戦前の軍事教育の亡霊が未だに跋扈(ばっこ)しているのか、日本人は美しく散るのが日本人の魂(武士の魂)と思い込んでいるようだが、武士の棟梁である征夷大将軍にそんな美学を持った者は居ないだろう。

つまりそうした思想は上の者が下の者に強いる御都合で、そう言う美学を信じる者こそ「下っ端の美学」に過ぎないのだ。


乗馬に於ける遅駆けの事を「地道(じみち/なみ足)」と言い、対する早駆けの事を「早道」と言う。

この乗馬方法から転化した「地道に〜をする」と表現する語源で、急がず安全慎重に努力を積み重ねて事に進む意味を表している。

また、「地道」から派生した言葉に「地味」が在り、に「地味」対する言葉としては「派手」がある。

つまり源頼朝は「地道」に徹して戦に出ず、「派手」な戦の総大将には弟の源範頼(みなもとのりより)と腹違いの弟・源義経(みなもとよしつね)を充てた為に、武将としては「地味」な存在だった。

石橋山の合戦の失敗以来、根回しに根回しを重ね慎重に事を運んだ頼朝も、いよいよ自分の天下に確信を持つ日が訪れる。

この年、頼朝は大軍を率いて悠々と上洛する。

実質的に、首都(京都)を完全掌握し実権も握ったのだ。


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頼朝と朝廷の暗闘

◇◆◇◆◇◆◇◆◇頼朝と朝廷の暗闘◆◇◆◇◆◇◆◇◆

頼朝は軍事力を背景に、諸国に守護・地頭を設置する事、自分の遠縁にあたる親源頼朝派の九条兼実を摂政(せっしょう)に任じさせる事、「議奏」公卿制度導入などの要求を認めさせた。

権中納言であった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)も議奏公卿に選ばれたものの、この改革が「武家政権樹立」への頼朝の野望の第一歩である事に気付いて憂慮した。

通親(みちちか)は早めに手を打とうと法皇に上奏(勧めて)、これらの改革を有名無実化させる事に成功し、千百八十八年(文治四年)には源氏長者に任じられ、その翌年に土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は正二位となった。

そして、千百九十年(建久元年)、頼朝が征夷大将軍を望んだ時も法皇と通親(みちちか)は頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわしている。

この土御門通親の老獪さのおかげで、頼朝の征夷大将軍就任は後白河法皇の崩御まで待たねば成らなかった。

後鳥羽天皇の宮廷には二人の有力な后がいた。

九条兼実の娘である中宮藤原任子と通親の側室・藤原範子の連れ子で通親(みちちか)の養女であった女御「源在子(源通親の養女能円法印の女)」である。

千百九十五年(建久六年)、在子が為仁親王(後の土御門天皇)を生むと、この勢いを背景に兼実の政敵である近衛基通や故後白河法皇の近臣達と組んで親源頼朝派の九条兼実排除に乗り出した。

そして、頼朝や大江広元ら鎌倉幕府要人との和解に成功した通親(みちちか)は、千百九十六年(建久七年)冬、に兼実不在のまま朝議を開催して基通の関白任命を決議、鎌倉寄りの九条兼実の失脚を確定させた。

二年後、天皇家の統治権(親政)に最後まで拘った後白河上皇が崩御、重石が取れた頼朝は、朝廷より「征夷大将軍」に任じられる。

この天下取りの間、頼朝が内心何を感じているのかは誰にも判らなかった。

危険(リスク)を避ける生き方も批判は出来ないし、危険を冒しても大きな果実を得る(ハィリスク・ハイリターン)の選択肢もある。

打つ手の全ては、頼朝の腹の中にしまわれて居た敗戦経験からの周到な閃(ひらめ)きだった。


千百九十二年(建久三年)に後白河法皇が崩御すると、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はその独特の計算から、態度を一転して摂政・九条兼実が提案した頼朝への征夷大将軍任命に真っ先に賛同して、頼朝への「貸し」を作っている。

この辺りが、信念だけでは権力の中で生き残れない「政治家の処世術」と言えばそれまでだが、とどのつまりは庶民が望むような「純粋な者は生き残らない」言う事を歴史が証明している。

裏を返せば、この「二枚舌三枚舌の老獪(ろうかい)な者しか権力に留まれない」と言う点で現代に通じ、清廉な政治家や官僚は見てくれだけの「まやかし」と言う事である。

後白河法皇の死後、彼の娘である覲子内親王(宣陽門院)の後見に通親(みちちか)が任じられ、その莫大な財産の管理を命じられるなど、法皇死後もその政治的基盤の確保は怠る事はなかった。


武門として天下を掌握した源頼朝は鎌倉に幕府を開き、守護地頭制を確立して鎌倉幕府の有力御家人を各地に守護職・地頭職として任用配置し、全国に権力が及ぶ様にする。
「鎌倉殿」が、鎌倉幕府・征夷大将軍に叙任された源頼朝の呼称だった。

ただし、守護職・地頭職の任用配置権限を千百八十五年に朝廷から受けて後、千百九十二年に征夷大将軍に叙任されるまで七年間も、後白河上皇(法皇)は「鎌倉殿」の将軍叙任を渋っていたのだ。


この源頼朝の征夷大将軍叙任以後、征夷大将には「源氏の長者(統領)」が就任するものと格式化され、形式上も含め、以後の室町・徳川、両幕府まで続く事になる。

中央官僚には侍所(さむらいどころ)別当(長官)や政所(まんどころ)別当(長官)を置いて御家人を管理させる。

この鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)は梶原景時だったが、政所(まんどころ)初代別当(長官)は源頼朝の側近実務官僚・大江広元である。

その大江広元の四男・大江季光の子孫が安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主となり、毛利元就が出て戦国大名に成長、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導している。


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範頼逆心の疑い

◇◆◇◆◇◆◇◆◇範頼逆心の疑い◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼朝の様に汚れ役の屍の上に乗る戦術巧者・駆け引き巧者が最後に笑うのが世の常で、源義経主従の様に平家を滅ぼした本当の功績者は悲劇的末路を辿る事が多い。

源範頼(みなもとののりより)の運命もそんな所で、頼朝の将軍叙任後、頼朝夫婦はもう一人の弟・範頼に難癖を付けて殺し、有力な御家人にも同様な嫌疑を掛けて反逆の憂いを次々と取り除いて行く。


源頼朝の実弟・源範頼を北条正子が追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。

それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。

当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

工藤祐経(くどうすけつね)の工藤氏は、「藤原南家為憲流」を祖とする藤姓工藤氏の一族で、伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏とも同じ一族の伊豆の国辺りの小領主だった。

藤原南家流は本姓を藤原氏とし、南家・藤原武智麻呂の四男・藤原乙麿の後裔を称し乙麿六代の孫・藤原維幾(ふじわらこれちか)は常陸介として東国に下向し、平将門の乱(天慶の乱)に平貞盛・藤原秀郷らと協力して将門を討滅する功を立てた。

その藤原維幾(これちか)の子・藤原為憲(ふじわらのためのり)は官職が「木工助」であった為「工藤大夫」と称し工藤為憲(くどうためのり)と称して工藤氏の源流とする。

工藤為憲(くどうためのり)は東国に定着し、子孫が伊豆・駿河・遠江地方に広がってして工藤・伊東・入江氏らが分かれ出、さらに工藤氏から天野氏や狩野氏、入江氏から吉川氏などが別れ出ている。

油断も隙もないのが氏族武家社会で、工藤祐経(くどうすけつね)は平将門と似たような苦い経験をする。

父の工藤祐継(くどうすけつぐ)が死に祐経が所領を継ぐと、叔父の伊東祐親(いとうすけちか)が後見人となり工藤祐経は祐親の娘・万劫御前を妻とし、祐経は都に上洛して平重盛に仕えるようになる。

だが、祐経(すけつぐ)が在京している間に伊東祐親は祐経の所領を横領してしまい、妻の万劫御前(まごうごぜん)まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。

叔父・伊東祐親の酷い仕打ちに深く怨んだ工藤祐経は、郎党に祐親の狩の帰りを狙い討ち取ろうとする。

郎党の放った矢は祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死に祐泰の妻の満江御前(土肥実平の娘)とその子・一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が残された。

後家になった満江御前は、舅の伊東祐親に勧められて祐親の甥にあたる曽我祐信と三度目の再婚をし、二人の遺児は曽我を名乗る事に成った。

この時残された一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が、後に富士の裾野の巻狩り折に工藤祐経(くどうすけつね)を親の敵と狙う事になる。


工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁・源頼朝(みなもとよりとも)に途中から従い、源範頼(みなもとのりより)の軍に加わって山陽道を遠征し豊後国へも渡って居る。

鎌倉幕府成立に助力した工藤祐経は奥州合戦(奥州藤原氏討伐)にも従軍し、その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。

つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

その工藤祐経(くどうすけつね)の絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく、伊豆の国の伊東氏(伊東祐親/いとうすけちか・嫡男・河津祐泰/かわづすけやす)の息子二人(曽我兄弟・母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。


この事件の経緯と事情は、あくまでも私闘である。

しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。

場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件で在った。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。

兄・曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)はその場ですぐに仁田忠常(にったただつね)に討たれた。

しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

余談だが、この時に曽我五郎時致(そがのごろうときむね)と頼朝の間に入って頼朝を警護した一人が、初代・豊後守護職として豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)の初代・大友能直(おおともよしなお)だった。


「頼朝が討たれた」と言う誤報が、思わぬ事態に発展する。

ここで範頼が兄嫁・政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、頼朝夫婦が「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。

酷い「難癖」である。

範頼は弁明したが聞き入れられず、伊豆修善寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。

最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳が無かったのである。

この一件、その後の北条家の動きから考えて、別の見方もある。

曾我兄弟が親の敵祐経を討ち取った後、さらに頼朝の仮陣屋めがけて討ち入った理由は大きな疑問である。

ずばり「頼朝も討ち取る事にあった」と言う可能性は棄て切れない。

失敗して未遂に終わったが、実は北条時政が曾我兄弟を仕向け、「頼朝暗殺を仕組んだ張本人」と言う北条家の陰謀の疑いで有る。


宿舎の設営が、駿河の守護で在った北条時政の手に拠って行われていた事から、「警備の厳しい屋形を急襲出来た事に、何か有る」と推測されるからで有る。

頼朝は打ち漏らしたが、結果的に範頼失脚の難癖をつける結果に成ったのだ。


千百九十九年(正治元年)独裁専制政治を行っていた鎌倉殿(源頼朝)は急逝する。

正直、余程の事が無い限り人間に差がある訳ではないのだが、不断の努力を条件に天運に恵まれた者が天命に導かれて事を成し遂げる。

そして現実などこんなもので、時代の天命は、最も猜疑心が強く小心者で謀議に長けた武将・源頼朝の頭上に輝いた。

源頼朝に武力で対抗する者が居なくなって鎌倉に権力が集中し、皇室の力は弱まり、政治権力は鎌倉幕府が確実に掌握しつつあった。

しかし頼朝は、征夷大将軍就任後僅か七年で、落馬が元で亡成っている。

この落馬も、その後の政子の「子殺し(源頼家と源実朝)」を見ると、本当に事故か疑ってしまう。

肉親の愛に飢えていた義経に比べ身内をも信じなかった頼朝が、「身内に裏切られたのではないか」と推測するのは、自然な事では無いだろうか?

いずれにしても、落馬事故とは「天下を掌握した男」にしてはあっけない頼朝の死に方である。

「フト」、頼朝は腹の底から笑う事を忘れたまま死んで行ったような気が、我輩はした。


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頼朝の死。疑惑の空白

◇◆◇◆◇◆◇◆◇頼朝の死。疑惑の空白◆◇◆◇◆◇◆◇◆

鎌倉幕府の編纂した正史には、何故か空白がある。

不自然極まりない事に、「吾妻鏡」には、初代将軍・鎌倉殿・源頼朝の死の前後三年間が欠落していて、それが「源頼朝落馬死の謎」である。

通説では、千百九十八年(建久八年)の十二月に、相模川の橋供養に臨席した源頼朝が帰路に落馬し、それが原因で「十七日後の翌年一月半ばに死去した」と伝えられているが、不審な事が多い。

鎌倉殿・源頼朝が「落馬が原因で死んだ」と「吾妻鏡」に書かれたのは死後十三年も経った後の事で、当初は死因も死亡時期も明確な記載が無く、「本当に事故死だったのか?」と言う疑問が湧くのは当然である。

また都合の悪い事を排除し、この謎をその権力で創造し得るのは尼将軍と謳われた北条正子以外には考えられず、我が子(源頼家と源実朝)を含め異常なまでに源氏の血を排除し、北条執権家を確立した事を考えれば「北条政子下手人説」が浮上して来るのは当然の結果である。

バラシテしまうと、傍目偉大な事をした者でもその当事者はさして「偉大な事をした」とは思っていない事が多い。

つまり人生なんか行き掛かりの連続で、それをこなしていたら「何時の間にか達していた」と言うのが成功者の実感である。

えらそうな事を言っても、確信は後から付いて来たもので、事の最初から在った訳ではない。

「何故そうなるか」と言うと、それは周囲の存在とめぐり合わせである。

それを、「強運の持ち主」と言うらしいが、それは部分的な目に見える現象で、実はどこかでその分の付けを、別な形で払わされている事が多い。

従って、能力に関わり無く、どんなにジタバタしても裏目にしか出会えない人間の方が遥かに多い。

そうした運否天賦が存在する事を自覚するから、最期は神頼みになる。

所が、そんな神頼みを神が叶えた実績など、この長い歴史を見ても過って無い。

何故なら、信心深い人間が誰しも幸運に恵まれるなど見た事が無い。
,br> 精々、めぐって来た小さな幸せを神に感謝するくらいが、多くの人間の人生である。

飛び抜けた血統故の不幸な流人の前半生と、その後の身内を殺し続けて天下人に上り詰めた頼朝の後半生、貴方は幸せと観るか、不幸とみるか?


頼朝嫡子・源頼家が家督を継ぎ将軍職に就任するのだが、将軍独裁体制に対する御家人達の鬱積した不満が噴出、源家の忠臣・梶原景時もこれに加わって将軍・頼家は僅か三ヶ月で訴訟の採決権を奪われてしまう。

代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、頼家の将軍独裁は押さえられた。

鎌倉幕府に在っても梶原景時(かじわらかげとき)は源家の忠臣に徹して、鎌倉殿専制政治をとる頼朝の鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役で在った為、御家人達からは恨みを買い易い立場に居たのは事実だった。

その恨みを利用した最初の権力闘争が鎌倉幕府内部で起こった。

そして毎度お馴染みの飽くなき権力抗争が、鎌倉でまたも繰り広げられた訳である。

坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝加勢も、只のお人良しや「義」のものでは無いから、それこそ幕府成立後も飽くなき権力抗争が繰り広げられる事に成る。

実は、この陸奥国鞭指庄(むさししょう)など二十四ヵ所に所領を得た日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)と播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った侍所(さむらいどころ)別当(長官)の梶原景時(かじわらかげとき)は、当時の新興勢力の中では北条家(北条時政)を凌ぐ可能性を秘めていた。

つまり北条家に取っては、工藤家と梶原家は危険な存在の有力御家人だった事である。
その辺りから透けて見えるのが、この「曽我兄弟あだ討ち事件」と、これからご案内する「梶原景時の変」の仕掛け人の本当の意図である。


梶原景時(かじわらかげとき)は源頼朝に信頼され、播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)だった。


鎌倉幕府御家人・梶原景時が鎌倉殿(鎌倉征夷大将軍)・源頼朝に信頼される訳は、「石橋山合戦」の折に追討軍の大庭景親(平景親)を裏切り、洞窟に逃げ隠れていた源頼朝を見逃した事に拠る命の恩人だからである。

梶原景時は、源頼朝の落馬事故の後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられて居た。

政権も軍事力も、現実的には「北条時政」が掌握していたのだが、それでも世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、景時が動けば地方武士が集まる危険があった。

今の内に危険な芽を摘んでしまおうと北条時政は思い、将軍御所詰め所での結城朝光らの戯言「忠臣二君に仕えず」を「梶原景時が讒言する」と女官・阿波局に言わしめる。

驚いた結城朝光は三浦義村、和田義盛ら他の御家人達に呼びかけて、景時を糾弾する連判状の六十六名の署名を一夜の内にかき集めて将軍側近官僚の政所別当(長官)・大江広元に提出した。

将軍・頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、自分に突き付けられたのは六十六人の御家人連判状で言い訳の仕様など無い。

景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向し謹慎する。

一部の御家人は、景時の権威と勢力さえ抑えれば良かったので謹慎によって景時を支持、景時は一端鎌倉へ戻ったが、将軍・頼家は景時を庇う事が出来ずに鎌倉追放を申し渡してしまう。

景時への仕置きは進み、鎌倉の邸は取り壊され播磨国守護に朝光の兄・小山朝政が代わり、美作国守護は和田義盛に与えられる。

ここに到って鎌倉に居れなくなった梶原景時は、支援公家衆が多い京での反乱を目論んで再起を図るべく一族を引き連れて京への上洛を目指す。

所が、それを察知した北条時政が手を回し、京に逃げようとした梶原一族を討つべく道中に討伐のふれを出していた為に駿河(今の静岡)清見関で、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)・吉川氏(吉川友兼)ら地元武士に発見され狐ヶ崎(静岡市清水区)に於いて合戦となり、一族次々に討ち取られて景時と嫡子・景季、次男景高らは山へ引いて戦った後に自害し滅ぼされている。

石橋山合戦時の頼朝の命の恩人、梶原景時(かじわらかげとき)は鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、「梶原景時の変」と呼ばれる政変で一族とともに滅ぼされた。

平家討伐の軍事行動時代以来源義経と対立し、頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられているが、これは判官贔屓の心情を持つ民衆向けの脚色と、時の権力者北条家の思惑が一致した結果ではないだろうか?

この「梶原景時の変」は、忠臣で在った景時を邪魔に思う北条時政・北条正子親子の陰謀で、その後の二代将軍・源頼家の将軍職を追放の序章と成ったのである。

この梶原景時一族の滅亡を評して、京都では「将軍・頼家の大失策である」とした結果は直ぐに現れる。

景時追放の三年後、将軍とは名ばかりの頼家は、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、比企能員(ひきよしかず)は時政に滅ぼされ、頼家は北条氏に拠って将軍職を退任させられた後暗殺され北条氏が幕府の実権を握る事になる。

二代将軍・源頼家の将軍在位は僅かに四年であった。

千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。

新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。

恐ろしく強力な鵺(ぬえ)の正体が、「北条政子と呼ばれる女性(にょしょう)だ」と知ったのは、吉次が臨終真近い頃だった。

「まさか、女(おなご)とは・・・抜かった。」

既成概念で、女性の政子の事は吉次もノーマークだったのである。

どうやら、「鵺(ぬえ)」と言う妖怪は、人の体の中に宿っているらしい。

それも時には美しい女体に・・・。

勘解由小路党の影屋敷で、吉次は賀茂の錫杖(しゃくじょう)を握り締め、祭壇に据えた空海の独鈷杵(とっこしょ)を見詰めていた。

「源氏の家も永くはあるまい。」

勘解由小路・吉次は荒い息の合間に口走った。

顔は苦く笑っていた。

それから二十年余り、勘解由小路・吉次の予言通りに源家から北条家に北条執権家として実権が移る事になるのだが、吉次はそれを言い当ていた。

同じ平氏の血筋であるから、当然と言えば当然だが、若い頃の北条政子の顔は、あの平将門の顔に何故か似ていた。

勘違いして貰っては困るが、源頼朝(みなもとよりとも))婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、政子(まさこ)の名乗りは生涯を通じて北条政子(ほうじょうまさこ)である。


政子(まさこ)は、生涯実家の北条家を背負って生きたのかも知れない。

将門の怨念が取り付いたかのように、政子(まさこ)は周到な鵺(ぬえ)だったのである。


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阿野全成(あのぜんじょう)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇阿野全成(あのぜんじょう)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

あまり表舞台には出なかったが、義経(牛若丸)には実母兄が二人いた。

義経の母「常盤御前」と源氏の棟梁「源義朝」の間には、今若丸、乙若丸、牛若丸がいたが「平治の乱」で義朝が討たれた後、絶世の美女だった常盤御前は敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、身体を張って三人の助命に成功している。


この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

平清盛にとって「常盤御前」は、中々得られない良い気晴らし相手だった。

何しろ命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で有る。同じ裸にひん剥いて嬲るにしても、征服感や興奮の度合いが違う。

常盤御前も保身と息子三人の助命が掛かっているから、清盛にいくら辱めを受けても身体を張って耐え通し、一女(廊御方)を産むが、やがて清盛に飽きられ、貧乏公家の一条長成に嫁して一条能成を産む。

次兄の乙若丸は、早い時期に平家に陰謀を察知され美濃(岐阜県)墨俣川の辺りで討ち取られてしまったが、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)、阿野全成(今若丸)は、正に北条に殺されたのである。

阿野全成(あのぜんじょう)は平安時代末期から鎌倉時代の僧侶兼武将で源義朝の七男、初代鎌倉幕府将軍源頼朝とは腹違いの弟にあたり、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)になる。

阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、甥で二代将軍の源頼家と対立して殺害されとする説が主流を占めているが、事実は北条に殺されたのである。

二代将軍の源頼家との対立説は、頼家を殺害させた北条家が執権として権力を握った後の捏造である。

父・源頼朝が平治の乱に破れ、平家全盛の時代だった為に全成(ぜんじょう)は幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗るが、ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。

長じて「全成(ぜんじょう)」と名乗る僧侶に成って居た今若丸(阿野全成)は、僧籍のまま源頼朝挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚する。

その保子は頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降阿野全成(あのぜんじょう)は源頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いて、駿河(静岡県)の国・阿野の庄(今の沼津市原・浮島)を拝領、大泉寺を建て阿野姓を名乗る。

しかし頼朝が死ぬ(事故死?)と、「阿野全成(今若丸)」も義経と同じように北条に狙われ、関東の常陸(ひたち・茨城県)に流刑の上、首を討たれているのだ。

ちなみに、阿野全成の妻は阿波局(あわのつぼね)と言い、政子の妹、時政の娘である。息子の時元の方は、政子にとっては「甥」、時政にとっては「孫」であるが、政子は源氏の血筋には容赦は無い。

北条氏の手に拠って源氏の血統が次々と粛清される中、全成(ぜんじょう)の長庶子ら三人は僧籍に入っていた為に難を逃れるが、武家の系統を受け継いだ息子(全成の四男・正室の子の為嫡男)の「阿野時元」も、同じ運命を辿って父の遺領である駿河(静岡県)の国・阿野の庄で北条の大軍に囲まれ討ち取られている。

常盤御前が体を張って守った義朝の血筋三人、武門源氏の血筋はここに途絶えてしまった。

ただしこの阿野の血筋、女系ではあるが公家として残った。

これは後日談になる全成の娘の事であるが、藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が公家としての阿野氏の祖となっている。

後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。


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北条時政(ほうじょうときまさ)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇北条時政◆◇◆◇◆◇◆◇◆

頼朝の妻北条政子の父・北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。

桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)だった。

平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて止む無く伊豆の国に在住する。

時政の父は平時方(たいらのときかた)と言った。

但し、平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても当時権勢を誇っていた清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければたいした出世は望めない。

時方は伊豆の国北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

つまり、北条・氏(ほうじょう・うじ)平朝臣・姓(たいらあそん・かばね)時政である。

地方の小豪族だったが、自分の支配地に源氏の棟梁の血筋を引く源頼朝が流されてきて、その監視役を勤めた事で様相が変わる。

娘・政子が、強引に頼朝と出来てしまったのだ。

娘の政子に引きずられる様に頼朝の挙兵を助けた時政だが、その後の時政の「甲斐源氏・武田氏」を味方につける諜略工作など、存外に上手く行って坂東武士団の参加が続き、娘婿が天下を取ってしまった。

天下人の義父であるから、思いもしなかった政権中枢に座る事になる。

鎌倉幕府が成立し、守護地頭制を設ける「勅許(ちょっきよ)」を授かると、時政は初代京都守護に着任する。

幕府を遠い「鎌倉」の地に開くからには、朝廷が相手となる重要地区の京都守護職は、まさに幕府の代理であり将軍・頼朝の代理である。

その後、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。

しかし時政は是を長く勤めず、自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

頼朝が落馬事故(?)で亡成ると、二代目征夷将軍に、頼朝の嫡男「頼家」が跡を継ぐ、勿論、頼朝と政子の長男である。

頼家の代に成ると、北条時政はいよいよ政権内で力を持ち、宿老会議(有力御家人十三人の合議制)を設けて、政務の実験を握るようになる。


何しろ、将軍は自分の孫である。
頼家が将軍に成って二・三年の間に有力御家人の梶原氏や城氏の反乱が有るが、時政が鎮圧している。

何時(いつ)の時代でも権力抗争は付き物だが、この平安末期から江戸初期に到る時代は武力行使と言う直接的手段が、判り易い権力抗争の手法で、権謀術策で政敵を追い込んで行くのが、北条父娘の邪魔者排除の手口だった。


梶原景時ら梶原一族は、桓武平氏の血筋ながら石橋山で頼朝を助けて四ヶ月後、源頼朝に乗り換えて成功し、頼朝の信任厚く鎌倉幕府初代侍(さむらい)所の所司(ところつかさ)となった。

頼朝死後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられていた。

しかし、世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、彼が動けば地方武士が集まる危険があった。

この北条に対抗できる梶原景時の勢力は、時政に取って見るからに危険だった。

「今のうちに、芽を摘んでしまおう」と、時政は思ったのだ。

それで、六十六人の御家人連判状で、景時を弾劾する。

窮地に落ちて京に逃げようとした梶原一族を、駿河の国(今の静岡県中部)で、まんまと地元武士に討たせている。

政権も軍事力も、現実的には「時政」が掌握していたのだ。


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二代将軍・源頼家

◇◆◇◆◇◆◇◆◇二代将軍・源頼家◆◇◆◇◆◇◆◇◆

父・頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

若狭の局(わかさのつぼね)は妾妻で在ったが、例え鎌倉二代将軍・源頼家の正妻で在ったとしても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、若狭の局(わかさのつぼね)の姓(かばね)名乗りは比企である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

比企能員(ひきよしかず)は、秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた為に、同族系の河越重頼や、同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。


父の事故死で家督を相続したニ代将軍・頼家が跡を継いだ時は若干十九歳、利発で若さに溢れていた。

ニ代将軍・頼家が、父・頼朝と同じ将軍独裁の体制を整えようとした矢先の千二百三年(建仁三年)、頼家二十二歳の時に突如として罹病、危篤に陥る。

この異変を、近親者の何者かが関与した可能性(暗殺陰謀)を否定出来ない所に、この時代の非常冷酷さが伺えるのだが、「母・政子が関与していた」と言う証拠は無い。

いずれにしても、この頼家の一時危篤を期に北条時政・北条政子の野望が噴出、世継ぎ(相続議)の会議を開く結果と成り、若狭の局が頼家との間に成した子・一幡の相続を主張北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出して対抗し、北条氏と比企氏との対立が鮮明に成って、頼家と若狭の局を劣勢に追い込む事となった。

幸い危篤だった将軍・頼家は一命を取り止め、病が癒えて復帰したものの、既に遅かった。

老臣会議制を敷かれて将軍独裁権限は奪われた後で、老臣会議制を主宰する北条時政の専横に、頼家は将軍とは名ばかりの立場に置かれ居たのだ。

将軍・頼家は、失意と共に北条氏への怨念と復讐の炎を燃やす。

源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、頼るは有力御家人の一人、妻(若狭)の自家・比企能員(ひきよしかず)と比企一族だった。


北条政子が我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない。

危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子で、政子はこの時に我が子・頼家を除く決意をした。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。


比企能員(ひきよしかず)は、鎌倉初代将軍・源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の甥で、後に比企尼の養子となり鎌倉幕府の有力御家人に列する。

比企氏の一族は、藤原・秀郷流の系図を有する武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を領した関東の豪族と伝えられ、つまり藤原南家・秀郷流であるから伊豆の工藤一族などとは遠い同族になり、また比企氏は秩父平氏流も継いで居てその流れも称している。

比企尼(ひきのあま)は伊豆流罪となっていた流人時代の源頼朝を「支援していた」と言う。

その関係から比企氏は、頼朝旗揚げの早い時期から頼朝を支えた御家人として活躍している。

流罪中も乳母・比企尼(ひきのあま)支援を受けていた源頼朝は、鎌倉殿と成ると比企尼(ひきのあま)の猶子(ゆうし/養子)・比企能員(ひきよしかず)を側近として重用する。

比企氏の一族は、比企尼長女・丹後内侍(たんごのないし/安達盛長室)の娘が源範頼に嫁ぎ、河越重頼に嫁いでいた比企尼次女・河越尼は二代将軍・源頼家(頼朝・嫡男)の乳母と成って娘(本書では仮名・玉御前)が源義経に嫁いでいる。

二代将軍・源頼家は、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、武力行使も準備していたのだが返えってそれを察知され、「頼朝の法事」と称して時政邸に招かれる。

能員(よしかず)は一族の反対を押し切って疑いも持たず時政邸に行き、待ち構えていた時政の家人に首を刎ねられて討ち取られてしまった。

同時に比企一族も北条方の義時・泰時親子に攻撃を受け小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、結果比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ伊豆国・修禅寺に流され幽閉されてしまった。


伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。

頼家の将軍在位は僅か四年で在った。

「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。

夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る

なお、この事変、世に言う比企能員(ひきよしかず)の変であるが、かなり胡散臭いのである。
,br> 比企能員(ひきよしかず)の変は、二代将軍・源頼家が危篤状態に陥った機会を得て、北条時政が仕組んだものと考えるのが自然である。

北条氏征伐を企てたとされる比企能員(ひきよしかず)が、敵である筈の北条時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは「比企氏の変」自体が「北条氏のでっちあげであろう」との見方が為されている。

その企てを知らなかったからこそ、比企能員は呼び出されて北条時政邸に出向き、北条時政の命を受けた天野遠景(あまのとおかげ)や仁田忠常(にったただつね)らに謀殺されたのではないだろうか?

三代将軍には、頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任する。

しかし時政は、娘の政子も驚愕する計画を進めていた。

実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがともまさ)」を将軍に就けようとしたのである。


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御家人・サバイバル

◇◆◇◆◇◆◇◆◇御家人・サバイバル◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼朝の挙兵時、伊豆在住で最初に呼応した土豪達三百騎の中に、後に鎌倉御家人と成る天野遠景(あまのとおかげ)、仁田忠常(にったただつね)、加藤景廉(かとうかげかど)などの武将が居る。

鎌倉御家人・天野遠景(あまのとおかげ)は、工藤祐経(くどうすけつね)の藤原南家工藤氏の一族で、後に毛利両川の一家になる吉川氏とも同族であるが、伊豆国田方郡天野に住してその地名を取り天野氏と称した。

遠景(とおかげ)は平家の家人で在ったが、天野郷が源頼朝の配流先・蛭ヶ小島の地に近かった事もあり、幽閉生活を送っていた源頼朝や安達盛長(あだちもりなが)と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た。

源頼朝の挙兵には当初から付き従う事に成った天野遠景(あまのとおかげ)だったが、石橋山の戦いでは敗北を喫して敗走する。

その後再起を図って鎌倉に入った頼朝と合流して従い富士川の戦いの後、平家軍に合流しようとした伊東祐親を捕縛する手柄を立てている。

鎌倉の源頼朝が平家追討の準備をして居る頃、京では木曾義仲が信濃国を中心として勢力を拡大し、頼朝に先んじて平家を都から追い落として上洛をしてしまう。

頼朝の命を受けた天野遠景は木曾義仲への使者を務め、義仲の嫡子・義高を人質とする事に成功し、翌年には甲斐源氏の一条忠頼を謀殺した。

その後開始された平家追討軍では、遠景(とおかげ)は頼朝の代官・源範頼に従い西国を攻め進み周防国から九州・豊後国へ渡る。

平家滅亡後、平家追討に大功のありと認められた遠景(とおかげ)は、十二人の内の一人として頼朝より感状を受けている。

鎌倉幕府成立後は、追放された源義経の探索と鎮西に於ける鎌倉幕府勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に天野遠景(あまのとおかげ)は補任され、律令制度上の鎮西統治機関である大宰府の機構に関与してその実権を握った。


遠景は十年年近くの永きに渡って九州・大宰府方面で活躍するも鎮西御家人らの協力は得られず、寺社や荘園領側との軋轢も治まらない為、奉行職を解任され、鎌倉へ帰還する。

その後遠景(とおかげ)は、頼朝死去後に起こった梶原景時の変や比企能員(ひきよしかず)暗殺にも関与している。

死亡時期は不明だが、天野遠景の墓は伊豆長岡に在る。


鎌倉御家人・仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)は、伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で、源頼朝が挙兵するとその家臣と成る。

平家追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ、奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に於いても戦功を挙げる。

また富士の裾野で起こった大事件、曾我兄弟の仇討ちの際には忠常が兄の曾我祐成(そがのじゅうろうすけなり)を討ち取っている。

仁田忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞うほど頼朝からの信任は厚かったと伝えられ、頼朝死後は二代将軍・源頼家に仕えた。

忠常は、その二代将軍・頼家からの信任も厚かったのだが、運命の歯車が突然狂う事件が起きる。

二代将軍・頼家が病で危篤状態に陥り、忠常は時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員(ひきよしかず)を北条時政の命に従い謀殺した。

所が、頼家が病から回復すると比企氏が北条時政によって滅ぼされたと知り、激怒した頼家は北条追討の将軍命令(御教書)を発した為、仁田忠常は逆に頼家から時政討伐の命令を受ける事に成る。

そんな状況下で、仁田忠常は頼家の命を受けながらも能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かい、その帰宅の遅れを怪しんだ弟達が騒ぎを起こしてしまう。

その軽挙から北条氏側に頼家方寝返りの疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で北条義時の命に拠って加藤景廉(かとうかげかど)に、弟(五郎忠正・六郎忠時)らと共に滅ぼされる。


仁田忠常(にったただつね)は、所謂(いわゆる)比企能員の変(比企の乱)に巻き込まれた訳である。

伊豆仁田(静岡県田方郡函南町仁田)には、忠常の墓と館跡がある。


藤原北家魚名流・利仁流加藤氏が、鎌倉御家人・加藤景廉(かとうかげかど)の出自である。

藤原利仁の祖父・藤原高房は受領を歴任した他盗賊の取締りで名を上げた。

孫の藤原利仁は上総介や下総介、武蔵守など坂東の国司を歴任し鎮守府将軍を任じている。

その流れを汲む加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士・藤原景道(かとうかげみち)で、加賀介と成った事から加賀の藤原を略して「加藤を称するように成った」とされる。

加藤景廉(かとうかげかど)は藤原景道の孫にあたり、景道の子加藤景員(かとうかげかず)の次男である。

加藤景廉(かとうかげかど)の父・加藤景員(かとうかげかず)は元々伊勢国を本拠としていたが、平将門の乱の件で坂東(関東)から逃れて来た平貞盛流の平家との争いに拠り伊勢の所領を棄てている。

景廉(かげかど)は兄・光員(みつかず)と共に父・景員(かげかず)に従って伊豆国に下り、その地で藤原南家工藤流・狩野茂光らの協力を得て伊豆土着勢力と成った。

伊勢以来の平家に恨みを持つ加藤景廉(かとうかげかど)一族は、密かに源氏の継嗣・源頼朝やその側近の安達盛長(あだちもりなが)と気脈を通じ旗揚げの機会を伺っていた。

源頼朝が挙兵すると、平家とは伊勢国以来の因縁を持つ加藤景廉は父・景員(かげかず)や兄・光員(みつかず)と共にその麾下に参じ平家の伊豆目代・山木兼隆を討ち取ると言う大功を立てた。

頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄光員と共に甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れるが、やがて甲斐源氏・武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦いで駿河目代・橘遠茂を攻め滅ぼす。

所謂(いわゆる)治承・寿永の乱では、源範頼率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得、その後の奥州合戦(奥州藤原氏討伐)でも戦功を立てた。

加藤景廉は頼朝の信任が厚く、頼朝の命により安田義資を誅殺してその父・安田義定の所領遠江国浅羽庄の地頭職を与えられその地の地頭を任じた。

頼朝が死去した後、梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、景廉(かげかど)が景時と親しかった為一旦は連座して地位を失うも、比企能員の変に於いて北条時政の命で比企能員(ひきよしかず)を謀殺した仁田忠常を北条義時の命に拠って謀殺している。

その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、景廉(かげかど)は再度元老の座に返り咲くも三代将軍・実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家して居る。

千二百二十一年(承久三年)に起こった承久の乱では、加藤景廉(かとうかげかど)は宿老の一人として鎌倉に留まったが乱の最中に没した。

尚、この加藤景廉(かとうかげかど)が美濃国・遠山荘(現・岐阜県恵那市岩村町)の地頭に補任され、景廉(かげかど)死後、長男・加藤景朝(かとうかげとも)は、名を加藤から地名である遠山姓へと変え、以後その地を永に渡って遠山氏が治めていた。

この遠山氏が岩村城の初代城主として知られ、南北朝並立の混乱期から戦国の大動乱を凌いで江戸期まで生き残り、交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱いとして外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず大名並の格式を得ていた家である。


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畠山重忠の乱

◇◆◇◆◇◆◇◆◇畠山重忠の乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、畠山氏を滅ぼすと同時に鎌倉幕府の北条氏初代執権・北条時政を政権追放に追い込んだ事件でもある。

畠山重忠の乱も北条氏による有力御家人排斥の一環と言う側面を持つ鎌倉幕府内部の政争の一つであり、乱の背景には武蔵国の支配を巡りる留守所総検校職・畠山重忠と北条時政を背景とした武蔵国司・平賀朝雅との対立が在った。

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き「梶原景時の変」、「比企能員の変」に拠って有力者が次々に滅ぼされ、まだ十四歳の三代将軍・源実朝を擁して幕府の実権は岳父にあたる北条時政が握っていた。

畠山重忠は鎌倉幕府成立にあたり、前政権の平家追討には常に先陣を務めその武勇と人望により、頼朝からその死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人である。

その畠山重忠は北条時政の前妻の娘婿であり、「梶原景時の変」、「比企能員の変」ではいずれも北条氏側に与力していたにも拘らず、京の平賀朝雅亭の酒宴で朝雅と重忠の嫡子・重保との間でどちらが仕掛けたか不明だが言い争いが起こった。

その言い争い相手の平賀朝雅(ひらがともまさ)が北条時政の継妻(後妻)・牧の方(牧鍾愛)の娘婿で、牧の方が溺愛すると同時に自らの地位保全の為に夫・北条時政を操り武蔵国司の朝雅の立場を後援していた。

まぁ牧の方にして見れば、尼御台・北条正子と二代執権・北条義時はなさぬ仲の先妻の子で、畠山重忠も前妻の娘婿と言う不安が在っての対抗心かも知れない。

京の平賀朝雅亭での言い争いが後を引き、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴(ざんそ)し、牧の方はこれを畠山重忠父子の叛意であると時政に訴える。

つまり畠山重忠の乱のきっかけは、私恨と女のヒステリーと言う事に成る。

言い争いから十八日後、鎌倉はにわかに大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。

同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた畠山重忠嫡男・重保も、「何事か?」と郎従三人を連れて由比ヶ浜へ駆けつけると、北条時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませた為、自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々討ち取られた。

その頃、「鎌倉に騒ぎがある」と聞いた畠山重忠は本拠地・菅谷館を出発して鎌倉に向かっていた。

鎌倉へ向かっている重忠を「謀反人が兵を率いて攻め上って来る」と道中で誅殺するべく、時政の命により北条義時率いる大軍が派遣された。

畠山重忠は二俣川で討伐軍に遭遇する。

鎌倉に遣って来た重忠の一族は弟・長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ出払っていて重忠が率いていたのは子の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下百三十騎程度の小勢に過ぎず、畠山重忠謀反は虚報で重忠は無実で在った。

この朝には息子の重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退く事はせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。

北条義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦は、四時間余り繰り広げられた。

やがて激戦の後に、重忠が愛甲季隆の放った矢に討たれて首級を取られた為、重秀以下は自害して果てた。

この合戦の結果に、畠山重忠の謀反は北条時政と後妻・牧の方(大岡鍾愛)、そして娘婿・平賀朝雅の策謀と確信した北条義時は激怒していた。

義時にとって畠山重忠は父・時政の前妻の娘婿であり、つまり重忠は義時と正子の義理の兄弟にあたる。

その義理の兄弟を、父・時政は後妻・牧の方可愛さに平賀朝雅に肩入れして無実の汚名を着せ、自分(義時)に討たせてしまった。


父・時政のその仕打ちに、その日の夕方には義時の命に拠り鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らに拠って討ち取られている。

この乱の始末は、幼少である将軍・源実朝に代わり尼御台・北条政子が取り仕切り、畠山氏の所領の一部は勲功として重忠を討った武士達に与えられたが、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟に拠って鎌倉を追放され、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された。

残された重忠の所領は時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏を継承した事により平姓秩父氏の畠山氏は滅亡し、武蔵国は義時の弟時房が守護・国司となった。

尚、この重忠の妻が源氏流・足利義純に再嫁して義純が畠山氏を継承した事から畠山氏の名跡が平氏流から源氏流に移り、後の室町期や南北朝期などに活躍する源氏流・畠山氏が誕生したのである。


源頼朝の房総に於ける再挙兵には坂東武者の大半が呼応する中、平家方に徹して抵抗した荘園領主に相良氏(さがらうじ)・相良頼景(さがらよりかげ)が在る。

相良氏(さがらうじ)は藤原南家(乙麻呂)の流れを汲み、平将門の乱に活躍した藤原為憲(ふじわらためのり)の後裔にあたる周頼が、平安期に遠江国・相良荘に住んだ事から相良氏を称し、工藤氏・伊東氏らと同族になる。

その相良氏(さがらうじ)は、鎌倉期に肥後国多良木荘の地頭職から勢力を築き、やがて最盛期には肥後国南部を支配した戦国大名である。

平安末期の遠江国・相良荘領主・相良頼景の時代に相良氏(さがらうじ)は伊豆で兵を挙げた源頼朝を無視して協力せず、その後も平家方に徹して頼朝に対して不遜な振る舞いを続けた為、鎌倉幕府が成立すると相良頼景は肥後国・多良木荘に追放された。

しかし相良頼景は、千百九十七年(建久八年)、鎌倉に行き許されて将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられて多良木荘の地頭に任命される。

さらに、相良荘に残っていた頼景の長男・長頼も二俣川の合戦(畠山重忠の乱)で手柄をたて人吉荘を与えられた。

相良頼景が領した多良木荘四ヶ村のあとは長頼の子・頼氏が継いで為に多良木荘の地頭・相良氏は上相良氏、人吉荘は長頼三男・頼俊が継承して人吉荘の地頭・相良氏は下相良氏と呼ばれる。

この上相良氏と下相良氏は、南北朝並立の時に多良木の上相良氏は菊池氏に通じて南朝方に属し、人吉の下相良氏は北朝方に付き、対立関係となった。

その後南朝方の弱体化と伴に上相良氏の勢力も弱まって終(つい)に北朝方に降伏、下相良氏の隆盛が際立つように成った。

室町時代の千四百四十八年、下相良氏の相良長続(さがらながつぐ)が上相良氏を滅ぼし、球磨・八代・葦北の肥後三郡の統一に成功する。

戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の後を継いだ相良晴広の時代には有名な分国法・「相良氏法度二十ヵ条」や「晴広式目十一ヵ条」を制定し、また明との貿易にも取り組んで相良氏は最盛期を迎えた。

晴広の子・相良義陽の代に入って、千五百八十一年に南から島津義久の侵攻を受けて降伏。

しかも同年に当主・義陽が甲斐(宗運)親直(阿蘇氏家老)と戦って戦死する。

相良氏は一時、滅亡の危機に立たされるも、義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州平定後、豊臣秀吉より人吉二万石の領主として存続を許された。

千六百年の関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返った為、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏は人吉藩として存続した。

相良氏(さがらうじ)は、相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで八百以上領地替えされる事もなく続いた世界でも稀有な大名(領主)である。


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北条時政の政権追放

◇◆◇◆◇◆◇◆◇北条時政の政権追放◆◇◆◇◆◇◆◇◆

清和源氏新羅三郎義光流・信濃源氏・平賀朝雅(ひらがともまさ)は、北条時政の後妻・牧の方の娘婿に当るが、この時政の娘は北条政子・北条義時姉弟とは腹違いの後妻・牧の方の娘で、牧の方の色香に迷った時政の、そそのかされての企てである。

北条時政が継室(後妻)・牧の方に操られて可愛がった鎌倉幕府の御家人・平賀朝雅(ひらがともまさ)は、源義光(新羅三郎)流で源氏門葉として源頼朝に重用されていた平賀義信の次男で母は頼朝の乳母である比企尼の三女だった。

北条時政は、「畠山重忠の乱」で畠山氏討伐の翌月には源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿(将軍)として擁立しようと画策する。

北条政子・北条義時姉弟には生憎、平氏流の二代執権・北条義時とは違って平賀朝雅(ひらがともまさ)は源氏流で、幕府随一の実力者・北条時政が無理を通せば朝廷に願い出て征夷大将軍を任ずる資格がある。

しかしそれを許しては権力が平賀家と後妻・牧の方に移り、尼御台・北条政子の政治生命は終わってしまう。

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)に絡んで平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟が、とても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に武力で押さえ込まれ伊豆へ隠居させられて完全に失脚してしまう。

その平賀朝雅は、幕府の実権を握った北条義時の命を受けた山内首藤通基(経俊の子)に拠って京都で殺害されている。

何故、北条政子・北条義時姉弟が「そこまでやるのか」と言えば、今まで自分達が為して来た政敵粛清の矛先が今度は確実に自分達姉弟に向かうからである。

それでも、流石(さすが)に政子・義時姉弟には父・時政は殺められず伊豆に幽閉する事にした。

平賀朝雅の件で時政は失脚し、この一件で時政は出家して明盛(法名)と称し実権は政子と義時の姉弟に完全に移っていた。

牧の方と伴に伊豆に幽閉された時政の失脚は、頼朝挙兵から二十五年目の事である。

時政はそれから十年後に、寂しく伊豆で没している。


北条氏に拠る一連の鎌倉有力御家人・粛清劇の最後を飾ったのが、和田合戦(わだがっせん)である。

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の千二百十三年(建暦三年)に鎌倉幕府内で起こった有力御家人・和田義盛(わだよしもり)の反乱だった。

和田義盛(わだよしもり)は源頼朝蜂起の際、本拠・衣笠城で討ち死にした三浦義明の孫にあたる平家三浦流の武将で、平安時代末期から鎌倉時代初期の鎌倉幕府の有力御家人として頼朝の坂東(関東)制圧に助力し、初代侍所別当を任じた。

三浦氏の一族として源頼朝の挙兵に参加し首尾良く頼朝が(関東)制圧に成功すると、鎌倉に設置された頼朝の初期武家政権の初代侍所別当に任じられる。


和田義盛は、その後平家追討を掲げた治承・寿永の乱では頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任された実弟・源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り平家の背後を遮断して武功を立てる。

また義盛は、平家滅亡後の奥州合戦にも従軍して武功を立てている。

千百九十九年(建久十年)の将軍・源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが次々と続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされている。


千二百三年に成ると二代将軍・頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政・義時父子に拠って頼朝の次男・実朝(さねとも)が三代将軍に擁立され、執権と成った北条氏が幕府の実権を握りつつ在った。

梶原景時の変での景時弾劾追放で和田義盛は中心的な役割を果たし、その後の比企能員の変、畠山重忠の乱と言った一連の御家人の乱でも北条氏に与していた。

しかし、二代執権・北条義時の度重なる挑発を受けて挙兵に追い込まれ、横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒する為の挙兵をするも、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し鎌倉で市街戦を展開する。

この和田合戦が勃発した時、土肥実平の孫・小早川(土肥)惟平(遠平の子)が同族の土屋氏と伴に和田氏に与して戦っている。

和田義盛は幕府軍を相手に二日間に渡って鎌倉で市街戦を展開するが、将軍・実朝を擁して兵力に勝る幕府軍が和田方を圧倒し、義盛は力尽き敗れて討ち死にと成り和田一族は滅亡した。

この合戦の勝利により、北条氏の執権体制は拠り強固なものと成っている。

和田合戦は和田氏側の敗北に終わり、その戦いで惟平の二人の息子がこの合戦で討ち死にし、惟平も北条氏に捕縛されて斬首され、残された老齢の小早川(土肥)遠平が永らえて辛うじて本領を維持するに到っている。

まぁ権力抗争は何時(いつ)の時代でも付き物だが、この平安末期から江戸初期に到る時代は武力行使と言う直接的手段が権力抗争の手法だった訳である。


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三代実朝(さねとも)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇三代実朝(さねとも)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

三代将軍に就任した頼朝の次男、実朝(さねとも)は、兄・頼家の最後や北条執権家の時政(祖父)と政子(母)・義時(叔父)兄弟との非情な内紛を見せられて身の処し方を学んだ。


母・政子と叔父・義時の権力への燃え盛る執念は並大抵ではなく、そこに触れれば将軍と言えども火傷は必死だった。

実朝(さねとも)は政治には関心を持たず、文化文芸にいそしみ、政治は母政子と、叔父の北条義時に任せていた。

それでないと、兄・頼家の「二の舞」である。

それ故三代将軍・実朝は、皮肉にも文化人としてそれ成りの足跡を残している。

処が、それでもなお実朝を確実に取り除きたい勢力が存在した。

北条時政・北条政子にとって、野望を脅かす頼朝の血統(源氏の血)の存在そのものを赦せなかった。

使ったのは、先の将軍「頼家」の次男・公暁(くぎょう)である。

これは、或る事を目論む一族の血筋にとっては、最高に都合の良い方法であった。

つまり源家の根絶やしが目的で無ければ、こんな事は考えられない。

公暁(くぎょう)に父の仇は「実朝」と吹き込んで、鶴岡八幡宮で暗殺させ、その直後後、公暁も犯人として討ち取っているのだ。

これは、たくらんだ側の「源氏の血筋殲滅プロジェクト計画」に於いて、「一挙両得作戦」と言う事である。

最近の文献では、実は「実朝」は政権運営に意欲を示したので、「陰謀の標的にされた」とする見解が、優勢に成っている。

頼家には、一幡(いちまん)、公暁(くぎょう)以外にも二人の男児が居たが、三男千寿(せんじゅ)、四男禅暁(ぜんぎょう)はそれぞれ自害、殺害で命を落としている。

公暁に殺された三代将軍・実朝には、子がいなかったので、「完全」に源頼朝家の血筋は途絶えてしまう。

一人の母親として、女として、政子が「涙を流さなかった」とは思いたくないが、それにも勝る目的が、彼女には有ったのだ。

鎌倉幕府の実権が、完全に政子のものに成ると、弟・義時を使って政子は尼将軍と言われ、幕府の采配をする。

将軍には、幼い九条(藤原)頼経(よりつね)を京から向かえ第四代征夷大将軍とし、自らが後見人と成った。

この北条家の専横政治を「良い事」とはしない朝廷は、後鳥羽上皇(前の第八十二代天皇)を中心に宣旨(せんじ)を発し西国武将を集めて「承久(じょうきゅう)の乱」を起こす。

鎌倉幕府は朝敵となったが、政子はものともせず、鎌倉武士団を召集して大軍を編成、反乱軍を一掃、後鳥羽上皇を捕らえて、隠岐島に流してしまう。

武士による幕府で良い思いをした連中が、「返せ」と言われて、「はいそうですか。」と朝廷に権力を返す訳がない。

利(既得権益)に準じれば今も昔も答えは一つである。


承久(じょうきゅう)の乱は、頼朝没後から数えて、二十二年後の事である。

千二百二十一年(承久三年)五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた。

承久の乱(じょうきゅうのらん)と呼ばれるこの変は、結果的に後鳥羽上皇側が北条政子率いる鎌倉幕府側に敗れた兵乱である。

発端は千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源家の血が途絶えた事でである。

北条執権家が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とする。

以後このモデルが完成して、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。

しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到る。

もう読者にはお判りと思うが、鎌倉幕府に於いても歴史の表面にこそ現れないが、帝及び公家衆と幕府との間には始終暗闘が在った。

その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。


神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護・地頭職(御家人)に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

そして当時はまだ、列島の東西で朝廷と幕府の勢力に微妙な温度差が在った。

東国武士を中心に本拠を鎌倉に置き、源頼朝を棟梁として樹立された鎌倉幕府では東国武士を中心に諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していたが、この事は西国武士の不満を誘い、結果西国は鎌倉幕府が実効支配をし切るに到らず依然として西国での朝廷の力は強かった。

つまり根本的な原因を一言で表現すると、政府が二つあり「出先機関が同じ土地に重複している」と言う状態だったのである。


用語人名解説・日本史検索・クリックリスト


承久の乱(じょうきゅうのらん)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇承久の乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆

後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士千七百余騎が集まった。

後鳥羽上皇は、鎌倉追討軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、初めて御印(みしるし)となる錦旗(きんき)を藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らに下賜し使用を許している。

この後錦旗(きんき)が政局の節目で威力を発揮するなど、当の後鳥羽上皇は意識していたのだろうか?

翌日、藤原秀康率いる八百騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃する。

伊賀光季は奮戦して討死したが、その変事は鎌倉に知らされる。

後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の宣旨(せんじ)を発する。

後鳥羽上皇追討に立つの知らせを聞いた時、尼御台と呼ばれていた北条政子(ほうじょうまさこ)は齢(よわい)六十五歳を数える当時としては老女になっていた。

そしてその老女が、実質的に鎌倉の支配者だった。

摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、政子が三寅を後見して将軍の代行をする事になり、世に「尼将軍」と呼ばれるように成っていたのである。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。
民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護・地頭職(御家人)に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

そして当時はまだ、列島の東西で朝廷と幕府の勢力に微妙な温度差が在った。

東国武士を中心に本拠を鎌倉に置き、源頼朝を棟梁として樹立された鎌倉幕府では東国武士を中心に諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していたが、この事は西国武士の不満を誘い、結果西国は鎌倉幕府が実効支配をし切るに到らず依然として西国での朝廷の力は強かった。

つまり根本的な原因を一言で表現すると、政府が二つあり「出先機関が同じ土地に重複している」と言う状態だったのである。

後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士千七百余騎が集まった。

後鳥羽上皇は、鎌倉追討軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、初めて御印(みしるし)となる錦旗(きんき)を藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らに下賜し使用を許している。

この後錦旗(きんき)が政局の節目で威力を発揮するなど、当の後鳥羽上皇は意識していたのだろうか?

翌日、藤原秀康率いる八百騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃する。

伊賀光季は奮戦して討死したが、その変事は鎌倉に知らされる。

後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の宣旨(せんじ)を発する。

後鳥羽上皇追討に立つの知らせを聞いた時、尼御台と呼ばれていた北条政子(ほうじょうまさこ)は齢(よわい)六十五歳を数える当時としては老女になっていた。

そしてその老女が、実質的に鎌倉の支配者だった。

摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、政子が三寅を後見して将軍の代行をする事になり、世に「尼将軍」と呼ばれるように成っていたのである。

義経の二人の女性(にょしょう)・・・正妻・玉(仮称)と妾妻・静御前、そして頼朝の正妻・北条正子、義経ら三人の母・常盤御前、木曽義仲(源義仲)の妾妻・巴御前(ともえごぜん)と鎌倉幕府成立前後を生きた女達にも、夫々の戦が在ったのである。

              



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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

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作者本名・鈴木峰晴