源義経の愛妾に、白拍子の静御前が居る。
十一世紀頃、神仏の由来や縁起を白拍子が新鮮な当世風に歌う、歌謡として登場して来た「今様」と名付けられた楽曲がある。
白拍子は古く遡ると、巫女による「巫女舞が原点にあった」とも言われて、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。
巫女が布教の行脚(あんぎゃ)中に於いて直垂(ひたたれ)姿の舞を披露して行く中で次第に芸能を主とした遊女へと転化して行く。
その内に、巫以来の伝統の影響を受けつつ白い薄絹の直垂(ひたたれ)を着て遊女が舞う「男装の男舞」に長けた者を指して言う様になった。
白拍子は院政期(平安時代の後期から鎌倉初期)に最も活躍していた遊び女で、その「今様」を歌いながら、そして白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)と言う男装で、男舞と呼ばれる舞を舞っていた。
勿論、殿方を誘惑する事が仕事であるから、形は男装だが、そこは遊興の酒席、相応の色気が必要で衣装は裸身が透ける当時としては相当高価な薄絹が用いられていた。
白拍子は、遊び女と言っても基本的に上流社会の男性を相手にしていたから、当時としては相当高度な知識を持っていた。
同時に、床技(性技)にも長けて居なければならないこの白拍子を「誰が育てたのか」と、考えた事があるだろうか?
殿方に心地良い存在として、心身ともに育てられた女性である。
そこに存在するからそれを認めれば良いのではなく、裏に何があるのかを見極めなければならない。
白拍子が何故育成され、何がターゲットに成ったのかを考えると、背後に影人の存在が見え隠れする。
そう、諜報機関としての影の存在が、「特殊任務を帯びた女性を育てた」とも考えられるのだ。
その白拍子で、義経に愛されたのが静(御前)だった。
義経は、戦勝凱旋の華やかな見た目とは裏腹に、苛立ちを抱えていた。
そんな時に出会えたのが静御前である。
実の所、白拍子・静(しずか)には高位の権力者の相手が出来るだけの教養と芸妓術、性技術が備わっていた。
若い義経には、今まで出会った事の無い新鮮な女性に見え、彼はそれにコロリと参ってしまった。
静御前の性格は優しく何事も受動的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れていた。
白拍子として余程仕込まれているのか、多分に被虐的性交を好み、何時も義経の好みに攻め立てられる事で快感をむさぼった。
彼女が最も好みとするのは、後背位で後ろから激しく攻め立てられる事であったが、それが受身な性格の彼女の性癖に合っていた。
男女の中とは上手く出来ているもので、義経は老獪な帝と兄の板ばさみ感の苛立ちを静御前との強烈な睦事に逃げ込む事で、日常から救われていた。
静にしてみれば、義経は客の域を超えて好いた始めての相手だった。
義経は「静御前に愛されている」と確信し、彼女を愛した。
そうした二人の間の関係が、互いに快適だったのである。
静御前の母は礒禅師(磯野禅尼)と言い讃岐出身説があるが、白拍子が陰陽師の諜報機関となれば、大和国(奈良県大和高田市磯野)出身が正しいと思われる。
一説には、静御前の母は礒禅師が「白拍子の祖」と言われているが、初期の育成メンバーの一人だったのが、義経に付随して娘の静御前に脚光があたり、評価が上がったのであろう。
妾妻の静御前は当初逃亡に同行して四国などにも行ったが、紀州の吉野辺りで捕まって母の礒禅師とともに鎌倉に囚われの身と成り、鶴岡八幡宮の回廊舞台で頼朝の前で舞を舞わされる有名な話が有る。
鎌倉の頼朝館に、弟の範頼が参上した。
「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」
「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」
「目の保養と申しますと?」
「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」
「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」
「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか者供に見せねば成らぬ。」
言い出したら聞かない性格の頼朝が、義経の愛妾を辱める目的で言い出した事である。
これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。
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静には酷だが、舞せる他に収まりそうも無かった。
「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」
「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」
流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。
異腹弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で白拍子舞の披露を命じられた。
この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。
後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。
状況的に「義経の愛妾を辱める」と言う条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。
このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが現実を描写する。
永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。
そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。
静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。
今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。
そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。 それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。
従って今様(当世風)神楽にはそうした究極のチラヂズムと言うエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。
本来、白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。
後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱」を、静御前は受けた事になる。
これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。
定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人(高級貴族役人)を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。
実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。
古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。
そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。
原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。
欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽から発生して発達し、娯楽の側面を持つに到った。
日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る神事から発生して発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め踊り手は巫女が勤めた。
神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが神官の出自は渡来系氏族で、巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。
そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。
遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。
神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。
この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。
そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。
目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。
記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。
身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を舞い踊る所に、その真髄がある。
腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの鎌倉前期に衣の重ね着は在っても下着は無い。
それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、後の案土桃山期に歌舞伎踊りで出雲の阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。
娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。
この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った必然的真実の所以(ゆえん)である。
これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。
その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。
しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。
最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りには映画やドラマで再現し難い事情がある。
それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。
もっとも映像化出来ないものは沢山在り、日本の既婚女性の化粧習慣だった「お歯黒」は、「映像化には不気味だ」として時代考証の段階で外され再現はしない。
しかしそれが長く続くと後世に残る映像には「お歯黒」を施粧した女性の登場場面は無くなり、やがて記憶から忘れ去られる事だろう。
神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰も露わなストリップダンス」と言われている。
「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。
それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。
この「白拍子」、法皇の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に、諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。
同時に吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っている。
ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾静御前とよしみを通じている。
この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。
「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。
源義経の愛妾・白拍子の静御前は、鎌倉幕府御家人とその婦人が詰め掛ける鎌倉八幡宮の舞台で裸舞(ストリップダンス)を舞わされる辱めを受け、挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。
話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。
工藤祐経(くどうすけつね)は若い頃に都で平重盛に仕え、歌舞音曲に通じて鼓(つづみ)を打ち、白拍子舞の今様を歌う名手である。
頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。
後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。
元々武士の素養とされる言葉に「武芸百般」がある。
この「武芸百般」の意味に於いて、武芸を武術と同じ意味に取り違えているから、思考に始めから錯誤が生じる。
後の世に於いて、芸を「軟弱なもの」と決め付ける先入観がこの錯誤を作ってしまった。
本来、「武芸」の「芸」はあくまでも「芸」で、およそ武士たる者は歌いの一声、舞の一指し、鼓(つづみ)の一打ちも「たしなむ」のが素養とされていた。
その素養意識が、武士のルーツである垣根の無かった神官・神事に通じる神楽舞から「連綿と続くもの」だからである。
すなわち、無骨者では「神の支援が得られない」と言う既成概念が残っていて、無芸の者は「リーダー足り得る要素に欠ける」と言う評価が残っていた。
文武両道、武芸百般の超人が、この国では氏上(氏神)から続くリーダーの理想像なのである。
従って教養豊かな武人こそ尊敬され、武人の「芸」は、磨くべきものだった。
この鶴岡八幡宮の「静御前の舞のエピソード」は、義経逃亡の翌年の事である。
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