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(日吉丸・その謎の生い立ち)(秀頼は誰の子か?)

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◆小説【皇統と鵺の影人】より

【正説・豊臣太閤記】

(日吉丸・その謎の生い立ち)(秀頼は誰の子か?)


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正説・豊臣太閤記

(日吉丸・その謎の生い立ち)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約一ヵ月と十日間ほどお楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔〕 【あらすじ・お薦めポイント
〔一章〕【(日吉丸・その謎の生い立ち)
〔〕  【墨俣(すのまた)一夜城
〔〕  【生駒吉乃(いこまきつの)
〔〕  【中国大返しの奇跡
〔〕  【正室・高台院(おね/ねね)と日吉
〔〕  【山窩(サンカ・サンガ)の総領家
〔〕  【木下藤吉郎・秀吉
〔〕  【山崎の合戦
〔〕  【清洲会議(きようすかいぎ)
〔〕  【賤ヶ岳の戦い
〔〕  【小牧・長久手(長湫)の戦い
〔〕  【紀州(根来衆・雑賀衆)征伐
〔〕  【小田原・四国・九州平定
〔〕  【大納言・豊臣秀長
〔〕  【関白・秀次の運命
〔〕  【文禄・慶長の役(朝鮮征伐)
〔〕  【秀吉病没
〔二章〕【(豊臣家滅亡への道)
〔〕  【宇喜多秀家
〔〕  【石田三成
〔〕  【直江兼続(なおえかねつぐ)
〔〕  【上杉討伐
〔〕  【小山評定
〔〕  【東西両軍
〔〕  【関ヶ原
〔〕  【小早川秀秋
〔〕  【京極高次
〔〕  【細川忠興(ほそかわただおき)
〔〕  【藤堂高虎(とうどうたかとら)
〔〕  【池田輝政(てるまさ)
〔〕  【織田信包(おだのぶかね)
〔〕  【浅井三姉妹
〔三章〕【(大阪の陣・豊臣家滅亡)
〔〕  【方広寺鐘銘事件
〔〕  【大坂冬の陣
〔〕  【大坂夏の陣
〔〕  【松平忠直
〔〕  【有力恩顧大名
〔〕  【蜂須賀小六正勝
〔〕  【安芸広島藩・浅野家

【正説・豊臣太閤記】

◇◆◇◆◇◆【正説・豊臣太閤記】あらすじ・お薦めポイント ◆◇◆◇◆◇

 未来狂冗談の歴史・時代小説です。

歴史の真実は、全て正史の裏面に在る。

これは、主人公・豊臣秀吉を英雄(ヒーロー)仕立てにした娯楽小説では無く、多くの資料を駆使して推理構築した考察的歴史小説である。

天孫降臨伝説にしろ皇国史観にしろ、時として日本史は統治の為に捏造されて来た。

建前の綺麗事で語られる、手前味噌な伝記や興行の為の脚色も多い。

それ故に、日本史を志すものにとっては「真逆の発想」を持って事を推理する必要を感じた。


豊臣秀吉については明らかにされないその出自に、実は特別の秘密が在った。

確かに氏姓には縁の無い存在だったが、彼には出世の糸口になる相応の裏付けが確り存在し、それ故早くから信長に認められていたので在って、草紙、講談本の「豊臣太閤記」の出世物語の類は眉唾である。

ごく一部の信長ごとき天才を除けば、人間、持って産まれた才能に大した差はない。
どちらかと言うとその後の育ち方が大切なのだが、この国では学問も支配意識も長い事氏族の独占だった。

その垣根が、この信長の織田家で幅広い人材登用に拠って崩されそうだった。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)は言わばその代表選手で、蜂須賀小六や秀吉の近親者、同郷地縁者の一団が織田家内の勢力として形成されつつあった。

人間、登用されれば経験がものを言う。

何時の間にか、木下藤吉郎にもそれ成りの物が身に着いて行った。

この登用、信長一流の計算で旧社会の構造破壊を狙った「思い」を秘めていたのだが、それが後の天下を左右する事になる。

治水土木・輸送能力・城砦建築などに優れる木下藤吉郎(羽柴秀吉/豊臣秀吉)の才能は武士(氏族)としては異彩で、その関係の職人土工を操る力が何処から来たかを今まで誰も触れていない。
そしてその価値をお館様・織田信長は誰よりも知っていて、藤吉郎(秀吉)を可愛がって居た。

これが武士(氏族)の既成概念に囚われた国主なら、身分低き者として木下藤吉郎(羽柴秀吉)の才能は埋もれて終ったかも知れない。

何しろ日吉丸(豊臣秀吉)は、氏姓(うじかばね)を持たない非支配階級の群れの出自だったからである。


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第一章

◇◆◇◆◇◆◇〔第一章(日吉丸・その謎の生い立ち)◆◇◆◇◆◇◆◇

織田信長(おだのぶなが)は、父・織田信秀(おだのぶひで)以来の家臣で筆頭家老・柴田勝家(しばたかついえ)や二番家老・丹羽長秀(にわながひで)以上に新参の明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)を重用した。

二人の能力が「他の家臣依り勝っていた」と言ってしまえばそれまでだが、この重用した訳の分析が現代にまで通じる「職に就く者の心得のヒント」と成るので少し掘り下げる。

確かに、氏族の草と深い関わりを持ち彼らを自在に操る明智光秀(あけちみつひで)と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(はしばひでよし/木下藤吉郎)は織田信長の天下布武の両輪だった。

しかしそれだけではない重要な素養が、二人には在った。

明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)が実質で織田家旧臣をごぼう抜きにしたのは、「心構え」と言ってしまえば益々抽象的になるのだが、簡単に言えば彼等二人が織田家の幹部に欲しい人材だったからである。

経営者が幹部に要求するのは、常識論を持ち出して「それは無理でござる。」と否定する幹部ではない。

幾ら頭が良くても、「どうしたら出来るか?」ではなく「出来ない理由ばかり考えている」のでは、企業はとても雇う気には成らない。

つまり戦国期にしても現代の事業にしても「常識を打ち破る事」こそが他に勝る新しい戦略(有望な経営モデルやアイデア商品等)として「他を凌ぐ事」に通じ、常識論を持ち出して他と横並びでは何の発展も無い。

所が、「お館様(社長)は非常識な無理を言う。」と言う不満や「金や人員を揃えてくれさえすれば。」の言い訳は、最も幹部に相応しくない事に気が着かない。

つまり企業として当たり前のローコストで価値のある事を生み出してこそ幹部で、常識を盾にその枠からはみ出した名案へ思考が到らないでは幹部として全く不要なのである。

そして中には、お館様(社長)の自分への期待も判らず、「拙者(私)が何度も説明しているのにまだ判らない。頭が悪いのじゃないの?」と相手を馬鹿にする。

本人は相手が悪い積りでも、そんな世渡りの姿勢では何処でも認められないし、雇われてもそこに永く身を置けない事になる。


明智光秀(あけちみつひで)も羽柴秀吉(はしばひでよし)も、信長(のぶなが)に資金や人員の事を無心した事は無く、秀吉(ひでよし)に到っては敵が降伏寸前の情況に在る事を見計らって信長(のぶなが)の出陣を求め、「お館様に恐れを為して・・」と手柄を主君に譲る世渡り上手である。

まぁ、そうした見え見えの芝居をする秀吉依りも、クールな光秀の方が信長の肌には合っていたのだが。

明智光秀が織田信長に召抱えられた頃、信長の小者(使い走り)の中に妙に調子の良い木下と言う男が居た。

三十三歳に成っていた明智光秀が後に生涯のライバルとなる木下藤吉郎に最初に会ったのは仕官間もないこの頃で、木下藤吉郎(秀吉)は若干二十四歳のまだ士分と言えるかどうかの信長付きの小者に過ぎなかった。

光秀よりは凡(おおよ)そ十歳ほど若く、小姓上がりでは無い所を見ると元々は士分の者では無いらしい。

周囲の者にそれとなく聞くと、尾張中村の産で「おね(ねね)」と言う木下家の娘を嫁に貰って「その姓を名乗っている」と言う。

この実際には九才年下の木下藤吉郎(秀吉)の存在は、光秀には「奇妙な若者」と映ったが、当時二十七歳だった信長は手元に置き、光秀にも「あ奴は気が利くで外向けの用事を申し付けて重宝している」と紹介している。

只、信長には「藤吉郎、藤吉郎。」と何かにつけて用を言い付かって、可愛がられていた。

木下藤吉郎(秀吉)の才は、戦国に在っても勇猛な武人の才ではない。

その藤吉郎は小才が利く事から、やがて勘定方の士分に取り立てられて今で言う総務・庶務・会計係のような雑事を岐阜城で一手に引き受けて、士分に有り勝ちな気取りも無い「如才ない仕事」をして織田家中で少しづつ頭角を現している。

また、木下藤吉郎(羽柴秀吉/豊臣秀吉)は治水土木・輸送能力・城砦建築などに優れ、その関係の職人土工を操る力は武士(氏族)としては異彩だった。

つまり彼・秀吉が秀でていたのは「人と金の使い方」・・・マネージメントであり、その才覚をもって築城術、土木工事術、また輸送能力に優れ、現場での作業人員確保に優れて、水攻めなど彼独特の戦のやり方で信長の負託に応えていた。

また、何故か藤吉郎(秀吉)には妙な人足の動員力が在り、人足仕事を任せると無類の能力を発揮した為、何時の間にか作事奉行の任にあり付いて徐々に織田家幹部に名を連ねている。

そして奇妙な事に、その木下藤吉郎と名乗る若い男は、小者(使い走り)には凡そ似合わない自前の武士団を配下に従えている。

その木下藤吉郎は、年々取り立てられ何時の間にか信長子飼いの武将の中でも頭角を現していた。

明らかに他の武士には無いタイプだが、確かに木下藤吉郎は実行力に優れ、配下の武士団を操って信長好みの奇想天外な手法で築城やら戦をして成果を挙げて、やがて羽柴秀吉を名乗る武将として光秀のライバルに成長して行く。

血筋を重んじる時代に、出自不詳の男が天下を取ったのだから大衆受するのは当り前で、勿論秀吉は超級の才能の持ち主だった。

しかし彼の場合天才信長の指示があり、それを実行する事に拠って学習し、習得したものだったと考えられる。

実は、秀吉(藤吉郎)が信長に見出され、重用された事には、「秀吉には元々力があった」と言う隠された出自(血筋の裏付け)に関する立派な理由がある。

しかし、その話はひとまず置いて、後に解明する事にしよう。


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墨俣(すのまた)一夜城

◇◆◇◆◇◆◇◆◇墨俣(すのまた)一夜城◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百六十一年(永禄四年)織田信長が美濃侵攻を画したのは梅雨時期だった。

長良川西岸、犀川が合流する所に墨俣(すのまた)と呼ばれる土地が在る。

言わずと知れた、「豊臣秀吉の出世城が在った」とされる所である。

内陸に在った美濃国にとって、水運の要衝・墨俣(すのまた)に砦を築かれる事は、戦略上、交通上重要な拠点ではあった。

その砦が、秀吉の墨俣(すのまた)一夜城の舞台であるが、実はこの話は江戸中期になって捏造(ねつぞう)されたものである。

墨俣(すのまた)城に関しては、中世からその存在の痕跡があり、築城主は不明とされていて「木下藤吉郎(秀吉)の手による築城」と言う事は無い。

それよりも、山窩(サンカ・サンガ)系独立集団の土豪・蜂須賀小六正勝率いる「川並衆」の勢力下に在ったものを、藤吉郎(秀吉)への忠誠の証として形式上「信長に献上した」と言う可能性が高い。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)は長良川の東岸の日置から、墨俣(すのまた)の砦を眺めていた。

優しい雨が降っていた。

それでも長良川は濁りを増し、これから半刻もすると濁流に変わる恐れが在った。

長良川は大河で在るが、冬の渇水期なら対岸に渡る浅瀬もある。

しかし、生憎今は長良川が穏やかとは言い難い梅雨の季節だった。

お館様・織田信長が本格的に美濃国攻略を決意した時、織田勢としては足掛かりになる砦が美濃に欲しかった。

軍儀で「何か策は無いか?」と問われて、藤吉郎は「恐れながら」と末席から名乗り出た。

藤吉郎は、独立集団・蜂須賀小六が率いる「川並衆千五百」とその本拠地・墨俣(すのまた)砦を「傘下に引き入れて見せる」と言上し、信長から「成功したらそのまま守将に任じさせる」と約を取り付けていた。

この軍儀話題の砦の主は、藤吉郎に旧知の蜂須賀小六正勝で話を着ける自信は充分にある。

藤吉郎(秀吉)は長良川の水嵩(みずかさ)が増す前に浅瀬を見つけ、河を渡って墨俣(すのまた)の砦に辿り着いた。

そして藤吉郎がどんな手を使ったのかは定かでないが、蜂須賀小六以下蜂須賀党をことごとく口説(くど)き落として傘下に入れている。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)は蜂須賀小六を口説(くど)き落として傘下に入れると、墨俣(すのまた)砦を突貫工事で整備して城の体裁を整えている。

この墨俣の織田方小城の存在が美濃・斉藤勢に取っては厄介この上ないもので、美濃・斉藤家臣団に大きな動揺を与えたのは事実である。

それにしても蜂須賀小六正勝は、何故か当時まだ「織田家家臣の末席に在った」と思われる木下藤吉郎の口説(くど)きに易々と乗り、まるで以前からそうであったがごとく臣従しているのは謎であるが、その話は後ほど解き明かす事にする。


父である美濃国々主・斉藤道三を追い出し、その後討ち取って国主の座を手に入れた斉藤義龍は、追い出された道三からの美濃一国の「譲り渡し状」を受け取っていた織田信長と対立し、両者は再三小競り合いを繰り返している。

その後斉藤義龍は病死、息子龍興が十四歳で家督を継ぐが、若輩の当主の為に斉藤家は求心力を失い、道三の「譲り渡し状」が勿怪(もっけ)の理由と、家臣の寝返りが激しくなって、美濃は信長の手に落ちたので有る。


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生駒吉乃(いこまきつの)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇生駒吉乃(いこまきつの)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

天下布武の為に鵺(ぬえ)になった織田信長ではあるが、彼が人間らしい一面を覗かせたエピソードを紹介して置く。

当時は側室(妾/めかけ)と言う形式での男女の仲が在った。

人にはそれぞれに縁(えにし)が有り、他人と言えども強い絆(きずな)に育つ事がある。

それが夫婦だったり何かの仲間だったりするのだが、生駒吉乃(いこまきつの)と言う側室は唯の妾ではない。

織田信長に愛され、織田信忠と織田信雄を生んだ「生駒吉乃(いこまきつの)」は、側室であるが正室並に扱われ信長に愛されていた。

念を押して於くが、織田信長婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、生駒吉乃(いこまきつの)の名乗りは妾でなくとも生駒吉乃(いこまきつの)である。

我輩は、この生駒吉乃に「信長は母の面影を見ていたのではないか?」と、我輩は睨(にら)んでいる。

母の愛に恵まれなかった信長の愛した生駒吉乃の父親は、生駒 親正(いこまちかまさ)と言い、親正の父生駒親重(ちかしげ)は、信長の母・土田御前の兄で、土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが、つまりは母方の従弟の娘が「生駒吉乃」である。

信長はこの「生駒吉乃」を頻繁に寝所に召し、特に「激しく抱いた」と言う。

この織田信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)が、実は日吉丸(豊臣秀吉)を信長に結び付けた張本人だった。

明智光秀の織田家仕官の伝手(つて)が正妻の濃姫(帰蝶)なら、羽柴秀吉の織田家仕官の伝手(つて)は、この愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)である。

秀吉が織田信長に召抱えられた経緯(いきさつ)は、芝居の脚本の影響もあり、「秀吉の知恵」と面白く描かれる事が多いが、事実はもっと現実的な「縁故就職」だったのである。

生駒吉乃(いこまきつの)の生家・生駒家は、尾張国中村に在って数ヵ国と交易し、代々富裕であり諸国流浪の浪人武士を数十人も寄宿させ、養うほどの有力な豪族である。

生駒家は、平安時代初期の公卿・藤原冬嗣(史上初の摂政/藤原北家)の二男・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が大和国・生駒の地に移り住み本拠としていたのだが、室町時代に応仁の乱が起こりその戦禍から逃れて尾張国小折の地に移住する。

生駒藤原家は、この大和国・生駒の地名から生駒姓を名乗るように成ったのだが、生駒在住時代に名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かでない。

その生駒家は、秀吉と苦楽を共にし、秀吉を支え尽くしてきた木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)やその主筋にあたる謎の棟梁(秀吉の父親)と親交が有り、蜂須賀小六は生駒家と姻戚で在った。

生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族であるが、兼業で馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていて「生駒」を名乗っているくらいだから、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前である。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の「矢作橋の出会い」も、当時矢作橋その物が存在せず牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の「京・五条橋の出会い」同様に後の作家の創作で、生駒屋敷での出会いの方が信憑性が遥かに高い。

蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)は、姻戚である生駒八右衛門や前野長康と親交を結び、木曾川を舞台に河川土木や河川運航に活躍した船方衆数千人の棟梁として、美濃・尾張の戦国大名勢力の双方から半ば独立した勢力を築いていた。

その小六の主筋にあたる「謎の棟梁」の嫡男が、「日吉」と名づけられた豊臣秀吉の若き頃の姿だった。

どうやら、蜂須賀小六が川筋七流の荒くれ者を一同に集め「蜂須賀党二千名」の棟梁として活躍した後ろ盾が、川並衆の「謎の棟梁」と、生駒家だったようである。
母・土田御前の面影を追う信長の生駒吉乃への思い入れは強く、その愛は吉乃付きの小者(日吉)にまで及んだ。

蜂須賀小六が生駒家と姻戚関係で有った事から、吉乃の小者として仕えるようになった「日吉」は、信長の下に側室として上がった生駒吉乃について織田家に召抱えられる道筋が開けたのである。

その「日吉(木下藤吉郎)」に従い、長じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた蜂須賀小六と豊臣秀吉の関係は四十年余り及び、蜂須賀家も生駒家(但し分家/本家は旗本扱い)も、四国の大名にまで上り詰めている。


織田信長(吉法師)は、その突出した才知故に母(土田御前)に愛されなかった人物である。

信長は心を開かない母に生涯心痛めながらも、母を慕っていた。

しかし、信長の思いは通じない。

その母の愛に飢えた思いが、天下布武にまい進させ、また、母方の姪(生駒吉乃)を妾(正室並の側室)にし、情を注ぐ事に成ったのである。

唯、人間は必ず何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。

何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

我輩があえて言うならば、決定的なのは人間が「悲しい生き物だ」と言う事で、人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である「群れ社会」を、無意識に構成し様とする「本能」に起因するものだ。

現代でも深層心理の世界の現実として、SEXプレィに「SMの様式」が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する擬似行為として、支配欲や被支配欲を満足させる為にSMプレィは成立している。

権力は、冷酷非情と隣り併せに存在し、冷酷非情でなければ、強い権力者ではいられない。

言い換えれば、「S(サド)の狂気」を持ち合わせ無い人間では他人の上には立てない。

古来より「英雄色を好む」と言われているが、織田信長のように強烈な「S(サド)の狂気」を持ち合わせている冷酷非情な人間のみが他人の上に立てるのである。

そうした意味では、天才的狂気が信長をして天下取り(天下布武)に走らせたのは確かである。

何かを為(な)す為には迷いは禁物で、一度抱いた信念は曲げられない。

信念を曲げ無い事は大きな力になるのだが、それにしても最初に抱く信念が世間と間違っていては幾ら拘ってもどうにもならない。


だから生きる事が面白いのかも知れないが人間誰しも先の事は闇で、その一瞬の他人が仕掛けた思いも拠らぬ事で人生多かれ少なかれ変わるってしまう。

元々人間の一生などアクシデントの連続で、計画的に思い通に全て上手く行く人生などある訳がない。

信長の仕掛けた「天下布武」は、孤軍奮闘の果て脈々と続いた血統主義に敗れたのだ。


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中国大返しの奇跡

◇◆◇◆◇◆◇◆◇中国大返しの奇跡◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智光秀が本能寺に主君・織田信長を攻めた時、豊臣秀吉は毛利方・清水宗治の高松城の城の周囲に堰堤を築いて足守川を堰き止め、水攻めしていた。

そこに本能寺の変が秀吉に伝えられ秀吉が退却の必要に迫られた所で、お誂(あつら)え向きに城主・清水宗治は和睦の為自刃して果て、毛利氏との講和が成立する。

実は後ほどご紹介するが、豊臣秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。


秀吉の「大返し」の勢いは、尋常ではなかった。

光秀を他の武将に討たれては、後継者の夢は叶わない。

信長の「天下布武」を継ぐには、信長軍団の誰よりも早く戻らねばならない。

三万に余る大軍が山陽道を東に疾風のごとく駆け上り、過酷な行軍を押し通して秀吉は畿内に戻って来た。


戦は、「兵だけ動かせば良い」と言うものではない。

実際に数万の軍勢を動かすには、食料や矢などの消耗武具から軍馬の餌(飼葉)、経路で消耗する軍資金に到るまで膨大な「荷役運輸(兵站)」が伴なう。

流石に織田信長が、その実力を認めただけの事はある。

羽柴秀吉の「荷役運輸」の実力が、光秀の想像を遥かに上廻っていた。

秀吉を織田家に推挙した生駒家と後に秀吉の臣下となる蜂須賀家の両家は、親類縁者の立場にあった。

つまり両家とも秀吉には少なからぬ縁(えにし)が在り、その縁(えにし)が秀吉中国大返しの奇跡を生んだ輜重(しちょう)能力の秘密である。

輜重(しちょう)とは、兵站(戦闘力を維持・増進し、作戦を支援する機能・活動)を主に担当する軍の兵科目の一種である。

日本人は、基が氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想だから、戦争(戦/いくさ)をするにあたり、往々にして直接戦わない「後方支援」の輜重(しちょう)と言うものに無関心である。

羽柴秀吉は氏族ではなかったからこそ、直接戦わない後方支援の輜重(しちょう)の重要性を承知していた。

信長だけがその秀吉軍の輜重(しちょう)能力を認識していて、いざ自らの新帝宣下(織田帝国)の際は、「真っ先に軍を畿内に返す指示を与えていた」と言う事である。

つまり氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の明智光秀は、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)に敗れた」と言って良い。

「筑前(羽柴秀吉)、こ度の毛利攻めには予に考えが有る。予からの報(しら)せ有らばいつでも京にとって返す備えを道々怠り無くせよ。この事、他言無用ぞ。」

「御意、怠り無く致しもうす。」

光秀も、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)」に着いて多少の事は想像出来て居ただろうが、まさか「お館様(織田信長)から事前の指示が出ていた」と言う所までは読めなかったのである。

秀吉の「中国大返しの奇跡」に、光秀は狐につままれたような想いだったであろう。

余談だが、ここで挙げた氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想の悪癖(あくへき)、実は先の第二次大戦時まで続いて、「後方支援」の輜重(しちょう)に重きを置くよりも「精神論で戦う」と言う馬鹿げた作戦を遂行させている。

秀吉による「中国大返し」の本質を正しく評価せず、只ひたすらに強行軍で返って来たかのごとく解釈する建前発想の悪癖(あくへき)が、「秀吉大返し」の教訓を捨ててしまったのである。

日本人が共通で持つ「日本人的な意識」を前提に、それを強情に「正しい」とする前に、それを見直し「確認しないといけない事」は幾らでもあるのだ。

だが、自らの否定に繋がる事は初めから切り捨てて、中々認める方向で認識する思考には成ろうとしない。


奇跡にはそれなりの種があり、ここでその種明かしをして置く。

明智光秀も読み違えた秀吉の「中国大返しの奇跡」、実は秀吉ならではの人脈の賜物だった。

前述の通り生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族の出自であるが、兼業で馬を利用して荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていた。

その事から、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前で、秀吉軍は兵糧部隊も含め、生駒家の協力で、中国街道筋の「馬借(ばしゃく)」が、大軍の大移動を全面支援したのである。

厳密に言うと、光秀は秀吉に敗れたのではない、信長の知略に敗れたのだ。

この時秀吉軍は、姫路を発し、既に京まで後二日の距離に迫っていた。

最初の段階で、光秀は信長の知略に敗れつつ在ったのだ。


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正室・高台院(おね/ねね)と日吉

◇◆◇◆◇◆◇◆◇正室・高台院(おね/ねね)と日吉◆◇◆◇◆◇◆◇◆

そろそろ豊臣秀吉の出自について順次検証と考察を加えながら御紹介しよう。

まずは秀吉の周囲から、少しづつ秀吉の実像に迫って行く。

豊臣秀吉の一族郎党家臣軍団の中には、妻方の武将が多く居た。

秀吉の正室・高台院(おね/ねね)の実家は尾張国朝日村郷士・杉原(木下)家で、養家は浅野家ある。

北政所として知られる秀吉の正妻「おね(ねね)・高台院」の父親・杉原(木下)定利の出自は、桓武平氏・平貞衡流桑名氏の分流・平光平(杉原光平)を祖とする杉原氏で、土着郷士として杉原ともう一つ木下を名乗る事も在った。

杉原家定(木下定利)は、織田信長に使えていた当時は木下定利を名乗り武将と言ってもさして大物ではなかった。

所が、杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先である浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)に養女と預けた娘・おね(ねね)とややの二人の内の一人、姉の方の「おね(ねね)」を、信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。


浅野氏の家系は清和源氏・源頼光(土岐頼光)流土岐氏の庶流で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で鎌倉幕府御家人・土岐光衡(ときみつひら)の次男で判官代・土岐光時(ときみつとき)が土岐郡浅野の地で浅野氏を名乗ったに始まる土岐氏の古い時期からの一族である。

ここで疑問なのは、戦国期の氏族娘の常識的な嫁ぎ先は格上を狙う筈が、出自の定かでない格下の小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えてまで折角格上の浅野家に養女に出して嫁入りの準備をしていた「おね(ねね)」を嫁がせた事である。

あの戦国期に只の恋愛に拠る婚儀など想定の他で、このおね(ねね)の婚礼、実父の木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を、藤吉郎(とうきちろう)に見ていたからに違いない。

その家格以上の大きな価値こそが、氏族とは違う山窩衆(さんがしゅう)の長者(棟梁)としての藤吉郎(とうきちろう)の出自だったのなら、納得出来る理由ではないだろうか?

勘違いして貰っては困るが、羽柴秀吉婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、北政所「おね(ねね)」の姓(かばね)名乗りは実家の杉原(木下)または養女先の浅野である。

結局、おね(ねね)の兄弟・家定を始めその家定の嫡男・木下勝俊(若狭国後瀬山城八万石秀吉死去後改易)二男・木下利房(備中足守木下家)、三男・小早川秀秋(筑前小早川家)、四男・木下延俊(豊後日出木下家)など杉原(木下)家一族の全てが藤吉郎(とうきちろう)に臣従している。

おね(ねね)養父家の浅野家からも、妹・ややが浅野家を継ぎ、その婿養子・浅野長政(安井長吉)は甲斐国二十二万石を与えられ豊臣政権の五奉行筆頭まで上り詰めたが「石田三成と犬猿の仲だった」と伝えられて居る。

秀吉のあだ名はサルと伝えられるが、おね(ねね)の実父・木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を持つ男、秀吉の顔はけして猿顔では無かったし、信長も、「サル」などとは呼んではいない。

生家と言われる中村郷もけして山深い里ではなく、濃尾平野の一角に在る平坦地だった。

秀吉の幼名「日吉丸」の名は、生誕の地・尾張国中村(名古屋市中村区)から程近くに在る「清洲山王宮・日吉神社(現在の清須市清洲)から採って名付けられた」と言われている。

その日吉神社では、大巳貴神(オオナムチノカミ)と、大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀っている。この大巳貴神(オオナムチノカミ)は、大国主(オオクニヌシ神)と言った方が通りが良いかも知れないつまり別名は大黒様である。

神話に於いて大巳貴神(オオナムチノカミ/大国主神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の前に地上(豊葦原中津国)を支配していた王で、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国譲りをして後に出雲大社の神となった。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、元々は近江(滋賀)の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)一帯を治める山の神だった。

史書に拠ると、滋賀の日吉大社では東本宮に大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀り、西本宮に大己貴神(オオナムチノカミ/大国主神)を祀っている。

その滋賀・日吉大社では、最初に在ったのはそれとは別の牛尾山山頂の奥宮で、東本宮は里宮として創建されたらしいが、その年代が崇神大王(すじんおおきみ/天皇)七年と伝えられるから紀元前九十年となり、何処まで本当か定かではない。

公称創建とされる年代から凡そ七百八十年の後、滋賀・日吉大社は大津京を守る神として大神神社の大己貴神(オオナムチノカミ)を勧請して、それが大山咋神(オオヤマクイノカミ)よりも格上だとして大巳貴神(オオナムチノカミ)を大宮と称するようになる。

その滋賀・日吉大社は、七百九十四年の平安京遷都に拠って都の鬼門に当たる事から、鬼門除けの神社として出世する事になった。

それから約十二年後の八百六年(大同元年)、伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)が中国で修行を終えて帰国し、比叡山に延暦寺を建立した際に古くからこの山の神だった大山咋神(オオヤマクイノカミ)を寺の守護神とした。

大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、比叡山の王と言う事で山王と呼ばれ、また、中国・天台宗の本山(国清寺)に祀られていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にちなんで山王権現、日吉山王や日吉権現などとも呼ばれるようになって全国に分社が創建された。


伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)の天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、山王権現や日吉山王、日吉権現は天台宗の布教活動の中で全国に広まり、日吉神社が増えて行った。

比叡山の前の名が日枝山(ひえのやま)である事から日枝神社(ひえじんじゃ)とも呼ばれる。

清洲山王宮・日吉神社もその一つで、清須城下の総鎮守神として奉られてるのだが、その使い神が「猿」である所から後の脚本作家が秀吉のあだ名として採用した感が強い。

しかしそれでも世間から「サル」と呼ばれるとしたら、その由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。

そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。

信長が生駒吉乃(いこまきつの)に逢う為に通ったの生駒屋敷で、吉乃(きつの)から預けられた日吉と言う小者、何故か氏も名乗らないが、一通りの読み書きは基より歌まで嗜(たしな)む。

正式な出自名乗りも無い日吉の教養は当時としては奇怪な存在だったが、信長は愛妾・吉乃(きつの)からその出自を聞いて「これを生かさぬ手は無い」と閃(ひらめ)いた。

つまり日吉が、山窩(サンカ・サンガ)の総領家の血筋と知ったからだが、そこで信長は余人の様に氏の出自には拘らない。

尾張国中村に広大な屋敷を構え、蜂須賀や生駒、織田信長にさえ一目置かれ、数万人規模の土工夫を動員出来ながら氏(うじ)を持たない日吉丸(秀吉)の素性は、いったい何者だったのか?

この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。

この戦国末期に成ると、かなり共生・交流は出来つつ在ったが、先住系のマツラワヌ(祭らわぬ)民、つまり氏上(氏神)を祭らぬ民の末裔集団・山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が増殖して各地に存在していた。

統治部分や土地は氏族が握っていたから、彼ら末裔集団の縄張りは狩猟に拠る自活遊民や土木、物流(荷役や運輸)などの請負(人海労働)を得意として世の中と関わっていた。

秀吉の出自については、この山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。

伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)の天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、山王権現や日吉山王、日吉権現は天台宗の布教活動の中で全国に広まり、日吉神社が増えて行った。

比叡山の前の名が日枝山(ひえのやま)である事から日枝神社(ひえじんじゃ)とも呼ばれる。

清洲山王宮・日吉神社もその一つで、清須城下の総鎮守神として奉られてるのだが、その使い神が「猿」である所から後の脚本作家が秀吉のあだ名として採用した感が強い。
しかしそれでも世間から「サル」と呼ばれるとしたら、その由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。

そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。

信長が生駒吉乃(いこまきつの)に逢う為に通ったの生駒屋敷で、吉乃(きつの)から預けられた日吉と言う小者、何故か氏も名乗らないが、一通りの読み書きは基より歌まで嗜(たしな)む。

正式な出自名乗りも無い日吉の教養は当時としては奇怪な存在だったが、信長は愛妾・吉乃(きつの)からその出自を聞いて「これを生かさぬ手は無い」と閃(ひらめ)いた。

つまり日吉が、山窩(サンカ・サンガ)の総領家の血筋と知ったからだが、そこで信長は余人の様に氏の出自には拘らない。

尾張国中村に広大な屋敷を構え、蜂須賀や生駒、織田信長にさえ一目置かれ、数万人規模の土工夫を動員出来ながら氏(うじ)を持たない日吉丸(秀吉)の素性は、いったい何者だったのか?

この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。

この戦国末期に成ると、かなり共生・交流は出来つつ在ったが、先住系のマツラワヌ(祭らわぬ)民、つまり氏上(氏神)を祭らぬ民の末裔集団・山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が増殖して各地に存在していた。

統治部分や土地は氏族が握っていたから、彼ら末裔集団の縄張りは狩猟に拠る自活遊民や土木、物流(荷役や運輸)などの請負(人海労働)を得意として世の中と関わっていた。

日吉丸の実家が尾張中村に在った事の考えられる理由は、木曽山中の良質な木材を切り出して木曽川を使って筏で下り、平野部へ供給する組織の長(総領家/先住蝦夷系の王家)の屋敷だからである。

であれば、川並衆の蜂須賀党や馬車陸送の生駒家と繋がっていても不思議はないし、建築や土木に巧みな者を多く抱えて居ても不思議は無い。


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山窩(サンカ・サンガ)の総領家

◇◆◇◆◇◆◇◆◇山窩(サンカ・サンガ)の総領家◆◇◆◇◆◇◆◇◆

秀吉の出自については、この山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。

秀吉には氏姓に通じる記録がまったく出ない上に、蜂須賀(小六)正勝など川並(かわなみ)衆と呼ばれ、河川水運を生業とする野武士集団千二百騎の支援を得ている。

蜂須賀(小六)正勝は小豪族の出自とされるが、蜂須賀は地名であり「蜂須賀村の小六さん」かも知れない。

蜂須賀(小六)正勝は、戦国期から安土桃山期に掛けて木下藤吉郎・秀吉(羽柴筑前守〜豊臣秀吉)に臣従して活躍、秀吉から阿波一国を与えられて国主大名となっている。
蜂須賀氏の出自は、織田信長の父・信秀の本拠地・勝幡城から東に二キロほどの尾張国・蜂須賀郷に屋敷が在った国人領主と言われているが、詳細は不明である。

蜂須賀(小六)正勝は、濃尾平野を流れる木曽川の水運利権を握っていた「川並衆」の棟梁である。

川並衆の配下は二千、その内千八百ほどは戦闘能力がある。

どこの領主にも臣従しない在野勢力(野武士)であるが、戦闘員の規模から言うと三万石から五万石の小大名位の実力がある。

それにしても、あくまで独立勢力として存在していた「川並衆」とその棟梁・蜂須賀(小六)正勝の独立を、何故に織田信秀を始めとする戦国領主達が黙認していたのだろうか?そこに考えられるのは、蜂須賀氏の「特殊な出自の為ではなかったのか?」と推測が膨らむのである。

蜂須賀(小六)正勝とは義兄弟の契りを交わした仲の前野長康(まえのながやす)は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の古くからの家臣で戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。

この前野長康(まえのながやす)は俗に言う秀吉の墨俣城一夜城築城に協力した頃からの最古参の家臣だった。

前野は実父の旧姓で、尾張国葉栗郡にあった松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿になり、坪内長康(坪内光景)とも名乗っている。

秀吉の出世に伴って最終的には但馬国・出石に十一万石を与えられたが、その後関白・豊臣秀次の仕置きに伴って秀吉に改易切腹させられている。

ここで注目したいのは、川並衆の統領・蜂須賀(小六)正勝の実力である。

前野長康(まえのながやす)は小なりとも城持ちの豪族で、蜂須賀(小六)正勝とは縁戚になる尾張国中村・生駒氏(生駒吉乃の生家)も有力豪族であるから、蜂須賀党の頭目・蜂須賀(小六)正勝の実力は城持ちクラスの力がある豪族と互角だった事が伺える。

その蜂須賀(小六)正勝も前野長康(まえのながやす)も木下藤吉郎時代から秀吉の出世に協力し、やがて家臣に納まっている。

伊勢湾の海運に関わる商業都市「津島湊(つしまみなと)」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄えていた織田家と、木曽川河川の海運を握る川並衆に、「争うか手を結ぶか」の接点が在っても不思議はない。

秀吉を重用した織田信長と言い、蜂須賀、前野、生駒と言い、木下藤吉郎(羽柴秀吉)に小才が在ったくらいでは重用したり家臣として心服はしない筈で、何か特別の血筋でも秀吉になければ説明が着かない謎である。

もし蜂須賀(小六)正勝が、伝えられる小豪族の出自であれば、先祖の氏姓は当時でも公表された筈である。

そして、それだけの血筋と支配する野武士集団があれば、例え枝葉とは言え、当時ろくに部下を持たない小者の木下藤吉郎(秀吉)に助力する必然性は無い。

つまり、川並(かわなみ)衆は山窩(サンカ・サンガ)の集団であり、蜂須賀(小六)正勝はその頭目だった。

そして日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)自身も、蜂須賀小六さえ心服させる山窩(サンカ・サンガ)の総領家(先住蝦夷系の王家)の出自だったのではないだろうか?

血統至上主義の当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。

また、殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を貰うのが普通の状態に成っていた。
つまり豊臣秀吉は、男性精子に欠陥が在るほどの「第三勢力として名門の出自だった」との推測が成り立つのである。

豊臣秀吉は、氏族系百姓(商人や工業主、鉱山主、船主、村主、庄屋、名主、地主など)と専業武士(統治と武力行使を担当)の間に明確な線引きをして、「太閤刀狩」と言う「身分制度改革」を強力に推進した。

その理由こそが、彼自身の出自が支配階級の血統である氏族系ではなかったからではないだろうか?

つまり豊臣秀吉は、山窩(サンカ・サンガ)説を採れば氏族系百姓でさえ無かった。

だから、古来からの血統を重視した氏族制度を、「太閤刀狩」のその時点でご破算にして、自分やその一党を含め乱世で頭角をあらわした桃山時代当時の専業武士(統治と武力行使を担当)を、その出自に関わり無く「新たな支配階級として確定させる新秩序の確立と言う狙いがあったのでは」と疑えるのである。

何しろ秀吉の直系の家臣は、蜂須賀小六を始め大半が氏族系の出自ではない可能性を考えると、「太閤刀狩」の原点が見えるのである。

織田信長ほどの男が、単に「目端が利く」程度の男を、その才知だけで重臣にまで取立てて認める筈は無い。

日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)に、もっと大きな価値があり、つまり秀吉には氏族には関わり無い特殊な人々の動員力が在った。

それが、信長の認めた秀吉の力量だった。

氏族の草と深い関わりを持ち、彼らを自在に操る明智光秀と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だったのである。

尾張国中村郷に広大な屋敷を構えていながら「氏素性が無かった」と言われる日吉丸(秀吉)の出自、不都合なら他の武将の様に氏族の系図を買うなり乗っ取るなりをすれば良い。

所が秀吉は、誰にでも解る形で妻方の姓・木下を名乗ってそれ(系図の作文)をしなかった。

木下藤吉郎・・・羽柴秀吉が羽柴を名乗ったのは「織田家の有力武将・丹羽氏と柴田氏から一字ずつ貰う」と言う世間的にも解り易い手段だった。

この事自体も、敢えて「氏素性が無い事」を世間に強調しているようで、「何処かの誰か達に何かをアピールし続けていた」と受け取る方が至極まともな受け取り方ではないだろうか?

考えられるのはただ一つ、「氏素性が無い事」は、秀吉にとって何らかの価値が在った。つまり、「氏素性が無い者達」の棟梁として君臨し続ける為に、氏族の系図取得は邪魔だったのではないだろうか?

そしてそれは、奉(祭)らわない者として正史には現れない大きな勢力が秀吉の出現で融合される桃山期まで存在していて、そうした出自などに拘らない天才・織田信長がその仕掛け人だったのではないだろうか?


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木下藤吉郎・秀吉

◇◆◇◆◇◆◇◆◇木下藤吉郎・秀吉◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智光秀には日向の守と言う官位と惟任(これとう)と言う九州名族の姓、丹羽長秀には惟住(これずみ)と言う九州名族の姓を朝廷より与えさせていいる。

対して羽柴秀吉には筑前守の官位だけで姓を与えなかった事も、或いは秀吉が氏族以外の族長(奉(祭)らわぬ者)の血筋だった証かも知れない。

この辺りに、天才織田信長が木下藤吉郎・秀吉を重用した秘密が在り、れっきとした狙いが有った。

日吉丸(木下藤吉郎)召抱え当時の織田家の兵力は、出先の砦まで引っ掻き集めても精々兵五千足らず。

野武士集団とは言え兵千二百は、数万石の武将に相当する。

どうせ農閑期に戦をする半農武士ばかりだった時代である。

正直木下藤吉郎を雇った頃のまだ尾張の弱小大名家の織田信長にして見れば、川並衆の武装野武士集団千二百騎は、織田家にとって大きかった。

山岳戦に強く、土木工事、利水工事に強い川並(かわなみ)衆は、信長の戦略上必要な氏姓に関わらない第三の勢力だった。

太閤記で秀吉出世談の一つに挙げられる逸話である墨俣一夜城の迅速な整備も、他の信長配下の武将達が修復の手に余った倒壊した岐阜城々壁の修理を秀吉が木下藤吉郎時代に短期間で成し得たのも、彼がそうした土木職人群の首領だったからである。

実の所、乱世に在ってリアリスト(現実主義者)の織田信長が価値のない者を登用する訳がない。

益してや、明智光秀と羽柴秀吉は、新参でありながら織田家内で破格の扱いを受けている。

つまり織田信長が浅井家と朝倉家を滅ぼした頃には、勘解由(かでの)と源氏の草々に通じ、自在に操る明智光秀と山窩(サンカ・サンガ)衆の総領家・羽柴秀吉の両名は「信長の左右の腕、車の両輪」とも言うべき存在である。

どの古文書にも記されてはいないが、織田信長が目を付けた明智光秀と羽柴秀吉の各々が持つ秘められたその特殊な能力は、意外性をも武器として「秘してこそ効果がある」と言うものだったのである。

重ねて言うが、羽柴秀吉と言う男は氏族の端に当たる有姓氏族の末裔・「百姓」ですらも無い。

つまり有姓氏族の末裔ですら無いから、妻方の木下姓を借りて名乗ったほどである。

従って、安易に秀吉の出自を「百姓」と表記するのは間違いだからこそ、山の民(山窩/サンカ・サンガ)の出自として「猿(サル)」と表現したのである。

そしてまた、秀吉が氏族でない勢力を結集できる血統の出自だからこそ、常識の枠に嵌らない思考の織田信長は自らの手元に置いて重用し、秀吉が天下を取れた要因にもその氏族でない勢力が結集しポスト信長を勝ち抜いたからである。

秀吉の出世の裏付けとして「山窩(サンカ・サンガ)出自説を採らない」となると、天下取りの合理的説明が付かないから「人たらしの才能」などで誤魔化す事になる。

有能な補佐役・調停役の豊臣秀長は秀吉の異父弟と言われ、母親の名は「なか」で同じだが父親が「竹阿弥」と言う母親の再婚相手で、義理の父になり実父とは違う。

一説には「実の父」と言われて居る木下弥右衛門は百姓とも足軽とも伝えられるが、情報が錯綜していて実は妻のネネ(オネ)の父親で、秀吉(日吉丸)の実父ではない。 すると、実父は何者なのか?

故郷中村の地元に伝わる伝承では、日吉丸の生家は「広大な田地を有していたと伝わる郷士」または「村長級の富裕層であった」と伝わっている。

その謎の秀吉の実父が、山窩(サンカ・サンガ)集団の相当の実力者だった。

長年資金を備蓄した裕福な状態での五万石の大名でも、千五百〜二千騎の兵を揃えるのがやっとで、この時代、川並衆と言い、雑賀、根来、伊賀衆と言い、主を持たぬ独立勢力は、そこかしこに居た。

織田信長は、奴婢(ぬひ)としての記載も無い「治世にまつらわぬ山の勢力」を味方に引き入れる為に、山窩(サンカ・サンガ)の総領家を継ぐ男、日吉丸を召抱え、木下弥右衛門の娘ネネ(オネ)を娶らせて木下姓を名乗らせている。

氏姓に拘らない信長ならではのこの方策が、もう一方の光秀指揮下の影人郷士である雑賀、根来、伊賀衆とともに、信長の天下布武を推進させたのである。

羽柴秀吉が氏族であれば、源・平・橘・藤の系流か古代豪族系の姓を有していた筈で、つまり豊臣秀吉(とよとみのひでよし)には遡る氏系図が無かった。
だからこそ、新しく朝廷依り豊臣姓を賜ったのだ。

この豊臣秀吉が出自が、天下を取った後の豊臣家と徳川家康との情報戦に大きな影を落とす。

秀吉が雑賀、根来、甲賀、伊賀などに冷たい筈である。

信長は、役に立ちさえすれば出自など拘らなかったが、他の者は拘った。

そしてそれは、どちらか一方ではなく、双方だった。

しかも陰陽修験は、元はと言えば天武天皇・桓武天皇以来の蝦夷弾圧組織で、山窩(サンカ・サンガ)川並衆に取って大昔から敵対関係にあった存在である。

つまり、陰陽修験に端を発する光秀指揮下の影人郷士と、先住被征服民族に端を発する山窩(サンカ・サンガ)は、二千年を超える対立の歴史を引きずっていて、志ある陰陽修験系郷士(影人)は、こぞって徳川方に付いたのである。


これは別の面で、血統の争いでも在った。

秀吉は朝廷から関白、次いで太閤(たいこう)と言う官位と、豊臣(とよとみ)と言う賜姓(しせい)を貰い氏族の仲間に入ったが、歴史ある氏族達は腹の中で面白くは無かったのである。

先住蝦夷系の民・山窩(サンカ)と思しき権力者・豊臣秀吉の出現は、庶民には歓迎されたかも知れないが、氏族には認め難いもので、「猿(サル)」の陰口もその現れだった。

この物語を、最初からここまで読み進めた貴方には、もうお判かりの筈である。

百姓は本来有姓の氏族であるから、秀吉が百姓なら木下の姓など貰う必要は無いのである。

秀吉が、姓を持たない部族の有力者であったからこそ、秀吉は部族仲間の助力で思いも寄らぬ実力を発揮し、天下を手中にした。

しかし彼の死後、徳川幕府成立すると秀吉恩顧の非氏族系有力大名(蜂須賀氏、福島氏、加藤氏等)は次々と粛清され、改易、減封などでその姿を消して行ったのである。


秀吉の戦法に、水攻め、条件諜略などの直接武力に訴えない戦法が多いのは、「武士は戦うもの」とする思考とは些(いささ)か考えを異とするいかにも庶民(山窩感覚)出自の思考の発露である。

味方の損害は極力軽微に抑えるこの戦法、実は弟の木下小一郎(後の大納言秀長)の発案が多かった。

「巡り合わせ」と言えばそれまでだが、秀吉のように出自(氏素性)が定かでない者にしてみれば、闇に生きる影人の存在は不気味過ぎた。

この際、奴らを根絶やしにするのが、豊臣家安泰と考えた。

それでも長い事権力者の奇麗事で刷り込まれた武士の建前を、庶民の感覚(山窩感覚)で理解した武士の立場に、間諜活動は卑怯でさげすむべきものだったのである。

これは明らかに誤りで 、諜報機関を持たない権力組織など存在しない。

むしろ秀吉は、彼らを手懐(てなず)けるべきだったのである。

所がその部分は、お館様が光秀に任せていたから、その重要性について秀吉には認識が無い。

これが豊臣家滅亡の遠因になる。

暗殺、謀殺を含む諜報戦に、豊臣家はからきし弱かったのだ。

織田家・信長直臣内では、同格は愚か多少は格下でも遜(へりくだ)って敵を作らない世渡り上手を発揮して伸し上がった秀吉には、凡そプライド高い氏族とはかけ離れた生き方が在った。

見栄え格好は悪かったが、多少影口は叩かれてもそれで相手が利用出来れば生き方としては秀吉の勝ちである。

それは、秀吉の氏素性が怪しかった故に自然に身に着いた知恵だったのかも知れない。


それでも羽柴秀吉は、自分を見出した信長を慕って信長の金魚の糞のごとく付き従っては居たが、正直「織田家に奉公している」と言う感覚は微塵も無く、信長の子供達にまで臣従する積りなど毛頭無かったのである。


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山崎の合戦

◇◆◇◆◇◆◇◆◇山崎の合戦◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家康(とくがわいえやす)・織田信長(おだのぶなが)の同盟軍は、明智光秀(あけちみつひで)の「本能寺の変」の直前には甲斐・信濃の武田勝頼を「長篠の戦い(ながしののたたかい)」に破っている。

その祝勝会を名目に、家康(いえやす)は信長(のぶなが)の誘いで僅かな供回りを連れて上洛し、宴の供応を受けた後は堺に遊んでいて本国を留守にしている。

柴田勝家(しばたかついえ)は前田利家(まえだとしいえ)や佐々成政(さっさなりまさ)などの与力属将達と、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)に対峙して「本能寺の変」の報にも身動き出来なかった。

明智光秀の計算では、羽柴秀吉も北陸方面の柴田勝家同様に中国方面の毛利討伐に張り付き動けぬ予定だった。

それが秀吉は、さっさと毛利氏と和睦して驚愕の勢いで中国大返しを実現させた。

天下の秀才・明智光秀さえ読み切れずに驚愕した余人では出来ない迅速な中国大返しを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家の輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

だが、秀吉は織田新帝国成立宣言の警護の為に、秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を予め持参していた。

それで何とか和議交渉の場は造られたが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。

追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。

そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて密約し和議に持ち込んだ。

秀吉は天分とも言うべきか、生来他人の懐に入るのは得意だった。

それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。

「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。

そして更に秀吉は、万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。

その結果、小早川隆景は毛利家陪臣の位置に在りながら筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の主家・毛利輝元と並んで秀吉から豊臣政権の重臣(大老職)に登用される。

同じく宇喜多八郎(秀家)は備中東部から美作・備前の五十七万万四千石を拝領して豊臣政権の重臣(後世に大老職と呼ばれる)に登用されている。

つまり秀吉の中国大返しは、秀吉の持つ特殊な機動力と小早川密約(こばやかわみつやく)の合わせ技だったのである。

高松城水攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起って信長が横死し、羽柴秀吉が中国大返しで畿内に戻る時に黒田官兵衛は毛利輝元と和睦交渉に成功している。

また、黒田官兵衛は羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いに先立ち、毛利との外交に手腕を発揮して毛利輝元を味方に着けている。

織田信雄、徳川家康連合との小牧・長久手の戦いの頃には竹中半兵衛に助けられた長男・松寿丸が元服して黒田長政を名乗り、秀吉の紀州攻め・四国攻めが始まると根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親の兵を破って長政は武将としての名声を上げた。

豊臣(羽柴)秀吉に臣従していた黒田官兵衛、黒田長政親子は、秀吉亡き後力を着けて来た徳川家康に接近する。

つまり、「処世術に長けている」と言う事で、関が原では東軍として参戦している。

黒田家は、関ヶ原の合戦の後に家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で五十二万三千石を与えられ大藩と成ったが、これは官兵衛の知恵よりも息子長政の武勇に拠る所が大きい。

息子の黒田長政が筑前国々主となると、黒田官兵衛(如水)も中津城から福岡城に移り、そこで亡くなるまで隠居生活を送った。

しかし、いずれにしても竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が、そこそこの働きこそすれ秀吉に天下を取らせる程の「大きな働きをした名参謀」とするのには無理があり、「その一端を担った」とする方が正しい。

山崎合戦は天王山の戦いとも呼ばれ、中国大返しの奇跡で引き返して来た羽柴秀吉が、京都へ向かう途中の摂津国(おおむね大阪府)と山城国(京都府南部)の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町・山崎、京都府乙訓郡・大山崎町)の地で、明智軍と激突した戦いである。

摂津衆は中川清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になった。

その為、明智光秀と羽柴秀吉の山崎決戦に於いて、事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。

光秀の結論はすぐに出た。

「家康殿と組んで、かならずや秀忠(明智光忠)に天下を取らせようぞ。」

この時点で光秀には、目先の合戦の勝敗など既に眼中に無く、家康には親書を送り、傍観を決め込むように念を押した。

こうした背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。

実は、羽柴秀吉は長年の間明智光秀に嫉妬していた。

自分が越えられない血統と才能、そして貴族社会と帝の草など、正等氏族人脈の大きな壁が立ちはだかり、光秀が居る間、秀吉が戦でどんなに成果を上げても織田家家中でいつも二番手に甘んじていた。

その邪魔者を、目の前から取り除くチャンスである。

山崎に対峙したのは、明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、凡そ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。

最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。

「光秀、わしを乗り越えて見よ。」

信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。

肝心な明智光秀がそんなだから、山崎の合戦の勝敗は戦う前に目に見えていた。

予期した山崎の合戦の敗戦である。

土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。

この時身代わりの影武者を買って出たのがお福の父親で、光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。

彼は、自らそれを買って出た。

元々近い身内で良く似ていたから光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから、見事な最後だった。

後になってお福はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。


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清洲会議(きようすかいぎ)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇清洲会議◆◇◆◇◆◇◆◇◆

山崎の合戦の後、織田家の宿老が集まって開かれた清洲会議(きようすかいぎ)とは、言わば織田家の相続会議である。

天正十年、織田家当主・織田信長は京都・本能寺の変に於いて家臣の明智光秀に拠って討たれ、信長の嫡男・織田信忠も明智勢に攻められ二条城で死亡する。

織田信長を本能寺で自害させた明智光秀は中国・毛利戦線から大返しで戻って来た羽柴秀吉に山崎の戦いで討たれ、本能寺の変は決着した。

その後の織田家後継者及び遺領の配分を決定する事を目的に、千五百八十二年(天正十年)六月に尾張国清洲城(愛知県清須市)で開かれた織田家重臣会議(宿老会議)を清洲会議(きようすかいぎ)と呼ぶ。

清洲会議に集まった織田家重臣(宿老)は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興(いけだつねおき)の四人(四宿老)で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとも敗戦を口実に参加を拒まれたとも言われて居る。

織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との間で対立、会議は紛糾する。

しかし三男・織田信孝を推したのは柴田勝家一人で、丹羽長秀と池田恒興(いけだつねおき)は明智光秀討伐の功労者・羽柴秀吉の推す信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を支持した。

柴田勝家が推す織田信孝は三男の上に伊勢の神戸氏へ養子に出ていて神戸信孝を名乗っているに対し、信忠の嫡男・三法師は血統的な正統性が強い事も在って三法師が後継者として決まり、羽柴秀吉はまんまとその後見人として収まり権力を握った。

三法師を秀吉が推したのは腹心の黒田孝高(官兵衛)の策で、宿老二人(丹羽長秀と池田恒興)の支持も「事前の根回しの結果」だと言われている。


千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に拠って明智光秀に主君・織田信長を討たれた織田家臣団では、跡目争いが起こっていた。

清洲会議(きようすかいぎ)で宿老・池田恒興と伴に秀吉に与した宿老・丹羽長秀は、若狭一国を与えられ家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、織田家の柴田・丹羽の双璧と言うわれる。

その事から、当時「木下」姓だった木下秀吉(後の豊臣)が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、丹羽長秀にとっては柴田勝家に並び称されている証で在る為に長秀が秀吉に対し好意を持った逸話もある。

この羽柴秀吉の行為を快く思った丹羽長秀は秀吉の保護者となり、柴田勝家とは対照的にその後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。

その後も丹羽長秀(にわながひで)は拡大する織田家中で二番家老の席次待遇を受け続けるが文官扱いで、軍事的な面では独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。

本能寺の変当時、長秀(ながひで)は主君・信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の四国征伐軍の副将を命じられ三好康長・蜂屋頼隆とともに四国征伐軍(長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐)の出陣の支度をしていた所に出陣直前に本能寺の変が起こる。

長秀(ながひで)は羽柴秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで信孝を補佐して共に戦い明智光秀を討つ事に成功する。

その後の清洲会議でも、長秀(ながひで)は柴田勝家が押す織田信雄(おだのぶお)に抗して秀吉の主張する信忠の嫡男・三法師君の織田家相続を支持し、結果として諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。

羽柴秀吉が柴田勝家と天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前の大半及び加賀二郡を与えられ約百二十三万石の有数の大々名となったがその二年後に病死している。

明智光秀旧領の戦後処理と織田信長の領地分配などの再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝(天正十三年丹波亀山城で病死)は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。

家臣団の処置は、柴田勝家が越前国を安堵の上羽柴秀吉の領地である長浜を割譲され、丹羽長秀が若狭国安堵の上に近江国の二郡をそれぞれ加増される。

また、池田恒興は摂津国から三郡(大坂・尼崎・兵庫の十二万石)の本領を安堵されて、言わば山分けであるが戦国期から安土桃山の世では当然の処置だった。

新・織田家当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、長浜を勝家に譲った羽柴秀吉には山城国が与えられた。

この清洲会議の結果、それまで重臣筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家と羽柴秀吉の影響力が逆転、秀吉が重臣筆頭の地位を占めて織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられる。
その勝家と秀吉の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへと転じて行くのである。


さて大藩主となった丹羽長秀(にわながひで)の丹羽氏のその後だが、丹羽長重(にわながしげ)の代になって浮沈が激しく何故か歴史の表舞台で華々しい活躍はしていない。

それと言うのも、丹羽長秀の嫡男・丹羽長重は越前・若狭・加賀二郡百二十三万石万石を相続したのだが、百二十三万石は突出して大封の為に羽柴秀吉には長秀の病死を期に丹羽氏の勢力を削ぐ意志が芽生えていた。

千五百八十五年(天正十三年)に父・長秀が没して家督を相続したばかりの長重(ながしげ)に、賤ヶ岳の戦いの後始末・佐々成政の越中征伐に従軍した際の長重の家臣に「佐々成政に内応した者がいた」との秀吉が嫌疑を掛け、越前国、加賀国を召し上げて若狭一国十五万石に減封の仕置きをした。

更に重臣の長束正家や溝口秀勝、村上義明らもヘッドハンティングで直臣に召し上げられ、更に二年後の九州攻めの際にも家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、丹羽氏は僅かに加賀加賀国松任(現白山市)四万石の小大名に成り下がってしまう。

もっともこの時期、羽柴秀吉は豊臣政権確立の為に盛んに血縁関係の大名を京・大阪の周辺に配置していた為、丹羽氏の百二十三万石はその原資に充てられた匂いがする。


その後丹羽長重(にわながしげ)は、小田原攻めに従軍した功によって、加賀国小松十二万石に加増移封され、この時に従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたて小松侍従(小松宰相)と称された。

また長重(ながしげ)は、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦った為、戦後徳川家康から一旦改易の処分を受けている。

その長重(ながしげ)が、三年後に常陸古渡藩一万石を与えられて大名に復帰し、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦して武功を挙げ五年後に常陸江戸崎藩二万石に加増移封された。

後日談だが、その後の長重は余程将軍家の覚えが良かったのか、その加増移封の更に三年後に陸奥棚倉藩五万石に加増移封され、更に五年後の千六百二十七年に陸奥白河藩十万七百石に加増移封ぜられて初代藩主となり、白河城を築いている。

「本能寺の変」で織田信長(おだのぶなが)が没すると、中国大返しで戻って来た羽柴秀吉(はしばひでよし)が山崎の合戦で明智光秀(あけちみつひで)を破り、「清洲会議(きようすかいぎ)」で柴田勝家(しばたかついえ)を退けて信長後継(ぶながこうけい)の態度を露にする。

家臣筆頭の柴田勝家と明智光秀を討ち主君・織田信長の敵を取った羽柴秀吉がそれぞれ信長の遺児・織田信孝と亡き信忠の嫡男、三法師君を押して対立したのである。

この対立、徳川家康は対立の圏外に居てその行方を見守っている。

正直、双方とも実力者で家康に取って厄介な存在であるから、どちらか片一方が始末されるに越した事は無い。


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賤ヶ岳の戦い

◇◆◇◆◇◆◇◆◇賤ヶ岳の戦い◆◇◆◇◆◇◆◇◆

柴田勝家は清洲会議以後羽柴秀吉との対立を深め、千五百八十三年(天正十一年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。

この余呉湖畔の対陣がそのまま後に世に言う「賤ヶ岳の合戦」に成るのだが、この戦いでも柴田、羽柴両者の性格や戦振りがハッキリと現れている。

実は羽柴秀吉の「再び中国大返し型」の得意戦法と柴田勝家の正攻法判断が、この賤ヶ岳の合戦の行方を決めていた。

柴田勝家の与力属将に、勝家の甥にあたり「鬼玄蕃」と言う異名を持つ佐久間盛政(さくまもりまさ)と言う勇猛な武将が居た。

与力属将と言っても柴田勝家に従って加賀国一向一揆を鎮圧、信長から加賀国一国を与えられた大名である。

そしてこの時点では、永く勝家の属将を勤めて居た前田利家も兵五千を率いて勝家の陣営に布陣している。

さて、両軍対陣したものの当初は両者持久戦の構えで、中々戦端を開けずにらみ合いが続いた。

最初に動いたのは、佐久間盛政(さくまもりまさ)である。

盛政(もりまさ)の陣へ、密かに勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が駆け込み、総大将の秀吉が主力の軍勢を引き連れて大垣に出かけていて留守である事を内通した。

総大将不在を聞いた佐久間盛政は、「ここで優勢に戦を進めよう」と敵将・中川清秀の砦を急襲する作戦を叔父の勝家に提案した。

当初はこれに反対した勝家で在ったが、盛政の強い要望により妥協して「中川の砦を落としたらすぐに勝家の本陣に戻る事」と言う条件つきで承諾した。

賤ヶ岳の戦いの緒戦、中川清秀の砦の急襲作戦は見事に成功し、佐久間盛政は清秀を討ち取り砦は陥落した。

本来なら叔父・勝家に命じられた通り帰陣すべき所だが、敵の総大将・羽柴秀吉は軍勢を引き連れて「遠方の大垣に出かけ留守」と言うまたと無い勝利の機会だった。

佐久間盛政は欲を出し、この勝利を足掛かりにして「戦の勝敗を決してしまおう」と羽柴秀長(はしばひでなが)の陣を討つべく準備に取り掛かっていた。

所が、この敵総大将・羽柴秀吉不在は大掛かりな罠だった。

例のごとく羽柴秀吉の軍勢は、柴田勢の常識が通じない特殊な能力を持つ軍勢である。

この機をかねてから準備して待っていた秀吉が、予定通りの強行軍で戦場に戻って来て、佐久間盛政はまんまと敵中に孤立してしまった。

しかも、ここで盛政勢の支援に回るのが前田利家の軍勢五千の筈だが、何故か前田勢は動かず合戦のたけなわで突然撤退を開始し、盛政勢と勝家の本陣の連絡が断たれ盛政勢は壊滅し結果勝家軍は秀吉軍に大敗を喫してしまう。

佐久間盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとするが、途上、佐久間盛政は中村の郷民に捕らえられ羽柴秀吉に引き渡され処刑されている。

一方の総大将・柴田勝家は敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、突然兵を引いて越前・府中城(武生市)に籠っていた前田利家の元に立ち寄り、これまでの利家の長年の与力の労に感謝を述べ、湯漬けを所望して「利家と別れをした」と「賤岳合戦記」に伝えられている。


その後、府中城(武生市)に籠っていた前田利家は、秀吉の使者堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城(福井市)に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となった。

前田利家は、戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀の内より二郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に移った。

律儀者の勝家は、「織田家大事」の一念だけで立ったが、戦となれば秀吉は天才・信長仕込みの発想で戦う無類の戦上手である。

そして何よりも「勝つ事」が全てで、武士としての面子に拘らず、その方法手段に迷いが無い処が秀吉の出自を伺わせるものである。

しかし、柴田(権六)勝家は古風な男で戦の仕方も正攻法、そして諸将の大半は計算高かった。

羽柴秀吉(はしばひでよし)は「賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)」で柴田勝家(しばたかついえ)を破り、北ノ庄城も落城して勝家(かついえ)とお市の方は自害、浅井三姉妹(茶々、初、於江与)は逃れて秀吉(ひでよし)の庇護を受ける事になる。


賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉方で功名をあげた武士達の内、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、 脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれる。

但し彼らが挙げたとされる手柄は勝利が確定した後の追撃戦に拠る手柄のみであり、勝敗を決めた一番手柄も大谷吉継、石田三成らの先駆衆と呼ばれる武士達に与えられている。

また七本槍(しずがたけのしちほんやり)は後の語呂合わせで、実際に感状を得て数千石の禄を得た点では桜井佐吉、石川兵助一光も同様で、福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言って居り、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられている。

実はこれ、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果とも言え、当時から「七本槍は虚名に近い」と言う認識が世情に広まっていた。

ともあれ七本槍(しちほんやり)に名を連ねた武士達は有力武将として後の豊臣政権に於いて大きな勢力を持ったが、脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなど苦難に遭っている。


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小牧・長久手(長湫)の戦い

◇◆◇◆◇◆◇◆◇小牧・長久手(長湫)の戦い◆◇◆◇◆◇◆◇◆

柴田勝家(しばたかついえ)亡き後、徳川家康(とくがわいえやす)は、信長二男・織田信雄に援軍を乞われて「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」を羽柴秀吉(はしばひでよし)と戦う。

小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、千五百八十四年(天正十二年)に、信長二男・織田信雄・徳川家康(とくがわいえやす)陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦役である。

賤ヶ岳の戦い時に勝利した羽柴秀吉は、その年(天正十一年)の暮れに新築した大坂城に織田信雄を含む諸将に参城を命じた。

秀吉は織田信長(おだのぶなが)の次男・信雄を「主家」として擁立し、賤ヶ岳の戦いに諸将を集める名目としたにも関わらず、 賤ヶ岳の戦いに勝利して後には態度を一変させ、天下人然と織田信雄に秀吉に対し臣下の礼をとる事を求めたのである。

秀吉の「主家」を自認する織田信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。

そこで秀吉は一計を案じ、織田信雄の家老職・津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三人が「秀吉に通じた」と言うデマを流しす。

これに疑心暗鬼となった信雄は三人を処刑、秀吉に信雄をする討伐する口実を与えてしまう。

秀吉が兵を挙げると、織田信雄が頼る有力武将は一人しか居ない。

信雄が懇願して徳川家康に援軍を求め、家康が渋々出陣した事から、秀吉と家康との戦いとなる。

当然と言えば当然だが、雑賀孫市(さいがまごいち)を始め雑賀衆や根来衆は秀吉とは敵対関係にあり、昔から徳川家康(とくがわいえやす)や明智光秀(あけちみつひで)との繋がりが有った事から家康勢に味方して立ち上がる。

秀吉から圧迫を受けていた四国の長宗我部元親、賤ヶ岳の戦いで柴田側に居ながら上杉軍への備えのため越中を動けず結果的に生き残っていた北陸の佐々成政らも織田信雄・徳川家康陣営に加担し連携を取って羽柴秀吉陣営の包囲を形成する。

雑賀衆・根来衆が海陸から北上して秀吉側へ攻勢をかけたので、秀吉が織田信雄の本拠地・尾張への出陣はかなり遅れた。

秀吉の尾張出陣後も、雑賀衆・根来衆は大坂周辺を攻撃して後方から秀吉方の動揺を誘う。

この事が秀吉の手を焼かせて、秀吉は家康と雌雄を決する事無く講和に追い込まれた要因に成っている。

織田信雄の援軍の為に清洲城に徳川家康が援軍を引き手到着したその日に、織田信雄の家臣から裏切りが出る。

織田家譜代の家臣で信雄側に与すると見られていた池田恒興(美濃大垣城主池田輝政(いけだてるまさ)の父)が突如、秀吉側に寝返り犬山城を占拠して小牧山周辺で織田信雄勢との戦いが始まった。

家康は寝返った池田恒興に対抗する為、すぐさま翌々日には小牧山城に駆けつけ占拠入城しようとした所、秀吉側の森長可(恒興の女婿)も小牧山城を狙っていて、小牧山城を間近に望む羽黒(犬山市)に着陣する。

情報戦ならこの戦、初手から家康方のものである。

織田家・信長の諜報を一手に引き受けていた明智光秀のネットワークが、雑賀孫市を始め徳川家康陣営に全て加担している。

この池田恒興の動きは直ぐに家康側も察知し、これを討つべく同日夜半に酒井忠次、榊原康政らの兵五千が羽黒へ向けて密かに出陣する。

翌日、早朝、忠次率いる部隊は森長可勢を一気に奇襲した為、森長可勢は応戦したものの忠次らの猛攻に耐えかね潰走した。

この緒戦は、羽黒の八幡林という所で戦われたので、羽黒の戦い(八幡林の戦い)と言う。

敵襲の心配が無くなった家康は小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ秀吉の着陣に備えた。

秀吉本隊は、羽黒の戦い(八幡林の戦い)が決着した頃に大坂城を出発、一週間ほどを費やして犬山城、また一週間ほど掛けて漸く楽田(犬山市)に着陣する。

家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの二週間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全く動かずの膠着状態に陥っていた。

楽田(犬山市)に着陣した秀吉は、この膠着状況を打開する為に家康側の布陣地帯を迂回して三河方面に出る迂回作戦を策定し、先鋒・池田恒興(兵六千)、次鋒・森長可(兵三千)、第三陣兼目付として堀秀政(兵三千)、総大将に三好秀次(秀吉の養子で後の豊臣秀次)本隊・兵八千余が三河に向けて出撃した。

ここでも家康方の諜報ネットワークが瞬時に機能する。

この秀吉勢の動きを家康は、三好秀次勢が篠木(春日井市)辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀・雑賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知し、小幡城(名古屋市守山区)に移動する。

その夜半陣立てを決めて翌日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら四千五百を先鋒として三好秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄の本隊も後を追うように出陣した。

家康が小幡城に入った頃に、秀次勢は篠木の宿営から行軍を開始していた。

その先鋒・池田恒興(兵六千)勢が丹羽氏重(丹羽氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城を開始する。

岩崎城の丹羽氏重らはよく応戦したが、約三時間で落城し玉砕した。

この岩崎城と池田勢の戦闘の間、池田勢の後続部隊・森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は休息し、呑気に先鋒・池田勢の進軍を待った。

 しかしその三好の大半が休息していた時は、既に家康方の先鋒勢四千五百が背後に迫っていた。

休息していた秀吉方三好秀次勢本隊に、家康方の先鋒勢四千五百が、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢で一斉攻撃を掛ける。

この奇襲によって秀吉方秀次勢は成す術が無くほぼ潰滅し、秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せたが、秀次が落ち伸びる為に目付け役の木下祐久ら木下一族から討ち死にを出している。

秀次勢より前方にいた堀秀政は秀次勢の敗報を聞いて直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで迫り来る家康方先鋒勢を待ち構えた。

秀次勢を撃破して勢いに乗った家康方先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手町)辺りで秀政勢に襲い掛かったが、戦上手な事から「名人久太郎」と尊称された堀秀政の前に敗退した。

家康方先鋒勢を破った堀秀政だったが、家康本隊が迫り来るのを眺望し、「戦況不利」と判断し兵を引いて退却した。

前を進軍していた先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に「家康本体が後方に出現」の報が伝わったのはこの頃で両将は驚愕し大慌てで引き返し始める。

家康方先鋒勢の戦況を見ながら進軍していた家康は、先鋒隊・榊原康政勢らの敗残兵を組み込み「御旗山」と呼ばれる辺りに陣を構えた。

家康方は右翼に家康自身が率いる三千三百余、左翼には井伊直政三千余、これに織田信雄勢三千を足して九千以上を擁していた。

一方、引き返して対峙した秀吉方池田恒興・森長可(もりながなり)勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)・次男・池田輝政四千余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも九千余と兵力は互角で、「両軍対峙は二時間ほど続いた」と言われている。

昼少し前になって対峙していた両軍がついに激突し、両軍入り乱れての死闘は二時間余り続いた。

戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に家康勢有利となった。

森長可を死に至らしめた銃撃が家康旗本か直政勢が繰り出したものかは判然としないが、森長可の首級は「本多重次が挙げた」とされる。

池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、家康勢・永井直勝の槍を受けて討死にし、恒興嫡男・元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に「父・兄は既に戦場を離脱した」と説得され戦場を離脱した。

やがて恒興・長可勢は四散し遭えなく潰滅、長久手の合戦は家康の大勝利に終わり、徳川家康はただちに小幡城に引き返した。

その後も各地で別働隊同士の戦闘が続き戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。

秀吉は合戦から半年以上経った頃に織田信雄に使者を送り、伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ信雄はこれを受諾する。

織田信雄が単独で講和を受諾して戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康はついに兵を引く。

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いは終わったが、秀吉と家康の勝敗は着いた訳ではなく、両勢力は互いに休戦状態のまま別働隊の小競り合いや戦が続いていた。


羽柴秀吉は「いかに徳川家康を抑えようか」と思案していた。

力ずくで雌雄を決するには侮れない相手である。

「そうだ、以前お館様(織田信長)がわしに薦めていた家康の次男・於義丸(結城秀康)を養子に迎えて縁を深める策がある。」

羽柴秀吉は早速、滝川雄利を使者として浜松城に送り講和を取り付けようと試み、家康に「両家の縁を深める為に於義丸(結城秀康)殿を養子に申し受けたい」と和議を提案する。

家康としても、膠着状態のにらみ合いを続ける訳には行かず、また後に明かすが次男・於義丸(結城秀康)についてはいささかの事情も有ったので、講和の返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にする為に大坂に送り、小牧の役は幕を閉じた。

残されたのは、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らで、信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまった為に孤立し、それぞれ秀吉の紀州攻め・四国攻めにより制圧される事になる。


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紀州(根来衆・雑賀衆)征伐

◇◆◇◆◇◆◇◆◇紀州(根来衆・雑賀衆)征伐◆◇◆◇◆◇◆◇◆

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い後、織田信雄が単独で講和を受諾して戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康(とくがわいえやす)は終(つい)に兵を引く。

不運にも残されたのは、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らで、信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまった為に孤立し、それぞれ豊臣秀吉(とよとみひでよし)の紀州攻め・四国攻めにより制圧される事になる。

いずれにしても織田信長(おだのぶなが)の後を継ぎ、実質天下を取った秀吉の手法は、信長の武力圧制政策をなぞっていた。

その思考の中では、領主の統治から独立した自由武装組織など容認できない。

それらは一気に掃討して、新しい秩序を確立する必要が有った。

興味深いのは、小牧・長久手の合戦があくまで「秀吉と家康の間のもの」として捉えられていると言う事である。

これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康では無く信長の息子・信雄の筈なのだが、根来衆・雑賀衆(紀州)側では家康が主役と見ているのである。

家康の手が、松平家累代の伊賀との地縁を生かして、以前から「太田党を含めて根来衆などにも伸びていた」と考えられ、家康の高度な政治工作の一端をのぞき見る事が出来るかと思う。

この裏には、源平合戦時に三河の国足助に家を興し、その後三河松平氏に従った鈴木家の存在を忘れてはならない。

江戸幕府では旗本衆に残ったこの鈴木家は、元は熊野の雑賀衆鈴木党総領・三郎重家が、源義経(みなもとよしつね)の身を案じて吉野山中より従い衣川館で討ち死にした(実は脱出した)時の身内、叔父の鈴木(七郎)重善が、三河鈴木党として郷士化して小城主になったものだ。

いずれにしてもこの鈴木家、家康の配下として、吉野熊野の伊賀に強い関係があったのは言うまでもない。


天正十三(千五百八十五)年三月、正二位・内大臣に叙位された秀吉は十万の大軍を率いて紀州(根来衆・雑賀衆)征伐に向かった。

秀吉にすれば、旧主君の信長時代から手を焼かせていた上に小牧長久手の戦いで敵に回った連中で、ここで決着をつけて置かねば天下人には成れないのである。

雑賀、根来にとって、これが「最後の戦(いくさ)」となった。

根来衆は真言宗、雑賀衆は一向宗で宗派は違うが、何代にも渡って親交があり、経済的には同盟圏内にある。

この際、秀吉の方には根来衆・雑賀衆の別などない。

相手が根来・雑賀を「諸共に葬り去ろう」と言うのであれば、共闘するしかない。

「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。

当時の根来衆全体の統率者は、河内国交野郡津田城主で河内の悪党・楠木正成の末裔を自称していた津田周防守正信の長男算長(かずなが・監物)を頭とする津田一族だった。

同年同月、僧兵大将・津田監物、杉ノ坊照算などが討ち死にする。

主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、二〜三の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。

雑賀衆は、言わば氏族の共同体(郷士の武士団) だった。

戦国大名家のような「専制君主制」 の形態ではなく、雑賀郷を幾つかの武士団の棟梁が代表で合議運営する「共和政体」 だったのである。

その雑賀郷を豊臣秀吉に攻められた時、雑賀衆が窮地に陥入って団結が壊れ、議論紛糾して内部分裂を招いた。

それでも、雑賀の棟梁・雑賀孫市(さいがまごいち)は、秀吉軍を迎え撃ったのである。

この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・雑賀衆、根来衆も滅び去ったのである。

泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、「土佐へ落ちて行った」と言う。

秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐には、大きな後日談がある。

この土佐落ちの一連の経緯の中に、それから約三百年後の明治維新に現れる英雄の先祖も、ヒッソリとまぎれていたのである。

めぐり合わせだろうか、秀吉の雑賀・根来征伐に抗しきれず、土佐に逃れた落人(おちゅど)の中から、思いも寄らぬ形で明治維新に大きく関わる英雄が現れるので楽しみにして欲しい。

羽柴秀吉は妹・朝日姫を家康の正室として送り、さらに母・大政所を人質として家康の下に送り、漸く家康(いえやす)が秀吉(ひでよし)に臣下の礼をとってなんとか徳川家康を形だけでも臣従させた。

千五百八十五年(天正十三年)の三月に正二位・内大臣に叙位・任官された秀吉は、その四ヶ月後に近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌千五百八十六年(天正十四年)九月には豊臣の姓を賜って三月後には太政大臣に就任し豊臣政権を確立した。


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小田原・四国・九州平定

◇◆◇◆◇◆◇◆◇小田原・四国・九州平定◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百八十三年(天正十一年)、秀吉は大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に誰もが驚く大規模な城郭・大坂城を築く。

小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを乗り越え、徳川家康(とくがわいえやす)と羽柴秀吉(はしばひでよし)も和議となって、家康(いえやす)が秀吉(ひでよし)に臣下の礼をとり、徳川家康を形だけでも臣従させた羽柴秀吉には次の仕事が待っていた。

この時点での羽柴秀吉は、未だ中央を制しただけである。

群雄割拠の戦国末期、豊臣政権が確立する直前の日本列島には夫々の地に下克上を勝ち抜いた群雄達が、覇を唱えて夫々に広大な支配地を押さえて君臨して居た。

早い時期に下克上で地盤を固めた先祖からの世襲の関東・北条氏以外、ほとんどは自分の代で切り取ったもので、何も考えない者にこの位置は在り得ない。

つまり知力と武力を兼ね備えた強力な勝ち残り組みが、秀吉の前に立ちはだかっていたのだ。

東北に覇を唱えた伊達政宗、広大な関東を押さえた北条氏、上越の最強軍団・上杉景勝、四国をほぼ手中にしつつ在った長宗我部元親、中国地方の覇を唱えた毛利輝元、北部九州を抑えながら南部九州の島津義弘に制圧されかかっている大友宗麟など、それらの整理が信長が遣り残した「天下布武」の仕上げの仕事だった。


織田家・信長直臣としてひとかどの将(城持ち大名)となった頃の羽柴秀吉には、世に軍師として有名な竹中半兵衛と黒田官兵衛がいる。

ただこの二人、秀吉の為したる偉業から検証すると、実はその一部に功が在ったに過ぎないが、後の脚本家の手で稀代の名参謀に出世してしまった。

高松城水攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起って信長が横死し、羽柴秀吉が中国大返しで畿内に戻る時に黒田官兵衛は毛利輝元と和睦交渉に成功している。

また、黒田官兵衛は羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いに先立ち、毛利との外交に手腕を発揮して毛利輝元を味方に着けている。

織田信雄、徳川家康連合との小牧・長久手の戦いの頃には竹中半兵衛に助けられた長男・松寿丸が元服して黒田長政を名乗り、秀吉の紀州攻め・四国攻めが始まると根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親の兵を破って長政は武将としての名声を上げた。

それほどに豊臣(羽柴)秀吉に臣従していた黒田官兵衛、黒田長政親子は、恩顧大名で在りながら手の平を返して秀吉亡き後に力を着けて来た徳川家康に急接近をする。
つまり、「処世術に長けている」と言う事で、関が原では東軍として参戦している。

黒田家は、関ヶ原の合戦の後に家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で五十二万三千石を与えられ大藩と成ったが、これは官兵衛の知恵よりも息子・長政の武勇に拠る所が大きい。

息子の黒田長政が筑前国々主となると、黒田官兵衛(如水)も中津城から福岡城に移り、そこで亡くなるまで隠居生活を送った。

しかし、いずれにしても竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が、そこそこの働きこそすれ秀吉に天下を取らせる程の「大きな働きをした名参謀」とするのには無理があり、「その一端を担った」とする方が正しい。

むしろ最近の研究では、異父弟の大納言・豊臣秀長にこそ「羽柴秀吉を天下人に押し上げた最大の能力が在ったのではないか」とされている。


中国地方の毛利輝元は天下の情勢を様子見をしていたが、千五百八十三年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いの後には人質を送って秀吉に帰順臣従した。

その後起こった四国征伐や九州征伐にも輝元は先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後などの所領を安堵されている。

羽柴秀吉は天下の覇者となるべく千五百八十五年(天正十三年)四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め四国への進軍を命じた。

讃岐・阿波で次々に秀吉軍の進撃を許し谷忠澄や白地城の重臣達も長宗我部元親に降伏を進言した為、蜂須賀正勝との交渉により元親は降伏し、長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、その他の三ヵ国は没収された。

翌年、千五百八十六年(天正十四年)成ると、羽柴秀吉は九州で大友氏を追い詰めて九州統一を目前にしていた島津氏の島津義弘を相手に九州の役(きゅうしゅうのえき)を起こし、約十ヶ月掛けて島津氏を薩摩領近くの出水、川内まで追い落として降伏させている。

島津氏は九州の大部分を没収されたが、島津義弘に薩摩・大隅の二ヵ国を安堵され九州は平定された。


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大納言・豊臣秀長

◇◆◇◆◇◆◇◆大納言・豊臣秀長◆◇◆◇◆◇◆◇

千五百九十年(天正十八年)に後北条氏の五万の兵が篭城する居城・小田原城を総計二十一万に上る軍勢で包囲し、北条氏政・北条氏直父子を投降させる小田原攻め(小田原平定)を敢行する。

この小田原攻めの時点で東北に覇を唱えた伊達政宗は羽柴秀吉に臣従し、小田原攻めに加わって領地は減封されたが伊達家は大名として生き残っている。

羽柴秀吉(はしばひでよし)がサバイバル戦に勝ち残り、小田原・四国・九州平定して天下の実権を握り朝廷から豊臣の姓を賜って豊臣政権が成立する。

羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長の「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。

さて、本筋の豊臣秀吉の名軍師・豊臣(羽柴)秀長は幼名を小竹(こちく)、長じて小一郎と言い、秀吉の異父弟(一説には同父弟)とするのが一般的である。


秀長は、秀吉がおね(ねね/高台院)との婚礼後に足軽小頭に出世したのを機会に声を掛けられて臣下となった。

しかし秀長の父・竹阿弥(ちくあみ)は織田信長の父・信秀の同朋衆(雑務や芸能にあたった御坊主衆)で、「武士の心得など無かった」と言われる秀長が、僅かな期間で秀吉の補佐をする武将になったのは稀な才能と言えるのではないか。

羽柴秀長は生来の知恵者に生まれたらしく、度重なる兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らに在って指揮を補佐し、「的確な助言に定評が在った」と言われている。

温厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し天下統一に貢献、後には名調整役として各大名からも頼りにされる人格者で在った。

千五百八十三年(天正十一年)木下小一郎から羽柴長秀を名乗り、従五位下美濃守に叙任され、翌年には長秀から秀長に改める。

羽柴秀長は、秀吉の天下掌握後は大和国の郡山城に入り、百万石を超える大身となり、千五百八十六年(天正十四年)従三位に昇叙して権中納言、翌千五百八十七年(天正十五年)従二位に昇叙し、権大納言となり大和大納言と呼ばれる。

天下を掌握した秀吉は、その他にも乏しい親族を次々に取り立て、甥の秀次を近江国八幡四十三万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、身内で固めて淀の方(茶々)との間に出来た実子の鶴松を後継者と定めた。

この辺りから豊臣家に暗雲が漂い始める。

天下を統一した羽柴秀吉は、出自(氏素性)が定かでない新興勢力である。

しかし、永い事日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。

「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。

その「お血筋」に関わりの無い人物・羽柴秀吉が、にわかに朝廷から豊臣の姓を賜り、「関白だ太閤だ」と、ノサバリ始めた。

当然ながら「お血筋」を誇る旧勢力は内心不満で、唯一対抗しうる人物徳川家康に期待した。


信長亡き後、秀吉にアドバイスしていたのは千利休と異父弟の大納言・豊臣秀長である。

もう一人の千利休は氏族出自の他人だから、いずれ袂を分かつ工作をすれば形が付く。

秀吉の両手とも知恵袋とも評された、豊臣秀吉の弟・大納言秀長の病である。

千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、頼りになる弟の大納言・秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝、そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。

この一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死、誰かの呪いが効いているのでなければ、明智(南光坊)と雑賀孫市の仕掛けた陰謀、病死に見せかけた「暗殺ではない」と言う証拠はない。

影のプロジェクトは、影人達の支援を得て、順調に進んだ。

雑賀の女間諜は、当時最強だった。

孫市は、秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐から生き残ったそのほとんどを、秀吉血族の奥向き女房の元に忍ばせている。

相次ぐ秀吉身内の死は、「雑賀、根来の怨念の呪い(謀殺)」と言って良い。

そして、大きな意味が在った。

この親族大名城主配置体勢が崩壊した事で、明らかに豊臣家(秀吉)の力を削ぐ出来事だったからである。


身分設定に付いて確たる根拠がある訳ではなく、大方の所、権力者の都合で「成行きで成ったか、その身分の家に生まれたから」とかの、理不尽な理由に拠る制度で有る。

言うまでも無く、この身分の上下は人間の値打ちにまったく関わりはなく、その出自を恥じる必要もない。

反対に、出自が良いからと威張る意味もない。

先祖の実力はあくまでも先祖のもので、本人の実力ではないからである。


因(ちな)みに太閤秀吉が刀狩をするまで、百姓と下級の侍(足軽)とではたいした境目は無く、兼業者の様なものだった。

何しろ知行地として収める小郷士などは、自ら稲作や畑の世話などの農作業ももしていたからである。

秀吉の「太閤刀狩」は、血統重視の大和朝廷からの脱却を目指す天才・織田信長が描いた織田帝国の理想ビジョンだったが、秀吉の出自を笑い飛ばす信長が、「こうすれば、氏族制はご破算じゃ」と、秀吉との主従の間では話題に成って居た。

織田信長は、織田帝国成立後直ぐにこの「刀狩」と「検地」をする積りで、土木系能力に優れた秀吉に「検地」のビジョンを話し、その方法と段取りの準備をさせていたと推測出来る。

「刀狩」と「検地」は、秀吉のオリジナルではなく、天才・織田信長が、秀吉に残した二大政策だったのである。


いずれにしても織田信長の後を継ぎ、実質天下を取った秀吉の手法は、信長の武力圧制政策をなぞっていた。

太閤検地と刀狩は、恐らく信長のあの世からの「指図であった」と考えられる。

つまりあらかじめ信長から聞いていたのだ。

秀吉が秀才の仲間とすると、それは信長の知略のパターンを上手に使いこなす事が出来た事だ。

その証拠に秀吉天下以前にも、一向宗対策も在って柴田勝家に拠り領国の越前で刀狩は既に為されていた。

つまり刀狩は、秀吉が大々的に行った事だが、発想そのものは秀吉のオリジナルでは無かったのだ。

それでも主君・信長から予め聞いていた事は、秀吉も天下人として熟(こな)せる。
しかし天下を取った後の事は、秀吉も然(さ)して信長から聞いてはいなかった故に、秀吉の仕事が「天下を平定する所まで」と言う事を意味していた。

天下掌握後の秀吉は信長の「知恵の遺産」を食い潰して、晩年はただの哀れな老人だった。

その証拠に、晩年には発想に切れがなくなり、天下に何の有効な指示も出来なかったのである。


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関白・秀次の運命

◇◆◇◆◇◆◇◆◇関白・秀次の運命◆◇◆◇◆◇◆◇◆

豊臣秀次は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、当時実子に恵まれなかった秀吉の養子となる。

戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次(はしばひでつぐ)と改名する。

豊臣秀次が、最初、三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたのは、信長が開始した四国征伐に於いて秀吉が四国に対する影響力を強める為に甥で養子の信吉(のぶよし/秀次)が送り込まれた事に拠るものである。

その秀次が養子入りした名門・三好氏(みよしし)は信濃源氏流の氏族である。

三好氏は、鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、室町時代は管領・細川氏に臣従しての阿波の守護代と成っていたが、管領・細川晴元の代に三好長慶(みよしながよし)が臣従したまま勢力を拡大しして主家を上回る力を着け、細川家は弱体化する。

三好長慶(みよしながよし)は、恐れを為した細川晴元を逃亡させてる下克上で畿内随一の勢力となり、さらに長慶は第十三代室町将軍・足利義輝と戦ってこれを近江に追い、戦国時代には阿波国をはじめ四国の一部と畿内一円に勢力を有する有力な戦国大名となった。

戦国時代初期の一時は、三好長慶(みよしながよし)が都に在って天下に号令した為、実質天下人の役割を担った。

だが、抵抗勢力が強くて政権の体を確立し得ない内に三好長慶(みよしながよし)が死去、また長慶が勢力拡大に力として来た弟達や嫡男・義興を失っていた為に家老であった松永久秀や三好三人衆が三好家内で内乱の勢力争いとなって三好宗家は衰退する。

三好一族は、織田信長が足利義昭を奉じて入京して来た時に抵抗を試みるが敗れて四散し、足利義昭の十五代将軍宣下を許して畿内の勢力を失い、四国の阿波国など地方に勢力を残すのみと成る。

やがて将軍・義昭と信長が対立し、将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれると、三好宗家の義継や三好三人衆は義昭方について信長と対立するも呆気無く破れて以後は織田信長に臣従して家名を永らえる者が多かった。

そうした経緯の中、三好一族の三好康長だけがまだ四国・阿波の国で勢力を保っていた為の秀吉の政略が、秀次の三好康長・養子入りだった。

相次ぐ身内の死で残ったのは小早川に養子に出した秀秋(妻方)と秀吉方甥の秀次だけだった。

三好家に養子入りした秀吉の甥・三好秀次は、三好氏家督のまま羽柴姓を賜り名として羽柴秀次と改名する。

その秀次は、秀吉の武将として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参戦、武功を挙げたり失態もあったが、紀伊・雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ近江八幡に四十三万石を与えられる。

その後秀次は、小田原征伐にも参加してその戦後処理で尾張国と伊勢北部五郡など都合百万石の大領を与えられている。

千五百九十一年(天正十九年)に、関白・秀吉は残った甥・秀次を後継者と定め関白職を譲るが、全権を譲らず太閤と呼ばれて実質天下人の地位に在った。

その為に、豊臣政権が二重権力化しかけた時、思わぬ誤算が生じた。

柴田勝家の養女(浅井長政の娘・信長の姪)達の存在である。

中でも、長女「淀」に秀吉が惚れ、側室とした事から、関白・秀次の運命は狂い始める。

「茶々姫(淀姫)」が、秀吉の子「鶴松」を懐妊するのだ。

一度目の子「鶴松」は、幼逝(ようせい・すぐに亡くなる)するが、二度目の子は育つ。

その二度目の子の名は、ご存知「秀頼」である。

元々秀吉は、織田信長の妹・市姫に適わぬ化想をしていた。

それが運命のいたずらで、適わなかった化想相手の市姫の娘・茶々姫(淀姫)が手に入った。

処がこの茶々姫(淀姫)が、年配の秀吉の相手を嫌がりもしない。

むしろ積極的に抱かれたがる。

相手が若い姫だから秀吉は有頂天になったが、淀君の方は母・市の方の遺言で「浅井家の血を分けた和子(わこ)に天下を取らせよ」と言い含められていた。

千五百九十三年(文禄二年)、淀の方(茶々)との間に再び実子・拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。

従って秀吉に積極的に抱かれ、そして天下人の世継ぎ「秀頼」を設けたのである。


秀吉がお市様に懸想したには、主君・信長に対する思慕の想いが有る。

その思慕の想いが淀君に向けられたのには、氏素性に劣等感を持つ男の人間臭い思い入れが合った事は否めない。

秀吉に信長程の思考の才能があればこれは拘る事は無い話で、つまり秀吉は鵺(ぬえ)にさえ成れなかった男である。

「子が為せぬ」とあきらめていた秀吉に、突然子が出来た。

当然秀吉は、万難を排しても自分の子・秀頼を世継とする為に知恵を絞る。

邪魔なのは、後継者と定め関白職を譲った甥・秀次で、一部の秀次派武将も巻き込んだ対立が豊臣政権下で始まる。

この対立にも、謀殺計画に雑賀孫市が、諜報活動としての煽動に一枚噛んでいても不思議は無い。

千五百九十五年(文禄四年)、終(つ)いに秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させ、妻子もことごとく処刑する事になる。

起こるべくして起こった悲劇とも居得るが、しかし本来の氏族の掟では養子も実子も「子は子」の扱いであるから、やはり秀吉には氏族とは違う庶民感情の血が流れていたのではないだろうか?

この、実子・(秀頼)可愛さに成功まで大いに力になってくれた弟や甥を追いやり排除する秀吉の心情は、近頃の同族経営会社の後継問題で良く見る見苦しい風情である。

経営者が、我が子可愛さに情に流されれば身内の結束は崩壊して企業は貴重な戦力を失う事になる。

この秀次の死で、豊臣本家・拾丸(ひろいまる/秀頼)を補佐する秀吉の肉親は全滅したに等しかったのである。

豊臣秀吉が天下を取った後、その甥の「豊臣秀次」が謀反の疑いで流罪・処刑された。

この謀反騒ぎは、甥の「豊臣秀次」が邪魔に成った豊臣秀吉の強引な捏造に違いないが、その時、朝廷の 陰陽頭(陰陽師の頭領)土御門家が、秀次の謀反の為に「陰陽術を使った」 と言う罪状で同じく流罪となって、一時土御門家の存続危機を迎えている。

つまり此処でも、豊臣秀吉にとって土御門家も賀茂家も、そして帝の草である雑賀衆・伊賀衆・甲賀衆、また根来衆(ねごろしゅう)も陰陽修験に連なる組織は遠い先祖から延々と続いた不倶戴天の敵だった。


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文禄・慶長の役(朝鮮征伐)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇文禄・慶長の役(朝鮮征伐)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

小田原平定・四国平定・九州平定と各地を勝ち上がって来た戦国大名を武力で従え、徳川家康に臣下の礼を取らせて天下人と成った豊臣秀吉に、国内で逆らう者は居なくなった。
傲慢な事に、人間は増長すると何を始めるか判らない。

やがて、戦上手の真価を発揮する処がなくなった秀吉は、案の定「墓穴」を掘る行動に出た。

二度に渡り朝鮮半島から中華大陸まで侵略の野望を進める出兵、「文禄・慶長の役(朝鮮征伐)」である。

大陸侵攻計画については「生前の織田信長の夢」と言う説もあるが、これも証拠は何処にも無いが知恵を付け秀吉を煽り立てたのは光秀、家康ルートのお定まりの策略かも知れない。

ただ、明国や朝鮮への出兵など秀吉が自分で思い付いたかどうかは疑わしく、誰かが知恵を付けた或いは織田信長の夢を実行した可能性は否定できない。

いずれにしても大名の多くが、この実り無き侵略戦(文禄・慶長の役)に駆り出され、勝利の見えない泥沼の戦いの中で消耗して行ったのである。

この時点で、弟の大納言秀長が存命なら、「この無謀な侵略は押し留めた」と言うのが現代での豊臣秀長の評である。

文禄・慶長の役(朝鮮征伐)は、天下人と成った豊臣秀吉が「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心を持った事から始まった。

秀吉の「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心の背景には、武将達を束ねる為の求心力の確保である。

如何なる組織も同舟異夢(同じ仲間として居るがそれぞれに思う所が違う)の集まりであるから求心力が必要で、この国では永い事「お血筋」が求心力の条件に成って来た。

織田信長も、頭角を現すまではその「お血筋」を求心力に後押しをされて戦国の一国を手中にした。

後は働きに応じた恩賞と所領を与える「取り立て」が多くの将兵を傘下に置く求心力だった。

しかし豊臣秀吉の場合は所詮「氏の血筋」と言う求心力も持たない為に、信長の発想の受け売りだけだったので、天下が統一された桃山期に武将達にその恩賞と所領を与え続け、己への求心力を続けるには他国の侵略に手を染めるしかない。

つまり豊臣秀吉が織田信長から学んだ部下の掌握術は覇権を握るまでの途上の事で、領土を切り取り分け与えて臣従させる事だった。

矛盾する事に、秀吉が天下を掌握した時点で切り取る領土は国内には無かった。

天下統一後(天下布武の達成後)の事は、織田信長がどうしょうとしていたのか秀吉は聞いては居無いし、信長が亡くなった後では彼のやる事は見る事も出来ない。

多くの武将が秀吉に臣従して来た背景に在った求心力が所領の加増(つまり分け前)で、日本中を統一した秀吉が武将達に分け与える土地を確保するには、無謀で在っても国外に打って出る以外に無かったのかも知れない。

そして、唯一秀吉を諌め導ける弟・大納言秀長は、この世に居なかった。

人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。

そして危険な事に、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。

朝鮮及び中華帝国の侵略を目的とした文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の実行である。

或いは織田信長の天下布武の最終ビジョンの中に「朝鮮及び中華帝国の侵略」があり、秀吉はその事を信長から聞いて居たのかも知れない。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正、福島正則、小西行長、黒田長政、浅野幸長らを主力に十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出した。

当時の李氏朝鮮王朝は然したる軍事力を持っては居なかったので、当初遠征軍は勝利を重ねて半島の南部を簡単に制圧占領している。

しかし他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。

国内なら戦は氏族同士の争いだが、他国ともなると民族意識が強く容易に屈服はしないばかりか、民族が団結して民衆まで敵に廻る。従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。

その後朝鮮の宗主国・明帝国の軍勢が南下して来て一進一退の攻防となり、小西行長と石田三成が謀って「明帝国」の降伏を偽り一度講和に持ち込む。

だが、互いに勝利を思い込んだ講和交渉がまとまる訳も無く、決裂して秀吉は千五百九十七年(慶長二年)に十四万の大軍勢を持って二度目の出兵を命じている。

この二度に渡る半島に対する派兵を、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役と呼んでいる。

後のベトナム戦争やイラク戦争に於ける米軍の様相で、その苦戦の泥沼に秀吉子飼いの大名達でさえ不満が鬱積して行った。


一方、朝廷から「太閤」の位を得た秀吉は、天下人として栄耀栄華を極める豪華な生活をしていた。

金の茶室、金の茶釜では詫び茶の千利休と対立しても仕方がない。

秀吉は、こけ脅しに財力を誇示し権力をひけらかす事しか、周りを圧する方法を思い付かなかったのかも知れない。

千利休(せんのりきゅう)は田中与四郎(與四郎)と言い、和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれである。

幼名は与四郎(與四郎)で後に宗易(そうえき/法名)、そして抛筌斎(ほうせんさい)と号した千利休は、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた茶人である。

織田信長が堺を直轄地とした時、宗易(そうえき)は「茶道具の目利き」として目を着けられ、信長に茶頭として雇われ手元に置かれて世に認められる。

その後本能寺の変で信長が自刃、「天下布武」の後を継いだ羽柴秀吉(豊臣)にも茶人として登用され、茶会で扇町天皇に茶をたてる為に、南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から「利休」の号を賜っている。

言うまでも無いが、利休(りきゅう)はわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる大茶人である。

利休の祖父は足利義政の同朋衆だった「千阿弥(せんあみ)」と言い、「その名の姓を取り、千を姓とした」と、利休の曾孫である江岑宗左(こうしんそうさ)に拠り家伝されている。

堺の南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から与えられた「利休」と言う居士号を合わせて、「千利休(せんのりきゅう)と号していた」と言われて居る。

同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降江戸幕府時代を通じて明治維新までに、将軍や大名諸藩の当主近くで来客の給仕などの雑務や接待の芸能にあたった武家の職名である。

時宗を起こした一遍上人の下に芸能に優れた者が集まった事が同朋衆(どうぼうしゅう)と言う役職の起源とされ、時宗を母体としているに為に阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ、阿弥号を名乗る通例があるが阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。

同朋衆(どうぼうしゅう)は剃髪していた為に坊主と呼ばれたが、この物語のそもそも論のごとく氏族のくくりは在っても武士と神官・僧侶は線引きなど無く、同朋衆(どうぼうしゅう)も出家している訳ではない。

おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。

元々の能舞は、「田楽能舞」と言われて住民に密着した素朴な奉納神事だった。

それが室町期に同朋衆(どうぼうしゅう)の手で発展して、能舞は貴族や武士が鑑賞する芸能になった。

大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。

むごい事に利休の首は一条戻橋で晒し首にさせられたが、秀吉勘気の理由は不明で有る。

秀吉勘気の憶測であるが、人がリラックスしたり感動するのは【右脳域】の感性で、災害時に遭遇した人は限りなく優しくなれ、損得の計算を忘れて救助を心掛けその事に人は皆感動する。

文化芸術はその【右脳域】の範疇にある。

茶道に於ける千利休と豊臣秀吉の師弟の例で言えば、千利休は【右脳域】の感性で「侘び茶」の茶道を大成した。

所が、豊臣秀吉は茶道を【左脳域】の計算で扱い、金ぴかの黄金で飾る愚を冒した。
これでは千利休の茶道の本質を否定され、両者が対立しても仕方が無い。

利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。

いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。

そして陰陽修験道を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。

その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。

それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。

当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。

それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。

何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。


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秀吉病没

◇◆◇◆◇◆◇◆◇秀吉病没◆◇◆◇◆◇◆◇◆

やがて、秀吉は病に倒れる。

千五百九十八年、慶長の役の最中に「醍醐の花見」と称してかねてから再建を命じていた醍醐寺諸堂の庭園を造営、各地から七百本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ。

その花見の二ヵ月後くらいから秀吉は病に伏せるようになり、病名は不明のまま日を追う毎にその病状は悪化して行った。

秀吉は死を前にして、我が子「秀頼」の事を、秀吉は五大老筆頭の家康に質濃く頼んでいる。

秀吉にすると、柴田勝家との清州談判以来、何かと「作戦を耳打ちしてくれた」、頼りになる家康である。

それ故、「恩義に感じてくれるもの」と踏んで、ナンバーツウの大老筆頭として処遇して来た。

秀忠の正妻は、秀頼の母・淀殿の妹、於江与(おえよ・信長妹お市の三女)で、秀忠と於江与(おえよ)の娘・千姫を秀頼の正妻に迎えている。

家康にとって、秀頼は孫娘の夫と言う事になる。

病を得た秀吉は、豊臣家の将来と年若い秀頼の事を家康に頼むしかなかったのだ。

病に伏せて三ヶ月後、秀吉は二度の遺言書を記し、血判起請文を書かせて秀頼の行く末を頼みながらその生涯を終える。

明国と朝鮮で戦闘中と言う事も在り、秀吉の死は暫くの間秘密とされる事となり、明軍と和議を結び全軍朝鮮から撤退したが、没後の混乱の為葬儀は行なわれていない。


秀吉(ひでよし)が、慶長の役(朝鮮征伐)最中に病没した為に派兵軍も帰国する。


秀吉(ひでよし)の後を継いだのが浅井三姉妹の長姉・浅井茶々(淀の君)との間に出来たとされる豊臣秀頼(とよとみのひでより)だった。

「秀頼の事、重ね重ね頼み候。」

しかし、その秀吉の願いは虚しかった。

基より家康は真意を隠し、この日が来るのを待っていた。

それでなくても漢方薬を良く使い、執念で秀吉より長生きを目指していた家康である。

家康は「長生きした者が勝つ」と、ひたすら健康に気を使い、天台宗、真言宗、修験道秘伝の薬種にも豊富な知識を持ち合わせていた。

この点、天台宗の僧門に隠棲した光秀(南光坊)からも、家康が秀吉に生き勝為に、相当の助言があった筈である。

秀吉は、居ない筈の光秀の手の上で長い事踊らされていたのだ。

ただしこの家康豹変の事態を読んでいた秀吉の盟友が居た。

五大老の一人、加賀領主の前田利家である。

利家は自らも病と闘いながら命失うまで家康に目を光らせていたが、待ちの家康には力及ばなかった。


「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」・・・秀吉の辞世の句である。

人を懐柔する能力には特に優れていたと評される山猿(山窩/サンカ・サンガ)の盟主・豊臣秀吉の生涯は、古き時代の血統至上主義社会を破壊する事に在ったのではないだろうか?


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第二章

◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二章(豊臣家滅亡への道)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

豊臣政権体制について念の為解説して置くが、五大老(ごたいろう)とは豊臣政権末期(文禄年間)に豊臣家の家老(大老)として政務にあたった徳川、前田、上杉、毛利、宇喜多の有力五大名を指した言葉であるが、当時は「五大老」の呼び名は無く「五人御奉行」などと呼ばれていた。

しかしながら、江戸時代に成って所謂(いわゆる)五奉行(こちらは主に「五人御年寄」などと呼ばれていた)と職責地位の解釈が混乱した為、後に便宜上「五大老」と呼ばれる様に成ったものである。

正確には、最初の「五大老」に相当したのは徳川家康(関東に二百五十六万石)、 前田利家〜前田利長(北陸地方・加賀など八十三万石)、毛利輝元(中国地方に百二十万石)、 宇喜多秀家(中国地方・備前五十七万石)、小早川隆景〜小早川秀秋(北九州・筑前三十三万石)で、上杉隆景〜上杉景勝(東北地方・会津百二十万石)は小早川隆景死後に小早川秀秋と入れ替わって就任した。

五奉行(ごぶぎょう)についても当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、主に豊臣政権の実務を担う五人程の奉行職にあたる吏僚的人物を指して呼ばれる言葉だが、「御年寄」などと呼ばれていたものを、立場を明確にする為に後に便宜上「五奉行」と呼ぶ様に成った。

主な五奉行(ごぶぎょう)は、浅野長政(筆頭・甲斐甲府二十二万石)、石田三成(近江佐和山十九万石)、増田長盛(大和郡山二十二万石)、長束正家(近江水口五万石)、前田玄以(丹波亀岡五万石)を指すが、大谷吉継(越前敦賀五万石)や小西行長(肥後宇土二十万石)など多くの者も場合に依っては吏僚職を担当するなど、組織・職制が余りきっちりしたものではなく、かった。

従って当時を再現するに「五大老の誰々様」や「五奉行の誰々様」は本来史実に合わないが、便宜上が定着しているので不本意ながら使わないと返って混乱するので本書の表記も合わせている。

本来は五人御奉行(五大老)と五〜七人程度の御年寄(五奉行)が豊臣政権末期の政権要職だったのである。
この豊臣政権の所謂(いわゆる)五大老任用についても、実は史実から隠されたある秘密が浮かび上がる。

それが、中国大返しに於ける小早川密約説と秀吉が為した小早川隆景の五大老格任用の整合性である。


秀吉に重用された小早川隆景は毛利元就の三男で、父・元就に次兄・吉川元春と共に本家・毛利家を支える毛利両川体制の教え受け、長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として本家・毛利家を支える。

次兄・元春が九州の陣中で没した後は、隆景一人で本家(長兄)・毛利隆元の遺児である当主・毛利輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がなかった。

秀吉に臣従後の隆景は、毛利本家を守りながら豊臣秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定に積極的に参戦し、功績を挙げて筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられている。

織田信長健在の頃より中国方面担当として毛利氏と対決して来た豊臣秀吉は、敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価して親任厚く、小早川家が毛利の陪臣分家的な位置にも拘らず秀吉政権下で後に五大老と言われた徳川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元と並ぶ重臣として小早川隆景を遇している。

この秀吉の小早川隆景厚遇の理由だが、実は毛利方が本能寺の変を知って居て、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景が高松城下の講和を容認し、中国大返しを毛利方が追撃しない決断を下して密約し、秀吉の「天下取りを容易にした事に対する謝意と信頼」と考えれば得心が行く。

後に「人たらしの秀吉」と評される位の説得の名手・秀吉だっただけに、小早川隆景を密約でたらし込んでの大返しだった。

その隠された史実なくして、毛利氏系から二人も豊臣政権に重臣を登用する理由は見当たらない。

惜しむらくはこの隆景には実子がなく、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下家定の五男で豊臣秀吉の養子と成っていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。


余人では出来ない迅速な中国大返しを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家の輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって、毛利輝元と和睦する時点で、秀吉は当時毛利方の最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

だが、織田新帝国成立宣言の警護の為に秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を、秀吉は予め中国攻めに持参していた。

それで何とか、秀吉は和議交渉の場は造る事が出来たのだが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。

追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。

そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて「天下を取れば貴殿をそれなりに処遇する。」と密約し和議に持ち込んだ。

秀吉は天分とも言うべきか生来他人の懐に入るのは得意で、それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。

「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは隆景の政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。

そして更に秀吉は、万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。

その結果、小早川隆景は毛利家陪臣の位置に在りながら筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の主家・毛利輝元と並んで秀吉から豊臣政権の重臣(大老職)に登用される。

同じく宇喜多八郎(秀家)は備中東部から美作・備前の五十七万万四千石を拝領して豊臣政権の重臣(後世に大老職と呼ばれる)に登用されている。

つまり秀吉の中国大返しは、秀吉の持つ特殊な機動力と小早川密約(こばやかわみつやく)の合わせ技だったのである。


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宇喜多秀家

◇◆◇◆◇◆◇◆◇宇喜多秀家◆◇◆◇◆◇◆◇◆

中国遠征の最中に本能寺の変の知らせを受けて、人生が変わったのは羽柴秀吉ばかりではない。

幼少ながら秀吉に与力していた備前の戦国大名・宇喜多八郎(後の秀家)の運命も突然変わった。

宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国の武家(郷士)宇喜多氏(うきたうじ)の嫡流・宇喜多直家の次男に生まれ、凄まじい下克上で備前一国を手に入れた父・直家の病没に伴い、まだ元服前の幼少ながら八郎(秀家)は戸川秀安や長船貞親ら直家以来の重臣に補佐され家督を継いだ。

織田信長の計らいにより本領を安堵され八郎(秀家)が家督を継いだ時、織田軍団の羽柴秀吉(豊臣秀吉)は信長の命令に拠って中国遠征の最中だった為に宇喜多軍は秀吉の遠征軍に組み込まれ、叔父の宇喜多忠家が代理で軍を率いて秀吉に拠る備中高松城攻めに協力している。

そこに宇喜多家としては幸運とも言える本能寺の変が起こって、信長が明智光秀に攻められて自害する。

この「本能寺の変」の為に、秀吉は中国大返しをして明智光秀を討つ事が急務となって毛利輝元と和睦する事となる。

結果、宇喜多八郎(秀家)は毛利家の監視役を務める為に備中東部から美作・備前の領有を秀吉から許される棚ボタの幸運で、まだ元服前の幼名しかない幼少の内に備前岡山五十七万万四千石の大々名に伸し上がった。

それでも山崎合戦に直面した秀吉に取って毛利家の抑えを勤めた宇喜多家の功績は大きく、後に元服した際に豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて宇喜多秀家と名乗った。

また、子に恵まれずに居た秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室に娶って外様ながら豊臣家一門扱いを受ける事に成る。

四国征伐、九州征伐、小田原征伐に参軍した宇喜多秀家は、朝鮮に派兵した文禄の役、慶長の役では大将・監軍を勤め、帰国して秀吉から五大老の一人に任じられた。

その年に秀吉が死去し、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が千五百九十九年(慶長四年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化して豊臣政権が揺らぎ出す。

これに乗じた五大老最大の力を有する徳川家康が豊臣家に於ける影響力を強め、徐々に指示を始める事となる。

そうした経緯から宇喜多秀家は、後の千六百年(慶長五年)家康が上杉景勝討伐の為に出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ打倒家康の挙兵をする。
豊臣家一門扱いを受けていた宇喜多秀家は、西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発して西軍の主力となる。


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石田三成

◇◆◇◆◇◆◇◆◇石田三成◆◇◆◇◆◇◆◇◆

天下を統一した羽柴秀吉は、出自(氏素性)が定かでない新興勢力であり、しかし、永い事日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。
「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。

その「お血筋」に関わりの無い人物・羽柴秀吉が、にわかに朝廷から豊臣の姓を賜り「関白だ太閤だ」と、ノサバリ始めた。

当然ながら、「お血筋」を誇る旧勢力は内心不満で、唯一対抗しうる人物徳川家康に期待した。

その後徳川家康は関東七ヵ国に国替えに成り、都から遠退いたが所領は他に並ぶべきもない大国に膨れ上がった。

何しろこの時点で徳川家は、豊臣家の蔵入地(直轄地)二百十万石を上回る関東二百五十万石の太守である。

これで時間を掛けて蓄財し、力を蓄えれば豊臣家とも充分に対抗できる。

政権奪取構想は、静かに着々と進んでいた。

面白いもので、後醍醐天皇や今川義元、武田信玄や織田信長のように最初から明確に望んで天下を目指した者は上手くは行かず、そう明確に目指した訳ではない源頼朝や足利尊氏、徳川家康にチョットした運が転がって天下の覇権が廻って来た。

つまり明確に天下を望めば手法が強引になり、敵が多くなって挫折する。

「ヒョットして機会があればもうけもの」程度の者が、案外天下取りの秘訣かも知れない。

一五九八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の年秀吉が亡くなると意味を失った朝鮮征伐は中止され、派遣部隊は続々と帰還するが何の恩賞も出ない。

多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇ったのに、その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。

この男、石田三成は太閤殿下に可愛がられ、のぼせ上がって他人(ひと)の気持ちが判らなく成っていた。

そこへ武将達の嫉妬が集中した。

天下分け目の関が原の合戦、東軍・家康陣営に付いた秀吉恩顧の武将達の顔ぶれを見ると、案外男の嫉妬が一番の勝敗の分かれ目かも知れない。


当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手である。

豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五〜十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。

しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

朝鮮遠征組が苦労して慣れぬ外国の戦から漸く帰って見ると、同僚の石田三成が、すっかり幅を利かせて何時の間にか大きい顔をしている。
豊臣家の大番頭(大官僚)然として、豊臣家を差配していたのだ。

「何じゃ、俺達が向こうで苦労している間、自分は太閤殿下の傍で悠々としくさって。」

「そうだ、そうだ、異国で苦労して戦った我々の身にもなって見ろ。」

三成は論理的秀才ではあるが、論理的過ぎて情が無いから人心掌握は下手である。

不満が出ても、涼しい顔をしている。

「負け戦に、恩賞などあろうか。」

冷やかに判断して、相手の感情や能力を推し量ろうとはしない。自分の価値観で、押し通す。

この男・・・三成は、自分が利口過ぎて他人(ひと)の気持ちが判らない。

そしてまずい事に、頭から馬鹿にしている相手だから、理より本能で動く無骨者の男達が案外猜疑心強く嫉妬深い事に思い至らない。

つまり三成とまったく物差しが違う相手に、三成は自分の価値観を押し付け自分の価値観で相手を量っていたのである。

なまじ多少学問が出来たり上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。

簡単に言ってしまえば、公務員上級試験に合格した何処ぞの国の官僚様が、民益ではなく国益に徹してそれが論理的とばかり情がない事を平気でする。

石田三成もそうした手合いで、秀吉に見込まれて出世を重ねるほど独り善がりなその慢心が強くなり、周りが見えなく成っていた。

それが信長ほどの天才で、相手が認めざるを得ない力量があれば別だが、三成は根が官僚肌でそこまでに至らない。

もつとも厳密に言えば、秀吉の下に統一成って味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上は恩賞の出し様が無い。


正直だけでは生きては行けない時代だった。

石田三成の純粋な生き方には庶民に共感を呼ぶ所はあるが、当時の南光坊(明智光秀)や徳川家康に取っては採るに足らない相手だった。

本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。

もっともこの時代の求心力はあくまでも恩賞としての所領の獲得で、大名を潰してまで再分配するほどの力も、例え関が原で勝利しても豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には、恩賞を取り仕切れる絶対的な信用は武将達に無かった。

それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接し差配した。

これが官僚の典型的な限界だった。

人間は、困った事に「信じて居たのに裏切られた」と言う被害者意識を持つが、良く考えて欲しい。

「信じて居た」は、相手に対する一方的な思い込みで、それを持って「裏切られた」と恨むのは「甘えた筋違い」と言うもので、ここで考えて欲しいのは「主体の置き方」である。

即ち一方的に相手を信じて満足するのではなく、「相手に信じて貰える努力をして来たか」と言う事である。

これは夫婦間から仕事仲間までで通じる事だが、例え表面に出さなくても心の内で相手をバカにした時から「裏切られる危険性」は格段に増す。

貴方が嫌いな相手は相手も嫌いが相場である。

以心伝心は「対人関係の基本」で、本人は上手く屋って居る積りでもその本心は態度の端々で相手に伝わるものである。

石田三成の悪い所は、学問は学んで利口になったがそれを絶対視して学問が新しい発想の原点に過ぎない事を忘れていた点である。

つまり理屈は合って居ても、世の中に通用し無い事は多々ある。

それでも困った事に、自らを利口と自覚する石田三成は、「何があろうとも相手が悪い」と言う傲慢な人間になっていた事である。


反面、良く考えて見れば石田三成に人気が無くて当然である。

彼は、豊臣諸大名に高クオリティを要求した。

その手法はワザワザ敵を作るようなもので、当然無骨一辺倒の大多数の現状派は、それを実現する自信の無さも有って反発する。

それを、「彼には人気が無い」と、一言でかたずけてはいささか不憫ではある。

石田三成は、周囲の知恵も無い同僚連中が「這いつくばってでも出世をしよう」としているのを馬鹿にしていた。

無骨で無知な彼らの取り得は、三成には到底出来ない主君・秀吉に人目も憚(はばか)らずゴマをすり、意見具申する事もなくひたすら言う事を聞く事である。

三成に言わせれば、調子が良いだけで中身に誠意は感じられない連中だった。

所が、三成には信じられない事だが世の中は上手く出来ているもので、案外そんな連中が主君に可愛がられて三成と然(さ)して変わらぬ知行地(所領)を得る出世するのだ。
主君・秀吉のそう言うところは三成も苦々しく思っていてが、現実だからし方が無い。

つまり根から正直なのは三成だけで、その調子が良い連中がこの豊臣家存亡を賭けた肝心な時に敵方に廻ったのだから、要は恩義など感じては居ず主君・秀吉への奉公も己の為の処世術だった訳である。

唯、己の才に慢心した石田三成は、同僚の粗(あら)ばかり観ていた。

他人を批判的な目でばかり見ている者は、人間関係を壊し、良い人生は築けない。

当然ながら、そうした悪しき考え方は、言わずとも態度で相手に伝わり、味方を失う。

特に「指導的な立場に立とう」と志す者は、相手の良い所も合わせて評価する度量の心掛けが必要で、その配慮に欠けて批判ばかりして居る者は指導的立場に立った時点で失敗する。

慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、出兵組が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。

面白くない福島正則や加藤清正、浅野幸長ら七将が共に三成に敵対、前田利家が死去するとこの七将が三成の大坂屋敷を襲撃して石田三成暗殺未遂事件を起す。

三成はこの企みを事前に察知して佐竹義宣の助力を得、大坂から脱出して伏見城内に逃れ伏見で睨み合う内に徳川家康の取り成しの為に三成暗殺は失敗する。

しかしながら三成は、この騒動の結果、五奉行の職を解かれて居城・佐和山へ隠居の身となっている。


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直江兼続(なおえかねつぐ)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇直江兼続◆◇◆◇◆◇◆◇◆

いずれにしても、官僚・石田三成は同僚の恨みを一身に買うが秀才故に敢えて放置してしまう。

これは、家康や南光坊(光秀)には勿怪(もっけ)の幸いである。

家康と南光坊(光秀)は、三成や豊臣(淀君)方がじれる様な仕打ちを繰り返し、米沢の上杉と光成に家康討伐の「のろし」を上げさせる事に成功する。

彼らの企て(作戦)は先ず奥州の上杉が叛乱を起こし、家康が討伐に向かう所を背後から三成が「挟み撃ちにしょう」と言うものだ。


真偽の程は定かでないが、関が原合戦の端緒を開いたのは上杉家・執政・直江兼続の世に言う「直江状」だと言われている。

武将と言う生業(なりわい)は戦商売みたいなもので、命を的にするから知恵や経験が物を言う。

ある程度己に自信がある武将は、まだ出来上がっていない「これぞ」と思う少年に目をかけて己(自分)流の兵法を「一から仕込もう」と言う願望を持つ。

「己の全てを注(そそぎ)ぎ込む」となると、信頼関係が大事だから稚児小姓(衆道)として常に傍(かたわら)に置き、心身ともに愛情を注(そそぎ)ぎながら教え聡(さと)し有能な部下として育てる。

上杉家の天才武将官僚として今直語り草にされている直江兼続(なおえかねつぐ)は若かりし頃、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)の稚児小姓(衆道)として育てられ、言わば上杉謙信(うえすぎけんしん)流武将学の継承者である。

豊臣秀吉の要請で越後から合津に移った上杉百二十万石は、上杉謙信から上杉景勝の代になっていた。

上杉景勝は秀吉政権下で五大老の一人として任じられ、その上杉家・執政・直江兼続と豊臣家直臣で五奉行の一人石田三成とは懇意な間柄だった。

この直江兼続と石田三成の二人が連絡を密にして徳川家康に上杉討伐の兵を挙げさせ、家康が東進している間に大阪で打倒家康の兵を三成が挙げ、「挟み撃ちにする作戦ではなかったのか」と、世に兼続・三成の密約説がある。

直江兼続の祖は系図で言うと、遡れば平安末期の武将・中原兼光(なかはらのかねみつ/樋口 兼光)に辿り着く。

中原次郎兼光は木曽(源)義仲の家臣で、義仲の愛妾・巴御前の兄と言う方が判り易い。

木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口を名乗り、その樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従する。

木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口を名乗り、その樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従する。

樋口家は上田長尾家執事或いは上田長尾家家老とも言われ、樋口兼続は謙信の実姉(景勝の母)の推薦で景勝の小姓近習として五歳と言う幼い頃から近侍していた。

樋口(直江)兼続は、主君・上杉景勝の小姓近習時代に越後の虎と称された国主・上杉謙信の生涯敗れた事の無い戦ぶりと領国経営の生き様に感銘し、生涯その謙信を手本として上杉家を主導するに到っている。

兼続も偉いが、その才能を見込んで任せた主君・上杉景勝の度量の良さも、或いは国主たる者の持つべき才能かも知れない。

上杉景勝は上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、兄の死去で一旦は長尾家を継ぐが、生母が上杉謙信(長尾景虎)の実姉・仙桃院だった為に、子供の居ない上杉謙信(輝虎)の養子と成っていた。

千五百七十八(天正六年)、一代の風雲児・上杉謙信が急死する。

その後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と相模の北条氏から養子に入った上杉景虎との間で御館の乱が起こり、景虎の自害に拠り兼続の主君・景勝が上杉家を相続し越後国主と成る。

その上杉家内乱の三年後に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、直江家の血脈が途絶えてしまう。

跡取りの無い直江家を継ぐ事を主君・上杉景勝に命じられた樋口兼続は、その命により直江景綱の娘で直江信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)に入って直江家を継いで直江兼続を名乗り、越後与板城主となる。

直江家を継いで直江兼続と成った兼続は、主君・上杉景勝の信任厚く上杉家を取り仕切る事を任されて、合津国替えの時点では陪臣ながら出羽米沢に六万石の破格な所領が与えられる。

また、景勝より配下に預けられた寄騎の軍勢を加えると、兼続は上杉百二十万石の四分の一に相当する凡そ三十万石に相当する軍勢を与えられていた。

その後、関が原合戦の後処理(仕置き)で上杉家が米沢三十万石に減封されると、兼続は自らを五千石の知行に減らして家臣を説得、抱えた家臣を手放す事無く領国経営に力を入れて産品を増やし、石高以上の国力を生み出して後の世まで称えられている。

この石田三成と直江兼続の計略の事態は、南光坊(光秀)が読み切っていて、石田三成が画策した東北(上杉)、関西(毛利その他)の挟み撃ち作戦は、最初から失敗する運命だった。


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上杉討伐

◇◆◇◆◇◆◇◆◇上杉討伐◆◇◆◇◆◇◆◇◆

家康が選んで編成した対上杉討伐軍は、親徳川軍と、豊臣恩顧の部将(大名)ではあっても、大方は石田三成嫌い急先鋒の部将(大名)達であった。
彼らは、三成に対して先の朝鮮征伐の折の恨みが在った。

加藤清正、福島正則達である。

南光坊(光秀)と雑賀孫市、服部半蔵、過っての勘解由小路党に繋がる者共は、南光坊(光秀)を盟主として、暗躍する。

彼らにすれは、豊臣家と言うまるきり血統の裏付けが無い家が天下人で有る事が、既に異常事態である。

諜報関係を東軍(徳川方)に全て握られていたが、正攻法の正論家・石田三成は気が付かない。

石田三成は庶民の出自で、根が善良である。

その三成が、信義だけを信じて老獪な徳川家康相手に関が原の合戦を挑んだ。

善良な武将など戦に勝てる訳が無い。

善良な市民の悪い癖は、幾ら裏切られても、「お上を信じたがる幻想」または「正義を信じたがる幻想」を持ち続けている事で有る。

つまりそれは、永い事培われた征服部族の意識操作の影響で、そんな事を信じては「ただのお人好し」である。

性善説に立ち、疑って掛かるのが「低俗な事」と、原則論に拘(こだわ)って真実に蓋をし奇麗事に終始する。

気持ちは判るが夢物語で、凡(およ)そ権力者が奇麗事だけで勝ち上がって来る訳がない。

豊臣家の執政役を任じていた石田三成と上杉家の当主・景勝、そして上杉家々老・直江兼続は生真面目な所が共通している。

世の不条理では在るのだが、その生真面目が権謀術策の世に在って時には邪魔に成る。
そう言う意味に於いて、豊臣家を滅ぼすきっかけを作ったのは石田三成の生真面目さである。

官職叙任の権利を持つ天皇家ならともかく、豊臣を奉じての大義名分だけでは他人(ひと)は動かない。

例え秀吉恩顧の大名でも、本来、ニ〜三十万石程度の中規模大名である三成がこの戦勝で伸し上がり、過日の秀吉のように主家である織田家を尻目に天下を取り、上に立たれて苦い思いをさせられるのは、自分達は御免である。

そうなると自他ともに実力を認める大々名の家康に付く方が、より現実的で納得が行くのである。


徳川家康は源頼朝と同じ手紙魔で、見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

人はそうした努力には絆(ほだ)されるもので、つまり信頼の獲得にはコミニケーションが大事であるから、その「努力を惜しんでは成らない」と言う事である。

関が原合戦は千六百年(慶長五年)の出来事で、石田三成は千五百六十年(永禄三年)の生まれだから、ちょうど四十歳で男としては盛りであった。

しかし戦に対する周到さは、合戦当時既に五十七歳に成っていた徳川家康の方が遥かに勝っていた。

千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の合戦に十八歳で初陣してから、もう三十九年間も事有るごとに戦って負け戦の味も舐めて来た家康にとって、勝ち方は無数にある。

それに引き換え三成は有能な行政官僚ではあるが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、九州征伐の参陣でも輜重(しちょう/後方支援)を担当するなど、まともに大軍を指揮した実戦経験は乏しかった。

石田三成と感情も露(あらわ)に対立した福島正則(ふくしままさのり)は、尾張国(現在の愛知県海部郡美和町)で生まれている。

正則の母が「豊臣秀吉(日吉丸/木下藤吉郎)の叔母だった」と伝えられ、その縁で「幼少より秀吉に仕えた」とされるが、それらは後の記述で詳細は不明である。

織田信長の弔い合戦となった明智光秀との山崎の戦いで軍功をあげ、五百石の知行を与えられ、翌年の織田家中主導権争いとなった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る大功を立てて賤ヶ岳の七本槍の中でもその武功第一と賞され、五千石を与えられた。

その後も福島正則は秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、九州征伐の後に伊予国今治十一万石の大名に封ぜられている。

やがて日本全国を統一して豊臣政権が誕生すると、千五百九十二年(文禄元年)朝鮮半島・中国大陸に進出する野心を持った秀吉が「文禄の役」を起こす。

福島正則は、文禄の役では戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・来島通総などの諸将を率いる五番隊の主将として出陣、京幾道の攻略にあった。

この朝鮮出兵の功で、正則は千五百九十五年(文禄四年)に尾張国清洲に二十四万石の所領を与えられた。

この朝鮮出兵最中の千五百九十八年(慶長三年)太閤・豊臣秀吉が病死すると朝鮮での戦闘は中止され、遠征軍が引き上げて来る。

所が武闘派の福島正則や加藤清正は、官僚統治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪化していた。

石田三成は正論の徒であり、正しいと思えば誰にでもズケズケとものを言う。

言う方は相手の為を思って言って居ても、図星を言われると腹が立ち相手に敵意を抱く小心者の人間も多く居る。

武闘派の福島正則や加藤清正は一見豪胆に見えるが豪胆に振舞う者ほど繊細な一面が在り、図星に自尊心を傷付けられて恨みを抱く。

いずれにしても「有能な官僚統治派が、有能な指導者とは限らない」と言う事であり、官僚統治派は有能な指導者在っての憎まれ役が相応なのである。

豊臣秀吉没年の翌年に、五大老の一人として豊臣政権安泰に尽力し徳川家康を牽制していた前田利家が病没すると、福島正則は朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こし、この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意している。

その経緯から正則は家康と昵懇(じっこん)の仲の秀吉恩顧大名の一人となる。

その為、これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させ、徳川家と福島家は縁戚の体を為すに到っていた。

徳川家康が、難癖ではあるが会津・上杉家の豊臣家に対する謀反を言い出し討伐の軍を編成した時、正則は六千余りの軍勢を率いて従軍していた。

その上杉討伐の北上行軍の途中、上方(京・大阪)方面で石田三成が挟み撃ちを狙って家康討伐を掲げて挙兵する。

この三成挙兵の報を受けて、家康と行軍中の諸大名・諸将はどちらに味方するのかの選択を迫られ去就に窮して動揺する。

その迫られた去就を決定つけたのが、あらかじめ家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていた福島正則の談合密約に拠る正則主導の小山評定である。

小山評定では動揺する諸大名・諸将の機先を制して、正則がいち早く家康の味方につく事を誓約した為に秀吉恩顧の正則の姿勢に諸将は一致して同意、反転して西上する方針が決定する。


福島正則をいち早く味方に就けていた勇猛を持って知られる黒田長政(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛/如水)の長男である。

父・黒田孝高(官兵衛/如水)が播磨国の西播最大の大名・小寺政職に仕えて姫路城代を勤めていた黒田家は、官兵衛の父・職隆の代に主君・小寺政職から「職」の一文字を与えられ養女を貰い受けて小寺の名字を名乗っている。

小寺(黒田)家の家督を継いだ官兵衛は、千五百七十七年(天正五年)進行して来た織田方に付く為に奔走して播磨の大半をまとめ、羽柴秀吉を姫路城に迎え入れて城を明け渡し、そのまま秀吉の与力となる。

小寺(黒田)家が当初は新参者だった為に、臣従の証として長政は織田信長の人質として、織田家家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城にて過ごして居た。

黒田長政(くろだながまさ)が近江国長浜城に人質に成った翌年、信長に一度降伏した荒木村重(摂津・伊丹城主)が信長に反旗を翻した為、父・孝高は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで村重に拘束された。

信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、「村重方に寝返った」と考えて長政を処刑しようとしたが、竹中半兵衛は長政を処刑したと偽って助命する。
この半兵衛の機転により、長政は危うい所で一命を助けられている。

その一年後に荒木村重の有岡城は落城し、黒田官兵衛は家臣の栗山利安に拠って救出され裏切りの疑いは晴れたのだが、長期の入牢で関節に障害が残り歩行が不自由になって、以後の合戦の指揮には輿を使う始末だった。

そんな父・孝高(官兵衛/如水)に代わって、黒田長政が秀吉の下で備中高松城攻めに従い中国地方の毛利氏と戦い、将としての才覚を示し始めている。

本能寺の変、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と秀吉が天下を取る過程に加わって徐々に加増され、九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。

戦後、父子の功績をあわせて豊前国・中津に十二万五千石を与えられ、千五百八十九年(天正十七年)に父・黒田孝高(官兵衛/如水)が隠居した為に長政は家督を相続し、同時に従五位下・甲斐守に叙任されている。

長政は文禄・慶長の役にも渡海し、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒隊となった。

豊臣秀吉が死去し、石田三成ら文治派と福島正則や加藤清正ら武断派の対立が起こると、長政は武断派に与し五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎える。

黒田長政はまた、前田利家の死去をきっかけとした武断派の福島正則や加藤清正らの石田三成襲撃にも参加している。

三成(みつなり)この時は、家康の屋敷に逃げ込む奇策に出て助かっている。

石田三成襲撃事件の翌年起こった関ヶ原の戦いで黒田長政は兵五千四百を率いて一番の武功を挙げ、筑前福岡藩五十二万三千石を与えられ、福岡藩の初代藩主となった。

秀吉恩顧大名の一人だった長政は、やがて起こった大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、嫡男・黒田忠之に代理出陣させる羽目になったが、翌年の大坂夏の陣では二代将軍・徳川秀忠に属して豊臣方と戦っている。


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小山評定

◇◆◇◆◇◆◇◆◇小山評定◆◇◆◇◆◇◆◇◆

上杉討伐の徳川軍へ三成挙兵の報が届き、緊迫した小山に於けるこの軍議(小山評定)で、ちゃっかり上手く立ち回った武将に山内一豊(やまうちかつとよ)が居る。

山内一豊(やまうちかつとよ)の生まれた山内氏の出自は諸説在り、土佐藩提出の「寛政重修諸家譜」では藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔を称しているが、決定的な証明を得る資料は見つかっていない。

はっきりしているのは、一豊(かつとよ)の祖父・久豊が尾張上四郡(山側)を支配する尾張守護代岩倉城主・織田氏(伊勢守家)に重臣として仕えていた事である。

一豊(かつとよ)の父・山内盛豊も守護代家・伊勢守織田氏に使え、一豊(かつとよ)はその三男だった。

父・山内盛豊は尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)に居城・黒田城を持ち守護代家・伊勢守織田氏の家老をしていた。

そこに現れたのが、もう一方の尾張下四郡(海側)を治める尾張守護代清洲城主・織田氏(大和守家)の家老家から下克上で伸し上った織田信長である。

織田信長は尾張下(海側)四郡を実質支配する事に成功すると、次に一豊(かつとよ)の父・山内盛豊が仕える伊勢守織田氏の尾張上(山側)四郡に触手を伸ばして対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれ黒田城を襲撃されて兄・十郎が討死する。

兄・十郎の討ち死にから二年後には主家の岩倉城が落城し、この際に父・盛豊が討死ないし自刃したらしく主家と当主を失った山内一族は離散し流浪する事になる。

流浪する事と成った一豊(かつとよ)は転々と主家を代え、千五百六十八年(永禄十一年)、ちょうど織田信長が神戸氏を降伏させ伊勢国を平定した頃に信長に仕えるようになり、木下秀吉(豊臣秀吉)の与力となった。

この間に一豊(かつとよ)は、良妻と評判高い見性院(けんせいいん/千代とする説あるも実名かは不明)と結婚している。

一豊の妻である見性院(千代、まつ?)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、真偽の程は定かではないが嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で「名馬(鏡栗毛)を買った」と伝えられている。

この名馬(鏡栗毛)、主君・信長の馬揃え(軍事パレード)の際にその馬の見事さから信長の目にとまり「武士の心得怠り無し」と加増された話は有名である。

その後の山内一豊(やまうちかつとよ)は木下秀吉(豊臣秀吉)の与力として千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、三年後の朝倉攻め刀禰坂(とねざか)の戦いなどに出陣し、朝倉攻めでは矢を受けて顔に重傷を負いながらも敵将・三段崎勘右衛門を討ち取った。

一豊(かつとよ)は近江国浅井郡唐国(現在の長浜市域)で四百石を与えられ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直している。

一豊(かつとよ)が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直臣に直して四年後の千五百七十七年には播磨国有年(兵庫県赤穂市内)で二千石、本能寺の変に拠る信長の死後もそのまま秀吉の家臣として従い、秀吉の天下取りに加わって賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに参陣している。

主君・羽柴秀吉(豊臣秀吉)がほぼ天下を手中にする頃には、一豊(かつとよ)は秀吉の甥・豊臣秀次の宿老となり千五百八十五年(天正十三年)には若狭国高浜城主、間も無く近江長浜城主となり二万石を領している。

その後の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の小田原平定(北条氏)に参陣後、一豊(かつとよ)は遠江国掛川に五万一千石の所領を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)、一豊(かつとよ)が宿老と成った秀次が謀反の疑いで処刑され危うく連座されそうになるが上手く免れ秀次の所領から八千石を分けて加増されている。

豊臣秀吉の死後、豊臣家を上回る実力を持つように成った徳川家康と豊臣家・淀方や石田三成が天下の実権をめぐって反目を始め、一豊(かつとよ)に一大転機が訪れる。

千六百年(慶長五年)、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると一豊は下野国小山に於ける軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、豊臣恩顧大名で在りながら真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し家康を喜ばせている。

バリバリの秀吉恩顧大名にしてこの変わり身何んとも調子が良い話しだが、勝ち馬に乗るのも武将の才覚で一豊(かつとよ)の選択肢は満更責められない時代だった。

関ヶ原の戦いの本戦では、一豊(かつとよ)は東軍に与して毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の軍議(小山評定)及び東海道諸将の取りまとめなどの功績を高く評価され土佐国一国・九万八千石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高)を与えられた。

尚、この石高については後の山内氏自身の検地で二十万二千六百石余の石高を算定して幕府に申告し、幕末まで存続する土佐藩が成立して居る。

山内一豊の読みに関しては、先の「寛政重修諸家譜」では「やまうち」とひらがなルビ付けが在り、また家臣に与えた偏諱の読みも「かつとよ」で在る為、通常世間で読まれている「ヤマノウチカズトヨ」は正確ではない。


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東西両軍

◇◆◇◆◇◆◇◆◇東西両軍◆◇◆◇◆◇◆◇◆

朝鮮征伐の折の恨みが在った大名達は、三成の家康討伐の挙兵を聞くと、こぞって家康側にまわった。

「三成ごときを此処で勝たせて、これ以上大きい顔をされてたまるか。」が、本音である。

因(ちな)みに、この時家康二男・結城秀康は徳川方の一員として、宇都宮に陣取っていた。

徳川東軍が関が原に向かった際には、上杉軍追撃の押さえと成った為、関が原戦には参戦していない。

徳川家康を総大将とした東軍はふた手に分かれて上方に攻め上る事となり、家康本隊の東海道方面軍と家康長男・秀忠を大将とする中山道方面軍の二隊が夫々の街道を進軍して行く。

東軍・家康方の東海道方面軍が福島正則(ふくしままさのり)の居城・尾張清洲に到達した関ヶ原の戦いが始まる前、福島正則は先鋒を買って出て出陣し、池田輝政と先鋒を争い、清洲から美濃方面に進軍して西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは黒田長政らと共同で城を陥落させている。


石田三成が西軍(豊臣方)の総大将に据えた毛利輝元(もうりてるもと)は、下克上で大内氏を倒して周防・長門を奪った陶(すえ)氏を倒した毛利元就(もうりもとなり)の嫡男・毛利隆元の嫡男で、言わば毛利家の正統三代目である。

安芸(現在の広島県)に生まれ、幼名は幸鶴丸を称した毛利輝元(もうりてるもと)は父・隆元が急死した為十一歳で家督を継ぐも若年の為、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行していた。

毛利幸鶴丸は、千五百六十五年に十三代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され十二歳で元服し、輝元と名乗り同年の月山富田城で初陣を飾る。

千五百七十一年(元亀二年)、輝元十八歳の折に周防・長門・長州・安芸・石見をほぼ制した一代の英雄・祖父の元就が死去すると、毛利両川(もうりりょうせん)体制を中心とした重臣の補佐を受け、元就は漸く親政を開始する。

その親政開始の三年後、千五百七十四年(天正二年)には織田信長の助力で将軍職に就いた十五代将軍・足利義昭からの推挙を得て、輝元は朝廷から右馬頭(さまかしら)に叙任され室町幕府の相伴衆に成った。

「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。

月山富田城・初陣の後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大して行く。


祖父・元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利して九州や中国地方に勢力を順調に拡大し続けていた。
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所が、千五百七十六年(天正四年)になって織田信長に拠って都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座して来た為、輝元は保護せざるを得ない状況となる。

その上石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると輝元が村上水軍を使うなどして本願寺に味方し、兵糧・弾薬の援助を行うなどした事から信長と激しく対立する。

信長軍団と事を構える事に成った毛利輝元だったが、当時織田軍は越後の上杉謙信と敵対していた事もあり兵が手薄で、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り大勝利を収めた。


その木津川口勝利の勢いで羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及んだ上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、信長を歯軋りさせるほど織田氏に対して優位に立った。

しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となって行き、千五百七十九年(天正七年)に成ると毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて毛利氏から離反した。

その後は織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉に拠って、毛利輝元は徐々に追い込まれて居た。

輝元も叔父達と共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻して来るなど身動きが採れず、羽柴秀吉は播磨三木城を長期に渡って包囲し、持ち堪え切れなくなった別所長治は自害させ、因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城させ毛利氏の名将・吉川経家が自害する。

千五百八十二年、羽柴秀吉が毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めにしていた頃、秀吉は京都本能寺にて本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により主君・織田信長滅ぶの報を聞き慌てて毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ毛利氏との和睦を持ちかける。

戦況の不利で和睦を願って居た輝元や小早川隆景らは信長の死を知らずにこの和睦を受諾、結果備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して秀吉の中国大返しを許す事になった。

この綱渡りとも言える和睦を為し、中国大返しで機内に戻った羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦を経て、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、毛利輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたがいずれが勝利するか確信が持てずに中立を保った。

賤ヶ岳の戦いには協力しなかった輝元は、合戦後に羽柴秀吉を天下人と見定めて接近し、秀吉に臣従し毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し忠誠を誓っている。


その後の毛利輝元は、秀吉家臣として四国征伐、九州征伐にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与して結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の所領を安堵され、豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言輝元と称された。

文禄・慶長の役と呼ばれる二度の秀吉に拠る朝鮮出兵にも輝元は主力軍として兵三万を派遣し、これらの功績から秀吉より五大老に任じられた。

千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に輝元は五大老の一人として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されている。

豊臣秀吉死去から二年、千六百年(慶長五年)に徳川家康と石田三成による対立が遂いに武力闘争に発展、徳川家康が上杉景勝討伐に出陣する隙を突く形で石田三成が西軍の総大将として毛利輝元を擁立し挙兵する。

四十七歳に成っていた輝元は、三成らに擁されて大坂城西の丸に入り西軍の総大将として大坂城に在ったが、関ヶ原本戦に於いては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。

その西軍が関ヶ原で壊滅した後、輝元は徳川家康に申し出て自ら大坂城から退去し決戦を避けている。

一方、毛利両川(もうりりょうせん)の一家・吉川広家は、西軍が負けると判断して黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行い、関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える形となって毛利秀元の率いる毛利軍は不戦を結果とした。

それで毛利家は安泰と思われたが、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収した事から、徳川家康は戦後その本領安堵の約束を反故にして毛利輝元を改易する。

その上で家康は、改めて吉川広家に周防・長門の二ヶ国を与えて毛利氏の家督を継がせようとしたのだが、広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた為に毛利輝元は隠居、毛利秀就への周防・長門二ヶ国の安堵となり毛利本家の改易は避けられた。

この家康の仕置きが、まさか二百五十年後に徳川家への「禍根となる」などとは、流石の徳川家康も知る由もない。

毛利氏は所領を周防・長門二ヶ国の三十七石に大減封されて江戸期を凌(しの)ぎ、遠い歳月を経て明治維新の倒幕急先鋒の藩と成ったのである。


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関ヶ原

◇◆◇◆◇◆◇◆◇関ヶ原◆◇◆◇◆◇◆◇◆

かくして、慶長五(千六百)年九月十五日関ヶ原に、東軍八万(家康方)、西軍十万(三成方)が激突する。

一見すると、ほぼ互角か兵力的に西軍有利のようだが中身が違う、本当の親三成派部将は数えるくらいで実質総兵力は二から三万程度、他(あと)は付き合いか様子見で頼りに成らない。

この天下分け目の時、関東七ヵ国を領する徳川家康の手勢・兵三万に対して近江国・佐和山十九万四千石を所領とする石田三成が率いた手勢は僅か兵六千に過ぎなかった。
しかも家康には、未だ未着ながら中山道を登って来る二代将軍・秀忠の軍勢三万五千が西を目指して上って居た。

それでも緒戦は大谷吉継(刑部)などの活躍で西軍有利に運び、一時は勝機らしきものも在ったが、小早川秀秋(秀吉の甥で小早川家の養子)の裏切りに会い西軍、石田方は壊滅的敗北をする。

武将とは一族郎党の一群を率いる棟梁で、その決断能力に一族郎党の命運が掛かっている。

従って、参陣はしたものの関が原戦の当日までどちらに着くか迷う武将が在っても仕方がない。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた僅か六千に足らぬ兵力だけだった。


関が原の合戦当時、西軍(石田方)に在って本気で戦った小西行長は、石田三成と盟友関係に在った数少ない武将の一人である。

小西行長は羽柴秀吉の家臣として仕え、関が原の合戦当時は肥後の南半国・宇土、益城、八代の二十万石余りを与えられていた。

行長の父親は小西隆佐と名乗る堺の薬商人で、行長はその次男として京都で生まれた。

始め浪人から下克上で伸し上がった宇喜多直家(備前国の国人領主)の家臣として仕えていた小西行長は、織田信長に宇喜多直家が降伏する時に交渉役を務め羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じてその難役を成し遂げる。

宇喜多直家が死去すると、行長は羽柴(豊臣)秀吉の家臣として俸禄千石を以って召抱えられ仕えた。

父親の小西隆佐が早くから外国からの影響を受ける堺の薬商人と言う経歴で解る通りキリシタンで、子の行長もキリシタンだった。

父・隆佐の拠点・堺は水運の盛んな貿易港だった所から、小西行長は秀吉に舟奉行に取り立てられ水軍を率いていた。

紀州征伐などに水軍を指揮して参戦した行長は、その後の九州征伐や肥後国人一揆の討伐にも功を挙げ、文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の前には肥後の南半国の二十万石余りを領する豊臣家直臣の有力な大名に成っていた。

所領となった肥後の南半国の運営に取り掛かると、本拠として築城した宇土城普請の事で天草五人衆と揉め事となり、肥後北半国を領した隣国の加藤清正らの助勢も在ってこれを鎮圧、その五人衆の所領・天草四万石も転がり込んで計二十四万石の領主となる。

しかし、この頃から隣国の加藤清正とは次第に確執を深める事態になっていた。

文禄・慶長の役(朝鮮征伐)では、行長は豊臣秀吉の命で主力武将として出陣、文禄の役ではそこそこの戦果を挙げているが明との講和交渉に石田三成と共に携わった事から三成との接近が始まっている。

この文禄の役の講和交渉に、秀吉への報告に虚偽があった事が発覚、講和は秀吉の手で破棄されて慶長の役が始まる。

陰謀を画策した行長は一旦死を命じられるが、前田利家や淀君らのとりなしにより一命を救われ先鋒として再び朝鮮に出陣するが、共に先鋒を命じられた加藤清正とは不仲で作戦をめぐって対立、こうした事が対立相関図となって後の関が原の敵味方対陣の要因と成っている。


千五百九十八年(慶長三年)主君・豊臣秀吉が死去する。

秀吉の命じた朝鮮征伐は中止と成って小西行長も帰国を果たすが、福島正則や加藤清正らと対立する石田三成ら文治派に与し、関が原の戦いに石田三成に呼応し西軍の将として手勢の兵四千にて参戦する。

行長は東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦するが小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊の次に標的となり大谷吉継隊、小西行長隊の順で壊滅する。

敗れた小西行長は関が原を脱して伊吹山中に逃れたが、四日後に竹中重門(たけなかしげかど/竹中半兵衛重治・嫡男)の手勢に捕らわれ、約十日後に京都六条河原において石田三成に続いて斬首され首は徳川家康によって三条大橋に晒されている。

近江国の武士・大谷盛冶と豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女で、東殿と言う母の間に幼名・慶松(よしまつ/大谷吉継)は生まれた。

大谷吉継は、母の伝(つて)で天正年間の初め頃に秀吉に仕官して小姓となり、その律儀さで寵愛を受ける。

千五百八十三年(天正十一年)、明智光秀が起こした本能寺の変で織田信長が落命すると、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を(勝家の甥/勝家の養子)調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てる。

賤ヶ岳の戦いから二年後、大谷吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

刑部少輔叙任の翌年の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられて功績を立て、その功績などで千五百八十九年(天正十七年)に秀吉から越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の三郡・五万石を与えられ、吉継は越前・敦賀城主となった。

大谷吉継は徳川家康とも親しく、淀君のプライドと秀頼可愛さも在って険悪化する豊臣(石田方)と徳川(家康方)との間に入って関係修復に動き奮闘するが、修復に失敗している。

関が原の合戦前には、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、吉継は「勝機無く無謀」と説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予測しながらも病(ハンセン病と伝えられる)をおして三成の下に馳せ参じ、諸大名を味方に取り込む事に腐心して西軍・豊臣(石田方)に与力している。

大谷吉継(大谷刑部)は、むしろ徳川家康の人柄、将たる者の器に心酔していた。

しかし人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも、己が信ずる譲れない五分がある。

それは馬鹿正直で不器用、純真を絵に描いたような石田三成の豊臣家を思う真情への共感だった。

病に冒されていた大谷吉継(大谷刑部)にしてみれば、滅び行く豊臣家に憐憫の情を抱いたのかも知れない。

ここに到って、豊家(豊臣家)拠りも徳川家が圧倒的な力を持っている事が、判らない大谷吉継(大谷刑部)では無い。

これは正に、大谷吉継(大谷刑部)と言う男の「生き様」の問題だった。

関が原に於ける戦闘では、吉継は関ヶ原の西南・山中村の藤川台に布陣、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦の最中、小早川秀秋の裏切りに合い応戦する。

吉継が一万五千の小早川勢と互角に戦って一進一退の所に、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の四隊四千三百が東軍・徳川(家康方)に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けられて総崩れになり、「もはや挽回は不可能」と判断して自害している。

大谷吉継(大谷刑部)は、その関が原の奮戦振りと敗戦覚悟の石田三成への友情に殉じた生き様から、名声を博して今日に語り継がれている。


関が原の戦いは、一万五千名強とも言われる大軍を率いて参加していた小早川秀秋が、松尾山城砦に去就が明らかでないまま西軍として居座って、東軍有利と見るや寝返った為に僅か半日で勝敗の決着がついた事に成っている。

この小早川秀秋の寝返り、秀秋は秀吉の正妻「おネ(ネネとも言う)」の甥で、淀君や石田三成を嫌う「おネ」を通して家康からの内応話や側近への東軍からの勧誘話が漏れ聞えている。

実はこの裏切り話、裏切りにあらず。

始めから家康方と密約が出来て居た話である。

その証拠は、歴史的に大変重要な小早川側近の勧誘諜略話の後日談があり、その勧誘話の功労者・林(稲葉) 正成(はやし・いなば/まさなり)が家康に処遇された結果を見れば明らかである。


関ヶ原は濃霧に包まれていた。

合戦は既にその戦端を開き、先鋒の東軍・福島(正則)隊六千と西軍・宇喜多(秀家)隊一万七千が激戦状態に在った。

突然「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。

無数の矢が「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来、やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。

見ると赤備えの具足の一団が遠目にも鮮やかに見え、血気はやる井伊直政の軍勢が勝手に動き始め福島隊を出し抜いて先鋒の切り込みを開始していた。

両陣から「ワーッ」と歓声があがり、兵馬の距離が縮まって行き、白兵戦に成った。

地を駆ける「ドタドタ」と走り回る足音が敵味方入り乱れて聞え、気合や怒号と共に、刃(やいば)を切り結ぶ「チャリーン」と言う太刀の当たる響きもそこかしこで上がっている。


霧の向こうから、風に乗って合戦のざわめきが家康の本陣まで流れて来る。

この関が原の戦いに於ける徳川家康本陣には、軍師・南光坊(光秀)指揮下の台密(たいみつ)・陰陽陣羽織衆の他に旗本側近として本多忠勝・等と井伊直政が軍勢を率いて守りを固めていた。

実はこの関ヶ原の東西両軍の布陣、誰が見ても西軍有利で、何故この状態で天下の秀才光秀(南光坊)を軍師に据えた家康が迷う事無く戦端を切ったのか、余りにも無謀だった。

家康本陣が桃配山中腹にあり、西軍・松尾山の小早川隊と南宮山の吉川隊に横腹を晒した布陣だったからである。

石田三成はこの東西両軍の布陣を見て、素直に「勝った」と確信したが、そうは成らなかった。


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小早川秀秋

◇◆◇◆◇◆◇◆◇小早川秀秋◆◇◆◇◆◇◆◇◆

実は、始めから決まっていた事がある。

「天海、松尾山砦の小早川(秀秋)の小せがれは大丈夫か?このまま攻め掛けられれば持たぬぞ。」

「ご安堵召され、林正成めが秀秋殿の傍に仕えております。南宮山の吉川(広家)殿も間違いはございません。」

「合図は?」

「好機を捉え、松尾山下に忍ばせている配下の雑賀孫市の手の者が、山裾に鉄砲を撃ち掛ける事になっております。それを合図に、秀秋殿が攻め降りてまいります。」

「合い判った。それにしても三成は、敵ながら底抜けに真っ正直な男よ。」

「いかにも・・・」

「三成めは、才走って己ばかり利巧と自惚れておるわ。」

「さよう、我らが易々と不利な陣備えすると、東方を舐めてござるな。」

元々三成は、軍人と言うより学者・官僚の器で、戦も図上での考慮でしかない。

戦は日頃の気配りで、味方作りから始める用意周到なものである。

その時に成って、三成のように「筋が通っているから味方になる」などと勘違いするのが、知に溺れる者の弱点と言える。

合戦の火蓋は切られ、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知の両隊は、唯一積極的に決戦を挑んで来た西軍・豊臣(石田方)の大谷吉継(大谷刑部)相手に釘付けの戦闘の最中で、その勝敗の行方を伺う気持ちの定まらない武将達の注目を浴びていた。

家康本陣に居た井伊直政は東軍の先鋒として出撃し、家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を良く補佐して積極的に戦闘に加わり、島津義弘の軍と戦っている。

井伊直政は、家康に見出され小姓(稚児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

織田信長に於ける前田利家や森欄丸もそうだったが、この時代誓約(うけい)の概念に於ける男色(衆道)相手の稚児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかった。

この関が原の戦いで獅子奮迅の活躍した猛将・福島正則(ふくしままさのり)は東軍に布陣して居た。

東西両軍が対峙した関ヶ原の戦い本戦では、福島正則は当初石田勢との直接対陣を希望したが手柄の一人占めを憂慮した家康の思惑で結局叶わず、幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、功を焦った井伊・松平らに抜け駆けされ激怒し、西軍・宇喜多勢一万七千に福島勢六千余りで戦端を開き死闘を繰り広げた。

宇喜多勢に突っ掛かっては見たが、宇喜多秀家隊の前衛を率いた明石全登は音に聞こえた勇将の上に兵は八千で福島勢は劣勢に立たされて押しまくられ、一時壊滅寸前に追い込まれている。

この福島勢壊滅の危機を、正則自身が血相を変えて叱咤し一進一退の攻防を続けている情況で西軍方に配陣していた小早川秀秋が突如東軍方として参戦、それを機に西軍の戦線は次々に崩壊した為に福島正則隊は甚大な被害を受けながらも宇喜多勢を打ち破る事に成功する。

関が原戦大勝利後も、正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走して貢献、戦後処理で安芸広島と備後鞆の計約五十万(四十九万八千二百)石の大封を得ている。


その内に、笹尾山の陣から出陣した三成の本隊と、東軍・黒田(長政)隊五千数百、細川(忠興)隊五千余りが戦闘状態に入る。

三成は、中々戦端を開かない味方の軍勢の呼び水にしようと、陣形を壊して攻め込んで来たのである。

見よ、「三成め、業を煮やして笹尾山から出張って来たわ。」

「大殿、そろそろ孫市が合図を撃ち掛ける頃です。松尾山をご覧下さい。」

合戦のざわめきの中、銃声は聞えなかったが松尾山の山腹で無数の小さな白煙が上がった。

小早川隊は、喚声を上げながら西軍めがけて一斉に下山を始める。

過って打ち合わせた通りの、小早川秀秋の行動だった。

松尾山の小早川隊が「西軍に討ち掛かる」と見るや、脇坂(安治)隊、小川(祐忠)隊、赤座(直保)隊、朽木(元綱)隊らの西軍諸隊も小早川軍に呼応し、西軍は総崩れと成って行く。

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる。

おね(ねね)の実家である杉原(木下)家の継子・家定(おねの兄とも弟とも言われる)の五男にあたり、元服時の初名は木下秀俊(きのしたひでとし)と名乗る。

当時、正室・高台院「おね(ねね)・北政所」との間に子が無かった秀吉は数人の養子を迎えるが、その内の一人が妻方の甥に当たる木下秀俊(きのしたひでとし)で、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名乗らせて手元に置いていた。

その秀俊が、五年後に同じく養子にして大名にした秀吉の姉「智(とも)・日秀(にっしゅう)」の次男・豊臣秀勝が病死した為に、その旧領・丹波亀山十万石を与えられる。

その後、養父・秀吉の命にて小早川隆景(毛利元就の三男)の養子として小早川家に入り秀秋と改名、小早川秀秋を名乗る。

養父と成った小早川隆景は筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を領する筑前名島城主であったが、秀秋は秀吉の側近大名として勤め、丹波十万石の亀山城主を任じていた所、兄・豊臣秀次事件が発生、それに連座して丹波亀山を没収される。

丹波亀山を没収された小早川秀秋は、同年に養父・隆景が隠居した為にその領地筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を継承して筑前名島城主に収まった。

関ヶ原の合戦時の小早川秀秋の優柔不断な行動から軟弱に描かれる場合が多いが、秀吉が朝鮮半島に出兵した「慶長の役」では全軍を指揮する元帥を務め、蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かって初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど勇猛に活躍して居る。

しかし、元帥たる秀秋が守備すべき釜山城を出兵して蔚山倭城の救援に向かった事が「軽率な行動」と批判され、後に筑前名島に復領するが半島出兵中の一時期に領地を召し上げられて越前北庄十五万石へ国替え処分をされている。

秀吉の朝鮮征伐が中止され半島から帰兵して二年余り、関ヶ原合戦の折に大軍を擁していた小早川秀秋の決断が天下の行方を決したのである。

一方家康本陣から先鋒を務めた井伊直政は、果敢に突撃して島津義弘の本陣を伺い、家臣である敵将・島津豊久を討ち取って居るが、その間島津(義弘)隊は傍観を決め込んで動こうとしない。

島津(義弘)隊が動いたのは、小早川隊が東軍に加勢西軍不利を確認した時で、島津義弘は敵前突破を試みている。

島津(義弘)隊の動きを見て追撃に移った井伊直政は、義弘の軍を追撃している際に義弘の軍の鉄砲隊が撃った銃弾が命中し落馬してしまう。

井伊直政はその鉄砲傷が癒えないまま、関が原の戦いから二年後の千六百二年(慶長七年)に破傷風が元で死去している。

敵前突破を敢行した戦闘傍観者の島津(義弘)隊を別にし、西軍部隊は壊滅或いは逃走して、関ヵ原の合戦は東軍勝利の幕を閉じた。

傍観者を決め込んだ島津義弘(しまづよしひろ)は島津家の次男で、薩摩・大隅・日向三ヵ国の島津家国主は兄の島津義久(しまづよしひさ)だったが、関が原合戦当時の島津義弘(しまづよしひろ)は実質的な差配者だった。

戦国期の島津氏は豊後の大友氏をほぼ壊滅させる所まで圧し、一時は筑前・豊前を除く九州全域を制圧したしたのだが、千五百八十七年(天正十五)の羽柴秀吉に拠る九州征伐で、圧倒的物量を持って侵攻して来た秀吉の軍勢に抗し得ずに降伏する。

島津義弘は九州征伐の敗戦処理で大隅一国を安堵され、薩摩安堵の兄・義久と同格の大名に処された。

豊臣政権に臣従したのちは島津氏存続の為に忠勤に励んだ義弘だったが、豊臣政権に反感を持つ兄・義久や家臣団との間に摩擦を起こし、その統制に苦慮している。

五年後の文禄の役に島津義弘は出陣して小西行長や宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せたが、乱れた家中を統制する為に召還され、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く五十五万九千石余が義弘の名義で与えられて島津家の実質的な差配者と成っていた。

その後太閤・豊臣秀吉が病死して徳川家康と石田三成が反目して天下分け目の合戦が始まる。

千六百年(慶長五年)に起こった関ヶ原の役に際しては、当初島津義弘(しまづよしひろ)は徳川家康に与して家康らが会津征伐に出征している間の留守居役として兵・八千にて伏見城の守備に当たる事になっていた。

しかし石田三成らが蜂起すると家康の臣・伏見城将の鳥居元忠は島津義弘の入城を拒否、義弘は石田三成の勢力圏に取り残された形となり、止む無く西軍に属する事に成った。

その後島津義弘は伏見城の攻撃に参加、これを陥落させた。

止む無く西軍に属した義弘だったが、元々親徳川だった義弘は関ヶ原の合戦では合戦が始まっても西軍諸将からの再三の出馬要請にも応じず、一兵も動かす事もなく戦況を見守る。

西軍の敗戦が決定的になると「座禅陣」と呼ばれる捨て身の中央突破を敢行、大打撃を受けながらも堺に辿り着き海路領国薩摩に帰国して、東軍に恭順の意を現わして向島(桜島)に蟄居した。

その後、井伊直政や本多正信に拠る徳川家康への取り成しにより、島津義弘は赦免されている。

関が原合戦に於いて、天下分け目の勝敗を決めた小早川側近の勧誘諜略話には歴史的に大変重要な後日談があるが、それは後ほど明らかになる。


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京極高次

◇◆◇◆◇◆◇◆◇京極高次◆◇◆◇◆◇◆◇◆

京極高次(きょうごくたかつぐ)には秀吉の側室と成った姉とも妹とも言われる竜子(松の丸/京極殿)や、秀吉側室・淀の方の妹・初が正妻だったコネクションが在った。

確かに、これでは「女の尻で大名に成った」と言われ、「尻の七光(閨閥)・蛍大名」と陰口を叩かれる出世だった。

高次(たかつぐ)が、その竜子(松の丸/京極殿)や妻・初(浅井初/淀の妹)のお陰で出世したと陰口を叩かれた「尻の七光(閨閥)・蛍大名」の汚名を返上したのは関が原の合戦である。

天下人・豊臣秀吉が亡き後の千六百年(慶長五年)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。

会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は翌々日の六月十八日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間の事を頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康の軍勢に伴わせる。

弟の京極高知は当初から秀吉に仕え、千五百九十一年(天正十九年)に近江国蒲生郡五千石、千五百九十三年(文禄二年)に信濃伊那郡六万石、翌年には十万石に加増されている。

京極高知は、兄・高次の大津城六万石より禄高は大きかったが、秀吉の死後は兄・高次の与力大名として兄の家老・山田大炊とともに徳川家康に従い東北に出兵する。

一方、石田三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍への加勢を求められる。

これに対して家康の東軍からも再三の書状により大津城の堅守を頼まれた高次は、大津城の守りが弱い事から一旦は西軍へ属する事を決め、大坂へ嫡子の熊麿(くままろ/京極忠高)を人質として送り大津城を訪れた三成と酒を酌み交わす。

そして関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍・徳川家康に伝えている。

イヨイヨ大阪方西軍が家康討伐の兵を挙げた九月一日、高次は西軍と共に大津城を発ち翌二日には越前の東野へと至るが、東野から海津を経て船で大津城へと軍勢を引き返す。

更に三日には大津城に兵を集めて兵糧を運び込み、浅井三姉妹の長女・淀殿の妹である二女・初(常高院)とともに籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝える。

京極高次の裏切りは西軍の立花宗茂により大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関に居た毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せ、さらに立花宗茂軍がこれに加わる。

七日に成ると、大津城への西軍の寄せ手は一万五千ともその倍以上とも言われる数に増し包囲攻撃を開始したが、高次は城を死守し、容易に城攻めは捗(はかど)らず、城にむけ大砲が打ち込まれる。

十一日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、翌十二日に堀は埋められ、十三日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが二ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。

戦況絶望的な中、浅井三姉妹の長女・淀殿の妹である二女・初(常高院)が篭城するも在り、十四日には西軍拠り和平の使者が送られるが高次は拒否した。

しかし高次は、亡き秀吉の正室・北政所(木下ねね/おね/高台院)の使者・高台院付きの筆頭上臈・孝蔵主(こうぞうす)の説得を受け、京極家老臣・黒田伊豫の説得もあり夜になって降伏した。

十五日に成って朝には、城に近い園城寺で剃髪し七十人程の兵と共に宇治へと去り、その高次は後に紀伊に向かい高野山に入った。

漸く大津城を開城させた西軍だったが、その十五日朝には関ヶ原の戦いが始まっており、正午過ぎには西軍が総崩れとなった為、結局高次の篭城により大足止めされた毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は関ヶ原に参陣する事ができなかった。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は高次の大津城篭城戦の功績を高く評価し、高次は井伊直政からの使者を受け早々に高野山を下りる様に伝えられる。

始めはこれを断った高次だが、更に甲賀組差配・山岡道阿弥(やまおかどうあみ/景友・かげとも)を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山して大坂で家康に会い、若狭一国八万五千石へ加増転封される。

京極高次(きょうごくたかつぐ)は、この千六百年(慶長五年)関が原合戦の年十月に領国・若狭小浜に入り、翌年には近江高島郡の内七千石余りが加増される。

尚、弟・高知は、関ヶ原の戦いで最前線で抜群の功をあげ、丹後守を称する事を許されて丹後国一国・十二万三千石を与えられ国持大名となっている。


京極高次の正室・浅井初(あざいはつ/常高院・じょうこういん)は、北近江国小谷城主・戦国大名・浅井長政と尾張国・織田信秀の娘・市(織田信長の妹)の間に、所謂浅井三姉妹の二番目の娘として生まれた。

姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠・正室(継室)の江(崇源院)で、他に兄の万福丸と異母弟の万菊丸がいた。

千五百七十三年(天正元年)、初が三歳に成った頃に越前国主・朝倉義景(あさくらよしかげ)と伯父・織田信長との間に戦が起こり父・浅井長政は朝倉方に加勢して伯父・織田信長と交戦する。

浅井勢は善戦するも、小谷城は織田方に包囲され父・長政と祖父・久政の自害により落城してしまう。

母の市と三姉妹は織田方の藤掛永勝に小谷城から救出され、以後親子四人は織田家の下で保護をうける事に成る。

実際に妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護したのは織田信秀(おだのぶかね)の五男・信包(のぶかね)で、信長の同腹の弟にあたる。

千五百八十二年(天正十年)六月、本能寺の変で伯父の織田信長が明智光秀に討たれた為、その光秀を山崎の合戦で討った羽柴秀吉が織田家中で発言力を強める中、筆頭家老・柴田勝家が秀吉と織田家後継者問題で対立をして行く。

その後継者問題で開かれた清洲会議によって母・市は織田家の有力家臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹を連れ子に越前国北ノ庄城へ移る。

信長の妹・市が織田家の有力家臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹を連れ子に越前国北ノ庄城へ移た翌年、清洲会議がきっかけで対立していた柴田勝家と羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦で雌雄を争い、敗れた勝家は居城・北ノ庄城に撤退篭城するが、その落城のさいに市は勝家と共に自害した。

北ノ庄城を落ち延びた浅井三姉妹は、敵方の総大将・羽柴秀吉の庇護をうけ、その監視下で生活する事に成る。

千五百八十七年(天正十五年)、数えの十九歳に成っていた浅井初(あざいはつ)は秀吉の計らいにより浅井家の主筋にあたる京極家の当主であり従兄弟でもあった京極高次と結婚する。

千六百年(慶長五年)、秀吉の死後に五奉行の一人、石田三成と五大老の筆頭・徳川家康が対立し、石田三成ら(西軍)が挙兵する。

京極高次は三成側につくと思わせ、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して東軍に属し篭城戦を行い石田方西軍一万五千以上を足止めにして西軍の兵力を分散させる事に成功する。

高次は関が原本戦当日に開城したものの、西軍を足止めした功績で京極高次は若狭一国・小浜八万五千石)を与えられる。

関が原から九年後の千六百九年(慶長十四年)夫・高次が亡くなり、浅井初(あざいはつ)が剃髪・出家して常高院と号する頃、から姉の茶々(淀殿)が豊臣家の実権を掌握し、甥・豊臣秀頼を立てて徳川家康(妹・江の舅)と対立する。

常高院(浅井初)は豊臣方の使者として仲介に奔走し、千六百十四年(慶長十九年)の大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ両家の和議に尽力した。

千六百十五年(慶長二十年)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘・奈阿姫(後の天秀尼)の助命を家康に嘆願するなど、最後まで姉・浅井茶々(淀殿)と妹・妹・浅井江(徳川秀忠室/崇源院)の血縁を生かして奮闘している。

浅井三姉妹の中で、関白秀吉の側室にして二代・秀頼生母の姉・茶々(淀殿)と、征夷大将軍・徳川二代・秀忠正室・江(ごう)と比べ、二女の初(はつ)は夫・京極高次が中堅大名だった為に格下の家に嫁いだと思われ勝ちである。

しかし、出自も定かではない新興の豊臣氏や郷士上がりの松平・徳川氏に比べ、京極氏は室町時代に数ヶ国の守護を兼ね、四職(室町幕府の侍所長官を交代で務める家柄)に列した名門の大名家であり、血統からすると一番格上の家に嫁いでいる。

また、元の京極氏は北近江の守護職領主でもあり、北近江の国人の一つであった浅井三姉妹の実家・浅井氏の直接の主筋に当たる。

高次と初(はつ)の間に子は無く、妹・江の娘で二代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とした。

側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)など夫・高次の子がいた。


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細川忠興(ほそかわらだおき)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇細川忠興◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「光秀、どうやら形が着いたようだな。」

「うむ、上々じゃ。だが、細川に嫁がせた娘(玉姫・ガラシャ)も見殺しにしてしもうた。あれは流石に不憫じゃった。」

「光秀、わしら雑賀衆が玉さまをお助けしょうとしたのを、お主は何故止めた。」

「孫市、嫁に出せば細川の妻じゃ。何処から漏れぬとも限らん故、わしが生きて居るとは教えられぬ。」

「おかげで玉さまは、謀反人光秀の娘のまま、逝ってしまわれたは。」

明智玉は、明智光秀の三女で、十五歳の時に主君織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡男・細川忠興(ただおき)の妻に嫁いでいた。

それが、関が原の合戦の折に夫の細川忠興が父の藤孝と共に東軍徳川方に付いた為、西軍石田方の人質を恐れて玉は自害している。

「玉の死は、三成には痛かっただろうな?」

「計算通りには行かぬものよ。あれでまた、大名の多くが三成を見限った。」

「うむ、不憫じゃが玉姫(ガラシャ)を助ければこの企みが為せなんだからな。」

「その通り、じゃからわしも諦めた。」

明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉姫)の夫・細川忠興(ほそかわただおき)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流の和泉上(半国)守護家である細川藤孝の長男として京都に生まれている。

父・藤孝が将軍・足利義輝に仕える幕臣だった為に、足利義輝の命により同じ一族である奥州家の細川輝経の養子となる。

ただしこの養子縁組は系譜上のもので、細川忠興は養子縁組の後も京都に在って実父・藤孝と行動をともにし、領国・和泉国の上半国も継承した。


三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後、父・細川藤孝は尾張・美濃の大名織田信長を頼って義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立した。

やがて信長と義昭が対立すると父・細川藤孝は信長に臣従し、忠興本人は信長の嫡男・信忠に近習として仕えた。

細川忠興は、天正五年に起こった紀伊国の紀州征伐に加わり十五歳で初陣を飾っている。

また忠興は、信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父・藤孝やその僚友・明智光秀と共に落として信長直々の感状を受け、さらに天正七年の一色攻めでは、信長の命を受けて父・藤孝や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼす功を挙げている。

その年(天正七年)忠興は、信長の仲介を受けて明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)と結婚、この時信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

翌年の天正八年、父・藤孝は功により一色義定領を除く丹後一国十二万石の領主となる。


主君・織田信長の天下布武は目前に迫っていた。

所が、千五百八十二年(天正十年)妻・ガラシャ(玉姫)の父・明智光秀が突如謀反を起こし主君・織田信長が本能寺に討たれてしまう。

この本能寺の変の後、明智光秀と中国大返しで戻って来た羽柴秀吉が山崎の合戦で合間見える時、細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。

この後細川忠興は、山崎の合戦に勝利し柴田勝家との賤ヶ岳の合戦をも征して天下統一を推し進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え丹後領有を許され、小牧・長久手の戦いに参加して功を挙げ、翌年従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた。

その後も細川忠興は、九州征伐や小田原征伐、文禄の役にも出兵している。

千五百九十八年(慶長三年)、天下人豊臣秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、翌年には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らと共に石田三成襲撃に加わった。

その年、実権を握った大老・徳川家康から豊後・杵築六万石を加増され丹後十二万石と併せて十八万石を領している。

関ヶ原の戦いでは、細川忠興は徳川家康に与して東軍に参加している。

石田三成が大阪に挙兵した時、細川忠興は徳川家康の下で上杉討伐軍に参陣していたが、豊臣恩顧の有力大名である上に、父・藤孝と正室・ガラシャ(玉姫)が人質として在京していた為にその去就が注目されたがいち早く東軍に入る事を表明し、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

この夫・忠興の決断の為に、伏見に人質として留め置かれていた妻のガラシャ(玉姫)は西軍の襲撃を受け、石田三成方の人質となる事を拒んで自害を余儀なくされた。

また、父の藤孝(幽斎)は忠興の留守を守り丹後田辺城に籠城したが、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦い前に開城して敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入っている。

一方、関ヶ原の戦いに勝利した東軍に付いた細川忠興は、関ヶ原合戦の本戦で黒田長政らと共に石田三成本隊と激闘を演じ、首級百四十ほどを上げその功績から、戦後家康から豊前中津藩三十九万九千石の大藩に加増移封され、その後豊前小倉藩四十万石に移り小倉城を築城する。

その後の豊前中津藩・細川忠興であるが、千六百十四年(慶長十九年)、朝廷から征夷大将軍に任じられた徳川家と豊臣家の間で大坂の陣が起こり、細川忠興は徳川方に付くが三男の細川忠利が参陣し、忠興本人は大坂冬の陣の戦闘には参戦していない。

六年後、忠興は三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。

千六百三十二年(寛永九年)、家督を譲った忠利が肥後熊本藩五十四万石の領主として熊本城に移封されると忠興は熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とし、千六百四十五年に没した。

これは余談だが、この細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)が初代藩主となった細川藩は中々商売上手で、肥後ずいき(随喜・芋茎)を特産品に育てて藩の財政に役立て、その特産品は今に伝わっている。

特産の性具・肥後ずいき(随喜・芋茎)は、江戸時代から芋茎(いもがら)を使ってこけし形に作ったの伝統ある熊本の特産品である。

まぁ何時(いつ)の時代でもこの手の事は熱心であるから、使用すると女性がムズ痒(かゆ)さの為に大いに大胆になる所から大奥で珍重された為、細川藩が徳川将軍家への献上品に定め、「参勤交代のお土産として持参した」と文献に残っている。


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藤堂高虎

◇◆◇◆◇◆◇◆◇藤堂高虎◆◇◆◇◆◇◆◇◆

石田三成には、その性格的な穴が在った。

三成もまた秀才で在ったが為に、他の武将を愚か者と「侮った」のである。

しかし武将達は、三成に恩賞分配の権限が無いに等しい事を見抜いていた。

豊臣家と言う御輿を担ぎ、毛利を名目大将に据えての無理な布陣だった。

関が原で敗れた石田三成は伊吹山で捕らえられ、京都六条河原で処刑される。

三成は最後まで、「クールだった」とその人柄は伝えられている。

純粋で無茶な奴は扱い易いから権力者に好かれるが、何を考えているか判らない策士は反対に気味悪がられる。

しかし純粋は諸刃の剣で、まかり間違うと一途に嵌ってまったく扱い難い存在になる。


秀吉が才を愛した石田三成は、秀吉にとって判り易く扱い易い存在だったのかも知れないが、その純粋さ故に余りにも敵を作り過ぎたのではないだろうか?。


この天下分け目の決戦だけは、明智光秀もジッとはして居れず、「南光坊」と名乗って家康本陣に出向いて、僧形のまま家康の傍らで作戦に助言している。

この時点では家康方に付いたとは言え、秀吉恩顧の有力大名は多数残っている。

彼らは小利巧を鼻に掛ける石田三成が憎かっただけで、豊臣家まで滅ぼす気はない。
加藤や福島達である。

従って家康の戦後処理は、慎重だった。

三成ら厄介者を除いただけで豊臣家は残すが、家格は六十万石程度の一大名扱いにして力を削ぐに留まった。

しかし、これで完全に天下の実権は徳川家に移っていた。


千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。

徳川家康は朝廷より、「源氏の長者」と「征夷大将軍」の位を賜ったのである。

「源氏の長者」は公家の最高位であり、「征夷大将軍」は武士の最高位である。

どちらも一人で、公家・武士伴に指示監督できる強力な権限だった。

朝廷がそこまで認めては逆らえば逆賊で、そのうち豊臣恩顧の大名達も、家康を天下人と認めざるを得なくなる。

実は、関が原の戦いに家康も南光坊(光秀)も大誤算が在った。

息子・秀忠が率いた徳川勢主力三万五千が信州上田の真田家の攻略に手間取り、関が原に遅参した事で加藤清正、福島正則ら石田三成嫌いから東軍(家康方)に味方した秀吉恩顧の大名に義理が出来た事に拠る計算違いである。

秀忠は家康の脇に置かれて然したる実戦経験も大軍を指揮した経験も乏しく、真田方に翻弄されたのである。
,br> この件、家康も秀忠の関が原遅参を叱責しては見たが、経験乏しき秀忠に中仙道進軍を任せた反省をする事もしきりだった。

この頃秀忠は秀忠で、一つの謀略を始めていた。

二代将軍・秀忠は、関が原の戦の仕置きが決着し江戸に凱旋する前夜、密かに比叡山へ使いをやり、天海僧正を京の都に呼び寄せて会っていた。

「久しいのう、秀忠殿。」

天下の将軍相手に、天海の秀忠への挨拶は、親し気で無遠慮だった。

「おぅ天海殿、遠路の呼び出し済まんのぅ。」

「なぁに案ずるな、こちらの方が将軍様より身軽じゃで。」

「所で天海殿、やはり幕府を磐石にするには雑賀と伊賀を使わねばなるまい。」

「如何にも、さしずめ前田利長、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政と言った所か・・・」

「お見通し・・・か。」

「見通さいでか、承知申したぞ将軍・秀忠殿。早速取り掛かるでお任せあれ。」

「この仕儀、大御所には申し上げて無いが。」

「それも承知しておる。闇の仕事はわれら二人の闇の中じゃ。」

この関が原合戦に際して東軍で活躍した武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)に関しては、どうも豊臣秀吉と同じ山窩(サンカ・サンガ)出自の疑いがある。

それは高虎(たかとら)に(山窩(サンカ・サンガ)出自を顕す土木技術や築城術を持つ集団を抱えている特徴と、何よりも豊臣秀吉や豊臣秀長に過分に可愛がられていた点である。

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、土豪・藤堂源助虎高の二男として近江犬上郡藤堂村に生まれた。

一介の土豪の出自に過ぎ無い高虎は、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えたのを皮切りに北近江の土豪・阿閉氏、磯野氏と次々と主君を代え、次いで織田信長の甥である津田信澄、そして羽柴秀吉へと仕え、最後は豊臣家から徳川家康へと鞍替えを為すなど主家を転々としながら出世を果たした。

当初は仕えた主君に難が在り高虎(たかとら)も不運だったが、羽柴秀長(羽柴秀吉の弟)に仕えてからは何故か秀長に可愛がられて漸く出世への糸口を掴んだ。

羽柴秀長に仕えた時点で、既に高虎(たかとら)はその築城の技術などが認められて三千三百石の知行を拝領して武将の列に入っている。

その後起こった主君秀長の兄・羽柴秀吉と柴田勝家との織田旧主・信長の天下布武(てんかふぶ) の継承権を掛けた決戦・賤ヶ岳の戦いで高虎(たかとら)は目覚しい武功を立てて秀吉の目に留まり、秀吉から直接五千石を拝領する出世劇を得た。

羽柴軍団の将に出世した高虎は羽柴秀長子飼いの中堅の将として仕えて活躍し、秀長の大和国移封にともない一万石を加増されて一万五千石を拝領し小なりとも大名の名乗りを上げるに到った。

その後の秀吉九州征伐への従軍で更なる軍功を立てた高虎は更に一万石の加増を得て二万五千石とし、中堅大名を狙える所まで出世した。

豊臣政権に在って高虎は単に武功によるものだけでなく、実質豊臣政権の屋台骨を背負った豊臣(羽柴)秀長の懐刀として外交や人事、築城と言った官僚技術面でその才能を開花させ、巨大化した豊臣政権の運営には欠く事のできない人物と言う位置を獲得して行く。

豊臣政権が成立して諸大名を抑えての平時の運営に必要なのは優秀な官僚で、その難局に高虎は政治力で良く応えた。

豊臣家ではその高虎の能力を重視し、高虎を従五位下佐渡守に叙任して豊臣家の官僚として諸大名との調整役と言う潤滑油のような役割に使っている。

主君・豊臣秀長が病没し秀吉が文禄の役(朝鮮征伐)を始めると、高虎はまだ若輩の豊臣秀保(秀長の養子/秀吉の姉・日秀の子)を盛り立てて、朝鮮の役に出陣した。

文禄の役では、高虎は水軍を指揮して朝鮮水軍と戦ったが連戦連敗と言う散々な敗北を喫してしまう。

その最中に主君・豊臣秀保が十六歳歳と言う若さで病没、主家である秀長・秀保の豊臣家は解体され行き場を失った高虎は、朝鮮海戦敗退の恥辱と主家の倒壊を嘆いて剃髪して高野山に入ってしまう。

しかし秀吉は、高虎のその才能を惜しみ高虎を召し出して伊予板島(宇和島)七万石を与え直臣とする。

その高虎は、秀吉が没するといち早く次の天下人は徳川家康に成ると予見して高虎は家康に接近した。

この辺りの高虎の行動に、豊臣秀頼の実父が「本当に秀吉」に疑問を持つ高虎の行動があったのではないだろうか?

徳川家康と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦いでは高虎は東軍・家康方に付いて軍功を挙げ、戦後の論功行賞では家康から伊予半国を拝領し二十万石の中堅大名へとのし上がった。

高虎は今治城を居城と定め、外様大名でありながら徳川家康に信任され、その後の政局で活躍して行く事になる。

藤堂高虎はその後も家康に仕えて信任を得、大坂城の豊臣秀頼の備えとして伊賀一国を拝領して伊勢安濃津城への移封となり、二十二万余石の大名となった。

以後、藤堂家は外様大名でありながら、譜代大名の井伊家と並んで徳川家の先鋒を勤める名誉ある家柄となり、大坂夏の陣で高虎は八尾で大坂方の長宗我部盛親と交戦した。
つまり秀吉恩顧の大名と言うよりも早くに親徳川に走った武将だった。


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池田輝政

◇◆◇◆◇◆◇◆◇池田輝政◆◇◆◇◆◇◆◇◆

源頼光の末裔を自称し、頼光の四世孫でかつ源(三位)頼政の弟にあたる源泰政が始めて池田氏を称したとされる美濃池田氏の池田輝政(いけだてるまさ)は織田家の重臣・池田恒興(いけだつねおき)の二男である。

織田信長に仕え、輝政(てるまさ)は兄・池田元助(いけだもとすけ)と共に近習として従う。

信長に従って各地を転戦する輝政(てるまさ)だったが、特に頭角を現したのは弱冠十六歳の折の荒木村重の謀叛に拠る摂津花隈城攻めで北諏訪ヶ峰に陣取り、抜群の軍功を立て信長から感状を授けられた。

荒木村重の乱を沈めると、父・池田恒興(いけだつねおき)が信長より摂津国を拝領し、輝政(てるまさ)は父・恒興とともに尼崎城に入った。

本能寺の変が起こり明智光秀に包囲された信長が自刃した後は、池田輝政(いけだてるまさ)は父・恒興(つねおき)と共に羽柴秀吉に属し、山崎の合戦の後は父・恒興(つねおき)が美濃大垣城主となり、池田輝政は別に摂津池尻城を拝領する。

臣従する羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが起こり父・恒興と兄・元助(もとすけ)が討死し、羽柴秀吉と徳川家康の間に和議が成立すると、輝政はその遺領を受け継ぎ美濃大垣城主となり後に美濃岐阜城に移っている。

池田輝政は紀州雑賀攻めや佐々成政征伐の為北陸へ遠征、その後、九州平定戦、小田原征伐、会津征伐と各地を転戦しその功により三河吉田十五万二千石を拝領し、秀吉の命により徳川家康の息女・督姫を娶っている。

実はこの徳川家康の二女・督姫(とくひめ)は再婚で、前夫は後北条家最後の当主・北条氏直である。

この婚姻の経緯であるが、甲斐・武田氏滅亡後の徳川氏と北条氏に拠る旧武田領争奪の和睦として北条氏直が督姫(とくひめ)を娶り、徳川家康が北条氏直の義父となる事で両家間の和平が保たれていた。

所が、千五百九十年(天正十八年)に、豊臣秀吉が小田原攻めを起こして北条氏は滅亡する。

この北条氏滅亡の時、北条氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命され高野山に流された後に赦免された為、督姫(とくひめ)も氏直の下に赴くも、その翌年に氏直が死去した為に家康のもとへ戻っていた。

その督姫(とくひめ)に目を着けた秀吉が計らい、輝政と再婚させたのである。

文禄・慶長の役(朝鮮の役)では輝政は遠征に参加せず、三河吉田に在って東国警備の任を秀吉に命じられていた。

秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いでは義父・家康の娘婿として東軍に属し、同じく東軍に属した福島正則と戦功を争った。

関ヶ原戦後、池田輝政は一連の戦功により播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした。

池田輝政は、千六百十三年(慶長十八年)に姫路城にて急死、死因は中風とされるが当時の見立て故にその精度は定かでは無い。

輝政没後の池田家は、家康二女・督姫の子供達が継ぐ事になり、外様ながら松平姓を許されて徳川家縁者の家格を得ている。

家康は余程二女・督姫の子供達(外孫)が可愛かったのか、池田輝政没後の播磨五十二万石の家督を嫡男・利隆が継ぐのを許した外に二男・池田忠継には備前国岡山城二十八万石、三男・池田忠雄には淡路国洲本城六万石を与えている。

千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いに勝利した豊臣政権五大老の筆頭・徳川家康は、朝廷から源氏の長者と征夷大将軍に任命され、南光坊天海(明智光秀)からの助言の下いイヨイヨ江戸に江戸幕府を構築し始める。

この頃はまだ一大名(六十五万石)程度に小さくされたとは言え豊臣家も存在し、秀吉恩顧の有力大名も多数残っている。

そこで家康は、徳川家の征夷大将軍職の世襲を世に知らしめる為に将軍職と江戸城を徳川秀忠(とくがわひでただ/二代将軍)に譲り、自分は大御所を名乗って駿府城に隠居、二代将軍・秀忠の後ろ盾を任じながら諸将に睨みを利かせる。

千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。

この春慶長八年、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府が成立 、次いで豊臣秀頼が内大臣に任じられて、応仁の乱以来長く続いた戦乱の世が、家康のほぼ天下統一でやっと落ち着こうとししていた。

源氏長者・征夷大将軍を任じた徳川家康は、翌千六百四年(慶長九年)につかの間の予定で江戸城に戻って来た。

まだ豊臣家の処置は残っていたが、未だ豊臣恩顧の大名は数多く残っていた。

家康は六十一歳に成って居たが、時の流れが速く感じられるがまだまだ自分には京の都と大阪でやる事が残っている。

その一つは豊臣家の始末で在る。

ここからが、「待ちの家康の本領発揮」である。

豊臣秀吉死後、着々と強大な影響力を着けた五大老筆頭・徳川家康討伐を目指し、佐和山へ隠居していた元五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将に担ぎ蜂起した関ヶ原の戦いで、三成ら西軍は家康の東軍に撃破される。

この西軍敗退を期に実権を握った徳川家康は戦後処理や論功行賞の主導権を握り、意のままに処して既に天下は家康に移っていた。

関が原の合戦の後、天下の形勢は勝利した徳川家に大きく傾き、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任じて武門の長と認め、関白・豊臣家の天下への影響力は急速に衰えつつ在ったのだ。

この関ヶ原戦の戦後処理の際、家康は豊臣家の力を削ぐ為に二百十万石在った蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約六十五万石程度まで削ってしまう。

実質最高実力者に成った徳川家康は、朝廷に働きかけて伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくる為に江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。

この時徳川家康は、豊臣秀吉の武将達の扱いを反面教師として学習していた。

前最高実力者の豊臣秀吉は、配下の武将達に大盤振る舞いをして、五万石、十万石、半国、一国と分け与えている。

挙句に、豊臣家直轄領は徳川家より少ない二百十万石で、配下の有力大名の武将達に異心あらば危うい情況も生まれて来る。

つまり家康は、江戸幕府を磐石なものにする為に圧倒的な直轄領八百万石を有する事で他大名に異心を起こさせぬ方策を、その後採る事になる。

徳川家康はこの時既に天下の実権を握っていた。
天下の実権が豊臣家から徳川家に移る過程のこうした時に、旧主筋として別格的存在となる豊臣家への対処を家康は迫られる事になる。

諸侯を心服させ安定した政権を造る為には、徳川家に豊臣家が服属するか処分するかの二つに一つしか道は残されていなかった。

そうした情況下で、秀吉の遺言に基づき徳川秀忠の娘である千姫が豊臣家二代当主・豊臣秀頼に輿入する。

将軍家と成った徳川家康は、幕府を開く為に戻っていた江戸から千六百五年(慶長十年)正月に再び上洛する。

続いて徳川家継子・徳川秀忠が、天下人が徳川家である事を示す様に十数万の兵と伊達政宗ら奥羽の大名を従え率いて上洛する。

この時点で、家康は天下の実権を徳川家で世襲継承して行く意志を示す為に、将軍職を辞して将軍職を継嗣の秀忠に譲り大御所となる。

しかしこうした家康の腐心にも心配事は在った。

そこで問題なのが世間に知らしめる官位の序列である。

慣例に拠る朝廷での豊臣家の官位は最高位・関白であり、豊臣秀頼も順調に昇任を重ね、徳川秀忠の将軍就任時の官位が内大臣で在ったのに対し秀頼は右大臣に成っていた。
つまり秀吉の子として元服を前に関白就任への可能性を残す豊臣秀頼は、徳川家にとって依然無視出来ない存在だったのである。

豊臣秀頼に関白になられてはどちらが上位なのかの問題が生じ、それを阻止するには豊臣家を徳川家に服属させる以外に策はない。

大御所・徳川家康は、高台院(北政所/おね・ねね)を通じて秀頼の生母・淀殿に、秀頼に対して臣下の礼を取るように要求するなど友好的対話を求めたが、淀君がその会見を拒否した為両者の関係は悪化し家康が六男・松平忠輝を大坂に遣わして融和に努め沈静化を為している。

家康は、関が原の戦いに勝利し軍師として参陣した南光坊・天海(光秀)との別れ際の会話を思い出していた。

決着が着いた南光坊・天海(光秀)が「比叡山松禅寺に戻る」と暇乞いにやって来たのだ。

「おぅ天海殿、これでどうやら先が見えたな。」

「大御所、やはり大阪をお潰しに成り申すか?」

「止むを得まい。淀には不憫じゃが、豊家(豊臣家)を残せば後の天下大乱の元じゃでな。」

「仰せの通りでござる。」

「今ひと働きせねばなるまい。」
,br> 「これを最後になされませ。」

「その積りじゃで、お主も知恵を絞ってくれぃ。頼みもうしたぞ。」
「もとより、心得てござる。」

家康はこの時点で、いずれ決意する時が来る事は覚悟していたのである。

千六百十一年(慶長十六年)、御所では後水尾天皇が後陽成天皇の譲位を受けて即位する。

この即位に際して上洛した家康は豊臣家に秀頼の上洛を求め、二条城での秀頼との会見を要請する。

秀頼が二条城に出向いて家康と会見すれば天下に豊臣家の服属を示す事になる為、豊臣家内では反対もあったが、豊臣家存続を優先する加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は何とか実現する。


この年から徳川家康は江戸に将軍・秀忠の幕府を置いたまま、二条城を居城に二元政治を始め、家康は在京の大名二十二名を二条城に招集させて「幕府の命令に背かない」と言う誓詞を提出させている。

その翌年(慶長十七年)になると東北・関東などの大名六十五名からも同様の誓詞をとっている。

この時点で、家康は豊臣家の討伐を選択していたのだ。

関が原の合戦から十一年、千六百十一年(慶長十六年)になると、この頃には恩顧大名の当主も息子達に代替わりを始めていた。

秀吉恩顧の有力大名、加藤清正や堀尾吉晴、浅野長政、千六百十三年(慶長十八年)には浅野幸長、池田輝政などが次々と死去、余りに豊臣家が孤立を深めて行った為に徳川方による毒殺説さえもある。

確かに余りにも立て続けなので個々の病死ではなく、秀吉の命に拠る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が何らかの半島の風土病を彼等に感染させ、諸侯の命を短かくしたのではないだろうか?

或いは、徳川家の命を受けた闇の仕事師(忍び)が、暗躍したのだろうか?

時の流れに抗すべくも無く、前田利長、加藤清正など豊臣家が力と頼む有力武将が、櫛のはが欠ける様に次々と病死して行く。

中でも加賀の大身・前田利長亡き後は豊臣家を支える大々名の部将はいなくなる。

前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖である父・前田利家と母・芳春院(篠原一計の娘・篠原まつ)夫婦の長男(嫡男)として生まれるが、まつの母親が高畠直吉と再婚した為に、高畠まつと言う記述も残っている。

利長が成長した頃は、ほぼ豊臣秀吉が天下を手中にした頃で、若き前田利長は父の軍勢よりも豊臣秀吉・旗下の直臣の将として転戦し、秀吉恩顧大名の内に数えられていた。


賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には利家嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。

その父・利家亡き後の五大老職を嫡男・利長が継いで居たのだ。


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織田信包(おだのぶかね)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇織田信包◆◇◆◇◆◇◆◇◆

織田信長の兄弟で、気性激しく個性的な信長と上手く行っていた弟は織田信包(おだのぶかね・信秀の五男)只一人である。

母は兄・信長と同腹の土田御前で、お市の方(秀子)も同腹と伺える。

織田家臣団の中では信長も認める有能な武将で、唯一織田一族の重鎮として各地を転戦し厚遇されている。

信包(のぶかね)は兄・信長に対して一定の発言力もあり、浅井長政の近江・小谷城を包囲、浅井長政の自害により妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護している。

織田信包(おだのぶかね)は北伊勢の支配を目論む兄・信長の命で北伊勢を支配していた藤原南家出自・鎌倉有力御家人・工藤祐経(くどうすけつね)の三男・祐政(すけまさ)を始祖とする長野(工藤)氏の養子として入り、長野(工藤)氏の第十七代当主となって一時長野姓を名乗ったが、同じ兄の命で長野氏を見限り織田姓に復帰している。

その後信包(のぶかね)は千五百七十五年(天正三年)の越前一向一揆や千五百七十七年(天正五年)の雑賀党攻めに参戦している。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変の時点では兄・信長の長男・織田信忠の補佐を任されていたのだが、兄・信長も信忠も討ち死に失っている。

本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)が雌雄を決した山崎の合戦に、織田信包(おだのぶかね)は羽柴方に付き、豊臣秀頼・大阪方西軍の石田三成と東軍の徳川家康の合戦、関ヶ原の戦いに際しては西軍に属して戦っている。

信包は関ヶ原敗戦後も家康の温情で罪を問われず、その後も信包は秀吉の嫡男・豊臣秀頼を補佐し続けたが、千六百十四年(慶長十九年)大坂冬の陣直前に豊臣家滅亡を見る事無く大坂城内で急死した。

大乱の戦国期(安土桃山)に在って、しかも織田信長の弟でありながら討たれたり断罪されたりする事無く、七十二歳と言う当時としては長寿を全うした所に、織田信包(おだのぶかね)の誠実無欲な人柄を感じる。

夫・浅井長政の近江・小谷城落城と長政の自害後、助け出されて兄・織田信包(おだのぶかね)に茶々、初、於江与の三姉妹と伴に保護されたお市の方(おいちのかた/秀子)は、兄・信長の命により近江・小谷城(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚している。


織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。

その後姉川の戦いで勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を残して滅亡する。

近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市との間に出来た三姉妹の長女が、通称淀君(よどぎみ)と呼ばれる女性である。

この通称・淀君(よどぎみ)の本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)、朝廷よりの賜名は浅井菊子(あざいきくこ)、官位は従五位下とされ、淀君(よどぎみ)または淀殿(よどどの)は後の江戸期に便宜上呼ばれる様になった名である。

勘違いして貰っては困るが、妾室の淀君(よどぎみ)が例え正妻で在ったとしても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、淀君(よどぎみ)の名乗りは官賜の浅井菊子(あざいきくこ)か実家の浅井茶々(あざいちゃちゃ)である。

賜名の菊子(きくこ)は公文書の署名のみで、普段は生涯茶々(ちゃちゃ)で通している。

つまり茶々(ちゃちゃ)本人は淀君(よどぎみ)の名を使った事も呼ばれた事も無い。


織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、織田信包(おだのぶかね)の下、厚遇されて九年余りを尾張国で平穏に過ごしている。


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浅井三姉妹

◇◆◇◆◇◆◇◆◇浅井三姉妹◆◇◆◇◆◇◆◇◆

お市の方(おいちのかた/秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う秀吉に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。

しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。

この数奇な運命の三姉妹、その後も波乱含みの人生を送り、豊臣秀吉側室・淀殿(淀君/浅井茶々)・京極高次正室(常高院/浅井初)・徳川秀忠正室(崇源院/浅井お江与)に納まったが、豊臣秀吉の側室・淀殿(淀君/茶々)に到っては息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康と対立、大阪城で三度目の落城に合い息子・秀頼と伴に自害している。

秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間には、秀頼の前に長男・鶴松が居たのだが病で夭逝している。

秀頼は、秀吉の二男に当たるのだが、疑問が残るのは秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間に出来た二人の子供・捨(すて/鶴松)と拾(ひろい/秀頼)が「本当に秀吉の子だろうか?」と言う素朴な謎である。

長年連れ添った正妻・北政所「おね(ねね)」との間だけでなく、数多く居た側室(そばめ)との間にもいっこうに子を為せなかった秀吉が、茶々(ちゃちゃ)を二度も懐妊させ得たとは到底考えられない。

それに捨(鶴松)と拾(秀頼)の本当の父親を大野治長とする説、また石田三成とする説が有力で、片桐且元説も在る。

秀吉本人もその事は承知で、それでもなお茶々(ちゃちゃ)の母・市に憧れていた事や、茶々(ちゃちゃ)の産みし捨(鶴松)と拾(秀頼)が、即ち主家織田の血を引く事で、世継ぎとして満足していたのかも知れない。

この捨(鶴松)と拾(秀頼)の父親別人説を豊臣恩顧大名達が百も承知していた為に、関が原の合戦の折、大阪冬の陣・夏の陣に多数の恩顧大名が「東軍(家康方)に廻ったのではないか」と言う見方も在る。

正妻・北政所「おね(ねね)」が豊臣家滅亡を黙認してまで身内の子飼い大名達を東軍に廻らせた事も、父親別人説に信憑性を持たせている。

まぁ血統至上主義の世に在って、豊臣秀吉は徳川家康との子「作り合戦に負けた」とも言えるのである。


駿府に在った家康は、幕府の体制強化を目論んで外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が武家を統制するために定めた法令で、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い後に武家諸将から誓紙を取り付けた三ヶ条に十ヶ条を付け加え、二代将軍・徳川秀忠が千六百十五年(慶長二十年)七月に伏見城で発布(元和令)された。

その同じ年の同じ月に、同じく金地院崇伝(こんちいんすうでん)の起草に拠る「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」も公布されている。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立する為に定めた法令で、禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目とも呼ばれた。

幕府は、千六百十三年(慶長十八年)「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、朝廷の行動を制約する法的根拠を得る為に漢文体全十七条の禁中並公家諸法度を朝廷に突き付ける。

禁中並公家諸法度は、徳川家康が臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて起草させ、千六百十五年(慶長二十年)七月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって公布され、同時に、武家を統制するために定めた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」も幕府が制定し、公布されている。

この禁中並公家諸法度に拠り、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得、江戸時代の公武関係を規定するものとして江戸期を通じて一切改訂はされなかった。

尚、千六百三十一年(寛永八年)に当時の後水尾上皇主導(幕府は間接関与)で青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進と伴に公家の統制を一層進める為に「若公家衆法度」が制定され、これが禁中並公家諸法度を補完するものとなった。


隠居して駿府に在った家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)は徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。

崇伝(すうでん)は、閑室元佶や板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係する。

崇伝(すうでん)は、徳川家のブレーンとして豊臣家との決着の戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与している。

その後、崇伝(すうでん)は、千六百十六年(元和二年)家康の死去に拠る神号を巡り南光坊天海と争い、天海(てんかい)は「権現」を、崇伝は「明神」として祀る事を主張する。

実は崇伝(すうでん)の主張には根拠があり、徳川家の公称・源氏流はともかく元の松平家の賀茂流であれば家康の祭祀は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、「明神」が正しいからである。

崇伝(すうでん)は明神として祀る事を主張するが、天海(てんかい)は源氏流が征夷大将軍の任命条件であるを持って賀茂流の「明神」は不適切と譲らず、最終的には天海の主張する「権現」に決定する。

これはもしかしたらの話であるが、二代将軍・秀忠、南光坊天海、春日局の三人が実は明智流のトリオで在ったのなら源氏流で、賀茂流の「明神」は強行に反対するから金地院崇伝(こんちいんすうでん)には最初から勝ち目は無かった事になる。

その後十三ヶ条(元和令)だった武家諸法度(ぶけしょはっと)は将軍の交代とともに改訂され、三代将軍・徳川家光が参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え十九ヶ条(寛永令)、五代将軍・徳川綱吉はこの十九ヶ条を諸士法度と統合(天和令)している。

六代将軍・徳川家宣が武家諸法度(ぶけしょはっと)を新井白石に改訂(正徳令)させ、七代将軍・家継に引き継がれたが、八代将軍・徳川吉宗が五代将軍・徳川綱吉が定めた「天和令」に戻して改訂の止め置きを命じ、以後これをもって改訂は行われなくなった。


武家諸法度(ぶけしょはっと)は制定されたものの、一旦徳川家康が臣従した主家・豊臣家が存在すれば、豊臣家の政権擁立の一定の理由が存在する事になる。


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第三章

◇◆◇◆◇◆◇◆〔第三章(大阪の陣・豊臣家滅亡)◆◇◆◇◆◇◆◇◆

これから物語を進める大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。

一般にそれは「大坂の陣(おおざかのじん)」とも呼ばれ、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称である。

加藤清正や浅野幸長らの助力で秀頼が二条城に出向いて家康と会見する二条城の会談が実現し、両者の緊張は緩和したものと思われた。

だが、二条城の会談直後の慶長十六年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長十八年に成ると池田輝政・浅野幸長が、そして慶長十九年には家康に次ぐ大老として豊臣家の後ろ盾となっていた前田利家の前田家を継承した二代・前田利長が亡くなる。


関ヵ原では東軍に参陣した浅野幸長(あさのよしなが)は、近江国浅井郡小谷(滋賀県湖北町)に浅野長政の長男として生まれる。

父・浅野長政は豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟で、幸長も豊臣秀吉の直臣として功績を積み、父とともに甲斐国二十二万石を与えられて豊臣政権では五奉行家の内の一家となっている。

しかしこの浅野家は順調には行かず、秀吉と淀君の間に思わぬ実子・秀頼が誕生した為、実子・秀頼の天下人後継を策す秀吉の粛清により、関白・豊臣秀次(養子)の失脚事件が起こり、浅野幸長はそれに連座して能登(石川県東部)に配流された。

この時は、正室・おね(高台院)や前田利家・徳川家康ら五大老のとりなしもあって幸長はまもなく復帰が適っている。

秀吉没後、幸長は文禄・慶長の役の折に朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立し、前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃している。

翌年起こった関ヶ原の戦いでは、浅野幸長(あさのよしなが)は兵六千五百を率いて徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元・長束正家などの西軍勢を牽制した功績で、関ヶ原の戦の戦後に家康から紀伊国和歌山に所領三十七万六千石を与えられている。

大々名に出世した浅野幸長は豊臣恩顧大名でありながら余程家康の信用が厚かったのか、与えられた紀伊国は南から大阪を睨む位置にある。

しかしこの加増から僅か二年、浅野幸長(あさのよしなが)は和歌山で死去する。

この幸長の死、暗殺とも朝鮮から持ち帰った性病とも言われている。

浅野幸長に男子が無かった為に弟の浅野長晟(あさのながあきら)が浅野宗家の家督を継いだのだが、幸長の死の翌年から大坂冬の陣が始まり、その後の夏の陣を経て千六百十五年(慶長二十年)に豊臣家は徳川家康により滅ぼされた。

この大阪の役(大阪の陣)に於いてこの弟・浅野長晟(あさのながあきら)は多くの戦功をたて、浅野長晟(あさのながあきら)の代に安芸国広島藩の福島家が改易されたに伴い、浅野家は安芸国広島藩(四十二万石)に加増転封されている。


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方広寺鐘銘事件

◇◆◇◆◇◆◇◆◇方広寺鐘銘事件◆◇◆◇◆◇◆◇◆

百万石の大々名・前田利長が亡くなると、秀吉恩顧大名の主力のほとんどが代替わりと共に徳川家に臣従するか改易減封になって頼るべくも無く豊臣家は孤立して行く。

「あの無礼な狸おやじめ。」と淀が言ったかどうかは判らないが、徳川家の主家としていた淀殿のプライドはズタズタだった。

人間は、怒りを覚えても深呼吸一つで気分が変わる生き物である。

だが、この深呼吸が中々出来ない。

しかし怒りに任せてはろくな事に成らないのも事実である。

ただ大阪城の金蔵には、太閤・秀吉が溜め込んだ莫大な軍資金が在った。

孤立に焦った豊臣家は、資金を使って幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり兵糧や浪人を集めだして幕府との対決姿勢を前面に押し出し始める。

実はこうした緊張状態を、誰よりも待っていたのが家康である。

勿論家康も戦の準備は怠らず、大阪城攻略の兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じると共にイギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。

準備は整えつつ在ったが、家康はきっかけを探していた。

今後諸侯の上に立つ将軍家の立場として、主家筋である豊臣家を討つ事は秩序の否定に繋がり跳ね返って来ないとも限らない。

もはや「きっかけ待ち」だった家康は、主家筋である豊臣家を討つ事の倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩していた。

そのきっかけとして目を着けたのが、「方広寺鐘銘事件」である。

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は誰かの入れ知恵で、徳川家康が最初から書いた筋書きである。

豊臣家は過って羽柴秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を、徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が再建する事になった。

そしてその東山方広寺の修営が終わり梵鐘の銘が入れられた時、家康はその文言に重大な言い掛かりを付けたのである。

梵鐘の銘「国家安康」という句は家康の名を分断したものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」と解釈を為し、「徳川家を呪って豊臣の繁栄を願うものだ」と激怒して見せたのである。

無理に解釈した家康の言い掛かりに過ぎないが、これを受けた豊臣家は駿府の家康の下に片桐且元を弁明の為に派遣する。

所が、使者に立った且元は家康に目通りも許されずに狼狽する。

元々役者が違うのだから、且元は半ば家康に怯えていたのだ。

漸く本多正純や金地院崇伝(こんちいんすうでん)と言った家康の側近から、且元は「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、この内のどれかを選ぶように」との内意を受け大阪城に持ち帰る。

しかしはその全てが仕掛けた策謀で、今一人豊臣家の使者として駿府へ立っていた大蔵卿の局(淀殿や豊臣秀頼の乳母・大野治長の母)の持ち帰った証言に拠ると、「家康は機嫌良く会い、鐘銘の事には少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したと言う。

この報告の違いで家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、淀君は片桐且元の裏切りを疑った。

片桐且元の持ち帰った三ヶ条は、且元が「徳川家臣と示し合わせて豊臣家を陥れようとするものに違いない」と信じ込んだのである。

もし、それでなくとも且元の持ち帰った三ヶ条は徳川家康の「実質的宣戦布告」と受け取れる内容で、容認なら無い。

しかし和平派の片桐且元はその三ヶ条に妥協してでも交戦を避けようとする。

淀君は怒り狂って且元をなじり、結果、淀君の信頼を失った豊臣家の忠臣・片桐且元は大坂城を退去するに至っている。

この「方広寺鐘銘事件」のきっかけになった東山方広寺再建の家康の助言からして、秀吉の遺した軍資金を大な再建経費で消費させる事が目的であり、言い掛かりをつけた上で三ヶ条を提示し、それを持ち帰った片桐且元を放逐した事は「幕府に対する反抗意志である」と断定する口実を与えた。

大坂城攻撃を決定するに至る描いた筋書き通りに、事が運んだのである。

こうした状況下で、西国大名五十名から「幕府の命令に背かない」と言う誓詞をとって家康のもくろみは着々と進んでいた。

片桐且元・貞隆は大坂城を退去し、相前後して秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去するに到って期が熟すと、いよいよ家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言し、大坂冬の陣が始まっている。

豊臣家では戦争準備に着手し、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばして兵を募ったが諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、為に秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えとする。

この召抱えた著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。

また、豊臣家では兵糧の買い入れを行うとともに大坂に在った徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収し、徹底抗戦の体勢を取り始めた。


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大坂冬の陣

◇◆◇◆◇◆◇◆◇大坂冬の陣◆◇◆◇◆◇◆◇◆

浪人を併せた豊臣方の総兵力は約十万、浪人達は歴戦の勇士が多く士気も旺盛で、徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などだったが、いかんせん寄せ集めに過ぎない為に中々統制が執れず、結果、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなっている。

その寄せ集め浪人衆の一人真田信繁(さなだのぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は二段構えの作戦を主張し、まず畿内を制圧して近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍して来る徳川軍を迎え撃って足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無い時には初めて城に立て籠もって戦う策だった。

所が、豊臣家宿老の大野治長を中心とする家臣達は二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針で籠城を主張していた。

同じ浪人衆の後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り「敵を足止めすべし」と主張して豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派と対立した為に豊臣軍内部は二つに割れていた。

しかし大評定の末に大野治長ら豊臣家臣の籠城する作戦案で落ち着き、周辺に砦を築き防衛線を敷いて幕府方を迎え撃つ事になる。

天下の知将・真田信繁(幸村)は豊臣家に請われて大阪城に入ったが、残念ながら豊臣家にはこの一代の知将を生かす術を持たなかった。

真田信繁(幸村)が戦の作戦を立案しても、豊臣首脳は信繁(幸村)の進言のほとんどを却下した。

真田信繁(幸村)が縦横無尽にその力を発揮するには、豊臣首脳はその戦の全てを知将・信繁(幸村)に任せて置けば良かったのだが、度々信繁(幸村)を統制しに掛かって彼の能力を封じてしまった。

つまり豊臣首脳は、信繁(幸村)の知力よりも自分達の面子を重んじる愚を犯して、戦をより不利なものにしてしまったのである。

一方の幕府方であるが、徳川家康は豊臣方が戦の準備を始めた数日後に軍勢を率いて駿府を出発し、その家康の軍勢が十日ほどの行軍で二条城に入る頃、二代将軍・秀忠が六万の軍勢を率い江戸を出発している。

家康は二条城に入城二日後には作戦を開始し、藤堂高虎・片桐且元を呼び先鋒を命じている。

籠城を決めた豊臣方は、水も食料武器弾薬も豊富に備蓄していた事から、大坂城を浮城にしようと淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ様としたが幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、幕府方の被害は行軍に支障をきたす程度に止まっている。

幕府方の動員した兵力は約二十万に上ったが、豊臣家恩顧の福島正則や黒田長政が豊臣方に寝返るのを恐れて江戸城留め置きとし、その子達を大坂に参陣させている。

二条城入城から三週間後の幕府方がほぼ大阪を囲むように結集した頃、家康は二条城を出発して奈良経由で大坂に向かい、茶臼山陣城にて先着していた秀忠と軍議を行っている。

千六百十四年(慶長十九年)十一月十九日、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)の戦闘の火蓋は木津川口の砦に於いて切って落とされる。

その一週間後には鴫野・今福で、三日後には博労淵、野田・福島に於いて激しい戦闘が行われるが、数ヶ所の砦が陥落した後、豊臣方は残りの砦を破棄して大坂城に撤収する。

豊臣方が籠城した大坂城を幕府方は約二十万の軍で完全に包囲した頃、家康は方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布し、茶臼山を皮切りに各将の陣を視察し各将に仕寄(攻城設備)の構築を命じている。

各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に接近して行く。

この接近時に包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦が豊臣方の挑発に乗って始められ豊臣方が幕府方を撃退、幕府方諸隊に大きな損害を与えた。

信繁(雪村)の「敵をおびき寄せて叩く」は、父・真田昌幸(さなだまさゆき)譲りの真田家得意の戦法だった。

以前昌幸(まさゆき)は信州上田の城攻めで、散々に徳川秀忠軍を苦しめている。

家康はこの大阪城の攻撃には慎重で講和を策していたが、岡山に着陣した秀忠は家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申する。

家康は敵を侮る事を戒め「戦わずに勝つ事を考えよ」とこれを退け、住吉から茶臼山に本陣を移して新たに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。

家康は、予め前の月から淀川の流れを尼崎に流す長柄堤を、伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた。

その長柄堤が茶臼山に本陣を移した翌日辺りに竣工し、大和川がある為に淀川が干上がる事はなかったが川の深さが膝下まで下がった為に大和川の塞き止めも行い、家康はいよいよ大坂城に対する城攻めを本格化させる。

また、茶臼山に本陣を移した翌日辺りから諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘い、大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は二〜三十間、藤堂隊は七間に近接している。


しかし、此処に到って家康は多くの難題を抱えていた。

まずは兵糧不足で、豊臣方の買占めに拠る深刻な兵糧不足の上に真冬の陣でもあり、幕府方の士気が落ちていた。

それに豊臣を攻め滅ぼすは良いが、豊臣恩顧大名が多数残る現状で戦後処理も頭の痛いものだった。

家康が思案悩むそこへ、天海(光秀)の下へ使いにやった服部半蔵が帰って来た。

「おぅ半蔵か、比叡まで大儀じゃ。天海(光秀)殿は息災じゃったか。」

「ハァハァ〜、面妖な事に天海(光秀)様のお声は若返って聞こえ申した。」

「無理も無いわ。天海(光秀)殿に取っては豊臣家討伐は宿願じゃで、わしも気が若返って折るわ。」

「仰せの通りでござる。」

「して半蔵、守備は如何に?」

「大御所様の仰せの通り天海(光秀)様に逢うて知恵を授かりもうした。」

「この大軍勢じゃ、大阪は力押しで押さば落ちるであろうが、その後の味方の加増が難儀じゃ。その仕儀、天海(光秀)殿の知恵如何に。」

「天海(光秀)様応えるに、如何にも大御所様仰せの通り今や豊臣家の所領は高々六十五万石、この大軍勢に分け与えるには少な過ぎまする。」

「そちはこの義、天海(光秀)殿から何を申し受けては居る?」

「如何にも大局を見通す天海(光秀)様故、事後の心配はしておりましたが、名案これなく、まずは一度豊臣方と休戦して時を稼ぐが一手かと。」

「一度決着を先送りすると申すか。無い袖は振れぬからな。」

「されば、今回の諸将の手柄は棚上げ、時を稼ぐ内に福島など恩顧大名を一つ二つ減封または改易に処して空き領を捻出せねばとても足りませぬ。」

「さようか、しかしそれでも足らんようじゃが。」

「今一つ天海(光秀)様からでござるが、今回はお身内の加増は控えめされ。」

「息子や孫共には加増は無しか。」

「如何にも、ならば諸侯も加増の高に物申す事、憚(はばか)りましょうぞ。」

「合い判った。流石に天海(光秀)殿じゃ。しかし申し付けておる大阪の城落としの妙案がまだじゃが。」

「実は、それも在っての和議の薦めでござる。」

「何、この和議が城攻めの妙案も兼ねていると・・・。」

「天海(光秀)様に大御所様からの伝言を申し伝えた所に依りますと、流石城攻めの名手秀吉の築いた大阪の城落とすのが難儀じゃで、和議を持ちかけてその条件で堀を埋めてしまえば如何かとの言上にござります。」

「その和議、淀が乗るかな。」

「もはや旗色は明白なれば、藁をも掴みましょうぞ。」

「半蔵、大儀じゃ。天海(光秀)殿にわしが礼を申して居ったと伝えい。」

「ハァハァ〜、早速伝えまする。」

この目算を為す手立ては、まず豊臣方を疲弊せねば成らない。

家康は投降を促す矢文を射て(送り)、尚且つ甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始め、更に船場の堀の埋め立ても命じている。

そして投降を促す矢文から六日目、幕府方全軍より一斉砲撃が始められる。

北方の備前島(都島区網島町)方面だけで大筒百門と石火矢が本丸北側の奥御殿に発射され、南方の天王寺口(茶臼山)からは本丸南方の表御殿千畳敷に目標を定めた砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。

この砲撃では国友製三貫目の大砲が用いられており、またイギリスより購入したカルバリン砲四門やセーカー砲一門、つい最近兵庫に到着し漸く間に合ったオランダ製四・五貫目の大砲十二門も含まれていた。

砲声は京にも届き、「その音が途切れる事はなかった」と伝えられている。


徳川方が奥御殿や表御殿を砲撃する為に接近して来たので、豊臣方はその近接する徳川方に激しく銃撃する。

当初、寄せての防御が竹束のみだった為にその銃撃で徳川方に三〜五百の死傷者が出たが、徳川方が築山・土塁を築いた為に豊臣方の鉄砲の効果は激減している。

豊臣方はこの幕府方の激しい砲撃に対抗して砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたたりしたが、以前劣勢を覆す事ならず、評定の結果、投降を促す幕府方の矢文に応じて和議する事を決する。

戦闘の経過で豊臣方は兵糧に加え弾薬の欠乏が進み、また徳川方が仕掛けた心理戦と今までの常識を超える飛距離を持つ輸入したばかりの新型大砲に拠る砲撃で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、士気は衰えを見せていた。

特に豊臣家で主導的立場にあった淀君は、幕府方の本丸への砲撃で身近に被害が及び、頑なだった態度を軟化させて和議に応じる気に成た。

淀君は、大筒(大砲)のドーンと言う轟音と、ヒュ〜ンと言う不気味な音ともにドンガリガリと城の屋根を貫通して落下して来る砲弾の恐怖に縮み上がったのだ。

織田有楽斎(長増・ながます/織田信長の実弟)を通じて豊臣方との和平交渉が始まり、有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。

交渉を始めて十日余り、淀君が人質として江戸に行く替わりに篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、和議は一時の時稼ぎである考えの家康はこれを拒否する。

徳川方の京極忠高の陣に於いて、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀君の妹である常高院(京極高次の正室/浅井初)との間で行われた和議交渉の場で家康が提示した講和の条件は、絶妙だった。

幕府方は豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵と城中諸士についての不問を約し、その代わり大阪城は本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める城割(城の破却)が主たる条件で、「今後の抵抗は無い」と形にする事である。 また秀頼・淀殿の関東下向を免じ、淀君を人質としない替わりに「大野治長または織田有楽斎より人質を出す事」として和議は成立している。

成立した和議の条件に乗っ取って、大阪城の一部破却が始まる。

和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵の慣例では堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すと言った儀礼的なもので在ったが、徳川側は家康の命を受け徹底的な破壊を実行する。

講和後、味方した諸将も国表に帰らせ、家康本人も駿河の居城(駿府城)に引き上げた。駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。

城割(城の破却)はその年の末から美濃の諸将を率いる松平忠明、重臣・本多忠政、重臣・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋め、翌年の一月より二の丸も埋め立て始める。

二の丸は本来豊臣方の受け持ちの為豊臣方は抗議するが、幕府方は「工事が進んでいないので、手伝う」と強引に進め、二の丸の門や櫓も徹底的に破壊している。

約していなかった二の丸まで「だまし討ちで幕府方が埋め立てた」は後の作家の手に拠る俗説で、二の丸の埋め立ては当初からの和議の内なるが、幕府方が受け持ちを逸脱して二の丸の埋め立てに関わったのは事実である。

二の丸の埋め立てについては幕府方も相当手間取ったらしく「周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した」と伝えられている。


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大坂夏の陣

◇◆◇◆◇◆◇◆◇大坂夏の陣◆◇◆◇◆◇◆◇◆

此処で新たな問題に成ったのが、豊臣方が召抱えていた浪人達である。
幕府方は浪人達の仕置きこそお咎め無しにしたが雇った浪人衆は七万人以上に上り六十五万石の豊臣家には相応せず、まさかそのまま豊臣家が召抱えるなど思いも依らなかった。

和議で一部解雇はしたものの、豊臣家はまだ都合八万ほどの兵力を維持したままで、とてもこのまま収まるとは思えない情勢だった。

家康は和平成立後京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で家康は国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、再戦の準備を行っている。

そうした中、京都所司代・板倉勝重より駿府へ大坂城に在る浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞と言った「不穏な動きがある」とする一報が届く。

幕府方はその報告を受け、浪人の解雇と豊臣家の移封を要求し、その二週間後には畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛する事、小笠原秀政に伏見城の守備に向かう事を命じた。

三日後、家康は徳川義直(家康の九男)の婚儀の為と称して駿府を出発、名古屋に向かう。

その道中の途中で、大野治長の使者が来て「豊臣家の移封は辞したい」と申し出る。

もはやこれまでの回答に、家康は常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ(そう言う事ならどうしようもない)」と豊臣方に伝え、すぐさま諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。

六日間ほど費やして家康が名古屋城に入った頃、秀忠も早々に江戸を出発していた。

その頃豊臣方では和平交渉の当事者・大野治長が城内で襲撃される事件が起き、内部の混乱が露呈していた。

名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康はその足で上洛し二条城に入った。

この頃、関が原の遅参の失敗経験を持つ二代将軍・秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも「家康に伝えてくれ」と依頼している。

四月下旬に、関東の軍勢を従えた秀忠は無事二条城に到着し、家康と本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。

此度の情勢は、前回の大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と比べ遥かに有利である。

大坂城は本丸を残して丸裸であり、兵力も二万ほど減っていて八万弱と篭城戦など出来る状態ではない。

家康は集結した十五万五千の軍勢を二手に分けて、一方は河内路から、いま一方は大和路から道路の整備と要所の警備を行いながら大坂に向かう事を命じた。

この二手の他、紀伊の浅野長晟(あさのながあきら)にも南から大坂に向かうよう命じている。

交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。

豊臣方は大野治房の一隊に暗峠(くらがりとうげ/奈良県生駒と大阪に位置する峠)を越えさせて、筒井定慶(つつい じょうけい)の守る大和郡山城を落とし付近の村々に放火その二日後には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。

この大野治房勢、一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟(あさのながあきら)勢と戦い討死してしまう。
その後、大野勢は浅野勢と対峙しつつ、堺攻防戦を続けている。

翌月に入って戦闘が本格化し、幕府方三万五千が大和路から大坂城に向かって来るところを豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起ている。

しかしこの迎撃、寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取る事が出来ずに、後藤基次隊二千八百が単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら二万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも基次は討死し隊は壊滅する。

次いで到着した明石全登・薄田兼相(すすきだかねすけ)ら三千六百の豊臣方も、後藤基次隊を壊滅させて小松山を越えた幕府方二万と交戦し、薄田兼相らが討死した。

この小松山の戦闘に、更に遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方が漸く到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止める。

そうした小松山道明寺・誉田合戦の激戦の他、八尾・若江合戦が起こっている。

河内路から大坂城に向かう徳川本軍十二万を、豊臣方・木村重成の六千と長宗我部盛親、増田盛次ら五千三百の兵が迎撃している。

まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊五千を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け長宗我部隊は壊滅する。

木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊三千二百らと交戦に入り激戦の末に重成は討死した。

いずれにしても幕府方は大軍で、豊臣方は意地を見せたが大勢は幕府方優勢で戦闘は推移している。

真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方は、小松山で幕府方大和路隊三万五千を押し止めていた。

しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、後藤隊・薄田隊の残兵を回収して後退を余儀なくされ、大坂城近郊に追い詰められている。

この豊臣方の撤退を、幕府方も連続した戦闘に疲弊した為に追撃を行わなかった。

大坂城近郊に後退した豊臣方は、最後の決戦の為に現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築する。

天王寺口は真田信繁(幸村)、毛利勝永など一万四千五百、 岡山口は大野治房ら四千六百、別働隊として明石全登三百、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計一万四〜五千が布陣する。

これに対して幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟(あさのながあきら)四万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直一万五千が展開し、 天王寺口は本多忠朝ら一万六千二百、その後方に徳川家康一万五千が本陣を置き、 岡山口は前田利常ら計二万七千五百、その後方に近臣を従えた徳川秀忠二万三千が本陣を置いた。

豊臣家滅亡を画していた徳川家康の野望は、正に大詰めを向えていた。

戦国最大にして最後の戦いとなる大阪攻め、大激戦となった天王寺・岡山合戦は正午頃に開始された。

果敢に攻め込む豊臣方の真田信繁(幸村)・毛利勝永・大野治房などの突撃により、幕府方の大名・侍大将に死傷者が出て幕府方徳川家康・秀忠本陣は大混乱に陥る場面も在ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直す。

この果敢な攻撃に豊臣方は多くの将兵を消耗し、流石の真田信繁(幸村)も松平忠直の越前勢に討ち取られて午後三時頃には壊滅状態に陥り、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により豊臣方は城内に総退却した。

城内に総退却をしてみたものの、大坂城は本丸以外の堀を埋められ裸同然となってもはや殺到する徳川方を防ぐ術が無い。

真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、秀頼は淀君らとともに籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害し大坂城は陥落した。

豊臣秀頼に嫁していた徳川秀忠の娘・家康の孫・千姫は落城寸前に大阪城を脱出、秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入る事で助命された。

この大坂の役は、言わば戦国生き残り合戦の最終章にあたる。

この戦い、殺傷力が強い史上最多の最新銃砲火器に拠る交戦だった事から、過っての弓矢・槍・太刀と言った武器に依る交戦と違って死傷者も多く、また相手の選別には不向きな武器の為に大阪城に立て篭もる女子供・町人なども無差別に攻撃を受ける悲惨なもので、つまり死屍累々の地獄絵図が繰り広げられた戦だった。

戦後の大坂城には松平忠明(奥平松平家初代)が移り、街の復興にあたった。

幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き西国支配の拠点の一つとした為、以降大坂は将軍家の直轄地となり、「天下の台所」と呼ばれる大商業都市となる。

大坂復興が一段落すると、松平忠明は大和郡山十二万石に加増移封された一方、松平忠輝(家康の六男)は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。


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松平忠直

◇◆◇◆◇◆◇◆◇松平忠直◆◇◆◇◆◇◆◇◆

また松平忠直(結城秀康の長男)は、予(か)ねて家康が腐心した「無い袖は振れない」を読めずに大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであった事を不満としていた。

松平忠直(まつだいらただなお)は越前・松平藩の第二代藩主である。
徳川家康に取っては孫に当たる。
家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(ゆうきひでやす)を名乗る。

この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、松平の姓に復して国持ち大名と成る。

所が、秀康の嫡男・松平忠直は勇猛な武将で、大坂の陣で敵将・真田信繁(幸村)らを討ち取り大坂城一番乗りの戦功を立てながらも、その褒美が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみで在った事に不満を持つ。

しかし戦勝の褒美は、本来は戦で切り取った相手の所領が分け前になるのだが、豊臣方は蓄財で浪人を雇ったばかりで、分ける所領など最初から僅かだった。

それに気付かない松平忠直は、各論ばかりで総論を考えないタイプだったのかも知れない。

その後も二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになり、病を理由に江戸への参勤を怠って正室・勝姫(徳川秀忠の娘)の殺害を企てたり、軍勢を差し向けて家臣を討つなど乱行がエスカレートして行く。

幕府に反抗的態度を取るとなると、如何に将軍の兄の家・越前・松平藩と言えども、秀忠にとっては甥に当たろうと天下に示しが着かない。

六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は、乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

隠居を命じられた忠直ではあるが、この忠直の行状の伝聞が果たして正しいのかは謎で、正統松平・親藩・御家門(ごかもん)家格の血を継ぐ越前・松平藩の松平忠直と、何故か微妙に存在する二代将軍・徳川秀忠との確執の裏に、公表できない何かが存在していた可能性は否定出来ないのだ。

それが、巷間流れていた竹千代(徳川家康)双子説、徳川秀忠の明智光忠であれば、松平忠直は家康にとっては孫では無く甥であり、秀忠にとってはほとんど他人である。

しかし真田家と徳川家の間には、徳川氏と後北条氏の平和交渉の過程で出た代替領地案を真田家に蹴られた因縁と二代将軍・秀忠が信州・真田家の抵抗に合い秀忠の中仙道軍の関が原到着を遅参させた因縁がある。

その真田信繁(幸村)を松平忠直(まつだいらただなお)は討ち取る功績を挙げたのである。

忠直にしてみれば、得心が行かなくても当たり前だったのかも知れない。

真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは海野頼昌の子とされる海野幸綱(真田幸綱/幸隆)が小県郡真田郷を領して以後に真田姓を名乗ったとされる。

だが、本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので真田氏の清和源氏とする出自は信憑性に欠ける。

真田氏の本家に当たる海野氏は、清和天皇の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)をその家祖とする滋野氏(しげのうじ)三家と呼ばれる望月氏、禰津氏(ねずうじ)、海野氏の内の一家であり、真田氏も海野氏流を名乗っている。

とにかく真田氏は、山地の谷合いに在る真田郷の在地の小豪族として歴史に登場する。

時代が下がった戦国期になると、真田氏は武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸は織田信長に恭順した。

その後、本能寺の変で明智光秀に反逆された織田信長が横死すると、真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に抵抗、徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

真田昌幸と次男・信繁は上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。

この時も真田昌幸(まさゆき)と次男・信繁は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な二度目の勝利を収めたのである。

しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に真田昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。

処分はされたものの、二度も徳川の大軍を退けた名将として昌幸・信繁(幸村)親子の名声は高まっている。

紀伊の九度山に蟄居中の真田親子に、孤立無援になりつつある豊臣家から要請があり、真田信繁(信繁・のぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は警戒中の紀伊国和歌山藩・浅野幸長(あさのよしなが)の軍勢の目をかいくぐり九度山を脱して大阪城に参じている。

やがて起こった大坂の陣では、真田信繁(幸村)は大坂城に豊臣方として戦い、冬の陣に於いて一時は茶臼山の家康本陣まで迫る戦ぶりを見せるが、夏の陣で討死している。
一方、徳川方として参陣した嫡男・真田信之(信幸改め)戦功を上げ松代藩十三万石へ加増移封となって真田の家名を残している。


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有力恩顧大名

◇◆◇◆◇◆◇◆◇有力恩顧大名◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「この勝負、秀吉が明智殿と孫市殿を敵に廻した時点で、既に勝負が着いて居ったわ。」家康は、しみじみと言った。

他家の人質の身上から、名実共に天下を手中にしたのである。

万感迫る思いが、家康の胸中に去来していた。


勿論、福島正則や盟友・加藤清正等の徳川家康に組した原因は、石田三成との確執ばかりではない。

福島正則・加藤清正共に豊臣秀次や小早川秀秋等と同様に、若い頃から北政所「おね(ねね)」の世話に成り、北政所を母の様に慕っている。

その長年連れ添った北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した事には疑念を持ち、豊臣秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。

福島正則(ふくしままさのり)は、関が原の戦いで東軍側に立ち石田三成の率いた西軍を打ち破る大功を立てたが、それでも秀吉恩顧大名の側面も残していて豊臣家存続に腐心している。

正直、石田三成もそうだったが、淀君も意地を張ったら張るだけ損な場面に直面していた。

つまり、もはや家康の時代になっているのに未だ豊家主筋を主張する淀君を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して二条城での会見に豊臣秀頼の上洛を実現させた。

この二条城に於いての家康と秀頼の会見直後に、不思議な事が起こる。

加藤清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も体調を壊して隠居を願い出るが許されずに飼い殺しの状態に置かれている。

この豊臣恩顧大名の相次ぐ死、徳川方の放った忍びの仕業とも大陸から持ち帰った風土病とも言われているが、何故か有力豊臣恩顧大名の当主が多かった。

大坂の陣では大阪方・秀頼に加勢を求められても拒絶したが、正則の恩顧大名の心情を疑われ東軍への従軍も許されず江戸留守居役を命じられた。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、それを機に正則はひたすら幕府への恭順を余儀なくされ、家康死後間も無くの正則居城・広島城の応急修理に「武家諸法度違反」の難癖を付けられ、咎められて安芸・備後五十万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩と越後国魚沼郡の四万五千石に減封される。

その後嫡男・忠勝が早世した為、正則は幕府に二万五千石を返上して僅か二万石を残すのみになるが、その二万石も正則の死去に際して遺体を幕府の使者が到着する前に火葬した事を咎められ没収され改易に遭う。

福島家の後を継いだ正則の子・正利は、僅か三千石の旗本として家名を継ぐ事になる。



福島正則(ふくしままさのり)の盟友・加藤清正(かとうきよまさ)は、どうやら我輩の推察する所の豊臣秀吉=山窩(サンカ・サンガ)説の立証をしてくれそうな人物である。

智勇兼備の名将として知られている加藤清正(かとうきよまさ)だが、武将の側面として特筆すべき能力を備えていた。

清正は、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並び称される築城の名手としても知られているが、この辺りにその謎解きのヒントがある。

清正は、重臣に登用した飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆(あのうしゅう/石工衆)を用いて熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。

また清正は肥後国領内の治水事業にも意欲的に取り組み、その土木技術は非常に優れており肥後の領国(熊本県内)には現在も清正による遺構が多数存在して四百年後の現在も実用として使われている。

その清正の築城・土木技術は何処から来たのだろうか?
加藤清正(かとうきよまさ)は、鍛冶屋を営む父・加藤五郎助(清忠)と母・伊都の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。

この清正(きよまさ)母・伊都が問題で、秀吉の生母である大政所の「従姉妹(あるいは遠縁の親戚)で在った」とされ、つまりは清正が秀吉とは血縁関係にあるところから同様に土木技術を持つ集団の長の一族だったのでは無いだろうか?

加藤清正(かとうきよまさ)は、藤原北家・利仁流斎藤氏の枝・加藤景廉(かとうかげかど)の末裔を自称するが、証明する証拠は乏しく出自は証明されていない。

千五百七十六年(天正四年)、豊臣秀吉が丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受けて木下姓を羽柴姓に改め織田家内で頭角を現した頃、加藤清正(かとうきよまさ)は秀吉の遠戚として秀吉に仕え、百七十石を与えられている。

秀吉の土木技術はつとに有名で、備中国に侵攻し毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込むなど、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺しと城攻めの名手・秀吉の本領を存分に発揮しているのだが、この中に若き日の加藤清正の姿が在ったのである。

千五百八十二年(天正十三年)明智光秀が本能寺の変を起こして織田信長が死去すると、秀吉の弔い合戦・山崎の戦いに清正も参加して光秀に圧勝する。

その翌年、柴田勝家と秀吉の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いで「敵将・山路正国を討ち取る」と言う武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人と並び称されて、三千石の所領を与えられている。

その後も秀吉の命に従い各地を転戦して数々の武功を挙げ、千五百八十二年(天正十三年)に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年の九州征伐の後に肥後の半国・十九万五千石を拝領して熊本城主となる。

肥後(熊本)の領国運営に力を入れ治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮していた清正だったが、秀吉の野心から朝鮮及び中華帝国の侵略を狙った文禄・慶長の役(朝鮮征伐)が起こり、清正は二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いて朝鮮へ出兵する。

清正は戦果を挙げつつ半島内部に進行し目覚まし働きをした清正は、その勇猛振りから朝鮮の民衆に「犬、鬼(幽霊)上官」などと恐れられた。

所が、清正は三番隊・小西行長と作戦面で対立、またこの朝鮮出兵の頃から元々肌が合わなかった文治派閣僚の石田三成との確執が明との和睦をめぐって顕著なものとなり、その対立が元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻されている。

この辺りの小西行長との対立と石田三成との確執が、後の関が原で石田三成・小西行長vs福島正則・加藤清正の関が原対峙の芽と成ったのである。

慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、清正が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。

面白くない清正は五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶って三成に敵対、前田利家が死去すると福島正則や浅野幸長ら六将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こして家康の取り成しの為に失敗した。

しかしその翌年、三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに清正は九州別動隊として東軍に参戦、西軍・小西行長の宇土城や立花宗茂の柳川城を攻め、また蝶略して九州の西軍勢力を次々と破り、戦後の論功行賞で肥後の小西行長旧領を与えられ、加藤清正は肥後一国など都合五十二万石の大々名となる。

加藤清正もまた、主君・秀吉の正室・北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、不思議な事に淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した。

つまり秀頼の実父は別人の可能性があり、加藤清正は秀頼の出生に疑念を持ち、秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。

関が原戦後の清正は、旧主・豊臣家の存続にも腐心して忠義を尽くし、福島正則とともに二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した清正だったが、帰国途中の船内で発病し居城・熊本城で死去している。

清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だった為に幕府に何か難癖を付けられて幕府の命により改易になっている。


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蜂須賀小六正勝

◇◆◇◆◇◆◇◆◇蜂須賀正勝◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて、豊臣家恩顧の大名は二代・徳川秀忠の代に大半が改易となるのだが、ただ一家だけしぶとく生き残った恩顧大名家がある。

阿波徳島藩・蜂須賀家である。

蜂須賀家は、尾張の国海東郡蜂須賀郷の独立系の小国人領主であって、勿論夜盗の棟梁ではない。

豊臣家恩顧の大名、それも秀吉が織田家で頭角を現す手助けをした有力な最古参の家臣だった蜂須賀家でありながら、唯一徳川家の粛清を逃れ生き残る離れ業を成し遂げた。
この事には、蜂須賀小六正勝の長男・蜂須賀家政の存在に負う所大である。


蜂須賀小六正勝は、嗣子・家政の正室には先祖からの縁戚である生駒家、生駒家長の娘を娶合わせている。

つまり蜂須賀家と豊臣家とは、縁戚でも有った訳である。

にも拘らず、豊臣秀吉の最古参臣・蜂須賀家が大々名になったのは意外に遅く、千五百八十五年(天正十三年)になった頃である。

蜂須賀小六正勝は四国征伐の後、播磨国龍野(二万石)を領していたが、秀吉の天下統一に於ける戦争に従軍し戦功を挙げていた。

雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後その戦功により秀吉より阿波国を与えられた。

しかし蜂須賀小六正勝は、高齢を理由に嗣子・家政に家督を譲り、長男・蜂須賀家政が阿波国の大半を賜った。

現代でも言える事だが、人生なんていずれにしても運否天賦である。

一歩間違えれば野垂れ死にしたかも知れない異能の者共が豊臣秀吉の所に集まって来て、主君・秀吉の出世と伴に頭角を現し、それなりに五万石、十万石、二十万石の所領を得てひとかどの武将になっていた。

人間の能力何てそんなに差がある訳ではないから、石田三成、福島正則、小西行長、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、大谷吉継など皆「従う相手が当たりだった」と言うべき幸運の持ち主だった。

となれば、秀吉が漸く信長の下で頭角を現した頃から従っていた蜂須賀小六正勝にして見れば、後輩の石田三成、小西行長、加藤清正、福島正則らに所領で追い抜かれた不満は在ったのかも知れない。

これは良く犯すミスだが、本来は文句を言わない部下ほど厚遇すべきなのに、文句を言わなかった蜂須賀小六正勝に対して秀吉の方が甘えていた事になる。

厳密に言うと、この遅ればせな阿波入封当時に賜った石高は十七万五千石で、板野郡の一部が他領であり「正身の阿波一国ではなかった」と伝えられている。

その蜂須賀家は、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去し、翌年に前田利家が死去すると豊臣家内も混乱し、石田三成嫌いの蜂須賀家政は福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに官僚派の石田三成に敵対し、嗣子の蜂須賀至鎮(よししげ)と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親徳川家康派の大名として活動している。

秀吉最古参の幹部である蜂須賀にして見れば、後からのし上がった石田三成に指図されるのは面白くなかった事は容易に想像できる。

その上佐和山城主・石田三成の石高は、徳島城主の蜂須賀家政よりも二万石ばかり上である。


千六百年(慶長五年)に到って石田三成主導の豊臣家と徳川家が対立を強めると、蜂須賀家政は否応なしの生き残りの選択を迫られる。

豊臣秀頼への忠誠という石田三成の掲げる大義名分と現実の徳川家康の力との板ばさみとなり、蜂須賀家政は領地を豊臣秀頼に返納し出家の上、高野山に入り表面上は中立の立場を取りながら、旗色を鮮明にしない。

豊臣家と徳川家の対立が決定的に成り関ヶ原の戦いが起こると、豊臣氏恩顧の大名である蜂須賀家政は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送り大坂久太郎橋・北国口の警護を担当して関が原への出兵を避けた。

しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、至鎮の妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)である事を理由に関ヶ原の本戦で東軍として関が原戦に参加して武功を挙げた。

この時点では、蜂須賀至鎮(よししげ)は所領失領の浪人状態で、蜂須賀家郎党を率いて家康の東軍に参加していた事になる。

この策謀が功を奏し、関が原戦後に家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、家康から旧所領・阿波一国を安堵されるが、家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を子・至鎮に譲って隠居する。

この辺りの蜂須賀家の動きを見ていると、秀吉は最古参の臣・蜂須賀家の処遇を誤ったのではないだろうか?

人間は成功によって慢心すると己だけの才覚と思い勝ちで、苦しい時に手助けした古参の部下の恩義を忘れ勝ちである。

前田家ほどとは行かなくても、せめて五十万石ほど家政に与えて秀頼の行く末を頼んでいれば、風向きは変わったかも知れない。

しかし秀吉は、腹違いの弟や甥を優遇して大身の大名として周囲を身内で固め、最古参の臣・蜂須賀家を中途半端に処遇して家康に取り込まれてしまった。

すっかり家康の傘下に入った蜂須賀至鎮(よししげ)は、千六百十五年(元和元年)の大坂の陣での活躍めざましく、二代将軍徳川秀忠より七つもの感状を受ける働きをした。


この武功に拠り至鎮(よししげ)は、淡路一国八万千石の加増を与えられ、都合二ヵ国二十五万七千石を領する大封を得て徳島藩・蜂須賀家が成立したのである。

家祖・蜂須賀小六正勝の子、蜂須賀家政が阿波の国を与えられて以来、徳島は十四代に亘って蜂須賀家に治められて来たのだが、蜂須賀家は一貫して領内の運営に力を入れ、中央の政治には色気を出さずに家を守る生き方をした。

領内の産業育成に力を入れた徳島藩では吉野川流域での藍の生産が盛んで、吉野川流域の水上運輸や海運も盛んで諸国との交易は隆盛を極め、山窩(サンカ・サンガ)川並衆出自の面目躍如である。

特に十代藩主・重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾により全国の市場をほぼ独占するに至った。

藍商人より上納される運上銀や冥加銀は藩財政の有力な財源となり、阿波徳島藩は石高二十五万七千と言われるが、阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石相当の江戸期においては群を抜く富裕な藩だった。

政争、政治的野心を戒めた阿波徳島藩は幕末の狂騒とは無縁のまま、蚊帳の外で王政復古(明治維新)を迎えた。

千八百七十一年(明治四年)徳島城は廃藩置県とともに徳島県なり、城郭が取り壊されて石垣と庭園とわずかに鷲の門が残されているのみである。

しかし、蜂須賀家の産業育成政策は徳島の繁栄を成し、江戸期には人口四十万人と屈指の大都市に成長し、廃藩置県後に成立した阿波商人達の私銀行も大阪や東京に次ぐ大資金量だった。

千八百八十四年(明治十七年)蜂須賀家は侯爵となり華族に列して家名を永らえている。


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安芸広島藩・浅野家

◇◆◇◆◇◆◇◆◇安芸広島藩・浅野家◆◇◆◇◆◇◆◇◆

前述で秀吉恩顧大名の生き残りは「蜂須賀家だけ」と言ったが、厳密に言うと実はもう一家芸州(安芸)広島藩・浅野家が残っている。

但しこの浅野家、開祖にあたる浅野長政と藩祖にあたる長政嫡男・浅野幸長親子共に徳川家康と親しく、秀吉恩顧大名の中では異色な立場に在った。

浅野幸長は母が信長の乳母であり信長とは乳兄弟になる尾張織田氏・織田信長重臣の池田恒興(いけだつねおき)の娘を正室に迎えている。

この池田恒興(いけだつねおき)の次男・池田輝政(いけだてるまさ)は、浅野幸長同様に徳川家康に可愛がられ、関が原の戦いでは家康方東軍に与して播磨国姫路五十二万石に加増移封され、池田家は姫路城主として明治維新に至るまで生き残っている。

浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)は、豊臣秀吉の正妻・「おね(ねね・高台院)」の父親・杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先で、おね(ねね・高台院)を養女として預けた家である。

「おね(ねね・高台院)」はこの浅野家の養女時代に、主君・織田信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。

木下藤吉郎が織田軍団の中で頭角を現して羽柴秀吉を名乗る武将になると、信長の命で浅野長政は秀吉にもっとも近い姻戚として秀吉の与力と成る。

千五百七十三年(天正元年)の近江国・浅井長政攻めで活躍したのを皮切りに織田信長の直臣ながら秀吉の与力として有力武将の地位を固めて行く。

本能寺の変が起こり主君・織田信長が明智光秀に討たれると、信長の死後は秀吉に仕え賤ケ岳の戦いや九州征伐などで武功を挙げ、秀吉が天下を掌握して本格的に豊臣政権が誕生すると、九州征伐の功により若狭国小浜八万石の国持ち大名となった。

また浅野長政は行政手腕にその卓越したものがあり、京都所司代を務めたり太閤検地を主導して行うなど実務面でも力量を発揮、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵でも武功を挙げて、秀吉より甲斐国二十二万石を与えられ、豊臣政権下の東国大名の取次役を命じられている。

浅野長政は、豊臣秀吉の晩年には徳川家康の他、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、小早川隆景らの五大老に次ぐ豊臣政権の五奉行に、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家らと共に任じられて政権運営に参画し深く関わっている。

長政は、嫡男・浅野幸長に家督を譲って隠居した。

この隠居に際して長政は、隠居料として常陸国真壁に五万石を与えられた事が、後の大事件「元禄・赤穂事件」に繋がるのである。

秀吉没後の関が原の戦いでは、長政は恩顧大名でありながら家康の嫡男・徳川秀忠に属して徳川方に参軍し、長政嫡男・浅野幸長は徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制し、戦勝に貢献している。

その功により浅野幸長は、家康から紀伊国和歌山に三十七万六千石を与えられ初代紀州藩主となるが、子供の居なかった浅野幸長の弟・浅野長晟(あさのながあきら)が紀州藩浅野家の跡を継いで、福島家の改易に伴い浅野家は芸州(安芸国)広島に加増転封され四十二万石を拝領する。

天下分け目の関ヶ原役で東軍(徳川方)に味方して論功行賞を受け、安芸・広島に入封していた豊臣恩顧の大名・福島正則(ふくしままさのり)が水害に見舞われ、広島城の石垣の破損修理を幕府の許可無く施行し武家諸法度違反として改易される。

その安芸・広島に豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟・浅野長政(あさのながまさ)の二男・浅野長晟(あさのながあきら)が入封して安芸・浅野広島藩が成立する。

成立した安芸・広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の大部分にあたるその藩領は安芸一国と備前八郡の計四十二万六千石強の大藩知行だった。

浅野長晟(あさのながあきら)の広島入封に関しては、中国地方の太守であたった毛利氏を防長二ヵ国に押し込め、これを可愛がって家康の三女振姫と婚姻させていた長晟(ながあきら)の浅野家に監視させる目的もあった。

その後の安芸広島藩・浅野家は、一族の播磨赤穂藩主・浅野(内匠頭)長矩が後に「忠臣蔵の仇討ち」で有名となる江戸城中で吉良(上野介)義央に対して刃傷に及び、即日改易され切腹となる大事件を起こすなどに見舞われるも連座を逃れて生き残り、明治維新後の廃藩置県まで藩を永らえた。

尚、浅野家の東京移住阻止を目的とする武一騒動が起きて藩は解体されるが、浅野家は侯爵となり華族に列している。


浅野長政・浅野幸長親子が東軍・徳川方に参軍した事については石田三成との不仲説もあるが、小早川秀秋と同様にその出自が淀君よりも「おね(ねね・高台院)」に近かった事がその動機ではないだろうか?

天下分け目と言われた豊臣家の吏僚的年寄り格(後に五奉行と呼ぶ)・石田三成率いる西軍と五人御奉行(後に五大老と呼ぶ)・徳川家康率いる東軍が戦った決戦・関が原の戦いで敗れ、豊臣家は一大名に縮小されかろうじて生き残ったが、この豊臣家の衰退の遠因は「明智光秀と雑賀孫市を敵に回した事にある」と我輩は思いを馳せている。

明智光秀は織田信長が、信長新帝国の宰相に擬したたった一人の男である。

そして雑賀孫市は、表向きには然したる活躍はしなくても、信長は孫市を「百万石に相当する」とその力量を買っていた。

その両者を、秀吉は気付きもせずに敵に回していた。

そんな豊臣家に先は無い。
秀吉は、目先の天下に目が眩(くら)んだのである。

そして秀吉の後を継いだ豊臣家二代・秀頼は、母・淀の方の徳川との面子と対抗心が諌められず滅びの道を歩んでしまった。

大阪城の役(大阪城の戦い)が、最初から勝ち目が無い「意地だけの無謀な戦い」であるのなら、同様の戦を精神論だけで戦わせようとした先の大戦も然したる違いは無い。

そしてなによりも、自分と淀殿(浅井茶々)との間に出来たとされる怪しい我が子(秀頼)の為に、身内を次々に粛清した事が正妻・北政所「木下おね(ねね)」の豊臣の家に対する執着を失わせ、豊臣恩顧大名の忠誠心を失ったのではないだろうか?

まぁどこぞの中小企業でも良く見かける息子可愛さの、トップ交代時の課題点でもある。

             了


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【小説皇統と鵺の影人】より抜粋。
詳しくは本編をお読み下さい。


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日本人なら知っていて損は無い教科書に載っていない歴史の謎】に迫る。

大日本史仮説小説陰陽五行九字呪法大王(おおきみ・天皇)の密命◆】

メインタイトル【皇統と鵺の影人


こうとうとぬえのかげびと)完全版(全四巻・原稿二千枚
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鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族
世界文化遺産・富士山名称の謂(いわ)れ
天照大神天の岩戸伝説は只の神話か?
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仮説・宇佐岐(うさぎ)氏=須佐王(スサノウ)説
神武東遷物語・神話顛末記最新版
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する
大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程
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欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)
古代国家・邪馬台国卑弥呼は何者か?
葛城ミステリー伊豆の国=伊都国(いとこく)説
日本語のルーツと安倍氏
大和(やまと)のまほろば(マホロバ)
天狗修験道犬神人身御供伝説
日本の伝説リスト
秋田美人ナニャドヤラ
名字のルーツ氏姓(うじかばね)の歴史
人が創りし神と仏の間に
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日本史・歴史のミステリー
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日本の針路は大丈夫か?パートT
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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

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小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

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とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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【この作品群は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の著作品です。】

公開はしていますが、
著作権はあくまでも作者にありますので、作者の了解無く
本作を引用等しないで下さい。
もし違法行為を発見した場合いは、法的手段に訴えます。
なお本作に登場する組織、団体、人物キャラクター等は創作であり、
実在の人物を描いた物では無い事をお断り申し上げます。

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作者本名・鈴木峰晴