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samurai 【「水戸黄門漫遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。


【大日本史編纂に隠された鈴木一蔵と水戸徳川家の謎】


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◆小説【皇統と鵺の影人】より

【「水戸黄門漫遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞

(大日本史編纂に隠された鈴木一蔵と水戸徳川家の謎)

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この小説は、【日本史・歴史のミステリーのシリーズリスト】の一つです。

***【歴史のミステリー】*********

「水戸黄門漫遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞

(大日本史編纂に隠された鈴木一蔵と水戸徳川家の謎)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約一ヵ月間お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔第一話〕  【水戸黄門ミステリー
〔第二話〕  【賀茂流松平氏
〔第三話〕  【松平竹千代(まつだいらたけちよ)双子説を追う
〔第四話〕  【徳川家・世良田系図の謎
〔第五話〕  【徳川家康二人説〔一〕
〔第六話〕  【転機・桶狭間の戦い
〔第七話〕  【近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)
〔第八話〕  【人質入れ替わり
〔第九話〕  【駿河御前(するがごぜん)の寝間
〔第十話〕  【長男・松平信康の切腹
〔第十一話〕 【今川義元(いまがわよしもと)
〔第十二話〕 【結城秀康(ゆうきひでやす)・越前福井藩
〔第十三話〕 【家康の「清洲同盟」
〔第十四話〕 【稚児小姓(男色・衆道)の習俗
〔第十五話〕 【二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)
〔第十六話〕 【徳川家康二人説〔二〕
〔第十七話〕 【三河(松平)家臣団
〔第十八話〕 【三河譜代冷遇の謎
〔第十九話〕 【榊原康政(さかきばらやすまさ)
〔第二十話〕 【井伊直政(いいなおまさ)
〔第二十一話〕【本多正信(ほんだまさのぶ)
〔第二十二話〕【「南朝方末裔」・世良田系図
〔第二十三話〕【意外な雑賀党・棟梁の跡継ぎ
〔第二十四話〕【庶長子・鈴木(一蔵)重康
〔第二十五話〕【幕藩体制(ばくはんたいせい)
〔第二十六話〕【徳川CIA構想
〔第二十七話〕【大日本史編纂
〔第二十八話〕【情報活動(諜報活動)
〔第二十九話〕【水戸藩・江戸定府のカラクリ
〔第三十話〕 【主家より養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせる
〔第三十一話〕【越前福井藩・松平綱昌(まつだいらつなまさ)
〔第三十二話〕【隠密系の武門・雑賀鈴木家
〔第三十三話〕【松平頼重(まつだいらよりしげ)・生い立ちの謎
〔第三十四話〕【徳川慶喜(とくがわよしのぶ)




◇◆◇◆◇◆◇◆◇〔第一話水戸黄門ミステリー◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この物語は、数奇な運命を辿って天下を取った徳川家康とその隠し子・一蔵の足跡を追った物である。

それがさて、いやはや筆者自身も驚くほどミステリアスな物だった事を最初に申しあげて置く。


この国の歴史を取り上げる場合、厄介な事に「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つが混在している。

何らかの目的を持つ虚像の演出に拠り「作為的な歴史観」を創造し、理念の構築を図る陰謀は統治の基本で、「文化としての歴史」にはそうした作為を含んでいる事を理解して欲しい。

そして「文化としての歴史」には、観念を基とする幻想があたかも現実の歴史として思わせる形で後世に伝えられて行く。

例えば聖徳太子は、日本書紀が仕掛けた「虚像ではないか?」と言うに足りる様々な疑惑があり、歴史上の人物から「伝説上の人物」とされる傾向が強まっている。

同様に、日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)古事記・日本書紀に登場するが、日本史上では既に伝説上の英雄とされて「文化としての歴史」の扱いである。


水戸黄門漫遊記」は、講談師の創作に依り「正義のヒイロー黄門様」が、巨悪を懲らしめて善人を助け庶民大喝采で溜飲を下げる筋書きのドラマである。

娯楽として脚色された物だが、水戸家が「全国の大名・旗本諸侯の地を調査した」と言う漫遊記のヒントと成ったであろう隠された史実が存在する。

つまり徳川御三家の格を有する水戸徳川家には、信じられない疑惑が在る。
テレビドラマでお馴染みの「水戸黄門漫遊記」にまつわる隠されたミステリーの闇が、謎解きの史実として存在するのである。

それは、大日本史の編纂を理由に日本全国の歴史調査を実施し、実は「全国の大名諸侯の動向を探(さぐ)っていたのではないか」と言う疑惑である。

水戸徳川家の歴代藩主は江戸定府で将軍補佐(ドラマのような副将軍と言う格は存在せず)を任とするが、表向きの政道は大老・老中が仕切るので水戸藩主に表向きの仕事は無い。

まず水戸藩々主の江戸定府の理由を「副将軍」に求める者も居るが、そもそも副将軍と言う格は後(幕末〜明治)の脚本に拠るもので江戸幕府の地位職責には存在しない。

そして幕府の決め事の最終済下は「将軍の権限」であり幼君などの場合は臨時に将軍後見職を設けるから、御三家の一家として定府しても水戸藩々主に口を出す場所は無い。

しかも将軍に継嗣無き場合の将軍継承順位も他の御三家や御三卿家よりも低く、幕末の最終場面で徳川慶喜が将軍職を継承するまで将軍を出さない家柄だった。

御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・徳川忠長を家祖とする駿河徳川(松平)家・(五十五万石)の断絶後、千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり本来は別の立藩目的が在った水戸家だが、前後の事情から水戸家は補欠から御三家に繰り上げられた経緯が伺えるのである。

であれば、それでも江戸定府と言う立場の設置には、大名諸侯が水戸家に一目置き世間が副将軍と畏怖する表沙汰に出来ない特殊な役目を負って居なければ説明が着かない。

合理的に考えれば、「絶対に、そこに何か意味が無ければ成らない筈」である。

つまり講談師は、その微妙な水戸家の立ち位置を「黄門漫遊記」の形で暗示的に表現をしたのではないだろうか?

そして水戸徳川家には、羽柴秀吉(豊臣)紀州(根来衆・雑賀衆)征伐で壊滅された筈の・鈴木孫市の血脈を名乗り、表向き砲術衆を名乗る忍術にも長けた雑賀衆棟梁家・鈴木氏が重役として召抱えられ、その後藩主の兄弟が養子に入った雑賀鈴木家が存在する。

雑賀(佐大夫)孫市は、七万石相当の独立領地「紀州・雑賀(さいが)郷・五ヶ荘」を保有し、何処の戦国大名にも属さない共同勢力・雑賀衆七万人の郷士集団に認められた統領の一人だった。

雑賀(さいが)郷は自由都市・堺や紀州・根来寺(ねごろじ)鉄砲(種子島)製造の根来衆にも近く、早くから鉄砲を操る業を身に着け、さらに忍術を良くする傭兵集団として名を轟かせていた。

そうした情況から、公には出来ないがヒヨットすると水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

つまり水戸徳川家は、徳川本家の幕府体制維持の為に「隠密組織を担っていた」と考えられるのだ。

しかしその信じられない疑惑は、周辺事情を調べれば調べるほど新たな疑惑を呼び、見事にその疑惑が事実の方向を指して行く。

勿論、三河物語や徳川実記などには記載出来ない多くのミステリーの解明が、この物語の目的でもある。

いずれにしても貴方は、これから毎話でご案内のように壮大なドラマを含みながら徳川将軍家の闇を彷徨(さまよう)事になるのである。


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◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二話賀茂流松平氏◆◇◆◇◆◇◆◇◆

まずは水戸徳川家隠密組織説に到る前置きとして、徳川家の出自について少し触れる。

と言っても、松平家そのものにはたいした物は無い。

ただ徳川家初代・徳川家康の前半生と、その家康が突然清和源氏流を名乗った事には謎が多い。

徳川家が三河の一土着豪族だった頃に名乗っていたのは松平姓で、本来は明らかに枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。

三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族だった。

発祥の地名が三河国・加茂郡で、家紋は京都・賀茂神社(上賀茂・下賀茂)と同じ葵紋では賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。

しかし、徳川家(松平)については、織田信長式の平氏系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、現存する物は新田源氏世良田系の系図が存在するだけである。

その明らかな事実は、徳川治政二百八十年の間は誰も口に出来ない禁句だった理由も大いにある。

つまり、松平・氏(まつだいら・うじ)賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)が本来の氏姓(うじかばね)であるが、当時の慣例で賀茂朝臣(かも・あそん)では武門の棟梁にはなれない。

松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。

それでも、賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)松平・氏(まつだいら・うじ)は、棟梁に値する旗頭である。

それなりの血筋に産まれたばかりに、源頼朝同様に多感な時期を人質の身として過ごした松平元康(徳川家康)は、周囲に味方無く、孤独の中で心傷付き育った筈である。

その松平元康(徳川家康)に、織田信長は彼特有の閃(ひらめ・感)きで「何か」を見ていた。

その信長の感は、不幸な結末では在ったが、浅井長政を見出した時も同じだった。


三河・松平家は、けして新田源氏・世良田系などではない。

家康が、ひたすら漢方を頼って執念で羽柴秀吉(豊臣)より永く生き延びたのは、正しく賀茂家の修験秘伝を受け継ぐ者だったからに違いない。


三河・松平氏(まつだいらし)は初代江戸幕府将軍・家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。

この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、賀茂氏の出自と見る方が妥当である。

本来、陰陽修験の賀茂神道と隠密組織系の賀茂氏は、平安時代には陰陽寮の助(すけ)を務める貴族であり、室町時代頃までは勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、総本家は「戦国時代に断絶した」とされる。

しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。

松平氏が土着居住した三河国は、室町幕府時代末期は細川氏守護職だったが、守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた為に三河には守護代・東条国氏(とうじょうくにうじ)を置いていた。

しかし現三河守護の細川成之と前三河守護の一色義直との合戦の末、細川方守護代・東条国氏は自害し、一方の一色義直は三河を放棄してしまう。

千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護及び守護代は不明となり、三河の支配権は混沌とする。

そうした空白の中から、三河松平氏が台頭して来たのではないだろうか?


記録によると、三河松平氏は応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われ、額田郡国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見える。

伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。

尚、この室町幕府政所執事・伊勢氏の流れに、伊勢新九郎盛時(後北条・早雲)が数えられる。


三河松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の「伊勢貞親に仕えた」と言われる。

この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、どう言う訳か松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国の戦国大名・今川氏、西は尾張国(おわりのくに)の織田氏に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

そこで広忠は、織田氏に対抗する為に今川氏を味方につける事を策して継子・松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ人質に出す事を決した所から、松平竹千代の波乱の生涯が始まるのである。

その詳しい経緯(いきさつ)のご案内は、次の第三話からご紹介を始めたい。



これは少し先の話しだが、織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。

この三河守任官の時と、次の征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。

いずれにしても、家康の源氏後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。

しかし徳川家が、天下統一後長く太平の世を維持し日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。


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◆◇◆◇◆〔第三話松平竹千代(まつだいらたけちよ)双子説を追う◆◇◆

この物語の全ては、千五百四十二年(天文十一年)、三河国の弱小戦国大名・松平広忠(まつだいらひろただ)と正室・於大の方に双子の男児が生まれた事に始まっている。

その尋常成らざる出産騒ぎからして、波乱の人生を予感させる奇妙な出現だったのかも知れない。


江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。

大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?

家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?


竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。

徳川家康の母として有名な於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡の豪族・水野氏の棟梁・水野忠政とその正室・於富の間に居城・緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。


この家康生母・於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。

於大の父・水野忠政は、所領の尾張国・緒川からほど近い三河国側にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせる。

それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に、自分と先妻・於富との間に出来た娘・於大を嫁がせる。

於富は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたるが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。


於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。

水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。

しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。

その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。

広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

勘違いして貰っては困るが、久松俊勝の婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり生涯に於いて水野太方(みずのたいほう)である。

於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。

於大は、久松俊勝との間には三男三女を儲けている。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。

於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。

於大の方は、子の徳川家康の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられる。

だが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。


実はこの於大の嫡男出産、三河・松平家にとって「密かに大事件だった」のである。

難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、在ろう事か半刻に満たず今一人の男子が生まれてしまった。

立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。

松平広忠は直ぐに決断した。

永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。

片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。

「作左と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」

「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」

呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。

「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」

「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」

「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」

「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」

「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」

「合い判り申した。しからばもう一人のお方は、この鳥居元忠にお任せを・・」

「それで良いか?」
,br> 「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」

「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」

「合い判った。嫡男の傅役(ふやく/お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀は両名以外他言無用ぞ。」

「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」


唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事が在った。

これが当時としては、信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそお家騒動の火種になる。

双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。

ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。

それで松平家では片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(ふやく/お守り役)とし内密に育てさせている。

その傅役(ふやく/お守り役)こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られた、あの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。

この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(ふやく/お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。

時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ武門の棟梁家の嫡男である。

御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。

それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその家の実子として預けるのが一般的だった。

嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。

何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。

つまり後に名を挙げる鳥居元忠と徳川家康は、一時期兄弟の様に育った可能性もある。


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◆◇◆◇◆◇◆◇〔第四話徳川家・世良田系図の謎◆◇◆◇◆◇◆◇


家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされたもう一人の竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。

最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。

例えば、同じ賀茂氏の末とされる美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)の娘・妻木煕子(つまきひろこ)は織田家重臣・明智光秀の正妻であり、この婚儀に依り光秀が賀茂系影人達の盟主となった経緯がある。

つまり賀茂氏の血流を基とした家康と光秀の影の同盟は、最初から天下取りに向かって早くから出来上がっていたのかも知れない。

兎に角この戦乱を収めるエースを育てる為に、畿内、東海の影人達が一斉に、しかし密かに動き出していたのだ。


日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。



群馬県太田市に「徳川町」と言う地名がある。

長く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。

清和源氏流新田義重の四男義季が、得川郷の領主となって新田次郎と称し、父義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られ、その嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏称した。

その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。

「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏の「発祥の地」と成っている。

ちなみに、江戸幕府を開府した徳川将軍家の始祖である家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。

得川頼有は、娘の子である岩松政経に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は女系の岩松氏に代わった為に父子二代で消滅していたのだが、それが突然三河国で復活した事になる。
この系図のカラクリをどう読み通したら、合理的な説明が着くのだろうか?

この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏にたった一つだけ心当たりの「接点」が浮かび上がった。


松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五〜六歳の頃)のみぎり、松平家の勢力が衰えた事から今川家の勢力に圧迫された父・松平広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は忠誠の証として今川義元の下へ人質として駿河国府中へ送られる。

所がその旅の途中、立ち寄った田原城々主で義母の父・戸田康光の謀略により浚(さら)われ、今川家の反勢力である尾張の織田信秀の元へ送られる。


戸田康光(とだやすみつ)は、戦国時代に田原城を根拠に渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった三河国の武将であるが、松平氏の勢力拡大に屈服して松平氏に従い娘の田原御前・戸田真喜(姫)を松平広忠に嫁がせる。

康光(やすみつ)は松平広忠の依頼を受け、渥美半島の老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅付近)から舟で広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を駿府まで送り届ける予定であった。

所が、竹千代一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名、織田信秀の下に到着する。

戸田康光が織田家に通じて今川氏から離反したもので、これに怒った今川義元は、田原に兵を差し向ける。

康光は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男・戸田尭光とも共討死し、田原・戸田氏は滅亡した。


送られた尾張で当時十四歳の信長と知り合い、竹千代(たけちよ)は八歳までの幼少時代の一時期(二年間)を織田家に在って弟分として過ごし人質ながらも信長と「竹馬の友」で育った事に、表向き成っている。

その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。
この人質が、種を明かせばそもそもスペアーとして密かに鳥居家にて育てられて居たもう一人の影・竹千代だった。

この平手家が、名門・新田(にった)源氏・世良田系だった事から察するに、松平家が、「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓し、三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まったには、どうやら平手政秀の存在が、「その企てに在ったのであろう」と、我輩は推察する。


「お館様、お申し付け通り、家康殿(竹千代・徳川家康)の得川の系図を作らせましてござる。」

信長の傅役(ふやく/お守り役・教育係)で在った重臣・平手政秀が報告に来た。

織田家で密かに育てられたもう一人の松平影・竹千代は、今川家に在る松平竹千代が元服して松平元康を名乗る頃には、平手家養子として平手家康を名乗っていた。

「出来たか爺(平手政秀)、重上じゃ。これで三河衆も味方に付く、長い事爺(平手)の家に預けて居った事が生きるわ。」

「これで役目が片付いた」と安堵した平手政秀は、ここで傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長から、容易成らない陰謀を聞いた。

「しかしながらお館様、何故に平手家康殿(竹千代・徳川家康)に世良田・得川を名乗らせまいる?」

「知れた事よ爺(平手政秀)、家康(徳川家康)には源氏を名乗らせ征夷大将軍にするわ。」

家康(徳川家康)に源氏を名乗らせ、「征夷大将軍にする」となれば織田信長の椅子が無い。

「はて・・・面妖な。してお館様はいかがなされます?」

「わしか、わしは帝(みかど)じゃ。」

信長に「わしは帝(みかど)じゃ」と聞かされて平手政秀は顔色を失った。

「何と、お館様は天子様をいかが致しますか?」
,br> 「爺(平手政秀)、天朝も公家共も新しき世には不要じゃ。」

「恐れ多き事を・・・天朝様を・・・それは成りませんぞ。」

驚いた政秀は、即座に信長を諌(いさ)めに掛かった。

恐ろしい事に、自分が傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長が、思わぬモンスターに育っている。

「爺(平手政秀)は不服か?良いか爺(平手政秀)、良く聞け。元康(徳川家康)はわしの外様臣下として征夷大将軍を名乗らせる。お主達内々の者は、左大臣、右大臣はもとより新しき公家になるのじゃ。」

「それはいけませぬお館様。この国は天子の国ですぞ。」

「爺、何を古き事を愚だ愚だと・・・。わしに逆らうとあれば、爺とて容赦はしないぞ。」

「お館様、この爺が皺腹かき切ってお諌(いさ)め申しても聞けませぬか?」

「黙れ爺、腹かき切れるものなら、かき切って見よ。」

口論の勢いで言った信長の言は、育ての親を自認しているからこそ、重臣・平手政秀を本気にさせていた。

傅役(ふやく/お守り役・教育係)から後見人を任じていた重臣・平手政秀にすれば、「天朝に弓引く」など到底認められる事ではなかったが、誰よりも信長の気性を知るだけに戯言(ざれごと)と捨てては置けなかったのである。

「承知仕った。腹かき切ます故、天朝様に弓引くはお止まりくだされい。」

「爺(平手政秀)はまだ左様にわしを縛るか、勝手にせい。」

口論の末、平手政秀は所領の志賀城(現在の名古屋市北区平手町)へ立ち帰り、見事腹かき切って果ててしまう。

これには流石の信長も、政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。

この国は、余りにも永く血統主義が続いて居て、その価値観が氏族の全てだった。

同じ板ばさみの事態が、後に歴史的大変事として「本能寺の変」が起こるのだが、まさしくこの平手政秀の切腹はその予兆であった。

平手政秀は、新田源氏に連なる「後胤貴族の末裔と言う武士の誇り」と自らが育てた破壊モンスター(怪物)・織田信長との板ばさみに苦慮し、自らの命を絶ったのである。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇〔第五話徳川家康二人説〔一〕◆◇◆◇◆◇◆

その後、今川方に捕えられた信秀の長男・織田信広との人質交換によって竹千代は駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗った事になっている。

この松平家の秘密、二人竹千代(家康)を知った稀代の天才・織田信長は、いったい何を仕掛けたのだろうか?


その後の経緯だが、松平家の「双子の嫡男」の片割れ松平元康(竹千代)が、人質に出した駿府・今川家で育ち、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・(築山殿)・を娶(めと)っている。

この時期、今川家の支配下で育った三河領主・松平元康(竹千代)は、遠江国磐田見附宿の宿の娘・某と愛人関係にあり「初の庶子と言われる男児(一蔵)まで設けた」と言われている。

この頃は表の元康が駿府に在住していた頃で、元康が一人ならば辻褄が合わないが、もし影に今一人居ればこの一蔵の誕生は大いに在り得る事だった。

流石(さすが)に晩年まで子創りに長けた家康、十六歳で子持ちデビューを果たした事になる。

若き日の元康(平手家康?)は我が子の男子誕生に喜んだが、何しろ相手が名の無い家の女性の上自らも身の振り方が決まらない時で在るからとても手元に置けない。

それで一蔵は、暫く母の実家である磐田見附宿の旅籠宿で育っている。

その一蔵が、家康はよほど可愛かったのか、一計を案じた家康は信長の下に出入りして何かと家康に声を掛けてくれていた雑賀党の棟梁・雑賀孫市に、庶長子・一蔵を孫市の養子として託している。

ここで雑賀孫市に一蔵を養子として託した知恵が将来を見据えた物であれば、それが家康本人の考えなのか、後見していた平手政秀の助言に拠る物かは、今と成っては不明である。


さて、ここで問題なのが、今川家の血族(関口親永)の娘(築山殿)と夫婦(めおと)に成った属将とは言え、当時の松平元康(竹千代)に「それほど奔放な事が出来たのか?」と言う疑問である。

当時今川家の本拠地・駿府(静岡)に在った松平元康(竹千代)は、属国扱いで人質上がりの三河領主なのだから、当然今川家臣団の目が光って居るのである。

駿府近郊ならいざ知らず、領国三河に近い遠江国磐田見附宿までの遠出が易々と出来る環境には無かった筈である。

それでは、三河、駿河を股に掛けて、男児(一蔵)まで設ける奔放な生活をしていた若者は誰だったのか?

この条件で考えられる事は少ない。


この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件である。

つまり同時進行で、織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そう、今一人の影・竹千代が「密かに平手家(平手正秀)の手で育てられていた平手家康」としなければ、辻褄が合わないのである。

つまり今川義元の討ち死直後に早々と岡崎城に入城し、迷わず独立を宣言する家康の人物像が、今川家で育った松平元康(竹千代)以外の双子の片割れでなければ「納得」として全体像が見えて来ないのである。

そして、筋書きが出来て居たような余りにもスムースな織田、松平両家の提携(清洲同盟)が、誂(あつら)えた様に待っていた。

或いは三河国在地の徳川家臣団と織田信長との間に密約が在っての事であれば、「桶狭間決戦での奇跡」も、もう少し違う見え方をするかも知れない。

松平元康(家康)は、その後躊躇いも無く幼少よりの知人ばかりの筈の今川氏と戦って三河東部に進出し、三河国を統一している。


松平元康(家康)が世良田の姓を名乗ったのは、この三河統一の時だった。

信長とは「竹馬の友」かも知れないが、温厚な知識人と言われる今川義元も松平元康(竹千代)にとっては育ての親のごとき存在である。

義元は自分の姪(瀬名姫)を家康に嫁がせ、自分の名から「元」の文字一字を与えて「元康」とし、教育係として護国禅師の太原雪斎をつけるなど、竹千代個人に対してそれほど酷い人質扱いなどはしていない。

むしろ新しい親族として可愛がり期待していた事を考えると、それが「コロッ」と変わって独立を宣言、岡崎城に入城した松平家嫡男が、正当な「嫡男の資格を有する別人ではなかったのか?」と疑って見たのである。

この竹千代(たけちよ)尾張人質時代に、父・松平広忠は死去し三河松平家(岡崎城)は義元の派遣した城代により支配されていた。

当然ながら徳川家臣団にして見れば、他家の城代に支配されるなど許せる範囲ではない。

この事がその後の、元康の今川からの独立に繋がるとは考えられるが、平安の昔から郷士が主を乗り換えるのは武門の習いであり、必ずしもそうとばかりは言い切れない。

三河家臣団にはそれに耐える希望が、密かに在ったのかも知れない。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第六話転機・桶狭間の戦い◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

千五百六十年(永禄三年)桶狭間の戦い今川義元が織田信長に討たれた際、松平元康は一番割りの悪い先鋒別働隊として今川本隊とは別働で尾張攻略最前線の大高城(尾張国)にあった。

元康は桶狭間で「義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。

三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止めて説得した為に、渋々岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は既にもう一人の方の竹千代だった。

今川義元の討ち死にを期に三河松平家の独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。

双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中で在った大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?


もう一人の元康が「平手家の養子に入った」と言う仮説だが、徳川家康(とくがわいえやす)源氏の接点を敢えて言えば、家康(いえやす)の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏が、清和源氏満政流を称している。

水野氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基王(つねもとおう/賜名・源経基)の王子・源満仲の弟にあたる鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って「水野氏を名乗った」とされる。

しかし満政流の源氏が母方にあるにも関わらず、家康(いえやす)が名乗ったのは本来手近い母方・源満政流ではなく清和・河内源氏・新田流で、あきらかに平手政秀(ひらてまさひで)が称する新田源氏・世良田系図だった。

それを朝廷が認めた所に、家康が平手家の養子に入った事を証明する何かが在ったのではないだろうか?


元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

確かに運・不運は出た所勝負の感も在り、人生これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。

この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのだ。

計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。

つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。


歴史上に起こり得る事象には、連続性がその背景になければ成らない。

つまり突然起こったがごとく見える事象にも、必ずそこに到る要因が以前の何処かに存在する。

「恐らく」と枕詞(まくらことば)をかざして言うに、同盟の密約は遥か以前からの織田・松平双方の確信だったのではないだろうか?

如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて「攻め立てられる可能性」と言う危険な賭けに出た事に成る。

これは織田信長の立場にして見れば、三河一ヵ国手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。

しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を、元康はまったく配慮の他で行動し、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?

現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っている。

二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。


松平元康(徳川家康)は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、西三河の諸城を攻略して今川家から自立する。

その後家康は、苦心の末に三河一向一揆の鎮圧に成功して西三河を平定して岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏攻略の戦略を推し進める。

東三河の戸田氏や西郷氏と言った諸豪を抱き込みながらも軍勢を東へ進め、千五百六十六年(永禄九年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。

この年、家康は三河国主として朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。

この改姓に伴い新田氏系統の源氏である事も、朝廷に願い出て公認させた。

松平元康の清和源氏の名乗りには、織田信長との親交を深めていた時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きい。

その朝廷斡旋の根拠として考えられるのは、清和源氏新田氏一族の平手政秀(ひらてまさひで)が影養子として松平元康を迎えて系図上継嗣としていたのであれば筋が通っているのだ。

時の関白・近衞前久(このえさきひさ)が、元康の表向き松平名乗りの実は清和源氏・平手氏養子を事実と認めて朝廷に推認する。

まぁ、朝廷に務める殿上公家にしても現在のお役所仕事と同じで、一応形式が整っていればむげには却下出来ない。

しかも関白・の推(お)しが在ったのでは、結果は「推して知るべし」である。

氏名乗りを新田氏縁(にったうじゆかり)の徳川(得川)氏に改める事と家康に対する従五位下三河守叙任について前久(さきひさ)は朝廷に斡旋し、それを朝廷に認めさせた訳である。



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◇◆◇◆◇◆〔第七話近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)◆◇◆◇◆

藤氏長者は藤原氏の棟梁の事である。

戦国の世に在ってほぼ織田信長と同世代に生きた公家・藤氏長者(公家藤原氏の最高位)は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。

藤原五摂家の公家・近衞家・第十六代当主が、信長の二歳年下に生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。

その彼・近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)を、徳川将軍家成立に到る影の仕掛け人の一人としてこの物語に取り上げる。


近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)は、細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代・安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をした。

近衞前久は、帝の側近公家だった為に動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。

近衞前久(このえさきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。

平手政秀(ひらてまさひで)が茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。

この平手政秀(ひらてまさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族明智光秀である。

織田家の朝廷工作役の平手政秀(ひらてまさひで)が自刃して三年、後任に明智光秀にその役が廻って来た頃と近衞前久(このえさきひさ)が関白に任じられた頃が、時期的に符合している。

どうやらこの頃から近衞前久(このえさきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。

藤原氏嫡流・五摂家の文化人である近衞前久(このえさきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。

この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対する。

所が義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、敵の敵は味方で前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し、以後は信長との親交を深めている。


戦巧者の織田信長が攻めあぐみ、中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。

近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだった。

だからこそ、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。

前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説もあり「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。

一時前久(さきひさ)は、織田信孝羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。

家康にすれば前久(さきひさ)は、朝廷とのパイプ役で恩義も在るからこれを匿(かくま)い、歓待している。


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◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第八話人質入れ替わり◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

それではこの物語の主役である二人の竹千代は、脚光を浴びる領主の座を何処で入れ替わったのか?

入れ替わりの絶妙のタイミングが、一度だけ在った。

織田家の人質だった影・竹千代は、今川方に捕えられた織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって、引き換えの形で駿府へ移されている。

しかし、実際に駿府へ行ったのは織田家に居た影・竹千代ではなかった。

三河の家臣団と織田家が密約、信長の「竹馬の友」である影・竹千代は、傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀の遠縁にあたる三河国愛知郷の郷士に匿(かくま)わせている。


平手政秀の三代前にあたる清和源氏・新田流世良田義英は、三河国愛知郡に平天城を構えていた。
それ故愛知郡には平手家縁者の郷士がいた。

織田信長の命を受けた平手政秀は、影の竹千代に息子の平手久秀を伴わせて、暫し尾張国よりは遥かに遠江国寄りの三河国愛知郡に預けている。

平手家から三河の平手縁者に預けられた方の影・竹千代は、事を秘していたから誰も松平家の「世継ぎの片割れ」とは思わない。

それを良い事に、血気盛んな若者・平手家康(影・竹千代)はかなり自由奔放な生活を送っていた。

それで、近隣の浜松在や遠出をして駿府城下まで足を伸ばし、投宿した遠江国磐田見附の宿の娘との間に「一蔵」と言う子まで成している。

この時に後の徳川家康となる平手家康(影・竹千代)を三河国愛知郷に住まわせ、彼に浜松近在の磐田目付宿辺りまで遠出させたのは、信長の「竹千代に三河・遠近江で良く遊ばせておけ。」と言う命が在ったからである。

それは、信長が平手家康(影・竹千代)を西の備えにする為の深謀に拠る布石だったのだが、奔放な青春時代を過ごした家康は、これ以後土地勘の在る遠近江に浜松城を本拠地とし、老後も駿河府に隠居するなど現在の静岡県を生涯愛して居た。


駿府で人質として育って行動に制約の在った正・竹千代に、御落胤は似合わないのである。

この一蔵を始め、「元康(家康)落胤」と噂される者が七人も出たのには、正に竹千代が二人いた事で、片方が自由な時間を謳歌し落胤の量産に繋がったのではないだろうか?

そしてこの時、交換に使われ駿府に送られた替え玉が本来嫡男として岡崎城内で育てられていた方の、「正・竹千代だったのではないだろうか?」と、思い到るのである。

すると、この大胆な企ての唯一の織田家側の証言者である平手政秀親子は、「徳川系図」の為に謀殺された恐れもあるのかも知れない。


戦国時代らしいそれぞれの思惑が重なって、奇妙な構図が出来上がっていた。

今川家は、三河平定後の三河家臣団を懐柔する為に、嫡男の元康(竹千代)を身内にした。

同じ理由で織田家は、内密に三河家臣団合意の上、もう一人の嫡男を平手家の養子・平手(得川)某として育てている。

この辺りの成り行きは、正に深読みの天才・織田信長が引いた絵図に見事に嵌って行ったのかも知れない。


「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。


双子の嫡男を使い分けた三河家臣団にして見れば、今川、織田いずれが勝っても嫡男が生き残る「虫の良い方法」だったが、それも戦国を生き抜く為の弱小大名家の家臣供の知恵だった。

双子の松平竹千代は、弱小大名の悲哀の中で親今川派と親織田派の双方に分かれて育てられる運命だった。

その安全装置が働いたのは、桶狭間の決戦で織田信長が今川義元を破った時である。

正直、三河家臣団は「織田方の方が、幾らかましだ」と思っていたから、実は桶狭間の信長軍奇襲に於いて三河家臣団の内応も充分に可能性がある。

その片方、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、今川家の当主今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で破れるに及んで運命が決まった。

「本多(重次)殿、最早(もはや)今川は、見限らねば成らぬ。」

「いかにも、鳥居(元忠)殿がお育てした若(もう一人の元康/得川某)を担ぎ出し、盟約を急がねばなるまい。」

つまり、三河松平家に必要なのは、親織田派の方のもう一人の影・竹千代(松平元康=徳川家康)に成って、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、三河家臣団の何者かに闇に葬られたのである。

早速三河家臣団は早速連絡を取り、予めの密約に添って平手(得川)某として育ていた方の嫡男(影・竹千代)を、松平元康として岡崎城に迎え入れる。

これは、平手(政秀/織田家重臣)と鳥居(忠吉/松平家重臣)の密約の筋書き通りであるから、三河松平家の当主元康(得川某)は、早速「清洲同盟」を締結、織田方に付く事に成ったのである。

只、駿府に在った本物の元康の家族には、この双子のもう片方(影・竹千代)が、背格好や顔は似て居ても騙しおうせる訳が無かった。

それはこの物語に、歴史に残る悲劇を加えるに到る事を、予測するのは明らかな話しだった。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第九話駿河御前(するがごぜん)の寝間◆◇◆◇◆◇

主君入れ替わりを内密にしたい松平家臣団の本多の働きで、築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)は駿府から岡崎城に呼び寄せられる。

夫婦は互いの無事再会を喜び、新たな日々が始まる筈だった。

しかし築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)にとっては、それが悲劇の始まりだった。

元々好き者の元康(家康/影・竹千代)である。

居れ代わったのを幸いに兄弟の嫁・築山殿を寝間に誘い抱いた。

流石の元康(家康/影・竹千代)も、双子の兄弟の嫁を抱く、しかも相手は「夫と思い込んでいる」と成ると興奮は隠せない。

手荒く築山殿に襲い掛かり、弄り責めるがごとく抱いた。

抱かれた築山殿は驚いた。

夫・元康がまるで別人である。

「あれ、殿はまるでお人が変わったような為され様・・・」

「予も、晴れて三河の国主成り、今までのようにそちを抱くに遠慮はせぬ。」

夫はそう応えたが、幾ら国主に成ったとて、人の性癖がそう簡単に変わる訳が無い。

築山御前(関口瀬名)が、久振りに岡崎で会った松平元康は雰囲気がスッカリ変わっていたが、最初は「義元が討たれて今川から解き放たれ、三河に独立を為した為だ」と思っていた。

だが、性癖や姓技まで激変する訳は無い。

如何に双子とは言えどうしても個性が出る物で、築山御前(関口瀬名)は松平元康を名乗る男に抱かれながら直ぐにそれを悟った。

連れ添った夫婦には、慣れ親しんだ行為の手順がある。

その片鱗も無い全くの「別人の行為」と成れば、夫では無い事は明白だった。

「作左衛門(本多重次)、あの者わらわが殿にあらず、何者ぞ?」

築山御前は、血相を変えて本多(作左衛門)重次に食って掛かった。

「はて、お方様(築山御前)は暫らく殿に遠退いて居た故、殿をお忘れか?」

「黙れ作左、わらわは昨夜あの者に抱かれて気付いたわ。」

「お方様、松平家の為ですぞ、口を閉じてご辛抱願います。」

本多重次は、あの男が今川の武将として育った元康の「双子の兄弟だ」と築山御前に告げる。

「作左はわらわに、黙ってあの者に抱かれて居れと申すか?」

「いかにも家中の者の総意でござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱の程を・・・」

「作左、ようも酷(むご)い事を・・・」


一度は運命と諦めて見たものの、入れ替わった元康に毎晩呼び寄せられて弄り責められて、他人に肌を許す事が築山御前にはどうにも我慢が成らない。

さりとて、今の元康を「夫の偽者」と言い出せば、この時代に自分(築山御前)や長男・松平信康の命の保証さえない。

「作左、わらわにはこのままあの者と夫婦(めおと)を続けるは無理ぞ・・・」

「信康様の世継ぎの儀もござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱成りませぬか?」

「成らぬ、あの者の異成る事は秘して口にせぬが、わらわは一緒には居れぬ。」

「判り申した。近くの尼寺(惣持寺)にお移り願いまする。」

長男・松平信康を持つ身成れば、築山御前は、岡崎城の外れ菅生川の辺に在る惣持尼寺に別居するのが、この不幸な運命への精一杯の抵抗だった。

「作左衛門、予に抱かれて居れば良かったものを傍(そば)に仕えぬとあらば、不憫じゃが、お築の口は閉じねば成らぬぞ。」

「承知つかまった。」

元康(家康・竹千代)、信康親子の不仲説や築山御前確執の要因は、案外こんな所かも知れない。

その後、家康の命令により築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹している。

この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。


今川義元の軍勢に拠る織田領内進行で、揺れる織田家々中の混乱を他所(よそ)に、信長は、平手政秀を呼んで「或る策謀」を確認していた。

「政秀(平手)、元康を入れ替える策は進んで居るか?」

「ははぁ、既に雑賀殿(孫市)を通して三河の本多殿に・・・・」

「本多からの義元の動きは正確か?」

「雑賀殿(孫市)>の知らせと合って居りますれば、間違いないかと心得ます。」

「良し政秀、これで予が勝った。軍儀は無駄故、暫らく寝た振りをする。」

この密談を経て、織田信長が桶狭間(田楽狭間)に今川義元を急襲、討ち取って勝利を収める。

間髪を入れず、三河家臣団による元康入れ替えプロジェクトは作動を始めた。

全ては信長の意向に沿った形で、本多、鳥居、鈴木、などの三河衆の大半が加担して居た。

信長は、今川撃破後の三河家臣団懐柔策まで取って居た事に成る。

それにしても、運命なんてどっちに転ぶか判らない。

ほんの弾みのようなもので、もう一人の竹千代(元康)の運命は決まった。

その「義元、桶狭間討ち死に」のドサクサに紛れて、元康(家康)は入れ替わったのである。


駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は、既にもう一人の方の竹千代だった。

元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。


そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

謀(はかりごと)は「有りそうな事」では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。

謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「継嗣・竹千代が二人居た事」は、もっけの幸いだったのかも知れない。


この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など裏に、「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。
この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら、幾ら戦国の妻でもそのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第十話長男・松平信康の切腹◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。

松平元康(徳川家康)の正妻・築山殿(つきやまどの/築山御前・つきやまごぜん)は、今川家一門の瀬名家の出自で関口家の養子と成っていた駿河国持船(現静岡市用宗)城主・関口親永(せきぐちちかなが/関口義広)の娘で名を関口瀬名(せきぐちせな)と名乗っている。


瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、関口親永(義広)に嫁いで築山殿を為したので、関口瀬名は今川家当主・今川義元の姪にあたるので、夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が瀬名(せな)に在って当然と言える。

所が、夫の松平元康が今川に反旗をひるがえして織田と同盟を結んだ為に、瀬名(せな)は両親を今川に殺され、今川にも松平にも居場所が無くなる戦国期の悲運の女性を代表する生涯を辿るのである。


勘違いして貰っては困るが、松平元信(元康、後の徳川家康)婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから築山殿の名乗りは生涯を通じて関口瀬名(せきぐちせな)である。

関口瀬名(築山殿)は、今川家の人質として駿府に在住していた三河・松平家の当主・松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚して築山殿(つきやまどの)と呼ばれ、二年後に嫡男・松平信康と翌年には亀姫を産む。

所が、この年の桶狭間の戦いで伯父の今川義元が討たれた為に夫の松平元康(元信から改名)は駿府に戻らず本拠地・三河岡崎に帰還して今川家から離反し、今川家から独立して尾張・織田家の織田信長同盟する。

為に築山殿の父・関口親永(義広)は、娘婿の松平家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け今川氏真の怒りを買い、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて正室と共に自害する。

築山殿は、今川義元の妹の夫に成る上ノ郷城城主・鵜殿長照の二人の遺児との夫・松平家康(元康から改名)の母・於大(おだい・水野太方/みずのたいほう)の方の二男・後の松平康元(家康・異父弟/下総国関宿藩主)と思われる源三郎との人質交換により、駿府城から子供達(嫡男・松平信康と亀姫)を連れて家康の根拠地である岡崎に移った。


ここからが歴史の謎としては問題で、築山殿は岡崎に移ったは良いが何故か城外に住まわされている。

定説では、姑の於大の方が今川家の血筋である築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず岡崎城の外れにある菅生川の畔(ほとり)の惣持尼寺で「幽閉同然の生活を強いられた」とされている。

だが、夫である当主・徳川家康と築山殿との間に確執無くして家康の母・於大の言い分だけで嫡男・信康の母に対する仕打ちとしては不自然極まりなく、本当に嫁姑の間だけの問題なのか?

或いは別に秘すべき理由が在ったのではないだろうか?


日本史上の永い事、家康は織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。

この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だったが、信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。

所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされる。

信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が近年では有力視され始めている。

それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?


この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。

その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。

入れ替わった家康(元康)に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、違う物語が見えて来る。

つまり側室・於万の方の胎になる結城秀康の次、三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。

家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。

それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。

幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた話しになりそうである。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第十一話今川義元(いまがわよしもと)◆◇◆◇◆◇◆

駿河・遠近江の太守・今川氏(いまがわうじ)の本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門・吉良家の分家にあたる日本の武家で、代々駿河守護職を継承した足利一門・別格嫡流ある。

鎌倉幕府有力御家人である鎌倉期の武将・足利義氏(清和源氏義家流)の二男・足利有氏の子・足利国氏が、三河国・吉良と三河国・今川の両荘を領した足利長氏の養子となる。

足利国氏は、養父・足利長氏の所領の内、三河今川荘内の数郷を受け継ぎ(伝領)、今川太郎または今川四郎と称した。

これが足利流・今川氏の始まりである。

やがて今川氏第二代・今川基氏(いまがわもとうじ)の時、後醍醐天皇が鎌倉倒幕運動を始めて鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が始まると、北条時行(鎌倉幕府第十四代執権・北条高時の次男)による中先代の乱が起こる。

この時に基氏の長男・今川頼国は足利尊氏に直属して遠江小夜中山の合戦で北条中先代軍の将・北条邦時を討ち取る大功をたてたが直後の相模川渡河戦で戦死し、この時三男・今川頼周も戦死している。

基氏の五男・今川範国は建武の新政から足利尊氏に直属し、尊氏蜂起の時は一時南朝方に在ったが直ぐに足利尊氏に臣従して室町幕府の成立に貢献した功績で駿河・遠江両国の守護職に任ぜられ、頼国の遺児頼貞が因幡・但馬・丹後三国の守護に任ぜられた。

この駿河・遠江両国の守護・今川範国が駿河今川氏の初代である。

今川氏(いまがわうじ)の地位は斯波家畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格で「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われている。

つまり江戸期の御三家・御三卿家に当たる存在で、吉良家と伴に足利将軍家の連枝(濃い身内)であり足利宗家の継承権を有していた名門守護職である。

その今川家は、駿河守護職・今川義忠(駿河今川家六代当主)の代に応仁の乱が起こり、将軍・足利義政の下に東軍に加わって知り合った将軍申次を務める伊勢盛定と知り合い、その盛定の娘・北川殿と今川義忠に嫁いだ事で伊勢氏と今川氏は縁者となった。

その事で、北川殿の兄または弟にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)が将軍家の代理として今川家の家督相続に介入、北川殿が生んだ龍王丸(今川氏親/駿河今川家七代当主)の相続に成功する。

今川氏親の相続に成功した伊勢新九郎は駿河守護代の地位を得て沼津・興国寺城主を皮切りに伊豆国を奪取、後に南関東一円を支配する戦国大名・後北条氏のスタートを切る事に成る。

桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。

今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなど、東三河・遠近江・駿河などを領国とするなど、駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。

今川義元が桶狭間の合戦で討ち取られた今川家は、嫡男・氏真(うじざね)が家督を継ぐが大名家として弱体は免れず、隣国の武田信玄と徳川家康に侵攻され氏真(うじざね)は逃亡して戦国大名・今川家は滅亡する。

結果、今川家の所領・駿河国は武田家、遠近江国は徳川家が分ける形で領有する。


その後今川氏真(いまがわうじざね)は、縁戚でもある後北条家や京都の旧知・姻戚の公家などを頼って生き延びていた。

やがて氏真(うじざね)は、天下を取った徳川家康に召し出されて五百石の旗本に抱えられ、その後五百石を加増されて都合千石の高家に処遇されて家名は残った。


いずれにしても徳川家康は今川家の衰退に乗じて遠近江国を手に入れ、二ヵ国の太守となって天下人への幸運な一歩を踏み出したのである。


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◆◇◆◇◆〔第十二話結城秀康(ゆうきひでやす)・越前福井藩◆◇◆◇◆

長男・松平信康と正妻・築山御前(つきやまごぜん)の次は、同じ築山御前(つきやまごぜん)の胎になる二男の話である。


越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、家康二男・松平(結城)秀康である。

実はその、徳川家康(とくがわいえやす)・二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。

徳川家康の長男・信康もまだ存命の頃の事だが、幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。

家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を、それほどに嫌う理由はいったい何だったのだろうか?


家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出される。

その後家康二男・秀康は養子先の秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。


家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、遥か明治維新の幕臣側立役者の一人・松平春嶽へと続いて行くのである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけである。

その五人の中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで、家康・二男としては妙に扱いが軽かった。


結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。

確かに秀康は、加賀藩(百十九万石)薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。
当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

所が、秀康の嫡男で二代藩主・松平忠直の代になると、大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで忠直は不満を募らせる。

家康・二男の大名家、将軍・秀忠の兄を祖とする親藩が余り大きくなるのは幕府にとっては不安要因で好ましくない。

しかし、そうした幕府内の事情など、忠直は知った事ではなかった。

やがて忠直は乱行問題行動を起こし、千六百二十三年(元和九)年、豊後(大分県)に配流になって、越前福井藩(越前松平藩)の知行も五十万石に減らされ、秀康の子で忠直の弟「忠昌」が越後高田から転封して越前福井藩主(越前松平藩)を名乗る。

以後四十七万五千石まで減らされ続けて、後述する松平綱昌(まつだいらつなまさ)の仕置きで一時は二十五万石と三分の一近くまで減り、結局最後は三十二万石と盛時の半分以下のままで終わった。

厳密に言うと、幕末の幕府方大名・松平春嶽はこの「秀康の子で忠直の弟・忠昌」の末裔にあたる越前福井藩主(越前松平藩)である。


いずれにしても、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、家康本来の姓である筈の「松平」を最後まで伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎の証明が隠されていたのではないか?

簡単に言ってしまえば、それは家康が世良田流・平手氏に養子に入り、世良田流・得川(徳川)を継いだ経緯が在ったからではないだろうか?

つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。


繰り返すが、長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

そして、この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

或るいは、二代将軍・秀忠明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

この疑いを持つ根拠のひとつに、二代将軍・徳川秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。

そんな読みも出来るのだが、後世になると徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第十三話家康の「清洲同盟」◆◇◆◇◆◇◆◇◆

松平元康(徳川家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。

平手政秀の仲介で、若き頃の織田信長から本多重次と鳥居元忠が那古屋城で聞かされた謀略話は、大胆極まりないものだった。

「予は平姓を名乗って桓武帝の末裔として帝に納まる。ついては竹千代を政秀(平手)の養子と為し、そなたらの主君・竹千代を源氏としてわが織田帝家(おだみかどけ)の将軍と為せ。」

本多重次と鳥居元忠は織田信長の知略に驚き、嫌、畏怖さえ感じて思わず平伏していた。

幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。

つまり三河松平家嫡男の双子の一人が清和源氏新田氏流の平手家に継養子として入ったのであれば、血は松平嫡流で三河家臣団に領主と受け入れられ、御家は何しろ平手家に継養子として入っいて新田氏流系図に成る。

であれば、「得川」にちなんで「徳川」を創設しても朝廷からはスンナリ「源家の出自」と認められる。


さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。


その頃雑賀鈴木家に養子として迎えられた一蔵は鈴木一蔵重康と名乗り、孫市から雑賀流砲術・忍術・兵法の手解(てほどき)を受けていた。

鈴木氏(すずきうじ)の血筋である雑賀鈴木家は、物部朝臣(もののべあそみ/姓/カバネ)流穂積氏(ほずみうじ)の後裔で、紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自で物部(もののべ)神道・紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の神主家であり武士である。

その後一蔵(孫三郎重朝)が孫市の後継者と認められた頃、それと知らない明智光秀とも何度か対面していた。


朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川氏真(いまがわうじざね)を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。

同年末からは、徳川家康は今川領で在った遠江国に侵攻し、曳馬城(後の浜松城)を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、甲斐国・武田信玄から攻められて駿府から逃れて来た今川氏真(いまがわうじざね)を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となった。

千五百七十年(元亀元年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

この頃に、鳥居忠吉の嫡男・鳥居元忠が何時も家康の軍勢の主力の一人として戦っている。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が、松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政と共にけん制している。


さて、時は下克上・天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康がこの辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に将軍・足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、畿内周辺の実力者と密かに連絡を密にして反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

家康に野心が在れば、本来この「副将軍への就任要請」は更なる飛躍の足掛かりである。

所が、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。
徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりがあったのではないだろうか?

そう考えると在る事が浮かんで来るが、それは次の〔第十四話〕でご紹介する。


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◆◇◆◇◆〔第十四話稚児小姓(男色・衆道)の習俗◆◇◆◇

あまり日本史に表立って取り上げられる事は少ないが、戦国期前後の武士の主従関係に於いて、特筆すべき形態の関係が存在した。

そしてその特殊な主従関係を前提にしないと、まるで説明が着かない事象が史上に多々存在するが、無難に納めたい物語なら「寵愛とか信頼関係」でベールに包んで済ましてしまう事である。

その特筆すべき形態の関係を「稚児小姓(男色・衆道)の関係」と言う。


井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)に徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝榊原康政と肩を並べるように成る。

この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。


稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だったのかも知れない。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後から十五歳頃までだから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。

元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。


男色(衆道)の繋がりなら、信長と家康の間に深い信頼関係が在っても不思議は無い。

ただし人質として居た竹千代(後の家康)は、正式記録では当時八歳かそこらの童子で、信長がその童子に手を出したとは考えられない。

だから、手を出したと思われる時期には今川家に人質交換で竹千代(後の家康)を奪還されてていて、この男色(衆道)疑惑は本来なら辻褄が合わない。

所が竹千代が双子で、人質交換で今川家に行ったのが正・竹千代で、織田家にいた影・竹千代はそのまま織田家中の平手政秀の養子として「信長の手中に在った」と考えれば、この難問は解決する。

そして影・竹千代が形として平手(源)家の養子であれば、系図上は世良田・得川(源)氏を名乗る事はまんざら捏造の系図とは言い切れない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏の源氏流新田氏系を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人で、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。


また、家康二女・督姫(とくひめ)の娘婿として徳川家康に可愛がられ、播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした池田輝政(いけだてるまさ)がいる。

池田輝政(いけだてるまさ)の父は、織田信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた池田恒興(いけだつねおき)の次男であり、家康が織田家人質時代に七歳齢上の池田恒興と接点が在った事は充分に考えられる。

つまり家康にすると、輝政は衆道関係の有無は別として言わば虚け者(うつけもの)織田信長主従の傾(かぶ)きグループ仲間として「可愛がってくれた悪仲間の兄貴分の子供」と言う気分だったのかも知れない。

それで織田家人質時代の中身を考慮すれば、二女・督姫(とくひめ)を池田輝政(いけだてるまさ)に与え、五十二万石の大身に出世させた事の説明が着くのだ。


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◇◆◇◆◇◆〔第十五話二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)◆◇◆◇

徳川家康の三河松平氏が、千五百六十七年に今川氏の属国から独立して「本能寺の変」で同盟相手の織田信長が亡くなるまでの十五年間、家康は信長の足利義昭(あしかがよしあき)を奉じた上洛や浅井長政朝倉義景軍との姉川の合戦などに参軍する。

そうした同盟活動の傍ら、家康は今川氏真・今川氏を滅ぼして遠近江国を手に入れ、三河国と合わせて二ヵ国の太守になり、居城を現在の浜松に移して「本能寺の変」の直前には甲斐国の武田氏を織田軍の支援を得て滅ぼしている。



公式記録では、二代将軍・徳川秀忠徳川家康の三男として遠江国・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。

徳川秀忠の母は家康側室の西郷局(さいごうのつぼね/お愛の方)、実家の西郷氏は九州の名家・菊池氏一族で三河国へ移住した者の末裔と伝えられ、室町初期には三河守護代をつとめた事もある三河の有力な国人武家であった。

長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹して死亡、庶兄(家康二男)の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇され、十四歳で中納言に任官し「江戸中納言」と呼ばれる。

この三河国人・西郷氏の九州本家の末裔が、遥か後世の明治維新で活躍した西郷吉之助隆盛であるが、その西郷隆盛の話は本編・第五章〜六章に記述する。

秀忠の同母弟とされる家康の四男・松平忠吉が、実は側室の西郷局が産んだ家康の本当の三男で、三男とされたのが実は明智光忠である。

四男・松平忠吉(まつだいらただよし)は、関が原の初陣に於いて島津豊久を討ち取った功により戦後、尾張国清洲に五十二万石を与えられたが、悪性の腫れ物に冒され享年二十八歳で死去している。

勿論、「母親が三河の名家であるから後を継がせる」は口実で、織田信長の嫡男入れ替え策の結果であるが、いずれにしても豊臣秀吉は、家康の三男・秀忠が明智光忠と入れ替わったなどとはつゆ知らない。

それで秀吉成りの閨閥計画を実行している。

徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。その後継室として迎えたのが、浅井長政・三女「お江(おごう)もしくは於江与」だったのである。


徳川家康が、今川家の人質時代の松平竹千代(松平元康)とは「別人では無いか」と推測される理由の一つに家康が門徒となった「仏教の宗派が予測と違う」と言う疑問がある。

松平竹千代(松平元康)は今川家人質時代に今川家・軍師の臨済寺・雪斉和尚(臨済宗妙心寺派)から手習いなどの勉学指導を受けている。

雪斉和尚(太原雪斉)の本拠・駿府(静岡)の臨済寺は、臨済宗の宗祖臨済義玄(中国唐の僧)の名に由来する今川氏の菩提寺である。

静岡浅間神社の境内から連なる賤機(しずはた)山麓に在って今川館(現在の駿府城)の北西に位置する現在の静岡市葵区大岩にある。

当然ながら、松平竹千代(松平元康)は幼少期に教えを授かった臨済宗妙心寺派の門徒となる筈である。

所が、成人して三河国主になった徳川家康が突然熱心な門徒となったのは、幼少時から慣れ親しんだ臨済宗ではなく法然上人を開祖とする浄土宗で、江戸・芝の増上寺が菩提寺になっている。

確かに三河安祥(安城)以来松平家は浄土宗であるが、松平竹千代(松平元康)は幼少期を臨済宗の中で過ごし、雪斉和尚から教えを受けてている。

松平家は「先祖からの浄土宗門徒だ」と言ってしまえばそれまでだが、三河国愛知郡の地元で浄土宗に親しんだ別の人物の存在もその可能性を否定出来ない。

存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。

これはもしかして、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件ではないだろうか?

家康は、徳川家の隆盛に伴い浄土宗総本山・智恩院(ちおいん)に寄進などする一方、智恩院(ちおいん)を京での政治工作の足場(投宿場所)にした位の関係を築いている。

また、家康が晩年駿府に隠居すると、上清水村(現静岡市清水区)に在った引接院・善然寺を駿府に移転させて手元に置き、そこが城の拡張で敷地内になったので現在の静岡市葵区新通に移設、特に徳川家から朱塗りの門を許されて引接院・善然寺は現在でも「赤門の寺」として有名である。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第十六話徳川家康二人説〔二〕◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。
そして多くの空白が生まれる中、後世「家康別人説」が浮上するのだが、この別人説、家康二人説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

しかし、巷で流れている単なる影武者説では説明が着かないのが今川家から独立後の家康母方・水野氏一族の隆盛である。

家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在るが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

影武者説に関してはこの水野氏重用の視点が欠落しているか、説の提唱者が無理にそこは目を塞いでいるのかも知れない。

つまり、何故か冷遇された三河以来の家臣団よりも優遇されていて、家康が影武者では整合性は無い。

比べるに正妻・築山御前(つきやまごぜん)と長男・松平信康親子の処断しかり、清洲同盟の謎しかり、家康庶子・鈴木一蔵の存在しかり、家康双子説の方が遥かに筋が通っているのではないだろうか?

そして何よりも松平元康(家康)が影武者であれば、伴に遊んだ過去を持ち見破れない訳が無い織田信長が三河をそのまま放って置くのは不自然である。

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏一族重用の説明が着かないのだ。


徳川家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏は何故か織田信長に寝返り、於大の方は夫・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁されて刈谷の水野家に戻っている。

於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

この水野氏の突然の織田方寝返りの動行と、その後の水野家及び於大の方(おだいのかた)に対する今川独立後の松平元康(家康)の奇妙な割り切りも気に成る所で、或いは双子の片割れの裏・竹千代の存在が在っての水野氏織田方寝返りの可能性を感じる。

で在れば、謀略渦巻く戦国の世である。

松平広忠と今川家の表・竹千代ラインと、生母・於大の方と織田家の裏・竹千代ラインが三河をめぐる勢力争いの構図として筋書きが完成していたのかも知れない。

水野氏については、清和源氏満政流を称し、経基王の王子で源満仲の弟で鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

しかし苗字の地とされる尾張春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏の水野氏があり、また藤原氏を称するものもあり、源氏と断定できず諸説ある状態で、なおこの水野郷の苗字の地は京都嵯峨水野の里とする説がある。

水野氏当主・水野信元(於大の方の兄弟)は、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると徳川家康・生母の実家としては家康の今川家からの独立を支援し、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど、身内らしい動きをして居る。

弟・水野忠重(みずのただしげ/於大の方とは姉弟)の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕えた。

猛将として知られた水野勝成は関ヶ原の戦い大阪の役に参陣して武功を挙げ、大和郡山藩主(六万石)後に備後福山藩(十万石)・下総結城藩水野家(一万八千石)の祖となる。

また、水野忠清は駿河沼津藩二万石(最終五万石)・水野家および上総鶴牧藩・水野家(一万五千石)の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

そして水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩五万石・水野家の祖であり、さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家二万石(改易)と紀伊新宮藩・水野家(紀州藩附家老水野家・石高は三万五千石。)の祖である。

つまり水野家は、小なりとは言え五ヵ家に及ぶ大名家を出し、老中など幕閣に要職を勤める親藩として存続し大半が維新を迎えている。


それにしても、江戸の守りをも考えた隠居地として家康が駿府を選んだ事でこの別人疑惑を見事に打ち消し、家康駿府育ちを印象着ける妙手は誰の手に拠るものだったのか?

この経緯を知っていたのは松平の古くからの重臣・本多家と鳥居家だけで、外部では只一人きり、密約相手の明智光秀だったのである。


まぁ、駿府を隠居城に選んだ事で考えられる一つは、名古屋城を江戸の守りとした場合に浜松城は近過ぎ、駿府城の方が守りとして距離的に良かったのだろうか?

今一つ家康には、浜松城は「三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)の敗戦」と言う苦い体験があり、隠居城としては辛かったのかも知れない。



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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第十七話三河(松平)家臣団◆◇◆◇◆◇◆◇◆

本能寺の変の後、豊臣秀吉が中国大返しの奇跡を為して山崎の戦い明智光秀を惨敗させる。

主君・信長の敵を討った秀吉は織田家内で発言権を益し、清洲会議(きようすかいぎ)柴田勝家を抑えて実権を握る。

そうした状況下で、その後織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で、千五百八十三年(天正十一年)織田信長の天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされる。

信長の遺子・織田信雄(おだのぶお)は徳川家康に助勢を頼んで小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)を起こすが、臆病な性格から戦の途中で勝手に秀吉と和議をしている。
  
この小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の時、雑賀衆棟梁・雑賀孫市とその養継嗣・一蔵は当然ながら根来衆と伴に一蔵実父・家康側に付いて蜂起し、結果、後の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐を招いている。
  

江戸幕府を開府した徳川家康の天下取りには、最もな理由が存在する。
源氏の長者・征夷大将軍・徳川家康誕生の遠因となった最初の秘密は、三河(松平)家臣団の結束である。

そしてその事が、「後の全てを決した」と言って過言ではない。

源頼朝「石橋山合戦」、徳川家康の「三方ヶ原合戦」と負け戦の経験で学び、慎重に成ったのは頼朝も家康も同じだが、両者には決定的な違いがある。

頼朝は猜疑心の塊だったが、家康は家臣を信頼し「情」が在った。

それは生い立ちの違いで、家康は影・竹千代の時代でも家臣の「情」に囲まれて育っている。

事実、織田・今川共に三河松平を「平定しょう」とは思わなかった。

根底にあったのが三河(松平)家臣団の結束で、織田家、今川家共にその結束が無視できず、嫡男・竹千代を取り込む作戦に出た。

下克上の時代に、或る意味特異とも言うべき三河(松平)家臣団の存在こそ、家康の運命を感じさせるものだったのである。


家康の才能は、類稀な「御輿に担がれ名人」であり、けして部下を無視して自らが身を乗り出す事はしない。

そして家康は、秘密の養子・秀忠(光忠)を信長から押し付けられてもさして抗わなかった。
それは、家康の生き方そのものである。

影・竹千代として育った彼自身が、影武者同然の数奇な運命に翻弄された半生を送って来たからで、それ故、避けては通れない事は逆らわず受け入れて、ジックリ生き残る事を自身の信条として覚えたのである。

当然ながら父・松平広忠、母・於大(おだい)の具体的な肉親の愛情に触れる機会は少なく、世話に成った家臣への「情」に比べ我が子に固執する心情に家康は疎(うと)かった。


我輩思うに、徳川家康(竹千代)はその出生の秘密の為に、双子の「影」として、織田家の人質として織田家・平手政秀に育てられたり、雑賀孫市(鈴木「佐太夫」重意)の庇護を受けたりと、父(松平広忠)の愛を知らずに育っている人物である。

その当時に、家臣を始めとする人の情けを知ったが為に、この時代の棟梁に珍しく常に家臣に気を配って人望を集め天下取りに成功している。


品格を持たない指導者が陥る手法に「競わせる」がある。

企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて部下を「競わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。

この【左脳域】志向である「競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき感性である。

こうした状況に陥ると、結果、内部での足の引っ張り合いが始まり組織としての結束は崩れる。

徳川家康は当時の武将としては珍しく、この「競わせる」の手法を取らなかった。

それで結果的に、家臣の方が勝手に競ってくれた。

家臣を納得させる為には、棟梁は辛抱強く成らなければ成らない。

人生不幸な事に見舞われても、学習すればそれが将来の肥やしに成るもので、若い時の苦労は家康を辛抱強くさせ、家臣の人気を高めて天下取りの原動力に成った。

現代にも通じるが、部下は信頼して伸び伸びとやらせた方が成果を出す。

怒鳴りや小言ばかりで威嚇しては萎縮するばかりで、尚更失敗を重ねたり隠し事をするように成る。

その点、織田信長型の強烈な棟梁は、余程の才能が無い限り通用はしないのだが、少しばかりの幸運に恵まれると自惚れて直ぐに威張り散らす己を知らない者が多く、面従腹背の部下ばかりに成って良い結果は出せない。

一口で言えば「度量が無い」と言う事で、そんなトップを頂く企業や組織は、先が見込めないから早くに取引を止めたり、勤めを転職すべきである。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第十八話三河譜代冷遇の謎◆◇◆◇◆◇◆◇◆

何故双子の疑いが有るのかの条件をここで検証すると、その第一が凡(およ)そ家臣思いの家康とは思えない三河譜代の家臣への扱いが有るからである。

驚いた事に、所謂(いわゆる)竹千代の今川人質随行組の本来なら逆境に在って助けを得た筈の家臣で、家康が天下を取った後に大きく所領を得た者は一人も居ない。

例えば幼少の頃より竹千代(家康)に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居て、天下を取った家康が、その安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられているが、いずれももっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事である。

考えられる事は、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康が、安部正勝(あべまさかつ)に「大して世話に成っては居なかった」と言う事で、つまり駿府今川家の人質時代の松平元康が、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康と別人ならば、そこら辺りの説明がつく話である。


実は鉄壁を誇った三河家臣団に、松平元康が徳川家康に名を改めた頃から微妙な動きが始まっていた。

それは三河安城・古参家臣団の一部が、生き残りを賭け必死の戦働(いくさばたら)きに走った事である。

徳川四天王に数えられる酒井忠次(さかいただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将であり、酒井氏は、三河・石川氏と並ぶ松平氏(徳川氏)三河安城・最古参の重臣である。

酒井氏は安城譜代と呼ばれ、元々松平家中に於ける最古参の宿老家とされるが、その出自は確定せず不明である。

三河国碧海郡酒井村或いは幡豆郡坂井郷の在地領主で在ったと推測される酒井氏であるが、後年作成された酒井氏の系譜に拠ると、鎌倉有力御家人大江広元(司所別当)を祖とする大江氏の流れを汲み、大江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流としている。

絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。

酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、信長に無視されて居る。


桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

だが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功あるも、千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった事に関して抗議している。

同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政十二万石、本多忠勝榊原康政の両者は十万石と厚遇されたに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。

ただ一点、駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。


本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族で、この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)に本能寺の変が起きた時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

千五百八十二年(天正十年)に「本能寺の変」が起きた時、家康は三十八歳、一蔵は早二十二歳の青年に成っていた。
勿論表には出ないが、雑賀の若棟梁として父・家康の伊賀越えをサポートしている。


本多忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

この本多家、その後十万石の所領を維持出来ずに減封・転封を繰り返して姫路藩などを経由し、三河岡崎藩五万石に落ち着いたが老中などの幕閣の要職には終(つい)ぞ恵まれなかった。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第十九話榊原康政(さかきばらやすまさ)◆◇◆◇◆◇

榊原康政(さかきばらやすまさ)も徳川四天王の一人であるが、父の榊原長政は松平氏三河安城・旧譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣で在った。

三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫を称していた榊原長政の次男として三河国・上野郷に生まれた榊原康政(さかきばらやすまさ)は、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓に任用されてる。

康政(やすまさ)の「康」の字は元康の「康」を与えられたもので、十七歳で元服した康政(やすまさ)は、同年齢の本多忠勝とともに旗本先手役に抜擢され、今川家属将時代の松平元康(徳川家康)側近の旗本部隊の将として活躍している。

桶狭間の合戦の後、松平元康(徳川家康)が駿河の今川氏から独立し尾張の織田信長同盟を結ぶと、姉川三方ヶ原長篠など数々の戦いで戦功を立て、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで徳川家臣中第二位の十万石を与えられて居る。

関ヶ原の戦いに於いては、徳川家の継承者・徳川秀忠軍に軍監として従軍するが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参している。

この榊原康政(さかきばらやすまさ)、関ヶ原の合戦の後に老中となるが家康から遠ざけられ所領の加増は無く、徳川政権が確立するに従い本多忠勝(ほんだただかつ)と同様に冷遇されている。

徳川主力軍の軍監として中山道を進みながら関ヶ原合戦に遅参した事が原因か、若い頃から正・竹千代(松平元康)の側近を務めていた事が遠因かは判らない。


この徳川四天王の処遇を持って、直臣に厳しくして「外様の不平・不満をかわした」とする解説もあるがそれは間違いで、他に家康としては殊更に優遇したくない「何かが在った」と見る方が自然である。

それでなければ家康の意向で優遇されている人質解放後に取り立てた井伊家や、関が原戦後に直臣に取り立てた稲葉家、そして今から紹介する鳥居家など存在しない。

こうして徳川四天王など三河以来の譜代に冷たかった家康だが、何故か鳥居家にはまったく態度が違った。

鳥居元忠は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣で、その父・忠吉に到っては双子の片割れを養育した疑いさえある。

鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。

桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。

幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状を貰う事は無かった。

家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。

天下人となった豊臣秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはないと断った」と言う逸話も残っている。

しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。
元忠は娘は見つからないと報告し、その捜索は打ち切られるのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は「高笑いで許した」と伝えられる。

天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老と成っていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時に元忠は後を任されて伏見城を預けられる。

その家康らの出陣中に五奉行石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。

ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。

一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのか。

やはり二人に、幼少時からの深い縁が在ったのではないだろうか?

そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千騎の軍勢の、伏見城入城を拒否した事である。

元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?

関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は後に山形藩二十四万石の大名に昇格しているが、これは三河譜代の他家と比べ三河譜代の家としては異例の厚遇である。

つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?

尚、元忠の子一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老・大石内蔵助良欽に嫁いでいる。

その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二十話井伊直政(いいなおまさ)◆◇◆◇◆◇◆◇

徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。

国人領主として今川氏の家臣である井伊直親(いいなおちか)は、謀反の嫌疑を受けて今川氏真(いまがわうじざね)に誅殺され、長男・虎松(直政/なおまさ)は父・直親(なおちか)の死によって井伊家を継ぐ身となる。

しかし遺児の虎松(直政/なおまさ)は僅か二歳で在った為に新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼(ゆうえんに)が中継ぎとして井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。


父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺され井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。

直政(なおまさ)は井伊谷の所領を今川氏に取られて失い、一時、生母の再婚相手松下清景の松下姓を名乗るなどした他、井伊直虎を養母として不遇を囲っていたが、千五百七十五年(天正三年)、今川氏から遠近江国を奪取した徳川家康に見出される。

十四歳、元服前の直政(なおまさ)は見目麗しい美少年で、当時の男児は、年齢的に十四歳くらいまでまだ肉体も中性的で、稚児小姓として愛玩し易い。

徳川家康は三十二歳の男盛り、一目で虎松を気に入り井伊氏に復する事を許し虎松を万千代と改めて名乗らせ、手元に置くようになる。

直政(なおまさ)は家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝榊原康政と肩を並べるように成る。


前田利家の出世の切欠として既に紹介したが、一所を構える領主の子息ともなると武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手が宛がわれる。

成長すると稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

家康が井伊直政(いいなおまさ)を見出して手元に置いた頃は、元服を済ませた三河国主の立場で、つまり「自身の意志で見出した御伽小姓(おとぎこしょう)」と言う事に成る。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされ、神仏習合の修験道(密教)では呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムで、憚(はばか)る事の無い氏族(公家や武士)には公(おおやけ)な習慣であった。

井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。

井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。

関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、井伊直政は石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り、井伊家は明治維新まで存続している。

つまり、酒井忠次(さかいただつぐ)榊原康政(さかきばらやすまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)の三人は「徳川四天王」と呼ばれ、徳川幕府成立の功績第一の身でありながら、桶狭間(今川氏から独立)以後側近に成った井伊直政(いいなおまさ)を除き、今川人質時代を知る三人が徐々に遠避けられ揃って冷遇されている事は謎である。


人は一人では何も出来ない。

成功も、周囲の協力が有っての成功である。

現代にも通用する事だが、オーナー経営者の陥り易い悪癖は「全てが自分の力で遣った」と自惚(うぬぼ)れる悪癖で、この意識が強くなると優秀な右腕を失う羽目になる。

徳川家康は、他の有力武将大名と比べ周囲の恩義に報いるタイプで人気が高かった。

現に織田信長には最後まで忠実だったし、関が原合戦の影の功労者・林(稲葉)正成(はやし/いなば/まさなり)も浪々の身をワザワザ呼び出して手厚く処遇している。

所が、三河以来の古参家臣の扱いは余りにも冷たい。

この余りにも家康の性格とかけ離れた三河以来の古参家臣の扱いを見る時、考えられるのは只一つ、家康は彼等に「何の親近感も恩義も感じなかった」と言う事である。

彼等三河松平の古参家臣は、もう一人の正・竹千代の家臣で有って織田家重臣・平手政秀(源家・徳川を名乗れる)を養父に育った自分の家臣ではない。

つまり天下を取った方の家康にして見れば、松平古参家臣も感覚的には新参者だったのではないだろうか。

それにしても、江戸徳川幕府成立後の徳川四天王の内の三人を始めとする旧・三河松平家臣団の冷遇は特筆に値する。

この辺りの、本来なら幕府成立の永年の功労者である旧・三河松平家臣団の処遇には疑問が残る所である。

だが、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説と、そして徳川秀忠=明智光忠説、明智光秀=天海僧正説、春日の局(斉藤福)の明智トリオが徳川本家を乗っ取ったとしたら、旧・三河松平家臣団を冷遇した事に説明が着くのである。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第二十一話本多正信(ほんだまさのぶ)◆◇◆◇◆◇◆

本多俊正の子として三河で生まれた本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の側近として活躍し武将と言うよりは吏僚(官僚)として才が在った。

徳川家康の家臣としての本多正信の経歴は特に変わっていて、三河一向一揆が起こると正信は一揆方に与して家康と対立し一度家康とは袂(たもと)を分かっている。

そして一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕え、久秀には重用された様であるが、やがて久秀の下も去って正信は諸国を流浪する。

その流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではないが、有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し織田信長とも戦っていたともされている。

その諸国を流浪した末、正信は旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世の懸命のとりなしに拠って姉川の戦いの頃もしくは本能寺の変の少し前の頃に、無事に徳川氏に帰参が叶っている。

本能寺の変が起こって信長が横死した当時、堺の町を遊覧していた家康は領国・三河に帰る為に伊賀越えを決意するのだが、この時に正信も「伊賀越えに付き従っていた」と言われている。

その後、本多正信は主君・徳川家康に実務能力を認められて、家康が旧・武田領を併合するとその地の奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当している。


本能寺の変から中国大返し、山崎の合戦賤ヶ岳の合戦小牧・長久手(ながくて)の戦いを経て天下が羽柴秀吉でまとまると、主君・徳川家康が豊臣家に臣従し、小田原征伐後に家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、本多正信は相模玉縄で一万石の所領を与えられて大名となる。

千五百九十八年(慶長三年)、豊臣秀吉が死去した頃から本多正信は家康の参謀としてその能力を発揮し大いに活躍する。

主君・徳川家康が豊臣家から覇権奪取を行なう過程で行なわれた千五百九十九年(慶長四年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半はこの正信の献策に拠るものであった。

順風だった正信だが関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って関ヶ原本戦に遅参する失態を犯している。
この時本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、「秀忠に容れられなかった」と伝えられている。

関が原の勝利後、本多正信は主君・徳川家康が将軍職に就任する為に朝廷との交渉で尽力し、二年後に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開府すると、正信は家康の側近として幕政を実際に主導する様に成る。

また、前法主教如と法主准如の兄弟が対立していた為、本願寺の分裂を促す事を家康に献策し、本願寺の勢力を弱めさせる事に成功している。

千六百五年(慶長十年)、徳川家康が駿府隠居して大御所となり徳川秀忠が第二代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかし余りに本多正信が権勢を得た事は本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買う事と成り、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返す様になる。

それでも家康の信任が変わる事は無く、五年後の千六百五十年(慶長十五年)には年寄衆から更に特別待遇を受けて、正信は大老のような地位にまで昇進し大きな権力を振るった。

本多正信は、大坂の陣でも家康に多くの献策をしているが、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、「歩行も困難であった」とされている。

徳川家康に重用され権力を振るった本多正信だが、領地は最後まで相模玉縄に二万二千石(一説に1万石)しか領していなかった。


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◇◆◇◆◇◆〔第二十二話「南朝方末裔」・世良田系図◆◇◆◇◆◇◆◇

この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋であった事を言外に物語っている。

家臣の加納家も加茂郷の出自であるから、恐らく賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。


余談だが、徳川家の直臣に、南北朝時代世良田氏と共に「南朝方として活動した」という伝承を持つ井伊氏や奥平氏が存在する。

しかし彼らは三河安城・松平家旧譜代の家臣ではなく、井伊氏は遠江国井伊谷に在って今川氏に仕え、奥平氏は遠江国で独立した小領主であったが、一旦武田信玄に臣従の後、信玄没後に徳川(家康)氏に仕えた。

いずれにしても、井伊氏や奥平氏が徳川家臣に納まったのは、家康が世良田庶流を名乗り始めた頃と合致している。

或いは影・竹千代が、正式に平手政秀(源家・徳川を名乗れる)と養子縁組をして、気分は源家の家系だったのかも知れないのである。

その後のこの両家に対する江戸徳川幕府の扱いを見る限り、かなり突出した待遇である所から、少なくとも「南朝方末裔」と言う世良田系図のアリバイ工作的な意味が在ったのかも知れない。

しかし冷静に裏読みすれば、影・竹千代が平手家の養子であれば井伊氏や奥平氏は養子先の家の同系(世良田流)の血筋である。

奥平氏は幕府重臣として松平姓を名乗る事を許され、井伊氏は幕府重臣として老中・大老職を務めるなど、厚遇されて維新まで続いた。

その経緯から推測するに、影・竹千代(徳川家康)や二代将軍・秀忠に古参家臣団を敬遠する「何らかの必要が在った」と考えられるのである。


そこが歴史の面白い所だが、竹千代双子説の全ては状況証拠の積み重ねでその場に臨場した訳では無いから確証は無い。

しかし「その場に臨場した訳では無い」となれば、否定する事もまた確証は無いのである。

いずれにしても、双子の存在を背景として公には明かせない歴史が捏造された疑いが存在するのだ。



明智光秀の尽力で、天下を我が物にした徳川家康は、漢方を自ら調合するほど身体に気を使い、史上稀に見る性豪・艶福家としても知られている。

家康は、神(東照神君)に成る為に老いてなお性交に励み、相手をした女性(にょしょう)数知れず、多くの子を為し、親藩、譜代、外様、の別なく婿、嫁に出して、各地の大名と血縁関係を築き、藩幕体制を確立した。

この手法、遠い過去に須佐王(スサノオウ)が八人の子を為し、各地に送って当時支配の中心と成した神社を配置、「神として治めた手法」と酷似している。

誓約(うけい)」と言う故事を学んだ光秀の助言だったのかも知れないが、表向きの仕事以外、家康の最も大事な天下取りの仕事は、何と「性交に励む事」だったのである。


徳川家康は稀代の艶福家である。

記録に残る正室・築山殿(清池院) 、継室・朝日姫(南明院) 、他に寵愛を受け子を為して側室に収まった者は十八名を数え、為した子供は十一男・五女、落胤と目される男は七人に及ぶ。

そして亡くなったのは七十三歳強と、当時としては長生きをした。

十一男・徳川頼房(千六百三年生まれ)、 五女・市姫(千六百七年生まれ)は、いずれも家康六十歳代の子供である。


徳川家康は、賀茂流陰陽として伝わる秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)を作り続けて多くの子女を儲けた。

その最後の男児が、十一男・松平鶴千代丸(徳川頼房/とくがわよりふさ)である。

徳川頼房(とくがわよりふさ)は千六百三年(慶長八年)、家康在京の本拠地となっていた伏見城にて側室・万(養珠院/ようじゅいん)との間に生まれる。

同腹の兄に、前年・千六百二年(慶長七年)に生まれた長福丸(後の徳川頼宣/紀州徳川家・初代藩主)が居る。

実母の万は、実父・正木頼忠(上総勝浦城・正木時忠の次男)が後北条家に人質として滞在している時に出来た娘で、頼忠が上総に戻る事になり離婚、万の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚し、万はこの義父の元で育てられる事になる。

母親の再婚相手・義父にあたる蔭山氏広の所領伊豆で成長した万は十六〜七歳の頃、沼津か三島の宿で家康の投宿の為に給仕に出た所を見初められ家康の側室となった。

家康の秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)が功を奏してなのか、万(養珠院/ようじゅいん)は千六百二年(慶長七年)の三月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年・千六百三年(慶長八年)の八月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。

何と六十歳代のヒヒ親父(家康)が、十六〜七歳の小娘を側室にして子供を為したのだから、現在の東京都条例(他県も似たようなものだが)であれば立派な淫行犯である。

その、鶴千代(後の徳川頼房)の兄・長福丸(後の徳川頼宣)は、僅か生誕一年目の千六百三年(慶長八年)に常陸国水戸二十万石が与えられ、鶴千代(後の徳川頼房)には千六百六年に下総国下妻十万石が与えられる。

千六百六(慶長十一年)、三歳にして常陸下妻城十万石を、次いで千六百九年(慶長十四年)、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封(五十万石)によって新たに常陸水戸城二十五万石を領した。

二十五万石の太守となった徳川頼房だったが、幼少だった為に元服するまで家康隠居所となった駿府城で、家康と生母・万(養珠院/ようじゅいん)の許に育った。

徳川頼房(とくがわよりふさ)の封地・常陸国水戸藩入府は、千六百十一年(慶長十六年)に八歳(数え九歳)で元服してからである。


家康は平均寿命が五十歳代と言われた時代に、六十歳代で子を為している。

元気だったから六十歳代で子を為したのか、六十歳代でも側室相手に励んだから元気だったのか?

まぁ人間の脳は、必要性の信号波を受け取ればそのような対処の指令を身体中に出すような構造になっている。

反面的に言えば、性交の必要性を感じなくなって老いが進むのであれば、この家康の子創りの執念が家康の若さを保ち長生きをさせた原動力かも知れない。


その家康が不遇時代に為した落胤・鈴木(一蔵)重康の話を、山崎の合戦を影武者で切り抜けた明智光秀は南光坊として隠遁していた時に雑賀孫市から聞く事になる。


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◇◆◇◆◇◆〔第二十三話意外な雑賀党・棟梁の跡継ぎ◆◇◆◇◆◇◆

天下取りを確実にする為に豊臣秀吉が各地の平定を試み、紀州征伐(根来衆・雑賀衆征伐)がその一環として真っ先に始められる。

雑賀孫市雑賀党は、天正十三年に秀吉の大軍を根来寺宗徒らと迎え撃ったが終(つ)いに開城し、「自刃した。」と噂を流して地に潜った。

孫市が頼ったのは、比叡山松禅寺に隠遁していた南光坊(明智光秀)だった。

光秀は密かに雑賀孫市とその残党を美濃(岐阜県)の明智庄の山中に匿い、雑賀党の再起を図るための助力をしている。

しかし、南光坊(光秀)自身が本能寺の変、豊臣秀吉の天下と言う流れの中にあって、表立った動きは出来ず家康と連絡を取りながら隠遁していた時期である。

「光秀、次の一手は決まって居るのか?」

「振り子は、振れた分だけ必ず戻ってくる。孫市、お館様(信長)が強引に振った振り子の戻りを、家康殿に確り受け止めさせる。」

「そうであろうのぅ、やはり、家康殿しか居るまい。」

「浅井長政は、娘に天下を取れと言った。秀吉の側室淀君(茶々)も次期将軍秀忠(光忠)の継室お江(おごう)も浅井の娘じゃ。」

「いかにも浅井殿の怨念、極まってござるのぅ。」

「お主とて、秀忠(光忠)殿が将軍を継げば、明智の影天下であろう。」

「うむ、それも言える。」

「実はな、わしは家康殿の息子を一人預かっておる。」

「何!、それは真か?」

光秀は、家康と孫市の意外な接点を知った。

「あぁ、若い頃の名を一蔵と言ってナ、鈴木姓を与えて雑賀郷で育てている。」

「それは初耳じゃ。お主どうする積りじゃ。」

「家康殿が遠江国磐田見附の娘との間に成した子でナ、わしの跡目を任せる積りで雑賀の頭領に仕込んでおる。」

「すると、孫三郎重朝(しげとも)殿の事か・・・・」

雑賀郷に居た孫市の養子とされる利発な少年を、光秀は思い出した。

「如何にも。あれの本名は重康(孫三郎重朝)じゃで。」

「康の一文字・・・・あい判った。孫市殿がその気なら、それで走るワ。」

正しく、全てを知る盟友の言葉だった。

相手が読んでいるから、説明の手間はいらない。

「その道筋を付けるのが、我が役目じゃ。お主の助力を頼む。」

「心得ておる。我らが働き、得と見よ。」

驚くべき事を、南光坊(光秀)は孫市から聞かされた。

信頼の証(あかし)である。

南光坊(光秀)は、即座にその一蔵の庇護者に名を連ねる事を孫市に告げた。

その後の一蔵は、実父・徳川家康、庇護者・明智光秀(初代天海僧正)、養父・雑賀孫市(鈴木重意/しげおき)と言う知恵者のトライアングルの中で育った事になる。


雑賀孫市は、その南光坊の諜報活動を手助けする為に芸人一座を組織して各地を旅する様になる。

孫市の助力は、恩賞目的でも雑賀の再興でもない。

豪放無頼の雑賀孫市が、自由意志で友(南光坊)の為に一肌脱ぐ気に成っただけだ。



千五百九十八年(慶長三年)八月十八日、自らが引き起こした文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき/朝鮮征伐)の最中、太閤・豊臣秀吉は病死する。

豊臣秀吉と言う重石が取れた伊達政宗は秀吉の遺言を破り、五大老・徳川家康の六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫を婚約させ反豊臣色を鮮明にして行く。

仙台伊達藩・伊達政宗は、外様の中でも反豊臣・親徳川が色濃くしかも所領が大阪には遠く、鈴木一蔵等雑賀党を家康から預かるには適していた。

豊臣秀吉死去から僅か二年、千六百年(慶長五年)九月(西暦十月二十一日)天下分け目と言われた関が原の戦いが、東軍・徳川家康と西軍・石田三成の構図で開戦される。

この時家康は五十六歳、一蔵は既に四十歳になっていて、徳川本陣の軍師として加わっていた南光坊・天海(光秀)指揮下の台密(たいみつ)・陰陽陣羽織衆の一人として参加している。

徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命された三年後の千六百六年になって、伊達藩砲術指南役として四十六歳に成っていた一蔵は父・徳川家康に召し出されて江戸城に登城、一旦徳川宗家の旗本として知行三千石にて召抱えられる。

その後鈴木一蔵は、家康が征夷大将軍に成った千六百三年に生まれた家康十一男・徳川頼房(当時六歳/数え七歳)の常陸国入り水戸藩立藩に、附き家老として四十九歳で水戸藩入りした事に成る。

徳川頼房は、水戸武田家、異母兄・家康五男・武田信吉(たけだのぶよし/松平信吉)の死去、同じくその後を取った徳川頼将(家康十男/最終は紀州藩藩祖)の移封に伴い水戸に入封した。


六歳で水戸藩主となって十九年、家康十一男・徳川頼房二十五歳の千六百二十八年(寛永五年六月十日)に、三男・長丸(後の水戸光圀)が三木家の預かり隠し子として生誕している。

まだ正室を持ってはいなかった頼房は家臣・谷重則の娘が懐妊した時、家臣・三木之次(仁兵衛)に堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたと伝えられる。

また、この事例は光圀の同母兄と言われる頼重(よりしげ)の出産の際にも同様の先例があり、或いは頼房が側室・お勝(円理院、佐々木氏の娘)の機嫌を配慮した主従芝居なのかも知れない。


徳川光圀大日本史編纂の陰謀を検証する項に合わせて水戸藩入りした雑賀鈴木家の事も追々記述する事にする。



鈴木一蔵重康(すずきいちぞうしげやす)の子孫に対する処遇だが、その後については、実父・家康や二代将軍・徳川秀忠の意向に拠り、水戸藩成立との絡みの中で一蔵重康(いちぞうしげやす)を水戸藩重役に処遇する手立てが進み一旦水戸家重役に落ち着かせた。

その後の三代将軍・家光の代に水戸藩主代替わりを使った一蔵重康(いちぞうしげやす)の継子・頼重(よりしげ)の大名家創設を処している。

この処置で、影の家康庶長子問題を落着させているのだが、その詳細はこの物語の第三十話あたりの複雑な大名家の世襲話しでご紹介する。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二十四話庶長子・鈴木(一蔵)重康◆◇◆◇◆◇◆

千六百年(慶長五年)に徳川家康は関が原の戦いで勝利し、豊臣家を六十万石代の大名規模に縮小させてほぼ天下を手中にした。

一蔵は家康が十六歳の時の子だから、千六百三年(慶長八年)に家康が征夷大将軍に成った年の一蔵の年齢は四十三歳、その時代としては熟年期に入っていた。

この頃徳川家康は、服部半蔵に命じて比叡山に隠遁する南光坊(光秀)に使いを出し、雑賀孫市に預けていた庶長子・鈴木(一蔵)重康を「召し抱えたい」と告げている。

「あれには・・・親らしい事をわしは何もしては居らん。」

影も風向き次第で脚光を浴びる事を家康は身を持って知って居り、そして老いを意識する今となって家康は一蔵への憐憫の情が募っていた。

一蔵の弟達の多くは世に日の目を見て、一度は皆、数十万石の太守を構えている。

今こそ一蔵の風向きは、天下人たる家康が変えてやる時だった。


その家康不遇時代の落胤・鈴木(一蔵)重康は盟友・雑賀孫市に育てられ、雑賀衆残党の棟梁を継いでいた。

翌千六百六年(慶長六年)に、孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木(一蔵)重康は雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として鈴木孫三郎重朝(しげとも)を名乗り、徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕えた。

この鈴木孫三郎重朝(しげとも)、後に二代将軍・秀忠の命により家康の末子・頼房に附属されて新設された水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

この一連の落胤・鈴木孫三郎重朝(しげとも)召抱えは家康の我が子への愛情である。

その水戸藩士・鈴木家は徳川一門に於いて古代史・葛城家に於ける賀茂(勘解由小路)氏のごとき立場に組み込まれて行く物語は、この先「大日本史編纂」の下りで披露する事になる。



雑賀孫三郎(重朝)は、孫市に次期・雑賀衆鉄砲頭を任された男だが、光秀にも彼が孫市の兄弟なのか子なのかも判らない。

孫市に孫三郎重朝(しげとも)を託された天海僧正(明智光秀)は関が原の合戦の後に徳川家康に推挙している。

その後、二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に落ち着き、水戸藩士・鈴木家となって大仕事をするが、その話はこの後ご案内する事になる。


全国に散らばる穂積姓系鈴木氏は本家筋とみなされ、熊野三山信仰と関係が深い。
穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。

平安末期から江戸初期の歴史に登場する鈴木氏は、穂積姓系鈴木氏の流れを汲む藤白系鈴木氏と言われ、紀伊国藤白(現在の和歌山県海南市)に移り住んで王子社の神官となった鈴木氏である。

その穂積鈴木氏流で源義経に郎党として仕えた鈴木三郎重家・亀井六郎重清の兄弟、雑賀(さいが)鈴木氏も三河(みかわ)鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。

藤白鈴木氏から出た鈴木三郎重家については陸奥国衣川戦死説と、脱出、秋田土着して帰農の鈴木氏(秋田県羽後町)が後裔して残り、北陸加賀国(石川県鳥越)にも三郎重家の子重満の後裔と言う鳥越鈴木家の伝記が存在する。

実は、義経の都落ち(逃亡)後、新たに伊勢で加わった鈴木(三郎)重家を秋田(秋田県羽後町の鈴木氏)に逃がしたのは、伊勢(三郎)義盛である。

与えた使命は、頼朝陣営撹乱の為の「義経生存説」の流布だった。

鈴木重家は、秋田で帰農するまでに強行軍を行い、東北全域から北海道の一部まで落人の義経一行を演じて見せた。

これが見事に嵌まって、後に義経生存「チンギス・ハーン転身説」まで登場する。


安土桃山期の雑賀鈴木氏は、紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸の和歌山市平井)辺りを本拠地としていた土豪・郷士である。

雑賀党は、紀ノ川対岸の雑賀荘を中心に周辺の荘園の土豪達が結集して造っていた雑賀衆で、雑賀鈴木氏はその有力な指導者の家系である。

通称雑賀孫市は鈴木孫市が本当の名であったが複数説があり、「孫一」と言う者も存在し、こちらは雑賀を裏切り「秀吉に従った。」と言われている。

雑賀(鈴木)孫市の子孫(しそん)・鈴木重朝は伊達藩で砲術指南役として一流派を興し、その後徳川宗家に旗本として召し出され、水戸徳川藩(御三家)に三千石で召抱えられている。

経緯に於いて、一蔵の伊達藩砲術指南役自体が家康の要請に拠るものだった疑いもある。


そこで、この話の余談だが、ちなみに全国一位の佐藤姓平安期に全国に散った支葉の藤原氏から来ている。

全国二位の鈴木姓は、物部氏に発する「穂積姓から分かれた姓」と言われ、紀伊半島の修験道の聖地で始まった。

この雑賀鈴木党の枝が、吉野・熊野・伊勢の神社の使いとして室町末期から江戸期にかけて全国に散り、主に各地の神社の神官を任じて土地に根付き、広がった。


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◇◆◇◆◇◆〔第二十五話幕藩体制(ばくはんたいせい)◆◇◆◇◆◇◆

江戸時代の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

新井白石が幕臣に編入されたのは千七百九年、徳川光圀が亡くなったのがその八年前の千七百一年であるから、水戸黄門漫遊記で「**藩や**藩々藩主」と言う台詞は公的な制度名でも一般的に使用されてもいなかったから、時代考証的には正しくは無い事になる。

江戸期に於ける「藩(はん)」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称された事は無く、「**家中」のような呼称が用いられ、例えば加賀前田氏は将軍家から松平を賜り名としていたから松平加賀守家中が加賀前田藩の公式呼称である。

通常会話に於いての領主の呼称については、「藩主」とは呼ばず封地名に「侯」を付けて「紀州侯」、「尾張侯」、「仙台侯」、「薩摩侯」、「加賀侯」と言った呼称が一般的だった。

藩士の呼称についても、江戸期於いては「仙台藩士」とはほとんど言わず、公的には仙台藩・伊達氏は将軍家より松平姓を賜っていたから仙台藩々士は「松平陸奥守家来」と称されのが通常だった。

但し、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても時代考証的に可である。

つまり通りが良いので本書でも便宜的に使用しているが、幕藩体制(ばくはんたいせい)も「藩(はん)」も明治時代に入り公称と成って一般に広く使用されるようになったもので、江戸期に於いて「藩(はん)」と言う呼称自体が一般的に使用されていた呼称では無いのである。

戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)が使われるに到ったのである。


徳川御三家は、徳川将軍家宗家の後嗣が絶えた時に備え、始祖・徳川家康が宗家存続の為に遺したものとも言われ、宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、実際には老中・大老職が中心となり幕政を合議し運営していた。

従って徳川御三家は制度・役職として定められたものでは無く、あくまでも親藩(一門)の最高位の家格として扱われる存在だった。

この事が竹千代(家康)二人説の根拠にも成っているのだが、家康次男で在る筈の結城秀康(秀忠の兄)を祖とする越前・松平家は、松平の姓に復しても当初から徳川姓を名乗る事も宗家存続の役割と格式も与えられていない。

尚、一般に徳川御三家は尾張、紀伊、水戸の三家であると言われているが、駿河松平家(松平忠長)の石高五十五万石が水戸家の三十五万石を上回っていた事や、尾張家や紀伊家同様極官が大納言(水戸家は中納言)であった事から当初の御三家は尾張、紀伊、駿河で構成されていたとする説が存在する。

そしてまた、実は松平忠長が二代・秀忠の三男では無く家康の実子だった事から秀忠の遠慮と忠長の三代将軍継承に対する不満増長があり、駿河松平家(五十五万石)の「僅か一代の断絶に繋がった」とする説もある。

当初将軍家に後嗣が絶えた時は、家康九男・義直を始祖とする尾張徳川家(尾張藩)か家康十男・頼宣を始祖とする紀州徳川家(紀州家・紀州藩)のニ家から養子を出す事になっており、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識が在った。

御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・松平忠長を家祖とする駿河松平家(五十五万石)断絶後の千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり後から都合で御三家に数えられたのは歴然で、他の二家よりも官位・官職の点では扱いが下、そして水戸家から将軍が出たのは、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した最後の将軍・徳川慶喜(十五代)だけである。


江戸期の幕藩体制に於いて「城持ち大名」は格式であり、本来は二十万石以上の国持ち外様大名(国主格)か徳川親藩などで十万石以上の準国持ち大名に城持ち(城主)が許され、石高の少ない領主は陣屋と呼ばれる屋敷を城の代わりにしていた。

本来は一国当たり一城持ち大名格が定めなので、美濃・苗木藩(なえきはん)のように所領(知行地)一万石でも「城持ち(城主)」が許される藩も在ったが例外で、所領(知行地)七万石でも陣屋しか許されない藩も在った。

そして徳川御三家の附家老(つけがろう)には、将軍家より派遣された尾張藩の犬山・成瀬家(三万五千石)や今尾・竹腰家(三万石)、紀伊藩の田辺・安藤家(三万八千石)や新宮・水野家(三万五千石)、水戸藩の松岡・中山家(二万五千石)など陪臣の「城主」ながら大名格の待遇を受けて江戸に屋敷を拝領して居た家も在った。

従って国主・城持ち(城主)も陣屋構えでも大名(藩主)には違い無く、城を所有せず実質的には陣屋を構えて居ても格式として城主の格式とされていた城主格の大名も在る為、城持ち大名格は城の所有の有無に関わらない。

また、大々名の陪臣の中には長州藩の岩国・吉川家(六万石)、熊本藩の八代・松井家(三万石)、広島藩の三原・浅野家(三万石)、仙台藩の白石・片倉家(一万八千石)などのように特例で城持ち(城主)が許される事もあるがあくまでも陪臣で城持ち大名としての格式は無い。

そして、城は在っても城主が居ない幕府直轄の国も在り、大阪城、駿府城・甲府城などの城主は将軍なので、大坂城代は譜代大名、駿府城代は旗本、甲府城は甲府勤番支配が旗本の主要ポストとして常時城代が務めて居た。

その外に、大名家に拠っては例外として鳥取藩の米子城代、津藩の伊賀上野城代、徳島藩の洲本城代など「城代」が置かれた支城も認められて世襲も在ったが、格式上では城持ち(城主)ではない。


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◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二十六話徳川CIA構想◆◇◆◇◆◇◆◇

人が事を起こす時には、相応の動機が必要である。

「二度と戦乱の世を作ってはならぬ。」

それが、神君・徳川家康公が、自らの血流子孫に託したメッセージである。

いよいよ駿府城本丸にて、大御所・徳川家康、二代将軍・秀忠(光忠)、二代目・天海(光春)春日の局(お福)四人だけの密談で決まった先代天海(光秀)の幕府としての諸国監視の奇想天外な「秘策」が明らかに成る。

只天下を取るだけでは、余りにも脳がない。

平和な世に成し遂げて始めて、家康の天下取りに大儀が伴う。

世情を安定させるには室町幕府畠山氏(はたけやまうじ)斯波氏(しばうじ)細川氏(ほそかわ)の三管領、赤松氏(あかまつうじ)一色氏(いっしきうじ)山名氏(やまなうじ)京極氏(きょうごくうじ)など四職(ししき)の様に何ヵ国も領する有力守護が何家も在るのは不安定要素で、これからは幕府が、唯一圧倒的な力を持たねば成ら無い。

そして幕府は、大名諸侯を監視する確りした調査能力をも持たねば成ら無い。

この巧みな大名諸侯けん制の策略は、誰が具体的に描いた絵図だったのか?

それはどうやら、「稀代の知恵者・南光坊・天海の献策では無いか?」と言う疑いが濃厚だった。

そして堂々と公表される日本史の編纂と言う名目では、大名諸侯も水戸藩士の立ち入りを拒めない。

それこそ天下安寧の妙策で、その初代・天海(明智光秀)構想を家康に伝えたのが二代目・天海僧正(明智光春)である。


水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる。
まず異母弟の重臣・鈴木重義を隠居所・西山荘に呼び、全面的協力を要請する。

「この事は、我水戸藩に託された神君(家康)様、二代(秀忠)様、天海殿の期待じゃで、予はいよいよこの事業を始める。」

「お待ちしておりました。いよいよでございますか。」

元より、雑賀(さいが)の鈴木家の名を継ぐ鈴木重義に異論など有る筈が無い。

永い事待ち望んでいたのである。

「万端怠り無く頼み入るぞ。」

「お任せください。承知致しましてござる。」

「宿願を果たす機は熟した。これは神君(家康)様からの我天命じゃ。」

光圀は藩内外に「大日本史編纂」を宣言すると、学問所(現在の研究所)「彰考館」を設置して藩内の優秀な人材を登用する。

そして、その人材の活動を裏面から支えたのが、雑賀衆の棟梁・鈴木重義だったのである。


徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

とっぴな話しと想うだろうが、もし大日本史編纂が只の学術的な物であれば、徳川家康がわざわざ雑賀鈴木家を水戸徳川家重役に送り込んだ理由の説明が着かない。

つまり水戸徳川家をCIAに仕立て上げる目論見があったからこそ、雑賀の棟梁・孫市に預けていた庶長子の「鈴木一蔵重康(すずきいちぞうしげやす)」を水戸徳川家重役に送り込んだのであれば納得が行くのだ。

さて現実の「水戸黄門万遊記の真実」では、善良な庶民が願うような「民百姓が悪権力者から救われる」夢は、夢で終わりそうな政治的目的が在った。

やはり庶民の願いは、通称水戸黄門(徳川光圀)として滑稽(こっけい)な満たされない夢の建前ではあるが、庶民に親しまれている諸国漫遊記の物語の「現実の方」には、幾つかの裏事情が隠されていたのだ。


「大日本史」は、千六百五十七年に、徳川光圀が「尊王の目的」で編纂を始めた事に成っているが、水戸藩は御三家とは言え公称三十五万石、実高は高々二十六万石の、中規模上位の構えである。

そこに藩の財政を逼迫(ひっぱく・非常に苦しく)させる程のこの大事業である。

それでも幕府はその事業を容認し、水戸藩内でも目立った反対もなしに幕末まで継続されている。


何らかの目的で虚像の演出に拠り「作為的な歴史観」を創造し、理念の構築を図る陰謀は統治の基本である。

いくら建前の奇麗事を言っても、政権の本音には「諜報機関と工作機関は欠かせない」と言う矛盾がある。

江戸幕府に於いても、朝廷や公家、諸藩の動静を監視する事は統治の生命線だった。

幕府の中核を成す立場の武家、水戸藩のする事である。

「大日本史編纂」が唯の文化事業ではなく、他に表ざたには出来ない複合的な目的があっても不思議ではない。


水戸黄門万遊記は完全創作で、主人公の水戸徳川家前藩主・徳川光圀が助さん格さんを連れて全国を歩いたなどと言う記録は何処にも存在しない。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀が現役の頃は江戸定府が決め事で、江戸に在って何らかの仕事を中心的に請け負っていた筈が表面的には無役で、何の為の江戸定府か謎が残る。

第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後も、光圀は藩領内からほとんど出る事の無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?

これからご案内する事が事実であれば、事実の方が講談師の創作より意表をついている事になる。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二十七話大日本史編纂◆◇◆◇◆◇◆◇◆

水戸黄門漫遊記は、庶民のささやかな不満のはけ口として娯楽作品は出来上がっていて、悪い権力者を、正義の人が「やっけて」くれる。

その夢物語とは違う生々しい権力の知略が、大日本史編纂には潜んでいるのである。

諸国漫遊記創作のヒントは、水戸公が編纂を始めた歴史書・「大日本史」の現地調査を名目に、全国に調査役(家臣の儒学者ら)を日本各地へ派遣した事にある。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は国史(倭史)編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員としての藩士も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南北朝期の南朝関係の史料を広く収集している。

実は南北朝期の南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

水戸藩士の調査員(史館員)は主として南北朝期の南朝方にまつわる歴史を収集しているが、当然出向した諸藩で見聞した事も「彰考館」へ持ち帰る事になる。


尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

所が、この派遣された調査員(家臣の儒学者ら)が、明らかに雑賀衆の可能性が濃いのである。

この唐突に始まった水戸家の大事業、或いは初代・天海僧正(明智光秀)の知略の実践だったのかも知れない。

ヒヨットすると水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、公には出来ないが日本版CIA、KGB・・の長官だったのかも知れない。



「大日本史」編纂目的の目指す物のひとつは、「南朝を正統」とした歴史書で、当時の北朝系図の朝廷をけん制し、徳川幕府を磐石なものにする所に主眼がある。

この尊王思想、その先に存在するのが朝廷から賜った「源氏の長者」の位であり、「征夷大将軍」の位である。

つまり「大日本史編纂」は、将軍家の正当性を証明する目的にも、合致するのである。

そもそも「大日本史」編纂を徳川本家(幕府)が認め水戸徳川家が力を尽くすには、多くの歴代権力者が手掛けたように歴史書の編纂を契機に、いささか後ろめたい徳川家の出自を改めて磐石にする目的をも重ね持っていた。

賀茂氏庶流の枝の枝である筈の松平家・松平元康が、源家の新田氏支流・世良田流の得川氏の子孫と称して「徳川」を名乗って、三河の守・徳川家康とした。

この時点で、源氏出身でないと叙任の慣習に添わない事を逆手に取り、朝廷より「三河の守・徳川家康」を認められた事により、武門の統領としての源の血流を、家康は形式的資格として手に入れた事になる。


光圀は、多くの武士に共通した認識と同様、天皇による普遍的な統治が続けられた日本こそが「正統な国家形態である」と言う意識を持っていた。

この意識が、明智光秀に「本能寺の変」を起こさせた原点であり、氏族の国家観の原点であるから、徳川政権はその上に立脚して各藩に私兵を置く幕藩体制を引いている。

つまりは皇帝が居て各国王の国々が存在する中華思想を踏襲した「天皇制と藩主(直臣)」の形態を形式上認めながらの幕府政治(幕藩体制)なのである。

この為大日本史は天皇の治世を紀伝体で記してある歴史書であり、全体的に大義名分論の尊皇思想で貫かれていた。

その事から、この思想が、天皇を尊ぶ「尊王思想」の気風を植え付ける「水戸学」として水戸藩に受け継がれ、後に明治維新に大きく影響する事になる。

この史実の方の水戸黄門に依る「大日本史の編纂」が、幕末近い水戸藩に尊王攘夷の「水戸・天狗党」を生み出す遠因だった。

明治維新の指導原理はこの水戸学で、水戸勤皇党を生み出し、江戸幕末の尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもなったのである。

徳川幕府最期の将軍(十五代・慶喜)が、水戸藩から登用されたのも、「水戸学・尊王思想」と関わりが深い事の意味が理解できる。

つまり、水戸藩出身の将軍なら、尊王派(勤皇の志士)を懐柔できる僅かな可能性を秘めていたので、幕府存続の為、最期の切り札として担ぎ出したのだ。

所が、それが裏目に出て徳川第十五代・慶喜は「大政奉還」をして政権を放り出してしまった。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔第二十八話情報活動(諜報活動)◆◇◆◇◆◇◆◇

「大日本史編纂」は水戸学を生み、「幕府を補佐する」と言う水戸藩設立の目的とは相反する結果をもたらした。

只、今ひとつの結果として「大日本史」の現地調査の名目は、情報活動(諜報活動)の表向きの隠れ蓑の一面があり、それもかなりの成果を上げている。

この情報活動(諜報活動)、素人では中々出来ない代物で、案の定と言うか、実は雑賀(さいが)・鈴木家が二代将軍・秀忠の命を受け、この企みに主導的に噛んでいた。


幕藩体制が確立してからは、諸大名は幕府の情報活動(諜報)には特に神経を使った。

当然ながら、藩の失態が幕府に知れたら、取り潰しなどの存続の危機に陥る。

如何なる難癖を付けられないとも限らないから、密かに入国する公儀隠密(お庭番)との暗闘は続いていたのだ。

制度上私兵を保有する大名諸侯の動静監視は、徳川幕府の政権維持には欠かせない戦略である。

推測するに、この「大日本史編纂」名目、各藩諸侯(諸大名)には「良く考えられた」厄介な入国の口実である。

公儀隠密(お庭番)などが身分詐称で入国したのであれば、それはあくまでも闇の舞台での活動で、露見次第で闇から闇に葬る事も可能である。

所が、幕府「将軍補佐職」の水戸家から「大日本史」の現地調査として正式に堂々と乗り込んで来られては入国を拒めず、余程の事が証明出来ないと行動の制約も出来ないのが狙い目である。

つまりは、幕府にとって非常に効果的な各藩諸侯(諸大名)の制御・けん制策だった。

同時に、全国を調査した者が水戸光圀ではあらずともその藩の政道に於いて、「漫遊記的」に藩主や代官の行き過ぎた搾取などの抑止に効果が有ったのかも知れない。


日本史的には事件だが、あらゆる情況証拠を考察すると水戸藩は藩ぐるみ幕府の犬と言う特殊な存在で在ったのかも知れない。

古(いにしえ)の昔より犬神は修験であり、犬は由緒正しく官憲を現す俗語である。
従って幕府隠密を、当時「幕府の犬」と呼んだ。

現代人は、簡単に「侮蔑(ぶべつ)した言葉」と誤解している様だが、他の動物と違い、当時の「犬」には畏怖の念があった事を付け加えて置く。

水戸藩の「大日本史編纂」の為の現地調査も、各藩諸侯(諸大名)から見れば充分に幕府の犬だったのである。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第二十九話水戸藩・江戸定府のカラクリ◆◇◆◇◆◇◆

大日本史編纂には隠された真実があった。

水戸光圀の大日本史編纂には、「影の目的があった」のだが、この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御・けん制策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸藩は将軍の補佐(副将軍と言う官職は無い)を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)で在った。

しかし実務は老中・大老などが仕切るので水戸徳川家の「将軍補佐」と言うその権限や役割は、何をするものか明確ではない。

「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに) によって編纂を開始され、二百数十年に渡り調査・編纂された歴史書である。

その「大日本史」は、神武大王(おおきみ/初代天皇)より後小松天皇まで紀伝体によって述べ、本紀・列伝・志・表からなっている。

歴代皇位から神功(じんぐう)皇后を除き弘文天皇を加えた他、南朝を正統とした点が「大日本史」の特色で、この編纂作業は、実に明治の中頃まで続いて居る。

徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で「皇国史観」を取り上げたには、当時の現天皇家が北朝流であり水戸徳川家が足利尊氏を逆臣として南朝流正統説を唱えるのは天皇家をけん制する事に目的の一つが在ったのではないか?



水戸家に於ける雑賀氏(鈴木)の立場は、並の家臣ではない。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

但しこの鈴木(一蔵)重康の父・松平元康は双子の隠し子の方で、織田家の人質になった時に織田信長の傅役(お守り役)・平手政秀の手元で信長とは竹馬の友として処遇され養育されている。

その後そちらの元康は、一時平手家の養子と成って河内源氏流新田氏・世良田・得川(徳川)氏系庶流平手家を名乗る家格を得ている。

つまり松平元康は、清和源氏河内流・世良田徳川氏として征夷大将軍・徳川家康を名乗った武門の最高権力者である。

その隠し長子として生まれた平手(松平)一蔵は、三河鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。

この噂が本当なら、「家康の庶長子と知っての水戸家入り」と言う事になる。


鈴木一蔵の鈴木姓については雑賀孫市の養子説以外に、源義経の奥州落ちに随行した鈴木重家(すずきしげいえ)に三河まで同行し、脚の疾(やまい)に罹(かか)って三河に土着した重家の叔父・鈴木七郎重善の後裔・三河鈴木家が松平家の客将と成って居た為、若き元康(家康)が「非公式に養育を頼んで預けた」と言う説もある。

しかしその三河鈴木家説では、水戸・雑賀鈴木家が御三家と言う家格を有する水戸家の嫡流とも言えそうな特別な立場に成りえる説明が着かない事も申し添えて置く。


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◆◇◆〔第三十話主家より養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせる◆◇◆

水戸藩士・鈴木家は、主家である水戸徳川家から大そうな養子を迎えてい居る。

重朝の次代・重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだった。

それで家系の存続が危うくなったのを契機に、後継ぎとして主君・徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせている。

つまり水戸・雑賀鈴木家は、「大日本史編纂」作業の始まる頃には、完全に正式な水戸藩親族系家臣の家と成っている。


ここにもう一つ、水戸徳川家には雑賀鈴木家絡みの疑惑が在る。

正式記録では、松平頼重(まつだいらよりしげ)はご存知二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)の同母兄で、初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」と言う事に成っている。

あくまでも水戸家家臣・三木之次の孫・三木之幹が主に成って千七百一年(元禄十四年)に編纂された「桃源遺事」を信じればであるが、頼重(よりしげ)の母は、家臣・谷重則の娘・久子である。

頼重(よりしげ)出生の経緯は大藩の当主の長子としては妙にややこしい。


松平頼重(まつだいらよりしげ)は水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた事に成っている。

母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼重(よりしげ)出生の時点でまだ正室を持ってはいなかった徳川頼房が側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)の機嫌を損ねた為に頼房は三木之次夫妻に対して久子の堕胎を命じた。

だが、奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、「主命に背いて密かに自邸で出産させた」としている。

同母弟の二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)についても同様の経緯があり、長男・松平頼重(まつだいらよりしげ)と三男・徳川光圀(とくがわみつくに)は幼少期の数年をそれぞれ三木竹丸(頼重)、三木長丸(光圀)を名乗って水戸城下で隠し育てられた事に成っている。

ここからが、この水戸家物語の如何にも予め筋書きがあるがごとき奇妙な点でもある。

主命に背いて密かに出産させた頼重(よりしげ)と光圀(みつくに)の存在が明らかに成ると、すぐさま水戸城に入城を許し、翌年には頼房の付家老・中山信吉(備前守)が水戸へ下向して世子を光圀(みつくに)と決定、光圀は江戸小石川藩邸に入り世子教育を受け始めている。

世子内定の翌年になると光圀(みつくに)は英勝院に伴われて江戸城で将軍・家光に拝謁、二年後の千六百三十六年(寛永十三年)には元服し、この時に二代将軍・家光から与えられた偏諱が「光圀(みつくに)」である。


頼重(よりしげ)には、家康の隠し庶長子である鈴木重康(すずきしげやす)の継子であり、光圀(みつくに)の頼房世子認定のドサクサに紛れて頼房の子として水戸城に入城させ、その後に「一族として処遇する道を作ったのではないか」と言う疑惑がある。

それならば端的に言うと、知行三千石の鈴木一蔵の子・頼重(よりしげ)の子(一蔵の孫)が、最後は養子交換で水戸藩主を継いだ事になる。

光圀(みつくに)は頼重(よりしげ)を差し置いて水戸藩主に納まった。

長子の頼重(よりしげ)が水戸藩を継承する事が出来なかった理由は何故だろうか?

「その証拠を」と考えると、思い当たるのが、頼重(よりしげ)の「重(しげ)」の文字である。

「重(しげ)」の文字は、代々雑賀鈴木家が用いて来た文字で、源義経の郎党・鈴木重家(すずきしげいえ)や戦国期〜安土桃山期に活躍した雑賀党・鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)、そして徳川家康の庶長子と噂が高い鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやすも「重(しげ)」の文字を用いている。

そこで憶測される事だが、頼重(よりしげ)が家康の隠し庶長子である鈴木重康(すずきしげやす)の継子であり、光圀(みつくに)の頼房世子認定のドサクサに紛れて頼房の子として水戸城に入城させ、その後に「一族として処遇する道を作ったのではないか」と言う疑惑である。

徳川家康にして見れば、若気の至りで為(な)した為に報いて遣れなかった庶子・鈴木(一蔵)重康への愛情であり、つまりこの「松平頼重(まつだいらよりしげ)生い立ちの謎」とされる壮大なペテン(中国語/人を騙す)は、家康の想いを叶える為の徳川家の総力を挙げた知恵の結果ではないのだろうか?

何しろ、それを疑わせるほど水戸徳川家は雑賀鈴木家と余りにも深い縁が在るのだ。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる異例の大出世処遇を受けている。

その後ややこしい事に、何故か頼重(よりしげ)実子・徳川綱方と徳川綱條が光圀の養子となり御三家水戸藩の家督を綱條が継ぎ、また高松藩の家督には光圀(みつくに)の実子・松平頼常を養子に迎えて継がせる養子交換をしている。

この養子交換を、光圀(みつくに)が「長子の頼重(よりしげ)を差し置いて家督を継いだ後悔からだ」と言うが、他に隠された理由が在ったのでは無いだろうか?

つまり御三家の一、水戸藩は「庶子・一蔵の名跡を継ぐ頼重(よりしげ)」に、「光圀(みつくに)の実子・松平頼常」が高松藩の家督を継ぐと言うシャッフル(入れ混ぜる)が完成した。

「意図したシャッフル(入れ混ぜる)」と言う手の込んだ手続きを経て、或いは庶子・一蔵への神君・家康の遺志が為されたのかも知れない。

もし松平頼重(まつだいらよりしげ)が本当に初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」ならば、松平頼重(まつだいらよりしげ)が水戸徳川家を継がず、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている謎は説明が着かないのだ。


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◆◇◆〔第三十一話越前福井藩・松平綱昌(まつだいらつなまさ)◆◇◆◇

江戸幕府に於ける大名諸侯取締りの為の根拠となるお定めは「武家諸法度(ぶけしょはっと)」である。
この武家諸法度(ぶけしょはっと)に照らしての重い処置に「改易(かいえき)」がある。

改易(かいえき)とは江戸時代に於いては大名、旗本などの武士に課せられた刑罰を意味し、武士の身分を剥奪して所領と城・屋敷を没収する事で「お取潰し」とも言う。

以下、江戸時代の改易について一部記述するが、符合する事に千六百七十二年に水戸藩の大日本史編纂事業が本格化し軌道に乗り始めたと思える七年後辺りから大名改易(だいみょうかいえき)が増加している。

千六百七十九年には上総久留里藩二万石・土屋直樹、備中庭瀬藩二万石・戸川安風、常陸玉取藩一万二千石・堀通周の三家、翌千六百八十年には志摩鳥羽藩三万五千石・内藤忠勝、丹後宮津藩七万三千石・永井尚長の二家が改易(かいえき)となる。

そして編纂事業九年目に当たる千六百八十一年には越後高田藩二十六万石・松平光長を筆頭に、駿河田中藩四万石・酒井忠能、上野沼田藩三万石・真田信利、武蔵高坂藩一万三千万石など四家、都合約三十五万石近くが取り潰されている。

以後は千六百八十三年の上野館林藩二十五万石・徳川徳松、千六百八十三年の越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)が目立つ所で、十数年後の千六百九十七年の美作津山藩十八万六千石まで大きな改易は無い。

勿論、継嗣が無いなどの改易理由があるが表向きで、何事も咎めが無ければ養子が認められ、現実には乱心・乱行などの行状を咎められた物も多い。

この諸侯の行状探索に、水戸藩CIAとして編纂調査を名目とした現地調査の暗躍が、「無かった事」とは言い切れない。


そして、千六百八十三年の越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)の処置は正確には改易(かいえき)とは言い切れない。

松平綱昌(まつだいらつなまさ)は、先代藩主・松平昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内に於いても昌親に対する反発が在った為、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置で昌親の養嗣子となる。

綱昌(つなまさ)は、元服し従四位下侍従に叙任、越前守と名乗った後、千六百七十六年(延宝四年)七月二十一日、昌親から家督を譲られて藩主となる。

四年後の千六百八十年(延宝八年)八月十八日、綱昌(つなまさ)は左近衛少将に任じられるも、翌千六百八十一年(延宝九年)の三月、理由も無く側近を殺害する事件を起こし、次第に奇怪な行動を取り始める。

そんな折に藩内に飢饉が起き、越前福井藩では上手く対応できず藩内に多数の餓死者を出した。

そうした不祥事が重なる中、千六百八十五年(貞享二年)には綱昌(つなまさ)が江戸城登城をも怠った為、翌貞享三年閏(うるう)三月、遂に幕府は綱昌(つなまさ)の狂気を理由に蟄居を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移される。

本来なら大名家改易と言う所だが、徳川家康の二男・結城秀康の子孫である御家門の越前松平家を取り潰す訳にも行かず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(二十五万石)と言うペナルティを与えた上で存続を許している。


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◆◇◆◇◆◇◆〔第三十二話隠密系の武門・雑賀鈴木家◆◇◆◇◆◇

水戸藩親族の鈴木家の方は、養子に迎えた主家の血筋を持つ松平頼重(まつだいらよりしげ)の次男が継ぎ、後に改めて雑賀家を名乗り水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

つまり水戸藩鈴木家(雑賀)は、光圀の「大日本史編纂」事業の裏表に深く関わって不思議は無く、隠密系の武門の家である事から返ってこの符合が納得出来るひとつの方向を暗示していたのである。

水戸藩・鈴木家は後に名字を雑賀と改め、代々の当主は「孫市を通称とした」と言う。

徳川家一門の並々ならぬ支援を受け、あの影人の隠密系大名跡「雑賀孫市」名の世襲を晴れて復活させてのだから「裏に何か在った」と考えても一向に不思議は無い。


水戸雑賀(鈴木)家は、表向き水戸藩砲術指南役として天下に名声を博し、けして闇の存在ではないが、実は江戸幕府二百五十年の体制維持に大きく貢献した。

つまり水戸雑賀(鈴木)家は、言わば「幕府系隠密」と言う別の顔を密かに持っていたのである。

この水戸徳川家と雑賀鈴木家の重い経緯に加え、御三家とは言え水戸三十五万石(実質二十六万石とも言われる)の一藩が手掛けるには余りにも大事業の「大日本史」の編纂とくれば、その目的に表向き以外の幕府公認の「何かが隠されている」と考えざるを得ない。

架空(フィクション)の物語「水戸黄門漫遊記」であるが、忍びの術者が暗躍した部分は、案外本当かも知れないのである。

それにしてもこの「大日本史」の尊王思想が、遥か二百数十年後、明治維新の尊王派(勤皇の志士)に少なからぬ影響を与える所が歴史の面白い所である。

江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)と言う特殊な立場である。

そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

しかも「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

余談で根拠は無いが、仮に講釈師の作り話の佐々木助(介)三郎のモデルが、鈴木介三郎重義(すけさぶろうしげよし)だとしたら、痛快な話である。

もっとも、モデルとされる人物は他に存在する。

水戸黄門万遊記に登場する「挌さん」は、安積澹泊(あさかたんぱく・通称、覚兵衛)と言う祖父の代から水戸家に仕える「水戸藩の学者がモデル」と言われている。

安積家は祖父・正信の時初代藩主・徳川頼房に仕え、水戸藩士の家と成る。

父・貞吉は儒学を好み、詩文を得意とした学者の家である。

安積覚兵衛は朱舜水に師事し、大番組、小納戸役と進み、彰考館編修、元禄六年には、彰考館総裁に任ぜられ、藩主・徳川光圀を助けて「大日本史の編纂」に主導的役割を果たした。

同じく「助さん」は、佐々宗淳(さっさむねあつ・通称、介三郎)と言う「徳川光圀の側近がモデル」と言われている。

京都の臨済宗妙心寺の僧侶だったが、還俗して水戸藩に仕える。

光圀の下(もと)で彰考館に加わり、「大日本史の編纂」に携わっている。

戦国武将・佐々成政の実姉の末裔(曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていた。

双方とも大日本史編纂には重要な役割を果たしたが、光圀側近として「光圀と諸国を旅した」と言う事実は無い。


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◇◆◇〔三十三話松平頼重(まつだいらよりしげ)・生い立ちの謎◆◇◆

正式記録では、松平頼重(まつだいらよりしげ)はご存知二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)の同母兄で、初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」と言う事に成っている。

あくまでも水戸家家臣・三木之次の孫・三木之幹が主に成って千七百一年(元禄十四年)に編纂された「桃源遺事」を信じればであるが、頼重(よりしげ)の母は、家臣・谷重則の娘・久子である。

頼重(よりしげ)出生の経緯は大藩の当主の長子としては妙にややこしい。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた事に成っている。

母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼重(よりしげ)出生の時点でまだ正室を持ってはいなかった徳川頼房が側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)の機嫌を損ねた為に頼房は三木之次夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、「主命に背いて密かに自邸で出産させた」としている。

同母弟の二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)についても同様の経緯があり、長男・松平頼重(まつだいらよりしげ)と三男・徳川光圀(とくがわみつくに)は幼少期の数年をそれぞれ三木竹丸(頼重)、三木長丸(光圀)を名乗って水戸城下で隠し育てられた事に成っている。

ここからがこの水戸家の物語のいかにも筋書きがあるような奇妙な点でもあるのだが、主命に背いて密かに出産させた頼重(よりしげ)と光圀(みつくに)の存在が明らかに成ると、すぐさま水戸城に入城を許し、翌年には頼房の付家老・中山信吉(備前守)が水戸へ下向して世子を光圀(みつくに)と決定、光圀は江戸小石川藩邸に入り世子教育を受け始めている。

世子内定の翌年になると光圀(みつくに)は英勝院に伴われて江戸城で三代将軍・徳川家光に拝謁、二年後の千六百三十六年(寛永十三年)には元服し、この時に将軍・家光から与えられた偏諱が「光圀(みつくに)」である。

長子の頼重(よりしげ)が水戸藩を継承する事が出来なかった理由は何故だろうか?

思い当たるのが、頼重(よりしげ)の「重(しげ)」の文字である。

「重(しげ)」の文字は、代々雑賀鈴木家が用いて来た文字で、源義経の郎党・鈴木重家(すずきしげいえ)や戦国期〜安土桃山期に活躍した雑賀党・鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)、そして徳川家康の庶長子と噂が高い鈴木一蔵重康(すずきいちぞうしげやす)も「重(しげ)」の文字を用いている。

そこで憶測される事だが、頼重(よりしげ)が家康の隠し庶長子である鈴木重康(すずきしげやす)の継子であり、光圀(みつくに)の頼房世子認定のドサクサに紛れて頼房の子として水戸城に入城させ、その後に「一族として処遇する道を作ったのではないか」と言う疑惑である。

徳川家康にして見れば、若気の至りで為(な)した為に報いて遣れなかった庶子・鈴木(一蔵)重康への愛情であり、つまりこの「松平頼重(まつだいらよりしげ)生い立ちの謎」とされる壮大なペテン(中国語/人を騙す)は、家康の想いを叶える為の徳川家の総力を挙げた知恵の結果ではないのだろうか?

何しろ、それを疑わせるほど水戸徳川家は雑賀鈴木家と縁があるのだ。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている。

その後ややこしい事に、何故か頼重(よりしげ)実子の徳川綱方と徳川綱條が光圀の養子となり御三家水戸藩の家督を綱條が継ぎ、また高松藩の家督を光圀(みつくに)の実子・松平頼常を養子に迎えて継がせる養子交換をしている。

この養子交換を、光圀(みつくに)が「長子の頼重(よりしげ)を差し置いて家督を継いだ後悔からだ」と言うが、他に隠された理由が在ったのでは無いだろうか?

もし松平頼重(まつだいらよりしげ)が本当に初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」ならば、松平頼重(まつだいらよりしげ)が水戸徳川家を継がず、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている謎は説明が着かないのだ。


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◇◆◇◆◇◆◇◆〔三十四話徳川慶喜(とくがわよしのぶ)◆◇◆◇◆

水戸徳川家の「大日本史編纂」事業については、編纂を理由に日本全国の歴史調査を実施し、実は全国の大名諸侯の動向を探(さぐ)り、徳川本家の幕府体制維持の為に「隠密組織を担っていた」と言う一方で、朝廷を威嚇する側面も持っていた。

水戸徳川家で編纂された「大日本史」には、幕府方として基本的に「南朝」の正当性を調査して資料を蓄え、何時でも防衛的に北朝の現朝廷をけん制する政治的な目的を持って調査されていたのだ。

その資料が二百五十年も蓄積されて、皮肉にも水戸徳川家では「水戸学」と呼ばれる独特の尊皇思想歴史観が育って行く。

この「水戸学」が、幕末期の水戸藩士の尊皇攘夷運動に大きく影響し、水戸藩の藩論は他の御三家や御三卿家とは違い勤皇の志士達にシンパシーを持つ情況に在った。

水戸藩は、時の経過と伴に本来の大日本史編纂の創設目的から外れ、純粋に学問的見地からミイラ取りがミイラになったのではないのだろうか?

所が、マシュー・ペリーの黒船来航と言う砲艦外交に直面した幕府大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、攘夷の意志を持つ孝明天皇の意向無視して現実的な選択をし、勝手に開港をしてしまう。

やがて勤皇の志士達は倒幕に走り、薩長土肥の各藩を中心とした圧力を軟化させる目的で尊皇攘夷の一郭を占める水戸藩から将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を選ぶが、時勢はそんな事では幕府の凋落を止めるには到らなかった。


徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府・徳川家最後の征夷大将軍で、御三家・水戸徳川藩出身の江戸幕府第十五代征夷大将軍である。

十四代将軍・徳川家茂の将軍後見職として後見を務めていた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、千八百六十六年(慶応二年・年末)将軍家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任する。

千八百六十七年には、薩長(薩摩藩長州藩)による討幕運動の推進によって、十五代将軍・徳川慶喜がこの年の十一月九日に明治天皇に「大政奉還(政権返上)」を行なった上で公武合体を目指すが、大政奉還により江戸幕府は事実上滅亡、翌年の王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。

千八百六十八年(慶応四年正月)、岩倉具視(いわくらともみ)が王政復古の大号令と徳川慶喜の「辞官納地発令」実現に漕ぎ着け、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、旧幕府軍を残したまま大坂城から海路江戸城へ逃げ戻る。

徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、勝海舟(かつかいしゅう)の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだ。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍在位は、王政復古の大号令までの僅か一年の間であったが、折からの動乱の中、在京在阪(京都・大阪)に終始する生活で江戸城で執務を行なえなかった唯一の将軍である。

維新後、徳川慶喜は駿府(静岡県静岡市)で謹慎生活を送っていたが、勝海舟の復権運動もあり明治天皇に謹慎を解かれると公爵として大正時代まで生きた。


鈴木一蔵と水戸徳川家の物語は、幕府に置ける全国諸侯の調査組織成立と深く関わり、その組織が現代で言えば「政府情報機関・内閣調査室」か、はたまた「公安調査庁」みたいなもので、ベールに包んで公表できない存在である。

それだからこそ、一蔵と水戸家の詳細を示す公文書は存在せず、その実態が未だに闇の中にあるのではないだろうか?


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日本の針路は大丈夫か?パートU内閣府特命大臣の美名?
日本の現状と小泉内閣への私見
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【◆】大飯原発再開はおおいなる矛盾
【◆】南海トラフ巨大地震・「東海地震と三連動の記録史」
【◆】首都直下型巨大地震の記録史
【◆】巨大地震記録・年表
【◆】巨大地震と浜岡原発インディアン嘘つかない・・・偽(いつわ)り
【◆】東電福島原発事故リアルタイムのブログ
【◆】未曾有の大震災・日本政府は「今、何を為すべきか?」
【◆】今こその東北復興と政治力
【◆】東北大震災後の称賛される日本人
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【◆】パソコン遠隔操作事件
【◆】ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」
アンカリング効果と一貫性行動理論

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宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)の考察最新版
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物造り大国日本の矛盾
限界集落問題
国民に負担を掛けない赤字国債の処理方法
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一夫十一妻疑惑騒動?の考察


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未来狂冗談の作品リスト


【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

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小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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作者本名・鈴木峰晴