静岡県の伊豆半島の付け根の西側に位置して、沼津市はある。
その東隣が、柿田川湧水で有名な駿東郡清水町になる。
この伊豆半島、学説によると昔は島だったのだが、人類誕生以前に日本列島にぶつかり、その地殻の動きが火山活動を刺激、富士火山帯が誕生、名峰「富士山」を生み出したと言われている。
黒潮の流れ沿いに位置し、間違いなく隼人(はやと)の子孫たちが辿り着くべき、ロマンを持ち合わせる海岸線である。
紀伊半島以北で、この伊豆半島より他に、有力な入り江を多く抱える条件の、隼人族に向く土地は少ない。
修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)・賀茂小角」の家系は、豪族臣王・葛城氏の枝であり、下級貴族賀茂氏であるが、この葛城氏本家が、突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名として、「葛城王」がある。
この事の意味するものは何だろう?
葛城氏が消えた理由が、「謀反の挙句討伐された」などの悪い事で有れば、そんな不名誉な名を、後の皇子の臣籍降下に対する「賜姓」に使う訳が無い。
葛城を冠する山だけでも、大和葛城山、和泉葛城山、伊豆葛城山など、未だに全国に存在する。
しかし葛城氏は忽然と歴史書から消えている。
その山のひとつが、伊豆葛城山である。
伊豆国は、葛城臣王系賀茂家(勘解由小路家・かでのこうじけ)にも縁があるが、空海(弘法大師)の真言宗にも早い時期から縁が深い。
その理由を考えると、伊豆半島が「重大な意味を持つ土地柄」と言う解釈がなりたつ。
平安初期の八百六年(大同一年)、唐から帰国し高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山した空海(弘法大師)は、早くも翌八百七年(大同二年)に伊豆半島中心の桂谷に桂谷山寺を開基する。
桂谷山寺は、伊豆の修善寺温泉発祥の寺で、温泉郷の中心にある。
この温泉、伝承に拠ると空海(弘法大師)が「独鈷(とっこ)の湯を発見した事から始まった」となっているが、恐らく山岳資源調査に長けた修験導師に拠るのであろう。
後に修善寺と呼ばれるこの地は、当時は地名が桂谷と呼ばれていた処から、真言宗の桂谷山寺といわれる格式の高い寺だった。
「延喜式」に於いて、「伊豆国禅院一千束と記された」としている。
何故、空海(弘法大師)が高野山に金剛峰寺を開山した直後に、伊豆半島中心の地「桂谷」に桂谷山寺の開基を急いだのか?
温泉やそれに伴って採れる鉱物を捜すのは、修験鉱山師の技で有る。
修験行脚(あんぎゃ)の為の科学知識でもある。そこから妙見、薬師、呪術、芸能などが全国に広まった。
民間伝承の多くはこうした修験者、鉱山師たちの喧伝により民間に浸透したのだが、どうした訳か、全国に弘法大師(空海)が発見したとされる温泉が無数にある。
これが異常に数が多いので、弘法大師(空海)の名声を高める為の修験組織の「策略的喧伝」と考えられる。
三島に「伊豆国の国府」が置かれたのは「平安時代だ」と言われている。実はそれ以前(飛鳥時代の初期)に、半独立状態の「謎の豪族王(臣王)」の王国が存在した可能性がある。
その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。
田京の隣には御門(みかど)の地名もある。
御門(みかど)は統一倭の国々の「臣王(おみおう)」の表記に使われていた。
田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。
葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ葛城山がそびえている。
奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆の国、大仁田京にもある。
田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であり、「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所であった。
葛城の主神は、事代主神(ことしろぬしのかみ)で、大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供である。
事代主神は賀茂一族の信仰の中心をなす神であり、葛城王朝を支えた重要人物として日本書紀に書かれている。
また「えびす様」としての信仰もある。
田京の地は、狩野川流域に育まれた肥沃な平野に存在する。
珍しい事にこの狩野川、太平洋側に在りながら南から北に向かって、伊豆半島の中央部の谷底平野を流れる全長四十六キロメートルの一級河川である。
似たような川を捜すと、真っ先に上がる川の名が、紀伊半島金剛山の麓の広い谷底平野を南から北上して行く葛城川(一級河川大和川水系)と言う事になる。偶然の一致だろうか?
つまり伊豆半島の「田京(田方京・たがたのみやこ)」は、紀伊半島の飛鳥の都(奈良の都)と相似形的に開かれた東の都だった。
何故か、大仁田京の北隣の地名は長岡で、畿内の長岡京と位置関係が同じで有る。
長岡の田京寄りにある「古奈」は「古奈良」と考えられない事も無い。
伊豆の「豆」は豆腐の「トゥ」の発音で、謎の倭の国々の小国家群に「伊都(いと)国」と言う何処に在ったのか未だに所在が確定しない国の存在もある。
それでは伊豆の田京は、「紀伊半島・飛鳥葛城のコピー」、つまり模倣ミニチュアで有ったのか?
通常模倣ミニチュアを遠隔地にわざわざ作る理由は考えられない。
しかし、「ふるさとを模したもの」を後年大きく立派に作る心情ならば誰しも理解できるであろう。
紀記を手掛かりとする現在の正史を素直に考えれば、歴史学者には「田京」の存在は無視されるであろう。
しかし、伊豆の国の地名を「出ず(いず)の国」と読めば、有力臣王(おみおう)葛城氏の最初の国(出身国)とも読めなくは無い。
そして、そこには天城連山がそびえている。
天城連山は伊豆半島の最高峰であるから、伊豆国(伊都国)の天の城、天の葛城(あめのかつらぎ)であれば、葛城氏の光臨の地かも知れないのだ。
滋賀県大津に伊豆神社、長野県阿南町に伊豆神社が、伊豆の国でもないのにあるので調べてみると、各地に伊豆神社が多数散見される。
それぞれに謂(いわ)れはあるが、いずれも伝承の域を出ず、一言主や伊豆権現、瀬織津姫などが祭神とされている。
久伊豆神社(ひさいづじんじゃ、きゅういづじんじゃ)は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。
祭神は大己貴命(大国主)であり、蓮田市には七つの久伊豆神社がある。久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
それにしてもこの伊豆神社、不思議な事に全国に散見されながら、普通存在する本宮社(総社)がないのだ。
この意味するものは何んだろうか?
謎の始まりは、「古事記」「日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。
この大王(おおきみ)実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない天皇と捉える研究家の見方が一般的である。
「古事記」によると、御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。
この後は、比売(ひめ)を娶り、二人の御子をもうける。その内の一人が「大王(おおきみ・天皇)の位についた。」と記されている。
「日本書紀」では観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)の尊(みこと)と記されているこの孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)、何と在位は八十三年、崩御された時の年齢は日本書紀に百十四歳、古事記には九十三歳とあり、当時としてはとんでもない長寿である。
この数字が、二人分の生涯なら話は早い。欠史と言う事で、実在も疑われているこの辻褄が合わない大王(おおきみ)が、なぜか命(みこと)の時「葛城の掖上(わきがみ)宮」に坐(ま)しましていた。
ここらに、若き葛城臣王(葛城御門)が在任中の大王(おおきみ)の年号、在位年数をそのまま引継ぎ、「入れ替わった」ので数字がのびたのなら、説明が付くのだ。名前の中にある「かえしね」の意味は何だろう、「返し根(根を返した)」のではないのだろうか?
つまり、本当の「葛城の掖上(わきがみ)宮」は、伊豆葛城山の掖(わき)にある「田京」に存在した。
大王(おおきみ)が「入れ替わった」痕跡を消す為に、元の伊豆国(伊都国)より立派なものを大和国に「葛城の地」として瓜ふたつにカモフラージュ創造した。
田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆の国における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。
また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。
御門地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。
事代主神の紀伊半島の本拠地は葛城(奈良県御所市)の下鴨神社(鴨都味波八重事代主命神社)である。
ここで事代主神は最初、葛城川の岸辺に季節毎に祭られる「田の神」で、それがやがて、同じ葛城にいる叔父の「一言主神」の神格の一部を引き継いだのか、「託宣の神としての性格」も持つ様になる。
くどいようだが神代の時代、この「御託宣」は国家の掌握に強い威力を発揮する。
旧王朝(神武大王朝)から、伊豆に起こった葛城王朝が大王(天皇)の位を引き継いだ可能性があるのだ。
現存する古文書によると、天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて成立した伊豆国は、天城連山をはじめ多くの山に囲まれた山国である。
まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せば、わざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。
つまり、昔の国(伊都国)を文字を変えて復活させたのではとも取れるのだ。
伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇(院)期に成立し、十二世紀の「鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げた」とされる。当時の「伊豆狩野荘」は後白河上皇(院)の御領地である。つまり、後の江戸徳川幕府の幕府直轄領韮山代官所に至るまで、何故か伊豆国は象徴的に重要な場所だった。
永い間、伊豆国の国府が置くかれた三島の地、三島大社の「三島」の名の由来、元々伊豆の島々(伊豆諸島)を指す三島明神(事代主命)から来ている。記述したように、事代主命は葛城氏(賀茂氏)の神である。
三宅島に残る「三宅記」にはこの事代主命神社が最初は「三宅島に鎮座していた」としている。
この神社が、現在の三宅島・富賀神社である。
三宅島の島名の由来は、事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島にきて、付近の島々を治めたと言う伝説から宮家島と言った説があり、伊豆諸島には神懸かりになって託宣する巫女の伝統があるとの事で、これもまた託宣の神・事代主神にふさわしい様に思われる。
また伊豆諸島の住民が事代主を信奉する「葛城氏族(賀茂氏族)である」と言う事を表しているのである。
下田は三島大社の旧御鎮座地のひとつで、伊豆国最古の宮と言われ、通称は白浜神社と呼ばれている伊古奈比盗_社の御祭神は、伊古奈比当ス(いかなひめのみこと・女神で事代主命の后神)であり、紛れも無く葛城氏族(賀茂氏族)の神である。
大仁町の田方・広瀬神社の社伝には、三島大社が白浜から三島市に移動する途中、一時期この「広瀬神社の地にあった」と伝わっている。
これらの説を信用すると、三島大社は、三宅島・富賀神社から白浜海岸・白浜神社、田方・広瀬神社、三島・三島大社と移動してきた事になる。
つまり伊豆の国の始まりは、黒潮に乗って北上してきた海洋民族の葛城氏族(賀茂氏族)が、伊豆諸島に辿り着き、次に伊豆の白浜に上陸して序々にその範囲を拡大して行った事になる。
葛城氏族(賀茂氏族)は、やがて田方平野に辿り着き、田京を中心に王国「伊都国」を成立発展させて行く。
この伊豆の国(伊都国)が、「後に大和朝廷を掌握した」と我輩が考察した材料の一つが、九百二十七年(延長五年)の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に拠る神社の格式、「式内社」の数で、伊豆の地に式内社が「九十二座もある」と言う異様さである。その内伊豆諸島を含む賀茂郡地区に半数の四十六座が集中している。
これを近隣諸国と比較すると、隣の駿河国は二十二座、甲斐国二十座、相模国十三座で抜きん出ている。
長期に都だった山城国(京都府)でさえ、百二十二座しかない。ただの都に遠い一地方であれば、異例としか言い様が無い数である。
つまり、「歴史上重要な経緯がこの土地にあったはず」と考える。
伊豆と伊都の関連性については、伊豆の国より「賀茂(加茂)族が移り住んだ」と言われ、その一端が残る土佐国の伊豆田神社の例を挙げる。
伊豆田神社の謂れを調べると、ズバリ「伊豆と伊都」は同様な扱い(混合)で使われているので紹介する。
土佐の国の古記によると、「千五百年〜二千年ほど前に、伊豆の国より賀茂(加茂)族が渡り来た」とされ、伊豆田神社は、氏神の伊豆国賀茂郡白浜村(静岡県下田市)鎮座の式内大社・伊古奈比売命(いこなひめのみこと)神社を勧請され、伊豆の国より現在の「下の加江地方」に移ったものである。
伊豆田神社は、土佐の国では二十一座の一に列し、幡多郡三座すなわち宿毛市平田の高知座神社(八重事代主命・やえことしろぬし)、大方町入野の加茂神社(祭神・あじすたかひこねのみこと)とともに幡多三古社の一つである。
谷重遠(秦山)の「土佐国式社考」によると、「伊都多神社は 伊豆多坂の西鳴川谷高知山にあり、玉石二枚を以って神体となる。
里人伝える伊豆田神社は古くは坂本川の高知山にあり、ここに何れの代に移すかは知らず。
重遠請う、高知の字姑らく里人の語に従う、河内と相近し、正説いまだ知らず。
渡会氏(伊勢神宮神官)いわく伊豆国伊古奈比売命神社、出雲国飯石神社、出雲国風土記に言う、飯石郷伊毘志郡幣命天降り座す、けだし稲霊大御食都姫命、万物の始め人これ天とする所なり」と、記述がある。
南国市前ヶ浜に、「下の加江・伊豆田神社より勧請した」と言う郷中一の大社で、もと県社の伊都多神社がある。
幡多郡の「下の加江」と南国市「前ヶ浜」とは随分距離はあるが、室町時代「下茅の伊豆田神社」を前ヶ浜に勧請し、「前ヶ浜の伊都多神社」としたのは、現在南国市一円に居住する藤原系の田村氏である。
下の加江(下茅)で郷土や庄屋を務めた田村氏の祖先は、慶長年間長岡郡大踊、田村(今の南国市)から移住したものである。
伊豆田神社が伊都多神社となっているが、祭神が伊豆那姫命でり、音読が伊豆田と伊都多と相通ずる。
伊豆田神社は、神名帳も伊豆多、土佐州郡志に伊津多、南路志に伊都多とある。
摂社の三島神社は 伊豆田神社の左となりに鎮座、祭神は口碑によると、伊豆田大神の母神(三島溝杭比売命・みぞくいひめ)である。
創立の年代はくわしくないが、もと三島大明神(神体玉石二個)と言い、鳥居の所の脇に鎮座していたものを大正五年八月県の役人がきて、「本社の母神を門番の居るような社頭に祭るのは道徳上よくない」と言う事で、大正五年八月廿六日現在の地に宮を移したものである。
「東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰(い)う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰(い)う。
千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。」
これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置である。
水行ではなく、陸行で東南へ五百里とある。上陸地点は不明で起点が判らないが、陸路をかなり行く事には違いない。
これをまともに読むと、該当の地が「九州糸島半島説」はかなり苦しい。
陸行と言うからには少なくともかなり遠方の陸路でなくては成らず、また、「世々王有るも」と代々の王が存在し、郡使が必ず寄る所としている。
「皆女王国が統属す。」とある所から、邪馬台国と形式的「冊封(さくふう)関係にあった独立国」と考えられる。
すると、倭の国々の東の外れに伊都国があり、郡使の終着点だった。
その都「田京」が千戸余りの都市だったとも考えられる。
当時とすれば、千戸は人口にして三千から六千人と考えられ、かなりの大都市である。
国の総戸数と捉える説もあるが、詳しい統計があるとは思えず、目視した概要と考えるのが、妥当ではないだろうか?
「皆女王国が統属す。」の皆は、「倭の国々を指す」と考えられ、列島の倭の国々は、一時「邪馬台国・卑弥呼」が掌握した可能性が強い。
この説の裏付けとなる確かな記述は、古書には無い。従って「荒唐無稽」と言われればそれまでだが、皇統の正当性を主張する為に、作為的に証拠を隠滅する必要があれば、記述は残らない。
何しろ日本書紀や古事記を編纂されたのが持統天皇の御世以後で、皇統も四十一代を数えて以後の話で数百年も経っているから、以前の正式文章なり伝承なりが、「意図的では無い」と言う保証はない。
少なくとも伊豆国は、古くから存在する意味深い地名が、何事かを物語る「謎」を、確かに持ち合わせているのだ。
【伊豆の国=伊都国(いとこく)説】の詳細は、小説「皇統と鵺の影人」クリックを参照して欲しい。
貴方は、「鵺(ぬえ)」と言う不気味な妖怪を御存知か?鵺(ぬえ)は、邪気を放つ怨念の妖怪で有る。
「平家物語」に拠ると、その姿は、頭が猿、体は狸、尾は蛇で、手足が虎であるとされ、その鳴き声は聞く者の心を蝕み、取り殺し、その「魂を喰らう」とされている。
昔は、都と言えども、夜は闇の世界だった。
照明はかがり火や油灯明で、無いに等しい。
闇に紛れて、妖怪が跋扈(ばっこ)するのは心理的に充分理解できた。
仁平三年(千百五十三年)春、夜な夜な都の東三条の森から怪しげな黒雲が湧き起こり、「宮廷内裏の上空を覆う」と言う怪事に、時の近衛天皇は大変悩まれ、当時まだ若く兵庫頭だった源(三位)頼政と、朗等・猪早太の二人に御殿の警護をさせ、鵺(ぬえ)を退治させた。
源(三位)頼政は平安時代末期の人物で、内裏(だいり・皇居)は、天皇の平常時における住まいの事で、皇宮(こうぐう)とも言う。
その後、「都」で異変が起こった。実権を平家に握られた不満から、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が、密かに平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に向けて発したのである。
この事はすぐに平氏の知る処と成り、以仁王は討ち取られてしまう。
この時、京に居た村上源氏の源頼政は、源頼朝や木曾(源)義仲より早く、後白河天皇の皇子、以仁王(もちひとおう)の令旨に従い、木曾(源)義仲より早く平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵に参加、嫡子の源仲綱や源宗綱らと共に宇治にて無念の討ち死した人物である。
そう、源頼政は、皇統を守る影人だった。
伊豆の国長岡の「古奈」に美しい娘がいた。
この「古奈」であるが、伊豆の国が伊都国と考えると、「古奈良」の可能性がある。
長じて京に上り近衛の院に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。
この朝廷内裏への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。
つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。
やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。
処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八{十}九年の生涯を閉じたのである。
源(三位)頼政が伊豆国長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。
沼津市の中心を流れるのは、一級河川狩野川である。
古くから河口付近では、比較的水深の有る川なので、昔は河口が港に成っていて、古くから栄えた。
今は人工の新港が出来、沼津港は観光や漁港として少しは知られている。
狩野川の名は、伊豆の国所縁(ゆかり)の、狩野氏、工藤氏、伊東氏等、藤原南家一党と言われる地方豪族の名残を止めるものだ。
源頼朝は、父義朝と伴に参戦し十四歳で初陣を飾ったが、その、最初の源平合戦、「平治の乱」に破れ、義朝は討たれ、頼朝は捕らえられてしまった。
しかし頼朝は、平清盛の義母「池の禅師」の嘆願で助命され、伊豆の「蛭ヶ小島」に流刑になった。
その時頼朝が預けられ、後に後ろ盾と成った北条氏の所領も、この川沿い、韮山の地にあった。
名高い北条正子は、この北条家の出である。
北条家は、伊勢平氏・平直方を祖とする平氏であるが、同じ平氏とは言え平清盛直系と違い、不遇だった。
狩野川は、天城山中に源を発して伊豆半島の中央部分を流れ下り、田方平野を貫いて駿河湾に注ぐ。
その支流に、黄瀬川がある。
黄瀬川は、富士の裾に位置する御殿場、裾野、長泉を経由し、沼津の街中に到ってようやく狩野川に合流する。
その、黄瀬川ぞいに旧東海道の宿場、木瀬川宿(キの字が違うが、間違いではない)がある。
木瀬川宿は、東から三島宿の次に位置する古くからの宿場町で多くの歴史はあるが、今は沼津市の一部となり、何の変哲もない郊外の地になっている。
慶応三年に徳川慶喜より大政奉還された時、新しく下士の身分から中央政治の実権を握った維新の志士達の間で都(新しい政治の中心地)を「そのまま京都に置くのかどうか」が論議になり、大久保利通の浪速(大阪)、前島密の江戸(東京)、江藤新平の京都(西京)江戸(東京)東西二京論などが在ったが、彼等の一致する所は京都以外に遷都案である。
京都から遷都する事の意味は、古い政治体質を引きずる公卿達の「新政治に対する妨害を嫌った為」だと言われているが、本当にそれだけだろうか?
明治帝が睦仁親王で在ったなら京都は千有余年の帝城であり生まれ育った土地で、果たしてその明治帝(睦仁親王)が如何に「周囲から口説かれた」と言え京都から江戸(東京)への遷都に易々と同意するだろうか?
憶測の域を出ない話だが、もし明治帝が京都帝城に何の未練も無い人物だったら、この謎解きは簡単である。
三条実美ら七公卿落ちのメンバーや岩倉具視はともかく、明治帝を早期に京都の公家衆から引き離すのっぴきならない事情が隠されていた可能性もあるのだ。
千八百六十八年(慶応四年/明治元年)、維新中心人物達の奏上(そうじょう)により江戸(東京)遷都の意志を示す天皇の詔書がなされる。
「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」
千八百六十八年(明治元年)の八月、明治帝は政治的混乱で遅れていた即位の礼を執り行ない、維新中心公卿の岩倉具視、議定職の中山忠能、外国官知事を任じていた伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の四藩の兵隊など総数三千数百を持って同年九月に京都を出発して江戸(東京)に初めての行幸(東幸)をする。
旧東海道を東に進み、駿河国の東の国境を流れる黄瀬川を越えると伊豆国に入る。
その国境を守る社が、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王に所縁の智方(地方)神社である。
その智方(地方)神社の傍らに広がっていたのが、窪地(くぼち)になって在った窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田だった。
窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田の先には、源頼朝が腹違いの弟・九郎(源)義経と「初めて対面した」とされる八幡神社がある。
この智方(地方)神社と八幡神社の正面に面して旧東海道が設けられているのだが、明治帝の一行が江戸(東京)遷都の為に東幸したのがこの道だった。
明治帝の一行は、黄瀬川を越え駿河国境を越え伊豆国に入った所で休息を取る予定を決め、先触れが当地の世話役達に届いていた。
先触れを受けた当地の世話役は、ちょうど智方(地方)神社と八幡神社の中間地点にあたる広々とした窪田(くぼんだ)の水田に板囲いの仮御所を急遽造営して明治帝の一行を迎え御休息頂いた。
行程二十日間を余す帝の行幸では道中も帝の威信を高めながらの大変大仰な旅で、その仮御所は恐れ多い物だから直ぐに取り壊され、元の水田の戻されて今は遊技場の建物が建っている。
この東幸は旧幕勢力に対するけん制のデモンストレーションの意味合いが強く、また東京と京都(西京)の両京の間で天皇御座(都名乗り)の綱引きもあり、一旦先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を理由に、同年十二月には再び京都へ還幸を実地している。
その三っ月後の千八百六十九年三月、明治帝は三条実美らを従えて再び東幸を慣行、行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とし、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。
ついで同年十月には皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せ、着々と既成事実を積み上げる形で完全に天皇御座が東京に移って、これ以降明治帝は東京を拠点に活動する事になり、遷都が完成するのである。
この木瀬川宿辺りには「多くの歴史がある」と言ったが、史跡としては「対面石」がある。
兄・源頼朝(みなもと・よりとも)が「三島大社で挙兵した」と聞き、それに呼応して奥州平泉から駆けつけた源義経(みなもと・よしつね)と、平家の軍勢が「水鳥の羽音に驚いて逃げ出した」と言う富士川の合戦に大勝しての凱旋の帰途の頼朝(よりとも)の兄弟が始めて対面した所が、木瀬川の畔(長沢)の地だった。
木瀬川宿 は、鎌倉時代から箱根路の隆盛に伴い、木瀬川西岸の畔に発達した古い時代の宿駅である。
三島宿と沼津宿の間に位置し、天正の末から慶長の初め頃に廃された為、江戸期の東海道五十三次の中には無い。
源頼朝もしばしばこの地に宿営していて、「海道記」などの紀行文や「吾妻鏡」などの当時の文献にも、よくその名が見える。
ここ木瀬川は、北駿の藍沢、竹の下へ通じる足柄路への分岐点で、交通の要衝だった。
ちなみに、足柄路は箱根路が開かれるまでは東海道の本道だった。
木瀬川橋は、清水町長沢と沼津市黄瀬川の間に架かる橋である。
寛文年間には、長さ三十六間、幅二間半、高さ一丈七尺で高欄付きの板橋だったが、木瀬川の氾濫によって何度か流出し、そのたびに架け替えられ、土橋となった事もあった。
出水により橋が流出すると川番が設けられ、川留め・川明けには蓮台渡しなどもあったと言う。
大正から昭和三十年代までは、駿豆鉄道(伊豆箱根鉄道)のチンチン電車(一両編成)がこの橋の上を走っていた。
義経は伊豆の国と駿河の国の国境(くにざかい)黄瀬川の東岸のほとり、木瀬川宿在長沢(現在の駿東郡清水町)で兄・頼朝と対面を果たしている。
現在では八幡神社があり、「対面に使った」と言う一対の石が残されている。
この、義経所縁の対面石の八幡神社から西に僅か数百メートル下ると、後醍醐天皇の皇子、護良親王のご陵墓がある智方神社がある。
平安末期の八幡神社と鎌倉末期の智方神社、いずれも時代が激変する時の謂れであるが、長い時間を隔てて、不思議な縁で繋がっている。
あまり表舞台には出なかったが、義経(牛若丸)には兄が二人いた。
義経の母「常盤御前」と源氏の棟梁「源義朝」の間には、今若丸、乙若丸、牛若丸がいたが、「平治の乱」で義朝が討たれた後、絶世の美女だった常盤御前は敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、身体を張って三人の助命に成功している。
乙若丸は、早い時期に平家に謀反の陰謀を察知され、美濃(岐阜県)墨俣川の辺りで討ち取られてしまった。
今若丸は、幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗るが、ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。
長じて「全成(ぜんじょう)」と名乗る僧侶に成って居た今若丸は、僧籍のまま頼朝挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚する。
その保子は、頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いて、駿河(静岡県)の国・阿野の庄(今の沼津市原・浮島)を拝領、大泉寺を建て阿野姓を名乗る。
しかし頼朝が死ぬと、「阿野全成」も義経と同じように北条に狙われ、関東の常陸(ひたち・茨城県)に流刑の上、首を討たれているのだ。
ちなみに、阿野全成の妻は阿波局(あわのつぼね)と言い、政子の妹、時政の娘である。
息子の時元の方は、政子にとっては「甥」、時政にとっては「孫」であるが、源氏の血筋には容赦は無い。
武家の系統を受け継いだ、息子(全成の四男)の「阿野時元」も、同じ運命を辿って、北条の大軍に囲まれ討ち取られている。
常盤御前が体を張って守った三人義朝の武門の血筋は、ここに途絶えてしまった。
ただし、女系ではあるが公家としては残った。
これは後日談になる全成の娘の事であるが、藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が公家としての阿野氏の祖となっている。
後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。
この時阿野廉子は、皇位を我が子に譲らせたいあまりに、大塔宮譲良(もりなが)親王を陥れるざん言をする。
天皇はこれを受けて譲良(もりなが)親王を捕縛、当時まだ信頼していた鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。
建武二年、北条家の残党高時の子「時行」らが挙兵し、「中先代の乱」を起こす。時行軍は信濃守護小笠原貞宗を破り、鎌倉を占領する。この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなが)親王は不運だった。
鎌倉にいた尊氏の弟足利直義は敗走し、幽閉されていた護良親王を時行に担がれる事を恐れ、どさくさにまぎれて大塔宮護良(もりなが)親王を斬殺するに及ぶ。
足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。
その後、後醍醐天皇(新田、北畠、楠木側の南朝)と後伏見上皇(足利側の北朝)が決定的に対立、一時南朝方が戦況有利になる。
静岡県の東部、駿東郡清水町を走る旧東海街道沿いの黄瀬川東岸のほとり、多くの古木に見守られてひっそりと佇む智方神社の一角に、縦横一間半ほどの小さな御陵墓が在る。
南朝後醍醐天皇の皇子、大塔宮譲良(もりなが)親王の御陵墓である。
伝承によると、建武二年(千三百三十四年)七月、大塔宮譲良(もりなが)親王が鎌倉で足利直義に弑された時、お側に仕えていた宮入「南の方(藤原保藤の女)」が、大塔宮譲良(もりなが)親王の御首を携えて、ここまで逃げ延びて来た。
しかし黄瀬川を前にして川が氾濫橋が流れて河止めになっていた。「南の方」はこれ以上は進めないと諦めて、譲良(もりなが)親王の御首を黄瀬川の畔、けや木の元に葬った。葬った所が、その後「智方神社」となったのだそうだ。
この智方神社の入り口には大きなイチョウの木が二本立っている。
そこから数歩、奥に歩くと古ぼけた鳥居があり、誰も気にしなければ通り過ぎそうなくらい風景に溶け込んで、鳥居の左傍らに奇妙な二本の木がある。
何が奇妙かと言うと、その二本の木が、根元をしっかり絡み合わせて、一箇所から生えて立っているからだ。
毎日の散歩コースだから、気が付いてからは「夫婦睦の木」と勝手に名を付けて、毎度そこで手を合わせている。
桜と榊らしいが、ジット見ていると、うらやましい程仲睦まじい。
この殺伐とした当世の風潮だからして、若夫婦にはこの「二本の木を手本にして欲しい」と考えた。
桜の花の咲く頃に、この木の前で二人で「永久の愛」を願えば、きっと、末永く幸せに添い遂げられそうな気がする。
この智方神社、左手奥に「山の神」を祭る祠が二つある。
山ノ神は子宝祈願の神様だが、水商売の女性や昔は花街の女性の「良い旦那(客)にめぐり合える。」祈願の祠でもあり、つい二十年前くらいまで、その筋の女性のお参りが絶えなかったそうだ。
昭和四十年代に聞いた、もう亡くなった村の古老の「昔話し」を添える。
昭和の始め頃、大岡村(現在の沼津市大岡)の石田と言う所に、絹糸の会社の工場があった。
蚕(かいこ)をほぐして糸にし、布を作る養蚕(ようさん)会社だ。
養蚕産業には蚕の餌になる桑の葉が必要で、近在の村は実入りの良い桑畑を沢山作った。
隣の集落の木瀬川と言う所でも、岡の高台地区に桑畑を作っていた。
岡一面の桑畑だ。その桑畑で、悲しい殺人事件が起きた。
その木瀬川の農家の美しい娘が、親の勧めで近所の十五歳も年上の金持ち農家の嫁になった。
処がこの娘、金持ちの農家へ嫁に行く前から祭りの晩に知り合った長沢の若者に恋をしていた。
それで、泣く泣く嫁に行ったのだが、どうしても若者の事が忘れられない。
夫は優しくて、嫁を大事にしてくれたが、姑は厳しくて、始終泣かされていた。
その嫁が桑畑で作業をしていると、愛しい長沢の若者が、農道を歩いてくるのを見かけた。
思わず声をかけたのだが、二人はもう止らなかった。
それから後は、毎日桑畑で会うようになる。
桑の葉摘みは若者が手伝って、嫁の作業量の分を補い、時間のアリバイを作った。
桑畑の中は外からの視界が悪いので、中で愛し合うのは容易だった。
処が、そんな事は永くは続かない。直ぐに村人の目に留まり、夫の耳に入ってしまった。
夫が怒って鎌を持ち、桑畑へ行くと、二人は素裸で愛し合っている最中だった。
まず、夫は上に乗っていた若者を鎌で滅多刺しにしたので、若者は逃げ切れず絶命してしまう。
驚いた嫁は、裸で逃げようとするが、夫が鎌を振りかざし、凄い形相で追いかけてくる。
岡の桑畑から、全裸素足で実家の方に逃げる嫁を、夫が必要に追いかけて、集落中が大騒ぎになった。
そのうち駐在さんが駆けつけてきて、夫は殺人の現行犯で捕まってしまったが、嫁の方も当時あった「姦通罪」で捕まり、三年服役した後、村に帰ってきた。
平和な農村にとって、始まって以来の大事件だった。
事が嫁に出した娘の不倫が原因で、しかも全裸で集落中を逃げ回ると言う醜態を晒した。嫁の実家も表向きかばいきれない。
当時の時代背景では、これだけの事件の当事者は村で生きては行けない。結局嫁は、当時合法だった東京の花町に、娼婦として売られてゆく事になった。
それから十八年、戦争が終わって、やっと世の中が落ち着いた頃、年老いたあの事件の嫁が、長沢の智方神社の山ノ神をお参りする姿を、「見かけた」と言う風の便りが、聞こえてきた。
亡くなった恋人の「菩提を弔っているのだろう」と、村人の話題に成った。
今では考え難い、女性の恋愛には不幸な時代だったのである。
或いは、この世で結ばれない定めの「恋の思い」が、この二本の木に乗り移っているのかも知れない。
そう思うと、多くの古木に魂が宿るような智方神社だからこそ、「夫婦睦の木」で、身勝手な理由に拠る少子化を嘆いているのかも知れない。
この地は、東海道三島宿と次の沼津宿の中間「長沢」と呼ばれ、当時は黄瀬川東岸の木瀬川宿在の範疇に入っている。
ちなみに「木瀬川宿で対面した」と言う源頼朝、義経兄弟の対面石は、この智方神社を東に数百メートル行った八幡神社、やはり長沢の地(現在の駿東郡清水町長沢)に在る。
この二つの神社の間に、わずかだが往時の箱根路の「街道の松並木」も、保存されている。
悲劇の親王、大塔宮譲良(もりなが)親王は直系の皇統でありながら、唯一征夷大将軍を名乗り、鎌倉幕府に対抗して後醍醐天皇に建武の親政をもたらした皇子だった。
注)北条執権下の傀儡としての鎌倉幕府六代将軍で、皇族の征夷大将軍は後嵯峨天皇第一皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)、八代将軍 後深草天皇 第六皇子・久明親王(ひさあきしんのう)の例 は別にある。
附記
大塔宮譲良(もりなが)親王顛末記
注意(NHKで放送された大河ドラマ「太平記」で「もりよし」の読み方が使われたのがきっかけで「もりよし」と読まれる事が多くなったが、「もりなが」が昔からの読み方で有る。勝手に文部(科学)省の読み方に直されて、本人がきっと泣いている。)
話は、鎌倉時代末期の事である。
後宇多上皇の皇子である尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、倒幕と宋のような専制国家の樹立を志した。
千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚した尊治親王(後醍醐天皇)は、平安時代の聖代(延喜帝や天暦帝の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇に肖って自ら後醍醐天皇と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。
即位した後醍醐天皇は、本来持明院統から出るべき次期皇太子を拒み、自分の系統(大覚寺統)から皇太子を定め、皇位継承問題で、持明院を支持する鎌倉幕府と対立を始める。
当時天皇は、大覚寺統と持明院統が交互に即位する約束に成っていた。
しかしそれは、基を正せば天皇家が一本にまとまり、団結して「力を集中しない様に」と言う皇室分断作戦で出て来た幕府主導の制度だった。
それに、後醍醐天皇は正面から挑んだのである。
しかし順番で、「次に天皇が出せる」と期待していた持明院統は黙って座しては居ない、幕府側に回った。
そう成ると、幕府は後醍醐天皇を圧さえる為に持明院側を利用しに掛かり、朝廷はゴタゴタが絶えなくなる。
このままでは、天皇は今まで通り鎌倉幕府の「飾り物」に成ってしまう。
後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、即位六年目、千三百二十四年に鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。
この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。
後醍醐天皇は側近の日野資朝や日野俊基らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告したことによりこれが露顕してしまう。
美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。これを「正中の変」と言う。
画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。
だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、動静は警戒はされていた。
日野資朝が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無きを得た後醍醐天皇は、皇子の護良(もりなが)親王を天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。
一度失敗したが、後醍醐天皇はあきらめず機会を狙っていた。
六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は笠置山(城)に移り、呼応して難波の悪党、楠正成(くすのきまさしげ)が、南河内の赤坂城で挙兵する。
一方、後醍醐天皇は「隠岐(おき)の島」に流される。
その流刑中に、息子(第三皇子)の護良(もりなか)親王が吉野に挙兵、河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)も千早城に挙兵する。
赤坂城や千早城(ちはやじょう)に於いて智謀を用いて幕府軍を翻弄した楠木正成(くすのきまさしげ)や、播磨国苔縄城にて挙兵した赤松則村のように諸国の悪党が続々蜂起して鎌倉幕府を苦しめ、千三百三十二年には天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮として臣民の支持を一身に集めた。
新田氏と足利氏は源義家の子の源義国の子、即ち源(八幡太郎)義家の孫に当たる源義重と源義康をそれぞれ祖とする源氏の名流であり鎌倉幕府では有力御家人(要人)であったが、赤松則村が幕府軍の名越高家に快勝したことを契機として新田義貞と足利高氏は幕府から離反した。
後醍醐天皇が混乱に乗じて、隠岐の島を脱出、倒幕の「綸旨(りんじ)」を発する。
後醍醐天皇の呼びかけに応じ、有力武将の足利尊氏や、新田義貞が、呼応して味方となった。
幕府方の関西の拠点、「六波羅探題」を、足利尊氏、楠正成らが攻め、これを打ち破った。
千三百三十三年に足利高氏は六波羅探題を攻略して北条仲時を自害させた。
そして身分が低いため足利高氏の嫡子足利義詮を大将として擁した新田義貞は本拠地の「鎌倉」を攻め、これを攻略、田楽と闘犬に耽っていた、幕府執権「北条高時」や内管領長崎高資らを「もはや、此れまで。」と自害させて、鎌倉幕府は滅びる。
「隠岐(おき)の島」に流されていた後醍醐天皇は伯耆国の豪族である名和長年(又太郎)によって船上山に迎えられ、ここで朝臣・千種忠顕(ちぐさただあき)を挙兵させた。
後醍醐天皇はやがて上洛して皇位に復帰する。
しかし、後醍醐帝と、息子の大塔宮護良(もりなか)親王の微妙な対立が表面化する。大塔宮護良(もりなか)親王は、畿内の反幕府軍を結集するため親王の名前で「綸旨」を連発したが、本来、「綸旨」を下す事ができるのは、唯一天皇のみである。
親王のような立場で各地に命令を下すとなれば、それは「綸旨」ではなくて、「令旨」でなければならない。
親王は、令旨ではインパクトが弱いため、敢えて「綸旨」を名乗って各勢力に檄を飛ばしたのだが、後醍醐帝から見れば、これは自らの立場を公然と侵す行為で、面白くない。
しかし、倒幕勢力の一翼を担った大塔宮護良(もりなか)親王の大功績を無視することは到底できず、親王の要求した征夷大将軍の地位を、後醍醐帝は認めざるを得なかった。
これも大塔宮護良(もりなか)親王の立場からすれば、全国の武士を糾合する立場を天皇の息子である親王が持てば、何かと「朝廷がやり易くなるだろう」、との配慮から出たものと思われるが、武家の棟梁と言う立場を認めさせられてしまった、と言う点において、公家と武家の隔てなく上位に立とうとしていた後醍醐帝からすれば、いまいましい限りであったと察せられる。
天皇の寵愛する女官、阿野簾子も、自分の子供を次代の天皇に就けようと、有力な候補でライバルである大塔宮への讒言を帝に繰り返したため、いよいよ親王への風当たりは強くなる。
阿野簾子が足利尊氏と結んで、反足利色を強めていた大塔宮を後醍醐帝にざん言したため、千三百三十四年十月、天皇はこれを捕縛、鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。
倒幕の戦いに功績があり、皇族ながら征夷大将軍の地位を以って武士に君臨しようとした大塔宮護良(もりなか)親王を、天皇の私情を以って追放した事は大失敗と言わざるを得なかった。
これ以後、武士の力は武士でしか押さえられなくなっていく。
鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が得意絶頂で、「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、僅か二年で失敗する。
後醍醐天皇は、倒幕に協力した武士達よりも、周りの側近や公家達を厚く処遇し、武士達の反感を買ったのである。
そうした不満に押されて、足利尊氏が、政権奪取の野望を抱き、叛旗を翻し、鎌倉に勝手に幕府を開こうとして、後醍醐天皇と対立する。
この時、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞や北畠顕家が、天皇の命により足利尊氏討伐に立ち上がる。
新田義貞軍は、鎌倉で一旦敗退するが、その後尊氏軍を迎え撃った北畠顕家の京での戦いは優勢で、新田義貞軍、楠正成軍も合流して、足利軍を九州まで追い落とす。
この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなか)親王は不運だった。
敗走する足利直義は、どさくさにまぎれて大塔宮護良(もりなが)親王を斬殺するに及ぶ。
一時は、後醍醐天皇方が日本全土を掌握したかに思えた。
しかしその後、足利尊氏は九州、中国地方の武士の協力を得て勢力を盛り返し、持明院統の光巌上皇(後醍醐天皇の前の天皇)の院宣(いんぜん)を掲げて、京に攻め上る。
関東(坂東・ばんどう)武士も呼応して、後醍醐天皇側は、挟み撃ち状態に陥ったのである。
足利―持明院統―真言宗右派の利害が一致、連合が成立したのだ。
両軍対峙した湊川の戦、さらに敷山の戦いに敗れ、後醍醐天皇(南朝)は、朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れるが、足利尊氏は持明院統の量仁(かずひと)親王を光巌(こうごん)天皇とした為に、南北両朝が並立する。
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