◆◇◆◇◆【人が創りし神と仏の間に】◆◇◆◇◆◇
最高神が何体も存在する事は、理論上けして許されない事である。
しかし、日本の大和朝廷が古事記と日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。
本来なら、この世の最高神は一体でなければ成らないからこれは困った。
しかし、そこは誓約(うけい)の知恵で倭の国々(征服部族国家)を統一した大和朝廷とその民ならではの柔軟な知恵が浮かぶ。
世の最高神が一体ならば天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と陀羅尼神(だらにしん)は「呼び方が違うだけで同じ神様である。」と、日本列島の支配者と民はそれを否定することなく同一の神として受け入れた。
実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する「護法善神の仲間である」と言う解釈により、「神も仏も呼び名が違うだけで同一」と言う解釈により奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に仏教の菩薩号(ぼさつごう)を付すまでに至った。
これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言い、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」としたのである。
それで 天照大神は仏教では大日如来となり、民族神の代表格である八幡神(応神神/天皇)が八幡大菩薩(はちまんだいごさつ)などはその典型的な例である。
妥協と言えばそれまでだが、天武大王(おおきみ/天皇)の民族神重用に仏教側が生き残りの知恵を絞った訳である。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と古代の妙見(みょうけん)信仰の合体神「一対同化神」である。
北斗神拳の北斗は北極星及び北斗七星を指し、陀羅尼神(妙見神)はその化身で有る。
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■天之御中主神系譜・造化三神(ぞうかのさんしん)の一柱で、別天神(ことあまつかみ)五神の第一神が天之御中主神*神格*宇宙の根源神、高天原の最高司令神
■妙見様系譜・七仏八菩薩・諸説の一で菩薩、十二面観音菩薩が陀羅尼神(ダラニシン・妙見信仰)*神格*天一星神(北斗・北極星神)
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日本の神々の中心となる神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原に最初に現れた神様で、天は宇宙、御中は真ん中、主は支配者、と言う意味である。
『古事記』上巻には、「天地(てんち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並独身神(みなひとりがみ)と成り坐(ましま)して、身を隠したまひき」と、ある。
天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は天地開開(てんちかいびゃく)神話で、宇宙に最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。
その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置付けられている。
大国主命(おおくにぬしのみこと)など、仕事振りを見張られていた事になっている。
そういう偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のべ―ルに包まれていると言って良い。
これを推測するに、中華思想にぶち当たる。 つまり、日出国(ひいずるくに)から日没国(ひぼっするくに)の原点が見えてくる。 大和朝廷は、朝鮮半島から日本列島にかけて存在した「倭の国内」の一部が半島から列島に移り住んだ豪族たちの集合体であり、大陸の中華思想からの離脱が、建国以来の命題だった。
それで、有力豪族達を神格化し、その代表が天皇家となった。
しかし新しい神話を創造するには進んだ中華文明と時々の中華帝国を列島の民の目から逸らし、閉じ込めねばならない。
それで、存在を見えないものにした。
それが、天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)である。
なぜなら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。
顔も姿も現さなければ、語ることもなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。 本来が「その姿を知らしめない(神が現れるのは神武天皇即位から)」と言う日本の神さまの典型が誕生する。
仏像のような偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすれば、何とも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそう言うものなのである。
そんなふうに人間界と隔絶した神さまであるが、宇宙の真ん中に位置する全知全能の神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。
要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、その後に登場して来る多くの神々による一切の創造的な作業を司令する事がその役割だったと言える。 つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。
この天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の性別はどちらだろうか?
簡単である。無から有を生み出すのは母、つまり母性である。
天照大神も月読(つくよみ)の命も女で、三番目の須佐王(スサノウ命)がやっと男神である。
そして日本の民衆は、長い事女神を奉じ、身近な神としては観音菩薩様(千手や十一面など)や弁天様(弁財天・弁天菩薩)などを慕い敬った。
だから日本の男性は、時として身体を赦してくれる身近な女性さえ、「慈悲深い観音菩薩や弁天様」と呼んで有り難がった。
さて、一方の渡来前の妙見信仰で有るが、 およそ二百年前までの人間界では、羅針盤(磁石)が無かった時代が続いていた。
アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味した。
砂漠を旅する民にとって、方角の分かる北極星はなくてならないものであるが、気象学的に北極星は見える日ばかりではない。
北極星を待ち望む気持ちが「神」としての信仰の形を取ったのであろう。
これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれた。
最初は呪術を中心とする現世利益的なものに基を発し、インドの真言密教においても教理は大乗佛教に基づいてはいたものの、どちらかと言うと教理よりもむしろ実修呪詛(呪術)を主としていた。
これが古代中国に伝えられてから「大日経」は龍樹菩薩の無相大乗教により、中国での道教・儒教・陰陽道などの星(座)信仰とが習合し、また「金剛頂経」は無著世親論士等の唯識の教義によって解されていった。
そうした実修呪詛(呪術)の教義が帰化人の来邦と伴に日本に伝わった。
天体の中で動かないように見える北極星は、方向を指し示す事から世界中で神格化されて来た。
北極星の化身としての妙見信仰(妙見神呪経)が日本に渡来したのは紀元後五百〜六百年代である。
代表的な伝承を一つ上げておく。
中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手として有名なのは周防・長門の二ヵ国(山口県)の武将・大内氏が西国では有名で、妙見信仰の最大の庇護者だった。
多々良姓は、この地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。
大内氏は配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられたが、大内氏の血脈が、神主などの武門以外の立場で多々良姓や大内姓を名乗り、家名の脈を永らえていたとしても不思議は無い。
下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。
琳聖太子は、 大内氏の伝説的始祖とされている。
推古天皇十九年(六百十一年)百済国聖明(さいめい)王第三子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。 琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に謁して「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。
琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。
なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる大内氏の祖先になった 。
この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。
明治維新以後、この小さな地方の町々から、伊藤博文を始めとして、三人もの総理大臣を輩出している。
総理大臣が田布施町出身の岸信介と佐藤栄作氏で、政治家に縁のある土地柄である。
伝来当初は渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったようだが、次第に畿内などに広まって行った。
しかし朝廷の統制下にない信仰であったため、延暦十五年(七百九十六年)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。
表だった理由は「風紀の乱れ」であった。
此れは何を意味するのか?
日本の文化は「恥の文化」と言うが、実はこの「恥の文化」の中身が問題なのである。
本来、自分に恥じる行いをしない事が「恥の文化」の筈であるが、もう一つの「建前文化」に拠ってそれが妖しくなり、自らの心に問うよりも外聞に拘る事に重きが行き、「恥に蓋をする文化」になってしまっている。
「誇りを守りたい」と言う心境が働いての事だが、矛盾する事に「誇りを守りたい」が為に「無かった事」にする愚を犯し、誇りを傷つけている。
つまり日本文化は、余りにも恥を隠す事に心血を注ぐ文化に変遷してしまい。「隠しおおせれば良い」と言う不道徳な「恥の文化?」が蔓延して、職業や地位に関わり無く悪事を働く「本音」が社会に露出して来るのである。
日本は「儒教の影響を受けた国だ」とひと括(くく)りにして、あたかも儒教道徳が日本人全般の生活意識をリードしていたかの様に言う学者がいるが、とんでもない浅知恵である。
歴史を動かしていたのが氏族(貴族及び武士)だったので、氏族中心に考え易いが、それは歴史の派手な方の一部に過ぎない。
儒教の影響を受けたのは、氏族社会(貴族及び武士社会)であって、文盲時代が長かった庶民階級に儒教が浸透していた訳ではない。
庶民における伝統的日本社会は、「性」に対し実におおらかで、開放的だったのである。
その「性」におおらかな証拠は、各地の祭礼に残っている。
庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。
本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。
神社の祭典は、時代の変遷に伴って現在のように大人しいものに成ったが、当初はエロチックなものだった。
そもそも日本列島の神・事代主(ことしろぬし)は、田の神(稲作神)である。
元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。
日本の祭りのルーツは、「妙見祭」の北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、田の神(稲作神)・事代主(ことしろぬし)から始まっ陰陽修験の影響を受けているから大抵「暗闇乱交祭り文化」である。
元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。
奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、広く「日本全国で祭礼をしていた」と言われる。
記紀(古事記・日本書紀)の記述からは「神懸かって舞った」と読める天宇受売命(アメノウズメノミコト)は、神託の祭事を行なう巫女である。
列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命は渡来系弥生人だった。
神話においては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約/うけい・性交による群れの一体化の儀)」と言う。
つまりこの夫婦(めおと)二神の役割もまた、「新旧民族の融和(誓約)の象徴」と言う訳で、性交は平和と信頼の証だった。
この夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)に成り、後世に伝承される神楽舞の面(おもて)として残ったのである。
静岡県の伊豆稲取・どんつく神社の奇祭「どんつく祭り」は「二千年間続いて来た」と言われ、御神体は大きさ三メートルの男根型で、その御神体を載せた神輿を女性が担ぎ、神社(女性)へ向かい、どーんと突くから「どんつく」なのだそうである。
夫婦和合、子孫繁栄を願うこのような祭りや御神体は全国各地にあり、愛知県は小牧、田懸(たがた)神社の豊年祭は、男達が男性器をかたどった神輿「大男茎形(おおおわせがた)」を担いで練り歩き、小ぶりな男性器をかたどったものを、巫女たちが抱えて練り歩く。
田懸(たがた)神社の創建の年代は不詳だが、延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 田縣神社」と有るからこちらもかなり古いものである。
また、大縣神社の「豊年祭(姫の宮祭り)」が田懸(たがた)神社の豊年祭と対になっており、こちらは女性器を型取ったものを、巫女達が抱えて練り歩く。
新潟県長岡の諏訪神社 ・奇祭「ほだれ祭」の御神体も男根型である。
「ほだれ」は「穂垂れ」と書き、五穀豊穣や子宝を授かるなどを祈願するもので、神輿に鎮座した重量六百キロもある男根御神体の上には、新婚のうら若い女性が数名、男根型御神体を跨いで乗り、下来伝地区内を練り歩く。
長野県松本・美ヶ原温泉の薬師堂に男根型道祖神を祭り、祭礼には巨大な男根木像・御神体の御神輿を担いで練り歩「道祖神祭り」も有名である。
岩手県遠野の「金精様」とは豊饒と子孫繁栄のシンボルとして男性の性器をかたどった石や木を祀る民俗神で、この金勢様や金精様は全国に存在する。
日本における所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交祭り文化」である。
つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。
例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。
祭り事は統治の意味でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。
祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。
こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事だった。
そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。
その庶民文化が、明治維新後の新政府の欧米化政策により都合が悪くなる。
諸外国と対等に付き合いたい日本国とすれば、性意識においておおらかな日本が欧米の物差しで計られて「野蛮・卑猥」と評されかねないからである。
性におおらかな風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。
そこで、外聞に拘る「恥に蓋をする文化」が増長され、改ざんと隠匿が恒常的に為される社会が膨らんで、本来人の範たるべき政治家や官僚、検察・警察、学者・教師、宗教家に到るまで、「恥の文化」はなく「恥に蓋をする文化」が横行し、日本中がその妖しさの中に生きている。
しかし、「何もわざわざそんな過去を蒸し返さなくても・・・」が本音で、こうした過去は俗説扱いに成り、やがて消えて行くものである。
都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。
意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、たとえ実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。
諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキヨウ・妙見神呪経)は本来日本に渡来した時は仏教の経典の一部として真言宗の密教部に属している事にある。
大同元年(八百六年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に【真言宗・総本山】金剛峰寺を開山する。
同じ頃、伴に帰国を果たした最澄(伝教大師)が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺を創建する。
空海(弘法大師)の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事ができる。」としている。
空海(真言宗)や最澄(天台宗)が唐から伝えた経典の一部に、【密教】がある。
【密教】とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗の円仁、円珍(台密)と結び付いて発展した。
手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。
この真言宗や天台宗の教えと【密 教】日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、【修験者(しゅげんじゃ)】が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏/台密修験た)、真言宗の当山派(真言山伏/東密修験)などがある。
修験者とは修験道を修行する人で、【山伏】とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。
陀羅尼の尼は女性を現し、観音菩薩も女性で有る。
この観音菩薩は別名十二面観音菩薩と言う。
*(世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面密教として隠されている。)
この十二面の意味は一度に十二人相手に出来るという意味だが何の相手が出来るのであろうか?
千手観音や十二面観音の原型は、インドの性典、カーマ・スートラの壁画がモデルであり、多くの男性を一度に受け入れる皇女(姫)の姿が仏法の慈悲深い菩薩になった。
この密教の教えが、時の大和朝廷には認め難いもので、「風紀の乱れ」として禁止された。
奈良時代の密教は表向き「雨乞いの祈願」などの陀羅尼信仰であり、現世利益の思想と重なって、学問的な諸宗に対し「異質的な呪詛(呪術)佛教の一面」として諸宗の僧尼の間や一般庶民の間に実修呪詛(呪術)を歓迎され受容されて行ったのである。
古来日本には三貴神(うずのみこ)の二、に「月読(ツクヨミ)の命(天照大神の妹)」と言う闇を支配する神が居るが、この陀羅尼神(妙見様)は夜を支配する神(星の神で夜しか現れないから又全ての星はこの星を中心に動いて見えるから)だった。
そして当初は現世利益の神であり、性交による陀羅尼神呪経(妙見神呪経)によりご利益を願うエロチックな教えの仏教で、「北辰祭(妙見祭)」は乱交を伴う呪経行事だったのだ。
公には大衆とともに多くの官吏が信仰していた為、色々と政務に乱れを生じた為であるとしているが、これは北辰祭の存在を隠蔽する為の後日解釈である。
平安時代末期から南北朝並立時代末期に掛けてこの現世利益信仰が一つの潮流を為す。
今でこそ、こうした性的な事は「世間がこぞって破廉恥で低俗な事」としているが、実はそうでも無い時代があった。
遠く鎌倉室町時代にかけて勢力を有していた真言密教が、渡来初期の「オリジナル仏教」の教えを取り入れて、教義としていたからで有る。
鎌倉時代より少し前、真言宗の密教で、「真言立川流」を始めた人物が居た。
その教義は、遠く印度の仏教に遡る。
印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。
此れが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。
出自(しゅつじ)が仏教なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではあるが、後述する理由で、「現世利益」の為に無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。
稲荷神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。
この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。
つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。
稲荷神社が、油揚げ(豆腐)を好物としているのが、仏教の出自(しゅつじ)を物語っている。
仏教の教義では動物を食する事を嫌い、たんぱく質を摂取するに豆腐や胡麻を用いた。
油で揚げた豆腐は、体力維持に欠かせない食べ物だったのだ。
此処で言う動物の大半が、実は仏教で言う所の「仏法諸天」であり、仏天である四足動物は、明治維新の文明開化(西洋文明を積極的に取り入れた。)に到るまで、庶民でさえ宗教上の理由で食する事を忌み嫌っていた。
いささか蛇足であるが、三蔵法師の旅を守った西遊記の孫悟空、猪八戒、沙悟浄、は人間ではないが「仏法諸天」であるから法力が使えるのであって、妖怪ではない。
つまり、真言密教は生きている人々を幸せにしてくれる仏様(神様?)で、そのダキニ天が、真言立川流の御本尊である。
その、ダキニ天の法力を高める秘法が、密教の男女和合の儀式と、経典にある。
ダキニ天の法力を高めるには、日常を超えた激しい男女和合のエネルギーがいる。
この激しい男女和合の教義を取り入れた事が、この宗教の基となり、当時原始性本能の煩悩に悩む人々の支持を得、密かに信者を集め増やしている。
真言とは呼んで字のごとく「真理を言ずる」と言う事である。
およそ理性と性欲では司る脳の部分が違う。
だからこそ人間は、理性で理解しながらも、一方で原始性本能の煩悩に悩まされる。
従って全ての人類がこの葛藤に悩まされ、中には犯罪さえ引起す。
その性欲を肯定し実践する所に、信者が解放される真の救いがある。
日本では室町時代以後、呪いの強い隠避(淫乱)な邪教とされているが、ヒンズー教のカーマ・スートラに影響された印度仏教や、ネパール、チベットなどのラマ教では、こうした性的教えは、仏法と矛盾しない。
性(SEX)は「生きる活力の源」と解釈されている。
弘法大師(空海)、伝教(でんぎょう)大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、当初強力な「現世利益の秘法」であったのだ。
つまり、初期の仏教は信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、社会合意の道徳的な目的から「悪行をつむと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。
その仏教が「死後の利益」に変化した大きな切掛けは、歴史の中ではさして古い話しではない。
ずうっと下って、高々三百数十年前の徳川政権成立の頃の事で有る。
当時神社勢力の武士と寺院の仏教勢力とで争いが絶えなかった為、政権安定の為に「神仏混合政策」を取って、幕府主導で分業化させた。
あくまでも権力者の統治の都合が、分業化の目的で有る。
すなわち、生きている間は神社の担当であり、神様にお賽銭でご利益を願う。
お寺のお布施は、仏様(死者)を媒介にお寺にもたらされる物である。
身内の弔いの為にお布施をする様になったのはそんな訳で、日本仏教界の苦肉の作と言えない事も無い。
江戸時代以後、死んでからの「心の拠り所を寺院が担当した」事から、現世利益は言いにくい。
やむおうえず日本の仏教は、死後の利益を主に説く様になった。
したがって形(外観)は他国の仏教と似ているが、「日本の仏教は政治の都合によって本来の教えでは無い独特の進化を遂げた」と言って過言ではない。
良く言えば仏教は新たな教義に活路を見出した。
悪く言えば「死後の不安を掻き立てて、お布施を稼いでいる」と言う罰当たりな表現も考えられる。
本来の仏教は祈り(呪術)による「現世利益」で、まずは手っ取り早く、「長命や裕福の願い」と言った幸せを願う物だった。
この「現世利益」については、現在の中国式寺院にその面影を見る。
お金(札)に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様先祖に祈るのだ。
本来仏教で言う所の「極楽往生」は、言うまでもなく死んでから先の事ではない。
あくまでも「楽しい人生を送り、悔いなく死んで行きたい。」と言う庶民の素朴な「現世利益」の願いで有る。
庶民の願いなどささやかな物で、ストレートに言ってしまえば、その中に気持ち良い性行為をする楽しみも極楽として含まれる。
そうした庶民の生きがいを取り入れた教えが、真言宗の密教として伝えられ、男女和合に拠る「現世利益招来の秘法」、真言密教・立川流が成立した。
「罰当たり」と言われそうだが、それを捻じ曲げて、禁欲とお布施を強いるから、今では坊主は信用されなくなった。
だいたい、その辺の寺の僧侶自身がどう見ても「現世利益」を追い求めていて、今の日本式仏教には説得力が無い。
理屈はともかく、本質がぶれているから、現代の若者達には肌に馴染まず、通じない宗教になりつつある。
日本列島原住民族(縄文人)と渡来民族(部族ごとに渡来)の誓約(うけい)が進み、原住民族(縄文人)と渡来民族の混合種・弥生人が成立して行く。
日本列島原住民族と渡来民族の渡来信仰が混合され、渡来信仰・妙見信仰の影響が強い日本型の陰陽道が、役小角(えんのおずぬ)を中心に成立させ、大和朝廷の意向で列島支配地の津々浦々まで布教活動が為されて行く。
この布教活動と全国に残る人身御供伝説が、関わりが有りそうである。
役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させてから百三十年余り後、陰陽修験道は新たな時代を迎える。
八百六年頃、丁度桓武天皇の御世に成ったばかりの頃、弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)が、仏教修行に行っていた唐(中国)から帰って来て、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山、最澄が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺(京都府と滋賀県の県境)を創建する。
弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)が持ち帰った大陸仏教(中華帝国・唐)は、酷く現実且つ現世的な教えだった。
弘法大師と伝教大師が大和国(日本)にもたらした密教と役小角(えんのおづぬ)を祖とする日本型・陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)などが結びついて、新しい形式の修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、天台宗の本山派(天台山伏・台密)、真言宗の当山派(真言山伏・東密)などが、結び付き仏教の一部として発展している。
その事により、日本列島・大和国では、一方で密教と陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)を結び付けた影の活動をしながら、民に対する教えとしてこれを「精神的なものにしよう」とする二枚舌建前主義の勢力が強く成って行った。
そもそも、弘法大師(空海)が日本にもたらした真言密教の教えでは、男女の性的和合は肯定されていた。
初期修験道の呪術に於いても、性交により新しい命を創造する事は、すなわち「神の領域の範疇」だった。この時点では、その部分で神と仏は一致していたので有る。
理趣経(りしゅきょう)によると、男女の愛欲、性の快楽は「菩薩の境地」とある。
この理趣経は、正式には「般若波羅蜜多理趣本(ハンニャハラミタリシュ品・ぼん)」と言う経典で、いかがわしいものでは無い。
真言立川流は此れを主な経典として、多くの信者を集め、南北朝並立時代から室町初期にかけては後醍醐天皇の庇護を受、政局にかかわるほどの力を有したのだ。
南朝・後醍醐天皇の軍師と言われた京都醍醐寺の僧正・文観(もんかん)は真言密教の提唱者であった。
北朝・持明院統派と南朝・醍醐寺統派は同じ真言宗で覇権を争い、それぞれが並立していた南北朝に組した。
しかし足利尊氏の支援を受けた北朝・持明院統派が後醍醐天皇を吉野の山中に追いやり、南朝の衰退と供に醍醐寺統派も衰退、勝利した戒律の厳しい持明院統派の教義(現在の真言宗)が全国的に広がって「女犯」なる戒律の教えが広がって行った。
それでも、徳川政権成立までは、神社に対抗する「現世利益」が主たる教えだった。
「菩薩の慈悲」を何時の間にか本質から変えてしまったのも後世徳川幕府と結びついた禁欲主義仏教界で「求められれば与える」と言う優しい「菩薩の慈悲」は、ただのふしだら女と定義付けられてしまった。
昔は春をひさいで居ても心優しい女性は居た。
今は自分の主張だけで、そんな気使いは無い。
貧しさ故、或いは観掛けが悪い故、「相手に恵まれない」などの不幸な者は、菩薩に見捨てられて、性的欲求のはけ口がおかしな方向に変わらざるを得ない。
本来、男女の交合は尊い物だった。
男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が男女交合であり、密教の理念としていた。
絶頂(イク瞬間)感が密教で言う「無我の境地」で、法力のパワーの「源」と考えられている。
つまり現世利益の一つとして、素直に「性感の幸福も有難い事」と、されていたのだ。
その理念は、けして浮ついた邪教ではない。
勿論仏の教えはこれだけではけしてない。
その点を指摘されるのは当然で、反論はしない。
しかし、至極まじめで、日本に入って来た「初期の頃の真言宗の教えの一部」として、間違いなく存在した。
平和と愛、五穀豊穣の実り、その全てを激しい男女和合の秘法、つまり「未来に繋ぐ生命力で呼び寄せよう」と言うのだ。
さて帰化人と伴に入ってきた妙見信仰(妙見神呪経)は帰化人のいた南河内・京・畿内であることが、北辰祭の禁止令(七百九十六年)が朝廷から出された事で判る。
それから天智天皇以降に帰化人を関東に強制的に移住させたことから、妙見信仰が関東地方に入ってきたようである。
妙見信仰(妙見神呪経)は当初、九世紀以前は北極星との関係はあまりなく、豊穣や御霊などに対する信仰であったが、院政が始まった頃に変化が起きることになる。
天慶八年(九百四十五年)に天台宗の義海(ぎかい)が始めて「尊星王法(そんじょうおうほう)」をとなえ、「守護国土」を目的する信仰が強調され、朝廷・院政などにもとり入れられて、公式に認められる信仰となった。
やがて時代が進み、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が、妙見信仰と習合し庶民的な神に変貌を遂げる。
姿を顕わさ無かった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)が、一般になじみのある姿を表しているのが「妙見さん」である。
神話では『古事記』の冒頭と『日本書紀』一書第四にしかこの神の名は登場しない。
それだけでなく、平安時代初期の全国の主な神社が載っている『延喜式(えんぎしき)』と言う当時の神名台帳などにも、この神を祀る神社が見当たらない。
そんなふうに、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つようになる。
そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがべースになって成立したものと考えられている。
北辰北斗信仰は、遊牧民からインドに伝わり、ヒンズー教の影響を受けた仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキョウ・妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれ、中国では、道教(どうきょう)に取り入れられ、唐代の密教(みっきょう)に強く影響を与えた。
その後、真言宗や天台宗と共に日本に伝わり、北辰を真言宗では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、天台宗では尊星王(そんせいおう)と呼ばれた。
そこから、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰されるようになった妙見信仰と習合したのである。
妙見信仰は、北辰妙見信仰ともいい北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は、北極星の神格化されたものである。
天のはるか高みに隠れていた天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は、妙見菩薩と同一視されるようになった事によって、庶民の信仰レべルに降りて来た訳である。
その妙見信仰で知られる神社のひとつに秩父神社(埼玉県秩父市)がある。 主祭神はチチブヒコ神(地方郷土開拓の祖神(おやがみ))であるが、その祖神が天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)とされている。
同社は、鎌倉時代初期に妙見菩薩が合祀されて以来、秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称されたという経緯がある。
旧妙見宮(仏教系神社)で、明治になって祭神を妙見菩薩から天御中主神 に変更したところは結構ある。
天皇が名目から実質の最高権力者に返咲き、仏教系神社よりも古来の神にする方が良いという処世術が働いたと見るべきである。
それはともかく、「妙見さん」の御利益は安産、長寿、息災、招福、とされている。
また、眼病の神としても信仰が厚い。
余談で有るが、道教系・陰陽師の安部清明は宮中秘祭・「泰山府君(北辰大祭)」祭祀を司り宮中に大きな勢力を持った。
(注)「泰山府君」とは陰陽道の主神、冥府の神
この陰陽師であるが、真言密教・立川流の開祖見蓮(もくれん)と言う真言宗の僧侶も陰陽師の出身で、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶仁寛(にんかん)に、真言密教の秘伝を授けた者である。
仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。 そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、真言密教の秘伝を授けたのだ。
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◆経典・陀羅尼神呪経(妙見神呪経・品・ぼん)
◆経典・般若波羅蜜多理趣本(品・ぼん)
これらの経典は、中国の後漢時代から唐代の中期までに伝訳されたものであり、特に隋から唐の時代に多く伝わったものである。
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これまた余談で有るが、中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手といえば、西の長門の武将・大内氏と並んで東は房総の武将・千葉氏が有名で、幕末の千葉周作はその剣技の流名を北辰一刀流と称した。
千葉と言う事で、名作・里見八犬伝を紹介しよう。
これが真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。
提婆達多品(デーヴァダッタ、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩いついて、弁財天が観世音菩薩の応変と見なされる。
この両者(弁才天と観世音)は〈自らを犠牲に供することによって男を救済する〉存在という共通性を持っている。
真言宗の空海・天台宗の円珍の行くところには多く弁才天の伝承が残っているそうだ。
言わば,修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神と接した」とする立場上の便宜性だったのか?
それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地のために、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかもしれないが、真相は判らない。
弁財天はその原型であるインド土着の女神サラスヴァティーのころから、性の女神としての側面をもっていたようで、そのイメージは日本に入ってきてからも健在だった。
なかでも江の島弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は、財才天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ女陰信仰がさかんだったという。
このへんの下地が〈交わりによって相手を浄化する〉イメージを喚起したのかもしれない。
サンスクリット語でサラスヴァティーとは水(湖)をもつものの意であり、水と豊穣の女神 ... インドのもっとも古い聖典リグ・ベーダにおいて、はじめは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)
八歳の娑竭羅龍王の娘が男子に変じて成仏したという内容の「提婆達多(デーヴァダッタ)品」が〈女でも子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できることを説いた経文〉として論じられることが多いことからして、竜は獣という扱いらしい。
獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。
安房の国(今の千葉県の一部)里見家は清和源氏新田家の系図である。
詳細は不明だが家基の子息、里見義実が安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。
慶長十九年(千六百十四年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉3万石に転封となった(だが、実態は配流と同じ扱いである)。
そして元和八年(千六百二十二年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。
曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)の南総里見八犬伝はこの里見氏の遺臣たちが活躍する物語である。
この八房(犬)と里見伏姫、曲亭(滝沢)馬琴の筆によって彼女は父の犬とのたわむれの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」を果たすため、自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く。
当初八房の戦功(見事敵将安西の首を持ち帰る)を犬との約束とないがしろにし、約を破って奴房の恨みを買い、里美家は不幸に見舞われる。
伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、その八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。
それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。
実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。
それゆえ、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる煩悩の犬となさんと、最初からの企みが背景にあった。
元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。
曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。
〈自らを犠牲に供することによって男を救済する〉菩薩(弁才天)の慈悲を、伏姫はその物語において体現している。
八房の情欲を転化させるアイテムとして、『法華経』の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場することとなる。
さすがに人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは抵抗があったのだろう。
滝沢馬琴のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。
北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。
使いと言っても甘く見ては遺憾。妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。その使い神だから霊力が格段に強い。
それで、狼(オオカミ)がその使い神だと言われている。
明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。つまり種の保存本能を祈りの基本にした信仰だ。その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には夜夫座神社と言う意味深な名前が付いている。
狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」がその名もズバリ妙見山という山の麓にある。所謂山犬(狼)神社である。
この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。
梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命をまつったのがはじまりで、関東でも屈指の古社である。
秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。
秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。
関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。
狼神社において狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。
かつて、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道士(山伏)は重要だった。
昔、病は祟(たた)りと考えられ、信仰深く素朴な庶民は恐れていた。
つまり、山深い里にまで修験の山伏は庶民の頼り甲斐ある拠り所だった。その修験道の山伏達は、渡来した様々な宗教を駆使して庶民の平穏を願い、信頼を勝ち得た。
そこで、密教・修験道の「山伏」は、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬われて行った。
従って、その根底に流れている密教の北辰・北斗信仰の使いが狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。
夢を壊して悪いが、各地の山里に語り継がれる「人身御供伝説」の仕掛け人はこの修験道の「山伏」と考えられる。
なぜ、修験道の山伏が村人をだまし、素朴な村娘を「人身御供」にさせたのか、その目的は誰でも思い当たるであろう。
その目的が「密教の呪詛を為すため」なのか、個人的な欲望を癒す為なのかは、今になっては不明である。
千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。
天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。
つまり、里見家は真言宗との縁が強い。
妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証である。
その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。
南房総市(H18.03/01合併予定)の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。
我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を「掛ける。」と言う。
走るの意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。
伏せ姫は実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と解釈するのが妥当である。
しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。
「犬掛」は当主里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。
今以上に信心深い時代の事である。
鬼門封じの呪詛を、里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄てきれない。
或いは曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄てきれない。
つまり、曲亭(滝沢)馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。
曲亭(滝沢)馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。
八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。
日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。
神話の伝承によると、スサノオ(須佐王)には、八人の子がいる事に成っている。
大八島(おおやしま・日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。
恐らく、「八」に特別な意味合いが有るから「八犬伝」であり、他の数字ではありえなかったのだ。
妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。
しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。
神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。
七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。これは何を意味するのか?
庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?
命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。
元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。
日本における所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。
つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。
例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。
こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。
当時の庶民感覚は、元々「性」にたいしておおらかだった。
信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。
そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。
朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。
空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。
空海の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。
この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(こうぼうだいし・空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。所が、そのライバルが現れる。
鎌倉期〜安土桃山期にかけて大陸で「元」が興り、その侵攻を避けて南宋から渡って来た知識人が朱子学等最新の「儒教」を伝て、空海に否定されて一度は衰退していた「儒教」が幅を利かせ始め、日本の「性」に対する意識は主として支配者側と庶民側に二分して行く。
勘違いしてはこまる。言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。
つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」の意味が理解出来ないのである。
庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。
明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。
同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。
ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に代わったのが現実である。
明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。
つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。
従って庶民の大半には、北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新までは根強く残っていたのは確かである。
実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」◆ 【私の愛した日本の性文化】を代えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為に「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙、また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るもので
この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。
宗教上(信仰上)の本来不変である筈の正しい教えが、権力者の都合や宗教指導者の都合、歴史の変遷の中で変化して行く所に、宗教(信仰)の妖しさを感じるのは我輩だけだろうか?
明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。
敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。
この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。
鎌倉期以後、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院において研究された「儒教」は、やがて支配者側に浸透し、儒教を批判した弘法大師のお膝元真言宗も、一部が「儒教」の知識を取り入れて二派に分かれて行く。
後醍醐天皇の「建武新(親)政」当時、皇統は大覚寺統と持明院統に分かれ皇統の継承争い発展していた。
その為、皇統護持の寺・真言宗醍醐寺も大覚寺統と持明院統に分かれ、弘法大師の真言密教を発展させた立川流の大覚寺派と真言宗に「儒教」を取り入れた持明院派の教義上の主導権争いがリンクしていて、南北朝並立時代は、皇統同士の継承争い、皇統と武門の権力闘争、大覚寺派と持明院派の主導権争いが複雑に絡んで、南北朝四十五年、後南朝五十数年と約百年に渡り内乱が続いたのである。
南朝方の抵抗は続いていたが、国土の大半を統治下に収めた皇統持明院統と足利(源)尊氏、真言宗持明院派がほぼ勝利を収めると、当然の事ながら、「儒教」を取り入れた持明院派の教義が真言宗の主流となり、真言密教立川流は弾圧され衰退の道を辿って行く。
一度根付いた大規模な信仰を根こそぎ消滅させる事は、本来並大抵ではない。
そこで攻撃する為の信者さえ納得し得る大義名分(淫邪教と呼ぶ)が採用され、真言宗は殊更儒教色の強い教義となった。
近頃、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して真言密教立川流は「淫邪教では無かった」と唱える学者がいるようだ。
しかしながら、鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝・室町幕府時代以後に金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を明治期まで管理したのは、真言律宗別格本山・称名寺 (しょうみょうじ)で、真言密教立川流については同じ真言宗門として、「有っては成らない」と言う都合が悪い立場の寺なのである。
そうした周辺事情を考慮すると、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献内容にも、手放しの信頼は置けないのである。
時代考証に拠る推測で、現在とは違う宗教観や風俗習慣が「有って当然」と思うが、こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗してくる。
彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無い。や、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。
所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある事を忘れてはならない。
はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。
そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を、鬼の首を取ったがごとく取り上げる。
都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられるのである。
歴史の流れを読む事とは、バラバラのパズルチップをかき集め、当て嵌めて行く作業であり、断片を捉えても見えてはこない。
いずれにしろ近年まで、祭りの宵闇は男女がめぐり合う数少ない機会だった。
神仏を信じる素朴な民衆にとって、祭りの興奮状態(トリップ状態)は、男女を引き合う格好の舞台で有る。
だからこそ男達は、祭りに裸で勇壮を競い、女達を誘った。
そして大衆がストレスを発散できる僅かで隠避な闇の庶民文化だった。
その祭りの効用には、田舎も都会も無い。
実は、こうした実用的な御利益も、信仰そのものを信じさせていたのかも知れない。
そう、神や仏の存在は、人が楽しみながら生きて行く為のものであり、けして傷付けたり苦しめる存在ではありえない。
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