ほんの些細(ささい)なきっかけから、その男とのメール交換は始まった。
或る夜、私が生(なま)の地域情報をその土地の住人から直接取る為に、ネット上のホームページを漁(あさ)っていて、その男のページに迷い込んだのだ。
最初はさして興味が湧いた訳ではなかったのだが、何故か何度かその男のページをネット上で訪れた。
まさかその事が、恐るべき物語を知る切欠に発展するとは夢にも思わない私だった。
平成十五年の春の事である。
ちょうど映像媒体がビデオからDVDに切り替わる動きが出て来た時だった。
その男は、勤めていた会社を五十五歳に達する前に中途でリタイアして、信州の山深くの小さな村に住んでいた。
東京から転居して、「かれこれ十三年になる」と言う。
日本経済の高度成長期以後は、都会に夢を求め、村を捨てる若者は多い。
それは、バブル経済崩壊後も続き、過疎化に歯止めは掛からない。
同時に、出生率が高かった農漁村部の過疎化で、日本全体の出生率が下がって、少子化が進んでいる。
日本の人口増加を支えてきた農漁村部の荒廃は、やがて日本の荒廃に至るのかも知れない。
彼は、放置され、廃屋化しつつある古い家を借り、僅かな手直しをして「終(つい)の棲家と定めた」と言う。
彼は、私より一回り年上の七十歳にあと少しの初老の男で、見識に富、聡明だった。
彼のホームページのメインを飾っていたのは、リタイアした都会育ちのサラリーマンの、「田舎暮らしの新鮮な発見記、にわか農民の奮闘日記」と言った内容で、或る種「世捨て人」の哀愁を帯びていた。
最初の数回は互いのホームページで、差し障りのない話題を掲示板に書き込み、差し障りのないやり取りをしていた。
それが少し進んで、「人の生き様の話題」などが、意見交換される様になると、論議が白熱してきた。
そうなると人生経験豊富な彼の方に、時代を生きた強みがある。
生の体験は、その時そこに居なければ出来ない。
その内、私の反骨精神を理解したのか、「生きて居る内に、自分のただ一度の心残りを吐き出したい。」と、言って来た。
「死にたいが、死ぬに死ねない。」と言うのだ。
自分の人生を左右した或る事件を、「あなたの記憶に残したい。」と、切々と訴えていた。
そこまで行くと、穏やかな話しではない。
どうやら聞いてしまえば責任が生じそうな話だが、勿論、物書きとしては大いに興味をそそられる。
しかしこちらか非力な物書きで、あまり期待されると反動が恐い。
それでも哀しい物書きの性で興味はふり切れず、少しばかりの躊躇の後、意を決した私は、彼に会う事にした。
交信を始めて、およそ五ヶ月経っていた。
八月の終わり頃、私はおんぼろの小型乗用車で、御殿場から国道百三十八号線を走り、標高千百米余りの籠坂峠を越えると山梨県河口湖町に入る。
中央高速道河口湖インターから高速に乗り、暫く走ると、遠く八ヶ岳が眺望できる。
その後、岡谷ジャンクションを経由して長野高速道至り、ようやく目的地に近付いた。
搭載されたエアコンは、あえぎながらもかろうじて効いていた。
一路、長野県の「と或る駅」に向かったのだ。
訳あって、本名を名乗れない彼は、ネット上で使っているハンドルネームの「暮雅(ぼが)チャン」で通してくれ」と言う。
「と在る駅」としたのも、暮雅チャンの希望で、「現在の住所を知られるのは憚(はばか)る」と言う。
若い頃あこがれたハンフリー・ボガードと言う映画俳優から「勝手にもらった」と、説明を受けた。
それと、恐らく「晩年を優雅に」と言う思いをかけていると、私は解していた。
標識を頼りに、約束より十分ほど遅れて駅につくと、暮雅チャンはすぐにそれと判かった。
あらかじめ、ビートルズを白くプリントした「黒いTシャツを着ている」と聞いていたからだ。
私が近寄ると彼は気がつき、早足で近付いて来た。
左手には、スーパーの名が入った大きめの袋を携えている。
そのうれしそうな顔は、まるで長年の友人に、久しぶりに会った様な優しさがあった。
暮雅チャンの勢いに、私は「そのまま抱きつかれるのではないか」と、驚いたくらいだ。
彼は、その寸前で立ち止まって、笑顔のまま軽く頭を下げた。
「茂夫さんですね。遠い所をありがとうございます。」
ラフな格好に似合わず、手本の様に丁寧な挨拶を受けた。
長年の都会暮らしで身に付いた、企業人の話し振りである。
「お話、楽しみにして来ました。」
私は差し障りない返事で、挨拶を交わした。
この時点では、何が飛び出してくるのか、私にはとんと見当が付かなかったのだ。
「長距離運転でお疲れでしょう、良かったら、一休みして、蕎麦(そば)を食べてから家にご案内したいのですが?」
暮雅チャンは、あらかじめ私を案内する心算(こころづもり)でいた昼食を持ちかけてきた。
「良いですね、信州と言ったら蕎麦ですから・・・お言葉に甘えましょう。」
こう言う時、相手のプランに乗るのが、礼儀で、遠慮すると返って相手も対処に困る。
駅前の無料駐車場に車を置いて、徒歩で百メーターばかり歩き、地元では「特に有名だ」と言う蕎麦屋に案内された。
お品書きの値段を見て、「蕎麦にしては高い」と思ったが、口にしてみると、なるほど美味い。
蕎麦の打ち方が自慢で、他所が真似できない技らしい。
遠路尋ねて来た私に、歓迎の心使いであろう事は、言うまでもない。
蕎麦屋では、長野にまつわるうん蓄を話題に、たわいのない会話で終始した。
暮雅チャンは「お疲れの処申し訳ないが、もう一走りありますので・・・。」と、済まなそうに言った。
どうやら、旅にはまだ少し先がありそうだ。
暮雅チャンを私の車の助手席に同乗させ、彼の住処(すみか)に向かった。
駅前の商店街をゆっくりと走り抜け、二分もするとすぐに家並みもまばらになった。
「暫く、まっすぐ走ってください。」
田舎道だが流れに乗ると、自然に車のスピードが上がった。
時折、こちらの気持ちを察する様に、彼は的確に誘導した。
幹線道路を走りながら、畑越しに農家が散見されるのどかな風景の中を、車は十分ほど走った。
やがて、かなりの幅員を有する河原を持つ河川の脇に沿って、堤防の上に作られた道路を走り、アーチ作りの欄干を持つ鉄の橋を渡った。
真夏の照りつける日差しに、影になった部分も色濃く見え、欄干がかもし出すコントラストが、私の運転する車のフロントウインドーを流れた。
橋を渡り終わってハンドルを直すと、私は声を掛けた。
「あの川が、千曲川ですよね?」
「えぇ、信濃川(しなのがわ)水系ですが、この辺りではそう呼ばれます。」
暮雅チャンが応えた。郷愁を誘う原風景が続いていた。
「その先の、コンビニの角を左折してください。」
曲がって五分もすると、山が迫ってきた。
道幅も狭くなり、急カーブが多くなった。
私はギアを一段落とし、そろそろと山道を上って行った。
先ほどの河川の支流なのか、道に平行して流れる谷川を何度か小橋で跨いで、川の右側を走ったり左側を走ったりしながらの気の抜けないドライブだった。
谷川沿いに、細くアップダウンの多い舗装道路は、ずっと続いていた。
「此れから、少し下りになります。」と、暮雅チャンは言った。
なるほど道は下りに入り、行く手の下の方にさほど規模の大きくない集落が、見え隠れしてきた。
想像以上の山里で、谷にへばり付く様に石垣を組み、僅かな平地を捻出して、階段状に畑や家が存在していた。
エアコンを切り、外の風を入れると、涼しく気持ちが良い。
「この辺り、雪はどうですか?」
ふと、冬の事が心配になり、私は唐突に聞いた。
「雪は積もりますが、多分ご想像より少ないですよ。」
暮雅チャンは、私の想像を見透かす様に答えた。
「その、石垣の脇に止めて下ださい。」
道路の脇が少し広くなり、軽トラックが一台止っていた。
言われた通りにすると、軽トラックの陰に石段があった。
私はふと、暮雅チャンがどの様にして「駅まで行った」のか、不思議に思った。
しかし、その疑問は口にしなかった。
石段を登ると、藁葺き屋根の民家がどこもかしこも開けっ放しで、建っていた。
庭に、大輪の向日葵が無数に背を伸ばしている。
「ここに来てから、戸締りの習慣がなくなりました。」と、暮雅チャンは笑った。
そして、「もっとも、取られる物もありませんが。」と、付け加えた。
真夏の陽光は強烈だが、山の上は流石に涼しい。
太い梁がむき出しの、重厚な座敷に上がり込むと、明け放たれた家の中を、涼風が通り抜けて行く。
この谷合の下を流れる谷川の支流で「清水で冷やした」と言う西瓜(すいか)が出た。
西瓜(すいか)を頬張りながら、「人間、野心がなくなると本当は良い生活が出来るのかも知れない。」などと、私は漠然と考えていた。
「話は晩飯の後にしましょう。今のうちに一度昼寝をすると良いです。」と、暮雅チャンは言った。
この時間に昼寝とは豪勢な贅沢だが、言葉に甘える事にした。
街中と違い、時間はゆったりと流れている。
暮雅チャンが、避暑もかねて三日ばかり滞在する様に勧めた気持ちが、判る様な気がした。
残念だが三泊は無理で、ギリギリ二泊、都合を付けてきた。
目が覚めると、外が赤かった。
谷合全体が、夕日に染まっていたのだ。
「目が覚めましたか。」
私が起き上がり、自然の芸術を眺めていると、暮雅チャンが声をかけてきた。
「此れは、贅沢ですね。」
私は答えながら「ふー」と、溜息を吐いた。
話し相手が居なくて人恋しかったのか、さほど距離の無い台所と、四角い座卓を置いた座敷とを行き来しながら、暮雅チャンは話し続けた。
「実は、此処の日暮れが優雅なので、暮雅と漢字を充てたのです。
「そうだったのですか。」
「此処に辿り着くまで、死にたいとばかり考えていたのです。此処の景色が、それを引き止めてくれた・・・。」
「この景色、心が洗われます。」
「そうでしょう、でも私は、本来田舎を好きでなかったのです。」
「それはまたどうして?」
「私の田舎の印象の原風景は、集団疎開だったのです。」と、暮雅チャンは言った。
「私は、東京生まれの東京育ちで、子供の頃、父親は横須賀の海軍工廠に出仕していました。技術畑で、設計の技術者でした。おかげで召集は免れましたが、兄二人は戦士で失いました。」
「それは残念、お気の毒でした。」
「私は、五人兄弟の末っ子でして、長兄、次兄、姉、姉と居たのですが、大戦当時は上の兄二人は戦地に取られて、とうとう帰って来ませんでした。」
戦時中の昭和十九年、暮雅チャンは、九歳だった。
昭和十九年六月三十日付閣議決定された「学童疎開促進要綱」に、当時東京中野区で国民学校初等科三年生だった暮雅チャンは、最下級生で疎開対象に組み込まれていた。
「此処ではありませんが、杉並の疎開先は、長野が割り当てられたのです。」
都会育ちの十歳に満たない子供が、親元を離れ、寺の本堂で集団生活をする。
「戦況が逼迫していましたから、食事も粗末な物でした。」
親は恋しいし、夜は暗く寂しいし、腹は減るし、田舎のガキ大将は恐いし、暮雅チャンとしては惨めなだけで、良い思い出はなかったらしい。
「ちょうど、一年ほど疎開生活を送りました。終戦で疎開から引き上げる時、二度と田舎には住みたくないと思ったのです。」
暮雅チャンは縁側に出て、遠くを見つめるように子供の頃を語ってくれた。
「それが、不思議ですねー、いざ死のうと思ったら、長野の夕日を見に来ていました。」
毎日、両親や戦地の兄達を思って見上げた田舎の原風景が、幼心に滲み込んでいたのだ。
まさに、三つ子の魂である。
「キット、否定しながらも心の隅に残って居たのですね。」
「さぁ、どうなのですか。今ではこんな山間部の集落まで立派な舗装がしてある。戦時中の事を思うと、隔世の感があります。」
「そうですね。世の中はめまぐるしく変わりました。」
この国の経済成長とともに無舗装道はなくなったが、昭和の四十年代初頭頃までは、間道や田んぼ道、山道のほとんどはまだ無舗装の道ばかりだった。
「仕度が出来ました。そろそろ飲みながら本題に入りましょうか。」
私は、座敷の真ん中に設えた暮雅チャン心づくしの夕飯に誘われた。
座卓の前に落ち着いて、私は先ほどの夕暮れに目をやった。
外の燃える様な朱赤色は、少しずつ青く色あせ、やがて暗みを帯びて来ていた。
「さぁ、何も無いですが、やって下さい。」
手作りの山菜尽くしに蒲鉾、厚く切ったハムなど、一人住まいの座卓には乗り切れないほど所狭いしと並んでいる。
「この刺身、お住まいの静岡の様には行きませんが、下の駅前の店で一番の奴を仕入れてきました。」
先ほど携えていた、スーパーの名の入った袋の中身と思われる。
マグロの刺身は今夜の為に買い求めてきたのだろう。
物流が発達した現在でも、海辺と違い長野の山の中では、海産物を入手するにも割高である。
「恐縮です、山奥で刺身は贅沢なご配慮です、それじゃあ遠慮なく。」
暮雅チャンの気使いが、嬉しかった。
山間のすがすがしい風が、吹き抜けて行く。
「私達日本人は、この六十年間、何をして来たのでしょうか?」
苦しい胸の内を、ぶちまける様に暮雅チャンは話し始めた。
「あのぅ、正確を期したいので、録音して良いですか?」
「名前と住所だけは伏せてください。」
「それはもう、間違いなく。」
始まった話の内容が凄かった。
のどかな山村には、およそ似つかわしく無い彼の人生だった。
私、大岡茂夫が「物書き」だと知って、暮雅チャンは、胸に秘めて封印していたものを吐き出す相手に選んだのだ。
それは、「内側で携わった者でないと判らない」、熾烈な企業間戦争の内幕だった。
その企業間競争は、やがて資本主義の利潤追求論理、「勝てば良い。」を膨らませ、禁断の領域に躊躇う事なく入り込む。
闇は広がり、人が死ぬ。
戦後の日本繁栄の歴史は、綾なす光と影に彩られて今日に到っている。
いよいよ私の尋ねて来た目的の話しが、始まるのだ。
暮雅チャンは、何を語るのか?
|