無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。
すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。
普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。
また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。
しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。
日本の歴史には「虚」と「実」が並立している。
渡来部族の長は占領地の統治の根拠を説得する為に神を名乗り絶対権力を握り根拠にした。
宗教を政治に利用したり権力維持に利用するのは当然の発想である。
先の大戦(大西洋戦争)時戦争遂行の為に「戦死したら靖国神社で神として祀られる」とまさに髪を利用して国民に刷り込み教育をした。
「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。
その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、正に皇統に拠る統治を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含んでいる。
つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。
とは言え、伝説・伝承の類は「虚」かも知れないが、そこにはその「虚」を広めた者の意図が在った筈で、それらを寄せ集めて考察する事は自然な行為である。
天智大王(てんちおおきみ/三十八代天皇)が統治の手段として、密かに役小角(えんのおずぬ)を登用、非公式に陰陽修験組織を設置した。
小角(おずぬ)の陰陽修験組織に、天智大王(てんちおおきみ)は統一国家としての共通認識と信仰心を醸成させる秘密警察兼情報工作機関として活動をさせて居た。
その秘密警察兼情報工作機関を、桓武天皇(かんむてんのう)は正式に天皇と直結する行政の中枢である中務省に「陰陽寮」として設置して活用した。
鬼伝説を創作した「朝廷」や「陰陽寮=陰陽修験組織」の意図は、「民衆の思想認識の誘導」である。
米国の国内映画製作で「西部劇に残忍なインデアンの襲撃」を描く事で白人の犯した強欲な西部開拓手法を正論化して「白人は正しかった」と国民に認識させたのと同様の狙いがある。
為政者が民衆に幻想や夢を持たせ、その民衆の行動を易々と操る為に創作された「フェイク伝説」の拡散手段を弄して目的を達成する。
この事実と違う伝説神話の捏造の流布に依る都合の良い話題で民衆を誤解で酔わし扇動する統治手法は独裁為政者の特異な手法である。
この独裁為政者の特異な扇動手法は、嘘に嘘を重ねて民衆を破滅に導く「戦争」と言う歴史的過去を持つので人々は話に乗ってはいけない。
我が国では、官憲を称して「犬」と呼ぶ風習があるが、これは本来侮蔑(ぶべつ)した意味ではない。
これを「侮蔑(ぶべつ)」と取るのは歴史認識の欠如である。
実はこの「犬」、非常に由緒正しい犬神の事である。
犬はつまり狼(おおかみ)で、狼神社に於いて狼が「神の使いである」と言う思想はどこから来たか?
どうも密教・修験道にその源が有る。
過って、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道師(山伏)は重要な存在だったのである。
昔、病や予期せぬ怪我は「祟(たた)り」と考えられ、素朴で信仰深い庶民は恐れていた。
つまり、山深い里にまで分け入る修験の山伏は、降りかかる祟(たた)りを回避する為の、「庶民の頼り甲斐ある拠り所」だった。
その修験道の山伏達は、渡来した様々な知識と宗教を駆使して呪詛を行い、庶民の平穏を願って信頼を勝ち得た。
一例を挙げれば、奇跡である。
この奇跡には、現在は周知の事実となっている、東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療、などが含まれ、当時としては劇的な回復効果を「奇跡」と取る向きも多かった。
つまり修験(山伏)道師は、映画「ブッシュマン」のごとき無知の衝撃を、奇跡として信仰に結びつける誘導をした。
当然ながら、人間は無知の現象に畏怖を感じる。
事実、こうした治療術は、大陸から密教系仏教と伴にもたらされた修験道師、修験僧(山伏)の独占する漢方医術であり、当初は、「だれだれ様は、体に触れただけで病を治した」と大げさに喧伝され、信仰の対象となった。
それが、何代かの時を経ると、民衆の心の中で一人歩きし、現在では東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療とはその存在を知りつつも、結びつける事は無い。
また、神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。
大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地であるヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。
当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。
大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。
つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。
そこで、密教・修験道の「山伏」は、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬(うやま)われて行った。
従って、その根底に流れている密教の「北辰・北斗信仰の使い」が狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。
当時の修験者は鉱物や薬草の最先端知識を駆使する科学者であり、宗教を通して精神をケアするカウンセラーだった。
同時に、彼ら修験者の正体が武術を修めた「影の官憲」で有る事は、暗黙の合意の上で在った。
この狗(いぬ=犬)の文字は犬神信仰に通じ、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)・邪馬台国を平定して「神武朝・大和朝廷を起こした」とされる呉族系(ごぞく/海洋民族)・狗奴国(くなくに)の国号にも使われている。
征服部族の長が大和朝廷の神々であり、修験者はその使いである。
「敬いと恐れ」は神の原点であるから、狼信仰が成立して犬神=官憲の意味が確立した。
北斗・北辰の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を修した陰陽修験導師は信仰上が「犬神の使い」で、現実は帝の命を受けた「工作機関の官憲」であるなら、後に江戸期の幕府隠密が「幕府の犬」と呼ばれる事もそれなりに由緒がある。
まぁ、官憲には権力の手先と治安維持の二面性があるから仕方が無いが、「官憲の犬」には「犬神」の畏怖尊敬の意味もあり、つまり歴史を良く知らないと警察・検察を侮蔑(ぶべつ)の意味で「犬」と呼んでしまう間違いを犯す。
もう一つ、官憲が犬と呼ばれるに相応しく由緒正しい有力な起源が存在するので併記する。
大化の改新以前(古墳時代)に、犬を飼養・使用する事を「業」とし、その能力を持って中央政権に仕えた「犬養部(いぬかひべ)」と言う部民がいた。
古来より狩猟や守衛を犬の使用目的として、犬養部(いぬかひべ)は存在していたのである。
「日本書紀」によれば、五百三十八年(安閑二年)屯倉(みやけ)の大量設置をうけて同時期に犬養部(いぬかひべ)は国々に設置された。
屯倉(みやけ)とは古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、大和政権が直接支配した土地の事を指す。
我輩は、「屯は駐屯を現し、倉は徴税を表す」と解釈する。
この屯倉(みやけ)は、継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)に拠る中央集権化の行政組織改革の一環として、地方からの確実な税収確保と環視を兼ねた出先機関であるが、それにしても継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)はこの屯倉(みやけ)制度のアイデアをどう思い付いたのか、それとも何処からか制度を持ち込んだのだろうか?
この継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)の謎は後ほどこの物語(皇統と鵺の影人)で御紹介する積りである。
「大和政権が直接支配する」と言う事は、中央の出先駐屯機関である。
初期に入植した征服部族の入植地の「間接支配もその役わり」と考えられる。
現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という二つの地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉(みやけ)との間になんらかの密接な関係があった事が想定され、現在では、犬養部(いぬかひべ)は犬を用いて「屯倉(みやけ)の守衛をしていた」と言う説が有力になっている。
屯倉(みやけ)と鎮守(ちんじゅ)の関わりは不明だが、鎮守社(神社)を宮(みや)と呼ぶ事と関わりはあるのだろうか?
古文書の記述には、安閑天皇の前後から屯倉(みやけ)の設置記事が多く見られるようになる。
屯倉(みやけ)の発展に犬養部(いぬかひべ)の設置が大きく寄与していた事が考えられる。
なお、屯倉(みやけ)の広域展開が、後の「国・郡・里制の基礎と成って行った」との指摘もある。
犬養部(いぬかひべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連(こおりのいぬかひのむらじ)、海犬養連(あまいぬかひのむらじ)、若犬養連(わかいぬかひのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の四氏が存在した事が伝わっている。
造(みやつこ)と言う名称は国又は土地の造り主を意味し、連(むらじ)は連合の主を表す。
つまり、有力征服部族長出身の大和政権の有力構成メンバーで、大王(おおきみ・帝)に対する御門や臣王(おみおう)と同様な意味と考えられる。
「続日本紀」に拠ると、県犬養氏は、藤原不比等の妻であり、藤原光明子(光明皇后)・橘諸兄の母である贈従一位県犬養三千代や、安積親王(あさかしんのう、聖武天皇の息子)の母である正三位県犬養広刀自などが輩出され、天武天皇〜奈良時代中期にかけて有力な氏族であった事が知られている。
後世、屯倉(みやけ)の守衛に始まった犬養氏・犬養部は、後に犬を手放すとともに、屯倉(みやけ)の「守衛」により培って来た武芸を活かし、「軍事氏族としての色を強めて行った」と思われる。
その事が判るのが、有名な大化の改新の引き金となった蘇我入鹿暗殺のクーデター(乙巳の変)の参加者として、海犬養連勝麻呂や葛城稚犬養(若犬養)連網田の名が見られる事で有る。
この軍事氏族犬養氏が皇統の血族とは異なった事から、直系の賀茂(葛城)の隠密組織「陰陽寮」が組織され、その後、皇胤(こういん)貴族(皇統の血族)である平氏や源氏に取って代わられる事になる。
いずれにしても、犬養部(いぬかひべ)と陰陽師は、庶民にとっては神(上)の使い=官憲である。
犬神の「神が外れて」ただの「犬」になってしまったのは、正に呪縛が解け、「敬いと恐れ」の気持ちを失ったからである。
この修験道師の組織、実はもう一つ公には出来ない驚くべき重要な密命、「大王(おおきみ・天皇)の密命」を帯びていた。
つまり犬神について、本書ではその信仰に重大な意味を持っているのだが、その話は読者の謎解きとして最後の章「維新の大業・陰陽呪詛転生」に残して置く。
犬を表現する言葉は、現代中国語(北京語・普通語)で一般的に使われるのは「狗(コウ)」である。
日本語ではこの「狗(コウ)」を「く・いぬ・ケン」と発音したり読んだりするが、主として使うのは「犬」の方で、違いがある。
すると、この「犬」と言う文字の方は、何時頃、何処で出来上がったのか?
実は、「狗(コウ)」と「犬」、同じ中国の文字だが、大陸側の「帝国の覇者」が時代時代で民族的出自が違う為に、日本と中国では時代の流れの中で主力に使う文字が分かれたのである。
大陸では、主として「呉時代」が「ク・ケン」で、「漢時代」が「狗(コウ)」らしい。
奥秩父にある修験の聖地に、犬神神社・三峯神社がある。
三峯神社(みつみねじんじゃ)は、神社本庁の別表神社であり、旧社格は県社(あがたしゃ)であり、秩父神社、宝登山神社と並ぶ秩父三社の一つで、埼玉県秩父市三峰にある神社である。
景行大王(けいこうおおきみ/第十ニ代天皇)の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮の社号を授けた」と伝える。
a href="http://jiyodan.exblog.jp/7957275/"target="_blank">伊豆国に流罪になった役小角(えんのおずぬ)がその三峰山で修業をし、弘法大師・空海が観音像を安置したと三峯神社縁起には伝えられる。
しかし景行大王(けいこうおおきみ/第十ニ代天皇)は、主に日本武尊(やまとたける)神話の物語に登場するのみで実在を疑問視される天皇でもある。
祀われているのは西日本に最も広く分布する犬霊の犬神である。
それが、朝廷の東日本統治政策の一環として為した陰陽修験の山岳信仰の活動で、西日本以東に広がった。
武蔵国秩父山系、相模国丹沢山系一帯、伊豆国箱根山塊、甲斐国(山梨)や信濃国(長野)の山岳地帯などの地域は、オオカミ(狼)信仰=犬神信仰が盛んである。
このオオカミ(狼)信仰=大神信仰は修験道の山岳信仰であるから、天の犬=天狗(てんぐ)とも関わりがある。
そして天狗(てんぐ)と犬神は呼び方が違うだけの同じ「イヌ」である。
天狗(てんぐ)修験道は猿田彦(サルタヒコ)と天宇受売命(アメノウズメノミコト)の誓約(うけい)の古事に習う「人身御供伝説」を村々に仕掛けた特殊組織だった。
「事のついで」と言っては何だが、犬をケンやコウだけでなく「イヌ」と読ませ発音するについて考えてみた。
大和合の国(大和の国)は多数の渡来部族が列島各地を武力で切り取り、倭の国々が乱立していた前身から具体的な統一を必要としていたのだが、多数の民族を統一して単一民族に融合するには誓約(うけい)に拠る人種的混合と意思疎通の為に「共通語」が必要だった。
日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされ、各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。
まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。
つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?
そこで文字は大陸文字を使用し、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の類似発音に大陸文字(中国語)を嵌め合わせたり、先住系縄文人(蝦夷/えみし)の語意(ごい・語彙)で大陸文字(中国語)の読み発音をさせる事で、音読み訓読みの「大和合の国」独自の言葉を成立させた。
つまり、異民族・列島同居の双方が意志を通じ易い様に音読み訓読みを併用する事で、後に日本語として成立する「翻訳機能をもった一文字ごとについて多重発音する言葉(大和言葉)」を編み出した。
この解釈で推測すると、アイヌ語 の犬は「セタ(seta)」で、中国語の犬(ケン)・狗(クゥ/コゥ)とも違う「イヌ」と発音する語源が判らない。
蝦夷(えみし)の言葉・アイヌ語で、「アイヌ(aynu)」は「人間」の意味である。
アイヌ語が原ミクロネシア語からのものとすると、「人間以外の動物または小型四足動物、或いはもっと広義の動物」を指し示す言葉として「アイヌ(aynu/人間)」の「ア」を取ったものがアイヌ語の「イヌ(ynu)」ではないのだろうか?
よく調べた訳ではないので、確証はない。
日本に於いては犬に関する信仰に深いものがあり、その事は、神社に必ず「狛犬(こまいぬ)」が在る事でも、狼神社、犬神社が存在する事でも、否定する事は出来ない。
神社の参道に鎮座する狛犬(こまいぬ)は、その神社の「主神の護り神」である。
狛犬(こまいぬ)の起源はインドと言う説が有力で、元々は獅子の形をしていた物を当時の日本人はそれを知らなかった為に「犬と勘違いした」とされている。
しかしながら、日本の信仰を考察するに、獅子を流用したかも知れないが、「犬(狼=大神)の方が相応しい」と言う信仰上の意志があったのではないだろうか?
古代の日本列島、倭の国小国群から力を着け、「大勢力に発展した」と言われる「狗奴国(くなくに・葦原中国の母体と考えられる)」は海洋渡来の呉族系で、この「狗奴(くな)」と日本の犬神信仰に関係があれば、全国にある神社に狛犬(こまいぬ)がある事の理由も判るような気がする。
ここで、テング(天狗・てんこう)の話をして置く。
天狗は、天の犬(狗・こう)の意味である。
そして、その描かれている衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、修験山伏の衣装姿である。
賢明なる貴方は直ぐに気が付くであろうが、これは、修験と犬神が一体である事を物語っているものであり、そして天狗は、「人身御供伝説」にも絡む恐れの象徴でもあった。
この物語で追々説明して行くが、日本の庶民文化は、氏族とは別に「妙見・修験信仰」がそのルーツと成って育まれたものである。
妙見・修験信仰は別名・犬神(狼=大神)で、その象徴が天の犬(天狗)だった。
原点を探ると、見えて来るものがある。
アジア遊牧民に取って、狗(クォウ・コウ・犬)は神が使わせた草原の相棒である。
つまり、日本列島で広まった犬に対する信仰、「犬神(狼=大神)信仰」は、渡来した北斗妙見信仰を通じて「アジア遊牧民の信仰が影響している」と考えられる。
ちなみに、遊牧民の族長から中国北部、中央アジア、東ヨーロッパに跨る大帝国を、一代で築き上げたモンゴルの皇帝チンギス・ハーン(テムジン)は「草原の蒼きオオカミ」と呼ばれて恐れ崇められた。
チンギス・ハーン(テムジン)の友人であり、モンゴル軍の四大将軍だったジェルメ、ジェベ、クビライ、スブタイの四人は尊敬と畏怖の念を込めて「四狗(スゥ。クォウ/四匹の犬)」と呼ばれている。
大和朝廷の「途方も無い政変」によって出現した役小角(えんのおずぬ)と修験道組織は、その帝(大王/おおきみ)の壮大な密命を帯びて大和朝廷支配下の国々に散った。
いずれにしても、これから我輩が記述するこの「日本の歴史物語・皇統と鵺の影人」の中では、「犬・狗(クォウ・コウ)の神の存在」は欠かせない。
贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。
そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。
つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。
そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級は「氏神(氏上)」と成った。
今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。
しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。
これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。
古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。
その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。
つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。
この物語を読まれている貴方は、神事・慶事に使う「しめ縄の由来」をご存知か?
しめ縄とは、天の岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)が天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た所を手力雄命(手力王の尊/たぢからおうのみこと)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話がこの「しめ縄の初めだ」と言われている。
しめ縄は、「尻久米(しりくめ)縄」の略したものと言われ、久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。
神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?
こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろうが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できる。
つまり「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供されて異民族同士の誓約(うけい)儀式が成立し、「異民族の和合が成立した」と言う生々しい話かも知れないのである。
いずれにしても神代の当時は現在のように性を秘するべきものでは無く、民族和合の誓約(うけい)儀式や五穀豊穣の祈りの証明としての性交儀式は神聖なものとして捉えられていたので、頭から現代風に受け取らず神代の当時の積もりで「尻久米(しりくめ)縄」の伝承を古事を辿りて偲い受け取って貰いたい。
また、時代が下がってからのしめ縄とは「注連(しめ)縄」、または「標(しめ)縄」とも書き、一名を「しめ飾り」とも言う。
これは標縄(しめなは)を意味する言葉で、言わば縄張りの語源であり、皇位皇族・高貴の者が一般を排除して地域を占有する事を指して標縄(しめなは)を張る地域」と言う訳である。
つまりしめ縄は、神事の場所と下界の区切りを現す為に張る縄で「区切りを占める縄」の意味を持つ。
これは神社に於いて、内外の境界または出入禁止のしるしに引き渡す縄で、神前や神事を行う場所にこれを張るときは清浄な区域である事を示し、家庭で新年に戸口にこれを張る時には、災いをもたらす神や不浄な物が内に入らないようにとの意味が込められている。
この時、岩戸に隠れ篭った天照大神を騙すのに使われたのが、三種の神器の一つ「八咫(ヤタ)の鏡」で在った。
ストリップダンスを踊るなど、神様にしてはずいぶん人間臭い逸話である。
日本の歴史の初期、神話時代の「国作りの秘密」は誓約(うけい)にある。
この誓約(うけい)、天照大神(あまてらすおおみかみ)と弟君である素佐之男命(すさのうのみこと)の間で取り交わされた事になっている。
本来、肉親である兄弟の間でわざわざ誓約(うけい)を行う必用などない。
ここで言う誓約(うけい)の概念であるが、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素佐之男命(すさのうのみこと)は、実は誓約(うけい)に拠って「初めて兄弟に成った」と解釈すべきである。
つまり日本民族は、日本列島に流入してきた異民族同士が、現地の先住民(縄文人・蝦夷族)も巻き込んで合流し、国家を作った。
その基本的概念が誓約(うけい)に象徴される神話になっている。
この場合の誓約(うけい)の実質的な合意の儀式は何であろうか?
異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。
それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し、定着させる事である。
その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。
この環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。
太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。
その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成された。
直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事をおいて他に無い。
つまり、食料確保の為に縄張り争いによる殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが、誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。
この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、異論は無いはずである。
現在の国家意識、民族意識、つまり帰属意識・所属意識の原点は、この誓約(うけい)の概念である。
この最も原始的な肉体の交合と言う儀式を通して、彼らは共通意識を醸成し、安心と信頼を構築する事で、群れ同士を「仲間」と認める事が出来るのだ。
勿論、この時代から個人と社会性のせげみ合いによる葛藤はあった。
しかしながらこれは、個人と社会性の双方を持ち合わせて生きる人類の永遠のテーマである。
当時の「群れ社会の平和的合流」と言う社会性を優先する誓約(うけい)の行為は、現代の個人思想からは理解出来ない事であろうが、唯一有効な方法として所属意識(社会性)を優先して発揮したのである。
この精神的な名残が、後に「人柱や人身御供」と言う歪曲した所属意識(社会性)の犠牲的精神にまで行き過ぎてしまい、究極的には「特攻精神」にまで行ってしまった。
庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。
本来、信心深い筈の庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?
命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。
元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。
陰陽信仰(誓約呪詛)は、神代伝承史に於ける天宇受売(アメノウズメ)と猿田毘古神(サルタヒコ)の異民族誓約伝承をその基に据えた平和と豊穣の呪詛(祈り)から始まって、天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神・事代主(ことしろぬし)の神や一言主(ひとことぬし)の神の「御神託(助言)」を習合している。
そして天武天皇(てんむてんのう)のご意志で役小角(えんのおずぬ)が開いたこの陰陽信仰(誓約呪詛)には、後に修行から帰国した弘法大師・空海が日本に持ち帰った初期密教の影響を色濃く反映していた。
この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。
元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。
弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。
だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。
ヒンドゥー教は、シヴァ神の御神体・リンガ(男根神)を仰(あお)ぐ信仰で、人々は性交しているシヴァを女性器の内側から見ている形になっている。
性典・カーマスートラを生み出した性に対しておおらかな信仰の教義が、弘法大師(こうぼうだいし/空海)の手で伝わったのである。
この性に対しておおらかな信仰の教義が、陰陽修験道師の手によって全国に喧伝され神道と集合して人身御供の儀式や男根神を祀る神社が出た。
弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていて、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の命を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前だったのである。
北斗・北辰信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化された北極星をまつる祭りである。
古代バビロニア地方など西アジア砂漠地帯の遊牧民族の間でに起こった方位を示す神「北斗・北辰(北極星)」への信仰が、インドと中国を経て仏教と共に我が国に伝来した。
「みちしるべ」の北斗・北辰信仰が、「優れた目を持つ」の意味の妙見信仰と習合して一つの神になり、五百年代から六百年代にかけての平安期以前より渡来人と伴に日本列島・大和合の国に渡来し、永く妙見宮として北辰妙見神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を主神としている。
妙見の「優れた目を持つ」の意味が、「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ/賀茂小角)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の根幹を為す信仰として活用された。
この北辰妙見信仰は、初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっている。
陰陽修験道は、大王(おおきみ)の統治を広める為の在る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。
この陰陽修験道の全国的な活動の広がりとともに、何故か全国に人身御供伝説と、「北斗・妙見信仰祭事・北辰祭」が広がって行った。
平安時代に北辰夜祭が、男神と女神との年に一度の逢瀬を献灯をもって祝う北辰祭として都の朝廷・民間で盛んに流行する。
信仰が大衆に広まるには、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。
この妙見信仰(みょうけんしんこう)、現代では織姫と彦星が年に一度の逢瀬を愉しむ「七夕伝承の祭り」として無難な形の庶民行事として残っているこの北辰祭、「男神と女神との年に一度の逢瀬」に因(ちな)む事を口実に、神にあやかる神事としての乱交夜祭だった。
実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。
つまり「北辰祭」が後に全国に広がって、庶民の間で俗に性交の事を「お祭りをする」と言われるくらい当時としては一般的な習俗で、その後明治維新政府が取り締まるまで信仰行事として続いた「暗闇乱交祭り」の原型だったからである。
日本に於ける所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交祭り文化」である。
つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。
例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。
こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事だった。
そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。
祭り事は統治の意味でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。
祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。
そうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。
しかし、「何もわざわざそんな過去を蒸し返さなくても・・・」が本音で、こうした過去は俗説扱いに成り、やがて消えて行くものである。
全く違う現代の価値観が顔を出し、「先祖がそんなふしだらだったとは子供に言えない」と言う訳である。
都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。
意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、たとえ実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。
この物語の第一巻でも述べたが、総論的に解説すれば、渡来氏族と先住縄文人(蝦夷族)が日本列島で同居し、支配階級の氏族と被支配階級の縄文人(蝦夷族)が構成された。
その同化過程の中で、渡来部族の先進文明は縄文人(蝦夷族)の文化を駆逐して行くのだが、当然ながら初期の被支配階級の縄文人(蝦夷族)には自分達の習俗を温存しようとする種族としてのプライドがある。
現に平安中期まで組織だった反抗も度々起こっている。
先進文明を携えて来た渡来氏族の文化が如何に優れていても、縄文人(蝦夷族)側にも種族としてのプライドを持って習俗を温存する意識も存在するから全てが支配階級の氏族と同じ習俗にはならない。
被支配階級の縄文人(蝦夷族)の村落として共存精神を軸に置いた独特の共生村社会が構成されて行く。
勿論、支配側の氏族の方でも同化策として山深くまで信仰を主体とした修験道師(山伏)を派遣して氏族への恭順啓蒙活動をするが、何しろ為政者側にして見れば縄文人(蝦夷族)出自の種族は非好戦的で従順な被支配階級にするのが望ましい。
それで修験道師(山伏)は、弱肉強食の氏族とはまったく別の善良教育・共存精神を彼等に施した。
つまりこの共生村社会のルーツは、現在でも有り勝ちな異民族同居状態に於ける弱者民族が、独自の文化社会を構成して同化に抵抗する構図である。
そしてそれは二千年に余る永い間、弱肉強食の「氏族社会」と被支配階級の縄文人(蝦夷族)の「共生村社会」と言う異文化が日本列島で共存して行く事になる。
勘違いしては困るが、正直、搾取階級など精々全体の五パーセント位でないと成り立たない。
つまり支配階級の氏族と被支配階級の構成比率は経済学的に決まっているから、僅かなウエィトしかない支配階級の氏族の歴史は必ずしも日本民族の歴史とは言い切れないのである。
陰陽修験が、民衆を宗教的にリードした事は間違いがない。
勿論、初期の現実的な現象として武術を修めた「影の官憲」である修験道士を、村の恭順を示す為に歓待する村も多かった。
当然の事ながら、酒食に加え村娘を差し出してお相手に宛がうのは、当時の感覚では至極当り前だった。
そこを怠ると、無秩序に村娘に手を付けられる恐れがあるから、村側に最低限の選択権を確保するには、それも止む負えない処置だった。
或いはこの大神(狼)様相手の事を、「お祭り」と呼んだのかも知れない。
現代の日本では、しばしば政治に対するマスメディアの中立性が話題に成るが、過去の歴史に在っては官製メディアが統治に利用された歴史も存在する。
そうした歴史の一番初めに登場するのが、天孫・大和朝廷正統化の啓蒙を目的とした天孫光臨伝説を題材とする物語で構成された「神楽(神座/かみくら・かぐら)舞」である。
言わば周到に計算された官製メディアとして「天孫光臨伝説」を民に周知徹底させるこの物語・神楽舞を、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。
恐れを回避する為に「神とコンタクトする事」が、原始信仰である陰陽呪詛で、その為には人々を納得に導く道具立てが居る。
その形式として神楽舞、巫女舞が形成される。
「神楽人(かぐらびと)」とは、巫女舞の楽器演奏を担当する人達で、地方(ぢかた)とも言う。
勿論、地方(ぢかた)は下級の神職がこれにあたっていたので、言わば陰陽修験クラスの者の仕事である。
その楽器演奏に乗って舞うのが「立方(たちかた)」で、巫女が担当する。
陰陽修験に於いて、巫女神楽の巫女の身体は、本来「依(うつ)りしろ」である。
巫女神楽・巫女舞は、神楽の原形とも言えるもので、本来「神迎えの依(うつ)りしろ」としての巫女が、神掛かりの状態になる為に勤めるもので在った。
神懸りとは、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。
現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。
その神懸りの状態が、「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得て初めて呪詛の威力を発揮する理屈だった。
その最たるものが、天岩戸(あまのいわと)伝説の里神楽の原型、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。
つまり、岩戸伝説は原始呪詛の形式を踏襲(とうしゅう)した創作だった。
舞いの所作に関しても本来の原始的なものは、神態(かみわざ)、つまり神の憑依(ひょうい・光臨)した姿そのものであったから相当に激しかった。
ただし、今日の舞いの形式は雅楽のように優美になって、その意義も「神慮を慰め、神意を和める」と言う様に変化して来ている。
現存する巫女舞は昇華洗練され、鈴、榊、太刀、扇子などの採り物を手に、神前で静かに舞うものである。
しかし、原始的な形式では、巫女がトランス状態になる様な「激しい旋回運動が舞の所作に求められた」と考えられている。
つまり、トランス状態のダンシング・ハィ(ランナーズ・ハイ)に陥り易い状況を演出する事が要求されていた。
この最大限のものが、巫女舞の延長上にあった性交により快感を得て神懸かりの状態となる呪詛である。
現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説され、その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。
尚、中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音する女性(おんな)は、アイヌ語では「オイナ」と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。
その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。
楽器に関しては笛、太鼓、琴と言うのが主なものであるが、これも宮中の神楽として洗練されたものの影響で在って、本来は、「杓拍子(杓杖を打ち鳴らして拍子を取る)程度の簡単なものであった」と考えられる。
囃子と共に歌われる歌は平安朝の宮廷の神楽では文学的で雅な、しかし舞とはまったく関係のない様なものが好まれたが、里神楽では直接神々の降臨を迎える意味を述べたものがしばしば歌われる。
つまりこちらが、帝の命で陰陽修験が真価を発揮した舞台だったのである。
ここからは、初期陰陽師が庶民とどう関わりを持ち、その影響がどう変化して行ったかを追って見たい。
ここで、序章で取り上げたテング(天狗・てんこう)の話を、念押しでして置く。
天狗(テング)は、天の犬(狗・こう)の意味である。
思い浮かべて欲しい。
その描かれている天狗の衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、正しく修験山伏の衣装姿である。
言うまでも無いが、これは、修験と犬神が同一である事を物語っているもので、当時の官憲=修験=犬神=天狗である。
そして天狗は、「人身御供伝説」にも絡む恐れの象徴でもあった。
奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で同じ様な祭礼をしていた」と言われる。
つまり、飛鳥坐神社の天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる里神楽を仕掛けたのは、修験山伏を於いて他に無いのである。
陰陽道のスーパースター泰澄(たいちょう)は、伝説の人物で有る。
この伝説の存在が、修験陰陽の本質を現している。
謎の大物修験者、泰澄(たいちょう)大師が、奈良時代初期に現れた事になって居る。
これが白山信仰の元になったのだが、どうも後の世の修験者達の創作らしい。
伝承によると、越の大徳(こしのおおどこ)と言われる泰澄(たいちょう)大師は越前の麻生津、現在の福井市三八社町、県立音楽堂の近くで生まれた。
十四歳で織田町の越知山で修行し、七百二年(大宝二年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、その後七百十七年(養老元年)、三十五歳の時、美しく尊い女性の夢を見て、加賀国白山に登り妙理大菩薩を感得した。
女性が出て来る処が修験道らしいが、これが白山信仰の始まりで、「十一面観音が白山の神様になる」と言う下りまで来ると、この頃帰朝したばかりの弘法大師(空海)の持ち帰った密教の経典に辻褄を合わせた様な話だ。
大徳(おおどこ)は冠位十二階の最高位である。
その最高位の者が、「存在を確認できない」とはどう言う事だろうか?
つまり、「越の大徳」は存在しなかったのではないのか。
泰澄(たいちょう)は有名な「役(えん)の行者(小角・おずぬ)」に続く、山でのスーパーマンの様な修験者で、修行の傍ら全国に「泰澄が開いた」と言う神社や寺は「二府十七県にもなる」と言われ、更に白山神社と名の付いた神社は北海道、宮崎、沖縄をのぞく四十四県二千七百を越える。
これらの高僧に拠る奇蹟は、民衆の信仰を集める為、「陰陽修験が協力した」と考えられる。
しかしながら、泰澄(たいちょう)は伝説上の人物扱いで、正式な文献(正史)には、存在を確認するに足りる何の記載も無い。
修行をしながら全国に神社を開くは、通常なら「在り得ない事」である。
何故なら代理の者、修験山伏達の仕事でなければ、こんなに広域に足跡など残せない。
泰澄(たいちょう)は恐ろしく呪力が強く様々な奇蹟を起こしているのだが、その内容がとても人間業とは思えないものである。
もっとも、当時最先端の科学知識を持った者が、無知な民人を驚かすくらい、「造作がない」と、覚めた目で見ると、それなりの奇蹟はあったのだろう。
果たしてそれほどの実力者が、当時の陰陽寮に関わりも無く、存在し得ただろうか?
泰澄(たいちょう)には現在でも実存説、神話的伝承説の両説があるが、修験山伏達の、庶民信仰の喚起を狙った「ヒーロー創りの流言」だったかも知れない。
よしんばそれらしき人物が居たとしても、凡そ聖者の類は相当誇張されて後の世に伝わり、それが信仰の対象になるのが常識的である。
江戸時代には、二千年近くも前の恐怖の征服大王の意図する事が完成しつつ在った。
物語がいよいよ近代に近付いて、葛城朝が仕組んだ驚くべき一大陰謀を暴く時が来た。
修験道師達が影の諜報機関だった事が、存在を隠す要因で有ったのには間違いは無い。
その隠れた目的の一つが、国家運営の最大テーマ「大王(おおきみ・天皇)の密命」の推進だった事に気付くべきである。
影の国家組織「陰陽師勘解由小路党」に命じられた密命が、何だったのかを?
それこそ、万世一系を具現化する為の「至って現実的かつ単純な手法」だったのである。
関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。
狼神社において狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。
そして、修験者の行く所「人身御供伝説」の事例に事欠かない。
大猿、大蛇、狼、もろもろの化身が登場して、村人を苦しめ、祟りを恐れた村人が「人身御供」を捧げ、それが「人身御供伝説」となって後世に残った。
この国の河童その他の妖怪・お化けの類は、大概の所、山岳信仰を応用した修験行者や、後の僧侶が信仰の布教の手段として流布したもので、ある種教育的メッセージ、または何かの目的達成の為に出現している。
人身御供に関わる地方民話の内容については、「唯の民話、御伽噺」と片付けてしまえれば簡単であるが、それは我輩には出来そうも無い。
実は、民話に隠された真実には重大な意味がある。
何かを伝えたいから、民話は存在する。
現代の感覚で考え、「現実離れしているから」と言って、造り話とは限らない。
神秘的な民話には、実は難解な真実が隠されている。
勿論、文字を持たない身分の低い立場の者、ものをはっきり言えない弱い立場の者は、民話に隠して後世に託すしかない。
そうした先祖の切ない意思を、読み取ってやるのが、後世に生きる「人の道」である。
各地に伝わる「人身御供伝説」の多くには、犬神と天狗(てんぐ)が「善い方」として登場する。
天狗(てんぐ)も「天の犬の意味」であるから、言わば天狗(てんぐ)も犬神である。
犬神は日本狼(大神)と修験道師を重ね合わせた山岳信仰である所から、「人身御供伝説」が修験道及び修験道師と深く関わっている事は容易に想像出来る。
そして共通する多くは、うら若き女性が「人身御供」でありそれを救出するのが犬神(修験道師)の役回りである。
当時文盲だった大衆を信仰に導くのは、口伝に拠る啓蒙手段である。
つまり、この「人身御供伝説」そのものが、修験道に民衆の信仰を集める効果を持っていた。
唯この伝説、単に「うわさの流布」と言った域ではない具体性を帯びていたからこそ、民衆に「現実の恐れ」として信じられた疑いが強い。
大阪府大阪市西淀川野里・住吉神社は、人身御供(ひとみごくう)の作法が神事と成ったもので、生身の女性を神に供える 「一夜官女祭り」である。
美しく飾られた御供物の桶七台と七人の少女が共に神前に進み、神に献じられる。
かつて、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道師(山伏)の存在は重要だった。
昔、病や怪我は祟(たた)りと考えられ、信仰深く素朴な庶民は恐れていた。
つまり、山深い里にまで足を運ぶ修験の山伏は、庶民の頼り甲斐ある拠り所だった。
その修験道の山伏達は、渡来した様々な鉱物や植物の薬学知識、精神ケアに要する宗教知識を駆使して庶民の平穏を願い、神の使いとして信頼を勝ち得た。
そこでは、密教・修験道の「山伏」が、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬われて行った。
従って、その根底に流れている密教の北辰・北斗信仰の使いが狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。
「信頼を勝ち得る」と言う事は、裏を返せば「信じた者を操れる」と言う事である。
過去、陰陽寮を作ってまで宗教と占術を「国家がいじる」と言う歴史は、その目的があるからこそ存在した。
夢を壊して悪いが、各地の山里に語り継がれる「人身御供伝説」の仕掛け人はこの修験道の「山伏」と考えられる。
能登国(石川県)七尾の山王社(大地主神社)の猿神退治の人身御供伝説では、「しゅけん」と言う最も修験山伏(修験道師)を彷彿させる白い狼(犬神)が登場する。
昔ある村では、七尾の山王神社へ美しい娘一人を人身御供に差出すのが毎年の永く続く習わしであった。
或る年も、一本の白羽の矢が某家の屋根に立った。「娘を差出せ」とのお告げである。
白羽の矢が立った家では、七尾の山王神社へ毎年美しい娘一人を人身御供に差出ださねば、「村に災難が降り掛かる」と言うのだ。
この人身御供、親子の情においては忍びないが、当時の社会は「村落共同体(村落共生主義)」で娘の貞操よりも地域の安全がより優先され、拒否すれば村八分物で親子共に生きては行けない。
永く続いた土地の習慣ではあり、避けられない人身御供だが、とても諦めきれない。
その家の主は嘆き悲しんだが、「何とかして娘を助ける事が出来ないものか」、と思案の挙句、或る夜我身の危険も帰り見ず、山王神社の社殿に忍び入って様子を探って見た。
すると、草木も眠る丑三つ(うしみつ・深夜)の頃、社殿の奥から何やら声が聞こえる。
「あれは何じゃ?」
白羽の矢が立った家の主は、気付かれない様に近付き、耳を澄ます。
すると、人身御供を要求している妖怪と思しき者がほの暗い社殿に寝転んで、「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後国(新潟県)のしゅけんは、よもやワシが能登の地に潜んでいる事は知るまい。」と呟いている。
「しめた。」と娘に矢を立てられた家の主は喜んだ。どうやら妖怪は、「しゅけん」とやらが恐いらしい。
目に入れても痛く無いほどに可愛がり、手塩にかけて育てて来た大事な娘である。
娘を助ける為なら、どんな怪物にも縋(すが)りたい。
白羽の矢を射られた家の主は、娘を助けたい一心で、人身御供を要求している者が恐れている「しゅけん」とは、何者なのか、興味を抱いた。
妖怪と思しき者が恐れる「しゅけん」は、どうやら越後国(新潟県)に居るらしい。
娘の父は「しゅけん」を知る由もなかったが、妖怪が恐れるならば兎も角、「しゅけん」なる者の「助けを借りよう」と、藁をもすがる思いで越後へ出かけた。
「しゅけん様は何処においでかね?」
越後国(新潟県)に出かけた娘の父は、「しゅけん」の所在を八方尋(たずね)歩き、ようやく会う事ができた。
それは全身真白な毛で覆われた「狼」であったが、娘の父は怖さも忘れて必死で窮状を訴えた。
悲嘆にくれながらも遠路探しに来た父親の、娘を思う心情はしゅけんにも充分に伝わった。
娘の父が事情を話し、助けを求めるのに対し「しゅけん」は深くうなずき「ずい分以前に、他国から越後へ三匹の猿神が渡って来て人々に害を与えたので、そのうち二匹まで咬殺してやった。」と娘の父に告げた。
「しゅけん様ならその猿神を退治出来るかね?」
「あぁ、最後の一匹には逃げられてしまったが、能登の地に隠れておろうとは夢にも知らなかった。
それでは、これから行って退治してやろう。」と、「しゅけん」は応えてくれた。
娘の父は「しゅけん」の言葉に安堵したが、ふと気が付くともう時間が無い。
「有難うございます。ただ、もう娘を人身御供に差出す刻限が迫っています。」
「それでは、能登国(石川県)七尾へ直ぐに出かけようぞ。」と、「しゅけん」は娘の父親に「背中に乗れ」と言った。
娘の父親が「しゅけん」の背中に乗ると、「しゅけん」は「フワリ」と浮き上がり、海に向かうと海上を恐ろしい速さで翔け始めた。
「しゅけん」は娘の父親を伴い、波の上を飛鳥のように翔けて、明くる日の夕方には七尾へ着いた。
「わしを、娘の身代わりに供えよ。」
祭りの日、「しゅけん」は娘の身代わりに唐櫃(からびつ)に潜み、夜に成ってから神前に供えられた。
その夜は、暴風雨の夜であったが、妖怪としゅけんの争いは、雨風の音までかき消すように音が物凄く、社殿も砕けてしまう程の激しさであった。
翌朝、町の人々は連れ立ってこわごわ社殿へ見に行くと、朱に染まって一匹の大猿が打倒れ妖怪の正体を知った。
「こりゃあたまげた。化け物は大猿じゃったか。」
「しゅけん様のおかげで、毎年の人身御供も免れる。ありがたい事じゃ。」
村人は「しゅけん」の猿神退治に喜んだ。
しかし、「狼」の「しゅけん」もまた、冷たい骸(むくろ)となって横たわっていた。
町の人々は、「しゅけん」を厚く葬り、後難を恐れて、人身御供の形代(かたしろ)に三匹の猿に因み、三台の山車を山王社に奉納する事になった。
この「しゅけん」の物語、実は渡来した物語を応用している疑いが強い。
中国の民話に、「カクエン」と言う「獲猿」とか「攫援」と書く猿の妖怪が居る。
それぞれ「(獲物を)獲る猿」、「援を攫(さら)う」の意味だ。
援は媛に通じ、要するに女性の事で、総合すると「女性を攫(さら)う猿の妖怪」と言った処である。
この妖怪、中国では子孫を残す為に人間の女を攫(さら)い、「自分の子供を孕ませる」と伝えられている。
一連の霊犬伝説に登場する怪猿が、人身御供に娘を要求したくだりを連想させる。
北陸三県の越中(富山県)、能登(石川県)、越前・若狭国(福井県)は、一向宗が盛んになるまでは泰澄(たいちょう)に代表される白山信仰(山岳修験道)の聖地だった。
つまり、人身御供伝説の原典が中国にあり、それを、学んだ修験山伏が、何らかの目的で「利用した」とするのが無理の無い解釈だろう。
それにしてもこの民話のヒーロー、白毛の狼・・「しゅけん」とは見え見え過ぎる。
修験(しゅげん)と「しゅけん」では濁点が足りないだけではないか?
この伝説、しゅけん(修験者)対蝦夷夜盗(鬼鵺土蜘蛛)の象徴的な、実はリアルな言い伝えなのかも知れない。
「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。」
この縛(しば)きが「しめ縄」であるなら即ち乙女は「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた事に成り、いかにも性交呪詛の実行が伺われる。
鳥居内の神域(境内/けいだい)に於いては、性交そのものが「神とのコンタクト(交信)」であり、巫女、或いはその年の生け贄はその神とのコンタクトの媒体である。
祭りに拠っては、その神とのコンタクトの媒体である巫女、或いはその年の生け贄の前に、「ご利益を得よう」と、神とのコンタクト(交信)の為に縛(しば)かれて尻久米(しりくめ)縄で吊るされた乙女に、老いも若きもの男衆の行列が出来るのである。
高千穂神楽(たかちほかぐら)と所謂(いわゆる)「日本神話」との関係については、誰も異論は無いだろう。
だが、高千穂神楽を語る時、避けて通れないもう一つの「神話」がある。
それが高千穂に伝わる「鬼八伝説」である。
畿内への東征(神武大王の東征?)から帰郷したミケヌ(三毛入野命)は、後に神武大君(じんむおおきみ・神武大王・初代天皇)となるカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)の兄で、高千穂神社の祭神である。
そのミケヌが、「アララギの里」に居を構えた。
同じ頃、二上山の洞窟に住んでいた「荒ぶる神」鬼八(きはち・蝦夷族?)は山を下り、美しい姫・ウノメ(鵜目姫。祖母岳明神の孫娘)を攫(さら)ってアララギの里の洞窟に隠した。
或る時、ミケヌが水を飲もうと川岸に寄ると、川面に美しい娘が映って話し掛けた。
「ミケヌ様、鬼八に捕らえられているウノメをお助け下さい。」
水面に映し出されたウノメの姿に助けを求められたミケヌは、他にも悪行を繰り返す鬼八(蝦夷ゲリラ?)の討伐を決意する。
「心配には及ばぬ。私が必ず助け出す。」
ミケヌは、四十四人の家来を率いて鬼八を攻めた。
鬼八は各地を逃げ回った挙句、二上山に戻ろうとした処でミケヌらに追い詰められ、遂(つい)に退治された。
しかし、そこは妖怪である。
鬼八は何度も蘇生しようとした為、亡骸は三つに切り分けられ別々に埋葬された。
この鬼八伝説、単純に聞けばよく在り勝ちな「おとぎ噺」だが、一説には往古の先住民族と大陸系征服民族の抗争が描写されていて、その先住民族の末裔達がこの地方独特の「ある姓を名乗る人々ではないか?」とも言われて居る。
後日談では、救出されたウノメはミケヌの妻となり、「八人の子をもうけた」と言う。
その後末裔が「代々高千穂を治めた」とされている。
処が、ここからが問題で、死んだ鬼八の「祟り」によって早霜の被害が出る様に成った。
この為、「鬼八の祟り」を静める為に「毎年慰霊祭を行う様に成った」と言う下りである。
高千穂・猪掛け祭りは、新暦一月中旬(旧暦十二月三日)のこの日に執り行なわれる収穫祈願祭りである。
来る年の豊作を願って執り行なわれる年末の神事が、子作り神事と共通していても不思議では無い。
「乙女を縛(しば)きて吊るし、掛けに供し・・・」
【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。
この慰霊祭の風習では、過って永い事生身の乙女を人身御供としていた。
高千穂「人身御供伝説」として伝わる「鬼八伝説」の人身御供の様式は、もっとも基本形の一つである乙女の半吊り責めである。
素っ裸の人身御供(生贄女性)を、神社に設(しつら)えてある舞台に曳き出し、縄で手首を後ろ手に縛(しば)いてその縄を、首を一回りさせて縛(しば)いた手首を上にガッチリ絞(しぼ)る。
もう一本縄を取り出して縛(しば)いた乙女の手首に結び、絞(しぼ)りながら肉体(からだ)の乳房の周囲を二本平行に巻いて絞(しぼ)って縛(しば)き、やや脚を開かせて踏ん張らせる。
天井から垂れ下がった縄で後ろ手に縛(しば)いた乙女の腕の結び目を結(ゆ)わえる。人身御供(生贄女性)に上半身を前に倒させて腰を後ろに突き出した前屈(まえかが)みの形にさせ、縄丈(なわたけ)を調節し脚が床に届く様に半吊りに吊る。
「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。」
これが永い事、高千穂の人身御供の風習だった。
だが、戦国時代になって、供される娘を不憫(ふびん)に思った城主・甲斐宗摂(かいそうせつ)の命により、イノシシを「乙女の代用とせよ」と、呪詛様式が改革されるように成った。
甲斐宗摂(かいそうせつ)は、阿蘇国造(あそくにのみやっこ)・阿蘇氏の家臣で日向国・高千穂鞍岡の国人領主・藤原菊池流甲斐氏末裔である。
一族の内紛から甲斐都留郡(現山梨県)に逃れて住んだ肥後国・菊池氏の支流が甲斐氏で、九州に戻って日向高千穂に土着し、阿蘇氏重臣となった一族と伝えられる。
さて問題は、高千穂神楽には陰陽師の呪詛様式が色濃く残っている点である。
この伝説自体に高千穂神楽との結び付きが出てくる訳ではないが、慰霊祭「猪掛祭(ししかけまつり)」は注目に値するのだ。
いかにも修験者の仕事らしい伝説だからである。
まずこの「人身御供」は、神代の時代からの伝承に基付き、戦国時代の甲斐宗摂(そうせつ)の命令があるまで、生身の乙女を供する事が続けられて居た。
すると、何者かが鬼八伝説を利用して、「人身御供」のシステムを作り上げ、少なくとも数百年間は、それが継続していた事になる。
「この伝説の中で始まった」とされる鬼八の慰霊祭も今日に伝わっていて、高千穂神社で執り行われる「猪掛祭(ししかけまつり)」がそれである。
猪掛(ししかけ)の「掛け」の意味は、人架け(獲物縛りに吊るされてぶら下がった状態の人身御供)である。
代替として「人身御供」の乙女の代わりに、社殿に猪を縄で結わえて吊り下げるからで、単純に考えれば以前は「人身御供の娘を結わえて吊るしていた」と考えられ、陰陽呪詛的な匂いを感じるのである。
ここで一言、性に関わる(色気のある)歴史文章を書くと途端に、根拠も無しに定説とか常識を振りかざして決め付け、判ったような嘘をでっち上げる勢力がある。
鬼八伝説と、甲斐宗摂(かいそうせつ)が絡む「猪掛け祭り(擬似生贄の祭り)」にしても、「甲斐宗摂の人徳を称える逸話」と史実を綺麗事に捻じ曲げて主張する。
しかしこの人身御供は、遥か昔の神武朝時代のミケヌ(三毛入野命)の伝承「鬼八伝説」から始まるその地の人身御供儀式として継続され、戦国時代の甲斐宗摂(かいそうせつ)に到っている。
これを行き成り「人身御供儀式は無かった」と現代の規範常識を振りかざして破綻した文脈を言い張り、恥ずかし気も無い決め付けの論旨を主張する。
脈略がある鬼八伝説と甲斐宗摂(かいそうせつ)伝承の前段・鬼八伝説を切り捨てて置いて、実存する「擬似生贄の祭り(猪し掛け祭り)」が宗摂(そうせつ)の人徳を称える創作逸話とは無茶なこじつけである。
次に、中部地方に伝わる犬神の伝説(霊犬の伝説)を上げる。
意図して隠されているが、語り継がれて遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい恐ろしい真実が隠されている事が多い。
この人身御供伝承に拠る生け贄は、何故か村落の有力者の娘が限定で、まずこの条件に例外は無い。
ヒョットすると、これは神の使い「犬神」から新しい命を授かる為の儀式なのかも知れない。
その昔、花園天皇(第九十五代・後醍醐天皇の前の帝)の治世の話である。
信濃駒ケ岳のふもとにある光善寺で、何処からともなくやって来た一匹の「雌の山犬」が五匹の子犬を産んだ。
寺の和尚も、慈悲深い人柄で、この山犬の親子の暮らしぶりを見守っていたのだが、やがて子供達が母犬と区別出来ない程に育った頃、母親と四匹の子供は山へ忽然と帰って行った。
しかしどうした事なのか、五匹の中でもひときわたくましく利発だった子犬だけが一匹だけ寺に残っていた。
「おやおや、この子(犬)だけ置いて行かれたのか?」
何かと親子に目をかけていた和尚は、少し不思議に思ったものの、この一匹が寺に残った事をたいそう喜んで一緒に暮らす事にする。
光善寺の和尚は、その子(犬)を「しっぺい太郎(悉平太郎)」と名づけて慈しみ育てた。
一方、遠州地方(遠江国・静岡県)の見附宿辺りに、村人に娘の人身御供を要求し、これに従わなければ近隣の田畑を荒らして、凶作をもたらす恐ろしい神が居た。
秋祭りの頃に成ると、毎年の様に「娘の居る村の家」の戸口に、白羽の矢を立てるのである。
この白羽の矢の話し、同類と思えるものが結構広範囲に伝承されている所から、話の出る元は広範囲な活動をした組織の存在を窺わせる。
該当するとしたら、それはやはり陰陽寮の修験組織の「呪術目的」としか考え様がない。
矢を立てられた家は娘をこの悪神に差し出さなければならなかった。
地域の安全が個人よりも優先される当時の「村落共同体社会(村落共生主義)」では、親は泣く泣くでも人身御供を承服しなければ成らない。
村人達は、「背に腹は代えられぬ」と仕方なくこの悪神の要求に従ってはいたが、やはり娘を贄に差し出さなければならなくなった家の者の悲しみは言い様も無いほどだった。
この妖怪を相打ちで倒したのが「しっぺい太郎(悉平太郎)」と言う犬(神)だった。
たまたま遠江国・見附宿を通りかかった旅の修行僧がこの人身御供に同情し、先ずはその妖怪の正体を確かめるべく八月十日の祭りの夜に拝殿の下に忍び込み、「信濃の悉平太郎に知らせるな。」と言う妖怪の叫びを耳にする。
妖怪が「信濃の悉平太郎なる者を恐れている」と思った旅の修行僧は、この人身御供と言う哀れな慣わしに苦しんでいる見付の人々を救う為、早速、悉平太郎を捜す旅に出る。
旅の僧は信濃国中を捜し歩き、漸くある村で赤穂村(現駒ヶ根市)の「光善寺にいる犬が悉平太郎だ」と言う話を耳にした僧は、早速遠州見附の窮状を訴えて悉平太郎を借り受けるべく、意を決して光善寺を訪ねた。
光善寺を訪ねて見ると境内に立派な犬が居た。
光善寺の「しっぺい太郎(悉平太郎)」は成長し、やがてたくましい霊犬に成長していたのだ。
「なるほど、この霊犬なら妖怪が恐れるのもうなずける」と、旅の修行僧は確信した。
光善寺を訪ねた旅の修行僧は、光善寺の和尚に会って見付で見聞きした顛末を語り、悉平太郎の借り受けを懇願した。
事情を知った光善寺の和尚は、済民の為ならばと悉平太郎の遠州見付行きを快諾された。
旅の修行僧が「しっぺい太郎(悉平太郎)」を伴って遠州見付に戻ると、折りしも見附宿はその年の八月十日の祭りを迎えていた。
祭りの当日の夜、人身御供を食らおうとする妖怪に悉平太郎は猛然と怪物に襲いかかった。
この妖怪と悉平太郎との戦いは凄まじく、叫び声が「翌朝まで見付の町にまで響きわたった」と言う。
翌朝、境内には大きな年老いた狒狒(ヒヒ・猿科)の化け物が血まみれになって横たわっていた。
怪物はついに悉平太郎により退治されたが、悉平太郎も深手を負い、境内の今の山神社の所で「息絶えた」と言う。
何やらこの話も、「能登のしゅけん伝説」と良く似た所があるが、何しろ信州は戸隠流修験道(戸隠流忍術とも呼ばれる)の本拠で、所謂(いわゆる)山伏信仰(犬神信仰)の聖地だった。
しっぺい太郎、或いは早太郎と呼ばれる霊犬の伝説は以上の様なものだが、信濃国(長野県伊那地方)から遠江国(静岡県遠州地方)にかけて類似した多くの伝説が残されており、その一つ一つは他の類話と微妙に異なっている。
まだまだある、大神=狼=犬神信仰は、「陰陽修験の基本だ」と我輩は考えている。
まるで同一の組織が、違う土地で同じパターンを使用したように似ていて、そこに、陰陽修験の影が見え隠れしているのだ。
福知山線篠山口駅から西へ一キロメートル余り行った所に、犬飼村の大歳神社がある。
この神社にも、人身御供の伝説が残っている。
主役はこれまた「鎮平犬」と呼ばれる霊犬の話で、能登国(石川県)七尾の霊犬伝説「しゅけん」や遠江国(静岡県)見附宿の霊犬伝説「しっぺい太郎(悉平太郎)」と良く似た所がある。
こうした伝説はパターンが似ている事から、この辺りの経緯(いきさつ)に修験山伏の影がチラつくのだ。
昔、或る年に、北近畿(丹波・丹後・但馬)地方の或る村で神隠し事件が起こった。
氏子の中に五人、七人と次々に行方不明者が出てきて村中総出で捜しても、行方不明者の消息は判らない。
消息の掴めない神隠しであるから、「これは神のお怒りの禍(わざわい)である」との結論になり、神の怒りを静める為に氏子の連中が相談して人身御供を供える事に決め、くじを引いて祭りの夜に供える事にした。
その村では、毎年祭りの夜に人身御供を供える神事は続いていた。
村の取り決めであるから否とは言えず、村人は例年泣く泣く人身御供を供えていた。
所が、或る年のくじを引きで犠牲者に当たった家では大変悲しみ、何とかこの災難を逃れようとただ一心に神にすがり、三七日の祈祷をした。
ここまで育てて来て、漸(ようや)く花も盛りの年頃を迎えたばかりの愛しい娘である。
娘は、親でさえ惚れ惚れするほど麗しく育っていて、とても人身御供などには出せる物ではない。
一生分を使い果たしたと思うくらい散々に泣いたが、勿論娘への思いは断ち切れない。
するとその祈祷の満願の明け方に一人の童子が現れ、「氏子の悲嘆を聞くに忍びず故、霊験を持って汝らに教えよう。」と、神の声をその村人に伝えた。
童子の話に拠ると、江州犬上郡にある江州多賀明神は伊裝冉尊を祀るが、この宮も元は人身御供の禍(わざわい)が在った。
しかし多賀明神宮の禍(わざわい)は「鎮平犬と言う犬が化け物を退治し、この厄を逃れた。」と言い、「今もこの犬が犬上郡にいる。借りて来て、例祭の時この犬を器に入れておけ。神は不思議な力をこの犬に与えるであろう。」と伝えた。
これを聞いた村人は「これで村の禍(わざわい)は無く成る。」と大いに喜び、神のお告げの通り江州犬上郡から犬(鎮平犬)を借りて来た。
借りた犬をお告げ通りに箱に納めてしめ飾りを神前に供え、村人が木の陰に隠れ刀を構えて待っていた。
夜半になって、天地を揺るがす大音とともに恐ろしい怪物が現れて拝殿に躍り上がり、供え物の箱に手をかけるやいなや中に居た鎮平犬が凄い声を出しながら怪物に噛み付き、ともに縁から庭に落ちて行った。
上になり下になり、鎮平犬と激しく争う怪物を見た村人が、「これは大変」と怪物の隙を伺い、助太刀に入って怪物に数太刀切りつけて見事怪物を退治する事が出来、以来人身御供の神事は取り止めに成った。
この怪物は、「三眼の大狸だった」と言われ、丹波・丹後・但馬地方は、元々「化け狸伝説」の多い地方ではある。
その後、鎮平犬は大切に村で飼われ、村名もこの事から「犬飼村と改めえられた」と言う。
もう一つ、丹波国・篠山の池尻神社(いけじりじんじゃ)の伝承を挙げる。
それが、数ある伝承の中身を良く考えると、全てに共通する「まるでお決まりにパターン化された物」のように、これらの伝承は良く似ている。
昔、大山の或る里に年老いた両親と美しい娘が住んでいた。
その村では、秋祭りには、毎年十五歳になる前の少女を人身御供(ひとみごくう)に出さ無ければならなかった。
そのくじ引きにある美しい娘が当って、その両親はたいそう悲しみ、そろって氏神(うじがみ)様・池尻神社(いけじりじんじゃ)にお願いに行った。
娘は不幸を嘆(なげ)き、父母の気持ちを思って途方にくれ、深く神に祈りを捧げた。
或る日、池尻神社(いけじりじんじゃ)では、神主(かんぬし)が浮かぬ気持ちで秋祭りに備え、境内(けいだい)を掃き清めていた。
「今年も人身御供に娘を供する」と思うと、祭りとは言え痛ましい話で、神主の心は浮かなかった。
ちょうどそこへ、都から来た若い武士が参拝に立ち寄った。
実はこの武士、国の氏神のお告げで、西国の「桜の木の下に住む」と言う娘と、結婚する為の「相手探し旅」の途中だった。
武士は、「池尻神社の神様にも、お告げの相手を聞いてみよう」と思って、一心に神様にお祈りをした。
そのうち若い武士は、疲れてウトウトと夢を見た。
夢の中では人身御供に代わって桜の木が現れ、神の声が聞こえたのだ。
夢現(ゆめうつ)つの中で驚く若い武士に、神の声は続ける。
「邪心(じゃしん)を祓(はら)い、人身御供の娘と夫婦になり、神の恵みを伝えよ。智仁(ちじん)備えし勇者に宝剣(ほうけん)一振りを与える。」
その声とともに宝剣が桜の木の上に降りて来た。
ハッとして若い武士が目覚めると、何と夢の筈が桜の木の下には現実に宝剣が在った。
「目の前に御神刀(宝剣)がある」と言う事は、この夢が神のご託宣に違いない。都から来た若い武士は、その娘が「探していたわが嫁である」と確信した。
神が夢枕に告げるからには、嫁探しの旅の目的地はこの池尻神社(いけじりじんじゃ)だったのである。
確信をもった若い武士は、「これこそ神の恵み。」と言ってその宝剣をおし戴(いただ)いた。
若い武士は、嫁となる娘を怪しい物への人身御供から守る為に神に導かれたのである。
お祭の当日になって、若い武士は目を光らし、辺りを警戒していた。
人身御供の祭事も済んで娘を奉納し、村人も帰った後に成り不思議にも草木がザワザワと動揺し、星一つない真っ暗な夜に成ってしまった。
夜中になって雨も降り出した頃、目をギラギラさせ、炎を降らせながらこちらに近づいて来る異様なものがあった。
武士は、「池尻大明神(いけじりだいみょうじん)」と心に念じて剣を抜いて待っていた。
雨がさらに激しくなったその時、怪しい物が急に武士に襲いかかった。武士が居る事に気付いていたのだ。
飛び違い、かいくぐって武士が斬(き)り付けると、流石に宝剣で、「ズン」と手ごたえがあり、怪しい物が「ギャー。」と悲鳴をあげた。
妖怪は傷つき、宝剣を恐れて岩に登って逃げとしたので、引き下ろし、「エィ。」と剣を刺し貫くと、怪しい物はのたうって暴れ、やがて大人しくなった。
若い武士は、その怪しい物を漸く退治した。その瞬間、空は急に明るくなって、そこに十メートル余りの大蛇(だいじゃ)が死んでいた。
武士は、老夫婦の一人娘と結婚し、村に住みついて、「子孫が栄え、村もたいそう繁栄した」と伝えられている。
「沢田の大蛇退治 」と伝えられる、丹波国・篠山の伝承である。
これらの「人身御供(ひとみごくう)」と言う現代ではまったく通用しない考え方の共生村社会に於ける自己犠牲の掟(おきて/ルール)の原点は、実に応用範囲の広い人類永遠のテーマと言うべき選択肢の問題で、囚人のジレンマと言う理論にその解説を求める事が出来る。
そしてこれらの妖怪の人身御供話、当初の事例は蝦夷(えみし)ゲリラの犯行かも知れないが、後の仕事は修験山伏の自作自演の可能性が強い。
また、氏神は鎮守神であり、神官は氏族の支配者だったから、人身御供を要求した妖怪は、実は神官そのものだったのかも知れない。
民間の伝承には、「天狗や烏(からす)天狗」と言った妖怪も見受けられ、山伏の装束を身に纏(まと)って居る所から、或る一面民衆に恐れられる物が修験山伏にあった事も事実で有る。
反面、よく考えて見るとこの人身御供話、村人に「犠牲を伴っても平和を維持しょう」と言う村落共同体意識がないと、成立しない話でもある。
何故修験山伏が村人を騙し、素朴な村娘を「人身御供」にさせたのか、その目的は誰でも思い当たるであろう。
その目的が「密教の呪詛を為す為」なのか、個人的な欲望を癒す為なのかは、今になっては不明である。
ただし、それを解く鍵が、「修験道師の国家秘密機関」と言う特殊な成立ちにある。
統一の為の布教と、鵺(ぬえ)ゲリラ退治、鉱物探査、各種諜報活動など、その守備範囲は幅広い。
その中の一つに、何か特殊な目的が有ったのではないのだろうか?
人間(ひと)は側坐核(そくざかく/脳部位)に影響されて、勝っ手な相手に「自らの願望を為してくれる」と言う期待を抱(いだ)く事で、「心の安定を得よう」とする心理を持っている。
それが心理学的には「英雄待望論」だったり、信仰上の「カリスマ(超人/教祖)の存在」だったりする。
信仰・占術・予言の本質は、強弱の質こそ在るものの人間が持つ「側坐核(そくざかく/脳部位)」に影響された一種の依存症である。
その依存症の延長線上に在るのが、「ジュピター・コンプレックス(被支配の願望)」である。
この信仰・占術・予言に対する依存症は、横着極まりない事に、自分で努力する事を放棄し結果的に幸福を金で買う図式が構成される。
その依存する相手の一人がシャーマン(預言者/巫女)で、過っての集団や国家はこのシャーマニズムを拠り所として成立していた。
シャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。
そして交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。
当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。
その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の異変(変異)した様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。
何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。
浚(さら)って来た娘の、修験呪術に拠る呪詛巫女の仕込み方だが、これはもう方法が決まっている。
女体とは不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば、思う気持ちとは別に、身体が性交の快感を覚えて反応しまう。
そうなればしめたもので、自らから呪詛(性交)に応じる様になり、呪術性交を滞りなく行える呪詛巫女が完成する。
ここに到って確信したが、修験者はけして怪しげな術で、生け贄と成った女達を操っていた訳ではない可能性もある。
修験者の施術は、彼女達の能力を引き出す「手助けをしたに過ぎない」と気が着いた。
巫女の「神懸り状態」も現代風の格好だけのものではなく、往時の陰陽修験の施術方法を正確に検証すれば、現代の人間科学的に可能性が推測出来るのである。
生き物の身体は、生きる為にあらゆる進化を遂げて、その為の備え調整装置を作り出している。
「女の感」とは良く言ったものだがそれはチョットした表面的なもので、女性(母性)にはもっと素晴らしい命を未来に繋ぐ為の潜在予知能力(危険予知)が未開発のまま存在する。
但しこの潜在予知能力(危険予知)何もせずに開発される筈がない。
古来より大和の国に伝わる呪詛巫女は、神楽巫女舞(実は輪姦巫女行)のトリップ現象に拠るドーパミンの過剰生成から発生する脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で、脳の予知能力の精度を高める事で能力を発揮し任じられた。
これは脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に陥(おちい)る現象が、「神が巫女に降臨した」と信じられたからで、原始宗教の延長上の迷信かも知れない。
呪詛巫女の「修験の行」は読んで字の如しで、修験者との輪姦行に寄り「経験を修め」脳の予知能力の精度を高める事で、修験が女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛術は、それこそ多人数で強烈な輪姦(まわし)行をさせ、限界を超える過剰な性快感を持続的にもたらす為である。
つまり呪詛巫女は、「超臨界性感覚」に達すると「神懸り状態」に成り、未来予知が出来る「輪姦巫女行(修験の行)を積んで、呪詛巫女を任ずる」と言う事が、当時信じられた理屈だった。
これが単に修験者の性欲を満たす為だった可能性もあるが、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に成る現象は事実だったようである。
何しろ、大人数に連続して犯されるのであるから、少なくとも「臨界点ギリギリ」だった筈(はず)で、それこそ「助けて、気持ちが良過ぎる」と思うほどの絶頂感が途切れずに連続して持続し、その連続する壮絶な絶頂の快感「超臨界性感覚」と伴に神懸り状態に陥(おちい)って「予知夢」を見る。
そこで得られる「超臨界性感覚」が、潜在予知能力(危険予知)のオン・スイッチに成っていてその引き出された予知体験から、女達は神の御託宣を告げたのだ。
修験が女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛は、過剰な性感を女達に施(ほどこ)す事で脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの大量発生を促がすのが目的で、輪姦呪詛は潜在能力を引き出す手段でも在った可能性があるのだ。
こうした修験者の施術を、単純に「現代の常識」と言う物差しで計る事は簡単であるが、本来「命を繋ぐ」と言う「生殖行為/性交」は、信仰的に「尊いもの」と考えられていた時代が長かった事を考慮すると、神行としての巫女の輪姦呪詛術は充分考えられるのである。
また、この精神思考は鎌倉時代末期・南北朝並立期に儒教が仏教に取り入れるまでは根強く存在した為、それ以前の神行・仏行に修験の行である呪詛巫女の輪姦呪詛術(神懸り術)が形態を変えながらも残り、真言(密教)立川流に到ったとしても不思議はない。
この修験道師、実はもう一つ驚くべき重要な密命「大王(おおきみ・天皇)の密命」を帯びていた。
それは葛城氏族(賀茂氏)に拠る大胆な「民族同化政策」である。
公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「伝承神話」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。
弘法大師・空海が中国修行から日本に帰還した桓武帝の御世は、まだ渡来政権である大和朝廷と原住蝦夷族との武力抗争が日本列島のそこかしこで続いていた。
この武力抗争の問題解決を、弘法大師・空海は陰陽密教呪詛に求め朝廷に進言し、朝廷はその策に乗った。
そしてその策、陰陽密教呪詛とは言いながら陰陽修験者に拠るこの真言密教の布教目的は、実は性交に拠る民族の混血和合(次代は同族)と言う実質的なものだった。
「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまえば事は簡単だが、当時の日本列島はまだ「民族間の武力抗争」と言う問題が重要課題だった。
そうした秘策を持って全国に散った陰陽修験者から、人身御供伝説が広がったのは言うまでも無い。
神話にある誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、その考え方が国家政策の根底にあっても不思議は無い。
万世一系を具現化するには、「民族同化政策」が必要で有る。
答えは簡単で、国内の諸民族(諸部族)を混血化すれば良い。
それも全ての民に、皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血を注げば良い。
皇統の血を受け継ぐ賀茂一族が、この任に最も相応しいからこそ、修験者の長は「役小角(えんのおづぬ)」だったのである。
そうした修験の目的としての道具立て(環境作り)に、「妙見信仰・北辰信仰と密教の性的教えの習合がもってこい」だった。
つまり修験道師には、村々に分け入り、「村人の信仰心に乗じて」賀茂氏の子孫を村々の女性に植えつけて歩く究極の使命を負っていた。
そう、大和朝廷いまだ安定しない黎明期の飛鳥時代、役小角(えんのおずぬ)とその一党が大王(おおきみ)から賜った密命が、この誓約の概念に拠るいささか強引な民族同化策だったのである。
この「血の民族同化」と言う途方も無い目的の為に、密教の呪詛を為す為には、修験道師の相手をする「呪詛巫女」が必要だった。
村人が抵抗無く、進んで「呪詛巫女」を提供する環境を作る為に、修験道師はあらゆる「恐れの方策」を採った。 その為、村人は修験道師にお願いして、災いを回避する呪詛を行ってもらう事になる。
妖怪の怒りを静める為に少女が生贄にされる。
つまり人身御供に供された少女は、神の使い犬神様(大神/おおかみ様)に妖怪から助け出され、修験の呪術を十分施され、「神の子を身ごもって戻ってくる」と言う素朴な筋書きで有る。
しかしこの一連の伝説は、神の御落胤を量産して村長、庄屋、名主、村主(すぐり)を継がせる組織的陰謀だった。
地方の修験伝説を取り上げると、「その時代には庄屋は無かった」などの時代考証的な指摘が入る。
確かに修験伝説は、元々は古墳時代から平安時代の伝承として始まったものである。
その伝承が、時代の移り代わりと伴に受けつがれ、その伝承内容の一部がその時代の庶民に理解され易い様にその時代背景に適合口伝されつつ現在まで伝わって来た。
従って時代考証的には古代史に無い江戸期のものが後から伝承に混ざるなど、伝承内容に少しづつ時代的な「そご」が生じて現代に到っていても不思議は無い。
こうじた伝説伝承の変化は時代背景的な経緯として理解すべきで、解説は必要だが指摘すべき間違いでは無い。
ここで問題なのは庄屋の名称の存在であるが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)を検索すると、江戸時代の村役人である地方三役(村方三役とも言う)のひとつ、或いは町役人のひとつと解説がある。
地方三役(じかたさんやく)のひとつで、村落の代表者で、西日本では庄屋の呼称が多く、東日本では名主と呼ばれる事が多いとされ、また、東北地方・北陸地方・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ぶ。
確かに江戸期の村役人もしくは町役人の「制度としての名称」と言う点ではそれで間違いではないが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)には江戸期以前からの歴史的背景があり、「江戸期以前に名称が無かった」と言って棄てるのは、少々乱暴である。
何故なら土地範囲を示す【庄制度】は平安期から存在し、**庄は何処にでも在ったから、勿論庄屋敷がその土地の管理を請け負う支配階級が氏族で、それを語源として江戸期の庄屋の名称と役が在る。
例えば日向(ひゆうが)国【高千穂庄】には高千穂(大明神)神社が在り、神々の存在を感じる喜八伝説のアララギの里・高千穂十社の森を抜け、五箇瀬川峡谷(高千穂峡)の高千穂神社に辿り着く。
高千穂(大明神)神社の由来には、【平安時代末期には高千穂庄十八郷八十八社の総社として、上古高千穂皇神(日向三代の神々)を祀る】とある。
また、平安期から鎌倉期に移る時点の【庄】の存在であるが、源頼朝の異腹弟にして源義経の同腹の兄・阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、父・源義朝(みなもとよしとも)が「平治(へいじ)の乱」に敗れ、平清盛に助命されて僧侶に成っていた。
その阿野全成(あのぜんじょう)が僧籍のまま源頼朝の挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚、駿河(静岡県)の国・【阿野の庄(今の沼津市原・浮島)】を拝領、大泉寺を建て、阿野姓を名乗っている。
つまりこの【阿野の庄】は一例で、古文書に【庄】の存在は当たり前に記載がある。
次に江戸期の「庄屋」以前の【庄(荘園)】を説明する素材として織田信長(おだのぶなが)の織田家を使う。
織田信長の出自に関わる織田神社は、奈良・飛鳥期から鎮座する剣神社(越前國敦賀郡 劔神社)と言い、剣神社が鎮座する【越前・織田の庄】は千八百年の歴史を有している。
織田家は忌部(いんべ)氏を祖とする剣神社の神官であり、【織田の庄】の庄官(荘官)である。
庄官と荘官は同じ意味で、庄(荘園)で、領主の命を受けて年貢の徴収・上納、治安維持などの任務にあたった者を庄官(荘官)と呼び、荘司と言う呼称もある。
中央の領主から派遣される場合と織田氏のように地方の有力者が任命される場合とがあり、時代が下るに従って後者の形をとるようになった。
庄官(荘官)は、荘園領主から任命され、荘園内 の年貢の取り立て治安維持などを司どった職で、織田家は剣神社の神官から土地の有力庄官が、室町期に守護職・斯波(しば)氏に被官する。
実は守護職・斯波(しば)氏は室町幕府の要職に在って中央に居た為、所領の運営は守護代に任せていた。
しかし応仁の乱以後は下克上が盛んになり、織田家は斯波(しば)氏の守護代を経てその分家が尾張に渡って戦国大名に成長した。
歴史には連続性が在る。
所が、その時代を得意とする奇妙な歴史家が現れてスパッとその時代だけを切り出して、「庄屋と言う身分は江戸時代だ」と見っとも無い事を平気で言う。
これでは盲目の者が象の尻尾だけ触って「象は細長い生き物である」と言うようなもので、残念ながらそう言う方は、歴史の連続性を無視した浅い知識で物を言って大きな恥をかく。
歴史的に支配階層だった氏族の末裔が帰農して百姓に成ったのであり、そうした階層が最下級支配職である庄屋や名主、村役などを任じた。
中世荘園・名田以来の在地有力氏族の者が多く、鎌倉期〜戦国期の大名の家臣だった家が有力者として江戸初期の庄屋を務めた事例も少なくない。
庄園にしても荘園にしても行政区域だから、庄屋敷にしても荘屋敷にしても陣屋造りの執務所を併せ持つ長の住居である。
つまり江戸期に成って急に庄屋が誕生した訳ではなく、また土地の名(名田)をかざす氏族も在り、そちらを語源として名主である。
そして肝心なのは、人身御供伝説の伝承は後の時代に下がるほど理解し易いように当代の状況に合わせて少しずつ変化して居る事も考慮すべきである。
勿論昔の伝承が、時代を下がる途中でその時代の環境に合わせた物語に直される場合も多く、それが伝承故の事であるから時代考証が一致しない事は勘案留意しなければならない。
もしかすると村人達も実は「人身御供」の目的を理解していて、それでも「忌み祓い呪詛」の為には人身御供も仕方が無いと結論付けて居たのかも知れない。
定期的に「人身御供」を供給する為に、便宜上、「猛獣の生贄」とする伝説化を村ぐるみで作った可能性も有るのだ。
彼等渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。
そしてその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・蝦夷族(えみしぞく)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。
勝手に日本列島にやって来て、先住民族・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の土地を武力強奪し、俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属させた渡来部族に拠る縄文人(蝦夷族/エミシ族)への迫害を古事記・日本書紀の天孫降臨伝説とそれを山深い里までめぐり歩いて喧伝した修験道師に拠って意図的に消し去った。
そしてその後起こった渡来部族・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と渡来部族・呉族(ごぞく/海洋民族)に拠る覇権争いと誓約(うけい)の痕跡も、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説と修験道師に拠って意図的に消し去って永久的な氏族(氏姓制度)支配体制の確立を策した。
代わりに残ったのが、天孫降臨神話と多くの脚色された諸伝説で、それは陰陽道の修験山伏達に拠って全国に広がった。
伝説には、隠された未来へのメッセージがある。
修験道師の画策した人身御供伝説は、平和の民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)集落の有力者「長」の娘に渡来氏族の子を身篭らせ、次の「長」に渡来氏族の血が入る「同化過程だった」としたら、現実的である。
つまり蝦夷族(えみしぞく)の地・日本列島を乗っ取った事実を覆い隠す目的で、壮大な創作、古事記・日本書紀は編纂された。
しかし天孫降臨伝説を建前とする渡来部族(氏族)勢力に武力迫害の事実は似合わないから、その秘密はこの国にとって永い間必要だった事かも知れない。
その根底に在る姿勢は「古文書に記載されている」ではなく、歴史を「いつ頃何の目的が在って誰が始めたものか?」と言う視点で捉えるべきである。
つまり物事の始まりは、信仰にしても習俗にしても最初は何者かの意図が在って始められたものであり、歴史研究者が昔から存在する事を理由に無条件に疑わないのではインテリジェンスが無さ過ぎる。
解き明かして見ると触れられたくない日本史の暗部が浮き上がって来た。
まぁ同様の過程を辿った米国に置いても、近頃では後ろめたいのか白人開拓団とインデアン(ネイティブアメリカン)が戦う場面の映画(西部劇)はめっきり創らなくなっている。
つまりアメリカ大陸開拓史の苦労話よりも、他人の土地を勝手に武力強奪した事実を消し去りたいからではないだろうか?
「呪詛巫女」は修験道師を通して神仏と交わり、菩薩に生まれ変わって、神からの授かり者を産む事になる。
この賀茂の血を持った「授かり者」は、村長(むらおさ)の所で大事に育てられ、次代の村のリーダーになって行くのである。
恐怖の征服大王の血は、二千年の時を隔てて、あまねく日本列島に広がり、民族の統一はなされて行ったのだ。
事の良し・悪しや賛成・不賛成を別にした事実として、「誓約(うけい)」と言う形の性交は神代から存在した。
誓約(うけい)の性交は相手に対する服従を意味し、それを具体的に証明する手段である。
神前に於ける巫女の性交は神との「誓約(うけい)」であり、「神の御託宣」を得る為の神聖な行為である。
従って「契(ちぎり)」も性交であるが、情を絡ませた同等の愛情によ拠る「契約(けいやく)」とは少し違い、「誓約(うけい)」の性交はあくまでも「服従的な行為」と言う事に成る。
これは極自然な事で、けして異様な事ではない。
初期修験道の呪術に於いて、性交により新しい命を創造する事は、すなわち「神の領域の範疇」だったのである。
従って、修験道の「存在の歴史」の中に於いて、その精神は大王(おおきみ・天皇)の密命として生きていた。
明治維新直前の江戸末期でも日本の人口は三千万人が良い処で、おおまかな人口は「現在の四分の一」と言う処だ。
従って時代が遡るほど人口は少ない。陰陽山伏(修験者)が命じられた「血の同化」の密命は、大和の国成立初期の段階では相当に有効な手段だった。 その血が時を経、代を重ねて、もくろみ通り「単一大和民族」が形成されて行ったのである。
人間は基本的に「群れ社会の生き物」であるから、「帰属意識(群れ)」を持たねば孤独感に押し潰されて生きて行くのが辛い。
その群れ意識の帰結する所が部族だったり民族だったりするのであるから、いかなる事象でもその「帰属意識的」な立場が変われば発想が変わり、争いが起きるのである。
その争いは「帰属意識(群れ)」を融合しない限り解決はしないから、誓約(うけい)の民族的(部族的)融合が唯一の平和的手段だった。
従って誓約(うけい)の性交が「呪詛的な神事」と解釈される様に成り、渡来した妙見信仰と習合して祭祀に性的な要素を含む巫女舞神楽の様式や人身御供伝説、神に豊穣(豊作)を祈る神事「豊年踊り」の乱交「暗闇祭り」が陰陽師に拠って全国に伝播醸成され、日本人のおおらかな「性に対する規範」が成立した。
明治帝(天皇)が詠んだ「皆同胞(みなはらから)」は、正しく同じ母から生まれた「腹から」の兄弟姉妹の意味で、「この上無く同じ民族」を意味している。
この大王(おおきみ・天皇)の密命こそ、わが国最高の国家的陰陽呪詛かも知れない。
勿論、此処で言う「血統の統一」は大枠(大勢)の話で、細かい事情のイレギラーは存在する。
日本と言う国では、はみ出し者は活躍するが出世は望めない。
それが世間と言うものである。
本能なのか、「皆で渡れば恐くない」の帰属意識、「出る杭は打たれる」の横並び意識、「口に出さずとも通じる」と言う暗黙の了解意識、他国では通用しない「はい」と表現するノー、「考えてみる」と表現するノーの原点が此処にある。
つまり、「大王(おおきみ)の密命」こそ、良くも悪くも大和民族を血統的に統一させ、単一民族意識に仕立て上げたのである。
現在の常識で、「そんな陰謀はありえない」と判断するのは、止めて欲しい。
そう言う方は、時代の環境が読めていない。
何故ならわずか六十年前、「特攻隊」と言う「ありえないもの」が、現実に常識として存在した。
それ故、こうした人身御供伝説に、関わっていたのが「修験山伏であるのは間違いない」と、我輩は確信する。
もうお判りだと思うが、陰陽師に始まる武術は武士・武門、果ては芸能にまで繋がり、一方で密教、妙見信仰と繋がって、命のリレーを後世に繋げて行った。
中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手といえば、西の長門の武将・大内氏と並んで東は房総の武将・千葉氏が有名で、幕末の千葉周作はその剣技の流名を北辰一刀流と称した。
千葉と言う事で、曲亭馬琴(きょくていばきん)の名作・南総里見八犬伝を紹介しよう。
これが真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。
インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は、一部形を変えながらも日本の仏教や神仏習合の修験信仰に影響を与えている。
弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。
神は恋人、神に捧げる踊りの原点は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。
つまりインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国で、このヒンドゥー教の影響こそが、おおらかだった日本の性習俗の原点かも知れない。
例えばインドの土着信仰から始まったヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、中国経由で日本に渡来した弁財天の原型である。
弁財天は原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入って来てからも健在だった。
女神・サラスヴァティーはヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)であり、サンスクリット語(梵語)でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神としてインドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。
仏教に於ける婆達多品(デーヴァダッタボン、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っていて、日本の民衆の間では女性の事を指して「弁天様」或いは「観音様」と表現する所から弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされて居る。
真言宗の空海・天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。
言わば、修行を積んだ徳の或る僧も人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?
それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。
元々インド・ヒンドゥー教の神や祭祀にはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。
なかでも江の島・弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。
この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。
その根底に在ったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。
インドの土着神話で、八歳の王の娘・娑竭羅龍(サラスヴァティー)が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い。
その土着神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。
獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。
となると、「陰陽修験導師が暗躍した」と思われる人身御供伝説の原点がこのインド・ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーと仏法諸天の仲間・獣(竜)の畜生道(獣姦)の物語「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」の竜を、犬や猿などに加工して応用したのではないかと推測されるのである。
ここに、象徴的な小説がある。安房の国(今の千葉県の一部)里見家は清和源氏新田家流の系図である。
詳細は不明だが新田(源)家基の子息、里見義実が安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。
慶長十九年(千六百十四年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いで在った。
そして元和八年(千六百二十二年)、忠義が病死すると「跡継ぎが居ない」として里見は改易された。
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。
この八房(犬)と里見家の伏姫、滝沢馬琴の筆によって彼女は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く。
当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将安西の首を持ち帰る。
所が、「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。
伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、約束を果たし、八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。
それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。
それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。
元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。
富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫はやがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。
滝沢馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。
「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語に於いて体現している。
八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。
馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。
滝沢馬琴のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっている。
里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。
この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は「昔話の伝承にあった」と見る。
馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。
伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。
北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。
「使い」と言っても甘く見てはいけない。
妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。
その使い神だから霊力が格段に強い。
それで、「狼(オオカミ)がその使い神だ」と言われている。
明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが夜との関わりが強い。
つまり「種の保存本能」を祈りの基本にした信仰だ。
その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には「夜夫座神社」と言う意味深な名前が付いている。
狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」が、その名もズバリ妙見山と言う山の麓にある。
所謂山犬(狼)神社である。
この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。
これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。
梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命を祭ったのが始まりで、関東でも屈指の古社である。
「秩父妙見宮、妙見社」などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に、名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。
秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。
フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。
関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。
狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。
つまり伏姫を抱き、孕ましたのは妙見神の使い犬神(大神=狼)なのである。
八犬伝の里見家に戻る。
千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。
天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。
つまり、里見家は真言宗との縁が強い。
妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証である。
その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。
南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際に在ったがごとき地名である。
【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。
我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。
この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。
また異説では、交尾を意味する「掛ける」の語源は、神懸(かみがか)りの「懸ける」から来ていると言う説もある。
つまり陰陽呪詛の信仰に於いて交尾や性交は生命を宿る為の呪詛儀式と捉えていて、その行為は「女性を神懸(かみがか)らせる事」と言う認識である。
こちらは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが当てる字が違う。
伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当で、そうなると昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当である。
しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。
山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。
つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。
しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。
下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。
今以上に信心深い時代の事である。
鬼門封じの呪詛を、里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄てきれない。
或いは滝沢馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄てきれないのである。
つまり、滝沢馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。
滝沢馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。
八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。
日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。
また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。
神話の伝承によると、スサノオ(須佐王)には、八人の子がいる事に成っている。
大八州(おおやしま・日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。
恐らく、「八」と「犬」に特別な意味合いが有るから「八犬伝」であり、他の数字では在り得なかったのだ。
妙見信仰は伝来当初、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったが、次第に畿内などに広まって行った。
しかしこの時朝廷は、この禁止された宗教をある遠大な計画に利用する事を考え付いていた。
全ては、民族同化を目的とした血統のコントロールである。
それには、まず無秩序な性行為は禁止しなければならない。
つまり民衆の性行為さえもコントロールする事を考えたのである。
七百九十六年(延暦十五年)に、妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を朝廷の「統制下にない信仰である」として禁止した。
表だった理由は「風紀の乱れ」で在った。
つまり全国にある妙見宮は、朝廷の禁止があるまで「性的なものを許容もしくは奨励する教義だった」と推測される。
処がこの建前禁止した禁止宗教の妙見信仰・密教は、矛盾を抱えながらも朝廷の秘密機関「陰陽師勘解由小路党」によって布教され、庶民の性意識として定着して行った。
この教義の元として取り上げ、利用したのが「真言密教」であり、その全国流布には修験者(山伏)があたり、辺境の漁村から山深い猟師村まで分け入って布教に努め、村人を導いていた。
表向き、中央の権力者の意向に添わない宗教は、いつの世も草深い野に身を隠す。まったく公式の建前と違う目的、労働力(庶民)の増加を目的とした隠れ妙見信仰は、修験者(山伏)とともに村々に散っていった。
全国の神社の脇に祠(ほこら)として祭られている神様に山ノ神がある。
山の神は、猟師、木こりの神様、子授けの神様として信仰されている。
この発想は「長く命を永らえた木に神が宿る」と言う考え方で、原型は巨木の主幹に空洞を持つものが選ばれた。
その空洞が「女陰の姿」を彷彿させるからで有る。
転じて、山の神を「古女房を呼ぶ時の呼び名」と成った。
この山ノ神、祖神と言われる民間信仰から派生したが、その後修験者(山伏)の活動と結び付き、より妙見信仰との関わりを強めて、各地の「人身御供伝説に結び付いた」と思われる。
土地に拠っては、「金精様」と呼ぶ男根の神様が山ノ神と一対を成し、「五穀豊穣、子授け祈願」とする祭りもある。
また、娼婦や水商売の女性に「性病避けや良客獲得」のご利益を願う神にもなっている。
アメリカ大陸の労働力不足に対応したのは、非人道的な奴隷貿易である。
それを、日本列島の大和朝廷は、生産力向上の為に、「産めよ、増やせよ」でまかなう政策を取った。
まさに、その啓蒙手段に修験密教がある。
つまり、貴族社会とは正反対の「性的に積極的な教え」を庶民に植えつける事に、「陰陽師勘解由小路党」は、非公式に奔走したので有る。
了
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