鎌倉殿とは鎌倉幕府を開府した源頼朝(みなもとよりとも)を指す略称である。
頼朝(よりとも)が幕府を開いた一時代・鎌倉時代の詳しいご案内に入って行くのだが、まずは鎌倉幕府の成立までを大略して置く。
平安末期、皇統は院政を敷く上皇(法皇)と天皇が夫々に平家と源氏の武門を味方に着けて統治の実権を争う「保元の乱」、平家・平清盛(たいらのきよもり)と源氏・源義朝(みなもとよしとも)の武門雌雄を決する「平治の乱」を経て勝者・平家が強い権力を握る。
平清盛(たいらのきよもり)は強大な権力を握ると、娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築き、結果地方の武士達の不満を招いてしまう。
そうした地方の武士達の不満が結集された「治承(じしょう)のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)」の源頼朝(みなもとよりとも)の大乱を経て千百八十五年(旧来は千百九十二年説だった)、初めての武家政権である源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府は成立する。
その鎌倉幕府成立に貢献した御家人(家来衆)を、将軍・源頼朝(みなもとよりとも)は追捕使として各地に配置し、やがてその追捕使を守護職・地頭職に任命する。
源頼朝(みなもとよりとも)の死後、妻・北条正子との間に為した二人の子を順次二代将軍、三代将軍にするが、結局源氏の棟梁の血は途絶え北条家が得宗家(執権家)として鎌倉幕府の実権を握る。
そして朝廷と実質北条家が仕切っていた鎌倉幕府との「承久の乱(じょうきゅうのらん)」を経て武士の政権・鎌倉幕府は完全に朝廷をも抑えてしまった。
源将軍家及び北条得宗家(執権家)の支配した鎌倉期の地頭職・守護職の所領については幕府が認めた実効支配を朝廷が追認、官位を叙任するだけの事で天皇が所領を分け与えた訳では無い。
武家政権の成立で朝廷はその力を大きく失ってしまったが、世間に対する大小名の唯一の権威付けが官位の叙任であるから、叙任機関としての存在価値として残った。
千百八十五年頃の源頼朝の鎌倉開府から後醍醐天皇が北条得宗家九代・北条高時を破る千三百三十三年までの百四十八年間を鎌倉幕府と言う。
さて、凡その経緯(いきさつ)をダイジェストでご案内した所で、源頼朝(みなもとよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)夫婦の事から話を始める。
源頼朝(みなもとよりとも)の清和(せいわ)源氏は、清和天皇(第六十四代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。
この「源氏の棟梁」の血筋を狙って、何が何でも「源頼朝」の嫁になったのが「北条政子(ほうじょうまさこ)」である。
日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。
氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。
源氏の頭領「源頼朝」は源義朝の三男で在ったが、母が正室(藤原季範の娘由良・御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。
幼名を、「鬼武者」と言った。
将門の時も言ったが、こうした歴史物語に登場する人物達は、大方の所、数奇な運命に翻弄される事になる。
源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。
「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。
所が二条天皇の即位により後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。
源義朝は保元の乱の折りに父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにも関わらず、「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。
千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為に京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。
しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。
破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。
義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。
この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが源頼朝だった。
池の禅尼の嘆願で頼朝や義経は助命され頼朝は伊豆の蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。
この時代、その血統に生まれた事は生まれながらに権力者となる幸運でもあるが、生まれながらに生き方を決められる「不自由」と言う不幸も背負って生まれて来る。
そして源義朝の子供達は、一瞬足りととも心安らげぬその血統に生まれた宿命とも言える過酷な人生を辿る事になる。
源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に清盛の継母・池禅尼(平清盛の父・平忠盛の継室/後妻)の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国「蛭ヶ小島」に流される。
頼朝の助命をした池禅尼(いけのぜんに)は、平清盛(たいらのきよもり)の継母に当たる平安時代末期の女性である。
出家以前の名を藤原宗子(ふじわらのむねこ)と称し、父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘にして中関白・藤原道隆の子・隆家の後裔に当たる待賢門院近臣家の出身だった。
義子に当たる平清盛(たいらのきよもり)については、「祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹」とされる異腹の女性の子や白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が在る。
藤原宗子(ふじわらのむねこ)は伊勢平氏流棟梁・平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛と言う清盛とは腹違いの男児を産んでいる。
宗子(むねこ)の従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいた事から美福門院ともつながりが在るなど、夫の平忠盛を支える強力な人脈を持っていた。
また、近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性も在った崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられている。
千百五十三年(仁平三年)、夫・忠盛が死去すると宗子(むねこ)は出家し、六波羅の池殿で暮らした事から池禅尼と呼ばれた。
その三年後の千百五十六年(保元元年)鳥羽法皇崩御により「保元の乱」が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場に在った事から平氏一門は難しい立場に立たされた。
しかし池禅尼(いけのぜんに)は崇徳方の敗北を予測して、息子・頼盛に義兄・清盛に確り付いて協力する事を命じた。
この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持する事に成功した。
更に三年後の千百五十九年(平治元年)の「平治の乱」に於いては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の有力武門が駆逐された。
その翌年、千百六十年(永暦元年)二月、敵将・源義朝の嫡子で十四歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際、池禅尼は清盛に対して「頼朝の助命を強力に嘆願した」と言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めた為、遂に清盛が折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。
この減刑、「平治物語」では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだった事から池禅尼が助命に奔走したと、ドラマチックに表現されている。
しかし実際には、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。
その頼朝助命成功後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。
頼朝の流刑先・伊豆蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。
多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。
源頼朝の父・義朝には、平治の乱の折に義朝に従い、共に討ち死にした長男次男が居たが側室の腹だった。
この妾腹の子を「庶子」と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。
この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。
従って、正室の腹である頼朝が、源氏の棟梁・義朝の三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。
勿論庶兄に当たる者は、正室に世継ぎ(家長)があればその家臣、無ければ世継ぎと言う事になり、庶子ばかりの場合は、御家騒動に発展する事もあった。
頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国韮山の地で過ごしている。
この流人・源頼朝の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族北条家で、当主は北条時政と言った。
北条政子は、その北条時政の娘である。
弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。
傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。
待てよ、それこそ個人の人物像など十人十色で、源頼朝を「武士らしくない」などと「べき論」で責める方が単細胞かも知れない。
確かに頼朝は、切った張ったに相応しくない繊細な思考の男だったのかも知れないが、それがどうした。
そんな人間は山ほど居て当たり前で、世の中氏族に生まれたからと言って単純に武士らしく勇ましい人間ばかりが居る訳が無いではないか。
頼朝は、まさに頼朝らしい方法で天下を取ったのだが、それでも世間の目は派手な英雄を望む物で、地味で陰湿な手段は好まれる物ではない。
九郎義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり人気は上々である。
これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。
日本人の琴線に触れる感情、源頼朝と源義経の故事に由来する判官贔屓(はんがんびいき)の原点は、大衆のほとんどが氏族に抑圧されて生きて来た弱い立場の蝦夷族の末裔だったからである。
源九郎判官・義経(みなもと・くろう、ほうがん・よしつね)と人は呼ぶ。
武士として始めて幕府を開いた名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?
見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。
歴史の多面性を、その時代の単なる英雄伝にしてはならない。
それは痛快で判り易いかも知れないが、歴史のほんの一部に過ぎないからである。
それでも武士に生まれた彼等は、怖気付(おじけつ)いては居られない。
権力志向と新たな所領獲得の執念は、命を賭ける覚悟を持って育てられた氏族の男達の生き様だった。
頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の棟梁」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因で在った。
勿論この坂東(ばんどう/関東)武士の頼朝への加勢、純粋な動機では無く氏族特有の権力志向と所領獲得の執念を実らせる「絶好の機会」と捉えての行動だった。
「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。
真っ先に上げられるのが、北条一族である。
そして、緒戦の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。
千葉氏、上総氏などの頼朝側に付いた安房の豪族平氏達も「しかり」である。
攻める方に、憎しみなどは別に無い。
獲物を前に勝手に戦人(いくさびと)の血が騒ぐだけだ。
武士は、もう長い事権力と領地を得る為に戦をするのが仕事だった。
守る方も、攻められれば座して攻めさせる訳には行かない。
あわ良くば返り討ちにして、利を得る。
そこに在るのは、損得の打算に裏づけされた出世の為の「ギャンブルへの参加」だけではないのか?
けして、「一門の為」などと言う、美しい話ではない。
これが、現代の政治家の派閥や政党の集合離散と、ダブって見えるのは、色眼鏡に過ぎる事だろうか?彼らは、本当に「政治理念」で行動しているのだろうか?
それを象徴するのが、例の「平将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事に成る。
頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。
この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。
つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。
彼らは平氏では在ったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。
将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。
この時将門側に付き敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は源氏の関東進出や東北進出で、源氏の歴代棟梁と御家人関係(臣従関係)を結んだ。
彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役や後三年の役で源氏の棟梁源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。
従って平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が絆が強かったのだ。
関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。
もっとも平清盛(たいらのきよもり)の白河天皇御落胤説が本当なら、他の平氏は平家とは一線を画しても不思議はない。
一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。
その関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半を占めていた。
つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。
従って、時代と地の利を得たのが頼朝であった。
頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。
初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かに上手い。
しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。
一方、北条(平)政子は、野心に満ちて居た。
田舎の地方豪族のままで終わるなど我慢が成らない。
そこに頼朝が流されて来た。
名高い清和源氏の直系で、義朝の三男とは言へ、正妻に生まれて扱いは嫡男であり、父・義朝とともに妾腹の兄二人を平治の乱で失い今や系図の筆頭を名実伴に引き継ぐ身である。
桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。
その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。
北条正子の実家・平直方流は、正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。
野心に満ちた北条(平)政子が、名家の棟梁「頼朝」を放って置く訳が無い。
武門で、「平清盛一族に対抗出来る」これ以上の高級血統ブランドはないのだ。
何としても、「ものにしよう。」と思った事だろう。
そもそも「愛と性行為を合致させよう」などと思うのは、現代の幻想に過ぎない。
現代の女性には「認め難い事実」かも知れないが、歴史的に女性が置かれた立場からすると、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永い事女子に出来る大事な生きる為の常識的な武器(能力)だった。
北条(平)政子は頼朝より九歳ほど歳下である。
しかし、生来のしたたかさを持ち合わせてこの世に産まれて来ていた。
流人で伊豆に来ている心細い頼朝青年を、うら若き政子が身体を張って誘惑するのは、「容易(たやす)い事だった」に違いない。
正子は頼朝の側近・足立盛長(あだちもりなが/安達)を介して接近を試み、盛長(もりなが)も北条氏を味方に引き入れるには得策と解して積極的に助力している。
安達盛長(あだちもりなが/安達)は、源頼朝の流人時代からの側近で、当初は足立を称していたが盛長晩年の頃から安達の名字を称した。
同じ鎌倉幕府の御家人・足立遠元(あだちとおもと)は、盛長(もりなが)年上の甥にあたる。
盛長(もりなが)の出自に関しては「尊卑分脈」に於いて小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図に拠って異なり、その正確な出自は不明である。
足立盛長(あだちもりなが)は頼朝と北条政子の間を「取り持った」とされ、源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍(たんごのないし)を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕える。
また、盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が過って宮中で二条院(二条天皇)の女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、頼朝に「京都の情勢を伝えていた」と言われている。
側近として頼朝に仕えていた盛長(もりなが)は、頼朝配流先・蛭ヶ小島の地に近く、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち親交を深めて居た天野郷の天野遠景(あまのとおかげ)とも親しい間柄だった。
また、平家に拠って伊勢の所領を放棄し、伊豆に流れて来て密かに平家打倒に燃え機会を伺っていた加藤景廉(かとうかげかど)の一族とも密かに気脈を通じていた。
千百八十年(治承四年)の頼朝挙兵に従い、盛長(もりなが)は使者として各地の関東武士の糾合に当たり石橋山の戦いに敗れた後は源頼朝とともに安房国に逃れ、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方に着ける使者を務めた。
頼朝が安房での再挙に成功して坂東(関東)を制圧し、鎌倉に本拠を置き坂東(関東)を治めると、鎌倉幕府の御家人として千八百八十四年(元暦元年)の頃から北関東を固める為に上野国の奉行人とり、後に起こった奥州藤原家討伐の奥州合戦にも従軍している。
足立を安達に改姓した安達盛長(あだちもりなが)は鎌倉殿(将軍)・頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用(息抜き)で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。
この頼朝の私用(息抜き)については、妻・正子の目を盗んだ愛妾との密会の場を盛長(もりなが)が提供していたとも盛長(もりなが)の妻・丹後内侍(たんごのないし)が目当てだったとの風聞もある。
その後鎌倉殿(将軍)・頼朝が千百九十九年(正治元年)に落馬死(?)をすると、盛長(もりなが)は出家して蓮西と名乗り二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画、三河の守護にもなっている。
盛長(もりなが)は同年(正治元年)の秋に起こった有力御家人・梶原景時の変では幕府内の強硬派の一人となり景時を追い詰めている。
頼朝落馬死(?)翌年の四月に安達盛長(あだちもりなが)は死去したが、安達氏は盛長の子・景盛景盛の娘・松下禅尼が三代執権・北条泰時の嫡子・北条時氏に嫁ぎ、四代執権・北条経時、五代執権・北条時頼を産むなど鎌倉時代を通じて繁栄する。
北条政子が頼朝に強烈なアプローチをして、二人は首尾良く恋仲になる。
実の所、恋仲と言うより「政子に垂らし込まれた」と言う方が正確だった。
政子の性格は攻撃的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れる。
多分に加虐的性交を好み、何時も頼朝を上位で責めたて快感をむさぼった。
彼女が最も得意とするのは騎上位で、頼朝の上で激しく上下する事であったが、それが気弱な性格の頼朝の性癖に合っていたから、世の中上手く出来ている。
頼朝は、流人と言う拘束感の苛立ちを、政子との強烈な睦事に逃げ込む事で日常から救われていた。
頼朝は政子に「愛されている」と確信し、彼女を愛した。
つまり頼朝は政子に嵌まってしまったのである。
そうした二人の間の関係が、そのままこの夫婦の人生に現れる。
男女が睦み会えばその結果が出る。
やがて頼朝と政子の間に娘が誕生する。
それを知った父親の北条時政は、平家の矛先が自分に向かう事を恐れて、平家の伊豆国代官・山木(平)兼隆(伊豆の国目代・判官)に政子を「嫁がせよう」と画策する。
田舎小領主の時政にすれば、源氏の流人と自分の娘が縁を結ぶなどとんでもない。
それだけで、清盛の「敵に廻った」と見なされる。
時政は「我が家門大事」で、飛ぶ鳥落とす勢いの平家(清盛一族)に逆らうなど、危険極まりないのである。
時政は、慌てて娘・正子を無難な相手に嫁がせる事にする。
目を着けたのが伊豆目代・山木(平)判官兼隆だ。
山木(平)兼隆(やまき・たいらの・かねたか)は、山木判官と呼ばれた平家の伊豆目代(伊豆に於ける代理執行者)だった。
桓武平氏流大掾(だいじょう )氏の庶流和泉守・平信兼の子で大掾兼隆(だいじょうかねたか)とも名乗った検非違使少尉(判官)だった。
しかし理由は不明だが、父・平信兼(たいらののぶかね)の訴えにより罪を得て伊豆国・山木郷に流され、郷の名・山木を名乗る。
その頃、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した治承三年のクーデター後、懇意があった伊豆知行国主・平時忠により兼隆は伊豆国目代に任ぜられた。
山木兼隆が不運だったのは、流罪で伊豆に流されて来た源氏の棟梁・源頼朝(みなもとのよりとも)の愛人・北条政子(ほうじょうまさこ)との婚姻話が舞い込んだ事である。
父・時政の思惑もあり、熱心に縁組運動をした為に政子に山木(平)判官兼隆から縁談が来たが、政子の方は不満だった。
平家の伊豆目代・山木(平)判官兼隆は、都に常駐して中央政府を仕切る平家(平清盛一族)の遠隔地の所領管理を代行する傍ら、伊豆国を取り仕切る地方政府の長(代官=検非違使)だった。
地方郷士の父・時政にすれば、平家の危険人物・流人の源頼朝と出来てしまった娘を山木(平)判官兼隆に押し付けて北条家の安泰を図ったのである。
しかし政子にして見れば、元はと言えば一度都で失敗して伊豆国に流されて流人身分だった兼隆が、赦免されて伊豆目代に登用された経緯があり、先の出世は知れている。
山木判官は平家の伊豆目代としてこの地にあり、伊勢平氏の祖・平維衡末裔の平ブランドで清盛平家とは血統も近かったが正統・清盛平家ではなく、精々伊豆の国で威張る程度の身分で終る事は目に見えていた。
北条(平)政子が当時特異な存在の女性(にょしょう)だったのは、その行動からも明らかである。
日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していた。
氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。
その禁を破ってでも肉体(からだ)を餌に、流人とは言え源氏の棟梁・源頼朝と折角懇(ねんご)ろになり、姫まで為したのに父の北条時政が清盛平家の威光を恐れて山木(平)判官兼隆と婚儀を結んでしまった。
このままでは自分は伊豆の田舎で、目代(出先の役人)の女房で終ってしまう。
所が、北条(平)政子はその並外れた野心故に、親の薦めた政略婚相手を親に攻め滅ぼさせてでも源氏の棟梁・源頼朝の押しかけ女房に納まる決意をする。
野心旺盛な北条政子は、一計を案じて祝言の日取りを三島大社の大祭の日に合わせ、源頼朝に囁いた。
「わらわは、祝言の夜に必ず山木館より抜け帰る故、必ず兼隆を討ち取っておくれ。」
祝言の夜に政子が逃げ帰れば言い訳が利かないから、流石に優柔不断の頼朝も、慎重な父・時政も腹を括るより他は無い。
婚礼当日に逃げ出した恋人の下に逃げ戻る・・・源頼朝と北条正子の物語を、今風に描けば大恋愛になるかも知れない。
時代考証を無視して物語を作る作者が多いが、それは現代的なものの考え方の方が読者には受け入れ易いからである。
しかし北条正子が恋したのは、明らかに源頼朝にではなく「源氏の棟梁」と言う血筋だった。
それが証拠に、天下の権力を奪取した後の北条正子は鵺(ぬえ)と成り源氏の血を喰らい尽くして北条得宗家を確立させている。
当時の女性の価値観は実家や先方の血筋と言った現実が大事で、現在とはかなり違うものだから男女の恋愛の形も違って当然である。
それでも今風の解釈でロマンチックな夢を見て「明るく楽しく生きたい」と言うのは、逆説的に言うと現実逃避の一面がある。
それは、現実から逃避して夢を見ている方が人生は遥かに楽しい。
所がここが一番難しい所で、「人生楽しければ良い」と言いながら夢を見たいのが人間であり、欲が深い事にそれでも真相を知りたいのも同じ人間である。
【了】
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