◇古代国家・邪馬台国の卑弥呼は何者か?◇
無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。
すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。
普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。
また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。
しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。
最近世間では「卑弥呼の墓が特定出来た」と大騒ぎをしている。
奈良県桜井市に在る「箸墓(はしはか)古墳」が測定の結果、「卑弥呼が居たとされる同年代の建造物だから」と言うのである。
しかしそもそも論から言わしてもらえば、卑弥呼は古事記・日本書紀は勿論の事、日本の古文書にはまったく記載が無く、他国の正史である魏書(全三十巻)の「東夷伝中の倭人の条(通称・魏志倭人伝)」に記載されているのみの存在である。
日本史には虚と実が混在している。
日本の神話の始まりは中華大陸に近い九州(対馬海峡寄り)・山陰地方(中国地方日本海側)、太平洋伊豆七島及び伊豆半島地方に集中している。
これは、それらの神話が原則的に中華大陸の漢字圏から渡海して来た渡来部族が現住民族(蝦夷族)を統治する為に為した自らを神に捏造流布の神話だからである。
宗教を政治に利用したり権力維持に利用するのは当然の発想である。
先の大戦(大西洋戦争)時戦争遂行の為に「戦死したら靖国神社で神として祀られる」とまさに神を利用して国民に刷り込み教育をした事例もある。
出雲の大国主神話、九州の阿蘇・高千穂神話、九州の天岩戸神話、伊豆半島葛城ミステリーなど渡来部族が日本に上陸した足跡が記されて行く・・・。
その後渡来部族の日本統一を目指して、神武天皇の神武東遷により神話の舞台は畿内地方に移り大和朝廷が成立して神話の舞台は皇居のある場所になった。
伝説神話の主役・卑弥呼の正体さえ明確でないのに頭から卑弥呼の存在を肯定した上で、「卑弥呼の墓を見つけた」は学者にあるまじき強引な発想である。
こうした日本史に対する態度は、その存在を疑われている歴史上の創作人物・聖徳太子の存在を鵜呑みにするのと同等の粗悪な考え方ではないだろうか?
魏書を鵜呑みにしたロマンにばかり走らず、その前にまずは卑弥呼が誰であるかの特定をするべきである。
「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。
その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、正に皇統に拠る統治の正当性を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含んでいる。
つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。
これは日本の正史・記紀神話(古事記・日本書紀)に記述が無く、中国の正史「三国志」の「魏書(全三十巻)」に書かれている謎の女王の正体を読み解く試みである。
古代国家のリーダーは、呪術者、占術者と伝承される「卑弥呼」に代表されるシャーマンである。
その神の声「御託宣」が、国家運営の拠り所であり法律だった。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「卑弥呼」と言う女王がいた。
治める国は、邪馬台国(やまたいこく)である。
邪馬台国(やまたいこく)は、わが国の古事記と日本書紀に記述がなく、中国の「魏志倭人伝に記述が在る」と言う謎の国で、その地が何処に在つたか、未だに学者達は論争の最中である。
中華帝国の魏書に在るのみで日本の史書に記載が無い卑弥呼と邪馬台国の事を知らない日本人は、何故かほぼ居ない。
だが、日本の史書とされる古事記・日本書紀に在るスサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)はかなり知名度が低い。
この奇妙な状況が、今の日本史の現状ではないだろうか?
歴史の真実に辿り着くには、定説に縛られてそこから始めては意味が無い。
それでは、何年経っても「謎は謎」で終わってしまうのである。
魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、「卑弥呼の邪馬台国」・「スサノウの狗奴国」・「葛城氏の伊都国」の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。
他国(中国)の皇帝が、倭国と認め、倭王と認め、金印まで送った事実があるこの卑弥呼の名は、果たして固有の名前なのだろうか?
誰かの和名の「中国音の充て字」とは考えられないだろうか?
そして広域倭国を念頭に考えると、邪馬台国(やまたいこく)の所在が必ずしも日本列島に限定するものではない事も事実である。
しかし邪馬台国(やまたいこく)の所在を日本列島に仮定すると、記紀神話(古事記・日本書紀)に拠る「神武東遷物語」の狗奴国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の「争いと和合」が鮮やかに符合して来るのである。
弥生時代の出土品・銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅製の祭器で、二世紀代に盛んに創られ三世紀になると突然造られなくなるのだが、この時期が「鬼道(神道)」が旧来の信仰に取って代わる時期と重なっている。
弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示すと言われる奈良・纒向(まきむく)遺跡から大量に出土した桃の種から、中華大陸・魏国から伝わったと想われる「き道(神道)の祭祀が行われた」と推測され、その祭祀を司(つかさど)ったのが「卑弥呼ではないか」と期待されている。
ここで問題なのは、日本の考古学者の大半が最初から「鬼道(神道)が列島民に伝えられた」と解釈し、中華大陸・魏国からの「渡来部族が持ち込んで来た」とは発想しないからである。
魏志倭人伝に登場する卑弥呼は、この「鬼道(神道)を用いて衆を惑わした」と記述在り、「鬼道(神道)」は弥生時代から古墳時代への転換期に「新しい信仰」として「旧来の信仰を駆逐する形で列島に受け入れられた」と解されている。
つまり、もしも「鬼道(神道)」が渡来部族が移民と伴に持ち込んで来たのであれば、卑弥呼は大陸の新しい信仰を持ち込んだ「渡来人」と言う事に成る。
卑弥呼の出現を、我輩は列島に渡り来た征服氏族に拠る初期天孫降臨伝説の「氏神」と、原住民(縄文人/蝦夷族)の自然呪術信仰(火の神/アピェ)の習合に拠る原住民(縄文人/蝦夷族)支配の「統治政策上出現した生き神(権現)」と見ている。
原住民(縄文人/蝦夷族)支配に最も有効な手段は、畏怖の念を持たせてひれ伏させる事で、氏上(うじうえ/うじかみ)の上が神に、つまり氏神(うじかみ)になった訳を判り易く説明する。
氏族が神の名(神の権威)を持って土地を治め、国を治めた証拠は言葉として永く残っていた。
「恐れ入りタテマツル。」
この意味を、貴方は考えた事が有るだろうか?
昔、と言ってもつい百五十年ほど前の江戸期やそれ以前には「治める事(治政を施す事)」を、「政(マツリゴト)」と言ったが、この意味は言うまでも無く「祭事(マツリゴト)」である。
つまり、成り立ちの語源から、神の名(神の権威)を持って治政を施す事が「政(マツリゴト・祭事)」である。
氏上(氏神)と言う名の治政を施す者は、神として「タテマツラレル(立て祭られる)」のである。
そのもっともらしい道具立てが、占術や呪術で、民の「畏怖と支持」を得る手段だった。
従って初期の部族リーダーや地域国家のリーダーは、卑弥呼に代表されるシャーマン的な術者が任じていた。
そして、その占術や呪術のシャーマン的な威力が最も強力な者を、大王(おおきみ・後の天皇)に祭りあげられるのである。
所が、その氏上(氏神)の治政を「潔しとはしない部族や勢力」が、必ず存在した。
言わば「反政府勢力」である。
そこで、統治する者を「タテマツラヌ(立て祭らぬ)」者達である「反政府勢力」の事を、「マツラワヌ(祭らわぬ)者達」と、呼ぶ事になる。
この一事をもってしても、征服者が「神を名乗ったカラクリが判る」のである。
シャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。
当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。
その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。
「神懸かる・・」
つまり見る者に、神の存在を納得させ得る平常な状態では無い情況、「神懸かり」を見せる必要が在る。
異様な情況に恐れを抱けば、それで初めて周囲に神の存在を納得させ得るカラクリ仕掛けなのである。
日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。
それは性交の儀式を執り行う事である。
突然こう言う話を持ち出すと面喰らう方も居られるだろうが、真面目な話なので現代の発想は暫らく横に置いて読み進めて欲しい。
この神前性交、確かに「現代の精神思想とは掛け離れている」とお考えかも知れないが、簡単に結論を出して「眉唾な話し」とは思わず読み進めて頂きたいのだ。
猿田彦と天宇受売命(あめのうずめのみこと)の異民族交合に拠る誓約(うけい)の故事(伝承)以来、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)に拠る神とのコンタクト」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。
つまり国家統一に最も重要な異民族の和合に拠る平和の確立と、その後の豊穣(混血の子孫)に拠る民族統合が最大の神への願いであり祈願呪詛なのであるから、擬似様式的なものにしろ実践的なものにしろ誓約(うけい)の交合は神楽舞、巫女舞の神事には欠かせないものだった。
事の良し・悪しや賛成・不賛成を別にした事実として、「誓約(うけい)」と言う形の性交は神代から存在した。
誓約(うけい)の性交は相手に対する服従を意味し、それを具体的に証明する手段である。
神前に於ける巫女の性交は神との「誓約(うけい)」であり、「神の御託宣」を得る為の神聖な行為で、その背景には部族間の平和理な統合の記憶である。
従って「契(ちぎり)」も性交であるが、情を絡ませた同等の愛情によ拠る「契約(けいやく)」とは少し違い、「誓約(うけい)」の性交はあくまでも「服従的な行為」と言う事に成る。
大和の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。
そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。
理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。
勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。
巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。
この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。
それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。
これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。
当初は専門の巫女が居た訳ではない。
征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。
氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。
つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。
それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。
その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。
信仰の始まりは、呪術者・占術者のリードに拠るもので、古代国家のリーダーである呪術者・占術者に取って、音曲(音楽)は重要なアイテムだった。
つまり洋の東西を問わず、元々多くの音曲(音楽)は、呪術や信仰的な効果と表裏一対のもので、大抵の音曲(音楽)の起源が当初は信仰の為の発声やリズムから始まって居るのである。
音曲(音楽)は、人の心を安らぎに導いたり興奮させたりの、心地良い心理的効果をもたらす。
健康改善の為の音曲(音楽)効果もあるそうで、信仰心と音曲効果が相まって、神の奇蹟をもたらす事例はある。
しかし冷静に考えると、それらの奇蹟は科学的解明が進み「説明できない神の力」とは現在では言い難いものになりつつある。
だが、永い事「理解できない信仰の効果」と人々に解されて、信仰を集める為に効果を発揮した。
そうした音曲(音楽)が日本では雅楽や神楽(舞)となり、信仰を具現化する手段となる。
やがてそれらは時代とともに特化発展して、芸能の分野になった。
これは、わが国古来の神社信仰に限らず、全ての宗教に音楽は欠かせない。
日本の歴史は、古事記・日本書紀の編纂が最初の本格的歴史書として、その内容が今に伝えられている。
「記紀神話(古事記・日本書紀)」の解釈を難しくしているのは、一つの民族や日本列島と言う狭い地域に拘る「窮屈な先入観」からである。
例えばであるが、古事記・日本書紀編纂の時点ではまだ奥州(東北地方)は同化前の蝦夷(えみし/縄文人)族の土地だった。
そして朝鮮半島の人々の方が、同じ倭人として大和朝廷を構成する人々と血統の上でも近かった。
天孫降(光)臨伝説は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された「記紀神話(古事記・日本書紀)」から始まっている。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて、古事記に拠より葦原中国の統治の為に高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記される日本神話の説話である。
つまり皇統の祖は「天から舞い降りた神の子孫」と言うのである。
また日本書紀には、初代・神武大王(おおきみ/天皇)の五代前の先祖天孫・ニニギの命(みこと)が亡くなられた時、「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。
しかし、この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。
ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那加羅の勢力範囲の事である。
伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。
どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。
この「記紀神話(古事記・日本書紀)」の天孫降(光)臨伝説を列島の隅々まで遍(あまね)く喧伝した組織が、天武(てんむ)天皇(第四十代)の命を受けて役小角(えんのおずぬ)が組織した陰陽修験組織を、桓武(かんむ)天皇(第五十代)が陰陽寮として正式に朝廷組織に組み入れて天孫降(光)臨伝説の喧伝に活用したのである。
良く考えて見れば、編纂当時の政治的思惑も含め、広範囲、長期間、多民族の伝承逸話を盛り込んで、「記紀神話」は編纂されている筈である。
そう考えれば、考察するのに楽になる。
従って、「記紀神話」を正確な歴史観として採用するには難がある。
難があるにも関わらず、「記紀神話」の解釈を「政治的に利用しよう」と言う強引な解釈が後を絶たない。
古事記・日本書紀編纂には、百五十年も二百年も或いはそれより以前の出来事を、皇統の正統性を強調する歴史伝承として編纂され、作為的に事実を歪曲(わいきょく)してしまう綺麗事が多い。
それでも卑弥呼について、辻褄合わせのほころびも神話の伝承には存在する。
天照大神(天照大御神)は「大日霊/おおひるめのむち」とも言う神名(異称)を持ち、天照大日霊女尊(あまてらすおおひるめのみこと)と言う言い方もある。
その「大日霊/おおひるめのむち」の「おお」は尊称であり「ひるめ/日霊女」は「ひみこ」の事とされ「卑弥呼を指す」と言う解釈がある。
日本人には歪んだ「帰属意識(民族意識)」が既成概念的に植え付けられていて、日本の皇室は高貴だから「朝鮮人を皇族の嫁になどする訳がない」と言う実に感情的な発想で、歴史を考えてしまう。
過剰な民族意識から、日本人が「信じたがる物語」である。
しかし、それはとんでもない誤解である。
当初の倭人(わじん)の住域に朝鮮半島も日本列島の西半分も含まれ、皇室の祖先は「朝鮮半島からやって来た」と言うのが正解である。
その後朝鮮半島と日本列島の交流が疎遠になり、歴史を刻んで各々が別の「帰属意識(民族意識)」を育てた事は否定しないが、それは同じ「倭人(わじん)」同士としての交流が途絶えて以降の事である。
日本の歴史物語は、大八州(おおやしま・日本列島)の最も西、九州から始まった。
古書によると、九州、「日向(ひゅうが)の国」は、古来神々のおわす(おられる)国である。
毎年台風に見舞われる以外は、温暖で穏やかな気候の地と言える。
この「日向の国から大和の国の葛城山に降りた」とされる神が、後ほど詳しく著述するが、影人の祖、賀茂社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)だった。
日向の国は現在の宮崎県である。宮崎県の東部、大分県よりに延岡市がある。
昔は長い間、「県(あがた)の庄」と言う地名だった。
延岡市の中心部を流れる五ヶ瀬川の州にある「無鹿(むしか)」の町から川沿いの道を遡ると、天孫降臨伝説の地「高千穂」に至る。
現在の無鹿(むしか)は、延岡市の郊外に在る何の変哲も無いひなびた住宅街だが、数奇な運命を持ってこの物語に何度か顔を出す不思議な地名で有る。
しかしこの地が、営々と続いた「天孫降臨伝説」の氏族の発祥とその二千年余り後に、最後の氏族が終焉を迎えた因縁の地なのである。
この無鹿(むしか)の名前は、戦国武将・大友宗麟が名付けたそうだが、その話は後の章に譲る。
高千穂町は、天孫降臨伝説の地である。
天孫の血筋は、天の一族(あめのいちぞく)である。
神話の世界では、天っ神(あまっかみ)とも言う。
そこには、「高千穂峡」と言う見事な峡谷があり、観光地としても全国に知られている。
この地に天空から「天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この世に使わされた」と言われている。
山間の町には、古くから高千穂神社が祭られている。
御神体は、この世の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)である。天岩戸(あまのいわと)伝説も、この高千穂の地にあり、岩戸とされる三つの重なり合う巨石を御神体とする天岩戸神社が、祭られている。
高天原(たかまがはら)や、黄泉(よみ)の国も、この高千穂の地に縁の深い伝承と言える。日向(宮崎県)の国には、高天原(たかまがはら)神社もある。
そこに祭られている薬師寺の分院が、金龍山白蛇殿(こんりゅうさん・はくじゃでん)と言う。
白蛇が本尊で、情念(つまり色恋)や財産に「御利益が有る」と言われている。
高天原神社は神社でありながら、薬師寺の分院、つまり寺の拝殿も併せ持つ神仏習合(しんぶつ・ならいあわす)の、民衆信仰に根付いた信仰の場である。
そして高千穂(たかちほ)から見て日の昇る東の方向に北川町があり、天孫降臨伝説の可愛岳(えのだけ)がそびえている。
神話の国・日向国(宮崎県)の北東部にある北川町(東臼杵郡)の地に可愛岳(えのだけ)はある。
征服(侵略)部族の王達が天孫降臨伝説で神格化された象徴的な記述が、古事記・日本書紀に残った山がこの可愛岳(えのだけ)である。
標高七百二十八メートルの可愛岳(えのだけ)にはニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)御陵墓伝説があり、古事記に拠ると初代神武天皇の五代前の先祖・天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に降りてこられた」と記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられたとき「筑紫の日向の可愛(えの)の山陵に葬りまつる」と記されている。
天孫降臨伝説が終焉を迎えたのも実はこの伝説の地だったが、その話はこの物語の本編(皇統と鵺の影人)を最後まで読んでいただければ判る。
つまり可愛岳(えのだけ)は、氏族(征服部族)に拠る日本列島統治の始まりの象徴みたいな山だが、驚(おどろ)く事に氏族(征服部族)終焉の地もこの可愛岳(えのだけ)だったのである。
それにしても、この真東から日が昇るこの日向(宮崎県)の国地で天孫降臨伝説が起こり、遥か悠久の時を経て天孫降臨伝説が同じその地で幕を閉じるとは、不思議なめぐり合わせである。
この世の最高神「天照大神」は太陽神であり、宮崎県は昔、日向(ひゅうが)の国(つまり、太陽の地)と言った。
水平線上の真東から日が昇る、絶好のロケーションに位置するから日向(ひゅうが)の国なのである。
そもそもの天岩戸伝説に拠ると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸に籠もった原因は、海を支配する弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の度重なる悪行に拠る」とされている。
平穏な世界に災いをもたらす弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)」は、何を暗示しているのか?
この須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の「度重なる悪行」がこの物語のヒントで、異民族同士の支配地争いであれば大陸山間の稲作系民族(天孫族/加羅族)と海洋民族(隼人族/呉族)の図式が成り立ち、実に判り易い。
つまり、大陸山間の稲作系民族の太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と海洋民族・須佐之男(スサノオ)の命が、「日本列島の覇権を争そっていた」と解釈できるのである。
我国の国歌にも歌われている「さざれ石」が、日向の国・県の庄(延岡)近くの大間海岸に存在する。
日向の国大間海岸(現延岡市北浦町)から高千穂に至る直線は、東から昇り来る太陽の通り道である。
「須佐之男(スサノオ)の命」が、東方の陸と海の境である大間海岸を、通り道(上陸地点)として、「悪行に及んだ」としても不思議はない。
「須佐之男(スサノオ)の命」は、支配権が海しかない事に不満を持って、「神の仕事をサボタージュしていた」と言うが、自らの権力の及ぶ所を、本拠地にしない訳がない。
従って、海からやって来ては、悪行に及んだ事になる。
ちなみに、「天照大神」と「須佐之男(スサノオ)の命」の間には「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命」と言う夜(闇)を支配する神がいる。
悪神ではないが、暗い夜は昔の人々には恐ろしいので、敬遠されていた。
須佐之男(スサノオ)は、三番目の神なのだ。
つまり三貴神(ウズノミコ)で割りの良い役回りは、天照大神だけである。
月読(ツクヨミ)命は、太陽の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)に対して夜を支配する「月の神」とされている。
しかし文字をそのまま読むと「月を読む」、つまり太陰暦を使っていた当時の暦に於いては、当初は時間や歳月(年月日)を司る神かも知れない。
「日本書紀・古事記」には、余り月読(ツクヨミ)命の活躍が無いので、性別を決定づけるような描写はなく、男性説もあるが、比売(ひめ・女性)の方がロマンチックではないだろうか?
この地方一帯「九州、日向(ひゅうが)の国」には、「岩戸神楽」の伝承が今に残っている。
天照大神が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力男(あめのたじからお)の命」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この「神楽(かぐら)の始まり」と聞く。
その、岩戸に隙間を開けさせる歴史的きっかけになった神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。
天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(天石屋戸/あまのいわと)に籠った時に、岩戸の前で踊った女神で、「宇受(うずめ)」は「かんざし」の意で、髪飾りをして神祭り(神楽舞)をする女神、更には「神憑った(かみがかった)女性の神格化を示す」とされている。
この天宇受売命(アメノウズメノミコト)のストリップダンスの伝説に直面すると、「これは子供には教えられない」又は「神聖な日本の歴史に、そんな卑猥(ひわい)な話は似合わない」と建前主義の発想が湧き、次に思う事は「その部分には触れないで置こう」か、「無かった事にしてしまえ」である。
表向きの奇麗事(建前)ばかり言って、事の本質に触れずに事を済ませてしまうのが日本人の妖しい所だが、その奇麗事が「歴史の認識にまで及ぶ」と成ると少しおかしな話である。
つまり巫女の神楽舞は、天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の岩戸(石屋戸)神楽が原形である。
記紀(古事記・日本書紀)の記述からは「神懸かって舞った」と読める天宇受売命(アメノウズメノミコト)は、神託の祭事を行なう巫女である。
列島の民(日本人)は、「先住民(縄文人)と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルタヒコ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。
神話に於いては、猿田彦が天孫降臨を感知して雲に上って上天し、「途中まで出迎えた(渡来を歓迎?)」とされ、その時天孫(渡来人・進入部族)は猿田彦に対し天宇受売命を「使者として交渉させた(誓約・性交による群れの一体化の儀)」と言う。
誓約(うけい)のそもそも論は「対立の解消」にあり、その究極の証明形体が契(ちぎり/性交)に拠るコンプライアンス(要求や命令への服従)の実践である。
つまりこの夫婦(めおと)二神の役割もまた、「新旧民族の融和(誓約)の象徴」と言う訳である。
隣接して異部族(異民族)の小国が割拠すれば、それぞれが勢力拡大を目論んで紛争が起きる。
「武(ぶ/む)」は戦の為のものであり侵略にも使われるものでありながら、実は「守る為」と言う建前を持つ矛盾(むじゅん)に満ちた言葉である。
武器・武門・武者の「武(ぶ/む)」の意味であるが、本来は積極的に戦う為の言葉でなく守る為の語彙(ごい)のもので、「矛(ほこ)を止める」と書いて武(ぶ/む)と読ませる。
人間と言う生き物の狡猾な所だが、「武(ぶ/む)」の様に微妙に偽りの正義を建前にした怪しげな言葉使いは結構多い。
そう言えば他国への出兵(侵略)の理由に「当該地在住の自国民の保護」と言う名目は良く使われた。
ついでだが「矛盾(むじゅん)」と言う言葉も、攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器の双方を武人が持つ事から発生した。
或いは矛盾(むじゅん)に満ちた「武(ぶ/む)」と言う文字を生み出した人間こそ、心中に攻める矛(ほこ)と守る盾(たて)の相反する武器を秘めている手に負えない生き物かも知れない。
そして人間が手に負えない本性を持つ生き物だからこそ、誓約(うけい)の共生社会イデオロギーが、大和合の国(大和国)成立当時は唯一の異民族平和融合の手段だったのかも知れないのである。
この夫婦(めおと)二神が、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)に成り、後世に伝承される各地の祭りの、神楽舞の面(おもて)として残った。
天狗(てんぐ)は、天の犬(狗・こう)の意味で、描かれている衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、修験山伏の衣装姿で、修験と犬神が一体である事を物語っている。
誓約(うけい)の精神に従って、「戦いを止めてベット・インをしよう」の精神の為、神楽舞の面(おもて)、天狗の鼻は男性器を表し、オカメの口は女性器を表していて、合体の為にサイズが合わされているのが本式である。
祭事として「神懸かって舞う」下りは、新旧民族の融和(誓約)の象徴を精神的に祝う神への奉納の舞である。
奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で祭礼をしていた」と言われる。
この誓約(うけい)の精神は、時代が下って行くと、争う敵将を味方につける為の「政略結婚」に変化して行くのである。
猿女君(さるめのきみ/朝廷の祭祀に携わる氏族の一つ) の祖神とされている天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)は、猿女君の氏は「神楽の事に供す」として、宮中に奉仕し、主として「神楽に携わった女子」であるとされ、各地に神楽や芸能の神として祀られている。
この時天照大神を騙すのに使われたのが、三種の神器の一つ「八咫(ヤタ)の鏡」であった。
ストリップダンスを踊るなど、神様にしてはずいぶん人間臭い逸話である。
つまり、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が気になり、覗き見る程に「観客の神々」を沸かせるには、相応の仕掛けが必要なのだ。
この岩戸神楽、実は現実の里神楽に大きな意味を持たせる伝承だったが、それは追々筆を進める。
日向国(宮崎県)・大間辺りのリアス式海岸は天然の良港であるが、津波などに襲われると波の高さは平らな海岸線の数倍から数十倍に達する。
自然の猛威、つまり「須佐之男(スサノオ)の命」を怒らせると、海辺の民には始末に負えない。
それを諌(いさ)められるのは、最高神、「天照大神」だけなのだ。この一連の伝説の裏には、自然の猛威だけでない隠された歴史がある筈だ。
憶測であるが、多分、少し早く土着した部族(先住渡来民族・天の一族(天孫族と言う加羅系族)と後から海を渡り来た進入部族(海洋民族・隼人族と言う呉系族)の「対立の構図」を表していると考えられる。つまり、後続の海洋進入部族が、須佐之男(スサノウ)の一族と位置づけられはしないか?
天の一族の事を、天つ神(あまっかみ)とも言うが、それでは天の一族全てが神に成ってしまう。
その時代は、天(あま)は空と陸を意味していた。
従って天の一族(天孫族/大陸山間稲作系)は、陸を支配していた。
それに対し、海を支配する民族がいた。
詳しくは後述するが、この海の民(海洋民族)の呼び名が、熊襲(くまそ)であり、別名は隼人(はやと)である。
当初、互いは相容れない他民族で在ったのだ。
だからこそ須佐之男(スサノオ)に海の支配は認めるが、陸の支配は認めない。
第一、天(あめ)の文字や比売(ひめ)の文字が付く神が多いなか、弟神の須佐之男(スサノオ)には付いていないのが、他人みたいではないか。
この須佐之男(スサノオ・須佐王)の正体であるが、日本の祇園信仰(ぎおんしんこう)は、京都の八坂神社を総本社とし、平安時代に成立した御霊信仰を背景に、仏教の神で、祇園精舎の守護神・牛頭天王(ゴヅテンノウ)及び神道の神・須佐王(スサノオ)を祭り、疫病に対する神仏習合の信仰である。
この神仏習合であるが、元々在来の神々信仰と渡来の仏教信仰とは、物部氏と蘇我氏の対立に見るように武力衝突に及ぶほど相互には大きな隔たりがあった。
しかし列島の民には、多くの民族が誓約(うけい)で同化する知恵を持っていた。
その知恵を使う事で民族同士の誓約(うけい)同様に、信仰上の神々と仏教を習合(しゅうごう)させてしまう事を試みる。
つまり、他国では余り見られない試みだが、「一緒にさせてしまえば争いは起こらない」と言う単純な理屈である。
本格的に神仏習合が為されたのは七世紀後半の天武大王(おおきみ/天皇)の御世において、大王(大王)を中心とする国造りが整備されるに伴い、神武朝の氏神であった天照大神を頂点として、それら国造りに重用された神々が民族神へと高められ、その神々に対して仏教側からも敬意を表して格付けを上げるようになった事に神仏習合は始まる。
実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する「護法善神の仲間である」と言う解釈により、「神も仏も呼び名が違うだけで同一」と言う解釈により奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に仏教の菩薩号(ぼさつごう)を付すまでに至った。
これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言い、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」としたのである。
それで 天照大神は仏教では大日如来となり、民族神の代表格である八幡神(応神神/天皇)が八幡大菩薩(はちまんだいごさつ)などはその典型的な例である。
妥協と言えばそれまでだが、天武大王(おおきみ/天皇)の民族神重用に仏教側が生き残りの知恵を絞った訳である。
さて須佐王(スサノオ)の事で在るが「日本書紀」の所伝として記されている素戔嗚尊(須佐之男命/スサノオの命・須佐王)は、「新羅(シルラ)の曽尸茂利(ソンモリ)と言う地に居た」とされ、、ソシモリは、ソシマリやソモリとも言う朝鮮(韓国)語で、牛頭・須佐王(スサノオ)または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山と言う名の山や牛頭(ゴズ)の名の付いた島などの地名が存在する。
つまり、須佐王(スサノオ)は、朝鮮半島を経由して渡来した海洋系部族王(海人族・呉族)だった事に成る。
海洋民族(隼人族/呉族)が侵入してくれば、先住民(天の一族/天孫族/加羅族)の集落で暴れまわる。
そこで先住民族は太陽の神「天照大神」の元に団結して、海洋民族の侵入を防いだ。
その戦いは何百年と続き、「ジワリ、ジワリ」と海洋民族の居留地も増えて行き、やがて、その既成事実の前に両者は共存の妥協を考える様になる。
何時までも、相争ってばかりは居られないのだ。
長い争いの後、やがて両者は和解(誓約/うけい)に至り、海洋民族も神の子孫と認める為の「宴の席」が、岩戸神楽であるのだろう。
その和解(誓約/うけい)こそが、暗い世が終わり、「平和の陽光が大地に戻った」瞬間である。
この目出たい席に、ストリップダンスが供されたとしても、不思議はない。
海洋民族は弟神須佐之男(スサノオ)の子孫として認められる事で、先住民の仲間入りしたのではないだろうか。
この時から、「海の文字を(あま・あめ)とも読む様に成った」と考えたら、納得できる。
従って、高千穂及び岩戸の二つの神社は、天の一族と隼人族の和合のシンボルなのではないか。
こうした神話は、血なまぐさい歴史を、復讐を繰り返さない為に、「建前の世界」に閉じ込めた祖先の知恵と言える。
我が国には古来から政治の事を「政(まつり/祭り)事」と言う表現が在り、隠語として性交をする事を「お祀り(祭り)をする」とも言う。
詳しくは第四章で記述するが、政治と性交の両者は我が国では「神事」として真面目に考えられていた多くの痕跡が残っている。
そして民族和合と言う誓約(うけい)の精神こそ最大の「政(祭り)事」であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。
この、日向の国大間海岸(現延岡市北浦町)の一角は、豊前の国(大分県)の宇佐神宮(宇佐八幡宮)の御神領地であった。
当時、隣の延岡市(県の庄・あがたのしょう)は、鎌倉幕府から地頭職・工藤氏が来るまで、土持(つちもち)氏の領地である。
伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟・宇佐神宮(宇佐八幡宮)は大分県宇佐市(豊後国)に在る。
宇佐神宮は、八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社である。
応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。
一説には、神功皇后は架空の人物で「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある
また、八幡神の応神(おうじん)天皇についても、現代の研究成果に於いては存在そのものが不確かなものでしかない。
第十五代天皇とされる応神は実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、応神大王(おおきみ)・仁徳大王(おおきみ・第十六代)同一説、当時の王統の有力者を集合成した虚像説、初期三王朝交代(神武/和邇/葛城)説における征服王朝の神武創始者説、河内王朝の始祖説など諸説が入り乱れて完璧な検証には到っていない。
応神大王(おおきみ)・仁徳大王(おおきみ・第十六代)同一説に付いては事績の一部が父の応神天皇と重複・類似する事から、元来は一人の天皇の事績を二人に分けて記述した」とする見方が学者間に存在するからである。
仁政として知られる仁徳大王(おおきみ/天皇)は、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていない事に気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う記紀の逸話を持つ大王(おおきみ/天皇)だが、こうした善政の逸話は多分にその人物の神格化の為に記紀(古事記・日本書紀)に於いて架空創作された内容である疑いが濃い。
応神天皇の崩御の後、後の仁徳大王(おおきみ/天皇)である仁徳大雀命(おほさざきのみこと)は最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合い、空位が三年間続いたが、「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の死により即位した」と言う。
日本書紀には仁徳大雀命(おほさざきのみこと・仁徳天皇)に皇位を譲る為に「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が自殺した」と伝えられるが、これとて斜に構えて可能性を探れば「皇位の奪い合い」の真実が、「皇位の譲り合い」として大王(おおきみ/天皇)の「徳」と綺麗に記述しただけなのかも知れない。
それにしても、主神である筈の応神大王(おおきみ・天皇・第十五代)は歴代天皇のお一人なのだが、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。
中央におわすのは、余り一般には知られては居ない謎の祭神、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」である。その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。
比売大神(ひめのおおみかみ)については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。
この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、少し考えれば「在り得ない事」と判る。
何故なら日本で一・二を争う最高の神社で、それでは安易過ぎはしないか?
当然ながら、信仰から神を扱う以上、その並び順には神経を使い、然るべき所に御鎮座願うのが当り前である。
比売大神(ひめのおおみかみ)の正体が判らないから社殿の造営順などとばかな結論を出す。
この辺りの混乱からか、それとも何かを秘する都合でも有ったのかは判らないが、現在では宇佐神宮自身でも中央の比売大神(ひめのおおみかみ)の社殿を「二の殿」などと呼んでいる。
しかしこの社殿の並び順、社殿に順番を振っただけでは如何(いか)にも不自然な印象は拭えない。
この謎解きは簡単で、八幡神は武の神様で有り、清和源氏の戦の守護神である。
つまり源氏は皇統の影人である。
それで思い付いたのが、「天照大神変身説」だった。
或いは、平和の象徴である天照大神の、戦いの時の「変身したお姿が、比売(ひめ)大神ではなかろうか」と、我輩なりに大胆に推理して見た。
天照大神は太陽信仰の神であり、大地の豊穣を願う農耕民族(天一族/天孫族)の女神である。
この平和の象徴が、乱暴な須佐王(スサノオ)が高天原にやって来た時、天照大神が男装に着替えて武装して威嚇した。
」その御姿こそ、宇佐神宮におわす「比売大神」ではないだろうか。
平和の神・天照大神と争いの神・比売大神が、都合により顔を出す仕掛けだ。
民に平和と幸せを提供するのが、朝廷の役目である。
それで、朝廷としては建前上大っぴらに公表出来ないのだからこそ、その存在意義を説明できない。
それでなければ、比売大神(ひめのおおみかみ)は永久に謎の存在で、終わってしまう。
皮肉な話しであるが、現代の日本でも「平和憲法の建前」から、軍隊を軍隊と呼べず「自衛隊」と称して居る様に、平和の神に戦闘モードは似合わないからである。
この説の裏付けとして、もう一つエピソードがある。
初代神武大王(おおきみ・天皇)が東征に先立ち、宇佐神宮に寄ったと、「紀記」に記されている点からも、応神大王(おうじんおおきみ・天皇)が主神では、時代が前後してしまうのだ。
神武大王(じんむおおきみ・天皇)が神とあがめるのは、天照大神を置いて他にない。
それ故、比売大神(ひめのおおみかみ)イコール天照大神(あまてらすおおみかみ)と思えるのだ。
三女神(ミハシラのメガミ)説もあるが、時に応じて、朝廷側に平和の神、天照大神と同格の最高の軍神が存在する必要が有ったはずだ。
神話の合理性を思うと、日本の変身の第一に、最高神が在っても良いではないか。
宇佐神宮の主神が八幡神であり、八幡神は武神(戦神)である。
そして八幡神は菩薩(女性神)であり、しかも大が付く大菩薩となると、相当の格を持つ神である。
武神(戦神)比売大神(ひめのおおみかみ)が八幡大菩薩と同一と考えると、考えられるのはそれこそ比売大神(ひめのおおみかみ)が「天照大神(あまてらすおおみかみ)の戦闘モード」と符合して来るのである。
ここからが肝心な所だが、全国八万社の総神社数の内で、約四万社が八幡神である。
総神様である天照大神(あまてらすおおみかみ)拠りも、八幡神の末社が全国で幅を利かせて居るのは何故だろうか?
八幡神はその土地の鎮守神であるが、戦の神・八幡神の主神が比売大神(ひめのおおみかみ)=天照大神(あまてらすおおみかみ)であれば、八幡神を祀る事は「天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る事と同等な事」と解釈でき、信仰的に矛盾が無いのである。
この比売(ひめ)大神(おおみかみ)が卑弥呼と同一人物の可能性がある。
魏志倭人伝に見える倭国内の国々の一つである邪馬台国の女王は、「卑弥呼」と記されている。
この卑弥呼は日本の歴史上謎の人物だが、卑弥呼は大陸・魏帝国側が列島側の音(オン)を漢字(中国語の音)に充てた表記ではないだろうか?
比売(ひめ)大神(おおみかみ)は比売(ひめ)命(ヒメノミコト)とも呼ばれ、或いは比売皇女(ひめみこ/ヒメミコ)も限りなく音が近い。
詰まる所が、魏書(三国志)に記載が在って和書(古事記・日本書紀)に記載が無い「卑弥呼」と言う固有の名を持つ人物は存在せず、比売皇女(ヒメミコ/比売命・ヒメノミコト)なら存在した事に成る。
魏書(三国志)の記載全てが「音」の充て表記で在るならば、大和合の国(だいわごうのくに)・大和国(やまとのくに)の読み方の語源が、邪馬台国(ヤマタイコク)であっても何の不思議も無い。
最近世間では「卑弥呼の墓が特定出来た」と大騒ぎをしている。
奈良県桜井市に在る「箸墓(はしはか)古墳」が測定の結果、「卑弥呼が居たとされる同年代の建造物だから」と言うのである。
しかしそもそも論から言わしてもらえば、卑弥呼は古事記・日本書紀は勿論の事、日本の古文書にはまったく記載が無く、他国の正史である魏書(全三十巻)の「東夷伝中の倭人の条(通称・魏志倭人伝)」に記載されているのみの存在である。
卑弥呼の正体さえ明確でないのに頭から卑弥呼の存在を肯定した上で、「卑弥呼の墓を見つけた」は学者にあるまじき強引な発想である。
いずれにしても魏書で言う所の「卑弥呼(ヒミコ)」が、日本では何者かを明確にしないで「卑弥呼(ヒミコ)の墓」を言い立てるのは、土台も無い砂上に楼閣を築くものではないだろうか?
こうした日本史に対する態度は、その存在を疑われている歴史上の創作人物・聖徳太子の存在を鵜呑みにするのと同等の粗悪な考え方ではないだろうか?
魏書を鵜呑みにしたロマンにばかり走らず、その前にまずは卑弥呼が誰であるかの特定をするべきである。
邪馬台国の国家の運営は、卑弥呼の御託宣(シャーマニズム)を背景に行なわれていた。
そのシャーマニズムの根幹、御託宣を為す存在が火(アピ/火の意)だったのである。
アピ(火/原ポリネシア語)は、先住蝦夷(エミシ)の族長一派が名乗り、縄文期の列島の首領(火を操る指導者)の尊称である。
その娘はアピの娘(アピミコ=火皇女)であり、日女皇子(ヒメコ/火女皇子)とも言う。
つまり邪馬台国の女王「卑弥呼」は尊称で、卑弥呼には別な固有名があった筈である。
女(おんな)は中文(ツンウぇン・中国語)で「ニュョイ」であるが、アイヌ語では巫術女(みじゅつめ/巫女・みこ)の事をオイナ・カムイ(oyna ・kamuy)と言い、このオイナ(oyna)が「女(おんな)の語源ではないか」と考えている。
原ポリネシア語の「アピ(火の意)」とアイヌ語の「アピェ(ape・火の意)」は共通していて、インドネシア語系の「アピ(火)」も同じ音である。
占術、呪術に於いて火(炎)は重要なアイテムで、日本語の火(ひ)は、韓語(ハングル)では火(プル)、中語(ツゥンウェン・中文)では火(フォ)であるから、火を「ヒ」と発音する事も「アピ」が訛って「ピ」に成った可能性が高い。
魏志倭人伝(中国語)が意味よりも音(オン)を優先すれば「卑弥呼(火皇女=ヒミコ/ピミコ)」と充てる事は充分考えられる。
比売(ヒメ)は神代の神格化した女性に対する尊称で、後世の代の姫に通じる。
そこで九州・宇佐神宮(宇佐八幡宮)に鎮座まします「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼」で有っても不思議は無い。
魏志倭人伝は、「三国志」と言う中国の正史中に存在する「魏書(全三十巻)」に書かれている「東夷伝中の倭人の条」の略称である。
日本において一般に知られる通称が「魏志倭人伝」と呼んでいる訳である。
邪馬台国や卑弥呼が謎なのは、詳しい記述が列島側の文献に見当たらないからである。
古事記・日本書紀に、「わざわざ邪馬台国や卑弥呼を詳しく書く事が無い」と言う意味は、邪馬台国や卑弥呼が実は渡来前の祖国の伝承か、大和の国が邪馬台国であり「比売大神(天照大神)が卑弥呼である」と解釈すれば、わざわざ別に卑弥呼を取り上げて記述する必要は無い。
神話は現実に有った事に、後々の為に政治的な重みを着ける目的がある。
だとするなら卑弥呼は天照大神と同一人物であり、邪馬台国が高天原で有ったなら話は合理的だ。
日巫女、日御子、日皇女などが「ヒミコ」と読め、「卑弥呼」が魏(ぎ)の国から見て、卑下した未開の野蛮な属国扱いを前提とした表記であれば、唯一の資料「魏志倭人伝」に登場するのは、日の女王又は日の皇女・ヒミコに、卑の文字を充てたのではないだろうか?
それ故、変身後の戦の神、比売神子(大神)=(ひめのみこ・ひめのおおみかみ)の名が、卑弥呼(ひみこ)と音が似ている事も説明が付く。
畿内に大和朝廷が成立する前、高天原(邪馬台国)は、九州日向の国に存在した。
そして、海洋民族(呉族)・須佐之男(スサノオ)の命に攻め込まれた大陸山間の稲作系民族(天孫族/加羅族)・比売命(ひめのみこと/邪馬台国・女王)は天の岩戸での手打ちを行って民族和合を果たした。
須佐之男(スサノオ/須佐王)は狗奴国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の和合の後、旧邪馬台国側の民族感情を慮(おもんばか)って大和合の国を「大和国(やまと)」と読ませ、筑紫平野に遷都して都と宇佐神宮を造営する。
それらの歴史が神代の時代を形成していて、少しずつ勢力を伸ばし、その後同じ東海に本拠を置く海洋民族(呉族)系の葛城氏(賀茂氏)と合流して畿内遷都へと向って行く。
所でこの「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼は、本当に日本列島の倭の国々の代表者だったのだろうか?
文献が「他国に残っているから」と言ってそれを鵜呑みにし、歴史を象のシッポの様に一部を切り取ってはならない。
多面的かつ長期的な枠組みから、その真相に迫らなければ成らないものである。
当時の大陸側の情況では、邪馬台国の女王・卑弥呼が「周囲を属国として従えている」と言うのは魏帝国側の「政治的過大評価」と言う事は、充分に考えられる情況だった。
邪馬台国の女王・卑弥呼が魏帝国と外交関係(交流)を持ち、魏皇帝から「親魏倭王」に任(認証)じられたとしても、それとは別に蜀帝国や呉帝国が存在したのだから、この「魏書」の内容とは別に蜀帝国や呉帝国と外交関係(交流)を持つ別の国が日本列島に存在しても不思議は無い。
中華大陸が魏帝国、蜀帝国、呉帝国の三帝国に分割されていたのでは、各々が別の外交関係(交流)を持ち、別の日本列島に存在する国を「倭王」に任(認証)じていて、そこを列島の代表としていれば、「魏志倭人伝」の記述は魏と外交関係(交流)を持つ邪馬台国・卑弥呼に片寄った記述をしている可能性が在る。
特に当時の日本列島には大陸山間の稲作系民族(天孫族/加羅族)の邪馬台国とは別に、海人族系(呉族系)の国、例えば「狗奴国」や「伊都国」も存在した。
日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と呉族(ごぞく/海洋民族)、現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。
三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。
そして三民族の一系、先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の王族が、「安倍・阿倍一族である」と言う強力な説がある。
それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。
つまり、当時の日本列島が三民族三つ巴の多民族の地だった事から、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)=比売命(ひめのみこ)が、魏志に於ける唯一の日本の女王は、大陸「魏帝国」の「三国志時代の国策的な対処だった」と思えるのだ。
つまり、記録に残っていないだけで「親呉倭王」も存在し記述中に見える邪馬台国の女王・卑弥呼と不仲で争いが絶えない狗奴国の男王の存在が、中華大陸三帝国の勢力争いと連動していた可能性もある。
それ故に天岩戸伝説の神話の記述の裏を読まず、「魏書」を鵜呑みにして周囲の倭国群を邪馬台国の属国と決め付けるのは、「極めて乱暴な説」と考えてしまうのである。
我輩の解釈では、邪馬台国の女王・卑弥呼は比売命(ひめのみこと)の充て字であり、比売命(ひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)である。
だから、卑弥呼と不仲の海人族系(呉族系)の国・狗奴国の男王が須佐之男(スサノオ・須佐王)であれば、乱暴な弟王・須佐之男(スサノオ・須佐王)に困った天照大神(あまてらすおおみかみ)が、誓約(うけい)を持って仲の良い姉弟(同族)に納まる神話の世界に筋が通っている。
この国では、狗(いぬ=犬)の文字は犬神信仰に通じ、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)・邪馬台国を平定して「神武朝・大和朝廷を起こした」とされる呉族系(ごぞく/海洋民族)・狗奴国(くなくに)の国号にも使われている。
神話に於いては、山の民・天照大神と海の民・須佐王(スサノオ)の命は、誓約(うけい)の和合を持って姉弟神となった。
日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。
統一、或いは民族和合の為、誓約(うけい)をなしたる後、天一族の民心安んじる為にも、名誉は卑弥呼(天照大神)と壱与(月読命)に与えて祀り上げ、「自らは三番目に成った」としたら、隼人族の須佐王は、中々の政治家である。
弥生時代(やよいじだい)は、紀元前五世紀中頃から三世紀中頃までにあたる時代で、その弥生時代(やよいじだい)後期の三世紀半ばの頃の魏志(東夷伝・倭人伝)に「倭の女王・卑弥呼」の記述が見える。
記述が見えるのは、二百三十九年の倭の女王による使者派遣に始まり、奉献を請けた魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」として「金印、銅鏡などを授けた」とある。
その後二百四十年代に何度か女王・卑弥呼に関わる記述があり、二百四十七年には卑弥呼の国(邪馬台国/やまたいこく)が狗奴国(くなくに)と対立、武力紛争(戦争?)をしている。
二百四十八年に女王・卑弥呼が死に、男王が擁立されるが混乱が続き、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王と成って「漸く国中が治まった」と書き記されている。
神話の世界では有るが、辿って行くと案外本音を洩らしている部分もある。
記述によると、天の一族は、隼人族と手打ちを行い、天照大神とスサノオの間で誓約(うけい)がなされ、「天忍穂耳(あまのおしほみ)の命が生まれた。」とある。
この、誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、スサノオの相手は、卑弥呼の宗女・壱与(いよ)が有力である。
つまり、名前には意味がある。
天岩戸に拠る究極の部族和合・・誓約(うけい)の概念を念頭に推測すると、卑弥呼の後継・宗女「壱与」の読み方は、「一に与える」の贈り名であり、卑弥呼・後継霊媒師として誓約(うけい)の和合を実践する以前は「別の名をかざしていた」と考えられるのである。
卑弥呼の死後、邪馬台国の混乱を沈めたのは、「壱与(または台与)だ」と伝承されている。
この時、女王・壱与(いよ)は、僅か十三歳とされる。
壱与と言う名前からして、ずばり「始めに与えた」と読むのは強引過ぎるかも知れないが、読めなくもない。
また、その名が「台与(いよ)」説であれば、強引に「邪馬台国を与えた」と読めない事も無い。
その誓約(うけい)で生まれた天忍穂耳(あまのおしほみ)の命の子供が、「可愛(えの)岳にご陵墓が在る」と言われるニニギ(当用漢字がないのでカナ書き)の命である。
このニニギノミコト(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)から数えて四代目が「神武大王(おおきみ/天皇)にあたる」とされている為、初期神武朝の始まりは狗奴 国(くなくに)と邪馬台国(やまたいこく)の「和合した国ではなかったのか?」と読めるのである
農耕民族(天一族・加羅系)の発祥の地は、遠く「中国大陸南部、雲南省」と言われている。
雲南省の人々の稲作文化、それにまつわる風習、伝承等、数え上げれば限がないほど、日本のそれぞれに共通するものが多い。
その農耕民族(天一族・加羅系)が長い歳月をかけて北上し、中国各地に足跡を残しながら朝鮮半島を南下、任那(みまな/加羅族)国を造り、更に対馬を経て日本列島の山陰地方と九州北部に上陸して集落を築き、やがて邪馬台国を形ち造って行ったのだ。
雲南省の家族体系は昔から女系であり、家は女性が継ぎ、男性の夫は生家から通って来る通い婚」だった。
天一族が農耕民族(加羅系)ならば、女系女王を頭にいただくのが当たり前ではないか。
その天一族も、朝鮮半島に至るまでに農耕民族(加羅族)として大陸文明を蓄えてから、列島に渡って来た様だ。
それに対して、海洋民族(隼人族・呉族系)の発祥は、特定がむずかしい。
インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどの南方の島々の原住民族が、「黒潮に乗って島伝いに北上してきた」とする説が有力で、それが九州南部に早い時期に上陸したのだろうか。
但し勿論、任那(みまな)を部族に拠っては加羅(カラ)や加那(カナ)とも呼ぶ訳でもあるが、任那(みまな)の国そのものの国内も農耕民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕民族(加羅族)と百済(ペクチェ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。
一方で、隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて日本列島に渡来して来た者達もいる。
今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。
この農耕民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。
この争いの期間が、神代の時代だったのだ。
日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。
例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?
それなら海彦・山彦の民話伝承も、符合して来るのである。
日本列島に渡来した呉族系海洋民族が、九州北部で倭の国々の一つ奴国(なこく)を造る。
その奴国(なこく)が、渡来系ながら部族が違う卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)の邪馬台国(やまたいこく)に一時期は圧迫された。
やがて奴国(なこく)は九州南部で勢力を盛り返して、海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立する。
その狗奴国(くなくに)が勢力を増して九州南部・中国・四国・紀伊半島南部に到る広大な地域を支配し、卑弥呼(比売大神・天照大神)の邪馬台国(やまたいこく)を圧迫する。
この天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐王(須佐之男)の誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱である。
倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。
この天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐王(須佐之男)の誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱(わこくたいらん)である。
倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。
この呉族系海洋民族国家・狗奴国(くなくに)と言う国名を良く見てもらえば一目瞭然で、大和朝廷が進めた修験道と狗奴国(くなくに)は大きく関わりがある。
そして伊豆七島から伊豆半島に起こった同じ呉族系海洋民族国家・伊都国(いとこく) が合流し、その指導者・賀茂葛城一族が大和朝廷の重席を担いながら、修験道の指導者となる。
修験道のイメージシンボルは天狗=(てんのいぬ)であり、統治者の都合が良い伝承を振りまいた修験者の目的だった天狗修験道の別名を「犬神様(いぬがみさま)」と言う。
つまり、日本列島に渡来した呉族系海洋民族が奴国(なこく)を造り、その奴国(なこく)は一時期は邪馬台国に圧迫されたが、やがて盛り返して海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立、その狗奴国(くなくに)が勢力をまして邪馬台国を圧迫、誓約(うけい)に到って両者が統一を為して日本列島の西半分が神武朝・大和朝廷の基礎と成ったのである。
やがて、天の一族・隼人族連合は、西日本統一国家としての大和朝廷に至り、神武東遷(じんむとうせん)物語の経緯を辿って西の端九州から、中央の地「畿内」を本拠地と定めた時、初代天皇、神武大王(おおきみ・天皇)が即位する。
記述によると、即位に当って神武大王(おおきみ・天皇)は九州の「筑紫」の地を発ち、「安芸」から「吉備」を経て「大和」に、入ったとある。
「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。
このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、我輩は考えている。
何故なら、通常使用するに大和の文字は、ダイワとしか読めない。
中国式の発音でも大(タァー)和(ホォ)である。
それを、ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて初めて、「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。
初期の統一大和朝(神武朝)は、多数の王家の連合体で、その代表が大王(おおきみ・後には天皇)であるが、本書では便宜上その他の有力部族王を臣王(おみおう)と呼ぶ。
「最初の朝廷が開かれた」とされる飛鳥(あすか・明日香)は、現在の奈良県高市郡明日香村辺りを指す地域の名である。
六百年代後半まで、天皇(大王・おおきみ)の宮はこの「飛鳥(あすか・明日香)の地及びその周辺にあった」とされている。
推古天皇の豊浦宮での即位から持統天皇の代の藤原宮への移転までのおよそ百年間、大王(おおきみ・天皇)の宮が置かれる事が多く「日本の政治の中心地であった」とされる。
地名にちなんでこの期間の前後を含んで日本の歴史の時代を飛鳥時代と称する。
現在では明日香村一帯、或いは学者によってはその近隣までも含んで飛鳥と指し示す事もあるが、飛鳥時代当時はより狭い地域を示すものであった様である。
古事記には、大国主の命(おおくにぬしのみこと)別名大黒様が、「葦原中国(出雲の国・島根県)を中心に治めていた」とあり、大変な善政で「民も喜び、国も栄えた」とあるのだ。
その後、天照大神に「出来上がった国を譲った。」とある。
平和に「国譲り(くにゆずり)が行われた」と記述にはあるが、事実関係は、判らない。
真実の処、殺されて乗っ取られたのか、或るいは納得して譲る事の出来る相手だったのかは謎である。
この「大国主の命」の治める「葦原の中国」は「中津国」とも呼ばれ、中津の意味を天上の「高天原」と、地下の「黄泉(よみ)の国」の間に位置する故に、「中国(なかくに)」或いは「中津国(中つ国)」と成り、所謂「地上界を指す」とされる説がある。
それであれば、大国主は地上界の覇者で、少なくとも「古代日本列島の半分近くを統一した大王で在った」と言う事に成る。
これは日本列島統一の、象徴的な話の一つである。
大国主の命(おおくにぬしのみこと)は言うまでもなく有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達を束ねる大王(おおきみ・後の天皇〕の事である。
つまり、日本列島の倭の国々の多くの国主(くにぬし・地方の王)を束ねる者の名称が大国主の命(おおくにぬしのみこと=大王/おおきみ)と言う事に成る。
乱立していた倭の国々の小国家の国主(くにぬし/王)の統一の象徴的な存在として大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の尊称が生まれ、武力ではなく精神世界で結束する為に、天と地下の間「中津国(中つ国)」に、日本列島は成ったのである。
出雲神社は、その大国主の命(おおくにぬしのみこと)が祭られている。
現在に至る今日まで、その大国主を祖先とする末裔が神主として祭司を司っている。
この出雲神社の拝礼作法は、他の神社と違い、「二礼、四拍手、一礼」と成っているが、これが、宇佐神宮と同じであり、全国に二ヶ所しかこの作法はない為、大きな「謎」である。
出雲の国(島根県)の西隣、長州(山口県)の日本海側に、ずばり、阿武郡「須佐町」はある。
「須佐王所縁の地」と考えられる。
須佐町から東へ、つまり出雲方向へ戻ると、島根県簸川郡佐田町に出る。
そこには、須佐之男(スサノオ)、或いは須佐王(?)を祭る小社、須佐神社がある。
須佐之男の命の御霊(みたま)を祭る神社は、「他にはない」と言われている。
実は、紀州熊野に格上の大社・須佐の男神社がある。
しかしこれも、宇佐神宮から伊勢神宮の様に後に佐田から熊野に移し、「格上げ造営された」と考えたい。
須佐、佐田、いずれの町も日本海側(山陰地方)の対馬海流(黒潮)の流れ沿いにある。
この海流で、この地方は冬も比較的温暖だと言う。
言わば、海洋民族が上陸し住み着くに「不自然さ」は無い。
これらの町や神社は、地理的条件からすると、葦原中国(出雲の国)、或いは大国主の命(おおくにぬしのみこと)の伝承と、同じ地域に当たる。
佐田町の直ぐ東隣は出雲市である。
須佐神社は、ほとんど出雲大社とは同じ地域の立地で、須佐王と大国主の関連性に確信がもてる。
大国主の葦原中国が、須佐王(スサノオ)伝承に繋がりが有っても良さそうだ。
葦原中国(出雲の国)の最大の勢力範囲は、「山陰、北陸、越、信濃に及んだ」とある。
正に、古代の大国である。
その日本海沿岸を主力地盤とする大国は、黒潮海流の流れと符合する。
つまり、出雲の国に須佐族(隼人族)が居た事に成る。
もしかすると、大国主と、須佐王の両者は同族か?それであれば、辻褄が合う。
これは、卑弥呼(天照大神)の出自についての可能性の話である。
卑弥呼の邪馬台国は、何処にあったのか?
日本史の大きな謎である。
日本の歴史学者や作家は、様々な説を発表している。
しかしながら、それらは窮屈に、いずれも日本列島内の何処かを比定(示唆)している。
ただ、古代中国の史書と古代日本の史書の双方に、実は明確に同一と判断できる卑弥呼らしき人物や事件が記載されては居ない。
つまり卑弥呼は、日本列島における「国造りの歴史」の始まる以前の伝承の可能性があるのだ。
卑弥呼に該当する人物が明確な形で日本の史書に残っては居ず、日本列島の人物である事を証明するものは発見されていない。
魏志倭人伝が伝える倭国・邪馬台国の各事件が、日本の史書に全く見られない事により、卑弥呼を継承する政権は、「三世紀中期〜後期頃に断絶した」とする説がある。
しかし、我輩の説ように、古代・広域倭の国が「朝鮮半島部を含んでいる」と成ると、話は随分違ってくる。
つまり高天原(邪馬台国)は、日本列島にやって来た征服部族王達の過っての故郷、朝鮮半島部の「どこか」であり、卑弥呼(天照大神)は、彼らの敬愛する母王または王妃である可能性が浮上する。
この疑いを要約すると、何らかの事情で故郷を追われた、半島で有力だった卑弥呼の部族、天(あま)一族(農耕民族・加羅族)が、ちょうど国共内戦(蒋介石国民党と毛沢東共産党)に敗れて大陸から台湾に政府を移設した蒋介石国民党のごときに、未開の日本列島に征服移設して来て、新たに国(亡命政府?プチ大和朝廷・)を開いた。
そして、当時多民族乱立だった日本列島は誓約(うけい)と戦闘で少しずつ統一の道を歩み、それぞれの民族の故郷を思う気持ちを込めて神々の国を造った。
その、唯一の多民族統合の為の合意が、性善説による「神の国に邪悪なものは居ない」と言う、精神的信頼関係の建前の構築ではなかったのか?
親から子、仲間内での昔話が語り継がれて神話になる。
当然ながら、様々な教訓や部族的な誇りを、聞くものを楽しませながら語り継ぐ目的の元に、話は、「上手く出来すぎた話」として作られる事になる。
それ故神話の世界は、深い所で生き着いているその民族の合意心理である。
我輩が違和感を感じるのは、その微妙な「機微」だった。
「記紀(古事記と日本書紀)」には、そうしたものがギッシリ詰まっているからこそ、面白いのかも知れない。
つまり「日本書紀・古事記」の内容には、進入征服部族それぞれの過去の伝承が、政治的配慮を加味しながら歴史書としてまとめられ、正史のごとく扱われている恐れが「多分にある」と言う事である。
その上、古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。
「記紀(古事記と日本書紀)」を正史として扱うかどうかはそれをする方の姿勢で、我輩はまともな研究者ではないからその辺たりを「正しい。正しくない。」と論議する気は元々ない。
スサノウ(須佐王)は、阿修羅のように攻め入った後発征服部族の象徴であり、比売大神(ひめのおおみかみ)は、平和の神(天照大神)が武神に変身する事で後発征服部族に対抗する先住民の「シャーマンの統治者」と考えられる。
当時、先住民の民が統治者と認め、心服するには、「呪術的能力(魅力)」が必要だった。
そして、その呪術的能力の要求は誓約(うけい)に拠って両者が統合しても、民の精神の中に脈々と生きていた。
年月が経ち、日本列島の西日本は神武大王(じんむおおきみ/天皇初代)の下に漸く統一を見る。
ただしこの統一大王(おおきみ)、有力部族国家の連合体で、大王(おおきみ)は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。
そこで、両者統合の後にその民意を掴んで台頭して来たのが、海洋民族・葛城氏族(賀茂氏族)の奉ずる「事代主の神(ことしろぬしのかみ)と一言主の神(ひとことぬしのかみ)」と言う二神であり、事代主の神(ことしろぬしのかみ)の「神を有利に操ろう」と言う呪術と、一言主の神(ひとことぬしのかみ)の「神の意志を聞こう」と言う御託宣(占術)の神様である。
征服部族の鎮守氏上による地方統治の歴史的経緯から、日本の軍事組織は、言わば「氏族」と言う名の血縁を構成する私兵(軍閥)が単位に成り、日本列島における特殊な軍事組織の歴史が始まって、それがほぼ明治維新に至るまでの永きに渡って基本となっている。
つまり、倭の国々の時代から、「征服部族の長」を中心とした軍事組織(氏族)が、そのままピラミッドを構成して小国を構成していた。
そして、その小国が一定の自治権を保有しながら最終的に五ヶ国位(五王並立)に統合し、その長(大御門・おおみかど・後の臣王)達が集合して大和朝廷を構成し、大王(おおきみ・後の帝・天皇)を置いた。
この経緯から、シャーマン(呪述)的に神を持って国家運営を司る大王(おおきみ・後の帝・天皇)は、独自の軍事組織を持たず、直属の「秘密警察」兼「諜報工作組織」である陰陽修験組織以外は、氏族の私兵(軍閥)を必要に応じて徴集する形態を取って居た。
大王(おおきみ・後の帝・天皇)は、平和を祈り、豊穣を願って国を治める立場であるから、独自の軍事組織を保有する事は、その存在理念に於いて馴染まない。
つまり、武力を持たない建前の大王(おおきみ)の役目は、国家統一の為に祈る事であり、現在も皇室に相伝され、朝廷により行なわれる「神道儀式」の基礎は、この「占術、呪詛の集大成」と言えるものである。
従って、時代時代で国境こそ変遷しながらも、旧来の小国、倭の国々の観念がそのまま存続して、地域の呼称をそのまま「**の国」と呼び、その長を「国造り主・国主・**の守(かみ)」などと呼んで、その地を治める長が私兵(軍閥)を保有したままの形態が、明治維新まで名残を留めていたのである。
了
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