無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。
すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。
歴史の曖昧(あいまい)な点は、「真実(理性)の歴史」と「文化(感性)の歴史」が混在している事である。
勿論、「文化(感性)の歴史」は「虚の歴史」であるが、時の統治者(権力者)は、都合良くこの「文化(感性)の歴史」を巧みに操って統治の力としている。
つまり「文化(感性)の歴史」の「かなりの部分が公認」だからこそ、「日本史の曖昧(あいまい)な点」は、明確に説明し難いのである。
生活の中で得たその曖昧(あいまい)な歴史知識に思い込みが強いと、重大な検討要因に見向きもせずに見過ごしてしまう愚を犯す事になる。
それは、「仁徳天皇(にんとくてんのう)」や「聖徳太子(しょうとくたいし)」のエピソードを、永年説話に使っていた方の立場にれば、心情的に「架空の人物の話」とは認め難いのかも知れない。
勿論、「文化(感性)の歴史」は「虚の歴史」である。
しかしこの「文化(感性)の歴史」=「虚の歴史」を単純に否定できない事が、歴史を扱う者の厄介な所である。
まぁこの厄介な「文化(感性)の歴史」は、民族的ヒーローや信仰の舞台に於いて世界中に存在する。
例えば「真実(理性)の歴史」と「文化(感性)の歴史」を「混在する二面性の歴史」と捉えるなら、サンタクロースは正に「文化(感性)の歴史」としての存在である。
そしてサンタクロースが存在するしないの論争になると、事実としては存在しないが子供の数だけ「文化(感性)」のサンタクロースは存在する。
つまり「文化(感性)の歴史」は人間の夢を満足させる為の立派な創造物なのだが、だからと言って肯定されるべき真実の歴史では無い。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。
明確な史実が在るにも関わらず、「嘘でも見栄えする日本史が良い」と言う国粋主義者が沢山居るが、そう言う連中は政治信条に於いても平気で嘘を言う連中である。
それは国民も聞き耳が良い方に寄るから、つまり連中は嘘の史実で国民をコントロールしようと言う下心が「見え見えの連中」と言っても過言ではない。
それもその手法が、国民をコントロールする最善策の「正義だ」と、頑なに考える「狂信的確信犯」である。
そして手法に乗せられて、「やらせ疑惑」とでも言うべき事さえ判らない「歴史音痴」に陥(おちい)っている現実に、気が付かない困った者も多い。
その狂信的確信犯の頑なな根拠が史実では無く「俺はこう思う」で、全く根拠に成らない「個人の希望的主張」なのだから話には成らないのだ。
勿論この歴史物語では、吾輩は有名人の成功話を娯楽的に飾って書く積りは無く、その人物の飾らない生き方を書くべく筆を取った。
何故ならば日本史を飾る有名人も、現実は苦悩と葛藤を抱えた等身大の人間であり、けして超人(スーパーマン)では無いからである。
つまりドラマチックに盛った嘘っぽい波乱万丈の英雄物語は、感性としては読み手に取って胸躍るものだが、そうしたフィクションドラマは史実的に有害な物語かも知れないからである。
日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。
その一つが聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのみこ)の実在疑惑である。
聖徳太子は永年日本人に親しまれていたから、実存を信じる方も多い。
聖徳太子実存説支持派には、聖徳は「贈りな」であるから、「没後百年経ってからの初出でも不思議はない」と言う言い分も在る。
その言い分では、歴代天皇は全員「贈りな」で表記するのが「恒例だから」と言うのである。
しかしながら、初代・神武帝以来九代に渡る歴代天皇には聖徳太子同様に実存を疑問視する説も有力とされている。
船で日本列島に渡り来た渡来部族が、自らの統治目的の権威の為に現住民族・蝦夷(エミシ)に流布した記紀神話(古事記・日本書紀)及び天孫降臨伝説が在る。
その統治目的神話を解すれば、初期ヤマト王権には創作部分が多々存在するのは当たり前ではないか?
聖徳太子は、「数々の奇跡を起こした」とされる信仰上の存在でもある。
「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。
その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、そう言う意味では、聖徳太子の存在も「虚(きょ/感性)の範疇に在る」と言える。
つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。
歴史には、ミステリー(謎)とトリック(陰謀)が満ちている。
指導階層(権力)が結託すれば、歴史の捏造など造作も無い。
そして警察や検察の犯罪捜査でも、「決め打ち捜査(予め結果を決めて捜査する手法)は冤罪を産む」と言う。
歴史のミステリー(謎)考察でも同じ事で、実は表面に現れ難いトリック(陰謀)が、歴史の裏側に意図的に仕組まれているかも知れない。
つまり日本史に於いて、定説を基準とした「決め打ち」から歴史の考察を始めても既成概念に囚われて結論を誤まるかも知れない。
面倒くさがって真実と向き会いたくない者は、その陰謀を安易に許して気付かない事に成る。
聖徳太子は、仏教の祖とされるシャーキャ族の王(ラージャ/豪族)・ガウタマ・シュッドーダナの王子・ガウタマ・シッダールタ=釈迦(シャーキャ)のブッダ(仏陀)として悟りを開く前を模した事から誕生した「架空の人物」である。
或る意味に於いて聖徳太子の出現は、皇室の正統性と仏教布教の目的が一致した事で伝説化されたものである。
従って伝えられる王子・ガウタマ・シッダールタ=釈迦(シャーキャ)の逸話と聖徳太子の逸話は、信仰対象として相似形を為している。
しかしこの聖徳太子の存在は、仏教的要素が強い為に仏教関係者は頑として「架空の人物」とは認めず、その態度は歴史学的解明には枷(かせ)となっている。
元々この聖徳太子の登場には「或る目的」が見え隠れする。
聖徳太子が文献上登場した頃から遡る事百五十年以上前、当時絶大な勢力を誇った大豪族蘇我氏・蘇我入鹿を討った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子=天智(てんち)大王(おおきみ・天皇第三十八代)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)を起こす。
そして蘇我氏(そがうじ)に「一族ことごとく討ち取られた」とされる「聖徳太子とその一族」が、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料に「初出」と言う形で出現する。
つまり聖徳太子の出現は、蘇我氏(そがうじ)を殊更悪しき存在としてその後に起こった乙巳の変(いっしのへん)の変事を正当化するものである。
あらゆる周辺の情況を集積すると、「謎の聖徳太子を出現させ最後に蘇我氏が太子一族を攻め滅ぼす」と言うストーリーの裏側に垣間見えるのは、皇統の神秘的な優秀性を主張する目論見とともに「蘇我氏一族の功績」をも葬り去る意図を持っての「百五十年後の創作ではなかった」とは言い切れない。
そしてこの聖徳太子、仏教の祖とされる釈迦(シャーキャ)の逸話に加え、厩戸(うまやど)にて生誕したとされるキリスト生誕の逸話をも採用し、若き日の太子は「厩戸皇子(うまやどのみこ) 」である。
まるで偉人とされる人物の逸話を寄せ集めて「人格を創り出した」と思うのは筆者だけだろうか?
つまりサスペンス風に言うと、天武天皇(てんむてんのう)の命を受けて日本書紀の編纂を仕掛けた舎人親王(とねりしんのう/天武天皇の皇子で淳仁天皇の父)は「聖徳太子捏造事件の重要参考人」と言う事に成る。
この聖徳太子が居たとされる時代、まだ日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。
背景の争いがそんなだから、大王(おおきみ/天皇)後継者を巡る争いが繰り広げられる。
物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もののべのもりや)と大臣(おおおみ)・曽我馬子(そがのうまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。
物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。
この古墳時代、まだ日本列島・大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)は地方を領する有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いに翻弄され、利用される武力を持たない精神的な統一の象徴だった。
背景の争いがそんなだから、大王(おおきみ/天皇)後継者を巡る争いが繰り広げられる。
物部氏と蘇我氏の争いは、敏達(びたつ)大王(おおきみ・天皇第三十代)の御世に成っても、息子達の大連(おおむらじ)・物部守屋(もりや)と大臣(おおおみ)・蘇我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に、敏達大王(おおきみ・天皇・第三十代)が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。
物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)」が即位する。
用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)は欽明大王(きんめいおおきみ・天皇第二十九代)の第四皇子で、母は大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)である。
都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)と伝えられ、その所在地は現在の奈良県桜井市阿部、或いは同市池之内などの説が在った。
しかし二千十一年に成って奈良県桜井市池尻町で、所在地が不明だった磐余池(いわれのいけ)と見られる池の堤跡が見つかり、その堤跡上で発見された大型建物跡が磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)で在った可能性も出て来ている。
用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は、敏達大王(おおきみ・天皇第三十代)の崩御を受け即位する。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)は、物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)がそのまま引き継いで、物部氏と蘇我氏は二大勢力を築いていた。
この二大勢力の内、物部氏は物部神道を擁する廃仏派であり、蘇我氏は崇仏派として仏教を擁護、物部氏に対抗していた。
蘇我稲目の孫でもある用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は、廃仏派の敏達大王(おおきみ・天皇第三十代)とは違って崇仏派であり仏法を重んじた。
一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明大王(きんめいおおきみ/天皇第二十九代)の皇子の一人・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と通じていた。
しかしながら、用明大王(ようめいおおきみ/天皇)は疱瘡の為に在位二年足らずの五百八十七年(用明天皇二年)四月に崩御した。
用明(ようめい)大王(おおきみ・天皇第三十一代)が崩御すると、物部守屋は再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが蘇我馬子と合戦になり、大連(おおむらじ)・物部守屋は討ち取られてしまう。
この敗戦で、物部氏(新羅派)は衰退して行く。
物部守屋が蘇我側の遠距離からの弓矢攻撃により射殺され、この戦争の勝利の結果、蘇我軍に参加した泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)が天皇に就任する事になり、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)として即位する。
崇峻大王(すしゅんおうきみ/第三十二代天皇)は、倉梯柴垣宮 (くらはししばがきのみや/現・桜井市倉橋) を造営してその宮居に住まう。
崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は泊瀬部皇子(はつせべのすめらみこと)の頃から大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が妃だったが、即位して後に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)が入内(にゅだい)して内裏(だいり)に納まっていた。
しかし四年後、蘇我馬子に部下の東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)と言う者を刺客として崇峻宮に送り込まれ、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)は暗殺される。
そして真贋の程は定かでないが、崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇)暗殺の実行者・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻宮を襲った時に蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)を陵辱した或いは河上娘(かわかみのいらつめ)と密通したとの理由で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が蘇我馬子に討ち取られてしまう。
これほど明確に記録されている天皇暗殺は類を見ないもので、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と河上娘(かわかみのいらつめ)との事は、口封じの口実とも考えられる。
この崇峻大王(すしゅんおおきみ/天皇第三十二代)暗殺話は五百九十二年の事件だから、百二十〜百三十年も経た桓武大王(おおきみ/天皇)の御世に成って余りにも克明に記述されている。
そうした不自然な所から、その後の「大化の改新(蘇我入鹿/そがのいるか・暗殺と蘇我氏滅亡)」に対し、いかに歴代蘇我氏が「横暴なふるまいをしていた」と言う事を印象着ける為の複線として書かれている疑いもある。
同時にこの事件を記する事で、皇統の正統性をもアピールして居るのかも知れない。
衰退した加羅系・物部氏(新羅派)とは反対に、大連(おおむらじ)・物部守屋を破った高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。
蘇我馬子の擁立したのが、崇峻(すいしゅん)大王(おおきみ・天皇第三十二代)であった。
あくまでも日本書紀の上での事だが、この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。
厩戸(うまやど)の皇子(後に聖徳太子と呼ばれる人物)である。
本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。
飛鳥京(あすかきょう)は、後の律令国家成立期以後の新益京(藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは違い、京と呼ぶほどの宮都の体裁を成しては居なかった。
つまり「飛鳥京跡」は、飛鳥地域に散在するこれら時期の異なる宮や邸宅、寺院などの建造物、市や広場、道路など都市関連遺跡の便宜上の総称に過ぎない。
この六世紀・飛鳥時代には、蘇我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んに成って新たに高句麗系の豪族も誕生している。
狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。
つまり地方を領する有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達の勢力争いは、その出身である彼らの祖国と日本列島・大和朝廷の関係に大きな影響がある時代だったのである。
明治以後の大日本帝国で、天皇家の神格化教育が行き届き、天皇が絶対君主と教わって、当然と思っていた天皇の立場とは、当時の真実の事情とは相当感じが違うのだ。
その時々の有力豪族(部族王・御門・臣王・国主/くにぬし)達に翻弄され、利用されながら、それでも皇室は脈々と続いて来た。
この時代だけ切り取ると、まるで大和の国は各々に祖国を持つ民族が勢力争いを繰り返す多民族国家である。
この頃の日本列島は、まさに現在のアメリカの様な「人種のるつぼ」である。
この伝で行けば、アメリカも混血が進んで後二千年もしたら、同化した民族が出来上がるかも知れ無い。
この国で「有史以来の単一民族」、「万世一系の天皇」と、一度刷り込まれた先入観を払拭するのは、結構大変なのだ。
蘇我馬子に擁立された崇峻大王(おおきみ/天皇)であるが、その後何故か大臣・蘇我馬子の指図によって暗殺されれしまう。
この暗殺劇、この後の記述で厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の異説として取り上げるが、蘇我馬子に容易ならぬ陰謀が有ったらしい。
ここで大和朝廷の全体像を、考えて見よう。
大和朝廷は、倭(わ)の国々の縮図と言える。
つまり、狗奴(くな・呉系)・任那(みまな・加羅系)両国系誓約合体の神聖・天皇家とは別に、倭の国各地(各国)出身の豪族(部族王・御門・臣王・族長)の和邇(呉系・百済派)、葛城(呉系・任那派)、大伴(加羅系・百済派)、物部(呉系・新羅派)、蘇我(高句麗系)、中臣(加羅系・百済派・後の藤原氏)などの「王」が、それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家で在った。
そしてまだ、大王(おおきみ・大国主・天皇)の権力は完全統一的なものでは無かった。
そう考えた方が、判り易すい。
大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・大豪族)は、少なくともの和邇(わに)、葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、蘇我(そが)の五家が最有力だった。
それに続く安部(あべ)、秦(はた)、中臣(なかとみ・後の藤原)など更に三家以上は「臣王(おみおう)が存在した」と思われる。
従って、「大王(おおきみ・大国主・天皇)」は、大連(おおむらじ)大臣(王臣・おおおみ)などと同じ様な「官位、官職の最高位」とも言える立場で有ったのかも知しれない。
そうした背景の中、推古大王(すいこおおきみ・天皇第三十三代・女帝)が即位し、太子には厩戸(うまやど)皇子が「聖徳」と改めて執政に就任した事になる。
その推古大王(すいこおおきみ)の御座が、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)に在った豊浦宮である。
聖徳太子の言と伝えられる有名な、「和を持って貴しと為す」の背景には、部族の王達間に於ける誓約(うけい)の和合、多部族(多民族)意識がまだ残っていたからこその、民族統合の施策だった。
つまり後の創作ではあるが、「大和合の国=大和の国」の精神を示しているのである。
百年後に記述された日本書紀の聖徳太子が現実に存在する人物であれば、聖徳太子の功績は太子一人の功績とは考え難い。
この頃の朝廷では、大臣(おおおみ)は蘇我馬子(そがのうまこ)の独占で在ったから、三人の「冠位十二階と十七条の憲法制定などの共同国家運営ではないか」と思われる。
そしてこの頃になり、大和の国では漸く鉄剣の国産化が始まっている。
この三人、推古大王(すいこおおきみ/天皇)、聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)の共同作業が、後の聖徳太子の善政評価である。
当時、いかに聖徳太子が有能であれ当時勢力絶大な蘇我馬子(そがのうまこ)の協力無しに、冠位十二階や、十七条の憲法の「制定が成った」とは考え難い。
何故なら、用命大王(おおきみ・天皇第三十一代)の母と聖徳太子の母は姉妹で、蘇我稲目の娘、つまり「馬子の兄妹」で在った。
つまり馬子は聖徳太子の叔父であり、更に娘を嫁にして居たから義理の父でも在ったのである。
そこで聖徳太子の存在に疑問が生じる。
もし聖徳太子が、「冠位十二階を制定した」とするならば、当時の最高権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)が、何故に官位を授与された記録がなかったのかが説明できない。
しかし蘇我馬子(そがのうまこ)が「冠位十二階」を制定したならば、自分で自分に官位を与える愚は行う筈が無いのである。
その「制度改革」と言う国家的プロジェクトの成功を、後世の明治政府の皇統を礼賛する民意誘導の都合で馬子を並の臣下扱いにし、聖徳太子一人の手柄にしてしまった。
こうした過去の朝廷の歴史を歴史学者に掘り起こさせて学校教育の一環として取り上げ、天皇直接統治の為に政権の正当性を主張する為の神話を詳細に創り上げたのは明治政府に成ってからである。
明治政府は、皇室の元に国民の民意の統合的合意を目指したのだ。
聖徳太子は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子=天智大王/てんちおおきみ・天皇第三十八代)が、大化の改新(たいかのかいしん)と言うクーデターで「蘇我御門一門」を抹殺した事実を塗布隠ぺいする為に出現させた創作人物である。
なぜなら、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定は、実は当時絶大な権力を挙握していた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の手に拠るものではないかとの説がある。
その理由として、絶大な権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)に冠位がない事が挙げられ、馬子(うまこ)は「冠位を授ける側の立場に在ったのではないか」と言う推測が成り立つのだ。
天智大王/てんちおおきみ・天皇第三十八代)が武力で滅亡させた「蘇我御門一門」が、功績を残していては都合が悪い。
つまり蘇我氏の政治的功績、冠位十二階や十七条の憲法の制定を蘇我氏でない純潔の皇統の人物の手柄に、無理やり置き換える必要が在った。
聖徳太子が陰謀で創作された「実在しない人物」であるからこそ、生前に太子は多くの奇跡を生み、太子一族は後裔も残さず痕跡も無く簡単に滅んで行った。
この聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が残っているので紹介する。
実は大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているからである。
聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群、同じく有力部族・秦氏族への太子の要請によるとされる河勝(秦河勝/香具師・神農行商の祖)と伊賀の国人・秦氏流服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀流忍術の祖)の三団体の事である。
忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし、こうぐし、やし)の祖とされる川勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。
日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。
この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成った服部氏は、後世余りにも有名な伊賀郷の忍術者の家系として江戸幕府・徳川家に雇われている。
また、「伊賀・服部流と双璧を為す」と評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群である。
川勝氏の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。
その名の通り香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。
香具師の起源については、古代に遡(さかのぼ)る伝承をもっているが、明確ではなく、一説には秦氏流の川勝氏が同じく秦氏流の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし)の祖」とされている。
そうした所から推測して、「行商に身をやつして諜報活動をもしていた」と考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。
つまり全国各地を移動しても怪しまれない職業が、主として神前での興行や商いをする「香具師(かうぐし)であり、旅芸人」と言う事になる。
どうやらその最初の成り立ちとして、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れの陰陽修験は村落部、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れ服部氏と川勝氏は町場の氏族相手と守備範囲の役割を分けて居たのかも知れない。
しかしながら武術の発祥は陰陽修験道からであるから、「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群や秦氏の流れである服部氏と川勝氏も修験武術の習得を通して両者に接点は在った筈である。
しかし「聖徳太子が情報収集に使った」とされる太子にまつわる忍者系の逸話自体が、切り口を変えれば、さも「諜報活動の仕掛け」と想える話ではないだろうか?
秦の始皇帝を始祖と自称する秦氏は、六世紀頃に日本列島へ渡来した渡来人部族集団と言われる。
ハタオリは秦織(たおり)で、服部(はとりべ/機織り部)と言う職掌がその「氏名(うじな)の語源と成っている」と伝わる服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。
そして伝承では、秦河勝は猿楽の祖とも伝えられ能楽の観阿弥・世阿弥親子も「秦河勝の子孫を称した」とする所から、秦氏と服部氏とはまったく同系の部族と考えられるのである。
また、賀茂・葛城も秦氏とは同系の部族で在りながらこちらは占術と神職と言う職掌違い、物部氏も武器の製造管理言う職掌違いで氏名乗(うじなの)りは違う。
だが、秦氏が信仰から機織り技術・金属技術まで持ち込んだ渡来人集団であれば、各得意分野ごとに分かれて氏名乗(うじなの)りをしても不思議は無い。
その秦氏・同系の部族説を検証すると、秦氏系・服部氏と物部氏系・鈴木氏には賀茂・葛城と重複する神職や修験道、そしてそれらから派生した武道である忍術、神事から派生した芸能などのルーツが遡って秦氏に辿り着くのである。
つまり葛城氏を含む秦氏系渡来部族こそが、日本列島各地に当時の最先端大陸文化を持ち込んだ有力部族集団ではないだろうか。
ここで、この文章の主題となる厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を改めて紹介して置く。
日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。
その一つが聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのみこ)の実在疑惑である。
指導階層(権力)が結託すれば、歴史の捏造など造作も無い。
つまりサスペンス風に言うと、天武天皇の命を受けて日本書紀の編纂を仕掛けた舎人親王(とねりしんのう/天武天皇の皇子で淳仁天皇の父)は「聖徳太子捏造事件の重要参考人」と言う事に成る。
「その陰謀の証拠を挙げよ」と誰に迫られようと、簡単に証拠が挙がらないからこそ陰謀なので、その命題の経緯と結果から陰謀の可能性を導き出すのが、古文書の記述だけに頼らないまともな歴史考である。
聖徳太子は、日本史に於いて最も有名な皇太子の一人である。
しかしこの聖徳太子には様々な疑惑があり、現代では歴史上の人物から「伝説上の人物」とされる傾向が強まっている。
まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。
聖徳太子と目される厩戸皇子(うまやどのみこ)の没後百年以上を経て成立した「日本書紀が聖徳太子の初出」と言う事は、作文した内容は天武天皇から桓武天皇にかけての編纂で、「和を持って尊し」を言ったのは桓武天皇の側近辺りの進言が採用されたのかも知れない。
そして聖徳太子は、治世に功績を残しながら何故か太子(世継ぎ)のまま没している。
正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?
簡単な話し、立太子した者は次期の大王(おおきみ/天皇)であり、もし聖徳太子が実在の人物ならば聖徳太子が理由も無しに皇位に就いた事実が無い事は説明が着かないのである。
推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、欽明大王(おおきみ/天皇・第二十九代)の皇女にして母は大臣・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)、用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)は同母兄、崇峻天皇(第三十二代)は異母弟にあたる。
推古大王(すいこおおきみ)は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言い、十八歳の時に当時皇子(後に敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)だった異母兄の渟中倉太珠敷皇子(ぬなくらのふとたましきのみこと)の妃となる。
敏達天皇・皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)三十四歳の時に敏達大王(天皇)が没し、同母兄の用明大王(おおきみ/天皇・第三十一代)異母弟・崇峻大王(おおきみ/天皇・第三十二代)と大王(おおきみ)が続く。
だが、崇峻大王(天皇)が大臣・蘇我馬子の指図に拠って暗殺され、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は大臣・蘇我馬子の要請に応じて三十九歳の時に推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)として即位する。
夫亡き後、推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)を実力で支えた大臣・蘇我馬子は母方の叔父(母の弟)であるが、異母兄の敏達大王(おおきみ/天皇・第三十代)の妃に成るくらいだから、夫亡き後に頼りに成る叔父の蘇我馬子と男女の仲に成っても、当時の習慣上は何んの不思議もない。
むしろ、敢えて無理やりに女帝・推古大王(おおきみ/天皇)を据えた大臣・蘇我馬子のその意図に、我輩にしてみれば男女の仲を疑うに足りるものがある。
推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。
この「皇太子として万機を摂行させた」と言う事は「全てを任せた」と言う事で、それだけの信頼を置ける相手とは男女の関係が想像されても不思議は無い。
大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・御門/みかど)蘇我氏は、歴代の大王(おおきみ)に妃(皇后)を送り込む有力氏族で、歴代大王(おおきみ)とは叔父甥などの血縁関係も多く、逆に女帝の愛人であっても何の不思議も無い。
おまけに大王(おおきみ)は神の力を持って統治する建前で、武力を持たないから女帝が頼り甲斐がある臣王(おみおう)の蘇我馬子と愛人関係に有った方が、治世が上手く行くのである
聖徳太子の生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのである。
そもそもこの厩戸皇子(うまやどのみこ)生誕の下りがイエス・キリストの生誕伝承と余りにも似ている所から、「日本書紀」が西洋からの伝聞を借用して「創造された人物」との指摘が体勢を占めている。
こうした伝聞借用の疑惑に関しての事例は、古事記・日本書紀には沢山ある。
例えば古事記によると、神武(じんむ)天皇に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。
これをもって、高千穂への天孫降臨とする解釈も多い。
しかしこの「高千穂のくしふる峰」の古事記の記述が、
朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話(あまふるはなし/降臨)・・・と似ている」
との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し、加工して記載した疑いが強いのである。
実は、失われた十支族の日本列島渡来と言う「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」が存在する。
キリストの生誕を擬した「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」の誕生逸話の酷似も、或いは古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説を立証するもので、古(いにしえ)の人々が「ユダヤ文化の伝承」を採った結果かも知れない。
恐らく皇統の善政を示して神格化を狙った「聖徳太子(厩戸皇子)の捏造」と思われる。
古代ヘブライ(ユダヤ)に関わる伝説は厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子の誕生逸話に止まらず、各地に在るが、代表的なものに諏訪・守屋氏(もりやうじ)の伝承がある。
守屋氏(もりやうじ)は、清和源氏、藤原氏、物部氏などでも称されるが、主として信濃国諏訪郡守屋山発祥の諏訪神家である。
「もりや姓」に関しては、守谷、守矢、守家などと通じ信濃、武蔵、摂津、阿波などに在し、守矢は、信濃国諏訪郡発祥にて洩矢神の子孫と伝え、現在長野県諏訪地域に多い。
他に森谷、森矢、杜屋と互用し現在、山形県にも多く、森屋は、大和国式下郡森屋荘発祥、十市姓森屋党他にほか武蔵などに存す。
この守屋姓(漢字別表記の場合も多い)に関して、その言われは縄文人と渡来部族の合流の課程とリンクしていて非情に興味深い。
そしてこの守屋氏(もりやうじ)が、古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説と関わって伝承されている。
諏訪神家・守屋氏・・・諏訪大社と言うと御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)と思われるが、謎の神様も祀られて居る。
ミシャグチ神と云う建御名方命より古い土着神であり、ミシャグチの正体や言れが良く解らない。
ミシャグチはユダヤ(イスラム〜ヘブライ)と関係がある・・・などとも言われ、ミシャグチをヘブライ語にすると、「イサクの犠牲」と訳せると言う。
旧約聖書「創世記」では、アブラハムが自分の子イサクを「モリヤの山」で神に捧げたとあり、神はアブラハムの深い信仰心を理解したとされている。
諏訪地方はミシャグチ神を奉じる洩矢(モリヤ)族が暮らして居、その地に、建御名方命(タケミナカタノミコト)率いる渡来族が遣って来た。
天竜川の河口で渡来族と洩矢(モリヤ)族とで争いが起こり、洩矢(モリヤ)族は建御名方命(タケミナカタノミコト)の渡来族に征服され、建御名方命は諏訪湖を渡って対岸に上陸し、そこが諏訪神社の上社となる。
出雲・葦原中国(あしはらのなかつくに・天界に対する地上の国)から来て当地を征服した渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は諏訪大明神となり諏訪大社の開祖となった。
しかし諏訪の地を治むるに、「ミシャグチ神」を信奉する被征服族の諏訪大社神長官・守矢家の力は侮れなかった。
渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は、洩矢(モリヤ)族の古来土着神「ミシャグチ神」を祀らせ、此の地を統治し、御神体は本宮の後ろの守屋(洩矢〜モリヤ)山とされる。
この諏訪伝説が、旧約聖書「創世記」に出て来る「イサク」「モリヤ山」が共通しているのだ。
そして「御頭祭」として、明治まで動物献上・人身御供が行われていた。
この物語で度々使うフレーズだが、統治に於ける重要な要件は、その権力を持って情緒的・感性的ばイメージ(心像・形象・印象)を意図的に形成し、結果、異論を排除して思想を統一して行く事である。
聖徳太子はその最たるもので、明らかに皇統の優秀性を喧伝する創作上の人物だが、我輩が幾ら「聖徳太子は存在しない」と言った所で寺まで存在すると誰でも信じてしまう。
そしてその創作事実を知る者まで、「あれは信仰上の存在だから触れないで置こう」と言うのだから、イメージ(心像・形象・印象)が合意されてしまえば、虚像も実像になるのだ。
「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、国家として中央政権化を進める為に「聖徳太子に拠って制定された」と定説化されている。
日本書紀の記述を事実とすると、官僚制の基礎となる「冠位十二階」は太子二十九歳の六百三年、国を治める為の法律「十七条憲法」は太子三十歳の六百四年、に制定された事に成っている。
但し近年に成って聖徳太子の存在自身さえも疑問視される事態に、従来から定説とされている「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定事実さえも、その事実関係の見直しに入る学者も居る。
「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、永年定説とされて義務教育の場で学習されて来た日本史だけにシビアな問題ではある。
疑問視される聖徳太子の存在と切り離した説として、「冠位十二階」と「十七条の憲法」の制定は、実は当時絶大な権力を挙握していた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の手に拠るものではないかとの説も出始めた。
「冠位十二階」は、朝廷に仕える豪族・臣王達に十二階の位を定めて位に応じて色分けした冠を与えたもので、冠をさずける基準は一代限りとした個人の才能や功績とした。
色分けは、紫を頂点に青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目で判るようにし、これにより門閥(家柄による結びつき)をなくした人材の登用をめざしました。
しかしこの「冠位十二階」は畿内や周辺地域の豪族に限定され、しかも冠位の授与から蘇我氏が除かれていた為、「蘇我氏は冠位を授ける立場に在ったぼではないか?」との見方も根強い。
「十七条の憲法」に関しては、皇室を中心とする集権的な国家体制を作り出そうとする基本理念を表示した教訓的な性質のものだった。
いずれにしてもこの「冠位十二階」と「十七条の憲法」は、特に当時の中華大陸の帝国・「隋」との付き合で国家と認めさせる事に腐心して、国家の体裁を内外に示した始めての制度と言えるものだった。
日本の歴史学者には、「天孫降臨伝説」または「皇国史観」に於ける「虚」のアンカリング効果が浸透していて、それと合わない意見には「論外意識」が強過ぎ、聞く耳持たずで切り捨てて来た部分が多く在る。
だが、「天孫降臨伝説」または「皇国史観」には合致しない、聞く耳持たずで切り捨てて来たその歴史的事実は、ふんだんに存在する。
歴史学者の間では、日本列島各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説が「まさかエルサレムから東の端の列島まで来る筈が無い」と、既成概念の意表を突く為に整合性を見出せないまま、否定要素だけを熱心に探していた。
しかしながら、遥かアフリカの台地から世界に分布して行った人類の足跡を想えば、ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族の一部が、年月を経て日本列島に辿り着いていても不思議は無い。
そしてそうした考え方の対極に、各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説に於いて、日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つと言う少し単純な発想で「日ユ同祖論」を展開する方も居られるが、それには少し無理がある。
「日ユ同祖論」は、「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」や「広域倭の国論」の問題と同じくらい、物事を単純解釈したがる悪癖ではないだろうか?
例え古代ヘブライ(ユダヤ)の「失われた十支族の渡来説」が有力説でも、縄文人が多数居た所に渡来した筈で、誓約(うけい)の混血が進んだ上での同化にヘブライ(ユダヤ)文化が伝承されたのであれば納得である。
図式としては、そのヘブライ(ユダヤ)文化が、日本列島の原信仰として陰陽修験道の中に採り入れられて修験者に拠って全国に広まって行く。
平安期・大和朝廷に於いて、陰陽修験道を統括管理した陰陽寮首座・安倍清明の五芒星(ごぼうせい)であり、ユダヤ-キリスト教が用いた「ペンタクル、ペンタグラム」と同じマークである。
過っては我が国の最高額紙幣に使われたお馴染みの聖徳太子も、今や歴史上の人物から伝説上の人物へとその立場を変えつつある。
そうなると、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古大王(おおきみ/天皇・第三十三代・女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)では無かったのか」と言う疑惑もある?
その理由であるが、厩戸皇子(聖徳太子)創作説を唱える者の中には、「厩舎で出産された」とする経緯が明らかにイエス・キリスト生誕の逸話と合致している所から、その物語を引用して「皇統天孫説に彩りを添えたかったのではないか?」とか推察している点である。
また、インド神話の財宝神クベーラを前身とするインド・ヒンドゥー教の神様に梵名・ヴァイシュラヴァナと呼ぶ神が居て、和名は毘沙門天(びしゃもんてん)である。
ヴァイシュラヴァナと言う称号は本来「ヴィシュラヴァス 神の息子」と言う意味で、彼の父親の名に由来するが、「良く聞く所の者」と言う意味にも解釈できる為、多聞天(たもんてん)とも訳される。
この多聞天(たもんてん)、どこか聖徳太子の「一度に多くの者の発言を聞き分ける」と言う超能力と似ては居まいか?
厩戸皇子(うまやどのみこ)は、別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)と呼ばれるが、つまりは「聞いた事を聡明に理解する神」と言う立場を表す別名である。
我輩は、多聞天(たもんてん/ヴァイシュラヴァナ神)をモデルにし、また経典に在る他の神々も取り入れて「聖徳太子と言う神格を創り挙げた」と睨んでいるが間違いだろうか?
また、「聖徳太子が遣隋使に託した」とされる遣使の国書の文言に
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」
とあり、自らを中華皇帝と対等の国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。
厩戸皇子(聖徳太子)は、明らかに中華帝国との対等外交を繰り広げる積りでこの文面の書を送っている。
つまり、蘇我馬子またの名を厩戸皇子(うまやどのみこ)が大王(おおきみ・天皇)と対等だった。
しかし後世に伝えるにあたり、皇統以外の人物が主役では都合が悪い。
厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)が実在の人物を脚色したのではなく人物その者を創作したと成れば、益々この時代の実力者・蘇我馬子の功績を「皇統の功績に歪曲する為に登場させたのではないか」と言う疑惑である。
時代を錯誤する方が居られるので念押しをして置くが、この推古天皇(すいこてんのう・第三十三代・女帝)の御世ではまだ坂東(関東)が開拓され始めたばかりで、大和朝廷の大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威は関東以北の東北地方にまで到っていない。
その頃の東北地方は朝廷側言う所の蝦夷(えみし・縄文先住民)の国で、遥か時代が下がった桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の御世に征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)や坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を送って隷属化するまで異国の地だった。
つまり推古大王(すいこおおきみ・第三十三代・女帝)の御世は、まだまだ大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)の権威が混沌としていて不思議が無い。
その上での厩戸皇子(聖徳太子)に「虚像」の疑惑が浮上する。
古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。
聖徳宗の総本山・法隆寺(ほうりゅうじ)が奈良県・生駒郡斑鳩町(いこまぐんいかるがちょう)に在り、創建は六百七年(推古十五年)とされている。
通説によれば、六百一年(推古天皇九年)、聖徳太子(しょうとくたいし)は斑鳩の地に斑鳩宮(いかるがのみや)を建て、この近くに建てられたのが「法隆寺である」とされ今に伝わっている。
とは言え、法隆寺(ほうりゅうじ)について「日本書紀」には六百七十年の火災の記事があるが、それは創建とされる六百七年からおよそ七十年後に当たる年の出来事で、創建そのものについては何も書かれていない。
その存在に疑惑が在る聖徳太子(しょうとくたいし)とゆかりが在るとされる法隆寺(ほうりゅうじ)が、太子がリアルタイムで創建に拘(かか)わったかどうかで実在は証明される所だが、今の所確たる物は無い。
ならば可能性としてだが、後世の聖徳太子(しょうとくたいし)捏造者が法隆寺(ほうりゅうじ)に目を着けて、または法隆寺(ほうりゅうじ)その物が太子創建を名乗り出た可能性も否定出来ない。
勿論、千四百年から経た世界最古の木造建築とされる西院伽藍を含むなど、法隆寺(ほうりゅうじ)は聖徳太子(しょうとくたいし)存在の真贋に関わり無く、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された文化遺産である。
「辻褄(つじつま)が合わない事を信じるのが信仰だ」と言ってしまえばそれまでだが、信仰の対象に成って居る「聖徳太子(しょうとくたいし)の超人的カリスマ性」は、後世の知恵である可能性が強い。
「超人的能力が在った」とカリスマ性が伝えられ信仰の対象となっている「聖徳太子は架空の存在だ」としながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸皇子(うまやどのみこ)と言う人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てた事は史実と主張する歴史学者も居る。
但し厩戸皇子(うまやどのみこ)としては、当時「目立った働きが在った」と言う伝承も無く、推古天皇を太子として補佐した痕跡も無い。
益してや、厩戸皇子(うまやどのみこ)誕生の経緯が、イエスキリストの誕生シーンに如何にも酷似している所から、厩戸皇子(うまやどのみこ)の存在その物が後世の捏造である疑いもある。
日本書紀その他の文献に拠ると、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺は聖徳太子に拠って創建されたが、太子亡き後に政争に巻き込まれて太子一族は「六百三十余年頃に滅び」、法隆寺の伽藍は太子一族滅亡後に「火災で焼け落ちた」と伝えられ、子孫も含め太子の痕跡は跡形も無く消えている。
つまり現在の太子に関わる寺物・書物の類が、全て日本書紀編纂後の物ばかりに成る辻褄と符合する物語が出来上がっているのだ。
実際に火災で焼け落ちたとされる最初の法隆寺の遺構らしきものが発見されているので、法隆寺の存在は確かかも知れない。
だが、問題は聖徳太子とその太子一族の事である。
不思議なのは、焼け落ちて「再建された」とする現在の法隆寺の金堂に、「再建される前から在った」と見られる年代の「太子を模した」とされる本尊・釈迦三尊像そして夢殿に安置されている秘宝・救世観音(くせかんのん)が存在する。
厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の出現は、日本に於ける釈迦の出現とも言われている。
つまり神格化した存在である。
聖徳太子一族を攻め滅ぼしたのは蘇我氏と言われ、法隆寺が再建されたのは乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)が「天智大王に即位してから」と言うのだ。
それ故に天智天皇にすれば、自らの権力奪取の正当性の為にも、皇統に厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の神格化は必要だったのかも知れない。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち取って権力奪取した乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事を起こす。
その中大兄(なかのおおえ)グループの政権奪取の時点で、蘇我氏(そがうじ)一族の善政の跡が残っては統治上後々都合が悪い。
そうした思惑から、それ以前の政治は架空の太子・厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)をでっち上げてその太子の手柄とし、「歴史を改ざんしたのではないか」と疑えるのである。
そして何よりも、厩戸皇子(うまやどのみこ)を聖徳太子と初出したのは百年以上を経ってからの後の事で、辻褄合わせと言うか都合良くと言おうか太子一族が全て滅亡して跡形も無くなる事も謎である。
実は百五十年後に朝廷主導で編纂されたこの「厩戸皇子の物語」を、事実か創作か、現在知り得る断片的な条件では誰にも証明出来ない謎である。
この謎の結論を明記する学者が居るとすれば、それは別の妖しげな意志の基に書かれたものである。
蘇我氏(そがうじ)は、蘇我入鹿(そがのいるか)の代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らに宮中で襲われた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って討ち取られた。
そして蘇我氏(そがうじ)に「一族ことごとく討ち取られた」とされる「聖徳太子とその一族」が、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料に「初出」と言う形で出現する。
つまり聖徳太子の出現は、蘇我氏(そがうじ)を殊更悪しき存在としてその後に起こった乙巳の変(いっしのへん)の変事を正当化するものである。
そうしたあらゆる周辺の情況を集積すると、「謎の聖徳太子を出現させ最後に蘇我氏が太子一族を攻め滅ぼす」と言うストーリーの裏側に垣間見えるのは、皇統の神秘的な優秀性を主張する目論見とともに「蘇我氏一族の功績」をも葬り去る意図を持っての「百五十年後の創作ではなかった」とは言い切れない。
聖徳太子は皇位に就けなかったのではなく、存在しなかった。
それ故日本書紀では、聖徳太子一族は蘇我一族に暗殺されてこの世から消滅した。
つまり聖徳太子は、存在しないからこそ当時の政治の中心・飛鳥に居住せず、斑鳩(いかるが)の里に住む謎の太子として、日本史上に「伝説」として登場したのではないだろうか?
日本書紀は、蘇我一族が「聖徳太子一族を滅ぼした」とする汚名を着せて「大化の改新(たいかのかいしん)」の正当性をでっち上げ、合わせて元々存在しなかった太子一族について日本書紀編纂時に太子一族の末裔が一人も居ない事の言い訳をした。
そうなれば、聖徳太子一族が「蘇我氏に滅ぼされた」と言う記述も「辻褄合わせ」と見る事ができるのである。
とどのつまり「統治の都合」と言う事情に於いて、大きな背景の下に捏造した歴史は存在する。
推測での結論は貴方の考え方次第だが、その不確かな存在を後世の政治が、皇子のかなり誇大な能力と業績を家伝し、シンボリックに利用していた事は事実である。
あくまでも伝承であるが、聖徳太子(摂政 ・せっしょう)は秦氏族系の河勝(香具師の祖)伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴氏族の大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した」と伝えられる。
彼らは、修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して「聖徳太子の手足になった」と考えられ、伊賀・甲賀の発生に欠かせないのが修験道の「存在の歴史」である。
この秦氏族と大伴氏族が、その後の大王(おおきみ・天皇)の交替の歴史の中で臣王一族としては衰退して行き、その一族の一部が土着、土豪化して「伊賀者、甲賀者となって行く」と言う推測である。
つまり、国家の維持運営には「秘密警察」兼「諜報工作組織」が欠かせない事は、今も昔も共通していた。
そこで時の帝(天武天皇)に拠って役小角(えんのおずぬ)と修験道組織が創設される。
修験道組織は曲折を経た後年の桓武帝が没した頃、陰陽寮次官の「陰陽助」勘解由小路(かでのこうじ)の一部は、朝廷組織とは独立した大王(おおきみ・天皇)直属の裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党が密かに組織化される。
秦氏族系の伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・伊賀服部)と大伴氏族の大伴(おおとも・甲賀大伴)も、勘解由小路党、陰陽特殊武士団に組込まれたのである。
そして土着したのが、いずれも陰陽修験の所縁(ゆかり)の地、紀伊半島の里だったのである。
聖徳太子に関わりがある遣隋使(けんずいし)とは、日本史に於いて大和朝廷(ヤマト王権)の飛鳥期・推古朝(推古大王/すいこおおきみ)の頃、大陸・隋帝国との正式交流として派遣した朝貢使の事を指す「史学上の名称」である。
つまり朝貢使を派遣したとされる六百年(推古八年)から六百十八年に掛けて五回の派遣については、遣隋使(けんずいし)と言う呼称を大和朝廷(ヤマト王権)が使用して居た訳ではない。
そしてこの遣隋使(けんずいし)と言う史学上の朝貢使について、まだ解明されていない部分が多く、果たしてどれほどの精度がある事か怪しいのである。
まず、第一回目の朝貢使とされる派遣については大和朝廷(ヤマト王権)側の日本書紀などにその記述は見られず、「隋書・東夷傳俀國傳」に在る俀國(倭国?)の朝貢使を「第一回ではないか?」としている。
そこで問題が幾つかある。
まず「隋書・東夷傳俀國傳」に記載された「倭国の朝貢使」であるが、当時の大陸・隋帝国に於ける倭国の認識は、辺境の蛮国を指し必ずしも大和朝廷(ヤマト王権)を指すとは限らないからである。
大和朝廷(ヤマト王権)側に記録が無いにも拘らず、この「隋書・東夷傳俀國傳」の記載を持って第一回の遣隋使(けんずいし)としてしまうには、かなり後に成って確定した倭国=日本の定説を遡って適用してしまうからではないだろうか?
そしてもう一つ、日本史に於いて第一回目の朝貢使は推古大王(すいこおおきみ)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)が発案、派遣を命じたとされるが、その聖徳太子その者の存在も疑われていて遣隋使(けんずいし)の存在と整合性が採れていないのである。
第二回とされる六百七年(推古十五年)の朝貢使については「日本書紀」に記載があり、小野妹子(おののいもこ)が大唐国に「国書を持って派遣された」と記されているので実在と考えられる。
しかし大陸・隋帝国に朝貢使を送るも「大唐国に国書を持って派遣された」と記載あるを、かなり後(七百年代)に編纂された「日本書紀」の誤りなのか、大唐國は加羅國の宗主国の意味だったのかは定かではない。
小野妹子(おののいもこ)は、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で春日氏の一族・小野氏の出身とされる朝臣で小野臣、大徳冠の冠位を賜ったとされている。
但し、「隋書・東夷傳俀國傳」には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ倭国の「使者」とあるのみで、小野妹子の存在は虚構が多いとされる「日本書紀」に見えるだけである。
「隋書・東夷傳俀國傳」に拠ると、
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出されていた書を見た煬帝は、書に天子在るに「帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)」
と立腹したと書き記されている。
此処で注目して欲しいのは「倭国の使者」はあくまでも「隋書」の記述で在って、大和朝廷(ヤマト王権)側は「日出ずる処の天子」を名乗り、倭王ではない。
「隋書」では大和の国に当たる国名は記されて居らず、「都於邪靡堆(都はやまたいにある)」と記されて在る事から「東夷傳俀國」が大和朝廷(ヤマト王権)を指すと解釈されている。
小野妹子はその後返書を持たされて返されるが、帰途に於いて返書を百済に盗まれて無くしてしまったとし、煬帝の返書は大和朝廷(ヤマト王権)が受け取っていない事になっている。
煬帝の返書の内容がとても大和朝廷(ヤマト王権)に容認できない為に、受け取らなかった事にしたのではないかと言う推測が定説である。
いずれにしても、虚(きょ/感性)と実(じつ/理性)の狭間に存在する聖徳太子が創造上の架空の人物で在りながら、この太子の存在を道徳の啓蒙に利用しようと言う勢力が後を絶たない現実が、そこに在る。
歴史の難しい所は、例え統治の都合で捏造されたものでも、永く伝承されると「文化の歴史」として存在する様になる事である。
つまり「史実の歴史」とは別に「文化としての歴史」は、信仰や伝説を通じて時の経過と伴に育ち、後世では確実に文化として存在して「全く無い事」と否定出来ないのだ。
例え聖徳太子が創造上の架空の人物で在っても、「文化としての歴史」では存在する事に成る。
只、この「史実の歴史」と「文化の歴史」は、違いを認識しながら扱って行かねば成らない事は言うまでも無い。
聖徳太子の実在疑惑に関して、漸(ようや)く今年・平成二十五年(2013年)の歴史教科書の改訂から「聖徳太子は実在しない」と記載された。
戦前の歴史研究家とその教え子が歴史研究界で健在だったつい最近まで、古事記・日本書紀は日本に於いて犯す事が出来ない正史だった。
しかし古事記・日本書紀は、天武天皇〜桓武天皇当時の朝廷政府が、その皇位の正当性を知らしめる為に捏造した歴史だった。
尚、古事記・日本書紀の記述内容の怪しさは、欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね)からも立証できる。
戦前、皇国史観に組した歴史研究家達に師事した教え子達は、自ら発表し教えた古い自説を否定出来ないまま戦後六十年間を「正しい」と頑張り、研究者としての面子を守った。
為に戦後第一世代と第二世代は、そのまま古事記・日本書紀を学び続け、戦後六十年間の永い事、この古事記・日本書紀偏重の牙城に挑む者は異端者扱いだった。
そして法隆寺(ほうりゅうじ)を始め神社仏閣の由来も、古事記・日本書紀をベースに構築してあるから、今更中々作り話とは言い難い。
つまり現代の研究者の一部も、自ら発表した古い自説を否定出来ないまま、未だに頑として新説を認められ無いでいる。
「そんな事は無い、聖徳太子実在せず説は暴論だ」と言う仏教系歴史学者がいるが、それでは「実在する」と言う証拠を提示するかと言うと、今までの伝承を並べ立てるだけである。
しかし日本の最高額紙幣・日本銀行壱万円券(聖徳太子札)は、聖徳太子に歴史的に疑義が生じた為、論議を避けて実在の文化人・福澤諭吉に昭和五十九年に変更された。
この頃から聖徳太子の実在に疑義が在ったのだが、平成二十五年の四月に新しい内容の歴史教科書が作成されるまで何と二十九年間も、聖徳太子は教科書に掲載され続けた。
了
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