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samurai 【光秀の本能寺】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(逆賊謀反は光秀に非ず、信長なり)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の小説です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

◆ 未来狂冗談の小説

【「本能寺の変」の謎・光秀の本能寺

(逆賊謀反は光秀に非ず、信長なり)
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諸般の事情に拠り「小説仕立て」とさせて頂きます。


【「本能寺の変」の謎・光秀の本能寺

(逆賊謀反は光秀に非ず、信長なり)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約二週間程度お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔第一話〕  【あらすじ・お薦めポイント
〔第二話〕  【光秀出自
〔第三話〕  【光秀流浪
〔第四話〕  【織田家仕官
〔第五話〕  【女性達の血脈
〔第六話〕  【信長上洛
〔第七話〕  【浅井・朝倉
〔第八話〕  【姉川の合戦・小谷落城
〔第九話〕  【実質と形式の二重構造
〔第十話〕  【天下布武の意味
〔第十一話〕 【安土の城と騎馬軍団神話
〔第十二話〕 【信長の大結界
〔第十三話〕 【信長の野望と光秀の苦悩
〔第十四話〕 【光秀の決断
〔第十五話〕 【本能寺攻め
〔第十六話〕 【光秀の不運
〔第十七話〕 【中国大返しの奇跡
〔第十八話〕 【消えた光秀

あらすじ・お薦めポイント

◇◆◇◆◇◆◇◆◇あらすじ・お薦めポイント◆◇◆◇◆◇◆◇◆

未来狂冗談の歴史・時代小説です。

歴史の真実は、全て正史の裏面に在る。

これは、主人公・明智光秀を英雄(ヒーロー)仕立てにした娯楽小説では無く、多くの資料を駆使して推理構築した考察的歴史小説である。

融通が利かない頑固さでものを見れば確かに物事の答えは簡単だが、それでは決まり切った答えしか浮かばない。

信長と光秀との主従関係だけ見れば本能寺の変は光秀の謀反であるが、しかし視点を別に置けば光秀は天下の大忠臣なのだ。

つまり貴方の日頃の思考に於いても同じだが、視点を替えれば新しい別の発想が湧いて来る事を知って欲しい。

晩年の織田信長の家臣団には相応の秀才が数多くいたが、いずれも常識主義者であり、微妙な所で信長の才との「ずれ」が在った。

究極の所で、信長の真意を理解できた者はほとんど居なかったが、たった一人、「世にも稀な秀才」が居た。

それが明智光秀である。

光秀だけが、信長の考える処を瞬時に理解する能力を持っていた。

但し、信長の様な「天才的な閃(ひらめ)き」ではなく、あくまでも「論理的に」、である。

この図式は、光秀が信長に心腹している間は最高の組み合わせで、天才・信長の発想を光秀は論理的に具現化できたからだ。

だが、信長は天才故の「侮り(あなどり)」の中で光秀を失い、それに気付いた時は本能寺に居た。

発した言葉は「是非に及ばず。」である。

天才・信長は相手を惟任日向(これとうひゅうが/明智)と聞いて一瞬に自らの命運を悟り、自らの「天下布武」の夢が砕け散った瞬間を知った。

「是非に及ばず。」は光秀を非難した言葉ではなく、「良いも悪いもない」と光秀を庇(かば)ってすらいて、信長にしてみれば光秀に裏切られたのであれば、もはや「何も言う事は無かった」のだ。

天才・信長は此処で最後の知略に出るが、これは光秀への置き土産である。

この本能寺の変、凡人であれば「おのれ光秀。」となる。

たまに、信長にこう言う「せりふ」をはかせる小説や台本があるが、凡人の考える稚拙な「せりふ」である。

信長の才能を、凡人の物差し(ものさし)で測っては何も見えてこない。

織田信長は、明智光秀を侮(あなど)っては居なかった。

その聡明さから、「光秀が同じ価値観を理解している唯一の家臣だ」と、信長が勝手に思い込んで居ただけで、信長は「またやってしまった。」と、自分の侮り(あなどり)をこそ責めたのである。


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光秀出自

◇◆◇◆◇◆◇◆光秀出自 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百二十八年(享禄元年)に、父は明智光隆、母はお牧の方の間に幼名を桃丸(明智光秀)と言う運命の男がこの世に生を授かる。

本能寺の変のもう一方の主役は、その桃丸(惟任/明智日向守光秀)である。

若い頃は、明智十兵衛光秀と名乗った光秀の人生最大の決断は、本能寺に信長を討った事である。

天下の秀才・明智光秀が何故謀反を抱き、何故あの時期に「本能寺」に攻め入ったのか疑問は多く、諸説あるが、いずれも決め手に欠ける。

何故なら、光秀ほどの秀才に「全体の状況把握が出来ていない」とは思えないからだ。


僅かな供回りを連れて、本能寺に泊まった「信長だけ」を討つのには、確かにチャンスだが、その後の天下の行方に確信は掴めなかった筈である。

本来、光秀はそんな安易不確かな賭けに出るほど愚か者ではない。

そう考えると、損得ずくでは無い何かが・・・そう、緊急性のある「或る事」が、裏に在った筈だ。

少なくともその時点では、「彼は、天下を望んだ訳ではない」と考える方が、自然である。

問題なのは、例え光秀が信長を本能寺で殺害しても、家臣の柴田勝家も羽柴筑前守(当時の秀吉)も丹羽長秀も織田の実子の大名達も健在でいる事である。

つまり、信長軍団は幾つかのユニットで、それぞれ大軍が健在なのだ。

いずれにしても、信長を本能寺で葬っても四方に信長の軍団が健在で、光秀はそれらの大軍を相手に何度も戦をしなければ成らない。

そのリスクを負っても成し得るべき、意外な理由があるに違いない。

そして四方に展開する織田軍団の他にも、同盟軍の徳川家康も居る。

徳川家康も、どちら側に回るか判らない。

もっとも家康は、光秀軍の追撃をかわし、「伊賀越え」で取り逃がした事になっている。

だが良く調べて見ると、表向きまだ伊賀や伊勢まで光秀の通達が行っていなかった事になって明智方の郷士の所領も難なくすり抜けている。

光秀の血統と歴史の必然を考えればそれはおのずと納得できるもので、この後先を考えない強引とも言える挙兵は天下奪取の野望なのではけしてない。

この光秀の顔立ちには野心など無く、盟主を支える事が似合っていた。

あの時点での光秀のの目的は、「信長暗殺」この一点に在った。

その後の事は、不本意でも成行きで良かった。

つまり事態が切迫していて、稀代の秀才・光秀をもってしても、後の事を考える余裕が無かったのである。

事実、「三日天下」(実際には十三日間)と言われるくらい、あっけない結末だった。

「用意周到に事を起こした」とは思えない光秀の行動と、「希代の秀才」との評価のギャップに、後の人は「逆上による発作的行動ではなかったか?」と、凡そクールな光秀には似合わない事さえ言う。

実は、光秀は或る事が証明できないまま、ただの謀反人とされてしまった。

それほど、「計算度外視」で光秀が動いたのは何の為か?

もし、それが計算度外視の「重要な大義」だけで光秀が動いたのなら、それはそれで、立派なものだ。


明智光秀の出自(しゅつじ)を紹介して置こう。

明智家も源氏・頼光(よりみつ)流の出で、血統からすれば光秀の方が、同じ源氏や藤原でも平次(平氏の末)でも、血筋的には織田家の信長より確かで、格は少し上だ。


美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。

美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。

頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。

平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。

土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となり、庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。


この土岐一族の本流の別れが、美濃の国明智郡に居を構え、小城を築いて明智姓を名乗った。

つまり光秀の方が、信長より遥かに源氏の本流に近く、言わばバリバリの血統書付きだった。

名家の出ではあるが、光秀は不遇だった。

美濃一国を支配していた明智本家の守護大名土岐氏は、配下の斉藤道三の下克上に合い、支配する領地、美濃の国を乗っ取られていた。

斉藤氏(さいとううじ)は、見た通り藤姓を有する加藤氏・工藤氏・佐藤氏などと同じ藤原家系流にその出自を見る。

日本に於いて十位以内に入る大姓の一つ斉藤氏(さいとううじ)は、現在では約百万人程が名乗っている。

その起源は、平安時代中頃の藤原北家魚名流・鎮守府将軍・藤原利仁(ふじわらのとしひと)の子・藤原叙用(ふじわらののぶもち)とされ、伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)を務めた叙用(のぶもち)が「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。

藤原叙用(ふじわらののぶもち)の父・藤原利仁(ふじわらのとしひと)の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。

当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。

後世の斎藤姓は関東・東北に多くみられ、特に山形県、秋田県、福島県に多いようであるが、旧家でも明確な系図を伝える家系はあまりみられず、地方の土豪で利仁将軍の武名にあやかり、斎藤氏を称した例も多かったものと推測される。

斉藤氏で有名な所では美濃斉藤氏が在り、美濃国内には明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏など多くの庶流が輩出された美濃国の守護大名家・土岐氏(清和源氏・摂津流美濃源氏)の守護代として美濃に勢力を持っていた斉藤氏が在ある。

美濃国守護代・斎藤宗円(さいとうそうえん)は、前任の土岐氏守護代・富島氏を下克上で追い落とし土岐氏守護代に成った男である。

その宗円(そうえん)の子で惣領家を斎藤利永(さいとうとしなが)、弟・斎藤妙椿(さいとうみょうちん/、室町〜戦国時代の武将兼僧侶)の後継斉藤氏を持是院家と言う。


斎藤妙椿(さいとうみょうちん)は、兄・斎藤利永(さいとうとしなが)没後に甥である利永(としなが)嫡男・新守護代・斎藤利藤(さいとうとしふじ)を後見する為、惣領家の居城・加納城へ移り、在京の守護家・土岐氏と協力して応仁の乱を戦い、美濃国に土岐・斎藤共同政権を確立した。

その美濃守護代家・斉藤氏の惣領を討ち殺し、斉藤家の諸職を奪い取って名家・斉藤家の名跡を奪い斉藤右京太夫道三を名乗ったのが戦国大名・斉藤道三である。


斉藤道三に関するほとんどの脚本で間違えているのは、「道三一代で美濃国を乗っ取った」と言う記述である。

近頃では山崎屋庄五郎・西村勘九朗が道三の父・松波新左衛門尉で、長井新九朗利政・斉藤新九朗利政が新左衛門の息子・道三本人と言うのが道三研究のもっぱらの主流に成って居る。

また、清和源氏・摂津流美濃源氏・明智光秀(あけちみつひで/土岐氏支流)とは従兄弟にあたると言われる美濃守護代家・斉藤氏の支流・斉藤利三(さいとうとしみつ)は、三代将軍・徳川家光の乳母・春日局(お福/斉藤福)の父親である。

その斉藤利三(さいとうとしみつ)は、斉藤惣領家・斎藤利永(さいとうとしなが)の弟・長井利安(ながいとしやす)の息子・斎藤利賢(さいとうとしかた)の次男である。

明智一族も、本家土岐氏没落後は、斉藤道三に従っていて、実を言うと明智家は、斉藤道三に大事にされていた。

土岐氏を排除したものの、美濃の国運営には、土岐の血筋は都合が良い。

しかし斉藤道三は、嫡男の「斉藤義龍」に討たれてしまった。

斉藤道三が、嫡男・義龍よりも他の子供を可愛がった事から、「危機感を抱いての親殺し」と言われている。

但しこの嫡男、後ほど詳しく記述するが「道三の子ではない」と言う疑惑もある。

信長は、道三娘「濃姫」をもらっているので、斉藤道三は信長の舅(しゅうと)で義父に当たる。

道三が嫡男の「斉藤義龍に攻められた」と急を聞いて信長が、美濃に援軍を率いたのだが道三は既に討たれてしまっていた。

その騒乱の中、明智の当主・光安は道三方に廻って一族の小勢で明智城に立て籠もり、義龍に抵抗して落城、討ち死にしている。

その時光秀は、明智家再興の為に従弟の「光春、光忠」など一族の若手を連れて城を抜け出している。

光秀は、幼い従弟二人を預かり、斉藤利三と言う明智家血筋の武将の支援を受けて御家再興を念じて旅に出る。

此処の所が少しややこしいのだが、斉藤利三は元々明智家の庶流で在った者で、美濃守護職土岐家の守護代であった斉藤家の庶流を継いで斉藤を名乗って居た。

嫡流家は乗っ取りの斉藤道三利政(山崎屋庄五郎・西村勘九朗・長井新九朗利政)に継がれて、斉藤利三は本家を失うが、美濃三人衆と謳われた有力武将・稲葉一鉄に臣従して生き残っていた。


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光秀流浪

◇◆◇◆◇◆◇◆光秀流浪 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

帰る地を失った光秀一行は、諸国を巡り、長い事あちらこちらに身を寄せる、流浪の身に在ったのだ。

その後、経緯は定かではないが、光秀たち明智一族は越前(福井県)の「穴馬」の地に辿り着いて、そこに落ち着く。

若手の中で年長者の為、一族のリーダーとなった光秀は、勉強の為に更に諸国を回り、地形や大名達の情勢などの見聞を広めていた。


流浪していた光秀は、越前(福井県)の「穴馬」の地に於いて越前朝倉家に仕官の誘いを受け、応諾して一族で越前に居を構える事になる。

漸く光秀は仕官が叶い、一応の俸禄を得て世に出る足がかりを掴んだかに見えた。

この朝倉家も織田家同様に、元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)で在った。

守護代だった朝倉家も他家と同じような経過を辿り、比較的早くから戦国大名として力を持っていた。

越前の大名・朝倉義景に仕官した光秀は、文・武・芸の多方面に才覚を発揮する。

当初、光秀の出自と見識は上流社会好みの当主・朝倉義景に大いに喜ばれ、重用されていた。

しかし、「一族の仇敵」斉藤義龍の子龍興が信長に敗れ朝倉家を頼って逃げて来た頃、光秀は朝倉家に有って不遇だった。

聡明過ぎる光秀は、他の家臣からすると嫉妬まじりに嫌味な存在に映る。

その相手が大勢だから、他の歴代家臣の嫉妬交じりの甘言により主君・義景からも徐々に疎まれていたのだ。

そうなると、新参者だけに意見も無視されて朝倉家々中に居場所が無い。

その上、宿敵斉藤家の龍興が尾張の織田信長に敗れて朝倉家を頼って逃げ込んで来た。

龍興が一族の「憎き敵」なのに、主君の客では手が出せない。

光秀は、忸怩(じくじ)たる思いで在ったろう。

そこへ誂(あつら)えた様に、「織田家に仕えぬか?」と信長の招き状が送られて来た。

織田信長は美濃の斉藤龍興を越前に追い、二ヵ国を有する太守になっていた。

織田家の所領が倍増し、尾張、美濃を治めるには人材が要る。

特に美濃は信長にとって新たな領土で、地元の人心を抑えるには正統な土岐の一族の血筋が欲しい。

土岐氏の血流である明智光秀こそが、美濃を治めるにもって来いの人材だった。

この主家乗り換えの仕官話に、光秀は乗った。

何よりも、従姉妹の斉藤帰蝶(さいとうきちょう/濃姫)の嫁ぎ先であり、それにこの戦国の世に勢いを増して行く信長が、光秀には「有望株」と映っていたからである。

天下の秀才・光秀は、世間の評判と美濃攻略を為し得た見事な戦略から、信長の天才性を見抜いていたのだ。

「視点を変えて物を見、立場や観点を変えてものを考える。」

正直多くの事を考えるのは楽ではないから、こうした事がきちんと出来る人間は意外と少ない。

世間では、まるで頑なに意固地な事が「格好が良い」とでも思い込んでいる見当違いが多過ぎ、実はそのほとんどは単なる横着の言い訳である。

思考の発想段階から依り柔軟性がないと、新たな結論は得られない。

より酷いのは、感情的に「私は思った」と主張する事で、その思った事に対して如何程の考察が伴っているのかが問題である。

所が、思った事を持って如何にもそれが正論がごときに「私は思った」と主張して、論議にもさせない程度が低い人物がこの世には多い。

その点信長は、物の本質を自在に吸収して、「出した結論に対して頑固だった」のであり、世間の中身の無い頑固さとは質が違う。

世間の常識を、そのまま「正しい」と思い込んでいる人間は、楽には生きて行けるが何も成し得るものはない。

一方光秀にすれば、越前・朝倉家に居ても累代の家臣が役席を分け合って利権がらみの厚い壁を作っている。

そこに持って来て家中随一の知恵を持っていると成ると、結果家中で光秀一人浮き上がり、微妙な立場だった光秀は願い出て、朝倉家に「暇請い(いとまごい)」を許され、信長の下に向かったのである。

保守的雰囲気が強い朝倉側でも、諸般の事情で知将「光秀」の存在は手に余っていたのだ。

此処から、信長と光秀の「運命の道程が始まった」と言って良い。

当初は信長も、引き抜きとは言え光秀の値踏みは、光秀に会うまではせいぜい五千石も与え、侍大将の端にでも加えれば「破格の扱い」と高を括っていた。

何しろ、戦に破れて流浪の末、朝倉家でくすぶっていた男である。

正妻・お濃(斉藤帰蝶/さいとうきちょう)の口添えもあるから、その男・光秀も少し優遇してやれば尾を振る筈だった。

しかし光秀と対面した信長の、その胸算用があっけなく変わる。

人には会って見る者で、不覚にも信長の方から光秀に魅了されてしまうのだ。

因(ちな)みに、織田信長は奇才ではあるが異才ではない。

何故なら、充分に筋が通った奇才なので、凡人には信長の発想に想い到らないだけである。

初めて光秀が目通りした時、信長は何時もの様に「光秀の力量を量ろう」と常人が返答に困る様な意地の悪い質問を試みた。

信長は性格が性格だから、相手を試す質問は押して知るべしである。

信長の質問は鋭く、普通なら言葉に窮する者が多い。

処が、光秀から返って来る返答が、子飼いの諸将より一枚も二枚も上手だった。

それどころか、信長の真意を見透かしたような返答が返って来る。

「この男尋常にあらず。」

内心そう思ったが、頭(ず)に乗られないように、信長は感動を押し殺して居た。

実は、信長が思い描いていた上洛のビジョンを、光秀は寸分狂う事無く言い当てていた。

この場合の上洛とは単に都に昇る事では無く、首都を制圧、天下を掌握するする事を意味する。

驚いた事に、細部に渡ると光秀案は信長案を補足してさえいて、その男・光秀の軍略の発想が、信長の気に入るものだったのである。

興奮して、予定を遥かに過ぎるまで光秀と問答を繰り返し、信長はある確信に達していた。

「捜していたのは、こ奴だ。」

そう織田信長にとっては眼前に控える六歳年上の光秀が、自分の考えが楽に通じる初めての男だった。

決めれば、早いのが信長である。

信長にしてみると光秀は思いの他の拾い物で、自分の言う事が、楽に通じるのだ。

「あやつ、予の言う事を即座に飲み込む、思いの他、利口者よ。」

孤独な信長は感動を覚え、嬉しくさえ在った。

明智光秀は、美濃を攻略した信長の今に必要なだけではなく、先の戦略に大きく貢献する人物だったのだ。


まず光秀は血統が良く、美濃で明智姓は大いに通用する。

その上、明智光秀の妻は煕子(ひろこ)と言い、美濃国の「妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女」と言われている。

正確には当時の夫婦は別姓であるから、妻木煕子(つまきひろこ)が正しい名乗りである。

あの有名な細川ガラシャなど、光秀の子は全て煕子(ひろこ)との子である。

彼は「生涯妾を持たなかった」と言われる愛妻家だった。

明智光秀には、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)を娶る前にもう一人妻が居たらしいのだが、詳細は判らない。

この光秀の妻・煕子(ひろこ)の旧姓を聞いてピンと来る筈である。

そう、明智光秀の妻の旧姓名は、あの勘解由(かでの)党の直流にあたる妻木家の娘・妻木(勘解由)煕子(ひろこ)である。


現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。

妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。

天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。

だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。

この妻木家、実は源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。

即ち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。

この妻の実家の事が、織田家に仕官した後の明智光秀にとっては大きな力に成ったのである。

妻木家については「明智家の枝」とする出自解釈も在るが、勿論、賀茂朝臣(かもあそみ)が正解で、どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。

ここが肝心の所で、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解していなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。

実はこの婚姻に拠って、明智光秀は妻・煕子(ひろこ)ともに勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。

婚儀がまとまり、光秀が婚礼の打ち合わせで妻木家に挨拶に伺うと、当主の妻木(勘解由)範煕(のりひろ)が、目出度い席に似あわぬ浮かぬ顔で応待した。

明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。

「いゃ、明智殿には良くお来し頂いた。」

範煕(のりひろ)の挨拶の声も、心なし沈んでいて、どうした事かと、光秀が問い質した。

「妻木殿、何か当方にご不審の点でもお在りでござるか?」

妻木範煕(のりひろ)は、恐縮して話を切り出した。

「あ、いゃ貴殿方の事ではない。実は・・・明智殿、娘・煕子(ひろこ)との婚儀の儀でござるが、娘・煕子(ひろこ)が病を患い致しましていささか顔が見苦しゅう成り申した。かく成る上は娶られるのは妹の方では如何か?」

「何の妻木殿、男が一旦娶ると決めた娘子なれば娶った後に病を患いしを捨てるも同然、そんな浅き絆では永く添い遂げるは叶わぬが道理、一向に移り気は致して居り申さず。」

「流石に才の誉れ高き明智殿、道理を通されるに拙者感服いたした。良き婿殿に成るは。ワッハハ。」

縁談がまとまった後、煕子(ひろこ)は疱瘡(ほうそう)の病に患り、婚礼前に顔にアバタが出来たのであるが、「それでも光秀は嫁にした」と伝えられている。

当然の事ながら、煕子(ひろこ)の実家・妻木家の婿・光秀への評価は高いものになる。

光秀の男気に惚れて、一族を挙げ光秀を支援しても不思議はない。

事実、明智熙子(ひろこ)の実父・妻木範熈の長子(継子)・妻木範賢、次子・妻木範武、三子・妻木範之などの熙子(ひろこ)の実弟達は一族を率いて義兄・明智光秀に合力、光秀の出世と伴に次第に臣従して光秀の戦略や合戦に参加し役目を果たしている。

表立っての戦闘はそう多くは無いが、妻木家が勘解由(かでの)小路党であれば、得意の諜報工作では大いに力を発揮した筈である。

名前の通り妻木家の本姓は「勘解由(かでの)」で、名門・勘解由党の、それもかなり正当な枝である。

言わば草の世界の人脈は計り知れない。

この辺りに、愛妻家・明智光秀の秘密があるのかも知れない。

妻木(勘解由)家の発祥は、岐阜県土岐市妻木町である。

光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄で、妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。

この妻木(勘解由)家、実は徳川家の本当の旗本ではない。

名門の外様領主ではあるが所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為、親戚の遠山家も同様だが、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれていた。

この大名格旗本の「交代寄合格」以外に江戸幕府から朝廷や公家との交際指南役として公家に近い扱いを受けたのが、室町幕府で高級官僚を務めた経緯を持つ没落名家などから幕臣に引き立てた家が高家旗本である。

因みに明智光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。

妻木家は、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれ、明治維新まで美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として永らえている。

つまり明治維新まで、美濃妻木七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃明知六千五百石余)と共に永らえ、維新後も新政府の官僚に納まっている。

尚、鎌倉期まで遡る岩村城の初代城主として知られるこの親戚の遠山氏が、実は鎌倉殿(将軍)・源頼朝の重臣、加藤景廉(かとうかげかど)が美濃国・遠山荘(現・岐阜県恵那市岩村町)地頭に補任されてこの地に赴任する。

景廉(かげかど)死後、長男・加藤景朝(かとうかげとも)が、名を加藤から地名である遠山姓へと変えて戦国の大動乱を凌いで江戸期まで生き残ったのである。

横道に逸れるが、ご存知「遠山の金さん」、南町奉行・遠山金四郎景元(とうやまのきんしろう・かげもと)は、この利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派・明知遠山氏(あけちとおやまし)の分家で知行五百石の旗本だった。

つまり明治維新まで、美濃妻木七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃明知六千五百石余)と共に永らえ、維新後も新政府の官僚に納まっている。

いずれにしても織田信長は、明智光秀を手に入れて上機嫌だった。

「お濃、あ奴思わぬ拾い物じゃ。」

余程気に入ったのか、思わず光秀の顔を思い出す信長から笑みが洩れている。

「光秀をお気に召しましたか。よろしゅうございました。」

その夜、興奮した信長は濃姫を荒々しく抱いた。

嬉しい事、腹の立つ事があると、信長は濃姫の寝衣を剥ぎ取る。

「濃、予はあ奴を気に入った。」

言いながら、信長は濃姫の寝衣の帯紐を「スルリ」と抜き取っていた。

前が肌蹴(はだけ)て裸身が覗くと、濃姫が息使い荒く絡み付いて来て、もう二人の会話は途切れ、激しい息使いだけが寝所に響き渡っていた。


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織田家仕官

◇◆◇◆◇◆◇◆織田家仕官 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

信長の正妻「濃姫(斉藤帰蝶・さいとうきちょう)」は斉藤道三と小見の方(明智光継の娘)の娘で、明智氏とは母系縁戚にもなる。

それに、明智光秀の表裏に跨る豊富な人脈は尋常では無く、異例な事だが信長はいきなり美濃国の安八郡一帯を、光秀の所領として与えている。

光秀に与えたのは郷では無く群で、これは五〜六万石に相当し、いくら信長が美濃・尾張百万石の太守と言へども、二十分の一は破格である。

光秀が、最初に朝倉家に仕官した時のおよそ十倍の条件でそれは古参の家老並みの待遇だった。

留意して欲しいが、戦国大名が武将を召抱えるに行き成り何千・何万石と、とてつもない俸給条件を提示する事があるが現代に比して驚かないで欲しい。

これは一族郎党を一括召抱えるようなもので、現代の個人採用とはその趣(おもむき)がかなり違い、それなりの郎党(兵力)を持って臣下と成り傘下に入るのである。

つまり現代風に解説すると、企業買収と言う形ちに近いものが在る。

単身で召抱えられても、然(さし)したる働きが出来ないのが戦国の世だった。


行き成り美濃国の安八郡を与えられて宿老並の待遇とされた時、明智光秀は自分を即座に認めた信長を喜ぶより「恐い」と思った。

そして明智光秀には不安が在った。

何とすれば、光秀はひとかどの軍師を目指して学んで来たが、このお館様に軍師の助言は必要が無さそうだった。

光秀は、信長には「全て見通される様な気」がして「心して掛からねば」と、身構えたのだ。

使える(役に立つ)者に信長は気前が良い、見る目も確かだ。

引き換え、越前の領主・朝倉義景(あさくらよしかげ)は凡才で、光秀の才と人脈の重さに気が付いては居なかったのだ。

信長は上機嫌で、「光秀、光秀」と、何かにつけて声を掛けた。

以後、信長天下取り戦略の重要な場面に光秀は常に傍(かたわら)に居た。


明智光秀が織田信長に召抱えられた頃、信長の小者(使い走り)の中に妙に調子の良い木下と言う男が居た。


三十三歳に成っていた明智光秀が後に生涯のライバルとなる木下藤吉郎に最初に会ったのは仕官間もないこの頃で、木下藤吉郎(秀吉)は若干二十四歳のまだ士分と言えるかどうかの信長付きの小者に過ぎなかった。

藤吉郎は、光秀よりは凡(おおよ)そ十歳ほど若く、小姓上がりでは無い所を見ると元々は士分の者では無いらしい。

周囲の者にそれとなく聞くと、尾張中村の産で「おね(ねね)」と言う木下家の娘を嫁に貰って「その姓を名乗っている」と言う。

この実際には九才年下の木下藤吉郎(秀吉)の存在は、光秀には「奇妙な若者」と映ったが、当時二十七歳だった信長は手元に置き、光秀にも「あ奴は気が利くで外向けの用事を申し付けて重宝している」と紹介している。

只、信長には「藤吉郎、藤吉郎。」と何かにつけて用を言い付かって、可愛がられていた。

木下藤吉郎(秀吉)の才は、戦国に在っても勇猛な武人の才ではない。

その藤吉郎は小才が利く事から、やがて勘定方の士分に取り立てられて今で言う総務・庶務・会計係のような雑事を岐阜城で一手に引き受けて、士分に有り勝ちな気取りも無い「如才ない仕事」をして織田家中で少しづつ頭角を現している。

つまり彼が秀でていたのは「人と金の使い方」・・・マネージメントであり、その才覚をもって築城術、土木工事術、また輸送能力に優れ、現場での作業人員確保に優れて、水攻めなど彼独特の戦のやり方で信長の負託に応えていた。

また、何故か藤吉郎(秀吉)には妙な人足の動員力が在り、人足仕事を任せると無類の能力を発揮した為、何時の間にか作事奉行の任にあり付いて幹部に名を連ねている。

奇妙な事に、その木下藤吉郎と名乗る若い男は、小者(使い走り)には凡そ似合わない自前の武士団を配下に従えている。

その木下藤吉郎が、年々取り立てられ何時の間にか信長子飼いの武将の中でも頭角を現していた。

明らかに他の武士には無いタイプだが、確かに木下藤吉郎は実行力に優れ、配下の武士団を操って信長好みの奇想天外な手法で築城やら戦をして成果を挙げて、やがて羽柴秀吉を名乗る武将として光秀のライバルに成長して行く。


豊臣秀吉に関しては、血筋を重んじる時代に出自不詳の男が天下を取ったのだから大衆受するのは当り前である。

そして勿論秀吉は、超級の実行力の才能の持ち主だった。

しかし彼・秀吉の場合、天才・信長の指示が在って、それを実行する事に拠って「学習し、習得したものだった」と考えられる。

思うに、信長の家臣団は、柴田勝家を始め、丹羽(にわ)長秀、木下藤吉郎(秀吉)など明智光秀を除く大半の武将は、お館様(信長)に育てられ鍛えられて、芽を伸ばしたのではないだろうか。

また、秀吉(藤吉郎)が信長に見出され、重用された事には、「秀吉には元々力が在った」と言う隠された出自(血筋の裏付け)に関する立派な理由がある。

しかし、その話はひとまず置いて、後に解明する事にしよう。

いずれにしても信長家臣団の重臣達はひとかどの武将では在ったが、その斬新な発想に於いて信長には遠く及ばなかった。

信長の命じた結果が実を結んで彼の非凡な才能を証明するに及び、多くの織田家々臣が信長のカリスマ性を認めて心服して行った。

勿論、明智光秀もそうした家臣の一人で、信長の天才的思考能力には心服していた。

間違えてはいけないが、誰かが「誰かに付いて行く」と言う事は、その人物に惚れる事である。

「誰かに付いて行く」と言うその背景の「夢の中身」は色々でも、付いて行けば夢の達成への可能性が見込めるからで、何も無いのに「付いて行こう」と言う事は世間では在り得ない。

会社にしろ組織にしろ、背景に在る「夢の中身」に近付ける期待が在っての事で、棟梁(社長など)が家臣(部下)が「無条件で付いて来る」などと自惚れたら付いて来る者など居なくなる。

織田家の家臣団も、大なり小なりそれぞれの夢の為に信長に付いていた。

そして織田信長自身にも、未だ口には出せない大きな夢が在った。


この頃突然、信長は清盛平家の末裔を自称している。

そして、傅役(ふやく/お守り役)の平手政秀の自刃が、起こった時期でもある。

平氏は、桓武天皇(第五十代)の第五親王・ 葛原親王(かずらわらしんのう) が賜名「平」を 賜り、桓武平氏・平高望へ続いたのだが、何しろ桓武天皇は、歴代天皇の中でも有数なリーダーシップを有した強烈な性格の天皇だった。

桓武平氏流・平将門、平清盛、北条政子などの末孫が、武力的に度々最高権力者に上り詰めるに於いては、 葛原親王(かずらわらしんのう) が桓武天皇の強烈な性格を、一番強く継いで居たのかも知れない。

敢えて「その血筋を名乗ろう」と言う信長に、如何なる野望が潜んで居たのだろうか?

織田信長ら戦国武将が生まれた頃、室町幕府が将軍の威信を失い、秩序を保てなく成って帝のお膝元である京の都や畿内周辺部は戦乱に明け暮れていた。

秩序を失えば詰まる所は欲望で、各地で下克上の戦乱が始まり戦国大名が台頭を始めていたのだ。


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女性達の血脈

◇◆◇◆◇◆◇◆女性達の血脈 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

信長が系図まで作って、「平家の末裔になりたかった」のは何を意味するのか、賢明な読者は「既にお判り」だとは思うが、追々明らかにしたい。


織田、斉藤、明智にまつわる女性達の血脈を介した繋がりを紹介する。

それが、信長と光秀の人生を決定付けた事であったからだ。

織田信長の妻は「濃姫」と呼ばれているが、これは美濃の国から嫁いで来たからで、本当の名前は「帰蝶(きちょう)」と言う。

一般的には「濃姫」の方が通りが良いので、此処では「濃姫」で通す。

濃姫(帰蝶・きちょう)が、美濃の国主斉藤道三の娘で有り、信長の妻として輿入れしたのは、大方の日本人で有れば先刻承知の事である。

この縁組の事を、「政略結婚」と言われているが果たしてそうだろうか?

確かに美濃と尾張は国境をはさんで紛争が絶えなかった。

元の国主・美濃守護職・土岐頼芸が道三に追われ、信長の父信秀に援助を要請した経緯などが在る事は在る。

しかし信長の織田家は格から言えば守護代家の家老相当格で、まだ弱小領主だから美濃斉藤家とすれば娘を嫁がせてまでの政略結婚の理由としては説得力に欠ける。

そうなると他の理由として、美濃斉藤家・濃姫(帰蝶・きちょう)と尾張織田家・信長の結婚は、海千山千と評される斉藤道三が、信長に惚れ込んだからだとも言われている。

何故なら斉藤道三は、長井家、斉藤家と親子二代に渡る凄まじい家系乗っ取りと主君への下克上を経て、美濃一国を手に入れた男で有る。

その男が、格下の尾張をまだ統一していなかった新興大名と家同士の政略などする訳が無い。

それならば若き大虚け者(おおうつけもの)の信長に、斉藤道三が「何か」を見たからこその、縁談ではなかったのか?

それで無ければ、息子を差し置いて信長の手元に、道三からの美濃一国の「譲り渡し状」など残る訳が無い。

信長はこの道三の「譲り渡し状」を根拠に、美濃の豪族へ「味方に寝返るよう」書状を送り、実父・道三を討ち、美濃の国主に納まった斉藤義龍と対峙、度々美濃に攻め込む。

明智光秀の父は明智光綱と言い、美濃国々主・土岐頼芸の血縁に繋がる城持ち領主で、その妹が織田信長の妻「濃姫」の母「小見の方(おみのかた)」である。

つまり「濃姫」は光秀の従妹にあたり、その縁で光秀は織田家に召し出された。

この「小見の方(おみのかた)」は、美濃の国領主となった斉藤道三の妻とも妾とも言われているが、この「小見の方」は美濃国の旧領主・土岐頼芸から「お下げ渡しで拝領した」と伝えられている。

斉藤道三は下克上で国主になる以前に、仕えていた主君・土岐頼芸の側室「小見の方」を弓試合いの掛けで拝領したのだ。

そうした経緯から、異説では「小見の方」が道三の下に来た時に既に妊娠していて、その子が「道三を討った長男の斉藤義龍だ」とする説もある。

つまり斉藤義龍の実の父は土岐頼芸で、「義龍は親の仇を討った」と言う説で、であれば斉藤道三とその子息・斉藤義龍が仲が悪かった理由が理解できるのある。


斉藤道三(長井左近大夫規秀)の祖父は松波基宗と言う御所の警護をする「北面の武士」の家柄に生まれ、若い頃の名を松波峯丸と言ったのだ。

だが、戦国期に入り朝廷も幕府も権威が落ち、御所の警備どころか日々の生活にも事欠く様になり松波家は没落して農業に帰農した。

そこで、祖父・松波基宗は息子・新左衛門尉を京都妙覚寺に預ける。

新左衛門尉は日蓮宗妙覚寺で「法蓮坊」を名乗り学問を積んで頭角を現すが、やがて法蓮坊は還俗する。

ちなみに「北面の武士」とは、白河上皇の院中に創設された上皇の親衛隊で京都の御所域に設けた北部の地域、一条地区の裏を北面と言い、そこに居住していた御所の警衛の為の朝廷直属の武士団で、西面の武士も存在する。

還俗した法蓮坊は「山崎屋庄五郎」と名乗り、京都周辺で油屋を営み油の専売権で財を成す。

その財を生かして、当時美濃の国を支配していた美濃国守護職の土岐家の重臣長井家・長井弥二郎に、妙覚寺時代の弟子・南陽坊を介して目通りを得て仕える様になる。

山崎屋庄五郎(松波新左衛門尉)はこれを足掛かりに、長井家の推挙で美濃国守護大名「土岐政房」の弟・土岐頼芸に仕官する。

その後、松波新左衛門尉こと松波(山崎屋)庄五郎は長井家の重臣・西村家の家督を継ぎ西村新左衛門尉を名乗る。

長井家と西村新左衛門尉は主君・土岐頼芸を擁して主家の守護職・土岐盛頼を攻め、主君・土岐頼芸に守護職を奪い取らせ、その功に拠り新左衛門尉は美濃国・本巣郡を与えられて領有する。

この政変で恩人・長井利安は守護代に出世したのだが、西村新左衛門尉は長井利安と対立、西村新左衛門尉は長井家当主・利安と妻を殺害、家系を横領して美濃守護代・長井新九朗利政を名乗る。

一言断って置くが、現代風の解釈で商人(油屋)の山崎屋庄五郎(斎藤道三の父・新左衛門尉)が「武士に成り上がった」と言う解釈は安易である。

この時代、元の法蓮坊時代を含め、神官・僧籍も商人も農工業・海運業も徳川幕府成立期までは氏族(武士)の兼業、または業種選択の範囲であり、国主級の大名以外は大概別の生業(なりわい・多くは農業)をしていたのが事実である。


濃姫(帰蝶)が信長と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われ、信長十六歳、濃姫十五歳だった。

この婚姻、当時としては大名豪族の縁組としてさほど早くは無く、御年頃としては似合いの年恰好の二人で有る。

読者の期待に応えて、二人の夫婦生活を想像する。

世間一般の俗説的言い伝えに依ると、織田信長は「サド的なセックスを好んでいた」と言う。

恐らくは、阿修羅のような信長の、その過激な生き方から想像したものであろうが、否定する材料も無い。

この件では、数名の作家が二人の夫婦生活をかなり大胆に激しいエピソードを描いているが、「さもあろう」と考えられる背景が揃っていて、作家なりの見当が付くのだ。

日本民族には、欧米のキリスト教文化と違い昔から「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」と言う姫方・女房方が積極的に殿方を喜ばせる性技が在った。

殿方を喜ばせる性技「閨房術(けいぼうじゅつ)」は、姫方・女房方にとって大事な積極的に習得すべき心得だったほど、性に対しておおらかで積極的な考え方を日本民族は持っていた。

と言うのも、実は殿方が姫方・女房方の性技に喜ばされて操られる事は珍しくない為、「閨房術(けいぼうじゅつ)」に平和な武器としての価値が認められていた。

当然ながら勢力を競う氏族(貴族や武士)の子女は、誓約(うけい)の概念の元に所謂(いわゆる)「閨閥(けいばつ/婚姻による家同士の連携)」創りの役割を果たす為に世に生まれて来た様なものだった。

当時の氏族社会は「妾妻」を持つのが当たり前で、実質一夫多妻だったから閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)は現在のように「愛を確かめるもの」と言う拠りも殿方を愉しませ「愛を獲得する為のもの」だった。

原点がその通りだから女性はむしろ性交には積極的で、凡そ人間に考えられる閨房行為に女性には禁じ手など無く、口淫性交や陰間(肛門)を使う事など技の内である。

例えば氏族(武士や貴族)の間では男色習(衆道(しゅうどう/男色))が当たり前で、ほとんどが両刀使いだったから、女性相手でも陰間(肛門)も使っての行為は現在よりも一般的で、武家の娘はその位の事は心得ていた。

その時代を生きるには、その時代なりの気高い女性の生き方が在った事に成る。


日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

日本古来の「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」の発祥は不明だが、考えられる推測としては他の武術同様にその発祥を諜報活動を担っていた陰陽修験に見られる可能性が強い。

だとするならば、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った密教・インド・ヒンドゥー教の神や祭祀に関する経典の、女神・サラスヴァティー(弁財天・観世音菩薩)やシヴァ神(破壊神)、女神・シュリー.ラクシュミー(吉祥天)、ダキニ天(荼枳尼天)などの性愛術を参考にしたのかも知れない。

以後、修験組織が関わって成立した源義経の愛妾・静御前に代表される諜報組織「白拍子(しらびょうし)遊技制度」の「床技」などで発展、戦国時代の武家の間で戦略的に子女を持って利用されて「術」として確立された。

この「閨房術(けいぼうじゅつ)」、「術」と言う範疇(はんちゅう)に入るからには、修練を積んでその「術」を自在に操れる様になる事が要求される。

つまり大げさに言えば、「閨房術(けいぼうじゅつ)」と言う性技が、氏族の女性に課せられたひとつの習得すべき積極的な技(わざ)だった。

殿方が武勇を競って領地を広げるなら、女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。

寝所(寝屋)での事に、正妻と妾妻の分け隔ては無く「如何に殿方を喜ばせるか」の性技勝負の場に成る。

大胆かつ濃厚な性技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めで「手柄」である。

時代により女性の性に対する価値観も違って当り前で、血統を唯一の特権の証明として受け継いできた氏族の女性にとって、この理屈に疑いなどある訳がない。

まず、当時の社会では性技は花嫁の必須条件で、十五歳と言えば嫁入りの時に性技の心得は充分に教わる。

何人もの妾妻を持つ事が普通の世界だったから、「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせ、殿方に気に入られる事から寝所(寝屋)での戦は始まる。

どちらかと言うと正妻は政略結婚で、妾妻は殿方に気に入られての事であるから、実は正妻ほど「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせないと、この勝負は気に入られている妾妻に負けてしまうから切実なのである。

そして当時の氏族社会は極端な「血統主義社会」であるから、殿方の種を受け入れ世継ぎを懐妊・出産する事が女性(にょしよう)の勝利だった。

現在の解釈など通用しないのが、歴史である。

氏族の娘にとって「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」は勝つか負けるかの真剣なもので、殿方の武芸武術に相当する手段だった。

恋愛は精神的もので、当時の肉体的接触は、かならずしも恋愛とは一致しない手段である事が常識で、その事を現代の女性に「昔の女性の扱いは悪かった」と同情される謂われも無い。

現代では、女性の肉体を目的達成の手段にするなど、倫理的に理解され難い事だろう。

しかし親子兄弟でも領主の座を争い、例え叔父甥の間柄でも隙あらば領土拡張の的にする氏族の価値観である。

「殺し合いをしても領土を手に入れる」と言う究極の価値観に生きる者達には、女性の肉体は「領土拡張の道具」と考えられても不思議な事ではない。

つまり、殺し合いも女性の色香も目的達成の手段で、当時は異常な考え方ではなかった。

そこの価値観の違いを分けて懸からない事には当時の女性の心情は理解出来ないし、奇妙な現代風の恋愛時代劇が成立してしまう。

しかし良い加減なもので、恋愛時代劇が成立してその物語を楽しみ、女性の敵かのごとくに拘(こだわ)る筈の妾妻と主人公の殿方との恋愛を美しく描いて楽しむ矛盾もロマンチックに受け入れてしまう。

「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」も含めて男女の仲は添ってから育むもので、精神愛まで達した仲が本当のゴールである。

本来一致させるのが難しい精神愛と性愛を、現代女性の願望を満足させる為に金儲けでロマンチックに歴史が歪められるのはいかがなものか?

さて、織田信長と濃姫の「閨房」における夜合戦であるが、当時、殿方の心を繋ぎ止めるのは、「女性の閨房術の腕次第」と言う事になっていたからその心得をもって濃姫は織田家に嫁ぎ来た。

つまり「気が強かった」と言われる濃姫の方は、その為の覚悟を持って嫁いで来ている。

そこに持って来て相手は「天下の虚(うつ)け者(常識の破壊者)」信長である。

何事にも創意工夫実験好きが信長像であるから、その二人の行為が「かなり奇抜であった」と想像に難くないが、いかがか?

血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。

女性(にょしょう)には妻に成るなり妾に上がる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。

誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。

そこで室町期から戦国期に掛けて君臣間の誓約(うけい)衆道(同性愛)が盛んになった。

そう言う意味に於いて、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。

一所を構える領主の子息ともなると、武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手、成長すると稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされ、神仏習合の修験道(密教)では呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムで、憚(はばか)る事の無い公(おおやけ)な習慣であった。

若き織田信長に近習(小姓)として仕え、腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から出世した男である。

前田利家は尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)の土豪・荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれ、幼名を犬千代と言った。

千五百五十一年(天文二十年)に十四歳で織田信長に近習(小姓)として仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った。

この二年前に織田信長が十六歳で濃姫(帰蝶)を娶っているから、利家が織田家に出仕した頃の信長は利家より四歳年上の血気盛んな十八歳になる。

この頃前田利家は、信長とは衆道(同性愛)の関係にあり、「武功の宴会で信長自らにその関係を披露された」と加賀藩の資料「亜相公御夜話」に逸話として残されている。

つまり、信長の濃姫(帰蝶)との新婚生活と近習(小姓)・前田利家との衆道(同性愛)関係は同時進行していた事になる。

「傾(かぶ)く」は、言わば現代の若者にも通じる奔放主義の事である。

若き日の主(あるじ)織田信長が「虚(うつ)け者」として傾(かぶ)いて居た頃で、従う近習・前田利家も「相当に傾(かぶ)いて居た」と言われている。

これはあくまでも推測だが、何事にも探究心旺盛な信長の事であれば、濃姫(帰蝶)との新婚生活と前田利家との衆道を合体させた今で言う三P(三人プレィ)何て事を、奔放にしていたともにいなかったとも言い切れない。

何しろ濃姫(帰蝶)と利家の支配者が、何事にも研究熱心な大虚(おおうつ)けの織田信長だったからである。

濃姫(帰蝶)について、余り文献が無い事から「早くに亡くなった」とか、「病死した」とかの説があるがそうは思えない。

濃姫の血縁が在っての、この物語の成立と思えるからだ。

元々女性の事は書き残してこなかったのが日本の文献の実態で、資料が少ない事に不思議は無い。

しかしながら、信長の美濃攻略成功後、濃姫が母方従弟の明智光秀の存在を信長に紹介したのが、「二人を引き合わせたきっかけ」とするのが自然で有る。

他に、越前朝倉家に居た明智光秀をわざわざスカウトする「接点は無い」と思われる。

江戸期以前は、戦乱が永く続いた事や男系重視で男性主導の社会環境(女性には奥ゆかしさが求められていた)に置かれていた事もあり、女性を書き残した文献は少なく、名さえ判明しない事も多々あり、誰々の女(娘)、誰々の室(妻・妾)と言った表現が多く、その日常や消息を伺い知る手がかりは少ない。

か、と言って、彼女達が男の只々言う事を聞いていただけの存在ではけしてない。

その時代の生活様式に乗っ取っただけで、男の行動はすべからく女性に影響を受けているからである。

明智光秀は、自分で売り込んだのではなく、信長に書状で召し出されている。

その事から、濃姫は健在で有り「安土殿」と呼ばれた女性が、濃姫の事ではないだろうか?

その「安土殿」は本能寺の変以後も生き延び、千六百十二年(慶長十七年七月の初旬)に七十八歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている。

濃姫(帰蝶)尾張輿入れの際、美濃の国からおよそ三十人に余る女性(にょしょう)が身の回りの世話をする為に付いて来た。相談相手と護衛を兼ねるお女中衆に加え、お端(おはし)と言われる使い走りの少女達である。

このお端(おはし)の中に、後に日本史の表舞台に躍り出る「お福」の母、「お安/あん」と言う七〜八歳の美少女が居た。

利発な娘で、明智党の流れを汲む美濃国・国人領主・稲葉一鉄の娘で有った。

これから後、この稲葉安(あん)の娘・福がこの物語に重要な役回りで登場するので覚えていて欲しい。

それは、後ほどのお楽しみで有る。


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信長上洛

◇◆◇◆◇◆◇◆信長上洛 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

明智に関わる地名は美濃には二ヵ所あり、一つは現・岐阜県可児市である。

可児市は戦国時代明智の庄(荘)と呼ばれ、一族の本拠地・明智城はここにあった。

明智城主明智光安が、斉藤義龍に攻められ、十五歳の光秀が従弟二人を伴い、落城寸前に落ち延びたのはこの城からで有る。

もう一つは恵那市の明智(合併前・旧恵那郡明智町)だが、双方とも明智光秀生誕の地を謳っているが、決め手に欠ける。

他に所縁(ゆかり)があるのは、織田家仕官の折与えられた光秀最初の所領、美濃の国安八郡(味蜂麻郡・現神戸町)だろうか?

織田家に仕官したその後の明智光秀の出世は目覚しく、伊勢、近江、丹波攻めなどの戦の武功により、四十歳代半ばにして、めでたく近江志賀郡に十万石を与えられ、千五百七十一年(元亀元年)に大津城に入城、後、近江・坂本城城主となる。

この三年後の天正二年、光秀は従五位下日向守、翌天正三年には惟任の姓を与えられ、丹波国領主に任じられ、これより独力で丹波制圧戦を開始する。

その傍ら、信長の多忙な戦略の応援で、長篠合戦、安土城築城、石山本願寺攻略、松永久秀征伐などにも参加している。

実は、明智光秀が従兄弟でお福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)を明智家の家老職に迎えたのは漸く国持ち大名に成ったこの頃である。

つまり斉藤利三は従兄弟では在ったが、明智家が隆盛に成って初めて家老に成ったので在って、光秀の出世を永くサポートした訳では無い。

お福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)は、斉藤惣領家・斎藤利永(さいとうとしなが)の弟・長井利安(ながいとしやす)の息子・斎藤利賢(さいとうとしかた)の次男だった。

斉藤利三(さいとうとしみつ)は斉藤道三の息子・斉藤義龍(元・美濃国主・土岐頼芸の子とも言われる)に臣従していたが、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返るとそれに従い、一時は稲葉氏の家臣となったのだがその一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになった。


一時期斉藤利三(さいとうとしみつ)の主となった稲葉(一鉄)良通は、始め美濃国主・土岐氏に仕え、それを乗っ取って継承した斉藤道三の斉藤氏三代に仕えて、三人衆として最も有力な家臣団だった為、一鉄が信長の美濃攻略で斉藤龍興を見限って信長に寝返った事は、道三の斉藤氏の滅亡を決定的にし、その功績で稲葉一族は織田家に仕えた。

実は、稲葉(一鉄)良通が美濃国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)を見限り信長方に寝返ったには、帰蝶(濃姫)付きのお端(おはし・端女)として織田信長の傍近くに使えさせていた娘・稲葉安(あん)からの報告に拠る所が大きい判断材料だった。

お安(あん)からの報告を見る限り、我侭放題で凡庸な主君・斉藤龍興(さいとうたつおき)に比べて尾張国主・織田信長は駿河の太守・今川義元を桶狭間奇襲で破るなど容易ならざる逸材である。

それに道三の娘・帰蝶(濃姫)は信長に嫁し、美濃明智党一族は明智光秀と共に信長に臣従している。

道三の斉藤家は、元々の守護代斉藤家を乗っ取り、守護職・土岐氏の美濃国を乗って下克上で国主に納まった相手で、美濃国人領主・稲葉家としては現在の美濃国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)に家運を掛ける義理はなかったのだ。

その後美濃・稲葉家は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えて激動の時代を生き抜き、息子・稲葉貞通の代に徳川家康の依頼で斉藤利三の娘・福(春日局)の養父となり、林正成(はやしまさなり)を養子に迎えて、斉藤福(春日局)を大名婦人として三代将軍・徳川家光の乳母に送り出している。

千五百七十八年(天正六年)には、光秀は丹波の大半を攻略、天正八年には正式に信長から丹波一国を与えられる。

つまり近江志賀郡十万石拝領からわずか九年後には丹波一国を加増され、亀山城、福智山城を築城、光秀は亀山城主になり、坂本をあわせて、実に三十二万石の大名に伸し上がっていた。

光秀はこの加増で、腹心の斉藤利三に丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・現丹波市春日町)一郡五万石を与え、黒井城々主に据えている。

この時の光秀は、近畿地方の織田大名である丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶らの指揮権をも与えられ、信長家臣団の中でも上に一段抜けた立場になっていたのである。

天皇が住まいし都の街を、洛中(らくちゅう)と呼ぶ。

千五百六十八年(永禄十一年)、大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、馬上で感慨に耽っていた。

「ようようここまで来たか・・・。」

この年(永禄十一年)、明智光秀は四十一歳、織田信長は三十五歳、木下(羽柴)秀吉は三十二歳、徳川家康は若干二十六歳だった。

大軍勢を率いて、信長初めての上洛だった。

馬上から遠くを見渡せば、低い山々が連なってこの盆地を囲んでいた。

眼前を見上げると、あかね雲が浮かんでいる。

珍しく織田信長は、優しげな眼差しでそれを眺めていた。

日常の、見慣れた夕刻の風景であったが、行く手に広がるのは千年の都だった。

馬上から眺める都(京)の街並は、流石に寺社の大きな建物が多く、町並みは整然と碁盤の目には整えられていたが、度重なる戦火で所々にみすぼらしさも目立っている。

今は、「信長の軍勢を見よう」と路端には、都の者供が群れ並んでいた。

その都人の群れのそこかしこから、感嘆のどよめきが上がっている。

この為に信長は自らの衣装を始め、軍勢もきらびやかに飾り立てて都人の度肝を抜く積りでやって来ていた。

「これが、京の都か・・・・」

打ち続く戦乱は、漸く上洛を果たした信長の目に都の街並さえも荒廃させて映っていた。

信長が戦乱を勝ち抜いた覇王として始めて京の都を見た時、都は見る影も無く疲弊し中には、焼け落ちたまま朽(く)ちている屋敷さえ散見される。

御所も公家共の屋敷も、修理の手を入れる訳でもなく、見る影は無い。

公家内と思しき者や町屋の者共が、噂に聞く阿修羅の武将を一目見ようと大路の左右に群がっている。

この豊かな国を治めるには、朝廷は余りにも非力で役立たずだった。

信長の気性では口うるさいばかりで役に立たない者共の相手は、性分として苦手だった。

わしは・・・足利義昭公のお守りだけでもウンザリじゃ。

信長は、この先の難題に思いを馳せ、傍らの明智光秀に声を掛けた。

「光秀、都の公家どものお守りはそちがやれ。」

「はっ、承知つかまった。」

眼前を見上げると、あかね雲が浮かんでいる。

その焼ける様な空の色が、やがて薄らいで青白くなり、灰色となって間もなく闇が訪れる。

その頃の「朝廷は」と言うと、千五百五十七年(弘治元年)後奈良天皇の崩御に伴って正親町(おおぎまち)天皇(第百六代)が践祚(せんそ)するが、天皇家の財政は落ちぶれた室町幕府同様に逼迫して即位の礼を挙げられず、権威も地に落ちかけていた。

毛利元就などの献金を受けてようやく即位の礼を挙げたほど天皇家は逼迫していたのである。

しかし、千五百六十八年の織田信長の上洛によって、この朝廷の資金難の状況が変わって来る。

信長の後ろ盾で、幾らか朝廷の面子は保たれ始めたのである。


千五百六十九年(永禄十二年)足利義昭を第十五代将軍として擁立した信長は、和泉国一ヵ国の恩賞だけを賜り美濃国へ帰国する。

この時、信長は義昭から管領家である斯波家家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされるが、これは信長に含む所在っての事で遠慮ではない。

織田信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃する「六条合戦」を起こす。

しかし、信長は豪雪の中を僅か二日で援軍に駆けつけると言う機動力を見せたるも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

織田信長は明智光秀を介して朝廷の資金を援助し、見返りに天皇の権威を利用し、その敵対勢力に対して度々講和の勅命を出させている。

朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭の戦い、石山本願寺との講和はいずれも時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の調停を得た正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命に拠るもので在った。

金品を贈られ、漸く帝の権威を取り戻した正親町(おおぎまちてんのう)天皇は、信長の言うがままに「勅命」を出していた。

しかし、「喉元過ぎれば・・・」と言う事で、少しずつ天皇としての自我が出て来る。


千五百七十三年(元亀四年・天正元年)に、足利義昭を京都から追放した織田信長が、朝廷の権威を凌(しの)ごうと公卿や朝廷を通じて改元させる事に成功する頃から、信長は正親町(おおぎまち)天皇の存在を疎むようになり、度々譲位(退位)を要求する。

しかし、正親町(おおぎまち)天皇はそれを最後まで拒んだ。

軍勢を持たない「将軍・足利義昭」は、誰の目にも信長の傀儡(かいらい)と映る。

信長の戦力と言う「後ろ盾」有ってこその将軍で、本人は抵抗しても言わば信長の操り人形である。

傀儡(かいらい)の語源は芸能にそのルーツを見、「陰で糸を引く」と言う意味である。

この陰で人を操る意味の「陰で糸を引く」の語源は、江戸期に成立した芸能・傀儡人形(くぐつにんぎょう)の「操り人形」から来ている傀儡(かいらい)の語源で、西欧文化のマリオネットでも同じ意味の用法が存在する。

似たような意味で、アドバイス(助言)の形で別人の行動を操る「差し金」は、歌舞伎などで黒塗りの竿の先に針金をつけ、チョウや鳥などの小動物を操る為の小道具の事で、人形浄瑠璃で人形の手首や指を動かす為に用いる細い棒を「差し金」と言った事から語源となった。

只、こんな事は権力構造としては珍しくはない事で、帝自身がお飾りだった歴史的比率は非常に高いのである。

ここで各地の大名達が、足利義昭の招請に応じ将軍就任の挨拶に参内(さんだい)すれば、事実上信長の風下に立つも同然だった。

これに面子と気分だけで反発したのが、越前朝倉家の義景である。

戦国の動乱期に京の雅(みやび)ばかりを気取った越前のボンボン国主は、朝倉家第五代・朝倉義景(あさくらよしかげ)だった。


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浅井・朝倉

◇◆◇◆◇◆◇◆浅井・朝倉 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

上洛して京を制圧した信長に抵抗した朝倉家も、織田家同様に元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であったのだが、他家と同じような経過を辿り、守護代だった朝倉家も比較的早くから主家の斯波(しば)氏を排除して独立、戦国大名としてかなりの力を持っていた。

その朝倉義景(あさくらよしかげ)が、織田信長の「天下布武」の前に立ちはだかる。

「予は尾張の田舎者に頭など下げん。放って置け。」

朝倉家は早い時期に下克上に成功し、五代当主・義景まで大名家を維持するとドップリと名門意識に浸かっていた。

信長に対する抵抗の鼻息は荒かったが、朝倉家の当主朝倉義景は武将と言うよりは文化人で、今で言う「ボンボン」の典型である。

義景は「売り家と、唐様で書く三代目」ならぬ、朝倉五代目なのだ。

この上洛を果たした頃の織田信長の勢力は、尾張、美濃、三河、畿内五州、伊勢、等十二ヵ国二百四十余万石、兵力六万強と恐ろしく膨張していた。

それに同盟国が遠江、駿河、等六十四万石の徳川家康と近江半国の江北三十九万石の浅井長政を加えると、石高三百四十三万石、兵力約十万の大勢力になる。

つまり、逆らった越前八十七万石朝倉義景は、ただの感情論による無謀な判断をした事になる。

もっとも浅井家三十九万石が朝倉方に廻ったが、それでも百二十六万石の浅井・朝倉連合に対して織田・徳川徳川連合は三百五万石ほどと倍では収まらない。

朝倉義景は、下克上で伸し上がった武家でありながら公家貴族生活に憧れ京風文化に憧れた文化人で、おごり極まりない生活を送っていた。

プライドだけが高く、世の変遷(世の中の変わりよう)に鈍感だった。

朝倉義景(あさくらよしかげ)が凡将だった事は、折角臣従した明智光秀の並外れた才能を見出せなかった事で証明できる。

この保守的文化人が最も嫌うのは、信長タイプの革新的発想の具現者で、正に朝倉義景はこの時最悪の領主(経営者)と言えた。

このタイプで、成功した大名(経営者)は居ない。

彼らは守りに入って、結果的に革新的発想の前に滅びている。

余談ながら、秀吉も晩年この誘惑に囚われて豪華絢爛を好み「侘(わ)び寂(さ)びの茶」、千利休と確執を起こしている。


朝倉家は、将軍家(裏に信長)からの再三の上洛参内命令を無視する。

その朝倉義景の態度に堪り兼ねた信長は、終(つい)に朝倉攻めを決意する。

しかし大きな問題があった。

同盟軍、浅井長政の存在である。

浅井家には祖父の代からの朝倉家との長年の協力関係の歴史があり、信長はこれを充分承知していた。

「朝倉攻めはしない」が、織田・朝井同盟時の盟約条件で在ったのだ。

しかし、この期に及んで朝倉を放っては置けない。

選択した手段は、浅井家を関わらせない事で、対面を保つ方法だった。

具体的には、浅井家に何も知らせないで信長は朝倉攻めを始めた。

信長にすれば、以心伝心で「長政なら判ってくれる」と信じたかったのだ。


冬から春先にかけて美濃国・尾張国の濃尾平野には「伊吹颪(いぶきおろし)」と言う強風が吹く。

濃尾平野の西方向にそびえる伊吹山の頂上空から、伊勢湾に向かって吹き抜ける寒気を伴った強風は濃尾平野を厳しく舐めて行く。

若狭湾から琵琶湖を経て伊吹山の麓の関ヶ原に至る回廊状の地形が存在し、日本海側の冬の季節風がこの回廊を通って吹き込んで来るのである。

正にこの回廊状の季節風の通り道がその地方の風土(ふうど)の一つであり、尾張から越前への朝倉攻めの道筋だった。


信長は兵を起こし、越前・朝倉攻めに向かった。

この知らせを聞いて、浅井家中や浅井長政は苦悩する。

浅井家にとっては同盟国同士が戦をするのであり、事が起こった以上戦国大名が傍観者ではいられない。

ましてや、浅井家にとって両者伴に同盟相手同士の争いである。旗色を鮮明にしないと、武門の名折れになる時代だった。


「信長が朝倉攻めを起こす」の報を受けて、浅井家中の意見も揺れ動いた。

隠居の父・久政は、当主・長政に対して永年の朝倉家との同盟の恩義を主張した。

弱小戦国大名の浅井家は、朝倉家との同盟関係で命脈を保って来た。

朝倉家の永年の御を忘れては、浅井家の武門の義は立たぬ故に、父・久政は、強行に「朝倉方にお味方せよ。」と迫った。

妻・お市の実家・織田家との間に入って苦悩した長政も、最後は「義」を採(と)って、朝倉方への加勢を決断する。

「父上の仰(おっしゃ)る事、御もっともである。各なる上は、朝倉殿にお味方仕りましょうぞ。」

せめて、「傍観者でいてくれ。」の信長のメッセージは、浅井長政には遂に届かなかった。

この長政の決断は、朝倉攻めをしていた信長を窮地に立たせる。

前後を敵に囲まれる最悪の事態で、退路もなくなる。

浅井家の動きを信長が察知したのは、「お市方から贈られた小豆(あずき)袋の、両端を縛った袋のとじ方」と言われているが、これは出来過ぎた話だ。

両結びの小豆(あずき)の袋の逸話は、お市の方が織田家に出戻り易くする為の「創作」と考える方が自然である。

当然万一に備えた「物見の報告」と思う方が、自然なのだ。

この頃信長は、光秀を通して伊賀・甲賀などの傭兵を活用していたから、情報も迅速だったので有る。

形勢不利と判断した信長は、軍勢に大きな犠牲を払いながら、美濃の本拠地岐阜城に逃げ帰る事になる。

この時、殿(しんがり/見方を逃す為の捨て駒)を買って出て、成功したのが「木下(羽柴)秀吉」と言われている。

この金ヶ崎の退き口で、自ら手を挙げて殿(しんがり)軍を引き受けた木下秀吉(羽柴秀吉)は敵の猛追撃に苦戦をするが、同盟軍・徳川家康の非公式な援軍と馬廻衆を率いて参加した黒母衣衆(くろほろしゅう)の佐々成政(さっさなりまさ)らの活躍でその任を成し遂げ、織田軍団での地位を確立する切欠に成っている。

佐々成政(さっさなりまさ)は、尾張国春日井郡比良城に拠った土豪・佐々氏、佐々成宗(盛政とも)の三男に生まれたが、兄二人が相次いで戦死した為に家督を継いで比良城主となり、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った頃に使えて馬廻衆となる。

成政(なりまさ)が勤めた馬廻衆の役目は、戦場で主君の本陣を構成して戦闘の他に護衛・伝令と言った役割を果たすものである。

織田信長に近侍する家臣組織にはこの本陣要員の馬廻衆と日頃信長に近従して身の回りの世話から政務の取次ぎなどを勤める小姓衆の二つが在り、小姓衆の内から選抜された赤母衣衆(あかほろしゅう)も同じく十名ほどで構成され、この黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)が、信長の側近中の側近と言う事になる。

ちょうど主君・信長が美濃国の斎藤氏を滅ぼした頃、幾度の戦で戦功を重ねて頭角を表した成政(なりまさ)は、馬廻衆の中でも特に選ばれた十名ほどで構成する黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員に抜擢され出世の糸口を掴む。

その後佐々成政は、信長が起こした越前朝倉氏・朝倉義景を攻めた時、同盟を結んでいた信長妹・市の方の嫁ぎ先である北近江浅井氏・浅井長政(あざいながまさ)の裏切りに合い、撤退戦となった金ヶ崎の退き口で殿(しんがり/主君撤退の時間を稼ぐ防衛戦)を勤めた木下秀吉(羽柴秀吉)の殿(しんがり)軍に馬廻衆を率いて参加し、秀吉を救援し活躍した。

その越前朝倉氏・朝倉義景と北近江浅井氏・浅井長政の連合軍と織田信長、徳川家康連合軍が戦った長篠の戦いでは、佐々成政は同じ黒母衣衆(くろほろしゅう)の野々村正成や赤母衣衆(あかほろしゅう)の前田利家・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲隊を率いて戦っている。

ここで信長を討ち洩らし、本国に帰らせては浅井長政に打つ手はない。

しかし殿(しんがり)軍を引き受けた木下秀吉(羽柴秀吉)、黒母衣衆(くろほろしゅう)、そして密かに殿(しんがり)の後詰めとして加わった徳川家康の徳川軍の助勢で、長政は信長を討ち洩らした。

「挟み撃ちにする」と言う千載一遇の好機に、信長を討ち漏らした事が長政の命運を決定付ける。

岐阜に逃げ帰った信長は、浅井、朝倉を討つべく大軍団を編成する。

兵力二万八千、援軍(徳川軍)六千、合計三万四千の大軍である。

同盟して迎え撃つにも織田・徳川同盟と浅井、朝倉同盟とはその国力に大きな差があり、正面切っての戦での力関係は明白に不利だった。

雑賀孫市も明智光秀に懇請され、鉄砲千丁を揃えて雇われこの戦に参戦している。

「信長来る。」の報を聞き、朝倉も兵を出して浅井・朝倉連合軍を結成するが、朝倉義景は此処でも「ボンボンぶり」を発揮して代理を大将に送り、自分は出陣をしない。

朝倉義景に危機意識がまるで無いのだが、強敵相手に領主が出陣しないで味方の勢いが上がる訳が無い。

元々雑兵や家臣の方の戦の目的は手柄を立てて立身出世をする事で、それ故、直接盟主に戦働きを見てもらえる方が遥かに気合が入る。

その盟主が出張って来ないでは、士気が上がる訳が無い。

都の文化に凝って、貴族化した朝倉義景にはそうした家臣の心理すら思い至らない。

「尾張の無骨者など相手に、予が出張る程の事もないわ。」と、貴族化した自分の方が「高級」と思い込んで代理を大将にして居た。

これは現代の企業や政治にも言える事で、現場任せの経営者はいずれ思わぬ失態に巻き込まれ得るし、言い分ばかり言って庶民の現実に直接耳を傾けない政治家が、良い政治をする訳が無い。

現場を見、現場の言い分を聞いて判断するのが良い企業経営者であり、庶民の言い分を聞いて判断するのが良い政治家である。

現代の官僚、政治家、企業経営者は、自らを「高級」と思い込ん貴族化してはいないだろうか?


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姉川の合戦・小谷落城

◇◆◇◆◇◆◇◆姉川の合戦・小谷落城 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この時の主戦場が、姉川だった。

世に言う「姉川の合戦」である。

この「姉川の合戦」は、織田、徳川連合軍の大勝利と言う事になっているが、多分に怪しい。

一度の戦に負けはしたがその後も浅井、朝倉には一定の勢力が健在で、京の信長残留守備隊を攻め、これを討ち破って一時京を制圧している。

姉川の合戦に到った年、明智光秀は四十三歳、織田信長は三十七歳、木下(羽柴)秀吉は三十四歳、徳川家康は二十八歳、浅井長政は二十六歳と言う。

若い長政は、情勢判断より人情を優先した父の意向に逆らえずに、みすみす落城の憂き目に会う事になる。

長政もまた、古い常識的発想に囚われていたのだ。

この姉川の合戦の折、徳川家康は織田方から加勢に回してもらう武将に「たって」と指名して信長に請い、猛将と誉れ高い美濃国・国人領主・稲葉一徹とその家臣団を指揮下に加えている。

この辺りが、家康と美濃稲葉氏に何らかの繋がりを感じるのだが、それはいずれ思わぬ形となってこの物語に姿を現す事になる。


千五百七十三年(天正元年)七月、信長は三万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。

近江浅井家にしてみれば、終(つい)にその時が来たのだ。

時折木漏れ日の陽光が降り注ぎ、原生林が風にザワザワとざわめく街道を織田信長と徳川家康の大軍勢が粛々と行軍する。

絶好の手柄を上げる機会に、信長の家臣団には気合が入っていた。

勿論義心が無かった訳ではないが、当然出世のチャンスと言う打算も多い。

出世とは世に出る事である。

世に出るには、何かを為して名を挙げねばならないのだが、それを「名を成す或いは高名(功名)を挙げる」と言う。

つまり欲の発露であるが、反面現代の企業と同じで停滞は命取りに成りかねない為に、一族郎党を抱える氏長(棟梁)ともなると求心力維持の為に嫌でも戦い続ける事になる。


物見の知らせは逐一入って来ていたが、浅井長政は各要衝に小軍勢を裂き本隊は早々と篭城を決めて朝倉勢の援軍を待っていた。

暫し小谷城で織田勢の攻撃を持ち堪え、朝倉勢の援軍を待てば勝機もある。

浅井長政は義景に援軍を要請、朝倉義景は二万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の出城を落とし始めると、義景は交戦意慾を失いまともに交戦もしない内に越前に撤退を始めた。

好機と見た信長は篭城を決め込む浅井勢を後回しにして、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城へ兵を進めた。

朝倉義景が近江から逃げ帰った時、朝倉勢の敗走を知った一乗谷城は既にも抜けの殻で、家臣は余りのボンボンぶりに義景を見限って逃げ出していた。

逃げ帰って一乗谷城に在った朝倉義景も、そうした家臣の動向に支え切れないと見て東雲寺、賢松寺と逃げ回るが家臣(従兄弟の朝倉景鏡)の裏切りに合って自害し、朝倉家も滅亡する。

信長の軍勢は、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城の戦いで滅亡させた後、軍勢を近江に返し浅井氏攻めに取り掛かった。

頼みの同盟相手朝倉勢の滅亡に、もはや浅井長政に反撃の手段は無く、浅井方は為す術も無く信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみで、徐々に追い詰められて行く。

圧され押された浅井方は、終(つい)に本拠の小谷城(滋賀県湖北町)が織田軍に囲まれる。

しかし信長は一気に小谷城を攻撃せず、不破光治、木下秀吉なども使者として送り何度も降伏勧告を行っている。

信長は長政を高く評価していたようで、降伏した後は「大和へ新領地を与える」とまで破格の条件を出していたのだ。

その信長の配慮も虚(むな)しく長政は断り続け、最終勧告も決裂して長政は正室の市を子供達と共に織田陣営に帰還を命じ、その安全を見届けてから父の久政と共に自害している。

お市の信長の陣営帰還に際しては、浅井・織田の両軍ともに「一切の攻撃をしなかった」と伝えられている。

結果的に浅井家との婚姻は政略結婚の形に成ったが、我輩は信長が浅井長政を、「本気で弟にしたかった」と信じたい。

それが、信長だからである。

織田信長は、姉川の合戦から浅井長政の小谷城陥落まで三年間を要し、この間に宗門・一向宗と雑賀衆の反抗にも信長は手を焼いている。

この浅井、朝倉、一向宗の混乱は、「将軍足利義昭の陰謀が招いた」とする説が有力である。

浅井長政の小谷城落城から程なく、一乗谷城に在った朝倉義景も家臣の裏切りにあって自害し、朝倉家も滅亡する。

室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、織田信長の助力により漸く流浪の身から脱して京に上り上洛を果たす。

朝廷・時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)から将軍宣下を受けて第十五代将軍に就任、烏丸中御門第(からすまるみかどだい)を整備し室町幕府の再興を果たした。


足利義昭(あしかがよしあき)は、直ぐに本当の実力者の織田信長と対立、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げ、一時は信長を窮地に立たせる事もあった。

だが義昭は、やがて信長によって京都から追放され、朝倉家も武田家も織田・徳川連合軍に敗れて滅亡、足利義昭は毛利家を頼って亡命し事実上室町幕府は滅亡した。

安土桃山時代で最も有名な女性の一人は、織田信秀の娘つまり織田信長の妹の「お市の方」である。

越前浅井家の長政に嫁ぎ、嫁家を兄・信長に攻め落とされ、三人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、二度目の落城に遭遇する悲劇の女性である。

お市の方(おいちのかた/織田秀子)の正式な名乗りは、嫁いだ後も織田秀子(おだひでこ)である。

現代の婚姻制度と勘違いして貰っては困るが、浅井長政婦人と言っても柴田勝家婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗る習慣である。

夫・浅井長政の居城・小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の浅井三姉妹を残して滅亡する。


織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と浅井三姉妹は、信長の弟・織田信包(おだのぶかね・信秀の五男)の元に預けられ厚遇されて九年余りを平穏に過ごしている。



正直、気性激しく個性的な信長と上手く行っていた弟は、このお市の方(おいちのかた)と浅井三姉妹を預かった織田信包(おだのぶかね)只一人だった。

お市の方忘れ形見の三人の娘長姉の「茶々」はその後の歴史を左右する豊臣秀頼生母・淀の方(秀吉の妾妻)となる。

次姉の「初」は京極高次の正室となり、後に豊臣と徳川の間で互いの使者の役目を負う事になる。

三女「お江(おごう)もしくは於江与」は、織田信長の甥(おい)に当たる佐治一成と従兄妹同士の結婚の後に、離婚させられて三代将軍徳川家光生母・於江与の方(二代徳川秀忠正室/継室)と派手な立場の生涯を送っている。

於江与の方を「継室(後妻の正室)」と書いたが、徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。


日本には、大和朝廷の昔から奇妙な形式が存在する。

その時代時代で実質的権力者が居ながら天皇を頭にいただき、「実務は実力者が遂行する」と言う形式を取って来た。

古くは和邇(わに)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、蘇我(そが)藤原(ふじわら/中臣)氏であり、その後は平氏、源氏、北条氏、足利氏、豊臣氏、徳川氏と続く。

彼らは実質的権力者でありながら、自ら天皇を名乗る事は避けて形式上は天皇の家臣となり権力だけはふるった。


実質と形式は、現代にも通じる「奇妙なもの」である。

現在の日本国に於いて、法律上、国で一番の主権者は誰かと言えば、形式的には「国民」である。

だが、「国民」には実質たいした権限はない。

株式会社で、法律上一番の権利者は誰だと言えば、形式的には「株主」である。

だが、実質さしたる権限は無く、全ては「遂行者」に運用を委託する形式を取っている。

実は、実質的権力者は「遂行者」でありながら、この「遂行者」の失敗は形式上の最高主権者の責任である。

つまり形式上であろうと、一番上の人が下の者の失敗の責任を取る。

この日本と言う国では、その奇妙な統治形式が統治上利口な方法として永く採用されて来た。

現在の一番上は国民であり、従って歴代総理の借金(赤字国債)は、国民が増税でその責任を取らされる。

会社の経営者の失敗も、最後は一番上の株主が責任を取らされる。

実に上手く出来たものである。


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実質と形式の二重構造

◇◆◇◆◇◆◇◆◇実質と形式の二重構造◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ここでこの国の奇妙な形式を御紹介したのは或る事の前振りであるが、それは結構重要な事なのでこのページの内容を御記憶願いたい。

日本の長い歴史を見ると、その時代ごとに「実質と形式」と言う奇妙な二重構造に出会う。

それは、「皇室(朝廷)」と言う存在が、全ての秩序の基本になっていたからであるが、これが他国(外国)の人間からすると非常に判り難い構造である。

例えば江戸時代を国外から見ると、大名取り潰しなど掛け値なしの絶対権限を有していて、どう見ても徳川家が「独裁王朝」である。

処が、例え朝廷が武力の後ろ盾のない「形ばかりの物」で在っても、徳川家も形式的には朝廷から官位をいただく天皇の臣下である。

その他の大名も、徳川家の支配下にありながら、それぞれに朝廷から官位を授かって、形式上は天皇の臣下である。

武士の身分も氏族であるから、国主(藩主)並の上位の官位を貰えば、朝廷の貴族並に列せられた事になる。

鎌倉、室町、江戸と、歴代の幕府が現実の統治を担当するそれぞれの時代、言わば朝廷の仕事は、建前社会における「お墨付き(権威の裏つけ)」である「官位の発行元」である。

この二重構造が例え建前のもので在っても、時たま威力を発揮する。

それは、「勅命(ちょくめい)」である。

明治維新では、勅命(ちょくめい)が大きく働いた。

つまり、実質的権力者の支配下にありながら、別途に朝廷の臣下と言う「側面を持ち合わせていた」のが地方実力者(この時代は大名)達の立場なのだ。

これは、平安の昔から変わりはない。

まさに大王(帝)が居て、分かれた国があり、臣王(おみおう)が居てその家臣が居るのは、古代統一王朝の制度を引きずっているからで有る。

この部分を解説すると、中国の中華思想様式の影響が残っている。

中国大陸では、「歴代皇帝」が国々を束ね国々には「国王」が居る。

日本列島の大和朝廷は、属国扱いを嫌い、中国の皇帝から独立し同等の立場を取る為に、この様式に習って「天皇」が国々を束ね、国々には「国主(くにぬし・こくしゅ・後には少し細分化し藩主)」を置いた。

その慣習が残って、各大名は将軍や太閤などに統括されていても、朝廷から官位を授かり形式は天皇の臣下でも在った。

従って、同様の理由で、明治維新による廃藩置県まで、各地の呼称も「何々の国(例・伊豆の国、土佐の国)」と言う具合に使用していた。


逆説的に言えば、武力を持たず官位の任命権だけを持っていたからこそ、朝廷と天皇制は微妙なバランズの上で永らえて来た。

日本人が、世界的に見て特に肩書きに弱く、全て肩書きを頼りに社会を構成しようとする遺伝子のごときものを持っているのは、「肩書き安心遺伝子」を永い時間を掛けて醸成したからである。

つまり他国と比べて、永く天皇制(形式上ではあるが)が維持された事によって支配体制が根底からヒックリ返った経験を持たない故に、律令制以来の肩書きに対する信頼度が保たれて来た。

朝廷と天皇制は、日本列島に於いて武力を持って他を圧した本当の権力者に、「権威」を与える役割を担い続ける便利な存在だった。

これは、周辺諸国の王と形式的に冊封(さくほう/さくふう)関係を結び「国際秩序」の形成を図る中華思想のコピー(写し)である。

古代の倭の国小国家群を統一して「秩序」を形成する為に列島の皇帝として大王(おおきみ/天皇/大国主)を置いた制度が永く機能し、江戸期に於ける国主(藩主)に到るまで「権威」を与える役割を担い続ける存在だったのである。


明智光秀についても、小説など物語の設定の立場で諸説がある。

それによって、実は「誰々の家臣であった。」と自説を構築する小説やら文献やらあるが、是は二重構造の文化が下の方まで広がっていたからだ。

実質と形式、この二重構造例えれば、後に大名になる蜂須賀小六は秀吉の家来である。
しかしながら、間接的には秀吉の主君・信長の家来(陪臣)でもある。

この形を取って行くから、光秀が、「足利義昭の家来説」、「天皇配下の下級公家説」などを基本とした小説が書ける。

これはいずれも正解である。

形式的に見ると、光秀のお館様「信長」は、自分が合力して復職させた「将軍義昭」の配下の形式になり、光秀もその陪臣になる。

遡れば、将軍・義昭も朝廷から将軍職を任命された朝廷の臣下で、そう言う過去からの形式的こだわりが、日本の世の中を長く支配していたのだ。


実質と形式、この二重構造は時として都合の良い選択の基準になる。

上のまた上からの命令遂行は、一概に「うらぎり」とも言えないからだ。

こうした事例はかなりあり、昔から都合良く「大義名分」として時代の切れ目には必ず登場し、多くの殺戮を呼んだ。

朝廷からの「院宣」や「勅命」は、謀反を打ち消す大義名分に成るのだ。

明智光秀が「信長暗殺」を決意した時、「信長の意志」ではあったが、光秀は朝廷から正式に官位を授けられていた。

惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)である。

これは、形式的なものではあるが、以前だったら日向守は守護職に当たる。

将軍空位の時期、変わって皇室(朝廷)を守るのが守護職の務めで、光秀が朝臣を主張しても何の不思議も無いのだ。

足利義昭は既に信長に追われ、中国地方の大名毛利家を頼って匿まわれ、その毛利家も、信長の配下秀吉に攻められ、防戦にあえいでいた。

もはや朝廷の誰しもが、信長の天下取りは「完結に近付いている」と認めていた。

本来なら、信長が最高官位の「征夷大将軍」を取って、足利家に代わる。

その方が、刃向かう者が減り「効率的に天下人」になれるのだ。

事実信長は主だった織田家の家臣に、朝廷から官位を授けさせている。

彼らの労をねぎらい、日本人的出世欲を満足させる為だ。

処が奇妙な事に、信長本人は平氏を名乗る以外、自分から全ての官職を離れて無官となり、朝廷の臣下では無くなっている。

織田信長は、千五百七十八年(天正五年)末に右大臣に就任するが、翌年春に半年足らずで右大臣・右大将の職を辞任している。

この頃になると、信長は自分の力や自分の発想に並々ならない自信を持つようになる。

人間、その立場に成って初めて「理解できる事」もあるし、その立場になると「麻痺してしまう」のも人間の悪い所である。

毎度の事だが、相手に意志が通じない苛立ちは信長を激高させ、それが周囲には阿修羅化身に見えていた。


織田信長の重臣として明智光秀ならではの真価を発揮したのは、何と言っても「京都奉行」としての勤めであろう。

朝廷、公卿、寺社などの旧態然とした勢力がひしめく京に在って、光秀の深い学識と怜悧な行政手腕以外、織田家に適材は居なかった。

信長が、その能力、見識、血筋から、形式と気品を重んじる朝廷、将軍家との交渉役として、「秀才・光秀を使った」としても不思議はない。

光秀にとっても、朝廷、公卿、将軍家との交渉役もとより得意分野である。

人材豊富な織田軍団に有っても、これに変え得る存在は無く、勢い、その仕事は光秀の独断上になる。

信長の意を呈しながらも、光秀がその接触の過程で、朝廷、公家に知顧(ちこ)や親近感が生まれても仕方が無い。

人は接すれば、善意か悪意かの心情が湧く。

光秀に取っては、朝廷、公家との交流のそれが親近感の善意であった。

所謂肌が合うと言う感覚で、光秀には朝廷・公家と、接触出来たので有る。

或る時期、光秀は新(信長)と旧(朝廷・将軍)のせめぎ合いの場に身を投じていた。

これが、「光秀に少なからぬ影響を与えた」としても、止むを得ない。


その後、この親朝廷派の光秀外交が弊害にならんとする時、信長はわざと後任の京都奉行に百姓育ちの粗野な羽柴秀吉を登用させて、京都の公家供を、思う存分に煙に巻かせている。

羽柴秀吉には氏姓(うじかばね)への拘りも価値観も無く、朝廷は秀吉に翻弄された。

主君・織田信長の思惑で、「京都奉行」の任は羽柴秀吉に廻ったが、この時点で明智光秀はまだ信長を討ち取るなどとはまったく考えては居なかった。

しかし光秀と信長の間に、その時「本能寺の事」は、少しづつ近付いて来ていた。

いずれにしても人間の行動には動機が必要であり、その動機の正当性が問題で、天下布武は織田信長の天下武力統一の野望である。


信長には「天下布武」の終着点が、彼成りに見え始めていた。

「天下布武」の志を抱いて、早いものであれから幾年経ったのやら、戦に続く戦の日々が続いたが漸く畿内近隣に敵の姿は消えた。

主導した「楽市楽座」が当って、安土の城下は賑わいを見せていた。

平安末期から戦国初期にかけての中世の経済的利益は、座(特権同業団体)・問丸(流通業者)・株仲間(独占組合)によって独占され既得権化していた。

織田信長が実施したとして有名な楽市楽座(らくいちらくざ)とは、中世の経済的既得権を戦国大名が排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図った統制策である。

名称からして規制緩和に拠る経済振興策に見えるが、実態は極近い以前に小泉・竹中政権が為した特定の企業に利する権益の移し変え陰謀に過ぎない。

楽市楽座は、あくまでも戦国大名の領主権確立が本命で、既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権商工業者(市座、問屋)を排除して自由取引市場をつくり、既得権を持っていた座を解散させ新たに支配権を強化したものである。

従って楽市楽座の実態は大名による新たな商業統制策で在って、楽市楽座政策が規制緩和されて自由な状態の意味である文字通りの意味での「楽」とは言い切れない。

但し楽市楽座は、既得権化して活力に欠ける旧体制の構造を壊して商業活動を活性化した事は事実である。

この楽市楽座に拠る構造改革政策は、織田信長以前から始まりを見せ各地の大名も自領内で採用していたから信長の発案とは言い難いが、勢力の拡大と伴に広域で実地された点で、信長が為した政策と評して良いだろう。

いずれにしてもこの楽市楽座(らくいちらくざ)政策は織田家の財力に貢献し、更なる勢力拡大に財政面で貢献した事に変わりはない。


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天下布武の意味

◇◆◇◆◇◆◇◆天下布武の意味 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

信長の「天下布武」とは、役立たずを除く事だった。

「天下布武」まであと一歩まで来て、信長は朝廷の「決定的権威」を利用しない。

是は、恐ろしい事である。

武門の最高権力者が朝廷(天皇)の家臣でなければ例外の事態であり、臣下でなければ、指示命令が出来無い。

朝廷とすれば、最高実力者が「無官」では朝廷の存在が否定された様なものなので、秩序が維持できない。

朝廷はほとほと困り慌て、公家と光秀の問答が、何日も続く。

光秀には信長の考え、見当が付くが口に出しては言えない。

それで、「三官推任(関白、太政大臣、征夷大将軍のうちから好きなものを選んでくれ)する」と言う他の者なら飛び付きそうな条件で、信長の説得にあたる。

それをせせら笑って、信長は受諾の返事をしない。

こうした朝廷と信長とのせめぎ合いの最中にも公家の中でただ一人、関白・近衞前久(このえさきひさ)だけは鷹狩りなどして親密に交際している。

この前久(さきひさ)の行動が、「信長の機嫌取りだった」とばかりに推測されず、「両者の間に密約が在った。」と言う説が絶えない。

織田信長が皇位簒奪後に「一ヵ国与えて厚遇する」と言う密約説も在る位に関白・近衞前久(このえさきひさ)を懐柔している。

その事から、我輩が推察する織田信長の新帝国の構想では、自らが新皇帝を名乗り関白に藤氏長者(藤原氏の棟梁)・近衞前久(このえさきひさ)、征夷大将軍に源氏の長者(源氏の棟梁)・徳川家康、左大臣に源氏流・明智光秀と言う構想を描いて居たのかも知れないのである。

信長の前例や常識にとらわれない発想からすると、これは、他人の作った秩序など、「実力で変えうる事」を証明する良い機会である。

そのつもりだから、放って置く。

「公家どもめ、肝を冷やして居るわい。」

朝廷の慌てぶりは、信長にとってさぞかし愉快であったろう。

朝廷側もここに至って、信長による皇位簒奪(こういさんだつ)の不安を覚えている。


織田信長(おだのぶなが)は、父・織田信秀(おだのぶひで)以来の家臣で筆頭家老・柴田勝家(しばたかついえ)や二番家老・丹羽長秀(にわながひで)以上に新参の明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)を重用した。

二人の能力が「他の家臣依り勝っていた」と言ってしまえばそれまでだが、この重用した訳の分析が現代にまで通じる「職に就く者の心得のヒント」と成るので少し掘り下げる。


確かに、氏族の草と深い関わりを持ち彼らを自在に操る明智光秀(あけちみつひで)と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(はしばひでよし/木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だった。

しかしそれだけではない重要な素養が、二人にはあった。

明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)が実質で織田家旧臣をごぼう抜きにしたのは、「心構え」と言ってしまえば益々抽象的になるのだが、簡単に言えば彼等二人が幹部に欲しい人材だったからである。

経営者が幹部に要求するのは、常識論を持ち出して「それは無理でござる。」と否定する幹部ではない。

幾ら頭が良くても、「どうしたら出来るか?」ではなく「出来ない理由ばかり考えている」のでは、企業はとても雇う気には成らない。

つまり戦国期にしても現代の事業にしても「常識を打ち破る事」こそが他に勝る新しい戦略(有望な経営モデルやアイデア商品等)として「他を凌ぐ事」に通じ、常識論を持ち出して他と横並びでは何の発展も無い。

所が、「お館様(社長)は非常識な無理を言う。」と言う不満や「金や人員を揃えてくれさえすれば。」の言い訳は、最も幹部に相応しくない事に気が着かない。

つまり企業として当たり前のローコストで価値のある事を生み出してこそ幹部で、常識を盾にその枠からはみ出した名案へ思考が到らないでは幹部として全く不要なのである。

そして中には、お館様(社長)の自分への期待も判らず、「拙者(私)が何度も説明しているのにまだ判らない。頭が悪いのじゃないの?」と相手を馬鹿にする。

本人は相手が悪い積りでも、そんな世渡りの姿勢では何処でも認められないし、雇われてもそこに永く身を置けない事になる。


明智光秀(あけちみつひで)も羽柴秀吉(はしばひでよし)も、信長(のぶなが)に資金や人員の事を無心した事は無く、秀吉(ひでよし)に到っては敵が降伏寸前の情況に在る事を見計らって信長(のぶなが)の出陣を求め、「お館様に恐れを為して・・」と手柄を主君に譲る世渡り上手である。

まぁ、そうした見え見えの芝居をする秀吉依りも、クールな光秀の方が信長の肌には合っていたのだが。

そんな中途半端な織田信長の都の掌握状態の中、信長は都近くの安土城から四方に軍勢を送り始め、その後の五年間が織田軍団の最も忙しい時期で有る。

つまり信長は、朝廷の存在を無視して無官位のまま日本中の武力統一「天下布武」に邁進しだしていた。

こうした朝廷危機の事態は、過去に都度都度あり、実効支配者が臣下の最高の地位に着くのも、一つの道理ではある。

それが就かないとなれば、残された道はひとつしか無く、日ノ本の国(大和)始まって以来の大変事が起こる事になる。

この辺りから光秀の変事の行動に公家との共同謀議説が浮上し、一部の公家の、日記改ざん説なども証拠として提唱されている。

そして本能寺の変事の直後に、光秀の「征夷大将軍就任説」もある。

だが、それにしては変事の後に「光秀体制維持の勅命」が公に存在しないのはおかしい。

朝廷主導なら、もう少し朝廷から有力武将(大名)達に働きかけ、光秀をバックアップしても良さそうではないのか?

幾らかの公家との疎通は在ったものの、本能寺の事は「光秀単独行動説」を採りたい。

実は朝廷も、突然の出来事に混乱していた節がある。

朝廷主導であれば、準備万端、もっと朝廷の対応は迅速な筈である。

恐らく朝廷は、後の世に「たとえ」と成った後の秀吉小田原城攻めで北条氏重臣の「小田原評定(永遠に結論が出ない)」のごとき「けんけんがくがく」の対策論議の最中に山崎の合戦が起こり、「先に決着が付いてしまった」と言うのが真相だろう。

この事変に限り、朝廷はさしたる参加はしていないのだ。

火急を要する時、前々からの折衝で、散々に煮え湯を飲まされた経験を持つ光秀で、光秀が悠長に朝廷の結論を待つなどする訳が無い。

「わし、一人でやらねば・・・・。」

光秀、苦渋の選択であった。


人の一生の選択は、めぐり合わせで瞬時に決まる。

その時点で運不運を嘆くのは早計で、分岐点の選択処は繰り返しやって来るから、諦めなければ一つの不運が次の幸運を導き出す事も多い。

反対に、幸運が次の不運を導き出す事もあるので、人の一生など終わって見なければ判らない。

価値観に拠っては、誰も殺す事なく、子供一人、孫の一人でもこの世に残せただけで、政策で非情に人を殺す輩よりは遥かに幸せである。

繰り返すが、信長は、希代の天才である。

彼は、まず「既存のもの」に疑問を抱く事から思考を開始し、そして、残して良いものと破壊すべきものを篩(ふる)いにかける。

勿論信長は、けして破壊一辺倒の男ではない。

天才と秀才の決定的違いは思考にあり、「閃(ひらめ)き」と「積み重ね」の違いではないだろうか?

つまり、同じ答えに至るまでのプロセスの違いである。

例えて言うなら、信長には一瞬で閃(ひらめ)き、既に答えが出ている事を、光秀は、相応の知識と情報から論理的に導き出す。

だが光秀のそれは、信長家臣団の中で最速だった。

故に信長は光秀を寵愛し、ほとんど右腕として傍(かたわら)に置いていた。

信長は誰にも言わなかったが、天下統一後の国家運営など、「天下布武」を打ち出した時には既に決まっていた。

天下布武は、織田信長が美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を旗印として用いている。

天下布武の意味する所は、織田信長の天下取の政策を表したもので、「武力を持って天下を取る」または「武家の政権を以て天下を支配する」と解釈される。

そして、信長はキリスト教の宣教師(イエズス会)・ルイス・フロイスを通して西欧文明の事情に接していたから、信長自身で帝国を起こす野望を抱いた事も充分に理解できそうである。

それは、当時の普通の日本人なら、驚愕に価する考え方だった。

だが、天才信長にしてみれば、それは「至極当然の答え」としか思えなかったのだ。


これを書いている我輩は、天才でも秀才でもない。

それでも、やはり答えが既に出ている事にあれこれともどかしい論議を強いられる場面にはしばしば合う。

大概の所、相手の根拠は古い習慣だったり、既成概念だったりする。

まあ簡単に数学に例えて言うと、既に分母が変わっているのに、頑(かたくな)に古い分母で計算を続けようとする、「現在の年金保険制度」の様なものだ。

その裏に垣間見えるものは、権力者や役人の保身と利権である事には、今も昔も変わりない。

信長は、それを根底からひっくり返す事を考えて居た筈である。

織田信長を覇権に突き動かしていたのは、いったい何んだったのだろうか?

全ての既存勢力を破壊する勢いで、信長の行動は一直線に迷いが見られず、彼の理想とするまったく新しい国造りに執念を燃やしていたのである。

「天下布武」に信長が確信を持ったのが、国外からの情報だった。

この当時、信長ほどキリスト教宣教師(ポルトガル)を通じてヨーロッパの王家変遷情報を聞いていた人間は少ない。

宣教師側には、新王朝の設立を促す事で布教をし易くする打算が在った為に、神道を基本とする当時の皇統は邪魔な存在だったのだ。

信長がヨーロッパ文明を知る為に目を掛けたのは、千五百六十三年(永禄六年)に、ポルトガル王の命で来日したポルトガル人宣教師イエズス会)のルイス・フロイスである。


千五百六十九年(永禄十二年)信長と対面してその保護を受け、以後信長の勢力範囲である畿内を中心に活発な布教活動を行った。

ルイス・フロイスは、リスボン生まれのポルトガル人宣教師である。

故郷リスボンにて十六歳でイエズス会に入会したルイス・フロイスは、当時のポルトガル領インド経営の中心地であったゴアへ宣教師見習いとして赴任し、そこで日本宣教の養成を受ける。

インド駐在中の二十九歳の折にゴアで司祭に叙階され同地に於いて日本宣教の命を受け、日本での布教活動の為に三十一歳で日本の長崎に来日、当時の日本の首都「京」に向うが、足利幕府が弱体化して布教許可の相手として心持たない。

誰を相手にしたら「布教の力添えを得られるのか」と困って居た所に、織田信長が実質的な最高実力者として台頭して来た。

知識欲旺盛な信長に西欧文明を伝えて信長の信任を獲得したフロイスは畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ている。

フロイスはその後半生三十五年のほとんどを日本で費やし、日本に於けるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、戦国時代の様子を知る貴重な資料としてその貴重な記録「日本史(イエズス会)」を残す事になった。

こうした宣教師の任務は単なる布教活動に止まらず、明らかに彼らは植民地拡大をもくろむ母国の為に表向きの宣教活動とは別にある種諜報活動を行っていた。

陰陽師が布教を伴う諜報員なら、当時の宣教師は布教を伴う諜報員兼現地工作員である。

そうした目的を内包していたからこそ、母国・国王の庇護や支援が宣教師に対してあった。

従って、ルイス・フロイスとヨーロッパ文明に対し、知識欲旺盛な織田信長は、互いの利益が一致して接近したが、所詮本音の部分では、騙し合いも多かった筈である。

宣教師に、母国に対するある種諜報活動の目的を有していた事から、ルイス・フロイスの執筆による「日本史」における制覇王・信長の描写は、「信長の人物像を良く表すもの」として知られている。


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安土の城と騎馬軍団神話

◇◆◇◆◇◆◇◆安土の城と騎馬軍団神話 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

五亡星の文様は晴明桔梗(安倍晴明文)の文様で有り、この花弁が開くと、何と源氏流土岐氏の桔梗紋となる。

言わずと知れた明智家は土岐一族で、光秀の家紋は当然桔梗紋になる。

名門明智家には、修験道(陰陽師を祖とする)と何らかの縁があっても不思議ではない。

後述するが、その明智光秀が山崎の合戦後、天台密教の本拠比叡山に隠棲する。

戦国時代の戦乱は「領主同士の国の取り合い」と言う様な単純な物では無く、宗教戦争の意味合いもあり、支配者の血統と非血統の争いでもあった。

それらが絡み合いながら、覇権を争っていた。


畿内、伊勢、紀州、の山々は、古来の深山霊場であり、修験者(山伏)の庭だった。

そして、山岳独特の風土が育っていた。

伊賀の(里)国から難波の国にかけて、悪党と呼ばれた楠木正成以来の独立独歩の風土が存在した。

伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆、根来衆、などと呼ばれた領主を持たない独立武装組織である。

この独立武装組織の紀伊半島の独自の支配は、「天下布武」を目指す信長にとって目障りな存在だった。

彼らが領主を持たず一地方を運営し、傭兵としてどちら側にでも味方をする封建制度に於いて無秩序な存在だったからである。

しかし一方では、彼らの並外れた諜報能力と戦闘能力を自在に操る明智光秀を重用した。

信長が認めた光秀の隠れた能力は、すなわち光秀の源氏に繋がる血筋の顔の広さで有るが、表は朝廷・公家・足利将軍家であり、裏は根来衆・雑賀(さいが)衆・甲賀、伊賀の傭兵国人集団との繋がりだった。

この光秀の人脈の強みに、秀吉は出世合戦で絶えず遅れを取っていたのだ。


昔から、権力を手中にした者が手始めにする事は決まっていて、必ず権力の誇示を象徴する建造物を建てる。

織田信長の場合、それが千五百七十六年(天正四年)丹羽長秀を普請奉行に命じて築城の世界最大級の木造建築「安土城」だった。

着々と天下統一を進めていた織田信長は、京に近い琵琶湖に面した安土の山稜の地に天下統一事業「天下布武」を象徴する居城を作る事を重臣・丹羽長秀に命じた。


滋賀県蒲生郡安土町下豊浦に、織田信長最盛期の居城安土城跡は在る。

当時の安土山は琵琶湖に突き出た岬状の地形だった。

「長篠の戦い」に於いて武田軍を破った翌年の築城始めで、その数年前には、ほぼ信長の天下取りは決定的だったのである。

三年後に完成した山城は、五層七重の天主閣を抱く眩(まばゆ)いばかりの城郭群だった。

五層七重とは、つまり外観は五層だが内部は地下一階地上六階の七重造りの天守閣で、安土城本丸は都の帝御所を模した御所造りで、信長の並々ならない野望の一端が伺える。

信長の居城・安土城を見たイエズス会の宣教師=フランシスコ・ザビエルは、故郷への手紙に「ヨーロッパにもこれほどの城は存在しない」と、書き送っている。

この「安土城」、世にも絢爛豪華(けんらんごうか)な和洋折衷(わようせっちゅう)風の建物で、信長にとっては皇帝の居城だった。

折衷(せっちゅう)風にしたのは、世界に通ずる皇帝の心意気を示し、征服王・織田信長の尊敬の神話はこれから創造すれば良いのである。

安土城の天守閣五階には仏教の世界観が金箔と朱漆塗りを背景に、釈迦説法図などが絢爛豪華に描かれていた。

その上の天守閣六階(最上階)は吹き抜けになっており、当時の最高の技術と芸術で織田信長の壮大な宇宙観が凝縮して創り上げられ、信長しか入った事がなかった空間がある。

最上階の吹き抜けについては、防火対策上「城郭建築に於いては考えられない」と異論を唱える学者の意見もあるが、天下人たらんとする信長には自らの居城が「炎上する事には成らない」と言う絶対の自信が有ったのではないだろうか?

普請された安土城は、今までの武人常識からすれば防御には向かない造りだった。

普請奉行・丹羽長秀の進言を排してまで拘った無防備承知の上での設計であれば、信長の自信が過信に変わったのだろうか?

嫌、そうではない。

神の意向で統治する帝の御所は、まるで無防備でも建前攻める者はこの国には居ない。
恐らく織田信長は、密かに織田帝国の絶対武神として己の神格化を狙ったに違いない。


織田信長が戦国統一の有力大名の列に加わったのは桶狭間の合戦で今川義元を破ったからで、その時戦勝祈願したのが熱田神宮(熱田明神)である。

「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本の神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は、別名を織田明神社とされる明神様で、尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

実は葛城ミステリーの三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神(賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説の呉族系神が現れたものである。



この物語で判る事だが、信長がいきなり「自ら神に成る」と言い出すと現代の認識では「不遜な事」と受け取るが、織田氏は元々越前国織田庄・剣神社(織田明神/越前二の宮)の神官の出で、信長は氏神=氏上のカラクリも天孫降臨伝説のカラクリも承知していた。

そして明神(みょうじん)そのものが、「明らかな姿をもって現れている」と言う「現人神(あらひとがみ)」の性格を持つのであるから、織田明神の嫡孫・信長が「自ら神に成る」と言い出しても理屈が通るのである。

安土城も、織田信長ほどの男であるから、ただ豪華なだけの築城などする訳が無い。

朝廷が驚愕して皇位簒奪を恐れる、織田信長自身が自らを「神である」とする何かが、そこに祀られていた。

つまり天守閣六階(最上階)は、織田信長が神をも恐れぬ恐ろしい男なのか、神仏をでっち上げて既得権で甘い汁を吸っている当時の宗教関係者が怪しいのかの、そのせめぎ合いの象徴だった。

織田信長の織田一族の先祖の地は越前国(福井県)丹生郡織田町(織田の庄)で、織田神社(剱神社)の神官(神主)が出自である。

土地の氏神が民を守る事と土地の氏上(うじがみ)が土地と民を守る事は、その到達の意味合いが重なっている。

氏族が先祖を神に祭り上げる事は、子孫である自分達の権力の正統化に繋がる事であるから奇跡現象などの労はいとわなかった筈で、純朴な民がそれを信じても仕方が無い。

その辺りの織田一族出自の歴史的経緯を承知しているからこそ、信長には祖先がした事を真似ているだけの意識しかなく、安土城天守閣に自分を神とする神座(かみくら・かぐら)を設けて居たのである。

織田信長の宿敵、甲斐源氏・武田氏が滅んだのは、千五百七十五年(天正三年)の「長篠の戦い」に織田・徳川連合軍が勝利し、その後武田家臣団が結束が崩れて、織田・徳川方寝返る武将が出たからである。

この長篠の戦い(ながしののたたかい)の戦いを描いた屏風絵に、信長本陣の絵に五亡星の紋様羽織を羽織る一団が描かれている。

彼等を「戦を占い、助言する陰陽予言者だ」と解説する者が多いが、この物語で解釈すれば陰陽道の影の真髄は諜報能力である。


まぁ、占術の吉凶も部下の士気を鼓舞するくらいの効果は在ったかも知れないが、本質は本陣詰めの情報諜報部員が妥当な所である。

そして五亡星の紋様は、明智家の桔梗紋と酷似していて光秀の妻・煕子(ひろこ)は賀茂勘解由(かもかでの)の長者・妻木範熈(つまきのりひろ)の娘である。

つまり屏風絵に描かれた信長本陣の五亡星羽織の一団は、光秀騎下の妻木勘解由一族ではないだろうか?

もっともこの屏風絵に、脚色が描かれていなければの話しではあるが・・・。

長篠の戦の四年後になる千五百七十九年(天正七年)明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)は、信長の仲介を受けて光秀の同僚・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいる。

玉姫(細川ガラシャ)が嫁いだ細川家は足利氏の支流・細川管領家の傍流で、細川藤孝は将軍・足利義輝に仕える幕臣だった。

その藤孝が、足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後に擁立に尽力した義輝の弟・足利義昭と実力者・織田信長が対立すると信長に臣従し、嫡男・忠興は信長の嫡男・信忠に近習として仕えていた。

織田信長に臣従した細川藤孝は何故か光秀とは信長の命で行動を共にする事が多く、手柄を共同で挙げるなど織田家中では光秀の気心の知れた僚友として存在していた。


長篠の戦いに敗れて以後の武田家中は、武田(源)勝頼(たけだ・みなもとの・かつより)の求心力の衰え、軍費負担の不満から投降、寝返りが続出、最早戦国大名家の態を維持出来なくなって、勝頼自信家臣を頼って身を寄せ歩いて居た。

千五百八十二年(天正十年)武田氏所縁(ゆかり)の地である天目山近くの合戦で力尽き、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し、甲斐源氏・武田氏は滅亡した。

ここに、武田(源)信玄が標榜した人の石垣も人の城も脆(もろ)くも崩れ去り、源頼信以来五百年間続いた甲斐源氏・武田家も滅んだのである。

武田最強騎馬軍団について、織田信長は「恐れていた」とか信玄の急死に「たすかった」とか言われるが、我輩はそうは思わない。

騎馬軍団の最強伝説は神話になっていたが、この時点で既にそれは過去のものに成っていたのである。


元々戦(いくさ)は、戦術情報宣伝に拠る撹乱戦(神経戦)を含んでいる。

最強騎馬軍団も、そうした戦術(兵法)のひとつとして相手の戦意を失わせる目的を持って喧伝されたものであり、本当に最強であれば、モタモタと上杉謙信との川中島戦の決着が長引くのは理屈に合わない。

織田軍団の近代化は、武田方を遥かに凌(しの)いでいた筈で、信長は充分に武田方の戦力や戦術(兵法)は把握して居り、勝利する準備は出来て居たのである。

その辺りの時の流れに武田軍団は取り残され、「過去に勝ったから戦術(兵法)に間違いではない」と言う根拠に成らない既成概念を拠り所に、「近代化が遅れていた」と推測できる。

後世の歴史家や小説家が、過去の栄光を根拠に近代化が遅れた武田軍団を、当時の武田家首脳と同じ理由で武田軍団を最強騎馬軍団と評価するのは、素直過ぎて「いかがなものか」と考える。

困った事に一度定説イメージが出来ると、中々別の見方が出来ない事が、歴史を狭めている。

武田騎馬軍団の武士の意識は、当時の旧態然とした一対一の斬り合いの集積だった。

それに対して、織田軍団は雑兵まで有力な戦力として使えうる団体戦の戦術(兵法)訓練を浸透させ、組織的に鉄砲を使った。

つまり、織田軍団と戦う武田軍団は、想定外の戦いを強いられる計算になる。

千五百七十五年の長篠の戦いに於ける織田方の「鉄砲の三段構え戦法」について、最近では否定的な意見が多い。

三段連射は「技術的に難しい」と言うのだ。

もっとも、鉄砲の三段構え戦法所か武田騎馬軍団の存在さえ否定的な意見がある。

そもそも、織田軍・武田軍の兵力数、織田軍の手持ちの鉄砲の数さえ、異説があり、千丁〜八千丁と幅が大きい。

しかし織田軍の鉄砲の威力が、戦闘の勝敗に影響を与えた事には、違いが無い。

何故なら、織田方の武将の損失は軽微なのに、武田方の信玄以来の名将であった顔ぶれが多数戦死してしまったからである。

戦果にそれだけの差があるのは、兵器の差以外には説明が着かない。

織田方の鉄砲軍団の主力が、熟練の鉄砲軍団、雑賀孫市が引き入る傭兵軍団・雑賀衆の三千丁ならば、三段連射の照準合わせは「技術的に可能」ではないのか?

寄せ手の武田騎馬軍団の武士の意識は、当時の旧態然とした武士の兵法、一対一の斬り合いの集積だった。

騎馬軍団と言っても、騎馬は将官クラスだけで、残りは徒歩(かち)で追いかけて来る。

将官クラスが一斉に騎馬姿で攻め寄せては来るが、そこから先は個人戦の戦法だった。
その寄せ手を柵で防ぎながら三段構えの鉄砲がローテーションしながら火を吹いた。

騎馬姿の将官クラスは、一段高い位置に在って良い鉄砲の的だった。

「ダァダァ〜ン、ダァダァ〜ン」

一斉射撃が合間無く放たれる。

寄せ手の武田騎馬軍団は、織田方の防御柵を超えられぬ内にバタバタと撃ち落され、或いは馬を射られて落馬した。

一説には、武田騎馬軍団は、馬が織田軍の鉄砲三千丁にの銃声に混乱をきたし、馬のコントロールが出来ずに「統制を失ったのが敗因」とも言われている。

武田軍団の布陣は、絶対的な自信を持つ翼包囲(の陣)を狙った陣形である。

武田軍団は幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、武田勝頼は、兵力的に劣勢でも自軍勝利に自信を持っていた事に変わりは無い。

つまり勝頼の自信は、過去の結果をその拠り所としているだけで、確証がある訳ではなく、現実には根拠に乏しい事だった。

たとえ当初の目的が威嚇撹乱(いかくかくらん)戦(神経戦)から始めた戦術情報宣伝、無敵騎馬軍団流布であっても、時を経て代が変わると、まるで当事者までもが信仰のごときに盲信される事例は数多い。

武田勝頼は有能で勇敢な武将だったが、哀れ世間知らずの坊ちゃま大名の側面を持っていた事になる。


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信長の大結界

◇◆◇◆◇◆◇◆信長の大結界 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百八十年(天正八年)、信長の天下布武は伸ばせば手の届きそうな所に来ていた。

此処まで来るのに、信長は誰の手助けも、誰の支援も受けていない。

まったくの閃き(アイデア)で独力でのし上がって来た。

それ故、血統の出自にあぐらをかき、何かと出来ない事の言い訳ばかりする重臣共が我慢できなかった。

人生運不運は付き物で、信長は家臣団引き締めの見せしめに、二人の子飼いの重臣を選んだ。

林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつとされていた)と佐久間信盛(さくまのぶもり)である。

信長の発想は単純で、この粛清(しゅくせい)は役に立たない者をふるい落とし、同時に最期の役に立たせる事だった。

それは、居並ぶ重臣達の眼前で、予想外の出来事として突然起こった。

織田家譜代の重臣・佐久間信盛に対して、五年間も何ら功績も挙げていないその無策をなじり、かつて信長と尾張国の平定から辛苦をともにしてきた信盛を、実子・信栄とともに高野山に追放する。

ついで、信長幼少期の筆頭付き家老時代からの織田家譜代重臣・林秀貞(はやしひでさだ)を、何と二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪を蒸し返して、身一つで追放してしまう。

これには、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田家家中の重臣は震え上がり、信長の心を計りかねてギスギスと軋(きし)みを見せ始めていた。

とくに、北陸で苦戦していた柴田勝家は必死だった。

二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪は自分も同罪で、北陸平定に失敗すれば、林秀貞(はやしひでさだ)の追放は、明日は我が身である。

良く、この古参重臣達の心理的動揺を、明智光秀や羽柴秀吉にも当て嵌める物語が多いが、それは少し違う。

新参者や軽輩の立場からのし上がって来た明智光秀や羽柴秀吉は、充分に戦力になり、戦功や功績を挙げ続けていて、この時点で同じ憂き目に遭う話のものでは無かった。


藤原か源氏を名乗っていた織田家の信長が、突然「平次(平家の傍流)」を名乗った事の意味に、我輩は着目した。

実はこの時代まで下ると、婚姻関係が複雑化して、何代か遡って脇を見れば多岐に亘る血筋の系図があっても不思議は無い。

しかし、それを穿り出してまで平家筋を名乗る者は、この時代になると本来ありえない。

従って信長のその目的は、「かなり明確なものを持っていた」と断定せざるを得ない。

信長が、在る時から平家の血筋を名乗ったのには、源平合戦の頃に遡る「壮大な計画」が在ったからである。

その狙いは、恐れ多くも当時の天皇家を否定する事にあった。

ご存知の方も多いと思うが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは明らかに清盛孫、安徳天皇である。

しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。

信長は、あえてその清盛平家の流れ、「平次」を名乗ったので有る。


織田信長には「粗暴な振る舞いが多かった」と伝えられるが、恐怖政治を行う非情な決断をする必要は確かに在った。

覇権を争そうべく生を受けた氏族の栄光と破滅は、常に決断の中に生まれる。

戦人(いくさびと)には冷酷な決断をも要求され、躊躇(ためら)えば一族郎党全滅も在り得る時代だった。

勝てば官軍である。

理屈は後でいくらでも付けられる事を、証明した様なものだ。

その時点では至近の、「南北朝並立時代」ではなく、源平まで遡れば平家の末裔を名乗る信長に一理屈出て来る。

天皇家の正統問題と、勝てば官軍の事例である。

つまり、「平次(平家)の世に戻す」と言う信長流の名目である。

そんな古い事を持ち出されても誰も良く知らないが、それが信長の狙い目である。

信長の「閃(ひらめ)き」の答えは簡単で、朝廷は不要であり破壊すべき対象なのだ。

有力な源氏流、武田勝頼率いる甲斐源氏の武田家も既に殲滅していた。

畿内の近郊に、浅井、朝倉、六角と言った有力な敵は既に無く、全て信長机下の武将を大名に取り立て、四方に配置していた。

そしてその時が、刻一刻と近付いていたのだ。


信長が光秀に寄せる信頼関係は抜群で、光秀こそ自分を理解できる「唯一の存在」と信じていた。

残念な事に、独立させて大名に据えた三人の我が子さえ、その才は無かった。

才と人脈に於いて、一に明智、二に明智で、まぁ、三、四が無くて五に秀吉程度だった。

「本能寺の変」当時の信長軍団の、全体の動向を見ると、それが良く判る。

傍に居たのは、兵力一万三千の光秀指揮下の明智軍だけである。

信長自身は、「数百騎」と言う僅かな供回りしか連れておらず、明智軍こそは「信長旗本軍」であり、親衛隊代わりに信長が位置付けていた。

それこそ信長は、光秀に「裏切られる」などとは、露の先も考えては居なかったのだ。


東国方面には同盟軍の徳川家康、(ただし本人は京に在って不在)対北条と戦闘中。

北国方面には柴田勝家が対上杉勢と戦闘中で、この柴田勝家の属将として、かっての「稚児小姓」前田利家も一軍を率いて与力していた。

前田利家は越前・一向一揆の鎮圧(越前一向一揆征伐)に与力、平定後に佐々成政、不破光治とともに府中十万石を三人相知で与えられ「府中三人衆」と呼ばれるようになる。

その後も前田利家は、信長の直参ながら主に柴田勝家の属将として与力を続け、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事して「本能寺の変」の頃には能登二十三万石を領有する大名とって成いた。

小姓衆から赤母衣衆(あかほろしゅう)そして大名に出世した前田利家と並ぶ柴田勝家の与力武将として双璧を為すのが馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)、そして大名に出世した佐々成政である。

織田信長は、千五百七十五年(天正三年)に越前を制圧し、その北陸方面の軍団長とし筆頭家老の柴田勝家を置き与力として佐々成政・前田利家・不破光治(美濃国土豪で斉藤氏から織田氏に仕えた)の三人(府中三人衆)に越前府中三万三千石を共同で与え、一万一千石の大名格と成った佐々成政は小丸城を築いて居城とした。

北陸方面・柴田勝家の与力とは言え佐々成政・前田利家・不破光治の府中三人衆はあくまでも織田信長の直臣であったから、織田軍の遊撃軍として佐々成政も石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されている。

千五百八十年(天正八年)成政は主君・織田信長に命じられ、追放されて信長の下に流れ来て仕えた元・越中富山城主の嫡男・神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中平定に関わる事に成る。

その越中平定の功に依り翌年に成政は越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護として富山城に大規模な改修を加えて居城とした。

千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が引き起こした本能寺の変の時、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面の戦いに在り柴田勝家と共に上杉軍の最後の拠点魚津城を攻略に成功した。

その勝ち戦をしたばかりの成政は、変の報が届いて各将がそれぞれ領地に引き揚げた為に上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。


柴田勝家も中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉に先を越されて明智光秀を討たれてしまい、丹羽長秀(にわながひで)ら織田家臣団の主力の支持を秀吉に持って行かれてしまう。

羽柴秀吉の明智光秀征伐後、清洲会議に於いて柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると成政は長年の与力関係から柴田方に付くが、その後起こった賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門に兵六百を与えて援軍を出すに止まった。

柴田勝家が越前・北庄城敗死し、秀吉方に寝返った前田利家と上杉家の勢力に挟まれた佐々成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、秀吉から越中一国を安堵されている。

この越中一国安堵は、秀吉にして見れば過ぐる日の金ヶ崎の退き口での殿(しんがり)働きの折の「助勢の借り」を成政に返した積りかも知れない。

この時信長は、四国方面に我が子・神戸(織田)信孝を、四国で伸張著しい長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。

東国方面には同盟軍の徳川家康が対北条勢と戦闘中。

北国方面には柴田勝家が、佐々成政・前田利家らの与力を得て対上杉勢と戦闘中。

西国方面を担当していた羽柴秀吉は、難敵・毛利氏と対峙し、つまり中国方面には羽柴秀吉、対毛利兵力三万と戦闘中。

四国方面には我が子、神戸(織田)信孝、対長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。つまり四方同時に攻めているのだ。

常識的に見て、只相手を倒すのが目的ならこれだけ強引に戦線拡大しなくても兵力を集中して攻め、一つ一つ倒した方が結果効率が良い筈だ。

そうしない所に、信長の真の目的が見え隠れして居るのである。

四方同時に攻めさせているには、「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う信長流の大結界を敷いた読みがある。

敢えて信長のミスを言うなら、この時「息子可愛さ」に本来畿内地区の押さえ担当である丹羽(にわ)長秀を、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継いだ三男・神戸(織田)信孝の四国攻めに付けて近くを明智軍だけにした事か。

この一事を見る限り、信長にも肉親への愛と言う平凡さはある。

それにこの無警戒は光秀への信頼の現れであり、巷で言われる様な信長の「光秀いじめ」が在ったなら、それほど無警戒に身近を光秀軍だけには出来ない筈だ。

これを追っていた我輩は「光秀いじめは在り得ない」と確信する。

何故なら「本能寺の変」の原因を手っ取り早く解説する為、芝居の脚本書きが「手早い仕事をした」と考えるからである。


信長には、長年思い描いた深い意図が在った。

この全方位の戦線は、裏を返せば「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う事で、四方への攻撃が、そのまま京都に手が出せない防衛ラインを引いた事になる。

敵も見方も、「光秀軍を除いては」の事である。

光秀謀反について、信長が光秀を「虐めた」とか「見限った」とかの怨恨説や恐怖説の類を採る作者は、この畿内周辺の信長軍の配置の全貌を見て、「どう説明しよう」と言うのだ。

恐らくは江戸期に書かれた芝居の脚本や草紙本を、後の者達が「鵜呑みにしたのではないか」と思われる。

そうした推察から、やはり光秀に、「全幅の信頼を置いていた」と考えるのが普通で有る。

例えばであるが、万一にも光秀を「亡き者にしょう」と言うなら、光秀に家康の供応役をやらせている間に、光秀の軍主力に先発命令を出し、先に毛利攻めの援軍に向かわせる方が、光秀は軍事的に丸裸で余程合理的である。

ここは信長に、「織田新王朝の旗本親衛隊に明智軍が偽せられていた」と見る方が信憑性が高いのである。

もう一つ、忘れられているのか説明が付かなくて触れていないのか、本能寺急襲に於いて不可解な問題がある。

あれだけの軍事力、斬新な思考の持ち主である織田信長が、何故易々と光秀に本能寺急襲を赦したのか?

本来、信長が光秀を警戒していたなら、一万三千の大軍が三草(みくさ)峠で進路を都方面に変更した時に、放っていただろう間諜から、第一報がもたらされなければならない筈である。
それがなかった。

では何故か、我輩の主張のごとく「光秀が織田軍団の諜報機関を完全に掌握していた」としか考えられない。

もしそうであれば、信長が全幅の信頼を光秀に置いていた証拠である。

妻を通しての姑・妻木(勘解由)範煕(のりひろ)との縁は、光秀に影人達の絶大な信用を与えた。

雑賀は勿論、甲賀、伊賀、根来、柳生、全て元を正せば勘解由(かでの)党の草が郷士化したものである。

その光秀は、土岐源氏・明智(源)の棟梁で、盟主に担ぐには申し分ない。
,br> 信長はその光秀の影の力を、彼の能力と共に充分に知って彼を右腕に使っていた。

人類に「群れ組織」や「国家」と言う物が成立して以来、為政者にとって「情報の収集と情報操作、裏工作」は、権力維持に不可欠なアイテムである。

益してや戦国期は国取り合戦で、情報工作組織は存在しない方が不思議である。

どうやら織田軍団で、その任に当たっていたのが明智光秀だった。

いずれにしても人間の行動には動機が必要であり、明智光秀の主君・信長、本能寺急襲のその動機が問題なのだ。


本能寺の変の少し前、信長招待に拠る家康上洛の供応役を光秀が勤めて失敗し、信長が激怒した事が光秀謀反の根拠のように描いているが、それこそ作家の架空の話である。

この、供応役を光秀が勤めたのは史実だが、そもそも光秀が供応役に適任だったのは当時の諸芸能が修験の流れであり、影の仕事では諜報部門の一翼を担う立場だったからで、織田家臣団の諜報部長官だった光秀は修験芸能に気脈があり、舞も、能・狂言も彼を窓口にすれば最高の者達が呼べた。

つまり信長は、己の力を見せつける為にも、家康に最高の芸能を見せたかっただけである。


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信長の野望と光秀の苦悩

◇◆◇◆◇◆◇◆信長の野望と光秀の苦悩 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

物事には理由が必ずある。

信長はタイミング(時期)を考えていた。

戦国時代で、しかもクールな織田信長ならば、通常考えれば、家康と信長の仲は本来イレギラーなものにしか見えない。

この辺りを、通常の思考では深か読みはせず、単なる「同盟関係だった」として、浅く決着してしまう。

この謎を解くには、信長一流の「先読み思考」を、後の世の人は読み取らねばならない。

徳川家を臣属化もせず、危ない橋を渡っても同盟の相手として、何故(なにゆえ)に横腹に独立した大名・家康を置いていたのかは、天才信長ならではの先読みの計算だった。


信長の計算では、皇帝になる事を目論むからには家臣の大名以外で積極的にそれを認める戦国大名が欲しい。

家臣以外の心服者が居ないと世間的に様に成らないし、身内以外の賛同者は増えない。

その充てになる一番手が、同盟の相手・徳川家康だった。

それだからこそ、徳川家を家臣に組み入れないで「同盟の相手」として温存していた。

つまり、家康に「臣下の礼」を取らせるのは、皇帝の宣言をしてからで良かったのだ。

織田信長が足利義昭を奉じて初めて都に上洛してから、既に十四年の歳月が流れていた。

この年、明智光秀は既に五十五歳の齢(よわい)を重ね、織田信長は四十九歳と人生の大きな節目を目前にし、羽柴秀吉は四十六歳の円熟期を向え、一番若い徳川家康でさえ四十歳の齢(よわい)を迎えていた。


天皇と都を抑え、畿内一円の勢力を全て整理した織田信長の陰謀は佳境に入っていた。

光秀は、それに気が付いて戦慄した。

「今なら、お館様が都(京都)で何をなさっても誰も止められない。」

信長が張った結界の意味を知った光秀に取って、当然ながら当時の日本人は全てお上(帝)の臣下だった。

光秀は読んだ。

滞在先の丹波亀山城の天守閣で人払い、一人瞑想し、読んで、読んで、読み切った。

そして、一人天を仰いだ。

光秀の危惧した通り、信長の狙いは明白だった。

名目では、近々、信長自らが、光秀軍を擁して中国攻めの援軍に向かう事になっている。

その時が、間違いなく危ない。

恐らく信長の目論見では、光秀軍で京の朝廷、公家貴族を壊滅させる。

その間に、光秀の次に信頼を置ける秀吉軍を呼び返して周辺諸国を制圧させて、高らかに「新帝国の誕生」を宣言するつもりで居るのではないか。

まったくの新時代の幕開けである。

多分信長の事であるから、後の禍根を残さない為にも、朝廷、公家貴族の血筋を根絶やしにするまでやるだろう。

この一ヶ月、光秀は皇居の内裏と公卿達の屋敷が信長の兵に蹂躙され、炎に包まれる鮮烈な「白日夢」に悩まされていた。

「お館様、それは酷(むご)い。」

信長の試みは、「野望」と言うなら確かに野望であるが、天下を手に入れて楽しむのが信長の目的ではない。

信長にとっては、己の知力をかけて帝位に挑む(挑戦する)事そのものが生き甲斐だった。

実力のある者が、最高の地位につく・・・極普通の発想の筈だ、しかしその価値観の発想は、この国では「禁じ手の間違い」だったのである。

この結論に達した時、光秀は信長の様に天才には成り得なかった。

権謀術策の世界で気高く生きるのは難しい事で、主君・信長の生き方も理解できる光秀故に思いは揺れ動く。

しかし、とても信長の様にすっ飛んだ発想の元に「鬼神の振る舞い」など出来ない。

光秀の価値観には、捨て切れない朝廷貴族の血・村上源氏土岐流が流れていたのだ。

これは天皇制の国家観の問題で、人夫々(ひとそれぞれ)だからどちらが正解と軽々には言えないが、織田信長は天皇制はぶち壊すべき存在で、明智光秀には天皇制は命を賭しても守るべき存在だった。


「この国では、朝廷(帝)が無くなれば国体が維持出来ない。」

光秀はそう思っていた。

皇統が途絶える事は、「権威」の裏付けが無く成る事で「秩序」が崩壊する。

当時の日本人に取っては自ら「経験の無い恐怖」に陥る事に近かった。

長年培われた皇統中心の精神秩序を壊して、新たな秩序を構築するなど、リスクが多過ぎる話だった。


これはボタンの掛け違いで、明智光秀が解釈していた「お館様の天下布武」は将軍としての天下取りだった。

所が、織田信長の目指した「我、天下布武」は、織田新帝国だったのである。

勿論、この明智光秀と織田信長の考え方の行き違いは、「どちらが間違いで、どちらが正しい」と言う類(たぐい)のものでは無い。

互いの、「こう在るべし」と言う思考上の譲れない考えの違いが、「光秀の本能寺急襲」と成った事が、その真相である。

実は室町幕府に於いても後の江戸幕府に於いても、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達は帝及び公家衆の意向を受けて密かに与力し、歴史の表面にこそ現れない帝及び公家衆と幕府との間には激しい暗闘が在った。

明智光秀は妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木家を通して、その皇統を護持する勘解由小路系の草達の多くを使う立場で、それこそが光秀の力の源だった。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

人間は、肩書きが無ければ権威が持てない。

しかし一定の秩序は必要で、その権威の拠り所が朝廷から賜る官位だった。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び大名に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。



織田信長と明智光秀の思いは、すれ違っていた。

光秀は、織田信長の「天下布武に如何に対処すべきか」の決断を迫られた。

「帝の御命をお守りするは、裏切りに在らず。」

それが、朝臣・惟任日向守光秀の結論だった。

人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも譲れない、自分と言う五分がある。

そこら辺りを勘案しないで、主(あるじ)が主従関係に甘えてしまうと、百の信頼関係も一挙に失って思わぬ裏切りに合う。

しかしこれは、将たる者が臣(部下)の本質を読めなかった「主(あるじ)に至らぬ事が在った」と受け取るべきである。

今、光秀だけが誰にも話せない緊迫した状態にあった。

光秀は、ここ一月ほど、奇妙な胸騒ぎの中に居た。

拭(ぬぐ)えども拭(ぬぐ)えども、押さえ切れないほど源氏としての後胤末裔の血が騒ぐのだ。


明智光秀の唯一誤算は、秀吉の「中国大返し」である。

合計三万、途中播磨の合流軍を入れて四万、その大軍が、わずか五日ほどで帰って来た。

実は、あれほど早く秀吉が帰って来るとは、光秀には計算外だった。

此処にも、天才と秀才の差が在った。

明智光秀が主君・織田信長殺害を決意した時点ではまだ、その真意(朝廷壊滅)を信長から伝えられてはいない。

自分にでさえお館様は直前に指示するつもりであろうから、当然、事が起こってから秀吉も「呼び戻されるもの」と読んだのだ。

しかし、違った。

信長は、羽柴秀吉の能力を知っていた。

目的の真実を教えるのはともかく、信長は手段だけは「細かい処まで」秀吉に指示して在ったのだ。

つまり、指示があればすぐに帰れる様に、秀吉には行きがけから「要所、要所に速攻で帰れるような手配をしながら出かけるように」と、申し付けて在ったのが事の真相である。

恐らくその為に、宿駅での手配など相当細かい指示までして在ったのかも知れない。

その備えなくして、秀吉が短期間で「中国大返し」を出来た理由が無い。

もしかすると、実行日に合わせて既に行動開始の予備連絡を、信長は「既に発していたのかも知れない」とさえ考えられる。

つまり信長は、本能寺到着時点で「織田新帝宣言時の畿内警備」を担当させる為に、対毛利和睦と、中国大返しを既に秀吉に「指示済みだった」のではないのか?

光秀は、自分と秀吉への信長の評価の違いまでは、読み違えて計算に入れていなかったのだ。

信長の「知略の実行」で伸し上がった秀吉である。

「大返しの真の目的」を知っていたのなら、天下掌握後、秀吉は迷わず信長の意志通り、「皇位簒奪」の行動をしただろう。

彼にとっては、それが正しい事なのだ。

それが無い以上、秀吉は信長の真意を何も知らされていなかったのだ。

此処では、信長に大返しの事前の指示を受けていたのが「秀吉の幸運だった」とだけ、言って置こう。


明智光秀は、追い詰められていた。

信長の目論見を察知して、「いかに動くか」の決断を迫られていたのだ。

或る意味(理論的にも)では、主君・信長の発想も否定できない。

光秀的にも、基本の「軸の設定」を変えれば、信長案は正しく正解なのだ。

いずれにしても光秀は、主君・信長の大それた陰謀を秀才故に指示される前に読み切ってしまった。

それが、苦悩の原因である。

こんな時、秀吉がうらやましい。

奴なら考える間もなく信長の下知に無条件で信長に従う。

「秀吉、是々をせよ。」

「はっ、仰せの通りに。」とまぁ、そんなものだろう。

もっとも、信長が秀吉を「さる」と呼んだ記録は何処にも無い。

信長はそれほど部下に傲慢ではない。

至って現実的な男で時に優しさもあり、使える部下にはそれなりに接していたからこそ相手も心服する。

稀なる秀才、明智光秀には、秀吉の真似がどうしても出来ない。

だが、信長はとことん自分を信任している。

「光秀なら、多くを言わずとも解る」と踏んでいる。

信長にしてみれば、光秀にとっても「簡単な答えの筈」だったが、信長は読み違えた。

光秀の選択は、信長の期待とは違った。

「鬼神信長の抹殺」

それが、光秀の最良の結論である。

そう決めたからには、万一、面と向かって「朝廷抹殺を指示される状況」になってはまずい。

そう成ってからでは、計算上簡単には止められない。

武装した供回りに阻まれて、討ち漏らす事も有り得るのだ。

何しろこの広い機内一円で、今一万三千騎とまとまった軍勢を率いていたのは自分だけで、光秀はこの状況に運命を感じていた。


実はこの時、同じ京の地には信長の子「嫡男・信忠」、「次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)」の二人、それに信長の弟・後の織田遊楽斉が妙覚寺に投宿しており、正式に出立の時にはその軍勢も合流してしまう。

今、信長は「天下布武」大願成就を前にして、本能寺に在った。

供回りは、小姓の森蘭丸長定以下馬廻など供揃えは僅かである。

その数僅か八十名とも百五十名とも言われているが、いずれにしても明智方は一万三千余騎で数の上で話になら無い。

真の目的は信長だけが知って居り、それもあと一歩の所まで来ている。

信長は、四方に軍団を侵攻させる事で、事実上強固な「結界」を張り巡らして、絶対の自信の中に居た。

嫡男・信忠、次男・信雄達を呼び寄せたのは、世継として「新皇帝宣言」に立ち合わせる為だった。

家康も武田平定の祝宴を理由に、僅かな手勢だけで京に呼び寄せてある。

抜き打ちで「新皇帝宣言」に同席させ、家康が本国へ指示を出す前に事を終わらせて新帝国を既成事実にする為だ。

全て信長の計算通りに、事は運んでいた。

ただ一点、光秀の心を除いては・・・・。


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光秀の決断

◇◆◇◆◇◆◇◆光秀の決断 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

光秀軍には、中国攻めの秀吉に合力(手助け)する名目で、カモフラージュさせての武装軍団の編成指示が出ていた。

これは公の事なので、光秀の部下もその積りでいた。

光秀は、そのままそれを口実に、軍団を動かし始めたのだ。


明智光秀が引き起こした「本能寺の変」は、見るからに雑なヤッツケ仕事である。

常に諜報畑を歩き、外様でありながらほぼ家臣団の筆頭まで上り詰めて来た光秀には、織田軍団に在って余り人気が無い事は光秀 本人も自覚していて、大名達の支持が集まらない天下取りは無謀である。

つまり光秀の「本能寺の変」には、天下取りの野心も無ければその支度も無かった。

しかし、僅かな供廻り(小姓近習衆二百数十名)のみで京の都・本能寺に信長は在り、一方光秀は、純粋に子飼いの軍勢一万三千騎を率いていた。

「この機を逃せば、お館様は天子様ごと朝廷を灰燼(かいじん)と化すだろう。」

信長に拠る皇位簒奪の野望阻止には千載一遇のチャンスが巡って来て、光秀は決断した。

人間、理屈に合わなくとも心情で決断する事があり、それを理屈で読み間違える者も多い。

明確な権力奪取の目的が主眼に在っての事ならもつと抜かりなく体勢を整えて然るべきで、光秀らしからぬ行き当たりバッタリの本能寺攻めなど考えられない。

織田信長殺害後、天下の秀才・明智光秀が天下を掌握する積もりで在ったなら、事前に相応の手を打ち、味方を集められる周到な体制を整える筈である。

それが・・・、「天下の知将」と言われた光秀ほどの男が、ずさんにも「本能寺の変後」の事はほとんど計画しては居なかった。

それもこれも、差し迫っていた織田信長の野望阻止が精一杯で、明智光秀には「変事後の事を思案する余裕など無かった」と考えるのが妥当な所である。


織田信長(おだのぶなが)は、父・織田信秀(おだのぶひで)以来の家臣で筆頭家老・柴田勝家(しばたかついえ)や二番家老・丹羽長秀(にわながひで)以上に新参の明智光秀(あけちみつひで)と羽柴秀吉(はしばひでよし)を重用した。

二人の能力が「他の家臣依り勝っていた」と言ってしまえばそれまでだが、この重用した訳の分析が現代にまで通じるヒントと成るので少し掘り下げる。

確かに、氏族の草と深い関わりを持ち彼らを自在に操る明智光秀(あけちみつひで)と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(はしばひでよし/木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だった。

しかしそれだけではない重要な素養が二人には在った。

光秀と秀吉が実質で織田家旧臣をごぼう抜きにしたのは、「心構え」と言ってしまえば益々抽象的になるのだが、簡単に言えば彼等二人が幹部に欲しい人材だったからである。


経営者が幹部に要求するのは、常識論を持ち出して「それは無理でござる。」と否定する幹部ではない。

つまり戦国期にしても現代の事業にしても「常識を打ち破る事」こそが他に勝る新しい戦略(有望な経営モデルやアイデア商品等)として「他を凌ぐ事」に通じ、常識論を持ち出して他と横並びでは何の発展も無い。

所が、「お館様(社長)は非常識な無理を言う。」と言う不満や「金や人員を揃えてくれさえすれば。」の言い訳は、最も幹部に相応しくない事に気が着かない。


つまり企業として当たり前のローコストで価値のある事を生み出してこそ幹部で、常識を盾にその枠からはみ出した名案へ思考が到らないでは幹部として全く不要なのである。


そして中には、お館様(社長)の自分への期待も判らず、「拙者(私)が何度も説明しているのにまだ判らない。頭が悪いのじゃないの?」と相手を馬鹿にする。

本人は相手が悪い積りでも、そんな世渡りの姿勢では何処でも認められないし、そこに永く身を置けない事になる。

光秀も秀吉も、信長に資金や人員の事を無心した事は無く、秀吉に到っては敵が降伏寸前の情況に在る事を見計らって信長の出陣を求め、「お館様に恐れを為して・・」と手柄を主君に譲る世渡り上手である。

まぁ、そうした見え見えの芝居をする秀吉依りも、クールな光秀の方が信長の肌には合っていたのだが。


信長が、いかに光秀を愛していたかもうお判りだとは思うが、此処でエピソードを一つ加える。

それは、信長が光秀と秀吉に名乗らせた官、姓名である。

信長が二人に送ったのは、重大な意味を持つ土地に縁ある名なのだ。

惟任(明智)日向守・光秀、この「日向の国」は、天孫降臨伝説の国で、高千穂神社や天岩戸神社が在る神話上の日本発祥の地である。

羽柴筑前守・秀吉、「筑前の国」は神武天皇の最初の都で、比売大伸(ひめのおおみかみ)がおわす宇佐神宮の押さえになる。

二つの国とも、朝廷にとってその成り立ち上もっとも重要な土地である。

まだ中国地方の毛利さえ従ってはいない段階で、九州の国名や名族名を名乗らせた処に、信長の意志がある。

これらは、新帝国成立時に「神話」を信長の織田家に繋げる為の「道具だて」に成るのが狙いだった。

因(ちな)みに、天照大神(あまてらすおおみかみ)がおわす伊勢神宮の伊勢の国は、信長の三男、織田(神戸)信考に所領を与えている。

これ等は偶然では無く、朝廷の所縁(ゆかり)の地を押さえる事で、歴史の書き換えを信長が目論んでいた疑いがあるのだ。

神官(越前・織田神社)の出らしく、歴史を知り尽くした信長の、全国支配の戦略である。

加えて、光秀にはもう一つ「惟任(これとう)」と言う九州の名族の姓と称する姓を与えている。

惟任(これとう)については九州の名族となっているが、詳細は不明とする解説が多く惟任姓を名乗る家も在る事は在るが現在でも非常に僅かである。

他に考えられるのが、惟(これ)は、九州の古代豪族・阿蘇神社大宮司家・阿蘇国造(あそくにのみやっこ)・阿蘇氏の棟梁が名前に使うのが惟(これ)と何かを組み合わせた名で、例えば阿蘇惟直(あそこれなお)と、こちらの方が九州の名族として理解し易い。

これは、初期の九州時代のプチ朝廷から連綿と続く名家・阿蘇氏の名で、惟直(これなお)、惟時(これとき)、惟歳(これとし)、惟忠(これただ)、惟澄(これすみ)、惟村(これむら)、惟武(これたけ)、惟豊(これとよ)、惟任(これとう)、惟宗(これむね)、惟住(これずみ)などがある。

本能寺の変時点では、正確には明智光秀改め惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀が、正しい名乗りで、略せば惟任光秀である。

惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀は、馴染みが少ないので本書では明智光秀で通している。

名目の九州の地・日向(ひゅうが)は、赴任するには確かに遠い。

これをもって、光秀が「地方に追いやられる危機感を抱いた」とする説もあるが、鎌倉時代の昔から、守護、地頭職は、通常中央政権に在って政務を助けていた。

別に、領地の運営は身内の代理で良い。

織田信長が本当に光秀を不要と感じたら、彼の性格からして遠くに追いやったりしない。

殺すか、兵力を解体の上追放する。

羽柴秀吉には筑前守を与えらが、姓は与えてはいない。

重臣の丹羽長秀には、惟住(これずみ)と言うやはり九州名族の姓を与えているが地名をつけた守(かみ)号は与えられていない。

例えば織田家の本来の筆頭家老・柴田勝家の官名は、修理亮(しゅりのすけ)で、高位の官職ではあるが、地名・家名には関わりが無い。

柴田勝家については織田軍団の猛将と知られているが、微妙な所で明智光秀や羽柴秀吉とは主君・織田信長の扱いが違う。

名だたる信長家臣団のトップグループで、惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)と両方もらったのは、光秀だけである。

そこを読めば、つまり信長の全国支配の戦略に光秀は筆頭で組み込まれている。

光秀に対しては、「中央にあって補佐しろ」が信長の意志であり、「新皇帝誕生」なら、光秀はさながら宰相のポストが用意されていたのだ。

織田家相続争いの際、弟・信行(信勝)擁立で信頼を失った柴田勝家も、暫く干されて謹慎した後に赦されて信長の天下布武の一翼を担うようになり、次第に重用されるようになる。

勝家は越前の一向一揆平定後、越前国八郡・四十九万石、北ノ庄城(現在の福井市)を信長から与えられた。

一応の待遇だが、もしかするとこの勇猛なだけで実直過ぎて知略に欠ける武将を、信長は余り信頼していなかったのかも知れない。

まず勝家には、信長の衆道小姓上がりの前田利家、馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)を経由してひとかどの武将に出世した佐々成政、不破光治らの与力を付けられ北陸方面軍総司令官を勤めていたが、前田、佐々、不破は属将ではあるが独立した武将で柴田勝家の家臣ではない。

織田信長が「配下の将を与力に付ける」と言う事は、勝家がさしたる有力家臣を養っていなかったか、それともその能力を疑っていたのか、真偽のほどは判らないが、越後の上杉謙信に「手取川の戦い」で上杉謙信に大敗を喫するなど、てこずっていた事は事実である。

それに比べ、明智光秀と羽柴秀吉は自前の家臣団を率いて多くの武功を次々に上げている。

ここら辺りがこの物語の指摘する所だが、つまり織田家で何代も続いた武将の柴田勝家よりも、浪人上がりの明智光秀と氏も無い羽柴秀吉には信長配下の将を与力に付ける必要が無いほどの「恐るべきコネクションが在った」と言う事である。

柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死するも、勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。

残念ながら、そうした柴田勝家の総合力が後の北ノ庄城落城に結びついたのではないだろうか?


いずれ、勝家と光秀、秀吉の立場は逆転する事が伺える。

いや、実務的には本能寺の変以前に既にそう成っていた。

信長新皇帝の下で宰相になるのは間違いなく光秀で、それを知らぬ光秀ではない。

そうなると光秀の蜂起は、怨恨、ねたみ、私怨などの諸説は、考え難い。

光秀に天下取りの野望は在ったかも知れないが、それにしても本能寺の事は光秀が為したにしては無計画過ぎる。

やはり、差し迫った「何か」があった筈だ。

ちなみに惟宗(これむね)氏は「秦氏の子孫」と言われ惟宗(これむね)広言の子の惟宗(島津)忠久が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から日向国島津庄(現宮崎県都城市)の地頭に任じられ島津氏を称した。

つまり九州薩摩国・島津家が旧・惟宗(これむね)氏である。


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本能寺攻め

◇◆◇◆◇◆◇◆◇本能寺攻め◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千五百八十二年(天正十年)六月の始め、明智光秀は一万三千騎の軍勢を率いて、丹波亀山城を出立する。

一万三千騎の大軍は、三草(みくさ)越え街道を粛々(しゅくしゅく)と進んでいた。

奇妙な事に、この時畿内には光秀軍以外にこれと言う大軍勢は居なかった。

稀代の天才武将・織田信長は、茶会を催して本能寺に居た。

その静かな催しも終わり、先程人払いをして今は一人で庭に夏虫の声を聞いて居た。

苦しい時、信長は月を見上げる。

月は僅かばかりに闇を遠ざけ、密かに安堵が訪れる。

孤高の武将・信長には他人には見せられない孤独はあるが、「天下布武」の野望は漸く信長の手が届く所に在った。

来し方を想う時、「此処まで我ながらよう来たものだ。」

立ちはだかっていた壁は、ことごとく打ち壊して、近隣に遮(さえぎ)るものは無くなっている。

「阿修羅と成りても、やらねばならぬ。」

数えの四十九歳を迎えた信長には大願が目前に見えていた。

博多の豪商・島井宗室や女達を交えた茶会の後、先ほどまで森欄丸を相手に酒(ささ)をたしなみ、珍しく酔って眠気を催していた信長は、「ふぅ」と一息付いて、寝所に戻った。


丹波路には優しい雨が降っていたが、明智光秀は馬上で手酷い憔悴感に襲われていた。

ここで打つ手を間違えば、己の武将人生が命取りになる。

しかし、先程から「ここは思い切るしかない・・・」と、心の声が聞こえて来る。

「さて、この難局を如何(いかに)に謀ろうか?」

たった一人の決断だったが、男には武人生命を賭しても為さねばならぬ時があるのだ。


粛々(しゅくしゅく)と進む軍勢のざわめき、荷駄の音、時折聞こえる軍馬の嘶き、初夏の草息切れの中、明智勢一万三千騎の向かうは西方、中国地方の大々名、毛利家攻め・・・・の筈だった。

夕刻、その軍勢が突如行き先を変えた。

光秀が、東に向きを変え、老の山(おいやま)から山崎より摂津の地を経て、京の都に着いた時は、既に明け方近くで在ったが、都はまだ覚めやらず静まり返っていた。

切羽詰まった光秀にとっては急場の決断を要する事だった。

兵を向けた本能寺の事は決断あるのみで、「どうしたら良いのか」と迷っている間など無かったのだ。

ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月が在った。

光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。

都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。

都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。


桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。

光秀は無言だった。

恐ろしさはあるが、自分には生きる証がこの生き方しかない。

粛々と進む軍勢を馬上から眺めながら、やはり「それが正しい選択だろうか?」と言う自問自答の思いが、この期に及んで光秀の脳裏に浮かぶ。

狙うは、「稀代の天才」と尊敬するお館様・織田信長のお命である。


考え抜いた末の行動だったが、「お命縮めまいらせるは惜しいお方」と言う思いは拭えない光秀だった。

やっと全軍に、光秀の「信長公討ち取り」の下知が下ったのは、先陣を務めた安田作兵衛(天野源右衛門)の一隊が、「本能寺に到達した」と伝令が伝えた時だった。

ここから後戻りしても、どの道その命令違反を詰問され明智家は無事では済まない。
光秀の軍勢が、引き返せない所に達していたのである。


本能寺の所在地は、現在の位置とは違っている。

都の中央を内裏まで貫く朱雀大路から東へ七本目の油小路が、最南端の九条大路から内裏(だいり)に向かって十八本目の高辻小路と十九本目の五条坊門小路との間の交わる場所が、当時の本能寺の所在地だった。

夜明けを待つ静寂に包まれた本能寺は、石垣土塁を持ち堀一重に囲まれた小城郭の様な寺である。

その本能寺の造作が、今は何もかも黒々と静まり返っている。

確かに都は深い眠りに着いていた。

しかしその静寂が突然破れ、古都の一角が震え、歴史が大きく動く瞬間だった。

夜が白み始めた早朝、法華宗・本能寺は一万三千の大軍に囲まれていた。

大軍に囲まれては、寺の堀など一堪まりも無い。

余りにも有名で芝居がかった「敵は本能寺にあり。」は、本当に芝居じみた事を光秀が言ったか判らない。

後の人間が、劇的になる様に表現したのではないか?

思うに、時は手柄争い下克上の時代で、早々と宣言すれば早馬で内通する者が出ないとも限らない。

増してや、部下をいたずらに興奮させては信長を取り逃がす。

しからば完全に包囲するまでは、悟られぬよう粛々と静かに行軍するのが自然である。

ただ、これだけの大軍に包囲されれば、逃げ切れる状況にないのは確かで在った。

時の声は、包囲が完了してから上げた。

明け方、夜が白み掛けた頃に本能寺の四方から時の声が上がり、時ならぬ軍馬の響きに流石の信長も寝床で目が覚めた。

「火事でも起きたか」と思った信長が布団を跳ね上げ、起き上がって部屋の外に声をかけた。

「何事じゃ。」

敵は居ない筈だった。

所が大軍勢の迫る音が聞こえ、信長が予想だにしなかった容易ならざる事態だった。

「お館様、何者かに寺を包まれてござります。」と、小姓の一人が悲痛な声で答えた。

信長にとってそれは、想像すらしなかった不測の事態だった。

「おのれ、いずれの手の者じゃ。小姓ども、敵の数はいかに。」

「お館様、寄せては大軍にござりますれば、防ぎ切れません。」

「何。それほどの軍勢、この辺りに居る訳がない。」

慌てて袴を身に着ける間も無く、信長は夜着のまま手槍を片手に濡れ縁に走り出た。

「各々方、お館様をお守り致せ。退路を捜せ。」

既に側衆の森欄丸が、必死の形相で僅かな手勢の指揮をしていた。

「退路は塞がれております。」と、何処からか、悲痛な声が聞こえて来る。

やがて、「わー」と言う辺りを威圧する時の声が、押し包むような威圧感で、四方から上がる。

乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響き、寄せ手が迫っているらしく、既に警護の者の防戦は始まっていた。

「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。

「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来る無数の矢。

「ターン・ターン」柱や板戸に刺さる矢の音。

逃げ惑う女性(にょしょう)や寺僧の悲鳴、本能寺は一瞬にして喧騒に包まれる。

やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。

供周りの者が物見に走る。

取り囲んだ軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。

「御注進、御注進、旗印は桔梗紋・・・水色桔梗紋。」

物見の者から、声が上がる。

傍らの森欄丸が叫ぶ。

「お館様、あれは惟任日向めの軍勢にござります。」

「光秀か、是非に及ばず。」


天才・信長の才能は、部下の能力を引き出す事にある。

この部下の能力を引き出す事は下克上時代に在っては危険な事でも在ったのだが、信長は他の武将と違って能力を認めた相手を早くに芽を摘み潰す、みみっちい暴挙には出なかった。

それで尾張織田家とその友好大名からは、天下の帰趨(きすう)を左右する多くの武将を輩出した。

人間は、その人生に妥協を重ねながら生きて行く。

我を通すばかりでは遣って行けないから、妥協を重ねるそれが利口で正しい生き方と言う思いもある。

しかし一方で、妥協を跳ね除け純粋な気持ちで生きて行く事に格好良さの憧れもある。

考えさせられる課題ではあるが、双方それなりに言い分が在るからどちらにも軍配は挙げ難いが、日頃の信長の生き方には妥協はなかった。


押し寄せた軍勢の旗印が桔梗紋と知って、織田信長は自らの野望が潰(つい)えた事を知った。

これは「因果応報」と言う奴で、そもそもは信長がこの国の秩序(天皇制)を壊そうとしたのだから光秀に織田家の秩序を壊されても文句は言えない。

尽く尽く(つくづく)想うが、人生何て予想外の展開の連続で結果の良し悪しも含め予測など誰も出来ないし、益してや計画通りに成る事などまず在りはしない。

信長は自らの運命を瞬時に悟って覚悟を決める。

それにしても、天才・織田信長にとって明智光秀の謀反は思いも拠らない誤算だった。


千五百四十九年(天文十八年)、十六歳の折に帰蝶(濃姫)を妻に迎えて以来早三十一年、四十七歳になるこの齢まで知略を尽くしてここまで来たが、信長は最後の詰めに誤ったのである。


信長の「我、天下布武」は織田新帝国の野望だったが、これは天命ならば成せるものだった。

桔梗紋の旗印に囲まれた信長は、一瞬で悟っていた。

「我、天下布武は、天命にあらず。」

信長は天命を信じ、己を信じて突き進んで来た。

その総仕上げ目前で目にしたのが、はためく旗指物に鮮やかな「光秀の桔梗紋」だったのである。


光秀が主君・織田信長を討ってまで天皇制護持に動いたのは、自身が天皇家の後胤貴族・源氏の血筋を引くからで、言わば天皇家が明智の総本家と位置付けられるものだからである。

加えて光秀は、日本に於ける天皇制は生き残って来た朝廷の存在価値として故に、秩序の要(かなめ)に位置付けていた。

何故なら、天皇が授ける官位・官職が千五百年以上続く唯一無比の社会的権威であり、他に代わるものが無い統治資格を追認して裏付け証明してくれる便宜的な権威だったからである。

つまり本人が幾ら自らを誇示しても、天皇家から官位・官職を授からなければ裏付け証明が得られないのが日本の社会だった。


敵味方入り乱れて「ドタドタ」と走り回る足音が聞え、気合や怒号と共に、刃(やいば)を切り結ぶ「チャリーン」と言う太刀の当たる響きもそこかしこで上がっている。

その混乱の最中でも、瞬時に他の選択の無い事を悟った信長の決断は自分の死に於いても早かった。

何かを為(な)す為には迷いは禁物で、一度抱いた信念は曲げられない。

信念を曲げ無い事は大きな力になるのだが、それにしても最初に抱く信念が間違っていては幾ら拘ってもどうにもならない。

人間の思考能力は無限大で、思考方向も無数に存在する。

にも関わらず、自らを縛ってしまうのがアンカリング効果と一貫性理論の罪の部分である。

織田信長は、己の信念を「正しい」と信じ過ぎた故に、明智光秀が「ついて来る」と信じたのである。


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光秀の不運

◇◆◇◆◇◆◇◆光秀の不運 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。

この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。

現代の企業でもこの辺りが微妙で、その為に、二代目、三代目が続か無い事も多々ある。

この心理に到らなかった男は一人しか居ない。

長い日本史の中でも、我輩が正確に確信出来る男は天才・信長を於いて他に無いのである。

つまり信長絶対の自信が、裏目に出た瞬間だったのである。

それだから面白いのだが、結局の所、人生の幸不幸は運否天賦(うんぷてんぷ)で、織田信長ほどの才を持ってしても運命は個人の力の及ぶ所ではないらしい。

到底納得など出来ないが、この世に予測不可能な相手の意志が存在する以上、営々と築いた人生も設計通りに行く人間など一人も居ない事に成る。


森欄丸は稚児小姓上がりの織田信長側近である。

稚児小姓とは閨で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

戦国期は、親兄弟息子に到るまで油断がならない。

増してや部下などは、下克上を虎視眈々と伺っているやも知れない。

大方が自分もそうして来たから、それが世の習いだった。

それ故この時代、大名は稚児小姓を愛でる習慣があったが、それは硬い絆の元に安心できる部下の確保育成を目的とする一面を持っていた。

つまり男色は、武士と武士の約束で「身を任せ、死んでもお仕えする」と言う「誓約(うけい)」の主従関係を表す最も具体的な契りである。

稚児小姓になる方も、主君の信頼を獲得し出世が保障される所から、氏族社会の世間でもこの関係を、「さして異様なもの」とは扱われていなかった。

余談だが、こうした形態の信頼構築の心理は、何も戦国時代の主従関係に於ける特殊な事例ではない。

井伊直政は、家康に見出され小姓(児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。

この時代、誓約(うけい)の概念における男色(衆道)相手の児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかったのである。

もっとも同性同士はめずらしいだろうが、異性同士なら実は現代の上司と部下の場合でも「職場不倫」と言う形で存在し、さして珍しいものではない。

けして職場不倫をお薦めしたり肯定する訳ではなく、ただの心理分析であるが、職場不倫には互いに不安を打ち消す手段として、奇妙な「刹那的(せつなてき)安心心理」が介在している。

つまり、古代から脈々と流れている性交を交えて信頼関係を築く「誓約(うけい)心理」が、変形して具現化されたものである。

腹心の部下を「懐刀(ふところかたな)」と言う。

職場不倫にも、ある種そうした要求が働く。

基本的に「誓約(うけい)心理」が働いて関係が形成されるものであるから、ドロドロの関係になる危険を孕むにも関わらず発生する不倫には、ただの肉体的快楽目的だけではなく、相応の安心の合意に拠る人間的心理が働く。

弱肉強食のコンクリートジャングルの職場社会に在って、上司が本当に気を赦せ、信頼できる異性は肉体(性交)を赦す相手である。

部下の方も、上司が愛人なら、職場として安心できる環境が整う事になる。

そうした人間心理「誓約(うけい)」は、何千年も変わらない事を意味している。

困った事に、こうした安心心理の介在を「愛」と誤解するからドロドロの仲になる。

職場不倫は、関係が壊れて覚めて見ると「愛なんかじゃない」と言う事に気付くのが一般的なのである。

織田信長の稚児小姓から岩村城五万石の大名にまで取り立てられ、本能寺で最後まで傍近くにいた森欄丸は、美濃・斉藤家の家臣から客将、家臣に納まり、近江・坂本城で討ち死にした知将森可成の三男である。

信長の男色寵愛を受け、第二世代の織田・家臣団のトップの位置にいた人物だった。


「弓矢をこれに・・」

信長は小姓に申し付け、弓矢を取り寄せた。

弓はニ、三度つがえて寄せ手に放ったが、敵の数が多くて間に合わず、小姓に持たせていた手槍を手に取ると襲い来る明智の手の者と切り結ぶが切りが無い、何しろ相手は雲霞のごとく夥(おびただ)しい。

それが一様に手柄首の信長を目指す。

覚悟は直ぐに決まった。

信長は、寄せ手に悪あがきする事が面倒に成ったのである。

「欄丸、これまでじゃ。」と、手槍は、寄せ手に向け投げ捨て、殺到して来た者が一人、その槍先を胴に受けて腰からうずくまった。

小競り合いの後、「欄丸、予の首、光秀に渡してはならぬ。」と、重要な最後の知略を申し付け・・・。

「承知仕った。」と言う欄丸の声を背にして、信長は奥座敷に消えた。

織田信長は全力疾走で時代を駆け抜け、挑み敗れた相手はこの国の歴史そのものだったのではないだろうか?

明らかに、光秀の想いがそこに在った事を信長は察知したのだ。


ここから、瞬時に思い付いた天才の信長のトリックが始まる。

奥に退(の)いた信長は、火を放つ役目で付いて来た小姓に命じて、小姓の足軽具足に着替え、髷(まげ)は切り落として残バラに結わえ直し、口ひげの形を変え、あごひげをそり落として座敷に火を放たせ、何食わぬ顔で小姓と二人、庭の明智勢に切り込んだ。

たちまち取り囲まれて討ち取られたが、誰もその身なり風体から信長とは気が付かない。

明智勢には、逃げ遅れら軽輩が「破れかぶれで打って出た」と見えたのである。

その簡単なトリックに、明智勢はまんまとしてやられた。

先入観とはそんなもので、身形(みなり)差ほどでもない足軽具足姿の信長の遺体は、早々とかたずけられて塀の腋に積み上げられ、下に成って判別がつかない。

光秀にとって不幸だったのは、一旦応戦に出て奥に引っ込んだ信長を確り目撃した寄せ手の味方も多かったから、明智勢の信長遺体捜索はもっぱら焼け落ちた座敷付近を主体に行なわれたのである。

しかし、生来相手の意表を突くから天才・織田信長である。

「天下人の信長がそんな姑息な手段など取る訳が無い」は凡人の先入観で、織田信長の知略は天下人らしさではなく、最後まで「知略の信長らしく」であった筈で、足軽具足に着替えた簡単なトリックで充分に明智勢の翻弄が出来たのである。

まぁ、「筈は無い、筈は無い。」は、凡人のアンカリング論理なのである。

「奥座敷を護れ。お館様を光秀に渡すな。」

森欄丸ら、織田家の小姓勢が最後まで奥座敷を護って討ち死にした事も、明智勢を迷わす要因だった。

信長の最後の知略を守る為に、欄丸は奥座敷が燃え落ちるまで守り耐え、本能寺は燃え盛った。

「お館様は、火を放って自刃して果て申した。我等もお供いたそうぞ。」

殺到する明智軍に蟻も漏らさぬがごときに十重二十重と囲まれて、近習の大半も僅かに従っていた雑兵も、奥座敷を守り通して落命して行く。

そして、信長近習が奥座敷を守れば守るほど、寄せ手の心象も信長奥座敷に在りを確信させて行くのだ。


人は思い込むと強情になる。

そして、相手の意見には聞き耳を持たない。

すると、もうどちらの言う事を「取り入れるべきか」と言うレベルではなく、非建設的な事に相手を言い負かそうとする。

聞き入れたり、認めたりする力量がないと人は付いて来ない。

利巧な人間なら、そんな面子だけの論争で混乱させる事なくちゃっかり自分の物にしている。

戦国武将にこの心得がないと、三日と領国を維持できない。

まぁ、我輩に言わせると、相手を認める能力の無い人間の末路は、寂しいものになるだろう。


この本能寺急襲の時、同じ京都の別の寺・妙覚寺に投宿していた信長の嫡男・織田信忠(当時美濃国主)、次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)、信長弟・長益(後の織田遊楽斉)の所にも信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した知らせが届く。

本能寺強襲の知らせを受けた信長嫡男・織田信忠は、本能寺へ救援に向かう。

だが途中で父・信長自害の知らせを受け、光秀軍が自分に向かったと知って忠はこれを迎撃すべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代・村井貞勝らと共に東宮(皇太子)の居宅である二条新御所(二条城の前身)に移動する。

この時織田信忠(当時美濃国主)と共に妙覚寺に居た次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)と信長弟・長益(後の織田遊楽斉)は明智軍の包囲を掻い潜り夫々の所領に逃げ帰る。

次男・北畠信意(織田信雄)は伊勢で兵を整えて近江土山まで進軍するが余程臆病な性格なのか明智軍と交戦する事無く所領の伊勢に戻ってしまう。


僅か二刻余りで信長の近習はことごとく討ち死にし、本能寺では昼前には光秀が焼け跡で信長の遺体を捜していた。

既に喚声も、打ち合う剣の響きも無い。

「捜せー、まだ見つからんか。」と、時折遺体捜索を指揮する武将のいらだつ声が聞こえて来る。

光秀は、「全ての残骸を掘り起こしてでも捜せ」と命じてある。

しかし散々に捜したが、信長の遺体は何処にも見つからず光秀は戦慄を覚えた。

「万一、お館様を討ち漏らしていたら・・・。」

悪い予感がした。

手の者を総動員し、必死で捜させたが徒労に終わり、光秀は二千ほどの兵を京の都と朝廷の守備に残し安土に向かう事にした。

光秀が安堵したのは、三日後の六月五日に信長の居城、安土城に乗り込んでからだった。

安土の城は「もぬけの空」で在った。

「やはり・・・、終わっていた。」

ここで初めて、光秀は「信長自刃」の確信を持ったのだ。

皮肉な事に、稀代の天才は最も愛した男の手に拠って、あっけなく生涯を閉じたので有る。


明智軍の、この三日間は無駄に近い。

光秀はお館様・信長の死に自信が持てず、多くの時間を遺体捜索に費やして防御体制の構築に力が注げなかったのだ。

勿論、何もやらなかった訳ではないが、ただ近隣の諸将を味方に引き入れ様にも、信長自害の証拠がない。

遺骸が、焼失してしまったのだから、相手も、「信長、恐ろし〜ぃや」の呪縛にはまって信長の生死に疑心暗鬼なのだ。

諸将の日頃の信長に対する恐怖は計り知れない。

それで大半が、信長自害の確証を得るまで日和見(ひよりみ)をしていた。

そんな訳で光秀は、本能寺以後も盟友の娘婿の細川藤孝や盟友の筒井順慶らさえも味方にできず後手に回ったままだった。

天才・信長の最後の知略に、光秀は嵌まった。

信長には、本能寺を囲まれた最初から秀吉の中国攻めからの「大返し」が読めていたのだ。


その時秀吉は、備中高松城(城主清水宗治)を水攻めで追い詰めていた。

しかし「信長討たれる」の報を聞き、急遽、毛利方と和議を結び、当時居城だった姫路に戻る。

「何、お館様が光秀に・・・、よぉし、都に戻るぞ。」

秀吉にしてみれば、ライバル光秀を討つ絶好のチャンスだった。

大義名分が立ち、別の諸将を味方に引き入れ易い。

「光秀は、余が討たねばならぬ。」

「大返し」に取り掛かった秀吉は、姫路で体制を整え、京に向かったのだ。

それにしても秀吉にしたら、最大のライバルを葬り去る絶好のチャンスであると同時に、その「大返し」の道すがら既に秀吉は信長の「天下布武を継ぐのは自分だ」と自負していた。

実は、この毛利勢が秀吉との和議締結の時点で「信長の自刃を知らなかった」と言う話には裏があるのだが、その話しは追々この物語で明らかにする。


天下布武の為に鵺(ぬえ)になった織田信長ではあるが、彼が人間らしい一面を覗かせたエピソードを紹介して置く。

当時は側室(妾/めかけ)と言う形式での男女の仲が在った。

人にはそれぞれに縁(えにし)が有り、他人と言えども強い絆(きずな)に育つ事がある。

それが夫婦だったり何かの仲間だったりするのだが、生駒吉乃(いこまきつの)と言う側室は唯の妾ではない。

織田信長に愛され、織田信忠と織田信雄を生んだ「生駒吉乃(いこまきつの)」は、側室であるが正室並に扱われ信長に愛されていた。

念を押して於くが、織田信長婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、生駒吉乃(いこまきつの)の名乗りは妾でなくとも生駒吉乃(いこまきつの)である。

この生駒吉乃に、「信長は母の面影を見ていたのではないか?」と、我輩は睨(にら)んでいる。

母の愛に恵まれなかった信長の愛した生駒吉乃の父親は、生駒 親正(いこまちかまさ)と言い、親正の父生駒親重(ちかしげ)は、信長の母・土田御前の兄で、土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが、つまりは母方の従弟の娘が「生駒吉乃」である。

信長はこの「生駒吉乃」を頻繁に寝所に召し、特に「激しく抱いた」と言う。


この織田信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)が、日吉丸(豊臣秀吉)を信長に結び付けた張本人だった。

明智光秀の織田家仕官の伝手(つて)が正妻の濃姫(帰蝶)なら、羽柴秀吉の織田家仕官の伝手(つて)は、この愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)である。

秀吉が織田信長に召抱えられた経緯(いきさつ)は、芝居の脚本の影響もあり、「秀吉の知恵」と面白く描かれる事が多いが、事実はもっと現実的な「縁故就職」だったのである。

生駒吉乃(いこまきつの)の生家・生駒家は、尾張国中村に在って数ヵ国と交易し、代々富裕であり諸国流浪の浪人武士を数十人も寄宿させ、養うほどの有力な豪族である。

生駒家は、平安時代初期の公卿・藤原冬嗣(史上初の摂政/藤原北家)の二男・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が大和国・生駒の地に移り住み本拠としていたのだが、室町時代に応仁の乱が起こりその戦禍から逃れて尾張国小折の地に移住する。

生駒藤原家は、この大和国・生駒の地名から生駒姓を名乗るように成ったのだが、生駒在住時代に名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かでない。

その生駒家は、秀吉と苦楽を共にし、秀吉を支え尽くしてきた木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)やその主筋にあたる謎の棟梁(秀吉の父親)と親交が有り、蜂須賀小六は生駒家と姻戚で在った。

生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族であるが、兼業で馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていて「生駒」を名乗っているくらいだから、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前である。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

藤吉郎(秀吉)と蜂須賀小六の「矢作橋の出会い」も、当時矢作橋その物が存在せず牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の「京・五条橋の出会い」同様に後の作家の創作で、生駒屋敷での出会いの方が信憑性が遥かに高い。

蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)は、姻戚である生駒八右衛門や前野長康と親交を結び、木曾川を舞台に河川土木や河川運航に活躍した船方衆数千人の棟梁として、美濃・尾張の戦国大名勢力の双方から半ば独立した勢力を築いていた。

その小六の主筋にあたる「謎の棟梁」の嫡男が、「日吉」と名づけられた豊臣秀吉の若き頃の姿だった。

どうやら、蜂須賀小六が川筋七流の荒くれ者を一同に集め「蜂須賀党二千名」の棟梁として活躍した後ろ盾が、川並衆の「謎の棟梁」と、生駒家だったようである。

母・土田御前の面影を追う信長の生駒吉乃への思い入れは強く、その愛は吉乃付きの小者(日吉)にまで及んだ。

蜂須賀小六が生駒家と姻戚関係で有った事から、吉乃の小者として仕えるようになった「日吉」は、信長の下に側室として上がった生駒吉乃について織田家に召抱えられる道筋が開けたのである。

その「日吉(木下藤吉郎)」に従い、長じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた蜂須賀小六と豊臣秀吉の関係は四十年余り及び、蜂須賀家も生駒家(但し分家/本家は旗本扱い)も、四国の大名にまで上り詰めている。


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中国大返しの奇跡

◇◆◇◆◇◆◇◆中国大返しの奇跡 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

織田信長(吉法師)は、その突出した才知故に母(土田御前)に愛されなかった人物である。

信長は心を開かない母に生涯心痛めながらも、母を慕っていた。

しかし、信長の思いは通じない。

その母の愛に飢えた思いが、天下布武にまい進させ、また、母方の姪(生駒吉乃)を妾(正室並の側室)にし、情を注ぐ事に成ったのである。


羽柴秀吉の「大返し」の勢いは、尋常ではなかった。

信長の「天下布武」を継ぐには、信長軍団の誰よりも早く戻らねばならない。

光秀を他の武将に討たれては、後継者の夢は叶わないからだ。

三万に余る大軍が山陽道を東に疾風のごとく駆け上り、過酷な行軍を押し通して、秀吉は畿内に戻って来た。

奇跡にはそれなりの種がある。

ここでその種明かしをして置く。

明智光秀も読み違えた秀吉の「中国大返しの奇跡」、実は秀吉ならではの人脈の賜物だった。

信長の側室(愛妾/めかけ)・生駒吉乃(いこまきつの)の生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族の出自であるが、兼業で馬を利用して荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていた。

その事から、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前で、秀吉軍は兵糧部隊も含め、生駒家の協力で、中国街道筋の「馬借(ばしゃく)」が、大軍の大移動を全面支援したのである。

秀吉による「中国大返し」の本質を正しく評価せず、只ひたすらに強行軍で返って来たかのごとく解釈する建前発想の悪癖(あくへき)が、「秀吉大返し」の教訓を捨ててしまったのである。

日本人が共通で持つ「日本人的な意識」を前提に、それを強情に「正しい」とする前に、それを見直し「確認しないといけない事」は幾らでもあるのだ。

だが、自らの否定に繋がる事は初めから切り捨てて、中々認める方向で認識する思考には成ろうとしない。


戦(いくさ)は、「兵だけ動かせば良い」と言うものではない。

実際に数万の軍勢を動かすには、食料や矢などの消耗武具から軍馬の餌(飼葉)、経路で消耗する軍資金に到るまで膨大な「荷役運輸(兵站)」が伴なう。

この物語でもそうだが、六万の動員力が在っても相手次第で一万〜二万で出陣するは、荷役運輸(兵站)が伴なう現実で、軍資金の消耗を考えるからである。

つまり作戦遂行には、本音の所でそろばん勘定も必要だった。

流石に織田信長がその実力を認めただけの事はあり、羽柴秀吉の「荷役運輸」の実力が光秀の想像を遥かに上廻っていた。

秀吉を織田家に推挙した生駒家と後に秀吉の臣下となる蜂須賀家の両家は、親類縁者の立場に在った。

つまり両家とも秀吉には少なからぬ縁(えにし)が有った。

その縁(えにし)が秀吉中国大返しの奇跡を生んだ輜重(しちょう)能力の秘密である。

輜重(しちょう)とは、兵站(戦闘力を維持・増進し、作戦を支援する機能・活動)を主に担当する軍の兵科目の一種である。

日本人は、基が氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想だから、戦争(戦/いくさ)をするにあたり、往々にして直接戦わない「後方支援」の輜重(しちょう)と言うものに無関心である。

羽柴秀吉は氏族ではなかったからこそ、直接戦わない後方支援の輜重(しちょう)の重要性を承知していた。

信長だけがその秀吉軍の輜重(しちょう)能力を認識していて、いざ自らの新帝宣下(織田帝国)の際は、「真っ先に軍を畿内に返す指示を与えていた」と言う事である。

それに引き換え、武士(氏族)は直接戦う事にのみ価値を認め、その他の役割やその要因を軽んじる傾向が在る。

つまり氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の明智光秀は、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)に敗れた」と言って良い。

しかも織田信長は密かに新帝国の準備をして居たから、この秀吉中国遠征に於いて予め畿内への移動の備えを命じていた可能性さえある。

「筑前(羽柴秀吉)、こ度の毛利攻めには予に考えが有る。予からの報(しら)せ有らばいつでも京にとって返す備えを道々怠り無くせよ。この事、他言無用ぞ。」
「御意、怠り無く致しもうす。」

光秀も、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)」に着いて多少の事は想像出来て居ただろうが、まさか「お館様(織田信長)から事前の指示が出ていた」と言う所までは読めなかったのである。

秀吉の「中国大返しの奇跡」に、光秀は狐につままれたような想いだったであろう。

余談だが、ここで挙げた氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想の悪癖(あくへき)、実は先の第二次大戦時まで続いて、「後方支援」の輜重(しちょう)に重きを置くよりも「精神論で戦う」と言う馬鹿げた作戦を、大本営は各地で遂行させている。

この精神論の戦(いくさ)主義が無かったら今少し作戦に輜重(しちょう)を考慮に入れ、あんな無謀に広域に伸び切った占領作戦を敢行し多数の餓死者を出さなかったのではないだろうか?


余談だが、ここで挙げた氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想の悪癖(あくへき)、実は先の第二次大戦時まで続いて、「後方支援」の輜重(しちょう)に重きを置くよりも「精神論で戦う」と言う馬鹿げた作戦を、大本営は各地で遂行させている。

この精神論の戦(いくさ)主義が無かったら今少し作戦に輜重(しちょう)を考慮に入れ、あんな無謀に広域に伸び切った占領作戦を敢行し多数の餓死者を出さなかったのではないだろうか?


明智光秀の計算では、羽柴秀吉も北陸方面の柴田勝家同様に中国方面の毛利に張り付き動けぬ予定だった。

天下の秀才・明智光秀さえ読み切れずに驚愕した余人では出来ない迅速な中国大返しを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家の輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。

秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。

考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。

だが、秀吉は織田新帝国成立宣言の警護の為に、秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を予め持参していた。

それで何とか和議交渉の場は造られたが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。

追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。

そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて密約し和議に持ち込んだ。

秀吉は天分とも言うべきか、生来他人の懐に入るのは得意で、それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。

「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。

そして更に秀吉は、万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。


厳密に言うと、明智光秀は羽柴秀吉に敗れたのではなく天才・織田信長の知略に敗れたのだ。

この時秀吉軍は姫路を発し、既に京まで後二日の距離に迫っていた。

つまり本能寺を急襲した最初の段階で、光秀は周到に組まれた信長の知略に敗れつつ在ったのだ。

妥協を赦さぬ頑固さが、独裁者の資質かも知れないが、独裁者の晩年ほど寂しいものは無い。

幾度と無く繰り返される夢の掛け違いで、「賭け替えの無い者を失う」のが、独裁者・織田信長の定めだったのかも知れない。

思うに、信長が侮ったのは歴史の重みである。

信長のこの種の読み違いは、朝倉攻めの浅井長政の時も犯している。

信長は天才故に過信し、自分の発想以外を否定して結果的に「自分を侮った」のだ。

つまりこの天才は、凡人相手に散々苦労しながら「その凡人が世間の主流だと言う矛盾に、敗れた」と言って過言ではない。


皮肉な事だが、「稀代の天才」と言われるに最も相応しい男でも、死体が見つからないのだから信長には実質的に遺骸が眠る墓が無い。

敢えて言えば、それこそ信長らしいのかも知れない。

我輩は織田信長が、歴史の過渡期に間違いなく現れる破壊神・「須佐王(スサノウ)の化身だ」と思った。

須佐王(スサノウ)の化身は、二千年以上に渡って日本の世が乱れし時、必ずよみがえっては現れ自分の作った大和の国を守っている。

しかし、かの須佐王(スサノウ)の化身はこの世に留まる事はない。

役目が終わると、歴史が須佐王(スサノウ)の化身を生かしてはおかないのだ。

悲しい事だが、壊す男・須佐王(スサノウ)と後を安定させる男は役わりが決まっていて、日本の長い歴史の中で両者が交わる事は無い。

それでも後を絶たず、壊す所から始める男が現れるのは男の性(さが)と言うものだろう。

「到底直ぐには戻れぬ」と踏んでいたのに、「秀吉軍近し」の報を受けた時、光秀は全てを悟った。

自分が信長の知略に敗れた事を知ったのだ。

「お館様、お見事。」

この時光秀は、既に敗戦後の次の一手を、必死で模索していた。

まだ、易々と信長に敗れる訳には行かなかったのだ。

「お館様、光秀はまだ負ける訳には行きませぬ。」と、光秀は心で叫んでいた。


これからは、「信長の亡霊」との闘いに成る。

秀吉との合戦を前にして、光秀は計算した。

明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。

兵力、従う武将達の能力、読んでも、読んでも負けである。

しかし好むと好まざるともに関わらず、本能寺の変から十一日後、秀吉の軍勢は摂津と山城の国境・天王山付近で明智軍の主力に追い着いている。

山崎合戦は天王山の戦いとも呼ばれ、中国大返しの奇跡で引き返して来た羽柴秀吉が、京都へ向かう途中の摂津国(おおむね大阪府)と山城国(京都府南部)の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町・山崎、京都府乙訓郡・大山崎町)の地で、明智軍と激突した戦いである。

光秀は近隣に残っていた在地豪族の類、及び加勢しそうな大名・武将に再び激を飛ばした。

だが、摂津衆の中川清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になって兵力差は広がるばかりだった。

そして娘・ガラシャ(明智玉/玉姫)の娘婿・細川忠興でさえ、義父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んだ為、明智光秀と羽柴秀吉の山崎決戦に於いて、事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。

こうした両陣営の背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。

最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。

「光秀、わしを乗り越えて見よ。」と信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。

戦場とは何が起こるか判らない所で、運が良ければ勝てるが悪ければ酷い目に合う。
必ず勝てる戦(いくさ)はこの世に金輪際無いが、勝てる確立を上げるのが将たる者の器であり、そして勝てないのなら、今度は負け方を考えるのも名将の知恵である。

明智光秀がそんな自信の無さだから、山崎の合戦の勝敗は戦う前に目に見えていた。

予期した山崎の合戦の敗戦である。

土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。

一瞬の決断が、その後を左右する。

「しからば、次の一手は我が死あるのみ。」此処で、「本能寺の決着を形付けてしまえ。」と、光秀が考えたのである。


ここで謎の一つだが、織田信長は何故本能寺に僅かな供廻りだけで宿泊したのだろうか?

実はこの事実さえも、明智光秀のあせりを誘ったのである。

畿内を制圧し「四方に軍を派遣した結界の中」とは言え余りにも無防備な信長の振る舞いだっが、けして増長しての事ではない。

それを敢えてした所に、信長の強い意志が有ったのだ。

信長は既に「神」に成ろうとしていた。

安土城の天守に己の「神」を祀(まつ)った信長である。

この国の習慣では、諸国を「神の威光で統治する」には帝は直接の武力を持たず、周囲の武力を持った国主が帝を守る体制が建前である。

つまり織田信長は、既に新皇帝として「神の威光で統治する」と言う威厳を手に入れようと「デモンストレーションをして見せていた」とも解釈されるのである。

また織田信長の周到な計画では、盟友の徳川家康を敢えて家臣にせず同盟関係に置いていた。

自らは皇胤貴族の血脈である平氏の末裔を名乗り、家康には武門の棟梁の血脈、清和源氏の系譜・新田氏系得川を名乗らせている。

天才・信長が夢見た織田朝の概要を憶測するに、自らが帝(皇帝)に任じ左大臣または太政大臣に村上源氏土岐流の惟任日向守(明智)光秀、そして右大臣に反氏族代表の羽柴筑前守秀吉を貴族として据え、盟友の徳川家康を征夷大将軍に任じて天下を完全掌握する積りだったのではないだろうか?

天下の秀才・光秀が主君・織田信長の綿密な布石を読めば読むほどそれは「現朝廷から皇位を簒奪する」としか読めない事だった。

「それだけは阻止せねば・・・。」

結論は簡単に出せる訳ではないが、帝の臣としては光秀の苦渋の選択だった。

お館様を討つのは正しい選択だろうか?

信長と言う男は千年に一度の鬼才で、本能寺の事はこの後に及んでも間違った結論かどうかは、永久に出せない結論かも知れない。

それほどお館様・信長は惜しい男だった。

それでも人間は、生きていれば苦渋の結論を出さなければ成らない時はあるのだ。


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消えた光秀

◇◆◇◆◇◆◇◆消えた光秀 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

人には天分がある。

幾ら才が在っても、それが棟梁(ナンバーワン)の才か二番手(ナンバーツゥ)としての才なのかが問題である。

そして、その棟梁の才や二番手の才にも大小がある。

明智光秀は、天下の大秀才の武将である。

しかし彼の場合、在る程度までは棟梁の才ではあるが全国を束ねる大棟梁と成ると二番手が適任で在る事を自ら承知していた。

光秀には秀才故の周囲のヤッカミなどが付きまとい、織田信長が認めて居た通りに大棟梁に助言を持って仕える二番手に在ってこそ才を発揮できるタイプだった。

本能寺急襲の、その後の事を考えると明智光秀は己の二番手の知略を持って天下を取ろうと企んだ訳が無い。

つまり光秀は、純粋に帝の体勢を守っただけかも知れない。

権力を握り、人がうらやむ立場になっても、その立場は苦労が絶えない。

何故ならば、明智光秀は徳川家康の生き方に学んでいた。

人生これ「塞翁が馬(人生の禍福は転々として予測できない事)」で、流れに強引に逆らっても逃げ口を塞ぐだけである。

秀才・光秀が達観した結論が、野望を持たない野望、それならば影人に徹して自らの力だけを発揮してみたいだった。

雑賀孫市の使いが、天台宗の総本山・比叡山・延暦寺と家康に走る。

事前の繋ぎで、山崎合戦以後の体制造りは瞬く間に決まった。

大きな背景の下に、或る意図をもってその歴史は捏造されたのである。

頑固は楽な生き方かも知れないが、自分が変わらなければ面白い人生など遣っては来ない。

光秀にとって、己の名声など何の意味も無かった。

ただ、自身の能力を確認する為に、成し遂げたい事があった。

その選択が僧籍に在っての徳川家軍師で、それとて自身が納得したいだけで人がその成果を光秀の手柄と知る必要は無かった。

彼は、全てをあっさりと捨て去り、隠遁生活に入る事にした。

男同士の友人はある種のライバルでもあり、同じ物を目指すと難しいが明智光秀と雑賀孫市、徳川家康の生き方と役割はたまたま三者三様に違って居たから、結果最後まで付き合えたのだ。

この時身代わりの影武者を買って出たのがお福の父親で、光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。

彼は、自らそれを買って出た。

元々近い身内で良く似ていたから光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから見事な最後だった。

後になって娘のお福(後の春日局)はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。

それにしても織田信長には遺骸が眠る墓が無く、これまた皮肉にも、生きている明智光秀には立派な墓が出来たのだから世の中面白い。

犠牲は斉藤利三ばかりではない。

明智光秀の長子とされる明智 光慶(あけち みつよし)は、山崎の合戦で敗走した「父・光秀が討たれる」の報を聞くと、亀山城から本拠の一つ坂本城に移り立て籠もるが、秀吉方に着いた中川清秀、高山重友(右近)らの攻撃に持ち堪(こ)たえる事が出来ず、城内で討ち死にした。

明智光秀(南光坊天海)は生き残る策略の為に、この長子の光慶(みつよし)を犠牲にするしかなかったのである。

光秀は本能寺の変直前の愛宕山歌会で、「時は今、あめが下しる、五月哉」と言う歌を詠んでいる。

この歌について光秀研究者の間で、「時」は「土岐」、「あめ(天=雨)が下しる」は「天下」を表わし、「土岐氏(光秀)が天下を取る事を暗示している。」とされ、光秀の心は「この時既に決まっていた」と言う説がある。

あくまでも、「歌がそう読める」と言う事で、それを証明する術は無い。

しかしこの話、最近では余りにも広がり過ぎて、定説になりつつある。


信長の美学と信念には、並大抵の事では追い付かない。

「秀吉にそこまでの力量はない」と光秀は踏んでいた。

逆らえない運命なら、「スッパリ」と諦める潔さが、光秀の策士としての力量である。


後は、面倒な織田家及び家臣団の整理を秀吉に勝手にやってもらって決着した時、徳川秀忠(実質、明智)、豊臣・結城秀康(実質・徳川)で、天下は頂戴する計画で在った。

まともな合戦では分が悪い以上、知略で対抗するしか無い。


戦国時代当時、影武者を容易にしたのは口髭(くちひげ)である。

口髭(くちひげ)は、長い事氏族(武士)の象徴だった。

この時代に登場する男性の人物達が一様に口髭(くちひげ)を生やしていたのは、自分を強くたくましみせ、相手を威嚇(いかく)して武士・武将(氏族)の威厳(いげん)を保つのが目的だった。

つまり、征服部族の目的精神に合うのが、髭(ひげ)である。

従って戦国末期まで、武士は手入れの行き届いた髭(ひげ)を生やすのが常識で、髭(ひげ)の無い武士など存在しない時代で在った。

もし映画やテレビの時代劇で、江戸幕府三代将軍・家光時代以前に髭(ひげ)が無い武将が登場したら「時代考証的には間違い」と言う事に成る。

口髭(くちひげ)の相手に与える視覚的印象は強烈で、この髭(ひげ)の形状が人相の一部として武家社会と言う世間に受け入れられていた事が、実は情報戦の細工に利用される事になる。

家長制度の時代では、弟であっても家臣であり、従兄弟などは尚更で、家の為に家長に尽くす。

普段身分の高い者とその顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて周囲が見分けられるように配慮がなされていた。

これを裏返せば、影武者の創造は、「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だったのである。

この時代に影武者は常道で、戦場での明智光秀の影は斉藤利三が勤め、利三の影にはまた身内の従弟が勤める。

従って山崎の合戦後の斉藤利三の消息には、数通りの微妙な伝承が残されているのである。

明智一族の結束が固かったのは、本拠地を失い一族で流浪をしていたからである。

その間、一族で同じ辛酸をなめ、助け合って生き、「いずれ這い上がろう」と誓って結束していた。

そのリーダーが光秀だった。

なまじ城持ち、領地持ちなどの兄弟、従弟などは取り合うべきものが有るから返って仲が悪い。

この話、現代の何処かの金持ちの家庭の相続問題でも通じそうな話である。

蛇足だが、この勇気ある撤退を、責任論を恐れる指導部の「己の保身」で出来なかったのが第二次世界大戦(太平洋戦争)中の日本軍で、前線将兵に多くの悲惨な犠牲を出している。

「引き際(撤退時期)の良さ」と言えば本能寺の変の後、その後の主導権を取る為の羽柴秀吉(豊臣)と柴田勝家の決断の違いが、この引き際(撤退時期)の見極めだった。

光秀出自の辺りで登場したが、光秀には明智城の落城以来付き従う「従弟」が二人いる。

実はこの「従弟」達、これからの物語には欠かせない存在で、一人は「明智光春」、今一人は「明智光忠」と言う。

本来の家格からすると、光春の方が明智城主家の嫡流(?)である。

これも少し複雑で、本来は光秀の父・光綱が長男だが、弟の光安が本家を継ぎ明智城主で、その子が光春である。

またもう一人の光忠は、光秀の父・光綱の末の弟の子に当たる。

三人とも聡明だったので、明智城主・光安が落城の際に年長の光秀に末を託して逃がした。

明智家は結束が固かったから離脱する事もなく、以来光秀に従って越前・朝倉家、尾張・織田家と一族で任えている。

年は光秀より、光忠は十八歳、光春は二十歳ほど若いがミニ光秀と言っても良いほど良く似ていた。

しかも二人にとって光秀は従弟ではあるが、育ての親そのものである。

そしてこの二人の存在が、この後の日本史の物語に繋がって行く。

実は、光秀は信長より六歳ほど年長で、家康と信長では、更に四歳差が有るから都合十歳ほど違う。

つまり秀忠(光忠)の将来の補佐は、若い光春に任すしかないのだ。

光春は、若き日の光秀と見まがうほど光秀に似ていた。

秀吉に引き合わせたら、さぞかし「光秀がよみがえったか」と「戦慄するであろう」と思われた。

この頃の家康と光秀は、秀吉の死亡か豊臣家の弱体化を辛抱強く待つ事に合意していた。

元々、家康の辛抱強さは万人が認める超一級品である。

秀吉がマスターした信長の知略が、枯渇するのを待っていたのだ。

現実の処、秀吉は信長から戦以外の事はあまり教わってはいない。

それで四国平定や九州征伐、相模の北条を滅亡させて敵対する者が居なくなると真価を発揮する処がない。


戦(いくさ)は、引き際(撤退時期)が大切である。

織田信長が越前朝倉攻めの際、妹お市の嫁ぎ先・浅井長政の裏切りに合い窮地に陥った時、或いは信長が古いタイプの武将だったら、「撤退は武門の恥じだ」と意地を張って全滅したかも知れない。

この時代、武門を中心に儒教の悪しき面、精神論の極端な傾倒・精神的ドンキホーテが見みられているのだ。

信長は即断で撤退を決めて美濃国・岐阜の居城に逃げ帰り、態勢を立て直して反撃に出ている。

合理的で自由な発想の信長に面子に拠る「べき論」は存在しない。

「味方に利有らず」なら、躊躇(ちゅちょ)無く撤退するのが織田信長の才である。

毛利勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)しなかった羽柴秀吉(豊臣)と上杉勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)した柴田勝家との両者の結果は誰でも承知している。

本能寺の変の後に羽柴秀吉(豊臣)に遅れを取り織田家臣団の主導権を失った柴田勝家は、肝心な時に上杉謙信と対峙して北陸路に釘着(くぎづ)けだったのである。

何事も長く続くと極端な傾倒傾向を見せる。

鎌倉期から始まった武士社会の儒教は、極端な精神論の傾倒を拠り所に武士の精神として敵に後ろを見せず堂々と切り合う暗黙の合意が既成概念化していた。

それを打ち破ったのが、織田信長だった。

唯、人間は必ず何かを背負って生きるもので、何事にも代償は必要である。

何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

我輩があえて言うならば、決定的なのは人間が「悲しい生き物だ」と言う事で、人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である「群れ社会」を、無意識に構成し様とする「本能」に起因するものだ。


「日本人が金で愛や信頼を買える様に思い始めたら、それは滅びの道である。

大きく考えると、戦後直ぐの日本人は生活基盤を失い、経済的に流浪していた。

それ故、今よりは近隣に対する人情があり、経済復興と言う目標に対する日本人の結束力も強かった。


日本人が少しずつおかしくなったのは総体が豊かになってからで、現在の様に「格差社会の何処が悪い。」と言う政府の政策が、殊更モラルの低下を招いている。

「昔も凶悪犯罪は存在した」と言う意見も有るが明らかに異質で、しかも発生頻度が激しくなっている。

こうした社会秩序の崩壊は、現在勝組みでほくそ笑んでいる者も、イレギラーからレギラー化しつつある犯罪に、何時巻き込まれないとも限らない危険な社会に生きる事になる。

そして「格差社会の何処が悪い。」と言う政府の政策を推進した米国経済主義かぶれの学者大臣は、凶悪犯罪多発国家・米国が既に借金塗れで七〜八年しか持たないと言う見方があったにも関わらず、まだ偏重自由経済主義(市場原理主義)を手本と信奉して日本経済を捻じ曲げてしまった。

日本では昔から、食料や燃料の買占めは犯罪と認識していた。

その買占めで儲けるのが、「立派な経済活動だ」と言う。

僅か二〜三百年の歴史しかない米国から「何を学んだ」と言うのか?

舶来信奉主義も良い加減にして欲しいものである。

              了

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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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作 品 一 覧

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作者本名・鈴木峰晴