千五百八十年(天正八年)、信長の天下布武は伸ばせば手の届きそうな所に来ていた。
此処まで来るのに、信長は誰の手助けも、誰の支援も受けていない。
まったくの閃き(アイデア)で独力でのし上がって来た。
それ故、血統の出自にあぐらをかき、何かと出来ない事の言い訳ばかりする重臣共が我慢できなかった。
人生運不運は付き物で、信長は家臣団引き締めの見せしめに、二人の子飼いの重臣を選んだ。
林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつとされていた)と佐久間信盛(さくまのぶもり)である。
信長の発想は単純で、この粛清(しゅくせい)は役に立たない者をふるい落とし、同時に最期の役に立たせる事だった。
それは、居並ぶ重臣達の眼前で、予想外の出来事として突然起こった。
織田家譜代の重臣・佐久間信盛に対して、五年間も何ら功績も挙げていないその無策をなじり、かつて信長と尾張国の平定から辛苦をともにしてきた信盛を、実子・信栄とともに高野山に追放する。
ついで、信長幼少期の筆頭付き家老時代からの織田家譜代重臣・林秀貞(はやしひでさだ)を、何と二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪を蒸し返して、身一つで追放してしまう。
これには、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田家家中の重臣は震え上がり、信長の心を計りかねてギスギスと軋(きし)みを見せ始めていた。
とくに、北陸で苦戦していた柴田勝家は必死だった。
二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪は自分も同罪で、北陸平定に失敗すれば、林秀貞(はやしひでさだ)の追放は、明日は我が身である。
良く、この古参重臣達の心理的動揺を、明智光秀や羽柴秀吉にも当て嵌める物語が多いが、それは少し違う。
新参者や軽輩の立場からのし上がって来た明智光秀や羽柴秀吉は、充分に戦力になり、戦功や功績を挙げ続けていて、この時点で同じ憂き目に遭う話のものでは無かった。
藤原か源氏を名乗っていた織田家の信長が、突然「平次(平家の傍流)」を名乗った事の意味に、我輩は着目した。
実はこの時代まで下ると、婚姻関係が複雑化して、何代か遡って脇を見れば多岐に亘る血筋の系図があっても不思議は無い。
しかし、それを穿り出してまで平家筋を名乗る者は、この時代になると本来ありえない。
従って信長のその目的は、「かなり明確なものを持っていた」と断定せざるを得ない。
信長が、在る時から平家の血筋を名乗ったのには、源平合戦の頃に遡る「壮大な計画」が在ったからである。
その狙いは、恐れ多くも当時の天皇家を否定する事にあった。
ご存知の方も多いと思うが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。
異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは明らかに清盛孫、安徳天皇である。
しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。
信長は、あえてその清盛平家の流れ、「平次」を名乗ったので有る。
織田信長には「粗暴な振る舞いが多かった」と伝えられるが、恐怖政治を行う非情な決断をする必要は確かに在った。
覇権を争そうべく生を受けた氏族の栄光と破滅は、常に決断の中に生まれる。
戦人(いくさびと)には冷酷な決断をも要求され、躊躇(ためら)えば一族郎党全滅も在り得る時代だった。
勝てば官軍である。
理屈は後でいくらでも付けられる事を、証明した様なものだ。
その時点では至近の、「南北朝並立時代」ではなく、源平まで遡れば平家の末裔を名乗る信長に一理屈出て来る。
天皇家の正統問題と、勝てば官軍の事例である。
つまり、「平次(平家)の世に戻す」と言う信長流の名目である。
そんな古い事を持ち出されても誰も良く知らないが、それが信長の狙い目である。
信長の「閃(ひらめ)き」の答えは簡単で、朝廷は不要であり破壊すべき対象なのだ。
有力な源氏流、武田勝頼率いる甲斐源氏の武田家も既に殲滅していた。
畿内の近郊に、浅井、朝倉、六角と言った有力な敵は既に無く、全て信長机下の武将を大名に取り立て、四方に配置していた。
そしてその時が、刻一刻と近付いていたのだ。
信長が光秀に寄せる信頼関係は抜群で、光秀こそ自分を理解できる「唯一の存在」と信じていた。
残念な事に、独立させて大名に据えた三人の我が子さえ、その才は無かった。
才と人脈に於いて、一に明智、二に明智で、まぁ、三、四が無くて五に秀吉程度だった。
「本能寺の変」当時の信長軍団の、全体の動向を見ると、それが良く判る。
傍に居たのは、兵力一万三千の光秀指揮下の明智軍だけである。
信長自身は、「数百騎」と言う僅かな供回りしか連れておらず、明智軍こそは「信長旗本軍」であり、親衛隊代わりに信長が位置付けていた。
それこそ信長は、光秀に「裏切られる」などとは、露の先も考えては居なかったのだ。
東国方面には同盟軍の徳川家康、(ただし本人は京に在って不在)対北条と戦闘中。
北国方面には柴田勝家が対上杉勢と戦闘中で、この柴田勝家の属将として、かっての「稚児小姓」前田利家も一軍を率いて与力していた。
前田利家は越前・一向一揆の鎮圧(越前一向一揆征伐)に与力、平定後に佐々成政、不破光治とともに府中十万石を三人相知で与えられ「府中三人衆」と呼ばれるようになる。
その後も前田利家は、信長の直参ながら主に柴田勝家の属将として与力を続け、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事して「本能寺の変」の頃には能登二十三万石を領有する大名とって成いた。
小姓衆から赤母衣衆(あかほろしゅう)そして大名に出世した前田利家と並ぶ柴田勝家の与力武将として双璧を為すのが馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)、そして大名に出世した佐々成政である。
織田信長は、千五百七十五年(天正三年)に越前を制圧し、その北陸方面の軍団長とし筆頭家老の柴田勝家を置き与力として佐々成政・前田利家・不破光治(美濃国土豪で斉藤氏から織田氏に仕えた)の三人(府中三人衆)に越前府中三万三千石を共同で与え、一万一千石の大名格と成った佐々成政は小丸城を築いて居城とした。
北陸方面・柴田勝家の与力とは言え佐々成政・前田利家・不破光治の府中三人衆はあくまでも織田信長の直臣であったから、織田軍の遊撃軍として佐々成政も石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されている。
千五百八十年(天正八年)成政は主君・織田信長に命じられ、追放されて信長の下に流れ来て仕えた元・越中富山城主の嫡男・神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中平定に関わる事に成る。
その越中平定の功に依り翌年に成政は越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護として富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が引き起こした本能寺の変の時、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面の戦いに在り柴田勝家と共に上杉軍の最後の拠点魚津城を攻略に成功した。
その勝ち戦をしたばかりの成政は、変の報が届いて各将がそれぞれ領地に引き揚げた為に上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。
柴田勝家も中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉に先を越されて明智光秀を討たれてしまい、丹羽長秀(にわながひで)ら織田家臣団の主力の支持を秀吉に持って行かれてしまう。
羽柴秀吉の明智光秀征伐後、清洲会議に於いて柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると成政は長年の与力関係から柴田方に付くが、その後起こった賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門に兵六百を与えて援軍を出すに止まった。
柴田勝家が越前・北庄城敗死し、秀吉方に寝返った前田利家と上杉家の勢力に挟まれた佐々成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、秀吉から越中一国を安堵されている。
この越中一国安堵は、秀吉にして見れば過ぐる日の金ヶ崎の退き口での殿(しんがり)働きの折の「助勢の借り」を成政に返した積りかも知れない。
この時信長は、四国方面に我が子・神戸(織田)信孝を、四国で伸張著しい長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。
東国方面には同盟軍の徳川家康が対北条勢と戦闘中。
北国方面には柴田勝家が、佐々成政・前田利家らの与力を得て対上杉勢と戦闘中。
西国方面を担当していた羽柴秀吉は、難敵・毛利氏と対峙し、つまり中国方面には羽柴秀吉、対毛利兵力三万と戦闘中。
四国方面には我が子、神戸(織田)信孝、対長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。つまり四方同時に攻めているのだ。
常識的に見て、只相手を倒すのが目的ならこれだけ強引に戦線拡大しなくても兵力を集中して攻め、一つ一つ倒した方が結果効率が良い筈だ。
そうしない所に、信長の真の目的が見え隠れして居るのである。
四方同時に攻めさせているには、「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う信長流の大結界を敷いた読みがある。
敢えて信長のミスを言うなら、この時「息子可愛さ」に本来畿内地区の押さえ担当である丹羽(にわ)長秀を、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継いだ三男・神戸(織田)信孝の四国攻めに付けて近くを明智軍だけにした事か。
この一事を見る限り、信長にも肉親への愛と言う平凡さはある。
それにこの無警戒は光秀への信頼の現れであり、巷で言われる様な信長の「光秀いじめ」が在ったなら、それほど無警戒に身近を光秀軍だけには出来ない筈だ。
これを追っていた我輩は「光秀いじめは在り得ない」と確信する。
何故なら「本能寺の変」の原因を手っ取り早く解説する為、芝居の脚本書きが「手早い仕事をした」と考えるからである。
信長には、長年思い描いた深い意図が在った。
この全方位の戦線は、裏を返せば「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う事で、四方への攻撃が、そのまま京都に手が出せない防衛ラインを引いた事になる。
敵も見方も、「光秀軍を除いては」の事である。
光秀謀反について、信長が光秀を「虐めた」とか「見限った」とかの怨恨説や恐怖説の類を採る作者は、この畿内周辺の信長軍の配置の全貌を見て、「どう説明しよう」と言うのだ。
恐らくは江戸期に書かれた芝居の脚本や草紙本を、後の者達が「鵜呑みにしたのではないか」と思われる。
そうした推察から、やはり光秀に、「全幅の信頼を置いていた」と考えるのが普通で有る。
例えばであるが、万一にも光秀を「亡き者にしょう」と言うなら、光秀に家康の供応役をやらせている間に、光秀の軍主力に先発命令を出し、先に毛利攻めの援軍に向かわせる方が、光秀は軍事的に丸裸で余程合理的である。
ここは信長に、「織田新王朝の旗本親衛隊に明智軍が偽せられていた」と見る方が信憑性が高いのである。
もう一つ、忘れられているのか説明が付かなくて触れていないのか、本能寺急襲に於いて不可解な問題がある。
あれだけの軍事力、斬新な思考の持ち主である織田信長が、何故易々と光秀に本能寺急襲を赦したのか?
本来、信長が光秀を警戒していたなら、一万三千の大軍が三草(みくさ)峠で進路を都方面に変更した時に、放っていただろう間諜から、第一報がもたらされなければならない筈である。
それがなかった。
では何故か、我輩の主張のごとく「光秀が織田軍団の諜報機関を完全に掌握していた」としか考えられない。
もしそうであれば、信長が全幅の信頼を光秀に置いていた証拠である。
妻を通しての姑・妻木(勘解由)範煕(のりひろ)との縁は、光秀に影人達の絶大な信用を与えた。
雑賀は勿論、甲賀、伊賀、根来、柳生、全て元を正せば勘解由(かでの)党の草が郷士化したものである。
その光秀は、土岐源氏・明智(源)の棟梁で、盟主に担ぐには申し分ない。
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信長はその光秀の影の力を、彼の能力と共に充分に知って彼を右腕に使っていた。
人類に「群れ組織」や「国家」と言う物が成立して以来、為政者にとって「情報の収集と情報操作、裏工作」は、権力維持に不可欠なアイテムである。
益してや戦国期は国取り合戦で、情報工作組織は存在しない方が不思議である。
どうやら織田軍団で、その任に当たっていたのが明智光秀だった。
いずれにしても人間の行動には動機が必要であり、明智光秀の主君・信長、本能寺急襲のその動機が問題なのだ。
本能寺の変の少し前、信長招待に拠る家康上洛の供応役を光秀が勤めて失敗し、信長が激怒した事が光秀謀反の根拠のように描いているが、それこそ作家の架空の話である。
この、供応役を光秀が勤めたのは史実だが、そもそも光秀が供応役に適任だったのは当時の諸芸能が修験の流れであり、影の仕事では諜報部門の一翼を担う立場だったからで、織田家臣団の諜報部長官だった光秀は修験芸能に気脈があり、舞も、能・狂言も彼を窓口にすれば最高の者達が呼べた。
つまり信長は、己の力を見せつける為にも、家康に最高の芸能を見せたかっただけである。
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