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samurai 【名君と言われた男・徳川吉宗】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(八代将軍・徳川吉宗の謎)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の小説です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

【名君と言われた男・徳川吉宗】

◆ 未来狂冗談の解説

(八代将軍・徳川吉宗の謎)
作者】謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)HP紹介
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】密かに好評・ 【政権の疑惑を追求せよ】・・・・・・・・・
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御注意)本作品・【水戸徳川家異聞】は史実を基に構成しておりますが、
諸般の事情に拠り「小説仕立て」とさせて頂きます。


名君と言われた男・徳川吉宗

(八代将軍・徳川吉宗の謎)

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
約十日間程お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

〔一〕 【あらすじ・お薦めポイント
〔二〕 【五代将軍・徳川綱吉
〔三〕 【帝の想い
〔四〕 【紀州徳川家
〔五〕 【六代家宣(いえのぶ)・七代家継(いえつぐ)
〔六〕 【柳沢吉保(やなぎさわよしやす)
〔七〕 【忠臣蔵(元禄・赤穂事件)
〔八〕 【五代綱吉・六代家宣
〔九〕 【大奥と虚弱精子劣性遺伝
〔十〕 【田沼意次の悲劇
〔十一〕【享保の改革



◆◇◆◇ 名君と言われた男・徳川吉宗 【あらすじ・お薦めポイント】◆◇◆

未来狂冗談の歴史・時代小説です。

歴史の真実は、全て正史の裏面に在る。

八代将軍・徳川吉宗が権力を握る過程で存在した陰謀の連続と言う負の部分を考察せずに、表向きの世間の評判が草紙となり、仕舞いにはテレビドラマの脚本になって「庶民の味方の将軍様」に成った。


これは、主人公・徳川吉宗を英雄(ヒーロー)仕立てにした娯楽小説では無く、多くの資料を駆使して推理構築した考察的歴史小説である。

天孫降臨伝説にしろ皇国史観にしろ、時として日本史は統治の為に捏造されて来た。

建前の綺麗事で語られる、手前味噌な伝記や興行の為の脚色も多く、それ故に日本史を志すものにとっては「真逆の発想」を持って事を推理する必要を感じた。

徳川八代将軍・徳川吉宗が名君と言われる前には、歴史的に吉宗が登場・活躍する為の「不穏な世」と言われて沈滞していた幕府の舞台が、吉宗の善政を待つようにお誂(あつら)えに整っていた。

五代将軍・徳川綱吉の治世下に元禄赤穂事件が発生、元禄時代と言う屈指の経済繁栄の時代も過ぎて徳川政権に陰りが見えた頃、度重なる天変地異におののいた綱吉は「生類憐れみの令」を始めとする「悪政」に傾倒して行く。

そうした混乱の時代を収拾する為に生まれて来たのが、江戸徳川幕府の中興の祖とされる八代将軍・徳川吉宗だった。

ここで八代将軍・吉宗を題材に取り上げるのは、元禄バブルの崩壊と続発した大震災、つまり現代日本が置かれた政治課題と吉宗の治世時の政治環境の条件が酷似しているからである。

しかしその八代将軍・吉宗の将軍就任までの道のりは、余りにも謎だらけだった。

名君と呼ばれた男の実像を、背景から追ってみた。


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五代将軍・徳川綱吉

◇◆◇◆◇◆◇◆〔五代将軍・徳川綱吉 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川家の歴代将軍の中でも、「暴れん坊将軍」と言うテレビドラマまで出来て、水戸黄門と双璧の人気を誇るのが、徳川八代将軍・徳川吉宗である。

徳川吉宗は、「享保の改革(今で言う政治の構造改革)」を行なった人物で、幕府の構造改革に唯一成功した将軍だった。

興味深いのは徳川幕府で始めて「宗家」の伝統が途切れた将軍と言う事で、つまり、それまでは二代将軍で在った秀忠の息子の血統が代々将軍職を勤めていたのだが、その血筋がここで途絶え、初めて御三家の中から後釜を据える事になった事である。

しかしこの代変わり、吉宗が並みのお坊ちゃん将軍でない庶民派育ちであった所に改革成功の秘密がある。

この八代将軍・徳川吉宗が出現する前の六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は在位二年間、第七代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)は在位三年間と短かったので、在位二十九年間と永かった五代将軍・徳川綱吉の世から物語を始める。

江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の治世時の天皇は、後水尾天皇の第十六皇子・第百十二代天皇・霊元天皇(れいげんてんのう)である。

霊元天皇(れいげんてんのう)は、皇室再興と独自の政策展開を目指した為に幕府と距離をとる事が多く、本来の序列を無視して関白に腹心である右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させる離れ業を行っている。

霊元天皇(れいげんてんのう)は野心家だったが天皇家には武力が無く、時の将軍・徳川綱吉は朝廷尊重を掲げて御料(皇室領)を一万石から三万石に増額し献上し、公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増していた為、霊元天皇(れいげんてんのう)と将軍・徳川綱吉とは当初比較的安定した朝幕関係を構築していた。

所が、霊元天皇(れいげんてんのう)が皇位を譲って院政を始め「仙洞様」と呼ばれるようになる頃、将軍・徳川綱吉はその治世の後半、「生類哀れみの令」など後世に悪政と言われる政治を次々と行うようになる。

元禄大地震(げんろくだいじしん)、宝永大地震(ほうえいだいじしん)、富士山宝永の・大噴火と、度重なる天変地異の恐れをなした将軍・綱吉が、「生類憐れみの令」を始めとする後世に「悪政」と言われる政治を次々と行い、誰の目にも徳川政権が心もとなく成っていた。

その五代将軍・徳川綱吉の政治の狂いを受けて、仙洞様(霊元院)の朝廷側も幕府の将来を案ずるようになる。

徳川家に実権を握られるは不満だが、あの戦国の世の朝廷の落ちぶれ様はその不満を遥かに上回る恐ろしい事だった。


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帝の想い

◇◆◇◆◇◆◇◆〔帝の想い◆◇◆◇◆◇◆◇◆

将軍・綱吉の悪政に国中に不満が溢(あふれ)れ、元々は反幕府思考が強い院(仙洞様)は譲位した帝(東山天皇)と関白・一条冬経(兼輝)に対して「何か策を講じよ」と命ずるも、妙案は早々には浮かばない。

有る日の事、政務所と内裏の間に在る隠し部屋で、帝(東山天皇)と幸子皇后父の有栖川宮・幸仁親王がこんな会話を交わしていた。

「さて、わらわは院(仙洞様)に申し付けられて困っておじゃる。どこぞの方に徳川はんと代わって貰うにしても血がぎょうさん流れますなぁ。」

「お上(東山天皇)の仰せの通りでおじゃります。」

「戦(いくさ)がまずぃなら、たれぞを徳川はんに押し込んでたもれ。」

「ほな、紀州に以前より備えがおじゃります。」

「それは、誠でおじゃるか?」

「紀州の里者がお上のおぼしめしに適い、備えがおじゃります。」

この帝(東山天皇)と有栖川宮幸仁親王の密談から遡る事三十三年前、後西天皇(ごさいてんのう/第百十一代)の御世に紀伊半島の、山深い里で修行を積んでいた「於由利」をお頭が呼び出した。

於由利が数え歳で「十七歳に成ろうか」と言う春先の事で、お頭が、里一番の美形を誇る「於由利」に白羽の矢を立てたのである。

「すると、わたくしに紀州(徳川光貞)様のお子を為せと仰(おっしゃ)るのですか?」

「如何にも。既に手筈は整えておる。」

「我一族は、紀州様に仕官のお望みでもあるのですか?」

「いや、然(さ)るお方のたってのご所望でな、このお役目は於由利を持って他に代え難しじゃ。」

「然(さ)るお方様とは・・・」

「恐れ多くも、お上(後西天皇/ごさいてんのう)の弟君・有栖川宮・幸仁親王さまじゃ。」

有栖川宮・幸仁親王は後西天皇(ごさいてんのう)の弟で、紀州には熊野神社行幸の代参詣を名目に度々訪れ、帝の草として細々と命脈を繋いでいた紀州・賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)との繋ぎをしている。

於由利は、その紀州・賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の端だった。

「お頭の下知なれば、有栖川宮様のご所望に於由利も従いまする。」

「皆思いは同じじゃ。将軍家乱れるは戦乱を招く故、後白河天子様の御世の源義経様の古事に習って然るべき方をお育てしたいと言う目論みじゃで、このお役目心してな。」

「されど、為したるわ子が将軍家を継がれるとは限りませんが・・・・」

「心配無用じゃ。多くの者がこの企てに加担しておる。手筈は全て整っている。」

「判りました。光貞様のお子を為しますが、如何にしてお近くに寄りましょうや?」

「案ずるな、湯殿でお仕えするように段取りは着いておる。後は於由利のその美形が役に立つわ。何より湯殿なれば、光貞様とも互いに裸の仕儀故、話は早いわ。精々勤めてくれい。」

「そこまで皆様の御手配が・・・承知致しました。」

於由利はお頭に伴われて熊野街道(小栗街道)を京の都へ上り、有栖川宮の居宮で三ヵ月ミッチリと女中行儀見習いをして作法を身に付け、紀州に戻って来た。

その後、帝の草として紀州家の成立以来凡そ百年近く、紀州家の内に張りめぐらされた賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の縁の力で、於由利は紀州家のお端女中に奉職する。

賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の紀州家内の影響力は強く、於由利は一年後には当主・徳川光貞の湯殿番を務める所まで食い込んでいた。


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紀州徳川家

◇◆◇◆◇◆◇◆〔紀州徳川家 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「おっ、新しい湯殿番か?」

紀州家当主・徳川光貞は、湯殿に控えていた女中(湯殿番)に興味を持った。

上半身裸で乳房は露(あらわ)、下半身は湯文字(腰巻)一枚が湯殿に仕える女中の姿で有るが、見ると飛び抜けて美形だった。

湯殿で、女中(湯殿番)が光貞の身体を清めるのは別に変わった事ではない。

歳の頃十七〜八の、一見純朴そうなその女中(湯殿番)は、恐る恐る光貞に手を伸ばし、背中から垢を落し始めた。

光貞は、「ハッ」とした。

その、背中を擦(こす)る手が意外と力強く、気持ちが良かったのだ。

「そちの名は、何と申す?」

思わず、光貞は女中の名を問うた。

本来なら、藩主が湯殿で女中(湯殿番)の名を問うなど先例が無い。

「恐れながら、於由利と申します。」

そそと裸身をにじり、光貞の背中から左腕に清める場所を移動しながら、恥じらいを浮かべてその美形の女中が答えた。

光貞は「於由利か・・・」と、独り言のようにその名を反復すると、そのまま黙り込んだ。

黙って身を委ねていた光貞は、再びハッとした。

普段の女中(湯殿番)なら腕から胸と清め進んで、股間も糸瓜(へちま)か布で遠慮勝ちに清めるのだが、そのお由利と名乗る女中は、両手で包み込むように光貞の一物(いちもつ)を握って扱(しご)き始めたのだ。

一瞬、「この娘、作法を知らないのか、思惑有っての仕儀か。」と光貞はいぶかったが、それは痺(しび)れる様な快感の刺激に圧し潰されていた。

柔らかい於由利の手で扱(しご)かれた光貞の男の物は、力をみなぎらせて不覚にも臨戦大勢に入っていたのだ。

光貞は於由利の手を掴んで立ち上がらせ、「予の情けを受けよ」と命じ、有無を言わさず湯船の縁(へり)に両手を着かせた。

観念したようにジッとしている於由利の湯文字を捲り下げると、白い尻肉が踊り出て、尚更光貞の欲情を高まらせる。


如何に大々名家の当主と言えど、本来湯殿でお端女中に手を付けるのは定法破り(イレギラー)だった。

しかし定法破り(イレギラー)だからこそ燃えるのが性交で、徳川光貞の高ぶった感性は抑え様が無い攻撃体勢に入っていた。

光貞は於由利に湯殿の淵に手を着かせ後ろから於由利に入って行ったが、於由利は光貞に身を任せて為すがままだった。

光貞としても寝所以外での戯れは刺激的だった。

大いに満足して、光貞は於由利を愛妾に加える事にした。

やがて、於由利と言うその愛妾が目論見通りに男児を身ごもり、千六百八十四年(貞享元年)紀州吹上の若山吹上屋敷(御誕生長屋)にて出産する。

男児は源六(吉宗・幼名)と名付けられ、生まれると直ぐに 刺田比古神社(岡の宮)の神主の手を経て家臣である加納(五郎左衛門)久通の屋敷へ送り届けられ、この屋敷で五歳まで育てられた。

つまり上に正妻の子(異腹の兄二人)がいた紀州家に於ける源六(吉宗)は、然して重きを置けない存在である。

為に幼年期の源六(吉宗)は傅役(おもりやく)・加納(五郎左衛門)久通の元で、城下で育てられ城内では育っていない。

松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋であり、傅役・加納家も加茂郷の出であるから、恐らく賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高く、源六(吉宗)生母・於由利の方の賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)と加納家は、元々深い関係が在っての傅役登用だった可能性が高い。

吉宗の治世では税率を一割も上げたのに、福祉を切り捨てた小泉・竹中政権の様に何故か人気が高く、つまり英雄待望論が先に立ち、政策の中身を精査する事無く大衆人気が先行した。

それはもう、理性を離れた無条件の芸能人人気と同じ感性の問題だから仕方が無い。

チーム吉宗が本来は諜報組織なら、当然世論操作もしていた訳で吉宗人気もある程度は創られたもので在ったかも知れない。

つまり「名君の作り方」を実践してこの世に送り出された「運命の将軍ではなかったのか」と言う疑惑である。

この吉宗幼年時からの傅役(おもりやく)・加納(五郎左衛門)久通は、後に吉宗の将軍就任に伴い江戸へ帯同して直参旗本となり、八代将軍・徳川吉宗を支え続ける存在に成る。

新之助、頼方と名前を変えた「源六(当時は新之助と呼ばれていた)」は、十四歳の時(千六百九十七年・元禄十年)に、将軍・綱吉(五代将軍)に越前国(福井県)丹生三万石を与えられ、和歌山城に引き取られ部屋住みのまま紀州支藩・葛野藩(越前丹生松平藩)藩主と成って松平頼方を名乗る。

父・二代藩主・光貞が隠居し、家督を長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)継いだ頃から、何か、闇の大きな力が働いていた。

千七百五年(宝永二年)長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)が僅か八年の治政で急死する。

次兄の徳川頼職(紀州藩第四代藩主)が急遽後を継ぐのだが、同年(宝永二年)のうちに隠居していた父・光貞、やがて頼職までが半年のうち(百日足らず)に病死した。

その不幸続きの為に、紀州和歌山城に在って部屋住み庶子の四男坊、越前・葛野藩のお情け不在藩主だった松平頼方(吉宗)は二十二歳で紀州藩第五代藩主に就任する。

松平頼方は、藩主就任時に五代将軍・徳川綱吉から一字を貰い、名を吉宗と改めて徳川吉宗を名乗り、朝廷より左近衛権中将に任じられて従三位に叙せられる。

吉宗は翌年(千七百六年・宝永三年)には二品親王・伏見宮貞到親王の王女・理子(真宮理子姫)を正室として迎えている。

それにしても、紀州藩主・徳川綱教(三代藩主)が亡く成ると前藩主・光貞(二代藩主)、頼職(四代藩主)が「相次いで亡く成る」と言うのは如何にも不自然な謎である。


徳川吉宗が紀州藩主に就任すると、今度は徳川本家で代替わりが始まる。

千七百九年(宝永六年)五代将軍・徳川綱吉が六十四歳で亡く成り、六代将軍・家宣が宣下を受ける。

五代・綱吉の後を継いだ六代将軍・家宣が将軍就任僅か三年目の千七百十二年(正徳二年)に死去し、嫡子・家継が七代将軍を継ぐ。

所が、その僅か四年後の千七百十六年(正徳六年)その七代将軍・家継が八歳の幼さで病死する。

吉宗三十三歳の時、徳川将軍家の血筋途絶えたのを期に、吉宗は将軍候補に浮上し八代将軍推挙の話が廻って来る。

そしてその頃、ライバル尾張家では五代当主・徳川五郎太(幼名)が三歳にして家督を相続したものの、間もなく突然死で亡く成り、毒殺説が囁かれたりした。


「於由利、喜べ、イヨイヨそなたの為した頼方(吉宗)様が将軍におなりに成る。」

「将軍様ですか?どなた様が段取りを・・・。」

「この事他言無用ぞ。七代将軍家御生母・月光院(げっこういん)様を通じてじゃ。」

「良くお頭のお話に出て来る勝田の喜世(月光院)様の仰(おお)せでしたか。」

お由利にも、浪々の元加賀前田藩士・勝田親子をこの里で一時世話した話は聞いていた。

何しろその浪人の娘が将軍家の生母に成ったのだから、巷でもその話題で持ち切りだった。

「それがな、言って置くが天英院様の兄・近衛家熙(このえいえひろ)様からも同様のお話がわしに有ってな。」

「何と、わたしには偉い方々の事は判りませんが、確か天英院と月光院は仲がお悪いのでは?」

六代将軍・徳川家宣の側室から七代将軍・徳川家継の生母に成った月光院の実父は、元加賀藩士(前田家浪人)で浅草唯念寺の住職・勝田玄哲(かつたげんてつ)と言い、五摂家のひとつ近衛家の関白・近衛基熙(このえもとひろ)の姫から嫁いで来た第六代将軍・正室の天英院とは出自の格が違った。

生まれは天英院の方が上だが、月光院は将軍生母である。

本人達にさほどその気が無くとも、江戸城の内(大奥)も外(表御殿)も「利用しょう」と言う周囲の者が放っては置かない。

天英院と月光院は、「大奥の主導権を握ろう」と確執する。

「その事よ。困ったものだが、我等の目的は頼方(吉宗)様の将軍宣下じゃ。」

「頼方(吉宗)も間に入って苦労せねば良いが・・・。」

二品親王・伏見宮貞到親王の王女・理子(真宮理子姫)を正室として迎えた徳川頼方(吉宗)は、朝廷にとっても願っても無い将軍候補である。

尾張家五代当主・徳川五郎太(幼名)が突然死で亡く成り、朝廷の目論み通り七代将軍・徳川家継の生母・月光院が推す紀州家当主・徳川頼方(吉宗)が浮上して来た。


一方江戸では、尾張家五代当主・徳川五郎太の後を、叔父・徳川継友(尾張家・六代当主)が二十一歳で継いで将軍ライバル候補に浮上していた。

だが、七代将軍家御生母・月光院(げっこういん)が強力に紀州家当主・徳川吉宗を推し、第六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の正室・天英院(熙子)の最終的な判断で幕閣合議の上、紀州家五代当主・徳川吉宗が徳川将軍家(本家)を継ぐ事になった。

この経緯が「唯の運命だ」とすれば、吉宗は驚異的な強運の持ち主である。

この時代、藩主や将軍が次々に死ぬのは珍しい事では無いのかも知れないが、それにしても吉宗の将軍就任に取って邪魔な存在が余りにも都合良く亡く成っている。

名君・吉宗誕生の影には、その名声にそぐわない血塗られた影働(かげはたら)きが在ったのではないだろうか?

もし陰謀だったとしても、吉宗本人がどの時点からそれを承知していたかは、今と成っては知る由も無い。

ただ、吉宗の将軍就任が大きな力が結集しての陰謀だったとしたら、そこで吉宗の改革の成果の裏に、始めから敷かれていた「壮大綿密な計画が、在ったのではないか?」と推測出来るのである。

吉宗は、紀州藩士の内から名も無い軽輩者をばかり二十数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。

この軽輩紀州藩士とされる側役達が吉宗改革の手足として活躍するのだが、余所者が突然やって来て既得権益でガチガチに固まっていた幕府体制を洗い出して改革するには、軽輩者の側役が実は表面に出ない「相応の諜報能力を備えていた」と言う推測が成り立つ。

既得権益を守りたい既存官僚は情報を秘匿して抵抗し、吉宗側役を務める旧紀州衆とのせめぎ合いを始めたのが構造改革の第一歩である。

この筋書きを描いたのは、並大抵の者ではない。

相応の地位を持ち、闇の力を動かす人物であるのは想像に硬くない。

徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋である事を物語っている。

恐らく幼年時からの傅役(おもりやく)・家臣の加納家も加茂郷の出であるから、賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。


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六代家宣(いえのぶ)・七代家継(いえつぐ)

◇◆◇◆◇〔六代家宣(いえのぶ)・七代家継(いえつぐ) ◆◇◆◇◆◇

 千七百十六年(享保元年)に第七代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)がわずか八歳(在位三年間)で早世する。

家継(いえつぐ)は、先代将軍の父・家宣(いえのぶ)の「正徳の治」を継続した事に成って居るが将軍宣下は家継(いえつぐ)五歳の時で、本人にそうした明確な意思が在ったとは思えない。

つまり六代将軍・家宣(いえのぶ)の重臣がそのまま居座って治世を継続した。

この当時、幕閣の中心に居たのは第六代将軍・家宣(いえのぶ)時代から権力を維持していた家宣(いえのぶ)側用人・間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石ら文治派の閣僚が勢力を握っていた。

そして徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が絶えた後を受け、かねてからの予定通りに御三家の内から将軍を立てる段取りとなり、尾張家では五代当主・徳川五郎太(幼名)が三歳にして家督を相続し、将軍候補となった。

この尾張家当主・徳川五郎太(幼名)に関しては、間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石らは相当乗り気で擁立の構えだったが、理由は家継(いえつぐ)の時と同じで幼君を立てれば今まで同様に「自分達の想い通り」に行く目算が在った。

引き換えるに紀州藩第五代藩主・徳川吉宗は二十二歳で藩主となり十一年藩政改革に尽力して七代将軍・家継(いえつぐ)が亡くなった時は三十三歳に成っていた。

こちらは組し易いとは思えないから相当警戒していて、尾張家五代当主・五郎太が亡くなると、後を継いだ徳川継友(尾張家・六代当主)二十一歳を幕閣の官僚達が将軍ライバル候補に浮上させる。

しかし浪費癖が着いて幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守ろうとする幕閣の官僚達を嘆いた家継の生母・月光院が徳川頼方(吉宗)を強力に推し、将軍の行方は決まった。

徳川吉宗は幕閣の既存官僚達の動揺を抑える為、紀州家を存続させ慣例の出身藩から大量の重役・家臣を引き連れての江戸入りを止め、二十数名の側役だけを連れて江戸城に乗り込んだ。

幕閣の既存官僚達はその八代将軍・吉宗に胸を撫で下ろしたが、それは油断だった。
吉宗が将軍に就いた時点で、既存官僚達との勝負は着いていたのだ。


「享保の改革」を行ない、唯一幕府の構造改革に成功した八代将軍として後世に名を残した名君の周囲では、長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)、その半年後に次兄・徳川頼職(紀州藩第四代藩主)と隠居していた元二代藩主・光貞(実父)が相次いで亡くなった。

紀州徳川家・庶流の越前丹生松平藩(葛野三万石)の不在地藩主、冷飯食いとして生涯を送る筈の松平頼方(吉宗)に紀州藩主の座が巡って来た事自体が既に奇跡に近かった。

そしてライバル候補の尾張家五代当主・徳川五郎太も毒殺を疑われる怪死をとげ、紀州藩部屋住み庶子の四男坊、越前・葛野藩のお情け不在藩主だった松平頼方(吉宗)は、トントン拍子に八代将軍に伸し上った。

この吉宗の周辺で起こった不幸は只の偶然だろうか、それとも闇の勢力の陰謀だったのか。

その陰謀説は、吉宗の周辺を調べれば調べるほど疑いを濃くして行った。

吉宗の傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通は、同時に賀茂流・松平氏(徳川氏)の影人ではないのだろうか?

そして恐れ多くも賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)の帝の草であり、朝廷からの何らかの働きかけで動いていた可能性がある。

吉宗幼年時の「源六」が育てられた加納氏は三河国加茂郡加納村出身で、つまり賀茂勘解由小路党(かもかでのこうじとう)とは明らかに根っ子の部分で繋がっている血筋だった。

加納久直の時に徳川氏に仕えて代々紀州藩に属し、孫の加納(五郎左衛門)久通の代に「源六(後の徳川吉宗)」の傅役(おもりやく)と成り、主君「源六(後の徳川吉宗)」の出世に伴って久通も出世をする。

加納(五郎左衛門)久通は、紀州藩主・徳川吉宗の将軍就任に従って江戸城に入り、伊勢国内で領地千石の直参旗本、翌年下総国相馬郡内で千石加増され計二千石となる。

千七百二十六年 (享保十一年)に伊勢国内と上野国内で八千石を与えられ、伊勢八田で合計一万石を領する江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世する。

加納(五郎左衛門)久通は、千七百四十五年(延享二年)の吉宗隠居の際に若年寄に任じられている。


見る角度を変えておさらいをする。

吉宗は、徳川御三家の紀州藩第二代藩主・徳川光貞の四男として、側室・於由利の方との間に生まれる。

生母は巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)である。

生母の実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢(こせ)氏の末裔を称する素封家であった。

巨勢(こせ)氏は、大和国高市郡巨勢郷を本拠とした古代豪族・巨勢臣(飛鳥時代の有力氏族)で、許勢、居勢とも書く。

天智天皇御崩御の後起こった「壬申の乱」で大友皇子側に付き、大海人皇子に敗れ、乱後、刑死するまでは朝廷に大きな勢力を持つ名家だった。

しかし、この吉宗の生母・於由利の方は、巨勢(こせ)氏の出自に疑問がある。

何よりも不思議なのは、江戸幕府安定期の将軍生母でありながら、その於由利の方の墓が何処にも存在しないからである。

墓が存在しない事から推測されるのは、「巨勢六左衛門利清の娘」は、世間体の為の「便宜上の親子関係ではなかったのか?」と言う疑問である。

何故なら、実家の巨勢(こせ)氏は紀州の大地主で、立派な墓の一つも作れない訳は無い。

ましてや、紀州藩が墓を作らないのはそれこそ罰当たりの筈である。

それが無い所に、将軍生母として「何か秘すべき物があった」と考えざるを得ない。

現実には、紀州藩主の母・側室の実家としては、身分が違い過ぎた(百姓の娘であった。流浪者の連れた娘だった。)とも言われる。

つまり浄円院(於由利の方)は、その出自を明かせない立場に在ったか出自その物が無かった事になる。

和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、「湯殿に於いて手がついた」と言う伝説は有名である。

母の身分に問題があった為か、幼年期は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られたが、その後も部屋住みの身分だった。

この境遇が、後の名将軍の「素養を育てた」と庶民が認め、この辺りが、吉宗将軍庶民派育ちの大衆人気の一つではある。


これには最初から大きな影の力が働いている。

加納(五郎左衛門)久通の屋敷から家老に預けられた新之助(吉宗)には、城に引き取られるまでの幼年期の九年間(五歳から十四歳まで)、傅役(おもりやく)・加納(五郎左衛門)久通を初め、まるで一挙手一投足をも見逃さない影の教育係が付き纏(まと)っていた。

新之助(吉宗)が彼らに教えられたのは、正統派の帝王学である。

当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、於由利が紀州藩主・徳川光貞の種を宿す所から周到綿密に練られた計画は実行され、着々と邪魔者が消され、吉宗が将軍に上り詰めた後の治世方法まで若き日々より伝授していた。

それで無ければ、部屋住みとは言え将軍家に繋がる若君(新之助)は甘やかされて育つ筈で、若君(新之助)が名君足り得るのは難しい事である。

この部屋住みの四男坊が、「運命の悪戯(いたずら)」とも言うべき強運(幸運?)の連続(本人に幸運だったかは判らないが)で、「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と周囲から次々に上位の立場に押し上げられて行く。

吉宗十四歳の時、徳川綱吉(五代将軍)より越前国(福井県)丹生三万石の藩主(葛野藩主・松平を名乗る)を賜り、そのままでは小藩主で終わる運命だった。

所が、父・光貞と兄二人の死後、紀州本家に呼び戻されて(と言っても現実には紀州在住で、越前には赴任しては居ない)紀州藩主を継いだ。

紀州藩主と成った吉宗は、表には出ない影人の協力の下で既存利権勢力を排除しながら大胆な藩政改革に乗り出す。

この辺り、現在のどこぞの国でも最も必要な事であるが、改革をすべきトップが既存利権勢力側ではいかんともし難い。

吉宗は紀州藩主時代の十一年間を藩財政の再建に努め、苦労の末に大成果を挙げて藩の財政を立て直す実績を積んだ。


松平頼方(吉宗)を州支藩・葛野藩(越前丹生松平藩)三万石の藩主に据えた恩人は、徳川綱吉(五代将軍)である。

吉宗をスペアーとして分家温存した徳川綱吉(五代将軍)は、三代将軍・家光の四男として生まれたが、自身も若い頃は分家されて上野国館林藩主(所領は二十五万石)として松平姓を名乗っていた。

兄・家綱(四代将軍)に世嗣の子供が無かったので、家綱が四十歳で死去すると、綱吉は将軍宣下を受け五代将軍となる。

綱吉が、吉宗十四歳の時に越前国(福井県)丹生三万石の藩主に据えた理由は、自らのスペアーとしての将軍への経緯経験が有ったからではないだろうか?

少し前の時代に遡るが、この五代将軍・徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡る新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の治世の前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられている。

しかし治世の後半は、悪名高い「生類憐みの令」など、迷信深い悪政を次々と敷き、「犬公方(いぬくぼう)」綱吉に対する後世の評判は悪い。

実は、第五代将軍・徳川綱吉は、天変地異に見舞われた不運の将軍である。

千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて大地震に襲われ、甚大な被害を出している。

この関東地方を襲った大地震は、「元禄大地震」と呼ばれ、マグニチュードは八・一と推定推定される大地震だった。

元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災とは同型である」と解明されている。

甚大な被害を出したこの大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は、陰りを見せ始める。


所が、一度の大地震でも大変な事なのに、第五代将軍・徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。

僅か三年後の千七百七年(宝永年間)、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永大地震」に見舞われる。

宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。

そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。

「宝永の大噴火」は、数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。

自らが世継ぎに恵まれない事や、度重なる天変地異に、五代将軍・綱吉は統治に迷い度が過ぎた信心に走り「生類憐みの令」を発する。

犬は神の使い(狼=大神)であり、確かに「生類憐みの令」は悪法だが、将軍在位中に次々と天変地異に見舞われれば、「何かの因果か?」と、徳川綱吉が迷信深くなるのも頷ける話しでは在る。

勿論、この時代の日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などないから、「神がお怒りに成っている」と、五代・綱吉が不吉がっても無理は無い。

関東・東海・南海・東南海連動型地震は、今でこそ百年〜百五十年周期で連動発生する事で知られているが、元禄・宝永の江戸期に生きた五代将軍・綱吉には「何かに祟(たた)られている」としか考えられなかったのである。

話を判り易くする為に、将軍・綱吉を襲った治世上の不幸(天災)を考慮せず、理不尽な法律で庶民を苦しめた事だけ後の世に描かれる不幸な将軍でもある。

五代将軍・綱吉はその背負った重みの大きさに、将軍としての後半生をあえいで過ごし他のかも知れない。

引き換え八代将軍・吉宗の治世は、財政的にはまだまだ苦しいながらも幸運な巡り会わせで震災復興期に入っていた。

まぁ庶民にして見れば、「理屈はどうでも良いから、暮らし易い時代が良い将軍様の時代」なのである。


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柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

◇◆◇◆◇◆◇◆〔柳沢吉保(やなぎさわよしやす) ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 第五代将軍・徳川綱吉の代に側用人から老中格側用人、大老格(左近衛権少将)側用人として権勢を振るった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれている。

当初、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕え寵愛を受け、藩主・徳川綱吉が第五代将軍となるに随って当時柳沢保明(やなぎさわやすあき)を名乗っていた吉保(よしやす)も幕臣となり小納戸役に任ぜられる。

この綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、当時の慣習に拠る近習(稚児小姓)の男色(衆道)関係も疑える。

綱吉の寵愛により柳沢保明(やなぎさわやすあき)は、頻繁に加増され千六百八十八年、大老に拠る合議制から将軍親政をもくろむ綱吉に引き立てられて、新設された側用人に就任し禄高も一万二千石と加増されて大名に昇る。

二年後に二万石加増して三万二千石、その四年後には四万石加増されて七万二千石・老中格の武蔵国・川越藩主(埼玉県川越市)となる。

その後柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、綱吉の諱の一字を与えられ、それまで名乗っていた柳沢保明(やすあき)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と名乗っている。


俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に柳沢吉保が「母子の身柄を預かった」とも言われている。

事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われている。

染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。

綱吉と吉保(よしやす)が当時の武家の習慣である「両刀使い」の男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。

その側室・染子の閨房(けいぼう/性行為)での睦言が、将軍・綱吉を側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が「操っていた」とされ問題に成る。

その染子の閨房(けいぼう/性行為)操り疑惑の為に将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、「御添い寝」として将軍の寝所に泊まらせて寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを「尽く報告させる事とした」と伝えられている。

この「御添い寝」は、明治維新で「江戸幕府が滅亡するまで続けられた」と言う。


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忠臣蔵(元禄・赤穂事件)

◇◆◇◆◇◆◇◆〔忠臣蔵(元禄・赤穂事件)〕◆◇◆◇◆◇◆◇◆

徳川綱吉は、ちょうど徳川光圀とほぼ同時代を生きた将軍で、治世中に有名な忠臣蔵(元禄・赤穂事件)が発生し、「片手落ちの裁可を下した」と批判された。

ご存知赤穂義士の討ち入りの顛末は、毎年の様に十二月十四日前後にテレビ放映されるので経緯及び詳細は割愛する。

まぁ大まかに言うと、高家筆頭・三州(三河国)・吉良家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)と播州(播磨国)赤穂・浅野家の浅野長矩(あさのながのり)の間で、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、江戸城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件が発端である。

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔であり、鎌倉幕府の有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら足利将軍家の近臣として仕えて生き延び、戦国期は同門でもある今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄され盛衰を繰り返しながら江戸期を迎える。

千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家筆頭の家格を与えられ、赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。

但し吉良家には上州白石にも千二百石知行地があり、陣屋を構えていた所から上野介(こうずけのすけ)を賜った。

吉良家は、出自を本姓は源氏(清和源氏)の足利氏に遡る名門で、本拠地の三州は駿河の戦国大名・今川氏の発祥の地であり、今川氏と吉良氏は同族である。

元禄赤穂事件の一方の当事者・吉良義央(きらよしひさ)は、江戸時代前期の高家肝煎(こうけきもいり)格の旗本だった。

従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)の官位・官職などを賜っていた為、吉良上野介(きらこうずけのすけ)と呼ばれる事が多い。


吉良義央(きらよしひさ)は千六百四十一年(寛永十八年)九月、高家旗本四千二百石・吉良義冬(きらよしふゆ)と幕府大老・若狭国小浜藩主・酒井忠勝の姪(旗本寄合・酒井忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれるが、生地については陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれとされる説もある。

また、父・義冬(よしふゆ)の母が高家・今川家出身である為、義央(よしひさ)は今川氏真(いまがわうじざね)の玄孫にあたる。

弟に旗本五百石・東条義叔、旗本切米三百俵・東条義孝・東条冬貞(義叔養子)・東条冬重(義孝養子)・孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の五人がいる。


千六百五十三年(承応二年)、吉良義央(きらよしひさ)は将軍・徳川家綱に拝謁を許され、四年後の千六百五十七年(明暦三年)の暮れには従四位下侍従兼上野介に叙任される。

翌千六百五十八年(万治元年)春、義央(よしひさ)は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚する。

吉良氏が古くからの婚姻関係によって扇谷上杉氏の血を引いており、義央(よしひさ)は上杉富子との間に二男四女(長男吉良三之助、次男吉良三郎、長女鶴姫、次女振姫、三女阿久利姫、四女菊姫)に恵まれる。

高家としての吉良氏に生まれた吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、千六百五十八年(万治二年)の十七歳から父・義冬(よしふゆ)に伴われて出仕を開始する。

二十一歳で初めて幕府のお役目を拝命、千六百六十二年(寛文二年)八月に大内仙洞御所造営の御存問の使として京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜り、以降、生涯を通じて年賀使十五回、幕府の使九回の計二十四回上洛した。

千六百六十三年(寛文三年)正月、義央(よしひさ)は後西上皇の院政の開始に対する賀使としての二度目の上洛に際して従四位上に昇進、若干二十二歳だった。

義央(よしひさ)の高家としての技倆が卓越して、それを認めた将軍・綱吉が寵愛した為か部屋住みの身でありながら使者職を行い、二十四回もの上洛は高家の中でも群を抜いていた。

そうした中、千六百六十四年(寛文四年)の初夏、妻・上杉富子の実家・米沢藩上杉家が存亡の危機を迎える。


米沢藩主・上杉綱勝が嗣子無きまま急死した為に改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、義央(よしひさ)長男・三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、三十万石から半減の十五万石への減知で危機を収束させた。

以後、義央(よしひさ)は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、度々財政支援をさせた他、三人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとする。

長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政?(つがるまさたけ)の室、四女菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている。

但し薩摩島津家に嫁した鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も夫・忠平と死別するが、後に公家・大炊御門経音の室となって一男一女をもうけている。

父・義冬が健在だった為に、初出仕の十七歳から十一年間部屋住みだった義央(よしひさ)は、千六百六十八年五月、義冬の死去により二十八歳で漸く高家・吉良氏の家督を相続する。

千六百八十年(延宝八年)、義央(よしひさ)は四十歳で高家の極官(上限)である左近衛権少将に任官し、その三年後の千六百八十三年(天和三年)には大沢基恒、畠山義里とともに新設の格式・高家肝煎(こうけきもいり)に就任している。

さて、高家肝煎(こうけきもいり)・吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、江戸城内大廊下(松の廊下)で起こったとんでもない事件の当事者に成る。

その事件は、千七百一年(元禄十四年)二月四日、播州播磨赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)と伊予吉田藩主・伊達村豊の両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春・霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの饗応役を命じられた事に始まった。

実はその際、義央(よしひさ)は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して二月二十九日まで江戸に戻らなかった。

この間、浅野長矩(あさのながのり)は二度目の饗応役であった為に過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、過ってとは変更になっている事もあって手違いを生じていた

この吉良義央(きらよしひさ/上野介)不在中の準備に於いて擦れ違いが生じた事が、事件の遠因と見る向きもあり、更に三州吉良、播州赤穂ともに塩田経営が盛んで、言わば両者は「製塩産業のライバルだった」とも指摘されている。

また大名・播州赤穂浅野家の五万三千石と比べれば、高家旗本・三州吉良家は四千二百石で知行は約十三倍、格式は高いが実入りが少ない高家としては儀典の指南料は暗黙の常識ながら、「長矩(ながのり)がこれを拒んだ」と言う説もある。

いずれにしても、浅野長矩(あさのながのり)の刃傷の原因は諸説あり、いずれも決定打には至らない。

一方の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)は、浅野長政を始祖とする安芸広島藩四十二万石・浅野家の傍流の一つで赤穂・浅野家五万石の藩主だった。

播州(播磨国)・浅野家は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の曽祖父・浅野長重(あさのながしげ)は浅野長政の三男でる。

第二代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、家康、秀忠の二代の将軍の信任を得て下野国真岡藩二万石を与えられ、その後父・浅野長政が隠居料として与えられていた常陸真壁藩五万石を相続した後、その嫡男・長直の代に赤穂藩主へ転封されていた。

千七百一年(元禄十四年)三月十四日、午前十時頃、吉良義央(きらよしひさ/上野介)は江戸城内大廊下(松の廊下)にて浅野から額と背中を斬りつけられた。

長矩(ながのり)はその場に遭遇した旗本・梶川頼照らに取り押さえられ、義央(よしひさ)は高家・品川伊氏・畠山義寧らによって蘇鉄の間へ運ばれ、外科医・栗崎道有の治療のおかげで命は助かり額の傷は残らなかった。

その後義央(よしひさ)は、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、吉良は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えていると、長矩(ながのり)を取り調べた目付・多門重共の「多門筆記」に記載がある。

浅野長矩(あさのながのり)は、事態に激怒した将軍・徳川綱吉の命により、即日切腹となる。

この吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷(にんじょう)事件が、ご存知主君仇討ちの美談、赤穂義士四十七名の吉良邸討ち入りに発展したのだ。

年の暮れも押し迫った旧暦の元禄十二月十四日(新暦では翌一月末頃)の雪の降りしきる日、元家老・大石内蔵助良雄以下赤穂義士四十数名(連絡係りなどで討ち入り参加しない者在り)が吉良邸へ討ち入り、吉良上野介義央を討ち果たす。

その吉良の首を泉岳寺の主君・浅野内匠頭長矩の墓前に捧げた後、大目付の下に出頭、口上書を提出し幕府の裁定に委ね、細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の四大名諸侯の屋敷へお預かりとなり、五十日に及ぶ議論の末に幕命により切腹した。

元禄赤穂事件は「義挙」と称えられている。

しかしながら、正直この美談の吉良邸討ち入りは、我輩に言わせば当時の仇討ち作法としては「武士として尋常な勝負」とは言い難い矛盾を感じる。

「それも兵法の内」と言えばそれまでだが、不意討ちの討ち入りの上に一方は頭巾に兜や鎖帷子(くさりかたびら)を着した戦(いくさ)支度の武装に対して、不意討ちされた吉良方は武器を手取るのに精一杯で、それが死傷者に大差がつく結果となって勝負は着いている。

江戸時代の高家は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職であり、また、この職に就く事ができる家格の旗本を指して高家旗本(こうけはたもと)と称す。

 役職としての高家を「高家職」と記す事があり、高家旗本と言う家格の内、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。

この高家を江戸幕府に置いたには、徳川家・初期歴代将軍の貴家趣味(きけしゅみ)に起因する所が大きく、特に徳川家康の貴家趣味は有名で、儀式を行う高家として没落した名門武家を数多く登用した。

貴家趣味(きけしゅみ)とは、高貴な家柄の人物と交流したり、また能力・実態以上に重く用いる事を好む事で、歴史学的には日本史に於ける血統至上主義が如実に現れたものであり、没落した貴家の出身者を家臣として迎えて自己の地位を高めようとする狙いもある。

つまり江戸幕府から朝廷や公家との交際指南役として公家に近い扱いを受けたのが、室町幕府で高級官僚を務めた経緯を持つ没落名家などから幕臣に引き立てた家が高家旗本である。

この高家旗本以外に、知行一万石に満たないながら特例で参勤交代の特例を江戸幕府から認められた「交代寄合格(大名待遇格)」の旗本が、只の寄合格旗本よりは格式が高かった。

千六百八十三年(天和三年)、奥高家(有職高家)の中から有職故実や礼儀作法に精通している大沢基恒、畠山義里、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の三名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)としたが、高家肝煎となる家は固定されていた訳ではない。

摂津下野足利流・畠山家(能登)畠山民部大輔(はたけやまみんぶだゆう)五千石、河内源氏足利流・吉良家(三河)吉良左近衛権少将(きらさこんえしょうしょう)四千二百石は元禄赤穂事件に依り廃絶、公家・持明院流・駿河名家・大沢家(遠江)大沢右京大夫(おおさわうきょうだゆう)三千五百五十六石。

そして自称平家織田流・大和織田家(尾張)織田宮内大輔(おだくないだゆう)三千石、清和源氏流美濃石津高木西家・高木弾正(たかぎだんじょう)二千三百四石、清和源氏新田流・由良家(信濃)由良信濃守助(ゆらしなののかみすけ)一千石、宇多源氏佐々木流・京極家(近江)京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)千五百石、河内源氏足利流・今川家(遠江)今川従五位(いまがわじゅごい)一千石、などが、有力高家旗本である。


高家は、公式の場に於ける礼儀作法を諸大名に伝授する事も職分であり、その際、相応の謝礼を受ける事が黙認されていたのだが、それは格式が高い為に収入以上の経費を必要とする少禄の高家にとっては貴重な収入であった。

「元禄赤穂事件(忠臣蔵)」で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、僅か四千二百石取りながらも、従四位上左近衛権少将であった。

その「元禄赤穂事件」は、千七百一年(元禄十四年)高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしひさ)が勅使馳走役の播州赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)に殿中で斬りつけられ、その成敗が一方的に浅野の非を認めるものとなった事から翌年暮れに浅野の遺臣の一団に自宅を襲撃されて討ち取られ高家・吉良家は改易となった事件である。

勅旨供応の大事な時に刃傷沙汰が起こり、将軍としての面子(めんつ)を潰されて浅野長矩(あさのながのり)に切腹を命じたら片手落ちと批判され、大石以下浅野の遺臣討ち入り後の処置でまた頭を悩まされる五代・綱吉はついていない。


元禄赤穂事件から四年後の千七百五年(宝永二年)、葛野藩(越前丹生松平藩)三万石の藩主・松平頼方は五代将軍・徳川綱吉から一字を貰い、名を吉宗と改めて漸く紀州藩主となっている。

高家職に就く事のできる旗本(高家旗本)は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護、著名な戦国大名の子孫など、所謂(いわゆる)「名門」の家柄で占められた。

最初期、初めて高家職を務めた大沢基宿は、公家・持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮と言う皇族の末裔を母とする人物である。

次に将軍家から高家に登用した吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも清和源氏流足利家の一族である。

高家の創設の理由として、徳川家康が過っての名門の子孫を臣下に従える事により、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料され、次いで徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」と言う、政権の正当性及び権力誇示と言う見方が強い。

当初の高家は十家に満たなかったが、その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、千七百八十年(安永九年)には二十六家となって以後、幕末までその数は変わっていない。

尚、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就く事はできないのが原則で、高家以外の職に就く場合は一度高家の列を離れて一般の旗本に列してからとなる。


徳川吉宗は、第七代将軍・家継(いえつぐ)の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の六代将軍・家宣(いえのぶ)の正室である天英院に、思っても見なかった将軍職就任を指名される。

表向きは「最も神君に血統が近い」と言う理由だが、紀州藩の財政建て直しの手腕を買われての事だろう。

それほど幕府の財政は逼迫(ひっぱく)していたのである。

そして証拠は存在しないが、将軍職就任後の「吉宗の治世の成功」を考えれば、出現すべき将軍が出現したように思えるのである。

吉宗は、既得権益に関わらない僅(わず)か二十数名(加納久通・有馬氏倫・田沼意行ら)の元紀州藩士を旗本とし、直接指図し直接報告を受ける側役(側近)として手足に使い、徹底して既得権益に手を入れて正して行った。

既得権で固まった官僚組織を、見事な調査能力を駆使して潰して行った者達こそ、チーム吉宗の「側用人組織だった」としか言えない。


「天下を掌握する」と言うこの壮大な陰謀が、吉宗の生母が紀州藩主の「妾に収まる以前から始まった」としたら、脅威では有るが、それが有り得るのだ。

吉宗の将軍職就任までの経緯を考えれば、父や二人の兄を始めライバルの尾張藩主など、不可解な連続死に拠って吉宗が浮上してきた事は事実である。

そこに、「彼らの仕事ではないか」と疑う影人達の暗躍の可能性が、ジワリと滲んで来るのである。


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五代綱吉・六代家宣

◇◆◇〔忠臣蔵(元禄・赤穂事件)〕(ごだいつなよし・ろくだいいえのぶ)◆◇◆

 江戸期に於ける政治改革は、徳川幕府の政権維持の為に、何度もリセット改革をしているので列挙しておくが、政権内部からの改革は、「常に失敗が多い」と言う事実がある事も判る。

五代将軍・徳川綱吉の治世後、六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡り行われた改革、新井白石の千七百九年〜十六年の「正徳の治」で、新井白石/新井君美(あらいはくせき/あらいきんみ)は、江戸時代中期の知行千石の旗本で、朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学を修めた学者である。

白石の幕閤内での身分は「本丸寄合の無役」で、その進言は一々側用人の間部詮房(まなべあきふさ)が取り次いでいた。

朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。

「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた「天下りシステム」のような状況だった。

これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。

何故なら、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。

まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?
,br> 近頃起こった原発事故の人災だって、学者・官僚・政治家の一部が己の利の為に安全性を二の次にした。

新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動する」からで、儒学者としての「学者のべき論」など通用しないのである。


徳川家宣(とくがわいえのぶ)は甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相/徳川家光の三男)の長男である。

伯父である四代将軍・徳川家綱(第三代将軍・徳川家光の長男)の偏諱を受けて「綱豊(つなとよ)」と名乗るが、父・綱重の死去を受け十七歳で甲府藩主の家督を継承していた。

四代将軍・徳川家綱に子供が無かった事から、家綱重体の折に五代将軍継承の有力候補になるも三代・家光に血が近い上野館林藩主・綱吉(三代将軍・家光の四男)が五代将軍に推される。

所が、五代将軍になった綱吉にも世嗣恵まれず、挙句に地震や噴火と天変地異に脅かされ寺社に傾倒して「生類哀れみの令」など悪政に到るも信心の効無く、綱吉娘婿・徳川綱教を後継候補にしていた。

その娘婿・徳川綱教が死去した為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)や「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。

間部詮房(まなべあきふさ)は甲府藩主・徳川綱豊(のちの第六代将軍・家宣/いえのぶ)の家臣・西田清貞の子として生まれる。

始め西田詮房(にしだあきふさ)と称し猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、千六百八十四年(貞享元年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)の用人になる。

家系が藤原北家魚名・山蔭流間鍋氏で在った西田詮房(にしだあきふさ)は、主君・綱豊(後の徳川家宣)に可愛がられ西田から間鍋に改名し間鍋詮房(まなべあきふさ)を名乗ったが、徳川綱豊の命によって間部氏となる。

先代・五代将軍・綱吉が継嗣に恵まれなかった為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。


徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

詮房(あきふさ)は側衆になり、千五百石加増を皮切りに累次加増され、千七百六年(宝永三年)には、相模国内で一万石の大名となり、後に加増を重ね高崎藩・五万石を得ている。

大名家に於ける「藩主腹心の部下」を醸成するシステムについては大方二つの形態が在る。

その一つが八代将軍・吉宗に代表する傅役(もりやく)・加納(五郎左衛門)久通の様な存在で、今一つは五代将軍・綱吉に代表する柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の様に夜伽(よとぎ/性的奉仕)の衆道(しゅうどう/男色)相手の稚児小姓を務めて腹心の部下に成る方法である。

間部詮房(まなべあきふさ)は六代将軍・家宣の四歳年下と言う事で、諸般の状況から明らかに後者の「小姓を務めて無二の信頼を得た」と考えるのが無理が無い。

誤解して貰っては困るが、この時代の武門の棟梁は稚児小姓に夜伽(よとぎ/性的奉仕)をさせる両刀使いが一般的で、情を交わしてこその衆道(しゅうどう/男色)相手を腹心として重用する習慣は平安期から存在した。

主従の間の固い絆には、若い頃からのそうした関係が在ったのである。

絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。

間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、後にに幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。

尚、将軍の正室や妾などは「大奥で関係ができる」と想われている方が多いが、徳川吉宗の継嗣・徳川家重や宗武は紀州藩第五代藩主時代に女中(お須磨の方・深徳院)に手を付けて為したもので、つまり妻子を引き連れて大奥に入る事例もある。


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大奥と虚弱精子劣性遺伝

◇◆◇◆◇◆◇◆〔大奥と虚弱精子劣性遺伝〕◆◇◆◇◆◇◆◇◆

宮中の内裏(だいり)にヒントを得て、大奥を創設したのは大奥総取締りの春日局(かすがのつぼね)である。

この春日局(かすがのつぼね)が考案した大奥システムの基本中の基本は血統至主義で、将軍家の血筋を絶えさない為の母体ストックシステムである。

生物科学が未発達の時代だから、春日局(かすがのつぼね)の大奥システムは有効だと考えられた。

しかしこの大奥システムには致命的欠陥が在った。

その欠陥の事だが、実は人間の尊厳に関わる事なので中々表に出し難い物だった。

それこそが「虚弱精子劣性遺伝」と言う大変な事態で、五代将軍・綱吉や六代将軍・家宣(いえのぶ)の代にはそれが如実に現れていた。

最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にあり、これも「少子化」の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。

実はこの不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。

この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。

そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。

そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。

自然の法則から言えば、精子劣勢遺伝とXY染色体の課題を回避して強い男性精子を選択的に継承して行くには女性の方に性交相手の選択権が有る群れ婚状態が合理的で、群れ婚に拠る乱交が優秀な男性精子を競争の中で選択させる環境が守られていた。

所が男性リーダーが群れの中でその種の保存の自然の法則に反する男系の血統が重用される権力環境が成立して人類は破滅の道を歩んでいる。

歴代の皇統や、江戸幕府・徳川家の場合は男性精子に自然淘汰に拠る繁殖力を求めない独占的環境にあるから、代を重ねると当主の持つ精子は結果的に虚弱化し、お世継ぎに困る事例は数多く、それこそ究極の「虚弱精子劣性遺伝」なのである。


幕府の財政立て直しが目的であるなら、とっくに財政破綻している幕府に巣食い、食い物にしていた幕閣の官僚達はバッサバサと切り落として行かねば成らない。

その幕府官僚の既得権益構造を改革する為に登場したのが、八代将軍・吉宗とその側用人に拠るチーム吉宗だった。

吉宗は江戸幕府八代将軍に就任すると、紀州藩主時代の経験を活かし、自ら質素倹約、新田の開発、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの「享保の改革」を行った。

権力を掌握するには、「権謀術策」つまり手段を選んでいては中々達成出来ないのは事実である。

徳川吉宗は「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と出世を重ねる徳川吉宗に、強運だけが有ったとは到底考えがたい。

紀州藩の妾腹の三男坊・徳川吉宗の生母は何故か謎に満ちた存在で、その出自は「作文」と言われて居る。

ここまで読み進めば、ご存知のように紀伊半島随一の大藩・徳川御三家紀州藩はその支配地領域を、古くからの影人達の里領域を重ねて居る(雑賀)か、近接(伊賀)している。

長期政権化して膿が溜まった徳川幕府を、戦乱を避ける形で浄化する為の陰謀工作を、「影人達が企んだ」とすれば、「見事な成功」と言えるのではないだろうか?

証拠は存在しないが、将軍職就任後の「吉宗の治世の成功」を考えれば、出現すべき将軍が出現したように思えるのである。

「天下を掌握する」と言うこの壮大な陰謀が、吉宗の生母が紀州藩主の「妾に収まる以前から始まった」としたら脅威では有るが、それが有り得るのだ。

そして吉宗の紀州藩主就任から八代将軍就任に到るまでの陰謀の全ては、傅役(おもりやく)・加納(五郎左衛門)久通が指揮をとっていたのではないだろうか?

吉宗の将軍職就任までの経緯を考えれば、父や二人の兄を始めライバルの尾張藩主など、不可解な連続死に拠って吉宗が浮上してきた事は事実である。

そこに、「彼らの仕事ではないか」と疑う影人達の暗躍の可能性が、ジワリと滲んで来るのである。

それであれば八代将軍・徳川吉宗は、強力な闇の手勢を引き連れて江戸城に入った事になる。


対外的には、将軍交代時の幕閣の混乱を防ぐ為、吉宗は僅かな軽輩を伴って江戸城に乗り込んで来た。

ここの辺りが目の付け所で、吉宗が身一つで将軍に据えられたのであれば、只のお飾りにされるのが当然である。

所が、一見既存勢力に飲み込まれそうな無力に見えた吉宗は、幕閣重臣のお飾りには成らなかった。

紀州藩(紀州徳川家)から連れて来た既得権益に縁が無い者を公儀隠密探索方(秘密警察)に活用、幕閣の不正を暴き出し構造改革に成功する図式である。

この吉宗配下の紀州以来の公儀隠密探索方存在説は、推測に拠る状況証拠では有るが、既存勢力で固まった幕閣重臣に対抗する為に、吉宗が何らかの「影の力」を持って臨まなければ「改革など出来ない筈」だからである。

現代に於ける各省庁官僚に対しても、この公儀隠密探索方(秘密警察)構想が有って然るべきで、我輩は国会議員の国政調査権の強化と議員配下の議員国政調査官を議員一人に二人位は国費設置しないと、一万数千人を抱える主力省庁の牙城に「国会議員は歯が立たない」と思うが、いかがだろうか?

紀州藩主だった八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州より連れて来て側御用取次に使った紀州藩士・有馬氏倫(ありまうじのり)は、播磨の名門だった赤松流(あかまつりゅう)の有馬氏末孫だったが、栄進して伊勢国三重郡に千三百石を与えられた。


その後、その有馬氏倫(ありまうじのり)は、下野国芳賀郡に千石、千七百二十六年(享保十一年)伊勢・下野・上総国内に七千七百石を加増され、翌年には領地の朱印状を賜って事実上一万石の大名となり、江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世し、伊勢西条藩を立藩した。

当時の出世は君(くん)に選ばれる事、そして着いて行く君(くん)を選ぶ事で、その君(くん)に幸運があれば臣(しん)に出世の機会は在った。

只、チーム吉宗は、本来熾烈な将軍継承レースに吉宗がそのレールの上に乗って将軍職に辿り着くまで、かなりの影働(かげはたら)きをしていた可能性を否定出来ない。

そしてその強力な側近だけのチーム吉宗だからこそ、「享保の改革(今で言う政治の構造改革)」を為し得たのではないだろうか?

結局の所、吉宗側役(チーム吉宗)は紀州から移って来た軽輩の旗本が務めていてが、直に八代将軍・吉宗に報告して命令として口から出るのは将軍の口であるから、彼らチーム吉宗は身分が軽くても機能したのだ。


吉宗は、奇跡的な経緯で将軍職に就き、破綻しかけていた幕府財政を見事に再建した事から「江戸幕府中興の祖」と呼ばれる。

また米相場の安定に苦心した事から、米将軍(八木将軍とも呼ばれる)とも言われる。


日本人の理念では、政治を司る事を「祭り事(政り事)」と呼び、治世は神に代わって行う神事だった。

世間ではその時代の治世を評して「**治政の光と影」と評するが、日本人の心を映す坪庭の文化では、植栽木々や石組に「間(ま)」を設けて「影を創らない事」が絶妙の匠(たくみ)の技である。

「間(ま)」とは空(くう)を意味し、一見無駄な様だが「間(ま)」が在ってこそ調和が生まれて全体が生きて来る。

元々日本人の優秀な所は、細部まで神経を行き届かせる心配りの「物創りの才能」で、つまり名人の仕事はそうした影を創らず「調和を為す事」でなければならない。

ましてや祭り事(政り事)は尚の事、全体の調和を重んじ影を創っては成らないものである。

所が、片寄った思考の学者や権力者(政治家)が偏重した「祭り事(政り事)」をすれば、その政策仕事は調和に欠け、乱暴に「影ばかり」を創った駄作となる。

こうした「間(ま)」を持たない治世は僅(わず)かな勝ち組には光をあてるが、多くの人々から光を奪った悪政で、言うなれば「間抜けの不始末」と言うのが実態なのである。

勿論、世の中には学問の真髄を追及する学者は大いに必要で、そこから進歩は生まれる。

しかしながら的(まと)を絞って学問を狭義で深く追及して行く学者が、全体のバランスや世間の実態に目もくれず、己の学説だけで政治を行う愚を犯しては政治改革など成功する訳が無いのである。

それでは、「間(ま)」とは何だろうか?

人間の脳の働きは、大別すると左右二つに分かれている。

【左脳】は「意識脳」と呼ばれ、理性や計算を担当して「利」を重んじるのに対して、【右脳】は「無意識脳」と呼ばれて本能や感性に関わる言わば「情」を重んじる活動を担当している。

つまり「間(ま)」とは【右脳・無意識脳域】の本能や感性の領域に存在するもので、理性や計算ばかりで「情」の無い治世は「間抜け」なのである。


間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石の「正徳の治」に拠り幕府財政が逼迫(ひっぱく)した為、八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」に移行し、千七百十六年〜四十五年の享保の改革は新田の開発・目安箱・公事方御定書制(幕府の改革新法)などを行い、江戸期で唯一改革が成功する。

八代将軍吉宗による「享保の改革」が唯一成功した訳は、本書で吉宗将軍就任の事の次第の真相を述べている通り、一見内部改革に見える「享保の改革」の改革は、実質的にリーダーとその一派が外部から幕府中枢に乗り込んで来て既得権益を駆逐して初めて成し遂げた革命だった。


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田沼意次の悲劇

◇◆◇◆◇◆◇◆◇田沼意次の悲劇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千七百六十七年〜八十六年の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。

何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政に良く似ている」と思うが、いかがか?

田沼意次はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子で二度に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。

父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。

つまり田沼意行(おきゆき/もとゆき)はチーム吉宗の側役の一人だった。

田沼意次(たぬまおきつぐ)は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石を領する。

その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。

主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第十代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。

力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。

田沼意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。

この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきもので、幕府の財政は改善に向かい、景気も良く成っだ。

だが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れてしまう。

それは、さながら現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義に成って贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。

田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価している。

だが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。

つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、そう遠くない時期に出そうである。

千七百八十四年(天保四年)に江戸城中で時の老中・田沼意次の子息、若年寄・田沼意知に斬りつけて殺害し、反田沼派が台頭するきっかけを作った旗本・佐野政言は足利氏庶流・佐野氏(さのうじ)の子孫の一人である。

「田沼政治」が、行き過ぎた市場原理政策を採って数々の格差現象が生じ、幕府官僚の腐敗に非難が集中した反省から、千七百八十七年〜九十三年の松平定信による「寛政の改革」では、「質素倹約」と朱子学以外は禁止の思想統一である「寛政異学の禁止」を押し進めた大変厳しい改革をした。

所が、この政策で消費経済が落ち込んで大不況を招き、庶民は朱子学の思想だけでは食べて行けず庶民の生活が困窮して大失敗する。

これは長期政策ビジョンが無く、もぐら叩き的な安易な目先政策の感が強く、大いに稚拙さを感じる。


千七百四十一年〜四十四年の老中・水野忠邦の「天保の改革」では、田沼時代の不の遺産を改善し、行き過ぎた市場原理主義の修正為に「株仲間の解散」や都会に片寄った労働力の強制的な帰農政策(強引な過疎対策)である「人返し令」を行うが、都会に定着した人々には既に帰農すべき故郷の地盤を失っていて不評を買い失敗している。

そして、一旦動き出した市場原理主義を沈静化させる為の「株仲間の解散」についても、危なげな投機ブームは有ったものの、バブル経済時代の大蔵省銀行局長 から通達された「土地関連融資の抑制について」に拠る「総量規制」と同様だった。

つまり、人為的な急ブレーキが本来自然に起きる筈の景気後退を不適切に加速させ、終(つい)には日本の経済の根幹を支えて来た長期信用全体を崩壊させてしまった事と酷似している。


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享保の改革

◇◆◇◆◇◆◇◆◇享保の改革◆◇◆◇◆◇◆◇◆

江戸期に於ける改革は、唯一成功した八代将軍・吉宗による「享保の改革」以外は、いずれも庶民に一方的な負担を掛ける改革は結果的に失敗している。

他の改革は政権維持が唯一の目的だったから、「徴税を強化する策に終始」し、結果的に庶民の力を削いでしまったのだ。

徳川吉宗は大奥のリストラにあたって飛び切りの美女を選ばせ、「美女なら生きる立つ瀬もあるだろう。」と優先的に暇(いとま)を出した逸話が残っている。

この伝で行けば、国家公務員上級試験に合格し国政事務を経験した天下の逸材が「再就職に困るから天下り先を用意する。」は、庶民感覚から言えばとんでもない心得違いの言い分である。

それでも恥も外聞も無く天下り既得権益を守ろうとする官僚は、日本の象徴である桜に巣食う毛虫である。

桜は日本の象徴だけれども、綺麗な花の間には毛虫が沢山居る。

あの毛虫は、醜い蛾に成るのかそれとも華麗な蝶に成るのか?

調べてみると、毛虫は、モンクロシャチホコと言う名の蛾の幼虫で、成虫は、別名、紋黒天社(くろもんてんしゃ)と言う体長二センチの目立たない蛾である。

この蛾の幼虫、桜に取り付いて食害により桜の枝を枯らす。

まるで国家予算を食い散らす役人(官僚)みたいな害虫で、すると、桜の毛虫は日本の役人の象徴であろうか?

つまり、毛虫(官僚)が孵化して蛾(天下り)に成る図式である。


過去に民力を削いで成功した政治改革は無い。

まぁ、他の改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。


松平頼方(吉宗)は紀州藩主就任時に五代将軍・綱吉から偏諱(へんき)を賜り、徳川吉宗と改名する。

吉宗は、紀州藩主時代、女中との間に長男・長福丸(家重)、次男・小次郎(田安宗武)が生まれている。

千七百四十五年(延享二年)九月二十五日、八代将軍・徳川吉宗は将軍職を長男・家重に譲る。

しかし九代将軍・徳川家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かった為、吉宗は自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。

尚、この将軍職譲位の時に、病弱な家重より聡明な次男・宗武や紀州藩主時代からの側室・梅(谷口正次の女)との間に将軍職就任後に為した四男・宗尹(むねただ)を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避ける為、「敢えて家重を選んだ」と言われている。

ただし九代・徳川家重は、言語障害は在ったものの知能は正常であり、一説には「将軍として政務を行える力量の持ち主であった」とも言われる。

また、譲位後も大御所として実権を握り続ける為には、才児として台頭している次男・宗武や四男・宗尹(むねただ)より愚鈍な「家重の方が扱い易かった」とも考えられるが、推測の域を出ない。

この将軍継子問題で有名なのが、徳川家康の「大御所裁定に依る三代将軍・家光の誕生」と言う前例だった。

二代将軍・徳川秀忠は、当初長男・徳川家光ではなく・二男・徳川忠長を三代将軍に据えようとしたが、春日局(お福)と天海僧正の尽力により、駿河に隠居していた大御所・徳川家康に春日局(お福)が直訴する。

大御所・家康は早速二代将軍・徳川秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言し将軍継子問題を決着する。

以後春日局は、家光を「三代将軍」に押し立てたとして、大奥に在って絶大な権勢を誇るようになる。

この「大御所裁定」に、一度は将軍を継ぐ夢を見た二男・徳川忠長は甲斐の国甲府に二十三万石、ついで二万石加増して二十五万石、駿河・府中藩を加えて五十五万石の太守に成るが本人は満足しない。

「本来なら、予が将軍である。おのれ、家光め。」

荒れて駿府の居城で刀を振り回し腰元を殺傷に及ぶなど粗暴な振る舞いも多々あり、二代将軍・秀忠もかばい切れずついに忠長に甲府蟄居を申し渡す。

翌年秀忠が没すると、三代・家光はこの扱い難い異腹の兄弟・忠長に上州高崎藩の安藤重長にお預けを命じ、忠長は幽閉された後、高崎で自刃している。

八代・吉宗の九代将軍・徳川家重への世襲は、この大御所裁定「世襲は嫡男から」を念頭にしての事とも考えられるのだ。

八代・吉宗は、宗武、宗尹を養子には出さず部屋住みのような形で江戸城内に留めたまま徳川宗家継続の為に御三家に次ぐ別家に取り立て、田安家、一橋家(両卿)が創設され、吉宗の死後に清水家(九代将軍・家重の二男・重好)が追加創設されて御三卿となった。

御三卿(ごさんきょう)は江戸時代中期に分立した徳川氏の一族で、徳川御三家と伴に徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う家である。

紀州藩の妾腹の四男坊・徳川吉宗の生母は何故か謎に満ちた存在で、その出自は「作文」と言われて居る。

ここまで読み進めば、ご存知のように紀伊半島随一の大藩・徳川御三家紀州藩はその支配地領域を、古くからの影人達の里領域を重ねて(雑賀)居るか、近接(伊賀)している。

吉宗が奇跡とも言える構造改革を為し得たのは、情報を秘匿して抵抗する既存官僚の不正を次々摘発した側役を務める旧紀州衆の働きが在ったからである。

長期政権化して膿が溜まった徳川幕府を、戦乱を避ける形で浄化する為の陰謀工作を、「影人達が企んだ」とすれば、「見事な成功」と言えるのではないだろうか?

不幸に立ち向かい、苦労して出世に成功する物語に庶民は共感する。

それ故に、一時は城外の家臣の屋敷で育った部屋住みの庶民派から八代将軍に昇り詰めた吉宗には、「自分達庶民の気持ちが判る」と言う期待が在った。

勿論テレビドラマの様に、八代将軍・吉宗には浪人姿で江戸の町を徘徊する事も身分を隠して直接悪人と対峙する事実も無い。

しかし庶民の味方となるヒーロー君主を、何時の時代の庶民も望んでいるから芝居の脚本となり、事実とは別の「大衆が支持する物語」が永く残る事になる。

              了


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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

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ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

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◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

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そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

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歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

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今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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実在の人物を描いた物では無い事をお断り申し上げます。

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作者本名・鈴木峰晴