◆◇◆◇◆◇◆【絶滅危惧品種・日本人】)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
国民の居ない国家は成立たない。
近頃は、「少子高齢化問題」が叫ばれているが、実は、そんな奇麗事で良いのだろうか?
もしかしたら、「日本人と言う品種」は、保護を必要とする【絶滅危惧品種】なのではないだろうか?
戦前の日本社会は子沢山が一般的で、親が余り一人の子に愛情を注げなかったが、それでも子供達は「まとも」に育った。
それに引き換え、戦後の日本社会は少子化で親はタップリ愛情を注げる筈なのに、子供達が「まとも」に育たない。
我輩に言わせれば、その「まとも」に育たない原因は、戦後日本が採用した米国型自由主義化に拠って「群れ社会」から「孤独社会」に悪変してしまったからに違いないのである。
この少子化問題の転機は、昭和三十三年戌年の四月一日「売春防止法」が施行された事に象徴される。
戦後女性が強くなった結果、男性は弱くなった。
それが【絶滅危惧品種・日本人】の言わば生存エリアの縮小(動物で言えば森が無くなる)に繋がった。
昭和二十年の敗戦が、意識改革の引金にはなっているが、日本人のハッキリした精神的転機は昭和三十三年の「売春防止法」ではないだろうか?
この「売春防止法」は、建前上誰が見ても反対出来ない。
「不幸な女性を生み出さない為」と、精神は立派で、その点を取り上げれば立派な良い法律なのだろう。
しかし、世の中「法律で縛る」と、良い事ばかりでは無い。必ず反作用が出て、その悪影響も有る。
当然有るべき本能のはけ口を規制すれば、建前無い事になって売春は闇に潜り、無法の温床となった。
つまり、管理出来ない所に本質が遠退き、闇で従事する女性は返って保護の機会を失い、「危険に晒される結果」となっている。
どうせ違法行為だから年齢制限も無視され、低年齢の少女もその危険に晒される。
当然、性病などの予防も、「建前無い以上」蔓延予防検査の手は及ばない。
人間の本能と実社会には、建前とは「隔たりや矛盾が」ある。
それを全て都合良く「人間性」だけに負いかぶせて、そこから「はみ出ない」と勝手に取り決めた。
当時の「男勝りまたは男性を必要としない精神の理想」に燃えた女性達の運動の成果だ。
この手の女性には生涯未婚、または離婚経験者が極端に多い。
そして、人間の深い性衝動を頭から否定して「思い遣ろう」とはしない単細胞な思考の持ち主で有る。
しかし、現実には立法処置だけで解決できる物ではないし、取締も「いたちごっこ」で有る。
そんな単純な話で解決するなら、人間は人間では無い。あらゆる面で複雑だから人間で有る。
現に取り締まる側も、教え諭すべき職業のものも、不祥事の後は絶たない。
この辺りまで勘案すれば、もう少しキメの細かい立法処置があったはずだ。
つまり、「血の通わない立法」を建前だけで安易にするから、後に禍根を残す。
はけ口の機会を失った若者は暴走し、事件は多発している。
「売春防止法」に限った事ではないが、法律も、立法して五十年経ったら一度検証してみる必要がある。
なぜなら、五十年経てば国を維持する主力世代が入れ替わる。
その法律の影響下で育った国民が、どう言う軌跡を辿り、どう育てられ、どう意識を変えたのか?
適齢期の若い男女は、自分達の「子を為す事」をどう考えているのか?
そして、現在どう「子育て」をしているのか?
某局のテレビを見ていたら、面白いデーターを見せられた。
此れは要因のほんの一部だろうが、SEXレス夫婦の増加が、「少子化の一因に成っているのでは?」と言う問題提議だった。
そのデーターの一部が、「一ヶ月以上性的関係が無い夫婦が三十二パーセントに達する」と言うものであった。
そして、わが国(日本)の全体的な夫婦間の「性交の頻度」は、比較的上位発展国、四十一ヵ国中最下位の「四十一位だった」と言う。
つまり、日本の夫婦は他国に比べ「余りSEXをしていない」と言う事だが、それを、「余りにも、現代の男性が忙しいからではないか?」と、方向違いの見方をしていたようだ。
これは、人間性そのものを否定した発想で、これが本当なら、日本の未来は終わりで有る。
性的興奮や衝動は、純愛の衝動と脳の部分でも考える場所が違う。つまり「性的興奮や衝動を考える部分の脳が未発達になりつつある。」と言う事では無いだろうか?
何故ならば、近頃囁かれる「男性の弱体化」を表しているからだ。
本来男性が向上心を持つ原動力こそ、女性の存在で有る。その基本が奇妙に歪んでしまっては男性は無気力に弱体化して行く。
「男性の弱体化」は、何処から来たのか?
実は、「女性が強くなった事」の裏返しである。
「男性の弱体化」は、「売春防止法」が直接の原因ではないが、当時の女性運動家の単純な思考の発露が、女性達の意識をリードした事は事実である。
なぜなら、彼女達は女性が本来持っている「母性」の役割を否定し、男性社会と同じ構造の中に生きる権利を求めたからだ。
つまり家から出て男性と同じ仕事をし、生活上自立できる収入を得る様に成った。
それで、「もう男には威張らせない。」と、考えたのだ。
余談であるが、この単純な思考の発露は、【絶滅危惧品種・日本人】を保護指定すべき我が国の総理大臣が「良く使う手」だと感じるのは私だけだろうか?
つまり、耳障りが良く、「中身を深く考えない手法。」で民を飛びつかせるテクニックだ。
男性が弱くなった背景には、戦後社会環境の変化で多くの女性が夫を軽視し、父親を「尊敬させよう」とせず、「悪口を言いながら子育てをした」事に始まっている。
曰く、「夫の稼ぎが悪い。出世が遅い。金使いが荒い。etc」
此れでは男の威厳などあった物では無い。
それで、父親の言う事は聞かなくなり、高じて大人の言う事も聞かなくなった。
同時にこの母親の愚痴が、「金儲けだけが価値観」と言う危険な人間を育てる。
母親は夫に不満があっても、子供だけには聞かせるべきではないのだ。
つまり男の子は男性に自信を失い、女の子は男性を信じられず、敬意も持たない。
それだけでは足りず、子供を「自分の味方に付け様」と夫の悪口を言っている位だから、甘やかして育てる。
そんな子供は、社会性に欠ける自分勝手な人間に育つ。
これらは、男女の性意識にも影響を与え、性に自信の無い男性と、性を否定する女性が現れた。
◆【少子化問題と性への嫌悪感】
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これも、【絶滅危惧品種・日本人】の一翼を担っている。
そうした原因を作りながら、都合の良い時だけ「お父さん、あの子をもっと強く叱ってください。」が、この五十年間のお母さん達の子育てだった。
「夫がだらしない、夫が悪いのだから、本当の事を言って何が悪い。」と言われそうだが、「子育て的」には良い事は無い。
そうして育った世代が、現在子育てが終わり、すっかり間違った同権意識が定着した「孫世代」が子育てを始めている。
そして、国家は女性を経済的に自立させる政策をして、結果、女性は益々男性を頼らなくなった。
この女性の経済的自立そのものは、けして全てが悪い事では無いが、それで男性は自信を失った。
◆【男女共同参画と少子化担当大臣のまやかし】
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そして【絶滅危惧品種・日本人】の要因になっている。
日本の政治家(特に自民党)は戦後の経済発展を成果と考え、国民も疑問を挟まない。
確かに豊かな国になった。
しかし、本来の男女の役割を無視して、女性達から子育ての時間を奪ったのだから、その分一時的に国力を着けたのは当たり前の結果で、政治的にはハテナ(?)だ。
誰も指摘しないが、良く考えて見ると、(男女の役割の理想から言うと)夫の稼ぎだけで一家が生活できれば、出産も子育ても心配ない。
自然界の「つがい」にはそれぞれ役割が決まっていて、それが自然な事である。
人間は長いこと男性が「食い物を稼いで」来て、女性が「育児」をしてきた。
それを、両方働かなければ生計が立てられない政治をした。
戦後の昭和三十年年代始めまでは、主婦は家庭を守り、子育てをするのが主流だった。
事情が違うので単純比較は出来ないが、サラリーマンの「一家の生活」は夫の収入でそれなりに賄われていた。
つまり企業は、生活水準さえ違え一家を丸々食べさせていたのだ。
処が、企業は何時の間にか七割負担くらいで済む社会が確立した。
夫の収入で賄われていた給与の比率を壊したのは、実は野党系の女性代議士だった。
働き(稼ぎ)の面で、「女性が男性の付属物扱い見たいで嫌だ。」
これも彼女達は、基本的に「収入だけの価値観」で物を考えている事になる。
本来、家を守り子を育てる事にも大きな価値があるはずだった。
処が、稚拙な価値観を押し通して、自分になじみの無い「育児」などは二の次だった。
子育ての経験に疎い彼女達には、目先の主張はあっても長いスパンの見通しは欠けていた事になる。
この企業負担を軽減させ、労働力確保の為には、女性運動家議員の「単純な思考の発露」を有効利用するのが、政権政党とそれを支える大企業にとって、「持って来い」の事だった。
大半の女性は、女性運動家にも、役人(キャリア官僚)にも、大企業のオーナーにも成れない。
さも女性の為の権利運動の様に見えるが、実質ほんの一握りの「エリート女性」のためだけの論理だったのである。
つまり、女性の大半は騙されて、「パート勤め漬け(非正規雇用)」の現在の境遇にある。
女性運動家議員は無責任にも「こう言う結果になる」と言う予測が出来るほど、深い思考を持ち合わせては居なかったのだ。
どこぞの女性運動家が、女性の権利を声高に言い立てて大学教授や代議士に成っているが、子供も創らずそうした個人の選択の権利を主張して飯の種にして居られるのも、世間が「珍しい生き物」、つまり「少数のわがまま女」としか見ていないからである。
まぁ、何であんなに基本を無視した頭の悪い女が大学教授になるのか、教授任用をしている大学の良識を疑う。
男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。
つまり現在の人間(我々日本人を含む)は、生き物としての自らを否定するほど傲慢に勘違いした存在なのである。
つまり、そのどこぞの女性運動家と同じ生き方の女性ばかりに日本中の女性が成った事を想像(シュミレーション)してみれば、直ぐにその運動家の主張が国家を崩壊させる「稚拙で身勝手な主張である」と直ぐに判る事である。
本来性欲は「子孫を残す」と言う生物本能【性欲本能と人類共生】から始まっていて、伴侶得る事や子供を得て未来につなげる為のもので、その部分を無責任に「個人の責任」として社会が放置して置いて良いものだろうか?
長い事「性」に蓋をして公の合意をして来なかった所に、社会の無責任さが有ったのではないだろうか?
本来、一部の過激な同権運動家を除けば、女性の大半は「幸せな結婚をし、可愛い子を設けて経済的不安なしに育てられれば」それが理想なのである。
それを、うまい事騙されて「産み育てる」と言う母性を取り上げられた。
けして女性を軽く考えている訳ではない。
批判を恐れずに生物学的に言うと、かっては、「夫に貢がせるのが妻の権利」なのだが、日本の戦後政治がそれを赦さなくなった。
近世になって、価値観が変わり、女性が男姓と同じ考え方をし始め、子を為す事より自分の人生を主張しているが、これは国を滅ぼす事になる。
女性の権利の向上が叫ばれて久しいが、男女の権利の平等を言い立てる余り、問題の本質がぶれてしまったような気がする。
遺伝子の事に関して言うと、現代の社会性に合わない為かタブーにし勝ちで、余りにも正しい知識を持たない人間が多い。
性をタブー視するあまり、「子を産んで育てる」と言う種の保存本能自体を抑圧し、為に正しい生命科学的な遺伝子知識まで中々世間に広まらない。
だが、無知は不幸を生み出す事が多い。
勿論、この二千年代に入って、女性の社会進出と伴に不妊原因として顕著に成った卵子の老化(らんしのろうか)も、男女共同参画の美名の下に、結果的に少子化社会を促進させている。
本来なら母体が若い内の妊娠・出産が理想的だが、社会環境は益々結婚の高齢化に向かい、卵子の老化(らんしのろうか)に拠る不妊問題も発生して深刻化している。
また、男性側の精子劣勢遺伝(Y染色体の虚弱精子劣性遺伝)に拠る不妊問題も発生頻度が増え続けている。
これらが、自然の摂理を無視した現代の個人の偏った勝手な論理の下で、「日本人と言う絶滅危惧種」を更に弱体化させては居まいか。
自然界はバランスを取る様に出来ていて、女性が強くなった分だけ男性が弱くなり、両者が同じ価値観で両立するなど、理屈だけの甘い計算通りには行かないものである。
経済にしてもバランスを取る様に出来ていて、共稼ぎが定着すれば、男女の合計が一人前の価(あたい)になってしまうものである。
仕事はするは子育ての負担はあるはでは、若い女性は出産や子育てに「二の足」を踏む。
◆【若者の未来(ニート急増の影に)】
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しかし、現在はそれで良くても、その身勝手な貴女の老後の負担はいったい誰がする?
国民総無責任では【絶滅危惧品種】と呼ばれても仕方があるまい。
そうした事を勘案すると、女性は出産及び子育ての期間を企業に負担させる為、夫の収入(特別支給手当て)を増やさせる運動を野党がすべきである。
一見無茶な要求のようだが、企業の未来存続も日本に人口があっての事である。
それは女性にも、その権利の中には、自由に生きる権利は当然ある。
中に、子供を産まない自由もあるだろう。
だが、個人目線の自由の精神の中にも、生活空間の確保と言う社会的義務が平衡して存在しなければ、それは唯の身勝手な生き方である。
理屈から言うと、子供を産まない自由を選択した女性は、将来他人が苦労して産み育てた子供に、老後の世話を受ける理屈だからである。
子供を産まない自由は、本人の人生の負担から考えると「利巧な生き方」かも知れないが、社会目線では「ずるい生き方」としか言い様が無い。
少子化問題の根底には、将来の国家の存亡が掛っている。
ここで問題なのが、女性が自由に生きる権利は大切ではあるが、子供を産まない自由は、将来の国家像に暗い影を落とす矛盾だからである。
つまり、個人性と社会性のせめぎ合いが、女性の権利をめぐる論議である。
個人の視点では、確かに自由は大切な権利である。
しかし社会の視点では、産めない女性はともかく、本人の「利巧な生き方」の為に子をなさない女性には、首を傾げざるを得ない。
同時に、男性にも女性任せではなく、女性に子供を産で貰い、共に努力して育てる同じ社会的責任と義務が存在する。
いずれにしても、社会全体の思考が個人目線の権利と主張ばかりでは、人間の本質であるはずの「協力して生きる」と言う「社会性」からドンドン離れて行くような気がするが、どうだろうか?
そこで問題になるのが、子を産み育てる為の社会基盤の確立である。
それは、男性の保育協力や保育園、幼稚園、学校と言った一次的なものだけではない。地域社会や、企業支援と言った総合的な環境創りが急務である。
【絶滅危惧品種・日本人】の保護の為に、企業にも企業支援で社会貢献してもらってはどうだろうか?
それとも、現政権のように大企業を税制で優遇し、女性を「パート(非正規雇用)」に駆り立てて、安い労働力を企業に提供した挙句、収入の少ない高齢者から幼児まで公平に「消費税を取る政治が良い」と言うのだろうか?
これは、「悪代官政治」である。
つい百年と少し前の江戸時代まで 、政治を執り行う事を「祭り事」と言った。
本来、わが国の長い歴史において「祭り事」は神事である。
つまり、民の為に「神の代わりを執り行う」と言う精神が政治を「祭り事」と言ったのだ。
「祭り事」の基本がお定め(法律)である。
そのお定め(立法)に、「仏作って魂を入れず」、つまり起こるべき予測があり得ながらフォローせずに放置する為政者が多すぎる。
現代の政治家も、一見見てくれの良い「建前の立法」をするだけで「魂を入れては居ない。」のではないか。
この構図の改革が手つかずで、「少子化」は未来永劫好転しない。
発想を変えないと、【絶滅危惧品種・日本人】の保護は難しいのだ。
それを一部の学者と国営放送(NHK)が組んで、盛んに人口減少時代は「やり様によっては良い国家運営が出来る」と宣伝している。
これは次元の違う話だ。
つまり、現状を容認した上で、「話を逸らそう」と言う「怪かし」の危険な政府宣伝だ。
今一度問う、この十年間で老齢期を向かえる団塊世代は、誰が負担して支える?
五十年後の人口五千万人時代が、やりようによっては「ゆとり生活に成る」などと騙すのが政府官僚の常套手段で、目先の十年は責任を持たない積りだ。
現状では、五十年後に「日本人」と言う固有の人種は存在するのであろうか?
何処かの学者大臣は、「国際化」と考えれば良いのかも知れないが、国家が無い国民は誰が保護するのか?
ここで一度考えて欲しいものがある。
それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈で、大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。
祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。
それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰める事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。
現代にあって「限界集落」と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。
高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。
村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき「夜這い」の習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。
若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。
最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。
これも日本社会が欧米化されて増加した「少子化」の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。
実はこの不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。
この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。
そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。
そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。
人類の男性精子と同じ霊長類のゴリラやオラウータンの雄の精子を顕微鏡に拠る目視で比較すると両者には「量も活動性も極端に違いがある」と言う研究結果が出ている。
顕微鏡目視で明らかに量が多く活発なのはゴリラやオラウータンの雄の精子で、人類の男性精子は明らかに劣っているのだ。
詳細を研究して得た成果に拠ると、男性精子は虚弱化してしまい女性の体内を競争して子宮に辿り着き卵子と結び付くには量も活動性も極端に見劣りしているのである。
これを比較研究して出した結論が、男性精子と同じ霊長類の子孫繁殖に関しての比較結果、人間は「一夫一婦制」が弊害となって子宮側に精子選択の機会が無い為に自然淘汰が機能せず、それが何世代も続いて本来は自然淘汰で振るい落とされるべき虚弱精子の持ち主が子を為して子孫に受け継がれているのである。
対して、ゴリラやオラウータンなどの霊長類は「群れ婚」の為に、実際に生き残る精子は量も活動性も強い精子を持つ親の遺伝子の精子が選択されながら次代に受け継がれて行く。
この先端の研究を大胆に歴史にリンクすると判り易いのだが、例えば歴代の皇統や、江戸幕府・徳川家の場合は男性精子に自然淘汰に拠る繁殖力を求めない環境にあるから、代を重ねると当主の持つ精子は結果的に虚弱化し、お世継ぎに困る事例は数多い。
同じ研究理由から永く続いた「共生村落社会(村社会)」では、永い事「夜這い制度」や「寝宿制度」、「暗闇祭り」などの「群れ婚状態」が続いて、そちらの方の男性精子は強者生き残りの競争が自然淘汰に拠る繁殖力を維持して来た。
実は、原日本人系縄文人(蝦夷族/被征服民)と比較的後期の渡来系(氏族/征服族)との同化二重構造社会が永く維持された日本の「村落社会(村社会)」では、「筆おろし(ふでおろし)と水揚げ(みずあげ)」の様な慣習と「夜這い制度」や「宿親・寝宿制度」などの風俗が村の掟として伝承されていた。
つまり「暗闇祭り」も含め、実質的に「群れ婚状態」の習俗が続いていて、父親に拘らない自然淘汰に拠る子孫繁殖が公然と認められる事に拠って強い繁殖力を維持した男性精子が、保持されて来ていた。
その量も活動性も強力な村落部の男性精子の繁殖力は終戦後の集団就職で「村落社会(村社会)」が崩壊するまで続いて、村落部では八人、十人と子沢山の家庭が普通だった。
これが、「貧乏人の子沢山」の正体だったのである。
近頃の不妊治療技術の発達で、子の為せない夫婦に医学的に子をもたらす技術が成果を挙げているが、その繁殖力の弱い男性精子が次代に引き継がれて、「虚弱精子劣性遺伝加速して行く」と言う一次凌ぎのジレンマを抱えたものなのだ。
何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。
いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。
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