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samurai 【古代日本史】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。

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【冗談の小論】

古代日本史の考察


小説「皇統と鵺の影人」クリックより引用

【古代日本史の考察】

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】謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)【作者略歴紹介
】【政変後の財源の根拠は存在する】



【古代日本史の考察】

古代日本史の考察・目次(ジャンプクリック)
〔序章一話〕 【日本史の始まり
〔本章二話〕 【神話時代を読み解く(天孫降臨伝説)
〔本章三話〕 【飛鳥時代を読み解く
〔本章四話〕 【大化の改新と、以後を読み解く



古代日本史の考察・項目別小論クリックリスト

日本人の祖先は何処から来たのか?
広域倭の国論(定説・日本倭国論の疑惑)
葛城ミステリーと 伊豆の国=伊都国(いとこく)説
古代国家・邪馬台国の卑弥呼は何者か?
天照大神・天の岩戸伝説は只の神話か?
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
世界文化遺産・富士山名称の謂(いわ)れ
天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
神武東遷物語・神話顛末記
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する
大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族
大和(やまと)のまほろば(マホロバ)
山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説
欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)
秋田美人とナニャドヤラ
陰陽師=国家諜報機関説
天狗修験道と犬神・人身御供伝説
賀茂忠行(勘解由小路家)と安倍晴明(土御門家)の謎
日本語のルーツと安倍氏
聖徳太子は実在したか?その疑惑を追う
仁徳天皇(にんとくてんのう)と天皇陵(てんのうりょう)



【古代日本史の考察】本文

日本史の始まり

◇◆◇◆◇◆◇◆序章一話日本史の始まり◇◆◇◆◇

此れを読むにあたって、まず戦前の大日本帝国時代の、歴史観を頭から外して欲しい。

二千数百年の紀元を持つとする日本の歴史の最初から、日本(大和)の国が存在する訳が無い。

国境も、言語も、歴史と伴に変遷するものである。
人種も三千年もの間、同一の訳が無い。

人種も、悠久の時と伴に同化を繰り返して、新しい民族に成っている。

その上で、現在の国境と日本人は存在するのだ。


日本人のブランド好きは、外国人から見ると「滑稽だ」と言われている。

あのみっともないブランド好きは何処からきたのか?

日本の民人(たみびと)は、長い事血のブランドを、価値観として強いられて生きてきた。

これこそが、日本文化そのものである。


日本の歴史は、実は征服者と被征服者の歴史である。

つまり、日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし)だった。

時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、蝦夷(えみし)族の領域だった。

それを、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、支配者になった。

それが邪馬台国や伊都国などの「倭の国々」だった。


彼ら征服部族は、母国の王族・貴族を頭に、部隊を率いて大陸や半島から海洋を越えた。

ちょうど二〜三百年前の南北アメリカ大陸を、ヨーロッパの数カ国が原住民を制圧して切り取ったと同じ事が、二千年前の日本列島で起こった事になる。

その後の物語が 、「神話から始まる日本の歴史」と言う訳である。

つまり、武力に勝る少数部族が支配者となり、その血を維持しながら被征服者の多くの民人(たみびと・村人)から永久に搾取し続けるシステムを構築した。

それが、皇統であり、貴族の血統だった。

それは混血の歴史の中でも、脈々と生きていたが、この血統、枝別れするごとに枝は落とされて、下位の身分になる冷酷なシステムだった。

先住・蝦夷(えみし)の村人は「面従腹背」を強いられながらも、支配者の恐怖を、学習のトラウマとして醸成し、二千年の遠い記憶の中に持ち続けていた。

この制度に関係ない民人(たみびと)が、為政者に都合の良いこの血の価値観を、長い歴史の中で受け入れて居るのは皮肉な事ではある。

支配者の歴史と支配者の文化が、日本の唯一の文化だろうか?


この一章〜三章では、敢えて年号を取り上げない。

なぜなら、主な出来事の名と年号だけ覚えて、「歴史を知って居るかのごとき教育」が、まかり通って居ると思えるからだ。



神話時代を読み解く(天孫降臨伝説)

◇◆◇◆◇◆◇◆本章第二話神話時代を読み解く◇◆◇◆◇

日本の歴史は、大八州(おおやしま・日本列島)の最も西、九州から始まった。

九州、「日向(ひゅうが)の国」は、古来神々のおわす(おられる)国である。

毎年台風に見舞われる以外は、温暖で穏やかな気候の地と言える。

この「日向の国から大和の国の葛城山に降りた」とされるのが、後ほど詳しく著述するが、影人の祖、賀茂社の祭神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)だった。


日向の国は現在の宮崎県である。宮崎県の東部、大分県よりに延岡市がある。

昔は長い間、「県(あがた)の庄」と言う地名だった。

延岡市の中心部を流れる五ヶ瀬川の州にある無鹿の町から川沿いの道を遡ると、「高千穂」に至る。

高千穂町は、天孫降臨伝説の地である。天孫の血筋は、天の一族(あめのいちぞく)である。神話の世界では、天っ神(あまっかみ)とも言う。

そこには、「高千穂峡」と言う見事な峡谷があり、観光地としても全国に知られている。

この地に天空から「天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この世に使わされた」と言われている。

山間の町には、古くから高千穂神社が祭られている。

ご神体は、この世の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)である。

天岩戸(あまのいわと)伝説も、この高千穂の地にあり、岩戸とされる三つの重なり合う巨石をご神体とする天岩戸神社が、祭られている。

高天原(たかまがはら)や、黄泉(よみ)の国も、この高千穂の地に縁の深い伝承と言える。

日向(宮崎県)の国には、高天原(たかまがはら)神社もある。

そこに祭られている薬師寺の分院が、金龍山白蛇殿(こんりゅうさん・はくじゃでん)と言う。

白蛇が本尊で、情念(つまり色恋)や財産に「ご利益が有る」と言われている。

高天原神社は神社でありながら、薬師寺の分院、つまり寺の拝殿も併せ持つ神仏習合(しんぶつ・ならいあわす)の、民衆信仰に根付いた信仰の場である。

この世の最高神「天照大神」は、太陽神であり、宮崎県は昔、日向(ひゅうが)の国(つまり、太陽の地)と言った。水平線上の真東から日が昇る、絶好のロケーションに位置するからである。

そもそもの天岩戸伝説によると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸にこもった原因は、海を支配する弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の度重なる悪行による」とされている。

平穏な世界に災いをもたらす弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)」は、何を暗示しているのか?

我国の国歌にも歌われている「さざれ石」が、日向の国・県の庄(延岡)近くの大間海岸に存在する。日向の国大間海岸から高千穂に至る直線は、東から昇り来る太陽の通り道である。

「須佐之男(スサノオ)の命」が、東方の陸と海の境である大間海岸を、通り道(上陸地点)として、「悪行に及んだ」としても不思議はない。

「須佐之男(スサノオ)の命」は、支配権が海しかない事に不満を持って、「神の仕事をサボタージュしていた」と言うが、自らの権力の及ぶ所を、本拠地にしない訳がない。

従って、海からやって来ては、悪行に及んだ事になる。

ちなみに、「天照大神」と「須佐之男(スサノオ)の命」の間には「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命」と言う夜(闇)を支配する神がいる。

悪神ではないが、暗い夜は昔の人々には恐ろしいので、敬遠されていた。

須佐之男(スサノオ)は、三番目の神なのだ。

つまり三貴神(ウズノミコ)で割りの良い役回りは、天照大神だけである。

この地方一帯「九州、日向(ひゅうが)の国」には、「岩戸神楽」の伝承が今に残っている。天照大神が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力男(あめのたじからお)の命」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この神楽(かぐら)の始まりと聞く。

隙間を開けさせるきっかけになった神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰もあらわなストリップダンス」、と言われている。

この時天照大神を騙すのに使われたのが、三種の神器の一つ「八咫(ヤタ)の鏡」であった。

神様にしては、ずいぶん人間臭い逸話である。

つまり、「天照大神」が気になり、覗き見る程に「観客の神々」を沸かせるには、相応の仕掛けが必要なのだ。

大間辺りのリアス式海岸は、天然の良港であるが、津波などに襲われると、波の高さは、平らな海岸線の、数倍から数十倍に達する。

自然の猛威、つまり「須佐之男(スサノオ)の命」を怒らせると、海辺の民には始末に負えない。

それを諌められるのは、最高神、「天照大神」だけなのだ。

この一連の伝説の裏には、自然の猛威だけでない、隠された歴史があるはずだ。


憶測であるが、多分、少し早く土着した部族(先住民族・天の一族と言う加羅系族)と後から海を渡り来た進入部族(海洋民族・隼人族と言う呉系族)の「対立の構図」を表していると考えられる。

つまり、後続の海洋進入部族が、須佐之男(スサノウ)の一族と位置づけられはしないか?

天の一族の事を、天つ神(あまっかみ)とも言うが、それでは天の一族全てが神に成ってしまう。

その時代は、天(あま)は空と陸を意味していた。従って天の一族は、陸を支配していた。

それに対し、海を支配する民族がいた。詳しくは後述するが、この海の民(海洋民族)の呼び名が、熊襲(くまそ)であり、別名は隼人(はやと)である。

当初、互いは相容れない他民族で在ったのだ。

だからこそ、須佐之男(スサノオ)に海の支配は認めるが、陸の支配は認めない。

第一、天(あめ)の文字や売(め)の文字が付く神が多いなか、弟神の須佐之男(スサノオ)には付いていないのが、他人みたいではないか。

海洋民族(隼人族)が侵入してくれば、先住民(天の一族)の集落で暴れまわる。

そこで先住民族は太陽の神「天照大神」の元に団結して、海洋民族の侵入を防いだ。

その戦いは何百年と続き、「ジワリ、ジワリ」と海洋民族の居留地も増えて行く。

やがて、その既成事実の前に両者は妥協を考える様になる。

何時までも、相争ってばかりは居られないのだ。

長い争いの後、やがて両者は和解に至り、海洋民族も神の子孫と認める為の「宴の席」が、岩戸神楽であるのだろう。

その和解こそが、暗い世が終わり、「平和の陽光が大地に戻った」瞬間である。

この目出たい席に、ストリップダンスが供されたとしても、不思議はない。

海洋民族は弟神・須佐之男(スサノオ)の子孫として認められる事で、先住民の仲間入りしたのではないだろうか。

この時から、海の文字を(あま・あめ)とも読む様に成っ多と考えたら、納得できる。

従って、高千穂及び岩戸の二つの神社は、天の一族と隼人族の和合のシンボルなのではないか。

こうした神話は、血なまぐさい歴史を、復讐を繰り返さない為に、「建前の世界」に閉じ込めた祖先の知恵と言える。


この、日向の国大間海岸の一角は、豊前の国(大分県)の宇佐神宮(宇佐八幡宮)の御神領地であった。

当時、隣の延岡市(県の庄・あがたのしょう)は、鎌倉幕府から地頭職・工藤氏が来るまで、土持(つちもち)氏の領地である。

宇佐神宮は、八幡神の応神(おうじん)天皇を祭る神で、全国の八幡神社、四万社の総元の神様であり、「天照大神を祭る伊勢神宮に次ぐ」と言う相当格式の高い神社である。

応神天皇の母后、神功皇后もここに祭られている。

一説には、神功皇后は架空の人物で、「卑弥呼との兼ね合いで後から創られた」とする話もある

しかし、応神天皇は、宇佐神宮の本殿の中央には鎮座してはいない。

中央におわすのは、あまり一般には知られては居ない、「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」である。

その左右に、応神、神功、の両神は鎮座ましましている。

比売大神については、その道の研究家でも良く解明されてはいないが、応神天皇を横に据えるからには、かなりの大物(尊い)の神様に違いない。

この並び順を、単なる造営順番に起因する「イレギラーだ」とする学者も居るが、日本で一・二を争う最高の神社で、それは安易すぎはしないか?

いずれにしても皇室の扱いを見ると、伊勢神宮と、宇佐神宮は、本来、天一族(あめのいちぞく)の最高神達である。

この宇佐神宮には、古代史から続く日本の歴史を舞台に、謎が幾つもある。

恐らくは、統一王朝の成立に至る幾多の出来事に、それ以後の政権運営に、宇佐神宮が「深く関わっていた」からではないだろうか。

たとえば、七百二十年頃の九州隼人(薩摩隼人)の乱がある。

これは、南九州の部族「隼人族(はやとぞく)」の反乱である。

南九州の部族は、隼人族であるが、別名を熊襲(くまそ)と言う。

今の大隈、薩摩の両半島の辺りで幾度となく起こった反乱であるが、中央政権側の討伐軍(朝廷軍)の大将が、大友旅人(おおとものたびと)である。

朝廷はこの戦にあたり、宇佐神宮に勅使を送り戦勝祈願をしている。これを「勅使参拝」と言う。

八百年代に起きた称徳天皇が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとした事件でも、和気清麻呂(わけのきよまろ)は、近くの伊勢神宮ではなく、わざわざ宇佐神宮のご神託を仰ぎに、遠方の九州まで出向いている。

朝廷の一大事に、アドバイスしたのが、他でも無い宇佐神宮なのだ。「宇佐神宮ご神託事件」である。

つまり朝廷にとって、「比売(ひめ)大神」は、特別な存在らしいのだ。しかしどの記述でも、その存在や由来は明かされる事はない。そこに厳然と鎮座ましますだけである。そして、宇佐神宮、(八幡神社)は、戦いの神であった。

そして八幡神は武の神様で有り、清和源氏の守護神である。つまり源氏は皇統の影人である。

それで思い付いたのが、「変身説」である。或いは、平和の象徴である天照大神の、戦いの時の「変身したお姿」が、比売(ひめ)大神ではなかろうかと、私なりに、大胆に推理して見た。天照大神は太陽信仰の神であり、大地の豊穣を願う農耕民族(天一族)の女神である。

この平和の象徴が、乱暴なスサノオが高天原にやって来た時、男装に着替えて武装して威嚇した。

その御姿こそ、宇佐神宮におわす「比売大神」ではないだろうか。

平和の神・天照大神と争いの神・比売大神が、都合により顔を出す仕掛けだ。

民に平和と幸せを提供するのが、朝廷の役目である。

それで、朝廷としては建前上大っぴらに公表出来ない。だから存在意義を説明できない。

それでなければ、比売大神(ひめのおおみかみ)は永久に謎の存在で、終わってしまう。

皮肉な話しであるが、現代の日本でも「平和憲法の建前」から、軍隊を軍隊と呼べず「自衛隊」と称して居る様に、平和の神に戦闘モードは似合わないからである。

この説の裏付けとして、もう一つエピソードがある。

初代神武天皇が東征に先立ち、宇佐神宮に寄ったと、「紀記」に記されている点からも、第十五代応神天皇が主神では、時代が前後してしまうのだ。

神武天皇が神とあがめるのは、天照大神を置いて他にない。

それ故、比売大神(ひめのおおみかみ)イコール天照大神(あまてらすおおみかみ)と思えるのだ。

三女神(ミハシラのメガミ)説もあるが、時に応じて、朝廷側に平和の神、天照大神と同格の最高の軍神が存在する必要が有ったはずだ。

神話の合理性を思うと、日本の変身の第一に、最高神が在っても良いではないか。

戦国時代、大友宗麟の再婚相手(正妻)に選ばれたのが、奈多八幡宮の大宮司、奈多鑑基(なたあきもと)氏の娘である。

宗麟、二十五歳くらいの時の事だ。

奈多鑑基(なたあきもと)は、宮司ではあるが、武士にも成っていて、娘の奈多を宗麟に嫁がせた事で、大友家の重臣として勢力をなしていた。

奈多八幡宮は、「宇佐別宮」とも言われる宇佐神宮の摂社(せっしゃ)の別格である。

宇佐神宮に新しく朝廷から「御神宝」が寄進されると、前の御神宝は、「奈多八幡宮に納めなおされる」と言う、ほとんど宇佐神宮と同格に近い宮である。

そうした扱いをされている以上、いずれにしても宇佐神宮は朝廷の重要な位置にある。

卑弥呼(比売の命)が、日向の地で決戦に破れ、高千穂の天岩戸で手打ちを行い、誓約(うけい)を持って、心身ともに和合する事で「両者統一に向かった」とするなら、ドラマチックではないか。

異民族の王同士の結婚、これは民族の和解を意味し、双方が滅びないで済む。

究極の和解であり、民族同化の象徴である。

それが、敗戦故の譲歩なら、「心ならずも」と言える。


今ひとつ、宇佐神宮の謎解きが有る。

伊勢の国(三重県)と日向の国(宮崎県)の地理的な共通性である。

言うまでもなく、伊勢の国には「伊勢神宮」がある。

伊勢神宮には大和民族の最高神、「天照大神」が鎮座している。

推測するに、天の一族の発祥の地もまた「日向の大地」だったのではあるまいか。

真東の海の向こうから太陽の上る地「日向」、この地理的条件を満たす所で、畿内の大和朝廷に近い所が、伊勢の国である。

初期の朝廷の所在地と思われる筑紫平野と、日向の位置関係は、そっくり大和、伊勢に移し変えられるのだ。

伊勢神宮が伊勢に鎮座ましますのは、けして偶然ではない。

天照大神の鎮座するに最高のロケーションは、故郷の日向に似た所でなければ成らなかったのだ。

こうした解説を踏まえて、方位のしっかりした日本地図を見ると、誰でもすぐ判る。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「卑弥呼」と言う女王がいた。

治める国は、邪馬台国である。その地が何処に在つたか、未だに学者達は論争の最中である。

他国(中国)の皇帝が、倭国と認め、倭王と認め、金印まで送った事実がある。

神話は現実に有った事に、後々の為に政治的な重みを着ける目的がある。

だとするなら、卑弥呼は天照大神と同一人物であり、邪馬台国が高天原で有ったなら、話は合理的だ。

それ故、変身後の戦の神、比売大神(ひめのおおみかみ)の名が、卑弥呼(ひみこ)と音が似ている事も、説明が付く。

畿内に大和朝廷が成立する前、高天原(邪馬台国)は、九州日向の国に存在した。

そして、天の岩戸での手打ちの後、筑紫平野に遷都して、都と宇佐神宮を造営する。

それらの歴史が、神代の時代を形成していて、少しずつ勢力を伸ばしていく。

記述によると、天の一族は、隼人族と手打ちを行い、天照とスサノオの間で誓約(うけい)がなされ、「天忍穂耳(あまのおしほみ)の命が生まれた。」とある。

この、誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、スサノオの相手は、卑弥呼の宗女、壱与(いよ)が有力である。

卑弥呼の死後、邪馬台国の混乱を沈めたのは、「壱与だ」と伝承されている。

この時、女王・壱与(いよ)は、僅か十三歳とされる。

壱与と言う名前からして、ずばり「始めに与えた」と読むのは強引過ぎるかもしれないが、読めなくもない。

その誓約(うけい)で生まれた天忍穂耳(あまのおしほみ)の命の子供が、可愛(えの)岳にご陵墓が在ると言われるニニギ(当用漢字がないのでカナ書き)の命である。

やがて、天の一族・隼人族連合は、西日本統一国家としての大和朝廷に至り、西の端九州から、中央の地「畿内」を本拠地と定めた時、初代天皇、神武天皇が即位する。

記述によると、即位に当って神武天皇は九州の「筑紫」の地をたち、「安芸」から「吉備」を経て「大和」に、入ったとある。

「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。

このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、私は考えている。

何故なら、通常使用するに大和の文字は、ダイワとしか読めない。

ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて、初めて「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。

古事記には、大国主の命(おおくにぬしのみこと)別名大黒様が、「葦原中国(出雲の国・島根県)を中心に治めていた」とある。

大変な善政で「民も喜び、国も栄えた」とある。

その後、天照大神に「出来上がった国を譲った。」とある。

平和に「国譲り(くにゆずり)が行われた」と記述にはあるが、事実関係は、判らない。

真実の処、殺されて乗っ取られたのか、或るいは納得して譲る事の出来る相手だったのかは謎である。

この「大国主の命」の治める「葦原の中国」は「中津国」とも呼ばれ、中津の意味を天上の「高天原」と、地下の「黄泉の国」の間に位置する故に、「中国(なかくに)」或いは「中津国(中つ国)」と成った、所謂「地上界を指す」とされる説がある。

それであれば、大国主は地上界の覇者で、少なくとも「古代日本列島の半分近くを統一した大王で在った」と言う事に成る。


出雲神社は、その大国主の命(おおくにぬしのみこと)が祭られている。

現在に至る今日まで、その大国主を祖先とする末裔が神主として祭司を司っている。

この出雲神社の拝礼作法は、他の神社と違い、「二礼、四拍手、一礼」と成っているが、これが、宇佐神宮と同じであり、全国に二ヶ所しかこの作法はない為、大きな「謎」である。

出雲の国(島根県)の西隣、長州(山口県)の日本海側に、ずばり、阿武郡「須佐町」はある。

「須佐王所縁の地」と考えられる。

須佐町から東へ、つまり出雲方向へ戻ると、島根県簸川郡佐田町に出る。

そこには、須佐之男(スサノオ)、或いは須佐王(?)を祭る小社、須佐神社がある。

須佐之男の命の御霊(みたま)を祭る神社は、「他にはない」と言われている。

実は、紀州熊野に格上の大社・須佐の男神社がある。

しかしこれも、宇佐神宮から伊勢神宮の様に、後に佐田から熊野に移し、「格上げ造営された」と考えたい。

須佐、佐田、いずれの町も日本海側(山陰地方)の対馬海流(黒潮)の流れ沿いにある。

この海流で、この地方は冬も比較的温暖だと言う。

言わば、海洋民族が上陸し住み着くに「不自然さ」はない。

これらの町や神社は、地理的条件からすると、葦原中国(出雲の国)、或いは大国主の命(おおくにぬしのみこと)の伝承と、同じ地域に当たる。

佐田町の直ぐ東隣は出雲市である。

須佐神社は、ほとんど出雲大社とは同じ地域の立地で、須佐王と大国主の関連性に確信がもてる。

大国主の葦原中国が、須佐王(スサノオ)伝承に繋がりが有っても良さそうだ。

葦原中国(出雲の国)の最大の勢力範囲は、「山陰、北陸、越、信濃に及んだ」とある。正に、古代の大国である。

その日本海沿岸を主力地盤とする大国は、黒潮海流の流れと符合する。

つまり、出雲の国に須佐族(隼人族)が居た事に成る。

もしかすると、大国主と、須佐王の両者は同族か?

それであれば、辻褄が合う。

一説には、須佐王の六代目が、大国主の命と言う記述もある。

隠された神話の歴史の中に、「国譲り」の真実があるのかも知しれない。

この国譲りで、九州から畿内までの西日本は、ほぼ統一された。

大胆に推測すると、大国主が平和裏に国を譲ったのが本当なら、須佐王または須佐王の血族関係が、大きな役割りを果たしたのではないだろうか。

後の大和朝廷の有力氏族(王家)に、和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)、安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)と言った名が連なっている。

この頃は、和邇(わに)氏が最有力の氏族である。

この和邇氏を指すような伝説がある。

ワニ(クロコダイル)は、本来日本に馴染まない為、伝説に成るのが不思議だが、有名な伝承が存在する。

葦原中国時代の出雲伝説には、ワニ(和邇)を「ずる賢く」騙した白兎(しろうさぎ)が、ワニに逆襲され、大怪我をした事から、「大国主の命が、白兎を助ける物語」を描くものがある。

この一致は、氏族間の争いを描いた「独特な歴史の表現」なのか、それとも何らかの「政治的狙い」が有ったのか?

この伝承、ワニでは不自然なのでサメに姿を変えて現在に伝わっている。

この因幡(いなば)の白兎伝説のうさぎ・・「宇佐岐(うさぎ)」と言う名の「百済系弱小氏族」に行き当たる。

宇佐島の神の名も「宇佐岐(うさぎ)」であり、前述した宇佐神宮と出雲神社の礼拝様式の共通性は、ここら辺りに有るかも知れない。

宇佐神宮が、限りなく神社の最高位に近い神社である事の意味に、関わりが在りそうで有る。

この日本史上有名な人物である「大国主の命」は、実は単数の人名でなく「職名(地位名)だ」とする歴史家の意見も存在する。

つまり、王の中の王を意味し、葦原中国(出雲の国)統一大王を呼ぶ名であれば、地上界を中国(なかくに)または中津国(なかつくに)とするのもう頷ける。

そうなると、大国主は何人居ても不思議ではない。

宇佐岐(ウサギ)氏が、実は大国主に出世し、宇佐神宮を造営したり、須佐族の王が、大国主を名乗っても良い事になる。

こうした発想を基に、断片的な状況を判断して行くと、古文書・伝承の中に、解き明かす手掛かりが、浮かんで来るのである。

宇佐神宮の宮司を勤める宇佐氏は、その地の土豪として永く栄えた家柄だが、宇佐岐(ウサギ)氏との関わりが濃厚である。

ここで浮かぶ疑問は、宇佐と須佐である。

この二つ、もしかすると「同一ではないのか」と言う疑問である。

或いは宇佐王が、神話の世界で三番目の神になる時、実際の宇佐では都合が悪いので「須佐王とした。」とも考えられ、中国式に、「是宇佐(うさです)」を発音すると「シーウサ」であるが、巻き舌音では「スゥウサ」に聞こえるのだ。

須佐王にも、宇佐神宮にも、宇佐岐氏にも共通するのが、須佐の「佐」である。

この「佐」に注目した。

人の左と書く。

官位に、武士が衛府に任官(督・佐・尉の三官)する官位、佐衛門之尉(さえもんのじょう)左兵衛佐(さひょうえさ)などと言うのが有る。

旧日本軍では、佐官、尉官が有る。

これも元々は大和朝廷の官位から来ている。

昔(明治の末まで)、人が横に並ぶ時「左側が、上席」と定められていた。

皇室でも、大正天皇の即位の礼の祭に、西洋式に合わせる以前は、両陛下が並ばれた時の、天皇の立ち位置は、皇后の左であった。

昔の官位に置ける大臣でも、左大臣、右大臣では左大臣の方が上席である。

左を上席とする証拠で、最有力なものは、神話にある、三貴神(うずのみこ)の生まれ方の事ある。

イザナギの神がみそぎをして、その左目より「天照大神」右目より「月読命」、鼻より「須佐之男命」の順と言う事に成っている。

この場合も、最高位の「天照大神」は、正しく「左」目からである。

須佐王の「佐」は、当時相当な位を意味していたのかも知しれない。

何しろ、人間より左なのだから。

或いは反対に、須佐之男(須佐王)に佐の字が付いていたから「左が上席」と成ったのか、しかしこれは、考え難い。

誓約(うけい)には、建前と本音があった。

本来の目的は、民族、部族の同化である。

故に、純粋血脈の存在は認め難い。

須佐王が壱与比売(いよひめ)を狙わなければ、須佐王と卑弥呼は睦まじき夫婦でいられた。

しかし、須佐王には壱与の貞操を狙う必要が有った。

筆者の推測では、壱与比売は月読の命(つきよみのみこと)である。

同一人物だが、その運命「始めに与えた」より、「壱与比売(いよひめ)」と呼ばれた。一族の祖は大陸より来たりて朝鮮の任那(みまな)を経り、壱岐島に渡り、日向に国を興す。

月読神社は壱岐島に有る。

隼人と天(あめ)一族の王の血が混じ合わねば、後に禍根を残す事になる。

放って置いて、壱与比売(いよひめ)に「紛れなき天の血筋」の皇子(みこ)生まれるは、争いの元となる。

天一族の全ての王の血に、隼人の血を注ぐのが須佐之男(スサノオ)の謀り事だったのだ。
卑弥呼亡き後、邪馬台国に立った謎の男王とは須佐王の事だった。

須佐之男(須佐王)は王位を壱与に譲り、自分は芦原中国(あしはらなかつくに)を興し、後に、その子「大国主(おおくにぬし)」が、須佐王と壱与との皇子に葦原中国を譲り、国がひとつになる。

神話の伝承によると、須佐之男(スサノオ)には、八人の子が居る事に成っている。

男神は五人で、八尺勾玉(やさかのまがたま)から生まれ出でた。

女神は三人で、十拳剣(とつかのつるぎ)から生まれ出た。

男神のうち、天忍穂耳(あめのおしほみ)の命は、どうやら比売の命の皇子(みこ)の様である。

あとは、壱与比売との子なのか。

為政者を神格化する為に神話が作られ、何処までが真実で、どこまでが創作なのか、謎だらけである。

その子供達は、それぞれに神社を設けられ、鎮座している。

いわく、男神は天之忍穂耳神(あめのおしほみのかみ)、熊野大神(くまのおおみかみ)、天穂日神(あめのほひほのかみ)などその他二人であり、女神は、三人を総称して宗像之神(むなかたのかみ)と言う。

須佐之男(須佐王)の皇子の神々の神社が、広範囲に渡っているのは、それぞれの土地を治める為の布石と思われる。

須佐之男に此れだけ子がいるのに、天照大神の子とされる記述は、古事記にも日本書紀にも無い。

これは古代王(朝廷)の血の系統が、須佐王の方に移ってしまった事を意味しているのではないのか?

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

大八島(日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。

統一、或いは民族和合の為、誓約(うけい)をなしたる後、天一族の民心安んじる為にも、名誉は卑弥呼(天照大神)と壱与(月読命)に与え、「自らは三番目に成った」としたら、隼人族の須佐王は、中々の政治家である。

卑弥呼の抹殺に伴い、男系男子の天皇制を須佐王が成立させるに対し、卑弥呼は天照大神に祭り上げられたのである。

農耕民族(天一族・加羅系)の発祥の地は、遠く中国大陸南部、雲南省と言われている。

雲南省の人々の稲作文化、それにまつわる風習、伝承等、上げれば限がないほど、日本のそれぞれに共通するものが多い。

それが、長い歳月をかけて北上し、中国各地に足跡を残しながら、朝鮮半島を南下、対馬を経て日本列島の山陰地方と九州北部に上陸、集落を築いて行ったのだ。

雲南省の家族体系は、昔から女系であり、家は女性が継ぎ、男性の夫は生家から通ってくる。

天一族が女王をいただくのが、当たり前ではないか。

その天一族も、朝鮮半島に至るまでに農耕民族(加羅族)として文明を蓄えてから、列島に渡って来た様だ。

それに対して、海洋民族(隼人族・呉族系)の発祥は、特定がむずかしい。

インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどの南方の島々の原住民族が、「黒潮に乗って島伝いに北上してきた」とする説が有力で、それが九州南部に、早い時期に上陸したのだろうか。

一方で、隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国を作り、文明を携えて日本列島に渡来してきた者達もいる。

今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。

この二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。

この争いの期間が、神代の時代だったのだ。

この時代に、現代では存在さえ定かではない謎の言語「ホマツ・ツタエ」が有ったらしいが、それが呉(ゴ)族の言語なのか、加羅(カラ)族の言語なのか、はたまた蝦夷(エミシ)族の言語だったかは、定かでない。

日本の神話時代は、日向(宮崎県)の国から始まっている。

侵略部族(王家)の集合体、大和朝廷の創作である。

勿論、神話の創生時代でも日本列島の西半分は、既にその勢力圏に在ったが、東に日が上る日向海岸が、国の始まりにふさわしいからである。

後の大和朝廷が編纂した古文書群には、その時代の権力者の意図が繁栄されており、額面のまま素直に受け取るには、難が有るのだ。

例えば、日本書紀などの歴史書は、反面おいて、都合の悪い事を抹殺する目的を持っていた。

明らかに、葛城氏、物部氏、出雲系、吉備系、蝦夷(えみし)族は、意図的に抹殺されたのである。

そうした「疑わしき古文書」の何を取り上げるかが、これからの研究者に掛かって来るのだ。

しかし現実に神社などを、その神話の裏付けに成る様に、見事に作り上げられている。

そして、侵略部族の長(王)は、それぞれが神になった。創作を現実のものとして立体化するほど、熱心に作り上げたのだ。

そこには民をまとめ、操る意図が在ったからに違いない。



飛鳥時代を読み解く

◇◆◇◆◇◆◇◆本章第三話飛鳥時代を読み解く◇◆◇◆◇

中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。

この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。

中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。

前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。

また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(託す)」と読める。

自分達を中心に考えた中華思想と言う中国独自の思想を基本にした表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。

だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。

この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。

つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。


この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。

多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。

歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を同列に分けて、それぞれ別の国と考えている今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。

この間違った考えから、倭の国=大和の国を導くと、後の説明がまるで付かない。


日本の歴史の端緒は、実は征服者と被征服者の歴史である。

つまり、日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし)だった。

時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、蝦夷(えみし)族の領域だった。

列島西側の蝦夷(えみし)族については、歴史が抹殺されたのか文字を持たなかった為か、文献は残っていない。

それを、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側(九州・中国・四国地方)から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、国々の支配者になった。

それが邪馬台国や伊都国などの「倭の国々」だった。

彼ら征服部族は、母国の王族を頭に、部隊を率いて大陸や半島から海洋を越えた。

ちょうど二〜三百年前の南北アメリカ大陸を、ヨーロッパの数カ国が原住民を制圧して切り取ったと同じ事が、二千年前の日本列島で起こった事になる。

その後の物語が、「神話から始まる日本の歴史」と言う訳である。

時代的には、まだ統一国家のできる以前の神話の時代で、「日本書紀や古事記、神武東遷物語」に出て来る様な小国が、多数並立していた。

その範図も、今の常識を覆す範囲で、ある時期は朝鮮半島のほぼ全域に及び、「朝鮮半島から現在の日本の西半分」に掛けて、多くの小国が存在していた。

中国側の記録によると、この小国群のうち三十カ国余りの国が「遣使」を送り、所謂「貢物」を献上している事に成っている。

「遣使」については、貢物(みつぎもの)以外に定期貿易の側面もあった。

その小国群の総称が、「倭(わ)国」である。


中国の「中華思想」には、それなりの歴史的事実がある。

四千年に及ぶ歴史の重みで、亜細亜で是にかなう国は、日本を含めて無い。

極東亜細亜特有の歴史の事実で、単純な民族感情でないがしろには出来ない。

神代それは、多分に建前の部分(形式的)ではあるが、或る種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、当時無くてはなら無いものだった。

それが、冊封(さくふう)朝貢(ちようけん)の制度である。

すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国)をとる事で、或る種の形式が成立していたのだ。

つまり、その小国を認定する役目を、中国は負っていたのである。

冊封(さくふう)は、近隣の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらうことで、「権力の裏付け」とする利便性があった。

所謂「肩書」きで、「漢の那の国王」の金印は、その証である。

朝貢(ちようけん)は、臣下の礼(属国の王)としての貢物(みつぎもの)の献上を意味するが、実態は帰りの土産(下げ渡し品)の方が多い「形式的なも」のだった。

それでも、「多数の属国を従える中華思想」は中国の民を、充分満足し得たのである。

朝鮮半島の付け根に、鴨緑江(日本読み・オウリョクコウ)と言う河が有り、現在も中・朝の国境と成っている。

中国側から見ると、河の対岸は「倭の国」である。

従って、中国古書で言う所の倭人(わじん)は、現在の形に落ち着いた日本人の事ではない。

当時の朝鮮半島の大部分の住民も、「ひと括(くく)り」の仲間なのだ。

しかし、当時の中国でも倭(わ)国は「小さな国家の集合体」である事は充分に認識していた。

この「広域倭の国論」に付いて、日本国内で様々な異論・抵抗があるが、ほとんどが心情的な動機で、半島の人々との「人種的切り放し」を欲しているのが実情である。

しかしながら、「広域倭の国論を翻す証拠」は見当たらない。

彼らの心情では、何としても「倭の国=大和の国」としたいのだろうが、それであればこれから検証する飛鳥時代の様々な出来事について、説明が出来ない。

江戸時代後期に、九州の博多湾にある志賀島から出土した金印には、「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)印」と掘り込まれている。

漢が認める、倭(わ)の奴国(なこく)王の印なのだ。

これは、奴国(なこく)が倭(わ)の中の国である事を指している。

「魏志倭人伝」の中で、邪馬台国が、女王「卑弥呼」の治める国とする記述がある。

邪馬台国が「倭人の国の一部」であるから、倭人伝なのである。

なるほど此処まででは、半島の事は関わらない。

日本列島側に小国が点在しただけの証明である。

しかし、この事はどうだろう。

伊豆の国(静岡県)修善寺の大野辺りに小さな神社がある。

名を「倭文神社」と言う。

読み方は、倭文と書いて「シズオリ」と読むのが正らしい。

それが、日本全国に分布する機織(はたおり)の神様に成った。

その後、土地それぞれになまって、しずり神社、しどり神社、しとり神社、などと読ませる。

この倭文(しずおり)の意味は、「延喜式内社」として我が国の神社に加えられた「朝鮮半島系渡来文化」の織り布(イラクサ染め)の呼び名を「倭文」と呼び、それを祭っている。

これは、海洋系民族(呉族)の技法による新羅、任那辺りからの職布が、「倭文」であり、日本列島固有の物では無い。

また言語的にも、最近の研究で、倭人の言語は倭国内の多くの小国の共通語で、その源は朝鮮半島の付け根、鴨緑江流域周辺にあったとされている。

織物もその後の変遷で変化するが、初期の「イラクサ染め」こそが、倭文(シズオリ)の原型なのだ。

つまり、日本列島の住民が、半島から来た物を「倭文(しずおり)」と呼んだ。

これこそ、朝鮮半島全体が「倭の国」だった事を表わしている。

倭国が「日本の西半分まで」と言ったが、それではその頃の東半分はどう成っていたかと言うと、蝦夷(エミシ)の領域であった。

つまり、倭国以前から原住する日本列島固有の原住民族がいた。

日本史の中で、意図的に抹殺された蝦夷(エミシ)の存在である。

古代史の時代に遡ると、日本列島には一万年以上前の「縄文文化」の以前からの原住民族がいた。

これも遺伝学的に言うと、単一では無かったらしい。

そこへ、大陸から別の種族が移動して来る。

やがて、原住民と古い渡来人が同化、縄文文化が始まる。

大陸からの列島渡来は恒常的に続いていて、徐々に進歩した文化がその都度もたらされていた。

倭人が侵入してくる頃には、同化してひと括(くく)りに蝦夷(エミシ)族と成っていた。

そして、何時の頃からか稲作も始まっていた。

蝦夷は、恐らくは古い時期の大陸からの「稲作・渡来民族と縄文人の同化民族」であったと推測できる。

縄文の遺跡物の出土に穀物や籾が多い事から、原住民族はその歴史の中で、稲作文化を中心に独特の文明を築いて来たはずだ。

発掘すると、「そこら中」から、その痕跡は見つかる。

日本列島の相当広い範囲に、縄文人の末裔(蝦夷)は、営みを続けて来たのだ。

しかし、大和朝廷の記述には、蝦夷(エミシ)は文化が遅れた、農耕を知らない「狩猟民族」と、事実以上に「原始的」に記述されている。

つまり倭人が先住民族を押しのけ、列島を占拠する為には、蝦夷は限りなく原始的である必要があった。

それで、稲作は「弥生時代に入ってからだ」と、無理な事を、長い事言われ続けて来た。

長い歳月をかけて伝わった文化・文明を、簡単な線引きで時代の区分けが出来るはずがない。

それでは農耕文化の縄文人は、日本列島に居なかった事になる。

もっともこれを認めては、「天孫降臨の伝説」は成立たない。

だから、都合よく捻じ曲げられた。

蝦夷(エミシ)族の生活圏は、恐らく部族集落単位で、北アメリカの大陸のインデアンの様に国の体は成さなかったかも知れないが、集落分布的なその支配地が、何処から何処の範囲に及んだかは、不明である。

或る時期(およそ三千年前)から、後発で渡来した「文化の進んだ、文字と加工し易い銅器や鉄を持つ農耕民族」が朝鮮半島経由で島伝いに日本列島に侵入してくる。

銅器や鉄は、文明の「利器」であり、征服の「武器」であった。

それら進入部族の総称が、倭人(わじん)である。

海側からも、中国福建省の海岸辺りから黒潮に乗って丸木舟や筏(いかだ)の様なもので、海洋民族が侵入して来る。

それら進入部族は、日本列島の思い思いの地に幾つもの集落を作り、小さな国に発展させ、それが合掌連合、武力吸収で一緒になって、少しずつ大きな国になって行った。

その両者の勢いに押されて、少しずつ日本列島の東部(関東)・東北部(奥州)側に追い詰められたのが、蝦夷(エミシ)と呼ばれた先住民族である。

西部側(西日本)に蝦夷(エミシ)の痕跡が少ないのは、或いは早い時期に後発の進入農耕民族と同化し、「痕跡が残らなかった」のかも知れない。

処が時代が進むと、日本列島の西側で、後発農耕民族と海洋民族が、同化してしまい大和朝廷なる「強力な国家」を成立させてしまう。

その過程が、「天孫降臨の神話の世界」である。言い換えれば、少しロマンは失うが「任那(みまな)の地こそ天孫の住む高天原」と言う事に成る。

一方的に大和朝廷側から見ると、まだ朝廷に服従してはいない東側の野蛮な「民族」が蝦夷(エミシ)と言う事に成る。

この蝦(夷)を武力で屈服させ、朝廷に服従させる為の軍の総司令官が、征(夷)大将軍である。

これは当時の現実としては、「他民族」に仕掛けた「侵略軍」以外の何物でも無い。

この後出てくる鎮守府将軍なる役名も、当初は、今で言えば「占領地区、軍司令官」で在ったのだ。

大和朝廷は隼人族(海洋民族)と大陸からの渡来民族(農耕民族)との混血が進んだ同化部族の支配者である。

初期の大和朝廷の有力氏族に、和邇(わに)葛城(かつらぎ)大伴(おおとも)物部(もののべ)安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)蘇我(そが)と言った名が連なっている。


この有力王(氏族)には、それぞれに祖国があった。

朝鮮半島の国々、百済、新羅、任那、高句麗などである。

この、後発の進入侵略部族は、やがて一つに組織をまとめ、同化して行く。有力氏族が結んで大和朝廷が成立、初代神武天皇が即位する。

九州、四国、中国、畿内、北陸、中部の各地を手中に収めると都を大和の国に定め、いよいよ関東・東北地方の平定に乗り出す。

当初蝦夷(エミシ)は、言語がまったく違う為「通訳が必要であった」と言うくらい渡来部族に取っては異民族であった。

まだ日本列島の東側半分が、支配地外だった大和朝廷は、やがて蝦夷(エミシ)の住む土地の侵略を始める。

奈良時代の末期、初代征夷大将軍に任じられたのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)で在った。

この最初の討伐先は東海道地域(今の静岡・神奈川・山梨など)で、後に大伴の後を継ぎ征夷大将軍になる坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が副史として同行している。

この二人の働きで蝦夷(エミシ)は、少しずつ北に追いやられ、最後には東北の地で支配下に置かれる。

つまり、隷属したのだ。

当初は、「俘囚(ふしゅう)」なる言葉で、後の「米国のインデアン居留地よろしく」、管理されていた。

人間やる事は、似た様名ものである。

一部は蝦夷(えぞ・字は同じ)、今の北海道に逃れ、アイヌと名乗る人達に成った。

平安時代初期、この一連の武力行動及び占領地運営の成果で、軍を掌握した坂上田村麻呂は、中央で出世を重ねて行く。


戦いに勝ったやつが、「えらい」のだ。

亡くなる頃には従二位大納言、右近衛大将、征夷大将軍などの官位を得、娘の春子を桓武天皇(第五十代)の后(きさき)として入内(にゅうだい・朝廷に輿入れする)させている。

坂上田村麻呂は、亡くなると追記で、桓武天皇から正二位を贈られる出世を果たし、征夷大将軍が、軍と政治を「一人」で握る、後世のモデルケースに成って行く。

図式としては、文明の遅れた未開の地に、異民族が侵入して成立した国が、大和朝廷と言う事に成る。

そこで問題なのは、「任那(みまな)」、或いは「任那日本府」なる日本領が、かつて朝鮮半島に「存在した、しない」の論争である。

筆者の結論は簡単である。

朝鮮半島には「日本領」は無かった。

ただし、今の日本と言う「括(くく)り」ではない倭人(わじん)の国々は、朝鮮半島から日本列島西部にかけて存在した。

勿論、朝鮮人(韓国人)や、その国家も、その時はまだ存在はしない。

「倭(わ)の人々」が居たのである。

倭人の小国同士は互いに王をいただき、領土や利権を賭けて争いもしたが、倭人同士、広い意味で同胞の意識もあった。

だから、文化的交流や物資、人々の交流は盛んに行われていた。

倭(わ)の国が今で言う「同一民族による連邦国家の要素があった」としないと、その後の「日本の大和朝廷にまつわる歴史的出来事」に、説明が出来難いのだ。

つまり倭(わ)国内は、人々の意識の中では同胞で在ったから、婚姻関係や役人登用などの交流に抵抗が無かった。

その上で、神話時代から飛鳥時代の日本史は成立っている。

大和朝廷成立後、朝廷の重臣、或いは大豪族、天皇家自身の身内に朝鮮半島出身者や、半島出身の王族の存在が或る事の「不自然さ」は、倭(わ)国の「存在形態が今の常識とは違う、特殊なものであった」事が認められれば、すべて納得できるのだ。

任那(みまな)と言う小国は、朝鮮半島の南端に確かに存在した。

その任那(みまな)の中も、色々な部族がそれぞれに並立して一定の領地を確保、同族グループの単位を作っていた。

その頃、倭(わ)の国々で、任那以外に朝鮮半島に在ったのは比較的大きな「百済(くだら)」と「新羅(しらぎ)」である。

実は任那と百済は同じ「加羅族系の国」で、太い絆があった。

そして、新羅は「呉族系の国」である。

それに、満州の地で起こった「高句麗(こうくり)が南下して来きて、半島の北の国に成った。

韓国の済州(チュジュ・さいしゅう)島や、今は日本領内に成っている対馬、壱岐島なども倭(わ)国の一部の国々と成っていた。

伊都国(いとこく)と言うのも有名だが、その位置については諸説ある。

魏志倭人伝の「魏の国」は三国志時代「呉の国」の北側にあったが、倭の国を書く時、途中まで朝鮮半島を経由する「陸路」を書くと決め付けてはいけない。

当時は陸路より「海路」の方が食料や交易品を運ぶには、遥かに多い量を運べる事実がある。

大量の物資をかかえて未開の遠距離を移動するのに、陸路では困難が伴う。

当時の魏の首都は洛陽(らくよう・日本読み)であり、大陸深くにある。

洛陽から黄河を下り、渤海(ぼっかい)湾に至り、海岸線沿いに海路朝鮮半島または九州に至る。

または陸路徐州(じょしゅう)に向かいその港から、海路「黄海」に出て、「倭の国を目指す」と読み始めないと、その旅の行程や「国々の位置」が違うものになる。

倭の国が「現在の国境そのままである」と言う発想をかたくなに、倭人伝を読み解こうとするのは「出発点」が最初から違っているかも知れない。

倭の国は、魏志倭人伝に拠ると、その数百余り、「使い(朝見)のやり取りが出来ている国が三十余りに上る」と記載があって、数が多い。

そうした国々は、国同士の争いがあると、どちらかに付いて共同で(連合して)争いに立ち向かった。

その過程の中で、援軍を派遣したり駐留したりで、それぞれの国の中に他国の軍事勢力が居ついてしまい、そのリーダーが、やがてその国の要職に付く様に成る。

また、連合が統一国家に成ったり、争いの相手国を併合したりで、小国家は次第に大きな単位に成って行った。

この小国家の並立の痕跡が、後の日本列島の地域呼称が、国家でもないのに「**の国」と呼ぶ習慣に残って、維新の廃藩置県で呼称が県(けん)に変わるまで続いた。

九州の北側、比較的朝鮮半島に近い国は、任那(みまな)の王族が渡来して打ち立てた「奴国(なこく)」であった。

この奴国(なこく)が、九州南部や四国などで海洋渡来民族の隼人(はやと)族と結び「狗奴国(くなくに)」を建てた。

卑弥呼・邪馬台国の時代、九州南部から四国にかけて、狗奴国(くなくに)と言う一大勢力が存在したのは、確かである。

隣の大国、中国の書「魏志倭人伝」によると、狗奴国(くなくに)は男王の国だったと言う。

わざわざ、「女王国に属さない」と、記述してある。

この狗奴国(くなくに)こそ、その地理的条件から隼人族の国だったのではないのだろうか。

神武東遷(じんむとうせん)物語によると、当初「奴(な)国」であった人々が、邪馬台国に追われて南に逃れ、狗奴国(くなくに)を創った。

奴(な)国は、当初北九州に在ったと思われる。

南に逃れた奴国(なこく)の人々が、狗奴国(くなくに)を興し、やがて勢力を取り戻して邪馬台国をしのぎ、「是に変わって大和朝廷をなす。」とある。

その、狗奴国(くなくに)と、邪馬台国の勢力の境界が、九州においては日向の国から肥後(ひご)の国(今の熊本県)にかけて在った様だ。

その東の境界線が、県の庄(延岡市)の五ヶ瀬川の中州に在る、無鹿(むしか)と言う奇妙な名の土地である。

狗奴国(くなくに)はやがて力を付け、近隣を従えて行った。

従って、狗奴国(くなくに)の王こそが、当初の大和朝廷の起源と考えられる。

この狗奴国(くなくに)の王が、須佐王または大国主(宇佐岐?)と考えられる男王である。

邪馬台国は女王、狗奴国(くなくに)の王は男なのだから。

物語の中の記述には、「狗奴国(くなくに)は海人族(あまびとぞく)と結んだ」とある。

この辺りの話は、真実と虚構が入り混じって、神話の中に隠れ潜んでいるらしい。

海人族が隼人であれば、奴(な)国が天(あめ)の国(天照の国)とも考えられるが、それであれば、本来論争の激しい女王の国「邪馬台国」は何処に在ったか、簡単に見つかるはずだ。

それが発見出来ないと言う事は、神話と現実が、「二重帳簿の様に判り難く成る」、それなりの必要性が有ったに違いない。

神武天皇が、筑紫の国から瀬戸内海ぞいに東に進み、「途中戦いながら畿内に達する」この神武東遷(じんむとうせん)物語では、神武天皇は、狗奴国(くなくに)の人物の様に記述されている。

卑弥呼(ひみこ)率いる邪馬台国(やまたいこく)は、相応の力を持って、狗奴国(くなくに)と、覇権を争っていた。

神武天皇が、「畿内の遷都(きないのせんと)に向けて移動する」と言う事は、既に二つの国は基本的に統一され、残存勢力の「掃討作戦」程度の行軍ではなかったのか。

討伐を重ねながら、辿り着いた所に、いきなり遷都は、考え難い。

筆者は記述の中に「数々の工作により邪馬台国を分裂させた」と有る事から、戦闘ではなく、「威嚇と策略による統一国家の成立」だったと考えた。

統一はしたものの、その後の足元を固めなければならない。

当時の事に思いを馳せると、血縁で成立つ部族の垣根をなくすもっとも有効な手段は、混血である。

つまり同族に成ってしまえば良いのだ。

その頃の「プチ大和朝廷(狗奴国)」の本拠地は、九州北部の筑紫平野に在った。

そして神武天皇(初代)の時代に、東征を開始して、畿内(近畿地方)に至り、「大和朝廷成立」と成るのだ。

これは、「神武東遷物語」に書いてあるストーリーで耳新し物では無い。

これは、スケールこそ違うが、アメリカ大陸開拓初期の母国イギリスと自治政府を持つ植民地アメリカの様なもの、と考えれば良い。

従って当時の日本列島は多民族、多宗教の国家群が、ひしめいていた事になる。

比較モデルである。

当時としては、未開地の開拓、未開人への侵略的な要素が強い。

「南米大陸も同じような経過」と言える。

それが、もっと古い時代に日本列島で起こった。

その後の畿内大和朝廷に何があったのかは定かでないが、最大の力を持っていた和邇(わに)臣王の氏族が大伴(おおとも)臣王・氏族に取って代わられている。

この事と皇位が「呉族から加羅族、そしてまた呉族に代わった」らしき謎と、何か関わりがあるのだろうか?

また、この時になって、もう一つの王族・葛城が痕跡もなく消えている。

これは仮説の話しだが、呉族系(狗奴国・宇佐岐氏)天皇を和邇氏臣王が攻め、一時加羅系和邇天皇が誕生、その後葛城氏臣王と大伴氏臣王の連合が和邇天皇を滅ぼし、呉族系(葛城)天皇が成立して、葛城氏が「臣の痕跡を消した」とも考えられる。

半島に於いては、百済(くだら)と新羅(しらぎ)も任那(みまな・狗奴国の親の国)とは、「王族の婚姻関係を含む」付き合いが有った。

従って、任那の子の狗奴国(くなくに)も親しく交流が有った。

そうした歴史の流れの中で、朝鮮半島では、満州族系の高句麗(こうくり・国)が朝鮮半島の北方で起こり、次第に南下、朝鮮半島は三国史時代に突入して行った。

この「三国史」、朝鮮側の文献での呼び名であるが、何故か、任那(みまな・加那、加羅とも言う)の存在は、欠落している。

多分、後世の半島側の人々は、感情的に任那の存在を認めたくなかった。

日本側も、大和民族の団結と言う政策上、抹殺が必要だった。

それで公式文章から消えて無く成った。

或る時期から、どちらの国にとっても、在っては成らない国に、任那は成ったのだ。

高句麗(こうくり)対倭国連合(百済、新羅、任那)の争いに成って、狗奴国(くなくに・もしくは大和朝廷)も、度々援軍の要請を受け、派兵している。

何時の頃かは判らないが、任那の「本拠地(王族の大半)自体が日本列島に移って来ていた」のかも知れない。

つまり実際には無かった事だが、たとえて言えば、イギリス政府が、「植民地の方が広いから」とアメリカに本拠地を移した様なものだ。

大和朝廷(西日本統一国家)の成立後は、発祥の地より新たに得た土地の方が広く、大きく成って居たので、半島側の任那(みまな)から頼りにもされていた。

それは任那が、天皇や従う豪族自身の母国、或いは、近い祖先の母国だったからである。

倭(わこく)国の内の朝鮮半島における百済、新羅、そして抹殺された様に歴史からはじかれた任那などの国々も、古代の日本列島と同様に、大陸系「農耕民族」と黒潮に乗ってきた「海洋民族」の「両民族が同化した民族」の国である。

故に、日本の神話?(もしかしたら倭国全体の神話)の様に、加羅(から・大陸)系と呉(ご・海洋)系が存在した。

この二つの部族的血の系列は、倭国内のそれぞれの国の歴史の中で顔を出す。

従って、任那(みまな)の地にも加羅(から)系、呉(ご)系は並立存在し、日本列島にも両系が渡来している。

従って、皇位に就いた任那からの謎の部族王は呉系だったが、後の天皇は行動から「加羅族系に変わった」とするのが有力で有る。


中国大陸に在った呉(ご)の国が、何で海洋民族国家なのかを説明しておく。

おなじみのサツマイモを例に取ろう。

日本国内でサツマイモと言うのは薩摩(鹿児島県)から国内に広がったからであるが、薩摩に行くと琉球(沖縄県)イモに成り、琉球に行くと唐(とう)イモに成る。

サツマイモは、黒潮に乗って少しずつ北上し、渡来したのだ。

今は和服と言われる着物も、未だに「呉服」とも呼ばれている。

呉の国は、中国の福健省の辺りで起こった大国だが、これが南方系の海洋民族である。


ミクロネシア、ポリネシアなどの海洋民族が海流に乗って北上、福建省の海岸沿いや、台湾島に上陸して、国を作った。

つまり、呉の国は隼人(スサノウ)の身内なのだ。

今でも「福建語」と言われる地元の言葉は、ほとんど、「台湾語」と同じで、共通している。

この台湾語では、中国の共通語(普通語・プートンファ・北京語)と違い日本語に近い発音も多い。

たとえば、漢数字の五を普通語では「うー」と発音するが、台湾語ではずばり「ご」である。

ついでながら、普通語(北京語)で日本を「りーべん」と発音するのが、福建・台湾語では「じっぷん」で、恐らくジャパンの語源と思われる。


余談だが、後の安土時代、明智光秀が朝廷から賜った惟任(これとう)日向の守の任(とう)は、古くからの九州名族の名であり、恐らくは、任那(みまな)にその発祥を見るものであろう。

まず日本の初代、神武天皇は呉族族系である。

呉(ご)族は須佐王(スサノウ)の血筋であり、隼人(はやと)は呉(ご)族そのもので在った。

従って、呉(ご)族系の大国・「狗奴国(くなくに)」が南九州で成立した時、隼人族は合流した。

そして、四国や紀伊半島南部に狗奴国(くなくに)の範図が凄い勢いで広がったのも、元々同族の隼人の居住地だったからではないか。

その後、勢いを持った狗奴国(くなくに)は、当時九州北部(日向、豊後、豊前)に在った加羅(から)系の国「卑弥呼の邪馬台国」を攻める。

争いは長く続くが、やがて停戦合意が成り、誓約(うけい)が為され、王家同士が婚姻を結び、両国は併合された。

そこで、それぞれの有力な豪族が、新国家の重要な位置に配されるのだ。

大国主命(おおくにぬし)の国譲りの神話、大国主は葦原中国(あしはらなかくに・出雲の国・島根県)を治めていたが、天照大神(あまてらすおおみかみ)に譲ったとある。

これは、「同族同士の合併で、抵抗が無かった」から、と思われる。

つまり、「大国主(おおくにぬし)は、呉(ご)系の豪族の王だった」と思われる。

そうした間にも、朝鮮半島からの部族ごとの渡来は続いていた。

その中からも、有力な者は大和朝廷に参加を許されて行った。

ちょうど、二百年余り前のアメリカ新大陸の様に、土地に余裕があり、広範囲に国を治める人材も、兵隊も不足していたのだ。

続々と、移民が続いていた。

その過程で、どうやら皇位が須佐王の呉族系から任那(みまな)系加羅族に移り、大和朝廷の「母国」は任那(みまな)とされたようだ。

この経緯は不明だが、当時加羅族系大伴氏(臣王)が権勢を持っていた事と関わりがありそうである。

一方朝鮮半島においても、統一国家への覇権争いは続いていた。大和朝廷の「母国」、任那(みまな)は、「西暦六百年頃滅亡した」と言われている。

同じ様な事が、朝鮮半島の任那(みまな)の地でも起こっている。

新羅(しらぎ)に併合された任那(みまな)の部分は、戦に破れ投降しての合併である。

しかし、百済(くだら)の部分は扱いが違う。

継体(けいたい)天皇(第二十六代)の御世に、朝廷の大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)に寄って、任那(みまな)の一部を割譲、「百済(くだら)に賜(たま)う」として、任那の四箇所の県(あがた)は百済に合併しているのだ。

継体(けいたい)天皇は、大豪族・大伴金村臣王の後押しに寄って皇位に付いた経緯があり、当時の大伴金村の権勢は、天皇をもしのぐ勢いであった。

この時代の大豪族王、大伴氏や物部(もののべ)氏・臣王の祖先は、神話における「**の命(**のミコト)」を元にすると創作され、半島からの渡来の事実を消して、天皇家と同様「祖先に神をいただく」と言う事に成っていた。

例えば、大伴氏・臣王は高皇産霊(タカミムスビ)の命神を祖とし、物部氏・臣王は饒速日(ミギハヤヒ)の命神の子孫としている。中臣氏・臣王(藤原氏)の祖、天児屋根(アメノコヤネ)の命神は祭祀を預かり、神と人の中を取り持つ意味があった。

いずれにしても、神と言う理解し難い存在をもって、被征服民に畏怖(恐れ)を抱かせる為の演出である。

彼らが、任那(みまな)時代からの王の枝分かれの血筋を引く王族のか、別の大部族集団の長なのかは判らない。

継体(けいたい)天皇の前の天皇、武烈(ぶれつ)天皇(第二十五代)に子供が無いため、皇統を繋ぐ必要から、越前(福井県)にいた応神天皇(第十五代)の五代(五世)孫に当たる男大迹王(おおどのきみ)に擁立のお鉢が回ってきて、継体天皇は即位したのだ。

この継体(けいたい)天皇だが、学者によっては、国内(越前)王族説を取らず、即位の為に任那からやって来て、妻子が在りながら、先々代の天皇、仁賢(にんけん)天皇(第二十四代)の娘・手白髪姫(たしらがひめ)を皇后に迎える「政略結婚をした。」と成っている。

それが本当なら、「女系の皇統」である。

裏を返せば、それほど任那(みまな)と大和(やまと)は一体の物だった事に成る。

大伴金村、継体天皇、共に加羅族系の血筋で、「親百済派・任那系」である。

そして、この時点で任那の地は、まだ大和朝廷の支配地だったのである。

支配地だからこそ、「割譲できた。」任那の相次ぐ勢力減少に伴って、任那出身者の日本列島への流入も多かった。

日本の安土桃山時代、太閤・豊臣秀吉が「朝鮮征伐」なる侵略戦争を起こしている。

明治維新の少し後、維新の英雄「西郷隆盛」が「征韓論」で大久保利通らと対立、「西南戦争」を起こした。

これはまったくの憶測だが、豊臣と言い、西郷と言い、天下を取り、皇室に出入りする様に成ってすぐに、彼らの目が半島に向いている。これは偶然だろうか。

その後の日韓併合を含めて、或いは朝廷に代々伝わる申し送りとしての悲願、「任那再建」又は、「倭の国統一」があり、密かに時の実力者に「下命が有った。」としたら、いや無いとは思うが・・・・・。いささか相手国には不謹慎ではあるが、二千年のミステリーロマンである。

しかし、これは「歴史の一コマ」と捉えたい。そんな、何千年も昔の事を蒸し返して領土問題を主張すると、「ユダヤ・イスラエル」と「アラブ・パレスチナ」の様なむずかしい問題に成るのは目に見えている。

この辺りで面白いのは、倭国(わこく)全体で対高句麗(こうくり)共同戦線を展開しながら、互いに相手国の領土も「狙っていた」事であろう。

それで大和朝廷も、文献上何度も「半島への軍勢の派遣」をしている。

百済防衛が、任那の防衛に繋がるからだ。

それさえも、現代の半島側の歴史研究者の間では、古い時期の日本の「侵略行為」だとしている。

この任那の存在を認めると、日本の近年の韓国併合に、小さいながらも正当性を与えるからだ。

しかし、「日本書紀」に記載されている事が「古事記」には無いなど、「紀・記」も朝廷内の勢力によって何らかの情報操作、或いは隠蔽や誇張も考えうる状態に謎が有る。

その次期天皇が半島から来た話、証拠が在る訳ではない。

どうも日本書紀を編纂したグループと、古事記を編纂したグループは、それぞれ加羅族、呉族が編纂したらしく、意図的なものが見られる。

それでも、「紀・記」の共通点だけを拾っても、任那系倭国としての大和朝廷が、浮かんでくる。

さて、大伴氏と拮抗する勢力を持つ豪族に、物部(もののべ)氏がいた。

物部(もののべ)氏は、加羅(から)系の祖をもつ大連(おおむらじ)の家系で、同じ半島の倭国出身ではあるが、新羅(しらぎ)の方に影で味方していた。

継体(けいたい)天皇は、即位した時既に五十八歳であった。

この頃から、正式ではない民間レベルで、仏教が列島に伝来し始めている。

諸説あるので、五世紀の前半頃に仏教がもたらされたとしておく。

継体天皇が崩御すると、連れ子の安閑(あんかん)天皇(第二十七代)が即位する。

安閑天皇が崩御すると、弟の宣化(せんか)天皇(第二十八代)が即位する。

その後、この宣化天皇の娘と、継体天皇と手白髪(てしらが)皇后との間に出来た欽明(きんめい)天皇(つまり、宣化帝の異母弟・第二十九代)が結婚して、元の武烈(ぶれつ)天皇(第二五代)の血統に回復が成されたのだ。

この時代、天皇の入れ替わりが激しいが、その理由の第一は、「血族結婚による劣勢遺伝だ」と思われる。

実際に、一・二年しか在位していない天皇も多かった。

ともかく、天皇、皇子の「早世(早く亡くなる)」は、おびただしかったのだ。

従って、半島から血を入れる事は、あながち悪い訳ではない。

遺伝の問題だけ考えれば、むしろ良かったのかも知しれない。

また、後継争いの暗殺の類も、多かったのが事実である。

欽明(きんめい)天皇の御世になると、物部尾輿(もののべおこし)が欽明天皇と組み、何十年も前の「任那四県(みまな四あがた)割譲」を咎め、大伴金村を失脚させている。

大伴(おおとも)氏失脚に伴い、百済系物部氏・臣王と共に力をつけて来たのが、高句麗系の蘇我(そが)氏・臣王である。

当初は物部氏の勢力が圧倒的に強く、大和の対半島政策は、百済(くだら)支援から新羅(しらぎ)支援へと、対応を変えて行くのだ。

この頃に成ると、まず百済が高句麗を討ち、一時的に衰退させると、半島の南側の覇権をかけ百済と新羅が全面対決する様に成る。

その過程で、任那は両方から狙われるが、最終的に「任那の現地の人々」が新羅に付き吸収された形と成って、任那は消滅した。

この吸収合併は、大和の加羅族系にとっては母国を失った事を意味し、盛んに任那復興を運動するが、呉系の物部氏や高句麗系の蘇我氏が天下を取っていて、みすみす任那を新羅に渡してしまうのだ。

大和朝廷の、この加羅系と呉系、高句麗系の争いが、やがて大事件に繋がって行く。

五世紀から六世紀頃、朝鮮半島を経由して仏教や儒教の各宗派、が帰化人達とともに民間レベルで日本に伝わっていた。

五世紀も終わりに近づくと、物部氏と蘇我氏が、伝来した仏教の扱いで対立する。

その争いの時点で、物部尾興(もののべおこし)と蘇我稲目(そがのいなめ)の力は拮抗していたが、欽明天皇が、仏教に傾倒し、蘇我氏の勢力が強く成って行く。

その争いは、敏達(びたつ)天皇(第三十代)の御世に成っても、息子達の物部守屋(もりや)と曽我馬子(うまこ)に引き継がれ、更に敏達天皇が崩御すると、次期天皇の「擁立合戦」に発展した。

物部守屋に加勢した中臣勝海(なかとみのかつみ)が蘇我馬子に暗殺され、馬子の推する「用明天皇(ようめい・第三十一代)」が即位する。

用明天皇が崩御すると、物部守屋は、再び用明天皇のライバルだった穴穂部(あなほべ)皇子を立てようとしたが、蘇我馬子と合戦になり、物部守屋は討ち取られてしまう。

この敗戦で、加羅系・物部氏(新羅派)は衰退して行く。

反対に、高句麗系・蘇我氏は我が世の春を迎える。

蘇我馬子の擁立したのが、崇峻(すいしゅん・第三十二代)天皇であった。

この戦いで蘇我馬子側に立ち、十四歳で初陣を果たした皇子がいた。

厩戸(うまやど)の皇子(後の聖徳太子)である。

本格的に、飛鳥時代を迎えていたのだ。

この六世紀・飛鳥時代には、曽我氏の存在で大和と高句麗の関係も改善され、人的交流を含む文化交流も盛んになり、新たに高句麗系の豪族も誕生している。

狛江(こまえ)市や巨麻(こま)群などの地名は、高句麗系の豪族と縁が深い。

明治以後の大日本帝国で、天皇家の神格化教育が行き届き、天皇が絶対君主と教わって、当然と思っていた天皇の立場とは、当時の真実の事情とは相当違うのだ。

その時々の有力豪族・臣王に翻弄され、利用されながら、それでも皇室は脈々と続いてきた。

この時代だけ切り取ると、大和の国はまるで他民族国家である。

現在のアメリカのような人種のるつぼである。

後、二千年もしたら、アメリカも混血が進んで、同化した民族が出来上がるかもしれ無い。

「有史以来の単一民族」、「万世一系の天皇」と、一度刷り込まれた先入観を払拭するのは結構大変なのだ。

ここで大和朝廷の全体像を、考えて見よう。大和朝廷は、倭(わ)国の縮図と言える。

つまり、狗奴(くな・呉系)・任那(みまな・加羅系)国の天皇家と倭の国各地(各国)出身の豪族(王・族長)、和邇(呉系・百済派)、葛城(加羅系・任那派)、大伴(加羅系・百済派)、物部(呉系・新羅派)、蘇我(高句麗系)、中臣(加羅系・百済派・後の藤原氏)などの王が、それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家であって、まだ、天皇の権力は完全統一的なものでは無かった。

そう考えた方が、判り易すい。

従って、「天皇」は、大連(おおむらじ)大臣(王臣・おおおみ)などと同じ様な「官位、官職の最高位」とも言える、立場で有ったかもしれない。

そうした背景の中、推古天皇(第三十三代・女帝)が即位し、太子には厩戸(うまやど)皇子が「聖徳」と改めて執政に就任した。

ただし現代の日本史では、この聖徳太子についてはその存在を疑われる説が有力になりつつある。

もし、太子が実在するならば、大臣(おおおみ)は蘇我馬子の独占であったから、三人の「共同国家運営ではないか」と思われる。

この三人の共同作業が、後の聖徳太子の善政である。

当時、いかに聖徳太子が有能であれ、当時勢力絶大な、蘇我馬子の協力無しに、冠位十二階や、十七条の憲法の制定が成ったとは考え難い。

なぜなら、用命天皇の母と聖徳太子の母は姉妹で蘇我稲目の娘、つまり「馬子の兄妹」で在った。

つまり、馬子は聖徳太子の叔父であり、更に娘を嫁にして居たから、義理の父でも在った。

その「制度改革」と言う国家的プロジェクトの成功を、後世の皇室の都合で、馬子を並の臣下扱いにし、聖徳太子一人の手柄にしてしまったのである。

こうした過去の朝廷の歴史を、歴史学者に掘り起こさせ、学校教育の一環として取り上げ、天皇直接統治の為に、創り上げたのは明治政府に成ってからである。

皇室の元に、国民の民意の統合を目指したのだ。

飛鳥時代になると、朝鮮半島では、百済が新羅と「唐」の連合軍に敗れ、滅んでいる。

大和朝廷は百済再興の為、大軍を送ったが、「白村江の戦い」で大敗を喫してしまう。

この敗戦のダメージは、相当大きかったに違いない。

この頃、戦勝国「新羅」から、「多くの王族、豪族が渡来して来た」と言われている。

百済滅亡から八年、高句麗も新羅・「唐」の連合軍に滅ぼされ、新羅が始めて朝鮮半島を統一するのだ。

この新羅による朝鮮半島統一が、将来の日韓関係にとって不幸の始まりであった。

何しろ新羅は「唐」の力を借りて、統一をした。

その為に、顔が「唐」の方ばかり向いて、同じ倭の国、「大和の国」の事を、敵視する様に成ったからだ。

もっとも、現代のどこかの経済大国も、東の大国の方ばかり向いて、近隣諸国をないがしろにしている様で、とても他人の事は言えない。

仏教が伝来する以前、大和の国は神々の国である。為政者達は、その正当性を神の子孫に求めた。

そして大法螺とも言うべきストーリーをでっち上げた。

古事記、日本書紀である。

天上の最高神は「唯一一体」でなければならない。

しかし、日本の大和朝廷が古事記と日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。

日本列島の支配者と民はそれを否定することなく同一の神として受け入れた。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と古代の妙見(みょうけん)信仰の合体神「一対同化神」北斗神拳の北斗は北極星及び北斗七星を指し、陀羅尼神(妙見神)はその化身で有る。

天之御中主神の系譜は造化三神(ぞうかのさんしん)の一柱で、別天神(ことあまつかみ)五神の第一神が天之御中主神と言い神格は宇宙の根源神、高天原の最高司令神である。


日本の神々の中心となる神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原に最初に現れた神様で、「天は宇宙、御中は真ん中、主は支配者」と、言う意味である。

「古事記」上巻には、「天地(てんち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並独身神(みなひとりがみ)と成り坐(ましま)して、身を隠したまひき」と、ある。

天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は天地開開(てんちかいびゃく)神話で、宇宙に最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。

その名が示す通り宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置付けられている。

大国主命(おおくにぬしのみこと)など、仕事振りを見張られていた事になっている。

そう言う偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のべ―ルに包まれていると言って良い。

これを推測するに、中華思想にぶち当たる。

つまり、日出国(ひいずるくに)から日没国(ひぼっするくに)の原点が見えて来る。

大和朝廷は、朝鮮半島から日本列島にかけて存在した「倭の国内」の一部が半島から列島に移り住んだ王族・豪族達の集合体であり、大陸の中華思想からの離脱が、建国以来の命題だった。
それで、有力豪族達を神格化し、その代表が天皇家となった。

しかし新しい神話を創造するには進んだ中華文明と時々の中華帝国を列島の民の目から逸らし、閉じ込めねばならない。

当然の事ながら中華文明を認めてしまうと天孫降臨伝説は陳腐な物になってしまう。

しかし被征服部族である多数の蝦夷族を畏怖の念で心服させねばならない。

だから、存在を見えないものにした。

それが、天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)である。

何故なら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」目に付かない神だからである。

顔も姿も現さなければ、語る事もなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。本来が「その姿を知らしめない(神が現れるのは神武天皇即位から)」と言う日本の神様の典型が誕生する。

まさか、「神が軍隊を率いて半島から南下してきた」とは書けないから、「姿が見えない事にした」とも推測できる。

仏像の様な偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすれば、何とも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそう言うものなのである。

そんな風に人間界と隔絶した神様であるが、宇宙の真ん中に位置する全知全能の神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)である。

要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令する事がその役割だったと言える。
つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。

この天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の性別はどちらだろうか?簡単である。

無から有を生み出すのは母、つまり母性である。

天照大神も月読(つきよみ・つくよみ)の命も女で、三番目の須佐王(スサノウ命)がやっと男神である。

そして日本の民衆は、長い事女神を奉じ、身近な神としては観音菩薩様(千手や十一面など)や弁天様(弁財天・弁天菩薩)などを慕い敬った。

だから日本の男性は、時として身体を赦してくれる身近な女性さえ、「慈悲深い観音菩薩や弁天様」と呼んで有り難がった。



朝鮮半島と日本列島の間には、海峡が在る。

確かに航海術などの要因は往来を困難にしてはいたが、日本列島の人々にとって前述した様に現在の様な人種や国境の意識は無く、天皇を始め、有力豪族達の故郷と言う意識が強かった。

ある意味に於いては、現在よりよほど自由に行き出来たのである。

中国地方、周防国(山口県)下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

琳聖太子は、 大内氏(豪族〜大名)の伝説的始祖とされている。

推古天皇十九年(六世紀の始め)百済国聖明(さいめい)王の第三王子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。

琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる「大内氏の祖先になった 。」とされている。

多々良姓は、この地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。

中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手として有名なのは周防・長門の二ヵ国(山口県)の武将・大内氏が西国では有名で、妙見信仰の最大の庇護者だった。

大内氏は配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられた。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。

つまり琳聖太子の事例は、当時の為政者の国家感に、半島の王族に対し、「同族意識が強くあった」と考える根拠になりはしないか?


「大化の改新と以後を読み解く」

◇◆◇◆◇本章第四話大化の改新と以後を読み解く◆◇◆◇

朝鮮半島と日本列島の間には、海峡が在る。

確かに航海術などの要因は往来を困難にしてはいたが、日本列島の人々にとって前述したたように現在の様な人種や国境の意識は無く、天皇を始め、有力豪族達の故郷と言う意識が強かった。

ある意味においては、現在よりよほど自由に行き出来たのである。

六世紀の中ごろ、「大化の改新」が起こっている。

この頃、蘇我馬子の子、蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が、代々大臣(おお・おみ)として、大和朝廷にあったが、その実、「蘇我天皇として新朝廷を創った。」或いは、「蘇我大王」とする学者も多い。

これはひとえに物部氏の弱体化により、蘇我氏が抜きん出て強力に成った為だ。

バランスが壊れて、天皇家がコントロールして蘇我氏を押さえる事が出来る「もう片方の有力豪族」を失っていたからである。

歴代天皇の皇后は、全て蘇我氏の女性が当てられ、蘇我家の子供は、親王(皇子)と同じ扱いを受け、蘇我の当主は天皇と同列の扱いに成って行ったのだ。

そこで、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)、中臣(なかとみ)鎌子(後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)らが、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。これには、切羽詰った事情が有った。

中大兄皇子の母、皇極(こうぎょく)天皇(第三十五代・女帝・第三十七代・斉明天皇とも名乗る)の存在である。皇極天皇が、蘇我入鹿(そがのいるか)の愛人で有ったからだ。

女帝だって女性である、男の一人くらい居ても良い。しかし相手が悪い。

皇極天皇と蘇我入鹿の間に皇子が出来ると、中大兄皇子の天皇即位の目が消え、天皇の皇統が、そちらに流れる危険があった。

そうなれば、正しく蘇我帝国である。

中大兄皇子は、舒明(じょめい)天皇と、後の女帝・皇極天皇との間に出来た子で、本来なら争う相手のいない世継ぎだった。

しかし、舒明天皇が急逝した時のバランスから、適当な後継者が居なかったので母が父の代の「次の天皇」として即位し、時の権力者、蘇我入鹿と愛人関係が出来てしまっていた。

それで、宮中しかも母帝・皇極天皇の目の前で愛人(入鹿)を息子(中大兄)が切り殺す場面と成ったのだ。

従って、ドラマのように大衆受けする「格好の良い」ものではない。

本来は、只の権力争いである。

女帝を「愛人にする」とは、現代の感覚でゆけば恐れ多いが、当時の感覚では権力掌握の有力手段であった。

学者によっては蘇我家が最高権力者で、「天皇家の後援者(パトロン)だった」とも言われている。

いずれにしても、天皇家は大和の国の象徴に成っていたから、外すのではなく取り込む形を取った。

たとえは悪いが天皇家は、或る種絶対のブランドとして、周りを納得させる為の存在だった。

このクーデター、後に考徳天皇に収まる皇極天皇の弟皇子「軽皇子」が裏で糸を引いて、中大兄皇子達に「やらせた」とする説もあるが、まだ、確たる証拠はない。

此処からは、天皇交代のミステリーの話をする。

誤解の無い様にあらかじめ言っておくが、今の「天皇が正当でない」などと言う気は一切無い。

そう解説している「学者もいる」と言う御案内であり、私がその説を全面的に支持している訳ではない。どちらかと言うと、半島との繋がりの証明にしたいだけである。

入鹿暗殺後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、蘇我氏一族の掃討に成功し、大臣(おおおみ)家・蘇我氏は衰退する。

この暗殺をきっかけに、皇極(こうぎょく)天皇は退位し、その後には、皇極天皇の兄弟「軽皇子」を孝徳(こうとく)天皇(第三十六代)として即位させ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇太子となる。

この時代、呉系の皇太子と呉系の中臣氏が実権を握ったので、任那復興、百済復興を画策するが、果たせなかった。

孝徳天皇が亡くなると、退位していた母の皇極天皇を再び担ぎ出し、名を斉明(さいめい)天皇(第三十七代)と改めて再び即位させ、皇太子を続ける。

同じ人物が、名前を変えて二度天皇?中大兄皇子はよほど天皇にはならず、皇太子のままで、統治の実務を続けたかったのである。

斉明天皇が崩御すると、中大兄皇子は母の死後、代理を長く続け、八年後にようやく即位し、天智(てんち)天皇(第三十八代)を名乗る。中臣鎌足は「藤原性」を名乗り、以後平安末期まで、藤原家は名門として栄えた。

大化の改新から二十六年、天智天皇が崩御し、天智天皇の皇子・大友皇子が弘文(こうぶん)天皇(第三十九代)として即位する。

しかし即位一年後、天智天皇・弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子の勝利、弘文天皇の自害で幕を閉じる。

大海人皇子は、甥の弘文天皇を殺して、帝位に付き、天武(てんむ)天皇(第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。

最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。

その説によると、皇統外の天武天皇(大海人皇子)が「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて、天智天皇の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。

この異説の根拠を挙げておく。まず、天智天皇、天武天皇、弘文天皇の兄弟、叔父甥の年齢の絡みが、一致しない。計算によって天武天皇は、天智天皇の四歳年上の「弟」に成るそうだ。

大海人皇子が、もろもろの文献に突然登場する事にも、疑問を投げかけられている。

幼い頃の事が、どこにも書いて無いのだ。

皇子としての皇統の名に、「大海人」の使用例が無いのである。

また、兄弟にもかかわらず、天智天皇の娘を、四人までも天武天皇が妃として皇子時代にもらっている。
これは近親婚の多い朝廷にあって、一人くらいは考えられるが、大概はどちらか一方が違う親の、異父または異母兄弟である。

同じ父、同じ母を持つ「兄の娘四人」は当時としても異常で、まるで血縁の薄い有力豪族を抑える為の「政略婚」の様である。

そして、額田王(ぬかだのおおきみ)の存在がある。

額田王は最初、大海人皇子(天武天皇)の妻で、子までなしている。

その子は、後に弘文天皇の妃に嫁ぐ。

その額田王を、兄の天智天皇が自分の妃に奪っているのだ。

しかし歴史学者によっては、額田王は、天智天皇の元に嫁いでも、大海人皇子との関係も「続いていた」とする者もいる。

額田王については、「万葉歌人」で有名な他は余り判っていない。

中臣鎌足の妻鏡王(かがみのおおきみ)の子とか妹とか言われている。

いずれにしても、あらゆる事が兄弟の関わり方ではないのだ。

それとも宮廷内が、ローマ帝国末期の様に、よほど乱れた「愛欲の世界だった」と言うのか。

こうした不自然な関わりから、当時、ほぼ朝鮮半島統一が成されつつあった新羅王(春秋王)の弟が、「大海人皇子の正体ではないか」と言うのである。

つまり、白村江の戦に破れた大和朝廷が、戦後処理に「新羅の進駐軍派兵、ないしは国土の一部割譲を受け入れていた」のではないかと言う疑惑である。

大海人皇子の正体は、新羅の進駐軍の王または、割譲地の王だと言うのである。

六百三十年頃の白村江(はくすきのえ)の戦いについても、触れておきたい。

この頃日本の朝廷は、呉族・百済系有力豪族王達の擁立の元、女帝の斉明天皇が即位し、中大兄皇子が、実務を担当していた。処が、当時血縁の深かった半島の国、百済王国が、大陸の唐と半島の新羅に攻められ、滅亡状態であった。

この百済復興の為に、時の朝廷(呉族・百済系)は半島に大軍を送り、白村江(はくすきのえ)で、大敗を喫している。

この白村江の戦いで、「唐・新羅連合」百七十隻に対し「大和・百済連合」四百隻が破れている。

圧倒的に数に勝りながら、列島の民は大海戦で敗れ去ったのである。

大和国は、この当時敗戦国である。この戦いの後、九ヶ月ほどして唐の使者(副将)郭務sou(ソウ)が、四十七隻の軍艦と二千人の兵を率いて進駐してくる。

七ヶ月の進駐期間に、何が起こり、何がもたらされたのか?

この滞在中に、天智天皇が亡く成っている。

その僅か一年後、大海人皇子(おおあまのみこ)の「壬申(じんしん)の乱」が起きているのである。

偶然だろうか?

これには、奇妙な欠落部分がある。

当然あるはずのもう一方の勝者、「新羅の動静」が日本史には痕跡も無いのが、かえって怪しいのだ。

大海人皇子(おおあまのみこ)が新羅王の弟説と言う「疑惑」の根拠である。

しかし、仮にそれが事実としても、まだその頃は、倭(わ)人同士、後の日本の戦国時代の国の取り合いの様に、あまり「違和感なく付き合えた」のではなかったのか。

現代の人種意識の「物差し(ものさし)」で、この事を理解しようとすると、また違った物語が出来てしまうのである。

そして、実質「新しい朝廷が成立した」のかも知れない。

か、と言って天皇家の血筋が途絶えた訳ではない。

大海人皇子(天武天皇)の皇后は、天智天皇の第二皇女である。

天武天皇が亡苦成ると、皇后は息子の草壁皇子を即位させようとするが、即位前のもろもろの対処に手間取り、その間に草壁の皇子を病死で失ってしまう。

そこで、孫の軽皇子が成長するまでの中継ぎに、自分が即位して持統天皇(じとう・女帝・第四十一代)を名乗る。

軽皇子が十五歳に成ると、自らは太上天皇となり、軽皇子を文武天皇(もんむ・第四十二代)として即位させ、孫の天皇を支えた。

女系ではあるが、元の皇統に復して、後に繋がって行くのだ。

この頃から、飛鳥から平安時代にまたがり、長く勢力を誇った藤原(中臣)氏が、朝廷を庇護る大豪族として、隆盛を極めて行く。

このように、細々と皇統が繋って行くのが、良く判る。


日本の天皇を始め、豪族もその配下も、血筋的には倭人である。

朝鮮半島の人々も、先祖は「倭人である」それ以外の何者でも無い。

この頃には、まだ充分にその意識が残っていたのだ。

七世紀の始め、天武天皇の時代に古事記と日本書紀の編纂が開始されている。

この「記・紀」の内容については、どの程度信頼が置けるかは定かではない。

当然ながら、時の為政者の都合が盛り込まれている。

憶測で有るが、大和朝廷の根幹を為すのが血のブランド(血統)である為、その秩序を改めて確認、皇統の権力集中と、律令制度の裏付けが目的では無いだろうか?

八世紀に入ると、ちょうど桓武天皇、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)した頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

同じ頃、伴に帰国を果たした最澄が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺を創建する。

八世紀の中頃に成ると、大和朝廷も安定し国力も付いたので、いよいよ、日本列島の「東側」の征服にかかる。

一方的に大和朝廷側から見ると、まだ朝廷に服従してはいない列島東側の野蛮な「民族」が蝦夷(エミシ)と言う事に成る。

この蝦(夷)を武力で屈服させ、朝廷に服従させる為の軍の総司令官が、征(夷)大将軍である。

これは当時の現実としては、「他民族」に仕掛けた「侵略軍」以外の何物でも無い。

鎮守府将軍なる役名も、当初は、今で言えば「占領地区、軍司令官」で在ったのだ。

奈良時代の末期、初代征夷大将軍に任じられたのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)であった。

この最初の討伐先は東海道地区(今の静岡・神奈川・山梨など)で、後に大伴の後を継ぎ、第二代征夷大将軍になる坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が副史として同行している。

まさに、アメリカ大陸を、西に西にと白人が侵略して行った様なものだ。

攻められ、追い払われる方にしてみたら、堪ったものではない。

激しい戦闘が繰り返されるが、最初から当時としては近代装備の朝廷側が、全てに於いて有利で、勝ち進んだ。

この二人の働きで蝦夷(エミシ)は、少しずつ北に追いやられ、最後には東北の地で降伏、大和朝廷の支配下に置かれる。

つまり、隷属したのだ。

当初は、「俘囚(ふしゅう)」なる言葉で生活に制限を受け、後の「アメリカのインデアン居留地よろしく」、管理されていた。

鎮守府将軍は、その占領地の駐留軍の司令官である。西部開拓時の騎兵守備隊の様なものか。人間やる事は、似た様なものである。

初期アメリカの、酷いインデアン政策を、非難できたものではない。

それから、長い歳月をかけて双方の混血が進み、同じ民族として同化して行き、今日に至っている。

従って、「日本(大和)の国始って以来、大和民族は単一民族である」などと言うのは、余りにも傲慢な考え方で、恥ずかしくさえある。

一部は蝦夷地(えぞち・字は同じ)、今の北海道に逃れ、同じ蝦夷族のアイヌと名乗る人達と一緒に成った。

こうした様々な出来事を刻みながら、やがて大和の国は、独自の文化、独自の言語に形ち作られて、一つの民族へと成立って行くのだ。



七世紀後半に、朝鮮半島は「新羅」が統一を果たし約二百四十年に亘り一国支配が続いた。

その後「新羅」は、十世紀に入って起こった「高麗(こうらい)」に取って代わられたが、この頃には日韓互いに完全に独立した文化・言語が育ち、日本列島からも、朝鮮半島からも、倭(わ)人、倭の国々の意識は、失われて行った・・・・。

その後起こった両国間の出来事は、もう「うちわ(内戦)」の感覚ではなく、他国、他人種の侵略と受け取られるほど、互いに違いが出来てしまっていた。

朝鮮半島は、「元」の属国と成りながらも、「高麗」が四百七十年ほど続いた。

その間、日本の鎌倉時代、「元」の手先として、数次に亘る元寇の侵略軍の大半は、動員された「高麗」の人々であった。

その後、元が衰退すると、「明」と結んだ「李氏朝鮮王朝」が成立し、明の属国、或いは、同盟国として五百年続く。

日韓双方とも、相手とは滅多に関わらない歴史を歩み、倭(わ)の国は、遥かな記憶の中に失われて行った。

この間に、日本の太閤・豊臣秀吉が「朝鮮征伐」なる侵略戦争を起こしている。

明治維新の少し後、維新の英雄「西郷隆盛」が「征韓論」で大久保利通らと対立、「西南戦争を起こした」と言われている。

この説にも異論があり、「西郷は征韓論者ではなかった」と言う論陣を張る学者も多い。

時代が進んで百年ほど前、李氏朝鮮王朝は、日本同様に欧米諸国の圧力を受け、近代化を急ぎ「大韓帝国」と体制を改める。

しかし、そうした抵抗の甲斐なく、十四年後、武力を背景とする日本に「併合」されてしまう。

当時日本は、「日清、日露の戦い」に勝利し、列強諸国の仲間入りをしていたのだ。

或る意味、過っての「倭の国が統一した」とも取れるのだが、長い時間の隔たりの為に、併合した方も、された方の人々も、そうした感情ではけして収まらない。

特に併合された方は、他国の「横暴な侵略」としか、思えないのだ。

それもまた真実である。

それでは、明治四十三年の「日韓併合」の時の背景を紹介しておく。

当時、大韓帝国は経済的に疲弊し、「このままでは国が潰れる」と言う危機感があった。

日本は、言わば火中の栗を拾ったのである。

現在の韓国の状況を見ても、万一「統一によって北朝鮮を受け入れる事の、韓国の経済的打撃は計り知れない。」と、早期統一には消極的である。

同じ状態に、当時の大韓帝国は在った。

「赤字会社を引受ける」・・・そんな、「旨味の無い合併」など、利潤を追求する営利会社同士ならけしてありえない。

現に当時の朝鮮総監・伊藤博文は、経済面の理由で併合慎重論者であった。

伊藤博文をハルピン駅頭で銃撃、暗殺した半島の英雄「安重根」のテロ行為は、結果的には併合を早めただけである。

今でこそ反日の英雄だが、当初は半島内でも、彼は日本政府の併合促進派に「雇われたのではないか」と言う、疑惑さえ囁かれていた。

つまり朝鮮併合は日本国内でも、リスクの懸念が大いに在ったのだ。

それでも、日本政府はあえてこの経済的負担を負う選択をした。

事実、半島運営の為に日本政府は、相当無理な財政収支を行い、半島経済を立て直している。

欧米の植民地拡大政策に、新興国、大日本帝国が対抗して行くには、国力の拡大が最大の方策で他に選択肢は無かったのだ。

当時の大韓帝国は、対露国、対清国などの近隣の大国の圧力に翻弄され、西欧諸国も虎視眈々と朝鮮半島の植民地化を狙っていた。

この環境下で、合併双方(日・韓)の政治家の一部から「救済合併論」が台頭し、日韓合併が実現したのが、真実の歴史である。

世の常として、一部の心無い日本人が合併後の半島で優位に立ち、無法な行いをしたのは事実で、認めざるを得ない。

しかし、戦後の混乱時に、「戦勝国民」と称して優位に立ち、在日中国人、韓国人の一部が、敗戦国の警察権が彼らに及ばないのを良い事に、無法を尽くしたのも事実である。

その影で、戦前、戦中を通して台湾、満州、朝鮮半島、いや日本国内でも、個人ベースの友情は育くまれ、互いに信頼し合い、助け合って生活していた心の交流が有ったのも、また、真実である。

犯罪者が、「あいつもやっている」式の話に取られても困るが、過去の歴史の中で、大陸側からの侵略も多々有ったのに、日本からの侵略に感情が強く成るのは、遥か昔から、身体の奥に眠っている「倭人の血」のせいかもしれない。

すなわち、意識にはないが、D・N・A的身内故の無意識での「愛憎入り混じり」の深い憎しみを感じる。そう言う物かも知れない。

日本の敗戦と伴に、朝鮮半島は解放され独立するが、混乱の中、政治思想の違う南北に分かれて、今日に至っている。

ここで不幸な事に、韓国には日本の天皇にあたる国民の求心力が存在しなかった。

半島は、幾度か王朝が変わり、王統が途切れているのだ。

残念なのは、その国民を一つにまとめる為に、歴代の韓国政府によって、殊更「反共、反日」が強調された事である。

その反日感情教育を受けた世代が、もう孫を持つ世代と成り、息子も孫もと、六十年に亘っている。これを拭い去るには、また長い時を要するはずである。

さて、一方の渡来前の妙見信仰で有るが、妙見様の系譜は七仏八菩薩・諸説の一で菩薩、十二面観音菩薩が陀羅尼神(ダラニシン・妙見信仰)で、神格は天一星神(北斗・北極星神)である。

およそ二百年前までの人間界では、羅針盤(磁石)が無かった時代が続いていた。

アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味した。

砂漠を旅する民にとって、方角の分かる北極星はなくてならないものであるが、気象学的に北極星は見える日ばかりではない。

北極星を待ち望む気持ちが「神」としての信仰の形を取ったのであろう。

これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれた。

最初は呪術を中心とする現世利益的なものに基を発し、インドの真言密教においても教理は大乗佛教に基づいてはいたものの、どちらかと言うと、教理よりもむしろ実修呪詛(呪術)を主としていた。

これが古代中国に伝えられてから「大日経」は龍樹菩薩の無相大乗教により、中国での道教・儒教・陰陽道などの星(座)信仰とが習合し、また「金剛頂経」は無著世親論士等の唯識の教義によって解されていった。

そうした実修呪詛(呪術)の教義が帰化人の来邦と伴に日本に伝わった。

天体の中で動かないように見える北極星は、方向を指し示す事から世界中で神格化されて来た。

北極星の化身としての妙見信仰(妙見神呪経)が日本に渡来したのは紀元後五百〜六百年代である。

つまり仏教伝来の初期の段階で、妙見信仰は伝来したのだ。

代表的な伝承を一つ上げておく。中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手として有名なのは周防・長門の二ヵ国(山口県)の武将・大内氏が西国では有名で、妙見信仰の最大の庇護者だった。

多々良姓は、この地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。

大内氏は配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられたが、大内氏の血脈が、神主などの武門以外の立場で多々良姓や大内姓を名乗り、家名の脈を永らえていたとしても不思議は無い。

下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。琳聖太子は、 大内氏の伝説的始祖とされている。

推古天皇十九年(六百十一年)百済国聖明(さいめい)王第三子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。 琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる大内氏の祖先になった 。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。

琳聖太子が妙見大菩薩を祀る社を「桂木山に建立した」とあるが、この桂木山が、「葛城山」と違う字で全国にあり、臣籍降下したと言う皇統に葛城王と言う親王の血統を持つ貴族が存在し、葛城氏を名乗って有力豪族になっているが、関わりはあるのだろうか?


明治維新以後、この地方の小さな町々から、伊藤博文を始めとして、三人もの総理大臣を輩出している。

総理大臣が田布施町出身の岸信介と佐藤栄作氏で、政治家に縁のある土地柄である。

伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったようだが、次第に畿内などに広まって行った。

しかし朝廷の統制下にない信仰であったため、延暦十五年(七百九十六年)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。

表だった理由は「風紀の乱れ」であった。これは何を意味するのか?

諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキヨウ・妙見神呪経)は本来日本に渡来した時は仏教の経典の一部として真言宗の密教部に属している事にある。

大同元年(八百六年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。同じ頃、伴に帰国を果たした最澄が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺を創建する。

空海(弘法大師)の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事ができる。」としている。空海(真言宗)や最澄(天台宗)が唐から伝えた経典の一部に、「密教」がある。

「密教」とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗の円仁、円珍(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

この真言宗や天台宗の密 教の教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

修験者とは修験道を修行する人で、「山伏」とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

陀羅尼の尼は女性を現し、観音菩薩も女性で有る。

この観音菩薩は別名十二面観音菩薩と言う。世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一が面密教として隠されている。

この十二面の意味は一度に十二人相手に出来るという意味だが何の相手が出来るのであろうか?

千手観音や十二面観音の原型は、インドの性典、カーマ・スートラの壁画がモデルであり、多くの男性を一度に受け入れる皇女(姫)の姿が仏法の慈悲深い菩薩になった。

この密教の教えが、時の大和朝廷には認め難いもので、「風紀の乱れ」として禁止された。

奈良時代の密教は表向き「雨乞いの祈願」などの陀羅尼信仰であり、現世利益の思想と重なって、学問的な諸宗に対し「異質的な呪詛(呪術)佛教の一面」として諸宗の僧尼の間や一般庶民の間に実修呪詛(呪術)を歓迎され受容されて行ったのである。

古来日本には三貴神(うずのみこ)の二、に「月読(ツキヨミ・ツクヨミ)の命(天照大神の妹)」と言う闇を支配する神が居るが、この陀羅尼神(妙見様)は夜を支配する神(星の神で夜しか現れないから又全ての星はこの星を中心に動いて見えるから)だった。

そして当初は現世利益の神であり、性交による陀羅尼神呪経(妙見神呪経)によりご利益を願うエロチックな教えの仏教で、「北辰祭(妙見祭)」は乱交を伴う呪経行事だったのだ。

公には大衆とともに多くの官吏が信仰していた為、「色々と政務に乱れを生じた為である」としているが、これは北辰祭の存在を隠蔽する為の後日解釈である。

平安時代末期から南北朝並立時代末期に掛けてこの現世利益信仰が一つの潮流を為す。今でこそ、こうした性的な事は「世間がこぞって破廉恥で低俗な事」としているが、実はそうでも無い時代があった。

遠く鎌倉室町時代にかけて勢力を有していた真言密教が、渡来初期の「オリジナル仏教」の教えを取り入れて、教義としていたからで有る。

鎌倉時代より少し前、真言宗の密教で、「真言立川流」を始めた人物が居た。その教義は、遠く印度の仏教に遡る。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。

出自(しゅつじ)が仏教なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではあるが、後述する理由で、「現世利益」の為に無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。

稲荷神社は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。

それゆえに江戸期の女中は、屋敷の主のお手つきはお構いなしが常識で、お手が着くとそれなりの処遇を受けるしきたりだった。

だから当時の武家に女中奉公をさせる事は、奉公をさせる親も主のお手つきは想定内だった。

そして大商家や豪農に於いてもそうしたしきたりがまかりと打っていた。

つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。


稲荷神社が、油揚げ(豆腐)を好物としているのが、仏教の出自(しゅつじ)を物語っている。

仏教の教義では動物を食する事を嫌い、たんぱく質を摂取するに豆腐や胡麻を用いた。油で上げた豆腐は、体力維持に欠かせない食べ物だったのだ。

此処で言う動物の大半が、実は仏教で言う所の「仏法諸天」であり、仏天である四足動物は、明治維新の文明開化(西洋文明を積極的に取り入れた。)に到るまで、庶民でさえ宗教上の理由で食する事を忌み嫌っていた。

いささか蛇足であるが、三蔵法師の旅を守った西遊記の孫悟空、猪八戒、沙悟浄、は人間ではないが「仏法諸天」であるから法力が使えるのであって、妖怪ではない。

つまり、真言密教は生きている人々を幸せにしてくれる仏様(神様?)で、その茶吉尼(だきに)天が、真言立川流の御本尊である。

その、茶吉尼(だきに)天の法力を高める秘法が、密教の男女和合の儀式と、経典にある。

茶吉尼(だきに)天の法力を高めるには、日常を超えた激しい男女和合のエネルギーがいる。

この激しい男女和合の教義を取り入れた事が、この宗教の基となり、当時原始性本能の煩悩に悩む人々の支持を得、密かに信者を集め増やしている。
真言とは呼んで字のごとく「真理を言ずる」と言う事である。

およそ理性と性欲では司る脳の部分が違う。

だからこそ人間は、理性で理解しながらも、一方で原始性本能の煩悩に悩まされる。

従って全ての人類がこの葛藤に悩まされ、中には犯罪さえ引起す。

その性欲を肯定し実践する所に、信者が解放される真の救いがある。

日本では室町時代以後、呪いの強い隠避(淫乱)な邪教とされているが、ヒンズー教のカーマ・スートラに影響された印度仏教や、ネパール、チベットなどのラマ教では、こうした性的教えは、仏法と矛盾しない。性(SEX)は「生きる活力の源」と解釈されている。

弘法大師(空海)、伝教(でんぎょう)大師達が、我が国にもたらした密教は、当初強力な「現世利益の秘法」であったのだ。

つまり、初期の仏教は信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、社会合意の道徳的な目的から「悪行をつむと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

その仏教が「死後の利益」に変化した大きなきっかけは、歴史の中ではさして古い話しではない。

ずうっと下って、高々三百数十年前の徳川政権成立の頃の事で有る。

当時神社勢力の武士と寺院の仏教勢力とで争いが絶えなかった為、政権安定の為に「神仏混合政策」を取って、幕府主導で分業化させた。あくまでも権力者の統治の都合が、分業化の目的で有る。

すなわち、生きている間は神社の担当であり、神様にお賽銭でご利益を願う。

お寺のお布施は、仏様(死者)を媒介にお寺にもたらされる物である。

身内の弔いの為にお布施をする様になったのはそんな訳で、日本仏教界の苦肉の作と言えない事も無い。

江戸時代以後、死んでからの「心の拠り所を寺院が担当した」事から、現世利益は言い難い。

やむおうえず日本の仏教は、死後の利益を主に説く様になった。

従って形(外観)は他国の仏教と似ているが、「日本の仏教は政治の都合によって本来の教えでは無い独特の進化を遂げた」と言って過言ではない。

良く言えば仏教は新たな教義に活路を見出した。悪く言えば「死後の不安を掻き立てて、お布施を稼いでいる」と言う罰当たりな表現も考えられる。

本来の仏教は祈り(呪術)による「現世利益」で、まずは手っ取り早く、「長命や裕福の願い」と言った幸せを願う物だった。

この「現世利益」については、現在の中国式寺院にその面影を見る。お金(札)に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様先祖に祈るのだ。

仏教で言う所の「極楽往生」は、言うまでもなく死んでから先の事ではない。

あくまでも「楽しい人生を送り、悔いなく死んで行きたい。」と言う庶民の素朴な「現世利益」の願いで有る。

庶民の願いなどささやかな物で、ストレートに言ってしまえば、その中に気持ち良い性行為をする楽しみも極楽として含まれる。

そうした庶民の生きがいを取り入れた教えが、真言宗の密教として伝えられ、男女和合に拠る「現世利益招来の秘法」、真言密教・立川流が成立した。

「罰当たり」と言われそうだが、それを捻じ曲げて、禁欲とお布施を強いるから、今では坊主は信用されなくなった。

だいたい、その辺の寺の僧侶自身がどう見ても「現世利益」を追い求めていて、今の日本式仏教には説得力が無い。

理屈はともかく、本質がぶれているから、現代の若者達には肌に馴染まず、さながら、葬祭・墓地管理業者的価値観に擬され、通じない宗教になりつつある。

そもそも、弘法大師(空海)が日本にもたらした真言密教の教えでは、男女の性的和合は肯定されていた。

理趣経(りしゅきょう)によると、男女の愛欲、性の快楽は「菩薩の境地」とある。

この理趣経は、正式には「般若波羅蜜多理趣本(ハンニャハラミタリシュ品・ぼん)」と言う経典で、いかがわしいものでは無い。

真言立川流は此れを主な経典として、多くの信者を集め、南北朝並立時代から室町初期にかけては後醍醐天皇の庇護を受、政局にかかわるほどの力を有したのだ。


南朝・後醍醐天皇の軍師と言われた京都醍醐寺の僧正・文観(もんかん)は真言密教の提唱者であった。

北朝・持明院統派と南朝・醍醐寺統派は同じ真言宗で覇権を争い、それぞれが並立していた南北朝に組した。

しかし足利尊氏の支援を受けた北朝・持明院統派が後醍醐天皇を吉野の山中に追いやり、南朝の衰退と供に醍醐寺統派も衰退、勝利した戒律の厳しい持明院統派の教義(現在の真言宗)が全国的に広がって「女犯」なる戒律の教えが広がって行った。

それでも、徳川政権成立までは、神社に対抗する「現世利益」が主たる教えだった。

「菩薩の慈悲」を何時の間にか本質から変えてしまったのも後世徳川幕府と結びついた禁欲主義仏教界で「求められれば与える」と言う優しい「菩薩の慈悲」は、ただのふしだら女と定義付けられてしまった。

昔は春をひさいで居ても心優しい女性は居た。

今は自分の主張だけで、そんな気使いは無い。貧しさ故、或いは観掛けが悪い故、「相手に恵まれない」などの不幸な者は、菩薩に見捨てられて、性的欲求のはけ口がおかしな方向に変わらざるを得ない。


本来、男女の交合は尊い物だった。

男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が男女交合であり、密教の理念としていた。

絶頂(イク瞬間)感が密教で言う「無我の境地」で、法力のパワーの「源」と考えられている。つまり現世利益の一つとして、素直に「性感の幸福も有難い事」と、されていたのだ。

その理念は、けして浮ついた邪教ではない。

勿論仏の教えはこれだけではけしてない。その点を指摘されるのは当然で、反論はしない。

しかし至極まじめで、日本に入って来た「初期の頃の真言宗の教えの一部」として、間違いなく存在した。

平和と愛、五穀豊穣の実り、その全てを激しい男女和合の秘法、つまり「未来に繋ぐ生命力で呼び寄せよう」と言うのだ。

さて帰化人と伴に入ってきた妙見信仰(妙見神呪経)は帰化人のいた南河内・京・畿内である事が、北辰祭の禁止令(七百九十六年)が朝廷から出された事で判る。

それから天智天皇以降に帰化人を関東に強制的に移住させた事から、妙見信仰が関東地方に入ってきた様である。

妙見信仰(妙見神呪経)は当初、九世紀以前は北極星との関係は余りなく、豊穣や御霊などに対する信仰であったが、院政が始まった頃に変化が起きることになる。

天慶八年(九百四十五年)に天台宗の義海(ぎかい)が始めて「尊星王法(そんじょうおうほう)」をとなえ、「守護国土」を目的する信仰が強調され、朝廷・院政などにも取り入れられて、公式に認められる信仰となった。

やがて時代が進み、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が、妙見信仰と習合し庶民的な神に変貌を遂げる。

姿を顕わさ無かった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)が、一般になじみのある姿を表しているのが「妙見さん」である。

神話では『古事記』の冒頭と「日本書紀」一書第四にしかこの神の名は登場しない。

それだけでなく、平安時代初期の全国の主な神社が載っている「延喜式(えんぎしき)」と言う当時の神名台帳などにも、この神を祀る神社が見当たらない。

そんな風に、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つ様になる。

そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがべースになって成立したものと考えられている。

北辰北斗信仰は、遊牧民からインドに伝わり、ヒンズー教の影響を受けた仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪経(ダラニシンジュキョウ・妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれ、中国では、道教(どうきょう)に取り入れられ、唐代の密教(みっきょう)に強く影響を与えた。

その後、真言宗や天台宗と共に日本に伝わり、北辰を真言宗では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、天台宗では尊星王(そんせいおう)と呼ばれた。

そこから、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰される様になった妙見信仰と習合したのである。妙見信仰は、北辰妙見信仰ともいい北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は、北極星の神格化されたものである。

天のはるか高みに隠れていた天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)は、妙見菩薩と同一視されるようになった事によって、庶民の信仰レべルに降りて来た訳である。

その妙見信仰で知られる神社のひとつに秩父神社(埼玉県秩父市)がある。

主祭神はチチブヒコ神(地方郷土開拓の祖神(おやがみ))であるが、その祖神が天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)とされている。

同社は、鎌倉時代初期に妙見菩薩が合祀されて以来、秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称されたと言う経緯がある。

旧妙見宮(仏教系神社)で、明治になって祭神を妙見菩薩から天御中主神 に変更したところは結構ある。

天皇が名目から実質の最高権力者に返咲き、仏教系神社よりも古来の神にする方が良いと言う処世術が働いたと見るべきである。

それはともかく、「妙見さん」の御利益は安産、長寿、息災、招福、とされている。また、眼病の神としても信仰が厚い。

倭族が海峡を渡り、古代日本列島にもたらした技術に踏鞴(たたら)がある。

言わずと知れた砂鉄の製鉄技術で、中国地方には今もその伝統が細々と継承されている。

千五百年から二千年前、製鉄の技術は「神の業」だった。

そして、日本列島を征服する倭族侵略部隊の新兵器だった。

妙見信仰と修験者(山伏)の関わりの背景に、この踏鞴(たたら)がある。

修験道の護摩などの火を用いていた業は、この踏鞴(たたら)文化そのものと言える。

山からは当時道教で不老不死の妙薬として金と同じ価値があった「辰砂(水銀)」等の鉱物資源や薬草等々様々な産物があった。

つまり修験者(山伏)の別の顔は、山師(鉱脈師)である。

修験者山伏は狩猟民だけでなく、産鉄民系の踏鞴師(たたらし)と関わり、鉱山経営に当たり、採掘者・金属加工者や精錬する為の木材調達者とも関わりがあったとされている。

大同元年(八百六年)、ちょうど桓武天皇が崩御され、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山・金剛峰寺を開山する。

同じ頃、伴に帰国を果たした最澄が天台宗を興し、総本山・比叡山延暦寺を創建する。

経典・陀羅尼神呪経(妙見神呪経・品・ぼん)、そして経典・般若波羅蜜多理趣本(品・ぼん)、これらの経典は、中国の後漢時代から唐代の中期までに伝訳されたものであり、特に隋から唐の時代に多く伝わったものである。

空海(弘法大師)の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事ができる。」としている。

同じ遣唐使一行の学僧として、唐に渡った空海(弘法大師・真言宗)や最澄(伝教大師・天台宗)が唐から伝えた経典の一部に、密教の経典がある。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗の円仁、円珍(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

この真言宗や天台宗の密教教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」は修験道系密教の祖と言われる人物で、後に神格化されてしまっているが、間違いなく現実に居た人物で、文献にも残っている。

「続日本紀」では、文武天皇三年(六百九十九)に、「役君小角」は初め葛木山(かつらぎさん)に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に、ざん訴され、伊豆島に流された」とある。

伊豆半島には「賀茂郡」と言う土地の名称が、伊豆の国の郡として、未だに存在している。

小角の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。

この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する王家葛城氏の事で、臣に下った後賀茂氏を名乗った。

「役(えん)」は、特定の職掌(しょくしょう)をもって宗家賀茂氏に使えた賀茂氏の分家の氏の名を意味する。

「君(み)」は古代豪族が身分や家柄・職能に応じて用いた姓(かばね)である。

従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事にある。

上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。

賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記される。

賀茂氏には、神武天皇の東征に際し熊野路を先導して功績を挙げた」と言う八咫烏(ヤタガラス)の伝説がある。

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は日本神話で、神武東征の際、最高の皇祖神タカミムスビ神によって神武天皇の元に遣わされ、「熊野から大和への道案内をした」とされる三本足の鴉である。

この伝承、先住して畿内を支配していた古代豪族の「王家葛城氏(賀茂氏)」が支配権を譲り、「抵抗無く神武天皇を支配者として迎え入れた。」と言う経緯が読み取れる。

つまり敗者の顔を立て、臣下として共存する為の知恵である。

後の皇統葛城王は、この葛城氏の氏姓を襲名したのだろうか?

八咫は当時尺度を示すが、意味としては「大きい」を表現している。

八咫烏はカミムスビの孫である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後「鴨県主(かものあがたぬし)の遠祖となった」とする。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

鴨県主(かものあがたぬし)は大化以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

上社のものは賀茂氏を名乗り、岡本・松下・林・座田・梅辻・鳥居・小路・森の諸家を分出した。

下社のものは鴨氏を称し、泉亭・梨木・鴨脚・滋岡・下田・南大路の諸家を出している。

方杖記を著わした鴨長明もこの氏人だ。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

それから、山城の(京都府南部にある、現)加茂町へ行き、木津川を上がって桂川へ行き、このまま桂川へ行くか、鴨川へ行くかを考えて、「水が綺麗だと」言う事で、「鴨川へ来て住み着いた」とされている。

この記述からも、日向の国が日本の神話の歴史発祥である。

五世紀から六世紀頃、陰陽五行説が朝鮮半島を経由して仏教や儒教とともに日本に伝わった時、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易と言いった自然の観察に関わる学問、占術と合わさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。

この様な技術は、当初は主に漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から、征服部族の子孫が行う事となり、七世紀後半頃から陰陽師が現われ始めた。

この背景にあったのが、神の国、大和の国に仏教が伝来し、民衆の関心が、少しややこしくなった事だった。

仏教の伝来により、「恐れ」に拠る畏怖の心から、「現世利益」への願いに移って行き、神の御威光が効かなくなる危機感を抱いたのだ。

それで、古事記や日本書紀が編纂され、神の子孫である皇統、王統の存在意義を追認させ、現体制の統治権を確立した。

七世紀後半から八世紀始めに律令制が布かれると、国家体制の確立を目的として、陰陽の技術は中務省の下に設置された「陰陽寮」へと組織化される。

すなわち、「恐れ」の国家体制を再構築し、再び国家管理の下に置く目論見があったのである。

陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。

また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説く事を禁じ、陰陽師の国家管理への独占が謀られた。

つまり僧侶が各自の解釈で説く事の混乱を避け、恐れに対する対策の呪術を陰陽師に一本化したのだ。

平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭に連れて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える迷信となった。

これに伴って陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めて行った。

日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方位術に由来する方違え、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、更に土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受け合いながら独自の発展を遂げた。

八世紀末からは密教の呪法や密教と伴に新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。

十世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。

忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むと伴に、天文道の安倍氏(土御門家)と暦道の賀茂氏(勘解由小路家)が二大宗家として独占的に支配する様になった。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は、「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行く。

余談で有るが、道教系・陰陽師の安部清明は宮中秘祭・「泰山府君(北辰大祭)」祭祀を司り宮中に大きな勢力を持った。

「泰山府君」とは陰陽道の主神、冥府の神である。冥府とは霊界(地獄・天国)に続く三途の川の場所で、成仏できない魂の彷徨う場所を言う。

当然ながら、冥府は「死の側」で有る。これに対抗するには「生の側」のパワーが必要である。生は性に通じる。

輪廻転生の考え方と相まって、陰陽道の呪詛の中に、生命誕生の神聖な行為、性交を持ってそのエネルギーパワーを駆使する必然性があった。

生命の躍動感こそが、不吉な諸事を祓う本来の呪詛である。

伊勢神宮、伊雑宮の御食地の海女が身に着ける魔除けに、セーマンドーマンまたはドーマンセーマンと呼ばれる物がある。

この呼び名のはっきりとした謂われは伝わっていない。

磯手ぬぐいに、星形のマーク(セーマン)と格子状のマーク(ドーマン)を貝紫で描いていたり、黒糸で記したりして、海での安全を祈願する。

「陰陽道と関係するのではないか」、とも言われ、星形のマークは安倍晴明判紋、格子状のマークは九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。

このセーマンは(安部)晴明、ドーマンは(芦屋)道満の名に由来するとも言われる。

安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。

五芒星(九字護身法によってできる図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。

安倍晴明は「吉凶を占う」陰陽師であり、その晴明が桔梗の判紋を用いている。桔梗は「吉を更に」を願う植物として「木へんを付けて名付けた」とも考えられる。

桔梗花弁は、蕾の状態では花びら同士が風船の様にピタリと繋がっている。その形を真上から見ると、見事に土御門家(安倍家)の五亡星・晴明桔梗の文様で有る。

中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。

戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。

一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。

陰陽道(おんようどう)は、古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系で、「いんようどう」とも読む。

陰陽道に携わる者を陰陽師といい、陰陽師集団のことも陰陽道と呼ぶ。

陰陽道独自の星辰信仰の上に立脚した修験道や密教の呪法として九字がある。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と唱えるのだ。

道教の歩行呪術に端を発している「禹歩(うほ)」が有名でこれによって「道中の安全や悪鬼・猛獣などを避ける事が出来る」とされている。

日本では「禹歩(うほ)」を「反閇(へんばい)」と呼ぶ。歩行法は、先に出た足にあとの足を引き寄せて左右に歩みを運ぶ歩行方法である。

非常に単純だが、これによって「悪星を踏み破って吉意を呼び込もう」と言うのだ。

かつては「陰陽家の思想が日本に伝わったものが陰陽道である」、と説明されてきた。

しかし、近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容された。

その後、神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って「日本特異の発展を遂げた結果誕生したもの」と考えられている。

陀羅尼の尼は女性を現し、観音菩薩も女性で有る。

この観音菩薩は別名十二面観音菩薩と言う。

世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面、性に関する密教として隠されている。

これが陰陽道の真髄、生命エネルギーをパワーに代える呪術「歓喜法」である。

千手観音や十二面観音の原型は、インドの性典、カーマ・スートラの壁画がモデルであり、多くの男性を一度に受け入れる皇女(姫)の姿が仏法の慈悲深い菩薩になった。

この密教の教えが、時の大和朝廷には認め難いもので、「風紀の乱れ」として禁止された。

奈良時代の密教は表向き「雨乞いの祈願」などの陀羅尼信仰であり、現世利益の思想と重なって、学問的な諸宗に対し「異質的な呪詛(呪術)佛教の一面」として諸宗の僧尼の間や一般庶民の間に実修呪詛(呪術)を歓迎され受容されて行ったのである。

古来日本には三貴神(うずのみこ)の二、に「月読(ツクヨミ)の命(天照大神の妹)」と言う闇を支配する神が居るが、この陀羅尼神(妙見様)は夜を支配する神(星の神で夜しか現れないから又全ての星はこの星を中心に動いて見えるから)だった。

そして当初は現世利益の神であり、性交による陀羅尼神呪経(妙見神呪経)によりご利益を願うエロチックな教えの仏教で、「北辰祭(妙見祭)」は乱交を伴う呪経行事だったのだ。

公には大衆とともに多くの官吏が信仰していた為、色々と政務に乱れを生じた為であるとしているが、これは北辰祭の存在を隠蔽する為の後日解釈である。

平安時代末期から南北朝並立時代末期に掛けてこの現世利益信仰が一つの潮流を為す。

今でこそ、こうした性的な事は「世間がこぞって破廉恥で低俗な事」としているが、実はそうでも無い時代があった。

遠く鎌倉室町時代にかけて勢力を有していた真言密教が、渡来初期の「オリジナル仏教」の教えを取り入れて、教義としていたからで有る。

鎌倉時代を堺に、陰陽師の立場は衰えて行く。

幕府による「武士」の支配する時代に入った為で、陰陽寮は京都の朝廷(天皇家)に属するものだったので、幕府政治には余り関与しなかった。

しかしそれでも陰陽寮による占いの結果はかなり気にされていた様であり、朝廷内はもちろん、幕府にも影響力を持ち続けていた。

また、悪霊や妖怪騒ぎは当時は頻繁にあったから、そういった時には陰陽師や巫女、僧などが活発に動いていた。

鎌倉時代の後期にあった「元寇(モンゴル・中国の日本侵攻)」の際にも、日本の窮地を救おうと「多数の陰陽師が祈祷・呪術を大々的に行った」と言う記録がある。

少なくともこの時点で、陰陽寮や陰陽道は確かに大きな力を持っていた様だ。

ただ、時代の流れと共に様々な妖怪や迷信が理論的に解明され、武士や幕府の力が強くなり続ける事で、陰陽師の立場はどんどん落ちて行った。

当時大きな力を持っていた陰陽家は、安部晴明の直系である「土御門家」と、賀茂氏の流れである「勘解由小路家」だったが、勘解由小路家が途中で途絶えてしまい一家独裁状態になったのも、「陰陽道の衰退に繋がった」と言われている。


【了】


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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


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【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


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【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


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◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


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「あえて、暴論」

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◆冗談 日本に提言する◆

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====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

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 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

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「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

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====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

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====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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作者本名鈴木峰晴