ここで一度考えて欲しいものがある。
それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈で、この国の人間性を育んだ歴史的に大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。
祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。
こうしたナチュラル(自然体)な地域社会が、 村の次代を担う若者達を育(はぐく)み育てる時代だった。
「私の愛した日本の性文化」は、正に「日本の独自文化」である。
それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰る事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。
一つ言って置きたい事がある。
日本と言う国の事を、◆武士道の精神の国などと言う輩は、余程の歴史音痴か腹に一物持っている相当片寄った思想の持ち主である。
本来のこの国の大半の人々は、永い事◆共生主義の思想を持って命を繋いで来たのである。
誓約(うけい)に拠る「共生主義意識」について、「もう意識が変わってしまったのだから、今更そんな事を蒸し返しても仕方が無い」と言う意見もあるだろうが、実はこの意識変化はバランス良く変わったものではない。
矛盾する事に、日本人の意識の中に「共生主義社会時代」の思考価値が習慣的に随所に残っているからである。
例えばこれは対外国人には通用しない独自の欠点に成るのだが、よく外国人から「日本人はイエス・オァ・ノーをハッキリしない」と批判される。
その要因を考察するに、元々誓約(うけい)に拠る「共生主義」が日本民族の歴史だったから、感情摩擦を生まない為の習慣として「イエス・オァ・ノーをハッキリしない国」に成った。
これがかなり特異な例で、西欧はもとより隣国の中国や韓国にもそのイエス・オァ・ノーをハッキリしない習慣が無い。
従ってその辺りの認識の違いが付き合い辛さを感じさせ、日本人は自分の認識の方が特異な事を理解できず、相手にハッキリ言われて「カチン」と成り、見っとも無く怒って「あいつ等は変人だ」と判断する愚を犯す。
しかしながら日本民族の二千年は、誓約(うけい)に始まる「共生主義社会」の信頼関係で、村落共同体の根幹を成していた。
この「共生主義」は日本独特の文化だから、中々他国人には理解出来ない。
ハッキリしない事をズルイと指摘されればその通りだが、確かに「共生主義」を貫くのであれば、摩擦を避ける為に明確な「ノー」は面と向って言い難い。
つまり誓約(うけい)に拠る「共生主義」は日本の独自文化であるが、一方で国際化を目指すならそこに矛盾が生じるから明確な「ノー」は必要である。
ただ、「ノー」を面と向って言い難い意識を育てた要因が、当時村落全体が生きて行く為に助け合って暮らすには誓約(うけい)の「身内意識」が必要だったからである。
当時の村落同体に、誓約(うけい)の「共生主義」が成立したのには、村落内での「夜這い」や「根宿」、「暗闇祭り」と言った性行事に「ノー」は禁句のルールが在った。
これを「もう時代や価値観が変わった」と、現代の倫理観だけで単純に判断をしては成らない。
個人主義に徹した私権社会のこれだけ殺伐とした現状を見るにつけ、果たしてどちらの社会が良かったのか考えさせられるものである。
本来人間は群れて生きる「群れ社会」の動物だった。
その事が村落共同体(村落共生主義)の乱倫・村社会を生み出した。
つまり、「夜這い」や「寝宿」の乱倫制度は土地の習慣ではあり、村落共同体(村落共生主義)を担保する為の乱倫事実を根拠とした現実的な知恵だった。
勿論その「群れ社会」の動物本能は今も健在であるから、現代の人間でもその拠り所的な本能の要求を満たす為に「擬似の群れ」的な感性を作り出す。
その拠り所が会社だったり組合だったり居住地域の自治交流だったりしたのだが、その「擬似の群れ」の強力な拠り所を、小泉氏・竹中氏が採用した近年の政策、非常用雇用(パート・派遣・バイト)の制度がぶっ壊した。
つまり合理性を重視する余り、人間性(人間の性質)を全く無視したのではあるまいか?
ハッキリと目立った形では表面化しないが、非常用雇用(パート・派遣・バイト)で「擬似の群れ」的な拠り所を失った大量の人々から共生意識を取り上げた事が、「現在の殺伐とした社会を創り上げた」と言うのは言い過ぎだろうか?
現代に在って「限界集落」◆【限界集落問題】 と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。
高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。
村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき「夜這い」の習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。
江戸期に「所払い」と言う刑が重刑として通用したのは、生活の基盤が土地・地域に有ったからである。
それが劇的に変わったのは、戦後の集団就職が切欠(きっかけ)だった。
そしてそれは、今日の「限界集落に繋がった」と言って良い。
何も農村落から若者が消えた原因が、「喰って行けないから」ばかりではない。
戦後の日本復興の為に「集団就職」で農村落から若者が消え、永く農村落の若者達を繋ぎ止めていた楽しみ「夜這い文化」のシステムを崩壊させた所に、決定的な原因がある。
つまり、鹿鳴館外交に代表される欧米化の波の中に庶民の性文化は弾圧され政治的に洗脳されて、「足らぬを補う知恵」を「建前」と言う【左脳域】思考一辺倒の「机上の論理」だけで否定した所に、「限界集落を生み出す原因があった」と言える。
人間は、あらゆる抑圧(よくあつ)の中に生きている。
その抑圧(よくあつ)から開放される僅(わず)かな時間が、【右脳域】の感性に埋没出来る性交の時である。
面白い事に、性的抑圧(せいてきよくあつ)が強い思想や宗教の禁欲的な国ほど「異常な性犯罪」が多発する。
人間は、性に対してもっと利巧に成らねばならない。
つまり、思想や宗教の建前で禁欲的に育てても性に対する罪悪感だけが育ち、それは本能に対する抑圧(よくあつ)にしか成らないのである。
若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」◆【限界集落問題】 であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。
現にこの十数年間の統計を見ると、高学歴の日本女性が主力と成ってカナダ国、米国、オーストラリア国などの男性と婚姻を結び日本を脱出している。
また、将来の高齢化日本における税負担を予測し、若い男性達の海外移住意欲も盛んに成っている。
魅力を失って、過って村落を捨てたように若者が逃げ出す国は、もはや国家ではない。
論理、理性の【左脳域】が発達し過ぎた人間は、【右脳域】の原始本能を封印してしまった。
ところが【右脳域】の事は感性であるから、ピカソやムンクの作品のように元々論理的でも合理的でもなく抽象的な物になる。
つまり、性行為が合理的発想に「ほど遠い脳域」の思考で在るからこそ、【右脳域】の本能的無意識リラックス状態を生み出すのであり、その性行為を、【左脳系本能】で「そんな嫌らしい事・・」と合理的に解釈しようとするからストレスや抵抗感が生まれる。
凡(およ)そ、社会性を加味した人間独特の【左脳域発想】の行き着く先が「性への嫌悪感」であるから、【右脳域】の本能とは相容れない拒否意識が働くが、その分潜在的な欠落感(不安)が始終付きまとい不安定な精神状態を生じさせる。
つまり、押さえ込んだ【右脳域】の「本能」は、人間の中で行き場を失うのである。
実は、この苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人間の意識の中に「必要な行為」として与えられた。
自然の与えた本能に、けして無駄はない。
この「擬似生殖行為」も、生きて行く上で必要だから与えた筈で、悪いものである訳がない。
確かに性行為は生々しいもので、性行為中は誰でも不恰好な姿を晒(さら)す事に成る。
その上「外敵に無防備」だから隠れて性行為を行なうように成り、返って人間は「秘する喜び」を覚えた。
秘する喜びを覚えたからこそ、性行為が生々しいものに成ったのである。
つまり「秘する喜び」の裏返しに未成熟の子供を狙ったり、外身の下着に興奮する異常な感性を育てたのかも知れない。
それにしても昨今の風潮はそれがエスカレートして、下手に話すとそれだけで「嫌らしい」と来るが、そう考えると、あまりエスカレートし過ぎた「性への嫌悪感」は、意味の無い行過ぎではないだろうか?
性行為中は不恰好ではあるが、性交が「美しくないから」と言ってそれが現実で、利巧な人間なら、例えグロテスクだろうが、「人間には必要がある行為」と肯定すべきである。
凡人は発想が貧しいから、愛情と性行為をイコールで「唯一絶対のもの」と結び付ける。
そしてそれ以外の「性行為の意義」を認めない。
「性行為をする」と言う事の意義の範囲の問題で、意義の範囲を広げて行くと神が「擬似生殖行為」を人間だけに与えた事も、古代の誓約(うけい)の概念や夜這いに意義が有る事も理解出来る。
,br>
性的な欲求は、人間が生きて行く(生活して行く)上で必要だから備わった快感欲求で、何も繁殖の為だけにあるなら他の動物のように繁殖期を設け、必要に応じた欲求のコントロールで発情期だけのものに限定すれば良かったのである。
生き物の身体は、生きる為にあらゆる進化を遂げて、その為の備えとして調整装置を作り出している。
神が人間に繁殖期を設けなかったのは、複雑に発達した人間の脳の負担を、性交の快感に拠って軽減させる【右脳域的】な「自然の恵みである」と考えるべきで、それ故に、【左脳域的】な複雑で知的な仕事をして居る人間ほど、日頃の性的な欲求は大きくなる。
実は性の問題に成ると、直ぐに「下ネタ」と毛嫌いし、最初から建前に隠して敬遠して深く考えた事すらないのが一般的である。
しかし、ジックリ考えて見る必要は本当に無いのだろうか?
ここで明言するが、実は「常識」と言うアンカリング効果◆ 【アンカリング効果と一貫性行動理論】の弊害を廃してそこから抜け出し、物事の真実に迫るには発想を大胆に変更する事からのみ突破口が開けるのである。
過去の日本の性文化では、集団婚や寝宿、村社会としての夜這い慣習など、乱交文化は半ば公認だった。
「嫉(そね)み」とは女が疾(わずら)い、「妬(ねた)み」とは「石のような女」と言う意味で妬(ねた)みと書く。
その二つが合わさって嫉妬(しっと)が生まれる。
そして男が嫉妬(しっと)すると「女々(めめ)しい」と成る。
正に、性愛においての肉体的独占欲を象徴する言葉が、嫉妬(しっと)なのである。
こう言うと物議をかもすかも知れないが、個人の感情(独占欲)に起因して性行為を倫理として聖域化するのは、本来「詰まらない事」かも知れない。
性に対しての倫理観にはタブー意識が強く、例えこっそり浮気や遊びを行なっては居ても、現実を見つめる事を避けて誰もその事に触れようとしないのだが、率直に言えば或いは新しい倫理観を夫婦で構築する必要を感じても一向に不思議は無い。
つまり、新しい発見や発明は定説からは生まれないもので、まずは定説が正しいものか疑って掛かる事から思考を始めるべきである。
何しろこうした性の倫理観は国や民族に拠って大きく異なるから、「どれが正しくどれが間違い」と誰も断定は出来ない筈である。
そう成ると、夫婦間のこうした性に対してのリスクは、夫婦間の「浮気や遊びを行わない」と言う約束事レベルの話である。
本来人間は群れて生きる「群れ社会」の動物だった。
勿論その本能は今も健在であるから、その拠り所的な本能の要求を満たす為に「擬似の群れ的な感性」を作り出す。
夫婦合意の乱倫遊びにしても、世間では乱倫を大げさに考えるが実はさして大それた話しではなく、嫌も応も本人達の感情次第であるから、単純に互いの合意さえあれば「擬似の群れ的な感性」で、グループSEXは成立する。
本音の部分では実に可能性が高い浮気や遊びを、「しない筈」と言う建前に隠して片方がコッソリとし、それこそ「夫婦間の裏切り行為」と言う結果にするよりも、互いの視覚の範囲内でのグループSEXの方が遥かに夫婦円満の方策かも知れない。
性行為が【左脳域】の合理的発想にはほど遠い【右脳域】の「本能」の思考で在る以上、こう言う事は、体験して始めて学ぶもので、体験してみれば「奇麗事と言うのは欺瞞(ぎまん)偽善である。」と気が付く。
批判を恐れずに言えば、S性やM性は誰にでもある。
本来人間は群れて暮らす動物で、その本能は現代でも深層心理に内在している。
群れにはボス(支配者)が必要であり、逆に支配される事で心理的な安定を得る深層心理が「確実に存在する」と言う事で、被支配を好む者の存在も無視出来ない。
群れのルールはボス(支配者)が決める。
そうした心理の影響が「擬似の群れ」を作り出し、その性的な関わり方でS(支配者)・M(被支配者)の要求を満たす心理的遊びを欲くするのは、さして異常な事ではない。
群れへの服従は目に見え肌で感じるもの、つまり性交で無ければ成らない。
シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。
性欲を失っては「子孫を残す」と言う機能すら失う。
従って、秩序をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは勘違いである。
人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。
性欲を「恥ずかしいもの」とする事が「勘違いだ」とすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか独占欲の拘(こだわ)りの問題である。
そこで誓約(うけい)の性交が群れの維持に重要な役割を果たし、その証明としてS(支配者)・M(被支配者)遊技の「擬似の群れ」が誕生する。
つまり合意の上なら、S(支配者)・M(被支配者)願望の深層心理を安心させる事は、宗教観や思想を廃して人間に内在する本質的な心理(学)を採用すればさして異常ではないのである。
この国は元々「建前の国」だから一夫一妻制とは言え昭和三十三年の通称「売春禁止法」までは遊郭・売春宿の類は「公娼」として存在し、妾を何人持つかが出世した男のステータスで、それが男達の意欲の原動力だった。
今はそう言う習風俗が社会の建前で認められないのだから、男の本能的な目標の大事な夢の一部が無くなり、「頑張ろう」と言う意欲を持たせるには別の創意工夫が必要に成る。
過っての村社会の夜這いの精神を思えば、独占欲から相方の浮気を赦せずに気持ちが拘(こだ)わって夫婦仲が不安定に成るのだから、最初から夫婦合意でグループ遊びをして居たら、「愛情とSEXを分けて受け止め、浮気による離婚危機も無い」と言う考え方も出来るのである。
勿論、筆者が提唱したいのは「性を無秩序にしろ」と言う事では、けしてない。
現代社会においては生殖科学としての「近親生殖による劣性遺伝」の解明事実も存在を承知しているから、勿論の事ながら無条件・無秩序の性交が良い訳ではけしてない。
ただ言いたいのは、性が嫌らしく不潔で淫蕩な物ではなく、「大切で素晴らしい物である」と定義付ける必要性である。
「私の愛した日本の性文化」の根本に在ったのは、自然の恵み(豊穣と子宝)は、神聖な「神との対話に拠って授かる恩恵」と、素朴に受け止めていた事である。
こんな自然と矛盾した間違いを、誰が教え始めたのだろうか?
或いは、この不自然な制約を、敢えてしなければならない「矛盾に満ちた社会を作り上げた人類の罪」かも知れない。
本能は、明らかに「抑制(よくせい)する思想から制御(せいぎょ)する思想」へ、思考の方向を変えるべきである。
今までは奇麗事の建前に拘わり、この思考の転換が出来なくて、いたずらに抑制(よくせい)を強いる愚を冒して来た。
この手法では、精神と本能は乖離(かいり)し、人の心を混乱させるだけである。
他国と比べた日本の自殺率は世界で十位、先進国ではブッチギリダントツの一位である。
生き物は、最低限の本能として必死に生きる。
その本能を思考で否定し都合で自殺をするのは人間だけで、他の生物には在り得ない。
益してや、繁殖期に到達していない子供を性の対象にするなどの狂った思考を持つなど、生物の中では人間だけである。
そして、本来在るべき生殖本能を、「淫らな行為」と位置付けて本能を無条件で否定し、挙句の果てに、自由の権利の下に個人の都合で「生まない権利」を言い出す。
この自然則を無視した考え方が、果たして文明なのだろうか?
月光仮面・川内康範氏の「無償の愛」は、正しく今は軽んじられている【右脳域 】の価値観である。
これが現代の文明社会なのだろうか?
日本の村社会性文化の衰退と伴に個人主義が浸透して近隣意識は薄れ、独居高齢者の孤独死が増えている。
年金支給額が減らされ高齢者の医療負担が増え、僅かな年金収入では医療費や食費にも事欠く事態では近隣との冠婚葬祭の付き合いさえまま成らないから、付き合いはしたくても知らんフリをしざるを得無い。
過疎地域には近隣意識は残っているが、逆に若者が流出して「高齢者同士が支え合う」と言うあまり胸を張れない事態に成っている。
一方で競争経済社会の極端な個人主義を謳い、一方で法律を乱発して税負担を増やして「社会を支えよう」と言う手法は支離滅裂のような気がする。
役人(官僚)のする事は、全て利用出来る口実としての「頑な前例(慣例)」と「頑な計画遂行主義」による保身と利権で、即応力の無い戦艦大和症候群◆ 【戦艦大和の英霊に捧ぐ・そして靖国】を続けている。
国民の意識改革も含め、国状に合った制度全体の見直しをすべきではないだろうか?
|