女性の権利の向上が叫ばれて久しいが、男女の権利の平等を言い立てる余り、問題の本質がぶれてしまったような気がする。
それは女性にも、その権利の中には、自由に生きる権利は当然ある。
中に、子供を産まない自由もあるだろう。
だが、個人目線の自由の精神の中にも、生活空間の確保と言う社会的義務が平衡して存在しなければ、それは唯の身勝手な生き方である。
理屈から言うと、子供を産まない自由を選択した女性は、将来他人が苦労して産み育てた子供に、老後の世話を受ける理屈だからである。
子供を産まない自由は、本人の人生の負担から考えると「利巧な生き方」かも知れないが、社会目線では「ずるい生き方」としか言い様が無い。
ここで一度考えて欲しいものがある。
それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈で、大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。
祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。
それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰める事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。
現代に在って「限界集落」と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。
高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。
村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき「夜這い」の習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。
若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。【少子高齢化問題の具体策】へ飛ぶ。
少子化問題の根底には、将来の国家の存亡が掛っている。
ここで問題なのが、女性が自由に生きる権利は大切ではあるが、子供を産まない自由は、将来の国家像に暗い影を落とす矛盾だからである。
つまり、個人性と社会性のせめぎ合いが、女性の権利をめぐる論議である。
個人の視点では、確かに自由は大切な権利である。
しかし社会の視点では、産めない女性はともかく、本人の「利巧な生き方」の為に子をなさない女性には、首を傾げざるを得ない。
どうも世の中の人間は、何か有ると「私は思った」と主張する。
特に女性は論理より感性で、「私は思った」と、思った事はイコール正しいがごとき言い分を言う。
本当に「貴方が思う事は、全て正しいのか?」と問うても、「思ったのだから仕方がない。」と、まるで噛み合わないのである。
これでは、唯の個人感情の発露で、他人を納得させる(説得する)事には成り得無い。
つまり本当の「思い(思想)」は、哲学的だったり論理的だったりするもので、軽率な行動や言動の言い訳が「思い」ではない。それは「短慮」であり、他人を納得させる(説得する)事には成らない言い分は、相手の気分を害するだけである。
同時に、男性にも女性任せではなく、女性に子供を産で貰い、共に努力して育てる同じ社会的責任と義務が存在する。
いずれにしても、社会全体の思考が個人目線の権利と主張ばかりでは、人間の本質であるはずの「協力して生きる」と言う「社会性」からドンドン離れて行くような気がするが、どうだろうか?
そこで問題になるのが、子を産み育てる為の社会基盤の確立である。
それは、男性の保育協力や保育園、幼稚園、学校と言った一次的なものだけではない。地域社会や、企業支援と言った総合的な環境創りが急務である。
人類は生意気にも神になった。
そして自らの生物学的生態系まで壊してしまった。
最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。
これも日本社会が欧米化されて増加した「少子化」の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。
つまり「群れ婚」や「真言密教立川流」を、安易に現在の性規範だけで判断する事は出来ないほろ苦い現実も存在している。
実はこの男性精子「虚弱精子劣性遺伝」に拠る不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。
この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。
そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。
そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。
何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。
いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。
シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。
従って、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは稚拙な勘違いである。
そこで問題なのが人間と言う生物の「特殊な進化」なのだ。
脳が異常に発達して物事がシンプルに処理できなくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。
つまり生物としての性欲を「恥ずかしいもの」と勘違いする事から様々な悲劇が始まっている。
性欲を「恥ずかしいもの」とする事が「勘違いだ」とすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか異性に対する独占欲の拘(こだわ)りの問題である。
そこで誓約(うけい)の性交が群れの維持に重要な役割を果たし、その証明としてS(支配者)・M(被支配者)遊技の「擬似の群れ」が誕生する。
どこぞの女性運動家が、女性の権利を声高に言い立てて大学教授や代議士に成っているが、子供も創らずそうした個人の選択の権利を主張して飯の種にして居られるのも、世間が「珍しい生き物」、つまり「少数のわがまま女」としか見ていないからである。
まぁ、何であんなに基本を無視した頭の悪い女が大学教授になるのか、教授任用をしている大学の良識を疑う。
つまり、そのどこぞの女性運動家と同じ生き方の女性ばかりに日本中の女性が成った事を想像(シュミレーション)してみれば、直ぐにその運動家の主張が国家を崩壊させる「稚拙で身勝手な主張である」と直ぐに判る事である。
本来性欲は「子孫を残す」と言う生物本能【性欲本能と人類共生】から始まっていて、伴侶得る事や子供を得て未来につなげる為のもので、その部分を無責任に「個人の責任」として社会が放置して置いて良いものだろうか?
長い事「性」に蓋をして公の合意をして来なかった所に、社会の無責任さが有ったのではないだろうか?
言って置くが、男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。
つまり人間は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。
戦後も六十年を経て、そろそろ私権ばかりに偏った考え方を、「見直す必要が有る」と考えても良いのではないか?
女性が「産まない権利」を主張する事は「生態系上不自然な事」と言わざるを得ず、個人の私権ばかりを言い立てて少子高齢化を引き起こしている日本人は、滅びの道を進む事になる。
SEXを嫌悪する国は亡国を招く。
SEXを正しく楽しむ風土が醸成されないと、日本は亡国の少子化を突き進む事になるであろう。
悠久の時を経て、命を繋いで来たのは生きる者の「本能」である。
その本能を、愚かにも文明人は「嫌らしいもの」として「否定する事が文明」と思い続けている。
入り口を間違えては、如何なる発想も正しき答えは導き出せない。
あなたはこの問題を避けて、子供達の未来に、「どんな教育をする」と言うのか?
確かに性行為は生々しいもので、性行為中は誰でも不恰好な姿を晒(さら)す事に成る。
その上「外敵に無防備」だから隠れて性行為を行なうように成り、返って人間は「秘する喜び」を覚えた。
秘する喜びを覚えたからこそ、性行為が生々しいものに成ったのである。
つまり「秘する喜び」の裏返しに未成熟の子供を狙ったり、外身の下着に興奮する異常な感性を育てたのかも知れない。
それにしても昨今の風潮はそれがエスカレートして、下手に話すとそれだけで「嫌らしい」と来るが、そう考えると、あまりエスカレートし過ぎた「性への嫌悪感」は、意味の無い行過ぎではないだろうか?
性行為中は不恰好ではあるが、性交が「美しくないから」と言ってそれが現実で、利巧な人間なら、例えグロテスクだろうが、「人間には必要がある行為」と肯定すべきである。
他国と比べた日本の自殺率は世界で十位、先進国ではブッチギリダントツの一位である。
生き物は、最低限の本能として必死に生きる。
その本能を思考で否定し、都合で自殺をするのは人間だけで、他の生物には在り得ない。
益してや、繁殖期に到達していない子供を性の対象にするなどの狂った思考を持つなど、生物の中では人間だけである。
そして、本来在るべき生殖本能を「淫らな行為」と位置付けて本能を無条件で否定し、挙句の果てに、自由の権利の下に個人の都合で「生まない権利」を言い出す。
この自然則を無視した考え方が、果たして文明なのだろうか?
ちなみに男女の一般的な【右脳域】と【左脳域】の得意不得意を調べると、男性は【右脳域>】の活用が得意で、女性が【左脳域】の活用が得意と「男女綺麗に分かれる」と言われている。
つまり【左脳域】を活用する記憶力は女性が優れているが、【右脳域】の活用を必要とする方向(方位)や地図の読み取りなどは男性の得意分野で女性はまるで駄目と言うケースが多い。
◆ 【美しくなれる興奮の解説・(右脳・左脳とベータ・エンドロフィン)】
買い物一つ取っても、男性の方が直感的で即決力があり、女性の方が最後まで選択をし続ける為に中々物事を決めかねる特性を持っている。
これは男女の特性であるから、互いにその「感性の違い」を理解しないと、すれ違いの感情が起きる事に成る。
夫婦の気持ちが離れて行くのは、この感性のすれ違いが増幅して行って「こんな相手ではなかった。」と、感情が抜差し成らない所に立ち至る為である。
女性は【左脳域的】な感性の為、肉体への直接的な「接触刺激が無いと興奮し難い資質」なのだが、その女性が、物事を「理性」で考えてしまうから、性を誤解して嫌悪感を抱く。
女性がその「理性」で完ぺきに生きようとすれば、自分も周囲も行き詰まってしまう。
そんな「理性」は女性の独り善がりのプライドを満足させるだけで、ろくな結果には到れない。
男性は【右脳域的】で本能の感性が強い為、夫の前では崩れて見せる位の利巧な女の方が、妻として可愛いのである。
先日、某局のテレビを見ていたら、面白いデーターを見せられた。
此れは要因のほんの一部だろうが、SEXレス夫婦の増加が、「少子化の一因に成っているのでは?」と言う問題提議だった。
そのデーターの一部が、「一ヶ月以上性的関係が無い夫婦が三十二パーセントに達する」と言うものであった。
そして、わが国(日本)の全体的な夫婦間の「性交の頻度」は、比較的上位発展国、四十一ヵ国中最下位の「四十一位だった」と言う。
つまり、日本の夫婦は他国に比べ「余りSEXをしていない」と言う事だが、それを、「余りにも、現代の男性が忙しいからではないか?」と、方向違いの見方をしていたようだ。
これは、人間性そのものを否定した発想で、これが本当なら、日本の未来は終わりで有る。
何故ならば、近頃囁かれる「男性の弱体化」を表しているからだ。
本来、自然で当たり前の「男性の原動力は女性の存在」で有る。
もてたい本能が力を発揮するから「闘争心や向上心が起こり、学び働く」それが、忙しs過ぎてSEXが出来ないでは、男性の原動力を削ぎ取るようなものではないか。
勿論、女性の好きな純愛の存在も否定はしない。男性の脳の「別の部分」にはそう言う感情を司る所も間違いなくある。
だが、基本的には「種の保存本能」から素朴な性的要求を抱えて生きているのが、人間の自然な姿である。
自然な姿と言えば、仲が良いので定評がある「おしどり」と言う鳥のつがい(カップル)、実は一年(一繁殖期)だけの仲で翌年の繁殖期には別の相手を見つけ、新カップルを作るそうである。
自然とはそう言うもので、人間の基本的な性本能の傾向では夫婦間の性的関心は、学説に拠ると「四年くらいしか持たない」と言われている。
事実データー的に、結婚後四〜五年目に入るとSEXレス夫婦が急増する。
考えて見れば幾ら好きでも材料(肉体/からだ)も同じ、メニュー(調理方法/行為の内容)も同じでは、性的な夫婦仲が永くは持たずに飽きが来ても不思議は無い。
飽きが来る要因の一つに、男性の場合の特異な例として「おしどり的本能」つまり子供を産んだ女性の肉体(からだ)に関心が無く成るケースや女性の場合は性行為より「子育て」に関心が移るケースがある。
女性の場合は、ズバリ関心が「子育て」に移って女性から母性に完全シフトし、亭主の性本能(性的衝動)を置き去りにしてしまっている。
これらは精神心理的なもので、現在の社会環境・家族構成社会からすると酷く困った問題ではある。
飽きが来ても夫婦が成立している要因は、子供への愛情に拠る「子育て」への協調と夫婦間にSEXを介在しない精神的愛情が成立するか、もしくは金(生活)の為である。
しかしながら性本能(性的衝動)は男女双方に存在するのであるから、その本性を建前で「愛情が在れば」や「信じている」などと誤魔化すのは現実を見ない白馬の騎士的な夢物語である。
愛情と独占欲は脳の処理に於いては別物だし、愛情と性欲(性本能/性的衝動)も脳の全く違う部分で処理されるデーターにも関わらず混同して扱おうとするから、間違った夫婦関係を作り上げてしまうのである。
どうも世の中、建前だけで物事を処理し、その根本には触れたがらない。
本来、人間の性欲と理性は脳の別の部分で対応するもので、その質の違う事を混同し、「理性で性欲を処理させよ」うと言う所に、根本的な無理がある。
その無理を、何世代も押し通して居る間に、人間の人格そのものが壊れて行っているのではないか?
本来別々のものである「精神的愛情と性的衝動」は男女各自が思考を整理して、分けて対処すべきものである。ここが社会的合意になれば、まったく違う社会が成立する筈である。
しかし、そうは成らない。事実関係から導き出されるのは、「独占欲」が引き起こす紛争から「家庭や社会の安定」と言うご都合主義と結び付いた強引な思考である。
飽きが来た夫婦間のSEXがSEXレス状態に成る事は、浮気や買春に拠る浪費、事件や事故、性病の罹病(りびよう)などのリスク(危険)が発生する事になる。
最近では飽きが来たら簡単に離婚しているカップルも多いが、それでは本人達を含め子供や親など周囲を不幸にするから、けして薦められるものではない。
そうなると夫婦間のSEX行為に、性本能(性的衝動)を満足させるべく飽きが来ない相応の創意工夫が必要になる。
その辺りの「相応の創意工夫」に対して、まるで関心が無い世の女性が実に多い事も問題である。
このSEXレス、果たして「男性の弱体化」は、何処から来たのか?
実は、「女性が強くなった事」の裏返しである。
男性が弱くなった背景には、戦後社会環境の変化で多くの女性が夫を軽視し、父親を尊敬させようとせず、「悪口を言いながら子育てをした」事に始っている。
曰く、「稼ぎが悪い。出世が遅い。金使いが荒い。etc」
此れでは男の威厳などあった物では無い。
つまり男の子は男性に自信を失い、女の子は男性を信じも敬意も持たない。
「本当の事を言って何が悪い。」と言われそうだが、子育てには良い事は無い。
そして、国家は女性を経済的に自立させる政策をして、結果女性は益々男性を頼らなくなった。
この女性の経済的自立そのものは、けして悪い事では無いが、それで自信を失った男性の中には、強くなった女性の代わりに、卑怯にも「体力的に弱い少女を、性本能の対象」とするようになり、多発する事件の遠因になっているのではないか?
こうした狂った本能は、道徳や宗教の教えでは救えない。
なぜなら、女性が父性を否定し、母性を放棄してしまったからで有る。
近頃のおかしな社会風潮が、女性の「女性たる特性」を放棄してまで、男性と同じ立場に立とうとしている。
警告して置くが、金さえあれば欲しい物が幾らでもある現代に於いて戦後の団塊世代(昭和二十年代生まれ)の子供に当たる第二世代(昭和五十年代生まれ)以後の男女は、個人主義教育の下で自分さえ良ければの身勝手な傾向が増幅している。
あらゆる手段で購買意欲を掻き立てるメーカーの姿勢と、現実の経済状況に大きなギャップが存在する現在、男性は勿論だがこの第二世代(昭和五十年代生まれ)の女性は男女平等を履き違えて思考が男性化し、やがて今までの女性には見られない連続殺人などの凶悪化が日常的になる恐れが多分にある。
一時期、世の男性の間で「パイプ・カット」と言う「避妊施術」が流行した。
女性は妊娠のリスクを抱えているから当然の事であるが、不要な妊娠をさせて女性を傷付けない為の「マナーだ」と言う。
女性運動家のほとんどがそれには賛成で有ったが、つまりそれは「生殖無き性行為」を、必要と認めている事に成る。
性行為は、本来理屈では無く本能で、「禁ずれば良い」と言う性質のものでは無い。
それでも女性運動家は、「生殖無き性行為」を、男女の「重大なコミニュケーション手段」と捉える認識は、キチンと有った訳である。
角度を変えて【天然亜鉛の栄養学的効用】との因果関係を取り上げてみる。
現代日本人が「切れ易く(怒り易く)」なった背景に食生活の変化が考えられないだろうか?
またこのインスタント食品やファーストフードに偏った食生活の変化が、現代の成人男子の中性化(性欲の衰え)に拍車をかけている疑いがある。
天然亜鉛は現代の栄養学の中で、注目されている微量健康ミネラル(必須微量元素)である。
この天然亜鉛が「現代日本人が最も不足している微量健康ミネラル」だと言われて居る。
亜鉛(ジンク)は、たんぱく質の合成や骨の発育などに欠かす事の出来ない必須ミネラルで、新陳代謝を良くし、免疫力を高め、タンパク質やDNA、RNAの合成に関係し、マグネシウムと同様に百種類近くもの酵素に関与している。
亜鉛が体内で不足すると、「味覚障害や発育不全、機能性障害などを引き起こす」と言われれ、また有害物質を捕まえて毒性を抑え、排泄させるタンパク質の誘導役でもある。
厄介な事に、この天然亜鉛は体内で合成する事が出来ず吸収され難い微量健康ミネラル(必須微量元素)で、体内の亜鉛が不足してしまうと、細胞分裂などがスムーズに進まなくなって新陳代謝が活発な器官ほど亜鉛不足の影響を受けてしまう。
人間の身体の中では筋肉や骨、肝臓、精巣や前立腺などの性腺にもかなりの量の天然亜鉛が含まれているのだが、これが加齢と伴に減少し、肉体的な衰えを見せるのである。
当然ながら、肉体的衰えは生きる気力にも反映する。
年とともに減退していく精力は男性共通する大きな悩みのひとつで、このような年とともに衰えていく肉体的な特徴は避けられないものであるが、様々なミネラルが関係している精力減退要因の中でも天然亜鉛は深く関与している。
また、天然亜鉛は「性のミネラル」とも呼ばれており、前立腺で性ホルモンの合成に関わり、精子の生産を活発にする。
前立腺で合成された性ホルモンは男性器の勃起力を高め、精子の生産は性欲を増す為、体内の亜鉛が不足してくると生殖能力が衰えて子作りが出来難くなってしまうのである。
そればかりでなく、「生殖能力が衰えて子作りが出来難くなる」と言う事は男性機能の衰えに止まらず、性は生に通じる為にその男性の生活意欲まで奪ってしまうのである。
その辺りが日本の男性から男らしさを奪ったり、社会問題に成っている「直ぐ切れ易い人間」を出現させて、また自殺の多発を招いている「原因の一つ」である可能性が想定される。
然様(さよう)に重要な微量健康ミネラル(必須微量元素)であるこの天然亜鉛が、近年の食生活様式では不足している可能性がある。
勿論、「極端なダイエット」は持っての外であるが、天然亜鉛は食品を加工する過程で失われる事が多く、「インスタント食品やファーストフードに偏った食生活」をしていると不足し勝ちになる。
天然亜鉛は一日の必要量は十五mgで、普通に家庭料理をしていれば「不足する心配はない」と言われているが、特にお薦めはカキ、鰻(うなぎ)で、その他に牛肉(もも肉)、チーズ、レバー(豚・鶏)、卵黄、大豆、納豆、きな粉、豆腐、そば、ゴマ、緑茶、抹茶、カシューナッツ、アーモンド、黒米、赤米などで摂る事が出来る 。
本来の女性の特性の第一歩は、男性を受け入れる事から始まる。
それを否定されては、男性はその闘争心や向上心を削がれ、男性らしさは失われて行く。
確かに現代社会が「子育てのし難い環境にある」事は確かだが、実は社会に蔓延する「間違った性に関する嫌悪感」の蔓延も由々しき問題で有る。
たとえ建前であろうとも、性に関する事になると問答無用で「嫌らしい。」と来る。
そして、「私はそう言う嫌らしい人間では無い。」と威張る。
つまり、「嫌らしくない女性が立派な女性で有る」と酷い勘違いをしている。
ただの建前なら良いが、近頃はそれが本気になってしまうらしい。
この世に男性と女性しか居ない以上、性的魅力の無い女性、性に理解の無い女性など、実は「女性として最低の存在」で有る事に気が付いてもいない。
この誤解の責任は、権力者(指導者)と宗教家にある。
私は「禁欲的教え」をする宗教には懐疑的だ。
特に、「処女懐胎」などと言う奇蹟で民衆を愚弄するは、「三百年は遅れている」としか考えられない。
つい最近の出来事で、現在進行形だが、一部宗教では、ダーウィンの「進化論」もガリレオの「地動説」も「宗教上の理由で認めない」と言い、集団暴力に訴えてまで「子供に教える教科書の書き換えを迫った」と言う。
余談だが、その宗教団体が強力に支持しているのが世界最強の国家の大統領で、「彼の政治基盤の一つである」と言うのだから恐ろしい。
そう言う理屈で行くと、種の保存は放って置いても「処女懐胎」でなされる事になる。
科学を宗教が弾圧し、魔女狩りを行い、十字軍を組織し、未だに宗教戦争の側面を持つ異教徒の国との戦争行為を容認している。
もっとも、いかに悪行を積んでも「懺悔すれば赦される」と言う逃げ道をちゃっかり作る人気商売の一面も十分に見えているが。
神は、人類にとって大事なはずの性行為(種の保存)を「何処に導こう」と言うのか。
触れずに逃げたり、嫌悪感を抱かせるような教育を強いたりするのは、「民への教え(導き)として欠陥のある教義」だと思うが、いかがな物であろうか?
確かに性行為には危険が伴う。
(一つには妊娠や性病の危険が、社会秩序を壊しかねない。二つ目としては、男女互いの「独占欲」と言う偽善的で身勝手な枠組を壊す恐れがあるからだ。)
だからと言って、勘違いで「性行為を極度に神聖化したり、極度に不潔な物とする」のはいかがな物か。恐れさせるだけで人間をコントロール出来たのは、遥か昔の人々がまだ素朴だった時代の事である。
それを、そのまま引きずって、愚かな教えを説く宗教など信じられない。
近頃では、妊娠や性病の危険にまったく無知無警戒の女性が増える一方で、性行為に嫌悪感を抱く勘違い女性が増えている。
この相反する二つの現象の裏にあるのが、同根の「臭い物には蓋」の社会合意で有るが、無知無警戒の失敗がその後の嫌悪感に転向する起爆剤になる事もある。
いずれにしても種の保存を考えた時、その最初の作業が性行為で有る。
この性行為に、言われ無き「嫌悪感」を宗教や政府、社会が殊更醸成させてはいまいか?
子供にして見れば、「両親がSEXをして居る」なんて事は想像したくないのが心情である。
しかし真実とは不都合なもので、両親がSEXをしなければ、自分はこの世に生まれては居ない。
つまり厄介な事に、「嫌なものは嫌」と、現実とはかけ離れた希望的な心情を、「正しい主張」と勘違いしている事が、大半の人間が抱く性に対する誤解である。
言って見れば、「嫌なものは嫌」は、我侭(わがまま)な個人主義の発露で、恐らくその個人主義を押し通す者に、幸せが訪れる確率は低くなる。
何故ならば、人は群れ社会を形成する動物で、社会と個人の両舞台(ステージ)に生きているからである。
性に関しては、「人間が勝手におかしなイメージを作り上げた」と、私は思っている。
此れは選択肢の問題で、どちらの考えが正しいと言うのではなく、今はどちらを選ぶべきかの問題である。
宗教と権力者は当初一体だった。
従って、宗教家が国家を運営していた。
やがて権力者が別に立つようになり、宗教家は分離するが、それでも互いの迎合は続いた。
そこで、国家社会を運営するに必要な大問題について、選択を迫られる。
それは、「人口を増やすべきか、抑制すべきか。」の選択である。
遥か昔、食糧増産の技術の確立がままならない時、二つの選択肢が生まれた。
片や人口抑制を選択して、食料と人間の絶対量の均衡を図るために、「性行為は慎むべき物」と、民を無理なくコントロールする為に宗教が利用され、教義化された。
そこには、SEXばかりさせないで、「沢山働かせて権力者に貢がせよう」と言う計算が働いていた。
一方別の考えは、人口を拡大して労働力を増やし、食料を増産する。
その為には一夫多妻も赦される。
それで、女性には勉学の機会を与えず、顔を隠させて徹して男の持ち物にし、それを教義として千年、二千年と続いた。
永く続けばそれは民族の真実になり、それ以外の選択肢は消えて行く。
もっとも食料問題の調整に「断食月」を設けるほどそれなりの対応はしている。
二者のどちらにしても、身勝手で非人間的な教えである。
こんな事で、「人が救える」とは笑止千万であり、それで生活の糧を得る宗教家は、「継続的詐欺行為」に他ならない。
実は、この相反する教義の宗教は互いが「相手の考えは間違っている」と、長い事争いを繰り返し、今日に到っている。
勿論それだけの理由では無いだろうが、こうした側面が「無い」とは言えない。
ところが、肝心の食料確保の問題は、もはや地球環境問題、増産技術の開発途上国普及支援など地球規模で考えなくてはならない段階に入っている。
にもかかわらず、神は絶対で有るから、「間違いは存在せず」宗教指導者は妥協を赦さない。
それは、ひとえに彼ら宗教家の「既得権益」だからだ。
しかしその裏で、宗教家も権力者も本能と煩悩で「自分だけは楽しもう」と、よろしくやっているのが関の山で有る。
つまり、宗教家も権力者も、「建前の美化で国民を騙す詐欺師」である。
だいたい、返事に困る質問の答えは「神の御心」とくる、馬鹿にするじゃない。
宗教指導者が戦争やテロを指揮するのも「神の御心」と言うのか。
何の答えにもなっていないでは無いか。
そんな事で、「神は本当に啓示できるのか?」神は啓示はできるのか?
信者に悪い事が起きると「神の試練」とくる、信者に悪事をするのが神なのか?
どうせ建前の教義なら、現在の少子高齢化社会に於いて、今少し人口増に寄与する新い国民のコンセンサスを、立ち上げてはどうだろうか。
人間は、あらゆる抑圧(よくあつ)の中に生きている。
その抑圧(よくあつ)から開放される僅(わず)かな時間が、【右脳域】の感性に埋没出来る性交の時である。
面白い事に、性的抑圧(せいてきよくあつ)が強い思想や宗教の禁欲的な国ほど「異常な性犯罪」が多発する。
人間は、性に対してもっと利巧に成らねばならない。
つまり、思想や宗教の建前で禁欲的に育てても性に対する罪悪感だけが育ち、それは本能に対する抑圧(よくあつ)にしか成らないのである。
近頃の「抑圧的性への嫌悪感」が、歪んだ性癖を生んでいるような気がしてならないのは、筆者だけだろうか?
歯止めを掛けて、押さえ込めば「民衆はコントロール出来る」と言う発想自体、現代では時代遅れな考え方である。
人間の性本能は、本来自然に持ち合わせているもので、それを無視した教えは精神を混乱させるだけで有る
いま少し性を開放して、精神の正しい成長を促すべきでは無いだろうか?
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