この柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を発端に、関東軍はこれを満州事変(まんしゅうじへん)に発展させて行く。
満州事変(まんしゅうじへん・中国側の呼称は九一八事変)は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(かんとうぐん)(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。
関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。
満州事変(まんしゅうじへん)・中国側の呼称は九一八事変は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。
関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。
柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)の報せをうけた本庄繁(ほんじょうしげる/関東軍司令官)は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。
所が、参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐、ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきと言う強硬な意見を上申する。
その上申に押される形ちで本格的な軍事行動を決意、十九日午前一時半頃より石原中佐の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。
また、それと伴に石原中佐らは、予(か)ねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。
本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だった筈だが、その規定は無視された。
攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地に及よんだ。
深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原中佐らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。
これは、事件勃発にともない関東軍司令部を奉天に移す為であった。
列車は十九日正午頃に奉天に到着し、司令部は奉天市街の東洋拓殖会社ビルに置かれる事となった。
一方、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれる形ちで多少の反撃を行なったが、本格的に抵抗する事なく撤退した。
これは、張学良(ちょうがくりょう)が予(か)ねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからで在った。
北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、九月十九日午前六時三十分には完全に北大営を制圧した。
この戦闘による日本側の戦死者は二名、負傷者は二十二名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約三百体と記録されている。
奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。
ここでは、密かに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた二十四センチ榴弾砲(りゅうだんほう)ニ門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。
それで、午前四時三十分までの間に奉天城西側及び北側が占領された。
奉天占領の為の戦闘では、日本側の戦死者ニ名、負傷者二十五名に対し、中国側の遺棄死体は約五百にのぼった。
また、この戦闘で関東軍は中国側の飛行機六十機、戦車十二台を獲得している。
安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った。
しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約六千の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。
日本軍は、六十六名の戦死者と七十九名の負傷者を出して漸(ようや)く中国軍を駆逐した。
こうして関東軍は、九月十九日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した。
九月十九日午後六時、本庄繁・関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三・参謀総長に宛てた電信で、「北満も含めた全満州の治安維持を担うべきである」との意見を上申した。
これは事実上、全満州への軍事展開への主張である。
本庄司令官は、その為の三個師団の増援を要請し、更にその為の経費は満州に於いて調達できる旨を伝えた。
こうして、満州事変の幕が切って落とされる。
翌九月二十日、奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった。
九月二十一日、林銑十郎・朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後一時二十分、同部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。
千九百二十八年(昭和三年)の張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の後、息子の張学良(ちょうがくりょう)は反日に転じていた。
張学良(ちょうがくりょう)政権は南京の国民党政権と合流し、満州では排日事件が多発する。
千九百三十年(昭和五年)四月、張学良は満鉄への対抗策として満鉄並行線を建設、その為南満州鉄道会社は創業以来初めて赤字に陥り、深刻な経営危機に陥っている。
また、蒋介石(しょうかいせき)の国民党政権は千九百三十年五月に新鉱業法を制定して日本人の土地と鉱業権取得を制限した為、日本人による企業経営の多くは不振を余儀なくされた。
加えて千九百三十年から翌三十一年にかけての日本経済は世界恐慌の影響によって危機的な状況に陥り(昭和恐慌)、企業倒産、失業者の大量発生、農村の疲弊など深刻な不景気にみまわれた。
当時の日本国民にとって満州における権益は、日露戦争で父祖や先人が血を流して獲得したものであり、「満蒙は日本の生命線である」と言う意識が共有されていた。
結局の処、国内の経済不況に対して中堅参謀が、軍事行動を含む策謀を持って「他人の国に財源を求めた」のが満州の侵略である。
確かに関東軍の中堅参謀が謀った事ではあるが、その基本的な侵略政策に多くの国民が国内不況の「リアルな解決策」として支持していたのは事実である。
そしてその中華大陸は、日本の他に米・露・欧の支援を受けた各勢力が内戦を繰り広げる代理権益争奪戦の舞台と成っていた。
それ故、満蒙の支配が揺らぐ事は日本の危機であると捉える国民が多かった。
帝国議会で、前満鉄副総裁で野党立憲政友会選出の衆議院議員・松岡洋右が「満蒙はわが国の生命線である」と述べ、立憲民政党内閣の「軟弱外交」を批判して武力による強硬な解決を主張したのも千九百三十一年一月の事であった。
千九百三十一年(昭和六年)六月、参謀本部から対ソ作戦の為に興安嶺方面の軍用地誌を初めとする情報収集を命じられた中村震太郎大尉が、トウ南と索倫の間で現地屯墾軍の中国兵に怪しまれて射殺される中村大尉事件が起こった。
昴昴渓(現在の黒竜江省チチハル市昂昂渓区)に於いて旅館を経営している井杉延太郎・予備役曹長も同時に殺害された。
七月末になって関東軍がその殺害の事実をつかみ外交交渉に入ったが交渉の進展ははかばかしくなく、関東軍はいらだちを強めた。
中国当局は表面的にはこの事件を穏便に処理しようとしていたが、本心では身分を偽っての偵察行為はスパイ活動であり、処分は当然ではないかと言う憤懣(ふんまん)があった。
一方、日本では、この事件は八月に公表されたが、中村大尉が諜報活動に従事していた事は伏せられて報道された事も在って、参謀本部現役将校の殺害に国内世論が沸騰した。
中国側報道の中に「中村大尉殺害は事実無根」などと言う者があり、それが日本で報じられた事も在って中国側の非道を糾弾し、対中強硬論が一挙に強まって日中関係が緊迫した。
千九百三十一年(昭和六年)七月、万宝山事件が起こっている。
万宝山事件は、長春の北、三姓堡万宝山集落の農業用水をめぐる朝鮮人農民と中国人農民との対立に端を発しており、ここに水路を造ろうとした朝鮮人と、それに反対する中国人が衝突した事に起因する。
韓国併合後、困窮化した朝鮮半島の農民は、多く日本や満州に流入したが、朝鮮総督府は朝鮮人の日本への渡航を厳重に取り締まった一方で、満州への移住は従来通りとした為、在満朝鮮人が急増し、在満朝鮮人と中国人の関係は紛争の火種となった。
中国人農民に中国側の警察官、朝鮮人には日本領事館がそれぞれ支援にまわったが、中国人農民が実力で水路を破壊、日本人警官隊と衝突する事態へと発展した。
発砲事件も起こったが、幸い双方どちらも死傷者は出なかった。
しかし事件の詳細が誤って伝えられると、朝鮮半島各地で中国人への報復(朝鮮排華事件)が多数発生し、百人以上の中国人が殺害されて日中間の緊張を高めた。
このニつの事件は、日本国民に「満蒙の危機」を強く意識させた。
そして、満蒙に於ける日本と中国との対立は一触即発の状態になっていた。
国民は、軍部とそれに迎合したメディアに見事に操られていた。
まぁ、メディアも楽に取材できるから当局とは癒着し、結果当局に都合が良い報道が為される事になる。
貧しい民としては、植民地が増えれば、「やがて豊かに成る」と海外の富の収奪に望みを託し、「国益」と言えば何でも通る様な風潮の時代だった。
この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?
或いは自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。
更に、第二次若槻内閣の幣原喜重郎外相による国際協調路線に立つ外交(幣原外交)は「軟弱外交」と形容され、国民の間では、こうした手法では満蒙問題を十分に解決できないと言う不満が強まっていた。
柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明が在ったにも関わらず関東軍はこれを無視して戦線を拡大する。
関東軍は千九百三十一年(昭和六年)十一月から翌千九百三十二年(昭和七年)二月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領した。
一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。
列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。
千九百三十二年一月に関東軍が張学良(ちょうがくりょう)による仮政府が置かれていた錦州を占領する。
すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。
当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。
国際連盟は、千九百三十一年(昭和六年)十二月十日の連盟理事会決議によって、千九百三十二年三月、満州問題調査の為にイギリスのリットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)を現地に派遣した。
リットン調査団の調査は三ヵ月に及んで同年六月に完了、同年九月には調査の結果をリットン報告書として提出した。
その間、若槻内閣は閣内不一致で千九百三十一年十二月に退陣、替わって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。
関東軍は満州より張学良(ちょうがくりょう)政権を排除し、千九百三十二年(昭和七年)三月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。
犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、千九百三十二年五月の五・一五事件では犬養首相が暗殺される。
海軍軍人の斉藤実に首相の大命が下ると、斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜する。
しかし軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、千九百三十二年九月には日満議定書を結んで満州国を承認した。
関東軍は僅(わず)か五ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。
この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。
所謂(いわゆる)十五年戦争(中国での名称は、十四年抗日戦争)の発端は、この満州事変を基点としている。
一連の関東軍の軍事行動は、どんなに取り繕っても侵略行為である。
千九百九十年の過(か)って、フセイン大統領統治下のイラクが突然にクエートに侵攻して国際的な非難を浴びた。
また、二千十四年にプーチン大統領統治下のロシアが、ウクライナの内紛に軍事的影響力を駆使して、国際的な非難を浴び、西側から経済封鎖を受けている。
これら他国の事象を「理不尽」と思うなら、過(か)って日本の関東軍が中国に仕掛けた軍事行動とどこが違うのだろうか?
もう少し言わせてもらえば、天皇陛下が望まなかったにも関わらず、天皇陛下の名の下で自爆特攻して行った兵士と、アッラーの神の名の下に一部のイスラム教徒が自爆攻撃をする狂気とどこが違う?
つまりイスラムの殉教自爆と日本軍の自爆特攻の違いは、大差無い気がする。
もし、ナショナリズム(民族主義)の観点を発揮して「関東軍の行為を正義だった」と主張するなら、領土問題に於ける他国の行為を「理不尽」と非難するのは、理屈として大きな矛盾である。
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