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リアルタイム忍者ビジター
samurai 【太平洋戦争の遠因・・張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(戦後七十周年に読む日本史)・(太平洋戦争へ至る遠因を主導した関東軍)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の歴史解釈を小説化した作品です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

***【歴史のミステリー】*********

太平洋戦争の遠因・・張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀

(戦後七十周年に読む日本史)
(太平洋戦争へ至る遠因を主導した関東軍)
この小説は、【日本史・歴史のミステリーのシリーズリスト】の一つです。

◆ 未来狂冗談の小説

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***【歴史のミステリー】*********

太平洋戦争の遠因・・張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀

戦後七十周年に読む日本史
太平洋戦争へ至る遠因を主導した関東軍

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
数日間お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

話名をクリックすれば、そのページに飛びます。
〔予話〕  【太平洋戦争・遠因を主導した関東軍概略史
〔1話〕   【関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐
〔2話〕   【張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)
〔3話〕   【柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)
〔4話〕   【五・一五事件(ご・いち・ごじけん)
〔5話〕   【満州事変(まんしゅうじへん)
〔6話〕   【満洲国(まんしゅうこく)の建国
〔7話〕   【国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)
〔8話〕   【盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
〔9話〕   【軍閥・財閥と二・二六事件
〔10話〕  【日華事変(にっかじへん)
〔11話〕  【ノモンハン事件
〔12話〕  【ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)
〔13話〕  【国家総動員法(こっかそうどういんほう)
〔14話〕  【ヤルタ会談(ヤルタ密約)">
〔15話〕  【ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)
〔16話〕  【ソ連・満洲国侵攻
〔17話〕  【中国侵攻結果論

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◆◇◆◇◆◇◆◇太平洋戦争・遠因を主導した関東軍概略史◆◇◆◇◆◇◆


太平洋戦争・遠因を主導した関東軍概略史

太平洋戦争・遠因を主導した関東軍概略史

日本は二千十五年(平成二十七年)、太平洋戦争の敗戦後七十周年を迎える。

戦後は確かに七十周年だが、日本が太平洋戦争に至るまでの関東軍に因る大陸侵攻工作が存在する。

この侵攻行為は、相手国や周辺国には評価されない。

つまり、【戦争そのものが犯罪】で有り、他国への【軍の進攻そのものがレイプ】なのである。


千九百二十八年(昭和三年)関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐が、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)を引き起こしてからの歳月を数えると、八十七年間が経過している。

つまり事件当時十歳を数え、リアルタイムで大陸侵攻工作を理解できた方の年齢は九十七歳になる。

こうした歳月にナショナリズム(民族主義)の感情が積みあがると、歴史の扱いの中で創作美化して行くもので、真の日本史から目を逸らされてしまう。


外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。


千九百五年(明治三十八年)、日本(大日本帝国)は日露戦争で勝利し、ロシアとの間でポーツマス条約(日露講和条約)を締結した。

この条約には、ロシア政府が清国政府の承諾をもって、旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を日本政府に移転譲渡する事が定められた。

この規定に基づいて同年には日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結された。

これにより、日本政府は「南満州鉄道」(満鉄)を千九百六年(明治三十九年)六月七日の勅令第百四十二号をもって創設し、同年七月三十一日の勅令百九十六号をもって関東都督府を設置した。


日露戦争(にちろせんそう)は、大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争で、言わば両国の満洲及び朝鮮に於ける自国権益の維持・拡大を目的とした戦争である。

同戦争は、千九百四年二月八日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃より開戦し、千九百五年九月五日に締結されたポーツマス条約により日露は講和した。

日本は日露戦争後に、中華民国からのロシア帝国の租借地を横滑りで日本の租借地として獲得した。

その租借地・関東州(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として大日本帝国陸軍の総軍の一つ関東軍(かんとうぐん)は誕生する。

当初の編制は独立守備隊六個大隊を隷属し、また日本内地から二年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ)一個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍で在った。

千九百十九年(大正八年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍(かんとうぐん)として独立した。

関東軍(かんとうぐん)が帝国陸軍の総軍の一つに昇格したのは千九百四十二年(昭和十七年)十月一日で、それ以前は軍の一つだった。

司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京(現・吉林省長春)に移転する。

「関東軍」の名称は万里の長城の東端とされた「山海関の東」を意味し、元々の警備地の関東州に由来する。


千九百二十八年(昭和三年)には、北伐による余波が満州に及ぶ事を恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件を起こす。

しかし、張作霖(ちょうさくりん)の跡を継いだ息子・張学良(ちょうがくりょう)は、国民政府への帰属を表明し関東軍の工作は裏目となった。

張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件や満州事変を独断で実行した事は、千九百二十年代からの国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させた事を意味する。

そして、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく左右する契機となった。


原則として、軍人は日々「戦い」を研究して当たり前の立場で、その「戦いの研究」は、常に実効性を念頭に計画している。

軍人とはそう言う存在だから、一部の者が自分達の計画に確信が持てれば「武力行使」と言う暴発に至っても仕方がない。


これら関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策からも逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者は出世した。

つまり関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀・石原莞爾中佐は、自らの発想を基点に行動をしていて、武士道で言う処の「君(天皇)の意向」など、最初から無視していた。


千九百三十一年、石原莞爾中佐・作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌千九百三十二年、満州国を建国する。

犬養毅首相は、当初満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件(ご・いち・ごじけん)の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。

その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任すると伴に、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たる。

一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。

関東軍司令部は、千九百三十四年に満州国の首都・新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。


一方で、千九百十七年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、千九百三十年代中盤頃までに第一次及び第二次五ヵ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。

当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。

千九百三十八年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第十九師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたい事を知る。

さらに千九百三十九年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった。

なお戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていたのだ。

歴史的な事例を見れば、百人の包囲軍に千人が降伏する事もある。

だから、現地も本国も「敗戦」と考えた戦闘を、後で調べたら「相手の損害の方が大きいので勝だった」など、もはや笑止噴飯ものの飽きれた論理である。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識された事や第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、千九百三十六年には、関東軍の編制は四個師団及び独立守備隊五個大隊となっていた。

そして、翌千九百三十七年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、千九百四十一年には十四個師団にまで増強された。

加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦に合わせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力七十四万人以上に達した。

「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われたて居たのは、この時期である。

なお、同千九百四十一年四月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

千九百四十二年十月一日には、関東軍の部隊編制が従来の「軍」から「総軍」へと昇格する。

関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した千九百四十三年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用される。

また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘の可能性が少なかった為、関東軍も進んで戦力を提供する。

その埋め合わせに千九百四十五年になると、在留邦人を対象に所謂(いわゆる)「根こそぎ動員(二十五万人)」を行う。

数の上では関東軍は七十八万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期より遥かに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には到っていなかった。


この「概略予話」以後の一話からは、項目別の詳細をご案内する。


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◆◇◆◇◆◇関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐◆◇◆◇◆◇


関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐

関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐によって「橋梁に爆弾が仕掛けられ実行された」が定説である。

河本大作は、千八百八十三年(明治十六年)一月二十四日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に、地主の子として生まれた。

大作は高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、千九百三年明治三十六年)十一月に陸軍士官学校(第十五期、卒業順位九十七番、歩兵科)を卒業。

翌千九百四年、大作は日露戦争に出征、重傷を負う。

千九百十四年(大正三年)に、大作は陸軍大学校(第二十六期、修了順位二十四番)を卒業し、軍人として順調に出世を重ねた。

千九百二十八年(昭和三年六月)、大作は階級が大佐で関東軍(かんとうぐん)参謀時、張作霖爆殺事件を起し、停職、待命、予備役編入となる。

勝手に軍事行動を起こしたこの暴挙は、天皇の軍統帥権を犯す大罪の筈だった。

当時首相の田中義一は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇裕仁陛下(しょうわてんのうひろひとへいか)に報告した。

しかし後の報告では関与の隠蔽を図った為、昭和天皇の怒りを買い、田中内閣の総辞職につなかった。


予備役編入後、大作は関東軍時代の伝手を用いて、千九百三十二年(昭和七年)に南満州鉄道の理事、千九百三十四年(昭和九年)には満州炭坑の理事長となった。

大作への関東軍の支援は続き、千九百四十二年(昭和十七年)、第一軍参謀長・陸軍少将の花谷正の斡旋により国策会社山西産業株式会社の社長に就任、満州国内の有力財界人となる。

大作は、ソ連軍の満州侵入後、山西産業は中華民国政府に接収されるも中華民国政府の指示により西北実業建設公司(旧・山西産業)の最高顧問に就任し中国で生活を続けた。

大作は中国国民党の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、千九百四十九年(昭和二十四年)には中国共産党軍は太原を制圧する。

大作は共産党軍の捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。

六年後の千九百五十五年(昭和三十年)八月二十五日、元陸軍大佐・河本大作は収容所にて七十二歳で病死した。

結局の所、河本大作(こうもとだいさく)は祖国日本との縁が切れても、「国益」とは関わらない個人資格の功名心で中国共産党軍と戦ったただの好戦主義者ではなかったのか?

なお、陸軍士官学校第十五期の大作は、陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)の次男・保典(やすすけ/歩兵少尉、日露戦争で戦死)と同期である。


張作霖(ちょうさくりん)は、中華大陸が日・欧・米・露の利権争いの中で治世権力が混沌とした時代に頭角を現し、中華大陸を我が物にしよう(中華民国の主権者に成る)と野望を抱いた人物である。

しかし張作霖(ちょうさくりん)の野望は、暗殺に拠って潰(つい)えてしまった。


正直、張作霖(ちょうさくりん)の暗殺から満州国建国までの軌跡を辿ると、とても卑怯な事はしない筈の武士道の国の皇軍・関東軍は手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。

明治維新から千九百四十五年(昭和二十年)の終戦までは、「国益」と言えば、何でも通る様な風潮の時代だった。

その「国益」と言う怪しい言葉で、「満州(東三省/中国の北東地方)の侵略」と言う関東軍の謀略は始まった。

この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?

幾ら綺麗事の大儀名分を並べても人間には金・地位・名誉などの欲があり、何らかの得るものがなければ熱心に行動はしない。

現在の官僚達のシロアリぶりでも判る通り、頭の良い人間ほど知恵を使って自らの得を得る事を考える。

或いは関東軍佐官達は、自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。


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◆◇◆◇◆◇張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)◆◇◆◇◆◇◆


張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、千九百二十八年(昭和三年)六月四日、関東軍(かんとうぐん)に拠って奉天軍閥の指導者・張作霖が暗殺された事件である。

「奉天事件」、「皇姑屯事件」とも言われる張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、終戦まで事件の犯人が公表される事はなく、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

その「満州某重大事件」が「張作霖爆殺事件」 として表に出るのは、十七年後の太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦を待たなければ成らなかった。

しかし嘆かわしい事に、そのれっきとした資料が存在するにも関わらず、ナショナリズム(民族主義)の観点から「ソ連及び中共の謀略説」を主張する連中が後を絶たない。


元々張作霖(ちょうさくりん)はロシアから日本に転向したスパイで、日本の支援を得て勢力を拡大した。

その経緯(いきさつ)だが、千九百四年(明治三十七年)に日露戦争が勃発し、東三省(中国の北東地方)は戦場となった。

馬賊・張作霖(ちょうさくりん)はロシア側のスパイとして活動し、大日本帝国陸軍に捕縛される。

しかし張作霖(ちょうさくりん)に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。

この時、児玉の指示を受けて張作霖(ちょうさくりん)の助命を伝令したのが、後に首相として張作霖と大きく関わる事となる田中義一(当時は少佐)である。

その後、馬賊・張作霖(ちょうさくりん)は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。

馬賊出身で軍閥に成長した張作霖は、日露戦争で協力した事から日本(大日本帝国)の庇護を受け軍閥に成長している。


日本の関東軍による支援の下、袁世凱(えんせいがい)北京政府・安徽派の督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)・段芝貴(だんしき)を失脚させて満洲に於ける実効支配を確立し、当時最も有力な軍閥指導者の一人になっていた。

張作霖(ちょうさくりん)は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、千九百十八年年(大正七年)三月、段祺瑞(だんしき)内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。

千九百二十年八月の安直戦争の際には、張作霖(ちょうさくりん)は直隷派を支援して勝利する。

しかしまもなく直隷派と対立し、千九百二十ニ年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張作霖(ちょうさくりん)は東三省(中国の北東地方)の独立を宣言し、日本との関係改善に留意する事を声明した。

張作霖(ちょうさくりん)は、鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備える為の方便に過ぎなかった。

千九百二十四年に成ると、孫文(そんぶん)らの中国国民党と毛沢東(もうたくとう)らの中国共産党の間に結ばれた協力関係の第一次国共合作が成立する。

第一次国共合作当時の諸外国の支援方針は、奉天軍(張作霖)を日本が、直隷派を欧米が、中国国民党内共産党をソ連が支持と色分けられる。

千九百二十四年(大正十三年)の第二次奉直戦争で張作霖は馮玉祥(ふうぎょくしょう)の寝返りで大勝し、翌年、張作霖(ちょうさくりん)の勢力範囲は長江にまで及んだ。

千九百二十五年(大正十四年)年十一月二十二日、最も信頼していた部下の郭松齢(かくしょうれい)が叛旗を翻し、張作霖(ちょうさくりん)は窮地に陥った。

張作霖(ちょうさくりん)は関東軍の支援で窮地を脱する事ができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。

郭松齢(かくしょうれい)の叛乱は、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の使嗾(しそう/仕向ける・そそのかす)に拠るもので、馮の背後にはソ連がいた。

その為、張作霖(ちょうさくりん)は呉佩孚(ごはいふ)と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした。

千九百二十七年四月に張作霖(ちょうさくりん)は北京のソビエト連邦大使館を襲撃し、中華民国とソ連の国交は断絶した。

広東に成立した国民政府(国民党)の北伐で、直隷派が壊滅(千九百二十六年)する。

後、張作霖(ちょうさくりん)は中国に権益を持つ欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得る為、日本から欧米寄りの姿勢に転換する。

これに対して中国大陸に於ける権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖に行なう。

同時期、中国国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、千九百二十七年四月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石(しょうかいせき)が中国共産党員ならびにそのシンパの一部労働者を粛清し(上海クーデター)、国共合作が崩壊する。

北伐の継続は不可能となったが、このクーデター事件以降、蒋介石(しょうかいせき)は欧米勢力との連合に成功した。

千九百二十六年十二月、ライバル達が続々と倒れて行った為、これを好機と見た張作霖(ちょうさくりん)は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。


大元帥就任後の張作霖(ちょうさくりん)は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。

張作霖(ちょうさくりん)は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとしており、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。

この当時の各国の支援方針は奉天軍(張作霖)は欧米・日本、国民党と中国共産党 はソ連と言う図式だった。


千九百二十八年四月、蒋介石(しょうかいせき)は欧米の支援を得て再度の北伐を行なう。

当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発するようになった。

関東軍は蒋介石(しょうかいせき)から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖(ちょうさくりん)の存在は邪魔になってきた。

この当時の各国の支援方針は、奉天軍(張作霖)は無し、国民党には欧米、共産党にはソ連に変化していた。

また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。

しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止される。

千九百二十八年六月四日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖(ちょうさくりん)は北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)での再起を目論んで列車で移動する。

この列車で移動を察知した時、張作霖(ちょうさくりん)に対する日本側の対応として意見が分かれる。

田中義一首相は陸軍少佐時代から張作霖(ちょうさくりん)を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省(中国の北東地方)に戻して再起させる」という方針を打ち出す。

しかし現地の関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

為に「張作霖(ちょうさくりん)の東三省(中国の北東地方)復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針(暗殺)を打ち出した。


千九百二十八年(昭和三年)六月四日の早朝、張作霖(ちょうさくりん)は蒋介石(しょうかいせき)が率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた。

関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖(ちょうさくりん)を暗殺する計画を、関東軍司令官・村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。

河本大佐からの指示に基づき、六月四日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉、同第二大隊付の神田泰之助中尉、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉らが協力して行った。

現場指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。

二人は張作霖(ちょうさくりん)が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に点火した。

その為、爆風で上から鉄橋(南満洲鉄道所有)が崩落して客車が押しつぶされた上に炎上したものである。


張作霖(ちょうさくりん)の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速十km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬三百キロが爆発する。

列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落し、張作霖(ちょうさくりん)は両手両足を吹き飛ばされ、警備、側近ら十七名が死亡した。

張作霖(ちょうさくりん)は、現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺(のこ)す。

奉天城内の統帥府にかつぎこまれた時には絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと十七日後の六月二十一日にその死は発表された。

同列車には張作霖(ちょうさくりん)の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也(ぎがせいや)少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。

しかし儀我誠也(ぎがせいや)少佐が、事件直後に張作霖(ちょうさくりん)配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている。


張作霖(ちょうさくりん)の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬(まちのたけま)は張作霖に要請されて同道したが天津で下車した。

また、山東省督軍の張宗昌(ちょうそうしょう)将軍も天津で下車し、常蔭槐(じょう いんかい)は先行列車に乗り換えた。

車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。

同乗していた儀我(ぎが)少佐が事件直後に語った処に拠ると列車は全部で二十輌、張作霖(ちょうさくりん)の乗っていたのは八輌目であった。

爆破によりその八輌目の前側車輌が大破し、先頭部の六輌は二百メートル程走行して転覆し、列車の後半部は火災を起こした。

八輌目では張作霖(ちょうさくりん)の隣に呉俊陞(ごしゅんしょう)、その次に儀我(ぎが)少佐が座って会談していた。

呉俊陞(ごしゅんしょう)が張作霖(ちょうさくりん)と儀我(ぎが)少佐に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ爆発物が頭上から降って来る。

為に儀我(ぎが)は直ちに列車から飛び降り、張作霖(ちょうさくりん)は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。

近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我(ぎが)少佐は張作霖(ちょうさくりん)にそこで休む事を勧めたがこの時にはまだ「何、大丈夫だ」と答えていた。

やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着して現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張作霖(ちょうさくりん)は自動車でその場を離れ、大師府に入った。


なお張作霖(ちょうさくりん)乗車の車両は貴賓車であり、過(か)つては清朝末期に権勢を振るっていた西太后がお召し列車として使用していたものだった。

河本大佐らは、予め買収して置いた中国人アヘン中毒患者三名を現場近くに連れ出して銃剣で刺し、偽装工作を行う。

その死体を放置し「犯行は蒋介石(しょうかいせき)軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と、この事件が国民党の工作隊によるものであると発表する予定でいた。

しかし三名の内一名が死んだふりをして命を永らえ、現場から逃亡して程なく張作霖(ちょうさくりん)の息子・張学良(ちょうがくりょう)の下に駆け込んで事情を話した為に真相が中国側に伝わった。

奉天軍閥を継いだ張作霖(ちょうさくりん)の息子・張学良(ちょうがくりょう)も真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換している。

張学良(ちょうがくりょう)は、事件の約一年前の千九百二十七年七月に国民党に極秘入党していた事が、蒋介石(しょうかいせき)の日記から明らかになっている。

なお、張作霖(ちょうさくりん)の側近として同列車に同乗して事件で負傷した張景恵は後に満洲国国務総理大臣に就任している。


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◆◇◆◇◆◇◆◇柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)◇◆◇◆◇◆◇◆


柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日、現在の中国東北部(満州)の現在の瀋陽市(奉天)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件である。

この南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件は関東軍の自作自演(偽旗作戦)で、関東軍の謀略によって起こった満州事変の発端となる事件である。

当時、関東軍(かんとうぐん)の兵力は凡(およ)そ一万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と二年交代で駐箚(ちゅうさつ/派遣滞在)する内地の一師団(当時は第二師団、原駐屯地は宮城県仙台市)によって構成されていた。

八月二十日日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、遼東半島南端の旅順(当時、日本租借地)に置かれていた。

幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。

独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官・森連中将、参謀・樋口敬七郎少佐で在った。

第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、第三旅団に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した。


当日(九月十八日)午後十時二十分頃、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)北方約七・五キロメートルの柳条湖付近で南満州鉄道(満鉄)の線路上で爆発が起き、線路の一部が破壊される。

まもなく、関東軍より「爆破事件が中国軍の犯行」によるものである事が発表される。

日本では一般的にこの事件は、太平洋戦争終結に至るまで爆破は張学良(ちょうがくりょう)ら東北軍の犯行と信じられていたが、実際には関東軍の部隊によって実行された謀略だった。

事件の首謀者は伴に陸軍中央の研究団体である一夕会の会員で、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀・石原莞爾中佐である。

両名とも張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任して居た。

この計画に参加したのは前述の立案者・石原中佐と板垣大佐、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官・花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官・今田新太郎大尉であった。

爆破の為の火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本中尉は密接に連携をとり合った。

直接の爆破実行は、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備隊第二大隊(大隊長は島本正一中佐)・第三中隊(中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名によって行なわれた。

この他に謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名とされている。

河本中尉が伝令二名を伴なって現場におもむき、斥候中の小杉喜一軍曹とともに線路に火薬を装填した。


川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、奉天の北約十一キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くやただちに軍事演習を中止した。

中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、奉天の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。

参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している。

板垣参謀は事件を「中国側からの軍事行動である」として特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮する。

板垣参謀は独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、更に北大営および奉天城への攻撃命令を下す。

北大営は奉天市(瀋陽市)の北郊外にあり、約七千名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。

また、市街地中心部の奉天城内には張学良・東北辺防軍司令の執務官舎が在った。

ただし事件当時、東北辺防軍司令・張学良は麾下(きか/指揮下)の精鋭十一万五千を率いて北平(現在の北京)に滞在していた。

本庄繁・関東軍司令官と石原中佐・作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、奉天、遼陽などの視察に出かけて居り、事件の在った九月十八日の午後十時頃、旅順に帰着した。

しかしこの時、板垣高級参謀(大佐)だけは、関東軍の陰謀を抑える為に陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えると言う名目で奉天に残っていた。

午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、「中国軍によって満鉄本線が破壊された為、目下交戦中である」と言う奉天特務機関からの電報が届けられる。

しかし、これは既に板垣中佐が攻撃命令を下した後に発信したものだった。

昭和天皇裕仁陛下(しょうわてんのうひろひとへいか)の平和への御意志など忖度(そんたく)もせず、自らの功名の為に満州に武力侵攻を企てたのは、石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)である。

石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)は伴に「上士格の家格を持つ家柄だった」が、維新時に旧幕府方に付いた奥州(東北)列藩の出自である。

薩長土肥の藩閥政治から置いて行かれた両名には、何処かで殊勲を上げる家名再興の気持ちが強かったのかも知れない。

石原莞爾(いしはらかんじ)の父・石原啓介は元山形県庄内藩士で、莞爾の祖父は酒田奉行の要職を勤む結構な家柄だった。

その石原啓介の長男として鶴岡に生まれた莞爾(かんじ)は、仙台の幼年学校から士官学校(二十一期)を経て、明治四十二年、少尉に任官して山形の第三十二連隊に就任する。

莞爾(かんじ)は会津若松連隊の新設にともなって転勤、才能を認められた上司に勧められて入学した陸軍大学校を優等で卒業している。


板垣征四郎(いたがきせいしろう)は旧盛岡藩士族で、父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を務める地元の名士だった。

征四郎(いたがきせいしろう)は、盛岡中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(十八期)で学び、陸軍大学校(二十八期)を卒業している。

その二人が、満州の地・関東軍に赴任してある目的で意見が一致した。

その一致した目的が、満蒙領有計画だったのである。


石原莞爾(いしはらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐は、関東軍に拠る満蒙領有計画を立案する。

それにしても、元々戦時行為の陰謀と言うものは、「一歩間違えれば」の危険を孕(はら)んだものである。

それを、たかだか方面軍の佐官クラスの参謀が兵を勝手に動員して、戦時行為を実行して良いものだろうか?

もっとも、この事件について第二次世界大戦後に発表された奉天特務機関補佐官・花谷正少佐の手記に依れば、関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑十郎中将、参謀本部第一部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班・長橋本欣五郎中佐らも「この謀略を知って賛意を示していた」とされる記述がある。

つまり関東軍は、手段を選ばず「行け行けドンドン」の組織だった。

彼らの本心は功名心に駆られた個人的野望で、お題目の「国益」など二の次だったのでは無いのだろうか?


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◆◇◆◇◆◇五・一五事件(ご・いち・ごじけん)◆◇◆◇◆◇


五・一五事件(ご・いち・ごじけん)

五・一五事件(ご・いち・ごじけん)

五・一五事件(ご・いち・ごじけん)は、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に日本で起きた反乱事件である。

武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣・犬養毅を殺害した。


この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、第一次上海事変に出征して戦死した藤井斉(ふじいひとし)とは同志的な関係を持っていた。

事件は、千九百三十二年(昭和七年)二月から三月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺事件)・血盟団事件に続く昭和維新の第二弾として決行された。

古賀中尉は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、著名な思想家・大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。

農本主義者で「愛郷塾」主宰・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉・西田税を繰りかえし説得して、後藤映範(ごとうえいはん)ら十一名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

三月三十一日、古賀中尉と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。


決行日の五月十五日は日曜日で、犬養首相は終日官邸にいた。

第一組九人は、海軍中尉・三上卓以下五人を表門組、海軍中尉・山岸宏以下四人を裏門組として二台の車に分乗して首相官邸に向かう。

彼らは午後五時に二十七分頃に官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせ、内一名が五月二十六日に死亡している。

三上中尉は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかった為に発射されず、犬養首相に制止された。

そして犬養毅首相自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩勇予備役海軍少尉が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上中尉が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。

襲撃者らは、銃撃後すぐに去った。

それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって絶命した。

首相官邸以外にも別の襲撃組に、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、いずれも被害は軽微であった。

千九百三十二年(昭和七年)六月十五日、資金と拳銃を提供したとして思想家・大川周明が検挙された。

同年七月二十四日、「愛郷塾」主宰・橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。

同年九月十八日、拳銃を提供したとして「柴山塾」主宰・本間憲一郎が検挙され、十一月五日には 玄洋社社員・頭山秀三(頭山満の三男)が検挙された。

この五・一五事件(ご・いち・ごじけん)以後、政権と政治家は軍部寄りになり、政権の軍部への統制力が弱体化して行った。


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◆◇◆◇◆◇◆◇満州事変(まんしゅうじへん)◆◇◆◇◆◇◆◇◆


満州事変(まんしゅうじへん)

満州事変(まんしゅうじへん)

この柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を発端に、関東軍はこれを満州事変(まんしゅうじへん)に発展させて行く。

満州事変(まんしゅうじへん・中国側の呼称は九一八事変)は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(かんとうぐん)(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。

関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。


満州事変(まんしゅうじへん)・中国側の呼称は九一八事変は、千九百三十一年(昭和六年)九月十八日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発した武力紛争(事変)である。

関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、千九百三十三年(昭和八年)五月三十一日の塘沽協定(たんくきょうてい/塘沽停戦協定)成立に至る大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)だった。


柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)の報せをうけた本庄繁(ほんじょうしげる/関東軍司令官)は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。

所が、参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐、ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきと言う強硬な意見を上申する。

その上申に押される形ちで本格的な軍事行動を決意、十九日午前一時半頃より石原中佐の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。

また、それと伴に石原中佐らは、予(か)ねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。

本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だった筈だが、その規定は無視された。

攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地に及よんだ。

深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原中佐らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。

これは、事件勃発にともない関東軍司令部を奉天に移す為であった。

列車は十九日正午頃に奉天に到着し、司令部は奉天市街の東洋拓殖会社ビルに置かれる事となった。


一方、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれる形ちで多少の反撃を行なったが、本格的に抵抗する事なく撤退した。

これは、張学良(ちょうがくりょう)が予(か)ねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからで在った。

北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、九月十九日午前六時三十分には完全に北大営を制圧した。

この戦闘による日本側の戦死者は二名、負傷者は二十二名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約三百体と記録されている。


奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。

ここでは、密かに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた二十四センチ榴弾砲(りゅうだんほう)ニ門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。

それで、午前四時三十分までの間に奉天城西側及び北側が占領された。

奉天占領の為の戦闘では、日本側の戦死者ニ名、負傷者二十五名に対し、中国側の遺棄死体は約五百にのぼった。

また、この戦闘で関東軍は中国側の飛行機六十機、戦車十二台を獲得している。

安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った。

しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約六千の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。

日本軍は、六十六名の戦死者と七十九名の負傷者を出して漸(ようや)く中国軍を駆逐した。

こうして関東軍は、九月十九日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した。

九月十九日午後六時、本庄繁・関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三・参謀総長に宛てた電信で、「北満も含めた全満州の治安維持を担うべきである」との意見を上申した。

これは事実上、全満州への軍事展開への主張である。

本庄司令官は、その為の三個師団の増援を要請し、更にその為の経費は満州に於いて調達できる旨を伝えた。

こうして、満州事変の幕が切って落とされる。

翌九月二十日、奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった。

九月二十一日、林銑十郎・朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後一時二十分、同部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。


千九百二十八年(昭和三年)の張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の後、息子の張学良(ちょうがくりょう)は反日に転じていた。

張学良(ちょうがくりょう)政権は南京の国民党政権と合流し、満州では排日事件が多発する。

千九百三十年(昭和五年)四月、張学良は満鉄への対抗策として満鉄並行線を建設、その為南満州鉄道会社は創業以来初めて赤字に陥り、深刻な経営危機に陥っている。

また、蒋介石(しょうかいせき)の国民党政権は千九百三十年五月に新鉱業法を制定して日本人の土地と鉱業権取得を制限した為、日本人による企業経営の多くは不振を余儀なくされた。

加えて千九百三十年から翌三十一年にかけての日本経済は世界恐慌の影響によって危機的な状況に陥り(昭和恐慌)、企業倒産、失業者の大量発生、農村の疲弊など深刻な不景気にみまわれた。

当時の日本国民にとって満州における権益は、日露戦争で父祖や先人が血を流して獲得したものであり、「満蒙は日本の生命線である」と言う意識が共有されていた。

結局の処、国内の経済不況に対して中堅参謀が、軍事行動を含む策謀を持って「他人の国に財源を求めた」のが満州の侵略である。

確かに関東軍の中堅参謀が謀った事ではあるが、その基本的な侵略政策に多くの国民が国内不況の「リアルな解決策」として支持していたのは事実である。

そしてその中華大陸は、日本の他に米・露・欧の支援を受けた各勢力が内戦を繰り広げる代理権益争奪戦の舞台と成っていた。

それ故、満蒙の支配が揺らぐ事は日本の危機であると捉える国民が多かった。


帝国議会で、前満鉄副総裁で野党立憲政友会選出の衆議院議員・松岡洋右が「満蒙はわが国の生命線である」と述べ、立憲民政党内閣の「軟弱外交」を批判して武力による強硬な解決を主張したのも千九百三十一年一月の事であった。

千九百三十一年(昭和六年)六月、参謀本部から対ソ作戦の為に興安嶺方面の軍用地誌を初めとする情報収集を命じられた中村震太郎大尉が、トウ南と索倫の間で現地屯墾軍の中国兵に怪しまれて射殺される中村大尉事件が起こった。

昴昴渓(現在の黒竜江省チチハル市昂昂渓区)に於いて旅館を経営している井杉延太郎・予備役曹長も同時に殺害された。

七月末になって関東軍がその殺害の事実をつかみ外交交渉に入ったが交渉の進展ははかばかしくなく、関東軍はいらだちを強めた。

中国当局は表面的にはこの事件を穏便に処理しようとしていたが、本心では身分を偽っての偵察行為はスパイ活動であり、処分は当然ではないかと言う憤懣(ふんまん)があった。

一方、日本では、この事件は八月に公表されたが、中村大尉が諜報活動に従事していた事は伏せられて報道された事も在って、参謀本部現役将校の殺害に国内世論が沸騰した。

中国側報道の中に「中村大尉殺害は事実無根」などと言う者があり、それが日本で報じられた事も在って中国側の非道を糾弾し、対中強硬論が一挙に強まって日中関係が緊迫した。


千九百三十一年(昭和六年)七月、万宝山事件が起こっている。

万宝山事件は、長春の北、三姓堡万宝山集落の農業用水をめぐる朝鮮人農民と中国人農民との対立に端を発しており、ここに水路を造ろうとした朝鮮人と、それに反対する中国人が衝突した事に起因する。

韓国併合後、困窮化した朝鮮半島の農民は、多く日本や満州に流入したが、朝鮮総督府は朝鮮人の日本への渡航を厳重に取り締まった一方で、満州への移住は従来通りとした為、在満朝鮮人が急増し、在満朝鮮人と中国人の関係は紛争の火種となった。

中国人農民に中国側の警察官、朝鮮人には日本領事館がそれぞれ支援にまわったが、中国人農民が実力で水路を破壊、日本人警官隊と衝突する事態へと発展した。

発砲事件も起こったが、幸い双方どちらも死傷者は出なかった。

しかし事件の詳細が誤って伝えられると、朝鮮半島各地で中国人への報復(朝鮮排華事件)が多数発生し、百人以上の中国人が殺害されて日中間の緊張を高めた。

このニつの事件は、日本国民に「満蒙の危機」を強く意識させた。

そして、満蒙に於ける日本と中国との対立は一触即発の状態になっていた。


国民は、軍部とそれに迎合したメディアに見事に操られていた。

まぁ、メディアも楽に取材できるから当局とは癒着し、結果当局に都合が良い報道が為される事になる。

貧しい民としては、植民地が増えれば、「やがて豊かに成る」と海外の富の収奪に望みを託し、「国益」と言えば何でも通る様な風潮の時代だった。

この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?

或いは自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。

更に、第二次若槻内閣の幣原喜重郎外相による国際協調路線に立つ外交(幣原外交)は「軟弱外交」と形容され、国民の間では、こうした手法では満蒙問題を十分に解決できないと言う不満が強まっていた。


柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明が在ったにも関わらず関東軍はこれを無視して戦線を拡大する。

関東軍は千九百三十一年(昭和六年)十一月から翌千九百三十二年(昭和七年)二月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領した。

一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。

列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。

千九百三十二年一月に関東軍が張学良(ちょうがくりょう)による仮政府が置かれていた錦州を占領する。

すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

国際連盟は、千九百三十一年(昭和六年)十二月十日の連盟理事会決議によって、千九百三十二年三月、満州問題調査の為にイギリスのリットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)を現地に派遣した。

リットン調査団の調査は三ヵ月に及んで同年六月に完了、同年九月には調査の結果をリットン報告書として提出した。

その間、若槻内閣は閣内不一致で千九百三十一年十二月に退陣、替わって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。

関東軍は満州より張学良(ちょうがくりょう)政権を排除し、千九百三十二年(昭和七年)三月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。

犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、千九百三十二年五月の五・一五事件では犬養首相が暗殺される。

海軍軍人の斉藤実に首相の大命が下ると、斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜する。

しかし軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、千九百三十二年九月には日満議定書を結んで満州国を承認した。


関東軍は僅(わず)か五ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。

所謂(いわゆる)十五年戦争(中国での名称は、十四年抗日戦争)の発端は、この満州事変を基点としている。


一連の関東軍の軍事行動は、どんなに取り繕っても侵略行為である。

千九百九十年の過(か)って、フセイン大統領統治下のイラクが突然にクエートに侵攻して国際的な非難を浴びた。

また、二千十四年にプーチン大統領統治下のロシアが、ウクライナの内紛に軍事的影響力を駆使して、国際的な非難を浴び、西側から経済封鎖を受けている。

これら他国の事象を「理不尽」と思うなら、過(か)って日本の関東軍が中国に仕掛けた軍事行動とどこが違うのだろうか?

もう少し言わせてもらえば、天皇陛下が望まなかったにも関わらず、天皇陛下の名の下で自爆特攻して行った兵士と、アッラーの神の名の下に一部のイスラム教徒が自爆攻撃をする狂気とどこが違う?

つまりイスラムの殉教自爆と日本軍の自爆特攻の違いは、大差無い気がする。

もし、ナショナリズム(民族主義)の観点を発揮して「関東軍の行為を正義だった」と主張するなら、領土問題に於ける他国の行為を「理不尽」と非難するのは、理屈として大きな矛盾である。


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◆◇◆◇◆◇◆◇満洲国(まんしゅうこく)の建国◆◇◆◇◆◇◆◇◆


満洲国(まんしゅうこく)の建国

満洲国(まんしゅうこく)の建国

満洲国の建国により、中国市場に関心を持つ米国ら他の列強との対立も深刻化した。

満州国(まんしゅうこく)は、千九百三十二年から千九百四十五年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家である。

大日本帝国および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。

溥儀(ふぎ)を皇帝とする帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」或いは「満州帝国」などとも呼ばれていた。

柳条湖事件発生から四日後の千九百三十一年九月二十二日、関東軍(かんとうぐん)の満州国領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。

参謀本部は参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張した。

石原中佐は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねる事を条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。

この時点で現地では、関東軍の工作により反張学良の有力者が各地に政権を樹立している。

千九百三十一年九月二十四日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織される。

同月二十六日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、二十七日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。

翌千九百三十二年二月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。

二月十六日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。

二月十八日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。

千九百三十二年三月一日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した。

元号を「大同」とし、首都には長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥(ていこうしょ)が就任した。

その後、千九百三十四年三月一日には溥儀(ふぎ)が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行して元号を「康徳」に改元した。

国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(ていこうしょ/後に張景恵)が就任した。

元々満州(中国東北部)は 、歴史上おおむね女真族(じょしんぞく/後に満州族と改称)の支配区域で、満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金朝や後金朝(後の清朝)がある。

千九百十二年の清朝(清帝国)滅亡後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。

千九百三十一年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。

関東軍の主導の下、同地域は中華民国からの独立を宣言し、千九百三十二年三月、満洲国の建国に至った。

元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。

満洲国は建国にあたって自らを満州(女真族)民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとした。

また建国理念として、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。

当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の千九百四十五年(昭和二十年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、八月十八日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する。

満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。

その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。

また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北地区」と呼称している。

日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。


つまり、太平洋戦争の発端は日本の侵略行為であるが、こう言う事を書くとナショナリズム(民族主義)を発揮して事の是非を度外視して反発する輩が沢山居る。

しかし小生は歴史を学ぶ者で在って、ナショナリズム(民族主義)の観点で美化した日本史は良しとしない。

勿論、当然ながら史実と違う事は正面から指摘する。

中国側が主張する「南京大虐殺」は物理的に不可能な数字で、「大袈裟過ぎる」と言わざる負えないが、かなり小規模でも「虐殺」が在った事は事実ではないだろうか?

また歴史を学ぶ者としては、韓国側が主張する「従軍慰安婦の強制連行」は、全く認める事が出来ない嘘の創作である。


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◇◆◇◆◇国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)とは、千九百三十三年(昭和八)三月二十七日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退を通告した事を言う。

国際連盟創立以来の原加盟国、常任理事国として重きを占めてきた日本は、満州事変を契機にその地位が一転し、事件が中国によって連盟に提訴された。


当時の日本とっては「ソ連の南下脅威論」が主流であり、ソ連の南下を封じるには日本の防衛線を朝鮮半島から満州まで拡大するする事が急務と論じられていた。

つまり「ソ連の南下脅威論」を正当な理由に、軍事力を背景にして無理やり満州国の成立を図った。

しかし国際間常識では、満州国は日本の侵略行為にしか見えず、「ソ連の南下脅威論」は正当な理由にはならなかった。

結果、列国から、満州事変に関する日本の行動を問責非難される立場に立たされる。

きっかけとなったリットン調査団報告は、満州(当時)での日本の権益にも一定の理解を示したが、満州国を不承認とした事に日本は反発する。


千九百三十一年(昭和六)の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は翌三十二年十月公表された。

内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家である事を事実上認めるものであった。

そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論が興(おこ)り、財界の一部もこれに同調した。


同千九百三十二年十二月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。

同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、千九百三十三年(昭和八)二月二十四日の連盟総会は四十四ヵ国中四十二ヵ国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択した。

日本全権・松岡洋右(ようすけ)はこれに抗議して直後に議場を退場、翌月、連盟脱退を通告する。

連盟脱退により日本は、孤立の道を歩む事になった。


この連盟脱退を解説するなら、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ=シャム)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行っていた。


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◆◇◆◇◆◇◆◇盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)

満州国建国後日本は、千九百三十三年三月二十七日に国際連盟脱退し、中満の国境を越えて中国領内に支那駐屯軍を置いていた。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、千九百三十七年(昭和十二年)七月七日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍(司令官・宋哲元/そうてつげん)との衝突事件である。

中国では一般的に七七事変と呼ばれるこの事件は、支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。

事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づくもので、以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたが俗称である。

また、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きる前年(千九百三十六年/昭和十一年)、青年将校が反乱を企てた二・二六事件が起こっている。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機(とうじょうひでき)ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。


千九百三十七年(昭和十二年)七月七日、日本軍支那駐屯軍所属の豊台に駐屯していた第三大隊(第七、八、九中隊、第三機関銃中隊)及び歩兵砲隊は、北平の西南端から十余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。

この演習については日本軍は七月四日夜、中国側に通知済みであった。

第三大隊第八中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後十時四十分頃 永定河堤防の中国兵が第八中隊に対して実弾を発射する。

しかもその実弾発射の前後には永定河堤防の中国兵は宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。

実は、盧溝橋事件より二カ月あまり前の千九百三十七年(昭和十二年)四月、第二十九軍は対日抗戦の具体案を作成し、五月から六月にかけて、盧溝橋、長辛店方面に於いて兵力を増強する。

それと伴に軍事施設を強化し、七月六日、七日には既に対日抗戦の態勢に入っていた。

当時日本軍北支那駐屯軍は、中国北部に於ける日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負っていた。

日本軍は天津に主力を、更に北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲の為連日演習を続けていた。

その為清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告すると伴に、部隊を撤収して盧溝橋の東方約一.八キロの西五里店に移動し七月八日午前一時頃到着した。

七月八日午前十時頃に急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。

牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、及び夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉及び冀察外交委員会専員・林耕雨等も中佐と同行した。

これに先立って豊台部隊長は直 ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求した.

だが、その交渉中の八日午前四時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近 の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃して来た。

この為、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍 に対し武装解除を要求した。

この戦闘に於いて日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者二十数名、負傷者は六十名以上で在った。

午前九時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は八日午後零時二十分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後八時には戒厳令を施行する。

憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は八日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。

九日午前二時になると中国側は遂に午前五時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前六時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しない。

そればかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対し度々銃撃を行った為、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行った。

中国側はやむを得ず九日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させる。

その督促の結果、中国側は午後零時十分、同地の部隊を一小隊を残して永定河右岸に撒退を完了し、残った一小隊は保安隊到著後交代させる事になった

一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。

この日午後四時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉の為天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは十日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があった。

同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から 南進した中国兵が九日午前二時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃する。

この為牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後九時頃龍王廟を占領する。

この戦闘に於いて日本側は戦死六名、重軽傷十名を出した。

十一日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約二kmの五里店付近に集結した。

この時点で、当時砲を有する七〜八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にいた。

長辛店及び蘆溝橋の兵力を増加し、永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥った。

日本軍参謀長は交渉決裂の為、十一日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。

同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のある事を察知すると急遽態度を翻して午後八時に北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議を受け入れる。

中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各 種団体取締を行うなどを、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

この事件後に、日中間で幾つかの和平交渉が行われている。

千九百三十七年(昭和十二年)七月、盧溝橋事件が勃発した後、二十九軍司令官・宋哲元(そうてつげん)は日本軍側との人脈を生かして、一旦は停戦に持ち込んだ。

七月十八日に宋哲元は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度の事については軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐ事にしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」と言う丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行う。

翌十九日に宋哲元(そうてつげん)は、日本軍との停戦協定を樹立している。

しかし結局、宋哲元(そうてつげん)の第二十九軍は部下の反日感情により何度も発砲を繰り返した為に日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。

日華事変(にっかじへん)=支那事変(日中戦争)の本格的な軍事衝突は、この「盧溝橋事件」が発端だったのである。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇軍閥・財閥と二・二六事件◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


軍閥・財閥と二・二六事件

軍閥・財閥と二・二六事件

維新は成功し、「近代日本政府」はやっと成立した。

だが、やがて新しい制度の中で新たな権力が育って富が一部に集中し、その財力が日本を戦争への道へ進ませ、悲惨な歴史を刻み始めるのに五十年とは要さなかったのである。

「財閥と軍部の台頭」がそれで、つまり、近、現代における政治・経済の構造は、漏れ無く「四、五十年」で体制疲労してしまうのだ。

明治維新に拠って士族社会と言う特権枠が取り除かれ、庶民も学問次第で「為し得る地位の権利」を平等に保有するようになったが、それは永く続いた村社会(共生社会)の崩壊の序章であり、それと同時に新しい形の格差が始まった時代でも在る。

この希望に燃えた夢の時代は、はかなくも「軍閥と財閥」と言うモンスター(怪物)を生み出し、やがて「軍閥と財閥」の利の為に政治が動かされて国家国民が戦争へと駆りだされて行くのである。

先の大戦に至る日清戦争日露戦争朝鮮半島併合満州国建国、など近隣国を巻き込む「不幸な歴史」も、その背景には「日本国内の不況」と言う事情があった。

千九百三十六年(昭和十一年)、民間人を含む皇道の派の二十歳代の隊付の青年将校のリーダー達十七名(大尉から少尉が中心)とその指揮下にある兵約千五百名に拠る「昭和維新・尊皇討奸」を目指す二・二六事件が勃発する。

斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監その他警備の警察官などを殺害したこの動乱も、皇道の派と統制派の権力争いの側面を持ちながらも、不況の中、陸軍士官学校出の青年将校が立ち上がった改革クーデターである。

維新の制度改革に拠って初めて氏族ではない将校が誕生するに至り、見捨てられた農村部の苦境が実感として判る様になったからである。

その背景には、財閥と軍の結び付きによる「富の集中」があり、暴力を肯定するものではないが、彼らの心情は察する所余りある。

一部の金持ちと、多くの貧乏人と言う構図が出来上がっていた。

二・二六事件当時、大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ)が主導した「リフレーション政策」はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見された。

この為、予見されたインフレーションを抑えるべく軍事予算の縮小を図った所、岡田内閣は軍部の恨みを買う。

千九百三十六年(昭和十一年)二・二六事件に於いて是清(これきよ)は赤坂の自宅二階で中橋基明中尉以下の青年将校らに襲撃され暗殺された。

是清(これきよ)の友人・予備役海軍大将・斎藤実内大臣もまた、この二・二六事件で坂井直中尉以下の襲撃部隊に暗殺された。

しかしこの帝都を揺るがす暗殺事件は、時の帝・昭和天皇の勘気を蒙りクーデターは鎮圧される。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機(とうじょうひでき)ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。

当時、農村部の小作農家の娘達の多くは、都会の娼婦館に身売りして行かざるを得ない程、経済的に追い詰められていた。

「野麦峠」などの作品で知られる劣悪な労働条件下の奉公も、農家に米の収穫以外に現金収入を得る手段が無かったからである。

その環境下で凶作に合うと、農村部はひとたまりも無い。

そこで、軍閥と財閥が狙ったのが満州であり、中国である。

つまり、次の四、五十年の原資を、闇雲(やみくも)に「外地に求めた」のだ。

そして、その無理は通らなかった。

他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。

他国・異民族ともなると、民族意識が強く、侵略されても容易に屈服はしない。

従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。

豊臣秀吉政権(朝鮮征伐/文禄・慶長の役)の無謀な外地獲得行為の教訓は忘れられていた。

長期的に見ると、富が一部に集中するやり方は資金の回転を鈍らせ、内需は慢性不況に陥る事になる。

一番単純な話し、痩せた土地からは思うような収穫は得られない。

国民を富ませなければ国税は得られない。

一部を富ませるやり方は、やがてその一部に国の方向まで握られ、彼らの利益のみに国家の方針が進む事になる。

経済運営とは、一歩間違うと国の進むべき方向を狂わしたり、国を滅したりする魔物なのだ。

つまり、国民を豊かにする事こそ国家の暴走を止める唯一の手段である。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇日華事変(にっかじへん)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


日華事変(にっかじへん)

日華事変(にっかじへん)

日華事変(にっかじへん)=支那事変(しなじへん)とは、千九百三十七年(昭和十二年)七月から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である。

ただし当初は、両国とも宣戦布告を行わなかった為に「事変」と称していた。

「支那事変」と言う呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は「日中戦争」と呼ばれている。

支那事変は、千九百三十七年(昭和十二年)七月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。

八月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈して行った。

この情勢にソ連は空軍志願隊を送り、中華民国側を援護する動きに出た。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月までは日中双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争と言う体裁を望まなかった。

戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となる為である。

国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石(しょうかいせき)側にとっても「戦争と認めては不利」とされたのである。

特に中国にとっては、千九百三十五年に制定されたアメリカの国内法である中立法の適用を避けたかった事も大きい。

中立法は外国間が戦争状態にある時、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器及び軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。

当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事も在って発動は見送られた。

事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援を始める。

日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘(おうちょうめい)を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。


千九百四十一年(昭和十六年)十二月八日の日米開戦と伴に蒋介石(しょうかいせき)政権は九日には日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。

同十二日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。

当初の武力衝突を日中双方が「事変」としていた為、日本では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた。

新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。

日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。

戦後の学校教育では当初「日華事変」に統一されていたが、昭和五十年代以降は徐々に「日中戦争」と言う呼称が広まった。

これは「事実上の戦争である」との歴史学界による学説に拠り「事変」から「戦争」に表現を変更した。

更に主として日本教職員組合など教育現場やマスコミが、「支那」と言う言葉が「中国を侮蔑するニュアンスを含む」と指摘する。

加えて、占領軍(GHQ)や中華民国・中華人民共和国(建国前)両政府の政治的圧力を受け、「支那」と言う言葉の使用を避けた為、「日中戦争」と呼称する事に成った。

なお本来「支那」と言う呼称に「差別的意味は無い」とする研究もあり、我輩もそれを採りたい。



千九百三十一年(昭和六年)板垣征四郎大佐は、石原莞爾(いしはらかんじ)らと満州事変を実行、二十三万の張学良軍を相手に僅(わず)か一万数千の関東軍(かんとうぐん)で、日本本土の三倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

只、この満州国の建国は、要は理性をスッ飛ばした感性で国民を高揚させ、民族意識を満足させるものだった事は確かである。

その点では、当時の国民が都合の良い情報だけを流されて理性が働かず、感性だけの甘い夢に踊らされて居た事になる。

ただしこの関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は、参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策から逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者達は出世した。

くどいようだが、卑怯な事はせず君命には逆らわない筈の「武士道の国の皇軍・関東軍」は、一皮剥(む)いた本音ば手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。


当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行っていた。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ノモンハン事件◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ノモンハン事件

ノモンハン事件

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、千九百三十九年(昭和十四年)五月から同年九月にかけて起こった満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件である。

この国境紛争事件には、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。

当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は「一国境紛争に過ぎない」と言うものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。

そしてノモンハン事件を「戦争」と表現するほどの大規模な武力衝突とするなら、日本政府は国民にひた隠しにしていたが、実は明治維新以降の戦闘として日本軍が始めて大敗を喫した一戦だった。


ノモンハンの呼称だが、清朝が千七百三十四年に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。

このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。

清朝が定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの千九百十三年の独立宣言以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されて来た。

しかし千九百三十二年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から十〜二十キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。

千九百三十九年(昭和十四年)にこの係争地で起きた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。


ノモンハン事件には五月の第一次ノモンハン事件と七月から八月の第二次ノモンハン事件に分かれ、第二次でさらに局面の変転がある。

第一次ノモンハン事件は両軍合わせて三千五百人程度規模の戦闘で、日本軍が敗北した。

第二次ノモンハン事件では、日本とソ連の両国それぞれが紛争にしては規模が大きい数万の軍隊を投入した。

七月一日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退される。

この後、日本軍は十二日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、良い結果を得られず断念する。

七月二十三日に到って、日本軍が再興した総攻撃は三日間で挫折した。

その後戦線は膠着したが、八月二十日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、三十一日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。


一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が八月末から攻撃に出て、九月八日と九月九日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。

九月十六日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地の内ノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。

停戦交渉はソ連軍の八月攻勢の最中に行われ、九月十六日に停戦協定が結ばれた。

いずれにしても対ソ連軍との戦闘は救い様が無い大敗で、植田謙吉・関東軍司令官は責任を問われ辞職した。

また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となった。

戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていた。

いずれにしても軍部も政府も敗戦と認識して居ながら、都合の悪い事は国民に隠す隠蔽体質(いんぺいたいしつ)は、変わらないのが為政者の悪い理屈である。


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◇◆◇◆◇ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう/ABCD encirclement)とは、事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。

千九百三十三年(昭和八)三月、日本はリットン報告書の採択に反対して、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退する。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

日本に対して行ったこの貿易制限の総体に、当時の日本の新聞が付けた名称がABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)であるが、正確な初出については良く分かっていない。

ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれるこの対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては研究者間でも一定していない。


よく、日本軍が先の大戦で太平洋や東南アジアに進行した事実を、「他国が仕掛けた事」として正当化しようと試みる連中がいる。

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)で、日本が一方的に経済的窮地に立たされたから「やむおえなく開戦した」と、都合が良い解釈を主張するノー天気な歴史観を持つ者だ。

その彼らが、現代のロシアや中国の強引な領土拡大主義には「とんでもない悪行」と批判的で、日本政府は欧米の対抗処置に理解を示している。

だが、戦前引き起こした「満州事変」こそ当時の日本の領土拡大主義で、それを強制手段「ABCD包囲網」で抑制しようとした結果の、破れかぶれの対米開戦が真珠湾攻撃である。

つまり戦前日本の領土拡大主義と、現代のロシアや中国の領土拡大主義と「どこが違う」と言うのか?

簡単に言ってしまえば、日本の中国侵略行為に歯止めを掛けようと欧米が介入して包囲網を引かれたのに、「理不尽に包囲された」と言う一方的な言い分で国民を扇動し対米開戦をした。

欧米列強のアジア侵略意志も在る中での日本の中国侵攻で、「欧米諸国の策略にハメられた」とかの説を述べる輩もいる。

勿論、深く国際情勢を掘り下げれば、日本だけが悪い訳では無いかも知れない。

だが、侵攻先の相手国(中国)の了解を得ずして「大東亜共栄圏を形成する目的だった」と言っても言い訳で、説得も説明も着かない。

外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)の考え方からすると、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は、正に勝算を度外視した「尊皇攘夷論と言う右脳域の観念」のみで開戦してしまった長州勤皇派の愚行だった。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。

反戦を信念とする事は「人命の尊重」であり、先の大戦でユダヤ人の人命を救った外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)の「まともな人間性」である。

この、世界から称賛される「杉原千畝(すぎはらちうね)の、まともな人間性」が無い方こそ、イキがったナショナリズム(民族主義)に陥(おちいれ)りかねない。

何故(なぜ)ならば、「自分達のナショナリズム(民族主義)に合わない人種は排斥(はいせき)されるべき」と主張するからである。

この論から言えば、「金儲けの為に武器を輸出する」発想など、「まともな人間性」の持ち主だとは思えない。

しかし安倍晋三氏の政権は、これとは正反対の「金儲けの為に、殺人の道具である武器を輸出する事」を合法化した。


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)の誘発は、日本の国際連盟脱退が契機であり、脱退の引き金になったのは、日本軍の中国侵攻に対するリットン報告書が中国側の言い分を支持した事からである。

間違ったナショナリズム(民族主義)は、間違った歴史認識を創りだし、国際紛争の種に成る。

それは、歴史的日本領(歯舞諸島、 色丹島、択捉島、国後島の北方四島や尖閣諸島に竹島)を「自国領」と主張する近隣諸国の間違ったナショナリズム(民族主義)も同様である。


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◇◆◇◆◇◆◇国家総動員法(こっかそうどういんほう)◆◇◆◇◆◇◆◇◆


国家総動員法(こっかそうどういんほう)

国家総動員法(こっかそうどういんほう)

国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、日中戦争の拡大が発展し第二次世界大戦中に行われた軍事国家としての要(かなめ)となる網羅的動員統制法である。

千九百三十八年 (昭和十三年)に制定された国家総動員法(こっかそうどういんほう)は戦時法規で、四月一日公布、五月五日施行となる。


第二次世界大戦期の日本の総力戦体制の根幹となった戦時法規で、千九百三十八年(昭和十三年)に第一次近衛文麿内閣の下(もと)で制定された。

この法律は、戦時に際し「国防目的達成」の為にあらゆる「人的」及び「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えたもので、一種の白紙委任状にも等しい授権法である。

その各条は、戦争遂行(せんそうすいこう)のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。

日中戦争中に、同法に基づく勅令として、国民徴用令、国民職業能力申告令、価格等統制令、生活必需物資統制令、新聞紙等掲載制限令その他の統制法規がつくられる。

千九百四十一年(昭和十六年)三月、日中戦争が拡大すると国家総動員法(こっかそうどういんほう)は大幅な改正が行われて罰則なども強化された。

戦時国家総動員は、すなわち「戦時(戦争に準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とされる広範な権限を政府に与えた。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争に突入すると、その戦時法規の適用は拡大され、誰も異を唱えられない効力で国民生活を全面的に拘束した。

つまり、「戦争遂行(せんそうすいこう)の為が全てに優先する国家体制」が、この国家総動員法(こっかそうどういんほう)の大幅な改正に依って成立して非常に悲惨な戦争への道程を、国民は歩んでいた。


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◇◆◇◆◇◆◇◆◇ヤルタ会談(ヤルタ密約)◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ヤルタ会談(ヤルタ密約)

ヤルタ会談(ヤルタ密約)

第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった千九百四十五年(昭和二十年)二月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。

ここでルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の三ヵ月後に日ソ中立条約を侵犯して対日参戦するよう要請する。

ルーズベルトはその対日参戦の見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わす。

その中には、日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益も含まれていた。

日本には認めないとあれほど言い張ってきたアメリカが、満洲の権益を共産主義のソ連には認めた訳である。

アメリカの提唱してきた「門戸開放」なるものは、これで単なるまやかしにすぎなかった事が露呈される。

ルーズベルトは、日本に対するアメリカの勝利をさらに確実にするためにはいかなる事をしてでもソ連に参戦してもらいたかったのである。

ソ連はこの密約を根拠に、千九百四十五年(昭和二十年)八月の終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島、樺太に侵攻を開始する。

これが、ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)の開戦経緯である。

そしてこのヤルタ密約こそが、その後の日本とソ連(ロシア)の間の「北方領土問題」の原因となっている。

このヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理について、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の四ヵ国はヤルタ協定を結ぶ。

ドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。


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◆◇◆◇ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)◆◇◆◇◆◇◆◇


ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、太平洋戦争末期にソビエト連邦軍が日ソ中立条約(千九百四十一年/昭和十六年締結)を一方的に破棄して満州に攻め込んで来た一連の奇襲攻撃の作戦・戦闘を指す。

このソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、千九百四十五年八月九日未明に開始された。

日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島に於ける一連の作戦・戦闘である。

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。


ロシア革命後のソ連は、世界を共産主義化する事を至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。

極東に於いては、朝鮮半島から満州地方に勢力を延ばしつつ在った日本との日ソの軍拡競争は千九百三十三年(昭和八年)からすでに始まっていた。

当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進した。

しかし千九百三十六年(昭和十一年)頃には、日ソ間に戦備に決定的な開きが現れていた。

師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站に渡って極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを「大きく凌いでいた」と言われる。

張鼓峰事件やノモンハン事件に於いて日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識した。

しかしながら、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争(大東亜戦争)勃発で南方へと移行し、対ソへの備えに手が回らない事となる。

千九百四十三年後半以降の南方に於ける戦局の悪化は、関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらせ弱体化が進んだ。

満洲に於ける日本の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、終(つい)に千九百四十五年五月に敗北した。

この日ソ中立条約、元々国家間に誠意が在っての条約ではない。

ただ単に、米英中と言った相手と戦争する日本に、「背後からソ連に攻められない為」とドイツと戦うソ連が、「背後から日本に攻められない為」と言う互いの利が一致したからである。

つまりどちらの国も、前面の敵が無く成れば条約を破棄して開戦に到る可能性は充分に在った。

ドイツ軍が敗北した事でソ連側に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。


クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じ頃対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。

千九百四十三年十月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。

この時ソ連は「ドイツを破ったのちに参戦する方針」と回答する。

千九百四十五年二月のヤルタ会談(ヤルタ密約)では対日参戦要請を具体化し、ドイツ降伏後三ヶ月での対日参戦を約束する。

ソ連は千九百四十五年四月には、千九百四十一年に締結された五年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めない事を、日本政府に通告する。

ドイツ降伏後のソ連は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。

日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとする。

しかし日本政府では、ソ連が中立条約の不延長を宣言した事やソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議に於いて総合的な国際情勢について議論がなされる。

ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(千九百四十五年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。


この頃の関東軍首脳部は、日本政府よりもソ連参戦事態の可能性を重大な警戒感に見ていなかった。

総司令官は千九百四十五年(昭和二十年)八月八日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していた事からもそれが観てとれる。

時の山田総司令官は戦後に、「ソ軍の侵攻はまだ先の事であろうとの気持ちであった」と語っている。

関東軍第一課(作戦課)に於いては、関東軍参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。

この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。

当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていた。

それでもソ連軍の侵攻が「冬まで持ち越してもらいたい」と言う願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり関東軍作戦課に於いて、千九百四十五年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも九月以降、さらには翌年に持ち越す事もありうると判断していたのだ。

この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。


関東軍の前線部隊に於いては、ソ連軍の動きについて情報を得ていた。

第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面に於いて兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われている事を察知している。

特に東方面に於いては火砲少なくとも二百門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。

そのため八月三日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長・草地貞吾参謀に情勢判断を求めた。

しかし草地貞吾参謀からは、「関東軍に於いてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は九月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。

その旨は関東軍全体に明示されたが、八月九日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。


さらに第四軍司令官・上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月頃から絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究した。

上村幹男中将の判断では、八月三日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。

また上村幹男中将は、八月四日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えた。

しかし、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。

そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。


ソ連からの宣戦布告は、千九百四十五年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

八月九日午前一時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第五軍司令部からの緊急電話により、「敵が攻撃を開始した」との報告を受けた。

さらに「牡丹江市街が敵の空爆を受けている」と報告を受け、その後午前一時時三十分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

関東軍総司令部は急遽対応に追われる。

当時出張中であった総司令官・山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり」と伝える。

さらに「各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。

また、中央部の命令を待たず、午前六時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなる。

前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つ事となったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。

つまり関東軍の実情も、敗退し続けている南方戦線同様に、御多分に漏れずソ連軍を迎撃できる能力など無かった。

総司令官・山田乙三朗大将は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官・山田乙三朗大将は、宮内府に赴いて満州国・溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都する事を勧めた。

皇帝溥儀は、満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

この満州国政府を臨江に遷都する事は、つまり関東軍が後退戦術を採る事を意味し、「開拓団の居留民(老幼婦女)を避難させずに置き去りにする無情な決断」だった。

軍が関与して最初に避難した三万八千人は、軍人関係家族、大使館関係家族、満鉄関係者などとなり、列車も飛行機も動員されて日本本土への帰国を果たしている。

比べるに、残り十一万二千人の一般居留民(老幼婦女)は暗黙として置き去りにされ、悲惨な逃避行を強いられた。

この一般居留民(老幼婦女)を守れなかった関東軍は、満蒙開拓団にとっていったい何だったのだろうか?


他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大した事から、同地域に於ける対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。

千九百四十五年五月九日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、第五方面軍は再び対ソ作戦に転換する。

このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識される。

しかし、兵力が限られていた事から、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しない事とした。

上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。


千島に於いては既に制海権が危機に瀕している事から、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太に於いて陸軍の部隊の主力となっていたのは第八十八師団であった。

同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から八月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、「現体勢に変化なし」という方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは八月六〜七日、豊原での会議に於いてった。

千島に於いては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。


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◇◆◇◆◇◆◇◆◇ソ連・満洲国侵攻◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ソ連・満洲国侵攻

ソ連・満洲国侵攻

日ソ間には、千九百四十一年(昭和十六年)に日本とソ連の間で締結された中立条約「日ソ不可侵条約」が在ったのだが、ソ連はこれを一方的に破棄して満州国及び日本領の南樺太、そして北方四島に侵攻した。


第二次世界大戦末期の千九百四十五年(昭和二十年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、八月十八日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する。

満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。

終戦時日本に勝利したのは国民党率いる中華民国だったが、その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。

また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北地区」と呼称している。

日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」と言う修飾と共に呼称する。



千九百四十五年八月九日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦する。

満州に侵攻して来たソ連軍に対し関東軍(かんとうぐん)は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化に従って防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。

この作戦に拠って関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難される事と成る。

一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた九個師団を基幹とする第三方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていた。

しかし関東軍は、反撃に移るまでに八月十五日の玉音放送を迎えた。

正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは、十六日夕方で在った。

「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜十時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。

ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、八月末まで戦闘行動を継続した部隊も在った。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出す事となる。

総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は十一年間の長期に渡って抑留されて居る。

近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死した為、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠Wが継ぐ事となる。

また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第四練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いている。


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◆◇◆◇◆◇◆◇中国侵攻結果論◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


中国侵攻結果論

中国侵攻結果論

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)の主犯・板垣征四郎は、後に陸軍大臣(第一次近衛内閣及び平沼内閣)を務めなど中央で出世、大将に、石原莞爾(いしはらかんじ)は中将まで昇っている。

そして征四郎は、盟友の石原莞爾(いしはらかんじ)の才能を認めて、東条英機(とうじょうひでき)と対立する莞爾(かんじ)を擁護して居た。

為に征四郎は、時の権力者・東条英機(とうじょうひでき)に中央から外されてシンガポール方面軍に飛ばされた。

最終階級は陸軍大将・第七方面軍(シンガポール方面軍)司令官、敗戦時にシンガポールで英国軍に身柄を拘束され連合国によりA級戦犯に指定される。

征四郎は極東国際軍事裁判で死刑判決、千九百四十八年(昭和二十三年)十二月二十三日、シンガポールで絞首刑に処せられた。

一方、石原莞爾(いしはらかんじ)は左遷されて終戦当時予備役だった為に戦犯指定を免れている。

板垣征四郎と石原莞爾(いしはらかんじ)が運命を分けたのは、莞爾(かんじ)と東条英機(とうじょうひでき)との対立からである。

石原莞爾(いしはらかんじ)の様な天才児の発想は常識外れだから、暫(しば)しその発信は変人扱いに成る。

まさしく莞爾(かんじ)は典型的な天才児で、演説巧者だけの口先男の東条英機(とうじょうひでき)の無能振りを見破っていていた。

当時、飛ぶ鳥落とす勢いの東条英機を正面切って批判したのは莞爾(かんじ)だけで、東條英機にして見れば莞爾(かんじ)の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

東條英機は、莞爾(かんじ)の口を塞ぐ為に現役を退かせ予備役へ編入する。

結果、莞爾(かんじ)は、東條英機との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判に於いては戦犯の指名から外された。



矛盾した話だが、人は他人を傷つけながら夢をかなえる。

日本史を捉(とら)えるに、史実が自分が納得行かない内容であればそれに都合良い変更を加え、その内容が全く事実とは関わりなくても、それを強引に主張する人物は多い。

ABCD経済包囲網をされたから欧米との大戦に踏み切らざるを得なかったと言う言い分を現在(二千十五年)に置き換えて考える。

ウクライナ侵攻問題で欧米に経済制裁されているロシアが、「核使用も辞さない」とするのと、大戦前に制裁の根拠となった「張作霖爆殺事件・柳条湖事件・しな事変」の日本軍の大陸侵攻と、どこが違う?

つまり、その「俺はそう思わない」と別の歴史を主張する方々の言い分は、その根拠を示すのではなく、ナショナリズム(民族主義)心情の「自らの思い」を、無理やり史実に被せて行ってしまうインテリジエンシュの無い方々の、大きい声が根拠なのだ。

張作霖爆殺事件・柳条湖事件、これらの大事件を引き起こし、日本国民を大戦争と言う地獄に引きずり込んだ関東軍の主力軍人達は、自分達の夢を叶える謀略で、取り返しが付かない過ちを為した。

それでも国粋主義者は、ABCD(アメリカ、イギリス、支那、オランダ)包囲網なる経済封鎖が太平洋戦争の主因だとして日本の侵略戦争を正当化させようとする屁理屈を言う。

しかし、張作霖爆殺事件からシナ事変に至る関東軍の軍事行動が経済封鎖を誘発したのだから、そこに正しい言い分を証明する事が必要である。



歴史の真実が「後ろめたいもの」だと、後ろめたさを感じる方がそれと「別の物語り」を創作して何とか隠そうとする。

例えば、北米大陸の西部開拓史に於けるネイティブアメリカン(アメリカンインデアン)の存在を、米国映画では白人を襲う獰猛な野蛮人として西部劇を大量に制作した。

本来は先住ネイティブアメリカンの土地を、欧州から渡り来た白人が銃や大砲と言う強烈な武器でネイティブアメリカンを追い出し、占拠して勝手に町を創って自分達の国を打ち立てた。

先住ネイティブアメリカンは隷属して、理不尽にも狭い居住地の中に囲われて生かされたた。

それと同様の「後ろめたいもの」が、縄文人(ネイティブジャパニーズ)の日本列島へ当時最新の武器を携えて渡り来た渡来人が先住縄文人を「獰猛な野蛮人・鬼」に仕立てた鬼伝説である。

ここまで史実を解明しても、「嘘でも見栄えする日本史が良い」と言う国粋主義者が沢山居るが、そう言う連中は政治信条に於いても平気で嘘を言う連中である。

つまり嘘の史実で、国民をコントロールしようと言う下心が「見え見えの連中」と言っても過言ではない。

それも、「その手法が正義だ」と頑なに言う狂信的確信犯なのだから、困ったものである。

その狂信的確信犯の頑なな根拠が史実では無く「俺はこう思う」で、全く根拠に成らない「個人の希望的主張」なのだから話には成らないのだ。

歴史や過去の人物について、現実とはかけ離れた「夢のみの幻想」を求める希望的なナショナリズム(民族主義)心情の人達も多い。

しかし、「自分達の夢が壊れるから」と言って、創られた歴史や、過去の人物の創られた英雄像を、事実として後世に伝えて良いものだろうか?


歴史を学ぶ吾輩は、「自らの思想信条信仰」を含めて、世の中の「思想信条信仰」には「懐疑的」である。

何となれば、どの部族の、どの民族の、どの国家の、「思想信条信仰」に於いて、権力維持の為に「他を排除する指導者」が多いからである。

「人類愛」をテーマにすれば「種々雑多な人類」が在るのだが、自分達の「思想信条信仰」以外を排除するのは、明らかに存在する利害へのみっともない執着からの発生行動だからである。


そして靖国神社のA級戦犯合祀問題である。

例え米国に追い込まれた結果の開戦とは言え、戦陣訓を想起し、「生きて俘虜の辱めを・・・」と退路を断ち、九割が戦闘ではなく「病死、餓死、自刃、特攻」と言う過酷な死を兵に課した責任を、そして敗戦責任を、何故「靖国A級戦犯合祀問題」の論議から外す?

確かに、東京裁判を法的根拠から見れば「適法で無い事は明らか」で、それを言ったらA級戦犯は無罪である。

しかし戦争遂行者は、自国民と相手国民の命を多数消耗した事実に対して真摯に責任を負うべきである。

即ち、戦争遂行者が「法的根拠で無罪」だからと言って、戦争遂行に力を持たなかった純粋な英霊達と同じ靖国社合祀は、戦争遂行者の責任をウヤムヤにする行為である。

圧倒的に劣る軍装備、補給体勢、前線に届くのは「精神論ばかり」で、戦わされたのが英霊達の過酷な前線だった。

それを今更、奇麗事で、「靖国が戦死者の魂の拠り所だ」と言う。

単純な話だが、A級戦犯を靖国神社に合祀する事は、日本の侵略戦争を美化する事であり、侵略された側ではそれは容認できないのは当然である。

そしてさらにA級戦犯の指導で戦わされた庶民も、A級戦犯が靖国神社に合祀されて美化される事を、快く思っているとは思えないのだ。

死者は語らないが、その靖国に、東条英機(とうじょうひでき)ら「A級戦犯たる戦争指導者」と、「合祀されるのは無念」と思う英霊は多い筈である。

果たして英霊が、この事実を美談の影に隠されて本当にA級戦犯合祀の状態で安らかに眠れるのだろうか?

つまり合祀問題は、外圧論議や条約論議などと言う次元の話ではなく、純粋に日本国内問題である。


歳月の節目節目に、今また終戦時の「玉音放送」の音声が、時を超えて鮮やかによみがえる。

あの時(昭和二十年八月十五日)、昭和天皇の玉音が流れなかったら、日本人は、あの戦いを「ピタリ」と止める事が出来たのか、大いに疑問ではないか。

玉音がなかったら、本土決戦という泥沼に嵌まっていたかも知しれない。

それこそ葛城朝が二千年前に画策した血の民族同化の目論みは見事成功して、「大和単一民族」が完成していた証拠である。

皇室は、日本の守り神として、間違いなく機能したのだ。


戦後の日本国憲法下で天皇陛下の地位は日本国の象徴とされ、陛下の戦争責任は不問とされた。

国民感情に於いて、日本国民が混乱なく団結して戦後復興に当たる為には天皇陛下に代わる存在はなかったからである。

もし天皇陛下が戦争責任を追及され、日本から天皇が不在となっていたら敗戦の混乱が長引き、あの目覚ましい戦後復興は出来なかったに違いない。

天皇陛下は、その役割を果たす為に日本国中を巡行して行く先々の民衆を励ましす努力を見事に成し遂げている。




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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
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【*】短編人生小説 (3)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

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【*】女性向短編小説 (1)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


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【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

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■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

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【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

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====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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作者本名・鈴木峰晴




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