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徳川家康双子説にまつわる噂の謎)

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この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の歴史解釈を小説化した作品です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

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【徳川家康二人説の謎を追う】

(徳川家康双子説にまつわる噂の謎)


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***【歴史のミステリー】*********

徳川家康二人説の謎を追う

徳川家康双子説にまつわる噂の謎

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
十五日間お楽しみ頂けます。

記載目次ジャンピング・クリック

〔1話〕   【二人家康・序章
〔2話〕   【三河物語・賀茂流松平氏
〔3話〕   【二人の世継ぎ
〔4話〕   【徳川氏名乗り由来
〔5話〕   【影・竹千代出現
〔6話〕   【転機・三河復帰
〔7話〕   【入れ替わった竹千代
〔8話〕   【影に抱かれた築山御前
〔9話〕   【出来レースだった陰謀
〔10話〕  【元康(家康)は夫や親に非ず
〔11話〕  【二男・結城秀康(ゆうきひでやす)
〔12話〕  【清洲同盟と稚児愛
〔13話〕  【二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)
〔14話〕  【徳川家臣団の結束
〔15話〕  【落胤・鈴木一蔵
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二人家康・序章

◇◆◇◆◇◆◇◆◇一話二人家康・序章◆◇◆◇◆◇◆◇

徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。

そして多くの空白が生まれる中、「家康別人説」が後世に浮上するのだが、この家康別人説、家康二人説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

それで家康二人説については、多くの作者・作品が氾濫している。

三河家臣団の結束の強さは周辺諸国の美濃の斉藤氏も、尾張の織田氏も、駿河・遠近江の今川氏にも聞こえていた。

家康には影武者入れ替わり説も在るが、勿論只の影武者の入れ替わりでは三河家臣団が納得する訳が無い。

彼らを納得させるには松平の血の継続が必要で、つまり継嗣が二人居た(双子)のでないと、条件を満たさない事になる。

この物語では家康双子説を採っているが、その家康双子説の痕跡をこれから拾い集めてこの物語でご紹介する。

「眉唾物」と思う読者も居られると思うが、次の事実説明が付かない。

徳川幕府成立後も功労者であるべき三河出身の武将を家康が一部譜代の武将を除いては一万石以下の旗本として冷遇させた事実は歴然で、他国者だけ大名に立身させた謎の扱いの裏にこの「二人説(双子説)」の経緯が在る。


徳川家が三河の一土着豪族だった頃に名乗っていたのは松平姓で、本来は枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。

三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族だった。

発祥の地名が三河国・加茂郡で、家紋は賀茂神社と同じ葵紋では賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。

しかし、徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図が存在するだけである。

つまり、松平・氏(まつだいら・うじ)賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)が本来の氏姓(うじかばね)である。

だが当時の慣例で、源氏流が武門の棟梁の資格とされ賀茂朝臣(かも・あそん)では武門の棟梁にはなれない。

松平元康(家康)は、駿河・今川家の属将から独立し「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗る。

だが松平元康(家康)が、源家流と言う決定的な証明は為されていない。


それでも、賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)松平・氏(まつだいら・うじ)は古くからの豪族の血筋で、棟梁に値する旗頭である。

それなりの血筋に産まれたばかりに、源頼朝同様に多感な時期を人質の身として過ごした松平元康(徳川家康)は、周囲に味方無く孤独の中で心傷付き育った筈である。

その松平元康(徳川家康)に、織田信長は彼特有の閃(ひらめ・感)きで「何か」を見ていた。

その信長の感は、不幸な結末では在ったが、浅井長政を見出した時も同じだった。


三河・松平家は、けして新田源氏・世良田系などではない。

家康が、ひたすら漢方を頼って、執念で豊臣秀吉より永く生き延びたのは、正しく賀茂家の修験秘伝を受け継ぐ者だったからに、違いない。


三河・松平氏(まつだいらし)は初代家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。

この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、賀茂氏の出自と見る方が妥当である。

本来、陰陽修験の賀茂神道と隠密組織系の賀茂氏は、平安時代には陰陽寮の助を務める貴族であり、室町時代頃までは勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、総本家は「戦国時代に断絶した」とされる。

しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。

松平氏が土着居住した三河国は、室町幕府時代末期は細川氏守護職だった。

守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた為に三河には守護代・東条国氏(とうじょうくにうじ)を置いていた。

千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護は不明となり、三河の支配権は混沌とする。

記録によると松平氏は応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われる。

額田郡国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見え、伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。

三河松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の「伊勢貞親に仕えた」と言われる。

この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。

とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国・今川氏、西は尾張国(おわりのくに)の織田氏に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。

そこで広忠は、織田氏に対抗する為に今川氏を味方につける事を策して継子・松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ人質に出す事を決した。

その所から、松平竹千代の波乱の生涯が始まるのである。


公式には、徳川家康は「人質時代に今川義元から多くの政治学を学んだ」と言う説が歴史学者に在る。

確かに義元は、斬新な発想をする名将・大名として所領経営の評価は高い。

しかし徳川家康には、「徳川家康二人説」が在る。

この説を採れば、もう一人の家康が学んだのは織田信長と言う事に成る。

織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。

この任官の時と征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。

いずれにしても源氏の後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。

しかし徳川家が天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。




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三河物語・賀茂流松平氏

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇二話三河物語・賀茂流松平氏◆◇◆◇◆◇◆

江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。

大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?

家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?

勿論、三河物語や徳川実記などには記載出来ない多くのミステリーの解明が、この物語の目的でもある。


竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。

徳川家康の母として有名な於大の方(おだいのかた)は、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその正室・於富の間に居城・緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。

この於大の方(おだいのかた)が、戦国の女性として数奇な運命を辿って行く。

於大の父・水野忠政は、所領の尾張国・緒川からほど近い三河国にも飛び所領を持っていた。

忠政は、当時三河で勢力を振るっていた徳川家康の祖父にあたる松平清康の所望(求め)に応じて正室・於富の方を離縁してまで清康の後妻に嫁がせる。

それでも松平清康亡き跡の両家の絆には足りず、水野忠政は清康没後に松平氏とさらに友好関係を深めようと考えて清康の後を継いだ松平広忠に娘の於大を嫁がせた。

於富の方は水野忠政の正室から離縁、松平清康の後室に成っていて松平広忠の義母にあたる。

それが、於富と於大が実の母娘で在っても広忠とは義理の関係で、義母の娘を娶っても問題はない。

於大は松平広忠に嫁いだ翌年(天文十一年師走)に、広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を生む。

水野忠政健在の間は、松平家と水野家の間は順調だった。

しかし忠政の死後に水野家を継いだ於大の兄・水野信元が松平家を属国化していた駿河・今川家と絶縁して尾張・織田家に従ってしまう。

その為於大は、今川家との関係を慮(おもんばか)った広忠により離縁され、実家・水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返される。

広忠に離縁された於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

勘違いして貰っては困るが、久松俊勝婦人と言ってもこの時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗る。

だから、於大の方(おだいのかた)の名乗りはやはり生涯に於いて水野太方(みずのたいほう)である。

於大の再婚相手・久松俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていた。

だが、その妻の死後に久松家が水野家と松平家の間でどちらに付くのか帰趨が定まらず、松平氏との対抗上水野家と久松家の関係強化が理由と考えられる。

於大は、久松俊勝との間には三男三女をもうけている。

桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した松平元康(家康)は於大を母として迎え、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓(久松・松平氏)を与えて家臣とした。

於大の方は夫・久松俊勝の死後、剃髪して晩年は伝通院と称し関ヶ原の戦いの後に家康の滞在する京都伏見城で死去した。

於大の方は、子の徳川家康(松平元康)の正室・築山殿(関口瀬名)との嫁姑の確執から築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず城外に止め置いたと伝えられる。

だが、別の理由として今川家人質時代の築山殿の夫・松平元康と三河で独立した徳川家康が実は双子の別人だった為で、於大の方と築山殿との確執は「世間を欺く創作だった」とする説も存在する。




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二人の世継ぎ

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇三話二人の世継ぎ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

松平広忠に嫁した水野太方(みずのたいほう)が妊娠して、領内は領主・広忠から家人領民まで湧き返っていた。

男子なら嫡男出産で、三河・松平家に待望の世継ぎが生まれる事になる。

しかし実はこの「嫡男出産」、三河・松平家にとって「密かに大事件だった」のである。

難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、在ろう事か半刻に満たず今一人男子が生まれてしまった。

立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。

松平広忠は直ぐに決断した。

永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。

片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。

「作左(本多)と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」

「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」

呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。

「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」

「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」

「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」

「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」

「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」

「合い判り申した。しからばもう一人のお方は、この鳥居元忠にお任せを・・」

「それで良いか?」

「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」

「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」

「合い判った。嫡男の傅役(ふやく/お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀は両名以外他言無用ぞ。」

「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」


唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事が在った。

これが当時としては、信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそお家騒動の火種になる。

双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。

ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。

それで松平家では片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(ふやく/お守り役)とし内密に育てさせている。

その傅役(ふやく/お守り役)・鳥居忠吉こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られたあの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。

つまり鳥居元忠には、幼少のみぎりに影・竹千代(家康)と兄弟同然に育った縁(えにし)が在った証拠である。


この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(ふやく/お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。

時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ棟梁家の嫡男である。

御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。

それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその実子として預けるのが一般的だった。

嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。

何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。

つまり後に名を挙げる鳥居元忠とは、双子の一方が一時期兄弟の様に育った可能性もある。

もう一人の家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされた竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。

最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。

この戦乱を収めるエースを育てる為に、畿内、東海の影人達が一斉に、密かに動き出していた。

日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。




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徳川氏名乗り由来

◇◆◇◆◇◆◇◆◇四話徳川氏名乗り由来◆◇◆◇◆

群馬県太田市に「徳川町」と言う地名がある。

長く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。

新田義重の四男・義季が、得川郷の領主となって新田次郎と称し、父・義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られる。

その義季嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏称した。

その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。

「得川」は本来は「えがわ」と読んでいた。

それが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏「発祥の地」と成っている。

ちなみに、家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。

得川頼有は、娘の子である岩松政経に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は女系の岩松氏に代わった為に父子二代で消滅していた。

それが突然三河国で復活した事になる。

この系図のカラクリをどう読み通したら、合理的な説明が着くのだろうか?

この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏にたった一つだけ心当たりの「接点」が浮かび上がった。



松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五〜六歳の頃)のみぎり、松平家の勢力が衰えた事から今川家の勢力に圧迫された。

父・松平広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は忠誠の証として今川義元の下へ人質として駿河国府中へ送られる。

所が、その旅の途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の謀略により浚(さら)われ、今川家の反勢力である尾張の織田信秀の元へ送られる。


戸田康光(とだやすみつ)は、戦国時代に田原城を根拠に渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった三河国の武将である。

それが、松平氏の勢力拡大に屈服して松平氏に従い娘の田原御前・戸田真喜(姫)を松平広忠に嫁がせる。

康光(やすみつ)は松平広忠の依頼を受け、渥美半島の老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅付近)から舟で広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を駿府まで送り届ける予定であった。

所が、竹千代一行を乗せた舟はそのまま三河湾を西に進み、今川氏と敵対していた尾張国の戦国大名、織田信秀の下に到着する。

戸田康光が織田家に通じて今川氏から離反したもので、これに怒った今川義元は、田原に兵を差し向ける。

康光は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男・戸田尭光とも共討死し、田原・戸田氏は滅亡した。


松平竹千代は、送られた尾張で当時十四歳の織田家継嗣・信長と知り合う。

竹千代(たけちよ)は八歳までの幼少時代の一時(二年間)を織田家に在って弟分として過ごし人質ながらも信長と「竹馬の友」で育った事に、表向き成っている。

その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。

この人質が、種を明かせばそもそもスペアーとして密かに鳥居家にて育てられて居たもう一人の影・竹千代だったのである。

松平家が、平手家に縁ある「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓する。

この平手家が、名門・新田(にった)源氏・世良田系だった事から察するに、道筋が見える。

三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まったには、どうやら平手政秀の存在が、「その企てに在ったのであろう」と、我輩は推察する。


「お館様、お申し付け通り、家康殿(竹千代・徳川家康)の得川の系図を作らせましてござる。」

信長の傅役(ふやく/お守り役・教育係)で在った重臣・平手政秀が報告に来た。

織田家で密かに育てられたもう一人の松平影・竹千代は、今川家に在る松平竹千代が元服して松平元康を名乗る頃には、平手家養子として平手家康を名乗っていた。

「出来たか爺(平手政秀)、重上じゃ。これで三河衆も味方に付く、長い事爺(平手)の家に預けて居った事が生きるわ。」

「これで役目が片付いた」と安堵した平手政秀は、ここで傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長から、容易成らない陰謀を聞いた。

「しかしながらお館様、何故平手家康殿(竹千代・徳川家康)に世良田・得川を名乗らせまいる?」

「知れた事よ爺(平手政秀)、家康(徳川家康)には源氏を名乗らせ征夷大将軍にするわ。」

家康(徳川家康)に源氏を名乗らせ、「征夷大将軍にする」となれば織田信長の椅子が無い。

「はて・・・面妖な。してお館様はいかがなされます?」

「わしか、わしは帝(みかど)じゃ。」

信長に「わしは帝(みかど)じゃ」と聞かされて平手政秀は顔色を失った。

「何と、お館様は天子様をいかが致しますか?」

「爺(平手政秀)、天朝も公家共も新しき世には不要じゃ。」

「恐れ多き事を・・・天朝様を・・・それは成りませんぞ。」

驚いた政秀は、即座に信長を諌(いさ)めに掛かった。

恐ろしい事に、自分が傅役(ふやく/お守り役・教育係)として育てた信長が、思わぬモンスターに育っている。

「爺(平手政秀)は不服か?良いか爺(平手政秀)、良く聞け。元康(徳川家康)はわしの外様臣下として征夷大将軍を名乗らせる。お主達内々の者は、左大臣、右大臣はもとより新しき公家になるのじゃ。」

「それはいけませぬお館様。この国は天子の国ですぞ。」

「爺、何を古き事を愚だ愚だと。わしに逆らうとあれば、爺とて容赦はしないぞ。」

「お館様、この爺が皺腹かき切ってお諌(いさ)め申しても聞けませぬか?」

「黙れ爺、腹かき切れるものなら、かき切って見よ。」

口論の勢いで言った信長の言は、育ての親を自認しているからこそ、重臣・平手政秀を本気にさせていた。

傅役(ふやく/お守り役・教育係)から後見人を任じていた重臣・平手政秀にすれば、「天朝に弓引く」など到底認められる事ではなかった。

だが、誰よりも信長の気性を知るだけに戯言(ざれごと)と捨てては置けなかったのである。

「承知仕った。腹かき切ます故、天朝様に弓引くはお止まりくだされい。」

「爺(平手政秀)はまだ左様にわしを縛るか、勝手にせい。」

口論の末、平手政秀は所領の志賀城(現在の名古屋市北区平手町)へ立ち帰り、見事腹かき切って果ててしまう。

これには流石の信長も、政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。

この国は、余りにも永く血統主義が続いて居て、その価値観が氏族の全てだった。

同じ板ばさみの事態が、後に歴史的大変事として「本能寺の変」が起こるのだが、まさしくこの平手政秀の切腹はその予兆であった。

平手政秀は、新田源氏に連なる「後胤貴族の末裔と言う武士の誇り」と自らが育てた破壊モンスター(怪物)・織田信長との板ばさみに苦慮し、自らの命を絶ったのである。


その後の経緯だが、松平家の「双子の嫡男」の片割れ松平元康(竹千代)が、人質に出した駿府・今川家で育ち、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・(築山殿)・を娶(めと)っている。

この時期、今川家の支配下で育った三河領主・松平元康(竹千代)は、遠江国磐田見附宿の宿の娘・某と愛人関係にあり「初の庶子と言われる男児(一蔵)まで設けた」と言われている。




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影・竹千代出現

◇◆◇◆◇五話影・竹千代出現◆◇◆◇

奇妙な事に、「竹千代と裏竹千代(平手元康)」と言うソックリな二人が、鳥居に育てられた時期に同じ松平家内に居て双子とは見破れなかった。

見破れなかったのは、元々幼児の顔はどれも似たような顔付きの上、早くから別に養育された事と髪型を意識して変えていた事である。

二人が成人に近く成ってから別人とされたのは、当時の武士全員が髭面だった風習が味方し、髭のデザインを変えて居たからである。

実は徳川幕府成立初期まで、古来からの伝統で武士(氏族)のほぼ百パーセントが髭を生やしていた。

従って平安時代の武士から戦国・安土桃山時代、相手を威嚇する為に大髭(おおひげ)は武士の象徴でも在った。

そして千六百七十年(寛文十年)、四代将軍・徳川家綱の大髭禁止令(おおひげきんしれい)以前では、髭の無い武将などまず存在しない。

実はこの「武士の髭」、写真や映像が無い時代には大変な曲者で、影武者や入れ替わりを容易にするには便利な物だった。

「顔立ち年恰好の身内」は影武者に適任で、家長制度の時代では弟で在っても家臣であり、従兄弟などは尚更にお家の為に家長に尽くす。

普段身分の高い者と、その顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて、周囲が見分けられるように配慮がなされていた。

これを裏返せば、影武者の創造は「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だった。

つまり少し顔が似た者なら、髭のデザインを真似ればほぼ外見が一致し、相手が偽者と見破れなかったのだ。



さて、ここで問題なのが、今川家の血族(関口親永)の娘(築山殿)と夫婦(めおと)に成った属将とは言え、当時の松平元康(竹千代)に「それほど奔放な事が出来たのか?」と言う疑問である。

当時今川家の本拠地・駿府(静岡)に在った松平元康(竹千代)は、属国扱いで人質上がりの三河領主なのだから、当然今川家臣団の目が光って居るのである。

駿府近郊ならいざ知らず、領国三河に近い遠江国磐田見附宿までの遠出が易々と出来る環境には無かった筈である。

それでは、三河、駿河を股に掛けて、奔放な生活をしていた若者は誰だったのか?
この条件で考えられる事は少ない。

この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件である。

つまり同時進行で、織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。

そう、今一人の影・竹千代が「密かに平手家の手で育てられていた平手家康」としなければ、辻褄が合わないのである。

つまり今川義元の討ち死直後に早々と岡崎城に入城し、迷わず独立を宣言する家康の人物像が、今川家で育った松平元康(竹千代)以外の双子の片割れでなければ「納得」として見えて来ないのである。

そして、筋書きが出来て居たような余りにもスムースな織田、松平両家の提携(清洲同盟)が、誂(あつら)えた様に待っていた。

或いは三河国在地の徳川家臣団と織田信長との間に密約が在っての事であれば、「桶狭間決戦での奇跡」も、もう少し違う見え方をするかも知れない。

松平元康(家康)は、その後躊躇(とまど)いも無く幼少よりの知人ばかりの筈の今川氏と戦って三河東部に進出し、三河国を統一している。

世良田を名乗ったのは、この三河統一の時だった。

信長とは、幼少時の「竹馬の友」の仲かも知れないが、温厚な知識人と言われる今川義元も松平元康(竹千代)にとっては育ての親のごとき存在である。


今川義元は、竹千代(元康)個人に対してそれほど酷い人質扱いなどはしていない。

義元は自分の姪(瀬名姫)を家康に嫁がせ、自分の名から「元」の文字一字を与えて「元康」とし、教育係として護国禅師の太原雪斎をつけるなどむしろ新しい親族として可愛がり期待していた。

それらの経緯を考えると、それが「コロッ」と変わって独立を宣言、岡崎城に入城した松平家嫡男が、正当な「嫡男の資格を有する別人ではなかったのか?」と疑って見たのである。

この竹千代(たけちよ)が尾張人質時代に、父・広忠は死去し三河松平家(岡崎城)は義元の派遣した城代により支配されていた。

その後、今川方に捕えられた信秀の長男・織田信広との人質交換によって竹千代は駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗った事になっている。


千五百六十年(永禄三年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、松平元康は一番割りの悪い先鋒別働隊として今川本隊とは別働で尾張攻略最前線の大高城(尾張国)に在った。

元康は桶狭間で「義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入る。

岡崎城に入城した元康は今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。


三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止めて説得した為に岡崎城に入った事に成っている。

それが実は、岡崎に入城した時の元康(家康)は、既にもう一人の方の竹千代だった。

今川義元の討ち死にを期に三河松平独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。

双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中で在った大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?



もう一人の元康が平手家の養子に入ったと言う仮説だが、そこにこのカラクリを解く鍵がある。

何故なら、本来元康が源氏流を名乗るなら母方の清和源氏満政流を使う方が手っ取り早い。

徳川家康と源氏の接点を敢えて言えば、家康(いえやす)の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏が、清和源氏満政流を称している。

水野氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基王(つねもとおう/賜名・源経基)の王子・源満仲の弟にあたる鎮守府将軍・源満政を祖とする。

源満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って「水野氏を名乗った」とされる。

しかし家康(いえやす)が名乗ったのは、本来手近い母方・源満政流ではなく河内源氏・新田流で、あきらかに平手政秀(ひらてまさひで)が称する新田源氏・世良田系図だった。


元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。

この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのだ。

計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。

つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。

如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて「攻め立てられる可能性」と言う危険な賭けに出た事に成る。

これは織田信長の立場にして見れば、三河一ヵ国手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。

しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を、元康はまったく配慮の他で行動し、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?

現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っている。

二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結ぶ。

そして翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。




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転機・三河復帰

◆◇◆◇◆◇六話転機・三河復帰◇◆◇◆◇

松平元康(徳川家康)は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、西三河の諸城を攻略して今川家から自立する。

その後家康は、苦心の末に三河一向一揆の鎮圧に成功して西三河を平定し、岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。

東三河の戸田氏や西郷氏と言った諸豪を抱き込みながらも軍勢を東へ進め、千五百六十六年(永禄九年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。

この年、家康は三河国主として朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。

この改姓に伴い新田氏系統の源氏である事も、朝廷に願い出て公認させた。

松平元康の清和源氏の名乗りには、織田信長との親交を深めていた時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きい。

その朝廷斡旋の根拠として考えられるのは、清和源氏新田氏一族の平手政秀(ひらてまさひで)が影養子として松平元康を迎えて系図上継嗣としていたのであれば筋が通っているのだ。

時の関白・近衞前久(このえさきひさ)が朝廷に斡旋し、それを朝廷に認めさせた訳である。


元康の表向き松平名乗りの実は清和源氏・平手氏養子を前久(さきひさ)が認めて、氏名乗りを新田氏縁の徳川(得川)氏に改める事とし従五位下三河守に叙任させる。

藤氏長者は藤原氏の棟梁の事である。

戦国の世に在ってほぼ織田信長と同世代に生きた公家・藤氏長者は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。

近衞家・第十六代当主が信長の二歳年下で生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)だった。

細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をした。

近衞前久(このえさきひさ)は、帝の側近公家だった為に動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。

前久(さきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。


平手政秀(ひらてまさひで)は、茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍していた。

政秀(まさひで)は信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。

この政秀(まさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。

織田家の朝廷工作役の政秀(まさひで)が自刃して三年、後任に明智光秀にその役が廻って来た頃と前久(さきひさ)が関白に任じられた頃が、時期的に符合している。

どうやらこの頃から前久(さきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。

藤原氏の嫡流の五摂家の文化人である前久(さきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。

この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対する。

十五代将軍・足利義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し以後は信長との親交を深めている。

信長が攻めあぐみ中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。

近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだった。

前久(さきひさ)は、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。

前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説もあり「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。

一時は織田信孝羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。




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入れ替わった竹千代

◆◇◆◇◆◇八話入れ替わった竹千代◆◇◆◇◆

それでは、二人の竹千代は何処で入れ替わったのか?

入れ替わりの絶妙のタイミングは、一度だけ在った。

織田家の人質だった影・竹千代は、今川方に捕えられた織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって、引き換えの形で駿府へ移されている。

しかし、実際に駿府へ行ったのは織田家に居た影・竹千代ではなかった。

三河の家臣団と織田家が密約、信長の「竹馬の友」である影・竹千代は、傅役(ふやく/お守り役)・平手政秀の遠縁にあたる三河国愛知郷の郷士に匿(かくま)わせている。

平手政秀の三代前にあたる世良田義英は、三河国愛知郡に平天城を構えていた。

それ故愛知郡には平手家縁者の郷士がいた。

織田信長の命を受けた平手政秀は、息子の平手久秀を伴わせて、影の竹千代を暫し尾張国よりは遥かに遠江国寄りの三河国愛知郡に預けている。

平手家から三河の平手縁者に預けられた方の影・竹千代は、事を秘していたから誰も松平家の「世継ぎの片割れ」とは思わない。

それを良い事に、血気盛んな若者・平手家康(影・竹千代)はかなり自由奔放な生活を送っていた。

それで、近隣の浜松在や遠出をして駿府城下まで足を伸ばし、投宿した遠江国磐田見附の宿の娘との間に「一蔵」と言う子まで成している。

この時に後の徳川家康となる平手家康(影・竹千代)を三河国愛知郷に住まわせ、彼に浜松近在の磐田目付宿辺りまで遠出させた。

それは、信長の「竹千代に三河・遠近江で良く遊ばせておけ。」と言う命が在ったからである。

それは、信長が平手家康(影・竹千代)を西の備えにする為の深謀に拠る布石だった。

奔放な青春時代を過ごした家康は、これ以後土地勘の在る遠近江に浜松城を本拠地とし、老後も駿河府に隠居するなど現在の静岡県を生涯愛して居た。



駿府で人質として育って行動に制約の在った正・竹千代に、やはり御落胤は似合わないのである。

この一蔵を始め、「元康(家康)落胤」と噂される者が七人も出たのには、正に竹千代が二人いた事で、片方が自由奔放な時間を謳歌し落胤の量産に繋がったのではないだろうか?

そしてこの時、交換に使われ駿府に送られた替え玉が本来嫡男として岡崎城内で育てられていた方の、正・竹千代だった「のではないだろうか?」と思い到るのである。

すると、この大胆な企ての唯一の織田家側の証言者である平手政秀親子は、「徳川系図」の為に謀殺された恐れもある。

戦国時代らしいそれぞれの思惑が重なって、奇妙な構図が出来上がっていた。

今川家は、三河平定後の三河家臣団を懐柔する為に、嫡男の元康(竹千代)を身内にした。

同じ理由で織田家は、三河家臣団合意の上、もう一人の嫡男を平手家の養子・平手(得川)某として育てている。

「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められた。

それには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。


正直、三河松平家の家臣団も、今川、織田のどちらに着くかは様子見の状態で、正・竹千代と陰・竹千代を天秤に掛けていた。

しかし桶狭間で今川義元が織田信長に敗れて、三河家臣団は雪崩(なだれ)を打って織田方の陰・竹千代に廻った。

二人の世子を使い分けたのだが、三河家臣団にして見れば、今川、織田いずれが勝っても嫡男が生き残る「虫の良い方法」だった。

だが、それも戦国を生き抜く為の弱小大名家の家臣供の知恵だった。

双子の松平竹千代は、弱小大名の悲哀の中で親今川派と親織田派の双方に分かれて育てられる運命だった。

その安全装置が働いたのは、桶狭間の決戦で織田信長が今川義元を破った時である。

正直、三河家臣団は「織田方の方が、幾らかましだ」と思っていたから、桶狭間の信長軍奇襲そのものも、三河家臣団の内応も充分に可能性がある。

その片方、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、今川家の当主・今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で破れるに及んで運命が決まった。

「本多(重次)殿、最早今川は、見限らねば成らぬ。」

「いかにも、鳥居(元忠)殿がお育てした若(もう一人の元康/得川某)を担ぎ出し、盟約を急がねばなるまい。」

つまり、三河松平家に必要なのは、親織田派の方のもう一人の影・竹千代(松平元康=徳川家康)に成った。

そしてもう一人の、親今川派の正・竹千代(松平元康)は三河家臣団の何者かに闇に葬られたのである。




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影に抱かれた築山御前

◇◆◇◆◇◆◇◆◇八話影に抱かれた築山御前◆◇◆◇◆◇

早速三河家臣団は、平手(得川)某として育ていた方の嫡男(影・竹千代)を、松平元康として岡崎城に迎え入れる。

これは、平手(政秀/織田家重臣)と鳥居(忠吉/松平家重臣)の密約の筋書き通りである。

だから、三河松平家の当主・元康(得川某)は、早速「清洲同盟」を締結、織田方に付く事に成った。

只、駿府に在った本物の元康の家族には、この双子のもう片方(影・竹千代)が、背格好や顔は似て居ても騙し負うせる訳が無かった。



主君入れ替わりを内密にしたい松平家臣団の本多の働きで、築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)は駿府から岡崎城に呼び寄せられる。

夫婦は互いの無事再会を喜び、新たな日々が始まる筈だった。

元々好き者の元康(家康/影・竹千代)である。

居れ代わったのを幸いに兄弟の嫁・築山殿を寝間に誘い抱いた。

流石の元康(家康/影・竹千代)も、双子の兄弟の嫁を抱く、しかも相手は「夫と思い込んでいる」と成ると興奮は隠せない。

遠慮などする訳が無い。

何しろ、「好色だった」と今に伝わる元康(家康)の事で、これは鼻先にぶる下がった愉しみな余禄だった。

手荒く築山殿に襲い掛かり、弄り責めるがごとく抱いた。

抱かれた築山殿は驚いた。
夫・元康がまるで別人である。

「あれ、殿はまるでお人が変わったような為され様・・・」

「予も、晴れて三河の国主成り、今までのようにそちを抱くに遠慮はせぬ。」

夫はそう応えたが、幾ら国主に成ったとて、人の性癖がそう簡単に変わる訳が無い。

築山御前(関口瀬名)が、久振りに岡崎で会った松平元康は雰囲気がスッカリ変わっていた。

それは最初は「義元が討たれて今川から解き放たれ、三河に独立を為した為だ」と思っていた。

だが、性癖や姓技まで激変する訳は無い。

如何に双子とは言えどうしても個性が出る物で、築山御前(関口瀬名)は松平元康を名乗る男に抱かれながら直ぐにそれを悟った。

連れ添った夫婦には、慣れ親しんだ行為の手順がある。

その片鱗も無い全くの「別人の行為」と成れば、夫では無い事は明白だった。

「作左衛門(本多重次)あの者殿にあらず、何者ぞ?」

築山御前は、血相を変えて本多(作左衛門)重次に食って掛かった。

「はて、お方様(築山御前)は暫らく殿に遠退いて居た故、殿をお忘れか?」

「黙れ作左、わらわは昨夜あの者に抱かれて気付いたわ。」

「お方様、松平家の為ですぞ、口を閉じてご辛抱願います。」

本多重次は、あの男が今川の武将として育った元康の「双子の兄弟だ」と築山御前に告げる。

「作左はわらわに、黙ってあの者に抱かれて居れと申すか?」

「いかにも松平家中の者の総意でござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱の程を・・・」

「作左、ようも酷(むご)い事を・・・」


一度は運命と諦めて見たものの、入れ替わった元康に毎晩呼び寄せられて弄り責められて、他人に肌を許す事が築山御前にはどうにも我慢が成らない。

さりとて、今の元康を「夫の偽者」と言い出せば、この時代に自分(築山御前)や長男・松平信康の命の保証さえない。

「作左、わらわにはこのままあの者と夫婦(めおと)を続けるは無理ぞ・・・」

「信康様の世継ぎの儀もござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱成りませぬか?」

「成らぬ、あの者の異成る事は秘して口にせぬが、わらわは一緒には居れぬ。」

「判り申した。近くの尼寺(惣持寺)にお移り願いまする。」

長男・松平信康を持つ身成れば、築山御前は、岡崎城の外れ菅生川の辺に在る惣持尼寺に別居するのが、この不幸な運命への精一杯の抵抗だった。

「作左衛門、予に抱かれて居れば良かったものを傍(そば)に仕えぬとあらば、不憫じゃが、お築の口は閉じねば成らぬぞ。」

「承知つかまった。」

元康(家康・竹千代)、信康親子の不仲説や築山御前確執の要因は、案外こんな所かも知れない。

その後、家康の命令により築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹している。

この戦国時代、実家が婚家に滅ぼされる事は珍しく無いし、婚家の世継ぎを産んでいれば嫁は婚家に納まるのが一般的である。

つまり母子を殺さなければ成らない事情は、家康の側に在った。

だからこそ、松平元康の家族が「徳川家康の家族では無かったのなら」との疑惑が生じるのだ。




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出来レースだった陰謀

◆◇◆◇◆◇◆◇◆九話出来レースだった陰謀◆◇◆◇◆◇◆◇

今川義元の軍勢に拠る織田領内進行で、揺れる織田家々中の混乱を他所(よそ)に、信長は、平手政秀を呼んで「或る策謀」を確認していた。

「政秀(平手)、元康を入れ替える策は進んで居るか?」

「ははぁ、既に雑賀殿(孫市)を通して本多殿に・・・・」

「本多からの義元の動きは正確か?」

「雑賀殿(孫市)の知らせと合って居りますれば、間違いないかと心得ます。」

「良し政秀、これで予が勝った。軍儀は、暫らく寝た振りをする。」

この密談を経て、織田信長が桶狭間(田楽狭間)に今川義元を急襲、討ち取って勝利を収める。

間髪を入れず、三河家臣団による元康入れ替えプロジェクトは作動を始めた。

全ては、信長の意向に沿った形で、本多、鳥居、鈴木、などの大半が加担して居た。

信長は、今川撃破後の三河家臣団懐柔策まで取って居た事に成る。

それにしても、運命なんてどっちに転ぶか判らない。

ほんの弾みのようなもので、もう一人の竹千代(元康)の運命は決まった。

その「義元、桶狭間討ち死に」のドサクサに紛れて、元康(家康)は入れ替わったのである。



駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は既にもう一人の方の竹千代だった。

元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。

人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。


そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。

謀(はかりごと)は「有りそうな事」では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。

謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。

織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。

この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など、「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。

幾ら一卵性双生児とは言え、正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。

この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていた。

であるなら、幾ら戦国の妻でもそのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。




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元康(家康)は夫や親に非ず

◆◇◆◇◆◇◆◇◆十話元康(家康)は夫や親に非ず◆◇◆◇◆◇◆

徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。

松平元康(徳川家康)の正妻・築山殿(つきやまどの/築山御前・つきやまごぜん)は、今川家一門の瀬名氏の出自である。

関口家の養子と成っていた駿河国持船城主・関口親永(せきぐちちかなが/関口義広)の娘で名を関口瀬名(せきぐちせな)と名乗っている。

瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、関口親永(義広)に嫁いで築山殿を為したので、関口瀬名は今川家当主・今川義元の姪にあたる。

夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が瀬名(せな)に在って当然と言える。

所が、夫の松平元康が今川に反旗をひるがえして織田と同盟を結んだ為に、瀬名(せな)は両親を今川に殺され、今川にも松平にも居場所が無くなる戦国期の悲運の女性を代表する生涯を辿るのである。

勘違いして貰っては困るが、松平元信(元康、後の徳川家康)婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから築山殿の名乗りは生涯を通じて関口瀬名(せきぐちせな)である。


関口瀬名(築山殿)は、今川家の人質として駿府に在住していた三河・松平家の当主・松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚して築山殿(つきやまどの)と呼ばれる。

瀬名(築山殿)は二年後に嫡男・松平信康と翌年には亀姫を産む。

所が、この年の桶狭間の戦いで伯父の今川義元が討たれた為に夫の松平元康(元信から改名)は駿府に戻らず本拠地・三河岡崎に帰還して今川家から離反する。

松平元康(元信から改名)は、今川家から独立して尾張・織田家の織田信長と同盟する。

為に築山殿の父・関口親永(義広)は、娘婿の松平家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け今川氏真(いまがわうじざね)の怒りを買い、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて正室と共に自害する。

築山殿は、人質交換により駿府城から子供達(嫡男・松平信康と亀姫)を連れて家康の根拠地である岡崎に移った。

今川義元の妹の夫に成る上ノ郷城城主・鵜殿長照の二人の遺児との夫・松平家康(元康から改名)の母・於大(おだい・水野太方/みずのたいほう)の方の二男・後の松平康元(家康・異父弟/下総国関宿藩主)と思われる源三郎との人質交換だった。

ここからが歴史の謎としては問題で、築山殿は岡崎に移ったは良いが何故か城外・惣持尼寺に住まわされている。

定説では、姑の於大の方が今川家の血筋である築山殿を嫌って岡崎城に入る事を許さず岡崎城の外れにある菅生川の畔(ほとり)の惣持尼寺で「幽閉同然の生活を強いられた」とされている。

だが、夫である当主・徳川家康と築山殿との間に確執無くして家康の母・於大の言い分だけで嫡男・信康の母に対する仕打ちとしては不自然極まりなく、本当に嫁姑の間だけの問題なのか?

或いは別に秘すべき理由が在ったのではないだろうか?


家康は日本史上長い事、織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。

この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だった。

信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。

所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされる。

信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。

それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?

この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。

その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。

入れ替わった家康(元康)に本当の子供(実子)が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考える。

すると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?

築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。

家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。

それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。

幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。

世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。

人間、強(したた)かでなければ世の中に遅れを取る。

若き頃の人質生活は、家康をタフに育てていた。

野心と平穏は両立せず、いずれか一方を採るしかないが、自らが平穏を望んでも他人の野心に翻弄されるのが世の中の切無さで、築山・信康親子の処断は家康の野心の決意かも知れない。

つまり現実の世間は、強(したた)かでない為政者など半日も持たないで消えて行く冷たい乱世・戦国の世なのである。


駿河・遠近江の太守・今川氏(いまがわうじ)の本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門・吉良家の分家にあたる日本の武家で、代々駿河守護職を継承した足利一門・別格嫡流ある。

今川氏(いまがわうじ)の地位は斯波家畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格だった。

「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われ、吉良家とともに足利将軍家の連枝であり足利宗家の継承権を有していた名門守護職である。

その今川家は、駿河守護職・今川義忠(駿河今川家六代当主)の代に応仁の乱が起こり、将軍・足利義政の下に東軍に加わって知り合った将軍申次を務める伊勢盛定と知り合う。

その伊勢盛定の娘・北川殿が今川義忠に嫁いだ事で伊勢氏と今川氏は縁者となった。

その事で、北川殿の兄または弟にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)が将軍家の代理として今川家の家督相続に介入、北川殿が生んだ龍王丸(今川氏親/駿河今川家七代当主)の相続に成功する。

今川氏親の相続に成功した伊勢新九郎は、駿河守護代の地位を得て沼津・興国寺城主を皮切りに伊豆国を奪取、後に南関東一円を支配する戦国大名・後北条氏のスタートを切る事に成る。

桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。

今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなど、東三河・遠近江・駿河などを領国とする駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。

今川義元が桶狭間の合戦で討ち取られ、嫡男・氏真(うじざね)が家督を継ぐが大名家として弱体は免れず、隣国の武田信玄と徳川家康に侵攻され氏真(うじざね)は逃亡して戦国大名・今川家は滅亡する。

結果、今川家の所領・駿河国は武田家、遠近江国は徳川家が分ける形で領有する。

その後今川氏真は後北条家や京都の旧知・姻戚の公家などを頼って生き延び、やがて天下を取った徳川家康に召し出されて五百石の旗本に抱えられる。

その後氏真は、五百石を加増されて都合千石の高家に処遇されて家名は残った。




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二男・結城秀康(ゆうきひでやす)

◆◇◆◇◆◇十一話二男・結城秀康(ゆうきひでやす)◆◇◆◇◆

いずれにしても徳川家康は今川家の衰退に乗じて遠近江国を手に入れ、二ヵ国の太守となって天下人への幸運な一歩を踏み出したのである。

長男・松平信康と正妻・築山御前(つきやまごぜん)の次は次男の話である。

越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、松平(結城)秀康である。

実は徳川家康(とくがわいえやす)二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。

徳川家康の長男・信康もまだ存命の頃の事だが、幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。

家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を嫌う理由は、いったい何だったのだろうか?

家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出される。

さらに秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末流・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけである。

しかもこの五人の中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで扱いが軽かった。

結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。

秀康は加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。

当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。

だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。

しかし、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。

実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?

つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。

長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

或るいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?

この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。

後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。

そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この「双子元康(家康)入れ替わり説」に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。




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清洲同盟と稚児愛

◆◇◆◇◆◇十二話清洲同盟と稚児愛◆◇◆◇◆

平手政秀の仲介で若き頃の織田信長から本多重次と鳥居元忠が那古屋城那古屋城で聞かされた謀略話は、大胆極まりないものだった。

「予は平姓を名乗って桓武帝の末裔として帝に納まる。ついては竹千代を政秀(平手)の養子と為し、そなたらの主君を源氏としてわが織田帝家の将軍と為せ。」

幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。

つまり三河松平家嫡男の双子の一人が源氏系新田氏流の平手家に継養子として入ったのであれば、血は松平嫡流で三河家臣団に領主と受け入れられる。

御家(三河松平家)は何しろ平手家に継養子として入っいて新田氏流系図に成る。

だから「得川」にちなんで「徳川」を創設しても朝廷からはスンナリ「源家の出自」と認められる。



さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。

織田信長と松平元康(徳川家康)は、「肉体的に情交を結んだ。」と言う特殊な関係に於いて信頼関係を構築していた。

信長と元康(徳川家康)の間には、「固い誓約(うけい)」の絆(きずな)が、この同盟関係の根底に存在した。

つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。


朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。

同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。

遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。

籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となった。

千五百七十年(元亀元年)、家康は本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。

この頃に、鳥居忠吉の嫡男・鳥居元忠が何時も家康の軍勢の主力の一人として戦っている。

同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。

この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。

さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。

現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。

ところが、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。

徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?

織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりが在ったのではないだろうか?

そう考えると、在る事が浮かんで来る。

井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛される。

この寵愛で、直正は家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。


この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?

或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だったのかも知れない。

織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。

前田利家森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。

稚児小姓のお召しは数えの十歳前後だから、幼少期の竹千代(徳川家康)が織田信長から衆道の手解(てほどき)をされていても不思議は無い。

元々武門に於ける稚児小姓相手の男色には、主人への特別な忠誠心を育成する意味合いが在り、満更、唯の性的嗜好ばかりと言う訳ではない。


男色(衆道)の繋がりなら、信長と家康の間に深い信頼関係が在っても不思議は無い。

ただし人質として居た竹千代(後の家康)は当時八歳かそこらの童子で、信長がその童子に手を出したとは考えられない。

だから、「手を出したと思われる時期」には今川家に人質交換で竹千代(後の家康)を奪還されてていて、この男色(衆道)疑惑は本来なら辻褄が合わない。

ところが、人質交換で今川家に行ったのが正・竹千代で、織田家にいた影・竹千代はそのまま織田家中の平手政秀の養子として「信長の手中に在った」と考えれば、この難問は解決する。

そして影・竹千代が平手(源)家の養子であれば、系図上は世良田・得川(源)氏を名乗る事はまんざら捏造の系図とは言い切れない。

どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏の源氏流新田氏系を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人だった。

それで、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。

また、家康二女・督姫の娘婿として徳川家康に可愛がられ、播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした池田輝政(いけだてるまさ)が居る。

その輝政(てるまさ)の父は、織田信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた池田恒興(いけだつねおき)である。

輝政(てるまさ)は恒興(つねおき)の次男であり、家康が織田家人質時代に七歳齢上の恒興(つねおき)と接点が在った事は充分に考えられる。

つまり家康にすると、輝政は「可愛がってくれた兄貴分の子供」と言う気分で可愛がったのかも知れない。


関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。



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二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)

◇◆◇◆◇十三話二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)◆◇◆◇◆◇

公式記録では、二代将軍・徳川秀忠は徳川家康の三男として遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。

徳川秀忠の母は家康側室の西郷局(お愛の方)、実家の西郷氏は九州の名家・菊池氏一族で三河国へ移住した者の末裔と伝えられる。

西郷氏は、室町初期には三河守護代をつとめた事もある三河の有力な国人武家であった。

この三河国人・西郷氏の九州本家の末裔が、遥か後世の明治維新で活躍した西郷吉之助隆盛だあるが、その西郷隆盛の話は後ほど第五章に記述する。

解説すれば、明治維新の折に活躍する垂水・西郷氏の西郷隆盛は、この三河西郷氏と同根の菊池氏一族と言う事になる。

長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹して死亡、庶兄(家康次男)の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて後に結城氏を継いだ。

それで、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇され、十四歳で中納言に任官し「江戸中納言」と呼ばれる。

いずれにしても秀忠にはカラクリがあり、秀忠の同母弟とされる家康の四男・松平忠吉が、実は側室の西郷局が産んだ家康の三男で、三男とされたのが明智光忠である。

松平忠吉(まつだいらただよし)は、関が原の初陣に於いて島津豊久を討ち取った功により戦後、尾張国清洲に五十二万石を与えられたが、悪性の腫れ物に冒され享年二十八歳で死去している。

勿論、「母親が三河の名家であるから後を継がせる」は口実で、織田信長の嫡男入れ替え策の結果であるが、いずれにしても豊臣秀吉は、家康の三男・秀忠が明智光忠と入れ替わったなどとはつゆ知らない。

それで秀吉成りの閨閥計画を実行している。

徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。

小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。

この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。

この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。

その後継室として迎えたのが、浅井長政・三女「お江(おごう)もしくは於江与」だったのである。


徳川家康が、今川家の人質時代の松平竹千代(松平元康)とは「別人では無いか」と推測される理由の一つに家康が門徒となった「仏教の宗派が予測と違う」と言う疑問がある。

松平竹千代(松平元康)は今川人質時代に今川家・軍師の臨済寺・雪斉和尚(臨済宗妙心寺派)から手習いなどの勉学指導を受けている。

雪斉和尚(太原雪斉)の本拠・駿府(静岡)の臨済寺は、臨済宗の宗祖臨済義玄(中国唐の僧)の名に由来する今川氏の菩提寺である。

静岡浅間神社の境内から連なる賤機(しずはた)山麓に在って今川館(現在の駿府城)の北西に位置する現在の静岡市葵区大岩にある。

当然ながら、松平竹千代(松平元康)は幼少期に教えを授かった臨済宗妙心寺派の門徒となる筈である。

所が、成人して三河国主になった徳川家康が突然熱心な門徒となったのは、幼少時から慣れ親しんだ臨済宗ではなく法然上人を開祖とする浄土宗で、江戸・芝の増上寺が菩提寺になっている。

確かに三河安祥(安城)以来松平家は浄土宗であるが、松平竹千代(松平元康)は幼少期を臨済宗の中で過ごし、雪斉和尚から教えを受けてている。

松平家は「先祖からの浄土宗門徒だ」と言ってしまえばそれまでだが、三河国愛知郡の地元で浄土宗に親しんだ別の人物の存在もその可能性を否定出来ない。

存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。

これはもしかして、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件ではないだろうか。

家康は、徳川家の隆盛に伴い浄土宗総本山・智恩院(ちおいん)に寄進などする一方、智恩院(ちおいん)を京での政治工作の足場(投宿場所)にした位の関係を築いている。

また、家康が晩年駿府に隠居すると、上清水村(現静岡市清水区)に在った引接院・善然寺を駿府に移転させて手元に置いた。

その善然寺が城の拡張で敷地内になったので現在の静岡市葵区新通に移設、特に徳川家から朱塗りの門を許されて引接院・善然寺は現在でも「赤門の寺」として有名である。


徳川家康は幼少の頃から青年期まで、今川氏に人質として送られ駿河国・駿府(現・静岡市)に育った。

そして多くの空白が生まれる中、後世「家康別人説」が浮上するのだが、この別人説、家康双子説についてはあらゆる痕跡からかなりの精度が在る。

しかし、巷で流れている単なる影武者説では説明が着かないのが今川家から独立後の家康母方・水野氏一族の隆盛である。

家康別人説については、この双子説以外に影武者説なども在る。

だが、血統が繋がらないまったくの他人であれば一度は父・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁された家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏を家康が重用する筈が無い。

影武者説に関してはこの水野氏重用の視点が欠落しているか、説の提唱者が無理にそこは目を塞いでいるのかも知れない。

比べるに正妻・築山御前(つきやまごぜん)と長男・松平信康親子の処断しかり、清洲同盟の謎しかり、家康庶子・鈴木一蔵の存在しかり、家康双子説の方が遥かに筋が通っているのではないだろうか?

つまり影武者入れ替わり説では、水野氏重用の説明が着かないのだ。


徳川家康生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏は何故か織田信長に寝返り、於大の方は夫・松平広忠(まつだいらひろただ)に離縁されて刈谷の水野家に戻っている。

於大はその後、兄・水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。

この水野氏の突然の織田方への寝返りの動行と、その後の水野家及び於大の方(おだいのかた)に対する今川独立後の松平元康(家康)の奇妙な割り切りも気に成る所である。

或いは双子の片割れの裏・竹千代の存在が在っての密約、水野氏の織田方寝返りの可能性を感じる。

で在れば、謀略渦巻く戦国の世である。

松平広忠と今川家の表・竹千代ラインと於大の方と織田家の裏・竹千代ラインが三河をめぐる勢力争いの構図として筋書きが完成していたのかも知れない。

水野氏については、清和源氏満政流を称し、経基王の王子で源満仲の弟で鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

しかし苗字の地とされる尾張春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏の水野氏がある。

また水野氏流には藤原氏を称するものもあり、源氏と断定できず諸説ある状態でなを、この水野郷の苗字の地は京都嵯峨水野の里とする説がある。

水野氏当主・水野信元(於大の方の兄弟)は徳川家康・生母の実家としては、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると家康の今川家からの独立を支援する。

また、信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介するなど、身内らしい動きをして居る。

弟・水野忠重(みずのただしげ/於大の方とは姉弟)の嫡男・水野勝成と四男・水野忠清は共に家康に仕えた。

猛将として知られた水野勝成は関ヶ原の戦い大阪の役に参陣して武功を挙げ、大和郡山藩主(六万石)後に備後福山藩(十万石)及び下総結城藩水野家(一万八千石)の二大名家の祖となる。

水野忠清は駿河沼津藩二万石(最終五万石)・水野家及び上総鶴牧藩・水野家(一万五千石)の二大名家の祖となり、徳川政権の幕閣に要職を得ている。

また水野忠政四男・水野忠守(水野信元の兄弟)は出羽山形藩五万石・水野家の祖である。

さらに水野忠政八男・水野忠分の子・水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家二万石(改易)と紀伊新宮藩・水野家(紀州藩附家老水野家・石高は三万五千石。)の祖である。

つまり水野家は、小なりとは言え五ヵ家に及ぶ大名家を排出し、老中など幕閣に要職を勤める親藩として存続し大半が維新を迎えている。




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徳川家臣団の結束

◇◆◇◆◇◆◇◆◇十四話徳川家臣団の結束◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

それにしても、江戸の守りをも考えた隠居地として家康が駿府を選んだ事でこの別人疑惑を見事に打ち消し、家康駿府育ちを印象着ける妙手は誰の手に拠るものだったのか?

この経緯を知っていたのは松平の古くからの重臣・本多家と鳥居家だけで、外部では只一人きり、密約相手の明智光秀だったのである。


徳川家康の天下取りには、最もな理由が存在する。

源氏の長者・征夷大将軍・徳川家康誕生の遠因となった最初の秘密は、三河(松平)家臣団の結束である。

そしてその事が、「後の全てを決した」と言って過言ではない。

負け戦の経験で学び、慎重に成ったのは源頼朝も徳川家康も同じだが、両者には決定的な違いがある。

頼朝は猜疑心の塊だったが、家康は家臣を信頼し「情」が在った。

それは生い立ちの違いで、家康は影・竹千代の時代でも家臣の「情」に囲まれて育っている。

事実、織田・今川共に三河松平を「平定しょう」とは思わなかった。

根底にあったのが三河(松平)家臣団の結束で、織田家、今川家共にその結束が無視できず、嫡男・竹千代を取り込む作戦に出た。

下克上の時代に、ある意味特異とも言うべき三河(松平)家臣団の存在こそ、家康の運命を感じさせるものだったのである。

家康の才能は、類稀な「御輿に担がれ名人」である。

けして、部下を無視して自らが身を乗り出す事はしない。

そして家康は、秘密の養子・秀忠(光忠)を信長から押し付けられてもさして抗わなかった。

それは、家康の生き方そのものである。

彼自身が、影武者同然の数奇な運命に翻弄された半生を送って来たからで、それ故、避けては通れない事は逆らわず受け入れて、ジックリ生き残る事を自身の信条として覚えたのである。

当然ながら父・松平広忠、母・於大(おだい)の具体的な肉親の愛情に触れる機会は少なく、世話に成った家臣への「情」に比べ我が子に固執する心情に家康は疎(うと)かった。


我輩思うに、徳川家康(竹千代)はその出生の秘密の為に、双子の「影」として、織田家の人質として織田家・平手政秀に育てられた。

また、雑賀孫市(鈴木「佐太夫」重意)の庇護を受けたりと、父(松平広忠)の愛を知らずに育っている人物である。

その当時に、家臣を始めとする人の情けを知ったが為に、この時代の棟梁に珍しく常に家臣に気を配って人望を集め天下取りに成功している。


品格を持たない指導者が陥る手法に「競わせる」がある。

企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて部下を「競わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。

この【左脳域】志向である「競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき感性である。

こうした状況に陥ると、結果、内部での足の引っ張り合いが始まり組織としての結束は崩れる。

徳川家康は当時の武将としては珍しく、この「競わせる」の手法を取らなかった。

それで結果的に、家臣の方が勝手に競ってくれた。

家臣を納得させる為には、棟梁は辛抱強く成らなければ成らない。

人生不幸な事に見舞われても、学習すればそれが将来の肥やしに成るもので、若い時の苦労は家康を辛抱強くさせ、家臣の人気を高めて天下取りの原動力に成った。

現代にも通じるが、部下は信頼して伸び伸びとやらせた方が成果を出す。

怒鳴りや小言ばかりで威嚇しては萎縮するばかりで、尚更失敗を重ねたり、隠し事をするように成る。

その点、織田信長型の強烈な棟梁は、余程の才能が無い限り通用はしない。

だが、少しばかりの幸運に恵まれると、自惚れて直ぐに威張り散らす己をしらない者が多く、面従腹背の部下ばかりに成って良い結果は出せない。


何故双子の疑いが有るのかの条件をここで検証すると、その第一がおよそ家臣思いの家康とは思えない三河譜代の家臣への扱いが有るからである。

例えば幼少の頃より家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居た。

天下を取った家康が、その安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。

三河阿部氏が日の目を見るのは、正勝継嗣・阿部正次が関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、相模国内に五千石を加増され、父の遺領と併せて鳩ヶ谷藩一万石の大名と成ってからの事である。

その後大坂の役の戦功で三万石を領するなどして徐々に加増され、備後福山藩で十万石を得て落ち着くが、それは子孫の功績で安部正勝(あべまさかつ)の功績が認められた訳では無い。

同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は関東入国時に小田原城四千石を与えられている。

だが、いずれももっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事である。

考えられる事は、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康が、安部正勝(あべまさかつ)に「大して世話に成っては居なかった」と言う事である。

何しろ双子の別人が入れ替わったのだから・・・。


今川の尾張侵攻で幸い織田方が勝って自分が生き残ったが、松平元康(影・竹千代)には、「今川が勝って居れば、この家臣共は我が命短じめたやも知れぬ」と言う想いが在った。

その想いが、松平元康(影・竹千代)に「最後まで三河家臣団への不信が残った」と推測されるのである。

つまり駿府今川家の人質時代の松平元康が、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康と別人ならば、そこら辺りの説明がつく話である。

実は鉄壁を誇った三河家臣団に、松平元康が徳川家康に名を改めた頃から微妙な動きが始まっていた。

それは三河安城・古参家臣団の一部が、生き残りを賭け必死の戦働(いくさばたら)きに走った事である。

徳川四天王に数えられる酒井忠次(さかいただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将であり、酒井氏は三河・石川氏と並ぶ松平氏(徳川氏)三河安城・最古参の重臣である。

酒井氏は安城譜代と呼ばれ、元々松平家中に於ける最古参の宿老家とされるが、その出自は確定せず不明である。

三河国碧海郡酒井村或いは幡豆郡坂井郷の在地領主で在ったと推測される酒井氏である。

だが、後年作成された酒井氏の系譜に拠ると、鎌倉有力御家人大江広元(司所別当)を祖とする大江氏の流れを汲み、江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流としている。

絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。

酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、信長に無視されて居る。

桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だった。

だが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功あるも、千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった。

その事に関して、忠次は抗議している。

同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政は十二万石、本多忠勝榊原康政の両者は十万石と厚遇された。

それに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。

駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。



本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族である。

この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩などを経由し、三河岡崎藩五万石に落ち着いたが、幕閣の要職には恵まれなかった。


榊原康政(さかきばらやすまさ)も徳川四天王の一人であるが、父の榊原長政は松平氏三河安城・旧譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣で在った。

三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫を称していた榊原長政の次男として三河国・上野郷に生まれた榊原康政(さかきばらやすまさ)は、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓に任用されてる。

康政(やすまさ)の「康」の字は元康の「康」を与えられたもので、十七歳で元服した康政(やすまさ)は、同年齢の本多忠勝とともに旗本先手役に抜擢され、今川家属将時代の松平元康(徳川家康)側近の旗本部隊の将として活躍している。

桶狭間の合戦の後、松平元康(徳川家康)が駿河の今川氏から独立し尾張の織田信長と同盟を結ぶ。

すると康政(やすまさ)は、姉川、三方ヶ原、長篠など数々の戦いで戦功を立て、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで徳川家臣中第二位の十万石を与えられて居る。

関ヶ原の戦いに於いては、康政(やすまさ)は徳川家の継承者・徳川秀忠軍に軍監として従軍するが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参している。

この康政(やすまさ)、関ヶ原の合戦の後に老中となるが家康から遠ざけられ所領の加増は無く、徳川政権が確立するに従い本多忠勝(ほんだただかつ)と同様に冷遇されている。

徳川主力軍の軍監として中山道を進みながら関ヶ原合戦に遅参した事が原因か、若い頃から正・竹千代(松平元康)の側近を務めていた事が遠因かは判らない。

この徳川四天王の処遇を持って、直臣に厳しくして「外様の不平・不満をかわした」とする解説もある。

だがそれは間違いで、他に家康としては殊更に優遇したくない「公に出来ない何かが在った」と見る方が自然である。

それでなく、「外様の不平・不満をかわした」とするならば、優遇されている井伊家や稲葉家、そして今から紹介する鳥居家の隆盛など存在しない。

三河以来の譜代に冷たかった家康だが、何故か鳥居家にはまったく態度が違った。

鳥居元忠は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣である。

その鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。

桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。

幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状を貰う事は無かった。

家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。

天下人となった豊臣秀吉から鳥居元忠への官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはないと断った」と言う逸話も残っている。

しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、家康は元忠に捜索を命じる。

元忠は「娘は見つからない」と報告し、その捜索は打ち切られたのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は「高笑いで許した」と伝えられる。

天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老と成っていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時、元忠は後を任されて伏見城を預けられる。

その家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。

ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。

一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのか。

やはり鳥居元忠と家康には「影・竹千代傅役(ふやく/お守り役)」と言う親心的な幼少時からの深い縁が、二人間に在ったのではないだろうか?

そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千の軍勢の伏見城入城を拒否した事である。

元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?

関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は後に山形藩二十四万石の大名に昇格している。

この処遇は、三河譜代の他家と比べ三河譜代の家としては異例の厚遇である。

つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?

尚、元忠の子一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老大石内蔵助良欽に嫁いでいる。

その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。


徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。

国人領主として今川氏の家臣である井伊直親(いいなおちか)は、謀反の嫌疑を受けて今川氏真(いまがわうじざね)に誅殺され、長男・虎松(直政/なおまさ)は父・直親(なおちか)の死によって井伊家を継ぐ身となる。

しかし遺児の虎松(直政/なおまさ)は僅か二歳で在った為に新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼(ゆうえんに)が中継ぎとして井伊直虎(いいなおとら)と名乗り、井伊氏の当主となった。


父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。

為に井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。

直政(なおまさ)は井伊谷の所領を今川氏に取られて失い、一時、生母の再婚相手・松下清景の松下姓を名乗るなどした他、井伊直虎(なおとら/祐圓尼)を養母として不遇を囲っていた。

それが、千五百七十五年(天正三年)、今川氏から遠近江国を奪取した徳川家康に見出される。

十四歳、元服前の直政(なおまさ)は見目麗しい美少年で、当時の男児は、年齢的に十四歳くらいまでまだ肉体も中性的で、稚児小姓として愛玩し易い。

徳川家康は三十二歳の男盛り、一目で虎松を気に入り井伊氏に復する事を許し虎松を万千代と改めて名乗らせ、手元に置くようになる。

直政(なおまさ)は家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。


前田利家の出世の切欠として既に紹介したが、一所を構える領主の子息ともなると武人の嗜(たしな)みとして幼少の頃は御伽(おとぎ)と言われる遊び相手を附けられる。

そして成長すると、稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)と言う年下の世話係りが宛がわれ、自然に嗜(たしな)みとして衆道(しゅどう)も行う様に成り、結果、臣下の間に特殊な硬い絆が生まれる。

現在では考えられない稚児小姓(ちごこしょう・御伽小姓/おとぎこしょう)の習慣だが、稚児(ちご)は日本仏教や日本神道では穢(けが)れの無い存在とされていた。

神仏習合の修験道(密教)では、御伽稚児は呪詛巫女と同じ様に呪詛のアイテムであり、憚(はばか)る事の無い氏族(公家や武士)には公(おおやけ)な習慣であった。

井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。

井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。

関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、井伊直政は石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り、井伊家は明治維新まで存続している。

酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)の三人は、井伊直政と伴に「徳川四天王」の一人と呼ばれた。

彼等は徳川幕府成立の功績第一の身でありながら、桶狭間(今川氏から独立)以後側近に成った井伊直政(いいなおまさ)を除き、今川人質時代を知る三人が徐々に遠避けられ揃って冷遇されている事は謎である。

人は一人では何も出来ない。
成功も、周囲の協力が有っての成功である。

現代にも通用する事だが、オーナー経営者の陥り易い悪癖は「全てが自分の力で遣った」と自惚(うぬぼ)れる悪癖で、この意識が強くなると優秀な右腕を失う羽目になる。

徳川家康は、他の有力武将大名と比べ周囲の恩義に報いるタイプで人気が高かった。

現に織田信長には最後まで忠実だったし、関が原合戦の影の功労者・林(稲葉)正成(はやし/いなば/まさなり)も浪々の身をワザワザ呼び出して手厚く処遇している。

所が家康は、そうした暖かい反面、三河以来の古参家臣の扱いは余りにも冷たい。

この余りにも家康の性格とかけ離れた三河以来の古参家臣の扱いを見る時、考えられるのは只一つ、家康は彼等に「何の親近感も恩義も感じなかった」と言う事である。

何しろ双子の別人が入れ替わったのだから・・・。

彼等三河松平の古参家臣は、もう一人の正・竹千代の家臣で有って織田家重臣・平手政秀(源家・徳川を名乗れる)を養父に育った自分の家臣ではない。

つまり天下を取った方の家康にして見れば、松平古参家臣も感覚的には新参者だったのではないだろうか。

それにしても、江戸徳川幕府成立後の徳川四天王の内の三人を始めとする旧・三河松平家臣団の冷遇は特筆に値する。

この辺りの、本来なら幕府成立の永年の功労者である旧・三河松平家臣団の処遇には疑問が残る所である。

その事が、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説と、そして徳川秀忠=明智光忠説、明智光秀=天海僧正説、春日の局(斉藤福)の明智トリオが徳川本家を乗っ取ったとしたら、旧・三河松平家臣団を冷遇した事に説明が着くのである。

本多俊正の子として三河で生まれた本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の側近として活躍し武将と言うよりは吏僚(官僚)として才が在った。

徳川家康の家臣としての本多正信の経歴は特に変わっていて、三河一向一揆が起こると正信は一揆方に与して家康と対立し一度家康とは袂(たもと)を分かっている。

そして一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕え、久秀には重用された様であるが、やがて久秀の下も去って正信は諸国を流浪する。

その流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではないが、有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し織田信長とも戦っていたともされている。

その諸国を流浪した末、正信は旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世の懸命のとりなしに拠って姉川の戦いの頃もしくは本能寺の変の少し前の頃に、無事に徳川氏に帰参が叶っている。

本能寺の変が起こって信長が横死した当時、堺の町を遊覧していた家康は領国・三河に帰る為に伊賀越えを決意するのだが、この時に正信も「伊賀越えに付き従っていた」と言われている。

その後、本多正信は主君・徳川家康に実務能力を認められて、家康が旧・武田領を併合するとその地の奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当している。

本能寺の変から中国大返し山崎の合戦賤ヶ岳の合戦小牧・長久手(ながくて)の戦いを経て天下が羽柴秀吉でまとまる。

すと、主君・徳川家康が豊臣家に臣従し、小田原平定後に家康が豊臣秀吉の命令で関東に移る。

そこで漸く、本多正信は相模玉縄で一万石の所領を与えられて大名となる。

千五百九十八年(慶長三年)、豊臣秀吉が死去した頃から本多正信は家康の参謀としてその能力を発揮し大いに活躍する。

主君・徳川家康が豊臣家から覇権奪取を行なう過程で行なわれた千五百九十九年(慶長四年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半はこの正信の献策に拠るものであった。

順風だった正信だが関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って関ヶ原本戦に遅参する失態を犯している。

この時本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、「秀忠に容れられなかった」と伝えられている。

関が原の勝利後、本多正信は主君・徳川家康が将軍職に就任する為に朝廷との交渉で尽力し、二年後に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設する。

それで正信は、家康の側近として幕政を実際に主導する様に成る。

また、前法主教如と法主准如の兄弟が対立していた為、本願寺の分裂を促す事を家康に献策し、本願寺の勢力を弱めさせる事に成功している。

千六百五年(慶長十年)、徳川家康が駿府隠居して大御所となり徳川秀忠が第二代将軍になる。

正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかし余りに本多正信が権勢を得た事は本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買う事と成り、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返す様になる。

それでも家康の信任が変わる事は無く、五年後の千六百五十年(慶長十五年)には年寄衆から更に特別待遇を受けて、正信は大老のような地位にまで昇進し大きな権力を振るった。

本多正信は、大坂の陣でも家康に多くの献策をしているが、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、「歩行も困難であった」とされている。

徳川家康に重用され権力を振るった本多正信だが、領地は最後まで相模玉縄に二万二千石(一説に1万石)しか領していなかった。


余談だが、徳川家の直臣に南北朝時代に世良田氏と共に「南朝方として活動した」という伝承を持つ井伊氏や奥平氏が存在する。

しかし彼らは三河安城・松平家旧譜代の家臣ではなく、井伊氏は遠江国井伊谷に在って今川氏に仕え、奥平氏は遠江国で独立した小領主であった。

それが、一旦武田信玄に臣従の後、信玄没後に徳川(家康)氏に仕えた。

いずれにしても、井伊氏や奥平氏が徳川家臣に納まったのは、家康が世良田庶流を名乗り始めた頃と合致している。

或いは影・竹千代が、正式に平手政秀(源家・徳川を名乗れる)と養子縁組をして、気分は源家の家系だったのかも知れないのである。

その後のこの両家に対する徳川幕府の扱いを見る限り、かなり突出した待遇である所から、少なくとも「南朝方末裔」と言う世良田系図のアリバイ工作的な意味が在ったのかも知れない。

奥平氏は幕府重臣として松平姓を名乗る事を許され、井伊氏は幕府重臣として老中・大老職を務めるなど、厚遇されて維新まで続いた。

その経緯から推測するに、影・竹千代(徳川家康)や二代将軍・秀忠に古参家臣団を敬遠する「何らかの必要が在った」と考えられるのである。

そこが歴史の面白い所だが、竹千代双子説の全ては状況証拠の積み重ねでその場に臨場した訳では無いから確証は無い。

しかし「その場に臨場した訳では無い」となれば、否定する事もまた確証は無いのである。

いずれにしても、双子の存在を背景として公には明かせない歴史が捏造された疑いが存在するのだ。




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落胤・鈴木一蔵

◇◆◇◆◇◆◇十五話落胤・鈴木一蔵◆◇◆◇◆◇◆◇

徳川家康は、千六百年(慶長五年)に関が原の戦いで勝利し、豊臣家を六十万石代の大名規模に縮小させてほぼ天下を手中にした。

家康は、服部半蔵に命じて比叡山に隠遁する南光坊(光秀)に使いを出す。

雑賀孫市に預けていた庶長子・鈴木(一蔵)重康を「召し抱えたい」と告げている。

その家康不遇時代の落胤・鈴木(一蔵)重康は雑賀孫市に育てられ、雑賀衆残党の棟梁を継いでいた。

翌千六百六年(慶長六年)に、孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木(一蔵)重康は雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として鈴木孫三郎重朝(しげとも)を名乗り、徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕えた。

その鈴木(一蔵)重康が、後に二代将軍・秀忠の命により家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

この一連の落胤・鈴木孫三郎重朝(しげとも)召抱えは家康の我が子への愛情である。

水戸藩士・鈴木家は徳川一門に於いて古代史・葛城家に於ける賀茂(勘解由小路)氏のごとき立場に組み込まれて行く物語は、次の「大日本史編纂」の下りで披露する事になる。


家康落胤と言えば、二代将軍・徳川秀忠の懐刀として江戸時代前期の幕府の老中・大老を務めた土井利勝(どいとしかつ)には、鈴木一蔵と同じ落胤説が存在する。

土井家は三河譜代の家臣ではないにも関わらず、利勝(としかつ)が幼少時から家康の鷹狩りに随行する事を許されるなど破格の寵愛を受けていた為に家康の落胤説がある。

元康(家康)には双子説が在り、今川氏の人質(築山の夫)ではないもう一人の竹千代(家康)が相当自由に三河から遠近江を遊び回ったらしく、落胤説が数例を数える。

利勝(としかつ)は、影竹千代(家康)が利昌の娘(後玉等院)に産ませた隠し子で、最初に水野信元の養子となり、信元が暗殺されると利昌の養子にされたとも言われる。

井川春良(西尾藩儒臣)が著した「視聴草」には、家康の隠し子である事が書かれている他、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にも同落胤説が紹介されている。



徳川家康は稀代の艶福家である。

記録に残る正室・築山殿(清池院) 、継室・朝日姫(南明院) 、他に寵愛を受け、子を為して側室に収まった者は十八名を数え、為した子供は十一男・五女、落胤と目される男は七人に及ぶ。

そして亡くなったのは七十三歳強と、当時としては長生きをした。

十一男・徳川頼房(千六百三年生まれ)、 五女・市姫(千六百七年生まれ)は、いずれも家康六十歳代の子供である。

徳川家康は、賀茂流陰陽として伝わる秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)を作り続けて多くの子女を儲けた。

その最後の男児が、十一男・松平鶴千代丸(徳川頼房/とくがわよりふさ)である。

徳川頼房(とくがわよりふさ)は千六百三年(慶長八年)、家康在京の本拠地となっていた伏見城にて側室・万(養珠院/ようじゅいん)との間に生まれる。

同腹の兄に、前年・千六百二年(慶長七年)に生まれた長福丸(後の徳川頼宣/紀州徳川家・初代藩主)が居る。

実母の万(養珠院/ようじゅいん)は、実父・正木頼忠(上総勝浦城・正木時忠の次男)が後北条家に人質として滞在している時に出来た娘である。

頼忠が上総に戻る事になり離婚、万の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚し、万(養珠院/ようじゅいん)はこの義父の元で育てられる事になる。

母親の再婚相手・義父にあたる蔭山氏広の所領伊豆で成長した万(養珠院/ようじゅいん)は十六〜七歳の頃、沼津か三島の宿で家康の投宿の為に給仕に出た所を見初められ家康の側室となった。

家康の秘伝の妙薬・回春丸(勃起丸)が功を奏してなのか、万(養珠院/ようじゅいん)は千六百二年(慶長七年)の三月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年・千六百三年(慶長八年)の八月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。

何と六十歳代のヒヒ親父(家康)が、十六〜七歳の小娘を側室にして子供を為したのだから、現在の東京都条例(他県も似たようなものだが)であれば立派な淫行犯である。

その、鶴千代(後の徳川頼房)の兄・長福丸(後の徳川頼宣)は、僅か生誕一年目の千六百三年(慶長八年)に常陸国水戸二十万石が与えられ、鶴千代(後の徳川頼房)には千六百六年に下総国下妻十万石が与えられる。

千六百六(慶長十一年)、頼房は三歳にして常陸下妻城十万石を、次いで千六百九年(慶長十四年)、実兄・頼将(頼宣)の駿河転封(五十万石)によって新たに常陸水戸城二十五万石を領した。

二十五万石の太守となった徳川頼房だったが、幼少だった為に元服するまで家康隠居所となった駿府城で、家康と生母・万(養珠院/ようじゅいん)の許に育った。

徳川頼房(とくがわよりふさ)の封地・常陸国水戸藩入府は、千六百十一年(慶長十六年)に八歳(数え九歳)で元服してからである。

双子の相手は、人生最大のライバルでもある。

家康の一生に「重き荷を負った」のは、双子の兄弟の重さも在ったのかも知れない。



「水戸黄門漫遊記」のヒントと成った史実・水戸徳川家異聞】に続く。


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【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

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◆冗談 日本に提言する◆

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茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。




作者本名鈴木峰晴