周吉が中学を卒業して東京に出て来たのは、昭和三十六年の春だった。
「集団就職」と言う奴で、上京する時には付き添いの教員も、同じ村の同級生も居たから、正直駅まで送りに来た両親ほど別れが悲しくは無かった。
僅かばかりの着替えの入ったバックと、親から雇い主への手土産を、大事にぶら下げて、詰襟の学生服姿で、周吉は上野駅に降り立ったのである。
さしつかえがあるので、出身地は「東北のある村」とだけ言っておこう。
周吉の性格は典型的な東北人で、純朴、正直を絵に描いたようだった。
名前の由来は周(あまねく)吉(きち)と言う願いを込めて、寺の和尚さんに付けてもらった。
農家の五男坊だった周吉には、分けてもらえる田畑などあるはずもなく、親に因果を含められて、集団就職の汽車に乗った。
その前の年、東大の女子学生がデモで死んだ。
それで日本中大騒ぎになったが、周吉には良い大学まで行って、何故そんなに政治運動をするのかが解らなかった。
生きるのが精一杯で、そんな騒ぎは住む世界が違ったのだ。
最初に勤めたのは北区にあった製紙会社の下請けで、製紙屑の再生をしていた。
作っていたのは、チリ紙と言う名の安い平判のトイレ紙だった。
出入りがあっておおよその事だが、従業員十二、三人の小さな町工場だった。
勿論、「集団就職」で一諸に上京した村の同級生でこの工場に勤めたのは周吉一人で、同級生の就職仲間はチリジリになった。
それでも最初は連絡を取り合い互いに励まし合う積りだったが、結局二年と経たないで皆疎遠に成ったり、何処に流れたのか行方不明が多かった。
その製紙屑の再生町工場で、三年先輩にボイラーの「お守りの仕方」を一から叩き込まれた。
東京の街は、三年後に控えたオリンピックの開催準備で、都市整備の工事が急ピッチで進められ、沸き返っていた。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫が売れて、家電業界は活況に沸いていた。
しかしその好景気は、周吉には無縁に近く、わずかな給料の大半は、国元の親への仕送りに消えていた。
巷では学生運動が益々盛んになり、周吉の村の大地主の倅も私大学生で運動にかぶれ、逮捕留年を繰り返して、終(つい)には親元に連れ帰られていた。
裕福な家庭で育って将来も安泰の身で、共産運動に熱中する彼らに周吉は矛盾を感じていた。
「地主の坊ちゃん、アカに被(かぶ)れて・・・」
後で考えると、彼らなりに社会矛盾と正面から向き合っていたのだろうが、理想と現実の狭間は大きく肝心の大衆は傍観者だった。
そんな或る日、周吉に不幸が襲った。
間が悪い事に、その日現場の先輩は早番で交代し帰宅していた。
誰が悪いのでもない、自分のミスで、慣れない操作を間違えボイラーの高温熱気を浴びてしまったのだ。
周吉の顔には、左頬の辺りに直径五センチほどのケロイド状のやけど跡が残ってしまった。
雇い主も両親も、「何んて事をしでかしたのだ。」と、まだ十五歳の周吉を責めた。
無理も無い、「治療費の捻出」から「静養の費用」まで、雇い主も両親も「負担し難かった」のだ。
事故の知らせを聞いて、家中の金を引っかき集めて上京した両親の、周吉を愛しむ心情は伝わっては来たが、周吉はこの時故郷を捨てた。
歯を食いしばっても、「故郷を頼るまい」と、思った。
上京して以来、折に触れて足を運んだ上野駅も、行く気に慣れなかった。
上野駅は、故郷に通じていてが、それを棄てた周吉には、辛かったのだ。
職場も代わりたかったが、治療費の一部を借りていたから、給料差し引きで払い終わるまで三年我慢した。
後で知ったが、静養中の生活費の一部はともかく傷害保険は強制加入で、曲がりなりにも町工場の主がそれを知らない筈も無く、純朴な田舎の両親と周吉は、「無知」故に経営者の食い物にされたのだ。
それを人が良い事に、「迷惑を掛けた上に世話になった。」と感謝していた。
田舎出のお人良しには、「世渡り」とは辛い事だった。
かなり後の事だが、十五年後にチョットした事で法律上の事実を知った。
腹立たしかったが、文句を言おうにも工場主は既に他界して工場も跡形も無く閉鎖されていた。
東京オリンピックの年、周吉は十八歳になっていた。
日本中が沸き返る中、寂しい青春だった。
正直、彼女も作れない。
顔の傷は、「太ももの皮膚を移植すれば、見栄えが良くなる。」と言われていたが、そんな金など、食うに精一杯で溜まる訳が無い。
周吉の唯一の憂さ晴らしは映画を見る事で、金が無い周吉にすると、映画鑑賞が唯一の贅沢だった。
棄てた故郷に通じる上野は近寄り難かったから、池袋の駅前に通った。
池袋の駅前の線路脇に、ズラリと映画街が在った。
夢中で映画を見終えた興奮は、外に出ると眩しさを感じて直ぐに現実に引き戻される。
外の明るさに、目が慣れなかったのだ。
その映画街の道に劇場から出た途端(とたん)、目の前を一歳半か二歳くらいの幼児がフラフラと歩いているのが目に入った。
良く見ると、どこで脱げ落ちたのか靴を片方しか履いてはい無い。
「ぼく、どうしたの?」
声を掛けてみた。
親らしい影が、見当たらなかったのだ。
幼児は立ち止まって周吉の方をチラリと見たが、また無言で歩き出した。
まだ、ヨチヨチ歩きが少しまともになったくらいで、危なっかしくて見ていられない。
思わず抱き上げてしまった。
「どなたか、この子の親はいませんか?」
後で気が付いたが、幼児は、まだものが言える年齢ではなかったのだ。
十分ほど、幼児を抱きかかえて映画街を何往復かしたが誰も現れない。
必死だった・・・。
大概の子は周吉の顔を見ると泣き出すのに、その子はしっかりと周吉にかじりついている。
捜す事をあきらめ、駅前の交番に駆け込むと、ちょうど周吉の母くらいの年齢の女性が、その幼児の捜索を頼もうとしていた所だった。
捜索を頼みに来ていた女性は「みやこ愛育園」と言う施設の園長で、幼児は母親の姿を追っていたのだ。
無事に幼児を女性に手渡すと、周吉は警官が驚くほど感極まって号泣した。
それこそ数分の間、嗚咽が続いて泣き止める事が出来なかった。
堪えて生きて来た数年間も、腹の底から一緒に吐き出したのかも知れなかった。
生まれて初めて味わう安堵の涙だった。
自分の母くらいの年齢の女性は、お礼のつもりか「食事をしましょう。」と周吉を誘った。
周吉の身なりから、「小使いにも事欠く集団就職組の若い工員」と察しが付いていたのであろう。
人恋しさもあり、言葉に甘えた。
自分の母くらいの年齢の女性は、名を芳子と言った。
芳子は二十八歳の時に、後の東京空襲で亡くなった両親の強い勧めで軍人の下へ嫁いで、二十九歳の終戦の二(ふた)月前には未亡人になっていた。
子供には恵ぐまれなかった。
夫の両親も空襲で失い、練馬区内の何箇所に畑と家作(借家にしていた)が残った。
芳子は、一人だった。
溢れる戦災孤児を見ぬふりが出来ず、芳子は終戦の年以来、「みやこ愛育園」を立ち上げて戦災孤児を数人ずつ育てていた。
それから二十年程が過ぎ、周吉と出会った頃の芳子は五十歳に手が届く年齢(とし)になっていた。
時は移り、芳子の預かる園児の素性も変わった。
その頃の児は「捨て子」に変わっていた。
望まぬ子が出来て、育児を放棄する母親が増えていた。
高度経済成長で生活は華やかに成ったが、心の豊かさは失われ物質的な豊かさが追い求められていた。
この出会いが転機となり、周吉は芳子の「みやこ愛育園」を手伝う決意をした。
園の姑息利直し(補修)や、雑事一切を引受けた。
周吉には、それが性分に合っていた。
やっと手に入れた、心休まる小さな世界だった。
後から知ったのだが、国の指定する一定の「規模」が施設に要求されていて、「みやこ愛育園」は正規の規模に達していなかったので、園の経費は、大半が芳子の自腹だった。
それに、芳子は園の運営に役人の介入を嫌っていた。
それで、周吉も給与に多くは望まず、三十五の歳を数えても総支給額十五万円で止めていた。
それさえも、資金繰りの都合で止る事もあったが、一人身なので待つ事が出来た。
周吉が最初に映画館の前で会った幼児は、昭和三十九年の年に二歳、テッキリ男の子だと思ったが女の子だった。
名前を「五月(さつき)」と言ったが、棄てられていたのが五月だったからで、親の付けた本当の名前は判らなかった。
周吉に、「五月」への思いが特別だったので、彼女の成長には喜びを感じた。
余り美人とは言えないが、細身でスタイルは良かった。
園に居る間は、周吉に懐(なつ)いていてくれた。
その五月も中学を卒業すると園を出て就職し、やがてその職場を辞(や)めて行方が判らなくなった。
勿論、園との連絡も絶っている。
芳子は、「女の娘(こ)はその気になれば稼ぐ道は有るからねぇ。」とため息をついた。
彼女は、自分の育った過去を棄てたかったらしい。
そんな或る日(昭和五十八年)、故郷の村を彷彿するような映画が封切りになった。
深沢七郎原作、今村正平監督の「楢山節考」である。
坂本スミ子、緒方拳が主演だった。
若い世代が生き残る為に、七十歳に達した親を山に捨てる風習の、貧しい村の親子の苦しみを描いた暗い映画だった。
あれほどではないが、周吉の故郷は貧しかった。
周吉は見ていて辛かったが、日本は今、高度成長の経済に沸いていた。
もう、あんな村はどこにも存在しない。
「終わった過去」と、自分に言い聞かせたのだ。
それから十二年後、平成六年に成って居たが芳子が死んだ。
七十七歳の少し早い往生だった。
既にバブル経済が崩壊して、四年が経っていた。
母代わりの芳子の死は、周吉に相当ショックだったが、それだけで終わらなかった。
四十七歳になっていた周吉は、思ってもいない事態に追い込まれた。
みやこ愛育園の維持費の大半は、夫の残した芳子名義の土地資産の切り売りと、夫の戦死による恩給でまかなっていた。
バブル景気で、土地が高く売れた時も有ったらしい。
それも尽きて、最後は芳子名義の園の土地を担保に借り入れた資金で足りない分をまかなっていた。
その担保が土地価格の暴落で、「担保割れになっている」と言う。
土地の値打ちが「勝手に下がる」なんて、種吉には迷惑な話だ。
芳子が亡くなって恩給の需給も途絶え、園の将来を見切った金融機関が精算を迫ったのだ。
みやこ愛育園のOBがカンパの動きをみせたが、彼らにも生活がある。
まじめに園の事まで心配するOBほど、出世には縁がなかった。
元々身寄りの無い彼らには充分な学歴を得られないのだから、世間でのし上がるチャンスは極端に少ないのだ。
打つ手もなく、「みやこ愛育園」は、更地に成った。
それでも、用地売却処理の中から退職金が捻出され、周吉に四十五万円が手渡された。
何を基準にしての金額なのか、周吉には良く判らなかった。
それで、終わりだった。
一年も経つと、跡地には六階建ての瀟洒(しょうしゃ)な貸しビルが建っていた。
つまり周吉は、いきなり世間に放りだされたのだ。
顔のやけど痕が負い目で、この年齢まで独身(ひとりみ)で、それに、女性と知り合う機会も、所帯を持つ収入もなかったのだ。
周吉は新しい仕事先を捜した。
保証人も無い中卒の五十歳近い男に、求人など無い。
周吉は長い人生の中で色々学習し、若い頃無縁だった学生運動の意味が、少しは理解できるようになった。
独り善がりのうぬぼれだったが、彼らは「何とか現状を変えたい」と言う純粋な情熱だけは持っていた。
「事の良し悪し」は、立場によって違うかも知れないが、あのエネルギーは今の日本には無い。
それから八年、えらく人気が高い総理大臣が現れた。
バブル崩壊から十年余りも苦しみノタウツっていた日本経済を、聖域無き改革で立ち直らせる」と言う。
彼の言っている事を聞いて、みやこ愛育園で散々「国家の為」と「国民の為」の違いを知っていた周吉は、直ぐに「嘘だ。」と気が付いた。
そのえらく人気が高い総理大臣は、「国家の為」は連呼していたが「国民の為」などとは言っては居なかった。
これは、周吉が思うに為政者特有の論理で「国の為に死んで来い」と国民を戦場へ向かわせる靖国神社の神話流布と同等の発想である。
えらく人気が高い総理大臣は言葉のテクニックを駆使して、国民を欺いて来た。
例えばであるが、近年施行の「障害者自立支援法・介護者支援法」などの「支援法」と言う語句であるが、語句としての体裁は良いが、実質では障害者や要介護者に対し「支援後退法」と呼ぶべき内容である。
これは「事実と実質」の違いで、確かに事実の名称は「支援法」であるが、実質の中身は「支援後退法」で間違いは無い。
これを、言葉の「意味を読み取る」のか、その言葉を使った「意図を読み取るか」の思考スタンスの違いで、庶民の方も想像力がないと旨く騙されてしまう。
その最高傑作が、郵政民営化における「抵抗勢力」であった。
今日、我日本社会は、人気が高い総理大臣が思い描いた「米国型」の極端な過当競争個人社会に成り、利の為には手段を選ばない会社と、雇用不安と老後不安に怯え無差別殺人や近親殺人に明け暮れる、正に「米国型」の恐ろしい社会に成ってしまった。
つまり人気が高い総理大臣の政策は、形だけに拘って「米国型の悪い所取り」ばかりをしたのである。
えらく人気が高い総理大臣が最悪だったのは、「財政は取れる所から取れ」とばかりに「年金から天引き」と言う弱者をターゲットにした制度を考え出した。
制度改革を国会で野党の反対を押し切り通過させた時、周吉には何の事か皆目見当が着かなかった。
マスコミにさえも良く知らせず、「とにかく良い制度だから」と強引に押し切ったので、賛成した自民党議員さえ「内容を良く知らずに賛成した」と言うのだ。
後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)は、国の医療制度改革の一環として「健康保険法等の一部を改正する法律」に拠り、野党の反対を押し切って平成十八年六月二十一日に時の小泉内閣に拠って公布された七十五歳以上の高齢者等を対象とする、他の健康保険とは独立した日本の医療保険制度である。
その内容が問題で、既に働く年齢を超えてしまって収入に多くを望めない御高齢の方に「医療制度負担をさせよう」と言う事である。
当然ながら御高齢の方には家計の収入増を目指す手段も無く、特に国民年金収入だけの低収入高齢世帯や低収入高齢独居世帯には高負担に成る事は容易に想像出来た筈である。
政府は「僅かな負担だから」と言うが、高齢者は国家の貢献者で、外国は高齢者の医療負担が無料の国が多く今まではこの国も無料だった。
国家は、承知の上で高齢者を見捨てた。
平成二十年、世の中は後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)が実地されて、その非常な制度の実態に気が付いた高齢者が怒りだしていた。
毎度の事であるが、何か不都合な事があると、嘘とごまかしを言い続けて、どうにも成らなく成るとシブシブ認めるのが官僚と政治家である。
それにしても、後期高齢者医療制度で「約七割の方が負担が軽くなった」と言う厚生労働省の統計結果はどこをどうサンプリングを取ったらそんな結果が出るのだろうか?
確かにデーターはサンプリングの取り方で如何様にも結果が出せる。
だが、現実には「約七割の方が負担が軽くなった」などと言うレベルの話ではないからこそ、高齢者の方が怒っている。
現実の厚労省担当者も、「荒い数値」だと認めていて、厚生労働省の官僚がこの統計結果のサンプリングの取り方を明確にしなければ、とても信じられない。
六十歳に成っていた周吉は世間が後期高齢者医療制度で騒いでいる事は知っていてが、自分に取ってはまだ十五年も先の事で、「それまでには旨い事改善される」と安易に考えていた。
それよりも周吉は、年金の権利を得た事がうれしくて受け取り手続きに行くと、支給年齢の条件が変わって「その経過措置年齢に該当する」と言われた。
経過措置年齢に該当者が六十歳で得られるのは「厚生年金」積み立て部分一部で、「国民年金」積み立て部分は「六十二歳に達してからだ」と言う。
「厚生年金」に未加入の同年齢の者は、六十二歳にならなければ一円も受け取れないのだ。
窓口の係員には「経過措置に掛かっただけでも幸せよ。」と言われた。
周吉の年齢から僅かに三年後に生まれて来た連中には経過措置年齢が該当せず、純粋に六十五歳に到達しないと年金の給付は受けられなくなるのだ。
納め続けていた時と状況が変わって、年齢の引き上げと支給額の減額が、周吉の手の届かない所で決まっていた。
それでも善良な周吉は、「まだ働けるから、働ける内は経過措置の支給額が少なくても仕方が無い。」と納得した。
周吉が疑問に思ったのは人気が高い総理大臣が指揮する政府が政策として打ち出した大学の医学部定員削減の方針だ。
無責任な経済学者氏の信奉する米国の根底に流れていた精神は、良く言えば開拓者魂(フロンテェイア・スピリット)、悪く言えば「開拓」と称して他人(原住民・ネイテェブアメリカン)の土地へ押し掛け、居座り土地強盗をしたのが開国以来の歴史的な精神である。
思い起こして欲しいが、我が国日本と米国との交流は、黒船と呼ばれる◆ぺりー米国艦隊の恐喝に近い砲艦外交から始まっている。
つまりヨーロッパで食い詰めた人々が、開拓と称して他人(ネイテェブアメリカン)の土地にズカズカと乗り込んで米国を建国した経緯そのままの、武力で威嚇して富を収奪するのが米国流スタンダードの外交である。
そして、まんまと日本からの◆富の収奪に成功した。
その米国の砲艦外交を「良し」として真似し、朝鮮併合、満州国設立、東南アジア進行と突き進んだ我が国日本はどう言う経過を辿ったのか?
人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。
そして、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。
この歴史的な砲艦外交成功の背景は、今日でも国際社会における米国の軍事力を背景とした利権姿勢に露骨に表れて来た。
歴史を知らない、或いは知っていても「自分だけは違う」と思いたがるのが人間なのである。
米国の勝った者勝ちの開拓者魂(フロンテェイア・スピリット)が、新自由主義或いは市場原理主義と言う思考を生み出したのだから、企業倫理など程遠い殺伐とした契約社会である。
日本には「信無き者は立たず」と言う言葉がある。
新興巨大国家・米国は、出発点が間違った上に歴史的経験が浅く、成功例ばかりに目が向いた未熟な社会なのである。
言わば武力を背景にした経済外交をしているのだが、そうしたダーティな部分を建前で切り捨てて置いて、武力を持たない我が国を「米国かぶれした首相と学者大臣」は愚かにも「米国型と同じ様な自由競争経済社会にしよう」とした。
まともな人間なら少し考えれば判るが、自分の家と隣りの家では各々で諸般の事情が違う。
人気が高い総理大臣氏・無責任な経済学者氏の取った政策手法は、その事情が違う家が「隣りが上手く行っているから。」と無理して隣りのやり方に合わせるような「稚拙」なものである。
厚生年金の余力不足の予測は「医師の数が多過ぎる」と言う無責任な経済学者が、木(経済)を見て森(国民の豊かさ)を見ない小手先の政策により安易な発想を押し通して大学の医学部定員削減を推進させた。
周吉が思う・・・医学部定員削減とは・・・この国の政府は無医村や離島の事は既に見放しているのか?
医学部定員削減で医者を減らし福祉予算の削減目的は可能かも知れない。
しかし地球温暖化など不特定要因が重なる異常自然環境の人類は、予測もつかない感染症の大流行蔓延(パンデミック)に日本が見舞われた時それを迎え撃つ医師が不足しては笑えない。
医師が不足して国民に困難が襲う時、人気が高い総理大臣氏・無責任な経済学者氏はその責任を取れるのだろうか?
園の閉鎖から十五年、周吉は不況のなか、細々と「日雇い仕事」で凌(しの)いで、漸(ようや)く六十二歳に達し、厚生年金と国民年金の両方が支給年齢に達して年金生活が見えて来た。
体力的にも衰えを感じ、病院通いも多くなった。
もう・・・力仕事は無理だった。
平成二十二年の事である。
みやこ愛育園では、途中から「厚生年金」、日雇いになってからは、「国民年金」加入だが、周吉はきちんと払い続けていた。
そろそろ経過措置の需給年齢に近付いて、いったい、「幾らもらえるのか?」と、改めて窓口で問い合わせた。
なにしろ、加入者が知らない内に条件が勝手にドンドン不利に成って行く制度である。
そして驚いた。
後期高齢者医療制度で年金支給額から天引きされ実質受取額はほんの僅かで、四萬五千円の家賃を払うと、周吉の手元にいくらも残らなかった。
これでは、「とても老後は暮らせない。」かと言って、ほとんど蓄えもない。
「貴方の場合、厚生年金の加入が遅く、加入後も、収入が少なかったので掛け金も少なく、最低基準の支給額になる。」と言われた。
社会貢献と考え、「みやこ愛育園」での給料を抑えていた善意が、裏目にでる矛盾を感じた。
訳を言うと、「規則ですから。」と、取り付く暇は無い。
近頃は、年々支給額が削られていた。
それでも、制度そのものが「もたない」と、噂されていた。
この年辺りから、団塊の世代が、大挙して年金需給年齢を迎えていたのだ。
戦後の日本経済を、苦労を重ねて下支えしてきた、集団就職組は年老いていた。
それを支える若者は、「少子化」出にも余りにも少ない。
やがて、若者一人の肩に「四人の老人がのしかかる」と言うので若者の負担を考えると、「長生きが罪になる時代」と感じた。
「みやこ愛育園」に勤める切欠に成った五月の行方は、未だに判らない。
ハンデを背負った彼女に、良い人生はあるのだろうか?
僅かな縁の他人事なのに何故か折に触れて彼女を思い出すのは、五月の存在が周吉の人生を転換させたからだろうか?
周吉には、映画で見た「楢山」の雪景色が浮かんできた。
政治など、宛てにはならない。
「これは、姥捨て山だ。」周吉は、小さく呟いていた。
五年も前に、ニュースで社会保険庁の無駄使いが、連日話題に成っていたが、その後の経過を見ると誰も逮捕されたりはしない。
どうやらこの国、役人なら「やった者勝ち」らしい。
元を正せば、税金と切り離し、国民には「自分達の老後の為」と積み立てさせながら、社会保険庁の維持費を「積立金からまかなう」と言う・・・。
腹が減ると蛸は自分の足を喰らうと言う「蛸足式会計処理の方法」の結果で、だれも監督していなかったから、維持費は現場のお手盛りで使いたい放題だった。
結局、足りない分の付けは、善意の老人達に廻っている。
それから一月後、周吉が突然倒れた。
心不全だった。
たまたま土方仕事の最中だったので、救急車を呼んでもらい、事無きを得た。
しかし、困ったのは治療費である。
病に犯されて、初めて現実に気が付いた自分が悪いのだ。
僅(わず)かな蓄えを吐き出して全て払ったが、治療費は高額だった。
のんびり入院生活を続け、この先治療費を支払い続ければ生きては行けない。
機会を見て病院を抜け出し、体を騙して日雇いをした。
或る日、環状七号線の大通りを歩いていて、偶然あの五月に街で出会った。
歩道を向こうから歩いてきた五月は、一瞬周吉に気が付いて戸惑いの表情で目を見開いたが、周吉が声を掛けようとすると、顔をそむけて知らない振りをし足早に通り過ぎ走り去った。
ケバイ化粧のおばさんに成っていた五月だったが、周吉が見違える筈はない。
「アッ」と言う間だった。
随分久しぶりだったが、子供の頃からあんなに可愛がったのに、周吉を無視したのだ。
キット、過去の縁は断ち切りたかったのかも知れない。
そんな時、最近のニュースを聞いた。
貧困に拠る医療費の未払いが増えているソウで、それも、社会保険制度の危機になるほどの高額(多額)になる。
緊急で入院しても、診療費が払えないから、姿を消して「未払いになる」と言う。
病院側は、治療を要する患者が消えて、どうしているのか心配しているそうだが、監督官庁のコメントは、「払うべきは払って貰う」と言う杓子定規な話だった。
つまり、貧乏人が大病すれば、「死ぬしかない」と言う事に成る。
周吉は暗澹(あんたん)たる思いになった。
散々に払った社会保険料は、あくまでも八割補助で、率は低いが個人の払い分はある。
周吉は痛みを堪えて、日々をおくった。
治療を要するのに「治療を受けられない」と言う問題意識など、監督官庁には無い。
例えばであるが、数字に出ないデーターとして、ホームレスが病死する。
その病死の原因が貧困に拠る治療が受けられない事で有っても、警察の処理は、「単なるホームレスの病死」である。
この不幸が急増しても、その実体は表には現れない。
勿論、この目立たない不幸な死は、本来最も気に留めるべき役割の人達の関心には上らない。
口では立派な事を言っても、全て上辺(うわべ)の論議だけで、役人、政治家に、この現実に向き合い、実効ある行動をする人物は居ない。
もっと酷いのは、宗教家である。
お布施や寄付の浄財集めには奮闘するが、このまさに起きている不幸の現実は、見ようともしない。
信者に心のよりどころを金で売るだけの商売なのか?
現在の格差社会を生み出す政治手法にはまるきり他人事で、何の為の宗教なのだろう。
医者に行っても、払う金は無い。検査検査で、支払いが膨らむ。痛みは我慢するしかない。
半年苦しんで、周吉は「孤独な死」を迎えた。
発見したのはアパートの大家で、普段引き落としに成っていた家賃が落とせなかったので集金に来て異変に気付いた。
周吉の住居は、大家も驚くほど質素だった。
ダイニングとは名ばかりの四畳半ほどの台所に、ポッンと高さ百五十センチほどの小さな冷蔵庫が置かれている。
なべ釜の類が数個、棚に並んでいた。
台所の次に四畳半が一部屋、その隣に六畳が一部屋、小さな箪笥(たんす)があって下着類がキチンと入っているが、上着などは押入れにパイプを通して下げてあった。
いずれにしても、後は十四インチの小さなテレビが有っただけで、家財などと言う代物はこれと言ってなかった。
机の上に、家賃が二ヶ月分と走り書きがあった。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけします。」
息子に背負われて山に登るよりもなお、惨めで孤独な死だった。
貧しい部落の掟である楢山は姥捨て山「お姥(んば)捨てるか裏山へ 裏じゃ蟹でも這って来る」。
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