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日本武士のルーツ

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【日本武士のルーツ】

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日本武士のルーツ

記載事項目次
前書き
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)
前九年の役(ぜんくねんのえき)
後三年の役(ごさんねんのえき)
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)
権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)
名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭
藤原秀郷(ふじわらひでさと)
藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱
平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細
源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語
豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実
保元の乱(ほげんのらん)
平治の乱(へいじのらん)
治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)
源頼朝(みなもとよりとも)
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡
守護地頭制(しゅごじとうせい)
足利尊氏(あしかがたかうじ)
守護領国制と守護大名(しゅごだいみょう)
応仁の乱(おうにんのらん)
管領・細川晴元と三好長慶(みよしながよし)
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)


【前書き】



◆◇◆◇◆前書き◆◇◆◇◆◇

日本は武士道の国だ」と言いながら、武士の歴史を何も知らない方々が多過ぎる。

だからそう言う方には、本書を読み通す事をお薦めする。


日本武士の出現に関しては、如何なる必然が在っていつ頃出現した事かを意外と知らない方が多い。

実は決定的な必然として、支配体制を確立し掛かっていた渡来部族に対する原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスに対する対策として日本武士は出現した。

つまり出現時の武士に武士道の精神など微塵もない。

何故なら原日本人(縄文人/蝦夷族)は、容赦無く討ち取る蛮人扱いの相手だからである。

大体に於いて、武術(武道)の原型は山中に篭って抵抗を続ける縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を取り締まる為に結成された初期の陰陽修験者に拠って開発された単独もしくは少数に拠る機動力が基本の為に、世界でも珍しく剣だけで盾のない武術である。


弥生期から平安期に到る日本列島黎明期の武力は、部族単位の自警団的要素が強いもので、必要に応じて召集される武力だった。

それが、原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスと言う必要な事態が常態化して専業の武門を組織する必要が生じた。

古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。

この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。

平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。

所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。


日本武士の出現が平安期とすると、それではそれ以前の武力は何だったのかと疑問をお持になるだろう。

それは、当初の大和合国家の成り立ちからして、武力ではなく「神の威光で統治する」と言う呪詛的意味で統治する初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ/天皇)に武力は相応(ふさわ)しくは無く、御所の守りは兵衛(ひようえ)と呼ばれる武官職の衛士で武士ではなかった。

地方に派遣するにしても、警察権的要素の犬飼氏を除くと米大陸に於ける移民が武力専任ではない立場で武器を携えていたのと同じレベルの位置付けになるのである。

つまり八百年も後の、米大陸の開拓移民に対する原住ネイティブアメリカン(インデアン)のレジスタンス抗争に騎兵隊が編成されたがごとくに良く似た経緯を辿って日本武士の出現を促した。

そしてそうした武力と言うものは、世界の常識のごとくご他聞に漏れず、やがて独自に動き始めて統制の利かない勢力に育ち、歴史の表舞台に昇る事になる。



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【俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】



◆◇◆◇◆俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)◆◇◆◇◆◇

渡来部族が日本列島にやって来て西日本各地に部族小国家を成立するまでは、列島の原日本人は縄文人である。

その原日本人(縄文人)を、渡来部族側は「蝦夷族(エミシぞく)」と呼び武力で制圧して隷属化(奴婢身分)して行った。

渡来部族は王族・貴族化してその蝦夷族(エミシぞく)を国家の支配下に置き、服属した降伏蝦夷族を俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として労働力として使役した。

その後、原日本人(縄文人)の一部は渡来部族と混血同化の道を歩んだが、一部はマツラワヌ者として抵抗し、俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として看視体制下に置かれた。

そしてその俘囚(ふじゅう)と言う存在は、坂東(関東)に於いて平安中期まで、奥州(東北)に於いては平安後期の後三年の役頃まで続いて、一部は奴婢身分(ぬひみぶん/非人)として残った。

坂東(関東)に於いての俘囚(ふじゅう)は、「平安群盗」と呼んだ平安期(寛平・延喜年間東国の乱)の反乱(レジスタンス)が頻発した記録が残っている。

この抵抗(レジスタンス)の取り締まりに活躍し、武門の先駆者として名を挙げたのが、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらとしひと)藤原秀郷(ふじわらひでさと)だった。

また、奥州(東北)に於いての源頼義(みなもとよりよし)と前九年の役(ぜんくねんのえき)の蝦夷俘囚側・俘囚長(ふじゅうちょう)とされる安倍貞任(あべのさだとう)安倍宗任(あべのむねとう)兄弟の戦乱は有名である。


どうも現代の日本人は、この辺りの歴史経過をロスト(欠落)して物を考えるから間違えるのだが、本来の原日本人(縄文人)ならともかく「全ての現代日本人」に幾許(いくばく)かの渡来人の血が流れていて当たり前である。

困った事に現代の日本人は、当たり前なのに二千年から前の事を「天皇の祖先が朝鮮半島から来たと言うのは本当か」と大騒ぎをし、名字を見て「あいつは朝鮮系だ」と愚かに騒ぐ。

そもそも渡来部族が日本列島にやって来た頃はそうした線引きは無く、朝鮮半島と日本列島には朝鮮人も日本人も居なかったし、居たのは朝鮮半島から日本列島の西半分の広域に広がる小国家群・倭の国々の人々だった。



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【前九年の役(ぜんくねんのえき)】



◆◇◆◇◆前九年の役(ぜんくねんのえき)◆◇◆◇◆◇

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

千百八十五年(千百九十二年説在るもほぼ訂正されている)に鎌倉幕府を開いた源頼朝の五代前に遡る。

村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)の「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が、源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任する。

この鎮守府将軍、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。

それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や、土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説、など色々有るが、たとえ後者としても、安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。

蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、安倍氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。

朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。

安倍頼時の息子・貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と、源頼義が言い出したのだ。

明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せた頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。

源頼義が兵を率いて奥州に居座り戦を継続させるこの奥州の混乱で、鎮守府将軍の後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き、戦闘は続く。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。

一時は安倍側が戦況有利に成ったが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し、連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。

安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は、朝廷の実力者・藤原氏の助力で戦功を認められ、正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。

この叙任において破格ながら、朝廷に味方した事に成った清原家の当主「清原武則」は、従五位下・鎮守府将軍に任じられる。

この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家(後の奥州藤原家)に代わった。

これが千五十年代に、実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱である。



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【後三年の役(ごさんねんのえき)】



◆◇◆◇◆後三年の役(ごさんねんのえき)◆◇◆◇◆◇

前九年の役から二十年後、鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。

この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。

源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。

以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。

源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。

処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから弟の清衝と家衝が敵に回り、兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。

これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは、殺し合いに発展する。

この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源義家に、清衛、家衛が投降した。

源義家は二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。

しかし家衛が不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。

それで、奥州は、再び戦乱に成ってしまった。

清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。

その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて、家衛を討ち取る。

これを、「後三年の役」と言う。

しかし、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に、源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損であった。


この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。

義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。

それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。

しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。


朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分にに従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。

源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。

その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。

つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権))での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。



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【平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】



◆◇◆◇◆平安群盗と原初の武士達(自衛武力)◆◇◆◇◆◇

平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。

凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。

この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。

つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。

また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。

これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。

つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人(蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。


この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末〜十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。

彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)藤原純友(ふじわらのすみとも)承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。

朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。

当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。



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【権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)】



◆◇◆権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)◇◆◇

十世紀中葉から後期にかけての平安期、特定の家系へ世襲として官職に伴う権限義務を請け負わせる官司請負制が、中央政界でも地方政治でも著しく進展して行った。

この官職の世襲体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。

つまり官職の世襲制体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育を施(ほどこ)して家業を担う人材を育成した。

中でも、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、その勲功者家系が貴族(公家)とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識され、その武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態と見なされる事になる。

地方政治に於いて国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ形態で、朝廷の財政は地方からの収入に拠っていた。

この、時行政権が委任された者が、現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれて大きな権限を背景として富豪層からの徴税に拠って巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開した。

当然ながら受領は、解由制(げゆせい)や受領考過定など監査制度の制約も受けていたが、それでもこの赴任して来た国司(受領)と郡司・田堵・負名・百姓階層などの在地勢力との間で紛争が生じ、国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)と呼ぶ国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴える行為が頻発した。


また官司請負制に拠る官職の世襲制体制に伴い、この十世紀前期に時代を代表する「荘園(しょうえん)」と呼ぶ権門層(有力貴族・寺社)の私領(私営田)が、従来の租税収取体系が変質した事で次第に拡大形成し、発達して行ったのもこの時期である。

権門層は、私領する荘園を国衙(こくが)に収公されないよう太政官(官省符荘)、民部省や国衙の免許(官省符荘)を獲得し運営して財を蓄え、大きな勢力に育って行った。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

十世紀後期に登場した花山天皇は、こうした動きに対し権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布し、かなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれている。

しかし、その後の摂関政治が必ずしも権門優遇策をとった訳ではなく、摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。

摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾への対処、そして権門の荘園整理にどう取り組むかと言う点に在り、その摂関政治による諸課題への取り組みに漸く成果が見られ始めたのが、十一世紀前期〜中期にかけての時期である。

この諸課題への取り組み期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになった。

また、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた為、十世紀前期に始まった王朝国家体制は、依り中世的な後期王朝国家形態へ移行して行った。



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【名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】



◇◆◇◆名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭◆◇◆◇◆

平安時代に起こった武士台頭の背景は名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)である。

名田(みょうでん)または名(みよう)は、日本の平安時代中期から中世を通じて荘園公領制に於ける支配・収取(徴税)の基礎単位である。

この平安時代中期頃には、律令制の解体が進展し百姓(注・農民ではない。)の中に他から田地を借りて耕作し、田堵(たと)と呼ばれる田地経営をおこなう有力百姓層が出現して富の蓄積を始めた。

有力百姓の田堵(たと)には古来の郡司一族に出自する在地豪族や土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、彼等は蓄積した富を持って、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めた。

この平安時代、朝廷政府は土地(公田/くでん)を収取の基礎単位とする支配体制を構築していたが、律令制を支えていた戸籍・計帳の作成や班田の実施などの人民把握システムが次第に弛緩して行き、人別的な人民支配が存続できなくなった。

そうした収取体制の弱体化を改革する為に、朝廷政府は度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、まず国衙(こくが)の支配する公田が、名田(みょうでん)または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成される。

この名田(みょうでん)を基礎とする支配・収取体制を名体制(みようたいせい)と言う。

国衙(こくが)領に於いて公田(くでん)から名田(みょうでん)への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

更に荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵(たと)が請け負うようになり、田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになって行き、荘官や名主の地位を得るに到る。

その下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ/なあざ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となった。

田堵(たと)は荘園・公領経営に深く携わり、その経営規模に拠って大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれ、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たした。

尚、荘園・公領経営期から名田経営者一族が力を着けて自営を始める後の守護領国制の守護大名(しゅごだいみょう)や戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。


一方で「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に、田堵(たと)が対抗する為の自衛武力の整備が始まっている。

その群盗の活動は九世紀を通じて活発化した為、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

盗賊の取締りで名を上げた勲功者が武士の初期原型となり、彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。

つまり平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、名田経営を行う下級貴族・百姓の私兵組織として発展し、その財力と武力の相乗効果で力を蓄え、中央の朝廷政権の制御は衰えた。

そしてこの私兵組織を保有する名田経営者一族が、その組織の維持と拡大の為に共同して武力活動を行い、俘囚(奴婢身分)の反乱や、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱前九年の役後三年の役治承(じしょう)のクーデターなどを経て主従関係が成立し、武門の政権・鎌倉幕府が成立するのである。



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【藤原秀郷(ふじわらひでさと)】



◇◆◇◆藤原秀郷(ふじわらひでさと)◆◇◆◇◆

俵藤太(田原藤太/たわらのとうだ・たわとうた)の通称で知られる藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は在・下野国の官職・掾(じょう)を任ずる下級官・藤原村雄の子で、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔として原初の武門(武士)に成った平安時代中期の武将である。

藤太は藤原氏の長・太郎の意味であるが、この通称は秀郷(ひでさと)の武勇を伝説化した百足退治伝説や百目鬼伝説などの脚色を因とするのが妥当である。

秀郷(ひでさと)の出自については、「下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」と言う説もあるが、この血統重視する時代に幾ら朝廷が将門(まさかど)の乱に窮したとは言え、平氏流の平貞盛(たいらのさだもり)を差し置いて押領使に任じるだろうか? つまり末葉では在ったが、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔である方がこの際は自然である。

秀郷(ひでさと)は、九百三十九年(天慶二年)平将門(たいらのまさかど)天慶の乱と呼ばれる兵を挙げて坂東(関東)八か国を征圧すると、平貞盛と連合し、翌九百四十年(天慶三年)二月に将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定し名を挙げる。

平将門(たいらのまさかど)追討時、藤原秀郷(ふじわらひでさと)は乱平定の直前に「下野国・掾(じょう)兼押領使に任ぜられた」とされる歴史学者が複数居り、秀郷(ひでさと)無役説が主流だが、将門(まさかど)の乱平定の功により従四位下に叙され下野守に任じられ、さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)、基は下野国の掾(じょう)であったが平将門(たいらのまさかど)追討の功により、秀郷(ひでさと)は従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大して源氏流平氏流と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。



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【藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱】



◇◆◇◆藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱◆◇◆◇◆

藤原純友(ふじわらのすみとも)は、平安時代中期の大乱・「承平天慶の乱」に於ける関東側の平将門の乱と併せて瀬戸内側の首謀者とされる人物である。

藤原純友(ふじわらのすみとも)は藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家流の出身で、大叔父には摂関政治の最高位・摂政関白太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)がいる名流の出自である。

純友(すみとも)自身は、大宰少弐(大宰府の官)だった父・藤原良範(ふじわらよしのり)を早くに失う不遇で出世の道を絶たれ地方官となる。

赴任先は伊予国で、父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾(律令制・伊予三等官)として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側に在った。

所が純友(すみとも)は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人達が税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていた海賊行為を鎮圧するも、元名帰任(役を解かれる)後も帰京せず伊予国に土着する。

当時の土着武士は自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりした事で任国制の受領支配に不満を募らせていた。

その為に純友(すみとも)は、九百三十六年(承平六年)頃に京の貴族社会から脱落した東国初期世代の武士と同様の境遇にある土着の中級官人層の不満を集める頭目として、伊予国日振島を根拠に千艘以上の船を操る組織を有する海賊となり、瀬戸内海全域に勢力を伸ばす。

純友(すみとも)は、坂東(関東)で平将門(たいらのまさかど)が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こす。

この両者、時を同じくしての蜂起に共謀説も在るが、将門(まさかど)がいち早く新皇を名乗り曲がりなりにも国家の体裁を整えたに比べ、純友(すみとも)はそうした事に着手しなかった点で、都に攻め上り関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に取って代わる野心が在ったのではないだろうか?

藤原純友(ふじわらのすみとも)の勢力は畿内に進出、九百三十九年(天慶二年)には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前国介・藤原子高と播磨国介・島田惟幹を襲撃させ子高の鼻を削いで捕らえ、妻を奪い子供らを殺した。

朝廷側の太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)は、九百四十年(天慶三年)小野好古(おののよしふる)を山陽道追捕使、源経基(みなもとのつねもと)を次官に任じるとともに純友の懐柔を謀り、従五位下を授ける一方で兵力を東国に集中させる両面の策を講じる。

純友(すみとも)は従五位下を受けたが海賊行為は止めず、同年(天慶三年)には、淡路国、讃岐国の国府を、さらに大宰府をたて続けに襲撃し略奪を行った。

山陽道追捕使・小野好古(おののよしふる)は、淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪った純友(すみとも)の水軍が「京に向かって漕ぎ上りつつある」と報告、朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れた。

京の各所で放火が頻発し、藤原慶幸を山城国の入り口・山崎に派遣して警備を強化するが、その山崎が謎の放火に拠って焼き払われるなど事件は続いた。

京への直接的脅威と言う点では極めて深刻な状況で、純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけての所謂「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しとの見方もある。

しかしこの緊迫した状況は、坂東(関東)より「平将門(たいらのまさかど)討滅す」の報告が京にもたらされ一変する。

平将門(たいらのまさかど)討滅すの報に動揺した藤原純友(ふじわらのすみとも)は、本拠地・日振島に船を返し、純友(すみとも)は戦闘行為を自粛した為、大宰府から解状と朝鮮半島・高麗からの牒、中華大陸・呉越に対して使者派遣が無事に行われている。

戦闘行為を自粛した純友(すみとも)だったが、朝廷は東国の将門が滅亡した事に拠り兵力の西国への集中が可能となった為、純友討伐に積極的になり、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、純友(すみとも)方・藤原文元を備前国介・藤原子高襲撃犯と断定して追討令を出す。

将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が、純友(すみとも)を挑発し文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの選択を迫るものだった。

交戦の決断を下した純友(すみとも)は水軍・四千艘を率いて出撃、順次伊予国、讃岐国、備前国、備後国、長門国、土佐国を襲い放火・略奪を繰り返すも、翌年早春に純友方の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降り、形勢が替わって本拠地・日振島を朝廷軍に攻められる。

純友(すみとも)方は敗れて西に逃れ、大宰府を攻撃して占領して柳川に侵攻するが大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れ、到着した小野好古(おののよしふる)と大蔵春実(おおくらのはるざね)率いる官軍に大宰府と博多湾で大敗、純友は小舟に乗って伊予に逃れる。

逃亡した藤原純友(ふじわらのすみとも)は伊予国に潜伏している所を警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕らえられ、二年に及ぶ乱は幕を閉じ、純友(すみとも)獄中で没した。



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【平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細】



◇◆◇◆平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細◆◇◆◇◆

平将門(たいらのまさかど)が受け継いだ義父・平良将(たいらのよしまさ)の平氏流は、坂東(関東)の平氏としては名門の一族だった。

平安群盗鎮圧の為に鎮守府軍として坂東(関東)に派遣された原初の武士達(自衛武力)の中に桓武平氏流(かんむへいしりゅう)の平良将(たいらのよしまさ)が居た。

平良将(たいらのよしまさ)は下総国を本拠とした桓武平氏流の中心人物で、歴史的には村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)とともに武家平氏の実質的な祖の一人と目されている。

桓武天皇(かんむてんのう)の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)が、宇多天皇(うだてんのう)の勅命により平朝臣(たいらのあそみ)を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った。

この平高望(たいらのたかもち)が上総介(国司)に任じられて坂東(関東)に下向した時、三男の平良将(たいらのよしまさ)は、長男・国香、次男・良兼の兄達と伴に父・高望(たかもち)に同行している。

分家した平良将(たいらのよしまさ)は下総国に在って未墾地を開発して私営田を経営、更に鎮守府将軍を勤め家勢を目覚しく発展させる。

しかし平良将(たいらのよしまさ)には男子が無く、同じ関東鎮守府将軍・桓武平氏葛原(かずはら)親王流五代・村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)の子を養子とし、平将門(たいらのまさかど)を名乗らせる。

この血統を異とする婿養子・平将門(たいらのまさかど)が、義理の伯父・平国香(たいらのくにか)の欲を誘発させたのかも知れない。


その義父・良将が亡くなって、将門が朝廷に相続の保証と官位を願い出て都にいる二年の間に、伯父の鎮守府将軍・平国香(たいらのくにか)に所領を全て奪われていた事から、この騒動は始まる。

広大な所領を有する平良将(たいらのよしまさ)が亡くなり、家督を継いだ養子の平将門は都に出向いて留守だった。

伯父の平国香(たいらのくにか)にして見れば、所領横領の絶好の機会が訪れた事になる。

この「戦は武士の本分」の原点は勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。

さながら坂東(関東)は、力有る者が無法に武力で勢力を拡大する西部開拓史時代のアメリカ西部劇を見るようではないか。

この時代、荘園(領地)経営は大事業で、自分達の虎の子だから開墾や土地の改良から始めて、慈(いつく)しんで育てるものだったから、「一所懸命」の原点で思い入れもひとしおだった。

平将門(たいらのまさかど)は、義父の残した所領を留守中に義理の伯父に横領されていた事になる。

都から帰郷した平将門も、領地横領を横領されていて驚いた。

所領を横領されれば、父の代から臣従する一族や家臣団も路頭に迷う。

将門(まさかど)が留守の間、所領から追われて辛酸を舐め耐えて来た者共も多く、本来なら直ぐにでも戦を仕掛け父の所領を取り返すべき所だが、当初相手が伯父の「国香」の事と我慢をし、「さも浅ましき者共よ。」と自重して独自に新田の開墾などしていた。

処が、伯父の平国香の方が後ろめたいから、将門に「何時攻められるか」と不安が募る。

甥・平将門の所領を横領した平国香(たいらのくにか)側からすれば、手に入れた筈の領地の一郭に独立した将門の開墾地が在るのは不安材料で、いつ何時将門が力を着けて取り返しに出ないとも限らない。

まぁ、「災いの芽は、早くに摘んでしまおう」と言う発想だった。

結果、将門(まさかど)を倒して「不安を取り除こう」と、伯父の平国香党が嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)と結託し、平将門に襲いかかる。

義理の仲ではあるが、「伯父・平国香(たいらのくにか)」対「甥・平将門(たいらのまさかど)」と言う肉親同士の領地の取り合いに成ったが、この時代さして違和感は無い。


新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。

【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。

そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、親子・兄弟・叔父甥でさえも争う結果になる。

そもそも当時の氏族の価値観で言えば所領の拡大の最優先が正義で、争う相手が肉親もくそもない。

米国の西部開拓史でもそうだったが、開拓時代は土地と奴隷(日本の場合は俘囚・奴婢)の武力による取り合いが為されている。

開拓時代のお定まりで、日本の氏族(征服部族)も根本が好戦的な部族で、土地と奴婢(ぬひ)の取り合いである。

相手の甥・平将門が父親・平良将(たいらのよしまさ)を亡くし、しかも将門が都に出仕していて留守となれば、これは平国香にとって又と無い絶好の領地横領の好機(チャンス)だった。

この大番役(京都御所守護)などの朝廷出仕で所領を留守にして居る間に、身内に所領を乗っ取られる「大掛かりな空巣話し」は平将門の例に止まらずその後も多発している手口で、後に記述する伊東祐親(いとうすけちか)工藤祐経(くどうすけつね)の「曽我兄弟の仇討ち」に発展したいざこざも有名であり、それらは無数に存在する。

平将門はこれを返り討ちにして国香を討ち取り、事の顛末を朝廷に報告、一族の私闘として罪を許される。


その後も平将門(たいらのまさかど)を狙った動きは続き、将門は、上総介・平良兼(かずさのすけ・たいらのよしかね)に騙されて一時は滅ぼされそうになるが、何とか勢力を盛り返した。

その勢いで平国香(たいらのよしまさ)の子「平貞盛(たいらのさだもり)」を戦いで破るが、討ち取るに到らず取り逃がしている。

これらの争いは、所領をめぐる同族の私闘で有る。

この関東の平一族同士の理不尽な土地争いの揉め事を朝廷がうまく裁けず、現地の事務方役人・藤原氏も手が付けられず、放置状態にして将門を怒らせてしまった。

将門にとって不幸だった事に、そうした指導力欠如の朝廷とのいざこざは、将門の所ばかりでなかったので、関東の揉め事に将門の出番が増え、将門の名声が上がって行って坂東(関東)武士の盟主に成ってしまった。

この事例はどこかで聞いた様な話で、今でも現場を確認しない役人の怠慢によるトラブルは、後を絶たない。

そこに決定的な事件が起きた。

常陸国の住人・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が国司(国府長官)・藤原維幾(ふじわらのこれちか)と対立、維幾(これちか)が玄明(はるあき)を追捕するを将門が庇護し争いに介入する。

九百三十九年(天慶二年)十一月、平将門(たいらのまさかど)は、軍兵を集めて常陸国府に追捕撤回を求めるも常陸国府はこれを拒否し宣戦布告をされるを持って終(つ)いに挙兵する。

つまりその争いの介入の過程で引くに引けない国司との合戦が起き、朝臣(朝廷の役人)藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕らえてしまったのだ。

事は都から遠く離れた関東で起きている殺気立った揉め事で、事は迅速を要し悠長に朝廷の裁定など待っては居られない。

平将門(たいらのまさかど)は反乱を起こして中央派遣の朝廷役人を捕縛または追放し、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、関東の地を一時中央政権から独立させた。

相馬の小次郎・平将門は、平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)ら討伐軍とは「猿島郡の北山」で迎え撃つ事に成った。

尚、この時の押領使・藤原秀郷は藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)で、子孫が遠近江から駿河、伊豆などに土着し、後に工藤氏伊東氏・入江氏らを輩出、さらに工藤氏から天野氏や狩野氏、入江氏から吉川氏(きっかわうじ)などが別れ出て源頼朝の平家追討の旗揚げに呼応している。


旧暦二月の半ば、僅(わず)かに春先で在ったが関東の沼地はまだ寒い。

この時期は都合が悪い事に農繁期で、その上に関八州の押さえの為に手勢の兵を散らしていて、甲冑に身を固めた将門の軍勢は思いの外に整わなかったが仕方が無い。

それに平貞盛は以前何度か戦をまみえて、取り逃がしてはいるが破っているから恐れるに足りない自負が将門にある。

両軍対峙して見たが、平貞盛ら討伐軍との互いの兵力が拮抗して、そう簡単に決着が尽くような状況に無く、北山の戦は混戦の様相を呈していた。

北山の地で平将門(たいらのまさかど)勢と平貞盛勢は激突して各所で切り結び槍を突き、怒号が乱れ飛んでいた。

所がその混戦の中、思わぬ事態が発生した。

混乱の中、有ろう事か白羽根の矢が一本、シュルシュルと味方の陣営から飛来して、将門の額を貫いた。

「バタッ」と将門が仰向けに倒れた。

慌てた味方が駆け寄って将門を抱き起こしたが、既に息絶えていた。

矢は額に刺さったままの壮絶な死で、即死だった。

この一瞬の出来事で、正式に将門討伐を組織した朝廷の征東軍が到着しない内に反乱軍の盟主が討たれ、戦いは終っていた。

関東で起きた将門の乱は、あっけなく平定されたのである。


尚、この平将門の乱を鎮圧した事に成った平貞盛(たいらのさだもり)は坂東(関東)の地に居られなくなって伊勢国に移住し、その子孫から平清盛(たいらのきよもり)が出て平家(へいけ)となり、平清盛(たいらのきよもり)は天皇の外祖父にまでなって権勢を振るった。



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【源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】



◆◇◆源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語◇◆◇

源頼光(みなもとのよりみつ)は清和源氏の三代目にあたり、鎮守府将軍・源満仲の長子で平安時代中期の武将であるが、俗に「らいこう」とも呼ばれる。

頼光(よりみつ)は、父・満仲(みつなか)が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれた。

その源頼光(みなもとのよりみつ)の異母弟には大和源氏の源頼親(みなもとよりちか)と、後に武家源氏の主流となる河内源氏初代・源頼信(みなもとのよりのぶ)が居る。

尚、河内源氏の二代が奥州で前九年の役を始めた源頼義(みなもとよりよし)で、その息子が八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとよしいえ)へと続く。

頼光(よりみつ)の父・満仲(みつなか)は摂津国多田に源氏武士団を形成し頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向に在った。


九百八十六年(寛和二年)頃、居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ・三条天皇)が皇太子となった際に、摂津源氏の棟梁・頼光(よりみつ)は春宮権大進(皇太子近習)に任じられる。

その後の九百九十年(正暦元年)、関白・藤原兼家の葬儀に際しての藤原道長の振る舞いに感心して、頼光(よりみつ)は「側近として従うようになった」と伝えられる。

九百九十二年(正暦三年)には、頼光(よりみつ)は備前守に任官しているが都に留まっており、「遙任であった」と思われる。

東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに頼光(よりみつ)も参加している。

千一年(長保三年)には、源頼光(みなもとのよりみつ)は受領に拠り美濃守を兼任、この時は「任国へ赴いていた」と推測される。

一方で源頼光(みなもとのよりみつ)は、後世に成立した「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」、室町時代になって成立した「御伽草子」などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。

その説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱(わたなべのつな/俗称・金太郎)を筆頭にした頼光四天王や藤原保昌などの「強者の家臣がいた」と言われ頼光が実際に郎党を従えていたと考えられる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)は、京都と丹波国の国境の「大枝(老の坂)に住んでいた」とされる鬼の頭領で、「盗賊で在った」ともとも伝えられるが、鬼にしても土蜘蛛にしても、当時の群盗と呼ばれる集団は蝦夷(エミシ/先住民)マツラワヌ者達である。

室町時代の物語を集めた「御伽草子」などに拠ると、酒呑童子の姿は「顔は薄赤く髪は短くて乱れた赤毛、手足は熊の手のようで背丈が四十尺(六メートル)以上で角が五本、目が十五個も在った妖怪」と言われる。

酒呑童子(しゅてんどうじ)が本拠とした大江山では、彼は「龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていた」と言う。

その酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐したのが、源頼光(みなもとのよりみつ)とその部下達である。



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【豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】



◆◇◆◇◆豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実◆◇◆◇◆◇

大和朝廷が最後に平定した東北地方では、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。

つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民)が鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。

青森県弘前市字鬼沢の「鬼神社」の豆まきは、「鬼は内」である。

東北だけではなく群馬県鬼石町でも「福は内、鬼は内」と言い、埼玉県比企郡・武蔵嵐山の「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」の豆まきも「鬼は内」なのだ。

鬼鎮神社(きじんじんじゃ)の祭祀は、陸奥国地頭職・鎌倉有力御家人畠山重忠の手に拠るもので、東北の鬼とされた「安倍氏」に対する同情心や遠慮とされている。

また、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名・二本松畠山氏(はたけやまし)は、秩父平氏・支族で、武蔵国・畠山庄に在した鎌倉有力御家人・畠山重忠にその名跡を発している。

奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職に任官した畠山重忠は北條時政に謀られ鶴ヶ峯で戦死するも、妻(北条時政の娘)は重忠の死後、源氏系流・足利義兼の子・義純と再婚する。

足利義純は畠山氏の名跡と領地を継承して室町期から戦国初期に戦国大名とし活動、また、その子孫の一部は二本松畠山氏となり伊達氏の興隆に圧されて滅亡した。


凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて頻発した「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の「寛平・延喜年間東国の乱」がある。

平安群盗と呼ばれ文献に残るそれらは、国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が起こした大規模な反乱(レジスタンス)だった。

つまり平安時代中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や、平安末期・源(三位)頼政が生きた時代の妖怪・鵺(ぬえ)の物語は、後の世に先住民族・蝦夷(エミシ)の存在を無い事として覆い隠す同化策の御伽話に伝えられたのではないだろうか?



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【保元の乱(ほげんのらん)】



◇◆◇◆保元の乱(ほげんのらん)◆◇◆◇◆

第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。

千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると「保元の乱」が発生する。

「上皇と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。

崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして、動きを封じた。

崇徳上皇方は大敗をきっし、源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇は「隠岐の島」に流刑となった。

勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。

この争いの中に、源姓平姓が双方に出てくるが、実は親子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いであった。

保元の乱で功績のあった源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ、源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に隠された何かが有るのだろうか?

藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、呪詛託宣の名家・土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?

勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?

或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。

つまり武士として力はあったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位する。

所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。



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【平治の乱(へいじのらん)】



◇◆◇◆平治の乱(へいじのらん)◆◇◆◇◆

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛源義朝(みなもとよしとも)(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。

保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。

所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも院近臣・藤原信西(しんぜい)と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は、保元の乱の折りに、父・為義、弟・為朝を敵に回して後白河院政派として戦い、戦勝後囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命嘆願にも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。

また、論功行賞でも清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱」を起こす。

ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。

しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。

義朝は自分の地盤である関東で再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。

池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった九男・源義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。



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【治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)】



◇◆◇◆治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)◆◇◆◇◆

千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。

千百七十七年には、前天皇の院(後白河法皇)と平家・(平清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。

これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。

藤原師光(西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落と言う謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。

この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては遠慮があり、罪を問わなかった。

治承三年(千百七十九年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。

まず、娘の盛子が死去する。

法皇(後白河)は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。

更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。

これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は平重盛の死去と同時に、重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。

驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。

ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。
そして、この不幸に追い打つような、立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。

清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。

勘解由小路党は諜報機関であり軍ではないから、この清盛の専横を阻止する正面切った力はない。

せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、終(つい)にこの年末近くに鳥羽殿に幽閉してしまう。

幽閉されても、勘解由小路党の連絡は生きていた。

しかし後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平氏政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ大勢力と成った。

平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でもあった。

公家と武家の狭間とは言え、武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。


この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられて「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。



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【源頼朝(みなもとよりとも)】



◇◆◇◆源頼朝(みなもとよりとも)◆◇◆◇◆

源氏の頭領「源頼朝(みなもとよりとも)」は源義朝の三男であったが、母が正室 (藤原季範の娘・由良御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。

幼名を、「鬼武者」と言った。

平治の乱の折に父義朝に従い、十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)・「蛭ヶ小島」に流される。

平治の乱の折に、源頼朝(みなもとよりとも)の父・義朝に従い共に討ち死にした長男と次男が居たが側室の腹だった。

この妾腹の子を庶子と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って、正室(由良御前)の腹である頼朝が三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)「蛭ヶ小島」に流刑とされる。

その流刑先の監視役が、後に源頼朝の正妻となる北条正子の父・北条時政だった。

伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。

この流人時代が長かった為に、頼朝は猜疑心が強い性格になったのではないだろうか?

そして初陣の平治の乱も、再起の旗揚げをして自らが指揮した石橋山の合戦も敗退して、戦にはトンと自信がない武将だった。

この源頼朝が、関東武士の代表と成って平家の勢力を討ち、所謂武士として始めての政権・鎌倉幕府を開いたのである。



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【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】



◇◆◇◆元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡◆◇◆◇◆

一度「正中の変」で倒幕謀議失敗したが、後醍醐天皇はあきらめず倒幕親政の機会を狙っていた。

六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は再び元弘の乱(げんこうのらん)を引き起こす。

元弘の乱(げんこうのらん)は、千三百三十一年(元弘元年)に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。

この乱は、千三百三十三年(元弘三年・正慶二年)に鎌倉幕府が滅亡に到るまでの一連の戦乱を含め元弘の乱(げんこうのらん)とする事も多いが、その発端が「正中の変」の後、処分を免れた側近の日野俊基(ひのとしもと)や真言密教の僧・文観らと再び倒幕計画を進めた後醍醐帝の再度の倒幕計画だった。

再び討幕を企てた後醍醐天皇で在ったが、またも密告に拠って露顕してしまう。

後醍醐帝の側近である吉田定房が帝を案ずる余り六波羅探題に倒幕計画を密告して倒幕計画はまたも事前に発覚、六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り込んだ為に後醍醐帝は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山へ向かい、そこで挙兵した。

後醍醐天皇が勘解由小路党の内密の本拠地、笠置山(城)に移り挙兵すると、後醍醐帝の挙兵に呼応して、後醍醐帝の皇子・護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺蜂起や難波・河内国の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)が南河内の下赤坂城で挙兵する。

楠木正成は文観の真言立川の「教義」を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を試みたのである。

後醍醐帝・笠置山(城)挙兵の知らせは、急ぎ幕府方に伝わった。

六波羅探題軍が京の御所を急襲して、計画に加担した者は皆逃げる間もなく捕縛される。

この時「正中の変」で捕らえられていた日野資朝(ひのすけとも)は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ幕府方に殺されている。

後醍醐天皇が笠置山に逃亡した為、鎌倉幕府執権・北条高時は持明院統・後伏見天皇の第三皇子の量仁(かずひと)親王を光厳(こうげん)天皇(北朝初代)として擁立させた。

後醍醐帝が二度目に挙兵した笠置(かさぎ)山は、六百六十一年に笠置山の巨岩石に実忠和尚、良弁僧正が仏像を彫刻され、それを中心に笠置山全体が修験行者の修験場として栄える事となった。

つまり元々勘解由小路党の強固な霊場基盤であった。

平安末期の末法思想の流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け、笠置詣でが行われる様になる。

千百九十一年(建久二年)、藤原貞慶(解脱上人)が興福寺から笠置寺へ移り、笠置山は信仰の山として全盛期を極めた。

しかし二百六十年後、後醍醐天皇の挙兵により全山炎上、灰燼に帰したのである。

幕府方は、後醍醐方討伐の為に大仏貞直(おさらぎさだなお/北条貞直)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ/北条貞冬)、足利高氏(あしかがたかうじ/後の尊氏)、新田義貞(にったよしさだ)らの大軍を差し向ける。

まず後醍醐帝の笠置山が陥落、次いで護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺も陥落して護良親王はいずこかへ潜伏し、最後は楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。

その下赤坂城で幕府軍は苦戦を強いられる。

楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して、大木を落とし熱湯を浴びせ予め設けて置いた二重塀を落としたりと言った奇策を駆使し持ち堪えていた。

しかし敵方に包囲されての長期戦は不利と見た楠木正成(くすのきまさしげ)は、自ら下赤坂城に火をかけ自害したように見せかけて姿をくらませる。

やがて笠置山を逃亡した後醍醐天皇が側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられ隠岐国に流された為、討幕勢力は弱体化する。

元弘元年(千三百三十一年)に勃発した元弘の変の炎が、まだチロチロと種火に成って燃えていた。

二度目の倒幕計画、笠置(かさぎ)山挙兵に失敗して捕らえられた後、醍醐天皇は隠岐(おき)の島へ流される。

後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳(備前国の武士)は、熊野の山伏達が開いた熊野修験分流「児島修験」の人物で、戦前は小学校の唱歌にも歌われている。

隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺(がくえんじ)も天台修験の古刹である。

一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めていた。

潜伏して再挙兵の機会を伺っていた護良親王(もりながしんのう)楠木正成(くすのきまさしげ)だったが、まず楠木正成が河内国金剛山の千早城で挙兵し、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

楠木正成は赤坂城を奪回し、鎌倉方六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破する。

鎌倉幕府は再び鎮圧に乗り出して大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向ける。

幕府方は楠木正成配下の平野将監らが守る上赤坂城を攻め、苦戦するも上赤坂城の城の水源を絶ち平野将監らを降伏させる事に成功、吉野でも護良親王を破って敗走させている。

次いで幕府方は楠木正成の篭る千早城の攻略に掛かるが、三ヵ月に渡って正成に翻弄されている間に幕府方の武力権威が落ちて各地に倒幕の機運が広がって行く。

播磨国で赤松則村(のりむら/円心)が挙兵し各地で反乱が起きた頃、後醍醐天皇は時来たりと名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。

幕府方は船上山の後醍醐帝を討つ為に足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)、名越高家らの援兵を送り込むが名越高家が赤松則村(のりむら/円心)に討たれ、足利高氏は丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻し、呼応して六波羅探題を攻め落として京都を制圧する。

敗れた北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、近江国の番場蓮華寺で自刃している。

坂東(関東)では、足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)の挙兵と時を同じくして新田義貞(にったよしさだ)が上野国・生品明神で挙兵する。

挙兵した新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やし、足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)らも合流して相模国に達する頃の新田軍は数万規模に膨れ上がった。

新田軍の進撃に、幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃の為に向かわせるが、「小手指ヶ原の戦い」や「分倍河原の戦い」でことごとく敗退し、幕府軍(鎌倉勢)は鎌倉へ追い詰められて行く。

鎌倉に入るには狭い七切通し小道しか無く、天然の要塞と成っていた。

幕府軍(鎌倉勢)はその七切通しを封鎖するも、新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂と言う三方の切通し小道から攻め入って行きてこずって撤退する。

守りの固い鎌倉に手を焼いた新田義貞は、幕府軍(鎌倉勢)の裏をかいて引き潮の七里ヶ浜の浜伝いに稲村ガ崎から鎌倉へ突入、背後を突かれ幕府軍は総崩れとなり北条高時ら北条一門は応戦するも力尽き、北条氏の菩提寺・東勝寺に於いて滅亡する。



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【守護地頭制(しゅごじとうせい)】



◇◆◇◆守護地頭制(しゅごじとうせい)◆◇◆◇◆

守護(しゅご)は、日本史上に於いて鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、将軍により任命されるも守護(しゅご)は中央の要職を兼務して幕府に出仕していたから、創設当時の主な任務は在国地頭(ざいこくじとう)の監督であった。

守護職は平安期の追捕使がその原型であって、国単位で設置された令外官の軍事指揮官・行政官で、後白河上皇鎌倉殿・源頼朝へ守護・地頭の設置を認めた事に拠って幕府の職制に組み込まれて行った。

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(こくがりょう/公領)を管理支配する為に守護とともに日本史上に於いて設置された職で、地頭職と言う。

地頭職は平氏政権期以前から存在したが、源頼朝がその選任を朝廷から認められ在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみ、直接、土地や百姓などを管理する為に正式に全国に設置した。

幕府が御家人の所領支配を保証する事を本領安堵(ほんりょうあんど)と言い、幕府が新たに所領を与える事を新恩給与(しんおんきゅうよ)と言うが、いずれも地頭職への補任と言う手段を通じて行われた。

平安期の以前から名田経営をする土着の土豪勢力も存在したから、地頭職への補任は所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認める事を意味していた。

所領を巡る紛争(所務沙汰)の際には、幕府の保証する地頭の地位だけでは必ずしも十分ではない場合もあり、地頭の中には荘園領主・国司から荘官、郡司、郷司、保司として重複任命される者も少なくなかった。

実際に、幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納が在った場合には「地頭職を解任する」と言う条文も在り、つまり地頭(じとう)は、幕府及び荘園領主・国司からの「二重支配を受けていた」と見る事もできる訳である。

むしろ幕府に直属する武士は、御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿(将軍)への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙(こくが/国司)と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。

しかし、地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなかった為、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などをとおして荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。

具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。

地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入すると言うリスクを負っては居たが、一定額の年貢の他は自由収入とする事ができる為、地頭にとって多大な利益をもたらす事が多かった。

そしてこの制度により、地頭(じとう)は大きな富を得て勢力を荘園・公領の事実上の支配権を握り、徐々に幕府からの独立性を高めて存在が大きく成って行った。



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【足利尊氏(あしかがたかうじ)】



◇◆◇◆足利尊氏(あしかがたかうじ)◆◇◆◇◆

室町幕府の初代征夷大将軍は足利尊氏(あしかがたかうじ)は幼少の頃又太郎と名乗っていた。

足利又太郎(後の尊氏)は、鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏の次男として生まれる。

長男・足利高義がいたが、早世した為足利又太郎(後の尊氏)が家督を相続する事となった。

足利氏は河内源氏の足利氏嫡流家で武家の名門だが、北条政子以来の鎌倉幕府執権・北条家(平氏)の御家人として風下に居た。

元服当初、執権・北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗って居る。

しかし足利氏嫡流家としては、元々武家の名門として天下取りは悲願だった。

北条執権家とは浅からぬ縁(えにし)が在ったが、後醍醐帝の倒幕挙兵は千載一遇のチャンスだった。

北条執権家の命を受け西国の討幕勢力を鎮圧する為に名越高家とともに上洛した足利高氏は、天皇方に付く事を決意して所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げ、元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡に武功を挙げた。

鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐帝の信任厚く、天皇の諱・尊治から御一字を賜り高氏改め尊氏と改名する。

後醍醐帝の「建武の親政」に在って、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられた足利尊氏は、三十ヶ所の所領を与えられ武門の最上位に立っていた。

しかし足利尊氏(あしかがたかうじ)は、何故か「建武の親政」に中央における主なポストを得ていない。

これには後醍醐帝の公家政治の意志が働いたのか、それとも足利尊氏に最初から別の狙い「足利幕府成立」が在ったのかは謎である。
足利尊氏(あしかがたかうじ)は後醍醐天皇を吉野に追いやり、室町幕府を建てた人物である。

鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が得意絶頂で、「建武の新(親)政(天皇の直接統治)」を行うが、護良親王を排除した事から武力の後ろ盾の要を失い、武士を軽んじた事と合いまって、僅(わず)か二年で失敗する事になってしまった。

後醍醐天皇は、倒幕に協力した武士達よりも、周りの側近や公家達を厚く処遇し、相変わらず阿野簾子との性交に勤(いそ)しむばかりで、武士達の反感を買ったのである。

帝の地位をもってすれば、誰もが「自分の言う事を聞く」と、判断を誤っていたのだ。

そうした不満に押されて足利尊氏が政権奪取の野望を抱き、叛旗を翻し鎌倉に勝手に幕府を開こうとして後醍醐天皇と対立する。

足利尊氏が湊川の戦いにおいて後醍醐天皇方の新田義貞楠木正成らを撃破して後醍醐方に勝利し、入京に入った。

建武三年(千三百三十六年)に尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇は味方の台密修験の本山、比叡山延暦寺に逃走する。

後醍醐天皇から三種の神器を接収した足利尊氏は後伏見天皇第二皇子、豊仁(ゆたひと)親王を、光厳上皇の院宣をもって光明天皇として即位させて京都に武家政権(室町幕府)を成立させる。



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【守護領国制と守護大名(しゅごだいみょう)】



◇◆◇◆守護領国制と守護大名(しゅごだいみょう)◆◇◆◇◆

守護は鎌倉時代に発生し、鎌倉時代に於ける守護(しゅご)の元は「惣追捕使」と言い諸国に置いたが、間もなく惣追捕使は「守護」と改められた。

御成敗式目にその規定があり、御家人の義務である「鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕」と定められた大犯三ヶ条の検断、及び大番役の指揮監督と言う軍事・警察面に権能が限定されていた。

当時はまだ、国司の権限である国衙行政(こくがぎょうせい)・国衙領支配(こくがりょうしはい)に関与する事は禁じられていた。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙(こくが)に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

後醍醐天皇に拠る建武の新政足利尊氏の挙兵に拠る南北朝(吉野朝)の騒乱を経て室町幕府が成立すると、新幕府も鎌倉幕府の守護制度を継承する。

為に当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、武士間の所領紛争に伴って発生した所有を主張する為に田の稲を刈り取る実力行使・刈田狼藉などが多発する。

室町幕府は、千三百四十六年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)に国内統治を一層安定させる為、「刈田狼藉の検断権」と守護が幕府の判決内容を現地で強制執行する「使節遵行権」を新たに職権に加えた。

これらの検断権を獲得した事により、守護は国内の武士間の紛争へ介入する権利と司法執行の権利の両権を獲得し、また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も、次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されて幕府支配体制が確立して行く。


千三百五十二年(南朝:正平七年、北朝:文和元年)将軍・足利尊氏と執事・高師直(こうのもろなお)の主従体制と政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する将軍弟・足利直義の両者が対立する観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こる。

室町幕府は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に於ける軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領(こくがりょう/公領)から年貢の半分を徴収する事のできる半済の権利を「守護」に与える。

守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化されて各地に拡がり、やがて従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領(こくがりょう)への侵出が著しくなって行く。

守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになり、この守護請に拠って、守護は土地自体を支配する権利・下地進止権(したじしんしけん)を獲得して行く。

さらに守護は、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のた為に田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収を行う事とされていて、この徴収権を利用して独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めて行く。

つまり守護は、強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙(こくが)の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領(こくがりょう/公領)や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。

形成した守護直轄の守護領(しゅごりょう)は強い経済力をもって、在庁官人の他、国内の地頭・名主と言った有力者(当時、国人と呼ばれた)をも被官(家臣)にし、土地と人の両面で、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めて行く。

こうして誕生した守護大名(しゅごだいみょう)は、室町時代に一国内または数ヵ国内に領域的・一円的な軍事・警察権能、経済的権能の支配を獲得した守護と言う職制を指し、守護大名による領国支配の体制を守護領国制と言う。

その幕府に於ける守護大名の権能は室町中期までに肥大化し、有力な守護大名には足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が顕われて、室町幕府は言わば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。

有力守護は、幕府に出仕する為に継続して在京する事が多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて多重の支配構造を形成して行った。

応仁の乱の前後から守護大名同士の紛争が目立って増加して室町幕府は統治能力を失い、また国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れるようになって守護大名の権威の低下を招き、守護に取って代わった守護代・国人は、戦国大名へと変質・成長して行く。

この変動期に、一部領国支配の強化に成功した守護も戦国大名へと変質して下剋上の戦国時代を迎えたのである。



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【応仁の乱(おうにんのらん)】



◇◆◇◆応仁の乱(おうにんのらん)◆◇◆◇◆

応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の足利八代将軍・義政の時に、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発し幕府管領職の細川勝元と山名宗全と言う有力守護大名が二つに分かれて争った為に起こった全国規模の内乱である。

細川勝元が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名宗全が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをしていた。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主であり、もう一方の旗頭・山名宗全(やまなそうぜん)は、室町時代の守護大名で、室町幕府の四職のひとつ新田氏族・山名家の出身である。

足利六代将軍・義教の時、義教が「三管四職」を無視して専制政治をした為に不満を抱いた四職・赤松家の赤松満祐(あかまつみつすけ)に誘殺され「嘉吉の乱」と呼ばれたのだが、細川勝元が「嘉吉の乱」の鎮圧に功労のあった山名宗全の勢力削減を図って、「嘉吉の乱主謀者一族」の赤松氏にも関わらず失脚して都を追われた自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てた事から、細川勝元と山名宗全の両者は激しく対立するようになる。

その細川勝元と山名宗全が、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていた為に対立は激しさを増し、八代将軍・義政の実子・足利義尚を次期将軍に押す山名宗全と将軍継嗣・足利義視の後見人である細川勝元との対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、全国規模の大乱となった。

戦乱は十一年にも渡って戦闘が長引き、応仁の乱の長期化は室町幕府の形骸化を引き起こし、無政府状態になった京都の市街地は盗賊に何度も放火され焼け野原と化して荒廃した。

やがて幕府権力そのものも著しく失墜し、勝元派と宗全派に二分して戦乱に加わって上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、守護大名の留守に領国を脅かす勢力が台頭して諸大名は京都での戦いに専念できなくなって行った。

千四百七十三年(文明五年)になって当事者の山名宗全と細川勝元が相次いで死去、漸く双方の息子が和睦して応仁の乱(おうにんのらん)は一応の終息を見ているが、守護大名の領国では新興勢力が台頭して手が付けられない守護職が続出した。

下克上(げこくじょう)に明け暮れ、国主が武力で入れ替わる「戦国期」に入っていたのだ。



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【細川晴元と三好長慶(みよしながよし)】



◇◆◇◆管領・細川晴元と三好長慶(みよしながよし)◆◇◆◇◆

織田信長(おだのぶなが)ら戦国武将が生まれた頃、帝のお膝元である京の都や畿内周辺部は戦乱に明け暮れていた。

細川晴元は応仁の乱(おうにんのらん)終息後の下克上(げこくじょう)時代、室町幕府末期の管領職に在った人物である。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川氏は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主の家系だった。

細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

細川氏が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名氏が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをして応仁の乱を引き起こしていた。

その応仁の乱が収まると、今度は細川家で跡目争いの内紛が勃発する。

細川家嫡流・京兆家は、細川政元が妻を持たず子がなかった為に、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えたのだが、この三人がそれぞれに足利将軍やその候補を立て味方になったり敵に廻ったりの争いを続けた。

その応仁の乱のメリハリの無い終息と細川家の内紛で混沌とした時代の千五百十四年(永正十一年)に、細川晴元は細川澄元の子として生まれる。

六年後、父・澄元が阿波で死去し、細川晴元は僅か七歳で細川家嫡流・京兆家の家督を継承した。

晴元十三歳の時、配下の三好元長(源・小笠原氏流れ)らと共に挙兵して父・澄元の義兄弟にあたる細川高国を攻め、千五百二十七年(大永七年)に細川高国が第十二代将軍・足利義晴らとともに近江へ落ち延びると、晴元は足利義維(あしかがよしつな)と共に和泉国堺を本拠とし足利義維(あしかがよしつな)を将軍(堺公方)と成した。

しかしこの将軍擁立の大仕事、いくら細川氏の若棟梁とは言え僅か十三歳の細川晴元には荷が重い為、推測するにこの頃から実質的に力を擁して大仕事を主導したのは三好元長と見て間違いは無い筈である。

三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、三好之長の時代に管領・細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが、三好氏畿内進出の契機となる。

そして、三好元長の代に細川晴元に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長する。

千五百三十一年(享禄四年)、十七歳になっていた晴元は三好元長に命じて世に「大物崩れ」と呼ばれる事をおこし、高国を摂津の広徳寺で自害させた。

その翌年の天文元年、晴元は三好一族の三好政長の讒言を信じて三好元長と対立をはじめ、本願寺証如や木沢長政らと手を結び、一向一揆を扇動して元長を堺で殺害する。


主君・細川晴元(ほそかわはるもと)に堺で殺害された三好元長には、当時十歳の嫡男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が居たのだが、晴元はこの長慶(ながよし/ちょうけい)に三好氏の継承を許し、引き続き家臣として手元に置いている。

その後細川晴元は、堺に擁立した将軍・足利義維(あしかがよしつな・堺公方)とも不和となって将軍職を追放し、細川高国らと落ち延びていた十二代将軍・足利義晴と和睦し、この頃から実質幕政を支配する管領職の第一人者として本格的に細川政権を軌道に乗せた。

しかし内乱状態は収まらず、晴元はまるでもぐら叩きの様に「味方に付けては勢力が伸びて来ると潰す」と言う手法で勢力バランスを取りながら権力を維持する芸当を見せる。

そしてこの頃に、美濃国で明智光秀(あけちみつひで)(千五百二十八年)、尾張国で織田信長(おだのぶなが)(千五百三十四年)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)(千五百三十七年)、三河国で徳川家康(とくがわいえやす)(千五百四十三年)など戦国期の主役達が続々と誕生していた。

細川晴元に将軍(堺公方)職を追放された足利義維(あしかがよしつな)は一向宗と対立した状態が続き、一向宗は堺公方を襲撃するなどしたが、一向一揆が大和国に侵入するに及んでも対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動に苦慮していた近江の六角氏(ろっかくうじ)とも協力して山科本願寺門跡八世の顕如(れんにょ)を攻め、一向宗の本拠地山科本願寺を焼き討ちにした。

すると今度は法華衆が京都で勢力を伸ばした為に、晴元は千五百三十六年(天文五年)「天文法華の乱」と呼ぶ軍事行動を比叡山延暦寺(天台宗)僧兵や佐々木氏(近江源氏)嫡流の近江国守護職・六角氏(ろっかくうじ)と連合して法華衆勢力を壊滅させる。

その後も細川晴元は管領職として七年ほど勢力を振るったが、千五百四十三年(天文十二年)になると、細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵し、その氏綱に畠山政国や遊佐長教が呼応、三年後には前将軍・足利義晴が実子・義輝に将軍職を譲った期を持って細川氏綱を支持し、細川晴元と敵対を始める。

この頃、あの三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は長じて智勇兼備の武将に成長し、細川氏の家臣として木沢長政討伐をはじめ、細川氏綱や遊佐長教らとの戦いで多くの武功を発揮し、河内など畿内十七ヶ所の代官職を与えられた晴元配下の最有力重臣にまで成長していた。

細川晴元は、敵対する前将軍・足利義晴らを近江国坂本へ追放し細川氏綱らと戦い続けるのだが、臣従していた最有力重臣の三好元長の長男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が一族の内紛で三好政長の討伐を要請して晴元に断られたので、長慶(ながよし/ちょうけい)が遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、氏綱側に寝返ってしまう。

千五百四十九年(天文十八年)、細川晴元は寝返った三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)らと摂津国江口で交戦するも敗北を喫し、三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、将軍・足利義輝を擁し、香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角氏・六角義賢や畠山高政など畿内の反三好勢力の支持を受け三好長慶と争うが敗北し続け、将軍も管領も政権の体を為さない時代が続く。

細川晴元は、千五百六十一年(永禄四年)に六角義賢の仲介を受けて長慶と和睦、剃髪し摂津富田の普門寺に隠棲するも二年後に死去している。

ここに細川政元以来の管領職・細川政権は崩壊し、実質三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)に拠る将軍不在・畿内周辺だけの三好政権が成立したのである。

そして四十歳の三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が畿内周辺に君臨する頃には、既に十二歳年下の織田信長の勢力が着々と京に迫っていたのである。



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【三好三人衆(みよしさんにんしゅう)】



◇◆◇◆三好三人衆(みよしさんにんしゅう)◆◇◆◇◆

三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)の後、機内を連合して抑えたのが、通称三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた面々で、戦国時代に活躍した武将三人の総称である。

三好氏の当主・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は、京兆細川家当主・細川晴元配下の有力な重臣から晴元と将軍・足利義輝を近江国に追放し、幕府への直接的な支配力を確立して事実上の三好政権を誕生させた。

その三好長慶(みよしながよし)に一族の重鎮として臣従し、それぞれが軍を率い活動していた三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を、いずれも三好氏の一族・重臣であった為に三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた。

機内限定の三好政権は、細川晴之(細川晴元の次男)を名目上の盟主とする畠山高政・六角氏・六角義賢の同盟軍との攻防を経て勢力に陰りが見える中、三好氏は当主・三好長慶(みよしながよし)を病で失う。

三好長慶(みよしながよし)の死後、養子後継者の三好義継は幼く、長慶の弟達もまたこの世を去っていた為に義継の後見役としてこの三名が台頭し、三好氏の家宰として実権を握って権勢を振るっていた松永久秀(弾正)と共に足利義輝の謀殺(永禄の変)に携わるなどする。

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は長慶(ながよし)の後継養子・三好義継を盟主に立て、松永久秀と共に三好・松永政権の維持を図ったが、やがて義継や久秀(弾正)と対立し政権の混乱を招いて足利義昭を擁立する織田信長を利する結果となる。

千五百六十六年の織田信長上洛に反発、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は抵抗するが信長に敵せず相次いで敗退し、為に三好三人衆の勢力は衰え元亀年間には岩成友通が戦死する。

三好長逸・三好政康の二人も消息不明の状態となり、畿内に於ける三好氏の勢力の衰退と前後して三好三人衆としての活動は完全に途絶えるも、政康は後に豊臣氏の家臣として復帰して大坂の陣に参加し戦死している。



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戦国期から安土桃山期以後は、第三巻から第六巻を参照して下さい。



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【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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作者本名・鈴木峰晴