無謀にも我輩は、この物語・皇統と鵺の影人で「日本人の大河ドラマ」を書き始めてしまった。
すると色んなものが見えて考察が面白く成っては来たが、気に成る事を見逃しては歴史の探求者とは言えない。
普通の人間が思考すると、頭を使う事を面倒くさがって単純な白黒の答えで決着を着けたがる。
また、時の政権が統治の為に報じた定説を鵜呑みにして、思考を停止してしまう事も多々在る。
しかし物事の本質はそんな簡単なものでは無く、裏の裏にまで想いを馳せないと本当の真実には辿り着かない。
まぁ物事を深く考えず、不確かな伝承で満足している人間は余り知的とは言えないかも知れない。
現代の辞書を引くと「倭国(倭の国)は日本国だ」と書いてある。
しかしその事を批判無く受け入れてしまう事は、「百姓」を「古来からの農民」と安易に解釈するのと同様の歴史音痴な事である。
確かにある一定の時期より以後は日本列島を指して「倭国(倭の国)」と解される経緯がある。
しかしながら、この件には納得出来ない異論が我輩に有り、ある時期以前の「倭(わ)の国」は、日本列島に止まらない「広域に広がっていた」と考えている。
「倭(ワァ)」の文字が、「日本を指している」と定説化されているが、果たして本当に最初からそうだったのだろうか?
幾ら中華帝国の「公古文書に記載が在るから」と言って、「日本列島=倭の国」は先入観が強過ぎはしまいか?
同じ中華帝国の公古文書にポツリと浮き上がる「日本列島以外の倭と呼ぶ地の存在」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。
つまり「日本列島以外の倭と呼ぶ地の存在」と言う隠された事実が在りながら、永く「定説としていたから」と言って安易に広域倭の国論を否定してしまって良いものだろうか?
結論から言うと、日本列島渡来人が来て国造りを始めた当初を考察する限り倭の国=大和の国の結論は、元々とんでもない間違いである。
この「倭の国解釈」の違いは、同じように後の人々がタイムラグ(時間的ずれ)を考慮に入れないで最終解釈だけを理解している「百姓の意味の変遷」と同じである。
ここで入り口を間違えては先の話が全て不都合なものに成りそうである。
元々中華王朝側の「倭(ワァ)」は、辺境の地に在る「蛮族の国々」と言う認識だった。
日本語の外(そと)は中国語では「ワィ」と発音し、日本語の倭(わ)は中国語では倭(ワァ)と発音していたが「ワィ」とも発音する。
つまり中華帝国の外(ワィ)に位置し、人に委せる意味の倭(ワィ)は中華帝国側からすれば「未開の地」を指す言葉である。
その未開の地と言う意味の倭(ワィ)を、中華大陸から或いは朝鮮半島から遣って来た渡来人を中心とした大和朝廷(ヤマト王権)が国名に採用する訳も無く、一貫して大和合の国・大和国を自称している。
中文(中国語)で外国をワイゴウと発音する。
日本列島に於ける「大和合」と誓約(うけい)は符合するが、中華帝国が言う「倭国(ワィゴウ)」は意味合い上は例え呼ばれても当時の日本列島側が受け入れる訳が無い。
それを「中華帝国の文献に記載があるから」と言って、倭国(ワィゴウ)を安易に「日本を指す言葉」とする舶来に弱い日本人の感性は如何なものであろうか?
少なくとも、七世紀の始めに 日本列島・大和朝廷の国名を「倭(ワァ)」と呼称するまでは、中華王朝側に「倭(ワァ)」が日本列島・大和朝廷固有の国名として扱った記録はない。
倭人について記した古い紀元初期の中華王朝の文献には【班固の漢書】や【王充の論衡】がある。
だが、 いずれも 一世紀頃に書かれたもので、【漢書】は前漢の事について記し、【論衡】で「倭(ワァ)」が出て来るのは「周の時代」の話になっていて、 いずれも本が書かれた当時の知識を「過去に反映したも」と考えられている。
尚、他 に【山海経】にも「倭」記載があるが、【山海経】は文献そのものに問題が多く、「倭(ワァ)」について記した箇所が書かれた時期が何時(いつ)頃か良く判らず、【漢書】や【論衡】が書かれた時代より後かも知れない。
要するに、紀元前の中国人(中華王朝)が日本列島・大和朝廷固有の国名として「倭(ワァ)」と呼んでいた形跡はないのである。
即ち倭国論に於いて重要なのは、前期に於ける倭の国々の広域倭国論と後期の統一日本列島倭国論の二つに分類しなければならない事である。
「倭(ワァ)」は、中華王朝・後漢時代(紀元五十七年)に倭奴国(わのなこく)王の使いが後漢を訪れた事から、始めて中国人(中華王朝)は「日本列島に関する知識を得た」と考えられる。
この時点で、中華王朝・後漢が記した「倭奴国(わのなこく)王」の使いが名乗ったのは、大和合の国「和の国王」だったのであるが、【袁宏・後漢紀(四世紀)】や【范曄・後漢書(五世紀)】には醜いなどの意味を持つ「倭(ワァ)」の文字を充てて記されている。
中国の史書に倭国が現れたのは、紀元百七年(永初元年)後漢・安帝時代の「後漢書・倭伝(東夷伝)」の下記の記術が初出である。
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
訳すと、後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜ふに印綬を以てす。
尚、この「光武帝賜ふ印綬」が、志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)ではないかと推定されている。
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」
訳すと、会稽(ホイチー/かいけい/中国・浙江省中部辺り)の海外に東鯷(とうてい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する。
会稽(かいけい/今の蘇州・上海辺り)郡の海の彼方に、二十余国に分かれて、「東鯷(とうてい)の人が居て、朝献していた」と言う記事である。
この「東鯷(とうてい)の人」が、中国・蘇州から東方を指していると解釈すれば、台湾島を指す事になり、北東を指すのであれば朝鮮半島から日本列島を指す事になる。
この文面から、前漢時代に蘇州・会稽(かいけい)の海の先に「東鯷(とうてい)の人の国」が二十余国在った事に成る。
この一文を持って、強引に「この東鯷(とうてい)の人が中国から日本を指していると解釈すれば」とする学者も居るが、「日本を指している」と言う解釈に足りる文面ではない。
つまりこの東鯷(とうてい)の二十余国が、朝鮮半島から日本列島に在った倭の国々の事ではないだろうか?
志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。
だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。
前出の中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた
後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。
と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。
つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。
大和合の「和」は中文では「フゥ、フウヮ、フヮ」と発音する。
実はこの倭人(ワィ)、発音としては中文(ツゥンウエン/中国語)の外(ワイ)にも通じ、如何(いか)にもの感がある。
中華王朝にしてみれば、未開の倭人(ワィ)が挨拶に来たのだから、その「倭人(ワィ)の奴国(なこく)王の使いが訪れた」と記載した訳である。
要するに中華王朝から見れば、「倭奴国(和の奴国)」は辺境の地に在る「蛮族」の国だったのである。
中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。
この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。
中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。
前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。
また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。
自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。
だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。
この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。
つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。
中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。
そして秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として航海術に巧みな倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。
即ち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。
中華王朝(帝国)は、近隣国と朝貢(ちょうこう/ちょうけん)で他国と交流し、冊封(さくほう)と言う形で相手国を国際的に認証していた。
朝貢(ちょうこう/ちょうけん)は、「中国の皇帝に対して周辺国の君主(国王)が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与える」と言う中華思想の形式を持って成立する。
形式を踏んではいるが、朝貢(ちょうこう/ちょうけん)は、言わば中華王朝(帝国)の面子を立てた形の実質は国家間貿易の形態である。
また、冊封(さくほう/さくふう)とは、中国王朝(帝国)の皇帝がその周辺諸国の君主とさして実効性の無い「名目的」な君臣関係を結ぶ事だが、これによって作られる国際秩序を「冊封体制」と呼び、後漢の代より日本列島からの朝貢が記録に残り、「倭の五王が冊封(さくほう/さくふう)されていた」と言われる。
しかし倭国(わのくに)は中華王朝側の呼び方で、都市国家もどきの「小国の集合体」である日本列島の倭の国々は、各々が国名を名乗って自らを倭国(わのくに)とは積極的には名乗っては居ない。
天孫降臨伝説と皇国史観に影響された歴史観では、「広域倭の国論」の発想は浮かばない。
何故ならば、「日本語のルーツ」と同様に天孫降臨伝説以前の歴史は建前上は「無い事に成っている」からである。
当然ながら縄文人(蝦夷族/エミシ族)と渡来部族との争いの歴史も、単一日本民族説と皇統万世一系説に隠れて日本の古代史から欠落し、中々取り上げられないでいる。
天皇家を含む日本民族は、永い歳月と様々な歴史的経緯を辿って日本列島に形成されたもので、当然ながら最初から単一民族として存在して居た訳では無く、それは朝鮮半島に於ける韓民族(朝鮮族)も同様である。
そうした認識を、帰属意識や信仰などの右脳域の感性を優先してしまうと、具体的事実を検討する能力を停止してしまう事に成り、つまり「本来は見るべき事を見ない」と言う事に成る。
元々の倭の国とは、朝鮮半島と日本列島を含んだ広域の倭人の住む地域の事である。
この「広域倭の国論」、何故か頑なに同族系と認めたがらない半島側と列島側双方の頭の固い学者が、あくまでも「倭の国列島説」を主張している。
どうしても半島と列島の間の海峡に線を引きたがる勢力は、半島にも列島にもまともな国家など無い時代に於いても、頭から「国境が在った」と決めて掛かろうとする。
勿論、右脳域の感性に於いては理解できない訳では無いのであるが、左脳域の理性に於いては、そうした感情論は凡(おおよ)そ現実的ではない。
つまりそうした強引な言い分は、何とも感情的で幻想的なインテリジェンスが無い右脳域の感性だけの話しなのである。
そうした事から、高句麗第十九・代好太王(こうたいおう・広開土王・クァンゲトワン/在位三百九十一年〜四百十二年)の「好太王顕彰碑」における墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん/拓本)の内容について、史実を反映していない為に、旧日本軍による碑文すり替え説や事実を隠蔽する為の「石灰塗布作戦」と言った論争が繰り広げられている。
好太王顕彰碑に拠ると、当時高句麗軍の南面方面の最大の敵は、「倭」と呼ばれていた当時の列島側(大和朝廷)からの「派遣軍」と言う事に成っている。
つまり、当時の倭(列島側/大和朝廷)は強い勢力を持ち、百済と新羅を武力制圧して配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦った「酷い侵略者」と言う事に成っているのである。
所が、この時期に列島側(大和朝廷)が「朝鮮半島に軍を派遣した」と言う事実はなく、碑文の解釈、さらには碑の文字に「何んらかの問題がある」とする説が提起されている。
碑文の解釈が「倭の国列島説」に符合しないから強引に「陰謀説」で辻褄合わせをするのだが、「広域倭の国論」であれば、充分に符合するのである。
何故なら、「広域倭の国論」であれば百済も新羅も「半島側の倭の国」だったからである。
広域倭の国論が「正しい」とするなら、当然ながら朝鮮半島側にも倭の国々の痕跡は残る。
その半島側の倭の国々の痕跡でも、盲目的に「倭国=日本列島」と思い込んで思考を始めてしまうと、「倭国が半島に勢力を築いていた」と全く正反対の結論を出してしまう。
また、韓国南部の前方後円墳を持ち出して「倭人の墓か?」と言い出す、勿論「倭人の墓」ではあるが日本列島から進出して来た倭人ではなく、朝鮮半島側に住んでいた「倭人の墓」なのである。
この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。
歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。
この間違った考えから、「倭の国=大和の国(日本列島)限定」を導くと、後に起こる「皇統の歴史の説明」がまるで付かないのである。
そもそも中華思想とは、中国大陸の覇者、歴代「中華皇帝(ツォンファ、ファンディ)」が統治する中華帝国(ツォンファティゴウ)を世界の中心とし、周辺の国々は「国王(グォワン)」が統治する属国だった。
その帝国周辺の小国家群の内、朝鮮半島から日本列島の西半分に掛けてが、倭人達の住む「倭の国々」だった。
しかし半島と列島は、その海峡を隔てた地域特性から次第に互いの間に統治上の組織分離が進んで行く。
元々「小国群」と言う緩(ゆる)い結びつきだったから、それは容易に進んだ。
やがて朝鮮半島側の倭人(倭の国々)は百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)の鼎立割拠する三国(サムグ)時代を経て新羅(シルラ)に統一される。
その頃には、日本列島側の倭人(倭の国々)が武力制圧や合併(誓約/うけい)の道程を経て、大王(おおきみ)を中心とした有力御門(みかど)達の共同統治の国「大和(やまと)朝廷」が形成して行き、統一大和(やまと)の国(大和合の国)は成立した。
大陸や朝鮮半島から、新天地を求めて日本列島へ部族ごとに渡り来た征服部族は、元々中華(大陸)文明の現体制から落ちこぼれた「はぐれ者」である。
所が、新天地の日本列島に新しい国(倭の国々)を造っても、形式上は中華(大陸)文明の属国扱いに組み込まれて面白くない。
当初は小さな倭の国々も、侵略や誓約(うけい)により次第に統合が進んで、大きく成った列島側の倭の国々は、「もう、俺達は独立する力を持ったのだ。」と、意志表示する事で合意する。
そこで、中華(大陸)文明の王達の大王(ターワン)=皇帝(ファンディ)に対抗する為、大王(ターワン/おおきみ)=天皇(ティンティ/てんのう)を立て、日本列島の中華文明・皇帝(ツォンファウェンミン・ファンディ)臣従の属国扱いの構図から、対等の大王(おおきみ)を頂く「別の帝国」の構図への体裁を整えたのである。
この大王(おおきみ)には、その即位の経緯から武力統一王ではない特殊な特徴がある。
地域統合が進んだ倭の国々の有力な王達は、中華(大陸)文明風の国家統合の象徴である大王(おおきみ/ターワン)を選び出すにあたって、自分達の勢力を維持する保身の為の基本的条件を出した。
即ち、自分達の武力は維持しながら、大王(おおきみ/ターワン)を即位させるには大王(おおきみ)を、神の威光で統治する武力を保持しない精神的象徴の存在にする事だった。
中華帝国・宋代の朝廷文書「宋書(420〜502頃編纂)」の「倭国伝」に見える倭王(讃・珍・済・興・武)についても、倭の五王と「記・紀(古事記や日本書紀)」に登場する古代天皇との比定の努力が古くからなされているが、まだ確定した説はない。
倭国の五人の王「讃、珍、済、興、武」は、歴代の大王(おおきみ/古代天皇)とも並立していた大王(おおきみ)とも言われて、その「記・紀」の系譜自体に疑問が持たれている。
このそれぞれに使節を派遣して朝貢し、官位を授かった事を「宋書」に記している讃、珍、済、興、武の五王についても、その思考の最初から「倭国=列島の国」と限定して歴代の大王(おおきみ/古代天皇)と比定を試みているが、我輩が提唱する「広域倭の国論」であれば、倭の五王が列島の大王(おおきみ)とは限らない事になる。
朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国(サムグ時代)に成り、やがて統一国家「新羅(シルラ)統一王朝」の成立と伴に、中華帝国における倭の国の呼称が日本列島側だけに残ったからで、その日本列島側の小国群の統一により自らが称した総称は「大和(やまと)朝廷」であり、「倭国(わのくに)」ではない。
当時の中華帝国の側の認識では、統一された半島側の新羅(シルラ)は「属国としての王国」と認めていたが、列島側はまだ倭人(倭の国々)が残っている状態と認識し、「倭」と呼び続け文書(もんじよ)にもそう記した。
朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。
その中華帝国の側の認識を、倭人である筈(はず)の朝鮮半島側の新羅(シルラ)王朝をも採用し、列島側だけが、隣国から「倭人(倭の国)」と呼ばれるように成って行く。
この時点で、中華帝国(ツォンファティゴウ)側が列島の民を倭人(倭の国々)と呼び続けた裏には、「倭人は蛮族」と言う中華思想が根底にあり、征服部族として列島に渡って来た倭人が、列島原住部族を「蝦夷(エミシ)」と呼んだと同じ意識が存在する。
そして本来倭人だった半島側の新羅(シルラ)は、任那・百済を滅ぼして統一国家を成立した事を期に、自分達が列島側の人々に優越する為に、あえて列島側の呼称を「倭」と残した。
この事が、列島側の意識の中に「中華帝国からの脱却意識」を芽生えさせ、大和朝廷は独自の皇帝(大王・おおきみ/後に天皇)をその中心に据え、中華王朝との対等国家を標榜した。
唯一同様の立場に置かれていた琉球王朝(沖縄)だけはこの経緯を認識していたから、倭人とは呼ばず大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。
だとするなら、「倭国は日本国の古代名である。」は間違いである。
正確には、在る一定の時期から主として他国が日本列島・大和国を「勝手にそう呼ぶように成った。」が正しい事に成る。
広域倭の国論が正解であれば、当然ながら初期大和朝廷の大王(おおきみ)の故郷が朝鮮半島で在っても不思議は無いので、これを否定する輩は「皇国史観」と呼ばれる創られた歴史(天孫降臨伝説)を未だに引きずっている事に成る。
この大いなる間違いは、恐らく政治的理由で多民族混合国家の過去を消して単一民族国家として国民の民族意識と愛国心を喚起する為に、思惑として肯定しざるを得無かったからである。
日本列島の西半分が統一され大和朝廷が成立する前は、多くの渡来部族が地方を武力掌握して小さな国家を成立させて、「王」を名乗って居た。
そして統一後は、大王家(おおきみけ/大国主/天皇)に対して臣下の礼をとる地方豪族・臣王(おみおう)は初期に国主(くにぬし)または国造(くにのみやっこ)・県主(あがたぬし)とされる地方の「王」だった。
やがて日本列島・大和朝廷では統治上の象徴化(神格化)もあり、歳月とともに大王(おおきみ)の力が集中して、有力御門(みかど)達は臣下に位置付けられる序列に明確化して行く。
そこで大陸の中華思想から独立対抗する為に、中華帝国の仕組みが後の「大和朝廷」に類似した思想形態として取り入れられ、七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(第五十代)が平城京(へいじょうきょう)にて即位した頃には、大王(おおきみ・ターワン)が帝(みかど・ティ/ディ)、その中に「小国家群の臣王(おみおう・後の国主・国造・国守)の国々が在る」と言う新帝国の体裁を、「大和朝廷」は整えたのである。
わが国に於いて、国の概念が国家ではなく地方(地域)を指す使い方をしていたのはこの経緯からである。
この倭国の集合体の国造りの経緯が、後の日本六十余州の基礎になるのだが、それはこの物語で追々記述する事になる。
日本の歴史の端緒は、実は征服者と被征服者の歴史である。
つまり、日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし)だった。
時代の誤差はあるが、日本列島の隅々まで、蝦夷(えみし)族の領域だった。
列島西側の蝦夷(えみし)族については、歴史が抹殺されたのか、文字を持たなかった為か、文献は残っていない。
その蝦夷(えみし)族の領域を、朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族(加羅族・呉族)や琉球列島を北上してきた倭族(隼人族・呉族系)に、列島の西側(九州・中国・四国地方)から次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り、国々の支配者になった。
それが邪馬台国や伊都国、那国などの「倭の国々」だった。
彼ら征服部族は、母国の王族を頭に、部隊を率いて大陸や半島から海洋を越えた。
ちょうど二〜三百年前の南北アメリカ大陸を、ヨーロッパの数カ国が原住民を制圧して切り取ったと同じ事が、二千年前の日本列島で起こった事になる。
その後の物語が、「神話から始まる日本の歴史」と言う訳である。
時代的には、まだ統一国家のできる以前の神話の時代で、「日本書紀や古事記、神武東遷物語」に出て来る様な小国が、多数並立していた。
その範図も、今の常識を覆す範囲で、ある時期は朝鮮半島のほぼ全域に及び、「朝鮮半島から現在の日本の西半分」に掛けて、多くの小国が存在していた。
中国側の記録によると、この小国群のうち三十ヵ国余りの国が「遣使」を送り、所謂「貢物」を献上している事に成っている。
「遣使」については、貢物(みつぎもの)以外に定期貿易の側面もあった。
その小国群の総称が、「倭(わ)国」である。
ご承知の桃太郎伝説には、誤解と真実が存在する。
何が誤解かと言うと、この古代史・桃太郎伝説解明の最初の一歩に「思い込み」と言う大きな間違いが存在するからである。
後日談は勝者には如何にでも脚色出来る訳で、敗者は討たれて当然の「鬼(悪人)」と表現されるが、これは大和朝廷の「覇権主義を隠す為の創作多」と解するが妥当である。
元々桃太郎伝説は、夫々に国主(くにぬし)を頂いた広域倭国の内の小国家の夫々が、大国主(大王/おおきみ)が統治する大和王権へと統一に向かう途中の出来事を伝承されたものである。
伝承に拠ると、崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇・実存不明)の時代(紀元前五十年前後)、大和朝廷の支配を固める為に日本各地に四道将軍と言う軍勢が送られた。
これは、「わが教えに従わない者は兵をもって討て」と言う大王(おおきみ/天皇)の詔(みことのり/命令)が在ったからで、つまり大王(おおきみ)を祀らわぬ(祭・奉/マツラワヌ)者は、当時まだ各地に居たのである。
大王(おおきみ/天皇)は、北陸道(方面)には大彦命(おおひこのみこと)、東海道(方面)に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、丹波道(方面)に丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、そして西海道(方面)に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)を将軍として送った。
西海道(方面)・吉備地方で当時朝廷に叛(そむ)いていたのは吉備冠者(温羅/うら)で、吉備高原の南端・眼下に総社平野・瀬戸内海を見下ろす標高四百メートルの要衝に、朝鮮式山城と同じ役割を持つ神籠石(こうごいし)式の古代の城「鬼ノ城(朝廷側の命名と想われる)」を築いていた。
「鬼ノ城縁起」に拠ると、温羅(うら)と言う名前の異国の鬼神が吉備に飛来してきて「新山(にいやま/総社市奥坂)に住み着いた」とあり、その温羅(うら)は朝鮮半島・百済(ペクチョ/くだら)の王子だと伝えられている。
吉備冠者(温羅/うら)伝承に関しては、瀬戸内海を中心に中国地方・吉備国から四国地方・屋島周辺まで広い範囲に分布しているから、その地域に「一定の勢力を有していた」と推測できる。
征討将軍・彦五十狭芹彦吉命ひこいさせりひこのみこと)はこの吉備冠者(温羅/うら)と戦い、吉備を平定した為に吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗った。
つまり確りした広域法治国家が存在して悪人を討った訳ではなく、吉備冠者(温羅/うら)は反乱軍でも賊軍でも無く言わば大和王権とは別の勢力だったのではないだろうか?
この吉備国・吉備冠者(温羅/うら)討伐平定が、「桃太郎の鬼退治伝説として語り伝えられた」と考えられるのである。
中国の「中華思想」には、それなりの歴史的事実がある。
四千年に及ぶ歴史の重みで、亜細亜で是にかなう国は、日本を含めて無い。
極東亜細亜特有の歴史の事実で、単純な民族感情ではないがしろには出来ない歴史的事実である。神代それは、多分に建前の部分(形式的)ではあるが、或る種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。
中国を中心にした「国際秩序」の形成は、当時無くてはなら無いものだった。
それが、冊封(さくほう/さくふう)朝貢(ちょうこう/ちようけん)の制度である。
即ち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国)をとる事で、或る種の形式が成立していたのだ。
つまり、その小国を認定する役目を、中国(中華帝国)は負っていたのである。
冊封(さくほう/さくふう)は、近隣の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、「権力の裏付け」とする利便性があった。
所謂「肩書」きで、「漢の那の国王」の金印は、その証である。朝貢(ちょうこう/ちようけん)は、臣下の礼(属国の王)としての貢物(みつぎもの)の献上を意味するが、実態は帰りの土産(下げ渡し品)の方が多い「形式的なもの」だった。
それでも、「多数の属国を従える中華思想」は中国の民を、充分満足し得たのである。
朝鮮半島の付け根に、鴨緑江(韓国読みアムノッカン・中国読みヤァルウジャン・日本読みオウリョクコウ)と言う河が有り、現在も中・朝の国境と成っている。
中国側から見ると、河の対岸は「倭の国」である。
従って、中国古書で言う所の倭人(わじん)は、現在の形に落ち着いた日本人の事ではない。
当時の朝鮮半島の大部分の住民も、「ひと括(くく)り」の仲間なのだ。
しかし、当時の中国でも倭(わ)国は「小さな国家の集合体」である事は充分に認識していた。
この「広域倭の国論」に付いて、日本国内で様々な異論・抵抗があるが、ほとんどが心情的な動機で、半島の人々との「人種的切り放し」を欲しているのが実情である。
しかしながら、「広域倭の国論を翻す証拠」は見当たらない。
彼らの心情では、何としても「倭の国=大和の国」としたいのだろうが、それであればこれから検証する飛鳥時代の様々な出来事について、説明が出来ない。
江戸時代後期に、九州の博多湾にある志賀島から出土した金印には、「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)印」と掘り込まれている。
漢が認める、倭(わ)の奴国(なこく)王の印なのだ。
これは、奴国(なこく)が倭(わ)の中の国である事を指している。
「魏志倭人伝」の中で、邪馬台国が、女王「卑弥呼」の治める国とする記述がある。
邪馬台国が「倭人の国の一部」であるから、倭人伝なのである。
なるほど此処まででは、半島の事は関わらない。
日本列島側に小国が点在しただけの証明である。
しかし、この事はどうだろう。
伊豆の国(静岡県)・修善寺(現・伊豆市修善寺)の大野地区辺りに小さな神社が在り、その名を「倭文神社」と言う。
読み方は、倭文と書いて「シズオリ」と読むのが正らしい。
別名を倭文織(しずお)り、綾布(あやぬの)、倭文布(しずぬの)などと呼び、カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(イラクサ染め)である。
それが、朝鮮半島を経由して来た異国の文様に対する意で、「倭文(しず)の字を当てた」と言う。
勿論、最初は渡来氏族が日本列島にモタラした布織の技術であるが、それが日本全国に分布する機織(はたおり)の神様に成った。
その後、列島各地の土地それぞれに倭文(シズオリ)がなまって、しずり神社、しどり神社、しとり神社などと読ませる。
この倭文(しずおり)の意味は、「延喜式内社」として我が国の神社に加えられた「朝鮮半島系渡来文化」の織り布(イラクサ染め)の呼び名を「倭文」と呼び、それを祀っている。
これは、海洋系民族(呉族)の技法による朝鮮半島・新羅(シルラ)、任那(ミマナ)辺りからの職布が、「倭文(シズオリ)」であり、日本列島固有の物では無い事を意味している。
つまり日本列島を指して「倭国(わのくに)」とするのはかなり時代が下ってからで、「倭」の文字は、初期に於いて日本列島を指す言葉では無かった。
こうした渡来の布織技術を専門とした氏名(うじな)が、服部(はとりべ)・織部(おりべ)と言った大和朝廷下の職務名に充てられ、氏姓制度の基に成って居た。
つまり初期の日本列島に於いて、染色技術や布織技術が渡来氏族の独占技術だった事が、他の工業同様に技術者のステータスを高級化し、もって製品を高度な物に昇華させる下地を創った。
また言語的にも、最近の研究で、倭人の言語は倭国内の多くの小国の共通語で、その源は朝鮮半島の付け根、「鴨緑江流域周辺にあった」とされている。
織物もその後の変遷で変化するが、初期の「イラクサ染め」こそが、倭文(シズオリ)の原型なのだ。
つまり、日本列島の住民が、半島から来た物を「倭文(しずおり)」と呼んだ。
これこそ、朝鮮半島全体が「倭の国」だった事を表わしている。
尚、「頭から倭=日本の古い呼び名」と思い込んでいる方が朝鮮半島の織物を「文」とし、「倭文(しどり)」を「倭」を付けた「列島の織物を呼ぶ」と解釈しているが、当時は半島も倭国群の内であり「倭文(しどり)」は間違いなく半島側の織物の呼び名だった。
広域倭の国を認めず、倭国・列島説に固執する学者は何処かに「天孫降(光)臨伝説」を引きずって居て、当時の半島と列島の支配人種が「同族系だ」と何故か頑なに認めたがらない。
これは、キリスト教原理主義者が未だに「地動説を認めない」と同等にあたいするくらい陳腐な事で、「天孫降(光)臨伝説」を信仰の範疇で語るならまだしも、歴史として語るのはいかがなものだろうか?
了
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