この考察は平成17年2月20日に小生のライブドアブログに「堀エモンは現代の織田信長である」と題して掲載したものを、改めてここに掲載する。
既に読破された方も居られが、若干の整理と加筆を加え、読み応えのあるものにしたので、時間を置いて読み直すと、見えてくる物もある筈である。
また、お読みいただければ、経営感覚や自分の物差しの設定に、参考になるかもしれない。
ライブドアの社長堀江貴文氏は、新しいタイプの経営者である。
つまり、革命者だ。
私に言わせれば、堀江貴文氏の昨今の活動はまさしく「古い常識の破壊者」のそれである。
戦後のここ六十年で堆積し、澱みすぎた「時代遅れの経済界とその支配者」に、新しい考え方でいどむ「現代のうつけもの」なのだ。
元々信長の織田家は、守護職の大名家や早くからの戦国大名家ではない。
信長の出生地は、尾張の国(現在の愛知県西部)である。
尾張の国八郡の守護職に任命されていたのは、斯波(しば)氏である。
信長の織田家は、守護大名斯波(しば)氏の陪臣にあたる尾張四郡を治める守護代職・織田大和守家の分家であった。
守護代・織田大和守家の家老職級三家の内の一つの小領主の家柄である。
現代の会社にたとえれば、孫会社の社長みたいな物で、たいした家柄とは言えない。
信長は、戦国時代後期に遅ればせに「下克上」で領地を広げ、那古野城主にのし上がった父、織田信秀の跡を継いだ。
言わば、戦国末期の成り上がり領主の家柄である。
信長が家督を継いだ時点では、主筋の守護代・織田大和守家は、清州城にまだ存在していた。
本来「何処の馬の骨」と言うのなら、信長も、秀吉も、家康も、「馬の骨」に該当する。
明智光秀のほうが、血筋(清和源氏・土岐氏)は遥かに良い。
後の明治維新の立役者「幕末の志士群」など、尚更である。
時代が変わることも考えずに、掘江氏を「非常識だ、馬の骨だ」と非難する古いタイプの経営者は、さながら信長にしてやられた、名門・古豪の大名達と言うことになる。
今こそ、時代が新しい「現代の信長」の登場を要求しているのだ。
「おおうつけ」の信長を扱った私の小説「侮り(あなどり)」から一部引用するので、ライブドア社長・堀江貴文氏と重ね合わせて欲しい。
信長は希代の天才である。
故に、天下を己のものとする知略があった。
だが、彼は「天才故に」、いつも、もどかしい時を、一生涯過ごした。
そのもどかしさが、気短な態度となって、現れていた。
彼の考えを理解する者が、周囲にあまりにもいなかったからだ。
若きころより「おおうつけ者」といわれたのは、彼の常識破りな、考え方や行動が、常人に理解されなかったからである。
常識的に物を考える家臣達相手に、「新たらしい発想を、迷うことなく実行させることに腐心する」のは、信長にとって余分な苦痛だったはずだ。
晩年の彼の家臣団には、相応の秀才が数多くいた。
だが、いずれも常識主義者であり、微妙なところで、信長の才との「ずれ」があった。
究極のところで、信長の真意を理解できた者は、いなかったのである。
それ故信長は、いつもイラ付いていたのだ。
たった一人、世にもまれな「秀才」がいた。
明智光秀である。
彼だけが、信長の考えるところを、瞬時に理解する能力を持っていた。
ただし、信長のような天才的なひらめきでなく、あくまでも「論理的に」、である。
この図式は、光秀が信長に心腹している間は、最高の組み合わせである。
信長の「うつけぶり」も、周囲に警戒されないように周りを欺く「策略」と解説する見解の方も居られるが、私はそうは思わない。
単純に、常人が当たり前と思っている「常識」が、怪しいものだと気付いている信長は、当時の常識など意に介さない。
回りの家臣が、信長の行動が枠からはみ出すことを、ルール無視の「うつけもの」としか理解できなかったと解釈している。
どうも日本人は、横並びが好きだ。
変わった考えを持つと、排除したがる。
「普通」だとか、「常識」だとか、考えが一緒でないと安心できない。
マニアル化するのも好きだ。
古典歌舞伎などの芸術的「様式美」は、すばらしいマニアル化で、日本人の得意分野である。
だが、ことと次第によっては、これは発展の障害に成る。
最近の若者は、マニアルがないと何も出来ない。
いや、やろうとしない。
咄嗟の対応ができない。
マニアル以外のことには、つまり自分の考えでは、対処出来ないのだ。
いわく、「マニアルにない。」、「教わらなかった。」、「指示されていない。」つまり余分なことをして責任を持つのを嫌がる。
これの最たるものが、「役人の前例がない」の責任逃れなのだ。
チエーン店など、全国何処にいっても、同じせりふで客に対応する。
正直いうと「気持ちが悪い」。
現場のチョットしたアイデアが、生産の合理化や新製品の開発に結びつくことなど、もう望めないのか。
こんなことは、マニアルだけでやっていては進歩がないのは当たり前だ。
奇想天外なものを発想したり、開発したりするのは、大概のところ、普段は変人扱いされている人々である。
言い換えれば、変人扱いされるくらいでないと、良いものは出来ない。
それなのに、相手が自分達と変わっていると、それだけで憎しみさえ抱く。
天才信長の存在は、凡才の家臣達には理解できなかった。
とても領主として受け入れ難かった。
一見常識はずれに思える信長の奇行は、実は彼なりの発想の「確認実験」だったのだが、凡人の知る由もない。
その確認実験の成果が、それまで「われこそは」と名乗って切り合う、個人戦の集積的戦いから、統制の取れた団体戦の手法に実を結ぶのだ。
信長は、凡人の「物差し(ものさし)」からすると、「常識外れなことばかりする。」、家臣が手を焼く困り者だった。
本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせるために、始めた、「名乗ってから切り合う」は、当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。
それを、団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。
つまり、上級武士の利権がらみなのである。
それで、旧勢力は抵抗する。
ことの是非ではない。
旧勢力にとっては、個人戦は譲りがたい利権だった。
すなわち、堀江氏を非難する連中は、旧勢力の利権を守ろうとしている既得権者の代弁者であり、将来の日本の進歩の為にはならない。
このことは、謀らずも堀江氏の野球界参入問題の折、大手新聞社や流通大手グループの代表者の当時の「時代遅れな」言動で、露呈されている。
戦国時代は、下克上の世の中である。
家臣にしてみれば、「どちらに付いたら将来徳か」絶えず考えている。
「おおうつけ」が親分では、自分の将来が心配である。
後に信長の筆頭家老になる柴田権六勝家などもその口で、一旦は弟信行の跡目擁立に動いて、信長の軍略に敗れている。
信長は、血も涙も無いように言われるが、最初の謀反決起のときは、弟も配下の勝家達も殺さずに許している。
自分を殺そうとした相手を、である。
しかし、実母は信長を嫌って、信行に家督をついで欲しかった。
母親の常識的「物差し(ものさし)」では、不幸にも我が子の才能を理解できなかったのだ。
世間的に出来が良く、常識的な信行の方が、可愛かった。
母の進めも有り、信行は性懲りもなく、また謀反を企てた。
それで、信長は家の実権を握るまでには、弟さえ殺さなければならなかった。
結果的に家臣がやっと心服したのは、その内輪の相続争いで見せた信長の戦略上の実力の証明だった。
凡人には思いも付かない新たらしい発想で、「戦い方の古い常識」を塗り替えながら勝利を重ねるに至って、ようやく家臣は主人が只者でないことを知ったのである。
おそらく凡人には、「目からうろこ」の類だったと推察される。
信長は、弟信行を倒し、主筋の守護代・織田大和守家を倒して清州城を攻略、近隣の織田縁(ゆかり)の者達を従え、あるいは倒し、勝ち続けた。
やがて、残りの四郡を収める守護代・織田伊勢守家の領地をも従え、尾張八郡を手中にし戦国大名に、のし上がったのだ。
この辺りが、会社の買収を繰り返して拡大してきた堀江氏の手法にかさなる。
力が無ければ、相手にされないし、何も出来ない、
それで、ようやく信長の元へ家臣が集まりだした。
ここでも、信長の手法は革新的だ。
信長は、それまでの「血筋を第一とする従来の家臣の登用スタイル」など、最初からするつもりもない。
あくまでも「能力主義」である。
それでないと、血縁の身内や古くからの家臣のみがいつも安泰で、「よどんだ沼地の水のように」組織の活性化など望めない。
能力があれば、百姓の出(?)でも、野伏せり、野盗のたぐいでも良い。
だから、誰にでもチャンスはある。
後の豊臣秀吉などは、「おやかた様の言う通りにやれば良い。」と、全面的に信長の「指示を実行した」に、過ぎないのではないだろうか。
勿論それを実行できるだけで、相当な能力ではある。
秀吉が行った数々の名作戦などは、信長の指示、発案であったと思うのが、自然である。
信長の軍団が、強かったのは「常設軍」だったからである。
この常設軍は、この時点では「画期的」なことだった。
信長、天才の由縁である。
当時、どこの大名も常設軍は持たず、家臣に所領を与え、そのまた家臣は土地を与えられて、それを運用していた。
つまり、土地を媒介とすることで、日ごろの支給金などの負担を逃れていたのだ。
領地、知行地がこの時代の基本であり、「一所懸命」は、ここから来ている。
小領主、郷士、地侍など、普段は経済的に独立していて、作地をして土地を運用し、生計を立てているのだ。
そして、いざ「事あるとき」に召集されて軍団を形成する。
勝てば、新たに領地がもらえる。
敵が攻めてくれば、自分の土地を守るために領主の下に結束する。
あくまでも、土地(領地)を取られないための、共同作戦である。
それで、相手との間に「領地安堵」の密約があれば、裏切ることも有る。
「自明の理」である。
この時点で大事なのは「土地」で、主従関係では無い。
言わば「傭兵契約」のような関係であった。
それで、「どちらに付いたら徳か」と言った召集される側の「値踏み」もあり、本音の所では、あてにしにくい形態だった。
このことが、信頼のおけない裏切りの芽を育たせ、「下克上」を育生んだ。
武将がそんなだから、雑兵はもっとあてには出来ない。
本気で命のやり取りをするのは、出世志向一部だけで、後は仕方なしの参加だから、大将がやられれば、わーっと逃げ出す。
雑兵は、各々の領主が領地の百姓を半ば強制的に刈り出してくる。
農閑期しか刈り出せない。
だから、田植えの時期と、稲刈りの時期は、「戦闘は起きない」と言う、暗黙の了解があった。
堀江氏が非難されるのは、この旧体制の暗黙の了解が通用しないからだ。
勿論この暗黙の了解は、外国資本には最初から通用しない。
百姓(雑兵)も武将も農作業が急がしいと集まらないのだ。
それでは、作戦を立てにくい。
「殿、そろそろ稲刈りの時期でござる。」
「致し方なし、兵を引こうぞ。」
武田信玄と上杉謙信が、「川中島」で何度も剣を交えながら、決定的な勝敗が付かなかったことも、このことからである。
農作業の時期が来ると、互いに兵を帰している事実がある。
この長く続いた「家臣団の土着性」を、信長はある策略で壊して行った。
これも、天才信長ならではの手法である。
信長は自身の本拠地を次々と変え、家臣団を定住させなかった。
那古野、清州、小牧、岐阜、安土と移って、その都度、家族を同伴させている。
これでは、家臣も付いて歩くしか無い。
信長は、本当の目的を説明することなく合理的に家臣の土着性を、改めたのである。
単純な話、相手が兵力を整えにくい時期にすばやく軍団を編成して攻め込むには、「常設軍」が、必要なのだ。
この差は歴然であった。
いまでこそ、何でも無いような事でも、当時の常識にとらわれて、他の大名は旧泰然とした荘園〜守護時代の体制を改めなかった。
今の子供が聞いたら「ばかだねー」と言うことでも、「普通」あるいは「常識」にとらわれていたばかりに、攻め滅ぼされてしまったのだ。
統制の取れた団体戦型の常設軍の活用。
それで、信長軍団は勝ち続けた。
相手には、始めから利益で動く「寄せ集め」と言うハンデがあったのだ。
不利になったら「ねがえる」なり、逃げるなりすれば良い。
帰って、「自分の土地」で百姓に精を出せば良いのだ。
つまり、拠り所があった。
信長の専業武士団は「戦いだけが本業」で、帰るところは無かった。
土地は所有していても、百姓に任せているのだ。
武士、侍(さむらい)と言う、俸禄(ほうろく)、扶持米(ふちまい)をもらい、主君に滅私奉公する戦闘専門の「常設軍事組織」ができたのは、信長以降の安土、桃山時代からの事である。
ちなみに太閤秀吉が、刀狩をするまで、百姓と下級の侍(足軽)とではたいした境目はなかった。
兼業者のようなものだった。
太閤検地と刀狩は、おそらく信長のあの世からの指図であったと考えられる。
つまりあらかじめ信長から聞いていたのだ。
秀吉が秀才の仲間とすると、それは信長の知略のパターンを、上手に使いこなすことが出来たことだ。
しかし、天下を取った後のことは、さして信長から聞いてはいなかった。
このことは、秀吉の仕事が「天下を平定するところまで」ということを意味していた。
秀吉は信長の「知恵の遺産」を食い潰して、晩年はただの哀れな老人だったのだ。
その証拠に、晩年には発想に切れがなくなり、天下に何の有効な指示も出来なかったのである。
信長の発想は、当時としては奇想天外なもので、堀江氏の戦略もまさしく「この類」である。
だが、時が過ぎると是が常識となり、普通になる。
信長は「天下のうつけもの」つまり常識はずれであった。
しかし、そのときの常識が必ずしも、正しいとは限らない。
堀江氏を非難する旧式の経営者は、やがて時代の革命児に敗れ去るかもしれない。
欧米流の乗っ取りは、「日本にはなじまない」などと言う解説や感情論も、世間に蔓延している。
欧米流の乗っ取りについては、言わば「敵を知り、己を測る」と言うことで、賛否善悪の論議では無く、「時代錯誤の感覚では防御も出来ない」と捕らえないと、国際化時代に乗り遅れてしまうと言う意味もある。
それを、日本式に「善悪・常識非常識」と論議している。
立ち止まっていては、日本は国際社会から置いていかれるのである。
輸出は大いにするが、「外国資本や欧米流の資本システムは拒絶する。」などと、虫のいい話しは通らない。
株式支配の「乗っ取り」と言う欧米型の経済システムも容認せざるを得無いのに、感情論でものを言っている。
それなら、その対処の研究を怠った、古いタイプの経営者側の認識不足で、堀江氏を非難するのは筋違いである。
日本国民は、感情的には未だに江戸幕府時代の「鎖国島国根性」を引きずって居るのかもしれない。
歴史的に「こじつける」と、堀エモン現象は「次の文明開化の序章」である。
IT革命児と言う名の「黒船」が到来したのかもしれない。
ノーネクタイ・・・・Tシャッ・・・散切り頭・・たたくべきか?
わずか、百年の常識・・・・ちょんまげに裃(かみしも)・・・背広にネクタイ。
堀エモンの服装・・「日本文化になじまない」と言う。
わずか百年前、国家の存続をかけたあの「なりふり構わない改革魂」は、どこに行ってしまったのか?
日本の古いタイプの守旧派権力者は・・・明治の若き志士たちよりまだ古い、今の権力者達の発想。
妨げる、「次の日本の近代化」、つまり世界経済の新たらしい潮流・・・・。
それに、気付かない政治家や官僚が日本の舵取りをしているのだ。
いや、現在の自分の利権を守るために、「気づかないふり」をしているだけかも知れない。
残念ながら一部法案で、「資本鎖国」をする動きもある。
エスカレートして行かなければ良いのだが。
実績(糸口)が出来ると、利権者が己の利になるように、働きかけるのが世の常である。
私は、堀江氏は時代の要請で出てきた言わば「時代の象徴」として捕らえている。
彼、個人の事業の成否には、さしたる感心はない。
それでも、旧体制に風穴をあける意味では「がんばって欲しい」のである。
つまり私は、堀エモンを「日本経済界の変革に対する刺激の存在」と捕らえているのであって、盲目的に励讃している訳ではない。
なぜなら、歴史的に見ると「権力者の入れ替わり]に、すぎないからだ。
しかしそれ以上に、古い権力者は国際的に通用しない。
省みると、あの時点で「明治維新」がなされなければ、日本が「植民地化」されて居たかもしれないのだ。
いつの時代も、守旧派の抵抗には、そうした「危さ」が付きまとう。
それ故、「古い体質の経営者や政治家官僚にお引取り願う為に」、掘江貴文氏に、当分がんばってもらいたいだけだ。
時代の覇者は全べからくであるが、信長にしても言い方を変れば殺戮者で、英雄とは言いにくい。
信長の、いつでも戦える常設軍の整備や秀吉の水攻め戦法など、戦術面だけを考えるとユニークな発想で「なるほど」と思わされ、評価され得るものである。
人間は、基本的に目先の短絡的感動を欲する思考回路が優先的に働くプログラムに成っているから、彼らの活躍には一定の満足感を得られる事であろう。
しかし、膨らんだ英雄視の思いに水を挿す様で悪いが、これらの戦法は「勝つ為に手段は選ばない」と言う庶民にとっては禁じ手で、知恵としては余り品挌のある方法ではない。
つまり彼らは、他の武将達が持ち合わせていた神の領域(五穀豊穣)を「ぶっ壊した」のである。
庶民は、目先の短絡的感動で満足し、事を「可」と済ませては成らない。視点を変え、覚めた目で英雄達の手法を検証し見る必要があるのだ。
物事は常に天秤の上で作用するものであるから、良い事が有れば必ず悪い事も付いてくる。
常設軍の整備は、武力行使には有利だが「作付け」と言う食糧生産の機会を潰し収穫時期をも配慮しない。水攻めで潰された水田は、復興するに相当な労力が必要なはずである。
つまり、安土地・桃山期の英雄達の権力掌握手段は、非権力者(庶民)には非常に迷惑な側面を持っていた事を忘れてはならない。
こうした言わば権力者の論理は、必ずしも非権力者(庶民)の利に適うものではないのだが、どう言う訳か、夢を託すがごとく非権力者(庶民)はこうした権力者の活躍に胸を弾ませ、英雄視する。
日本人が考える英雄像は、粗方(あらかた)そんな短絡的感動を満足させるものである事が実は問題なのである。
現代に於いても、この権力者の論理や非権力者(庶民)の心理は発揮され、結果的に「庶民の生活をぶっ壊した」劇場型人気政治の総理大臣と学者大臣の人気は高い。
その人気の影で権力者の論理は進行し、庶民が気付いた時は、あらゆる面で格差が広がり「弱者高負担時代」が着々と形成されつつある。
堀江氏を信長にたとえたからと言って、手放しで褒めているわけではない。
注)◆ 【美しい国・日本への危惧】を見て欲しい。
当然の事ながら、「金銭にまつわる強引さ」はついて回らざるを得ない。
しかし、「金持ちに対する嫉妬のレベル」では無い相応の考察から、堀エモンは評価されるべきである。
私のように金も力も無いと、何かしたくても「何も出来ない」からだ。
物は考えようである。
維新の志士たちも、実は出身藩の旧体制の力を大いに利用している。
信長にしても、頼朝にしても、西郷隆盛にしても、多くの革命者が、皆「きっかけは作った」が、志の道半ばで倒れたことを、忘れてはならない。
彼が将来、「必ず勝ち組になれるか」の確率は低いのだ。
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