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【冗談の小論】

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美しい国・日本への危惧】

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】密かに好評・ 【政権の疑惑を追求せよ】・・・・・・・・・
【◆】【政変後の財源の根拠は存在する】

団塊世代の声が聞こえる・・・

今日本は、物あまりの「豊かさの中の格差不況」と言う特殊な環境下にあり、個人の貧富の格差や、夢の達成度合い格差は、益々広がっている。

すぐ切れる人々が氾濫する「この世情不安な社会」を造った原因は何なのか?

「まやかしの性に関する社会合意」は、本当に正しいのか?

およそ、過去には考えられない若者の集団自殺、自暴自棄のような殺人、放火、性犯罪、これらは、単に個人の資質だけの問題なのかを問うてみたい。


美しい国・日本・・・美名の影で、日本が壊れて行く・・・


左脳域】ばかりに偏重した社会がもたらすもの。


国民は、自民党政権の正体が判っているのだろうか?

バブル崩壊後、それは「格差社会」の出現で、顕著に表面化し始めている。

国民に自活の道を開かずしてギリギリまで大企業だけを優遇し、「どうしても食えなければ助けてやる。」と言うのは、もはや「民主国家の政府に在らず。」と言える。

彼らの自由民主党の文字には、明らかに偽りがある。「民主」と言う文字は、単なる装飾看板なのか?

実態はどう見ても、「資本主義自由党」である。

日本経済がバブル崩壊の後遺症から立ち直り、この二年ばかり、一部の大企業では空前の利益を計上している。

これだけを捉えると、自民党政権が経済を立ち直らせた善政をした事になる。

しかし、中身が問題である。

バブル崩壊前の黒字企業は、全企業の五十パーセント超あった。

現在の黒字企業比率は、三十三パーセントそこそこである。

これは、利益が「ほんの一部企業に偏っている」と言う事であり、この偏りが人為的な事である。

自民党政権は、「国益」の名の下(もと)に国民の負担で一部の大企業に偏った公的資金投入と優遇税制を続けた。

その間に、リストラにより雇用条件は厳しいものになり、幸いに残った者もサービス残業に追われ、職を失ったものは、再雇用の機会を失っている。

非正規雇用が増え、「格差社会」と言われ、個人の民力は一部の勝ち組に極端に偏りつつある。

小泉氏が引き起こし、安倍氏が引き継ぐ「改革路線」の正体がこの「大企業優遇策」であるからこそ、財界はこぞって「改革路線」を継承する事を熱烈に支持している。

大企業の負担を軽減しながら、国家予算が足りないから、「福祉予算を削る」と言う。

このような酷(むご)い事が、「国の政策として平気で出来る」と言う事は、「権力者に優しさは必要ない」と言う事なのか?

小泉改革の正体


政府が決める政策次第で、必ず損得の業種や業界が出る。

そう言う裏面が存在する為に業界団体が存在し、愚かな事に「国民の為」とはかけ離れた「業界と政界の癒着の論理」で政策が決まる。

勿論の事、体質脆弱な中小零細企業の事などこうした論理の外の位置づけである。

しかし歴史的に捉えると、こうした目先の利益で動いたものは後に大きな経済不況に成って返って来るのが常である事に、人々は気付かなければならない。

つまり経済は、資金が循環してこその繁栄であるから、「共栄の精神」が無い総取りの思想ではやがて我が身に降り掛かる不幸の遠因を作るようなものである。

業界と政界の癒着の論理に拠る政策を強行して置いて、「格差社会」と言う結果が出てから慌てて「セーフティ・ネットの整備」と言い出しても、後の祭りである。

何故なら人心の荒廃が進み、無差別殺人や親子間殺人、介護殺人に孤独死などの社会的問題が多発している。

身勝手な立法は一瞬だが、破壊された社会と人心の再生には五十年・百年の努力を要する危惧がある。


現在の大企業の業績好調を支えているのは、国内の消費(内需)ではない。

所謂(いわゆる)金融や情報、を除けば輸出関連企業がそのほとんどである。

それが証拠に、大企業と言えどスーパー、百貨店、家電量販店などは結構苦戦している。

内需の民力は、顕著に衰えているのだ。

中小零細企業や労働者に犠牲と負担を掛けているから、国内の民力は疲弊している。

本人達(小泉純一郎氏・竹中平蔵氏)は事実を認めず、「改革が遅れたからだ」とか言い逃れを言っているが、中小企業を見捨てた事に拠って多くの雇用の受け皿を潰して内需を極端に細らせたのだから、この国の国力そのものが疲弊してしまった。

発展途上国のように中小企業に活力があり、雇用が安定増大してこそ発展が見込め投資対象になる。

恐らく近い将来、日本は海外投資から相手にされなくなり株式市場は下落して行くだろう。

これを大企業に引っ張らせれば寡占化が進み、一部の富豪と多数の負け組みが創出され、民力は更に疲弊する。

そして、この内需(民需)に勢いが無い状態での輸出関連頼りの景気回復(数字上だけだが)は、危険な綱渡りである。

過去(昭和恐慌・昭和初期)に経験があるが、他国の経済が破綻すれば、国内の民力が無いだけに、日本の経済構造にまったく対応力が無い。

折りしも、現在の米国の経済は、膨れ上がってパンパンに張り詰めた状態を続けて、いつ弾けないとも限らない。

この大企業優先策は、公共事業に拠るバラまき景気浮揚策と同じ理屈で、スポット的な効果しかない。

現に、見せ掛けの景気回復は実質賃金に反映せず、下がり続けていて民力が低下し、消費は伸び悩んでいる。

根底から景気浮揚をしたければ、零細・中小企業から育成するべきである。

小泉構造改革は明らかに失敗で、景気を回復などさせていない。

国民は「壮大な虚構」に騙されただけで、景気回復が言わば「偽りの大本営発表」であった証拠に、「低金利政策」からは依然として抜け出せない。

テクニックで「良いとこ取り」の統計学的データーを使った「偽りの景気を回復」の演出だった。

結果、最近の学説では、小泉氏の首相就任後(小泉構造改革開始以後)実質の景気は「更に加速して後退している」と言う説が経済学者間では主流に成りつつある。

世の中「偽装偽装」と言うけれど、「一番酷い偽装」は小泉・竹中政権の「景気回復偽装」である。

小泉・竹中政権の末期に「景気が回復した」とされていたが、その間も中小企業は倒産し続け賃金は一向に上がらず、求人倍率の改善は仕方無く「求職を断念した人が多く居た」と言う数字のマジックである。

国民をばかにするにしても程がある話で、政権を担当する総理や学者大臣がデーターを捏造(ねつぞう)してどうする。

現実を正確に受け止めると、むしろ悪名高い小泉政権末期から安倍政権を経て福田内閣の現在まで、記録的な倒産件数を更新し続けていて、その何処が「景気回復」なのだろうか?
つまり指標として採用する都合の良い数字次第の匙(さじ)加減で「偽装」は簡単に出来るのである。

政府の無理に「偽装」した景気回復は、短期間で「偽装だった」と現実が証明するだろう。

私企業の「偽装」も悪いに決まっているが被害は限定的で、むしろ政府の「偽装」は全国民に影響があり罪が大きい事に国民は気が付くべきである。

小泉純一郎氏と竹中平蔵氏が無理やり演出した虚構の経済回復が、私は長く持つものとは思っていない。

何故ならば、本来日本の経済基盤になる筈の中小零細企業を蔑(ないがし)ろにして、その体力を奪ってしまったからである。

大企業優遇の「国際競争力論議」は砂上の楼閣に過ぎず、自民党と大企業が組んだ小泉路線の継承に拠る「作為的強調」で、本来は基礎(中小企業育成)から確り築き上げるべき経済力を、中小企業からむしり取る形で逆に国家の礎(いしずえ)を疲弊させてしまった。

もう、景気の先行き減速・減少傾向は覆い隠せない既成事実である。


日本経済と言う全身は、末端の細胞(個人)から元気にならなければ「健康」とは言えない。

例え一時的に経済環境が改善しても、大企業優遇と言う小泉政治は、医療で言えば発生主義的な劇薬による対症療法で、症状は緊急避難的(いちじしのぎ)に改善するが、病根を根絶するような根治療法ではない。

それどころか小泉政治は、劇薬により余病(格差の拡大)が発生するような手荒い治療(大企業優遇)だった。

つまりそれは、潜伏している余病(格差の拡大)の病根が、必ず表面化する事を意味している。

それを承知しているから、学者大臣はトットと議員バッチまで外して逃げ出した。

国民は沈黙してはならない。

あの小泉・竹中政権の五年間に中小企業を救済する適切な政策を取っていれば、今日の惨状は改善されていた筈である。

小泉・竹中政権の「大企業優先政策」の愚行は明らかに大罪であり、永く語り継がなければ成らない。


小泉純一郎氏と竹中平蔵氏が作り上げた「虚構の経済回復」は、安倍政権に引き継いで、一年も経たずに「化けの皮が剥がれる」と断言出来る。

何故なら、中小企業と国民生活を犠牲にした手法は、本来の「民力」を損なう手段で、そんなものが長続きするとは思えないからである。

結果が出れば判るが、けして彼らを赦すべきではない。

【政権の疑惑を追求せよ】

自民党政府の「改革路線」の実態とは国民生活の「改悪路線」かも知れない。

言葉は便利なもので、実態を覆い隠し、美化する用法が存在する。

その裏面で、企業は「何でも有り」の利益主義に走り、政府の規制緩和を利用した急成長企業は、犯罪又はスレスレで躍進している。

果たして、この大企業優遇の国策が「民主国家」にとって本当に有効なのだろうか?

日本経済の「恩恵の不均衡(格差社会化の加速)」はその幅を広げ、次代を担うべき若年層に、教育機会の不平等格差をも広げている。

うがって考えれば、将来の低賃金労働者を育成する為の陰謀かも知れない。

何故に問題なのか。

民主主義では基本的に数の多数を尊重する。しかしながら、小泉政権は明らかに少数の金持ち優遇政策を取った。

彼らの最大の失敗は、アメリカかぶれする余り「金持はケチ」と言う最もシンプルに昔から言われ続けて居た原理原則を忘れているからである。

貧乏人は金離れが良いから貧乏で、金持は金を貯めるから金持である。

経済は、金か廻ってこそ活性化するのであり、使わずに「貯め込む金持」を優遇して、この国の金廻り(経済活性)は良くならない。

従って、「一番理に適わない事」をこの十年続けて一層日本経済を疲弊をさせ、貧富の格差を拡大させたのである。

規模は大きいが数の上では少数に当たる大企業を助ける為に、一般大衆の負担を増やし、医療と福祉を切り詰めた。

この手法に、「国家の為」と言う言い分が付される時、民主主義は蔑(ないがし)ろにされ、戦前の「全体主義」の思想が見え隠れしている。

これが「美しい国・日本だ」と言うのか?

小泉政治の五年間、確かに不況の中でも成長した企業はあった。

学者大臣の竹中平蔵氏が標榜した経済は、路上生活者が氾濫するアメリカ型の実力経済で、敗者切り捨て経済である。

その事が日本の若者をネットカフェ難民にし、中高年の路上生活者を生み、自殺者、餓死者を生んだ。

小泉・竹中政治の「情が失われた五年間」は、正にこの【左脳系価値観】一辺倒の、取り返しが付かない偏重政治である。

理論を重視すると、時として「情」を無視する事に成る。

浅間山荘事件に代表される赤軍派の論理もそうだったが、論理的に正しいからと「目的遂行が正義」と言う事になり「多少の犠牲」も止む負えない事に成ってしまう。

小泉純一郎氏・竹中平蔵氏の「政治改革」と言う名の治世は正にこの論理で、余りにも経済理論だけに固執し片手落ち所か片手無視(庶民生活無視)の政治を為した。

つまり彼らは、人間として間違った事をしたのである。

「長寿医療制度」・後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)

今日、我日本社会は、小泉純一郎氏と竹中平蔵氏が思い描いた「米国型」の極端な過当競争個人社会に成り、利の為には手段を選ばない会社と、雇用不安と老後不安に怯え無差別殺人や近親殺人に明け暮れる、正に「米国型」の恐ろしい社会に成ってしまった。

つまり小泉・竹中政権の政策は、形だけに拘って「米国型の悪い所取り」ばかりをしたのである。

マスコミもコメンテーターも大衆人気のある小泉純一郎氏に遠慮して口を閉ざしているが、本来マスメディアには小泉政権が為した政策の「結果責任」を検証する責任があるのではないのか?

これではドイツにヒトラーが出現し、その人気にドイツのマスメディアが沈黙した時と同じではないか。

ヒトラーの台頭した環境と現在の日本の類似点


品格を持たない指導者が陥る手法に「競わせる」がある。

企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて部下を「競わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。

この【左脳域】志向である「競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき感性である。

その「競わせる」を国家単位で推し進め、様々な悪しき企業を出現させたのが小泉・竹中コンビが優先した「規制緩和」と言う名の極端な競争社会である。

まぁ、急成長する会社は、通常「何処か」を踏み付けにしなければそんな芸当は出来ない。

小泉・竹中コンビが優先したのは、「手段の為には何でもあり」の極端な競争社会である。

つまり「規制緩和」と言う名の苛烈な競争社会を産み出した小泉・竹中コンビの経済政策を上手に利用して「しわ寄せ」を他所に持って行ったズル賢い企業が、成功した訳である。

その手法に、「安全性」などと言うものに配慮するつもりなど更々無かった。

つまり小泉・竹中コンビは、無理をしざるを得無い環境を、意図的に作ったのである。

それで、合法と非合法の境目を歩くIT企業が時代の寵児に成り、多くの庶民株主が泣いた。

ただし、何か事が起こっても、当事者の「自己責任」に成る。弱いひとにオッつけて知らん顔が出来るのだから、政治家は無責任でもやっていける。

そして、「安全性」を無視した営利一辺倒のホテルチェーンは急成長を遂げ、耐震偽装設計の建造物は生まれ、バス・タクシー、人材派遣会社などの「安全性」や「年収(低年収・生活困難)」を無視した劣悪な労働条件は生まれた。

この国は自由主義の国で、必ず勝者と敗者が出る。

大概の所、敗者は「建前」を信じてまともに生きて来た純粋な心の持ち主である。
,br> 現実は残酷で、純粋な心の持ち主など落ちぶれるだけで誉められる事は無い。

それでは「勝者は?」と言うと、「建前」と「本音」を上手く使い分けるいささかズルイ輩である。

矛盾する事に、政治も経済活動も宗教もそのズルイ輩が「利」を得るように世の中が出来ている。

竹中平蔵氏の「規制緩和」と言う名のアメリカ型の実力経済政策は、人間の本質を無視した「稚拙と言うより幼稚な机上論」である。

馬鹿げた話であるが、性善説を基本とした富の分配に拠る働かない共産主義人民と、「規制緩和」下における自分勝手な成り上がり経営者と、「自分さえ良ければ」と言う点では、ある種人間の愚かな所が共通している。

人間は、それほど善人ではないから、竹中平蔵氏の幼稚な机上論の結果は、起こるべくして起こった新興企業のトラブルである。


どんな人間の行動にも、「思い」と言うものが込められている。

自らの力量から「自分では出来そうもない」と判断した民衆は、自らの儚(はかな)い夢の思いを、代わり成し遂げてくれそうな英雄に託したがる。

実はそれが間違いで、たとえそうアピールをしていても、民衆の思い入れが利用されるばかりで、英雄が民衆の為に代わりに行動する事がないのは、歴史が証明している。

従って民衆の熱烈な英雄支持は、当る事のない宝くじを、「今度こそは当たる」と、夢を夢として、夢を買う為に支持するような儚(はかな)いものである。

そう言う民衆心理を、見事に掴んだのが小泉純一郎(元総理)氏だった。


不都合が認められたり、予測出来るものを承知していながら手を打たずに車両などを運転する事を、「騙し運転」と言う。

この三十五年間の政治家や官僚による国家運営は、正に「騙し運転」の連続である。

累積する国家の赤字財政、同じく赤字の地方財政、見込まれる少子高齢化時代に対する備えの先送り等、その他諸々の「騙し運転」の付けは、誰も責任取る事無く国民に廻される。

小泉平蔵(元総理)氏の「ぶっ壊す」は、「騙し運転継続」の為の、政治的「でまかせ」だったのか?


地方で大問題に成っている医師不足は、平成十六年四月から小泉政権によって必修化された「臨床研修制度」と言う研修医の勤務先自由化と、むやみに診療を受け難くする為の「医師の数を減らそう」と言うまったく人間味の無い発想に拠る「医学部定員削減策」が発端である。

勤務先自由化のマッチング制度の導入によって研修先を自由に選べるようになった結果、研修医は都市部へ集中して地方の医師数は(病院数および患者数に対して)決定的に不足している現状が出現した。

更に研修医のアルバイトが禁じられる事で、夜間および休日の当直業務を行う医師の確保が非常に困難となって、地方公立病院は存続の危機に陥っている。

また、労働力としての研修医を多く抱えることのできなくなった大学病院が人手確保のため関連病院へ派遣した医師を引き上げ始めており、人口過疎地では医療そのものが成り立たなくなるなどの問題も出始めて、これによって地方の公立病院は強烈な医師不足に陥った。

ここで囁かれている事は、保険による診療補填に関する医療財源不足の折、地方の医師を減らせば「高齢者の病院通いが減る」と目論んでの「小泉政権の失政だった」と言う批判である。

小泉政権当時、とにかく財政を切り詰める為には「要介護者支援法」や「障害者支援法」など、実際は「支援と言う名の改悪法」を実施するなど、形振り構わず何でも遣った。

勿論他にも要因は沢山あるが、近年ここに来てこの小泉政権の医療関係施策の改悪と民営化後の計画がずさんなまま強行した郵政民営化が「限界集落問題」の加速化を後ろから後しした事は間違いない事実である。

しつこいようだが、大企業の負担を軽減しながら国家予算が足りないから「福祉予算を削る」と言うこのような酷(むご)い悪政が、「国の政策として平気で出来る」と言う事は、権力者に「国民に対する優しさは必要ない」と言う事なのか?

この小泉純一郎氏・竹中平蔵氏の国の借金を「国家の危機だから」と「弱者に付回す言い分」を、これだけ弊害が多発してなお「改革を進める」と言う事は、戦時中に「欲しがりません勝つまでは」と言って国民に途端の苦しみを強いた東条内閣の強引な施策と、どこが違うのだろうか?

それを、あたかも正論のように言う輩は、思慮に欠ける人物か「国民より国家」の危険な独裁思考の持ち主である。

「国家の為」と「国民の為」は必ずしも一致しないのだから、「国家の為=正義」と思い込みが激しい方は、一度アンカリング効果と一貫性行動理論を学んで欲しいものである。


小泉政権は、「痛みに耐えろ」ばかりで、一般国民の負担を増やしたばかりなのに、何故か、人気者だった。

小泉政権下で、何か一般国民の為に成る事を、した事はあったのだろうか?

日本は氏族の血統至上主義以来の肩書き信奉者の国で、結果が出た今日でも肩書きの虚像に騙されて、彼らが「屑(クズ)だ」と言う事に気が付かない民衆が哀れである。


小泉・竹中政治で犯罪的な施策は、グレーゾーン金利(利息制限法に定める上限金利は超えるものの、出資法に定める上限金利には満たない金利)の容認放置した事である。

消費者金融(サラ金)業者の多くはこの金利帯で金銭を貸し出していたのだが、小泉・竹中政治でグレーゾーン金利を見ぬふりで容認していた目的は、バブル崩壊でダメージを受けた金融機関の救済だった。

竹中政権下で金融機関が利益を上げているが、タダ同然の預金金利で預かった国民の預金を、中小企業や消費者金融(グレーゾーン金利の間接融資)に貸せて金利幅を取っているだけで、その先は弱い者がむしり取られて、バブル崩壊以後弱っていた金融機関を立て直しただけである。

つまりは、国民の富をシステム的に「収奪した」に過ぎない。


社会の経済環境が良くなったでもないのに、こうした詐欺みたいな金融機関の指標が、「経済好転を示すから」と言って公表するのは、国民を馬鹿にして居る。

その数字だけの発表を、「実感が無い」と言いながら、疑いもせずに信じる国民が哀れである。

期待薄だが、安倍新内閣は、国民が生きる手助けになる政策が、ほんのチョットで良いから、立法施行出来ないものだろうか?

企業の活力や危機管理を担うのは人材である。

所が、現在の企業の大半は「利益優先主義」の身勝手な企業論理が幅を利かせて、正しい人材の育成を成していない。

利益優先主義の人材だけ育成して、本当に企業を「守り発展させて行ける」と思っているのだろうか?

ひいては、この方向で国の将来を正しく導けるのだろうか?

所が、そうした正しい人材意識が経営陣に欠落しているから、本当に事(資金以外の経営危機)が起こった時「何だろう?」と、自覚さえないのが現状である。

実はこの部分の本質が、取引先や下請け先に対しても同じで、利益に拘って無形の財産を捨てて来たのが最近の日本経済界で、指導しているのが、頭でっかちな経済学者と政府官僚であるから、「何をか言わんや」である。

それ故日本の産業は、磐石さに欠け、厚みのない不安定なものに成っている。

形振(なりふ)り構わない経済界と官僚や政権政党の強引な大企業優遇策・・・

学校の教育を言い立てる前に、範となるべき大人達の醜さ、「口を拭って居て良いのですか?」と、聞いて見たいものである。


ほんの少し昔、日本は「外国に負けない為に」と「富国強兵」の名の下に国策を推し進め、その結果領土は広がり、富は財閥と軍閥が独占し、一部の財閥と軍部は確かに良い思いをした。

その結果、国民は国が富めば「いずれ豊かに成る」と希望だけを持たされて、実情は、長年「娘を遊郭に売る生活」を強いられて、一度も良い思いをする事無く昭和二十年八月の敗戦を迎えた。

つまり、「富国強兵」は「富民強兵」では無いのである。

にも関わらず、最近、またゾロ「国際競争力」の名の下に、一部大企業の優遇策を実行し、格差社会が進行している。

戦後も六十年間以上を経過して、過去を知らない若い人が増えている。

間違えてもらっては困るが、国が富む事と国民が富む事はかならずしも一致しない。

政府は、段々に「末端まで景気が廻る」と言うが、大企業の「国際競争力」を維持するには、「低賃金の効率的労働が半永久的に続く」と言う絶対条件が必要である。

この絶対条件を長期的に維持しようとすると、一つの可能性が浮き上がってくる。

それは、格差社会から「格差階層社会」への移行である。

日本の歴史を紐解くと、皇紀二千六百年とも言われる歴史の大半は、「格差階層社会(小説・皇統と鵺の影人を参照)」だった。

小泉、竹中の両氏が目論み、レールを敷いた改革路線は、この格差社会を固定化させる「格差階層社会」が目的だった。

そうとは知らない国民は、小泉自民党を、見てくれだけで郵政国会の衆院選挙に大勝させ、安倍自民党は、国会で強行採決を連発して暴走する可能性を赦した。

政府の言う大企業優先の国際競争力とワーキングプア(働く貧困層)は対極に有りながらワンセットなのである。

つまり、現在の政権政党・自民党の政策は、過去の「富国強兵政策」を「国際競争力政策」に置き換えただ。

民主国家・日本国の民衆は、明治維新以後のおよそ八十年間弱、民衆が騙された手法に、再び「騙され様」としてはいまいか?

騙(だま)されてはいけない。
学者大臣が信奉した米国型の経済構造は、確かに勝ち抜けた者には相応の得るものがあるが、幾ら米国経済が好調でも、格差は拡大するばかりの格差構造社会である。

政府は、実際にそうした手本があるのにも関わらず、「大企業が良く成れば、やがて中小零細までその景気が廻ってくる」と国民を騙(だま)し続けている。

今一度念を押すが、学者大臣の竹中平蔵氏が標榜した経済は、路上生活者が氾濫するアメリカ型の実力経済で、敗者切り捨て経済である。

その事が日本の若者をネットカフェ難民にし、中高年の路上生活者を生み、自殺者、餓死者を生んだ。

小泉政権下での他国と比べた日本の自殺率は世界で十位、先進国ではブッチギリ・ダントツの一位である。

この確信犯的失政の事実を、未だに小泉パホーマンスに騙されて、現実を見ない人々が居るから安倍政権も口先で「国民を騙せる」と勘違いして居るではないだろうか?

政府は「努力をした者が報われる社会」などと奇麗事を言っているが、政府の強力な支援を受けた大企業経営者の、アン・フェアーな努力のみが報われる社会に、正統性など微塵も無い。

小泉純一郎・竹中平蔵両氏の目指した改革は、大企業優先の政策で国際競争力をつける一方、借金国家・日本国の建て直しを国民に上手に厳しい負担を負わさせる事である。

その結果、大量のワーキングプア(働く貧困層)が生まれ、若者の未来から夢を奪った。

小泉政権は大企業優先の米国型モデル経済推進の為に若者の未来(ニート急増の影に)をも切り捨てた。

米国型モデル経済は勝ち負けを鮮明にするから、僅かな勝ち組と多くの負け組みを生み出し、社会に格差が広がる。

所が、政治の主導権は「勝ち組」が握っているのだから始末が悪い。

自分達の未来に夢が持てなくなった多くの若者達が、あてども無く人生を彷徨っている。

近頃頻発する無差別殺人も、その根底に在るのはワーキングプア(働く貧困層)の増大と言う側面が否定できない現実である。

何時も思うのだが、「こう言う事象があります。」ではなく、誰がその原因を創ったのかを問わないと、無責任な政治家や官僚が横行して自分達だけは安全な所でほくそ笑む。

小泉内閣が女性大臣を起用して推進させた「男女共同参画」は、美名の影に隠された国家の存続に関わる「重大なまやかし」である。

(詳しくは、内閣府特命大臣の美名を参照願います。)

この結果、大企業はほくそ笑み、世の女性達は美名に上手い事騙されて安い俸給でこき使われているのである。


「富国強兵」の名の下に、財閥を育てた過去の日本がどう言う結果になったのかは、誰でも知っている。

結局の所、益々財閥に都合の良い政治が行なわれて軍事国家色が強くなり、破滅の道を選ぶ結果になった。

それが敗戦でご破算に成り、戦後の中小企業に活力があった時代は、日本経済全体が活況だった。

それを、近年の稚拙な金融政策で見捨てて来た。

自民党政府は、「教育の機会の均等」などと上手い事は言うが、現実的に考えれば旧制の国立大学に入学・卒業出来る者はほんのシエァから言っても一握りで当たり前である。

理屈で言っても世の中の若者全員が東大卒の秀才に成れる訳ではないのだから、若者の大半は最初から大企業になど就職出来ない。

多くの人々の受け皿(働き口)は中小零細企業で、採用の選別を前提とする大企業では無いのである。

それを、あたかも大企業が良くなれば在るかのように言う竹中平蔵氏の見識は、如何なるものであろうか?

国際競争力の確保は、地に足の付いた長期的な国力の維持発展の為にも、底辺の中小零細企業の重点育成を強化する道があった筈で、それなら未来の若者に等しくチャンスと夢の場所を与えられた筈である。
それが今では、老いも若きも安定した生活の場所さえない。

実は、「美味しいから」と、翌年の「種」まで食べ尽くしてしまったような形振り構わないやり方が、この五年間の金融機関優遇、大企業優遇の金融政策だった。

漁業に例えれば判り易いが、過度に採(取)り過ぎれば翌年は不漁に成る。

次の漁の為に、「種」を残すのが知性ある人間のする事である。

それをしないで、その場しのぎの政策をした総理大臣と学者大臣には、知性も人間性も無かった事に成る。

昔、日本には「匠(たくみ)を育てる風土」が在った。

その二千年に及ぶ歴史が培った匠(たくみ)を育てる風土を、米国型競争経済政策でぶっ壊したのは小泉・竹中政権である。

残念ながら、団塊世代の築きあげた中小零細の事業基盤は、金融機関と大企業に食い尽くされ、今更取り返しが付かないまま老後を迎え、国家の負担世代に成りつつある。

歴史的に見ても、日本の伝統的な美術工芸の技が、近代化の中で切り捨てられて来た。

その中には、後で考えれば非常に惜しい技術も生産力も沢山ある。

小泉・竹中では、特にその愚策は繰り返され、戦後の中小企業の勃興で巧みの技を磨いた熟練技術者も、中小企業の衰退と伴に伝承される事無く滅びて行った。

これらは竹中平蔵氏の言う、単純な競争社会の経済論理だけで、手をこまねいて消滅させて良かったのだろうか?

民間のそうした重大な懸念に対し、何の手も打たない事に「自己責任」と言う逃げ口上を使うが、官僚の天下り問題になると、途端に人道的かつ「公的責任」を論ずる事に、政治家も官僚も恥ずかし気が無い。

定年の世代になって「再チャレンジ」と言われても、金融環境を含め、強大化しつつある資本に対抗する術は無い。

極端な事をすれば必ず咎めは出るもので、中小零細企業が生きていれば、団塊世代や若者達の受け皿(働き口)は残っていて、まだまだ国家の負担世代には成らない現役が多数居たはずである。

【少子高齢化問題の具体策】へ飛ぶ。

従って、教育問題を教育方針だけに分けてあれこれ言うのは筋違いである。

頑張れば中小零細企業の親方や社長に成れた時代の若者と比べ、チャンスと夢の場を失い、長い事経営に苦しむ親達を見せられて、教育方針を是正しただけで、未来が見えない若者が「まっとうに育つ」などと言うのは、政権政党のいい加減な誤魔化しである。



ただしこの批判にも反省が必要である。

封建時代ならともかく、現在わが国の憲法が「民主国家」として居る以上、政治をお上に任せきりで、「難しい事は嫌い」と勉強をしないのは、国民の怠慢であり、権力者の思う壺である。

断って置くが、ヒトラーの国家社会主義労働党(ナチス)も小泉自民党も、国民が投票する選挙で大勝利した。

つまり、劇場型の指導者の卓越した演技力で大衆を魅了した事が、その後の結果を招いたのである。

ヒトラーの台頭した環境と現在の日本の類似点飛ぶ。


常に権力者の論理に欠けるのは、その目的に於いて正義が抹殺されている事かも知れない。

なにしろ、憲法で「健康で文化的な生活を営む権利を有する国民」であるはずのわが国で、「医療費の個人負担は」はどんどん上昇し、「公共放送と言う名の国営放送(予算審議は国会、放送命令も出せる)」の受信料は「徴収の義務化(強制化)」を検討している政府である。

その言い分が「公平な負担」と言うなら、税制に於ける「空前の利益を上げている企業」に対する「偏った優遇措置」は何なのだ。

正に、弱い所からばかり搾り取る「悪代官統治」で、憲法違反ではないのか?


生身の人間が持つ社会性、実は、「失うも」の在る無しが、残念ながら根本基準である。

反社会的行為が、生活基盤や愛する者の信頼等を失うのが怖いからこそ、個人の意識の中に社会性は担保されている。

逆説的に言うと、失望の内に「失うものが何も無い」と結論が至った人間ほど、危険な存在は無い。

つまり、夢を持てない人々が増加する社会は、社会性が担保されず、「社会不安が増大する事」と言う事である。

これを、奇麗事の建前論「性善説」で誤魔化して済まそうとするから、それが全てではないにしても、「信じられない凶悪事件が、多数起きている」のである。

将来に夢の無い「格差社会の固定化」は、虐(いじ)め自殺や肉親殺人、その他の社会不安を増長して行く。

格差の大きい国ほど、身代金目的の誘拐が多発する。

自分達だけ上手い事やれば「他人の事など構わない」と言う姿勢だと、やがて自分や肉親にその「傲慢の付けが廻ってくる」と言う荒廃した社会が訪れる。

その危惧を「根本から是正しよう」とせず、問題を「品格や愛国の教育に逸らそう」と言う姑息な発想が見え見えである。

つまり、「格差社会の固定化」と言う荒廃した社会体制を造った責任を、政府と官僚は露ほども考えず、国民を「言葉で騙す事に血道を上げている」としか思えないのである。

セーフティネットは必要で、政府は「これから充分検討する」そうだが、少なくとも五年は遅い。

本来、政策を決定する時点で、「起こり得るマイナス」は予測がつくはずだから、セーフティネットは予め検討し、施行して置くのが責任ある政府の役割ではなかったのか?

つまり政府は、片手落ちの政策を強引に続けていたのである。

「悪魔のボール」を投げ続けた小泉内閣の五年間を、国民は気づくべきだった。

果たして安倍新内閣は、「愛のボール」を国民に投げる事ができるのだろうか?


「国益」と言う表現の耳障りの良さが曲者である。

この言葉、国民には麻薬のような言葉であるが、その取り扱いには充分な考察が必要である。

過去にも、「国益」の名の下に国民を操る歴史が存在する。

戦前の日本をリードしたのは、正に「国益」の美名だった。

この「国益」の実態が、実は財閥と軍部の癒着による飽くなき欲望の産物であり、国民は踊らされた挙句、果てしない忍耐と服従を強いられただけである。

ここで問題なのは、政権政党の政治家が「過去を知らない訳が無い」と言う事である。

「歴史は繰り返される」と言うが、戦後も六十年経つと、当時の苦い経験をした者から新しいリーダーに替わり、過去は忘れ去られる。

それが彼らのチャンスである。

もう長い事言い続けているが、現在の「格差社会」の創造は、戦前の「富国主義」の発想であり、「大企業優遇の国策をもって国家を運営しよう」と言うのが本音である。

そこには、民主思想などないから、国民には負担を強いるだけである。

つまり、財閥と軍部の癒着が、財界と政官界の癒着に入れ替わっただけであるからだ。

彼らが国民を騙す常套手段が、実は「言葉」であり、実態とかけ離れていても、その言葉に乗せられるのが善良な市民である。

言葉の「意味を読み取る」のか、その言葉を使った「意図を読み取るか」の違いを学ばないと、「国益」などと言う美名に酔い、感情を物差しに思考を始めてしまう。

朝鮮併合も、満州国の建国も東南アジアの出兵も「国益」と謳われて国家の隆盛と捉え、国民が高揚して政策を支持し、挙句の果てに行き着いたのが、こっ酷い敗戦の憂き目だった。


「言葉の使い方」と言えば、「独自文化」なる言葉は、他国との軋轢には必ず顔を出し、国民感情に訴える手段になる。

日本の「独自文化」と言えば聞えが良いが、深く解釈すると、他国には「理解され難い文化」と言う事になる。

この国は、どうした事だろう?最近、国際間の意見や意志の対立を、「独自文化だから相手に理解させれば良い」と主張する政治家が居る。

靖国神社の「戦犯合祀問題」の事だが、あれは独自文化の乱用である。

独自文化や、独自思想の形成過程を知っての意見なのだろうか?

まさか、「罪を憎んで人を憎まず」や「罪人も死ねば神仏だから」と言う被害者の感情を無視した「世界的に見ても稀な奇麗事」を、加害者側が感情的に押し付けて主張する無気味さが、「日本の独自文化だ」と言うのか?

一方で輸出大国として世界中から財を稼ぎながら、矛盾する事に日本人は国際感覚の欠如を指摘されている。

どこへ出かけていても、本国の経営者が日本式発想を相手の国に押し付けようとするからである。

人間は理屈より感情が先に立つ、それに占術や宗教が入り込むと、往々にしてヒステリックに自分の主張を変えない事になる。

先人は自分の生きた道(生き方・信じるもの)を否定されたくないから、変化を好まない。実はその積み重ねが、「独自文化」だったり、「宗教観」だったりする。

伝統には良いものもあるが、気を付けないと逃げ道になったり思想の押し付けになったりする。

本来、思想や宗教は「学問的対応で論ずるべきもの」であり、感情的に論ずべきものでは無い。

所が人間は愚かな事に、「自らを否定される」と感じるから、感情的にしか処理が出来なくなり、最終的に武力まで行ってしまう。

幸せをもたらす為の信仰が、紛争の種になるのは矛盾である。

つまり相違するものを「全て相手が間違いで、相手が悪い」とする所に信仰の危うさがある。

伝統の裏返しは、実は新しい発想を放棄する事である。

即ち、単なる思い込み(既成概念)を基準に、「正しい」と判断している事も多い。

冷静に考えれば、あの思想文化は被害者側が「寛容の心で加害者の家族を救う場合」のもので、加害者が威張って被害者に主張するべきものでは無い。

「日本の常識は世界の非常識」と極論を言って問題意識の喚起を図った作家が居たが、刷り込まれた意識ほど厄介なものは無い。

世界に通用しない「日本の独自文化」がもう一つある。

日本人が世界の人々から評される事に、「何を考えているのか判らない」と言う見解がある。

それは、表情である。

いつの頃から誤解しているのか知らないが、我が国の人々は、表情を表に出さない事が「格好が良い」または「行儀が良い」或いは「有利である」と思い込んでいる。

所が、これを他国の人間が見れば、酷く不気味なのである。

本来、他の動物と違って、表情が豊かなのが人間である。

理由は簡単で、相手との意志の疎通を図る為に表情が豊かに発達した。

つまり、人と人とのコミニュケーションは言葉だけでは足りないのである。

考えて見れば直ぐに判るが、同じ「ばか!」と告げても、言っている人物の顔が笑っているか怒っているかで、意味が正反対に受け取られる。

つまり、喜怒哀楽を表情に出す事で、言葉の意味を相手に「より正確に伝え易く成る」のである。

裏を返せば、無表情では意志が相手に伝わらない。それを「腹の内を見せないのが高等技術」などと思っている。

相手に意志が通じないでは、共感など得られるはずはない。つまり、人間らしさが無ければ、他人の共感を得るのは難しいのである。

そしてこの「共感を得られない現象」、実は、馬鹿馬鹿しくも現代の日本国内で大きな弊害に成っている。

およそリーダーたる者、部下や国民の共感を得ずして、指導力は発揮できない。

リーダーなれば、他人の為に泣き哀しみ、他人の為に笑い、他人の為に働かねば成らない。

それが無いから、「全てが嘘に見える」のである。

つまり、元々そうした真摯な心情を持ち合わせない人間が、策略だけで政治や企業を動かして居るからではないのだろうか?

「罪を認めたくない」と言う心理や、「企業や組織を守りたい」と言う思いがあるのだろうが、死人まで出した「おわびの記者会見」で、あの当事者達の無表情は何なのだ?

亡くなった人やその家族、そして守るべき企業や組織の関係者の為に、「申し訳なかった」と後悔の念で心底泣ける人間らしい記者会見が、何故出来ないのか?

中身があるのであれば、喜怒哀楽を表情に出しても「見苦しい」と非難する前に共感が起こる。それならば、いささか格好は悪いが見る者にも共感が生まれ、世論が「企業や組織の息の根まで止めろ」とは成らないのではないだろうか?

心情を露(あらわ)にしないのが「礼儀正しい」などと言うのは、昔の統治者が民に施した不当な戒めである。

それが何時の間にか、「我が国の常識」になった。

政治のリーダーが、真に国民の共感を得る積りがあるのなら、心情を素直に伝えるべきである。

国民の為に泣き、国民の為に笑う姿勢を体現すべきで、無表情の演説は、「奥ゆかしい」のではなく、「嘘っぽい」だけである。

これからのリーダーは、政治に真摯な「喜怒哀楽」を持ち込んで、政策を訴えるべきである。
,br> この辺りに気が付いた者が、新たなリーダーとして国民の支持も得られるはずである。


本来の、日本が誇るべき独自文化は、食文化も思想文化も生活文化も注目され、確りと評価尊重され、他国でも学習したり取り入れたりされていて、別に問題ではない。

尊敬されうる部分は、黙っていても相手が評価し真似さえしてくれる。
,br> ここで意図的に主張される「独自文化」は、あえて他国との軋轢の場で採用される感情論であるが、国際間の場で感情論を持ち出すのは、相手国を含めて、双方ともに慎むべきである。

それをあえて政治家が言い出す所に、国民への意図的メッセージ、又は国際感覚の欠如が感じられる。

日本の歴史を見てみると、日本人が如何に「建前」にばかりに拘(こだわ)って居るかが判る。
,br> 余りにも一民族丸々の人間が、その「建前」を普通の事のように受け入れて、不思議に思わない所が問題なのである。

つまり、「建前」でものを言いながら、本音で違う行動をするから、そこが外国人に理解されない点である。

日本は神代の昔から、武力ではなく「大王(おおきみ・天皇)の威光(信仰的な精神世界)で国を治める」と言う、理想主義的な信仰を利用したところから国の形態が成立した経緯があり、「建前」に重きを置く民族である。

詳しくは【建前民族国家・日本】参照・・・・さらに詳しくは皇統と鵺の影人に飛ぶ。


何か事が起こると、けして本質に踏み込まず、建前の奇麗事を並べてやり過すのが日本流である。
それは「建前」で物を言うから、内容は立派である。

だが、その「建前自体」を他国は理解し難い。ちなみに、この「建前」と言う言葉(単語)は、歴史的に大きな影響を受けた筈のお隣りの国、韓国(朝鮮半島)でさえ存在しない日本独自の言葉(単語)である。

例えば米国の銃社会を批判するに、その前提は「建前の精神世界」である。

乱射事件が起きると、銃の規制より護身用所持に走る米国民を、「何故銃規制をしないのか?」と、安易に「建前」で批判する。

しかし、これは諸外国と比較すると、ある面日本人の独り善がり的なところである。

勿論「建前」だから日本人の言い分の内容は立派だが、国際社会では、もっとリアル(現実)な考えかを持つ民族の方が遥かに多いのである。

何故なら、「建前の精神世界」である美しい筈の日本でも、毎日のように無差別通り魔殺人は起き、暴力団は容易に拳銃を所持している。

そこまで行かなくても、大企業の営利主義による「トラブル隠し」は、たとえ「間接殺人になろうか」と言う危険なものでも、平気で隠そうとする。

国民の「範」足るべき代議士から高級官僚、警察官から教師まで、犯罪またはルール違反をする度に、「イレギラー(特殊)だ」と「建前の精神世界」に逃げ込んで、物事の本質を見ようとしない。

そうしたイレギラー(特殊)の当事者は何も特殊な人間では無い。むしろ何処にでも居る普通の人間である。

つまり、何処にでも興る危険である。それを、「滅多に無い事」と無視して逃げようとするのに、「建前」が便利に機能するのである。

物事の本質を見ようとしない事は問題を先送りにして逃げるだけで、結果的には悪化が進むだけである。

日本人は、何か事あるごとに、それは「有るべきでない事」だから、自分達は立派な民族で、そんな悪い奴は「日本人としてイレギラー(特殊)である」と言い続け、その「建前の精神世界」を持たない国は「おかしな国だ」と主張し続けている。

所が、外国が外から見ると、その日本や日本人の現状に「建前」と乖離(かいり・かけ離れている)している行動の事実が日常的にあるから、公式発言はとても信じられないのである。

そして、その文化を「独自文化だから理解しろ」と言うのは、日本人の傲慢(ごうまん)である。

日本人は「本音と建前を使い分ける」と言われているが、実はこの「建前」、日本人のズルイ所で体(てい)の良い「偽り」である。

他国の人間にすれば、建前が本音で無い以上はどう取り繕っても「偽り」以外の何ものでもない。

所が日本人は、「建前」を綺麗に言いさえすればそれで世間を渡り通って来たから、何でも「建前」で済まそうとして核心をはぐらかせてしまう。

ちなみに、この「建前」と言う言葉(単語)は、文化の中継地として我が国(日本列島)の歴史に大きな影響をもたらした筈のお隣りの国、「韓国(朝鮮半島)」でさえ存在しない日本独自の言葉(単語)である。

この「建前」こそが、現代の日本の官僚裏支配(選挙による代議士政治の偽り)にも通ずる「日本」と言う国で起こった「武士道」の偽りであり、永きに渡った氏族支配社会における民(良民・賤民/せんみん、奴婢/ぬひ)の知恵で、勿論本音は別だった。

こんな物(建前)は、イエス・ノーのはっきりした他国の原語で言えば、態(てい)の良い「騙し(偽り)」と言う事に成る。

他国のコミニケーションはもっとストレートにリアルなものであり、「建前」と言う言葉を持つ国我が国は、世界でも珍しい「逃げ道を持つ国」と心得るべきである。


ドップリ浸かってしまうと、日本が「建前の国」と言う事に気が付かず「それが当たり前」と思い込んでしまっている。
,br> まぁ、何処の民族、何処の国家も独善的ではあるから、互いにそれを言い立てても永久に話はかみ合わない。

もし日本と言う我が国が、大人の民族・大人の国家なら、まずは己(おのれ)から改めるべきではないだろうか?

それとも今まで通り「正しい事を言っていて何が悪い」と、妖しげな建前を振りかざし続ける民族・国家なのだろうか?


この国は「建前」に重きを置く国で、日本の過去は、「建前」の上では美しくなければならない。

そう言う「建前」発想の元で、歴史を残そうとする。

それが現代でも、国民を導く正しい「政治手法だ」と、頑(かたく)なに信じている指導者や学者の多い国でもある。

これは、戦時中の大本営発表である「いたずらに不安を与えたくない」と言う誠意のすり替え論理と、差して変わらない。

至近の例としては、多数の現地県民の証言があるにも関わらず、集団自決に「軍に強制は無かった」として、戦後永く教科書に記載されていた「沖縄戦での集団自決に軍の強制があった」とする文言が「削除」された。

そこまで行かなくても、都合の悪い事は先送りにするか、「無かった事」として存在を認めない。

無責任な事に、無い事には論議は起きないし、その事を解決する労力も要らない。

所が、それで済む訳も無く、「無かった事」としてして居る間は、無い事だから追求も対処も出来ないし対処方法も論議されないから、ほとんどの場合は「手遅れ状態」で表面化する。

言わば、誰かさんが言っている「美しい国」は、厚化粧と補正下着、整形手術と履歴詐称の塊ではないだろうか?



言葉は本来、物事を正確に伝える為のものである。

ご存知のように、前内閣(小泉内閣)は言葉のテクニックを駆使して、国民を欺いてきた。

例えばであるが、近年施行の「障害者自立支援法・介護者支援法」などの「支援法」と言う語句であるが、語句としての体裁は良いが、実質では障害者や要介護者に対し「支援後退法」と呼ぶべき内容である。

これは「事実と実質」の違いで、確かに事実の名称は「支援法」であるが、実質は「支援後退法」で間違いは無い。

これを、言葉の「意味を読み取る」のか、その言葉を使った「意図を読み取るか」の思考スタンスの違いで、庶民の方も想像力がないと上手く騙されてしまう。

その最高傑作が「抵抗勢力」であった。

「美しい国・日本」の、国会における強行採決を容認したのは、先の衆議院選挙で「抵抗勢力」の言葉に乗せられて政権与党を大勝させた国民の責任である。

結果、政権与党の暴走が始まり、議席不足で野党の歯止めが利かない。

単に言葉のテクニックとして聞こえが良いだけでも、中身を見ない国民は騙せるらしい。

まさか「美しい国・日本」も、この類の騙しではないだろうな?

実は戦後の一貫した教育が単語としての知識主義で、言葉の奥にある感性や、文章の行間に滲む真意など到底汲み取れない偏差値教育に血道を上げて来た為に、言葉を言葉としてしか理解できず、難しい話や文章など理解出来ないから判り易い小泉氏の「単語選挙」に若者の支持が集まり、自民党が大勝してしまった。

もう少しこの文章の後半で詳しく記すが、これは【左脳域】だけの選挙だった。


その政権や政党の中枢に居続けた安倍氏が、新内閣を成立させ「前内閣の方針を踏襲する」と言った。

前内閣時代から党の広報を担当していた優秀な議員が、今度は内閣の首相補佐官に就任している。

その広報能力に長けた首相補佐官が、先日のテレビ討論で「聞き捨て成らない事」を言った。

団塊の世代を飛び越えて安倍氏が、新内閣を成立させた話題に関して、「バブル経済を引き起こしたのは、団塊世代の責任である。」と言い放っている。

チョット待って欲しい。
彼は時間軸を検証してこれを言っているのか?


バブル崩壊は、昭和六十一年(1985年)の「プラザ合意が遠因」と言われている。

最終的に平成二年(1990年)三月、大蔵省銀行局長 土田正顕(まさあき)氏から通達された「土地関連融資の抑制について」による人為的な急ブレーキ(いわゆる総量規制)で、「バブル崩壊」は現実的なものになった。

「バブル経済を引き起こしたのは、団塊世代の責任である。」と首相補佐官は断定的に言い放っている。

すると、バブル崩壊の時点で団塊の世代は何歳だったのか?

崩壊の時点では平均年齢で四十三歳、バブル経済開始の時点では、彼らはまだ三十歳代だった。

広報能力に長けた首相補佐官は、まだ三十歳代だった団塊世代が、「日本経済を牛耳っていた」と言うのか?

現実にバブル経済を主導したのは、当時力を保持していた戦前・戦中派に間違いないのである。

この作為的な発言、同席した与野党のコメンテーターは「可笑しい」とは思わなかったらしく、誰も突っ込まなかった。

頭が悪いのか、政権に迎合しているのかは知らないが、あきれた話である。

そんな、時間軸を無視した発言を赦す与野党のコメンテーターを集めるテレビ局もテレビ局である。

実はこの広報能力に長けた首相補佐官の発言、安倍内閣の思惑が潜んでいる。

迫り来る「団塊世代の定年期」に際し、日本経済の「恩恵の不均衡(格差社会化の加速)」に対する責任論の世論を「団塊世代の責任」にすり替え誘導する事で、今後の処遇も「自業自得」と責任逃れをしたいのは見え見えである。

確かに、団塊世代は「集団就職」に代表される中小零細を支え、ひいては戦後の日本経済を支えてきた。しかし、ほんの僅かな例外を除き、強力な経済力を保持して日本経済を牛耳り、「バブル経済を主導した」とは思えない。

ちなみにこの広報能力に長けた首相補佐官は、ここ数年間「今問題に成っている年金」の自民党側の責任者(部会長・委員長など)だった。

この自民党の年金責任者の男は確かセコーィ名前の男で、当時TV番組で「年金は百年経っても大丈夫」と、連呼していた元国営電話会社の社員だった口先だけの男である。

あの時の大威張り「百年経っても大丈夫」を、その後そ知らぬ顔をしている自民党の国会議員は、ずうずうしいとしか思えない。

つまり団塊世代は、散々働きながら謂われ無き罪をでっち上げられて切り捨てられようとしているのだ。

国家の運営テクニックを論ずる余り、国民弱者に対し思い遣る想像力が無い政治家は、残酷である。


「愛国心と郷土を愛する心を育て様よう」と言うが、愛国心は方向を間違えると、とんでもない結果を導き出す。

確かに「愛国心」と言えば、何と無く美しい表現かも知れないが、本来、国のリーダーが、「愛したくなるような国を造れば」国民には自然に愛国心は出来るもので、本末転倒がごときに、自らの国民に対する責務を差し置いて、「愛国心を先に育てる」とは如何なる計算なのか?

こんな、上から見下したような発想が安倍氏の本性である。

そしてこれは、紛れも無く戦前の発想に、「昔帰り」をしたようなものである。

この荒廃した平成の世に在って、近頃、妖しげな回帰主義者が台頭し、表面的な愛国心或いは家族愛の犠牲的精神美を謳っている。

純粋に生きる若者は美しい。

「表面的な格好良さ、美しさ」は、大衆受けするだろう。

しかし、それを殊更「美」と捉えるところにこそ本質を失う危険がある。

先の大戦時、異論を唱えた多くの知識人は、実質軍政を敷いた政府の酷い弾圧に晒され、「非国民」のレッテルを貼られて沈黙を余儀なくされた。

利己的な個人主義と知識に裏付けされた少数意見を混同し、国家の進むべき方向を違(たが)えた悪しき事例である。


学力だけが向上して、若者達の将来に対する絶望感が増したのは、現在の社会体制が夢の達成の機会を奪う方向に進んでいる事を、早くから知ってしまうからで、その学力向上に社会体制の整備が追い付いていないからである。

安倍総理は、社会体制の整備を後回しにして、「国を愛する心を養う」と言うが、まさか日本は「万世一系の神の国」などと教え始めるのではないだろうな?

そんな押し付け教育をしなくても、人間は本能的に帰属意識がある。

小生もそうであるが、日本人と生まれれば、日本は理屈抜きに好きである。

すると、「国を愛する心を養う」と言う言葉の裏には、「政府を愛する心を養うわせよう」と言う歪んだ思惑でも有るのか?

勿論、国家として統治する上で理念は必要であるから、これを「騙している」とばかりに、一方的な非難は言い難い。

しかしながら、統治するには相応の配慮が必要で、権力者側の論理に偏り過ぎると、不幸な民を大量に生み出す失政をする事に成る。


強制しなくても、人間には、本能的に帰属意識がある事を説明する。

日本の歴史の初期、神話時代の「国作りの秘密」は誓約(うけい)にある。

この誓約(うけい)、天照大神(あまてらすおおみかみ)と弟君である素佐之男命(すさのうのみこと)の間で取り交わされた事になっている。

本来、肉親である兄弟の間でわざわざ誓約(うけい)を行う必用などない。

ここで言う誓約(うけい)の概念であるが、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素佐之男命(すさのうのみこと)は、実は誓約(うけい)に拠って「初めて兄弟に成った」と解釈すべきである。

つまり日本民族は、日本列島に流入してきた異民族同士が、現地の先住民も巻き込んで合流し、国家を作った。

その基本的概念が誓約(うけい)に象徴される神話になっている。

この場合の誓約(うけい)の実質的な合意の儀式は何であろうか?

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し、定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

この環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成された。

直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事をおいて他に無い。

つまり、食料確保の為に縄張り争いによる殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが、誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。

この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、異論は無いはずである。


現在の国家意識、民族意識、つまり所属意識の原点は、「同じ血を共有する」と言うこの誓約(うけい)の概念である。

この最も原始的な「肉体の交合」と言う儀式を通して、彼らは共通意識を醸成し、安心と信頼を構築する事で、群れ同士を「仲間」と認める事が出来るのだ。

この帰属意識が民族意識であり、本能的な愛国心である。

勿論、この時代から個人と社会性のせげみ合いによる葛藤はあった。しかしながらこれは、個人と社会性の双方を持ち合わせて生きる人類の永遠のテーマである。

日本は伝統的に「物造り」を尊ぶ民族である。

それには明確な歴史的背景がある。

この国の指導者階級「氏族」は、征服部族として日本列島に渡り来た時、様々な最新技術を持ち込んだ。

そしてその最新技術は、それぞれの「氏族」の秘伝専有の無形財産だった。

従って、標準化量産工業の従事者として比較的地位が低かった他国の鉱工業技術者と違い、この国の鉱工業(製薬・機織り・鉱山開発・鍛冶製鉄・鋳造・造船・製薬)や稲作術などは全て指導者階級の「氏族」が専有した技術であり、永い事武士や宗教と兼業の誇り高いものだった。

物造りに「高精度・高級」の「誰々作」と言う特別な思い入れの感性と価値観を持つ日本人の、「高度技術立国のルーツ」がこの歴史的な経緯にある。

この日本人気質とでも言うべき資質が、欧米の「マニュアル型・標準化量産工業」とは異なる手造り「高精度・高級」の「誰々作」は、日本の誇るべき熟練技術力の源である。

日本が世界に誇るべき熟練技術力は、日本人の特別な思い入れの感性と価値観に裏打ちされて、町工場に到るまで浸透している。

しかし残念ながら、現在の大企業優先政策により中小零細を取り巻く経済環境の悪化で、この熟練技術力を継承させる土壌を失いつつあるのが現在の日本の現状である。

政府・政治家は、「日本の独自文化は他国にも理解してもらいたい」と奇麗事を言いながら、この国の財産とも言うべき熟練技術力の「物造り」に冷たく、欧米型の下層階級の労働者に拠る大量生産体制の発展ばかりに偏った金融政策をし、本来資金力に脆弱(ぜいじゃく)な熟練技術力を持つ中小零細を見捨てて来た。

特に小泉・竹中政治は、金融機関を立て直す為に無理やり金融機関の体質改善を命じて「貸し渋り貸し剥がし」を引き起こさせ、中小零細企業の息の根を止めてしまった。

この小泉・竹中政治の悪政、直接的には中小零細に関係ない為に「自分達に関わりない」と無関心の人達も多いが、経済は「金回り」であるから、実は消費の沈滞が間接的に被害をこうむる事に成り、それが現在ジワジワと効いて来ている。

益してや、「熟練技術力」と言う財産を背景に国の底力を発揮すべき将来の芽を多数潰して、「高度技術立国」の建て直しには時間が掛かる状況にある。

これは昔、中華人民共和国が「紅衛兵運動」で有識者を弾圧して、「国の発展が三十年遅れた」と言われるに等しい愚挙である。


およそ人間は勝手なもので、自分達が加えた危害は忘れても、受けた被害はいつまでも覚えている。

その記憶を言い立てている限り、歴史認識は平行線を辿る。

過去に抗争の歴史がある部族・民族同士が和解し、恩讐を乗り越えて平和裏に融合するにはこの「性交を伴う誓約策(うけいさく)」しか方法が無い。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。

過去の歴史の恩讐を乗り越えて成立したヨーロッパ大陸のEU共同体は、この「誓約(うけい)精神」の変形で、例えの表現として適切かどうかは判らないが、人間同士の性交ではなく、言うなれば国家単位の乱交状態を意識的に作り出した知恵である。

個の人格を持つ人間のように、国同士が個性を維持しながらも、寝てしまえば(この場合は国境通過の自由や通貨を統一)、意識は「気心の知れた仲間」と言う単位である。

そのEU共同体が、あなたには「人間同士の誓約(うけい)と、良く似ている」とは思えないだろうか?

私の愛した日本の性文化

時代が下がると、氏族の領地争いを他所に民人は主として農業従事者として定住する。

誓約(うけい)の精神は村落経営の要として採用され、長い事民社会の共存手段の知恵として利用され、「夜這い」を始めとする「地域絆社会」を構成させ行くのである。

これは対外国人には通用しない欠点になるが、元々誓約(うけい)に拠る「共生主義」が日本民族の歴史だったから、感情摩擦を生まない為に「イエス・オァ・ノーをハッキリしない国」に成ったのである。

この「共生主義」は日本独特の文化だから、中々他国には理解出来ない。

ハッキリしない事をズルイと指摘されればその通りだが、確かに「共生主義」を貫くのであれば、摩擦を避ける為に明確な「ノー」は面と向って言い難い。

しかしながら日本民族の二千年は、誓約(うけい)に始まる「共生主義社会」の信頼関係で、村落共同体の根幹を成していた。

つまり誓約(うけい)に拠る「共生主義」は日本の独自文化であるが、一方で国際化を目指すならそこに矛盾が生じるから明確な「ノー」は必要である。

ただ当時の村落同体に、誓約(うけい)の「共生主義」が成立したのには、村落内での性行事に「ノー」は禁句のルールが在ったからである。

これを現代の倫理観だけで単純に判断をしては成らない。

個人主義に徹した私権社会のこれだけ殺伐とした現状を見るにつけ、果たしてどちらの社会が良かったのか考えさせられるものである。

この誓約(うけい)の精神が、戦後は米国型自由思想(個人主義)と混合した建前文化に利没して、現在の「少子化」の一部要因と成っている。

考えるに、日本の文化を担うのが、「侘びさび恥の文化」と言うどちらかと言うと地味な美を愛でる感性(性格/精神)の文化である。

同じ仏教寺院でも、他国の寺院は基本的に金ぴかばかりであるから、世界的に見てもすばらしい精神世界を含む日本の建造物や技術工芸、舞台芸術などの精神文化の感性は、落着いていて美しい様式美のもので、けして悪いものではない。

しかし、それが影響し過ぎて歪(ゆが)んでしまったものもある。

この地味な性格の「侘びさび恥の文化」の感性が、本来在って当然の「性本能や性欲」を、建前、酷く陰湿なものに位置付けさせているのではないだろうか?

人間が生物である以上、性欲は「基本的本能」である。

それを限りなく陰湿なものにしてしまう所に、「侘びさび恥の文化」の感性の行き過ぎた影響を感じさせる。

当時の「群れ社会の平和的合流」と言う社会性を優先する誓約(うけい)の行為は、現代の個人思想からは理解出来ない事であろうが、唯一有効な方法として所属意識(社会性)を優先して発揮した。

いずれにしても、政治が介入しなくても、その受け継がれた血統の潜在意識の中に、だれにでも帰属意識や民族意識は存在する。

この精神的な名残が、後に「人柱や人身御供」と言う歪曲した所属意識(社会性)の犠牲的精神にまで行き過ぎてしまい、究極的には「特攻精神」にまで行ってしまったのである。

ここで一度考えて欲しいものがある。

それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈で、大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。

祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。

それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰る事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。

現代にあって「限界集落」と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。

限界集落問題

高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。

村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき夜這いの習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。

若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。

現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。

しかし勘違いしてはこまる。言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這い」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。

明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に代わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、民間に於いては明治維新までは根強く残っていたのは確かである。

実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を変えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為に「文明開化(欧米文化の導入)」を行う。

キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙、また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るもので、この事が村社会・地域社会の身内感覚を失わせた。

敗戦後に影響を受けた米国型の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで二千年来の歴史的な意識思想とする所に、大いに妖しさを感じるのである。

私の愛した日本の性文化


国家を運営する者は、なるべく利巧に越した事は無いが、「利巧」と言う表現には性質(タチ)があり、悪賢いのも利巧の一種で有る。

学歴や血筋だけでは人間としての資質は推し量れない。

しかしその辺りは、残念ながらやらしてみるしか試しようが無い。

けなしてばかりいると、安倍晋三フアンに叱られそうなので、提案もしておく。

小泉純一郎氏を評するなら、彼に在ったのは国民の信望ではなく、人気である。つまり、劇場型政治で国民の人気を取り付けたに過ぎない。

小泉純一郎氏の政策は、国民から富を収奪して一部の資本家に集中して回した戦前の財閥政治そのものである。

もし、安倍晋三氏が総理として国民の信望を集める為に「批判を恐れず行動する」のなら、間違いは正すべきで、まず小泉氏の国民不在だった政策を断罪するべきである。

そして、「資本主義自由党」とは決別し、民主国家を標榜すべきなのだ。

なぜなら、彼には、それを成す期待のDNA(父方の祖父の血)が存在するからである。

安倍家は、山口県大津郡日置村(現長門市)で代々大地主であり、醤油醸造業を営んでいた名家である。

当然ながら、祖先は日本史のそこかしこに登場する言わば安倍御門(あべみかど)一族の子孫で、長い事その氏素性だけでもリーダーとしての地位を得る大看板の一族だったのが、名家の所以(ゆえん)である。

だからと言って、それだけで尊敬したり批判する気は無い。

要はその血筋よりも人柄で、安倍晋三氏の父方の祖父になる安倍 寛(あべ かん)氏(母方は岸伸介氏)は、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人物として知られ、大変に人気が高かった。

安倍 寛(あべ かん)氏は、「大津聖人、今松陰、昭和の吉田松陰、今高杉(高杉晋作)と呼ばれて、地元や政界から尊敬されいた」と言う。

寛氏はいわゆる“ハト派”であり、第二次世界大戦中(千九百四十二年)の翼賛選挙に際しても、自身の政治信条から翼賛会の非推薦で出馬し、当選した清廉反骨の政治家である。

安倍晋三氏に祖父の安倍 寛(あべ かん)氏のDNAが少しでも残っているなら、選挙対策の為に郵政民営化造反組を復帰させるなどのパワーゲームに執着した愚を犯さず、小泉純一郎氏の国民不在政策を改め、堂々と国民の信を問うべきである。

郵政造反組みの国会議員も、まともな政治信条を持っているなら、自民党が誤りを認めるまで、復党をすべきではない。

それを「ナアナア」で復党するなら、矢張り「自分の事しか考えていない」代議士である事が明白で、選良として実に見苦しいのである。

なぜなら、彼ら(彼女ら)は、当選時点では郵政改革反対派の支援で当選したはずである。その支援者を平気で裏切れるとしたら、信義も何も無い、人間足り得ない人物なのである。

現代の権力志向の人間は「愚かな生き物」であるから、政・官・財のいずれに関わらず地位に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。

当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。

しかし世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。

現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。

上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に、一生綱渡りの心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。

そう覚めた目で見ると、彼らの本質が見えて来るものである。


安倍晋三氏は、故、安倍 晋太郎(あべ しんたろう)代議士の次男で、父の「晋太郎」の「晋」は、明治維新の志士であった高杉晋作の一字を取って、祖父安倍寛(あべかん)に命名されたのを、孫の晋三も貰った。

安倍 晋太郎・長男は寛信で、祖父の安倍寛(あべかん)と外祖父の岸伸介から一字ずつ、三男の信夫は岸家に養子にいったので、岸信夫を名乗る為、晋太郎の「晋」を受け継いだのは、次男の安倍晋三唯一人である。


近頃のこの国は、上辺だけの調子の良い精神論の意見が持て囃(はや)される様で残念で成らない。

「国家の品格」に武士道を持ち出すのは大間違いで、まるで歴史的事実を知らないしょうもない精神論者である。

長い歴史の中で、血統(産まれ)だけを根拠に「搾取を生業(なりわい)」としていた武士道に「品格」などある訳が無い。

そうした事実を建前に隠して格好が良い事を言うから、日本人は逆上(のぼ)せ上がる。

日本は「武士道の国」と言う建前の思いが国民の間に定着しているが、それは思い違いである。

氏族社会の成立から安土桃山期に到るまでの氏族社会は、領地獲得と下克上が当たり前で、場合いによっては親子兄弟、親戚とも争っていたから、鎌倉期くらいから広まりだした儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」は永い事「一部の氏族の精神思想」だった。

日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。

当然ながら、武士道は国民の数ーパーセント(三パーセントに満たない)を占めるだけの特権階級、武士(サムライ)の精神的な思想だった。

その滑稽(こっけい)な忠勤思想は、自虐的であり、滅びの美学を含んでいたから、見た目感動を呼ぶのだろうが、現実にはそんな思想を、建前でなく本音で守った武士(サムライ)は、もっと少ないウエイトだった筈である。

小生に言わせれば、「武士(サムライ)」と言う名の世襲特権階級の、実に滑稽(こっけい)な主君に対する忠勤思想が武士道である。

言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期には幕府の政策(新井白石等が主導)で儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

本来日本人が世界に誇るべきは、おのれを殺し人を殺める武士道の国なんかではけしてない。

世界に誇るべきは、しなやかだった日本人の「共生主義」の行き方である。

歴史的に見ると、江戸期の一般の大衆はむしろ平和主義者で、武士道などは他人事だった。

つまり、大概の国民にはフィクションに近いのが、建前論の「武士道の国日本」である。

それを、明治政府は「国民皆兵政策(徴兵制)」の為に利用して、「日本は武士道の国だ。」と言い出した。

この「武士道精神」を「国家の皆兵化」の為に明治維新政府が採用して、行き着いた結果が「第二次世界大戦の敗戦」だった事は忘れたのか?

つまり滑稽な事に、情緒的な綺麗事論者に拠って国の九十パーセントに当たる庶民(平民・非人)の「共生主義」を無視して、事と次第に拠っては親兄弟の間でさえ命のやり取りに拠る領有権や覇権を争そった、僅か十パーセントに満たない氏族(貴族・武士・僧侶など征服部族)の内の、更に五パーセントに満たない武士の精神=「武士道」が、我が国の「固有の文化だ」と言う奇妙な主張をするのである。

国民は「格好の良い事」に騙され易いが、つまりは、国家体制の為に利用した精神で、今日またぞろ「武士道の国」が言い出される環境は、実は危険性を孕んでいる。

武士道も、様式美的には確かに魅力的かも知れない。しかし、耳障りの良い言葉やムードに酔わないで、真実を考察して欲しいものである。

道徳思想自体を反対する訳ではない。「忠孝思想」には良いものが沢山あるから、それは採るべきであるが、悪用される危険が潜んでいる事を自覚しなければならない。

「忠孝思想」に危惧感を抱くのは「忠」の部分である。

明治政府は、この「忠」を道徳の柱として「国民皆兵政策と国家への忠誠心」に利用した。

「忠」の部分を拡大解釈して、上位の命は理不尽な事でも受け入れる江戸期の「武士道精神」を、明治政府は「国家思想」とした。

この「黙って上の者の言う事を聞け」の「忠」は、権力者には反対反抗を封じる手段として都合の良い、危険なものである。

しかし、その「忠孝思想」が暴走して、国民は酷く理不尽な戦争を「忠」の名の下に戦わされたのである。

そうした過去の検証を、確り整理作業して消化して行くべき部分が無く、只「道徳教育に取り上げ様」と言う所に、現政府の何か妖しい意図を感じる。

未だに「忠孝思想」の美学幻想で、「黙って上の者の言う事を聞け」の官僚・役人や政治家、会社の上司が存在するが、本来物事は是々非々で進める事が民主主義の基本である。

【国家の品格・武士道の国日本のまやかし】ここをクリック



日本の文化は「恥の文化」と言うが、実はこの「恥の文化」の中身が問題なのである。

本来、自分に恥じる行いをしない事が「恥の文化」の筈であるが、もう一つの「建前文化」に拠ってそれが妖しくなり、自らの心に問うよりも外聞に拘る事に重きが行き、「恥に蓋をする文化」になってしまっている。

「誇りを守りたい」と言う心境が働いての事だが、矛盾する事に「誇りを守りたい」が為に「無かった事」にする愚を犯し、誇りを傷つけている。

つまり日本文化は、余りにも恥を隠す事に心血を注ぐ文化に変遷してしまい。「隠しおおせれば良い」と言う不道徳な「恥の文化?」が蔓延して、職業や地位に関わり無く悪事を働く「本音」が社会に露出して来るのである。

日本は「儒教の影響を受けた国だ」とひと括(くく)りにして、あたかも儒教道徳が日本人全般の生活意識をリードしていたかの様に言う学者がいるが、とんでもない浅知恵である。

歴史を動かしていたのが氏族(貴族及び武士)だったので、氏族中心に考え易いが、それは歴史の派手な方の一部に過ぎない。

儒教の影響を受けたのは、氏族社会(貴族及び武士社会)であって、文盲時代が長かった庶民階級に儒教が浸透していた訳ではない。

庶民における伝統的日本社会は、「性」に対し実におおらかで、開放的だったのである。

その庶民文化が、明治維新後の新政府の欧米化政策により都合が悪くなる。

対等に付き合いたい欧米の物差しで計られて「野蛮・卑猥」と評されかねないからである。

そこで、外聞に拘る「恥に蓋をする文化」が増長され、改ざんと隠匿が恒常的に為される社会が膨らんで、本来人の範たるべき政治家や官僚、検察・警察、学者・教師、宗教家に到るまで、「恥の文化」はなく「恥に蓋をする文化」が横行し、日本中がその妖しさの中に生きている。

都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、たとえ実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。



維新の英雄達は、いかに評価したら良いのだろうか?

確かに欧米列強の植民地拡大主義から、維新がギリギリ間に合って国を守った。しかし或る一面では、ただの権力者交代の側面も見え隠れする。


明治維新は「革命」だったから、新しい理念が必要だった。

彼らの最大の罪は、天皇の神格化と、靖国神社の創設で有る。

この行為は、「二千年前の征服部族の発想」とたいした変わりはない。
つまり、文明開化も近代化も対外的なもので、「本質的国家運営の手法」は、何も変わらなかった事に成る。

個人的に、いかなる信心をするのも勝手だが、或る意図をもって、それを強制する所に危(あやうさ)がある。
祭り上げられた天皇も被害者であろう。

あんな不自由な立場を本人が願うとは思えない。

しかし身近に、未だ「神のごとく」を要求する取り巻きがいるらしく、民間から入内した現皇后、現皇太子妃が二代に渡り体調を崩している。

皇室の常識を強要する愚を犯し、人間性を否定していると推察する。

明治維新当時、新政府の形態を整える為に天皇の神格化を推し進め、その事が「特攻精神」にまで到らせる愚を冒したのである。

「国を愛する心を養う」と言う建前には反対するものではないが、やり方を間違えると、取り返しのつかない事になる。

歴史認識に関しては、何処の国も正しい歴史を学ばせる気は無いだろう。

わが国に限らず、必ず「政治的配慮」が紛れ込むのが通例である。

正確に表記すると都合の悪い事があるので、年号とタイトルくらいしか学ばせない。

また、記録の無いもの、あやふやなものには、民意高揚を目的として美化する傾向がある。そこまでしなくても、都合の悪い事は、意図的に外し、良い部分だけを取り出して表記する。

本来歴史に学ぶべきなのは、現在や未来に対する経験的指標である。それ故、意図的に不正確にしては指標に成らない。

信長の、いつでも戦える常設軍の整備や秀吉の水攻め戦法など、戦術面だけを考えるとユニークな発想で「なるほど」と思わされ、評価され得るものである。

人間は、基本的に目先の短絡的感動を欲する思考回路が優先的に働くプログラムに成っているから、彼らの活躍には一定の満足感を得られる事であろう。

しかし、膨らんだ英雄視の思いに水を挿す様で悪いが、これらの戦法は「勝つ為に手段は選ばない」と言う庶民にとっては禁じ手で、知恵としては余り品挌のある方法ではない。

つまり彼らは、他の武将達が持ち合わせていた神の領域(五穀豊穣)を「ぶっ壊した」のである。

庶民は、目先の短絡的感動で満足し、事を「可」と済ませては成らない。

視点を変え、覚めた目で英雄達の手法を検証し見る必要があるのだ。

物事は常に天秤の上で作用するものであるから、良い事が有れば必ず悪い事も付いてくる。

常設軍の整備は、武力行使には有利だが「作付け」と言う食糧生産の機会を潰し収穫時期をも配慮しない。

水攻めで潰された水田は、復興するに相当な労力が必要な筈である。

つまり、安土地・桃山期の英雄達の権力掌握手段は、非権力者(庶民)には非常に迷惑な側面を持っていた事を忘れてはならない。

こうした言わば権力者の論理は、必ずしも非権力者(庶民)の利に適うものではないのだが、どう言う訳か、夢を託すがごとく非権力者(庶民)はこうした権力者の活躍に胸を弾ませ、英雄視する。

日本人が考える英雄像は、粗方(あらかた)そんな短絡的感動を満足させるものである事が実は問題なのである。

現代に於いても、この権力者の論理や非権力者(庶民)の心理は発揮され、結果的に「庶民の生活をぶっ壊した」劇場型人気政治の総理大臣と学者大臣の人気は高い。

その人気の影で権力者の論理は進行し、庶民が気付いた時は、あらゆる面で格差が広がり「弱者高負担時代」が着々と形成されつつある。


過去の歴史に於いて、真の英雄は権力者にのし上がった男ではない。

歴史教育の難しさである。

本当の英雄は、道筋をつけて消えて行った確率が高い。

民族意識の高揚の為に英雄礼賛も良いが、大方の所、その英雄に酷い目に合わされた方こそが、貴方の祖先である確率は遥かに高い。

格好の良い一面だけを捉えて、「民族の誇り」とするのは簡単だが、それでは英雄に踏みつけにされた大多数の人々の真実は、忘れ去られてしまう。

そう言うお人好しが、権力者にとって「一番扱い易い庶民」である事を肝に念じるべきである。


安倍総理が提唱する憲法改正(主に第九条)問題でもそうだが、予めかなりの歯止が必要である。

小生は、九条の一部改憲論者で、自衛軍としたいくらいであるからその点は誤解無きように願いたい。

何故なら、日本人は、治安の為の警察権を放棄しては居ない。

同様に、近隣に「ならず者国家」が現実に実在する以上、その対応の為に、警察権的な意味での対国家間に於ける最低の抑止力(自衛軍)は必要である。

それでなければ、国民を守れない。

しかし、あくまでも国民の生命財産を守る為のもので、過去の政権のように、都合で拡大解釈を続けられては、危険なものになる。

何しろ近頃は余りにも【左脳的】な発想の偏重社会で、【左脳】の基本本能に在るのが「闘争本能」だからである。

歯止が実効性のあるものに「成るかならないか」が、国民が確りと見るべきものである。

一つ押さえて置きたいのだが、政権はそれを維持する為には何でもする。

だから、民衆の生活不満が高まれば、それを「逸らす為のキャンペーン」を張る。

言わば「すり替え」で、その点では現在の日本政府と北朝鮮政府は、立場の違いを超えて微妙に「利害が一致している」とも言える。

近頃の改憲問題の大きなテーマが第九条である。

「大事だ。大事だ。」と煽り立てている間に、別の税制法案がスルリとすり抜けて、ドンドン国民の生活が苦しくなって行く。

日本の近代に於ける過去に、悲惨な前例があり、周辺諸国の対日批判にも、この要素が多分にある。

政権を維持する為にジタバタして居る北朝鮮政府が、簡単に暴発して我身を危うくするとは思えないから、彼らの「威嚇(いかく)」に乗っている振りも、日本の政府政権の計算かも知れないのだ。

勿論、防衛論議も大切だが、「すり替え」に利用されない目を、国民は持つべきである。


最近問題化した「教育タウンミーティング」に於けるやらせ質問は、官製の典型的な世論誘導である。
正に、「目的の為なら何でも有り」ではないか。

こう言う事をしていて奇麗事を並べる根性が、恥ずかしげも無く子供に何を教育しようと言うのか?

マネーゲームに明け暮れて、目的の為なら何でも有りの企業も、官僚、政治家も、目的の為なら何でも有りが氾濫する世情で、子供に何を規範に生きて行けと教育する積もりか?

ここら辺りに、「資本主義自由党」の限界があるのではないかと、推察している。

国家感の舵取りを、想像力に欠ける者に任せてはならない。

想像力に欠ける者に、未来の展望はない。

あるのは、目先の自分の利であり、権力欲である。

そうした政府が教育に口を出すと言う事は、「国民を飼い慣らそう」と言う意図が疑われる事である。

岩に木は生えないが、割れ目に育った木は、やがて巌(いわお)も砕く。

この長期展望が、目先の事に追われる日本の政治家には無い。

残念ながら、人々が目先の利のみに注すると、未来を見誤る。

基本的に、弱者に対する思い遣り無くして、未来を創造する事など出来ないのである。


男女同権は当たり前だが、人間も生物には違いない。

生き物には種の保存と言う本能があり、男女の役割には自然に持って生まれた特質もある。

本来、性行為は「好きで当たり前」なのが人間である。

それが基本に無ければ、未来に子孫は繋げない。

所が、性に関した事を言おうものなら「やれセクハラだ。」と、露骨に嫌な顔をする。

つまり偏見を持って、いたずらに「猥褻」を言い立てている人間こそ、現在の性的倫理感の荒廃に関しての元凶である。

強い女と頼りない男が増えているのは、こうした考え方の母親の影響である。

頼りない男が育つと、大人の女性との性行為に臆病になり、牽いては他の動物ではありえない幼児(未成熟)を性の対象にしてしまう。

それでも「私はそうは思わない。」と、理屈ではなく、誰かに植え付けられた感情でものを言う方も居られるだろうが、「貴方の思う事は全て正しい」と言う論理は、それこそ思い上がりである。

人は、水が無ければ生きては行けない。しかし、まったくのH2O(純粋な水)では、1800ccも飲めば死んでしまう。(LD50)

不純物が入っているからこそ、飲料水になる。

水だけでなく、人間が無菌室で育てば、病弱で抵抗力の無い人になる。

適度な汚染の中で、「その汚染と向き合い、どう生きて行くか」を教えるべき所、現在では親も教育機関も、「建前だけの無菌室」で育てようとする。

それでは精神的に脆い身勝手な子供が出来上がり、「その子が既に親になる」と言う悪循環のサイクルに、現在がある。

彼らは、思い通り成らない現実に直面すると、為す術を失い、暴発する。

虐めをする方も、されて死ぬ方も、無菌室で純粋培養された人間のような気がする。

その部分だけを取り上げるとトラウマと思われる事例でも、遡って遠因を探ると、いま少し基本的な人の「生き方・育て方」の間違いが見えてくる。


今の教育の指導スタイルにも問題がある。

教育に対する考えが、「教」にのみ拘り、「偏差値」が先行して「育」は放り出されている。

そして、「偏差値」以外は猫可愛がりに育てる。

父兄が子供可愛さのあまり、軽度の体罰でも「暴力だ」と騒ぎ立てるので、教師は恐い存在では無くなった。

教師が手でも上げようものならあらゆる方向から袋叩きに会う。それで教師は、話で説得するしか手段がない。

その話を、子供たちは最初から聞かない。

暴力を肯定するものではないが、教師が恐くなければ、大人も恐くない。子供たちは、大人をなめて育つ。

それでチョットした悪事が、だんだんにエスカレートしていく。

そんな父兄に限って、親の責任から逃れられない事件がおきると、「教師が悪い。」となすりつける。

ここで【右脳】と【左脳】を取り上げるのは、思考バランスの問題である。

人間の脳は大別すると左右二つに分かれているが、【右脳】は本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われ、本能的能力から発達した脳で見たまま聞いたまま感じたままにイメージ、五感((視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚))、直感で 瞬間的に記憶したり、情報を取り込む「無意識脳(潜在意識脳)」で、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。

基本的に、恋も愛も情も「無意識脳」的な【右脳系】の感性で、【左脳系】の理性や計算が入るのは本当の意味で恋や愛情ではない。

右脳】は瞬間的に大量の情報をイメージとして記憶したり超高速で計算してしまい、無限な許容量を潜在意識に記憶するので、必要時に閃(ひらめ)きとして「瞬時に直感的にアウトプットできる」とされる。

霊感や予知などの現象はこの右脳の本能的能力に影響される幻覚であるが、「DNA的な記憶が存在する」と想定すれば仮定の域ではあるが一概に否定出来ないものも存在する。

そうした意味で【右脳系】の職業人は本能的能力を活用する訓練が出来ているから、性に対しては開放的で奔放な心理の持ち主が多数であっても不思議は無いのである。

それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、記憶したり計算する意識脳(顕在意識脳)であり、コツコツ努力し積み上げる直列型の許容量の小さい脳である為、どんどん忘れないと次の情報を記憶できないので短期記憶脳とされている。

また、肉体脳であるため緊張した意識集中によりイライラのベータ波脳波状態であり疲れ易く 持続力が無くストレスがたまる。

現在の学校教育は、特にこの左脳一辺倒の言語と論理的思考の左脳記憶学習に著しく偏っていて問題が大きく、受験効率一辺倒の教育手段が採用されている為の歪みから若年層の暴発が頻発している。

そもそも生き物をペットとして飼う人類の根底には、【右脳】の本能的無意識能力にリラックスイメージの癒し効果があるからで、【左脳的】にはくだらない筈の裸のお笑い芸が社会通用する事も、【右脳的】感性をターゲットにしているからで、それを【左脳的】発想で「くだらない」と判断し批判するのは筋違いである。

例えば読書は、映像と違い固体の蓄積した情報を基に想像力を養う範囲が非常に広いもので、そこからイメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの【右脳】の活動を活発なものにする。

現在の教育の価値観が【左脳系】に偏り過ぎて、【左脳的発想】である言語認識・論理的思考・計算ばかりの価値観に偏り、極端に「情」を無視する傾向がある。

その結果、世に出る固体は言葉を言語認識的に解釈してその言葉の裏に有るものまで思い至らない。

合格試験の為にはそれで良いのかも知れないが、社会に出てからそれが通用しない事になり思わぬ結果を招く危険が存在する。

また、【左脳的発想】で計算ばかりしているから周囲が見えなくなり「利」に走って偽装事件を引き起こし破滅する【左脳波人間】も続出している。

受験と絡めた現代教育の問題点であるが、【左脳】は言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしているのだが、【左脳系】はその理性的意識から絶えずストレスに晒されているにも関わらず、リラックス本能的な【右脳系】を無視した知識の詰め込みばかりを優先させて【左脳系】のストレスの逃げ場を遮断してしまい、しかも社会全体が私権的発想に偏って「金だけ」の世の中に成った為に、短絡的な感情で暴発する「直ぐ切れる人間」を量産しては居ないだろうか?

美しくなれる興奮の解説右脳・左脳とベータ・エンドロフィン】

問題があるのは、警察官の立場も同じだ。

相手が【左脳的】発想で行動しているのに、求められているのが【右脳的】発想に拠る建前で、緊急時まで制約を受けている。

交番に逃げ込んでくる市民を、警察官が救えないのも、やくざになめられているからだ。拳銃をもってはいても、何重にも使用が制限されている。

やくざは最初から非合法なので、すぐに拳銃を使える。

市民どころか、自分も守れないのが、今の警察官の立場なのである。

それで、逃げ込んだ交番から引きずり出されてまで、暴行される被害者がでる。

領海を侵犯されても、武器使用が出来なかった海上保安庁も、海上自衛隊も、なめられて拉致事件が起きた。

許容範囲を定めないで、「ヒステリックに全てだめ」では、現実の弊害も多い。

理想論だけの話では、問題は解決しないのである。理想論を掲げる共産主義の崩壊が、まさにそれだった。

得るものが有ると、必ず失うものもある事を肝に銘じなければ成らないのだ。

あまりにも、建前主義で事を進めた結果と言える。

「なにか変だ。」と誰も疑問に思わない。

単純に当事者の責任だけを責めるのが、今の日本国民だ。

他人事なので、無責任に立場の弱い現場の警官だけ「職務だから体を張って死ね」と言うのか。

これも、建前だけで弱いところだけ攻めている。

本来、現場で担当する当事者に、「力を発揮させる工夫」をしてやるのが、政治家や官僚の仕事ではないのか。

これは、会社の経営陣にも言える。



教育問題に関して、一つ「根本的な間違い」があるので指摘しておく。

家庭での教育の必要性を強く言う意見が多い。

大方それに賛成である。

しかし、家庭教育の根本に必要なのは、親の精神の安定であり、生活の安定度である。

それが、子供に与える影響の大きさは計り知れずなのだが、政策の失敗(平成の失政)に頬かむりして、幾ら家庭や学校に教育を言っても、むなしい話である。

つまり、庶民の生活基盤を脆弱にしておいて、子供だけ「親の責任、教師の責任で育てよ」は、政治家としては未熟者で人間としては成っていない。


ペンネームの未来狂冗談(ミラクルジョウダン)は「未来が狂うのは冗談ではない。」と言う気持ちからであるが、実は人類がドンドン【左脳域】ばかりに価値判断を偏らせて行く心配からである。

千七百六十七年〜八十六年・江戸期の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。

何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「平成の失政(痛みを伴う改革)に良く似ている」と思うが、いかがか?

これだけ明確な小泉・竹中内閣の失政に、未だに気がつかない善男善女が多いが、気が付いた時には、しつかり重税高負担で「手遅れ」に成って居そうである。

そこら辺りを口を拭って「教育基本法を制定すれば事足りる」と言うならまたぞろ「仏作って魂入れず」の建前、「政府はやっている」と言う実効性が無い「アリバイ工作」ではないか。


教育に於いて、「育」を考えるのなら、教育の原点には、学歴や財産に囚われない「価値観」を据えるべきである。

多様な価値観を育てる事で、夢の幅や生きて行く選択肢は広がる。

現状の若者の価値観は「格好良さ」である。

この「格好良さ」が薄っぺらだから、自分達の将来は二の次で、漫画チックな「女性刺客候補」を当選させた。

「弱者を虐(いじ)める格好悪さ」に気が付かないのは、政治家のえらい先生が選って集って「支援法と言う名の弱者切り捨て」を断行するお手本を示しているからである。

つまり、弱い相手を潰す【左脳的発想】のパワーが、若者の理解する「格好良さ」なのである。
それでは、地道に働く父親を「格好良い」と尊敬などする訳が無い。


悪い癖だが、世間は「起こった不幸な事案」を、建前論の性善説を根拠に、滅多に起こらない「特殊な事例」と捉えて簡単に考え、結論を着けたがる。それ故根本的な要因には辿り着かない。

根底にある、何故に多くの「虐(いじ)める側を育てる土壌が醸成されたのか」の論議をせず、「虐(いじ)めは駄目だ」、「虐(いじ)められる方にも問題がある」と、小さな論議をして居る。

挙句の果てが、「教育委員会だ、校長だ、教師だ」とスケープゴードを量産して決着を図るから、「虐(いじ)めの根」は一向に無くならない。

人間は残酷な生き物で、自分が安心する為に「見下す相手」を作りたがる。

根にあるのは、生きる事に対する自信の無さ、「不安感」である。

子供の社会で起こる「虐(いじ)め問題」も、根にあるのは虐(いじ)める側の「不安感」である。

この問題に有効なのは、「虐(いじ)めるな」と言う親や教師の教えではなく、親の生活の安定向上であり、自分の将来に持てる「夢」である。


本来人間は群れて生きる「群れ社会」の動物だった。

その事が村落共同体村落共生主義)の乱倫・村社会を生み出した。

つまり、「夜這い」や「寝宿」の乱倫制度は土地の習慣ではあり、村落共同体村落共生主義)を担保する為の乱倫事実を根拠とした現実的な知恵だった。

私の愛した日本の性文化

勿論その「群れ社会」の動物本能は今も健在であるから、現代の人間でもその拠り所的な本能の要求を満たす為に「擬似の群れ」的な感性を作り出す。

その拠り所が会社だったり組合だったり居住地域の自治交流だったりしたのだが、その「擬似の群れ」の強力な拠り所を、小泉氏・竹中氏が採用した近年の政策、非常用雇用(パート・派遣・バイト)の制度公認がぶっ壊した。

つまり合理性を重視する余り、人間性(人間の性質)を全く無視したのではあるまいか?

ハッキリと目立った形では表面化しないが、非常用雇用(パート・派遣・バイト)で「擬似の群れ」的な拠り所を失った大量の人々から共生意識を取り上げた事が、「現在の殺伐とした社会を創り上げた」と言うのは言い過ぎだろうか?

基本的に、人類は「群れ社会」の動物である。

人間の長(おさ/リーダー)は、群れの事を第一に考えなければ成らない。

家長だろうが経営者だろうが官僚・政治家だろうが、「俺がやっている」と勘違いして富を独占し様とした時点で長(おさ/リーダー)としては失格である。

その失格者が世に蔓延(はびこ)っているから世の中が暗いのだが、キットあなたには心当たりばかりではないか?


物事を単純化しようとする勢力がある。

犯罪を犯す人間を、単純に「落ちこぼれ」として例外(特別な事例)として片付けてしまう。

しかし本当の人間には様々な引出しがあり、つまり人間の脳の思考回路は一筋縄では行かないのである。
,br> 思うに、それだからこそ人間なので、それらを否定せず容認しながらどう付き合って行くかが生き行く為の命題ではないだろうか?

人間は群れから落ちこぼれると「疎外感」を抱く。

何故なら人間は基本的本能が「群れ社会の動物」で、群れの一員として生きる事に安心感を抱く動物なのだ。

それ故に、クラスでの虐(いじ)めは周囲が思う以上にダメージになる。
,br> 引き篭りにおいてはその「疎外感」が更に進み、家族さえ「安住の群れ」とは思えなくなる。

現在の社会的な現象として、無差別殺人や家庭内殺人などを引き起こす若者の自暴自棄の遠因がこの「疎外感」である。

食べ物を分かち与える村落共生主義や近隣交流など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。

益してやその原点が、「夜這い」にあるなどと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。

しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。


「夢」があってこその「美しい国・日本」である。この国の政府は、夢と希望を取り上げておいて、「何を教育する」と言うのか?

共産主義の崩壊を見てもそうだが、国も企業も「夢と希望を叶えるチャンス」が無ければ人間の向上心は生まれない。

自由主義社会は大歓迎だが、「公正なチャンスと公平な負担」と言う適正な条件が必要で、その部分を小泉、竹中コンビの「平成失政内閣」は、「資本原理主義」に沿って大企業有利に偏重した政策で、日本の中小企業を立直れないほどに破壊してしまった。

つまり、現在の政治体制や企業の人の使い方が、果たして「夢と希望を叶えるチャンス」に対し、意を払っているかどうかが問題である。

「夢と希望を叶えるチャンス」と言う現実を失った若者は、バーチャルの世界に逃げ場を求めた。

夢に関してはこう考えて欲しい。夢を追いかける人生は価値があるが、「夢に浸る」と人生は侵されてしまう。

「夢に浸る」と、即ちニートなどと言う社会現象の当事者に成る。

この夢線引きの違いを、「偏差値教育」に血道を上げ、社会は長い事教えずに子育てをして来た。

生き方は、親や他人に決めて貰う物ではないし、増してや、生き方を自分で決められないでは、もう「生きている」とは言えない。

将来を託す価値観の再生を本当に考えるなら、どこか歪んだ大人の価値観から是正せねばなるまい。


戦後の日本社会は、見事な「責任転嫁社会」である。

親は子供の悪しき行動を、教員の教育責任や見せるゲームやTV・DVDなどの映像の悪影響のせいにするが、そう言うものを見ても「正しい判断が出来る子」に育てる「親の責任」を放棄した上で、全てを「映像の悪影響」に責任転嫁をしている。

この実態の裏には、戦後の日本の社会システムが「共働き社会」に成って子供に親が接する時間が無くなった事への、「責任の逃げ口」的な色合いが濃い。

つまり戦後日本の社会体制が、「子育て」と言う面では犠牲になって始めて一家の収入が確保される歪んだ体制になっているからである。

驚いた事に、教員免許更新制度で「教員の質を上げよう」と言うが、それ以上に質を上げるべきは政治家と官僚である。

現場の混乱は、実情に合わない多数の課題を無視して、「御達し」として設定された教育システム・教育要項にある。

近頃頻発する「虐めによる自殺」や「履修漏れ」を、文部科学大臣が教育現場や教育委員会を責めているが、本来の責任は自分達政治家と高級官僚だろう。

例を挙げると、現在の教育は【左脳域】ばかりに偏重して、成績が良ければ高資格を得て「将来高い地位に就いて幸せに成れる。」と、そこから落ちこぼれた人間が心の行き所を失うのも構わず、知識の詰め込みを強要する教育体制に親も国家も血眼に成っている。

つまり教育において【右脳域】の無意識の感性を育てる必要性を切り捨て、私権ばかりを追いかける人間を育て、仕舞いには親子兄弟の命の遣り取りにまで発展させている。

右脳域】の無意識の感性が働かない事は「情が無い」と言う事で、厚生労働省の薬害や年金の処理が、【左脳域】の論理や計算に発想が偏っているから被害に遭う国民の救済など眼中に無く、被害に遭われた方々の【右脳域】の被害感情を汲み上げる態度も無く全く噛み合わない状態を長々と続けている。

「成績優秀な官僚」と言っても優秀なのは【左脳域】の論理や計算だけで、人間性のバランス【右脳域】の「無意識感性に欠ける人間に育っている」と言う事である。

最近世間を騒がせている各種の「偽装問題」は、【左脳域(理屈と計算)】ばかりに視点が行って、【右脳域(感情)】の感性を無視したバランスの悪さが引き起こしたもので、民間・官庁を問わずに【左脳域(理屈と計算)】ばかりの人間が「何と多い事」と呆れるばかりである。


今見直すべきは、月光仮面川内康範氏の「無償の愛」で、正しくそれは、今は軽んじられている【右脳域 】の価値観である。


教育現場の荒廃の顕著化について、世間の世論調査は、教育現場の責任(十数パーセント)より、社会全体の「道徳モラルの低下が最大の原因(五十数パーセント)次に家庭教育(二十数パーセント)」と回答して居る。

つまりは、政治家、官僚、企業経営者の「道徳モラルの低下」が教育現場を八方塞にさせている。それを無視して、教育のシステムや教師に責任を押し付けるのは、責任のすり替えである。

政府与党の政治家・官僚に、厳しい国民生活の実感が無いから、冷淡な理屈に走るが、これは「石田三成」的発想で、国民に対する誠意や情などは、カケラも無い。つまり、大切なものを見失っているのである。

政治に【右脳域】の感性を持ち込まない悪政をするから、弱者は【左脳域】の論理や計算の中で切り捨てられ、「障害者支援法」と言う名の聞き触りだけ良い「改悪法」がまかり通る。

政治家は「国益の為」を連発して国民に犠牲を強(し)いるが本末転倒で、国民有っての国家ではないのか?

征服部族の基本的な感性は、戦闘的な【左脳域】思考である。

この感性、日本列島の縄文時代から弥生時代の過渡期に起こった征服部族の渡来と比較、千八百年後に似たような経緯を辿った北米大陸の大国・アメリカ合衆国の開拓史時代から現在の軍事大国々家の現状を見れば理解出来る。

米大陸の開拓者は、【左脳域】の思考方向が活発だからこそ新天地に活路を求め、力ずくで土地を確保した歴史そのままの思考方向で、過激な「競争経済社会と軍事大国路線」を突き進んでいる。

その米国の経済手法を無条件で取り入れ、国政に反映したのが小泉・竹中路線だった。

現代の政治に求められているのは、この【右脳域】と【左脳域】の発想のバランスが良い徳川家康型の政治家であるが、残念な事に織田信長を信奉する【左脳域】の発想一辺倒の身勝手な男しか現れず、小泉・竹中政治の「情が失われた五年間」は、まさに【左脳系価値観】一辺倒の、取り返しが付かない偏重政治で、利害と計算の殺伐とした社会に拍車を掛けている。

美しくなれる興奮の解説右脳・左脳とベータ・エンドロフィン】飛ぶ。

人間以外の動物達には「嘘偽(うそいつわ)り」と言うは行為はない。

「人が為(な)す」と書いて偽(にせ・いつわ)りである。

冗談ではない事に、多くの政治家や高級官僚や宗教家、時の総理大臣さえも、この見え見えの「嘘偽(うそいつわ)り」を、恥ずかしげも無く手段とする。

つまり【左脳域】 の理性や計算が発達した人間だけが、己の利の為に「嘘偽(うそいつわ)り」を、あたかも「テクニック」と位置付けて「恥」とも思わない者が指導者をしているのである。

これでこの国の指導者は未来の為に、子供達を「どう言う教育をしろ」と言うのか?

小生が小学生の頃は、米国から沢山の西部劇映画が入って来て盛んに上映された。

その頃印象に残った映画の台詞(せりふ)が「白人嘘つく、インデアン嘘つかない。」である。

汚れを知らない純真なインデアンは、白人より遥かに【左脳域的】な発想に疎(うと)かったが、それだけ自然に近い【右脳域】の本能的無意識リラックス状態で生活をしていた事になる。

馬鹿正直なインデアンは白人に騙され、また騙されて土地を追われ、自由を奪われて「居留地」と言う名の「狭い土地に押し込められる」と言う悲惨な時代を経験した。

米国の精神は、良く言えば開拓者魂(フロンテェイア・スピリット)、悪く言えば「開拓」と称して他人の土地へ押し掛け、居座り強盗をしたのが開国以来の歴史的な精神である。

この歴史的な背景は、今日でも国際社会における米国の軍事力を背景とした利権姿勢に露骨に表れて来た。

言わば武力を背景にした経済外交をしているのだが、そうしたダーティな部分を建前で切り捨てて置いて、武力を持たない我が国を米国かぶれした首相と学者大臣は愚かにも「米国型と同じ様な自由経済社会にしよう」とした。

まともな人間なら少し考えれば判るが、自分の家と隣りの家では各々で諸般の事情が違う。

小泉純一郎氏・竹中平蔵氏の取った政策手法は、その事情が違う家が「隣りが上手く行っているから。」と無理して隣りのやり方に合わせるような「稚拙」なものである。

基本的に大きく体質が違うのに、自由競争経済の表の格好ばかり真似ても猿真似で、上手く行く訳が無いのである。


物事を単純化しようとする安易な勢力がある、しかし本当の人間には様々な引出しがある。

つまり、脳の思考回路は一筋縄では行かないのである。

止せば良いのに、危険な香りに心惹(ひ)かれてしまう。にも関わらず、丁寧な検証もせずに結論を出す。

理由は「それでは政策が進まない」と言う無責任な本音である。

言わば小泉元総理の魅力(人気)の原点はジゴロの危険な香りである。

この男と付き合っていては「身を滅ぼす。」と判っていてもその魅力に勝てない大衆が多い。

戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。

益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。

しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。

そしてそれに更なる後押しをしたのが、小泉・竹中の薄っぺらな「米国型競争経済化」と言う構造改革の正体である。

鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。

日本の庶民社会が「性に対しておおらか」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?

私の愛した日本の性文化】に飛ぶ

米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。

それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせたのである。

日本経済の再生は過去の歴史から学ぶべきで、小泉純一郎氏・竹中平蔵氏の薄っぺらな「米国型経済化」と言う構造改革は、「国家固有の事情を考慮しない」と言う観点で、強引な猿真似(ウゥ〜ン、猿でもしないから猿に対して失礼かも知れない)と言う過去の過ちを繰り返すものである。

人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。

そして発想が自由でなければ、斬新な思考は創造(う)まれない。

つまり学んだ学問は、新しい発想の原点に過ぎないのであるから「学問を修めたから」と言ってそれを絶対視する事自体が危険な思想である。

米国かぶれした小泉純一郎氏と竹中平蔵氏の五年間は、正にこの【左脳域】の論理や計算だけの政治で、彼らが行なった「規制緩和」と言う箍(たが)を緩めた結果が、ライブドア、構造設計偽装、違法ホテルチエーン、コムスン、駅前留学のノバ、などなどの【左脳域】論理で「儲ける為には手段を選ばず。」の急成長企業を生み、順法に徹した中小企業は彼らに駆逐された。

それのみならず、「規制緩和」はタクシーや観光バスなどの許認可を緩め、結果的に従事する者に過酷劣悪な労働条件を強いる結果になった。


机に座って上から見下し、現場の負担を増やして「締め上げればそれで済む」と思っているから、問題が山積する。

まぁ、言葉の誤魔化しを繰り返す政府と官僚が「品格教育」を訴えるなど笑止な事で、それを恥じない政府が「美しい国を創造し得る」とは思えない。

彼らに、見習うべき品格と実態に即した教育システムを整備する責任があるのではないのか?

しかし彼らの【左脳域的】な考え方は、国民にすべからく蔓延している。

それにして昨今の風潮として、「結婚すると個人の自由が無く成る」とか、「子供を産むと金がかかり、自分が楽しめなくなる。」と言った【左脳域(理屈と計算)】ばかりのバランスの悪い人も多いので、この国の全てが【左脳域(理屈と計算)】ばかりに「偏った国に成ってしまったのではないか」と、嘆く次第で、いずれにしても「美しい国・日本」は、残念ながら妖しい事ばかりである。


誓約(うけい)の国・日本では、明治維新の文明開化まで日本人は性行為を「猥褻(わいせつ)」とする考え方は薄かった。

日本人は、人間としての性規範に対してはナチュラル(自然体)な考え方を持っていた。

性行為を「猥褻(わいせつ)」と強く感じる様に成ったのは、明治維新政府の急速な欧米化政策に伴う学校教育方針で、欧米キリスト教性規範を植え付けられたからである。

古来自然主義の日本列島の民(大和族)は、性におおらかだった。
性行為は神との共同作業であり、新しい命の恵みを授かる「お祭り」と言う神事だった。

自然と折り合って生きていた日本人(大和族)が、明治維新と伴に欧米化の中で自然との折り合いを忘れ始め、敗戦後の自由主義化で見事に自然を破壊する欧米型資本主義社会になった。

その欧米型資本主義社会は、自然を無視する事に拠って産業を起こし自然を破壊を進行させると同時に、人間に自然にある筈の「性欲」さえも無視する左脳合理性を絶対のものとして近代文明を築いた。

物質的な富を追えば、確かに欧米型資本主義社会は物質的生活水準は高くなる。

唯、近頃は地球に異変が頻発して、この欧米型資本主義社会の自然破壊が長いスパンで見るとけして「人類の為に成る」とは言えない事が判って来た。

自然災害に対峙して来た人間が、自らの「行いで災害を引き起こす」と言う皮肉な結果に成りつつある。

つまり、欧米型資本主義社会は万能ではなく「見直しを要する過渡期」に来ているのだが、恐ろしい事に「何でも金にしよう」と言う資本主義ではそのエコロジー対策までビニネスチャンスにして「排出権」と言う名の取引の対象になる。

いずれにしても小生は、「美しい国・日本」の答えが「地球を救う共生主義と言うイデオロギーに変換する事に在る」と考えている。



調理(料理)は、基本的な科学である。

人類は食べ物を調理(料理)する事を覚えて他の動物と比べ【左脳域(理屈と計算)】を格段に進歩させて来た。

それまでの【左脳域(理屈と計算)】は、獲物を前にして「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の決断が主な【左脳】の仕事だった。

そして衣服で気候(寒暖の差)や外敵から身を守るようになると、【左脳域(理屈と計算)】で裸身に羞恥心を抱くように成った。

しかし人類は、【左脳域(理屈と計算)】の能力進歩と伴に【左脳域(理屈と計算)】ばかりに価値観を偏重し過ぎて、滅びの道を歩んでいる気がしてならない。

政府自民党が大企業優遇の【左脳域】志向であるから、この現代人の【左脳域】一辺倒の、偏重した価値観教育の行き着く所の危うさについて、認識の欠片(カケラ)も見受けられないのである。

最後に、小泉純一郎・竹中平蔵氏の彼らが何を語ろうと、結果がご覧の通り全て証明している。

総理を或いは議員を「止めたから」と言って、この自然豊かな日本の国で、自然を愛でる余裕も失うくらい追い詰められて自殺される方が多数居る国にしたのは、見下げ果てた小泉純一郎・竹中平蔵氏であり自民党政権である。

彼らを、けして赦すべきではない。

小泉政権成立当初からその危険性を提言していた私としては、例え私一人になろうとも質濃く小泉・竹中の悪政時代を告発し続ける覚悟である。

米国型の私権尊重型・自由競争社会の行き着く所は、ラスベガス(警察ではなくガードマンが治安維持している)以外に路上自販機が設置でき無い社会である。

米国は日本では考えられないほど治安が悪く、もう三十年以上も前から危なくて自販機が路上に置けないらしいが、そんな社会を竹中平蔵氏が言うように日本国民が望んだのだろうか?

この私権尊重型社会が弁護士がやたら儲かる訴訟社会らしいが、もう日本でも戦後第二世代(団塊第二世代)が親になり「モンスターペアレンツ」なる教育現場での私権主張が問題に成っている。

竹中氏が何を言おうが、米国型の競争経済システムは既に二十年は遅れている。

その二十年は遅れている競争経済システムを、米国経済が崩壊しつつあるのに関わらず竹中氏は後追いで舵取りをさせて、取り返しの付かない所に我が国を持って行ってしまった。

竹中平蔵氏が主張する「改革の進展」など、例えなされても今日の世界経済の枠組みにはまったく通用しない。

とどのつまりは、世の中の変化について行けなかった時代遅れの経済学者に政策を任せてしまった所に今日の悲劇がある。

私権主義が蔓延した結果の最近の傾向として、何か主張するに「私が思った」とあたかも「思った事が全て正しい」と勘違いして主張し、しかも安易に行動する人物が多い。

しかしその貴方の「思った事」は本当に共生社会に照らして「正しい」と言えるのだろうか?

単純な話、思った事が全て正しいなら「あいつ気に食わない」と思えば殺してしまっても「正しい行動をした」と言う事になる。

私権主義が煮詰まってしまった現在、腹いせの無差別殺傷に走ったり、そこまで行かなくても「モンスターペアレンツ」なる流行語が出来るくらい「思った」の私権主張が常軌を逸して来てしまっている。

しかしチョッと待って欲しい。

こうした問題を「個々の事」と切り離して論じるのはソロソロ止めて欲しい。

この「行き過ぎた私権主義」は戦後自由主義社会の構造的なもので、「個々の事」を個別に問題にしても解決など見られない。

今の政府与党の発言や行動を見ても、とても教育的見本には成らないのに教育に力を入れて教育される側が受け入れるとは思えない。


これを記述している小生も基本は自由主義者ではあるが、今の日本社会を平和で安全なものとするには「自由と勝手は違う」と言う事を基本に据え「自由共生社会」を構築して行く」必要があるのだ。

左脳域の「利の論理ばかり」を優先する連中は、この「掛け替えの無い地球に、人類に、」今何が起こっているかを知ろうとしない。

米国型の資本自由主義は、根本に「左脳域の利優先」がある時代遅れなイデオロギーであるから、この地球環境破壊を解決など出来得ない。

このまま資本自由主義の暴走を止めないでは、「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の中に「リアルの生産」が翻弄(ほんろう)され埋没して、人類の糧(かて)となるべきリアル生産力が劣化消耗してしまう事だろう。

また、現在の地球環境の悪化(温暖化)は正しく「利の為に何でも有り」の資本自由主義の為せるものである。

そうなると、米国型の資本自由主義を基本とした政党ではこれからの時代には通用しなくなる。

つまり現状のイデオロギーの枠を取り外してまったく新しいイデオロギーの基に新しい政治手法を採らなければ、手遅れになるのである。地球を救う共生主義」と言うイデオロギーへの転換

もはや米国型の自由競争型経済社会は、さし迫った「地球環境問題(温暖化対策)」と相反する経済モデルであるにも関わらず、これを未だに推し進めようと言う政府・自民党の政策はいったい何を考えているのだろうか?

つまり、現在の「行き過ぎた私権主義」は、米国型の自由競争型経済社会を標榜して来た戦後政治の構造の中で育まれたものである。

「地球環境問題(温暖化対策)」を真剣に考えるには、まず日本をそして地球上を小生が提唱する「自由共生社会」への構造改革が急務で、それを為し得無い限り人類の明日は無いかも知れない。

人間の怖い所は、【左脳域】の論理的思考に拠る欲望と嫉妬である。

世の災いの元凶は、もっぱらこの欲望と嫉妬にある。

実はこの【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

その【左脳域】の思考方向に、現代人がドンドン偏重して行って、思考が残酷化している可能性を感じるのである。

近頃の「地球温暖化」も「少子高齢化問題」も、そして「教育問題」も【左脳域(理屈と計算)】ばかりの価値観で論じていては「解決しないであろう」と、この一文で警鐘を発っして居る。

何か事が起こった時、表面に現れるのは弱者である。

その裏に隠れる「安全な奴」が、怪しい・・・

まだもう少し人類の行く末を見てみたい気はするが、時は止まらずに流れて行く、我輩も後二十年も生きていられるかどうか・・・。

人間の人生なんて、悠久の時の流れの比べれば塵(ちり)の一粒に過ぎない気もする。


【了】

小説「皇統と鵺の影人」クリックより一部引用

現総理の安倍晋三氏に繋がる「安倍姓二千年の歴史」を詳しく知りたい方は、
「皇統と鵺の影人」をお読みいただくと、日本史の流れの中で、全編に散り嵌めて解説しています。

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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

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 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

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====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

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鎌倉伝説

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