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仮説・織田信長の大結界と明智光秀】****

仮説・織田信長の大結界と明智光秀】****仮説・織田信長の大結界と明智光秀】****仮説・織田信長の大結界と明智光秀】****

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◆小説【皇統と鵺の影人】より

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***【歴史のミステリー】*********

本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。】

(織田信長の大結界と明智光秀)
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***【歴史のミステリー】*********

本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。

織田信長の大結界と明智光秀



本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。

◆◇◆◇本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。◆◇◆

戦国時代最大の謎」とされる「本能寺の変」がなぜ起こったかを、状況証拠から推理仮説する。

見る角度を変え真実を探ると、明智光秀は巷で言われる様な逆臣ではなく、歴史的大忠臣だった。


実はこの戦国時代末期〜安土桃山時代(あづちももやまじだい)が、皇統最大の危機だった。

表面的には戦国武将同士の覇権争い、それとは「蚊帳の外」の筈の皇統が「最大の危機」と言うと、にわかに信じ難いかも知れないが、それをこれから証明したい。



明智光秀が、主君・織田信長を「日本社会の秩序を壊す男」と疑い始めたのは、自らが朝廷との橋渡しを勤めた頃に京都所司代・村井貞勝を通じて打診された「三官推任」を断った事である。

尾張・戦国領主時代の織田信長は、受領名・上総介(かずさのすけ)を勝手に自称していたものの、直接朝廷より任官を受ける事はなかった。

これは朝廷に熱心に献金を行って受領名・備後守や三河守の官を得た父・織田信秀とは対照的である。

その後、桶狭間の戦い今川義元を破って近隣領主を家臣に従い、尾張一国の国主と成った後の信長は受領名・尾張守を自称している。

着々と力を着けた信長は、本妻・斉藤帰蝶(さいとうきちょう/濃姫)の実家である美濃国に侵攻し、斉藤家三代国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)を越前国・朝倉家に逃亡させ、美濃国を所領に組み込み二ヵ国の太守となる。

この信長の勢いに、流浪の足利家当主・足利義昭が頼り来たので是を奉じて上洛し、義昭を十五代将軍に据える。

勿論世間は、将軍・義昭を信長の傀儡(かいらい)と捉えていた。

しかし信長は、義昭を将軍に据えた後も弾正少忠や弾正大弼と言った比較的低い官位に甘んじている。

弾正(だんじょう)は律令制下の八省の一つで、監察・警察・裁判機構の長官を意味する官職である。

本音で言えば実力主義の信長で、官位には余り執着しては居なかった。

しかし将軍・足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇する。

千五百七十四年(天正二年)に参議に任官して以降わずか三年で、信長は従二位右大臣に昇進している。

これは武家としては源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)以来の右大臣任官である。

また信長以前にこれより上位の官職に生前任官した武家は、平清盛(太政大臣)足利義満(太政大臣)足利義教(左大臣)足利義政(左大臣)の四人しかいなかった。

しかし信長は千五百七十八年(天正六年)四月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官職に就かず、以後四年の長きに渡って散位のままだった。

この後二度に渡って信長の任官が問題となった。

先ずは、千五百八十年(天正九年)三月、朝廷より左大臣就任を求められるが、信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の譲位(退位)を交換条件と返答するものの、結局、実現はなされなかった。

千五百八十一年(天正十年)四月から五月と言う時期には、二度目の左大臣就任を求められる。

この二度目は、その直前の三月に信長が武田氏を滅ぼし、また北条氏(後北条)とも連携を強めていた事から、朝廷では当時これをもって信長が関東を平定したものと解釈していたからである。

五月には朝廷・武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。

堂上公家・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)は、この信長の任官の件についての話し合いを日記に書き記している。

この話し合いのなかで、征夷大将軍・太政大臣・関白の内どれかに信長が任官する三職推任(さんかんすいにん)が申し出された。

この三職推任(さんかんすいにん)と言う選択任官方式を申し出たのが朝廷側だったのか信長側だったのかをめぐっては、後世ふたつの説が対立する。

これが三職推任(さんかんすいにん)問題で、信長が将来的に朝廷をどのように扱おうと考えていたのかを考察する考える上での貴重な資料と成り得る。

信長の本意を解く重大な問題だが、勿論信長が朝廷に任官する意志が在ったかどうかも含め、信長からの正式な回答が判明する前に本能寺の変が起こった。

その為、信長自身がどのような政権構想を持っていたのかは永遠の謎となってしまった。



信長の「天下布武」とは、役立たずを除く事だった。

あと一歩まで来て、信長は朝廷の「決定的権威」を利用しない。

本来なら、信長が最高官位の「征夷大将軍」を取って、足利家に代わる。

その方が、刃向かう者が減り「効率的に天下人」になれるのだ。

事実信長は、主だった家臣に朝廷から官位を授けさせている。

彼らの労をねぎらい、日本人的出世欲を満足させる為だ。

処が奇妙な事に、信長本人は平氏を名乗る以外、自分から全ての官職を離れて無官となり、朝廷の臣下では無くなっている。

織田信長は、千五百七十八年(天正五年)末に右大臣に就任するが、翌年春に半年足らずで右大臣・右大将の職を辞任している。

是は、恐ろしい事である。

武門の最高権力者が朝廷(天皇)の家臣でなければ、例外の事態である。

臣下でなければ、朝廷も指示命令が出来無い。

朝廷とすれば、最高実力者が「無官」では、朝廷の存在が否定された様なものなので、秩序が維持できない。

朝廷と光秀の問答が、何日も続く。

光秀には信長の考え、見当が付くが口に出しては言えない。

朝廷は、ほとほと困ったのである。

それで、「三官推任(関白、太政大臣、征夷大将軍のうちから好きなものを選んでくれ)する」と言う他の者なら飛び付きそうな条件で、信長の説得にあたる。

それをせせら笑って、信長は受諾の返事をしない。


この頃になると、信長は自分の力や自分の発想に並々ならない自信を持つようになる。

人間、その立場に成って初めて「理解できる事」もあるし、その立場になると「麻痺してしまう」のも人間の悪い所である。

毎度の事だが、相手に意志が通じない苛立ちは信長を激高させ、それが周囲には阿修羅化身に見えていた。


日本には、大和朝廷の昔から奇妙な形式が存在する。

その時代時代で実質的権力者が居ながら天皇を頭にいただき、「実務は実力者が遂行する」と言う形式を取って来た。

古くは和邇(わに)大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)藤原(ふじわら/中臣)氏であり、その後は平家源氏北条氏(執権・得宗家)足利氏豊臣氏徳川氏と続く。

彼らは実質的権力者でありながら、自ら天皇を名乗る事は避けて形式上は天皇の家臣となり権力だけはふるった。

実質と形式は、現代にも通じる「奇妙なもの」である。

現在の日本国において、法律上、国で一番の主権者は誰だ。

形式的には「国民」である。

だが、実質たいした権限はない。

株式会社で、法律上一番の権利者は誰だ。

形式的には「株主」である。

だが、実質さしたる権限は「株主」に無い。

全て、「遂行者」に運用を委託する形式を取っている。

実は、実質的権力者は「遂行者」である。

この「遂行者」の失敗は、形式上の最高主権者の責任である。

一番上の人が下の者の失敗の責任を取る。

現在の一番上は、国民である。

従って、歴代総理の借金(赤字国債)は、国民が取らされる。

うまく出来たものである。


日本の長い歴史を見ると、その時代ごとに奇妙な二重構造に出会う。

それが、実質と形式である。

それは、「皇室(朝廷)」と言う存在が、全ての秩序の基本になっていたからである。

これは、他国(外国)の人間からすると非常に判り難い構造である。

例えば江戸時代、国外から見ると、どう見ても徳川将軍家が「独裁王朝」である。

大名取り潰しなど、掛け値なしの絶対権限を有していた。

処が、徳川家も形式的には朝廷から官位をいただく天皇の臣下である。

例え朝廷が、武力の後ろ盾のない「形ばかりの物」で在っても、である。

その他の大名も、徳川家の支配下にありながら、それぞれに朝廷から官位を授かって、形式上は天皇の臣下である。

武士の身分も氏族であるから、国主(くにぬし/藩主)並の上位の官位を貰えば、朝廷の貴族(公家)並に列せられた事になる。

鎌倉、室町、江戸と、歴代の幕府が現実の統治を担当するそれぞれの時代、言わば朝廷の仕事は、建前社会における「お墨付き(権威の裏つけ)」である「官位の発行元」である。

この二重構造が、例え建前のものでも時たま威力を発揮する。

「勅命(ちょくめい)」である。


明治維新では、勅命が大きく働いた。

つまり、実質的権力者の支配下にありながら、別途に朝廷の臣下と言う「側面を持ち合わせていた」のが地方実力者(この時代は大名)達の立場なのだ。

これは、平安の昔から変わりはない。

まさに大王(帝)が居て、分かれた国があり、臣王(おみおう)が居てその家臣が居るのは、古代統一王朝の制度を引きずっているからで有る。

この部分を解説すると、中国の中華思想様式の影響が残っている。

中国大陸では、「歴代皇帝」が国々を束ね、国々には「国王」が居る。

日本列島の大和朝廷は、属国扱いを嫌い、中国の皇帝から独立し同等の立場を取る為に、この様式に習って「天皇」が国々を束ね、国々には「国主(くにぬし・こくしゅ・後には少し細分化し藩主)」を置いた。

その慣習が残って、各大名は将軍や太閤などに統括されていても、朝廷から官位を授かり形式は天皇の臣下でも在った。

従って、同様の理由で、明治維新による廃藩置県まで、各地の呼称も「何々の国(例・伊豆の国、土佐の国)」と言う具合に使用していた。

逆説的に言えば、武力を持たず官位の任命権だけを持っていたからこそ、朝廷と天皇制は永らえて来た。

日本人が、世界的に見て特に肩書きに弱く、全て肩書きを頼りに社会を構成しようとする遺伝子のごときものを持っているのは、「肩書き安心遺伝子」を永い時間を掛けて醸成したからである。

つまり他国と比べて、永く天皇制(形式上ではあるが)が維持された事によって支配体制が根底からヒックリ返った経験を持たない故に、律令制以来の肩書きに対する信頼度が保たれて来た。

つまり日本列島に於いて、武力を持って他を圧した本当の権力者に、「権威」を与える役割を担い続ける便利な存在だった。

これは、周辺諸国の王と形式的に冊封(さくほう/さくふう)関係を結び「国際秩序」の形成を図る中華思想のコピー(写し)である。

古代の倭の国小国家群を統一して「秩序」を形成する為に列島の皇帝として大王(おおきみ/天皇/大国主)を置いた制度が永く機能し、江戸期における国主(藩主)に到るまで「権威」を与える役割を担い続ける存在だったのである。


明智光秀についても、小説など物語の設定の立場で諸説がある。

それによって、実は「誰々の家臣であった。」と自説を構築する小説やら文献やらあるが、是は二重構造の文化が下の方まで広がっていたからだ。

例えば、後に大名になる蜂須賀小六は秀吉の家来である。

しかしながら蜂須賀小六は、間接的には信長の家来(陪臣)でもある。

そして後に、阿波国々主として大名家を起こせば、蜂須賀家は豊臣家の家臣であると伴に天皇から官位を授かった天皇の臣下でもある。

この形を取って行くから、光秀が、「将軍・足利義昭の家来説」、「天皇配下の下級公家説」などを基本とした小説が書ける。

これはいずれも正解である。

形式的に見ると、光秀のお館様「信長」は、自分が合力して復職させた「将軍・義昭」の配下の形式になり、光秀もその陪臣になる。

遡れば、将軍・義昭も朝廷から将軍職を任命された朝廷の臣下である。

そう言う、過去からの形式的こだわりが、日本の世の中を長く支配していたのだ。


光秀ならではの真価を発揮したのは、何と言っても「京都奉行」として織田家を代表した事であろう。

朝廷、公卿、寺社などの勢力がひしめく京に在って、光秀の深い学識と怜悧な行政手腕以外、織田家に適材は居なかった。

信長が、その能力、見識、血筋から、形式と気品を重んじる朝廷、将軍家との交渉役として、「秀才光秀を使った」としても不思議はない。

光秀にとっても、もとより得意分野である。

人材豊富な織田軍団に有っても、これに変え得る存在は無い。

勢い、その仕事は光秀の独断上になる。

信長の意を呈しながらも、光秀がその接触の過程で、朝廷、公家に知顧(ちこ)や親近感が生まれても仕方が無い。

人は接すれば、心情が湧く。

善意か、悪意である。

光秀に取っては、それが親近感であった。

所謂肌が合うと言う感覚で、光秀には公家朝廷と、接触出来たので有る。

或る時期、光秀は新(信長)と旧(朝廷・将軍)のせめぎ合いの場に身を投じていた。

これが、「光秀に少なからぬ影響を与えた」としても、止むを得ない。

その後、この親朝廷派の光秀外交が、弊害にならんとする時、信長はわざと後任の京都奉行に百姓育ちの粗野な秀吉を登用させて、京都の公家供を、思う存分に煙に巻かせている。

秀吉には氏姓(うじかばね)への拘りも価値観も無い。

朝廷は秀吉に翻弄されたのである。


実質と形式、この二重構造は、時として都合の良い選択の基準になる。

上のまた上からの命令遂行は、一概に「うらぎり」とも言えないからだ。

こうした事例は、かなりある。

昔から都合良く「大義名分」として時代の切れ目には必ず登場し、多くの殺戮を呼んだ。

朝廷からの「院宣」や「勅命」は、謀反を打ち消す大義名分に成るのだ。

光秀が「信長暗殺」を決意した時、「信長の意志」ではあったが、光秀は朝廷から正式に官位を授けられていて、天皇の立派な臣下だった。

惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)である。

これは形式的なものではあるが、以前だったら日向守は守護職に当たる。

将軍空位の時期、代わって皇室(朝廷)を守るのが、守護職の務めである。

光秀が朝臣を主張して朝廷を守護しても、何の不思議も無いのだ。

足利義昭は既に信長に追われ、中国地方の大名・毛利家を頼って、匿まわれていた。

その毛利家も、信長の配下秀吉に攻められ、防戦にあえいでいた。

もはや朝廷の誰しもが、信長の天下取りは「完結に近付いている」と認めていた。


こうした朝廷と信長とのせめぎ合いの最中にも公家の中でただ一人、関白・近衞前久(このえさきひさ)だけは鷹狩りなどして親密に交際している。

この前久(さきひさ)の行動が、「信長の機嫌取りだった」とばかりに推測されず、「両者の間に密約が在った。」と言う説が絶えない。

織田信長が皇位簒奪後に「一ヵ国与えて厚遇する」と言う密約説も在る位に関白・近衞前久(このえさきひさ)を懐柔している。

その事から、我輩が推察する織田信長の新帝国の構想では、自らが新皇帝を名乗り、新た成る朝廷を興す。

関白に藤氏長者(藤原氏の棟梁)・近衞前久(このえさきひさ)、征夷大将軍に源氏の長者(源氏の棟梁)・徳川家康、左大臣に源氏流・明智光秀と言う構想を描いて居たのかも知れないのである。

信長の前例や常識にとらわれない発想からすると、これは、他人の作った秩序など、「実力で変えうる事」を証明する良い機会である。

そのつもりだから、「三官推任」を放って置く。

「公家どもめ、肝を冷やして居るわい。」

朝廷の慌てぶりは、信長にとってさぞかし愉快であったろう。

朝廷側もここに至って、信長による皇位簒奪(こういさんだつ)の不安を覚える。

その後の五年間が、織田軍団の最も忙しい時期で有る。

こうした朝廷危機の事態は、過去に都度都度あった。

実効支配者が臣下の最高の地位に着くのも、一つの道理ではある。

それが就かないとなれば、残された道はひとつしか無い。

日ノ本の国(大和)始まって以来の大変事が、今起きようとしていた。



織田信長の家臣には多くの有力武将がいた。
だが、いずれも常識主義者であり、微妙な所で、信長の才との「ずれ」があった。

常人が理解できない「奇想天外な発想」をする「大虚(おおうつ)け者」のお館様だからである。

究極の所で、信長の真意を理解できた者は、居なかったのである。

それ故信長は、何時もイラ付いていたのだ。

たった一人、世にも稀な「秀才」が居た。

明智光秀である。

光秀だけが、信長の考える処を瞬時に理解する能力を持っていた。

但し、信長の様な天才的な閃(ひらめ)きでなく、あくまでも「論理的に」、である。

この図式は、光秀が信長に心腹している間は最高の組み合わせである。

天才の発想を、論理的に具現化出来るからだ。

だが、信長は天才故の「侮り」の中で光秀を失い、それに気付いた時は本能寺に居た。

発した言葉は「是非に及ばず。」である。

天才信長は相手を明智と聞いて、一瞬に自らの命運を悟ったのである。

「是非に及ばず。」は、光秀を非難した言葉ではない。

「良いも悪いもない」と、光秀を庇(かば)ってすらいる。

自らの「天下布武」の夢が、砕け散った瞬間である。

信長にしてみれば、光秀に裏切られたのであれば、もはや「何も言う事は無かった」のだ。

天才・信長は此処で最後の知略に出るが、これは光秀への置き土産である。


この本能寺の変、凡人であれば「おのれ光秀。」となる。

たまに、信長にこう言う「せりふ」をはかせる小説や台本があるが、凡人の考える稚拙な「せりふ」である。

信長の才能を、凡人の物差し(ものさし)で測っては何も見えてこない。

織田信長は、明智光秀を侮(あなど)っては居なかった。

その聡明さから、光秀が「同じ価値観を理解している唯一の家臣だ」と、信長が勝手に思い込んで居ただけで、信長は「またやってしまった。」と、自分の侮り(あなどり)をこそ責めたのである。



光秀本能寺急襲の動機について、「野望説」や「黒幕説」、「怨恨説」など様々だが、そのどれでもない「忠臣説」を主張したい。

明智光秀が引き起こした「本能寺の変」は、見るからに雑なヤッツケ仕事である。

常に諜報畑を歩き、外様でありながらほぼ家臣団の筆頭まで上り詰めて来た光秀には、織田軍団に在って余り人気が無い事は光秀本人も自覚している。

大名達の支持が集まらない天下取りは無謀であり、つまり光秀の「本能寺の変」には、天下取りの野心も無ければその支度も無かった。

問題なのは、例え光秀が信長を本能寺で殺害しても、家臣の柴田勝家羽柴筑前守(当時の秀吉)丹羽長秀も織田信長の実子の大名達・信忠信雄信孝も健在でいる事である。

つまり、信長軍団は幾つかのユニットで、それぞれ大軍が健在なのだ。

同盟軍徳川家康、も居て、敵味方どちら側に回るか判らない。

もっとも家康は、光秀軍の追撃をかわし、「伊賀越え」で取り逃がした事になっている謎の伝説がある。

だが良く調べて見ると、表向きまだ伊賀や伊勢まで光秀の通達が行っていなかった事になって明智方の郷士の所領も難なくすり抜けている。

いずれにしても、信長を本能寺で葬っても四方に信長の軍団が健在で、光秀はそれらの大軍を相手に何度も戦をしなければ成らない。

そのリスクを負っても成し得るべき、意外な理由があるに違いない。

僅かな供回りを連れて、本能寺に泊まった「信長だけ」を討つのには確かにチャンスだが、その後の天下の行方に確信は掴めなかった筈である。

本来、光秀はそんな安易な賭けに出るほど愚か者ではない。

そう考えると、損得ずくでは無い何かが・・・そう、緊急性のある「或る事」が、裏に在った筈だ。

少なくともその時点では、「彼は、天下を望んだ訳ではない」と考える方が、自然である。

光秀の人生最大の決断は、本能寺に信長を討った事である。

天下の秀才・明智光秀が何故謀反を抱き、何故あの時期に「本能寺」に攻め入ったのか、疑問は多い。

諸説あるが、いずれも決め手に欠ける。

何故なら、決行したのがけしてチャンスとは言えないタイミングであり、光秀ほどの秀才に「全体の状況把握が出来ていない」とは思えないからだ。

本能寺の変の少し前、信長招待に拠る家康上洛の供応役を光秀が勤めて失敗し、信長が激怒した事が光秀謀反の根拠のように描いているが、それこそ作家の架空の話である。

確かに、この供応役を光秀が勤めたのは史実である。

だが、そもそも光秀が供応役に適任だったのは、当時の諸芸能が修験の流れであり、影の仕事では諜報部門の一翼を担う立場だったからである。

織田家臣団の諜報部長官だった光秀は修験芸能に気脈があり、舞も、能・狂言も光秀を窓口にすれば最高の者達が呼べた。

つまり信長は、己の力を見せつける為にも、家康に最高の芸能を見せたかっただけである。


視点を変え、光秀の血統と歴史の必然を考えれば、それはおのずと納得できるのである。

その時の光秀に天下奪取の野望などけして無く、光秀に私怨(しえん/個人的なうらみ)なども無かった。

つまり光秀は、永く続いたこの国の秩序を、あくまでも純粋に「損得」を越えた所で守ろうとした。


信長が、いかに光秀を愛していたかもうお判りだとは思うが、此処でエピソードを一つ加える。

それは、信長が光秀と秀吉に名乗らせた官、姓名である。

信長が二人に送ったのは、重大な意味を持つ土地に縁ある名(受領名)なのだ。

明智(惟任)日向守光秀、「日向の国」は、天孫降臨伝説の国である。

日向守は受領名であり、惟任(これとう)は九州の名門の名で、日向国の高千穂神社や、天岩戸神社がある神話上の日本発祥の地である。

羽柴筑前守秀吉の受領名・筑前守、「筑前の国」は神武天皇の最初の都で、比売大伸(ひめのおおみかみ)がおわす宇佐神宮の抑さえになる。

二つの国とも、朝廷にとってその成り立ち上もっとも重要な土地である。

ただ、秀吉には、姓は与えてはいない。


まだ中国地方の毛利氏さえ従ってはいない段階で、九州の国名や名族名を名乗らせた処に、信長の意志がある。

これらは、新帝国成立時に「神話」を信長の織田家に繋げる為の「道具だて」に成るのが狙いだった。

ちなみに、天照大神(あまてらすおおみかみ)がおわす伊勢神宮の伊勢の国は、信長の三男、織田(神戸)信考に所領を与えている。

これ等は、偶然ではない。

朝廷の所縁(ゆかり)の地を押さえる事で、歴史の書き換えを、目論んでいた疑いがあるのだ。

神官(越前・織田神社)の出・織田氏らしく、歴史を知り尽くした信長の、全国支配の戦略である。

加えて、光秀にはもう一つ「惟任(これとう)」と言う九州の名族の姓と称する姓を与えている。

惟任(これとう)については九州の名族となっているが、詳細は不明とする解説が多く惟任姓を名乗る家も在る事は在るが現在でも非常に僅かである。

他に考えられるのが、惟(これ)は、九州の古代豪族・阿蘇神社大宮司家・阿蘇国造(あそくにのみやっこ)・阿蘇氏の棟梁が名前に使うのが惟(これ)と何かを組み合わせた名で、例えば阿蘇惟直(あそこれなお)と、こちらの方が九州の名族として理解し易い。

これは、初期の九州時代のプチ朝廷から連綿と続く名家・阿蘇氏の名で、惟直(これなお)、惟時(これとき)、惟歳(これとし)、惟忠(これただ)、惟澄(これすみ)、惟村(これむら)、惟武(これたけ)、惟豊(これとよ)、惟任(これとう)、惟宗(これむね)、惟住(これずみ)などがある。

正確には明智光秀は改め、この時点で、惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀が、正しい名乗りである。

名目の九州の地は、赴任するには確かに遠い。

これをもって、光秀が「地方に追いやられる危機感を抱いた」とする説もある。

だが、それは歴史を薄くしか知らない者の稚拙な発想である。

鎌倉時代の昔から、守護、地頭職は、通常中央政権に在って政務を助けていた。

別に、遠方の領地・領国の運営は身内を代理に立てれば良い。

信長が、本当に光秀を不要と感じたら遠くに追いやったりしない。

殺すか、兵力を解体の上追放する。


惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀は馴染みが少ないので、本書は明智光秀で通している。

念を押すが、秀吉には、姓は与えてはいない。

重臣の丹羽長秀には、惟住(これずみ)と言う、やはり九州名族の姓を与えているが、受領名または官位は賜らなかった。

長秀(ながひで)が受領名・越前守を賜ったのは、賤ヶ岳の戦いの後、秀吉が天下を取ってからである。


名だたる信長家臣団のトップグループで、両方もらったのは光秀だけである。

つまり、信長の全国支配の戦略に、光秀は筆頭で組み込まれている。

中央に在って「補佐しろ」が、信長の意志であり、「新皇帝誕生」なら、光秀はさながら宰相のポストが用意されていたのだ。


実はもう一人、明智光秀同様に織田信長から家臣団のエース級に擬せられて男が居た。

赤母衣衆(あかほろしゅう)から重臣に出世し、信長の安土政権・京洛運営の要と成る南山城国と大和国の守護を命じられた塙直政(ばんなおまさ)である。

塙直政(ばんなおまさ)は、受領名・備中守に任ぜられ朝廷より九州の名族・原田の姓を下賜され、備中守・原田直政(はらだなおまさ)を名乗った。

つまり直政(なおまさ)は、明智光秀と同じく受領名(備中守)と九州の名族(原田)を賜ったのだから、「信長の期待は大きかった」と言って良い。

その点では、厳密には「両方もらったのが光秀だけ」とは言い難いが、しかし直政(なおまさ)の受領名・備中守は九州ではなく中国地方である。

そして残念ながら、原田直政(はらだなおまさ)は石山本願寺との戦いで野戦を挑み 敗戦 戦死した為、歴史の舞台からプツリと消えてしまった。

いずれにしても本能寺の変直前には、原田直政(はらだなおまさ)は既に無く、明智光秀だけが最有力として残っていた。

また、偵察・作戦立案等を担当した簗田広正(やなだひろまさ)も信長に功績を認められ、朝廷から官位・右近太夫と九州の名族である別喜姓を下賜されて別喜右近を名乗っているが、官位は柴田勝家同様に名乗りだけである。


織田家の本来の筆頭家老、柴田勝家の官名は、修理亮(しゅりのすけ)で、高位の官職ではあるが、地名・家名には関わりが無い。

柴田勝家については織田軍団の猛将と知られているが、微妙な所で明智光秀や羽柴秀吉とは主君・織田信長の扱いが違う。

織田家相続争いの際、弟・信行(信勝)擁立で信頼を失った勝家も、暫く干されて謹慎した後に赦されて信長の天下布武の一翼を担うようになり、次第に重用されるようになる。

勝家は越前の一向一揆平定後、越前国八郡・四十九万石、北ノ庄城(現在の福井市)を信長から与えられた。

一応の待遇だが、もしかするとこの勇猛なだけで実直過ぎて知略に欠ける武将を、信長は余り信頼していなかったのかも知れない。

まず勝家には、信長の衆道小姓上がりの前田利家、馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)を経由してひとかどの武将に出世した佐々成政、不破光治らの与力を付けられ北陸方面軍総司令官を勤めていたが、前田、佐々、不破は属将ではあるが独立した武将で柴田勝家の家臣ではない。

織田信長が「配下の将を与力に付ける」と言う事は、勝家がさしたる有力家臣を養っていなかったか、それともその能力を疑っていたのか、真偽のほどは判らないが、越後の上杉謙信に「手取川の戦い」で上杉謙信に大敗を喫するなど、てこずっていた事は事実である。

それに比べ、明智光秀と羽柴秀吉は自前の家臣団を率いて多くの武功を次々に上げている。

ここら辺りがこの物語の指摘する所だが、つまり織田家で何代も続いた武将の柴田勝家よりも、浪人上がりの明智光秀と氏も無い羽柴秀吉には信長配下の将を与力に付ける必要が無いほどの「恐るべきコネクションが在った」と言う事である。


柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。

勝家は京に向かおうと考えるも、上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。

残念ながら、そうした柴田勝家の総合力が後の北ノ庄城落城に結びついたのではないだろうか?

いずれ、勝家と光秀、秀吉の立場は逆転する事が伺える。

いや、実務的には既にそう成っていた。

信長新皇帝の下で宰相になるのは、間違いなく光秀である。

それを知らぬ光秀ではない。

そうなると、怨恨、ねたみ、私怨などの諸説は、考え難い。

光秀に天下取りの野望は在ったかも知れないが、それにしても本能寺の事は光秀が為したにしては無計画過ぎる。

やはり、差し迫った「何か」があった筈だ。

因(ちな)みにここで登場した惟宗(これむね)氏は、間違いなく古くから連綿と続く日本の名家である。

「秦氏の子孫」と言われ惟宗(これむね)広言の子の惟宗(島津)忠久が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から日向国島津庄(現宮崎県都城市)の地頭に任じられ島津氏を称した。

つまり九州薩摩国・島津家が旧・惟宗(これむね)氏である。


繰り返すが、信長は、希代の天才である。

彼は、まず「既存のもの」に疑問を抱く事から思考を開始する。

そして、残して良いものと破壊すべきものをふるいにかける。

けして破壊一辺倒の男ではない。

天才と秀才の決定的違いは、思考にある。

「閃(ひらめ)き」と「積み重ね」の違いではないだろうか?

つまり、同じ答えに至るまでのプロセスの違いである。

例えて言うなら、信長には一瞬で閃(ひらめ)き、既に答えが出ている事を、光秀は、相応の知識と情報から論理的に導き出す。

だが光秀のそれは、信長家臣団の中で最速だった。

故に信長は光秀を寵愛し、ほとんど右腕として傍(かたわら)に置いていた。

信長は誰にも言わなかったが、天下統一後の国家運営など、「天下布武」を打ち出した時には既に決まっていた。

「天下布武」は、織田信長が美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を旗印として用いている。


あの本能寺銃撃前夜の時点で、光秀の目的は「信長暗殺」この一点に在ったのだ。

その後の事は、不本意でも成行きで仕方無かった。

光秀をもってしても、差し迫ったその危機の回避に後の事を考える余裕が無かったのである。

事実、「三日天下」(実際には十三日間)と言われるくらい、あっけない結末だった。

「用意周到に事を起こした」とは思えない光秀の行動と、「希代の秀才」との評価のギャップに、後の人は「逆上による発作的行動ではなかったか?」と、およそクールな光秀には似合わない事さえ言う。

光秀は或る事が証明できないまま、ただの謀反人とされてしまった。

それほど、「計算度外視」で光秀が動いたのは何の為か?

もし、それが計算度外視の「重要な大義」だけで光秀が動いたのなら、それはそれで立派なものである。


この時期、織田信長明智光秀に寄せる信頼関係は、抜群である。

信長は、光秀こそ自分を理解できる「唯一の存在」と信じていた。

残念な事に、独立させて大名に据えた三人の我が子・信忠信雄信孝さえ、その才は無かった。

才と人脈に於いて、一に明智、二に明智である。

まぁ、三、四が無くて五に羽柴秀吉程度だった。

本能寺の変」当時の信長軍団の、全体の動向を見ると、それが良く判る。


織田信長は、かねての計画通り都の四方に大軍を向かわせ、大結界を敷いて自らの陰謀の仕上げに入っていた。

京の都に在って、傍に居たのは兵力一万三千の光秀指揮下の明智軍だけである。
信長自身は、「数百騎」と言う僅かな供回りしか連れていない。

明智軍こそは「信長旗本軍」であり、親衛隊代わりに信長が位置付けていて「裏切られる」などとは、露の先も考えては居なかった。


東国方面には同盟軍徳川家康、(ただし本人は京にあって不在)対北条氏と戦闘中。

北国方面には柴田勝家が対上杉氏と戦闘中で、この柴田勝家の属将として、かっての「稚児小姓前田利家も一軍を率いて与力していた。

前田利家は越前・一向一揆の鎮圧(越前一向一揆征伐)に与力、平定後に佐々成政、不破光治とともに府中十万石を三人相知で与えられ「府中三人衆」と呼ばれるようになる。

その後も前田利家は、信長の直参ながら主に柴田勝家の属将として与力を続け、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事して「本能寺の変」の頃には能登二十三万石を領有する大名と成っていた。

織田信長四天王(柴田勝家、羽柴秀吉丹羽長秀滝川一益)の一人・滝川一益は、「本能寺の変」当時は上州上野国群馬郡・厩橋城(前橋城)に在って関東に一大勢力を築いていた北条氏と対峙していた。

中国方面には羽柴秀吉、対毛利氏兵力三万と戦闘中。

四国方面には我が子、神戸(織田)信孝、対長宗我部氏との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出している。

つまり四方同時に攻めているのだ。

常識的に見て、只相手を倒すのが目的なら、これだけ強引に戦線拡大しなくても兵力を集中して攻め、一つ一つ倒した方が結果効率が良い筈だ。

そうしない所に、信長の真の目的が見え隠れして居るのである。

四方同時に攻めさしているには、信長流の読みがある。

あえて信長のミスを言うなら、この時「息子可愛さ」に、本来畿内地区の押さえ担当である丹羽(にわ)長秀を、信孝の四国攻めに付けて、近くを明智軍だけにした事か。

この一事を見る限り、信長にも肉親への愛と言う平凡さはある。

それにこの無警戒は光秀への信頼の現れであり、巷で言われる様な信長の「光秀いじめ」があったなら、それほど無警戒に身近を光秀軍だけには出来ない筈だ。

これを追っていた我輩は「在り得ない」と確信する。

何故なら「本能寺の変」の原因を手っ取り早くする為、芝居の脚本書きが「手早い仕事をした」と考えるからである。


光秀が信長抹殺の挙に出たには何者かの甘言あり、「操られた」との説が在るが、果たして信長・側近中の側近である知者・光秀が他者に操られる事など在るだろうか?

光秀は本能寺の変直前の愛宕山歌会で、「時は今、あめが下しる、五月哉」と言う歌を詠んでいる。

この歌について光秀研究者の間で、「時」は「土岐」、「あめ(天=雨)が下しる」は「天下」を表わし、「土岐氏(光秀)が天下を取る事を暗示している。」とされ、光秀の心は「この時既に、信長抹殺の意志決まっていた」と言う説がある。

あくまでも「歌がそう読める」と言う事で、それを証明する術は無いが、この解釈が光秀の真意なら、決断は自らした筈である。

この話、最近では余りにも広がり過ぎて、定説になりつつある。


信長には、長年思い描いた深い意図があった。

この全方位の戦線は、裏を返せば「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う事で、四方への攻撃が、そのまま京都に手が出せない防衛ライン(結界)を引いた事になる。

敵も見方も、「光秀軍を除いては」の事である。


光秀謀反について、信長が光秀を「虐めた」とか「見限った」とかの怨恨説や恐怖説の類を採る作者は、この畿内周辺の信長軍の配置の全貌を見て、「どう説明しよう」と言うのだ。

恐らくは江戸期に書かれた芝居の脚本や草紙本を、後の者達が「鵜呑みにしたのではないか」と思われる。

万一にも光秀を「亡き者にしょう」と言うなら、信長ほどち智才優れた男には遣り方は幾らでも在った筈である。

例えばであるが、光秀に家康の供応役をやらせている間に光秀の軍主力に先発命令を出し、先に毛利攻めの援軍に向かわせる方が光秀は軍事的に丸裸で余程合理的である。

ここは信長に、「織田新王朝の旗本親衛隊に明智軍が偽せられていた」と見る方が信憑性が高いのである。

そうした推察から、やはり光秀に、「全幅の信頼を置いていた」と考えるのが普通で有る。

もう一つ、忘れられているのか説明が付かなくて触れていないのか、本能寺急襲に於いて不可解な問題がある。

あれだけの軍事力、斬新な思考の持ち主である織田信長が、何故易々と光秀に本能寺急襲を赦したのか?

本来、信長が光秀を警戒していたなら、一万三千の大軍が三草(みくさ)峠で進路を都方面に変更した時に、放っていただろう間諜から第一報がもたらされなければならない筈である。

それがなかった。

では何故か、我輩の主張のごとく「光秀が織田軍団の諜報機関を完全に掌握していた」としか考えられない。

もしそうであれば、信長が全幅の信頼を置いていた証拠である。


妻・煕子(ひろこ)を通しての、姑・妻木(勘解由)範煕(のりひろ)との縁は、光秀に影人達の絶大な信用を与えた。

雑賀は勿論、甲賀、伊賀根来、柳生、全て元を正せば勘解由(かでの)党の草が郷士化したものである。

その光秀は、土岐源氏・明智(源)の棟梁で、盟主に担ぐには申し分ない。

信長はその光秀の影の力を、彼の能力と共に充分に知って彼を右腕に使っていた。

信長の大陰謀は佳境に入っていた。

光秀は、それに気が付いて戦慄した。

「今なら、お館様が都(京都)で何をなさっても誰も止められない。」

明智光秀が織田信長を討つ決断をしたのは、この信長の結界の為である。


ここで謎の一つだが、織田信長は何故本能寺に僅かな供廻りだけで宿泊したのだろうか?

実はこの事実さえも、明智光秀のあせりを誘ったのである。

畿内を制圧し「四方に軍を派遣した結界の中」とは言え余りにも無防備な信長の振る舞いだっが、けして増長しての事ではない。

それを敢えてした所に、信長の強い意志が有ったのだ。

この物語を最初から読んでいる方には理解され易いが、信長は既に「神」に成ろうとしていた。

安土城の天守に己の「神」を祀(まつ)った信長である。

この国の習慣では、諸国を「神の威光で統治する」には、帝は神格を持ち直接の武力を持たない。

つまり周囲の武力を持った国主が、神たる帝を守る図式なのである。


その「お館様の大陰謀」を察した光秀は、終(つい)に信長討伐を決意する。

そうとは知らぬ信長は、四方に軍団を侵攻させる事で事実上強固な「結界」を張り巡らして、絶対の自信の中に居た。

嫡男の信忠、次男の信雄(北畠信意)達を呼び寄せたのは、世継として「新皇帝宣言」に立ち合わせる為だった。

盟友・徳川家康武田氏平定の祝宴を理由に、僅かな手勢だけで京に呼び寄せてある。

家康が本国へ指示を出す前に「新皇帝宣言」を承認させ、事を終わらせて新帝国を既成事実にする為だ。


戦国時代で、しかもクールな織田信長ならば、通常考えれば、家康と信長の仲は本来イレギラーなものにしか見えない。

この辺りを、通常の思考では深か読みはせず、単なる「同盟関係だった」として、浅く決着してしまう。

この謎を解くには、信長一流の「先読み思考」を、後の世の人は読み取らねばならない。

徳川家を臣属化もせず、危ない橋を渡っても同盟の相手として何故(なにゆえ)に横腹に独立した大名・家康を置いていたのかは、天才信長ならではの先読みの計算だった。

信長の計算では、皇帝になる事を目論むからには家臣の大名以外で積極的にそれを認める有力戦国大名が欲しい。

家臣以外の心服者が居ないと世間的に様に成らないし、身内以外の賛同者は増えない。

その賛同者として手を挙げるに、充てになる一番手が清洲同盟の相手・徳川家康だった。

それだからこそ信長は、徳川家を家臣に組み入れないで「同盟の相手」として温存していた。

つまり、家康に「臣下の礼」を取らせるのは、皇帝の宣言をしてから後で良かったのだ。


織田信長が足利義昭を奉じて初めて都に上洛してから、既に十四年の歳月が流れていた。

この年、明智光秀は既に五十五歳の齢(よわい)を重ね、織田信長は四十九歳と人生の大きな節目を目前にし、羽柴秀吉は四十六歳の円熟期を向え、一番若い徳川家康でさえ四十歳の齢(よわい)を迎えていた。


天皇と都を抑え、将軍・足利義昭を中国地方・毛利氏の下に放逐、畿内一円の勢力を全て整理した織田信長の陰謀は佳境に入っていた。

光秀は、信長の陰謀に気が付いて戦慄した。

「今なら、お館様が都(京都)で何をなさっても誰も止められない。」

信長が張った大結界の意味を知った光秀は驚愕し、おおいに焦った。

光秀に取ってそうである様に、当然ながら当時の日本人は形式的に全てお上(帝)の臣下だった。

光秀は読んだ。

滞在先の丹波亀山城の天守閣で人払い、一人瞑想し、読んで、読んで、読み切った。

そして、一人天を仰いだ。

光秀の危惧した通り、信長の狙いは明白だった。

名目では、近々、信長自らが、光秀軍を擁して中国攻めの援軍に向かう事になっている。

その時が、間違いなく危ない。

恐らく信長の目論見では、光秀軍で京の朝廷、公家貴族を壊滅させる。

その間に、光秀の次に信頼を置ける秀吉軍を呼び返して周辺諸国を制圧させて、高らかに「新帝国の誕生」を宣言するつもりで居るのではないか。

まったくの新時代の幕開けである。

多分信長の事であるから、後の禍根を残さない為にも、朝廷、公家貴族の血筋を根絶やしにするまでやるだろう。

この一ヶ月、光秀は皇居の内裏と公卿達の屋敷が信長の兵に蹂躙され、炎に包まれる鮮烈な「白日夢」に悩まされていた。

「お館様、それは酷(むご)い。」


信長の試みは、「野望」と言うなら確かに野望であるが、天下を手に入れて楽しむのが信長の目的ではない。

信長にとっては、己の知力をかけて帝位に挑む(挑戦する)事そのものが生き甲斐だった。

実力のある者が、最高の地位につく・・・極普通の発想の筈だ。

しかしその価値観の発想は、この国では「禁じ手の間違い」だったのである。

この結論に達した時、光秀は信長の様に天才には成り得なかった。

権謀術策の世界で気高く生きるのは難しい事で、主君・信長の生き方も理解できる光秀故に思いは揺れ動く。

しかし、とても信長の様にすっ飛んだ発想の元に「鬼神の振る舞い」など出来ない。

光秀の価値観には、捨て切れない朝廷貴族の血・村上源氏土岐流が流れていたのだ。

これは天皇制の国家観の問題で、人夫々(ひとそれぞれ)だからどちらが正解と軽々には言えないが、織田信長は天皇制はぶち壊すべき存在で、明智光秀には天皇制は命を賭しても守るべき存在だった。


「この国では、朝廷(帝)が無くなれば国体が維持出来ない。」

光秀は、純粋にそう思っていた。

皇統が途絶える事は、「権威」の裏付けが無く成る事で「秩序」が崩壊する。

当時の日本人に取っては自ら「経験の無い恐怖」に陥る事に近かった。

長年培われた皇統中心の精神秩序を壊して、新たな秩序を構築するなど、リスクが多過ぎる話だった。

これはボタンの掛け違いで、明智光秀が解釈していた「お館様の天下布武」は将軍としての天下取りだった。

所が、織田信長の目指した「我、天下布武」は、織田新帝国だったのである。

勿論、この明智光秀と織田信長の考え方の行き違いは、「どちらが間違いで、どちらが正しい」と言う類(たぐい)のものでは無い。

互いの、「こう在るべし」と言う思考上の譲れない考えの違いが、「光秀の本能寺急襲」と成った事が、その真相である。


実は室町幕府に於いても後の江戸幕府に於いても、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達は帝及び公家衆の意向を受けて密かに与力して活動を為していた。

それ故に歴史の表面にこそ現れないが、帝及び公家衆と幕府との間には、激しい暗闘が在った。

明智光秀は妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木家を通して、その皇統を護持する勘解由小路系の草達の多くを使う立場で、それこそが光秀の力の源だった。


神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

人間は、肩書きが無ければ権威が持てない。

しかし一定の秩序は必要で、その権威の拠り所が朝廷から賜る官位だった。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び大名に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

お館様・織田信長に、朝廷・帝の権威に代わる千五百年〜二千年の重みがにわかに備え付く筈が無い。


織田信長と明智光秀の思いは、すれ違っていた。

光秀は、織田信長の「天下布武に如何に対処すべきか」の決断を迫られた。

此処に到って、「帝の御命をお守りするは、裏切りに在らず。」

それが、朝臣・惟任日向守光秀の結論だった。


光秀軍には、中国攻めの秀吉に合力(手助け)する名目で、カモフラージュさせての武装軍団の編成指示が出ていた。

武田信玄亡き後、庶子で四男・武田勝頼(たけだかつより)が率いた甲斐・信濃を織田信長は平定し、千五百八十二年(天正十年)終(つい)に覇権を握る為の工作が最終段階に入っていた。


本能寺は、天下布武(てんかふぶ)を目指した一代の英雄、織田信長の最後の地と言われている。

実は、「本能寺の変」当時の本能寺の所在地は、現在の本能寺の位置とは違っている。

都の中央を内裏まで貫く朱雀大路から東へ七本目の油小路が、最南端の九条大路から皇宮御所の内裏(だいり)に向かって十八本目の高辻小路と十九本目の五条坊門小路との間の交わる場所が、当時の本能寺の所在地だった。

千五百八十二年(天正十年)六月の始め、明智光秀は一万三千騎の軍勢を率いて丹波亀山城を出立する。

一万三千騎の大軍は、三草(みくさ)越え街道を粛々(しゅくしゅく)と進んでいた。

奇妙な事に、この時畿内には光秀軍以外に、これと言う大軍勢は居なかった。

粛々(しゅくしゅく)と進む軍勢のざわめき、荷駄の音、時折聞こえる軍馬の嘶き、初夏の草息切れの中、明智勢一万三千騎の向かうは西方、中国地方の大々名、毛利家攻めの羽柴秀吉加勢・・・・の筈だった。

夕刻、その軍勢が突如行き先を変えた。

光秀が、東に向きを変え、老の山(おいのやま)から山崎より摂津の地を経て、京の都に着いた時は、既に明け方近くであった。

都はまだ覚めやらず、静まり返っていた。

ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月があった。

光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。

切羽詰まった光秀にとっては急場の決断を要する事だった。

兵を向けた本能寺の事は決断あるのみで、「どうしたら良いのか」と迷っている間など無かったのだ。

ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月が在った。

光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。

都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。

都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。


都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。

都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。

桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。


街道を無数の騎馬の一団と、それに必死で追いすがる徒(かち)の雑兵が早駆けで進んでいる。

万を越える明智勢の大軍が、息を殺しながら都の町に殺到していた。

桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。

光秀は無言だった。

恐ろしさはあるが、自分には生きる証がこの生き方しかない。

粛々と進む軍勢を馬上から眺めながら、やはり「それが正しい選択だろうか?」と言う自問自答の思いが、この期に及んで光秀の脳裏に浮かぶ。

狙うは、「稀代の天才」と尊敬するお館様・織田信長のお命である。

考え抜いた末の行動だったが、「お命縮めまいらせるは惜しいお方」と言う思いは拭えない光秀だった。

やっと全軍に、光秀の「信長公討ち取り」の下知が下ったのは、先陣を務めた安田作兵衛(天野源右衛門)の一隊が、「本能寺に到達した」と伝令が伝えた時だった。

ここから後戻りしても、どの道その命令違反を詰問され明智家は無事では済まない。

光秀の軍勢が、引き返せない所に達していたのである。


織田信長は本能寺に居た。

夜明けを待つ静寂に包まれた本能寺は、石垣土塁を持ち堀一重に囲まれた小城郭の様な寺である。

その本能寺の造作が、今は何もかも黒々と静まり返っている。

先程人払いをして、一人で庭にいた。
夏虫の声が聞こえる。

信長には漸く、野望に手が届く所にあった。

孤独には絶えず襲われていた。

苦しい時、信長は月を見上げる。

月は僅かばかりに闇を遠ざけ、密かに安堵が訪れる。

孤高の信長には、他人には見せられない孤独がある。

「此処まで、我ながらよう来たものだ。」

立ちはだかっていた壁は、ことごとく打ち壊して、近隣に遮(さえぎ)るものは無くなっている。

「阿修羅と成りても、やらねばならぬ。」信長には大願が目前に見えていた。

博多の豪商・島井宗室や女達を交えた茶会の後、先ほどまで森欄丸を相手に酒(ささ)をたしなみ、珍しく酔って眠気を催していた信長は、「ふぅ」と一息付いて庭から寝所に戻った。

床に入った後の事は、信長の記憶にない。

確かに都は深い眠りに着いていた。

しかし、その静寂が突然破れ、古都の一角が震えた。

歴史が大きく動く瞬間だった。


夜が白み始めた早朝、法華宗・本能寺は、一万三千の大軍に囲まれていた。

本能寺に居たのは森欄丸(もりらんまる)ら、「僅か小姓近習衆二百数十名に過ぎなかった」と言われ、大軍に囲まれては、寺の堀など一溜まりも無い。

余りにも有名で芝居がかった「敵は本能寺にあり。」は、本当に芝居じみた事を光秀が言ったか判らない。

後の人間が、劇的になる様に表現したのではないか?

思うに、時は手柄争い下克上の時代で、早々と宣言すれば早馬で内通する者が出ないとも限らない。

増してや、部下をいたずらに興奮させては信長を取り逃がす。

完全に包囲するまでは悟られぬよう粛々と、静かに行軍するのが自然である。

ただ、これだけの大軍に包囲されれば、逃げ切れる状況にないのは確かで在った。

時の声は、包囲が完了してから上げた。

明け方、夜が白み掛けた頃に本能寺の四方から時の声が上がり、時ならぬ軍馬の響きに流石の信長も寝床で目が覚めた。

「火事でも起きたか」と思った信長が布団を跳ね上げ、起き上がって部屋の外に声をかけた。
「何事じゃ。」

敵は居ない筈だった。

所が、信長が予想だにしない容易ならざる事態だった。

「お館様、何者かに寺を包まれてござります。」

小姓の一人が悲痛な声で答えた。

信長にとってそれは、想像すらしなかった不測の事態だった。

「おのれ、いずれの手の者じゃ。小姓ども、敵の数はいかに。」

「お館様、寄せては大軍にござりますれば、防ぎ切れません。」

「何。それほどの軍勢、この辺りに居る訳がない。」

信長は夜着のまま手槍を手に濡れ縁に走り出た。

慌てて、袴を身に着ける間も無かった。

「各々方、お館様をお守り致せ。退路を捜せ。」

既に森欄丸が手勢の指揮をしていた。

「退路は塞がれております。」

何処からか、悲痛な声が聞こえる。


やがて、「わー」と言う辺りを威圧する時の声が、押し包むような威圧感で、四方から上がる。

乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響き、寄せ手が迫っているらしく、既に警護の者の防戦は始まっていた。

「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。

「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来る無数の矢。

「ターン・ターン」柱や板戸に刺さる矢の音。

逃げ惑う女性(にょしょう)や寺僧の悲鳴、本能寺は一瞬にして喧騒に包まれる。

やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。

供周りの者が物見に走る。

取り囲んだ軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。

欄丸(らんまる)が目にした寄せ手の軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。

水色桔梗紋は、紛(まぎ)れもなく惟任日向(これとうひゅが/明智光秀)の軍勢だった。

「御注進、御注進、旗印は桔梗紋・・・水色桔梗紋。」

物見の者から、声が上がる。

傍らの森欄丸が叫ぶ。

「お館様、あれは惟任日向めの軍勢にござります。」

「光秀か、是非に及ばず。」







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天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)】に飛ぶ。
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山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説】に飛ぶ。
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暗闇祭り(くらやみまつり)の歴史認識】に飛ぶ。
広域倭の国論(定説・日本倭国論の疑惑)】に飛ぶ。
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鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
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天照大神天の岩戸伝説は只の神話か?
天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)
仮説・宇佐岐(うさぎ)氏=須佐王(スサノウ)説
神武東遷物語・神話顛末記最新版
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する
大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程
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日本語のルーツと安倍氏
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【*】短編人生小説 (4)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

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小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

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とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

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茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

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歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。




あなたは、人目の訪問者です。


作者本名鈴木峰晴