【第一章 性に関するまやかしの社会合意】
人は皆、日常において建前の仮面をかぶって生活している。
社会生活上の「暗黙」の合意として、それは必要不可欠なものだ。
しかし本来人間は、全て性的なものに関して病人である。
もし、「私に限っては性的に正常である。」と主張する人がいるとすれば、それは本人が自覚していないだけだ。
あるいは、建前だけで物を言っているかどちらかだ。
現に、某大国の前の大統領と女性研修生との官邸不倫や、わが国の指三本首相など、最高の地位にあるものでも、下半身の人格は、時として別なのだ。
だからといって、それらを容認するのが目的ではない。
現実を検証するために、例として上げた。
ただ、浮気をしたからといって、それを異常とは世間は言わない。
このテーマにおいて、正常の確たる定義はまだない。
勿論、異常の定義などは個人の考え方によって相当な格差があり、ほとんど「個人的主観」と言える。
とは言え、人々がまともに建前の仮面を取り外して行動すれば、社会は成立たない。
しかし性的欲求は、正面から望まなくても内側から勝手に次々と沸いてくる。
その矛盾の中で人々は、人生の旅をする。
人間における、異性への力(もてたいパワー)はすごい。
大概の若者の向上心は、もてたいパワーの発するエネルギーに、その源をみる。
音楽であれ、芸術であれ、スポーツであれ、金儲けであれ、勉学であれ、そのスタート時点では、もてたいパワーが明らかにエネルギー元(パワーの源)となっていることは確かと言える。
親達が、これを否定せず上手に使えば、あるいは何かの分野で成功するかもしれない。
しかし、挫折や苦悩もおおい。
成功に至っても、人生の荒波は続く。
そして、日常社会と「非日常的性の欲求」の共存は、人類であるからこその永遠のテーマとなる。
なぜならば、現代において「性の欲求」は日常生活からの離脱を意味し、ある種「精神的バランス保持」の特効薬の役わりを荷っているからだ。
ある意味、「猥褻(わいせつ)で、非日常的」であればあるほど日常から開放される特効薬なの、かも知れない。
だからこそ性に関しては、貧富の差も、善人も悪人も、学識者であろうが無かろうが、わけ隔てなく問題を起こす。
しかしそれならまだ良い。
通常考えられる猥褻とは結びつかない代替行為(たとえば殺人など)で、「性的快感を得る」などとなったら、大いに問題である。
たとえば、犬の世界でさえ、未成熟の子犬を狙うなど考えられないのに、人間界には存在する。
同性を性の対象とするのも、人間である。
学者に言わせると、幼児期の体験によってそうした「異常な性格は形成される」こともあるらしい。
それらが事件として表面化して、社会不安となっている。
不幸にも、文明、文化が発達し、人々の知的水準が上がれば、上がるほど、それに比例するように、「非日常的性の欲求」も強くならねば人はバランスが保てない。
つまり、得るものがあれば必ず失うものがあるがごとく、現代文明に対応する精神のバランスもコストが高く付くのだ。
つまり、人間は頭脳のバランス調整能力以上に、文明を発展し過ぎたのかもしれない。
この「非日常的性の欲求」は時として反社会的個人行動として表面化し、罪のない被害者を生み出す「危険」をはらんでいる。
それに不況と言う経済的不安や、あやしげな年金の将来不安などがあいまって、今が日本国民に閉塞感を抱かせているのだ。
この経済不況は、十五年の永きに渡っている。
「不況が教育に影響を与える」と言う切り口は皆忘れ勝ちな事あるが、ベトナム戦争の兵士の心的後遺症の事を考えると、重要なのである。
米国で、ベトナム帰還兵が、社会人として立ち直れない症候が多発したように、この十五、六年の不況の中で育った多くの若者たちは、心になんらかの傷を負う可能性は、好況時よりはるかに多い。
なぜなら、ベトナムに行った米兵は、平均十八歳ぐらいだった。
やがて、彼らが親になるのは、社会的にも不安で、危なげだからこそ、この連鎖は断ち切るべきではないか。
なぜなら、彼らがすでに「子育てを始めている」からなのだ。
そして、それトラウマ的心の傷は、景気が回復しても、中々癒せないので、一刻も早い不況からの脱出が望ましいのである。
発生した社会問題が、新たな問題を発生させる恐ろしさがそこに潜んでいる。
現代社会では、中々そのストレスの解消方法が無い。
しかし非日常の性的欲求は、表立っては存在さえ認められてはいない。
だからといって、ただ闇に隠して済む問題でもない。
闇に隠すからこそ、曲がった性癖の人間を創り出す事も考えられるのだ。
「芸術対猥褻(わいせつ)」などの論争は、そうした一面が表面化したものだ。
人類の長い歴史において、文明、文化の発達とともに「性の問題」はまるでその進歩と逆行するようにますます強くなりながらタブー視されてきた。
実は、逆行せざるを得ないほどの猥褻的欲求の高まりが、社会の進歩に反発して「内からなる精神的必要性」となって形成されるからだ。
(つまり、精神的バランスをとるために、どんどんスケベになって、それを益々隠す必要が生じたという・イタチごっこ・になっていると言うことだ。)
すなわち、現実的な問題にもかかわらず、非現実的な位置づけをすることによって、その問題に蓋をし、言わば先送りしていたにすぎない。
ここで少し問題提起がある。
法律上の十八歳以上は、この精神的バランスを比較的安価、安易にとる手段として、雑誌、ビデオやDXD、映画、ショウなどがある。
だが、同じ情報の氾濫にさらされている、若くて健康な十五歳から十八歳未満は、そのバランスを、何でとればいいのか。
年齢がきていないから、それらを見れば悪影響が有ると言うのは本当なのか。
反対に、自然な欲求を精神的にバランスをとることを禁じて悪影響はないのか。
十八禁作品を見ると、「異常な性癖が育つ危険がある」と言う。
だがこれは、「法律で禁じられているだけ」で実態は、この年になればほとんどの者が隠れて見ている。
本当に危険なら、ほぼ全員が異常にならなければならない。
映像など、時代を反映するものであって、原因はほかにあるのだが、安直に映像のせいにすれば、社会全体が「自分達は範疇に無い」と建前安心するシステムになっているらしい。
つまり、母親を安心させるために、建前「子供は性にはかかわりが無い」ことになっているだけだ。
しかし、ここに疑問がある、個人の性癖をいったいだれが、どういう尺度で正常や異常などと区別しているのか。
性において正常、異常の区別のしかたは、良いとは言えない。
なぜなら安易に貼った異常と言うレッテルは、はられた者にかなりの言われなきダメージをあたえ、かえって「反社会的行動を密かに助長する結果」になるかも知れない。
異常者とは、精神障害者と同意語と受け取られるからであり、それでは、逃げ場を失い救われようがない。
それよりも、社会的か反社会的(被害者の存在の有無)かの尺度でのみ「それ」を判断する事によって合意したほうが、はるかにわかりやすくて良いのではないか。
「自分の主観と違う性癖」即異常では、余りにも心の狭い考えではないのか?
どうも、現在では人間個々の性的興奮の対象は相当多様化しているようである。
それは、性について闇雲に蓋をする一方で、あらゆる情報が「蓋をするからこそ秩序も作れず」の、野放しに氾濫しているからだ。
長々と書いているのは、こうした性の問題から子供達が置き去りにされているからだ。
思春期を迎えた子供にも、相応の性的葛藤はあるのだ。
つまり、国も学校も親も、子供達に指針を示せず無責任に「いずれ勝手に覚える」として、子供達に「げた」を預けて、逃げてしまっているからだ。
確かに、世の中がおおらかだった過去においては、それでも事は済んできた。
しかし、子供達を取り巻く環境は恐ろしいスピードで変化しつつあるのに、まったく旧態然とした考え方で良いものか。
一例をあげれば、親を助けるための手伝い以外の子供のストレスによる不登校など、昔は無かった。
それだけ、教育現場は病んでいるのだ。
こうした背景を踏まえ、昭和の終わりごろから性教育について、文部省(当時)からの通達がなされ、小学一年生からの性教育が始った。
しかしながらこの性教育、非常に問題が多い。
当時の政治家・官僚の「隠蔽体質」の認識から物議発生を恐れ、秘密裏に見切り発車をして、今日に至っている。
父兄にその実態を知らせて居ない理由は、世代間の性に対するギャップが大きすぎる為だ。
そこで、学校と家庭の連携がとれ無い。
また、小学校の低学年からでは、余りにも受けて側に無理を感じる。
つまり、世間にその「正確な存在」を知らせる情報を提供しなかった。
したがって論議をする事なく現場の教師任せに推移し、家庭と教育現場の認識は「かい離」してしまった。
親の世代にさえ、性教育に対する説明も合意も得ていないのだ。
その為、家庭の親が知らない、子供の密やかな知識として、性が醸成されてしまった。
論議を尽くさず、強引に事を進めた結果である。
性教育の必要性自体は当然であるが、子供の成長過程に即する段階的な内容を選択する事と、社会合意との適合がなされないと、良い結果は得られない。
また、この早期の性教育と、法的に「十八歳までは子供」とする現行の法律とは、与える知識とあまりにも年齢的にずれがあり、バランスが悪い。
これらの事に配慮もなく、部分的に対処する事に、官僚政治の矛盾がある。
つまり「発生対応主義」で、全体の設計などしない。
あらゆる場面で社会矛盾が露呈するのは、この「継ぎはぎ」に終始した国家運営にある。
近頃多発する少年の性犯罪・異常犯罪とこの「ゆがんだ性教育」の関わりも、検証する必要を感じさせる。
はたして、性犯罪を犯す人間を、「単に産まれ付いての反社会的個性の発露」としてのみ、かたずけてしまえば良い事なのか。
彼ら現代に病んだものが、精神的バランスを反社会的行為でとる事を、今から直すのは極めてむずかしい。
現実に性犯罪者は再犯の確立が高い。
しかしこれからの子供達に、あらかじめ「あらゆる方法を使って」正しいバランスの取り方の習得に手を貸すことはできないものか。
それには、社会全体の合意がなされないと、「ゆがみ」が生じてしまうのである。
成長期の「性教育の必要性」を叫ばれて久しいが、実質さしたる事は出来ないでいる。
学校と家庭の連携が取れていないからだ。
現状の教育現場でも、教師は対応に苦慮し、「家に帰っても、この授業の事は親に言うなと、口止めする教師も居る」と言う。
安易に,親との「認識のずれ」による摩擦を避けるのが目的である。
しかし、こんな「こそこそした教育」で、多感な子供が教師を信用するわけが無い。
また、そこまでに教師を追い詰めた「無責任な官僚」の配慮の無さにはあきれてしまう。
最初に「隠す」ありきでは、誰もなにも出来ないのだ。
親に騒がれないうちに、「こっそり子供の教育だけやってしまおう」と言う発想なら、戦前の恐ろしい全体主義の手法である。
他の問題でもそうだが、建前だけで「子育てあるいは教育」が、できる訳がない。
建前だけで押し通そうとすると、相手に不信感だけが残る。
こうした背景の中で、現代の子供は以前に比べ身体の成長が早く成っている。
そのバランスの悪さが、社会問題の元凶なのだ。
それでも、子供の身体の成長に待ったは効かない。
本当に大事なのは、中学生になってからの三年間の性教育と、中学卒業から十八歳になるまでの社会の環境である。
以前は、密かにアドバイスしてくれる歳の離れた兄弟とか、近所のお兄さんとか、たまには「相手をしてくれる、おねえさん」、などが居てそれなりの本音を教える役目を果たしていた。
だが、そうしたボランティアは、今はない。
むかしは、地方によっては「夜這い」なる非公式な習慣もあって、村の若い後家さんが若い衆に性の手ほどきをするボランティアもあったそうだ。
もっとも、こうしたボランティアを、今時したら、「家の子に変なことを教えた」として一方的に罪人になりかねない。
昔,何ゆえこういう非公式な習慣が「存在したのか?」と言うことを考える前に,建前で否定される。
このあたりで、近・現代社会の構造的欠陥が浮き彫りになる。
すなわち現実と虚構のギャップである。
過去にさかのぼると、つい百年ほど前の江戸時代でも、女性は十四・五歳で嫁に行き、子供を産んで育てる。
したがって、子沢山の家庭が多い。
男性でもほぼ同じ頃には、そろそろ時期だと考えた父親や兄貴などに、教えてくれるところに連れられて行き、なかば公に性行為を経験していて当たり前の時代だった。
また、結婚も出来た。
それでその時代は、さしたる問題はなかった。
つまり現代の十四・五歳は、生物学的には既に成長し、自然に交尾時期を迎えていて、しかも「読み書きそろばん」時代よりはるかに高度な知識をもって、そこにいるのだ。
身体と知識の方がとっくに出来ているのに、それを「他の理由」でむりやり抑えるのは人間社会だけだ。
生物である以上、年頃になれば自然に性欲は涌く。
それを無いものと隠し、さらに色々と禁じて、なにが何でも性衝動を抑えようとするのは、「文明が進んだ」と言う、からだや心の発達とはまったく「別の都合」からである。
文明が進んで暮らしが豊かになったのと引き換えに、情報量が飛躍的に増え、勉強時間も大幅に増やす必要にかられた。
これらの情報を勉強して習得しなければ生きてはいけない、「少なくとも良い暮らしは望めない」、親の気持ちも解る。
国も同じだ、国民に勉強させて「稼げる強い国」でいたい。
つまり、単に国民一人当たりの生産性を上げたいだけなのだ。
そうした「都合」だけを優先するあまり、からだや心を意図的に置き去りにしたのだ。
それでわが国の名曲に「十五でネイやーは、嫁に行き」のフレーズがあるだけで、若年者に「性的悪影響がある」などと、ばかげたこと言い、文部(旧)省唱歌から外すという暴挙に出る。
そうしたおかしな都合で、人間本来の自然な性の要求から両者(国と親)結託して遠ざける。
能力や興味の無い者に、無理やり勉強だけを押し付けて、正しい選択と言い張る。
隣の席に座るのは皆ライバルと教える進学塾が良い塾では、殺伐とした育ち方をするとは考えないのか。
隣人を思いやる心が育つとは思えない。
若いうちから敗北・挫折に見舞われ続けた若者が、自暴自棄になり、自殺や、凶悪犯罪に走るのは、社会のせいでもあるのだ。
主要五教科が全てできることを要求しなくても、才能のある人間いくらでもいる。
必要だからと小中学校で、膨大な情報を詰め込まれ、足りなくて塾通いをする。
子供は悲鳴を上げている。
そこから外れると、落ちこぼれの烙印を押す。
どの子にも起こりえるのに、根拠も無しに「うちの子に限って大丈夫だ」と、勉強を無理強いする。
むしろ才能を見出してやるほうが良い。
子供には、どんな能力が隠されているか解らない。
親や教師の一般的子供との比較の物差しでは、信じられない能力が、子供達に隠されているかもしれない。
教育制度からはみ出した不登校組から、社会で立派に通用する技術者や芸術家が出ている。
そうした芽を摘むのは許せない。
押し付けられたことへのはけ口に、子供社会で「いじめ」が横行する。
普段塾通いなどに追われて、友達と遊ぶ経験が少ないので、加減を知らない。
それでとことんやってしまう。
ホームレス狩りや、親父狩りに走ってうさばらしをする。
その過程で、落ちこぼれや登校拒否児を次々と生み出す。
そこにこの十五・六年に及ぶ経済不況による社会不安が追い討ちをかけて、親が子を見る余裕がない。
その抑圧が成長過程の子供に対して、時として思わぬ害を心に与え、「本来対象であるはずの異性ではなく、それ以外」に性的関心を抱くようになるのではないのか。
それを、一番安易な方法、つまり「隠し、遠ざける」だけでは解決には至らない。
そうした奇妙な現状に最も手を貸したのはいわば父兄といわれる主婦層である。
子供達を守りたいという、言い分はわかる。
しかし、性欲をなきものとして徹底的に隠す不自然さは、本当に正しいのか。
それで子供達が、親達を信用しなくなるとは思わないのか?
現に子供達は年頃になれば、危なげではあるが、いつの間にか知っている
もし、子供達の判断力を疑って隠しているなら、それは「教育全体の設計」が悪い。
十六・七歳にもなって善悪の判断力がないのでは、教育制度自身になんの力もないではないか。
それとも、教育制度ではなく「ただの勉学制度」なのか。
近頃、若年層の大人並みの犯罪が増加して社会問題になっている。
被害者側のことを考えると、今の少年法は、現実に合わないとの指摘もある。
それで一部見直されたのだが、片手落ちの滑稽なものになってしまった。
もう少し包括的な、「教育設計の見直し」が必要なのだ。
基本的に義務と権利のバランスが良くないと、その運用に、される側の「疑念」が生まれる。
法的責任を負わせるなら、それなりの大人としての権利も含めた責任を負わせる教育の形態を築くべきである。
つまり、大人扱いをする代わりに責任を持たせろという事だ。
たたき台を提案しょう。
十五歳以上は現在でも義務教育ではない。
少年法の適用範囲を十五歳以下としたらどうだろう。
そのかわり、ビデオなどの十八禁も十五禁としながら、あらかじめ正しい判断が出来るように、社会適合教育や性教育を、専門職を設けて小中学校でする。
なぜなら、今の十五〜六歳は少年法という法律上の立場を知っていて、違法な悪さをする確信犯だ。
変に知識が先行して、昔の子のように「悪いことしてはいけない」などと言うより、自分がアウトかセーフかで計算する。
ここ数年間の童貞喪失年齢は十六・五歳、処女喪失年齢は十五・五歳となっていて、やっていることは立派に大人なのに、建前無いことになっているので、あらかじめ対処する教育システムも確立してはいない。
かえって、親や社会の目の届かない影のところで、それは危なげに行われる。
勿論、避妊や性病などの危険に対する教育も、不充分だ。
親や社会にはしかられるので、隠していて、相談などしない。
建前無いことになっているから、彼ら(彼女ら)が、影ですることに、指導はできない。
あえて言わしてもらえば、中学生にもなったらしっかり性の存在を教えたほうが良い。
幼い性行為の危険を理解させたうえで「大人になればこんな素晴らしいことが出来る」だから今のうちに良い相手が得られるように、努力して「何か身に付けなければならない」と教える。
学歴でも、スポーツでも、芸術でも、技術でも良い、個性に合わせて努力して伸ばせば、生きていく力になる。
「異性同士が結ばれることで、互いに心を癒しながら、生きてゆける」、だからよき相手を獲得するために、今は努力する。
遊んでいては、良い相手には恵まれない。
増してや悪いことをすれば、相手を得るチャンスを失う。
そう教えたほうが、「若い彼らが納得する」というのは、言いすぎだろうか。
本来思春期の「もてたいパワー」はすごいのだから、それを良い方向に活用するのも、一つの教育手段だと思うのだが。
正しい情報、正しい目的なら彼らも納得するはずだ。
あなた方の子供なら、きっと彼ら(彼女ら)は自分で目標を決め、愚かなことはしないはずだ。
社会保険の年金問題で、世間が騒がしいが、ちゃんちゃらおかしい。
「政治家も役人も本質を取り上げない。」
少子化は、晩婚と一体の話だ。
その根にあるのは、長すぎる教育に必要な期間(無理やり子供にしておきたい期間)である。
早婚と比べて、設ける子供の数が減るのは当たり前ではないか。
十八歳や二十歳まで無理やり子ども扱いして、社会に出るスタートを遅らせ、そこからやっと仕事を始めて、五年、七年と生活の基盤を作る。
女性も二十五歳を過ぎると、そのうちやりたい仕事が出来て、結婚は後回しとなる。
女性の社会進出で、結婚時年齢は、三十歳を超える女性も多い。
これでは、体力的にも多くの子は設けられない。
この件については、ライブドア・ブログ 内の「少子化問題は建前論の結果である」に、かなり詳しく記載している。
将来日本の労働人口は、半分になると言う、その抜本策が政府には無い。
もし日本国家百年の計と言うなら、今の矛盾に満ちた「少年法」から手を付けたらどうか。
若くして結婚し、子を設ける選択肢も個人の自由として与えてはどうか。
きらいな勉強を長くするより、早く社会に出たい人間もいるはずだ。
少子化対策になるばかりでない。
若くて賃金の安い労働力は、国内下請企業の競争力を高め、産業の空洞化対策にもなる。
そのためにも、中小企業を再生しなければならない。
彼らの働き場所(受け皿)は、中小企業になるのだから。
その子たちを教え育てるためのベテラン技術者もリストラを免れる。
定年延長などと言っても、延長する前にその会社そのものが無くなっては、定年延長論議どころではない。
つまり一連の日本再生策なのだ.
母親が若ければ母体も健康で、子供を設けられる期間も長い。
一夫婦で三人、四人と子を設ける可能性が増える。
若くても稼げる社会。
つまり生活していける環境を整え、早くから子を設けてもらう。
若年夫婦の出産費用は、彼らの収入によって、国で負担してやればよい。
将来のために道路や空港を建設すると言うなら、人口を作っても良いはずだ。
保育所、託児所など子育てサポートの社会環境を充実していく。
社会保険庁の年金活用の予算は、こうした施設や設備に回して運用する。
この施設を未納者には利用できないようにしていけば、年金加入実績が、結婚の条件になるかもしれない。
若年層家庭の子供の養育には、手厚い社会保護を行い、将来の日本の人口増加をサポートする。
なぜなら、国民のいない国家など存在しないからだ。
女性で、「子を産むことだけが女性の仕事ではない」と主張する進歩(?)した方もおられるようだ。
しかし彼女達にも、基本的に、母性はあるはずだ。
母性を持ち合わせないとしたら、それこそ異常かもしれないので、医者を進めたい。
女性の全員が、あなたと同じ考えのわけが無い、事情が許せば子供が欲しい女性のほうが多いはずだ。
昔は子沢山で貧乏だったが、社会は「おおらか」だった。
もったいなくも、日本の高度成長時代を支えた集団就職組は、そうした家庭の出身者だったが、大半は社会で立派に勉強して、生活を築いてきた。
習い覚えた技術で、結構な事業の企業に発展させた方も多い。
彼らに学歴は無かったが、生きるために懸命に学んだから、「高い学識のある人」は少なくなかったのだ。
少年法が改正されたら、十五歳でも、大人なのだから、高校(等)就学者以外は年金保険にも加入する。
選挙権も持たせて、社会のことも学ばせたら良い。
責任を負わせれば、もつと社会や政治に早くから関心を持つ人間が増えるかも知れない。
犯罪においても子ども扱いはしない。
十五歳では、「学生の場合」収入が無いから大人とはいえないと、反論するかもしれないが、今でも大学生は、収入が無くても二十歳過ぎれば少年法の適用はない。
法律は刑法と、民法に分かれている。
刑法上の責任は、本人が取り、金銭的民法上の責任は、当人に収入があるまでは当然親がみるべきだ。
人間性が未完成だというなら、三十歳過ぎても、四十歳過ぎても未完成なのはいる。
十五、六歳の彼らは、考えていることもやっていることも大人なのだ。
逆説的に言えば、とっくに大人の彼らを「子供だ、子供だ」と扱うので、社会的には大人になり切れないのではないのか。
少年法が片手落ちなのはこういうことだ。
今でも十五歳になれば、就職はできる。
しかし、全てにわたって子ども扱いだ。
それで一人前の社会人の自覚は育たない、勤め先も子ども扱いになる。
そんな矛盾に満ちた立場では、彼らの居場所は無い。
社会も、「高校くらいは」などと言う。
その環境を根こそぎ変えなければ実行は上がらない.
「もう将来役に立ちそうも無い余分な勉強を長々とさせられるのはいやだ。」
「今覚えても、どの道忘れて使いようがない勉強をなぜさせるのだ。」
彼らは、それが納得できないのだ。
「働いて、好きな相手と家庭を持ちたい。」
「好きな相手と、ともに生活していきたい」のは、ごく自然なことだ。
「十五歳から働きたい」と考えるものがでたら、それを受け入れる社会を作れば良い。
念押しに何度も言うが、義務教育は中学までだ。
それを、母親の子離れしない希望的かつ勝手な思い込みでいつまでも子供にしておきたがる。
あるいは「うちの子は晩生(おくて)だから」などと、かけ離れたことを主張してがんばるから、教育システムや社会性が混乱するのだ。
それに迎合してきた代議士や官僚も悪い。
女性票欲しさに、彼女達の暴走に歯止めをかけることを怠って、今日を招いた。
これは、母性の暴走であって、子離れのきれいな自然界の生物ではありえない。
時期が来れば、独立して生きていけるように子供を突き放す。
自然界では、大人になったら本能的に自立させるのだ。
今世間で言われているニートは、どうやら就業年齢に達しても職に付かず、親に養われている人種らしが、親も一端の責任があるのかもしれない。
こういう母親に限って、たとえ、ニートの息子で無いにしても、いつまでも子離れが出来ない。
そして、子供が嫁などもらおうものなら、家庭内大戦争を始めて、息子を困らせ、嫁を苦しめる。
とても立派な母親とは言えないのだ。
これはある意味、母性特有の「性の大替行為」なのかも知れない。
だが、これとて少子化で少ない子供に目いっぱいの母性愛をかけるからで、子供の人数が多ければ分散してそこまでは陥らない。
ことが起きてからでは遅い。
親として思わぬ責任を負ったり、拭い去れない被害者を出さないためにも、教育設計の見直しをすることが急務である。
性の対象が異性であれば正常かというと、今度は「性癖の内容」や「相手との合意の有るや、なしや」、あるいは「社会的に合意されるべき立場か否か」などなど、様々な条件が提起される。
ましてや、その対象が幼齢者だったり、同性だったりすると、人間以外の哺乳類では性の対象とは成りえない。
繁殖行為の範疇からは明らかに逸脱しているからだ。
幼齢者を対象にするのは、社会的にも、同義的にも許されないが、近頃同性愛については、ある程度理解されるほど、人類の文明病は進行している。
性同一性障害なる言葉も、耳新しい。
つまり、人間は自らの頭脳の知的発展とともに、性的興奮そのものへの要求を、様々な「個性的性癖を伴いながら」発達させてしまった、という意味で、全て病人である。
この性の分野に置いては、昔から言われている「天才と精神障害者は紙一重」が、たぶん人類全てに当て嵌まるのかも知れない。
しかし、そうなると性犯罪者は、皆病人と言う事になってしまう。
それを裏付けるように、本来そうした性癖を露呈しては、著しくダメージが大きいことを承知しているはずの高名な経済学者や政治家、そして芸能人が、自らの性衝動を抑えられずに事件を起こしている。
またその付いている職業によっては、普通の制裁ではすまないような、教師や警察官などがしかりである。
これは、明らかに病気である。
一方、病気では犯罪者は裁けないことになり、反社会的行為が野放しになる危険がある。
この矛盾が、余りにも難しいテーマのために、誰しもがそれを避けてきた。
しかし、こうした様々な性癖を、「問答無用」で蓋をしないで、一旦社会的にその存在性を認知した上で、本人と社会との共存を見いだしていくことができないものか。
もちろん、手放しで全てを認めるつもりはないが「うやむやにして逃げずに、正面から一度考えて見たいというのはいけないことなのか」それを問うて見たいものだ。
人間の性・・・・
このテーマを取り上げようとすると、真っ先に「猥褻(わいせつ)」という単語と向き合うことになる。
「猥褻」なる単語は、いつも反社会的な存在の代表の一つとしてこの世にある。
しかしその反面、多くの人々の胸を「密かにときめかせる」単語でもある。
この事実が、私をして「人は仮面をかぶって生活している。」と言わしめる根拠となっている。
よく、人間の起こす性犯罪行為を、または、奇妙な性癖を、「まるで動物のようだ」と評するが、それは動物に失礼というものだ。
なぜなら、動物のそれはきわめてシンプルではあるが、それなりのルールもあり、逸脱(いつだつ)した性癖もない。
それは、「脳の発達しすぎた人間達だけに起こる」、いろいろな現象と言わざるをえない。
だが、ほとんどの人が「これを表向き認めたがらない」ところから、話がどんどんややこしくなる。
世間の人々は、「私はそんなことは無い。」と否定して、その話題からは逃れようとする。
まあ、言ってしまえば「本音と建前」と言うことだ。
うちの子に限って、私の恋人に限って、あるいはうちの亭主に限って異常(すけべ)ではない。
などと勝手に表向きの理想つまり「建前でかたづけよう」とするところに、ある種の思いやりに手抜きがあるのだ。
本来性行為の相手に意思表示すべきだが、「それは、無いだろう」と言えない、建前だけの社会環境に、今はある。
少子化などで、よき兄貴もいない。
だいいち、都会では隣近所の付き合いなどは、無いに等しく、良い兄貴分は育たない。
うっかりすると、危険な隣人ということも多分に有り得るのだ。
子育てを知らない、あるいは最初からする気のない出来ちゃった出産の若い親達も数多い。
さらに自分の子を虐待してしまう親達までいる。
社会が隠し続けるために、無知なままに望まぬ出産に至り、「次の恋の邪魔になるから」と虐待をする。
これを、性に蓋をしてきた「ゆがんだ教育設計」の結果とは、思わないのか。
そこで、思いもしないようなゆがんだ性癖の持ち主が、誰にも知られずに誕生しまうのかも知れない。
この対幼児、対児童における犯罪に有効な抑止力は法律しかない。
いっそのこと将来のトラウマ被害なども勘案して殺人罪または準殺人罪相当刑にしたらどうだろう。
なぜなら考えようによっては、元の人格を殺したとも考えられるからだ。
最近では、少年が「大人の女性を襲ったり、幼児にいたずらしたり」、の性犯罪も多発している。
そして、性に関しては「建前命」の母親や「逃げまくり」の父親、「事なかれ」の教師などが、ことが起こって始めて、右往左往するのが現代の構図なのだ。
近頃特に、性においても、その他の社会道徳においても、学校や教師に「まるなげ」している親が多い。
そしてことが起こると、責任をなすりあう。
それでいて、自分の子は何が何でも性の情報からは隔離(かくり)しょうとする。
その目的は、ただ我が子を晩生(おくて)にしておきたいだけなのだ。
ところが、「建前命」の母親にも美しき性行為は、現に存在するらしい不思議さに、このテーマの複雑なところが伺える。
テレビドラマの不倫ストーリーに胸ときめかせ、「自分もしてみたい」とあこがれるのが、美しき性行為へのあこがれなのか。
私にすれば、単なる不倫話である。
そこには、れっきとした性的交流の前提がある。
それを、「設定が良いから」と言い張る。
つまり自分に納得できるものが欲しい。
それさえあれば、本音は不倫もOKなのだ。
それを、「男供のように相手かまわずではない、これは純愛なのだ」などと理由を付けて、自分で納得してしまう。
浮気などで、一番簡単な言い訳として根強い人気は「もう夫への愛が無くなった」と言うせりふである。
つまり女性も、異性に興味はあるし、性欲もある。
本能的に、自衛のシステムが働き、それを押しのけるためには、自身を納得させる「建前」としての言い訳、もしくは理由を必要とするのだ。
「金」だったり、「事情」だつたり、なんでも良い。
それを手に入れれば、女性はいくらでもスケベになれるし、どんな卑猥なことでも、納得してすることが出来るのだ。
本音で言えば、心のどこかで、チヤンスがあれば「この建前」を手に入れたいと常に願っている。
こういうことを言うと、百人が百人とも「私はそう言う女ではない」、と建前で返事をする。
そういう母親の二面性を、子供達はしっかり見ているのだ。
だから母親の言うことを、本音の話とは受け取らない。
「また建前を言っている。」と思うだけだ。
猥褻(わいせつ)でない美しい性行為って、いったいどんなものだ。
それこそ、個人の主観の問題と言うことになるなら、あるいは少数派の一風変わった性癖も、まさしく主観の範疇にあり、これを否定するにたりる理由を我々は失う。
ここらあたりで、またぞろ芸術か猥褻かの論議が顔をだす。
いっその事「猥褻(わいせつ)は芸術だ。」と開き直ることも現行の法律ではむずかしい。
それでは、いったい「何故にいつ頃から」こんなに複雑なことになってしまったのか。
複雑なゆえに、その要因も数多く上げられることとなる。
次の章では、(人間の性本能の発端)から始めよう。
【第二章 男女の性本能の分析と対応】
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