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samurai 【異聞・隠された明治維新】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(明治維新にまつわる噂の謎・明治天皇入れ替わり説を追う)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の歴史解釈を小説化した作品です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

***【歴史のミステリー】******

【異聞・隠された明治維新】

(明治維新にまつわる噂の謎・明治天皇入れ替わり説を追う)

この小説は、【日本史・歴史のミステリーのシリーズリスト】の一つです。

◆ 未来狂冗談の小説

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】謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)【作者略歴紹介
】【政変後の財源の根拠は存在する】


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***【歴史のミステリー】******

異聞・隠された明治維新

明治維新にまつわる噂の謎・明治天皇入れ替わり説を追う

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
数日間お楽しみ頂けます。

記載目次ジャンピング・クリック

〔1話〕   【建武の新政(けんむのしんせい)と南北朝並立
〔2話〕   【懐良親王(かねながしんのう)
〔3話〕   【良光親王(ながみつしんのう)
〔4話〕   【孝明天皇(こうめいてんのう)
〔5話〕   【孝明天皇と攘夷論(じょういろん)
〔6話〕   【そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか)
〔7話〕   【下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)
〔8話〕   【生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争
〔9話〕   【七卿落ち(八月十八日の政変)
〔10話〕  【孝明天皇崩御の謎〔一〕
〔11話〕  【孝明天皇崩御の謎〔二〕
〔12話〕  【睦仁親王(明治天皇)即位の疑惑
〔13話〕  【熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔一〕
〔14話〕  【熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔二〕
〔15話〕  【南朝忠臣の復権
〔16話〕  【江戸(東京)遷都
〔17話〕  【伊藤博文(いとうひろぶみ)
〔18話〕  【前原一誠(まえばらいっせい)
〔19話〕  【佐藤信寛(さとうのぶひろ)
◇このまま下にも読み進めます。



建武の新政(けんむのしんせい)と南北朝並立

◇◆◇◆◇一話建武の新政(けんむのしんせい)と南北朝並立◆◇◆◇

明治維新は、倒幕派公家と長州倒幕派が密かに合作した大陰謀だった。

それはあくまでも噂に過ぎないが、民主化が成った現代判の日本史に耳を疑う大胆な陰謀説が流れている。

この物語は明治維新に関わる謎のご案内だが、発端は遥か遠く鎌倉時代の頃、一人の帝・後醍醐が時の鎌倉幕府執権・北条得宗家からの政権奪取を試みた事に始まっている。

第九十六代天皇・後醍醐帝は元弘の乱(げんこうのらん)を起こし、呼応する武将達と首尾良く鎌倉幕府を倒し自らの親政体制「建武の新政」を構築する。

所が後醍醐帝の親政体制は、僅か二年で最も有力な武将・足利尊氏の体制離反により分裂する。

尊氏は、鎌倉幕府に継ぐ自らの武家政権創立を目指し、北朝天皇(光明天皇)を擁立して後醍醐帝に対抗する。

天皇が二人並立する異常事態と成り、南朝・後醍醐帝方が劣勢と成って京の都を追い落とされ吉野朝廷(南朝)を成立させ、南北二大勢力が争う戦乱となる。

六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」で一旦終息をみる。

しかし「南北朝合一(明徳の和談)」後も、北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ/交互に帝位に就く)の約束が北朝方に破られ、約束不履行から朝廷の混乱は続く。

その約束不履行から、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間、頑強に戦っていた。

実に南朝六十年間、後南朝四十五年間、南朝勢力の抵抗が続いた事になる。


建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)に後醍醐天皇が「親政(天皇がみずから行う政治)」を開始した事により成立した政権及びその新政策「建武の新政(親政/けんむのしんせい)」で、名称は、翌千三百三十四年に定められた「建武」の元号に由来する。

後醍醐天皇は、大塔宮・護良親王(もりながしんのう)などの自軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、承久の乱(じょうきゅうのらん)・後鳥羽上皇の故事に倣(なら)って錦旗(きんき)北畠顕家足利尊氏新田義貞楠木正成赤松則村(円心)名和長年(なわながとし)らに下賜し、その使用を許している。

余談だが、この建武の新政(けんむのしんせい)は、第二次世界大戦前は明治維新政府以後の天皇神格化政策で「建武の中興」と表現され、天皇親政の歴史を謳っていた。


一方で後醍醐帝は京都醍醐寺文観弘真(もんかんこうしん)僧正を重用、熱心な真言密教立川流の信者となる。

為に真言密教立川流は後醍醐天皇の庇護を受、一時期、真言密教の主流・真言大覚寺派(だいかくじは)として浸透を続け、政局に関わるほどの力を有した。

真言(密教)立川流は、陰陽修験道の影響を色濃く受け、どちらかと言うと性に対しては奨励的だった為に、若き後醍醐天皇はこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。

そうした文観弘真(もんかんこうしん)僧正の隆盛を好ましく想わない勢力も在った為に、足利尊氏が建てた北朝天皇(光明天皇)と組む真言・持明院派(じみょういんは)から「淫邪教」と攻撃され、南朝方衰退に合わせて衰退して行く。

しかしながら、文観弘真(もんかんこうしん)僧正真言密教立川流に心酔した後醍醐天皇は教義に添って多くの子を為すのだが、この「後醍醐天皇の子沢山」は、後の出来事を思うと「歴史の必然だった」のかも知しれない。

後醍醐天皇のお相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで十六人に及ぶ親王(しんのう/皇子)、内親王(ないしんのう/皇女)を設けられている。

正直、一頃の親王(しんのう/皇子)・内親王(ないしんのう/皇女)の誕生時期が重なるほど後醍醐帝の子創りがお盛んだった為、どなたが何番目のお子なのか不明なくらいだった。

南北朝期の初期、中央の畿内では北朝方・足利尊氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

その他に中国・四国を中心に活躍した第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)、越後・越中・信濃で活躍した宗良親王(むねながしんのう)新田義顕(にったよしあき)と共に戦い越前国金ヶ崎に散った尊良親王(たかながしんのう)など、帝の意を受けて戦った多くの皇子がいた。

千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」まで南北朝の抗争が六十年間続いたのは、多くの親王が各地で抵抗したからである。

つまり真言密教立川流に心酔した後醍醐帝の「子沢山」が「歴史の必然だった」と思えるほど、南朝方は「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。


後醍醐天皇は味方を集めて鎌倉幕府を倒し、自ら天皇親政によって建武の世に朝廷の政治を復権する事に成功した。

だが護良親王に近侍していた赤松則祐(そくゆう)とその父・赤松則村(円心)が赤松一族が奉じていた護良親王の鎌倉幽閉を切欠に後醍醐天皇と対立する。

また後醍醐天皇が周りの側近や公家達を厚く処遇して、鎌倉倒幕に貢献した武士層を中心とする勢力の不満を招く。

千三百三十六年(建武三年)に鎌倉倒幕の有力貢献者であった河内源氏の足利尊氏が離反し、赤松則村(円心)と連携した事により後醍醐天皇の「建武の親政」は足元から崩れ始めた。

足利尊氏の挙兵にあたり、後醍醐天皇方北畠顕家(きたばたけあきいえ)新田義貞楠木正成(くすのきまさしげ)などの奮闘もあり、一時は後醍醐天皇方が優勢となり足利尊氏を九州方面まで敗走させた。

だが、赤松円心が「白旗城」に篭って抵抗している間に九州で建て直しに成功した足利尊氏が反転、京に攻め上って来て後醍醐天皇方が劣勢と成って京の都を追い落とされ、建武の親政・政権は崩壊した。

後醍醐天皇が吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇(北朝)に渡した三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)は偽器であり「自分が正統な天皇である」と宣言する。

この宣言が、とりもなおさずこの事が建武の新政(けんむのしんせい)の終焉をした事を意味し、ここに、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝並立時代が到来する。

南北朝並立時代は、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一まで約六十年間に渡って南北朝の抗争が続いた。

実は六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」後も北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ)の約束が約束不履行から混乱は続き、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間も頑強に戦っていた。

千四百四十一年(嘉吉元年)の「嘉吉の乱(かきつのらん)」は、南朝の残党が赤松氏に攻められ、最後の抗戦をあきらめて僅か四年、応仁の乱(おうにんのらん)が始まったのが千四百六十七年(応仁元年)であるから、南北朝並立時代の武力混乱の社会風潮が「依然続いていた」と見て良いだろう。


尚、この建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立の間に起こったのが、北条の遺児・北条時行(ほうじょうときゆき)に拠る中先代の乱(なかせんだいのらん)であり、南北朝並立と同時進行した足利兄弟に拠る観応の擾乱(かんのうのじょうらん)だった。


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懐良(かねなが)親王

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇二話懐良(かねなが)親王◆◇◆◇◆◇◆◇◆

千三百二十九年(元徳元年)藤原為道の娘を母として懐良(かねなが)親王(後醍醐天皇の皇子が誕生する。

懐良(かねなが)親王は、南北朝時代に南朝方の征西大将軍であった事から征西将軍宮と呼ばれた。

千三百三十六年(北暦・延元元年/南暦・建武三年)、七歳の懐良(かねなが)親王は幼いながらも後醍醐帝の命により征西大将軍に任命される。

征西大将軍・懐良(かねなが)親王は、大外記・清原良枝(事務方の公家)の二男で五条氏を称した五条頼元の親子ほか藤原孝範ら十二名の従者に補佐されて九州を目指して吉野を出立する。

千三百三十九年(北暦・延元四年/南暦・建武六年)、征西将軍宮・懐良(かねなが)親王一行は海賊衆である熊野水軍の援助を得て伊予忽那島に到着、四国の忽那島で三年間、宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)の処に滞在している。

千三百四十二年(建武九年)、懐良(かねなが)親王一行は宇都宮貞泰らを加え伊予忽那島を出発、九州南部を目指す。

この時はまだ懐良(かねなが)親王は十三歳と若く、ここまで一行将兵に指令を発していたのは従者・五条頼元と伝えられている。

親王一行は日向を経て薩摩山川津に到着、宇都宮貞泰と共に九州へ上陸し、薩摩の谷山隆信の谷山城、肥後・菊池武光の菊池城を経て、味方を募りながら北上する。

菊池武時の子・菊池武光や阿蘇惟直(あそうこれなお)に擁立されて阿蘇惟直の肥後・隈府城に入り、征西府を開いて九州経略(九州平定)を開始する。

懐良(かねなが)親王を奉じる菊池氏阿蘇氏は多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた九州の南朝勢力である。

九州の名族・菊池氏は、鎌倉時代後期に当主・菊池武時が後醍醐天皇の討幕運動に賛同して九州に於ける北条氏勢力である鎮西探題の北条英時を攻めるが、英時に加勢した少弐氏や大友氏により討たれてしまう。

その後も菊池氏一族は後醍醐帝に助力、倒幕成ると建武の新政に参加する。

しかし、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政から足利尊氏が離反し、一時後醍醐帝方に京都を追われた尊氏は九州へ逃れた時、少弐貞経の子の少弐頼尚が赤間関へ尊氏を迎えるために赴いたのに対して、後醍醐帝(宮方)勢力であった菊池武敏は大宰府を攻めて少弐貞経を滅ぼす。

その後の千三百三十五年(建武二年)、菊池武時の子・武重が新田義貞陣営に加わり、相模と伊豆の国境箱根・竹ノ下に足利勢の足利直義と対峙、有名な「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の奇功を成功させる。

この菊池千本槍が、後の戦法に大きな影響を残す新型の戦法だった。

池武重(きくちたけしげ)は、菊池千本槍(きくちせんぼんやり)の武功で戦前の忠孝教育に利用されて有名だった。

つまり懐良(かねなが)親王の下には歴戦の勇士が参集していた。

しかし、九州には尊氏が東上の際に鎮西総大将として博多に残した一色範氏・仁木義長らの足利勢力がいた。

さらにこの時、観応の擾乱と呼ばれる足利家の内紛で、叔父で養父である足利直義に味方し、父・尊氏に反旗を掲げた尊氏の子・足利直冬が九州へ入り肥後川尻で少弐頼尚に擁立される。

そうした経緯から九州は室町幕府方、足利直冬方、南朝(懐良)方と三勢力の鼎立の戦乱状態となる。


懐良(かねなが)親王が征西府を開いて五年、千三百五十二年(正平七年/文和元年)懐良親王を擁立した菊池氏は、針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で勝利する。

懐良(かねなが)親王は豊後国攻略に日田へ向けて出発し転戦、玖珠 由布 狭間を経て豊後 府中へ進み、速見郡 大神から豊前国宇佐城井へ入ると、大友氏時や宇佐大宮司らは親王軍に降参する。

筑前国植木を通り博多に進攻した懐良(かねなが)親王は、宇佐神宮に白鞘入剣(国重要文化財)を奉納している。

降参した大友氏時の目付役として藤原孝範を豊前大家郷(大江郷 現中津市)郷司に補任し丸山城に居いたが、大友氏時は間もなく離反し高崎城に篭城する事態となる。

懐良(かねなが)親王が九州に上陸して早十七年後の千三百五十九年(正平十四年/延文四年)筑後川の戦い(大保原の戦い、現福岡県小郡市)が起る。

菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝方が、直冬方から幕府に復帰した少弐頼尚傘下の北朝方を破り、南朝方が九州の拠点である大宰府を制圧し、以後十余年間、一時「九州南朝」と言われ、足利幕府も手を焼く勢力を誇って九州を統治している。

しかし、千三百七十五年に室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により大宰府を追われる。

貞世の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏と同盟して渋川探題を奉じた大内氏と対立するが、後の戦国時代に大友氏により菊池氏の主力は滅ぼされ、幾つかの枝が九州各地に残る事と成った。

この菊池氏の末裔が、明治維新の大英雄として登場するのは、まだ随分先の事である。


また懐良(かねなが)親王は、幼くして九州制圧に任じたが、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いている。

懐良親王(かねながしんのう)には、「日本国王・良懐(ながかね)」として明の太祖(洪武帝)の冊封を受けた事実がある。

その事から、懐良親王(かねながしんのう)が国際的には日本国王だった時期が存在する。

二十歳代半ばに達したその皇子が、我が子を為さないとは考え難い。

その懐良(かねなが)親王の忘れ形見と伝えられる継子が、当時周防に本拠地を置く大内氏を頼った「良光(ながみつ)親王」で、この親王の末裔が明治維新に関わってくるのである。


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良光親王(ながみつしんのう)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇三話良光親王(ながみつしんのう)◆◇◆◇◆◇

南北朝期の初期、中央の機内では北朝方・足利高氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

後醍醐天皇の皇子・懐良(かねなが)親王は、父帝・後醍醐の命により、僅(わずか)七〜八歳と幼いながらも征西大将軍に任命され、千三百三十六年(建武三年/延元元年)頃に「吉野を出立、九州を目指した」と言われて居るが、目的は九州の地に南朝の地盤を築く事だった。

千三百六十一年(正平十六年)には一時九州を制圧、懐良(かねなが)親王は大宰府 に入って征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生、その後十一年間に渡って九州南朝勢力の全盛時代を築いた。

だが、その後九州は北朝方に平定され、懐良は征西将軍の職を甥にあたる良成(ながなり)親王(後村上天皇の皇子)に譲り「筑後矢部で病没した」と伝えられる。


懐良(かねなが)親王は、幼くして九州制圧に任じたが、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いている。

二十歳代半ばに達したその皇子が、我が子を為さないとは考え難い。

北朝・幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により北朝九州政権が大宰府を追われる頃、形勢不利となった九州の戦況挽回の為に大内氏を頼った。

良光(ながみつ)親王は南朝・後醍醐帝の皇子・南朝の征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たり、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。


懐良(かねなが)親王の皇子・良光(ながみつ)親王は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)に圧されて劣勢となった九州南朝方・征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内氏に下向している。

大内家では、良光(ながみつ)親王こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿(かくま)ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。

懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たる良光親王(ながみつしんのう)は、正確には親王の子であるから本来なら良光王(ながみつおう)と呼ぶのが正解である。

しかし懐良親王(かねながしんのう)が、九州南朝として吉野宮本家よりも広域な実効支配を確立していた事からか、或いは隠し玉として依り価値を求めたのか大内家では良光王(ながみつおう)を親王(しんのう)としていた様である。

或いは親王と呼んだのは、懐良親王(かねながしんのう)の九州統治を九州王朝と認めて居たのかも知れない。

後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と懐良親王(かねながしんのう)の継嗣・良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見される。

この誤解の為に、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。

尚、良光王(ながみつおう)を親王と記載するには、懐良親王(かねながしんのう)が幼くして九州制圧に任じ、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いて居た為、独立した九州王朝だったと見る状況が在ったからである。

懐良親王(かねながしんのう)が九州に渡り時を経ると、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、九州に於ける懐良親王(かねながしんのう)は幾多の戦いを勝ち抜いてさながら九州王国並みの強固な地盤を築いている。

そうした懐良親王(かねながしんのう)の勢力を認めて、明の太祖(洪武帝)がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良(かねなが)に宛て送り来る。

懐良親王(かねながしんのう)は、始めは断るものの、後に「日本国王・良懐(ながかね)」として冊封を受け、明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

この名を前後させ「日本国王・良懐(ながかね)」として明の太祖(洪武帝)依りの冊封を受けた事を根拠に、その第一皇子を同様に光良(みつなが)から良光(ながみつ)として親王を名乗った可能性を感じる。



また、南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子・満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。

良く後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見され、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は、懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。


千四百年、南朝征西将軍・九州王・懐良親王(かねながしんのう)の皇子・良光親王(ながみつしんのう)が、室町時代前期の武将・大内氏第九代当主・大内弘世(おおうちひろよ)の七男で第十代当主・大内義弘の弟・大内弘茂(おおうちひろしげ)に連れられて田布施・麻郷に来た。

千四百年当時の大内家は、前年の応永の乱で三代将軍・足利義満率いる幕府軍と交戦し当主・大内義弘を失い、足利義満方に降りた大内弘茂(おおうちひろしげ)と大内盛見(おおうちもりみ/後に第十一代当主)が内紛戦闘状態で、良光(ながみつ)を田布施・麻郷に非難させたようだ。

千四百年代、周防の大内氏に身を寄せた懐良(かねなが)親王の忘れ形見・良光(ながみつ)王は、大内氏から引き継いだ毛利氏と地元・田布施の有力者の手助けを得て凡そ五百年間近い永い眠りに就く事になる。

その良光(ながみつ)王の末裔が、千八百六十三年(文久三年)八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に落ち延びた七卿が南朝方親王のと引き合わされる場面まで、大室氏を名乗り脈々と命を繋いでいたのだ。

当時の日本では「皇統」は絶対的な犯し難いものである。

その絶対的な犯し難いものに、「唯一交代可能」と言うウルトラCとも言うべき玉(ぎょく)が存在したのだ。

この良光(ながみつ)王の末裔・大室氏が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良親王(かねながしんのう)の怨念を晴らすかの様によみがえったのでなければ、巷にまことしやかに流れる明治帝(睦仁親王)南朝入れ替わり説の疑惑は説明が着か無いのである。


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孝明天皇(こうめいてんのう)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇四話孝明天皇(こうめいてんのう)◆◇◆◇◆◇

幕末の混乱に拍車をかけたのは、攘夷(じょうい)の意思が強い時の天皇・孝明(こうめい)の存在だった。

孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷(じょうい)の意思は、人間の「左脳域と右脳域」の論理で言えば、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」であり、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」などまったく無いものだった。

簡単に言えば、尊皇攘夷論者も孝明天皇(こうめいてんのう)も観念(異人嫌い)が優先して「左脳域の計算」の情況判断を無視した事で、薩英戦争(さつえいせんそう)下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は主として「右脳域の観念」で始められ、戦をしてみて初めて「左脳域の計算」が働くようになり、尊皇攘夷論者から「攘夷」が消えて「倒幕」に変わる。

「右脳域の観念」は、「左脳と右脳の論理」で言えば「感情」だけの片側思考のバランスの悪いものであり、明治維新前の風潮は、は「間違いは改むるに如(し)かず」だった。

つまり「武士道の精神」と「天孫降臨伝説皇国史観)」は、維新政府の統治の為に政治利用されたに過ぎないのに、「感情」だけの片側思考のバランスの悪い主張をする者にその自覚は無い。


仁孝天皇の第四皇子に生まれた煕宮(ひろのみや)親王は、千八百四十年(天保十一年)に立太子を為し六年後の千八百四十六年(弘化三年)に父・仁孝天皇の崩御を受け、十五歳で践祚(せんそ/位を受け継ぐ)し孝明天皇(こうめいてんのう)として即位する。

即位から七年後、千八百五十三年(嘉永六年)の孝明天皇(こうめいてんのう)二十二歳の時、ペリーが来航して公家の学問所である学習院を創設するなど文化的な活動をしていた孝明天皇に転機が訪れる。

孝明天皇は外圧に危機感を持ち、政治への積極的な関与を強めて永年朝政を主導して来た前関白・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾(仏門に入る)に追い込み、関白に任じた九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任)するなどして朝廷に於ける自身の主導権確保を図っている。

外圧に対する開国の問題で、幕末期に於ける天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まって行き、孝明天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。

そうした追い風を受け孝明天皇は幕政に対する発言力を強め、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下した為にこれを受けて下関戦争薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

攘夷の意思が強い孝明天皇は、異母妹・和宮親子内親王を第十四代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させて公武合体を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望み、公武合体派の京都守護職・会津藩主・松平容保への信任は特に厚かった。

そうした孝明天皇の姿勢から、諸外国は攘夷運動の最大の要因が「孝明天皇の意志にある」と判断し艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求する。

言わば武力を誇示した脅しで、この事態に流石の孝明天皇も事の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にする。

そうした幕末の政治混乱の中、幕府・一橋家・会津藩・桑名藩・薩摩藩長州藩などの諸藩や三条卿岩倉卿などの公家そして尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれて行く。

すると、孝明天皇個人の権威は低下して次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。

千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。


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孝明天皇と攘夷論(じょういろん)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇五話孝明天皇と攘夷論(じょういろん)◆◇◆◇◆

孝明天皇の側近の一人、三条実美の高級公家・三条家は、江戸時代通じて四百六十九石、帝の側近・岩倉具視の岩倉家は、江戸時代を通じて僅か百五十石と、位ばかり高くて禄高少ない貧乏公家である。

そして禄高少ない下士身分の貧乏氏族、彼らにして見れば、政治体制を変えチャンスを掴まない限り、「まだ何世代も現状のまま」と言う閉塞感が一様に在った。

彼らは、外様の悲哀と下士の身分の悲哀を先祖代々受け継いで骨身に沁み、向上心に燃えていた。

幕末の動乱期に登場した倒幕派下級武士台頭の切欠は、マシュー・ペリーの黒船来航と言う外圧だった、

切欠は確かに外圧だったが、動機は現体制に対する閉塞感で、そこに黒船騒ぎが起き頭角を現す為の「良い切欠となった。」と言うのが偽らざる処だった。

それ故、彼らは永年の思いも、激しく倒幕の運動にぶつけた。

中核になったのは長州萩城下・松本村(現在の山口県萩市)、吉田松陰松下村塾である。

攘夷論の根本は外圧に対する帰属意識を基にした右脳域の感情的憤慨で、確かに一般民衆の感情的理解は得易いが、余り左脳域の理性的な物とは言えない。

しかしこれは、感性(右脳域/感情)と理性(左脳域/計算)のどちらの価値観を採るのかの問題で双方言い分があり、本来いずれかを「正しい」とする事は出来ない。

そして、旧体制側の幕府側に付いて出世を目論んだ「新撰組」の様な佐幕派の一派も出るのだが、要はいずれの側に付いた者も大儀は出世の為の方便だった。

まぁこの時代、勤皇派も佐幕派も動乱に乗ったのは現状では浮かび上がれない者達で、野心満々の立身出世が根底に在っての主義主張である。

そして長州が、「南朝皇統の末裔」と言う「玉(ぎよく)」を握っていた事が、現体制をひっくり返す事に現実味を益し、あれほど嫌いあっていた両藩の薩長同盟を後押ししたのかも知れない。


外国人を極度に嫌っていた孝明天皇(こうめいてんのう)は攘夷論者で、朝廷の勅許を得る事なく各国と条約を結んだ幕府に対して朝廷は勅使を江戸へ遣わし攘夷の実行を迫る。

尊皇攘夷を主導していた長州藩が孝明天皇の意を受けて攘夷を決行しアメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、さらにイギリス艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対してイギリス側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いによりイギリスは薩摩藩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

そんな中、朝廷内で実権を握っていた攘夷派公卿らに対して薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデター(八月十八日の政変)を起こし、攘夷派公卿は失脚して都落ちとなり長州藩も朝廷から排除される。

一方の長州は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英仏蘭米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。


適わない相手に立ち向かうのは愚である。

尊皇攘夷派は、下関戦争(しものせきせんそう)に於いて圧倒的な欧米列強の「砲火力の差」と言う現実の前にことごとく「攘夷」と言う看板を降ろして居た。

そうなると極度の攘夷論者である孝明天皇は危険な存在で、その父と攘夷の意を同じくし親王宣下を受けて立太子していた睦仁(むつひと)親王も危険な存在だった。

そして孝明天皇の妹の和宮の降嫁を受け孝明天皇と仲の良い十四代将軍・家茂も邪魔な存在で在った事は事実である。


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そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか)

◇◆◇◆◇六話そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか)◆◇◆◇

幕末の長州が、尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)勤皇攘夷派(倒幕派)、をリードし得たのは、藩主・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)の存在が大きい。

と言っても、毛利敬親(もうりたかちか)は、維新後に偉大な藩主と評価された訳ではない。

長州藩の第十三代藩主(安芸毛利家二十五代当主)・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)は、藩内の尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)勤皇攘夷派(倒幕派)、対する佐幕派(俗論派=保守派)のいずれの意見にも「そうせい」と頷(うなず)く所から「そうせい侯」と陰口を叩(たた)かれた人物である。

勿論、倒幕から維新政府に到る長州藩の存在は群を抜いて大きかったが、藩主の毛利敬親(もうりたかちか)は幕末の四賢候(ばくまつのしけんこう)に並び評されずも、見事な「そうせい侯」を演じて臣下の邪魔をせず、結果、長州主体の倒幕を自主的に完結させた。

一見、「そうせい」ばかりではリーダーとして頼りない評価があるかも知れないが、視点を変えれば目を掛けた部下に藩政を任せ切る敬親(たかちか)の「度量の大きさ」もチラつく。

勿論、毛利敬親 (もうりたかちか)は家臣を見る目に優れており、多くの低い身分の者を取り立てた上での「そうせい」で、闇雲に藩政を任せた訳ではない。

敬親 (たかちか)が自藩内で見出した吉田松陰は自らの私塾・松下村塾高杉晋作久坂玄瑞(くさかげんずい)桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)を始めとする多くの有志を育てた。

そして、松陰の松下村塾を支援した政務役筆頭・周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)を登用したのも敬親 (たかちか)公だった。


あくまでも結果論であるが、薩摩の島津久光(ひさみつ・忠教/ただゆき)や土佐の山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)の様に藩実力者の立場を持って臣下の邪魔を続けた事のどちらが経営者として相応しいのだろうか?

日本の天皇制も「君臨すれど統治せず」が国家・国民の風土に合っていたとするなら、現代の経営学に照らせば「そうせい侯」も部下の自主性と能力を引き出す立派な君主の生き方かも知れない。


偽らない心境として、人生を勝ちに行くにはいたずらに幸運が遣って来るのを待っていても仕方が無い。

国家の統治体制を変えるのであれば綺麗事で済ませる訳訳も無く、何でも遣る積りで掛かって漸(ようや)く将来への展望が開ける。

結果的に、維新の英雄達は大きな博打を打って成功した事になる。


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下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)

◆◇◆◇◆◇七話下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)◇◆◇◆◇

千八百六十三年(文久三年)五月、尊皇攘夷を主導していた長州藩孝明天皇の意を受けて攘夷を決行する。

長州藩が攘夷実行と言う大義の下に馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加え、アメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし約半月後の六月、報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は馬関海峡内に停泊中の長州軍艦に壊滅的な手痛い打撃を蒙るも、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行する。

当時イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔井上聞多は四国連合による下関攻撃が近い事を知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国して勝てない戦争の回避を進言するも強硬論が強く徒労に終わっている。

長州藩は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、千八百六十四年(元治元年)七月、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる艦船十七隻の四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。


この下関戦争の経験を経て、長州藩は攘夷から倒幕へと舵を切り、土佐の脱藩浪士・坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋を受けて敵対していた長州藩と手を結ぶ「薩長同盟」を選んだ。


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生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争

◆◇◆◇◆◇八話生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争◆◇◆◇◆

千八百六十三年(文久三年)、英国艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の千八百六十二年(文久二年)八月に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を、供回りの藩士が無礼を咎め殺傷した事件である。

生麦事件当時の薩摩藩行列のには一行の中には、後に維新の立役者となる大久保利通もいた。

この時には、後に新政府で力を発揮した二十二歳の黒田清隆(くろだきよたか)が随行の一人として生麦事件に居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたと言う。


薩英戦争(さつえいせんそう)に於ける 薩摩藩側は人的損害は非戦闘員の死者九名、負傷者十八名であったが、砲撃・ロケット弾攻撃により物的損害は鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家三百五十余戸、藩士屋敷百六十余戸、藩汽船三隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)、民間船五隻が焼失と甚大であった。

薩摩藩の陸上砲台による英国艦隊の損害は、大破一隻・中破二隻の他、死傷者は六十三名(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者十三名、負傷者五十名程)に及んだ。

英国側旗艦ユーリアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなく、アームストロング砲の暴発事故によるものもあったが英国海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対して英国側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いにより英国は薩摩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能である事を理解し英国は幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。


この薩英戦争の経験を経て、薩摩藩は攘夷から倒幕へと舵を切り、土佐の脱藩浪士・坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋を受けて敵対していた長州藩と手を結ぶ「薩長同盟」を選んだ。


幕末の政界で影響力を持つ薩摩藩長州藩は倒幕思想では共通していた。

所が千八百六十四年(元治元年)八月、薩摩藩論を主導する西郷吉之助(西郷隆盛/隆永)大久保利通は、長州追い落としに拠る主導権を狙って会津藩・松平容保と協力し京の政界から長州を追放した八月十八日の政変を行い、さらに二日後の禁門の変で長州を京都から追放する。

朝敵となった長州は幕府からの第一次長州征伐(幕長戦争)を受け、この因縁により長州が薩摩を嫌い「薩賊」と呼ぶなど薩長間は敵対関係となった。


長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせた事に始まる。

土佐の脱藩浪士・坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋もあって、千八百六十六年(慶応ニ年)主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅に於いて会談が進められ、交渉中に下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあった。

しかし、薩摩も欧米列強の外圧は身に染みて脅威だったし、孝明天皇が極度の攘夷論者では打開策は見つからない。

そこに内密な話しとして提案されたのが、長州が握っていた「南朝皇統の末裔」と言う「玉(ぎよく)」を活用する事だった。

その提案が、現体制をひっくり返す事に現実味を益し、あれほど嫌い合っていた両藩の同盟を後押ししたのかも知れない。


何と、五百年前と言う遥か昔の血統を今更持ち出す所が、この国のこの国たる所以(ゆえん)である。

しかし歴史の必然かも知れない事が、この時起こっていた。

この時点で薩摩の代表だった西郷隆盛(隆永)は、凡そ五百年前に南朝方・懐良(かねなが)親王を奉じて北朝方と戦った菊池氏の末裔だった。

つまり、長州が握っていた玉(ぎょく)こそは、隆盛(隆永)の先祖がお守りした懐良(かねなが)流の大室氏だった。

運命を感じた隆盛(隆永)は、それまで抵抗を感じていた長州との連合に舵を切った。


千八百六十六年三月(慶応ニ年一月)京都二本松薩摩藩・小松帯刀(こまつたてわき/清廉)邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、小松帯刀(清廉)と長州藩の桂小五郎が倒幕運動に協力する六か条の政治的軍事的同盟を締結した。

薩長同盟は龍馬最大の功績と言われるが、実際には西郷や小松帯刀ら薩摩藩の「指示を受けて動いていた」と言う説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性に付いては評価が分かれている。


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七卿落ち(八月十八日の政変)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇九話七卿落ち(八月十八日の政変)◆◇◆◇◆◇

この年(千八百六十三年)、尊攘派長州・毛利藩(萩藩)と過激派公卿は、孝明天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を徳川将軍及び諸大名に命ずる計画が取り決められ、徳川幕府が命令に従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬る陰謀があった。

これが、事前に薩摩・島津藩に漏れ、長州藩と対立していた薩摩藩と藩主・松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派に反感を持つ孝明天皇や公武合体派の公家は結託してこの陰謀を潰してしまった。


和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。

会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美(さんじょうさねとみ)以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。

八月十八日の政変(七卿落ち)は、薩摩藩会津藩公武合体派尊皇攘夷派長州藩などを京都から追放した朝廷に於けるクーデターである。

都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州に落ち延びる。

この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。

これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。

この、落ち延びた七卿の行く先に吉田松陰 (よしだしょういん)の描いたシナリオが待っていたのである。


長州に落ち延びた七卿の内、錦小路頼徳は病没したが、三条実美は維新後に太政大臣や内大臣、澤宣嘉は外務卿、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長に成るなど、皆、明治政府の要職に就いている。

三条家は、太政大臣まで昇任できる藤原北家閑院流の嫡流の名門で、江戸期の扶持米は四百五十石の公家としては中の上の公卿だった。

その家に生まれた三条 実美(さんじょうさねとみ)は、尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であった。

三条実美(さんじょうさねとみ)は、明治政府成立後にはその温和な性格から、千八百六十九年(明治二年)には右大臣、千八百七十一年(同四年)に太政大臣、内大臣として生涯、政権の中枢にあり続け、個性派が多い政府内の対立を調停する役割も果たした。

しかしそこは尊攘派公家、相応に「したたか」で在った事には変わりは無い。

実美(さねとみ)は、押し寄せる欧米勢力の植民地化を阻止する為に長州・毛利藩討幕派(吉田松陰派)の陰謀に乗って明治維新にこぎつける重要な役目を果たしている。

実美(さねとみ)の母は、土佐藩山内家の出である。

土佐藩が倒幕四藩連合の一郭で在り得たには、三条実美(さんじょうさねとみ)の血縁もその要素だったのではないだろうか?


優秀な公家は、武力を持たず知恵だけで朝廷を護持して来ただけあって、流石に老獪である。

特に岩倉具視(いわくらともみ)は、鎌倉初期に鎌倉幕府相手に知力で活躍した老獪な土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔で、その辺りは十分心得て居た筈である。

新政府樹立と共にほとんどの公卿が序々に閑職に追いやられて行った事実の中、二人の公家の出世だけが際立っていた。

つまり、岩倉具視(いわくらともみ)卿が天皇入れ替わりの実行犯として関わった可能性と三条実美(さんじょうさねとみ)卿が七卿落ちの最上級位の公家として周防国熊毛郷田布施の八幡神社で南朝の末裔と会った事が、この革命(明治維新)の発端だった。

二人の旧体制の公家が異例とも言える地位を得て新政府に生き残って行く事と、その経緯が関連付けられて成らないのである。

この時代、岩倉具視(いわくらともみ)にしても三条(実美・さねとみ)にしても、彼らなりの公家の論理でこの激動期に存在感を示す働きをした。

彼らの心中に、南朝復帰の思いが生きていたのかも知れない。


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孝明天皇崩御の謎〔一〕

◆◇◆◇◆◇◆◇◆十話孝明天皇崩御の謎〔一〕◆◇◆◇◆◇◆◇

幕末の政治混乱の中、尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に孝明天皇は巻き込まれて行く。

孝明天皇個人の権威は低下して、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。


千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

この「孝明天皇の謎の死」が、もし謀殺で在ったなら、お側近くに仕える公家の中にその犯人が居なければ、説明が着かない。

もしそれであれば、孝明帝暗殺の陰謀はそこで完結するのでは無く、ある目的の大陰謀の序章に過ぎない恐れがあった。

となると、そのお側近くに仕える公家には孝明天皇謀殺に止まらない一連の大陰謀があり、確信犯的な目的を持って居た可能性を感じる。


この時点で、江戸幕府守旧派と尊皇攘夷の革新派が、国家体制をめぐって大きく対立していた事に成る。

守旧派のトップは、北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍「家茂(いえもち)」で、二人の思想は、「公武合体・鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。
その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

こんな矛盾する事は無いのだが、この孝明天皇の突然死が謀殺であれば、御側(おそば)近くに仕える公家にしか為し得ない。

そして孝明天皇の腹心とも言える侍従は、後に明治維新を主導した野心の固まりの様な人物・岩倉具視(いわくらともみ)卿だった。

人間の行動は、例え高僧で在っても高位の公家で在っても、ただ質が違うだけで全ては欲望がその推進力になっている。

つまり行動動機は、知識欲から出世欲まで、もっと原始的に「モテタイ欲」も在るかもしれない。

つまり、混迷する幕府政治の情況を打開すべく動いた尊皇攘夷派公家の仕業としたら、一連の動機は尊皇では無く野心満々の立身出世である。

確かに情況は切迫し、この時に明治維新の大業がなされなければ、日本の運命は欧米いずれかの植民地に変わっていたかも知れない。

しかし、孝明天皇は突然病死した。

その跡を継いだ睦仁親王(明治天皇)が、途中で「誰かと入れ替わった」と言う噂が存在する。

あくまでも噂であるが、その後の皇統史的扱いから疑いは濃い。


西暦千八百六十七年一月十六日、和暦慶応二年十二月十一日、風邪気味で在った孝明帝は宮中で執り行なわれた神事に医師達が止めるのを押して参加し、翌十二日に発熱する。

孝明帝の持病である痔を長年に渡って治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順(いらこみつおさ)の日記にその経緯が書かれていた。

孝明帝が発熱した十二日、執匙(しっぴ/天皇への処方・調薬を担当する主治医格)で在った高階経由(たかしなつねよし)が診察して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。

十四日以降、伊良子光順(いらこみつおさ)など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

西暦千八百六十七年一月二十一日(和暦慶応二年十二月十六日)、高階らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患(りかん)している可能性が浮上する。

執匙(しっぴ/主治医)の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医二名を召集して診察に参加させた。

その結果、いよいよ痘瘡(とうそう/天然痘)の疑いは強まり、十七日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹った事を正式に発表した。

これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢十五人により、二十四時間交代制での治療が始まった。

孝明天皇の公式の伝記である「孝明天皇紀」に拠れば、医師達は天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。

この「御容態書」に於ける発症以降の孝明天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセス通りに進行している事を示す「御順症」とされていた。

しかし、典薬寮の外科医・伊良子光順の日記に於ける十二月二十五日の条には、孝明天皇の痰が酷く、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師達も御所に昼夜詰めきりで在った。

回復に向かっていた筈の帝の予期せぬ容態の急変に、拝診資格を持つ十五名の医師団は右往左往するばかりで為す術(すべ)も無い。

その伊良子光順の日記に「十二月二十五日亥の刻(午後十一時)過ぎに崩御(ほうぎょ/亡くなる)された」と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと言う娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されている。

しかし崩御(ほうぎょ/亡くなる)の事実は秘され、実際には命日と成った二十五日にも、「益々ご機嫌が良く成られました」と言う内容の「御容態書」が提出されている。

天皇の崩御が公にされたのは二十九日に成ってからの事だった。


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孝明天皇崩御の謎〔二〕

◆◇◆◇◆◇◆◇◆十一話孝明天皇崩御の謎〔二〕◆◇◆◇◆◇◆◇

孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では特段の病は無く至って壮健であらせられた。

「中山忠能(なかやまただやす)日記」にも「近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

公家の中山忠能(なかやまただやす)は、娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、次帝・睦仁親王(明治天皇)を産んだ事から、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。

しかし中山忠能(なかやまただやす)は、公武合体派の公家として尊皇攘夷派との国論の二分する対立の中に在って失脚していた。

それが突然復権し、侍従・岩倉具視卿らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。

そんな折に孝明天皇が数えで三十六歳の若さにしてあえなく崩御なされてしまった事から、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後明治維新を経て、世の中に皇国史観が醸成されて行くと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明帝の死因を論ずる事は長く封印された。

しかし千九百九年(明治四十二年)にハルビン(哈爾浜)駅で伊藤博文を暗殺した朝鮮族の安重根(あんじゅうこん)が伊藤の罪として孝明帝毒殺を挙げるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。

また、千九百四十年(昭和十五年)七月、日本医史学会関西支部大会の席上に於いて、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が論説を発表する。

佐伯理一郎は、孝明帝が痘瘡に罹患した機会を捉え、侍従・岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子(ほりかわもとこ)を操り、「天皇に毒を盛った」と言う旨の内容だった。

そして日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇を賑(にぎ)わす様になる。

まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」及び「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した禰津正志(ねずまさし)だった。

禰津(ねず)は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく「孝明帝が順調に回復の道を辿(たど)っていた」とし、「孝明帝は回復する筈だった」と指摘している。

処が、症状が一転急変して苦悶の果てに崩御された事を鑑み、禰津(ねず)は孝明帝の最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定した。

また戦前の佐伯説と同様に犯人について、岩倉卿が妹・首謀者・堀河紀子の実行説を唱えているが、決定的な証拠はない。


千九百七十五年(昭和五十年)から千九百七十七年(昭和五十二年)にかけ、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝に拠って典薬寮の外科医・伊良子光順の拝診日記が「滋賀県医師会報」に連載された。

この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、孝明帝の死因を特定できるような内容が記されている訳でも無い。

また、典薬寮の外科医・伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べている様なものでも無かった。

だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、禰津(ねず)と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。

これらの他にも、学界に於いて毒殺説を唱える研究者は少なからず居り、千九百八十年代の半ばまでは孝明帝の死因について、毒殺が多数説とも言うべき勢力を保っている。

いずれにしても、もし側近に拠る孝明帝の暗殺が事実なら、次帝・睦仁親王(明治天皇)が「別人と入れ替わった」としても、「さして驚く事では無いではないか?」と思えて来るのだ。


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睦仁親王(明治天皇)即位の疑惑

◆◇◆◇◆◇◆十二話睦仁親王(明治天皇)即位の疑惑◆◇◆◇◆

千八百六十六年(慶応二年)、孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

この「孝明天皇の謎の死」が、もし謀殺で在ったなら、お側近くに仕える公家の中にその犯人が居なければ、説明が着かない。

もしそれであれば、孝明帝暗殺の陰謀はそこで完結するのでは無く、ある目的の大陰謀の序章に過ぎない恐れがあった。

となると、そのお側近くに仕える公家には孝明天皇謀殺に止まらない一連の大陰謀があり、確信犯的な目的を持って居た可能性を感じる。

そして孝明天皇の腹心とも言える侍従は、後に明治維新を主導した野心の固まりの様な人物・岩倉具視(いわくらともみ)卿だった。


京都での公武合体の推進を担ったのが、幕府総裁職・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)や京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)である。

この時点で、江戸幕府守旧派と尊皇攘夷の革新派が、国家体制をめぐって大きく対立していた事に成る。

守旧派のトップは、北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍・家茂(いえもち)」で、二人の思想は、「公武合体、鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。
その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

こんな矛盾する事は無いのだが、この孝明天皇の突然死が謀殺であれば、御側(おそば)近くに仕える公家にしか為し得ない。

つまり、混迷する幕府政治の情況を打開すべく動いた尊皇攘夷派公家の仕業としたら、一連の動機は尊皇では無く野心満々の立身出世である。

確かに情況は切迫し、この時に明治維新の大業がなされなければ、日本の運命は欧米いずれかの植民地に変わっていたかも知れない。

しかし、孝明天皇は突然病死した。

その跡を継いだ睦仁親王(明治天皇)が、途中で「誰かと入れ替わった」と言う噂が存在する。

あくまでも噂であるが、その後の皇統史的扱いから疑いの色は濃い。


千八百六十七年一月三十日(慶応ニ年十二月二十五日)、孝明天皇が崩御される。

孝明天皇の第二皇子・睦仁親王(明治天皇)が皇位を継承する事で周囲の話しは進んでいた。

しかし若い睦仁親王が「立腹している」と言う困った事が起きた。

父帝・孝明天皇は極端な攘夷論者で、睦仁親王もそれに習って攘夷論者だった。

所が、尊皇派の公家にしても尊皇攘夷派の志士達も、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)薩英戦争(さつえいせんそう)で欧米列強の戦闘能力を知ってアッサリと倒幕一辺倒に切り替え攘夷の看板を下ろしていた。

孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷勅命(じょういちょくめい)を無視された事で、睦仁親王は尊皇派の公家にしても尊皇攘夷派の志士達にも不満を漏らしていた。

それがどうした事か或る日突然、誰かに説得されたのか不自然に人が変わったように「攘夷」の意向を口にしなくなる。

この突然の睦仁親王の変身に、「或る大きな陰謀が在った」と主張する噂話が囁かれ始めたのはなんと御所の周辺からだった。


確かに攘夷派の親孝行な少年天皇に愚図られては倒幕処ではなく、そして倒幕派には「攘夷」の力など在りはしない。

睦仁親王の突然の変身が、孝明天皇の謀殺と同じ公家達の陰謀であれば、それこそ一連の大陰謀の仕上げかも知れない。

確かに攘夷派の親孝行な少年天皇に愚図られては倒幕処ではなく、そして倒幕派には「攘夷」の力など在りはしない。

千八百六十八年ニ月十三日(慶応三年一月九日)、睦仁親王は満十四歳で践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐ事)の儀を行い皇位に就く。

睦仁親王は元服前の践祚(せんそ)で在った為、立太子礼を経ずに明治天皇となっている。


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熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔一〕

◆◇◆◇◆◇十三話熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔一〕◆◇◆◇◆

七卿落ち(八月十八日の政変)でやむなく都を追われた三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、久坂玄瑞の案内で長州に下向したのだが、真っ直ぐ萩(長州藩藩都)には向わなかった。

向かったのは、長州二ヶ国の内、周防国熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿は逃れた長州の地・田布施で松陰派に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」人物を七卿に引き合わせたのが、それが吉田松陰門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。


山口県(周防)南東部瀬戸内海沿いに田布施町はある。

現在でも人口一万七千人ほどの小さな町だが、此処から日本の近代化は密かに始まった。

実はこの町の高松八幡宮が、七卿が逗留し松陰派の長州若手指導者達と皇政復古の産声を上げた所である。

この高松八幡宮の僅か北東に浄土宗の西円寺と言う寺があり、その傍らにこの大室家はあった。

七卿が逗留した高松八幡宮と、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まいが至近距離にあった事実に、偶然はありえない。

七卿落ちの公家達が長州の地で滞在した高松八幡宮は、田布施町大字麻郷に在る。

三井(みい)賀茂神社は、田布施町に隣接する光市の三井に在る。

八咫烏(ヤタガラス)は太陽の表面に現れる神であるから、神武東遷記に於ける「八咫烏神話(賀茂葛城)」に、神武大王(じんむおおきみ)の先導役として登場する八咫烏(ヤタガラス・賀茂・葛城)の伝承が、この三井(みい)賀茂神社にも存在する。

その事から、賀茂・葛城氏太陽(神武大王)東遷随行者として「大和朝廷成立に貢献した有力一族」と考えられる。


熊毛郡田布施町大字宿井に、天然記念物の「宿井はぜの木」の大木がある。

この宿井(宿居)の字名の意味する所は、仮の居場所(仮御所)の事ではないだろうか?

明治政府が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行なって、根強く信仰されていた全国の妙見系の神社を抹殺した事は、単に神仏習合策を改め、天皇神格化を狙ったものだろうか?

長州が妙見信仰の聖地であり、同時に、皇統の或る疑惑の地でもある事から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に絡め、何らかの証拠隠滅を図った疑いも浮上してくるのである。


明治天皇は孝明天皇の第二皇子である。

父・孝明天皇から親王宣下を受け立太子を宣明し、幕末の動乱期に皇太子・睦仁親王を名乗り、後に若くして皇位について居る。

所がこの明治帝(睦仁親王)、明治維新の前後では「全くの別人だった」と言う証言が存在する。

この親王入れ替わりの疑惑に、現在の当局としては「相手にするに値しない」と言う判断なのか、徹底的に無視した状態で、否定も勿論肯定もしていない。

現在の位置付けでは、この疑惑は単に巷の噂に過ぎないが、睦仁親王(京都明治天皇)には無かった「あばた」が、明治天皇には「あばた」が有り、右利きだった睦仁親王(京都明治天皇)に対し、「即位した明治天皇(東京明治天皇)は左利きである」とその違いが指摘されている。

こうした話は、事実ではないかも知れないが、その噂話が存在する事は事実である。

また、このとんでもない噂が本当なら、七卿筆頭の三条実美(さんじょうさねとみ)と長州藩の描いた陰謀に、同じく過激派公家の岩倉具視(いわくらともみ)が参画、朝廷での「迎え入れ工作を担当した」ものと思える。

そして、後に明治の元勲と言われる維新の立役者は、大方この事実を知っていた事になる。

そして、彼らにはそれが正義だった。


吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者、佐藤栄作氏の曾父・佐藤 信寛(さとう のぶひろ )氏との接点が有望である。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤 信寛(さとうのぶひろ)は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

佐藤信寛(さとうのぶひろ)氏は、藩校・明倫館にて儒学者・山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けていて、学問的には松蔭の恩師筋にあたる。

維新時の長州藩士であり、維新後は知事、県令の官職にも着いていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢され、後に「何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇の入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。


この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博文と 井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

また、龍馬と一緒に襲撃された中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、一時田布施で三条実美(さんじょうさねとみ)一行の衛士を勤めていた。

同じく松平春嶽は、その事を知るが故に維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。


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熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔二〕

◆◇◆◇◆◇十四話熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)〔二〕◆◇◆◇◆

これはあくまでも「とんでもない噂話」である。

しかし下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの小さな町々から、伊藤博文(いとうひろぶみ)を始めとして三人もの総理大臣を輩出している。

不思議な事に、岩徳線と言うJR線は直線的近道を走っているのに対し、主幹線である山陽本線は遠回りに海岸沿いに大きく迂回、複線電化のメインルートになって人口の少ない田布施町を停車駅にしている。

この田布施町、文献によると、南朝の系図を有する「大室家」が、数百年に渡って、大内家とその後の毛利家から庇護され居住していた土地である。

公古文書には意図して事実を隠す為に書かれた物もある事から、別の古文書にポツリと浮き上がる「南朝系図」は史実を追う上で重要な考慮点と成る。

室町期に「乗っ取り足利義満朝」の噂あるものの、明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)は北朝系の天皇である。

それが維新で大権を握った途端に「南朝正統」を言い出し、南朝方忠臣・明治復権を為している。

つまり「南朝系図」の大室某と言う隠された事実が在りながら、「そんな突飛な事は考えられない。」と安易に否定してしまって良いものだろうか?


この小さな田布施町から、戦後ふたりの総理大臣が輩出されている。

岸信介氏と佐藤栄作氏で、今に繋がる後裔が、言わずと知れた山口県の名門世襲代議士家の安倍家である。

橋本竜太郎氏も「二代遡ると大室家と縁がある」と言われている。

つまり、玉(ぎょく)を握っていた長州が、他の維新三藩を大きく引き離し、維新以後の政治に大きな勢力を持ち、政権担当者(総理大臣)を多数排出する事になる。

巷に流れる噂話が真実なら、南朝こそ正統な皇統であり、今の皇室も「密か」に正統と言える。 岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた毛利藩毛利(長州)藩士の名家で、その支配領域に田布施があり、佐藤家も、毛利(長州)藩士として、七卿落ちの滞在地・田布施に在地している。

その両家が、同じ田布施の大室家と、永い歳月の間に婚姻関係を含む「接点が無い」とは考えられず、隣接する光市(熊毛郡束荷村字野尻・現山口県光市束荷字野尻)出身の、総理大臣を四回も勤めた伊藤博文元首相を含め、少なくとも「縁戚関係の可能性がある」と考えられる。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれ 、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作井上馨(聞多)らと倒幕運動に加わり、維新成功後は初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた明治期の元勲である。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

この熊毛郡・田布施町に隣接する現在の光市の前身に古い地名として光井村や室積村が在ったのだが、これが良光(ながみつ)親王や大室家と関わりが在る地名の可能性がある。

また、田布施町を根元として瀬戸内海に突出した半島・熊毛(くまげ)半島は、古くは室津半島とも言う。

これらの地名、やはり偶然の一致と言うには出来過ぎの感が在るのだ。

大室家の出自に疑いを持ち「調べた結果百姓の出」など非難する者が居るが、それは余りにも歴史に未熟な証である。

そもそも論から言えば本姓の百姓は氏族であり、ましてや毛利家・長州藩に在って維新以前より立派に「大室と言う氏姓(しせい)を永く名乗って居る」と言う事は、長州藩が認める家系を大室家が有していた事になる。

この大室の意味だが、後醍醐帝の南朝を退けて足利尊氏が起こした「室町幕府拠りも大なりの意味」と穿(うが)って見たが、我輩のこじ付けだろうか?


伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?

これらの多くの縺(もつ)れた糸の全てが、熊毛郡・田布施町(たぶせちょう) で一つに繋がっていたのだ。


戦後政治に大きな足跡を残した元首相の岸信介氏は旧姓佐藤で、同じく元首相の佐藤栄作氏の兄である。

岸信介・佐藤栄作両元首相を輩出したのがこの山口県熊毛郡田布施町で、父・秀助、母・茂世の次男として生まれた。

佐藤家は士族であり、維新後は酒造業を家業としていた名家だった。

曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県・県令等を務め、祖父・信彦は漢学者であった。

父・秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入り、その次の代に次男信介を岸家に養子として戻した事になる。

佐藤家から岸信介氏が養子に行った岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた名家である 。

元首相の佐藤栄作氏は実弟、兄の佐藤市郎氏は海軍中将である。

長男の岸信和氏の妻仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物・田辺護の次女で、まさに政界一家である。

岸信介氏娘婿の安倍晋太郎氏は岸氏と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三氏も、現在有力な首相候補である。(注・安倍晋三氏は、この小説脱稿後首相に就任している)

ちなみに安倍晋三氏の弟・岸信夫氏(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家の方を継いでいる。


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南朝忠臣の復権

◇◆◇◆◇◆◇◆◇十五話南朝忠臣の復権◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢され、後に「何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇へ入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。


この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博、文井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。

同じく松平春嶽は、その事を知るが故に、維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。

その長州の倒幕資金に、「南朝の隠し軍資金が使われた」と言う噂もある。

もしこの南朝の隠し軍資金話、後醍醐天皇と醍醐寺・文観僧正の怨念が、「時を越えて為したる業」と考えると、真言密教恐るべしである。

八咫烏(ヤタガラス)の化身「かもたけつのみの命」は、それさえ見抜いて、落ち延びる親王に「軍資金のありかを書いた書状を託した」と言うのか。

この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

歴史と言うものは都合良く脚色されるもので、もし明治新政府の勤皇の志士達が国家単位でトリックを構成されれば、例え創り事でもそれを解く事はほとんど出来ない。


実はこの頃、南朝方(後醍醐帝方)に与力した楠木正成新田義貞北畠顕家らが忠臣として復権され、明治五年の楠木正成(湊川神社)、明治九年新田義貞(藤島神社)、明治十五年北畠顕家(阿倍野神社)と次々に神社が建てられて祀られている。

更に明治天皇の特旨により新田家(新田義貞の子孫、男爵)、名和家(名和長年の子孫、男爵)、菊池家(菊池武光の子孫、男爵)など、南北朝時代に南朝方忠臣であった子孫が、特別の計らいで華族に叙せられている。

維新政府成立直後の未だ新政府の足元も固まらない時に、この力の入れようは何だったのか?

つまり明治維新政府は、南朝方(後醍醐帝方)の復権をかなりの優先事項として取り組んでいた。

この謎は大きい・・・・。

明治維新成立と同時に突然浮上した、江戸期の北朝系天皇の下では賊軍だった南北朝期の南朝方忠義の臣達の物語に、いったい何が込められていたのか?

この事は、明治帝入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。

事の真贋は定かではないが、明治維新以後急に南朝の正当性も認められ、楠正成や新田義貞が天皇を助けた英雄として祭られたのは、動かす事の出来無い事実である。

この二人は神社になり、戦前、戦中は忠義の臣として、学校で「歌」も歌われていた。

楠木正成(湊川神社・明治五年)、新田義貞(藤島神社・明治九年)、北畠顕家(阿倍野神社・明治十五年)・・・・・・後醍醐天皇(吉野神宮)を始め護良親王(鎌倉宮)、尊良親王(金崎宮)など後醍醐天皇皇子の神社は四社を数える。

つまり、維新以後南朝方の神社は急激に建立され十四社に及ぶ。

室町期から江戸期までを通じて、皇統は北朝・光明天皇系である。

もし、南朝・大室氏の入れ替わりが無いならば、この明治初期に於ける南朝方旧臣の名誉回復は到底説明が着かない事に留意しなければ成らない。

この維新の陰謀説、皇統に陰謀など「有っては成らない事」と思う心情も判らないではないが、大きな政変に皇統が少しだけ揺らぐのは良く有る事である。


室町期の北朝の皇統に「足利の血が入れ替わった」と囁かれても、足利氏自身が源氏の皇胤貴族の出自であるから、あながち「偽者」とは言い難い。

明治維新に於ける大室某も、系図通りの南朝の末裔であれば、やはり「偽者」とは言い難い。

実は周囲の多くが、この難局を前にすれば「この際、止む負えない」と思った節(ふし)が有る。

それ故この政変、思った以上にスムースに事が運んだ。

つまりは周囲が、この政変ストーリーを「容認または積極的に賛同した」と考えられる話で、それで無ければここまで隠し果せる話では無いのである。

明治天皇にはこうした疑惑が囁かれていた。

しかし、この「明治天皇挿(す)げ替え説」に確たる証拠は無く、状況証拠を積み重ねるのみであり、既に解明される事無く歴史の闇に消えつつある。


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江戸(東京)遷都

◇◆◇◆◇◆◇◆◇十六話江戸(東京)遷都◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

慶応三年に徳川慶喜より大政奉還された時、新しく下士の身分から中央政治の実権を握った維新の志士達の間で都(新しい政治の中心地)を「そのまま京都に置くのかどうか」が論議になる。

意見としては大久保利通の浪速(大阪)、前島密の江戸(東京)、江藤新平の京都(西京)江戸(東京)東西二京論などが在ったが、彼等の一致する所は京都以外に遷都案である。

京都から遷都する事の意味は、古い政治体質を引きずる公卿達の「新政治に対する妨害を嫌った為」だと言われているが、本当にそれだけだろうか?

明治帝が睦仁親王で在ったなら京都は千有余年の帝城であり生まれ育った土地で、果たしてその明治帝(睦仁親王)が如何に「周囲から口説かれた」と言え京都から江戸(東京)への遷都に易々と同意するだろうか?

何故に新政府の閣僚達は、京都帝城からの脱出を急いだのか?

憶測の域を出ない話だが、もし明治帝が京都帝城に何の未練も無い人物だったら、この謎解きは簡単である。

三条実美七公卿落ちのメンバーや岩倉具視はともかく、明治帝を早期に京都の公家衆から引き離すのっぴきならない事情が隠されていた可能性もあるのだ。


千八百六十八年(慶応四年/明治元年)、維新中心人物達の奏上(そうじょう)により江戸(東京)遷都の意志を示す天皇の詔書がなされる。

「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」

千八百六十八年(明治元年)の八月、明治帝は政治的混乱で遅れていた即位の礼を執り行なう。

その後明治帝は、維新中心公卿の岩倉具視、議定職の中山忠能、外国官知事を任じていた伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の四藩の兵隊など総数三千数百を持って同年九月に京都を出発して江戸(東京)に初めての行幸(東幸)をする。

旧東海道を東に進み、駿河国の東の国境を流れる木瀬川を越えると伊豆国に入る。

その国境を守る社が、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王に所縁の智方(地方)神社である。

その智方(地方)神社の傍らに広がっていたのが、窪地(くぼち)に設えて在った窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田だった。

窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田の先には、源頼朝が腹違いの弟・九郎(源)義経と「初めて対面した」とされる八幡神社がある。

この智方(地方)神社と八幡神社の正面に面して旧東海道が設けられているのだが、明治帝の一行が江戸(東京)遷都の為に東幸したのがこの道だった。

明治帝の一行は、木瀬川を越え駿河国境を越え伊豆国に入った所で休息を取る予定を決め、先触れが当地の世話役達に届いていた。

先触れを受けた当地の世話役は、ちょうど智方(地方)神社と八幡神社の中間地点にあたる広々とした窪田(くぼんだ)の水田に板囲いの仮御所を急遽造営して明治帝の一行を迎え御休息頂いた。

行程二十日間を余す帝の行幸では道中も帝の威信を高めながらの大変大仰な旅で、その仮御所は恐れ多い物だから直ぐに取り壊され、元の水田の戻されて今は遊技場の建物が建っている。

この東幸は旧幕勢力に対するけん制のデモンストレーションの意味合いが強く、また東京と京都(西京)の両京の間で天皇御座(都名乗り)の綱引きもあり、一旦先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を理由に、同年十二月には再び京都へ還幸を実地している。

その三っ月後の千八百六十九年三月、明治帝は三条実美らを従えて再び東幸を慣行、行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とし、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。


この江戸(東京)遷都の背景に、帝を京都御所から引き離したい「何か特殊な事情が在った」とは考えられないだろうか?

当初の発表では、あくまでも京都と東京は二元首都だった。

そして睦仁親王(明治帝)のご尊顔を拝していた女官の大多数は、京都御所に置き去りに成っている。

ついで同年十月には皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せ、着々と既成事実を積み上げる形で完全に天皇御座が東京に移って、これ以降明治帝は東京を拠点に活動する事になり、遷都が完成するのである。


凡そ千年に及び天皇の住まいし都だった平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て江戸の地に遷都され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となる。

この江戸(東京)遷都(えどせんと)に依り、千年の怨念から解き放たれた京都は戦時中の空襲から守られ、新たな都に成った東京は首都の怨念を背負って大戦中に灰塵と化している。

つまり都とは、多くの矛盾(むじゅん)に満ちた亡者達が陰謀と怨念を生み出す為にうごめく、生々しく呪われた場所かも知れない。


明治維新が成功し、明治新政府が成立して江戸に明治帝が入城して遷都は成った。

その為の倒幕だったから、ここからは近代的な日本を創造すべく新しい政治をしなければならない。

後醍醐天皇の「建武の親政」以来の天皇親政に拠る政治形態を明治維新政府は採って、新生日本国は大日本帝国として出発する。

明治維新政府の形としては、後醍醐天皇が目指した天皇親政である。
しかし現実は、倒幕に功績のあった「薩長土肥と倒幕派公家」の連合政権である。

そして徳川二百六十年の後始末は、江戸城開城後も内乱の形で北陸、東北、北海道と続いていた。


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伊藤博文(いとうひろぶみ)

◆◇◆◇◆◇◆◇十七話伊藤博文(いとうひろぶみ)◆◇◆◇◆◇◆

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、農家・林十蔵の長男として周防国・熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれて、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

つまり元は農家の家で士分では無く、家は貧乏だったのだが父・十蔵が萩藩の中間・水井武兵衛の養子と成った事がきっかけで、父・十蔵の道が開ける。

父・十蔵は余程運が良かったのか、養子と成った養父の中間・水井武兵衛がさらに周防国佐波郡相畑の武士伊藤氏の養子となって伊藤直右衛門と名乗ったので、父・十蔵も幼き頃の利助(伊藤博文)も士分・伊藤氏を名乗り長州・萩藩下級武士に列する道が開けたのである。

熊毛郡束荷(つかり)村に農民の子として生まれた利助(伊藤博文)は、十七歳の時に吉田松陰の友人で萩藩士・来原良蔵(くりはらりょうぞう)に認められて、その紹介で松下村塾に入塾した。

利助(伊藤博文)は吉田松陰の松下村塾に学び、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)を名乗り高杉晋作や井上聞多らと倒幕運動に加わるようになる。

伊藤達の長州藩倒幕派は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用され、長州藩の藩政に参画して指導的役割を果たした。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、仲間と共に公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、塙次郎・加藤甲次郎を暗殺し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。

伊藤俊輔は、千八百六十三年(文久三年)井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人として英国(イギリス)に渡航するが、留学中に余りにも圧倒的な英国(イギリス)との差を目の当たりにして開国論に転じている。

この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度は明治維新直後から官費教育制度として形を変え、多くの渡航留学生を派遣して専門知識を習得させ、多くの指導者を輩出させた。

つまり特権身分に多くの学習機会を与える官費教育制度は、実は官僚の特権として形を変え現代にまで続いている。

その英国(イギリス)留学中に四国連合艦隊による長州藩攻撃の機運を知り、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は急遽井上聞多と帰国し四国連合艦隊との戦争回避に奔走するも藩論をまとめ切れず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。

朝廷をめぐる主導権争いから長州藩と幕府の間は不穏な状態となり、幕府軍に拠る第一次長州征伐(幕長戦争)が始まり、長州藩の藩論が幕府に恭順の姿勢を見せると、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵する。

力士隊は勢いを得て奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、高杉や伊藤達の正義派(革新派)が藩政を握った。

維新後、この伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は伊藤博文(いとうひろぶみ)と改名する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、長州閥の有力者として明治政府参与、岩倉使節団参加、西南戦争に於ける西郷隆盛の敗死を経て、大久保利通が暗殺された後の内務卿、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定、初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣を歴任している明治期の元勲である。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、拡大主義を取る政府内に在って数少ない国際協調重視派で、日露戦争では日露協商論・満韓交換論を主張してロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対している。

第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)に拠って大韓帝国が日本の保護国となり、日本が実質的な朝鮮の支配権を掌握すると、伊藤博文(いとうひろぶみ)は設置され韓国統監府の初代統監に就任する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。

韓国統監府統監を辞任し、枢密院議長に復帰した千九百九年(明治四十二年)、伊藤博文(いとうひろぶみ)はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(あんじゅんこん)によって狙撃され死亡し、日比谷公園で国葬が営まれた。

この暗殺事件がきっかけとなり、また日韓合邦推進派の口実とされ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が意図しなかった日本による韓国併合は急速に進んだのである。


伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?

そう考えれば、合点が行く事が在るのだ。

伊藤博文は国家の重鎮として四度も内閣総理大臣を勤めた。

ただ、宮中側近の元田永孚や佐々木高行等は保守的で、それを信任した天皇に立憲君主制に対する理解を深め、日本の政治体制の近代化を進めて貰うに伊藤は苦慮した。

そうした環境下に在って、伊藤が政党(立憲政友会)を結成出来たのは、明治天皇と伊藤博文の強い信頼関係に特別なものが在ったのではないだろうか?

つまり他の者にあらず、明治天皇と伊藤博文の強く特別な信頼関係無くして日本の政党政治は幕をあげる事はできなかった。


伊藤博文がハルビン(哈爾浜)駅で暗殺された時、朝鮮族の犯人・安重根(あんじゅうこん)が伊藤の罪の一つとして「孝明帝毒殺」を挙げている。

勿論、「言い掛かり」かも知れないが、それにしても何故その事を挙げたのだろうか?

孝明帝の「毒殺疑惑」は、日本中に広がっていた。

本来なら岩倉具視と伊藤博文は、明治天皇にとって父帝・孝明天皇を手に掛けた疑惑(懸念)を持つ人物である。

しかし何故か、岩倉具視、伊藤博文の両名伴に明治天皇の寵愛が深かった。

であれば、考えられる理由は二つ、一つは陰謀そのものが無かったか、今一つは明治天皇の入れ替わり説が正しい事に成る。

それにしても、南北朝入れ替わり説に符合する数々の事実は、只の偶然なのだろうか?


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前原一誠(まえばらいっせい)

◇◆◇◆◇◆◇十八話前原一誠(まえばらいっせい)◆◇◆◇◆◇◆◇

前原一誠(まえばらいっせい)は、千八百三十四年(天保五年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組四十七石)の長男として生まれ、後に前原氏を相続する。

相続先の前原家の遠祖は、尼子氏重臣・戦国武将・米原綱寛(よねばらつなひろ/尼子十勇士の一人)である。

本姓の生家・佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で出雲源氏の諸流に属し、遠祖は尼子氏・毛利氏の重臣である佐世清宗(させきよむね)である。

一誠(いっせい)は倒幕の志士として活躍し維新の十傑の一人とされたが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。


千八百三十九年(天保十年)、藩の郡吏となった父・佐世彦七とともに一誠(いっせい)は厚狭郡船木村に移住する。

後に藩都・萩にて修学するが、千八百五十一年(嘉永四年)、一誠(いっせい)は再び船木村に帰り陶器製造など農漁業に従事する。

千八百五十七年(安政四年)、一誠(いっせい)は久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。

松陰の処刑後、一誠(いっせい)は長崎で洋学を修め、のちに長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。

千八百六十二年(文久二年)に一誠(いっせい)は脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽(ながいうた/時庸・ときつね)の暗殺を計画するも成就に到らず。

翌千八百六十三年(文久三年)、一誠(いっせい)は藩に復帰して右筆役、更に八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛となる。

萩の乱の首謀者として処刑とされた前原一誠(まえばらいっせい)も、維新前は長州藩倒幕派で在った。

と言っても一誠(いっせい)は、大勢の長州藩倒幕派の中の一人で、けして抜きん出た存在ではなかった。


想うに、明治維新の全ては 熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に繋がる「不思議な何か?」のパワー魔力である。

一誠(いっせい)に与えられた「七卿方御用掛」の縁が、その後彼が「維新の十傑の一人」とまで数えられる出世のチャンスに成ったのではないだろうか?

つまり一誠(いっせい)も、伊藤博文(いとうひろぶみ)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)佐藤信寛(さとうのぶひろ)等と同様に、大室某の謀議に加わって出世の糸口を掴んだと考えられる。

その後一誠(いっせい)は、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。

長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、千八百六十八年(明治元年)の戊辰戦争で、一誠(いっせい)は北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

千八百七十年(明治三年)戊辰戦争も終結し明治維新成る後、一誠(いっせい)は維新の戦功を賞されて賞典禄六百石を賜る。

維新後、新政府に任官した一誠(いっせい)は、越後府判事や新政府参議を勤める。

大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、一誠(いっせい)は出仕する事が少なかった為、船越衛は省務停滞を嘆いている。

また、一誠(いっせい)は前任・大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋(やまがたありとも)に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

新政府の方針に不満をもった一誠(いっせい)は、千八百七十六年(明治九年)、奥平謙輔(おくだいらけんすけ)とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こす。

しかし、即座に鎮圧されて幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕され、萩にて処刑された。


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佐藤信寛(さとうのぶひろ)

◆◇◆◇◆◇◆◇十九話佐藤信寛(さとうのぶひろ)◆◇◆◇◆◇◆

吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者、佐藤栄作氏の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)との接点が有望である。

信寛(のぶひろ)は、江戸時代後期の長州藩士で佐藤家第十代当主で、子孫には首相を務めた岸信介・佐藤栄作兄弟(曾孫)及び安倍晋三がいる。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

信寛(のぶひろ)は藩校・明倫館にて山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修める。

信寛(のぶひろ)の師・清水赤城は吉田松陰に兵要禄を授けて居る為、学問的には松蔭の恩師筋の先輩にあたり深い親交が在った。

明治の初め、信寛(のぶひろ)は長州閥の一人として新政府に任官し、浜田県権知事、島根県令等を務め、県令として萩の乱の首謀者・前原一誠(まえばらいっせい)らを逮捕する活躍をしている。

千八百七十六年(明治九年)十一月、前原一誠・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)ら萩の乱幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕された。

千八百七十八年(明治十一年)頃に信寛(のぶひろ)は官を退き、熊毛郡麻郷村戎ヶ下(えびすがした/現・田布施町戎ヶ下)に居を定め、余生を風月と共に送った。

信寛(のぶひろ)は官職を退任後、戎ヶ下(えびすがした)の別荘に起居し、蝦洲(えびす)と号した。

信寛(のぶひろ)の別荘には和宮親子内親王と婚約していた事で知られる有栖川宮(ありすがわのみや)・熾仁親王(たるひとしんのう)や明治の元勲・伊藤博文(いとうひろぶみ)らが立ち寄ったと伝えられる。

尚、熾仁親王(たるひとしんのう)は、明治新政府の成立に至るまで、公家社会に於いて三条実美(さんじょうさねとみ)とならぶ長州系過激攘夷派の急先鋒として認識されていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢されて新政府の要職に就き、後に「伊藤・佐藤・岸・安倍と、何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。


「維新の十傑」に数えられる人物は、公家岩倉具視長州藩大村益次郎木戸孝允(桂小五郎)前原一誠広沢真臣の四名、薩摩藩西郷隆盛大久保利通小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。

横井小楠(よこいしょうなん)と広沢真臣(ひろさわさねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

薩長土肥の四藩プラス肥後藩の藩閥に在りながら、十傑から洩れているのは旧土佐藩士出身の後藤象二郎板垣退助がいる。

また維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。

十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文山県有朋井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。

そして明治帝のお覚えが特に良かった伊藤博文と井上馨(多聞)には、「吉田松陰の或る計画」の存在が密かに影響したとは考えられないだろうか?

そもそも伊藤博文と井上馨が、同じ倒幕志士ながら武闘派の久坂玄瑞入江九一と違う生き方をしたのは、吉田松陰から託された「然る方(大室某)の護持」が在ったからかも知れない。

結局の所、明治帝の参議(重臣)に、「七卿落ち」と「熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)の大室某」に関わった者が数多く居たのは事実である。




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野田内閣不信任案・野田佳彦問責決議と衆院解散
暴走する野田政権を阻止せよ。
民主党議員・消費増税の良い子坊ちゃんと心中
虐(いじ)め自殺事件の隠蔽(いんぺい)
民主党・野田政権は最低の政権である
民主党・野田政権は最低の政権〔U〕
企業経営に於ける「共生理念」を提案する
小泉改革の正体
議員定数削減案に物申す
国際競争力と法人税率再軽減論の怪
地方分権・道州制案の怪しさ
自民党大政奉還論
政権の疑惑を追求せよ随時更新中
日本の針路は大丈夫か?パートT
日本の針路は大丈夫か?パートU内閣府特命大臣の美名?
日本の現状と小泉内閣への私見
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「長寿医療制度」後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)
物造り大国日本の矛盾
限界集落問題
国民に負担を掛けない赤字国債の処理方法
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外国との税率比較論のまやかし
木を見て森を見ず
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隠し赤字の実体
官僚(役人)のアマーイ立場
官僚大国・日本から脱出する方法
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少子高齢化問題の具体策
NHK問題の考察
男女共同参画少子化担当大臣のまやかし
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一夫十一妻疑惑騒動?の考察


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未来狂冗談の作品リスト


【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

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そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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【この作品群は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の著作品です。】

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。




あなたは、人目の訪問者です。


作者本名鈴木峰晴