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支配階級を食わせられる比率は人口の五パーセント前後】

支配階級を食わせられる比率は人口の五パーセント前後】****支配階級を食わせられる比率は人口の五パーセント前後】****支配階級を食わせられる比率は人口の五パーセント前後】****

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***【歴史のミステリー】*********

【名字のルーツと氏姓の歴史】

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【名字のルーツと氏姓の歴史】

歴史にロマンばかり求めると、フィクション(虚構)ばかりの物語に成ってしまう。

それよりも、歴史ロマンの裏に隠されたリアル(現実的)な日本史をシリアス(真面目)に書き綴る物語が在っても良いではないだろうか?

氏族末孫願望が強い日本人だが、大体に於いて支配階級を食わせられる比率は五パーセント前後がやっとである。

だから、幕末時点での公家・武家・有姓僧侶家の合計は七〜八パーセントで、後は非人が六パーセント位、従って八十五パーセント〜八十七パーセントは只の平民だった。

圧倒的に多くの比率を占める只の平民は、遡れば蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の末裔か、以前に氏族の姓を有していた過去が在るにせよ、そこから陥落した家柄と言う事で被搾取階級で有る事に変わりは無い。


大王(おおきみ)家=天皇(てんのう)家には氏姓は無い。

何故なら、大王(おおきみ)=天皇(てんのう)は氏姓(うじかばね)を授ける立場だからである。

大王(おおきみ)=天皇は、**大王(**おおきみ)=**天皇(**てんのう)を名乗り、その子息である親王や内親王、そして歴代の皇族も**王(宮)を名乗って臣籍降下するまで氏姓(うじかばね)を持たない。

氏姓(うじかばね)が、制度上の全ての国家身分階層を表示すものから、やがて名字(苗字)と同じ意味に変化する。

名字と苗字はどちらが先かと言えば、名田経営(みょうでんけいえい)者が支配する土地を苗字(なえあざ)と呼ぶ所から名字と苗字は同じ意味である。


◆◇◆◇◆名字のルーツ氏姓の歴史◆◇◆◇◆◇

現在の氏名の元となった姓は、古代日本に於ける氏姓制度(しせいせいど)から始まっている。

古代日本に於いて、中央貴族や地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より地位を表す氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。

五世紀頃から始まったその制度は「氏姓制(ウヂ・カバネせい)」とも言い、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)制」とも言う。

六百八拾四年(天武十三年)に大王(おおきみ)の地位の確立を進める為、大和連合政府(大和朝廷)で用いられた身分制度が、八色の姓(やくさのかばね)である。

一番上の姓(かばね)である真人(まひと)は、主に皇族に与えられ、次に朝臣(あそみ、あそん)、臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などが、八色の姓(やくさのかばね)の身分をも表す姓(かばね)制度で、天皇家への権力掌握をはかった。

当時の有力部族王(臣王)には、和邇(わに)葛城(かつらぎ)大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)犬養(いぬかい)と言った姓名が連なっている。

天皇から朝臣(あそみ)の姓(カバネ)を賜っての賜名であるから、読み方に「の」が入って物部尾輿(もののべのおこし)大伴家持(おおとものやかもち)蘇我馬子(そがのうまこ)等が正しい読み方である。

王族(皇族)が臣籍降下(しんせきこうか)して姓(カバネ)を賜った平氏源氏橘氏も読み方に「の」が入り、例を挙げれば、平清盛は「たいらのきよもり」で、源頼朝は「みなもとのよりとも」となる。

つまり藤原氏の姓(カバネ)読みは「ふじわらの」で平氏の姓(カバネ)読みは「たいらの」、源氏の姓(カバネ)読みも「みなもとの」が正しい読み方である。


大化の改新後、大和朝廷(ヤマト王権)が律令国家の形成に及ぶと、戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)はかつての部民(べみん/渡来部族)、つまり百姓階層にまで拡大され全ての階層の国家身分を表示するものとなった。

但しこの戸籍制に拠って大半が氏姓(ウヂカバネ)を有したと解されるのは誤解で、該当者は実質総人口の一割程度だったと推測される。

氏ではない非征服部族の良民蝦夷の扱いは、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の集団だった。

非征服部族の良民蝦夷は、氏を持たない事でその身分が土地に固定し、その土地の附帯的な存在に位置する隷属身分だったのである。

実はこの「村里集落が一つの共同体単位」が、それ以後我が国の庶民に永く続く「村落共同体」の「共生社会意識」を育てた最初の出来事だった。

我が国の大衆社会に育ったこの特異な「村落共同体」の「共生社会意識」については、この物語の後半で詳しく記す事にするので、そこまで是非読み進めて欲しい。

千八百六十九年(明治二年)、旧藩主が自発的に版(土地)・籍を天皇に返上した事を「版籍奉還」と言う。

この版籍奉還をよく見ると、版(土地)の他に「籍」つまり「人民」を「旧藩主が明治天皇に返した」と言う意味で、概念上、人民は「藩主の持ち物」だった。

この考え方が、とりもなおさず征服、非征服時代の考え方がそのまま存在していた事実を示した事に成る。


公家神官武士と違い、彼ら民人は村(居住地)の所属であり、その土地の統治者の所属だった。

村(集落・居住地)の名が、一体化した村人の氏姓(うじかばね)の代わりだった。

つまり氏姓(うじかばね)の代わり、土地の名に支配者の名(苗字)がかざされ、「大田村(太田氏が所有する)のゴンベイ」と言う表記になる。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)は氏姓を持つ土地支配者の名字(なあざ)、つまり土地の名であり村長(むらおさ)の別名「名主(なぬし)」の語源は、ここから来ている。

この名字(なあざ)由来は、平安期に起こった武士の台頭と名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)の成立に拠るものである。

下級貴族・百姓の多くは源氏流平氏流藤原氏流橘氏流を名乗る枝の者が圧倒的に多くなる。

つまり、同じ氏姓を名乗る者が圧倒的に多く成り、その混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となったからである。

その後町が形成されたが、町人も「**河岸のタロ吉、**辻のジロ吉」で、氏(うじ)姓(かばね)は無い。

百姓は氏族、農民は民人(たみびと)が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。

町家に在って名字(みょうじ)の他に通用したのは、大店(おおだな)商家の屋号が精々である。

この身分の線引き、かなり時代が下がると一部の例外として士分に取り立てられ、「氏を名乗る者もいた」のだが、あくまでもこの原則は明治維新まで変わる事は無かった。


本来の「姓(カバネ)」は、古代の氏族を政治的分類・格付けしたもので、職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)。

地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などである。

しかし、時代が下がるに連れて姓(かばね)は本来の意味を失い、別の意味に変わって「氏」の同意語や元の血筋を示す意味と成った。

その元の血筋を示すと言う用法の「姓」が、平安中期頃から始まった「藤原姓の工藤氏」、「平姓の村岡氏」、「平姓の北条氏」、「源姓の足利氏」、「源姓の新田氏」と言う様に「氏」が細分化された。

結果、古代の「氏(うじ)」にあたるものを「姓(かばね)」と呼ぶようになったのである。


帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子を称して次の帝となる事に備えるが、そこから外れた者は帝の代が代われば王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かないから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。

王族(皇族)としての賜姓(しせい/たまわりせい)で有名なのは葛城王(かつらぎおう)、賜姓降下(しせいこうか)で有名なのは桓武帝・高望王(たかもちおう)流れの「平氏流」、歴代天皇が皇子に賜姓(しせい)した「源氏流」がある。

源氏流に関しては、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏などがある。

中でも嵯峨源氏流には、現代に於いて人口百十五万を数え五位にランクインする渡辺氏(わたなべうじ)の摂津・渡辺綱(わたなべのつな/源頼光四天王)、肥前・松浦氏(まつらうじ)、筑後・蒲池氏(かまちうじ)、常陸・源護(みなもとのまもる/将門の乱鎮圧)などの有名どころを排出している。

武門として名を成した清和源氏流は、初代・経基(つねもと)流を始めとして清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏など清和源氏だけで二十一流がある。


その清和源氏よりも格が高いのが村上源氏・師房(もろふさ)流で、村上帝・第七皇子の具平親王(ともひらしんのう)の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)に発し、鎌倉期源通親(みなもとのみちちか/土御門通親)南北朝期北畠親房(きたばたけちかふさ)、幕末の討幕派公家・岩倉具視(いわくらともみ)も村上源氏の支流である。

尚、播磨国赤松を名字の地とする赤松氏もまた村上源氏季房流と自称し、名和長年も村上源氏雅兼流と自称している。

更に村上源氏と自称する赤松満則流を、奥三河の作手城主(奥平氏)の奥平貞能・奥平信昌父子も称している。

瀬戸内海で活動した村上水軍は、河内源氏の庶流・信濃村上氏を起源とする説、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国説、そして村上源氏説がある。


平安中期から始まっていたが、氏族の多くは源氏平氏藤原氏橘氏の姓(カバネ)を名乗る者が圧倒的に多くなり、「藤原殿」と姓で呼んでは混同混乱する。

それで姓(カバネ)乗りではなく、領地・赴任地を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)を名乗ったり、官職名などと組み合わせて称するように成る。

例えば官職・権兵衛(ごんのひょうえ)の藤原氏で権藤(ごんどう)も、そうした名乗りの一である。

佐藤氏(さとううじ)の様に、官職・「左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官)の藤原氏」の略だったり、「佐野の藤原氏」や「佐渡の藤原氏」などの地名と組み合わせた略だったりとその由来がある。

藤姓の近藤氏・安藤氏・伊藤氏・加藤氏などには、近藤は近江国、安藤は安芸国、伊藤は伊豆国または伊勢国、加藤氏は加賀国(加賀介)などが挙げられる。

鎌倉期に入ると将軍でさえ「鎌倉殿」と呼ぶ時代で、つまり配下の御家人達も「**殿」と呼ばれ称する習慣になり、正式な氏姓である源氏・平氏・藤原氏・橘氏は一部を残して常用されなくなる。

つまりややこしい事に、言わば「姓(かばね)」と「苗字(なえあざ)」と「通称」と「実名」が用いられ、例えば清和源氏・土岐頼国明智流を自称する坂本龍馬(さかもとりょうま)は、明智流が正しければ姓は源、名字(苗字)は坂本、通称が龍馬、実名が直柔(なおなり)と言う事に成る。


明治維新以前の日本は血統至上主義社会だったから、養子を迎え藤原に改姓する者、氏の女子を娶(めと)り、母系によって藤原、その他の姓(源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、安倍、他の名族の大姓)を称した例もある。

こうした例は当時の氏族社会で頻繁に行なわれ、例えば熱田大宮司家ら多数が藤原氏から養子を迎えて藤原を名乗った例が残っている。

それで、氏族社会が旧名族系の大姓ばかりになり、区別の為に知行地(領地)を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)を、それぞれが名乗って氏名(うじな)とする者が現れる。

その後、また旧姓に復して名乗る身内も出るなど、膨大な姓が誕生する。

しかしそれらの氏姓の末裔達も代を重ね枝分かれして身分は低くなり、中央権力と直結する高位の身分とは大差が付いて行く。

その総称が「百姓」の語源で、当初の「百姓」は農業従事者の事では無く枝分かれして身分の低い氏族だった。

つまりこの物語をお読みの貴方も、鎌倉幕府以降だけでも三十代以上の世代混血を経過していて、父方・母方を辿れば源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、安倍、他の名族の大姓に必ず何処かで繋がっている。

まぁ恐れ多いかも知れないが、千五百年間も世代混血を遡れば必ず何処かで皇統の血も混ざって居る訳で、その意味では日本民族は一つにまとまる要素が在るとも言える。

そう言う訳だから、貴方の先祖が世代混血の系図の中からチョイスして「先祖は何々」と公表してもほとんど個人的誇りを満足させる気分の問題かも知れない。

豊臣秀吉の最初の氏(うじ)名乗りは、木下(きのした)だったが、途中から氏名乗りを羽柴(はしば)として、羽柴秀吉(はしばひでよし)を名乗る。

豊臣姓は天皇から朝臣(あそみ)の姓(カバネ)を賜っての賜名で、「豊臣朝臣(とよとみのあそみ)」であるから、読み方に「の」が入って豊臣秀吉(とよとみのひでよし)が正しい読み方である。



事のついでに名前のルーツを付け加えると、後に町民や農民と言った庶民にも名前に用いられた「衛門(えもん)に兵衛(べぇ)」の謂れは、元々御所の内裏(だいり)の内外を守る衛門(えいもん)や兵衛(へいえい)が内裏(だいり)の左右に在る役所名・役名をかざした武士の通称から発祥したものである。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)と組ませて名乗ったもので、右衛門・左衛門、伊右衛門、茂右衛門、安右衛門、杢右衛門、宇左衛門、宇兵衛、安兵衛、茂兵衛などがあり、名字(みょうじ・苗字/なえあざ)にそれを組ませて忠臣蔵の堀部安兵衛(ほりべやすべい)と言う具合になる。

それが商家の当主にも使用され、町民や農民と言った庶民にも広がって当時名前の多数派を占めている。

明治期の元勲の一人、山本権兵衛(やまもとごんべい)の官職読み「ゴンノヒョウエ」もそう言う類の一つである。

また、ここで律令制に於ける官職名を紹介する。

何故ならば官職名が武人の名前に採用され、時代が下がるとその官職名が庶民にまで広がったからである。

官職は、部署ごとに「省」に於いては卿(かみ)、輔(すけ)、丞(じょう)、録(さかん)、「寮」に於いては頭(かみ)、助(すけ)、允(じょう)、属(さかん)がある。

また武官職は、左衛門府・右衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府の六衛府があり、「近衛府」に於いては大将(かみ)、中将・少将(すけ)、将監(じょう)、将曹(さかん)、「兵衛府」に於いては督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)となる。

そして地方の官職は、「国司」於いて守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)である。

その内の、「輔(すけ)」や「助(すけ)」に「介(すけ)」、「佐(すけ)」、「丞(じょう)」や「允(じょう)」などが好んで名前に使われ、一部は現代まで続いている。

また、左近・右近の名も、官職名を組み合わせた左近兵衝(さこんのひょうえ)・右近兵衝(うこんのひょうえ)の略称から採ったものである。

尚、律令制に於ける例外の官・別当(べっとう)は名字、蔵人(くろうど/くらんど)は名前に使われている。


今に成っての現代人には実感が湧かないと思うが、この物語の冒頭で記述した様に氏姓の支配体制は明治維新まで続いていた。



氏族由来の氏姓としては線が細いが、稲作文化として歴史を刻んだ日本では、名字に田が着く姓が多い。

実は、田系姓には稲作に重要な田んぼと同じ意味を持つ事代主(ことしろぬし)の神 から始まって、田と神社とは「同等の意味を持つ」との考え方から姓に田を名乗る考えが生じた。

神社仏閣は自領を持ち、領地で農業経営していてその農業に仕える人々もいた。

つまり神社仏閣に関係する人間や、その敷地に隣接する住居を有する氏子・檀家が、その信仰の得を得る姓として田または、他の文字と組み合わせた田系姓を名乗った。


氏姓順位四位・蘇我氏族系の田中臣の田中氏や、氏姓順位十二位・吉田連、卜部姓公家、吉田社社家の吉田氏、桓武平氏、藤原氏、橘氏などの諸流も伝えれられているが、由来不明も多いのが田系姓の特徴である。

氏姓順位十三位・山田姓(やまだせい)に関しては、山田臣、山田連、山田県主、平城天皇・山田皇子裔の山田氏などの他、氏族起源ではないと思われる庶民(良民)派または土着した百姓氏族で、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者が山と田を合わせて自称した事が発祥とされる。

その他、氏姓順位七十五位の高田姓(たかだせい)も、山城国葛野郡高田郷発祥の高田首(たかだのおびと)や源平その他の氏系流を名乗る者あるが、平安期から江戸期に掛けて名族は出ていない。


日本の国は稲作文化で成立した国で、稲作と神が結び付いて氏姓が成立したものも在る。

その最たるものが、神田姓である。

神田姓の語源は神社維持に当てられた田=御田(おみた=神田)を由来とし、地名としても全国に多い。

神田姓には、神田宿禰、大伴氏嵯峨源氏松浦氏流桓武平氏平将門流など諸流多く存在する。

挙げられる第一系が神田宿禰(かんだのすくね)である。

神田宿禰(かんだのすくね)の宿禰(すくね)は、八色の姓で制定された真人(まひと)、朝臣(あそん)についで順位三番目に位置する姓(カバネ)の一つである。

宿禰(すくね)は、大和朝廷初期に名前として使われていたり貴人を表す尊称としてもちいられて、つまり神田宿禰(かんだのすくね)は人名であり神田姓(カバネ)の祖である。

神田宿禰(かんだのすくね)は、出雲系氏族が武蔵国豊島郡芝崎村に大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)を祖神として祀った事からはじまる一族である。

武蔵国豊島郡芝崎村の御田(おみた=神田)は伊勢神宮の御神領田地として開かれ、神田明神は神田ノ宮と称した。

この神田ノ宮が、江戸時代の江戸城増築に伴い千六百三年(慶長八年)に神田台へ、さらに千六百十六年(元和二年)に現在地(千代田区外神田二丁目)へ遷座し今日に到る。

神田明神の「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

明神系神社は田の神・事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)を祀る神社である。


日本の元神様は大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)である。

事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)は田の神様(稲作の神)で、大己貴命(おほなむちのみこと=大黒様=大国主)の子である。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

織田信長が戦国統一の有力大名の列に加わったのは桶狭間の合戦今川義元を破ったからで、その時戦勝祈願したのが熱田神宮(熱田明神)である。

熱田神宮(あつたじんぐう)は愛知県名古屋市熱田区にある神社で、旧官幣大社、「式内社(名神大)」である。

織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は別名を織田明神社とされる明神様で、尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は越前国二宮とされる「式内社」で別名を織田明神(おたみょうじん)と呼ぶ。

実は葛城ミステリー三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神(ことしろぬしのかみ/賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説呉族系神が現れたものである。



氏姓順位六百三十五位の安倍氏系・今田(こんた)姓に関しては平安期に奥州(東北一帯)に住んでいた今一族(こんいちぞく)がルーツとされその今氏(こんうじ)が、前九年の役後三年の役の後奥州に覇を唱えた清原氏(奥州藤原氏)の下で帰農し、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者として田を加えた今田(こんた)を称した。

今田(いまだ)氏に関しては、平安期に備後国御調郡今田邑(いまだむら)発祥の桓武平氏千葉氏流今田氏が主な所で、この場合の今(こん)は新しいの意味で、新田と同じ意味である。

そして明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方豪族にあやかって創氏した者も多くいた為、使用されている氏姓がその出自を顕すものとは限らないのである。


実は下記クリックの「公家(殿上人)の家名」は、鎌倉期から明治維新の七百年間に掛けての各家の分流・支流が武門や神官・僧籍、果ては商家や百姓に到る広がりを見せている所から、かなりの家名が名字のルーツと成って居る。

つまり公家の名字は日本の名字のルーツとして占める割合は高く、貴方の名字のルーツとしての可能性があるので覗いて見る事をお薦めする。

名字のルーツと氏姓の歴史関連公家(殿上人)の家名一覧】に飛ぶ。

付属【氏姓関連検索】

◆古代ヘブライ(ユダヤ)系・モリヤ氏系氏姓
守屋氏、守谷氏、守矢氏、守家氏、森屋氏、森谷氏、森矢氏、杜屋氏など
古代ヘブライ(ユダヤ)系・モリヤ氏(守屋氏など)

◆古代豪族・朝臣(あそみ)系・部民(職掌)系氏姓
葛城(部)氏(かつらぎべうじ)

◆古代豪族・葛城朝臣(あそみ)系【賀茂氏(かもじ)】
奈良県宇陀市榛原区の八咫烏(やたがらす、やたのからす)神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

鴨県主(かものあがたぬし)は大化年間以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

賀茂神社の上社(上賀茂神社)の祠官の流れは賀茂氏を名乗り、岡本氏・松下氏・林氏・座田氏・梅辻氏・鳥居氏・小路氏・森氏の諸家を分出した。

賀茂神社の下社(下賀茂神社)の祠官の流れは鴨氏を称し、泉亭氏・梨木氏・鴨脚氏・滋岡氏・下田氏・南大路氏の諸家を出している。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍・「方杖記」を著わした鴨長明(かものちょうめい)もこの鴨氏の氏人だ。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

従って、伊豆半島を発祥とし大和葛城に本拠を移した葛城氏と大和の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が同族で在った方が説明が着き易い。


◆古代豪族・朝臣(あそみ)系・部民(職掌)系氏姓
和邇(部)氏(わにべうじ)
和邇(部)氏(わにべうじ)の支氏姓については、柿本人麻呂を輩出した柿本氏、遣隋使(けんずいし)・小野妹子(おののいもこ)を輩出した小野氏などの他、和仁氏、粟田氏、春日氏、大宅氏などが主な枝氏流として挙げられる。

大伴(部)氏(おおともべうじ・伴部/ともべ)
物部氏(もののべうじ)
物部氏流穂積氏系【鈴木氏】【雑賀鈴木氏】【三河鈴木氏】【遠江鈴木氏
秦(部)氏(はたべうじ)
秦(部)氏系【服部氏(はっとりうじ/服部・はとりべうじ)
蘇我(部)氏(そがべうじ)
中臣(部)氏(なかとみべうじ・後の藤原)
注)藤原氏流及び藤姓に関しては、下に別記してあります。
犬養(部)氏(いぬかいべうじ)
中原氏(なかはらうじ)支流・樋口氏(ひぐちうじ)】 【中原流・大江氏
阿蘇氏(あそうじ)
曽根連(そねのむらじ)
注意・【滋野氏(しげのうじ)】については、この文章のもう少し先にまとめて記述する。
◆藤原流かそれとも古代鞠智族(こだいくくちぞく)後裔か?
菊池氏(きくちうじ)】・・・・【菊池流・甲斐氏(かいうじ)
注意・【佐伯直氏(さえきのあたいうじ/佐伯部・さえきべ)】は下記を参照。
◆古代豪族・朝臣(あそみ)部民(職掌)系佐伯直氏(さえきのあたいうじ/佐伯部・さえきべ)
佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五〜六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部の国造(くにのみやっこ)である。

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯は小領として治めた地名、直(あたい)が姓、田公(たきみ)が名、善通(よしみち)は別称で、直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。

◆古代豪族・海洋系部民氏姓・【阿曇氏(あづみし/安曇族)
白村江(はくすきのえ)の戦いに顔を出すのが、古代日本の氏族で海神(海人族)である綿津見命(わたつみのみこと)を祖とする阿曇氏(あづみし/安曇族)・安曇比羅夫(あずみのひらふ)である。

海部(あまべ)の民長・安曇連(あづみのむらじ)は古事記では綿津見(わたつみ/渡っ海)神の子・宇都志日金柝命の子孫とされ、海積(あまづみ)より生じ連(むらじ)を名乗るが後に宿禰(すくね)を賜る。

後世この部民は、安住(あずみ)氏、安積(あずみ)氏、阿曇(あずみ)氏、阿積氏(あずみ)、また、厚見(あつみ)氏、厚海(あつみ)氏、渥美(あつみ)氏、英積(あつみ)氏など多様の表記の氏が起こって夫々に分かれている。

阿曇氏(あづみし/安曇族)は、筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)を発祥地とする海人族として知られ、阿曇(安曇/あずみ)を古くは海人津見(あまつみ)と書き、その海人津見(あまつみ)が訛って阿曇(安曇/あずみ)になった。

阿曇氏(あづみし/安曇族)は古代日本を代表する神格化された有力氏族として「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連(あづみのむらじ)はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。

北九州の志賀島一帯から全国に移住し、安曇(海人津見/あまつみ)が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達し、さらに内陸部の信濃国安曇郡(長野県安曇野市)にも名を残している。

◆古代蝦夷(エミシ)系豪族・安倍氏
実は先住民族(蝦夷/エミシ) の王族から大和朝廷に合流して豪族と成ったアピエが、当初の当て字「安倍(アピエ=あべ)」を名乗ったのが安倍氏の始まりと言う説が有力である。

「安倍氏」から、一部が「阿倍氏」となり、遥か後に大阪地域に組み込まれて一部となる阿倍野は、大和朝廷主力豪族の「阿倍氏」の本拠地(支配地)だった。

他に「安倍氏」の一部は、部民名の安部・阿部を用いる者も出現した為、安倍・阿倍・安部・阿部は全て同系統と考えられる。

従って京都・晴明神社や名古屋・晴明神社は安倍晴明表記だが、晴明生誕の地と言われる大阪市阿倍野区の安倍晴明神社の表記は安部晴明神社とある。

阿倍氏・安部氏(あべうじ)】 【安部貞任(あべのさだとう)
安倍宗任(むねとう)】 【清原氏(きよはらうじ)
宇治土公氏(うじのつちぎみうじ)】 【安部晴明(あべのせいめい)

氏姓順位六百三十五位の安倍氏系・【今田(こんた/いまだ)】姓に関してはコンタ読みとイマダ読みが在り、まずコンタは平安期に奥州(東北一帯)に住んでいた今一族(こんいちぞく)がルーツとされる。

氏姓順位八百五十八位の今氏・今一族(こんいちぞく)は、奥州気仙郡司・金為時(こんためとき/阿倍為時)の裔が後世に金(こん)から今(こん)を称す奥州安倍氏の一支族である。

その今氏(こんうじ)が、前九年の役後三年の役の後奥州に覇を唱えた清原氏(奥州藤原氏)の下で帰農し、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者として田を加えた今田(こんた)を称した。

今田(いまだ)氏に関しては、平安期に備後国御調郡今田邑(いまだむら)発祥の桓武平氏千葉氏流今田氏が主な所である。

葛城氏流関連武将記事
賀茂氏(かもうじ)】【妻木氏(つまきうじ)】【松平氏(まつだいらうじ)
紀州家の第五代藩主から八代将軍となった徳川吉宗の家臣・加納家も三河加茂郷の出であるから、賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。
つまり吉宗の傅役(おもりやく)・加納(五郎左衛門)久通は、賀茂流・松平氏(徳川氏)の影人ではないだろうか?

◆武内宿禰(たけのうちすくね)系・・・関連武将記事
紀氏(きし/きのうじ)】【紀貫之(きのつらゆき)】
【紀氏(きのうじ)系松永氏(まつながうじ)
【紀氏(きのうじ)流田口氏後裔・牧野氏(まきのうじ)
紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。

物部氏族系・・・穂積流関連武将記事
鈴木氏(すずきうじ)】氏姓順位二位。

【高橋氏(たかはしうじ)】は、上記の氏姓順位二位・物部氏族・穂積氏系鈴木氏(すずきうじ)と同系の氏姓順位三位・高橋氏は物部氏族の高橋連や、伊勢神宮祠官、弥彦大宮司など神道系を主として全国的に諸流が多く、物部神道司の氏が由来と考えられる。

◆敏達大王(びたつおおきみ/天皇)後裔臣籍降下(しんせきこうか)橘氏
橘諸兄(たちばなのもろえ/橘氏の中祖)

◆百済の聖明王(さいめいおう)の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)後裔
【多々良氏(たたらうじ)】【大内氏(おおうちうじ)
陶氏(すえうじ)】 【杉氏(すぎうじ)

源氏流・・・清和源氏(せいわげんじ)関連武将記事
足利氏】 【新田氏
下野源氏(足利氏)と上野源氏(新田氏)についてはこの文章下部の【源氏流諸系詳細】に記載あり。

伊豆代官・江川家の始祖は、清和源氏初代・源経基(みなもとのつねもと)の孫・源頼親でありこの血統は大和源氏と呼ばれた。

初め宇野氏を名乗り、伊豆には九代・宇野氏親信の代・平安末期に移住した中世以来の名家である。

平安末期、宇野治長(うのはるなが)が源頼朝の伊豆挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。

その後鎌倉幕府後北条氏など、その時代の支配者に仕え、本拠地・江川荘を持って宇野姓から江川姓に名乗りを変える。

千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家二十八代・英長は北条氏を寝返って徳川家康に従い、その功により代官に任ぜられた。

以降江川家は、享保八年- 宝暦八年の三十五年間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石分(後二十六万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。

この伊豆の有力代官・江川家の三十六代当主・江川英龍(えがわひでたつ)とその息子・英敏(ひでとし)の親子二代で造ったのが韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)である。


藤原北家・・・秀郷流関連武将記事
佐藤氏(さとううじ)】 【比企氏(ひきうじ)】 【大友氏(おおともうじ)
奥州・藤原家】 【結城氏(ゆうきうじ)】 【藤原秀郷流・蒲生氏(がもううじ)

秀郷流足利氏分流・佐野氏
全国百一位・約十八万五千人前後の佐野氏(さのうじ)は、足利氏・足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡の佐野庄(現:栃木県佐野市若松町)に土着した佐野基綱より始まる藤原北家秀郷流
足利氏の庶流として
平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族である。

治承(じしょう)のクーデターでは、本宗である藤姓足利氏当主・足利忠綱が志田義広と手を組んだのに対し、佐野基綱は早くから源頼朝に味方した為、頼朝に拠って藤姓足利氏の嫡流が滅亡した後も、鎌倉幕府御家人として勢力を維持した。

千二百二十二年(承久三年)に発生した承久の乱での戦功で、佐野氏は一時淡路国に所領を得るが、千二百四十七年(宝治元年)の宝治合戦では三浦氏に与した為、下野国佐野の本領以外は没収され一時没落した。

鎌倉幕府の滅亡後、佐野氏(さのうじ)は足利氏に属し、室町時代を通して鎌倉公方や古河公方に官司として仕え、主として関東の治世に活躍した。

戦国時代になると、古河公方の足利義氏が後北条氏に軟禁されるなど衰退した為、佐野氏も後北条氏の影響下に置かれるようになり、その為、後北条氏と敵対する関東管領・上杉謙信の侵略に度々晒されるようになった。

それでも佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保っていたが、宗綱の戦死後、後北条氏から養子(北条氏忠)を迎えその傘下となる。

その為に豊臣秀吉小田原平定(小田原の役)に於いて滅亡の危機を迎えたが、佐野房綱(了伯)が秀吉方に味方し活躍した為に存続を許された。

しかし江戸時代初期の佐野家(所領三万九千石)当主・佐野信吉に不行跡が在った為、江戸幕府を開いた徳川氏により改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉を向かえたが子孫は旗本として存続した。

千七百八十四年(天保四年)に江戸城中で時の老中・田沼意次の子息で若年寄・田沼意知に斬りつけて殺害し、反田沼派が台頭するきっかけを作った旗本・佐野政言(さのまさこと)も子孫の一人である。

秀郷流主要五氏の一家長谷川氏他の長谷川氏

江戸時代の十代将軍・徳川家治の治世時、旗本に火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が居る。

小説「鬼平犯科帳」の主人公としてテレビドラマ化され、現代に知名度が高い人物である。

しかしこの長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)、火付盗賊改役は四十二歳で拝命し八年間勤め上げた知行四百石の小物旗本である。

確かに大物凶悪犯グループを捕らえて庶民の評判は高かったが、幕閣に在って独断専行が多く、上司同僚の評価はイマイチで、知行の加増も出世は無かった。

ただ、長谷川氏としての知名度では宣以(のぶため/平蔵)が、現代では広く知られた存在に違いない。


ここで氏族・長谷川氏を紹介する。

長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、人口三十七万人強で全国三十四位の日本の氏族姓である。

本姓は中臣藤原流で、中臣姓・中原氏、藤原秀郷流藤原利仁系など幾つかの流れがある。

藤原姓の源流・中臣姓・中原氏系の長谷川氏は、大和国(奈良県十市郡)十市県主(といちあがたぬし)の裔にあたる。


藤原秀郷流・長谷川氏の家系は下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系であり、美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)の家系が先祖とする流れである。

藤原秀郷系長谷川氏は、中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の二系統がある。

この長谷川氏は、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一家である。

尾藤氏流長谷川氏は、佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。

佐藤公清の庶子・公澄の四世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、二十二代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったと言う。

長谷川宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時「美濃長谷川藩(一万石)」を立てている。

この系統は守知の嫡男・正尚のとき三弟の守勝に三千百十石ほどを分与、分割相続により六千八百九十石取りの旗本となったが本家は無嗣断絶し、守勝の分家が存続した。

尾藤氏流・下河辺氏は、小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族である。

下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。

政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだ為、長谷川氏を名乗ったという。

長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。

この法永長者・長谷川氏の子孫が駿河戦国大名・今川氏に仕えた。

その後長谷川正長の時、君主・今川義元桶狭間の戦いで討死した為没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

長谷川正長には正成・宣次・正吉の三子があり、正成系は千七百五十1石(のち分割相続により減り千四百五十石)で江戸時代を存続した。

この家系の分家から、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が出ている。

正吉系は四千七十石(一時五百石を加増されたが分割相続により減少)で幕末に至った。

尚、三男・宣次系は四百石の御家人として続いた。


長谷川氏には、越中国(富山県)の藤原利仁系の家系の長谷川氏もある。

また、在原姓(平城天皇裔)・長谷川党も長谷川氏を名乗り、大和国式上郡長谷を発祥地とされ、法貴寺荘(現磯城郡田原本町法貴寺)を根拠地としたとみられ、長谷川党・法貴寺党とも言われる。

その他として清和源氏満政流を祖とする、今川義元に仕えた摂津清和源氏系長谷川氏の長谷川長久、その子・長谷川長綱の家系、美濃国(岐阜県)の橘氏系長谷川氏の家系が在る。


藤原北家・・・利仁流関連武将記事
斉藤氏(さいとううじ)】 【加藤氏(かとううじ)
藤原利仁流・斎藤氏系流(加賀の藤原)加藤氏分流
遠山氏(とおやまうじ)】 【富樫氏(とがしうじ)

利仁流後藤氏分流
後藤氏を名乗る史上著名な一派は藤原利仁流で、美濃国の美濃・前田氏の系統であり、この系統は大坂の陣で大阪方として討死した後藤股兵衛基次を出した播磨後藤氏の系統と、肥前国の国人・後藤貴明の流れである肥前の(武雄)後藤氏などがある。

土佐藩重臣の後藤氏(後藤象二郎)は播磨後藤氏の系統であり、また、美作の美作・後藤氏も通字に「基」がある所から播磨・後藤氏と同族とされ、利仁流後藤氏が後藤氏の主力である。

尚、利仁流後藤氏とは別に藤原秀郷流の後藤氏、伊達氏家臣の後藤氏などが存在する。

◆藤原北家・藤原実光日野流関連武将記事
日野氏(ひのうじ)

◆藤原北家魚名・藤原高房次男・山蔭流関連武将記事
伊達氏(だてうじ)

◆藤原北家・高藤・勧修寺流関連武将記事
上杉氏(うえすぎうじ)

藤原南家・・・工藤流関連武将記事
工藤氏(くどううじ)】 【狩野氏(かのううじ)】 【天野氏(あまのうじ)
安達・足立氏(あだちうじ)】 【伊東・伊藤氏(いとううじ)
吉川氏(きっかわうじ)】 【仁田氏(にったうじ)

高望平氏・平家・・・平貞盛流関連武将記事
平清盛(たいらのきよもり)

◆高望・平良将(たいらのよしまさ)流・・・平氏関連武将記事
平将門(たいらのまさかど)

◆高望・繁盛(たいらのしげもり)流・・・常陸小栗氏桓武平氏・平繁盛(平国香の次男)流と伝えられ、国香は平高望(高望王)の長男である。

常陸国・小栗氏は鎌倉公方に叛して兵を挙げた「上杉禅秀の乱」に敗れ、その本貫地である小栗御厨荘を失って一族の一部が三河国に流れ着いた。

松平氏庶家・三河小栗氏が興った経緯だが、松平郷松平家の系統七代目・松平親長(まつだいらちかなが)が、常陸から三河に移り住んだ常陸小栗氏の末裔・小栗正重(おぐりまさしげ)の娘と婚姻して、生まれた男子・忠吉がその後の離婚で三河小栗氏を称した。

この三河小栗氏から、幕末の名幕臣と伝えられる小栗忠順(おぐりただまさ)が出ている。

村岡良文流・・・坂東八平氏関連武将記事
【秩父氏(ちちぶうじ)】、【上総氏(かずさうじ)】、【千葉氏(ちばうじ)
桓武平氏良文流千葉氏支流・相馬氏(そうまうじ)
【中村氏(なかむらうじ)】、【三浦氏(みうらうじ)】、【鎌倉氏(かまくらうじ)】
の他、上記の諸氏から派生した庶流として下記
桓武平氏三浦氏庶流【平塚氏(ひらつかうじ)
土肥氏(どいうじ)】、【梶原氏(かじわらうじ)】、【大庭氏(おおばうじ)

桓武平氏流千葉氏を出自とする【岩沢姓】は全国で千二百十位と少数派で、その人口は一万五千人ほどである。

【岩沢姓】のルーツには、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)千葉氏流が挙げられる。

また別の【岩沢姓】の流れでは、中臣鎌足天智天皇より賜った事に始まる氏(藤原氏)利仁流(現石川県である加賀が起源)などにもみられる。

その全てを寄せ集めて、【岩沢姓】は一万五千人ほどの少数派姓である。

【岩沢姓】の分布は、現福島県、宮城県、岩手県、青森県を含む四県の太平洋側である陸奥域、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵域にもみられる。


坂東八平氏流は、【長尾氏(ながおうじ/後に長尾輝虎を世に出す家系)】、【江戸氏(えどうじ)
などがその時々の各氏族の勢力により様々に入って坂東八平氏は数えられる。

◆坂東八平氏系香川氏(かがわうじ)
坂東八平氏の派生分流として香川氏(かがわうじ)の例と、ついでに香川県の支配推移を挙げる。

豊臣秀吉に拠る四国平定戦当時、讃岐国(香川県)の戦国大名・香川氏(かがわうじ)は四国に覇を唱えた長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)に制圧され臣従していた。 為に讃岐国・香川氏(かがわうじ)は秀吉の四国平定戦に長宗我部側として奮戦している。

律令制に於ける讃岐国は、七世紀に現在の香川県の四国本土部分とおそらく塩飽(しわく)諸島を範囲として成立し、江戸時代に小豆島と直島諸島が備前国から譲られた。

平安時代初期には真言密教を興す事になる弘法大師(空海・佐伯真魚/さえきのまお)が讃岐国那珂郡に生まれるなど畿外の地である割に讃岐国は文化が高く、平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅び、平家滅亡の道を歩む事になる。

この讃岐国は、讃岐国造(くにのみやっこ)となった佐伯部民(さえきべみん)の佐伯氏・佐伯直姓一族が支配していたが、平安後期になると治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)が起こって鎌倉幕府が成立し、守護地頭制の支配体制の依り讃岐国守護として細川氏が入国する。

鎌倉期には、藤原系秀郷流・後藤基清、藤原系秀郷流・近藤国平などの藤姓武家の他、桓武平氏流・三浦義村の四男・三浦光村ら鎌倉御家人、或いは北条執権の異母弟・北条有時などが収めていた。

室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。

千三百六十年代、讃岐国守護・細川氏に従って相模国より讃岐に入部した香川景則が讃岐国西方半分の守護代に任ぜられ天霧山に天霧城(あまぎりじょう)築城する。

つまり讃岐国善通寺の近くには天霧城(あまぎりじょう)が在り、その城は讃岐国・香川氏累代の詰城だった。

香川県の由来となった香川氏の出自は桓武平氏良文流のひとつで相模国を本貫地とする坂東八平氏(ばんどうはちへいし)流・鎌倉氏の一族・鎌倉権五郎景政を祖とする武家・鎌倉氏である。

一族の鎌倉経高(かまくらつねたか)が相模国・香川(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)の地を支配して以降、香川氏を称したのに始まる武家である。

以後、香川氏は細川京兆家の内衆として細川氏に従い畿内で活躍しつつ西讃岐を知行地として支配し、つまり天霧城(あまぎりじょう)は都に赴任中の香川氏の留守宅だった。

香川氏は、代々讃岐守護・細川家の守護代を勤め、応仁の乱で活躍して細川四天王の一に数えられるようになり、その後、讃岐国内で勢力を広げ戦国時代には讃岐国の西部の大半を支配するほどで在った。

戦国期の香川氏は、毛利元就織田信長、長宗我部元親と周囲の有力勢力に次々と接近して所領の確保に努めたが、豊臣秀吉が行った四国平定の際改易となった。

◆坂東八平氏・秩父氏系渋谷氏(しぶやうじ)
鎌倉御家人渋谷氏(しぶやうじ)桓武平氏流秩父氏の一派で、後に現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市となる広域な一帯に勢力を張った一族である。

秩父重綱(平重綱)の弟・基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、その河崎冠者が相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫・重国の代に渋谷庄の司を称したのに始まる氏名乗りである。

渋谷氏の名ある人物としては、平安時代末期の渋谷重家(河崎重家)、源義朝に従って平治の乱に参戦し渋谷金王丸、源頼朝治承(じしょう)のクーデターで平家方から頼朝の御家人になった豪傑・渋谷重国が知られる。

渋谷氏(しぶやうじ)の以前の本拠地は川崎で、平安期は川崎氏を名乗っていたが、河崎から現在の綾瀬市西部を流れる目久尻川河畔に開けた相模・渋谷荘(高座郡渋谷村)の荘司になったと考えられ、 この川崎重国(渋谷重国)が最初に渋谷氏を名乗ったものと推測できる。

渋谷重国は平治の乱では源義朝の陣に従うが、義朝が敗れて所領を失い陸奥へ逃れようとした佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助し、秀義を婿に迎えている。

千百八十年(治承四年)八月の源頼朝挙兵には、秀義(旧佐々木氏)の息子達には頼朝に従わせ、重国は頼朝から加勢を打診されるも平氏に対する旧恩から石橋山の戦いで平家方の大庭景親の軍に属す。

石橋山の戦いで頼朝が敗れると大庭景親が重国の下を訪れ、頼朝方に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう要請する。

重国は「彼らが旧恩の為に源氏の元に参じるのを止める理由はない。当方は要請に応じて外孫の佐々木義清を連れて石橋山に参じたのに、その功を考えず定綱らの妻子を捕らえよとの命を受けるのは本懐ではない」と拒否した為に、景親はそのまま戻っている。

夜になって佐々木兄弟は途中で行き会った僧・阿野全成(あのぜんじょう/頼朝異母弟)を伴って重国の館へ帰着し、重国は喜んで彼らを匿い手厚くもてなした。

その後の渋谷重国は、石橋山の戦いで敗れて逃れた安房の国で再起し勢力を強めて鎌倉入りする頼朝に臣従して所領を安堵され、子の高重と共に御家人となる。

小田急江ノ島線の駅名「高座渋谷」は、旧・高座郡渋谷村に由来し、渋谷氏の本貫地として渋谷と言う地名が在った事の名残を伝えている。

東京の渋谷区については武蔵国に移住した渋谷氏一族の支族があり、現在の東京都渋谷区一帯を領した事に始まっている。

つまり渋谷氏一族の支族が、谷盛七郷と呼ぶ渋谷・佐々木・赤坂・飯倉・麻布・一ツ木・今井を領し渋谷城を築いていた事から「渋谷区として現在に名が残った」とされる。

しかしもう一つ、以下の通り渋谷区の由緒には薩摩藩との縁(ゆかり)説が在る。

北条氏が三浦氏を破った「宝治元年の合戦」に拠る渋谷光重の戦功の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得た為、長男・重直を本領の相模国に留め、地頭として他の兄弟をそれぞれの地に下向させる。

この北薩摩に下向させ渋谷光重の息子達が、赴任先の地名を名字として守護職島津氏につぐ薩摩の雄力豪族となり、戦国時代に至るまで渋谷五家(祁答院家・東郷家・鶴田家・入来院家・高城家)としての活動が確認できる。

尚、彼らは最初から東郷氏や入来院氏(いりきいんうじ)、祁答院氏(けどういんうじ)を称した訳けでなく、現在の姓に改姓した年は不明であるが、なかでも国衆として成長した入来院氏は、清色城(きよしきじょう)を本拠として渋谷五家一族では最有力な存在で在った。

渋谷五家一族は、寺尾・岡本・河内・山口などの諸氏家も分出して守護職・島津氏に対して勢力を保ち、南北朝内乱以降も向背し続けるも、永禄十二年に薩摩・大隅国衆はほぼ平定される。

つまり薩摩・大隅国衆の中に鎌倉時代中期以降に薩摩に移住した渋谷氏の一族が在り、薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏を名乗って国人領主となり、後年いずれも薩摩藩士なった。

その関わりからか、江戸期に渋谷川左岸に薩摩藩地が在った事実から武蔵国渋谷氏も薩摩藩に組み入れられて薩摩藩渋谷藩地が残り、現在の渋谷区の由緒とも言われている。

尚、渋谷五家の一・薩摩東郷氏から明治新政府の海軍提督・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が出ている。 また東郷氏の分流の白浜氏の一族は江戸時代に渋谷氏に復し、この白浜氏一族の渋谷貫臣の娘は薩摩藩々主・島津宗信の生母である。


【平氏流、源氏流以外の後胤貴族・三国流井伊氏】


近江国・彦根藩三十万石の藩祖と成り、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた井伊氏には継体天皇後裔の三国姓説が存在する。

継体天皇後裔説の三国姓は、継体天皇の子・椀子皇子の後裔にして 、天武天皇十三年(六百三十四年)に三国真人(みくにのまひと)姓を賜姓(たまわりな)する。

為に 旧説で藤原氏良門流と称する二家の大名・井伊家 は三国真人(みくにのまひと)の末裔とされる系譜が有力とされている。

井伊氏は、中世に約五百年間、遠江国井伊谷の庄を本貫として治めた国人領主とされる。

戦国期には、女城主・井伊直虎(いいなおとら) が出現している。

井伊直虎(いいなおとら)の甥・井伊直政(いいなおまさ)徳川家康に寵愛され、井伊家は江戸幕府の官僚として幕末まで勢力を維持した。

であれば、井伊氏は平氏源氏と同等の後胤貴族の末裔に名を連ねる荘園領主が、平安期鎌倉期室町期を生き抜いて江戸期に至った事になる。

なお、少数ながら継体流三国氏も現存する。


【源氏流諸系詳細】


さて、一部記述が重複するが、源氏流諸系詳細を紹介する。
源氏諸氏に発する名字は多いので、貴方が名乗る名字も含まれているかも知れない。


源氏は源の姓を持つ氏族である。

嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)が始めた事で、生まれた子らの臣籍降下に伴い皇室と祖を同じくすると言う名誉の意味を込めて源姓(みなもとせい)を与えた。

清和天皇(せいわてんのう/五十六代)の皇子を祖とする清和源氏流が最も多く、二十一流あると言われる源氏に於ける一家系であるが、武家源氏として歴史上に名を馳せた事に拠り、清和源氏をして源氏と称する事が多い。

清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流とする。

武家源氏として名を馳せた清和源氏に於いては畿内に始まり、各地に広がって土着しており、経基(つねもと)の子・源満仲(みなもとのみつなか)の子から源頼光は摂津源氏、源頼親は大和源氏、源頼信は河内源氏とに分かれそれぞれの祖となる。

河内国を本拠地とした河内源氏の本流/・源義家(八幡太郎義家)は清和源氏の主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄え、さらに河内源氏からは清和源氏河内源氏流・森氏(もりうじ)、石川源氏(石川氏)、他に平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。

また同じ河内源氏・源義光(みなもとのよしみつ/新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)、清和源氏河内源氏流・森氏(もりうじ)などが分派している。


甲斐源氏は、源頼光の三男・「新羅三郎」こと「源義光」の次男であった武田冠者・源義清は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市、旧勝田市武田)を本拠とし武田冠者を称しており、継子・源清光(みなもとのきよみつ)も武田郷で生まれる。

千百三十年(大治五年)、源清光(みなもとのきよみつ)は一族の佐竹氏(伯父佐竹義業の系統)と争い、朝廷より父・義光と伴に常陸から追放され、甲斐国八代郡市河荘に(山梨県市川三郷町、旧西八代郡市川大門町)へ流罪となる。

親子は平塩岡に館を構え(館は中巨摩郡昭和町西条とも)、義清は同荘の荘官として勢力を拡張し、源清光は、黒源太(くろげんた)清光、とも、逸見(へんみ/へみ)清光とも呼ばれる。

勢力拡張に努める清光は、甲斐国北西部(現在の北杜市、旧北巨摩郡域)の逸見荘(へみそう)へ進出して逸見冠者(へみのかんじゃ)を称するなどし、清光の子孫らは甲府盆地の各地へ進出し、各地域の地名を姓とし逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の諸支族の祖となった。

逸見光長(へんみみつなが)は平安時代末期の武将にして甲斐源氏の祖・源清光(みなもとのきよみつ)の長男に当たるが少し複雑で、双子と伝えられて武田信義は双子の弟になるが、別の説として「異母兄弟説」もある。

いずれにしても、後の三河松平家の様に継子に当たる長男が二人居るのはお家騒動の要因で、武田流逸見を継いだ逸見光長(へんみみつなが)と祖父・源義光の武田氏に復して武田信義を名乗った弟とは別の道を歩んだ。

逸見光長(へんみみつなが)の子には逸見基義・深津義長・逸見義俊・逸見保義・飯富宗長らが上げられるが、弟とされる武田信義の系統の華々しい経歴に比して、光長(みつなが)の系統はヒッソリと歴史上から消えている。


建武の新政当時、後醍醐天皇に与して戦った北畠親房(きたばたけちかふさ)北畠親房(きたばたけちかふさ)北畠顕家 (きたばたけあきいえ)の親子を出した北畠氏(きたばたけうじ)村上源氏の末である。

親房の三男・北畠顕能(きたばたけあきよし)が伊勢国司となった事が、伊勢の北畠氏の起源で戦国大名まで発展するが織田信長に乗っ取られて次男・織田信雄を養子に受け入れ信雄は北畠具豊(ともとよ/信雄)を名乗る。

この伊勢の北畠氏の諸流には、大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏の諸氏が分かれ出ている。


村上水軍に関しては河内源氏庶流・信濃村上氏を起源とする説で、村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の千百六十年(永暦元年)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

能島村上氏の系図では自らの出自を村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子・源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする村上源氏としていて、因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。


甲斐源氏・武田氏(たけだうじ)の本姓は源氏であり、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光)と位置づけられ、家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家で、平安時代末から戦国時代の武家である。

甲斐源氏・武田氏の本祖は、義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)に於いて武田姓を名乗ったとする説が有力である。

その武田冠者・源義清の嫡男・清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、「甲斐国へ配流された」と伝えられ、配流先は「巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)である」とされているが、説に拠っては現在の昭和町西条とも考えられている。

やがて義清・清光父子は八ヶ岳山麓の逸見荘(へみそう)へ進出し、清光は逸見(へみ)姓・逸見冠者(へみのかじゃ)を名乗る。

その後、義清の孫にあたる信義は元服の際に武田八幡宮に於いて祖父・義清の武田姓に復した事から、その後に続く甲斐・武田氏の初代とされる。

河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し、勝頼の代には上洛して中央を抑えていた織田信長徳川家康の勢力に対抗するが、領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には僅かに庶家が残った。

安芸国・若狭国に分家(分派)が存在し、夫々に甲斐武田氏五代・武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられた事から始まる「安芸武田氏」、安芸武田氏四代武田信繁の長男である武田信栄が起こした「若狭武田氏」、上総国には庶流・真里谷武田氏「真理谷氏」が在った。

また、支流としては武田信玄五男・盛信が名門・仁科の名跡を継ぐ「仁科氏」、武田信玄の異母弟・武田信実(たけだのぶさね)の子・武田信俊が甲斐国川窪を領して川窪を名乗った「川窪氏」などがある。

その武田氏は、嫡流が甲斐国守護に任命された他、安芸国・若狭国・上総国に庶流があり、安芸国武田氏の末裔が、戦国時代には出雲の尼子氏に仕えた。

その後、始祖となる高杉春時の代に毛利氏に仕えて備前国三谿郡高杉村を領し、武田姓より高杉姓に改める。

この高杉氏から幕末期の英雄の一人高杉晋作(たかすぎしんさく)を輩出した。

また信濃源氏流小笠原氏からは、室町期から戦国初期に活躍し一時は畿内に覇を唱えた三好氏(みよしうじ)が出ている。


源義国(みなもとのよしくに)流新田氏足利氏を追ってみた。
源義国(みなもとのよしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将・源義家(八幡太郎)の四男である。

源義家の長男・源義宗が早世し次男・源義親が西国で反乱を起こすなどして継嗣から外れた為、兄の三男・源義忠とともに次期「源氏の棟梁候補」としての期待されてた。

しかし源義国(みなもとのよしくに)は、乱暴狼藉を行った事や時代の趨勢に合わないと父・義家に判断されて後継者から外されて行った。

千百六年(嘉承元年)、義国(よしくに)は叔父・源義光(頼義の三男で源義家の弟/新羅三郎)や従兄弟源義業との対立する。

いわゆる「常陸合戦」と呼ばれる合戦に到ってその結果、義国(よしくに)は勅勘(ちょっかん/天皇からのとがめ)を蒙って父・義家に捕縛命令が下り、相手の義光及びその与党・平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。

義国(よしくに)はその「常陸合戦」には敗れ、常陸国は義光流の佐竹氏に譲る事になったが、足利庄を成立させるなど下野国に着実に勢力を築いて行った。

また、義国(よしくに)は長男・源義重(みなもとのよししげ)を伴って上野国に新たに田地を開拓し、新田荘として勢力を築いている。

この上野国・新田荘を譲った長男・源義重(みなもとのよししげ)と下野国・足利庄を譲った次男(または三男)・源義康(みなもとのよしやす/足利義康)はそれぞれ新田氏と足利氏の祖となる。

源義国(みなもとのよしくに)は晩年にも勅勘を被るなど気性の荒さは改まらず、荒加賀入道と言われた。

義国(よしくに)の長男・源義重(みなもとのよししげ/新田義重)は居住する上野国新田荘(群馬県太田市)の新田氏を称し、末裔には新田流・山名氏と新田流・里見氏がある。

義国(よしくに)の次男(または三男)・源義康(みなもとのよしやす/足利義康)は居住する下野国足利庄(栃木県足利市)の足利氏を称し、末裔には足利流・桃井氏、足利流・石塔氏、足利流・吉良氏、足利流・今川氏、足利流・細川氏、足利流・畠山氏、足利流・斯波氏、足利流・一色氏、足利流・世良田氏、足利流・戸崎氏などがある。


下野源氏(足利氏)と上野源氏(新田氏)は、鎌倉幕府有力御家人から後醍醐天皇(九十六代)元弘の乱(げんこうのらん)に味方して倒幕に参加、建武の新政(親政/けんむのしんせい)に加わった後に、南北に分かれて戦った足利尊氏新田義貞が居た。

足利尊氏が南北朝の戦乱をほぼ勝利で収め、室町幕府を成立して下野源氏(足利氏)族は隆盛し、有力守護大名・細川氏上杉謙信(長尾輝虎)を出した長尾氏元禄赤穂事件(忠臣蔵)の敵役に成ってしまった三河の吉良氏、駿河今川氏のなどを出している。


新田義貞(にったよしさだ)の新田本宗家は、南朝・後醍醐帝方に在って北朝・足利尊氏方に敗れて壊滅したが、新田の支流はその後も残った。

例えば南総の戦国大名・里見氏(さとみうじ)の本姓は清和源氏(河内源氏)源義国(みなもとのよしくに)流の源(新田)義重の三男・義俊を祖とする後裔の氏族で、新田氏の庶宗家である。

新田義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み初めて里見氏を称したが、後に里見家基が鎌倉公方・足利持氏に仕え、持氏が「永享の乱」で敗死した後、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して室町幕府に敵対し「結城合戦」で家基が戦死する。

里見家基が嫡子・義実は、父を失って城を逃れて落ち延び、相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り安房の国に落ち着き房総里見氏の祖となる。

詳細は不明だが安房国に移った新田(源)家基の子息、里見義実が土地の領主・安西氏を追放し安房国(今の千葉県の一部)の領主となる。

折りしも安房国は、室町中期の惣領制の崩壊によって旧来の豪族による支配が崩れ、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が互いに隙を伺って睨み合い、戦乱がうずまいていた。

そうした戦乱の隙を突いて安房里見氏を始め上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将が、各々他国から入って来て戦国時代に安房に勢力を築き上げるもこれに勝ち抜いた安房里見氏が房総地方を領する戦国大名にまで成長した。

戦国末期には関東一円に勢力を拡大した後北条氏と敵対していたが、中央でほぼ天下を掌握しつつ在った羽柴秀吉(羽柴豊臣)小田原平定戦に参軍するも、独自の動きをして秀吉の怒りを買う不祥事を引き起こす。

その場は徳川家康の取り成しで切り抜け、秀吉に所領の一部は取り上げられたが安房一ヵ国は安堵されて生き残った。

千六百九十九年(慶長五年)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は家康の継嗣・徳川秀忠の要請に応じて宇都宮方面に参陣し、戦勝後には恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。

千六百十四年(慶長十九年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして元和八年(千六百二十二年)、里見忠義が病死すると「跡継ぎが居ない」として里見氏は改易された。


摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏(源満仲/多田満仲)、美濃源氏(土岐氏)その他が分派しており、いずれも清和源氏一門であり、いわゆる「武家源氏」で、美濃源氏(土岐氏)からは、明智光秀の明智氏が分流とされている。

「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。


美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。

美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。

この頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。

平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。

土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となり、庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。

清和源氏水野氏が三河国から出た。
水野氏は、源満政流・満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。

三河水野氏からは徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)が出て、水野氏は江戸期に五ヵ家に及ぶ大名家を出している。


清和源氏以外に武家となった源氏としては、嵯峨天皇(さがてんのう)・嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)を祖とする「融流嵯峨源氏」があり、嵯峨源氏の武家として系譜を伝えた摂津国を基盤とした渡辺氏の代表は、摂津源氏源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とされる源綱(みなもとのつな/渡辺綱)の渡辺氏とその分流の松浦氏である。

また宇多天皇(うだてんのう/五十九代)を祖とする宇多源氏の中で、武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐々木氏)と称し、佐々木氏流として有力武士団に成長して行く。

この佐々木氏流武家としては、京極氏六角氏尼子氏などの戦国大名を輩出している。

中央貴族(公家)として栄えた源氏として、村上天皇(むらかみてんのう/六十二代)の皇子を祖とする村上源氏があり、代表的な人物は源通親(みなもとみちちか/土御門通親)である。

同じ源氏でも公卿として繁栄する系統や、武士や神官となる系統に別れるのは、政治情勢や臣籍降下する者、母方の勢力や身分がその後の官途に大きく左右する為である。

特に天皇の皇子が降下する事を「一世の源氏」と言い、任官の上で大いに優遇され、皇孫に至って臣籍降下する事を「二世の源氏」と言い、一世の源氏よりも家系的には出世に不利を蒙った。


皇統の枝から賜姓をし「皇族王から貴族に臣籍降下した」と伝えられる皇別氏族・高階氏(たかしなうじ)流の武門高氏(たかのうじ)を紹介する。

高師直(こうのもろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で足利尊氏時代に執事を務め、弟には高師泰(こうのもろやす)がいる。

高氏の本姓は、天武大王(第四十代天皇)の長子・高市皇子(たかいちのみこ)を祖とする氏族・高階氏(たかしなうじ)であり、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて「こうのもろなお」と呼ばれる。

高市皇子(たかいちのみこ)と御名部皇女(みなべのひめみこ)の子・長屋王が起こした長屋王の変の際、父・長屋王(母:御名部皇女)と共に自害した桑田王の子・磯部王が助命され、その孫の峯緒王が八百四十四年(承和十一年)に臣籍降下して高階真人(たかしなのまひと)を賜る。

高階真人(たかしなのまひと)の家系は公家として活躍するも、後白河天皇(第七十七代)側近の大蔵卿・高階泰経(たかしなのやすつね)、寵妃・高階栄子(丹後局)が有力者に数えられるを最後に中央から消えて行った。

高氏は、源氏の棟梁・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の庶子(実際は乳母弟らしい)と云われる高階惟章(たかしなこれあき)が、義家の三男・新田・足利両氏の祖である源義国(みなもとのよしくに)と共に下野国に住した事に始まり、代々足利氏の執事職を務めていた。

高階氏(たかしなうじ)は公家としては凋落したが、末孫の武家・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟が、室町幕府を開府した足利尊氏の側近として活躍の場を得た。


◆古代豪族滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇(第五十六代)の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や滋野東人・楢原氏(ならばらうじ/紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

古代豪族・紀(き)氏系流・深井氏に、清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が入る形で滋野(しげの)氏は成立している。

滋野氏と婚姻関係を結んだのは貞元親王(さだもとしんのう)ではなく弟の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)であると言う説もあり、「続群書類従」では貞元親王(さだもとしんのう)ではなく貞保親王(さだやすしんのう)としている。

しかし、当の白鳥神社で祀られているのは何故か貞元親王(さだもとしんのう)である。

この点、醍醐天皇(第六十代)から滋野姓を賜った善淵王(よしぶちおう)が禰津西宮(ねずさいぐう)に四之宮権現として祖父を祀っている事からすると、第三皇子の貞元親王(さだもとしんのう)ではなく第四皇子の貞保親王(さだやすしんのう)と言うのが正しいと想われる。

つまり清和天皇の第四皇子に貞保親王(さだやすしんのう)と言う人物がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれていた。

その貞保親王(さだやすしんのう)は琵琶の名手とされていて、宮中で琵琶を弾いていた時にその音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り糞をし、その糞が皇子の眼に入って、眼病になった。

為に加沢の温泉に眼病治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏と伝えられて居る。

この清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)と第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が信州上田の地で錯綜した伝説として定着している。
つまり信州上田地方・東部町禰津(ねず)の地、貞元親王(さだもとしんのう)の陵に把つた神社が山陵宮獄神社と言い、貞元親王(さだもとしんのう)が第三皇子にも拘らず四ノ宮権現とも言っている。

東部東深井深井正、深井信司氏の系図に拠ると、四ノ宮と言うのは貞元親王(さだもとしんのう)が清和天皇の「第四の二皇子と言う意味」としているが、別の「続群書類従」では貞保親王(さだやすしんのう)とあり、それならば四ノ宮権現の意味が判る。

上田市・田町に配当屋と言う物が在ったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をする所であり、ここの管理は「深井氏が永くしていた」と言う。

第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が琵琶演奏の名手であり、禰津(ねず)の四ノ宮権現の前には巫女が沢山いた事、下之条の両羽神社にも巫女がいた事などから察するに、貞元親王の末と称する滋野氏なるものは芸能を伝える仕事をもって広域に広まって行った者達かも知れない。

この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、神社=神楽=巫女舞い=芸能=神前娼婦(巫女)の図式が成立していた。

滋野氏流海野氏からは、望月氏・禰津(ねず)氏・ 真田氏らが分かれ、さらに会沢・塔原・田沢・矢野・岩下などの諸氏が分出した。
滋野姓禰津氏族・浦野氏については禰津氏の後裔説、海野氏の後裔説、清和源氏満政流・浦野氏説など諸説がある。

滋野氏流土田氏(どたうじ)

織田信長の生母・土田御前(どたごぜん)の生家は、美濃土田氏(みのどたうじ)である。

美濃土田氏(みのどたうじ)は、征東大将軍・木曾義仲の四天王と謳われた根井行親(ねのいゆきちか)の末裔と伝わる。

根井行親(ねのいゆきちか)には、滋野氏の流れを汲む東信濃の名族・望月氏の傍流・滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と「同一人物」とする説もある。

さて、皇統の枝から賜姓をし「皇族王から貴族に臣籍降下した」と伝えられる皇別氏族・滋野氏(しげのうじ)流望月氏を凡そ七百三十年間ほど追ってみた。
望月姓は全国に十二万六千人・約百七十位と中位の勢力で、全国的な姓だが信濃国から甲斐国、駿河国にかけて望月氏を多く見かける。

それらの望月氏は、皇別氏族・信濃望月氏と言い古代豪族・滋野氏(しげのうじ)の流れを引く望月村の土着の豪族・望月氏の一部が各地に移住して広めた名前である。

そもそもの望月氏名乗りの由来は、八百六十五年(貞観七年)の平安時代初期、それまで朝廷が八月二十九日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日=八月十五日に改めた事に由来する。

この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏(しげのうじ)であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族に因(ちな)んで望月の姓が与えられた。

滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や滋野東人・楢原氏(ならばらうじ/紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

指摘を承知で一応ご紹介するが、滋野氏(しげのうじ)は貞保親王(さだやすしんのう)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の信濃国小県郡に本拠を置いた善淵王(よしぶちおう)が九百五年(延喜五年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)された事に始まる皇別氏族である。

皇別氏族の真贋はともかくこの滋野氏(しげのうじ)が古代の名族で在る事に疑いは無く、枝に海野氏や望月氏・禰津氏(ねずうじ)などの諸族が在り、海野氏流には戦国期から江戸期の大名家となる真田氏の名も在る。

信濃望月氏の全盛期は、平安末期の千百八十年(治承四年)の木曾義仲(源義仲)挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。

木曾義仲が越後の平家方を迎撃した千百八十二年(寿永元年)九月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録がある。

この佐久衆の中心が、古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定され、また、義仲の四天王と評された根井光親も望月氏の傍流と伝えられている。

義仲が一旦は平家方を都から追い落とすも、源頼朝(みなもとよりとも)の命を受けた鎌倉方総大将・源範頼(みなもとのりより)の軍勢が源義経(みなもとよしつね)軍を擁して上洛し、義仲は敗走して琵琶湖畔の粟津で討ち死にする。

木曾義仲滅亡後の信濃望月氏は、鎌倉幕府御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。

その後信濃望月氏は、千百八十八年(文治四年)の奥州藤原征伐に従い、六年後(建久五年)の安田義定・義資父子の謀反を幕命により追討している。

さらに、北条執権家の粛清が吹き荒れた千二百十三年(建保元年)和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち信濃国和田を恩賞として賜っている。

後醍醐天皇が起こした元弘の乱(げんこうのらん)に拠って鎌倉幕府が滅亡した後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児・北条時行を擁して挙兵する。

足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け、一時本拠地の望月城(現佐久市/旧北佐久郡望月町)を喪うが、間もなく同城を再建し勢力を維持した。

続く南北朝の争いでは信濃望月氏一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王(むねながしんのう)を三十年に渡って庇護した伊那郡の豪族・香坂高宗も信濃望月氏の一族とされる。


木曾義仲に助力し、その後鎌倉御家人となり家名を永らえ、後醍醐天皇が起こした元弘の乱(げんこうのらん)に幕府方で戦うも、南北朝の争いでは南朝に与して戦った信濃望月氏は、戦国期に入り望月城(現佐久市/旧北佐久郡望月町)を拠点に活動をする。

しかし隣国甲斐国の武田氏・武田信玄や、越後国の長尾氏・長尾輝虎(上杉謙信)などの度重なる侵攻によりその勢力は衰退して行く。

千五百四十三年(天文十二年)九月に到って、風前の灯と成った信濃望月氏は一族の望月源三郎が実弟の望月新六と共に武田氏に対し最後まで抵抗する。

だが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆(幸隆三男は真田昌幸)の仲介による説得を得て武田氏に臣従し、望月源三郎が望月氏の棟梁を継ぐ事になり、源三郎は、臣従後に晴信の一字「信」を与えられ信雅の名乗る。

その後望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟で「兄・信玄を凌ぐ」とまで高評される典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして名族望月氏は武田一門に組み込まれて行った。

信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として六十騎を率いて本陣旗本として活躍する。

しかし、その望月信永は千五百七十五年(天正三年)に起きた甲斐源氏・武田氏と織田・徳川連合軍との「長篠の戦い」に於いて討ち死する。

その後望月氏は、しばらく信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に出家引退していた印月斎(信雅)が当主に復帰する異例の状態となる。

天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部・南部町や身延町、早川町から静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。

現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。

印月斎(信雅)の引退後、跡目は望月昌頼が継ぐ事に成ったが、同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われ一族の出身かは不明である。

その望月昌頼は北条氏の傘下に入るが、千五百八十二年(天正十年)九月、徳川軍の依田信蕃と一ヶ月に及ぶ功城戦の末に望月城は落城し、望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。


室町末期から安土桃山期に掛けて忍びとして活躍した伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月氏」と称されるように、戦国時代には甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられた甲賀・望月氏の望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。

その望月出雲守が望月城(現甲賀市 旧甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残されているが、この望月氏、実は信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族がその出自である。

望月氏と甲賀の地は古より関係があり、望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。

信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした望月氏は平安時代に「平将門の乱で武功があった」とされ、当主・望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が朝命により赴任し、恩賞として近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。

この望月三郎兼家が甲賀望月氏の祖で、信濃の望月氏の支流がその後そこから甲賀の地で独自に武士団へと発展し、甲賀衆筆頭格として活躍している。

甲賀望月氏一族の望月千代女(もちずきちよめ)が信濃望月氏の当主・望月盛時に嫁入りし、武田家専属の女遊行者(遊び女/くノ一として)を養成して情報収集活動を行なったと伝えられ、信濃と甲賀の両望月交流は続いたようである。

戦国期(安土桃山期)、甲賀望月氏は織田信長の勢力拡大と伴に六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍するも六角氏が織田信長に攻められて衰退し甲賀の地も信長の軍門に下っている。


江戸期徳川幕府・高家旗本(こうけはたもと)の名字例をあげる
江戸時代の高家は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職であり、また、この職に就く事ができる家格の旗本を指して高家旗本(こうけはたもと)と称す。

役職としての高家を「高家職」と記す事があり、高家旗本と言う家格の内、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。

この高家を江戸幕府に置いたには、徳川家・初期歴代将軍の貴家趣味(きけしゅみ)に起因する所が大きく、特に徳川家康の貴家趣味は有名で、儀式を行う高家として没落した名門武家を数多く登用した。

貴家趣味(きけしゅみ)とは、高貴な家柄の人物と交流したり、また能力・実態以上に重く用いる事を好む事で、歴史学的には日本史に於ける血統至上主義が如実に現れたものであり、没落した貴家の出身者を家臣として迎えて自己の地位を高めようとする狙いもある。

千六百八十三年(天和三年)、奥高家(有職高家)の中から有職故実や礼儀作法に精通している大沢基恒、畠山義里、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の三名を選んで高家肝煎(こうけきもいり)としたが、高家肝煎となる家は固定されていた訳ではない。

摂津下野河内源氏足利流畠山家(能登)畠山民部大輔(はたけやまみんぶだゆう)五千石、
河内源氏足利流・吉良家(三河)吉良左近衛権少将(きらさこんえしょうしょう)四千二百石は元禄赤穂事件に依り廃絶、
公家・持明院流・駿河名家・大沢家(遠江)大沢右京大夫(おおさわうきょうだゆう)三千五百五十六石、
自称平家織田流・大和織田家(尾張/信長織田家の本家)織田宮内大輔(おだくないだゆう)三千石、
清和源氏流美濃石津高木西家・高木弾正(たかぎだんじょう)二千三百四石、
清和源氏新田流・由良家(信濃)由良信濃守助(ゆらしなののかみすけ)一千石、
宇多源氏佐々木流・京極家(近江)京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)千五百石、
河内源氏足利流・今川家(遠江)今川従五位(いまがわじゅごい)一千石、などが、有力高家旗本である。

高家は、公式の場に於ける礼儀作法を諸大名に伝授する事も職分であり、その際、相応の謝礼を受ける事が黙認されていたのだが、それは格式が高い為に収入以上の経費を必要とする少禄の高家にとっては貴重な収入であった。

「元禄赤穂事件(忠臣蔵)」で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、僅か四千二百石取りながらも、従四位上左近衛権少将であった。

その「元禄赤穂事件」は、千七百一年(元禄十四年)高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしひさ)が勅使馳走役の播州赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)に殿中で斬りつけられ、その成敗が一方的に浅野の非を認めるものとなった事から翌年暮れに浅野の遺臣の一団に自宅を襲撃されて討ち取られ高家・吉良家は改易となった事件である。


高家職に就く事のできる旗本(高家旗本)は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護、著名な戦国大名の子孫など、所謂(いわゆる)「名門」の家柄で占められた。

最初期、初めて高家職を務めた大沢基宿は、公家・持明院家の流れを汲み遠江国に下向して土着した大沢家の出身で、木寺宮と言う皇族の末裔を母とする人物である。

次に将軍家から高家に登用した吉良義弥・一色範勝・今川直房らは、いずれも清和源氏流足利家の一族である。

高家の創設の理由として、徳川家康が過っての名門の子孫を臣下に従える事により、対朝廷政策を優位に運びたかった為と思料され、次いで徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」と言う、政権の正当性及び権力誇示と言う見方が強い。

当初の高家は十家に満たなかったが、その後、江戸へ下向した公家の二・三男の子孫も加わるなどその数は順次増加し、千七百八十年(安永九年)には二十六家となって以後、幕末までその数は変わっていない。

尚、高家の当主は高家職以外の幕府の役職に就く事はできないのが原則で、高家以外の職に就く場合は一度高家の列を離れて一般の旗本に列してからとなる。



時代が下がると、名字は細分化して来る。
事例として長州・乃木氏と薩摩・東郷氏の例を挙げる。


ここが歴史の面白い所であるが、日露戦争の二大英雄とされた乃木希典(のぎまれすけ)の先祖・佐々木氏東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の先祖・良文秩父氏流渋谷氏に歴史的な接点がある。

東郷家の先祖・渋谷重国は、平治の乱源義朝方に味方して所領を没収された近江源氏・佐々木秀義が、奥州めざして落ちのびて来たのを引き止めて自分の手元に置き二十年に渡って保護している。

渋谷氏が二十年間に渡って保護した佐々木秀義の息子達・佐々木太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱らは、青年武士に成長し源頼朝の旗揚げに最初から馳せ参じて各地に転戦、功を挙げた。

一方の乃木家は長州藩・毛利家の侍医の家とされ、宇多源氏流近江源氏・佐々木氏の佐々木高綱の子孫(高綱流・野木氏)を名乗り、吉田松陰の叔父に当たる松下村塾の創立者・玉木文之進(たまきぶんのしん)の玉木家は乃木家からの分家である。

渋谷重国は、初戦の石橋山の合戦に於いては頼朝征伐軍中に在ったが後に頼朝に服属している。

鎌倉幕府成立後、幕府御家人となった渋谷氏は、重国の二男・高重が和田合戦で義盛方について戦死したが、長男・光重は渋谷上庄、美作河合郷などを相伝した。

もう渋谷の名でお気付きの方も居られると思うが、一族の内で武蔵に移住した渋谷氏の住地が、今日の東京の繁華街の一つ渋谷の発祥をなしている。

重国長男・光重が宝治元年の合戦(北条氏三浦氏を破った)の恩賞として、北薩摩の祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職を得て、光重長男・重直を本領の相模国にとどめ、地頭として他の兄弟をそれぞれの地に下向させる。

この北薩摩に下向させ渋谷光重の息子達が、赴任先の地名を名字として守護職島津氏につぐ薩摩の雄力豪族となり、戦国時代に至るまで渋谷五家(祁答院家・東郷家・鶴田家・入来院家・高城家)としての活動が確認できる。

なかでも国衆として成長した入来院氏は、清色城を本拠として渋谷五家一族では最有力な存在であった。

渋谷一族からは、寺尾・岡本・河内・山口などの諸氏家も分出し、守護職・島津氏に対して勢力を保ち、南北朝内乱以降も向背し続けるも、永禄十二年に薩摩・大隅国衆はほぼ平定される。

入来院重嗣は東郷重尚らと領地を島津義久(第十六代当主)に差し出して降った。

その後の渋谷一族は島津氏の国衆政策の一貫として徐々に所領を取り上げられ、知行を与えられる藩士として出仕する事に成り、東郷平八郎の東郷氏もそんな家だった。


以後、随時増筆予定



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この【名字のルーツと氏姓の歴史】は【皇統と鵺の影人】の「史実検証部分」の抜粋です。
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【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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【この作品群は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の著作品です。】

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作 品 一 覧

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(18禁)夜鳴く蝉・葉月 作品をを見る

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(18禁)蒼い危険な賭け・京香 作品を見る

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作者本名・鈴木峰晴