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samurai 【松下村塾関係者・維新顛末記】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。
(松下村塾々生の維新大業との関わりを追う)

この小説は、【謎の小説家 未来狂冗談(ミラクルジョウダン)】の歴史解釈を小説化した作品です。
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◆小説【皇統と鵺の影人】より

***【歴史のミステリー】*********

松下村塾関係者・維新顛末記

(松下村塾々生の維新大業との関わりを追う)

この小説は、【日本史・歴史のミステリーのシリーズリスト】の一つです。

◆ 未来狂冗談の小説

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】謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)【作者略歴紹介
】【政変後の財源の根拠は存在する】


御注意)本作品・【松下村塾関係者・顛末記】は伝承を基に構成しておりますが、
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***【歴史のミステリー】*********

松下村塾関係者・維新顛末記

松下村塾々生の維新大業との関わりを追う

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
数日間お楽しみ頂けます。


話名をクリックすれば、そのページに飛びます。
〔予話〕  【ええじゃないか騒動
〔1話〕   【大変換期・漂う政変の風
〔2話〕   【ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)
〔3話〕   【幕末・黒船の混乱
〔4話〕   【吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)
〔5話〕   【佐久間象山(さくましょうざん)
〔6話〕   【松陰の師・佐久間象山
〔7話〕   【勤皇(きんのう)の志士と倒幕運動
〔8話〕   【尊王運動(そんのううんどう)
〔9話〕   【孝明天皇(こうめいてんのう)
〔10話〕  【毛利敬親(もうりたかちか)
〔11話〕  【松下村塾(しょうかそんじゅく)始動
〔12話〕  【乃木希典(のぎまれすけ)
〔13話〕  【南朝・後醍醐帝の末裔
〔14話〕  【周布政之助(すふまさのすけ)
〔15話〕  【安政の大獄
〔16話〕  【久坂玄瑞(くさかげんずい)
〔17話〕  【玄瑞(げんずい)京から江戸へ
〔18話〕  【木戸孝允(桂小五郎)
〔19話〕  【暗躍・逃げの小五郎
〔20話〕  【高杉晋作(たかすぎしんさく)
〔21話〕  【小田村伊之助(楫取素彦)
〔22話〕  【杉文(すぎふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)
〔23話〕  【品川弥二郎(しながわやじろう)
〔24話〕  【吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)
〔25話〕  【「八月十八日の変」=「七卿落ち」
〔26話〕  【池田屋事件(いけだやじけん)
〔27話〕  【禁門の変(蛤御門の変)
〔28話〕  【入江九一(いりえくいち)
〔29話〕  【前原一誠(まえばらいっせい
〔30話〕  【山縣有朋(やまがたありとも)
〔31話〕  【土佐藩士・中岡慎太郎
〔32話〕  【大村益次郎(おおむらますじろう)
〔33話〕  【薩摩・西郷吉之助
〔34話〕  【第一次長州征伐
〔35話〕  【第一次長州征伐戦始末
〔36話〕  【薩長同盟(さっちょうどうめい)
〔37話〕  【第二次長州征伐
〔38話〕  【鳥羽・伏見の戦い
〔39話〕  【鳥羽・伏見の戦況
〔40話〕  【江戸城無血開城
〔41話〕  【戊辰戦争(ぼしんせんそう)
〔42話〕  【新政府発足後の混乱
〔43話〕  【世直しは庶民から
〔44話〕  【物語のまとめ

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ええじゃないか騒動
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇予話ええじゃないか騒動◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「サリトテ恐ロシキ年ウチワスレテ、神ノオカゲデ踊リ、エエジャナイカ、日本ノヨナオリハ、エエジャナイカ、豊年踊リハオメデタイ、日本国ヘハ神ガ降ル、唐人ヤシキニャ石ガ降ル、エエジャナイカ、エエジャナイカ」

阿波踊りの原型は、「ええじゃないか騒動にある。」と言われている。

この騒動は、或る目的を持った者達の、神仏を利用した典型的な「大衆誘導」と言える。

ええじゃないか騒動は、日本の江戸時代の後期の千八百六十七年七月から翌年四月にかけて江戸より西の東海、近畿、四国に広がった「打ち壊し(うちこわし)」を含む大衆狂乱現象である。

そして一部の群集はこの騒動に乗じて、「何を犯(や)ってもええじゃないか」とばかりに押し入った商家の金品を奪うばかりか内儀や娘に相当過激な行状を行った記録も在る。

つまり富が集中した大商人の家に乗り込み、略奪・暴行を行ったが、庶民はこの違法行為に溜飲を下げていた。

何故ならば、多くの大商人がその財力にものを言わせ、地方官吏や中央管吏と結託して「お主も悪よの〜。」と格差社会を醸成していたからである。


仮装して囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら町々を巡った「ええじゃないか」騒動は都市に生活をしはじめている民衆に動揺が大きく広がった。

動揺は波紋を描き、外国貿易の物価の高騰、 米価高騰など様々な生活不安から、「世直しへの期待とともに広がったのではないか」と思われる。


この騒ぎの発端を見ると、江戸幕府が滅亡した千八百六十七年(慶応三年)の夏、東海道三河国吉田宿(現在の豊橋市)で 伊勢神宮の神符(しんぷ)が降った。

これが発端で、諸国に次々と神符降臨が巻き起こった。

降下物は寺社のお札に限らず、仏像、貨幣 など多様で、折からの政情不安も重なって「生首、手、足も降った」と噂された。

「ええじゃないか」の熱狂が始まった根拠は、「一種の終末思想」と考えられる。

また、最初の札の降下は、千八百六十七年八月四日(七月十四日説あり)東海道の三河国「御油宿」に「秋葉神社の火防の札が 降下したのが始まりだ」とも言われている。

神符の降下は人為的なものであり、その影には「討幕派が居たのではないか」と言われるが証拠がない。

ただ、徳川家発祥の地、三河国からこの騒動が始まった事実は、否定できない。

そこに倒幕目的の「陽動作戦」と言う作為を感じるのは、当然の事ではある。

お札は伊勢だけでなく、八幡、天神、住吉、稲荷、淡島、水天宮、春日、秋葉大権現、牛頭天王、大黒天などの様々な神仏のお札が舞った。

そのお札に「懐疑的態度をとった人の家族が急死する」と村人は非常に恐れ、お札を三河国牟呂八幡宮(豊橋市)に奉納、この事件は近隣の村々にも波及した。

この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。

特に東海地方では ペリー来航の黒船騒ぎ以来、大地震、津波、大雨が相次いで起き、唯念行者の除災儀礼が各地で行われた。

そんな折も折、安政五年にはコレラが流行し、人々は恐慌状態に陥っていた。

そうした中で民衆は、敏感に世の変革の兆しを感じ、重く延しかかり社会不安に耐え切れず、新しい世への世直しに熱狂した。

農村にあった御蔭参り(伊勢皇大神宮の神恩即ち御蔭を感謝する参宮)を基盤として、「ええじゃないか」の囃子(はやし)をもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。

いわゆる大衆的終末思想の狂乱である。

以後、東海道や畿内を主力に、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、尾張、美濃、信濃、伊勢、近江、大和、山城、丹後、但馬、因幡、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨、備中、備後、美作、安芸、淡路、阿波、土佐、讃岐、伊予の 三十ヵ国での事例があり、大衆の終末思想への影響は大きかった。

勿論、ええじゃないか騒動で幕府の威信が低下し、騒動が幕藩体制を弱体化するのに大きく寄与している。

そうした所から、この「ええじゃないか騒動」は討幕派が国内を混乱させる為に引き起こした「陽動作戦だったのではないだろうか?」と疑われて不思議は無い。

しかし元々が豊年踊りであるから、地方に伝播されて独特の歌詞が作られる。

中には「御かげで良いじゃないか、何んでも良いじゃないか、おまこに紙張れ、へげた(外れた)ら又張れ、良いじゃないか」と言った卑猥な歌詞などもあった。

そうした狂乱の伝播の中で「抑圧された民衆の不満が同調して暴発した」と受け取るべきだろう。

この騒ぎの終焉は、翌年千八百六十八年四月二十二日「丹後国加佐郡野村、寺村を最後になくなった」と言われる。

この年、千八百六十八年の十一月九日に徳川慶喜(十五代将軍)の大政奉還、これにより、江戸幕府事実上滅亡する。

翌年千八百六十八年一月三日王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。

言わば大衆の信仰心を「革命に利用した事例」と言えないだろうか?



大変換期・漂う政変の風

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◇◆◇◆◇◆◇一話大変換期・漂う政変の風◇◆◇◆◇◆◇◆


近頃の若者の多くは、「平穏無事な人生が良い」と何とも寂しい事を言う。

しかし若者の多くが「平穏無事」を選択するのでは、明治維新の大業など為される筈などなかった。

牙を抜かれ、デモ一つ出来ない「平穏無事」を標榜する若者達に、果たして未来を託せるだろうか?

正直言うと現在でも、還暦を越えた人々の方が「まだこれから切り開くべき人生が在る。」と熱い想いを秘めている。



江戸末期、植民地政策で繁栄を求めた欧米の圧力が強まる中、頑固なまでに命を張って持論を押し通す純粋な男達が居た。

その男達の美学とも言える信念が、確かに歴史を動かした。


明治維新を迎える少し前、日本は欧米列強各国から開国を迫られ歴史的大変換期を迎えていた。

きっかけは、洋式の強力な軍備をして来航した黒船騒ぎである。

これに危機感を感じた若い有志の人材が立ち上がったのは事実で、当然の事ながら、既得権益を持つ者は変化を求めないから現状維持に動く。

本来、既得権益を持たざるものでなければ、根本からの改革など問題意識も意欲もある訳が無い。

従って、「政権内部から改革が起こる」などと思うのは夢物語で、現実にある訳も無い。

精々形を変えた権力闘争が関の山で、それに気が付いた頃には、「時既に遅し」が現実で、旨い事組み込まれた既得権益に「搾取され続ける」と言う事である。

名を残した多くの先人がそうで在ったように、何かに挑(いど)む事は何もしない事より遥かに価値が在る。

現状を肯定すれば楽に生きれるかも知れないが、現状を否定しなければ未来への進歩は無い。

江戸末期に生きた有意の者達は大名も下士も佐幕派も勤皇派も、夫々(それぞれ)の立場で生々しい欲望を織り交ぜながら幕末の動乱に挑(いど)んでいた。


黒船騒ぎは決定的だった。

ろくに機会も与えられないまま、封建社会の身分閉塞状態が二百五十年も続いていた。

度重なる騒然とした世相に拠る幕府の権威の失墜が、多くの下士(下級武士)に希望の火を灯させてしまったのだ。

動乱の兆しだった。

もしかしたら、この先祖代代続いた「下士(下級武士)」の身分から「脱出できるかも知れない。」

その意気込みは幕府や藩主、つまり既得権者の想像より遥かに強く、一途だった。



江戸末期の日本人総体のリテラシー(識字力/情報理解活用力)は、庶民の寺子屋と武士の藩校・私学校が充実して教育を行っていた。」

だからであるが、そのリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を持つ国民比率は総体の七十パーセントに昇る。

つまり江戸期当時の日本は、世界的にも最高水準のリテラシー(識字力/情報理解活用力)能力を国民が持つ奇跡の国だった。

その影に在った向学心は、この物語で前述のごとく神官・僧・工商人の前身は姓(かばね)を有する氏族から発生している関係で、リテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

農漁村部に於いても、縄文人(エミシ族)出自の純粋な農漁業従事民はともかく、百姓の語源でも判る通り百姓と呼ばれる農漁村部の指導階級は元は姓(かばね)を有していた。

その事から、リテラシー(識字力/情報理解活用力)に対するモチベーション(動機付け/やる気)は高かった。

当然ながら平安期以降の日本は、縄文人(エミシ族)出自の民と有姓階層の工商人や農漁村部の指導階級・百姓との血的融合が進んで境目が壊れて行く。

そして、日本全体の向学心が向上して庶民の学び舎である寺子屋が繁盛した。

武士の藩校は藩内の家臣教育の為だが、出世に繋がる事からモチベーション(動機付け/やる気)は高く、学ぶ事で知識欲を刺激して向学心は更に燃え上がった。

このリテラシー(識字力/情報理解活用力)の高さが、黒船の到来で始まった欧米列強の圧力の中で植民地化されなかった要因でもあり、やがて起こった明治維新にも発展した。

反対に世界的傾向では、権力階層が庶民に教育の場を積極的には与えないで権力基盤を安定させる政策を採る国も多く、為に国が守れず植民地化される要因にも成った。

この辺りの経緯(いきさつ)を簡単に「日本人は優秀な人種である」として、その要因を歴史経緯と結び付けないから日本史に対する理解が広がらないのかも知れない。

いずれにしても江戸末期の日本人は、世界的にも相当学識が高かった事になる。



ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)

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◆◇◆◇◆二話ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)◆◇◆◇


何か重大な事が起こる時は、それなりの背景が存在するものである。

実は明治維新にも、人為的ではない「奇跡」が歴史の変革を後押しをして居る。

例えば、観測単位が百年〜二百年間に遡ると大地震も大津波も結構頻繁に起こっていて、安易に想定外とはとても言いがたい。

現に徳川幕府二百六十年間に於いて、第五代・徳川綱吉(とくがわつなよし)の「元禄大地震と宝永大地震」と、この江戸末期の第十三代・徳川家定(とくがわいえさだ)の代の「安政大地震」の二度も起こっている。

にも関わらず、短い自分の人生経験だけを頼りに「今まで大した事無かった」と津波の規模を根拠なしに予測したり、「今まで事故が無かったから安全だ」は、まさしく間違ったアンカリング効果である。

幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。

千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その僅か三十二時間後には安政南海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)が発生する。

その二日後には、豊予海峡(大分と愛媛の間)地震(マグニチュード七・四の大地震)と立て続けに三連動で発生して居る。

その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした安政の関東大地震(マグニチュード六・九)が起きている。

この大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京〜南紀)、南海(南紀〜四国)と、巨大地震がしばしば連動する。

この巨大地震、「同時期または二〜三年後に発生する」と言われ、「約百年〜百五十年の周期で活動期に入る」とされている。

安政三大地震は、関東・東海・四国・九州の各地に甚大な被害をもたらせる。

まだまだ文明開化以前の事で、日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などまだ無いから、「神様がお怒りに成っている」と、民心は素朴に不吉がって、騒然としていた。

地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜に、大きな力に成って作用しても不思議ではない。

ちょうど、黒船で米国(アメリカ)のぺりー艦隊が来航した時期(千八百五十三年〜四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。

そして「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。



ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。

この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。

マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。



幕末・黒船の混乱

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◆◇◆◇◆◇◆◇三話幕末・黒船の混乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商だった。

それでは、決済に倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。

実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。

日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。


ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。

嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘によってリードされていた。

ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させる。

幕府は、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。


物事の大事に出会った時、それを奇跡と判断するか必然と判断するかは、その人の感性による。

信仰に厚い者は「奇跡」と判断し、論理的な者は「必然」と判断する。

その辺りが、人間の人間たる由縁(ゆえん)で、どちらも「間違い」とは安易に言い難い。

しかしながら、信仰にのめり込むばかりに理屈に合わない事ばかり言い出すと、それは無茶な事を押し付ける事になる。

この物語に於ける「明治維新」は、正に「奇跡」と「必然」の成せる業だったのである。



吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)

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四話吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子の末裔と言う事に成る。

家禄二十六石の萩藩士の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄二十六石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

吉田寅之助(松陰)九歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。

その三年後の吉田寅之助(松陰)十二歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎふみ・あや)が生まれている。


頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

吉田松陰の人柄について、私塾・松下村塾の門弟やその周辺から維新の英雄を沢山輩出した事から悪く評する者は少ない。

しかし松陰は、知識欲に関しては異常とも言える関心があり、知識欲の為には周囲や家族の迷惑などまったく考慮し得ない無鉄砲なところが在った。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。

もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。

当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。

だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。

しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。


そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山の師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。



佐久間象山(さくましょうざん)

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◇◆◇◆◇◆◇五話佐久間象山(さくましょうざん)◆◇◆◇◆◇


佐久間象山(さくましょうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家で、門弟に明治維新の英雄を多く排出した松下村塾の塾長・吉田松陰(よしだしょういん)がいる。

千八百十一年(文化八年)二月二十八日、信濃松代藩下級藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる。

佐久間家は五両五人扶持という微禄であったが、父・国善は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。

象山(しょうざん)は、父・国善が五十歳、母は国善の妾・まん(足軽の荒井六兵衛)が三十一歳の時に生まれた男児であった。

養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だった為、父・国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけた。


象山の烏帽子親(えぼしおや)は窪田岩右衛門馬陵恒久と言う郷里・松代の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である。

ただし象山の性格に、人を見下し勝手な事をする驕慢(きょうまん)な所があったのを憂い、窪田恒久(くぼたつねひさ)は死ぬまで象山の行く末を心配した。

若き象山(しょうざん)は、経学と数学を学び、特に数学に興味を示し、熱心に学んだ。

若年期に数学の素養を深く身に着けた事は、この後の象山(しょうざん)の洋学吸収に大きく寄与する。


佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を二度に渡って破った名将として名高い村上義清に八千石で仕えた佐久間大学という。

大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩三万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて二百五十石を食(は)んだ。

その後、信政が信濃上田藩の初代藩主・真田信之の世継として松代藩を継いだ為、佐久間国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。

しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて百石を食(は)み、 この国品が佐久間家中興の祖とされている。


象山(しょうざん)は十四歳で藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学ぶ。

十六歳の時に美濃国岩村藩儒学者・佐藤一斎の門下生であった藩重役・鎌原桐山(かんばらとうざん)に入門して経書を学び、その桐山は最も象山に影響を与えた。

また同じ十六歳の時に藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山(しょうざん)は数学を「詳証術」と称したという。

千八百二十八年(文政十一年)、父・国善が高齢を理由に家督を譲った為、象山(しょうざん)は十七歳で佐久間家の家督を継ぐ。

千八百三十一年( 天保二年)三月、象山(しょうざん)二十歳の時に藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)の世子である真田幸良(さなだゆきよし)の近習・教育係に抜擢される。

しかし象山(しょうざん)は、高齢の父・国善に対して孝養ができないとして五月に辞任した。

藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)は象山(しょうざん)の性格を「癇が強い」としつつも才能は高く評価していた。

二十歳の時、象山は漢文百篇を作って師・鎌原桐山(かんばらとうざん)に提出する。

すると、桐山(とうざん)ばかりか藩主・幸貫(ゆきつら)からも学業勉励であるとして評価されて銀三枚を下賜されている。

千八百三十二年(天保三年)四月十一日、藩老に対して不遜な態度があったとして象山(しょうざん)は藩主・幸貫(ゆきつら)から閉門を命じられた。

これは武芸大会で、象山が父・国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受ける。

注意を受けたにも関わらず、象山(しょうざん)は絶対に誤り無しとして自説を曲げなかった。

その為、象山(しょうざん)は「長者に対して不遜である」として藩主・幸貫(ゆきつら)の逆鱗に触れ閉門を命じられる。

この閉門の間に父・国善の病が重くなった為、藩主・幸貫(ゆきつら)は八月十七日付で象山(しょうざん)を赦免するも父・国善はその五日後に死去している。



松陰の師・佐久間象山

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◆◇◆◇◆◇◆◇六話松陰の師・佐久間象山◇◆◇◆◇◆◇◆


千八百三十三年(天保四年)十一月、象山(しょうざん)は、江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。

この頃の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。

従って象山(しょうざん)は、千八百三十九年(天保十年)の二十七歳の時に江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

ところが千八百四十二年(天保十三年)、象山(しょうざん)が仕える松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が幕府老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。

藩主・幸貫(ゆきつら)から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山(しょうざん)は沿岸防備の第一人者・江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)の下で兵学を学ぶ事になる。

象山(しょうざん)は、藩命に拠り江川英龍(えがわひでたつ)に洋式砲術を学んだ。

江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)は、伊豆韮山代官を務めた幕臣で近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、韮山反射炉を築いて日本に西洋砲術を普及させた人物である。

象山(しょうざん)は西洋兵学の素養を身につける事に成功し、信濃松代藩藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。

また象山(しょうざん)は、江川英龍(えがわひでたつ)や高島流砲術家兼洋式兵学者・高島秋帆(たかしましゅうはん)の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。

以降、象山(しょうざん)は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、千八百五十三年(嘉永六年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

しかし千八百五十四年(嘉永七年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。

象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は千八百六十二年(文久二年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
千八百六十四年(元治元年)、象山(しょうざん)は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。

しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山(しょうざん)には危険な状況であった。

千八百六十四年(元治元年)七月十一日、象山(しょうざん)は京都三条の地を歩いて居た。

供も連れなかった象山(しょうざん)は、三条木屋町で因州藩士・前田伊右衛門、熊本藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)等の尊皇攘夷過激派の手にかかり暗殺される。



若き吉田虎之助(松陰)は、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。


その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した。

その為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田虎之助(松蔭)の真骨頂で、翌千八百五十四年(嘉永六年)、虎之助(松陰)は密航しようとして失敗、幕府に名乗り出て捕えられている。

自ら幕府に名乗り出て捕えられなど、奇妙な行動を取ったものだが、虎之助(松陰)には強(したた)かな計算が在ったのかも知れない。

何とすれば、国許長州は本(もと)より、日本全国に吉田虎之助(松蔭)の名声が轟き渡ったのも事実である。



千八百五十三年(嘉永五年)松陰(しょういん)の九歳年下の妹・杉寿(すぎひさ)が松陰(しょういん)の友人・小田村伊之助(当時二十五歳、後の楫取素彦)と結婚した。

その年、米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航し、日本中が騒然とする。

松陰は、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。

翌千八百五十四年(嘉永六年)、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見も在ったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。



勤皇の志士と倒幕運動

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◆◇◆◇◆◇◆◇七話勤皇の志士と倒幕運動◆◇◆◇◆◇◆


江戸時代末期になると、維新に於ける倒幕派の陰謀が始動する。

その時代の常識を超越して次代を創ろうとする若者を「新人類」と表現するものなら、そこに在った物は「その時代を見詰める若い感性」なのだ。

だから、「新人類」はどの時代にも存在した。

江戸末期から維新政府の初期官僚に掛けて登場した「勤皇の志士達」は、正直武士道の根本原理である主君への滅私奉公とは違う道を選んで幕藩体制は崩壊した。

彼等倒幕派こそ、その時代の「新人類武士」ではなかったのか?



この維新の本拠地になったのは、薩摩、長州、土佐、肥前、の各藩である。

吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)、大久保利通、井上馨、伊藤博文など維新の立役者を数え上げたらきりが無い。

後の維新政府高官に、この四藩の出身者でしかも身分が低かった者が群を抜いて多く居たのは言うまでも無い。

勿論、政治体制変革の狼煙(のろし)は常に下積みから燃え上がるものである。

正直、繰り広げられた倒幕運動・明治維新の動乱は、血統至上主義社会だった維新前の氏族社会に在って「コンプレックスを抱えた男達の物語」と言って過言ではない。


幕府の力が弱まって、実は下級武士どころか公家にも「好機(チャンス)」が生まれた。

当時の公家が受領していた知行は、百五十石から多くて六百石くらいが普通で、下級武士と大差が無い。

その扱いに、公家は当然ながら徳川幕府に不満を持ち、下級武士と同じ様に現状打破を画策する。

幕府転覆に活路を見い出さないと、彼らもまた、閉塞感に苛まれる現状がこの先続く事になる。

とどのつまりは、「閉塞状態に置かれた自分達の立場を脱却する」と言う共通した思いが、公家と下級武士両者に在った。

「尊皇攘夷」はスローガンに過ぎないのだ。

岩倉具視(いわくらともみ)は江戸末期の倒幕派の公家(くげ)で、維新以後の新政府の要人である。

この岩倉具視(いわらともみ)、藤原朝臣(ふじわらあそん)高倉家系の公卿・堀河家・康親の次男として幕末期の京都に公卿として生まれて居る。

従って、元は堀河具視(ほりかわともみ)を名乗って居た。

朝廷では、天子(天皇家)様も公卿もこの二百五十年間、格式の高に合わない少ない俸禄を捨扶持のように宛がわれて、耐えて来た。

「貧乏公家」と武家に馬鹿にされ、専権の官位叙任の礼が「余禄の収入」と言う有様である。

千八百三十八年(天保九年)に具視(ともみ)は岩倉具康の養子となる。

公卿・岩倉家は、 源朝臣(みなもとあそん)村上源氏の家柄で、僅(わずか)百五十石の貧乏公家だった。

注目に値するのはこの岩倉家、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔、村上源氏の支流であり、武系の流れも有する公家だった事である。

孝明天皇侍従・岩倉具視(いわくらともみ)には旺盛な野心があった。

岩倉家の養子と成った事で、岩倉具視(いわくらともみ)は関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷での発言力を得て朝廷改革の意見書を提出した。

岩倉具視(いわくらともみ)は、千八百五十四年(安政元年)に孝明天皇の侍従となり、以後活発に活動を始める。

千八百五十八年(安政五年)に老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得る為に上京した時に、岩倉具視は反対派の公卿を集めて阻止行動を起こし、中心的な役割をした。


外は、春の嵐に見舞われていた。

言わばこの嵐は大気の胎動で、この嵐が通り過ぎてこそ季節は初夏を迎える。

風の音を聞きながら、岩倉卿(具視/ともみ)の心にフツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。

岩倉卿(具視/ともみ)には、公家らしからぬ時代を読む嗅覚(きゅうかく)があった。

もはや徳川幕府は、統治能力を失っていて、今こそ、またと無い倒幕の機会だった。

雷鳴激しく風強き春雷に鼓舞されて岩倉卿(具視/ともみ)は、幕藩体制を見限って自ら嵐を迎えようとしている。

「面白い。這い上がるには、超えねば成らぬ良い機会じゃ。」

この世を変えるのなら、倒幕をする事で根底から変えねば成らない。

産まれ付いての貧乏公家の手酷い憔悴感は、洋々たる希望に変わっていた。

徳川政権に全てを握られて、家格だけを頼りに二百数十年を耐えて来た貧乏公家にとって、この機会を逃す訳には行かなかったのである。



明治維新の立役者である勤皇の志士は、果たして英雄だったのだろうか?

織田信長と比べると、彼らは明らかに「小粒」と言わざるを得ない。

信長は皇統その物の簒奪(さんだつ)を狙ったが、勤皇の志士の考えていた事はせいぜい藩主止まりの「形を変えた下克上」の範疇だった。

彼らは永い事最下級の氏(うじ)、つまり下士だったから「そこから這い上がろう」と言う志は在った。

その固定された血の身分を呪ってはいたが、その目標は幕府止まりで根本にある皇統まで「どうにかしよう」とは思い至らない。

それでも現状打破の為に、活路を尊皇攘夷に求めた。

攘夷論の根本は外圧に対する帰属意識を基にした右脳域の感情的憤慨で確かに一般民衆の感情的理解は得易いが、余り左脳域の理性的な物とは言えない。

しかしこれは、感性(右脳域/感情)と理性(左脳域/計算)のどちらの価値観を採るのかの問題で双方言い分があり、本来いずれかを「正しい」とする事は出来ない。

まぁこの時代、勤皇派も佐幕派も動乱に乗ったのは現状では浮かび上がれない者達で、野心満々の立身出世が根底に在っての主義主張であり、要はいずれの側に付いた者も大儀は方便だった。

彼らは、外様の悲哀と下士の身分の悲哀を先祖代々受け継いで、骨身に沁み、向上心に燃えていた。

そこに黒船騒ぎで、頭角を現す為の「良いきっかけとなった。」のが偽らざる処だった。

それ故、彼らは長年の思いも、激しく倒幕の運動にぶつけた。

中核になったのは長州萩城下・松本村(現在の山口県萩市)の松下村塾である。



この尊皇攘夷運動、本音で言えば現状を変える事が彼らの最大の目標(動機付け)であるから、攘夷など途中から吹っ飛んでしまっている。

つまり尊王攘夷論も、逆説的に言えば「そこに皇統が存在した」からの方便で、その辺りの歴史の継続性を汲み取らなければ本物の歴史は語れない。

大体の所、秩序から言えば武力革命を伴う政権転覆計画など逆賊の大罪人であるが、矛盾する事にそれが成功してしまうと逆賊が英雄に化けてしまう。

確かに「外敵を排除する」と言う事は一般民衆の感情的理解は得易いし、大儀名分があれば仲間を集め易く幕政にも藩政にも不満を持つ者には「攘夷」は格好の理由だった。

攘夷論の根本は外圧に対する帰属意識を基にした右脳域の感情的憤慨で、余り左脳域の理性的な物とは言えず、左脳域の現実的対処をした幕府大老・井伊直弼の決断が一方的に非難される所以(ゆえん)は無い。



尊王運動(そんのううんどう)

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◇◆◇◆◇◆◇八話尊王運動(そんのううんどう)◆◇◆◇◆◇


尊皇の若き志士達・・・素顔の彼らは野心に満ちていた。

ただしそれは、自分の国を「理想的な近代国家に生まれ変わらせる」と言う青臭い理想に燃えていたからで、吉田松蔭(よしだしょういん)の教えの存在が大きかったのである。

大名や大身旗本、上士(上級武士)などの身分を持つ幕藩体制派は保身に走り、どうしても現状維持に固執する。

しかしながら、日本を取り巻く環境は既にそれでは乗り越えられない国際情勢だった。

外からの情報を遮断して、国家体制の維持を図って来た藩幕鎖国体制は、外圧で行き詰まっていた。

何も変わらない改革など存在せず、変化を取り上げてこそ真の改革がある。

結論から言うと、勤皇の志士は「看板の通り」皇統を大事にする根っからの大和民族(日本人)である。

若く純真な彼らは、二千年に及ぶわが国の血のブランドを素直に信じただけで、彼らの国際感覚は、当初けして新しくは無かった。

しかし攘夷運動の中で、欧米列強との力の差を学習する。

元々攘夷は口実で有るから、攘夷に関しては簡単に看板を下している。

しかしながらこの尊王運動が、最終的に形骸化しつつあった氏姓制度に引導を渡す事になった。

その尊王運動も、本音で言うと多分にスローガン的要素が強い。

近頃のどこぞの国の「民営化一辺倒の選挙」と同じで、建前を利用して本命は他に在った。

過去の歴史を見てもそうだが、個々の帝(天皇)を必ずしも尊敬している訳では無い所が、この天皇の「制度としての存在」である。

ところが藩主諸侯も、建前で行くと天皇から官位を授けられている朝臣であるから、正論のスローガンに面と向かって異議は唱え難い。

この辺りが、日本的と言えば至極日本的である。


そもそも徳川幕府自身が、血統を拠り所にした統治体制である。

それ故制度としての天皇の存在(皇統)は否定出来ない。

つまり血統を拠り所に統治体制が維持されて来た。

従って幕藩体制が続く限り、自分達の固定化した血統の身分は変わらない。

当時先端の学問だった蘭学(西洋文明)を学ぶ聡明な下級武士が、この不条理に何も思わない訳が無い。

彼らは、先祖から永く続いていたどうにも成らない下級武士の境遇から抜け出す為に、倒幕に賭けたのである。



混乱に拍車をかけたのが、攘夷(じょうい)の意思が強い時の天皇・孝明(こうめい)の存在だった。

人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)のどちらかが基である。

この孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷(じょうい)の意思は、人間の「左脳域と右脳域」の論理で言えば、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」である。

それは、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」などまったく無い「感情」に拠るものだった。

簡単に言えば、尊皇攘夷論者も孝明天皇(こうめいてんのう)も、観念(異人嫌い)が優先して「左脳域の計算」の情況判断を無視した事で、薩英戦争(さつえいせんそう)、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は主として「右脳域の観念=感情」で始められる。

しかし列強と戦をしてみて初めて「攘夷など無謀な事」と言う「左脳域の計算」が働くようになり、尊皇攘夷論者から「攘夷」が消えて「倒幕」に変わる。

感性(右脳域/感情)を主体にした発想は、時として現実をも否定する厄介なもので、信条・信念と言えば格好が良く聞こえるが、右脳域的感性(感情)は「無意識脳」としての「右脳域の観念」を満足させる為の稚拙なもので、凡そ知的とは呼べないものである。

勿論、理性(左脳域/計算)ばかりの発想に拠る味気ない人間関係や政治も真っ平である。

だが、「右脳域の観念」は「左脳と右脳の論理」で言えば「感情」だけの片側思考のバランスの悪いものであり、明治維新前の風潮は「間違いは改むるに如(し)かず」だった。

つまり「武士道の精神」と「天孫降臨伝説(皇国史観)」は、維新政府の統治の為に政治利用されたに過ぎないのに、「感情」だけの片側思考のバランスの悪い主張をする者にその自覚は無い。



孝明天皇(こうめいてんのう)

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◇◆◇◆◇◆◇九話孝明天皇(こうめいてんのう)◆◇◆◇◆◇


仁孝天皇の第四皇子に生まれた煕宮(ひろのみや)親王は、千八百四十年(天保十一年)に立太子を為す。

六年後の千八百四十六年(弘化三年)に父・仁孝天皇の崩御を受け、煕宮(ひろのみや)親王は十五歳で践祚(せんそ/位を受け継ぐ)し、孝明天皇(こうめいてんのう)として即位する。

即位から七年後、千八百五十三年(嘉永六年)の孝明天皇(こうめいてんのう)二十二歳の時、ペリー来航が来航して公家の学問所である学習院を創設するなど文化的な活動をしていた孝明天皇に転機が訪れる。

孝明天皇は外圧に危機感を持ち、政治への積極的な関与を強めて永年朝政を主導して来た前関白・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾(仏門に入る)に追い込む。

関白に任じた九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任)するなどして朝廷に於ける自身の主導権確保を図っている。

外圧に対する開国の問題で、幕末期に於ける天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まって行き、孝明天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。

そうした追い風を受け孝明天皇は幕政に対する発言力を強め、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下した。

為にこれを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。


外国人を極度に嫌っていた孝明天皇(こうめいてんのう)は攘夷論者で、朝廷の勅許を得る事なく各国と条約を結んだ幕府に対して朝廷は勅使を江戸へ遣わし攘夷の実行を迫る。

尊皇攘夷を主導していた長州藩が孝明天皇の意を受けて攘夷を決行しアメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙(こうむ)り、さらにイギリス艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対してイギリス側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いによりイギリスは薩摩藩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

そんな中、朝廷内で実権を握っていた攘夷派公卿らに対して薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデター(八月十八日の政変)を起こし、攘夷派公卿は失脚して都落ちとなり長州藩も朝廷から排除される。

一方の長州は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英仏蘭米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。


適わない相手に立ち向かうのは愚である。

尊皇攘夷派は、下関戦争(しものせきせんそう)に於いて圧倒的な欧米列強の「砲火力の差」と言う現実の前にことごとく「攘夷」と言う看板を降ろして居た。

そうなると極度の攘夷論者である孝明天皇は危険な存在で、その父と攘夷の意を同じくし親王宣下を受けて立太子していた睦仁(むつひと)親王も危険な存在だった。

そして孝明天皇の妹の和宮の降嫁を受け孝明天皇と仲の良い十四代将軍・家茂も邪魔な存在で在った事は事実である。



攘夷の意思が強い孝明天皇は、異母妹・和宮親子内親王を第十四代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させて公武合体を推進する。

孝明天皇はあくまで幕府の力による鎖国維持を望み、公武合体派の京都守護職・会津藩主・松平容保への信任は特に厚かった。

そうした孝明天皇の姿勢から、諸外国は攘夷運動の最大の要因が「孝明天皇の意志にある」と判断し艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求する。

言わば武力を誇示した脅しで、この事態に流石の孝明天皇も事の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にする。

そうした幕末の政治混乱の中、幕府・一橋家・会津藩・桑名藩・薩摩藩・長州藩などの諸藩や三条卿・岩倉卿などの公家そして尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に孝明帝は巻き込まれて行く。

孝明天皇個人の権威は低下して、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。


千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

この「孝明天皇の謎の死」がもし謀殺で在ったなら、お側近くに仕える公家の中にその犯人が居なければ、説明が着かない。

もしそれであれば、孝明帝暗殺の陰謀はそこで完結するのでは無く、ある目的の大陰謀の序章に過ぎない恐れがあった。

となると、そのお側近くに仕える公家には孝明帝謀殺に止まらない一連の大陰謀があり、確信犯的な目的を持って居た可能性を感じる。



毛利敬親(もうりたかちか)

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◆◇◆◇◆◇◆十話毛利敬親(もうりたかちか)◆◇◆◇◆◇◆


長州藩の第十三代藩主(安芸毛利家二十五代当主)は、毛利敬親 / 慶親(もうりたかちか / よしちか)だった。

敬親(たかちか)は、藩内の勤皇攘夷派(倒幕派)、対する佐幕派(俗論派=保守派)のいずれの意見にも「そうせい」と頷く所から「そうせい侯」と陰口をたたかれた人物である。

勿論、倒幕から維新政府に到る長州藩の存在は群を抜いて大きかった。

しかしながら、藩主の毛利敬親 (もうりたかちか)は幕末の四賢候(ばくまつのしけんこう)に並び評されずも、見事な「そうせい侯」を演じて臣下の邪魔をせず、結果、長州主体の倒幕を自主的に完結させた。

一見、「そうせい」ばかりではリーダーとして頼りない評価があるかも知れないが、視点を変えれば目を掛けた部下に藩政を任せ切る敬親(たかちか)の「度量の大きさ」もチラつく。

勿論、毛利敬親 (もうりたかちか)は家臣を見る目に優れており、多くの低い身分の者を取り立てた上での「そうせい」で、闇雲に藩政を任せた訳ではない。

敬親 (たかちか)が自藩内で見出した吉田松陰は、自らの私塾・松下村塾で、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)を始めとする多くの有志を育てた。

そして、松陰の松下村塾を支援した政務役筆頭・周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)を登用したのも敬親 (たかちか)公だった。

あくまでも結果論であるが、薩摩の島津久光(ひさみつ・忠教/ただゆき)や土佐の山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)の様に藩実力者の立場を持って臣下の邪魔を続けた事のどちらが「経営者として相応しい」のだろうか?

日本の天皇制も「君臨すれど統治せず」が国家・国民の風土に合っていた。

だとするなら、現代の経営学に照らせば「そうせい侯」も部下の自主性と能力を引き出す立派な君主の生き方かも知れない。

勿論それには、「優秀な部下を見い出す、育てる」と言う大前提が在っての事だが・・・。



松下村塾(しょうかそんじゅく)始動

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◆◇◆◇◆十一話松下村塾(しょうかそんじゅく)始動◆◇◆◇◆


翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。


「鶏と卵はどちらが先?」のような話だが、学問的に興味を持とうが敵(攘夷)を知るのが目的だろうが蘭学を学べば当然ながら白人社会の思想も学ぶ事になる。

すると永く続いた封建領主制に疑問を持ち、藩主の意向など無視して自らの信じる所をまい進する。

その拠点と成った松下村塾(しょうかそんじゅく)は、元々松陰の叔父である玉木文之進(たまきぶんのしん)が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したものである。

若き日の吉田虎之助(松陰)も、玉木文之進の松下村塾で学んだ。

玉木文之進(たまきぶんのしん)は、千八百十年(文化七年)九月二十四日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。

杉寅之助(吉田松陰/吉田家へ養子)の父・百合之助は長兄なので文之進(ぶんのしん)は叔父に当たる。

千八百二十年(文政三年)六月、十歳の文之進(ぶんのしん)は、家格では杉家より上にあたる大組士、四十石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。

文之進(ぶんのしん)は山鹿流の兵学を学び、同時に教育者として千八百四十二年(天保十三年)、松本村(現在の山口県萩市)に松下村塾を開いて、幼少期の杉寅之助(吉田松陰)を厳しく教育した。

日露戦争の英雄とされ著名な軍人・乃木希典(のぎまれすけ)も玉木家とは親戚で、乃木家とは代々交流が在り、希典(まれすけ)も文之進(ぶんのしん)の教育を受けている。

玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した分家だった。


千八百四十三年(天保十四年)、文之進(ぶんのしん)は大組証人役として藩に出仕するも、三十三歳と遅いお声掛かりだった。

千八百五十六年(安政三年)に、文之進(ぶんのしん)は吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたと伝わっている。

千八百五十九年(安政六年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。

しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより千八百六十年(万延元年)十一月に、文之進(ぶんのしん)は代官職を剥奪されている。

文之進(ぶんのしん)は、千八百六十二年(文久二年)に郡用方として復帰し、千八百六十三年(文久三年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年の内に当役(江戸行相府)に進む。

文之進(ぶんのしん)は藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家・厚狭毛利家・毛利親民の参謀を兼ね、千八百六十六年(慶応二年)の第二次長州征伐では萩の守備に務めた。

その後、文之進(ぶんのしん)は奥番頭にすすむが千八百六十九年(明治二年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めている。


乃木希典の父である乃木希次と文之進(ぶんのしん)は歳が近い上に性格も似ていた。

それで、平素互いに推服していた為、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となり、玉木正誼(たまきまさよし)と名乗る。

ところが千八百七十六年(明治九年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼(たまきまさよし)や門弟の多くが参加した。

そのため、文之進(ぶんのしん)はその責任を取る形で先祖の墓の前にて、六十七歳で自害した。

文之進(ぶんのしん)自害後の玉木家は、玉木正誼の子・玉木正之が相続している。



井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する千八百五十八年(安政五年)、希輔(まれすけ)が九歳(数え十歳)に成った頃の事だった。



乃木希典(のぎまれすけ)

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◆◇◆◇◆◇十二話乃木希典(のぎまれすけ)◆◇◆◇◆◇


乃木希典(のぎまれすけ)は千八百四十九年(嘉永二年)十歳で玉木の松下村塾で学も、松陰の松下村塾には正式入門をしていない。

だが、希典(まれすけ)は長州藩内の保守派打倒に松陰門下の高杉晋作(たかすぎしんさく)等と連携し、倒幕活動に傾注する。


日露戦争の英雄とされる乃木希典(のぎまれすけ)は、千八百四十九年(嘉永二年)、長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士(馬廻)、乃木希次(のぎまれつぐ)の三男として生まれる。

母は常陸国土浦藩士長谷川金大夫の娘・長谷川寿子(乃木壽子/のぎひさこ)で、江戸長府藩上屋敷生まれる。

希輔(まれすけ)は三男では在ったが、先妻・秀との子・長兄・乃木信通、後妻・寿子との子・次兄・乃木次郎が相次いで夭折した為、事実上の長男として育っている。

希典(まれすけ)が生まれた江戸長府藩上屋敷は現在の東京都港区六本木ヒルズに成っている場所である。

希輔(まれすけ)は、幼少期に蚊帳の下で寝ていた処、蚊帳の金具が落ちて左目に当たった為、「左目がほぼ失明状態になった」とされる。

父・乃木希次(のぎまれつぐ)は石高五十石〜百五十石の長門国長府藩・江戸定府藩士で故実(古来の先例)に詳しく、重用されて居た。

父・希次(まれつぐ)は、長州藩主・毛利慶親の嗣子・毛利定広の妻、銀姫(後に安子と改名)の守役や、藩の諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤め「故実家」として知られる存在だった。

乃木家は侍医の家とされ、宇多源氏流近江源氏・佐々木氏の佐々木高綱の子孫(高綱流・野木氏)を名乗る家柄だった。

吉田松陰の叔父に当たる松下村塾の創立者・玉木文之進(たまきぶんのしん)の玉木家は乃木家からの分家である。

井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する千八百五十八年(安政五年)、九歳(数え十歳)に成った乃木希典(のぎまれすけ)は江戸から長府に帰郷する。

若き希典(まれすけ)も、松下村塾で玉木の教育を受けている。

つまり乃木希典(のぎまれすけ)は最初から「松下村塾」を中心とした勝ち組長州閥の一員で、維新後の人脈について不足は無かった筈である。

乃木希典(のぎまれすけ)は千八百四十九年(嘉永二年)十歳で玉木の松下村塾で学も、松陰の松下村塾には正式入門をしていない。

だが、希典(まれすけ)は長州藩内の保守派打倒に松陰門下の高杉晋作(たかすぎしんさく)等と連携し、倒幕活動に傾注する。



米国渡航を企て、幕府から藩蟄居命令を下された佐久間象山の高弟・吉田松陰が「松下村塾を引き継いで開校した」と聞いて、長州藩内で青雲の志を抱く下級武士が松陰の下に続々と集まって来た。

桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一(いりえくいち)、伊藤俊輔(博文)、井上馨(いのうえかおる/井上聞多)、品川弥二郎(しながわやじろう)、山縣有朋(やまがたありとも)、乃木希典(のぎまれすけ)、前原一誠などの面々である。

高杉晋作は十八歳で、久坂玄瑞は十七歳で、吉田稔麿は十六歳で、入江九一は二十一歳で、伊藤博文十六歳で、品川弥二郎は十五歳で、それぞれ松陰門下と成る。

桂小五郎(木戸孝允)の場合は少し違い、千八百四十九年(嘉永二年)、小五郎(こごろう)は十五歳で松下村塾開塾前の吉田松陰に兵学を学び、「桂は事をなすの才あり」と評される。

小五郎(こごろう)は松陰とは僅か三歳年下の年齢差だった為、「桂は、我の重んずる所なり」と松陰は述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる。

彼らは、その時代成りに完成していた世間からすれば、充分に「はみ出し者」だった。

いつの世も、その「はみ出し者」こそが改革者の素質であるが、その時代にドップリと浸かったものからすれば、「どうしょうもない存在」にしか見えなかった。

その他、松陰門下ではないが、出入りする友人・小田村伊之助(楫取素彦/かとりもとひこ)や叔父の中谷正亮が松下村塾のスポンサーだった桂太郎(かつらたろう)にも間接的に影響を与えている。



南朝・後醍醐帝の末裔

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◆◇◆◇◆◇十三話南朝・後醍醐帝の末裔◇◆◇◆◇◆◇


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の皇子・良光(ながみつ)親王の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。

すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる。

伊藤十蔵は、前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいたのだが、その周防国熊毛郡に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤博文、等を引き連れて会いに行く。

松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」

井上聞多・馨(いのうえたもん・かおる)は伊藤博文(いとうひろぶみ)の友人で、良く松陰門下と行動を伴にするも、正確には松下村塾に入門していない。

只し聞多(たもん)は、正式に入門しては居ないが、村塾には良く出入りし吉田松陰にも師事して助言も受けている。

そして松陰は、井上馨、伊藤博文の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

井上聞多・馨(いのうえたもん・かおる)と伊藤博文(いとうひろぶみ)は、山尾庸三・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ密航を執政・周布政之助を通じて藩に嘆願する。

千八百六十三年(文久三年)、幕府には伏せられたまま洋行は決行され、井上・伊藤等は留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じる。

ために井上・伊藤等は、翌千八百六十四年(元治元年)に起こった下関戦争に急遽帰国して和平交渉に尽力する。



周布政之助(すふまさのすけ)

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◆◇◆◇◆◇十四話周布政之助(すふまさのすけ)◆◇◆◇◆◇


実は、長州藩に於いて松下村塾の熟生が台頭するには周布政之助(すふまさのすけ)の存在が大きい。

周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)、通称・周布政之助(すふまさのすけ)は、長州藩に於いての松下村塾(所謂松陰派)出身者の登用に熱心な理解者だった。

長州藩士(大組二百十九石)・周布吉左衛門の五男として生まれた周布政之助(すふまさのすけ)は、僅か生後六ヶ月の時に父と長兄が相次いで歿した事に拠る末期養子として家禄を六十八石に減ぜられて家督を相続した。

周布政之助が長州藩で頭角を現したのは遅く、千八百四十七年(弘化四年)の二十四歳の時に祐筆・椋梨藤太(むくなしとうた)の添役として抜擢され藩政に参画を始めた。

藩政の実権を掌握して長州藩・天保の改革に取り組んでいた家老・村田清風の後ろ盾を得て頭角を現した周布は、村田清風の病没後に改革派の村田清風の路線を継ぎ政務役筆頭として藩財政の再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力する。

また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の教えを受けた若い人材の登用に熱心で在った。

所が周布政之助は、天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵で在った保守佐幕派(俗論派)の坪井九右衛門派の藤太椋梨らと対立する事になり、藩内の派閥争いに敗れて、周布は一時失脚した。

しかし実直な性格の周布は、多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立つ。


周布政之助は本来、攘夷の愚を知る開国論者だった。

千八百六十二年(文久二年)頃に長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一の為にあえて攘夷を唱える事で守旧派に対抗して藩政改革の起爆剤とする策に出る。

幕末期の藩主は、藩主と言えども藩論に左右される立場で絶対君主的威光は無く、正直、お飾り的に成って家臣の暴走を止める力もさして無かった。

つまり、その藩主の藩論に左右され易い立場に付け入るように尊皇攘夷思想や勤皇思想を利用して、藩論を味方に藩参政に食い込んで行った若い有志達(維新の志士達)が、明治維新を主導したのである。

長州藩参政・周布政之助(すふまさのすけ)は、高杉晋作ら長州藩の若い藩士達の良き理解者として、藩政改革を目的に尊皇攘夷を推進し倒幕のきっかけを創った。

「酒癖が悪かった」とも「愚直なほど一途な性格だった」とも言われる周布は、多くの舌禍事件を起こし、度々に逼塞処分(ひっそく/閉門より軽いおとなしくしている処分)を受けたが、その有能さから復活を果たし、その都度長州藩々政へ復帰している。

千八百六十四年の禁門の変や第一次長州征伐に際して周布政之助は、事態の収拾に奔走したが、藩政の実権を次第に椋梨藤太ら保守佐幕派(俗論派)へ奪われる事となり、その責任を感じた周布は山口矢原(現・山口市幸町)の地で切腹を遂げた。

いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で周布政之助が果たした役割と影響は少なくはない。



安政の大獄

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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇十五話安政の大獄◆◇◆◇◆◇◆◇◆


千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。


千八百五十九年、吉田松陰が安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄に於いて三十歳にて斬首刑に処される。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。

松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。

吉田松陰自身は安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導して明治維新の原動力となった。

その中心人物のひとりが、高杉晋作だった。

高杉晋作は、政務役筆頭・周布政之助(すふまさのすけ)の後援を受け、長州藩の若手藩士達のリーダーとして共に尊皇攘夷を推進した。

千八百六十五年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが「元治の内乱」と呼ばれる内乱を馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し倒幕派政権を成立させる。

高杉晋作らは、薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。

高杉晋作らは西洋式軍制導入の為に民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、十六歳(数え十七歳)に成っ希典(まれすけ)は長州藩諸隊の一つ長府藩・報国隊に入り奇兵隊に合流し幕府の第二次長州征伐軍と戦う。



久坂玄瑞(くさかげんずい)

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◆◇◆◇◆◇◆十六話久坂玄瑞(くさかげんずい)◇◆◇◆◇◆


倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠、品川弥二郎など維新の指導者となる人材を教えてる。

松陰は自分の経験値から、弟子に仲間で安易に意見を同じくして「群れない事」を心掛けるように教えた。

つまり松陰は、「意見を同じく」して仲良し仲間を作るのでは無く、師の教えにも疑問を持って「大いに論議する集団の育成」を心掛けた。

それこそが自らのイエスマンを多産するのでは無く、個々の個性を高め本当のリーダーを育てる松陰流の教えだった。

そして幸運と言うべきか、歴史の必然だったのか、長州藩内に在って倒幕運動の指導的役割を果たした松下村塾出身者は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用されて藩政に参画して行く。

中でも久坂玄瑞(くさかげんずい)は特に目立つ存在で、吉田松陰が松下村塾を継ぐと、十八歳の玄瑞(げんずい)が早速入門し、直ぐに頭角を現して行く。


久坂玄瑞(くさかげんずい)は、家禄・二十五俵の長州藩下士で萩藩医・久坂良迪(りょうてき)、富子の三男・秀三郎として生まれる。

秀三郎(玄瑞)は、高杉晋作も通っていた城下の私塾・吉松塾で幼少の頃から四書の素読を受けた。

ついで秀三郎(玄瑞)は、藩の医学所・好生館に入学したが、十四歳の夏に母を亡くし、翌年には秀才の誉れ高い兄・久坂玄機(くさかげんき)が三十五歳で病没した。

兄・玄機(げんき)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵の適塾塾頭を務めるほど有能で知られていた。

そして、兄・玄機(げんき)病没の僅か数日後に父・良迪(りょうてき)も亡くし、二男は早世していたので十五歳の春に秀三郎(玄瑞)は家族全てを失った。

こうして秀三郎(玄瑞)は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞(げんずい)と改めた。

そして十六歳になった頃には、早くも玄瑞(げんずい)の秀才の英名は萩城下の内外に知れ渡っていた。

その久坂玄瑞(くさかげんずい)の才能にほれ込んだ吉田松陰は、玄瑞(げんずい)と末の妹・杉文(すぎふみ・あや/楫取美和子)との婚姻を薦める。

吉田松陰は、妹の文(あや)に対し「久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。」と婚姻を薦めた。

松陰の薦めに対し、玄瑞(げんずい)は一度その縁談を断ったが、その後承諾し、千八百五十七年の年末、数え十五歳の杉文(すぎふみ・あや)は玄瑞(げんずい)の下に嫁いだ。

正直、文(ふみ・あや)は面長な風貌で、知的では在ったがけして美人とは評せ無かった。

そのせいか、それとも倒幕にのめり込んで居たかは何とも言えないが、夫・玄瑞(げんずい)は日本中を駆け回って余り文(ふみ・あや)との愛を育んだ時間も無く、夫婦の間に子も生(な)してはいない。

玄瑞(げんずい)の文(ふみ・あや)への恋愛感情を疑うのは、玄瑞(げんずい)がチャッカリ京都妻(芸者・井筒タツ)をつくり、秀次郎と言う子を久坂家に残した事である。

となると、玄瑞(げんずい)の留守を守った文(あや)の七年間は、けして良いものではなかったのではないだろうか?

実は文(あや)には、妙円寺(本願寺派)の住職・月性(げっしょう)の仲介で桂小五郎(木戸孝允)との縁談も在ったが、松陰(しょういん)は玄瑞(げんずい)を選んだ。



玄瑞(げんずい)京から江戸へ

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◆◇◆◇◆◇十七話玄瑞(げんずい)京から江戸へ◆◇◆◇◆


千八百五十九年(安政六年)、師・吉田松陰が安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄に於いて三十歳にて斬首刑に処される。

松陰が刑死した後、久坂玄瑞(くさかげんずい)は尊王攘夷運動の先頭に立つようになる。

千八百六十一年(文久元年)十二月、玄瑞(げんずい)は松下村塾生を中心とした桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら二十四名の長州志士の結束を深める。

長州藩の藩論は直目付・長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾く。

千八百六十二年(文久二年)四月、玄瑞(げんずい)は同志と共に上京し、直目付・長井雅楽(ながいうた)の弾劾書を藩に提出する。

同千八百六十二年(文久二年)六月、玄瑞(げんずい)は長井雅楽(ながいうた)の要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出。

玄瑞(げんずい)は京都にて謹慎となる。

しかし桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、長井雅楽(ながいうた)の失脚に成功する。

玄瑞(げんずい)は謹慎中、後に志士の間で愛読される事となった「廻瀾條議」と「解腕痴言」の二冊の時勢論を起草し、藩主・毛利敬親に上提する。

これが藩主・毛利敬親に受け入れられ、長州藩の藩論となる。

藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された。

また、長井雅楽(ながいうた)は翌千八百六十三年(文久三年)二月に自刃を命ぜられた。


同千八百六十三年(文久三年)九月、謹慎を解かれた玄瑞(げんずい)は、早速活動を開始する。

当時活躍していた各藩の尊王派の多くが、「玄瑞(げんずい)の尊王の思いは抜きん出て強かった。」と誰しもが認めていたほど、熱く語り、また率先して行動していた。

玄瑞(げんずい)は薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。

また、同じ九月末に玄瑞(げんずい)は土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。

同千八百六十三年(文久三年)十月、玄瑞(げんずい)は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。

そして同千八百六十三年(文久三年)同十月、玄瑞(げんずい)は幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。

これに対し、将軍・徳川家茂は翌千八百六十四年(元治元年)に上京し返答すると勅旨を受け取った。

江戸で高杉晋作(たかすぎしんさく)と合流した玄瑞(げんずい)は、高杉が外国人襲撃を画策していた事を知る。

玄瑞(げんずい)は、「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉晋作(たかすぎしんさく)と斬るか斬られるかの激論となる。

それを井上聞多が巧く裁き、結局、玄瑞も受け入れ長州藩志士十一名が襲撃を決行する事となった。

しかし、この報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、襲撃は中止に終わった。

だがその後十一名の志士は、御楯組を結成し血盟した。

ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞(げんずい)が書いたものである。

そして松陰刑死から三年後の千八百六十二年(文久三年)十二月、玄瑞(げんずい)は同じ松陰門下生の高杉晋作らと尊王攘夷を唱え品川御殿山に建設中の「英国公使館焼き討ち」を実行する。



木戸孝允(桂小五郎)

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◆◇◆◇◆◇◆十八話木戸孝允(桂小五郎)◇◆◇◆◇◆


そして今ひとり、維新の英雄と語りつがれる木戸孝允(桂小五郎)がいた。

桂小五郎(かつらこごろう・木戸孝允/きどたかよし)は江戸末期(幕末)の長州藩士で、吉田松陰の弟子として尊皇攘夷派の中心人物である。

後に名乗った木戸姓は、(慶応二年)の第二次長州征討前に藩主・毛利敬親から賜ったものである。

桂小五郎(かつらこごろう)は、西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられ、倒幕後は木戸孝允(きどたかよし・きどこういん)を名乗り長州閥を代表する政治家と成った。


桂小五郎は、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれ、生家・和田氏は毛利元就の七男・毛利元政の血を引くと言う名家の藩医だった。

和田小五郎は長男ではあったが、病弱で長生きしないと思われていた為に長姉に婿養子・文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていた事から小五郎は養子に出る事になる。

この婿養子を和田家に迎えたには、実父・和田昌景に士分(武士の身分)と秩禄を得る希(のぞみ)が在っての事かも知れない。

小五郎は、七歳で自宅向かいの家禄百五十石・桂氏の末期養子(養父・桂九郎兵衛)となり、桂姓を名乗って長州藩の大組士と言う武士の身分と秩禄を得る。

その桂氏の養父・九郎兵衛と翌年には養母も亡くなった為に、小五郎は桂家当主を引き継ぐも生家の和田氏に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。

十代に入ってからの若き桂小五郎は、藩主・毛利敬親による親試に於いて即興の漢詩と孟子の解説で二度ほど褒賞を受け、長州藩の若き俊英として注目され始める。

千八百四十六年(弘化三年)、十二歳の小五郎は長州藩の師範代である新陰流剣術・内藤作兵衛の道場に入門し、剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められ始めている。

剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可されて江戸三大道場の一つ斎藤弥九郎の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となる。

千八百四十九年(嘉永二年)、小五郎(こごろう)は十五歳で松下村塾開塾前の吉田松陰に兵学を学び、「桂は事をなすの才あり」と評される。

松陰とは僅か三歳年下の年齢差だった為、「桂は、我の重んずる所なり」と松陰は述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる。

桂小五郎(木戸孝允)には、妙円寺(本願寺派)の住職・月性(げっしょう)の仲介で松陰の末の妹・杉文(すぎあや)との縁談が在ったが、松陰(しょういん)は玄瑞(げんずい)の方を選んだ。

藩主・毛利敬親(もうりたかちか)、そして松下村塾(所謂松陰派)出身者の登用に熱心な理解者だった政務役筆頭・周布政之助の引き上げで藩政府中枢に頭角を現し始めていた小五郎は、久坂玄瑞(義助)とともに藩開明派として力を着けて行く。

藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、藩命に依り江戸から京都に上る。



暗躍・逃げの小五郎

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◆◇◆◇◆◇◆◇十九話暗躍・逃げの小五郎◆◇◆◇◆◇◆


桂小五郎(かつらこごろう)は、藩論をまとめて長州藩から英国への秘密留学を実行に漕ぎ着け、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の五名を藩の公費で留学させる。

藩政府中枢に加わった小五郎は京に上洛し長州代表の一員として朝廷をめぐる政治活動をするも、会津藩預かりの新選組に拠る池田屋事件など勤皇派と佐幕派の朝廷をめぐる争いは激化して行く。

小五郎は当時としては長身の大男で神道無念流剣術の免許皆伝を得て剣豪と称されたが、一方で在京中は武力闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。

小五郎は京都で、久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、新選組の池田屋襲撃事件では運良く外出していて奇跡的に難を逃れている。

八月十八日の政変(七卿落ち)が起こり、長州藩と長州派公卿が京都から追放されるが、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権の為に久坂らと伴になおも活動をし続けている。

八月十八日の政変から禁門の変に到る動乱の中、小五郎は京に在って政治活動を継続するも長州藩兵が敗れて敗走し、潜伏生活を余儀なくする。

朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降り、不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑と言う対応で長州藩は責任を取った。

その後、長州俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清し始めたが、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事クーデターが成功し俗論派政権による政治が終わりを告げる。

この後、桂小五郎がどこかに潜伏しているらしい事を察知した高杉晋作・大村益次郎達に拠って探し出され、小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。

長州政務の座に入ってからの小五郎は、高杉達が所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。

桂小五郎と坂本龍馬とは、慶応元年から慶応三年にかけて頻繁に会談していた。

土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに薩摩藩との薩長同盟を斡旋され、長州藩は桂小五郎を代表として交渉、秘密裏に同盟を結ぶ。



高杉晋作(たかすぎしんさく)

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◆◇◆◇◆◇二十話高杉晋作(たかすぎしんさく)◇◆◇◆◇◆


青雲の志を抱いた者だけが艱難辛苦に耐え得る生き方が出来、凡なるを旨とする者にその忍耐はない。

常識的に生きれば楽な人生を送れるかも知れないが、アンカリング効果的な常識に囚われた発想からは何も生まれず、型破りな発想からこそ未来が開ける。

時代が創った常識は次の時代では不要に成るのが当たり前で、明治維新の主役と成った者に誰一人常識に囚われた者は居なかった。

つまり、もっともらしい今日的常識を振りかざす者に、次代を担う大物など居ない。


元々野心満々に、王になる為に列島に渡り来た氏族の血統を受け継ぐのが彼らで、時の温くもりの中に抱かれて生きる幸せは、彼らの生き方にはない。

つまり列島に動乱を引起すのは皇統の影人達の氏族の思い、悲しくもその血だった。

吉田松蔭の志を継いでリーダー的な役割を果たしたのが高杉晋作である。

実はここでも、皇統の影人の末裔・源氏流が現れる。

高杉晋作の高杉家は、元は清和源氏・武田姓で、清和(河内)源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗った事に始まる武田氏の支流だった。

高杉はその武田源氏の系図からして、正統な尊皇派なのは当り前の事だった。

その武田氏は、嫡流が甲斐国守護に任命された他、安芸国・若狭国・上総国に庶流があり、その内の安芸国武田氏の末裔が、戦国時代には出雲の尼子氏に仕えた。

その後、始祖となる高杉春時の代に毛利氏に仕えて備前国三谿郡高杉村を領し、武田姓より高杉姓に改める。

つまり、安芸国武田氏の枝の末裔が、毛利家歴代藩士(家臣)・家禄百五十石〜二百石の高杉家と言う事になるのである。


高杉晋作も稀代の天才の部類であるが、どうもこの天才と言われる人種、最後まで生き残って、自分の手がけた仕事の行く末を見る運には恵まれないらしい。

長州藩で倒幕を主導した晋作もその口で、倒幕を見る事無く肺結核の為に死去している。

晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)では肺結核の病に犯されながらも小倉方面の戦闘指揮をして勝利に導く戦果を上げた。

しかし無理が重なり、その後の晋作は肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、大政奉還を見ずして二十七歳でこの世を去っている。


晋作には時間が無かった。

時期を逸すれば、事は頓挫する。

高杉晋作は病を隠してがむしゃらに事を運んだ。

彼は本来、保守的な意見に迎合するのが苦手で、その事には自信がない。

それでも、こんどばかりは、自説を曲げても藩論を統一させた。

この遠大なシナリオを書いたのが、自分だからである。

自らの体の変調に気付いてから、もうだいぶ時間が経過している。

日に日に体が衰弱するのが晋作にはヒシヒシと判る。

しかし、自分の目的を達するには、走り続けるしかない。


勿論、政治体制変革の狼煙(のろし)は常に下積みから燃え上がるものだが、正直、繰り広げられた倒幕運動・明治維新の動乱は、血統至上主義社会だった維新前の氏族社会に在って「コンプレックスを抱えた男達の物語」と言って過言ではない。



小田村伊之助(楫取素彦)

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◆◇◆◇◆◇二十一話小田村伊之助(楫取素彦)◇◆◇◆◇◆


吉田松蔭亡き後、松下村塾を守ったのは高杉晋作ばかりでなく、秀才・久坂玄瑞(くさかげんずい)以下多くの門弟と妹・杉寿(すぎひさ)を娶った小田村伊之助(楫取素彦)も助力している。


吉田松陰の松下村塾が隆盛の兆しを見せた頃、藩に仕える儒学者の小田村伊之助(楫取素彦)が塾に出入りするようになる。

小田村伊之助(楫取素彦)は、松下村塾の門下生では無いが、松陰と昵懇(じっこん)となって松陰の実家である杉家で花嫁修業をしていた松陰の妹・寿(ひさ)を娶っている。

小田村伊之助(おだむらいのすけ)=楫取素彦(かとりもとひこ)は、千八百二十九年(文政十二年)三月十五日、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれ、松島久米次郎を名乗る。

松島久米次郎の兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。

千八百四十年(天保十一年)、松島久米次郎は十三歳で小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎を名乗る。

小田村伊之助が養子と成った小田村家は儒学をもって公務に就く、代々続く儒官の家であった。


千八百四十四年(弘化元年)、小田村伊之助は明倫館に入り、千八百四十七年(弘化四年)十九歳で司典助役兼助講となる。

千八百五十一年、伊之助は二十二歳で大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。

四年後の千八百五十五年(安政二年)四月、伊之助は明倫館舎長書記兼講師見習となる。

翌千八百五十三年(安政三年)二月、伊之助は相模出衛を命ぜられ、千八百五十七年(安政四年)四月帰国、明倫館都講役兼助講となる。

伊之助は直接関係はなかったが、この頃から吉田松陰の教育事業・松下村塾はようやく盛んになる。

吉田松陰の伊之助への信頼厚く、翌千八百五十八年(安政五年)十一月から松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知る事となる。

伊之助が吉田松陰の激論を受け止め、互いに敬愛する所は、二人の交わりの特色であり、結果、松陰の妹二人が伊之助(素彦)の妻となっている。

まず、伊之助は吉田松陰の妹の一人・寿(ひさ)を杉家から娶っている。

伊之助は松陰投獄後塾生指導の任に当たるも国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後は松陰の兄・杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。

千八百六十年(万延元年)、伊之助は山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、千八百六十一年(文久元年)以後は専ら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。

千八百六十四年(元治元年)十二月、伊之助は藩の恭順派の策謀に野山獄に投ぜられ、翌千八百六十五年(慶応元年)出獄する。

五月には藩命により、伊之助は当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの七人から錦小路頼徳と澤宣嘉を除いた五人)を訪ねる。

四境戦争の時伊之助は、広島へ出張の幕軍総督への正使・宍戸?(ししどたまき/山縣半蔵)の副使となる。

千八百六十七年(慶応三年)冬、伊之助は長州藩兵上京の命を受け諸隊参謀として出征する。

伊之助は公卿諸藩の間を周旋し、遂に鳥羽・伏見の戦いに於いて、江戸幕府の死命を制するに至った。

この頃素彦(もとひこ)のもとへ嫁いでいた吉田松陰の妹・寿(ひさ)が病死、二児を残す。

同千八百六十七年(慶応三年)九月、伊之助は氏名を楫取素彦(かとりもとひこ)と改めた。

素彦(もとひこ)は維新後に一旦帰国して藩に出仕、千八百七十一年(明治四年七月十四日に発布された廃藩置県を経て新政府官僚に出仕する。

素彦(もとひこ)は千八百七十二年(明治五年)に足柄県参事となり、千八百七十四年(明治七年)に熊谷県権令、千八百七十六年(明治九年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となった。

群馬県令在任中に、群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から素彦(もとひこ)は反発を受けた。


素彦(もとひこ)は、吉田松陰の末の妹で妻・寿の妹でもある久坂玄瑞(くさかげんずい)と死別していた杉文(すぎふみ・あや)を娶(めと)り再婚を果たしている。

杉文(すぎふみ・あや)は素彦(もとひこ)の妻と成り、楫取美和子(かとりみわこ)を名乗っている。

また素彦(もとひこ)は、「明治の三老農」の一人・船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。

千八百八十四年(明治十七年)、素彦(もとひこ)は県令から中央官僚の元老院議官に転任する。

その後素彦(もとひこ)は、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王の御養育主任を命ぜられた事もあった。

千八百八十七年(明治二十年)、素彦(もとひこ)は男爵を授けられる。

千八百九十年(明治二十三年)十月二十日、素彦(もとひこ)は錦鶏間祗候(きんけいのましこう)となる。

錦鶏間祗候(きんけいのましこう)は、功労のあった華族や官吏を優遇するため、明治時代の半ばに設けられた資格で職制・俸給等はない名誉職である。

千九百十二年(大正元年)八月十四日、素彦(もとひこ)は山口県の三田尻(現・防府市)で八十四歳にて死去した。

没後に素彦(もとひこ)は正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。



杉文(すぎふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)

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二十二話杉文(すぎふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)


吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家である。

家禄二十六石の萩(長州毛利)藩士・杉家の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州毛利藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。


杉家次男・吉田松陰(よしだしょういん)は松下村塾を主宰していたが、その杉家姉妹の中に、四女・杉文(すぎあや・ふみ)が居た。

千八百三十年に杉家の次男・杉寅之助として生まれた吉田松陰(よしだしょういん)の十二歳年下の末の妹として、杉文(すぎあや・ふみ/楫取美和子)は千八百四十二年に誕生する。

杉百合之助(常道)の四女として生まれた杉文(すぎふみ・あや)は、叔父の玉木文之進(松下村塾の創立者)が自分の名から「文」の一字をとって与えた。

二兄の寅次郎は、すでに吉田家へ養子に出てその家督を継ぎ、吉田寅次郎(松陰)を名乗っていた。


千八百五十七年(安政四年)、文(ふみ・あや)は門弟・久坂玄瑞(くさかげんずい)の才を高く評価する寅次郎(松陰)の強い勧めが在って結婚する。

実は文(ふみ・あや)には、妙円寺(本願寺派)の住職・月性(げっしょう)の仲介で桂小五郎との縁談も在ったが、松陰(しょういん)は玄瑞(げんずい)を選んだ。

玄瑞(げんずい)十八歳、文(あや)十五歳、夫・玄瑞(げんずい)が禁門の変に敗れて自害した為、二人の婚姻期間は七年間だった。


夫・玄瑞(げんずい)はほとんど家に寄り付かず、日本中を駆け回って余り愛を育んだ時間も無く、夫婦の間に子も生(な)してはいない。

文(ふみ・あや)は、兄・寅次郎(松陰)の強い勧めで秀才・久坂玄瑞(くさかげんずい)に嫁いだのだが、玄瑞(げんずい)が禁門の変の折に自害、未亡人となる。

後に、文(ふみ・あや)は再婚して楫取美和子(かとりみわこ)を名乗る事になる。


未亡人・杉文(すぎふみ・あや)は萩(長州毛利)藩世子・毛利定広の正室・安子の女中、及びその長男・興丸の守役を勤めて居り、美和の名もこの頃から使い始めている。

小田村伊之助(楫取素彦)のもとへ嫁いだ杉家次女で姉の寿(ひさ)との縁で、伊之助は二十二歳にして未亡人となった杉文(すぎふみ・あや)の境遇を憐れみ、その身を案じていた。

そんな折、姉・寿が四十三歳で死去した為、母・瀧子の勧めもあり、杉美和(杉文/すぎふみ・あや)は群馬県令を務めて居た伊之助(楫取素彦/慶応三年九月改名)と再婚、姉の子二人の子育ても引き受ける。

杉文(すぎふみ・あや)の氏姓について、江戸幕府時代の嫁は実家の姓を名乗る夫婦別姓だったから、久坂玄瑞(くさかげんずい)と結婚した頃はまだ杉文(すぎふみ・あや)名乗りだった。

明治維新後は夫婦同姓が定められ、楫取素彦(かとりもとひこ/小田村伊之助)と再婚した時は楫取姓を名乗る楫取美和子(かとりみわこ)だった。


楫取素彦(かとりもとひこ)明治は維新政府の高級官僚と成り、後に高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任した。

楫取素彦(かとりもとひこ)の妻と成った楫取美和子(かとりみわこ)は、夫・素彦(もとひこ)が明治二十年に男爵を授けられ男爵夫人となる。

夫・素彦(もとひこ)が大正元年八月、山口県の三田尻(現・防府市)にて八十四歳で死去後も美和子(みわこ)は大正十年まで生き、山口県防府町にて死去し同じ墓で眠っている。

文(あや)=楫取美和子(かとりみわこ)には、久坂玄瑞(くさかげんずい)、楫取素彦(かとりもとひこ)のいずれの間にも子はいない。



品川弥二郎(しながわやじろう)

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◇◆◇◆◇二十三話品川弥二郎(しながわやじろう)◆◇◆◇◆


松下村塾塾生としては少し地味な存在になってしまうが、品川弥二郎(しながわやじろう)も居る。

品川弥二郎(しながわやじろう)は千九百四十三年(天保十四年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。

千八百五十七年(安政五年)、弥二郎(やじろう)は十四歳(数え十五歳)で松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける。

しかし僅か二年後の千八百五十九年(安政七年)、安政の大獄で松陰が刑死する。

弥二郎(やじろう)は高杉晋作(たかすぎしんさく)らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。

同じ松下村塾出身に在って弥二郎(やじろう)は、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(いのうえかおる)、伊藤俊輔(博文)らより地味な存在だが、倒幕にはコツコツと実績を積ん行く。

千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、弥二郎(やじろう)は八幡隊長として参戦し、後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。

千八百六十五年(慶応元年)、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力する。

幕府方残存勢力の掃討と成った戊辰戦争では、弥二郎(やじろう)は奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。

明治維新後の千八百七十年(明治三年)、明治政府に出仕して高級官僚に成った弥二郎(やじろう)は渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。

視察留学から帰国した弥二郎(やじろう)は、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。

千八百八十四年(明治十七年)、弥二郎(やじろう)は維新の功により子爵を授けられる。

弥二郎(やじろう)は、千八百九十一年(明治二十四年)に第一次松方内閣の内務大臣に就任する。

ところが弥二郎(やじろう)は、次官の白根専一と共に警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者二十五人を出してしまう。

その死者を出した選挙干渉の経緯を非難され、弥二郎(やじろう)は引責辞職を余儀なくされる(ただし、辞職の経緯については別説が存在する)。

その後の弥二郎(やじろう)は、西郷隆盛の弟・西郷従道(さいごうとしみち)と協力して政治団体・国民協会を組織する。

民間に在っては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも弥二郎(やじろう)は貢献している。

千九百年(明治三十三年)、品川弥二郎(しながわやじろう)は肺炎の為に五十八歳で死去した。



吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)

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◆◇◆◇二十四話吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)◇◆◇◆


同じ松下村塾門下の吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)は、久坂玄瑞、高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される。

しかし稔麿(としまろ)は、倒幕派・勤皇浪士と佐幕派・新撰組の衝突の中で、才能を発揮する場も得ないままに若くして命を落としている。


吉田稔麿(よしだとしまろ)は、千八百四十一年(天保十二年)、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子・栄太郎として生まれる。

栄太郎の生家は松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

栄太郎は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。

栄太郎は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。

また、栄太郎は松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。

松陰は、栄太郎を高く評価した評を残している。

千八百五十八年(安政五年)に松陰に下獄の命が下されると、栄太郎は親族一門を守るために師の元を一時離れる。

翌年、松陰が江戸に送られる際には、栄太郎は「隣家の塀の穴から見送った」との逸話が残されている。

同千八百六十年(万延元年)十月に栄太郎が脱藩し、身軽になった栄太郎は、その年十月の松陰の慰霊祭に初めて参加している。

しかし二年後の千八百六十二年(文久二年)に、栄太郎は脱藩の罪を許される。

千八百六十三年(文久三年)六月、栄太郎は高杉晋作の創設した奇兵隊に参加し、七月に屠勇隊を創設する。

八月の朝陽丸事件では、栄太郎は烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。

またこの年に栄太郎は稔麿(としまろ)と改名し、吉田稔麿(よしだとしまろ)を名乗った。

千八百六十四年(元治元年)六月五日の池田屋事件では、稔麿(としまろ)も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。

しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいた為に切り込み、奮闘の末に二十四歳の若さで討ち死した。

最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にしたとされる説もある。

また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。

後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)が「稔麿(としまろ)が生きていたら総理大臣になっただろうと語った」とされる。



「八月十八日の変」=「七卿落ち」

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◆◇◆◇二十五話「八月十八日の変」=「七卿落ち」◇◆◇◆


過激攘夷派の長州藩による攘夷親征の動きに対抗して、千八百六十三年(文久三年)公武合体派の会薩・中川宮らが提携して、孝明天皇の承認の下、「八月十八日の変」と名付けられた朝廷政変を決行した。

この政変に於いて、薩摩藩・会津藩などの公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の公卿の三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七人の公卿が宮中参内を拒否(追放)され、進退窮まっていた。

急進派の七卿には不運だったが、抗争に破れて京都を追われて長州の国許に落ち延びる長州藩兵には絶好のチャンスだった。

何はともあれ、公卿には天子の傍近くに仕える「血脈の資格」がある。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)が決断を下す。

「三条公ら七公様には、わしら長州にご案内いしようる(いたそう)。」

長州の国許には、練りに練った計画が存在した。

七卿をその計画に引き入れる絶好のチャンスで、撤退を指揮していた久坂玄瑞はその計画遂行の首謀者の一人だった。

長州藩士の久坂玄瑞が案内して従者数十人と共に長州藩へと逃れ、俗に「七卿落ち」と称された。


長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)は萩藩医・久坂良迪の二男として生まれる。

藩校明倫館に入って医学および洋書を学んだ後、吉田松陰の名を耳にして松下村塾に入熟、村塾の三秀(久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿)の一人と言われた。

久坂玄瑞が余程優秀だったのか、吉田松陰は長州第一の俊才であると認め自分の末妹・杉文(すぎあや)と娶(めあわ/結婚)わせている。

久坂玄瑞(くさかげんずい)は、安政の大獄によって義兄の吉田松陰が刑死すると、長州藩における過激な尊皇攘夷派の中心人物と成って行く。

倒幕派の公家三条実美や姉小路公知らとは、久坂玄瑞はその尊皇攘夷運動を通じて七卿落ち以前から旧知の中だった。

久坂玄瑞の案内で長州に下向した三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、真っ直ぐ萩(長州藩藩都)には向かわなかった。

向かったのは、長州二ヶ国の内、周防国熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿は逃れた長州周防の地・田布施で松陰派に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」人物を七卿に引き合わせたのが、それが伊藤博文(いとうひろぶみ)と吉田松陰門下の井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。



池田屋事件(いけだやじけん)
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◆◇◆◇◆◇二十六話池田屋事件(いけだやじけん)◆◇◆◇◆


池田屋事件(いけだやじけん)は、千八百六十四年(元治元年)の夏に当時の政府側である幕府方(佐幕派)の京都守護職配下の治安維持組織・新撰組が尊皇攘夷思想や勤皇思想を持つ反政府派浪士が潜伏する京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋を襲撃した事件である。

この池田屋事件で、久坂玄瑞、高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される吉田稔麿(よしだとしまろ)が命を落としている。

反政府派のテロにしても政府の弾圧にしても、「良かれ」としてやってもその結果は行動を起こした側の利に必ずしも適う結果になるとは限らない。

池田屋事件の場合は、多くの尊攘派浪士を失い「明治維新が一年遅れた」とも、尊攘派を刺激させてしまい「維新を早めてしまった」とも言われて意見が分かれる所である。

但し、この武力行使が幕府方(佐幕派)の為に効力を発揮したのは「僅かな期間に過ぎない」と思われる。

昔から「藪を突いて蛇が出る」と言う諺(ことわざ)もあり、下手な弾圧は次の怒りと団結を生むものである。

政権側の幕府方(佐幕派)にしてみれば、この弾圧はいっそう尊皇攘夷思想や勤皇思想に強い火を着けた結果に成った。

但し、士分に伸し上りたい一心の新撰組に限定すれば、この事件で大いに名を売ってその存在を天下に誇示した事は成果では在った。


幕末期の京都は、帝をめぐって政局の中心地となり、尊攘派の長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。

尊皇攘夷や勤皇等の思想を持つ諸藩の浪士が勢力挽回を試みて潜伏して活動しており、京都守護職は新撰組を用いて市内の警備や探索を行わせていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、新撰組・諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め、武器や長州藩との書簡等が発見された為に古高を捕らえて会津藩に報告をする。

枡屋の古高を捕らえた新選組は土方歳三の拷問により古高を自白させるに到った。

その計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて挙兵、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺せしめ、孝明天皇を長州へ連れ去ると言うもので在った。

そうした中、新撰組は更なる山崎烝・島田魁らの探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕を受けて対策を協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。

取り締まりを決意した新撰組は、会津藩・桑名藩等に応援を要請するが会津らの動きが遅く時刻に成っても動かなかった為、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊十名と土方歳三隊二十四名、総勢三十四名を二手に分け捜索を開始する。

出動した新撰組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索し、亥の刻(二十二時頃)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見した。

近藤勇は近藤隊十名の内六名に屋外を固めさせ、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の四名で尊攘過激派二十数名の中に斬り込み、真夜中の戦闘となる。

襲撃を受けた熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら志士達は応戦しつつ池田屋からの脱出を図るも適わず宮部は自刃、桂小五郎(後の木戸孝允)は池田屋より屋根を伝い逃れ対馬屋敷へ逃げ帰っている。

切り込んだ四名の内、沖田は戦闘中に喀血(とけつ・肺結核)し、藤堂は汗で鉢金がずれた所に太刀を浴びせられ額を斬られ血液が目に入り戦線離脱し、新撰組側は一時近藤・永倉の二名となる。

だが、別方面から駆け着けた土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、九名討ち取り四名捕縛の戦果を上げる。

土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士は裏口から脱出しようと試み、裏口を守っていた新撰組・安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達の所に必死の斬り込みをかけて逃亡する。

しかし奥沢は死亡、望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃、深手を負った安藤・新田も一ヶ月後に死亡している。

会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着したが、土方歳三は手柄を横取りされぬようにその藩兵を一歩たりとも近づけさせなかったが、この戦闘で逃走した数名の尊攘過激派は、続く翌朝の新撰組の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し二十余名を捕縛した。

翌日の正午、新選組は壬生村の屯所に帰還の途に着くが、騒ぎを聞き付けた見物人で沿道は溢れていた。

正直、一般の庶民にして見れば尊攘派と佐幕派の争いなど関心が無く、争い事は迷惑な話で早く平和に収まれば勝つのはどちらでも良い。

そんな中で尊攘派浪士の御所焼き討ち、京の町に火を着けるクーデター計画など、手前勝手な反政府テロ以外の何物でもない。

この池田屋事件で御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功したとして新選組の名は天下に轟き、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの実力者が戦死し大打撃を受ける。

長州藩は、この池田屋事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し禁門の変(きんもんのへん)を引き起こす。





禁門の変(蛤御門の変)

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◇◆◇◆◇◆◇二十七話禁門の変(蛤御門の変)◆◇◆◇◆◇


池田屋事件(いけだやじけん)の翌千八百六十三年、長州は下関戦争を起こし、三ヶ月後には禁門の変(蛤御門の変)を起こす。

この禁門の変(蛤御門の変)で、久坂玄瑞(くさかげんずい)は長州勢を率いて会津藩などと戦ったが敗れ、二十五歳で自刃する。

同じく入江九一(いりえくいち)も、この禁門の変の敗戦で切腹している。

また、この禁門の変には品川弥二郎(しながわやじろう)も八幡隊長として参戦し、後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織している。

蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる禁門の変(きんもんのへん)は、幕末動乱期に孝明天皇をめぐる守護(陣営抱え込み)で対立した尊攘派の長州藩々兵と佐幕派の会津・桑名・薩摩各藩の禁裏(御所/皇居)守備隊が武力衝突した事を指して呼ぶ。

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、前年の千八百六十三年(文久三年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変(七卿落ち)」で京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていた。

そして巻き返しを図る長州尊攘派は京や大坂に潜伏し、密かに復権工作の行動を続けていた。

千八百六十四年(元治元年)に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられる。

その京都乗り込みに反対及び慎重派の桂小五郎や高杉晋作などと来島又兵衛、久坂玄瑞が対立、長州藩内も藩論が割れていた。

そんなおりの同千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされる。

藩内に会津・桑名・薩摩の各藩に対する激高が走り、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付く。

慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。

脱藩した高杉晋作は、桂小五郎(木戸孝允)の説得で二月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄されも六月には出所を赦されて謹慎処分となる。



入江九一(いりえくいち)

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◇◆◇◆◇◆◇二十八話入江九一(いりえくいち)◇◆◇◆◇◆


吉田稔麿のように若くして無念の死を遂げた松陰門下の俊英に入江九一(いりえくいち)が居る。

入江九一(いりえくいち)は、千八百三十七年(天保八年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれた。

九一(くいち)は、千八百五十八年(安政五年)、松下村塾に入門して吉田松陰に学ぶ。


九一(くいち)は松陰から高く評価され久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿の松陰門下の三秀に加えて松門四天王の一人に数えられた。

後に明治の元勲となる同じ松陰門下の伊藤博文の最初の妻・入江すみ子は九一(くいち)の妹である。

同千八百五十八年(安政五年)、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。

この時門下の三秀の高杉と久坂、稔麿らは猛反対したが九一(くいち)と弟・入江和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し計画に加担する。

九一(くいち)は、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国の為に死ねる男児である」と、心意気を高く評価されている。

そのため、松陰が井伊直弼による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。

しかし、幕府に察知されて弟と共に投獄されてしまった。

その後釈放されて千八百六十三年(文久三年)、足軽から武士の身分に取り立てられ、京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。

翌千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、九一(くいち)は久坂らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。

九一(くいち)は何とか脱出しようと図ったが敵の槍を受けて目を負傷し、その場で切腹して二十八歳で果てた。

松陰門下で松門四天王と呼ばれた他の久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿は、いずれも勤皇の志半ばで無念の死を遂げている。

入江九一(いりえくいち)もまた、勤皇の志士としてのその後の活動が期待されていたが、志半ばで無念の死を遂げた。


松下村塾に「秀才が集まった」と言うが、向き不向きの選択を間違えずに、人間やる気に成れば、大抵の人間が途轍もない事を遣りおおせるものである。

吉田松陰の下に、やる気の若者が集まった事は時代の要請とは言え、松陰のその指導力は大したものである。



前原一誠(まえばらいっせい)
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◆◇◆◇◆◇◆二十九話前原一誠(まえばらいっせい)◆◇◆◇◆◇◆


前原一誠(まえばらいっせい)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。

千八百三十四年(天保五年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組四十七石)の長男として一誠(いっせい)は生まれ、後に前原氏を相続する。

相続先の前原家の遠祖は、尼子氏重臣・戦国武将・米原綱寛(よねばらつなひろ/尼子十勇士の一人)である。

本姓の生家・佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で出雲源氏の諸流に属し、遠祖は尼子氏・毛利氏の重臣である佐世清宗(させきよむね)である。

一誠(いっせい)は倒幕の志士として活躍し、維新の十傑の一人と並び称されたが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。


千八百三十九年(天保十年)、郡吏となった父・佐世彦七とともに一誠(いっせい)は厚狭郡船木村に移住する。

後に藩都・萩にて修学するが、千八百五十一年(嘉永四年)、一誠(いっせい)は再び船木村に帰り陶器製造など農漁業に従事する。

千八百五十七年(安政四年)、一誠(いっせい)は久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。

松陰の処刑後、一誠(いっせい)は長崎で洋学を修め、のちに長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。

千八百六十二年(文久二年)に一誠(いっせい)は脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽(ながいうた/時庸・ときつね)の暗殺を計画するも成就に到らず。

翌千八百六十三年(文久三年)、一誠(いっせい)は藩に復帰して右筆役、更に八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛となる。


萩の乱の首謀者として処刑とされた前原一誠(まえばらいっせい)も、維新前は長州藩倒幕派で在った。

と言っても一誠(いっせい)は、大勢の長州藩倒幕派の中の一人で、けして抜きん出た存在ではなかった。

しかし、一誠(いっせい)が「維新の十傑の一人」とまで数えられる大出世のチャンスは、八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛だった。

想うに、明治維新の全ては 熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に繋がる「不思議な何か?」のパワー魔力である。

一誠(いっせい)に与えられた「七卿方御用掛」の縁が、その後彼が「維新の十傑の一人」とまで数えられる出世のチャンスに成ったのではないだろうか?

つまり一誠(いっせい)も、伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる/井上聞多)・佐藤信寛(さとうのぶひろ)等と同様に、吉田松陰が画策した「大室某担ぎ出しの謀議」に加わって出世の糸口を掴んだと考えられる。

その後一誠(いっせい)は高杉らと下関に挙兵(元治の内乱)して藩権力を奪取し、藩・用所役右筆や干城隊頭取として一連の倒幕活動に尽力した。

幕府軍と交戦した長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、千八百六十八年(明治元年)の戊辰戦争で、一誠(いっせい)は北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

千八百七十年(明治三年)戊辰戦争も終結し明治維新成る後、一誠(いっせい)は維新の戦功を賞されて賞典禄六百石を賜る。

維新後、新政府に任官した一誠(いっせい)は、越後府判事や新政府参議を勤める。

大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、一誠(いっせい)は出仕する事が少なかった為、船越衛は省務停滞を嘆いている。

また、一誠(いっせい)は前任・大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋(やまがたありとも)に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

新政府の方針に不満をもった一誠(いっせい)は、千八百七十六年(明治九年)、奥平謙輔(おくだいらけんすけ)とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こす。

しかし、即座に鎮圧されて幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕され、萩にて処刑された。



山縣有朋(やまがたありとも)
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◆◇◆◇◆◇◆三十話山縣有朋(やまがたありとも)◆◇◆◇◆◇◆


山縣有朋(やまがたありとも)は長州藩領内の蔵元仲間・山縣三郎有稔(やまがたさぶろうありとし)の子として萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に生まれた。

実は有朋(ありとも)を称したのは明治維新後で、幼名は辰之助、通称は小助のち小輔、さらに山縣狂介と改名している。

家格の蔵元仲間(くらもとちゅうげん)とは、足軽以下の非武士身分の中間や小者を指す武家奉公人(ぶけほうこうにん)の事で、一部には山縣家の家格は無給通(むきゅうどおり)とする記述もあるが事実ではない。

萩毛利家の家臣は、一門を筆頭に永代家老・寄組・手廻組・物頭組・大組・船手組・遠近付(えんきんづき)・無給通(むきゅうどおり)・徒士(かち)、三十人通、(さんじゅうにんどおり)、士雇(さむらいやとい)、細工人(さいくにん)、足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)等々、全部で七十の「階級」に編成され、この「階級」と禄高・俸給とによって格付けされ、序列化されていた。

つまり有朋(ありとも)は、非武士身分の藩奉公人と言う微妙な立場の家に生まれ、そこから這い上がる為に少年時代から槍術師範となる事を夢見て努力する少年だった。

その努力が認められたのか、友人・杉山松助の口添えが在ったのかは定かではないが、千八百五十八年(安政五年)、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した六人のうちの一人として、杉山松助、伊藤俊輔(伊藤博文)らとともに上京する。

その都の地で長州藩尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らに有朋(ありとも)は感化を受け、九月に帰藩後、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した。

有朋(ありとも)は、二十一歳で吉田松陰・松下村塾の門下生になり、松陰亡き後に高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、その後幕府との戦いに於いて高杉晋作の下で指揮をとる。

高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用した為、松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤博文や有朋(ありとも)のように足軽以下の身分の志士が多く出て、低い身分で在った者が世に出るきっかけを与えた。

松蔭門下となった事は、出自の低い有朋(ありとも)が世に出る一助となったと考えられ、入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下った為有朋(ありとも)の在塾期間は極めて短かった。

それでも有朋(ありとも)は、「松陰から大きな影響を受けた」と終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。



土佐藩士・中岡慎太郎

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◇◆◇◆◇◆◇三十一話土佐藩士・中岡慎太郎◆◇◆◇◆◇◆


土佐藩士・中岡慎太郎が本格的に志士活動を展開し始めたのは、千八百六十一年(文久元年)に師である武市瑞山(半平太)が江戸にて結成した土佐勤皇党に加盟してからである。

翌年(文久二年)、中岡慎太郎は俊英と評判の長州・久坂玄瑞・山県半蔵と伴に松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し大いに意識を高めて居る。

京都で八月十八日の政変(文久三年)が起こり土佐藩内でも武市や中岡の尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まった為、慎太郎は速やかに藩を脱藩し久坂玄瑞らを頼って長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。

亡命後、慎太郎は長州藩内で脱藩志士達のまとめ役を勤め、久坂玄随の案内で三田尻近くの田布施に都落ちしていた公家・三条実美ら七卿の衛士として随臣となり長州を始め各地の志士達との重要な連絡役となる。


和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。

会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。

都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。

この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。

これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。

この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。


「八月十八日の政変」は薩摩藩・会津藩の公武合体派が尊皇攘夷派の長州藩などを京都から追放した朝廷に於けるクーデターである。

この八月十八日の政変で長州藩と過激派公卿は京都から追放され、京都に於ける尊攘過激派は一掃される事になり、後の池田屋事件、禁門の変の遠因となった。

この長州に落ちた七卿の存在が、倒幕派の長州集合を招き、密談の中で、松陰派がかねて関心を寄せていた「南朝末裔の存在」と結び付いたのだ。

その南朝の末裔が、長州の吉田松陰が目をつけ「密かに親交を結んでいた」と言われる南朝の系図を有する「大室家」と言う家の存在で在った。

実はこれにはカラクリがある。

吉田松陰が隠し玉として南朝の末裔を把握していたのには、合理的な裏付けがあるのだ。

彼(吉田松陰)の幼時の名字は杉であり、幼名は大次郎または虎之助で杉大次郎または杉虎之助と称する。

この杉氏には、多々良氏族大内氏支流説があり、長い事、大内氏及びその後の領主毛利氏に仕えた名門武将の家柄で、密かに南朝の末裔の守護(守役)も兼ねていた可能性が伺える。

杉虎之助(吉田松陰)は、長じて吉田家に養子に入る。

吉田家の本姓は藤原を称し、養子後の通称は吉田寅次郎である。

つまり吉田松陰の倒幕計画の原点に、南朝末裔の存在は当初から組み込まれていた。

そこに、中央の尊王攘夷派公家が落ち延びて来て、挽回の策を画策した事が、謀議に因る南朝末裔擁立を決定付けた。

「大室家」は、吉野から防周(山口県)に逃れた南朝方後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王の皇子「良光(ながみつ)親王の末裔だ」と言うのである。

正確に言うと、天皇の男皇子は親王で、親王の男皇子は王であるから良光(ながみつ)王が正しい尊称であるが、南朝を代表する皇統として良光(ながみつ)親王を称していた様である。


明治維新の折、この南朝「大室・某」が、ひょっこり顔を出す、「奇妙な噂話」がある。

それは、「睦仁親王(明治天皇)」別人説である。

つまり病弱だった明治天皇が、維新のどさくさの折に「屈強な誰かと入れ替わった」とする、とんでもない話が有るのだ。

ご丁寧な事に、この「誰か」は、密かに「正統な、南朝の皇位継承者だ」と言うのである。



大村益次郎(おおむらますじろう)

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◇◆◇◆三十ニ話大村益次郎(おおむらますじろう)◇◆◇◆◇


長州藩からはもう一人、長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった医師・西洋学者・兵学者の大村益次郎(おおむらますじろう)が出た。

益次郎(ますじろう)は、周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじむら)字大村に、村医兼農業の村田孝益(むらたたかます)と妻うめの長男として生まれる。

若い頃の大村益次郎(おおむらますじろう)は父が使う村田姓で幼名は村田宗太郎、通称は村田蔵六(良庵)を名乗って居た。


千八百四十二年(天保十三年)、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は十八歳で防府の蘭法医・梅田幽斎(うめだゆうさい)に医学や蘭学を学ぶ。

翌千八百四十三年四月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、蘭学者・高野長英らが学んだ広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入る。

村田蔵六(むらたぞうろく)は塾咸宜園(かんぎえん)で二年間、漢籍、算術、習字など学び帰郷して梅田門下に復帰する。

その後、千八百四十六年(弘化三年)、大坂に出て医師・蘭学者の緒方洪庵(おがたこうあん)の私塾・適塾(てきじゅく)で学ぶ。

適塾在籍の間に、蔵六(ぞうろく)は長崎の奥山静叔の下で一年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。

千八百五十年(嘉永三年)、村田蔵六(むらたぞうろく)は父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵(むらたりょうあん)と名乗る。

三年後の千八百五十三年(嘉永六年)、蔵六(ぞうろく/良庵)はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねる目的で伊予国宇和島へ行く。

宇和島に到着した蔵六(ぞうろく/良庵)は、二宮や藩の顧問格であった僧・晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士・大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。

ちょうどその時代は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代で、蔵六(ぞうろく/良庵)は伊予宇和島藩の要請で出仕する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。

千八百五十四年(安政元年)から翌千八百五十五年(安政二年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。

長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。

ズッと後日談だが、後年、益次郎(ますじろう/村田蔵六/むらたぞうろく)が京都で襲撃され重傷を負った後、蘭医ボードウィンの治療方針の下でイネは益次郎(ますじろう)を看護し、その最期を看取っている。



薩摩・西郷吉之助

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◆◇◆◇◆◇◆◇三十三話薩摩・西郷吉之助◇◆◇◆◇◆◇


余談だが、西郷武雄・隆盛(たかもり)は、明治維新が成り新政府の参与になるまで、西郷吉之助・隆永(たかなが)を名乗っていて、これが親から呼ばれていた名である。

実は、武雄・隆盛(たかもり)は父親の名だったが、維新新政府の役人が間違えて公文書に記入したのを西郷は咎めずにそのまま使用した。

従って維新前の場面で、他者が隆盛(たかもり)殿と呼ぶのは本来は間違いで、吉之助または隆永(たかなが)殿が正しい事になる。


薩摩藩の主導権を握った尊皇攘夷派の西郷吉之助・隆永(たかなが)は、千八百六十四年(元治元年)三月、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、京都に到着して薩摩藩兵・軍賦役(軍司令官)に任命される。

京都に着いた西郷隆永(さいごうたかなが)は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。

そこで藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採る事で、この難局を乗り越え様とした。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易で在った。

攘夷派は攘夷と唱えながら、二枚舌で外夷と通商している事自体を怒ったのである。

その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が相次いで起きている。

千八百六十四年(元治元年)四月、藩政改革派の西郷吉之助は小納戸頭取・一代小番に任命された。

池田屋事件からまもない六月、強硬派の長州懐柔の為朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。


高杉晋作が投獄されている間も急進派の勢いは止まらず、積極派の三家老(福原越後・益田右衛門介・国司信濃)派は、討薩賊会奸(とう・さつぞく・あいかん/薩摩と会津)を掲げて挙兵してしまう。

家老・益田右衛門介や久坂玄瑞(くさかげんずい)等は山崎天王山宝山に、家老・国司信濃や来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、家老・福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めてそれぞれに陣営を構える。

しかし迎え撃つ会津藩と薩摩藩もこの事有るを想定し、京都守護職で在った会津藩主・松平容保は薩摩藩・西郷隆永(たかなが)等と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を既に整えていた。

この長州藩の行動に、朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)は長州勢に退兵を呼びかける。

ところが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突「禁門の変」が起こる。

これに対し、西郷吉之助・隆永(たかなが)も一時は「薩摩が長州ば相手に兵を出すんは、よろしくありもはん。」と、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、七月の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

しかし、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突する。

隆永(たかなが)は、「天子様お守りのこっは、おいが引き受けもす。」と、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した。

この時、西郷吉之助・隆永(たかなが)は銃弾を受けて軽傷を負っている。

この事変で西郷隆永(たかなが)らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いた。

しかし、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉・入江九一(いりえくいち)ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸(さつぞく・あいかん)」の思いが強くなった。

結果、尊皇攘夷を唱える長州勢は大敗を喫して壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一(いりえくいち)ら尊攘派の主力は自刃または戦死した。

この変事の由来となった「禁門」とは「禁裏(御所/皇居)の御門」の略した呼び方である。


蛤御門の変とも呼ばれるのは蛤御門付近が激戦区であった為で、蛤(はまぐり)御門の名前の由来は、「天明の大火」の際にそれまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤(はまぐり)に例えられた為である。

禁門の変(きんもんのへん)の戦闘後、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち、会津勢も長州藩士の潜伏を理由に中立売御門付近の家屋を攻撃し、二ヵ所から上がった火が京都市街に広がって北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の街区や社寺が焼失している。

この禁門の変が、「御所へ向けて発砲した朝敵」として第一次長州征伐を行う切欠になる。





長州征伐(第一次)

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◆◇◆◇◆◇◆◇三十四話第一次長州征伐◆◇◆◇◆◇


長州藩は尊皇攘夷・公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。

しかし千八百六十三年(文久三年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変により京より追放される。

翌千八百六十四年(元治元年)には、八月十八日の政変で問われた藩主父子の赦免などを求めて長州軍が京へ軍事進攻する禁門の変が起こる。

その尊皇攘夷を掲げて幕府に反抗する長州藩に手を焼いた幕府は、長州征伐(第一次)に踏み切った。

朝廷は京都御所へ向かって発砲を行った事を理由に長州藩を朝敵とし、将軍・徳川家茂に対して長州征討(第一次)の勅命を下す。

幕府は前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士・西郷吉之助・隆永(たかなが)を参謀に任じ、広島へ三十六藩・十五万の兵を集結させて長州へ進軍させる。

一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂して尊皇攘夷派が勢いを失い、保守派(俗論派)が政権を握る。

幕府の長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、高杉晋作は福岡へ逃れる。

長州藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田右衛門介らの主戦派は失脚して粛清され、藩庁を再び萩へ移し、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。

征長総督参謀の吉之助・隆永(たかなが)は、政権を握った長州藩保守派(俗論派)と和解交渉に入る。

吉之助・隆永(たかなが)は禁門の変の責任者である三家老(国司親相・益田親施・福原元|)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩庁はこれに従い恭順を決定する。

幕府側はこの処置に不満であったが、十二月には総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられている。

この撤兵、幕府側の不満も然る事ながら、恭順した側の長州藩内尊皇攘夷派の不満を怨念として燃え上がらせる結果と成った。


千八百六十五年(慶応元年)長州藩では、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して「元治の内乱」と呼ぶを藩内クーデターを起こし保守派を打倒し、長州藩内に倒幕派政権を成立させた。

高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。

また、長防士民合議書を三十六万部印刷し、士農工商隔(へだ)てなく領内各戸に配布する事で領民を一致団結させた。



長州征伐戦始末

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◆◇◆◇◆◇三十五話第一次長州征伐戦始末◆◇◆◇◆◇◆


千八百五十六年(安政三年)四月、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は江戸に出、十一月、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える。

同年同月中旬、蔵六(ぞうろく/良庵)は宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となる。

教授方手伝としては、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米二十人扶持・年給二十両を支給される。

翌千八百五十七年(安政四年)十一月、蔵六(ぞうろく/良庵)は築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。

千八百五十八年(安政五年)三月、蔵六(ぞうろく/良庵)は長州藩上屋敷に於いて開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行う。

この蘭書会読会於いて、蔵六(ぞうろく/良庵)は桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。

千八百六十年(万延元年)、桂小五郎との知遇を得たを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、年米二十五俵を扶持として支給され、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。

元々、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の生家は長州であり、長州藩の出仕要請は「願ったり適ったり」だった。

千八百六十一年(文久元年)正月、蔵六(ぞうろく/良庵)は一時帰藩し西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。

二年後の千八百六十三年(文久三年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は萩へ帰国し、手当防御事務用掛に任命される。

翌千八百六十四年(元治元年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行う。

また、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。

村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は語学力を買われ、同千八百六十四年八月には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。

同年外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の年末には、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。


長州藩では千八百六十四年(元治元年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握った。

所が、千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。

同千八百六十五年、蔵六(ぞうろく/良庵)は藩の軍艦壬戌丸売却の為、本人のメモのみで仔細不明だが、秘密裏に上海へ渡っている。

高杉晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、村田蔵六(むらたぞうろく)にその指導を要請する。

桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、村田蔵六(むらたぞうろく)は馬廻役譜代百石取の上士となり、藩命により村田姓から大村姓に改名、大村益次郎永敏とする。

「大村」は故郷の鋳銭司村字大村(すぜんじむらあざおおむら)の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。



薩長同盟(さっちょうどうめい)

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◇◆◇◆◇三十六話薩長同盟(さっちょうどうめい)◆◇◆◇◆◇


幕末の政界で影響力を持つ薩摩藩と長州藩は倒幕思想では共通していた。

所が千八百六十四年(元治元年)八月、薩摩藩論を主導する西郷吉之助(西郷隆永/隆盛)・大久保利通は、長州追い落としに拠る主導権を狙って会津藩・松平容保と協力し京の政界から長州を追放した八月十八日の政変を行う。

さらに薩摩藩は、二日後の禁門の変で長州を京都から追放する事に成功する。

朝敵となった長州は幕府からの第一次長州征討(幕長戦争)を受け、この因縁により長州が薩摩を嫌い「薩賊」と呼ぶなど薩長間は敵対関係となった。

しかし薩長両藩が不仲では倒幕などできる訳も無く、土佐藩などが斡旋に動き、平行して長州藩内のクーデター「元治の内乱」で倒幕派が藩の主導権を握る。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせた事に始まる。

土佐の脱藩浪士・坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、千八百六十六年(慶応ニ年)主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅に於いて会談が進められ、交渉中に下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあった。

しかし、千八百六十六年三月(慶応ニ年一月)京都二本松薩摩藩・小松帯刀(こまつたてわき/清廉)邸(京都市上京区)で坂本龍馬を介して西郷隆盛、小松帯刀(清廉)と長州藩の桂小五郎が倒幕運動に協力する六か条の政治的軍事的同盟・薩長同盟(さっちょうどうめい)を締結した。

薩長同盟は龍馬最大の功績と言われるが、実際には龍馬が西郷吉之助(西郷隆永)や小松帯刀ら薩摩藩の「指示を受けて動いていた」と言う説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性に付いては評価が分かれている。

いずれにしてもこの薩長同盟は秘密裏に行われ、将軍家や会津藩には察知される事無く締結され、坂本龍馬の仲介で最新式の軍備が薩摩経由で長州にもたらされる。

この薩長同盟と長州の軍備増強を知らぬまま、幕府は第二次長州征伐を仕掛ける事になる。



第二次長州征伐

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◆◇◆◇◆◇三十七話第二次長州征伐 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


長州藩内のクーデター「元治の内乱」で尊皇攘夷派が藩主導権を掌握した事を受け、十四代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。

幕府は大目付・永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中・小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

「四境戦争」とも呼ばれている第二次長州征討の戦争であるが、幕府は当初五方面から長州へ攻め入る計画だった。

しかし萩口攻めを命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。

その為萩口から長州を攻める事ができず、四方面から攻める事になり「四境戦争」と呼ぶ事と成った。


千八百六十六年(慶応二年)、幕府が第二次長州征伐を号令する騒然とした中、政変により藩校・明倫館が再開される。

村田蔵六(むらたぞうろく)=大村益次郎(おおむらますじろう)も深く藩政に関わる事に成る。

桂小五郎は同千八百六十六年五月に藩の指導権を握り、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文、井上聞多(井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。

長州藩は、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺を購入し幕府軍に備える。

千八百六十六年(慶応二年)六月七日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、十三日には芸州口・小瀬川口、十六日には石州口、十七日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。

幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の四方から攻めた為、長州側では四境戦争と呼ばれる他、第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも呼ばれる。

長州側は、山口の藩政府の高杉晋作ら倒幕派政権の合議制により作戦が指揮された。

この四境戦争、奇兵隊や長州藩諸隊を編成し新式兵器で武装した長州側に対し、幕府の出兵命令を拒んだ藩も多く、幕府軍側の士気が上がらない。

第二次征討は各攻め込み口で長州側が善戦し、幕府軍側は主要な長州藩内に攻め込めず、事実上幕府軍の全面敗北に終わる。

長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦し、益次郎(ますじろう)は長州藩兵を指揮し勝利の立役者と成った。


第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎である事が知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力を失う結果を招いた。

その為、この第二次征討の敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けた事と成る。


この第二次長州征伐(四境戦争)では、高杉晋作は病に犯されながらも小倉方面の戦闘指揮をして勝利に導く戦果を上げた。

しかし無理が重なり、その後の晋作は肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、大政奉還を見ずして二十七歳でこの世を去った。



鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)
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◆◇◆◇三十八話鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)◆◇◆◇


鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は江戸幕府・徳川家の命運を決め、その後の幕藩体制の清算的な意味合いを持つ戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。

坂本龍馬が近江屋で暗殺された直後の慶応三年の末、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還を受けて薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで王政復古の大号令が発せられた。

王政復古の大号令が発せられ、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽(しゅんがく/慶永・よしなが)と尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ/よしかつ・松平容保とは兄弟)が使者として慶喜のもとへ派遣される。

この決定を慶喜に通告し前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地(官位と知行地の返上)が命ぜられる。

慶喜は謹んで受けながらも簡単には事が運ばず、この通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになった。

その為、使者として慶喜のもとへ派遣された松平春嶽らに「配下の気持ちが落ち着くまでは不可能」と言う返答をおこなった。

前将軍・徳川慶喜は、軽挙妄動を慎むように命じつつ政府に恭順の意思を示す為に京都の二条城を出て大坂城へ退去している。

松平春嶽はこれを見て、慶喜は「天地に誓って辞官と納地の返納を実行するだろう」と言う見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。

しかし大坂城に入った後に、慶喜からの連絡が途絶える。

新政府に於いて、大坂城入城後の徳川慶喜の態度に関して会議が行われ、参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、「ただちに領地返上を求めるべきだ」と主張した。

だが、松平春嶽は「旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしている」と睨む。

春嶽は「性急強硬な命令では説得が不可能である」として「今は徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定すると言う曖昧な命令に留めるべき」と主張した。

岩倉卿(具視)も松平春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断した為、この命令が出される事に決した。

再度松平春嶽と徳川慶勝が使者に立てられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。

所が、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行い庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件を誘発する。

すると、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まり、前将軍・徳川慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始する。

旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶喜の旧幕軍出兵の報告を受けて政府では緊急会議が招集される。

政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張する。

政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張し会議は紛糾する。

この紛糾した会議は、政府議定・岩倉具視が徳川征討に賛成した事で大勢は旧幕軍征討に決し、在京政府軍に迎撃開戦の準備を通達した。



鳥羽・伏見の戦況
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◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆三十九話鳥羽・伏見の戦況◆◇◆◇◆◇◆


世に言う鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)の緒戦は、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

夕刻、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見付近でも衝突して戦端が開かれる。

新政府軍の京都周辺の兵力は約五千、対して旧幕府軍は一万五千を擁していた。

薩摩を中心とする新政府軍の新鋭軍装に対し旧幕府軍の装備は旧式の上狭い街道での縦隊突破を図り優勢な兵力を生かし切れずに新政府軍の弾幕射撃に拠って前進を阻まれる。

この戦闘、最初から旧幕府軍の士気が低く、鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで指揮系統が混乱する。

伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊・八百名)に敗れ敗走した。

翌日の淀の戦いでは両軍一進一退の戦闘が続いたが、三日目になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗(きんき)を与え新政府軍が官軍となる。

錦旗(きんき)と呼ばれる菊章旗は、赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり描いたりした日之御旗と月之御旗の二振り一組の御旗である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)に際して後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が歴史上の錦旗の初見とされ、以後朝敵討伐の証として天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。

維新の動乱に際しては、鳥羽伏見の戦いに於いて薩摩藩の本営で在った東寺に初めて錦旗が掲げられた。

この錦旗、「岩倉具視が偽造した」と言う説もあるが、真贋は定かではない。

旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でも在った淀藩主・稲葉正邦を頼って、淀城に入り建て直しを図ろうとする。

ところが、淀藩に新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んでいる。

入城を拒絶された旧幕府軍は淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗し、この戦闘の最中に新選組結成時からの主要幹部隊士の一人で在った井上源三郎が戦死した。

幕府軍は淀千両松から後退を重ね、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて橋本付近に布陣する。

西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張る。

東に男山、西に淀川を控えた橋本では、迎え撃つ旧幕府軍に地の利は在ったが、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り旧幕府軍へ砲撃を加え始める。

突然の西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、この戦いで京都見廻組々長・佐々木只三郎が重傷を負い後に死亡する。

新撰組諸士調役兼監察・山崎烝が重傷負い後に死亡、山崎と同格の吉村貫一郎が行方不明と成り、旧幕府軍は淀川を下って大坂へと逃れて行く。

幕臣強硬派に圧されて薩摩征伐を許した前将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は元々開戦に積極的で無く大坂城に居た。

慶喜は旧幕府軍の敗戦が決定的と成って「自分に追討令が出た」と聞く。

すると、その夜に慶喜は僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき・松平容保とは兄弟)と共に密かに城を脱する。

慶喜は、大阪湾に停泊中の榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府艦隊旗艦・開陽丸で江戸に退却した。

新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限り、前将軍・徳川慶喜が江戸に向かって逃亡した為に旧幕府軍の全面敗北と成る。

この敗北で、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北越戦争、東北地方での会津戦争、そして箱館戦争と続く事に成る。



江戸城無血開城
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇四十話江戸城無血開城◆◇◆◇◆◇◆◇◆


戊辰戦争の中盤、一つの大きな戦局の山が江戸城無血開城と言う大偉業である。

西郷隆永(隆盛)は、戊辰戦争の発端となった伏見の戦線、八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認する。

徳川慶喜は松平容保(まつだいらかたもり)・松平定敬(まつだいらさだあき)以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して軍艦・開陽に搭乗して江戸へ退去する。

新政府は「慶喜追討令」を出し、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。

整然と隊列を組んだ官軍は、錦旗を翻し威風堂々とピーヒャラと鼓笛を鳴り響かせながら東海道を江戸に向かって進軍して行く。

勝海舟(かつかいしゅう)は、千八百六十八年(慶応四年)戊辰戦争時には陸軍総裁、後に軍事総裁として旧幕府方軍事面の責任者となり、前十五代将軍・慶喜にもはや戦意は無かった事から旧幕府の恭順派代表となる。

西郷隆永(隆盛)は二月に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍)を率いて先発し、二月には東海道の要衝・箱根を占領した。

幕府参与・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)の助言を受けた陸軍総裁・勝海舟(かつかいしゅう)は、参謀格である精鋭隊歩兵頭格・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を徳川慶喜の使者として東征大総督府・下参謀・西郷隆永(隆盛)の下に送る。

箱根占領後、三島を本陣とした後に静岡に引き返し、三月、静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し、徳川処分案七ヶ条を示した。

その後、大総督府からの江戸総攻撃の命令を受け取ると静岡を発し、江戸に着き池上本門寺の本陣に入った。

西郷隆永(隆盛)は、高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談し、江戸城無血開城についての交渉をした。

三月に官軍が江戸に迫ると、徹底抗戦を主張する小栗忠順(おぐりただまさ)に対し、勝海舟(かつかいしゅう)は西郷隆永(隆盛)の提案する早期停戦と江戸城の無血開城を主張する。

勝海舟は江戸市中を戦火から救う為に、官軍の本陣が置かれていた池上本門寺の庭園(松涛園)内の四阿にて、西郷隆永(隆盛)との交渉に挑む。

交渉は難航ししたが、橋本屋での二回目の会談で勝が西郷を説得に成功、隆永(隆盛)は、勝から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に向かう。

西郷隆永(隆盛)は静岡に出赴き、大総督・有栖川宮・熾仁親王に謁見して勝案を示し、更に静岡を発して京都に赴き、朝議にかけて江戸城の無血開城の了承を得た。

四月になって急ぎ江戸へ立ち帰った西郷隆永(隆盛)は、勅使・橋本実梁(はしもとさねやな/西園寺流・閑院家の公家)鎮撫将軍らと江戸城に乗り込み、田安慶頼(たやすよしより/徳川御三卿)に勅書を伝え、ここに漸く江戸城開城が成った。

実は江戸城無血開城について話しが着いたのは、当時の欧米列強の植民地化の初期段階に於いて、その国の政情不安に「居留民保護」と言う名目で軍事介入を始める手口を、国際情勢に通じた西郷隆永(隆盛)と勝海舟(安芳/やすよし)に共通な認識が在ったからである。

当時の薩長を主体とした新政府軍は、長州が英・仏・蘭・米の列強四ヵ国と下関戦争を起こして敗戦を経験し、薩摩が英国相手に薩英戦争を起こして和平した経緯を経験し、その列強軍事力の実力は承知していた。

勝海舟(安芳/やすよし)に到っては、幕府遣米使節の補充員として咸臨丸に乗った渡米経験があり、欧米列強の軍事介入は恐れる所だった。

現に先(千八百五十九年/安政六年)に開港した横浜には、新政府軍と幕府軍の戦乱に対する「居留民保護」を名目に英国軍が上陸を開始していた。

この事実が、西郷隆永(隆盛)に拠る京都宮方(新政府軍)主戦派への江戸城無血開城説得の大きな材料と成ったのである。

隠れた国際状況と言う事情も在ったが、勝海舟の早期停戦と江戸城の無血開城案が江戸市中を戦火から救い、これは幕臣・勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと後の世に賞されている。

勝海舟と西郷隆永(隆盛)の会談に拠り江戸城が開城される。

征討大将軍・仁和寺宮彰仁親王(にんなじのみやあきひとしんのう)、東征大都督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が率いる官軍が入城したのは、桜田門外の変から僅か八年後の事で在った。



戊辰戦争(ぼしんせんそう)
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◇◆◇◆◇◆◇四十一話戊辰戦争(ぼしんせんそう)◆◇◆◇◆◇◆◇


戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、十五代将軍・徳川慶喜に拠る大政奉還後に三百六十年続いた江戸幕府の幕藩体制を天皇親政の明治新政府に体制を変える為の一連の内戦を呼ぶ総称である。

明治新政府が王政復古で成立した大政奉還後も、旧体制の親江戸幕府勢力(佐幕派)は残っていて新政府に抵抗する構えを見せる者も多く、その一掃を目指して新政府が薩長土肥の軍事力を用い主に甲信越・関東・東北・北海道で交戦した掃討戦だった。

この掃討戦の期間が慶応四年〜明治元年で干支(えと)が戊辰(ぼしん)だった事から戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼ばれ、明治新政府側が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅した事により、以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められた。


戊辰戦争は大きく分けて三段階に分けられ、最初の衝突は「鳥羽・伏見の戦い」である。

この時点では旧幕府勢力も新政府に参加する構想も在り薩長と幕府の主導権争いに起因すると思われるが、戦闘の最中に錦旗(きんき)が薩長に下賜され徳川慶喜が大阪から海路江戸に向かった時点で主導権は完全に薩長の手に落ちた。

その後、江戸に攻め下る官軍(新政府軍)を前に西郷隆盛と勝海舟の交渉で江戸城の無血開城は為された。

しかし、幕府方は近藤勇(こんどういさみ)と土方歳三が指揮した甲州勝沼戦や市川・船橋戦、そして幕臣約四千名が集合した上野彰義隊戦(上野戦争)などの局地戦が起き、いずれも装備に勝る官軍(新政府軍)が勝利している。

戦略の士・大村益次郎(おおむらますじろう)は討伐軍を指揮し、僅(わず)か一日でこの上野戦争を鎮圧している。


第二段階は会津藩・庄内藩の処分問題に起因するもので、松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする合津戦争を含む「東北戦争」の段階で、東北列藩同盟は「会津藩・庄内藩への同情論が結束を促した」とされている。

幕府方残存勢力の掃討と成った戊辰戦争では、品川弥二郎(しながわやじろう)も奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍、維新新政府の高級官僚に出世する足掛かりを得ている。


第三段階の「箱館戦争」は旧幕府勢力の最後の抵抗で、榎本武揚(えのもとたけあき)ら一部の旧幕臣が旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出する。

旧幕府艦隊は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。

大鳥圭介・榎本武揚・土方歳三等旧幕府軍の残党勢力は、松前藩の箱館五稜郭などを占領し蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。

新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、要となる旗艦・開陽を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦(箱館戦争)と成り、主戦派の土方歳三が戦死し榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。



新政府発足後の混乱
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆四十ニ話新政府発足後の混乱◆◇◆◇◆◇◆◇◆


戊辰戦争が終結し、岩倉使節団(いわくらしせつだん/岩倉遣欧使節団)が欧米視察に出発した頃、留守政府では征韓論が勃発していた。

この征韓論には、千八百七十一年(明治四年)の廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景に在った。

廃藩置県の二年後、千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を「海外に逸らす思惑」も在った。

留守政府でほぼ承認されかけたその征韓論は、岩倉使節団が帰国して状況が変わり使節団側の明治帝への上訴に止められる。

この意見の相違が「明治六年の政変」と言う政変に発展し、西郷隆盛が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上する。

また、この「明治六年の政変」では隆盛の他に江藤新平、板垣退助ら新政府の要人が辞職している。

そして不満士族の反乱が、佐賀の乱(さがのらん)、神風連の乱(しんぷうれんのらん)、秋月の乱(あきずきのらん)、萩の乱(はぎのらん)と続き、最後は西南戦争で幕を閉じた。

この萩の乱には、吉田松陰に松下村塾を譲った玉木文之進(たまきぶんのしん)の養子・玉木正誼(たまきまさよし)や門弟の多くが参加した為、文之進(ぶんのしん)は先祖の墓前で自害している。

また、新政府内で西郷隆盛の政敵となった大久保利通(おおくぼとしみち)も、西南戦争の翌年、暴漢のテロに刺殺されてあの世に旅立っている。



世直しは庶民から
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇四十三世直しは庶民から◆◇◆◇◆◇◆◇◆


歴史は繰り返される。

エェジャナイカ騒動と勤皇の志士によって維新が起こり、若者中心に理想的な社会を築いた筈だった。

ところが、欧米と肩を並べる為に「富国強兵政策」に拠って官製の企業がまたたく間に成長し、なおかつ払い下げられて財閥の芽が生まれた。

三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)や大倉財閥の設立者・大倉喜八郎(おおくらきはちろう)等が、その代表格である。

結局、財閥と軍閥が組んで富は集中し、庶民は東北地方を中心に娘を遊郭に売らざるを得ないほど格差が広まり、2・26のクーデターまで起こった。

四大財閥、三井(三井家)・三菱(岩崎家)・住友(住友家)・安田(安田家)を始めとする、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態が「財閥」である。

明治期〜昭和前期(終戦によるGHQの「財閥解体」まで)は、搾取組織・「財閥」と搾取される多くの貧乏人と格差が大きい時代が出現した。


実は現在の平成期も、大企業を経済の牽引にする理由で庶民の経済環境はその不合理な社会情勢に近い状況にある。

企業個々の努力で繁栄するなら文句も無いが、政府が関与する官製の繁栄は大いに問題で、大商人と悪代官の不公平な図式を彷彿させる。

それは当時ほど庶民生活も逼迫しては居ないかも知れないが、現在の政権は大企業よりの経済政策ばかりである。

しかし日本の企業の九十%は中小零細企業で、個人商店を含む人口の八十%は中小零細企業関連で飯を食っている。

恐ろしい事に、危険状態の中小零細企業を放置していては、その彼らの働き場所がドンドン減って、人々は生き甲斐を無くす。

ワーキングプア(働く貧困層)と指摘される食べて行けない人々が増え、生き甲斐の無い人生に失望すれば投げ遣りな人生を選択する人間が増え、社会の治安が保てない。

一部の血族に富が集中し、新たな世襲資産階級が成立すれば、閉塞感は幕末と似た状況を生み出し、新たな階級闘争の火種に成る。

いずれ日本の若者の中からも、幕末の志士達の様に立ち上がる日があるかも知れない。

いぇいぇその前に、人生の修羅場を潜り抜けて来た団塊世代の人々が、世直しに立ち上がるかも知れない。

「エェジャナイカ、エェジャナイカ、えじゃないか。」



物語のまとめ
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇四十四話物語のまとめ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


この物語で、幕末〜明治維新(尊皇攘夷運動戊辰戦争西南戦争の内戦までの経緯を松下村塾関係者を中心にダイジェストで紹介した。

「維新の十傑」に数えられる人物は、公家岩倉具視長州藩大村益次郎木戸孝允(桂小五郎)前原一誠広沢真臣の四名、薩摩藩西郷隆盛大久保利通小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。

横井小楠(よこいしょうなん)と広沢真臣(ひろさわさねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

薩長土の三藩プラス肥後藩の薩長土肥と数えられる四藩閥に在りながら、十傑から洩れているのは旧土佐藩士出身の後藤象二郎板垣退助がいる。

但しこの「維新の十傑」は幕末の動乱を生き残ったからこそで、吉田松陰 (よしだしょういん)を始め、高杉晋作(たかすぎしんさく)久坂玄瑞(くさかげんずい)吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)入江九一(いりえくいち)坂本龍馬(さかもとしょうま)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)などなど、若くして非業の最期を遂げた勤皇の志士も数多い。

そして尊皇派の中心となった者の大半は、佐幕派として散って行った新撰組(しんせんぐみ)同様に、石高が百石に満たない下級武士家格の出自や武士では無い足軽身分の出自だった。

当然ながら、土佐勤皇党首魁・武市瑞山(たけちずいざん/半平太)と人斬り以蔵こと岡田以蔵(おかだいぞう)も、土佐藩郷士と言う軽輩だった。

だからこそ尊皇派も佐幕派も、立場は違えど「身分上の現状打破の為」と「武士らしく在りたい」と言う想いは共通して命を賭け、その多くが時代の移り変わりの激動から生き残れなかった。

また、生き残った維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくは西郷隆盛や前原一誠の様に反乱など、なんらかの理由で死亡している。

十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文山県有朋井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達だった。


この明治維新に於ける吉田松陰 (よしだしょういん)の松下村塾が果たした影響は、大変大きいだろう。

吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。

松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。

だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、門弟同士も「互いに議論を交わしながら育った」と言える。

そして明治帝のお覚えが特に良かった伊藤博文と井上馨(多聞)には、「吉田松陰の或る計画」の存在が密かに影響したとは考えられないだろうか?

そもそも伊藤博文と井上馨(多聞)が、同じ倒幕志士ながら武闘派の久坂玄瑞や入江九一と違う生き方をしたのは、吉田松陰から託された「然る方の護持」が在ったからかも知れない。


「海防と反射炉・崖っぷちの開国論議」=>【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】に戻る。
「吉田松陰の或る計画」=>「異聞・隠された明治維新」(明治維新にまつわる噂の謎)

「西郷隆盛の反乱」=>西郷隆盛・命を賭した西南戦争(西南の役)



【小説皇統と鵺の影人】より抜粋。
詳しくは本編をお読み下さい。


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◆◆◆◆◆◆◆◆ 未来狂冗談の小説リスト


未来狂冗談の作品リスト


【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

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短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

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社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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◆メルマガサイト◆
{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

◆仮面の裏側◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

非日常は刺激的

 

◆仮面の裏側外伝◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
鬼嫁 尼将軍・・・・・・・・・・(平安、鎌倉時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 今は昔の鎌倉時代、
歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

◆メルマガサイト◆
倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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◆作者 【未来狂冗談(ミラクル ジョウダン)ホームページ紹介 】

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【この作品群は著述業未来狂冗談(ミラクルジョウダン)の著作品です。】

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本作を引用等しないで下さい。
もし違法行為を発見した場合いは、法的手段に訴えます。
なお本作に登場する組織、団体、人物キャラクター等は創作であり、
実在の人物を描いた物では無い事をお断り申し上げます。

作 品 一 覧

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(18禁)夜鳴く蝉・葉月 作品をを見る

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(18禁)蒼い危険な賭け・京香 作品を見る

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(一般作)夢と現の狭間に有りて 作品を見る

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。




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作者本名鈴木峰晴