後に「幕末」と呼ばれた騒然とした時代に、幕府の治世に不満を持った民衆に拠るええじゃないか騒動が日本列島の津々浦々を席巻していた。
「サリトテ恐ロシキ年ウチワスレテ、神ノオカゲデ踊リ、エエジャナイカ、日本ノヨナオリハ、エエジャナイカ、豊年踊リハオメデタイ、日本国ヘハ神ガ降ル、唐人ヤシキニャ石ガ降ル、エエジャナイカ、エエジャナイカ」
「さりとて恐ろしき年打ち忘れ、神の御蔭で踊り、ええじゃないか、日本の世直りは、ええじゃないか、豊年踊りはお目出度い、日本国へは神が降る、唐人屋敷にゃ石が降る、ええじゃないか、ええじゃないか、えじゃないか」
この「ええじゃないか騒動」は、「豊年踊リ」に名を借りた「一揆」の色合いが濃いデモ行進だった。
今ならさしずめ、「エエジャナイカ、エエジャナイカ、エジャナイカ。政権交代エジャナイカ」なのだろうか?
群集が「ええじゃないか」と町々を練り歩けば群集心理が働いて秩序は大きく壊れ、金持ちの商家や憎まれている庄屋など「打ち壊してもええじゃないか」となり、秩序の破壊が主眼だから「豊年踊リ」の意味合いでも在る集団乱交も「ええじゃないか」と言う乱れ方になる。
町民・農民と言われる民衆が仮装して囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら町々を巡った「ええじゃないか」騒動は、都市に生活をし始めている民衆に外国との不公平為替レート貿易に拠る物価の高騰や米価高騰など様々な動揺が大きく波紋を描き、幕政が行き詰まった生活不安から「世直しへの期待とともに広がったのではないか」と思われる。
自民党政権・麻生内閣は、何もかも先送りの「居座り延命内閣」である。
前の二つの内閣から先送りされた国民の信を問う為の総選挙にどうしても踏み切れず、今では身内議員の中からも異論が出る見っとも無さで、誰もが認める所の一日でも永く総理の座にしがみ付く事だけに全ての政治力を傾注している。
仕事の出来る総理総裁を選ばず、選挙目当ての人気だけの総理を選んだ事が支持率の低迷に拍車を掛けている。
まさに自民党政権は、政権末期の「断末魔の水域に在る」と言って過言ではない。
その理由だが、小泉・竹中内閣の市場原理主義に基づく「規制緩和政策」と酷似する、江戸期に行われた「田沼政治」が、行き過ぎた市場原理政策を採って数々の格差現象が生じ、幕府官僚の腐敗に非難が集中した。
そうした反省から、千七百八十七年〜九十三年の松平定信による「寛政の改革」では、「質素倹約」と朱子学以外は禁止の思想統一である「寛政異学の禁止」を押し進めた大変厳しい改革をした。
所が、この政策で消費経済が落ち込んで大不況を招き、庶民は朱子学の思想だけでは食べて行けず庶民の生活が困窮して大失敗する。
これは長期政策ビジョンが無く、もぐら叩き的な安易な目先政策の感が強く、大いに稚拙さを感じる。
千七百四十一年〜四十四年の老中・水野忠邦の「天保の改革」では、田沼時代の負の遺産を改善し、行き過ぎた市場原理主義の修正為に「株仲間の解散」や都会に片寄った労働力の強制的な帰農政策(強引な過疎対策)である「人返し令」を行うが、都会に定着した人々には既に帰農すべき故郷の地盤を失っていて不評を買い失敗している。
そして、一旦動き出した市場原理主義を沈静化させる為の「株仲間の解散」についても、危なげな投機ブームは有ったものの、バブル経済時代の大蔵省銀行局長 から通達された「土地関連融資の抑制について」による「総量規制」と同様に、人為的な急ブレーキが本来自然に起きるはずの景気後退を不適切に加速させ、ついには日本の経済の根幹を支えてきた長期信用全体を崩壊させてしまった事と酷似している。
つまり唯一成功した八代将軍・吉宗による「享保の改革」以外の、いずれも庶民に一方的な負担を掛ける改革は結果的に失敗している。
こうした民意を反映させず、政権維持が唯一の目的の醜態を晒しながら政権にしがみ付く様(さま)は、何やら近頃の麻生自民党政権の断末魔の状態のようではないか?
現在日本政府には金が無い。
いや、金が無いどころか一般会計予算の四分の一強を利息払いに充てる大借金(赤字国債)を抱えている。
これを家計に例えると、働けど働けど借金の利息に追われて元金返済どころか、この先借金が膨らんで行く状態にある。
国家は、一千兆円近い国の借金を解消させなければ、国家として出直しなど出来ない。
それにしても現在の財政危機を創ったのは、問題の先送りを続けた政権与党(自民・公明)そのものではないのか?
それを反省するどころか大威張りで「財源の根拠を示せ」と野党に言うのは、いかにもさもしい人間達である。
そして効果的な政策の宛ても無いのに行き着く所まで延命を続けて行って、手の打ちようが無いから総理大臣が一年足らずで二人も投げ出した。
自民党政権は、国民に対してメチャメチャな事をした小泉政権以来、その小泉政権の負の遺産が次々と明らかに成り、安倍政権、福田政権、麻生政権と只々政権を失わぬ為の傍目見っとも無いほど選挙対策ばかりに力を入れて来た。
しかし政変で政権構造が変わるならいざ知らず、現体制下ではどう転んでも福祉を削るか増税するかの選択肢しかない。
そしてそのどちらの選択をしても、国民は過去に失政を繰り返して来た自民党政権の延命は許せない所に来ている。
事のついでに言わせて貰うと、国民に対してメチャメチャな事をした小泉内閣で政策をリードした竹中平蔵氏の失政は、歴史を辿れば「何時か来た道」で、江戸期に於ける政治改革の新井白石の「正徳の治」と「田沼意次の政治」の混合型の失政である。
勘違いしてもらっては困るのだが、「政治は経済学でも有るが、経済学は政治では無い」のであり、ここの微妙な所を歴史を知らない小泉氏も竹中氏も判って居なかった。
江戸期に於ける政治改革は、徳川幕府の政権維持の為に何度もリセット改革をしているが、成否のスコアは「成功一に失敗四」の結果で、政権内部からの改革は「常に失敗が多い」と言う事実が判る。
最初は徳川綱吉(五代将軍)の治世に行われた改革、新井白石の千七百九年〜十六年の「正徳の治」で、新井白石/新井君美(あらいはくせき/あらいきんみ)は、江戸時代中期の知行千石の旗本で、朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学を修めた学者である。
白石の幕閤内での身分は「本丸寄合の無役」で、その進言は一々側用人の間部詮房が取り次いでいた。
朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。
「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた公益法人のように役職部署を増やした「天下りと渡りのシステム」のような状況だった。
これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。
何故ならば、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。
まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?
新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動する」からで、儒学者としての「学者のべき論」など通用しないのである。
日本人の理念では、政治を司る事を「祭り事(政り事)」と呼び、治世は神に代わって行う神事だった。
世間ではその時代の治世を評して「**治政の光と影」と評するが、日本人の心を映す坪庭の文化では、植栽木々や石組に「間(ま)」を設けて「影を創らない事」が絶妙の匠(たくみ)の技である。
「間(ま)」とは空(くう)を意味し、一見無駄な様だが「間(ま)」が在ってこそ調和が生まれて全体が生きて来る。
元々日本人の優秀な所は、細部まで神経を行き届かせる心配りの「物創りの才能」で、つまり名人の仕事はそうした影を創らず「調和を為す事」でなければならない。
ましてや祭り事(政り事)は尚の事、全体の調和を重んじ影を創っては成らないものである。
所が、片寄った思考の学者や権力者(政治家)が偏重した「祭り事(政り事)」をすれば、その政策仕事は調和に欠け、乱暴に「影ばかり」を創った駄作となる。
こうした「間(ま)」を持たない治世は僅(わず)かな勝ち組には光をあてるが、多くの人々から光を奪った悪政で、言うなれば「間抜けの不始末」と言うのが実態なのである。
勿論、世の中には学問の真髄を追及する学者は大いに必要で、そこから進歩は生まれる。
しかしながら的(まと)を絞って学問を狭義で深く追及して行く学者が、全体のバランスや世間の実態に目もくれず、己の学説だけで政治を行う愚を犯しては政治改革など成功する訳が無いのである。
千七百六十七年〜八十六年の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。
何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政によく似ている」と思うが、いかがか?
田沼意次(たぬまおきつぐ)はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子二代に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。
父・田沼意行は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。
その継子・田沼意次は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石、その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。
主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第十代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。
力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。
意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。
この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきものである。
結果幕府の財政は改善に向かい、一旦は景気も良くなるのだが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れ、現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義になって贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。
田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価しているが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。
つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、米国発の世界的恐慌「リーマンショック」として現れ、「結果は出た」と見るべきだろう。
まぁ、他の失敗改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。
自然界も同じだが、一旦調和が崩れればそれを元に戻そうと言う力が働くのが道理である。
所が、自民党政権はその道理に逆らって何とかその調和が崩れたままの体制を未練たらしく維持しようとするから、無理に無理を重ねる事になる。
それにしても現代の民衆は大人しい。
派遣社員もワーキングプワも、ここで解雇される人々も、暴力はイケナイが、非暴力の訴えはエエジャナイカと訴える気概が欲しい。
実はバブル崩壊から現在に到るまでの経過は、日本史に於ける江戸幕府の幕末(明治維新前)の政権担当者(大老・老中)をグルグル代える「断末魔の水域」の情況と酷似しているのである。
そこで我輩は、この文章の本題として「自民党・大政奉還論」を提唱したい。
幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。
千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その僅か三十二時間後には安政南海地震(これもマグニチュード八・四の巨大地震)と、立て続けに発生して居る。
その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした安政の関東大地震(マグニチュード六・九)が起きている。
この大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京〜南紀)、南海(南紀〜四国)と、巨大地震がしばしば連動する。
この巨大地震、「同時期または二〜三年後に発生する」と言われ、「約百年〜百五十年の周期で活動期に入る」とされている。
安政三大地震は、関東・東海の各地に甚大な被害をもたらせる。
まだまだ文明開化以前の事で、日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などまだ無いから、「神様がお怒りに成っている」と、民心は素朴に不吉がって、騒然としていた。
地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜に、大きな力に成って作用しても不思議ではない。
この連動巨大地震と日本単独を襲ったバブル景気の崩壊が、「自民党政権の崩壊の序曲と江戸幕府崩壊の序曲の類似するきっかけ」と捉え様。
とにかく大地震に拠る大被害のように、バブル崩壊で戦後日本が営々と築いた富(財)は、土地価格や株式相場の下落に拠って立ち上る霧がごとく胡散霧散して消えた。
安政連動巨大地震は未曾有の災害で、江戸幕府財政は逼迫して幕府の屋台骨を揺るがすきっかけとなった。
ちょうど、黒船でぺりーが来航した時期(千八百五十三年〜四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。
つまりこのぺりーの来航が、国内で起因した大問題ではない米国のサブ・プライムバブル崩壊と同じ外的要因の困難だったのである。
そして詳しくはクリックして欲しいが、「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。
ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。
この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。
どうだろうか、この狂人的な開国論者・井伊直弼(いいなおすけ)が、熱狂的な親米論者の小泉純一郎氏と「良く似ている」と思うのは我輩だけだろうか?
マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。
ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。
今から百五十二年前の千八百五十三年、東京湾の奥深く江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。
明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。
ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。
通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。
これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。
実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。
この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。
日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。
マシュー・ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。
嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘によってリードされていて、マシュー・ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永/春嶽ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。
所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。
井伊直弼(いいなおすけ)は、第十一代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれ、幼名は鉄之介と名付けられたが、子沢山の藩主の庶子で養子の口も無く元服成人後も三百俵の捨扶持の部屋住みとして三十二歳まで過ごした。
所が、第十二代藩主・直亮(なおあき/直中三男)に実子が無かった為に井伊家の世継ぎと決められていた直元(直中十一男)が死去した事により藩主・直亮(なおあき)より彦根藩の後継者に指名されて直弼(なおすけ)の運命が変わった。
井伊家は、あの徳川家康が寵愛して大名にまで取り立てられた衆道稚児上がりの武将・井伊直政(いいなおまさ)を祖に持つ近江国・彦根藩三十五万石の大藩である。
兄・直亮(なおあき)の養子という形で従四位下侍従兼玄蕃頭に叙位・任官し、その後左近衛権少将に遷任され玄蕃頭を兼任している。
千八百五十年(嘉永三年)、兄で養父の第十二代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の死去に伴い家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)に遷任、第十三代藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)となる。
井伊直弼(いいなおすけ)が第十三代の井伊藩主として幕府に出仕して三年、千八百五十三年(嘉永六年)に米国ペリー艦隊が来航、直弼(なおすけ)は江戸湾防備にあたったが、老中首座の阿部正弘の諮問には「政治的方便で臨機応変に対応すべきで、この際開国して交易すべし」と開国論を主張したとされている。
千八百五十五年(安政二年)になると、攘夷を強く唱える徳川斉昭(とくがわなりあき)と井伊直弼(いいなおすけ)ら溜間詰(たまりのまづめ/江戸城で名門譜代大名が詰める席)諸侯の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。
同年、斉昭(なりあき)は開国・通商派の老中・松平乗全と老中・松平忠固の更迭を要求、老中首座の阿部正弘は止む無く両名を老中から退けたのだが、掃部頭(かもんのかみ)兼任のまま左近衛権中将に遷任して溜間筆頭(江戸城で名門譜代大名が詰める席の最上位)に居た直弼(なおすけ)は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌(く)んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫る。
井伊直弼(いいなおすけ)と溜間詰(たまりのまづめ)諸侯の猛抗議に、阿部は止む無く溜間(たまりのま)の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立の収束を図る。
この辺りの直弼(なおすけ)台頭の経過で在るが、小泉純一郎氏の総理就任の経緯と良く似ているのだ。
たまたま自民党が金権政治の非難を浴びていた時期だった為に、派閥の長ともなると、所属議員の面倒を見る為に無理な資金集めもしていたから安全策で、大老や老中と言う現代で言えばさしずめ派閥の長ではなく、金集めに身綺麗な立場に居た派閥の番頭格・小泉純一郎氏を総理に宛ててしまった。
実を言うと、派閥の面倒など見ない派内に人気が無い男が小泉純一郎氏で、本来総理の椅子には遠い男だった。
当初は派閥の長達も、派閥を掌握していない非力な筈の小泉純一郎氏は、「自分達のコントロール下に置ける」と、甘く思っていた。
所が、この番頭総理がその総理の座に着くと豹変して、途轍(とてつ)も無い独裁者になる所も、井伊直弼(いいなおすけ)とは相似形に似ている。
千八百五十七年(安政四年)、直弼(なおすけ)が従四位上に昇叙される頃阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間(たまりのま)の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。
所が、徳川家定(第十三代将軍)の継嗣問題が起こり、堀田・松平の連立幕閣が紀伊藩主の徳川慶福を推挙すると一橋慶喜(十五代将軍徳川慶喜)を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めて行く。
国論が開国派と攘夷派に、幕府が将軍継嗣問題で徳川慶福(後の家茂)派と一橋慶喜派に割れる千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任した。
この老中・松平忠固を小泉氏出身派閥の長・森氏、藩付家老職を秘書官・飯島氏に置き換えると、グッと判り易くなる。
つまり小泉純一郎氏は党内の公選手続きも、ましてや総選挙も経ないで、自民党有力者の密室談合で就任した棚ボタ総理である。
井伊直弼(いいなおすけ)の大老就任は、異常事態に人選に困った幕閣が、本来なら現在で言う派閥の領袖(りょうしゅう)クラスの老中ではなく、溜間詰(たまりのまづめ)と言う現在で言う派閥の番頭クラスからいきなり総理大臣になった様なもので、この事が既に江戸幕府の弱体を曝け出した結果である。
この大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)、権力を握ると独裁者に変身する。
就任直後に米国との日米修好通商条約を孝明天皇の勅許を受ける事無く調印し、その無断調印の責任を自派の堀田正睦、松平忠固に着せて閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようと独裁体制を築きあげる。
独裁体制を築いた井伊直弼(いいなおすけ)は将軍後継問題に着手、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とすると、一橋慶喜を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷し、その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。
孝明天皇は、こうした井伊直弼(いいなおすけ)の独裁強権に憤って井伊の排斥を呼びかける「戊午の密勅」を水戸藩に発している。
それにしても、自分の言う事を聞かない「郵政民営化反対」の同僚議員を党から追い出して、あまつさえ刺客候補まで送る小泉純一郎氏執念深さは、この井伊直弼(いいなおすけ)の手法とダブって見えて来るのである。
判り易く言えば、有名なイソップ物語の「北風と太陽」の逸話すら忘れた為政者にあるまじき北風ばかりの鬼神の振る舞いが小泉・竹中政治の正体である。
自民党の議員は、「内閣に人気があるから」と言って酷い圧政をした小泉・竹中内閣の直ぐにバレるような暴走を許した反省をしなければ成らない。
あの小泉・竹中内閣の暴走が次々に明るみに出ている現在の情況が、思えば、批判噴出不支持増加の、自民党の置かれている政権末期情況の主因である。
いずれにしても、こう言う冷酷な政治は政権末期の断末魔として現れる事は歴史が証明している。
武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける前代未聞の朝廷の政治関与に対して直弼(なおすけ)は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、後に「安政の大獄」と呼ばれる多数の志士(吉田松陰などの活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らの粛清が開始される。
それはもう、反対派手当たり次第の重刑だった。
こうした井伊直弼(いいなおすけ)の「大獄と言われる暗い時代」と、小泉純一郎氏に福祉予算を削られて飢死者や自殺者、老々介護殺人が頻発した「聖域無き改革」と、血も涙も無い無い点で何処が違うのだろうか?
戦後の民主国家では本来許されない事だが、政治家が「国民」を語らず「国家」を語る時にその「残忍性」が顔を出す。
自分には関わりが無かった貴方も、一歩間違えばその境遇に置かれていたかも知れないのである。
大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に裁決し、「安政の大獄」に拠る強権政治で尊攘派の怨嗟をうける。
特に藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていた。
しかし薩摩藩内の情勢が変わり、止む無く薩摩から有村次左衛門のみが加わって水戸の激派が独自に大老襲撃を断行する。
この大老襲撃計画の警告は井伊家に届いていたが、直弼(なおすけ)は大老職に在る者として臆病のそしり(批判)を恐れ、あえて護衛を強化しなかった。
千八百六十年(安政七年)、直弼(なおすけ)が幕府大老に就任して二年が経っていた。
そこで世に言う「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」が起こる。
「桜田門外の変」は、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて尊攘派の水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。
大老襲撃隊は東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠で決行前の宴を催し一晩過ごし、当日朝品川宿を出発して東海道を進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂、神明坂、中之橋を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで外桜田門へ向かい、大名駕籠見物を装って登城する直弼(なおすけ)の行列を待つ。
三月三日の当日朝は生憎の気象で江戸市中は季節外れの雪で視界は悪く、井伊藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から登城する直弼(なおすけ)の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていた。
その登城途中の直弼(なおすけ)を、大老襲撃隊の水戸藩過激派浪士は江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃する。
その襲撃の端緒から直弼(なおすけ)は不運だった。
駕籠にめがけて発射した襲撃隊の合図のピストルの弾丸によって直弼(なおすけ)は腰部から太腿にかけて銃創を負い、雪の上に放置された駕籠の中で動けなくな成っていた。
供周りも不運である。
大老の体裁を整えた雪中の行列の為、襲撃を受けた彦根藩士は柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった為、鞘で抵抗したり素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢で、抗しきれず斬り伏せられ、護る者のいなくなった直弼(なおすけ)の駕籠に次々に刀が突き立てられ、有村次左衛門に駕籠から引きずり出されて首を撥ねられて止めを刺され、直弼(なおすけ)は絶命した。
どう言う訳か、東京(江戸)に雪が降る時に異変が起こる。
赤穂浪士の討ち入りも桜田門外の変も、二・二六事件の青年将校クーデター事件の時も東京(江戸)には雪が降っていた。
そしてその全てが、理不尽な権力者への抗議が込められていた。
迷信など信じたくは無いが、これほど自民党政府の失政が続いていてはこの次東京(江戸)に雪が降る時は、不吉な事が起きないとも限らない。
この独裁者として評判が悪かった井伊直弼(いいなおすけ)であるが、米国のペリーが来航して「開国・通商を迫る」と言う予想外の事態(特殊な事情)がきっかけで台頭しなければチャンスが無かった。
そして周囲の実力者に担ぎ上げられて権力を掌握すると独裁者に変身し、自分を推し大老就任に味方した者まで切って棄てる冷酷な所は、誰とは言わないが、たまたま派閥の番頭で金集めは派閥の領袖がしていた為に、金銭的に身綺麗だっただけで、派閥の部屋住みの身から総理の座を手に入れて独裁者に変身した近頃の小泉純一郎・元総理大臣に酷似している。
但し井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺の頃から尊攘派の知識人が外国の圧倒的な先進国力を学んで攘夷を棄て、尊王開国派に転進して倒幕に向かったのは実に皮肉な結果で、直弼(なおすけ)の開国の決断は結果的に歴史が肯定する結果と成っている。
ただ井伊直弼(いいなおすけ)は、既に命運尽きる落日の江戸幕府に在って、強引な政策をして最後の炎を一瞬たぎらせた事は確かである。
井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺後、倒幕派は勢いつき、やがて坂本龍馬の斡旋で西郷隆盛と高杉晋作が会談、薩長連合が成立して第十五代江戸幕府将軍・徳川慶喜は朝廷に大政を奉還する。
現代現在の政情を勘案するに、我輩は自民党はおろか野党第一の民主党も自民党よりは「ややマシ」な程度で、どうも信用なら無い。
と、なれば両党の若手で政界再編も期待ではあるが、その目標が本当の理想的な政治ではなく単なる世代交代が主な目的に成る恐れは拭い切れない。
幕末に等しい現在の日本の政局には、もはや時間的な余裕は無い。
旧体制の藩侯(藩主)を貴族に棚上げして実権を握った下士上がりの勤皇の志士がごときに、旧体制派閥の長を棚上げにする気概を若手議員が見せないと、沈み行く党ともろともに玉砕する事になるのが世の理(ことわり)で在る。
人間は何千年も時間を掛けて、未だに「欲の突っ張り合い」である。
いずれにしても、従来の米国型自由主義の模倣政治では日本の政治が行き先行き詰まってしまうから、若い政治家は新しい政治思想を確立して行かねばならない。
さぁ、こんどの日本の難局には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作、勝海舟に、誰がなるのだろうか?
それにしても、あれだけ酷い痛みを国民に押し付け、他人には厳しかった「聖域無き改革」の小泉純一郎氏が、「次男坊(政治家四世に当たる)に家業(選挙地盤)を譲って引退する」と言う、まったく「聖域無き改革」と整合性のない事を平気で言うのには驚いた。
そんな四世を当選させるとしたら、日本の世も末である。
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