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samurai 【町幕府崩壊の経緯】作者本名鈴木峰晴表紙ページ【サイトナビ】に戻る。

【戦国時代への号砲は、室町幕府管領・細川氏(京兆家)の内紛だった】

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◆小説【皇統と鵺の影人】より

この小論は、【日本史・歴史のミステリーのシリーズリスト】の一つです。

***【歴史のミステリー】*********

室町幕府崩壊の経緯

(戦国時代へのプロローグ・織田信長登場前夜)
(戦国時代への号砲は、室町幕府管領・細川氏(京兆家)の内紛だった。)

◆ 未来狂冗談の小論

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***【歴史のミステリー】*********

室町幕府崩壊の経緯

(戦国時代へのプロローグ・織田信長登場前夜)
戦国時代への号砲は、室町幕府管領・細川氏(京兆家)の内紛(ないふん)だった。



◆◇◆◇◆◇室町幕府崩壊の経緯◆◇◆◇◆

一気読みも刻み読みも、読み方は貴方の自由です。
長文が苦手な方は連載形式で一日〔一話づつ〕を刻んでお読み頂ければ、
数日間お楽しみ頂けます。


記載目次ジャンピング・クリック

話名をクリックすれば、そのページに飛びます。
〔予話〕  【応仁の乱
〔1話〕   【下克上の戦乱
〔2話〕   【足利義輝(あしかがよしてる)
〔3話〕   【相伴衆(しょうばんしゅう)
〔4話〕   【細川晴元(ほそかわはるもと)
〔5話〕   【筒井順慶(つついじゅんけい)
〔6話〕   【信長包囲網破綻する

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室町幕府崩壊の経緯

◆◇◆◇◆◇室町幕府崩壊の経緯◆◇◆◇◆


応仁の乱(おおにんのらん)




応仁の乱(おおにんのらん)

◆◇◆◇応仁の乱(おおにんのらん)◆◇◆


室町幕府崩壊の予兆は、八代将軍・足利義政治世の頃、将軍継嗣・足利義視の後見人である管領(かんれい)・細川勝元(ほそかわかつもと)と八代将軍・足利義政の実子・足利義尚を押す四職(ししき/ししょく)・山名宗全がそれぞれに次期将軍を争い、「応仁の乱(おうにんのらん)」を引き起こした事だった。


細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の足利将軍家の支流で・武将・守護大名三管領のひとつである細川氏嫡流・京兆家の当主・細川持之(ほそかわもちゆき)の嫡男として生まれる。

勝元(かつもと)の京兆細川氏(けいちょうほそかわうじ)は、元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流の名門であり、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

千四百四十二年(嘉吉二年)八月、勝元(かつもと)十三歳の頃に父・持之(もちゆき)が死去した為に家督を継承する。

家督継承に拠り、第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元(かつもと)と名乗り、叔父の細川持賢(ほそかわもちかた)に後見されて摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヵ国の守護職となった。

千四百四十五年(文安二年)勝元(かつもと)十六歳の頃、河内・ 紀伊・越中・山城の四ヵ国守護職・畠山持国(はたけやまもちくに/徳本)に代わって管領職に就任する。

足利氏流名門・京兆家の当主・細川勝元(ほそかわかつもと)は、以後三度に渡って通算二十三年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。

細川勝元(ほそかわかつもと)が任じていた「管領(かんれい)」職とは室町幕府の最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏畠山氏・細川氏の三家が任じていた。

侍所頭人の山名宗全が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏一色氏京極氏山名氏の四家がレギラーメンバーだった。

但し稀に、イレギラーで美濃守護の土岐氏も四職(ししき/ししょく)を任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをしていた。

その細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)が、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていた為に対立は激しさを増し、八代将軍・足利義政の実子・足利義尚を次期将軍に押す山名宗全と将軍継嗣・足利義視の後見人である細川勝元との対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、全国規模の大乱・応仁の乱となった。

戦乱は十一年にも渡って戦闘が長引き、応仁の乱の長期化は室町幕府の形骸化を引き起こし、無政府状態になった京都の市街地は盗賊に何度も放火され焼け野原と化して荒廃した。

やがて幕府権力そのものも著しく失墜し、勝元派と宗全派に二分して戦乱に加わって上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、守護大名の留守に領国を脅かす勢力が台頭して諸大名は京都での戦いに専念できなくなって行った。

千四百七十三年(文明五年)になって当事者の細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)が相次いで死去、漸く双方の息子が和睦して応仁の乱(おうにんのらん)は一応の終息を見ている


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下克上の戦乱


◆◇◆◇下克上の戦乱◆◇◆


織田信長ら戦国武将が生まれた頃、室町幕府が将軍の威信を失い、秩序を保てなく成って帝のお膝元である京の都や畿内周辺部は戦乱に明け暮れていた。

秩序を失えば詰まる所は欲望で、各地で下克上の戦乱が始まり戦国大名が台頭を始めていたのだ。


室町幕府がさらに弱体化したのは、「永正の錯乱」で京を脱出した第十一代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)からで、続く第十二代代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)とその嫡男・第十三代征夷大将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の頃の事である。

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は「両細川の乱」とも呼ばれ、この擾乱(じょうらん/入り乱れて騒ぐ)が、戦国時代への号砲だった。

この乱は、戦国時代初期の千五百七年(永正四年)、管領細川晴元の暗殺を発端とする室町幕府管領・細川氏(京兆家)の内紛(ないふん/うちわもめ)である。

細川氏が幕府の権力を掌握していた為、将軍職をめぐる抗争も絡んで、畿内は長い対立抗争状態へ突入して行く。


千四百九十三年(明応二年)、管領・細川政元は十代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を十一代将軍に擁立した「明応の政変」が起こる。

強大な専制権力を樹立した細川政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていた為に実子はおらず、兄弟もいなかった。

細川京兆家(細川一門本宗家)には管領・細川政元の後継者がなく、養子を迎えて家名を繋ぐ事になる。

関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の三人を迎えて養子にした。

管領・細川政元の京兆家・が三人の養子を迎えた為、分裂抗争の芽を胚胎する事と成る。

千五百六年(永正三年)、摂津守護となった養子の一人・細川澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰・三好之長(みよしゆきなが)が管領・細川政元に軍事面で重用されるようになる。

この三好之長(みよしゆきなが)の重用に、これまで政元政権を支えて来た「内衆」と呼ばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。


千五百七年(永正四年)六月二十三日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行の在った管領・細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入った。

その湯屋入を狙った政元暗殺・「細川殿の変」が、九条家から養子に入った細川澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された。

さらに翌日、香西長忠ら内衆は澄元・三好之長(みよしゆきなが)の屋敷に攻め寄せ、阿波から養子入りしていた細川澄元らを近江に敗走させ、主君として細川澄之を迎えて細川氏(京兆家)家督を継がせた。

六月二十六日には、管領・細川政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとする。

しかし赤沢朝経は、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれるも、養子の赤沢長経は逃げ延び、細川澄元の配下になる。

もう一人の養子・細川高国は、一族の摂津分郡守護・細川政賢や淡路守護・細川尚春、河内守護・畠山義英と語らい、管領・細川政元の後継者を細川澄元とする事で合意をみた。

まず七月二十八日、澄元派の弟・薬師寺長忠に滅ぼされていた摂津守護代・薬師寺元一の子・万徳丸は叔父・長忠の居城茨木城を攻め落す。

続いて翌二十九日には、澄元派の細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とす。

そして八月一日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長(みよしゆきなが)が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒(京都・嵐山)を高国勢とともに一気に攻め落した。

この敗戦で、一方の旗頭だった細川澄之は自害する。

翌二日、細川澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継いだ。


明応の政変で将軍職を追われていた前将軍・十代・足利義尹(義材)は、千四百九十九年(明応八年)に西国一の大名である周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼り以来その元に在った。

政元暗殺後、幕府はその動向を恐れて千五百七年(永正4年)閏六月、義興追討の綸旨を得て安芸・石見の国人らに義興追討を命じた。

しかし同年末、大内義興は前将軍・足利義尹を擁して周辺国にも参加を呼び掛けて上洛軍を起こし、軍勢を率いて山口を発すると、備後国の鞆で年を越しつつ入京の時期をうかがった。


さらにこの頃、管領・細川澄元を支える三好之長の専横に反発する畿内の勢力は細川高国の元に結集していた。

管領・細川澄元は大内義興と和議を結ぶための交渉に細川高国を差し向けようとしたが、逆に細川高国は伊賀に出奔する。

出奔した細川高国は義尹・義興と結び、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らの畿内国人を味方につけた。

千五百八年(永正五年)四月、管領・細川澄元や十一代将軍・足利義澄は相次いで近江に逃れ、細川高国が入京した。

その四月末、前将軍・足利義尹と大内義興は和泉国堺に到着、出迎えた細川高国が京兆家の家督を継いだ。

六月、前将軍・足利義尹は堺から京に入り、再び将軍となった。

細川高国は右京大夫・管領となり、大内義興は左京大夫・管領代・山城守護となった。

結果、この一年の間に細川氏(京兆家)の家督は細川政元から細川澄之、細川澄元、細川高国とめまぐるしく入れ替わった。


ただ、細川澄元・その子細川晴元・三好氏ら阿波勢は、京から撤退しただけで一定の勢力を維持して復帰を狙っていた。


この擾乱(じょうらん/入り乱れて騒ぐ)を契機として、京を押さえた細川高国らと、細川澄元・その子晴元・三好氏ら阿波勢との攻防が長期にわたって繰り返される事となる。


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足利義輝(あしかがよしてる)

◆◇◆◇足利義輝(あしかがよしてる)◆◇◆


足利義輝(あしかがよしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第十三代征夷大将軍である。

義輝(よしてる)は千五百三十六年(天文五年)三月十日、第十二代代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として東山南禅寺で生まれる。

義輝(よしてる)の幼名は菊童丸と言い、誕生直後に外祖父・近衛尚通(このえひさみち)の猶子となる。

この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が対立し、義晴(よしはる)はその度に敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸(義輝)もそれに度々従った。

その後も父・義晴(よしはる)と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

千五百四十六年(天文十五年)十二月、菊童丸(義輝)はわずか十一歳にして、父・義晴(よしはる)から将軍職を譲られる。

父・義晴(よしはる)がかつて十一歳で元服・将軍宣下を行った事に加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。

この時の将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ/義輝)と名乗った。

千五百四十八年(天文十七年)、流浪の将軍・義藤(よしふじ/義輝)は管領・細川晴元と和睦して京に戻った。

この時、管領・細川晴元も義藤(よしふじ/義輝)の将軍就任を承諾している。

ところが、管領・細川晴元の家臣で、畿内に大勢力を築きつつあった三好長慶が細川晴元を裏切って細川京兆家(管領家)の家督を争っていた細川氏綱(ほそかわうじつな)の陣営に転じてしまう。

千五百四十九年(天文十八年)六月、江口の戦いで三好長慶に敗れた管領・細川晴元によって足利義晴・義藤(義輝)父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。

千五百五十年(天文十九年)五月、前将軍・義晴(よしはる)が常在寺にて死去する。

将軍・義藤(義輝)は父・義晴(よしはる)が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま十一月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

千五百五十二年(天文二十一年)一月、細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領にするという妥協条件で義藤(義輝)は三好長慶と和睦し、京に戻った。

ただし義藤(義輝)は将軍とは有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀(弾正)の傀儡であった。

翌千五百五十三年(天文二十二年)に、義藤(義輝)は細川晴元と協力して三好長慶との戦端を開くも敗退し、再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。

尚、朽木へ亡命中の千五百五十四年(天文二十三年)二月十二日、将軍・義藤は名を義輝に改めている。


千五百五十八年に年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた将軍・義輝(よしてる)は改元を知るのに三ヵ月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続ける事となり、朝廷に抗議している。

千五百五十八年(永禄元年)五月、将軍・義輝(よしてる)は六角義賢(承禎)の支援で細川晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺(うかが)う。

翌六月、将軍・義輝(よしてる)は如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。

この「北白川の戦い」は、一時期は六角義賢の支援を受けた足利方が優勢であった。

だが、三好長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られた為に戦況は思うように展開しなかった。

千五百五十八年(永禄元年)十一月、六角義賢の仲介により三好長慶との間に和議が成立した事に伴って、五年ぶりに将軍・義輝(よしてる)の入洛が実現し、幕府政治が再開される。

千五百五十八年(永禄元年)十二月二十八日には、将軍・義輝(よしてる)は伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

三好長慶はさらに権勢を誇り、幕府の御相伴衆(しょうばんしゅう)に加えられ、さらに修理大夫に推挙されたが、同時に臣下として幕府機構に組み込まれる事となった。


入洛(都入り)した将軍・義輝(よしてる)は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。

足利義輝(あしかがよしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第十三代征夷大将軍である。

義輝(よしてる)は千五百三十六年(天文五年)三月十日、第十二代代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として東山南禅寺で生まれる。

義輝(よしてる)の幼名は菊童丸と言い、誕生直後に外祖父・近衛尚通(このえひさみち)の猶子となる。

この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が対立し、義晴(よしはる)はその度に敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸(義輝)もそれに度々従った。

その後も父・義晴(よしはる)と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

千五百四十六年(天文十五年)十二月、菊童丸(義輝)はわずか十一歳にして、父・義晴(よしはる)から将軍職を譲られる。

父・義晴(よしはる)がかつて十一歳で元服・将軍宣下を行った事に加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。

この時の将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ/義輝)と名乗った。

千五百四十八年(天文十七年)、流浪の将軍・義藤(よしふじ/義輝)は管領・細川晴元と和睦して京に戻った。

この時、管領・細川晴元も義藤(よしふじ/義輝)の将軍就任を承諾している。

ところが、管領・細川晴元の家臣で、畿内に大勢力を築きつつあった三好長慶が細川晴元を裏切って細川京兆家(管領家)の家督を争っていた細川氏綱(ほそかわうじつな)の陣営に転じてしまう。

千五百四十九年(天文十八年)六月、江口の戦いで三好長慶に敗れた管領・細川晴元によって足利義晴・義藤(義輝)父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。

千五百五十年(天文十九年)五月、前将軍・義晴(よしはる)が常在寺にて死去する。

将軍・義藤(義輝)は父・義晴(よしはる)が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま十一月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

千五百五十二年(天文二十一年)一月、細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領にするという妥協条件で義藤(義輝)は三好長慶と和睦し、京に戻った。

ただし義藤(義輝)は将軍とは有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀(弾正)の傀儡であった。

翌千五百五十三年(天文二十二年)に、義藤(義輝)は細川晴元と協力して三好長慶との戦端を開くも敗退し、再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。

尚、朽木へ亡命中の千五百五十四年(天文二十三年)二月十二日、将軍・義藤は名を義輝に改めている。


千五百五十八年に年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた将軍・義輝(よしてる)は改元を知るのに三ヵ月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続ける事となり、朝廷に抗議している。

千五百五十八年(永禄元年)五月、将軍・義輝(よしてる)は六角義賢(承禎)の支援で細川晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺(うかが)う。

翌六月、将軍・義輝(よしてる)は如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。

この「北白川の戦い」は、一時期は六角義賢の支援を受けた足利方が優勢であった。

だが、三好長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られた為に戦況は思うように展開しなかった。

千五百五十八年(永禄元年)十一月、六角義賢の仲介により三好長慶との間に和議が成立した事に伴って、五年ぶりに将軍・義輝(よしてる)の入洛が実現し、幕府政治が再開される。

千五百五十八年(永禄元年)十二月二十八日には、将軍・義輝(よしてる)は伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

三好長慶はさらに権勢を誇り、幕府の御相伴衆(しょうばんしゅう)に加えられ、さらに修理大夫に推挙されたが、同時に臣下として幕府機構に組み込まれる事となった。


入洛した将軍・義輝(よしてる)は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。

千五百四十八年(天文十七年)の伊達晴宗と稙宗、千五百五十八年(永禄元年)の武田晴信長尾景虎、千五百六十年(永禄三年)の島津貴久大友義鎮毛利元就尼子晴久、千五百六十三年(永禄六年)の毛利元就と大友宗麟、千五百六十四年(永禄七年)の上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。

また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀(弾正)には桐紋使用を許した。

さらに自らの名・足利(義藤)義輝の偏諱(一字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。

例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。

また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

将軍・義輝(よしてる)の、その戦国大名を懐柔する政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評された。

このような経緯を経て、義輝(よしてる)は次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上している。


永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きていた。

将軍・義輝(よしてる)はこの両者の争いを調停し、千五百五十八年(永禄元年)には武田信玄を信濃守護に補任する。

だが、武田信玄はさらに長尾景虎(上杉謙信)の信濃撤退を求めた為、将軍・義輝(よしてる)は長尾景虎(上杉謙信)の信濃出兵を認める。

千五百六十一年(永禄四年)には武田信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。

また相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。


千五百五十八年(永禄元年)の義輝(よしてる)の帰京以降も三好長慶の権勢は続いた。

その三好長慶に反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起した「久米田の戦い」で、一族の三好実休が戦死、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。

こうした中、千五百六十二年(永禄五年)、三好長慶と手を結び幕政を壟断していた政所(まんどころ)執事の伊勢貞孝が長慶と反目する。

将軍・義輝(よしてる)は三好長慶を支持して伊勢貞孝を更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。

これに激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしたが、九月に三好長慶の手で討たれた。

これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開いた。

千五百五十九年(永禄二年)、将軍・義輝(よしてる)は大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。

大友氏の任命は、元々九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していた為の補任である。


この時大友家は、九州において足利将軍家に最も親しい有力守護大名で、この時大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた。

千五百六十四年(永禄七年)七月に三好長慶が病死する。

長年の政敵・三好長慶が滅し、義輝(よしてる)はこれを好機として、いよいよ中央に於いても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。

しかし、三好長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀(弾正)と三好三人衆にとっては、そのような義輝(よしてる)は邪魔な存在であった。

松永久秀(弾正)と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義輝(よしてる)を排除して、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。

一方で将軍・義輝(よしてる)が頼みとする近江国・六角氏は千五百六十三年(永禄六年)の観音寺騒動(家中お家騒動)以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

千五百六十五年(永禄八年)五月十九日、松永久秀(弾正)と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて「永禄の変」と呼ぶ謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。

将軍・義輝(よしてる)は名刀三日月宗近等を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、数え年齢三十歳で殺害された。


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相伴衆(しょうばんしゅう)

◆◇◆◇相伴衆(しょうばんしゅう)◆◇◆


相伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府に於ける役職的な身分の一つで、将軍が殿中に於ける宴席や他家訪問の際に随従・相伴(しょうばん)する人々の事である。

管領家の一族や有力守護大名に限定されていた為、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映され、相伴衆(しょうばんしゅう)は管領に次ぐ席次を与えられるようになった。


将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は第三代将軍・足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は第六代将軍・足利義教の永享年間であると推定されている。

即ち室町幕府全盛期の「相伴衆(しょうばんしゅう)」と言えば下記の七家の当主を指していた。

〔一〕但馬・備後・安芸の守護、山名氏

〔二〕侍所所司、四職家、丹後・伊勢・三河の守護、一色氏

〔三〕侍所所司、四職家、能登の守護、畠山氏(匠作家・清和源氏系)。

〔四〕阿波の守護、讃州細川氏(細川氏支流)。

〔五〕播磨・備前・美作の守護、赤松氏

〔六〕侍所所司、四職家、出雲・隠岐・飛騨の守護、京極氏

〔七〕侍所所司、四職家、周防・長門・豊前・筑前の守護、大内氏

このうち「宗五大草紙」等に於ける格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の三家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようである。


更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例があった。

永正の錯乱の際に第十一代将軍・足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家・今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆(しょうばんしゅう)であったという。


戦国時代に入ると、朝倉孝景北条氏康尼子晴久斎藤義龍毛利元就毛利隆元今川氏真大友義鎮伊東義祐(日向伊東氏)河野通直 (弾正少弼)など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例も増える。

地方在住の大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例が増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる。

一方で武田信玄から追放されて京都へ居を移した信玄の父・武田信虎が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる事例もあった。

また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶が第十三代将軍・足利義輝より相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握り、さらに長慶の子の三好義興も任じられた。

職制としての相伴衆(しょうばんしゅう)には室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。


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細川晴元(ほそかわはるもと)

◆◇◆◇細川晴元(ほそかわはるもと)◆◇◆


細川晴元(ほそかわはるもと)は応仁の乱(おうにんのらん)終息後の下克上(げこくじょう)時代、室町幕府末期の管領職に在った人物である。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川氏は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主の家系だった。

細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。

細川氏が任じていた管領職(かんれいしょく)とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じて居た官職である。

侍所頭人の山名氏が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをして応仁の乱を引き起こしていた。

その応仁の乱が収まると、今度は細川家で跡目争いの内紛が勃発する。

細川家嫡流・京兆家は、細川政元が妻を持たず子がなかった為に、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えたのだが、この三人がそれぞれに足利将軍やその候補を立て味方になったり敵に廻ったりの争いを続けた。

その応仁の乱のメリハリの無い終息と細川家の内紛で混沌とした時代の千五百十四年(永正十一年)に、細川晴元は細川澄元の子として生まれる。

六年後、父・澄元が阿波で死去し、細川晴元は僅か七歳で細川家嫡流・京兆家の家督を継承した。

晴元十三歳の時、配下の三好元長(源・小笠原氏流)らと共に挙兵して父・澄元の義兄弟にあたる細川高国を攻める。

千五百二十七年(大永七年)に細川高国が第十二代将軍・足利義晴らとともに近江へ落ち延びると、細川晴元は足利義維(あしかがよしつな)と共に和泉国堺を本拠とし足利義維(あしかがよしつな)を将軍(堺公方)と成した。

しかしこの将軍擁立の大仕事、いくら細川氏の若棟梁とは言え僅か十三歳の細川晴元には荷が重い為、推測するにこの頃から実質的に力を擁して大仕事を主導したのは三好元長と見て間違いは無い筈である。


三好氏は、源義光(新羅三郎義光)を祖とする清和源氏義光流で、甲斐源氏の支流にあたり鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、阿波三好郡を本拠にした事から三好氏を称した。

室町時代の三好氏は阿波守護職・細川氏の守護代を務め、三好之長の時代に管領・細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが、三好氏畿内進出の契機となる。

そして、三好元長の代に細川晴元に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長する。

戦国時代には管領・細川氏の没落に乗じて阿波をはじめ畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。


千五百三十一年(享禄四年)、十七歳になっていた晴元は三好元長に命じて世に「大物崩れ」と呼ばれる事を起こし、高国を摂津の広徳寺で自害させた。

その翌年の天文元年、晴元は三好一族の三好政長の讒言を信じて三好元長と対立をはじめ、本願寺証如や木沢長政らと手を結び、一向一揆を扇動して元長を堺で殺害する。

主君・細川晴元(ほそかわはるもと)に堺で殺害された三好元長には、当時十歳の嫡男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が居たのだが、晴元はこの長慶(ながよし/ちょうけい)に三好氏の継承を許し引き続き家臣として手元に置いている。

その後細川晴元は、堺に擁立した将軍・足利義維(あしかがよしつな・堺公方)とも不和となって将軍職を追放し、細川高国らと落ち延びていた十二代将軍・足利義晴と和睦し、この頃から実質幕政を支配する管領職の第一人者として本格的に細川政権を軌道に乗せた。

しかし内乱状態は収まらず、晴元はまるでもぐら叩きの様に「味方に付けては勢力が伸びて来ると潰す」と言う手法で勢力バランスを取りながら権力を維持する芸当を見せる。

そしてこの頃に、美濃国で明智光秀(千五百二十八年)、尾張国で織田信長(千五百三十四年)と豊臣秀吉(千五百三十七年)、三河国で徳川家康(千五百四十三年)など戦国期の主役達が続々と誕生していた。

細川晴元に将軍(堺公方)職を追放された足利義維(あしかがよしつな)は一向宗と対立した状態が続き、一向宗は堺公方を襲撃するなどした。

だが、一向一揆が大和国に侵入するに及んでも対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動に苦慮していた近江の六角氏とも協力して山科本願寺門跡八世の顕如(れんにょ)を攻め、一向宗の本拠地山科本願寺を焼き討ちにした。

すると今度は法華衆が京都で勢力を伸ばした為に、晴元は千五百三十六年(天文五年)「天文法華の乱」と呼ぶ軍事行動を比叡山延暦寺(天台宗)僧兵や佐々木氏(近江源氏)嫡流の近江国守護職・六角氏と連合して法華衆勢力を壊滅させる。

その後も細川晴元は管領職として七年ほど勢力を振るったが、千五百四十三年(天文十二年)になると、細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵し、その氏綱に畠山政国や遊佐長教が呼応、三年後には前将軍・足利義晴が実子・義輝に将軍職を譲った期を持って細川氏綱を支持し、細川晴元と敵対を始める。

この頃、あの三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は長じて智勇兼備の武将に成長し、細川氏の家臣として木沢長政討伐をはじめ、細川氏綱や遊佐長教らとの戦いで多くの武功を発揮し、河内など畿内十七ヶ所の代官職を与えられた晴元配下の最有力重臣にまで成長していた。

細川晴元は、敵対する前将軍・足利義晴らを近江国坂本へ追放し細川氏綱らと戦い続けるのだが、臣従していた最有力重臣の三好元長の長男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が一族の内紛で三好政長の討伐を要請して晴元に断られたので、長慶(ながよし/ちょうけい)が遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、氏綱側に寝返ってしまう。

千五百四十九年(天文十八年)、細川晴元は寝返った三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)らと摂津国江口で交戦するも敗北を喫し、三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った。

その為晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、将軍・足利義輝を擁し、香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角義賢や畠山高政など畿内の反三好勢力の支持を受け三好長慶と争うが敗北し続け、将軍も管領も政権の体を為さない時代が続く。

細川晴元は、千五百六十一年(永禄四年)に六角義賢の仲介を受けて長慶と和睦、剃髪し摂津富田の普門寺に隠棲するも二年後に死去している。

ここに細川政元以来の管領職・細川政権は崩壊し、実質三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)に拠る将軍不在・畿内周辺だけの三好政権が成立したのである。

そして四十歳の三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が畿内周辺に君臨する頃には、既に十二歳年下の織田信長の勢力が着々と京に迫っていたのである。


三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)の後、機内を連合して抑えたのが、通称三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた面々で、戦国時代に活躍した武将三人の総称である。

三好氏の当主・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は、京兆細川家当主・細川晴元配下の有力な重臣から晴元と将軍・足利義輝を近江国に追放し、幕府への直接的な支配力を確立して事実上の三好政権を誕生させた。

その三好長慶(みよしながよし)に一族の重鎮として臣従し、それぞれが軍を率い活動していた三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を、いずれも三好氏の一族・重臣であった為に三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた。

機内限定の三好政権は、細川晴之(細川晴元の次男)を名目上の盟主とする畠山高政・六角義賢の同盟軍との攻防を経て勢力に陰りが見える中、三好氏は当主・三好長慶(みよしながよし)を病で失う。

三好長慶(みよしながよし)の死後、養子後継者の三好義継は幼く、長慶の弟達もまたこの世を去っていた為に義継の後見役としてこの三名が台頭し、三好氏の家宰として実権を握って権勢を振るっていた松永久秀(弾正)と共に足利義輝の謀殺(永禄の変)に携わるなどする。

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は長慶(ながよし)の後継養子・三好義継を盟主に立て、松永久秀と共に三好・松永政権の維持を図ったが、やがて義継や久秀(弾正)と対立し政権の混乱を招いて足利義昭を擁立する織田信長を利する結果となる。

千五百六十六年の織田信長上洛に反発、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は抵抗するが信長に敵せず相次いで敗退し、為に三好三人衆の勢力は衰え元亀年間には岩成友通が戦死する。

三好長逸・三好政康の二人も消息不明の状態となり、畿内に於ける三好氏の勢力の衰退と前後して三好三人衆としての活動は完全に途絶えるも、政康は後に豊臣氏の家臣として復帰して大坂の陣に参加し戦死している。


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筒井順慶(つついじゅんけい)

◆◇◆◇筒井順慶(つついじゅんけい)◆◇◆


筒井順慶(つついじゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての有力武将で戦国大名で、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。

千五百五十年(天文十九年)、父が病死したため、順慶(じゅんけい)はわずか二歳で家督を継ぐ事となる。

得度(僧籍に入る)して順慶(じゅんけい)と称する前は、室町幕府十三代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、大和国筒井城主、後に大和国郡山城主で、事績については奈良興福寺の「多聞院日記」に詳らかに記述されている。


当時の大和国は松永久秀(弾正)が隆盛を極めており、筒井氏と協力関係にあった十市郡領主・十市遠勝(とおいちとおただ)が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。

叔父の筒井順政が後見人として補佐を努めたが、その順政は久秀(弾正)による大和侵攻が激しくなっていた千五百六十四年(永禄七年)に死去してしまった。

後ろ盾を無くして藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)の基盤が揺らいでいる所に、久秀(弾正)が翌千五百六十五年(永禄八年)に奇襲を仕掛け、藤政(ふじまさ/順慶)は居城・筒井城を追われる。

この落城で、箸尾高春・高田当次郎と言った家臣達が藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)を見限り出奔(しゅっぽん/ 逃げだし姿を消す)している。


居城を追われた藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、一族の布施左京進(行盛)のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。

その後、藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏(当次郎)の居城である高田城を攻撃している。

巻き返しを図る藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、千五百六十六年(永禄九年)になると、果敢に松永軍に対する反撃を敢行する。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。

千五百六十六年(永禄九年)の四月十一日から二十一日にかけて両軍の間で小競り合いが行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)と三好三人衆は勢いに乗り、久秀(弾正)側に乗っ取られていた筒井城へ肉薄する。

対して久秀(弾正)は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀(弾正)が激突する。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)はこの間隙を突いて筒井城の奪還を策し、筒井城周囲に設置された松永久秀(弾正)の陣所を焼き払うなどした。

焦燥した久秀(弾正)は友・能登屋と称する者に斡旋させて体良く和睦を結び、五月三十日に陣所から姿をくらました。

「多聞院日記」や. 戦国軍記・「細川両家記(ほそかわりょうけき)」などによれば、久秀(弾正)は筒井城の救援には向わなかったとされる。

周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は本格的に城の奪還に着手、六月八日、終(つい)に城の奪還を果たした。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)が筒井城を奪還できた背景には、三好三人衆の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかった事が指摘される。

筒井城を奪還した藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、春日大社に参詣した。

この時、宗慶大僧都を戒師として藤政(ふじまさ)から陽舜房順慶と改名し、正式に順慶(じゅんけい)を名乗るのはこの時からである。


翌千五百六十七年(永禄十年)、順慶(じゅんけい)は再び三好三人衆と結んで奈良にて松永久秀(弾正)と刃を交えている。

この頃、織田信長の台頭が著しくなり、千五百六十八年(永禄十一年)に十五代将軍・足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。

機敏な久秀(弾正)は迅速に信長と誼を通じたが、対する順慶(じゅんけい)は久秀(弾正)の打倒に専念するあまり情報収集が遅滞し、遅れをとった。

時流に乗る事に遅れた順慶(じゅんけい)を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶(じゅんけい)から離反している。

そして、信長の後ろ盾を得た久秀(弾正)は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫る。

順慶(じゅんけい)は奮戦したが久秀(弾正)方の勢いが良く、衆寡敵せず叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。

福住城に潜伏して雌伏の時を過ごしていた順慶(じゅんけい)だが、千五百七十年(元亀元年)に十市遠勝の死によって内部に乱れを生じた十市城を攻め落とす。

さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀(弾正)と渡り合う為に着々と布石を打っていった。

翌千五百七十一年(元亀二年)になると順慶(じゅんけい)・久秀(弾正)の関係は一層緊迫を強める。

順慶(じゅんけい)は、井戸良弘に命令して辰市城築城に着手する。

千五百七十一年(元亀二年)七月三日に完成した同城は松永久秀(弾正)攻略の橋頭堡となった。

城の着工が迅速に行われた背景には、順慶(じゅんけい)を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。

翌八月四日には辰市城周辺で久秀・久通父子、三好義継らの連合軍と大規模な合戦に及び、これを蹴散らし松永軍に甚大な被害を与えた。

敗戦した久秀(弾正)は筒井城を放棄し、順慶(じゅんけい)は再び筒井城を奪還する事に成功した。

筒井城の奪還によって、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀(弾正)は劣勢に立たされる事となった。


千五百七十一年(元亀二年)十一月一日、順慶(じゅんけい)は明智光秀佐久間信盛の斡旋を得て織田信長に臣従し、その支援を得る事で大和における所領を守った。

対する久秀(弾正)は信長と反目して将軍・足利義昭、三好義継、武田信玄などと結託して信長包囲網を敷いていた。

順慶(じゅんけい)は久秀(弾正)と和議を結び、北小路城に久秀(弾正)・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた。

だが千五百七十二年(元亀三年)になると松永久秀(弾正)は反信長の態度をますます顕在化させ、つかの間の和睦も破綻した。

千五百七十三年(天正元年)になると武田信玄は病死、将軍・足利義昭が信長に追放、三好義継も信長に討伐され包囲網は瓦解する。

この間に順慶(じゅんけい)は、松永方の河内私部城を陥落させている。

やがて久秀(弾正)も降伏して信長の元へ下ったが、その後はしばらく小競り合いが続く。

臣従後、順慶(じゅんけい)は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。

順慶(じゅんけい)は、三好義継の討伐で先陣を務め、千五百七十五年(天正三年)の長篠の戦いに於いては信長に鉄砲隊五十人を供出、同年八月の越前一向一揆攻略にも五千の兵を率いて参戦した。

また順慶(じゅんけい)は、信長の臣従に際し、その証として母親と家臣二人を人質として差し出している。

翌千五百七十六年(天正四年)五月十日、順慶(じゅんけい)は、信長により大和守護に任ぜられた。

大和守護に任ぜられた十二日後の五月二十二日には、人質として差し出していた順慶(じゅんけい)の母が帰国した。

母の帰国を許可された事の返礼も兼ねて、順慶(じゅんけい)は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬(ちりめん/織物)や馬を賜っている。


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信長包囲網破綻する

◆◇◆◇信長包囲網破綻する◆◇◆


室町幕府の将軍・義輝公が三好義継の謀反に合い、殺されて空位になる中、弟・義昭公に声をかけられ助力を頼られた時、織田信長は使者に「平清盛の庶流二十七代目」を名乗っている。

是は、もっぱら「捏造説」が有力である。

しばらく前まで藤原(源)姓を名乗っていたのだから・・・。

信長が系図まで作って、「平家の末裔になりたかった」のは何を意味するのか、賢明な読者は「既にお判り」だとは思うが、追々明らかにしたい。



尾張、美濃二ヵ国の太守となった信長に、流浪の足利義昭(足利将軍家・継承者)が頼ってきたのをきっかけに、信長は期が熟したのを感じ取り、上洛(じょうらく・京に上る)を決意する。

尾張、美濃の太守になっていた信長は、上洛(じょうらく)を決意すると、美濃国・立政寺に前将軍足利義輝(十三代)の弟、足利義昭を迎える。

幼くして出家、興福寺一乗院に入り、「覚慶」と名乗っていた足利義昭は、千五百六十五年の永禄の変で、将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺されていた。

弟で鹿苑院院主であった「周嵩」も松永や三好三人衆によって誘殺され、義昭自身も久秀の手によって奈良に幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出している。

「覚慶(足利義昭)」は、幽閉先から脱出後、還俗して義秋、暫らくして義昭と名乗る。

その義昭が流浪の末に、将軍家再興を目指して信長に助力を要請し、頼り来たのである。



正親町天皇(おおぎまちてんのう/第百六代)は、千五百五十七年(弘治三年)後奈良天皇の崩御に伴って四十歳で践祚(せんそ/天皇の位を受け継ぐ)した。

鎌倉幕府成立以来、室町期、戦国期、安土桃山期と朝廷(皇室)は栄誉の授与(官位・官職)以外の権威は持たず、行政・司法に関与する実権は将軍または武門の最高実力者が握っていた。

そうした世間の噂に加え、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)謀殺事件・嘉吉の乱(かきつのらん)などで室町幕府はゆらぎを見せ、足利家の力が衰退して行くと伴に全国規模の大乱・応仁の乱から戦国期に到る。

お膝元の洛域(都)では一時三好三人衆が勢力を持つ中、正親町天皇が即位した当時の天皇や公家達はすでに貧窮していた。

そうした背景の中、千五百六十八年(永禄十一年)に流浪の第十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を奉じ、正親町天皇(おおぎまちてんのう)をお護りすると言う大義名分により、戦国大名の織田信長が京都を制圧する。

信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させる。

その後の正親町天皇(おおぎまちてんのう)の退位に対する去就については、信長の譲位要求説と譲位反対説が在り、まだ論議が盛んである。

千五百七十七年(天正五年)、信長の最高位となる右大臣を宣下するも信長は本能寺に於いて明智光秀に攻められて自刃する。

やがて、明智光秀を攻め滅ぼした羽柴秀吉が諸侯を統一して天下の実権を握り、正親町天皇を政権の後ろ楯として豊臣の姓を賜り、関白・太閤の位を得て天下に号令する。

正親町天皇は七十六歳まで生き、在位期間は二十九年、孫の和仁親王(かずひとしんのう/後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退し七年後に崩御する。



千五百六十九年(永禄十二年)足利義昭を第十五代将軍として擁立した信長は、和泉国一ヵ国の恩賞だけを賜り美濃国へ帰国する。

この時、信長は義昭から管領家である斯波家家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされるが、これは信長に含む所在っての事で遠慮ではない。

織田信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃する「六条合戦」を起こす。

しかし、信長は豪雪の中を僅か二日で援軍に駆けつけると言う機動力を見せたるも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

池田勝正(いけだかつまさ)の摂津池田氏は同じ織田信長の織田家家臣であるが、信長の乳母の子として池田氏を名乗る池田恒興(いけだつねおき)池田輝政(いけだてるまさ)の池田氏とは出自が違う。

摂津池田氏は、千五百六十八年(永禄十一年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛して来ると、信長の圧倒的な軍事力の前に摂津の他の豪族が降伏して行く中で池田勝正(いけだかつまさ)は抵抗したが、最後は降服せざるを得なかった。

しかし信長は勝正(かつまさ)の能力を認め、抵抗に対するお咎め立てをしないどころか摂津国の有力豪族である池田氏などを臣下に置いて摂津国支配の安定を図ろうと考え、六万石に加増の上で領地安堵の処置をする。

信長はこの時、勝正・伊丹親興・和田惟政の三名に摂津支配を任せた為、勝正らは「摂津の三守護」と称され、池田勝正(いけだかつまさ)は、信長の働きかけで室町幕府から摂津守護に任じられ、伊丹親興・和田惟政を配下とし摂津国を治める。

その摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男・荒木村重(あらきむらしげ)が勝正(かつまさ)の継嗣・池田長正(いけだながまさ)の娘を娶り、村重(むらしげ)は一族衆となる。

婚姻に拠り摂津池田家の一族となった荒木村重(あらきむらしげ)の先祖は、あの平将門の乱を平定した藤原北家魚名流藤原秀郷(ふじわらのひでさと)である。

この荒木村重(あらきむらしげ)は、明智光秀の本能寺の変より四年前に織田信長に反逆した武将として、また利休七哲のひとりとして有名な男である。

戦国時代から安土桃山時代の武将・荒木村重(あらきむらしげ)は、幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)と言う村重(むらしげ)は、千五百三十五年(天文四年)生まれと言うから信長より一歳年下である。

荒木村重(あらきむらしげ)は、三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家方に寝返り、知正に主君・池田勝正(いけだかつまさ)を池田城から追放させる混乱に乗じ池田家を掌握する。

その時の荒木村重(あらきむらしげ)の軍略は、信長に凄いと唸らせるほど見事で文句無しの軍略だった。

その池田家の政変後、池田勝正(いけだかつまさ)は三好三人衆についた村重(むらしげ)らの押さえとして、信長より原田城主に任じられ細川藤孝らとともに各地を転戦したが、荒木村重が信長家臣になると池田に戻り隠居した。

千五百七十三年(天正元年)、荒木村重(あらきむらしげ)は、その性格を気に入られて織田信長に三好家から織田家に移る事を許され茨木城主となる。

同年、織田信長が足利義昭を攻めた時、荒木村重(あらきむらしげ)は若江城の戦い攻めで功を挙げている。

翌千五百七十四年(天正二年)、村重(むらしげ)は伊丹城主となり摂津一国を任され、その後も信長に従って石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦して武功を挙げている。

いつしか村重(むらしげ)は、信長傘下の有力武将と成っていた。

そんな折の千五百七十八年(天正六年)の十月、突如、荒木村重(あらきむらしげ)は有岡城(伊丹城)にて、信長に対して反旗を翻しす。

この村重(むらしげ)の織田信長に対する謀反の理由は、諸説が在って今でも定かではない。

信長は村重を高く評価して重用していた為、その反逆に驚愕し一時は彼としては珍しく村重(むらしげ)翻意まで促したとされている。

その後村重(むらしげ)は、一度は翻意し釈明の為安土に向かったが、途次寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け「伊丹に戻った」と伝えられている。

村重(むらしげ)鎮圧に向かった織田軍・羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまう。

その後、村重(むらしげ)は有岡城に篭城し、織田軍に対して一年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返った為に戦況は圧倒的に不利となって行く。

千五百七十九年(天正七年)、荒木村重(あらきむらしげ)は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城に移り奮戦するが既に劣勢は動かず最後は毛利氏に亡命する。

残された村重(むらしげ)の一族と重臣の家族への信長の処置は過酷で、三十六人が大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されている。

千五百八十二年(天正十年)、信長が本能寺の変で横死すると、荒木村重(あらきむらしげ)は堺に戻りそこに居住する。

豊臣秀吉が覇権を握ると村重の過去の過ちを許し、村重(むらしげ)は大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもって利休七哲のひとりに数えられ茶人として生涯を終えている。


荒木村重の乱に関わって頭角を現した高山右近(たかやまうこん)は安土桃山期から江戸初期の武将で、代表的なキリシタン大名として知られる。

右近(うこん)の高山氏は、摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主で、出自については高望平氏流・秩父氏の一派・高山党の庶流とも、別説では甲賀の地侍五十三家の一つとも言われている。

父・高山友照(飛騨守を自称)が当主の頃に高山氏は、管領職・細川家を追い遣って畿内で当時大きな勢力を振るった三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)に仕え、長慶の重臣・松永久秀に従がって大和国宇陀郡の沢城(現・奈良県宇陀市榛原区)を居城とした。

千五百五十二年(天文二十一年)、高山氏当主・友照(ともてる)の嫡男として右近(うこん)は生まれた。

父・高山友照が、奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いた為、右近(うこん)も千五百六十四年(永禄七年)に十二歳でキリスト教の洗礼を受けている。

父・高山友照の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)だった。

その同じ千五百六十四年(永禄七年)、高山氏の周辺はにわかに激動期を迎える。

仕えていた三好氏が、当主・長慶がこの年(永禄七年)に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津に於いても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつ在った。


十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える幕臣に、和泉国・上半国の守護家とする細川藤孝(ほそかわふじたか)が居た。

主君・足利義輝(あしかがよしてる)の死後、細川藤孝(ほそかわふじたか)は、足利義昭(あしかがよしあき)の十五代将軍擁立に尽力する。

藤孝(ふじたか)は、明智光秀を通じて美濃・尾張国の織田信長に助力を求め、織田信長の武力を背景に入京して義昭の将軍任官に成功する。


千五百六十八年(永禄十一年)、実質中央政府が存在しない混乱期に台頭し、強力な軍事力の庇護の下に足利義昭を将軍にした織田信長が中央を掌握する。

誕生した将軍・足利義昭は、摂津土着の領主の一つである入江氏を滅ぼし直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命する。

為に友照・右近親子は和田惟政に仕える事となったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制が上手く行く訳も無く、摂津は大きく混乱、千五百七十一年(元亀二年)に高山親子が新しく仕えた和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死してしまう。

まもなくその村重が池田氏そのものを乗っ取り、荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし、本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、摂津は荒木村重の領有となった。

友照・右近親子は、和田惟政の死後その子・惟長が城主となっていた高槻城を千五百七十三年(元亀四年)に乗っ取り、自ら城主となった。

荒木の重臣で在った中川清秀が高山氏に極近い親族で在った事から、友照・右近親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上の可能性が高い。

高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていた事からこの事件は黙認され、友照・右近親子は晴れて高槻城主と成った。

右近は高槻城を乗っ取る際に惟長と斬り合いに及び、乱戦のなかで瀕死の重傷を負うが奇跡とも言える回復を遂げ、この時までは父・友照ほど熱心ではなかった右近だが、この機を境にキリスト教へ傾倒するようになる。



十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は信長の力を利用したが、将軍に成ってしまえば信長は将軍の権威を認めない邪魔な存在である。

それで足利義昭(あしかがよしあき)は、せっせと有力大名に手紙を書いて信長包囲網を画策していた。

実はこの頃、信長は足利義昭(あしかがよしあき)の側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の信長への背信行為を手に取る様に知っていた。


細川藤孝(ほそかわふじたか)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流に当たる血流の家柄である。

細川藤孝(ほそかわふじたか)は十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える幕臣で、和泉国・上半国の守護家としていた。

主君・足利義輝(あしかがよしてる)の死後は、十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の擁立に尽力する。

藤孝(ふじたか)は、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求め、織田信長の武力を背景に入京して義昭の将軍任官に成功する。

しかしこの十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)、将軍の座が手に入ると信長を排除しょうと画策して密かに各地の有力大名に助勢を要請する。

側近・細川藤孝(ほそかわふじたか)の内通により、十五代将軍・足利義明(あしかがよしあき)の信長への背信を、信長は手に取る様に知っていた。


義昭と信長の対立が表面化すると、千五百七十三年(元亀四年)三月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。

山城桂川の西、長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡藤孝(ながおかふじたか)と名乗った。

千五百七十八年(天正八年)、信長の薦めによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(明智玉/ガラシャ)の婚儀がなる。

藤孝(ふじたか)は織田信長の命に従い、丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され丹後進攻に失敗する。

その後光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とし、丹後国・宮津十一万石の大名となる。

千五百八十二年(天正十年)に、親友で親戚でもある明智光秀が主君・信長を攻める本能寺の変を起こす。

藤孝(ふじたか)は、親友・光秀の再三の加勢要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に宮津十一万石の家督を譲った。

同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いに敗ている。

幽斎(藤孝)は、光秀に呼応しなかった功績を認められて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、千五百八十六年(天正十四年)に在京料として山城西ヶ岡に三千石を与えられた。

幽斎(藤孝)は千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されも、徳川家康とも親交があり、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去すると家康に接近する。

千六百年(慶長五年)六月、幽斎(藤孝)の長子・忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加する。

翌同年(慶長五年)七月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。

幽斎(藤孝)の田辺城は小野木重勝・前田茂勝らが率いる一万五千人の大軍に包囲される。

幽斎(藤孝)が指揮するわずか五百に満たない手勢だが籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかった事もあり、長期戦となる。

幽斎(藤孝)の弟子の一人だった八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)が後陽成天皇に奏請し、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれた。

幽斎(藤孝)の長子・忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得る。

この後、一時使用した長岡氏を細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。

その後の幽斎(藤孝)は京都吉田で悠々自適な晩年を送り、千六百十年(慶長十五年)八月、七十七歳で京都三条車屋町の自邸で死去した。


千五百七十八年(天正六年)、高山右近が与力として従っていた荒木村重が、突然主君・織田信長に反旗を翻す。

村重の謀反を知った右近は、これを翻意させるべく妹や息子を有岡城に人質に出し、誠意を尽くして謀反を阻止しようとするも村重は応ぜず、悩んだ右近はイエズス会員オルガンティノ神父に助言を求めている。

オルガンティノ神父は右近に信長方に降るを助言するも、高槻城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。

進退窮まった右近は城主を辞す決断をし、家族も捨てて紙衣一枚で城を出、信長の前に出頭する。

高山右近が去った高槻城は荒木村重に下り、村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となり、千五百七十九年(天正七年)村重は単身で有岡城を脱出逃亡する。

荒木村重の乱が収まると信長は高山右近の高槻城離脱を功績と認め、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、元の二万石から四万石に加増される異例の措置を受けた。



津田信澄(つだのぶすみ)は、千五百五十五年(弘治元年)織田信長の弟・織田信行(信勝)の嫡男として生まれる。

その父・織田信行(信勝)が、二度も謀反の企てを起こしたとして伯父の織田信長によって暗殺される。

謀反人の子であるが、幼少の信澄(のぶすみ)は祖母の土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって、信長の命令により柴田勝家(しばたかついえ)の許で養育された。

父・信行(信勝)の謀反の企ての事もあって、信澄(のぶすみ)は織田氏を名乗らず、津田氏を称したとも言われる。


千五百六十六年(永禄九年)は、織田信長が美濃を平定して美濃・尾張二ヵ国の太守に成った頃である。

松平元康(のちの徳川家康)が三河を制覇した事により、松平から徳川へ改姓し、従五位下、三河守の叙位・任官を受ける。

家康が朝廷より三河守を拝命した千五百六十六年(永禄九年)、信長に任じられ明智光秀の後援を得て信澄(のぶすみ)は近江国高島(現・滋賀県 高島市)に城を持つ。

信澄(のぶすみ)が与えられた近江国高島郡は、旧浅井家臣の 磯野員昌(いそのかずまさ)が新庄城を居城として治めていた。

つまり磯野員昌(いそのかずまさ)は、勝手に離反して浅井家から独立していた武将であるから、今一度、織田・浅井同盟軍に臣従させる必要が在った。

員昌(かずまさ)は津田信澄(つだのぶすみ)を養子に迎えて家督を譲るよう迫られたところ、これを拒否した為に追放されたと言われる。

高島郡は信澄(のぶすみ)に与えられ、信澄(のぶすみ)は近江国高島城(大溝城)を築いて員昌(かずまさ)の居城・新庄城から移ったされている。

この時点の一説で、近江国高島城築城の縄張りは明智光秀が担当したと言われる。

だが、実は信長と浅井長政が織田・浅井同盟軍として提携する中で、明智光秀がお目付け役として旧浅井領内に城を持った可能性が、最近の細川系文献(家老・米田氏)から読み取れる事実が出た。

同千五百七十八年(天正六年)二月三日、浅井氏旧臣で高島郡を任されていた磯野員昌(いそのかずまさ)が織田家より出奔した為、信澄(のぶすみ)は員昌(かずまさ)の養子として高島郡の所領を加増される。

また同時期に信澄(のぶすみ)は、名は不明だが明智光秀の娘と結婚している。


柴田勝家に預けられた信澄(のぶすみ)は成長し、正確な時期は不明だが天正年間初期に元服したとされている。

元服後の信澄(のぶすみ)は、千五百七十四年(天正二年)二月三日朝に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に出席した記録がある。

翌三月には、信長が東大寺正倉院の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を切り取る行事の奉行を信澄(のぶすみ)は務めている。

翌千五百七十五年(天正三年)七月の越前一向一揆征伐に信澄(のぶすみ)は従軍、初陣を果たした。

同千五百七十五年(天正三年)十月二十七日に、細川藤孝(ほそかわふじたか)と親密な関係を持つ神道家の公家の吉田兼見(よしだかねみ)が信長に礼参した際、信澄(のぶすみ)が進物を披露している。

翌千五百七十六年(天正四年)一月十四日、信澄(のぶすみ)は高島郡より上洛した事が確認される為、これより以前に信長より近江に所領を与えられていたと確認されている。

同千五百七十六年(天正四年)には、信澄(のぶすみ)は明智光秀の丹波攻めに援軍として参加している。


同千五百七十八年(天正六年)四月四日、信澄(のぶすみ)は、織田信長嫡男・織田信忠に従い石山本願寺攻めに従軍し、十月から翌千五百七十九年十一月までの荒木村重討伐にも従軍している。

この荒木征伐で開城した摂津伊丹城には信澄(のぶすみ)が入り、村重の正室ら一族三十七名を捕えて京都に護送した。

また千五百八十一年(天正九年)十月、伊賀が平定された際に従兄の織田信忠と共に信長に同道したが、この際に信長に大和を知行する事を望んで信長から諌められたと伝わる。


千五百八十二年(天正十年)春、四国の雄・土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と織田信長の関係が悪化する。

信長は三男の信孝(神戸)を総大将に丹羽長秀、蜂屋頼隆、そして信澄(のぶすみ)を副将に付けて四国に渡海させる計画を立て、信澄(のぶすみ)は大坂城に駐留する。

そして京都から大坂に向かう徳川家康の接待役を、丹羽長秀と共に命じられる。

千五百八十二年(天正十年)六月二日、舅の光秀が京都にいた信長を襲撃して殺害した「本能寺の変」を起こす。

信澄(のぶすみ)は光秀の娘婿であった事が災いし、三日後の六月五日に信孝(神戸)と丹羽長秀により襲撃される。

信澄(のぶすみ)は、野田城で信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって二十八歳で殺害され、首級は信孝の命令で堺で晒された。



室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、織田信長の助力により漸く流浪の身から脱して京に上り上洛を果たす。

朝廷・時の正親町天皇(おうぎまちてんのう)から将軍宣下を受けて第十五代将軍に就任、烏丸中御門第(からすまるみかどだい)を整備し室町幕府の再興を果たした。

しかし、直ぐに本当の実力者の織田信長と対立、武田信玄朝倉義景一向宗顕如(れんにょ)上人らと呼応して信長包囲網を築き上げ、一時は信長を窮地に立たせる事もあった。

頼りの朝倉家も武田家も織田・徳川連合軍に敗れて滅亡、足利義昭(あしかがよしあき)は、やがて信長によって京都から追放される。

追放された最後の将軍・足利義昭は、千五百七十六年(天正四年)、大内氏に代わって中国地方に覇を唱えた毛利氏を頼って毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に亡命し、事実上室町幕府は滅亡した。

千五百七十七年(天正五年)九月の手取川の戦いで織田軍を打ち破った上杉謙信も翌千五百七十八年(天正六年)三月に死去し、千五百八十年(天正八年)には石山本願寺も信長に降伏した。

千五百八十二年(天正十年)六月二日、織田信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から山城槙島一万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。





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世界文化遺産・富士山名称の謂(いわ)れ
天照大神天の岩戸伝説は只の神話か?
天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)と浦島・竜宮伝説
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)
仮説・宇佐岐(うさぎ)氏=須佐王(スサノウ)説
神武東遷物語・神話顛末記最新版
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する
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【*】短編人生小説 (4)

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裁判員制度シュミレーション

凌 虐 の 裁 き

(りょうぎゃくのさばき)


未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。


【*】短編人生小説 (3)

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短編小説(1)

「黄昏の日常」

我にしてこの妻あり


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】女性向短編小説 (1)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

短編小説(1)

「アイドルを探せ」

青い頃…秋から冬へ


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

【*】社会派短編小説(2)

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

社会派短編小説(2)

「生き様の詩(うた)」

楢山が見える


未来狂 冗談 作

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ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。

◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆

【小説・現代インターネット奇談 第一弾】


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「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】

【*】和やかな陵辱


(なごやかなりょうじょく)


未来狂 冗談 作

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【小説・現代インターネット奇談 第二弾】

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戦 後 大 戦 伝 記

夢と現の狭間に有りて

(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆


未来狂 冗談 作

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「あえて、暴論」

ジョウダンの発想

◆冗談 日本に提言する◆

未来狂 冗談 作

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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!

====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」

◆たったひとりのクーデター◆

未来狂 冗談 作

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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)

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非日常は刺激的

 愛の形ちは、プラトニックにいやらしく

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とくに男女の恋愛に関しては・・・
ちょっとHでせつない、現代のプラトニックラブストーリー。

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◆仮面の裏側外伝◆

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◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)

◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」

====(日本史異聞シリーズ)第一作====
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東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて

◆八月のスサノウ伝説◆

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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・

====(日本史異聞シリーズ)第五作====
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「権力の落とし穴」

本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり

◆侮り(あなどり)◆

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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)

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だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・

====(日本史異聞シリーズ)第四作====
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南北朝秘話・切なからず、や、思春期

◆茂夫の神隠し物語◆

未来狂 冗談 作

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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)

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そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・

====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説

非道の権力者・頼朝の妻

◆鬼嫁・尼将軍◆

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歴史上他に類を見ない「鬼嫁」が存在した。
その目的は、権力奪取である。

====(日本史異聞シリーズ)第二作====
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ

◆倭(わ)の国は遥かなり◆

未来狂 冗談 作

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倭の国は遥かなり ・・・・・・・・・・・(飛鳥時代)

◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
呼び起こされる同胞の血

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この文章は修了です。
















































貴方は、冗談(ジョーク)を深く考えた事があるだろうか?
冗談(ジョーク)には「軽口」とは違う、もっと重く深い意味が密かに潜んで居る事も多いのである。
【作者プロフィール】●未来狂 冗談(ミラクル ジョウダン)本名・鈴 木 峰 晴
昭和二十三年、静岡市に生まれる。
県立静岡商業高等学校卒業、私立拓殖大学商学部貿易学科を卒業した後、実社会に船出。
従業員二十名足らず小企業に就職、その企業が三百名を超える地方中堅企業に育つ過程に身を置き、最終、常務取締役で退任。
その後、零細企業を起こし、現在に至る。
現在他家に嫁いだ娘二人に外孫三人、同居の愛妻が一人居るが、妾や愛人は居ない。

性別・男性 /生年・1948年/住所・静岡県東部在住
【メッセージ 】
ネット作家として文学・歴史・政治・宗教・教育・科学・性・脳などを研究し小説やエッセ、そしてブログでコラムなど書いています。
☆ペンネーム未来狂冗談(Miracljoudan)の由来は、「悪い未来に成った事は冗談ではな無い」と思う気持ちからで、けして「冗談に付けたのではない」つもりです。念のため・・・。
また、「冗談」とかざしたペンネームの真意は、作品により政治や信仰・占術、歴史に対する批評及び性描写に、タブーを恐れない過激な表現を用いる事がある為、利害関係者との余分な論争を避ける為です。


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作者本名鈴木峰晴