■お断り■◆告白、悪戯(いたずら)の秘密 第一巻はあくまでも文学作品です。
◆本格エロチック調教ファンタジー・サスペンス◆
【告白、悪戯(いたずら)の秘密】
【話しの進展】
記載目次(ジャンピング・クリック)
【告白、悪戯(いたずら)の秘密 第一巻】この巻きです。
〔一〕【前置き(プロローグ)】
〔二〕【第一章(子供会・親の飲み会)】
〔三〕【第二章(女リーダー)】
〔四〕【第三章(ある順番待ちの列)】
【告白、悪戯(いたずら)の秘密 第二巻】に続く。
〔五〕【第四章(女リーダー調教)】
〔六〕【第五章(深い営業接待)】
〔七〕【第六章(生保レディの営業接待)】
〔八〕【第七章(猥褻/わいせつ)】
〔九〕【第八章(復讐ではない、新たなる展開)】
〔十〕【第九章(新たなる試み)】
前置き
◇◆◇◆◇◆◇◆◇〔前置き〕プロローグ◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この物語の舞台は、主に山を越えたら地方が代わる関東西端の城下町で、時代は昭和の終わる頃の事である。
その昭和末期は「バブル景気」に日本中が沸き挙がって、今に成って振り返ると、大正ロマン時代に次ぐ日本が華やかな時代のひとつだった。
基本的に景気が良い時代は、多少大衆の倫理観が荒廃して生活規範が緩むものである。
江戸期のバブル景気とされる「元禄時代」も、この「大正ロマン時代」も、そして「昭和末期のバブル景気の時代」も、生活規範はおおらかに存在した。
昭和の好景気、「バブル崩壊前」は今の様に先が見えない暗い時代では無く、上流家庭から下流家庭まで「金は使ってもまた入る」と確信できる時代で、好景気が好景気を呼び人々は夢に溢れていた。
全てに活気が在って、当然風俗にも金が乱れ飛ぶ熱気・活気が在り、そしてなによりも努力すれば夢が叶うような錯覚の中に人々皆が生きていた時代だった。
正直不謹慎かも知れないが、多少風紀に乱れが在る時代の方が好景気を維持できた。
今の政治は建前重視で、「人間の本性」と確り向き合って居ないから、規制・自制・禁欲ばかりで鼻先に人参をぶら下げて向上心を煽(あお)る術(すべ)を知らない。
つまり消費文化が盛んな方が好景気で、世間の風潮が多少猥雑な方が稼げば生活が楽しめるから向上心も湧く。
市中で金回りが高回転すれば景気は良くなって好循環するが、消費に自制的で禁欲的な世の中では稼いでも楽しめないから向上心も湧かない。
勿論そのポルノチック(性愛情景的)な風俗が、好景気の発生を誘引させるもので無いかも知れないが、少なくとも好景気の維持や加速には必要な要素である。
千九百十二年(大正元年)から千九百二十六年(大正十五年・昭和元年)の僅か十五年間が大正時代である。
その十五年間、日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた日本は、大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中だった。
大正ロマンは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉で、しばしば「大正浪漫」とも表記される。
明治時代の経済の自由化とともに商人の立場が向上、大正時代に入って商業が大きく開花する。
欧米から学んだ会社制度が発達し、制度上は個人商店で在った私企業が財閥に発展、世界に向けて大規模化して行く絵に描いたような好景気だった。
また投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民に於いても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられる時代背景だった。
好景気を得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
大正ロマンの語源は、十九世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受けて呼ばれた名称である。
個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正時代の風潮にかぶせて、「大正ロマン・大正浪漫」と呼ばれるようになった。
大正デモクラシー(民本主義)とは、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にあり、政策決定は民意に基づくべき」と言う民権思想である。
西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。
芸術作品にはアール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多く誕生する。
文芸に於ける耽美主義や同時代のダダイズム(芸術思想・芸術運動)、或るいは政治思想であるアナキズム(無政府主義)などの影響もあった。
元々当時の芸術家や思想家は知性や学歴が良く、為に思考に対する柔軟性や自由度は社会常識には囚われず、一般大衆の生き方とは一線を画していた。
島村抱月(しまむらほうげつ)と松井須磨子(まついすまこ)の劇団事件は、政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激し芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む影響を世に与えた。
人気女優・松井須磨子(まついすまこ)の場合は、愛人である作家の島村抱月(しまむらほうげつ)の病死の後を追って自殺した情死だった。
有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった思想家・大杉栄と女性開放活動家・伊藤野枝を取り巻く動きについては、逐一新聞などで報道される加熱振りだった。
伊藤野枝(いとうのえ)は不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤(つじじゅん/翻訳家、思想家)を捨てて大杉栄の妻・堀保子(ほりやすこ/俳人)、愛人・神近市子(かみちかいちこ)と四角関係を演じた。
東京日日新聞の記者・神近市子(かみちかいちこ)は、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移した事から、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷させる「日蔭茶屋事件」を起こし二年間服役する。
市子(いちこ)は出獄後文筆活動を始め、女性運動に参加して衆議院議員総選挙に当選、左派社会党議員として当選六回を重ねる政治家として戦後も活躍した。
野枝(のえ)は人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、そして小説や翻訳を発表している。
同時代の人々に野枝(のえ)は、自らを主張するその自由獲得への情熱に対する憧れや賛美がドラマチックな感動を与えた。
知識人に於いては個人主義・理想主義が強く意識され、自由恋愛の流行による事件も数少なくはなく、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安にも脅かされる時代だった。
与謝野晶子は、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に歌集「みだれ髪」で女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立する。
晶子は伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼす事となる。
夫・与謝野鉄幹の編集で作られた歌集の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と言う短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
晶子と知り合った時、夫・鉄幹には妻子が在ったが、鉄幹は晶子の為に妻と離婚し、二人は個人主義・理想主義の大正ロマン・自由恋愛のはしりを実践している。
平塚らいてう(ひらつからいちょう)は大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走した事で知られる女性解放運動・婦人運動の指導者である。
らいてう(らいちょう)は妻子を郷里に置いて上京した森田草平(もりたそうへい)と関係を持ち、栃木県塩原で心中未遂事件を起こし、一夜にしてスキャンダラスな存在となる。
森田草平(もりたそうへい)は夏目漱石の門下生の作家・翻訳家で、与謝野鉄幹が主宰する閨秀文学講座で講師を務める。
この講座に聴講生として通っていたらいてう(らいちょう)と関係を持ち、千九百八年(明治四十一年)に心中未遂事件を起こすもその後始末でらいてう(らいちょう)と別れた。
らいてう(らいちょう)は、自らが創刊した「青鞜社」に集まる個人主義・理想主義の大正ロマンの女性達の活躍の場を「青鞜」の誌上に与えた。
らいてう(らいちょう)は五歳年下の画家志望の青年・奥村博史と茅ヶ崎で出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動の後に事実婚を始めている。
その事実婚の顛末を、らいてう(らいちょう)は「青鞜」の編集後記上で読者に公表、両親にも「青鞜」の誌上で報告している。
その後のらいてう(らいちょう)は、伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ったり、与謝野晶子と「母性保護論争」を展開したり、「新婦人協会」を設立したりと活発に活動している。
伊藤野枝、与謝野晶子、平塚らいてうなど彼女達の衝動的で奔放(ほんぽう)な男女の行動は、まさに心理学で言う「シンクロニー(同調行動)」であり、「好きになったから仕方が無い」の言い分である。
正直、彼女達女性思想家が奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方を体現した背景には、当時の男性が愛人・妾、アバンチュール(性愛の冒険)を自由に謳歌していた事への対抗心が在ったからである。
それでも兎に角、ドロドロとした性愛劇をあんに想像させる文人男女の争奪愛の経緯をモデルとして書いた作品の発表を、大衆は興味津々で待っていた。
世間ではモラル(道徳)として批判的かも知れないが、男女の「俗欲」こそ感性豊かな作家の創作意欲の源である。
それにしても世間のシガラミに縛られた大衆は、文人男女の自由奔放淫乱(じゆうほんぽういんらん)な性愛劇に、批判的だったのだろうか?
それとも本音は、羨(うらや)ましくて人気を集めたのだろうか?
なお、大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(七歳)の三名は、甘粕憲兵大尉に強制連行されて取り調べで殺に至らしめられる「甘粕事件」の被害者となる。
「甘粕事件」は東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕大尉が、関東大震災の混乱に乗じて、震災から半月後の九月十六日にアナキスト(無政府主義者)の抹殺を目論んで起した事件である。
日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地を大正関東地震・関東大震災(かんとうだいしんさい)が見舞う。
関東大震災とは、千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード七・九の大正関東地震による地震災害を言う。
震源域の真上に位置していた「横浜市の震度は七と推定され、希に見る強震だった」と言う。
作家・谷崎潤一郎は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズム(被虐性愛)などのスキャンダラスな文脈で語られる事も少なくない。
潤一郎はその作品で情痴や時代風俗などのテーマを扱うも、その芸術性は世評高く、「文豪」と評価される。
潤一郎(じゅんいちろう)を「完全なる変態」と評する似非(エセ)常識人も居るが、芸術とはそう言うもので、潤一郎(じゅんいちろう)の変態的感性そのものが、彼の作品を高めている。
千九百十五年(大正四年)、気鋭の作家・谷崎潤一郎は石川千代と結婚する。
結婚後、潤一郎は妻・千代に横恋慕した友人である佐藤春夫(さとうはるお/詩人・作家)に千代を譲る約束をする。
情痴や時代風俗などをテーマとして扱う潤一郎の作品には、「必ずモデルに成る事象が存在する」とされる。
つまり佐藤春夫(さとうはるお)が千代に惚れたのも、潤一郎が意図して「二人に関係を持たせた」と言う噂も在る。
潤一郎(じゅんいちろう)との非日常的な性生活で、すっかりマゾ性(被虐)に目覚めた千代だったから、命じられた事には素直に従う。
もしかしたらの推測だが、自分の妻・千代を目の前で友人・春夫(はるお)に抱かせて、その様子を見て愉しみたい夫・潤一郎(じゅんいちろう)と、友人の妻を目の前で抱いて観せたい男の性癖が一致した。
作家のアバンギャルド(前衛芸術)な気分では、三人同室での観賞プレィも作家の洒落(しゃれ)として充分可能だったが、それを証明する明確な資料は無い。
最初は潤一郎の個性的な趣味・嗜好が面白勝って、千代に「色仕掛けで春夫(はるお)を誘って情交に持ち込め」と命じたが、それが想いの他に胸をトキメかせたので度々その機会を創らせて二人は深まった。
いずれにしても潤一郎は、妻・千代と春夫(はるお)との耽美プレィの情景を思い浮かべたり盗み見たりして愉しんでいたに違いない。
それにしても本来なら人妻として「嫌」と抵抗する所で、あれだけのエキサイティングな遊びが犯れたのだから、千代の器の大きさは際立っていた。
しかしそれは、千代の器を見切ってその卑猥(ひわい)な遊びを嫉妬もせずに犯らせた潤一郎(じゅんいちろう)の器の大きさとお互い様かもしれない
実はこの潤一郎の企てには、潤一郎が千代の妹・せい子に惚れ、妻・千代を春夫(はるお)に押し付けて自分は新たにせい子と婚姻を謀る積りが在った。
しかしこの企ては、せい子に拒絶されて頓挫した。
妻・千代は、狂気とも言える性への好奇心に満ちた夫・潤一郎(じゅんいちろう)に、存分に性技を仕込まれていた。
千代は娼婦でも中々犯らない性技を駆使して、夫の友人・佐藤春夫(さとうはるお)を床上でもてなし、春夫を感激させる。
潤一郎の画策で春夫(はるお)との性交プレィを受け入れた千代は、段々と以前に無い妖しげな魅力が出て来て女として妖艶になり、潤一郎は春夫に千代を手放すのが惜しくなる。
千九百二十一年(大正十年)、潤一郎は妻・千代を佐藤春夫(詩人・作家)に譲ると言う前言を翻した為、春夫(はるお)と絶交する「小田原事件」を起こす。
千九百二十七年(昭和二年)、潤一郎は後に三度目の結婚相手となる根津松子と知り合う。
二人の仲を惜しむ共通の知人が居て間に入り、佐藤春夫(さとうはるお)は潤一郎と和解する。
しかし潤一郎は、またも妻・千代を内弟子・和田六郎(後の大坪砂男/探偵作家)に譲る話を起こし、春夫(はるお)の猛反対でこの譲渡話は壊れている。
この内弟子・和田六郎と潤一郎の妻・千代には肉体関係が出来ていたのだが、それは「潤一郎が仕向けたものだ」と言われている。
佐藤春夫(はるお)と千代との耽美プレィに、嗜好的な味を占めていた潤一郎は、千代に「内弟子・和田六郎と犯れ」と命じた。
潤一郎は千代に六郎との関係を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させ、千代は「六郎の子を妊娠・堕胎した事も在った」と言う。
小説の著作には作家自身や家族の体験を加工したものが多く、「潤一郎の作品にはモデルが在る」と言われている。
だから潤一郎をとりまく男女の出来事は格好の題材であり、マスメディアに取り上げられれば出版の前宣伝にもなる。
勿論、千代と佐藤春夫(さとうはるお)との情交も潤一郎が画策したシュール(非日常)なシュチエーションを狙った物で、逐一その顛末を千代に報告させていた。
本来は秘すべき婚外情交を夫が妻に実践させ、その性愛の衝撃を小説創作のヒントに取り入れる破廉恥と思える事象が、新聞・雑誌を通じて劇場型として漏れ来る。
つまり有名人の醜聞には需要があるから、計算づくのスキャンダラスな話題を創り、その過熱報道で作品の前宣伝をする。
こうした作家男女の裏面を大衆読者は想像して、新聞・雑誌のリアルタイムな報道をポルノチック(性愛情景的)な気分で熱狂していた。
夫婦の間の事など他人には到底理解出来ない事で、千代は潤一郎作品の題材創りと話題作りに協力していたのかも知れない。
因(ちな)みに、夫に勧められて他人と性交する妻は貞淑なのか淫乱なのか、判断が分かれるところではないか?
この一件で具体的に恩恵が在るのは、潤一郎(じゅんいちろう)の「創作の種(モデル)」である。
だから、妻・千代が好んで婚外情交をするのは考え難く、それは「潤一郎(じゅんいちろう)の依頼に依るもの」と解釈するのが順当である。
千九百三十年(昭和五年)に潤一郎と千代の離婚成立後、千代の佐藤春夫(さとうはるお)との再嫁の旨の挨拶状を三人連名で知人に送る。
この挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。
夫からその友人に譲られた「千代夫人も幸せだった」と言う、なんとも言えない作家達の愛の形である。
知性香る上流社会の醜聞が、雑誌報道や新聞報道でインモラル(不道徳/背徳的)な文人達の赤裸々な生活を暴きだす。
民衆にとって見れば、剥(む)き出しの欲望と魂の叫びが炙(あぶ)り出される体験的小説のモデルを目の当たりにする劇場型の情報は何時(いつ)の日も待ち望んでいた。
それは夫婦の性癖だって、相性が良い方が理想である。
性豪として、その道に研究熱心な潤一郎に仕込まれたからなのか、千代は従順の上に必死で奉仕する性癖の、言わば男性が抱いて愉しめるタイプの女性だった。
そして内弟子・和田六郎との経緯(いきさつ)を知りながら、それでも春夫(はるお)が千代に惚れ、「自分の嫁に」と望んだのには、「自分が千代の性を育てた」と言う拘(こだわ)りが在った。
潤一郎が仕掛けた事ではあるが、春夫(はるお)が千代を抱く都度に段々と妖しげな魅力が益し、床での行為につつましさを捨てた千代は妖艶に育って行ったからだ。
つまりこの「細君譲渡事件」、抱いて詰まらない女性であれば、春夫(はるお)もそこまで千代を我が物にする事に執心はしなかった筈である。
「細君譲渡事件」の翌年、千九百三十一年(昭和六年)に潤一郎は文藝春秋の記者・古川丁未子(ふるかわとみこ)と再婚する。
しかし潤一郎は、以前知り合った根津松子との関係が深くなり、直ぐに丁未子(とみこ)を邪魔にし始める。
昼間、外での性交を望んだが断られたなど潤一郎の奔放な性に丁未子(とみこ)がなじまなかったから、潤一郎は直ぐに丁未子(とみこ)に失望した。
この件に関しては、潤一郎の関心が根津松子に移っていた事もあるが、丁未子(とみこ)が千代の様に潤一郎の意志に沿って作品のモデルになる気が無かったからでもある。
編集記者だった丁未子(とみこ)が、結婚前に潤一郎の乱れた私生活や個性的な趣味・嗜好を知らない訳は無く、嫁ぐ時にそれなりの覚悟が必要だった筈である。
丁未子(とみこ)が潤一郎と添い遂げたかったのなら、例え他人の前での性交を晒(さら)してでも潤一郎(じゅんいちろう)の要請に応えるべきだった。
それで潤一郎(じゅんいちろう)の個性的な趣味・嗜好に応じられない丁未子(とみこ)は、もぅ彼にとっては無用な存在になったのだ。
「男性の身勝って」と言ってしまえばそれまでだが、佐藤春夫が千代を選んだのも潤一郎が松子を選んだのも同じ理由である。
最終的に男性は、我侭(わがまま)な性癖に大胆に応じてくれる女性の方を選ぶに決まっている。
松子はあまり道徳に縛られない女性で、夫・清太郎が在りながら潤一郎と情交を結び、谷崎の色々な要求に答えてやり、それが谷崎作品に結びついている。
松子の夫・根津清太郎は根津商店と言う大阪の大会社の御曹司で大富豪、松子も藤永田造船所専務・森田安松の四人姉妹の次女と言うお金持ちだった。
この根津清太郎がかなりの女好きの遊び人の上、芸術家のパトロンをする事を好んで、潤一郎もそのあたりの関わりで知り合った。
松子に惚れまくった潤一郎は、なんと松子の家の隣にいきなり引越し、お互い結婚しているいる身もおかまいなしに関係を続ける。
千九百三十五年(昭和十年)、松子が根津清太郎と離婚し戸籍を旧姓に戻して森田松子となった。
松子の離婚を期に潤一郎は二度目の妻・丁未子(とみこ)と離婚し、森田松子と三度目の結婚をする。
潤一郎の私生活は、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚、その間に永く関係が在った松子と三度度目の結婚をするなど、、自由恋愛は賑(にぎ)やかなものである。
そしてその賑(にぎ)やかさは、作家としての潤一郎の創作活動に資する実験だったのではないだろうか?
谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の女性遍歴は相当なもので、性癖も変態と指摘されるが、彼の作品はモデルを必要とし、その辺りが潤一郎(じゅんいちろう)の作品が高評価と結び付いて居そうである。
作家にとって、著作アイデアは「飯の種」・「金の成る木」で、世間体など気にしていては貧乏のままである。
事実多くの妻を娶(めと)り、その多様な家庭にも触れて潤一郎(じゅんいちろう)の著作アイデアは、永く枯れる事がなかった。
社会規範から言えば非難されるべきアブノーマル(異常)な性愛でも、この大正ロマンの文士仲間の内では自由恋愛の思想の下に「許容されるべきノーマル(正常)な事」だったのかも知れない。
その大正ロマン時代に流行ったモガ(モダンガール)・モボ(モダンボーイ)とは、戦前の若者文化である。
千九百二十年代の大正末期から昭和初期頃に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた外見的な特徴を指してこう呼んだ。
こうした情報が氾濫した大正ロマンの時代、庶民の生活規範も自由恋愛の風潮にかなり緩んで様々なドラマが在った時代だった。
潤一郎と千代の自由恋愛の生き方を一般社会通念で評価すれば、「堕落したもの」かも知れないが、一方でその作品は大反響・大人気であり、文学としての評価は高い。
谷崎潤一郎と石川千代(佐藤千代)の奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方は、大正ロマンの個人主義・理想主義の申し子だったのかも知れない。
勿論他人が、その個人的価値観でこの二人を評価する権利など在りはしない。
こうした大正ロマンの事象を現代の社会規範に沿って無責任に「品格が無い」などと批評するのは、知的ではない間違いである。
「その時代の真実」と言う時代考証の考え方があり、その時代がそう言うポルノチック(性愛情景的)な気分の世相だった事を認めなければ成らない。
脳科学分野では、人間の脳は非日常の刺激に厚めに活性し、日常生活からはさして脳の活性は得られない。
従って作家や芸術家は、非日常の刺激を変人的に追い求める事が創作上の命である。
世間が言う「天才に変人が多い」と言うのは、脳のリミッター(制御)が外れているからである。
そして社会性に対する脳のリミッター(制御)が外れているから、作家はある種の狂気を含む変人的天才にシフトしている。
只、こうした変人的天才の社会性を、如何にも正義感振って単純にモラル(道徳)批判するのは、才能に恵まれない凡人の所業かも知れない。
さて、これからご紹介するのは、「昭和末期のバブル景気の時代」の少し卑猥(ひわい)で奔放(ほんぽう)な物語である。
昭和バブル当時は「高級外車が飛ぶように売れている」と煽(あお)られるほどの好景気で、毎日がお祭りだった。
だが、その実態は表面を膨らませるばかりで芯が無い物だった。
その浮かれた世相が、日本人の多くを安易に発情させて居たのかも知れない。
今に成ってはもう少し昔の事だが、あの時代を思い出し出しこの物語を書き綴る事にしよう。
この物語・・・妻のノーパンティ・カラオケスナック事件、あれは多分夢だった。
ただ、その夢は余りにも鮮烈な思い出として、私の脳裏に残っている。
この告白、悪戯(いたずら)の秘密は、創作者が「日本中の新婚さんに伝えたい話し」として書き綴ってみた真面目なH話である。
何故ならば、性に関して正面から問題定義に挑戦する事を憚(はばか)る不合理な風潮が在るからだ。
煩悩を「建前の綺麗事」で否定したしまうと、建前無いものである煩悩にはその先の論議が始まらない。
生ある人間だから煩悩を闇雲に否定したり戒(いまし)めるのではなく、貴方が煩悩とどう付き合って生きて行くかを考える所から始めるべきである。
人間は 社会性(集団で生活する必要性)から 側坐核(そくざかく/脳部位)を機能的に成長させて「善悪の概念」を持つ。
「善悪の概念」を持った人間は、自らを「ヒューマン」と呼び、その意味はつまり性善説で「人間らしい、人間味、人間的」と言う。
しかしながら、現実に「人間て何だろう」と考えた時、本当は「性善説」は綺麗事で、一人の人間が結構善人でもあり結構悪人でもある。
本音で言って、場面場面で善悪併せ持つのが人間ならば、人間何て然程(さほど)上等なものでは無い様な気もする。
まぁ、「人間らしく生きる」と言う事は、思いがけない事も犯ってしまう恐ろしささえも「在りうる」と言う事で、ヒューマン(人間らしい、人間味、人間的)の「建前のべき論」と現実には、明らかな矛盾を感じる。
そして当然ながら人間は繁殖時期を持たず、他の動物種では滅多に無い年中発情型で、「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の「癒し目的」と言う性交を必要とする生物である。
つまり発達した「脳の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人類の意識の中に「必要な行為」として与えられた。
人間のスケベ差を難しく言えばそんなものだが、簡単に言えば性交を愉しむ目的だけでも行為に及べるのがヒューマン(人間らしい、人間味、人間的)と言う事になる。
元々の日本の性文化は、異部族合流の誓約(うけい)の概念から発達した物で、性交は言わば神事だった。
それ故に、黒船が来航して西洋文化が流入するまで、日本の性はおおらかな物だった。
その概念からシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。
当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。
その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な舞踏や性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。
この巫女が「神懸かり」になる為の社殿神前性交が基と成り、やがて飛鳥期頃に神社と官人(高級貴族役人)の間で社殿神前に於ける官人接待の習慣が起こり、歌舞・音曲・性交がセットに成った神前娼婦と言う形態が出来上がって遊女の原型と成り、平安末期には白拍子と呼ばれる遊女と繋がって行く。
現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。
「神迎え又は神懸かり」に於けるエクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。
その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、しばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」と、現代科学に於いてもこのジャンルはその存在を認められている。
日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。
そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城の事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。
性交をする間柄は、さしずめ法的には密接交際者と言う事に成るのだが、現実と乖離(かいり)する事に、そこに「遊びの性交」は前提とはされて居ない。
つまり建前上は、性交をする間柄に「情」が無い「遊びの性交」は存在するにも関わらず法的範疇に存在せず、前提とはされて居ない矛盾がある。
簡単に言ってしまえば、認めたくない現実に蓋をして「社会での蔓延を抑止しよう」と言う計算で、建前上無いものは承知していても無視して済ませようとするのだ。
明治維新後、親が子供に性を隠し過ぎて子供の肉体的成長とバランスを欠き、大人に成り切れない子供と子供を何時までも大人にし切れない、成長しない大人が居る。
性と愛を考える時、愛情も欲情も情念の内だから混同され易いのだが、本来異質の情で、分けて考えるべきでなのである。
これに、個人的な尺度に拠る感情が絡むから、まったく人間は厄介な動物なのである。
一言で「愛情」と言うが、愛情も千差万別で定型はない。
求める愛情も有れば与える愛情もあるので、その辺りの匙加減(さじかげん)が必要で、一方的に「愛しているなら・・・こうしてくれ。」は、愛情ではなくて打算なのだ。
元々生き物は、動物植物に限らず精一杯生き、その間に子孫を育て残す。
そう、「種の保存」の本能である。
生き物には、繁殖期(発情期)が有るが、その繁殖期(発情期)が人間だけは年中(発情期)なのだ。
自然の原理に逆らって子孫を育て残す事を放棄し、自らの「享楽的生活のみを追求する年中発情期の生き方」を選ぶ生き物は、脳が異常に発達した「人間と言う生物」を於いて他には無い。
この「本能」と、建前で刷り込まれた「性への嫌悪感」がぶつかり合い、そこに「本音と建前」の二面性が生じる。
それ故、人類の脳は本能と精神の板挟みに合って、絶えず苦悩している。
「本音と建前」の二面性は、言うまでも無く人間以外の生物(動植物)には存在せず、これをもって「優秀な生き物」とする意見も有る。
だが、或る意味それこそが人間の存在その物の苦悩なのである。
凡(およ)そ、社会性を加味した人間独特の発想の行き着く先が「性への嫌悪感」なのである。
だから、本能とは相容れない拒否意識が働くので、その分潜在的な欠落感(不安)が始終付きまとい、不安定な精神状態を生じさせるのだ。
つまり、押さえ込んだ「本能」は、人間の中で行き場を失うのだ。
実は、この苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人間の意識の中に「必要な行為」として与えられた。
それは、他の動物と比べ脳の発達が異常に進歩した為に、セーフティネットとしての逃げ場が、遺伝子的に長い年月を経て完成したものである。
つまり、他の動物には限定されている繁殖期が、人間には制約されていない。
それが、他の動植物では有り得ない「恒常的な発情期」なのである。
自然の与えた本能にけして無駄はない筈(はず)で、そこに人間が生き行く為の必要性を感じる。
この「擬似生殖行為」の欲求も、氾濫(はんらん)する情報を、人間が脳で「緩和処理」しながら生きて行く上で必要だから与えた筈で、悪いものである訳がない。
つまり、生き物本来の性交目的は子創り(繁殖)である。
しかし人間の場合、それより圧倒的に多いのがコミュニケーション(付合い)目的の性交であり、その本質は快楽目的の性交(疑似生殖行為)である。
コミュニケーション(付合い)目的の性交の相手は、夫婦や恋人で在ったり、場合位に依っては上司や支援者と言う事も在る。
要するに、生きて行く為に必要なコミュニケーション(付合い)目的の性交も充分に在り得るのが、社会の現実である。
楽しいSEXはストレス解消の妙薬で、脳に優しかったり過激だったりする。
だが、優しかろうが過激だろうが脳に「一方は精神的安定、一方は精神的興奮」と言う、質の違う快感をもたらす。
そのいずれもが、脳内麻薬のベーターエンドロフェンを生成させ、脳から不安感や痛みなどを緩和する役割を果たしている。
脳内麻薬・ベーターエンドロフェンは食事などでも生成させ、詰まりは愉しいと感じさせるホルモンの一種だから、或る種習慣性やリピート(反復/繰り返し)を誘発させる。
生き物の体内構造は合理的に出来ているから、脳内麻薬・ベーターエンドロフェンも必要だから人間の脳に存在する。
その意味するものは、精神ストレスを緩和する必要性を感じた脳が、「擬似生殖行為」を欲望として促(うなが)すように、自然に本能が進化したものに他ならない。
人間の性癖が多岐に渡るように成ったのは、脳が複雑に発達した事とは無縁では無い。
だから本来、性とどう付き合って行くべきかを真剣に考えるものである筈(はず)が、臭い物には蓋(ふた)式にタブーにされている。
世間では認知され難いSMプレイの性癖についても、その本質は脳を癒す為の要求である。
拘束や露出に拠る心理的な支配感や被支配感そして加虐感や受虐感、それらは美しい物に癒されたり、荘厳な物に圧倒されたりの、視覚によるディスプレイ効果などと同じである。
つまり良いSEXは、外傷性の疾患に対する自然治癒能力と同様に、自ら脳の負担を緩和する機能をも、「擬似生殖行為」と言う形で人間は持ち合わせている。
所が、愚かにも人間は、まともな人間なら誰でも行(おこ)なって居る性行為にも関わらず、感情的にその恵みさえ建前の中に「封じ込めよう」としている。
性交に拠り脳内で生産されるベーターエンドルフィンは、脳内の情報ストレスを緩和する無害な脳内麻薬なのである。
本来、発達し過ぎた脳を持つ人間の、ストレスの良い持って行き場(解消方法)は、「擬似生殖行為(繁殖や繁殖期に拘らない性交)」に拠って解消する機能を持ちました。
人間自身が「脳の発達に対応して本能的に作っていた事に成る」のだ。
だが、そこを活用しないで、幼児虐待や家庭内暴力、禁止薬剤の乱用にストレス解消方法を持って行くのは、世間の風潮が余りにも「擬似生殖行為」を罪悪視して子供を育てているからではないか?。
考えて見れば、それは私達夫婦の何も未来に展望の無い所からの始めの一歩だった。
「いざ」と成ると、女の方が度胸は良い。
恥じらいを取り外したアタック(攻撃・挑戦)精神で一線を度胸良く飛んでしまえば、もう歯止めは無い。
「そんな事私には出来ない。」は臆病な言い訳で、実は、制御している自分の中の淫乱性を、剥(む)き出しにすれば良いので、女性がその気に成ればさほど難しくはないのだ。
後は限りなく淫乱な女を演じ、それに自らが酔い痴る事が出来れば良いのである。
夫婦であれば、良い刺激は在った方が良いが浮気などで道は外せない。
しかし日常生活する変わり栄えしない場所で、変わり栄えしない相手と犯ってもマンネリに陥(おちい)るだけである。
一夫一婦制社会では貞操観念は理想とされるが、それは本能を抑止するだけで不満ストレスを生む結果になる。
男性は子孫繁栄の為に本能が多くの女性との性交を求め、女性は優秀な子孫を残そうと多くの男性をその性交候補対象とする本能が存在する。
女性のヒステリーには性感マッサージ治療や性感バイブレーター治療が有効で、実際に医療行為として医師に施術されている。
つまり女性のストレスの解消の良処置は「性的な刺激」と言う事になり、男性のストレスの解消も同様の「性的な刺激」と言う事になる。
それならば、わざわざ医療行為として施術されなくても、ストレス解消の問題解決の為に夫婦合意で遊べば良い。
代議士先生だって官僚のお偉い様、大企業経営者だって一緒だが、ストレス社会で生きている以上は永年連れ添った相手との日常とも言える定食SEXばかりでは飽きてしまう。
しかし迂闊(うかつ)に非日常の外食SEXなどしようものならマスメディアの餌食で、地位も名誉もたちどころに吹っ飛びかねない。
夜のネオン街の怪しい明かりに誘われても、そんな遊び場は無秩序で立場に在る人間にはリスクが多過ぎる。
立場に在る人間は「自制せよ」と綺麗事を言うが、自制出来ないからこそどうしょうも無くスキャンダルを起こす。
つまり永い夫婦生活に於けるマンネリ打破には、情交では無く非日常の遊びの性交と言う本能に対する逃げ場は必要である。
そうした暗黙了解のタブーが存在するのなら、「夫婦同席・合意の遊び」と言う枠(わく)の中で工夫し、性欲を満たして発散させる暗黙了解のタブーが在っても良い。
人生に於いて、性は生に通じる大事な脳内シグナルであり、人間も生物で有る以上は法律や信仰だけではその影響を避けられない。
性を制御するだけではその影響が避けられない以上、本来なら人間社会は素直に誰にでも「なるべく良いSEX」が出来る環境を、精神思想に於いて慈愛の中で醸成すべきだった。
そこで考えたのが、仲間内夫婦が集って自給自足するマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの時間を共有する事である。
そんな卑猥(ひわい)な事は作り物の物語だけで「現実の事では無い」と想っている方、それは世間知らずに想っていて想像だけで否定しているが、隣近所に親戚知人、友人夫婦がどんな性生活をして愉しんで居るかなど本当の所は知らないではないか。
これは本能に対する合理的なリスク回避が目的で、それ故に恋愛だの愛情や嫉妬などまったく関係ないお遊びの肉体的官能を愉しむ世界なのである。
そしてリスク回避だからこその、嫉妬に関わらない公開性と密かな浮気に対抗する極上の刺激が求められているのだ。
男女の仲には色々な形態の性交プレィが存在し、それは表向き脚光を浴びるものでは無いかも知れないが、そのエピソードの多様性は、もしかしたら貴方が人生を送る上で参考になるかも知れない。
この数々のエピソードが、創作者の実体験かどうかは敢えて公表しないので、貴方の想像に任せよう。
第一章
◇◆◇◆◇◆◇◆◇〔第一章〕(子供会・親の飲み会)◆◇◆◇◆◇◆◇◆
春は新しい生活の始まる季節で、その年も桜が盛大に咲いた。
春は子供達に取って新しい生活の始まりだが、その親達にも新しい出会いの場ができる時期だった。
それは昭和四十年代初頭の事で、まだバブル崩壊前の多くの人々が舞い上がる様な、沸き立つ好景気の時代だった。
今の様に先が見えない暗い時代では無く、上流家庭から下流家庭まで「金は使ってもまた入る」と確信できる時代で、好景気が好景気を呼び人々は夢に溢れていた。
全てに活気が在って、当然風俗にも金が乱れ飛ぶ熱気・活気が在った。
そしてなによりも、努力すれば夢が叶うような錯覚の中に人々皆が生きていた時代だった。
つまり消費文化が盛んな方が好景気で、世間の風潮が多少猥雑な方が稼げば生活が楽しめるから向上心も湧く。
市中で金回りが高回転すれば景気は良くなって好循環するが、消費に自制的で禁欲的な世の中では稼いでも楽しめないから向上心も湧かない。
今の政治は建前重視で、「人間の本性」と確り向き合って居ないから、自制・禁欲ばかりで鼻先に人参をぶら下げて向上心を煽(あお)る術(すべ)を知らない。
当時私は、子供会の役員をして他人(ひと)には中々話せない様な奇妙な経験をした。
勿論それは、「脳が錯覚して物語りを創った。」と言われても、今では否定する確信が持てないほど不確かな記憶である。
もぅ随分昔の事で、何処までが正確な思い出かも判らないが、その顛末を「忘れない内に。」と書き綴って見た。
さてこの物語はかなりエロっぽい話しだが、この物語を「不埒(ふらち)な話し」と切り捨ててしまってはいけない。
切り捨ててしまうのは簡単だが、そう言う貴方の周辺でも男と女が浮気だったり金を使った遊びだったりと、くっ着いたり離れたり、その「不埒(ふらち)な話し」が無さそうでも結構に在りそうで、満更無視できないのが男と女の世の中である。
子供の小学校生の父兄が、地区ごとに子供会の役員をして交流が始まり、これが暫(しばら)くすると親同士の知り合いが出来て子供会と言うよりは大人の社交場に成る。
夜のネオン街の怪しい明かりに誘われても、誘惑は在るがそんな遊び場に一人で乗り込むには無秩序でリスクが多過ぎる。
その点、夫婦で参加する子供会の飲み会は本当はかなり危険で在っても、遥かに安全な気がする。
大概の所、小学校生の父兄だからその大人の社交場に参加するメンバーは遊びたい盛りの二〜三十歳代の夫婦である。
正直、父兄会や子供会の役員が私達夫婦に廻って来たのは、結婚から二年目に男の子供が出来、その子が小学生になって三年、つまり結婚十年目で夫婦の間もマンネリ気味な時だった。
まだ携帯電話も無い時代で、連絡網は家庭用の電話だけだったが、子供会関係は結構頻繁(ひんぱん)に電話の遣り取りがある。
薄暗いカラオケスナックの飲み会が毎週のように続いて、夫婦とは別の組み合わせで妙な雰囲気をかもすカップルも出て来るなど、何処(どこ)の家庭も似たような倦怠期を抱えての雰囲気は、モヤモヤがムンムンだつた。
何かを求めるように、毎週のようにカラオケスナックの飲み会が続いていたが、ワイワイ騒ぐばかりでたいした刺激も無く、これと言って胸トキメかせる事も無い。
確かに飲むだけでは詰まらないから、飲み会その物もマンネリ化して来ていた。
妙な表現かも知れないが、言ってみればこの事態は「人生に乾いている」と感じていたのだ。
こう言う時、創意工夫するのが人間の人間たる所以(ゆえん)で、横着に課題を放置しては何の進歩も無い。
そこで私の脳ミソのランプが、突然チカッと明るく点灯する。
その父兄の大人の社交場に、妻をノーブラジャー・ノーパンティの裸体に緩めサイズのワンピース一枚をスポッと羽織らせた姿で連れて行き「飲み会仲間に弄(なぶ)らせる」と言うチョットした遊びの悪戯(いたずら)を、妻に仕掛ける決意をした。
倦怠期に刺激を得る為に、しょうも無い悪戯(いたずら)を私は「面白い」と胸をトキメかしながら思い着いたのだ。
これから先の登場人物は、まぁ内容が内容だけに相手に迷惑が掛っても拙(まず)いので、この先全て匿名で語る事はお赦し願いたい。
それで、この物語をお読みの貴方や貴女が、「これはもしかして自分の事か?」と想っても、それはキット気のせいだから、知らん振りをして居て欲しい。
多分その内、皆は都合良くその事を忘れてしまう事だろう。
幸い私は自営で建設業をしていて、小さいながらも三十人ほど使っていたから、この子供会役員の中では少し羽振りは良い方で多少周囲も何処と無く気は使う。
人間の心理には「建前」と「本音」が存在し、本音はそんなに絵に描いたような美しい倫理観では無く、人間の人間たる臭さが滲み出れば人生は卑猥(ひわい)な心理劇の連続で、そこから初めて本音の物語が生まれるのである。
綺麗事の本質を考察すると、事実とは違うろくでもなく無責任な言動に踊らされている事に気付く。
「ロマンチック」とは、現実を離れ情緒的で甘美な空想的様やそのような事柄の夢に浸(ひた)る事を好む様と解説されるが、この形容動詞を一言で言う日本語は無い。
日本語に、英語の「ロマンチック」に相当する一括(くく)りの言葉が無いから、意味を説明するに多くの言葉が必要になる。
つまり西洋文明が入る前の古い日本には、「ロマンチック」と言う言葉に相当する「感性その物」が存在せず、現実を離れた空想的様を形容する概念が無かった。
そして辞書の解説に、「現実離れした甘美で理想的な雰囲気や成り行きである様」と在るからには、その言葉自身が「右脳域の感性」の範疇にある。
しかしその日本には無かった「右脳域の感性」が、困った事に現代の文学や映像ストーリー、そしてリアルな恋愛の駆け引きに大威張りで重きを為しているのである。
この「ロマンチック」と言う言葉に対する英語の形容動詞に「シリアス」がある。
「シリアス」は「極めて深刻で真面目な様や事態」とやや解説がし易いので、「ロマンチック」ほど「シリアス」の方は日本人の古い感性と離れていない。
夢に浸(ひた)るのも良いが、「ロマンチック」は本来「現実離れした空想的感性」なのである。
だから、そんな「ロマンチック」に固執して居ては、本当の「シリアスな人生」など遣っては行けない。
身勝ってな「ロマンチック」に格好着けて生きるより、「シリアスな覚悟」の方が人間には余程立派なのである。
つまり建前と本音の現実が在りながら、「建前の綺麗事ばかりで物事を済ませよう」と言う不自然な社会矛盾の問題が「ロマンチック」なのである。
建前と本音で例に採ると、判り切った同じ事だが上場企業のトップ決めでも政権政党のトップ決めも、自然な現実ではズット数の論理で決められて居る。
選挙とはそう言うものなのに、馬鹿気た事にこれをマスメディアが「政策を戦わせてトップを決めろ」などと「ロマンチック染みた綺麗事」を言っているが、民主政治に於けるトップ決めの正直な本質は数の論理である。
それは現実を見ない理想論の不自然な綺麗事を言って、現実を批判する事で金が貰える一部の評論家や票がもらえる政治家は良いかも知れない。
だが、一般庶民がそんな「ロマンチック染みた嘘っぱちの理想論」に乗せられてしまうと、現実から取り残されて社会矛盾の酷い目に遭う。
そして性についての社会的な採り上げ方も、命を繋ぐ大切な事でありながら「ロマンチック染みた嘘っぱちの理想論」に覆い隠して真面目に考察しようと言う姿勢を敬遠してしまう。
しかし性欲は生き物の基本的な本能であるから、私は性のライフスタイルに於いても本音で自然に犯ってしまう方が嘘が無い本質と考える。
イルカは利口な動物だが利口なだけに飽きっぽく、イルカショウの調教トレーナーは「イルカの飽きっぽさに対応する修正能力が必要」と言われている。
つまり利口な動物とは言えイルカでさえ飽きっぽいのだから、利口な人間様の日常生活が平穏過ぎれば非日常と言う修正の場面が必要に成っても不思議は無い。
その方が現実的且つ有益ならば「建前の綺麗事ばかりに踊らされないで、強(したた)かに本質を採っても良いのではないか」と考えた。
人間のナチュラル(自然体)な動物的性本能で言えば、女性には眼前選択癖があり男性には事前選択の行動がある。
男性は気に入った物を見つけると古い物も含めてコレクター(収集者)癖が強く、つまり男女関係が壊れても跡を引くのは大概の場合男性である。
それに比べ、目新しい流行物(はやりもの)を追いかける習性は男性より女性の方が遥かに強い。
従って女性は、食べ物でも着るものでも流行を追う癖があり、つまり本能が新しい刺激を求めているのだから、代わり映えしない自宅で同じ相手と同じパターンの日常の性交では飽きてしまう。
結婚して三年も経つと、夫が想うよりも妻の方が本性としてマンネリ感は強いから、創意工夫をしないと自然に夫婦の営み(性交)から遠ざかる場合が多い。
つまりそれは、近頃巷で「増加傾向に在る」と指摘されるセックスレス夫婦である。
そこを「内の夫だけは、内の妻だけは。」の綺麗事の嘘っぱちの理想論だけで遣り過ごそうとするから、家庭が破綻(はたん)に瀕(ひん)していても手を打とうとしない。
そこでマンネリ解消に考えたのが、この胸トキメかす悪戯(いたずら)だった。
ノーブラジャー・ノーパンティの裸体にワンピース一枚の妻に、カラオケを歌わせながら「飲み会仲間に密かに弄(なぶ)らせる」と言うこの不埒(ふらち)な試みである。
この不埒(ふらち)な試みを建前基準で非難する方も居られるだろが、夫婦が永く連れ添うにはマンネリを打ち破る刺激的な創意工夫が必要ではないだろうか?
正直私は色々な事に好奇心も強い方で、多くの子供会役員が見ている前で妻がカラオケでデユットを歌いながら密かに生尻を撫でられるスリルなど刺激的シーンである。
想い付いて見れば妻がどんな顔をするか見物(みもの)で、悪趣味と言われようが何としても実現したいワクワクする事だった。
事前に、この悪戯話(いたずらばなし)に乗りそうな他所の子のイケイケの父親を三人ほど選んで、「飯を食わないか?}と誘い、うなぎ屋の小座敷で企みを話す事にした。
集まった三人に、当日妻をノーパンティにさせて連れて行く事を告げ、「遠慮は要らないからデュットを歌いながら生尻を撫でてくれ」と頼んだ。
このバブル景気時代、大型スーパーマーケットが地元商店街の反対圧力も掻い潜(かいくぐ)って、それこそパカパカと開店していた。
そして今でこそ昔語りに成ってしまったが、バブル景気時代の最後の数年間は巷(ちまた)に金がジャブジャブ溢(あふ)れていた。
金が溢(あふ)れると人々の生活は歓楽的に緩(ゆる)み、自堕落の道を辿って民間に於ける性に対する風潮も今と比べて「積極的に愉しもう」と言う遥かに開放的な感覚が蔓延していた時代だった。
しかし後で検証してみると、平安貴族華やかりし頃の恋愛文化も室町期のゴージャスな文化も、そして江戸期の元禄庶民文化も好景気に支えられて居て、正直、生真面目ばかりを求める時代はけして好景気には成ら無い事は歴史が証明している。
そのバブル景気時代は全体が猥雑(わいざつ)に緩(ゆる)んでいて、どんなに真面目な家でも若い夫婦の家なら一家に一本裏ビデオがある卑猥(ひわい)なムードが蔓延した時代だった。
だから子供会の仲間内での裏ビデオ上映会など、あぁこう格好付けを言いながらも余り抵抗無く男女が皆で見た時代だった。
今思えば、表作品のアダルトビデオ撮影が擬似性交から生本番嵌め撮り中出しに変わり、その表作品を悪用したビデオテープが大量に裏ビデオとして出廻ったのがこの頃だった。
正直、生本番嵌め撮り中出しで撮影し、スキンさえ使用してないとなると、業者も本音は裏物としての流出を前提に撮影しているとしか思えない。
それでもAV女優志望者は後を絶たなかったから、本人達が何処までそれを承知していたのか、或いは流出など半ば覚悟の上で生本番嵌め撮り中出しに応じて居たのかも知れない。
週刊誌が、主力AV嬢の出演料が一本当たり二百万、三百万とバブリーな相場を伝えていた頃である。
当時十何万円もする家庭用のビデオデッキが飛ぶように売れて、家電メーカーはベータ方式グループとVHS方式グループに分かれて激しいシェア争いをしていた。
このシェア争いの決着は意外な所から着いた。
実は途中から裏ビデオのほとんどがVHS方式で流通した為、購入決定権者である主人がVHS方式に決めたからだった。
所がそれには裏があり、長野・山梨で多くの裏ビデオ製作ダビング業者が検挙されて、出るわ出るわVHS方式デッキばかり三百台、五百台と押収された。
そのVHS方式デッキの納入伝票から、VHS方式メーカーが特需価格として三分の一価格で納めた事で裏ビデオのシェアを抑えた戦略的な疑いを感じたからである。
大量受注を名目に自社製品を安く売っても罪にならないが、裏ビデオ市場のシェアを抑える為の綱渡りの戦略的廉価販売だったかどうかは証拠が無い。
それで個人の家電店ではビデオデッキ購入のおまけに付けたりして裏ビデオは一般家庭にまで行き渡り、何組かの夫婦単位で遊びに行った他所の家庭で、「アレの良いのないか?」を挨拶代わりに夫婦何組かの鑑賞会も頻繁に行われ、私達夫婦もしょっちゅう参加した。
その裏ビデオで映し出されるストーリー設定や性交設定は過激で、何処までがノーマルで何処からがアブノーマルかの線引き基準さえ見る人を迷わせる物だった。
それにつけても人間の性への興味が家電メーカーの市場シェアにまで影響を与えるのだから、建前と本音にかなりギャップがあり、あの頃が、その本音がもっとも滲み出た時代だった。
しかしそれもこれも後に景気が悪くなると、時を同じくして業界に対する取締りが強化され、泡沫(うたかた)の夢と消えて行った。
子供会の親達が「そんな事で良いのか」と批判もあるだろうが親達も人間で、「ベキ論」だけで抑え付けるべきではない。
そうしたエロ・ロマン時代の背景も在り、声を掛けられて一瞬「冗談か」と想った彼ら三人も、私が本気と知ると「そう言う事なら遊ばせて貰おう」と乗り気だった。
何しろ他人妻の生尻を、カラオケを謳いながら無料(ただ)で触れるなど、チョットした面白い話しなのだ。
当日は余分な事は言わずに妻にミニ丈のワンピースを宛(あて)がい、「たまには刺激的で良いだろう」とノーブラジャー・ノーパンティにさせてその子供会と言うカラオケスナックの飲み会に連れて行った。
勿論妻には声を掛けた三人との企みは内緒だったが、結婚前の付き合いの頃から私の趣味でたまにノーパンティにさせて連れ歩いて居たから、妻は多分その程度の遊びと理解したようだった。
その日は出席者も多く、十七組三十四人の大メンバーになったので市郊外の大型スナックを借り切っていた。
職業がバラバラで年齢だけが同じ位の飲み会では、どうしても女を競う部分が出て来るから街角で出くわす普段着より幾らかドレスアップして肌の露出も多くなる。
「見られたい(視線を向けさせたい)」は女性の本能だから、若い内は短いスカートを穿き、胸元を少し広げて前屈みになると半乳・乳房が露出する格好で勝負するのだ。
そんな怪しい雰囲気だから、妻のミニ丈のワンピース姿も違和感無く溶け込んでいる。
オンスケ(予定通り/オンスケジュール)通りで、悪戯(いたずら)を頼んだ連中との打ち合わせは出来ていた。
それであらかじめ声を掛けていた三人にソッと妻が段取り通りにノーパンティで在る事を告げた上で、少し妻に酒を飲ませてからカラオケのデュットに誘わせる。
飲み物の主流はビールか焼酎の水割り、女性は烏龍(うーろん)ハィが流行(はやり)の飲み物で、それに今では考えられないが、当時はまだ喫煙に対する嫌煙意識もほとんど無い時代だったから、スナック中にタバコの煙が充満していた。
妻は店までは薄手のカーデガンを羽織って来たが、今は座席の背もたれに掛けていた。
酒は行ける方の妻だから下心在る三人に調子良く酒を勧められ、機嫌良く飲んで酒が廻れば根が陽気な妻だからカラオケのデュットに誘いには快く乗る。
デュットの組み合わせが決まると妻とその相手が歌いだし、残りの二人が囃(はや)す様に両側に立って他の観客からは死角を作り、ミニ丈のワンピースを捲くり上げてデュットを歌いながらモロ生尻を撫でさせる。
幸いカラオケステージは二十センチほど一段高くなっていて、前側に高さ一メートルのスピーチテーブルが在り、背景には黒い緞帳(どんちょう)様のカーテンが引いてあり、観客側前面から妻の下半身は見えない。
突然一緒に舞台に上がった男達から、ワンピースを下からウエストまで捲くり上げられ生尻を撫でられて、歌いながらも一瞬ビクッと反応を見せた妻だった。
所が妻の歌が止まれば、スピーチテーブルの影で生尻を撫でられているなどと言う事情を知らないギャラリーから直ぐに「どうした、どうした。」と催促の合掌が巻き起こる。
妻のノーパンティは一部だけの秘密だから、騒いでモロ生尻を撫でられて居る事を周囲の母親達に知られたくない。
だから妻は、生尻に絡み付く四〜五本の手にそのままそ知らぬ顔で撫でられながらデュットを歌い続けるしかない。
つまりスピーチテーブルが視界を遮り、観客側からは下半身丸出しで弄(なぶ)られながらカラオケを歌う妻の卑猥(ひわい)な情況は見えず、「情況を知っているのは私だけ」と言う事に成る。
妻と舞台に上がった男三人の在る者は妻の尻肉を掴んで揉みしだき、在る者は生尻を撫でながら谷間の溝に指を這わせて湿った陰門に指が潜り込むのが想像出来る。
一緒に歌っている他所の子の父親は段々に尻を撫でる行為がエスカレートして妻の双尻の間に隠れる菊の蕾を撫で、私の想像通り指先が股の前まで及んで妻のザラッとした淫毛の感触と伴に二枚の肉花弁のスリットに潜り込ませて弄(なぶ)りながら歌っている。
それだって最初は妻も驚いただろうが、相手は三人で何本もの手から逃れられない状況の反面、スリル満点のシュチエーションに物凄い刺激だろうから、無理して大声を出して歌い誤魔化す様子が見えている。
その辺りは私がこの遊びを仕掛けた本人だから、デュットを組む相手の奴の肩の動きや、マイクを持つ妻が曲のリズムと別に、時々腰を浮かす仕草をして居る動きで、その指先の動きまで凡(およ)そ妻が受けている恥辱の全貌に想像が着き興奮させてもらえる。
私は水割り酒を飲みながらそうした妻の歌い難くそうな困惑顔で歌う様子を、「周囲にバレ無いか」と言うスリルに胸トキメかせて観察していた。
倦怠期だからと言って夫が構ってくれなくなれば妻だって寂しいし、逆に何と無く子育て優先で夫との性交を放っている妻も居る。
そこに倦怠期夫婦が団体で集まるのが、子供会の親達なのだ。
モテるモテないほどの話しではないが、飲み会では多少は注目されないと寂しいから、女衆は少し普段より他所の主人に馴れ馴れしくなって軽い媚(こび)を競い、服の上から胸を撫でるなど多少の事はおふざけの無礼講になってそれも段々エスカレートしていた。
そんな他所の子の父親と妻のお触りデュットが「今度は俺と歌おう」と何食わぬ顔の交代で三曲続き、その間は困惑顔をしながら歌う妻の表情が愉しめた。
替わり番こに弄(なぶ)られながら歌って妻はその刺激に耐え、三曲を何とか歌い終わってチラリと私を見ながら酒の酔いが廻ったのか、少し男の一人と縺(もつ)れる様に歩いてステージを降りた。
三曲は短いようだが、カップラーメンにお湯を入れてお預けを食う時間の三倍程度で、他人(ひと)前で密かに妻を弄(なぶ)る卑猥(ひわい)なお遊びを犯るとしては充分に堪能できる時間だった。
実はこうした飲み会のカラオケは、ギャラリーは自分達の駆け引きゲームに夢中であまり廻りは聞いては居ないし、「勝手にガナって居ろ」とばかり注目もしていない。
そう、その時はまだ僅かな仲間内の、凡そ十分間ほどの満足したスリルに過ぎなかった。
しかし妻達のグループ四人が歌い終わってカラオケ・デュットはメンバーが他の組み合わせに代わり、ステージを降りて来た妻の姿がフィと会場から消えた。
私は奇妙な胸騒ぎがして、カラオケ曲の歌声と観客の囃し声の喧騒の中、例の三人も妻と一緒に消えていたので私が探して見ると、四人ともカラオケスナックのトイレ横の物置部屋に居た。
物置部屋の床は何故か暗赤色の毛足の永い絨毯(じゅうたん)張りで、照明は六百ミリの蛍光灯W(二本)の器具だったが、それでも店内より照度はかなり明るい。
私が入って行くと、逃げ場を塞いで立って居た三人の内の一人の父親が、下半身を剥(む)き出しのまま「アッご主人、今、犯らせて貰って居ます。」と、その男は平然と言って軽く会釈した。
正直、大事な物を剥(む)き出しでブラ下げて平然としているその相手に驚いたが、良く見回すとそれを上回る状況に遭遇した。
夫の私が物置部屋に入り込んだのも構わず、止めるでもなく全裸の妻が男二人に犯られていたのだ。
それで「なるほど、小さい事で慌てても仕方が無から、この男は開き直っていたのだ」と納得した。
会釈した奴が少し私の行く手を譲ると奥が見え、今は会釈した奴と私以外に三人の男女が壁際で台飛びの台を思わせる立ち姿で密着して蠢(うごめ)いている。
暗赤色の絨毯(じゅうたん)張りの床を見ると、床の隅には男物のスラックスやトランクスなど下半身の衣料が三人分脱ぎ棄てられ、履物も四人分が転がっている。
勿論妻の、唯一一枚のミニ丈のワンピースは床に脱ぎ棄てられ、此処に居る連中は素っ裸の妻も含め裸足で、履物を履いているのは私だけだった。
照度は店内より明るいから、三人が台飛びの格好で何を犯っているかは一目瞭然だった。
眼前で想定外の事態、輪姦(まわし)が妻をめぐって進行していた。
一人の奴は壁に寄りかかり、妻は両手を開いてその男の腰の辺りの壁に手を着いて身体(からだ)を支え、その男の腹の辺りに妻の頭が在る。
壁に寄りかかった奴の左手は、妻の頭を両側から支えてリズム良く上下にリードし、妻はどうやら奴の欲棒をキャンディシャブリに咥(くわ)えているらしい。
腰を使ってクイクイと欲棒を喉の奥まで突き入れる度に、三人組みの一人のやや膨らんだ腹が妻の鼻を潰す様にクイクイと押し付けられる。
咥(くわ)えている以上は妻も空(そら)は使えないから、上半身を使ってウゴウゴと三人組みの一人の欲棒を喉の奥に必死に迎えに行く。
シャブらせて居る男の右手は、壁に突っ張る様にして肉体(からだ)を支える妻の腋の下から手を廻して妻の乳房を掴(つか)んで揉(も)みしだいている。
その相手の生身の陰茎が妻の唇を擦(こす)り、口中の粘膜を擦(こす)りながら抜き挿しされ、連れて口中から押し出される涎(よだれ)が妻の顎(あご)に垂れ下がって床に落ちて行く。
相手の男のカリ首を喉の奥まで飲み込めば、流石(さすが)に「オェッ!」と苦しいが、口をすぼめて咥えた三人組みの一人の欲棒に歯を立てられないので、妻は涙を流しながら我慢する。
三人組みの一人の奴の欲棒を咥(くわ)えた妻の口元で、唇を擦(こす)りながら唾液に濡れ光る陰茎が生々しく見え隠れしている。
当然ながら、三人組みの一人の奴の腰の動きに連れて奴の坊主頭・海綿体のカリ首が、妻の口中でまで届いて口蓋垂(こうがいすい/喉チンコ)を押し分け、一人の奴の欲棒根元の恥毛が妻の唇に容赦無く押し付けられている。
これは男性が女性に対する征服欲を満たす行為としては一種の服従儀式で、喉の奥まで欲棒を挿し込む行為は中華大陸で一般的なので大陸式フェラチオとも呼ぶ。
だからこの大陸式フェラチオは単なるおシャブリ以上に過激だが、その方に服従するお遊びのSEXを、これから始める「挨拶代わりの覚悟のしるし」と言う事になる。
至近距離で斜め下方を見下ろす私の目に、首を固定した形で上半身を使ってリズム良く妻の頭が上下しながら欲棒をシャブっていて、その口元に濡れ光る陰茎が見え隠れしている。
私が少し腰を落として覗き込むと、せわしなく頭を上下に振っている妻の口元で奴の陰茎が見え隠れし、欲棒を咥(くわ)えた顎(あご)の下で、肉玉袋が踊っている。
欲棒を咥(くわ)えた妻の口元からは白濁した涎(よだれ)が唇から溢れ、床に糸を引いて垂れ流がされている。
そしてもう既に、妻はもう一人の奴に欲棒を柔ら壺に突き入れられ、後ろから抜き挿しされて責められていた。
もう一人の奴は、前屈みにフェラチオをして居る妻の白くコンモリと二つの丸みを魅せる生尻に後ろから取り付いて秘所の柔ら壺に欲棒を挿し込み、腰を使ってクィクィと抜き挿しをして居る。
背後からクィクィと突っ突かれる度に、下を向いた妻の乳房がリズム良く躍(おど)って観えている。
こちらも私に「どうだ。」と言う様に、妻の恥部で愛液に濡れ光りながらの陰茎を生々しく見え隠れさせている。
妻の湿(しめ)った柔ら壺の内壁を、奴の張りつめたカリ首が調子良く擦(こす)っているに違いない。
前屈(まえかが)みの妻の白くコンモリと二つの丸みを魅せて突き出された尻の谷間の恥部に、ズブリと柔ら壺に挿し込まれた欲棒が愛液に濡れ光る陰茎を見せながら抜き挿しされているのを見れば、それは誰だってエキサイト(興奮する)。
欲棒を挿し込まれた妻の突き出した股座(またぐら)の恥部を丸出しに、その男は生々しく腰をクィクィと使い妻は善がり声を挙げながら愛液を滴(したた)らせて腰で応じ、抜き挿しを続けている。
犯っている奴の抜き挿しの腰の動きに共鳴して、下半身の一点で繋がった肉体(からだ)と肉体(からだ)がシンクロ(連動)して打ち震え、明らかに妻は感じていた。
私に見られていると言う刺激が強いのか、堪らず妻が善がり声を張り挙げると、犯っている奴の腰の動きは一層激しさを増し、パンパンパンと妻の尻に男の下半身が音を立てて突き当っている。
妻の声も、男の欲棒を咥(くわ)えたまま、犯っている奴の腰の動きに応じて、「アフン、アフン、アフン。」と口の隙間でリズミカルに鳴いている。
ハァハァと荒い息使いが欲棒を咥えた口から洩れるその恍惚の表情は、私が始めて目にする妻の別の女の顔だった。
男の腰が軽快なリズムを刻(きざ)んで、後背位で妻の肉体(からだ)の中心を貫抜いた欲棒の陰茎が、愛液に濡れ光って深く浅く見え隠れしている。
これは凄い見世物だが、正直妻が涎(よだれ)を垂(た)らしながら大口を空(あ)けて善がり犯られていても、妻の抑圧されて居た本能が剥(む)き出しに成っただけだ。
どうせ現代人は溢れるストレスの中、僅かな幅の塀の上を歩いて正気と狂気の堺を彷徨(さまよ)っている。
だから私が、随喜の刺激に顔を歪(ゆが)ませる妻から目を背(そむ)ける事はないだろう。
坊主頭のカリ首に肉体(からだ)の中心を貫かれてしまえば一瞬で心境に変化が起こり、警戒心で入った妻の力は抜けて行く。
現実にもう皆の前で犯られちゃったのだから気取っては居られず、妻も覚悟を決めて本気モードのスイッチを入れるしかない。
当たり前の事だが、性行為は観るにしても犯るにしても、勿論、犯られるにしても下品な方が人間は興奮する。
まぁ元々上品な性行為など無いのだから、依り下品を追求しながら妻を犯る彼らの愉しみ方が正しいのかも知れない。
それにしても、尻を突き出して大股開きに開いた妻の女陰に赤の他人の欲棒が挿し込まれ、陰茎を愛液で濡れ光らせて肉花弁を巻き込みながらリズム良く抜き挿しされている。
バック攻め独特のブシュ、パン、パン、ブシュ、パン、パンと言う妻の尻肉がリズム良く発する連続音が、激しくこのトイレ横の物置部屋に響き渡って、店の方がカラオケの賑わいが無ければ聞こえている所である。
赤の他人に遊びで犯られて居るのが妻だけに、その様は私には生々しく鮮烈な胸締め付けられる光景である。
しかしその抜き挿しされる妻の股の光景を、止めもせずに怪しく目を輝かして私が観ていたのも事実である。
妻を中心とした三P(三人プレィ)は、「信じられない」などと言うレベルの状態では無い。
妻は前屈みに壁に手を着いたまま、股間に一本、口に一本、肉杭(にくくい)が射(う)ち込まれていて身動きが取れないまま、二人連動の鮮烈な抜き挿しに耐えねばならない。
それこそ私の目の玉が飛び出て心臓がバクバクするほど脳にドーパミンが噴出する正に仰天(ぎょうてん)の光景で、まるで当時家庭用ビデオデッキの普及で流行り出した裏ビデオの光景である。
三Pに拠るマルチタスクSEX(同時実行性交)は絶景と言えば絶景だが、それに加える事に自分の妻が行為の主役となると、微妙な気持ちを加味した興奮も湧き上がる。
その時ちょうど、妻の尻に取り付いて欲棒を抜き挿ししている奴の細君のカラオケ・デュットの歌声が、そしてもう一人シャブらせて居る奴の細君の囃(はや)し声が、知らぬが仏でドア越に漏れ聞こえて来た。
それが「銀座の恋の物語」と酷く古いナッメロだったのを覚えていた気がする。
前の男が射精したのか、今の男の抽送する陰茎の見え隠れと伴に白い精液が隙間から湧き出し、妻の太腿(ふともも)に筋を作りながら床に滴(したた)り落ちている。
勿論、愛妻に対する生尺・生姦中出しの複数同時姦を見たのは生々しい初体験だった。
しかし私は、その僅か七分間ほどの想定外の見世物に胸キュンと成ったのだから始末に負えない。
ほんのチョット悪戯(いたずら)をする筈が、此処まで行ってしまえば私ももう笑うしかない。
この事態を「自分の悪戯(いたずら)が誘発した」とすれば、何おか言わんやである。
流石(さすが)に此処に到っては、文句は言えない。
原則ルールとして、ノーブラジャー・ノーパンティで好意的に妻を貸したのであるから、多少羽目を外して妻に何を犯らせようが借りた方に使用権がある。
こんな行為が仲間内に知られたら取り返しが着かない醜聞で、つまり私個人の怒りより夫婦として仲間内への隠蔽を咄嗟に優先させた訳である。
それにしても、目の前で愛妻が一人の奴におシャブリしながらもう一人の奴にバックで犯られていて驚愕し、怒るより先に突き抜けた笑いになってしまった。
良くも犯ってくれた物だが、ここで腹を立てても仕方が無く、世の中は感情的になると必ず負ける。
男性は、事に当たっては懐の深さこそが重要で、女性は如何なる状況にも順応する能力こそ、世渡りには必要である。
ここで私が融通の利かない拘(こだわ)り男なら、家庭を簡単に壊していたかも知れない。
まぁ考えて見ればモロ生尻を撫でさせ、二枚の肉花弁のスリットに指を潜り込ませて弄(なぶ)らせて置いて、それでお仕舞いでは奴等の興奮が収まらない生殺しで、結果こうなって妻が犯られても仕方が無い所である。
男を誘うフェロモンをぷんぷんさせて、それが「自分の魅力だ」と勘違いしている女性が多いが、それで誘発されるのは欲情だけで愛情ではない。
勿論フェロモンをぷんぷんさせて置いて、そ知らぬ顔で責任を取らない女性はろくな人生を送った試しはない。
妻は夫に命じられたとは言え、ノーブラジャー・ノーパンティで白い尻を他人に弄(なぶ)らせ、フェロモンをぷんぷんさせていた。
いずれにしても此処までお膳立てが出来てしまえば、妻は三人組の要求に空(そら)を使っては居られず、腹を括(くく)ってけじめを着けねばなら無かったに違いない。
これは行きがかりで起こった事故の様な輪姦三P(三人プレィ)で、無理やりに犯らせる訳ではないから、犯る犯らないは妻の意志次第である。
妻に言い聞かせていた持論だが。
強姦被害に命を賭けるほど抵抗してしてまで、貞操は守らなければ成らないものではない。
そんな被害は夫が即座に赦すべきもので、つまり情が関わら無い性交に嫉妬を含む痴情が在る方が、異常心理ではないだろうか。
そしてまぁハプニングだからこその興奮で、予め想い付く事ではこれ程の衝撃は無く、その妻の三P(三人プレィ)陵辱姿を見て、私の欲棒がスラックスの中で硬く勃起した所を見ると、「刺激を得る」は一応大成功した事に成る。
まぁ、予期せぬ意外では在ったが、「経験は、人を育てるもっとも大事な代償だ。」と思えばそれも良い。
人間って咄嗟(とっさ)の行動で日頃想っても居ない結論を出す。
奇妙な事だが、私は妻が二人を相手に犯られている刺激的場面をドア内に下半身を露出したまま立っていた奴と、並んで眺める格好になった。
奴つは倉庫の棚に並んで積み上げられている灰皿を一つ外して来て壁際の棚に置き、タバコの煙をくゆらせていたが私にも一本勧めて百円ライターで火を着けた。
受け取って咥えたタバコの息を吸い、奴つのライターから火を移すと「お宅は順番待ちかね?」と聞いた
「いぇね、こ奴(い)つはもう真っ先に奥さんの口とあそこに御厄介に成りました。良かったですよ。」
と、応えながらその男は、股下にぶら下がる欲棒を覗き込みながら腰を振って、半ば萎(しぼ)み始めた坊主頭のカリ首を踊らした。
「終わっているのにその格好か?」
「そりゃ終わったからと言って、まだ仲間が犯って居るのに自分だけサッサと服を着る訳には行きませんワ。気分壊すでしょ。」
どうやら私が妻を犯って居るこの奴らを見つけた時、「犯らせて貰って居ます。」と挨拶したこ奴が多分リーダーで、真っ先に妻にシャブらせて犯したらしく、もう既に犯り終えて眺めていたのだ。
カラオケ店の方は賑やかで、全裸でシャブりながら犯されて悶えている妻の姿態には似合わない天城越えの唸り声や氷雨を情感タップリにシットリと歌うカラオケの声も、ボリューム大きく物置のドア越に聞こえて来る。
行きがかりみたいな物だが、「最初に犯り終えた」と言うそ奴つと二人で妻が奮戦する三P(三人プレィ)陵辱姿態を、タバコをふかしながら眺める羽目になった。
その妻の奮戦を眺めながら奴が話すに、カラオケ・デュットを歌いながら後ろ尻から股越しに前に回した指で二枚の肉花弁をクチャクチャと弄(なぶ)った所、その妻の秘所が段々に潤んで来た。
それで、「これなら行ける」と想い、「奥さん、この場でワンピースを取り上げられて全裸ストリップを会場で披露するか、俺達に着いて来るか。」と囁(ささや)いて脅し、「ストリップは嫌」と言うので「それなら着いて来い」と物置部屋に連れ込んだそうだ。
カラオケを歌いながら妻の膝を撫でた男の手が、太腿(ふともも)に触(ふ)れながら股の付け根に這い上がり、二枚の肉の花弁に指先が触(ふ)れる。
一瞬は驚いた妻だったが、ノーパンティで店に来た事を周囲の母親達に知られたくないから耐えるしかない状況だった。
触られても指を入れられても耐えるしかないその衝撃的な刺激に脳が欲棒の受け入れを意識してか、二枚の肉花弁のスリットの奥は既に淫液に潤んでいたらしい。
まぁその時の妻が、それなりの表情をして居るから「このまま犯ってしまっても、そう心配する場面でもなさそう」と奴ら三人は判断したのである。
こう言う状況下で、「嫌や」と言う「右脳域の感性」の心理心情だけで自分だけ安泰に逃げるのは卑怯(ひきょう)である。
だからこそ今でもそれを受け入れる覚悟をした妻のあの鮮烈な陵辱輪姦光景は、私の目に浮かんで来る。
まぁそ奴(やつ)曰(いわ)く、妻が男好きする顔立ちで「旨そうだから一度お願いしたい」と予(か)ねて心中狙っていた所にその亭主(私)から「この話が来た」と言う「言わば飛んで火に入る裸同然」で引き渡された訳である。
妻を物置部屋に連れ込んだ三人組のリーダー男が、最初に犯ったのが貞操観念を忘れさせるポルチオ攻めの秘儀だった。
リーダー男は、妻を全裸にヒン剥(むく)くと、くの字に壁に手を着いた前倒しの姿勢をさせ、生尻を突き出させて後ろから柔ら壺に指を二本挿し入れた。
この指の根元まで挿し込む手淫は、妻のポルチオを刺激して悶絶(もんぜつ)直前まで追い込む目的の行為だった。
ポルチオとは、膣(ウァギナ)の奥の方に存在する、「子宮口(子宮の入口)」の事で、「Gスポットの何倍も気持ち良い」と言われている強烈な快感を感じる事のできる性感帯である。
指先がポルチオを弄(いじ)れば、もぅ妻の全身の力が抜けて後は快感を貪(むさば)るだけの淫女に変身する。
本来ポルチオは、欲棒のカリ首が突っいたりカリ首エラが擦(こす)れたりの感触に反応する事に優れて存在している。
この性技に掛かったら、余程鈍感な女性で無い限りは全身が性感帯に成ったがごとき猥褻(わいせつ)な感覚に善がり身悶(みもだ)える事になる。
物置部屋に連れ込んで三人で犯る何てかなり理不尽な事態だったが、妻は負けず嫌いだからどんな時にも弱気は出さずに肉体(からだ)ごと立ち向かって行くタイプである。
「奥さんの度胸には参りました。三人だけなら騒がず犯るから此処だけの事にしてくれと言われたんですよ。」
「それで、あの様(ザマ)か・・・。」
話しながら見ている内に、バックからクィクィと妻を責めていた男が私の目の前で「ウッ。」とフィニッシュ迎え妻の肉体(からだ)を離すと、今度は欲棒をシャブらせていた男が妻の口から引き抜いて「俺の番だと」と後ろに廻る。
妻の柔ら壷の中に、興奮でパンパンに肉エラが張ったカリ首がヌュルリと押し入って来て、内壁をリズム良く擦(こす)り始め、 妻は湧き上がる快感に想わず身悶(みもだ)える。
妻は、くの字に壁に手を着いた前倒しの姿勢のまま、生尻を突き出した態勢を崩さずに待ち受けて、シャブらせていた男の抽入を受け入れ、再びクィクィと抜き挿しされる刺激に善がり声を抑えて顔を歪(ゆがま)ませている。
クィクィと抜き挿しが始まるとそこに意識が集中して「アァ、入って来る。アァ、引き出される。」と、肉カリ首が内壁を擦(こす)る刺激を、妻は目一杯感じていた。
三人目の男の激しいピストン運動に妻の顔が歪みながら左右に嫌々をし、股間にリズム良く抜き挿しされるその淫茎は抜き状態では濡れ光り見え、挿し状態では根元近くまで中に達している。
男達に無遠慮に犯られ三人目とも成ると、妻はセックスハイ状態に到達して善がり声を挙げ、素の女性(おんな)を曝(さら)け出す。
三人目の男が、壁に手を着いた状態の妻を後ろからクィクィと攻めて居る。
「**さん、奥さんの片足を持ち上げて入っているところを御主人にお見せしろよ」とリーダー男が三人目の男に声を掛けた。
妻を後ろから攻めて居た三人目の男が、欲棒を妻の中にクィクィと抽送しながら、「そうだ、この方が御主人に良く見える。」と妻の片足をグィと持ち上げた。
片足を持ち上げられて、モシャツとした恥毛の陰りを見せる妻の股間に、その男の青筋が立つほど硬くそそり立つ陰茎が突き刺さり観えている。
男の名刀(欲棒)の陰茎が妻の善がり声をBGMに、愛液に塗(まみ)れて濡れ光ながら生々しく観え隠れして居る。
リーダー男は、「どうです、あの体勢なら良く見えますでしょう。」と言いながらニヤケタ顔を妻の股間に向けている。
三人目の男が、いささかアクロバチックな体勢で欲棒を妻の中にクィクィと抽送しながら、「御主人、良く見えますでしょう。」と笑っている。
明らかにその男は自慢の名刀(欲棒)をクィクィと妻へ抜き挿しする光景を亭主にモロ見せにする快感を愉しんでいた。
タバコの煙をくゆらせながら、「女性は一度に何人とも犯れますから、羨(うらや)ましいですよ。」と、リーダーらしき奴が私に言う。
目の前で、三人目の男の張り切った坊主頭の肉カリ首が、濡れて光る陰茎が、妻に生々しく抜き挿しされる状況を眺めながら、「そりゃ確かに、男性は連発が利かない。」と私は応じた。
「でしょ、女性はマックス(絶頂)状態で相手が次々に替われば、快感の継続を味わえる。本人には堪らない快感でしょうね。私が最初に犯って奥さんをマックス(絶頂)追い込んだから、後の二人に犯られる奥さんはイキ放しですよ。」
確かに妻は、この物置部屋に私が入って来て先程から他所(よそ)の男との性交を眺めているのを知りながら、私の視線を意識する余裕も無く涎(よだれ)を垂らし愛液を滴(したた)らせながら悶絶の表情を浮かべて快感に酔い痴れている風情である。
「本人がそれを愉しんでいるなら、邪魔もできないな。」
「そう言う御主人も、結構愉しんで御覧に成って居るじゃないですか。あぁ言う依頼(生尻撫ぜ)をしたんだから、御主人の究極の願望はこれ(他人と犯らせて眺める)だとすぐ判りましたよ。」
そう指摘されれば、不道徳と非難されるかも知れないが、しかし妻が他所(よそ)の男と性交している場面を見せ付けられて、自分の欲棒が勃起し始めているのだから、男の生理は不思議な物だ。
此処が肝心な所だが、元々男性が欲棒を勃起しなければ性交は成立しない。
勃起は何も子を為さんと意識して起きる現象では無く、言わば「嫌らしい」と表現される卑猥(ひわい)な感性から勃起するもので、性交の言い訳に使う「愛情」などでは勃起などしない。
性に関しては「変態大いに結構」が本質で、性交を依り興奮に導くスパイスに必要なのがアブノーマルな行為であるならば、人間はそれを空トボケて「嫌らしい」と非難できるのだろうか?
タバコを咥(くわ)えたまま、屈(かが)み込んで接合部分を覗くと、私の目の前で妻の股間を貫(つらぬ)く硬く勃起した欲棒が、妻の柔ら壷を生々しく犯している。
他人の欲棒が、妻の肉花弁をヒク着かせ、艶(なまめ)かしく濡れて鈍く光ながら妻の柔ら壷を深く浅く出入りするのが手に取る様に判る。
「アッ、アッ、アッ、アッ。」
パンパンと腰を使う男のリズムに合わせて妻が発していた声が、何かの変化で少し音色(ねいろ)を変えた。
私が入って来た事を自覚したらしく、脳への刺激が強く成ったのか妻の腰が怪しく微妙な動きを始め、快感を追うように動いている。
「アァ、アァ、アァ〜。」
その善がり声とともに妻の汗が飛び散り、意外な事に、妻はもう周囲の事など忘れて自ら受け腰を使い快感を貪(むさぼ)っている。
妻の表情が、不謹慎とも言える無軌道(むきどう)な連続輪姦の責め苦に、何時の間にか私の欲棒を勃起させるほどシンクロ(連動)させ、何とも艶(なまめ)かしい恍惚(こうこつ)の表情に変わっている。
輪姦(まわし)と言うアブノーマル(異常)な狂気を内在する性交は、妻の脳内に噴出したドーパミンの興奮で一層の激しさを益したのだろうか?
男達の妻への欲棒の抽入と抽送は、妻の愛液に濡れた股間をズブリズブリと生々しく串刺しにして深く浅く陰茎が見え隠れするを私に見せ付けながら続けられ、絶頂の連続と言う責め苦にあえいでいた。
こんな快感は、世間の女性は一生の内に何度か経験したい事かも知れないが、もしかするとチャンスに恵まれないから知らないだけかも知れない。
性交スタイルが代わり映えしなければ幾ら美人や美男子相手の性交でも、度かさなれば日常化するから自然に飽きるもので、乱交など「在り得ない」と否定するのは簡単だが、「〜に決まっている」は禁句で、何事にも想像力が無ければ人生は愉しめない。
人類の元々の自然な資質を考察すると、人類学上では「群れ社会性の生き物」で、当然ながら本能的には「群れ婚」が基本で、勿論個人差は在るが人類の生い立ち経緯そのものと関わる原資生殖習慣には「群れ内乱交状態」が永く続いた種である。
つまり人類の記憶の中には、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などの行為はけしてイレギラーでは無かった。
しかしこう言う事(他人との性交)をするには、女性は自尊心の為に事情が在って「仕方が無かった」と言う言い訳が欲しい。
そして「犯る」と決めてしまえば、性行為に「どこまでは良くて、どこからは悪い」と言う線引きなどは無い。
だから「仕方が無かった」と言う言い訳があれば、実の本音は「かなりのスケベじゃないのか」と思えるほど他人(ひと)には言えない様な卑猥(ひわい)な事も、何故か結構アッサリ犯ってのける。
輪姦(まわし)の場合は、突き立てられた欲棒が絶頂に達して力を失っても、直ぐに引き抜かれて又次のいきり立つ欲棒が突き刺さって来て抜き挿しが始まる。
だから一旦治まりかけた妻の絶頂は継続し、休む間も無く肌に汗を滲ませ、その汗を光る雫(しずく)にして床に滴(したた)らせる。
欲棒をズブリと咥(くわ)え込んだ妻の腰が、目の前で生々しく踊っている。
今、男達に肉体(からだ)を弄(もてあそ)ばれながら股間に欲棒が抜き挿しされる生々しい情況に、夫である私の視線が注(そそ)がれている事を、妻は自覚しながら犯されていた。
非日常の刹那を愉しむ性交など本当は「有り触れた話」なのに、何故か「特別なものだ」と信じたがる狡(ずる)さが人間にあるのかも知れない。
遊びの性交ならエゲツ無いほど中身が濃くなり、最後の所で節度を保てば後はどんな卑猥(ひわい)な事を手加減や妥協が無い真剣勝負でさせても良いのが遊びの性交で、妻は抗(あらが)う事が無い性玩具(おもちゃ)と言う被支配状態だった。
恍惚(こうこつ)の表情を浮かべ絶え間ない善がり声をあげて腰を使い、奮戦する妻の痴態(ちたい)を目撃し、私はモヤモヤとしたエロス効果に入り込む奇妙な感覚に襲われていた。
考えて見れば「馬鹿な事を・・・。」と批判するのは簡単であるが、人間の感性は算数ではなく、辻褄が合わない事をするから息抜きが出来る。
まぁ大概の女性は、亭主公認なら世間体(せけんてい)の心配さえ無ければ自尊心は「仕方が無かった」と納得して、実は性交への興味は「相当強い」と言う事である。
仲間内のお遊びで、諸出(もろだ)し諸見(もろみ)せで「他人前(ひとまえ)で性交して見せる」と言う同じ事でも、心の持ち方で受け取り方はポジティブにもネガティブにもなる。
勿論ポジティブが大事で、輪姦(まわ)掛けに遭ったら此処では一人終われば「有難う御座いました。」と礼を言い、また次の男に股を開くルールだ。
乱交が続き、相手の数が多ければマックス(絶頂)に追い込まれてからの犯られて居る時間が永いのだが、根性の粘り腰で性交を続け非日常の刹那を愉しむ。
口もあそこも二本の欲棒で塞がって、なるほどこうなってしまえば、妻は勢いで犯られるだけで周囲の視線などは気にしては居られない。
その最中は、性交の快感に翻弄(ほんろう)されるだけである。
短い様な永い様な時間が流れ、二番目に犯り終えた方の奴が一呼吸してから私に挨拶に来る。
「あっ御主人、快適に犯らして貰いました。奥さん流石(さすが)ですね。それに御主人の前で犯るのは興奮します。」
その言葉に、リーダーと思しき奴が口を挟む。
「だな、確かに快適な犯り心地だった。」
目の前で、妻が壁に手を着いた形でバックから欲棒をクィクィと打ち込まれ、乳首が立った柔らかそうな乳房を揉みしだかれて身悶えている。
つまり妻は、為す術(すべ)もなく見守るしかない状況で、今は最後の奴と「快適」に犯っている事に成る。
「私はここまで犯らせる気はなかったけどな。」
「そうは言っても、この悪戯(いたずら)を仕掛けたのは御主人じゃないですか。立派に共犯ですよ。」
「そりゃ今更怒ってもどうにも成らないがな。」
「雄が雌を見る目と言ったら、例え衣服の上からでもこの雌は好いケツをしているなと見るのが正しい見方で、興味を示さない方が失礼でしょう。」
「まぁ、雌を見て色々と想像するのが発情の第一歩と言う事か?」
「えぇ、その雌がノーパンティで生尻を触らせたら、雄は欲情を押さえ切れませんょ。」
リーダーと思(おぼ)しき奴からタバコを受け取り火も着けてもらった二番目の奴が言う。
「まぁ、良いじゃないですかたまにはこう言う遊びも。奥さんも直ぐに犯ると承知した事だし。御主人も良い見世物を愉しんだのですから。」
「そりゃ確かに興奮する見せ物だったが・・・。」
「男は見て興奮し、女は犯って興奮するのが性分ですからね。」
こう言う事は気分の問題で、確かにもうかなり犯ってしまった後だから遊びで乗っている所をぶち壊しても何の得も無い。
明らかに最後の奴が犯る現時点で止めたら妻ともこの男達とも波風を立てる事になるから、現実を受け止めて「気にしない風」を装って黙って黙認するしかない。
目の前で起こっている妻の同時進行形のコレクティブセックスプレィ(集団乱交)を、今更中途半端に中止させた所で仕方が無いのだ。
まぁ考えるに、男性は昔から好き勝手に犯っていたのだから、この御時勢で未だに女性側だけに貞淑を求めるのはナンセンスで、「妻にも愉しむ権利」は在る。
だったら夫婦共犯で遊んだストレス解消の方が、隠し事でないだけ益しである。
「御主人から悪戯(いたずら)の話を貰った時に、幸いお誂(あつら)え向きな物置が在ったのを思い出しましてね。」
「それじゃぁ最初から予定していたのか。」
「いぇね、それもお触りしてからの奥さんの反応次第と言う事で、これはもう後は奥さんが承知するかしないかの事だったのですよ。」
そう言えば今、タバコをくゆらしながら私と一緒に最期の奴が妻を犯るのを見ているこのリーダーらしき奴が、この郊外大型カラオケスナック店の常連だった。
今日をこの店に決めていた本人だから、四畳ほどの広い物置部屋を始め店内の様子は誰よりも熟知していた。
咄嗟(とっさ)にしては段取りが良かった筈である。
犯って愉しくなるのが性交で、愉しくなければ本当の性交ではない。
人間は面白(おもしろ)い生き物で、妻がこうもアッケラカンと「輪姦性交で皆に犯られてしまう」と返って後味が清々(すがすが)しく、性行為の陰湿さなど吹き飛んでしまう心境である。
三人目が犯り終えると、妻の愛液と混ざった三人分の白濁した液が、尻を突き出した妻の柔ら壺から滲(にじ)み出し、太腿(ふともも)を伝って生々しく床に滴(したた)り落ちていた。
妻の唾液に濡れて、口元で見え隠れするおシャブリの陰茎と、打ち込むように突かれて愛液に濡れ光ながら見え隠れするもう一本の妻を犯す陰茎・・・。
コレクティブセックスプレィ(集団乱交)の光景は確かに修羅場だったが、その衝撃の光景に私はむしろ感動さえ覚えて事態を容認して居た。
そして三人に犯られ終えた妻のあそこは、まだ使い終えたばかりの余韻を晒すように、まるで湯気が立って私には見えて居た。
「どうです。こんなの見せられちゃ御主人もチ*ポがギンギンでしょう。ついでに、このまま奥さんに四本目をシャブらせてみませんか?」
指摘されたように私の愚息(欲棒)は立派にイキリ立っていて、確かに治まりそうも無い。
それで愚息(欲棒)を自分で引っ張り出し、最後の男と入れ替わりに空になった壁に寄り掛かって妻の前に愚息(欲棒)をぶら下げた。
そして何の躊躇(ちゅちょ)も無く、妻はパクッとそれを咥(くわ)えてジュポジュポとテンポ良くシャブり出した。
妻にとっては今までの続きのような気分だったのかも知れない。
欲棒にヌメヌメとした感触が続き、脳天にズンと快感が伝わって来た。
リーダーらしき奴が、「どうです。私がコイツで攻めて、少し感度を上げも良いですか。」と指を二本揃(そろ)えて私に指攻めの了解を促(うなが)した。
シャブらせながら、「後ろから指を挿し込んで妻を攻める」と言うのだ。
「えぇ、どうぞ犯って下さい。」と私は応じた。
素っ裸でこの場に居るのだから、妻も此処まで来てしまえばマナ板の鯉で、今更プレィに抵抗は見苦しい。
結局の所、「どうにでもしろ。」と覚悟を決め、股を開いて相手の行為を待つ以外の選択枝は無い。
妻は私の腰の辺りに壁に両手を着いて、足を左右に開いて踏ん張りながら私の愚息(欲棒)をシャブって居て、リーダー男に秘所丸観えの体制だった。
「御主人のチ*ポをシャブっている奥さんに指攻めを犯るなんて、興奮するな。」と顔をニヤつかせて口元を緩(ゆる)ませた。
それは確かに、条件的に滅多に犯れない遊びで在る事は間違いない。
それが涎(よだれ)が出る程に極上の陵辱プレィの愉しみ方である事は、男性の私には良く理解でき認めざるを得ない。
「それではお借りしますよ。」と言いながら、私の目の前で妻への生々しい指攻め陵辱プレィが始まった。
股間を眺めながら指先で淫毛に隠れた実(サネ/花芯ボタン)を弄(なぶ)り、二枚の肉花弁を押し広げ刺激を加えて柔ら壺の中をの潤ませる。
もっとも三本も受け入れた後だから湿り気は充分で、その妻の肉花弁の中に、リーダーらしき奴は人差し指と中指を揃えて挿し込む。
挿し込んだ二本の指を中の感触を確かめる様にユックリ抜き挿しをしながら、刺激を感じる妻の顔の少し歪み気味な表情変化を眺め愉しんでいる。
目の前で妻の柔ら壺に他人の指が抽入され、スナップ(手首を捻って効かせる)が利いた手首と肘(ひじ)でリズム良く抜き挿しされている。
妻の尻越に、愛液塗(まみ)れの二本指の揃(そろ)えられた根元が、リズム良い抜き挿しに応じて見え隠れしている。
リーダーらしき奴は、妻の反応が愉しみだから、グィグィと攻め立てながら一気加勢に追い込んで行く。
感じているのか、私の愚息(欲棒)をシャブる妻の顔がクシャクシャに歪(ゆが)み、口元の愚息(欲棒)の隙間からから「アァァァ〜。」と善がり声が漏れ、腰も抜き挿しのリズムに合わせるかのように見えている。
妻の柔ら壺に挿し込まれたリーダー男の指先が、コリコリとポルチオを刺激している。
膣(ウァギナ)の奥、子宮入口の、指で触るとコリコリ感触がある突起物が、「女体で最も敏感」と話題の性感帯・ポルチオである。
指先がポルチオを弄(いじ)れば、もぅ妻の全身の力が抜けて後は快感を貪(むさば)るだけの淫女に変身する。
妻のヒィヒィと言う善がり声を聞きながら、リーダーらしき奴はその二本の指抜き挿しのスピードを徐々に速め、グィグィと妻のポルチオを弄(なぶ)って行く。
やがて抜き挿しに応じる様に妻の腰が浮いて、リーダーらしき奴の二本の指の抜き挿しに卑猥(ひわい)に呼応する。
その妻の反応を見ながら私は極度に興奮し、「ウッ。」とイッテ、妻の口中に射精した。
そのおシャブりの間は、僅か二〜三分の事だった。
それにしても、スリルを愉しんでの遊びだから、妻が物置で三人に輪姦(まわ)された事を「当事者以外には察知されたくない」と言う別の心配も在る。
幾ら何んでもこの事態を子供会で表沙汰にする訳に行かないから、この五人が、何時までもカラオケ会場に居ない事を他の皆に気付かれては下手(まず)い。
それで私が「犯り終わったなら他の者に知れると拙(まず)いから一度席に戻れ」と声を掛け、犯る事を犯った三人がまずはカラオケ会場に何事も無かったように帰って行く。
食欲も性欲も基本の感性は似たような物で、見た目も味も同じ定食を毎回食べ続けていれば飽きも来る。
そう言う意味では、このファプニングは新鮮だった。
三人組を店内に帰すと、私は妻の目の前でスラックスのフアスナーを降ろして一度しまった欲棒を取り出して鼻先に突き出した。
「もう一度シャブって・・・。」
私は、あれだけの刺激的な光景を観た後の興奮で、待ち切れない性交衝動に襲われていたのだ。
フアスナーを降ろして取り出した私の欲棒は、痛いほど充分に膨張を果たしていた。
妻は直ぐに膝間着いて、その膨張した私の欲棒を咥えてグィと飲み込みアグアグとシャブり始めた。
欲棒を四〜五回、「大陸フェラチオ」で喉の奥まで飲み込んでいきなり口元でネットリとシャブったり、唇(くちびる)とカリ首のエラを擦(こす)ったりがリズム良く続く。
何時何処(いつどこ)で覚えたのか、喉の奥まで飲み込まず口元でシャブる時には、カリ首の根元を舌先で舐(な)め廻して来る。
妻のおシャブりは気持ちは良かったが、気が急(せ)いていた。
私は無言で妻の口から欲棒を引き抜き、立ち上がらせて妻に先程来の壁に手を着く姿勢を執らせ、後ろから取り付いてスカートを背中まで捲くり挙げ、先程男三人に抽入されたばかりの妻に自分の欲棒の抽入を果たした。
物置での妻への輪姦(まわし)が図らずも「夫婦性交の前技」と成ったが、散々燃え上がった後の事で妻の肉体(からだ)の感度はマックス(絶頂)状態で充分に興奮している。
正直僅か三分間くらいのワンラウンドだったが、普段の夫婦間の性交とは比べられないほどの高感度ハイテンションの性交感覚が夫婦伴に得られてのは確かである。
何、夫は妻が犯られているのを観て興奮し、妻は犯られて居る所観られて興奮するのは「変態夫婦じゃないのか?」ってか。
チョットまて、見て興奮するは男性の基本的本質で、見られて興奮するのは女性の基本的本質である。
それに女性は、肉体構造に於いても「受け入れる」が基本であるから、「犯るよりも犯られる」が通常の感性で、その犯られる感性が薄い女性はあまり女性的で無い。
それよりも、何の倦怠期打破努力もせずに只々夫婦を理由に体良く独占欲で縛り着けて置いて、連れ合いに内緒で外で遊んで来るとしたら、それこそ変態夫婦じゃないのか?
また倦怠期打破努力もせずに夫婦間の性交が没交鈔に成ったSEXレス夫婦が急増しているそうだが、それらは「まともな夫婦と言うのだろうか?」いや、それこそ生物学的に変態夫婦じゃないのか?
自分の妻が三P(三人プレィ)を犯る何てビックリだが、後で妻に聞くと勢いが着いた男三人に物置部屋に連れられてアッと言う間に「ああ言うプレィに持ち込まれた」と言う。
物置部屋に連れ込まれた妻は、着ていたワンピースを慌(あわただ)しく捲くり挙げられて全裸にされると、そのまま膝間着かされてリーダー男の欲棒を咥えさせられ、腰を使って口中を突(つつ)き回される。
リーダー男の欲棒が妻の口中で硬さを益すと、もう一人の男が寄りかかる壁に連れて行かれ、その男の腰の当たり左右に手を着かされて欲棒を咥えさせられ、その体勢で後ろに突き出した妻の尻にリーダー男が、有無を言わさず捻じ込んで抽送を始めた。
まぁ半ば合意の上にミニのワンピース一枚脱がせば事が足りるのだから、なるほど、そこまで行ってしまえば妻も「犯られるきゃ無い。」だろう。
奇妙な事だが、周囲がその方向で進んでいるこんな時に嫌がって抵抗し断固犯ら無い方が真面目なのか、それともその場の空気に応じて懸命に犯るのが真面目なのか、冷静に意見が分かれる所である。
物置部屋に誘われたのは咄嗟(とっさ)の事だが、その悪戯(いたずら)を仕掛けたのがノーパンティにさせた主人の私だと妻は薄々気付いて、「此処で騒ぐのは得策で無い」と判断した。
揉める位なら「このまま犯らしてしまえ」と腹を括(くく)ってしまえば、後は普段経験できない快感を貪(むさぼ)るだけで、そう特別な事と騒ぐ事はないのである。
妻の判断はまともで、まぁこんな物は「半ば犯らせ」でなければ犯罪である。
つまり三人の男達は、「犯罪化しない」と言う「見込みが在っての行動」と解釈するのが当たり前である。
何しろ此処は子供会の役員が集っている場で、参加者の半分は女性だった。
確かにその場に直面して「騒ぎを起こすべきではない」の妻の決断だから、「易々と犯られて」と責める訳にも行かず、快感を堪能した表情の妻を、私も穏やかに受け入れるしかない。
弾みで始まった性交など綺麗事とは行かないが、脳科学的に必要性を真剣に考えれば、人間が創った全ての決まりを破壊するからストレスから開放される。
責任の半分は、仕掛けた私にも在る。
残された妻に、「私は今の出来事は気にしない」と告げた。
その後、妻と二人でカラオケ会場に戻ると、何事も無かったように大騒ぎで迎えられ「夫婦二人で、隠れて何か良い事をしていたの?」と冷やかされ、笑いながら責められた。
しかし注目が集まったのは私達夫婦と言うカップルで、どうやら前に戻った三人には余り注目は集まらなくて、悪戯(いたずら)が公表に到らないので正直ホッとした。
まぁ小学生の子供会だから、今後の事を考えるとあの場でワンピースを取り上げられて三十四人全員の前で全裸ストリップをする訳には行かない。
だから、最小限の人数・三人で済ますにはあのプレィで相手をして、妻が犯られて収める事が正解だった。
内心私は、そう言う遊びも「有り」と考えていてから、要は私が加わった夫婦共犯関係の遊びかどうかの問題だった。
只一つ判っていて妻の行動を赦せる事は、単なる男女が密かに性交したなら浮気だが、妻の性交が複数相手の乱交プレイで明らかに只の遊び、つまり情が通って居ない事である。
そこがマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)の良い所だが、相手が多数で特定されないだけに情が絡んだ浮気と言う認識は私に無い。
夫婦仲がマンネリになり隙間風が吹く頃こそ、放って置けば夫も妻もモヤモヤした空(むな)しさを埋める為の浮気沙汰で、つまり夫婦互いが勝っ手に遊べば家庭を壊しかねない。
どうせ倦怠期は必ず遣って来るのだから、夫婦間のマンネリ解消には夫婦揃って刺激的に遊べば良い。
まぁ外に出て見渡してみれば判るが、実の所知らぬ屋根の下で日常の行為が行われて居るのか、露骨な非日常の行為が行われているのかなど、誰にも判らない。
痴情と言うのは独占欲の心情から始まる物で、夫婦合意の遊びなら痴情など最初から無い。
つまり夫婦の間の考え方は、あまり思い込みで固まらない柔軟性が無ければ成らず、独占欲ばかりで妻を拘束し貞淑を求めるのは「男性の身勝手」と言うものである。
妻は、「あぁお腹が空いた。」と先程まで他人(ひと)の欲棒を咥えていた口で、何食わぬ顔してパクパクとつまみを口にしている。
妻の腹が空いたのは、男三人相手に想わぬ運動をしたからなのだろう。
エッ、この物置輪姦事件はとても信じられない内容だってか?
それならもう少し深く当時の時代背景を少し紹介する。
この時代の社会現象を捉えたのかリードしたのか、とにかく時代風潮を的確に表現し、その時代の女性達が支持したテレビドラマに「金曜日の妻たちへ(きんようびのつまたちへ)」がある。
「金曜日の妻たちへ(きんようびのつまたちへ)」は、核家族間の交流とそこに起きる不倫を題材に、千九百八十三年(昭和五十八年)にTBSテレビで放送された怪しい雰囲気の連続テレビドラマである。
この連続テレビドラマは、女性に受けた「不倫ドラマ」として「金妻(きんつま)」の略称でも広く知られ、中の上程度のリッチ感覚にあふれるライフスタイルや不倫交際が、刺激的に世間に受けていた。
つまり不倫への憧れは、社会的風潮としてその時代を象徴する一つの文化的な捉え方さえされていた。
何しろ「金妻(きんつま)」は、世間の風潮にマッチし、バブル景気が始まる三年前の千九百八十三年(昭和五十八年)から翌千九百八十四年(昭和五十九年)には第二シリーズ、千九百八十五年(昭和六十年)には第三シリーズが製作され翌千九百八十六年にバブル景気が始まっている。
バブル景気時、ワンレングスヘアにボディコンワンピースの若い女性達がジュリアナ東京で扇子を振って踊り、日本中に札束が乱舞する金満社会になっていた。
背景がそんなバブル景気と「金妻(きんつま)ブーム」だったから、今とはまったく違う子供会のエロティックな大人の飲み会が在ったのも、事実だった。
馬鹿な事だが、浮気相手に愛情を感じてコッソリ逢い、他人目(ひとめ)を忍んで性交するなんて事は、実にシュール(発想が越えてる)な冗談である。
既成概念に囚われた挙句の浮気で「禁断の性交」と言う事だが、こうしたシーンで愛情を簡単に使って欲しくない。
それは夫婦愛にしても近隣愛にしても、そして民族愛にしても状況次第で、本音の所では自己愛を優先するのが偽(いつわ)らない人間である。
また、孫子に対しては本能的な愛情が在るかも知れないが、それも近頃では怪しい親も居る。
つまりこうした浮気事の現実は、日常の薬味(スパイス)が無い夫婦生活を前提にした刺激を求めての、思い込みに過ぎない愛情だからである。
料理でも薬味(スパイス)が無ければ味に深みは生まれない。
同様に、性交には卑猥な薬味(スパイス)が無ければ興(きょう)は乗らない。
その薬味(スパイス)が禁断の他人目(ひと)を忍ぶ刺激的性交である拠りも、夫婦仲を壊さない工夫の上で薬味(スパイス)の「味の深み」が必要である。
つまり知的に夫婦が心を通わせるには、夫婦揃っての合意の上で遊ぶ非日常の時間と言う薬味(スパイス)の深みが必要である。
SMプレィやマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)の方が遥かに罪が無い薬味(スパイス)なのだ。
何、「そんな遊びを夫婦で犯らなくても、内の亭主の事は信じている」てか。
そんな御気楽・能天気・無頓着な事だから、貴女本人や御亭主が道ならぬ性交に燃え上がるのではないのか。
夫婦仲は怪しげ不確かな建前にすがる横着ではなく、日頃の日常生活のストレス解消など、夫婦で利口に成って創意工夫しなければならない。
その子供会役員の大人の飲み会が乱舞したバブル景気は、千九百八十六年十二月から千九百九十一年二月までの四年三ヵ月(五十一ヶ月)間を指し、千九百九十一年二月にバブル景気は崩壊を始める。
ただ、このノーパンティ・カラオケスナック事件の時点では、まだこのバブル景気が終焉を迎えるなどとは誰も考えずに、浮気願望に溢れた主婦が好景気を謳歌し愉しんで居たのだ。
此処に居るのは、いずれにしても子供会の役員女性だから子供の出産経験が在り、色気話やチョットしたお触りに初心(うぶ)がっている女性は居ない。
妻はその後も普段通りに振る舞い、例の三人を引き連れて小林幸子の思い出酒を「思い出〜酒に、酔うばかぁ〜り。」と生尻を撫でられながら平然と歌い、周囲の喝采を得てはしゃいで見せている。
確かに妻は微笑みを絶やさない人間で、先程犯られ終わった後の三人に対しても嫌な顔はしなかった。
もしかしたら、妻には潜在的な輪姦願望が在ったのかも知れない。
犯ってしまった事は今更仕方が無いが、想像するに妻は三人を相手にした連続性交だから一人目で上り詰めたマックス状態の性感が遥かに継続するので、「良かったか?」と問われれば、「かなり良かった。」と応えるべき官能の性交事件ではあり、その点で想いは在った。
いずれにしても子供会役員夫婦が十七組三十四人、それもモヤモヤと全体が緩(ゆる)んだ猥雑(わいざつ)ムードに包まれて酔い、座席を飛び交って話題も行動も怪し気に卑猥(ひわい)だった。
妻がカラオケで騒いで居る間、私はあれこれ想いをめぐらし、その後はもう妻の三P(三人プレィ)で犯られる陵辱光景が私の脳裏に浮かび、喉が渇いて水割り酒が進む事並大抵な量では無かった。
しこたま飲んで気を失い、気が着いた翌朝は家の布団の中だった。
昨夜の物置での三P(三人プレィ)の事を妻に問い正すと、「嫌ですよ、そんな事が在る訳が無いでしょ。夕べはあなたが酔って居ましたから。」と言われた。
妻の言に拠ると、酔い潰れて正気を失った私を家まで運んで来たのは「例の三人組」だと言うが記憶はまったく無い。
それにしても私はとっくにそれを赦して居たのに、私が見紛(みまが)う筈が無いあの物置部屋の出来事を、妻は何を持って否定するのか?
それともあれは、酔った上での幻想だったのか・・・。
まぁ予め想い付く事ではそれ程の衝撃は無い。
結局の所、もっともあれは妻の言では無かった事に成っているが、私に仕掛けられて犯られてしまった妻も、三P(三人プレィ)で犯られているを見せ付けられた私も、以後、互いにそれを咎める事も無く夫婦生活を送っている。
世間は無理にも追求しない私に「甘い」と言うだろうが、親兄弟でも感性と感性が凌(しの)ぎを削るのだから、他人が一緒に暮らす夫婦生活で相手の感性を受け止められないでは不満が募るばかりで、既にその婚姻は破綻している。
東証で日経平均が三万八千九百十五円九十銭の今では考えられない最高値を付け、土地が三倍にも高騰して日本中がバブル経済に浮いて居た時代だった。
その後も子供会の交流は続いたが、信じられない事に当事者と想われる奴等三人も、勿論妻もまったく知らぬ顔で、私は狐に摘まれた様な物である。
妻にはまったく相手にされない形で、「怒っては居ないから本当の事を言え。」と言っても「あなたが酔って居ましたから。」と否定された。
そこまで頑強に言われて見れば、あれは酔って帰って寝てしまって、寝具の中で見た只の夢かも知れない。
それでその日の出来事は、本当に在った事なのか酔って見た幻想なのかが判らない事態となった。
いずれにしても、あれが例え現実の事としても妻の気転で仲間内の覗き見趣味的な話題にされるのは回避した訳である。
普通なら私が、予期せぬカラオケスナックの三P(三人プレィ)事件で懲りる筈だが、実はあの光景を観惚れてしまった。
正直余りにも鮮烈な光景を観た為に、「あの衝撃を再び」と言う想いと、今一度それが為されれば妻も「今度はとぼけられまい」と言う想いも在った。
遊びの複数性交は、非倫理的な卑猥(ひわい)な状況で、その事とエキサイト(興奮する)は相乗効果で感性に影響し合い、行為を為す者に通常のワンカップル性交よりも高い快感を堪能させる筈だ。
それで子供会の飲み会に連れ出す為に、透けるポリエステル百%の黒色表地と透け難い黒色サテン地の裏地でミニ丈のワンピースをオーダーし縫製させ、そして飲み会の度に妻をノーブラジャー・ノーパンティにさせてそのミニ丈のワンピース一枚で出かけて行った。
勿論あのハプニングの三P(三人プレィ)の再現を期待しての事だが、流石(さすが)に例の三人組もコッソリとお触りをするくらいで中々物置に連れて行くまでは発展はしなかった。
とにかく当時の子供会の飲み会に於ける雰囲気は、「不良ごっこ」だった。
生き物である人間は、時と伴に必ず老いる。
輪姦(まわ)しを「とんでもない」と考えるのは、輪姦(まわ)しの連続的快感についてチャンスに恵まれないからその良さを知らないだけである。
であればそれは幸運なのか不運なのか、つまり建前上は最も正しい事が本当は嘘である事も世の中には多い。
とにかく妻が子供会役員仲間の三人に目の前で輪姦(まわ)され、胸が締め付けられるほどの衝撃を自覚したのは、私にとって新鮮な発見だった。
幾ら美人や美男子でも、性交スタイルが代わり映えしなければ日常化するから自然に飽きるもので、家庭崩壊の要因になる。
妻を輪姦(まわ)させるなど「悪趣味」と言われようが、夫の性癖に正面から向き合って一度夫婦で非日常の刹那を愉しむ経験してしまえばそこにワクワクする新しい発見があるのかも知れない。
妻の方はノーブラジャー・ノーパンティも何食わぬ顔で会場を騒ぎ廻り、これは他の女衆も同様の事を普通にする猥雑な場だったから、他の三人組とは別の父親の膝上にミニ丈のワンピース一枚で腰掛けてカラオケの歌に唱和したりしていた。
そうした遊びが二週間に一度のペースで催されていて、或る日別の意味でハプニングが起こった。
第二章
◇◆◇◆◇◆◇◆◇第二章(女リーダー)◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そのハプニングだが、子供会役員の女衆の内五人が妻を吊るし上げた事件で、その日もほぼ役員夫婦が全員出席する大型の飲み会が催された。
それで例に拠ってノーブラ・ノーパンで連れ出そうとしたのだが、何を想ったのかその日に限って妻がノーブラジャー・ノーパンティに成るのを頑強に拒むので、仕方なく着用を認めて連れて行った。
春の新年度で新しい子供会が結成されて四ヶ月目、季節は七月の夏本番を迎えていた。
九時頃から例の大型カラオケスナックに何時(いつ)ものように全員が集まったのだが、女衆の内五人が「始める前に確めたい事が在る。」と言い出した。
そしてその内のリーダー格、妻が前回膝の上に乗っかっていた奴の細君だが、妻に向かって「あんた、何時(いつ)もノーブラ・ノーパンでしょう。あんたは尻を撫でさせて愉しいだろうけど、亭主共が影響されて女衆皆が迷惑なのよね。」と食って掛かって詰問する。
私が良く見るとその五人の女衆は、何時もはストッキング着用だが今日に限って五人とも妻同様に生脚(なまあし)である。
彼女達の、皮膚が丸く皺(しわ)を作る生膝(なまひざ)が妙に生めかしい。
想像するに、彼女等の亭主や旦那様が、「**さんの奥さんノーブラ・ノーパンだからお前もそうしろ」と彼女達に強制したのではないだろうか?
皆が迷惑の意味は「そう言う意味だろう」と理解出来た。
妻は「そんな事ありません。下着は着けて居ます。」と否定するが、そのリーダー格の女は「それなら此処でそのワンピースを脱いで、違うと証明して見なさいよ。」と迫った。
「アレアレ言っちゃった。それオウンゴール(自殺点)だ。」と私は思った。
そこまで言ってしまえば、リーダー格の女は引っ込みが着かない所に自分を追い込んだ様なものだ。
つまり妻は、この五人組の女衆の動きを事前に知っていた事になる。
まてよ、少なくとも五組、嫌、名乗らないだけでもっと多く居たかも知れないが、妻に影響されてノーブラ・ノーパンをさせた亭主や旦那様が居た訳だ。
妻が事前に知っていた事には、確かに五人組の中に例の三人組の細君が一人混じっていたから、その辺りの夫から妻に事前連絡が届いていたのかも知れない。
妻は「皆さんの前でそれはチョット出来ません。」と抵抗する。
「出来無い」と抵抗する事は、間違いなく「下着は着けていないに違いない」と思わせる事である。
その女リーダーは妻のノーブラ・ノーパンを確信して、「下着を着けているなら少しくらい恥ずかしいのは我慢できるでしょ。 それでドッチの言い分が本当か皆が納得するし。」とそのリーダー格の女は勝ち誇って詰め寄った。
「そんな、幾らなんでもそんな事をさせる権利はあなたに無いでしょ。」
「やっぱり、拒むのが怪しいのね。」
その女リーダーは吊るし上げの行動に次第に高揚を高め、妻を皆の面前で素っ裸に剥(む)いて恥をかかせる気満々だった。
つまり、私の妻に対する自分の夫の羨望に女リーダーが嫉妬し、妻は憎悪の標的に成っていた。
それを見ていた私は、「オィ、強情張っていても解決しないから脱いで見せたら。」と妻に声を掛け、妻は「そうですね。あなたが認めるなら・・・。」と承知してテーブルの上に登り、手を交錯させてワンピースを下から捲くり上げて脱ぐ。
その場に臨場した騒ぎとは関わらない子供会の役員のメンバーは、息を呑んで妻の脱衣を見守っている。
一瞬静まり返ったカラオケ会場が、スナックのテーブルの上に立ち上がった妻の黒い透け透けのブラジャーとパンティ姿にどよめき、何処(そこ)かしこのテーブルで憶測を交えた面白半分の話がガヤガヤと広がった。
こうなる事を想定していた妻は、ワンピースと同色・黒のかなり色っぽい透け透けのブラジャーとパンティを身に着けていて、それを見た五人組の女衆の顔色が変わった。
リーダー格の女は、予想だにしない展開に「アチャー御免、御免。もう良いから服を着て。」と妻に謝ったが、妻は下着姿のまま「もう良いですって。他人(ひと)の事だと想ってそれで終わりなの?」と逆に五人組の女衆を睨み付けた。
正直妻は、子供会の役員仲間の前で晒し者にされた訳である。
その色っぽい黒の透け透けの下着姿を出席メンバー全員に披露しただけで妻は充分に恥をかいたが、そこで反撃に出る。
「ここまで恥をかかせたのだから、あなた達五人もこのテーブルの上で順番に脱いで下着姿に成りなさいよ。」と言い放つ。
困ったのは女衆五人組で、今日は夫に命じられてノーブラ・ノーパンだから、着ている物を脱げばスッポンポンである。
妻の反撃に、女衆五人組はその場で顔を見合わせて固まってしまった。
女衆五人組に関わり無い他の子供の父親が、「そりゃそうだよ。そこまで脱がして知らん顔では片手落ちだ。早く脱げ脱げ。」と囃し立てる。
私が助け船を出し「オィ、もうその位で良いだろう。おまえもそれを早く着ろ。」と妻に言い、その場を収めた。
例の三人組のリーダーの男が、「はぃ、お仕舞い、お仕舞い。サァ、後は愉しくやろう。」と明るい雰囲気に持って行って、何時もの飲み会が始まった。
これで事を収める積りだった私だが、実はそれでは事を収めたく無い夫婦が居たのだ。
雰囲気が明るくなった所で先程の女衆五人組が、「さっきは助かりました。」と次々にお詫びとお礼に酌に来た。
「旦那さんに下着を着けるなと悪戯(いたずら)をさせられたんでしょ。危ない所でしたね。」
彼女達がノーブラ・ノーパンで多少の事は亭主共も承知の上だから、飲みながら遠慮なくお触りをさせて貰ったが、最後に遣って来たリーダー格の女とその亭主は、「**さんの奥さんに恥をかかせた侘びをさせてくれ。」と私に申し出た。
若いながら恰幅が良い市職員の男が、「侘びをさせてくれ」とヤクザまがいの口を利く。
「よせと言ったのにお前の不始末だ。お前からも侘びを受けてくれとお願いしろ。」と強い口調である。
そこに三人組のリーダーの奴が遣って来て「物置の鍵だ」と片目を瞑りながら言って女リーダーの亭主に渡した。
しかしこ奴がこのタイミングで出て来るのは、私には訳が判らない。
このリーダーの奴は、勝手に仲間内の調整役でも買って出ているのか?
女衆五人組のリーダー格の女の亭主は自分の妻に「落とし前を着けて詫びろ。」と言い、三人組のリーダーが女リーダーの亭主に一旦渡した物置部屋の鍵を受け取り、「俺が支度に手を貸しますよ。」と申し出る。
亭主の方は私に、「こ奴つに落とし前を着けさせますので、二〜三分したら物置部屋に来て下さい。こ奴つに落とし前の支度させて待ってますから。」と告げた。
「落とし前」をどう着けるのか、少し時間を置いて物置部屋に行って見ると女の亭主とリーダー格の女、三人組のリーダー男が待っていてリーダー格の女の方は素っ裸だった。
驚いた事に、リーダー男が卑猥な落とし前の場に同席するのを、亭主は平然と許していた。
女リーダーの張りがある全裸体が眩(まぶ)しく、乳首が立った二つの乳房、曲線を描いて括(くび)れたウエスト、チャーミングな臍(へそ)を堺に下半身に続く。
女リーダーは、「前を隠すな」と命じられているらしく前を手で隠すでもなく全裸で立ち付くし、左右の手の平は自分の左右の尻肉の上に軽く触れている。
その格好から女リーダーの羞恥心も含めて、亭主とリーダー男がもぅ「落とし前の為に晒(さら)し者に成る腹を決めさせて居る」と言う事である。
晒(さら)し者としてやや腰を前に突き出し気味に立っているから、女リーダーの股座に密生した恥毛も、その影に隠れてほの観える二枚の肉花弁も、赤裸様(あからさま)に観えている。
恥毛が密集する柔らかく丸みを帯びたなだらかな恥丘の先に、実(サネ)と呼ばれる花芯ボタン、その下に二枚の肉花弁に囲われて縦に割れるスリットが、女リーダーの股下に潜り込む様に見えている。
この女リーダー、「大柄な女だ」と想って居たが、やはり素っ裸に脱がしても迫力が在る。
理由なんか何でも良く、ともかく女りーダーのしなやかなで柔らかそうな肢体が、「陵辱(りょうじょく)してくれ」と、今は魅力的に私を誘っている。
始まった落とし前にリーダー男が立ち会う中、女りーダーは素っ裸だった。
フト想った。
妻の輪姦時に場を仕切ったこの三人組のリーダー男が、この女リーダーに卑猥な落とし前を迫って説得し、此処で女を素っ裸にするのにも「手を貸した」と言うのか?
「これは**さん(三人組のリーダー男)のアドバイスか?」
「この失態を詫びるに**さん(リーダー男)に相談したら、お宅に内の奴をお仕置きをして貰えと言われた。」
「それで、**さん(リーダー男)がこの状況に手を貸せたのか。」
「私(女リーダーの亭主)としても詫びの姿勢を示さず、内の奴(女リーダー)に具体的に何もさせないで空(そら)を使う訳には行かなかった。」
「そりゃあ私も男だから、据え膳は喰うけれど。」
「内の奴(女リーダー)も、この通り据え膳を承知して裸に剥(む)かれている。」
此処までお膳立てが出来てしまえば女リーダーは空(そら)を使っては居られず、私に肉体(からだ)を供してもけじめを着けねばならないだろう。
平静を装ってはいたが、夫の要求を聞いて明らかに女リーダーの心の動揺は在った。
しかし現実は、この要求に対する返答をチョイス(自由意志に依る選択)を本気でしなければならない。
いずれにしても女リーダーが、此処に到って大人の対応が出来るかどうかに掛かっていた。
亭主の方が「おぃ、早く教えた手順通りに始めろ。」と強い口調で命じる。
すると、素っ裸の細君(女リーダー)が膝立ちになって乳房を揺らしながら私のウエストの辺りににじり寄って来た。
私に取り付いた女リーダーは、スラックスのベルトを緩めてブリーフごと引き降ろし、転げ出た欲棒を一瞬のためらいを打ち消して利(き)き手で竹中の欲棒の陰茎を握(にぎ)って素早く十回ほど扱(しご)き始めた。
私の欲棒が半立ちに成った所で、女リーダーはカリ首に口を近付け、舌を使ってエラの方からペロペロと舐(な)め上げる。
舐(な)められている私の方は、そんな女リーダーの口元を気持ち良さそうに目を細めながら見下ろしている。
「お愉しみの間、俺一曲歌ってきます。聞きながらどうぞ」とリーダー男が店内に戻って行く。
リーダー男は遊び人の典型でカラオケで歌うのも上手い。
しかし女リーダーが私の半立ちに成った欲棒にカリ首に口を近付けた時、聞こえて来たのは「いい日旅立ち」だった。
あの歌の選曲が女リーダーの新たな旅立ちを意図したものであれば、リーダー男はサーカズム(皮肉)めいたかなりのジョーク好きな男である。
女リーダーが自分の亭主の前でパクリと咥え、カリ首の海綿体にヌメッとした感触が襲って来た。
女リーダーの口中に挿し込んだ欲棒が、ヌメヌメと舌先で嬲(ね)ぶられる快感で、私は目を細めてそのおシャブリを愉しんでいた。
良いも悪いも無く、女リーダーは全裸のまま、やや腰を前に突き出し気味に腰に手をやった仁王立ちの私の欲棒を、床に膝を着いた形で上半身前後に動かしながら熱心にシャブっている。
私の淫茎の丈が、女リーダーの口元で唾液に濡れ光って唇を擦(こす)りながら見え隠れする様を、僅(わず)か一メートル足らずの目の前で見た亭主のインパクト(衝撃)は強烈だったに違いない。
私の生身の陰茎が女リーダーの唇を擦(こす)り、口中の粘膜を擦(こす)りながら抜き挿しされ、連れて口中から押し出される涎(よだれ)が顎(あご)に垂れ下がって床に落ちて行く。
あまり「上手なおシャブり」とは言えないが、女リーダーの必死さは伝わって来る。
首を固定した形で上半身を使ってクィクィとリズム良く頭を上下しながら欲棒をシャブって、口元で唇(くちびる)とカリ首のエラを擦(こす)ったり、シャブりながら、カリ首の根元を舌先で舐(な)め廻して来る。
折角だから、女リーダーの喉の奥まで欲棒を挿し込む為に腰を入れて口中に突き入れる。
私のやや膨らんだ腹が女リーダーの鼻を潰す様に腰を使ってクイクイと押し付けられる度に、女リーダーも上半身を使って私の欲棒をウゴウゴと喉の奥に必死に迎えに来る。
私のカリ首を喉の奥まで飲み込めば流石(さすが)に「オェッ!」と苦しいが、口をすぼめて咥えた私の欲棒に歯を立てられないので、女リーダーは涙を流しながら我慢している。
私の欲棒を咥えた女リーダーの口元で、唇を擦(こす)りながら唾液に濡れ光る陰茎が生々しく見え隠れしている。
私の腰の動きに連れて坊主頭・海綿体のカリ首が、女リーダーの口中でまで届いて口蓋垂(こうがいすい/喉チンコ)を押し分け、喉の内壁をカリ首のエラが擦(こす)っているのを心地良く感じた。
夢中に成ってクイクイ腰を使うから、私の欲棒根元の恥毛が女リーダーの唇にクイクイと容赦無く押し付けられて気分が良い。
これは男性が女性に対する征服欲を満たす行為としては一種の服従儀式で、喉の奥まで欲棒を挿し込む行為は中華大陸で一般的なので大陸式フェラチオとも呼ぶ。
だからこの大陸式フェラチオは単なるおシャブリ以上に過激だが、その方に服従するお遊びのSEXを、これから始める「挨拶代わりの礼儀」と言う事になる。
シャブったと言う事は、もぅ何を犯っても文句は無い」と言う事である。
「そこに立って」と命じて床にしゃがみ込み、女リーダーの股間の肉花びらを遠慮無しに親指と人指し指を使って広げて観る。
羞恥心を堪(こら)えて為すがままの女リーダーのピンク色の粘膜が、クニュとした感触と伴に、潤いに怪しく光りながら恥ずかしそうに現れた。
女リーダーのお道具の確かめが終わると、「おシャブリ続けて」と命じてまたシャブらせる。
「はぃ。」と素直に応じて、女リーダーは「パクッ」と咥えて唇で扱(しご)き始めた。
すかさず女リーダーの亭主が、私の欲棒をシャブって居る女リーダーに、「お詫びの気持ちなのだから例のサービスもしてみろ。」と命じる。
「はぃ、例のサービスですね。」と亭主に応じた女リーダーが、私の耳元で「良い事をしますので、そこの壁に向かって少し前のめりに手を着いて尻を突き出して下さい。」と囁(ささや)いた。
私がリクエストに応じると、女リーダーは後ろから手を回して私の欲棒を扱(しご)きながら、私の尻に顔を埋(うず)め、舌先を尖(とが)らせてア*ルに挿し込んで来た。
女リーダーの舌先は、躊躇(ためら)いも無く私の菊座の皺(しわ)を舐め回し、尖(とが)らせた舌先はア*ルの中に挿し込んで来て、性衝動の増進効果は抜群である。
女リーダーの舌先が私のア*ルに挿し込まれる度に、女リーダーの鼻先が尾てい骨辺りに当たり、生々しい息使いが感じる。
女房に他人の尻の穴を舐めさせるリーダー女の亭主の性癖には驚いたが、その光景を観た亭主の股間は明らかに膨(ふく)らんで興奮が隠せ無い。
性行為には多様性が在っても良い筈で、つまり女リーダーの亭主は彼なりの愉しみ方をして性癖を満足させて居たのだ。
ア*ル舐めは服従の意志を示すもので、女リーダーにM(マゾ)心が無ければ他人のア*ルに舌を挿し込んで舐め廻すなど出来ないと私のS(サド)心が胸をときめかせた。
欲棒を扱(しご)かせながら、他人の女房に尻の穴を舐めさせるなんてプレィは、男にしたら願っても中々成立しない桃源郷である。
壁に前のめりに手を着いた私に、女リーダーは欲棒を扱(しご)きながら同時に舌先が多少くすぐったく私のア*ルを刺激し、そのM(マゾ)奉仕的なスチェーション(構図)に快感度は上昇した。
女リーダーにシャブらせながら観た、女リーダーの亭主のスラックス前部に異変が生じていた。
「御主人、流石(さすが)に肉体(からだ)の方は正直と見えて、スラックスの下でテントを張っているじゃない。」
「いぇ、面目ない。内の奴(女リーダー)がこれから犯られるのかと想ったら不覚にも興奮してしまいました。」
カラオケを歌い終わって戻って来たリーダー男の奴が、横から口を出した。
「良いじゃない、この場では奥さんを客観的に女性と観ているのだから。此処はそう言う非日常のお愉しみの場だ。」
「そうだよ。遠慮なく犯っちゃって下さい。この際内の奴の善がり振りを、客観的に観て愉しませてもらいます。」
おシャブリの刺激で私の欲棒が硬くなった所で、「ソロソロ良いだろう。そこらで壁に手を着いて尻を突き出せ」と亭主が細君に命じる。
攻守所を代えて、今度は女リーダーに攻め込む番である。
亭主が細君に九の字状態に壁に手を着かせて尻を突き出させ、「こ奴つにお仕置きで本番犯っちゃって、これで勘弁して下さい。」と怪しい目付きで言った。
「さて、この美乳の触り心地はどんなじゃろう。」
折角だから私は、丸く膨らんだ女リーダーの平行に正面を向いて膨らんだ乳房をムンズと掴んだ。
手始めに、ポルノ映画のように、乳首を硬くした柔らかそうな女リーダーの乳房が無遠慮に私に揉みしだかれて波打ち、掌(てのひら)の指に幾分コリコリと挟まれて間から突出した女リーダーの可憐な乳首が弾力有る感触の刺激を伝えて来る。
不謹慎かも知れないが、例え夫の命令でも本人が承諾したのだからこれはもう本人の意思で、まぁ本人もシャブった時点でどうせ腹は括っている。
現に本人は素っ裸でおシャブリの挙句、ア*ルに舌を挿し込んで舐め廻すなどした挙句、「犯って下さい」と充分に湿ったあそこの生尻を壁に手を着いて私の方に突き出している。
焦る事は無いから、まずは女リーダーの柔ら壺へ指二本を挿し込んで、指攻めを敢行する。
女リーダーの柔ら壺に挿し込まれた私の指先が、コリコリとポルチオを刺激している。
膣(ウァギナ)の奥、子宮入口の、指で触るとコリコリ感触がある突起物が、「女体で最も敏感」と話題の性感帯・ポルチオである。
指先がポルチオを弄(いじ)れば、もぅ女リーダーの全身の力が抜けて後は快感を貪(むさば)るだけの淫女に変身する。
女リーダーの我を忘れたあえぎ声が、尻を振りながら漏(も)れて来る。
「どれ、これで肉体(からだ)も解れただろうから、ソロソロ味見させてもらうよ。」
「ア、どうぞどうぞ。遠慮なく」
勿論、遠慮などしない。
このお仕置きは据え膳だから、亭主の期待通りに見ている前で欲棒を柔ら壺に挿し入れてグィグィと抜き挿し責めする所を披露した。
まぁ先方の亭主は細君をノーブラ・ノーパンで飲み会に連れて来た位だから、このハプニングを切欠に利用し、やはり自分達夫婦の倦怠感解消の為の口実にしたに違いない。
正直、男性にして見れば、真摯に自分の性癖に合う遊びに付き合ってくれるような妻なら大事にする。
当たり前の事だが、その正反対だと感情が行き違って角付き合わせる事に成る。
食べ物の味付けでも、様々な芸術行為でも同じだが、当然それなりの魂が入っていなければ相手には伝わらない。
乳首が立つ乳房を上下に揺らし、髪を振り乱して亭主のギラギラした視線を浴びながら女リーダーは、私に犯られ続ける事になる。
素っ裸で私に宛がわれ、当初は顔面蒼白(がんめんそうはく)、同様に裸身も蒼白く私の欲棒を咥えておシャブリを始めた女リーダーも、後背位で私の抜き挿し攻撃が始まってしまえば赤味を帯び、肉体(からだ)は意志とは関係なく反応をし始める。
女リーダーは、ズブリと私の欲棒を受け入れた自分の柔ら壺への亭主の怪しい視線を意識すると、カァーと下半身が熱くなる羞恥心を覚えた。
そしてクィクィと腰を使って繰り出す私の抜き挿しで、柔ら壺の内壁を擦(こす)るカリ首の刺激が女リーダーの中で一層興奮が高まって亭主の前で「他人に犯られるのも満更ではない」と感じた。
女リーダーは、いきなり肩を左右に振り、腰も浮き上がり、のけ反(ぞ)って振り始め、その腰の動きが妙に艶めかしい。
「アッヒィー、アアアアアアアァー、イク、イク、アァー。」
「エッ、淑女である女リーダーが何故、受け腰を使う娼婦に変身したのか?」ってか?
それはもう女リーダーが股間に挿さった欲棒を、他人前(ひとまえ)の晒(さら)し者状態で「抜き挿しされる」と言う非日常のリアルな性交状態に在るからである。
通常の状態で女リーダーが性交を考えるのは「理屈(理性)」だが、坊主頭のカリ首の海綿体に肉内壁を擦(こす)られ続ける性交最中の女リーダーは「感覚(感性)」だけである。
つまり肉体的な「感覚(感性)」がモロに脳に伝わって来るのだから、快感を貪(むさぼ)るが先で「嫌とか恥ずかしい」などの「理屈(理性)」を考えている暇は女リーダーに無い。
表向き格好付けて居るが、本音ではこう言う卑猥(ひわい)な事をするのが好きな奴が世の中の大半である。
イザ犯って見て、女リーダーは正直に「気持ちが良い」と見えて良い腰使いだ。
肉体(からだ)の反応に身を任せて腰を使い出したあの時が、女リーダーの眠っていた女が覚醒した瞬間だった。
その激しい反応に、ここを先途(せんど)と攻める私の激しい抜き挿しに呼応して、再び女リーダーの裸身は腰を浮かし、脚の指先まで丸めて全身が反り返る。
女リーダーは、襲い来る刺激に耐えられずガクンガクンと上半身を跳ね上げてその快感に全身で浸(ひた)っている。
その女りーダーの衝撃的な性感反応を、その亭主は異様に怪しく目を光らせて身じろぎもせず見入っている。
人間の気持ちは複雑で、例え意に添わない性交プレィでも犯る以上は「下手糞」と言われるより「上手(うま)い」と言われる方が女性としての自尊心はまだ傷が付かない。
それで、夫の前で此処までおシャブリも腰使いも上手(うま)く犯っちゃうと、もぅ「変な事を犯(させ)て・・・」と怒って観せても今更に嘘ぽくて始まらない。
私と女リーダーの性交時間はほんの五分か十分の事だが、まるで三十分程掛かった大熱戦の様な気分で、犯り終えた時には女リーダーはそのまま大股開きの大の字になって暫く身動きをしなかった。
所が、それで終わりでは無く、リーダー男が「それじゃぁ私もお相伴(しょうばん)に預かります」と言って伸びている女リーダーを襲い、また女リーダーが喘(あえ)ぎ始めた。
その二回戦の最中に、三人組の残りの男達がお相伴(しょうばん)の順番待ちに並んでいた。
女リーダーは、男達に犯られるままの一時間を過ごした。
そして女リーダーは、夫の前で結構凄い乱交を味わってしまった事で淫乱のオンスイッチが入ったのだが、後から考えるとこんな性交に大それた想いは想像だけで、犯って見れば絶頂の快感を貪(むさぼ)るだけの案外イージー(簡単)な事だった。
女リーダーにして見れば、心理的には夫に対するユーティリティ(役に立つ・有効な)精神の発露から消極的に受けた陵辱話しだった。
だが覚悟を決めて犯って見ると相手が多人数で快感の絶頂が続く、それでどうせ犯るなら刹那的な性交は「遊びとして愉しめば良い」と覚悟した。
どうせ人間は、妥協しながら生きて行く。
人生の痛みを、痛みと感じない為には受け取り方を変えるしかない。
何も深刻に受け止めるばかりが良い事ではなく、何事も受け取り方を変えれば軽(かろ)やかに人生を生きて行ける。
そして、「自分はそんな淫(みだら)な女ではない」と安っぽいプライドを振り回しても、そんなものには何の価値も無いのだ。
そもそも夫婦合意の上の「遊びの性交」を懐疑的に想うのは、「〜と言う事にして」と言う在りもしない建前が、何の根拠も舞い常識として世の中にはびこっているからである。
簡単に言ってしまえば「愛があれば裏切らない」と言う典型的な建前であるが、本能と理性は対極に在り元々並立が難しい性質(タチ)のものである。
本能が支配する性交の醍醐味は、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感の赤裸々な興奮を駆使した総合的な感性の集積で、初めて究極の非日常と言う新しい感覚の異次元の喜びを得るものだから、その創意工夫がない夫婦は家庭崩壊のリスクが常態化する。
その赤裸様(あからさま)な要素の現実から逃避しても、それでは解決する訳が無く「本能と理性を判っていない」と非難されても仕方が無い。
気晴らしの大人の遊びを「駄目だ駄目だ」と只闇雲に抑圧するだけでは気持ちの逃げ場は無く、その抑圧は知的性欲求に対処はしていないから問題は解決しない。
かと言って、夫婦が欲情のメンタリティ(知性。知力。 心理状態。心的傾向)を、相方を裏切って浮気で気晴らしするのは卑怯で家庭崩壊に繋がる危険な遊びである。
男女に拘(かか)わらず、夫婦が連れ合いに内緒で浮気の性交をする何て寂しい事ではないだろうか?
それならば、夫婦揃って合意の上の遊びの性交の方が、男女の本質を理解した大人の対応である。
この辺りのリスク回避を最初から「無い事」として無視するのでは無く、究極の家庭マネジメント(家庭経営管理)として真剣に考えれば、在るのに「無い事」として切り捨てる建前とは別の考え方が必要になる。
つまり性的知能指数が高いレシピエント(被術者。受容者。)なら理解できるのだが、知的性欲求を「如何に解消するか」と言う具体的な対処法である。
それで「もっと利口な遊び」となると、性のイノベーション(新機軸。革新。開発。開拓。)として、夫婦合意の上のマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの言わば「相手不特定多数」の遊びを選択する事が嫉妬の相手が特定されないから理想的なのだ。
痴情と言うのは独占欲の心情から始まる物で、夫婦合意の遊びなら痴情など最初から無い。
例え他人と性交したとしても何も大袈裟に考える事は無く、その行為が夫婦合意の上なら単に親交のツール(道具)と考えれば割り切れる。
「貞操、貞操」と騒ぐが、お試しの「性の一致の確認(性的相性)」と言う意味も在って、付き合う前に先に犯っちゃう女性も昔からいる。
これは愛情とかではない別の理由の性交であるから、その必要性を認めるものならば、結婚後にも別の意味に於ける性交が在っても良い理屈である。
なに、「私にはとてもそんな事は出来ない」ってか、そう言う気取り屋の半分が「これは新しい愛だ」などと自分を騙しながらコソコソと浮気をしたりしていて、夫を裏切って知らん顔である。
結局私は、この女リーダーを欲棒でグィグィと突き責めながらも、この夫婦に露骨な非日常を介した「夫婦円満」を見ていた。
まぁこんな悪戯(あこぎ)な遊びの性交を他人を交えて夫婦で犯ると、「破廉恥」と世間に非難されるかも知れないが、それは現実に上面(うわっら)な評価に過ぎない。
「常識々々」と声高に批判されるかも知れないが、それは流れ行く歳月をどう生きるかの問題である。
平凡なら平凡の、非凡なら非凡な人生が在り、平凡(常識)であれば非凡ほど人生は愉しめない。
そして遊べる時間は短いのだから、夫婦のフィーリング(感覚)で「遊びの性交」を愉しんでも、それは個人の価値観の問題で、他人がとやかく言う必要は無い。
人間は何故一目惚れするのか?
そのメカニズムは、本能をくすぐる脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの効果である。
元々生命科学的に言えば、人類の男女は惚(ほ)れ脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの作用に後押しされ、出会いを持って「性交相手の選択行為」をする生物である。
「惚(ほ)れる」と言う事は「恋する」と言う事で、フェール・エチル・アミンの効果である「惚(ほ)れる」は、脳内処理的には「性交の前駆作業」であり、気取らないで生物学的に言えば脳内処理的には「性交相手の選択行為」である。
その男性と女性の脳内ホルモン的な「性交相手の選択行為」の「惚れ薬」がフェール・エチル・アミンと言い、これが本能をくすぐる「恋のトキメ」を促進させる影の立役者の物質である。
フェール・エチル・アミンは、異性に対して脳内で分泌されるトキメキホルモンで、この時点では「惚(ほ)れ行為」であるが、その「惚(ほ)れ行為」に集中力や快感を倍増させる作用がある。
簡単に説明すれば、「恋する」や「惚(ほ)れる」と言う行為そのものに快感を感じさせたり、その想いを募(つの)らせる(集中させる)作用がある脳内ホルモンなのだ。
つまりフェール・エチル・アミンは、「人類の種の保存」を脳科学的に促進させる作用があるホルモンである。
そしてその「惚(ほ)れる」が片思いであれ両思いであれ、パターンに関係なくフェール・エチル・アミンの作用であるから、迷惑なストーカー行動の源も「惚(ほ)れる」の範疇にある。
心して自覚が必要だが、フェール・エチル・アミンの作用は「性犯罪」をも誘発する側面を持っている事である。
現代の理解では、誓約(うけい)の性交など否定的な風潮にある。
その考え方は近頃の個人尊重の考え方に在り、「愛の無い性交」など建前上否定される事柄だからである。
しかし本来、「愛の無い性交」など古来から特別の事ではない。
社会通念とか常識とかには「建前もあれば現実」もあり、言ってみれば人間は「性」に対して興味や性癖が在るのは密かに現実と認められる社会通念とか常識とかに合致している。
つまり口に出さないだけで、建前とは別の観点から観た密かな社会通念とか常識が存在するくらい誰でも知っている認識である。
当然ながら、フェール・エチル・アミンに後押しされて、双方が一瞬でも「惚(ほ)れの合意」に到れば性交に及ぶ事に成る。
むしろ建前を外した本音では、「犯りたい」を後押しずるのがフェール・エチル・アミンの本来の役目である。
「好きに成った相手と性交に及んで何が悪い」と開き直られれば、仰(おっしゃ)る通りであるが、その時点で「好き(恋)」を短絡的に「愛」と勘違いしているのだ。
だが、「愛」は連れ添ってから時間を掛けて育(はぐく)むもので、この時点での性交に及ぶ価値観はまだ「恋止まり」である。
「愛情」と言うのは、結局は自分が創り出した大切な物語であるから、その構築された「情」に嘘は無い。
しかし物語であるからには伴に生きる時間が永く在っての事で、少なくとも出会いの時点では、物語のプロローグ(序章)に過ぎない。
だからこそプロローグ(序章)に過ぎない結婚前の異性経験など、原則問わない事が男女間の暗黙のルールである。
従ってプロローグ(序章)の時点での性行為に於いては「恋」は在っても、とても「愛情」にまでは到っていない現実がある。
昔から「恋の病」と言う様に、「恋と言う偽りの愛」を勘違いしているから「こんな筈ではなかった。」とカップルの解消や結婚を解消し離婚する事に成る。
つまりフェール・エチル・アミン効果で、良く知らない相手とでもフィーリング(感覚)で性交が可能で、ならば深い意味での「愛情」なんか無くても別の理由でも性交は可能である。
まぁ出会いも惚(ほ)れ方も様々で、周囲や親の薦める結婚でもその出会い時点でフェール・エチル・アミンが作用すれば、自由恋愛でなくても性交が可能な理屈は合う。
だから誓約(うけい)目的だろうが親の薦める結婚だろうが、地位や財産目的だろうが、夢を適える手段で在ってもフィーリング(感覚)で性交が可能である。
女性を口説くなら「吊橋の上が良い」と言う吊橋効果とは、恐怖や危機感を共有する事で側坐核(そくざかく/脳部位)が働いて親近感が湧き、好意的な感情が芽生える心理効果である。
或いは、露出プレィの強制者(S)やSMプレィの施(ほどこ)し相手に、女性が究極の羞恥心や恐怖、危機感を抱く事も、或る種の吊橋効果としてM心理が働くのかも知れない。
同様に一度有無を言わせず、こっ酷くグチャグチャに輪姦(まわ)してしまう工夫(くふう)も、広義の意味で側坐核(そくざかく/脳部位)が働くM心理の吊橋効果かも知れない。
不倫の原理は典型的な「吊橋理論」で、つまり吊橋の恐怖感のドキドキ感と不倫の背徳感のドキドキ感が「恋」のドキドキ感と誤認混同され脳に認知される。
つまり、一瞬の「惚れる」はドキドキ感と伴に脳内に発生するホルモン、フェール・エチル・アミンの誤認混同され脳に認知される。
「吊橋上の口説きが極めて有効である」と同様に、不倫には誤認の「トキメキが付きまとう」と言う理論である。
そしてそれらは、平凡な日常生活に不満を感じれば殊更大きな誘惑に膨らんで行く夫婦間のリスクなのだ。
それでもその婚姻が永く続いて、互いに「愛情」が芽生えればカップルとしては最高の結末と言える。
つまり「愛情が唯一の性交理由では無い」としたら、めんどくさい色恋を無しにした夫婦合意の上での「遊びの性交」は理論上成り立つ事に成る。
確かに「性」は建前ではタブーだが、正直ヒューマン(人間的)として皆が「性」に興味が在って当然で、それで無ければアダルトビデオや裏ビデオが一般家庭まで蔓延する筈が無い。
そしてヒューマン(人間的)として「性」に興味が在るのならば、尋常な性交など詰まらぬものである。
だからこそ、その興味は単純なものに止まらず、本能をくすぐる様に生々しく卑猥であれば卑猥であるほどその興味を満足させるものである。
いずれにしても女リーダーは、自分の亭主の罠に嵌(はま)った。
子供会仲間の女性陣でリーダー振りを発揮して、トンガって居た女リーダーにすれば、亭主に仕掛けられた秘密の輪姦遊びはかなりのお仕置きだった。
この秘密の輪姦遊びが終わった当初、女リーダーは「こんな事を犯るのは、もうこりごり」と言う気持ちが強かった。
所がそれはほんの二〜三日で、一週間もすると、あの連続性交の快感が脳の中によみがえってなっかしく、子宮がジンとし、女リーダーは次に秘密の遊びの声が自分に掛かるのを密かに待つように成った。
一度輪姦(まわし)の修羅場を体験して、否定したくても出来ない期待が女リーダーに膨らんで来て肉体(からだ)が疼(うず)いていた。
つまり女リーダーの中で、理性と感性の大きな行き違いの葛藤(かっとう)が起きていたのだ。
いずれにしても亭主が望んだ事で、こう言う事を否定しないで上手く犯るには、気を入れて気分を卑猥(ひわい)に持って行き、積極的に受け入れて性交を愉しむのが利口な女の処し方である。
女リーダーはこの遊びに慣れてしまって、亭主に「今日は白糸会を犯る」と陵辱プレィを告げられると胸の鼓動が高まり、もう抑(おさ)え切れない程興奮してしまう。
「何て事は無いさ」と想えれば、日常の倦怠感(けんたいかん)を埋める様におシャブリも腰使いも上手く犯って、犯られ放題も問題とは想えない。
そう仕込んだのだから無理も無い事だが、想わずゾクゾクと癖に成ってしまった被虐の快感を期待し、犯る気満々の性本能のスィッチがオンに成るのだ。
此処が肝心な所だが、元々男性が勃起しなければ性交は成立せず、勃起は何も子を為さんとして起きる現象では無く、言わば「嫌らしい」と表現される卑猥(ひわい)な感性から勃起するものである。
矛盾する事だが、愛するが故の寝取られ願望を持つ男性や逆に輪姦願望の女性も居り、夫婦の思惑が一致するなら一緒に遊ぶのが一番良い。
いずれにしても、性癖は夫婦で共有すべき物で、性癖まで夫婦間でさえ隠して「建前」で処理して暮らしていて、良い夫婦生活が送れる訳が無い。
「妻が目の前で犯られる」と言う寝取られ願望の持ち主だった亭主には、あのハプニングが絶好の機会で、この夫婦に取ってはあの吊るし上げ騒ぎは夢の扉(とびら)だつたのかも知れない。
本気で嫌なら抵抗すれば良い話で、吊るし上げ騒ぎが理由に成るにせよ私に犯られるのを承諾したのだから「その気に成った」と言う事である。
他人同士の感性が凌(しの)ぎを削るのが夫婦生活なら、それを修正するのは別々に行動する事では無く、この亭主のアプローチのように遊びの性交に於いて夫婦の共犯関係が望ましい。
「侘びの落とし前に相手の主人に抱かれろ」も無茶な話しだが、夫婦生活は感性と感性の凌(しのぎ)合いだから、相手の要求が「気に入らないから」と言って、普段から喧嘩腰では永く夫婦は遣っては居られない。
世の中の一部を知るだけのあなたは、建前の先入観で馬鹿正直に「そんな不倫理な事は在り得ない」と言う判断をして居まいか?
しかし生身の人間だから、買春や浮気など無い方が不思議なくらいの世の中、合意の上の夫婦共犯の遊びの性交も在っても良い訳だ。
その後の飲み会で、こうした悪戯(いたずら)遊びの度に女リーダーの持ち物がエルメス、グッチ、シャネルと言ったブランド品で増えて行って御愛嬌だったが、どうやら亭主がお遊びの御褒美に買い与えているらしかった。
夫に命じられてカラオケスナックの飲み会に顔を出す女リーダーの衣装は、段々に過激差を益して行く。
太腿(ふともも)所かヒップ下の小尻が生々しくはみ出して見える「テニスウエアか?」と見まがうミニスカート丈のドレスで、女リーダーの動き次第ではノーパンティの太腿(ふともも)の付け根、恥毛の丘や肉花弁までチラチラと曝(さら)け出す。
その格好で、女リーダー夫婦が趣味にして居るアルゼンチンタンゴを妖艶に踊るのだから、一皮剥(む)けてしまえば女は変わるものである。
考えて見れば、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)などチョットした冒険心が在れば良い事で、無意識に身を守ろうと言う本能さえ克服すれば、一対一よりも遥かにマックスの性感状態が継続し、一度犯れば忘れられない快感を脳が記憶する。
要はそこに持ち込むプロセスさえ確り作ってやれば、好奇心やセクシャルデスレー(性欲)は在るのだから、その女性のポテンシャル(潜在能力)は開発出来る。
つまりたまには夫婦共犯で、例え無茶でも相手の感性に応じて「馬鹿な事を犯る事」も夫婦生活の刺激に成って良いのである。
性的行為に於いて、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を刺激する興奮が必要である以上、その形態に確たる定型はない。
形態に定型が無い以上、社会的に「性的行為の、何処までが許容範囲であるか」の線引きは在り得ない。
だ、と言うのに、個人の感性で他人の性的行為をあれこれ判断するのは、明らかに間違いである。
そこまで行くと、その相手が単数であろうが複数であろうが、その形態がアブノーマルであろうが、合意の上の遊びなら何処に問題があるのだろうか?
元々遊びの性交に貞操観念など在る訳も無く、愛とSEXは脳の違う部位で情報として処理される。
従って、誤解を恐れずに提案するなら、不倫の性交に「愛の感性を条件」とするべきではない。
それ故、愛の無いSEXをするのは不倫ではなく只の遊びで、大いに愉しめば良い事なのである。
そして只の遊びであれば一度に多数相手のコレクティブセックスプレィ(集団乱交)が理想的で、相手は限定されない方が後腐れはない。
夫の性癖に応える為に、大勢の他人(ひとまえ)に全裸で引き出されるのだから、女リーダーにとって日頃隠している肉体(からだ)を隠せない事は、恥ずかしい依りも非常に心細い気分である。
しかし仲間内の輪姦(まわし)プレィに供(きょう)された身では、如何(いか)なる行為も拒む事無く受け入れて、メンバーの皆様を卑猥(ひわい)に愉しませなければ成らない。
女リーダーのプレィは、亭主の好みで最初のお仕置きと同じ「おシャブリの儀式」から始まる。
全裸の女リーダーが男の前に膝間着き、ベルトを緩めスラックスを降ろし、ブリーフかトランクスを下ろして欲棒を眼前にする。
その半立ちの欲棒の茎を握り締め坊主頭に唇を近づけると、パクリと咥えて上半身を前後させ扱(しご)き始める。
これは、「他人前(ひとまえ)素っ裸で、淫乱にシャブて見せ性交を犯って見せる」と言う非日常の卑猥な陵辱プレィの行為で、嫌が応でも女リーダーの本能のスィッチがオンに成る場面である。
正直本音で言えば、 「禁断の露出公開性交」と言う異常な舞台設定だからこそ、女リーダーは全てをその場を理由に違和感無く形振(なりふ)り構わず大胆・奔放に愉しめる。
女リーダーは羞恥心と被虐感を刺激に、肉体(からだ)の性感が燃え上がる様な連続したアクメ(絶頂)を感じ続けていた。
同じ行為でも、「他人(ひと)に見られている」と言う脳みそが痺(しび)れる様なその刺激は公開性交だからこそで、夫や恋人との普通の性行為ではとてもその快感は得られない。
「あの極楽を、一生味わえない女性が多いからな。勿体無い事だよ。」
リーダー男が、真顔で呟(つぶや)いた。
勿論、素っ裸にされて諸出(もろだ)し諸見(もろみ)せの性交を夫の目の前で私と犯って見せる情況に、その女リーダーの脳にはドッとドーパミンが噴出している筈だった。
ドーパミンはアドレナリンの放出前駆体と位置付けられ、脳のメカニズムでは緊急危険時や性的興奮時には、まずドーパミンが放出される。
アドレナリンの放出前駆体ドーパミンの脳内放出に拠り、ストレス脳神経系物質アドレナリンの血中放出状態に拠る興奮状態下の筋肉細胞の成せる業である。
つまり興奮してドーパミンが活性化され、それがアドレナリンの放出を促すので、体内に作用を及ぼす物質はドーパミンでは無くアドレナリンなのである。
人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らをコントロールする。
アドレナリンの興奮の後、脳内に充満するベータ・エンドロフィンは、この【右脳】と深く関わる脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや、麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。
そしてこの脳内麻薬(快感ホルモン)・ベータ・エンドロフィンが性交時の快感をもたらし、その記憶が脳に残って異常気味の性交に納得し、次の性交機会を求めたりする。
亭主が気まぐれで、「犯ってくれ」と私に依頼したのだから仕方がない。
勿論、嫌では無かったが、それで私は当分の間女リーダーを肉体的に可愛がる事に成った。
私が女リーダーの柔ら壺の中に挿し込んで抽送する肉カリ首の海綿体が、適度な湿りの中で擦(こす)れて脳に快感を伝えて来る。
女リーダーは、私の欲棒で無遠慮にクィクィと柔ら壺の抜き挿しに攻めたてられ、声を圧し殺しながら昇り詰めさせられる度に腰を浮かし背を反らして素の犯られている女性(おんな)を夫の前で曝(さら)け出している。
こうしたソーシャルセックス(社交的な性交)のルールでは、旦那が「妻を玩具(おもちゃ)にしてくれ。」と合意して好意的に貸したのである。
だから、原則として女リーダーに何を犯らせようが借りた方の私に使用権がある。
まぁこの目の前の性交情景に、被(かぶ)せるように言葉でも状況を自覚させるのが一つのテクニックである。
「旦那さん、奥さん中々使い心地が良いですよ。これで奥さんも落とし前も着けましたから、さっきの件はチャラにしましょう。それにしても旦那さんの言う事を良く聞く良い奥さんですね。」
「あぁ、今日みたいに俺はこ奴つに何でもさせますよ。構わないからこ奴つのヒィヒィ言う良い鳴き声を聞かせて下さい」と彼は嬉しそうに応えた。
何、そんな事をすれば「家庭が壊れる」ってか。
それは嫉妬を含む痴情が心理的に幅を利かすからだが、隠れて犯る個々の浮気ならともかく、夫婦合意の上での遊びのプレィでは多少の嫉妬は味付けに過ぎない。
夫婦合意の上での遊びのプレィならば、夫の目の前でシャブらされようが犯されようが妻の勝っ手である。
まぁ同じ性交行為でも、妻が一度に大勢に輪姦(まわ)されてしまえば夫は誰に嫉妬すると言う標的を失う。
だからこそ、この遊びのプレィでは別室スワッププレィなど御法度で、全ては公開の場で参加者注視の中、あくまでも情を通わせない「助平に徹したお愉しみ」として行為は行われる。
例えば、強姦被害に命を賭けるほど抵抗して貞操は守らなければ成らないものだろうか?
そんな被害は赦すべきもので、つまり情が関わら無い性交に嫉妬を含む痴情が在る方が、異常心理ではないだろうか。
趣旨がそんなだから、性交相手が特定固定されのを防ぐマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)の方が嫉妬を含む痴情が生まれない理想的なプレィ手法なのである。
今、私が突き責めている母親(女リーダー)を始めこのメンバーの母親達は、子供を産み、漸(ようや)く小学校の中高学年まで育てた若い母親の、少しホッと熟した色気を漂よわしていた。
草むらが生えてなだらかな丸みを帯びる柔らかそうな女リーダーの肉丘が、恥ずかしそうに膨らんでいる。
仰向け大股開きにさせた女リーダー脚の間に陣取って、二枚の肉花弁の恥部に私は欲棒の抽入を果たした。
恥ずかしそうに膨らんだ丘の、その中央に花芯ぼたんの実(サネ)を配してその下、二枚の肉花弁の内部・柔ら壺に挿し込んだ欲棒を私がユックリと抜き挿ししているのを亭主が目を細めて観ている。
やがて私が攻勢を掛け、抽入した欲棒をグィグィと抜き挿しすると、女リーダーが堪(たま)らず顔を歪(ゆが)め、嫌々をする様に顔を左右に振る。
しかしその嫌々は快感の表現で、私の欲棒を咥え込んだ女リーダーの乳房は大きく波打ち腰は浮き上がって左右に振られ、口からは大胆な善がり声をわめく様に発している。
女リーダーの恥毛に覆われたなだらかな丘の下で、私の陰茎が濡れ光ながら見え隠れして確りと見えている。
今私は、女リーダーの肉体(からだ)を欲棒で串刺しにしてグィグィと攻めて居るのだ。
受け手の女リーダーも、欲棒を挿し込まれた大股開きの股座(またぐら)の恥部を生々しく丸出しに腰をクィクィと使い、善がり声を挙げながら愛液を滴(したた)らせて抜き挿しを続けている。
女リーダーをグィグィと攻めていた私は、快感が射精寸前にまで高まって来た。
「これでそのままイッて良いのかな?」
「中出し構いませんよ。そのまま遠慮なくイッっちゃって下さい。」
実は後で妻から聞いたのだが、あの物置で在った「落とし前本番事件」にはあの女リーダーの亭主が希望した陰謀が在り、それに「私の妻と三人組のリーダーの男が協力した」と言うのだ。
事の発端はその亭主の膝に、妻がノーブラ・ノーパンのミニ丈のワンピース一枚で乗った事に始まっていた。
その亭主は、膝の上に乗った私の妻の尻にパンティの線が無いのに気付き、もしやと想って胸を触るとそこにブラジャーは着いて居ず、モロに乳房の柔らかい感覚を感じた。
それでその亭主は妻を膝に乗せたまま、そ知らぬ顔で生の膝を撫でながら徐々にワンピースの中に手を入れ、太腿(ふともも)やその付け根の二枚の肉花弁にも触れて見たが、妻もそ知らぬ顔で触らせながらテーブル越の他の相手と笑って話していた。
それで亭主は、自分の妻(女リーダー)の公開調教を想い付き、その協力を求めたのだ。
正直女リーダーは、彼女の亭主と私の妻・里美の陰謀で私にし止められた事になる。
つまり女リーダーは、自分の亭主とその仲間のフィッシング(吊り上げ)に在ったようなものだ。
実はその亭主も、そして子供会メンバーの全体も、私同様に倦怠感を感じていた。
子供会メンバーの全体がモヤモヤとした猥雑(わいざつ)な日常に緩(ゆる)んで、脳が痺れるような露骨な非日常が求められる雰囲気だった。
それで、同じように倦怠期を抱えていたその亭主は、近頃何時(ちかごろいつ)も数人を引き連れて姉御気分の逆上(のぼ)せ上った自分の妻を、「少し自分の言う事を聞く遊べる女に何とかしたい。」と私の妻に相談して、綿密に計画が練り上げられて居たのだ。
そして亭主は、男達に輪姦(まわさ)れる妻を空想して興奮し、その実現を望んで妻に相談したのだ。
その計画が出来上がって、大きな飲み会の日が遣って来ると、その亭主が妻の名を挙げて「あそこの奥さんは、何時(いつ)も飲み会にはノーブラ・ノーパンで来て飲み会の人気者だ。おまえもそうしろ。」と言い、無理やり上着一枚のノーブラ・ノーパンにさせて連れて来ていた。
そこで三人組みの妻の一人がやはり亭主に命じられて「ノーブラ・ノーパンにさせられて困る」と上手く相談を掛けた所、同じような話が数人あり、姉御気分の彼女が予定通りに女リーダー格に成ったのだ。
結婚した頃は女リーダーもさして肉付きが在った訳ではないが、子供を産んで一年も経つと段々に体格に迫力が出て来た。
色気が吹っ飛んでしまった様な姉御気分の女房など、正直亭主にして見れば面白くも無い。
それで一度女房を「のぴきなら無い情況」に追い込んで過激なお仕置き経験をさせ、遊びの性交くらいは出来る女性に代わらせる切欠が欲しかったのである。
つまり相手の亭主と私の妻は、予め「落とし前の詫び」として女リーダーを私に犯らせる段取りだったのだ。
子供を産んだ女性は、どうしても子育てに気が行ってしまい、夫の性事は二の次の「つれない状態」に成って夫婦危機の芽が生まれる。
夫の方は子種を残す雌を探すのが雄としての自然本能で、妻がつれない状態に成ると夫は益々性交相手を外に求める事に成る。
そこを理解して妻が夫を満足させる対応を工夫をしないで夫の浮気だけを責める妻では、余り「良い女」とは言えない。
だからこそ、浮気とは呼べないコレクティブセックスプレィ(集団乱交)で夫婦揃って遊ぶのが理想的である。
男女に拘(かか)わらず、夫婦が連れ合いに内緒で浮気の性交をする何て寂しい事ではないだろうか?
それならば、夫婦揃って合意の上の遊びの性交の方が、男女の本質を理解した大人の対応である。
こうした夫婦揃っての無難な遊びを建前で悪趣味と指摘するのは簡単だが、各々(おのおの)が別々に浮気遊びをする方が余程悪趣味である。
人間個々の理性は知能の発達と伴に右脳・左脳が巨大化して高度化し、比較、判断、推理、計算、発明などの能力を持って、ホモサピエンス(知性人)を名乗っている。
しかしながら、他人の心理状態を「生理的に合わない」や「考えられない」と言って、相手の感性も考慮せず、即座に否定するのは間違いである。
人類は群れて生きる動物で、人間が群れ社会を形成し集団で仲間として生きる為に発達した脳の部位が、脳の左右に鎮座する「側坐核(そくざかく)」である。
その「側坐核(そくざかく)」は感性を司どり、人間の資質に存在する報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性に重要な役割を果たす脳部位である。
逆説的に言えば、群れ社会を形成する為には「側坐核(そくざかく)」の働きに拠る報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性が、「人間の群れ社会の根底にある」と言う訳である。
厄介な事に、その「側坐核(そくざかく)」を有する故に、恐れ(恐怖)をベースにした信仰心や、嗜癖(しへき)をベースにしたSM性癖(サド・マゾ)などの感性をも、持って生まれて内在している。
つまり「側坐核(そくざかく)」が感性を司どる脳部位であるが故に、理性では理解できないスピリチュアル(霊的潜在意識)やSM(サド・マゾ/加被虐願望)性癖なども、感性として存在する事になる。
女リーダーの夫の、「侘びの落とし前に相手の主人に抱かれろ」も無茶な話しだが、親しい周囲全員がこの筋書きに加担していたのだから女リーダーが罠に嵌(はま)っても仕方が無い。
バラされて見ると、私も上手く乗せられた格好だが仕方がない。
私の妻と相手の亭主が公認の遊びだった。
女リーダー夫婦へのお仕置きを犯り終えて、また飲み場に戻ると例の三人組のリーダーの男と女リーダーの夫がグラス片手に遣って来て横の席に座り、女リーダーの夫が私に話し掛ける。
「さっきは有難うございます。」
「嫌〜、こちらも愉しませて貰ったからあれで恨みっこ無しのチャラだよ。」
「いぇ、実はチャラじゃ俺が困るんです。これを機会に内の奴を色々遊べる女にコッテリと仕込んで貰いたいので・・・。」
「お宅の奥さん(女リーダー)を仕込って、私が?」
「いぇね、内の奴を遊べる女に仕込みたいのですが、別の男と犯らせるより一度犯られた相手なら一度も二度も同じ事で、内の奴も慣れるまでは他の相手に犯られるよりは抵抗が少ないじゃないかと・・・」
「それじゃあまだ私に、奥さんと犯れと・・・。」
「それで数を熟(こ)なせば段々に誰とでも仲良く犯れるように、遊びで犯らせ易く成るんじゃないかと。」
つまり女リーダーの肉体(からだ)は、当分の間「私のご愛用」と言う事である。
何しろ亭主の希望で、熟れた美人の他人妻(ひとずま)が据え膳で抱けるのである。
勿論(もちろん)こんな美味(おい)しい話を誰が遠慮などするものか。
「しかし、さっきは理由が在ったが、後はそうも行かないじゃないか?」
「それなんですが、内の奴の兄貴が左官をしてまして、お宅で下請けに使って頂いてその事の恩義を理由に、時々犯らせに連れて来ますから。必ず私の目の前で犯っちゃって下さい。」
「左官の下請けねぇ・・・。」
「内の奴は義理堅いし、身内に対する思い入れは充分ですから。」
「つまり、私が誘えばお宅の奥さんは犯られに来ると・・・。」
「ハィ、これはお宅の奥さんからのアドバイスで、上手く行くと想います。良い女の条件は、お宅の奥さんみたいに男の期待を裏切らない事でしょう。」
「私の妻は期待を裏切らないかね?」
「そりゃもう・・・だから内の奴もお宅の奥さんみたいに良い女にしたいんですよ。奥さんに相談したら、犯らせて観ましょうと内の奴を型に嵌めてでも犯らす事に成ったんです。」
「そう言う陰謀が影で進んでいた。」
「だから義理の兄貴の左官屋の事も、半ば犯る納得の為の言い訳で良いのです。」
なるほど、最初から筋立てが出来ているならこの「男の趣味に乗るか」と結論付けた。
「好きに遊べる性玩具(おもちゃ)が出来るのですから、悪い話ではないでしょう。」
女リーダーの亭主も多分そうだが、こう言う企(たくら)みの時は何時(いつ)までも、正直企画の段階から悪戯小僧(いたずらこぞう)的に胸躍るのが男の性(さが)である。
他人が「自分の女房を抱いて仕込んでくれ」と言うのならお愉しみで、断る理由は無い。
「それじゃぁ、奥さんが遊びに慣れるまで私がお付き合いしますよ。」
「良かった。これで当分、人生に刺激的な愉しみが出来ました。私は内の奴が犯られるのを観て愉しみますので、精々内の奴の肉体(からだ)で愉しんで下さい。」
亭主が女リーダーを呼んで、「おぃ、少し仕込んでもらう話が着いたからお前からも良くお願いしろ。」と命じ、近寄って来た女リーダーに、「良かったな、お兄さんの仕事も引き受けて貰った。」と告げた。
「済みません。私、平然として居ますがこれでも本音では一杯一杯なのですよ。でも内の人(亭主)に当分の間お仕置きをして貰って慣れろと言われていますので宜しくお願いします。」
どうやら一度私にお仕置きされた後で、亭主の方が女リーダーに「当分の間私に仕込まれろ」と言い含めたらしかった。
「奥さんはそれでほんとに良いのかね?」
「えぇ、実は内の人(亭主)は知らないですけど、内の人(亭主)が隠れて読んでいる写真雑誌を見つけて出勤後に時々読んでその気(け)が在るのは判って居ました。」
「御主人のその気(け)を前から知っていたと・・・・。」
「えぇ、正直何時(しょうじきいつ)かは、内の人(亭主)がプレィを犯りたいと言い出すじゃないかとは思って、言い出したら応じる積もりでいました。」
「こんな事を犯ってどうなんだろう」と言う疑問は女リーダーに在ったが、夫の正直な性癖がそうならば、応じる選択肢が賢明だと考えた。
「プレィに応じる積りの覚悟だったのか?。」
「十何年も一緒に暮らしているのですから、拒否してがっかりさせるより内の人(亭主)の願望を満足させてやりたいと思ったのです。」
夫に見られながらあれだけ私と卑猥な行為を犯ってしまえば、もう女リーダーが今更トンガっても似合わない。
だから犯ッちゃって開き直ればスッキリで、態度を柔らかく素直にするしかない心境なのだろう。
ついさっき犯ったばかりの間では妙に親しみが湧くから不思議で、女リーダーの方も一度犯った後だから「今更気取っても仕方が無い」と腹を括った格好である。
「そうと決まれば」で、折角なので私はもう一度女リーダーに股を開くように命じた。
さっきは慌しく犯って女リーダーの肌触りなど愉しむ間が無かったから、改めて攻めて見る事にしたのだ。
私の手の平が指先が女リーダーの膝頭を撫でながら這い進み、太腿(ふともも)に達していよいよ大きく開放され露(あらわ)に成った股間の二枚の肉花弁に触(ふ)れる。
女リーダーの脳が、この先の欲棒の受け入れを意識してか、二枚の肉花弁のスリットの奥は既に淫液に潤んでいた。
その水々しく潤(うるお)った女リーダーの花弁の隙間・柔ら壺に、私の二本の指先が「さて、どんな声でさえずるかな?」と今コジ入れられて行く。
そしてその数十秒後には、指の抜き挿しに攻められて腰を浮かして身悶(みもだ)えながら、女リーダーは 私に敏感な花芯肉ボタンやら二枚の肉花弁まで舐(な)め廻されて、確かにヒィヒィとさえずりながら耐えている。
柔ら壺の海綿体の粘膜は性感帯で、男女の性器だろうが唇やア*ルの菊座だろうが鼻の穴の内側まで、擦(こす)れは快感に通じていて、私はそれを同時に攻めているのだ。
食欲も性欲も基本の感性は似たような物で、見た目も味も同じ定食を毎回食べ続けていれば飽きも来る。
そう言う意味では、女リーダー夫婦に刺激的な非日常が時々訪れる計算だ。
嫁さんは他人に犯られる姿を夫に見せる事に成るが、まぁ良い女なら夫と一緒にそう言う卑猥(ひわい)な遊びも出来なきゃならない。
分けて考えるから可笑しな事になるのだが、女性が当然持つ母性の第一歩は確実に性交から始まるものであり、つまり性交に関心がある事は女性に採って当たり前の事で何の恥ずべき事では無い。
その女性の性交への関心が、表向き抑制的な社会合意に成った背景には、「男性側の独占欲が在ったからではないか?」とさえ疑える。
馬鹿げた話しだが、愛情を性交の唯一の条件とするなら性交を卒業した老夫婦間に愛情は存在しない事に成る。
しかし愛情は永く生活を伴にして育むもので、年を取って性交渉が無く成ったら愛情が存在しないなど、そんな事は絶対に無いから愛情が性交の唯一の条件ではない。
もっとも近頃の風潮として、一度性交を試しに犯って見て相性を確かめてから結婚を前提の付き合いを開始するのが主流とされている。
つまり逆説的に言えば、「愛情がなければ性交は出来ない」は論拠が無い事に成る。
人間は贅沢な生き物で、結婚して数年経つと夫婦の平凡な性生活では単調で満足できなくなる現実に突き当たる。
それで大概の場合、新たなる刺激を求めて連れ合いに内緒で浮気・不倫に走るのだが、それでは家庭を壊す事に成りかねない。
それであれば、夫婦揃(ふうふそろ)って互いの公認の元で、可視化した遊びの性交プレィを犯れば良い。
おしどり夫婦は夫婦仲が良い事を例える言葉だが、本物のオシドリの「つがい」は一繁殖期のみ限定の中の良さで、翌年の繁殖期は別の「つがい」だそうである。
つまりオシドリの様な交換刺激は本来必要で、夫婦間の倦怠感は愛情と言う精神論だけでは埋めきれない。
さりとて毎年相手を代える事は人間社会では難しいから、倦怠期を乗り越えるには、そこまで行くには大変な説得も必要だが、非日常の夫婦合意の上での共犯プレィの性交を愉しむ事である。
痴情と言うのは独占欲の心情から始まる物で、夫婦合意の遊びなら痴情など最初から無い。
女リーダーは、私との「落とし前」を切欠に急にしおらしく亭主の言う事をアベソルティオベデンス(絶対服従)で聞くようになり、素直に私の調教性交に応じるように成った。
女リーダーの亭主の依頼で性調教を始めた私だったが、とにかく毎週のように子供会役員の飲み会が続いていたから、その度に亭主が物置部屋の鍵を持って「また内の奴をお願いします。」と私を誘いに来る。
物置部屋へ行くと女リーダーが素っ裸で待っていて私の要求は何でも聞き、亭主の前で犯りたい放題が続いた。
それに上乗せして、女リーダーの兄が左官職人の親方を遣って居て、女の亭主に頼まれて私の建設会社で下請けに使い始めた。
その取引が妻の匙加減(さじかげん)も在って結構仕事が廻り、三人だった使用人を七人まで増やして恩が生じ、益々女リーダーはがんじ絡めの私の性玩具(おもちゃ)に成った。
左官職人の兄は、義理の弟に当たる女リーダーの亭主からは、仕事を廻すに当たって「社長(私)には夫婦で遊んで頂き可愛がって貰って居る。」と伝えて居たから、まさか妹が素っ裸にされて弄(もてあそ)ばれているとは知らない。
知らないで、遭う度に「何時も妹を可愛がって頂いて。」と、その兄貴は挨拶する。
まぁ、それも可愛がっているには違いないが・・・・奇妙な気分ではある。
左官職人の兄は、女リーダーの亭主からもくれぐれも言われているから、妹には、「社長(私)から沢山仕事を貰っているので、機嫌を損なう事が無いように遊びのお相手をするようにと、妹に遭う度に言い伝えている。」と言う。
亭主と実の兄から私の「機嫌を損なうな」と言われれば、女リーダーは気持ち良いほど素直に言う事を聞くしかない。
その内に亭主が加わって私と二人で責め始め、その亭主と予め話が出来ていたのか途中から例の三人組のリーダーが加わり、その後は後の二人も性調教のメンバーに加わって、さながら五人相手の輪姦ショーの様相を呈して来た。
輪姦ショーを犯るか犯らないかは女リーダーの決心だから、犯ると決めたらどんなハードなプレィでも素直に応じるしかない。
ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイについては、夫婦間で「それで良い」と決めたら、どんな遊びでも犯れる。
ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイについて、夫婦間で「それで良い」と決めたら、どんな遊びでも犯れる。
「白糸会」では、女リーダーの股間はご使用自由だから、亭主から「脚をパックリ開け」と命じられている。
パックリ開いたその股間に、開き気味の二枚の肉花弁の隙間からピンク色の柔ら壺の入り口も観えている。
こうなったら挑(いど)んで来る男達を、流れに乗って次から次に柔ら壺に受け入れ、腰を使って彼らの性欲を熟(こな)すしかない。
その最中は、性交の快感に翻弄(ほんろう)されるだけである。
そしてこうしたプレィは、女性側の考え方次第で「多くの男達の欲棒を貪(むさぼ)る愉しみな遊び」とポジティブに解釈できる。
もぅ相手構わずの性交ショーだから、誰の欲棒が柔ら壺に入って来ても、女リーダーは素直に「はぃ、いらっしゃい」の気分だった。
そして相手の欲棒が、女リーダーの柔ら壺をクィクィと突っ突き始めたら、腰を使って応戦するしかない。
ギンギンに張り詰めたリーダー男の生の欲棒が、女リーダーの二枚の肉花弁をかき分けて柔ら壺にグィと嵌(はま)り込んで生々しく抜き挿しされている。
リーダー男の膨(ふく)れたカリ首が、女リーダーの柔ら壺の内壁を気持ち良く擦っているに違い無い。
易々と逃げ切れない状況に追い込まれて、女リーダーは今、素っ裸で此処に居る。
此処に集まった男連中は本気で、「嫌だ」と言って止める連中では無く、素っ裸の女リーダーはもう、どうせ輪姦(まわし)で大勢のこの連中に犯られるのが避けられない。
こう成った以上、恥ずかしがったら面白がっている夫や連中の思う壺だし、嫌がっても、泣き喚(わめ)いても、見苦しいだけで余計に良い事はない。
それならば、腹を括(くく)って覚悟を決め、堂々と彼らとの性交にアクティブ(前向き・攻撃的)に応じて観せ、見っとも無い態度は止め様と想って心に決めた。
この後女リーダーには、陰茎に青筋が立つほど硬くそそり立つ何人もの陰茎を、入れ替わり立ち代り突き込まれる容赦無い快感地獄が十分〜十五分と続く場面が待っている。
それでも、こうした遊びの公開性交に於いても、基本的に女性には張り合う気質があるから、犯る以上は他者と比較されて「詰まらない女」と負ける訳には行かない心理が働く。
つまり大勢の目が在れば、自身の為にも夫の為にも奇妙なプライドが働き「良い痴女」に成り切ろうとして見事な性交を披露する。
この女リーダーへの悪戯(いたずら)遊び、輪姦陵辱会は、女リーダー生誕の地・富士宮市の白糸の滝に因(ちな)んで、亭主が「白糸会」と名付けた。
つまり女リーダーの亭主がその気に成れば、グループの仲間に「白糸会」の開催連絡が行く事に成る。
女リーダーにして見れば、自分に要求されたこの生贄(いけにえ)の状況は、信じられない程余りにも衝撃的だった。
性器も露(あらわ)な素っ裸に剥(む)かれた裸体を他人前(ひとまえ)で晒(さら)すのは、女リーダーに採って何とも恥ずかしく無防備で頼りない想いである。
それだけでも羞恥心でアドレナリンが噴出するのに、亭主はこの衆人環視の中で「輪姦(まわ)されて見せろ」と、聞いただけで脳みそが溶けるような衝撃的な事を命じるのだ。
考えて見れば、何時(いつ)までも特定の相手と工夫(くふう)もしない定食の性交をしていては、新しさが伺えない日常のマンネリ(形式・様式主義)である。
女リーダーの亭主は市職員を務めて居て、漸(ようや)く肩書きに主務とか主任とかが着き始めた矢先だった。
綺麗事では無い現実として、特に議員や消防士・教師など公職者・公務員などは、性スキャンダルは職業上命取りに成る。
だから女房の女リーダーの方も、家庭や生活の防衛上亭主の自制心だけを頼っていては無責任で努力不足ではないだろうか?
つまり亭主のストレス解消に女房の女リーダーが、馬鹿に成って秘密の遊びに素っ裸で付き合う事が、家内安全の特効薬かも知れない。
女性だけ輪姦(まわ)されると成ると一見不公平に見えるが、男性は一回発射すると機能的に回復に遅れ、肉体的には多人数の女性に輪姦(まわ)される能力すら無い。
これだって「公平不公平に何を採るか」の採り方の問題で、快感の享受と言う観点からすれば男性側に不公平かも知れないではないか?
女リーダーの亭主が犯りたかったあこがれの遊びが、漸(ようや)く叶った。
正直帰宅後の女リーダーの亭主には、次にあの遊びの輪姦(まわし)プレィにまた誘われたら、「直ぐに応じるだろう」と想った。
人間の本能から切り離せない感性の魅力がエロスで、興奮のエロスは人を引き付ける大きな武器で在る事を否定出来ない。
刺激的過ぎて、そのワクワクの誘惑を拒む自信など微塵も無かったのだ。
女リーダーの亭主の脳裏には、全裸目の前で男達に次々と輪姦(まわさ)れて善がり悶えながら腰を使う女リーダーの、脳みそを突き抜ける衝撃的なあの時の性交姿が浮かんでいた。
女リーダーが賢い女性なら前向きに愉しもうと心掛ければ、被虐の性玩具(オモチャ)に弄(もてあそ)ばれる事も段々に馴染んで行けば良い。
大股に開いて露出された女リーダーの股座(またぐら)・柔ら壺に男達の欲棒が生々しくズブリと挿し込まれ、クィクィと腰を入れて攻め立てられて居る。
女リーダーは善がり声を振り絞る口元から涎(よだれ)を垂れ流し、柔ら壺に欲棒を咥え込んで受け腰を使う股間から愛液を滴(したた)らせている。
女リーダーは、目の前で外聞を憚(はばか)るような端無(はしたな)い非日常のセックス・セッション(乱交)に大股開きで受け腰を使い、正直内心興奮しながら熟(こな)していた。
性感に顔を歪(ゆが)ませてヒィヒィ漏らす女リーダーの喘(あえ)ぎ声と、リズムを合わせて柔ら壺に抜き挿しされる陰茎が女リーダーの亭主の目に観え隠れして居る。
女リーダーの亭主はその特上な情景を思い出すと、不思議なめくるめく性衝動と共に、嫌悪感よりも「これは堪(たま)らない強烈で上等な非日常の、癖に成る刺激だ」と想った。
その後「白糸会」の会合には何時(いつ)も突然一方的に命じられるが、女リーダーは躊躇(ためら)いも見せずにパンティを脱いで犯られに出かける。
まぁ人間は、経験しながら成長するもので、あれだけ善がって観せた上に、おおぴらに腰をクィクィと使って犯ったのだから、今更「恥ずかしい」も無いもので、命令に抵抗などは出来ない。
人間は貪欲な生き物だから、性行為に対しても当然多角的な愉しみ方を考える。
恋女房を他人(ひと)に抱かせて自慢するなど、女リーダーの亭主は一風変わった感性の持ち主かも知れない。
女リーダーは、直面する課題を突き付けられて、性生活や性倫理に対するイノベーション(新機軸/変革する・刷新する)を必要としていた。
どうせ男達の性玩具(オモチャ)として、他人前(ひとまえ)で輪姦(まわし)を犯られて観せる痴女に調教されのだ。
相手が何人だろうとも愛液を太腿(ふともも)に滴(したた)らせて心地良い腰使いで、アクティブ(前向き・攻撃的)に向かえ討って観せる意地が女リーダーに在った。
それもこれも大袈裟(おおげさ)に考えず、上辺(うわべ)の縛りから自分の心をアクティブ(前向き・攻撃的)に開放すれば大した事では無い。
女リーダーは亭主の性癖を妻として認め、亭主の少し破廉恥なソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイで痴女に調教される欲求を受け入れた。
多少強制気味に仕掛けられて犯る性交プレイならば、常識的には「終わった時点で悔いが在って成らない」と言う女リーダーの想いは理解し難いかも知れない。
だが正直な心境として女リーダーには、犯った相手から「詰まらないプレイの女と言う評価はされたくない」と言う意地が在った。
どうせ犯られるなら、愉しんでもらえる様に誇り高く誠実に性奉仕して「使える女」と評価されなければこの遊びの性交プレィで女リーダーが面白がって遊ばれる意味が無いのだ。
いずれにしても、夫の性癖に付き合い輪姦(まわ)される事が避けられないのなら、「自分は根性入れて、ガムシャラに頑張るしかない」と割り切った。
女リーダーの性交が確実に男達に評価されるのは間違いなく、亭主の面子も掛かって来るから、好感度を上げる為に懸命に性奉仕する。
勿論亭主の前で、何人もの他人に弄(もてあそ)ばれるのだから、内心羞恥心や抵抗感と言った奇妙な感情はあるが、今は性奉仕の評価に重点を置く。
受け入れた以上、どうせ犯られるなら相手に愉しんでもらえる様に誇り高く誠実に性奉仕して、「使える女」と評価されなければこの遊びの性交プレィで面白がって遊ばれる意味が無い。
つまりこの遊びの性交プレィで高評価されなければ、女リーダーが「白糸会」のメンバーに面白がって遊ばれる意味が無い。
現実と向き合い単純に表現すれば、これは好奇心や性欲を満たす「娯楽」である。
女リーダーは、勇気を試される誇り高い生贄(いけにえ)として素っ裸にヒン剥(む)かれ、「白糸会」の男達の欲棒に積極的に身を委(ゆだ)ねるのだ。
女リーダーの亭主がまた遊びたくなると、「白糸会」のメンバーに呼びかけ、話がまとまると亭主が一方的に女リーダーに参加を命じる。
亭主は、ノーブラジャー、ノーパンティの上に前ボタン前開きのワンピース一枚羽織らしただけでその日のプレィ場所に女リーダーを連れて行く。
会場の中央に女リーダーを立たせ、羽織らしたワンピースを取り上げて全裸にし、亭主が「今日も皆さんで、可愛がって犯つちゃって下さい。」と宣言する。
そこで全裸の女リーダーが「よろしくお願いします」と頭を下げると、それがGOサインで直ぐ二〜三人の男が群がって来て、プレィが始まる。
対象とする女性がセクシー派だろうが清純派だろうが、好みの違いこそあれ「好きに犯れる」と言う究極の所ではワクワクする性の対象で有る事に違いは無い。
亭主の目前で、細君の女リーダーを素っ裸にヒン剥(む)いて、面白がって執拗(しつよう)に攻め立てる陵辱(りょうじょく)プレイが始まった。
こう言う状況では、素っ裸にヒン剥(む)く事が現実に向き合わせるセオリー(理論)で、なまじパンティ一枚でも身に着けていると要らぬ羞恥心や抵抗感が湧く。
女リーダー本人が立場を自覚するには、早々に素っ裸にヒン剥(む)いてソーシャルセックス(公開・社交的な性交)の場に馴染ませる事である。
それで大勢のギャラリーに囲まれて容赦なく全裸を晒(さら)させる事から、「使える女」と評価され痴女に調教される為の一歩が始まる。
今、素っ裸の女リーダーの乳首が立った乳房は胸元で躍り、股間にはモワ〜ンと生え茂るアマ藻が白い肌とは対照的に黒々と恥ずかし気に見えている。
これからこの女リーダーの柔らかそうな裸体は、御使用方法自由の性玩具(おもちゃ)として、問答無用に弄(もてあそ)ばれる事になる運命だった。
勿論この妖艶淫靡(ようえんいんび)な状況下では、誰もの脳がエロスで一杯に成り、遊びの性交プレィに常識の制止は利かない。
集(つど)った男女は、皆一様に怪しく目を光らせながら女リーダーの姿態を、エロチックな期待と共に観ていた。
愛情と性交をセットにして考えるから思考や行動の範囲が狭くなるのだが、残念ながら本当の男女の仲はそんな単純なものではない。
夫・女リーダーの亭主が承知して「犯れ」と言っているのだから、もぅ女リーダーには選択肢はない。
このシークレットパーティ(秘密会合)で、全裸の女リーダーを扱うハンドラー(調教師、訓練士)は、夫の亭主である。
そして女リーダーには、相手が亭主だと嫁に甘えが出るから、嫁に性技を仕込むに仕込み手は他人の方が遥かに良い。
それなら発想を変え、相手の男達を、いつも夫・女リーダーの亭主が持ち出して私(女リーダー)を攻めたてる「電動玩具」と思うしかない。
相手の男達は「生身の電動玩具」だが不倫などとは次元が違い、夫・女リーダーの亭主自らがこのシークレットパーティ(秘密会合)で、女リーダーのハンドラー(扱う人、調教師、訓練士)である。
性交好きを否定する事は天に唾(つば)するようなもので、性欲に於ける男女の仲は本人が認識していない無意識脳に於ける意識では右脳がリード(導く)するのだ。
だから節度は必要だが、命を繋ぐ生き物としての人間の本性は天性の性交好きで当たり前で、それを非難する事は出来ない。
「決まっている」は進歩を妨げ、脳に刺激が在って初めて脳は活性化するのだから、それを避けて何も考えないではろくな結果は得られない。
この「白糸会」の場は何でも有りのNG無しだから、犯られ放題やり放題が当たり前で、それは女リーダーも事前に承知させられている。
犯らせ放題やり放題を犯らせる方にも、求めれば様々な性癖を満足させてくれる安心感が愉しめる。
「白糸会」の輪姦プレィでは、これは女リーダー躾(しつけ)の為のルーティン(お決まりの手順・定番)である。
「あぁしたい、こうしてみたい」の猥褻(わいせつ)な想いを、直ぐに他人妻(ひとつま)で実現できる事が、この「白糸会」の輪姦プレィの良いところだ。
意外な事に、輪姦(まわし)を受けると腹を括(くく)ってしまえば、大抵の女性は「見苦しい真似はしまい」と何でも素直に応じる。
何事にも流れに乗る事が大切で、そこが止まると全てに良い事は無い。
不満があるなら女リーダーも黙っていない筈だが、もぅ夫の説得で納得したのだから意地でも黙って従うしかない。
勿論腹を括(くく)っての事だから、他人前(ひとまえ)多人数でムチャクチャに弄(なぶ)られ、ムチャクチャに犯かされるのは覚悟の上だ。
その場がそう言う雰囲気なら、もうその勢いは止まらないし、相手を一々選んでは居られない。
妙な話と受け止めるかも知れないが、例え望まぬ相手でも下手に抵抗して怪我をしてもつまらない。
基本的に日本人は生真面目で規律正しいのだが、それが仲間内のお遊びプレィの輪姦に於いても発揮される。
つまりお遊びプレィのヒロインは、一旦その場立てば例えそれがお遊びの輪姦プレィで在っても仲間内の規律を順守し、生真面目にその勤めを果たす。
妙な話と受け止めるかも知れないが、実は日本人の紛れ無い性「サガ」かも知れない。
利口な女なら、相手がシャブらせたいならパックリ咥(くわ)え、クィクィと首を使ってシャブって犯れば良い。
仁王立ちする男の欲棒をおシャブリするには、膝間着いて相手の顔を見上げ、嬉しそうに咥えてシャブるのが喜ばれるコツである。
犯りたいなら、別に大した事ではないのだから股を開いて精々犯らせ、抜き挿しされる欲棒に腰をクィクィ使って応じて犯れば良い。
どうせ性交を犯り始めてしまえば、肉体(からだ)は相手構わず気持ち良く成るものだから、こちらも無我夢中で性的快感を貪(むさぼ)るだけだ。
人間の欲望は果てしないもので、犯り始めてしまえば「この際だから、あれも犯りたいこれも犯りたい」と様々なバージョン(形態や変形)を試して愉しみたくなる。
それは国王だろうが大統領・総理大臣だろうが、各宗教の最高聖職者だろうが、大企業経営者だろうが現実は皆同じである。
だからこう言う時は、考えられないくらいに型に嵌(はま)らない様々なプレィが女リーダーに要求される瞬間なのだ。
勿論それは、初体験の女リーダーにとって以後の人格が変るほどの衝撃で、全身の身震いがしばらく止まらない程イカされた。
輪姦(まわし)は続いていて、女リーダーの柔ら壺は既(すで)に何人もの射精を受け入れている。
ようやく女リーダーが弾けて、益々現場の熱気が上がって来た。
女リーダーの柔ら壺の中で、何人もの精液が入り混じった愛液が、今の相手にクィクィと突かれる度に溢れ出し泡状に床に滴(したた)り落ちている。
女リーダーは既に男達に追い込まれ、ド助平女に開花しているから、次から次の男達から柔ら壺に挿し込まれる欲棒を、腰を貪欲(どんよく)に使って快感を貪っている
女リーダーは腰を振り、善がり声を挙げ、ビクンビクンと肉体(からだ)を反応させながらイキまくる。
大体この輪姦(まわし)に女リーダーが応じるのは夫の依頼だから、浮気でも不貞でも何でもない。
言ってしまえば、他人前(ひとまえ)で全てを曝(さら)け出したのだから、もぅ怖いものは無い。
ならば女リーダーが、堂々と性交の快感を味わって善がり鳴いても、文句を言われる筋合いは無い。
男が次々と襲って来るので、女リーダーは仰向けの姿勢で踵(かかと)を宙に浮かせた大股開きのまま次の男を受け入れる。
その、次の男を受け入れる頃には射精終った前の男が今まで女リーダーの柔ら壺で暴れていた愛液塗(あいえきまみ)れの欲棒を口中に捻じ込んで来る。
仰向けの姿勢で踵(かかと)を宙に浮かせた大股開きのまま、口中に捻じ込んで来た欲棒の愛液を綺麗に舐め取っている間に、次の男が射精を終えてシャブらせに来る。
シャブらせに来る頃には次の次の男の欲棒が、宙に浮かせた大股開きの女リーダーの柔ら壺に挿し込まれて抜き挿しされ始めている。
これが十何回と続き、手加減抜きの、女リーダーには驚愕の犯られ方だった。
それにしても手加減抜きの、あの驚愕の犯られ方にしては、女リーダーの体力回復力は驚異的だった。
並のアダルト映像よりかなり過激なプレィの連続で、全身の身震いがしばらく止まらない程イカされた。
女性を四っん這いにさせるバックスタイルの性交も動物的で、疑似生殖行為(快楽性交)には人気プレィの一つである。
女リーダーが尻を高く掲げ、顔は頬(ほほ)を床に着ける猫の背伸びの様な四っん這い姿勢で待ちうければ、柔ら壺もア*ル(尻穴)も、ズッポリと犯りたい放題である。
この姿勢で何人も受け入れた女リーダーだが、相手の男の大半は、前の柔ら壺も後ろのア*ル(尻穴)も交互に充分に愉しんでいる。
駅弁ファックは、互い向き合って欲棒を女性の柔ら壺に抽入したまま抱え歩き、抱えた腕力で女性を上下させて抜き挿しする性交法である。
その変形で、ア*ル駅弁ファックは女性を前向きに欲棒をア*ルに挿し込み女性の左右の両太腿(りようふともも)を両手で抱え支えるア*ル性交法である。
この二つの駅弁ファック組み合わせて、先にリーダー男がア*ル駅弁ファックを決め、更に私を駅弁ファックに向かい入れれば、欲棒二本挿しの二穴駅弁ファックが成立する。
同時に女リーダーは、止められない状況で突然放尿した。
女リーダー得意の、極まった時の「快感おもらし」である。
勿論それは、初体験の女リーダーにとって以後の人格が変るほどの衝撃では在った。
そして女リーダーは、沢山(たくさん)嵌(は)められて悶(もだ)え狂い、輪姦(まわし)にドップリ嵌(は)まった。
他人のギャラリー前で沢山(たくさん)嵌(は)められて、 は他人前(ひとまえ)で犯られる恥ずかしさに構っては要ららないほど腰を使って快感を貪(むさぼ)った。
一度、肉体(からだ)が輪姦(まわし)を経験すると、そのソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイの世界にドップリ嵌(はま)るほど、脳がその快感から逃れられなくなる。
ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイのヒロインには、女性としての高度な「スペック(性能)」が要求される。
「スペック(性能)」とは、元々コンピューター用語だが、人の身体的特徴、趣味、学歴、仕事などのランク(階級)を表す言葉としてある。
まぁ早い話し、この理不尽が「白糸会」の女王に成る為の、ワクワクのレッスン(授業・稽古・練習)トライアル(試み)と言う事である。
白糸会メンバーの男達は観せて愉しませる事を心得ているから、女リーダーは犯られている間、自然と結合部分丸観えの観せる性交ポーズ(姿勢/姿態)を執らされる。
執拗(しつよう)にヘビーローテーション(はげしい交替)で攻め立てる男達の、一方的な「おまかせセックス」に女リーダーが身を委(ゆだ)ねる事が、この場のプレイルールである。
亭主の目前で、モロ挿しにズブリと貫(つらぬ)かれた男達の欲棒に、女リーダーの下腹部が執拗(しつよう)にかき回されている姿を、亭主は黙って観ている事になる。
女リーダーが欲棒をシャブらされたり抽入されたりも観物だが、ギャラリーが期待しているのは、彼女が感じさせられて曝(さら)け出される雌(メス)の乱れである。
男達の一方的な「おまかせセックス」に女リーダーが無条件で身を委(ゆだ)ねるのがこの場の「白糸会ルール」である。
情を伴わないソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイでは、女は男の高性能娼婦性玩具(オモチャ)であり、男は女をイカセル為の単なる男根型の高性能性玩具(オモチャ)である。
例え女リーダーが、亭主の目前で夢中で受け腰を使っていても、彼女には「それが夫の為に成る」と言う安心の大儀がある。
明るい照明の下、性交ショー化してギャラリーに観せながら大胆に犯る「白糸会」のオープン・ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)が展開する。
プレィが開始されると、まずは最初の男が女リーダーにその場全体を興奮させる為の卑猥(じわい)な前技を施(ほどこ)して気分を盛り上げる。
この前技ショーは、ギャラリーもヒロインの女リーダーも、輪姦(まわし)に加わる男達も、気分を盛り上げる為にかなり猥褻(わいせつ)である。
ギャラリーと攻め手の男にはS性(サド)の興奮を、施(ほどこ)される女リーダーにはM性(マゾ)の感性をもたらすプレィだった。
素っ裸の女リーダーを四つん這いにさせて尻の双肉をグィと広げてア*ルの菊座を眺め、その下部にひら付く二枚の肉花弁の間のスリットを左右の手の指で広げて柔ら壺の入口を観る。
尻の双肉は強引に左右に開かれてア*ルの菊蕾も鑑賞され、二枚の肉花弁のスリットも指で開かれて中まで鑑賞される。
その男は、羞恥の興奮で湿った女リーダーの肉花弁の間のスリットの入口に、利き手の親指を擦(こす)り付けて湿らせる。
益々湿ったスリットの奥に、ひと指し指と中指の二本を女リーダーの二枚の肉花弁の間のスリットに挿し込み、ア*ルの菊座に湿らせた親指を挿し込んで、弄(なぶ)る。
四つん這いの姿勢をとらせた男が後ろに廻った時に、女リーダーは何をされるか凡(おおよ)その想像は着いて身構えていた。
それでも、柔ら壺とア*ルに指を挿し込まれると肉体(からだ)は「ビクン」と反応する。
女リーダーは羞恥心に顔を赤らめるが、生きた性玩具(オモチャ)としてメンバーに提供されたのだからどう扱われようと黙って応ずる以外選択枝は無い。
後ろに廻った男の二本の指先が、内壁を擦(こす)りながら女リーダーの肉体(からだ)の中でうごめいている。
卑猥(ひわい)な指責めで攻め立てられてヒィヒィ善がり声を漏(もら)らす女リーダーの性感反応は、周囲で目を光らせて観る男女の怪しい気分を盛り上げて行く。
後ろから弄(なぶ)られて恥辱に耐えていた女リーダーが、四つん這いの姿勢から、今度は仰向けに転がされる。
素っ裸で仰向けに寝かした女リーダーの両膝に左右の手を置いてグィと股を広げ、下部にひら付く二枚の肉花弁の間のスリットを左右の手の指で広げて観る。
利き手のひと指し指と中指の二本を女リーダーの二枚の肉花弁の間のスリットに挿し込み、クィクィと抜き挿しして股間を弄(なぶ)る。
女リーダーは大股開きにされ、女性器・柔ら壺には指が挿し込まれてグイグイと抜き挿しされ、男の性癖のままに攻め立てられて、女リーダーの呼吸が荒くなり、ヒィヒィと善がり声も漏れて来る。
女リーダーの大股開きの股間に挿し込まれた指先が高速度で抜き挿しされ、隙間から漏(も)れ出る愛液が太腿(ふともも)に飛び散って流れている。
抜き挿しされる指二本を咥え込んだ女リーダーの股間が、快感にのたうつ様に腰ごと怪しくうごめいて観えている。
指の抜き挿し攻めされる自分の股間に、ギャラリーの視線が集中する羞恥心を感じながら、それ以上に感じる快感に想わず腰を振って悶(もだえ)る女リーダーがいた。
女リーダーが指攻めに善がり声を挙げて生々しく腰を振り、大きく反応して観せるのをギャラリーは愉しそうに眺めて女リーダーの性感反応振りを批評さえして居る。
取り囲まれて観られていると自覚すれば、女リーダーも顔から火が出るほど羞恥心が湧いて来るが、それをも忘れさせるほどの性感反応が身悶(みもだえ)させる。
その見せ場の羞恥心の興奮が、またも女リーダーのアドレナリンの放出前駆体ドーパミンの脳内放出を促進させる。
この場は建前を排除した異次元の世界で、夫公認の性玩具(オモチャ)・女リーダーを弄(もてあそ)ぶのにNG(ノゥグッド/禁止事項)は無い。
世間体など存在しない、剥(む)き出しの性的な欲望と魂の叫びが炙(あぶ)り出される実体験の世界なのだ。
女リーダーの方も夫公認の性玩具(オモチャ)として弄(もてあそ)ばれる以上は、相手にロイヤリティ(忠誠心)を持ってトップバリュー(最高の対価)を払う心がけが必要だった。
つまりは甘んじて、操られるままに無抵抗で性的に責めたてられるのだが、女リーダーは上手く性玩具(オモチャ)を犯って行くしかない。
過分に屈辱的な弄(もてあそ)び方だがここはそれが許される場面で、女リーダーは為すがままに恥辱に耐えている。
ギャラリーの視線を浴びて、全裸で「白糸会メンバー」に弄(なぶ)られた女リーダーは、乳首が立つ乳房は揉みしだかれ。
人間の肉体(からだ)は不思議な物で、セックス行為が一旦始まったら、もぅ「嫌」とか「恥ずかしい」とかとは、直面する肉体(からだ)の反応と次元が違う。
ハァハァと言う荒い息の善がり声を唇から漏(も)らしながら、愛液を垂(た)れ流して大股開きの下半身をヒクつかせ捻(ひね)り、感度の良さをギャラリーに体現している。
愛情の有無など関係なく、愛は無くとも始めてしまった性行為の快感を、貪(むさ)ぼり尽くすまで止めららないのがセックス行為である。
女リーダーは、次々に突き入れられた何本ものキノコの抜き挿しに受け腰応じながら、壮絶な善がり声を発してアクメ(絶頂)感に裸身を震わせる。
激しい輪姦(まわし)に依って、女リーダーがセックスハィの陶酔に陥(おちい)り、夢中で快感を貪(むさぼ)る受け腰を、積極的にクィクィと使っている。
モロ挿しにズブリと柔ら壺を貫(つらぬ)かれた男達の欲棒に、女リーダーの下腹部が執拗(しつよう)にかき回されている。
目の前で女リーダーが醜態(しゅうたい)を晒(さら)し、ヒィヒィ感じながら犯られ捲(まく)くって居る壮絶な光景は、女リーダーの亭主には最高級のポルノ鑑賞である。
まぁ良し悪しで表現したら、男女の性交場面など不恰好で観られたものでは無いが、此れを観て興奮するのが人間と言う奇妙な生き物の感性である。
女リーダーの亭主にとってその陵辱光景(りようじょく)は、現実と向き合えばS性(サドせい)もM性(マゾせい)も満足させる特殊な心躍る興奮の心理だった。
一度その特上段階に夫婦の遊びがステップアップすると、そこはもう現実として認めた単なるワクワク好奇心の通過点で、それを問題視して恐れる心理は無くなる。
目の前で男達に次々と輪姦(まわさ)れて、脳みそを突き抜ける善がりに悶(もだ)えながら腰を使う女リーダーの衝撃的な性交姿は、明らかに行為に没頭していた。
この状況の中で、女リーダーが男達相手の遊びの性交プレイに次々と犯られ続け奮闘する努力は、正に痴女の修羅場の様相が哀愁さえもかもし出されていた。
女リーダーは貞操観念を放りだした様に他人目(ひとめ)も憚(はばか)らず妖艶に、奥ゆかしさなど微塵も無い過激差で、露骨に性交プレィに興じている。
今は命じられて仰向けに寝た男に跨(またが)り、男の欲棒を股間に咥え込み床に脚を着けて腰を上下するスクワット騎乗位プレイを披露している。
女リーダーの縦方向の腰の上下で乳首が立った乳房が不規則に揺(ゆ)れ、股間には愛液に濡れ光る陰茎が見え隠れしている。
男が女リーダーに命じて体位が変わり、正常位で欲棒に貫かれた女リーダーの「女性器」が、相手の男の抜き挿しとリズムを合わせてクィクィと生々しく躍(おど)っている。
女リーダーは、度重なる奮戦で滲み出る汗で肌を光らせ、ズブリと貫(つらぬ)かれた下腹部から愛液を太腿(ふともも)に滴(したた)らせ、セックスハィの陶酔の中夢中で快感を貪(むさぼ)っている。
女リーダーの喘(あえ)ぎ声とリズムを合わせて抜き挿しするの男達の腰使いが、白糸会ギャラリーの聞き耳に心地良い興奮を誘う。
犯られても犯られても、イッテ(絶頂/アクメ)もイッテ(絶頂/アクメ)も、次の男が待っていれば素直に犯らせるしかない過酷な状況だった。
女リーダーのレスポンス(反応)が高まりを見せ始めると、抱いていた男が好機と観て挿し込んだ欲棒の抜き挿しを高速に早め、女リーダーを激しく追い込んで行く。
女リーダーの股間を、モロ挿しにズブリと貫(つらぬ)いた男達の欲棒がリズム好く抜き挿しされ、その陰茎が女リーダーの二枚の肉花弁を巻き込みながら愛液に濡れ光って見え隠れしている。
女リーダーは雄たけびの様な善がり声を挙げ、脚のつま先、手の指先までそり返るほど力を込めて感じ捲(ま)くって悶(もだ)えている。
目の前で女リーダーが醜態(しゅうたい)を晒(さら)し、ヒィヒィ感じながら犯られ捲(まく)くって居る壮絶な光景が、亭主には最高級のポルノ鑑賞の様に、距離を置いて見えていた。
女リーダーが「根性入れて頑張るしかない」と割り切った覚悟の上で、あらゆる痴態を演じながらガムシャラに男達との性交に没頭していた。
今は女リーダーが陵辱舞台の上で犯られ、身悶(みもだ)え、受け腰で生々しく応戦している事を亭主は承知して観ているしかない。
男達に赤裸様に肉体(からだ)を操(あやつ)られ、滲み出る快感レスポンス(反応)に身震いしながら腰を捩(よじ)り、卑猥に弄(もてあそ)ばれて居る女リーダーがそこに居た。
素直に男達に身を委(ゆだ)ね、赤裸様(露骨)に卑猥に肉体(からだ)を操(あやつ)られ弄(もてあそ)ばれて居る女リーダーの可憐(かれん)が、印象的だった。
面白がって執拗(しつよう)にドロドロと痴女に調教された、理不尽とも言える輪姦(まわし)のレッスン(授業・稽古・練習)だったが、事後女リーダー、は何故か気分爽快だった。
生物学的な原始人類的ロジック(論理)からすれば、輪姦行為は別に不思議な事でも否定すべき事でもない。
元々、チンパンジーに近い原始人類の雌(メス・女性)は、繁殖期に成ると優秀な雄(オス・男性)の遺伝子を獲得する為に次々と雄(オス・男性)と交尾(性交)する本能がある。
このチンパンジーの連続性交と同じで、深層心理に於ける女性の性向も多くの異性と性交したい願望が本能として在る。
そして深層心理に於ける男性の性向が、幅広く精子を植え付けて歩きたいならたいのなら、結局男性も女性も多くの異性と性交したい願望が、当たり前の様に在る。
だから女性だって、密かに卑猥(ひわい)な妄想を抱いても不思議はない。
これらは生物としての自然本能だから、社会性と言う制約の中で守ればフラストレーション(欲求不満)になり、相手に内緒で浮気すればトラブルになる。
考えてみれば、どうせ浮気騒ぎを起こすのが一般的な人間で、それでスキャンダルや金を使うなら、全くの遊びの性交を仲間同士で愉しむ方が安全で、後腐れも無く結構に愉しめる。
つまり深層心理に於ける男女の性癖を満足させるには、夫婦合意の上の遊びの性交の機会を作る事である。
その雌(メス・女性)本能が、眠っている女性の繁殖本能として存在し、現代女性の輪姦(まわし)はその原始本能を呼び戻すものかも知れない。
そして雄(オス・男性)は雄(オス・男性)で、自らの遺伝子を撒き散らすのが本能だから、そうした雌(メス・女性)・雄(オス・男性)の本能を満足させるのが、乱倫乱交である。
他人の女(ひと)を男達に徹底的に犯らせて反応を愉しむ女達の本性は、自分達の原始本能を「観て確認する」と言う秘めたる意識が在るのかも知れない。
結局現代社会では赦されない原始乱交本能をシークレット(秘密裏)に満たす所が、この「白糸会グループ」の「ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイ」と言う遊びの目的だった。
表向きの正論ばかり言いたてるほど、世間知らずの野暮な事は無い。
根本的に、男性は子種(精液)を撒き散らす本能を抱えて生きている。
例え「疑似生殖(快楽性交)」で在っても、その本能が満たされる安全な性交機会とあらば、遠慮する男性はほとんどいない。
女性にしたところで、類人猿のチンパンジーの雌(メス)は、強い子孫を残す為に繁殖期には雄(オス)を並べて置いて順番に交尾する。
人類にしたところで、女性は歴史的に永く「群れ婚状態」で、相当永い間一夫制などの縛りはなかった。
つまり女性も、本能としては「多数相手の疑似生殖(快楽性交)本能」を持っているが、それを社会的に抑制しているだけである。
繁殖期と言う枠を外して「疑似繁殖期(快楽性交)」を得た人類は、日常生活の中に「快楽性交」を定着する。
ガチの「快楽性交」となれば、その行き着く先が多様化して、雄雌一対一の建前で終わるとは思えない危惧がある。
こう言う行為を「特別」と観る風潮があるが、本来「疑似繁殖期(快楽性交)」は多様化して当たり前だから然程(さほど)の事ではない。
人間だから、自らの快感だけを追求する「疑似生殖行為(快楽性行為)」に没頭しても不思議では無い。
時期を逸して若さを失わねば、この遊びを愉しむチャンスは無くなる。
折角だから、日常の夫婦生活では味わえない性感を貪(むさぼ)って、充実した人生を愉しめば良い。
思い切って踏み込んだそれは、みすみす失われ行く性春(青春では無い)を取り戻す機会だった。
女リーダーは、立て続けのヘビーローテーション(はげしい交替)で攻め立てられるアクメ(絶頂)に翻弄されて、セックスハィの陶酔(とうすい)の中に居た。
只、何時(いつ)もあんな調子で犯っているから「白糸会」のメンバーには普通の事で、取り立てて変わった内容のプレィではない。
女リーダーはこの輪姦(まわし)プレイのセックスハィの陶酔で、忘れかけていた「女」を取り戻したのかも知れない。
「いかがわしい」と言えばその通りかも知れないが、その後の女リーダーは不思議な女の魅力を感じさせる女性に育って居た。
結局亭主は女リーダーの「女」を見透かし、良く解って居て、このソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイの遊びを仕掛けたのではないのか?
いずれにしても、「ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)プレイを犯っちゃった」と言う現実を認識すれば、それを正当化する意味でも女リーダーの性に対する考え方は大きく変わって当然である。
女リーダーの亭主にとって、妻を他人男(ひと)に抱かせる気分はサディスティック(S性)な興奮である。
だが、妻(女リーダー)を他人男(ひと)に自由に抱かせて観ると、それが妻だからこそ胸が痛いほどマゾヒスティック(M性)な興奮をも覚えさせられる。
つまり妻(女リーダー)を提供すれば、自分はサディスティック(S性)だと自覚していても、実はマゾヒスティック(M性)な感性をも持ち合わせている事に気付かされる。
感性としてのサド(S性)とマゾ(M性)は表裏一体で、人間は状況次第ではどちらにも針が振れるから、質の高い淫乱は大いに愉しめるSM性交あそびである。
勿論、女リーダーが素っ裸で亭主あこがれの秘密の遊びに付き合うように成って、亭主の外遊びはパタッと無くなった。
人間は、現実と向き合って修正しながら生きるもので、未来を見詰めて人生を切り開く為に、亭主の要求に応じて生き方を変えても悪くはない。
女リーダーは「こう言う選択肢も在る」と、貞操観念と言う社会合意の呪縛を解(と)き、思い切ってもう少し自由に羽ばたく道を選んだ。
つまり、多様な相手と多様な非日常の性交を犯らなければ、女リーダーは亭主が求める女性としてのブラッシュアップ(磨き上げ)は望めない。
性に関して女性には本音と建前に微妙なズレが在り、信じられそうも無い夢物語の建前が、「愛が無い相手と性交は出来ない。」である。
世の人々は性交などには興味が無い様に装っているが、まともな性癖の男女なら性交を愉しもうと言う本能が在って当たり前である。
そしてその性交には心地良い気分の姦淫ムードを愉しむだけの関係も新鮮で在り、必ずしも性交に「愛情」が拘(かか)わる訳ではない。
互いを縛り付ける「愛情」などと言う一人善がりの感情の苦悩を捨て去りさえすれば、人はもっと自由に性交を謳歌(おうか)できる。
大袈裟に言えば、人間の欲望には際限が無く、それを安全に満たしてくれる性欲装置があれば「奔放な性交遊びも悪くは無い」と想えるものだ。
だから表向きは性交など興味が無い様に装っていても、秘したる本音ではカップルなり夫婦なりであらゆるパタ−ン(構成)の性交を大いに愉しんで居ても不思議は無い。
そのストレス解消の為の奔放な性交遊びの性欲装置が、お愉しみの為なら何でも在りの「白糸会」だった。
世間にしたら、女性が貞操観念を棄てるなど大胆な選択肢かも知れないが、選択肢を狭めれば狭めるほど平凡でささやかな人生を送る事は目に見えていた。
女リーダー本人も自分の気持ちに決定的なケリを着ける為に「もぅ引き返せない。」と言う非日常の既成事実が必要だった。
それがマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)、露出プレィやSMプレィなどだった。
しかしこの際、女リーダー本人が何をどう考えるかは、この遊び仲間の男達には問題ではない。
只、亭主に必要な遊びは、女リーダーを嫌応無しに素っ裸にして皆の前に連れ出し、休む間も無く犯して可愛がりさせ続けるだけの事である。
当然ながら人間は、他の動物種のごとく「繁殖時期」を持たず、他の動物種では滅多に無いが、何時(いつ)でも犯れる「年中発情型」である。
簡単に言うと人間は、子創りを目的としない「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の「癒し目的」と言う性交を、性(さが)として必要とする生物である。
つまり発達した「脳の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の行為」として、生殖を伴わない遊びのSEX行為の合意が、人類の意識の中に「必要な行為」として与えられた。
人間のスケベ差を難しく言えばそんなものだが、簡単に言えば性交を愉しむ目的だけでも行為に及べるのがヒューマン(人間らしい、人間味、人間的)と言う事になる。
だからこそ、そのお愉しみ目的の「擬似生殖行為」と言う遊びの好適環境を仲間の合意で成立させ、肉体(からだ)だけのシエアリング(共同所有)する事が求められる。
為に夫婦が、浮気とは呼べないマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)を夫婦揃っての合意で遊ぶのが理想的である。
夫婦揃っての遊びの性交会など、表面化しないだけで世間に幾らでも在る現実で、綺麗事で「信じたく無いから」と言って目を瞑(つむ)っていては、何時(いつ)までもそれを認められない。
女リーダーは、「自分の意思」と言う訳では無く、亭主に命じられて人前(ひとまえ)で一糸纏(いっしまと)わぬ素っ裸に剥(む)かれ、柔らかい肌を晒(さら)してしまった。
たわわな乳房に硬く立つ乳首や股間に開き気味に咲く二枚の肉花弁も晒(さら)され、女リーダーは顔が火照(ほて)る恥ずかしさを味わった。
しかしそれだけで済む訳も無く、女リーダーにはもっと恥ずかしい公開性交が待っていた。
女リーダーももぅ、素っ裸に剥(む)かれて中央に曳き出されてしまえば、他人前(ひとまえ)で多人数に犯られようが、一々深刻に考えても仕方がない。
肉体(からだ)をシエアリング(共同所有)する遊びの性交会なんか、完璧に洒落(しゃれ)の乗りで犯るもので、そんなものは「浮気」とは呼べない。
今はもう、大きく開いたの股間に欲棒がクィクィと抜き挿しされ、その腰の動きに連動して愛液に濡れ光る陰茎が見え隠れしている。
妻・女リーダーの公開性交に於いて、その奮戦と性反応を生々しく確り確認させる為に、ギャラリーの最前列・目の前が亭主の暗黙の定位置である。
クィクィと抜き挿しに応じて見え隠れするリーダー男の陰茎に、女リーダーの肉花弁が生々しく巻き込まれ捩(よじ)れ震えて見えている。
赤の他人の生身の欲棒が、女リーダーをヒィヒィ言わせながら、女リーダーの股間に嵌(はま)って蠢(うごめ)く様(さま)に、亭主としてドッキリさせられ、一瞬後悔の念も浮かぶ。
だが、この情を挟まない遊びの場では、その生身の欲棒は亭主が女リーダーに与えた「大人の玩具(おもちゃ)」と想うしかない。
後で落ち着いて考えるに、このプレイは 亭主自身には自虐的であり女リーダーには加虐的と両方の感性を震(ふる)わす、良質の遊びだった。
いずれにしても、これは「夫公認の性交遊び」と言う避けられない事態に女リーダーは巻き込まれた。
こう成った以上は夫(女リーダーの亭主)の面子(めんつ)や自分の意地も在り、夫の眼前でどうせ犯られるなら他人に「下手(へた)な女とか詰まらない女」とかは言われたくない。
つまり自分の値打ちを評される場面だから女リーダーは、女の意地を賭けて形振(なりふ)り構わず大胆に、おシャブリも腰使いも上手(うま)く犯ろうとする。
こんな事は、別に「世間に公表すべき」とは想わないだけで、何を犯っても「夫婦が遊び」と認め合えば良い事と女リーダーは思考を整理する。
腹を括(くく)ってしまうと奇妙な心理が働くものだが、輪姦(まわし)と言う現実に直面すると、「無理も無い事」かも知れない。
男達が群がって来て、無遠慮に乳房を掴(つか)む者、股間に手を入れ指先を肉体(からだ)の中まで挿し込む者、尻の穴に指を挿し込む者、もう数人が一度に女リーダーの裸身に取り付いて犯りたい放題である。
その一度に多人数に攻められると言う激しい刺激に、女リーダーは無抵抗で耐えるしかない。
その先は、女リーダーに欲棒を咥えさせる者、性交に及ぶ者、ア*ル性交に及ぶ者が次々に現れるが、相変わらず周囲に群がる男達の手も女リーダーの裸身を同時進行で無遠慮に襲っている。
これも今後親しくお付き合いする為の「ご挨拶代わり」と言う事で、女リーダーが承知したのだから何を犯らされても仕方が無い。
入れ替わり立ち代り、相手が嫌応無しの連続性交を挑んで来るのを、形振(なりふ)り構わず必死で応じる女リーダーの眩(まばゆ)い裸身は流石(さすが)に加熱している。
この輪姦陵辱舞台に登ったら、次々に襲って来る相手におシャブリも腰使いも上手く犯って、次々にイカ(絶頂)さなければ行為が何時(いつ)までも終わらないから観応えが在る。
激しい運動量で無理も無い事だが、触るとペトッと吸い付くほど肌から玉の汗が噴出し口をパクつかせて善がりながら、裸身を濡れ光らせて奔放に腰を使って抜き挿しに応じて居る。
遊びの性交会など「不道徳」と指摘されるが、女性の側にだって結婚する気は無いけれど寂しいから性交パートナーにキープ(保持)している場合もある。
つまり性交プレィは人間にとって、「生きて行く為の心の隙間を埋める癒(いや)し作業」と言う本能をくすぐる側面を有している。
従って、そうした現実を全て否定した世間など建前だけで、この世の真の現実にはそんな事実は無いのである。
社会通念とか常識とかには「建前もあれば現実」もあり、要領が良い人間なら例えそうした遊びを影で犯って居ても、既成概念と争わず建前に合わせて触れないで置くかも知れない。
しかし自分が変わらなければ環境は変わらず、社会通念とか常識とかに縛られては、どんな事柄に於いても将来の展望など開けない。
女性の女盛りは精々十五年〜二十年間、年齢にすれば十八歳〜大目に見ても三十八歳と言う所で、その間を身硬く生きるか、多少は羽目を外して性交遊技を愉しむのかは本人の生き方の問題である。
そうなると、一対一の尋常な性交など詰まらぬもので、つまり遊びの性交は価値観の問題で、夫婦合意の上で他人を交えた複数性交を「経験しない人生は勿体無い」と言う考え方も出来る訳である。
肉体(からだ)をシエアリング(共同所有)する「遊びの性交会」なんか、完璧に洒落(しゃれ)の乗りで犯るもので、そんなものは「浮気」とは呼べない。
そう考えれば同じ輪姦プレィのお誘いでも、そう言う遊びの機会が在る仲間環境が在るだけでも幸運な人生かも知れないのだ。
確かに「性」は建前ではタブーだが、正直ヒューマン(人間的)として皆が「性」に興味が在って当然で、それで無ければアダルトビデオや裏ビデオが一般家庭まで蔓延する筈が無い。
そしてヒューマン(人間的)として「性」に興味が在るのならば、尋常な性交など詰まらぬものである。
だからこそ、その興味は単純なものに止まらず、本能をくすぐる様に生々しく卑猥であれば卑猥であるほどその興味を満足させるものである。
「嫌らしい」と非難するだろうが、種の保存が目的だから、その前駆段階に在る性交そのものは基本的に愉しんで犯るように予(あらかじ)め脳の中でセットされている。
だから「ああ犯ろう、こう犯ろう」と想像をたくましくして、性交の実行方法を愉しみにしても当然の事で、「嫌らしい」と非難するには当たらない。
女リーダーは、亭主から「これから頑張ってもらうから」と小瓶に入った某医薬品メーカーのドリンク剤を渡された。
「これ何ですか?」と聞いたら、「医薬品の疲労回復の栄養ドリンクだよ」と返事が返って来て、「この先過酷な事が待っている」と言う予感がした。
栄養ドリンク・「アリ*ミンe内服液」は疲労回復に効能が認められている医薬品で、ビタミンB1誘導体が薬の主成分である。
肩こり・眼精疲労・腰痛疲労に効能が在る事から、これから健闘する女性に飲ませる事で、持久力その他の色々な結果を予測している。
なにしろこの医薬品、滋養う強壮剤として「元気溌剌(げんきはつらつ)」が、メーカー謳い文句だった。
女リーダーは、亭主から「元気溌剌(げんきはつらつ)」に「白糸会の調教を犯られろ」と言われたようなものである。
このドリンクは、「労(いたわ)りなのか、叱咤(しった)なのか?」どちらが真意なのか疑問だった。
以後この栄養ドリンクは、「白糸会」の開催の度に飲まされるのが恒例になった。
「白糸会」の遊びが始まってしまえば、女リーダーも生身の女性だから、股間を貫いた欲棒が抜き挿しされれば相手の如何(いかん)に囚われず終わらない快感がある。
リーダー男の、一つ目小僧・坊主頭のカリ首が無遠慮に女リーダーの確信部分にズブリとご厄介になり、愛液に濡れ光る陰茎が二枚の肉花弁も押し広げて巻き込み、見え隠れしていた。
観せる事を命じられ、意識して抽入部分をタップリ披露する究極の羞恥心(しゅうちしん)が、女リーダーの貞操観念を根底から覆(くつがえ)している。
女リーダーは、強(し)いられて他人前(ひとまえ)で公開性交を披露するその被虐感と集まる視線にも、此処まで追い込まれてしまえば、もう「惨(みじ)め」何て言っては居られない。
現に女リーダーは、脳みそがトロケそうな刺激を感じながら善がり声を絞(しぼ)り出し、抜き挿しに涙に涎(よだれ)に玉の汗、受け腰で激しく応戦して居る。
女リーダーを犯る男達が盛上がってしまえば、シナリオ(脚本)の無い無遠慮な輪姦遊びが続々と続いて、女リーダーを散々に善がらせながら想い想いに陵辱して行く。
何しろ仲間内環視の中、素っ裸の女リーダーが他人の男達に何度も替わりながら切れ目無くシャブらされ嬲(なぶ)られ犯かされ、忘我(ぼうが)を彷徨(さまよ)い続けている。
後ろに順番待ちの行列が出来ている女の修羅場だから、女リーダーが相手をノタノタ愉しまして犯っていてはどれだけ時間が掛かるか判らない。
何しろ女リーダー一人に相手は大勢の輪姦(まわし)だから、数を熟(こな)すに時間を喰っては体力を失う。
歯を食い縛ってでも、他人目(ひとめ)も憚(はばか)らず腰をグィグィ使って早く相手をイカし、数を熟(こな)さ無ければ終わらない側面も在るのだ。
相手が替わる度に、その男が坊主頭のカリ首を二枚の肉花弁のスリットへ縦に二〜三度擦(こす)って馴染ませ、抽入位置を合わせる。
その位置を合わせたスリットにカリ首を宛がい、腰を入れてグィと柔ら壺に押し込み、中に収まったらクィクィと抜き挿しを始める。
女リーダーは抜き挿しされる欲棒の擦(こす)れに腰を浮かし、他人目(ひとめ)も憚(はばか)らず欲棒を咥え込んだ腰を、生々しく卑猥(ひわい)に振って善がっている。
性感極まった顔が左右に振られ、乳房が不規則に揺れ、股元に欲棒を咥え込んだ卑猥な腰が多人数相手に譲らない凄(すご)さでリズム良く踊っている。
頭の中が姦淫ムードいっぱいの中、非日常の卑猥な空間に在って、快感に人妻としての抵抗感を失うほど、女リーダーは「歯止めが利かない極上の性感」を貪(むさぼ)っているに違いない。
確かにリーダー男の奴はこう言う依頼調教遊びに慣れて居て、見るからに素材(女性)を上手く調理する無遠慮に長けて居た。
この奔放な性交遊びを女リーダーに仕掛けたのは亭主だから、女リーダーが股元の柔ら壺に欲棒を咥え込んで善がりながら腰をクィクィ使っても文句は言えない。
まるでポルノ映像を観ているように客観的に、次から次と切れ目無く女リーダーの股元の柔らかそうな肉花弁の間に、愛液に濡れ光ながら男達の欲棒が生々しく抜き挿しされて、ボンヤリと卑猥(ひわい)だった。
その目の前で他人男(ひとの)欲棒を咥え込んだ腰を振って散々に善がっている妻の光景は、女リーダーの亭主の嫉妬交じりの刺激的な感情を揺さぶるもので、心地良い気分を煽(あお)り新鮮だった。
映画・テレビなどの映像媒体への露出が多い芸能人の「見た目年齢」は、脳の「観られる意識」が働くのか実年齢より遥かに若い。
それでたまに芸能人の同級生が集合すると、抜きん出て若く見えるのは男女の別無くほとんどが「意識脳」が働く芸能人である。
「意識脳」は必要を感じて始めて働くもので、つまり「観られる意識」を感じないと容姿に構わなく成り、脳が緊張感を持たずにダラケてしまう。
残念ながら結婚し、出産した女性は「安心感」と言う油断が作用し、男性の独占欲的な拘束も在って肌艶や体形を失い所帯臭く成ってしまう。
既婚女性からは緊張感が抜け、夫の前では裸も日常的に成り、益してや照度を落としての性交では脳が横着し、脳の「観られる」意識の効用など働かない。
所が、この夫婦揃っての遊びの性交会に参加すれば、脳に他人の視線を感じる「観られる」の緊張感が生まれ、脳は美しく成る必要を感じて必要に対処する。
この夫婦揃っての遊びの性交会では、日常生活では魅せない醜態を晒(さら)す事で夫婦にも緊張感と刺激が生まれ、気分も変わって来る。
他人の視線を感じる舞台での「観られる」の効能は事実で、女リーダーは、人前の性交会で晒(さら)し者に成り、脳が意識したのか肌も体形も垢抜けて美しく成った。
それでも嫌なら、遊びの性交会なんか犯らなけれ良いのだが、これが犯って見ると夫婦伴に愉しい時間を過ごせて、次が待ち遠うしくなる。
それにしても、大袈裟に言えば人間と言う生き物の愚かさか、その欲望には際限が無い。
女リーダーの亭主は目の前で愛妻が男達に輪姦(まわ)され犯されるのを観て、けしてそれが不機嫌では無い他人事めいた微妙な感情に襲われていた。
男達の女リーダーへの陵辱光景は加虐心を満足させ、女リーダーが嬲(なぶ)られ犯かされと意識すれば被虐心をも満足させる複雑な心境である。
つまり「妻が輪姦(まわ)されている」と言う非日常の設定の陵辱光景を、特別な珍しい見物(みもの)と愉しんで居る亭主がそこに居たのだ。
元々生命科学的に言えば、人類の男女は惚(ほ)れ脳内ホルモン・フェール・エチル・アミンの作用に後押しされ、出会いを持って「性交相手の選択行為」をする生物である。
「惚(ほ)れる」と言う事は「恋する」と言う事で、気取らないで生物学的に言えば脳内処理的には「性交相手の選択行為」である。
その男性と女性の脳内ホルモン的な「性交相手の選択行為」の「惚れ薬」がフェール・エチル・アミンと言い、これが、「恋のトキメ」を促進させる影の立役者の物質である。
フェール・エチル・アミンは、異性に対して脳内で分泌されるトキメキホルモンで、この時点では「惚(ほ)れ行為」であるが、その「惚(ほ)れ行為」に集中力や快感を倍増させる作用がある。
簡単に説明すれば、「恋する」や「惚(ほ)れる」と言う行為そのものに快感を感じさせたり、その想いを募(つの)らせる(集中させる)作用がある脳内ホルモンなのだ。
つまりフェール・エチル・アミンは、「人類の種の保存」を脳科学的に促進させる作用があるホルモンである。
そしてその「惚(ほ)れる」が片思いであれ両思いであれ、パターンに関係なくフェール・エチル・アミンの作用であるから、迷惑なストーカー行動の源も「惚(ほ)れる」の範疇にある。
当然ながら、フェール・エチル・アミンに後押しされて、双方が「惚(ほ)れの合意」に到れば性交に及ぶ事に成るが、「愛」は連れ添ってから時間を掛けて育(はぐく)むもので、この時点での価値観はまだ「恋止まり」である。
昔から「恋の病」と言う様に、ここを勘違いしているから「こんな筈ではなかった。」とカップルの解消や結婚を解消し離婚する事に成る。
つまりフェール・エチル・アミン効果で、良く知らない相手とでもフィーリング(感覚)で性交が可能で、ならば深い意味での「愛情」なんかなくても別の理由でも性交は可能である。
だから、誓約(うけい)目的だろうが、親の薦める結婚だろうが、地位や財産目的だろうが夢を適える手段で在っても、永く続いて「愛情」が芽生えればカップルとしては最高の結末と言える。
冷静に考えて見れば、「恋の感情」など儚(はか)く消える虚(きょ)の迷いであり、愛情は永く一緒に生活し時間を掛けて湧いて来る本物の感情である。
つまり「恋の内の感情」を「愛」と間違えるから後々「こんな筈じゃ無かった」と離婚する者が後を絶たない。
そう言う経緯が在るならば、大概の男女の性交は「恋の内の感情」で肉体(からだ)を許していて、いわば「相手への情」は泡沫(うたかた)の儚(はか)ない確信である。
つまり恋の時点では、事実上行きずりの性交に過ぎないから、馬鹿正直に、「品行方正・清廉潔白」と言う世間体(せけんてい)を信じて居る方が、お人好しかも知れない。
それなら、元々愛情が性交の条件など現実には成り立たず、只の自己満足に過ぎない事に女リーダーは気が付いた。
元々人間の本性は好き者だから、こうした遊びの実行は表面化しないだけで影では結構そこかしこで行われているのかも知れない。
それが表面に出ないだけで、どんなに貞淑な女性でも正直言えばメチャメチャに犯され弄(もてあそ)ばれたい衝動本能を片隅に秘めている。
だから客観的に心の深層を知ってしまえば、上面(うわっつら)では無い真実が心に刻(きざ)まれて行く。
例え女リーダーが仲間内で秘すべき遊びを犯ったとしても、世間体(せけんてい)を恐れているだけだから、関係者の口が固ければ心配するほどの事ではない。
そして女リーダーが、衆人環視の場で他人の欲棒を幾本シャブろうと、幾人と性交しようが、そこで「何が起きているか」など、世間の知る由も無い秘められた謎でしか無い。
つまり隔絶された場所に在っては、女リーダーが腹を括(くく)れば済む事で、そこで何か在ったとも何も無かったとも世間はどうせ知る由も無い。
その遊びを、後で後悔するようなドロドロな気分なら色々と跡を引くかも知れないが、後悔するような気分でなければ爽(さわ)やかな性交を愉しむのみで跡を引く事は無い。
今はリーダー男の利き腕が女リーダーの尻に廻って手の平が尻肉を撫(な)で廻し、指先がモソモソと菊座の穴や二枚の肉花弁の間に潜(もぐ)り込んで弄(なぶ)り廻している。
全裸に剥かれて提供された肉体(からだ)だけのシエアリング(共同所有)は、仲間内の既成事実だった。
当然男達は女リーダーの肌触りを愉しむべく裸身を撫(な)で廻すが、此処まで来ればそれは極自然な行動と言える。
それで女リーダーは、手始めに裸身その物を男達の玩具(おもちゃ)にされる。
女リーダーは被虐感と伴に、乳房を掴(つか)まれ乳首を摘(つま)まれようが、股間を撫(な)でられようが指先を入れられようが、相手任せに触り放題で弄(もてあそ)ばれるしかない。
その弄(なぶ)りに、女リーダーは恥ずかしそうに顔を赤らめながらも身を捩(よじ)って避けもせず、股間を広げてリーダー男のお愉しみに為すがままに耐えている。
女リーダーが、夫を含む周囲が「必ず自分に合わせてくれる」と想っているのは傲慢な心得違いで、当然ながら自分が周囲に合わせる必要もある。
妻を輪姦(まわ)させるなんて酷い様だがものは考えようで、一対多数の変則マルチSEX(複数性交)は、スケベ女なら涎(よだれ)が出そうな御褒美で、「豪華フルコースの贅沢」と言えない事も無い。
これは妥協では無く夫婦円満の工夫で、こう成ったら夫の性癖を自らも愉しむ為に女リーダーは元気を出して犯られるっきゃ無いのだ。
何よりもこの卑猥(ひわい)な遊びは、禁断の露出公開性交だからこその観て興奮する男性と魅せて興奮する女性の「性(サガ)」がもつれ合って気分を高めて行く。
夫が合意している遊びだからこそで、此処で他人(ひと)の欲棒を咥え込んだ腰を振りながら女リーダーが善がり狂っても、安心して家庭の平穏は保たれる。
嫌、従来の夫婦常識を外した事で、その最高に官能的な非日常の時間は本能に対して嘘が無い一瞬の煌(きらめ)きである。
だからむしろ、この非日常の時間を持つ事が、家庭の平穏を創り上げる為の一つの手段かも知れない。
この連続性交の快感を女リーダーの股間と脳が記憶してしまえば、その後の彼女の「性」に対する答えは新しい遊びの発想で出す事になる。
この時点でもう、女リーダーへの陵辱舞台の幕が上がってしまっていた。
女リーダーは、亭主が裸に剥(む)いて生贄(いけにえ)としてこの遊び仲間に引き渡した意のままに弄(もてあそ)べる性玩具(おもちゃ)である。
こう成ったら女リーダーは、「小娘じゃあるまいし」と自分に言い聞かせて、ポルノ映画の様に生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインを務めるしか選択肢は無い。
普通で無い事も通常風にしょっちゅう続けば「普通の事」で、そこまで行ってしまえば傲慢だった女リーダーも、しおらしく性調教に応じるしかない。
まさにこのスケベ亭主の狙い通りに事が運んでいた事になる。
女リーダーは今、賢(かしこ)く男達の輪姦(まわし)の抜き挿しに恥毛が絡む肉丘を躍らせ、我を忘れて受け腰で応じている。
リーダー男の腰が軽快なリズムを刻(きざ)んで、女リーダーの肉体(からだ)の中心を貫抜いた欲棒の陰茎が、愛液に濡れ光って深く浅く見え隠れしている。
これは凄い見世物だが、生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインとして女リーダーの抑圧されて居た本能が剥(む)き出しに成っただけだ。
だから、正直女リーダーが涎(よだれ)を垂(た)らしながら大口を空(あ)けて善がり犯られていても、これを仕組んだ亭主が随喜の刺激に顔を歪(ゆが)ませる女リーダーから目を背(そむ)ける事はないだろう。
坊主頭のカリ首に肉体(からだ)の中心を貫かれてしまえば一瞬で心境に変化が起こり、警戒心で入った女リーダーの力は抜けて行く。
現実にもう皆の前で犯られちゃったのだから気取っては居られず、覚悟を決めて本気モードのスイッチを入れるしかない。
当たり前の事だが、性行為は観るにしても犯るにしても、勿論、犯られるにしても下品な方が人間は興奮する。
まぁ元々上品な性行為など無いのだから、依り下品を追求しながら女リーダーを犯る愉しみ方が正しいのかも知れない。
腰を浮かせて善がり声を挙げながら女リーダーの受け腰が踊る股間に、生々しくスッポリと柔ら壺に挿し込まれた陰茎が、濡れ光らせながら見え隠れさせている。
つまりこのまま何度も犯り続け、女リーダーの肉体(からだ)をマルチSEX(複数性交)環境の中で熟生させてしまえば、それが彼女の「生活の一部になる」と女リーダーの亭主は企(たくら)んだのだ。
月並みな考え方で、それを屈辱と受け止めるか興奮する遊びと捉えるかは当事者の受け止め方次第で、他人が決め付ける定型などこの人間界に存在しない。
つまり建前に無い事など世間の片隅で幾らでも起こっていて、貴方の「そんな事は在り得ない」は、まったく根拠は無い。
女リーダーの様に、兄の仕事の為に女の武器を使う事がそんなに蔑(さげす)むべき事で、恥ずべき事だろうか?
それが本人の意に沿わない事であればそう想うかも知れないが、手段だろうが性癖であろうが、意に沿う事であれば蔑(さげす)むべきも恥ずべきも無いのでは無いか?
女リーダーは、他人の私に弄(もてあそ)ばれると言う凄い性体験をしたが、翌朝目を覚ますと世間はそんな事は何も知った事ではない。
つまり犯ったからと言って日常の何が変るでも無く、一々気を使ったり引きずったりしても何の意味も無い。
これからはこの「白糸会」のメンバーが、女リーダーを寄って集(たか)って犯し、女としての性感ブラッシュアップ(磨き上げ)して犯る事に成る。
つまりこのマルチSEX(複数性交)は、亭主の希望で女リーダーを調教する為のエキシビション(公開実演、模範試合)なのである。
無理やりに犯らせる訳ではないから犯る犯らないは女リーダーの意志次第で、納得ずくならその遊びの輪姦(まわ)しプレィ状況に、早く女リーダーが馴染むしかない。
確かに、そこを少し女リーダーが亭主に譲っただけで、それは性癖を満足させてくれる相手が良いに決まっていて、以前より亭主に大事にされて平穏な家庭が構築されているのは事実である。
どんな仕事でも、「苦しみながら達成して初めて」その仕事が楽しめるもので、もし楽をして仕事を達成しようと想った時点でその仕事は永遠に達成しないだろう。
これは学習指針でも生活の指針でも同じだが、一度本人が脳内にその分野のスタート地点を設けるかどうかで、その事に興味が湧くかどうかが決まって来て、その先の興味と学習能力に繋がる。
学問に於いても生き方に於いても、「苦手」などと言うのは横着を決め込んだ逃げ口上で、ひとつ「苦手」を創ればドンドンその「苦手分野」は増えて行く事になる。
そのチャレンジ精神こそが人間の本質だからこそ、今までに既成概念の壁を乗り越えて左脳域の理性(論理)部分を発展させて文明社会を築いて来た。
人間、利口な奴の方が色々な事に好奇心も強く、悪趣味と言われようがワクワクする性交遊びは好きである。
世間の詰まらない常識的なイメージ(心像、形象、印象、観念)だけで判断していて、もしかすると非日常の刹那を愉しむチャンスに恵まれないから知らないだけなのかも知れない。
女リーダー夫婦の様に、非日常のマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などを一度夫婦で経験してしまえば、男性特有の観る興奮はボルテージが上がる。
特に接触感覚が主体の女性には遥かにマックスの性感状態が継続し、正直何の為に貞操に拘っていたのかバカバカしくなる。
本質を考えれば、カップリングの条件として男女の本性を解説すれば、男性は観るが真っ先の感性で女性は魅せて誘うが本性である。
つまり観たがりと魅せたがりが男女の自然本能であるから、男性は自然に女性の肌の露出部分に目が行き、女性は露出部分が多い衣装を「デザインの良さ」と偽って好んで着る。
勿論本音は、無意識に男性の注目を浴びたい心理が働いているからで、その究極の設定状況が非日常のマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)と言う事に成る。
何しろ夫の観てる前で他人(ひと)と性交して見せるのだから、男性の観たい願望と女性の魅せたい願望が、羞恥心のスパイスを刺激にして繰り広げられる事に成る。
「在り得ない」と否定するのは簡単だが、「〜に決まっている」は禁句で、何事にも想像力が無ければ人生は愉しめない。
女リーダー夫婦の様に、夫婦揃って色々な事に好奇心が強い事が幸いし、チャンスに恵まれ夫の性癖に正面から向き合って、遊びの性交を犯って見て初めて妻(女リーダー)の方が得られる新発見する事もある。
夫が妻を好んで輪姦(まわ)させるなど悪趣味と言われようが、幾ら美人や美男子でも性交スタイルが代わり映えしなければ日常化するから自然に飽きるもので、犯って見てワクワクする事は初めての発見で、好きである。
とにかく女リーダーが子供会役員仲間の目の前で輪姦(まわ)され、夫として胸が締め付けられるほどの衝撃を自覚したのは、彼にとって新鮮な発見だった。
人間も生物の一種属であるからには、強弱の差こそあれ性交への衝動は男女に拘(かか)わらず誰にでも在る。
そこを女リーダーは、上手く亭主や「白糸会」に引き出された格好だが、夫婦合意の上の仲間内の性交は、夫婦に取ってローリスク(安全)の愉しめるセックス・セッション(乱交)だった。
女リーダーは考えた、「性的快感も経験無くして、幸せな人生など無い」
人間と言う生き物は、格好を付けたところで他の動物の繁殖期と違い「擬似生殖」と言う生殖目的無しの性交を随時に「遊びのプレィ」として行う。
まぁ、人間は元々判らない生き物で、表面からは裏の非日常の場面では何を犯って居るのかまではどうせ想像など出来ない。
勿論、「愛が無ければ性交出来ない何て話し」は建前の綺麗事で、人間は愛など無くでも性的興奮だけで充分性交は可能である。
つまり、何を持って正常・異常を問うならば、「擬似生殖」と言う「遊びの性交」を愉しむ時点で、半ば本来の正常な生殖行動とは立派に外(はず)れている。
その「擬似生殖」の相手が恋人だったり夫婦だったりするのだが、理屈で言えば、どうせ生殖目的無しの「遊びのプレィ」としての性交なのだ。
遊びが前提だから、性交相手の範囲をプレィ仲間に広げて大胆な性交で遊んでも、遊びは遊びである。
大人(おとな)なら、恋と性愛の違いくらい承知していて、馬鹿者は利口者振るが利口者は会心の洒落(しゃれ)か喜劇で馬鹿な振りが出来る。
それで理屈の上では、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)やマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)のソーシャルセックス(社交的な性交)が成立する。
人間の想いなど不思議な物で、同じ事でも悩んでしまえば大変な事で、堂々と「何でもない」と思えば、それは「何でもない事」である。
つまりそれらは特別な事では無く、時と場合、条件が一致すれば、「その遊びのプレィは、誰にでもアクティブ(活動的・積極的)に犯る可能性がある」と言う事である。
そして人間の脳は、一度強烈な快感の味を占めてしまった性癖は、「抑えよう」と想っても中々抑えられない。
何しろその時に得た尋常では無い快感を思い出すと、涎(よだれ)が落ちそうになるほどの執着(しゅうちゃく)を感じるものだった。
一度犯っちゃえば、「別に犯っても全然大丈夫」と言う事に自分を言い聞かせて行為を納得し、気持ちの上で納得すれば今更もう二度目を否定は出来ない。
いずれにしても、性癖は夫婦で共有すべき物で、性癖まで夫婦間でさえ隠して「建前」で処理して暮らしていては行き詰まって、良い夫婦生活が送れる訳が無い。
それにしても女リーダーは、亭主の期待通りに見事な犯り犯り女に成ってローリスク(安全)のセックス・セッション(乱交)ライフを満喫(まんきつ)している。
後で聞いた話だが、女リーダーへのいささか強引な性調教の発端と成った亭主の性癖に火を着けたのは、あるエロチックな見聞に心をときめかしたからだった。
女リーダーの亭主の性癖に影響させたのは、小学生時分に在る芸能スキャンダルの週刊誌やスポーツ紙を夢中で読んで、亭主が胸をときめかした事に始まっている。
昭和二十五年生まれの女リーダーの亭主が、この昭和五十七年の大スキャンダルに遭遇したのは三十三歳の時で、正に子供会役員を一年前に控えたリアルタイムだった。
それは大映の清純派スターお姫様女優のMTと歌舞伎俳優の某のエロチックな醜聞で、当時は相当に騒がれていた。
戦後直ぐの松竹を代表する名優と呼ばれた時代劇スターKTの次女で大映の清純派スターお姫様女優のMTが、女形として活躍の歌舞伎俳優の某と結婚する。
夫の歌舞伎俳優・某は歌舞伎仲間では有名な露出マニアで、良く友人を呼んでは妻のお姫様女優のMTを素っ裸に脱がせて三Pや四Pの相手をさせていた。
女優のMTは外聞を恐れては居たが、それは感情的なもので肉体(からだ)の方は充分にマルチSEX(複数性交)プレィやマルチタスクSEX(同時実行性交)の強烈な快感を記憶してしまっている。
そうなると性癖を植え付けられた妻・MTは次のプレィのお誘いを断れないから、まぁ順調に環境が整えば人類は皆快楽性交マニアである事を否定は出来ない。
この友人との性宴に関しては相当数の証言があり、二人には子供も無かった事からかなり頻繁に犯って居たとされている。
それが夫の歌舞伎俳優・某は、内々の遊びでは飽き足らず、お姫様女優のMTへの露出プレィの要求はエスカレートして行く。
結婚で所属映画会社をフリーとなったお姫様女優のMTは、その夫である歌舞伎俳優・某の有無を言わさないすすめで日活ロマンポルノ大作・***夫人に主演する。
夫の歌舞伎俳優は・某は、当時三十五歳の妻・お姫様女優のMTを「日活ロマンポルノ」に出演させ、そのロマンポルノの撮影現場に夫の歌舞伎俳優・某が乗り込んだ。
夫の歌舞伎俳優・某は、妻のお姫様女優のMTを現場スタッフの前で「裸度胸を着けろ」と強引に素っ裸にに脱がしてしまう。
日活ロマンポルノの主演をすすめた目的が露出プレィだから、バスローブの着衣も許さず出待ちをさせ、妻のMTをおおっぴらに晒し者にする。
元々友人を自宅に呼んで、妻のお姫様女優のMTと犯らせてその痴態を愉しんで眺めて居た歌舞伎俳優・某である。
妻のMTの「日活ロマンポルノ」の出演は、彼には仕事を理由に妻におおっぴらに裸を晒(さら)させる露出プレィの延長だった。
それで仕舞いには演技に口を出し、濡れ場シーンで相手役に「本番を犯った方が臨場感が出るでしょう。構いませんから犯っちゃって下さい」と言い出す始末だった。
勿論ロマンポルノとは言え公開映画だから、主演俳優・TGと主演女優・MTの本番場面など放映されなかった。
だが、当時撮影に立ち会ったスタッフは、夫の歌舞伎俳優・某が主演俳優・TGの控え室に妻の主演女優・MTを素っ裸にのまま連れ込んで挨拶をさせたのを目撃している。
その事から、「控え室で俳優・TGと犯らせたに違いない。いや犯らせたのはおシャブリだけだ。」と伝説が撮影所中に広がって、芸能記者にそうした目撃証言をする者が複数存在した。
女優のMT主演の日活ロマンポルノ大作・***夫人は封切りされ、公開当時は卑猥なスキャンダルの暴露も重なって話題騒然となる。
そのスキャンダルの暴露にも関わらず、思わず溜め息が出るほど美しい女優・MTの清純派アイドルだった芸暦から、その裸身見たさに大勢の男性が劇場に押し寄せて居る。
映画・**夫人は、「大胆なベッドシーンに挑戦し清純派からの破格の大変身した」と話題を呼んで大評判のヒット作となった。
お嬢様育ちだから、正直、お姫様女優のMTも内々で犯られて遊んで居る分には亭主は上機嫌だし自分も快感なので密かに続けていた。
本音の所では、お姫様女優のMTが気にして居たのは外聞だけで、敢えて夫の友人に犯られるのを拒否をする積りも無かった。
しかし当初は旦那様の卑猥(ひわい)な遊びに付き合って居たお姫様女優のMTだが、他人の口に戸は立てられず行状が週刊誌沙汰に成ったりして好奇な目に晒(さら)され、嫌な思いをさせられる。
流石(さすが)のお姫様女優のMTも、夫の性癖に「このままでは何処まで晒し者にされるか判らない」ので、堪らず離婚を決意している。
だから世間的にも、「夫の歌舞伎俳優・某の性癖問題に起因した」と言われる諸々のスキャンダル伝聞から外聞を恐れて不和となり「夫婦仲が破局した」と語り草にされている。
実は性欲・性癖の類は人間が生き行く上でかなり大切な事柄なのに、そうした問題を無い事にして避け、正面から向き合わないのは卑怯な事ではないのか?
夫婦が正面から向き合い日常の空間と非日常の空間を作り出さねばわねば、永い夫婦生活に「逃げ場」と言う解決方法も生まれず、永い事「外で満たしているのではないか」と疑心暗鬼・猜疑心のリスクを抱えて暮らさなければ成らない。
一生の間の一瞬の時間を「如何に使うか」が問題で、何も地味で平凡ばかりが良い時間とは限らず、人生にはメリハリも必要で、安全ばかりを選択していると平凡で詰まらない人生を送る事になる。
そんな事は、考え方一つで違うものが見えて来きて可能性が広がるのだから、もう少し大胆に成っても良い。
多面的に考察すれば、要するに愉しければ犯れば良いのだから、「共に他人(ひと)と関わりながら生きて行く」と言う現実社会との兼ね合いでは、建前的な綺麗事基準の評価では無い臨機応変な考え方が必要で、物事の受け取り方もモット知恵を絞るべきである。
女リーダーは二十三歳で結婚してもう十一年、三十四歳になり、同じ年齢の亭主の方は日頃から倦怠期打破の為に複数性交遊びの機会を探していた。
本音の所、清く正しい性交など誰が望んで居るだろうか?
性交など、その行為の味付けとして依り濃い猥褻(わいせつ)な物でなければ興奮はしない。
つまり世の中、表面的な綺麗事だけで済む筈も無く、女リーダーが格好付けるのを止めて人生の裏側も認め、女を曝(さら)け出さないと良い夫婦生活など望むべくも無い。
そして女の方は、亭主の要望に逆らっても得策でない事を嗅ぎ取って、利口にも抗う事を止めていた。
女リーダー悪戯(いたずら)輪姦陵辱会の「白糸会」は、週に一度、たまに週二度開催された。
その女リーダー夫婦の留守の間、子供の面倒は、幸い女リーダーの家には、彼女の実父が無くなって亭主が引き取った彼女の実母が居て見てくれる。
女リーダーも亭主に感謝していたが、彼女の実母も感謝していて「亭主を大事にしなさい」が口癖だった。
だから、「夫婦で気晴らしに遊びに出かける」と子供を頼むと、「旦那様を愉しませておいで」と送り出してくれる。
多分母親は、自分が同居していて「夫婦のお愉しみの邪魔に成って居る」と気を使っていたから、夫婦が外で伸び伸びと犯る事は想像が出来ていた。
まさか自分の娘が、亭主の悪戯(いたずら)で「輪姦陵辱会の生贄(いけにえ)にされて居る」とは想いも依らないが、娘が亭主の性癖に応じる努力をして、「夫婦円満が何よりだ」とは承知していた。
男性には機能的に性交には勃起が必要で、勃起には新鮮な興奮が必要で、当然夫婦間が倦怠期に陥れば、夫婦間の性交もモチベーション(動機を与える)が低くなり、余程の非日常的刺激がなければ興奮に結び付かず、勃起には至らない。
生き方はどう生き様とも個人の勝手だが、夫婦で生きて行く以上は何も努力も協力もしなくて「優しさと愛情だけを宛てにする建前」など、現実としてはこの上無く危なっかしいスタンスである。
そこを女性が理解して努力しないと夫婦間で興奮しなくなったら最悪で、夫婦間の性交は上手く行かなくなり、やがて他に興奮を求めて買春や浮気と言った騒動に発展する。
若い研修生の女性に大統領府でシャブらせていた米国大統領も居れば、浮気がばれて離婚したフランス大統領もいた。
若いタレントを集めて「破廉恥なパーティをしている」と訴えられたイタリーの首相、ゴルフのウッズは十四人愛人が居て、前のカルフォルニア州知事のシュワちゃんは一人負けて愛人が十三人、そう言えば「指三本」で総理を辞めた方が日本にも居た。
夫婦として婚姻した者の一方が連れ合いに内緒で他者と性交する事を、公式には「不適切な関係」と言うらしい。
それなら、夫婦共犯で遊ぶコレクティブセックスプレィ(集団乱交)は「不適切な遊び」だろうか?
男とはどうしょうも無い存在だが、妻の方にした所が「亭主の愛情だけを宛てにする建前」で、努力も協力も無しに「亭主だけ悪い」と無知を曝(さら)け出しては居まいか?
女リーダーの亭主は危機感を持ち、雑誌に掲載されるスワッピング(夫婦交換)の誘いなども検討したが、相手夫婦が良く判らないのも不安で踏み切るのが難しく、どうもノーマルな夫婦交換では寝室が別で、互いの相手が特定されて感情が動くのが気になる。
それならば、大勢の男性に輪姦(まわ)された方が浮気ではない只のプレィで、遥かに感情的な個人特定は考えられず、そんな遊びに付き合う信用できる男達を捜して居た。
夫のリード(主導)に拠る婦人の性修行行為は、大ヒットしたフランス映画のエマニエル婦人シリーズの様に、毎回エマニエルが夫の命令で性的冒険をさせられる物語に成って居る。
つまり文学や映像に成るのだから夢物語では無く、一種の夫婦合意の上の代表的な遊びの性癖として世の中に存在する。
こうした夫婦合意の上の性修行行為は、アドベンチャー(冒険)的要素を愉しむ非日常のシーンとしてその存在は密かに認められてもおかしくは無い。
女リーダーの亭主は若かりし頃にこのエマニエル婦人シリーズを見て、「何時(いつ)か妻に犯らせたい」と憧れていたのだ。
残念ながら、性交に於いて他のスポーツ・ハイ同様の究極快感状態であるセックス・ハイまで持ち込む能力は一人の男性の能力では為し得ない。
つまり女性が究極快感状態であるセックス・ハイに陥る為には、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)で輪姦(まわ)されて初めて得られるのだ。
そんな時に女リーダーの亭主が、子供会の飲み会に妻をノーブラジャー・ノーパンティで連れて来る私に目を着けて、妻に直接相談したのだ。
その亭主と妻の策略に乗って、女リーダーは寄って集(たか)って悪戯(いたずら)をされてしまった訳だが、心境に変化があればおのずと雰囲気に現れるもので、本人に少しでも被虐嗜好(マゾ性)が在れば、結果は性感的に満足する良い思いをしてしまう。
愛の無い性交には世の中では建前として批判的で、益してや遊びの性交など「持っての外」と言うかも知れない。
しかし一般的に、恋は一瞬の閃(ひらめ)きと伴に遣って来るが、愛は月日の積み重ねで築き上げるものだ。
「惚(ほ)れる」と言う事は「恋する」と言う事で、この時点で性交を許す間柄に成るのであれば、それを愛と想うのは勘違いである。
つまり愛情は、永い時間を掛けて育つべき奥深い精神である。
だから「惚(ほ)れたから」と言って、性交を許すその時点では互いの間にはまだ愛情など存在する訳が無い。
そう成ると、愛情が性交の絶対条件ではないのだが、愛が無い勘違いでも性交すれば肉体(からだ)は快感を感じる。
言うなれば、肉体(からだ)は愛情と関係なしに、性交すれば感じるように出来た居る。
その証拠に大人の玩具(おもちゃ)を使って試せば、愛情に関係なく肉体(からだ)はかなり強烈に性感を感じる。
つまり人間の肉体(からだ)は、愛ではなく「好み」と言う短絡的な感性だけで性交に到っても、犯れば充分に快感を感じる訳である。
昔の認識では、十八歳が自然に女盛りの年齢だった。
所が現代では、自然に逆らうように三十歳(みそじ)過ぎの晩婚が当たり前に成りつつある。
しかし女性も三十歳(みそじ)とも成る頃には、少なくとも四〜五人の男性経験が在るのが一般的である。
これをその都度「愛が在って」と弁明した所で、そんなに早く醒(さめ)める愛は愛では無いではないか?
そこで「ものは考えよう」だが、どうせ人間は生きている限り他人と関わりを持つ。
その関わりが夫婦の人生に於いて、確信的に只の通りすがりの性交遊技で在っても良いではないか。
どの道人間は、生き行くだけで「あらゆる穢(けが)れ」と向き合いながらの人生を送る。
だから性に対して不自然に潔癖で在る事は、それだけでもう人間性を病的に失っている事に成る。
であるなら、「性交を愉しみたい。」と言う別の短絡的な感性だけで、遊びの性交に到っても不思議は無い。
この乱交パーティで輪姦(まわ)される為に、亭主に命じられて素っ裸で引き出された女リーダーだった。
私が意のままに弄(もてあそ)べる性玩具(おもちゃ)として手に入れた女リーダーの乳房や今から使用する股間の柔らかそうな感触を は露骨にニヤつきながら面白がって撫(な)でて確かめている。
まぁ、私が女リーダーの裸体の乳首を無遠慮に摘(つま)もうが太腿(ふともも)を撫(な)でようが、二枚の肉花弁の中・柔ら壺に指先を挿し込もうが女リーダーは耐えるしかない。
こんな状況で素に戻ったら犯っては居られないから、こう成ったらもう女リーダーは犯られ役のAV女優気分に徹するしか無い。
女性が性交を受け入れる覚悟を決めるとスイッチが入れ替わり、そこから先は別の心理が働いて当然脳裏に性交への快感期待も横切って、犯られるのを待つ心境に成る。
こう言う遊びも考え方次第で、「何んにも無い人生依り良いかな。」と思えば、こう言う卑猥な時間も「在っても良いのではないか。」と思えて来る。
つまりその時点で女リーダーに心境に変化が在った上での事だから、心理が淑女も娼婦に変わてもけして異常な事ではない。
だから海綿体で出来た坊主頭のカリ首が肉体(からだ)の中に入って来て女リーダーの内壁を擦(こす)りながら暴れれば、快感を覚えて無意識に受け腰を使っても仕方が無いのだ。
女性を口説くなら「吊橋の上が良い」と言う吊橋効果とは、恐怖や危機感を共有する事で側坐核(そくざかく/脳部位)が働いて親近感が湧き、好意的な感情が芽生える心理効果である。
或いは、露出プレィの強制者(S)やSMプレィの施(ほどこ)し相手に、女性が究極の羞恥心や恐怖、危機感を抱く事も、或る種の吊橋効果としてM心理が働くのかも知れない。
同様に一度有無を言わせず、こっ酷くグチャグチャに輪姦(まわ)してしまう工夫(くふう)も、広義の意味で側坐核(そくざかく/脳部位)が働くM心理の吊橋効果かも知れない。
まぁ考えて見れば、特定の相手と工夫(くふう)もしない定食の性交をしていては、新しさが伺えない日常のマンネリ(形式・様式主義)である。
つまり、多様な相手と多様な非日常の性交を犯らなければ、女性としてのブラッシュアップ(磨き上げ)は望めない。
人間は、現実と向き合って修正しながら生きるもので、本人も自分の気持ちに決定的なケリを着ける為に、こう言う非日常の時間が必要だった。
但し「だから」と言って、「世間に良く在る」と言う夫婦交換の、「別室でコソコソとプレィする」なんて言うのは間違いの邪道である。
あくまでも他人との性交は感情を伴わない遊びのプレィだから、配偶者や恋人の視野の中で行われるべき物である。
これは冷静に考えて、洒落の乗りで犯る遊びの性交だから、エキシビション(公開実演、模範試合、特別実演)で無ければ成らないのだ。
女リーダーは、亭主が生贄(いけにえ)として裸に剥(む)いて、仲間に引き渡した性玩具(おもちゃ)である。
三人組リーダーの奴が、「どうです、コイツで少し奥さんの感度を上げも良いですか。」と指を二本揃(そろ)えて亭主に了解を促(うなが)す。
「えぇ、お願いします。」と亭主が応じた。
素っ裸でこの場に居るのだから、女リーダーも此処まで来てしまえばまな板の鯉で、今更プレィに抵抗は見苦しい。
結局の所、「どうにでもしろ。」と覚悟を決め、股を開いて相手を待つしか選択枝は無い。
三人組リーダーの奴が仰向きに横たわる女リーダーの両足首を握って左右に開くと両脚の間に割り込んでリーダーの奴に両膝をグィと床方向に押さえ広げられて、女リーダーは蛙(かえる)の脚様に足を開いた仰向き体制を強いられる。
開かれた脚は、相手の男が目的を遂(と)げるまで閉じては成らない事くらい女性の本能的に察せられる。
恥毛が生(は)えるなだらかな曲線の三角デルタ地帯もその下の秘所も丸観えにされた蛙(かえる)開きの体制のまま動きを止め、女リーダーは相手の動きを待つ事になる。
「旦那の前で奥さんを犯るなんて、興奮するな。」と顔をニヤつかせて口元を緩(ゆる)ませた。
それは確かに、条件的に滅多に犯れない遊びで在る事は間違いない。
それが涎(よだれ)が出る程に極上の陵辱プレィの愉しみ方である事は、男性の私には良く理解でき認めざるを得ない。
「それではお借りしますよ。」と言いながら、亭主の目の前で妻・女リーダーへの生々しい公開弄(こうかいなぶ)りの陵辱プレィが始まった。
「白糸会」のギャラリー(観客)に観られながらの、リーダー男に依る指の根元まで挿し込むポルチオ攻めの手淫性技だった。
この手淫では、子宮頸部のうちで膣(ウァギナ)に突出した部位(子宮膣部)のポルチオ攻めが女性の快感効率が良い。
ポルチオとは、膣(ウァギナ)の奥の方に存在する、「子宮口(子宮の入口)」ので、触るとコリコリしていて、軟骨っぽい感じがする。
ポルチオは、「Gスポットの何倍も気持ち良い」と言われていて、確かに、ポルチオは強烈な快感を感じる事のできる性感帯である。
リーダー男の指先がポルチオを弄(いじ)れば、もぅ女リーダーの全身の力が抜けて後は快感を貪(むさば)るだけの淫女に変身する。
本来ポルチオは、欲棒のカリ首が突っいたりカリ首エラが擦(こす)れたりの感触に反応する事に優れて存在している。
この指の根元まで挿し込む手淫は、女リーダーのポルチオを刺激して悶絶(もんぜつ)直前まで追い込む目的の行為だった。
ポルチオとは、膣(ウァギナ)の奥の方に存在する、「子宮口(子宮の入口)」の事で、「Gスポットの何倍も気持ち良い」と言われている強烈な快感を感じる事のできる性感帯である。
本来ポルチオは、欲棒のカリ首が突っいたりカリ首エラが擦(こす)れたりの感触に反応する事に優れて存在している。
この手淫性技に掛かったら、余程鈍感な女性で無い限りは全身が性感帯に成ったがごとき猥褻(わいせつ)な感覚に善がり身悶(みもだ)える事になる。
目の前で女リーダーの股間にリーダーの奴の二本指が抽入され、スナップ(手首を捻って効かせる)が利いた手首と肘(ひじ)でリズム良く抜き挿しされ、二枚の肉花弁と指の隙間から柔ら壺の愛液が噴出している。
その愛液塗(まみ)れの二本指の揃(そろ)えられた根元が、リズム良い抜き挿しに応じて見え隠れしている。
リーダーの奴は、女リーダーの反応が愉しみだから、グィグィと攻め立てながら一気加勢に追い込んで行く。
二本指で攻め立てられ、感じているのか女リーダーの顔が歪(ゆが)み、半開きの口から「アァァァ〜。」と善がり声が漏れ、腰も抜き挿しのリズムに合わせるかのように見えている。
その態勢で股間を弄(いじ)られるのを、女リーダー自らが指で敏感な肉蕾の実(サネ)を刺激しながら、善がり身悶(みもだ)えている。
理屈では「そんな恥ずかしい事を・・良く犯るよ」と想うかも知れないが、現場の空気を感じれば一方的にそれを壊す度胸は女リーダーには無い。
女リーダーの気分も、こうなると大きなスポーツ試合に奮闘しているアスリート気分で、性交も一種の勝負である。
そして避けられない性交遊びであれば、オーガズムの到達点に到るまで女リーダーは愉しんで犯って見せるしかない。
奇妙な心理だが、既に少なからぬ妥協をした後では引き下がれば犯られ損で、乗りかかった船は今更尻尾(シッポ)を巻いて女リーダーには降りられない。
女リーダーのヒィヒィと言う善がり声を聞きながら、リーダーの奴はその二本の指抜き挿しのスピードを徐々に速め、グィグィと女リーダーの女性器・柔ら壺を弄(なぶ)って行く。
やがて抜き挿しに応じる様に女リーダーの尻穴の菊座がヒクヒクと収縮とし緩を繰り返し、腰が浮いて二本の指の抜き挿しに卑猥(ひわい)に呼応する。
そこまで女リーダーの肉体反応が進めば、イヨイヨ柔ら壺への欲棒の抽入である。
リーダー男の奴が女リーダーの秘所、二枚の肉花弁のスリットに坊主頭のカリ首を宛(あて)がい、グィと突き入れる。
「アハン」と女リーダーの善がり声が聞こえ、リーダーの奴の欲棒が女リーダーの中に収まった。
後はリーダーの奴の生々しい腰の動きと伴に愛液に濡れ光る陰茎が見え隠れし、「アァ、アァ、アァ、イィ、イィ、イィ」と女リーダーの善がり声が響いている。
まだ連続性交へ若干の抵抗心が残る輪姦プレィの出だしはともかく、犯り出して脳が感じ始めて来れば女性の性体感は現金なものである。
男性を受け入れるかの決断は本能で在るから、イザと成ると性交に関しては女性の方が余程(よほど)男性より度胸が良い。
女リーダーの喉が枯れるほどの激しい善がり声が、閉店後のスナックに響き渡っている。
「まるで私では無いみたい」と女リーダーは想いながら、今は貫(つらぬ)かれた子供会仲間の欲棒に歓喜の受け腰を使って応じていた。
つまり女リーダーは、想ったよりもこの卑猥(ひわい)な遊びと、肉体(からだ)が肉欲的に水が合った事に成る。
集団乱交の遊びなど「現実には存在しない噂」だと想っていた女リーダーにはにわかには信じ難い事だっが、その噂だけの世界が現実に存在した。
しかも女リーダーは、「白糸会」の生贄(いけにえ)のヒロインに仕立てられ、こんな乱交プレイを愉しみ愉しませる遊びを犯る連中が居る事を、肉体(からだ)で知らされ様としていた。
この遊びの性交プレィを、拒絶しても回避できない環境であれば上手く犯るべきで、頑(かたく)なに気持ちだけで拒絶するのは聡明な事では無い。
こう言う事を否定しないで上手く犯るには、気を入れて気分を卑猥(ひわい)に持って行き、積極的に受け入れて性交を愉しむのが利口な女の処し方である。
女リーダーは、今からこの「大勢の他人前(ひとまえ)で犯される」と想うと、恐ろしさと恥ずかしさで胸がキュンと成った。
けれど不思議な事に、この観られる快感が癖に成りそうな予感が、女リーダーの心の片隅に複雑に存在した。
現に女リーダーは、大勢の視線を意識して乳房の乳首を硬く立たせ、戸惑いの表情を浮かべて指示に従っている。
自然な男女の性癖を区分けすると、観て感じる男性と見せて感じる女性に分けられる。
頭の思考で露出癖を論理的に否定していても、経験から別の答えを感性的に受け入れる事もある。
タブーの世界だから余り正面切って表明は出来ないが、現実にAV女優の志願者は多く、事務所登録しているだけで数万人は居て、その彼女達が金の為だけで無い。
建前はともかく本音では、彼女達に「他人前(ひとまえ)で犯られて見せる」と言う究極の露出癖をも満足させる目的でも無ければ、そんな仕事は犯っては居られない。
日本でも欧米でも、大ヒットを飛ばす歌姫に露出の多い衣装は定番である。
つまり女性の「見せたい願望」は女性が男性を誘うカップリングの本能で、それで集まって来た中から相手を選ぶ為に、見せて誘う意識が感性的に働くと言って良い。
男性は観たい癖があるから露出の多い衣装は歓迎だし、女性も本音では「見せたい願望」で歌姫の露出に共感している。
だから女リーダーは本能をくすぐられ、こう言う特別の場でしか味わえない女性特有の究極の露出癖に目覚めたのかも知れない。
此処まで来てしまえばまな板の鯉で、女リーダーの顔は、一見すると覚悟の「はにかんだ微笑(ほほえ)み」の表情を含んでいた。
もっともこの快楽の場では今更抵抗は見苦しく、女リーダーは場の雰囲気を壊さない為に悲壮な顔や嫌な顔は出来ない。
易々と逃げ切れない状況に追い込まれて女リーダーは今、多くの視線を感じながら素っ裸で此処に居る。
女リーダーが眩(まばゆ)い裸身を曝け出して引き出されたそこは、陵辱プレィのセックスフアイトリンクだった。
身包(みぐる)み剥(は)がされた素っ裸で他人前(ひとまえ)に曳き出され、女リーダーは脳みそが溶けそうな何とも表現し難い想いの羞恥心に耐え、子宮がジワッと熱くなる興奮を感じた。
女リーダーにしてみれば、逃げ切れない状況に易々と追い込まれて、止むを得ずに承知した日常生活では在り得ない乱交遊びの性行為の最初の儀式だった。
この肉体(からだ)がフワッ浮き上がる様な表現し難い頼りな気な羞恥感覚は、実際に経験してみないと判らない。
結局の所女リーダーは、「どうにでもしろ。」と覚悟を決め、秘部も露(あらわ)に股を開いて相手の犯りたい事の受け入れを待つしか選択枝は無い。
そしてどんなに美人で、どんなにスタイルが良くても、絡み合う恥毛の丘とグロテスクな女性器は、性交の為の肉体の一部として違和感タップリに備わっている。
その場に全てを晒(さら)して素っ裸大股開きにされた女リーダーの顔は、羞恥心を含んだ困惑の表情だった。
その女リーダーの困惑の表情などお構い無しに、少し乱暴に輪姦(まわ)しは始まった。
何しろ亭主の要望だから、構う事は何も無い。
この連中はこう言う事に慣(な)れて精神的にも図太く、他人前(ひとまえ)でも躓(つまずく)事も無くズブリとインサート(挿入)を確り決めて来る
自分達が日頃犯って居る事だから犯る方も犯られる方も笑顔で、この連中が無遠慮に に犯って居る事は当たり前で、悪いとも可愛そうとも想わない。
しかし女性は、一度そちら側に飛んでその露出感覚の快感を味わってしまうと感性の快感が優先されて、次からのプレィは意外とそこまでは抵抗がない。
何しろ休みたくても休めない状態で輪姦性交が続いて、女リーダーの絶頂(アクメ)は途切れなく性感に拠る忘我の境地を彷徨(さまよ)っている。
口をパクつかせて喉が枯れるほどの激しい善がり声が、女リーダーの口から垂(た)れ流されている。
バック攻め独特のブシュ、パン、パン、ブシュ、パン、パンと言う女リーダーの尻肉がリズム良く発する連続音が、激しくこのプ に響き渡っている。
雄(男性)の本能が子種を撒き散らす事に在る以上、雌(女性)の本能に優秀な子種を求める衝動が在る以上、所謂(いわゆる)性衝動を建前だけで制御するのはむずかしい。
原始回帰すれば、男性が良い母体を探し女性が良い精子を探す「種の保存本能」で相手を代える感性は、ふしだらでは無く当たり前だった。
その性交本能を剥(む)き出しに男女伴に、女リーダーの肉体(からだ)でタップリ愉しむ事が、この場の約束事だった。
女リーダーも、次々と入れ替わる男達の欲棒を咥(くわ)え込んだ腰を浮かせ、口をパクつかせて善がり声を挙げ、涎(よだれ)を垂(た)らしながらリズム良く尻を振る。
股間が空(あ)く事の無い男達の猛攻に女リーダーは半ばトリップ(無意識)状態で、欲棒を咥え込んだ腰を相手の抜き指しのリズムに肌から汗の玉が滲(にじ)み出るのも構わず応じている。
制御もまま成らなく開いた女リーダーの口元からは、激しい息使いと伴に悩ましい善がり声が「アァ、アァ、アァ。」と漏(も)れ、その唇の脇からは涎(よだれ)が糸を引いて落ちて行く。
その振られる尻の股間で抜き挿しされて捩(よじ)れる肉花弁と欲棒の隙間から、もう何人分かの溜まった愛液が押し出されて溢(あふ)れ、女リーダーの白い太腿(ふともも)を伝い滴(したた)って床に落ちている。
もぅ、彼らは次々に入れ替わって女リーダーを欲棒でズブリと貫き、クィクィと腰を入れてリズム良く抜き挿しをして来るから、こう成れば女リーダーも気合を入れて必死に受け腰を使うしかない。
周囲を順番待ち組と鑑賞組の人の輪で囲まれる中、女リーダーは生々しく結合部も露(あらわ)に、乳房を揺らし善がり声を挙げながら壮絶に相手の抜き挿しに受け腰で応じている。
激しいピストン運動にの顔が歪みながら左右に嫌々をし、股間に抜き挿しされるその淫茎は抜き状態では濡れ光り見え、挿し状態では根元近くまで中に達している。
輪姦(まわし)の相手が替わって欲棒をスッポリとこれ観よがしに女リーダーの開いた股の付け根に挿し込んだ当初、まずはユックリした生々しい抜き挿しから始まる。
女リーダーももぅ、欲棒を挿し込まれた状態だから、ユックリした抜き挿しで攻められて居る時は快感を得ようと硬さを緩(ゆる)め、相手に身を委ねた良い顔して犯られている。
それにしても、女の性(サガ)なんてものは男には判らないもので、これから一戦交える相手には自然と優しい穏(おだ)やかな表情で迎え入れる特質が備わっているらしい。
信じ難(がた)い事だが、想わず女としての表情を漏(も)らしたあの良い顔はこれから起こるアクメ(絶頂)への期待の表情に違いない。
相手の交代時の度(たび)に垣間(かいま)見せるその何とも言えない表情は、やがて激しく突き責められて歓喜に顔を壊すまで続く。
「おぅXXさん、奥さん結構良い顔して犯られて居るじゃないか。」
リーダー男がニコニコして女リーダーの亭主に声を掛けて来た。
「そうですね。驚きですが、この状況で内の奴は意外に良い顔して犯られていて驚きです。」
「普通の反応で珍しくは無いですよ。奥さんも、腹を決めれば後は清々愉しんで犯られる気持ちに成ったのでしょう。」
「そうですね。遊びのSEXを苦痛に想ったら、夫婦の人生が詰まらないですから。」
勿論こんな非日常の興奮は、女リーダーに取って夫婦で犯る日常の性交ではとても味わえない強烈な刺激で、羞恥心など只の味付けだった。
次々と無遠慮に犯られる女リーダーは、公開性交の露出羞恥心も脳内に噴出する興奮のドーパミンの快感に後押しされて、脳内麻薬・ベータ・エンドロフィンの誘導が起こる。
やがて女リーダーは、セックスハイ状態に到達して涎(よだれ)を垂(た)らしながら尻を振り、性交を続けて快感を貪(むさぼ)り、素の女性(おんな)を曝(さら)け出す。
女リーダーには、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)など経験するまでの思いは想像にない特別な事だった。
しかしこうして夫の前で遊びの性交を他人に犯られる事も、慣れてしまえば特別の事では無く、時々愉しむ遊びになる。
亭主に強引に追い込まれての事だが心配する事は無い、苦悩から歓喜へ替わる一瞬が女リーダーの顔にも表情として表れていた。
男性が直ぐ終わる一対一の「夫婦の性交」と違い性交感覚の刺激が繰り返し続くのだから、女リーダーにして見れば肉体的本音は「癖に成るほど良い」に決まっている。
女リーダーが知ってしまった一対数十の変則マルチSEX(複数性交)で、自分を大事にする感性の裏返しに、性交時の感度さえ良い方に転がれば何でも犯れるのが女性である。
女リーダーは無我夢中で男達に犯らて見て、その連続する刺激に想って居たより遥かに性感的に満足し、その結果、嫌悪感など抱かなかった。
そして、「何も無い平凡な人生よりも、いつか振り返った時、自分の人生の一時期にこう言う非日常的刺激の時間が在っても良いかも知れない。」と言う思いを抱(いだ)き、亭主の策略にズッポリ嵌(はま)ってこの御乱行である。
女リーダーの亭主が目を光らす目の前で、仰向けに床に転がる女リーダーの両脚を肩に担(かつ)いで抽入を果たした私が、張り切った坊主頭のカリ首をクィクィと腰を入れて攻め立てている。
正直おかしなものだが、興奮に必要なのがアブノーマルな行為であれば、セックスに淡白な男が真面目なのかこの亭主のように探究心旺盛な男が真面目なのか、そんなものを建前の感情で判断しては合理性に欠ける。
「今度は内の奴のア*ルを使って見せて下さい。」
素っ裸の女リーダーに私の欲棒をおシャブリさせながら、私達メンバー男性五人が、これからどうして弄(なぶ)ろうかを聞こえよがしに打ち合わせをしている。
ワクワクして居る風情の女リーダーの亭主を混ぜて、悪戯小僧(いたずらこぞう)が何か企むように、女リーダーの調教に予定している筋書きを綿密に打ち合わせて進んでいた。
女リーダーの亭主は、今回ア*ルの開発を目論んでいた。
勿論、女リーダーに有無は言わせない。
ア*ルSEXを考えるに、SEX行為の何処までがノーマル(通常)で、何処からがアブノーマル(異常)なのだろうか?
明治維新後タブーに成った部分だが、ハッキリ言えば女性の肉体には男根を受け入れる穴が三つあり、男性の肉体にも穴が二つある。
つまり江戸期以前の習慣である衆道(男色)・稚児小姓は、その二つを使って主(あるじ)と性的な行為をする事である。
現代の思想信条や社会合意を基準にすると、確かに稚児との男色(衆道)の交わりは異常(いじょう)な行為である。
ただし現代のように男性同士に偏った個人的な性癖ではなく男女両刀使いが一般的で、そして明治維新前の主従関係では、それは上流社会の嗜(たしな)みとして公然と認められていた。
従って日本に於いては平安末期から明治維新までの永い間、肛門性交を否定する環境に無かった訳で、今は口に出すのはタブーだが行為は少し高度な行為として廃(すた)れずに残っている。
この事でも判る通り性的な倫理観など時代時代で変化する物だから、当時の性的な倫理観を現在に当て嵌めて批判するのは知的で無い。
つまり性の倫理観に於いて、何が常識で何が普通などと言うは元々刹那的な一時代の合意事で、普遍的な倫理観ではない。
残念ながら、SEX行為から快感を得るにはワクワクする「興奮」と言うスパイスが必要で、同じカップルでも付き合いが永くなり、毎度同じ相手による御馴染みのノーマル(通常)な行為ばかりではマンネリ化して興奮が薄くなる。
贅沢な話だが人間の脳快感要求は複雑で、例えそれが無事なものであっても平凡・平坦・無変化ほど拷問に近い退屈を感じ、それがやがて不満に成る。
夫婦生活に於いて愛情は大事な要素の一つではあるが、永い年月を伴に暮らすにはそれだけでは埋め合わせない。
人間は適度の「興奮」の為に恐怖や冒険、異常体験などの刺激体感を必要とする。
興奮が薄くなれば、SEX行為は覚めた面白くないものに成り、その段階で何故かアブノーマル(異常)が「興奮」の条件になるからマンネリ化すれば、危機回避の為に「興奮」を要するようになり、夫婦で段々アブノーマル(異常)な行動に走る。
「また遊ばせて犯るょ。」は、亭主からの「白糸会」の輪姦プレィのお誘いである。
「白糸会」の仲間は大切にしなければ成らず、勿論輪姦(まわし)を犯る以上は愉しく遊んで貰わなければ成らず、夫の為にも女リーダーに半端な事はできない。
遊びの性交は、元を正せば非繁殖目的の「擬似生殖行為(快楽性交)」で在って、他の動物のように繁殖期を持たない年中発情の人間種独特のものである。
そして年中発情の人間種の本能が満足を求めて遊びの性交を要求し、命題が遊びの性交であるからこそあらゆる性癖が発生して次第にエスカレートする。
その「擬似生殖行為」が脳の活動に組み込まれているからこそ、人類の皆が「性」に興味が在って、「尋常な性交など詰まらぬもの」と言う共通意識が密かに育つのが人間である。
此処(大型スナック)は善がり声を抑(おさ)える必要など無い場所だった。
まぁ女リーダーも、他人前(ひとまえ)で晒(さら)し者の素っ裸に剥(む)かれて、不安に頼り無い想いをさせられて居ては、今更格好付けても仕方が無い。
犯ってしまって正直言うと、女リーダーにして見ればおシャブリも腰使いも上手く犯れて相手を満足させたのだから、内心では結構満足が行く出来(デキ)だった。
禁断の露出公開性交だからこそ、他人前(ひとまえ)で此処まで激しく犯らされれば上出来(ジョウデキ)で、女リーダーの脳みそは羞恥心で溶けそうだった。
「この先は長い。今日はまだ序の口だ、ジックリ味わいなさい。」
こう言う事は女リーダーの犯る気次第だが、亭主の行き成りの長期化宣言だった。
それにしても、一人の女性を躾(しつ)けの為に結束して攻め挙げ、仕上げるには仲間内の連帯感の絆も生まれるものである。
リーダーの奴が女リーダーの亭主に言うに、「男は見て興奮するが、女は実践しないと興奮しない。」と言う。
つまり女は、「犯らせて見ないと理解出来ないから、犯らせるべきなのだ。」と言うのである。
「段取りを上手くやれば奥さんの様に躾(しつ)けが適(かな)うと想いますよ。」
夫婦共犯の遊びの性交の場で、女リーダーを増長させると行為が横着になり調教結果が悪くなるので性交マナーを厳しく仕込んで学習させる。
「厳しく仕込む」は亭主の希望だから、仲間内の誰もかも女リーダーの性調教にはギンギンでまったく容赦無くヒィヒィさせて責める。
女の性(さが)と言おうか、無意識に見せ様と大股開きに股間を開いた女リーダーの恥毛が絡むデルタ地帯の肌の下に、敏感な花芯ボタンが小さなピンク色の実を膨らませて、淡い光を放ちながら弄(なぶ)られるのを待っている。
脳の快楽的喜びを記憶するのは、右脳と左脳の中心下部にある一対の大脳基底核の主要な構成要素のひとつ「線条体(せんじょうたい)」と言う部位である。
「線条体(せんじょうたい)」は、運動機能への関与や意思決定などその他の神経過程にも関わると考えられている。
SM性交プレィやマルチSEX(複数性交)が繰り返し行われる事で、中脳からのドーパミン入力に拠って興奮性が高まり、その「線条体(せんじょうたい)」と言う部位での快楽的喜びの完成条件が完結して行く。
既に輪姦(まわし)の開始からは一時間半ほどが経過していたが、激しい抽送に攻め立てられた女リーダーは、呼吸が止まるかの様なオーガズムに襲われ続けたまま、終わらない輪姦(まわし)に翻弄(ほんろう)されていた。
まだズブリとモロに犯られた他人の欲棒を生々しく咥え込んだ女リーダーの卑猥な受け腰使いと、けたたましい善がり声は、好奇の目に晒(さら)されながら物置室内に響いて見事に続いていた。
連続性交に於いて、スポーツハイの快感から導かれる脳内麻薬物質・分泌ホルモンベータ・エンドロフィンの効果と同じセックスハイ状態に導かれる。
これは興奮の中、デェスコや盆踊りを夜明かし踊った後のような快感に溢れた心地良い疲れも同じ脳内麻薬物質・分泌ホルモンベータ・エンドロフィンの効果である。
益してや集団乱交で「性交を他人に観られている」と羞恥心(しゅうちしん)を強く感じると、興奮で脳にアドレナリンがドバッと吹き出るのを感じる。
オーガズムの快感反応の一つに、背骨の反り返りと足の指が開くバビンスキー(ババンスキー)反射がある。
判り易く言えば、足の指が開くバビンスキー(ババンスキー)反射は性交中の女性の「イク時」の反応のひとつである。
まぁ、バビンスキー(ババンスキー)反射までは演技では出来ないので、女リーダーがそこまで反応すれば演技では無く、本当にイッタと言う事である。
防衛本能から脳が感受性を好転させる為にアドレナリンやドーパミンを噴出させるのらしいのだが、結果的にそれが性交快感をより増幅させて今まで経験しなかった快感を得るのだから堪(たま)らない。
その快感の記憶は純粋に快感だけで思考条件などは無く、喫煙や飲酒の快楽感と同等の習慣性を知らず知らずに持つ事になる。
同じ相手のリピート(繰り返し/再性交)も在ったから、女リーダーは続け様(さま)に、いったい何本の欲棒に肉体(からだ)の中心を貫抜かれ、犯られ責められた事か。
終盤にさしかかると、流石(さすが)の女リーダーも息切れして「ムフムフ」と小さく善がるばかりに反応が小さく、受け腰の動きも少なくなる。
まぁ、これだけの人数を相手に続けて性交すれば、女リーダーが体力を消耗しても仕方が無いが、それでも順番待ちして居た連中は順番が廻って来れば息切れした女リーダーを容赦無く攻め立てている。
女性を四っん這いにさせるバックスタイルの性交も動物的で、疑似生殖行為(快楽性交)には人気プレィの一つである。
「今度は後ろから犯って見ましょう。」と女リーダーの亭主が妻に命じて四っん這いにさせ、殺菌軟膏をア*ル(尻穴)に塗る。
女リーダーが尻を高く掲げ、顔は頬(ほほ)を床に着ける猫の背伸びの様な四っん這い姿勢で待ちうければ、柔ら壺もア*ル(尻穴)も、ズッポリと犯りたい放題である。
柔ら壺にしろア*ル(尻穴)にしろ、女リーダーは粘膜へのカリ首の擦(こす)れ具合いを愉しみながら善がり悶えて、大声を響かせている。
この姿勢で何人も受け入れた女リーダーだが、相手の男の大半は、前の柔ら壺も後ろのア*ル(尻穴)も交互に充分に愉しんでいる。
二時間に渡る壮絶な輪姦(まわし)の激戦の官能の時間が過ぎた後は、心地良い疲労感と伴に女リーダーの股間にはまだ何か突き刺さっているような感覚が残っていた。
輪姦(まわ)され終わった後の女リーダーの気分は、盆踊りやディスコダンスを夜明かし踊った後のよう、なけして嫌では無い贅沢でさわやかな疲労感だった。
恐らくまだ女リーダーの脳の中には、興奮状態で発生されるドーパミンに誘導された脳内麻薬・ホルモンベータ・エンドロフィンの名残が、心地好く残っていたのだ。
連続性交で嵌(は)め倒されて無理も無い事に、女リーダーは素っ裸大の字で心地良い疲労感を愉しんでいた。
女リーダーは亭主が協力を求めた男達に、「密度の濃い快楽」として「線条体(せんじょうたい)」にミッチリ記憶されて習慣付けられた訳である。
どうせ人間は贅沢な生き物で、波乱万丈の苦労でも文句を言い、反対に平凡な生活の詰まら無さにも不満を抱く。
つまりどちらに転んでも不満を抱く欲の深い究極の無い物ねだりが、人間の本性・煩悩(ぼんのう)である。
夫の無い物ねだりは、妻の女リーダーを大勢の男に陵辱させ欲棒を勃起させて眺め、脳をトロケさせる様な刺激だった。
ならば女リーダー本人が性に目覚め、他人と性交してもさして抵抗が無いのであれば、女リーダーが目の前で他人と性交プレィをしていても亭主が「それを見て楽しむ、単なる遊び」と考えれば案外どうって事は無い。
実際女リーダーにしても、例えめぐり合わせの遊びのプレィでも性交をする以上は粗相(そそう)が無い様に気を使う。
つまり、「相手に快感を与えよう」とチ*ポをシャブり、渾身(こんしん)の受け腰使いで抜き挿しの快感に努力するのが、置かれた立場の最低限の礼儀である。
相手の三人組リーダーの奴が強引にガブリ腰で突いて来るのを、女リーダーがクィクィと受け腰で応戦する。
リーダーの奴にグサリと嵌(は)め込まれた陰茎が愛液に濡れ光ながら、女リーダーの股間に生々しく見え隠れする。
性器と性器の海綿体が抜き挿しで接触し女リーダーに快感が襲って来るが、女リーダーにとってはここは踏ん張り所だった。
そして大人の男女の成熟した性器と性器が正常に抜き挿しされて海綿体が接触すれば、得られるのは神の与えた「快感」である。
だからその結果として、女リーダーが夫の目の前で腰を浮かしてヒィヒィと「気持ち良がって」も、何人(なんびと)もそれを非難出来ない。
当日の輪姦プレィの場では強がって耐えて居ても家に帰えれば張っていた心が崩れて泣きながらまだ他人の抜き挿しの感触が残ったまま亭主と性交に及ぶ。
それで女リーダーは互いの愛情を確かめて、漸(ようや)く倫理観の負い目を吹っ切る場合も多い。
しかしそれは感情的なもので、女リーダーの肉体(からだ)の方は充分にマルチSEX(複数性交)プレィやマルチタスクSEX(同時実行性交)の強烈な快感を記憶してしまっている。
そうなると性癖を植え付けられた女リーダーは次のプレィのお誘いを断れないから、まぁ順調に環境が整えば人類は皆快楽性交マニアである事を否定は出来ない。
その夜、女リーダー夫婦は先ほどの興奮醒め遣らぬまま家に帰って、寝室に入るやいなや待てないように相手の衣類を引き剥がして結ばれた。
抽入を果たして肉体(からだ)の一部が繋がると、互いにユックリ腰を使いながら睦言(むつごと)を話しだした。
「お前、もっとシブシブかと想ったが、奴等に突き入れられると咥え込んだ腰を結構激しく使っていたな。」
「嫌ねぇ、あなたジックリ見ていたんでしょう。それに貴方がそれを望んだのでしょ。私だって女よ、肉体(からだ)が感じれば腰を使って乱れもするワ。」
「アァ、善がり声を挙げながら貪欲に腰を使う所をジックリ見せて貰ったよ。」
「まったく、あなたはろくな遊びを想い付かないんだから・・・。」
女リーダー夫婦はその禁断の輪姦風景を脳裏に再現しながら話し、気分を高めて腰使いも激しくしながら、性交を愉しんでいる。
「お前、犯られれば相手構わずにあんな風に感じて、善がり声を挙げながら腰を使うのか?」
「情に関わらない只の遊びのセックスだもの、肉体(からだ)の方は気持ち良ければ相手構わず感じるわょ。」
あのスナックでの公開性交は、仲間内ギャラリーに結合部分を見せるのがルールだから、つい先ほど垣間見た妻の欲棒を咥え込んだ腰が、卑猥にうごめく光景が女リーダー夫婦の脳裏に浮かんで居た。
「まぁ、俺が犯れと言ったのだから嫉妬は可笑しいか。」
「でしょ、あなたは犯られている私(女リーダー)を見て愉しむのですもの、私(女リーダー)は犯られて愉しむしか無いじゃない。」
「どうだ、お前もそこそこ愉しんだのだから、暫くこの遊びを続けて見ようか?」
「そぅね、あなたの期待を裏切れないし、「あんな風に犯られている所をあなたに見られて居たら、今更、格好付けてももう仕方が無いでしょ。」
結局女リーダーは、亭主のこの卑猥な遊びに今後も付き合う事を承諾した。
男性に独占欲が在る所から女性の淫乱症は敬遠される為、女性は駆け引きで一見「性」に関心が無いようにして居る。
しかし現実には、女性に「性」の関心が無い訳がない。
人間として子孫を為す本能があるから、女性にも男性に負けない秘めたる性欲が在るように出来ている。
本音の性本能がそうで、世の中再婚を繰り返したり浮気を繰り返すのだから、家庭崩壊のリスクが無ければ女性も安心して犯られ放題を愉しむ遊びの性交がある。
だから本当に性欲が無い女性は一種の病(やまい)であるから、一度医者に診てもらった方が良い。
そして、男女伴に「性」に興味が在っても、観て興奮する男性と魅せて興奮する女性、元々男女の資質と役割に少し違いがある。
男女に資質と役割の違いがあるこそ、こうした公開性交の「秘密の遊び」がワクワク感を持って成立する。
それは嘘が無い男女の生き様として、一瞬の煌(きらめ)きかも知れない。
そして、その「秘密の遊び」を犯った者でないと判らないが、一度その秘密の遊びを問題も無く犯れてしまうと癖に成るほど嵌(はま)る遊びに違いない魅力が在った。
アブノーマル(異常)性交の一線を超えればシメたもので、その先は「これは良いが、これは悪い。これは出来るが、これは出来ない。」と、一々細かい比較基準は考えられない。
人間の心理は不思議なもので、中途半端に線引きをし直すなどの小さな修正は出来るものではない。
亭主が「三穴攻めの四Pをさせたい」と言い出した。
「行き成り奥さんにそんな事させて、大丈夫か?」
「なぁに、普段から太目のラテックス製のプラグを尻の穴に入れて性交しているから、楽勝だよ。」
「ア*ル調教していたなら、三穴攻めは予定の行動か?」
「あぁ、何時(いつ)かトライ(挑戦)をさせようと訓練だけはしていたさ。」
一度一線を超えてしまえば気分的に一度も二度もさして変わりは無く、後は一気に追い込んで、三P・四PのマルチタスクSEX(同時実行性交)やア*ル性交を仕込むだけだ。
最初のア*ルトライは、私が頼まれ殺菌力もあるハンドクリームが用意されていて白色の広口クリーム壜をリダーの奴から渡された。
ア*ルを使う時に負担をかけないように欲棒に塗って「滑りを良くさせる為」と見た私は、受け取ったハンドクリームを指ですくい、女リーダーを伏せさせてア*ルに塗る。
女リーダーを伏せさせたのは以前便秘症状解説でテレビが言っていた角度の問題で、頭側を少し低めにさせて直腸が真っ直ぐな角度に成ると欲棒をア*ルにスムースに入れられるからである。
女リーダーのア*ルに塗り付けて残りを自分の欲棒に塗り、女リーダーの尻に取り付いてクリームまみれの欲棒をア*ルに宛がい腰をグイと入れた。
「プラグ調教をさせて居た」とは言え、ア*ル処女の女リーダーが私にいきなり抽入され、その強烈な刺激に悲鳴を上げる。
「ギャア〜。」
ア*ルに欲棒を捻じ込まれた女リーダーの脳は、激痛に慌ててドーパミンを噴出、ベーターエンドロフィンを生成する。
脳内麻薬のベーターエンドロフィンで痛みを快感に変えるとともに、痛み伝達物質のセロトニンを出動させて、脳への痛み伝達を阻害する。
それが痛みの伝達を阻害するだかならまだしも、制御物質が脳に満たされれば、ア*ルに欲棒をねじ込まれた激痛もア*ルを貫(つらぬ)く欲棒の抜き挿しもビビッと電流のような快感になる。
分泌系ホルモン・ベータ・エンドロフィンには麻薬作用があり、性感度が格段に上がってその快感が女リーダーの脳へ伝わって行く。
「アフン、アァ、アァ、アァ、アァー、アフン、アゥ、アフン、アゥ、アァー。」
人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らの体調や精神をコントロールする。
女リーダーは流れの中で私達メンバーに誘導され、自然にマルチタスクSEX(同時実行性交)に入って居た。
女リーダーのア*ルは、使用に耐えうるようには全く開発されていないのに行き成り欲棒で串刺しにされ、究極の三穴攻めで強引に攻め立てられたのである。
マルチSEX(複数性交)は相手を次々に代える性交行為だが、マルチタスクSEX(同時実行性交)は同時に複数が絡む性交行為で、依り刺激的なシチュエーション(状態/情況)を演出できる行為である。
私達メンバーは、女リーダーに女上位に取らせて柔ら壺で交合し、後方からア*ルにも強引に抽入を果たし、口にも強引に捻じ込むと三穴攻めを完成させてそれぞれが抜き挿し抽送を始めた。
「ウグゥ、ウギャァ、ウギャァアア、アァア、アウゥ〜。」
くぐもった女リーダーの声が、口に捻じ込まれた欲棒の隙間から洩れている。
下からリダーの奴が腰を使って突き上げ、私がアナルに抜き挿しをして口にはリーダーの奴が欲棒をクィクィと突き入れていた。
男二人の欲棒でア*ルと女性器と言う前後を同時に貫かれる三Pの上、口にまで突き込まれる四Pなど、常識で言えば変態行為そのもので女リーダーには恋愛や遊びでならば到底承服できない行為である。
だが、亭主を含む男五人が自分の居る所で決めた遊びで、今度ばかりは好奇心から抗(あらが)う訳には行かず、手馴れた男達に導かれるままに亭主の前で犯られてしまった。
駅弁ファックは、互い向き合って欲棒を女性の柔ら壺に抽入したまま抱え歩き、抱えた腕力で女性を上下させて抜き挿しする性交法である。
その変形で、ア*ル駅弁ファックは女性を前向きに欲棒をア*ルに挿し込み女性の左右の両太腿(りようふともも)を両手で抱え支えるア*ル性交法である。
この二つの駅弁ファック組み合わせて、先にリダーの奴がア*ル駅弁ファックを決め、更に私を駅弁ファックに向かい入れれば、欲棒二本挿しの二穴駅弁ファックが成立する。
つまり女リーダーには、犯れそうな事は何でも犯った。
このグループに関しての成立要件は、女リーダーの亭主のニーズ(要求・需要)「妻を他人に弄(なぶ)らせたい」と他の男達の「遊びの性欲ニーズ(要求・需要)」が合致した結果だ。
それが、考えように拠っては女リーダー夫婦にとって他の男達は露骨な非日常を愉しむ為の「生きた大人の玩具(おとなのおもちゃ)程度の存在」かも知れない。
嫌、「玩具(おとなのおもちゃ)程度の存在」と考えられるからこそ、どうって事無くこの卑猥(ひわい)な遊びが成立しているのだろう。
人間誰でも、日頃の鬱憤(うっぷん)が溜まれば暴発する事もある。
だが女リーダーは、平凡だった人生が突然刺激的なものに成った。
考える余裕も無い無我夢中の状況に在って最初は不安で一杯だった女リーダーも、「身に危険が無い」と要領が判って来れば何時(いつ)しか女リーダーの顔から緊張が解けて居た。
本当に利巧な女は、「利巧ぶって自分の主張だけをする事はない」と・・・・少し女リーダーの様子が変わったが、心境の変化があればおのずと雰囲気に現れるものかも知れない。
そぅ、いつか振り返った時に女リーダーの人生の一時期にこう言う非日常的刺激の時間が在っても良いかも知れないのだ。
仰向(あおむ)けで寝る三人組リーダーの奴に、女性上位で腕を両脇に立てて覆い被(かぶ)さった全裸のリーダー女の白い尻が、欲棒を咥(くわ)え込んだままそれを基点軸に恥丘を擦(こす)るように回転運動をして快感を貪(むさぼ)っている。
下から腕を突き出したリーダーの奴に、乳首が立った柔らかそうな乳房を揉みしだかれながら明らかに苦悶の表情を浮かべる女リーダーの表情がそこに在った。
その犯られる相手が人数を重ねると、女リーダーの裸身もその夢中の激しい腰使いに乳房の辺りから赤味を帯びて興奮と快感で体温が上がっているのが判る。
裸身が赤味を帯びるから、男達の入れ替わり立ち代り無遠慮に訪れる欲棒にクィクィと抜き挿しされる女リーダーの下半身から、恐らく肉壁の摩擦感と伴に快感が脳に登って来て居るのが判る。
欲棒を挿し込まれた生々しい女リーダーの股座(またぐら)の恥部を、大股開きに晒(さら)して多くの突き刺さる様な視線を意識して燃え上がる羞恥心に、女リーダーの脳みそが溶けて行く。
代わる代わる男達の欲棒に抜き挿しされる股間から愛液を垂れ流しながらクィクィと受け腰を使い、悶絶の連続を繰り返す妻は、「皆で犯れば怖くない」の心理状態に誘導されて、女リーダーは明らかに集団同調性(多数派同調)バイアス状態に陥(おちい)っていた。
女リーダーは、欲棒を挿し込まれた大股開きの股座(またぐら)の恥部を生々しく丸出しに腰をクィクィと使い、善がり声を挙げながら愛液を滴(したた)らせて抜き挿しを続けている。
相手が代わる度に大きく開いた股間に生々しく下半身を貫(つらぬ)かれる欲棒の快感に汗ばんだ肌を鈍く光らせながら乳首が立った乳房を揺(ゆ)らし、上体を仰(の)け反らせて上半身をのたうち、女リーダーは大声で善がりながらイキ続けている。
涎(よだれ)を垂らし愛液を滴(したた)らせながら悶絶の表情を浮かべて受け腰を使うほど、癖に成りそうな気持ちの良い思いをしたのだから、人は前向きに何事にも「良かった」と笑っている方が幸せに成れるのだ。
赤の他人の欲棒を生々しく咥(くわ)え込んだ女リーダーの、既(すで)に絶頂域を続けている腰の動きが妙に艶(なま)めかしい。
「アッヒィー、アアアアアアアァー、イク、イク、アァー。」
女リーダーは襲い来る刺激に耐えられず、ガクンガクンと上半身を跳ね上げ、明らかに絶頂を貪(むさぼ)ってその快感に浸(ひた)っている。
それにしても男性と違って肉体的に、連戦で赤の他人との性交を犯る事が出来るのだから女性は凄い。
女リーダーは、次から次の果てし無い輪姦性交に応じて悶絶に耐えながらも壮絶な善がり声を挙げ、愛液に濡れ光る欲棒の生々しい抜き挿しに、クィクィと受け腰で応じて見せる修羅場を演じている。
その抜き挿しが為される度に、結合部の肉花弁の隙間から押し出される白濁した愛液が、女リーダーの太腿(ふともも)をユックリと伝って床に落ちて行く。
女リーダーは、股間に欲棒を咥(くわ)えて気持ち良さそうに受け腰を使い、男のリズム好い抜き挿しの腰使いとのやりとりを愉しんでいる。
初めての時は戸惑いも在ったが、女リーダーは夫(女リーダーの亭主)に言われるままに仲間とソーシャルセックス(社交的な性交)を一度経験して、今は女リーダー自身が犯る事に好感触の自信も確信もした。
自信も確信も「確りとモノにした」から、女リーダーの生々しく卑猥(ひわい)な性交ガチ・バトルは裸身を躍(おど)らせながらも安定した乗り切りを観せてて熟(こ)なし続けている。
確かに女リーダーは、セックスショー化してギャラリーに観せながら犯る過激で破廉恥なソーシャルセックス(社交的な性交)を行っている。
そしてそれが、今までの女リーダーの貞操観念の意識からすれば、世間の解釈ではこのソーシャルセックス(社交的な性交)は「充分過度に破廉恥」で在る事は女リーダーも承知している。
しかしその「破廉恥」な性交遊びを、女リーダーがアクティブ(活動的・積極的)に犯れるには、それなりに確りした理由や納得出来る自然な感情がある。
「破廉恥」な遊びの性交は、元を正せば非繁殖目的の「擬似生殖行為」で在って、他の動物のように繁殖期を持たない「年中発情の人間種独特のもの」である。
つまり、生殖目的では無い「擬似生殖行為」そのものが、人間の本質として単に「快感を愉しむ目的の遊び」に他ならない。
そして「年中発情の人間種の本能」が快感の満足を求めて遊びの性交を要求し、命題が遊びの性交であるからこそ、あらゆる性癖が発生して次第にその内容が過激にエスカレートする。
その性癖を満足させるソーシャルセックス(社交的な性交)を行っている事は、「他人(ひと)に言えない破廉恥な御乱行」と言えばその通りだ。
だが、最も人間らしい本能なのだから、例え「破廉恥な行為」であろうとも「合意の上の遊び」ならば、そんなものは公表しないで個々に愉しめばそれで良い。
そして公表されない「破廉恥な御乱行」は秘すべきものとして隠されが、実は何処にも在るエピソードで、本当は然して珍しくは無い。
しかしこう言う事は、個人の想像だけで「破廉恥」と批判して良い物だろうか、ソーシャルセックス(社交的な性交)の経験を通じて初めてそれは、綺麗事の疑惑を感じる。
つまりその「破廉恥」を、然(さ)して遊びを経験しない連中が、善人振って表向きの綺麗事だけで批判する。
どうせそう言う事なら、女リーダーは大袈裟(おおげさ)に考えずに痴女に成り切ってソーシャルセックス(社交的な性交)を愉しめば、人生はまんざら悪く無い。
そもそも現代の倫理観では、乱倫(乱交)や輪姦が「非倫理的」だと言う印象が強いが、本来の人類は「群れて生きる」が基本で、婚姻関係も「群れ婚」だった。
そして人類の生殖スタイルの基本は、雌に対して多くの雄が群がる輪姦で、その性交の結果多くの精子から最も優秀な精子が子宮に定着する子孫選別システムだった。
つまり人間の生物学的な婚姻関係の正しくは「群れ婚」で、天が与えた自然本能としての性交の基本は乱倫(乱交)や輪姦だった。
そしてその乱倫(乱交)や輪姦の「群れ婚実践」は、日本の場合、平安期から形を「呼ばう=夜這い」に変えて昭和の大戦終戦まで、村落地域で永く続いた。
即ち人類は、現代の環境条件である「夫婦つがいの子育て条件システム」を思考から除外すれば、性的興奮だけで性交は充分可能で、女性の肉体的構造と性感もそれが可能に出来ている。
だからこそ人類は、日常のストレスを本能的に消化する為の非日常の部分で、遊びの性交は必要かも知れない。
もしかしたらそれは、遠い過去から人類が引き継いで来た本能として女リーダーの目の前に広がった新たなる開かれた道かも知れないのだ。
成熟した大人(おとな)として、恋と性愛の違いくらい女リーダーも充分承知している。
性行為と愛情は必ずしも一致しないもので、性行為は性的興奮だけで犯れるものだから、「愛か無ければセックスなど出来ない」などとややっこしい事を言うから世の中が混乱させる。
そうした嫉妬(しっと)は恥ずかしく、婚姻相手以外の他人(ひと)と遊びの性交をしたからと言って、それは愛情の有無として問題にするべきでは無い。
つまり他人との性交プレィは、日々のストレス解消程度の只のシュール(非日常的)な遊びであると容認出来なくは無い。
このシュール(非日常的)で衝撃的な性交プレィの機会を得て、女リーダーの性生活に於けるバリエーション(変化)が格段に広がり、多くを学習したのは現実だった。
女リーダーは、亭主のこの卑猥な遊びの誘いに、「またなの、性が無いドスケベ亭主ねェ。ろくな事犯らせないのだから。」と苦笑いしながら、「それでも誘いには応じる」と言う。
女リーダーは、亭主の悪趣味で極上の性奉仕を遊び仲間に提供する為に、一糸纏(まと)わぬ素っ裸で遊び仲間の前に立たされて実践経験で仕込まれ経験を積まされる。
勿論、遊び仲間とは言え他人前で素っ裸にされて性交をして見せる非日常の情況に女リーダーの脳にはドッとドーパミンが噴出する。
正直、女リーダーが一番羞恥心で辛かったのが、SMラブホテルで犯られた「狸吊(たぬきつ)り」だった。
この「白糸会」で女リーダーは素っ裸にされ、滑車縄で足首と手首をまとめて縛(しば)く「狸吊(たぬきつ)り」に、全体重が手足首に掛からない様に腰が床に着く形に吊るされる。
これで全く抵抗できない「狸吊(たぬきつ)り体制」のまま、女リーダーは次々とメンバー達の欲棒を受け入れる事に成る。
始まれば女リーダーは、「ア、ヒィ〜、ア、ヒィ〜、ア、ヒィ〜、ア、ヒィ〜。」とわめくような善がり声を挙げ始める。
縛(しば)かれて出来た腕や腿(もも)のトンネル越しに下半身を見ると、メンバー達の欲棒が次々と女リーダーに突きたてられて居る。
硬く青筋立てた特別信者様達の欲棒が、女リーダーの肉花弁を左右に押し除(の)け、肉花びらを巻き込みしながら卑猥に抜き挿しされて見えていた。
「狸吊(たぬきつ)り」の女リーダーは遊び仲間に無遠慮に犯られ、激しいピストン運動にの顔が歪みながら左右に嫌々をし、股間に抜き挿しされるその淫茎は抜き状態では濡れ光り見え、挿し状態では根元近くまで中に達している。
亭主に見られながら遊び仲間に入れ替わりに輪姦(まわ)された女リーダーは、セックスハイ状態に到達して、素の女性(おんな)を曝(さら)け出す。
夫婦共犯の遊びのマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)など、女リーダーが犯りたくなければ亭主に断れば良い。
そこで現実に、「亭主がそれを望むから」と言う「理性(左脳域)」の打算が女リーダーに働くものなら幸せの形は夫々(それぞれ)で、打算がこの「遊びの性交理由」に成っても不思議は無い。
リーダー女がこう言う密やかな遊びに嵌(はま)れば、或いは積もって行く鬱憤(うっぷん)の良いガス抜きかも知れない。
女リーダーにとって、今までの片意地張った「完ぺき」はけして良い事ではない。
何時(いつ)も隙が無い態度を維持する事は本人にしても大変な事をしている訳で、自尊心に拘(こだわ)らず外見だけでも裸を晒(さら)せる位の「抜けて見せる知恵」の余裕がなければ「利巧な女」とは言えない。
男だって、「抜けて見せる利巧な女」の方が、自尊心に拘(こだわ)った完ぺきを誇る女より可愛いに決まっている。
つまり「完ぺきに利巧な女」を主張して、得るものは自己満足だけである。
女リーダーは「隙を見せまい」と私の妻相手に吊るし挙げの虚勢を張って、木っ端微塵に打ち砕かれる学習をした。
正にここ一番は、その「抜けて見せられる」かどうかを問われる女リーダーに取ってはターニングポイント(転換点)だった。
他人(ひと)前でパンティも剥(は)ぎとられてシークレットゾーンも露(あらわ)な心不安な状況の中、無条件で強制的にゲストに性交を執行されるのが、素っ裸のM(マゾ)・女リーダーの立場だった。
そしてそれには、心の片隅に「そうされたい」と言う気持ちと覚悟がその性玩具(おもちゃ)・女リーダーに在っての事である。
人格を否定された素っ裸の性玩具(おもちゃ)が乳房を撫(な)でまわされ、双(ふたつ)の尻肉を左右に開かれて尻穴の菊座を撫(な)でられ、股間の二枚の肉唇の間さえ指の進入を許し陵辱を受けるのだ。
世の中に於いて、思い込みに拠る奇妙な拘(こだわ)りは、それを「真実」とは言えない。
ものは考え様で、食べ物でも同じ事だがどんな組み合わせでも旨ければ良いので在って王道や邪道などを既成概念で決めてしまうから奥行きも広がりも抑えてしまう。
性交の愉しみ方だって、刺激的な乱交や輪姦そしてSMプレィを一度知ってしまえば、夫婦合意の上ならメニューが様々に多い方が良いに決まっている。
捨てると言う事は別の物を拾う事であり、性行為を「特別な事」と捉えないで「遊びの一環」と捉えれば、パートナーに対する嫉妬や独占欲、薄っぺらなプライドを捨てて人間が勝手に構築した性交に対する奇妙な倫理観から開放される。
倫理観から開放されれば、スッキリと夫婦間のエゴを全て超越した人生観が残るのである。
女リーダーは「あぁ犯られ過ぎてお腹が空いた。」と、何事も無かった風情で先程まで他人(ひと)の欲棒を咥えていた口で、パクパクとリーダー男が持ち込んだ折寿司を口にしている。
結局女リーダーは、「大勢に犯られたから」と言って、立場上悲しんでいても怒っても意味はない。
避けられないどうしょうも無い事に、気持ちだけで何時(いつ)までも拘(こだわ)っていても仕方が無いのだ。
輪姦(まわ)しを犯られて見て判ったが、自分(女リーダー)はかなりの拒否できないスケベだった。
経験した者でないと判らないが、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)は、嫌で無ければ異常な興奮と被虐の快感に病み付きに成る。
そしてどうせ輪姦(まわ)されるなら、相手にも気分良く犯って貰った方が互いに気持ちが良いし人数も早く熟(こ)なせる。
だから輪姦(まわ)される女リーダー自らスケベ女に成り切って、姦淫ムードの気分を煽(あお)り、犯られながらもエロスムード(雰囲気)を盛り上げる努力も求められる。
現実には、「愛情」が在ろうが無かろうが性交をすれば自然に快感を得るように肉体(からだ)は出来ている。
その快感を錯覚して、無理やり「愛情」に結び着けようとするから破局するようなカップルが後を絶た無い。
まぁ性交の条件を「愛情」と考えている稚拙な発想の裏返しで、現実の性交条件はもっとシビアで生々しいものである。
困った事に、女性が本来持ち合わせている露出願望から欲棒を抜き挿しされる恥部を晒(さら)す事に女リーダーはエロスのトキメキを感じてしまう。
性交行為を他人目(ひとめ)に晒(さら)す事に、エロスのトキメキを感じて燃え上がる羞恥心に女リーダーは脳みそが溶けてしまう。
心の鍵を夫の性癖に合わせこの非日常の世界に合鍵を渡せば、女リーダーは極上の官能の世界に入れるのだ。
スケベ女なら涎(よだれ)が出そうな、日頃は在りつけない大勢の男達に輪姦されると言う卑猥な条件設定の羞恥心に、女リーダーのアドレナニンが脳内で決壊した。
それで女リーダー本人も驚くほど性感度は抜群で、正直次の誘いを断れないほど肉体(からだ)がこの遊びの味を占めたのだった。
肉体(からだ)が強烈な性交の快楽に溺れて、女リーダーは人前で性交を犯って居る事も忘れていた。
まさかこんな事を犯る自分など、以前は全く想像も着かない女リーダーだった。
だが、現に今女リーダーは善がり声を振り絞る口元から涎(よだれ)を垂れ流し、欲棒を咥え込んだ股間から愛液を滴(したた)らせている。
女リーダーは、目の前で外聞を憚(はばか)るような端無(はしたな)い非日常のセックス・セッション(乱交)を大股開きで受け腰を使い、正直内心興奮しながら熟(こな)していた。
何だかんだと言っても人間の本能から切り離せない魅力がエロスで、エロスは人を引き付ける大きな武器でもある。
だから、賢い女性なら前向きに愉しもうと心掛ければ、被虐の性玩具(おもちゃも)に弄(もてあそ)ばれる事も段々に馴染んで行けば良い。
亭主の悪戯(いたずら)願望も在って、女リーダーは寄って集(たか)って悪戯(いたずら)をされてしまったが、本人に少しでも被虐嗜好(マゾ性)が在れば、結果は性感的に満足する良い思いをしてしまう。
いずれにしても、女リーダーがあれだけの事を経験して「無言でいる」と言う事は言外にそれを肯定した事で、この輪姦遊びを「続けても良い」と言う事を意味していた。
女リーダーにしてみれば、亭主の前であれだけマルチSEX(複数性交)の快感に痺(しび)れ、欲棒を咥(くわえ)た腰を浮かせて振ってしまえば、今更格好を付けて「その性交遊びが嫌だった」とは言い難い。
むしろ、思わず向かえ腰クィクィで応じて快感を貪(むさぼ)ったそのマルチSEX(複数性交)は、正直な所「凄く気持ちが良かった」としか女リーダーには言い様がなかった。
しかも大勢の他人が、その快感を貪欲(どんよく)に貪(むさぼ)る女リーダーの、欲棒を咥(くわ)え込んだ生々しい腰使いの様子を目撃しているから、今後はそのメンバーにも今更格好は付けられない。
女リーダーが夫の言う事を聞いてその性癖に合わせ、「ロマンチック(感性)」に格好着けて生きるより、大人の「シリアスな覚悟(理性)」の方を選んだ事は、人間として余程立派な覚悟である。
まぁ、女リーダーが亭主のニーズ(要求・需要)に応える意思があるからこそ成立する遊びだが、男性は事に当たっては懐の深さこそが重要で、女性は如何なる状況にも順応する能力こそ世渡りには必要である。
つまりグループにとって性欲の解消が第一義の合意で、それ以上でもそれ以下でもない大人の悪戯(いたずら)なのだ。
そして女リーダーも、犯る事を犯ってしまったのだから今更何か言えるでもない。
幸せの形には色々在り、輪姦(まわし)で入れ替わり立ち代り突っかれて居る間じゅう、女リーダーには脳みそがとろけるような快感が切れ目無く続いていた。
女リーダーが口を半開きに鼻の穴をヒクヒク広げて、意識を下半身の刺激に集中すれば、もうこの性交に気が入っているのだ。
建前社会では中々本音は言えないが、性交には狂気が良く似合い、性交に狂気が無い人間などは存在しない。
そして、仲間内おおっぴらのマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)だからこそ、嫉妬も独占欲も生まれない只のプレィで済まされる効用がある。
女性には無意識に身を守ろうと言う本能があるから「アブノーマルな行為などトンデモナイ事」と否定するが、いざ犯って見て 「安全で愉しい」となれば、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)への思いは違って来る。
つまりノーマルよりもアブノーマルの方が遥かに脳に興奮をもたらせる。
脳をトロケさせる官能の味付けには羞恥心で、カァーッと肉体(からだ)が熱くなる狂気の興奮が必要で、いわゆるノーマルな性交だけではどんなカップルでもそう長続きしない内に倦怠期に入ってしまう。
理屈は判っているのだが、イザと成ると世間体も在ってどうしたら良いのか判らない。
リーダーの奴に言わせると、こうした遊びに向いているのは血液型がA型で、気質がM(マゾ)タイプだそうで、後はこう言う事に頭の良い分好奇心が強く、積極的に貪欲なのはAB型のM(マゾ)タイプ気質だそうである。
そしてM(マゾ)タイプは優秀運動選手に多い特徴で、つまりきつい練習に耐えられる素養であるから一部の天才的選手を除いた努力の選手はM(マゾ)タイプ気質と想って間違いない。
因みにO型とB型にはM(マゾ)気質は少なく、O型は陽気で八方美人、B型は男好きだが性にも気持ちはマイペースである。
そう言えば私の妻もテニスのA型、あの女リーダーも水泳のA型、種目こそ違えインターハイ出場まで練習を耐えたM(マゾ)タイプ気質らしい。
それにしてもこの三人が結束している所を見ると、益々妻のカラオケスナック事件が現実味を帯びて来る。
この夫婦、「とんでもない事を始めた」と周囲は想うだろうが、実は根本的に性交為の形態には何処から何処までが正常で何処からが異常と言う線引きはない。
つまり夫婦間の合意の範囲が正常であり、夫婦間に於ける性癖や性交への知的性欲求に対するイノベーション(新機軸。革新。開発。開拓。)こそが、家庭を安定させる究極のマネジメント(経営管理)要件である。
所が、そう言う事に無頓着な男女も多く、その本来重要で在るべき事柄(究極のマネジメント)を、「愛情や精神」と言った酷く頼りないものを充てにして何の思考も行動も起こさずに放置してしまい、仕舞いに「相手が悪い」と指摘しても取り返しは着かない。
世の中では、性交にしろそうで無いにしろ遊ぶ事を軽ろんじる傾向が在るが、遊ぶ事と学ぶ事は実は一緒の事で、つまり夫婦で積極的に遊ぶ事から学ぶものは結構多い。
性交スタイルが代わり映えしなければ幾ら美人や美男子相手の性交でも、度かさなれば日常化するから自然に飽きるもので、「在り得ない」と否定するのは簡単だが、「〜に決まっている」は禁句で、何事にも想像力が無ければ人生は愉しめない。
こう言う論理的な考え方は利口な男女ほど理解が早く、つまり夫婦間に於ける営みには性的知能指数が要求される。
そしてイノベーション(新機軸。革新。開発。開拓。)から得られる成果が、夫婦間だけでは味わえない異次元の喜びである。
こうした乱交の場を支配するのは、欲情のメンタリティ(知性。知力。 心理状態。心的傾向)であり、視覚、触覚、聴覚に依る欲情の装置としてのフェロモン(行動や生理状態に影響を与える分泌物質)などが作用して異次元の喜びに男女を誘(いざな)う事になる。
困った事に、非日常のマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などの異次元の喜びを一度夫婦で経験してしまえば、何の為にそれまで貞操に拘っていたのか、正直バカバカしくなる。
他人に預けられてのSM調教やマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などの行為は、被虐感タップリで刺激的な行為である。
脳が欲しがる人間の感性なんてそんなもので、人間の遣る事だから一見奔放(ほんぽう)のようでもデタラメは難しく、油断すると秩序立ってしまう。
つまり女リーダーは、新しい性交快感をそれなりに肉体的に納得し、それにもっともらしい理由を構築して遊びの性交ウエルカムの現状を見事に肯定してしまった。
結局悪趣味と言われようが、色々な事に好奇心を強くして日常の日々から一歩踏み出せれば、ワクワクする非日常の刹那を愉しむチャンスに恵まれる運命の悪戯(いたずら)が遣って来る事になる。
このスナックの秘密の狂宴の場に全裸で曳き出されたら、女リーダーはタップリと陵辱プレィで弄(いじ)り放題の女体である事を意味している。
全ては遊びの発想から生まれたもので、深刻な事実は無い。
輪姦(まわさ)れる事を恐がったらギャラリーを愉しませるだけだから、こう成ったら女リーダーも意地でも恐れの表情なんかギャラリーに見せられない。
余り大した事では無い振りでもしなければ、女リーダーも大勢の他人前(ひとまえ)で晒(さらし)し者で犯られては居られない。
その場の雰囲気を感じ取ったのか、女リーダーに恥ずかしい想いは在っても、何故か開いた股をこの場では閉じてはイケナイ気がした。
それで女リーダーは、この狂宴が終わるまでグロテスクな女の部品も露(あらわ)に股を大きく広げたままだった。
どうせゴチャゴチャした理由など不用の旦那のお遊びだから、その場の者が性癖を曝(さら)け出して日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らせば良い。
女リーダーも、全てを曝(さら)け出して奔放(ほんぽう)に愛玩(かわいが)って貰(もら)えば、仮初(かりそめ)でも親近感が湧き、情が醸成される。
大勢の視線を浴びる輪姦ショーのヒロインを勤めさせられるのだから、女リーダーの性感が日常の夫婦の性交より過敏に成って当たり前である。
女体は良く出来ているもので、女リーダーは素っ裸でプレィルームに曳きだされた時点で、もぅ滑りを良くする潤滑油が股間で湧き出しているのを感じていた。
大勢の視線を浴びる輪姦ショーのヒロインを勤めさせられるのだから、女リーダーの性感が日常の夫婦の性交より過敏に成って当たり前である。
女体は良く出来ているもので、女リーダーは素っ裸でプレィルームに曳きだされた時点で、もぅ滑りを良くする潤滑油が股間で湧き出しているのを感じていた。
勿論、女性心(おんなこころ)としては、犯られた相手に「使いものに成らない」などとは言われたくないから、精々踏ん張って喜ばせようとする。
始まってしまえば、皆が女リーダーの性感反応興味深々で、ギャラリーは面白(おもしろ)そうに囃(はや)したて、性交相手はグィグィと過激に攻めたてる。
後背位を採らされた女リーダーが、口をパクつかせて喉が枯れるほどの激しい善がり声が、女リーダーの口から垂(た)れ流されている。
バック攻め独特のブシュ、パン、パン、ブシュ、パン、パン、と言う女リーダーの尻肉がリズム良く発する連続音が、激しくこの会場に響き渡っている。
相手が替わって体位が変わり、騎乗位に欲棒を咥え込んで女リーダー自(みずか)らが腰を浮かして沈めて陰茎を見え隠れさせている。
女リーダーの喉が枯れるほどの激しい善がり声が、形振(なりふ)り構わず「ヒィヒィ」とプレィルームに響き渡っている。
「まるで私では無いみたい」と女リーダーは想いながら、今は貫(つらぬ)かれた欲棒に歓喜の受け腰を使って応じている。
めいっぱい感じているのか反応が凄く、女リーダーは上半身をガクンガクンと奇妙に揺(ゆ)らし、乳房は踊り腹は小さく波打っている。
タップリと弄(いじ)り放題に、大勢から愉しそうに責め上がられた女リーダーだったが、その狂宴が終わってみると意外な事に嫌悪感は無く、達成感と疲労感、そして満足感が在った。
生贄(いけにえ)女性・女リーダーが全く無抵抗で何でも犯らせるから、その場のプレィは「これでもか?」と、どんどんエスカレート(激化)して行く。
白糸会メンバーが観たいのは、女リーダーが泣きわめき、身悶(みもだ)えて失神する光景なのだ。
その究極のプレィが、大技・「三穴攻め」かも知れない。
バックスタイルで欲棒をア*ルに抽入された後、抱えられて二人とも仰向けになり、股を開いた女リーダーが、別の男に柔ら壺に抽入されてサンドイッチフアックが完成する。
女リーダーは、柔ら壺での性交でもア*ル性交でも、自分の感度を高める実(サネ)を常に自らの指で弄(なぶ)りながら抜き挿しに応じて観せている。
女リーダーには、この過激な「白糸会の輪姦」を快適に犯り抜けるテクニックとして教えられ、仕込まれた手段がある。
それがこの道に詳しいリーダー男から亭主が教わった、敏感部分の実(サネ)を弄(なぶ)り自らの感度を高めながら犯り抜ける事である。
柔ら壺での性交でもア*ル性交でも、自分の感度を高める敏感部分の実(サネ)を、常に自らの指で弄(なぶ)りながら抜き挿しに応じる技を教えられた。
この「仰向け三穴攻め」でも、女リーダーの指は実(サネ)を弄(なぶ)り続けて快感を高め愉しんでいた。
その女リーダーの口に、三人目の男が欲棒を咥(くわ)えさせれば、「仰向け三穴攻め」が完成する。
その「三穴攻め」には、別バージョン・「うつ伏せ三穴攻め」もある。
仰向けになった男に女リーダーが騎上位で性交し、そのままうつ伏せに成って後ろから別の男がア*ルに抽入してサンドイッチフアックが完成する。
その女リーダーの口に、三人目の男が欲棒を咥(くわ)えさせれば、もう一つの「うつ伏せ三穴攻め」が完成する。
三人組リーダーの奴は、今は無くなってしまったが元々は地元で有名な老舗の料亭を経営していた家のボンボンで、子供の頃は店の座敷に芸者が出入りしていてその姉さん達に「かなり可愛がられた」と言う。
昔の料亭のお座敷遊びはかなりエロチックに客を遊ばせていて、勿論宴の場に次の間が設えてあり枕を並べた布団が敷いてある。
そのまま泊まりに成る客は日頃の性癖を芸者相手に吐き出すから三人組リーダーの奴は子供の頃に、芸者の姉さん達が裸にされて縄掛けされ、客に弄(なぶ)られて居るのを盗み見て育った。
その内一番常連客の有名呉服屋の親父が、盗み見ていた中学生のリーダーの奴に気が付き、刺激を求めてソッと座敷に招き入れてお姉さん達を責めるのを見学させるようになり、女性の肉体(からだ)がどうなっているのかどうすれば遊びの責めが楽しめるのかを覚えてしまった。
その常連客、呉服屋の親父の来店はリーダーの奴が高校二年の時に父親が経営する料亭が倒産するまで続き、無責任と言えば随分無責任な話しだが、面白がってリーダーの奴に裸にした芸者への縄掛けを手解きして遊ばせた。
それが段々エスカレートし、吊るしや座禅ころがしと言った縄裁きを覚え、上手く行ったら御褒美に芸者のお姉さんにシャブって貰うなどしてすっかりその魅力を教え込まれてしまった。
しかし父の料亭もその常連客の呉服屋もバブル景気前に倒産してリーダーの奴は社会に放り出され、ある会社の工員に高卒採用されて極普通の結婚をし娘と息子を儲けていたが、昔の父親の知人の伝で今は市の職員をして居る。
つまりリーダーの奴は普通の家庭を設けていて、嫁さんにはその性癖を知らせないまま外にその熟達した性癖の発揮の場を求めていてカラオケスナックのオーナーと知り合いグルと成って、あの物置部屋は何時の間にかその拠点に成っていた。
そうした事から、物置のスチール棚の上部にダンボール箱が置いて在り、その中にリーダーの奴が使い込んだ女体拘束用の細縄の束が放り込んである。
リーダーの奴は、後に私の良い手足に成ったのだから仕方が無いが、子供会の役員で知り合った時は奴がそこまで遊びの経験があるとは想いも拠らないから、今考えるとドンピシャの相手に妻の生尻を撫でさせた事になる。
現代の世の中では、男女の肉体と精神が入れ替わる「性同一性障害」も理解される世の中に成ったが、そうした障害が認められるものなら、犯罪にならない限りは他の性癖にも理解が在ってしかるべきかも知れない。
つまり夫婦共犯の遊びなら、この亭主のように他所の男が入れ替わり立ち代わりのコレクティブセックスプレィ(集団乱交)で犯られ悶える妻を見て愉しむ性癖が在っても不思議は無い。
確かにその女リーダーへの集団陵辱光景は修羅場だったが、度重なる亭主の依頼調教で非日常の性交快感を肉体(からだ)が覚えてしまうと、そうしたセックスプレィ(乱交行為)のマニヤに育ってもまったく不思議はない。
ランナーズ・ハイ(マラソン)やクライマーズ・ハイ(登山)は運動量が最高値に達した時の分泌ホルモン、脳内麻薬・ベータ・エンドロフィンに拠る一種の「ラリル状態(脳内麻薬快感)」である。
同様に、輪姦(まわし)で多くの男性から休み無しに犯されれば、セックス・ハイ(性交脳内麻薬快感)状態に成って他では味わえない強力な性体験をする。
あのカラオケスナックの女衆五人組ハプニング事件の日以来、妻の変貌は進んで行った。
何が代わったのかと言えば、子供会のメンバーでは妻に誰も頭が上がらなく成り、スッカリ主導権をとって君臨し始めたのである。
翌年には、妻は推されて子供会長に祭り上げられていた。
当時私達夫婦は、妻を手伝わせる自営業ながら従業員を三十人ほど抱えてかなり裕福な建設業だった。
妻は、自営する建設会社の仕事上の付き合いを一手に引き受けていたから、かなり自由に出歩いていたし、その動向を監視するのは極めて困難だった。
勿論子供会やPTA、自治会活動などにも精力的で力を着け、それで周囲もそれなりに接してくれていて、妻の社会進出を容易にし何時の間にかリーダーシップを備えて行く。
あの飲み会のあの日、あの物置で目撃したのは光景は、やはり幻だったのだろうか?
妻は否定しているが、実の所私はそれほど気にしている訳ではない。
例の三P(三人プレィ)が「現実だ」と思って考えると、性に対する偏見から解き放たれて妻の思考回路が変貌を遂げ、彼女の「思考的成長は著しかった」と受け取れる。
そしてそれは日々進化して行き、もしかして妻の飛躍の切欠が私の遊びに肉体(からだ)を張って応え、あの「三P(三人プレィ)で犯られて自信も着いたからなのか」とも思えて来る。
いずれにしても、目の前で愛妻が一人の奴の唇に相手の陰毛が触れるほど、欲棒を喉(のど)の奥まで飲み込むようなおシャブリを犯りながらもう一人の奴にバックで犯られていて驚愕し、興奮を覚えた。
まぁ幻でも現実でも、どちらにしろ秘密の場所と秘密の物語は、大抵の人間の子供の頃からの夢で在る。
それにしても、男性の私には妻の考え方は謎で良く判らない。
嫌、女性の根本思考を大抵の男性には判らない。
凡そ男女の性格の違いを挙げると、買い物一つ採っても、男性は事前に決めた物を獲得する為のスッパリした買い方だが、女性は結論に到るプロセスを大事にするから、買い物に行ってから「どれを買おうか」とそこから長い選択のショッピングタイムを始める男女の違いが存在する。
つまり夫婦生活の倦怠感に対し、男性なら妻は別に置いて置いての浮気だが、女性の場合は取替えたがるのが本能である。
基本的には男女の買い物の仕方と男女の仲の関係は同じ傾向に在り、男性がターゲットの女性を決めて突き進んで求愛するのに対して、「相手を誰にしよううか」と選択するのが本来の女性ナチュラル(自然体)な姿である。
それにしても男女の仲なんて意外に脆(もろ)い物で、あの子供会、その後数年して離婚者が数組現れ、参加当時とは別のカップルが仲間内で成立したり、シングルマザーやシングルファザーが出現したりと、噂話には事欠かない。
勿論、女性側が男性の事前選択行動を無視して選択を終了し女性側から惚れるケースも存在するが、この場合は男性側がその女性をターゲットにしていない事もあって上手くまとまらなかったりまとまっても噛み合わない感情が残ったりする。
そこで女性が姿の上で広く男性を誘い、ターゲットを決めて行動を起こした男性達の中から女性が選択をするのがナチュラル(自然体)な構図で在る為に、女性の「魅せたがり」と男性の「見たがり」が、男女の仲の本能基本形に成っているのである。
それが夫婦生活の妨(さまた)げになるのであれば、貞淑貞操な生活の妻の「何処が良いのだろう」と言う疑問が湧いて来た。
罠に嵌(は)めたのが、面白い性癖を持つ亭主だったから、この話は後を引いた。
私が「どうだね奥さん(女リーダー)の様子は、続けられそうかね。」と女リーダーの亭主に声を掛けた。
「内の奴(女リーダー)の様子は、嫌だったと言うよりも、むしろ愉しんでスッキリした様な雰囲気でした。」
「だろう、あれ(輪姦プレィ)を経験した女性の大概はその後々好感触だよ。」とリーダー男が口を挟む。
「はぁ、家に帰った後もまんざら嫌そうでは無い様子でした。」
リーダー男が、「もう一度奥さん(女リーダー)に「白糸会」で輪姦(まわし)を犯らせてみれば、反応感度で調教の出来が判るだろう。」と笑って言い放った。
「えぇ、連れて来ますから、また犯ッちゃいましょう。」と亭主が直ぐに応じた。
女リーダーの様にそれ成りに成熟した女性なら、切欠さえ在れば年齢相応の思考なり肉体なりに自然に進化しているものである。
大人(おとな)なら恋と性愛の違いくらい承知していて、馬鹿者な女性は利口者振るが利口者は馬鹿なスケベ女性の振りが出来る。
仲間内の「白糸会」の場では陰湿な性交は好まれず、ソーシャルセックス(社交的な性交)の性交は、「明るく愉しく」がもっとうで無ければ趣旨とは違う方向に成る。
つまり犯る者も犯られる者も、そして見物する者も、その時間を愉しく過ごさなければ意味がないからである。
「白糸会」の生贄(いけにえ)としてアベソルティオベデンス(絶対服従)と言う合意の中で指図(さしず)されれば、それは相手の性癖を満足させる為のエグゼクティブ(高級・贅沢)な愉しみである。
つまり性行為の形態や技法を想像で否定するのでは無く実際に体験して良さを理解すれば、人間は基本的な考え方が変わるものである。
当然この輪姦経験舞台は、女リーダーの心境に「大きな影響が在る」と、女リーダーの亭主に思える状況だった。
正直、女リーダーの亭主にして見ればこの出来事を切欠に、これからの新しい女リーダーに逢える期待が高まった。
仲間内の「白糸会」で、女リーダーがグチャグチャに犯られるのを見せ付けられた女リーダーの亭主は胸キュンものだったが、目(ま)の当りにすれば勃起(ぼっき)ものでプレィさせる事はそれほど嫌には思えなかった。
女リーダーの亭主は、家に帰って来ても当分の間、多くの男達と妻の女リーダーが犯って観せたあられもない究極の性交姿が脳裏に浮かんで来て興奮が醒(さ)めなかった。
客観的に観ればこれは自分が仕掛けた事だから、全裸で女リーダーが「白糸会」の公開性交舞台で犯り遂げた事は、女リーダーの亭主として褒めてやらねば成らない。
そして一週間後、女リーダーの亭主が堪(こらえ)え切れずに「また白糸会を犯ろうか?」と仲間に声を掛け、その公開性交の舞台が設定された。
要領も判っただろう二度目の輪姦プレィでは、犯らされる女リーダーも淑女の仮面を脱ぎ捨ててプレィをテンポ良く熟(こな)し観せ、モタツキなどは赦されない。
いずれにしても女リーダーは、この誘いを拒(こば)まずむしろ積極的に応ずる構えだった。
恐らく女リーダーは、あのランナーズハイに似た快感のプレィに味を占めたのだろう。
とにかく「他人前(ひとまえ)で性交して観せる」と言う非日常の羞恥心と興奮で女リーダーの脳内には興奮物質・ドーパミンが溢(あふ)れ出す。
ドーパミンの活性で、女リーダーの脳内に脳内麻薬ホルモン物質・ベータ・エンドロフィンが生成されて、一種のランナーズハイに似た「心地良い疲れ」の快感を得る。
ベータ・エンドロフィンは、体内で生成される無害の分泌ホルモンで、脳内麻薬(快感ホルモン)である。
この脳内麻薬(快感ホルモン)は無害ではあるが、一旦脳に記憶させると脳がその分泌快感ホルモンを発生するシュチエーションを学習して無意識に要求する。
つまり非日常の快感に味を占め、ソーシャルセックス(社交的な性交)、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などのプレィが癖になる脳内メカニズム(構造)なのだ。
つまり女リーダーは再びパンティを脱ぎ、あの壮絶なハードボイルド生ポルノ(冷酷非情で妥協しない性行為の実演)輪姦性交を味合う事に成るのだ。
明るい照明の下、亭主の目の前で一組の全裸の男女が絡(から)み合って、ユックリとうごめく様に濃厚な性交を此れ見よがしに犯っている。
その濃厚な性交の男女は、男はリーダー男で、女は女リーダーの組み合わせだった。
つい先ほどまで、女リーダーは前戯と言うには余りにも強烈なリーダー男の指攻めで何度もアクメ(絶頂)状態に追い込まれていた。
指攻めは、リーダー男に二本指を挿し込まれての激しい抜き挿しで、女リーダーの極(きわ)まった善がり声が絶える事無く周囲に鳴り響く。
女リーダーは泣き喚く様に善がって腰を浮かし、堪(こら)え切れずに「潮吹き」と呼ばれる愛液をほとばしる醜態姿を曝(さら)け出す。
女リーダーの性感度が高まり、何度かアクメ(絶頂)状態に出来上がった所でリーダー男に欲棒を抽入され、一転して今はジックリとした攻めを始めた。
もぅ始まって十分を越えているが、リーダー男が女リーダーの性感反応を愉しむかの様に優しく柔らかく、ねっとりとした腰使いでユックリと生々しく突き入れて女リーダーを攻め続けて居る。
それは先ほどから、女リーダーの股間にリーダー男の欲棒の抜き挿しが、「何時(いつ)まで犯るのか」と想うほど質濃く永々と続けられている。
無理も無いのだが、本音で言えば犯られている間の女リーダーは快感を貪(むさぼ)るに無我夢中で、正直、余計な事は考えられないのが普通である。
性交の佳境に入ってしまえば、もぅ女の性(サガ)でリーダー男にああされ様がこうされ様が、要求されるままに身を任せて止められない。
女リーダーも、明らかに行為に集中して反応しているが、女リーダーの亭主が合意してリーダー男との性交を認めたのだから、愉しんでジックリ犯られても仕方が無い。
リーダー男のネチッ濃いお愉しみに女リーダーも感じて居て、それに呼吸を合わせて快感を貪(むさぼ)る様に恍惚の表情を浮かべてねっとりと濃厚な受け腰で応じている。
女リーダーの粘膜の感触を味合うかの様に、リーダー男の生々しく愛液に濡れ光る陰茎が、喘(あえ)ぎ声と伴にユックリと見え隠れしている。
女リーダーは、羞恥の感性の中で気取(キドリ)を捨て去り、今進行しつつ在る自分の性交プレィにジックリ気分を出して、本能で没頭して居る。
しなやかに軽快に、あられもない裸身をなやましく絡(から)ませて、女リーダーは本能のままにリーダー男との濃厚な性交姿を亭主に観せて居る。
互いの目の届く範囲で、性交ショー化してギャラリーに観せながら大胆に犯るオープン・ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)が、夫婦合意の遊びの性交である。
正直、目の前で自分の妻が他の男に抱かれているのは胸が詰まる想いも在るが、その嫉妬と興奮は帰宅してからの夫婦の性交で責め晴らせば癒される。
夫婦間には、生物学的本能に依る浮気の危機が宿命として付きまとう。
浮気だろうが本気だろうが、性行為自体は人間なら誰しも「犯りたい本能」を持っていて、通常は誰しもが犯る事で在り珍しくは無い。
何故ならば、男性にはより多く子孫を残す種(精子)ばら撒きの性交本能があり、女性には選り優秀な種(精子)を得る為に違う男性と性交する欲求がある。
つまり男女共に社会の倫理観とは裏腹に浮気本能が在るのだが、その浮気本能は一夫一婦制と矛盾し、安易に実践すれば夫婦生活崩壊に到る危険がある。
これを、「愛情や精神力」と言う不確かななものだけで規制して、無理やり乗り切ろうとするから「ほころび」が多く、結果、離婚に繋がる。
であるならば、平安期の「歌垣の遊び」の様な浮気本能を代替するような遊びの性交の場を、「夫婦合意の遊びシステム」として構築した方が理想的かも知れない。
その「夫婦合意の遊びシステム」の絶対条件は、浮気の様に影でコッソリ他人(ひと)と性交する事ではない。
夫婦合意の遊びの性交だからこそ互いの目の届く範囲で、隠し事無くセックスショー化してギャラリーに観せながら犯るオープン・ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)が絶対条件である。
遊びの性交を互いにオープンセックスで観せる分には、嫉妬(しっと)無く種(精子)ばら撒き本能や選り優秀な種(精子)を得る本能を擬似的に満足させられる効能が在る。
勿論、オープン・ソーシャルセックス(公開・社交的な性交)の興奮を抱えて帰るから、帰宅後の夫婦の一戦は濃厚な性交に成る。
そしてこの遊びを始めて以後の女リーダー夫妻の夫婦仲は、互いに互いを思い遣る事で以前よりズット親密に成った。
リーダー男は業(ごう/カルマ/行為)の深い生き物で、ある種想ったよりも「感性が強い曲者(くせもの)」だった。
実は既に女リーダーは、写真でリーダー男のお眼がねに、「この女性なら性接待に良いでしょう」と適(かな)っていた。
リーダー男の、女性のM(マゾ)性の強弱を見分ける嗅覚は天性のもので、僅かな可能性も見落とさない。
女リーダーは「性癖」の深層を封じて隠し生きる為に、日常地味な装いをしていて、それが実は強いM(マゾ)性を滲ませていた。
女リーダーもには衝撃的だった自分の本性だろうが、つまり女リーダーには天性のM(マゾ)性が滲んでいた。
女リーダーは内心、高校生の頃から自由に伸び伸びした性交に興味があった。
それを阻(はば)んで居たのは、言わば世間のモラル(道徳)・インモラル(不道徳/背徳的)と言った建前のパラダイム(時代の合意事項)だった。
しかし人類に於けるパラダイム(時代の合意事項)など、正直、不確(ふたし)かな事この上ない。
感性で言えば、中世のパラダイム(時代の合意事項)は「地球は平で在り、天が動いている」が信仰上の感性だった。
正直、シエアリング(共同所有)のソーシャルセックス(社交的な性交)、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)など、想像しただけで胸がキュンとする。
もしかしたら女リーダーのそうした興味は、本性を素直にバラせば世俗的には「あばずれ」と言われそうな眉をひそめるSEXの遊びへの密かな憧(あこが)れだった。
だが、女リーダーもの深層心理のイメージでは、性玩具(おもちや)として扱われる露出羞恥や輪姦と言うM(マゾ)性の「服従の性交」を予感させるインモラル(不道徳/背徳的)で多様な性交に密かな憧(あこが)れが在った。
結局の所、女が男を甚振(いたぶ)っても、シュール(説明が難しい状態)な違和感ばかりで落ち着かない。
つまり女性には根っ子からM(マゾ)性が本性で、罪悪感的な想いは在ったが、それ以上に感じられる快感に女リーダーは魅力が在った。
表面的な偽善社会の世論感覚からすれば、性接待のソーシャルセックス(社交的な性交)は大いに羞恥心や罪悪感を感じる行為である。
しかしもぅ女性(おんな)として覚悟を決めたからこそ、モチベーション(犯る気)を証明する為に全裸で此処に居る。
本来のソーシャルセックス(社交的な性交)の目的は、肉体を駆使して仲間内のシエアリング(共同所有)の精神を快適に愉しむ為である。
それにしても、女リーダーに人気が在れば在るほど犯りたい男達が群がって、嬲(なぶ)り者にする。
多人数の性交相手を熟(こな)すに大変だが、女心の本音で言えば「敬遠される依りは順番待ちの行列が出来る高い人気を得たい」と言う想いも在る。
性接待のソーシャルセックス(社交的な性交)が、当初は納得が行かない事でも、それに一旦応じてしまえば後は自分で納得が行く理由を見つけるしかない。
愛奴隷・女リーダーは仲間内・「白糸会」の男達に、素っ裸で犯り放題に弄(なぶ)られる事を承知して全裸で引き渡されている。
本来の愛奴隷・女リーダーの目的は、肉体を駆使して仲間内・「白糸会」の男達を快適に過ごさせ亭主の性癖を愉しませる事の一点である。
それにしても、女リーダーに人気が在れば在るほど犯りたい男達が群がって、多人数の性交相手を熟(こな)すに大変だが、女心の本音で言えば「高い人気を得たい」と言う想いも在る。
女リーダーは、私達に仕込まれた「愛奴隷として在るべき姿」を仲間内・「白糸会」で生々しく実践していた。
一人十分間から十五分間、五〜六人ごとに十分間のインターバル(休憩時間)を加え、元女リーダーは五人の仲間をこなして凡(およ)そ二時間前後の生ライブだった。
取り囲んだギャラリーの男には、手を伸ばせば絡み合う男女の肉体(からだ)に触れられる程の至近距離である。
欲棒を咥え込んだ股倉を意識して開いて見せるこの見世物状態を、西洋ではサーカス(群集が取り巻いて見下ろす見世物)と言う。
亭主の目の前で、全裸の女リーダーがリーダー男に乳房を握(にぎ)り掴(つか)まれ、揉みしだかれ、M字開脚をさせられて股座を晒(さら)している。
ストリップ・サーチ(全裸検査)は、愛奴隷の引渡しやSMプレィの基本の様式で、委(ゆだ)ねられる肉体(からだ)の「品定め権の行使」みたいなものである。
晒(さら)した股座の肉花弁を指で広げられてスリットの中を観られたり、笑いながらスリットの中に指を入れられて弄(なぶ)られている。
全裸体の女リーダーを左手で抱きかかえて、ギャラリーに良く観える様にM字開脚で股を開かせ、右手の指二本を女リーダーの大股開きの中心・柔ら壺にズブリと挿し込む。
女リーダーの太腿(ふともも)の眩(まぶ)しい大股開きの中心を、二本指をクィクィと抜き挿しをして攻めたてる。
女リーダーは、ギャラリーの注目が集まる股間を少し浮かせ、「アゥ、アゥ」と善がり声を挙げて健気(けなげ)に指の抜き挿しに耐えている。
指攻めに股間からクチャクチャと言う愛液音を発しながら、女リーダーの腰は艶(なまめ)かしくクネリ、時折ビクンビクンと動いて激しく反応して見せている。
抽入された指二本で膣中をディスターブ(掻き回す)され、女リーダーは猛烈な快感に上半身を海老ぞりに反り返り、腰をビクンビクンと痙攣(けいれん)させる。
例え指で攻められても、感じ始めれば「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声も出て来るし、腰もリズムを合わせて使い始める。
女リーダーは、わめく様に善がり声を挙げ、のけ反(ぞり)りながら腰を浮かし、身震いして快感反応を露(あらわ)にして居た。
それが続いて、女リーダーがもう耐えられない風情で腰を引き脚を閉じようと試みるので、リーダー男が抜き挿しを止め、指を肉体(からだ)から抜かれて、やっと女リーダーもはホッとした表情を浮かべた。
次は全裸の女リーダーが白い尻を掲(かか)げて這いつくばり、目を怪しく光らせたゲストに双っの尻肉を左右に広げられてア*ルの菊座と肉花弁のスリットを晒(さら)している。
愛奴隷・女リーダーの仲間内・「白糸会」への「快適なおもてなし」は、おシヤブリから始まる。
全裸で膝間着(ひざまつ)く女リーダーの目の前に、抜き身の名刀(欲棒)が女リーダーの股間にポロリとぶら下がっていた。
その名刀(欲棒)を、女リーダーが利き手で握って扱(しご)き始め、ムクムクと反応が始まった。
女リーダーが手で扱(しご)いていきり立ったリーダー男の欲棒を、上から被せる様にして親指をカリ首に廻し、軽く握って手の甲を腹に充てる様に欲棒の裏を顔に向ける。
女リーダーは、その欲棒の「裏筋(うらすじ)」を、鼻を擦(こす)り着けながら舌先を使って舐(な)め挙げ、玉袋も舌先で舐(な)め挙げて来る。
女リーダーの口技に身を委(ゆだ)ねた「白糸会」メンバーの顔は極楽を彷徨(さまよ)っている。
頃合を見て、女リーダーはその裏筋(うらすじ)舐(な)めで握って居た手を放し、パクリとカリ首ごと欲棒を咥(くわ)え、クィクィとシャブり始めた。
女リーダーの口技に身を委(ゆだ)ねたリーダー男の顔は極楽を彷徨(さまよ)っている。
シャブられて欲棒が硬さを益せば、次は女リーダーへの抽入と抜き挿しで、「白糸会」メンバーは、上にさせたり下にさせたりと思い思いの体位で、女リーダーとの性交を愉しむ。
シュール(非日常的)で衝撃的なプレィ光景が、固唾を飲む周囲のギャラリーに良く見えていた。
全裸の女リーダーが四つん這いに尻を高く掲げた姿勢をさせられて、後ろから眺めるとア*ルの菊の蕾(つぼみ)が恥ずかしそうに皺(しわ)を見せている。
そのア*ルの下部、柔らかそうな肌の太腿(ふともも)の付け根に、こんもりと二枚の肉の花びらが「触れてくれ」と怪しく男を誘うように左右から閉じ気味に割れ目を見せている。
今女リーダーの肉体使用権を得ている男が、右手を開いて中指で二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて挿し込み、クィクィと抜き挿しして攻め始める。
「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ。」
攻められた女リーダーが善がり声を挙げ、腰を震わせて反応を始める。
指攻めの反応に興奮したのかその男が硬く張り詰めた自分の欲棒を左手で握り締めて四〜五回扱(しご)き、その欲棒のカリ首を の割れ目へ二〜三度擦りつけてグィと挿し込んだ。
四つん這いに左右に開いた女リーダーの太腿(ふともも)の中央に、その男の欲棒がズッポリと嵌(はま)った。
後背位で生々しく嵌(はま)った欲棒が、男の腰の動きに応じて愛液で濡(ぬれ)れ光る陰茎を見え隠れさせながら抜き挿しされている。
出来るだけ早く人数を消化しなければ身が持たないから、恥女に変身した女リーダーは、クィクィとリズム良い腰使いで咥え込んだ欲棒に快感刺激を与えている。
「白糸会」の男達は、女リーダーの両膝に手を置いてパカッと脚を左右に開き、遠慮も無く股倉に欲棒を抽入して来る。
欲棒が中に納まると男達は、抽入した欲棒を「此処ぞ」とばかりに気分を高めてピッチ良く攻撃的にグィグィと抜き挿しして女リーダーを攻め愉しんで来る。
パカッと開いた股倉に怪しく欲棒を咥(くわ)え込んだまま、女リーダーが会心の受け腰でクィクィと応戦して観せている。
その攻撃が、女リーダーが被っていた淑女の仮面を脱ぎ捨てさせ、気取を捨て去ってしなやかに軽快にあられもなく裸身を弾(はず)ませいる女リーダーが、そこに居た。
始まってしまえば、相手は代われど女リーダーには二時間や三時間は「犯られっ放し」と言うか「犯りっ放し」と言うか、ともかく絶頂(イク)が継続する過酷な他人前(ひとまえ)性交ショー状態が続く。
その後も女リーダーの男達の輪姦は続き、今、女リーダーは、脚を床に踏ん張った騎乗位で欲棒を咥え込んだ股倉を意識して開いて見せながら、乳首が立った乳房を上下に揺(ゆ)らし、腰から上半身を上下させている。
すると、仰向(あおむ)けに横たわる男の愛液に濡れ光る陰茎が、女リーダーの上半身の上下に合わせて見え隠れしている。
ライブ(実況)で観ているギャラリー(観客)から「ハッスル、ハッスル」の囃子立(はやした)てが起こり、その掛け声に合わせる様に男の腰の上下が激しくなる。
腰の上下が激しくなった女リーダーは、「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声を発しながらリズム良く腰を上下させ、ギャラリーの期待に応える。
セックスショー化してギャラリーにライブ(実況)で観せる事で気分が高まり、脳内に発生するドーパミンの興奮がセックスハイの陶酔を引き起こして、密度が濃いプレィが演出される。
言わば舞台装置みたいなものだが、観られてこその興奮で、このショー化が綺麗事の裏側に存在するもう一人の女リーダーの本性を暴(あば)き出す。
そして女リーダーは、羞恥の感性の中で気取(キドリ)を捨て去り、しなやかに軽快に、あられもなく裸身を弾(はず)まさせてギャラリーの前で性交プレィをする。
女リーダーの肉体(からだ)の中心に、やっと順番が廻って来た仲間内・「白糸会」のメンバーの欲棒が挿し込まれ、クィクィと腰の動きと共に陰茎が見え隠れしている。
仲間内・「白糸会」の男の欲棒を咥え込んだ腰も、女リーダーの口から漏れる「ハッハッハッハッハッハッ」の連続音と共に受け腰で応戦している。
女リーダーの左右に開いた太腿(ふともも)の中央に、二枚の肉の花びらを掻(か)き分けて生々しくズッポリと嵌(はま)った欲棒が、愛液で濡(ぬれ)れ光る陰茎を見え隠れさせながら激しく抜き挿しされている。
女リーダーの快感が強くなったのか、暫(しばら)くの間、「アァー、イクー、アァー、イクー、アッ、アッ、アッ、アッ。」と言うけたたましい女リーダーの絶頂の善がり声が会場中に響いていた。
女リーダーのソーシャルセックス(社交的な性交)が始まってしまえば、列を作って順番待ちの「白糸会」の男達が並ぶ。
一人犯り終わると、まだ前の男の欲棒が引き抜かれたばかりで湯気が立っているような女リーダーの股間に次の男の欲棒が続けて突き入れられ、また抜き挿しが始まる。
女リーダーが歯を食い縛って乳房を躍(おど)らせ、渾身(こんしん)の受け腰使いで男の抜き挿しに素直(すなお)に応じ犯る。
ガチの性交バトルが続くこの圧倒的な刺激的マラソン性交プレィを、世間はどう受け止めるべきか?
その歯を食い縛った女リーダーの口から、「ウゥ、ウゥ、ウゥ。」と叫び声の様な善がり声が漏れて、取り囲み観るギャラリーの加虐心を満たす。
大勢の男達に犯され続ける女がどう言う反応をするのかを観る愉しみは、至近距離から性交ライブ(実演)を観る「白糸会男子」の醍醐味である。
女リーダーは、もはや許容範囲を超えたセックスハイの陶酔(とうすい)の中で無意識に歓喜の受け腰を使い、女を曝(さら)け出して快感を貪(むさぼ)って居る。
女リーダーに求められた恥女としてのマラソン性交プレィを採点すれば、かなりの高得点が与えられるであろう渾身(こんしん)の大奮闘である。
やはり女リーダーは、リーダー男に拠って肉体(からだ)に覚え込まされた、アベソルティオベデンス(絶対服従)の「高機能性交マシンに調教された」と言って過言では無い。
欲棒を挿し込まれ、白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら、股間で生々しく繋がっている女リーダーの輪姦性交は続いている。
このマラソン性交プレィの状況からすると、今はまだまだやっと折り返し地点を廻ったくらいで、激しい性交ライブ(実演)プレィのゴールまではまだ程遠い感覚だった。
イク(絶頂)に達したのか、女リーダーは肩を震わせながら上半身をガクンガクンと大きく揺(ゆ)らしているが、股間を串刺しにした欲棒の抜き挿しは容赦なく続いている。
襲い掛かる人数を熟(こな)し続けて女リーダーは相当体力を消耗しているが、ここは気力で乗り切るしかない。
只、この疲労困憊(ひろうこんぱい)の時機に、ランナーズハイ・と同様の驚くべき悦楽(気持ち好い)状態・セックスハイ現象に見舞われ、女リーダーの味方に成る。
女リーダーは、終わらない性交ライブ(実演)の被虐快感に悶絶し、痙攣(けいれん)しながら堕ちて行く。
正直輪姦(まわし)の場合は、攻める順番で言えば「先に二〜三人に犯られてイッ(絶頂)た後」の女性の方が肉体(からだ)の感度が上がっていてヒィヒィもので、犯るのが堪(たま)らなく面白い。
女リーダーの肉体(からだ)は、その感度が上がった状態で次の訪問者の男性を迎えた。
しかしその内、女リーダーの肉体(からだ)から「ガックリ」と力が抜け、「だらり」と動かなく成った。
「あの奥さん、気を失ったみたいですね。まだ予定の人数の半分も行っていません。このまま続けましょう。続ければ、その内に気が付きます。」
「判っている。構わない、続けさせよう。」
女リーダーがこう成ったのは助平亭主のせいで、「気絶したから」と言って赦(ゆる)されないから、そのまま犯らせて見守ってやるしか無い。
目の前で、女リーダーがぐったりと動かなく成ったまま、男達が入れ替わりながら壮絶な陵辱を受け続けている。
何しろ輪姦(まわし)に馴れた男達が相手で、男がパンパンパンと突き入れる度に、女リーダーの乳房が上下し、肉体(からだ)がガツン、ガツンと波打って見える。
その状態が三人ほど続き、再びが息を吹き返し、「アァー、アァー、アァー、アッ、アッ、アッ、アッ。」と善がり始めた。
女リーダーが、妖艶(ようえん)な姿態を露(あらわ)に、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)と凄(すさ)まじい性交を繰り広げている。
多数の男達を相手に、大勢で寄って集(たか)って激しく攻め犯され、乳房を揺(ゆ)らし、腰を使い、裸体を踊らせながら奮闘している。
女リーダーは、男が変わる度に絶頂に達して歯を食い縛り、腰を小刻みに震わせながら同時に左右に捩(よじ)り、仕舞いには海老ぞりに反り返り絶叫する。
亭主としては、それを眺(なが)めて女リーダーの奮闘振りを褒めているのだから、他者が聞けば冗談みたいな「おかしな話」に聞こえるかも知れない。
しかしその時は、被(かぶ)っていた仮面を夫婦共に脱ぎ捨てて居たから、女リーダーの奮闘振りを「流石(さすが)内の奴だ」と褒めてやれた。
再び恍惚の表情を浮かべて、女リーダーが「アッ、アッ、アッ、アッ、アー。」と善がり声を上げ始め、またクライマックス(絶頂)に達したようだ。
女リーダーのクライマックス(絶頂)の悲鳴も一度で終わらず、この輪姦性交ではもぅ何度と無く聞こえていた。
それにしてもあれだけ善がっている女リーダーを観ると、この輪姦(まわし)を「可哀相(かわいそう)な事をさせた」と同情して良いものかどうかも疑問になる。
人間なんて何が幸せで何が不幸か何て誰にも判らない。
即ち平凡な日常だけが幸せなのか、想っても見なかった露骨な非日常が在った方が幸せなのか?
女リーダーの肉体(からだ)にその弄(なぶ)りの遊びを施(ほどこ)して帰った夜の夫婦性交は、女リーダーの感度も良くなって夫婦互いに激しく燃える。
亭主にすれば、仲間の男達に「少し過激な前戯を代行させている」と思えば、ものは考え様で気分も変わったものに成るのだ。
無理に納得させられた感はあるが、否定出来ない現実だった。
少なくともあの女リーダー夫婦は、新しい刺激的な非日常のシーンを獲得しつつある。
それからの女リーダーは、明らかに依り美しくなった。
人間の脳は必要に応じて全身に指令を発して制御するから亭主の遊びに付き合う様に成ってからは、他人前で裸身を晒(さら)す機会が増えたのを女リーダーの脳が敏感に他人目(ひとめ)を意識して綺麗に成ろうとする。
勿論、良い性交を度々経験すれば、女リーダーの性フエロモンが活性化して驚くほど変化を魅せ、魅力的な女性(おんな)醸成される。
それで他人目(ひとめ)に磨かれた女リーダーには経験が滲み出る様な「良い女オーラ」が着衣の上からも発散され、周囲は日常生活の中からも女リーダーの裸身を想像する雰囲気になる。
近頃の妻の口癖は「経験こそ最高の学びである。」で、確かに経験して初めて事実を知る事が多い。
そして「経験しない事を想像で評価するのは、只の独り善がりである。」とも良く言う。
それで返って私は、この女リーダー夫婦が信用出来るように成った。
思いも拠らなかったが、その後の妻は猛烈に社会勉強を始め、世間で言う知的女性にその生活スタンスを変えていた。
妻は経験の中で自信をつけ、同時に「井の中の蛙(かわず)」を痛感して学ぶ必要も感じたようだ。
そして何故か自信を身に着け、地域社会に於ける子供のPTA、子供会、婦人会などで頭角を現し、信望を集めて会長を片っ端から務めていた。
あの地味で大人しかった妻は何処へ行ってしまったのか?
私が奇妙な妻の三P(三人プレィ)行為の夢を見たあの日以来、堂々と意見を言う妻は、しかしそれなりに学び考え成長して行った。
私達夫婦も年齢(とし)を取り、互いに仲間内の結束は段々に壊れて、付き合いも二〜三の家族を除いて薄く成って行った。
世の中では妖怪がブームだが、実は人間のひとりひとりが時として妖怪なのではないだろうか?
腹を括(くく)れば女性の方が男性より遥かに大胆になれるし、プライドや意地を発揮する場面も明らかに違って来る。
女性として男性の性玩具(おもちゃ)に成るそれを、屈辱と受け止めるか興奮する遊びと捉えるかは当事者の受け止め方次第で、他人が自分の物差しで決め付ける定型などこの人間界に存在しない。
奇妙な発想かも知れないが、求められた性行為を真面目に一生懸命犯る事が果たして不真面目な事だろうか?
そしてその性行為を、「愉しかった」と素直に感じるのはいけない事なのか?
どうせ人間は贅沢な生き物で、波乱万丈の苦労でも文句を言い、反対に平凡な詰まら無さにも不満を抱く、つまり煩悩とは、どちらに転んでも不満を抱く欲が深い究極の無い物ねだりである。
女性が持つ母性の最初の段階が性交だから、女性に性欲が在っても何の不思議もないし、恥ずかしい物でもない。
それが世間的に慎み深く成った裏には、永い間の男性側の「独占欲が在ったのではないか」とも読めるのだ。
つまり性に関しては、生物としての「自然本能」と人間と言う奇妙な生き物の「社会性」が凌(しの)ぎ合う、何とも不確かな課題などではないだろうか?
子供会の夜遊び飲み会での朝帰りだった。
昨夜の街の喧騒が嘘のように静まり返った早朝四時は、まだ出勤時間には間が在った。
妻と歩く路上に、丸まったポリエチレン製の袋が他の塵(ごみ)と一緒に風の後押しでカサカサと踊っていた。
そんな侘しさは一瞬で、その後の街角は刻一刻と人通りも通過車両も増えて行く。
普段は何も考えない、在り来たりの景色が妙に愛しかった。
それは理性で考えれば在り来たりでも、感性では新しい発見かも知れない。
考えてみれば、事情が無ければ誰しもが踏み込む世界ではなかったかも知れない。
どうやら私は、まだあのノーパンティ・カラオケスナック事件の真相に辿り着いては居ないような気がした。
だが、踏み込んだからと言って、まぁ夫婦の関係何かは合意の上の共犯関係で遊んでいる分には、かなり羽目を外した遊びで在っても、他人が外からあぁこう言うべき事では無いのではないか?
しかしノーパンティ・カラオケスナック事件、妻は否定しているが私の中には充分に疑いが残った。
第三章
◇◆◇◆◇◆◇◆◇〔第三章〕(ある順番待ちの列)◆◇◆◇◆◇◆◇◆
他人との遊びの性交は、同意の上で無い限りは例え見え見えでも夫婦間では相手に認めないのがクレバー(賢い)なルールである。
人生はそれなりに色々在って、それを乗り越えて生きて行くものだ。
そして遅くなったが、これはあのカラオケスナックの事件から二十五年ほど経った頃の妻の告白証言の始まりだった。
つまり妻は随分と永く「そんな事ある訳ないでしょ」と惚(とぼ)けていて、この時に初めてあのカラオケスナック輪姦事件を平然と受け流した理由を、「もう時効だから」と私に漸く打ち明けた。
「何で認めなかった?」
「あなた凄い嬉しそうでしたもの、認めれば私を使ったお遊びがエスカレートしたでしょ。」
やはりあの鮮烈な三P(三人プレィ)は、夢では無く現実だった。
それならば、確かに何も無くて妻が平然としているのは可笑しな話で、何処かに確信めいた物が在ったに違いない。
民族的な性規範となるものは、実は時代と伴に変遷する極めて曖昧(あいまい)なもので、民間に於ける風潮がその時代が反映する性規範である。
私が回想するバブル景気時代の数年間は巷(ちまた)に金がジャブジャブ溢(あふ)れていて、民間に於ける性に対する風潮も今と比べて「積極的に愉しもう」と言う遥かに開放的な感覚が蔓延していた。
妻のカラオケスナック事件を今聞けば「犯らせる方も犯らせる方だが犯る方も犯る方でとんでもない連中だ。」と世間は言うだろう。
しかし人間の人生はそれこそ色々だから、そうした時代が反映する遊びの性経験をまったく過ごして来なかった人も半分は居たかも知れない。
この悪戯(いたずら)の秘密を告白すれば、「それは異常行為だ」と建前で非難されるかも知れない。
しかし卑猥(ひわい)そのものを愉しむ感覚を重ね持つ性行為の何処までが正常で、何処からが異常なのだろうか?
此処が肝心な所だが、元々男性が勃起しなければ性交は成立せず、勃起は何も子を為さんとして起きる現象では無く、言わば「嫌らしい」と表現される卑猥(ひわい)な感性から勃起するものである。
その時代背景の中で起こり得た事を「自分の認識の範囲外だから」と言って、早計に「特殊な事」と解釈すべきでは無い。
それを案外、感性が違う夫々(それぞれ)の物差しで諮(はか)ったものを、唯一の正解として押し付けては居ないだろうか?
そして時代に拠っては、今は正常な性規範のあなたの方が異常と評されるかも知れないのだ。
普通の評価では、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)は「変態行為」だと評価される。
しかし男女を問わず、「まともな性行為」とは何処までを言うのだろうか?
まずそうした言葉がこの世に存在するのだから、それは実在する否定出来ない行為の筈である。
そして存在すると言う事は、口には出さないだけでかなり多くの人間が、そうした行為をしているのかも知れない。
つまりワンパターンの生殖行為である他の生物ならともかく、人間の性行為には遊びを主眼とした行為が現実に存在する。
人間の性行為は感性と連動していて、まともでない方が依り興奮する性質(タチ)の物だから、正確に言えば性癖願望に対して「変態では無い人間」など居ない。
事が事だけにその性癖願望を中々連れ合いに意思表示は出来ないし、事に拠っては「そんな事出切る訳が無い。」と簡単に拒否されてしまう。
その性癖願望に夫婦の認識にズレが在ると結局精神的不満が溜まり、そこを埋める相手を求めて外を彷徨(さまよ)う事になり、連れ合いが知らぬ間に抜き差し成ら無い事に成る。
そして 最初から性交相手が一人に特定しない割り切った遊びの性交なら、終わった後は互いに他人で後を引く事が無い。
その方がもっとも後腐れが無いのに、わざわざ「愛が無ければ性交など出来ない」と決めて掛るから家庭を崩壊させるような原因を創る。
もし、「自分の言う事は全て聞いてもらえる」と甘えたいなら結婚は止めた方が良いし、「何も努力しないでも栄光は遣って来る」と想っているならば、人間も止めた方が良い。
つまり大事なのは考え方の基本を何処に置くかの問題で、夫婦合意の共犯で夫婦単位の愛情を育てて行くのか、それとも各自が自分の納得だけを追及して生きるかの考え方の違いではないだろうか?
そして、いざその変態行為を経験してしまうと、脳に届く興奮もMAX(最高値)、そして複数同時実行性交は個人相手より快感がMAX(最高値)状態で継続する。
そこで、今回の主たる御紹介だが、妻が私に語ったのは独身時代に務めていた会社の他人の話しだが、妻の知人に社内乱交に興じていた同僚女性が居た事実である。
これが結構に刺激的内容で、その驚くべき性癖の同僚女性の存在を経験としていた事が、あの輪姦の事態に遭遇して「冷静に対処出来た理由だ」と言う。
まぁ在っては成らない事に成って居る表面的な社会規範など、裏を返せば確かに実態とは掛け離れて居る事も多い。
妻が短大を卒業して初めて職に就いたのは東京に本社がある炭酸飲料を製造する中堅企業の神奈川支店だった。
支店と言っても工場は別に全国に八ヵ所在り、その製品を売り込む営業が主体で男性社員が支店長を含め九人ほどの小さな所帯だった。
女性社員は二年ほど前にまだ男性社員が三人ほどの営業所だった頃に採用された三十路過ぎの女性と、支店に拡充されて採用された新人女性社員が妻ともう一人が居た。
支店のトップは支店長と言ってもまだ若く、大卒・勤続十年で当時はまだ三十二歳の若造だったが、小なりとも言え一つの群れを統括していた。
その支店長姿が格好が良いと見えたのか、一緒に採用された同僚女性が夏頃から猛烈にアタックして何時(いつ)の間にか不倫関係に成っていた。
その同僚女性のアタックもかなり露骨で、社の飲み会などでは大きく胸元の開いたニットセイターや生脚(なまあし)ミニスカートにわざわざ着替えて出席する。
仕舞いには、いくら座敷部屋とは言え「暑い、暑い」を連発して上着を脱ぎ、上半身ブラジャー一枚で支店長に「酔った」としなだれ掛り、帰りに送らせて「終(つい)には落とした」と言う。
妻には、夫の私にさえ微笑みを絶やした印象が無い。
そんなだから、入社当時は器量もスタイルも上だった妻の方に何かと声を掛けていた支店長の態度が秋口からコロリ変わり、露骨にその同僚女性に何かと声を掛けるようになった。
まぁそこまでは男女の群れが屯(たむろ)う職場で良く在る話しだが、そこから想像も着かない意外性を持つ物語の推移を経て、同僚女性の運命がにわかに一変する。
実はその同僚女性への支店長の態度が見え見えだった為に支店中の噂(うわさ)となり、その点は支店長も「本社に醜聞が聞こえないか」と不安を抱く様に成っていた。
支店長が焦る中、師走(しわす)近くなったある休日、土曜日から日曜にかけて支店の忘年会が伊豆の民宿で催(もよお)され、二時間ほどドンチャン騒ぎをしたその夜に、事件が起こった。
宴会が終わって一風呂浴びた所で宿が用意した浴衣に着替え、それまで女子に割り当てられた女子二人の部屋で横に成って妻と談笑していたその同僚女性が「支店長に呼ばれているから」と寝床を抜け出した。
寂しく成った妻も寝床を抜け出し、二度目の風呂に入ろうかと廊下に出掛かって支店長の部屋の前に支店の男性社員が列を作っているのが見えた。
宴会が終わったばかりで男共も酔っているから、「絡まれても困る」と咄嗟(とっさ)に廊下の角に身を隠した妻だったが、酔っ払いの大きな声が聞こえて来た。
話を要約すると、どうやら本社に同僚女性との醜聞が聞こえるのを心配した支店長が一計を案じ「忘年会の後で同僚女性と犯らせるから」と口止めし、同僚女性に言い聞かせてあの順番待ちの列が出来ていた。
廊下まで妙な声が漏れ聞こえるので、妻は並んでいる連中に気付かれないように隣の部屋に潜り込み、襖(ふすま)を少しずらしてその隙から覗いて見た。
その時そこで、何が起こって居たのかは正確に伝えるべきで、見ると床に仰向けで寝ている男性社員の腹の辺りに大きく寝巻きの前を乱した半裸の同僚女性の下向きの頭が在る。
首を固定した形で、上半身を使ってクィクィとリズム良く頭を上下しながら欲棒をシャブり、同僚女性の胸元で乳首が乳房に翻弄されるように上下に踊って居る。
シャブらせている男性社員が腰を使ってクイクイと欲棒を喉の奥まで突き入れる度に、男性社員のやや膨らんだ腹が同僚女性の鼻を潰す様にクイクイと押し付けられて居る。
同僚女性も空(そら)は使えないから、上半身を使ってウゴウゴと男性社員の欲棒を喉の奥に必死に迎えに行く。
男性社員のカリ首を喉の奥まで飲み込めば流石(さすが)に「オェッ!」と苦しいが、口をすぼめて咥えた男性社員の欲棒に歯を立てられないので、同僚女性は涙を流しながら我慢する。
男性社員の欲棒を咥えた同僚女性の口元で、唇を擦(こす)りながら唾液に濡れ光る陰茎が生々しく見え隠れしている。
当然ながら、男性社員の腰の動きに連れて坊主頭・海綿体のカリ首が、同僚女性の口中でまで届いて口蓋垂(こうがいすい/喉チンコ)を押し分け、男性社員の欲棒根元の恥毛が同僚女性の唇に容赦無く押し付けられている。
これは男性が女性に対する征服欲を満たす行為としては一種の服従儀式で、喉の奥まで欲棒を挿し込む行為は中華大陸で一般的なので大陸式フェラチオとも呼ぶ。
だからこの大陸式フェラチオは単なるおシャブリ以上に過激だが、その方に服従するお遊びのSEXを、これから始める「挨拶代わりの覚悟のしるし」と言う事になる。
驚いた事に、仰向けの男性社員の欲棒を四つん這いで咥(くわ)え、口元から涎(よだれ)を垂れ流しながら頭を上下させシャブる同僚女性が、後ろからもう一人の男性社員に白くコンモリと二つの丸みを魅せる生尻の中心に欲棒を挿し込まれている。
同僚女性は欲棒を挿し込まれて、グィグィ抜き挿しされて善がり声を挙げながら身悶えていた。
同僚の男に欲棒を挿し込まれた同僚女性の股座(またぐら)の恥部を丸出しに、同僚女性は生々しく腰をクィクィと使い、善がり声を挙げながら愛液を滴(したた)らせて抜き挿しを続けさせている。
つまりその男女三人は、所謂三P(三人プレイ)をしていたのだ。
一人当たり五分として延べ十二人、既に輪姦(まわし)の開始からは一時間ほどが、好奇の目に晒(さら)されながら経過していた。
快感に肉体(からだ)に波打たせる同僚女性は、オーガズムの快感反応の一つ背骨の反り返りを見せ、加えて足の指が開くバビンスキー(ババンスキー)反射を見せている。
判り易く言えば、足の指が開くバビンスキー(ババンスキー)反射は性交中の女性の「イク時」の反応のひとつである。
まぁ、バビンスキー(ババンスキー)反射までは演技では出来ないので、そこまで反応すれば演技では無く、本当にイッタと言う事である。
だが、まだズブリとモロに犯られた他人の欲棒をガッチリと咥え込んだ同僚女性の卑猥な受け腰使いと、けたたましい善がり声は見事に続いていた。
輪姦(まわ)しを過酷と想うのは実は一方的な既成概念の発想で、世の中には色々な性癖を持つ女性が存在し、輪姦(まわ)される女性が好き者ならそれが天国である。
そして何の変哲も無い女性が切欠が在って輪姦(まわ)しを経験すれば、案外その魅力に嵌(はま)るのだから、経験してみなければその良し悪しは判らない。
人間の考え方など都合の良いもので、同じ人間でもその時の考え方を「理性(左脳域)」で採るか、「感性(右脳域)」で採るかでその言い分は違う。
そしてそこを本音で抜けないと、「理性(左脳域)」と「感性(右脳域)」を合わせ持つ人間の本質に辿り着けない。
同僚女性は、動じる風情も無く平然と全身を汗でビッショリと濡れ光らせて性玩具(おもちや)を務め、その後彼女を乱交の虜にしてしまう程の衝撃的快感を味わう事に成る。
輪姦(まわ)され終わった後の同僚女性の気分は、盆踊りやディスコダンスを夜明かし踊った後のような、けして嫌では無い贅沢でさわやかな疲労感だった。
激しい行為の後で、恐らくまだ同僚女性の脳の中には興奮状態で発生されるドーパミンに誘導された脳内麻薬・ホルモンベータ・エンドロフィンの癖に成りそうなトリップの名残が、心地好く残っていたのだ。
この為に順番待ちの列が廊下にまで出来ていたのだが、妻はその心臓がバクつき、脳が痺(しび)れる鮮烈な同僚女性の複数性交場面を一瞬見て驚き慌てて部屋に逃げ帰った。
勿論妻は、覗き見した何んて事は誰にも言える訳が無い。
今観て来た同僚女性の複数性交場面を、知らない振りをする事に決めた妻は部屋に帰って寝床に潜り込み、しかし心臓バクバクの興奮は抑えようも無く、頭の中を色々な事が駆け巡っていた。
続けて八人も性交の相手をするなど、当時の妻には驚愕(きょうがく)の内容だったが、三時間近く経ってその同僚は気だるそうに顔に疲労を浮かべて帰って来た。
薄目で彼女を見て見ると、旅館の寝巻きは羽織っているがだらしなく着崩れていて胸元の乳房ははみ出しそうだし、股の辺りも開き気味で恥毛らしきものもチラついている。
妻が寝た振りをして居ると、その同僚女性は安心したのか冷蔵庫から缶ビールを取り出し「あ奴ら飢えているのか二回も輪姦(まわ)しやがって」と呟(つぶや)いて前を肌蹴(はだけ)団扇(うちわ)で股間を煽(あお)りながらビールを飲みだした。
奇妙な心理だが、既に少なからぬ妥協をした後では、乗りかかった船は同僚女性には今更尻尾(シッポ)を巻いて降りられなかったに違いない。
同僚女性は「イキ過ぎてお腹が空いた。」と、先程まで他人(ひと)の欲棒を咥えていた口で宿が夜食に用意したおにぎりを、ビールを飲みながらパクパクと口にしている。
奇妙な事にあの列を成した男性社員を思い出すと、同僚女性が入れ代わり立ち代り犯されている光景を想像して、卑猥(ひわい)な興奮を覚え、股間に疼(うず)く様な熱さを感じて眠れない自分が居た。
人間は自分が知らない事は全て「特殊な事」と決め付けて解釈しているが、例えば性行為の何処までが正常で何処からが異常なのだろうか?
そんな事は夫々(それぞれ)の感性で物差しが違う物で、確かに八人連続二周りは犯り過ぎかも知れないが、性行為の本質はスケベなのだから他人の為す事を異常と決め付ける権利は誰にも無い。
正直自分を安全な場所に置いて、他人(ひと)の事ばかり批判して居る方が遥かに下品かも知れない。
それにしても、毎日職場で顔を合わせ普通に仕事をしている男達の、あれが本性である。
まぁ、世の道理に例えれば「この際犯ろう」も「この際止めよう」も相応の真理であり、一方が正しいと言い切るのは微妙でもある。
それも毎日顔を合わせる同僚社員の男女が、その卑猥(ひわい)な想像の対象だったから生々しい想いがある。
それは確かに、初心(うぶ)だった妻の倫理感をこじ開ける切欠で、この時妻は女性が一度に何人も相手に出来る肉体(からだ)を持っている事を学んだ。
「二周り犯られた」と言うのも驚いたが、「あの野郎瓶まで突っ込みやがって」と同僚女性がぼやくに「一度犯ったみたかった」と大瓶のビール瓶の口先を、同僚女性の中に押し込んだ奴も居たと言う。
それでもその同僚女性に「輪姦(まわ)された」と言うしおらしさは無く、「まぁ良いわ。これで明日から職場で遣り易くなる。」と独り言を言ったのには、逞(たくま)しささえ感じた。
エッ、「そんなとんでもない事、誰も止める奴は居ないのか」ですって、それは人間は群れ社会の動物であるから積極的に他と掛け離れる状況を嫌い、周囲に影響される「同調行動」と言う現象を生み出す生物である。
つまり仲間外れを恐れると殊更仲間を協調して同じ行動を採る事になり廊下に列を作る。
人間も生物の一種属であるからには、強弱の差こそあれ性交への衝動は男女に拘(かか)わらず誰にでも在る。
そこを上手く支店長に引き出された格好だが、同僚女性合意の上の仲間内の性交は、同僚女性に取ってローリスク(安全)の愉しめるセックス・セッション(乱交)だった。
一度犯っちゃえば、「別に犯っても全然大丈夫」と言う事に自分を言い聞かせて行為を納得し、気持ちの上で納得すれば今更もう二度目を否定は出来ない。
それにしても同僚女性は、支店長の目論み通りに見事な犯り犯り女に成ってローリスク(安全)のセックス・セッション(乱交)ライフを満喫(まんきつ)している。
一人の女性を多数の男性が性交する事は、一般的には「何と酷い陵辱であるか。」と解釈される事である。
同僚女性も勿論そう言う想いは在ったのだが、その場の成り行きで断りも出来ずに仕方なく妥協してそう言う身に成った。
しかしその輪姦(まわし)の最中に、同僚女性の本能のスィッチがオンに成って「このプレィ」が満更では無い事を感じた。
素っ裸で犯り放題に弄(なぶ)られ羞恥心で溶けそうな想いに耐えるのは、脳が震える新感覚だった。
この同僚女性の輪姦(まわし)肯定感覚が、実は女性の隠された本質的性本能の目覚めでだった。
つまり女性の原始的な性癖が連続性交だったからこそ、輪姦(まわし)の官能的な性愛欲の極限と言う究極の新感覚が成立する。
いささかタブー染みた情報であるが、一番人間に近い類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、霊長類の基本的な生殖行動は「群れ婚」である。
チンパンジーの雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。
その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。
これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。
当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は連続交尾を受け入れられる構造をしている。
つまり生物としての現生人類は、「確実な種の保存の為」に本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを知っていた事になる。
この学説を証明する為に、新疆ウイグル自治区の四千年前に描かれた世界初のエロ本とでもいうべき壁画には、女性一人に順番待ちする多数の男性の姿が描かれている。
意見を押し付けてはイケナイが、現代女性にも祖先の記憶は間違いなく存在し、その機能を肉体的に有して居る事になる。
本来の生物的なコア(核)は変わらないから、そこに目覚める事はロジック(論理)として充分に在り得る。
いずれにしても、連続性交の物凄い快感を感じた同僚女性の脳は、仕事中でも時折卑猥(ひわい)モードがフラッシュバック(体験が明確な感覚として思い出される)して、次の誘いを待つ様に成っていた。
「ハァ?」と驚くほど、この世の常識では現実的で無い事が、何の違和感も無く進行していた。
何しろこの会社の支店では、同僚女性の肉体(からだ)を、何時でも女性器も露(あらわ)に素っ裸に剥(む)いて自由に御使用できる訳である。
妻にして見れば、同僚女性は「馬鹿な事」をしたもので、支店全員の男性社員と関係を持てばその同僚女性は今後「弱みで男達の言い成りに成る」と想っていた。
所がその同僚女性、次の月曜日から男性社員達への態度が変わり、ベテランの先輩女子社員を差し置いてあれこれ指示を出すようになった。
男性社員達も一変してその同僚女性の指示を聞くようになり、代わりと言っては何だが新年会や職場飲み会では必ず例の順番待ちの列が出来て、その同僚はさながら職場娼婦の様相を態(てい)する様に成っていた。
女性の心理とすれば、マルチSEX(複数性交)そのものは野獣の行為で在っても、行為中はともかく普段は周囲が劇的に優しく大事にしてくれる。
そう言う意味で同僚女性は賢(かしこ)く、営業所内での居心地が良いのだから気分が悪い訳が無い。
所長は、「最近ギスギスした所が無く成って職場が和やかに成った」と喜んでいる。
それはそうだ、所内の雰囲気は同僚女性の献身的な肉体コミニケーション(性交)で、共犯の穴兄弟だから、同志の意識が働く。
職場のストレスは同僚女性が発散させてくれるから、エンジョイ・トゥギャザー(ごいっしょに愉しみましょう)で同僚女性に対しては感謝の思いやりが働く。
下司(げす)な言い方をすれば、タップリと犯らせてくれる相手に優しく対応するのは世の常で、つまり深く触れ合う大人の関係、大人のコミニケーションが肝心である。
その同僚女性はアパート住まいで、妻の様に親元から通勤していた訳では無いので、噂だが男性社員達が冷蔵庫や家具類を買い与えて、それを口実に部屋で遊んで帰る様にも成っていた。
つまり需要と供給の形式が成立して、唯一の供給者である同僚女性の存在がリスペクト(価値を認めて心服する・敬意を表す)され、支店と言う狭い群れの中で高まって行った訳である。
それからの同僚女性は、明らかに美しくなった。
人間の脳は必要に応じて全身に指令を発して制御するから職場娼婦に成ってからは、他人前で裸身を晒(さら)す機会が増えたのを同僚女性の脳が敏感に他人目(ひとめ)を意識して綺麗に成ろうとする。
勿論、良い性交を度々経験すれば、同僚女性の性フエロモンが活性化して驚くほど変化を魅せ、魅力的な女性(おんな)醸成される。
それで他人目(ひとめ)に磨かれた同僚女性には経験が滲み出る様な「良い女オーラ」が着衣の上からも発散され、周囲は日常生活の中からも同僚女性の裸身を想像する様になる。
関東の西の端に、一時は関東全域をその勢力範囲に置いた戦国大名の居城が在った街で、バブル景気に湧いた市の中心街は、煌(きらび)びやかにネオンサインが瞬(またた)き、酔客の人出で溢れていた時代である。
実の所、大概の人間は世の中ほんの一部を知るだけで、本人が想っている以上に知らない事が多い。
人間社会には表面的な建前の綺麗事と本音のドロドロとした影の部分があり、正直誰でも犯って居そうな影の部分は表向き「そ知らぬ顔」で居るだけだ。
つまり世の中のそこかしこで人知れずに色々な事が起きているのだが、知らない人間がほとんどの事を想像だけで「こうだ」と結論付けてしまうから、折角の人生なのに中々現実に辿り着けないで終わってしまう。
全ての世の中の事は必要に応じて自然に出来上がるもので、女性に発情する男の性(さが)を「嫌らしい」などと建前で簡単に括(くく)るものではない。
一般的に言われている男性の闘争心や向上心の原動力は「女性に持てたい願望」であり、そしてその先に在る種の保存本能は性欲に繋がっている。
ギターを使う有名歌手の多くが、楽器と唄を始めた動機は「持てたい願望が目的だった」と告白している。
つまり「持てたい」は男性の基本的本能であるから、そこを抑制してしまうと子孫の繁栄も然る事ながら男性その者の活力も失いかねない。
その対(つい)に成るべき女性が、男の性(さが)を単に「嫌らしい」と決め付けて抑制させては、目的を失った男性に良い仕事など出来ないに違いない。
益してやこの複雑に成り過ぎた人間社界にだけ他の動物に在る繁殖期(発情期)がなく、その人間社会の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意がある。
その生殖を伴わないSEX行為の合意が、人間の意識の中に「必要な行為」として与えられた事こそが、人間だけ年中発情期の生物学的意味である。
建前の綺麗事ばかり言っている方に聞いて見たい物だが、「貴方は子造り目的以外の性交を犯った事が本当にないのか?」と・・・。
つまり「擬似生殖行為=生殖を主目的としない」と言う性行為は、人間だけの進化なのである。
そして男性に採って良い女性とは、武装を解いて素を出す女性である。
つまり外観が幾ら良くても、犯れなければ結局良い女ではない。
同僚女性は、ソーシャルセックス(社交的な性交)のサプライヤー(供給者)として、おシャブリも腰使いも、行為に専念する怪しい表情で良い顔して上手く犯られている。
同僚女性を犯って良い汗をかき、溜まったものを抜(ヌ)いて満足すると欲棒を抜いて次の順番待ちの男に同僚女性の使用権を譲る。
犯られ終わった同僚女性の方は、直ぐに次の男が行為の要求を始めるから、前の男との行為の余韻に浸(ひた)る間もなく、また喘(アエ)ぎ始める。
同僚女性はもう、連続性交の性感に拠る忘我の境地に入っていて欲棒を抽入された正常位素っ裸で、職場で毎日顔を合わせる男達に激しく乗り熟(こ)なされている。
同僚女性の無意識な腰の動きが、艶(なまめ)かしい。
同僚女性が何故、嫌なら止めれば良い九人もの男性の性癖を一人で熟(こな)す職場娼婦を、数年に渡って嫌がりもせず務めたにはそれなりの納得させられる理由がある。
同僚女性は、他では味わえない強力な性体験をして輪姦(まわし)のお愉しみが癖に成っていたのだ。
一般的な女性は子供を産む事を前提に生まれて来るから、痛み辛抱強いM(マゾ)タイプ気質である。
つまり女性の一般的気質はM(マゾ)タイプと言う事になり、そうではない女性は他の意味で能力は有るかも知れないが、女性としての資質には欠ける事になる。
当然ながらM(マゾ)タイプ気質は被支配願望が強く、監督・コーチに命令される事に快感的辛抱が出来るからそこそこ以上の選手はS(サド)タイプ気質では在り得ない。
そして運動量が多いほど、その肉体的苦痛を緩和する為に脳内麻薬・ベーターエンドロフィンが脳内に放出されるのだが、そうしたベーターエンドロフィンの効果がランナーズ(マラソン)・ハイやクライマーズ(登山)・ハイに代表されるスポーツ・ハイである。
マラソンや登山などの過酷なスポーツを一度経験すると中々止められないのも、実は達成感なのではなく、脳内麻薬の快感を無意識に忘れられないからである。
同様に性行為に於いても、最高値の性交にはセックス・ハイの事象が確認できる。
例えば連続輪姦で絶え間なくイキ続けると、下半身が浮いて持って行かれる堪らないセックス・ハイ感覚になる。
為に密かに行われ続けている遊びの性交プレィ、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)が、一度経験すると脳が忘れられない事に成るのもその為である。
そしてSMプレィが成立するメカニズムも、或る種の肉体的苦痛を緩和する為に脳内に放出される脳内麻薬・ベーターエンドロフィン効果が無意識良い思いをさせ、プレィが成立する事になる。
こうした肉体的事象は良いも悪いも想像だけでは理解出来ない物で、実際に経験して始めて肉体(からだ)が感じるものだから、経験の無い者に建前的な評価は出来ない。
例え遊びの性交プレィでも、性交をする以上は「相手に快感を与えよう」とチ*ポをシャブり、渾身(こんしん)の受け腰使いで抜き挿しの努力をする。
それこそが同僚女性が職場娼婦として支店に置かれた立場の、相手に素っ裸で尽くすべき最低限の避けては通れない礼儀である。
正直、同僚女性にした所で犯ってる間は無我夢中だから、肉体(からだ)が素直に快感を求めるだけで、けして嫌では無い想いだからこそ続いているのである。
言っては何だが、その疎(おろそ)かには犯らない同僚女性の、笑って性奉仕する直向(ひたむき)な職場娼婦姿は神々(こうごう)しい程である。
奇妙な発想かも知れないが、輪姦プレィの場で求められた性行為を這い上がる為に真面目に一生懸命犯る究極の新感覚が果たして不真面目な事だろうか?
その男の突き腰に平然とガップリ組んで、赤裸々に生々しく見え隠れする愛液で濡れ光らせた陰茎を、同僚女性は快調に受け腰で抜き挿しを快適に熟(こ)なしていた。
そして互いに通じる情が無くても、大人の男女の成熟した性器と性器が正常に抜き挿しされて海綿体が接触すれば、同僚女性が得られるのは神の与えた「快感」である。
だからその結果として、同僚女性が他人の欲棒を股座(またぐら)に咥(くわ)え込んだまま腰を浮かしてヒィヒィと「気持ち良がって」も、何人(なんびと)も非難は出来ない。
同僚女性のあの生々しく鮮烈な性交光景は、今でも鳥肌が立つほど色濃く目に浮かんで来る。
大きく開いて欲棒を咥え込んだ股座(またぐら)の隙間から、突き腰と受け腰の抜き挿しで白く濁した下半身の涎(よだれ)を太腿(ふともも)に垂れ流しながら、同僚女性は奮戦を続けている。
腰使いも激しく愛液に濡れ光らせた陰茎を股座(またぐら)に見え隠れさせられながら、乳首が立った乳房を揺らして犯られている同僚女性の痴態だった。
それにビジュアル(視覚的効果)としては、同僚女性が犯られながら身悶(みもだ)えて、感じ捲くって居る生姿を魅せてこそ、本当の意味での相手が満足する遊びの性交プレィである。
同僚女性は生ライブ(生実況風景)のセックス・ヒロインとして、仮面の下の素顔を暴(あば)き出されるように荒い呼吸をしながら壮絶に攻めたてられている。
しかしこれはあくまでも同僚女性には非日常の時間で、それが普通だが日常の生活は平凡でこんなスリリングな遊びの時間など無い。
勿論そんな卑猥な時間を同僚女性が過ごしているなど、日常生活は到って普通だから世間は知りもしない。
つまりこれは、同僚女性の身に時たまに訪れる遊びの時間で、何も大袈裟(おおげさ)に考える必要は無いのだ。
しかし支店長も上手く考えたもので、職場娼婦の誕生で一対一の不倫が見事に掻(か)き消えた。
それ以来その同僚女性は、或る意味職場の男達が一目置くアイドルに変身した。
それにしても九人もの男性の性癖を一人で熟(こな)す職場娼婦を務めるなど、或る種その同僚女性は驚嘆に値する存在である。
そうこうしている間に、職場娼婦の同僚は男性社員を使いこなす有能な女子社員としてベテランの先輩女子社員を差し置いて主任となり、段々女帝の様相を態(てい)して先輩女子社員は居場所を失い退職して行った。
妻にした所で、同期の女性が主任に昇格し男達にも雑用を言い付ける以外は無視されて居た堪(たま)れなくなり、同僚の職場娼婦状態を馬鹿にして居られなくなって職場を変えようとした。
その時期に、妻は私と出逢ったのだ。
七割方は妻子持ちの男性社員達にとって職場不倫なら修羅場も考えられるが、不特定多数と犯る職場娼婦は「奥さんと別れて結婚してくれ」とは言わないから、後腐れがない都合の良い存在で大事にする。
女王蜂は、そうして生まれた。
そうした独身時代の強烈な体験が、妻の思考の奥深くに、息付いて居ても不思議は無い。
これで妻の性癖の秘密が露(あらわ)となり、あの三P(三人プレィ)も何と無く理解出来た気がする。
つまり私が心理を読めば、妻は心の隅の方であぁ言う状況のプレイに憧れて居たのかも知れない。
世間なんてそんな物で、倫理感を無視してクレバー(賢い)に考えれば性交と言う武器には威力がある。
妻のその同僚女性も、最初から淫乱だった訳でも無いだろうが、何かの事情が「切欠に成る」と言う事も充分に在る。
簡単な話し、「常」と「異常」の判断は、乱交だろうがSM行為だろうが輪姦(まわし)であろうが、起こった事象が本人に於いて「何時(いつ)もの事」として常態化しまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。
職場娼婦の「させこ」など女の敵である。
しかし、本当にそれだけでその同僚女性をかたずけて良いものだろうか?
つまり他人(ひと)の批判はするが、その本人は男性から観ると女性としては性的に物凄く詰まらない存在かも知れない。
女性は想像だけでその職場娼婦の同僚女性を「嫌だ」と決め付けるだろうが、本当の事は犯って見ないと判らない。
女性に対する輪姦(まわし)と聞くと見るからに酷(ひど)そうな話しだが、一度体験してしまうと並の性交とは興奮度や性感度のレベルがまったく違うから、遊びの性交としては棄て難い物になる。
しかし安全にそれを為す社会環境が整っては居ないし、建前主義者の格好の標的でもあるから、多数の当事者が努力しない限り実現性が低いだけである。
人間が何かに挑戦する時は、何事も思考が斬新でなければ新しいものは得られない。
時には試練の時も遣って来るのに、自分だけは建前の綺麗事の中に身を置いて傷つかない事を優先すると、ひ弱で詰まらない女性として一生を送るのかも知れない。
しかしそれは、本人が拒否しているか機会に恵まれなかったかで、口先では建前の綺麗事ばかり言って居ても、イザ犯ってみれば本音が違うのが人間なのだ。
人間は、その能力に於いて多種のやれる事が増えて始めて、生き方の幅が広がる。
学ばなければ成らない事、行動してみなければ判らない事、そうした条件を判っている人間は少ないが、人間は基本的にさほど大きな違いがある訳ではない。
性交と言う事象にした所で、大人同士が最初から合意の上で愉しく攻めたり責められたりする分には、後腐れも尾を引く事もない。
他人の家庭を壊す場合はとやかく言われても仕方がないが、女性の中で周囲合意の上の他人の遊びの行状を「信じられない」などと、とやかく言う人物は正直自分が犯りたい事が出来ない「ひがみ根性だ」と言う説もある。
しかし社会規範と言う制約の中でなければ、何を犯っても良い訳では無い。
バストや美脚を意識した肌の露出度が高い服装を披露し、「エロカッコイイ」と男女伴に人気を博すエイベックス(エイベックスエンタテインメント)系の専属歌手・浜崎あゆみや倖田來未は日本で一世を風靡し、根強い人気を保っている。
米国発世界水準のエロカッコイイ歌手・マドンナやレディガガはストリッパー経験も在り歌手のブリトニー・スピアーズやリンジー・ ローハンも思い切りの良い売春婦のような衣装を着ている。
それら露出系歌手が世界的に男女伴に人気を博すのは、欲情の装置としてのフェロモン(行動や生理状態に影響を与える分泌物質)と言う視覚の興奮を欲情のメンタリティ(知性。知力。 心理状態。心的傾向)として、女性の本質が魅せたがりの本能である。
男性の本質が見たがりの本能で在る事に、社会が堂々と気付き始めて居るからではないだろうか?
そして魅せる事の本能を満足させるのが、全てを曝(さら)け出した他人前(ひとまえ)での性交と言う究極の恥ずかしい露出行為が新しい感覚だとしたら、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)こそ究極のエンタテインメント(気晴らしの娯楽)である。
人類の元々の自然な資質を考察すると、人類学上では「群れ社会性の生き物」で、当然ながら本能的には「群れ婚」が基本で、勿論個人差は在るが人類の生い立ち経緯そのものと関わる原資生殖習慣には「群れ内乱交状態」が永く続いた種である。
元々群れ社会の群れ婚状態から始まった人間の婚姻関係は母系社会で、日本の貴族社会では平安中期まで女性の下へ男性が通って来る「通い婚(呼ばう/夜這い)」だった。
正直、当時男性を部屋に通す選択権は女性に在り、気に入った複数男性も通いを受け入れる事も在った。
そして一般の村社会では、「夜這い」は昭和の大戦後に集団就職で若者の多くが都会に出るまで続けられ、実は人口維持や若者の性欲処理の需要があり、一対一の性交ばかりでは無く「寝宿」では男女複数参加の乱交も行われた。
そして「夜這い」にも於いても、ターゲットの女性宅に「一緒に行こう」と男共が連れ立って出かけて行く事も多かった。
つまり本来なら、性に遥かにおおらかだった女性に貞操を求めたのは、後世に成って男系社会に変化した時代の男性に拠る「独占欲」にしか他ならない。
輪姦(まわし)は一般的に、「女性を蹂躙(じゅうりん)している」とする一方的な解釈も在る。
しかしそれを性的官能に絞って考えれば、夫や恋人など一人相手の性交とは圧倒的に違い、これほど性感を堪能(たんのう/愉しむ・満足)する事は無い。
元々性行為なんてドロドロの欲求を満たすもので、誰が犯ってもそんなに格好が良いものでは無い。
言わば性行為なんてものは、多少は我侭(わがまま)で変態的の方が気分が乗り、プレィに燃える。
つまり当該(とうがい/あてはまる)女性のプレィに対する価値観の問題である。
女性が性的官能を満喫したいのであれば、その輪姦プレィはリピート(繰り返し)として成立し第三者がとやかく言う事では無い。
それにしても社内での同僚女性の職場娼婦振りは段々エスレートし、民宿旅行などに行く宴席で周囲が何かと妻に酒を勧め、妻を酔わせて寝かした上で、同僚女性の輪姦(まわし)を始めようとする。
設宴(宴を設ける)には場を盛り上げるヒロインが必要で、そのヒロインを素っ裸にして皆で容赦無く犯りたい放題の陵辱の生贄(いけにえ)なら宴は成功する。
つまり宴を開催する側からすれば、参加者に愉しんで頂くには目玉になる生贄(いけにえ)のヒロインは欠かせない。
人間なんて残酷なものだから、宴の参加者にしてみればヒロインに輪姦(まわし)を犯るも良し、犯られてあえぐヒロインを観るも良しである。
会社仲間の男達の魂胆が判った妻が酔った振りして寝ていると、大胆にも頃合を見て男達が遣って来て妻の寝床の横でが始めてしまう。
彼らが然(さ)して妻が寝ているかどうかに気にはしていない様子から、今考えると男達に取っては妻が寝ていようが起きていようが問題では無く、別の女性の横で同僚女性の輪姦(まわし)を犯る刺激を愉しんで居たのかも知れない。
横で同僚女性が輪姦(まわ)されて、あれだけ騒いでも寝ているのだから「狸寝入り」はバレバレで、当然寝ていないのは承知の上だからそこまで行ってしまえば妻の方も結構大胆に観るようになる。
同僚女性は、柔らかく伸びやかな裸身が次々と男を受け入れながら、その度に生々しく欲棒を咥え込んだ腰をクィクィと受け腰に踊らせて、肉体(からだ)を震わせて善がっている。
正直こう言う多人数の輪姦(まわし)を一人で受けるとなると相手が順番で続くから、同僚女性が渾身の受け腰使いで早く何本ん抜けるかが勝負になる。
最初に何人か熟(こ)なして受け切れないと、同僚女性の方が中々相手を抜けないまま一方的に責められてイキ過ぎ続ける無残な姿を見せる事に成る。
輪姦(まわし)で、入れ替わり立ち代り突っかれて居る間じゅう、同僚女性の表情には脳みそがとろけるような快感が切れ目無く続いていた。
寝た振りをしている妻目の前で、職場同僚達の良く使い込んで黒光りしている欲棒を枚の肉花弁の隙間に咥え込んだ同僚女性の腰が快感に浮き上がって、白濁した愛液を滴らせながら怪し気に左右に揺れている。
女性の幸せの形には色々在り、職場同僚達は同僚女性のこの生々しい姿を意図して妻に見せたかったに違いない。
亭主の視線を意識しながら口を半開きに鼻の穴をヒクヒク広げて意識を下半身の刺激に集中すれば、同僚女性はもうこの性交に完全に気が入っているのだ。
妻も騒がない輪姦ショーが何度か続いて男達は気を緩し、会社のレクレーションとして半ば公然の秘密になって居たから、つまり妻は寝た振りをして同僚女性の生々しい職場娼婦振りを何度も見せ付けられている。
職場娼婦など世間では非難の対象だが、それでもこの会社では犯らない妻の方が悪い女なのである。
同僚女性は、もう数を重ねて流石(さすが)手馴れた会社仲間の男達の容赦無い輪姦(まわし)の激しさに乳房を波打たせて顔を歪(ゆが)め、吼(ほえ)えるように口を開け放し、涎(よだれ)を垂れ流してして、襲い来る快感に善がり声を発し続けて居る。
妻が「狸寝入り」をする寝床の横で、四つん這いに欲棒を挿し込まれ、股間で生々しく繋がっている白濁(はくだく)した愛液に濡れ光る陰茎を見え隠れさせながら同僚女性の会社仲間の男達の相手の輪姦性交は続いている。
何人もが発射した跡に構わず次の男が欲棒を捻じ込むから、腰を入れて突き入れる度に結合部分から愛液と精液の入り混じった白い粘着力の強い泡が吹き出して、同僚女性の黒い恥毛に大小の雫玉(しずくたま)を生々しく散り嵌める。
同僚女性は休む間も無い連続性交に全身を汗でビッショリと濡れ光らせ、快楽なのか苦悶なのか表情を歪(ゆが)めて涎(よだれ)を垂らしながら喘(あえ)ぎ、吠(ほ)えるような善がり声を上げながら肉体(からだ)を震わせて悶(もだ)えながら奮戦している。
マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの遊びの性交も多人数相手ではかなりの運動量である。
おまけにこの環境では裸体を職場仲間に始終見られる事を意識しているから同僚女性の肉体(からだ)が適度に美しく引き締まり、いっそう魅力的ば肉体(からだ)になって居た。
まぁ、「恋だ愛だ」と何だかんだ理屈をこねても、突き詰めてしまえば赤の他人と取り敢えず性交する為の事前の感情に過ぎない。
そして綺麗事の建前を言った所で、売春やら浮気がデンジャラス(危険)に成立するくらいが、偽(いつわ)らない世間の現実である。
大人同士がその気に成れば恋人や夫婦でなくとも肉体(からだ)だけシエアリング(共同所有)の遊びの性交が、同僚女性に犯れ無い事はない。
そしてその遊びの性交が夫婦揃っての合意の上であれば、内緒で犯る売春やら浮気依りは遥(はる)かにリスクが少ない好適環境ではないだろうか?
輪姦(まわし)にしろSMプレィにしろ、「とんでもない事」と想っているのは未経験だからで、一度経験するとその快感体験から味を占める女性は案外多い。
つまり経験こそ重要な事で、何ら経験も無しに想像しているだけで他人や他人の行動を非難していて、それを正義と勘違いしている女性は滑稽な事である。
それで同僚女性が、そのM性交プレィやマルチSEX(複数性交)プレィに馴れてしまった事で、「調教された」と言うのならその通りかも知れない。
同僚女性の恥毛に覆われた恥丘のデルタゾーン(三角地帯)の上部にポッンと敏感な花芯と縦に二枚の肉花弁、その花弁の真ん中にズブリと突き挿さった欲棒の陰茎・・・その様子が妻の観え位置をワザと男達はシフトしていたのだ。
そして、慣れとは恐ろしいもので最初の頃は目が飛び出るほどの衝撃だったその物凄い性交光景も、段々興味本位で見えて来る様に成って行った。
会社仲間内のレクレーション的なお遊びで、諸出(もろだ)し諸見(もろみ)せで「他人前(ひとまえ)で性交して見せる」と言う同じ事でも、心の持ち方で受け取り方はポジティブにもネガティブにもなる。
こう言う遊びの露出性交はあくまでも刺激を求めて犯るもので、世間的にジェンダー(社会的文化的な性差)を有するから恥ずかしければ恥ずかしい行為ほど逆に興奮する。
今はの表情が随喜(ずいき)の表情に変わり、顔をクチャクチャに涙と涎(よだれ)を垂れ流し、リズム良く受け腰で抜き挿しに応じている。
赤の他人の欲棒を生々しく咥(くわ)え込んだ同僚女性の、既(すで)に絶頂域を続けている腰の動きが妙に艶(なま)めかしい。
「アッヒィー、アアアアアアアァー、イク、イク、アァー。」
同僚女性は襲い来る刺激に耐えられず、ガクンガクンと上半身を跳ね上げ、明らかに絶頂を貪(むさぼ)ってその快感に浸(ひた)っている。
それにしても男性と違って肉体的に、連戦で赤の他人との性交を犯る事が出来るのだから女性は凄い。
いずれにしても物は考え様で、同じ輪姦(まわし)でも「皆に犯られる」と「皆に可愛がられる」は中身は同じ事だが、明らかに受け取り方が違う。
つまり「皆に可愛がられて」、マックス(絶頂)の快感を永く得られるのであれば、同僚女性はその点では素直に男達に感謝すべき事である。
現に会社仲間の男達の激しいローテーション(交替)攻撃に遭う同僚女性は、泡を吹くがごとく「ギャーギャー」と激しい善がり声を挙げて相手の抜き挿しに呼応し、受け腰を使い応戦している。
彼等の輪姦(まわし)が止まらないから絶えず快感に襲われて、もうその性交に流されるままに周囲の目も忘れて、涎(よだれ)を垂(た)らしながら奇声を発し、髪を振り乱し腰を振って善がる同僚女性がいた。
同僚女性は、これ以上無い破廉恥な事を犯っては居るが、本人が快楽の中を漂っているのならその刹那(せつな)は彼女に取って幸せな時間なのである。
そんなものを見せ付けられた妻に取っては、このレクレーション的なお遊びは良い迷惑だった。
だが、それを敢えて実行する会社仲間の狙いは、同僚の職場娼婦振りを然(さ)して騒がない妻の許容性に期待し、輪姦現場で妻がその気になって職場娼婦に加わる可能性を促して居たのかも知れない。
だいたい当時の妻は、女性が複数相手に性交するなんてとても信じられない状況だったから、仰向けに横たわる男性社員の股間に四つん這いで顔を下ろし、咥(くわ)えた欲棒をシャブりながらバックから犯されている同僚女性のプレイのインパクトは、鮮烈だった。
なにしろ欲棒をズブリと咥(くわ)え込んだ同僚女性の腰が、薄目を開けた妻の目の前で生々しく踊っているのだ。
輪姦(まわし)が始まってしまえば、泣こうが喚(わめ)こうが参加者全員を満足させるまでは同僚女性の肉体(からだ)を離す事は無い。
正直、同僚女性にとっては感情込めた性交では無いから、次々と襲って来る男達は生身の大人の玩具(おとなのおもちゃ)みたいなもので、互いに愛だ恋だの感情の発露などは無い。
同僚女性の気分も、こうなると大きなスポーツ試合に奮闘しているアスリート気分で、性交も一種の勝負である。
まだ連続性交へ若干の抵抗心が残る輪姦プレィの出だしはともかく、犯り出して感じ始めて来れば女性の性体感は現金なものである。
股間が空(あ)く事の無い男達の猛攻に同僚女性は半ばトリップ(無意識)状態で、欲棒を咥え込んだ腰を相手の抜き指しのリズムに肌から汗の玉が滲(にじ)み出るのも構わず応じている。
制御もまま成らなく開いた同僚女性の口元からは、激しい息使いと伴に悩ましい善がり声が「アァ、アァ、アァ。」と漏(も)れ、その唇の脇からは涎(よだれ)が糸を引いて落ちて行く。
同僚女性も、次々と入れ替わる男達の欲棒を咥(くわ)え込んだ腰を浮かせ、口をパクつかせて善がり声を挙げ、涎(よだれ)を垂(た)らしながらリズム良く尻を振る。
その振られる尻の股間で抜き挿しされる肉花弁と欲棒の隙間から、もう何人分かの溜まった愛液が、押し出されて同僚女性の白い太腿(ふともも)を伝い滴(したた)って床に落ちている。
この輪姦(まわし)で良い様に弄(もてあそ)ばれ、嬲(なぶ)られてメチャメチャに犯られるのを体験すると、その快感に溺れない方が不思議なくらいの威力がある。
その快感体験で同僚女性が、今までとは違う考え方を遊びの性交に対してしても、それは自然な反応かも知れない。
元々このお愉しみのメインイベントを仕掛けたのは支店長で、同僚女性も半ばそれ(輪姦)を承諾(しょうだく)した様なものである。
同僚女性の愛液に濡れる二枚の肉花弁の間で、善がり声とリズム良い腰の動きと伴に濡れ光る陰茎が、同僚女性の内壁・海綿体の粘膜を刺激的に擦(こす)りながら見え隠れしている。
始まってしまえば、同僚女性も生身の女性だから、股間を貫いた欲棒が抜き挿しされれば相手の如何(いかん)に囚われず終わらない快感がある。
輪姦(まわし)は、同僚女性と多人数の成熟した性器と性器が抜き挿しされて海綿体が接触するのだから、流石(さすが)に犯られっ放しの同僚女性の運動量は半端ではない。
それでも同僚女性が渾身(こんしん)の受け腰使いで快感を迎えに行き、抜き挿しの努力をすれば、一人熟(こな)すのに二〜三分、永くて五分あれば相手はイクから、三十分あれば連続十人は快適に行ける。
インターバル(休憩時間)を五分ほど挟(はさ)んで通算五十分ほどあれば、壮絶には違いないが相手の重複トライを数えても累計で二十人は熟(こな)せる計算だ。
終盤にさしかかると、流石(さすが)の同僚女性も息切れして「ムフムフ」と小さく善がるばかりに反応が小さく、受け腰の動きも少なくなる。
まぁ、これだけの人数を相手に続けて性交すれば、同僚女性が体力を消耗しても仕方が無いが、それでも順番待ちして居た連中は順番が廻って来れば息切れした同僚女性を容赦無く攻め立てている。
これを毎回徹底して繰り返させて持久力を身に着ければ、輪姦(まわし)何か同僚女性にはもう何でもない。
それ処か、大変過激には違いないが過激故に所謂スポーツハィ状態に酔えば天国も見れるのがご褒美で、それを経験すると「また犯りたい」と病み付きになる。
男性が直ぐ終わる一対一の「夫婦の性交」と違い性交感覚の刺激が繰り返し続くのだから、同僚女性にして見れば肉体的本音は「癖に成るほど良い」に決まっている。
輪姦(まわ)され終わった後の同僚女性の気分は、デェスコダンスを夜明かし踊った後のようなけして嫌では無いさわやかな疲労感だった。
今でも妻には、あの民宿の廊下に浴衣姿の男性同僚が列を為す光景と寝巻きの前を乱した半裸の同僚女性が欲棒を四つん這いで咥えてシャブり、後ろからもう一人の男性社員に欲棒を挿し込まれグィグィ抜き挿しされて身悶えている場面が強烈な記憶として残っている。
一人の女性に、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)などを強(しい)いるのであれば、それは酷い事と受け取られるかも知れない。
しかしその女性が本質的にスケベであれば、その酷い事をさせる話は一転して御褒美に与えるセックスの話に変わって来る。
つまりその大胆セックスは、考えように拠っては夫との「日常定食セックス」と違って、スケベ女の同僚女性には豪華フルコースの「贅沢セックス」なのである。
誤解して欲しくないが、この会社の同僚連中が何時(いつ)も同僚女性との性交遊びばかりしている訳では無い
少なくとも会社の出先なのだから日々その業務を熟(こ)なしているし、家庭持ちや親と同居の者も居て近隣の付き合いなどもして居る。
正直な所、会社の同僚仲間内の遊びの性交仲間は、普段は然(さ)して刺激が無い平凡な日常生活で、そのほとんどの時間を費やして日々を送っている。
確かに同僚女性の職場娼婦はしめしが着かない事だが、妻には彼女に「感心する所も在った」と言う。
その第一は、勤務中はまったく凛として同僚の男性社員に如何わしい事はまったくさせなかった事である。
つまり同僚女性成りにけじめは着けていて、仕事終了後の余暇か休日にしかそうした浮いた事はして居なかった。
そして彼女は、支店の男達の誰にもけして負担になる存在に成らない努力をした。
その同僚女性も風の便りに聞く所では、やがて親の薦める縁談に応じて西の方のある地方都市の、マンションを何棟も所有する百姓上がりの大地主の下に、過去の職場娼婦の事は口を拭って嫁し、子も何人か為して幸せに暮らしていると言う。
彼女は何しろ、高卒ながら誰でもその名を知る中堅企業の支社で副支社長を務めた才媛の嫁として迎えられた。
何時(いつ)の間にか出世をしたものだが、言ってみれば社内交流も才能の内で、サラリーマン諸氏なら身に染みているに違いない。
同僚女性を嫁に貰う方の男も、都会の会社でキャリアを張っていた嫁を、まさか生娘とは想わない。
それ処か、「過去は問わないから都会で経験した性愛術を駆使して喜ばせて貰えばそれで良し」と伝えて来た。
つまり彼女の会社務め時代の行状は全て闇の中に消え、それで得た肩書きだけが燦然と輝く彼女のトロフィーであり、田舎の大地主の亭主にとっては、その彼女の経歴がトロフィー・ワイフとしての存在を満足させていた。
まぁ田舎の金持ちにすれば、彼女の男過去などを問題にするよりも出来る女を抱く興奮の方が価値が在ったのかも知れない。
人間の脳は、基本的に必要に応じて肉体(からだ)に指令を出す。
芸能人を見れば明らかだが、始終世間から見られている(映像露出している)人間は、同年齢の一般人より明らかに若い。
つまり「見られる」と言う緊張を伴う意識をする事は、勿論女性だけでは無く男性も同様だが本人の顔や肉体(からだ)に若さや美しさを齎(もたら)す。
世間でも、「胸元、背中、腰、脚の露出が多い方が、緊張を意識するから美しさを保つ」と言われている。
頭の回転だって同様で、全てを「決まっている」と考えずに難しい事から避けていると思考頻度が少なくなり、必要に応じて働きの指令を出しているからそうした意識が不要になり、脳は間違いなく老化して行く。
つまり常識に拘(こだわ)らない感性を絶えず生かして行かなければ、脳も外見も若さを保てないと言う事である。
正直、入社時の風貌(ふうぼう)がパッとしなかった職場娼婦の同僚女性は、多くの男達から見られる事を意識する事に拠って妻が驚くほど見る見る垢抜(あかぬ)けて顔も肉体(からだに)も美しくなった。
世の女性が、どちらを選ぶかは本人の意思次第だが、地味で真面目な人生を送る女性ほど若さも美貌も早く失うのが肉体的メカニズムなのだから世の中は皮肉である。
つまり人間は、意識する事で自分にかなりの影響を与え、肉体(からだ)の崩壊は緊張感の欠如から始まっている。
結構な事に、職場娼婦の同僚女性は多くの男性に注目され、肉体(からだ)もしょっちゅう多人数に晒(さら)して性交を犯っていたから、横着をして自分の肉をタルませる事は無かった。
それで立派なトロフィー・ワイフとしての華やかさとスタイルを結婚まで維持した。
その職場娼婦の同僚女性は、近隣の進学率が高い公立高校普通科から少し東京依りの地方都市にある短大を卒業して、その短大の斡旋でこの飲料会社に就職した。
高校時代から彼女の成績は悪くなく、国公立の大学にも進学できる能力を持っていたが、五人兄妹の末娘で両親がかなり年配だった為に四年制大学をあきらめ短大進学を選んだ。
真相は、生意気だけど可愛らしいのが職場娼婦の同僚で、価値観の問題ではあるがここで世間の建前を考えるとその建前を単純に良しとするほど平凡な人生を送る事になる。
つまり考え方の問題で、その職場娼婦の同僚は「かなり利口だ」と言う事に成る。
男性は機能的に性交には勃起が必要で、勃起には興奮が必要である。
此処が肝心な所だが、元々男性が勃起しなければ性交は成立せず、勃起は何も子を為さんとして起きる現象では無く言わば「嫌らしい」と表現される卑猥(ひわい)な感性から勃起するもので、性交の言い訳に使う愛情では勃起などしない。
構造的に男性の性交連発はかなり困難だが、女性は基本的に構造上連続性交に耐えられる。
九人相手の職場娼婦なんて「乱暴な話し」と思うかも知れないが、男女の仲には色々な形態の性交プレィが存在し、それは表向き脚光を浴びるものでは無いかも知れないが、女性に複数プレイは犯れば出来る肉体構造だから大丈夫なのだ。
浮気・不倫の類は世間には良くある事で、けして珍しくはないのは承知だが「内の亭主に限って、内の妻に限って」は一応の気安めに使われる。
つまり浮気・不倫のリスクは「けして珍しくはない」のだから、それなら互いに隠れて犯るよりも夫婦合意の上で共犯的に遊ぶ方が相手に不信感を抱かない。
そして何よりも、相手が特定できないコレクティブセックスプレィ(集団乱交)であれば遊びとしては理想的で、個別の嫉妬とは無縁となり気分的にも後腐れがない。
例え破廉恥(はれんち)なコレクティブセックスプレィ(集団乱交)の結果で在っても、性感的に満足する良い思いをしてしまうと、例えそれがアブノーマル(異常)な行為だろうと中々忘れられない。
しかし女性が持つ母性の最初の段階が性交だから、女性に性欲が在っても何の不思議もないし恥ずかしい物でもない。
それが世間的に慎み深く成った裏には、永い間の「男性側の独占欲に慣らされたのではないか」とも読めるのだ。
どんな美人女性だって種の保存本能が在る以上は、「男嫌い」と言う異常な性癖で無い限り、性交を「犯る事は犯る」の本質は自然な結果である。
つまり当たり前だが、どんなに綺麗事を言っても性交に関心が無い女性の方が社会的・生物学的には不自然なのだ。
嫌、人類が未来に種を繋げて行く為には、「犯りたい」と言う男好き・性交好きこそが女性の偽わらない自然な本質でなければ成らない。
それと矛盾する「私はそんなに助平(スケベ)ではない。」は、本来女性に採っては自分を高く売る手段に過ぎない。
それを真に受けて誤解し「助平(スケベ)ではない。」と本気で想っている女性は、結婚してからも厄介である。
それでも性交すれば肉体の方は必ず快感を感じ、その性交がコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などならその興奮の快感は尚更の筈(はず)である。
集団の性行為はアブノーマル(異常)と批判されそうだが、果たして一対一の男女による密やかな性交がノーマル(通常)で、それ以外はアブノーマル(異常)な事なのだろうか?
第一、男女一組の性交にした所で、ア*ルプレィにSMプレィ、露出プレィなどバイオレーションはかなり在るから集団プレィばかりがアブノーマル(異常)とも言えない。
集団プレィであるマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの「目的の機会を得易い環境」として、単にその存在を利用しているに過ぎない。
勿論集団に拠る、鑑賞と参加型のSMプレィショーだって好事家を集めて開催され、女性の見学者も結構居る。
勿論赤の他人がSMプレィでヒィヒィ悶えるのを鑑賞するのは良い見世物だし、密かにそう言う性癖が在る女性も、中々カミングアウトできないから納得の為に覗きに来る。
普段女性が密かに野獣みたいな性交を望んでいても、日常生活の延長でマンネリ(固定された形式)気味の性交では、感動も興奮もしないし快感も得られない。
闇に隠れては居るが、こうした性癖要求を持ち合わせる男女は想像以上に多く、その場所や機会を熱望しているのである。
だからと言ってその男女が特殊な訳ではなく、日常では極普通の人達で社会性も持ち合わせている。
そこで日常の不満を解決するような非日常の性交を、密かに求める夫婦も出て来て当たり前である。
マンネリ(固定された形式)を吹き飛ばすような、「非日常の性交」とはなんだろうか?
男女の間で、「愛情が無ければ性交など出来ない」とは言うが、本当は愛情などと言うものは夫婦が永く添ってから育つもので、行き成り愛情ある性交は眉唾である。
では「男女が当初性交に到る理由は」と言えば、「恋」を愛情と勘違いした凡(およ)そ衝動的な「感性(右脳域)}の発露で在って、この時点で愛情など在る訳が無い。
いやむしろ、「恋」を愛情と勘違いして始めた夫婦の仲なんてものは、平凡な日常生活ばかりで三年も経過すると結婚生活など互いに醒めてしまうものである。
益してや、男性が企業競争や出世競争のに身を置いて命をすり減らして居る間、女性の方はその競争からも締め出された然して刺激的立場も得られずに、日々を送ってしまう。
その上出産でもして子育てが絡むと、夫婦間の生活リズムに微妙なすれ違いが生じる。
そんな精神的な欲求不満も在り、女性が密かに野獣みたいな性交を望んでいても、代わり映えしない一対一の日常生活の延長では感動も興奮もしないし快感も得られない。
そう成ると、「恋」と言う凡(およ)そ衝動的な「感性(右脳域)}の発露だけでは無い覚悟が男女の仲には必要になる。
人間の考え方など都合の良いもので、同じ人間でもその時の考え方を「理性(左脳域)」で採るか、「感性(右脳域)」で採るかでその言い分は違う。
これは人類永遠のテーマで、男女の仲から政治経済まで考え方の採り方が「理性(左脳域)」か「感性(右脳域)」かいずれかで合致しなければ行き違いは埋まらない。
言い返れば、身勝っ手で刹那的な「ロマンチック(感性)」に格好着けて生きるより、大人の「シリアスな覚悟(理性)」の方が人間には余程立派な覚悟である。
そこで「理性(左脳域)」で考えると、夫婦の仲が三年も経過すると互いに醒めてしまうものであれば、夫婦間にも非日常の刺激が欲しくなるのだ。
つまり非日常の刺激が欲しくなる此処で、夫婦間に「真摯な疎通」が無いと、互い勝ってで新しい「恋」の勘違いを始めて家庭を壊す事になる。
互い勝ってで新しい「恋の勘違い」を始めて夫婦間の危機を作り出すくらいなら、夫婦共犯で一緒に愉しめる非日常の刺激シーンを創り出す創意工夫が必要である。
元々現実に、男女の間で「理性(左脳域)」と言う打算が働くものなら、打算が性交理由に成っても世間に良くある事で不思議は無い。
つまり夫婦が有利に生きる為の打算や配偶者と上手く生きて行く為の打算を理由に、夫婦が共犯で「理」に適う遊びの性交シーンに入って行っても、然(さ)して不自然では無い。
互いに不特定多数を相手の公開性交なら、間違いなく見る見られるの遊びの性交で、嫉妬も情が移る事も在り得ない。
その「理」に適う夫婦共犯の遊びがマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、或いはコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などである。
開けっ広げの公開性交を薦めるには理由が在り、それが浮気では無い夫婦共犯の遊びの象徴だからこそのルールである。
つまり影でコッソリと犯る「浮気」と言う「情」が絡んだものでは無く、夫婦合意の遊びの象徴がコレクティブセックスプレィ(集団乱交)などの遊びである。
だからこそ、性交姿を夫に隠すでもなく堂々とギャラリーの前で晒(さら)し犯られる公開性交シーンが、性交相手を特定しない故に嫉妬を抑えた安全且つ非日常の刺激なのである。
この性交相手を特定しない晒(さら)し者の羞恥心と引き換えに、夫の独占欲に拠る疑心暗鬼から只の遊びと夫を安心させ嫉妬は回避される。
「信じられ無い」などと自分の基準で御託(ごたく)を並べるが、現実には世の中にそれ(性交)が好きな女性も沢山居れば、遊びの性交を犯って見て病み付きに成る女性も居る。
赤の他人の男達との遊び性交など「私には出来ない」と想うだろうが、それはただの気分の問題である。
相手が赤の他人だろうと、犯って見れば肉体(からだ)は性交すれば快感を得るように出来ているし、出会いの頃の夫とだって勘違いの「恋」を理由に犯っている。
勿論、こうした夫婦共犯の遊びなど犯りたくなければ断れば良いのだが、犯って見ないで「嫌」だの「酷い」だの「可哀想」だのと、想像では言って欲しくない。
夫との性交がラーメンなら、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)などは中国宮廷料理の満漢全席(まんかんぜんせき)くらい快感に差がある。
何しろ夫婦共犯の遊びの性交シーンは、五感の感性的刺激も肉体的刺激も強烈な環境で、エンドレスな性交がもたらす快感は女性本人がその気に成らなければ得られない。
つまり批判は、夫婦共犯の遊びの性交を犯って見てから言うべきで、何事も犯って見てから事の良し悪しが判るものである。
こう言う職場娼婦を批判する連中は沢山居るだろうが、綺麗事の建前で批判するだけで誰も助けてはくれない。
それに本音で言えば、大勢と性交した所で同僚女性は、「弄(なぶ)られても犯されても減りはしない。」、正直、それで救われる事が在るのに犯らないで自滅して行くべきか、例え社会的には批判される事でも、犯って自分有利な体勢を社内に築くか?
つまり性に関しては、生物としての「自然本能」と人間と言う奇妙な生き物の「社会性」が凌(しの)ぎ合う、何とも不確かな課題などではないだろうか?
つまり妻の同僚女性は、自ら踏み出す姿勢に於いて「卑怯者では無かった事」になる。
当然夫婦間が倦怠期に陥れば、夫婦間の性交もモチベーション(動機を与える)が低くなり、余程の非日常的刺激がなければ興奮に結び付かず、勃起には至らない。
そこを女性が理解して努力しないと夫婦間で興奮しなくなったら最悪で、夫婦間の性交は上手く行かなくなり、やがて他に興奮を求めて買春や浮気と言った騒動に発展する。
興奮に必要なのがブノーマルな行為であれば、セックスに淡白な男が真面目なのか、探究心旺盛なスケベ人間が真面目なのか、そんなものを感情で判断しては合理性に欠ける。
モチベーション(動機を与える)には、恥をかきたくない誇りと、恥をかいても成し遂げる誇りとふた通りの考え方がある。
そしてモチベーション(動機を与える)を考えて見れば、世間体を気にしても所詮(しょせん)は世間が食わしてはくれる訳ではない。
つまり価値観の問題で、「恥をかきたくない」と言って強情を張れば結局何も成し遂げなくて大恥をかき、一時の恥を我慢して成し遂げるは大いなる誇りと言える。
利口な女性なら余り既成概念に囚われず応用力を発揮し、そこで導き出された現実を冷静に判断する。
ランナーズ・ハイ(マラソン)やクライマーズ・ハイ(登山)は運動量が最高値に達した時のスポーツ・ハイで、分泌ホルモン、脳内麻薬・ベータ・エンドロフィンに拠る一種の「ラリル状態(脳内麻薬快感)」である。
女性が輪姦(まわし)で多くの男性から休み無しに犯されれば、同様にベータ・エンドロフィンが脳内に放出され、セックス・ハイ(性交脳内麻薬快感)状態に成って他では味わえない強力な性体験をする。
日常的に使用されている「常識」と言う言葉は、実は「思考停止」と言う言葉と同意語で、この「常識」を連発する人間は他の考え方を持たない自己満足的な自画自賛人間である。
同僚女性が何故、嫌なら止めれば良い九人もの男性の性癖を一人で熟(こな)す職場娼婦を、数年に渡って嫌がりもせず務めたにはそれなりの納得させられる理由がある。
寄って集(たか)って悪戯(いたずら)をされる訳だが、少しでも被虐嗜好(マゾ性)が在れば性感的に満足する良い思いをしてしまう。
同僚女性は、他では味わえない強力な性体験をして癖に成っていたのだ。
同僚女性の様な遊びの性交は、元を正せば非繁殖目的の「擬似生殖行為」で在って、他の動物のように繁殖期を持たない年中発情の人間種独特のものである。
そして年中発情の人間種の本能が満足を求めて遊びの性交を要求し、命題が遊びの性交であるからこそあらゆる性癖が発生して次第にエスカレートする。
その「擬似生殖行為」が脳の活動に組み込まれているからこそ、人類の皆が「性」に興味が在って、「尋常な性交など詰まらぬもの」と言う共通意識が密かに育つのが人間である。
会社の同僚仲間は大切にしなければ成らず、勿論同僚女性が職場娼婦を犯る以上は愉しく遊んで貰わなければ成らず、同僚女性には半端な事はできないのかも知れない。
まぁ同僚女性も、他人前(ひとまえ)で晒(さら)し者の素っ裸に剥(む)かれて、不安に頼り無い想いをさせられて居ては、今更格好付けても仕方が無い。
一般的な女性は子供を産む事を前提に生まれて来るから、痛みに辛抱強いM(マゾ)タイプ気質である。
つまり女性の一般的気質はM(マゾ)タイプと言う事になり、そうではない女性は他の意味で能力は有るかも知れないが、女性としての資質には欠ける事になる。
当然ながらM(マゾ)タイプ気質は被支配願望が強く、監督・コーチに命令される事に快感的辛抱が出来るからそこそこ以上の選手はS(サド)タイプ気質では在り得ない。
そして運動量が多いほど、その肉体的苦痛を緩和する為に脳内麻薬・ベーターエンドロフィンが脳内に放出されるのだが、そうしたベーターエンドロフィンの効果がランナーズ(マラソン)・ハイやクライマーズ(登山)・ハイに代表されるスポーツ・ハイである。
マラソンや登山などの過酷なスポーツを一度経験すると中々止められないのも、実は達成感なのではなく、脳内麻薬の快感を無意識に忘れられないからである。
同様に性行為に於いても、最高値の性交にはセックス・ハイの事象が確認できる。
例えば連続輪姦で絶え間なくイキ続けると、下半身が浮いて持って行かれる堪らないセックス・ハイ感覚になる。
為に密かに行われ続けている遊びの性交プレィ、マルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)が、一度経験すると脳が忘れられない事に成るのもその為である。
そしてSMプレィが成立するメカニズムも、或る種の肉体的苦痛を緩和する為に脳内に放出される脳内麻薬・ベーターエンドロフィン効果が無意識良い思いをさせ、プレィが成立する事になる。
こうした肉体的事象は良いも悪いも想像だけでは理解出来ない物で、実際に経験して始めて肉体(からだ)が感じるものだから、経験の無い者に建前的な評価は出来ない。
考えて見れば、倦怠感やストレスを感じるから職場娼婦が重用される。
そうなると、家庭を無事に維持したいのなら嫁さんも利口にならねば間に合わず、「内の人に限って大丈夫」などとノホホンとはしていられない。
もし、亭主が倦怠感やストレスで変な女性に引っ掛かった時、性交の具合が嫁さんより良ければそっちに関心を持って行かれてしまう危険がある。
益してやその道の商売女性に対抗して、普通の婦人が亭主に「快感を与える技」で太刀打ち出切る訳が無い。
つまり比較の問題で、嫁さんに娼婦性が無ければ他のそちらに魅力がある女性に乗り換えられないとも限らないが、これを「寝取られた」と言う。
何も行動を起こさなくて只待っていても、良い事なんか遣っては来ない。
建前の精神論やべき論を主張している間に、取り返しが着かない状態になるよりは日頃からの性に対する心得が大切で、まったく創意工夫も努力も無しに、「ズウット愛してくれ」は虫が良過ぎるではないか。
愛し合って結婚した夫婦でも、結婚して二年もすると倦怠期が始まり、子供があれば普段の生活が子供中心になって夫婦の間から新鮮味も、トキメキもこぼれ落ちて行く。
そうしたあらゆる世間のリスクを考えた時、家庭を無事に永く維持したいのなら下手な個別の浮気遊びは夫婦間の裏切りで御法度である。
夫婦合意の上の共犯関係のマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)、コレクティブセックスプレィ(集団乱交)などは、相手が特定化されない情が絡まない遊び方だから理想的である。
相手が特定化されずに情が絡まない性交ならそれは既に浮気とも言えない只の遊びで、それでも貞操に拘(こだ)わるならそれは只の独占欲に過ぎない。
明治維新で西欧文化が入って来る前、第二次世界大戦に敗戦し米国の文化がもてはやされる前、日本の性文化の本質は西欧や米国とはまったく違う倫理観を持っていた。
そこに在ったのは、村落共生の為の一村皆同血統の「夜這い文化」であるが、勿論血が濃くなるリスクは在った。
しかし反面で「夜這い文化」は、精子劣勢遺伝とXY染色体に拠る「虚弱精子劣性遺伝」・・つまり子を為し得ない家庭に子をもたらせる救世主とも成って居った。
また、その祭りの最中の性交は「神との性交」とした「暗闇祭り」などの祭事も同様な目的で在って、当時としては子宝を得る為の或る種の救済を目的としていた。
つまり必要に応じて、子の血統に対してかなり弾力的に対応していたのだが、ここに拘ると、減失にはかなり存在する養子や連れ子を純粋に我が子とする事が出来なくなる。
子を得る為だけの性交を、浮気とはしていなかった昔の日本の性文化の方が、よほど大人の対応ではなかったのか?
現代では「虚弱精子劣性遺伝」が進んで子を為し得ない夫婦が増えているが、そのかなりのウエィトは男性側に在るので、その場合男性が幾ら性交相手の女性を変えても成果は上がり難い。
言うなれば愛情と性交を一体的に考えるから、拘(こだわ)りが多くなる。
どんな有名人や相応の地位に在る者でも、理想を言っても現実それを否定するような浮気心は誰にでもある。
そして一番罪な部分は、連れ合いに内緒でそうした性行動を起こす神経である。
愛情の性交と違う目的の性交は現実に世の中に存在するのだから、そこに夫婦の合意を置いて夫婦共犯の遊びに重点を置けば、蓄積するストレスの解消や「虚弱精子劣性」ではない遺伝子を得る期待は増えて行く。
そして、そうした遊びの性交は、諸般の事情に依り相手が特定され難いマルチSEX(複数性交)やマルチタスクSEX(同時実行性交)が理想的である。
私が最初に妻と知り合ったのは、その職場娼婦の同僚が例の八人二周りの列を熟(こな)して三ヶ月、支店内で幅を利かせ始めた時期で、妻はまだその会社に勤めて居た時だった。
妻の勤めていた神奈川支店の受け持ちエリヤは変則的で、神奈川と言っても横浜全区までは東京支店の管轄で、それ以西の静岡との県境までの規模の小さい支店だった。
妻と最初に出会ったのは小田原市内電鉄系百貨店で、務める会社の試飲フォステバルとやらに借り出されて、本来事務職の妻が支店の女性三人の中で見てくれが良い為に、炭酸飲料の売り子の真似事をしていた。
そこに通り掛った私が、催事の売り子が少々見てくれが良かった事でチョットしたチョッカイを出して他愛無い立ち話をした。
と言っても相手は試飲フォステバルの売り子の仕事中なので、僅か二分ほどのたわいない会話で分かれた。
人間の運命なんか判らないもので、それが何かの「縁が在った」のか四ヵ月後の夏にその試飲フォステバルの売り子と大磯の海岸で昼前に再会する。
私が勤めて居た建設会社の、二つ年上の同僚に海水浴に誘われて来ていたのだが、そこで妻が私を見つけ「ほら、小田原百貨店でお仕事をしていた時話掛けて来た人でしょ。」と声を掛けて来た。
見るとビキニの水着も眩(まぶ)しい三人連れの一人、声を掛けて来た若い女性に確かに見覚えが在った。
二つ年上の同僚も、相手が妻の高校時代同級生の友人二人の三人連れだったので舞い上がり、もう「一緒に遊ぼう遊ぼう」と離れる気などない。
その日は合流して五人で騒ぐだけ騒いで夕方まで浜辺で遊んだが、正直、ピチピチした若い女性が肌も露(あらわ)なビキニの水着では私の心臓が高鳴っても仕方が無い。
夕方になってレストランで食事をし、たわいも無い話をした後電話と住所を交換して再会を約束した。
その食事中のたわいも無い話で強烈に心揺すられたのは、夏の開放感からか嘘か誠か三人の内の一人が「下着の着替えが面倒だから、今は全員ノーパンティだ」と告白した事だ。
そう言う事に敏感な年齢だったから、「全員ノーパンティだ」と言われて言われて染々(しみじみ)その時の妻を見ると、裏地無しの夏仕立て水色のコットン(木綿)地のワンピースを着用していたが、確かに何と無く下着は身に着けて居そうも無い。
私の視線を感じたのか「嫌ねぇ、そんな事ある訳ないじゃん。」と妻が否定したが、判り易い事に顔に赤味が差したのを私は見逃さなかった。
それから三日(みつか)も経たずに電話連絡をし「逢いたい。」と言った所、「私も。」と応じられて交際を始めた。
私が想像していたよりも、女性との交際は簡単だった。
交際を始めて半月後には夏場の交際を利して「大磯の帰りと同じにしろ。」と要求し、ノーブラ・ノーパンで連れ歩き興奮してラブホテルで結ばれた。
普通は最初から要求するのは憚(はばか)られるおシャブリを好奇心から誘って見たが、何処で覚えたのか行き成りパクッと咥えられジュポジュポとシャブられてその快感に仰天する。
その時妻は初めての性交だったが、興奮していたのか行為自体には私が押される程に卑猥(ひわい)で積極的だった。
それにしても一度目なのか二度目なのか、「出来ちゃった。」の運命を受け入れて妻は退社、後で聞くと務め先の会社では色々在って妻は退社の潮時だったらしい。
世の中の動きと言う物は、或る一つの事象の波及効果から始まる物で、私が妻と結婚した頃には妻の実家は経済的にかなり困窮した状態に在り、妻はその生活も支えなければ成らない立場に在った。
今考えて見れば、妻の生き方にはその事も充分に配慮して居たのかも知れない。
結婚しての二人の新婚生活は、勤め先の建設会社が用意した社員寮で始めた。
そうした状況の中、入社三年目の私と妻が出会った年と同じ夏の事だが、伊豆の民宿で支店有志が夏のレクレーションをした時など、妻は凄い物を見せられている。
ベテラン女性社員は家庭が在るから泊まり行事に参加せず、何時も女性の参加者は職場娼婦の同僚女性と妻の二人きりで、妻はまだスーツ姿のまま、同僚女性はもう浴衣姿だった。
男性は例に拠って支店長以下九人は勿論浴衣姿で、恒例行事に成っていたから、妻はまた「廊下に男達の列が出来るもの」と確信していた。
所が、宴たけなわに成ると、やけに同僚と妻に酌に来る社員が増えた。
ピーンと来たのは「二人を早く酔わせたい」と言う事だが、妻の場合は「邪魔者を外したかった」と見当が着いた。
そこで妻は、「このまま部屋に戻ってなど遣るものか」と考えたのだが、流石(さすが)にお酌攻勢にウンザリして、酔い潰れた振りをして座布団の上で寝た振りをした。
少々危険が在ったが、連中が襲いそうなら目覚めた振りをして追い払えば良い。
「おぃ、**君は寝たか?」
「はぃ、今、揺(ゆ)り起こしましたが、酔い潰れているようです。」
「なら、そのまま寝かして置いて良いか。こっちはお待ちかねのお愉しみを犯ろうぜ。」
所が連中は安全パイの同僚女性の肉体(からだ)が目的で、薄目を開けて観ている妻の脇から座っていた職場娼婦の同僚女性を両手で引き起こすように立ち上がらせ、座敷中央に連れ出して「浴衣脱げ」の合唱だった。
横たわっている妻からは、同僚を取り巻く男達の脇の間や脚の間から同僚の様子が見えていた。
男達が取り巻く中心で、同僚がふら付く足元を気にして帯を解き、浴衣を剥(は)ぐと下着を着けていない全裸体が現れ、同僚女性は一人の男子社員に解いた帯で後ろ手に括(くく)られた。
周囲に居た男達が夫々帯びを解いてその男子社員に渡し、その男子社員は同僚女性を後ろ手のまま仰向けに転がす。
それから左右の脚を太腿(ふともも)と膝下をまとめる形で大股開きに縛(しば)き挙げ、その左右の太腿(ふともも)を後ろ手の帯に絡めて引き絞り固定する。
妻が薄目で見た同僚女性は、股間を閉じれない格好で何人でもドンとウエルカム体勢を取らされていた。
奇妙なものでそこが会社の恐ろしい所だが、同僚女性への男達の性交順番は打ち合わせも無く入社順に決まっていて、張り切った坊主頭のカリ首が生々しく抜き挿しされる状況が次々に続き、何ともスムースにバトンタッチが行われている。
終わった人間が段々に自分の膳の前に戻ってまた酒やビールを飲み始め、その輪姦(まわ)しが九人一回りすると、「ソロソロ一度に掛ろうや。」と所長が言い出した。
妻が薄目で見ていると同僚女性を後ろ手のまま四つん這いにさせ、所長が後ろからア*ルに抽入してクルリと体を入れ代え、先程帯びで縛(しば)いた男子社員が前に抽入し、二穴フアックが完成する。
同僚女性は、前屈みに畳に手を着いたまま、女性器に一本、ア*ルに一本、肉杭(にくくい)が肉体(からだ)に射(う)ち込まれていて身動きが取れないまま、二人連動の鮮烈な抜き挿しに耐えねばならない。
その同僚女性の口に、更に三人目の男が欲棒を念じ込んだ。
男二人の欲棒でア*ルと女性器と言う前後の穴を同時に貫かれる三P、口まで突き込まれる四Pなど、当時の妻の常識で言えば変態行為そのもので世間の建前に照らせば同僚女性には到底承服できない筈の行為である。
しかし下から所長が腰を使ってア*ルを突き上げ、帯びで縛(しば)いた男子社員が女性器に抜き挿しをして、口には三人目の男が欲棒をクィクィと突き入れていた。
くぐもった同僚女性の声が口に捻じ込まれた欲棒の隙間から洩れているが、四P(四人プレィ)をどうやら然(さ)して嫌がる様子もない事に、妻は唖然とした。
四人目の男からは、縛(しば)いていた帯びを解いて同僚女性の手足を自由にし、メンバーが代わって四P(四人プレィ)は更に続いた。
いずれにしても、夫婦の愛情なんか永い時間を掛けて育てる物で、「恋」と間違えているならともかく「愛情が無ければ性交など出来ない」は嘘っぱちである。
何故ならば、まだ相手を良く知らない「恋」の時点の一目惚れでも性交が出来るものなら、つまりは愛情なんか無くても性交は出来る理屈になる。
妻にすれば、同僚女性があんな四P(四人プレィ)を平気で犯って居るのも驚きだが、一方で同僚女性が社の男連中をたった一人で満足させているかと想うと、一言では否定出来ない何かを感じた。
他人(ひと)に「どう想われるか」何て気にしていたら、何も挑戦は出来ないし、他人(ひと)が何かしてくれる訳では無い。
それに同僚女性の様にそれが好きならば、彼女にとって勤め先は絶好の環境にあるのかも知れない。
結局の所、妻の同僚女性の確信的職場娼婦の行状は功を奏し、彼女の思惑通りにたくましく自分を高く売った事になる。
つまり女性は、平安の昔から自分の「女」を如何に使うかを考えているかいないかで、将来が決まるのかも知れない。
その同僚女性の経緯を学習していた二十二歳の妻は、何故か下宿先から建設会社に務めていた然(さ)して見所を感じない私を、何故か気に入って、知り合って間もない真夏の頃に妻の側から半ば強引に肉体関係を持ち、妊娠して結果私達は結婚に到った。
それは私は男だし、妻は標準よりはかなり上の美貌と容姿を持っていたのだから、妻側から下着姿で仕掛けられれば「据え膳」で一溜まりも無い。
当時は私も若かったから、妻の下着をむしり取るように脱がして圧し掛かった。
若く柔らかい肌に触れるだけでも、素直に感動だった。
その後は、逢う度に性交に及ぶ日々を過ごし、言わば妻に仕掛けられて夫婦は成立したのだが、妻が私の何処に目を着けたのかは謎だった。
それで付き合い出してから結婚して男の子を出産するまで、彼女の服従心を確める為にノーパンティで良くデートをしていた。
結構そのチョットした事で興奮し、私達の抱き合う気が互いに高まった事も事実だった。
その時の習慣が、あのカラオケスナック事件を引き起こす引き金に成った。
まぁ、倦怠期解消の為にスリルを求めて仕掛けたのだが、私の予想を覆(くつがえ)す結果に派生して行った事件だった。
それにしても、妻は私の何に期待して結婚をしたのだろうか?
妻のトラウマ的な性癖の原点は、あの民宿で列を成した男達と職場娼婦と化した同僚女性のコレクティブセックスプレィ(集団乱交)だった。
確かにあの情況で列を成して挑(いど)まれたら、常識や倫理観などと言う事はそこではまったく通用せず、「信じられない」などと言うレベルの状態ではなく、乳首が立つ乳 房を上下に揺らし髪を振り乱して只管(ひたすら/その事一途に)機械的に犯られ続けるしか無い。
妻があのコレクティブセックスプレィ(集団乱交)を異様に感じたのは無理からぬ所だが、反面あの光景は妻の深層心理の中で憧れに育って行った可能性を棄て切れない。
つまり妻は、その後の様々な場面に訪れたエロチックな事態を、冷静に処理していた。
少し大人に成って考えて見れば、白馬に乗った王子よりも現実的な発想が妻に無かった訳では無い。
クレバー(賢い)にディープ(深く嵌り込む様)なコレクティブセックスプレィ(集団乱交)を犯ってしまえば、その興奮は「見てしまった事」から「犯ってしまった事」に代わる。
興奮(こうふん)の要因は、「喜怒哀楽(きどあいらく)」と言われる四種類の感情の高まりに拠るものであるが、それらの感情が性交時の味付けになり、露出プレィやSMプレィその他の愛好者もいる。
当然ながら、夫とのノーマルな性交より遥かに興奮し、脳にドーパミンが噴出して脳内麻薬(快感ホルモン)・ベータ・エンドロフィンを発生させ、今まで得られない快感を際立たせる。
性感的に満足する良い思いをしてしまうと、それが当たり前になれば、少しくらいのアブノーマルな行為はそう気に成らなくなるのだから例えそれがアブノーマルな行為だろうと中々忘れられない。
そうなると妻の奔放な性癖は、「気に成っていた事」から「確信」に代わったのではないだろうか?
正直その同僚の職場娼婦は、結局男性社員を喜ばせただけである。
他人(ひと)がしない事をしてこそ価値観が生じ、向上へのチャンスが増える。
風の便りに拠ると、その職場娼婦の「させこ」は君臨をし続け、交代で赴任して来た次の支店長さえも制御不能な「職場モンスターに成長したと聞こえて来た」と言う。
妻には、あのほろ酔いで廊下に列を為す男性社員達の光景が強烈な印象として残り、そして他人(ひと)が犯れ無い事を平然と犯る同僚女性の根性を「立派だ」と想った。
それは色気を使った世渡りなど正規な手段とは認め難いから、「あの女、肉体(からだ)を餌にして」などと他人の行動に批判ばかりをしていても、それは思い切って飛べない者の「ひがみ」かも知れない。
そして世間での勝敗に関しては、目的の為に「肉体(からだ)を餌にして」も勝てば官軍で、何も手を打たないで負けてしまえば話にも成らない。
実は情が絡まない「損得勘定」の性交など決意さえすれば簡単に出せる答えなのに、犯って見ないでいて犯っている女性を非難しても只の遠吠(とうぼ)えで、彼女は確実に伸し上った。
何年か経っても、時折妻はあの男性社員の列を思い出し、想像をたくましくしてああ言う事が犯れる同僚女性がうらやましくも想って居た。
妻の初めての社会人としての船出は、想像以上に大人だった同僚女性にして犯られて主導権を握られた記憶だけが残ったから、妻自身にその苦い反省が心の隅に在った。
その後妻に起こった事件が、例のカラオケスナック事件だったのだ。
妻は否定しているが、あのノーパンティ・カラオケスナック事件はどう考えても実際に存在した。
まぁ正直世間体を気にする悪戯(いたずら)の遊びなら、妻がとぼけているようにその都度「無かった事にする」のも知恵なのかも知れない。
第一巻終了
【告白、悪戯(いたずら)の秘密 第二巻に続く。】
【参考】「人が創りし神と仏の間に」
天上の最高神は一体でなければならない。
しかし、日本の大和朝廷が古事記と日本書紀で創出した天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同等な神、陀羅尼神(だらにしん)が、渡来した仏教の中に居た。
日本列島の支配者と民はそれを否定することなく同一の神として受け入れた。
その陀羅尼神(だらにしん)、実はエロスの神様だったのです。
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【◆】【野党に転落した民主党・再生への条件】
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【◆】【自転車走行レーンの整備拡充】
【◆】【サブプライムローン】
【◆】【規制緩和】
【◆】【逆説の食品偽装(内部告発)】
【◆】【バブル崩壊とその後の不況】
【◆】【単語選挙と読解力】
【◆】【ワーキングプア(働く貧困層)】
【◆】【「長寿医療制度」・後期高齢者医療制度(こうきこうれいしゃいりょうせいど)】
【◆】【従軍慰安婦と日本人拉致問題(拉致問題と日米政府の温度差)】
【◆】【従軍慰安婦解釈】
【◆】【嫌悪感さえ感じる慰安婦問題の渡辺喜美】超最新版
【◆】【物造り大国・日本の矛盾】
【◆】【誓約(うけい)】
【◆】【限界集落問題】
【◆】【国民に負担を掛けない赤字国債の処理方法】
【◆】【ブランド神話への警鐘】
【◆】【建前・民族国家・日本のまやかし】
【◆】【国家の品格・武士道の国・日本のまやかし】
【◆】【外国との税率比較論のまやかし】
【◆】【木を見て森を見ず】
【◆】【ヒトラーの台頭した環境と現在の日本の類似点】
【◆】【隠し赤字の実体】
【◆】【官僚(役人)のアマーイ立場】
【◆】【官僚大国・日本から脱出する方法】
【◆】【官僚出身議員と二世・三世議員への危惧】
【◆】【何度もあったリセット】
【◆】【少子高齢化問題の具体策】
【◆】【NHK問題の考察】
【◆】【男女共同参画と少子化担当大臣のまやかし】
【◆】【若者の未来(ニート急増の影に)】
【◆】【ドキュメント中小企業倒産】
【◆】【一夫十一妻疑惑騒動?の考察】
【◆】【謎サイト・・・】・・・・・・・・・・・・・・
【◆】・・・【作品紹介】・・・・・・・・・・・・・・・・・
【◆】・・・【作者プロフィール紹介】・・・・・・・
【◆】休止中【怖い話し(はてな)】・・・・・・・
◆HP交遊録リスト◆
【*】短編人生小説 (4)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
裁判員制度シュミレーション
凌 虐 の 裁 き(りょうぎゃくのさばき)
未来狂 冗談 作
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。
【*】短編人生小説 (3)
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
短編小説(1)
「黄昏の日常」◆ 我にしてこの妻あり◆
未来狂 冗談 作
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。
【*】女性向短編小説 (1)
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
短編小説(1)
「アイドルを探せ」◆青い頃…秋から冬へ◆
未来狂 冗談 作
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。
【*】社会派短編小説(2)
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ ショート・ストーリーです。よろしかったら、お読みください。
社会派短編小説(2)
「生き様の詩(うた)」◆楢山が見える◆
未来狂 冗談 作
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
◆HP上 非公式プロモート・ウエブサイト公開作品紹介◆
【小説・現代インターネット奇談 第一弾】
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「小説・現代インターネット奇談」
【電脳妖姫伝記】
【*】◆ 和やかな陵辱◆
(なごやかなりょうじょく)
未来狂 冗談 作
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
【小説・現代インターネット奇談 第二弾】
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
戦 後 大 戦 伝 記
◆ 夢と現の狭間に有りて◆
(ゆめとうつつのはざまにありて) 完 全 版◆
未来狂 冗談 作
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「あえて、暴論」
ジョウダンの発想◆冗談 日本に提言する◆
未来狂 冗談 作
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冗談 日本に提言する・・・(来るべき未来に)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 冗談の発想が詰まった内容です!
ぜひぜひ読んで、感想をお聞かせ下さい。
異論・反論も大歓迎!!
====(日本史異聞シリーズ)第六作====
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「小説・怒りの空想平成維新」◆たったひとりのクーデター◆
未来狂 冗談 作
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{「たったひとりのクーデター}・・・・・・・・(現代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 特に経営者の方には目からウロコの内容です。
小説としてもおもしろく、実現できれば
不況は本当に終わります。
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愛の形ちは、プラトニックにいやらしく◆仮面の裏側◆
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仮面の裏側・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 人の心って複雑ですね。
とくに男女の恋愛に関しては・・・
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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
非日常は刺激的
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未来狂 冗談 作
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
◆{短編集 仮面の裏側・外伝}・・・・・・・・(現代)
◆ウエブサイト◆「仮面の裏側外伝」
=============================================================================== ====(日本史異聞シリーズ)第一作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
東九州連続怪死事件・事件は時空を超えて◆八月のスサノウ伝説◆
未来狂 冗談 作
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
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八月のスサノウ伝説・・・・・・・・・(神話時代)
◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇ 東九州で起きた連続怪死事件。
そして現代に甦るスサノウの命、
時空を超えたメッセージとは・・・
====(日本史異聞シリーズ)第五作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「権力の落とし穴」
本能寺の変の謎・明智光秀はかく戦えり◆侮り(あなどり)◆
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侮り(あなどり)・・・・・・・(戦国〜江戸時代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇
天才信長とその最高の理解者、明智光秀。
だが自らを神と言い放つ信長は
「侮り」の中で光秀を失ってしまっていた・・・
====(日本史異聞シリーズ)第四作====
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
南北朝秘話・切なからず、や、思春期◆茂夫の神隠し物語◆
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茂夫の神隠し・・・・・・・・・(室町南北朝時代)◇◆◇メルマガ・サンプル版◇◆◇
誰もが通り過ぎる思春期、
茂夫の頭の中はHなことでいっぱい。
そんな茂夫が迷宮へ迷い込んでく・・・
====(日本史異聞シリーズ)第三作====
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鎌倉伝説
非道の権力者・頼朝の妻◆鬼嫁・尼将軍◆
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うその中の真実・飛鳥時代へのなぞ◆倭(わ)の国は遥かなり◆
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韓流ブームの原点がここに・・
今、解き明かされる「二千年前の遥か昔」、
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作者本名・鈴木峰晴